約 803,980 件
https://w.atwiki.jp/kerberos-saga/pages/15.html
第2部 装甲猟兵編 第1話 「ポツダムの巨人兵」 Die GigantSoldaten Potsudam 2006年08月30日 放送 概要 時間は戻り、おそらくは出発前のベルリンでの話となる。(ワルシャワの可能性もある) 宣伝中隊の上官フェネカンプ大佐との会話。 宣伝中隊のイメージを刷新することを目的に、ケルベロスを取材することをフェネカンプ大佐に進言して認められる。 が全てはマキの計算通りで、私的な目的の為であることがわかる。 バッテル 常備軍 フリードリヒ大王 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 赤軍 ゲッベルス 啓蒙宣伝省 ワイマール体制 彼女の母方の血筋 バッテル スイス人の著名な国際法学者で,ドイツのザクセン侯に仕えた外交官。主著《国際法,すなわち,諸国および諸君主の行動および事務に適用された自然法の原則》(1758)はラテン語ではなくフランス語で書かれた国際法の現実的な体系書であり,広く一般に読まれるとともに,その後の国際法の発展にも大きな影響を与えた。また,同書がアメリカの独立(1776)の思想的根拠となったことはよく知られている。彼は啓蒙期自然法思想に立脚し,国家の自然的な自由・平等・独立を基礎とする近代的な国際法思想を展開した。 常備軍 徴兵制や志願兵制に基づく戦時・平時を問わず組織される国家の軍隊。 封建的騎士団から傭兵制の時代を経て生まれた。 プロイセン王国には常備軍があった。 フリードリヒ大王 フリードリヒ2世(1712~1786)プロイセン国王(在位1740~1786) 優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (1688~1740年)プロイセン国王(在位1713~1740) 粗暴で無教養だったが財政・軍制の改革によってプロイセンの強大化に努め、兵隊王とあだ名された。 「ポツダム巨人軍」と呼ばれる近衛連隊を組織したことは有名。 赤軍 1917年のロシア革命によって生まれたソビエト連邦の軍隊に与えられた呼称。 赤は、それまでに流されてきた労働者の血を意味している。 スターリンの大粛清で高級将校がいなくなり命令系統が鈍いが、戦意は高く何よりも1500万以上ともいわれる数を誇る。 ゲッベルス パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス。 ドイツの政治家。ナチ党政権下のドイツでプロパガンダを任務とする国民啓蒙・宣伝大臣を務めた。 作中では1942年には既にいない様子。史実では戦後まで生きて自殺する。 啓蒙宣伝省 ゲッペルスを大臣とした組織で、宣伝中隊の上位組織。 ケルベロスを国民的な英雄にしたて上げた。 ワイマール体制 第一次世界大戦の敗戦後にドイツ革命によってできたワイマール(ヴァイマル)共和政のこと。 ヒトラーによるワイマール憲法の停止により事実上消滅した。 彼女の母方の血筋 伏線かな?雰囲気的には汚名っぽい。叔父の立場も謎
https://w.atwiki.jp/kerberos-saga/pages/39.html
冬のトークスペシャル 押井守×岡部いさく 2007年2月1日放送 岡部いさく(軍事評論家) トークの概要に軽く触れておきます。 インタビュアー「この世界と史実の違いについて」 押井「バルバロッサとか初動では史実通り、スターリングラードが折り返し地点でどんどん変わっていく」 「ドイツが敗戦しない、日本がドイツと戦う」 「20世紀はアメリカのもの、アメリカを排除することで歴史を変える。アメリカには触れてないけど」 岡部「アメリカの自意識が変わって北米大陸だけの国になれば歴史は変わった」 押井「どーせ今までさんざんヨタを飛ばしてる、ケルベロスはやるたびに根本的な設定が変化してる。」 「そろそろ統一した世界観がいる。」 「アメリカを排除したら気持ち良かった」 「ドラマでは語ってないが、会話の端々に匂わせてる」 岡部「アメリカが絡んだから海の戦争になった。」 「この世界ではイギリスは大陸には手だしできず海を支配し、ドイツは大陸を好きに海は後回し。それはヒトラーの夢想したもの」 押井「ヒトラーがいないドイツ軍をやろうと思った。」 岡部「やっぱりドイツ人は、ロシア人と戦ってみたいんだ。」 押井「ムッソリーニやヒトラーみたいな極端な人は消えてもらう。逆に説得力がなくなる。」 岡部「ヒトラーを排除したのは平和の為じゃなくって、合理的な戦争をする為ってのがドイツ人の業。」 押井「ヒトラーがいたから負けたんだ。あそこまで負けなかったんじゃないか?」 岡部「そうかな?(笑)」 押井「ヒトラー暗殺にどうして失敗したかわからない。」 岡部「陸軍同士の戦いではあんなに上手なドイツ人がどうして人一人殺せないんだろう?」 岡部「この世界では日本はランドパワー国家?」 押井「ドイツと日本は、離れすぎていてインド洋で海上戦をやるくらいでやるくらいしか想定できない。」 「ドイツと日本の接点に関してはこれからの課題」 「どう考えたって、ドイツに占領された日本は想定できない。日本のケルベロスどうしよう(笑)」 「それは、少し時間軸ずらすしかないのかなぁ。」 押井「ニュースなどの映像は信じられない。特に戦争については。」 「戦争ってのは見えなくなってる。」 岡部「実際はある戦争も映像ではでてこないで、無いことになっている。」 押井「僕等の知らない戦争がたくさんある。」 「そんなもののディテールがわからない、それは困る。」 「僕のテーマが戦争はディテール化でしかわからない。なので困る。」 インタビュアー「実際の戦争報道に触れて、心がけたり気になることは?」 岡部「映像ってのはきれっぱしでしかない。それを伝えきれない。」 「アメリカ以外の戦争は見えてこない。」 「そんなもの観ながら日本じゃ世界の平和について語ってる。」 押井「なんでもネットにあると思いこんでる人間が山ほどいる。特に戦争に関してはネットに何があるんだよ?という気がする。」 押井「いくら原作書けたって戦争わかんないよ。」(これは自分に対してなのか、他の脚本家に対して言ってるのか?) 「実際に戦争に行って、当事者になったらもっとわからない。戦争について語ることの限界がある。」 「ディテールしかない。」 「岡部さんしか知りえない、知りえた様々なものを本にして下さい。」 「聞こえてくるものの中から想像していくしかない。」 「映像の情報は信じられないけど、そこにある断片から推理することは好きだし可能だと思う。」 インタビュアー「最終回に向けての何か、抱負や予告を」 押井「脱線したり思わぬ方向に流れたりして、肝心なドラマを圧迫した。」 「レニングラードあたりから急激にドラマが濃密になっていくはず。っていうかなっていく。」 「マキちゃんをめぐるドラマや、装甲猟兵、マイヤーのおっちゃんのドラマ」 「今までの独ソ戦の薀蓄物語ではない。」 「良子さんも艶っぽくなり、親父達も濃くなる。」 「あっとおどろく隠し玉で戦争にけりをつける。」 「言い足りないことは山ほどある。」
https://w.atwiki.jp/kerberos-saga/pages/16.html
第2部 装甲猟兵編 第2話 「第三の軍隊」 Das Dritte Armee 2006年09月27日 放送 概要 ウーファーの施設で記録映像を見ながらの会話と回想。 ヒトラーの台頭の経緯や国内の軍組織の解説。 そのドイツの国情の中でケルベロスがどのような目的で誕生し、育成され、そして現在でも生き残った理由が語られる。 彼 ヒンデンブルク ホルスト・ヴェッセル ブランデンブルク門 レームと突撃隊(SA) シュタールヘルム(鉄兜団) ヒムラーと親衛隊(SS) シュライヒャー グレゴール・シュトラッサー カール ゲッベルス 宣伝中隊の製作するニュース映像の頻度 彼女 パウル・バイスバイラー 典礼部隊 スパルタ カーターハム 西方への攻勢作戦 彼 ヒトラー ヒンデンブルク パウル・ルートヴィヒ・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク(1847-1934) 元軍人、第2代ワイマール共和国大統領。ヒトラーを嫌っていたが、ナチス勢力を抑えることはできず1933年ヒトラーを首相に指名する。 34年の病死によって、ヒトラーは大統領を兼任する。 ホルスト・ヴェッセル ドイツ北部の国粋主義団体で歌われていた既存の歌詞を党活動に合うように編集した歌「旗を高く掲げよ」を製作した人物。 この場合、ホルスト・ヴェッセルはすでに死んでるはずなので、「旗を高く掲げよ」の別名であるホルスト・ヴェッセル・リート(つまり「旗を高く掲げよ」自体)を指していると思われる。 ヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ)の党歌で、ヒトラーの首相就任以降は第二国歌的な歌として扱われ、ナチを代表する歌となる。 ちなみに、現在ドイツでこの歌を歌うと反ナチ法によって逮捕される。 ホルスト・ヴェッセルの歌(和訳と音声ファイル) ブランデンブルク門 ドイツ・ベルリンのシンボルとされている門 レームと突撃隊(SA) エルンスト・レーム ドイツの軍人・右翼活動家。 第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約に反対してナチ党の突撃隊(SA)ほか多くの準軍事団体を組織したが、自身の突撃隊を正規軍とする事を望み、国防軍は次第にSAを脅威と感じるようになった。 また、ヒトラーに対する態度などから党内のゲッペルスなどにも危険視される。 職業軍人の確保のため、国防軍との連携が必要なヒトラーによって粛清される。 粛清の理由は突撃隊による反乱の計画を捏造されてのもの。 これによりSAは解体はされなかったもののその勢力は著しく減退、以後は国内及び一部占領地域での治安維持や国防軍の人材プールなど副次的な役割を務めるのみとなる。 一方SSはこの事件以後勢力を拡大して刑事警察、治安警察、ゲシュタポなどの警察組織をその勢力下に収め、強大な治安情報機関としてドイツ及びその占領地域に君臨することとなる。 シュタールヘルム(鉄兜団) 第一次大戦後に組織されたフライコールの一つ。 正式名称は「鉄兜団、前線兵士同盟」といい、その名の通り旧軍の将校・兵士からなっていた。 反ワイマール体制、国家主義、君主制支持を政治信条とし、右翼政治団体として一時は50万名近い構成員を有していた。 1929年に連合国から提示された賠償金返済計画「ヤング案」に対する反対運動で、他の右翼政党と共にナチスと共闘し関係を深めていった。 しかしナチスの政権掌握後、その君主制支持性向が危険視され、1934年から35年にかけて解散を命じられ、その構成員は突撃隊に吸収された。 ヒムラーと親衛隊(SS) ハインリヒ・ヒムラー ドイツの政治家。親衛隊全国指導者(1929-1945) 突撃隊の下部組織として親衛隊は生まれ、ヒムラーは1929年に280人に過ぎなかった親衛隊員数を1933年末までには20万9千人に拡大した。 親衛隊とドイツ警察機関全てを統括し、1,100万人にも及ぶユダヤ人、ロマ、ポーランド人、カトリック聖職者、ロシア人捕虜の虐殺に責任を負う。 長いナイフの夜に、親衛隊で粛清を実行し突撃隊やその他の反乱分子を除去する。 これによりSSはナチの中でももっとも強大な組織となり、また国防軍にも口出しできない組織として勢力を伸ばす。 シュライヒャー クルト・フォン・シュライヒャー ドイツの軍人でワイマール共和国の最後の首相でありヒトラーの前首相である。 長いナイフの夜で粛清される。 グレゴール・シュトラッサー 「ナチス左派」と呼ばれる同党左派の流れを代表する人物 長いナイフの夜で粛清される。 カール グスタフ・フォン・カール 1923年当時のバイエルン州総督(首相)で極右政治家。 1923年11月、ヒトラーはバイエルン州の政権奪取とベルリンの政府転覆を図り、いわゆるミュンヘン一揆を起こした。 この時ヒトラーはバイエルン州政府の要人を一時軟禁し一揆への支持と協力を要求。 カールは一旦これを承諾したが後に変心して反乱勢力を弾圧、ヒトラーは投獄されナチスは一時勢力を著しく減退した。 カールはその後政界から引退したがヒトラーはこの時の恨みを忘れず、1934年6月の「長いナイフの夜」でカールに対する暗殺を命じた。 ゲッベルス パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス。 ドイツの政治家。ナチ党政権下のドイツでプロパガンダを任務とする国民啓蒙・宣伝大臣を務めた。 作中では1942年には既にいない様子。史実では戦後まで生きて自殺する。 宣伝中隊の製作するニュース映像の頻度 当時のドイツは第一次世界大戦の敗戦国としてヴェルサイユ条約によって過激な賠償を要求されていた。 宣伝中隊はその国民の敗戦に対する歪んだ心理を、ケルベロスによるプロパガンダによって利用する。 宣伝中隊によるケルベロスの情宣が予想以上に受け入れられたため、どの組織も簡単に手をだせなくなってしまう。 おそらく、これがケルベロスが常に最前線に送り込まれる理由だろう。 彼女 レニ・リーフェンシュタールのこと ドイツの女優、写真家にして映画監督。 宣伝中隊の人間で、マキが走り回っていた頃に党大会やオリンピックなどを担当したというところから。 作品はベルリンオリンピック記録映画「オリンピア」など パウル・バイスバイラー 架空の人物ではあるが、物語中で語られた経歴は武装親衛隊の軍人であるパウル・ハウサーを元にしている。 史実ではハウサーはSS士官学校の校長を勤めた後、新設されたSS特務部隊(SS-VT)の総監となった。 ハウサーはSS-VTに実践的な訓練を施すと共に、当時は儀杖兵部隊であり、「(舗装道路行進専門の)アスファルト歩兵」と国防軍から揶揄されていたアドルフ・ヒトラー親衛連隊(LAH)とも活発な人材交流や訓練の指導を行い、この両部隊を精強な野戦部隊へと育て上げた。 LAHは後に第1SS装甲師団「LAH]」、SS-VTは第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」となり戦場で名をとどろかせると共に、その後続々と編成された武装親衛隊の多くの師団に経験豊かな将校・下士官を供給することになる。 その意味でハウサーは正に武装親衛隊の育ての親といえるだろう。 ハウサーは戦時中は装甲軍団長や軍集団司令官を歴任し、戦闘中の負傷で片目を失い眼帯をつけながらも終戦直前まで戦場にあり続けた。 戦後は元武装親衛隊員の互助組織として結成されたHIAGの幹部として活動し、1972年死去。 典礼部隊 儀礼用のお飾り部隊。 スパルタ 古代ギリシアのポリス・スパルタで子供は国の財産として、12歳から質実剛健の厳しい軍事トレーニングを課し、その過程で体に障害を生じたものは情け容赦なく切り捨て、有能なものだけを市民として育てた教育。 カーターハム 西方への攻勢作戦 1940年5月フランスに対して行われた電撃戦。 電撃戦とは軍隊を迅速に進撃させる事により、敵に防衛線を構築する暇を与えずに戦線を突破する戦法である。 この作戦の成否は一にも二にも時間との戦いに掛かっている。 フランス戦においてはマンシュタインの立案した攻撃計画に基づきドイツ軍はアルデンヌ森林地帯を抜けてフランス防衛線の弱点であったベルダンを突破、二週間足らずでフランス軍主力及びイギリス海外派遣軍をダンケルクに追い詰めた。 フランスの降伏は6月であったが、実質的にはこの二週間でその敗北は決定していた。
https://w.atwiki.jp/kb_tw5/pages/28.html
ケルベロス ケルベロスとは、デウスエクスからの侵略に抵抗するためにグラビティ・チェインの力を利用して戦う存在である。 出現 ケルベロスの能力 能力値能力 出現 1965年頃、オラトリオによる地球滅亡巻き戻し事件以後、突然現れ始めた。 原因は今のところ語られていないが、デウスエクスですら滅ぼすことのできないデウスエクスに『死』を与えることができる存在は、デウスエクスにとって初めての脅威と認識された。 ケルベロスの能力 デウスエクスと同じ超常能力『グラビティ』を扱うことができる。 心臓に重力の鎖を叩き込む事でデウスエクスを滅ぼすことができる。 自身を暴走させることで驚異的な戦闘力を得ることもできる。 長物を狭い場所で扱う技量や、動力鎧で音を立てない工夫などに熟達している。 デウスエクスと同様に『グラビティ』でしかダメージを受けない。 攻撃の命中率を%で知ることができ ケルベロスには、覚醒することでなることができる。条件はさまざま。 能力値 能力
https://w.atwiki.jp/kerberos-saga/pages/19.html
第3部 電撃戦編 第3話 「初陣」 Erster Kampf 2006年10月19日 放送 概要 おそらくこの回もウーファーの撮影所での記録映像を見ながらの会話。 ポーランド戦の軍構成や電撃戦や作戦の概要から始まる。 ポーランドでの電撃戦の実態から、車両不足等の問題点など、ケルベロスが実戦に狩り出されるまでの経緯が語られる。 サイレン音 ルントシュテット ボック 軍集団 エーリッヒ・フォン・マンシュタイン アルフレート・フォン・シュリーフェン シュリーフェン・プラン 大モルトケ ヘルムート・フォン・モルトケ グデーリアン ヴェレンカム 地方守備師団 ルフト・ヴァッフェ シュレージエン ポンメルン ドイツ軍司令官すら知らなかった秘密協定 ファニーウォー 4発重爆 Ⅱ号戦車 Ⅲ号戦車 Ⅳ号戦車 スコダ 半装軌式装甲兵員輸送車 メルセデス フランツ ハルダー MG34 武装親衛隊とヒムラー アインザッツグルッペン ブロンベルク フリッチュ パウル・バイスバイラー ヴォルフガング・マイヤー 第3部の参考文献 サイレン音 ドラマ冒頭の戦闘のSEでサイレン音が聞えるが、これはドイツ空軍の急降下爆撃機ユンカースJu-87「シュトゥーカ」が搭載していたもの。 シュトゥーカが急降下時に発する甲高いサイレン音は「ジェリコのラッパ」と呼ばれ、敵兵に甚大な心理的効果を与えた。 フランス戦では投弾を終了したシュトゥーカがサイレン音を響かせて急降下を繰り返しただけで、フランス軍がパニックを起こして退却したというエピソードがある。 ルントシュテット カール・ルドルフ・ゲルト・フォン・ルントシュテット 第二次世界大戦中の陸軍元帥(1940年)。ドイツ最良の将軍の一人として知られる。 ポーランド侵攻で南部軍集団司令官であった。 ボック フェドール・フォン・ボック陸軍元帥 ポーランド侵攻時は北部軍集団司令官で上級大将。 史実では独ソ戦で中央軍集団司令官と南部軍集団司令官を勤めている。 ヒトラーと折り合いが悪く大戦後半には更迭され、戦争終了直前に爆撃による負傷が元で死亡。 軍集団 ドイツ軍を含む近代の軍隊において数個の「軍」によって編成される最大の部隊単位で、数十万人の将兵を擁する。 以下「軍」は「軍団」、「軍団」は「師団」からなる。 ポーランド戦では「北部」「南部」。 フランス戦では「A」「B」「C」。 独ソ戦では「北部」「中央」「南部」。 の各軍集団が編成された。 フランス戦時においては軍と軍団の中間単位として装甲師団や機械化歩兵師団からなる「装甲集団」が編成されたが、独ソ戦途中から「装甲軍」に順次昇格している。 エーリッヒ・フォン・マンシュタイン ドイツの第二次世界大戦中の陸軍元帥であり、最も有能な戦略家の一人。 アルフレート・フォン・シュリーフェン ドイツの元帥。大モルトケの二代あとの、ドイツ国軍参謀総長(1891~1905) 戦術家であり、第二次世界大戦に至るまで使われ続けた、対仏侵攻作戦「シュリーフェン・プラン」の考案者。 シュリーフェン・プラン この作戦においてはドイツ軍の侵攻兵力は北方のベルギー、オランダとの国境地帯に配置された右翼と、独仏が直接国境を接するアルザス・ロレーヌ地方に配置された左翼に分けられた。 侵攻主力である右翼は作戦開始と同時に南北に並んだ部隊がオランダ、ベルギーを通過して南を回転軸に反時計回りに旋回しつつパリに向かって進撃し、右翼北端はパリを巻き込むような形でこれを包囲、軍勢はさらに南方に向かって旋回を続ける。 左翼は伝統的な侵攻ルートであるアルザスに集結したフランス軍主力に索制攻撃を行って国境地帯に誘い込み、敵の北方への移動を阻むことが主任務となる。 最終的にはパリ南方に敵主力を追い込み、右翼および国境から前進した左翼がこれを包囲し殲滅する。 敵が左翼に攻撃をかけるほど右翼の進撃が容易になることから、シュリーフェンはこれを「回転ドアの兵理」と呼んでいた。 敵の裏をかくという意味では優れた作戦ではあったが、いくつかの重大な問題がこの作戦には存在した。 1)対仏戦には本来無関係なベルギー、オランダに侵攻することでおきる国際的な対独感情の悪化を無視している。 2)長大な距離を進軍する右翼の歩兵・軍馬の疲労や補給線の長大化を、これもまた無視している。 3)作戦の性格上ドイツ全戦力のほとんどを投入する必要があり、東部戦線におけるロシアの動員の遅れを当てにしなければならない。 などである。 これらの欠陥は第一次大戦において露呈し、ドイツ軍は泥沼の消耗戦へと陥ることとなる。 しかし大戦後もシュリーフェン・プランは金科玉条として扱われ、第二次大戦においてもマンシュタインによるアルデンヌ突破というアイディアが生まれるまで、ドイツ軍の対仏侵攻作戦はシュリーフェンの焼き直しのままであった。 大モルトケ ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラフ・フォン・モルトケ プロイセン王国の軍人。陸軍参謀総長として天才的な手腕を見せ、対デンマーク戦争(1864年)、対オーストリア戦争(1866年)、対フランス戦争(1870-1871年)に勝利してドイツ統一に多大な貢献をした。 ヘルムート・フォン・モルトケ 大モルトケとの区別のため小モルトケと呼ばれる。大モルトケの甥。 シュリーフェン・プランを修正実行し、自らの先入観で第一次世界大戦を事実上開始した。 結果的に攻勢は失敗。その責を負って、1914年9月に参謀総長を辞任。 彼の失敗を教訓にポーランド侵攻作戦が立てられた。 グデーリアン ドイツの軍人。 第二次世界大戦の緒戦の大勝利を飾った電撃作戦の生みの親であり、またそれを実践した最高級の野戦軍指揮官。 ヴェレンカム Wellenkamはドイツ語で「波頭」を意味するが、ここではドイツ軍がとった奇襲的な波状急速動員システムのことをいう。 ドイツ軍は1935年の再軍備宣言後徴兵令をしき、2年の兵役を済ませた兵士を予備役に編入することで有事の予備兵力を確保した。 またヒトラーユーゲントやRAD(青年勤労奉仕団)などの準軍事的組織を設立し、兵役前の青少年に軍事訓練を施すことで徴兵後速やかに戦力化が可能となる体制を作った。 そしてポーランド侵攻直前より波状動員計画(ヴェレ・プラン)に基づき、いくつかの波に分けて兵員の大量動員を開始した。 この動員はきわめて急速かつ大規模なもので、1939年8月だけで4波の動員をかけ 既存の師団への補充動員も含めれば86個師団が新設もしくは再編成されている。 さらに既存の師団から平均三分の一の経験を積んだ兵員を切り離し、これを基幹として新設師団を編成するドイツ軍独特の「株分け方式」により、新設師団を迅速に戦力化することが可能となっていた。 これに対しポーランドは動員に遅れ、全戦力の70%しか準備できていないうちに戦争が始まった。 ポーランド戦では電撃戦の功績よりも、この動員奇襲の功績が大きいという見方もある。 史実ではこの波状動員は終戦まで35波行われ、膨大な数の師団が編成されている。 地方守備師団 ラントヴェーア師団ともいい、外征ではなく編成された地域の防衛を主任務とする師団。 通常の師団に比べれば装備は古く、兵員も40歳台の老兵が割り当てられることが多かった。 ポーランド戦のあとフランス戦でも9個師団が編成されたが、その兵員の多くは第一次世界大戦に従軍した老兵で、兵器のみならず制服すら支給が間に合わず私服に腕章をつけだだけの者もいた。 史実ではこれらの地方守備師団は開戦後順次兵員が置き換えられ、通常の歩兵師団に再編成されている。 ルフト・ヴァッフェ “Luftwaffe”(luft=空、waffe=武装、兵力)、ドイツ空軍のこと。 シュレージエン ポンメルン 共にドイツ東部の地方名でプロイセンの一部。 ドイツ軍司令官すら知らなかった秘密協定 1939年8月23日にドイツとソ連の間に締結された独ソ不可侵条約、ヒトラー=スターリン条約とも呼ばれる。 ここでは条約内の秘密議定書を指し、東ヨーロッパをドイツとソ連が分割支配する内容。 1941年6月22日にドイツは同条約を破棄、独ソ戦を開始した ファニーウォー ドイツがポーランドに侵攻した後に、ドイツに対して英仏が宣戦布告したものの,実際には翌年まで戦火を交えようとはしなかった。 その間の奇妙な平穏のあった時期. このことを米国のジャーナリストがphony war(いかさま戦争)と呼んだことから。 この期間はイギリスではトワイライトウォー(黄昏の戦争)、ドイツではジッツクリーク(座り込み戦争)と呼ばれた。 4発重爆 この時期にイギリス空軍が使用していた4発重爆はハンドレページ・ハリファックスとショート・スターリング。 イギリスを救ったとまで言われるアヴロ社のランカスターは、1942年からの登場となる。 大戦当初はイギリス空軍でも4発重爆の数はまだ少なく、双発爆撃機のブリストル・ブレニムやヴィッカース・ウェリントンなどが主力だった。 Ⅱ号戦車 戦車生産技術の習得用に開発されたドイツの軽戦車。 試作型は1935年に完成し、1936年から増加試作型が数十輌作られ、翌年からA型が本格的に量産に入った。 本格的な主力戦車であるⅢ号戦車、Ⅳ号戦車が配備されるまでの繋ぎのはずであったが、これらの生産が間に合わず、第二次世界大戦開始時のポーランド戦から主力として実戦投入された。 20mm機関砲一門という軽武装、軽装甲のため、独ソ戦当時には戦車としての価値は完全に失われていた。 なお同時期に7.92mm機関銃二門を搭載したⅠ号戦車が製造されている。 Ⅲ号戦車 きたるべき戦車戦術を考慮して主力戦車とすべく製造した中戦車である。 開戦当初は数がそろわなかったが、対フランス戦時にはその数も増え、独ソ戦の頃には主力戦車となる。 しかしソ連のT-34には50mm砲は力不足であった。 史実では大戦後半には主力としては用いられず、代わってシャーシを流用して砲塔を廃して長砲身の75mm砲を搭載した三号突撃砲が生産されるようになった。 Ⅳ号戦車 本来は敵の陣地を攻略する為に短砲身24口径75mm砲が搭載されたが、ソビエト連邦軍のT-34戦車に対抗するべく、F型の生産途中から長砲身43口径75mm砲(後に48口径75mm砲)が搭載された。 Ⅲ号戦車に比べより大口径の主砲を収容する余裕のあるIV号戦車は、軍が求めるさまざまな要求に応じることが出来た。 そのため軍馬と呼ばれ、多種多様な派生型を生み出すこととなった。 スコダ チェコスロバキアのシュコダ社が製造した戦車である。 チェコスロバキア軍にて使用されていたが、ドイツに併合された際にその多くがドイツ陸軍に接収された。 生産性に優れ、またそのトランスミッションの操作性は高かった。 LTvz.35とLTvz.38の2種があり、ドイツ軍ではそれぞれ35(t),38(t)と呼称した。 史実では独ソ戦の前半までⅢ号戦車の不足を補完する実質的な主力戦車として使用され、一部は車体を流用して自走対戦車砲(マルダーⅢ)や自走榴弾砲(グリーレ)などに改造されている。 半装軌式装甲兵員輸送車 おそらくSd Kfz 251のこと。 後輪の代わりに履帯を持つため、路外走行性能が優れ戦車等の装軌式戦闘車両に追随できるために幅広く使用された。 歩兵10名を輸送可能。 もしかしたらSd Kfz 250の方かもしれない。 メルセデス メルセデス・ベンツ。 1886年にドイツの技術者、カール・ベンツによって創設された世界最古の自動車メーカーの一つ。 ヒトラーの後押しに答え、ドイツ労働者党へ協力する。第二次世界大戦中は軍需生産を行う。 ここではSシリーズといわれる車のことを指していると思われる。 SシリーズのSSKは、アニメ ルパン三世の愛車と言えば形状は想像できるだろう。 フランツ ハルダー 第二次世界大戦開戦時のドイツ陸軍参謀総長。 ポーランド戦、フランス戦、独ソ戦での作戦立案・指導を行った。 思想的には保守派の軍人で、革新的なマンシュタイン、グデーリアンとはしばしば意見が衝突した。 モスクワ攻略作戦「タイフーン」失敗の責により1942年に更迭。 史実では1944年のヒトラー暗殺事件に連座して終戦まで投獄されている。 MG34 1934年に制式化され製造されたドイツの機関銃である。 空冷式で、7.92mmモーゼル弾を使用 高い発射速度や過熱しても簡単に銃身交換が可能なメカニズムを持ち、三脚を取り付ければ長距離射撃可能な重機関銃、そのままなら歩兵が携行して移動可能な軽機関銃としても用いられる世界最初の汎用機関銃として、戦後の機関銃開発に大きな影響を与えた。 歩兵用の主要機関銃としてだけでなく戦車用の機銃や、航空機の防御用兵器として終戦まで使われ続けた。 しかしMG34は高価であり、常に拡大し続けていたドイツ軍の各戦線への各種要望に応えることができなかった。 さらに、汚れに過敏な傾向にあり、ジャミングを起こすことが多かった。 史実では構造を簡略化したMG42が戦争中盤より配備されている。 武装親衛隊とヒムラー ドイツの政治家。親衛隊全国指導者。 国防軍のトップになるための陰謀や、大量の粛清をやった人物でその実行部隊である武装SSとともに恐れられる。 アインザッツグルッペン SS特別行動隊。 警察の機動部隊で、ゲシュタポやSD、ジポの要員からなり、治安平定のために東欧の占領地域で敵の検挙や処刑にあたった。 おもに標的としたのは、反ドイツ分子やユダヤ人、共産主義者、ジプシー(ロマ)、政治的指導者、知識人だった。 ブロンベルク ヒトラー政権下で初の元帥で国防大臣。 再婚した相手がポルノ写真のモデルなどいかがわしい過去を持っていたことが結婚後まもなく判明、これを冒険的な外交政策に反対するドイツ国防軍の上層部を解任する陰謀に利用され失脚した。 ブロンベルクの失脚後まもなく国防省は解体され、代わって設立された国防軍最高司令部(OKW)の最高司令官にヒトラー自らが就任したことで、軍は完全にナチスとヒトラーに掌握されることとなった。 フリッチュ 国防軍のNo.2である陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将。 ゲーリング、ヒムラーらによって、偽の証言で同性愛者の嫌疑を掛けられる。 軍事会議では無罪が認められたが、国防軍と陸軍の全権掌握を目論むヒムラーの野望と相まって陸軍総司令官を罷免された。 その後ポーランド戦で名誉砲兵連隊長ととして前線に赴き、戦死(実質的には自殺)している。 パウル・バイスバイラー 究極の兵士を目指して、装甲猟兵の教育を行ったケルベロスの教官。 合理主義者で兵士を鍛えるために兵が死ぬことをいとわない。 架空の人物ではあるが、物語中で語られた経歴は武装親衛隊の軍人であるパウル・ハウサーを元にしている。 ヴォルフガング・マイヤー 作中のみの人物? ケルベロスの責任者のようである。 おそらくは武装親衛隊きっての闘士であり、第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」師団長を務めたクルト・マイヤーがモデル。 第3部の参考文献 ドイツの電撃戦については以下の二つの書籍が参考となる。 「電撃戦」(レン・デイトン著 ハヤカワNV文庫) 電撃戦に関する古典的名著であり、第3部でマキが語る内容はかなりこの本から引用されている。 現在は絶版状態だが、古書店や図書館などに置かれている可能性は高い。 「電撃戦という幻(上・下)」(カール=ハインツ・フリーザー著 中央公論社) ドイツ連邦軍の現役将校が、実際には偶然と現場指揮官の努力によって奇跡的な成功をおさめた電撃戦の実像について資料や図版を駆使して書いた本。 巻末に多くの地図が掲載されているため、作戦の経過がわかりやすい。 高価であるので購入は難しいだろうが、図書館に置かれている場合が多いので一読されたい。
https://w.atwiki.jp/kerberos-saga/pages/7.html
ドイツ軍・政治 関係者 50音順にドイツ軍・政治関連の登場人物を説明します。 アドルフ・ヒトラー アドルフ・ホイジンガー アルプレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム ヴィルヘルム・ボードヴィン・ヨハン・グスタフ・カイテル ヴァルター・シェレンベルク ヴィリー・メッサーシュミット ヴェルナー・フォン・へフテン中尉 ヴォルフガング・マイヤー大佐 ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン空軍上級大将 エヴァルト・ハインリッヒ・フォン・クライスト=シュメンツィン エーリヒ・フェルギーベル大将 エーリッヒ・フォン・マンシュタイン エルヴィン・フォン・ウィッツレーベン エルンスト・レーム カール・デーニッツ カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ カール・リープクネフト クルト・フォン・シュライヒャー グレゴール・シュトラッサー テオドール・アイケ ハインツ・グデーリアン ハインリヒ・ヒムラー パウル・バイスバイラー パウル・フォン・ハーゼ パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス パウル・ルートヴィヒ・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク ハンス・エーリヒ・フォス海軍少将 ハンス・フォン・ゼークト少将 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・フォン・パウルス フリードリヒ・エーベルト フリードリヒ・オルブリヒト フリードリヒ・フロム ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク ヘルムート・ジェームス・フォン・モルトケ ヘルマン・ゲーリング ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ ラインハルト・ゲーレン ルートヴィヒ・ベック ローザ・ルクセンブルグ アドルフ・ヒトラー 作中においての名前は判明していない。 伍長殿、彼、人種主義者、等ぼかして呼ばれる時は大抵この人。 公式サイトによるライヒスヴェアの説明の項では、政権をとっていないとあるが、作中では一度政権を取ったのち暗殺されたようである。 アドルフ・ホイジンガー ドイツ陸軍中将(陸軍参謀本部作戦部長兼陸軍参謀本部諸部代理) 反ヒトラー派の一人だったがシュタウフェンベルクの暗殺計画には関与せず、その存在も知らなかった。 ドラマでは爆発に巻き込まれて死亡したようだが、史実では生き延びて戦後再建されたドイツ連邦軍の査察総監(統合参謀本部議長)やNATO軍軍事委員会議長などを務めている。 アルプレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム ドイツ語ではクヴィルンハイムとも読む。 第二次大戦中のドイツ陸軍大佐。 ヒトラー暗殺計画を実行したシュタウフェンベルクから暗殺成功の連絡を受け、オルブリヒト将軍はクヴィルンハイムに「ワルキューレ作戦」発令のテレタイプ発信を命令する。 これを受けてパリでは予定通りに親衛隊幹部が拘束された。 しかし、ヒトラー暗殺計画は失敗し銃殺された。 ヴィルヘルム・ボードヴィン・ヨハン・グスタフ・カイテル 総統の個人的な参謀部に当たる国防軍最高司令部総長。 史実では戦後、ニュルンベルク裁判にて戦犯として裁かれ、1946年10月16日絞首刑に処された。 ヴァルター・シェレンベルク 親衛隊国家保安本部(RSHA)第6局局長で、親衛隊の対外諜報活動を指揮していた。 1939年に周到な罠によってイギリスとオランダの情報部員を誘拐したヴェンロー事件を指揮した功績で、29歳で親衛隊最年少の将官となっている。 ヴィリー・メッサーシュミット ドイツの戦闘機Bf109シリーズの設計者にして、メッサーシュミット社の社長。 ヴェルナー・フォン・へフテン中尉 第二次大戦中のドイツ陸軍少尉。 1944年7月20日の計画として知られているヒトラー暗殺計画に共謀した。 史実ではシュタウフェンベルクの副官となったのは1943年。 実際には暗殺事件失敗後シュタウフェンベルクらとともに銃殺された。 ヴォルフガング・マイヤー大佐 第101装甲猟兵大隊指揮官 おそらくは武装親衛隊ヒトラーユーゲント装甲師団の指揮官だったクルト・マイヤーSS准将がモデル。 マイヤーはアドルフ・ヒトラー装甲師団の偵察大隊長として数々の激戦で先陣を切り、「パンツァー・マイヤー」という異名をとった。 その後新設のヒトラーユーゲント師団に転属し連隊長となった後、ノルマンディで前任者の戦死に伴い34歳でSS准将に昇進して師団長に就任、武装親衛隊でもっとも若い将官となっている親衛隊きっての武闘派として有名である。 ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン空軍上級大将 セヴァストポリの戦いでは第8航空軍団(作中では第8航空艦隊)を指揮してマンシュタインの第11軍の攻撃を支援した。 史実ではこの後空軍最年少の元帥となるが、終戦直後の1945年7月に脳腫瘍で病死した。 第一次世界大戦におけるドイツのエース・パイロット、レッドバロンことマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの遠戚。 エヴァルト・ハインリッヒ・フォン・クライスト=シュメンツィン 父のエヴァルトと共にシュタウフェンベルクの反ヒトラー派に参加。 史実では父親は処刑されたが、彼は過酷な投獄生活を生き延び現在も生存している。 (実際には1922年生まれの彼がこの時点で中尉なのはおかしい。ここは数年早く生まれていると解釈すべきだろうか) なおクライスト一族は500年近い歴史を持つ名家で、ドイツ各地に傍系が存在し多くの高名な軍人や知識人を輩出している。 19世紀初めの著名な劇作家ハインリッヒ・フォン・クライストやフランス戦でグデーリアンの上官となったエヴァルト・フォン・クライスト大将もこの一族の出身である。 エーリヒ・フェルギーベル大将 国防軍最高司令部(OKW)通信総監。 シュタウフェンベルクら反ナチグループの一人であり、暗殺事件時には総統大本営からの通信を遮断する役割を負っていた。 史実では他の反ナチグループ参加者と同じく逮捕後裁判により1944年処刑されている。 エーリッヒ・フォン・マンシュタイン ドイツの第二次世界大戦中の陸軍元帥であり、最も有能な戦略家の一人。 エルヴィン・フォン・ウィッツレーベン 第二次大戦中のドイツ陸軍元帥。 ヒトラー非難し、退役させられた。 ヒトラー暗殺計画に関与した罪で処刑される。 作中ではヒトラー暗殺後に国軍最高司令官に就く。 エルンスト・レーム ドイツの軍人・右翼活動家。第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約に反対してナチ党の突撃隊(SA)ほか多くの準軍事団体を組織したが、自身の突撃隊を正規軍とする事を望み、国防軍は次第にSAを脅威と感じるようになった。 国防軍との連携が必要なヒトラーによって粛清される。 粛清の理由は突撃隊による反乱の計画を捏造されてのもの。 カール・デーニッツ ドイツ海軍の軍人。最終階級は元帥。 ヒトラー死後の大統領を務めた。 潜水艦作戦の第一人者で戦史研究家からは『海のロンメル』と評価された。 ドイツ海軍の潜水艦隊司令としてUボート作戦を指揮。 群狼作戦というUボートが協同して敵輸送船団を攻撃する通商破壊戦術にてイギリスを苦しめた。 カール・フィーリプ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ プロイセン王国の軍事理論家で戦略・戦術に関する古典的名著「戦争論」の著者。 カール・リープクネフト プロイセンの国会議員だが、第一次世界大戦が勃発した時にこれに反対。 党を離脱してローザ・ルクセンブルクとともにスパルタクス団を組織し、革命運動を指導した。 反戦デモの煽動者として投獄されたが、ドイツ革命で釈放。 ローザ・ルクセンブルグ同様、翌1919年に蜂起したさいに射殺される。 クルト・フォン・シュライヒャー クルト・フォン・シュライヒャー ドイツの軍人でワイマール共和国の最後の首相。 長いナイフの夜で粛清される。 なお、シュライヒャ-は自宅で執務中に訪問してきた親衛隊員により妻と共に射殺されたが、この暗殺には下記のアイケは関与していない。 おそらく押井氏はレームと取り違えているものと思われる。 グレゴール・シュトラッサー 「ナチス左派」と呼ばれる同党左派の流れを代表する人物 長いナイフの夜で粛清される。 テオドール・アイケ その粗暴さをもって敵からもナチス体制内部からも恐れられた親衛隊幹部。 「長いナイフの夜」においては突撃隊隊長エルンスト・レームの処刑を執行するなど重要な役割を果たした。 その後はダッハウなど初期の強制収容所の警備責任者となり、収容された政治犯、ユダヤ人などの囚人に対する厳しい管理と弾圧を行った。 史実では開戦後は麾下の収容所警備部隊「トーテンコプ」から編成された第三SS装甲擲弾兵師団「トーテンコプ」(後に装甲師団に改編)師団長となり、ポーランド、フランス、ソ連で戦うが、1943年2月に前線視察中に搭乗した飛行機を撃墜されて戦死している。 ハインツ・グデーリアン ドイツの軍人。 第二次世界大戦の緒戦の大勝利を飾った電撃作戦の生みの親であり、またそれを実践した最高級の野戦軍指揮官。 戦車部隊の集中運用により、第二次世界大戦でドイツに大勝利をもたらした。 最終階級は上級大将。 ハインリヒ・ヒムラー ドイツの政治家。親衛隊全国指導者。 親衛隊とドイツ警察機関全てを統括し、1,100万人にも及ぶユダヤ人、ロマ、ポーランド人、カトリック聖職者、ロシア人捕虜の虐殺に責任を負う。 長いナイフの夜に、親衛隊で粛清を実行する。 パウル・バイスバイラー 究極の兵士を目指して、装甲猟兵の教育を行ったケルベロスの教官。 合理主義者で兵士を鍛えるために兵が死ぬことをいとわない。 架空の人物ではあるが、物語中で語られた経歴は武装親衛隊の軍人であるパウル・ハウサーを元にしている。 パウル・フォン・ハーゼ 少将でベルリン防衛軍司令官 反ナチグループの一人で暗殺事件成功後ベルリンの主要施設占拠とナチス要人の逮捕を行うことになっていた。 史実では他のメンバー同様死刑となっている。 パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス ドイツの政治家。ナチ党政権下のドイツでプロパガンダを任務とする国民啓蒙・宣伝大臣を務めた。 当時の宣伝中隊の元締め。 作中では1942年には既にいない様子。史実では戦後まで生きて自殺する。 パウル・ルートヴィヒ・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク (1847-1934)元軍人、第2代ワイマール共和国大統領。 ヒトラーを嫌っていたが、ナチス勢力を抑えることはできず1933年ヒトラーを首相に指名する。 34年の病死によって、ヒトラーは大統領を兼任する。 ハンス・エーリヒ・フォス海軍少将 海軍総司令部を代表する連絡将校として会議に出席。 史実では爆破を生き延びて終戦まで総統の身辺にあり、ヒトラーと、友人であったゲッベルスとその一家の自殺に立ち会っている。 ハンス・フォン・ゼークト少将 第一次世界大戦後厳しいヴェルサイユ条約の下でドイツ陸軍を再建した中興の祖である。 装備・火力・交通を重視し、一正面の防御作戦の実施に耐え得る軍の創設に努力した。 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (1688~1740年)プロイセン国王(在位1713~1740) 粗暴で無教養だったが財政・軍制の改革によってプロイセンの強大化に努め、兵隊王とあだ名された。 「ポツダム巨人軍」と呼ばれる近衛連隊を組織したことは有名。 フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・フォン・パウルス ドイツ陸軍元帥。 バルバロッサ当初は第6軍の参謀長で、1942年当時には第6軍司令官。 史実では第6軍の降伏直前に元帥に叙せられたが、その直後に赤軍の捕虜となった。 一時は陸軍参謀総長候補に挙げられるほどの秀才だったが、野戦指揮官としては優柔不断な性格だったといわれている フリードリヒ・エーベルト 一次大戦敗戦後の臨時政府の指導者になる。 労働者の暴動を義勇軍を使って暴力的に抑制した。 のちのワイマール共和国の初代大統領。 フリードリヒ・オルブリヒト 国内予備軍副司令官 ヒトラー暗殺事件での中心的な実行者。 「ヴァルキューレ」の発動を上官の国内予備軍司令官フロム上級大将に強要するが、その後、ヒトラー存命が確認されたことにより失敗に終わり、逮捕されてその日のうちに銃殺される。 フリードリヒ・フロム 国内予備軍司令官兼陸軍補充局長。 ヒトラー暗殺事件に連動した、国内予備軍を使った新国家樹立のための軍事クーデター計画、暗号名「ヴァルキューレ」発動に際し、ヒトラーの死亡が確認できないとして、計画発動に同意しなかった。 史実では暗殺事件失敗後シュタウフェンベルクらを逮捕・銃殺するが、その後反ヒトラー陰謀への関与が露見し、逮捕後裁判にかけられ1945年処刑されている。 ベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク クラウス・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルクの兄 弟とともに反ヒトラー派に参加し、史実では暗殺事件失敗後に逮捕され1944年に処刑された。 ヘルムート・ジェームス・フォン・モルトケ 反ナチグループのひとつであるクライザウ派(クライザウはモルトケ家の所領名)の創設者の一人。 普仏戦争を指導した大モルトケの甥の孫で、母親が英国系の南アフリカ人だったのでジェームスという英語のミドルネームがついている。 母親の影響でクリスチャンサイエンスを信仰していたため、ヒトラーを暗殺することには反対していた。 史実では暗殺事件の前に逮捕され、その後反ヒトラー派裁判で死刑宣告を受け45年に処刑された。 またモルトケとシュタウフェンベルクはいとこ同士だった。 ヘルマン・ゲーリング ドイツ空軍元帥。 史実ではナチ政権下のドイツにおいてヒトラーにつぐ権力の持ち主であったが、『ケルベロス・サーガ』の世界においては“伍長殿”失脚後にJu52でアルプスを越えようとしたが(イタリアに移動中か?)、墜落。その命を失った。 作中では「あのデブ」と呼ばれる ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ 親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊 No.2の実力者。 ユダヤ人問題の最終解決計画の実質的な推進者であった。 諜報機関である親衛隊情報部( SD )のトップとして親衛隊内でも恐れられ、風貌から金髪の野獣もしくは第三帝国の首切り役人と呼ばれた。 比較的年齢層の若いナチ党指導部の中でも最若年といっていい若さながら、冷酷な性格と突出した才能でみるみる出世を遂げた。 史実では後にSDやゲシュタポ他ドイツ国内の警察組織や強制収容所を統括管理する国家保安本部(RSHA)長官となり、ヒムラーに次ぐ親衛隊の実質的なナンバーツーとして君臨した。 また、ユダヤ人の「最終的解決」を決定したヴァンゼー会議の主催者でもあった。 その後1942年にボヘミア=モラビア保護領(チェコ)副総督として赴任したプラハで、イギリスの特殊工作部(SOE)の支援を受けたチェコ人レジスタンスにより暗殺された。 野心家でもあった性格や年齢的な面から、生存していればヒトラーの有力な後継者候補となっていたとも言われる。 ラインハルト・ゲーレン プロイセンの中産階級出身の陸軍軍人。 参謀本部のソ連情報を担当する東方外国軍課長である。 ドイツ諜報活動の中心人物の一人である。 史実では、その情報分析能力から「ドイツの絶望的苦境」をヒトラーに報告し、解任される。 ドイツが降伏すると、ソ連軍事情報を手土産に有能な部下ともにアメリカ軍に投降する。 戦後、米軍情報機関に協力して生き残り、対ソ諜報組織であるゲーレン機関を設立した。 ルートヴィヒ・ベック 第二次大戦中のドイツ陸軍大将。 1938年まで陸軍参謀総長を勤めたが、ヒトラーの対外拡張政策に反対し辞任した。 史実では1944年7月20日のヒトラー暗殺計画の成功の暁には新生ドイツの国家元首に就任予定であった。 暗殺計画の失敗後、拳銃自殺を試みたが失敗し、最終的には監視兵に射殺された。 作中ではヒトラー暗殺直後に国家元首に就く。 ローザ・ルクセンブルグ ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。女性。 彼女はポーランド王国社会民主党の理論家であり、ドイツ社会民主党になどに関わった。 ベルリンでドイツ革命に続いて武装蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコールとの衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。 同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに革命の象徴的存在とされている。
https://w.atwiki.jp/kerberos-saga/pages/11.html
作中内年表 ドイツ全般 1914年 第一次世界大戦 1918年 11月3日 ドイツキール軍港で水兵の反乱が発生。ドイツ革命の開始 11月10日 ヴィルヘルム2世が退位。オランダへ亡命 11月11日 休戦協定が発効。第一次世界大戦の終結 1919年 1月15日までにドイツ革命の革命派は鎮圧される 2月6日 ワイマール共和国誕生 1929年 世界大恐慌。ドイツ国内による政治不信。これをきっかけにナチが勢力をのばす。 1933年 総選挙で勝利したヒトラーは首相に就任。ワイマール憲法は事実上その効力を失った。 1934年 長いナイフの夜事件。ヒトラーが数百人を粛清。党内の反対勢力を一掃する。 1936年 10月 典礼部隊総監部を設立。のちに装甲猟兵総監部となる。 1939年 ポーランド侵攻 これをきっかけに第二次世界大戦へと 1941年 6月 バルバロッサ作戦によるソ連への侵攻開始 7月20日 ヒトラー暗殺 1942年 6月 セヴァストポリ攻略戦 9月 マキ、ワルシャワを出発し、クルスクへ向かう。 マキ スターリングラードに到着 スターリングラード戦関連(史実) 1942年6月28日 ブラウ作戦開始。 8月2日 第4装甲軍がスターリングラード方面への攻勢を開始。 8月16日 ドイツ軍がドン川西岸地域をほぼ制圧。 8月23日 ドイツ第6軍及び第4装甲軍がスターリングラード方面への総攻撃を開始。 同日 先遣部隊が市の南北でヴォルガ川に到達。 9月13日 スターリングラード市街への総攻撃開始。南部市街に突入。ママイの丘での戦闘はじまる。 9月26日 南部市街をほぼ占領。同市街の共産党本部陥落。 9月27日 北部市街への総攻撃開始。 10月14日 北部市街の工場群(「赤い十月」「赤いバリケード」「ジェルジンスキー」)への総攻撃開始。 10月30日 スターリングラード市街の9割を占領。 11月19日 ソ連赤軍の反攻作戦(ウラヌス)開始。スターリングラード北方のルーマニア第3軍が攻撃を受ける。 11月20日 スターリングラード南方のルーマニア第4軍が攻撃を受け、戦線が突破される。 11月21日 ルーマニア第3軍の戦線崩壊。 同日 第6軍救出の為、マンシュタインを司令官とするドン軍集団司令部創設。 11月22日 赤軍の先鋒がドン川に到達。 11月23日 スターリングラードの南北を突破した赤軍部隊が合流。第6軍が包囲状態となる。 12月12日 ドン軍集団による第6軍救出作戦「冬の嵐」開始。 注記:上記の年表は史実に基づくものであり、ドラマではこれと日時が異なる可能性がある。 バグラチオン作戦及び第3次ハリコフ戦関連(史実およびドラマに基づく) 1942年末 第6軍がレニングラード脱出に成功。 1943年1月13日 ヴォロネジ方面軍がスターリングラード北方のハンガリー第3軍に対する攻勢「オストロゴジスク・ロソッシュ」を開始。(バグラチオン第一段階) 1月20日頃 ハンガリー第3軍(9個師団)およびイタリア第8軍残余(4個師団)壊滅。 同時期 ドイツ第4装甲軍と赤軍第2親衛軍の間でスターリングラード南西のロストフを巡る攻防戦が始まる。 1月27日 A軍集団からドン軍集団へ2個装甲軍団と1個歩兵軍団が移管され、ハリコフ西方の装甲部隊軍に向けて移動開始。 (この頃マンシュタインは「後手からの一撃」戦術に基づくハリコフの一時放棄を決断?) 1月29日 赤軍第6軍によるドンバス奪回作戦「スカチョーク(早駆け)」が始まる。(バグラチオン第二段階) ポポフ機動集団の南方への突進。 ドイツ軍B軍集団の2個歩兵師団が壊滅。 2月1日?ドイツ軍ドン軍集団の第19装甲師団が大損害を蒙って後退。 2月2日 ヴォロネジ方面軍の第3戦車軍と第69軍によるハリコフ奪回作戦「ズヴェズダー(星)」作戦が始まる。(バグラチオン第三段階) 2月14日 史実ではこの日にドイツ軍がロストフを放棄。 2月17日 史実ではこの日に赤軍がハリコフを奪回。 2月18日 史実ではこの日にポポフ機動集団が補給不足のために行動の自由を失う。 2月20日 第101装甲猟兵大隊が北方軍集団戦区へ移動開始。 同日 クラスノグラードでドイツ軍2個装甲軍団による赤軍第6軍に対する反撃開始。(後手からの一撃第一段階) 第40装甲軍団の攻撃によりポポフ機動集団が28日までに壊滅状態となる。 第48装甲軍団による全面攻撃開始。ドネツ川西岸の赤軍最前線が崩壊。 3月7日 マンシュタインが第48装甲軍団に対し北方への総攻撃(ハリコフ奪回)を命令。(後手からの一撃第二段階) 3月10日 ドイツ軍がハリコフ外縁に南北から到達。 3月15日 ドイツ軍がハリコフを奪回。 ドイツ軍装甲部隊がクルスクへ向けて進撃を開始。(後手からの一撃第三段階) 3月18日 ドイツ軍先鋒がクルスクまで140kmの地点に到達。 ジューコフがクルスク防衛線の構築に成功。 春の泥濘期の到来。(後手からの一撃第三段階の終了)
https://w.atwiki.jp/kerberos-saga/pages/42.html
第7部 バグラチオン編 第2話「撤退」 2007年3月8日放送 概要 装甲猟兵たちとマキを乗せた列車は北へ向かう。 マキはマイヤーにセヴァストポリの地下で何があったのかを尋ねるが、マイヤーは答えようとしない。 やがて途中駅で停車中、装甲猟兵たちは別の列車への移動を命じられる。 駅舎でマキを待っていたのは、ハリコフへ向かう途中でマキたちが便乗した装甲列車のダイスラー大尉と戦死したラウトの補充として着任したシュヴァインシュタイガー伍長だった。 正規の編成である9個歩兵大隊4個砲兵中隊から、それぞれ6個大隊と3個中隊に削減 「彼らの最高司令部は東部戦線全体にわたって、事実上の敵の打破を目論んでいた。」 マンシュタインによるハリコフの罠 クルスクの戦い 「工兵が啓開した地雷原を野砲や高射砲が前進し、その支援射撃の下を歩兵が突撃して」 「野戦憲兵に射殺されたくなければ~小便は」 「レニングラードかロストフ、もしかしたらムルマンスク」 大隊行李 ダイスラー大尉 セバスティアン・シュヴァインシュタイガー伍長 正規の編成である9個歩兵大隊4個砲兵中隊から、それぞれ6個大隊と3個中隊に削減 ドイツ軍歩兵師団には3個の連隊があり、連隊はそれぞれ3個の大隊から編成され、その3個中2個が前線任務につき、残り1個が予備部隊として後方で待機するというのが基本だった。 図示するとおおむねこのような形となる。 第1大隊(前線) 第3大隊(予備として後方で待機) 第2大隊(前線) これが6個大隊に削減されるということは防御時においては、 各連隊は2個大隊で前線を守り、各連隊の予備戦力は師団の偵察大隊もしくは補充大隊を充てる。 本来3個連隊で守るべき戦線を2個連隊が担当する。 という状態になる。 また攻勢時においては特に戦果拡大のために投入すべき予備兵力が不足することとなる。 史実ではこの兵力不足は恒常的なものとなり、大戦後半には6個大隊基幹が標準編成となっていった。 またここで挙げられている砲兵中隊は師団歩兵連隊ではなく各連隊に置かれた歩兵砲中隊や対戦車砲部隊のことと思われる。 これらの部隊が削減されるということは、敵の攻勢時に歩兵砲による即応反撃が不足したり、こちらの攻勢時には支援砲撃がやはり不足することとなる。 「彼らの最高司令部は東部戦線全体にわたって、事実上の敵の打破を目論んでいた。」 史実ではソ連赤軍の最高司令部(スタフカ)は南部戦線においてドイツ軍を駆逐した後、中央軍集団に対する三段階の攻勢を加えてこれを撃破する計画を立案していた。 作戦はクルスク突出部の北にあるオリョールに対する掃討戦に始まり、順次北に向かって攻勢を進め、最終的には中央軍集団戦区の北端でドイツ軍が形成していたルジェフ突出部に対する包囲撃滅戦を行うというものだった。 しかし、これは当時の赤軍の戦力から見てあまりにも過大な目標を目指しており、実際にはドイツ軍の南部戦力の撃破にも失敗したことから実現されることなく終わった。 マンシュタインによるハリコフの罠 第三次ハリコフ攻防戦 1943年2月マンシュタインは、南部戦線の崩壊を狙う赤軍の戦線が伸びきった所を反撃し、一度はソ連軍が占領していたハリコフを奪回した。 これにより反攻作戦「バグラチオン」はクルスク突出部という遺産を残して終結し、春の泥濘期を迎えることとなった。 クルスクの戦い 1943年7月に東部戦線のクルスク突出部を巡って行われた戦闘で、ドイツ軍は「ツィタデレ(城塞)」という作戦名で呼称した。 史実では赤軍の激しい抵抗で侵攻は進まず、7月12日のプロホロフカ戦車戦後に連合軍のシチリア上陸を理由として作戦は中止された。 しかし、作中では北方戦域でドイツ軍が何か決定的な行動をとることを目論んでいるようである。 「工兵が啓開した地雷原を野砲や高射砲が前進し、その支援射撃の下を歩兵が突撃して」 野砲や高射砲は後方からの間接照準射撃や対空射撃に用いられるが、場合によっては目標の至近距離まで前進し直接照準射撃(砲の照準手が目視で狙う)で生き残ったトーチカなどを砲撃した。 火砲の移動は人力で行われ、敵の銃火を浴びながらの作業となるので非常に危険である。 「野戦憲兵に射殺されたくなければ~小便は」 撤退時の脱走兵が多いことを指し、 用を足すために人目のつかないところに行けば、脱走兵と間違われるぞというジョーク。 「レニングラードかロストフ、もしかしたらムルマンスク」 このロストフは前回名前が出たロストフ(・ナ・ドヌー)ではなく、モスクワ北東の古都ロストフであると思われる。 ムルマンスクはロシア最北端のコラ半島にある港湾都市で、北極圏にありながら不凍港であったため史実では第二次大戦中アルハンゲリスクと共に連合軍からの支援物資の積み下ろし基地となった。 大隊行李 行李とは兵士の装備や私物などを収納した箱のことで、通常その輸送は中隊や大隊の行李段列が行う。 ダイスラー大尉 第29装甲列車中隊の指揮官。 詳しくは第1部を参照 セバスティアン・シュヴァインシュタイガー伍長 戦死したラウト伍長の後任として来た補充兵で愛称はシュヴァイニ。 例によって元ネタはサッカー選手のバスティアン・シュヴァインシュタイガー。
https://w.atwiki.jp/kerberos-saga/pages/44.html
第8部 メーメル篇 第1話「シャルンホルスト」 2007年3月22日放送 概要 マキ達の乗る装甲列車が到着したのは北方軍集団戦区にあるメーメルの海岸だった。 命令受領の為軍集団司令部のおかれた戦艦シャルンホルストへ向かうマイヤーにマキ達は同行する。 装甲猟兵の撮影をためらうマキをベルンはいぶかしむが、マキはそれに明確に答えることができない。 やがて命令をうけたマイヤーが告げたその 内容は、北方軍集団の撤退の後衛として戦えという過酷なものだった。 陸に戻ったマキにダイスラーはある申し出をするが・・・ オストゼー Ostsee オストプロイセン Ostpreussen メーメル Memel クールラント Kurland ダンチヒ Danzig 封緘命令書 ダンケルク Dunkerque ヴァイデンフェラー大尉 参謀 内火艇 ブリッツボマー Blitzbomber シャルンホルスト Scharnhorst ヴィルヘルムズハーフェン Wilhelmshaven ブロンベルク事件 チャネルダッシュ Channel Dash ヘプナー上級大将 Generaloberst Erich Hoepner ドイツ軍の将官の階級について オストゼー Ostsee ドイツ語で「東の海」という意味でバルト海のこと。 オストプロイセン Ostpreussen 東プロイセンともいう。 中世にドイツ騎士団によって先住民(プルシ人)の征服・改宗とドイツ人の植民が行われた土地で、プロイセン発祥の地。 第一次大戦後はポーランドの独立により、第二次大戦開戦までドイツ本国から離れた飛び地だった。 史実では戦後ポーランドおよびソ連(現ロシア)に併合されドイツ人住民のほとんどが本国に任意または強制により移住したため、ドイツの一地域としてのプロイセンは消滅した。 http //en.wikipedia.org/wiki/Image Memelland_1923-1939.png オストプロイセンおよびメーメルの略図 メーメル Memel クールラントの港湾都市の一つ。 メーメルはドイツ名で、現在はクライペダと呼ばれている。 ダンチヒとは直線距離で約300km離れている。 史実では第二次大戦末期に激戦地となった。 クールラント Kurland ラトビア西部の半島。 史実では第二次大戦末期に北方軍集団はこの地で孤立し、クールラント軍集団と改称された後に赤軍に降伏している。 ダンチヒ Danzig ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)と並ぶオストプロイセンの主要都市。 第一次大戦後ドイツから分離され、国際連盟の保護下にある自由都市となった。 第二次大戦でのポーランド侵攻は、この都市の回復を名目のひとつとしている。 史実では戦後ポーランドに併合されグダニスクとなった。 封緘命令書 封をされ、指定された受領者以外の開封と閲覧が禁じられた命令書のこと。 開封時期を指定した上であらかじめ受領者に渡す場合もある。 ダンケルク Dunkerque 1940年5月にフランス戦の敗北によって海岸部に包囲された英軍(およびフランス軍の一部)が、英本土への撤退作戦を行ったベルギーの小都市。 英軍はこの撤退作戦(ダイナモ作戦)のために輸送船やはしけから、タグボートやヨットにいたるまであらゆる船舶をかき集めダンケルクに派遣した。 戦史でも今なお謎となっているヒトラーによるダンケルク寸前での進撃停止命令のため、空襲と砲撃により兵員や船舶に大きな損害はでたものの撤退は成功し、約30万名の兵士が英国に生還した。 ヴァイデンフェラー大尉 北方軍集団司令部参謀部所属 名前はサッカー選手のロマン・ヴァイデンフェラーからとっているものと思われる。 参謀 参謀とは指揮官の下でその指示に基づく実際の作戦立案を行ったり情報を分析する将校のことであり、19世紀初頭にプロイセンでその職務は組織化された。 参謀の職務はあくまで指揮官の補佐であり、部隊に直接命令を出す指揮権を持たない。 ドイツ軍では参謀将校は参謀科という兵科に属し、赤い縁取りのされた階級章、ズボンの両サイドに入れられた細い赤線、モールで作られたひも状で胸に取り付ける参謀飾緒などで部隊を指揮する野戦将校と区別できる。 参謀候補者は成績が優秀な将校から選任され、軍大学で教育を受けた後に参謀本部や師団司令部などに配属される。 ドイツ軍の名将と呼ばれる人物には参謀職の経験者は多い。 内火艇 大型艦に搭載されるエンジンを持つ小型艇のこと。 艦艇同士、あるいは停泊中の艦艇と港湾間の移動・連絡などに使用される。 ブリッツボマー Blitzbomber ドイツが第二次大戦時の開発した世界初のジェット爆撃機「アラドAr-234ブリッツ」のこと。 Blitzとはドイツ語で「電撃」を意味する。 航続距離の短さ(約1,200km)と爆弾搭載量が少ない(最大1,500kg)という欠点があったが、最大速度は750km/hと当時のレシプロ戦闘機を凌駕していた。 史実では初飛行は1943年6月なので、作中ではジェット機の開発と実戦投入ペースは1年以上早くなっているようである。 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F Arado_234B_3.jpg (機首上の円筒形の部品は爆撃用照準器) シャルンホルスト Scharnhorst ドイツ海軍の戦艦(正確には巡洋戦艦)。 主砲の28cm砲は40cmクラスが主力となっていた当時の戦艦に比べれば小口径だったが、高初速と照準装置の正確さで高い威力を誇った。 姉妹艦のグナイゼナウとともに、ナポレオンと戦いプロイセン参謀本部設立に貢献した高名な軍人から名をとっている。 http //en.wikipedia.org/wiki/Image Scharnhorst-8.jpg 停泊中のシャルンホルスト ヴィルヘルムズハーフェン Wilhelmshaven ドイツ最大の港湾都市の一つで、プロイセン王国時代に軍港となり、帝政時代から現在に至るまでドイツ海軍の根拠地となっている。 ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世にちなんで命名された。 ドイツ海軍の艦艇のほとんどがこの地で建造された。 ブロンベルク事件 ブロンベルクの妻となったエルナ・グリューンの過去については様々な説があるが、娼婦であったか否かはともかくとして彼女がポルノ写真のモデルとなり、それがベルリン警察の風紀係によって押収されたことがこのスキャンダルの発端となっている。 ブロンベルクとフリッチュの事件については電撃戦篇第3話「初陣」を参照のこと。 チャネルダッシュ Channel Dash ここでドイツ側の作戦名は「ケルベロス」となっているがこれはギリシャ語であり、実際にはドイツ語で「ツェルベルス」と呼称された。 ヘプナー上級大将 Generaloberst Erich Hoepner エーリヒ・ヘプナー 第4装甲集団司令官(史実と異なり、この時点でも第4装甲集団は独自の兵站組織をもつ装甲軍に昇格していないようである) 史実では1944年7月20日のヒトラー暗殺事件への関与が露見したことで逮捕され、同年の8月8日に処刑されている。 ドイツ軍の将官の階級について ドイツ軍の階級はほぼ欧米の軍隊のそれと同じだが、将官については相違点がある。 まず准将が存在せず、大佐の次はすぐに少将となる。 次に大将の上に上級大将という階級が存在する。 以下に将官の階級およびそのドイツ語名と概略を述べる。 少将(Generalmajor:ゲネラルマヨール) 最下級の将官であり、師団やそれに相当する部隊の指揮官は主にこの階級で任じられる。 中将(Generalleutenant:ゲネラルロイテナント) 師団長および軍団長。 大将(General:ゲネラル) 軍団長および軍司令官。 ドイツ軍では正式には所属する兵科名をつけて歩兵大将(General der Infantrie),装甲兵大将(General der Panzertruppe)などと呼称する。 上級大将(Generaloberst:ゲネラルオーベルスト) 軍司令官、軍集団司令官および参謀総長など ポーランド戦後にヒトラーが元帥を大量に任命するまでは実質的には上級大将が軍における最高位だった。 元帥(Generalfeldmarschall:ゲネラルフェルトマルシャル) 軍司令官、軍集団司令官など。 元帥には生涯現役が許されるほか、副官や私邸の歩哨が付くなどの特典があった。 また宝石などの飾りを施された元帥杖という短いステッキが授与され、公式行事などにはこれを携帯することになっていた。 なお武装親衛隊には元帥階位はなく、SS帝国指導者(Reichsführer-SS)であるヒムラーを除けばSS上級大将(SS-Oberstgruppenführer)が最高位だった。 またSS少将(SS-Brigadeführer)の下にSS准将(SS-Oberführer)という階級が存在した。
https://w.atwiki.jp/kerberos-saga/pages/41.html
第7部 バグラチオン編 第1話「後手の先」 2007年3月1日 概要 第101装甲猟兵大隊は第6軍と共に辛くもスターリングラード脱出に成功するが、大損害を蒙り多くの兵士たちが死んでいった。 ハリコフの宣伝中隊本部を訪れたマキはシュタインブルンナー大佐よりマンシュタインがハリコフをいったん放棄し、その後反攻にでる作戦を立てているという情報を得る。 しかしそこに装甲猟兵たちの果たすべき任務は存在しなかった。 兵舎に戻ったマキにマイヤーは尋ねる。 なぜ自分たちの滅ぶ姿を撮影しなかったのかと。 そこへブッフバルトが現れ新しい命令が下ったことをマイヤーに伝える。 「現状の部隊を以って北方軍集団管区に転進、当該管区司令部に出頭せよ」 一方マンシュタインによる「後手からの一撃」は多大な戦果を挙げ、ドイツ軍は戦線の崩壊を免れることとなる。 オストロゴジスク=ロソッシュ作戦 ロストフ A軍集団 第2親衛軍 2個親衛機械化軍団と1個親衛戦車軍団 第4装甲軍 第503重戦車大隊 スカチョーク(早駆け)作戦 ドンバス 赤軍4個戦車軍団 ズヴェズダー(星)作戦 クラーメル軍団 バグラチオン 「ハリコフ駐留の全部隊に撤退命令が」 「南からもドニエプル川を目指して」 ドニエプロペトロフスクとサポロジェ 「南方軍集団の退路を遮断して」 後手からの一撃 「27日付けで南方A軍集団からドン軍集団へ2個装甲軍団と1個歩兵軍団が移管された」 兵科連合 「戦争を教育してやる」 「フリングスも」 定数の半分にも満たない2個中隊が 野戦任官 「ギドか」 北方軍集団 ドン軍集団所属の2個装甲軍団 「第40装甲軍団が敵の戦車軍団を各個撃破し」 クルスク突出部。 第3次ハリコフ戦の戦闘概略図 オストロゴジスク=ロソッシュ作戦 1943年1月13日に開始された赤軍ヴォロネジ方面軍によるハンガリー第2軍およびイタリア第8軍に対する突破撃滅作戦。 この攻勢により両軍は壊滅し、A軍集団およびドン軍集団は中央軍集団との連絡を絶たれて孤立する危機に陥った。 なおイタリア軍が同じ東欧圏にあるルーマニアおよびハンガリー軍の間に配置されたのは、この両国がトランシルバニアの帰属を巡り対立関係にあったからである。 ロストフ アゾフ海に注ぐドン川河口近くの都市でロシアおよびウクライナとカフカスを結ぶ交通の要衝。 正式名称は「ロストフ・ナ・ドヌー(ドン河畔のロストフ)」 ここを占領されればカフカス地方からの撤退作戦を行っていたA軍集団は退路を断たれることになる。 この後で出てくる「ロストフ回廊」とはこの地域のことをさす。 A軍集団 ブラウ作戦において油田地帯であるカフカス攻略の為に編成された軍集団。 この時点ではロストフを抜けてドン川西岸に撤退する為に戦線を後退させている。 第2親衛軍 赤軍南部方面軍麾下の部隊。 史実では後に満州に侵攻したザバイカル方面軍の司令官を勤めることとなるマリノフスキーが指揮を執っている。 2個親衛機械化軍団と1個親衛戦車軍団 実際には第2親衛軍がロストフ攻略に投入したのは第1親衛、第2親衛機械化、第3親衛戦車の3個軍団だが、史実では第51軍に配属されロストフ攻略に参加した第3親衛機械化軍団が第2親衛軍に配属されているようである。 第4装甲軍 この時点ではドン軍集団麾下にあり、作中で第6軍救出作戦に投入されたた第48・57装甲軍団を指揮していた。 増強された2個装甲師団とはおそらく第11装甲師団と第16機械化歩兵師団のこと。 第503重戦車大隊 ドイツ軍がティーガー戦車を運用する為に編成した重戦車大隊の一つ。 ティーガーは強力な戦車であったが高価で生産がはかどらなかった為、グロス・ドイチュラントなど一部の装甲師団に配備されたほかはそのほとんどが重戦車大隊として編成された。 史実では第501~509の9個大隊が編成され、主に軍や軍団直隷部隊として機動防御や戦線突破任務に投入されている。 また武装SSでは1943年秋にSS第101~103重戦車大隊が編成されている。 第503重戦車大隊は完全編成で14両×3個中隊+本部3両の計45両からなっていた。 スカチョーク(早駆け)作戦 1月29日に赤軍第6軍によって開始された反攻作戦。 ドン軍集団左翼およびB軍集団を駆逐し、ドンバスの解放とA・ドン軍集団の退路を断つことを目的としていた。 後述されるズヴェズダー(星)作戦の支援作戦として遂行された。 ドンバス ロストフの東方でドン川に合流するドネツ川の流域地帯でドネツ盆地ともいう。 ドンバス炭田は当時ソ連最大の炭田地帯で、経済上の用地だった。 赤軍4個戦車軍団 スカチョーク作戦における機動戦力として編成されたポポフ機動集団のこと。 赤軍第6軍および第3戦車軍と共に最初西方に進撃し、次いで南方に進んでドン軍集団の後方に回り込もうとした。 ズヴェズダー(星)作戦 1943年2月2日にヴォロネジ方面軍が開始した反攻作戦。 ハリコフの奪回と、中央軍集団と南方戦域の軍集団群の分断を主目的としていた。 クラーメル軍団 ハリコフ防衛の為1943年1月初めに予備師団などによって臨時編成された軍団。 臨時編成であるため、通常の番号ではなく指揮官の姓で呼称されている 史実ではこの後ラウス軍団となり1943年4月に第11軍団に改称。 バグラチオン 史実では1944年6月22日に開始された赤軍の大反攻作戦の名称だが、ここでは1943年の冬~春に行われた一連の反攻作戦の総称となっている。 史実におけるバグラチオン作戦はドイツ中央軍集団に対して行われ、装甲兵力のほとんどを南方に引き抜かれていた中央軍集団は、 戦死・行方不明・負傷・捕虜などの兵員の損失は約40万人。 38個師団中28個師団が壊滅。 軍団長もしくは師団長として戦線にいた将官47名中31名が戦死・自決・行方不明・捕虜となる。 という壊滅的な打撃を受けて事実上崩壊した。 この反攻の結果、中央軍集団の戦線は大きく西方に後退し、赤軍の一部がバルト海に到達した為、北方軍集団は孤立することとなった。 独ソ戦におけるドイツの敗北を決定付けた重要な作戦であるが、この名称をここで使ったということは史実におけるような44年の大反攻がおきないということになるのだろうか? なお作戦名は19世紀のロシア帝国の将軍で、1812年のナポレオンのロシア遠征(祖国戦争)で戦ったピョートル・I・バグラチオン将軍からとられている。 またバグラチオンはスターリンの故郷グルジアの旧王家の末裔である。 「ハリコフ駐留の全部隊に撤退命令が」 史実ではハリコフを守備していたSS装甲軍団を指揮官のハウサーが独断で撤退させ、マンシュタインがそれを追認する形で行われた。 死守命令を出していたヒトラーはこの行為に激怒したが、後の反攻作戦によりハウサーとマンシュタインがハリコフ再奪回に成功した為処罰は行われなかった。 「南からもドニエプル川を目指して」 スカチョーク作戦で前進中の第6軍およびポポフ機動集団のことと思われる。 ドニエプロペトロフスクとサポロジェ 共にハリコフの南西、ドニエプル河畔の都市。 ドン軍集団と後方を結ぶ交通の要衝だった。 またサポロジエにはウクライナやドンバスに電力を供給する巨大なレーニン水力発電所があり、経済上の要地でもある。 「南方軍集団の退路を遮断して」 史実ではドン軍集団は1943年2月12日に南方軍集団に改称されているが、作中では2月20日の反撃開始の時点でも元の名称のままである。 作中では「南方軍集団」はA・B・ドン各軍集団の総称ともとれるが、どうも不明確である。 あるいはこれらの軍集団の上級司令部として南方軍集団が存在するのかもしれない。 後手からの一撃 マンシュタインが第3次ハリコフ戦でとった戦術の呼び名として使われる。 実際には「後手からの一撃」は英語の「Backhand Blow」(ハリコフ戦を扱ったゲームのタイトルにもなっている)の訳らしい。 また「後手の先」は本来は囲碁の用語である。 マンシュタイン自身はこの戦術をクラウゼヴィッツの著作から引用して、「報復のきらめく剣」と表現していたといわれている。 「27日付けで南方A軍集団からドン軍集団へ2個装甲軍団と1個歩兵軍団が移管された」 おそらくはA軍集団麾下にあった第1装甲軍の主力と思われる。 第1装甲軍はカフカスからの撤退のしんがりを勤め、1943年1月末までにロストフを通過してドン西岸に入っている。 兵科連合 歩兵・砲兵・戦車など異なる兵科の部隊を集めて部隊を編成すること。 ある程度まで独立して作戦を遂行できるので柔軟な運用が可能となる。 「戦争を教育してやる」 1944年6月13日にノルマンディ戦で起きた「ヴィレル・ボカージュの戦い」で、SS第101重戦車大隊のミヒャエル・ヴィットマンSS中尉が砲手のバルタザール・ヴォルと交わしたとされる会話のもじり。 この戦闘でヴィットマンは単独で英軍部隊に攻撃をかけ、多大な戦果を挙げた。 ドイツ軍マニアにとってはあまりにも有名な台詞である。 「フリングスも」 この後の台詞で第101装甲猟兵大隊の中隊指揮官は全員戦死したことがわかる。 定数の半分にも満たない2個中隊が ドイツ軍の中隊の定員は140名なので、その半数以下が2個。 本部要員を入れてもおそらくは100名を多少越える程度にまで兵員が減っていることになる。 たしかにマンシュタインといえども、ここまで損耗した部隊を作戦に使用することはためらうだろう。 野戦任官 戦闘による損耗で士官が不足した場合、上級指揮官が下士官を臨時に士官として任命し指揮をとらせることをいう。 あくまで仮の階級であり軍の人事セクションが正式に発令したものではない。 よって通常は補充の士官が着任した段階で指揮を引き渡し元の階級に戻る。 「ギドか」 マイヤーの副官であるギド・ブッフバルト大尉のこと。 北方軍集団 東部戦線の北部戦域(レニングラード~ヴィテブスク)を担当していた軍集団。 ドン軍集団所属の2個装甲軍団 史実ではこの攻撃を行ったのは第48装甲軍団とSS装甲軍団だが、作中では武装SSは既に存在していないので別な部隊が行ったと思われる。 軍団名を明確にしないのはそのためだろう。 「第40装甲軍団が敵の戦車軍団を各個撃破し」 ここで撃破されたのは前述のポポフ機動集団。 ポポフ機動集団は反攻作戦開始後2個戦車軍団が増強されさらに戦力を増していたが、侵攻するにしたがって長大となった補給線の維持が困難となった。 ドイツ軍の反撃直前には指揮官のポポフが南西方面軍司令官ヴァトゥーティンに「すべての戦車、動かず!」と打電する状況となっていた。 このため、ドイツ軍の攻撃に対して有効な反撃を行うことができず、各個撃破によりポポフの部隊は壊滅することとなった。 クルスク突出部。 ここまでで語られているように赤軍はこの大反攻作戦によってクルスク、ハリコフの奪回のみならず、ドン川西岸を守っているドン軍集団とA軍集団の撃破をも狙っていた。 しかしマンシュタインの「後手からの一撃」によって攻勢の南翼は押し戻されることなり、北翼のクルスクのみが解放されることとなった。 しかしこの一連の戦闘の結果生じたクルスク突出部は日本の関東平野に匹敵する広大な地域であり、史実ではここをめぐって1943年夏に史上最大の戦車戦が起きることとなった。 第3次ハリコフ戦の戦闘概略図 http //www.flamesofwar.com/Article.asp?ArticleID=271