約 9,615 件
https://w.atwiki.jp/chikumabus/pages/16.html
披露山入口(ひろやまいりぐち)バス停は、神奈川県逗子市にある京浜急行バスのバス停である。 利用可能路線 京浜急行バス 鎌40 (小坪経由)鎌倉駅行、JR逗子駅・新逗子駅行 バス停周辺 パンヤコッタ 披露山公園 披露山庭園住宅(反町松嶋邸、小田和正邸、松任谷由実邸、鈴木英人邸を含む) 隣のバス停 鎌40 鎌倉駅行 : 久木西小路 → (当バス停) → 亀ヶ丘 新逗子駅行 : 亀ヶ丘 → (当バス停) → 久木西小路
https://w.atwiki.jp/chikumabus/pages/18.html
逗子ヘルスケア前(ずしへるすけあまえ)バス停は、神奈川県逗子市にある京浜急行バスのバス停である。 利用可能路線 京浜急行バス 鎌40 (小坪経由)鎌倉駅行、JR逗子駅・新逗子駅行 逗29 亀ヶ岡団地循環、JR逗子駅行 バス停周辺 神奈川県警 逗子警察署 小坪交番 隣のバス停 鎌40 鎌倉駅行 : 亀ヶ丘 → (当バス停) → 小坪 新逗子駅行 : 小坪 → (当バス停) → 亀ヶ丘 逗29 亀ヶ岡団地循環 : 南ヶ丘団地入口 → (当バス停) → 亀ヶ岡団地南 JR逗子駅行 : 亀ヶ岡団地西 → (当バス停) → 南ヶ丘団地入口
https://w.atwiki.jp/jreast-timetable/pages/2368.html
横須賀線 回8843M 運転日 編成 時刻 備考 2020/06/08(月) E233系鎌倉車 大崎~回8849M?~新宿~回8850M?~品川13 34→大船14 09 発着時刻は沿線通過時刻より推測 2020/06/09(火) E259系鎌倉車 東大宮(操)~回8842M~品川13 34→大船14 09 発着時刻は沿線通過時刻より推測
https://w.atwiki.jp/shonanbus/pages/2.html
メニュー トップページ 京浜急行バス +京浜急行バス 大森営業所 京浜島営業所 新子安営業所 逗子営業所 衣笠営業所 三崎営業所 久里浜営業所 +羽田京急バス 東京営業所 +横浜京急バス 杉田営業所 能見台営業所 追浜営業所 +湘南京急バス 堀内営業所 鎌倉営業所 江ノ電バス 横浜営業所 鎌倉営業所 湘南営業所 リンク @wiki @wikiご利用ガイド プラグイン紹介 メニュー メニュー2 ここを編集
https://w.atwiki.jp/kyoto-database/pages/170.html
宗峰妙超 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)は鎌倉時代末期の臨済宗?の僧。開山(初代住職)として大徳寺を創建する。諱は妙超、道号は宗峰、諡号は興禅大燈国師。師の南浦紹明?(大応国師?)から宗峰妙超(大燈国師)、のちに妙心寺の開山となる弟子の関山慧玄へと流れる純禅の系統を「応燈関」といい、現在、日本臨済宗?はほとんどこの法系に属する。弘安5年~延元2年/建武4年(1282~1337) 人物史 弘安5年(1282)に播磨国(現兵庫県)守護・赤松氏の家臣である浦上家(うらのえ)の子として生まれた。11歳の時に書写山圓教寺で天台?を学ぶが、のち禅にめざめ、鎌倉の高峰顕日や京の南浦紹明?に参禅。南浦紹明?が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307)には師から印可(師の法を受け継いだというお墨付き)を得る。嗣法の後、約20年草庵にあって京都で乞食行(こつじきぎょう)の修行に励み、托鉢と坐禅の日々を送る。禅風は厳格で、容赦ない厳しさをもって人に接し、深く自己の悟境を掘り下げていくことを重視し、唐代の禅風の復活を志向した。自ら公案をつくって弟子を育成し、教化においてはほとんど方便(釈迦の説法)を使わず、正面より禅の極みを打ち出した。正和4年(1315)、一族の赤松則村(円心)の帰依を受け(元応元年=1319説も)、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源とされる。また花園天皇は宗峰妙超に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。このころ、正中の宗論にて顕密の学僧を論破して名声を高めた。建武4年(1337)、病に伏し重態となるが、花園法皇の求めに応じて、没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、弟子の関山慧玄を推挙する。花園法皇が離宮を禅寺とした際、その山号寺号を正法山妙心寺と命名した。その年の12月22日に死去。妙心寺では、この年を開創の年とし、宗峰妙超の遺命を受けた関山慧玄が開山となっている。著作に『大燈国師語録』『仮名法語』『祥雲夜話』など。 その他 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定3級出題 「大徳寺は、鎌倉時代末期に( )が創建。建武の親政を断行した( )の帰依を受け、(中略)一時荒廃したが、一休宗純が堺の豪商( )の援助で復興した(後略)。」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「苔寺で知られる西芳寺の庭園を造った僧侶は誰か。 (ア)関山慧玄 (イ)春屋妙葩 (ウ)夢窓疎石 (エ)宗峰妙超」 リンク 臨済禅・黄檗禅オフィシャル http //www.rinnou.net/ 宗峰妙超 大燈を挑げ起して (ミネルヴァ日本評伝選)
https://w.atwiki.jp/jreast-timetable/pages/1662.html
成田線 列車番号 名称 編成 区間 備考 9420?レ 多客臨 DE10形宇都宮車+旧型客車高崎車+D51 498高崎車 銚子→佐原 快速「DL佐原」 9421レ 多客臨 D51 498高崎車+旧型客車高崎車+DE10形宇都宮車 佐原→銚子 快速「SL銚子」 試9463M 試運転 E235系鎌倉車 東京→成田空港 性能確認試運転 試9464M 試運転 E235系鎌倉車 成田空港→東京 性能確認試運転
https://w.atwiki.jp/wiki7_mikawa/pages/60.html
学問 順番当て 次の時代を表す言葉を古い順に選びなさい 古代中世近代近世 古代→中世→近世→近代 次の幕府を開かれたのが古い順に選びなさい 江戸幕府室町幕府鎌倉幕府 鎌倉幕府→室町幕府→江戸幕府 次の文字列を順に選んで尾崎放哉の俳句になるようにしなさい 受ける入れものが両手で無い 入れものが→無い→両手で→受ける →→→
https://w.atwiki.jp/assault_lily/pages/385.html
早川(はやかわ)弥宏(やひろ) プロフィール 名前 誕生日 血液型 身長 体重 スリーサイズ はやかわ・やひろ早川 弥宏 2月17日(*1) A型(*2) ガーデン レギオン ポジション レアスキル サブスキル 使用CHARM 百合ヶ丘女学院2年櫻組 なし TZ レジスタS級(*3)(*4) グラム(*5) 出身地:鎌倉府(旧神奈川県)(*6) 好きなもの:地元(鎌倉府)、鷹(*7)、食べること(特に蕎麦(*8)) 苦手なもの:目立つこと/人前で何かすること(*9) 趣味:食べ歩き(*10) 美食家(おいしいお店を探して食する。食べ物に好き嫌いはない。自分は作らない)(*11) + アプリゲーム「アサルトリリィ Last Bullet」公式Xによる魅力紹介画像 アプリゲーム「アサルトリリィ Last Bullet」公式Xによる魅力紹介画像 ※画像クリックのリンク先に、尾花沢軒栄氏からのコメントあり。 交友関係 富永真:ルームメイト(*12)、パートナー(*13)、同予備隊 白井夢結:中等部からの友人。同予備隊(*14) 吉村・Thi・梅:中等部からの友人(*15) 解説 百合ヶ丘初等部に(*16)スキラー数値51で補欠合格地元枠で入学した、立志伝的な経歴の持ち主。最強のフリーランスリリィとして名高く(*17)、そのサクセスストーリーは鎌倉のリリィから人気で、彼女が戦場に立つだけで士気が上がる。 常識人で、根から優しい。 中等部時代はAZとして訓練していたが、戦術理解も高く(*18)、司令塔としてTZに転向した後も超攻撃的なスタイルを併せ持つ。(*19)(*20) 地元である鎌倉を守ることを第一に考えており(地域第一主義)、動きやすさの観点からレギオンには属さず、フリーランスとして活動している。 今はフリーだが水夕会、2代アールヴヘイムなどに加入するという噂も囁かれている。(*21) 富永真と共に「房総半島解放戦」に初代アールヴヘイムのサポートリリィとして参加。(*22)その功績よりアールヴヘイム所属リリィにしか与えられないグラムの使用を許可されている。(*23) キャスト 名前 作品 大西亜玖璃 アサルトリリィ Last Bullet(アプリゲーム)
https://w.atwiki.jp/asaahingaeaw/pages/723.html
清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・源 義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条 時政、北条 義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠地として関東を制圧する。弟たちを代官として源 義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源 義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより、朝廷と同様に京都を中心に権勢を誇った平氏政権とは異なる、東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府と呼ばれた。 諸説あるがNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人では短気な頼朝を見ることができる。酒癖も悪いように書かれていた事からおそらく義経とは違い、統率力だけではなく恐怖でも支配していたように思われる。だいたい日本のNHK大河ドラマは制作にあったて専門家を招聘するので事実ではないにしても可能性は高い。また策略に釣れやすい性格でもあったとされている。ちなみに恐妻家は事実である。 妻 正室 北条 政子 側室 亀の前、大進局 子女 源 大姫、源 頼家、貞暁(仏僧)、源 三幡、源 実朝
https://w.atwiki.jp/kaifuusha/pages/10.html
最明寺入道、鶴岡の社参の次(ついで)に、足利左馬入道の許へ、先ず使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちにてやみぬ。その座には亭主夫婦、隆弁僧正、あるじ方の人にて座せられけり。さて、「年毎に給わる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、色々の染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。 口語訳 最明寺入道(第五代執権北条時頼)が、鶴岡八幡宮に参拝のついでに、足利左馬入道(足利家五代の当主・足利義氏、北条泰時の女婿)のもとへ、まず使いをやった上で、お立ちよりになったときに、足利入道がおもてなしをなさったことの次第は、一献のお膳に打鮑(のしあわび)、二献のお膳にえび、三献のお膳にかい餅(ぼたもちの類か、そばがきの類か)で終わってしまった。その席には主人夫妻と隆弁僧正(鶴岡八幡の別当)が主人側の人としてお座りにになっていた。そのあとで、最明寺入道が、毎年いただく足利の染め織物が待ち遠しいことです」と申されたところ、「用意してございます」と言って、種々の染め物を三十疋(一疋は二反分)、時頼入道の前で女房達に小袖に仕立てさせて、あとから贈りになったという。そのときに、この様子を見ていた人で、近ごろまで存命しておりましたのが、語りましたとのことです。 太平記の一方の主役、足利氏に関わる話である。いや、足利氏と北条氏に関わる話といったほうが適当かも知れない。兼好が鎌倉下りをしたときに、接待の席に近侍していた人(小姓か?)から七七十年以上前の話を実際に聞いたことをもとにして書いたものである。この段にたいしての一般的な解釈は、兼好が見聞した幕末の過剰なまでに贅沢に流れる鎌倉の酒宴の有り様に、中期の鎌倉の最高権力者・時頼への接待があまりにも質素で簡潔で見事であったのに感じ入り書き記したものとされている。いかに、度はずれた宴会の流行が御家人たちの生活に悪影響を及ぼしているかを知った上で批判的な眼差しで書いたものと思われる。それは、前の二百十五段に書かれている内容からも伺い知ることができる。二百十五段は、北条時頼と平宣時(北条宣時・北条時政の曾孫)にまつわるエピソードである。宣時が晩年に時頼から或る宵に突然呼び出しを受けて酒の相手を仰せつかったときに、直垂(ひたたれ)がなくてぐずぐずひていると、再度呼び出しがあって夜分整った服装でなくてもよいから早く来いとの催促でよれよれの直垂のままで参ったところ、銚子に素焼きの杯を取り添えて、持って出てきて、「酒を一人で飲むのが、もの足りなくさびしいのでお呼びしたのです」 と言って、酒の肴になるものものを捜すように頼まれて、寝静まった家をあちこち隅々を捜しているうちに、台所の棚に小さい皿に味噌の少しついたのを捜しあてて、それを肴に愉快に杯を重ねたことが語られている。「その世にはかくこそ侍りしか」として宣時がしてしめくくっている。この二つのエピソードを持ち出して、鎌倉中期までの時代では、権力者といえども健全で質素なくらし向きであったとことを兼好は伝えたかったのであろうか。 さて、一献にうち鮑、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ…といった接待の献立であるが、しかも相手は現執権の時頼である。具体的にこれが質素か否かは、直接の比較でなくて気の引けるところだが、一つのヒントとして例を出して置きたい。元徳元年(1329年)、美濃国小木曽荘にやって来た領家仁和寺の検注使の一行二十人を迎えた現地の荘官・百姓達は、まず集落の境界で「境迎」(酒迎)の酒肴を供したのち、荘内で「落着」「昼埦飯」などの酒宴を行い鳥、川魚、芋、御菜(山菜?)など山深い当地としての精一杯の珍味を肴に三日間使者達を接待している。この三日間で消費された酒は、白酒(濁酒)九瓶子に、その三倍以上の値段もする清酒を十九瓶子、それに加え白米五斗四升が飲み食いの使われたとある。(中世的世界とは何だろうか 網野善彦朝日選書)無論、検注使だけではなく地元の荘官・百姓達も加わっての飲食であろうが山深い地方でも手厚い接待をしている。鎌倉末期は地方といえども相当量の消費をしていることが窺える。鎌倉上級武士の典型的な食事に一日二食で五合の玄米の強飯と梅干とうちあわびとくらげの三種に酢と塩の調味料がつくものがある。これに比べれば義氏の時頼への接待はさほど遜色のないものではなかったかと思われる。当時の食習慣からすればむしろ気張った接待とも言えるかも知れない。ただし兼好が下った頃の鎌倉末期では、繰り返すようであるが北条氏の得宗および身内人を中心とした酒宴や饗応の豪華さ(二汁五菜、三汁七菜、品数も十二品、二十品等々とエスカレートしている)や頻度の多さ、或いは禅僧を招いての連日の供養に伴う華美な膳に対して諌める声もあがっており、また唐物(輸入品)の遣り取りもあり、それに呼応するかのような兼好の一文と考えられる。しかし、兼好の批判の眼が当時の酒宴の過剰ぶりつまり頽廃する社会風潮にありあるとする一事よりも、私はむしろ北条氏に対する足利氏の緊張した対応ぶりに関心がそそられる。兼好の文の端はしから義氏の時頼に対する気の使いようが見て取れる。先ず客を迎える姿勢である。最明寺殿(時頼)が鶴岡八幡の社参を終えた序でに、足利左馬入道(義氏)の許に使いを遣わして(気軽に?)立ち寄ったところ、迎える側の義氏は亭主夫妻と鶴岡八幡の別当である隆弁僧正が座っていた。何か気張った出迎えである。何故鶴岡八幡の別当が迎える側に座っているかであるが、元来足利家は頼朝ゆかりの鶴岡八幡宮に対して主要な経済的なスポンサーとして関係を持続しており、しかも義氏の子女が隆弁の甥の妻にもなって因縁浅からず、同時に別当として執権時頼の深い信頼を勝ちえていることつまり双方にパイプがあることを考慮に入れて彼を迎える主人側に取り込んで当日の接待の運びになったと思われる。足利家としては精一杯の顔ぶれで時頼を迎えている。饗応の出された食べ物は品数が少なくても一品一品贅を凝らした気の利いたものであり、手抜かりがないように見受けられて、義氏の気配りが良く感じられる。饗応の後、時頼は「毎年給わる足利の染物、心もとなく候」と無造作に切り出してご当地名産の反物を義氏に所望している。権力者の本質を垣間見る思いである。義氏は直ぐに反応して三十疋(六十反)用意してございますと応えて、時頼の前で女房達に小袖に仕立てさせて後日届けさせている。妻が家の女房達を動員して懸命に縫っている図が浮かんでくるようである。この挿話の前後して、義氏の子息が勝手に出家してしまい、その咎で所領を没収されるという事件があった。そのための関係修復の接待であろうという話もある。いずれにせよ鎌倉時代百五十年の終始にわたって権力者の北条氏と名門の足利氏との間には、お互いを意識する存在感もしくは緊張感が常について回ったことの反映ではなかったか。北条氏は元来伊豆・韮山地方の一土豪に過ぎず、平家の天下では国府の役人をやっていた。それが時代変換の転機ともなった時政の娘・政子が流人として伊豆にいた頼朝と結婚したことである。それにより事態は一変する。頼朝は平家打倒のシンボルとなり、緒戦はつまずくが関東の武士勢力をたちまち糾合して平家を打倒して、東国を支配する武家政権を鎌倉に打ち立てた。頼朝の御台所を出したということで北条氏は鎌倉政権の中枢に座り、あまた多くのライバたる畠山氏や和田氏や三浦氏などの御家人達を漸次巧みに屠り独裁者としての地位を確立していく。時頼は北条政権の権力がピーク時の際の執権とされており、いかに足利義氏の母が時政の娘であり、妻は北条泰時の娘で北条一門と色濃く結び付けられていても、接待への気の使いよう、緊張のしかたは並々ではなかった。本来ならば、足利氏は源氏一門の血をひくものであり、陸奥・出羽の前九年の役(1051~62)、後三年の役(1083~87)で活躍した八幡太郎源義家が東国の武士団の棟梁として地歩を固め、その子の義国には義重と義康の二子があり、義重は新田氏の祖となり、義康が足利氏の祖となった。赫赫たる源氏の血を引く足利氏と一地方の土豪に過ぎない北条氏とでは血統の原理からいけば足元にも及ばない身分関係であるが、歴史の妙味で頼朝との婚姻関係を最大限に政治的に活用して、平家の打倒、承久の乱での勝利などを経て所領の膨張に努めて北条氏は権力者へとのし上がっていく。一方足利氏は、頼朝の命により義康の子・義兼が北条時政の娘をめとってから鎌倉御家人化への傾斜が始まり、以後高氏(尊氏)に至るまで代々足利の当主は北条の一門から妻を迎えて北条執権体制に甘んじてきている。しかし、完全なる御家人でもなく準北条一門とみなすべきか他の有力御家人のような粛清の憂き目にも遇うこともなく一目おかれた名門として栄えている。高氏の代には、足利荘は無論のこと曽祖父や祖父や親達から代々受け継いできた上総や三河の守護職を兼ね、丹波や九州など全国各地に散在する十二ヵ国以上の領地を支配するまでになっていた。北条氏と足利氏の確執の濃淡は、鎌倉時代百五十年の長きわたっていろいろあったに違いないが、この章で取り上げている義氏(1189~1254)は、三代将軍実朝が1219年に暗殺されたとき足利氏の当主として源氏の嫡流と目されたが御家人の立場をとって乗らず、結局幕府は京から九条頼経を四代将軍として迎えて体裁を整えている。彼は先に和田の乱(1213)から承久の変(1221)、三浦の乱(1247)では武将として活躍して北条政権にべったりで助けた。時頼(1227~63)が長年の政敵三浦氏を宝治の合戦(1247)で倒したこともあり、義氏の館訪問の時は執権として気分が昂揚していたに相違いなく、その分義氏は神経をぴりぴりしていて大過なく過ごすことに腐心していたのではなかろうか。 歴史家ではないが、歴史紀行の作家として有名な宮脇俊三氏の作品・平安鎌倉紀行の中に足利市と新田郡の章のくだりに次のような一節がある。それは徒然草の二百十六段にふれて所感を述べているところである。 以下それを引用させていただだく。徒然草の義氏と時頼のエピソードを紹介した上で、── そうして、この挿話は北条氏にたいする足利氏の無念の雌伏を象徴しているかに見える。それをつぎのようなかたちで示してみよう。 初代・源義家 「われ七代の孫(そん)に生まれかわりて天下を取るべし」との置文(おきぶみ)が足利家に伝えられている。 四代・義兼 北条氏の疑念を怖れてか、物狂いを装おう。子の義氏の妻に北条泰時の娘を頂戴したのも、足利家の安泰をはかるためであったろう。 五代・義氏 前述のごとし。 八代・家時 先祖の義家の言う「七代の孫」に当たるが、天下を取れないので、八幡大菩薩に「わが命つづめて三代のうちにて天下を取らしめ給え」と祈念して切腹。 そして、十代目の高氏(尊氏)が宿願をはたしたわけである。──と足利家に伝わる置文について書いてある。更に続けて、引用した「徒然草」の一段は「その時見たる人の……」とあるように言い伝えであり、「徒然草」執筆時期より七十年ぐらい昔のことと推定されるが、さすが兼好法師で、よくぞ書きとどめてくれたと思う。「徒然草」は史料としても第一級であり、冷徹な眼で題材を選んでいる。──と褒めている。 足利家に伝わる置文は、後に作られた伝文であり歴史的な価値は疑問視されている面はあるが、所々には事実が顔を出している。義兼が狂人を装おったり、家時が自殺したりしているなどがそれである。宮脇俊三氏は歴史家ではないけれども歴史紀行をシリーズで出している作家で歴史を見る眼は確かなものがあると思う。私も宮脇氏が指摘した足利氏の無念の雌伏を象徴したという説に共鳴するものである。 足利氏の居館であった鑁阿寺の山門をくぐって諸堂宇に向かう途中に黒曜石に刻まれた碑文が建っている。内容は徒然草の第二百十六段全文である。この碑文の建てた由来について足利教育委員会にお伺いしたところ、返ってきた答えは、足利の織物が鎌倉時代から有名であったことを示すものとして、また、足利義氏が当時の権力者であった北条氏といかに親しい関係にあったかを示す格好の話として、足利氏顕彰会により建てさせていただいたものであります。とのことであった。足利尊氏は戦前かつて皇国史観の影響で一時国賊の汚名着せられたこともあったが、いまや地元足利市では温かい眼差しで受け入れられているようである。 兼好の二百十六段は歴史的にも、政治的にも、商業的にも、食文化的にも色々と示唆に富んだ一章となったことだけは間違いないようである。 参考文献 吾妻鏡 龍 粛 訳注 岩波書店刊 中世的世界とは何だろうか 網野善彦 朝日選書 朝日新聞社刊 太平記の群像 森茂暁 角川書店刊 きらめく中世 歴史家と語る 永井路子 有隣堂刊 平安鎌倉史紀行 森脇俊三 講談社刊 日本の食文化 二 石川寛子 芳賀 登 有山閣刊 その他 教えて頂いたところ 足利市教育委員会 鎌倉市教育委員会 「鎌倉の海に鰹と言ふ魚は、…… (百十九段) 」に続く ※お願い:鎌倉末期の酒宴における料理のメニューがおわかりになれば御教授して頂けませんか。幕府要人の酒宴ならびに引き出物のようすがわかれば幸いです。宜しくお願いいたします。 名前 コメント すべてのコメントを見る