約 1,415 件
https://w.atwiki.jp/kaiseimaru/pages/362.html
宝暦九年の幻日(高野家記録) 明和七年に出現した彗星に関する戸板保佑の勘文です。 宝摩九年己卯二月九日辰己時日有交暈管窺輯要曰日有は白暈歳多暴風春霜雪民多病白暈再重所見之国多風雨民不安○交暈貫日其下有破軍死将○交暈如連環両国争地有兦国○朱文公曰交暈如連環而貫日兵起争○隋書曰日有交暈人主左右有争者○日旁気如虹貫日青為疫五穀傷白為兵起○日有交暈而珥天下兵起○元仁宗延祐元年二月〇己□白暈亘天連環貫日○仝順宗至元三年正月丁巳日有交暈左右珥上有白虹貫之〇仝至正二十五年三月壬辰日有暈内赤外青白虹如連環貫之元正天皇養老五年〇二月癸己日如白虹貫暈南北有珥 続日本記 ○桓武天皇延暦十一年壬申正月白気貫日 日本後記 ○清和天皇貞観十六年甲午四月七日来時日有重暈白虹貫日三代実録○土御門院健仁二年壬戌春正月二十八日朝日見両輪 右之通古書ニ見当申候書付差上申候以上 宝暦九年二月十一日 戸板善太郎 明和七年の彗星(高野家記録) 明和七年に出現した彗星に関する大塚頼充の勘文です。 明和七年閏六月四日 大塚氏孛星之考被書記来□ 今歳夏五月下旬有星孛于牛女之分至于六月西行即干箕斗之分在干天紀織女之□後北行至干紫宮之傍而東北行即于奎婁之分而後不見矣按有孛彗長く之彗星其光芒長如払帚孛星其光芒短ク四出蓮蓬勃々又曰周囲芭角長星其光芒有一直指□今歳所見為孛也必矣古昔史所載孛彗有□事其応有異全也大率彗為除穢布新之象又為火灾之表也孛悪気所生為乱兵又為不明之表也又為大旱又為大水又為灾病也春秋有三孛自是後五伯代奥更為主命也漢孝武之年四月有星孛于天紀至織女占曰織女有女変天紀為地震至四年十月地□後陣后廃也建安五十月有星孛于大梁翼州分□時袁紹有□妙其年十一月紹軍為曺公所破七年夏紹死後曺公遂取□妙其他史所載不可勝□□凡天象之羣星雉無元名然地中之㕝上合於て循序而観之皆有州国官□物類之象故有星辰之変則古人由列宿諸星而言其表象之庭以顕天戒明王事其牛一曰牽牛主農故天田之九星附之又存文人之象以分野言之為能賀両州女一曰須女賎妾之□婦職之卑者主布帛裁製嫁娶以分野言之為飛越両州箕一曰天津一曰風□一曰天浄主津□又曰主口舌又曰彗孛出大水大飢来貴五倍斗一曰南斗主薦賢受禄斗為器量所以斟酌也民㕝莫重于耕織故牛女相聯以分野六之存佐越両州天紀有星変古人多為地震織女一曰天女主果蓏絲帛珍宝紫微藩直也又曰宮濱位也奎一曰封豕又為溝瀆瀆主溝漬以分野其之為隠右両州婁一曰苑牧養犠牲以共郊祀又曰聚衆以分野言之為雲伯両州為然今效古人之玄訓而言之牛女皆農耕之象也然時今当季夏而値于土潤溽暑大雨時行之候而鮮分龍雨是以観之応主分荒而旱也以分野言之当能賀及佐越隠石雲伯等之地□猶若至于孟秋有雨水若至于仲秋有灾病亦不可知□是斯孛燥熱噏動地中饒沢之気又能流□人□水沢之處所以不審其応也故古人以孛分為兵□或為分震或為大風或為雨水或為大旱共是陰陽不協之微小曰牛之□乎古人以孛専為乱兵之徴□有□応也然余有聞治曰久□難成乱□乱曰久則叵成□□今也天下大治于戈不□□□有□十歳況於無失政哉何為夫可成乱兵之徴□此皆□勿之精其本石地而上発干□也尚書曰天聴明自我民聴明此□□□人文以成化□也是故政教兆於人理祥変応乎天文得失雄微□不昭著天文志曰人□□之而寤飾身正事思其咎謝判稲降而福子自然之資御堂可下慎哉子産話謂天道人道通非君々て 明和庚寅季夏 大塚頼充誌□ 寛政五年の宮城沖地震(検断久助文化・文政・天保の記録) つけたり。右大地震(寛政五年正月七日大地震)のこと余り不審なるにつき、則御奉行様御寄り合い天文者を召し出だされ、いかなることかと御尋ねありけるに、御大変の印なりと答え候由のところ、日向様、大変とはいかがのことと仰せられ候えぱ、天文者答え、大変と申す儀御不分りにては申し上げベき様これなき段、答え候えば御立腹のよう模様ありければ、大隅様、当国ぱかりに侯や余国も同様に候やと尋ねられ候えぱ、江戸は揺り申すまじくと答え上げ候えば、御用済み候段仰せわたされ、あい下り候由に候ところ、その年の内に屋形様始めあげ御三方様御死去あそばせられ候由にこれある段、天文者追々申し上げ候由。(検断久助 文化・文政・天保の記録) 天保十四年の彗星(検断久助文化・文政・天保の記録) 一、天保十四年二月六日夜より未申に当たり彗星の由あい見え申し候。御上屋敷より富士の方にあい見え月の光にて輝きいかなる訳に候や、俗の目には雲の様に候えども、天文方船山左司馬若老衆ヘ御呼び寄せ御尋ねなされ候えばやはり彗星の由、巾は一度半・長さ世界より六度一にて六十度余にこれあり、前代未聞の大星にこれあり土御門御持ち前のことにて、天文方にては評は付け申さざる由。併し前例右様の星顕れ候節天下変事の例を引き出し申すベく未だ吟味決せざる由なり。多分春過ぎより五ッ時まで見え申し侯。剣先の方はしかと見きり申さず初晩よりは段々立て顕れ、昨夜も見え候えども最初より余程薄くあいなり、俗の目にはどうも星の様には見え申さず、何れ凶事の考えにこれある由あい聞こえ、常日頃にもあいなり侯はば真南に出で申すベき由右、左司馬申し開き候唱えこれあり変事に御座候間申し上げ候。剣先は何国にあい当たり候や見え申さざること。 天保十四年の彗星(志田郡沿革史 P981-982) 〔天保十四年二月〕 一、津出し御免石三千石三本木より川下ヶ罷成申候未申の方に當て夜々白氣顯見え申候昼夜見はれ候ものに候へども月の影日の影にて見へず闇夜には能く見え申候根さし西の方より未の方へ夜々圖の如き白氣なり 二月九日頃も見え候由世上色々説明有之候赤氣黄氣黒氣の内にては白氣はよき分に有之由に候しかし好まもなきには不如にて候へば何れ凶乎可恐に候 御城下にて天文家の説には彗星と考へ候古にも右の如く大き星不見事に御座候由唱申候此星の 見える所は何れ凶乎向後可恐 右星仙臺天文陰陽頭境野七三郎様考には天鎗星と申上候由兵戈大旱魃と考上候由 將軍家陰陽頭澁川氏之説には大体同様の由、しかし澁川家は微細不申家にて暦術家にて吉と凶と計り申上候由 右七三郎様卜筮とも考上候由御座候 (図は略) 京都土御門様御考の上天子へ奏上候て後關東へ吉凶差免ともに被仰渡ものに相聞え申候 三 月 四日五日夜至て薄く不見程に成候 安政五年戊午八月彗星出現之考(天文公用伝) 安政五年の彗星に関する村田明哲の勘文 安政五年戊午八月彗星出現之考 一、天文大成日彗星曰帚星本類星末類星末類彗小者数寸長或竟天見則 兵起大水除旧布新彗体無光附日而為光故夕見則東指晨見 則西指在日南北皆随日光而指 一、同書曰彗星色白臣専政赤色滅五都黄色主亡蒼色破神明黒色没江河 一、同書曰彗星在三台中臣害主禍起相殺 一、同書曰彗孛出三台有陰謀宮中火起一日臣害君禍大起 一、同書曰彗孛出上台兵起三公大臣有憂出中台奸臣有謀兵大起貴人黜出下台近臣有憂死・・・ 万延元年庚申五月彗星出現之考(天文公用伝) 万延元年庚申五月彗星出現之考 一 天文大成ニ曰、彗星曰二帚星一本類レ星ニ末類レ彗ニ小者数寸長或ハ竟レ天見則兵起リ大水アリ除キ旧布クレ新ヲ彗体無光附日ニ而為ス光故ニ夕ニ見レハ東ニ指シ晨見レハ則西指ス在日南北ニ皆随日光而指ス 一 同書日彗孛犯五諸侯兵起王室大乱レ天子宗廟不祀 一曰州牧反西方諸候失上執政臣誅有下レバ被誅者上貴人当之人主 有憂遠キ不出五年又曰彗星出五諸侯兵起廟廊之中一曰九合ノ諸侯牧守皆反ス 同書日 彗孛守北河大水 狄兵入中 以助立 同書 ○凡彗孛見亦為大臣誅反以家坐罪ニ破軍流血人死如麻臣註君子害父于才並興四夷侵鄙国兵不起則飢餓疾疫死亡之兆 一彗出西北状如剣上 一晋書天文志曰彗星状泉テ数動クハ主穀四訓出則其国内乱其下 相□為鋮兵赤地千里枯骨藉々タリ 一通鑑綱目曰周顕王八年彗星見西方彗五彗也白則将軍逆二年兵大起ル 一同書曰周赮王十年彗星見ル同十二年彗星見ル注曰書レ彗十有 七未一世再見ル者焉 十年書彗見矣於是間一歳ノ耳彗復見ル焉一世再見惟赮而巳然則周之終於赮也決矣 一左伝昭公二十六年斉有彗星斉侯使禳之晏子曰祗無益也取 誣焉天道不謟不弐其命若之何禳之且天之有彗也以除 穢也君無穢徳又何禳 焉若徳之穢禳之何損○ 本朝 同年四月 〇一元文二年丁巳正月彗星現西方〇仙洞崩御翌年岩城農民有騒動之唱 〇一寛保二年壬戌正月彗星現東方同年春白河百姓噪動同八月江戸洪水人馬流死多シ・・・
https://w.atwiki.jp/tohorpg/pages/446.html
EXTRAダンジョンについて解禁条件 大まかな特徴 制約 ボスに負けると EXTRAダンジョン攻略第1階層/出現する敵 ボス 秋 穣子 秋 静葉/下準備/攻略第2階層/出現する敵 ボス フランドール・スカーレット/下準備/攻略第3階層/出現する敵 ボス 洩矢 諏訪子 八坂 神奈子/下準備/攻略第4階層/出現する敵 ボス 偽天子 偽早苗/下準備/攻略第5階層/出現する敵 ボス 古明地 こいし/下準備/攻略 EXTRAダンジョンについて 解禁条件 一通りエンディングを見る。 その後、開発室に移動する。 開発室右上にある階段から、EXTRAダンジョンに挑める。 大まかな特徴 EXTRAダンジョンは、本編に比べると敵が非常に強く 意地悪な仕掛けもたくさんある。 難易度が跳ね上がるので、プレイの際は覚悟を決めよう。 もちろん、ボスも一筋縄では倒せない。 かなり理不尽に見えるが、レベルさえあれば勝てるようになっているので 諦めない事が大事。 EXTRAダンジョンは全5階層で構成される。 下の階層に行くほど、敵が強くなる。 制約 制約1 セーブが出来ない。 制約2 任意ワープで脱出できない。 制約3 戦闘で負けると、即ゲームオーバー。 例外として、回復の泉では回復・セーブ・帰還のいずれかが選択できる為、 ここを拠点にレベルを上げると良いだろう。 ボスに負けると 各階層のボスに負けると、攻略のヒントが貰える。 場合によっては、再戦が大分楽になるので わざと負けて、ヒントを得るのも良いかも知れない。 EXTRAダンジョン攻略 第1階層 これといった特徴はない。 道中には幾つかアイテムが置いてあるので、拾っておこう。 「風雨の髪飾り」と「睡眠の御守り」付けておくと 雑魚戦が楽になる。 出現する敵 マミミー ミミノタウロス イナバ女 マミミーは、体当たりと汎用魔法のスリープを連発してくる。 ミミノタウロスは、攻撃力・HPが高く「気合の一撃」を多用する。 イナバ女は、HPこそ低いものの 汎用魔法のフリジング・トルネードを扱うので、かなり手強い。 ボス 秋 穣子 通常攻撃 (2回) 秋符「秋の空と乙女の心」 (土属性 1人に大ダメージ) 豊作「穀物神の約束」(土属性 全体 HP吸収) サンダー (土属性 汎用魔法 1人にダメージ) 秋 静葉 体当たり (1人に大ダメージ) 葉符「狂いの落葉」((土属性 1人に大ダメージ) 頑張る!(特殊行動 自分のMP100回復) ライトニング(土属性 汎用魔法 1人にダメージ) 下準備 穣子と静葉は、土属性の強力な攻撃を繰り出してくる。 ダメージを軽減するため、「土の髪飾り」を2人に付けよう。 御守は、何でも構わない。 腕輪についてだが、天子には「神力の腕輪」 早苗には「神護の腕輪」がお奨め。 攻略 穣子は、2回攻撃がメインでHPが高い。 静葉は、補助的な役割を担いHPは低め。 穣子の2回攻撃、スペルカードのダメージが大きく 残しておくと厄介なので「ウェポンブレス」で攻撃力を上げつつ 先に攻撃していく。 静葉の体当たりとライトニングも、地味に効いてくるので 「アーマーブレス」と「スピリットブレス」で 防御力と精神力を上げれるだけ上げておくと良い。 「アースバリア」を唱えておくと、姉妹の攻撃を 大分軽減できるので、戦闘開始直後に唱えよう。 穣子の2回攻撃が1人に対してヒットすると かなり危険なので、「スピードブレス」を唱えて、 穣子よりも回復を先に出来るようにしておく。 回復には傷薬+かC・ヒールを使っていき、 MPの回復には仙水を使うと良い。 穣子のHPをある程度減らすと、こちらのHPを吸収する 豊作「穀物神の約束」を唱えてくるが、「スピリットブレス」で精神力を強化してあれば、さほど恐れる必要は無い。 静葉のHPをある程度減らすと、1人に対して大ダメージを 与えてくる葉符「狂いの落葉」を5ターン置きに唱えるようになる。 防御しないと、瀕死状態あるいは気絶状態に なりかねないので、しっかり防御しよう。 唱え終わると「頑張る!」で4ターンMPを回復する。 この時、静葉は無防備なのでガンガン攻撃していこう。 ちなみに静葉にはポイズンが有効なので 暇があれば使ってみよう。 穣子には効果が無い(?)。 経験値4000,お金2000。 第2階層 隠し通路を探し出して進んでいく。 遠回りをしなければならない場所があったり、 ショートカットがある場合もあるので、壁沿いに歩くと良い。 置かれているアイテムはかなり有用なので、 残さず拾っておこう。 この階層の敵は、一見するとギャグにしか見えないが なめてかかるとあっという間に全滅するほど手強い。 「溶岩の髪飾り」と「神知の腕輪」を付けていると 戦闘が幾分か楽になる。 出現する敵 みえないくん らくがきくん らくがきちゃん みえないくんは、防御力が高く専用特技で複数の状態異常を与えてくる。 らくがきくんは、攻撃力が高く「ぶちかまし」で大ダメージを与えてくる。 らくがきちゃんは、汎用魔法のフレイマム・ライトニングを多用してくる。 ボス フランドール・スカーレット 通常攻撃 (1人に大ダメージ) 禁忌「レーヴァテイン」 (炎属性 全体 大ダメージ) 禁弾「スターボウブレイク」 (1人に特大ダメージ) 秘弾「そして誰もいなくなるか?」 (1人に封印効果) 下準備 炎属性のレーヴァテインのダメージが大きいので 「火の髪飾り」を付けて防御力をアップしておこう。 また、フランドールは攻撃力が異常に高いので 「神護の腕輪」を付けて防御力をアップしておこう。 御守りは、封印を無効にする「封印の御守り」 を付けておくと、大分楽になる。 場合によっては「神護の腕輪」では無く 「神知の腕輪」を付けた方が良いかも知れない。 攻略 攻撃力が異常に高く、防御力も高い難敵である。 だが、精神攻撃と氷属性の攻撃に弱いので 能力を下げたり、汎用魔法の「フリジング」を連発したほうが 効率は良い。 戦闘が始まったら真っ先に、「ウェポンカース」で フランの攻撃力を下げてしまおう。 これで、しばらくは安全に戦えるはず。 通常攻撃の回数は1回だが、ダメージが半端無いので 「アーマーブレス」で防御力を上げれるだけ上げてしまおう。 続いて、「ファイアバリア」を唱えてレーヴァテインのダメージを緩和させる。 万全を期すなら、「スピリットカース」でフランの精神力を下げるか、 「スピリットブレス」でこちらの精神力を限界まで引き上げよう。 「ウェポンブレス」でこちらの攻撃力を上げたり 「アーマーカース」でフランの防御力を下げても、思ったほど ダメージは入らない。 そこで「フリジング」を唱えよう。 フランに大ダメージを与えられる上、僅かな間だが攻撃力を下げられるのだ。 これを連発して、その隙に回復というパターンが良いだろう。 傷薬+かC・ヒール、あるいは散布傷薬でHPを回復。 MPの回復には天水を使うと良い。 HPをある程度減らすと、1人に対して特大ダメージを与える 禁弾「スターボウブレイク」を放ってくる。 まともに喰らっては、まず耐え切れないので 「スピリットカース」で精神力を下げておこう。 更にHPを減らすと、1人に対して封印効果を付加する 秘弾「そして誰もいなくなるか?」を唱えてくる。 だが、「封印の御守り」を付けておけば全く脅威ではない。 油断していると、攻撃力・精神力が元通りになった フランドールに一気に畳み掛けられるので 効果が切れるメッセージをよく見ておこう。 経験値5000,お金3000円。 第3階層 毒の水の上に浮かぶ島を、移動床に乗って進んで行く。 移動方向は固定なので、進めないと思ったら別の移動床に 乗ってみよう。 アイテムを取る際は、大回りをしなければならない所もある。 面倒かもしれないが、しっかりと取っていこう。 若干のパズル要素が含まれており、移動先が1つではない場合もある。 この階層から、敵の強さが更に増す。 レベル上げや対策はしっかり行おう。 「麻痺の御守り」は必ず付けておこう。 天子には「神速の腕輪」、早苗には「神護の腕輪」がお奨め。 髪飾りは、どれを付けててもあまり変わらないのでお好みで。 集団で出現する事が多いので、先に倒すべき敵を しっかりと把握する事。 お馴染みの粘性霊魂だと馬鹿にしていると 手痛い反撃を食らうだろう。 それぞれ、対になる属性の攻撃に弱い。 最上級の汎用魔法を使えば、あまり苦労せずに倒せる。 だが、粘性レンジャー(黒)には弱点は無い。 その分、防御力が無いので一気に攻撃しよう。 回復の泉についてだが、この階層に限り回復することは出来ない。 何故なら、この泉は毒だからだ。 飲むと死亡扱いになりタイトルに戻る。 引っ掛からないように注意!! (編集者は、初見で見事に引っ掛かりました…。) 出現する敵 粘性レンジャー (黄) 粘性レンジャー (黒) 粘性レンジャー (緑) 粘性レンジャー (赤) 粘性レンジャー (青) ボーナス雑魚 粘性レンジャー(黄)は、ぶちかましとライトニングを 粘性レンジャー(黒)は、こちらのHPを奪う「ライフドレイン」と MPを大量に奪う「メンタルドレイン」を仕掛けてくる。 粘性レンジャー(緑)は、パラライズとトルネードを 粘性レンジャー(赤)は、フレイマムと「気合の一撃」を仕掛けてくる。 粘性レンジャー(青)は、敵全体のHPを大幅に回復する 「オールヒール」とフリジングを仕掛けてくる。 ボーナス雑魚は、文字通りのボーナス雑魚。 ただで経験値3000とお金1000円を獲得できる。 出現率はかなり低いが…。 ボス 洩矢 諏訪子 通常攻撃 (1人に大ダメージ) フリジング (氷属性 汎用魔法 全体にダメージ) 神具「洩矢の鉄の輪」 (1人に大ダメージ 防御低下付加) 土着神「ケロちゃん風雨に負けず」 (氷属性 全体にダメージ 精神低下付加) 祟符「ミシャグジさま」 (全体にダメージ 攻撃減少付加) 装備剥がし (特殊行動 全体の装備している腕輪を没収) 八坂 神奈子 通常攻撃 (1人にダメージ) トルネード (旋風属性 汎用魔法 全体に大ダメージ) 神祭「エクスパンデッド・オンバシラ」 (1人に大ダメージ 放心付加) 筒粥「神の粥」 (自分達のHPを大幅に回復 ステータス異常回復) 「マウンテン・オブ・フェイス」 (旋風属性 全体にダメージ 裂傷付加) 装備剥がし (特殊行動 全体の装備している髪飾りを没収) 下準備 天子には「神速の腕輪」、早苗には「神護の腕輪」を付けよう。 両者は強力な氷・旋風属性のスペルを放ってくるので 「風雨の髪飾り」も必須。 御守りは「裂傷の御守り」が良いだろう。 攻略 諏訪子は攻撃力とHPが高めで、低下効果を持つスペルを 多数所持している。 神奈子はあまり攻撃は激しくないが、補助的なスペルが多く HPは低め。 筒粥「神の粥」を連発されると厄介なので、 先に神奈子を倒そう。 まず戦闘に入ったら「ウェポンカース」で諏訪子の 攻撃力を、「スピリットカース」で神奈子の精神力を下げよう。 その後は、「スピリットブレス」と「ウェポンブレス」で こちら側の精神力・攻撃力を上げて神奈子を攻撃していこう。 「アイスバリア」と「ウィンドバリア」も 掛けておくと、より安全に戦えるだろう。 ポイズンが両者とも有効なので、隙を見て掛けておく。 回復には主にC・ヒールを使い、MPの回復には仙水か天水を 使っていく。 諏訪子のステータス低下攻撃は、「オールクリア」を 掛ければ元に戻せる。 神奈子のHPを減らすと、髪飾りを没収する装備剥がしを 行い、2人のHPを大幅に回復する筒粥「神の粥」を放つようになる。 もたもたしていると、どんどん回復されかねないので 神奈子に攻撃の的を絞ろう。 更に神奈子のHPを減らすと、裂傷付加のスペル 「マウンテン・オブ・フェイス」を放つが ダメージは大したことが無いので構わずに攻撃する。 神奈子を倒したら、諏訪子も同じように 「ウェポンブレス」を使いつつ攻撃していく。 諏訪子のHPを減らすと、腕輪を没収する装備剥がしを行い 全体に精神低下を付加する 土着神「ケロちゃん風雨に負けず」を放つようになる。 が、攻撃をメインにしていればあまり支障は無い。 更に諏訪子のHPを減らすと、全体に攻撃低下付加のスペル 祟符「ミシャグジさま」を放つ。 ダメージは大したことが無いが、攻撃低下が厄介なので 「オールクリア」で治癒しよう。 その頃にはポイズンの効果も相俟って 殆ど諏訪子の体力は残っていないはず。 装備剥がしを行ってきてからが、本番なので 長期戦に持ちこたえられるように戦おう。 ボスが2人だからといって、全体攻撃を仕掛けると 攻撃が激化するので厳禁。 傷薬+と仙水は多めに持っていこう。 戦闘中に無くなってしまったら、なす術は無い。 経験値6000,お金3000円。 第4階層 ワープを使って先へ進んでいく。 ワープの移動先は固定なので、判らなくなって来たら メモを取ると良いだろう。 ボス前のエリアは、右上→右上→左下→右上→左上→上→右上 の順番で抜けられる。 出現する敵 腐敗魔法使い だいだら法師 熱犬 腐敗魔法使いは精神力が高く、フレイマムとフリジングを 連発してくる。 だいだら法師は、攻撃力とHPが非常に高く 「ぶちかまし」や「気合の一撃」を連発してくる。 熱犬は、フレイマムとパラライズを使用し HPも攻撃力も精神力もかなり高いが、氷属性の攻撃に弱い。 ボス 偽天子 通常攻撃 (1人に大ダメージ) 気符「無念無想の境地」 (自分の防御力を大幅に上昇させる) 地符「不譲土壌の剣」 (地属性 全体にダメージ) 気符「天啓気象の剣」 (1人にダメージ+防御力低下) 要石「天地開闢プレス」 (地属性 1人に大ダメージ 放心付加) 偽早苗 通常攻撃 (1人にダメージ) 準備「神風を喚ぶ星の儀式」 (自分の精神力を大幅に上昇させる) 秘術「忘却の祭儀」 (旋風属性 1人にダメージ) ヒール (汎用魔法 1人のHPを回復する) 開海「モーゼの奇跡」 (氷属性 全体に大ダメージ+混乱付加) 奇跡「神の風」 (旋風属性 全体に大ダメージ) 下準備 天子は強力な地属性のスペルを、早苗は強力な旋風属性の スペルを使ってくるので、「竜巻の髪飾り」を2人に付けよう。 腕輪は何でも良いが、天子には「神力の腕輪」 早苗には「神護の腕輪」か「神知の腕輪」がお奨め。 御守りは、開海「モーゼの奇跡」の混乱効果を防ぐ為 「混乱の御守り」がベスト。 今まで戦ってきたボスよりも更に強いため 気を抜かないように。 攻略 偽天子は攻撃力とHPが高く、防御力が異常に高い。 偽早苗は精神力と敏捷力は高いが、防御力が低い。 戦闘開始直後、偽天子は気符「無念無想の境地」で 自分の防御力を大幅に上げてくる。 偽早苗は準備「神風を喚ぶ星の儀式」で 自分の精神力を大幅に上げてくる。 このままでは、偽天子にダメージを与えられない上 偽早苗のスペルカードで、尋常ではないダメージを食らう為 「アーマーカース」と「スピリットカース」で それぞれの能力値を下げよう。 次は「アースバリア」と「ウィンドバリア」を掛けて 両者のスペルカードのダメージを和らげる。 その後は「スピリットブレス」を優先して 「アーマーブレス」、「スピードブレス」で 能力値を底上げしよう。 最後に「ウェポンブレス」で攻撃力を上げたら 回復役の偽早苗を先に攻撃していく。 偽早苗は防御力が低いので、運良く天子の必殺が出れば 999ダメージを与える事も可能。 偽早苗のHPをある程度減らすと、全体に大ダメージと 混乱を付加する開海「モーゼの奇跡」を唱えるようになるので、 「アイスバリア」を掛けてダメージを緩和させよう。 偽早苗のHPを更に減らすと、全体に大ダメージを与える 奇跡「神の風」を唱えるようになる。 使用頻度は低いが、連発されると厳しいので 一気にたたみ掛けよう。 偽早苗を倒したら、続いて偽天子に取り掛かろう。 偽天子は通常攻撃と地符「不譲土壌の剣」をメインに 攻撃してくるが、防御と精神力をしっかり上げていれば それほど気にしなくても良い。 防御力が異常に高いので、「アーマーカース」か 天子の気符「天啓気象の剣」で防御力を下げてから攻撃。 旋風属性の攻撃に弱いので、天子はトルネード 早苗は大奇跡「八坂の神風」で攻撃しても良い。 偽天子のHPをある程度減らすと、1人に大ダメージと 防御低下を付加する気符「天啓気象の剣」を唱えるようになる。 防御力を下げられてしまったら、「アーマーブレス」で 体勢を立て直そう。 偽天子のHPを更に減らすと、1人に大ダメージを与える 要石「天地開闢プレス」を唱えるようになる。 が、地属性の為「アースバリア」を掛けていれば 大丈夫なはず。 放心が付加されることがあるので、「オールクリア」で 早めに回復しよう。 この戦いでは、回復を早め早めに行う事が大事。 C・ヒールを中心にすると良い。 傷薬+、仙水は多めに持っておこう。 確率は低いが偽天子には「スリープ」偽早苗には「シール」 が効くことがある。 ポイズンは普通に効くが、2人同時に最終段階に入ると かなり危ないので、そこに注意。 経験値8000,お金4000円。 第5階層 いよいよ最終階層。 第1階層と同じく、これといった特徴は無いが 道中が非常に長い。 アイテムは配置されていないので、ひたすら奥に向かって 進んでいこう。 最終ボス前には、回復の泉とアイテム妖精が配置されている。 しっかり装備等を調えて、最終決戦に挑もう。 出現する敵 超鎌男 超霊魂 超幽霊 超鎌男は攻撃力が非常に高く、気合の一撃を多用してくる。 超霊魂は攻撃力が非常に高く、ポイズンとスリープを使用してくる。 超幽霊はHPは平均的だが、精神力が高く 各種最上級の汎用魔法を使用してくる。 ボス 古明地 こいし 通常攻撃 (1人に特大ダメージ) 表象「弾幕パラノイア」 (1人に大ダメージ 猛毒付加) 抑制「スーパーエゴ」 (全体に大ダメージ 暴走付加) 復燃「恋の埋火」 (1人に大ダメージ 宵闇付加) 深層「無意識の遺伝子」 (1人に大ダメージ 恐怖付加) 「サブタレイニアンローズ」 (全体に大ダメージ) 下準備 攻撃力が異常に高いので、「神護の腕輪」を2人に付ける。 髪飾りと御守りについてだが、こいしはありとあらゆる状態異常を 付加してくるので、どの状態異常を無効にするか考える必要がある。 消去法でいくと、「暴走の御守り」だろう。 その他は、アイテムを駆使して回復しよう。 髪飾りは、どれを付けてもあまり変わらない。 2つの属性攻撃を軽減する髪飾りを付けると良いだろう。 ボスに負けた後の攻略ヒントによると、全属性の攻撃を仕掛けてくるらしいが、どのスペルが何の属性なのかは(編集者は)分かりません…。 申し訳ないですが。 推奨レベルは70らしいが、それでもかなりキツイので レベル上げが必須になるだろう。 (編集者は天子レベル76,早苗71で倒しましたが、ギリギリでした。) 攻略 全能力が非常に高く、流石は裏ボスといったところ。 まずは、「ウェポンカース」を使って攻撃力を 「スピリットカース」を使って精神力を 「スピードカース」を使って敏捷力を下げてしまおう。 その後はセオリーどおり、こちらの能力UPを図ろう。 次は各種バリアで属性に対する抵抗力を上げる。 ある程度、天子の気符「天啓気象の剣」で 防御力を下げてから攻撃に移ろう。 ここまでが準備段階であるが、 こいしは敏捷力が非常に高く、能力を上げきるまでは 先手を必ずと言って良いほど取られやすい。 全滅する事がしばしばあるがので、ここは運が絡む。 こいしが、能力が下降した攻撃を繰り出してくれる事を 願おう。 HPをある程度減らすまでは、通常攻撃か 表象「弾幕パラノイア」のどちらかを繰り出してくる。 能力が元通りになると、一気に壊滅状態になるので 効果が切れるメッセージをよく見ておくこと。 「パニック」や「シール」が低い確率で効くので 余裕があったら掛けておくと良い。 「ポイズン」は普通に効くが、効果が切れるメッセージが 表示されなくなるので、常に「~~カース」を掛けつつ戦おう。 HPをある程度減らすと、全体に大ダメージと暴走を付加する 抑制「スーパーエゴ」を唱えるようになる。 「暴走の御守り」を付けていれば、回復を怠らないように するだけで良い。 更にHPを減らすと、第2段階に移行する。 1人に大ダメージと宵闇を付加する復燃「恋の埋火」 1人に大ダメージと恐怖を付加する深層「無意識の遺伝子」の 2つを、ランダムで仕掛けてくるようになる。 回復をしっかりして、各種アイテムで状態異常を回復していこう。 最終段階に入ると全体に大ダメージを与える 「サブタレイニアンローズ」も混ぜてくるが 特別な効果が無いのではっきり言って、このスペルが一番楽かもしれない。 ここまで来れば、こいしの体力は残り僅かなはず。 とにかく、回復を優先する事。 ラストバトルなので、アイテムは使い切っても大丈夫。 「散布傷薬」が大量にあると、回復の手間が省ける。 強力無比な威力を誇る「全人類の緋想天」 様々な状態異常を付加する奇跡「客星の明るすぎる夜」も 使っていこう。 経験値15000、お金7500円。
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/1611.html
※下記は全て、ブリタニカ百科事典(日本版)より引用(ただし※注はこちらで追記) 政治思想ないしイデオロギー 説明 関連ページ 保守主義、及び、保守主義の内実を成す概念 保守主義(conservatism) 既存の価値・制度・信条を根本的に覆そうとする理論体系が現れたときにこれに対する対抗イデオロギーとして形成される。「保守主義の宣言」とも言われる『フランス革命に関する省察』を著わしたE.バークは、人間のあらゆる制度の基礎は歴史であり、具体的な文脈のなかで長い時間をかけて培われてきたものだけが永続性を持つため、抽象的な哲学原理に基づく革命は座絶を運命づけられているとしている。バークは決して変化を拒絶しないが、それは既存のものの漸進的改良として果たされねばならないと考える。歴史的・有機的な社会秩序への人為的介入の排除とその漸進的改革が保守主義の思想的特徴であるが、これは現代のF.ハイエクやM.オークショットにもみられる考え方である。 保守主義とは何か 新保守主義(neo-conservatism) 1960年代後半以降、アメリカでリベラリズムや対抗文化の行き過ぎを批判しつつ登場してきた思想。I.クリストル、D.ベル、S.ハンティントンなどが代表的である。アメリカでは、ベトナム戦争の経験に伴う文化的混乱から若者を中心として性の自由や家族の解体といった急進的な主張がなされたが、反面、こうした潮流に強い危機意識をいだき、西欧的価値を擁護しながらアメリカの文化的同一性を再定義しようという試みも生まれた。これらは資本主義と自由の結びつきを強調し、共産主義に対する批判を共有するもので、現実の政策的提言においても連邦政府が過剰な役割を果たすことには懐疑的で、私的集団の活動の場を拡大する「小さな政府」への方向性を示唆している。このような主張を経済論として展開しているのが、新自由主義である。 自由主義(liberalism) 個人の諸自由を尊重し、封建的共同体の束縛から解放しようとした思想や運動をいう。本格的に開始されたのはルネサンスと宗教改革によって幕をあけた近代生産社会においてであり、宗教改革にみられるように、個人の内面的自由(信教の自由、良心の自由、思想の自由)を、国家・政府・カトリック・共同体などの自己以外の外在的権威の束縛・圧迫・強制などの侵害から守ろうとしたことから起こった。この内面的諸自由は、必然的に外面的自由、すなわち市民的自由として総称される参政権に象徴される政治的自由や、ギルド的諸特権や独占に反対し通商自由の拡大を求め、財産や資本の所有や運用を自由になしうる経済的自由への要求へと広がっていった。これらの諸自由の実現を求め苦闘した集団や階級が新興ブルジョアジーであったため、自由主義はしばしばそのイデオロギーであるとみられた。しかし各個人の諸自由を中核とした社会構造は、その国家形態からみれば、いわゆる消極国家・中性国家・夜警国家などに表象されるように、自由放任を生み、当然弱肉強食の現象を現出させることになり、社会的経済的に実質的な平等を求める広義の社会主義に挑戦されることになった。しかし、20世紀に出現した左右の独裁政治の実態は、自由主義が至上の価値としてきた内面的自由・政治的社会的諸自由などが、政治体制のいかんに関わらず、普遍的価値があることを容認せしめ、近代西欧社会に主として育まれてきた自由主義は再評価されている。 リベラリズムと自由主義 新自由主義(neo-liberalism) (1) 1870,80年代から勃興したイギリスの理想主義運動、なかんずくT.H.グリーンが主唱した社会思想。グリーンは、道徳哲学としてはJ.ロック、J.ベンサムなどの功利主義的自由主義ではなく、カントやヘーゲルの影響を受けた観念論的・理想主義的自由主義を、社会哲学としては、自由放任主義(経済的自由主義)ではなく国家による保護干渉主義(社会政策)を主唱した。しかし決して国家専制主義や全体主義に陥らず、個人の自我の実現、個人の道徳的生活の可能な諸条件の整備に国家機能が存在するとして、自由主義の中心である個人主義を継受した。この思想はイギリス自由党の労働立法・社会政策に思想的根拠を与えた。⇒※注:こちらは正確には new liberalismであり、訳すと文字通り「新自由主義」だが、現在はこちらの意味では使用されなくなったので注意が必要。 リベラリズムと自由主義 (2) 1930年代以降の全体主義国家の台頭や第二次世界大戦中から戦後にかけてのケインズ政策に反発して、再び個人の自由の尊厳を説き、政府の恣意的政策の採用を排し、法の下での自由を強調する思想。このような思想をもつW.オイケン、W.リプケ、L.ミーゼス、G.ハーバラー、F.ハイエク、L.C.ロビンズ、M.フリードマンらの多彩な人材を擁して、47年にモンペルラン・ソサエティーを結成している。恣意的・強権的権力の行使に反対する点ではかっての自由放任的自由主義と共通する面をもつため、その単なる復活と誤解されがちであるが、普遍的な法の強力な支配の必要を説き、法秩序の下での自由を強調する点で、かっての自由放任とは異なる。経済政策面でのその端的な表れは、ドイツに代表される社会的市場政策とシカゴ学派に代表される新貨幣数量説である。⇒※注:こちらが、neo-liberalism(正確に訳すと「再興自由主義」)すなわち現在使用されている意味での「新自由主義」である。 保守主義に隣接・類似するために混同されやすいが、別概念として区別すべきもの 自由至上主義(libertarianism)※注:項目なしのため、リバタリアン(libertarian)の項目で代用 福祉国家のはらむ集産主義的傾向に強い警戒を示し、国家の干渉に対して個人の不可侵の権利を擁護する自由論者。古典的自由主義と同様、リバタリアンも自由市場経済を支持するが、その論拠は自由市場が資源配分の効率性に関して卓越しているということだけではない。より重要なのは集産主義的介入(⇒コレクティビズム)が、自明の権利である個人の自然権や人権を侵害するという点である。リバタリアンの出発点は社会の理解に関する徹底的な個人主義的アプローチである。社会とは何らかの実体ではなく、自律性を権利として保障された諸個人が互いの価値の実現を目指して交流を持つ場である。経験的な意味で国家や政府による合理的計画よりも自律的な個人の活動のほうが社会的利益を最大化するというだけでなく、道徳的な意味でも個人の自律性を国家や政府の干渉によって強制的に縮小しようとするあらゆる試みは、個人の独自性を破壊し社会の目的のための手段といて扱うことになる。個人の価値の追求にはルールによる制約が課せられるべきであるが、それは各人の平等な権利を保障するというに限定されねばならない。国家や政府の役割はそこにあるのである。⇒※補注参照 中間派について 共同体主義(communitarianism)※注:項目なしのため、コミュニタリアン(communitarian)の項目で代用 人間存在の基盤としての「共同体」の復権を唱える一群の政治哲学者たちの総称。J.ロールズの『正義論』(1971)が政治哲学の復権に大きな影響を与え、当初その指導的立場にあったのが、ロールズに代表される福祉国家的な自由主義を主張するリベラリストと、ノージックに代表される個人の自由に対する制限を最小化しようとするリバタリアンであった。一見したところ対立するこの両陣営は「個人」の多元的対立から社会構成の原理を導出しようとする基本的枠組みでは一致している。この個人主義的な人間像・社会像に対して根本的な次元から論争に参加してきたのがコミュニタリアンである。A.マッキンタイア、M.サンデル、M.ウォルツァーらを代表とし、その主張は必ずしも一様でないが、人間的主体性を抽象的なアトム的存在の自律性としてではなく、共同体のもつ歴史・社会的なコンテクストに根付いた具体的存在として捉えようとする点では共通している。コミュニタリアンの登場の背景にはアメリカ社会が極端な個人主義の結果、公共心を衰退させ、そのことが様々な社会問題を引き起こしているという洞察がある。 中間派について ナショナリズム(nationalism) 民族、国家に対する個人の世俗的忠誠心を内容とする感情もしくはイデオロギー。普通、民族主義と訳されるが、国民主義あるいは国粋主義と訳されることもある。しかしこれらの訳語はいずれもナショナリズムの概念を十分に表現しているとはいえない。ナショナリズムの概念が多義的であるのは、ネーション(民族、国民)が歴史上きわめて多様な形態をたどって生成・発展してきたことに起因している。歴史的な重要概念となったのは18世紀末以後のことである。アメリカの独立とフランス革命がその端緒となったとされ、南アメリカに浸透し、19世紀にはヨーロッパ全体に広まり、ナショナリズム時代をつくりだし、20世紀に入って、アジア・アフリカで多くのナショナリズム運動が展開された。ナショナリズムはこうした諸国の独立をもたらす解放的イデオロギーではあるが、民族紛争と戦争の拡大をもたらす危険も大きい。 ナショナリズムとは何か右派・右翼とは何か ※補注:このように古典的自由主義およびその再興であるハイエクに代表される新自由主義(neo-liberalism)と、リバタリアニズム(自由至上主義)は厳密には別概念であるが、特にアメリカではliberalismが「マイルドな社会主義」を意味する言葉に変形してしまったために、ハイエク的な自由主義をも「リバタリアニズム」と呼ぶ場合がむしろ多くなっており、後述の中岡望 著『アメリカ保守革命』でも、正確には新自由主義(neo-liberalism)と呼ぶべきものをリバタリアニズムと呼称しているので注意が必要。(この場合は「リバタリアニズム」=新自由主義=経済保守 となる)
https://w.atwiki.jp/kotono8/pages/41.html
西山会议派的新动向——评《零八宪章》 作者:马门列夫 文章发于:乌有之乡 说曹操曹操到,张宏良先生刚吹响“警惕换装”的警号,西山会议派鼓吹“换装”的《零八宪章》就出笼了,精英已经要把共和国推下万劫不复的悬崖了,党和国家还不反击吗?人民还不反击吗?听凭象前苏联一样让精英的目的悄没声息地得逞吗? 召开“西山会议”黑会已经不满足了,他们“亮剑”了!有300人签名的所谓“中国各界人士”要联合发布《零八宪章》!让我们看看他们亮出来的货色: 1,对伟大中国革命和新中国历史的无耻否定,对“普世价值”“现代政治”的可笑吹捧 “在经历了长期的人权灾难和艰难曲折的抗争历程之后,觉醒的中国公民日渐清楚地认识到,自由、平等、人权是人类共同的普世价值;民主、共和、宪政是现代政治的基本制度架构。” 对伟大中国革命和新中国历史,用“长期的人权灾难”一句话否定得干干净净!对早就被马列毛批判得只剩下一块“遮羞布”的资产阶级的什么“自由、平等、人权”“民主、共和、宪政”捧到天上去了! 2,21世纪的中国将走向何方? “21世纪的中国将走向何方,是继续这种威权统治下的“现代化”,还是认同普世价值、融入主流文明、建立民主政体?这是一个不容回避的抉择。” 只有社会主义能够救中国,是中国人民经过长期斗争的唯一的历史选择,49年,中国人民用枪杆子选择了共和国,“21世纪的中国”仍然是这个无悔的选择,谁要改变这个选择,中国人民还要用枪杆子来捍卫这个选择!而决不认同所谓的“普世价值”“主流文明”“民主政体”的资本主义选择!精英胆敢公然提出改变社会主义选择的另一个“不容回避的抉择”,他们就犯了“颠覆国家罪”,就应该对他们实行无产阶级专政,逮捕法办!决不姑息留情! 21世纪的中国将走向何方?这个问题的提出,不是社会主义的选择有什么问题,而是所谓的“改革开放”动摇了原来的选择,人民迷茫了:“改革开放”究竟要把21世纪的中国带向何方?反思的结果是坚定原来的选择。精英得意忘形了:要给出“21世纪的中国将走向何方”的新的抉择了!他们也不问问:人民答应不答应?无产阶级专政的铁拳答应不答应? 3,美化蒋介石的所谓“宪政”,污蔑“人民解放战争” “抗日战争胜利后的中国再次开启了宪政历程,然而国共内战的结果使中国陷入了现代极权主义的深渊。” 当年,蒋介石的所谓“宪政”是对中国人民彻头彻尾的欺骗,“和平协议”的墨迹未干,蒋介石就撕毁协议,挑起了“美国出钱出枪,蒋介石出人”的“中国人大中国人”的反革命内战,人民奋起反击,才赢得了解放,建立了人民的新中国。但在精英的笔下,却成了没有是非的“国共内战”!新中国成立却成了“陷入了现代极权主义的深渊”!如此红口白牙的攻击!该当何罪! 4,“党天下”是右派当年攻击无产阶级专政的口号 “1949年建立的“新中国”,名义上是“人民共和国”,实质上是“党天下”。执政党垄断了所有政治、经济和社会资源,制造了反右、大跃进、文革、六四、打压民间宗教活动与维权运动等一系列人权灾难,致使数千万人失去生命,国民和国家都付出了极为惨重的代价。” “党天下”是右派当年攻击无产阶级专政的口号,他们不知天高地厚的攻击尝到的是无产阶级专政的铁拳!现在,所谓的“改革开放”又使精英得意忘形了,又重新拾起这个口号来攻击新中国!以为天下是你们的了吗? “反右”不是什么“人权灾难”,只是“右派的灾难”,从今天右派的所作所为看,他们尝到的“灾难”和他们的罪行相比还是太少了!当时匈牙利倒是对“人权卫士”放任了一把,几乎造成国家颠覆的灾难! “大跃进”不是什么“人权灾难”,有失误,但那正是轰轰烈烈社会主义建设的起点,给独立工业体系的建立打下了根基,许多后来壮大的国有企业大多是在58年诞生的,“大跃进”的失误和它的开创性意义比较起来,实在是微不足道的。精英拿“人权灾难”说事,实在是太可笑了。“饿死3000万”的谣言也成了根据?可那也造的是三年困难时期的谣言,能安到“大跃进”的头上? “文革”不是什么“人权灾难”,只是“走资派的灾难”,从今天走资派的所作所为看,他们尝到的“灾难”和他们的罪行相比还是太少了!后来的苏联四分五裂的灾难不正是戈巴和夜里钦之流的“人权卫士”造成的吗? 至于“六四”,那可是精英欢迎的“改革开放”总设计师干的“功劳”!处理“法论功”是“三个代表”的发明家干的“功劳”!现在打压工农的“维权运动”,与有力者还不都是精英?精英贼喊捉贼的伎俩真是运用到了炉火纯青的地步了! 5,“改革开放”的赞歌 “二十世纪后期的“改革开放”,使中国摆脱了毛泽东时代的普遍贫困和绝对极权,民间财富和民众生活水平有了大幅度提高,个人的经济自由和社会权利得到部分恢复,公民社会开始生长,民间对人权和政治自由的呼声日益高涨。” 精英为“改革开放”唱赞歌,但决不以“改革开放”为满足,而是以“改变扼杀”社会主义和无产阶级专政为结果!他们要用越来越严重的两极分化来“摆脱”“普遍贫困”!用资产阶级“民主”对无产阶级的专政来“摆脱”无产阶级民主对资产阶级的“绝对极权”!所谓“民间财富和民众生活水平有了大幅度提高”专指“先富”起来的阶层,所谓“经济自由和社会权利得到部分恢复”专指资本竞争的经济自由和权贵阶层和新社会阶层占据人大代表的绝大多数的“社会权利”!所谓“公民社会”就是取消人民民主专政的社会! 6,先祸害摸黑社会主义,再打倒社会主义! “执政集团继续坚持维系威权统治,排拒政治变革,由此导致官场腐败,法治难立,人权不彰,道德沦丧,社会两极分化,经济畸形发展,自然环境和人文环境遭到双重破坏,公民的自由、财产和追求幸福的权利得不到制度化的保障,各种社会矛盾不断积累,不满情绪持续高涨,特别是官民对立激化和群体事件激增,正在显示着灾难性的失控趋势,现行体制的落伍已经到了非改不可的地步。” 先祸害摸黑社会主义,再打倒社会主义!修正主义祸害社会主义,账不算到修正主义头上,“改革开放”的问题不算到“改革开放”的头上,却都一股脑儿算到社会主义头上!精英对前苏联是如此,对中国也是如此! “官场腐败”是毛泽东造成的还是修正主义造成的?“道德沦丧”是社会主义信仰,毛泽东思想的信仰造成的还是迷失信仰造成的?“社会两极分化,经济畸形发展,自然环境和人文环境遭到双重破坏”是毛泽东时代造成的还是“改革开放”以来造成的?人民的公有财产大量流失,得不到保障,“物权法”对公有财产如同废纸一长是谁造成的?“社会矛盾不断积累”难道不是积累的工农大众和权贵既得利益集团的矛盾?“不满情绪持续高涨”难道不是两种不满:人民不满于社会主义被祸害,工农主人公地位的丧失,精英不满于社会主义还没有祸害干净!用所谓“官民对立激化和群体事件激增”就能掩盖阶级矛盾的激化?“灾难性的失控趋势”靠资本主义的“指鹿为鹿”就能解决?就能把矛头指向社会主义的“体制的落伍”? 7,人,人民和国家 “人是国家的主体,国家服务于人民,政府为人民而存在。” 精英的头脑里全都是一些似是而非的概念,一点社会科学的概念也没有。 在阶级社会里,阶级的存在就是社会的基本存在。人是划分为阶级的,按照马克思的定义,人是社会关系的总和,没有超阶级,超社会关系的人,人不是纯粹生物的人,而是社会的人。 “人民”也是一个有鲜明阶级性的概念,在不同的历史时期有不同的阶级内容。伟大的中国革命是人民革命,不能说是公民革命,四大家族也是公民,但他们是革命对象。我们的权力是人民给的,不能说是公民给的,相反正是对四大家族这样的公民的权力的剥夺。我们说“人民代表大会”是最高权力机关,而不能变成“公民代表大会”。“为人民服务”不能等同于为全民服务,不能等同于“以人为本”。 国家从来是阶级的国家,没有超阶级的国家,民主从来是阶级的民主,没有超阶级的民主。列宁干脆说,民主就是国家。在民主和专政关系中的民主不是民主和集中关系中的民主,不是少数服从多数的民主集中制的民主。“国家服务于人民”决不是超阶级的国家服务于全民,而是有阶级性的国家服务于有鲜明阶级性的人民!因此,人不是“国家的主体”,“国家的主体”是鲜明阶级性的人民! 8,民主不是什么“主权在民和民选政府” “民主:最基本的涵义是主权在民和民选政府。” 民主就是国家,列宁的定义是最本质最准确的定义。“主权”是国家对外的一个概念,是一个“国主”概念,一国的主权别国不容侵犯,不是一个“民主”概念。从民主就是国家的角度,也可以说“国主”就是“民主”,那么,资产阶级的国家是资产阶级的主权,无产阶级的国家才是人民的主权。 国家既是一个“民主”概念,又是一个“专政”概念,“民主”和“专政”不仅不互相排斥,而且还互相依存。民主的性质决定着国家的性质,而不仅仅是一个“选举”,“民选”只是民主的一部分,而不是民主的全部,甚至往往不是民主的本质,资本主义国家的“民选”恰恰是资产阶级民主的表象,掩盖着阶级性民主的本质。 “立法民主:各级立法机构由直选产生” 不仅“民主不等于民选”,而且所谓的“直选”恰恰是扭曲和取代“人民代表大会”的民主,凌驾于“人民代表大会”之上和剥夺“人民代表大会”的最高权力。 9,公民从来和永远不是真正的国家主人 “公民应该成为真正的国家主人” “公民”仅仅是一个法律意义上的概念,在不打官司的情况下,它没有任何意义,它是一个没有阶级性,只有国籍性的中性概念,因此,它甚至不是一个政治概念,它怎么能成为“真正的国家主人”呢?国家是阶级的国家,因此,统治阶级才是“真正的国家主人”。即使统治阶级再腐朽,只要没有推翻统治阶级的国家,统治阶级就仍然是“真正的国家主人”。如果说“应该”,最后应该是国家的消亡! 10,中国的根本出路 “实践自由,躬行民主,尊奉法治,才是中国的根本出路。” 单就“言论自由”而言。从精英对“文革语言”的极端仇恨上,对“不争论”的怀念上,对“顶住网络舆论的压力”的叫嚣上,我们看得到人民言论自由的影子吗?他们要的言论自由无非是精英话语霸权的自由,不受批判的胡说八道的自由! 所以“自由,民主,法制”的说教根本不是什么“中国的根本出路”!中国的历史告诉我们,西方的历史也告诉我们,只有社会主义能够救中国!只有毛泽东主义能够救中国!这是中国唯一的根本出路!这是历史的结论!人民的结论! 11,法权不是人民民主的基础 “为中国民主化奠定法权基础。” 没有超阶级的民主,更没有超阶级的“民主化”,讲民主就必须讲哪个阶级的民主!无产阶级的民主基础是武装的无产阶级自己,主要不是靠法制,主要是靠人民的群众运动,所谓“专政是群众的专政”,离开群众的运动就没有无产阶级的专政。所谓“法权基础”只能是资产阶级“民主”的基础。 资本主义取代封建主义是用法权取代君权,在这一个意义上,资产阶级的平等法权在历史上曾经有过一定的进步意义。但它也沿袭了金字塔式的等级法权。在社会主义社会里,等级法权和平等法权仍然存在,恩格斯称它为无产阶级不得不继承下来的“国家祸害”,列宁称它为“没有资本家的资产阶级国家”,它一方面是社会主义的一种“规范”,一方面是产生修正主义滋生资产阶级的土壤。因此,正是应该被利用和限制的,它怎么能成为人民民主的基础呢? 12,“三权分立”和在现代信息技术支撑下的“人民的直接普遍监督”比较起来就远远的落后了 “构建分权制衡的现代政府,保证立法、司法、行政三权分立。” “分权制衡”对于封建君权专制来说是一种进步,本质上是资本家阶级对国家权力的制衡。列宁揭露说,资本主义的重大决策都是幕后做出的,三权分离只是一种外表,“议会”只是“清谈馆”,法律总是被金钱所左右。对于无产阶级来说,对于人民民主来说,根据巴黎公社的经验,正是要变“清谈馆”为国家的监管立法和行政的工作机关。我们的“人民代表大会”并不是单纯的立法审议,而是兼管立法和行政的工作机关,国务院不是人民代表大会以外的独立机构,而正是“人民代表大会”下设的“工作机关”,执行人民代表大会的立法,并接受人民代表大会的严格监督。我们应该完善人民的直接普遍的监督,而不是用资产阶级的“三权分立”取代它。“三权分立”和在现代信息技术支撑下的“人民的直接普遍监督”比较起来就远远的落后了。 13,不能用“对纳税人负责”取代“对人民负责” “政府应对纳税人负责” 纳税人的主体是有钱人,难道对身无分文的穷人就不负责了吗?所谓“对纳税人负责”是一种金钱关系,国家是赋税养活的,好象理应为纳税人负责。但是,无产阶级专政的国家和人民的关系不是一种金钱关系,而是一体的关系,在公有制的计划经济下,曾经并不纳税,“为人民负责”鲜明体现了国家的人民性和阶级性。而所谓“对纳税人负责”正是要抹杀国家的阶级性,还赋予了人民养活资产阶级国家的“合理性”。 14,为什么要回复资产阶级国家的老路 “司法独立:司法应超越党派” 资本主义国家的所谓“司法独立”是表象,在金钱面前并不“独立”,绝对地维护有钱人的利益! 无产阶级专政的国家性质决定了必须由无产阶级来领导,而无产阶级的领导又必须由共产党的领导来体现。国家是无产阶级的工具,国家意志只能体现无产阶级的意志,共产党的意志,而不能超越无产阶级,超越共产党的领导。党既在法律的规范下活动,同时又领导国家,这就是无产阶级专政的国家和党的关系的辩证法。人民已经找到了无产阶级专政的新路,为什么要回复资产阶级国家的老路呢? 15,国家从来是阶级的工具,而不是什么“公器” “公器公用:实现军队国家化,军人应效忠于宪法,效忠于国家,政党组织应从军队中退出,提高军队职业化水平。” 精英的所谓“军队国家化”,就是要摆脱共产党的领导,改变军队的无产阶级性质。“军人应效忠于宪法,效忠于国家”,本质上是应效忠于无产阶级。“党指挥枪”是中国革命的基本经验,毛泽东思想就是党魂,军魂,国魂,所谓“政党组织应从军队中退出”就是要否定“党指挥枪”的原则,抽掉解放军的军魂!这不是提高解放军的水平,而是降到资产阶级的雇佣军的水平上。 16,用总统制取代党的集体领导下的分工负责制 “各级行政首长的直接选举” 实际就是要用“大选民主”代替“人民代表大会”民主,就是要用总统制取代党的集体领导下的分工负责制。前苏联就是戈巴搞总统制葬送苏联的。 17,所谓“政党政治正常化和法制化” “取消一党垄断执政特权,确立政党活动自由和公平竞争的原则,实现政党政治正常化和法制化。” 虽然修正主义已经把无产阶级专政糟蹋成不象样子了,但那不是无产阶级专政的错。只有无产阶级专政才是唯一真正的人民民主,而一切剥削阶级的专政才是用“民主”包装的真正的垄断,真正的特权!无产阶级的政治是共产党领导的阶级斗争的政治,只有资产阶级的虚伪政治才是所谓“政党政治正常化和法制化”。 18,所谓“普世价值” “推广以普世价值和公民权利为本的公民教育,确立公民意识,倡导服务社会的公民美德。” 社会存在决定社会意识,阶级是基本的社会存在,阶级意识也就是基本的社会意识。或者是无产阶级的阶级意识,人民意识,或者是剥削阶级的意识,没有什么中性的所谓“普世价值”的“公民意识”“公民美德”“公民权利”“公民教育” 19,要公有制主体还是要倒退回私有制? “财产保护:确立和保护私有财产权利” 精英并不满足“物权法”的强行通过,他们要实现彻底的私有制,背叛“共产党宣言”中“消灭私有制”的目标。 “开展新土地运动,推进土地私有化,切实保障公民尤其是农民的土地所有权。” 他们不仅要清算合作化和人民公社,而且要清算土改运动,清算整个中国革命! “降低金融准入门槛,为发展民间金融创造条件,使金融体系充分发挥活力。” 还要金融私有化,把国家金融主权出卖给外国以后成为金融买办化! 20,用“中华联邦共和国”推翻“人民共和国” “在民主宪政的架构下建立中华联邦共和国。” 从国家性质到国家名称统统都要改变! 如此反革命倒行逆施,被精英称为什么“转型正义”!这是赤裸裸反人民,反进步,反社会主义的倒退,复辟,非正义! 他们急不可奈地喊出“政治民主化变革不能再拖延下去”。他们要狗急跳墙,孤注一掷了。 21,所谓“公民运动”无非是以霸权主义为黑后台的“颜色革命” “积极参与到公民运动中来,共同推动中国社会的伟大变革,以期早日建成一个自由、民主、宪政的国家,实现国人百余年来锲而不舍的追求与梦想。” 所谓“公民运动”无非是以霸权主义为黑后台的“颜色革命”。中国人民已经觉醒,这种理论上充满荒谬,实践上极其反动的什么“2008宪章”欺骗不了中国人民!精英“换装”之日,所谓的“公民运动”发动之日,也就是中国人民真正的革命运动发起之时,也是中国修正主义买办卖国势力灭亡之时!他们的“自由、民主、宪政的国家”不过是美国和中国的卖国精英的一个美梦!他们的目的是不会得逞的!中国人民不会放弃社会主义的历史选择,他们将会用生命捍卫社会主义,捍卫毛泽东思想的旗帜!
https://w.atwiki.jp/kameyama2011/pages/70.html
亀山研ゼミ 輪読 亀山純生『現代の「宗教」を問いなおす』大月出版2003 2011/05/30 駒津弘和 第3章 現代日本の宗教の人間的意義(p83~) 3 宗教的問題解決の固有の論理と宗教の現代的魅力(p109~) 前節まで →宗教の人間的意義を人間的欲求・願望の実現可能性に見る視点は、非宗教的な実現可能 性を認めることでもあった。 ここではそれを踏まえ、現代での意義を理解するため、宗教的実現の固有の特徴は何か、 また宗教が果たしうる特別の意義はあるのかを考える。 欲求の宗教実現の本質的な一次的特徴 主に2点(宗教の定義と関係する←第2章参照) Ⅰ、超自然的超人間的存在(超越者)の人間(人間生活とその基礎としての自然)に対する威力 への信仰を中核とする観念・表彰・感情に基づく象徴的行為・儀礼のシステムである。 Ⅱ、諸個人において、欲求の実現が超越者の威力によって可能となるという認識の点で、 そしてこの威力の発現のための象徴的行為・儀礼に関与する点で、非宗教的実現と区 別される。 ⇔この2点を同時に満たさない場合は非宗教的実現である。 Ex)平和を願って鳩を放つ象徴的行為、成人式・結婚式などの儀礼的行為 →そこに超越者の威力の観念が関わらない限り、宗教行為ではない。 ⇒欲求の宗教的実現の基本型は、神話などの固有の表象・観念世界において祈祷などの象 徴的儀礼的行為を通じて超越的威力が生活にもたらす奇跡という構造においてなされる ということ ※留意すべき点 ①諸個人が現代日本社会を生きる上での意義である ②宗教の固有の二つの特徴と必然的に結びついた二次的特徴や意義であっても、論理的に は非宗教的形態でも可能であるものも含まれる ③現代日本の諸宗教が多元的であるため、宗教の固有性と結びついた二次的特徴も意義も 多元的に見ざるを得ない 当事者への直接的応答性と安心(立命) 宗教の二次的特徴と現代的意義 Ⅰ、個人であれ集団であれ願望・欲求・苦悩する当の主体に直接応答すること (直接的応答性、当事者主義) →超越的存在が私(たち)自身に解決を明示するという特徴 ①超越的存在が、一人ひとりの当の主体の現在進行形にある苦悩・欲望を聞き入れ正面から取り上げてくれる ②超越的威力にあずかるため、当の主体の象徴行為・儀礼への直接的なかかわりが不可欠である ③結果(実現またはその保証)が、最終的には当の主体自身によって確認される →これらは宗教ならば必ず含んでいる特徴である ⇔非宗教では、日常の些細な欲求を除く一身上の問題ないし生の全体に関わる問題につい ては、上の3つを含む直接的応答性はほとんど確保されない。 Ex)病気その他多くの社会生活上困難←因果関係での解決 文学作品に触れる←偶然の結果 →そのため、システム化され人間疎外が深まり非宗教的な問題解決が個人に疎遠になる中 で、このような看板を掲げる宗教の特徴は一層鮮明に見えてくる。 Ⅱ、諸個人の不安の解消を不可欠の契機とし、安心(立命)の確保である (世界観宗教、信仰対象の母性化(阿弥陀信仰、観音信仰)、仲間意識の強調など、また 霊術系宗教、ご利益信仰なども) →現実には問題解決に至らないものもあるが、それでも超越的存在の直接的応答ゆえに、 問題解決の確実性とそのためのプロセスが示されることが無意識のうちにも不安の解消 となる。 これは、問題の程度や深刻さに限らず些細な不安でも宗教的解決によって小さな安心を 得ている。(初詣、地鎮祭など) 脱科学的論理と共感・癒し・希望の論理 Ⅲ、超越的威力を媒介する宗教の問題解決の論理は、科学的因果性の論理とは異なる独特 のものである 宗教の論理の本質→“納得の論理”、“自己了解の論理”=レトリックの論理 これらの“論理”にとって超越的威力がもつ“積極的な”意義 + 脱科学的論理とは、具体的に何があげられるか? インド仏教における因縁の論理。因→縁→果 偶然性を重視。 近代は「因果性の論理」にばかり焦点をあわせてきた。 しかし、「筋道立てて考えること」は必ずしも、因果性の論理ともれなく重なるわけではない。(ex.「私はなぜここにいるのだろうか?」という問いに対して、たとえばアリストテレスなら目的因を持ち出してくるだろうし、ライプニッツなら充足理由因を持ち出して説明するだろう) ①問題の宗教的解決と納得・自己了解にとっての共感と癒し →共感者が超越的存在であることで、共感は“絶対的”になる。(Ⅰ-①と関連) →これによって宗教的解決は半ば達成、苦悩も半ば癒される。 ②問題の宗教的解決のためにもつ宗教独特の“希望の論理” →欲求・願望の実現の絶対的確実性を強調した宗教もあれば、逆に欲望自体の否定を 説くものもある。しかしこれはともに“希望の論理”を持っていることに変わりな い。(例えば仏教の悟り・涅槃という目標) 神話の論理のリアリティ ③神話や物語が納得と了解にとって持つ有意義な論理 →従来、迷信・虚妄と片付けられた神話・物語には、多様な経験的事象を意味づけ自 己と関係づける“論理”が存在する。(“生まれ変わり”のモチーフ) →日常経験の世界での分かりやすい“関わり”を手がかりに、神話・物語はリアリ ティを持って共感・共有され、それが人々の生にとって様々な意味をもたらす。 ※このような意味づけと関係づけの脱科学主義的な論理がいかに諸個人の納得と 了解の論理につながるかは今後の課題(河合隼雄ら、A.ベルク) 偶然性の必然性への転化の論理 ここに超越的威力の媒介の最大の意義があり、問題の宗教的解決の最大の独自性がある。 ↑ 人間にとって生活上の苦悩は多いが、了解しがたいものは“偶然性の不条理” →諸個人は一身上に関わる何らかの必然的結果と納得し了解することで、人は一身上の出 来事を“絶対的に受容”する。 →その問題に正面から主体的に向き合う力を獲得する。 (科学的論理とは別次元の意味的了解の論理、目的論的因果性の論理) ⇒生の意味づけや一身上の出来事の自己了解は宗教に限ったことではない。しかし宗教の 固有性は目的論的因果性の論理による納得と自己了解であり、生きがいの難しい現代で、 その役割は小さくないのでは。 4 現代日本の宗教の社会的意義(p121~) 宗教の社会的機能という視角から宗教の現代的意義を補足 現代宗教の社会的意義 Ⅰ、商品の論理の全社会システム化とその深刻な疎外のダメージを和らげ、危機にひんし ている自己性を確保する →その中で特に人間的受苦の解消と心身の癒しがその危機へのクッションの役割を担う。 =宗教の商品社会における補完的機能(消極的なイデオロギー機能) Ⅱ、商品社会の補完以上の社会的意義 ←商品社会における人間疎外は社会の自壊だけでなく、それを作りかえる基礎的な人 間力そのものを解体するため。 Ⅲ、現代の宗教は近代社会と近代思想において自明のこととして社会生活における私的領 域の意義を注目させ、その確保に寄与 →Ⅱと関連して、私が裸のままで私として生きられる等身大の意味空間の確保。 ⇔個性をゼロ化し、自己を商品価値として高め、“まなざし地獄”の中で生きる。 Ⅳ、あるタイプの宗教は商品社会システムにおけるアジール(避難場所)となる →ハーバマス風で言うとシステムへの抵抗点となる。(佐藤和夫、大村英昭) Ⅴ、伝統的宗教や儀礼的宗教は、社会的規範が空洞化し人間の孤立化の中で緩やかなつな がりを伝統的型に頼る風潮とともに、社会的結合の契機となり、また伝統的文化の継 承の媒体ともなる 問題の宗教的解決と非宗教的解決の等価性 確認:宗教の人間的意義としての問題の解決は宗教の専売特許ではなく、非宗教的にも可 能。(受験成功願望、病気の克服など) →それだけでなく、現実的にも非宗教的解決の道は開けてきている。(河野2002)(フリ ースクール、心理療法、カウンセリング、セラピーなど) ⇒同じ問題が基本的には非宗教的にも解決可能だという視点によって、宗教の現代的意義 がよりリアリティを持つ。また両者の緊張関係ないし差異の中でより明確化し、理論的 実践的に問われ続けるのである。 宗教的問題の非宗教的解決の特徴 Ⅰ、宗教と同じ問題の非宗教的解決を科学的技術的解決や科学主義的な合理的解決に還元 しない Ⅱ、歴史的出自は過去の宗教に由来する思想や振る舞い、その意味で宗教的遺産であって も、そこに超越的威力に関わる象徴行為がなければ、宗教と言わない Ⅲ、文化や人間の営みには宗教と非宗教の共通する側面が多く、それゆえ両者の境界事例 ないし中間現象が多く存在する ⇒Ⅰ~Ⅲで宗教的解決と分ける重要なことは、超越的威力への信仰行動の有無である。 + 宗教的解決と非宗教的解決が等価性をもつような問題の水準とはどのようなものか? 宗教的解決と非宗教的解決が等価性をもつような問題の水準とは認識論的水準のみなのか? (ex.心身症にかかってしまった人に対して、薬理療法で治そうとするのと、「それも神があなたに与えた試練です」という言葉で治そうとすることの違い。後者においては、一人一人の困難について、焦点が当てられているところに注意。受苦的存在として人間をとらえるフォイエルバッハとの関連性) 宗教でないと解けない問題はないが、宗教でないとできない問題の解き方がある。 ↓ ※最後のまとめでもう一度、この部分は論じられる必要がある。 一ヒラ文化としての宗教 宗教の固有の意義の位置付け 宗教は現代の諸個人の問題を解決する現代人の社会的文化的活動の一環であり、あえて強調すれば、現代においては宗教は事実的にも価値的にも“一ヒラ文化”である(亀山・中西他1996) ⇒問題はどれだけ宗教固有の仕方で現代人の問題解決に寄与しているか (同時に宗教は超越的威力を固有の観念装置であるかぎり、本質的に人間抑圧の可能性 をもつ=宗教の両義的可能性) →批判とともに次章へ
https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/148.html
1 はじめの一歩 2 無限論と実在論 3 ゼノンのパラドックスの終着点 4 カントによる無限批判 5 形而上学無限の不可能性 6 物理学による形而上学的無限の回避可能性 7 数学的無限と形而上学的無限の不調和 8 結論――実在論の最期 9 無限の派生問題 1 はじめの一歩 人生の道を一歩踏み外せば奈落に落ちる。僅か一歩には生死を分ける重大さがある。それは学問の道でも同様であろう。しかし哲学での無限についての議論では、その一歩の重大さが忘れられているように思える。はじめの一歩を踏み間違えていたなら、その後いくら懸命に歩を進めようと間違った地に行く着くしかない。 ゼノンのパラドックスは二千年以上にわたって夥しい学者たちが反駁を試みてきたが、今日でもなお議論が続いており、未だ万人が納得する解決法が発見されていないように思える。大森荘蔵は、ゼノンの主張は詭弁であるという前提からパラドックスのトリックを見つけようとしてきた学者たちの試みは「ことごとく失敗した」と判定している(*1)。彼らが失敗したのは、はじめの一歩を踏み間違えたからなのではあるまいか。私は改めて、無限論の最初の一歩から考察し直してみたい。 私がこれから道路を歩くとする。その場合、次の前提がなければならないはずである。 [前提A]: 道路には私の足に踏まれる可能性のある全地点が、あらかじめ存在している この前提は当たり前である。私の足に踏まれる可能性のある全地点が、あらかじめ存在していなければ私は歩くことはできない。存在しない場所を歩くような器用なことは曲芸師でも魔法使いでも出来はしない。仮に私が 10メートルの長さの道路を 20歩で歩いた場合は 20の地点が存在してたということになる。一歩の平均歩幅は 50センチである。なお数学や物理学では「地点」ではなく「位置」という語を用いるのだが、ここでは「何かが存在可能な位置」、あるいは「何かが通過可能な位置」という存在論的な意味を含ませて「地点」という語を用いる。また同様のニュアンスで時間上の位置については「時刻」ではなく「時点」を用いることにする。 では、その道路に存在している地点の数は 20個だけだろうか。そんなわけはない。私は一歩 50センチだけでなく、25センチの歩幅で歩くこともできる。ならばその 25センチの歩幅に対応した合計 40個の地点が、私が歩く前からあらかじめ道路に存在していることになる。存在していなければ私は 25センチの歩幅で歩くことができないが、そんなことはないはずだ。さらに私は一歩の幅を 5センチにすることも 3分の 1ミリにすることもできる。論理的な問題として、1メートル以内であれば私はどんな歩幅でも任意に選んで歩くことができる。重要なのは 1メートル以内であれば「歩けない幅」がないということだ。つまり可能的な歩幅の数は無限である。そして可能的な歩幅に対応する地点は全て現実に存在していなければならない、という事実から必然的に次の前提が導かれる。 [前提B]: 道路には無限個の地点が存在する しかし無限とは、限りや終りがないという意味である。たとえば自然数は無限にあり、終わりの数がない。アリストテレスは無限を「通過できないもの」と定義した。これは説得的である。無限のものを通過するというのは自然数を全て数え終わるというに等しいナンセンスである。無限の地点があるとするなら、そもそも通過すべき「最後の地点」を想定することができなくなる。それは自然数の「最後の数」を想定するに等しいからだ。したがって次の結論が導かれる。 ([前提A]と[前提B]より) [結論C]: 私は一歩も歩くことができない どのような歩幅にせよ、その一歩が無限小でなく有限の幅ならば、その幅には無限の地点がある。無限の地点を通過することはできないから、私は一歩も歩けない。「無限の地点を通過する」というのは「自然数を全て数え尽くす」、あるいは「終わりの無いものが終わる」というに等しい矛盾だからである。 もちろん以上の論述はゼノンのパラドックスを変奏したものである。まずここで確認しておくべきことは、[結論C]は純粋に論理的な結論だということであり、経験的なものでないということである。世の大半の人はこのような論理的問題など意に介さず、現実に一歩、また一歩と足を繰り出して道を歩いている。「正当に思われる論理が現実と矛盾する」――これを「パラドックス」というのである。そして問題は人々の日々の「一歩」の正体とは何であるか、ということになる。 一般論として、或る主張がパラドックスに陥る原因には、次の二つが考えられる。 [原因1]: 論証の方法に間違いがある [原因2]: 論証の前提に間違いがある ゼノンの論証方法に間違いはなく、パラドックスの原因は論証の前提にあると私は考える。論証の前提を否定するなら、私は普通に道路を歩くことができるし、ゼノンのパラドックスも「パラドックス」ではなくなる。その前提とは、「無限」が実在するということである。そしてパラドックス解消のために無限の実在を否定するということは、必然的に無限分割の根拠となっている時間と空間の実在性を否定するということに繋がらざるを得ない。それはまた形而上学的実在論という、一つの哲学的立場を否定することでもある。 ゼノンのパラドックスは有名であるにもかかわらず、その本質を理解している者は一部の哲学者に限られている。このパラドックスは「実在」という形而上学の根本的問題を焦点としている。ゼノンの主張の要点は、実在論を前提にするならば、時間や空間は無限分割可能であり、無限の地点や時点が想定されるため運動が不可能になる。それゆえに、無限分割の根拠となる時間と空間(そして時間と空間によって構成されている現象世界)は実在ではない、というものである。 重要なことであるが、ゼノンは存在の無限分割が可能だと主張したのではない。無限分割とはゼノンの論敵の主張であり、ゼノンのパラドックスとは「相手の主張が正しいならば不合理に陥る」という背理法なのである。ゼノンの標的は、世界が「多」からなると主張していたピタゴラス学派などによる多元論と実在論であり、それらへの批判によって師であるパルメニデスの、「一」のみが存在し、感覚が捉える現象世界の多様性と運動は錯覚のようなものであるという、反実在論的な一元論を擁護しようと試みたのである(もっともゼノンは時間と空間の非実在を明示的に語ってはいない)。 ここで二つの道が示されたはずである。一つはゼノンとエレア派の哲学を否定する実在論の道である。もう一つはゼノンとエレア派の哲学を肯定する反実在論の道である。実在論では時間と空間の無限分割を受け入れることになる。反実在論では時間と空間の実在性を否定し、当然それらの無限分割も否定する。ゼノンに反駁を試みて失敗した夥しい人々は、最初の一歩を実在論の道に置いたことがそもそもの間違いなのだと私は考える。 ゼノンのパラドックスの解決法としてよく用いられる方法は主に次の二つである。 [方法1]: 無限級数の収束や極限という数学的概念を用い、無限のステップを完了できると考えること。 [方法2]: 可能的無限の概念を用い、無限のステップとは人の意識の内に可能的にあるだけであり、現実には存在しないと考えること。 いずれの解決法にも問題がある。[方法1]は数学者や物理学者がよく用いるが、この方法の問題点は無限のステップを完了するということが現実世界にあり得るか、ということである。「無限」とは「限りが無い」という意味なのだから、「無限のステップを完了する」とは「終わりなの無いものが終わる」というに等しい語義矛盾であるからだ。その矛盾を直観する哲学者たちが用いるのが[方法2]であるが、この方法の問題点は地点や時点といった概念的なものは人の認識に先立って存在しているのではないか、ということである。私が冒頭で自分が歩くことが可能な地点を考えたのはそれを示すためである。もし地点や時点が認識に先立って存在するならば、それらは有限個であることはできず、無限個というしかない。そして無限のステップを完了させることはできない。 [方法1]と[方法2]はいずれも失敗していると私は考えている。無限のステップというものは現実にはあり得ないので、無限級数の収束ということでパラドックスを解決しようとする[方法1]は間違っている。そして実在論を前提にするならば、冒頭で例として述べたように、私の可能的な一歩の幅の数が無限であることに対応して、地点というものは「無限個ある」というしかない。したがって実在論を前提にする限り[方法2]も間違っているということになる。 [方法1]と[方法2]は、いずれも「実在論を前提とする限り」という条件付での間違いであることは留意する必要がある。私の立場は、実在論を前提にするならば運動は不可能であるというゼノンの主張を肯定するものであり、つまりは時間と空間の非実在(反実在論)を主張するものである。反実在論ならば無限の地点や無限のステップを想定する必要がないからだ。たとえば現象主義というラディカルな反実在論の立場から「アキレスと亀」のパラドックスを解決するならば次のようになる。 アキレスと亀が競争を開始するという[現象]があり、アキレスが亀に接近するという[現象]があり、アキレスが亀に追いつくという[現象]があり、アキレスが亀を追い越すという[現象]がある。 [現象]の数は有限個であるゆえに、何のパラドックスも不思議もない。 もちろん、実在論は不合理だから反実在論を選択すればよいという単純な問題ではない。実在論と反実在論には天国と地獄ほどの、それこそ無限に思える懸隔がある。哲学において実在論の立場を放棄して反実在論を選択するということは、「心の外部に世界が存在している」という信念のコペルニクス的転換を行うということであり、巨大な派生問題を受け入れるということでもある。なお実際に、無限についての問題をきっかけに反実在論を選択し、「認識のコペルニクス的転換」を行ったのが後述するイマヌエル・カントである。 無限の概念にはさまざまあるが、以下の五つは無限を論考する際に念頭に置くべき概念である。 [現実的無限]: 無限の何かが現実に存在するとし、加算や分割を無限に続けたものとしての、無限小や無限大の概念に対応する存在があるとする。アリストテレスの用語である。実無限ともいう。可能的無限の概念と対比させられる。 [可能的無限]: 無限とは加算や分割を「無限に続けることが可能である」という意味だと考え、それを現実に無限に続けたものとしての、無限小や無限大の概念に対応する存在はないとする。アリストテレスの用語である。可能無限ともいう。無限とは操作についての概念であり、存在に対応した概念ではないということである。 [数学的無限]: 数学的対象は現実的無限であるとする。A.W.ムーアの用語であるが、カントの無限論を元にした概念である。数学の世界ではカントール以降、可能的無限ではなく現実的無限が優勢である(*2)。物理的無限や形而上学的無限の概念と対比させられる。 [物理的無限]: 物理的世界は現実的無限であるとする。抽象的な数学的無限に対し、存在論的な無限である。数学的無限を認めても物理的無限を認めることには繋がらない。次の形而上学的無限と類似の意味である。 [形而上学的無限]: 実在は現実的無限であるとする。A.W.ムーアの用語である。物理的無限と類似の意味であるが、形而上学的無限は「実在」を対象としているので形而上学的な含意が強い。物理的無限には形而上学的含意はないが、しかし物理学そのものが形而上学に繋がっているので、両者の境界は曖昧である。 無限の有無が問われる対象には、「数学的なもの」と「物理的なもの」に大別でき、さらに物理的なものは、分割による「時間の無限小」と「空間の無限小(その無限小に対応した物質存在)」、そして加算による「時間の無限大(または無限の因果系列)」と「空間の無限大」に分けられる。 時間や空間の無限分割の可能性と、無限の物理的部分が存在する可能性と、地点や時点という概念的なものが無限に存在する可能性は、それぞれ連関しあっているが異なる問題であり、それらは慎重に論じ分けるべきものである。 私は可能的無限の立場である。以降は形而上学的無限が不可能であること、にもかかわらず実在論では形而上学的無限を認めざるを得ないこと、従って実在論が破綻すること、すなわちゼノンとカントの主張が正しいことを論じていくことになる。 重要なことであるが、実在論の立場では数学的無限を除いて、物理的・形而上学的なものの無限はただの一つでも認めることはできない。「無限」とは加算や分割の行為に終わりがないという操作に対応した概念であって、存在に対応した概念ではない。「無限の何かが存在する」というのは語義矛盾である。矛盾したものは存在しない。したがって無限の物理的・形而上学的存在を認めざるを得ないことは実在論の破綻を認めることになる。 無限論においては、地点や時点という概念的なものが、人の認識作用に先立って存在しているか否かが最大の論点である。もし地点が認識に先立って存在するのなら、冒頭で論じたように私の一歩の幅にも無限の地点が存在すると考えるしかない。したがって実在論は阻却され、必然的に反実在論が帰結することになる。 地点とは物理的世界にあるのではなく、人間の思惟のみに属する「イデア的な存在」(山川偉也)という考えが一般的である。しかし実在論を前提にするならば、その概念的な地点が存在すると考えるしかないこと、またそもそも実在論とは何かという問題を、次節で論じることにする。 2 無限論と実在論 私の前にテーブルがある場合、そのテーブルは私が見ていなくても存在しているし、なおかつ、そのテーブルはほんとうに私が見ている通りに存在している、と考えるのが実在論である。 逆に私の見るテーブルは、私が見ていないときは存在しているかどうかわからない、または、そのテーブルはほんとうに私が見ている通りの姿で存在しているかどうかわからない、と考えるのが反実在論である。 人は誰しも実在論者である。自分が見ていなければ物事が存在しないと考えるなら生活が不可能になる。ただしこのような実在論は実用的実在論とか素朴実在論と言われるものである。それらは生活の手段であって、哲学における存在論としての実在論ではない。存在論としての実在論は、形而上学的実在論や科学的実在論と呼ばれる。 では形而上学的実在論や科学的実在論とは何か。これにはさまざまな定義があり、論者によって実在論に必要だとする条件の定義は異なっている。ここではヒラリー・パトナム、ジョン・サール、戸田山和久、中山康雄の定義を参照してみる。 ヒラリー・パトナムは形而上学的実在論の主張を次のように特徴付ける(*3)。 [特徴1]: 世界は、心から独立な対象のある固定された総体から成っている。 [特徴2]: 「世界の在り方」についての真で完全な記述がただ一つ存在する。 [特徴3]: 真理は、語または思惟記号と外的な事物や事物の集合との間のある種の対応関係を含んでいる。 ジョン・サールによる形而上学的実在論についての論考(『社会的現実性の構成』1995)を、中山康雄は次のように整理している(*4)(以下要約して引用)。 [外部世界に対する実在論]: 実在は、私たちの表象とは独立に存在している。 [特権化された概念図式]: 実在を記述する唯一の概念図式が存在する。 [真理の対応説]: 信念や言明という表象は、事物が現実においてどのようなものかを表象するためのものである。表象が真なのは、それらが現実における事実に対応しているとき、かつ、そのときに限る。 戸田山和久は科学的実在論の主張を次のように特徴付ける(*5)。 [独立性テーゼ]: 人間の認識活動とは独立に世界は存在する。 [知識テーゼ]: 人間は科学によって世界の秩序について知ることができる。 中山康雄は科学的実在論を次のように特徴付ける(*6)。 (a)[外部世界に対する実在論]: サールの[外部世界に対する実在論]と同じ。 (b)[特権化された概念図式]: サールの[特権化された概念図式]と同じ。 (c)[真理の対応説]: サールの[真理の対応説]と同じ。 (d)科学は世界についての特権化された概念図式を把握するという目標を持っており、この目標に絶えず近づいていく。そして、この目標に到達したときには、科学は世界についての究極的真理を表現できる。 なお形而上学的実在論と科学的実在論の相違は、科学的実在論は自然科学についてのテーゼだということである。科学的実在論は形而上学的実在論の一種だと考えてもよい(以下双方を「実在論」と略す)。 四人の論者に共通する実在論に必要な条件は以下の二つになる。 [条件1]: 外部世界の実在 [条件2]: 真理対応説 上記二つは「実在論の二つのドグマ」と呼ぶべき、実在論が実在論であるためのミニマルな条件である。「外部世界の実在」とは、人の心から独立して物質や世界は存在しているということである。パトナムの[特徴1]と戸田山の[独立性テーゼ]もこれに該当する。逆に存在するとは人に知覚されることであると考えるのがバークリーの観念論になる。「真理対応説」とは、人の物質や世界に対する認識は、実在する物質や世界の在り方と正しく対応しているという説である。パトナムの[特徴3]と戸田山の[知識テーゼ]もこれに該当する。逆に人の認識は実在と正しく対応していないと考えるのがカントの超越論的観念論である。 [条件1]と[条件2]が不可分なのは明らかであると思える。たとえば富士山は標高 3776メートルと人に認識されているが、真理対応説を拒否して「人の認識から独立自存する富士山の高さは 37センチかもしれない」という可能性を認めるならば、それは「人の認識から独立自存する富士山の高さは 0センチ(無)かもしれない」と空間の非実在の可能性を認めるに等しいことである。 実際、カントは時間と空間の実在性を否定して現象から独立した「物自体」を措定したが、それは後のドイツ観念論者たちやショーペンハウアー、ニーチェらによって「精神」や「意志」などの、現象や表象をもたらす抽象的な能力へと還元的に解釈された。カントの物自体は実体的なものでなく、単に現象をもたらす抽象的な法則のようなものだと考えても不都合がない。要するに真理対応説を拒否して空間が実在しない可能性を認めるならば、「外部世界の実在」ということにほとんど意味がなくなるわけである。 [条件1]と[条件2]は不可分であり、実在論の必要条件であると考えて間違いはない。なお近年の科学哲学における実在論論争では、素粒子や重力や因果関係など、知覚経験が不可能なものの実在性が焦点になっており、太陽や電車やリンゴなど、知覚可能なものの実在性は最初から前提されており、議論にさえなっていない。それゆえに反実在論の立場に分類される「構成的経験主義」のように、外部世界の実在を認めた上で真理対応説については、観察可能なものについては認めるが、観察不可能なものについては認めないという複雑な立場が現れることになる。ともあれ、ここでは「反実在論」を上述の[条件1]と[条件2]のいずれか、または双方を認めない立場だとして論じることにする。 アリストテレスはゼノンのパラドックス――無限分割を逆用した運動の非実在の論証に対して、無限は可能的なものであって、現実的なものではないと考えることで解消しようとした。つまり分割するとか地点を想定するとかいうのは人の認識作用に属するものであって、運動そのものに属するものではないということである。アリストテレスによる可能的無限と現実的無限の区別は後の哲学者たちにも採用された。可能的無限の概念に基づけば排中律を拒否することによって無限についての様々なパラドックス(後述するトムソンのランプなど)を回避することができるからだ。 今日でもアリストテレスを援用し、無限は可能的であるが現実的ではないという論法でゼノンのパラドックスを解消しようとする者は多い。しかし可能的無限という概念は、「外部世界の実在」と「真理対応説」という実在論の必要条件を満たしていない。つまり可能的無限とは反実在論的な論理であり、これは「実在論を前提にするならば無限の地点が想定されるので運動は不可能になる」という、ゼノンの背理法を論駁したことにはならない。 むしろ世界の現実的無限、つまり形而上学的無限は不可能であり、可能的無限しか認められないという主張はゼノンの主張を肯定するものである。そもそもゼノンのパラドックスとは、時間と空間が「もし実在するならば」という前提で、時間と空間は思考の上で無限分割が可能であるが、現実に無限が存在するなら運動が不可能である、という主旨の背理法である。したがってアリストテレスの可能的無限と現実的無限の区別はゼノンの分類に倣ったものであるともいえるし、ゼノンの反実在論と紙一重ともいえるのである。 ここで可能的無限がイコール反実在論であり、形而上学的無限がイコール実在論であるこを明確化するために、再び私が道路を歩く場合の前提を確認してみたい。 [前提A]: 道路には私の足に踏まれる可能性のある全地点が、あらかじめ存在している 「あらかじめ」という部分が重要である。実在論では、存在するものは人の認識に「先立って」存在するのである。これが実在論の第一条件である「外部世界の実在」ということである。私が道路の或る地点を踏んでからその地点が存在を始めるのではない。踏む前から踏まれる可能性がある地点が存在していなければ私は歩けない。「存在しない地点を歩く」などというのは「猫が消えて猫の笑顔だけが残った」と言うに等しい不思議の国のナンセンスである。 「道路」というものは一定の空間を占める。「空間」というものは意味として既に連続体であることを含意しており、無限に分割と延長が可能である。たとえば「1メートル」は意味として「2メートル」や「5センチ」の存在可能性を含意している。空間の実在を認め、実在論の第二条件である「真理対応説」を認めるならば、空間に無限の部分があることを認めるしかない。私が長さ 10メートルの道路を歩幅 50センチで歩くことができるならば、私の足に踏まれるであろう 20の地点が踏まれる前から存在している。――この事実から、25センチで歩く場合の 40の地点も、5センチで歩く場合の 200の地点も、演繹的に推論できる。そして推論された地点の数は現実に存在する。 私は 10メートルの歩幅で歩くことはできないが、1メートル以内であれば任意の歩幅で歩くことができる。また 1メートル以内のどのような歩幅をも私は思考でき、思考した歩幅によって現実的に私は歩くことができる。歩くことができるのは歩幅に対応した地点が現実的に存在しているからである。存在していなければ私は歩くことができない。そして可能的な地点は思考される以前に現実的に存在している。なおかつ人に思考可能な歩幅の数が有限個であることはできない。たとえば「5万分の 1センチ」はありうるが「5億個の 1センチ」はありえないということはできない(実際にはそんな高精度で歩くことはできないが、ここでは論理的可能性を認めれば良い)。可能的な歩幅の数は無限である。したがって「無限個の地点」があるというしかない。 以上で、実在論では認識に先立って「地点」というものの存在を認めるべきことが明確化されたはずである。また同様の論法は無限の分割だけではなく、無限の加算にも用いることができる。実在論では空間の無限大も認めるしかない。そして「時点」についても同じことである。時間もまた無限分割可能になり、そして(過去に対して)無限の延長が可能になる。実在論では論理的な問題(物理的な問題ではない)として、空間の無限小、空間の無限大、時間の無限小、時間の無限大という、四つの無限の対象を認めるしかない。 実在論者が以上の論法に反駁する方法はただ一つであると思える。0ミリ以上、1メートル以内で、私が歩けない歩幅をただの一つでも挙げてみることである。 無限については、実在論では可能性と現実性が一致する。可能態としての地点は全て現実態として存在しているといってもよい。実在論は形而上学的無限を認めるしかない。もし可能態が現実態と一致しないというなら反実在論である。可能的無限という反実在論に基づく論証で、ゼノンの反実在論を論駁しようとしたアリストテレスの試みは成功していない、というより無限の実在を否定したことによってゼノンの議論を補強しているようにも解釈できる。次節ではそのアリストテレスの議論を含め、ゼノンに反駁を試みて失敗した人々の説を見ていきたい。 3 ゼノンのパラドックスの終着点 まず無限論のパイオニアであるゼノンの背理法――四つのパラドックスを確認しておく。 第一パラドックス「二分割」の概略はこうである。 地点 Aから地点 Bに移動するためには、その距離の半分の地点 1を通過しなければならない。地点 1に行くためにはその距離の半分の地点 2を通過しなければならない。地点 2に行くためにはその距離の半分の地点 3を通過しなければならない……地点の数は無限であり、したがって地点 Aから地点 Bへ移動することはできない ※なお「二分割」には、「残った距離の半分」と考える無限前進型と、「これから進む距離の半分」と考える無限後退型の二つの解釈があるが、ここでは無限後退型を紹介した。 第二パラドックス「アキレスと亀」の概略はこうである。 俊足のアキレスと鈍足の亀が競争する。亀はハンデをもらってアキレスより前方からスタートする。最初に亀がいた地点 1にアキレスが来た時には、亀はいくらかアキレスの前方の地点 2にいる。地点 2にアキレスが来た時にはやはり亀はいくらかアキレスの前方の地点 3にいる……亀は常にアキレスの地点プラス 1の地点にいる。それを何回繰り返しても亀が「プラス 1の地点」にいる状態は変わらないから、アキレスは亀に追いつけない。 第三パラドックス「飛ぶ矢」の概略はこうである。 飛んでいる矢は、それ自身と等しい場所を占めている時は静止している。つまり地点 1にある時は静止しており、地点 2にある時も地点 3にある時も静止している。したがって矢は常に静止している。 「二分割」は空間の無限分割の問題であり、「アキレスと亀」は時間と空間の無限分割の問題である。なお無限分割が現実的に可能であるとした場合に示される不合理が、飛んでいる矢は無限小の地点において止まっている(速度を持たない)という「飛ぶ矢」である。また無限分割を回避しようとして時間や空間の最小単位を考えた場合に示される不合理が、第四パラドックス「競技場」である(これは後述する)。四つのパラドックスはそれぞれが論理的に補完関係にあって、運動の実在性を否定する構成になっている。 アリストテレスは『自然学』第6巻第2章において「二分割」の問題点を、「有限な時間では無限の点を通過することはできない」という虚偽の仮定に基づくことだと指摘している(ただしアリストテレス自身が紹介したゼノンの「二分割」と「アキレスと亀」には時間への言及はなく、「有限な時間」とはアリストテレスの解釈である)。そしてアリストテレスは、空間が無限分割可能ならば、時間も無限分割されることによって、「無限の時間点」によって「無限の空間点」を通過することはできると考える。 「無限なものなら、無限なものを通過できる」というアリストテレスの論法は、一見した所もっともだと錯覚してしまうかもしれない。しかし、空間上に想定される地点が無限個ならば、それを通過するのは「自然数を全て数え尽くす」というに等しい不合理であったことを想起しなければならない。アリストテレスの論法を言い換えるならば「無限なものなら、終わりのないもの終わらせることができる」というようなものであり、これは矛盾に過ぎない。無限なものを用いようと「終わりがないもの」を終わらせることはできないのである。 さらにアリストテレスの論法を細かく分析するならば、無限の時点を終わらせることによって無限の地点を通過し終わる、という主張だと解釈できる。それは「終わりのないものを終わらせることによって、終わりのないものを終わらせる」というに等しい、ナンセンスの上にナンセンスを重ねたようなものである。したがってアリストテレスの解決法は阻却されるしかない。もっとも、アリストテレス自身がこの解決法が不十分である可能性を『自然学』第8巻第8章で認めている。新たな解決法としてアリストテレスが提案したのが、時間と空間の分割は可能的に無限であるが、現実的に無限ではない、とする可能的無限と現実的無限の区別である。 数学的には、「二分割」と「アキレスと亀」については無限級数の収束や極限という概念で、無限のステップを操作して解消できるように思われている。バートランド・ラッセルは哲学者でもあるが、数学者としての性向が強く、物理的世界が数学的無限と対応していることを前提に、ゼノンのパラドックスを収束や極限の概念で解決できると考える。ラッセルの解決法は多くの数学者と物理学者、そして一部の哲学者が採用する方法である。 数学の世界では、カントール以降は数学的対象を現実的無限とみなす立場が優勢である。しかし哲学と数学は大きく異なる。哲学における無限論とは、その無限に対応する「実在」を巡る議論でもある。その点が対応する実在を必要とせず、記号の操作と整合性の議論に終始する数学における無限論との決定的な相違である。 たとえば人は「2」の概念に対応した現実の存在を見ることができる。リンゴが 2個ある場合などがそうである。また「1/3」に対応した現実の存在も見ることができる。ピザを 3等分した場合などである。しかし「∞」に対応した存在を見ることはないし、「1/2+1/4+1/8+…」という無限等比級数に対応した存在を見ることはできない。現実のどこにも無限大や無限小、無限のステップを経て完了する運動は見当たらない。 数学における「収束する」という言葉は、計算において無限のステップを「省略する」という意味に等しい(*7)。しかし現実では、私が道路を歩く場合、私が足で踏む可能性のある地点が存在しているのならば、実在する地点を「省略して通過する」ことはできない。 数学者のヘルマン・ワイルは数学的直観主義の立場から、無限のステップを完了するとみなすことは「無限」の概念と相容れないと考えた。ワイルはゼノンのパラドックスに言及し、次のように逆説的に述べている。 〔……〕もし実際に 1 なる長さの線分が、'切り離された全体'としての、長さ 1/2、1/4、1/8、……なる無限に多くの部分線分から成るならば、アキレスがそれら全部を通り越してしまったということは'完結しえないもの'としての無限の性格と相容れない。もし人がこの可能性を認めるならば、一つの機械が相異なる決定行為の無限列を有限時間内に、たとえば 1/2秒後に第一の結果を、1/4秒後に第二の結果を、第三の結果を第二より 1/8秒後に、等々と、あげることにより、完成する能力がないという理由は存しない。このような仕方で、もし脳の感受能力が同様に働くならば、すべての自然数の通過およびこれにより自然数についてのいかなる存在問題にかんしても確実な然り‐否の決定をなしとげることが可能となるであろう!(*8) このワイルの問題提起を受けてジェームズ・トムソンが考案したのが後述する「トムソンのランプ」である。なおワイルは後年立場を変え、ヒルベルトの形式主義に接近したという。 確認しておくべき重要な点は、数学における無限級数の収束という概念は実際に無限のステップを完了したという「事実」を表しているのではなく、無限のステップを完了したものとするという「定義」を表している、ということである。もし実際に無限の地点が実在するのならば、それら無限の地点を通過することは不可能である。したがってゼノンのパラドックスは実在論を前提にするならば、数学では解決できない。 最初に亀がいた地点 1にアキレスが到達した時点で亀は地点 2にいる。その地点 2にアキレスが到達した時点で亀は地点 3にいる……このように亀がいる地点に次々自然数を割り振っていき、アキレスが亀に追いついた時点で亀は最後の地点 Ωにいるとする。するとその「Ω」は論理的に「最後の自然数」という矛盾したことになってしまう(ワイルが指摘した問題である)。 冒頭で論じたように、実在論を前提にするならば、「地点」というものは人の認識に先立って存在しなければならないのだから、自然数に対応付け可能な無限の地点が現実に存在していると考えるしかない。自然数は無限であるが、その「全て」が存在していることになる。「無限のものが完結して存在する」というのは語義矛盾である(自然数の「全て」が存在しているというのだから、存在しているその自然数はそれ以上増えることがなく「完結」しているのである)。 永井龍男(富山大学)は、「ゼノンが提示する手順に従った場合」と前置きした上で次のように述べている。 〔……〕二分割においてスタート地点から目標地点までの距離は(1/2)^n で表され、無限の過程を通じて運動体が占めることのできるあらゆる中間地点での残存距離は(1/2)^n の値から成る無限集合を形成する。そして、もしそのような無限の過程によって運動体が目標地点に到達できるなら、この無限集合にはその要素として 0 が含まれていなければならない。しかし、(1/2)^n の値は決して 0 と一致しない。確かに「n→∞のとき、(1/2)^n→0」とは言えるにしても、(1/2)^n が極限値としての 0 に収束するということは、それが「限りなく 0 に近づく」ということであり、(1/2)^n の或る値が 0 と完全に一致することを意味しないのである。だから、ゼノンの論法に従う限り、仮に無限の過程が実現したとしても、運動体は目標地点に到達できない(*9)。 永井同様の問題提起は山川偉也、野矢茂樹、千代島雅も行っている。山川は無限級数の収束でゼノンのパラドックスを解消しようとする G.ヴラストスに対し、「限りなく近づく」ことと「到達すること」は別であると批判している(*10)。野矢(*11)と千代島(*12)の批判も同様である。なお極限と無限小についての類似の問題提起は、永井俊哉のブログ(*13)にも見られる。 なお「二分割」については、「n→∞のとき、(1/2)^n→0」 の、「 (1/2)^n」の値を「0に近づく」ではなく、仮に「0に到達する」と定義したとしても、実在論を前提にするならば極限値の概念で「二分割」を解決することはできない。実在論では無限個の地点が存在していることを認めるしかないが、その場合「0の直前にある最後の地点(∞-1の地点)」というのが存在できないからである。もし存在できるならその地点は番号付け可能であるが、二分割の最初から、1/2、1/4、1/8、……としていき、0の直前は 1/Ωになるとすると、「∞-1=∞」なのだから、その「Ω」はやはり「最後の自然数」という矛盾したことになってしまう。矛盾したものは存在しない。 数学者のジョセフ・メイザーは次のように述べる。 〔……〕たとえ微積分学による最新の極限の定義を完全に受け入れたとしても、それではゼノンの二分割の逆説を説明したことにはならないだろう。ゼノンの逆説を正確な数学の言葉で述べることはできるが、二分割とは、実のところ自然な力学の結果である。それは物理現象や精神の働きの問題であって、数学の問題ではない。(*14) また永井龍男は、ゼノンが「二分割」で提示する手順をコンピューターのアルゴリズムに模して、次のように表している(*15)。 Step1 目標地点までの距離( x )を 1 とせよ。 Step2 x の中間地点まで進め。 Step3 x = 0 なら停止し, x > 0 なら Step2 に戻れ。 上のアルゴリズムに従う限り、原理的に「二分割を続ける行為」が終了することはない。なぜならこのアルゴリズムからは論理的に「0の直前にある最後の値」というものが導出できないからである。このアルゴリズムに従って制作されたプログラムを実行したなら、最初に Step2で出力される値は 0.5であり、次は 0.25、その次は 0.125、その次は 0.0625、……以下無限である。「0の直前にある最後の値」というのはない。どれだけ高速なコンピューターがあったとしても、コンピューターは存在しない値を出力することはできないので、決して「0」に到達できず、無限ループするしかないことになる。この永井の議論も「二分割」が極限で解けないことを証明している。 ※ただし永井は運動を否定するゼノンの主張を認めるのではなく、運動するものは上のアルゴリズムに従った無限ループによって記述される領域から、それによっては記述不可能な領域へと移動する、ということで運動を肯定している。 永井や山川らの論点は、極限値というものが 0でないゆえに、無限の過程が実現してもゼノンの論法に従えば「二分割」は解消できないということであった。しかし私は、そもそも「無限の過程」というものがありえないと考える。前述したように「無限の過程を終える」というのは「自然数を全て数え終わる」というに等しい語義矛盾である。アキレスが無限のステップを経て亀に追いつくのなら自然数を全て数え尽くすに等しいことである。それは端的な矛盾である。決して数え終わることがないのが自然数であるからだ。 たとえば「球形であり、かつ正六面体の物が存在する」と矛盾した存在を言葉で表現することはできるが、その言葉は決して現実世界に指示対象をもつことはない。「無限の過程を終える」という言葉も同様の矛盾なのである。 「飛ぶ矢」は無限小の地点が存在していると仮定すると陥るパラドックスであった。「速度=距離÷時間」なのだから、飛んでいる矢は無限小の地点においては速度がなく、静止していることになる。もちろん数学的には微分による「瞬間速度」を想定することによってこの問題を回避できるだろうが、哲学的には実在との対応可能性のない無限小を前提すること自体に既に困難があり、多くの哲学者がその困難を指摘している。 なおアリストテレスは『自然学』において、物体が時間的幅の無い点位置にある場合、それは「運動も静止もしていない」と捉えることで「飛ぶ矢」を解消しようと試みており、近年の欧米の研究者 G.ヴラストスや G.E.L.オーエンなどもアリストテレスの方法で飛ぶ矢のパラドクスを解決しようと試みている。しかし永井龍男は、「運動も静止もしていない」ということは「運動」の否定でもあるので、ゼノンに対する反駁にはならないと考えている(*16)。永井と同様の問題提起は大森荘蔵にも見られる(*17)。 確かに矢の「静止」が論証できなくても「運動」が論証できなければ、運動の実在を否定することが目的のゼノンにとっては問題がないであろう。 「競技場」は時間と空間の最小単位を想定すると不合理に陥ることを示すパラドックスである。このパラドックスは量子論の知見によって、素粒子の運動が連続的ではなく断続であることが示されている現代では、深刻に受け止められるべきものかもしれない。このパラドックスにはいくつかの解釈があるが、以下はジョセフ・メイザーの解釈(*18)を参考に説明する。 次のようにA列B列C列が各 3単位づつ並んでいるとする。そしてB列は右へ 1単位、C列は左に 1単位移動する。 A列: AAA B列: BBB C列: CCC 移動の結果は次のようになる。 A列: AAA B列: BBB C列:CCC B列はA列に対して 1単位移動したことになるのだが、C列に対して 2単位移動したことになる。このパラドックスに対してよくある間違った解決法は、相対運動や相対速度の問題だとすることである。もし相対速度の問題なら、どんなに高速で移動しようとB列中央の「B」とC列中央の「C」は、必ず「並んだ瞬間」というものがある。5万分の 1秒であれ 3億分の 1秒であれ通過するのに有限の時間がかかる。ところが、B列もC列も時間と空間の「最小単位」だと仮定しているのだから、それぞれ 1単位を一気にステップするわけであり、つまりB列中央の「B」とC列中央の「C」は「並んだ瞬間」というのがなくなるわけである。これはSF映画のテレポーテーションのイメージに近い。 したがって最小単位を想定することは不合理だということになり、時間と空間は連続的であると考えるしかない。しかし連続的ならば「二分割」や「アキレスと亀」のパラドックスが待ち構えているということであり、どのように考えても運動、および時間と空間の実在を認めることはできない、というのがゼノンの四つのパラドックスの構成なのである。 次に、アリストテレスの可能的無限の概念によってゼノンのパラドックスが解消される可能性を検証してみたい。これは多くの哲学者が採用する解決法である。なおベルクソンは運動の分割そのものを否定するのだが、分割によって見出される時点や地点というものが、運動そのものに属するものではないという考えは、基本的にアリストテレスと同じものである。 ギルバート・ライルと野矢茂樹は、無限分割の問題である「二分割」と「アキレスと亀」について、それは事後的な視点から(可能的に)無限に続けられる説明方法だとして、説明が終わらないことは運動が終わらないことを意味しないと考える。ライルと野矢の議論は次のようなものである(*19)(論点をわかりやすくするため、表現方法をアレンジした)。 母親がケーキを出して子供に「必ずケーキが半分残るように食べていきなさい」と指示したとする。子供はケーキを半分食べる。次に残ったケーキの半分である元の 1/4を食べる。次に残ったケーキの半分である元の 1/8を食べる。子供は「必ずケーキが半分残るように」食べているのだから、無限回食べてもケーキは必ず一定量残っていなければならない。子供が全てのケーキを食べ終わることが決してないように、二分割のパラドックスやアキレスの亀のパラドックスも、決して終わることの無い説明方法なのである。子供はその気になればケーキを全て食べられる。半分食べ、そのまた半分食べ……という終わらない食べ方があることは、ケーキを全て食べる方法がないことを意味しない。 ライルと野矢によれば「二分割」とは、まず「全体」を設定しておいて、その半分、また半分と無限に分割していくものである。「アキレスと亀」も、隠された形ではあるが、やはり時間と空間の「全体」が設定されており、それを無限に分割していくものである。「二分割」も「アキレスと亀」も、説明方法として「必ず一部分が残るように説明していきなさい」という指示に従っているようなものであり、実はパラドクシカルなものではない、というのがライルと野矢の結論である。アキレスは亀を追い抜いた後で、自分がどの地点を通過したか数えることができるだろう。そして数えられる地点の数は無限である。無限の地点を数え終わることが無いということは、運動が無いということを意味しない。「アキレスは亀を追い抜いた」と一気に説明する方法があるし、その追い抜くプロセスを無限に分割する終わらない説明方法もある。しかし終わらない説明方法があることは、終わる説明方法がないことを意味しない、ということである。 ライルと野矢のアイデアは可能的無限の概念と事後的視点の観点を組み合わせたものである。しかし、そもそも可能的無限が反実在論であり、ゼノンに対する反駁としては的外れであることを私は既に論じた。二分割のパラドックスを図にすると以下のようになる(図では「無限前進型」を採用している)。 上の図からは二つの問題が読み取れるはずである。一つの問題は、運動の後に事後的な視点で運動の軌跡を分割して表したのか、それともこれから運動すべき構造を表したのか、ということである。これは区別ができないはずだ。ライルと野矢は事後的な視点だとするのだが、無限分割可能なのは運動の軌跡だけではない。人がこれから運動しようとする場合、その運動のプロセスは思考の上で無限に分割できるのだ。もう一つの問題がここにある。その思考により想定される無限の地点は、人に思考される前に現実的に存在しているのか否か、ということである。 私が冒頭で論じたように、「実在論によれば」地点というものは人の認識に先立って存在するのだから、可能的な地点は全て現実的に存在しており、すなわち無限個の地点が存在していると考えるしかない(そもそも「無限のものが存在する」と考えるしかない時点で実在論は破綻している)。したがってこれから運動する場合、その運動のプロセスは理論の上で無限に分割でき、なおかつ無限の地点が全て存在することになる。しかし無限個の地点を通過するということは不可能である。無限とは通過できないという意味なのだから。 ライルと野矢の主張は、運動を終えたものに対しては妥当であるが、これから運動を開始するものには妥当しない。これから運動を開始するものは、無限の行為を完結させなければならない。「一気に説明する方法」によって、「無限の地点を一気に飛び越す」と言えるかもしれないが、それは「無限を通過する」という矛盾を説明していない。 問題は「説明方法」ではないのである。確かに事後的視点からすると、終わる説明方法と終わらない説明方法はある。しかし「アキレスは亀を追い抜いた」と一気に説明する方法は、実在論が正当であることの論証ではない。それは単に「運動があった」と言っているにすぎず、ゼノンを論駁したことにはならない。問題はその運動が「現象」のみとしてあるのか、「実在」に対応してあるのかということである。 改めて確認しておこう。ゼノンも運動が存在しないと主張しているのではない。ピタゴラス学派など世界が「多」からなるとする立場が、運動の前提としているものを背理法で批判しているのである。それは無限に分割可能な連続体としての時間と空間である。ゼノンの主張は「多」としての連続的な運動は存在せず、「一」として完結した運動(それは運動というより「世界」というべきかもしれない)があり、それは思考の上で可能的に無限に分割できるということである(なお分割するその思考も「世界」に含まれている)。アリストテレスの「可能的無限」の概念はこのゼノンの主張に沿ったものであり、反実在論的である。しかしアリストテレスは実在論者であった。私から見ればアリストテレスは矛盾している。第2節で見たように、「外部世界の実在」と「真理対応説」という実在論の必要条件を前提とするならば、私が歩く場合、私の足に踏まれる可能性のある無限の地点は全て、歩く前に現実的に存在していると考えるしかなく、形而上学的無限を認めるしかないからだ。 ここで僅かに残されているゼノンの断片から、最も肝要と思われる部分を引用しておく。 もし多があるなら、'ある'ものどもは無限である。なぜなら、'ある'ものどもの中間には、つねに他のものどもがあり、さらに、この他のものどもの中間には、また別の他のものどもがあるのだ。かくて、'ある'ものどもは無限である。(*20) ゼノンがいう「'ある'もの」には、私がいう「地点」が含まれていると考えればよい。実在論では地点は認識作用に先立って存在しなければならないのだから、形而上学的無限の存在を認めることになり、運動は不可能である。ゼノンのパラドックスとは背理法による反実在論の論証である。ゼノンを論駁するなら反実在論を論駁しなければならないが、アリストテレスの「可能的無限」は反実在論に依拠する無限概念であり、先に検証したライルと野矢の議論も、可能的無限に基づいているゆえに、ゼノンのパラドックスの解決法としては自己矛盾しているのである。 実在論を前提とするならば、アキレスは亀に追い着けないし、私は一歩も道を歩けない。しかし現実には私は道を歩くことができるし、ゼノンも歩いたはずであり、アキレスが実際に亀と競争していたならばた易く追い抜いたであろう。 これらのことから私が考察してきた時間と空間、そして私の日々の「一歩」の正体は明らかである。私やゼノンが歩いてきた際のそれぞれの一歩とは、「実在」ではなく「現象」である。「表象」といっても「観念」といっても「クオリア」といってもいい。それらと対応している「実在」としての空間や時間はないということだ。 現象は無限個存在しない。アキレスが亀を追い抜くとき、それは実在する空間や時間という連続体の中を、無限のステップを経た上で追い抜くのではない。俊足のアキレスが亀に接近するという現象があり、またさらに接近するという現象があり、やがて追いつくという現象があり、次に追い抜くという現象があるだけである。そして「アキレスが亀を追い抜いた」という現象は、可能的に無限に分割できる。しかし形而上学的無限としては存在しない。現象の数は有限である。 以上の考察を三段論法で表すなら以下のようになる。 [前提1]: 実在論では形而上学的無限を認めるが、反実在論では可能的無限しか認めない [前提2]: 形而上学的無限を認めれば運動は不可能であるが、運動は現実に存在する [結論] : したがって反実在論(ゼノンの論証)は正しい しかし次のような疑問が生じるかもしれない。人々の日々の一歩が対応する実在をもたず、「単なる現象」に過ぎないのであれば、なぜアキレスと亀の競争において、アキレスが亀に追いつく時点が正確に予測できるのか、なぜ電車は 1分の遅れもなく正確に駅に到着するのか、なぜ宇宙ロケットを天文学的に複雑な計算によって打ち上げて人工衛星を予定通りの軌道に乗せるという神業が可能なのか、それらの説明がつかない。――これが一般の人の反実在論に対する抵抗感の理由であろう。ちなみに、もし科学的実在論が偽であるならば科学の成功は「奇跡」となってしまう、と逆説的に論じることで科学的実在論を擁護しようとする試みが「奇跡論法」である。 しかし反実在論であってもそれら科学の成果を合理的に説明することはできるのである。それは現象というものは確かに対応する実在をもたないが、「単なる現象」ではないからである。実はそのことを詳細に論じたのがカントの『純粋理性批判』である。 4 カントによる無限批判 イマヌエル・カントの主著『純粋理性批判』の基盤を成すのがアンチノミーの論証である。カントは『純粋理性批判』の執筆開始前、アンチノミー論を冒頭に置く構想だったという(*21)。アンチノミー論とは「理性批判」であると同時に「無限批判」でもある。 ゼノンのパラドックスを解決しうる唯一の方法がカント哲学であると私は考える。ただしカント哲学による解決法はゼノンの間違いを暴くものでなく、ゼノンが正しいことを示すものである。ここでカントのアンチノミーの論証(ここでは第一・第二アンチノミーのみ)のエッセンスをごく簡単におさらいしておく。 第一アンチノミーは時間と空間の無限大の問題である。 [テーゼ]: 時間と空間は無限であることはできず、有限でなければならない。無限とは決して終わらないという意味であるが、仮に時間が無限ならば「現在」までに無限の時間が終わったことになる。これは矛盾である。したがって無限の時間と空間が存在することはできない。 [アンチテーゼ]: 時間と空間は無限でなければならない。仮に時間と空間が有限であったとしても、その時間のより前、その空間のより向こうと、さらに大きな時間と空間が考えられてしまうからだ。仮に世界がある瞬間から始まったのなら、それ以前には「空虚」があったことになるが、無からは何も生じないはずである。したがって世界に始まりはなく無限だと考えるしかない。 第二アンチノミーは無限分割の問題である。 [テーゼ]: 物体が分割において無限であることは不合理であり、世界を構成する究極の要素は一定の大きさを持たねばらない。もし無限小ならば、それはいくら加算しても無限小であり、物体は存在しないに等しいことになるからだ。 [アンチテーゼ]: 世界の構成要素は一定の大きさのものであってはならない。空間は無限分割可能なので、一定の大きさの構成要素があったとしても、それは空間に対応した無限の部分を持つことが想定されてしまうからだ。 時間と空間、そして世界を構成する物質の大きさは、有限であっても無限であっても不合理であり、アンチノミーが生じる。それゆえに時間と空間は「物自体」に属するものではなく、表象、つまり「現象」の形式である ※なおカントにおいては「表象=感覚」であり、感覚による対象の経験が「直観」である。そして直観による経験の在り方が「現象」である。以下では簡略化のため「表象」を「現象」に置き換えて説明する。 意識に現れる現象は全て時間と空間という形式をもっている。現象に伴うその形式は可能的に無限に延長および分割ができる。だから宇宙は無限大だと考えて不合理に陥るのも、逆に有限だと考えて不合理に陥るのも、また物質の最小単位があると考えて不合理に陥るのも、無限分割できると考えて不合理に陥るのも、いずれも現象の形式によって物自体を理解しようとするためなのである。換言するらば、宇宙論的理念に関して理性の「統制的原理」を経験的に、「構成的原理」として使用することであり、純粋理性の誤謬推理なのである。 以上がカントのアンチノミーによる「理性批判」の概略である。アンチノミーの論証がゼノンの背理法による論証と類型であることは明らかだが、ニュートン力学の時代にあってニュートンを強く意識していたカントの議論は、ゼノンよりも遥かに精錬されたものになっている。特に注目すべきは時間と空間の観念性を主張して、基本的に「超越論的観念論」の立場を採りながら、人に経験される現象のア・プリオリ性に着目して「経験的実在論」を主張したことである。このカント哲学こそが、ゼノンのパラドックスに対して人々が感じる不合理を解消できる唯一の方法であると私は考える。 私たちの日々の一歩が対応する実在をもたず単なる現象に過ぎないのであれば、アキレスと亀の競争において、アキレスが亀に追いつく時点が正確に予測できることや、宇宙ロケットが天文学的に複雑な計算によって打ち上げられて人工衛星が予定通りの軌道に乗せられることは、非常に不思議なことであると思える。この不思議さは、人の素朴実在論に基づいている。 人は感覚が曖昧なものであることを知っている。会社へと歩く足取りが重くなったならば、それは自分が疲れているからだと思い、決して会社までの距離が遠くなったからだとは思わない。感覚の曖昧さを修正する普遍的な「実在」があると思うのは素朴な心情である。実在を想定することによって異なる人々とのコミュニケーションも成立する。渋谷のハチ公の像は私の心にある現象としてしか存在しないと皆が考えるなら、ハチ公前広場で他人と待ち合わせる人はいない。実在というものの普遍性が人間生活に不可欠な理由である。 カントが『純粋理性批判』を出版した後、同時代の哲学者たちにはカントの哲学をバークリーの観念論と同一視する者が少なからずいた。その誤解への反発が『純粋理性批判』の解説書といえる『プロレゴメナ』と、『純粋理性批判』の第二版を書くことの動機の一つになったといわれる。『プロレゴメナ』でカントは次のように述べている。 〔……〕空間および時間は感性の単なる形式であって感性の外にある客観においては決して見出されるものでないと考えるならば、――更にまたこれらの表象を、可能的経験に関してのみ使用するならば、かかる表象を単なる現象と見なすことには、誤謬への誘惑はいささかも含まれていないし、また仮象も含まれていないのである。感性的表象は、それにも拘らず経験における真理〔経験的真理〕を成立せしめる規則に従って、正しく連関されているからである。このようにして幾何学のすべての命題は、空間に妥当すると同時に、感官のすべての対象にも妥当する、 〔……〕 それだから空間および時間の観念性に関する私の説は、全感性界を挙げて単なる仮象にするものであるという批難はまったく当たらない。むしろ私の説は、一個の極めて重要な認識――すなわち数学がア・プリオリに提示するところの認識を現実的対象に適用することを保障し、またこの認識を単なる仮象と見なすことを予防する唯一の手段なのである。(*22) カントの発想の斬新さは、人間生活が前提とする普遍性の根拠というものを、現象を超越した実在ではなく、時間と空間という現象の「形式」に求めたことである。これがカント自らがいう認識の「コペルニクス的転回」である。形式としての時間と空間からは、さらに量や関係などの普遍的なカテゴリーが取得される。それらの形式は実在に属するのではない。人間の認識の形式でありながら決して曖昧なものでなく、普遍的で精密なものである。だからこそ数学は普遍的に認識され、数学によって既述される物理法則は人類に普遍的なものとして現れてくる。当然、アキレスが亀に追いつく時点と地点も正確に予測できることになる(なおカントは「物自体」と「実在」を使い分けているのだが、ここでは通常の意味で「実在」を用いる)。 道路であれテーブルであれ、心に現れる物的現象は空間という幾何学的形式を持つ。デカルトが「延長」と呼んだ所以である。その形式は無限に分割と延長が可能である。時間という形式も空間と相関しているゆえに、幾何学的に表現できて無限に分割と延長が可能になる。それらは数式によって精密に表現できる。つまりア・プリオリな総合判断を可能にするものであり、物理現象を予測可能にするものである。 カントのいう時間と空間の「形式」によって、アキレスの運動をデカルト座標で表すならば、以下のように描くことができる。赤い線がアキレスの運動である。 次に亀の運動は以下のように描くことができる。アキレスより前方からスタートしており、アキレスより遅いことが形式によってわかる。 アキレスの運動である赤い線と、亀の運動である青い線を合わせれば、アキレスがどの時点で、かつどの地点で亀に追いつくかは、両者の形式によって瞭然である。 上の図はもちろん抽象的な数式にすることができる。仮にアキレスが秒速 10メートル、亀が秒速 2メートルとし、亀がアキレスの 100メートル先からスタートしたとする。代数にするなら 10t=2t+100となり、アキレスは 12.5秒後、125メートル先の地点で追いつくことが計算できる。 カントが示した重要なことは、アキレスが亀に追いつく時刻が数学的に予測できるということは、時間と空間という現象の「形式」によって可能だということであり、時間と空間の「実在」によって可能なのではないということである。言い換えるとニュートンが数式で表したものは時間と空間の形式だということである。したがって、数学的に運動が正確に予測できるからといって、ゼノンがパラドックスによって主張した時間と空間の反実在論が間違いであるとはいえないということになる。 ちなみにカントは『純粋理性批判』において、アンチノミーを論じる過程で僅かにゼノンに言及しているのみであるが、カントのアンチノミーの論証は、ゼノンおよびエレア派の哲学の完成型として読むことができるはずである。 カントからすれば 10t=2t+100=12.5や、6+3=9という数学的判断はア・プリオリな総合判断である。ア・プリオリである理由は、数学が時間と空間という現象に伴う形式に基づいた学問であるからだ。その普遍的な形式に基づいている限り、人間は 10t=2t+100という代数の問題について 12.5以外の正しい答えを導出することができないし、6+3=という問題について 9以外の正しい答えを導出することができない。そのような数学の普遍性によって、宇宙ロケットを天文学的に複雑な計算によって打ち上げて人工衛星を予定通りの軌道に乗せることができるのである。しかしカントにとって、その形式は「物自体」には適用できない。 時間と空間という形式は連続体として仮定されており、いわば数学的な理想世界である。だからこそ「Σ」や「lim」の概念を用い「n→∞」などとして無限を扱うことができる。前節ではラッセルへの批判に関連し、数学での無限級数の収束という概念は、実際に無限のステップを完了した「事実」を表すのでなく、無限のステップを完了したものとするという「定義」であることを述べた。その定義で運動が上手く予測できるからといって現実に無限の何かが存在するというわけではない。カントからすれば「極限」とは、決して経験によって与えられるものではなく、理性が生み出した「理念」なのである(*23)。 時間と空間という形式が無限分割を「可能」にするものだからこそ、無限が存在するという「定義」によって運動が予測できるのである。無限分割を可能にする「経験の条件」によって、必然的に未来の経験が予測される。それを表したのが前述の図2、図3、図4である。三つの図は「同じ経験の条件」から描かれたものなのだから、数学的に整合的なのは当然なのである。なお図4に以下のようにして線を書き加えれば、直観の形式(ここでは幾何学)が無限分割の「機会」を提供するものであることが瞭然とするだろう。 ア・プリオリな総合判断を可能にする時間と空間の「形式」こそが、物理現象を予測可能にするものである。かくして実在論の立場から主張される「奇跡論法」は回避される。むしろ形而上学的な「実在」こそがオッカムの剃刀によって消去されるべきものである。 もし時間と空間が実在するならば繰り返し論じたように無限である他はないが、「無限が存在する」という言葉は語義矛盾に他ならない。矛盾したものは実在しない。 ところで、哲学の無限論に対するよくある誤解の元がここにある。数学者や物理学者の中には、哲学者がゼノンのパラドックスを現代でも真性の問題とすることを、数学に対する単なる無知か、数学に対する批判だと受け止めることがある。例えば黒木玄の村上陽一郎に対する批判(*24)や、田崎晴明の大森荘蔵に対する批判(*25)などである。しかし数学的理想世界において無限の概念が操作できるからといって、無限が現実世界において実在するとは言えないのだ。 哲学における無限論が形而上学であり、無限が実在するか否かについての議論であることを理解しなければならない。数学の無限論には形而上学的含意がない。数学者や物理学者は形而上学的な実在論を前提にしているわけではないし、実在論論争にコミットする必要もない。哲学者が「無限は不可能である」というとき、それは数学的無限に対応した「実在」はないという意味なのである。またそれは時間や空間の実在性を問うことでもあり、そして数学的無限に基づいて世界を理解しようとする形而上学に対する批判でもある。 しかしゼノンやカントに反し、数学的無限が実在に対応しているとして形而上学的無限を肯定する哲学者も少なくはない。中世では主として神の無限性を確保するため宗教的見地から主張されていた。私見であるが、近代以降では形而上学無限を容認する哲学者は少数派であると思う。次節ではこの形而上学的無限の可能性を検証していきたい。 5 形而上学無限の不可能性 ゼノンのパラドックスとカントのアンチノミーが、形而上学的無限を前提にする実在論では解決不可能な難問であることが、これまでの論考によって明らかになったと思う。形而上学的無限に対しては他にも様々なパラドックスが指摘されているので、いくつか紹介したい。 ガリレオ・ガリレイは『新科学対話』で、ゼノンのパラドックスに似た次のようなパラドックスを紹介している。 物体が静止から時間に比例して加速していくとする。或る時点で物体は或る速度をもつのだが、それより前の時点ではより遅いことになり、さらに前の時点ではさらに遅いことになる。時間が無限に分割できるとすると、「最初に動き出した時点」というのが想定できないから、物体は動かない。 ジェームズ・F・トムソンは既述したヘルマン・ワイルの問題提起を受け、「トムソンのランプ」と呼ばれる次のようなパラドックスを考案している。 無限の速度で反応できるランプがあるとする。最初スイッチを ONにする。次は 1秒後 OFF にする。次は 1/2秒後 ONにする。次は 1/4 秒後 OFFにする。次は 1/8秒後 OFF にする……では、このランプは 2秒後 ON 、OFFのどちらなのか? また 10後はどうなのか? 数学的に考えるならトムソンのランプは極限が 2に収束するのだが、極限の概念では ONであるか OFFであるかは決定できない。また 10秒後についても何も語れない。しかし世界は 10秒後にも存在するはずであり、何らかの答えがなければならないはずである。 古典論理では二値原理を前提とするので、命題は真であるか偽であるかのどちらかであり、収束時のランプの状態について解答があると考えるしかない。直観主義論理では排中律を拒否するので、収束時のランプの状態について解答の必要はない。しかし排中律の拒否は反実在論であり、基本的にゼノンと同じ立場である。 「アキレスと亀」を擬似的なトムソンのランプとみなすことができる。既述の論法を用いるが、最初に亀がいた地点 1にアキレスが到達した時点で亀は地点 2にいる。その地点 2にアキレスが到達した時点で亀は地点 3にいる。……そのように亀がいる地点に次々自然数を割り振っていき、アキレスが亀に追いついた時点で亀は最後の地点 Ωにいるとする。ではその「Ω」は奇数か偶数かどちらなのか? ――これはトムソンのランプと同じことになる。実在論の立場では概念的な「地点」は全て現実に存在していると考えるしかないことを私は繰り返し論じてきた。全ての地点が完結して存在しているのならば、「Ω」は奇数か偶数か古典論理の枠組みで決定できるはずである。実在論はトムソンのランプに合理的に解答しなければならない。 以上のパラドックスは主に無限小のパラドックスである。無限大にも数々のパラドックスが指摘されている。無限小の場合は全体の大きさが設定され、それを無限に分割していくものであった。しかし無限大はそもそも「全体」が決定されず、また「全体」ということの意味が通常とは大きく異なってくるかもしれない。 時間についての無限大のパラドックスには次のようなものがある。 今日までに流れてきた過去の時間が無限だとする。明日になれば「無限+1日」になり、今日より明日の無限の方が長いよう直観的に思われるのだが、数学的には「∞+1=∞」である。つまり明日は今日より 1日長くなるにもかかわらず、同じ長さであるという矛盾したことなる。 ダフィット・ヒルベルトは「無限ホテル」という次のようなパラドックスを考案している。 ホテルが満室であれば新たな客を入れることはできない。しかし客室が無限に連なって存在するならば満室であるにもかかわらず新たな客を入れることができる。つまり無限個の部屋は「どの客室にも隣室がある」ということであり、「隣室がある客室の客は隣室に移動することができる」のだから、満室状態であるにもかかわらず、客の移動によって空室を作ることができ、何人でも新たな客を入れられるという矛盾したことになる。 以上のようにさまざまなパラドックスが主張されていることから、形而上学的無限を擁護することは困難であると思える。物理学者のジョン・D・バロウは、各分野の著名な学者たちの無限についての主張を以下のように分類している。(*26) 「絶対∞」とは神のことである。無神論を公言していたラッセルは神を否定するが、物理的世界は数学的無限と対応していると考えていたようである。ヒルベルトは数学的無限については「カントールの楽園から我々を追放するようなことは誰にもできない」とカントールを擁護していたが、「連続体の無限分割は思考の中にのみ存在する単なる観念」として物理的無限は否定している(*27)。ゲーテルが数学的無限と神を肯定しながらも、物理的世界の無限を肯定しなかったのはカントの影響かもしれない。ゲーテルがカント哲学に傾倒していたことはよく知られている。カントにおいては、物理的世界とは物自体の世界でなく現象の世界である。 バロウの表に載っていない重要な人物の無限論を紹介しておこう。既述したようにアリストテレスとカントは形而上学的無限を否定している。ライプニッツはニュートンとともに微積分の発見者であり、彼の「モナド」は無限小と解釈されることもある。しかし石黒ひでの解釈では、ライプニッツの無限小とは「いくらでも小さくできる」という操作的な概念であり、ライプニッツはコーシーやヒルベルト流の有限的定義の先駆者である。G.M.ロスの解釈によれば、ライプニッツは数学が属す現象界と、モナドが属する叡智界とを存在論的に厳格に区別しており、ライプニッツの無限小は実在でないという(*28)。なおニュートンは「絶対時間」と「絶対空間」を想定していたことから、形而上学的無限を肯定していたと考えられる。ヘルマン・ワイルはヒルベルトの立場に近い。 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』には次のような文がある。 空間、時間、そして色(なんらかの色をもつということ)は対象の形式である。(2.0251) 対象が存在するときにのみ、世界の不変の形式が存在しうる。(2.026) 前期ウィトゲンシュタイン哲学は一種の独我論であり、「表象」と「私」の一致を主張している(『論考』5.64)。したがって空間・時間はそれ自体で存在するものでなく、現象の形式である。ここにはカント哲学との同型性が見られる。後期のウィトゲンシュタインは前期の独我論を放棄しているのだが、実在論を選択したわけでもない。実在論論争にコミットすることを避けて言語ゲームという実用的実在論を選択したと考えるのが妥当だろう。そして後期ウィトゲンシュタインにおいては、言語の「意味」とは「用法」である。「無限」とは文字通り「限りが無い」という意味である。自然数は無限であるが、それは無限に多くの数が「存在する」ということでなく、数を数える行為に「終わりが無い」という意味である。したがって「無限」という語を存在者を語るときと同様に扱うことは、言語の誤用に他ならない。ウィトゲンシュタインはヒルベルトのいう「カントールの楽園」を否定している。マイケル・ダメットの解釈では、ウィトゲンシュタインは規約主義の立場である(*29)。 近代以降の哲学者では形而上学的無限を否定する者が多数派のように思える。しかし形而上学的無限を肯定する者がいるのも事実であり、ここで彼らの主張を検証していきたい。なおラッセルのように数学的無限と形而上学的無限が対応すると考える立場については、第3節で検証したので省略する。 竹田青嗣はカントの第一アンチノミーについて次のようにいう。 この主張は、このように整理してもたいへんわかりにくい。その理由は明白で、この主張が、カントが繰り返しこれを否定しているにもかかわらず、一つの典型的な詭弁論をなしているからだ。〔……〕 この議論に対して、「無限の時間の中には無限な変化系列が存在するが、それでもそれは決して終わっていない。なぜなら、無限の変化系列はそもそも終わりえないから」、と反論できるだろう。 〔……〕 「無限の変化系列は完結しない」は妥当だが、そこからは「したがって、無限の変化系列ということはありえない」という主張は必然的には取り出せず、これ自身が典型的な誤謬推理である。「完結しない無限の変化系列が存在する」というだけなら、論理的には妥当だからである。(*30) 竹田は、未来と過去の決定的な相違に着目していないように思える。「無限」とは「完結しない」という意味なのだから、仮に「変化の系列は未来に対して完結しない」というのなら論理的に妥当である。しかし過去は「終わっている」のだから、変化の系列は過去に対しては「完結している」というしかなく、竹田の「完結しない無限の変化系列が存在する」という無限解釈は過去には適用できない。ならば「過去は無限であり、それは完結している」というしかないが、それは明らかな語義矛盾である。 長田蔵人はカントの第一アンチノミーを批判して次のようにいう。 N. ケンプ・スミスやB. ラッセルが指摘しているように、無限の過去から現在がどれほど遠くにまで達しているのかを我々が把握しえないということと、世界系列が実際に無限であるか否かということとは、そもそも何ら本質的な関わりはないのである (Kemp Smith 484, Russell 160ff.)(*31)。 認識論的に不可能であることは存在論的に不可能であることに繋がらないという主張である。長田はこの立場の人物として K.スミス、B.ラッセルの他に、J.ベネット、P. F. ストローソンらを挙げている。なお中村秀吉もカントのアンチノミーに対しほぼ同様の主張をしている(*32)。 スミスや長田らの主張は、過去の時間長さ、あるいは限りなさを可能的無限によって理解しようとするものである。しかし繰り返し論じてきたように実在論を前提にするならば、地点や時点といった概念的な存在は、人の「認識に先立って」存在しなければならず、可能的無限は現実的無限と一致せざるを得ない。これは過去の日数または因果関係の数に自然数を対応付けることを考えてみれば明らかである。自然数は数え終わることがない。にもかかわらず「過去は終わっている」のだから、「無限の自然数と対応付け可能な無限のものが完結して存在する」と言うしかない。これは自然数が全て終わっていると主張するに等しい矛盾である。 参考までにアリストテレスは、基本的に形而上学的無限を拒否しながらも、「宇宙の始まり」の問題については、「不動の動者」や「第一原因」を想定せざるを得なかった。アリストテレスは過去については事実上形而上学的無限を認めざるを得なかったのであり、「宇宙の始まり」は哲学と物理学にわたる伝統的な難問といえる。 なお実在論における可能的無限と現実的無限の一致という原則は、空間の無限性についても同様に適用される。実在論では、自然数に対応付け可能な空間の位置が分割においても加算においても、認識に先立って無限に存在していると考えるしかない。しかし「無限が存在する」というのは矛盾に他ならない。何ならヒルベルトの無限ホテルをその無限の空間に並べることを想定してみればよい。空間が無限だというなら無限ホテルは(物理的に不可能であっても)論理的に可能である。しかし無限ホテルは矛盾しているのである。 以上のように検証してきたが、仮に形而上学的無限が実在するとした場合は論理的矛盾が生じ、様々なパラドックスが指摘されることから、形而上学的無限は不可能であると結論するしかない。 繰り返しになるが、そもそも「何かが無限にある」というような文が自体が語義矛盾なのである。無限ということは何かの系列の終わりが「ない」とい意味である。前述した時間いついての無限大のパラドックスにおいて、「無限より 1日長い」という言葉が意味をなしていない理由はカテゴリー錯誤だからである。無限とは「行為」に属する概念であり、存在に属する概念ではないからだ。「無限」と「1」は属しているカテゴリーが違うのである。無限とは行為の終わりがないという意味なのだから、「無限にある」というのは、「ない」ものが「ある」というに等しく、これは端的な矛盾である。「無限」に「存在する」という述語を繋げることはできない。ゼノンやヒルベルトが考案したパラドックスは「無限の量が存在する」という語義矛盾の前提から生じるのである。 長田らのいうように、認識論的に不可能であることは存在論的に不可能であることに繋がらないのは事実であろう。論理学的にも直観主義の立場から排中律を否定するなら、トムソンのランプの問題などに対して明確な答えを出す必要はない。しかし既述のように排中律を否定する立場は反実在論である。実在論では人の認識に依存せず外部世界も出来事も実在していると考えるのだから、トムソンのランプは収束時に ONか OFFかのどちらかであり、アキレスは無限個の地点を通過した上で亀に追いつくのでなければならない。しかしトムソンのランプに合理的な答えはありえず、アキレスがいかに俊足でも無限を通過することはできないのである。 結局、排中律を認める実在論では無限についてのパラドックスが解消できず、形而上学的無限が不可能であることを認めるしかない。しかし排中律を拒否するなら反実在論を認めるに等しいことになる。いずれの立場にせよゼノンの論証とカントのアンチノミーの論証を肯定するしかないはずである。 しかし物理学の知見によって、無限についての問題が解消される可能性があるかもしれない。時間と空間はビッグバンにより始まり、それ以前は存在しなかったのだという考えがある。また時間と空間には最小単位があり、それによって無限分割の問題が回避されるという考えもある。つまり実在論を前提としながらも形而上学的無限を拒否できる――そのような実に都合のよい立場がある可能性は否定できない。次節では物理学による形而上学的無限の回避可能性を検証したい。 6 物理学による形而上学的無限の回避可能性 現代物理学の理論において形而上学的無限は回避される可能性があるかもしれない。しかし仮にそうだったとしても、ゼノンとカントによる無限についての洞察が間違っていたということにはならない。古い論理の枠組みにおいて形而上学的無限が不可能か否かを見極めておくことは重要だということである。 改めて確認しておこう。ニュートン力学的な時間と空間の概念に基づく限り、無限についてのゼノンとカントの論証は正しいということである。時間と空間を無限分割、無限延長可能な連続体と考える限り、論理的にアキレスは亀に追いつけないし、人は宇宙論においてアンチノミーに陥るしかない。 現代物理学では時間と空間の概念がニュートンのものとは変わっている。この新しい論理的枠組みにおいては、形而上学的無限の不可能性から、直ちに反実在論が帰結するわけではないかもしれない。以下の三つの無限について現代物理学の解釈を検証してみたい。 1: 過去の時間(または因果系列)の無限大 2: 宇宙空間の無限大 3: 時間と空間の無限分割(無限小) 物理学的な意味での「時間」はビッグバンにより始まり、それ以前には時間はなかったという主張がある。たとえばアレキサンダー・ビレンキンは大きさゼロの「無(nothing)」から宇宙が誕生したとする「無からの宇宙創生」という説を主張している。その「無」の前には時間も空間もなかったという。 しかしビレンキンの考える「無」は哲学的な意味での無とは異なっていて、宇宙を創造する「確率」を持ったものだとされている(*33)。したがってビッグバンの「原因」を考えずにすませることはできない。ちなみに物理学者の佐藤勝彦によると、量子力学では全てを確率的に捉えるので、「確率が無い状態」というのを認めないという。佐藤は次のように説明している。 概念的または哲学的な意味でのゼロや無という状態は物理的にありえないということも、量子論が明らかにした真実の一つなんです。(*34) 物理学者であっても信仰を持つタイプの人物は、ビッグバンの原因として「神の一撃」というものを想定しているが、その場合でも神が原因となってしまう(アリストテレスの「不動の動者」や「第一原因」を想起させる)。哲学的な意味での絶対的な無からビッグバンが始まったと主張している物理学者はいない。そもそも物理学にはエネルギー保存則という絶対視されている原理がある。「無からは何も生じない」という哲学的原理は物理学の世界でも有効である。 仮にビッグバンの前には物理学用語としての「時間」が無かったのを事実と認めても、「時間」を「変化」と置き換えれば因果関係の系列は無限に遡れるということになる。もちろん因果関係とは人によって見出されるものであり、自然には存在しないということもできるだろうが、そうだとしても「人によって見出すことが可能な無限の因果系列が完結して存在している」のは事実として認めざるを得ないはずである。ここに形而上学的無限が顕在することになる。 無限の因果関係が存在することを認めることはできない。だからといって過去の因果系列において、それ以上遡行不可能な何かを宇宙に想定することも不合理である。したがって時間の無限大についてのカントのアンチノミーの論証は、現代宇宙論の土俵でも有効である。つまり時間、または因果関係の系列は実在ではなく、現象の形式であると考えるのが妥当だということになる。 参考までに、ビレンキンの考える「無」には時間も順序関係もないので、それ以上因果関係を遡ることは無意味だという考え方もある(*35)。しかしその考えは永久主義――時間の非実在を認めることに他ならない。なぜなら時間軸上の各出来事と、時間そのものを生んだ「無」との関係は凍結したように永久に固定されたままになるからである。その「無」には時間も順序関係もないのだから「消える」ということがない。その「無」が宇宙を生んだというなら、永久的に宇宙を生んでいる状態になり、時間軸上の各出来事は永久的にその存在を続けるしかない。逆にもし「無」が宇宙を生むのをやめたとしたら、「無」には順序関係の構造があることになる。順序関係の存在を認めるならば因果関係の系列が無限に遡れるということになる。 次に空間の無限大の問題である。一般相対性理論では、物質やエネルギーの存在によって時空は曲がる。その曲がり具合が「曲率」であり、宇宙全体の形はその曲率の具合によって決まる。そして曲率に応じた次の三つの宇宙モデルがフリードマンによって考えられた(*36)。 [U1]: 曲率が零。平らな宇宙であり、その広さは無限である。 [U2]: 曲率が負。開いた宇宙であり、その広さは無限である。 [U3]: 曲率が正。閉じた宇宙であり、その広さは有限である。 現代の宇宙論では、私たちの宇宙の「形」はこの三つのモデルのうちいずれかであると考える。古い宇宙論の本などでは、「宇宙には果てが無いが有限で、真っ直ぐ進むと元の場所に戻ってくる」などと説明されることがあるが、それはアインシュタインが当初想定した静止宇宙モデルである。2014年 7月の段階では、空間の曲がりは発見されておらず、宇宙は平らな形として考えられている。ちなみに宇宙なぜ平らなのを説明する理論がインフレーション宇宙論である(*37)。インフレーション宇宙論は観測可能な宇宙以上の空間を想定している。 だが空間が現代の技術では観測不可能なほど小さな正の曲率をもち、何兆光年という大きさの天文学的距離において閉じており、[U3]の宇宙モデルが現実である可能性が残されているのは事実である。ちなみに田島正樹は[U3]の宇宙モデルがありうることでカントのアンチノミーが回避できる可能性を示唆している(*38)。 [U3]の宇宙モデルが事実の場合、時間や空間といった概念は「この時空」においてのみ意味をもつのであって、この時空から離れて空間の「外部」を考えることはできず、また宇宙に絶対的中心はなく、地球の表面がどこでも世界の中心でありうるように、宇宙のどの部分も中心なのだと説明される。 しかし仮に[U3]の宇宙モデルが事実であったとしても、形而上学的観点からは閉じた宇宙の「外部」を考えることができる。なぜなら[U3]の宇宙モデルは「私たちの宇宙の形」についての仮説であって、「全宇宙の形」についての仮説ではないからである。宇宙物理学で研究されている「宇宙」とは、ビッグバンで生まれたとされてる「この宇宙」のことである(そもそも絶対経験できない「全宇宙」を考えるなどという酔狂な思索は物理学者でなく哲学者の本領である)。従って仮にこの宇宙が空間的に閉じていたとしても、この宇宙の「外部」は考えられることになる。もちろんその「外部」とはユークリッド空間的な意味に限定されない。 実際に、物理学では宇宙は私たちの住む宇宙だけではないとする「多元宇宙論」主張されている。多元宇宙論にはさまざまなタイプのものがあるが、原理的にはマックス・テグマークが分類したような以下の四つのタイプに基づいている。 M1: 観測可能な宇宙の外部に別の宇宙が想定可能である M2: 別のインフレーションにより生まれた別の宇宙が想定可能である M3: 量子力学の多世界解釈により別の宇宙が想定可能である M4: 多次元による別の宇宙が想定可能である M3とM4について語ることは憚られるので、ここではM1とM2の距離的に離れた別の宇宙の可能性を採り上げる。M1は空間的に繋がっている別の宇宙である。まずインフレーション宇宙論によれば、宇宙は光速よりも大きな速度で膨張しているので、ビッグバンから生まれた同一の空間内に、観測可能な宇宙の外部の空間があることになる。その外部宇宙を別の宇宙だと考えるのがパッチワークキルト多宇宙論である。 M2は空間的に離れた別の宇宙であり、永久インフレーション理論によって想定される。佐藤勝彦は、ビレンキンの無からの宇宙創生説が事実ならば、無から生まれる宇宙は私たちの宇宙だけではなく、いくらでも別の宇宙ができてしまうことになり、ユニバース(宇宙)は必然的にマルチバース(多宇宙)にならざるを得ないという。ただし別の宇宙が存在していたとしても、私たちの宇宙とは(空間的に離れており)因果関係が切れているので、観測は不可能である(*39)。なおテグマークによれば、空間的に繋がっていない独立した宇宙は、私たちの宇宙とは異なる物理定数を持つ可能性があるという。 論理的な問題として、ビッグバン理論は必然的に多元宇宙の可能性を生むことになる。ビッグバンの原因は特定されていないので、ここでは仮に「原因C」としておく。すると、全宇宙に存在した「原因C」は一つだけであることが理論的に証明できなければ、この宇宙以外に別の宇宙が存在することを否定できないことになる。また「原因C」の存在可能な場所が無限にあったことを認めるしかない。もちろんその「場所」は相対論的な空間の内にはない。ライプニッツの関係説的な意味での空間になる。 ここで時空の関係説について説明しておこう。近代科学の黎明期には、時間や空間はその中にある物体と独立に実在するのか、それとも物体と物体の関係としてしか存在しないのか、という議論があった。独立に存在すると考えるのがニュートンの絶対時間・絶対空間の立場、つまり時空の絶対説であり、それに対して物質たちの関係としてしか存在しないと考えるのがライプニッツやマッハの関係説の立場である。 アインシュタインの相対性理論は、時間と空間はそれぞれ相対的なものとみなすが、両者を合わせた「四次元時空」は絶対的なものとみなしているので、ニュートンの立場に近い。現代の物理学で使われる「空間」という用語は相対論的な意味でのものであり、[U3]の宇宙モデルで示されているのは相対論的な意味での「空間」が閉じているということである。 相対論的な「空間」はビッグバン以前にはなかったと考えることができる。その状態では物質も存在しないのだから関係説的な空間も存在しない。しかしビッグバンで空間が生まれたなら、相対論的な意味での空間の誕生と同時に、それを基準にした関係説的な空間も誕生してしまう。つまり「この宇宙から離れた場所」というような言葉が意味を持つことになる。その「場所」にあるのはビレンキンのいう「無」なのかもしれない。関係説的な意味での空間は無限である。「無の場所」は無限にある。したがって私たちの宇宙とは異なる無限の場所のどこかで、「原因C」によって今日もまたビッグバンが生じていると想定するしかないことになる。ビッグバン理論が多元宇宙論を帰結させるのは必然である。 [U3]の宇宙モデルが現実であり、「この宇宙」は有限であるという仮説が事実であっても、関係説的な意味での「空間」、つまり「全宇宙」は無限であると考えるしかない。したがって空間の無限性についてのカントのアンチノミーの論証は、現代宇宙論の土俵でも有効である。つまり空間は実在ではなく、現象の形式だと考えるのが妥当である。 蛇足かもしれないが、「この宇宙が始まる前」とか「この宇宙の果ての向こう側」という極限的な問題については、物理学者であっても哲学者であってもそこら辺の素人であっても、発想の質としては大差のない思弁的な形而上学になるように思われる。既存の物理法則が通用しない問題なのだから当然であるが、ここでは哲学と物理学とSFが融合している。ちなみにテグマークの「究極集合」とノージックの「豊饒性の原理」はほぼ同じものである。またビッグバンの前に時間はなかったという考えは、神が宇宙を創る前は時間はなかったというアウグスティヌスの時間論と似たようなものである。 結局、カントの慧眼を改めて思い知ることになる。人の理性は「宇宙が閉じている」とか「ビッグバンの前はない」とかいう説明で推理を停止しない。宇宙の外部やビッグバンの前を考えざるを得ないし、宇宙の広さと時間または因果関係の系列の長さは無限だと、実在論では想定するしかないのである。 次に無限小についてはどうだろう。現代物理学は無限分割を否定しているだろうか。 現代物理学では時間と空間の概念がニュートン力学とは異なっていても、依然として時間と空間は無限分割可能なパラメーターである。もっとも粒子と粒子の間隔といった極微の世界では微積分学が当てはまらなくなってくるという。数学者の足立恒雄は次のようにいう。 微積分学の基礎にある仮定群が、極微の世界では成り立たないのである。そのような世界では、別の仮定の上に成り立つ、微積分学とは別の数学が役に立つことになる。(*40) しかし粒子と粒子の間隔といった極微の領域といえど、それが一定の空間を占めるものであるならば、やはり「その中間の地点が存在する」という言葉は真でなければならない。ただ分子以下のレベルの大きさになると、冒頭で用いたような「その地点がないと道路を歩けない」という直感に訴える論法は説得的ではないだろう。ここではより抽象的な論証方法を模索してみたい。 「半分を通過する」という言葉は分子以下の極微の世界でも有意味であるはずだ。たとえば「原子核と電子の間隔の半分の地点」は存在していなければならない。でなければ「原子核と電子の間隔の半分の地点を通過せずに歩く」ことが可能になる。しかし空間が実在するという前提ならば、そんなことができるわけはないはずだ。一体、いかにして私は「半分の地点」を通過せずに歩くことができるのだろう? この場合の「地点」とは真空の一点を指すものと考えても良い。もちろん真空の一点は概念的な存在であり、リンゴやテーブルのような物質的対象を持つものではないが、重要なのは、その概念的な地点を通過しなければ私は歩けないということだ。なお量子力学では、測定される前の素粒子の位置は確率によって表されるだけであるが、ここでは素粒子がその地点に「存在できる可能性」が認められればよい。たとえば光子には粒子と波の二重性があるが、観測すると粒子としての位置も定まる。つまりは任意の地点に光子が存在できる可能性が問えることになる。 「私は原子核と電子の間隔の半分の地点を通過する」と考えてから歩いた場合、私は現実的に半分の地点を通過している。「私は原子核と電子の間隔の 5千分の 1の地点を通過する」と考えてから歩いた場合、私は現実的にその 5千分の 1の地点を通過している。そして語句の指示対象となりうる地点は、語句に指示される前から存在している。つまり「半分の地点」というような概念的地点は、概念になる前に存在している。でなければ私は「原子核と電子の間隔の半分」と考えることもできない。これは「ユニコーンの角の半分」というような指示対象が現実に存在しない文とはわけが違う。ニュートリノはユニコーンの角を通過することはできないが、原子核と電子の中間点を通過することができる。ちなみに私たちの身体を構成する原子はほとんどが真空で、甲子園球場までに拡大したとしても、中心にある原子核は一円玉ほどの大きさにしかならないので、電荷をもたず、電磁気の力を感じないニュートリノは、私たちの身体を通り抜けてしまうという(*41)。 ニュートリノが原子核と電子の中間点を通過できるということは、あらかじめその中間点が存在していたからに他ならない。「中間点が存在していなければ中間点を通過することはできない」――この事実が、概念的な「地点」とは事後的な視点で持ち込まれた観念ではない、ということの証明である。そして原子核と電子の間隔において、ニュートリノが通過できるのは中間点だけではない、という事実をひとたび認めるならば、ニュートリノが通過できる地点の数は「無限個」というしかない。 実在論者が以上の論法に反駁する方法はただ一つであると思える。空間において素粒子が存在できない地点をただの一つでも挙げてみることである。 カントによれば空間は無限分割可能な「形式」を持つものである。実在論の立場から、その形式としての空間が「実在する」というならば、思考可能な地点は思考される以前に現実に存在しており、空間は必然的に無限の地点を持つことになる。可能態は現実態として存在していなければならない。認識論的可能性は存在論的現実性であるといってもよい。 「リンゴがある」ということは「リンゴの半分がある」ということと同じである。つまり或る物体を認識するということは「空間を占めるもの」として認識するということであり、「部分を持つもの」として認識するということでもある。「物体は全て延長を持つ」という文は分析的判断の典型としてよく挙げられる。この場合の物体とは空間的に位置を占めるもの(デカルトのいう延長)と定義されているからであり、主語に述語の概念が含まれているからである。「物体は全てその半分の部分を持つ」というのは同様の分析的判断ではないが、これは普遍的な真理である。そもそも人間は「半分の部分」を持たない物体というのを想像することさえできない。カントはこのことから分析判断ではなく、総合判断でもないもの――経験的な知識でありながら、先験的な性質を持つものとして「ア・プリオリな総合判断」を考えた。これには数学や幾何学が該当する。 次の三つの文を比べてもらいたい。 [P1]: 長さ 1メートルの机Aがある [P2]: 机Aの 1/2の部分がある [P3]: 机Aの 1/4の部分がある 三つの文は同一対象の異なる領域を指示している。[P1]は真である。ならば[P2]や[P3]も真である。では私が言語で表現する前は、机Aの 1/2や 1/4の部分は存在しなかったのだろうか。そんなわけはない。実在論では「外部世界の実在」と「真理対応説」という二つのドグマがあった。この二つは実在論が実在論であるためのミニマルな条件である。ならば、「存在を指示する文が真である場合、指示された存在は文にされる前から存在している」ということができる。つまり実在論では、机Aの 1/2や 1/4の部分は、私がそれらを文にする前から、「認識に先立って」存在していたというしかない。 でなければ、私が「机Aの 1/4の部分」と書く前は、「机Aの 1/4の部分は存在しなかった」ということになるが、それは不合理である。 そして、文によって指示可能な机Aの部分は無限であるしかない。[P1]、[P2]、[P3] 以降、次のように続けられる [P4]: 机Aの 1/8の部分がある [P5]: 机Aの 1/16の部分がある [P6]: 机Aの 1/32の部分がある [P7]: 机Aの 1/64の部分がある : : 一瞥してわかるように、これは無限等比級数と見ることができる。そして無限級数の収束ということを認める実在論的立場ならば、「P~」に続く数は無限に存在すると考えるしかない。 机Aを分割していけば、机を構成する分子に行き着く。分子には原子という部分があり、原子にも陽子や中性子という部分がある。そして陽子や中性子も更に小さな粒子から成るとされる。現在では十二種類のフェルミオン粒子と五種類のボゾン粒子が世界の最も基本的な構成要素、つまり素粒子であると考えられている。そして物理学の標準モデルでは素粒子の大きさは無限小ということになっている(*42)。「P」の系列、つまり無限級数は収束して素粒子である無限小の点と一致すると考えてよい。物理学の標準モデルは現実的無限を前提とする数学の標準モデルと相関している ※ただしここで示したのは机の無限分割が可能ということであり、机に無限の部分があるということではない。言うまでもなく机を構成する素粒子の数は有限である。 なお、素粒子が無限小の点であるとすると、電子の質量が無限大になるという深刻な問題が指摘されている。この問題を回避しようとする仮説が超弦理論である(*43)。 超弦理論は物理学の標準モデルではないが、「超弦」を想定すれば無限分割という哲学的問題は回避できるだろうか? しかし超弦が空間に一定の大きさを占めるものなら、やはり「その半分」ということが想定できてしまい、先と同様の問題が提起されるはずである。 一体、いかにして私は「半分の地点」を通過せずに歩くことができるのだろう? 私は概念的な点であっても語句の指示対象となりうる地点は、語句に指示される前から存在していることを幾度も論じた。超弦理論といっても、超弦が空間を占めるものである限り、空間の無限分割を回避することはできないはずである。 もっとも空間については、それ以上分割不可能なプランク長レベルの最小の単位があるとする「空間の量子仮説」あるいは「ループ量子重力理論」が提案されている。これら仮説においては、素粒子の運動は実数直線を動くような連続的なものではなく、最小単位を跳び跳びに動くような断続的なものであると説明される。 以下は直接に空間の量子仮説やループ量子重力理論を表したものではないが、素粒子の運動が断続的なものであることを表した図として引用する(「日経サイエンス 2014年2月号」p.67)。 時間と空間の最小単位を想定することの不合理を示そうとしたのが、ゼノンの「競技場」であった。最小単位を想定することが不合理に繋がるというゼノンの洞察は現代でも生きているように思える。つまり「断続的に動く」とは、或る最小単位から次の最小単位へとスキップすることである。言い方を変えると、最小単位間を持続的に移動するのではなく、「無限大の速度で動く」ということにもなる。これは不合理である。 プランク長レベルの最小単位というのはイメージし難いので、思考実験をしてみよう。或る可能世界Wがあって、そこでは時間と空間の最小単位が 1メートルだと仮定すれば、最小単位を想定することの不合理が直観的にわかるはずである。Wの世界でアキレスと亀(かなり大きなアキレスと亀になるかもしれない)が競争するなら、 1メートルの最小単位を、SF映画のようにテレポーテーションしながら移動することになる。すなわち空間の量子仮説やループ量子重力理論が正しいのならば、それは通常の意味での「時間」と「空間」の非実在を示すものと受け取らざるを得ない。でなければ素粒子に超能力を認めるしかないだろう。 もう一つ指摘しておかなければならないことがある。素粒子の運動が断続的であったとしても、それは「空間が実在するなら無限の地点が存在する」ということを否定するものではない。断続的に運動する素粒子は或る地点をスキップするのかもしれない。しかしその地点に別の素粒子が存在できる可能性が認められるならば、やはり有限の空間には無限の地点があると考えるしかない。運動の最小単位を仮定しても形而上学的無限は完全に排除できないということである。 この節では現代物理学によって以下の形而上学的無限が回避される可能性を検証してきた。 1: 過去の時間(または因果系列)の無限大 2: 宇宙空間の無限大 3: 時間と空間の無限分割(無限小) 結論は、物理学は現在のところ形而上学的無限を解消することはできないということであった。過去の時間の無限大や宇宙空間の無限大については、ほとんどの物理学者は「考えていない」のが実情である。しかし哲学者ならば考えざるを得ないし、過去の時間や宇宙空間が有限だという仮説で推理を停止することはできないのである。 とはいえ、物理学には素人では想像すらできない領域がある。たとえば超弦理論では十の次元が想定されている。人に思考可能なのは三次元の空間に時間を合わせた四次元までである。物理学において将来的に形而上学的無限を回避して宇宙を説明できるアクロバットな理論が登場する可能性は否定できない。 しかし実在論の立場はそのような可能性を根拠にして、ゼノンのパラドックスやカントのアンチノミーを「回避できる」と主張するべきではない。時間の無限大、空間の無限大、時間の無限小、空間の無限小、これら四つの問題全てが将来の物理学によって回避されたとしたら「全くの僥倖」という他はない。哲学は僥倖の可能性を前提に議論するべきではない。宝くじを一枚出して「この宝くじは大当たりの可能性があるので、これを担保に金を貸してくれ」と言うことはできない。きちんとした担保がなければ金は貸せないのと同様に、きちんとした根拠がなく、逆に形而上学的無限という致命的な問題が指摘されているにも関わらず、実在論を主張することはできないはずである。 既存の論理の枠組みでは形而上学的無限を前提に世界を説明することはできない。矛盾したものを前提にするということは、時間と空間が実在ではないという証左の一つとなる。物理学の検証によって、ゼノンとカントの論証の正当性が更に高まったと私は考える。 私は数学的無限は現実世界に存在しないことを論じ続けてきたが、物理学者でも無限を不合理なものと解釈し、数学的無限と物理的無限をイコールの関係とは見做さない者は多い。次節ではあらためて数学的無限と形而上学的無限の差異を確認し、その差異から必然的に反実在論が帰結していくこと、また量子論の知見によっても反実在論が支持されるべきことを論じたい。 7 数学的無限と形而上学的無限の不調和 数学的無限を物理世界に適用した場合は論理的な不整合が生じる。ゼノンのパラドックスは哲学では未だ難問とされているが、物理学においても、素粒子が無限小の点であるとしている現在の標準モデルでは、電子の質量が無限大になるという問題があった。 ヒルベルトの「無限ホテル」とは、数学では集合論によって無限を扱うことができるが、現実に無限の何かが存在することは不可能であることを示すものであった。 先にギルバート・ライルと野矢茂樹によるゼノンの「二分割のパラドックス」の解消方法を紹介したが、そのライルと野矢の議論からも数学的無限と現実の不調和が見えていると思える。ここで両者の論法を再確認しておこう。 母親がケーキを出して子供に「必ずケーキが半分残るように食べていきなさい」と指示したとする。子供はケーキを半分食べる。次に残ったケーキの半分である元の 1/4を食べる。次に残ったケーキの半分である元の 1/8を食べる。子供は「必ずケーキが半分残るように」食べているのだから、何回食べても、仮に無限回食べても、論理的にケーキは必ず一定量残っていなければならない(もちろんケーキを構成する素粒子は有限個であるということと無限分割という問題は異なる)。 ところが数学的に無限級数の収束ということを考えると、子供がケーキを食べる行為は「1-1/2-1/4-1/8…=0」ということになってしまう。つまり「必ずケーキが半分残るように」という指示に従っているにもかかわらず、子供はケーキを全て食べ尽くすという論理的な不整合が生じるということである ※ちなみに野矢は「0.999…1」とする数学の無限論に異を唱えている(*44)。野矢の立場は直観主義と言える。 ゼノンに関連した問題では、「飛ぶ矢」のパラドックスを現代においても真性の難問として受け止める論者は少なくない。大森荘蔵は 1993年の論文「ゼノンの逆理と現代科学」で次のように書いている。 〔……〕持続ゼロの点時刻に物理量や状態がかくかくだということの意味は極めて不安定で無意味にスレスレの所なのである。私が常用する宣伝コピイでは「羊かんの切り口に羊かんはない」である。当然、ゼノンの矢の存在についても同様である。或る点時刻に矢が或る点位置にあるということも無意味スレスレであるし、その矢の速度が幾らとか速度の有無も無意味に限りなく近いのである。 村上陽一郎は 1999年の論文「時間を巡って」において、時間的幅のない「点」においては速度の計算ができないにもかかわらず、微分では「瞬間速度」の存在が前提されていることに疑問を提起している。 〔……〕速さという概念は、あくまで一定の時間が定義されたとき、その時間内に移動する距離との比によって与えられるものだからであり、「瞬間」である限り、そこには一定の値を持つ「時間」が定義できないからである。 それを微分を使って切り抜けて、見事に成功をおさめたのが、近代力学であった。しかし、そこに争い難い問題が残ることも確かである。 それは結局時間幅をゼロに近づければ移動距離もゼロに近付くはずなのに、移動距離の方だけはゼロにはならない、という微分の言い抜けである。 大森、村上と同様の問題は、物理学者の吉田伸夫のブログ「瞬間に幅はあるか(*45)」でも提起されている。吉田はゼノンのパラドックスのうち、今日でも飛ぶ矢のパラドックスだけは「科学的な議論に値する」と述べている。 ジョセフ・メイザーもまた同様のことを述べている。 ゼノンの逆説は、宇宙に関する根本的な問題を引き起こす。時間や空間は、切れ目のない線のように連続しているのか、それともビーズを並べたように単位で区切られているのか。これは、万物理論に近づいていると言われる今日の物理学者までもが、苦労して取り組んでいる問題である。 〔……〕 より精緻な数学を介して運動を理解できるようになると、ゼノンの逆説についても解明が進んだ。しかし、科学の黎明期にゼノンが示した謎にきっぱりと片がつくとすれば、時間と空間の究極の謎を解決することによるほかはない。ゼノンは時代に先駆けていたのである。(*46) 素粒子が無限小の点であるとすると、電子の質量が無限大になるという問題があり、この問題を回避しようとする仮説が超弦理論であった。ジョン・D・バロウは超弦(スーパーストリング)理論について次のようにいう。 ストリング理論が正しいかどうか、物質とエネルギーを最も基本的な水準で描いているかどうかは、まだわからない。しかしこの理論を素粒子物理学者が展開し、受け入れているというのは、物理的無限に関する物理学者の本当の感情は明らかにしている。物理学者は物理的無限が存在するとは思っていないのだ。流体の研究の場合と同様、素粒子に関する計算で無限大が現れるとすれば、それは理論に欠陥があり、有効範囲をはみ出しかけている近似であることを示している。もっと大きな、もっといい理論が、必ずその無限大を取り払ってくれるだろうと、決まって信じられている。(*47) バロウは次のようにも述べている。 数学的無限は紙の上にだけあるが、物理的無限は、宇宙の織物のどこかを破壊するかもしれない。(*48) 物理学者の佐藤文隆は次のように述べている。 無限と聞いて思う第一印象は、物理的なものに無限というものはないということである。科学としての物理学はいつでも暫定的な理論なのだから、そこでは暫定的に無限大や無限小にしておくという期間がある。暫定的にゼロにしておく期間もある。でも技術が進んで、本当に無限大か、本当にゼロか、と実験で調べてみると、やっぱり値があるぞ、ということになる。それが科学の進歩ですよ。 物質の最小構造は何かという問題も同様である。観察の技術が高まるとともに、クォークやレプトンという構造が見えてきた。結局、物質を作る構造の理解は、その時代の技術の水準で決まってくる。 素粒子物理学者にも理論屋と実験屋がいる。プランクスケール(10^-33センチメートル)の手前では面白い構造は何もないだろう、というのが現在の理論屋の予測である。だが、実際に掘っていけば、何らかの構造が見つかるかもしれない、というのが実験屋的発想だ。私も掘ってみないとわからないと思う。(*49)) 以上、数学的無限と形而上学的無限の差異を見てきたが、数学的無限が物理的世界には適用できないケースがあること、つまり数学的無限イコール物理的無限ではないことは、哲学者だけでなく数学者も物理学者も理解しているのだと思う。数学者の足立恒雄は次のように述べている。 数学とは、結局、純粋に頭の中でつくられる理想的な世界である。無限というものがあると仮定すれば、ある種の無限が存在する数学をつくることができる。そうした無限などないという数学をつくることもできる。それぞれが対等に正しい数学なのであって、真実は一つではない。しかし、矛盾が生じる恐れがない限りは、そうした無限が存在すると仮定した方が、きれいに事が運ぶのである(*50)。 ゼノンとカントが無限を論じることによって示したのは、時間と空間は実在しないということだった。しかし物理理論では相対性理論以降も、依然として時間と空間は無限分割可能なパラメーターとして存在している。しかしその時間と空間を「実在」とは見做さず、カントのように直観の形式と考えるならば、物理学は無限という難問を回避できる可能性を見出すことができるのではないだろうか。カントの超越論的観念論の枠内でも、物理学は何ら修正を迫られることなく存立可能なのである。 一般に物理学者が用いる時間と空間の概念には、人の認識を離れて「ほんとうに存在する」というような実在についての形而上学的な含意はない。物理学者は形而上学的な実在論論争にコミットする必要もない。しかし「実在とは何であるか」という形而上学的問題は、哲学と物理学の接続点である。実在の問題は科学哲学の重要なトピックであり、科学と哲学の学際領域である。実際に形而上学的な発言をする物理学者は珍しくはない。時代は物理学者に形而上学へのコミットを強いているような印象を受ける。 二十世紀における量子論の発展は、古典的な実在のイメージを根底から揺るがした。アインシュタインとボーアの論争はよく知られているが、それは実在を巡る論争でもあった。先に空間の量子仮説が時間と空間の非実在を示唆することを述べたが、量子論には他にも、二重スリットの実験やEPR相関など、時間と空間(物質的対象)の実在性を疑わざるを得ないような現象がいくつかある。 古典的な実在論を、物理学では「局所実在論」というが、量子論は局所実在論を包含する理論、つまりメタ理論であるとされている。量子論の主流派であるコペンハーゲン解釈では、常識が通用しない量子の世界と、常識が成り立つマクロの世界を区別しようとした。しかしミクロの現象とマクロの現象が連動している以上、双方は分けて考えることができない。双方の不可分性を示そうとしたのがシュレーディンガーによる思考実験、いわゆる「シュレーディンガーの猫」である。この問題については未だ誰もが納得する解答はないという(*51)。 物理教育者の橋本淳一郎は次のように述べている。 量子力学が明らかにしたことは、位置、速度、エネルギー、時間といった、我々が測定する物理量は、どれも真の実在ではないということである。 〔……〕 デカルトやニュートンは、空間と時間は、(人間抜きに存在する)宇宙の絶対真理だと考えた。カントは、空間と時間は、人間の理性が「アプリオリ」にもっている真理(にしかすぎない)と見なした。カントの方が正しかったのである。(*52) 橋本の見解は一般的な解釈ではないが、特別に極端な解釈というわけでもない。大栗博司も文脈は異なるが時間と空間が実在的ではないことを示唆している(*53)。参考までに時間に関しては、相対性理論の解釈によって実在ではないと主張する学者が少なくない(ヘルマン・ワイル、ポール・デイヴィス、ブライアン・グリーン、ジュリアン・バーバーなど)。 なお近年の科学的実在論を巡る論争では、古典的な実在の概念が量子論で通用しないことから、「構造実在論」が提唱されている。これは新しいタイプの科学的実在論である。物理学と哲学の学位を併せ持つメイナード・カールマンは構造実在論を次のように紹介している。 粒子と場の存在論に関するいかなる修正案にも満足せず、もっと急進的なやり方でこれまでの原子的、点描的な物質世界観からの脱却を図ろうとするものだ。(*54)。 構造実在論には、「認識的構造実在論」と「存在的構造実在論」という二つのタイプがある。 認識的構造実在論は、人の意識に現れる「現象」外部に独立してあるとされる「実在」と、人が現象に対して構築する「科学理論」とを区別し、実在は人とって不可知であり、数学的に記述できる世界の構造としての科学理論のみが真であると主張する。たとえば光子は「粒子」であると同時に「波」であるとされる。これは古典論理学における排中律に反しているよう思われる。しかし光子を実在とみなさず、光子を記述する科学理論のみが実在であるとすれば、論理的にも問題はないと考える。 存在的構造実在論は、以上のような認識的構造実在論の主張を更にラディカルにしたものである。認識的構造実在論が構造の背後に不可知であるが実体を想定したのに対して、存在的構造実在論はそのような対象の実在を認めない。世界の本性や実在は人から隠されているわけではなく、科学理論によって記述される世界の数学的構造こそが世界の実在であり、それ以外には何もないと存在的構造実在論では考える。 実在論の二つのドグマとして、私は「外部世界の実在」と「真理対応説」を挙げたが、認識的構造実在論では「真理対応説」が、存在的構造実在論では「外部世界の実在」が放棄されているのが注目すべき点である。二つのドグマのうち一つでも放棄すれば実在論が成り立たない。構造実在論は、時間・空間・物質といったもの実在性を放棄していると考えても間違いなく、認識的構造実在論はカントの超越論的観念論へ、存在的構造実在論は現象主義に接近していると解釈することもできる。 ※ただし構造実在論が懐疑する理論対象の実在は電子などミクロなものに限られており、人が直接経験するマクロな対象は懐疑していない。しかし上で紹介したように量子論ではミクロな対象とマクロな対象は不可分であり、分けて考えることができないとされている。実際ミクロなものとマクロなものは「程度の差」でしかないという批判が構造実在論に対して成されている。 この節では数学的無限と形而上学的無限の不調和を見てきた。数学的無限が物理世界に適用できないことは多くの学者が指摘しており、物理学は数学的無限を前提にしているものの、超弦理論が期待されているように、多くの物理学者は物理的無限が不合理であることを理解しているようである。 相対論や量子論の知見に基づいて、仮に時間と空間は実在ではないと解釈するならば、形而上学的無限の問題は物理学において解消される可能性が示されている。その解釈を受け入れるということは、ゼノンとカントの論証を受け入れるということ、すなわち反実在論を受け入れるということになるだろう。 8 結論――実在論の最期 無限という問題は二千年以上前から議論が続けられてきた底なしの問題かもしれないが、ここで形而上学的無限に限定して私の結論を改めて述べたい。 形而上学的無限は実在しない。数学的無限というものが操作的な実用性から数学の土俵で肯定されたとしても、それは形而上学的無限を肯定するものではない。形而上学的無限とは矛盾した概念であり、存在不可能である。 この結論によって示されるのはゼノンとカントの論証が正しいということであり、反実在論が正しいということでもある。時間と空間が実在しないなら、それらによって規定される物質的対象も実在しない。「実在世界」という言葉に意味はない。形而上学的な実在論は認められず、ただ素朴実在論や実用的実在論が認められるのみである。 ところで、カントのアンチノミーによる論証を、中島義道は次のように批判している。 〔……〕われわれの住むこの世界においては、「世界は時間的に無限であるか、有限であるか」に関してアンチノミーが生じているから、世界の全体は(物自体ではなく)観念である、ということになり、ここにアンチノミーの成立を根拠とする世界の観念性に関する論証が成立しているように見えます。 しかし、先に考察したように、それは明らかな論点先取です。カントの論証をよく見てみましょう。カントはここで、いくつもの隠された前提に立って次のように論証を進めている。通覧してみましょう。 (一)物自体はいかなるその属性(述語)に関してもアンチノミーは生じない(矛盾対当する)。 (二)世界は時間的に無限であるか有限であるかに関して、アンチノミーが生じる。よって、それは物自体ではない。 (三)物自体でないものは観念である。 (四)よって、世界は観念である。 こうして、カントは幾重もの証明されていない前提を駆使して、世界の観念性を「証明」したつもりになっているのです。 超越論的観念論を無条件で(無前提)で正当化することはできません(もちろんいかなる哲学理論も無条件で正当化できないのですが)(*55)。 この中島のカント批判はアンチノミーに対する反証ではないし、約言するとカントの論証は分析的な真理でないといっているに過ぎない。分析的な真理とは、「野球場には面積がある」というような、主語の概念に述語の概念が含まれているもののことである。したがって分析的な命題とは基本的にトートロジーであり、概念分析だけで終了するものである(なおクワインが分析的と総合的の区別を否定しているのは有名であるが、ここではその議論を省略する)。つまり分析的判断とは確実性は高いが情報量に乏しく、ほとんど役に立たないということになる。中島のカント批判は、観念論を認めたくないがために、実在論の不利を承知で無理に強弁しているとの印象を受ける。問題はアンチノミーの論証が、カントに即していうなら妥当な総合判断でありうるか、ということになる。 カントの論点は時間と空間の実在性である。時間と空間は加算・分割において有限であるか無限であるかのいずれかでしかない。これまで論じてきたように、時間と空間を実在するものと仮定するなら、人間はその時間と空間に限りがあると考えることはできず、無限であると考えるしかない。物理学の標準モデルも無限の分割を前提としている(無限の延長については認めていないが「限界」も想定されていない)。「実在論ならば時間と空間は無限である」ということになる。しかし形而上学的無限は不合理であり、数々のパラドックスが生じることは既に見た。そして時間と空間が現象(観念)ならばパラドックスが生じないことも説明した。したがって時間と空間は実在ではないと考える他はなく、カントの論証は妥当な総合判断だといえるはずである。 人は矛盾した言葉を話したり矛盾した文を書くことがあるが、世界に矛盾したものは実在しない。「球形であり、かつ正六面体なもの」とは、「言葉」として存在しても、その語句の指示対象は実在し得ない。「矛盾したものは実在ではない」というのは「論点先取」ではなく正当な演繹なのである。なお中島はカントを批判するものの、実在論の正当性を全く論じていない。実在論と反実在論は矛盾対当するしかないはずである。 参考までに、反実在論が支持されるべき理由は無限の問題だけでなく「意識のハード・プロブレム」や「人格の同一性」で論じた「意識の超難問」という問題もある。テーマが異なるのでここでは詳しく論じないが、それらは実在論では解消不可能な難問だと私は考えている。仮にアドホックな物理理論で形而上学的無限という問題が回避されたとしても、実在論を肯定するためには更なる難関を越えなければならないということである。 なお近年の時間の哲学においては、マクタガートによる時間の非実在の証明が議論の中心となっており、その議論からさまざまに派生的な時間論が生まれている。マクタガートの議論を要約していえば、「時間の実在の証明は循環論法や無限後退に陥るので、時間は実在ではない」ということになる。私はこのマクタガートの論証よりも、ゼノンとカントの論証の方が遥かに強力であると考える。ゼノンとカントの論証をシンプルにいえば、「時間が実在するならそれは無限であり、したがって矛盾している」ということになる。これは間接的なマクタガートの論証より構造が単純で堅牢である。 私は毎日のように歩いている。その日々の歩みにおいて、果たして無限の地点を通過しているのだろうか。「無限を通過する」などというのは語義矛盾以外の何ものでもない。しかし実在論では人の認識から独立して時間と空間は実在すると考える。ならば人の認識に先立って空間に無限の地点がなければ、私もアキレスも素粒子も任意の地点を通過できない。すなわち実在論では「無限の地点を通過する」という矛盾したことを認めるしかない。 矛盾したものは実在しない。しかし実在論では空間の地点や過去の因果系列が「無限にある」と考えるしかない。したがって実在論は破綻している。私が長さ 1メートルのテーブルを見る場合、知覚現象であるそのテーブルに対応する「実在」なるものはないということである。テーブルが実在しているというなら、テーブルの上に亀がいたとしても、その亀は一歩も動くことができなくなる。 以下のように表してもよい。 [実在論] : 時間と空間が実在する――矛盾である。無限大および無限分割のパラドックスが生じる [反実在論]: 時間と空間は実在しない――矛盾はない。パラドックスはなく、世界が整合的に説明できる 上の二つを比較するならば、反実在論の考えの方が無理がなく、世界を整合的に説明できるのだから、時間と空間はカントのいう通り実在ではなく、現象(観念)であると信じざるを得ない。現象の数は有限であるので、運動は現実的に可能である。 そもそも実在なるものは人類史上誰も見たことがない。原理的に見ることができない実在というものを、見たかのように信じることができる人は神と交信する能力を持つ聖職者ぐらいではあるまいか。形而上学的実在論の提唱者であるヒラリー・パトナムでさえ、自身が提案した「水槽の脳」の思考実験の底の無さを悟って、形而上学的実在論を放棄するに至っている。 観念論が親の仇だとかいう理由で私怨があるならともかく、そうでないなら実在というものに拘るのをやめて、人の認識する世界は現象に過ぎないのだと認めた方が、全てが整合的に説明できるのである。実際、科学的実在論を巡る論争においても、構造実在論では「外部世界の実在」と「真理対応説」という実在論の二つのドグマを維持していない。古典的な「実在」のイメージはもう死んでいる。 もちろん、実用的実在論の立場から形而上学な実在論論争にコミットすることは避けるという哲学的立場はありうるし、その立場なら無限論にコミットする必要もない。しかし形而上学としての実在論は無限論にコミットせざるを得ない。実在論者も毎日のように一歩、また一歩と歩いているはずである。無限の地点をスキップして歩けないならば、無限論をスキップして実在論を主張することはできない。デイヴィッド・ヒュームの箴言を忘れるべきではない。「不可避の懐疑を抑えて実在世界を信じる手段はただ不注意のみ」なのである。 形而上学な実在論論争においては、無限という問題によって反実在論の立場が圧倒的に有利である――これが私の揺るぎなき確信である。またそれは客観的な事実でもあるだろう。 9 無限の派生問題 私がこれまでゼノンとカントを支持して形而上学的無限の不可能性と、それによる時間と空間の非実在を主張してきたのは、それが合理的だからというのが第一の理由であるが、もう一つの理由は、実在論というものを打倒することによって、その背後に広大な形而上学の領域が開かれるからである。 心の哲学では、クオリアという心的なものが脳という物質的なものとどのように因果的に作用しあっているのか、またクオリアがどのように生まれているのかという問題が議論されている。だがその議論内容はデカルトやスピノザの時代から飛躍的に進歩しているとはいい難い。二十世紀以降の脳科学の発展によって、脳とクオリアの対応関係は明らかになり、脳の特定の部位が損傷すればクオリアにも影響があることがわかっている。しかし肝心のクオリアと脳の因果関係、そしてクオリアの生成の問題については、全くわかっていないのが現状である。 この心脳問題についての難問も、時間と空間の非実在を前提とするならば一挙に解決とはいかないまでも、新たな視点が開かれるはずである。現代の心の哲学においても、心的・物的の区別は基本的にデカルトの概念を採用している。すなわち心的なものは時間的であることを本性とし、物的なものは空間に位置を規定できる「延長」である。しかし時間と空間が実在でなく現象であるとするならば、心的なものは時間という形式をもった現象であり、物的なものは空間という形式をもった現象であるということのみになる。心的・物的というものは形式として異なるものの、ともに現象ということで存在論的身分に上下はないということになる。 物理主義は否定される。物理主義とは「心的な現象」を「物的な実在」へ還元して説明しようとする立場である。しかし既述したように、物的現象と対応した物的実在というものはない。もしテーブルが現象としてのみあるのでなく、実在するというならその上に亀がいたとして一歩も動けない。物的対象が実在するという主張は、必然的に無限分割と無限大という解決不可能な矛盾を召喚する。矛盾したものは実在しない。したがって物理主義は間違っている。 「自己」の問題も、時間と空間の非実在を前提するならば新たな視座が得られるはずである。エレア派においては、世界に多数存在しているように思われる個別的な自己は全て錯覚のようなものである。個別の自己を「一」なる全体に還元して位置づけるウパニシャッドの梵我一如的な自我観も可能かもしれない。カントにおいても、「量」という重要なカテゴリーは直観の形式に源泉をもつ悟性の概念であって、物自体に属するものではない。したがって現象は多様であっても物自体も多様だとは限らず、現象世界にいる多数の自己と物自体の一対一の対応関係は否定される。物自体はエレア派が考えたように「一」であるかもしれない。カント哲学からも(カント本人の意図に反して)梵我一如的な自我観を導出することは可能であると思える。――しかし逆に、世界を「私の観念」とみなすならば、それは独我論であると解釈することもできる。私は夢で他者と会話することがあるが、夢の他者に「心」があると考えるのは滑稽である。世界の観念性を主張することはやはり一種の独我論であり、こちらの方が(カント本人の意図に反して)カント哲学の妥当な解釈かもしれない。 心の哲学の問題と関係するのは因果関係の実在性の問題である。デイヴィッド・ヒュームは、因果関係とは人間の心の習慣によって見出されたものであり、必然的なものではなく、実在しているとはいえないと論じた。このヒュームの因果関係論は現代の分析形而上学でも重要なトピックになっている。カントのアンチノミーの論証は、このヒュームの議論に触発されたものでもある。そしてカントは、因果関係は物自体に属するものではないとして、問題の根本部分においてヒュームの主張を肯定している。 時間が実在しないのならば、因果関係も実在しないことになる。そして因果関係が実在しないなら、心的なものと物的なものとの因果関係、つまり心的因果を考えるのは間違いになる。そしてクオリアという不思議なものが、一体どこからなぜ生まれてくるのかと考えるのも間違いになる。物的現象も心的現象も、全てはただ存在しているだけである。ここから大森荘蔵の心身関係論「重ね描き」の妥当性を読み取ることができる。 しかし因果関係が実在しないという主張は、多くの人にとって直観的には受け入れ難いはずである。ビルの屋上から飛び降りると痛いという「結果」が生じるのがわかっているから、自殺志願者以外は飛び降りたりしない。ただし因果関係の実在を否定するということは、どういうことなのかを正確に理解する必要がある。たとえば、私が部屋の照明のスイッチを押し、部屋の照明が点くとする。この場合、因果関係が必然的でなく実在しないというのは次のことを否定するものである。 私がスイッチを押したことを「原因」として部屋の照明が点くという「結果」が生じた しかし次のものを否定するものではない。 「私がスイッチを押して部屋の照明が点いた」という現象がある つまるところ「因果関係」とは、一つの現象を「原因」と「結果」に分割して得られた概念である。たとえば或る人が一枚の板を二つに割って捨てたとする。その二枚の板を拾った哲学者は不思議に思うかもしれない。二つの板の割れ目はぴたりと合うので重要な関係があるに違いないが、その関係に必然性が見当たらない、と。「因果」は人によって見出されたものであり実在ではないとしても、「連結」は現象の事実としてあるのである。そして類似の現象には類似の因果関係が見出せるはずである。これがヒュームのいう「恒常的連接」である。「私がスイッチを押して部屋の照明が点いた」という現象を人為的に原因の部分と結果の部分に分割しても、その原因と結果の関係は論理的な関係ではないし、その連接を必然的と言うのは無意味なわけである。 この私の因果関係論は、進化論にも適用できるかもしれない。因果関係が実在でないという考えは、厳密な意味での進化論を否定することになるだろう。しかし「人類がチンパンジーと共通の先祖から生まれた」という現象の存在は否定しないのだから、キリスト教の創造科学のように進化論を全面的に否定するものではない。 因果関係の実在を否定することによって帰結するのは、全ての現象の存在が偶然的であり、必然的に存在しているものはないということである。確かに、自分が存在しているのは親が存在したからであり、自分が存在するなら親の存在は必然的だと思いたくなる。しかしカントの第四アンチノミーの議論に学ぶならば、全ての存在の「究極原因」を求めることは不可能であり、逆に「無限の因果系列」という矛盾したものも認めることはできない。したがって因果関係は実在しない。 全ての存在が必然的原因を持たずに偶然的に存在しているというのは直観的に受け入れ難いのであるが、しかし全く別な視点から考えれば、それは「不思議」なことではあるが、「摩訶不思議」というほどのことでもないかもしれない。形而上学の根本的な問題として、宇宙には「なぜ何もなにのではなく、何かがあるのか」という、いわゆる「究極の問い」があることを想起すべきだろう。この究極の問いには原理的に解答がない。解答がないとは次のようなことを意味する。仮にこの私が親を含めて一切の必然的原因を持たずに存在するとしたら、それは不思議なことである。しかしそれは、宇宙には「何もないのではなく、何かがある」という摩訶不思議の内に含まれる不思議さなのである。究極の問いは、存在するもの全ての不思議さを包括する究極の摩訶不思議である。 究極の問いに解答がないということ自体が、実は宇宙の真理の一つを示しているのではないか。それは宇宙は絶対的な原因によって生じたものではなく、「ただ存在している」だけだということである。何かの原因によって生じたわけでない宇宙は、ただ存在するということを無限に続けるしかない。この無限は「永久」というべきものである。いや、「続ける」というのなら「持続時間」が想定されるのだから、形而上学的無限という不合理に陥るのではないかと思われるかもしれない。しかし、そうではないのだ。 無限とは、数えるという行為に「終わりがない」という意味なのである。たとえば時間が実在するのなら、現在を基点に無限の過去へ、または未来へと数え続けることができる。そして空間が実在するというのなら、この場所を基点に無限の彼方へと数え続けることができる。もちろん時間と空間は無限に小さく分割することもできる。 仮に、宇宙に次のようなメビウスの帯がぽつんと一つだけあり、他には何もなく、それが永久的に存在しているとしよう。 変化が存在せず、数える者が誰もいないのなら、上のメビウスの帯だけの世界に時間は存在しない。ただそれは「ある」だけである。「無限の過去からあって、これからも無限にあり続ける」ということはできない。メビウスの帯を鳥瞰できる神がいるのなら持続時間を数えることはできるだろうが、そのような神がいないなら「過去の時間」などは存在しなかったのである。それと同様に可算的な空間も実在していないことになる。 数えることができないものが、単に「ある」ということを続ける――これが操作的な概念である可能的無限ではなく、仮象のものである形而上学的無限でもなく、紙の上にのみある数学的無限でもない、真の無限とでもいうべき「永久」であろう。 アリストテレスは『自然学』において、「運動に終わりがあるが始まりは無い」ということを述べている。これは無限小の「点」の実在を否定しようとするものである。つまり運動が終わったものの「軌跡」は可能的に無限に分割できる。点とは軌跡を現実的に無限分割したものとしての仮象のものであり、実際の運動とは無限個の点を通過するものではないということである。これがゼノンのパラドックスを解消しうるのは可能的無限の立場であり、現実的無限ではないという理由である。このアリストテレスの考え方が反実在論であることは既に述べたが、この考え方を延長するならエレア派の哲学に繋がっていくようにも思える。 すなわち、アキレスと亀は運動を始める前から生きていたのであり、アキレスが亀を追い抜いた後も両者はそれぞれの歩みを続けるはずである。すなわち、一つの運動の「終わり」とは別の運動の「始まり」でなくてはならない。アキレスが亀に追いついた時点で世界が分割できるわけではない。結局、運動の分割とは運動の軌跡に対してのみなされると考えるなら、分割対象となるその軌跡は、過去と未来へ限界まで延長されるしかない。つまり最初に「一なる全体」があって、分割された部分とは仮象であるとするエレア派の哲学に接近することになる。アリストテレスの反実在論は、エレア派の哲学と紙一重なのである。 「一」として完結した運動は時間・空間的に宇宙の最初から最後まで延長されるしかない。エレア派の哲学をたとえるならば、宇宙に次々と生起し、次々と消滅しているように見える現象の全てが、一枚の「絵」を織り成すように連なって永久に存在しているのである。そこは非可算的な世界である。 その絵は、上述のメビウスの帯に描かれているようなものである。人間はそのメビウスの帯の内部にいると考えることができる。帯の内部からは世界は無限に見えるが、実際にはその世界は閉じていて有限である。無限に思える有限なものが永久に存在している――これが形而上学的無限を峻拒する立場から必然的に眺望される、宇宙の真の在り方なのだと私は考えている。パルメニデスやゼノンもそう考えたはずであり、カントが物自体と呼んだものも同じなのだと思う。参考までに現代の時間と空間の哲学では、相対性理論の解釈によって、時間と空間はそれぞれ実在ではなく、両者を合わせた四次元時空が永久的に存在しているとする「ブロック宇宙」という世界観が提唱されている。これは基本的にエレア派やカントの哲学と同じものである。 最後に、自分がこれまで一歩また一歩と歩み続けてきた人生の軌跡を振りかえってみたい。形而上学的無限を否定して実在論を峻拒するならば、それぞれの一歩は対応する実在をもたない現象であったと考える他はない。ここで深刻な疑念が生じることになる。それぞれの現象は、明らかに他の現象と厳密な関係を持って存在しているようである。それらには「つながり」がある。エレア派のように「全ては一」というのはたやすい。しかし異質な現象たちが「つながり」、また「一つ」である様を、人間はイメージすることができない。ここには存在論の究極的な問題があるように思える。メタ存在論の問題になるのかもしれない。 私はこれからも日々一歩また一歩と足を繰り出すだろう。新たな一歩を踏み出すとき、この一歩は果たして何なのかと考えることがあるだろう。また、やはり一歩の内に無限を通過しているのかもしれないと思い直すことがあるかもしれない。人の僅か一歩には宇宙の神秘が横溢している。哲学の道に終わりはない。 参考文献 青山拓夫『新版 タイムトラベルの哲学』ちくま文庫 2011年 青山拓夫「アキレスと亀:なぜ追いつく必要がないのか」科学哲学 43-2 2010年 荒木秀夫「場所と空間:『アリストテレスの場所論』」同志社哲學年報 18, 34-49, 1995-09-01 池田真治「ライプニッツの無限小の概念- 最近の議論を中心に -」哲学論叢33 2006年 石川文康『カント入門』ちくま新書 1995年 石川文康『カントはこう考えた』ちくま学芸文庫 2009年 石崎宏平「カントに於ける無限概念の発展」研究年報/学習院大学文学部(6) 1960-03-30 石村多門『無限の快楽』窓社 1998年 伊勢田哲治「科学的実在論はどこへ向かうのか」Nagoya Journal of Philosophy vol. 4 2005年 植村恒一郎『時間の本性』勁草書房 2002年 植村恒一郎「「点」話法としてのゼノンの逆理」ギリシャ哲学セミナー 2004年 内井惣七『空間の謎・時間の謎』中公新書 2006年 大栗博司『超弦理論入門』講談社 2013年 大森荘蔵『時間と自我』青土社 1992年 大森荘蔵『時間と存在』青土社 1994年 大森荘蔵『時は流れず』青土社 1996年 岡崎文明「プラトンの「パルメニデス篇」」彦根論叢, 287・288 57-77.1994 長田蔵人「アンチノミーと充足理由律の問題」哲学論叢 29, 13-26, 2002-09-01 上林昌太郎「不被動者の起動者 『自然学』第八巻からの接近」国際武道大学研究紀要 19, 37-63, 2004-03-30 熊地康正「トマス・アクィナスにおける無限の意味」上智大学大学院哲学研究科中世哲学研究会 1989-05-31 佐藤勝彦 監修『量子論を楽しむ本』PHP研究所 2000年 佐藤勝彦 監修『相対性理論と量子論』PHP研究所 2006年 佐藤勝彦『インフレーション宇宙論』講談社 2010年 薗田坦「ブルーノの無限宇宙論」人文研究 大阪市立大学大学院文学研究科紀要 1984年 巽友正「ゼノンの運動否定の論理」科学基礎論研究 89, 49-53, 1997 田之頭一知「アリストテレス『自然学』における時間の概念」京都精華大学紀要 (39) 239-257 2011年9月 寺尾隆二「カントとヒューム」道標 第28集 1991年 杉村立男「世界の起源という問題」都留文科大学研究紀要 1998年 竹田青嗣『完全解読 カント『純粋理性批判』』講談社選書メチエ 2010年 田崎晴明「大森荘蔵の時間論のごく一部」2011年 田島正樹『古代ギリシャの精神』 講談社選書メチエ 2013年 千代島雅『アキレスと亀―時間の哲学と論理』晃洋書房 2005年 辻下徹「有限の中の無限」早稲田大学複雑系高等学術研究所編「複雑系叢書 7 複雑さへの関心」2005年 戸田山和久『科学哲学の冒険』NHKブックス 2005年 永井龍男「アルゴリズムの問題としてのゼノンのパラドックス」富山大学人文学部紀要 2007年 永井龍男「ゼノンによる無限分割と時間における〈今〉」『ギリシャ哲学セミナー論集』V 2008年 中島義道『『純粋理性批判』を噛み砕く』講談社 2010年 中山康雄『科学哲学入門』勁草書房 2008年 中村秀吉『時間のパラドックス』中公新書 1980年 野内玲「科学的知識と実在 ~科学的実在論の論争を通して~」2012年 野矢茂樹『無限論の教室』講談社 1998年 野矢茂樹『他者の声 実在の声』産業図書 2005年 橋元淳一郎『量子力学が見る見るわかる』サンマーク出版 2001年 廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫 1997年 松原隆彦『宇宙に外側はあるか』光文社新書 2012年 三浦要『パルメニデスにおける真理の探究』京都大学出版会 2011年 村上陽一郎「時間を巡って」『図書 1999年2月号』岩波書店 山川偉也『古代ギリシャの思想』講談社学術文庫 1993年 山川偉也『ゼノン4つの逆理』講談社 1996年 吉田伸夫『宇宙に果てはあるか』新潮選書 2007年 神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史1』講談社 2011年 アリストテレス『アリストテレス全集3 自然学』 岩崎允胤 訳 岩波書店 1968年 ジョン・D・バロウ『無限の話』松浦俊輔 訳 青土社 2006年 マイケル・ダメット『真理という謎』藤田晋吾 訳 勁草書房 1986年 ブライアン・グリーン『隠れていた宇宙 下』 竹内薫 監修 大田直子 訳 2011年 ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか?』寺町朋子 訳 早川書房 2013年 イマヌエル・カント『プロレゴメナ』篠田英雄 訳 岩波書店 1977年 イマヌエル・カント『純粋理性批判 上・中・下』原佑 訳 平凡社ライブラリー 2005年 A.W.ムーア『無限 その哲学と数学』石村多門 訳 東京電機大学出版局 1996年 ジョセフ・メイザー『ゼノンのパラドックス』松浦俊輔 訳 白揚社 2009年 ヒラリー・パトナム『理性・真理・歴史』野本和幸 中川大 三上勝生 金子洋之 訳 叢書・ウニベルシタス 1994年 プラトン『プラトン全集 4 パルメニデス ピレボス』田中美知太郎 訳 岩波書店 1975年 ギルバート・ライル『ジレンマ』篠澤和久 訳 勁草書房 1997年 ヘルマン・ワイル『数学と自然科学の哲学』菅原正夫 下村寅太郎 森繁男 訳 岩波書店 1959年 『別冊日経サイエンス 時空の起源に迫る宇宙論』日本経済新聞出版社 2005年 『Newton ゼロと無限の科学』2006年 ニュートンプレス 『日経サイエンス 2014年2月号』日本経済新聞出版社 『別冊日経サイエンス 量子の逆説』日本経済新聞出版社 2014年 参考サイト 大栗博司「宇宙のかたちを測る」 http //www.gentosha.jp/articles/-/1909?page=7 黒木玄「村上陽一郎の「微分の言い抜け」説」 http //www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/iinuke.html 首藤至道『時間認識という錯覚-2500年の謎を解く-』 http //kumaotoko.in.coocan.jp/sakkaku.html 永井俊哉「無限性のコペルニクス的転回」 http //www.systemicsblog.com/ja/2012/infiniteness/ 永井俊哉「ブライアン・グリーンと超ひも理論」 http //www.systemicsforum.com/ja/viewtopic.php?f=9 t=148 吉田伸夫「瞬間に幅はあるか」 http //www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/P6_05.htm ゼノンのパラドックス克服法 http //oshiete.goo.ne.jp/qa/308420.html Wikipedia 「なぜ何もなにのではなく、何かがあるのか」 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%BD%95%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B] ブライアン・グリーン講演「宇宙はひとつしか存在しないのか?」2012年 http //www.ted.com/talks/brian_greene_why_is_our_universe_fine_tuned_for_life?language=ja#t-752010
https://w.atwiki.jp/touhou_ginfuritsu/pages/772.html
東方銀符律ver9.0 BEFORE 東方銀符律8.0 NEXT 発売日 2013年8月24日 内容 全種類(R枚 U枚 C枚 N枚 CP枚) キャラ種類 イベント種類 アイテム種類 エリア種類 クラッシックパラレル プロモーションカード 今弾より新ルール「エクステンド」「タッグ」が追加。 収録カードリスト 番号 種類 レアリティ 属性 カード名 TH-0666 キャラ C 雪 キスメ(釣瓶落とし) TH-0667 キャラ U 雪 雲居一輪&雲山(拳骨「天空鉄槌落とし」) TH-0668 キャラ C 雪 レティ・ホワイトロック(寒気を操る程度の能力) TH-0669 キャラ C 雪 水橋 パルスィ(花咲爺「シロの灰」) TH-0670 キャラ R 雪 上白沢 慧音(産霊「ファーストピラミッド」) TH-0671 キャラ R 雪 蓬来山 輝夜(難題「燕の子安貝-永命線-」) TH-0672 キャラ U 雪 四季映姫・ヤマザナドゥ(審判「ラストジャッジメント」 ) TH-0673 キャラ R 雪 フランドール・スカーレット(禁忌「恋の迷路」) TH-0674 キャラ U 月 宮古 芳香(忠実な死体) TH-0675 キャラ R 月 メディスン・メランコリー(コンパロ、コンパロ、毒よ集まれー) TH-0676 キャラ U 月 霍 青娥(壁抜けの邪仙) TH-0677 キャラ C 月宙 ルナチャイルド(夜だから眠れない ) TH-0678 キャラ C 月 小野塚 小町(死符「死者選別の鎌」) TH-0679 キャラ U 月 紅 美鈴(気符「地龍天龍脚」) TH-0680 キャラ U 月 鈴仙・優曇華院・イナバ(晴嵐の赤眼) TH-0681 キャラ U 月 蘇我 屠自古(夢殿大祀廟) TH-0682 キャラ R 月 茨歌仙(仙人) TH-0683 キャラ R 月 火焔猫 燐(「死体繁華街」) TH-0684 キャラ R 月 博麗 霊夢(博麗の巫女) TH-0685 キャラ R 月 レミリア・スカーレット(永遠に紅い幼き月) TH-0686 キャラ U 月 豊聡耳 神子(「神霊大宇宙」) TH-0687 キャラ C 花 ミスティア・ローレライ(歌で人を惑わす程度の能力) TH-0688 キャラ C 花 ルーミア(夜符「ミッドナイトバード」) TH-0689 キャラ U 花 秋 静葉(紅葉の神) TH-0690 キャラ C 花 鍵山 雛(疵符「ブロークンアミュレット」 ) TH-0691 キャラ U 花 リグル・ナイトバグ(光る蟲の大群) TH-0692 キャラ C 花 秋 穣子(八百万の秋の神) TH-0693 キャラ U 花 河城 にとり(水符「河童のフラッシュフラッド」) TH-0694 キャラ U 花 本居 小鈴(妖魔本) TH-0695 キャラ R 花 古明地 さとり(想起「濛々迷霧」) TH-0696 キャラ U 花 虎丸 星(毘沙門天の弟子) TH-0697 キャラ R 花 パチュリー・ノーレッジ(得体の知れない魔法の元) TH-0698 キャラ R 花 洩矢 諏訪子(開宴「ニ拝二拍一拝」) TH-0699 キャラ R 花 八意 永琳(蘇生「ライジングゲーム」) TH-0700 キャラ R 花 八雲 紫(符の弐「八雲卍傘」) TH-0701 キャラ R 花 伊吹 萃香(鬼火「超高密度燐禍術」) TH-0702 キャラ C 宙 ナズーリン(宝塔「グレイテストトレジャー」) TH-0703 キャラ C 花宙 スターサファイア(妖精燦々として) TH-0704 キャラ R 宙 魂魄 妖夢(六道剣「一念無量劫」) TH-0705 キャラ C 宙 村紗 水蜜(湊符「幽霊船永久停泊」 ) TH-0706 キャラ U 宙 永江 衣玖(龍宮「タイヤヒラメダンス」) TH-0707 キャラ R 宙 十六夜 咲夜(メイド秘技「操りドール」 ) TH-0708 キャラ C 宙 八坂 神奈子(御柱「メテオリックオンバシラ」) TH-0709 キャラ R 宙 聖 白蓮(「聖尼公のエア巻物」) TH-0710 キャラ U 宙 比那名居 天子(地震「先憂後楽の剣」) TH-0711 キャラ U 宙 霊烏路 空(地底の太陽) TH-0712 キャラ R 宙 風見 幽香(幽夢 ~ Inanimate Dream) TH-0713 キャラ R 宙 西行寺 幽々子(幽冥楼閣の亡霊少女) TH-0714 キャラ U 日 幽谷 響子(平凡陳腐な山彦) TH-0715 キャラ C 日 橙(目にも留まらない化猫) TH-0716 キャラ C 日 犬走 椛(狗符「レイビーズバイト」) TH-0717 キャラ U 日 チルノ(冷体「スーパーアイスキック」) TH-0718 キャラ C 日 リリーホワイト(天空の花の都 ) TH-0719 キャラ U 日 因幡 てゐ(人間を幸運にする程度の能力) TH-0720 キャラ C 日 黒谷 ヤマメ(忍び寄る恐怖の気) TH-0721 キャラ C 月日 サニーミルク(サニールチルフレクション ) TH-0722 キャラ R 日 アリス・マーガトロイド(雅符「春の京人形」) TH-0723 キャラ U 日 八雲 藍(密符「御大師様の秘鍵」) TH-0724 キャラ R 日 射命丸 文(逆風「人間禁制の道」) TH-0725 キャラ C 日 姫海棠 はたて(念写記者) TH-0726 キャラ R 日 古明地 こいし(表象「弾幕パラノイア」) TH-0727 キャラ U 日 藤原 妹紅(焼死しない人間) TH-0728 キャラ R 日 霧雨 魔理沙(魔符「ミルキーウェイ」) TH-0729 キャラ R 日 物部 布都(投皿「物部の八十瓮」) TH-0730 キャラ U 日 東風谷 早苗(準備「サモンタケミナカタ」) TH-0731 キャラ C 日 多々良 小傘(うらめしやー) TH-0732 キャラ U 日 二ッ岩 マミゾウ(「ワイルドカーペット」) TH-0733 キャラ R 日 星熊 勇儀(鬼声「壊滅の咆哮」) TH-0734 キャラ U 無 封獣 ぬえ(アンノウン「原理不明の妖怪玉」) TH-0735 キャラ U 雪 チルノ&大妖精 TH-0736 キャラ U 花 秋 静葉&秋 穣子 TH-0737 キャラ U 宙 東風谷 早苗&八坂 神奈子 TH-0738 キャラ R 宙 豊聡耳 神子&物部 布都 TH-0739 キャラ R 五色 パチュリー・ノーレッジ&小悪魔 TH-0740 キャラ R 五色 博麗 霊夢&霧雨 魔理沙 TH-0741 イベント C 月 ダム計画 TH-0742 イベント C 月 証城寺の狸囃子 TH-0743 イベント R 月 夢の新薬 TH-0744 イベント U 月 鈴奈庵 TH-0745 イベント R 花 狐の奸計 TH-0746 イベント U 宙 紅魔館 TH-0747 イベント C 宙 河童の腕 TH-0748 イベント U 日 灼熱地獄地霊殿跡 TH-0749 イベント U 日 文々。新聞 TH-0750 イベント C 無 抗議 TH-0751 エリア C 無 常温核融合 TH-0752 エリア U 五色 逆さ虹 クラッシックパラレル 番号 種類 レアリティ 属性 カード名 再録元 TH-0341A キャラ U 宙 小悪魔(ヴワル魔法図書館) ver.5.0 TH-0381A キャラ U 雪 霍 青娥(邪符「ヤンシャオグイ」) ver.6.0 TH-0383B キャラ R 雪 古明地 さとり(想起「うろおぼえの金閣寺」) ver.6.0 TH-0384C キャラ R 雪 東風谷 早苗(我欲の巫女) ver.6.0 TH-0385C キャラ R 雪 魂魄 妖夢(剣術を扱う程度の能力) ver.6.0 TH-0385A キャラ U 雪 霧雨 魔理沙(ミミちゃん) ver.6.0 TH-0398B キャラ R 月 聖 白蓮(「スターソードの護法」) ver.6.0 TH-0402A キャラ U 花 多々良 小傘(虹符「アンブレラサイクロン」) ver.6.0 TH-0406C キャラ R 花 博麗 霊夢(ホーミングアミュレット) ver.6.0 TH-0408B キャラ R 花 伊吹 萃香(鬼符「大江山悉皆殺し」) ver.6.0 TH-0414B キャラ R 宙 鈴仙・優曇華院・イナバ(狂夢「風狂の夢(ドリームワールド)」) ver.6.0 TH-0441A イベント R 花 身代わり人形 ver.6.0 TH-0466B キャラ R 雪 聖 白蓮(魔法を使う程度の能力) ver.7.0 TH-0467C キャラ R 雪 博麗 霊夢(夢符「封魔陣」) ver.7.0 TH-0470A キャラ U 月 因幡 てゐ(兎符「因幡の素兎」) ver.7.0 TH-0471A キャラ C 月 大妖精(霧の湖) ver.7.0 TH-0492A キャラ U 花 永江 衣玖(雲界「玄雲海の雷庭」) ver.7.0 TH-0496C キャラ R 花 霧雨 魔理沙(恋心「ダブルスパーク」) ver.7.0 TH-0504A キャラ U 宙 犬走 椛(山のテレグノシス) ver.7.0 TH-0509A キャラ U 宙 寅丸 星(光符「アブソリュートジャスティス」) ver.7.0 TH-0523A キャラ R 日 多々良 小傘(人間を驚かす程度の能力) ver.7.0 TH-0530B キャラ R 日 洩矢 諏訪子(坤を創造する程度の能力) ver.7.0 TH-0536A イベント R 雪 「反魂蝶」 ver.7.0 TH-0543A イベント U 宙 本能「イドの解放」 ver.7.0 TH-0546A イベント R 五色 火水木金土符「賢者の石」 ver.7.0 TH-0547A イベント R 無 博麗神社倒壊する ver.7.0 TH-0555A キャラ C 雪 レティ・ホワイトロック(怪符「テーブルターニング」) ver.7.0 TH-0562B キャラ R 雪 パチュリー・ノーレッジ(木&火符「フォレストブレイズ」) ver.7.0 プロモーションカード 番号 種類 レアリティ 属性 カード名 入手 TH-0673A キャラ P 雪 フランドール・スカーレット(禁忌「恋の迷路」) アニメイト BOX購入 TH-0684B キャラ P 月 博麗 霊夢(博麗の巫女) ゲーマーズ BOX購入 TH-0697A キャラ P 花 パチュリー・ノーレッジ(得体の知れない魔法の元) あみあみ BOX購入 TH-0698A キャラ P 花 洩矢 諏訪子(開宴「ニ拝二拍一拝」) メロンブックス BOX購入 TH-0699A キャラ P 花 八意 永琳(蘇生「ライジングゲーム」) 東方波天宮 BOX購入 TH-0704A キャラ P 宙 魂魄 妖夢(六道剣「一念無量劫」) イベント・公式通販 BOX購入 TH-0722A キャラ P 日 アリス・マーガトロイド(雅符「春の京人形」) O-TRAP&D-STAGE&とらのあな&ホワキャン BOX購入 TH-0728B キャラ P 日 霧雨 魔理沙(魔符「ミルキーウェイ」) イエローサブマリン BOX購入 TH-0683A キャラ P 月 火焔猫 燐(「死体繁華街」) 2013年9月・10月ランキング大会優勝賞 TH-0753 キャラ P 日 ニャリス(猫耳) 2013年9月・10月ノーマル大会・ランキング大会参加賞
https://w.atwiki.jp/gensouutage_net/pages/12586.html
FFO Replay Version 2.1 hai//無邪気「歳考えろ」//八雲 紫-八雲 紫-八雲 紫-古明地 こいし- アロンダイト//AH-Y72 ティーゲルシュベルト//十六夜 咲夜-十六夜 咲夜-十六夜 咲夜-十六夜 咲夜- 賽が投げられて、haiの先攻になりました。 hai いやいや アロンダイト dz hai マリガンです アロンダイト おk haiは手札からカードを全部、山札の上に置きました。 haiはカードを 6 枚引きました。 - マリガン hai おk hai では #配置:《結界「夢と現の呪」》 ↑起動:《結界「夢と現の呪」》 Turn 2 - アロンダイト//体力20( 21) 呪力1( 0) 手札7( 5) 山33( 34) スペル0( 1) タイマー00 01(00 24) シーン なし #配置:《幻符「殺人ドール」》 Turn 3 - hai//体力21( 20) 呪力1( 1) 手札6( 6) 山33( 33) スペル1( 1) タイマー00 25(00 07) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//心符「没我の愛」//紫奥義「弾幕結界」//心符「没我の愛」// ☆戦闘:hai - 《結界「夢と現の呪」》(相手スルー) ★戦闘結果:hai - === 2 dmg - アロンダイト #配置:《心符「没我の愛」》 Turn 4 - アロンダイト//体力18( 21) 呪力3( 1) 手札7( 5) 山32( 33) スペル1( 2) タイマー00 09(00 29) シーン なし #配置:《時符「シルバーアキュート360」》 Turn 5 - hai//体力21( 18) 呪力3( 3) 手札6( 6) 山32( 32) スペル2( 2) タイマー00 30(00 28) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//紫奥義「弾幕結界」//心符「没我の愛」//結界「夢と現の呪」// ☆戦闘:hai - 《結界「夢と現の呪」》(相手スルー) ★戦闘結果:hai - === 2 dmg - アロンダイト #配置:《心符「没我の愛」》 Turn 6 - アロンダイト//体力16( 21) 呪力6( 3) 手札7( 5) 山31( 32) スペル2( 3) タイマー00 46(00 36) シーン なし #配置:《幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」》 ↑起動:《幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」》 Turn 7 - hai//体力21( 16) 呪力6( 1) 手札6( 6) 山31( 31) スペル3( 3) タイマー00 37(01 55) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//紫奥義「弾幕結界」//結界「夢と現の呪」//外力「無限の超高速飛行体」// ☆戦闘:hai - 《結界「夢と現の呪」》 vs 《幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」》 - アロンダイト haiは《結界「夢と現の呪」》の1番目の特殊能力を使いました。 ★戦闘結果:hai - dmg 3 1 dmg - アロンダイト #配置:《結界「夢と現の呪」》 Turn 8 - アロンダイト//体力15( 18) 呪力5( 4) 手札7( 5) 山30( 31) スペル3( 4) タイマー01 54(00 56) シーン なし #配置:《銀符「パーフェクトメイド」》 ↑起動:《銀符「パーフェクトメイド」》 アロンダイトは《チェックメイト》をアロンダイトの《銀符「パーフェクトメイド」》に配置しました。 Turn 9 - hai//体力18( 15) 呪力9( 0) 手札6( 5) 山30( 30) スペル4( 4) タイマー00 56(02 11) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//紫奥義「弾幕結界」//外力「無限の超高速飛行体」//漱石枕流// #配置:《紫奥義「弾幕結界」》 ↑起動:《紫奥義「弾幕結界」》 Turn 10 - アロンダイト//体力15( 18) 呪力4( 2) 手札6( 5) 山29( 30) スペル4( 5) タイマー02 03(01 04) シーン なし hai メイド長…デッキの貯蔵は十分か? アロンダイト フ hai …デッキ危ないのこっちじゃないか^q^ ☆戦闘:アロンダイト - 《銀符「パーフェクトメイド」》 vs 《紫奥義「弾幕結界」》 - hai ★戦闘結果:アロンダイト - dmg 3 1 dmg - hai haiは《紫奥義「弾幕結界」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《神隠し》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《表象「夢枕にご先祖総立ち」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - チェックメイト #配置:《幻象「ルナクロック」》 ↑起動:《銀符「パーフェクトメイド」》 Turn 11 - hai//体力17( 12) 呪力8( 0) 手札6( 5) 山26( 29) スペル5( 5) タイマー01 06(03 04) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//外力「無限の超高速飛行体」//漱石枕流//外力「無限の超高速飛行体」// #配置:《外力「無限の超高速飛行体」》 ↑起動:《紫奥義「弾幕結界」》 Turn 12 - アロンダイト//体力12( 17) 呪力5( 1) 手札6( 5) 山28( 26) スペル5( 6) タイマー02 51(01 19) シーン なし ☆戦闘:アロンダイト - 《銀符「パーフェクトメイド」》 vs 《紫奥義「弾幕結界」》 - hai ★戦闘結果:アロンダイト - dmg 3 1 dmg - hai haiは《二次元と三次元の境界》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《睡眠》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《漱石枕流》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - チェックメイト #配置:《幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」》 ↑起動:《銀符「パーフェクトメイド」》 Turn 13 - hai//体力16( 9) 呪力8( 1) 手札6( 5) 山22( 28) スペル6( 6) タイマー01 14(03 22) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//漱石枕流//外力「無限の超高速飛行体」//漱石枕流// #配置:《外力「無限の超高速飛行体」》 ↑起動:《紫奥義「弾幕結界」》 Turn 14 - アロンダイト//体力9( 16) 呪力7( 1) 手札6( 5) 山27( 22) スペル6( 7) タイマー03 06(01 28) シーン なし イベント(アロンダイト):《タネの無い手品》 アロンダイトはカードを 1 枚引きました。 - タネの無い手品 アロンダイトは山札を上から 3 枚見ました。 - タネの無い手品 アロンダイトは山札を上から 3 枚見ました。 アロンダイトは山札のカードを 1 枚、一番下に置き直しました。 アロンダイトは山札のカードを 1 枚、一番下に置き直しました。 ☆戦闘:アロンダイト - 《銀符「パーフェクトメイド」》 vs 《紫奥義「弾幕結界」》 - hai ★戦闘結果:アロンダイト - dmg 3 1 dmg - hai haiは《睡眠》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《境符「四重結界」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《廃線「ぶらり廃駅下車の旅」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - チェックメイト #配置:《時符「シルバーアキュート360」》 ↑起動:《銀符「パーフェクトメイド」》 Turn 15 - hai//体力15( 6) 呪力9( 1) 手札6( 5) 山18( 26) スペル7( 7) タイマー01 33(03 50) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//漱石枕流//漱石枕流//罔両「八雲紫の神隠し」// イベント(hai):《神出鬼没》 haiは山札を丸ごと見ました。 - 神出鬼没 haiは《廃線「ぶらり廃駅下車の旅」》を山札から起動状態で場に置きました。 haiは山札を見るのをやめました。 haiは山札をシャッフルしました。 ☆戦闘:hai - 《廃線「ぶらり廃駅下車の旅」》 vs 《銀符「パーフェクトメイド」》 - アロンダイト イベント(hai):《霊撃》 ★戦闘結果:hai - dmg 1 6 dmg - アロンダイト haiは《廃線「ぶらり廃駅下車の旅」》を場から捨て札に置きました。 - 廃線「ぶらり廃駅下車の旅」 haiは《境符「四重結界」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《二次元と三次元の境界》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《紫奥義「弾幕結界」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - チェックメイト アロンダイト ありがとうございました hai ありがとうございました~ アロンダイト まぁ霊撃持ってるか hai ありましたねぇ アロンダイト デッキアウト無謀だよなーとは思いつつも hai 結構腐るものの落ちてること落ちてること… アロンダイト 殴り合いするのか?っという hai 停止とかないと殴りあいはしんどいっす;w; アロンダイト うーん アロンダイト 体力の削り合いするには火力を補いきれない アロンダイト 山札を焼くにも間に合わない hai 霊撃3入れて手数で勝負でしょうねぇ hai けど hai 速攻スペルもびみょいぜ… アロンダイト 手数ならむしろ世界複数回使いたいとか考えてしまう hai あれは使える時には使っちゃっていいかと アロンダイト 使えるときにはねwww アロンダイト やっぱ hai 呪力5払って次の攻めが立つならいい感じ アロンダイト 手品いらない気がしてきたww hai 手品入れるなら hai スペルの枚数減らせますぜ hai 下手すりゃ20枚で回る アロンダイト 問題は アロンダイト 撃つ暇が無かったりする hai www hai そこは仕方にぃ;w; hai では、そろそろ戻りますね~ hai ありがとうございました~ノシ アロンダイト 4の弱点補う事考えたら減速なんだろうなぁ アロンダイト ノシ
https://w.atwiki.jp/gensouutage_net/pages/11597.html
FFO Replay Version 2.1 砂井裏鍵//境界の底に沈む薔薇//古明地 こいし-古明地 こいし-古明地 こいし-八雲 紫- taro//仲良し姉妹//古明地 こいし-古明地 こいし-古明地 さとり-古明地 さとり- 賽が投げられて、taroの先攻になりました。 taroの呪力は今1 (+1)です。 taro では 砂井裏鍵 どぞ 砂井裏鍵 後手かぁ; #配置:《本能「イドの解放」》 Turn 2 - 砂井裏鍵//体力20( 20) 呪力1( 1) 手札7( 5) 山33( 34) スペル0( 1) タイマー00 02(00 12) シーン なし 手札:「サブタレイニアンローズ」//根性避け//復燃「恋の埋火」//無意識「弾幕のロールシャッハ」//「嫌われ者のフィロソフィ」//スーパーエゴ//無意識の遺伝子// #配置:《「嫌われ者のフィロソフィ」》 Turn 3 - taro//体力20( 20) 呪力3( 1) 手札6( 6) 山33( 33) スペル1( 1) タイマー00 11(00 07) シーン なし #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 Turn 4 - 砂井裏鍵//体力20( 20) 呪力3( 3) 手札7( 5) 山32( 33) スペル1( 2) タイマー00 05(00 23) シーン なし 手札:「サブタレイニアンローズ」//根性避け//復燃「恋の埋火」//無意識「弾幕のロールシャッハ」//スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女// #配置:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 5 - taro//体力20( 20) 呪力6( 3) 手札6( 6) 山32( 32) スペル2( 2) タイマー00 20(00 11) シーン なし #配置:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 taro 埋火欲しい・・ ↑起動:《想起「飛行虫ネスト」》 Turn 6 - 砂井裏鍵//体力20( 20) 呪力6( 2) 手札7( 5) 山31( 32) スペル2( 3) タイマー00 08(00 58) シーン なし 手札:「サブタレイニアンローズ」//根性避け//復燃「恋の埋火」//スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//復燃「恋の埋火」// #配置:《復燃「恋の埋火」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 7 - taro//体力20( 20) 呪力5( 3) 手札6( 6) 山31( 31) スペル3( 3) タイマー00 54(00 28) シーン なし ☆戦闘:taro - 《想起「飛行虫ネスト」》 vs 《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 - 砂井裏鍵 ★戦闘結果:taro - dmg 1 3 dmg - 砂井裏鍵 #配置:《復燃「恋の埋火」》 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 Turn 8 - 砂井裏鍵//体力17( 19) 呪力7( 1) 手札7( 5) 山30( 31) スペル3( 4) タイマー00 26(01 12) シーン なし 手札:「サブタレイニアンローズ」//根性避け//復燃「恋の埋火」//スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//神出鬼没// 砂井裏鍵 オウフ #配置:《「サブタレイニアンローズ」》 taro 引いた引いた 砂井裏鍵 うーん………… taro げふ ↑起動:《「嫌われ者のフィロソフィ」》 Turn 9 - taro//体力19( 17) 呪力5( 4) 手札6( 6) 山30( 30) スペル4( 4) タイマー01 07(00 52) シーン なし ☆戦闘:taro - 《復燃「恋の埋火」》 vs 《「嫌われ者のフィロソフィ」》 - 砂井裏鍵 taroは《復燃「恋の埋火」》の1番目の特殊能力を使いました。 砂井裏鍵 えー taro パターンどぞ 砂井裏鍵 パターンされたらどうするんですか! 砂井裏鍵 ;;; taro ないのかwww ★戦闘結果:taro - dmg 0 5 dmg - 砂井裏鍵 砂井裏鍵 やばす #配置:《表象「夢枕にご先祖総立ち」》 Turn 10 - 砂井裏鍵//体力12( 19) 呪力9( 2) 手札7( 5) 山29( 30) スペル4( 5) タイマー01 00(02 16) シーン なし 手札:根性避け//復燃「恋の埋火」//スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//神出鬼没//ハルトマンの妖怪少女// #配置:《復燃「恋の埋火」》 ↑起動:《「サブタレイニアンローズ」》 Turn 11 - taro//体力19( 12) 呪力8( 4) 手札6( 6) 山29( 29) スペル5( 5) タイマー02 05(01 17) シーン なし #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 12 - 砂井裏鍵//体力12( 19) 呪力9( 1) 手札7( 5) 山28( 29) スペル5( 6) タイマー01 07(02 39) シーン なし 手札:根性避け//スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//神出鬼没//ハルトマンの妖怪少女//ハルトマンの妖怪少女// 砂井裏鍵 (;´∀`)…うわぁ… ☆戦闘:砂井裏鍵 - 《「サブタレイニアンローズ」》 vs 《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 - taro イベント(砂井裏鍵):《根性避け》 ★戦闘結果:砂井裏鍵 - 【回避】 3 dmg - taro ↑起動:《「嫌われ者のフィロソフィ」》 Turn 13 - taro//体力16( 12) 呪力7( 3) 手札6( 6) 山28( 28) スペル6( 5) タイマー02 29(01 35) シーン なし ☆戦闘:taro - 《復燃「恋の埋火」》 vs 《「サブタレイニアンローズ」》 - 砂井裏鍵 イベント(taro):《スーパーエゴ》 taro ゴゴゴゴゴ 砂井裏鍵 むー ★戦闘結果:taro - dmg 3 5 dmg - 砂井裏鍵 #配置:《想起「テリブルスーヴニール」》 ↑起動:《想起「テリブルスーヴニール」》 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 Turn 14 - 砂井裏鍵//体力7( 13) 呪力8( 0) 手札7( 4) 山27( 28) スペル5( 7) タイマー01 56(03 54) シーン なし 手札:スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//神出鬼没//ハルトマンの妖怪少女//ハルトマンの妖怪少女//結界「夢と現の呪」// 砂井裏鍵 (´・ω・`) 砂井裏鍵 手札死んでる…… ☆戦闘:砂井裏鍵 - 《「嫌われ者のフィロソフィ」》 vs 《想起「テリブルスーヴニール」》 - taro ★戦闘結果:砂井裏鍵 - dmg 0 3 dmg - taro 砂井裏鍵の体力が-1 (6) - 想起「テリブルスーヴニール」 #配置:《結界「夢と現の呪」》 taro シャットダウン引かないかな・・・ ↑起動:《「サブタレイニアンローズ」》 Turn 15 - taro//体力10( 6) 呪力7( 3) 手札5( 6) 山27( 27) スペル7( 6) タイマー03 38(02 57) シーン なし taro ってエゴがいいな taro ・・・ イベント(taro):《シャットダウン》 taroは《「サブタレイニアンローズ」》を目標に指定しました。 ☆戦闘:taro - 《復燃「恋の埋火」》(相手スルー) ★戦闘結果:taro - === 4 dmg - 砂井裏鍵 #配置:《心符「没我の愛」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 16 - 砂井裏鍵//体力2( 10) 呪力9( 1) 手札7( 3) 山26( 27) スペル6( 8) タイマー02 40(05 07) シーン なし 手札:スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//神出鬼没//ハルトマンの妖怪少女//ハルトマンの妖怪少女//結界「夢と現の呪」// 砂井裏鍵 手札ェ;;;; taro ww 砂井裏鍵 なんだこりゃ……… #配置:《結界「夢と現の呪」》 Turn 17 - taro//体力10( 2) 呪力8( 9) 手札4( 6) 山26( 26) スペル8( 7) タイマー04 40(03 50) シーン なし イベント(taro):《シャットダウン》 taro 良い引きだ taroは《「サブタレイニアンローズ」》を目標に指定しました。 砂井裏鍵 割とどうでもいいけどね(´・ω・`) ☆戦闘:taro - 《復燃「恋の埋火」》(相手スルー) ★戦闘結果:taro - === 4 dmg - 砂井裏鍵 砂井裏鍵は《ハルトマンの妖怪少女》を無作為に捨てました。 砂井裏鍵は《ハルトマンの妖怪少女》を無作為に捨てました。 砂井裏鍵は《神出鬼没》を無作為に捨てました。 砂井裏鍵は《ハルトマンの妖怪少女》を無作為に捨てました。 砂井裏鍵は《スーパーエゴ》を無作為に捨てました。 砂井裏鍵は《無意識の遺伝子》を無作為に捨てました。 taro ありがとうございました taro www 砂井裏鍵 ありがとうございました 砂井裏鍵 3枚に積んだ途端これ 砂井裏鍵 積むなってことだな taro 遺伝子で1ターン耐えれるけれど・・・意味無いか(´・ω・`) 砂井裏鍵 えっ 砂井裏鍵 埋火能力………… taro 打点上昇忘れてた^q^ 砂井裏鍵 シャットダウンなんかなくても 砂井裏鍵 発狂2回で死んでるねん taro パターンとか怖いんで・・・ 砂井裏鍵 あったら打ってるわ; taro 普通に今引き警戒ですよ 砂井裏鍵 えー taro 大体のカードゲームにおいて「今引いた」が一番怖い 砂井裏鍵 その今引いたしか効かない上に 砂井裏鍵 パターンあったら俺迎撃しなくても打てるし 砂井裏鍵は山札を丸ごと見ました。 taroは《チームプレイ》を手札から捨て札に置きました。 砂井裏鍵 パターンこわくねぇやんwwwwwwwwww taro 迎撃なしならねw 砂井裏鍵 え? 砂井裏鍵 アンローズ迎撃パターン 砂井裏鍵 回避6 taro あれ?1点・・・足りてる・・・・? 砂井裏鍵 埋火発狂チムぷ 砂井裏鍵 命中7 砂井裏鍵 ほう taro アホす 砂井裏鍵 アホス 砂井裏鍵 戻るか; taro では戻りますか 砂井裏鍵 ノ taro ノシ
https://w.atwiki.jp/schwartzcberewiki/pages/106.html
クトゥルー神話に語られる世界でもっとも有名なネクロマンサーの一人 ネクロノミコンの著者としても知られ、創作であるにも関わらず専門家の間では、その実在が噂されている。 【狂える詩人】あるいは【真なる久遠の戯弄】の狂名で恐れられるカゴモリの養父にして師 七人の魔法使いの一人であり、同時に最狂の魔法使いとして知られる人物。 本来、魔術系統として認知すらされることの無い禁断の魔術、死霊術を編み出した鬼才の持ち主であり、魔道書〝アルアジフ(魔物の咆哮)〟と〝ネクロノミコン(死者の掟の表象)〟の著者としても知られる。 ネクロノミコンは地獄の兵を復活させたとか、時を越えたなどという話もある。この世界に現存する魔道書の中で、間違いなく最高峰の一冊である。 年齢、実に二千三百歳にせまると言われるが、友人でもあるエンペドクレスよりは数百歳ほど若いらしい。(現在の転生後のエンペドクレスよりはやや年上ではあるが) 年齢を重ねているにも拘らず若々しく、初見であれば十七、八歳と見紛うほどだ。 その姿は端麗艶治と呼ぶに相応しいほどに、艶かしく美しい容貌、燃えるような深紅色の頭髪と同系色の真紅の瞳を持つ。 エンペドクレスの長身痩躯の貴翁ともいうべき容姿に比べ、アブドゥルの身の丈は丁度百七十ほど、容姿も若々しく正反対、例えるなら艶治の美童といったところか。 どちらにせよ、何も知らぬ者が見れば、二人が古き友と解る者はいないのだろう。 それ以前に、この少年の年齢が、まさか二千歳を超えているなどとは誰にもわかるまい。 エンペドクレスが集落の長に治まった頃に、多少は住みやすくなったとして魔法使いの集落【木末隠る語り部】フロプトメハシェファに戻ってきた。 それ以前は、エンペドクレスは【英知と探求】の空中都市エリエスファルナにて学院長をしており、アブドゥルに至っては、世界各地を渡り歩いていたことしか解っていない。 その後、しばらく集落の更に奥地に古くよりかまえる自宅、虞骸館(ぐがいかん)と呼ばれる外装の赤煉瓦を年中季節の果実が収穫できる不思議な蔦で覆われ、屋根の風見鶏が特徴的な館に舞い戻っていた。(住民には蔑みの意味を込め、嘲弄館と呼ばれていた) その後、とある事情から一人の赤子を拾いカゴモリと名づけて自らの娘としている。 アブドゥルがこの世界で狂人と恐れられる理由は少なからず存在するが、その中でも伝統やそれに連なる古い教示に何の感慨もないどころか、笑い飛ばしてすらいたことが集落での村八分扱いの理由でもある。 魔術とは、本来、この世にユグドラシルが根付いた頃より始まったとされており、新神暦に至るまでの旧暦では、魔術を行使できるのは、この集落に住む者たちだけの特権でもあった。 その力は秘匿とされ、永きに渡り戒律をもって守られてきた。 当然、いかな赤子といえど集落の外の者を集落に入れることも戒律を破る行為だったが、アブドゥルはそんなこと毛ほども気にしていなかった。 今回のことだけに限らない。こうした態度の全てが住民の反感を買っていたのだろう。 更には、アブドゥルは未だかつて誰一人考え得なかった。或いは、考えたとしても成功し得なかった復活に連なる魔術を作り出した人物でもあるが、これも生命の醜く歪んだ結果であり、死の延長とされ蔑まれた。 もちろん、人間や動物の死体を使ったり、邪精霊や幽霊の類を弄するのだから、この意見ももっともだったのだろう。だが、アブドゥルはエンペドクレスのように万人に優しく、常に耳を傾けるような賢人ではなかった。 むしろ、自らと周り、自分が気に入った者、愛した者以外は他の無機物と大差が無かった。 故に、彼には幽霊や死体を触媒として使うことの不道徳が理解できなかったのだ。 そういった意味では、十二分に狂人と言えたろう。 カゴモリを引き取って以後は、度々集落の中心街に下りてきており、その度に他者に聞こえるほどに『あれの魔術の才は、やはり俺が見込んだとおり素晴らしいものだった』とか『拾ってやって正解だった』とか『いずれは、面白い実験に使えるかもな』とか『どれだけ痛めつけても文句も言わん、つまらん話だ』などと言った話をしながら街を歩く姿が目撃されていた。 この言葉どおり、カゴモリは五歳になる頃には、上位精霊魔術を操り、幼馴染でエンペドクレスの養女でもあったトグマの力量すら凌ぎ、集落の成人すら超えるほどの腕前だった。 だが、実際には、カゴモリに魔術の才などそれほど多くはなかった。 すべてはアブドゥルの計略だったのだ。 アブドゥルは気づいていた。コイツを引き取って育てたところで、俺の子では満足には暮らせまい。と、そこでアブドゥルは考えた。つまりは、コイツが庇護されてしかるべき条件を整えれば問題はクリアされる。そう考えたのだ。 そして、アブドゥルはその日から街へ言っては出鱈目な話を繰り返した、人々の頭から話が忘れ去られる頃には、植えつけるように現れて、また人の耳に入るように話して歩いた。 いつしか噂は一人歩きを始め、アブドゥルの狂人ぶりに尾ひれがつき、同じようにカゴモリの悲壮ぶりと魔術の才に尾ひれがついた。 その後、アブドゥルは虚偽を真実に変えるべく、カゴモリにしつこくも根気よく魔術を系統立てて教え、実演で教え、自然から教え、机上から教えた。 十を聴き十を身に付ける無茶を押し付ける傍らで、自らは百を伝え、千を理解してもらう努力をつづけた。 その結果、カゴモリは高い魔術を身に付けるに至った。 魔力の総量はトグマに遥かに敵わなくとも、研ぎ澄まし変質させる術を徹底させたアブドゥルは、カゴモリを他者よりも突出した魔術師に育て上げた。 カゴモリ曰く、アブドゥルは魔術を教える師といても父としても優しい男だったらしい。 アブドゥルにしてみれば、子供が知らないことは当然のことで叱ることで子供は思考力を落とすのだから、叱らず諭して、回り道により時間をかけて教えれば、結果習得は早まるという合理性の結論なのだそうだが、しかし、朝日と共に我が子を起こし、食事を作り、教え導き、時に遊び、そして夜は眠りに落ちるそのときまで童話を読んで聞かせた姿は、父親そのものであった。 幼少期のカゴモリには不思議に思い、憤ることが多かった。 父であるアブドゥルが集落の中で酷い扱いを受けていることが、返って自分自身の扱いは手厚いもので、集落の人々から可愛がられていることが、不思議であり怒りの対象でもあった。 小父さん(カゴモリはエンペドクレスのことをそう呼んでいた)に聞いても苦い顔をして皺を刻んだ口元を優しく歪めると彼女の頭を撫でるだけだった。 エンペドクレスはその理由を理解していた。簡単なことだったのだ。 古い思想を持ち、新神暦が始まって今だ百年、魔術師たちのプライドは高かった。 それと同時に、優れた魔術の才を持つものは、始祖の魔法使いの血統にそれだけ近いと信じられていた。 つまり、カゴモリに優れた魔術の才があるならば、よそ者であったとしても、それは集落の血身ということだ。 そして、何より、カゴモリはアブドゥルによって実験動物さながらの扱いを受け、そのためだけに拾われ生かされており、アブドゥルはカゴモリを人とは思っていないと皆が信じていた。 もっとも、すべてアブドゥルが語ったことで、同時にそう仕向けるのが目的でもあったが、集落の中では、高度な魔術を駆使し、悲劇的な生活の中でも凛と立つ悲壮感を持つカゴモリと悪魔のような狂人アブドゥルという図式が既に出来上がっていた。 エンペドクレスは、そのことを話すことが出来なかった。 今の、この誰もが真実を知らぬ状況だからこそ狂人の娘はこの集落で生きていけるのだから、アブドゥル以外が引き取っていればよかったのか? しかし、それこそ叶わぬ夢だ。 この集落には、掟に背いてまで外の捨て子を拾い育てる奇特な輩などいないのだから。 カゴモリは、幼い頃、一度父にそのことを尋ねたことがあった。 父はなんでもないことのように『それは、幸福を得るために必要なことだ』と話した。 カゴモリにとっては、この世界は生まれたときからこの形を保っており、誰かがそう仕向けているなどとは思いもしなかった。 そこにある幸福は日常であり、そして間違いなく彼女に与えられた幸福であったからだ。 だから、カゴモリは純粋に、父の言う幸福が父に繋がるものだと信じた。 カゴモリは『父様が酷い扱いを受けることが、父様の幸せにつながるの?』と尋ねた。 アブドゥルは一拍もおかず、淀みなく『ああ』と答え、柔らかく微笑した。 真実を語れば、それはカゴモリの幸せに繋がっていたのだが、今にすれば、それが当時のアブドゥルの幸せだったのかもしれない。 それ以後、カゴモリは、父の幸せに繋がるならと、住人の話に口をつぐんだ。 そして、誰よりも優れた魔術師になることに励んだ。 それから十年ほどが経ち、カゴモリの容姿が父を追い越し始めた頃、彼女は父にネクロマンシーの伝授を願い出た。 彼女にしてみれば、口には出さずとも、父が自分のために責め苦を受けていたことを成長と共に悟っていたのだろう。理解してもおかしくない年齢だった。 それでも、例え問い詰めてもアブドゥルは『知らん』とだけ答えるだろうことも理解していた。 故にカゴモリは、より優れた魔術師に、父の後継足りえるネクロマンサーにという思いを強めていった。 逆にアブドゥルにしてみれば、その魔術だけは永遠に教える気はなかったため、始めは頑なに譲らなかったが、相手は自分の娘、根競べではいい勝負だったようで、最後にはアブドゥルが折れる形で言葉を一つ授けた。 『それは永久に横たわる死者にあらねど、計り知れざる永劫の許に死を超えた者。久遠に伏す引き換えに、死ぬことはなく、その怪異の内では死ですらも終焉を迎える』 この言葉を理解するならば、多少は手解きをしてやる。と約束を交わし、それから三十年以上、カゴモリは根気よく研究を続けた。 その頃には、よく旅に出ては帰ってこなくなった父の帰りを待っては研究を披露したものだった。 そして、最後には『それは死者ではない。永遠の嘘、或いは奇妙な永劫、その内では死さえも死に至る』という結論に行き着き、研究の成果を認めたアブドゥルが死の殺し方、永遠の嘘の作り方とも呼ぶべき手法を学ぶことを許した。(一種の開き直りだったともとれる) その後は、いかにも怪しげなカルドロン(魔術用大釜)やスクライングミラー(黒鏡)などの道具と、破壊を強化するバッドブラッド(蝙蝠の血)愛を強化するドヴズブラッド(鳩の血)能力そのものを強化するドラゴンブラッド(竜の血)などの各種血、死体と死霊の使い方を七十年がかりで教えたらしい。 エンペドクレスはアブドゥルのことをアル、アブドゥルはエンペドクレスのことをクレスと呼んでいた。(カゴモリの見た目が父を追い抜いた頃から、カゴモリもアルと呼ぶことが多かったようだ) 現在から二百年前、カゴモリが一流の魔法使いへと成長すると、古き友エンペドクレスと共に集落を旅立った。 現在は、エンペドクレス共々【果たされざる旧約】バベルの塔で暮らしているらしいが、既に死にリッチとなっているなどと言う噂もある。