約 47,166 件
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/182.html
<魏 244年> <蜀漢 244年> <呉 244年> 244年 赤烏七年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫和 三公(呉) 丞相:(空位)→陸遜(前上大将軍) その他の要職(呉) 太常:潘濬? 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:朱然 衛将軍:全琮 上大將軍:陸遜→ 主な事件 七年春正月、上大將軍の陸遜を丞相と為す。《三国志呉書呉主権伝》 秋、宛陵から嘉禾が生えたと伝えて来た。《三国志呉書呉主権伝》 是歲、步騭、朱然等が各々上疏して言うには「自蜀還者,咸言欲背盟與魏交通,多作舟船,繕治城郭.又蔣琬守漢中,聞司馬懿南向,不出兵乘虛以掎角之,反委漢中,還近成都.事已彰灼,無所復疑,宜為之備.」權揆其不然,曰:「吾待蜀不薄,聘享盟誓,無所負之,何以致此?又司馬懿前來入舒,旬日便退,蜀在萬里,何知緩急而便出兵乎?昔魏欲入漢川,此閒始嚴,亦未舉動,會聞魏還而止,蜀寧可復以此有疑邪?又人家治國,舟船城郭,何得不護?今此閒治軍,寧復欲以禦蜀邪?人言苦不可信,朕為諸君破家保之.」蜀竟自無謀,如權所籌《三国志呉書呉主権伝》 孫權の詔して「督將亡叛而殺其妻子,是使妻去夫,子棄父,甚傷義教,自今勿殺也《三国志呉書呉主権伝に引く江表傳》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 243年<< >>245年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/41.html
191年 初平二年(漢) 皇帝 劉協(漢献帝) 皇后 (空位) 皇太子 (空位) 三公 太師:(新設)→董卓(前相国・191~192) 相国:董卓(前司空・189~191)→(廃止) 太尉:趙謙(前光禄勳・190~191)→馬日磾(前太常・191~192) 司徒:王允(前太僕・190~192) 司空:仲*拂(前光禄大夫・190~191)→淳于嘉(前光禄大夫・191~192) その他の要職 太傅:? 太常:?→馬日磾(~191)→ 太僕:? 大司農:? 光禄勳:? 執金吾:? 衛尉:→張温→(死亡)→ 大鴻臚:韓融? 将作大匠:? 地方官 冀州牧:韓馥→袁紹(191~202) 兗州刺史:劉岱 揚州刺史:陳温(190?~193)《三国志魏書武帝紀》 荊州刺史:劉表(190~192) 主な事件 初平二年辛丑、天下に大赦する《後漢書孝献帝紀》 初平二年春、袁紹﹑韓馥は遂に劉虞を帝に立てる。劉虞は承知せず《三国志魏書武帝紀》 二月丁丑、董卓は自ら太師と為す《後漢書孝献帝紀》 袁術は将の孫堅を遣わして董卓の将胡軫と陽人に於いて戦い大いに破る《後漢書孝献帝紀》 董卓は洛陽の諸帝陵を発掘した《後漢書孝献帝紀》 夏四月、董卓は長安に入る《後漢書孝献帝紀》 六月丙戌、地震《後漢書孝献帝紀》 秋七月、司空の仲*拂が免じられ、光禄大夫で済南郡の淳于嘉を司空と為す。太尉の趙謙が罷め、太常の馬日磾を太尉と為す《後漢書孝献帝紀》 秋七月、袁紹は韓馥を脅して冀州を取る《三国志魏書武帝紀》 九月、蚩尤旗が角と亢に見えた《後漢書孝献帝紀》 冬十月壬戌、董卓は衛尉の張温を殺す《後漢書孝献帝紀》 十一月、青州黄巾が太山郡を冦略し、太山太守の應劭は之を破る《後漢書孝献帝紀》 黄巾は転じて渤海郡を冦略する。公孫讃*は東光においてまた之を大いに破る《後漢書孝献帝紀》 是年、長沙で死んだ人が月を経て復活した《後漢書孝献帝紀》 この年秋以降と思われるが黒山賊の于毒、白繞、眭固等十余万は、魏郡﹑東郡を略し、東郡太守の王肱は防げなかった。曹操は兵を率いて東郡に入る。白繞を濮陽に討ち之を破る。袁紹は上表して曹操を東郡太守と為し、東武陽に治所を置く。《三国志魏書武帝紀》劉岱と橋瑁は憎み合っていた。初平元年、劉岱が橋瑁を殺し、王肱をもって東郡太守を領させた。《三国志魏書武帝紀》 この歳、荀彧は冀州袁紹のもとを去って東郡にいた曹操に従う。奮武司馬と為し、時に年二十九。《後漢書鄭孔荀列伝》#1 生誕者 死没者 注 *#1※曹操は189年の挙兵時、行奮武将軍を自称していた。 ▲PAGE TOP 190年<< >>192年
https://w.atwiki.jp/websangokushi-wiki/pages/107.html
武将装備品のページを作ったが、wiki編集良く分らん。構文で間違いがあったら修正よろ - 名無しさん 2010-02-16 06 47 20 軍営(とりあえず砦柵)のページ作ってみました。修正よろしくお願いします。 - 名無しさん 2011-02-02 21 58 10 このwikiまだあったんだなw 懐かしいwww - 名無しさん 2016-04-17 23 49 45
https://w.atwiki.jp/0430/
軍勢RPG 蒼の三国志 基本情報 『軍勢RPG 蒼の三国志』は、「三国志」をモチーフとした三国時代バトルゲームです。スマートフォンならではの直感的なスワイプ操作で軍勢を直接触って動かしながら敵を攻撃していきます。バトルで獲得した資金で自らが統治する国を発展させ、武将を育成しながら軍勢を強化し、三国最強を目指します。 アプリ名 軍勢RPG 蒼の三国志 価格 アイテム課金制 対応OS Android™ バージョン 2.3以降 iPhone、iPod touch および iPad 互換 iOS 5.0 以降 iPhone 5 用に最適化済み Google Play™ https //play.google.com/store/apps/details?id=jp.colopl.sangoku App Store https //itunes.apple.com/jp/app/id698459617 このウィキの使い方 ~4つのステップ~ ■ログインしてみよう! デザインを変えたり、サイト名を変えたりするためには、ログインしないといけないよ。 ログインの方法は、下の手順でログインしてみよう! わからない場合はこちらのページも参考にしてね。 画面の右上にある「ログイン」をクリック! ユーザ名に「0430」、パスワードには、登録の時に設定したものを入力しよう。 画面の右上に「0430」と表示されればログイン完了! ■サイト名を変更しよう! サイト名はどこから変えれるの?下の手順にそえばサイト名を変えれるよ! わからない場合はこちらのページも参考にしてね。 ログインしたら、右上にある「設定」をクリック! 表示されたページの左メニューにある、「基本設定」をクリックしよう! そうすると、一番上の「サイト名」と書かれた右側に、今のサイト名が書かれています。 ここを好きな名前に書き換えよう! 書き換え終わったら、一番下にある「設定変更」ボタンをクリック! 右上の 「(設定したサイト名)」へ戻る をクリックすると、サイト名が変わったことが確認できるよ! ■新しいページを作成しよう! 新しくページを作成するにはどうすればいいのか、下の手順にそってやってみよう! わからない場合はこちらのページも参考にしてね。 画面の左上にある「@メニュー」にマウスを持って行くと、さらにメニューが表示されます。 表示されたメニューから「新規ページ作成」をクリック! 表示されたページで、作りたいページの名前を入力して、 編集モードは 【初心者向け】ワープロモード を選択しよう。 真ん中の枠の中に、自由に書き込めるよ! 作り終わったら、「ページを保存」をクリックすれば、新しいページの作成は完了! ■このページを編集しよう! 最後に、このトップページを編集しよう! ページ編集の方法がわからない場合はこちらのページも参考にしてね。 左上にある「編集」にマウスを持って行くと、さらにメニューが表示されます。 表示されたメニューから「ページ編集」をクリック! 編集画面が表示されるので、自由に書き換えてみよう。 書き換え終わったら、「ページを保存」をクリックすれば、トップページの編集は完了! もし、wikiで議論する場や掲示板が欲しい場合は? @wikiの姉妹サービスである@chsをご利用ください。 登録はこちらから ← ここをクリックしてください。 分からないことは? @wiki ご利用ガイド よくある質問 無料で会員登録できるSNS内の@wiki助け合いコミュニティ @wiki更新情報 @wikiへのお問合せフォーム 等をご活用ください その他お勧めサービスについて 大容量1G、PHP/CGI、MySQL、FTPが使える無料ホームページは@PAGES 無料ブログ作成は@WORDをご利用ください 2ch型の無料掲示板は@chsをご利用ください フォーラム型の無料掲示板は@bbをご利用ください お絵かき掲示板は@paintをご利用ください その他の無料掲示板は@bbsをご利用ください 無料ソーシャルプロフィールサービス @flabo(アットフラボ) バグ・不具合を見つけたら? 要望がある場合は? お手数ですが、お問い合わせフォームからご連絡ください。
https://w.atwiki.jp/sangokushi7/pages/21.html
[顔変更ツール] 三國志VII 登録武将えぢた~ http //www.vector.co.jp/soft/win95/game/se136319.html さざなみ三国志 http //ww51.tiki.ne.jp/~arab/cr2000/san/san.html ----
https://w.atwiki.jp/genso3594/pages/41.html
正史 三国志 正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫) はっきり言うと「読み物」ではない。あくまで「史料」である。 読み物として読むには、「魏伝武帝記」などの「曹操・孫権(孫堅・孫策)・劉備」の伝を読むと、歴史の流れがつかめる。 後はお気に入りの武将の伝を読んでいくといいだろう。 また、武将別の索引からどこに名前があるかわかるようになっていて、すごく便利。 管理人もこれに助けられて、ここが充実している。感謝。 三国志演義 三国志演義〈1〉 (徳間文庫) こちらは子供用。入門書として十分。 三国志 上 (岩波少年文庫) 安能務氏のものある。絶版中だけど。 どれにしても、正直、最初は読みづらい。 しかし、子供用から入れば読みやすいだろうと思う。 「読み応え」はどちらも十分。 また、安能氏のものは、三国志演義自体にメスを入れている。 なので、吉川三国志のような痛快さは消えて、正史の注釈を読んでいるような気分になる。 あと、演義ではスーパー軍師の諸葛亮を「ヘボ」と位置づけている珍しい本。 三国志新聞 三国志(三国志演義)を時系列ごと新聞形式で綴ったもの。 写真は中国電視台の「三國演義」。ちゃんと「広告」も載せている。細かい。 一回改訂されたんだけど、それも絶版なのかな。
https://w.atwiki.jp/genmaden/pages/56.html
◆3月30日(金)【定期】メンテナンス情報 本日のメンテナンスにおきまして「江東の虎・孫堅」、「美周郎・周瑜」、「呉下の阿蒙・呂蒙」が新たに加わり、レイドボスイベント・キャンペーン各種を開催致しました。 新武将及びイベント・キャンペーン情報はアップデート情報でご確認できます。 《その他》 ※メンテナンス後に最新データをダウンロードをせずにプレイする事でイベントの追加ドロップが反映されないなどの予期せぬ不具合が発生する場合がありますので、メンテナンス後は必ず最新データのダウンロードを行って下さい。 ※メンテナンス前に必ずアプリを終了し、メンテナンス後にアプリを起動するとゲームスタート前に最新データのダウンロードが発生します。万一ダウンロードが発生しな場合、お手数ですが運営局までお問い合わせ下さい。 ◆3月23日(金)【定期】メンテナンス情報 本日のメンテナンスにおきまして「張角の野望 EXP 金貨2倍出現イベント」及びキャンペーン各種を開催致しました。イベントの詳細及びキャンペーン情報はアップデート情報でご確認できます。 《その他》 ※メンテナンス後に最新データをダウンロードをせずにプレイする事で追加ドロップが反映されないなどの予期せぬ不具合が発生する場合がありますので、メンテナンス後は必ず最新データのダウンロードを行って下さい。 ※メンテナンス前に必ずアプリを終了し、メンテナンス後にアプリを起動するとゲームスタート前に最新データのダウンロードが発生します。万一ダウンロードが発生しな場合、お手数ですが運営局までお問い合わせ下さい。 ※過去のメンテナンス情報につきましては、「三国志幻魔伝攻略Wiki」にて確認できます。 ※三国志幻魔伝攻略Wikiは「コンフィグ>設定>アプリ情報>攻略Wiki」から遷移する事ができます。 ◆3月16日(金)【定期】メンテナンス情報 本日のメンテナンスにおきまして「バトルロイヤルイベント」及びキャンペーン各種を開催致しました。 バトルロイヤルイベント期間中はバトルロイヤルの参加回数に応じて「特別任務」より報酬を受取できるので是非参加してみて下さいね! 《その他》 ※イベント及びキャンペーン情報はアップデート情報でご確認できます。 ※過去のメンテナンス情報につきましては、「三国志幻魔伝攻略Wiki」にて確認できます。 ※三国志幻魔伝攻略Wikiは「コンフィグ>設定>アプリ情報>攻略Wiki」から確認する事ができます。 ◆3月9日(金)【定期】メンテナンス情報 本日のメンテナンスにおきまして「張角の野望 EXP 金貨2倍出現イベント」及びキャンペーン各種を開催致しました。 ※メンテナンス後に最新データをダウンロードをせずにプレイする事で追加ドロップが反映されないなどの予期せぬ不具合が発生する場合がありますので、メンテナンス後は必ず最新データのダウンロードを行って下さい。 ※メンテナンス前に必ずアプリを終了し、メンテナンス後にアプリを起動するとゲームスタート前に最新データのダウンロードが発生します。万一ダウンロードが発生しな場合、お手数ですが運営局までお問い合わせ下さい。 ※イベント及びキャンペーン情報はアップデート情報でご確認できます。 《その他》 ※五関六将軍斬イベント未参加の方は五関六将斬コンテンツをご利用できません。 ※過去のメンテナンス情報につきましては、「三国志幻魔伝攻略Wiki」にて確認できます。 ※三国志幻魔伝攻略Wikiは「コンフィグ>設定>アプリ情報>攻略Wiki」から遷移する事ができます。 ◆3月2日(金)【定期】メンテナンス情報 本日のメンテナンスにおきまして、新しいイベント「五関六将斬」を開始しました。また同時にキャンペーン各種を開催致しました。またイベント及びキャンペーン情報はアップデート情報でご確認できます。 【メンテナンス延長のお詫びについて】 2018年3月2日(20 00)に行われた定期メンテナンスにつきまして、終了予定時刻より延長してしまい申し訳ございません。お詫びと致しまして、「ホーム画面右側のコンフィグ>メール」にルビー300個を配布させて頂きました。 ご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。
https://w.atwiki.jp/genso3594/pages/2.html
検索 トップページ 管理人より メニュー index以外別窓 bbs mail index 作品について 幻想水滸伝 幻想水滸伝について 幻想水滸伝の基本システム 星と紋章 地図 歴史 余談:曲について 三国志 三国志について 字(あざな)について 異民族について 三國志9の基本システム ステータスについて 部隊編成について 陣形の種類と解説 兵法の種類と解説 くま隊?くま? 十二国記 十二国記について 十二国記の世界 十二国記世界の人々 人物リスト 幻想水滸伝 三国志 五十音順 陣営別 十二国記 三国志の世界 三国志時代の地図 三国志故事成語 お勧め三国志 注意 初心者編 お気軽編 じっくり編 ずっしり重たい編 変わり種編 女子向・腐女子向編 リンク 幻想三国志リスト ニコニコ動画 歴史戦略ゲープレイ動画まとめwiki いじくった場所 取得中です。 合計: - 今日: - 昨日: - 『三國志 IX』に関わる著作権、その他一切の知的財産権は、 株式会社コーエーに帰属します
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/1045.html
このページは数あるニコニコ歴史戦略ゲー動画の登場人物について、各動画内での列伝をまとめていくものとして用意しました。 主役級の活躍を見せた人物はもとより、名脇役、好敵手からネタ☆キャラまで幅広く紹介されるページになることを願います。 ここでは三国志の人物について扱います。 参考用リンク先(需要のありそうなものがあれば随時追加推奨) Category 三国志 - Wikipedia :史実についての参考リンク 幻想水滸伝・三国志を知らないけど、興味ある人の為の解説サイト ニコニコ歴史戦略ゲー 武将紹介 公開マイリスト :史実武将紹介動画 武将別解説 - 三国編 :iM@S架空戦記シリーズ補完wikiより三国武将紹介 『三国志の登場人物の一覧』 :ニコニコ大百科での三国志人物項目一覧 武将別伝(三国志) ア行 ハ行 ハ ヒ フ ヘ ホ カ行 カ キ ク ケ コ マ行 サ行 サ シ ス セ ソ ヤ行 タ行 タ チ ツ テ ト ラ行 ラ リ ル レ ロ ナ行 ワ行 費禕(ヒイ) 麋竺(ビジク) 糜芳(ビホウ) 費禕 (ヒイ) [部分編集] (?~253)字は文偉(ブンイ)。江夏郡の生まれ。益州牧の劉璋とは遠縁にあたり、そのつてで益州へと遊学。劉備が入蜀すると劉備に仕え、名声を得た。不仲だった楊儀と魏延の間をたびたび取り持ったという。 諸葛亮、蒋琬、董允と共に「蜀の四相」に数えられ、蜀の内政を支えた。後に魏の降将に殺害された。 三國志IX 統率 74 武力 22 知力 83 政治 92 三國志11 統率 77 武力 30 知力 83 政治 92 魅力 83 能吏/弩兵A、兵器A 上へ 麋竺 (ビジク) [部分編集] (?~221)字は子仲(シチュウ)。徐州の富豪で、徐州牧であった陶謙に仕える。陶謙死後は劉備に仕え、妹を劉備に嫁がせた。劉備が益州に入ると、諸葛亮を上回る官位を得た。 弟の糜芳が関羽を裏切ったことに憤り、その後間もなく病死した。 弓馬に通じていたというが、軍を率いることは無かった。 三國志IX 統率 32 武力 39 知力 71 政治 83 三國志11 統率 33 武力 29 知力 77 政治 83 魅力 85 富豪 上へ 糜芳 (ビホウ) [部分編集] (?~?、演義では222年没)徐州の富豪、糜竺の弟。陶謙の病死後、兄と共に劉備に仕え、以後武官として二十年来付き従う。 しかし、孫権の荊州侵略に際して呂蒙に降伏。兄・糜竺は弟の裏切りに激怒し、憂慮の内に病死したという。 史実ではその後も呉の臣として活躍した。演義では蜀に帰参するが関羽を見殺しにしたという理由で劉備に処断される。 三國志IX 統率 55 武力 56 知力 31 政治 25 三國志11 統率 54 武力 61 知力 32 政治 23 魅力 23 騎将張繍の野望 【三國志Ⅸ】 +張繍軍武将。特別項目あり 凡将には凡将の意地がある このうp主は糜芳擁護派なので、特別項目を作ってみた。 うp主の顔グラに使われるほど愛着があるようで、第二十三話よりキャラとして登場。第二十五話より解説が入った。 以降はうp主の解説である。 ※CAUTION! 糜芳を擁護する都合上、某髭と某ドSに対して手厳しい表現をしている部分があります。 うp主は別にこの二人が嫌いな訳ではないのですが。ご理解下さい。っていうか、いつもより主観丸出しです。 そんな訳で、ハイパー擁護タイム始まるよー! 引き返すなら今の内だぜ! +ハイパー擁護タイム 糜竺・糜芳の家は先祖代々の富豪であり、裕福な生活をしていた。 陶謙が病に倒れると、糜竺や陳登は劉備を後継者として擁立したが、当然糜芳もこれに賛同していたものと思われる。 呂布の裏切りによって劉備が敗走すると、彼に惚れ込んでいた糜竺は私財を投げ打って貢献し、妹を劉備に嫁がせている。 これによって糜芳も外戚となる。 その後、劉備は曹操を頼るが、このとき曹操は糜竺を太守、糜芳を城国の相に任じている。 要は曹操お得意のヘッドハンティングで、糜芳は曹操が欲しがるほどの能力があったと窺える。 糜家は、糜竺だけでなく、糜芳もそれなりの知名度があったのだろうか。 ともかく、糜芳は兄と共にその誘いを蹴り、後に劉備が曹操に反逆した際は、官職を捨てて劉備に付く道を選んでいる。 その後に裏切った一点だけを見て、この糜芳の行動を 「どうせ単に兄について来ただけだろ」と的外れな意見が出ることもあるが ……そんな生半可な志で、その後二十年間、劉備の一番キツかった時期に付き従える訳ないだろう常考。 曹操から別々に官職を与えられている以上、糜芳は自分だけでも曹操に仕える選択肢はあった。 実際、陳登や陳葦など、同時期に劉備から曹操に乗り換えた人間はいた。 それをしなかったのは、一重に劉備への忠義があったから、それ以外に考えようが無いと思うのだが、どうだろうか。 徐州を離れた後からの糜芳の記述は、例の関羽の所まで飛んでいる。 ……が、これを見て 「糜芳はその間何もしていなかった役立たず」と決め付けるのは、やはり早計だろう。 陳到の紹介のときも述べたが、この時の劉備軍の資料はどうも少なかったようで、 劉備放浪~赤壁~荊州平定戦のあたりは、殆ど劉備本人の動きしか書かれていない。 例えば、荊州四英傑の記述も『降伏した』のみで、誰が誰を降したのかすらわからない有様。 陳到にしろ糜芳にしろ、関羽・張飛に次ぐ古参の軍人で、当時人員不足だった劉備軍に貢献していない筈が無いのだが、 如何せん動きが地味だったのか、今となってはそれを知る事は出来ない。 糜芳の不運は、益州戦線や漢中争奪戦に参加していなかったことだろう。 この頃になると、それぞれの武将の活躍も詳しく書かれてくるのだが、この時期の糜芳は、関羽と共に荊州の留守役を勤めていた。 もちろん、当時ギクシャクした関係だった呉に備えた、重要な任務ではあるのだが。 関羽が守る襄陽では、(楽進ら率いる)魏軍の侵攻があり、荊南においては、呉が長沙・桂陽・零領を奪うなどの争いがあった。 しかし、糜芳が太守をしていた南郡(江陵)については、どうやら大きな戦闘は無かったようで、 やはり糜芳の活躍の記述は残っていない。 ……で、糜芳は果たして劉備に冷遇されていたのかという問題だが。 確かに、兄の糜竺は蜀平定時に孔明よりも上の地位を授けられているなど、厚遇されていたのと比べると、 南郡太守として荊州都督である関羽の配下に組み込まれていた糜芳の扱いは、良くないように見える。 が、この南郡太守は、蔡瑁・周瑜・程普といった面々が歴任していたものであり、その内の江陵は対呉の最前線と、むしろ重要拠点だった。 益州平定前は、関羽は襄陽太守だったという事も考慮すれば、決して低い役職ではないだろう。 劉備は、手元に置くよりも、糜芳に前線での活躍を期待していたのではないだろうか。 一応、人を見る目では定評のある劉備だし。 最古参の一人という事もあり、少なくとも劉備からは信頼されていたと見るべきだろう。 ……そしてその信頼を得る程度の武功はあったと、個人的に推測している。 ともかく、糜芳と関羽は同格とは行かないまでも、完全に主従関係にあった訳ではない。 ここに、糜芳を配下だと認識している関羽と、あくまで劉備の家臣のつもりの糜芳との間で、 何らかの軋轢が生じるのは想像に難くない。 いずれにせよ、「士大夫に傲慢」と記される関羽と、糜芳・士仁の仲は険悪だった、と多くの資料に記されている。 いくら嫌いな士大夫だからって、仮にも外戚の関係にあるかつての恩人を軽んじる関羽ってどうなんだと思わないでもない。 糜芳にその立場を笠に着る態度があったとでも言うならともかく、史書にはそんな記述は見当たらないし。 荊州においては、関羽が都督、糜芳が南郡太守、士仁は将軍として公安を守るという体制になっていた。 糜芳が関羽との間に起こしたとされるイザコザは、史書によってバラバラである。 関羽伝によれば、樊城攻めの際、糜芳・士仁が軍需物資を提供するのみで全力支援をしなかったため、 関羽が「あいつら帰ったら殺す……」と発言し、糜芳・士仁はそれを恐れたとある。 また呂蒙伝では、南郡城で火事が起こって兵器が消失し、関羽は糜芳(士仁の名前は無い)を激しく責め立て、 これを理由に糜芳は呉に通じた、と記されている。 ただこれらの記述は、(恐らく)関羽サイドの見解であって、少なくとも糜芳・士仁は後方支援はきちんとしていた筈。 要は、関羽は「援軍よこせよ!」と言いたかったのだろう。ただ、隣接している呉の動きが不穏な以上、 江陵の守備を任された糜芳が(後に劉封・孟達が関羽に援軍を送らなかったのと同じ理由で)兵は裂けないと判断しても、 仕方が無いのではなかろうか。(糜芳は呂蒙に備えて南郡太守に任命された、とある) 失火の件については、トップの糜芳が責任を取らされるのは当然だろうけど。 ただ、不可解なことに、その後も関羽は糜芳・士仁をそのまま守備役に置いている。 正直、処罰したいほど憎んでいる相手に後方の守備を任せるというのは、理解しがたい。 「俺、この戦争が終わったら糜芳を処罰するんだ……」 みたいな事を言っておいて、その糜芳に任せておけば後方は安心、と本当に思っていたのだとしたら 関羽の脳内は相当「春ですよー」な事になるのではないか。 もしくは、関羽には南郡の守備の重要性がわかっていなかったか。 いくらなんでも、関羽がそこまでトンチキとは思いたくないのだが……。 個人的には、関羽と糜芳には決裂に到るほどの確執は無かった、と考えた方が、双方に角が立たず楽なんだけど。 その分、糜芳の守る南郡の防備は相当固かった様で、一計を案じた呂蒙は病気と称して帰還する。 代わりにまだ知名度の低い陸遜を派遣し、陸遜はひたすら関羽に遜(へりくだ)った為、 油断した関羽は、江陵・公安の守備兵を前線に投入する。 これを見るや、呂蒙は敵に悟られぬよう密かに兵を進め、一気に公安城下を包囲する。 士仁は篭城したものの、戦力差は歴然で、虞翻の説得によって涙ながらに開城。 江陵を守る糜芳も抗戦しようとしたが、士仁が呂蒙と共にいるのを見ると、どうにもならないと感じたのか、酒と肉を用意して降伏した。 ……確かに糜芳と関羽は不仲だったが、彼があっさり降伏した最大の理由は、 江陵の守備の弱体化と、呂蒙の迅速な行軍の為、とてもマトモに戦える状態ではなかったから、ではないだろうか? (しかも、守備弱体化の原因は、関羽が前線に兵を引き抜いた事である) たとえ士仁・糜芳が全力で抗戦したところで、長くはもたなかっただろうし、関羽が死ぬ結果には変わらなかったはず。 防備を薄くした時点で、糜芳が裏切る・裏切らないに関わらず、関羽の敗北は決まっていたのでは。 ともかく糜芳は呉に降り、関羽は死んだ。 これを恥じて兄が悶死した事については、糜芳は全力で反省すべきだろうが。 この争いの際に呉に降った糜芳・士仁・潘濬・郝普の四人について、 蜀将の活躍を記した『季漢輔臣賛』(要は、蜀の人間について書かれた蜀マンセー本)では、 「私情で関羽を裏切って、蜀呉両方の笑い者になった」と記されている。 ……が、この記述を鵜呑みにして 「ほら見ろ! やっぱ糜芳は当時から叩かれてたんじゃねーか!」 と決め付けるのは(ry そもそも、これが書かれた当時から、既に関羽の神格化は始まっていた。 そのため、この四将に対する記述も、著者の 「よくも関帝を裏切りやがったな! テメーらなんかボロカスに叩いてやる!」 的な感情が入っていた可能性は、充分にあると思う。 ……演義で、関羽の死に関わっていた人間が、酷い死に様に変えられていた様に。 特に、この内の一人、潘濬は、関羽の死後多くの人間が呉に降る中で一人出頭せず、 孫権にベッドごと連れて来られて泣く泣く降伏した、という忠義者のエピソードがあり、 内政、反乱討伐に辣腕を振るい、丞相候補にまでなった名宰相。 そんな人間が「私情で関羽を裏切り」、少なくとも「呉で笑い者になった」はずがない。 ……そのため、この四将に対する評価は余り信用できないものと、個人的に判断している。 まあ、「潘濬は叩かれていないとしても、それが糜芳が叩かれていない証明にはならない」という意見もあるだろう。 それを裏付ける一つとして、呉の虞翻の糜芳に対する罵倒のエピソードがある。 時期は不明だが、糜芳が船に乗って虞翻と一緒に出かけたことがあった。 糜芳の船には人がたくさん乗っていたので、水先案内人が虞翻の船に「糜芳将軍の船を避けよ」と言うと、虞翻は 「あ? テメーみたいな不義理者がどの面下げて殿に仕える気じゃボケ。お前なんぞ将軍を名乗る資格はねーよダラズ。 (避けるんだったらテメーが避けろクズ)」(意訳) といきなり怒鳴りだした。糜芳は戸を閉ざして返答しなかったが、急いで虞翻の船を避けたという。 また別の時、虞翻が車に乗って出かけ、糜芳の営舎を通り抜けようとしたが、門が閉じていた事で車を通す事が出来なかった。 すると虞翻はまた怒って 「テメー関羽裏切った時はあっさり門開けておいて、今俺が門通ろうとしてる時に限って閉めるとか馬鹿なの? 死ぬの? オラァ! とっと開けろや糜芳!」(意訳)と言うと、糜芳は慙愧の色を見せたと言う。 ……糜芳の死因が心労だったらどうしよう。 とりあえずその裏切りの為、虞翻に嫌われていたのは確かなようだ。 ただ、虞翻は関羽に投降した干禁が呉に送還された際も、孫権が歓迎しているその横で 「は? こんな負け犬の屑、丁重に取り扱う必要なんか無いっしょwww むしろブチ殺して見せしめにしましょうぜwww」(意訳) と言って孫権を不快にさせた真性のKYで、口の悪さには定評のある男。 結局、余りにもアレな発言を繰り返して、とうとうキレた孫権に左遷されるという最後を迎えている。 干禁や糜芳に対する苛めも、裏切りに対する義憤と言うよりも、単純に罵倒したかったから、というように見えるのは穿ちすぎだろうか。 ともかく、虞翻が糜芳を嫌っていたからといって、呉全体が糜芳をそんな目で見ていたとは限らない。 ……むしろコイツの意見が呉の総意だとしたら、もう呉は末期だろ。 ……というか、士仁を説得して裏切らせ、糜芳が降伏する原因を作ったのは、他ならぬ虞翻なのだが。 果たして虞翻に糜芳を貶す資格があるのやら。 その後223年に、賀斉の配下として船団を率いて、晋宗の討伐に赴いている。 この晋宗は、呉から魏に寝返った将で、たびたび呉に侵攻を繰り返し、孫権をイラつかせていた厄介な相手だったが。 賀斉配下として、糜芳は鮮干丹・劉召と共に晋宗を襲撃し、難なく生け捕りにしたと記されている。 この当時の糜芳の官職的な立場だが。 賀斉は異民族討伐で活躍し、後将軍・徐州牧の座についている孫呉でもトップクラスの将軍、ていうか神。 上官の立場なのは当然だろう。 劉召は、後に曹休との戦いで活躍したとある。鮮干丹は、夷陵の戦いの際、朱然や韓当達と共に陸遜の配下として名を連ねている武将。 この面々の部下・同僚というのは、悪いポジションではない。 糜芳の呉での爵位は不明だが。 虞翻のエピソードで、少なくとも将軍職についている事が分かるので、呉における糜芳の地位はそれなりにあったと推測できる。 少なくとも、重臣の虞翻といっしょに出かけられるぐらいには。 没年は不明。 演義では夷陵の戦いの際、士仁と共に返り忠を企てて、劉備に許されず処刑されているが、当然捏z……創作。 実際は、この時賀斉配下として魏と呉の国境付近にいたはずなので、夷陵の戦いに参加することは物理的に不可能だっただろう。 あの江陵の一件の際、糜芳が抗戦して城を枕に討ち死にしていれば、現在における彼の評価は全く違ったものになっていただろう。 ただ、こちらは勝てる見込みが全く無く、上司からは「帰ったら処罰」と脅され、その危機の原因を作ったのも上司の行動、 さらに同僚は殆ど戦わず降伏。 正直この状況で糜芳に「関羽のために頑張って死ね!」と言うのは、あまりに酷では無かったか。 まあ、どんな理由があろうと裏切りは裏切り。それ自体は非難されても仕方が無い事。 ……が、そうなると他にも命惜しさに投降した割りに、大して非難されていない武将なんていくらでもいるわけで。 魏で言えば張郃、徐晃。蜀では三国鼎立後も王平や姜維など、こういった名将でもあっさりと裏切った経緯がある。 にもかかわらず、あんまり非難されていない。 「生姜の裏切りは綺麗な裏切り、糜芳の裏切りは汚い裏切り」と言うのは無いだろう。 とは言え、糜芳にとって不幸だったのは、裏切った相手が後に神に祭り上げられた事だろう。 ここまで糜芳が卑劣漢扱いされるのは、関羽が死後神になったからに他ならない。 歴史とは不公平と言うかなんと言うか……。 何十年も主君に仕えた古参の降伏、関羽との関連性、虞翻に罵倒されたりと、こうして見ると干禁と糜芳は似ているような気がする。 勿論、功績では干禁の方が上だが。 まあ、末路が悲惨だった干禁に比べれば、活躍の記録が残ってる糜芳はまだマシだろう。 呉で大活躍だった潘濬に比べると見劣りするものの、 降ってからの記述が一切無い士仁、後に自殺に追い込まれた郝普に比べれば、相当恵まれている。 劉備・曹操・孫権から一定の評価を受けており、中々面白い人生を送ったとも言える。 グダグダ語ったけど、結論としては、 裏切りを卑劣と見るかは個人の判断に任せるとして、決して一般的なイメージほど無能ではないという事を考慮してもらえば幸いです。 上へ 糜芳の擁護解説の濃厚さに感心しました。(笑) -- 名無しさん (2009-05-26 01 26 11) 何度見ても糜芳の解説には感動するものがあるな・・・ -- 名無しさん (2009-05-27 13 32 53) 蜀贔屓の横山でも糜芳は先に降伏した士仁に対し最初罵倒してるしな。あの横山総集編辞典でも荊州失陥は関羽が一番悪いとしてたし少なくてもこの点では擁護されんとおかしい。今で言うなら古参の中堅だが上司に恵まれなかった中間管理職でやむなく転職というべきか。 -- 名無しさん (2009-06-15 07 02 38) 記事の破壊はやめてください。 -- 名無しさん (2010-12-10 23 10 34) 除去された記事を復帰。このコメント欄にもある通り、「解説の濃厚さ」「感動するものがある」と読者から評されている記述を一方的に除去するのは妥当ではない。異存があるならば本コメント欄に提起するべき。 -- 名無しさん (2010-12-15 03 03 56) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/125.html
<魏 238年> <蜀漢 238年> <呉 238年> 238年 延熙元年(蜀漢) 皇帝 劉禅(後主・魏安楽公) 皇后 →張氏(前皇后の妹・車騎將軍張飛の娘) 皇太子 →劉璿(字文衡。王美人との子) 三公(蜀漢) 丞相:(空位) 司徒: その他の要職(蜀漢) 錄尚書事: 尚書令:蔣琬(前丞相留府長史) 太傅: 太常: 光禄勳: 衛尉:→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府: 大将軍:蔣琬 驃騎将軍:? 車騎将軍: 衛将軍:? 主な事件 延熙元年春正月、皇后に張氏を立てる。大赦。改元する。子の劉璿を立てて太子と為す。子の劉瑤を安定王と為す。《三国志蜀書後主伝》延熙元年正月、行丞相事左將軍朗に節を持たせ、劉璿に印緩を授ける。その策を奉って劉璿を太子と為す。時に年十五。《三国志蜀書二主妃子伝》 冬十一月、大將軍の蔣琬は出撃して漢中に屯す。《三国志蜀書後主伝》 誕生者 死没者