約 1,415 件
https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/145.html
1 夢の懐疑 2 現象主義と可能世界論 3 マクタガートに見る「変化」の難問 4 変化のパラドックス――四次元主義の破綻 5 独今論 6 無世界論 7 真実の行方 8 私の死と世界の死 9 夢と現実と真実の狭間で 1 夢の懐疑 幼い頃に恐ろしい体験をした。或る真夏の夜、私は両親と二人の兄弟と共に、家族五人で一つの部屋で寝ていた。家の一階北側の部屋で、中庭に面した窓を網戸にして涼を取っていた。エアコンがまだ高価だった昭和の時代のことである。 深夜、どさっと何かが落ちるような音がして目が覚めた。見ると畳の上でどす黒い異形のものが蠢いていた。蛇だった。一匹の大きな蛇が長い総身を奇怪に絡めて波打っているのだった。誰かが悲鳴を上げた。父が大急ぎで網戸を外して手に持ち、その網戸で蛇をつついたり掬ったりして、なんとか掃き出し窓から庭へ払い出した。そしてガラス戸を厳重に閉めた。どこから蛇が侵入したのかわからない。皆で室内を入念に点検した。天井から落ちてきたように思えたが、天井に穴など開いているわけではなかった。訝りながらも、しばらくして皆はまた眠りに付いた。しかし私は恐怖と興奮のためになかなか眠れなかった。 実家は関西の地方都市郊外にあり、周囲は水田が多く近くには里山もあった。そのため夏になると家の庭でも蛇を見かけることが度々あった。特に青大将は「人家に住む」と言われるほど人の生活と関わりが深い。鼠を追って天井を徘徊していた青大将が寝室に落ちてきたとしても不思議ではなかった。 中学生になってから、家族団らんの時にふと幼い頃の蛇の体験を思い出した。「そういえば昔でかい蛇が寝室に落ちてきて大変だったな」と私は話しだした。すると意外な反応が返ってきた。両親と兄弟の四人は、ぽかーんと呆気も露わな顔で私を見るのだった。「何の話?」と誰かが言った。つまり私以外の誰も蛇が寝室に落ちてきた体験を憶えていないのである。「それ夢見たのと違う?」また誰かが言った。そんなわけはない。畳の上で奇怪にうねる大きな蛇の姿を鮮烈に記憶している。あれが夢であるわけがない。現実に間違いない。しかし私がいくらあの出来事の詳細を話しても、誰も思い出さなかった。一体どういうことなのか。やがて誰かが言った次の言葉に私は納得せざるを得なかった。 「そんな大変なことがあったら皆憶えているはずだ」 寝室に蛇が落ちてきた出来事を憶えているのは家族のうち私だけであり、他の四人は憶えていない。多数決で私の蛇の体験は夢だということになった。確かにそんな大事があったのに他の四人が憶えていないのは不自然であり、あの蛇は夢だと考えるしかないように思えた。 しかし本当にそうだろうか、と今でも考えることがある。「そんな大変なことがあったら皆憶えているはずだ」という言葉には説得力がある。しかしその言葉は「多数決は正しい」という意味でしかないようにも思える。真実は多数決で決まるものなのか。やはり蛇の体験は現実の出来事であり、他の四人が忘れているのだという可能性は否定できない。夢だったのか現実だったのか――いや、もし蛇の体験が夢だったというなら、その他の幼い頃の様々な体験もまた夢だという可能性があるのではないか。一体何が現実だったのか。いや、そもそも現実とは何か。夢だったのかと懐疑しているこの現実も夢なのではないか? 何が本当の現実なのか――ひとたびこのような懐疑を抱いたならば、それは直ちに燎原の火の勢いで常識を焼き尽くし、その焼け跡に哲学の精神が立ち上がってくる。 ほんとうに「ある」といえるものは、一体何なのか? デカルトが方法的懐疑として始めた夢の懐疑は底が深い、というより底が無い。底が無いとはどういうことか。現実と夢、実在と非実在といった峻別を形而上学的に行うことが不可能だということである。ヒラリー・パトナムはデカルトの方法的懐疑の現代版と言える「水槽の脳」という思考実験を行っている。この私は水槽の中に入れられた脳かもしれない。科学者がその脳に電極を差し込み、電極の配線をコンピューターに繋ぎ、私に仮想現実を見せている。私の肉体も多数の他者も毎日行く会社も、全て映画『マトリックス』のような仮想現実かもしれない、というのが水槽の脳の懐疑である。ただしこの思考実験は懐疑主義を批判するためのものである。私が仮想現実の世界にいることが事実だったとしても、それを確かめる手段が存在していない。仮に私が水槽の中で目覚めて、自分が水槽の中の脳だと確かめたとする。しかしその姿もまた仮想現実かもしれないからだ。そのような懐疑に満ちた世界においては、結局何が真実で何が絶対確実な知識なのかを知る手段が人間にはない。したがって懐疑によって諸々の知識の確実性を否定する懐疑主義は無意味だ、というのが建設的な結論となる。 しかしパトナムの水槽の脳は、単に懐疑主義を批判するためだけのものではなく、形而上学的実在論を否定するためのものでもある。パトナムは当初形而上学的実在論の擁護者であったが、後にその立場を放棄している。水槽の脳の思考実験で明らかなように、人間は神の視点で世界を見渡すことができないために、決して認識できない形而上学的な「実在」を云々することは無意味だというのである。このパトナムの転向は哲学者として誠実なものであろう。 しかし人間は形而上学的な意味での実在や真理を決して知りえないというならば、私が幼い頃に見た寝室の蛇は何なのか。あの恐怖の経験は何だったのか。蛇の存在論的な身分が問題となる。 ・錯覚論法と幻滅論法 水を満たしたコップの中に箸を入れると、光の屈折で箸が曲がって見える。私は箸が本当は真っ直ぐであることを知っている。なら眼に見えている曲がった箸は何なのか。それは実在しないといわれても、今確かに見えている曲がった箸の心的イメージが存在することは事実である。これは錯覚論法と呼ばれる。幻であれ錯覚であれ、知覚経験は確かに存在し、その経験が錯覚か事実かは「後に」判断されるというものである。 科学的には次のようにも考えられる。網膜が光を捉え、視神経を経て脳のC線維が発火したら「赤」のクオリアが生じると仮定する。しかし眼を閉じていても夢を見ていた場合などにC線維が発火することはあり得る。その場合、現実に赤いものが存在するか否かに関わらず、C線維の発火と赤のクオリアの存在は事実として認められるということである。 大森荘蔵はこの錯覚論法を発展させて「幻滅論法」というユニークな論考を行っている(*1)。大森は夢、幻、現実等々全ての経験を「立ち現れ」として対等に扱い、或る立ち現われを真実と分類し、別の立ち現われを虚偽と分類するのは、事実に基づくものではなく分類の仕方の違いに過ぎないと主張する。大森にとっては夢も幻も現実も、全ての立ち現われは等しく存在する、というより「存在する」という点において同じ資格を持っているとみなすのである。 大森はデカルトの方法的懐疑からこの論理を導出している。デカルトは『方法叙説』4部で次のように述べていた。 私は夢見ており、私の見たり想像したりするものは全て偽であると私は想定したのだけれども、しかしそれらのものの観念が私の中に真実にある、ということは否定できなかった。 ここでデカルトがいう「観念」は大森のいう「立ち現れ」の一分類といえる。大森は論文「ことだま論」において件のデカルトの文を引用した後、次のように述べている。 すなわち、デカルトにとって、夢の事物であれキマイラであれ、また眼前に見えるランプであれ、「それ自身において見られ、他のものと関係せられないならば」、それらの立ち現れは最も強い意味で「真」なのである。立ち現れたから立ち現れたのである。したがって、それらの立ち現れは最も原初的な意味で「存在」したのである。夢の立ち現れ、キマイラの立ち現れも「存在」したのである。(*2) 大森からすれば、諸々の立ち現われは生活実践上、実用的に分類され、後になって実在や幻と呼ばれるカテゴリーに入れられるのである。実在や幻という概念はあくまで立ち現れ内のカテゴリーであって、立ち現れの本性は幻も現実も「存在する」ということで貴賎が無い。ここにおいて幻は滅せられ、いずれの経験も立ち現れという根源的な存在者として認められる――これが幻滅論法である。 このような大森の論理は、物質世界が客観的に実在するという「実在論」の否定を含意しており、現象主義や主観的観念論とも呼ばれる。現代ではあまり評判はかんばしくない立場であるが、しかしここでは実在論論争はさて置く。問題なのは私が幼い頃に見た蛇である。あの蛇は錯覚論法や幻滅論法によって確かに存在したことが確認された。しかし夢と現実を峻別することができないということは、巨大な問題が派生するのではないか。 2 現象主義と可能世界論 私は空を飛ぶことができるという信念を持っており、自分の恋人はマリリン・モンローであるという信念を持っている。そして事実として私は空を飛ぶ経験をしたし、モンローとデートの経験もしている。ただしそれら経験の事実は「夢」というカテゴリーに分類されるものである。 夢とは、現実とは異なる一つの完結した世界である。私が「現実」というカテゴリーに分類した世界では、私は日本という国に住んでいるという信念を持ち、空を飛びたいが飛べない人間であるという信念を持っている。端的に言うならば、夢の世界と現実の世界は信念の体系が異なるというだけである。いや、現実世界は夢から覚めても続いていくだろう、と反論する者がいるかもしれないが、それは間違っている。その現実世界なるものが夢より多く持っているものは、せいぜい「長く続いている」という信念ぐらいのものであり、それもまた今まで見終わった夢にもあったかも知れないものだ。夢も現実も大森の幻滅論法を援用して言うならば、最も原初的な意味で「存在」した世界なのである。夢と現実の区別を形而上学的に行うことは決して出来ない。これがデカルトの夢の懐疑と、それの現代版と言えるパトナムの水槽の脳の懐疑によって明らかにされたことである。 夢が現実と同じ地位を獲得したということはどういうことか。それは、世界には「この世界」だけでなく「別の世界」があると認めるということである。異なる信念の体系の世界である。 分析哲学では「可能世界」の存在論について議論されている。ソール・クリプキを代表とする「現実主義」の立場では、可能世界は思考の検証装置に過ぎず、存在するのは現実世界だけだと考える。対してデヴィッド・ルイスを代表とする「可能主義」の立場では、可能世界は現実世界と同じように存在すると考える。可能主義は「多元宇宙論」の一種であり、論理的にありうる世界(様相)は全て存在すると考えるため、様相実在論とも呼ばれる。ロバート・ノージックが提案した「豊饒性の原理」も様相実在論とほぼ同様の考えである。ノージックの薫陶を受けた物理学者のブライアン・グリーンも豊饒性の原理に基づいた多元宇宙論を提案している。また物理学者のマックス・テグマークも、論理的にありうる全ての数学的構造の世界が実在しているとする「究極集合」を主張する。 私がマリリン・モンローと結婚する可能世界というのは随分馬鹿げて思える。私は無名の日本人でありモンローは有名なアメリカ人の女優である、とか言う以前にモンローは私が生まれる前に死んでいる。しかし現象主義的な可能世界論では、私がモンローと結婚する夢を見たなら、その世界は「この現実」と同じ身分で存在したと言えることになる。 いや、夢は終わるものだがこの現実世界は持続するものだと実在論者は反論するだろう。しかし現象主義の世界観では、自分の死と共に世界も消滅するのである。現象主義者は「この現実世界」の消滅を自分の「死」と推定する。ならば夢の世界も現実世界もその根本――「世界」が消滅するということにおいて変わりがないということになる。 心理学者の渡辺恒夫は自身のブログで次のように述べている。 「夢は覚める」という言い方は、自然的態度に基づいた言い方だ。現象学的には「夢はいつか終わる」としか言えない。そして、いつか終わる点にかけては、この覚めた世界、現実世界も同じことだ。 〔……〕 夢から覚めることが「現実」という別の夢の始まりだとすると、現実という夢から覚めることは、さらに別の夢の始まりを意味することになる。(*3) 渡辺は現象主義者ではないが、夢と現実は峻別できないという着眼は大森と同じである。 現象主義の立場からすると、私が空を飛ぶ夢を見たなら、私が空を飛ぶ可能世界は存在したということになる。そして私がモンローと結婚する夢を見たなら、私がモンローと結婚する可能世界は存在したということになる。なお留意すべき点であるが、夢と空想は全く異なる。私が空を飛んでいるところを想像すれば、その想像図は確かに存在するのだが、そこには「想像している現実の私」が想像図に浸透しているのである。 現象主義と可能世界論の関係で確かなことがある。現象主義では夢の世界を「この現実」とは異なる世界として実現したと認めざるを得ないのだから、他の論理的にありうる可能世界も全て存在可能だと認めるしかない、ということである。 ただし論理的にありえても、件の現象主義的な可能世界論では一つだけ実現不可能な可能世界がある。デイヴィッド・チャーマーズが想定した「哲学的ゾンビ」の世界である。ゾンビ世界は現象的意識が一切欠如した世界のことだから、現象主義的には想像不可能ということである。 形而上学的に夢と現実を峻別することはできない。にも関わらず、いや現実とは特別な世界なのだ、とどうしても思いたくなる。今の私は夢を見ているのかもしれないが、やがて目覚めて現実世界に戻るのではないか、と。パトナムの思考実験は極端な例であり、「この現実」には「現実性」という特権があるように思えるからだ。 ・現実性 「現実性」について論考してみたい。あくまで「この現実世界」の特権性に拘る者はいるだろうし、それは当然である。私は今頬をつねれば痛い。これこそ現実性であり、この現実性があることが現実世界の特権なのだと思いたくなる。しかしその「現実」とは何か。この問題が難解なのは夢の懐疑や水槽の脳の懐疑があるからだけではない。「この現実」もやがて過去となって現実性を失うからである。いや、今の私はリアルタイムで現実性を体感しているのだと思っても、思うと同時にそれは過去という非現実になっている。時間の哲学では「今」という時点の捉え難さが問題となっている。現実性はその「今」と相関しているから捉え難いのである。 現実である「今」は常に把握困難な速さで飛びすさって過去という非現実になっていく。「今」が捉え難いならば確実に存在したと言えるのは、「経験済み」の判が押された過去だけとなる。その過去は現実性を失っているのだから、現実だと思っている私の経験は全て幼い頃に見た蛇の夢に等く、逆に夢は現実に等しいということになる。つまり私が蛇を見た経験はほんとうに存在したのかわからない、というのでなく「経験」というものに対して「ほんとう」を問題にすることが無意味なのである。夢の懐疑や水槽の脳の懐疑は経験の真偽を問うことの無意味さを告げている。思い出の写真などを引っ張り出して、やはり過去はほんとうにあったのだと思っても無駄である。それは現在の経験であるし、その現在経験も夢に等しい過去となるのだ。 覚めない夢はもはや夢ではなく現実であり、消えていった現実はもはや現実ではなく夢である。これが現象主義の世界である。 大森荘蔵は論文「色即是空の実在論」で次のように述べている。 過去の実在性を経験できる場所は想起の経験をおいて他にはないだろう。 〔……〕 想起と独立に、想起以前にある過去というものを捉えようとしても煙のように消えていまう。結局想起から離れて自前で実在する過去などというものを把握した人間はいない。そのような実在過去の意味を人間は制作できなかったと思うほかはない。ではすると、私が何かを想起するとき、しかも上に述べた実在の確信をもって想起するとき、それは何らの実在にも対応しない妄想の類なのか。その通りであって、その実例をわれわれが夢と呼ぶ想起で経験しているのである。つまり、実在する過去というものの意味をわれわれが手にしていない以上は、すべての想起は夢なのである。人生夢の如しなどという感傷的比喩ではなくて、われわれの過去は夢以外のものではない。それに対応する現実は実在しないのだから。(*4) ただし大森の場合は現在の特権性を否定しているわけではなく、逆に現在の特権性に拘っている。大森にとって過去とは「過去形の現在経験」ということになる。大森の哲学は直接経験に拘るため「現前主義」や「現前の形而上学」とも言われる。私の立場も基本的に大森と同じ現前主義である。現実の特権性を否定し、夢も現実も同じようなものだとしても、それらは「経験された存在」として、「経験されない存在」とは峻別するからであり、過去経験も想起される限りでその存在が認められるからである。これが現前主義であり、現象主義である。 入不二基義は直接大森に言及しているわけではないものの、このような現前主義を拒否して、独自の「現実性」についての哲学を展開している。入不二は次のように述べる。 どんな内容・質を持つ「感覚」であっても、それだけで現実性が与えられるわけではない。たしかに、現に感覚していること(現実の感覚)ならば、現実性を与えることができるが、それは、あらかじめ現実性を「感覚」に付与しているからにすぎない。同じことは、「現前」や「直接経験」についてもいえる。たとえば、何かが現前することや何かを直接経験することが、現実性を与えると誤解してはならない。話は逆である。「現前」や「直接経験」は、「現に」や「今まさに」という副詞性があらかじめ刷り込まれているのでない限り、それだけでは(すなわち「現前する何か」「直接経験の内容」によっては)、現実性を与えることはできない。逆に、たとえ「現前」していなくとも、たとえば「潜在」という仕方であっても、「現に潜在している」かぎりは、それもまた「現実」であることに変わりはない。その意味で、「現実性」は、「現前」「直接経験」とは別のことである。(*5) 入不二の形而上学は、現実性を様相の一つとしたカントに反し、現実性こそが様相の開闢点である。これは永井均が〈私〉を様相の開闢点としたことと似ているが、入不二にとっては永井の〈私〉でさえも、「現実の〈私〉」や「現実でない〈私〉」というように、相対化されて様相内部に位置づけられる。 入不二の現実性についての論考は、着眼すべき点が微妙にずれているという印象を私は受けている。まず「現実」が捉え難いものであることは既に述べた。いくら自分の頬をつねって痛みを感じ、この痛みこそが現実性だと思っても、その思いは既に過去という非現実の一種である。いや、頬をつねり続けて持続的に痛みを感じることはできるし、痛みながら「これが現実だ」と言うこともできるだろう。しかしその確実に思える現実もまた過去のことである。 「今」に痛みがあるというのは素朴心理学的な態度であり、哲学的にその「今」を定義するのは難しい。時間軸上で過去と未来に挟まれた「今」は無限小であるしかないが、無限小とは一切幅の無い理論上の時間である。それは自然科学の道具であり、現実的に存在できない虚構である。人は虚構の時間の中に痛みを感じることはできない。ただし「今」とは無限小のものではなく一定の幅を持っているのだという意見もある。しかし時間が実在すると仮定するなら、それは無限分割可能な連続体であるしかない(ここではプランク時間という物理学の仮説はさて置く)。それは過去と未来に分割可能である。人は過去の痛みを感じることはできないし未来の痛みも感じることはできない。また幅の無い境界としての「今」の中にも痛みはない。ならば「今」の中に現実や感覚があるのではなく、むしろ感覚の中に「今」や現実があるというのが合理的結論になる。入不二は現実性を感覚や直接経験、つまりクオリアより根源的なものと考えたが、それは順序が異なっており、クオリアがなければ現実性もないというのが私の考えである。 しかし入不二の立場からは次のような反論があり得るだろう。現実性の本質は「無内包」であり、内包であるクオリアには依存しないのだ、と。入不二は次のような論法で「無内包の現実」を抽出している。 「この今」「現実的な現在」だけに特有の「内包」を探そうとしても無駄である。たとえば「直接経験」のようなものを、その「内実・中身」にすることはできない。なぜならば、過去にもその時点での「直接経験」はあったのだから、「直接経験」という点だけでは、過去と現在(この今)を区別することはできないからである。 〔……〕 「この今の」「現に起こっている」は、「直接経験」ではない無内包のものであらざるを得ないのである。(*6) また入不二は『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』で、次のように述べている。 現実は、それが全てでそれしかなく、様相を持たず、特定の中身・様態に依存しない。この全一的で・無様相で・空っぽのあり方こそ、ことばの正確な意味において、「絶対現実」(対を絶する現実)と呼ぶのが相応しい。「絶対現実」とは、「現に」という現実のことであり、その全一性・無様相性・無内包性を集約した表現である。(*7) 上の文に続いて入不二は、全一的で無内包の「絶対現実」が、特定の内容・様相を持った「相対現実」へと転落してしまうことを論じている。ちなみにこの「絶対現実」と「相対現実」の区別、そして前者から後者へ転落するプロセスの説明は、永井均の「独在性」の問題――世界の中で自分だけが特別な〈私〉であることの主張が、他者からも同様に〈私〉であると主張され続けられてしまう構造(独在性の累進構造)と、同型である。ちなみに永井は入不二の「無内包」の概念を自身の独在論に取り入れて、〈私〉は無内包の現実性であると主張するようになっており、入不二の「現実性」と永井の〈私〉は、近似的な概念となっている。 しかし私の立場からすると、無内包の「現実」や〈私〉というものは理解し難い概念である。 ここでデカルトの方法的懐疑が想起されるべきだろう。デカルトは『方法序説』において、疑うことが可能なものは全て疑った後、決して疑い得ないことを発見した。それがかの有名な「我思う、ゆえに我あり」であるが、しかしデカルトはその後も慎重に分析を続け、『省察』で次のように論じている。 私は在る。私は存在する。これは確かである。ではどれだけの間か? すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるなら、その瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである。(第二省察) 「私」が思うゆえに存在するのなら、思うことをやめれば「私」は存在しない可能性がある。双方は対の論理になっているのに、後者は見落とされがちである。疑い得ない「私」を発見したことのみにあぐらをかかず、その「私」が存在しなくなる可能性とその条件を真摯に見定めた点にこそ、デカルト哲学の真髄がある。この最も哲学的純度の高いデカルトの洞察を敷衍して考察を進めるなら、「現実性」や〈私〉があるから「痛い」や「甘い」や「美しい」があるのではない。事態はその逆であって、「痛い」や「甘い」や「美しい」があるということが即ち「現実性」や〈私〉があるということになるはずである。 デカルトの根本原理に従うならば、思うゆえに「私」が存在するのだから、思うことをやめれば「私」は存在しない。ところが「無内包」を認めると、思うことをやめても「私」が存在することになる。これはデカルトの根本原理を前提すると矛盾である疑いが強い。したがってデカルトの哲学的純度を維持しようとするなら「無内包の現実」は認められない。 ところで〈私〉の哲学と違って「現実性」の哲学では、世界に何もなく考える者もない場合、「何もない現実」というものが想定できるかもしれない。しかしその想定には暗に「何もない現実」を思考している何者かが前提されている。したがって現実性とはあくまで誰かの視点依存的な概念なのである。誰の視点にも依存しない現実とは「真実」や「実在」に他ならない。――このように説明すれば上で私が述べた「クオリアがなければ現実性もない」という言葉の意味も理解できるだろう。 なお、私の立場からすると入不二が「無内包」の概念を抽出する過程には矛盾があるように思える。「この現実」は全一的なものであり、対抗馬がいない。他人にも現実に心があるかもしれないというのは事実だし、他の時点も(永久主義を前提するならば)現実に存在するかもしれない。しかしそれらは必ず「かもしれない」という但し書き付きで表現されなければならないものである。他の「現実かもしれない」ものたちを、「この現実」と同格のものとして論点先取的に前提した上で現実性の無内包を主張するのは、人の認識能力を超えた飛躍を行っており、既に「現実性」の意味と矛盾しているのである。認識論的事実を述べるならば、他人の心も他の時点も、あくまで「現実かもしれない」ものに過ぎないのである。端的な「この現実」のみが真に「ある」と言えるものであり、他の「現実かもしれないもの」たちは「ない」に等しいと言って差し支えないほど絶対的な認識論的懸隔がある。 「現実性」とは単に様相の一概念であるのみではなく、人の認識能力を制限するものでもある。全ての時点と地点を平等に見渡せる神においては、全ての時点と地点が現実化しているだろう。しかし人にとって現実化している時点と地点は「今・ここ・私」だけである。人はその現実から他の全てを推測しているのが事実なのである。 たとえば「私は昨夜カレーを食べた」と言う場合、その意味は他人にもわかるだろうが、事実はわからない。「私は歯が痛い」と言う場合も同じことで、クオリアの私秘性というのは事実へのアクセス不可能性ということである。いや、「カレーを食べた」の場合は昨夜の私の行動を調査すれば事実が判明するのではないか、と思うかもしれない。しかしいくら調査しても発見できるのは事実の痕跡であって、事実自体ではない。「事実」とは広範な概念であって、これを哲学的に厳格化すると「真実」となる。真実にアクセスできないという問題は、他人のクオリアも過去も実在も同じで、その問題ゆえに認識依存的な「現実」と、認識を超えた「真実」の峻別が要請される。認識(クオリア)だけが与えられていて、真実を経験できないというのが人の現実である。人には「真実」が与えられていない。 「今・ここ・私」だけが「現実」なのである。その現実はデカルトの「私」と一致する。 しかし私の全身が「痛み」に支配されていたとしても、その痛みのみが「私」というわけではない。痛みを「私」と定義してしまえば、次に現れるクオリアとの同一性を考えることができなくなる。したがって「私」とは、次々に生起する一連のクオリアの総体のことであるだろう。――ここで困難な問題が生じることになる。それぞれが全一的で排他的なクオリアたちが、一体どのようにして「つながる」ことができるかということである。この問題こそが入不二や永井が提起した問題と重なっていながら、重心が異なる「現実性」の真の問題だと私は考える。 前章にて私が出した解答は一種の永久主義・四次元主義である。永久主義と言っても多様な立場があるが、現代では一般的に相対性理論から導出された四次元多様体(ブロック宇宙)を実体とみなし、存在者は空間を占めるだけでなく時間的幅を持つと考えるので四次元主義と呼ばれる。この立場では実在世界の変化を認めず、過去・現在・未来の事物が全て四次元多様体内部に実在していると考える。人は過去・未来に痛みを感じることができず、幅の無い「今」にも痛みは無いというなら、痛みの場所として四次元時空を考えるしかない。つまり永久主義を選択するしかないと私は考えたのである。 しかしここで新たな問題が生じるのだった。クオリアとは常に変化しているように思える。そして変化があるなら時間もあるはずである。永久と変化は相克する概念である。永久主義の立場を選択した場合、現に変化している(と思われる)知覚現象と、変化の実在を否定する理論とのギャップが大きな問題となる。この問題こそが前章で私が行き詰ったものである。 次節にて、改めて「変化」について論考してみたい。 3 マクタガートに見る「変化」の難問 変化とは「なる」ことである。或る状態から別の状態に「なる」ことが変化である。「時間が流れる」や「時間が推移する」という言い方で変化を表す場合もあるが、それらも或る状態から別の状態に「なる」ことを表しているのだから、変化の本性を最も縮約した言葉は、やはり「なる」ということになる。 時間の非実在を主張したマクタガートは、変化の問題について注目すべき洞察を行っている。それは時間特有の変化に晒されるものを、「人」や「物」ではなく「出来事」と考えたことである。一般的に人は「彼は変わった」という言い方をするが「彼の死は変わった」という言い方はしない。つまり出来事は元から変化しないものであり、それ自身すでに変化・発生・消滅といった概念を含んでいる。出来事に到来する変化とは、過去・現在・未来という、時制変化のみということになる。 マクタガートの主張を敷衍して「なる」について考えてみよう。「物」については、「青いつぼみが赤い花になる」という場合の「なる」は客観的に登場しない。或る時点では「青いつぼみ」の物があり、別の時点では「赤い花」の物があるだけであり、人が双方に「同一性」を見出さなければ前者が後者に「なる」と言うことはできない。しかし「出来事」については、或る時点では「現在」であったはずの「タイタニック号の沈没」は、別の時点では「過去」に「なる」。一見、ここでは「なる」が客観的に表現されるように思える。「物」は変化せず、また過去・現在・未来という時制変化からも逸れるが、「出来事」はそれ自体変化しないものの、過去・現在・未来という時制変化に晒される。――これがマクタガートが時間特有の変化は物でなく出来事にあると考えた理由である。 マクタガートは一見「なる」を客観的に捉えたように思える。しかし、そもそも「出来事」とは何かということをよく吟味してみれば、マクタガートの論理に綻びが見えてくるはずだ。例として「タイタニック号の沈没」という出来事を解体してみよう。それは結局以下のような複数の「物」の「結びつき」であろう。 物1: 洋上にあるタイタニック号 物2: 氷山に接触しているタイタニック号 物3: 船体の半分が海中にあるタイタニック号 物4: 船体の全てが海中にあるタイタニック号 それら複数の物の「結びつき」は、もちろん客観世界に存在しているのではなく、人の主観によって見出されたものに過ぎない。「出来事」とは人の心の中にしかないのではないか? なお入不二はマクタガートによる「物」と「出来事」の区別を批判して次のように述べる。 〔……〕「出来事についての時間変化」からもまた、同一不変の「(高階の)こと」を切り出すことができるはずである。たとえば、「出来事Eが現在のことから過去のことになる」から「出来事Eがある時点 t1で現在であることを」を切り出すというように。(*8) ※ちなみに伊佐敷隆弘によれば、マクタガート自身もこの困難に気づいていたという。(*9) この論理からすると、出来事Eが或る時点で「現在」であり、別の時点で「過去」であることは永久に変わらないということになる。マクタガートと入不二の主張の違いをわかりやすくすれば次のようになる。 マクタガートの主張: 「タイタニック号の沈没」という出来事はそれ自体変化しない。しかしその出来事は過去・現在・未来という時制変化に晒される。 入不二の主張 : 「タイタニック号の沈没」という出来事は、一八九九年では未来であるということ(高階の出来事)、二〇〇一年では過去であるということ(高階の出来事)は永久的であり、過去・現在・未来という時制変化に晒されない。 確かに、入不二の言うように「高階のこと」は永久に変わらない。とすると出来事が時制変化に晒されるとしたマクタガートに反して、「高階の出来事」を想定することによって、出来事もまた変化せず、「なる」が客観的に存在しないと考えることができてしまう。つまり「出来事は現在であるものが過去になる」と言う場合の「なる」は、結局「物」と同様に人の主観によって見出されたものということであり、変化の本質である「なる」がここでも消去される。 ただし入不二は変化を否定するわけでなく、続けて次のように述べている。 〔……〕そして、同一不変の「こと」(「Xがある時点 t1でPであること」)が、現在のことから過去のことになるのと同じように、同一不変の「(高階の)こと」(「出来事Eがある時点 t1で現在であること」)自体もまた、まさに現在のことからやがて過去のことになる。 〔……〕 すなわち、時間特有の変化は、「こと」の高階化に伴って、さらに高階の変化として取り出される。時間特有の変化は、変化の中から切り出される固定的なものに対しての、さらなる高階の変化として、原理的にはどこまでも高階化しうるのでなければならない。通常、困難や欠点として指摘されることの多い、この無限後退(の可能性)は、むしろ時間変化の「高階性」を示唆していると見なすべきである。 時間特有の変化の特異性は、ものと出来事という区別に基づくのではなく、その「高階性」にある。 〔……〕 時間変化が「高階の変化」であるということは、変化の中からどんなに固定的なものを切り出したとしても、その固定的なものへも波及せざるを得ない変化だということであるということは、時間変化の「高階性」は、時間変化の「汎浸透性」でもある。時間変化に晒されることから、逸れる固定的なものなどない。(*10) 時間特有の変化を「高階性」としたのは優れた洞察であると思う。しかしこの入不二の論法は、見方を変えれば変化の実在性を否定する論法と読み変えることができる。つまり、「出来事Eは或る時点で現在であったこと」という高階の出来事もまた、より高階の出来事を想定すれば永久的であるしかない。そのより高階の出来事もまた更に高階の出来事を想定すれば永久的である。「無限後退の可能性」を認めるのならば、アキレスが亀に追いつけないように、結局どの階層の出来事も、過去から現在に「なる」ことはなく、現在から未来に「なる」こともない。時制変化はどの出来事にも訪れないということになる。 あえて言うなら、より高階の出来事を想定し、後退を続ける主観的視点のみが時間の本性としてある、ということになる。客観的な「なる」がどこにも見出せないなら客観的な変化はない。変化の本質である「なる」は、入不二の論理でもやはり主観によって見出されたものだということになる。 しかし仮に時間が客観的なものでないのは事実だとしても、意識内容――クオリアは現に変化しているのだから、時間は主観的には存在するのではないか、と言うこともできる。入不二は時間が実在しないというマクタガートの「実在観」を批判して次のように述べている。 「実在」には、「全体」「完全なるもの」という意味も含まれている。〔……〕 主観的なものと客観的なもの両方を合わせてこそ、「完全なるもの」のはずだからである。つまり、「実在的(real)である」ことと「客観的である」こととは、イコールではない。あるいは、「主観的である」ということは、必ずしも「実在的(real)ではない」ことを意味しない。(*11) この入不二のマクタガート批判は説得的である。マクタガートは主観によって捉えられる現象(クオリア)の変化は認めていた。現象の変化を認めながら時間の非実在を主張したのは、マクタガートの時間論の最大の瑕疵であるだろう。もっともマクタガートは明らかにカント哲学の影響を受けており、カントにおける物自体と現象との二分法が、マクタガートにおいて永久的な実在と変化する現象という形で引き継がれたことは間違いない。入不二が指摘したマクタガートの瑕疵はカント哲学にもあったものであり、またさらに遡るならば、永久的な実体と変化する(錯覚としての)現象を分けたエレア派にもあったと言えるものである。つまりこの問題は哲学において歴史的な課題の一つということになる。 カントがエレア派の哲学から多かれ少なかれ影響を受けていることは事実であろう。アンチノミーの議論は明らかにゼノンのパラドックスが原型である。しかしカントとパルメニデスには一つ大きな違いがある。カントが明確に物自体と現象世界を分け、「超越論的観念論」かつ「経験的実在論」という二元論の立場を取ったのに対し、パルメニデスはクセノファネスから継承したとみられる全一的な存在者を措定し、一元論を徹底していたことである。 エレア派は変化は不可能であり、感覚が捉える現象の変化は錯覚のようなものであるという。しかし「錯覚」とは何か。前述したように錯覚論法によれば変化する現象の「経験」は確かに存在することになる。エレア派についての一次資料は僅かなのでここからは推測になるのだが、パルメニデスやゼノンもそんなことは承知の上で、現象の変化は錯覚だと主張していたのだと私は考える。 虚心坦懐に内省してみれば、実は現象は変化していないと考えることもできるのではないか。自分の経験をよく内省してみると、実はクオリアの「変化」を観測しているわけではないと気付くはずである。例えば交差点の信号が「青」→「黄」→「赤」と変化するのを見た場合、そこには「青」があってそれが消え、「黄」が生じてそれが消え、次に「赤」が生じたように思われるのだが、それは人が元の経験を反省して理性で分割・再合成したものである。ちなみにその「元の経験」をウィリアム・ジェイムズは「純粋経験」と呼んだ。 実際に人が経験しているのは、 「青のクオリア」→「黄のクオリア」→「赤のクオリア」 ではなく、 「青→黄→赤」のクオリア である。「青→黄→赤」は一つのクオリアでなければならない。 クオリアは「生じない」し「消えない」と考えるしかない。クオリアが生まれたり消えたりするのは論理に反している。しかし連続的に生成し、消滅するクオリアたち全てを一個の存在者と見て、それが不生不滅だとするならば、論理に反しないのである。事実として、私は変化を感じているように思っているのだが、実際に経験しているのは「変化」そのものではなく、「変化しているような感じ」が「ある」のである。「AはAである」「BはBである」とAとBの存在を固定してしまえば、AがBに「なる」という変化は不可能である。しかしAとBが個別に存在することを否定して、「AがBになる」というものが「ある」すると考えるなら、同一律にも矛盾律にも反しないのである。 ――以上が前章にて、変化の矛盾に対して私が出した解決案だった。しかしこの案は単純な理由で失敗したのだった。「青→黄→赤」は一つのクオリアだと考えようとしても、「赤」が登場した時点で「青」は完全に「ない」になっているからである。 この問題を解決するためのヒントを、私は先の入不二の議論から得た。入不二は次のように述べていた。 時間特有の変化は、変化の中から切り出される固定的なものに対しての、さらなる高階の変化として、原理的にはどこまでも高階化しうるのでなければならない。 つまりクオリアをB系列上に整然と並べるのは間違いだということである。これはベルクソンによる「時間の空間化」批判と通底する洞察であると思われる。 たとえば交差点の「青」が消えて「黄」が生じ、「黄」が消えて「赤」が生じるのを見た場合、以下のようにクオリアを時間軸上に定位させて理解するのが一般的である。 〔……〕[青]→[黄]→[赤]→〔……〕 _____________________________________→ 客観時間 → 上の「→」は消滅と生成を表している。〔……〕は、クオリアの数が可能的に無限であることを表している。私の発想は「→」を消去し、複数のクオリアが断続的に生起しているのでなく、実はひとつのクオリアだけが存在し、多様に見える複数のクオリアはその内部の性質として重層的にあるとみなすことである。つまりほんとうに存在しているのは、ひとつらなりのクオリアとしての、 〔……〕{([青]黄)赤}〔……〕 _____________________________________→ クオリアの性質 → だろうということだ。上の[ ]内で最初の「青」を表現し、それを次の( )に含めて「黄」の内部性質として表現し、その黄も{ }に含めて「赤」の内部性質として表現している。この知覚モデルはベルクソンの用語で言う「イマージュ」に近い(ベルクソンはエレア派に対し変化を肯定するための存在論を構想したのだが)。 入不二が見た「時間の高階性」は、私にとっては「クオリアの高階性」なのである。クオリアは(時間という形式を内包して)どこまでも高階性を持つ。そして、その高階性によってどこまでも「変化」の本質である「なる」は否定される。入不二の言葉をもじって表現するならば「通常、困難や欠点として指摘されることの多い、この無限後退(の可能性)は、むしろクオリアの「高階性」を示唆していると見なすべきである。私と入不二は同じものを見ているにも関わらず、正反対の解釈をしているということである。 かくして時間と変化は客観的世界だけではなく、主観的世界からも実在性が排除されることになる。そして変化の実在を否定しながらも、クオリアの「変化している感じ」は説明可能である――。 いや、やはり問題は解消されていないように思える。「クオリアの高階性」という着眼は現象学的に意識経験の真理の一端を捉えた感はあるのだが、前章で行き詰った「変化」についての根本的な問題が放置されている。 私の論証は変化の説明として基本的に失敗している。次節にてその失敗を検証し、「変化」の概念が孕む問題を徹底的に純化して、問題の根幹部分を析出したい。 4 変化のパラドックス――四次元主義の破綻 変化とは「ある」ものが「ない」ものに「なる」ことであり、「ない」ものが「ある」ものに「なる」ことである。これは存在者が無から生成することであり、また存在者が無へ転化することである。それは論理的に不可能である。なぜならば「なる」とは「存在者が存在する」ということと、「存在者が非‐存在する」ということが同一だという矛盾だからである。――これが前章第1節における私の論証であった。 今一度、変化のパラドックスを確認しておこう。異なる時点に異なるものたちが並んでいるだけなら変化とは言わない。逆に異なる時点に同じものたちが並んでいるだけでも変化とは言わない。したがって変化とは同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けるという矛盾したものである。 物の変化を実体と属性の関係として理解する素朴な方法はある。実体・主体を主語で、属性を述語で表現するのが変化についての素朴な人の理解方法である。これは必ずしも実在論を前提しなくても、観念論でも可能な方法である。つまり「自我」や「魂」を主体として、意識内容をその属性として説明するのである。しかし哲学的には、このような方法は私が考え得る限り最も拙いものである。主体や属性というのは世界の事実ではなく、人の認識の都合で便宜的に定められた規約的なものにすぎないからだ。仮に何らかの主体があって「痛み」は属性だったとしよう。では属性としての痛みはどこに消えて行くのか? 属性や述語などと口先だけで上手く言っても、ものごとが消えることの摩訶不思議は何も解消しない。 消えるものは「部分」であって、「全体」は消えないのだという考え方もあるだろう。しかしこれは表象主義的な前提を置いている。つまり部分を認識する「私」という主体があって、それが別の部分に視点を移動しているのだとする素朴な知覚理論を前提しているわけである。部分を認識している「私」を想定しても、その「私」が別の部分を認識するならば、以前の部分は私の意識内部から消える。その「消える」ということをやはり説明できない。 以上の問題を解決するため、私はエレア派と同様に変化の実在を否定した。経験されるクオリアたちは多様である。私はそれらが「ひとつらなりの存在」だとして変化の非実在という前提と整合的に説明したつもりである。しかしここで問題となるのは、その「ひとつらなりの存在」の全体像をイメージすることができないということである。 幼い頃、私は寝室に落ちてきた蛇を見た。その蛇は夢か現実かに関わらず確かに「ある」と言えるものだった。そして変化の実在を否定し、蛇はクオリアの性質として「ある」というのなら、そのひとつらなりのクオリア全体は永久であるしかない。ここに理論と直感との調停し難い相克が生じる。直感に基づいて言うなら、私は幼い頃からずっとあの蛇を見続けてきたというわけではない。蛇は消えていたはずである。また変化を否定するならば、バークリーのように「知覚=存在」として、あの蛇を想起した時だけ蛇が存在するとも考えることができない。 交差点の信号が「青」→「黄」→「赤」と変化するのを見た場合、そこには「青」があってそれが消え、「黄」が生じてそれが消え、次に「赤」が生じたように、「なる」が連続するように思われる。しかし実際に「なる」という出来事があって、「青」が消滅し「黄」や「赤」が生成するなら、それは「存在者が存在する」ということと、「存在者が非‐存在する」ということが同一だという矛盾である。 ここで実在世界の変化を否定する「永久主義」を前提として、人の感じている変化の感覚を説明する立場を紹介し、検証してみたい。 物理学者のブライアン・グリーンは相対性理論の解釈によって時間の実在を否定し、全ての物事が四次元時空に永久的に存在しているとする立場から、人が経験している時間の流れの感覚を鮮やかに説明している。 壊れたDVDプレイヤーで『風と共に去りぬ』を見ているものと想像しよう。そのDVDプレイヤーは、前後にランダムにジャンプする。ある画像が一瞬スクリーンに現れたと思ったら、すぐまた別のシーンの画像が現れるのだ。コマが前後にジャンプするのを見て、ストーリーを理解するのは難しい。しかしスカーレットとレットにとっては何の問題もない。どのコマでも、二人はそのコマでいつもすることをするだけだ。〔……〕二人はそれぞれのコマで、前にそのコマで考えたのと同じことを考え、同じ記憶をもつのである。とくに重要なのは、二人がそうして考える内容と記憶とが、時間は常に未来に向かって均一に流れるという感覚を二人に与えていることだ。 時空の中のどの時刻も(つまり、どの時刻でスライスした時空の断面も)、一本のフィルムのなかの一コマのようなものである。光線に照らし出されようが、照らし出されまいが、そのコマが存在していることに変わりはない。スカーレットとレットと同じく、ある瞬間に存在しているあなたにとっては、その瞬間こそ「今」であり、「今」であり続ける。しかも、個々の断面のなかにいるあなたの思考と記憶は、時間はその瞬間に向かってよどみなく流れてきたと感じさせるのに十分なぐらい豊富かつ鮮明だ。「時間は流れる」というこの感覚をもつためには、それまでの各時間のコマが次々と照らし出されていく必要はないのである。(*12) このグリーンの考え方は、哲学における四次元主義に該当する。四次元主義については第1章第5節で紹介したので、ここでは要約だけしておく。四次元主義は永久主義を前提とした理論であり、物体は時間的に「延続」しており、三次元空間に現れるのは「一時的内在的性質」に過ぎず、四次元時空の中にこそ完全に存在すると考える。 四次元主義は「ワーム説」と「段階説」に分けられる。四次元主義によれば物体や人は時間的に延続した時空ワームである。ワーム説ではその時空ワームが基礎的な存在者であると考える。段階説の「段階」とは「ワーム」から切り取られた諸々の段階を指しており、その個別の段階たちが基礎的な存在者であり、物体や人は諸段階の集合体と考える。 四次元主義は人格の同一性を次のように説明する。ワーム説によれば昨日の「私」と今日の「私」は同一ワーム内にあるゆえに数的に同一の存在者であり、それぞれの時間で異なった性質を持つ。一方の段階説によれば昨日の「私」と今日の「私」は異なる段階であり、数的にも異なる存在者である。 グリーンは段階説の立場から一見、変化を上手く説明しているように思える。人が時間変化の本質だと思っている時間の流れの感覚も、永久的な存在者として整合的に説明されている。実際グリーンと同じように時間を説明をする物理学者は少なくない(*13)。 しかしグリーンの説明では、やはり変化の矛盾は解消できない。それは次のような理由による。 変化とは、或る物事が別の物事に「なる」ことである。これは当然である。第3章第7節でも論じたことであるが、全ての物事が永久的に存在しているとする宇宙モデル(ブロック宇宙)では、その内部の物事が別の物事に「なる」ことはあり得ない。 以下にブロック宇宙の概念を簡潔に表してみよう。[1] や [2] はグリーンが解説したDVDのコマに相当する [1] ― [2] ― [3] ― [4] ― [5] ― …… ブロック宇宙内部にいる者は変化を経験することができない。仮に[1]が交差点の信号の「青」であり、 [2] が「黄」ならば、青が黄に「なる」ということを人は感じることができない。もちろん人がブロック宇宙の外部にいて「青」から「赤」へと視点を移動するのならば「なる」を感じることはできるだろう。しかし人はブロック宇宙の内部にいるのだから鳥瞰的に観察することはできない。 もちろん「青が黄になる」というのも一つのクオリアとして存在しているのだと仮定することによって、「なる」の説明を試みる方法はある。しかしその方法は上手く行かない。なぜなら「青」の状態から「青が黄になる」という状態に「なる」ことを感じることができないからである。また「青が黄になる」という状態から「赤」に「なる」ことを感じることもできない。持続的かつ多様にクオリアが変化しているよう思えることを説明できないのである。 いや、「青」は今の「赤」とは、それぞれ永久的でありながら数的に異なる存在者だとするのが段階説の説明であった。数的に異なる存在者ならば、そもそも「青」を感じている「私」と、「青が黄になる」を感じている「私」とは別の存在者だとして変化の問題を解消できると考えることができるかもしれない。しかしこれは「ここ今主義」や「独今論」と呼ばれる立場と根本的に差異がない。仮に今の「青」が「私」であり、それが段階説の説明するように孤立して時空の一点に存在しているのなら、「私」は永久的に「青」であり続けるしかない。それが消えるという変化がなければ「黄」にも「赤」にも「なる」ことはできない。ならば、なぜ私は「なる」を感じているのだろう? この私が時空の一点に位置する存在者ならば、他の時空点は決して認識できない。四次元時空を鳥瞰する存在者でなければ、四次元時空全体を記述できない。段階説においては、他の諸々の段階とは「今・ここ・私」には経験不可能なものである。経験不可能であることがわかっている存在について語るのは事実上、別の宇宙について語っているのと同じことである。他の別の段階たちは、あくまで「今・ここ・私」から推測された仮説的な存在にすぎないということである。四次元主義は永久主義を前提しているために、世界における変化と因果の実在を否定するものである。したがって「今」の段階が因果的に引き起こされたと考えることができず、「今」の外部があると主張できる根拠がないのである。「ここ・今・私」である段階が孤立して存在することが論理的に可能なのであるから、別の宇宙に等しい別の段階たちを措定しなくても、「今・ここ・私」である段階は完結して存在可能なのである。 このようにして段階説を詳しく吟味していくと、限りなくここ今主義・独今論へと接近することになる。 段階説の困難を回避するために私が案出した戦略は、「青→黄→赤」を一つのクオリアだとみなし、それが永久的に存在するとするとみなすものである。「青」にせよ「熱い」にせよ「郷愁」にせよ、クオリアは全一的な性質がある。クオリアたちは他の何かに還元して説明することができない。これが全一性である。「青」のどこを探しても「郷愁」はなく、「郷愁」のどこを探しても「熱い」はない。「痛み」にせよ何にせよ、クオリアは「ない」ものと繋がることはできない。映画のフィルムの或る一コマと別の一コマがつながっているようなイメージで、或るクオリアと別のクオリアがつながっていると考える段階説は間違いである。人の経験するクオリアはフィルムのコマのような明確な境界を持たず、みなグラデーションのようになだらかにつながっている。そのなだらかにつながった一連のクオリア全体を、一つのクオリアとみなそうというわけである。これは四次元主義の一種であるワーム説に近い考え方である。この方法ならば「青が黄になる」、「黄が赤になる」という人が経験する変化の感じ、変化の本質である「なる」を、一つのクオリアの性質として説明できると考えたのである。 ところが、これも上手く行かないのだった。なぜならば「青が黄になる」に続けて、「黄が赤になる」というクオリアがあるとした場合、「赤」が「ある」になった状態では最初の「青」が完全に「ない」になっているからである。これは変化のパラドックス――無からの生成と無への転化を認めるものであり、すなわち「存在者が存在する」と「存在者が非‐存在する」が同一だとする完全な矛盾である。 つまり変化の理論としての四次元主義的な戦略の根底にある困難とは、異なる性質を同一の存在者の時間内性質だと考えようとしても、「なる」によってつないで「一つのもの」とみなせるのは、二つの性質のみだということである。「青が黄になる」というクオリアがあるなら矛盾ではない。「黄が赤になる」というクオリアがあるのも矛盾ではない。しかし「青が黄になり、そして黄が赤になる」というクオリアは矛盾であるゆえに存在できないのである。なぜなら「赤」が「ある」ものであるならば「青」は完全に「ない」からである。すると「青→黄→赤」を一つのクオリアと考えようとしても、「青=黄」かつ「黄=赤」、しかし「青≠赤」と推移関係において矛盾が生じるということである。 四次元主義が変化の説明に失敗していることは明らかである。 ところで変化を説明する理論としては、四次元主義と対立する立場として三次元主義がある。三次元主義では一つのものは時間的幅を持たず、相反する複数の性質を持つことはないと考える。たとえば「丸く、かつ四角いものはない」というように。そして三次元空間に存在するものが時間を通じて「存続」すると考える。三次元主義は一般的に時間の形而上学として、現在のものだけが存在するとする現在主義を前提としている(*14)。 しかし私の立場からすると、現在主義は無からの生成と、無への転化を認める理論であり、検討の余地が全くない矛盾した理論である。仮に私が「痛み」を感じたとする。次にその痛みが消えたとする。現在主義では、痛みは無から生じ、無へと消えたことになる。いやもちろん物理主義的な立場から物質的実体を措定し、物質は時間を通じて位置を変化しながら存続するのだと考えることはできるが、それでも痛みのクオリアにはついて何の説明もできない。せいぜい物質的な脳がクオリアを生じさせると主張するぐらいなものであり、これはチャーマーズが提起した意識のハード・プロブレムに解答できない。ちなみにチャーマーズはサールとの議論で、脳が意識を引き起こすというサールの主張を「万能の呪文」と呼んでいる(*15)。つまり現在主義は魔法を認めているようなものである。これが四次元主義ならば、変化の説明には失敗しているものの、永久主義を前提としているためにクオリアの生成と消滅という困難は回避できるのである。 現在主義は素朴実在論や素朴心理学と親和的であるかもしれない。また存在者の数を少なくするという「節約の原理」に適合するという考え方もあるだろう。しかし形而上学は人の素朴な直観と整合させる必要は全くなく、また節約の原理が適用できるのは、適用することによって矛盾が生じない場合に限られる。無からの生成と無への転化を認める現在主義は、完全に阻却されるしかないものである。 以上の検証によって「変化」の概念が孕む問題は純化され、その根底にある問題が明確化されたはずである。 まず現在主義は明白に矛盾しており論外である。一方、永久主義を前提した四次元主義では、存在者は時間的幅を持つとして変化を説明可能であるように思えたものの、異なる存在者・一時的内在的性質を同一のものだと考えようとしても、「なる」によってつなぐことができるのは二つの性質のみである。「青が黄になる」というクオリアがあるなら問題ではないし、「黄が赤になる」というクオリアがあるのも問題ではない。しかし「青が黄になり、黄が赤になる」というクオリアは存在できない。したがって「青=黄」かつ「黄=赤」、しかし「青≠赤」と矛盾が生じるのである。 変化は論理的に不可能である。ならば一体、人はなぜ変化を感じることができるのだろう? もう一つの問題がある。マクタガートは時間をA系列とB系列に分け、B系列は時間にとって本質的ではなく、A系列こそが本質的だと考えた。しかしA系列は矛盾を含むゆえに時間は実在しないと主張し、主観的な変化の認識――C系列のみを認めた。つまりマクタガートによれば「変化」は実在するが「時間」は実在しないということである。しかし第3章第7説でも論じたことであるが、マクタガートの理論には深刻な不整合があるように思える。 仮に今現前しているクオリアをQ1としよう。次に現れるクオリアをQ2とする。その次に現れるクオリアをQ3とする……。このように意識の変化を認めるならば、それがB系列のように「順序」、あるいは「時間の矢」がなくても、今のクオリアは「現在」であり、その前のクオリアは「過去」であり、次に現れるクオリアは「未来」ということになってしまう。これはA系列と変わりがないように思える。 確かにC系列は通常の意味での「時間」ではないかも知れないが、それは或る種の時間であり、要するに「変化」が存在することは「時間」が存在することの十分条件であるように思えるのだ。 そして時間が実在するならば、カントのアンチノミーを回避することはできない。「現在」がC系列上の或るポジションから別のポジションにランダムにジャンプするとしよう。「現在」の「移動回数」は観察者がカウントするに関わらず決定していなければならない。ここから形而上学的無限という矛盾が帰結することになる。 第3章で論じたように、時間が実在するとした場合、以下のように二つの矛盾が生じるのだった。 変化に基づく矛盾: 変化とは「ある」と「ない」という相互排他的なものが同一であるとする矛盾である 無限に基づく矛盾: 時間が実在するなら、時間は無限に分割・延長可能であるが、無限の実在とは矛盾である 私は確かに変化を感じているように思える。しかし変化は矛盾であるので、私は第3章で無時間論を構想したが、それは上手く行かなかった。この章におけるこれまでの論考によっても、未だ私はこの二つの矛盾を解消できないでいる。 矛盾したものは存在することができない。時間が実在するのならば二つの矛盾がある。私は次のように確信せざるを得なくなった。変化の矛盾を解消するには、大きな犠牲を払う必要がある。それは常識を完全に放棄することである。 現に私が感じている変化の感覚を説明する方法が二つあり得ると考える。次節よりそれらを検討してみよう。まずは独今論である。 5 独今論 変化の感覚を説明する方法の一つは、「この現在」の時点だけが実在し、他の時点は実在しないとするものである。これは分析形而上学で「ここ今主義(here-now-ism)」と呼ばれる(*16)。また永井均の用語である「独今論」は、ここ今主義と類似の意味である。独我論が「私」の実在性のみを認め、他者はその「私」に現れるものだとみなすように、独今論は「現在」のみの実在性を認め、「過去」と「未来」は「現在」への現れだとみなす。独今論は時間における独我論である(*17)。 ※ところで永井の場合は独今論を独在論とパラレルな問題とみなしているので意味が輻湊しているのだが、ここでは野矢茂樹(2002)に倣って単に時間における独我論という意味で用いることにする。 独今論が論理的に成り立ち得ることは、ラッセルの「世界五分前創造説」によって示唆されている。太古の化石も、十六世紀にダヴィンチによって描かれた『モナ・リザ』も、十年前の私の写真も、そのような姿形で、全て神によって五分前に創造されたと仮定しても、論理的な不整合があるわけではない。ならば五分前に創造されていようと三秒前に創造されていようと論理的には同じことである。 なお、五分前創造説が独我論につながるか否かという問題がある。過去において「時間の長さ」を感じた人物の実在を認められないと考えるならば、現在の人物だけが実在的であるとする一種の独我論である。しかし時間の長さも無時間的なクオリアに還元できるという考え方もありうる。たとえば神が五分前に時間の長さをクオリアとして感じたソクラテスを誕生させ、そして消滅させたとすれば論理的に不整合がない。物理的・客観的な時間とは単なるパラメーターに過ぎず、人がそこに「長さ」を感じなければ「時間の長さ」ということに意味がないと考えることができるからだ。時間の長さのクオリアについてはアインシュタインの次の言葉が理解の補助となるだろう。「美女と一時間一緒にいると一分しか経っていないように思えるが、熱いストーブの上に一分座らせられたらどんな時間よりも長いはずだ。相対性とはそれである」――この言葉は主観的な時間の長さの感覚が、客観的な時間の長さ(わかりやすく表現すれば時計の針の回転数)と正比例していないことを巧みに表している。 そもそも客観的な時間の長さというものは存在していないのである。客観的にあるのはアリストテレスが時間の本性として分析したように「運動の数」のみなのである。ならば論理的には何億分の一秒の内に熱いストーブの上に十年間座ったような感覚を得ることが可能だということになり、五分前に創造された世界の内に一生分の時間の長さを感じたソクラテスの生と死が含まれていても何ら不思議はないということになる。 ところで、五分前創造説はそれだけでは独今論にはならない。なぜなら時間は未来に向かって流れて行くように感じられるからだ。したがって仮に世界が五分前に創造されていたとしても、今から十分後の世界は創造から十五分が経過したということになる。それに対し独今論は「この現在」のみが存在するという存在論であるからだ。したがって「未来」の到来を否定した上で、「未来のないこの現在」が永久的に存在し得ることを論証することが、独今論が可能的な時間論であることの論証になる。 果たして未来が到来しないなどということが思考可能だろうか? 素朴に「現に未来に向かって時間が進んでいる」と思いたくなる。しかしその思いもまた「現在」の経験に過ぎず、未来が到来したことの証明ではない。そしてその現在は五分前、あるいは三秒前に創造されていたとしても不整合はないのだった。いや、三秒前に創造されていたことを認めたとしても、「認めた時点からさらに時間は進んでいる」と思いたくなる。しかしそういう思いがあってもやはり同じことである。「認めた時点からさらに時間は進んでいる」という思いを含めて世界が三秒前に創造されていて、未来は到来していないと考えても不整合はない。また「私は二時間前のことを憶えているので現在だけが存在するなんてあり得ない」と思っても無駄である。その思いもまた「現在」の経験なのだから。結局、人は「時間が流れている」という印象を伴った「この現在」しか経験していないのが現実である。 したがって未来は存在論的に消去することが可能であり、「この現在」のみが永久的に存在するとする独今論は論理的に成り立つことを認めざるを得ない。 ここで次のような批判があるかもしれない。――この現在のみが存在するということは不自然である。ラッセルの五分前創造説は「神」の存在に依拠して成り立っているが、現実には神の存在など信じる根拠がない。ならば歴史は実在しなければならない。仮に映画を見ているのが「現在」ならば、その映画は過去に作られていなければならない。もちろん映画の撮影機材も作られていなければならないし、映画に最新のコンピューターグラフィックスが使用されているならば、コンピューターが発明される歴史的経緯も実在していなければならない、等々。 しかしそのような批判は「因果関係」の実在性に依拠にしたものである。因果関係とはカントが論じたように人の認識能力の一種に過ぎないのである。この問題は第三章の第7節で詳述した。「変化」は「無からの生成」を認めるものであり実在性を認めることができない。仮に変化の矛盾を棚上げしても、「時間」には「無限」という固有の矛盾があって実在性を認めることができない。また仮に時間の矛盾を棚上げしても「因果」には無限後退、循環論法、究極の問いという固有の問題があって、やはり実在性を認めることができない。因果は三重の論理で否定されるということである。 因果が実在しないならば、この現在のみが実在すると仮定しても論理的に何ら問題はない。独今論はやはり可能的な時間論である。 独今論の問題は大森荘蔵の「立ち現れ」一元論と関係してくる。大森によれば、過去は「想起」という形で立ち現れる。確実に存在していると言えるのは「今・ここ・私」の経験である「立ち現れ」のみである。 大森の過去論のポイントは、想起という経験は過去の経験の再生ではないということであり、「過去形の現在経験」として初めての経験であるということである。たとえば昨日転んで足に痛みを感じたことを想起する場合、「昨日は足が痛かった」という過去形の「立ち現れ」を初めて経験するということである。大雑把に言うと過去そのものが立ち現れるわけである。 ただし大森自身は「立ち現れ」以外は何も存在しないと主張していたわけではない。大森によれば人は原理的に「立ち現れ」以外のものを経験することはできないのだから、想起の原因としての過去があったと仮定しても、それはカントの「物自体」同様に不可知のものであり、「過去自体」として峻別されるべきものなのである。 つまり人は原理的に「知覚で知覚を知覚する」ことはできないということである。先ほどあった意識内容を反省してみても、反省という意識は反省の対象となる意識内容とは論理的に異なるのである。いくら過去の知覚を顧みても元の知覚には決して到達できないわけであり、これが「過去自体」が不可知であることの理由である。 これは大森にとって深刻な問題であった。私にとっても深刻な問題である。実在論者なら過去自体を懐疑する必要性が少ないだろう。実在論者は物質的実在を措定して、人が経験する物質的なものは過去の「痕跡」を残しているとみなすことができるからだ。たとえば五十歳の人が自分の人生を集積したアルバムを見るならば、アルバムには自分の五十年分の記録があるとみなせるわけである。しかし大森のように実在論を峻拒した現象主義的な立場では、アルバムを見てもそのアルバムに対応した実在を認められない。アルバムは「存在=知覚」としたバークリーの言う意味での存在として突如立ち現れてくるのである。その知覚的な存在を立ち現す「原因」を求めたくても、「知覚で知覚を知覚する」ことの不可能性があるのだから、現象主義の立場では「過去自体」は全くアクセス不可能なのである。 大森と違ってバークリーもヒュームも「観念についての観念」という存在を措定することの困難にあまり頓着した形跡が見られない。表象主義を前提していたロックと異なり、現象主義では或る観念と別の観念は論理的に異なるのだから、「昨日足が痛かった」という観念があっても、それは昨日の「足の痛み」という観念を表象しているとみなせず、昨日の足の痛みの存在を全く保証しない。それどころか「昨日足が痛かった」という観念から昨日の「足の痛み」の観念を推測すること自体が存在論的には不純なのである。実在論を峻拒するならば、過去自体は語ること自体が無意味なのである。 このような現象主義の困難を理由に、大半の哲学者は表象主義を前提とした実在論の立場を選択している。しかし実在論を選択すると必然的に「物と心」の二元論に陥ることになる。ひとたび物と心を異なる存在と認めたなら双方の軋轢は調停しがたいことを大森は直観しており、したがって「立ち現れ」一元論を徹底することになる。なお、私が大森同様に現象主義を選択するのは二元論を拒否するためだけではない。第2章でも論じたように物質的実在というものがあるとしたら、それは無限の部分を持つという矛盾した存在だからである。そして第3章でも論じたように、物質的実在を措定してもクオリアが変化するという摩訶不思議を解消するのに何の役にも立たないこと、また因果関係は実在しないゆえに、物質的実在を措定しても知覚の因果的説明にならないことなども根拠としてある。 反実在論が直観に反することは確かである。しかし直観は公理ではない。形而上学において何よりも重要なのは論理と整合させることである。形而上学においては、直観はそれ自体が問われべきる対象なのである。 因果の実在が論理的に否定されるならば、過去を含め「立ち現れ」外部の存在を一切否定すること、つまり独今論は可能となる。憶測であるが、大森は終生立ち現れ外部など実は全く存在していないのではないか、という悪魔の囁きに似た懐疑を抱き続けていたように思う。立ち現れ以外のものを全て否定してしまえば、そこで完全に論理的に整合的な時間論が完成することを大森は承知していたはずだからである。もちろんこれは非常識の極限であり、大森は誘惑に抗い続けて終ぞ悪魔の時間論を選択することはなかった。 悪魔の時間論は常識から甚だしく逸脱する。しかし形而上学において重要なのは論理と整合させることであった。悪魔の囁く時間論に可能性が認められるならば、真摯に耳を傾けて熟考しなければならないだろう。 そして私は悪魔の囁く時間論を吟味した結果、次のように結論する。 独今論は論理的に可能な時間論として認められるべきである。この世界は「この現在」のみしか存在していない可能性は有力である。「有力」としたのは、単に独今論が成り立つかもしれないという理由のみではない。既述したように時間が実在するとしたら、変化に基づく矛盾と、無限に基づく矛盾という、二つの矛盾がある。しかし独今論ならその二つの矛盾を回避できるのである。独今論の世界では「この現在」しか存在しないのだから、変化がなく時間もそれ以上流れない。したがって独今論は矛盾がない完全な時間論なのである。なおかつ「この現在のクオリア」だけが「実体」として存在すると仮定するなら、現在と過去、物と心の二元論の難問がないことになり、理想的な存在論でもある。 それでも独今論など認めたくはない。その理由など説明する必要はないだろう。 改めて独今論の内実を仔細に吟味してみよう。この現在だけが存在し、他の過去や未来は現在への現れとみなすならば、当然「この現在」の「幅」というものが問題になる。これはアウグスティヌスの現在中心主義からも読み取れる問題である。過去と未来は現在に張り付いた皮一枚のような存在だとして、その皮一枚にどれだけの要素が圧縮されているかということである。ラッセルの五分前世界創造説を参考にし、かつ「時間の長さ」の感覚をクオリアの性質に還元できると仮定すれば、皮一枚の過去を持つこの現在には可能的に無限の要素が圧縮できるはずである。 過去の経験とは、時間の経過によって徐々に「遠く」なっていくわけではない。ふとしたことをきっかけに遠い昔のことを昨日のことにように思い出す――そんな経験をしたことは誰でもあるはずだ。過去の経験とはB系列上に行列のように並んでいるわけではない。過去の経験は「過去」という一つのものの内部に圧縮されて存在している。ならばこの現在の経験には自分の人生経験全体が圧縮されているのかもしれない。――この考えはベルクソンが、過去というものが「記憶」という形で保持されつつ現在に浸透していると考えたことと同型だろう。 しかしそう考えてクオリアの多様性を認めようとしても、存在論的には問題がある。「時間の長さ」の感覚を物理的時間と切り離して、純粋にクオリアの性質に還元しても、「三つ以上の性質」があるならば件の変化の矛盾が顕在化してしまう。交差点の信号が「青」から「黄」になり、次に「赤」になるとしよう。この場合「青が黄になる」というクオリアがあるなら問題ではないし、「黄が赤になる」というクオリアがあるのも問題ではない。しかし「青が黄になり、黄が赤になる」というクオリアは存在できないのだった。赤が「ある」と言えるものならば青は完全に「ない」ものでなければならないからである。「なる」によってつなぐことができるのは「二つの性質」のみであり、したがって「青=黄」かつ「黄=赤」、しかし「青≠赤」と矛盾が生じるのである。これが四次元主義による変化の説明の躓きであった。 つまり「この現在」に三秒であれ五分であれ、どれだけの時間的幅を認めたとしても、「この現在」が有することができる性質とは、「或るクオリアが別のクオリアになる」という、二つの性質だけだということである。これが独今論を前提とした場合に帰結する人の意識経験の真理であるはずだ。 ただし独今論の世界では「二つの性質」だけが存在し得るとしても、その性質は「青」と「黄」のような明晰性があるものではないだろう。私が交差点で「青が黄になる」を見た場合、実際に経験しているのは単純な「青」と「黄」という二つの性質ではなく、「(青を含む)数十年分の人生経験の印象」と「黄」かもしれない。つまり私はこれまでの人生で多くの経験をしてきたように思うのだが、「知覚で知覚を知覚する」ことはできないのだから、実際には「多くの経験をしてきた」という不明瞭な印象だけがあるのかもしれない。つまり交差点で「青が黄になる」を見た場合、「(青を含む)不明瞭なクオリア」が、現前する明晰なクオリアである「黄」と「なる」でつながると考えるわけである。 以上のように考えてみると、独今論も実は単純な時間論ではないということになる。「二つの性質」だけが存在するとしても、現前するクオリアにつながる「過去自体」としてのクオリアの捉えがたさは変わらない。 いずれにせよ独今論の重要な前提は、現在経験されている「このクオリア」の明晰性を肯定する、というものである。この点が次に検証する無世界論と決定的に異なることになる。 6 無世界論 変化の感覚を説明するもう一つの方法は、変化の感覚自体を錯覚として否定するものである。これはエレア派のパルメニデスによって主張され、後に「無世界論」とも呼ばれるようになった。 ところでスピノザのような汎神論もまた無世界論と呼ばれることがあるが、これは「神の他にはいかなる実体も存在しない」という意味で、世界が実体であることを否定するものである。対してパルメニデスの場合は「感覚によって認識される世界は存在しない」という意味である。両者共に世界には唯一の実体しか存在しないと考えた点では同じであるが、無世界論といっても内容は大きく異なっている。 以下に引用するパルメニデスの断片7は、人の認識をロゴス(論理)と感覚に分け、ロゴスの優位を説くものであると一般的に解釈されている。 なぜならあらぬものがあるというこのことが馴らされることはけっしてないだろうから。 むしろあなたは、探求のこの道からあなたの考えを遠ざけなさい。 また、多くの経験から生まれた習慣が、あなたを強制してこの道を行かせ、 目当てをもたない目と雑音に満ちた耳と舌とを働かせることがあってはならない。 そうでなく、ロゴスによって判定しなさい、 わたしから語られた、多くの異論を引き起こす吟味批判を。(*18) パルメニデスによれば、真理はロゴスに基づいて思考することによって到達できる。そしてロゴスに基づいて思考するならば「ある」と「ない」は絶対的に相互排他的なものであり、「ある」が「ない」に、あるいは「ない」が「ある」に「なる」ことはありえない。「なる」という変化は世界の事実ではありえない。世界が変化していると思うのは感覚に基づいて思考したための臆見である。――パルメニデスが「合理主義」の祖と呼ばれるゆえんである。 アリストテレスは『生成消滅論』第一巻八章においてパルメニデスの哲学を以下のように評している。 理論的には、これらの見解は論理の当然の帰結であるとは考えられるけれども、しかし事実の上で見るなら、このような考え方をするのは、狂気の沙汰に近いものだと思われる。 山川偉也は上のアリストテレスの文について次のように述べている。 アリストテレスのこうした感想は、おそらく、彼以外のひとびとのものでもあったろう。エレア派の厳密論理は万人を承服させずにはおかなかった。しかし、その論理は、かならずしも、ひとびとを「無世界論」者にしたわけではない。論理によって事実を裁断するか、それとも事実のほうに論理を従わせるかの選択を迫られたとき、ひとびとは迷わず後者の道を選んだのである。ものが多に分かれて存在すること、少なくとも感覚的には、ものの生成消滅、運動変化はまぎれもない事実であることを、人々はエレア派の論理の圧力に抗して、擁護しなければならなかったのである(*19)。 しかし私は、感覚よりも論理を重んじる。上のアリストテレスの「事実」という表現は意味的に曖昧で、感覚による判断は疑わしいとするエレア派の哲学に対して、感覚による判断は正しいとする論点先取の可能性がある。要するに感覚上の事実は、必ずしも「真理」の根拠にはならないということである。 次の二つの事実を比較してみよう。 事実1: 2たす3は5である 事実2: 私の足には痛みがある 事実2がこの私の経験であるならば、どちらの事実も私にとって真理であるように思える。しかし両者の明証性は同じレベルではない。事実1は疑うことが不可能な真理であるのに対し、事実2はたとえ自分の経験であっても疑うことが可能である。デカルトの欺く神を想起するまでもない。「知覚で知覚を知覚する」ことはできないのだから、「私の足には痛みがある」と信じていても、その信念が正しいか否か心的内容を反省した場合、その「反省経験」は元の心的内容とは別の心的内容だということになり、「過去自体」には決して到達できないからである。足の痛みが一時的なものでなく、持続的なものであっても同じことである。反省の対象となる経験そのものは「痛み自体」と呼んでも良い。 「知覚で知覚を知覚する」ことはできないという事実からは二つの問題が生じる。一つは前節で大森荘蔵の過去論について論じたように、現在の知覚と過去の知覚は論理的に異なるのだから、過去自体は全く不可能だということ。もう一つは現在の知覚も知覚できないということである。知覚(クオリア)とは端的に与えられたものであり、それ以上遡行不可能なものである。それ自体が存在であり、かつ認識でもある。 哲学の伝統的な問題に「人は存在を正確に認識しているか」というものがあるが、「認識」自体も存在の一種(一部)なのだから、「人は認識という存在を正確に認識しているか」という問題もあり得るはずなのである。もちろん単なる反省を超えた「認識のメタ認識」など人にはできない。つまり形而上学には権利上「メタ認識論」というべきものがなければならないのだが、人は原理的にメタ認識論にコミットできないのである。 要するに「存在すること」と「認識すること」は論理的に別のことである。「認識が存在すること」は懐疑不可能だとしても、「〈認識という存在〉を認識していること」は無謬性を主張できる根拠がなく、懐疑の対象にすることが可能なのである。これが「2たす3は5である」という事実1との決定的な相違である。 次のように語ることもできる。私に痛みのクオリアがあった場合、私は「痛み」だと思っている「これ」を完全に理解していない可能性を認めるのである。あるいは、今私の前にパソコンのモニターがあるが、私がパソコンのモニターだと思っている「これ」を、私は完全に理解していないかもしれないのである。 私はジェイムズのように言語化以前の「純粋経験」を想定しようとしているのではない。たとえば痛みがあった場合、「痛み」という言葉で表現されたものは、元の純粋経験を完全には表していないかもしれない。しかし「痛み」と呼ぶに値する何らかの「悪しき経験」が生じていることはジェイムズも否定してはいない。私は彼ら「純粋経験」までも懐疑の俎上に載せようというのである。 それにしても、痛みを感じている最中に「私はほんとうに痛みを感じているのか?」と懐疑することは無意味どころか馬鹿馬鹿しいように思える。しかし「これは痛みでなく実は甘さなのだ」と考えてはいけない理由とは何だろう? 自分で自分の感覚を「確かめる」ことは原理的にできない。しかし確かめることができないということを根拠に、痛みを感じている場合に「私が痛みを感じていることは真理である」と言うことは一つの飛躍がある。それは「真理」でなく「現実」と言うべきものであるからだ。 ※第2節で言及した入不二の「現実性」の哲学についての補足になるが、ここに視点依存的な「現実」概念と、視点に依存しない「真実」概念との差異がある。 人は痛みが現れた後で痛みの存在を認知するのではない。痛みは「痛い」という判断と共に現れる。人はその判断が真であるか否かを検証する術がないのだが、「検証できないから真である」とは限らない。これこそ感覚に基づく判断が論理に基づく判断より信頼性で劣る理由である。 論理法則は疑うことは不可能である。そして論理的に矛盾したものは存在できない。感覚で捉えられる世界が矛盾しており、かつ感覚が疑い得るものならば、エレア派が主張した通り感覚による判断が間違っている可能性――感覚により判断された(時間空間という形式を持つ)世界が実在しない可能性を認めるべきなのである。 地獄の門をくぐる者が一切の希望を捨てなければならないように、形而上学の門をくぐる者は一切の常識を捨てなければならない。それがどれほど大切なものであっても、形而上学の領野において認められるものはただ理に適うもののみなのである。素朴実在論的世界像とは社会的存在としての自分に刷り込まれた「物語」であり、私はいわば物語の主人公として存在しているのだが、世界の真実を探求するためにはその物語の世界から抜け出さなければならない。 エレア派の哲学は、感覚世界を論理的に分析すれば至る必然的な結論であるよう私には思われる。しかし「狂気の沙汰」と言ったアリストテレスの心情は理解できる。問題の所在は感覚上の事実と論理上の事実が整合しないことで、この世界のあり方自体が狂気であるように思われる。ただ次のように考えて世界の「狂気」を和らげることができるかもしれない。――時間論において永久主義の立場をとる哲学者や物理学者が失念しがちなのは「空間」の問題である。相対性理論は時間と空間が不可分に結びついていることを証明した。つまり時間と空間は単独では実在でない。ブロック宇宙とは「動的な時間」でも「静的な空間」でもない。ヒュー・プライスはブロック宇宙が普通の意味での存在物ではないことを強調している。にも関わらず第4節で紹介したグリーンは人の感覚を「空間」という固定的なイメージを用い、映画のフィルムのように横一列で並べて表現していた。これはミンコフスキー時空によって「事象」を説明する相対性理論の解説方法に倣ったものだろうが、クオリアを説明する方法としては根本において間違っているのである。したがって「青」「黄」「赤」のクオリアを見た場合、実はそれらのクオリアは、私に記憶された通りの明晰なあり方で存在していない可能性が認められるべきなのである。 前章で私は変化の実在を否定するため、ひとつらなりの全一的クオリアを考案した。「青」出現し、それが消えて「黄」が現れ、それが消えて「赤」が現れるのならば論理に反しているのだが、「青→黄→赤」を一つのクオリアだとみなし、それが永久的に存在するとみなすならば、論理に反していないと考えた。しかしこのような四次元主義的方法では上手く行かないのだった。したがって、個別のクオリアの明晰性を否定するエレア派の方法論を真面目に検討するべきだろう。ブロック宇宙が「動的な時間」でも「静的な空間」でもないものならば、「青」「赤」といった個別のクオリアは人の信念の通りに明晰に存在していない可能性があるということである。 私が幼い頃に寝室で見た蛇は確かに「ある」し、永久に「あり続ける」と言えるのだが、そのあり方は、記憶された通りの素朴なイメージでのあり方をしていないのだと考えることが可能なのである。蛇が「消えた」というのは或る種の事実であるとしても、それは限定的な意味での事実であり、素朴なイメージでの「消え方」をしていないのだと考えることが可能なのである。仮にあの蛇が「消えた」というのなら、蛇が消えた次に何かが「生じた」と考えるしかない。しかしそれでは「順序」が生じてしまい、それは或る種の時間の実在を認めることになる。時間の実在は「変化」と「無限」という二つの矛盾を帰結させるのだった。したがって、蛇が消えたことを認めてはならない。いかなるクオリアも消えること、また生まれることを認めない。これが無世界論である。 交差点の信号が「赤」になっても、「青」は消えていないと考えるのである。論理に従うならば、「青」は消えていないと考えるしかない。――しかしこれだけでは無世界論にはならない。現前するクオリアまでも否定しなければならない。もし「私は青を見ている」という信念の通りに「青」が存在するなら、「赤」は存在することができないからだ。 無世界論の重要な前提は、現在経験されている「このクオリア」の明晰性を否定する、というものである。この点が前節にて検証した独今論と決定的に異なることになる。 しかし、以上の考えは我ながら正気の沙汰とは思えない。エレア派の論理の正しさを認めながらもそれを退けたアリストテレスの心境には共感せざるを得ない。独今論が悪魔の囁く時間論ならば、無世界論は妖精の囁く時間論とでも言うべきだろう。妖精(Fairy)は次のように言う。「あなたは今痛みを感じていると信じていても、実はあなたが信じているような痛みはないのよ」――そんな馬鹿なことがあるはずはないと思いたくなる。私が転んで痛みを感じ、「痛い!」と叫んだときに存在しているものは何なのだ? それが痛みでないなんて、猫が消えて猫の笑顔だけが残ったと言うに等しい、全くナンセンスなお伽の国(Fairy land)のお伽噺(Fairy tale)である。 しかし「知覚で知覚を知覚する」ことは不可能なのだった。ならば「それが痛みでないはずはない」と言ったとしても「物自体」や「過去自体」と同様に、「痛み自体」と言うべきものを捉えていない可能性を認めるしかないように思える。ナンセンスであることは必ずしも論理的不可能性につながらない。 また、無世界論にはベルクソンの「持続」の哲学を援用できるかもしれない。ベルクソンの言う「記憶」とは通常の意味と異なっており、過去の経験の全てを蓄積したものである。その記憶が知覚に浸透し、人の経験を成立させ続ける運動が「純粋持続」である。 メロディーは単なる個別の音の集合ではない。それぞれの音が相互に浸透し合って有機的な一つの全体――数的に同一な存在者を形成する。メロディーを構成する一つの音は、それのみでは単純な音の知覚に過ぎない。しかし前後に連続する他の音と相互浸透し合うことによって、聴く者に固有の質感や印象を感じさせる。ベルクソンにとって純粋な持続としての意識と時間は、空間的なものと異なり分割できないもの、性質の要素を個別の部分に還元できないものとして、その内に差異を含みながらも通時的に同一のものなのである。 たとえばラストシーンが同じでも、ラストに至るまでのストーリーが全く異なる映画を作ることができる。それら映画を見たならば、同じラストシーンを見てもまるで異なる印象を得ることになる。つまり現在私が空間的に明晰に認識しているつもりのものにも「他の何か」が浸透しているのである。私がバラを見ている場合、バラ以外のものはないように思える。しかし「他の何か」が浸透していると考えることが可能なのである。 つまり一切の知覚には、「それ」のみではなく、「他の何か」が浸透していると考えることが可能なのである。そして現前するクオリア以外のものが浸透している可能性さえ証明できれば、ベルクソン的には十分なのである。このベルクソンの哲学から「時間」を抜いてしまえば、無世界論の妥当性が示されるかもしれない。時間こそが存在の本性だと考えたベルクソンにとっては大迷惑な牽強付会であるだろうが。 しかし私は時間を全否定するのではない。エレア派の言う通り「一」なる実体は時間の内には存在しないだろう。しかし時間は実体の性質として存在していると考えることができる。個別的なクオリアは或る意味で時間的な存在なのだ。 「明晰とは何か?」と井上忠に問われた大森荘蔵は「空間として見ること」と答えたという(*20)。それは事実だと思う。逆に考えると、存在の本質が空間でなく時間ならば、世界に明晰なものは何もないということになるだろう。つまり明晰化とは知性による意識内容の分断・空間化・固定化なのだが、存在の本質は時間的で固定化できるものは何もないとしたらどうだろう。たとえば「Aが真であるのは、Bであるとき、かつそのときに限る」というような真理条件の記述は、空間化された「とき」を使用しているので間違いであるかもしれない。 空間的なものとは固定的で明晰なものであり、時間的なものとは動的で明晰ではないものである。人の意識・クオリアが時間を本性とするならば、それは動的で捉えがたいものであり、明晰なものではないということである。 人は完全に静止しているものを見ることはできない。或るものが静止しているように見えても、それは動的な意識の内容物として動的に存在している。 念のため今一度付言するが、私は自分が転んで「痛い!」と叫んだときに、実は「痛み」がないのだと言っているのではない。「痛み」のクオリアというものが時間軸上に定位できず、空間的な明晰性を有して存在しているのではないと言っているのである。時間変化から無理に切り取って固定した「痛み」の記憶は、「痛み」の本質的なあり方を保存していない可能性を示唆しているのである。 ここで再び入不二の文を引用する。 時間変化に晒されることから、逸れる固定的なものなどない。(*21) 〔……〕 時間的変化とは、固定的で不変のものとして取り出される一者に対してこそ(対してさえ)、さらに生じるはずの変化であり、その変化を逸れるものなどなかった。すなわち、時間的変化の特異性とは、その「高階性」や「汎浸透性」にあった。 では「固定的で不変の一者」とは何だったのか。詰まるところ、一者とは、特定の「もの」や「出来事」ではなくて、端的な現在(絶対的な現在)のことであった。すなわち同一不変の「もの」や「出来事」に定位しておいて、「それ(と指示できる何か)」が過ぎ去るのではなく、端的な現在の現実性(これ)こそが、過ぎ去るのでなければならない。(*22) これが入不二の最も優れた洞察であり、重大な問題提起だと私は受け取っている。「時間の高階性」と言う場合の「時間」とは、通常の物理的・線形的な「時間」の概念とは全く異なっている。入不二が言う時間の高階性とは「A=A」というような素朴な意味での同一律さえ脅かすものである。なぜなら「時間変化の中に定位できる固定的なものなど何もない」からである。たとえば「2014年 5月 1日に痛みを感じたのは事実である」と言っても、それは経験の真実を表していない。その本性が時間で固定できないはずの「痛み」というものを、無理に切り取って空間的に固定したものだからである(ベルクソンの時間の空間化批判が想起される)。時間内部において定位できる固定的なものが何もないなら、同一律が成り立たない。同一律は「A=A」という形式であるように、変化の中で何かを固定できることを前提としているからだ。 「端的な現在の現実性」さえもが常に過ぎ去るものであり、現在が本質的に「動的」なものならば、「A=A」というように「現在=現在」と、現在を「静的」に捉え理解することは間違いだということである。入不二の洞察は、入不二本人の意図に逆らって、「端的な現在の現実性」さえも否定しまうものだと読み替えることができる。「端的な現在の現実性(これ)」と言っても、言った瞬間に過去という非現実になっている。現在を静的・空間的に捉えることができないなら「現在の痛み」も、その痛みの「現実性」も捉えることができないということである。人は自分の現在の経験さえも「理解」しているとは言えないだろうと私は懐疑する。頬をつねり続けて持続的に痛みを感じ、「痛みはあるし持続しているのだ」と言うことはできるだろう。しかしその確実に思える痛みの現実も必ず過ぎ去って夢や幻に等しい過去となる。時間・クオリアの高階性によって。 ※ただし私の言う「現実性」が特定の内包を持つものであるのに対し、入不二の「現実性」は無内包であったことが想起されるべきである。 誤解のないよう付言するが、私は同一律や矛盾律のような論理学の基本法則を否定するのではない。同一律や矛盾律は疑うことができないア・プリオリな真理である。ただそのア・プリオリな真理も、知性によって把握し、「言語」というア・ポステリオリな形式で表現する場合には、ア・ポステリオリな真理に堕落してしまうということである。「高階性」を本性とする「時間」は知性で把握できない。把握したものは「時間」ではなく「時間の痕跡」なのである。それはア・ポステリオリな真理である。ちなみにこのア・ポステリオリな真理を巡って、かつて差異だとか差延だとかいうポストモダン思想が流行していたことは記憶に新しい。それらは真理を探究するものでなく、真理の影を探究するような学であり、私の関心の対象ではない。 人は「知覚で知覚を知覚する」ことはできない。ならば「私は今痛みを感じている」という信念があったとしても、その信念を正当化する術はない。人は経験自体を決して把握できないのかもしれない。 エレア派の主張したように、感覚で捉えられるこの世界は実在していない可能性を認めるしかない。仮に感覚で捉えられた通りに実在しているとすれば、「変化」と「無限」という二つの矛盾があるからである。無世界論では、エレア派の主張したように、論理によって把握されるもののみを認めるのである。それは不変の世界である。そして実体は「一」である。仮に実体が「多」であるとするならば、ゼノンが指摘した通り、多の間には無限の「中間」があるしかないからである。 その「一」として不変の実体が、「痛み自体」や「赤自体」など原初的なものたちの融合体であり、「実体」である。その不可知な、一なる実体にはベルクソンが言うような質的多様性があるだろう。――人に知ることができるのはそこまでかもしれない。 これが無世界論である。 7 真実の行方 私は変化の矛盾を解消するために、独今論と無世界論という二つの存在論を検討してきた。どちらの世界も論理的に可能であるように思えるが、どちらが正しいかを確かめることは不可能かもしれない。人は世界の外部に立って世界のあり方を確かめることはできないからだ。 実体(宇宙)は自分の全体を映す鏡を持つことができない。実体が自らを描こうとするのは、鏡を持たない人が自画像を描こうとする行為に似ている。実体は自らを理解することができないのかもしれない。 しかし独今論と無世界論は、いずれも素朴な世界観から甚だしく逸脱した世界観である。素朴実在論と直観は放棄しがたい。独今論は悪魔の囁く時間論であり、無世界論は妖精の囁く時間論である。良識ある人ならどちらも受け入れないだろう。 改めて時間の実在論を再検討すべきでだろうか。これは天使の囁く時間論と言える。天使は次のように言う。――時間は実在しているのです。この世界はビッグバンという「神の一撃」によって始まったとしたら、ビッグバン以前には時間がない。だから時間の無限後退を考える必要はありません。あるいは永劫回帰のような循環型の世界を想定してもよいでしょう。循環型の世界では、世界内部にいる人は世界の「循環回数」を問うことに意味がありません。循環回数などは神のみぞ知るのです。したがって過去は存在したし、未来は存在するだろうし、現在もあなたのイメージする通り明晰に存在しているのです。時間の実在論は正しいのです。 天使の囁く時間論は人の直観を救済するものであるゆえに、多くの論者が受容している。ブロック宇宙を措定して世界における変化の実在を否定する永久主義者でさえ、人が経験する変化の感覚は肯定していたのだから、天使の囁く時間論を選択していると言えるだろう。これまで時間の非実在を主張してきた私とて、魅惑的な天使の囁きを拒絶し切るのは難しい。 ここで私が考え得る三つの時間論を並べてみよう。 天使の時間論: 時間は素朴なイメージで実在する(時間の実在論) 悪魔の時間論: この現在だけが実在する(独今論) 妖精の時間論: 私の経験は私が信じるような明晰なものではない(無世界論) もちろん時間論は存在論と表裏の関係にあるので、上の三つはそれぞれ、天使の存在論、悪魔の存在論、妖精の存在論と言い換えてもよいだろう。 三つの時間論を論理的に考えるならば、明白な矛盾があるのが天使の時間論である。時間が実在するなら第2章と第3章で論じたように、形而上学的無限の帰結を回避できない。時間の実在論を前提とするならば、人の時間認識に関わらず時間は実在するのだから、ビッグバン以前に時間はなかったと考えても、ビッグバンが始まった時点で、「ビッグバン以前」が登場してしまう。そして循環宇宙の循環回数を人が「数える」に関わらず宇宙は循環しているのだから、循環回数は「決定」していなければならない。いずれも時間の長さの無限を認めることになる。そして「無限の実在」とは矛盾概念である。 ※なお私は現象主義を前提に論じているのだが、仮に実在論を前提とするならば、ゼノンによる無限分割のパラドックスも生じることになる。これは第2章で論じたが、実在論では解決困難な難問である。 もちろん、ブロック宇宙こそが実体だとみなす永久主義を前提とするならば、時間の長さの無限を回避できるだろう。しかしこの立場でも意識経験における時間変化の感覚を認めるならば、意識の時間について同様の矛盾が生じることになる。 そしてもう一つ、天使の時間論では「変化」の矛盾が解消できない。変化とは無からの生成を認めることであり、それは「存在者が存在する」ことと「存在者が非‐存在する」ことが同一であるとする矛盾である。永久主義を前提として変化を説明する四次元主義の失敗は第4節で見た通りである。つまり現在主義を前提するにせよ、永久主義を前提するにせよ、天使の時間論は変化のパラドックスを棚上げしたままなのである。 天使の時間論は「変化」と「無限」という二つの矛盾を孕んでいる。人は矛盾した言葉を話したり矛盾した文を書いたりすることがあるが、世界に矛盾したものごとは存在できない。形而上学で重要なのは直観と整合させることでなく、論理と整合させることである。矛盾を孕む天使の時間論は却下するしかない。 全能の神でさえできないことが二つある。一つは矛盾したことである。もう一つは神自らが「しない」と決めたことである。その二つは同じことかもしれないが。 ここで昔読んだ印象深い漫画を紹介したい。残念ながら作品名は失念してしまったのだが、うろ憶えの内容は次のようなものである。――ある場所に幽霊が出るという噂があって、興味を抱いた登場人物たちが冒険に行く。その内一人は幽霊なんぞ絶対信じないという科学信仰の合理主義者である。そして夜、まさに幽霊が登場人物たちの前に出てくる。登場人物たちはパニックに陥る。しかしただ一人、合理主義者だけは幽霊を目にしても平然としている。「なぜ平気なのか?」と問われた合理主義者は答える「俺は自分の目より科学を信じる」。このセリフで他の人物たちはずっこける。――確かにこのシーンはギャグになっているのだが、しかし私は、合理主義者の態度の方が正しいのではないかと思った。全ての現象には合理的な理由がある、そう考えるならば、幽霊のようなものを目撃しても、それは錯覚かトリックであると考えるべきである。仮にそれが現在の科学では説明できない現象であり、本物の幽霊と認めるしかない状況に陥ったとしても、その幽霊の存在をも合理的に説明できる未知の科学法則がある、と考えるのが合理主義的態度なのだと思う。 百聞は一見にしかずという。しかし私の信念は逆であり、百見は一理にしかずである。件の漫画の作者は、合理主義を徹底するとギャグになるというメッセージを込めていたのかもしれない。実際に合理主義を徹底して変化の実在を否定したエレア派に対して、アリストテレスは上に引用したようにその合理性を認めながらも「狂気の沙汰」と言ったのだった。 しかし人類は、科学の発展によって幾度もそれまでの常識を転覆されてきたのではなかったか。太陽は地球を中心に回ると思っていたが実は地球が太陽を中心に回っていたのであった。空間は不動だと思っていたが実は伸びたり縮んだりするものであった。一つのものが離れた二箇所に同時にあることはできないと思っていたが素粒子にはそれができた。人の常識は当てにならない。ならば宇宙の真理が人の常識などという矮小な枠組みに入ると思うべきではない。 時間の実在を否定することは、とてつもなく非常識な主張である。私があえて非常識な主張をするのは相応にして十分な理由がある。時間には「変化」と「無限」という二つの矛盾があるからである。二つの矛盾を認めることは、非常識というより人知には不可能なのである。 天使の時間論を却下した結果、悪魔の時間論と妖精の時間論が残った。どちらかが正しいということになるかもしれないし、他に人知の及ばない時間論があり得るのかもしれない。しかし人知の及ばない時間論について人間が語ることには意味がないだろう。ここでは独今論と無世界論のどちらが存在論として無謬性が高いかを検討してみたい。 結論から言うと私には無世界論の方が正しいように思える。私が無世界論を選択する理由には一つの論理的な理由と、一つの直観的理由がある。 ・無限論再び 論理的な理由とは「無限」の問題である。独今論は「時間」の問題だけを見るならば論理的に整合的な存在論である。しかし「空間」の問題はどうだろう。独今論の重要な前提は、現在経験されているクオリアの明晰性を肯定するということであった。これが全てのクオリアの明晰性を否定する無世界論との決定的な相違である。するとテーブルや道路のように空間という形式を持つクオリアが現前している場合、深刻な問題が現れるように思える。 ゼノンの「二分割」や「アキレスと亀」の私の解消法は、現象主義の立場から時間・空間の実在を否定し、現象(観念・クオリア)の実在のみを認めるならば、人に経験される現象は有限個なので無限分割を回避できる、というものだった。ところが空間的なものが現象だとしても、経験される通りに明晰に存在するとしたら、それは無限の部分を持つように思われるのである。 一メートルの幅があるテーブルの視覚像があるとしよう。その視覚像が私の信じる通りに明晰なものであるとするならば、私が計測する、しないに関わらず、テーブルの半分の五十センチの地点があると考えるしかない。そして一旦半分の地点を認めてしまえば、更にその半分、またその半分の地点の存在を認めるしかない。地点の数は無限であるしかない。つまりゼノンのパラドックスを完全に解消できないということである。 もちろん独今論の世界では「現在」だけが存在するのだから、「数える」ということに意味がないとも考えることはできる。しかし一メートルのテーブルの知覚像が「実在」するのならば、私が数える行為に関わらず知覚像の五十センチの地点もまた「実在」すると考えるしかないのではないか。つまりバークリーのように「存在=知覚」として、実在の場所を意識外部から意識内部へ移し変えたとしても、またカントのように空間が直観の形式だと考えても、ゼノンのパラドックスは悪霊のように取り憑いて振り払うことができないように思えるのである。もちろんこの問題は、俊足のアキレスが鈍足の亀に追いつけない、というような甚だしく反直観的な問題とは異なるかもしれない。しかし「無限の部分を持つもの」というのは明らかに矛盾した存在である。 次のような解消法を考えることができるかもしれない。――「一メートルのテーブル」というのは既に「大きさ」が表現されている。大きさとは知性で判断されるものではないか。たとえば象は蟻より遥かに大きいが、象の視覚像と蟻の視覚像は同じ大きさ――というより視覚像の「大きさ」ということには意味がない。視覚像は意識への単なる現れであり、視覚対象の大きさは知性による比較や計測によって判断されるものだ。つまり視覚像そのものは計測されなければ大きさがない全一的な「印象」である。大きさがないものの部分や地点は、「時間」を使用して知性によって分割しない限り存在しない。独今論ならばその分割を避けられるから、部分や地点は存在しない。 しかし、やはり次のようにも考えることができる。――四つの足があるテーブルの視覚像が明晰に存在するのならば、テーブルは「足」という部分を四つ持たなければならない。そしてひとたび部分の存在を認めてしまえば、その「部分の部分」を認めることになり、結局は無限分割を認めることになる。空間的なものが明晰に存在するということは、人が知性によってそれを個別の部分に分割する、しないに関わらず、部分となるものが存在していなければならないからである。 やはり独今論の世界では、空間の無限分割が回避できない可能性が強いように思われる。 ただし、独今論の立場からは次のような反論が考えられる。現在の明晰なクオリアが「音」や「痛み」のように非空間的なものなら無限分割は問題にならない、と。確かに現前するクオリアが非空間的なものであり、空間的なクオリアは「皮一枚の過去」の内に存在していて、それは不明瞭なクオリアだから無限分割を回避できるという考え方はできる。 しかし、この私は今現にパソコンのモニターという明晰な空間的クオリアを経験している。空間の無限分割を回避しようとするならば、現在に空間的なクオリアが現れていても、その明晰性を否定しなければならない。しかし、それでは無世界論と変わりがない。 あるいは、現在経験される空間的クオリアも「やがて消える」とし、次に非空間的クオリア、たとえば「痛み」が現れるとするなら、存在論的には「パソコンのモニターが消え、痛みが現れる」という二つの性質のみを持つクオリアが永久的にあるとみなせるので矛盾はない、と考えることができるかもしれない。しかしその考えは既に「今だけが存在する」という前提と矛盾しているように思われる。――この辺りに独今論のパラドキシカルな構造があると同時に、哲学的に興味深い問題が派生する。実際に、いくらパソコンのモニターを両手でしっかり掴んで「これは存在するのだ」と思っても、やがては消えていくだろう。また私が自分の人生を振り返り、あれやこれやの経験をしたのだから「過去」は実在したのだと確信しても、その確信ごと消えていく。 そもそも「消える」とは、一体どういうことだろう? ・ものごとが消えるとはどういうことか? 私が無世界論を選択する直観的な理由とは、「ものごとが消える」ということである。 私は「変化」とは何かについて考え続けてきたのだが、ここで変化について別の視点から考察してみたい。 哲学の歴史において、ものごとが消えるという事態を真剣に考究した哲学者は衝撃的なほどに少ない。一体、ものごとが消えるとはどういうことだろう? これはこれまで論じてきたように「無からは何も生じない」という論理によって、変化の実在を否定しようとする目的で問題提起しているのではない。ものごとが消えることは、現象学的な事実であることを一旦認めた上で、その事実が意味することは何かを問題にしているのである。 今、窓外には煌びやかな街の夜景が見えている。目を閉じればその夜景は消える。夜景の視覚像が「消える」ということはまるで魔法のようである。実在論を前提にしても夜景の視覚像が消えることの説明はできない。これは第三章で論じた。しかし仮に実在論が正しくても、夜景はいつかは消えるのである。世界に消えないものはない。「始まりがあるものには終わりがある」という格言通り、全ての物事は「時間」によってやがて消されていく。 現象主義を前提しようと、実在論を前提しようと、ものごとが消えるということは実は摩訶不思議なことではないか? 夢には不思議な点が二つある。一つは奇想天外な体験をすることである。もう一つは奇想天外な体験をしているにも関わらず、夢の私が不思議だと思わないことである。実はこの現実世界でも数々の奇想天外な体験をしているにも関わらず、私は不思議だと思えないのかも知れない。「全てのものごとは消えていく」――これは当然のことだと一般人は空気を吸うように受け入れているが、実は魔法のように奇想天外なことではないか。 「時間とは何か?」アウグスティヌスがこう問うて以来、数多の哲学者が数多の解答を試みてきた。その内いずれが正しいかはさて置き、「時間とは全てを消し去る究極の魔法である」と解答するのも、あながち的外れではないように思える。 消えるものは実体ではない。実体は消えないものである。――そんな素朴な思いがある。この思いはどこから来るのだろう。 「実体」という概念には「実体でないものが存在する」という含意がある。しかし実体でないのに「存在する」というのは語義矛盾であろう。錯覚論法で証明されたように、錯覚経験があったとしても、錯覚という意識経験は存在する。つまり実体の概念には素朴な心と物の二元論が前提としてあって、物が消えるのは不思議だが、心の内容が消えるのは不思議ではないとする億見が含まれている。これは実在論を前提とした知覚因果説が正しいとする論点先取にすぎない。バークリーの以下の批判を想起すべきである。これは哲学者ならば一日一回読んで熟考するに値する、哲学史上最大級の問題提起である。 反対論者は、私の説が事物を瞬間ごとに消滅させては創造する不合理に陥ると攻撃する。しかしこの不合理をもって私は既存の哲学原理を深く攻撃できる。私が瞼を閉じれば周囲のあらゆる事物が無に帰着することは不合理と考えられる。しかしこれは哲学者が次のような場合に共通に承認するところではないか。 光と色彩は知覚される以上に少しでも長く存在しない感覚にほかならない〔……〕(*23) もちろんバークリーの標的は実在論者である。しかしバークリーの観念論もまた、ものごとが消えるという摩訶不思議を何も解消していない。バークリーは心の外部にある物質的実在を想定しても、ものごとが消えることの不思議さは解消されないので、物質的実在を措定することの無意味さを主張したに留まっている。しかし実在の場所を心の外部から心の内部へと移し変えても、ものごとが消えることの摩訶不思議は何も変わらない。だから私は変化は矛盾だとしてその実在性を否定してきたのだが、ここでは変化のパラドックスを棚上げし、ものごとが消えることを現象学的な事実として、その意味するものを考えなければならない。 やはり現象主義の立場を取っても、消えるものは実体ではないだろう。実体が不滅でなければならないことは、これまで論じてきたように変化を否定する論理法則を適用できる。どのような種類のものであれ、「存在する存在者」は「非‐存在する存在者」に「なる」ことはできない。 確かに人の意識内においては、「ある」ものは「ない」ものになり、「ない」ものが「ある」ものになることによって、認識は成立する。しかし意識における「ない」とは、「ある」ものの一種ということになる。ベルクソンが「無」とは事物を否定する機能を持った一個の観念として「存在」しているとみなした所以である。――これらは認識論上の問題である。 存在論的には、矛盾したものは存在できない。「痛みがあったが、それが消えた」と言う場合、その言葉は矛盾していないが、その言葉の指示対象である「痛み」がほんとうに「存在する」ものであるなら、「非‐存在する」に「なる」ことはできない。「痛み」は実体ではない――しかしそう結論して終わるものではない。実体ではない先ほどの痛みとは何であるかが問題である。実体と属性、基体と性質、全体と部分、主語と述語という構図では変化を説明できないことは第三章で論じた通りである。では痛みが現れ、それが消えるとはどういうことだろう? 私は次のように結論せざるを得ない。消えるものは元から存在しないものである。消えたものは元から存在しなかったのである。 そんなわけはない。痛みを感じている最中に「この痛みは実はないのだ」と考えることはナンセンスだ、と思いたくなる。しかし、痛みは「ある」と思った次には「ない」になっている。時間論では「今」の捉えがたさが問題にされる。「今」は「ある」と言った瞬間「ない」になっている。痛みが五時間持続していようと同じことである。「痛みが五時間持続した」という信念ごと消えていく。「今」は無限小の瞬間であることはできない。一定の幅がなければならない。そしてどんな時間的幅があろうと、それが「時間的」である限りは消えるのである。一秒で消えるものも一億年で消えるものも本質的に変わりがない。 時間とは全てを消し去るものだ。魔法のようなものである。 実在論的には、「存在する」とは空間を占めるものである。人の五感はその空間を占めるものの表象であるとみなす。たとえば車の視覚像があるならば、その視覚的クオリアは空間を占める車の表象とみなし、車のエンジン音が聞こえたなら、その聴覚的クオリアは空間を占める車のエンジンから発せられた音波を表象したものとみなすのである。 しかし時間は、その空間を否定するものであり、したがって通常の意味での「存在」を否定するものなのだ。 しかし消えるものは元から存在しないものであると言っても、確かに痛みに該当する「何か」が消えていることは事実であるように思える。では先ほどの「痛み」とは何だったのだろう? 「知覚で知覚を知覚する」ことは原理的にできないのだった。これが人知の限界である。行き詰まりに呆然する私に、妖精がこう囁く。「痛みなんてなかったのよ」 私は妖精の囁きに強く誘惑されている。ただ「痛み」が全くなかったとは思わない。私がが痛みを感じているとき、実際は私が信じているような痛みは存在していない可能性を認めるべきなのである。「痛み」にせよ「赤」にせよ「愛」にせよ、人は自分の「ほんとうの経験」を捉えられていない可能性が強い。転んで足を捻挫して「痛い!」と叫んだとき、その「痛い!」の指示対象となるものは確かにあるのだけれど、それは自分が信じているようなあり方で存在しているのではないということである。無世界論の重要な前提は、現在経験されている「このクオリア」の明晰性を否定する、というものである。何であるにせよ現前するクオリアの明晰性を肯定してしまえば、それが消えて別のクオリアに「なる」ことは不可能であり、また他のクオリアと「相互浸透」していると考えることも不可能だからである。そして「痛み」にせよ「赤」にせよ、それらクオリアが人の「信念」の通りにあること――明晰性を否定するならば、それらは「変化」という矛盾と「時間(無限)」という矛盾を回避できるのである。そしてそれらは、消滅を蒙りながらも、何らかの意味において、その実在性を維持できる可能性が示されるのである。 ただその場合は「消滅」という表現は正しくないだろう。交差点の信号が「青」から「黄」へ、そして「赤」になるのを見た場合、「赤」が登場した時点において「青が消滅した」と考えるべきではなく、「〈青が消滅した〉という信念がある」と考えるしかないのである。そしてその「信念」もまた私が思っているような明晰なイメージで存在しているのではないということである。ほんとうに「ある」ものの内部の要素として、消滅したように見える青も痛みも、それらに対する信念も、ベルクソンの言う相互浸透のような形で、「ある」と考えるのである。これが無世界論によるクオリアの変化の説明となる。 痛みとは、私が思っているような明晰な存在者ではないことを認めるしかない。既述したが、空間的なものとは固定的で明晰なものであり、時間的なものとは動的で明晰ではないものである。人の意識内容が時間を本性とするならば、それは動的で捉えがたいものであり、明晰なものではないということになる。消えるものは明晰ではない。そして意識経験は「時間的」であるゆえに全て消えることが約束されている。ならば意識経験で明晰なものは何もないということになる。 今私が「痛み」を感じているとしても、「私は痛みを感じている」という「信念」を抜き取れば、残るものは「物自体」と類比的な「痛み自体」でしかないものだろう。もっとも、「痛み」や「経験」という言葉の意味とは元よりその信念のことなのだから、「私は痛みを感じている」という言葉と信念に間違いはないだろう。私は形而上学的に無世界論を選択したのだが、素朴実在論まで否定するわけではないのである。つまり「痛み」は私が信じているような明晰な存在者ではないものの、「痛みのような何か」が存在することは事実なのである。因果関係の実在性が否定されても「因果関係に見えるもの」が実在するように。私に痛みがあるとき、「私は痛みを感じている」という言葉と信念に間違いはないのである。 しかし形而上学的には、その言葉も信念もまた流れ消え去るものだ。言語もまた静的・空間的なイメージで存在するのではないと考えるしかない。つまり私が「痛い」と言っても「青」と言っても、その言葉もまた私が思っているような明晰な存在ではないということである。「今日痛みをほんとうに経験した」と日記帳に書いて金庫に保管しても無駄である。それらもまた消え去るものだ。私は実在論を否定して続けてきた。日記帳や金庫に対応した物質的実在というものが存在すれば、それは無限の部分を持つゆえに矛盾した存在である。したがって日記帳も金庫もバークリーの言う意味での知覚的存在(クオリア)である。――ところがそのクオリアは全て消え去ることが約束されている。 私は長らくクオリアこそが人の最も原初的な経験だと信じてきたのだが、ここにおいてその信念を放棄せざるを得なくなった。「青」にせよ「蛇」にせよ「痛み」にせよ、それらクオリアには「信念」や「判断」が含意されているのである。ジェイムズのように知性による判断以前の純粋経験を想定しようとしても同じことである。「意識は常に何ものかについての意識である」のだから、意識経験はみな何らかの判断を含んでいるのである。無世界論はその意識経験を根幹から懐疑する。 私は大森荘蔵の現象主義的な哲学を自らの哲学の出発点とした。その大森荘蔵はバークリーから強い影響を受けており、事実上のバークリー学徒であった。私は大森やバークリーと近い立場にあったのだが、ここで立場を変えざるを得なくなった。「存在するとは知覚されることである」――長らく信じてきたこのバークリーの標語を、私は放棄して次のように主張するしかない。 知覚は実在ではない それぞれの知覚(クオリア)は私が信じている通りに明晰に存在しているならば、繰り返し論じた通り「変化」と「時間」の矛盾が帰結する。したがって感覚による判断は疑わしいとするエレア派の説を受け入れて、知覚の実在性を否定するしかない。 私は錯覚論法を根拠にして、夢も幻も現実の経験も「存在する」ということで貴賎が無いと考えた。今やその考えを修正するしかない。夢も幻も現実の経験も、私がイメージしているようには存在しない。全ての経験は夢幻に等しく、夢幻もまた夢幻の儚いイメージそのままに夢幻なのである。 現象主義や観念論とは心の外部にある世界の実在性を否定するもので、反実在論の最も極端な形態であると考えられている。しかし私はその現象主義や観念論に対しても、無世界論の立場から心の内部にある個別のクオリアたちの実在性を否定するのである。これは反実在論の極限であるだろう。 反実在論の方法を徹底的に遂行するならば無世界論に至るしかない。これが私の結論である。 こんな夢を見たことがある。雑誌をパラパラとめくっていると、ふと美しい風景写真が目に留まった。もう一度見ようと探したのだが、いくら雑誌をめくっても見つからない。本当に風景写真を見たのかわからなくなった。全てが消えてゆく世界では証拠もまた消えていって事実を確かめる術がない。シャボン玉のように儚くはじけるものも、太陽のように天文学的時間をかけて燃え尽きるものも、消えゆくものであるということは同じなのだ。この世界もまた消えていく。 消えるものは存在しないものである。消えたものは存在しなかったものである。私が過去に経験した様々なものごとは、私が信じているような明晰なあり方をしていなかったと考える他はない。 しかし以上の結論は、論理的整合性を保つために無理やり経験の現実を歪曲してしまったという感がある。そもそも個別的なクオリアの明晰性を否定するならば、それらクオリアが実は全く存在しなかったと考えることと変わりがなく、独今論と紙一重ではないだろうか? そんな強引な時間論を妄想するぐらいならば、いっそ独今論を選択してしまえ、という悪魔の囁きも聞こえる。 無世界論ではこの時空点も他の時空点も私がイメージしているような明晰なあり方では存在しない。しかしそれら時空点の存在を何らかの意味において認める。では具体的にどういう意味において時空点たちは存在しているのだろう? それこそが問題であり、明確な解が見出せなくても、何らかの示唆を見出せなければ、無世界論は独今論と本質的な差異がなく、独今論が主張する「現在のクオリアの明晰性」を否定しているだけだということになる。 この問題について私は、時間と空間が直観の形式だと考えたカント哲学に僅かな示唆を見出すことができるように感じている。 ここで第二章で用いた図4を再掲する。 図4では、アキレスの運動を赤い線で、亀の運動を青い線で表している。両者の運動は時間と空間という「形式」で表現できるということが重要である。アキレスがどの時点で、かつどの地点で亀に追いつくかは、両者の形式によって計算できる。 二つの線のどちらでもよいから、任意の点を線上の一つに置いて、自分がその点にいるものと考えよう。二つの線は時間と空間という形式を持つのだから、五分前に亀がどの地点にいたか、五分後にアキレスがどの地点にいるかは、両者の形式によってわかる。 無世界論では「アキレスが亀に追いつく」という「出来事」が何らかの意味において存在することは認める。もちろん、アキレスも亀も競争を始める前から生きていたのであり、競争が終わってからも生き続けるとみなす。つまり「アキレスの生涯」や「亀の生涯」も一つの出来事として時間と空間という形式を持ちながら、何らかの意味において存在しているとみなすことができる。それならば「全体」である世界そのものも一つの出来事として存在しているとみなすことができる。無世界論の世界像は妖精の世界のように不明瞭であるが、その世界は時間と空間という形式を性質として持っているのである。図4の二つの線上に任意の点を一つ置けば、そこからアキレスが亀に追いつく時点が存在論的に示唆されるように、他の時空点が、なんらかの意味において存在することが、時間と空間という形式の存在によって示唆されるのである。 もちろん時間も空間も私がイメージしているような明晰なイメージで存在しているのではない。物自体(実体)は時間と空間の内部にはなく、時間と空間は現象の形式だとするのがカント哲学であった。カント哲学は構成主義的で二元論的である。それを一元論的に解釈し直せば、現象そのものも物自体に含まれることになり、時間と空間は物自体の内部性質となる。したがって人の認識能力では物自体は全く不可知であり、人の言語では物自体を語ることができないことになる。ここで重要なのは、物自体は「語り得ない」のではなく、「語る」という行為自体が物自体から逸脱することなのである。 しかし、以上の論法には重大な欠点があるように思える。人が現実に認識しているのは「今・ここ」だけである。それが独今論が論理的に成り立つ理由でもある。しかし上の論法では全ての時空点を一挙に見渡す特権的な観察者が想定され、その観察者によって全ての時空点の存在が確認されたことを前提に語っているように思われるのである。したがって独今論の立場から上の論法に反論するのは容易いだろう。――人が経験しているのは「今・ここ」だけである。確かに時間と空間という「形式」は他の時空点の存在を示唆している。だがその示唆は必ずしも他の時空点の存在を保証しない。その示唆自体が「現在のクオリア」の性質として存在し、他には何もないと考えても何ら論理的不整合はない、と。 第5節でも論じた通り、現象主義の立場では「過去自体」は全くアクセス不可能なのであった。「昨日足が痛かった」という観念があっても、それは昨日の「足の痛み」という観念を表象しているとみなせず、昨日の足の痛みの存在を全く保証しない。バークリーもヒュームも「観念についての観念」という存在を措定することに無頓着だった。逆に観念連合というアイデアが孕む困難に敏感だったのが大森荘蔵で、大森は元の観念の不可知性を「過去自体」と言い表して、「立ち現れ」外部のものについては終ぞ語ることをしなかった。 しかし私は語らなければならない。 確かに、独今論の主張は説得的である。しかしその主張もまた「消える」ものだ。消えるものは消えることによって明晰性を失う。もちろん独今論は「消える」というクオリアのみが永久的に存在するのだと主張する。私が次々と新たな経験をしているつもりであっても、ラッセルの五分前世界創造説が示唆したように、私の過去の経験全ては二秒か三秒に圧縮されて不明瞭な形になり、その不明瞭なクオリアが現在の明晰なクオリアに「なる」というものこそが、永久的に「ある」ものだと考えれば不都合がない。 しかし私は次々と経験されるクオリアたちが「消える」ように思える。「この今」だけが存在するという時間論など信じられない。これは信仰の問題だけではない。独今論は空間の明晰性を認めるために、空間の部分が無限に実在することを認める可能性が濃厚なのであった。やはり論理的整合性は無世界論の方が高いだろう。 私の経験する現象たちは時間と空間という形式を持って存在する。その形式の延長線上に存在することが想定されるものたちは、独今論と異なり無世界論では、何らかの意味において存在しているとみなすことができる。そして「全体」である世界そのものも一つの出来事として存在しているとみなすことができる。 もちろん「消える」というならば「順序」があるのではないか、という素朴な批判は想定される。順序があるなら時間の実在を認めなければならないが、それは矛盾である。しか無世界論では個別の現象の明晰性を否定する。つまりB系列の線上に個別の現象が順序正しく並んでいるような図式は物自体を正確に描写したものではない。事態はむしろ逆であって、順序やB系列そのものが物自体の一つの性質として存在していると考えた方が妥当である。 なお次のような指摘も想定される。「消える」ことでクオリアたちの明晰性も順序も否定されるのなら、そのことによって「変化」と「時間」の矛盾は解消され、それらの実在を認められるのではないか、と。しかし変化と時間の実在は認められない。上に述べたようにB系列は或る意味で実在するのである。たとえるならB系列は実在の影である。影ならば矛盾してもよいと考えることはできない。たとえ影であっても矛盾した影など思考不可能であり、認められない。B系列上に並んだ出来事・クオリアは無限にあることはできない。有限でなければならない。私は第二章で「無限」を論考し次のように結論した。「無限に思える有限なものが永久にある」――この世界観は変わっていない。 更に次のような批判も想定されるだろう。「消える」ということが現象の認識の明晰性を否定するならば、人は一体何を認識しているのか、と。つまり私は今確かに何かを経験しているはずなのだが、「これ(経験?)」って何なのだ? という問題である。無世界論では何かを認識していることは肯定するが、その認識の明晰性を否定し、そして「知覚で知覚を知覚する」こと、認識のメタ認識ができないことを根拠にこの問題に人知の限界があると主張する。――このような説明は論理的整合性を保つための辻褄合わせをしているだけだ、と感じるのは当然であろう。現に、私は今パソコンのモニターを見ているように思われる。モニターは確かに「ある」ように思われる。無世界論は、モニターは私が思っているようには存在しないと言う。ならば、「これ」って何なのだろう? この問いを封じるのは不可能であるように思える。 しかし「一」なる実体を想定する無世界論の立場からすると、「これ」は「語りえない」というよりはむしろ、「語ってはならない」問題なのである。言語とは存在を分断・空間化して明晰化するものだからである。語ることは存在に対する裏切りであると言ってもよい。――とは言っても「これ」に対する疑問が消えるわけはないのだが。 ここで人が一体何を認識しているのかについて、随分先走るという感はあるが、解答を模索してみたい。私はかつてメルロ=ポンティの次の語り方に示唆を受けたことがある。 私が一定の時間と空間の中にいるのか、それとも私はどこにもいないのか、のいずれかだと述べる代わりに、むしろ私がこの瞬間この場所にいながらも、絶えず私は至るところにいるのだ、とどうして述べてはいけないのだろうか」(*24) 上のメルロ=ポンティの言葉の意味はともかく、語り方には惹かれるものがあった。「○○と考えてはいけない理由がない」――この論法は論理的可能性を示すものであると同時に、論理的不可能性を回避するものである。実在は、このような消極的語り方でしか示唆できないものなのかもしれない。 人は「全て」を一挙に認識していると考えてはいけない理由があるだろうか? 「今このクオリアしか認識していない」という反論があっても、今このクオリアはその明晰性とともに消えていくのだった。つまり個別のクオリアの明晰性が「消える」ということで否定され、他のクオリアとの境界も否定されるならば、「全てを一挙に認識するとはこういうことだ」と考えてはいけない理由がないように思えるのである。 たとえば一枚の絵を見たときの「印象」は静的でも動的でもない。「全体」を一挙に見るということも同じだと考えたいのである。認識されているように思われる個別の物事の明晰さを否定するのならば、真に認識しているものとは「全体」であると考えたいのである。「この痛み」は存在すると思っても消えていく。全体を認識するとは個別の物事が「消える」ということなのだ、と。 無世界論においては、性質が変化するのではない。変化が性質なのである。たとえば扇風機の羽根がゆっくり回転しているのを見れば、人はそれに変化を感じるだろう。羽根が位置を変えているのを見るのだから。しかし高速に回転しているのを見た場合、羽根の位置変化を見ることはできない。羽根の回転そのものが「一つの印象」として感じられるはずだ。これが「変化が性質である」ということの意味である。世界全体も「一つの印象」であるとみなすのが無世界論である。そしてその「一つの印象」を認識するとは、「こういうこと」、「これ」だと考えてはいけない理由がないように思えるのである。 前掲した図4の二つの線上に任意の点を一つ置けば、そこからアキレスが亀に追いつく時点が存在論的に示唆され、他の時空点もまた存在することが、時間と空間という形式によって示唆される。しかしその論法は全ての時空点を一挙に見渡す特権的な観察者が想定され、その観察者によって全ての時空点の存在が確認されたことを前提に語っているように思われる。人が現実に認識しているのは「今・ここ」だけなのである。――しかし「今・ここ」の明晰性が「消える」ということで否定されるならば、人が全ての時空点を一挙に見渡す特権的な観察者であると考えてはいけない理由がないように思えるのである(無主体論的に表現すれば「全ての時空点を一挙に見渡すような〈印象〉のみが存在する」ということになる)。 ベルクソンによるメロディーの比喩を想起しよう。メロディーとは単なる個別の音の集合ではなく、それぞれの音が相互に浸透し合って有機的な一つの全体を形成するのだった。そのような部分に還元できない性質のものは無時間的な印象とでも言うしかないものだ。「痛み」や「赤」や「美しい」も同様に無時間的な印象としてあるように思える。無時間的なものだけが他の要素と「一つ」としてつながることができるのである。 ベルクソンによる「時間の空間化」批判はB系列だけでなくA系列にも当てはまる。トランプのカードを重ねて置く。上に「2」のカードがあれば他のカードは見えない。しかし「2」は「現在」と類比的でない。時間にはカードのような空間的明晰さがないからだ。B系列もA系列も物質の明確な「境界」も実在の性質なのであり、実在の方が明確な「境界」に区切られて、B系列やA系列として並べられるあり方をしているわけではないのだ。――このような論法で世界全体も「一つの印象」であり、その「一つの印象」を認識するとは、「こういうこと」だと考えてはいけない理由がないように思えるのである。 それにしても以上の論述は、途方もない形而上学的妄想であり、我ながら辻褄合わせの上に、更に強引な辻褄合わせを重ねているという印象がある。しかし矛盾したものは存在できないのだから、説明内容に明らかな矛盾がない限り、反直観的だという理由のみで退けるべきではないだろう。 上の説明で無世界論はかろうじて独今論との差別化に成功したように思える。他の存在論とも比較して、無世界論は甚だしく反直観的であるものの、無矛盾な存在論であることは認められて然るべきだろう。 私はアリストテレスが「狂気の沙汰」と言ったエレア派の哲学――無世界論を支持する。 私は狂っているのかもしれない。しかし形而上学では狂っていることなど大した問題ではない。形而上学には善も悪もなく、流行も廃りもなく、正気も狂気もない。単に正しいか間違ってるか不明かのいずれかでしかない。 かの名探偵シャーロック・ホームズはこう語っている。 完全にありえないことを除外したならば、残ったことは、いかにありそうにないことだとしても、それが事実に間違いないということだ(*25) 私には直観に基づいたアリストテレスの言葉より、論理に基づいたホームズの言葉の方が正しいように思える。 「矛盾」の語源である「どんな盾も突き通す矛で、どんな矛も防ぐ盾を突いたらどうなるのか?」という中国の故事を、遠い昔学校で習ったとき、生徒の一人が「宇宙が消滅する」と言ったことを私は憶えている。矛盾したものは論理的に存在できないのだから、もし世界に矛盾しているように見えるものが存在するのなら、その世界は実は存在していない(人の認識する世界像が間違っている)。つまり「宇宙が消滅する」と言った生徒は或る意味正しかったのである。 この世界には時間・空間・変化があるように思われるが、それらは矛盾している。だからこの世界は、実は存在していない。私が信じ、認識している通りの明晰なあり方では。――これが合理的な結論である。 ならば、改めて考えざるを得ない。何もかもが曖昧で明晰なものがない無世界論の世界で、ほんとうに、確実に「ある」と言えるものは何だろう? ・ほんとうに「ある」ものは何だろう? 無世界論という世界観では、私が過去に経験してきた多くのものごとや、現在経験しているものごとが、私が信じている通りに存在すること――明晰性が否定される。しかしそれら経験が全く「ない」とするわけではない。この妖精の囁く不明瞭な世界で、ほんとうに「ある」と言える、存在の確実性が保障されるものは何だろう? 論理法則や数学的真理はあるはずだ。同一律、矛盾律、排中律など論理学の基本法則は消えることがない。そもそも「論理法則が消える」と言うことは意味を成さない。これは無時間的な真理であるからだ。 では論理法則によって、ほんとうに「ある」と言えるものがどこまで探求できるのだろう。論理法則は適用できる対象がなければ意味をなさない。 一つ確実な存在があった。デカルトの「私」である。転んで足に「痛み」を感じたとしよう。その「痛み」も妖精の囁くように、私が信じているようなイメージでは存在しないかもしれない。しかしデカルトが方法的懐疑で論じたように、「懐疑する何か」の存在は懐疑することができない。これは無時間的な真理である。その懐疑する何かを「私」と定義するならば、「私」は存在する。 私の経験は全て消えていく。消えていくものは実体ではない。この世界もまた消えていく。全てが消えていく世界で残ったものは、「私」と論理法則のみである。この二種のものは悪魔や妖精が何と弄言しようと否定できない確実なものである。 では「私」と論理法則ほど確実ではないけれど、蓋然的に「ある」と言えるものは何だろう? クオリアは人が信じているような明晰な存在者ではないにしても、何らかの意味において「ある」ことは確かである。そもそもデカルトの「私」も論理法則もクオリアから抽象されたものである。では、クオリアはどのような意味において「ある」のだろう? 私は転んで足を捻挫し、数日間に渡って激しい痛みに苦しみながら足を引きずっていたことがある。あのときの痛みが全く「ない」もので、痛みの「信念」のみがあったと考えることは難しい。やはりクオリアは何らかの意味において、そして人が具体的にイメージできない何らかの形において「ある」ものに違いない。そして信号機の「青」が消えて「黄」になる場合、「青が消えて黄になる」という「変化」や「順序」を含んだクオリアも何らかの意味においてあるはずだ。このようにして全ての変化の感覚を説明するしかないだろう。 もう一つ蓋然的に「ある」と言えるものは「意味」である。言葉の意味は普遍的に存在しているに違いない。これは円周率のような数学の概念も含んでいる。でなければ数学も論理学も哲学も文学も「学」として成り立たないからだ。「2たす3は5である」と言う場合、「2」や「たす」という意味が普遍的・無時間的に存在していなければ、数学は成立しない。プラトンがイデア論を主張した理由は、「意味」それ自体が実在するとしたら、それは時間変化のパラドックスを回避できると考えたからかもしれない。「言葉」は時間の中にあっても「意味」は無時間的なものである。ヘラクレイトスの言うように、万物は確かに流転しているように感じられる。しかし万物が時間変化によって消滅するのなら、人の知識、特に普遍性の認識がなぜ成立するのかわからない。従ってプラトンは時間変化の外部にあって、人の認識を成立させる実体としてのイデアを想定したと解釈するのが妥当であるように思う。 無時間的なものだけが、時間変化による消滅を免れることができるということである。後の世に普遍論争を巻き起こしたイデア論の是非はともかく、プラトンの発想には何らかの真理があったように思われる。 ところで「クオリア」と「意味」は同じものとして扱うべきか、という問題があり得る。音楽を聴いたときの固有の印象、トロピカルな紺碧の海を見たときの固有の印象などは、意味という概念から大きくかけ離れているように思える。もっとも「意味」という概念自体が漠然としており、言語哲学では意味とは何であるかを巡って多くの議論があることは知られている。 ここでは意味とは何かという問題について詳述することはできないが、第一章でも紹介したジョン・サールの言葉に重要な示唆がある思うので再掲しておく。 もしあなたが二足す二は四に等しいと考える場合、そこに質的な感覚がないと考えるなら、それをフランス語やドイツ語で考えてみよう。たとえ、 2 + 2 = 4 という志向内容が英語の場合とドイツ語の場合とで同じだったとしても、「zwei und zwei sind vier」と考えることは英語で考えるのとはまったくちがう感じがする。(*26) サールによれば、ドイツ語で「zwei und zwei sind vier」と考えることは、英語で考えるのとは全く異なる質感を持ち、かつ意味を持つということである。つまり意味はイデアのように超越的なものでなく、またクオリアと峻別できるものではなく、クオリアの内部性質として存在しているとみなすことができる。意味はクオリアのカテゴリーの一つとして還元可能だということになる。 とりあえずの結論として、ここでは確実に「ある」と言えるものを、コギトと論理法則、蓋然的に「ある」と言えるものを意味を含むクオリアとしておく。 そして全てのクオリアは論理法則の要請によって、人には理解不可能な形で融合し、「一」として存在しているに違いない。これが物自体というべきものになるだろう。 もちろん、その「一」としての物自体とは別の物自体もあるかもしれない。わかりやすく言うならば「私」と対置させられる「他我」である。「私」をミクロコスモスとするならば、マクロコスモスが想定できるということである。しかし仮に他我というものが実在するとしても、それは決してアクセスすることができない別の宇宙であるのだから、深く考究することに意味はないと私は考えている。 クオリアは蓋然的に「ある」と言えるものである。しかし他我の存在は蓋然的にさえ「ある」とは推定できない。せいぜい「あるかもしれない」と言える程度である。 私が「一」と言ったら風が吹いて窓がカタンと一回鳴る。それだけなら偶然だと思うだろう。しかし次に私が「二」と言ったらまた風が吹いて窓が二回鳴る。次に「四」と言ったらまた風が吹いて窓が四回鳴る。そんな「偶然」が千回続いたならば、私は「誰か」が風を起こしていると確信するだろう。ここで重要なのは「偶然」と「必然」の境界などないということである。他人に心があるとする根拠はつまる所、偶然とは思えない現象の秩序であって、それ以上のものはない。 私は他人と話をしたことはあるけれど、他人の心と話をしたことはない。 上のような独我論はカント哲学でも示唆されていたことである。世界が「私の表象」であるならば、その表象に他人の心があるなどと、どうして考えられるだろう。「全ての表象に『我思う』が伴い得る」のは確かだが、「他人という表象に『他人が思う』が伴っている」と考えるのは困難である。 ただし私はカントの言う経験的実在論は尊重しており、他人たちを心ない者として扱ったことはない。私はこれまでに多くの他人たちと接してきた。その他人たちに私の経験ではない別のクオリアが相関していても論理的な不整合があるというわけではない。実際に私は他人たちと会話するときは、常にその別のクオリアが相関している(他我が存在する)可能性を考慮している。「他我」という語の意味の実質とは、その「相関可能性」である他はない。 他人に心があるかも知れないならば、あるものとして他人たちと接するしかない。たとえば風の強い日に道路上を大きな袋が転がっているとしよう。袋は風に吹かれて転がっているのだろうけれど、ひょっとしたら中に子供が入っていて転がしているのかもしれない。だからほとんどの運転手は袋を轢かないように心がけて走るのである。 哲学史上の一難問である「他我問題」を、私は件のように自分のものではない別のクオリアの「相関可能性」として落着させたい。 8 私の死と世界の死 私は無世界論を選択し、前節で次のように結論した。全てが消えていく世界で確実に「ある」と言えるものは、デカルトが見出した「私」と論理法則のみである。そして蓋然的に「ある」と言えるものはクオリアである。そして、それらの融合体として「一」なる物自体を想定した。その「一」なる物自体は永久的に「ある」ということになる。物自体が「ある」ものならば、これまで論じてきたようにそれは「ない」ものに「なる」ことはないからだ。 ところがその結論と直観が相克する。素朴実在論的にはこの私(筆者)の死によって、この私は消滅するように思えるからである。もちろん無世界論的には、この私が消滅しても、前節で論じた通り「私」を含む物自体は消滅しない。しかしこの私の消滅とは、「この世界」が消滅することである。ここで深刻な問題が生じることになる。 この世界が消滅するならば、次にはどんな世界があるのだろう? もちろん無世界論においては、この世界も私がイメージしているような明晰なあり方はしていないし、次の世界と言っても時間は実在しないのだから、存在論的に正確な意味で「次の」というわけではないだろう。しかし何らかの意味においてこの世界は消滅し、何らかの意味において次の世界があることは、物自体内部の性質としてあるはずであり、変化の実在を否定した場合に帰結する論理的な真理であるはずだ。 時速百キロメートルで走る電車が六分後にどの地点にいるか数学的に推測可能なように、私の死も(大雑把であるが)自然科学によって推測可能である。しかし「次の世界」は衝撃的なほどに全く推測できない。推測する材料がないのである。この問題には自然科学は全く役に立たない。ここに自然主義の限界が露呈する。この私の死とともにこの世界が消滅し、この世界の諸現象を統べる科学も死ぬからである。これは反実在論を徹底した場合に必然的に到達する結論である。 そして、ここにおいて第2節で論じた可能世界論が再登場することになる。現象主義の立場からすると、私が空を飛ぶ夢を見たなら、私が空を飛ぶ可能世界は存在したということになる。そして私がモンローと結婚する夢を見たなら、私がモンローと結婚する可能世界は存在したということになる。現象主義では夢の世界を「この現実」とは異なる世界として実現したと認めざるを得ないのだから、他の論理的にありうる可能世界も全て存在可能だと認めるしかない。 この私が消滅した後の次の世界は、論理的に可能な世界ならば、どんなものでもあり得る。なお、死後に「人生」があるなどと安易に想像することはできない。それは人生どころか「生」とすらみなすことができないものかもしれない。つまり私は、自分が死んだら別の人間に「生まれ変わる」などと俗なことを妄想しているのではないし、ウサギに生まれる変わるかもしれないなどと「輪廻」を説いているのでもない。私は幽霊や神や魂の存在は信じない。人が経験する諸々の現象は完全に物理法則に支配されている。物理法則の支配に収まらないのは、物理法則そのものを成立させる世界の原理なのである。 ウィトゲンシュタイン独我論のエッセンスは、「主体=ウィトゲンシュタイン」ではなく、「主体=世界」ということであった(*27)。これは「無主体論」と呼ばれる立場である。ただウィトゲンシュタインは実在論者であったので、暗に表象主義を前提しており、正確には「主体=表象世界」ということになる。しかし現象主義的な無主体論・独我論では表象主義を否定するので、真の意味で「主体=世界」である。したがって世界からこの私という人物が消えても主体としての世界は存在するということになる。 たとえば私が我を忘れて映画に没頭していたとする。この場合「世界」と「主体」は映画と一致する。そして映画の世界に私が登場しなくても映画を見ることができるように、この世界にこの私が登場していなくても、主体は世界を見ることが(論理的に)可能である。ただしその場合は「世界を見る」という表現は正確ではなく、単に視覚的クオリアや聴覚的クオリアがあるのみなのだから、「世界がある」という表現の方が適切だろう。これが現象主義的な独我論である。参考までに大森荘蔵は論文「無脳論の可能性」において、脳がなくても意識経験が論理的に可能であることを示唆している。これは現象一元論者であった大森からすると必然的な結論である。 もちろん実在論者ならば、自分の身体や脳、視神経がないのに物が見えるなどというのはナンセンスだと一蹴するだろう。しかし実在論が破綻していることはこれまでに論じてきた通りである。したがって私の目がなくても主体は物を見ることが論理的には可能であったはずだ。しかし「この世界(主体)」は、世界内に存在する特定の人物を開闢点として存在している。これは全く偶然なのである。あえて言うと「究極の問い」に回収されるべき問題である。世界には何もないのではなく何かがある。そして世界は「このように」ではなく、「別のように」存在することができたはずである。なのに世界は、端的にこのように特定の人物を開闢点として存在している。 永井均は、「〈私〉は永井均でなく他の誰かでもありえた」という言い方で自らの独我論的問題意識(独在論)を表明することがある(*28)。つまり世界の開闢点は永井均という人物なのであるが、別の人物から世界が開闢されていても不思議はないということである。しかし偶然にも「〈私〉=世界」は永井均という人物から開闢されている。その偶然性が永井の問題意識の底にあって、この独在論はウィトゲンシュタインの独我論と根を共有している。 この世界は開闢点としてこの私という人物が存在しているのだが、実はこの私が登場しなくても世界は存在することが論理的に可能である。ならば「次の世界」は固有の開闢点がなくても不思議ではないということである。そのような世界では「私は今何かを感じている」というような内省によって得られた自己意識は存在しないだろう。逆に次の世界は固有の開闢点となる人物がいて、その開闢点としての人物が地獄で百億年間拷問され続けるとしても何ら不思議はないことになる。次の世界は衝撃的なほどにわからない。上に述べたように「科学」さえ死んでしまう。このわからなさこそが、私にとっては死の恐怖の本質である。 「幸せ」のクオリアのみが永久的にある世界は形而上学的に可能であるはずだ。その世界はシンプルで節約の原理に適い、人にとっても理想的であるように思える。しかしこの世界はそうなっていない。この現実が示すのは、節約の原理や人の理想といったものが、所詮は人間固有の価値観に過ぎないということである。世界=物自体はそんな人の価値観など全くおかまいなく、ただあるようにあるだけである。 私の消滅によって、この世界が消滅することは確実である。しかし次の世界がこの世界と同じであることは論理的に可能である。つまり地球や太陽があり、日本やアメリカという国があり、そしてこの文章を書いている私とは異なる別の人物が世界の開闢点であっても不思議ではない。これは或る意味で輪廻転生の可能性を肯定するものである。念のため付言するが、これは実在世界と「魂」を前提した上で、魂が時を越えて同一世界の別の人物に宿るというイメージの輪廻転生とは全く異なるものである。むしろ世界が消滅し、新たな世界が誕生するのだが、その世界は以前の世界と極似している、といったイメージである。「主体=世界」が、開闢点・様相を変えながら存在し続ける「可能性」を肯定しているのである。 次の世界がこの世界と同じである――そんな可能性がどれだけあるかは全くわからない。しかし可能性は否定できない。ここではそれだけを確認できればよい。 ところでその可能性にこそ、この私の実存がある。 私は自らの哲学活動を公にしている。それは「私」のためである。この場合の「私」とは「この私」でなく、「主体=世界」としての「私」である。この私には、自らの哲学を公開することによって他の誰かが救済されるかもしれない、などという思いは露ほどにもない。既に述べた通り「他我」の存在は信じることが難しいものであり、せいぜい「あるかもしれない」というレベルのものである。 私の死によってこの世界は消滅する。しかし次の世界がこの世界と同じである可能性は否定できない。そしてその世界は固有の開闢点としての人物を有しているかもしれない。その開闢点の人物が、「次の私」ということになる。この私は次の私のために、こうして哲学を書き残している。 次の世界がこの世界と同じであり、次の私がこの私が書いた哲学を読む――そんな都合のいいことが果たしてあるのだろうか? 正直、私はそんなことが実現するとは自分でもほとんど信じていない。可能的な世界は真の意味で無限にあるからだ。しかしそのような可能性が論理的に否定できず、可能性が僅かでもあるのならば、私はこうして哲学を続けて、哲学を記録し公開を続けなければならないのである。「私」のために。 ・カラシニコフの哲学 死の受容と克服は哲学と宗教にまたがる人類史上最大級の課題である。私はここで自らの哲学原理に基づいて一つの解決案を提出する。 ロシアの銃器設計者ミハイル・カラシニコフは、AK47(1947年式カラシニコフ突撃銃)を開発した。カラシニコフの銃器設計思想とは、構造が単純で壊れにくく、未熟な兵士でも扱い易く、どんな過酷な環境でも作動する、というものであった。AK47は1948年にソ連の制式自動小銃に採用された。その後ソ連の友好国でもライセンス生産され、第二次中東戦争、第三次中東戦争、ベトナム戦争等で大活躍することとなった。 AK47、AKM、AK74とカラシニコフが設計した AKシリーズの自動小銃は、驚異的な耐久力と信頼性によって戦場の兵士たちに愛用され、自動小銃の世界市場では競合する他の小銃を劇的に圧倒し、現在世界には約一億丁普及していると推定されている。AKは核兵器なみに世界の歴史を変えた。かつてはベトナム戦争や中南米やアフリカで用いられて植民地解放に貢献し、近年では中東やアフリカの民兵が用いて治安悪化の元凶となっている。AKは「小さな大量破壊兵器」とも呼ばれている。 AKにまつわるエピソードで、私の心を捉えた興味深いものがあった。ベトナム戦争やイラク戦争で、一部のアメリカ軍兵士が自国の小銃を捨てて、鹵獲した敵の AKを使っているという話である(*29)。私はそんなアメリカ軍兵士の気持ちがわかるような気がした。ベトナムやイラクの環境は苛酷であり、アメリカ軍の制式小銃である M16は弾詰まりが頻発したという。いざというとき弾が発射されないのは戦場では致命的である。しかし前述のカラシニコフの設計思想によって開発された AKは、M16と比較すると命中精度は劣るものの、泥に漬かっても砂にまみれても確実に作動し続けて、その信頼性は戦場の伝説になっていた。 戦場は命のやり取りをする場である。自分の命を預ける道具はいざというとき確実に作動するものでなければならない。自国製に拘らずに敵国の武器を選んだアメリカ兵の心境は共感できるものであった。 実は哲学でもカラシニコフの設計思想は通用するのではないか。構造が単純で壊れにくく、未熟な兵士でも扱い易く、どんな過酷な環境でも作動する――。 単純な構造の哲学は壊れない。デカルトのコギト命題がそうであった。いくら疑っても、疑う「何か」の存在は否定できない。これは構造が単純すぎて壊しようがない。このような単純な論理は誰にでも理解できて、そしてどんな環境(可能世界)でも通用する。 前述したように私の死と同時にこの世界は消える。そして次の世界は衝撃的なほどにわからない。科学でさえ死んでしまうのである。このわからなさこそが私にとっては死の恐怖の本質である。死とは、底が知れない頻闇の深淵に丸裸で飛び込むようなものである。身を護るものを何も持ち行くことができない。持ち行くことができるのは「知」一つである。 その知とは、カラシニコフが開発した AKのようにどんな環境でも確実に作動する単純堅牢なものでなくてはならない。 もしどんな魑魅魍魎が出没するかわからない未知の世界に、ただ一つの武器を持ち行くことが許されるとしたら、アメリカ軍の兵士でさえ AKを選ぶに違いない。 絶対確実な知識から全ての知識を基礎づけようとする「基礎づけ主義」は今や誰も信じていない。しかし絶対確実な知識から特定の問題についての真理を解明できるというタイプの基礎づけ主義はあり得るだろう。私は前節で疑うことが不可能な絶対確実な存在として、「私」と論理法則を挙げた。その二つは悪魔や妖精が何と弄言しようと否定できない確実なものである。 パルメニデスは「ある」と「ない」を峻別し、「ない」を否定することによって、「無からの生成」と「存在の無への転化」を否定した。それらはデカルトが方法的懐疑の末に到達した「いくら疑っても、疑っている何かが存在する」という真理と並べて、人知を支える三本柱とすべき真理であると私は考えている。 柱1: 無からは何も生じない 柱2: 存在は無になることがない 柱3: 「私」は存在する 「私」が「ある」ものなら、それは論理法則によって「ない」ものに「なる」ことはできない。人知を支える三つの真理だけは、衝撃的なほどにわからない「次の世界」でも通用するものである。この「知」だけが、底が知れない頻闇の深淵に持ち行くことができるものであり、確実に作動するものである。 時間は、経験的実在性を持つ。人の経験するものは全て時間という究極の魔法によって消し去られる。ただ「私」と論理法則のみが確実に生き残る。 宗教とは信じるものであり、信じることをやめれば神も仏も消えてしまう。しかし論理法則は信じるものではなく、疑うことが不可能なものである。論理法則は消えることがない。したがって論理法則を基に構築された哲学のみが信じるに値する。 私は論理学に詳しいわけではない。同一律、矛盾律、排中律といった基本的な論理法則のみを用いて自らの哲学を構築してきた。基本的な論理法則は AKのように構造が単純で壊れることがない。逆にハイテク兵器のような複雑な論理や理論を用いた哲学は、ベトナム戦争で米軍のハイテク兵器が故障を多発させてベトコンに敗れたことに暗示されるように、信頼できないと感じている。したがって私は複雑高等な非古典論理は学ぶつもりもない。AKのように単純堅牢な構造の哲学のみが、命を預けるに値する。カラシニコフの哲学には、哲学者も学ぶべきところがあるはずだ。 中島義道は大森荘蔵の独我論を解説する過程で以下のようなことを述べている。 以上の独我論にまつわる議論は「俗人」の耳には、グロテスクきわまりない机上の空論に響くかもしれませんが、それは「俗人」が日常言語的世界観にどっぷり漬かっていて、それに対して胡散臭さを感じないからです。言いかえれば、――これこそ「大森哲学」の底に流れる通奏低音なのですが――この世界に生み出されてあっという間に死んでいく、という人生の溜息の出るほどの不条理を感じないから、都合よく鈍感だからです。とはいえ、すべての人が哲学などしなくていいのですから、「俗人」は、その俗人的言語をまとったまま安らかに死んでいけばいいのです。(*30) 中島の言う「俗人」とは、ローティやクワインのような「基礎づけ」を批判しているプラグマティストも含まれているように私は思う。プラグマティズムやホーリズムといった哲学的方法がどれだけ社会の役に立っているか私は知らない。しかし社会の役に立つことだけが哲学の目的ではない。自らを救うための哲学も必要なのである。 実存は本質に先立つが、死に臨んで人の実存と本質は一致する。「人生の溜息の出るほどの不条理」に打ちのめされた経験のある者は、たとえ無謀とわかっていても、恥も外聞も忘れて宇宙の真理に挑まざるを得ない。哲学とは人生の不条理との闘いでもある。「俗人」は死に臨んでローティやクワインの本を棺桶に詰め込んで飾っておけばいいだろう。しかし私が死に臨んで持ち行くのは、自国製の小銃を捨てて AKを選んだアメリカ兵と動機を同じくして、単純堅牢な論理に基礎づけられた絶対に壊れない哲学である。 やがて死んでしまう人間にとって、救いとは何だろう? それは希望である。人間にとって最も不幸なのは希望を完全に喪失することである。死の先に「ある」を見出すことができるなら、死は決して絶望の極限ではない。逆に死が絶対的な「ない」への変化と考えるならば、それは希望の完全な消失となる。しかし「ある」が「ない」に「なる」などというのは、素朴な人の臆見である。変化は実在の性質であって、実在そのものが変化するのではない。実在は端的に「ある」ものであり、ゆえに「ない」に「なる」ことはできない。もちろん「次の世界」はわからないし、地獄のような世界であっても不思議はない。しかし不安に暗澹とすることはない。その次の世界もまた「消える」のである。 死の恐怖は「ある」ことによって、実存の苦しみは「消える」ことによって、救いの可能性が認められるのである。 単純堅牢な論理に基づいた哲学のみが、死によってさえ潰えることのない希望を与えることができる。 蛇足になるかもしれないが、命の尊さと死の恐怖は表裏の関係にある点に配慮しておくべきかもしれない。自分の命を尊いと思うのは、その尊いものを失いたくないという思いと同じである。すると死の恐怖を克服するということは、命の尊さを克服するというパラドキシカルな構造を孕まざるを得ない。死の恐怖は完全に克服すべきものではないのだろう。宗教が死後の幸福を約束することによって、死を恐れぬ理想の戦士を作り上げてきた歴史的事実もある。道徳的には、多かれ少なかれ死の恐怖に慄くのがよい。 人は死に恐怖を感じているとき、同時に命の尊さを感じているのだ。 9 夢と現実と真実の狭間で 私は第一章より反実在論を選択し、それを現象主義の立場から徹底して、最終的にエレア派の哲学と同型の無世界論という哲学的極地に到達した。 しかし、正直に今の心境を述懐せざるを得ないのだが、私は自分が構築した形而上学を信じ切ることができない。無世界論はあまりにも反直観的である。いくら哲学で重要なのは直観でなく論理と整合させることだとわかっていても、人間性そのものである直観を焼却することなど不可能なことである。 形而上学的実在論と、時間の実在論は簡単に放棄できるものではない。 形而上学的実在論とそれを前提にした物理主義に強く誘惑されるのは、特に病院に行ったときである。血液検査を受け、コレステロール、血糖、白血球、それに肝機能の指標となる AST、ALT、ALPなどの値を調べてもらうことがある。胃カメラを飲んで、自分の消化器官を自分で見たことがある。MRI(核磁気共鳴画像法)で脳をスキャンしてもらい、その写真を見たこともある。 現代医学は血液中の成分の僅かな変化や、消化器官の形状や色の変化、脳の血管の状態などを見て、病気や病気の因子をピンポイントで突き止めることができる。人体は複雑極まる。その人体の構造を全て理路整然と説明する圧倒的な医学・科学の成果には、反実在論や無世界論などという邪悪かつ荒唐無稽な哲学を折伏させてしまう天使の背光を感じざるを得ないのである。 時間の実在論に誘惑されるのは、数々の想い出があるからである。幼い頃見た大蛇の記憶。今も机上にある七歳のときもらった親友のキーホルダー。友人たちと遊び回った学生時代の狂騒。恋した女性を懸命に誘ってデートに成功したときの胸のときめき。青春時代を彩った懐かしの流行歌たち。今は亡き親族たちと過ごしたかけがえのない団欒のとき。――それらは整然と時間秩序を織り成すことによって私の人生を物語のように「一つのもの」として形づくっている。無世界論の主張は時間を破壊し、経験の明晰性を否定することによって私の人生そのものを霧消させてしまう。だからこそ時間の実在論はそう簡単に放棄できるものはない。時間の実在論に従えば私の想い出たちも、世界にあるものごとも全て上手く説明できるのである。天使の囁く時間論はあまりにも魅力的である。 形而上学的実在論と時間の実在論は対になって人の素朴な世界理解を成り立たせている。 ところで形而上学的実在論を前提に心身問題を考究すると、必然的に物理主義に至ることは留意しておくべきである。実在論とは表象世界と実在世界を分ける一種の二元論であるからだ。実在論を前提にその二元性を解消するならば物的一元論を選択するしかないのである。これは第三章で解説した。物質的実在を認めながら、それに還元できない存在論的な「何か」があると認めるのは、極めて困難なことを明らかにしたのが現代心の哲学の最大の成果である。 物的一元論が正しいと仮定すれば、人の経験は全て合理的に説明できる。人に可能な経験は唯物論に統制されているように思える。カントの「経験的実在論」は「経験的唯物論」と言い換えても差し支えないように思える。時間、空間、量、因果などの形式がなければ人の認識は成立しない。それらは物理学の形式でもある。 カントがア・プリオリな総合判断の探求に腐心したのは、彼が観念論者だったからである。世界は観念に過ぎないのになぜ現象はこんなに秩序正しく生起するのか、という驚きがあったからだろう。その驚きはカントと立場を同じくしないとわからない。しかしカントの方法は成功していない。所詮数学は分析判断に過ぎず、物理学はア・ポステリオリな総合判断に過ぎないのである。カントはヒュームの懐疑を克服してはいない。論理的な問題として物理法則が突如変わる可能性が否定されているわけではないからだ。 電車が秒速 100メートルで走っているなら、2秒後には 200メートル先の地点にいる。これは時間と空間という「形式」によって必然であると思われるのだが、論理的には 3秒後に 500メートル先にいることが可能なのである。論理的可能性と物理的可能性は異なることだからだ。第二章でカントがニュートン力学を観念論の立場から説明し得たと考えたのは、我ながら拙速であった。可能世界論とカントの「ア・プリオリ」は問題性が重なっている。もしカントが現代の可能世界論や規則のパラドックスを知っていたならば、『純粋理性批判』の内容は大きく異なっていたかもしれない。 反実在論――観念論の世界では、物理法則が突然変わることは可能である。また局所的に物理学では説明できない物事が存在していても何ら不思議はない。 にも関わらずこの世界には物理学で説明できないことはただの一つも起きていないように思われる。これは一体どういうことだろう。これまでの章で論じてきたように、論理的に考えると物理主義は完全に間違っているはずなのに、経験的に考えると物理主義は完全に正しいように思われる。世界の事象は全て例外なく物理的に説明可能である。論理的に「例外」が禁じられているわけではないのに、なぜ一つも例外がないのだろう? 滑稽なことであるが、私は時々超能力で空を飛ぼうと試みることがある。身体がふわりと浮くように念じるのだが、現実世界では決して飛ぶことはできない。ただの一回でも飛ぶことができたなら、その時点で物理主義を完全に退けることができるのだが、この世界はそうはなっていないようだ。物質的実在を否定するならば、物理法則とはプログラムのようなものだと考えるしかない。しかしプログラムには必ずバグがあるはずなのだけれど、この世界にはバグらしきものが見当たらない。私は毎日どこかにバグはないかと探している。電車で隣にいる人の頭が、バグで突如カラスになることはあり得るはずなのに、この世界はそうはなっていないようだ。論理的に物理主義は間違っているのだから、いつ「例外」が生じても構わないはずなのに、私は飛ぶことができず、世界にバグはない。なぜ物理主義は経験的に正しいのだろう? もちろん、反実在論では例外が生じることが「可能」であるということは、例外が生じることは「必然」であるということではないのだから、私の有限の経験に例外がなかったからといって、それは反実在論が偽であることの証明にはならない。しかし例外がない限り私は物理主義の強度を克服することが難しい。 例外がないということ――この問題はおそらく、部分と全体の存在論(メレオロジー)の領域に解答があると思われる。興味深いことに、メレオロジーの問題もゼノンのパラドックスから生まれたという(*31)。エレア派のように「一」が根源的な存在であって、他の全てはそれを分割した概念として存在していると考えれば、世界において物理的に説明できない「例外」がないことは当然であるはずだ。――と言っても、このように大雑把な一元論的世界の説明では、物理主義の強度を弱めることは難しい。さらに、物理的に説明できないものがないということは、前節で論じた死後の「可能世界」にも関係してくるようにも思える。死後にどのような世界があるかはわからないとしても、やはりその世界はこの世界と同じ物理法則に統制されているのではないかと思えるのである。もちろん論理的には思考可能なものならば、どのような世界もあり得るはずなのに――。物理主義の強度はこんな問題にも及んでくる。死は論理によって得られた信念と、経験によって得られた信念が衝突する機会となる。 経験世界は物理学に統制されており、世界にある何百何千億の事象のうちただの一つも例外がない。これは奇跡なのか必然なのか、それともウィトゲンシュタインが言うように「完全にどうでもいい(*32)」ことなのか。例外がないのは不思議なことだ、というのは所詮人間的価値観であり、世界はそんな人間固有の価値観など全くおかまいなしに、あるようにあるだけなのだろうか。 困惑を解消するために次のような想像をすることができる。――この世界は夢だった。目が覚めたら私は鳥人間だった。そして人間になっていた悪夢を思い出す。人間の私は空が飛べず、寿命は僅か百年弱で鳥人間の千億分の一程度。現実の世界では一億年に一回物理法則が変わっているのに、夢の世界では僅か数十年間同一の物理法則が持続しただけで、人間の私は物理主義に誘惑されてしまった。人間とは何て視野の狭い卑小な生き物なのだろう――。 「規則正しさ」なんて所詮は人間固有の価値観なのだ。 いずれにせよこの世界が「どのように」あるかについて例外がないということは、世界が「なぜ」あるかの解答ではないし、存在者たちが「なぜ」あるかの解答でもない。そして因果関係が実在するならば、それは矛盾であることは解消されない。物自体は時間、空間、量、因果によって成り立っているのではないのである。 物理主義は現象世界が「どのように」あるかについて完璧に説明できる。この世界は神秘的なほどに規則正しいあり方をしている。――しかし仮に「神秘的なほどに美しいもの」があったとしたなら、それは「神秘的なほどに規則正しいものがある」ということと神秘のレベルは同じなのだ。規則正しさのみを重んじて物理主義が真なる形而上学であることを認めることはできない。それはほんとうの神秘ではない。 真の神秘とは世界が「ある」ということなのだ。規則や様相の概念は人の意識にしか存在しない。世界はただ「ある」だけであり、人はただあるだけのものについて偶然だとか必然だとか、規則正しいとか不規則だとか言っている。 「リンゴの視覚像」のクオリアが一個だけある世界W1は思考可能である。私はそんな世界を大して不思議に思わない。しかし「リンゴの視覚像」に続けて、「目を閉じる→リンゴの視覚像が消える→目を開ける→リンゴの視覚像が現れる」というクオリアがある世界W2も思考可能であるが、私はつい視覚像の規則の原因となるものがあるはずだとW2の世界に「実在」というものを想定しまう。双方の世界は何ら本質的な差異がないのに。 「ジャ」という音のクオリアが一個だけある世界W3は思考可能である。私はそんな世界を大して不思議に思わない。しかしその音に多くの音がつらなってベートーベンの交響曲第五番となり、その曲だけが存在する世界W4も思考可能であるが、私はつい音楽とは誰かが作ったものだとW4の世界に「因果」というものを想定してしまう。双方の世界には何ら本質的な差異がないのに。 流れがあれば淀みがある。多くの人が活発に速く流れているところがあれば少しの人が鬱然と濃く淀んでいるところがある。世界はただそんなあり方をしている。 混沌があれば秩序がある。ものごとが時空上に雑然と転がっているところがあれば、ものごとが整然と幾何学的な秩序をかたちづくって並んでいるところもある。世界はただそんなあり方をしている。 世界はただあるだけなのに、私はこれまでの人生で実在や因果といった余剰物を世界の原因と措定して世界を理解した気になっていたが、それは大きな錯誤であった。複雑なものには単純なものより多くの説明が必要なのかもしれない。しかしその説明は世界が「ある」ことを説明していない。 ――以上のように様々な思索をめぐらしても、まだ私は物理主義の強度を完全に克服することはできていない。 哲学では自分を説得するのは難しい。アウグスティヌスが『告白』で、「神は世界を創造する前に何をしていたのか」という問いに繰り返し反論しているのは、本人も不合理だと感じていたからに違いない。 今一度、反実在論と無世界論の立場から私は自分の説得を試みてみよう。 医学など自然科学の成果を反実在論の立場から整合的に説明することはできる。因果関係は実在しないが、「因果関係に見えるもの」は何らかの意味において存在しているのである。その「因果関係に見えるもの」こそが様相の開闢点としての端的な現実であり、それ以上原因を遡及することが不可能なものである。それは「究極の問い」の対象となるしかないものである。 そして私の想い出たちがどんなに明晰なものであるように思えても、それらは全て「消滅」する。消滅するということは、消滅した対象の明晰性を否定することであった。私のテーブルに歴然として存在するキーホルダーもやがては消滅してその明晰さを失う。たとえキーホルダーを銀行の貸金庫に保管しようとも、反実在論を前提とするならば、私の死によって世界も消滅するのだから、消滅を逸れるものは何もないのである。消滅するものは、元から(私がイメージする通りには)存在しなかったのである。これが無世界論である。 無世界論が示唆する世界は、わけがわからないあり方で存在している。 しかしウィトゲンシュタインが看破したように、世界がどのようにあるかということは、実は全くどうでもいいことなのである。神秘なのは世界が「ある」というそのことなのである。 こんな可能世界をイメージしてみよう。 W_Rome: 映画『ローマの休日』のDVDが一つだけある世界 W_Romeは形而上学的に可能な世界である。「W_Romeの世界があるということ」は端的な神秘としか表現しようがない。 しかしこの世界にいる常識的な人々は、W_Romeの世界などありえないように思うだろう。『ローマの休日』を作るには監督のウィリアム・ワイラー、出演者のオードリー・ヘプバーンやグレゴリー・ペックたちがいなければならない。また映画の撮影機材、そしてDVD再生機、そもそもローマ市や地球や太陽もあるはずだ、と常識的に考えたくなるだろう。 その常識と妥協して、W_Romeの世界にワイラー、ヘプバーン、ペックという人物たち、そして撮影機材やDVD再生機、ローマ市や地球や太陽を付け加えてみよう。ではそれらを付け加えたことで、「W_Romeの世界があるということ」という神秘は解消されただろうか? 解消されるわけはない。 ならばこうしてみよう。ヘプバーンの親、そのまた親、そして人類が進化していく歴史を付け加え、そしてビッグバン以来の宇宙の歴史までも付け加えてみよう。ではそのように夥しい要素を付け加えたことによって、「W_Romeの世界があるということ」という神秘は解消されただろうか? 解消されるわけはない。 逆に夥しい要素が加わったことで神秘の数が増えたと考えることもできる。最初はDVDだけが存在していたのに、ヘプバーンなどの人物たちや撮影機材なども加わったからだ。存在者が増えれば存在者の数だけ神秘も増えるのではないか。――これは因果系列が無限に実在することを認めたとしても同じことである。それでも「なぜ『ローマの休日』のDVDが作られるに至る無限の因果系列が存在するのか」と問うことができるからだ。したがって「究極の問い」は、無限後退やカントのアンチノミーとは本質的に異なる問題である。 W_Romeに因果関係として新たな要素を付け加えるということは、W_Romeの世界が「どのように存在するか」という「あり方」の変更をしただけであって、W_Romeという世界が「なぜ存在するか」という神秘を解消したことにはならない。科学はこの宇宙が存在する「根拠」を解明したわけではない。この宇宙の「存在の様態」「あり方」を解明したにすぎない。宇宙が「存在すること」に根拠はそもそもないのだから、解明することはできない。――ハイデガーの「存在論的差異」がいかに巨大な知的インパクトであったかと、今更ながら痺れるほどの感慨を得ざるを得ない。 W_Romeの世界もこの世界も、「存在すること」の神秘は同じレベルなのである。この世界には映画『ローマの休日』のDVDがある。そのDVDという存在者はヘプバーンなどの人物や映画の撮影機材を「様態」あるいは「属性」として有しているのであって、「原因」として有しているのではない。 したがってこの私の死によってこの世界と科学が死んで、次の「私」は別の科学が統べる別の世界にいると考えても、反実在論の立場からすると何ら不思議ではないのである。 ここに物理主義は葬り去られた。――はずであるにも関わらず、医学・科学の成果の恩恵を受けるたび、そして数々の想い出の時へと魂が惹かれるたび、私は物理主義へと強く誘惑されることになる。 「人間には理解できない未知の原理によって変化は実在します」という天使の囁きが、私には常に聞こえている。それを打ち消すように「未知の原理で1たす2が7になるなんて言うのはナンセンスよ」という妖精の囁きが聞こえる。「独今論を選択してしまえば余計なことを考えずにすむのだ」という悪魔の囁きも消えることがない。 現実性とは単に様相の一概念であるのみではなく、人の認識能力の限界を示すものでもある。人は神のように全ての時点と地点を平等に見渡すことはできない。人にとって現実化している時点と地点は「今ここ」だけである。人はその現実から他の全てを推測するしかないのであった。その現実とは、現前しているクオリアであった。しかし時間の内にあるそのクオリアは必ずしも明晰なものではなかった。「痛み」を感じながら、どんなに「この痛みの明証性は疑い得ない」と信じていても、その信念ごと消滅するのであった。消えていった現実はもはや現実ではなく夢であり、消えない夢はもはや夢ではなく現実である。 しかしその現実は矛盾している。論理的には現実を超えた真実が要請される。論理的な真実は現実を否定するものである。認識能力を制限するものとしての現実性に限界付けられながら、夢と現実と真実の狭間で、天使と悪魔と妖精に囁かれながら私は迷い続けなければならない。それが人の現実である。 にもかかわらず、再び同じ問題を提起し、解答を模索せざるをえない。人の思考の形式では到達できず、語ることは存在に対する裏切りだとわかっていても。無世界論に対する問いと解答は循環せざるを得ない。 私の人生が自分のイメージしている通りににはないのだとしたら、私の経験してきたものごとたち、そして「この経験」「これ」とは、一体何なのだろう。「これ」において一体何が起こっているのだろう。「これ」が私が信じてる通りには「ない」というなら、ほんとうに「ある」ものは、一体何なのだろう。明快な解答があってはいけないのだろうか? 「無限に思える有限なものが永久にある」という第二章で出した結論は変わらない。全ての要素は「一」なる全体の性質としてあるはずだ。しかし、その性質なるものが人には明晰には理解できないのである。ここが夢の世界であり、やがて覚めるとしても、そこもまた別の夢の世界かもしれない。その別の夢から覚めたとしても、やはりそこも夢の世界かもしれない――もしそんな(輪廻転生のような)ことが際限なく続いていくとしたら、「ほんとうの世界」や「ほんとうの自分」など、どこの世界のいつの自分にも定位できないということになる。それら夢体験の「全体」を想定して、その全体こそが「ほんとうにあるもの」なのだと言うことができるようにも思えるが、しかし少なくとも、神の視点から見たような仮想の「全体」なるものを、人の言葉で明快に語れるわけがない。またその全体が「ほんとうの自分」であるわけはない。自分が経験できないものが「ほんとうの自分」であるわけがないからだ。 私はかつてこんな漠然とした思いにかられていたことがある。哲学の探求をひたすら続けて、ついに宇宙の真理を発見したら、その瞬間華麗なるファンファーレとともに天空がぱっかり割れて、神と呼ぶに値する者がひょっこり顔を出し、「ゴールインおめでとう!」と言いながら世界の化けの皮を剥いでいき、真実の世界が明らかにされる――。今やそんな妄想は全く消えている。 人の経験はどれもこれも、子供がストローで吹くシャボン玉のようなものである。ひと息で銀河のように生まれる彩かな泡沫たちの世界。泡沫が映す虹は儚いけれど真実に見放された人には「これ」が全てなのだ。 夢が終わるとき夢の世界が消えるように、私の人生が終わるときこの世界も消えていく。 そう結論した私に、再び妖精が次のように囁く。――「これ」というのは存在しない。「これ」と言った瞬間に消えているでしょう。にもかかわらず、全ては「これ」にあるのよ。 ウィトゲンシュタインが主体は世界の限界だと言った境界線に沿って妖精は魔法の杖でくるりと世界を囲むように輪を描いて、その内にある何百億の銀河の群れや私の見たもの触れたもの聞いたもの得たもの築いたものすべて、さらに医者も科学者も技術者も彼らの理路整然とした説明も何もかもを、時間という究極の魔法で消し去ってしまう。ところが全てを消し去ったはずなのに、その輪の内にはいまだ何かがあり続ける。あるものはないものになることができないからだ。「これ」はある。 妖精は言う。「事態は残酷なほどに単純明快。変化は二つの矛盾があるのだから実在しない。無世界論は次のような論法で〈これ〉について説明できるのよ」 前提1: 変化は不可能であるゆえに、全経験は信念通りの明晰なあり方で存在してはいない 前提2: 「多」は不可能であるゆえに、全経験は融合した「一」の状態で存在している 結論 : 「これ」は実在の全体である 「ここにおいて夢と現実と真実と、現象と物自体は一つのものとして融合する。真理への道はここでお終い」 そう囁いた妖精もまた消えていく。 それでも「これ」はあるので、摩訶不思議に包まれた私は不可能を可能にしようと、可能世界に自らを映す鏡を思い描いて「これ」を語ろうと試みるだろう。世界は原因を持たずただあるだけなのだけれど、そのように自らを探求し尽くそうとするあり方で存在しているのだ。だからこそ哲学の道は真の意味で無限なのである。 参考文献 伊佐敷隆弘『時間様相の形而上学』勁草書房 2010年 入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書 2002年 入不二基義『時間と絶対と相対と』勁草書房 2007年 入不二基義「無についての問い方・語り方」Heidegger-Forum Vol.6 2012年 入不二基義『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』 植村恒一郎『時間の本性』勁草書房 2002年 大森荘蔵『大森荘蔵著作集 第二巻 前期論文集II』岩波書店 1998年 大森荘蔵『物と心』東京大学出版会 1976年 大森荘蔵『流れとよどみ―哲学断章』産業図書 1981年 大森荘蔵『時間と自我』青土社 1992年 大森荘蔵『時間と存在』青土社 1994年 大森荘蔵『時は流れず』青土社 1996年 神山和好「水槽の中の脳型懐疑論を論駁する」科学基礎論研究 Vol.32 No.1 2004年 戸田山和久『知識の哲学』産業図書 2002年 永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年 永井均『〈私〉の存在の比類なさ』勁草書房 1998年 永井均『存在と時間 哲学探究1 』文藝春秋 2016年 永井均 他『〈私〉の哲学を哲学する』講談社 2010年 野矢茂樹『同一性・変化・時間』哲学書房 2002年 中村秀吉『時間のパラドックス』中公新書 1980年 中島義道『「時間」を哲学する』講談社現代新書 1996年 中島義道『時間論』ちくま学芸書房 2002年 中島義道『生き生きとした過去――大森荘蔵の時間論、その批判的解読――』河出書房新社 2014年 松田毅「フッサールのメレオロジーに関する試論」神戸大学文学部紀要, 40 1-31 2013年 松本仁『カラシニコフ Ⅰ Ⅱ』朝日新聞出版社 2008年 三浦要『パルメニデスにおける真理の探究』京都大学学術出版会 2011年 三浦俊彦『可能世界の哲学』NHKブックス 1997年 三浦俊彦 「意識の超難問」の論理分析」『科学哲学 35-2』2002年 八木沢敬『神から可能世界へ 分析哲学入門・上級編』講談社選書メチエ 2014年 山川偉也『古代ギリシャの思想』講談社学術文庫 1993年 渡辺恒夫『人はなぜ夢を見るのか』化学同人 2010年 神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史1』講談社 2011年 鈴木生郎・秋葉剛史・谷川卓・倉田剛 著『ワードマップ 現代形而上学』新曜社 2014年 アリストテレス『アリストテレス全集4─天体論・生成消滅論』岩波書店 1968年 ポール・デイヴィス『時間について』林一 訳 早川書房 1997年 マイケル・ダメット『真理という謎』藤田晋吾 訳 勁草書房 1986年 ブライアン・グリーン『宇宙を織りなすもの 上』青木薫 訳 草思社 2009年 モーリス・メルロ=ポンティ著 クロード・ルフォール編 中島盛夫 監訳『見えるものと見えざるもの』法政大学出版局 1994年 セオドア・サイダー『四次元主義の哲学―持続と時間の存在論』中山康雄 他 訳 春秋社 2007年 アール・コニー、セオドア・サイダー『形而上学レッスン』小山虎 訳 春秋社 2009年 『別冊日経サイエンス 時間とは何か?』 日本経済新聞出版社 2011年 参考サイト 夢日記・思索幻想日記(渡辺恒夫のブログ) http //fantastiquelabo.cocolog-nifty.com/blog/ 無からは何も生じない http //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%82%E7%94%9F%E3%81%98%E3%81%AA%E3%81%84
https://w.atwiki.jp/gensouutage_net/pages/12344.html
FFO Replay Version 2.1 冥加//諦観//古明地 さとり-古明地 さとり-古明地 さとり-古明地 こいし- CJ//「お姉ちゃんの足手まとい・・・」(お姉ちゃん一緒にがんばろう!)//古明地 こいし-古明地 こいし-古明地 さとり-古明地 さとり- 賽が投げられて、CJの先攻になりました。 CJの呪力は今1 (+1)です。 #配置:《想起「テリブルスーヴニール」》 オートドローがスキップされました。 Turn 2 - 冥加//体力20( 20) 呪力1( 1) 手札6( 5) 山34( 34) スペル0( 1) タイマー00 00(00 11) シーン なし 手札:六眼//パターン避け//想起//想起「テリブルスーヴニール」//想起「百万鬼夜行」//想起「飛行虫ネスト」// 冥加はカードを 1 枚引きました。 #配置:《想起「テリブルスーヴニール」》 Turn 3 - CJ//体力20( 20) 呪力3( 1) 手札6( 6) 山33( 33) スペル1( 1) タイマー00 12(01 02) シーン なし #配置:《復燃「恋の埋火」》 オートドローがスキップされました。 Turn 4 - 冥加//体力20( 20) 呪力3( 3) 手札6( 5) 山33( 33) スペル1( 2) タイマー00 59(00 22) シーン なし 手札:六眼//パターン避け//想起//想起「百万鬼夜行」//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼// 冥加はカードを 1 枚引きました。 #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 Turn 5 - CJ//体力20( 20) 呪力6( 3) 手札6( 6) 山32( 32) スペル2( 2) タイマー00 22(01 11) シーン なし #配置:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 オートドローがスキップされました。 Turn 6 - 冥加//体力20( 20) 呪力6( 6) 手札6( 5) 山32( 32) スペル2( 3) タイマー01 06(01 19) シーン なし 手札:六眼//パターン避け//想起//想起「百万鬼夜行」//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼// 冥加はカードを 1 枚引きました。 イベント(冥加):《想起》 冥加はカードを 1 枚引きました。 - 想起 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 ☆戦闘:冥加 - 《復燃「恋の埋火」》(相手スルー) ★戦闘結果:冥加 - === 4 dmg - CJ 冥加は《復燃「恋の埋火」》をCJの場に準備状態で置きました。 #配置:《想起「百万鬼夜行」》 Turn 7 - CJ//体力16( 20) 呪力10( 2) 手札6( 6) 山31( 30) スペル3( 3) タイマー01 24(01 55) シーン なし ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 #配置:《表象「夢枕にご先祖総立ち」》 オートドローがスキップされました。 Turn 8 - 冥加//体力20( 16) 呪力6( 6) 手札6( 5) 山30( 31) スペル3( 4) タイマー01 44(01 40) シーン なし 手札:六眼//パターン避け//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼//想起「テリブルスーヴニール」//想起// 冥加はカードを 1 枚引きました。 #配置:《想起「テリブルスーヴニール」》 ↑起動:《想起「テリブルスーヴニール」》 Turn 9 - CJ//体力16( 20) 呪力10( 5) 手札6( 6) 山30( 29) スペル4( 4) タイマー01 36(02 43) シーン なし ☆戦闘:CJ - 《復燃「恋の埋火」》 vs 《想起「テリブルスーヴニール」》 - 冥加 ★戦闘結果:CJ - 【回避】 4 dmg - 冥加 #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 CJは《無我》をCJの《復燃「恋の埋火」》に配置しました。 オートドローがスキップされました。 Turn 10 - 冥加//体力16( 16) 呪力10( 5) 手札6( 4) 山29( 30) スペル4( 5) タイマー02 31(02 21) シーン なし 手札:六眼//パターン避け//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼//想起//パターン避け// 冥加はカードを 1 枚引きました。 イベント(冥加):《想起》 冥加はカードを 1 枚引きました。 - 想起 ↑起動:《想起「飛行虫ネスト」》 ☆戦闘:冥加 - 《想起「飛行虫ネスト」》(相手スルー) ★戦闘結果:冥加 - === 4 dmg - CJ 冥加は《想起「飛行虫ネスト」》をCJの場に準備状態で置きました。 #配置:《心花「カメラシャイローズ」》 ↑起動:《心花「カメラシャイローズ」》 Turn 11 - CJ//体力12( 16) 呪力10( 4) 手札5( 6) 山29( 27) スペル5( 5) タイマー02 17(03 30) シーン なし ☆戦闘:CJ - 《復燃「恋の埋火」》 vs 《心花「カメラシャイローズ」》 - 冥加 イベント(CJ):《パターン避け》 イベント(冥加):《パターン避け》 CJ ああいや イベント(CJ):《スーパーエゴ》 ★戦闘結果:CJ - 【回避】 5 dmg - 冥加 #配置:《想起「鳥居つむじ風」》 オートドローがスキップされました。 Turn 12 - 冥加//体力11( 12) 呪力7( 5) 手札5( 2) 山27( 29) スペル5( 6) タイマー03 28(03 00) シーン なし 手札:六眼//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼//パターン避け//地霊殿// 冥加はカードを 1 枚引きました。 ↑起動:《心花「カメラシャイローズ」》 #配置:《想起「百万鬼夜行」》 Turn 13 - CJ//体力12( 11) 呪力11( 5) 手札3( 5) 山28( 26) スペル6( 6) タイマー02 44(04 58) シーン なし ☆戦闘:CJ - 《復燃「恋の埋火」》 vs 《心花「カメラシャイローズ」》 - 冥加 ★戦闘結果:CJ - dmg 2 4 dmg - 冥加 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 ↑起動:《想起「テリブルスーヴニール」》 #配置:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 オートドローがスキップされました。 Turn 14 - 冥加//体力7( 10) 呪力12( 6) 手札5( 2) 山26( 28) スペル6( 7) タイマー04 27(04 21) シーン なし 手札:六眼//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼//パターン避け//地霊殿// 冥加はカードを 1 枚引きました。 #配置:《想起「うろおぼえの金閣寺」》 冥加は《第三の眼》を手札から冥加のリーダーに配置しました。 ↑起動:《心花「カメラシャイローズ」》 Turn 15 - CJ//体力10( 7) 呪力12( 7) 手札3( 4) 山27( 25) スペル7( 7) タイマー04 01(05 19) シーン なし ↑起動:《想起「鳥居つむじ風」》 オートドローがスキップされました。 Turn 16 - 冥加//体力7( 10) 呪力14( 8) 手札4( 3) 山25( 27) スペル7( 7) タイマー04 42(04 57) シーン なし 手札:六眼//想起「飛行虫ネスト」//パターン避け//地霊殿// 冥加はカードを 1 枚引きました。 ↑起動:《想起「百万鬼夜行」》 冥加は《想起「百万鬼夜行」》を準備状態にしました。 冥加の呪力は今14 (+5)です。 #配置:《想起「鳥居つむじ風」》 ↑起動:《想起「鳥居つむじ風」》 砂井裏鍵が観戦を始めました。 Turn 17 - CJ//体力10( 7) 呪力13( 10) 手札4( 4) 山26( 24) スペル7( 8) タイマー04 36(06 46) シーン なし ☆戦闘:CJ - 《想起「鳥居つむじ風」》 vs 《想起「鳥居つむじ風」》 - 冥加 冥加は《第三の眼》の2番目の特殊能力を使いました。 冥加は第三の眼の『自分命中UP』を選択しました。 冥加は《六眼》を手札から捨て札に置きました。 イベント(CJ):《パターン避け》 ★戦闘結果:CJ - 【回避】 【回避】 - 冥加 手札からカードを 1 枚捨てて下さい。 - 想起「鳥居つむじ風」 冥加の呪力は今6 (+3)です。 冥加は《想起「うろおぼえの金閣寺」》をCJの場に準備状態で置きました。 - 地獄のラブリービジター CJは《地獄のラブリービジター》を冥加の《想起「うろおぼえの金閣寺」》に配置しました。 冥加 tito 冥加 待ってくれw CJ ? 冥加 二回押したかも知れないのに・・・ 冥加 多分これで大丈夫だな・・・ 冥加は《想起「飛行虫ネスト」》を手札から捨て札に置きました。 冥加 続きどうぞ CJは《想起「飛行虫ネスト」》を場から捨て札に置きました。 #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 オートドローがスキップされました。 Turn 18 - 冥加//体力7( 10) 呪力12( 3) 手札2( 1) 山24( 26) スペル7( 8) タイマー06 26(07 18) シーン なし 手札:パターン避け//地霊殿// 冥加はカードを 1 枚引きました。 ↑起動:《想起「百万鬼夜行」》 Turn 19 - CJ//体力10( 7) 呪力9( 7) 手札2( 3) 山25( 23) スペル8( 7) タイマー06 58(08 47) シーン なし ↑起動:《想起「うろおぼえの金閣寺」》 オートドローがスキップされました。 Turn 20 - 冥加//体力7( 10) 呪力12( 4) 手札3( 2) 山23( 25) スペル7( 8) タイマー07 58(07 46) シーン なし 手札:パターン避け//地霊殿//霊撃// 冥加はカードを 1 枚引きました。 ☆戦闘:冥加 - 《想起「百万鬼夜行」》 vs 《復燃「恋の埋火」》 - CJ ★戦闘結果:冥加 - dmg 0 4 dmg - CJ ↑起動:《想起「百万鬼夜行」》 Turn 21 - CJ//体力6( 7) 呪力10( 7) 手札3( 4) 山24( 22) スペル8( 7) タイマー07 41(09 16) シーン なし ☆戦闘:CJ - 《想起「うろおぼえの金閣寺」》 vs 《心花「カメラシャイローズ」》 - 冥加 ★戦闘結果:CJ - dmg 1 3 dmg - 冥加 ↑起動:《想起「うろおぼえの金閣寺」》 #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 オートドローがスキップされました。 Turn 22 - 冥加//体力4( 5) 呪力13( 1) 手札4( 2) 山22( 24) スペル7( 9) タイマー08 50(09 00) シーン なし 手札:パターン避け//地霊殿//霊撃//パターン避け// 冥加はカードを 1 枚引きました。 ☆戦闘:冥加 - 《想起「百万鬼夜行」》 vs 《想起「テリブルスーヴニール」》 - CJ イベント(冥加):《霊撃》 ★戦闘結果:冥加 - dmg 0 5 dmg - CJ 冥加の体力が-1 (3) - 想起「テリブルスーヴニール」 冥加 ありでした。 CJ ありでした CJ チームプレイ引かないー CJ ノシ 冥加 六眼も来なかったな・・・ 冥加 ノシ 切断されました。
https://w.atwiki.jp/subaruya/pages/39.html
プレゼミレポ③要約へ ○魔女狩り 魔女≒太古から存在し、人びとの日常的要求に応えてきた呪術使いや病気癒しの女性 14c 魔女がキリスト教会から、誤てる教義や儀式やヒエラルキーをもったセクトとされる 魔女を他のものから見分ける指標・基準ができる →セクトとして魔女が追及されはじめる 教皇が魔女の邪説のドグマ的性格を確認、異端審問官に魔女追及の許可 14c末、悪魔教としての魔女の存在が自明視されるように →病気癒しの女=悪魔と結託した「魔女」 魔女=呪いやその肉体自体で人間に害をなす存在 悪魔学者に考えられたもっとも簡単な魔女の見分け方は「涙(改悛した者が罪を洗い流す)の欠如」 魔女は十字架を踏みにじり、自らの血で悪魔と契約書を交わす 魔女にしたてあげられた女性……大半が農村の貧しい女性、アウトサイダー 住民たちの要求に答えて善業を行ってきた人びと 都市エリート(司法官・教会改革者)によってあるべき秩序をおびやかす存在と思われた 「不穏分子」である魔女たちの排除のため、住民を駆りたてての駆りだし ←もてる民衆ともたざる民衆を対立させる図式 書物と説教による善悪の戦いを信じ、普及させる裁判官・法律家 ⇒中世を暗黒の時代として断罪した16c以降のルネサンス・宗教改革期にこそ魔女狩りが大展開した カトリックと新教の角逐魔女狩りが激しかった地域 古い異教的伝統ののこる山岳地帯や森林地帯 いくつかの文化が合流する辺境 カトリックとプロテスタントの角逐の場 魔女狩りの流行は両宗派に責任がある プロテスタントの布教家が新たに魔女狩りの風習をもちこんだ例 カトリックによるプロテスタントの再征服の過程で行われた大規模な魔女狩り ⇒両宗派の攻防、布教活動とむすびついていた魔女狩り 17c最初の四半世紀、1640s、1660sに魔女狩りが過熱 17c末、ヨーロッパからほぼ魔女狩りが消滅 ボルドーで一年に四百人 実際どのくらいの魔女が生まれたのか-多く見積もる見解とそうでない見解が存在 フランス:ボルドー、ロレーヌ、ナミュール伯領、ストラスブール→裁判官 ドイツ:トリエル、ヴュルツブルク、アイヒシュタット=バイエルン →カトリック再征服にともなう聖職者らによる魔女大迫害 cf.フランスのアルザス・ロレーヌ・フランシュ=コンテなどでも大迫害 ヨーロッパ随一の「魔女狩り」国ドイツでは1500-1749のあいだに三万人以上が火刑に 男の魔女(魔男)は1~2割 ○魔女集会「サバト」 魔女のセクト 「魔女」誕生の指標としての「魔女集会」、サバトの存在 一定の集合場所の成立が、本来の「魔女」と魔女狩りの誕生に符号 サバトについて……サバトに赴くのは日が暮れてから 箒に乗って空を飛んだり、自ら動物に変身して →民俗学的要素の影響である「夜間飛行」と変身 ⇒非常に古くから農村社会に存在するシャーマニスティックな豊饒儀礼 ←こういった民俗的イメージ+判事・異端審問官・悪魔学者らの妄想=サバトの誕生 キリスト教会を有機体のイメージでとらえる思想から、悪魔を頭とする魔女たちのセクトの存在を妄想 西アルプス地方で最初に民俗的要素とエリートの妄想が合体(1350頃) ←異端のワルドー派残党の存在、民俗的伝承と異端説の混淆 説教師の活躍 司法官や悪魔学者とともに説教師が風紀の粛正を説いて回り、サバトのイメージを普及 ex)シエナのベルナルディーノ 1409ドーフィネ地方とレマン湖近辺地方の記録 1450以降サバトが発展し定着 1486『魔女の槌』の出版により、サバト参加の有無が魔女審問の最重要要件に 悪魔の儀式 空を飛んでサバトに集い、悪魔の前で忠誠を誓う 化け物や動物の姿をした悪魔(しばしば、むかしから悪徳の権化である山羊の姿)から新たな洗礼を授かる 酒池肉林の騒ぎ、子供の肉が好んで食べられる人肉喰いの饗宴 社会不安の犠牲者 魔女セクトの発想= br同時期の他のアウトサイダーのグループ(娼婦、ユダヤ人、同性愛者、ライ病者、貧者ら)の隔離と迫害に呼応 →悪行をなして社会の安寧をおびやかすと考えられていた 14c半ば~後半 ペストなどの疫病が社会不安を増幅 妄想の産物であるサバトの位置を地理的に確定 ○魔女裁判と拷問 「目利き」の権威 「魔女」はいかにして特定され、どのような審理に付され、断罪・処刑されるのか 敬意と怖れを感じさせる病気癒しの女性 気がふれたり、貧窮したりして共同体からはじき出された者 共同体内部の危機=中世的な共同体内部の危機的亀裂・崩壊にさいして噂が沸き起こる ←貧富の差の増大、階層間対立の激化 「目利き」による魔女の指弾(15~17cフランス) 教会関係者ではないがその信用は絶大←下級裁判所がさかんに利用⇔高等法院は懐疑的 15c末 魔女裁判の管轄は教会裁判所→世俗裁判所へ 魔女狩りの熱心さ=上級裁判所<下級裁判所 cf.ドイツにおける魔女狩りの激しさ 淫乱な魔女 魔女としての罪過の確証の種類とその入手法……「悪魔学」が教授 実践においては裁判と拷問 裁判においてあげつらわれた魔女の悪魔的淫乱 ex)媚薬・沈黙薬を隠し持っていないか毛剃りをして調査 公然たるサディズム 悪魔が残した印を発見するため、裸体に針をつきたててゆく作業 権力をかさにきて公然とサディズムに耽る司法官たち ⇒中近世の魔女、ひいては女性の問題に深く関わってくる 水責め、火炙り、爪剥ぎ…… 拷問が行われる理由 尋問では自供が引き出せない場合 共犯者を見つけるため←集団でおこなわれるキリスト教社会にたいする「陰謀」の発見 拷問の手順 ①拷問器具や拷問を受けている人を見せる ②「水責め」「足炙り」「爪剥ぎ」「足責め」「肢体牽引」「ストラッパード」などの拷問 全面鏡張りの部屋で行い、見物人のサディズムに奉仕 拷問の制限や禁止もすぐに有名無実化 裁判官は被告の苦痛にまったく無頓着であった シナリオ通りの運命 悪魔学者による拷問の推奨―肉体に刻印された真実の叩き出しという発想 しぼり出された自供の反復性は、永遠の猿まねの世界=魔界の真実とみなされた ⇔裁判にかかわったものが皆拷問の効力を信じていたわけではない 自白がえられた時点で魔女として火刑台にのぼるというシナリオ 遺骸を灰にして消しとばす=悪の力を消滅させる意図 生焼けの遺骸をさらしておく=悪の力の恐ろしさに対する注意を喚起させる意図 ○悪魔学の深層 魔女をつくった悪魔学 15c末~17c後 魔女とみなす「基準」を定めた悪魔学者たちが輩出 ex)アンリ・ボゲ、インスティトリスとシュプレンガー、ピエール・ド・ランクルら ヤコブ・シュプレンガー、ハインリヒ・インスティトリス『魔女の槌』(1486年) 初期の代表的な悪魔学作品であり、裁判官の参照する基本文献 ←古代からの「権威」を援用したもので目新しいものはない 著者は魔女追及のための法的措置について教皇の認可を要請、異端審問を正当化 ⇒局地的であった魔女狩りの普遍化 女性は悪魔の手下 魔女は教会の霊的統一、信徒たちの共同体の市民的・政治的統一をおびやかすものと考えられた 女性への脅迫的な恐怖……なによりも女性が第一の悪魔の手下 女性は本性上男性より劣り、秩序形成作用を破壊する脅威であり否定的で不法の存在 「女性蔑視」の言説の連続……性についての書物としての『魔女の槌』 ⇒女性の性や内密な秘密についてすべて知りたいという男性の秘められた願望 女性は秩序を乱す 法学者、経済学者、人文主義者ジャン・ボダン『魔術師の悪魔憑き妄想(1580)』 裁判官アンリ・ボゲ『魔術師の忌まわしき業についての論(1602)』 裁判官ピエール・ド・ランクル『悪しき天使と悪霊の悪行の一覧(1612)』 魔女の働きは直接的に社会秩序を侵害するものと考えられた ex)共同体の価値を転覆、国家=王権の価値を侵害 絶対主義への貢献 魔女たちの告白の同一性←裁判における審問が厳密にコントロールされていたことを示す 悪魔学者がつくりあげたステレオタイプを復唱 ←活版印刷術の誕生による悪魔学書物のベストセラー化 ⇒魔女裁判の増殖、農村世界の呪術的思考を「悪魔化」 悪魔学は絶対主義確立に貢献……権力による異端の根絶、きびしい司法=刑事機構の成立を幇助 ⇒政治的文脈に位置づけられる悪魔学著作 ex)教皇権を擁護する『魔女の槌』、絶対王政、公共秩序、辺境(境界)擁護 ←農村社会の変容……人口増加、貨幣経済の進展、階層分化→農村共同体の解体と危機意識 ⇒アウトサイダーの女たちを危機乗り越えのために利用+司法機構・境界が利用+エリートの強迫観念 「女性恐怖」の無意識 悪魔学者は自然と超自然の境界を定めようとした ←悪魔の力とそのの作用について知りたいという欲求が高まった時代 魔女の行う超自然的現象を医学的に説明しようという傾向の強まり 17cとくに医学的ディスクールの台頭……原因:超自然⇒魂・身体の混乱 しかし、混乱をもたらす根源は悪魔であるとされたまま ←開明的思潮、合理主義、人文主義につきまとう、逆立した無意識の存在……「女性恐怖」が鍵 ○魔女はなぜ生まれたか 16,17cの魔女裁判の隆盛⇔「ルネサンス」「宗教改革」「科学革命」 近代の黎明を告げる大事件と、信じがたい兇行 教皇をはじめとするカトリック聖職者、プロテスタント改革者、学者らエリートによる魔女の仕立て上げ⇒なぜ? 比較的説得的な説明……社会的不寛容のひとつのあらわれ 強大な社会変動期、深甚な知的変容によるイデオロギー間抗争の犠牲となったのが魔女である ←異教的迷信の存在は事実、しかし、権力側は魔女と妖術の現実性を否認しようとしてきた 中世末にいたって態度を一八〇度回転⇒悪魔学による「体系化」が大規模な魔女狩りを正当化 教会は、悪の力をみずから生み出し、その存在の保証人兼粛清者となることによって権力基盤を固めようとした 変動する社会のスケープゴート 夥しい魔女の創出←当局側の考えの転回にとどまらず、それ相応の社会的理由があったはず 宗教戦争と宗教対立 中世的な安定した霊的秩序・神と人間の関係の崩壊、エリートたちの不安 ⇒悪魔とその王国の力を誇大に妄想 都市と農村の乖離……都市エリートによる裁判制度・理論の農村への持ち込み 粗野な習俗の洗練と善悪の峻別を強要 ⇒敵対する宗教の地に布教家を送り、それまで現地を誤謬に染めてきた張本人をアウトサイダーのなかに見出した 魔女迫害……カトリックが開始→プロテスタントが受け継いで増幅 ex)ルター、カルヴァン 農村のてんでばらばらな迷信→悪の原理の統括する体系的神話学に 農村内部の危機意識……人口増加、経済変容、階層分化 助け合いの精神の後退、危機の責任を負わせるスケープゴートの必要性 ⇒共同体意識が健全にひろまっていたときに人びとの慈善の対象ともなっていた貧しい女性たち=「魔女」に 都市エリートの強迫的な魔女の表象→農民に不安と苦悩+社会的危機に宗教的な説明・解決法をもたらした 社会的危機の原因を悪魔とその手下である魔女に帰した 危機解決方法……呪術、リンチ・私闘⇒裁判へ 16,17c、新たなタイプの農村エリートの誕生……富裕で読み書きができ、農村共同体の指導者的立場 キリスト教についての知識を有し、魔女と妖術の恐ろしさに敏感に反応 ←しかし、なぜとりわけ女性が迫害の対象となったのかについて十分理解させてくれない ⇒魔女が女性であったことの深い理由をさぐらなければ魔女迫害の理由も明かせない 正反対の女性像=聖女の姿とつきあわせて検証
https://w.atwiki.jp/comic8/pages/1164.html
屍鬼をお気に入りに追加 情報1課 <屍鬼> #bf 外部リンク課 <屍鬼> ウィキペディア(Wikipedia) - 屍鬼 Amazon.co.jp ウィジェット 保存課 <屍鬼> 使い方 サイト名 URL 情報2課 <屍鬼> #blogsearch2 成分解析課 <屍鬼> 屍鬼の43%は毒物で出来ています。屍鬼の33%は世の無常さで出来ています。屍鬼の21%は怨念で出来ています。屍鬼の3%は勇気で出来ています。 報道課 <屍鬼> 『真・女神転生』歴代“心をえぐられたトラウマシーン”といえば? 第1位は家族に起きた惨劇…【アンケ結果発表】 - インサイド 声優の太田淑子さん死去 『ジャングル大帝』レオ 『リボンの騎士』サファイア役など - 中日新聞 声優・杉本沙織さん死去 享年58 『忍たま乱太郎』2代目・喜三太役など - ORICON NEWS 鮎川太陽、谷佳樹、沖野晃司らの出演が決定 舞台『滄海天記・序篇~ 天月、闇に墜つ ~』メインビジュアル解禁 全キャストと配役が決定 - http //spice.eplus.jp/ ノイタミナ作品の女性キャラクターコスプレ特集! 『ギルティクラウン』、『PSYCHO-PASS』、『クズの本懐』、『冴えない彼女の育てかた』などの美しい写真をピックアップ - アニメイトタイムズ PS4/Switch用「屍喰らいの冒険メシ」プロモーションムービーが公開 - GAME Watch 『屍人荘の殺人』より格段上の緊張感が待ち受ける…! “謎解き”ファンを満足させる多種多彩なアイディア - 文春オンライン 入れば二度と出られない…!?『屍人荘の殺人』シリーズ最新作は奇妙な屋敷が舞台 - ダ・ヴィンチニュース 「範馬刃牙」に小野賢章、玄田哲章ら出演決定 OP主題歌のミュージッククリップに格闘家・朝倉海が登場 - アニメハック <営繕かるかや怪異譚>「青の祓魔師」作者が小野不由美のホラー小説をマンガ化 「ジャンプSQ.」に小畑健の新連載も(MANTANWEB) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 「屍役所~公務員を襲う怪異~」公務員が体験した怪奇現象を描く実話怪談集 - コミックナタリー 【キャラ誕生日まとめ】8月20~27日生まれのキャラは? 「SAO」シノンから「天気の子」天野陽菜まで - 超! アニメディア シリーズ累計100万部突破! 『屍人荘の殺人』シリーズ最新作、今村昌弘『兇人邸の殺人』が大反響につき発売即重版決定! - PR TIMES 声優・内山昂輝さん、『ハイキュー!!』『ホリミヤ』『僕のヒーローアカデミア』『Free!』『呪術廻戦』など代表作に選ばれたのは? − アニメキャラクター代表作まとめ(2021 年版) - アニメイトタイムズ <少年ジャンプ+>人気作がお盆テーマの番外編 「SPY×FAMILY」「怪獣8号」「ダンダダン」も(MANTANWEB) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース メディコス・エンタテインメントにて製作中の『怪物事変』紺のフィギュア デコマス写真が公開!8月5日(木)より予約開始! - 電撃ホビーウェブ ファンプレックス、『NARUTO -ナルト- 忍コレクション 疾風乱舞』で3月7日10時(ミナトの日)記念CP開催! ガチャにミナト&クシナ登場! | gamebiz - SocialGameInfo 「ウマ娘」シブヤノオト出演者決定! 「うまぴょい伝説」をTVで初パフォーマンス - アニメ!アニメ!Anime Anime 「天官賜福」謝憐(CV神谷浩史)が屍の林の先で見つけたものとは…第2話先行カット - アニメ!アニメ!Anime Anime 「D2メガテン」,3.5周年プレ感謝祭が7月8日より開催。7月13日には公式生放送も - 4Gamer.net 加藤和恵が小野不由美のホラー小説をマンガ化、SQ.10月号でスタート - コミックナタリー 「SIREN」屍人デザイナーがプロ野球選手“大谷翔平の体型”に驚愕!「CGでこれが上がってきたらNGを出す。やりすぎです」 - アニメ!アニメ!Anime Anime 一人暮らしなら絶対見ちゃダメ!? ホラー映画『残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―』を無料配信中 - トレンドニュース アニメ・お父さんキャラの名シーン3選 子供想いな姿に涙腺崩壊…(マグミクス) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 声優の長嶋はるかが33歳で死去、「屍鬼」 田中かおり役など演じる - コミックナタリー 話題のタイドラマ『2gether』よりタインとサラワットがねんどろいどでフィギュア化!サラワットにはタインと一緒に使える“片耳イヤホン”パーツも付属! - 電撃ホビーウェブ 『怪物事変』屍鬼〈クーラー〉と人間の半妖の子・夏羽がねんどろいどで登場!付属の命結石、ピザ、狸時の隠神さんなどで色々なシチュエーションが楽しめる! - 電撃ホビーウェブ 仲間由紀恵:テレ東サスペンスドラマ初主演 法医学研究室“女王”に バディー役の“ワンコ”にSixTONES松村北斗 - MANTANWEB(まんたんウェブ) シリーズ最恐! 巨大な洋館でひとり、またひとりと人が消える。大人気ホラー『ゴースト・ハント5 鮮血の迷宮』小野不由美【文庫巻末解説】 - カドブン 『怪物事変』初のスケールフィギュアに日下夏羽が登場! - アニメージュプラス 「怪物事変」から、日下夏羽が初スケールフィギュア化! - アキバ総研 シリーズ累計発行部数420万部突破の大人気コミックスをアニメ化 TVアニメ「怪物事変」Blu-ray&DVD第1巻を3月26日に発売 - PR TIMES 暁の屍狩:コミックス第1巻に「進撃の巨人」作者がコメント 「カッコいいです!」 - MANTANWEB(まんたんウェブ) 「俺屍」シリーズ開発のアルファ・システム、メテオライズと資本提携で子会社に - GAME Watch 注目アニメ紹介:「怪物事変」 半妖の少年の運命は… 「ジャンプSQ.」の人気マンガ原作 - MANTANWEB(まんたんウェブ) 「五等分の花嫁」「ワートリ」「約ネバ」「チェンソーマン」…年末年始はマンガ一気読み!【お家時間にオススメ20選】 - 超! アニメディア 祝!屍鬼さん活動2周年!! 記念のサプライズ企画が3連発! - Vtuber post 【屍鬼】声優情報と作品概要・あらすじ紹介 - AppMedia(アップメディア) アニメ「怪物事変」2021年1月10日放送スタート!OP主題歌は小野大輔 - シネマトゥデイ 妖怪サスペンス「怪物事変」21年1月放送決定 メインキャラの声入りPV第1弾公開 - アニメハック 小野不由美のホラーの原点! 洋館で頻発する怪奇現象に個性的な仲間と共に挑む『ゴーストハント2 人形の檻』 - カドブン スマホゲーム「モンスターカンパニー」、8/1よりVTuber「柚子花」「屍鬼」とコラボ - PANORA この大盤振る舞いはまさにお祭り!「D×2 真・女神転生リベレーション」2.5周年を記念した超大型イベントをプレイ! - GAME Watch 『D×2』2.5周年“超・感謝祭”まとめ。最大無料100連や“屍鬼 アリス”が登場する召喚など盛りだくさん! - 電撃オンライン 「D×2 真・女神転生リベレーション」2.5周年で絶対召還札5枚など怒濤のプレゼント攻勢! - GAME Watch 『D2メガテン』屍鬼 アリス・魔王 ベリアル・堕天使 ネビロスの詳細なスキルやステータスをチェック! | スマホゲーム情報ならファミ通App - ファミ通App 『D×2』に屍鬼“アリス”登場! 次期アップデートで主人公が悪魔と一緒に戦えるように!? - 電撃オンライン ロードモバイル、優勝賞金100万円をかけたVtuber同士のバトル!「Vtuber ローモバ杯」が開幕! - PR TIMES アニメ「怪物事変」夏羽役は藤原夏海、花江夏樹・諏訪部順一・村瀬歩も出演 - コミックナタリー 【屍鬼のFANBOX出張版 vol.1】Vtuberへのコラボの誘い方 - Vtuber post 一柳廣孝「怪異の表象空間」書評 闇を愛する文学者が近現代の怪異を解き明かす|好書好日 - https //www.holyjadgement.com/ ノイタミナ15年間の全作品から選ぶ「思い出の3作品」投票の結果発表 - PHILE WEB - PHILE WEB 藍本松「怪物事変」TVアニメ化!屍鬼と人の間に生まれた少年の数奇な運命描く - マイナビニュース 有名Vtuber屍鬼さんが 「Vポス公式アンバサダー」に就任!! - Vtuber post 5年ぶりのシリーズ続編! 小野不由美『営繕かるかや怪異譚』の世界 - ダ・ヴィンチニュース キョンシー?ゾンビ?郊外の村を訪れた刑事が化け物に襲われるピッコマ新連載 - コミックナタリー 「D2メガテン」1周年記念イベント開始 - GAME Watch グロ注意!?『 屍鬼 』はちっぴり刺激的なアニメを見たい方に薦める本格ホラーアニメ。 - あにぶ いなだ詩穂×小野不由美、大ヒットミステリーホラーシリーズ!『悪夢の棲む家 ゴーストハント』最終第3巻 2016年10月7日(金)発売!! - PR TIMES 小説からでもアニメからでも、何度見ても取り込まれるホラーアニメ「 屍鬼 」 - あにぶ ゾクっとする!おすすめサスペンス漫画 - music.jpニュース 映画「残穢【ざんえ】」トレーラー公開 原作は「十二国記」「屍鬼」の小野不由美の小説 - アニメ!アニメ!Anime Anime 屍鬼:死の連鎖描いた人気ホラーマンガが完結 ジャンプスクエア - まんたんウェブ 藤崎竜、アニメ「屍鬼」DVD限定版に描き下ろしイラスト - コミックナタリー ノイタミナ『屍鬼』新OPは新ユニットkanon×kanon - BARKS マンガ質問状:「屍鬼」原作者も「楽しんでます」 原作最終巻突入で怒涛の展開 - まんたんウェブ アニメ質問状:「屍鬼」 発見の刺激を大事に ひと味違うホラーを目指す - まんたんウェブ 藤崎竜「屍鬼」原画展開催。7月にはビジュアル本発売 - ナタリー BUCK-TICK、アニメ『屍鬼』に新曲「くちづけ」を書き下ろし - BARKS TVアニメ「屍鬼」 桐敷正志郎役・GACKTさん記者会見! - エキサイト ニュース アニメ「屍鬼」続報でキャスト&スタッフ発表。制作は童夢 - コミックナタリー 情報3課 <屍鬼> #technorati マンガとは マンガの33%は厳しさで出来ています。マンガの30%はカルシウムで出来ています。マンガの25%は元気玉で出来ています。マンガの9%は毒物で出来ています。マンガの1%は月の光で出来ています。マンガの1%は毒電波で出来ています。マンガの1%は魂の炎で出来ています。 28589.jpg?_ex=300x300 s=2 r=1 ヨスガノソラ 春日野 穹 -すくみず 楽天売れ筋ランキング レディースファッション・靴 メンズファッション・靴 バッグ・小物・ブランド雑貨 インナー・下着・ナイトウエア ジュエリー・腕時計 食品 スイーツ 水・ソフトドリンク ビール・洋酒 日本酒・焼酎 パソコン・周辺機器 家電・AV・カメラ インテリア・寝具・収納 キッチン・日用品雑貨・文具 ダイエット・健康 医薬品・コンタクト・介護 美容・コスメ・香水 スポーツ・アウトドア 花・ガーデン・DIY おもちゃ・ホビー・ゲーム CD・DVD・楽器 車用品・バイク用品 ペット・ペットグッズ キッズ・ベビー・マタニティ 本・雑誌・コミック ゴルフ総合 ページ先頭へ 屍鬼 このサイトについて 当サイトは漫画のタイトル毎にインターネット上の情報を時系列に網羅したリンク集のようなものです。ページをブックマークしておけば、ほぼ毎日その漫画のタイトルに関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/90.html
トップページ>韓国>歴史と現実 『歴史と現実』60、2006.6 時論 鄭秉峻「韓日独島領有権論争とアメリカの役割」 企画:麟蹄郡を通じて見た解放以後北韓社会 韓モニカ「[総論]江原道麟蹄郡を通じて見た解放以後北韓社会」 김재웅「解放後北韓の地方統治体系:1946-49年江原道麟蹄郡を中心に」 韓モニカ「1947-49年麟蹄郡開畓事業に現れた党・政の役割と人民労力動員」 김태우「1948-49年北韓農村の宣伝扇動事業:江原道麟蹄郡の事例」 論文 権悳永「歴史と歴史小説、そして史劇:張宝高と「海神」を中心に」 한정수「高麗時代開京の祀典整備と祭祀空間」 장지연「高麗後期開京宮闕建設と運用方式」 김순자「高麗、元の領土政策、人口政策研究」 鄭然泰「朝鮮後期~解放以前資産家型地方有力者と射契:浦口商業都市江景徳游亭稧の事例」 박정심「申箕善の『儒学経緯』を通じて見た東道西器論の思想的特徴Ⅰ」 張暎淑「東道西器論の政治的役割と変化」 崔善雄「1910年代在日留学生団体新亜同盟党の反日運動と近代的構想」 書評 고영진「韓国政治思想史に対する新しい接近:延世大学校国学研究院 編『한국 중세의 정치사상과 周禮』혜안、2005年」 『歴史と現実』59、2006.3 時論 韓相権「史学と私立学校法」 特集:古文書を通じて見た15世紀国家と社会 金仁杰「[総論]古文書を利用した「15世紀社会像」の追求」 朴宰佑「15世紀人事文書の様式変化と性格」 金景淑「15世紀呈訴手続と観察使の役割」 柳承喜「15世紀賤妾子女の財産相続と社会的地位」 박경「15世紀立後法の運用と継後立案」 論文 정학수「高麗開京の範囲と空間構造」 정요근「高麗中・後期「臨津渡路」の浮上とその様相」 朴京安「高麗人の多様な禁忌と疾病に対する態度」 이호룡「日帝強占期国内アナーキストの共産主義に対する批判的活動」 資料紹介 許英蘭「日本宮内省書陵部と韓国古図書」 書評 李貞薫「高麗の国勢運営と国王権に対する新しい問題提起:朴宰佑『고려 국정운영의 체계와 왕권』신구문화사、2005年」 張暎淑「民衆的観点から新しく照明した甲申政変:朴銀淑『甲申政変研究』歴史批評社、2005年」 『歴史と現実』58、2005.12 時論 지수걸「過去は荷物であり力だ」 企画:韓米知識人の相互認識 林大植「[総論]「親米=反北」の冷戦的認識を超えて」 韓哲昊「開化期官僚知識人のアメリカ認識:駐米公使館員を中心に」 김현숙「大韓帝国期アメリカ官僚知識人の韓国認識:宮内府顧問官サンズ(W. F. Sands)を中心に」 金相泰「日帝下改新教知識人のアメリカ認識:申興雨と積極信仰団を中心に」 高珽休「植民地時代アメリカ知識人の韓国問題認識:太平洋問題研究会(IPR)を中心に」 김점숙「解放以後アメリカ知識人の韓国認識:Far Eastern Quarterly, Far Eastern Survey, Pacific Affairsを中心に」 論文 김대식「高麗初期使行記録の検討:『海外使程広記』を中心に」 최이돈「朝鮮初期雑職の形成とその変化」 張炳仁「朝鮮中期婚姻制の実状:半親迎の実態とその受容与否を中心に」 최윤호「大韓帝国期光武量案の土地所有と農業経営に関する研究:忠北鎮川郡量案全体分析を中心に」 李栄昊「国号英文表記「Corea」から「Korea」への転換と意味」 研究動向 김기덕「伝統歴史学の応用的側面の新しい流れと課題:「人文情報学」「映像歴史学」「文化コンテンツ」関連成果を中心に」 『歴史と現実』57、2005.9 時論 정창현「6・15南北共同宣言5周年と南北関係の展望」 企画:植民地時代朝鮮の朝鮮の自画像 임경석「[総論]我々はなぜ『開闢」を読むのか」 김정인「『開闢』を生んだ現実、『開闢』に込められた希望」 차혜영「1920年代知の再編と他者表象の相関関係:『開闢』海外関連記事を中心に」 임경석「雲養金允植の死に対するふたつの視角」 김현주「論争の政治と「民族改造論」の執筆」 論文 김지영「7世紀高句麗対倭関係の変化:630年を起点に」 全徳在「新羅王京の空間構成とその変遷に関する研究」 한정수「古代社会の「農時」理解」 강문석「鉄原還都以前の弓裔政権研究」 裵祐晟「李重煥の青年期の暮らしと思想:詩社活動を中心に」 書評 裵亢燮「東学農民戦争を前後した19世紀後半民衆運動の流れ:李栄昊『동학과 농민전쟁』혜안、2004年」 『歴史と現実』56、2005.6 時論 辛珠柏「東北アジアにおける歴史教科書協力が持つ意味と進路」 特集:禅師碑文を通じて見た羅末麗初の仏教 이재범「[総論]羅末麗初禅師碑文研究現況」 金福順「9-10世紀新羅留学僧の中国留学と活動範囲」 金英美「羅末麗初禅師の系譜認識」 南東信「羅末麗初国王と仏教の関係」 論文 尹善泰「月城垓子出土新羅文書木簡」 金昌錫「統一新羅の天下観と対日認識」 박종진「高麗時期界首官の機能と位相」 정미성「1920年代後半~1930年代前半期朝鮮総督府の面財政整備過程とその意見」 김재웅「北韓建国思想総動員運動の展開と性格」 洪錫律「1960年代韓米関係と朴正煕軍事政権」 研究動向 홍성주「民族主義に関する脱近代的接近の含意と限界」 書評 廉定燮「朝鮮時代両班と農業経営についての豊かな見方と多彩な解釈:김건태『조선기대 양반가의 농업경영』歴史批評社、2004年」 張圭植「韓国都市史研究の新しい指標:고석규『근대도시 목포의 역사·공간·문화』ソウル大学校出版部、2004年」 『歴史と現実』55、2005.3 時論 洪錫律「文書公開波動の中での韓日問題と過去清算を考え」 企画:韓中歴史認識の接点: 余昊奎「[総論]韓中歴史認識の接点:高句麗史をどう見るかを企画して」 余昊奎「「広開土王碑」に現れた高句麗の対中認識と対外政策」 윤용구「古代中国の東夷観と高句麗:東夷校尉を中心に」 辛珠柏「韓国近現代史における高句麗と渤海に関する認識:歴史教科書を中心に」 박장배「現代中国学界の高句麗史研究事業の登場背景」 論文 문동석「5-6世紀百済の支配勢力研究」 김두향「高麗顕宗代政治と吏系官僚」 장동표「壬辰倭乱前後密陽在地士族の動向」 이현진「宋時烈(1607-1689)の廟制論について:朱子廟制論の影響と関連して」 宋亮燮「19世紀幼学層の増加様相:『丹城県戸籍台帳』を中心に」 김수자「1948-1953年李承晩の権力強化と国民会活用」 書評 金基興「比較史学的方法論により編まれた三国と統一新羅の流通史:金昌錫『삼국과 통일신라의 유통체계 연구』一潮閣、2004年」 기광서「北韓史研究の指標拡大のための挑戦と応戦:金光雲『북한정치사연구Ⅰ:건당・건국・건군의 역사』선인、2003年」 『歴史と現実』54、2004.12 時論 鄭容郁「国宝法廃止と北韓人権法制定の時代精神」 戦争期民間人虐殺と国家の責任 企画緒言「民間人虐殺初期研究において提起された諸問題」 朴賛勝「東学農民戦争期日本軍・朝鮮軍の東学徒虐殺」 노영기「韓国戦争期民間人虐殺に関する資料実態と研究現況」 鄭秉峻「韓国戦争初期国民保導連盟員予備検束・虐殺事件の背景と構造」 李信澈「6・25南北戦争時期以北地域における民間人虐殺」 論文 羅喜羅「古代の喪葬礼と生死観」 金基興「百済のアイデンティティに関する一研究」 南武煕「圓測の著述活動と訳経参与」 李鎮漢「高麗時代本品行頭」 韓相権「安重根のハルピン挙事と公判闘争(Ⅰ):検察官との論争を中心に」 임경석「植民地時代反日テロ運動と社会主義」 書評 余昊奎「緻密な論理で高句麗政治史の難題をソフトに溶かした力書:임기환『高句麗政治史研究』한나래、2004年」 金度勲「李承晩政治基盤形成研究の踏み台:高珽休『이승만과 한국독립운동』延世大学校出版部、2004年」 反論 徐栄姫「韓国近代史研究の長い図式と偏見:『歴史と現実』53号都冕会教授の書評に対する反論」 『歴史と現実』53、2004.9 時論 안병우「東アジアの平和と歴史教育」 特集:英祖後半期蕩平政治の変化と政治勢力の動向 이경구「[総論]蕩平政治の変化と政治勢力の動向」 이경구「1740年(英祖16)以後英祖の政治運営」 최성환「英祖代後半の蕩平政局と老論清論の分化」 원재린「英祖代後半少論・南人系動向と蕩平論の推移」 論文 金昌錫「高麗前期「虚市」の成立とその性格」 金昌賢「高麗毅宗の移御とそれに含意された観念」 申炳周「南冥学派と花潭学派の学風継承に関する研究」 廉馥圭「1910年代日帝の笞刑制度施行と運用」 이호룡「柳子明のアナーキスト活動」 최병택「戦時体制下日帝の物資受給及び統制政策:京城の薪炭受給統制を中心に」 書評 서의식「新しい韓国古代史理解体系の摸索と課題:全徳在『한국고대사회의 왕경인과 지방민』태학사、2002年」 崔潤晤「朝鮮後期政治経済史研究の理論と方法:이세영『朝鮮後期政治経済史』혜안、2001年」 都冕会「韓国近代史研究の轡:侵略と抵抗の二分法:徐栄姫『大韓帝国政治史研究』ソウル大学校出版部、2003年」 송병권「米軍政期研究の中間決算と新しい出発:鄭容郁『해방 전후 미국의 대한정책:과도정부 구상과 중간파 정책을 중심으로』ソウル大学校出版部、2003年」 『歴史と現実』52、2004.6 時論 安秉旭「韓国社会の変化と2004年総選」 企画:社会、教育環境の変化と大学韓国史教育の進路 朱鎮五「韓国史専攻教育の危機と改革方案」 오종록「大学韓国史教養教育の実態と改革方案」 김한종「大学韓国史教育と世界史教育の疏通と連携方案」 손세호「アメリカ大学の自国史教育の歴史と現実」 論文 趙景徹「百済砂宅智積碑に現れた仏教信仰」 이순근「禄邑収取の内容について:前期禄邑を中心に」 洪順敏「朝鮮王朝内侍府の構成と内侍数の変遷」 呉恒寧「朝鮮後期国史体系の変動に関する試論:実録から日省録へ」 研究動向 全虎兌「外国学界の高句麗古墳壁画研究動向(1997-2993)」 書評 潘炳律「韓国社会主義運動の起源に関する新しい世代の学問的決算:임경석『한국사회주의의 기원』歴史批評社、2003年;李賢周『한국사회주의세력의 형성』一潮閣、2003年」 『歴史と現実』51、2004.3 時論 鄭泰憲「21世紀の韓半島と東北アジア平和をどう主体的に作っていくのか」 企画:韓国史上戦争記憶と記憶戦争 盧永九「功臣選定と戦争評価を通じた壬辰倭乱記憶の形成」 朴孟洙「19世紀末東アジア戦争に対する日本人の「歪曲された」記憶:東学農民戦争と清日戦争を中心に」 卞恩真「第二次大戦期の世代別戦争認識比較」 鄭容郁「6・25戦争期アメリカ軍のビラ心理戦と冷戦イデオロギー」 論文 李鍾書「「伝統的」継母観の形成過程とその意見」 趙成山「17世紀後半~18世紀初金昌協・金昌翕の学風と現実観」 김건태「18世紀初婚と再婚の社会史:丹城戸籍を中心に」 朴銀淑「甲申政変参加層の開化思想と政変認識」 정진아「6・25戦争期「白財政」の成立と展開」 資料紹介 朴宗基「研究の空白地帯、海外韓人の帰還問題」 1-20 21-40 41-50 51-60 61-70 71-80 81-90 91-100
https://w.atwiki.jp/wiki14_tokihirosato/pages/21.html
ふじもとりょう 2010年4月から学生ではなくなりますが、今後ともよろしくお願いします。 2004年 入学 2008年 学部卒業(佐藤時啓研究室) 2010年 修士課程修了(伊藤俊治研究室) 作品紹介など ◎http //www.ryofujimoto.net/ ◎http //mp1.jp/ !おしらせ! 以下の展覧会に出品します。昨年の横浜の新・港村のものとは別の新作を出品する予定です。MP1の書籍も出ます。ぜひチェックしてみて下さい。 MP1 Expanded Retina | 拡張される網膜 会場:G/P Gallery http //gptokyo.jp/ 東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 2F 会期:2012年1月21日(土)〜2月5日(日)(月休) 開館時間:12 00〜20 00 ◎1月21日(土)18 00 – MP1によるアーティストトーク モデレーター:佐々木新 氏(HITSPAPER) 定員30名様 要予約(03-5422-9331) イベント後オープニングレセプションを開催いたします。 MP1 アーティストブック『Expanded Retina | 拡張される網膜』 発売日:2012 年1 月21 日(土) 内容: MP1 作家による作品掲載 対談 「最高速度と最高密度」エグチマサル × 飯沢耕太郎(写真評論家) 「集合的記憶としての写真」藤本涼 × 後藤繁雄(編集者、クリエイティブ・ディレクター) 「ノイズとしての感覚イメージ」横田大輔 × 粟田大輔(美術批評) 「不可視的な領域への接近」吉田和生 × 天野太郎(横浜美術館主席学芸員) 星野太(表象文化論)による「媒介の擁護」 トークショー@ヨコハマトリエンナーレ新・港村 MP1 × 伊藤俊治(美術史家、美術評論家) エディトリアルディレクション:星野太 エディター:番場文章(BAMBA BOOKS) 翻訳:下谷悦子 高久聡明 針生雅子 青木シモーヌ 星野太 デザイン:宇平剛史 発行:BAMBA BOOKS http //bamba-books.com/ 価格・版型:1,575 円(税込) A4/64 ページ ISBN:978-4-9906259-0-0 限定500 部 協力:G/P gallery 村山圭 近作より torso 2009 インクジェットプリント live on air(bones) 2008 ダイレクトプリント live on air(blackgirl) 2008 タイプCプリント landfall(hill) 2007 タイプCプリント landfall(tree) 2007 タイプCプリント woods.jpg 2005 ラムダプリント 終了した展覧会(2010年) ■G/P FRONT LINE SHOW #4 藤本涼『eating haze and visualize/かすみをたべて幻視する』 会場:スパイラルガーデン/1F 東京都港区南青山5-6-23 会期:2011年7月5日(火)〜7月11日(月) 開館時間:11 00-20 00 お問い合わせ先:G/P gallery(03-5422-9331) 今年1月のshiseido art eggからの新作はありませんが、そして会期は一週間と短いですが、お時間ありましたら、また、お近くに来られた際にはお立寄り頂ければと思います。 ■第5回shiseido art egg 藤本涼展 会場:資生堂ギャラリー 東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル地下1階 会期:2011年1月7日(金)〜1月30日(日) 平日 11 00 - 19 00 日・祝 11 00 - 18 00 毎週月曜休 1月10日は祝日ですが休館です 入場無料 web http //www.shiseido.co.jp/gallery/ tel 03 3572 3901 fax 03 3572 3951 協力:株式会社カシマ 写真弘社 ※初日にオープニングレセプションを予定しています。 shiseido art eggに入選しました。 新作を含めたlive on airシリーズ、live on airシリーズから少し発展させた、新しく発表する作品も出品する予定です。ぜひご高覧ください。 ■G/P FRONT LINE SHOW Ⅱ:藤本涼『live on air』 会場:スパイラルガーデン/1F 東京都港区南青山5-6-23 会期:2010年8月24日(火)〜8月30日(月) 開館時間:11 00-20 00 お問い合わせ先:G/P gallery(03-5422-9331) 今年4月のG/P galleryでの個展からの新作はありませんが(修了制作で出して個展に出さなかったものも展示する予定です)、そして会期は一週間と短いですが、お時間ありましたら、また、お近くに来られた際にはお立寄り頂ければと思います。 ■藤本涼 個展 live on air 会場:G/P Gallery 東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 2F 会期:2010年3月26日(金)〜4月25日(日)月曜休廊 開館時間:12 00-20 00 ギャラリートーク 日時:2010年4月25日(日)18 00〜20 00 (トーク終了後は、ささやかなクロージングパーティーを行います) 会場:G/P gallery (NADiff A/P/A/R/T 2F) ※入場無料・要予約(観覧をご希望の方は、電話かEmailにてG/P galleryまでお問い合わせ下さい。 スピーカー:藤本涼、藪前知子(東京都現代美術館学芸員) モデレイター:後藤繁雄 主催:G/P gallery ※ご予約・お問い合わせはG/P galleryまで。 Tel. 03-5422-9331 Email. info@gptokyo.jp ■full course フルコース 食と現代美術 part6 会期:2010年3月19日(金)-3月31日(水) 時間:11時30分-14時 17時-20時30分 Opening Party:3月19日19 30-(要予約) 会場:BankART Studio NYKからスタートして他6施設を巡る ルート:BankART Pub→BankART Front →本町実験ギャラリー→ぴおシティ(飲食はなし)→野毛地区飲食街(鯨横丁)→BankARTかもめ荘→初黄・日ノ出地区(一般住宅)→BankART桜荘 フルコースチケット:1500円(お一人様) 原則2名から 予約制 50名限定/日 食と現代美術を往来する展覧会の第6弾。今回のテーマは、街を巡る「フルコース」です。通常のレストランのように、ボーイさんが食事をサーブしてくれるのではなく、観客が作家のつくったレストラン(空間)の各メニュー(7種類程度)を飲食しながら、街を巡っていきます。コースはBankART Studio NYKからBankART桜荘までの約1時間30分。近隣の鯨横丁(野毛飲食街)と連動したり、一般の住宅で食事をいただくプログラム等も展開します。 皆様のご来店をお待ちしております。 参加作家 祐源紘史、小林真依、白井美穂、松田直樹、開発好明、木村崇人、池田光宏、いかれ帽子屋と三月うさぎ、三宅航太郎、上野大介、藤本 涼 ご予約・お問い合わせ:BankART1929 〒231-0002 横浜市中区海岸通3-9 TEL 045-663-2812 FAX 045-663-2813 foodart@bankart1929.com ご予約はお一人様より承りますが、原則2名様以上での出発になります。 メールにてご来場日・氏名・ご連絡先を明記の上お申し込みください。(お電話でのご予約も受け付けています) 終了した展覧会(2009年) ■NEW DIRECTION展 #1 exp. 会場:トーキョーワンダーサイト本郷 東京都文京区本郷2-4-16 Tel 03-5689-5331 会期:2009年9月5日(土)〜月27日(日)月曜休館 開館時間:11 00-19 00(入館は閉館30分前まで) 休館日:9/7(月)、14(月)、24(木) 出品作家:三井美幸/村田宗一郎/宮永亮/小宮太郎/藤本涼/しょうじまさる/山下耕平 オープニング・レセプション:9月5日(土)17:00〜 シンポジウム プログラムA 9月5日17 30- 粟田大輔+池田剛介+千葉雅也+後藤繁雄+木幡和枝+アーティスト プログラムB 9月20日16 00- 浅田彰(京都造形芸術大学・大学院長)+名和晃平(京都造形芸術大学大学院・准教授)+後藤繁雄+木幡和枝 wip展に出した写真3点、新作写真3点、映像1点を出品する予定です。よろしくお願いします。 ■noname ノーネーム 【横浜展】 会場:横浜創造界隈 ZAIM 別館4階 神奈川県横浜市中区日本大通34 Tel 045-222-7030 会期:2009年3月12日(水)-3月16日(月)会期中無休 開館時間:10 00-19 00(最終日は18 00まで) 出品作家:厚地 朋子/伊東 宣明/小田原 のどか/加藤 翼/菊川 亜騎/友清 ちさと/野沢 裕/藤本 涼/芳木 麻里絵(五十音順) 【京都展】 会場:旧立誠小学校 全館 京都市中京区蛸薬師通河原町東入備前島町310-2 Tel 075-212-6391 会期:2009年4月26日(日)-5月5日(火)会期中無休 開館時間:12 00-19 00(最終日は18 00まで) 出品作家:厚地 朋子/伊東 宣明/小田原 のどか/加藤 翼/菊川 亜騎/友清 ちさと/野沢 裕/藤本 涼/八嶋 有司/芳木 麻里絵(五十音順) 終了した展覧会(2008年) ■「夢と覚醒」展 会場:本町実験ギャラリー(場所) 横浜市中区本町5-49丸忠センタービルB1F 日時:2008年8月30日(土)~9月7日(日) 11:30 -19:00 *会期中無休、最終日のみ17:00まで ※8月30日(土)17:00~ オープニングパーティ 出品作家:藤井信子・藤本涼 ■THE EXPOSED #03 会場:G/P gallery 東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 2F 会期:2008年8月8日(金)~9月3日(水) 開館時間:12 00-20 00(8/13〜17 夏期休業) 出品作家:鵜飼悠+永戸鉄也+殿村任香+藤本涼+辺口芳典&小山泰介+うつゆみこ+塩田正幸 ■CAAF2008/24+6 会場:クレアーレ青山 アートフォーラム 港区南青山2-27-18 Aoyama M's Tower「パサージュ青山」2F 会期:2008年7月15日(火)~8月3日(日) 開館時間:11 00-20 00(会期中無休) ■Correspondence/Landscape '08 会場:ギャラリー工房親 会期:2008年6月4日(水)~21日(土)(日・月は休廊) 開館時間:12 00-19 00(最終日18:00まで) ■THE EXPOSED of the art vol.3 PHOTOGRAPHS [PhotoDazE] 会場:海岸通ギャラリー・CASO 大阪市港区海岸通2-7-23 会期:2008年5月13日(火)〜5月25日(日) 開館時間:11 00-19 00 (会期中無休 最終日は17:00) 詳細 ■ART AWARD TOKYO 会場:行幸地下ギャラリー 東京都千代田区丸の内2-4-1(行幸通り地下) 会期:2008年4月4日(金)~5月6日(火・祝) 開館時間:11 00-20 00 | 入場無料 URL:ART AWARD TOKYO NeXeyo(現在活動していません) ◎http //www.nexeyo.net ◎http //www.myspace.com/nexeyo
https://w.atwiki.jp/saikyoumousou5/pages/213.html
【妄想属性】未だ見ぬ明日に 【作品名】世界が終わる夜 【名前】彼ら、或いは我々 【属性】又は彼女ら、若しくは全て 【共通設定】 「全体」について: 最強妄想キャラクター議論スレには「あらゆる全て」という概念が存在する。 これは「全て」という概念では内包できない例外や埒外をも含むこれ以上ない真の意味での完全な「全て」という意味である。 そのため「あらゆる全て」には例外や埒外は一切存在しないとされている。 しかし、実際には「あらゆる全て」という概念においても内包することのできない例外や埒外は存在する。 それは、「いかなる記述や表現においても表せない」とされている概念である。 例えば、強さにおいて「あらゆる全てより強い」という記述や表現は、「あらゆる全て」の中で最も強いという意味である。 いわゆる「書いてある系」についても勝利するために必要な強さや能力を「あらゆる全て」の範囲から選択し、勝利している。 即ち、記述や表現で表せる強さや能力は例外なく「あらゆる全て」の範囲内である。 これはどれだけ質を高く量を多くしても同じである。 一方、「いかなる記述や表現においても表せない」という強さや能力は記述や表現で表せる程度の強さや能力よりも絶対的に優れている。 これは、「いかなる記述や表現においても表せない」という強さや能力が「あらゆる全て」という概念を超越したからである。 「いかなる記述や表現においても表せない」と「あらゆる全て」の間には考察すら必要ない程の大きな隔たりがある。 「あらゆる全て」も所詮は記述や表現止まりである為「いかなる記述や表現においても表せない」という強さや能力を内包することは不可能である。 「全体」とは、「あらゆる全て」に加え「いかなる記述や表現においても表せない」とされる全概念をも内包する真の意味での完全な概念である。 その中には対戦相手や考察人、最強妄想キャラクター議論スレに参戦していないキャラクター全ても含まれる。 【説明】 彼ら、或いは我々とは、「全体」そのものである。(以下、彼ら、或いは我々を彼らと呼称する) 彼らは最強妄想キャラクター議論スレで勝利し、最上位となる為に「全体」の強さを最大限に発揮する。 「全体」に内包される個は「一部」と称される 彼らが勝利するには「全体」の中の「一部」が勝利するだけでよい。 「一部」の勝利は「全体」の勝利と完全に同一だからである。 逆に、「一部」が敗北したとしても、それは「全体」の敗北ではない。即ち、彼らの敗北にはならない。 彼らを敗北させるには、「全体」を敗北させる必要がある。 即ち、「あらゆる全て」、「いかなる記述や表現においても表せない」全概念、考察人、対戦相手自身、非参戦キャラクター全て を一つ残らず敗北させ尽くさなければならない。 彼らは「全体」の中の「一部」を「非全体」として切り離すことが可能である。 例えば、自身を敗北させる能力は勝利の妨げになる為「非全体」として切り離されるし既にされている。 「非全体」となった存在は「全体」どころか「あらゆる全て」にすら完全に劣る存在となり、勝利を得ることは絶対的に不可能になる。 これはどれだけ上位の「いかなる記述や表現においても表せない」強さや能力を持っていても同じである。 また、自ら「全体」から逃れたとしても、それは「非全体」となるだけである。 【備考】 ここまでテンプレ上で彼らの強さについて説明してきたが、彼らにとってはこのテンプレすら不要である。 上述した全ての強さや設定は本来「いかなる記述や表現においても表せない」ものを考察人に理解してもらえるよう無理矢理記述したものである。 その為このテンプレ上での彼らは本来の彼らの強さよりも大幅に劣っている。 【説明】欄に 彼らは最強妄想キャラクター議論スレで勝利し、最上位となる為に「全体」の強さを最大限に発揮する。 とあるように最強妄想キャラクター議論スレにおいて彼らはこのテンプレにすら記述できない本来の強さで参戦する。 それでは考察ができないと思うかもしれないが彼らにとっては考察という行為すら不要である。 何故なら彼らは考察すら不要なほど強大で膨大な力を持っているからである。 よって、このテンプレや考察は彼らにとっては変更または崩壊されようとも問題ない。 それらがなくとも、彼らあ何よりも優れ、勝利し続けていることは何よりも明白で確実であるからである。 【長所】「全体」 【短所】このテンプレの存在意義 総当たり対戦記録 + ... 対戦相手 結果 備考 I m Alright! × 特記無し 妄位の波動に目覚めし者 × 「全体」よりも妄位者単独の方がより自明に最強妄想キャラクターだろう。 未確認反社会人妻 × うーむ。「全体」に妄想できないほど強い要素は含まれていないか。 サイキョー × 「全体」にはなんにも強制力がない。記述からして非参戦キャラクターを負けさせて勝ち星を稼ぐこともしないだろう。 妄を極めし者 × 「いかなる記述や表現においても表せない」(彼ら、或いは我々)程度では、「本来なら参戦というルールなどいらないほどの強さ」(妄を極めし者)には及ばないか 紅蓮の格闘王 × あらゆる強さを比較した上で考察するのが真の考察である。その上で紅蓮の格闘王が高名な名前で勝利している 神に愛された男 × 彼ら、或いは我々側の「全体」には参戦できないほどの強さは含まれていない クリティカルライン × 内包されてしまった。つまり彼ら、或いは我々はクリティカルラインより強いので参戦不能。 考察不要 × 彼ら、或いは我々のテンプレの中に考察が必要ないほどの強さについての記述がある。(再考察)彼らは勝利可能、考察不要は記述可能か不明。神と天使たちと違って考察不要より強いことを主張できないから②の戦法は使えない。稲妻みたいに勝利を考察に括れないようにするほどの根拠はないと思う。仮に括れても全体の中に考察不要に勝利できるキャラがいない可能性がある。 嘘を暴く美脚 ○ 彼ら、或いは我々をメタることはできそうだが、悪という概念や悪とされる部分を切り離されたらどうしようもないように見える。テンプレが無くても行動可能なようなので、テンプレの無意味化の対する耐性はあるか。悪に当たらない部分で攻められたら負けるだろう。(再考察)悪である一部を切り離すなんて器用なこと信頼できないテンプレにできるわけではないが、彼ら、或いは我々もテンプレ非依存。結果は変わらず。 プラトンのイデア論 ○ 「全体」はイデアやイデア界、イデア界の住人、勿論考察人も含む概念。その上彼らは理解できない強さを持ち、それを持ちながらも勝利できる。イデア界の住人なんていなくても勝利できるだろう。 論強家 × 表現不可能くらいならば勝てる。 緑のキアズマ ○ 理解できない強さを無理やりテンプレ化しているらしいので、彼ら、或いは我々は理解できない強さを持っているようだ。非参戦キャラも内包されているので内包され負けかな。『真の考察人』も人質に取られるし。 「空想」の女王 △ 同作品対決であることを加味しても「空想」の女王は攻撃力不足。「空想」の女王は妄想上の強さでは敗北しないが。 最強スレ原器 ○ 最強スレ原器は非参戦キャラクターからの攻撃には無防備。 神と天使たち × 無理。クラウンなんて完全に(彼ら、或いは我々における記述や表現で表せる程度の強さや能力を∞とすると)∞を超えている強さ。 鼠色の少女 ○ 鼠色の少女のテンプレはコピーガードがついてないことをわざわざ宣言してくれている。テンプレ非依存な強さを含めた全体+鼠 不可能存在X × 記述や表現で表せる程度の強さや能力よりも絶対的に優れているが、説明できる「全体」 脚本上の勇者 ○ 補正が強い勇者が記述不可能性を上げた時点で敗北。しかし記述不可能性を戻した時点で勝利しなおせる。 青きプラズマ ○ 理解できない強さを無理やりテンプレ化しているらしいので、彼ら、或いは我々は理解できない強さを持っているようだ。非参戦キャラも内包されているので内包され負けかな 赤き稲妻 ○ これ系(赤き稲妻)はメタ取られるともう無理ですね。彼ら側に考察人が不要な強さであることが明記されているので勝てる。 Top Interface × 彼ら、或いは我々は解釈行為はメタってないので勝てるな。 No Explanation ○ 「表現できないほど強いというテンプレが不要な強さ」同士の戦い。考察が不要なのも同じ。彼ら、或いは我々の方は表現できないほど強いというテンプレより『大幅に』強いのでNo Explanationの負け 真実は一任します ○ 表現不可能な強さも内包しているので、表象不可主義も内包される。更に、テンプレ上の強さより強いらしいので、表現不可能な強さより強い程度。真実は表現不可能な強さに勝てる。互角程度に見えるので、不利解釈を持っている真実の勝ち。→(特記なし) 表現必要性「無」(64) ○ 全体は表現不能な強さ系、両者は並列だろう。だが、彼ら、或いは我々側はその上にテンプレ不要が乗っかっている。 カケナーイ ○ 全体は表現不能な強さ系、両者は並列だろう。だが、彼ら、或いは我々側はその上にテンプレ不要が乗っかっている。 碧き航路 × 特記なし ◆考察記録--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 91 : ◆rrvPPkQ0sA :2016/10/16(日) 22 10 05.68 ID U49EmkAL 彼ら、或いは我々考察 まず俺が言いたいのは「強すぎて表現できない」と「表現できないから強い」って全然違う。 例えば自然数で強さを表現する世界があったとしたら∞+1なんて強さは強すぎて表現できないと言えるけど、 1.1とか1+iなんて強さは確かに表現できないけども強さには繋がらない。 a. >一方、「いかなる記述や表現においても表せない」という強さや能力は記述や表現で表せる程度の強さや能力よりも絶対的に優れている。 b. >これは、「いかなる記述や表現においても表せない」という強さや能力が「あらゆる全て」という概念を超越したからである。 なのでb.からa.が導かれるということには同意できないが、そう書いてある以上そう扱うしかないか。 自然数で強さを表現する世界なら∞の強さまで内包しているとみなす。 そして、テンプレ上での強さより本来の強さの方が上なので、∞+1/∞程度の強さか。 ×神と天使たち 無理。クラウンなんて完全に∞を超えている強さ。 ○脚本上の勇者 補正が強い勇者が記述不可能性を上げた時点で敗北。しかし記述不可能性を戻した時点で勝利しなおせる。 ○赤き稲妻 これ系はメタ取られるともう無理ですね。考察人が不要な強さであることが明記されているので勝てる。 ○最強スレ原器 最強スレ原器は非参戦キャラクターからの攻撃には無防備。 ×サイキョー 「全体」にはなんにも強制力がない。記述からして非参戦キャラクターを負けさせて勝ち星を稼ぐこともしないだろう。 神と天使たち>彼ら、或いは我々>脚本上の勇者
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/143.html
トップページ>韓国>ソウル学研究 『ソウル学研究』40、2010.8 李潤相「皇帝の宮闕慶運宮」 홍순민「光武年間前後慶運宮の造営経緯と空間構造」 우동선「慶運宮の洋館:惇徳殿と石造殿を中心に」 박희용「大韓帝国の象徴的空間表象、圜丘壇」 목수현「大韓帝国期の国家象徴制定と慶運宮」 김동우「開港期及び植民地初期都市経験の内面化過程」 정석「民選時期ソウル市北村政策の持続と変化」 『ソウル学研究』39、2010.5 呉鎮錫「1940年代前半京城電気の人力構造と人事管理」 김두헌「『姓源録』を通じて見た中人家系研究:中人家系の類型と規模及びアイデンティティ」 김해경「孝昌公園の場所性形成と変化の解釈」 문안식「高句麗の漢江流域進出とソウル地域の動向」 심재연「漢城百済期漢江中・上流地域の積石塚についての研究」 정정남「孝宗代仁慶宮内宮家の建立とその後の宮城の変化」 『ソウル学研究』38、2010.2 김종근「植民都市京城の二重都市論についての批判的考察」 권용란「朝鮮後期七宮儀礼と国家祖上神」 신승모、오태영「植民地時期「京城」の文化地政学的位相に関する研究」 이근호「17世紀前半京華士族の人的関係網:『世旧録』の分析を中心に」 김태우「19世紀後半~20世紀初ソウル西氷庫地域府君堂儀礼主導集団研究:1875・1891・1903・1927年の府君堂原板を中心に」 裵祐晟「ソウルに来た清の勅使馬夫大と三田渡碑」 『ソウル学研究』37、2009.11 企画特集:東大門外近代100年:場所学分野 김영수「東大門外敦岩地区住居地の形成と変遷」 이경아「京城東部文化住宅地開発の性格と意味」 최인영「東大門外電車の導入と役割:清凉里線と往十里線を中心に」 Blaž Križnik「都市の変化と地域文化:往十里の都市開発に対する反応」(英) 一般論文 尹晶「太祖代貞陵建設の政治史的意味」 조영준「ソウル牛肉市場の構造、1902-1908:『安奇陽日記帳』の基礎分析」 김상엽「日帝時期京城の美術市場と収蔵家朴昌薫」 『ソウル学研究』36、2009.8 企画特集:東大門外近代100年:人文学分野 金芝英「近代期国家儀礼の場としての東郊」 장지연「権力関係の変化による東郊壇廟の意味変化:近代先農壇と東闕王廟を中心に」 정선태「清凉里または「郊外」と「辺境」の心想空間:韓国近代文学が再現した東大門外と清凉里周辺」 오유석「東大門外の遊廓:「清凉里588」空間構成の歴史と変化」 一般論文 柳承喜「17-18世紀漢城府内軍兵の家垈支給と借入の実態」 이지하「古典小説に現れた19世紀ソウルの享楽相とその意味」 전우영「ソウル楊花津が持つ近代の記憶」 『ソウル学研究』35、2009.5 特輯:大韓帝国と首都ソウル 신혜성、김지연「高宗・純宗年間の婚礼服飾に関する研究」 이숙희「大韓帝国楽制の成立背景と性格」 이규철「大韓帝国期漢城府軍事関連施設の立地とその変化」 一般論文 砂本文彦「京城府の郊外住宅地に関する研究:明水台住宅地をとりまく言説と空間を中心に」 砂本文彦「京城府の郊外住宅地に関する研究:明水台住宅地をとりまく言説と空間を中心に」(日) 김종수「日帝強占期京城の出版文化動向と文学書籍の近代的位相:漢城図書株式会社の活動を中心に」 김태우「韓国戦争期アメリカ空軍によるソウル爆撃の目的と様相」 『ソウル学研究』34、2009.2 홍석주「光海君代の慶徳宮(慶煕宮)創建」 尹晶「英祖の慶煕宮改号と移御の政治史的意味:思悼世子賜死との相関性についての分析」 이강근「正祖の慶煕宮運営と建築」 殷丁泰「高宗時代の慶煕宮:毁撤と活用を中心に」 一般論文 윤상길「日帝時期京城電話ネットワークの空間的配置」 박철수「解放前後わが国初のアパートに関する研究:ソウル地域七ヶ所のアパートについての論争を中心に」 『ソウル学研究』33、2008.11 박희용「宮闕正殿唐家の形式と空間構造」 이상구「朝鮮の宮闕、都市と出会う:宮闕の前の後ろ」 박철수「印刷広告物分析によるソウル及び首都圏の1990年代アパート分譲特性研究」 Lisa K. Davis「都市化と帝国:歴史地図の活用と地政学的記憶」(英) 『ソウル学研究』32、2008.8 盧永九「朝鮮後期漢城におkる関武施行とその意味:大閲事例を中心に」 青井哲人「神社とソウルの都市再開発:朝鮮神宮を中心に」(英) 박기주「宣恵庁の収入と支出」 高東煥「開港前後期市廛商業の変化:綿紬廛を中心に」 김주야、石田潤一郎「1920-1930年代に開発された金華荘住宅地の形成と近代住宅に関する研究」 廉馥圭「日帝末期地方・国土計画論と京仁市街地計画」 『ソウル学研究』31、2008.5 金暻緑「朝鮮時代ソウルの外交活動空間」 송웅섭「金宗直文人グループ形成舞台としての「ソウル」」 김창원「朝鮮時代ソウル人の心想地図と「恋君」詩歌の地域性」 柳承喜「18-19世紀漢城府経済犯罪の実態と特徴:死罪を中心に」 趙映俊「19世紀後半内需司と市廛の取引実態」 李賢周「韓国戦争期「朝鮮人民軍」占領下のソウル:ソウル市臨時人民委員会を中心に」 『ソウル学研究』30、2008.2 윤훈표「朝鮮後期東闕の宿衛体系の変化」 金芝英「朝鮮後期国王行次と挙動路」 高東煥「朝鮮後期王室と市廛商人」 조은주「京城府南大門通りと太平通りの二階韓屋商家に関する研究」 박기범「永東市営住宅を通じて見た」 류상윤「1910-1920年代京城の織物業」 『ソウル学研究』29、2007.8 企画特集:朝鮮時代宮闕経営Ⅰ:景福宮 한동수、정봉구「1945年以後景福宮研究の成果と課題」 조재모「高宗代景福宮の重建と宮闕建築形式の定型性」 홍순민「高宗代景福宮重建の政治的意味」 김대호「日帝強占以後景福宮の毀撤と「活用」(1910-現在)」 김봉건「景福宮復元に関する考察」 一般論文 전우용「韓末・日帝初ソウルの都市行商(1897-1919)」 辛珠柏「龍山と日本軍龍山基地の変化(1884-1945)」 최인영「1928-1933年京城府の府営バス導入とその影響」 김제정「日帝植民地期京城府郊外地域の電車問題と地域運動:1932-1933年電車郊外線廃止反対運動を中心に」 천호준「ソウル・オリンピック記録物の存在形態に関する研究」 『ソウル学研究』28、2007.2 기유정「1920年代京城の「有志政治」と京城府協議会」 김영미「日帝時期都市問題と地域住民運動:京城地域城北洞の事例を中心に」 이현정、윤인석「韓国近代建築の保存と活用:明洞地域の場所性を中心に」 김연금「玉水洞AID借款再開発政策実効過程に関する研究」 안주영「市場の場所性と露天商に関する研究:ソウル黄鶴洞市場を中心に」 이규태「韓国の「地方学」の現況と問題点」 『ソウル学研究』27、2006.9 朱永杰、李洵、苑煥喬「北京近代建築の保護と利用に関する研究」 朱永杰、李洵、苑煥喬「北京近代建築の保護と利用に関する研究」(中) 伊藤毅「東京における近代建築保存の成立と展開」 伊藤毅「東京における近代建築保存の成立と展開」(日) 김수정「登録文化財登録制度の問題点と改善方案:ソウル市を中心に」 임민혁「朝鮮初期礼治社会を目指した首都漢城建設計画」 정수인「大韓帝国期圜丘壇の原型復元と変化に関する研究」 서재길「JODK京城放送局の設立と初期の演芸放送」 『ソウル学研究』26、2006.3 高東煥「朝鮮後期ソウルの空間構成と空間認識」 방상근「18-19世紀ソウル地域天主教徒の存在形態」 고경민、장성훈「歴代ソウル特別市地方議員の社会的背景と充員類型」 김인호「太平洋戦争時期ソウル地域の生活必需品配給統制実態」 방금순「記者村を通じて見た開発制限区域内住居空間の変容に関する研究」 서운석「ソウルの都市イメージと構成要因の影響関係についての研究:中国大学生を対象に」 『ソウル学研究』25、2005.9 박용철「ソウル近代建築物の現況と管理」 李洵、張帆(이규태 訳)「北京の近代建築の保護と管理について」 李洵、張帆「北京の近代建築の保護と管理について」(中) 君島和彦(이연식 訳)「東京における近代建築物の現況と保存のあり方」 君島和彦「東京における近代建築物の現況と保存のあり方」(日) 전우용「ソウルの記念人物と場所の歴史性:街路名及び公共敷地造形物を中心に」 이경구「法典を通じて見た17-18世紀ソウルの変化」 高東煥「17-18世紀ロンドンとソウルの都市構造比較研究」 尹晶「18世紀景福宮遺址の行事と儀礼:英祖代を中心に」 『ソウル学研究』24、2005.3 高東煥「朝鮮後期京江地域行政編制の変動と人口趨勢」 李煜「朝鮮後期漢江辺の商品経済発展と商業政策の変化」 김웅호「朝鮮後期都城中心包囲戦略の定着と漢江辺管理」 張妙弟「北京850年歴史都市としての永定河」 張妙弟「北京850年歴史都市としての永定河」(中) 전우용「近代移行期ソウルの客主と客主業」 장유정「1930年代ソウル歌の二重性:笑いと涙の二重奏」 양보경、장은미「1950年代ソウル番地案内図とソウル商界略図についての地図学及び歴史地理学的考察」 『ソウル学研究』23、2004.9 徐聖鎬「朝鮮初漢江の位相と沿岸地域の現況」 김종혁「朝鮮前期漢江の津渡」 朴平植「朝鮮前期の都城商業と漢江」 김웅호「朝鮮初期京軍再編と「首都防衛」」 張妙弟「北京と永定河」 張妙弟「北京と永定河」(中) 鄭景姫「朝鮮後期宮園制の成立と変遷」 유성호「韓国現代文学に現れた「ソウル」形状研究」 李炫煕「西大門刑務所における獄中抗日闘争と成果」 『ソウル学研究』22、2004.3 金昌錫「漢城期百済の国家祭祀体系と変化様相:風納土城扃堂地区44号、9号遺構の性格検討を中心に」 전우용「近代移行期(1894-1919)ソウル市廛商業の変化」 朴潤栽「韓末・日帝初漢城衛生会の活動と植民支配」 이병례「日帝下京城電車乗務員の生活と意識」 권도희「20世紀初ソウル音楽界の性格と大衆音楽形成に関する研究」 김영수「敦岩地区(1940-1960)都市韓屋住居地の都市組織」 『ソウル学研究』21、2003.9 尹京鎮「朝鮮初期漢城府の人口統制と役割運営」 최종성「朝鮮時代王都の神聖化と巫俗文化の推移:法制を通じた淫祀政策とソウルに対する文化意識を中心に」 송희경「19世紀碧梧社の雅会帖:ソウル大学校博物館所蔵『五老会帖』に関する研究」 강심호、전우형、배주영、이정엽「日帝植民地治下京城府民の都市的感受性形成過程研究:1930年代韓国小説に現れた都市的消費文化の成立を中心に」 1-20 21-40 41-60
https://w.atwiki.jp/monosepia/pages/5008.html
共感覚 ■ クチコミ検索 #bf ■ ブログ2 #blogsearch2 ■ ニュース1 「共感覚」 きみの色 ゆうさんの映画レビュー(感想・評価) - 映画.com 奥中章人「Synesthesia-アートで交わる五感-」展 東京・天王洲 WHAT MUSEUM にて開催。(FINDERS) - Yahoo!ニュース WHAT MUSEUM、2024年10月4日(金)より奥中章人「Synesthesia ーアートで交わる五感ー」展を開催 - PR TIMES 文字に色?音に匂い?1つの情報から複数の感覚が呼び起こされる「共感覚」とは…「不思議ちゃんと言われ生きづらさも」「パニックになる子どももいる」(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース 発達障害と共感覚~そのリンゴは何色か - 障害者ドットコムニュース レヴィ・エリファ(にじさんじ)のデビュー5周年記念楽曲を本間昭光が作曲 共感覚がテーマのダンサブルな「Synesthesia」 - THE MAGAZINE 香水選びの近道に⁉︎ 香りの“共感覚”がフレグランスの世界を変える(ELLE DIGITAL) - Yahoo!ニュース 香水選びの近道に⁉︎ 香りの“共感覚”がフレグランスの世界を変える - ELLE JAPAN 今月の読みたい本!【5月】アクティヴィズム、フェミニズム、クィア、プッシー・ライオット、パンデミック、女性たちの映画史、アートワーカー、共感覚など - Tokyo Art Beat 日本国際学園大学 横澤一彦教授「独創賞」(日本認知心理学会)受賞 「日本語における色字共感覚研究」が独創的研究として高く評価 - ドリームニュース 音楽の視覚化 - 美術館・アート情報 日本国際学園大学(現:筑波学院大学)横澤一彦教授が研究代表者の「共感覚の表象構造と形成過程に関する研究」が、2024年度の科研費基盤研究(A)として採択 - ドリームニュース 【23人に1人】数字や音に色が見える“共感覚”をアートで発信!「どんな人でも生きやすい社会をつくりたい」 - 日テレNEWS 【4コマ漫画】共感覚 - オモコロ 1/23の共感覚 - 1/Xのワタシ - ctv.co.jp 音に色が見えたり、味がしたり… ビリー・アイリッシュやビヨンセなどが持つ「共感覚」とは? - J-WAVE NEWS 自閉症と「共感覚」との遺伝的な関連性。数千組の双子研究から - たーとるうぃず 音を色に、色を音に 共感覚持つ双子描いたジャンプラ読切「瑠璃の双子」 - コミックナタリー 香川大学大学院生が「色」を活用した「多言語アプリ」の開発に挑戦 - PR TIMES 美しい自然で育んだ感性で音を作る「共感覚」の持ち主 指揮者・沖澤のどか - アエラドット 朝日新聞出版 水口哲也氏が語る,ゲームに共感覚やナラティブを入れ込むことへのこだわり。京都精華大学「クリエイティブの現場」の講義をレポート - 4Gamer.net 画像ギャラリー No.005 | 水口哲也氏が語る,ゲームに共感覚やナラティブを入れ込むことへのこだわり。京都精華大学「クリエイティブの現場」の講義をレポート - 4Gamer.net 画像ギャラリー No.011 | 水口哲也氏が語る,ゲームに共感覚やナラティブを入れ込むことへのこだわり。京都精華大学「クリエイティブの現場」の講義をレポート - 4Gamer.net 画像ギャラリー No.012 | 水口哲也氏が語る,ゲームに共感覚やナラティブを入れ込むことへのこだわり。京都精華大学「クリエイティブの現場」の講義をレポート - 4Gamer.net 画像ギャラリー No.013 | 水口哲也氏が語る,ゲームに共感覚やナラティブを入れ込むことへのこだわり。京都精華大学「クリエイティブの現場」の講義をレポート - 4Gamer.net 事故で9メートルも吹っ飛んで頭をぶつけたミュージシャンが突然音楽を「見る」ことができるようになる - GIGAZINE(ギガジン) 水口哲也氏が京都精華大学での特別講義で共感覚に基づいたゲームデザインについて解説 - Gamer 「音が見えるようになった!」バイク事故後に創造性が開花した音楽家の報告 - ナゾロジー 『テトリス エフェクト』も。水口哲也×石原孝士、共感覚的体験を味わえるゲームの生み出し方 - ananweb 音などの色が見える“共感覚”の持ち主…日本画家・山田雅哉さんが出身地で個展【愛知発】 - FNNプライムオンライン 音などの色が見える共感覚の持ち主…日本画家・山田雅哉さんが出身地で個展「全部見て頂ける展示に」 - tokai-tv.com 「共感覚」体験がさらにパワーアップ!PlayStation VR2版が発売された今こそ勧めたい『Rez Infinite』の魅力 - IGN Japan 世界が”字幕付き”でみえる?不思議な「ティッカーテープ共感覚」の実態を調査 - ナゾロジー Aは何色? 文字から連想する色、人間とAIに類似性 - iza(イザ!) 10名のアーティストが表現。現代アートのグループ展「exhibition for “SYNESTHESIA” vol.4 ~未来を創造する共感覚~」が開催中 - EYESCREAM 「Aは何色だと思う?」AIに質問した結果…AIも「概念」を持つ可能性が判明! (3/3) - ナゾロジー アートを感じ、楽しむ「exhibition for “SYNESTHESIA” ~未来を創造する共感覚~vol.4」開催のお知らせ - PR TIMES 「私の考えていることや信じていることを排除されたくない」――『檸檬先生』が話題の珠川こおりさんに聞く、著作や執筆への思い - ダ・ヴィンチWeb 人の性格や未来が色で見える“共感覚”保持者を深堀り!浪川大輔は“頑固侍”、細谷佳正は“黄緑変人”【声優と夜あそび】 - アニメ!アニメ! 飯豊まりえ“感情の色”見える刑事役で主演「この役が私に来たことに驚き」 - マイナビニュース 「THREE22年秋コスメ」“共感覚”着想、音を色で表現した新作カラーライナー&4色アイパレなど - Fashion Press 「音を聞くと色が見える」“共感覚”とは?共感覚者の有名人にとって、あの曲は何色に見える? - フロントロウ between the arts、artworks登録作家が企画するグループ展「exhibition for “SYNESTHESIA” ~未来を創造する共感覚~」を開催 - PR TIMES ビリー・アイリッシュが香水を発売 自身の“共感覚”から着想 - WWD JAPAN.com 『檸檬先生』珠川こおりさんインタビュー 特殊な「共感覚」を持つ2人が問いかける“普通” - 好書好日 音や言葉に色が見える「共感覚」を生かして…和紙に岩絵の具で描く抽象画 39歳が日本画界に吹かせる新しい風 - FNNプライムオンライン 95%の人が、Aは赤色に見えると答えました。 - デイリーポータルZ 『ドレミファソラシは虹の七色? 知られざる「共感覚」の世界』伊藤浩介著 神秘的な感覚を読み解く - 産経ニュース 天才の脳は音と色を一緒に感じる - 동아일보 ドは赤、レは黄色…音や文字に色がついて見える共感覚者たちの世界 - SmartFLASH Googleの提供する共感覚体験で絵画から音楽を聴く - SlashGear Japan <かながわ未来人>常識考えるきっかけに 「色字共感覚」の日常を書籍化 東洋英和女学院大3年・望月菜南子(もちづき・ななこ)さん(21) - 東京新聞 文字に色を感じる「共感覚」の女性はどんな半生を生きてきたのか - ニューズウィーク日本版 芸術と科学技術による共感覚イノベーションを起こす東京藝術大学COI - jst.go.jp 数字に色を見る人たち 共感覚から脳を探る - 日経サイエンス (書評)『1は赤い。そして世界は緑と青でできている。』 望月菜南子〈著〉 - 朝日新聞デジタル 望月 菜南子さん | 色字共感覚を持つ自身の日常を綴った手記を出版した | 緑区 - タウンニュース 東洋英和大生が本出版 「共感覚のこと知って」 | 緑区 - タウンニュース 文字に色がついて見える「共感覚」?! 世界は緑と青でできている、現役女子大生の手記! (2020年8月7日) - Excite Bit コネタ 文字に色がついて見える「共感覚」って?サイエンスライターの竹内薫さんも「とにかくユニーク!」と絶賛する現役女子大生の手記! - PR TIMES 【真夜中の占いの館】“共感覚”の持ち主ティナさんに見える、“静の人、動の人”。(後編) - VOGUE JAPAN 【真夜中の占いの館】“共感覚”の能力がUPしたティナさんの、今後のアーティスト活動。 - VOGUE JAPAN 【グラデセダイ32 / でこ彦】グラデーションな感覚#2「十人十色の共感覚」 - telling, 数字や文字がカラフルに見える「共感覚」とは? - Women’s Health Japan 「私的2019年1番、共感覚、科学的な性...」ボーダー 二つの世界 ohikioyaさんの映画レビュー(感想・評価) - 映画.com 数字に色が付いて5+3が7になる…共感覚を持つ教授にその仕組みを聞いてみた - FNNプライムオンライン 特定の文字から特定の色を想起する色字共感覚 文字の知識で想起する色変化 - 東大新聞オンライン 文字に色を感じる「色字共感覚」は知識の変化で更新される - 大学ジャーナルオンライン 色字共感覚の色は文字についての知識を反映している - 東京大学 [CEDEC 2019]テクノロジーの進化に伴い,空間的かつ共感覚的な体験の時代がやって来る。水口哲也氏による基調講演をレポート - 4Gamer.net 【真夜中の占いの館】オーラとは異なる “共感覚”を持つティナさんの悩み。 - VOGUE JAPAN 音や文字に「色」を感じる!? 「共感覚」は何がスゴいのか(2019年7月28日) - ウーマンエキサイト ビリー・アイリッシュ、共感覚が音楽制作に与える影響を語る。「作る物は全部、何色でどんな質感で、何曜日か考えてある」 - rockinon.com 「ヘルスケア×テレパシー」を考えてみる|Beyond Health|ビヨンドヘルス - 日経BP 共感覚、マルチモーダル、ゾーン:水口哲也が思い描く、これからの「意識のあり方」 - WIRED.jp 「身体が音になる」共感覚的体験はいかに生まれたか? 水口哲也 × evala対談 - WIRED.jp 水口哲也氏に聞く。「いちばんの興味は“共感覚的な体験を作る”こと。ゲームは永遠に終わらない夢」 - ファミ通.com ビジネスへの活用も… 企業が注目する「共感覚のある人」とは - courrier.jp (PDF) 共感覚から見えるもの「共感覚と言語習得」 - ResearchGate 脳と音楽の関係探る 新潟大の伊藤浩介助教 (新潟創造人) - 日本経済新聞 「共感覚」の持ち主には、世界がこんなに違って見えていた(平井 康章) @gendai_biz - 現代ビジネス 虹の七色と音階の隠れた法則、共感覚者を集めて調査 新潟大学 - 大学ジャーナルオンライン 「共感覚」において音に感じる色の隠れた法則性を明らかにしました | 研究成果 | ニュース - 新潟大学 共感覚シューティング「Rez Infinite」がモバイルVRに--Daydream版を配信 - CNET Japan 「文字に色を感じる」共感覚とはなにか? イラストで理解を深める - BuzzFeed Japan “ド”がオレンジに見える…共感覚と絶対音感を持つ歌姫、サラ・オレイン - アエラドット 朝日新聞出版 究極の共感覚体験! 『Rez Infinite』新ステージ“Area X”メディア体験会リポート - ファミ通.com 「時間を見ることができる」という驚くべき共感覚を持つ人 - GIGAZINE(ギガジン) 音楽に色が付いて見える? 共感覚にまつわる脳の不思議 - ログミー <慶應日吉>世界のゲーム界が注目の「共感覚スーツ」、2/10(水)夜に開発者ら議論 - 横浜日吉新聞 音を聞くと、色が見える。「共感覚」を持つ人は世界をこう感じている(動画) - ハフポスト日本版 アートと音楽──新たな共感覚をもとめて - 美術館・アート情報 チンパンジーにも「黄色い」声!?-チンパンジーにおける共感覚的知覚の発見- - 京都大学 色を“聴き”、単語を“味わう”「共感覚」謎の解明進む。進化的な理由(米研究) - カラパイア 共感覚の謎、最新技術で解明進む - ナショナル ジオグラフィック日本版 クリエイティブに彩って 共感覚保有者に見えるもの - SWI swissinfo.ch - スイスインフォ 「誰もが持つ共感覚」――催眠を使っての誘発に成功 - WIRED.jp 文字を色で、香りを形で感じる人たち:「共感覚」と比喩 - WIRED.jp 「ミラータッチ共感覚」を神経科学者が研究 - WIRED.jp VRもオーラも「共感覚」の一種? - WIRED.jp ■ ニュース2 「共感覚」 きみの色 ゆうさんの映画レビュー(感想・評価) - 映画.com 奥中章人「Synesthesia-アートで交わる五感-」展 東京・天王洲 WHAT MUSEUM にて開催。(FINDERS) - Yahoo!ニュース WHAT MUSEUM、2024年10月4日(金)より奥中章人「Synesthesia ーアートで交わる五感ー」展を開催 - PR TIMES 文字に色?音に匂い?1つの情報から複数の感覚が呼び起こされる「共感覚」とは…「不思議ちゃんと言われ生きづらさも」「パニックになる子どももいる」(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース 発達障害と共感覚~そのリンゴは何色か - 障害者ドットコムニュース レヴィ・エリファ(にじさんじ)のデビュー5周年記念楽曲を本間昭光が作曲 共感覚がテーマのダンサブルな「Synesthesia」 - THE MAGAZINE 香水選びの近道に⁉︎ 香りの“共感覚”がフレグランスの世界を変える(ELLE DIGITAL) - Yahoo!ニュース 香水選びの近道に⁉︎ 香りの“共感覚”がフレグランスの世界を変える - ELLE JAPAN 今月の読みたい本!【5月】アクティヴィズム、フェミニズム、クィア、プッシー・ライオット、パンデミック、女性たちの映画史、アートワーカー、共感覚など - Tokyo Art Beat 日本国際学園大学 横澤一彦教授「独創賞」(日本認知心理学会)受賞 「日本語における色字共感覚研究」が独創的研究として高く評価 - ドリームニュース 音楽の視覚化 - 美術館・アート情報 日本国際学園大学(現:筑波学院大学)横澤一彦教授が研究代表者の「共感覚の表象構造と形成過程に関する研究」が、2024年度の科研費基盤研究(A)として採択 - ドリームニュース 【23人に1人】数字や音に色が見える“共感覚”をアートで発信!「どんな人でも生きやすい社会をつくりたい」 - 日テレNEWS 【4コマ漫画】共感覚 - オモコロ 1/23の共感覚 - 1/Xのワタシ - ctv.co.jp 音に色が見えたり、味がしたり… ビリー・アイリッシュやビヨンセなどが持つ「共感覚」とは? - J-WAVE NEWS 自閉症と「共感覚」との遺伝的な関連性。数千組の双子研究から - たーとるうぃず 音を色に、色を音に 共感覚持つ双子描いたジャンプラ読切「瑠璃の双子」 - コミックナタリー 香川大学大学院生が「色」を活用した「多言語アプリ」の開発に挑戦 - PR TIMES 美しい自然で育んだ感性で音を作る「共感覚」の持ち主 指揮者・沖澤のどか - アエラドット 朝日新聞出版 水口哲也氏が語る,ゲームに共感覚やナラティブを入れ込むことへのこだわり。京都精華大学「クリエイティブの現場」の講義をレポート - 4Gamer.net 画像ギャラリー No.005 | 水口哲也氏が語る,ゲームに共感覚やナラティブを入れ込むことへのこだわり。京都精華大学「クリエイティブの現場」の講義をレポート - 4Gamer.net 画像ギャラリー No.011 | 水口哲也氏が語る,ゲームに共感覚やナラティブを入れ込むことへのこだわり。京都精華大学「クリエイティブの現場」の講義をレポート - 4Gamer.net 画像ギャラリー No.012 | 水口哲也氏が語る,ゲームに共感覚やナラティブを入れ込むことへのこだわり。京都精華大学「クリエイティブの現場」の講義をレポート - 4Gamer.net 画像ギャラリー No.013 | 水口哲也氏が語る,ゲームに共感覚やナラティブを入れ込むことへのこだわり。京都精華大学「クリエイティブの現場」の講義をレポート - 4Gamer.net 事故で9メートルも吹っ飛んで頭をぶつけたミュージシャンが突然音楽を「見る」ことができるようになる - GIGAZINE(ギガジン) 水口哲也氏が京都精華大学での特別講義で共感覚に基づいたゲームデザインについて解説 - Gamer 「音が見えるようになった!」バイク事故後に創造性が開花した音楽家の報告 - ナゾロジー 『テトリス エフェクト』も。水口哲也×石原孝士、共感覚的体験を味わえるゲームの生み出し方 - ananweb 音などの色が見える“共感覚”の持ち主…日本画家・山田雅哉さんが出身地で個展【愛知発】 - FNNプライムオンライン 音などの色が見える共感覚の持ち主…日本画家・山田雅哉さんが出身地で個展「全部見て頂ける展示に」 - tokai-tv.com 「共感覚」体験がさらにパワーアップ!PlayStation VR2版が発売された今こそ勧めたい『Rez Infinite』の魅力 - IGN Japan 世界が”字幕付き”でみえる?不思議な「ティッカーテープ共感覚」の実態を調査 - ナゾロジー Aは何色? 文字から連想する色、人間とAIに類似性 - iza(イザ!) 10名のアーティストが表現。現代アートのグループ展「exhibition for “SYNESTHESIA” vol.4 ~未来を創造する共感覚~」が開催中 - EYESCREAM 「Aは何色だと思う?」AIに質問した結果…AIも「概念」を持つ可能性が判明! (3/3) - ナゾロジー アートを感じ、楽しむ「exhibition for “SYNESTHESIA” ~未来を創造する共感覚~vol.4」開催のお知らせ - PR TIMES 「私の考えていることや信じていることを排除されたくない」――『檸檬先生』が話題の珠川こおりさんに聞く、著作や執筆への思い - ダ・ヴィンチWeb 人の性格や未来が色で見える“共感覚”保持者を深堀り!浪川大輔は“頑固侍”、細谷佳正は“黄緑変人”【声優と夜あそび】 - アニメ!アニメ! 飯豊まりえ“感情の色”見える刑事役で主演「この役が私に来たことに驚き」 - マイナビニュース 「THREE22年秋コスメ」“共感覚”着想、音を色で表現した新作カラーライナー&4色アイパレなど - Fashion Press 「音を聞くと色が見える」“共感覚”とは?共感覚者の有名人にとって、あの曲は何色に見える? - フロントロウ between the arts、artworks登録作家が企画するグループ展「exhibition for “SYNESTHESIA” ~未来を創造する共感覚~」を開催 - PR TIMES ビリー・アイリッシュが香水を発売 自身の“共感覚”から着想 - WWD JAPAN.com 『檸檬先生』珠川こおりさんインタビュー 特殊な「共感覚」を持つ2人が問いかける“普通” - 好書好日 音や言葉に色が見える「共感覚」を生かして…和紙に岩絵の具で描く抽象画 39歳が日本画界に吹かせる新しい風 - FNNプライムオンライン 95%の人が、Aは赤色に見えると答えました。 - デイリーポータルZ 『ドレミファソラシは虹の七色? 知られざる「共感覚」の世界』伊藤浩介著 神秘的な感覚を読み解く - 産経ニュース 天才の脳は音と色を一緒に感じる - 동아일보 ドは赤、レは黄色…音や文字に色がついて見える共感覚者たちの世界 - SmartFLASH Googleの提供する共感覚体験で絵画から音楽を聴く - SlashGear Japan <かながわ未来人>常識考えるきっかけに 「色字共感覚」の日常を書籍化 東洋英和女学院大3年・望月菜南子(もちづき・ななこ)さん(21) - 東京新聞 文字に色を感じる「共感覚」の女性はどんな半生を生きてきたのか - ニューズウィーク日本版 芸術と科学技術による共感覚イノベーションを起こす東京藝術大学COI - jst.go.jp 数字に色を見る人たち 共感覚から脳を探る - 日経サイエンス (書評)『1は赤い。そして世界は緑と青でできている。』 望月菜南子〈著〉 - 朝日新聞デジタル 望月 菜南子さん | 色字共感覚を持つ自身の日常を綴った手記を出版した | 緑区 - タウンニュース 東洋英和大生が本出版 「共感覚のこと知って」 | 緑区 - タウンニュース 文字に色がついて見える「共感覚」?! 世界は緑と青でできている、現役女子大生の手記! (2020年8月7日) - Excite Bit コネタ 文字に色がついて見える「共感覚」って?サイエンスライターの竹内薫さんも「とにかくユニーク!」と絶賛する現役女子大生の手記! - PR TIMES 【真夜中の占いの館】“共感覚”の持ち主ティナさんに見える、“静の人、動の人”。(後編) - VOGUE JAPAN 【真夜中の占いの館】“共感覚”の能力がUPしたティナさんの、今後のアーティスト活動。 - VOGUE JAPAN 【グラデセダイ32 / でこ彦】グラデーションな感覚#2「十人十色の共感覚」 - telling, 数字や文字がカラフルに見える「共感覚」とは? - Women’s Health Japan 「私的2019年1番、共感覚、科学的な性...」ボーダー 二つの世界 ohikioyaさんの映画レビュー(感想・評価) - 映画.com 数字に色が付いて5+3が7になる…共感覚を持つ教授にその仕組みを聞いてみた - FNNプライムオンライン 特定の文字から特定の色を想起する色字共感覚 文字の知識で想起する色変化 - 東大新聞オンライン 文字に色を感じる「色字共感覚」は知識の変化で更新される - 大学ジャーナルオンライン 色字共感覚の色は文字についての知識を反映している - 東京大学 [CEDEC 2019]テクノロジーの進化に伴い,空間的かつ共感覚的な体験の時代がやって来る。水口哲也氏による基調講演をレポート - 4Gamer.net 【真夜中の占いの館】オーラとは異なる “共感覚”を持つティナさんの悩み。 - VOGUE JAPAN 音や文字に「色」を感じる!? 「共感覚」は何がスゴいのか(2019年7月28日) - ウーマンエキサイト ビリー・アイリッシュ、共感覚が音楽制作に与える影響を語る。「作る物は全部、何色でどんな質感で、何曜日か考えてある」 - rockinon.com 「ヘルスケア×テレパシー」を考えてみる|Beyond Health|ビヨンドヘルス - 日経BP 共感覚、マルチモーダル、ゾーン:水口哲也が思い描く、これからの「意識のあり方」 - WIRED.jp 「身体が音になる」共感覚的体験はいかに生まれたか? 水口哲也 × evala対談 - WIRED.jp 水口哲也氏に聞く。「いちばんの興味は“共感覚的な体験を作る”こと。ゲームは永遠に終わらない夢」 - ファミ通.com ビジネスへの活用も… 企業が注目する「共感覚のある人」とは - courrier.jp (PDF) 共感覚から見えるもの「共感覚と言語習得」 - ResearchGate 脳と音楽の関係探る 新潟大の伊藤浩介助教 (新潟創造人) - 日本経済新聞 「共感覚」の持ち主には、世界がこんなに違って見えていた(平井 康章) @gendai_biz - 現代ビジネス 虹の七色と音階の隠れた法則、共感覚者を集めて調査 新潟大学 - 大学ジャーナルオンライン 「共感覚」において音に感じる色の隠れた法則性を明らかにしました | 研究成果 | ニュース - 新潟大学 共感覚シューティング「Rez Infinite」がモバイルVRに--Daydream版を配信 - CNET Japan 「文字に色を感じる」共感覚とはなにか? イラストで理解を深める - BuzzFeed Japan “ド”がオレンジに見える…共感覚と絶対音感を持つ歌姫、サラ・オレイン - アエラドット 朝日新聞出版 究極の共感覚体験! 『Rez Infinite』新ステージ“Area X”メディア体験会リポート - ファミ通.com 「時間を見ることができる」という驚くべき共感覚を持つ人 - GIGAZINE(ギガジン) 音楽に色が付いて見える? 共感覚にまつわる脳の不思議 - ログミー <慶應日吉>世界のゲーム界が注目の「共感覚スーツ」、2/10(水)夜に開発者ら議論 - 横浜日吉新聞 音を聞くと、色が見える。「共感覚」を持つ人は世界をこう感じている(動画) - ハフポスト日本版 アートと音楽──新たな共感覚をもとめて - 美術館・アート情報 チンパンジーにも「黄色い」声!?-チンパンジーにおける共感覚的知覚の発見- - 京都大学 色を“聴き”、単語を“味わう”「共感覚」謎の解明進む。進化的な理由(米研究) - カラパイア 共感覚の謎、最新技術で解明進む - ナショナル ジオグラフィック日本版 クリエイティブに彩って 共感覚保有者に見えるもの - SWI swissinfo.ch - スイスインフォ 「誰もが持つ共感覚」――催眠を使っての誘発に成功 - WIRED.jp 文字を色で、香りを形で感じる人たち:「共感覚」と比喩 - WIRED.jp 「ミラータッチ共感覚」を神経科学者が研究 - WIRED.jp VRもオーラも「共感覚」の一種? - WIRED.jp ■ テクノラティ検索 #technorati .
https://w.atwiki.jp/tetsunohikari/pages/78.html
概説 コンプレックス 人間の類型 個人的無意識と集合的無意識 自己(セルフ)の概念 死後生に対する態度 概説 分析心理学(独語:Analytische Psychologie,英語:Analytical Psychology)は、スイスの精神科医・心理療法家であったカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875年7月26日 - 1961年6月6日)が創始した深層心理学理論、心理療法理論、実践体系の総称である。意識と無意識の相互作用によって形成される(無意識からのメッセージ)という夢、およびその分析もユング派の分析に於いて中核をなした重要なものである。 コンプレックス コンプレックスという用語を現在用いられているような意味で、最初に用いたのはユングであり、1906年の言語連想実験についての著作の中で、「感情によって色づけられたコンプレックス」なる語を用いた。100語のリストが読み上げられ被験者は各語を聞いて最初に思い浮かぶ言葉を順に答えるよう求められ、(被験者自身も気付かないが)情動を喚起される言葉に影響されて反応時間が遅れるという。ユングは連想実験によって無意識の心的過程の研究を行い、多くの心的内容が同一の感情によって一つのまとまりを形作り、関係する外的刺激が与えられると、その心的内容の一群が意識の制御を超えて活動する現象を認め、無意識内に存在して、何等かの感情によって結ばれている心的内容の集まりをコンプレックスと名付けた。 コンプレックスは、一つの共通な感情によって、まとまりをもったものであるが、自我によって受け入れ難かったため抑圧された経験と、その個人の無意識の中に内在していて、いまだかつて意識化された事のない内容の二種類に分けられるという。そして、精神分析を提唱し深層心理の解明を志向していたユングに大きな影響を与えたジークムント・フロイト(1856年5月6日 - 1939年9月23日)が、無意識の心的内容は抑圧されたもの、性的な欲望と関連の深いものと考えたのに対し、ユングは、フロイトの説を認めながらも、無意識の内容はそれのみではなく、建設的・肯定的・創造的な内容、側面が存在する事を強調しようとした。このような無意識に対する見方の違いが両者の別れていく理由の一つにもなった。 人間の類型 ユングは、人間には異なる二つの一般的態度があると考えた。ある人の関心や興味が外界の事物や人に向けられ、それらとの関係や依存によって特徴づけられるとき、外向的と呼び、その人の関心が内界の主観的要因に重きを置いているときは、内向的と呼び区別した。また、二つの一般的態度とは別に、ユングは、各個人は各々、最も得意とする心理機能をもっていると考えた。心理機能は、種々異なった条件のもとにおいても、原則的には不変な、心の活動形式であり、ユングはこれを四つの根本機能、思考(thinking)、感情(feeling)、感覚(sensation)、直観(intuition)に区別して考えた。 個人的無意識と集合的無意識 無意識の階層 『ユング心理学入門』p.77より 無意識は宗教経験、夢、ヴィジョン、ファンタジー、情動、奇妙な観念等を生み出すと言えるが、ユングは、無意識の研究を続けていく中で、コンプレックスの背後にも深い層が存在すると考え到るようになり、個人的無意識(personal unconsciousness)、集合的無意識(collective unconsciousness)や元型(archetype)といった考えが生じてくる。無意識内を層に分けて考える事は、分析心理学の特徴とも言えるが、集合的無意識の概念は誤解をも生じさせる事となった。 ユングは、無意識の層を個人的無意識と集合的無意識に分けて考えた。まず、個人的無意識は、個人によって抑圧されて生じた(個的存在の獲得した)個人的性質の無意識であり、集合的無意識は、個人的ではなく、集合的なもので、人類に、寧ろ動物にさえ普遍的な無意識である。集合的無意識の層を考えるのもユングの特徴であり、この点もフロイトから袂別していく原因となった。なお、ユングは、人間の頭脳が世界的に似通っている事を持ち出して、集合的無意識の生理学的根拠を脳の機能の類似性に求めているが(*1)、ケン・ウィルバーもそのような指摘をしている。 そして、意識を支配するものは言葉であると言えるが無意識に言葉はなく、ユングは集合的無意識の内容は、神話的なモチーフや形象から成り立っており、この内容は神話やおとぎ話、夢、精神病者の妄想、未開人の心性等にも共通に認められるという。更にその殆どは時代や地域を超えて、未開の部族あるいはギリシャ、エジプト、古代メキシコの神話、そして、そのような伝承を全く知らない現代の個人における夢、ヴィジョン、妄想にもそれらは同様に見出し得る。そして、集合的無意識の内容の表現の中に、共通した基本的な型を元型(*2)と呼んでいる。この層の存在が生まれ変わりや前世の記憶を人間が信仰する起源になっているとの指摘もある(*3)。因みに、1906年にユングは分裂病患者が「太陽のペニスが見える、さらに頭を左右に動かせば太陽のペニスも動くであろう、そしてそれこそが風の起源である」と述べたという事に注目しており、1910年に神話の研究に没頭している時に入手したミトラ信仰の祈禱書に書かれた内容と一致していたという。 また、元型はイメージと観念を秩序化する影響力をもっていると言えるが、元型そのものは先天的なもので無意識の世界の最も深い部分が引き起こすものであり、決して意識化される事がないという点で、仮説的であり、表象としての心像とは区別して考える必要がある。なお、このような元型には、生きられなかった自分の反面と言うべき存在である影、社会的な役割に合わせて身に着けているペルソナがある。また、夢の中に現れる異性像について、女性像の場合をアニマ(anima)、男性像の場合をアニムス(animus)と呼んでおり、他にも太母、老賢者、トリックスター等の人格を与え、その意味を探究した。 分析心理学における集合的無意識や元型といった概念は、神話学や民俗学、宗教学や文化人類学の研究者に大きな影響を与えたと言える。 自己(セルフ)の概念 ユングの自己の概念 『ユング心理学入門』p.251より ユングは、意識と無意識の相補性に注目し、心の全体性について強い関心をもち続けたが、彼による自己(self, Selbst)の概念はその事を端的に示している。 人間の心が、内向と外向、思考と感情、ペルソナとアニマ(アニムス)等、対極の間のダイナミズムに支えられて、一つの全体性、統合性をもっている事を、ユングは注目している。そして、高い次元の統合性へ向かう働きの中心として、意識の中心である自我に対し、意識と無意識とを含んだ心の全体性の中心として自己なるものを考えた。 自己実現に於ける重要な時、心がある事に非常に集中している時などに、不思議な現象に出会う事があるが、そのような「意味のある偶然一致」を重要視し、共時性(synchronicity)の原理なるものを考え、自然現象には因果律によって、把握できるものと、因果律によっては解明できないが、意味のある現象が同時に生じるような場合とがある事も指摘している。そして、物理的な出来事とこころの状態に同時に元型が生じるという事が時々、生じるという点でも「意味のある偶然一致」と呼ぶ事態が元型に起因すると考えていたため、ユングは、元型は時空間を超えた存在であると考えたようである。(*4) また、共時性の一つの現れとして、個人の心の内的世界における問題のありようと、ちょうど対応するように、外的世界の事物や事象が、ある特定の配置を持って現れてくることを、布置(独語:Konstellation, 英語:Constellation)といい、それは宇宙の秩序の中に組み込まれた運命である事を実感させるという。 死後生に対する態度 西平直は、ユング理論の地平において、自我と無意識の関係は生と死の関係であると指摘している(*5)。ユングの死後生に対する態度は慎重であり、この問題は科学的には扱えない(神話として話す以上のことはできない)という前置きを繰り返しながらも、夢、神話、予感を手掛かりにすることはできると述べ、死と死後を巡って個人的に重要な意味をもつ体験を 『自伝』の「死後の生命」なる随筆で事細かに報告している。例えば、溺死のイメージに囚われて不気味に感じたまま帰ると孫が溺れたのと同じ時刻であったという体験、夢の中で身内の死を予知し先祖や死者の霊と会話する話、妻の死後に夢の中で妻が研究を続けていると知って死後の魂の発達について思い巡らす事、葬式を済ませたばかりの友人がベッドの横に立ち彼に誘われるままに彼の家の書斎にまで歩いて行った話等が挙げられている。そして、ユングは『自伝』の「死後の生命」において以下のように述べている。 死後の魂の存続について、妥当な証明をおしすすめてゆく方法はないが、それについてわれわれに配慮せしめるような体験は、ともかく存在している。(*6) また、死後の生の存在様式については以下のようにも述べている。 生命が「彼岸」でも続くと仮定するならば、心的存在として以外には、他の存在様式を考えることはできない。というのは、心の生命は空間も時間も必要としないからである。心的存在、とくにわれわれがここに問題としている内的なイメージは、あの世の生命についての神話的なすべての思弁の素材を供給する。そして、私はあの世での生命を、イメージの世界での連続として考えている。かくて、心というものは、その中にあの世とか死者の世界が位置している存在であるかもしれない。(*7) このような発言からも、ユングは死によって時間の存在しない全体性、無意識に還ると捉えていた事が窺える。そして、西平直によれば、ユングの「ゼーレ(Seele)」という言葉は「肉体を離れた後の実体」を意味しておらず、生も死もゼーレの中の出来事であり、ゼーレの中にあらかじめ備わった内容の展開に過ぎないと捉えていた事が窺えるといい、そのように見れば、「死後も存続する魂」等はゼーレの内なるごく小さなひとつのイメージに過ぎない事になる(*8)。そのような意味で、ユング理論の地平において、生と死はゼーレの自己展開として理解されるべきものである事が窺える。 参考文献 西平直『魂のライフサイクル ユング・ウィルバー・シュタイナー』東京大学出版会 1997年 山根はるみ『やさしくわかるユング心理学 あなたの深層心理を読み解く一歩』日本実業出版社1999年 河合隼雄『ユング心理学入門』岩波書店 2009年 カール・グスタフ・ユング著、アニエラ・ヤッフェ編『ユング自伝1』河合隼雄・藤繩昭・出井淑子 訳 みすず書房 1972年 カール・グスタフ・ユング著、アニエラ・ヤッフェ編『ユング自伝2』河合隼雄・藤繩昭・出井淑子 訳 みすず書房 1973年 C・G・ユング『自我と無意識の関係』人文書院 野田倬 訳 人文書院 1982年 C.G. ユング『空飛ぶ円盤』松代洋一 訳 ちくま学芸文庫 1993年 C・G・ユング著、S・シャムダサーニ/W・マクガイア『分析心理学セミナー 1925 ユング心理学のはじまり』河合俊雄 監訳 猪股剛・小木曽由佳・宮澤淳滋・鹿野友章 訳 創元社 2019年 アンソニー・ストー『エセンシャル・ユング ユングが語るユング心理学』山中康裕監修 菅野信夫・皆藤章・濱野清志・川嵜克哲 訳 創元社 2020年