約 9,617 件
https://w.atwiki.jp/crackingeffect/pages/11.html
手を伸ばせば掴める未来が、目の前にあるさと嘘を吐いた。 これはきっとその罪の履行。陶酔を願う余り性命双修を怠った外法者へ下される、幸福というカタチの罰である。 痴れた音色に包まれた地球上に蠢くは、只覚めない極楽の夢に酔う───夢想の成れの果て、だけ。 ◆ ◇ ◆ ◇ 鎌倉市─── 凡そ十七万人もの人口を抱えるこの街では、とある都市伝説が流布している。 曰く、夜の高徳院で剣を携えた鎧武者を見た。 曰く、八幡宮の屋根上より光の矢が舞い、遥か先を歩く人間を撃ち抜いた。 曰く、黄金の輝きを放つ槍を担った、西洋風の騎士に遭遇した。 曰く、早朝の空を天馬を駆って駆け抜ける、天使のような美少女の姿を捉えた写真がある。 曰く、廃墟と成り果てた屋敷で、得体の知れない土の化物と、陣に座ってそれを生み出す魔女へ行き遭った。 曰く、髑髏の面を被った黒子に触れられた男が、たったそれだけで息絶えた。 曰く、天すら震わす嘶きをあげる怪物が夜な夜な現れ、それと出会った者は生きては帰れない。 全てを挙げればキリがないほどの、フォークロアの数々。 場所も、怪奇事象の姿形も、犠牲者の有無も、何もかもが一致しない。只一つだけ共通点を挙げるとするならば、それは"深夜の鎌倉市にて、現実の物とは思えない怪人・怪物と遭遇する"というコト。 極東の島国と関係があるとは到底思えない、西洋風の騎士や聖女。 生物学の何たるかを完全に無視した速度と軌道で天を翔ける異形、そしてその駆り手。 そう来たかと思えば魔方陣を用いて土細工(ゴーレム)を生成し、近寄る者を食み殺す魔術師。 果てには無差別に生命体を強襲する理性なき怪物と来た。───普通、こういった眉唾物の民族伝承というものには、その国家の国風、或いは伝説、宗教……等々、自ずと一定の共通点が生まれてくるものだが、鎌倉伝説にはそれがない。 これを調べた民俗学の専攻者は、皆一様に頭を抱えたという。 分からない。 この時世、この日本という国、そして鎌倉という土地で。 何故、こんなにも荒唐無稽な噂話が、伝説が……さながらパンデミックのように拡大しているのか、とんと見当すら付けられない。彼らに言わせれば、これは『明らかな異常事態』であるそうだ。 そう。それこそ───語られる目撃談のその全てが、嘘偽りなき真実でもない限りは。 そして、彼らが肩を竦めながら口にしたその喩えこそが、この鎌倉伝説の全てである。 日本。 中国。 ロシア。 ヨーロッパ。 中東圏。 地球各所に伝わる古代神話。 ───そして───この世界の人間には決して知る筈もない、別な次元世界より招来された者達。 彼らは英雄。 彼らは悪鬼。 彼らは女神。 彼らは天使。 彼らは愚者で、彼らは英雄。 形はどうあれ、世界へ名を刻み込むに値する所業を成した『価値ある魂』。 本来無意識の底で眠り続ける筈のそれらが、三者三様の祈りを掲げて再び常世へと現界すること。 そして彼らの影には、都市伝説を語る者すらも未だ気付いていない、そんな魂達を使役する資格を有す主が存在すること。 何ら変哲のない街であった筈の鎌倉に異常事態を持ち込んだのは、大きく分けてこの二種の来訪者の所為である。 叶わぬ願い。生前遂げられなかった宿願。若しくは大それたものなどではなく、ほんの気の迷いで抱いてしまった小さな祈り。素体は問わない。どんな矮小なものであれ、願いを抱いた時点で全ての人間が、この鎌倉へ招かれる資格を得る。 では、己の祈るままに足を踏み入れた彼らが何をするのか。 泰平の世───平和主義という微温湯で培養されたこの鎌倉市で、何を成そうとするのか。 この『伝承』の頁を開いた読者諸君にとっては、最早論ずるまでもないだろう。 それが聖杯戦争───ヒトの願望が生む、戦争なのだ。 「満たされぬ現状の打破を、覚めない夢へ委ねるのは───果たして罰せられるべきコトであるのかな」 . 神すら問い殺す求道者と称された、黒衣の神父が言い嗤う。 市内の教会にて神父を務めるこの男は、しかしながら言ってしまえば『人形』でしかない。 鎌倉の地へ出現した聖杯が創り上げた、聖杯戦争を監督するに最も相応しい擬似人格。 さりとて、愉悦を含んだ笑みに貌を歪めるその姿から無機的なものを感じ取る輩は居ないだろう。 鎌倉伝説とは───ひいてはその原因となった、聖杯戦争とは何なのか。 何故この鎌倉に、奇跡の願望器と謳われる聖遺物が顕れるのか。 己は何から生み出され、何を以って終焉を迎えるのか。 そして……鎌倉の聖杯戦争を望み、引き起こしたモノが何を考え、何を願うのか。 彼は全てを識っている。全てを知るからこそ、公平なる審判者として、これより始まる戦争を見届けるのだ。 召喚された主従は、開幕の日から着々と潰し合いの中でその数を減らし……今となっては既に当初の三分の一ほどとなっていた。真なる聖杯戦争に必要な英霊の数は、都合二十三。謂わばこれまでの戦争は全て、来る本選へ名を連ねるに足る願いを選別する為の『予選期間』であったと言ってもいい。 「好きに願いを抱けばいい。この地に於いて、それを憚る必要など何処にもありはしない。 おまえ自身の理想を求めて痴れろ、悦楽の詩を紡ぐがいい。 おまえがそう願うならば、おまえの中ではそうなのだから」 おまえがそう願うなら、その願いはきっと正しい。 誰に憚ることがある───さあ、奏でろ。痴れた音色を聞かせてくれ。 『言峰綺礼』という人格を越えた何処かから響くそんな声と、歪にゆがんだ二つの燃眼。 太鼓とフルートの音色が響く月の中枢で、酔いの微睡みに揺蕩うソレが、聖なる杯の顕現を待っている。 BACK NEXT NOWHERE 投下順 -023 キーア&セイバー 時系列順 BACK 登場キャラ NEXT DATE LOST 言峰綺礼 000封神演義
https://w.atwiki.jp/turezurenushi/pages/43.html
戦国+鎌倉+幕末コンボで2013年3月から11月の8ヶ月間で武将総数200名増加 (武将総数は芸人含むiOSverです) 姫武将はイベント姫まとめへ メンテ日2014年 武将総数 追加数 R SR SSR 追加SSR名 新くじ名称(クリックでジャンプ) イベント限定武将 札30枚購入限定武将 1/22 590 10 5 3 2 天草四郎時貞徳川家光 大江戸泰平くじ2 雪うさぎ定恵院 1/15 580 - 1/8 580 12 6 3 2 藤堂高虎望月千代女 睦月の新武将くじ SP百獣の忍 SRおとな愛姫 メンテ日2013年 武将総数 追加数 R SR SSR 追加SSR名 新くじ名称(クリックでジャンプ) イベント限定武将 札30枚購入限定武将 12/25 568 5 2 1 SP感謝軍師君SP感謝政宗SR獅子舞江Rお雑煮鶴姫R羽根つき甲斐姫 12/18 563 3 1 2 SR宣教師ザビエルR聖夜の五郎八姫 SRキャロルマリア 12/11 560 10 6 2 2 徳川秀忠千葉周作 大江戸くじ1 12/4 550 11 6 2 2 樹正院小松姫 師走の新武将くじ SP土佐七雄 11/27 539 1 Rうさぎ奈津姫 11/20 538 9 4 3 2 島津斉彬大久保利通 【幕末】の志士くじ5 SRウルフ大形殿 11/13 529 0 11/6 529 11 2 お市織田信秀 霜月の新武将くじ 10/31 518 2 10/23 516 2 10/16 514 8 2 徳川慶喜板垣退助 【幕末】の志士くじ4 10/9 506 10 2 天樹院鐘捲自斎 神無月の新武将くじ 10/1 496 1 9/25 495 9 2 土方歳三沖田総司 【幕末】の志士くじ3 9/18 486 13 2 毛利幸松丸長宗我部盛親 長月の新武将くじ 9/11 475 1 9/4 474 1 8/28 473 2 8/21 464 1 西郷隆盛 【幕末】の志士くじ2 8/14 2 伊達稙宗前田慶次 8月の新武将くじ 7/24 2 坂本龍馬高杉晋作 【幕末】の志士くじ1 7/10 2 前田利家立花道雪 7月の新武将くじ 6/19 1 北条時宗 第5弾【鎌倉】武将くじ 6/13 2 朝倉考景松永久秀 6月の新武将くじ 6/6 409 5/22 1 崇徳上皇 第4弾【鎌倉】武将くじ 5/15 2 浅井長政北条氏康 5月の新武将くじ 4/24 2 後鳥羽上皇藤原忠実 第3弾【鎌倉】武将くじ 4/10 2 今川義元本願寺顕如 4月の新武将くじ 3/27 2 北条政子平忠盛 第2弾【鎌倉】武将くじ 3/14 336 2 細川忠興鍋島直茂 3月の新武将くじ 2/20 2 鎮西八郎為頼木曾義仲 第1弾【鎌倉】武将くじ 1/23 3 竹中半兵衛黒田勘兵衛直江兼続 1月の新武将くじ メンテ日2012年 武将総数 追加数 R SR SSR 追加SSR名 新くじ名称(クリックでジャンプ) イベント限定武将 札30枚購入限定武将 12/19 1 北政所 12月の新武将くじ 11/21 0 11月の新武将くじ 10/17 0 10月の新武将くじ(後半) 10/3 2 上泉信綱宇喜多直家 10月の新武将くじ(前半) 9/13 270 8/27 3 崇源院常高院淀殿 9月の新武将くじムラコスペシャル 8/24 0 8月の新武将くじ 7/5 0 7月の新武将くじ 6月 豊臣くじ 4/27 4 - 芸人くじ 初期武将総数192 02.png 合計: - 今日: - 昨日: -
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/87.html
十里木と政所 (野庭) bgsound 野庭高校の北から西へ向かう川に沿った道は、鎌倉下の道と呼ばれる昔からの道です。この道の周辺には、このあたりの歴史を感じさせてくれる言い伝えが、いろいろ残っています。 まずはお城。そのむかし-鎌倉時代より前のこと、この道をはさんで反対側の丘の上に、飯島城というお城があったと伝えられています。 そのころのお城は、城といっても砦やのろし台のようなもので、遠くから押し寄せる敵をいち早く見つけられるよう、見晴らしのいい高台に建てられていました。飯島城は、この眺めが今一つだったので、鎌倉時代になると、今の野庭中央公園のあたりに移されたといわれています。 この付近の地名を「政所」といいます。「政所」とは、平安時代には、皇族や貴族の領地である荘園の事務所のことを、政所といいました。鎌倉時代や室町時代、幕府の政治をとりおこなった重要な役所のこと。この「政所」は、当然、鎌倉や京都にもありました。また、貴族や武将の妻を「北政所」-源頼朝の妻・北条政子もこう呼ばれていました-と呼んだりもしましたから、あるいは、そういう人の領地があったのかもしれません。 それなのに、どうして野庭の地名として残っているのでしょう。 さらに「前田町」「深田町」など「町」がつく地名が、この付近には9つもあります。当時、山深かったと思われるこの地に、どうしてこんな地名がつけられたのでしょう。 残念ながら、お城にしても、地名の由来についても、証明するものは何も残っていません。幻のお城、謎の地名です。けれとも、これらの言い伝えから想像すると、平安時代から鎌倉時代にかけて、野庭町のあたりは、何か重要な場所であったのかもしれません。 また、「十里木」という地名もあります。こちらは江戸時代のお話。お江戸日本橋からちょうど十里なので、こう呼ばれたと言われています。目印の木があったのかもしれません。地図で測ってみるとたしかに40キロメートルほど。一里が4キロメートルなので、まさに10里です。 こういう地名がつくということは、この道が、江戸時代にも盛んに利用されていたことを示してくれますね。
https://w.atwiki.jp/imasss/pages/1549.html
原田美世「白い傘」 執筆開始日時 2013/05/29 元スレURL http //ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1369763795/ 概要ブロロロ…… 原田美世「……ふぅ、着いたね」 佐城雪美「……到着……」 美世「雪美ちゃん、どうだったかな? ドライブは?」 雪美「……良かった……」 美世「雪美ちゃんとドライブなんて久々だね、あたしも楽しかった!」 雪美「……うん……また…行こう……」 美世「にしても鎌倉かぁ、遠くまで来たね」 雪美「……なんで…鎌倉…なの……?」 美世「Pさんがね、鎌倉で仕事があるから出てみないかって。だから今日は下見だよ」 雪美「……P…は……?」 美世「鎌倉には居ると思うんだけど……さっきから連絡がつかないね」 雪美「………困った……」 美世「うーん、そうだね。どうしよっか……?」 グゥ~~ 雪美「……美世…私……おなか減った……」 美世「ふふっ、せっかくだから観光ついでに何か食べに行こっか」 タグ ^原田美世 ^モバマス まとめサイト SSだもんげ! SS森きのこ! ひとよにちゃんねる プロデューサーさんっ!SSですよ、SS!
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/60.html
馬を洗った尼将軍 (上永谷) 上永谷と野庭の境のあたりで、「鎌倉下の道」と交差して、ひとつの川が流れています。 上流には滝があって、滝つぼは手頃な洗い場となっていて、旅人たちはここで馬を洗い、身じたくを整えて、鎌倉へ向かったことから、いつしか誰言うとはなく、この川を馬洗川とよぶようになリました。 あるとき、尼将軍北条政子が、源氏の祈願所である弘明寺などに参拝するため、ここを通りかかりました。 すると、そこで二人のりりしい若武者が、馬を洗っていました。 政子は、お供のものに声をかけました。「少しの休息を・・・」 そこにいる若武者たちを見て、亡き息子の頼家や実朝の姿を、重ね合わせに見たからです。 「むごい政治の争いから、あの時、子や孫たちを救う道はなかったものか」 と政子は思い悩んでいました。 政子は二人の若武者に、「気をつけて鎌倉へ参られよ」 と、やさしくことばをかけてそこを立ち去りました。 市女笠を深くかぶり、母親のつらさ、悲しさを、政子はすっぽりそこにおおっていました。 その後も尼将軍は、弘明寺参拝を幾年続けたことでしょう。 頼家、実朝の供養になればと、そのつど土地の人にいろいろな物をほどこしました。 男まさりと言われた尼将軍政子も、「鎌倉下の道」を通るときは、ひとりの母親の姿でしかなかつたのです。 いつしか、土地の人たちは、政子に厚い信頼をよせるようになっていました。 こうして、“馬洗川で馬を洗った”との話が、のちのちまでも伝えられるようになったのです。 橋については、あったのかなかったのか、いまだに“なぞ”です。 今も、馬洗橋の近くでは、北条政子の伝説や「鎌倉下の道」のおもかげが感じられます。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/16039.html
登録日:2010/03/30 Tue 21 58 32 更新日:2024/09/10 Tue 21 55 21NEW! 所要時間:約 13 分で読めます ▽タグ一覧 ×絡繰 ○足利 ダンガンライガー ブレードライガー マゾ ライガー 伊豆 八重歯 北条早雲 南海トラフ地震 地球皇帝 堀越公方 室町幕府 室町時代 幼名 日本史 明応の大地震 村正ライガー 源氏 狂暴 縞パン 致死率75% 装甲悪鬼村正 足利氏 足利茶々丸 金田まひる 金髪 関東 足利(あしかが) 茶々丸(ちゃちゃまる)とは、室町時代後期の人物。 「堀越公方」という組織の公子であったが、北条早雲に攻め滅ぼされる。 「茶々丸」とはかわいらしい名前だがこれは幼名で、元服をする前に死去したために諱がない。 【鎌倉公方/堀越公方】 まずは何をおいても、「鎌倉(かまくら)公方(くぼう)」「堀越(ほりごえ)公方(くぼう)」について説明しなければならない。 そもそも鎌倉公方とは、室町幕府に所属する出先機関で、関東地方の12か国を統治する重職。 「公方」というと江戸時代では徳川将軍を指すが、室町時代では征夷大将軍のほか、足利氏の重鎮(管領など)も使っていた。 さて室町幕府だが、その本部(征夷大将軍の本拠)は京都の室町にあった。つまり西国となる。 幕府・幕藩体制(*1)はいわゆる封建制なので、室町幕府の権力も絶対ではない。西国・京都に本部を置く室町幕府が、東国各地の守護大名を管理するためには、足利家に連なる監督役を関東に置く必要があった。 一つには、先の南北朝時代に端を発する、南朝勢力の残党が、いまだ関東には根強かったからでもある。 それで、まずは1349年、関東10か国を統治する「鎌倉公方」が設立。初代は室町幕府開祖・足利尊氏の四男で、以後は彼の血筋が継ぐ。 そしてその鎌倉公方を補佐する役割として、かの足利尊氏公の母方の家系である上杉氏が「関東管領」に就任した。 (この関東管領は元は北関東を支配していたのだが、じきに鎌倉公方が治めていた武蔵国一体にまで管理下に置くようになり、次第に鎌倉公方と対立していく) また鎌倉公方や関東管領だけでは東北の管理までは難しいので、そこは奥州・羽州探題が担当した。 ちなみに鎌倉幕府もしかり、なぜ関東政権の中心を鎌倉に置くのかというと、相模国とはいえ武蔵国のすぐ近くであり、海を渡れば房総半島にも行けるので広く関東を見守ることができるから。 しかし鎌倉公方の足利家は、見方を変えると室町の足利宗家に対する強力な分家だったため、血族争いも引き起こしやすく、幕府に対して反抗的だった。 鎌倉公方は当然自分は関東で一番偉い存在だと思っているが、関東管領および守護の任命権は室町幕府側にあり、鎌倉公方ではなく必然的に公方の言うことを聞くという二重構造も火種を起こした。 設立から百年とたたない1439年にはとうとう鎌倉公方・足利持氏が自害に追い込まれ、組織も解体された。 数年後には、足利持氏の息子・足利成氏を当主としての復興が許可されるが、その足利成氏もすぐに足利宗家と対立する。 しかしその足利宗家も、長年の弛緩と、六代目征夷大将軍・足利義教の恐怖政治、そしてそこからの義教暗殺などの内紛によってガタガタだった。 (ちなみに足利持氏を滅ぼしたのはその足利義教。まあ持氏があらぬ野心を抱いてさんざん噛み付いたからだが。 なお時系列順に示すと持氏処刑→義教暗殺→成氏復興、となり、成氏が鎌倉公方として復職した時点でもう義教はこの世にいない) 室町幕府はそれでも、威信にかけて足利成氏討伐軍を派遣。 足利成氏は折悪しく、関東管領・上杉憲忠とその徒党を討伐するため本拠の鎌倉を留守にしており、その隙を突いた室町軍の駿河守護・今川範忠は鎌倉を制圧した。 成氏は上記の上杉憲忠を殺害したことで関東管領・山内上杉氏とその分家・扇谷上杉氏、その他関東の豪族たちと対立していたこともあり、求心力を失いつつあった。 これら足利成氏と山内上杉&扇谷上杉たちとの抗争を享徳の乱というが、この戦、応仁の乱より13年も早く発生し、6年も遅く終結している。 ところが、鎌倉は落としたが肝心の足利成氏は健在で、室町軍は彼を討ち取ることができない。 しかし足利成氏も、室町軍に逆襲して、鎌倉を奪還することができない。 ならばと室町幕府は1458年、足利政知(六代将軍の息子で、七代~八代将軍たちの兄弟)を新しく「鎌倉公方」に任命して、足利成氏の権威を削ぎ落そうとしたが、 この足利政知は自前の軍勢を全く所有しておらず、在地豪族の反撃によって、鎌倉に入ることができなかった。 ここに至り、「鎌倉公方」と名乗る人物が、関東にふたり現れるに至った。 しかも、先祖から鎌倉公方を世襲した足利成氏は下総国の古河(現在の茨城県古河市)に、 現在幕府から鎌倉公方に任命された足利政知は伊豆国の堀越(現在の静岡県伊豆の国市)に、それぞれ割拠し、どっちも鎌倉にいないという事態に。 「鎌倉公方」とは、鎌倉に本部を置いて、東国の諸大名・諸豪族を治める役職である。 それが二人に分かれて、片方は幕府の許可がなく、片方は豪族の支持がなく、しかもどっちも鎌倉にいないとなれば、もはや「鎌倉公方」などあってなきようなものだ。 結局、公方を称する二人はそれぞれ、本拠地の名を取って「古河公方」「堀越公方」と名乗るようになり、そのまま数十年が経過する。 ちなみに古河公方については本稿ではもう出てこない そんな古河公方も第3代足利高基の代で内乱が起こったり、房総に新たな公方・小弓公方を誕生させたりしている。もうメチャクチャ。 【茶々丸登場】 さて、足利茶々丸は、室町幕府によって新たに「鎌倉公方」に任命されたが、そこまで行けずに伊豆にとどまった、足利政知の息子。 もともと茶々丸は政知の嫡男だったが、実母には早く死なれた。 そして政知の後妻となった円満院は、自分の息子である潤童子こそを跡継ぎにしたいと思っていた。よくあるパターンである。 (ちなみに茶々丸は長男だが、潤童子は三男。次男はというと、室町幕府の11代将軍となる足利義澄。当時は仏門に入っていた。) その円満院の策略があったかどうかは定かではないが、政知は茶々丸を廃嫡し、潤童子を後継ぎに立て直した。 茶々丸は肉体面でこそ頑健だったが、素行が悪く狂暴な振る舞いが多かったため、父に危険視されていたとも言われる。 この時、父・政知は茶々丸を土牢に監禁、反対した家臣を処刑するほどの強硬措置を取った。 しかし茶々丸は、監禁されながらもその力を養っていた。 そして1491年4月、三十年余りにわたり堀越公方だった足利政知が、57歳でついに死没。潤童子が堀越公方に決定した。 ところがその三か月後、茶々丸はなんと牢番を殺して脱獄、潤童子と円満院を殺害して、堀越公方の地位を強奪した。 牢番を殺すのもすごいが、脱獄早々に政敵とはいえ継母と異母弟を殺すのもすごい。 そのエピソードが示すように、父が懸念した通りか、茶々丸には狂暴な面があった。 すぐに彼は暴走を開始し、筆頭家老をも斬殺するなどの凶行を見せる。 それでなくても、応仁の乱以来ムチャクチャになっていた室町時代、いや戦国時代である。伊豆半島は大混乱に陥った。 普通に考えて大問題にもほどがあるが既に堀越公方の存在自体が黒歴史のようなものなので周りからはスルーされた。 【北条早雲の出現】 その隙を突いて攻め込んだのが伊勢宗瑞、すなわち北条早雲である。 (「北条早雲」という名前は彼の死後に贈られたもので、本人は「伊勢宗瑞」までしか名乗っていない。が、本稿では知名度や分かりやすさを優先し、北条早雲で統一する) 1493年、駿河を治める今川氏親の母の弟という立場で東国にやって来て、すでに興国寺城でひとかどの勢力となっていた早雲は、伊豆の一部豪族と手を組みつつ進撃。 さらに、室町では足利義澄が11代将軍になったばかりで、その足利義澄の母・円満院を茶々丸が殺していたため、北条早雲に「将軍家への反逆者討伐」という大義名分を与えることになった。 なお義澄が将軍になれたのは当時の管領が強引に現職の将軍を引きずりおろして代わりの将軍を就任させるという方法でこれによって室町幕府の威信は落ちるに落ちた。 そもそも重臣をいきなり斬り殺すような茶々丸である。彼の求心力は低下しており、二年間の戦いで茶々丸はあっさりと堀越から駆逐されてしまった。 ところが、堀越を中心とする伊豆北部ではあっさり放逐された茶々丸だったが、伊豆半島の中南部に逃げ込むと再び息を吹き返した。 在地の領主・豪族が彼を支援したのだ。余所者の早雲への反発や、山内上杉家のひそかな支援があった模様。 一度敗れて悟るところもあったのか、茶々丸は甲斐の武田氏とも連携し、伊豆の奪還を狙い続けた。 ちなみにその甲斐の武田氏だが、当時はこっちも二つに割れており、茶々丸が組んだのはその片方。 もう片方(武田家当主側)は今川・北条家と組んでいた。何気なく武田の当主と組む、この辺の北条早雲の反応はさすがにうまい。 また近年の説では、早雲は幕府の許認可も得ていた模様。 そして1498年8月25日、いわゆる「南海トラフ地震」に分類される明応の大地震が発生し、甲斐も駿河も伊豆も大損害を被った。 この天災によって、武田氏の内紛を引き起こしていた二勢力が「争ってる場合じゃねえ」と和睦。 同時に茶々丸の命綱だった、武田家からの支援が断たれてしまった。 そして明応の震災から数日と経たないうちに、早雲はいきなり茶々丸討伐を開始。 震災でガタガタになり、武田の支援も断たれたところに、早雲の奇襲を受けては抵抗のすべもなく、1498年8月、ついに茶々丸は早雲に捕えられ、自害に追い込まれた。生年が分からないため、享年も不明である。 この一応足利家の人間で公方でもある茶々丸が北条早雲に殺害されたことが戦国時代の始まりと呼ばれ、北条早雲を「最初の戦国大名にして梟雄」と呼ぶ声もある。 ただし現在は北条早雲の堀越公方討伐は室町幕府からの命であるという説が主流となっておりこの主張は怪しくなっている。 茶々丸は本来男性で、それも見ての通り血生臭いエピソードが多く、さらに北条早雲の引き立て役のような立場なのだが、 「ちゃちゃまる」という妙にかわいらしい名前が、堅苦しい感じの名前ばかりな歴史の舞台に出てきたことからか、活躍期間の短さとは裏腹にそれなりの知名度がある。 また、かわいらしい名前故か、女性キャラの名前に使われることも多い。 ネギま!の女性型ロボットの絡繰茶々丸とか。 【装甲悪鬼村正の茶々丸】 「あてはちんちんとかちゃんと好きだ!見たことないけど!」 CV.金田まひる 装甲悪鬼村正のヒロイン。 六波羅四公方のなかでは最年少の堀越公方。 六波羅の武人にしては珍しく劒冑を持っていない。 しかし、武術に関しては六波羅でもかなり上位では有る。 だが、本人は戦争よりお金儲けの方が好きらしく損得勘定で動く。 好きなのはカステラ。 他の面子からは「アホ」だの「バカ」だの言われているが、中々鋭い観察眼を持っており、結構狡猾な人物と思われる。 その人懐っこく、明るい性格とは裏腹に父を殺してその地位を奪った過去を持つ。 ネット上では「地球皇帝とでも名乗っておこうか」というセリフから「陛下」と呼ばれている。 性格は人懐っこい表の顔と幼少より過酷な環境で育ったことによるかなり腹黒な二面性をもつ。 が、一度心を許した相手にはとことん尽くすタイプでもある。 湊斗景明との出会いは三章。 銀星号の卵を見付ける為にタムラのガレージに居たところ、遭遇。 その時彼女は変装しつつ「ライガー」という偽名を使用していた。 後にポリスチームのホットボルトがぶっ壊れた時にも登場。 パッと見ただけで損壊状況を言い当て、景明を脱帽させた。 英雄編、復讐編ではちょっぴり出て来て死亡。 特に英雄編では余りにも呆気ない死に方だった。 魔王編では、ブラックホールに吸い込まれかかっていた景明を救い出し、自分の住居に匿う。 光と再開させ、光の命がそう長くは無いと説明した後、困惑した景明に精神汚染を施して自分の副官とする。(どちらかというと逆に茶々丸が道具扱いされたわけだが) そして景明に緑龍会の存在を教え、神を呼び出そうと奔走する。 その過去は割と複雑。 彼女は蝦夷との間に出来た子として、父によって捨てられた。 だが、たまたま運良く育てられてそれなりの年齢に成った。 自分が生きていると知った事により、足利家より刺客を放たれるが何とか生き延びる。(この頃から『神』の声が聞こえる様になる。) その後跡取りとして迎えられるが、父親を殺害。 そうして彼女は今の地位を手に入れた。 その正体だが…… 実は彼女自身が劒冑である。 その名は虎徹(正式名称:長曾祢虎徹入道興永)。 陰義:感覚共有 「獅子には肉を 狗には骨を 龍には無垢なる魂を 今宵の虎徹は血に飢えている」 「蛆には腐肉を 蠅には糞を 百舌には蛙の串刺しを 今宵の虎徹は血に飢えている」 武器は三本の爪。 劒冑にしては珍しい武装らしい。 彼女の母親は子を孕んだ状態で劒冑を打ち、その結果産まれたのが彼女。 異常な身体能力やもそのせい。 しかし生身の人間の精神を持つ彼女とって、その過剰とも言える知覚からもたらされる膨大な情報に曝され続ける日常は想像を絶する苦痛でしかなく、そのことがきっかけで世界を滅ぼす目的を持ち始めた。 彼女はそんな自分自身をリビングアーマーと皮肉気味にそう形容した。 そして最後の卵の持ち主であり、野太刀として完成した後も助言をくれる。 茶々丸エンドでは村正との縁を断ち切った景明が仕手となり本来の虎徹の姿が見ることができる。 追記、修正お願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] この嬢ち -- 名無しさん (2014-06-22 12 08 36) タグひでぇwww -- 名無しさん (2014-09-08 13 32 58) 景明さんとのレ〇プまがいの初体験時のセリフは何度見ても笑ってしまうw -- 名無しさん (2014-09-24 08 36 31) この項目名、足利茶々丸(装甲悪鬼村正)にした方が良くはないか? -- 名無しさん (2015-01-21 20 46 35) うむ、北条早雲関連かと勘違いするよな。 -- 名無しさん (2015-01-21 21 59 47) 項目名の紛らわしさ、コメントで触れられている五年間も項目名が変えられない現状、および今さら変更することの手間、変更した後に本物の茶々丸の項目を立てる可能性の低さなどから、歴史上の茶々丸の情報を前半に追記、項目のメインとなるようにしました。 -- 名無しさん (2021-01-17 01 01 50) おっす!ちゃちゃまるさんだぞ! -- 名無しさん (2023-01-30 15 48 38) この項目は分割するべきだと思うぞ。ゲームと史実の茶々丸、違い過ぎるだろ -- 名無しさん (2023-10-01 21 49 26) 円満院さんとこのご家庭ちっとも円満じゃないねー -- 名無しさん (2023-10-02 10 06 33) ↑2 分割には反対だなぁ。例えば「董卓」の項目から「恋姫の董卓」を分割する意味はないじゃん? 装甲悪鬼村正の茶々丸に過剰な文章量があるわけでもないし、普通にこのままでいいと思う。 -- 名無しさん (2024-02-13 20 06 52) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/imas505/pages/54.html
補足事項はエリア情報/東京、エリア情報/関東へ。 千葉~新小岩間は中央線・総武線を参照 錦糸町~東京間のトンネル内でもおおむね通信可能 東京~品川間のトンネル内はdocomoはおおむね通信可能、auは不可 駅名 エリア 錦糸町 錦糸町/曳舟 | 両国 馬喰町 秋葉原、人形町/浜町 新日本橋 日本橋 東京 東京駅周辺 | 有楽町/日比谷、銀座 新橋 新橋 | 浜松町/芝浦、田町/三田 品川 品川 西大井 大井町、大崎/五反田 | 大森 | 蒲田 | 田園調布 武蔵小杉 武蔵小杉/日吉 新川崎 川崎/鶴見 横浜 みなとみらい、横浜 | みなとみらい 保土ヶ谷 保土ヶ谷 東戸塚 戸塚 戸塚 | 大船/本郷台 大船 鎌倉/由比/大船 北鎌倉 鎌倉 逗子 横須賀/逗子 東逗子 田浦 横須賀 衣笠 久里浜
https://w.atwiki.jp/jreast-timetable/pages/235.html
中央本線 回9577M 運転日 編成 時刻 2010/05/11(火) 115系豊田車W2編成(訓練車) 新宿→立川1645→豊田 2010/06/19(土) E259系鎌倉車 回9587M~新宿(11)1438→三鷹 山手貨物線 回9577M 運転日 編成 時刻 2009/7/30(木) E259系鎌倉車 品川→新宿1235~試9577M 2009/10/17(土) 253系鎌倉車 回9740M~品川(9)1154→新宿(11)1211~回9977M 中央本線~武蔵野線 回9577M 運転日 編成 時刻 2008/10/30(木) 183系田町車H81編成 八王子→立川2130→東大宮操
https://w.atwiki.jp/medievalkenshi/pages/14.html
『鳥取県史』 ・中世2 県史刊行にあたって 序章 中世の鳥取県 第一章 鎌倉時代の因幡・伯耆 第一節 平安末期の争乱と地方武士 第二節 鎌倉初期の形勢 第三節 武家政治の進展 第四節 鎌倉末期の因幡・伯耆 第二章 建武新政と南北朝―動乱期の因伯― 第一節 建武の新政と名和氏 第二節 南北朝動乱期の因幡・伯耆 第三節 山名氏の因伯進出 第四節 南北朝動乱と山名氏の動向 第五節 明徳の乱 第三章 室町時代の因幡・伯耆 第一節 山名氏の領国支配 第二節 嘉吉の乱と因伯 第三節 応仁文明の乱と因伯 第四節 南北朝・室町期の荘園村落 第五節 中世因伯の諸産業と商品流通 第四章 戦国時代の因幡・伯耆 第一節 守護大名の没落 第二節 因伯山名氏の動揺 第三節 毛利氏の因伯経営 第四節 戦国時代の所領支配
https://w.atwiki.jp/yuifellowship/pages/578.html
発端 479年の秋に脇山家から決闘状が送られてくる 断ったら覚悟があると脅迫される 穏健派のジャンボが密かに闇討ちしてしまえ、と真顔で勧めてくるほどの強引さ あさぎと虎に助っ人を頼み、3対3での果たし合いで承知する 備え 相手は騎射のできる騎馬武者が3騎でてくる 炭治郎は騎馬武者対策に装備を調え、長弓を磨く。大盾を使った防護など、対騎馬の策を考案 立会人には仁先生と秋山先生に依頼 当日はハクメイ、カミナ、エリカ隊、吾郎などを伏せて、脇山家の横槍に備えた 秋山先生、トウカ、ハクオロもそれぞれ武装して万が一の時には動くつもりだった 事情 諸々の事情から珠美は婿取りに消極的になっていたが、分家や周囲の豪族は自分の一族を珠美の婿に押し込みたい そのためガイアの同人誌もネタにして珠美の姿勢を責め、キレた珠美に言い返され、 拗れた末に炭治郎を殺した男が珠美の婿になるという話が浮上。焦った珠美が動いた。半ば自暴自棄 珠美は以前から炭治郎を褒めていたり、偽倭寇戦で炭治郎を館に招いたりしたことで、 自分のシンパからも炭治郎との仲を疑われていた ガイアの同人誌が止めになった 決闘 炭治郎と戦馬に乗ったあさぎと虎子。相手は3騎 名乗り上げると予想とは異なり、騎射ではなくランスチャージを仕掛けてくる あさぎの馬に乗ってそれをかわすと射撃戦に 珠美と助太刀の武者があっという間に射倒され、もう1人も重傷。炭治郎側はあさ虎が軽傷を負った 珠美が戦闘不能になったことで、決闘は終了。すぐに仁先生の手当が行われ、珠美と射倒されたもう1人も一命を拾う 横槍入れようとしていた分家の騎馬隊は、珠美に忠実な本家の騎馬隊に牽制されて動けず 真相 足利家や源氏宗家は、全国の地侍系に影響力を残している。 織田幕府と大名に対して対抗するために、名義上の権威である京都の足利家や鎌倉の源氏を主家と仰ぐ地侍 道々の輩や流民を保護している朝廷/神社仏閣 織田幕府が彼らを潰したら、織田家が地侍に代わって、外国や亜人領域の矢面に立たなければならない 今のままなら、程々の援助とヤバイときの援軍だけで、旨味の少ない領土にしがみついている連中が頑張ってくれる 織田家は経済と工業と資源的に美味しいところだけ支配 脇山家は鎌倉に仕えている。後ろ盾のない独立した弱小の家が、鎌倉の権威の下に集うのはよくあること 引き換えに鎌倉のために奉公の義務がある。大体、2~3世代に一度、これらの家は順番に鎌倉にいくらかの兵を送って詰める 脇山家にその指名が来た。短くて五年。長いと二十年を鎌倉で過ごすことになる 珠美は、親戚からの突き上げ、無責任な噂による誹謗、それを真に受けて壊れた縁談など、 諸々のストレスを受けていた。九州を去る前に一度、もう一度だけ炭治郎と遊びたいと願った それがあの脅迫的な果たし状。必ずしも殺す気はなかったが、殺しても殺されても仕方ない気持ちだった 殺してしまえば炭治郎を自分だけのものにできる ※織田家は一応、平家。徳川家は一応、源氏 もっとも、この二つの家となると、下手すれば源氏平家の方が箔がつく。武田、佐竹が清和源氏。 話の分かる具合 (好悪や強弱を除いた、価値観的なあれで 会合衆/織田家/ゲヒ殿 島津家/義弘様/足利家 源氏/地侍 その後 脇山殿の脇山家(本家)が 脇山七家(一族の代表。本家とは限らない)から降りた 相変わらず血統的には本家だけど、もう疲れたし、余力もないから、一抜けた 鎌倉の件は君たちで好きにしてって丸投げした 今、投げられた骨付き肉に群がって、分家が吠えたり、噛んだりし合っている。 此処でひどいのは、決闘騒ぎの時と敵味方が逆転している家もあって、 この件では我が家が鎌倉に血族を送りたいとなってたり、珠美が癒えたら送るべきだって意見もあり、 一方では、鎌倉と距離を取ろうよ。取り敢えず珠美殿の意見にも一理あるよ。 少なくとも休ませてあげようよ。降りたいなら好きにさせようととなってたりする 珠美は本家一族の当主も代わるつもり。平戸に居を移す。嫁に行く。もうやってられない 本家の次期当主に脇山鵜丸(七歳)を指定 何人かの家臣が珠美を慕って付いていく 脇山家と縁が切れたわけではないが、責任や突き上げを喰らう立場からは下りた