約 134 件
https://w.atwiki.jp/world-history/pages/5.html
中国 中国という言葉はいつ頃からありますか? 『太公望』なる人物は実在したのですか? 「帝なんて知ったこっちゃねー」みたいな歌を聞いて自信喪失したみたいな話って、なんでしたっけ? 孔子がもう人肉の塩漬けは食べないと言ったのは、本当のことなのですか? 儒教って前漢の武帝の時代に国教化されたんですか? 吐蕃、柔然とかについておしえて。読み方もわかんね。 中国の王朝名ってどうやって決まるんですか? 中国王朝はそれぞれその色があるって本当ですか? 「春」「秋」「冬」という王朝がないのは何故ですか? 万里の長城は実戦では役に立たなかったんでしょうか? 中書令という役職は具体的にはどういう役割だったのでしょうか? 司馬遷が中書令を拝命したのは宮刑を受けて後の事でしょうか? 後漢の福建省のあたりについて 科挙に受かって王族に仕えた場合は去勢しなくてもいいのか? 「三跪九叩頭礼」ってどういう動作なんでしか? 残酷なことをした支配者がいますか? めっちゃ残酷な皇帝の名前教えてください。 呉楚七国の発生原因とその影響 三国時代に銀で代金を支払うということはありえたのでしょうか? 北方の騎馬民族の生活は南の農耕民族の交易なしでは成り立たなかったとの文章を見かけましたが 隋や唐の時代では租庸調のほかに雑徭は免除されたのでしょうか? 李淵の後継者争いで李元吉はなんで太子健成の側についてたの? 中国で10C頃から全体的に都が北に移動した理由って何? 何が起こって前奏は敗北してしまったのですか? 徽宗皇帝って、連行された後どうなったんですか? 岳飛廟の秦檜像にツバ吐きつけ 科挙に監視員はいないのでしょうか? 宋景詩という人について教えてください 清朝は日本をどのようにみていたのでしょうか 江戸幕府と清は貿易してませんでしたっけ? 冊封体制が長期にわたって維持されたのはなぜですか? ネルチンスク条約でロシア~清が対等な立場で臨んだのは何故ですか? 「清末売春事情」 「清末廣東売春事情」 大学設立援助とか、鉄道建設とかは列強が善意でやっているんでしょうか?。 絶対勝てるわけないとわかってるのにどうして西太后まで列強に宣戦布告したのですか? 義和団事変について質問です。 西太后が崩御したときに、口に突っ込まれた黒真珠は何でしょうか? 李鴻章の北洋艦隊の戦力は日本海軍よりもまさっていたのですか? いつになったら『清史』は編纂されるのでしょうか? 三国干渉後、日清間で改めて講和条約を改正したのでしょうか。 袁世凱の家族って袁世凱の死後皆殺しにされたって本当? 辛亥革命のとき欧米列強はなんで清につかなかったの? 孫文って結局は勢力を維持するために袁世凱に革命を売り渡した張本人じゃないのですか? 現代中国で孫文はどういう扱いになっているのでしょうか? 洪秀全の最後を教えてください。 中国内戦っていうのは米ソの代理戦争じゃないよね? 蒋介石ってなんであんなに比較的簡単に北伐を成功できたの? 南京国民政府時代、北京はどういう存在だったのですか? 上海の租界に「犬と中国人は入るべからず」という看板があったのは本当? 毛沢東ってめっちゃ人民死なせまくってなんで中国のお札になるほど偉大に扱われてるんですか? 日中国交回復したときに中国が賠償金を求めなかったのはどうしてですか?? それ相当の金額を支那に与えるのは当然っちゃ当然じゃないか なんで中国はチベットの独立を認めないんですか? 中華圏ではなぜ奴隷制が発達しなかったの? 中国史を知るにあたって日本側の資料の価値は? 中国という言葉はいつ頃からありますか? 中国は、古くは「中國」さらに古くは「中或」と表記し、その使用例としては西周時代の青銅器に金文として刻まれているものがあります。ですから、中国という単語の起源は紀元前に溯ります。 ただし、古代における中国は現在の意味とは異なり、各王朝の時代の領域の中心地を意味する漠然とした概念であって、領土全体を示すものではなかったのです。 現在の中国という国境で区切られた国家の領域を意味する用法は、中華民国以降の単語と考えてよいでしょう。 : ど~でもいいけど 投稿日: 01/09/28 23 13 『漢書』の師古注にあるので唐初期には「中国」はあった。 『後漢書』の注釈に易経引きの部分にもあるが、『周易』は読んだ事がないので、詳細は知らない。 :02/06/14 02 33 漏れもあまりコメントしたくないのだが、周代の金石文に中国の用例は存在する。 「中或」という表記であるが、「或」は「國」の古形(国がまえがない)と考えられている。 ただし、近代にいたるまで「中国」にはいわゆる地域としての支那全体を示す意味はなく、国の中心地域という意味である。 これを国名ないしは支那全体を示す意味に使うようになったのは、近代、清末頃からのことと考えてよい。 02/06/14 23 51 『太公望』なる人物は実在したのですか?『封神演義』の最後にあった太公望が朝鮮半島辺りに国を作った、というのもホントの事なのでしょうか……? 仙人である事はフィクションだとしても、どこまでが事実やらさっぱりで。。。 『史記』斉世家、『呂氏春秋』などに太公望の名は見られますから、 歴史的に実在する人物といってよいでしょう。 ただ、本名はよく分かっていません。 :02/09/30 01 25 斉国には太公と呼ばれる 羌姓で呂(甫)氏の望という名の創始者がいました。 :02/09/30 01 29 太公望は武帝が周を建てた後、封建されて斉の国の開祖となってます。 春秋戦国時代の諸国に名を連ね、春秋五覇の一人斉の桓公を出した斉です。 遼東半島を含む中国東部の国ですが、朝鮮半島あたりとは言わんでしょう。 地図参照。 ttp //www.d2.dion.ne.jp/~nob_o/map_syunzyu.htm :02/09/30 01 39 朝鮮辺りに国を造ったのは殷の王族の箕子 :02/09/30 01 51 太公望の本名や名前の来歴は諸説あり真相は謎に包まれている。 本名は羌・子牙であとから呂・尚という名前に改めたとか、もとから太公氏の望という名前であったとか。 : 03/01/20 16 54 夏王朝の誰かがお忍びで町をブラブラしてる時、「帝なんて知ったこっちゃねー」みたいな歌を老人が歌っているのを聞いて、自信喪失したみたいな話って、なんでしたっけ? それは帝堯の話では? それに自信喪失したというのは全く逆。 堯は民衆の気持ちを知るために街中をお忍びで歩き、白髪の老人が「帝力われに何かあらんや!」と楽しげに歌っているのを聞いてこれこそ自分の理想とする「為すなくして天下を治める」政治が実現したと言って喜んだという話のはず。 03/04/20 19 29 孔子がもう人肉の塩漬けは食べないと言ったのは、本当のことなのですか? 微妙にネタなんだよ。 孔子の好物が塩漬け(塩辛)で、弟子が人肉塩辛にされたから、塩辛はもう食わんと言った。 :02/06/04 06 11 儒教って前漢の武帝の時代に国教化されたんですか? それと、武帝の時代までに儒教って民間では定着してたのでしょうか? >儒教って前漢の武帝の時代に国教化されたんですか? そうです。それ以前は黄老学派が国教とは言わないまでも、漢朝の政策決定に、絶大な影響を与えていました。儒学者は、あくまで儀典係に留まっていました。武帝の時代に儒教が国教化されたのは、黄老学派の影響を受けた旧政権の要人を排除し、独裁権を確立しようとした武帝の意向によるものです。 >それと、武帝の時代までに儒教って民間では定着してたのでしょうか?儒教は、戦国時代の時点で既に大学派の一つとして定着していました。儒家のイメージとはほど遠い楚の宰相呉起は、孔子の魯における後継者である曾子から、秦の丞相李斯は、性悪論の荀子から儒学を学んでいます。 永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/06/14 00 16 吐蕃、柔然とかについておしえて。読み方もわかんね。 「吐蕃」=「とばん」 「柔然」=「じゅうぜん」 ただし中国語(あるいは騎馬民族の言語)での読み方はわかりません。 この辺の歴史については、 『遊牧民から見た世界史』(97年、日本経済新聞社 杉山正明 著) という名著があります。 : 02/02/11 16 56 柔然の滅亡は6世紀の半ば、新興の突厥に滅ぼされました。 吐蕃はどうも「チベット」の地名の音訳だったらしく9世紀にソンツェンガンポ王の王朝が衰えた(絶えた?)のちも吐蕃って呼ばれているみたいですね。 だいたい11世紀ごろから13世紀にモンゴルに服属するまで、チベット各地に仏教の教団と氏族が結びついた地方権力が乱立していたようです。 山川の「中央ユーラシア史」やその旧版「北アジア史」などが中国の周辺地域を扱う手ごろな通史ですから、まず図書館で探して読んでみると良いでしょう。 : 02/02/11 23 54 中国の王朝名ってどうやって決まるんですか? 漢や魏や唐は、建国者の封号(地名)からですよね? 宋・明・清はどうなんでしょう…? 大元・大明・大清は地名からではなく抽象名詞からの王朝名です。 大元なら「おおいなる根元」という意味で古典から取って付けたらしい。 金はたしか完頭氏の出身地が砂金の採れる川だったことからだから、元から王朝の命名法が変化したということになりますね。李自成が一時的に国を建てたときの「大順」も地名じゃないっぽいな。 宋は趙氏の出身地の地名だったかな? : 01/11/25 01 23 支那歴代の国号の称え方について書きます。 古代の唐虞から近代の明清に至るまで概ね固有名詞的な1字を用いるのが基本になっていますが、上に冠する字と下に履く字がありますので併せて説くことにします。 本体部分の文字はその国の発生の基礎となった地名によって名称が定まるのが普通です。観念を国号に用いるようになったのは元朝からと言われていますが後に言及します。経書の注釈などに堯の「唐」は広大平易の意味の「蕩」から来たものだとか、舜の「虞」は安楽の義に原づくものだとか見えていますが根拠のないこじつけです。 劉淵が「漢」李存勗が「唐」を郭威が「周」を国号としたように家系の源流に命名の由来を求めた例もありますが、劉裕も趙匡胤も「宋」を国号としたのは受禅当時の封國または領鎮に因んだものです。 清の趙翼は「廿二史剳記」の「元は國號を建て始めて文義を用ちゆ」の項に「『新』や『成』などの字を用いた王莽や公孫述も、根拠地に因んだもので文字自体の意味を採用したわけではない、『金』の場合は金が変質しないところから命名したそうだが、物質の名称であってまだ抽象的な意味から取ったものではなかった、金末に蒲鮮萬奴が遼東に拠って『大眞』と号したのが抽象観念を用いた最初の例だ、元の太祖のころは単に『蒙古』と称していたが世祖の至元八年に『大なる哉、乾元』の句から取って『大元』とした」という趣旨の記述があります。金については前代の「遼」が銀と同義の「鐐」と同音なのでランクアップしたものだという説がありますが、「金史」の「地理志」には根拠地にある川の名で女真語の金という意味ののアルチュカ(金源水)に因るものであるとあり、また蒲鮮萬奴の「大眞」については岩井大慧さんはやはり金という意味であると解釈しています。あやめは萬奴が所属民族の女真を意識して命名したものではないかと考えています。 元が「周易」の「乾」の卦の「彖傳」に「大なるかな乾元、萬物資りて始まる」の句から2字を取って国号としたのは、元号の選び方に倣ったもので紛れもなく文義から取ったものと言えます。ただ趙氏が唐末に南詔王の世隆が帝を称して国号を「大禮」としたこと、以後も雲南の国家は「大封民」「大長和」「大天興」「大義寧」「大理」などと称していて、これらはいずれも文義に因んだ国号といえるものなのに言及していないのは物足りないものがあります。 それはともかく元が文義によって国号を定める例を開いてから以後の各朝もこれに倣うこととなりました。「大明」は「禮記」の「禮器」に「大明は東に生じ、月は西に生ず」や「詩経」の「大雅」の「大明、文王に明徳あり、故に天は命を武王に復す」などに因ったものでしょう。ただし一説によると朱元璋が最初に所属していた紅巾軍では白蓮教の一派でマニ教も混えた明教を奉じていましたが、弥勒の下生と明王の出世による世直しを信じて反乱を起こしたもので、その二代目の教主の韓林児は「小明王」と号しており元璋も彼から呉王に封じられていたところ、元璋が天下を得た時点で「小明」ではなく「大明」と号したものだというのです。説の当否はともかく中華の朝号がゾロアスター思想に由来するというトピックは面白いと思います。また朱元璋は当初は「大中」という国号にしたかったのだということが、清の王士の「池北偶談」に出ていますが実現したら「大中國」となるわけです。なお元末の群雄が建てた国号は「大金」「大宋」「大漢」「大夏」などと地名由来型に復帰してしまっていますが、振るっているのは徐壽輝の「天完」で「大元」の上に画を加えて押さえつけたつもりにしているのです。 ヌルハチは「大金」と号していましたがホンタイジに至って「大清」と改めたのは天下の混一を志向したものでしょうか。その典拠は恐らく「管子」の「内業」の「大清に鑑がみ、大明に視る」だろうと考えます。李自成の「大順」については彼の部下には碌な読書人がおらず古典から引用できなくて、博打の用語にある「大順」という手の名が景気がいいからと採用したのだそうです。眉唾な話ですが清代の随筆に出ていました(書名失念)。張献忠の「大西」も智慧のないネーミングですが「大西洋」という単語が意識にあったかどうか。 清末の金石学者として知られている葉昌熾の「語石」に「王昶の『金石萃編』に『保寧寺鐘款』を挙げているが冒頭に『大宋國』と題しており、後世の『大元國』『大明國』もここから始まったと思われる、私が見たものでは『蒋舒行修六和塔記』にも冒頭に『大宋國』と題しており、私の出身地の江蘇の『郭市橋北井欄』の文中にも『大宋國兩節浙路平江府』などと書かれており、同様の事例はこの二石に止まらない」という趣旨の記述があります。国号の本体部分に対してこの「大」の字のように上に付く字と「國」のように下につく字があります。 上に冠せられる字として「語石」には上文に続けて「『有』『維』『皇』『聖』などの字があるが、『大』の字が通用されており変じて『巨』や『鉅』の字が用いられている、宋碑に『炎宋』とあるのは火徳であったからで劉氏の『炎漢』と称しているようなものだ、また『神宋』としたものもあるが漢の『周憬碑額』は『神漢桂陽太守』と題しており、これもやはり漢碑の例を用いたものである」と述べています。 「有」字は「有窮」「有扈」「有虞」など古代の国家の名に多く付けられていますが、いずれも一字の国名の語呂を安定させるために用いられたようです。しかし後世でも「有明一代の文章」とか「有清創業の基」とかいうように屡しば使用されています。「維」字も古代から発語の辞として甲骨文などにも頻見しており、ことに「維十祀」のように年月表記などには用いられることが多く、当初は「維れ王の廿又三年九月、王は宗周に在り」 (周の「克鼎」)のように王の名すらも記載されていなかったのに、後世では「維唐貞元元年仲冬十一月十有七日」(唐の「聞喜令楊夫人裴氏墓誌」)のように朝代を明記するのが普通になりました。但し「維唐」の句は「維れ唐の」のように読むべきもので「維」は以下の年月表記全体に係り、葉氏の理解のように国号表記の一部になっているわけではありません。 その他の文字は国号の美称として添えられたものとして常用されていますが、システマティックな意味を持つのは「大」字だけです。 李自成の「大順」という国号が博打の手の名に由来するという話の出所が、分らなくなってしまったと書きましたが、その後に見つかりましたので紹介します。 清初の呉偉業の「綏寇紀略」の「言妖」に「萬暦年間に民間は葉子戯を好み、趙宋時の山東の群盗の姓名を牌に圖して之を鬪かはす、崇禎時に至って大いに盛んなり、其の法は百貫の滅活を以て勝負と爲す、闖と曰ふ有り、獻と曰ひ大順と曰ふ有り、初め自りて起こる所を知らず、後に皆な驗す」とあります。「葉子戯」というのは麻雀の源流とされている紙牌の遊びです。そこに「水滸傳」の好漢の絵が画かれていて、また何貫という銅銭の額も表示されていました。 清初の陳瑚の編になる「頑潭詩話」に収められている王育の「戳讖謡序」には葉子戯の手役を解説しています。「千生は闖を用ゆ、鬪の險也」と「百老は獻を用ゆ、戰の捷也」そして「百千萬馬皆な到る、則はち順風旗にして勝の烈也」という3種です。 明末の諸賊(起義農民と呼んでる人もいる)もこの博打にはまってて、彼らの名号にこれらの文字が出てくるのは偶合ではなく、意識して使っていたのだというのが清初の人の認識のようです。 ことに「順」という字は好まれたようで李自成は崇禎十六年には「新順王」と自称し、翌年には西安で「大順」の国号を定めており、また張獻忠も成都で「大西國」を建てた際に元号を「大順」としています。 ということで李自成の国号が賭け麻雀から取ったというのも満更のヨタ話じゃないみたいです。 : あやめ : 01/11/26 17 46 >ヌルハチは「大金国」ではなく「後金国」を自称したのでは? ヌルハチの建てた国名は満州語でアイシン・グルン(金国)、漢字で「大金国」だよ。 「後金」はあくまで区別のための歴史用語。 : 01/11/26 07 50 >大元はモンゴル語のダヤンに当て字しただけときいたが? 「ダヤンの語源が大元」が正しいのでは? ダヤンって人名でしょ。 : 01/11/26 19 54 「ダヤン・ハーン」は称号で「大元汗」の謂。 十六世紀にモンゴルを再統一した「ダヤン・ハーン」の諱は場とモンケ。 : 01/11/27 06 41 「後魏」「後周」「後漢」などは確かに区別のための後世の呼び方だが、「後金」は確かに自称(金の後裔の意味)。満洲語でアイシン・グルン。漢語で後金国。 : 01/11/27 03 58 「後金」の国号が確認されるのは「李朝實録」(最近では「朝鮮王朝実録」と言わないと叱られるらしいです)にヌルハチが朝鮮國王に寄越した国書には年号を「天命二年」とし、「後金國汗」が朝鮮國王に諭すとして「七宗悩恨」(いわゆる七大恨)が書かれていまして、そこに押捺されていた篆印を解読すると満文で「後金天命皇帝」と顕出されたとの記述があります。なおこの「胡書」が朝鮮に致送されたのは天命四年のことなので、清朝文献が伝える天命建元の年次は後年になって遡らせたものと疑われることになりました。 この後も後金國汗の称号で文書を発出していたことは翌年六月の「神宗實録」に熊廷弼の奏文を引いた中にも見え、その他「三朝遼事實録」「東夷考略」「建州私志」「皇朝從信録」など多くの書籍に見えています。 その後に天命六年の寧遠の攻囲戦ころから改めて「金國汗」と称するようになったようで、天聰年間の朝鮮や毛文龍との文書の往来には全て「金國汗」が用いられています。 そういうことで少なくとも公式に「大金」の国号が用いられたことはなさそうで、御指摘のようにうっかりミスでした(A^^;;ただヌルハチの領域内では一般に「大金」が用いられていたような証跡は残ってはいて、「燃藜室記述」に引かれた「朝野鮮聞」に朝鮮と金國の誓文を載せた中に「朝鮮國王と大金國王子と誓を立て」云々とあり、また遼陽城の南門外から発見された「喇嘛法師寶塔」には「大金天聰四年歳次庚午孟夏吉旦」とあるそうです。 : あやめ : 01/11/28 18 02 漢~宋の中華王朝の国号は、基本的には、その創始者が受封された土地にちなみます。 たとえば、三国時代の魏なら、前王朝の漢から、曹操がまず魏公に封じられ、やがて形式的な禅譲で国を譲り受けました。 まあ、乱暴なたとえをするなら、たとえば、フランス王が実力のある家臣をノルマンディー公に封じ、そのノルマンディー公が下克上でフランスを乗っ取って王になったとします。以降、その国全体がフランスではなく、ノルマンディーと呼ばれるようになる、と、そのようなルールが中国にはあったのだと考えてください。 ちなみに、満州族の金・清、モンゴル人の元、創始者が農民出身の明、太平天国などは、前王朝に受封されたことがないので、縁起のよい字を勝手に国号にしています。また、「劉」姓の人間が国を建てると、国号を漢にしたがる傾向があります。 03/05/05 03 36 中国王朝は、陰陽五行説によって、それぞれその国の色があるって本当ですか? 確かに、黄帝や、蒼天すでに死すとか、あるんですがほんとのところはどうなんでしょうか? 五行交代理論には相勝説と相生説があることは御存じかと思います。前者は戦国末の鄒衍が唱えたもので木金火水土の排列で、後者は漢の劉向・劉キン(音+欠)の父子が唱えたもので木火土金水の順序です。配色の対応は木青・火赤・土黄・金白・水黒となっています。 五行を歴史上の王朝に配当するようになったのは鄒衍が五帝に五行を割り当てたのから始まったようです。この際に彼が基準としたのは同時代の周を火徳とした点です。これについて京大儒学の開祖というべき狩野君山は当時においては周が火徳であることは当時の通念となっていたので、鄒衍もこれを原点とせざるを得なかったものであろうと論じています。そして前代の殷は金徳で夏は木徳で虞(舜の国家)としたもののようです。周が火徳ということであればこれを打倒した秦は自ずから相勝説により水徳ということになります。「史記」にもそう書いてありますし大方の学者もこれを支持しています。ただ栗原朋信さんは始皇帝は周を継承したとの意識は持っておらず、水徳の採用は疑わしいと主張していますが少数説たるを免れません。 漢になってから文帝の時に賈誼は上書して土徳の採用を提案していますが、当時はまだ秦の制度の変革に着手できずに経過していました。武帝の時代になると丞相の張蒼は秦を無視して直接に周を継承して水徳を採用すべしと提議し、民間人の公孫臣はやはり土徳を採用すべしと主張し対立しました。結局は武帝により土徳説に従い服色を黄とすることに決定を見ました。前漢の末になると劉向は相生説を提唱し始め漢は火徳となるべきものと説きました。この説の背景として考えられるのは漢の高祖の先祖は堯であるとする情報が一般化したことです。高祖の先祖については下記のスレッド「春秋戦国を語ろう」のあやめのレス34を参照してください。 http //mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=whis key=978123589 ls=50 「禮記」の「月令」は古書中では相生説の順序に対応しているので、これにより周木徳・殷水徳・夏金徳・舜土徳と遡っていくと堯は火徳となり、漢と徳運が一致することとなり、高祖を白帝の子である大蛇を斬った赤帝の子とする伝説とも照応し好都合であったのです。 こうして漢は火徳とするアイデアが提唱されることになりましたが、この説を推進したのは劉向の子で王莽のブレインとして活躍した劉キン(音+欠)です。王莽はかねてから舜の子孫という系図をひけらかしていた人で、舜が土徳ということであれば漢の天下を簒奪するのに好都合なわけです。彼は万事こういった迷信じみた理念が好きな人物で、意識的に利用したのか本気の思い込みか政権の獲得維持に積極的に持ち込んでいました。これに対し王莽打倒に反乱を起こした勢力が眉を赤く塗っていたのは、漢の復興を表向きのスローガンにしていたためでしょう。相生説は急速に定着していったと言えるでしょう。 後漢末になると今度は反乱勢力が土徳説を利用するようになりました。言うまでもなく「黄巾の乱」です。また漢に代わって皇帝になろうとした袁術も黄帝の子孫と称し、その国号を「仲家」としたのも土徳に属する方位が「中」であったからかと想像されます。漢に代わって建国した魏が「黄初」呉が「黄武」の元号を用いたのも土徳を意識したためです。一方で蜀では「炎興」の元号を採用しているのは火徳の再興を祈念したものです。王莽や曹丕が武力による政権の奪取ではなく、古の聖帝のように平和裏に易姓を実現したかのように偽装する禅譲プロセスのためには、相生説は絶大な効用を発揮しました。そして相勝説は政治手段としては顧みられなくなってしまったのです。 以下の各王朝の徳運と服色を摘記しておきます。 魏・呉=土黄、晋=金白、後趙・北魏・宋=水黒、前燕・南斉・北斉・北周=木青、前秦・梁・隋=火赤、陳・唐=土黄 なお北魏は当初は黄帝の後裔と称していたため土徳を採用していましたが、孝文帝の時に前秦を継承して土徳とすべしという説と晋を継承して水徳とすべしという、両説が対立しましたがやはり統一政権である晋の金徳を継承することに落着しました。また唐でも玄宗の時に当初は漢の火徳を継承したものとしていましたが、5年後にはやはり隋を継承したものと決定しました。 五代になると後梁は金徳ですが次の後唐はこれを無視して唐の土徳を維持することとし、後晋が金徳で後漢は水徳となり後周は木徳で宋は火徳という徳運となっています。以後の王朝では五行の徳運については全く廃棄されてしまったようです。その事情としては禅譲という手続きが顧みられなくなり、剥き出しの武力で天下の奪権が実行されるようになったという歴史の様相の変化からかと思われます。 王朝の称号もそれまでは政権獲得の前段階の封号に由来するものであったのが、「大元」からは易経から取義することになり「大明」「大清」も古典籍から嘉字を選ぶようになりました。国家の観念も天子の家族の私産という意識から脱却したものへと変化していったように見えます。 あやめ :2001/01/24(水) 19 46 中国史上には、「夏」という国号の王朝はいくつかありますが、「春」「秋」「冬」という王朝がないのは何故ですか? 「夏」を国号とする2つ、五胡「大夏」と「西夏」は、現在の陝西省の黄河流域にあった「夏州」の地縁による国号の命名。季節の「夏」ではない。 :04/04/05 16 21 まあ、よく知らんけど、白川静の「字統」を見てみたら、「春」「秋」「冬」は元々季節に関わる文字だったが、「夏」だけは、転義として四季の名に使われるようになったらしいな。 「夏」というのは、本来、「儀容を整えて舞う人の形」から得られた象形文字だったが、舞踊・舞楽こそが文化の精髄だということで、「文化・文明」をも表すようになり、さらにそれが転じて、「蛮」に対する「中華」、さらにはそれを体現するとされる特定王朝に対しても用いられた、と。 04/04/05 17 30 「夏」とは、盛ん、大きい、というのが元々の意味。 そこから、盛んな季節:summer → 「夏」の字を当てる。 「禹夏」は夏州由来かどうか、どこにあったか不明。そもそも存在自体が不明。 「夏州」はどうしてそういうのかは不明。 04/04/05 17 35 万里の長城は実戦では役に立たなかったんでしょうか? 万里の長城が実戦にそんなに役に立たなかったのは本当。始皇帝が作った奴は馬が飛び越えられない程度の物だから。現在のレンガ造りの奴はそれなりに役に立ったようだが、それでもエセンに英宗が捕縛されるようなこともあった。ただ、万里の長城の建造理由が実際の防衛のためよりも国境線の明確な主張をするための意味があると言う説もある。 04/08/22 23 25 長城は防壁というよりは、レーダー網のような使い方をされていた。敵が来たら警備兵が烽火を上げ、援軍を呼ぶ。壁部分は敵の進軍を遅らせるのが主な目的で、完全に敵を防ぐことまでは期待されてなかった。 04/08/23 01 15 長城は援軍を呼び出す&時間稼ぎが主な目的なんで、やってきた援軍が弱かったらどうにもならない。土木の変の敗北は呼び出されてきた援軍がアフォの英宗だったからで、長城がどうこうという問題ではない。 04/08/23 01 21 騎馬民族だって、簡単な壁ぐらいなら壊せるし、明代の立派な長城は壊すことは無理でも、壁に登るスロープを作る程度のことはできるよ。土を掘って壁際にどんどん積んで固めりゃいいだけなんだから。ただ、工事に時間をくわれて、その間に反撃の態勢を整えられる。特に、長城の南に侵入する時より、帰りが危険。あちこち転戦してると来るときに確保した侵入ポイントに戻れるとは限らない。そうなると、逃げるに逃げられず、工事をしている間に全滅する危険もある。長城は侵入自体を防ぐよりも、侵入後の敵を本国と分断し、戦いやすくする効果が大きい。 04/08/23 02 33 耶律楚材について聞きたいんですが、彼の中書令という役職は具体的にはどういう役割だったのでしょうか? 主に修史を担当する役職です。上位に大書令がありまして、修史と暦法を担当していました。中書令として有名な歴史人物としては、司馬遷が上げられますね。 357 :03/07/27 00 46 ただ、楚材は漢族の統治と、モンゴル帝国の立法関連にも関わっていたとされていますが、杉村氏が主張されるように宰相としての楚材像は誤りではないかとする異説もあるようですね。 357での回答はとりあえず漢代の中書令の職務という事で・・・・。 :03/07/27 00 54 補足すると漢の中書令は宦官ぞよ。後世は違うけど。 :ハナアルキ ◆NRtIkON8C2 :03/07/27 00 57 中書省は枢密院、御史台と共に百官を統轄し、政治を行う機関とされています。枢密院は軍事、御史台は監察を担当そ、中書省は行政を担当します。この3つの国権の最高機関の中で最も格上なのが、中書省。その長官が中書令ですが、通常臣下が就く事はありません。 だいたい、中書令は皇太子が務め、その副官である中書右丞相、中書左丞相が事実上の帝国宰相となります。モンゴル・元の歴史を通じて、臣下でありながら中書令になったのは、耶律楚材だけです。 ただ、この時期は帝国の官制が定まっていた時期ではなかったので、中書省の長官というよりは、彼の中書令は皇帝の秘書官長といった方が適切だったかもしれません。あるいは、漢土における中書省の代表という役割で、漢土の行政を担当していたのかもしれません。そう考えれば、彼の政治家としての活躍が漢土に偏っていることや、イスラム系の史書で彼の名前が出てこないというミステリーも解決できます。 耶律楚材の中書令が、モンゴル帝国の帝国宰相職なら、イスラム系知識人も、彼の動向には強い関心を払うでしょうから、史書に彼の名前を残さないということは考えにくいです。 :永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/27 02 24 司馬談が太史令を拝命していたのにもかかわらず、子の司馬遷が一段劣る中書令を拝命したのは宮刑を受けて後の事でしょうか?宮刑を受ける以前は世襲の面が見受けられた太史令の任についていたのでしょうか? 太史令は太常の下の一部門の長でしかありませんよ。 「司馬親子が就いたから偉いはずだ」という思い込みからか、太史令がすごくエライ官職として捉える説も昔から確かにあったのですが。 むしろ司馬遷は宦官にされ中書令になって出世したのです。前漢の中書令は政府から上がって来る文書、皇帝が出す詔を管理し、時には詔書起草などにも関与したらしい官です。しかし後宮内が仕事場であり、宦官しか就任出来ませんでした。 司馬遷は太史令→切断→中書令ですね。 :ハナアルキor怨霊 ◆NRtIkON8C2 :03/07/27 01 40 今月号のナショナルジオグラフィクスでは漢王朝特集でしたが、掲載されていた後漢の地図では、福建省のあたりが支配領域に入っていませんでした。 ビン越が歴代王朝の支配地になったのは三国時代。吉川弘文館の歴史地図でも西漢(前漢)時代は属国、東漢(後漢)は白色となっている。 ?越=福建省は今でも中国では一番の多雨多湿気候で、中原の乾燥気候になれた人にとっては苦手な地域。中国共産党がこの近く(瑞金)に最初の根拠地をつくったが、ほどなく長征に出発したのもここの気候に耐えられなかったからという説もあるくらい。 04/02/20 10 10 それと福建省の地形的な理由。 地図を見てもわかるとおり、小規模な山や山脈がたくさんあってそれらの間に細かく分かれた土族をことごとく支配するのは容易ではない。 清滅亡~辛亥革命期に日本が福建省を勢力下にしたのも、日本領台湾の対岸であったのと、列強のぶんどりから取り残された地域であったため。 04/02/20 10 23 以前泉州市に梅雨の頃に行ったことがありますが、もう日本の梅雨の比じゃありません。 最悪です。内陸には行きませんでしたが、地元の人でもこの山また山の地形はなかなか覚えられないそうです。二千年前のビン越がどうだったか、詳しい知識はありませんが、中国世界の一員になったのは三国の呉が南方を平定してからだと言ってました。おそらく「虫」と見られるような人々がいたのでしょう。 吉川弘文館の歴史地図によりますと、広東省~海南島~ベトナム北部一帯は前111年に平定、とあります。 宦官は去勢して王族に仕えたらしいですけど科挙に受かって王族に仕えた場合は去勢しなくてもいいのか? 支那の皇帝の臣下は、内臣と外臣にわかれます。宮廷も外廷と内廷とあって、日本で言えば、内廷が大奥に相当します。内廷にあって、皇帝のプライベートな事項について仕えるのが内臣で、これが宦官でなければならないということでした。 逆に、公的な政治や行政、軍事を行う臣下は外臣で、中心となるのは科挙によって選抜された官僚でした。こちらは、去勢とは関係ありません。 本来のルールでは、内臣である宦官は政治に口出しをしてはいけないということになっていましたが、常に皇帝の側にいることから、しばしば宦官が政治的な権力をも手中にすることがあったということです。 01/09/10 19 26 「三跪九叩頭礼」ってどういう動作なんでしか? ベルトルッチ監督「ラストエンペラー」によれば 号令係のかけ声 大臣たちの動作 「跪!(ホイ!)」 気を付け姿勢から土下座 「一叩頭!(イーコートーゥ!)」 おでこを地べたにゴッチンこ。 「再叩頭!(ツァイコートーゥ!)」 おでこを地べたにゴッチンこ。 「三叩頭!(サンコートーゥ!)」 おでこを地べたにゴッチンこ。 「起!(チー!)」 」 立ち上がって気を付け! これを三セット。 :ドドンガ :02/10/09 05 00 中国の皇帝の正妻が皇帝の死後、お妾さんの目、耳、鼻、腕、足を斬って、人間便器にしたそうです。あまりに残酷ですが、他にそのような残酷なことをした支配者がいますか? この話は漢の高祖、劉邦の正妻、呂后についてですよね? たしか第二夫人の戚夫人を両手両足切断、目玉をくりぬいて耳を切り取る(焼くだっけ?)喉をつぶして便所に落とすというとんでもないことをやった人物(鼻は切り落としたっけ?)これで生きていた戚夫人もすごいといえばすごいかもw 03/05/10 21 18 めっちゃ残酷な皇帝の名前教えてください。 朱元璋 数々の疑獄事件をでっち上げて数万単位で官僚・功臣を殺した。 当時の官僚は出勤に際して、これが今生の別れかもと、妻子と抱き合ってから出勤した、という逸話が残っている。 皇帝を褒め立てる上奏文をある人が出したところ、そのなかに「光」という字があるのを見つけて「おれが貧乏時代に坊主をやってたのを皮肉ってる」といって上奏者を死刑に。 などなど。 2005/05/29(日) 22 22 02 0 永楽帝とかも酷いが、後趙の石虎は残虐だぞ。 太子を殺した別の息子の手足切断、舌抜いて目を潰して殺してるぞ。 息子も猟奇趣味(宮女の首を飾って眺める、比丘尼を犯して殺す)だし、養子の冉閔もそうとうな虐殺者だ。 2005/05/30(月) 01 12 52 金の海陵王亮も。 2005/05/30(月) 06 59 11 呉楚七国の発生原因とその影響 マグロな見方をすると、旧秦VS旧六国(戦国の秦以外)の最後の決戦と言えないことも無いでしょう。秦の統一がすぐに敗れたように、始皇帝の時点では秦には真の意味で中国全土を征服・支配するほどの力は無かったのです。しかし秦の覇業は漢へ形を変えて受け継がれました。漢は全土を郡として直轄するのではなく、経過措置として半独立政権としての諸侯王を認め、争いを避けつつ再度征服するだけの力を蓄えたのです。と同時に諸侯王の領土を細切れにするといった諸侯王対策を施し、来るべき決戦に備えたのです。 旧六国側の勢力では、元々強国だった斉や、直接漢王に攻め込まれはしなかった楚・呉方面がかろうじて漢に対抗しうる力を持っていたと思われますが、斉は漢によってバラバラに分解されて対抗勢力としては虫の息でした。楚王、淮南三王、呉王は漢から離れている事もあってそれぞれ真の独立を勝ち取るために富国強兵に勤めましたが、結局のところ漢もまた同じように力を蓄えてゆくワケで、走っても追いつけないアキレスと亀。 漢が皇帝権力の伸長と経済力回復を進めてゆくのを見た旧六国サイドは、もはや待てぬとばかりに文帝死後の不安定な時期を狙って兵を挙げたのです。 殆ど破れかぶれだった旧六国に勝ち目はなく、これによって漢は旧六国の未征服地域を支配化に置くようになりました。 かくして漢は秦代の領地を回復し、名実共に統一王朝となったのです。 匈奴や域外への攻勢、封禅、政治制度の変革といった後の諸政策は、この乱によって国内を統一した事が基盤となっていたのです。 03/07/02 00 08 中国の三国時代に銀(銀貨ではありません。銀の塊です)で代金を支払うということはありえたのでしょうか? ふぉ。支那の貨幣史ではの、三国時代から隋代は貨幣鋳造が低迷した時代とされておってな、貴金属が不足し、まともな銅貨もそろえられんで鉄銭が鋳造されたような時代じゃ。じゃから、日常的に銀貨で支払いをするという描写があれば、それはちと怪しげな記述ということじゃな。 しかし、漢代には金貨銀貨も鋳造されておったのじゃから、いかに国外に流出し退蔵されたからと言ってもな、いつの世にも、ほれ、ある所にはあるというやつじゃ。特別の場合に取引の対価として銀塊が出てきても、それがありえないというほどのことでもないじゃろの。 :03/08/17 22 28 明代に中国で銀が主な貨幣として流通するようになったのは、新大陸の銀をヨーロッパ商人が持ち込んだのと、日本の銀を大量に輸入するようになって、銀の流通量が急増したからでした。そのため貴金属扱いだった銀の相場が急落して、春秋戦国時代以来の主な貨幣だった銅銭に変わり、普通に通貨として流通するようになったのです。 三国時代の史書にも、銀に関しては恩賞として賜ったいう記録が大半を占めますが、魏書甄皇后伝に飢饉でみんなが金銀珠玉を売りに出して食糧を手に入れようとした時、穀物をたくさん持っていた甄皇后の実家が大儲けしたという記事、蜀書麋竺伝に麋竺が金銀貨幣を供出して軍資金にしたという記事、蜀書李恢伝に異民族叟族が納めた牛や馬や金銀や犀の革を軍資金としたので、軍事費に困らなくなったという記事があります。 おそらく、牛や馬や犀の革は軍資金と言うよりは軍需物資に使ったのでしょうが、銀が支払いに直接使われたのが確実なのは甄皇后伝だけで、蜀書の二つの記事では銀を直接軍事費の支払いに使ったのか、それとも銀を売って銅銭、あるいは布や穀物に換えて支払ったのかは分かりません。この時代は貨幣経済が弱体化して現物交換が盛んになった時代と言われています。布や穀物が通貨として流通するようになった時代ですが、それでも銅銭は流通していたようです。 :永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/08/17 22 33 北方の騎馬民族は歴代の中国王朝の脅威になっていますよね。でも彼らの生活は南の農耕民族の交易なしでは成り立たなかったとの文章を見かけましたがこれはどういうことなんでしょうか 「南の農耕民族(漢民族)との交易」と思います。遊牧民は、漢民族から、彼らの優れた文化・生産物を交易により入手することで、自らの文化と生活を向上させていったということだと思います。また、漢民族より、北方に生活しているため、天候不順のとき食料を強奪していくこともありました。 :03/08/24 16 17 中国の優れた生産物ってこともありますが、そもそも遊牧の生産物だけではどうしても栄養が偏るので交易が必須です。中央アジアやイラン・アフガニスタンのように遊牧民と定住民が接して暮らしている地域では遊牧民が農耕民と付かず離れずの様がより顕著に見られます。 :03/08/24 19 06 つーか、騎馬民族で間違いとは言わないけど、普通は匈奴なんかは遊牧民と呼ばないかな。 んで、南方の農耕民との貿易がなければ成り立たないという根拠がよく解らないな。確かに、喫茶の習慣が入ってからは茶を入手するための交易が必要になったと言えるだろうが、漢代あたりでは交易が必要ということもないだろ。少量の交易ならば、ずっと継続していただろうが、基礎的な食料などを交易に頼っていたわけではないし、むしろ漢族との交流によって文明化というか中華風に染まった連中が、もともとの質実剛健な遊牧民にとってかわられるというパターンが多かったように思うが。 :03/08/24 19 54 遊牧文化というのは、農耕文化よりも新しく出現し、動物の乳製品や肉類を摂取し、畜獣とともに移動して生活するという自給型の生活文化ですから、衣食住のすべてが一応は自給可能です。 ただ、理解できないのは普段は分散して生活している遊牧民が歴史上、突然のように集結して農耕民というか、この場合は中華帝国に侵攻するのですが、そのきっかけはなんなんでしょうね。人口増圧力によるものなんでしょうか。 :03/08/25 21 23 府兵制についてですが、隋や唐の時代では租庸調のほかに雑徭は免除されたのでしょうか? 「在郷期間は農閑期に軍事訓練を受けた」ってあるから雑徭は不可能では? :03/06/05 11 53 レポートで隋唐演義について調べてたんだが、李淵の後継者争いで李元吉はなんで太子健成の側についてたの?単純に太子健成と仲良しさんだったから? 李世民のほうが、切れ者過ぎたということらしい。 この三人兄弟は仲がよくて、かなり年をとってからも、いっしょのベッドで寝ることも合ったらしいが。ただ、世民が切れ物過ぎて不気味という感じを受けたらしい。 04/06/27 15 11 中国で10C頃から全体的に都が北に移動した理由って何? その質問には大きな事実誤認があります。10世紀頃の中華の統一王朝北宋の帝都開封は、現在の河南省です。秦の帝都咸陽(現在の陝西省)、前漢や唐の帝都長安(現在の陝西省)、後漢や西晋の帝都洛陽(現在の河南省)など、過去の統一王朝の首都と比べても、特に北に寄っているということはありません。 初めて中華の統一王朝の首都が北方に置かれたのは、13世紀の元帝国の大都(現在の北京直轄市)が最初です。 :永遠の青 ◆V9k1yZSe4M :03/07/20 22 06 ヒスイの戦い(383年、東晋と前奏の戦い)で前奏が約90万の軍隊だったのに対し、東晋はわずか7万人ほどで勝利したらしいです。いったいどんな戦い方、または何が起こって前奏は敗北してしまったのですか? 簡単に言うと、滅ぼした異民族を信用し、重用してきたが、肝心なときに裏切られた。東晋は漢族の正統な王朝でもあるし、そういう意味でも士気が上がらない部分があった。 簡単な説明なら ttp //members.jcom.home.ne.jp/collonnade/china/china03s.html この辺にもある。 04/09/20 19 22 32 徽宗皇帝って、連行された後どうなったんですか? 徽宗皇帝はね、満州の奥地に連行され、そこで自給自足に近い俘虜生活を強いられた。そして失意のうちに五十代で亡くなった。息子の欽宗も、やはり捕虜のままで数十年後、失意のうちに亡くなった。 04/07/03 23 10 岳飛廟の秦檜像にツバ吐きつけ 実利追求に徹している支那の一般民衆が急に忠君愛国思想に目覚めるかしら?やっぱり御利益があるって迷信が存在するので皆ながやるようになったらしいわよ。そうじゃなきゃ岳飛廟の秦檜像にツバ吐きつけないでしょう : 01/11/05 17 23 この習俗の背景には支那人の「痰吐き文化伝統」というべきものが存在します。何年前でしたか清朝の宮廷文化に関する展覧会があって、乾隆帝の書斎が復元展示されていました。そして豪奢を極める調度の中に立派な痰壷が帝のお机の傍わらに麗々しく置かれておりました。 「日中国交回復交渉」の際に小平だったかが田中角栄首相とやりあってる最中、むづかしい局面にさしかかったら突然と氏が立ち上がって部屋の隅までゆくと、「カーッペッ」という喉音高く盛大に痰を吐きつけたそうな。さすがに負けない角栄氏これまた別の隅に「カーッペッ」 : あやめ : 01/11/07 20 36 科挙に監視員はいないのでしょうか? カンニングは見つかれば罰せられたんでしょうか? 監視員はいませんが、答案のチェックは大変厳重だったようです。誰の答案かわからないように名前に封をしたりしてます。それでも、はじめのほうに名前のわかるような書き方をして、試験官とグルになっていたのは結構いたとか。清の末期にバレて試験官も受験生も何人も死刑になりました。 :アマノウヅメ ◆2atuWPtiaQ :03/07/27 15 52 ちなみに、科挙の主席合格者を「状元」と呼ぶが、横浜中華街の「状元楼」の名はこれに由来する。まぁこれはどうでもいいな。んで、主席合格者の答案はほかの受験者の答案の上に置かれたことから、優れた文章や業績の形容として「圧巻」という言葉が出来た。 :03/07/27 16 29 宋景詩という人について教えてください 宋景詩は山東の堂邑の出身で豆腐屋をやっていた貧民でしたが、白蓮教系の八卦教に参加していたようです。咸豐十一年に地租増税反対一揆を起こし、白蓮教軍の一翼として「黒旗軍」と呼ばれて活躍していましたが、形勢が不利になると清の討伐軍に投降し、勝保の下で安徽・河南の捻軍や陝西の回民の反乱の鎮圧に従事していました。 翌年には脱走して表面上だけ清軍に協力するふりをして、白蓮教軍の鎮圧に差し向けられると白蓮教軍や太平軍の残兵を収容し、自軍の隊伍を強化拡大し地主の民團勢力と衝突を反復していました。当初は山東や河南の民乱に牽制されて武力対応の余裕がなかった清側も、同治二年四月には僧格林沁の軍を動員して九月には開州で宋軍を撃破しました。その後は安徽で捻の苗沛霖や湖北で太平軍の張宗禹の軍に参加して活動を継続し、四年には曹州で僧格林沁を戦死させたのは彼だということになっています。 その後の消息はやや曖昧で亳州で捕縛され安徽省城で処刑された、許連升という拝み屋の男が実は宋景詩であったとも、それは別人で光緒二十六年に故郷に姿を見せたとも色んな伝説が語られているようです。 彼の名は「清史稿」の「文宗本紀」や「勝保傳」などに断片的に出てきますが、余り注目されない人物でした。一躍有名になったのは「武訓批判運動」に関連したキャンペーンからです。当初は山東地方で乞食から富農になり慈善事業を行った武訓という人物の顕彰運動があり、実は彼は偽善者で農民の抑圧に狂奔していた「悪覇地主」の典型だという暴露キャンペーンに変わっていきました。その中で武訓の後援者の揚樹坊の一族が中心となっていた柳林鎮の民團が、宋景詩と最も激しく対立していたことが明らかにされ、毛主席のお声がかりで「農民起義英雄」として宋がクローズアップされることになったのです。当時の編纂に係る「宋景詩史料」という本があったと記憶します。 : あやめ : 01/11/12 13 56 清王朝は江戸幕府(当時の日本の意で)に対して属国支配あるいは従属支配冊封朝貢体制に組み入れていたのでしょうか? 清朝は日本に対してどのようにみていたのでしょうか 日本は確かサンポ事件以来中国締め出しだったと思う。中国側にとって見たら冊封体制に入っていたのは戦国中期まで。 でも琉球台湾や東南アジアで出会い貿易をしていたから中国との密貿易はあった。 04/02/09 01 08 江戸期の日清関係は民間交易のみであり、朝貢・冊封関係は存在しません。江戸日本は清を中心とする国際秩序の外側にいます。徳川将軍が対朝鮮外交で「日本国源○」とのみ称したのもそのためです。 清朝から見て日本は朝貢国でも属国でもありませんが、対等とは見ていません。単に礼儀知らずの野蛮国という扱いですw 04/02/09 01 11 江戸幕府と清は貿易してませんでしたっけ? 幕府は、オランダと清だけ公認で貿易できるみたいな。やはり幕府認定の清との貿易となると、朝貢体制に組みこまれないでできるんですか? それと、鄭成功が日本に援軍を依頼した件に対して清朝は江戸幕府に何も言わなかったですか? ふぉ。明清代の中華帝国の貿易関係はの、朝貢と交市という二種類があったのじゃ。朝貢貿易というのは良く知られておるとおり、形式的には貢物を持っていくと中華皇帝から見返りとして下賜される品々があり、遠隔の地から朝貢すると大きな利益を得ることが出来たというものじゃな。 もうひとつの貿易形態としては、交市というものがあって、これは単なる交易関係を結ぶもので、朝貢は儀礼をつかさどる礼部が対応したのに対して、交市は蛮族を相手にする理藩院が対応したのじゃよ。 朝貢国はその実態として、実際には清の軍事力の及ばない遠隔の地から貿易にくる者を「中華帝国の繁栄を慕って蛮夷が服属してきた」ということにして利益を与える場合と、朝鮮などのように実際に清の軍事力の及ぶ範囲の従属国が混在しておっての、すべての朝貢国が有利な貿易関係にあったわけでもないのじゃ。 で、日本は室町時代の足利義満が明に対して有利な貿易を求めて朝貢関係を結んだが、これを次の代の将軍が破棄しておるので、江戸幕府の代では朝貢ではなく、交市という位置付けでの交易が行なわれたということじゃ。 本来、朝貢関係を結んでこれを破棄すれば、中華帝国から膺懲の師といって、軍事的介入を受けてもしかたがないのじゃが、明からすれば、元寇の失敗の故事もあることで、 「野蛮人はしょうがない」ということでそのままとなったということじゃな。 495 :世界@名無史さん:04/02/09 22 15 495 「理藩院」を持たなかった宋代・明代において、「交市」を管轄していたのがいかなる機関なのか、解説してください。 04/02/09 23 19 中国と朝貢国との冊封体制が長期にわたって維持されたのはなぜですか? 圧倒的な軍事力と経済力の差。 周辺国の朝貢・冊封体制は、中原に大国が形成されやすかったことの結果にすぎないし、経済的・軍事的に自立していれば、例えば、日本のように朝貢も冊封も必要ない。 朝貢したのは、なにも、外国ばかりではなくて、本国の中でも領地を封じた諸侯からの朝貢を受け、冊封を出している。 本国、属藩・外国という意識すらなく、中央に近く御しやすいところから段々と遠方にゆくに従い思い通りになりにくいところ、というくらいのものだ。影響力が限界のところ、ビルマとかマラッカのように、言うこと聞かないから攻めてねじ伏せるというようなことがおよそ不可能なところでは、大国に対する儀礼以上のものは求めず貿易を許すという形になるわけだ。 04/06/04 06 38 朝貢する側にとっては、朝貢は、朝貢という名目の実質的な貿易で、直接的な利益につながる。 朝貢させる中国にとっては、朝廷の権威づけとなる。 双方にメリットがあったので長く続く。 438 :世界@名無史さん:04/06/02 17 44 438 それは、今のビルマやらタイやらヒマラヤやらジャワ島やら中央アジアなどの遠かったり小国だりするところに対しての施策。 東トルキスタンや蒙古や朝鮮なんかの近接の属藩には、軍備を制限したり、経済力を持たないよう収奪的な朝貢を要求したり自立しないよう産業を制限したり、人質として世子を本国に連行し属藩の王位の継承は本国で洗脳済の世子に継承させるよう干渉したりなど、がんじがらめだよ。 452 :世界@名無史さん:04/06/03 20 02 朝貢であれば 452の「収奪的な朝貢」はあり得ない、と言っておく。 その他の施策で経済力が過度に付かない様にコントロールすることはあったが、それは朝貢とは直接関わりはない。 それ以外については、まあ、そんなもんかな。 朝貢は、相手国にとっては経済的魅力は大きいが、中華帝国にとっては、周囲の安全保障と言う観点から見れば「損」と言うわけではない。王朝の盛時には「得」な事の方が多いと思われ。ただ、王朝の衰退期には、朝貢が重荷になったことも確かな様で、朝貢の回数を限ったりしようとする例も見られた。 455 :世界@名無史さん:04/06/03 22 52 455 遠方の諸国はそうだ、 背後にも中原王朝の味方が居るぞ、と、近隣の属藩に示すために、その背後たる遠方の諸国の朝貢には手土産を沢山持たせるし、とりたたて支那の側からの要求も無い。手土産もたせるのが財政的に苦しくて、朝貢の間隔を空けるよう要請することもあったようだ。 近接した属藩に対しては、締め付けの意味合いの方が大きくなる。支配体制なんだから、他の施策とも連携して行う。一種の税だから朝貢の品目や数量にも注文が付くし、王族の中から宗主側が指名して直接来させる、返使という名目での監督官の派遣もあるという具合にガチガチだぞ。 明や清の、琉球に対する扱いが、タイやビルマなどの遠方との扱いと同じくらいに緩く、逆に島津藩や徳川幕府からの扱いが過酷だったために、「朝貢・冊封は緩い」という誤解を生じたのだろう。 朝鮮、新疆、蒙古など、近接の属藩に対する締め付けは過酷なものだったことを忘れるな。 456 :世界@名無史さん:04/06/04 06 12 456 だから、「朝貢」に関して言えば「収奪的な朝貢」はあり得ない、けれども冊封体制そのものが収奪的でなかったかと言えばそんなことはないってことだよ。 朝貢と冊封は確かに対のものだけど、意味合いは違うんだから一緒にするな、と言うことだ。(収奪的に朝貢を行ったら、その王朝の権威が疑われるぞ。)朝鮮や吐蕃、西域諸国も、こと朝貢のみで考えれば中国の出超だったのは間違いない。 何度も言うが、冊封体制そのものは近隣諸国にとって収奪的でないとは言えない。人質もとられたし、軍隊に兵士を徴用されたり、多くはなかったものの、王自らの入朝を求められることもあった。 458 :世界@名無史さん:04/06/04 07 39 458 朝貢して冊封を受けないことは無いし、冊封こそが自体が本国属藩双方の朝貢の目的なんだから、同時に論じなければならない。 隣接地では、専ら朝貢は徴税だ。権威は圧倒的な軍事力があるだろう。時代の近い方から、清、明、元と、三つの中原王朝から連続して直接的な派兵を受けて、いわば、力づくで朝貢を要求されている。この場合には本国から与える文物による権威づけは要らない。 明と足利政権、明・清と琉球のような、中原との軍事的な対立の無い場合には、おまぃさんの言う、大国の威信づけのために与える文物が華美だったが、これはこれで、同じ形をとりながらも別の目的だったことを忘れないように。 465 :世界@名無史さん:04/06/04 18 49 ネルチンスク条約でロシア~清が対等な立場で臨んだのは何故ですか? 三藩の乱も制圧して怖いもの無しだと思うのですが・・・清の絶頂期ですよね 欧州が中国と同格と認識されてたのですか?それともロシアが威圧したのですか 康熙帝がその辺の”格”にこだわらなかったのでしょうか。 条約により、中国はアルバジンの土地を中国領と確認、ロシアは交易の実益を得た。当時ジュンガル地方のガルダンと清は抗争中でロシアと連携するのを恐れる弱みがあった。中国向けの文面は朝貢体制をにおわしていた。 04/02/25 23 33 「清末売春事情」 時代としては咸豐からということで、場所は黄河流域を代表する北京、長江流域を代表する上海、珠江流域を代表する廣州、この3都会について変遷を記述することにします。 わが文化二年に刊行された岡田玉山編「唐土名勝圖會」には嘉慶年代の北京城内の青楼の景観が描かれていますが、東城の燈市口の一帯のことだそうです。清末のジャーナリストとして知られている王韜の「燕京評春録」によると、北京の遊郭は咸豐・同治時代は多くは城外に在ったのが、光緒の初年に西城内の磚塔胡同(俗に口袋底と呼ばれている)に移ったということです。民國の之誠著「骨董瑣記」に「塔西雑記」を引いて磚塔胡同・城隍庵・銭串胡同・大院胡同・三道柵欄・小院胡同・玉帯胡同などの色街が複雑に連接していると記述しています。ごぞんじかもしれませんが「胡同」というのは北京に特有の横丁というか路地です。そういう裏町みたいなとこに娼家が数十戸ひしめいているわけです。経営者は当初は北京または近郊の出身者だったのが清末には天津人が大半になっていたようです。こうした娼家の大店のうち雙喜・天喜・天順などは自己資金で地所を買い求めた者であるが、それ以外は殆どが賃借であるとも書かれています。こうした店は光緒初年は皇族や官僚で賑わっていたのが、後にお上から城外に追い出され光緒末年には殆ど民居になってしまっていたようです。 清代の野史の中でも最も知られている「清稗類鈔」には「道光以前は京師にては最も像姑(かげま、ニューハーフ)を重んじ、絶えて妓寮少なし、金魚池等の處は輿隷(江戸で言えば中間や人足)の群集の地のみ、咸豐時には妓風大いに熾んにして、臙脂・石頭の胡同は家ごと紗燈を懸け、門には紅帖を掲ぐ、毎ねに午を過ぐれば香車絡繹として、遊客は雲の如し、酒を呼び客を送る聲は夜を徹し耳を震はす、士大夫は相習ひて風を成し、恬として怪と為さず、身は敗れ名は裂け、且つ此れに因りて官を褫(うば)はるる者あり」と語っています。 あやめ : 01/10/29 16 01 「清末廣東売春事情」 廣東では咸豐・同治から光緒中葉まで穀埠での色町の繁盛は変りませんでしたが、光緒三十一年に廣東総督は海岸に長堤を築いてしまい、穀埠・迎珠・合昌・水鬼トウ(乙の尾の延びた上に水を乗っけた不思議な字、水溜りという意味、廣東語の表記のためだけに出来てる文字です)にあった大小の花舫は一切をあげて珠江の下流に移されました。デルタにくっついていて「大沙頭」と呼ばれることとなりましたが、それから5年間は昔と変らぬ繁盛が続きました。光緒三十三年冬から「天趣報」という新聞が「花榜」(人気ランキング投票)で金を集めるといったことも始まりました。 翌年の七月に台風が襲来し大沙頭に上陸しました。「花舫」すなわち廣東独特の船上娼家は大半が破壊され、娼妓は全て陳塘に籍を移動しました。その後に花舫が大沙頭に帰ったのは6割弱に止まりました。宣統元年正月には財記という店の船が大火を起こし瞬く間に隣接する舟に次々と広がり、大小数百の舟が一度に灰となり、運良く免れたのは2-3割しか残りませんでした。この事件から穀埠艇の名は歴史上のものとなり、代って陳塘と東堤の全盛時代となりました。 : あやめ : 01/11/15 19 59 陳塘は光緒年間から盛んになってきた地帯で、大巷口・新填地・陳塘南・隆吉里に分れており、クリークで仕切られているので妓女は小舟で往来していました。陳塘の遊客は大体は商人でした。光緒三十一年からは「嶺南第一楼」などの大酒楼が建ちあがり、それまでこの辺の酒局は花代5銭くらいであったのが1元を加え、従前の穀埠・迎珠並になりました。前回に書いたように三十四年の大風災で大沙頭の娼妓が悉く陳塘に移動してきて、人が犇く状態になったのを心配した陳塘の女郎屋の主人(亀公)たちは大籬(大寨)を建築し、その数は35軒に上り抱える娼妓も凡そ2千余人にもなりました。前回に述べた宣統元年の大火にも辛亥革命の際の東堤の駐兵といった事態にも、陳塘の全盛は全く影響を受けませんでした。ところが間もなく廣東都督の陳炯明が禁娼令を出したので、陳塘は荒廃し2年後に龍済光に代って娼妓も古巣に戻りはしましたが、もはや過去の繁華を取戻すことはできませんでした。 続きます 地名が現代のどこに相当するのか地図を見ても分らないのが残念、大沙頭だけは現在も同じなので多分その近辺と対岸一帯じゃないかとは想像するんだけど。 あやめ : 01/11/24 15 27 陳塘とともに宣統年間から繁栄に赴くようになったのが東堤です。宣統二年に廣州の長堤が竣工すると亀公(女郎屋の主人)は資本家や地方役人の協力を得て、東濠橋の傍らに4層建てで底地面積16間の洋式高楼2軒を建て、また橋脚地に「廣舞台」と呼ぶ戯台(芝居小屋)を設け、その後ろの空き地を馬路(大通り)にして商店街と「東園」という公園を造りました。その上で金花巷や清源里など城内の妓院をすっかり東堤の後面にある沙地に移しました。更に大沙頭に浮かぶ妓艇も引き上げて陸地に開業させました。かくて東堤の妓院は12軒に上り南岸の天香・綺翠の両院と併せ14院に妓女千余名を抱え、宣統二・三両年は陳塘と東西の張り合って全盛を現出しました。 ところが間もなく辛亥革命が勃発し民軍が廣州に入城し、武装した兵隊に占拠された色街の女たちは逃げ出して四散してしまい、その上また前回にも述べたとおり陳都督が売春を禁止したため東堤は忽ち寂れてしまい、娼妓たちはまた陸地から妓艇に戻ってしまいました。これまで花街の地域的変遷を中心に記述してきましたが、次回は少し立ち入って売春稼業について書きます。 あやめ : 01/12/08 19 31 アヘン戦争とか義和団事件とか中国は沢山賠償金を払ってますが、大学設立援助とか、鉄道建設とか中国に再還流しているものも多いようです。 あれは列強が善意でやっているんでしょうか?したたかな中国が条件つけて返還してるのでしょうか? 帝国主義の意味について、ちょっと詳しい本を読んでみましょう。そうすると理由が分かります。 ものすごくはしょって言うと~ 帝国主義の目的って言うのは植民地を支配し、住民を奴隷のように働かせることではありません。原材料を輸出し、肥大化した自国の工業生産物を消費してくれる「市場」を必要としていたのです。 ところが、文化も生活様式も違う他大陸の住民にヨーロッパの生活スタイルに合わせて生産された工業製品に対する需要があるわけありません。ではどうするか…自分たちが支配し、生活スタイルをヨーロッパスタイルにすればいいのです。そこから植民地主義が始まりました。 さて、問題の中国ですが、あの国は当時から巨大な人口を持ち、潜在的市場価値が極めて高かったのです。そこで、当時の清政府に対し、市場を開放し、自国の商品を輸入するように働きかけましたがあえなく拒否されます。そこで、武力に訴えて市場を開放させようとしました(阿片戦争、アロー戦争等です)。 これらの戦争により、清国の市場は開放された訳ですが、それだけでは魅力的な市場とは言えません。そこで、鉄道等のインフラを整備して社会資本を増し、大学設立等を援助して、大きな市場に育てようとしていたのです。 なんか抜けの多い説明でしたけど、理解できましたでしょうか? ちなみに同じ帝国主義といわれておりますが、ロシアと日本についてはこの原理では説明できません。個々に理由はあるのですが、そのあたりは本当に詳しい識者にお任せします。 蛇足 現在の日本のODAは、形を変えた穏健な帝国主義の表れであるとする学者もいますし、グローバリズムは「微笑む帝国主義」とも呼ばれますね。結局のところ、手段は変われども国家の意思決定の方法は、未だに余り変わっていないのかもしれません。 :03/08/06 20 31 帝国主義が儲かっていたかを検討すると、時代が下りヨーロッパが豊かになるにつれ、儲からないという結論が出てくる。豊かな国が貧乏な国から略奪しようとすると、コストの方が超過してしまうのだ。 ただそれは、国民経済全体についてプラスにならないということであって、「関係者」は莫大な利益を得る。本国では相手にされないようないい加減なやり方が通用するから。 その辺は現代でも同じで、植林せずに木を切ったり、公害で周辺住民を苦しめたりして、その結果安い物を輸入できても、日本経済には何のプラスにもならない。むしろ逆だろ。しかし不良企業には凄い儲けになる。その黒い利権に政治がくっつけば、帝国主義ができあがる。アジアのことは私は知らないが、中南米での米系企業と米国外交のやり口はそりゃ酷いものだ。 ODAにもインフラ整備にもいいものはたくさんあるが、その金は国民の税金であって、「関係者」が払っているわけではないからね。 610 :世界@名無史さん:03/08/06 22 58 610 それは政治学用語や歴史用語で言うところの「帝国主義」じゃ無いですよ(汗 しかし不良企業には 凄い儲けになる。その黒い利権に政治がくっつけば、帝国主義ができあがる。 こう言うのは、ただの収奪経済です。まあ、戦後のデモとかで騒がれている「アメリカ帝国主義」というのはそういう事実を指すんですけどね。 :03/08/06 23 16 北清事変で列強を憎悪する義和団はともかく、絶対勝てるわけないとわかってるのにどうして西太后まで列強に宣戦布告したのですか? 映画「北京の55日」(ふ、古い!)では、脅迫されてではなく、双方の進言を聞いて義和団と組んで排外主義を選択したことになってます。 というか、当時、戊戌変法で光緒帝を幽閉していたんだから、基本的に排外主義が政策の基本になってたんで、義和団が武力で北京を占拠している状態での列強への宣戦布告というのはそれほど不思議な状況ではないよ。 02/05/27 22 38 現に義和団を鎮圧できない状況の下で、列強に依頼して義和団を鎮圧してもらって、征服王朝としての命脈を終わるか、扶清滅洋をスローガンにする反乱軍を味方にして、一戦交えるかの択一だったってこと。 :02/05/27 23 59 義和団事変について質問です。 出兵した8カ国の中にオーストリアやイタリアが含まれてますが、この国々も中国に権益があったんでしょうか。 また、北京議定書のとき、ベルギー・オランダ・スペインが加わってるんですが、なんでですか。 外国にいる自国民が襲撃されたのに保護されないとき、自国民保護のために出兵するのは当時(現在も?)としては常識です。事件終結後、賠償を要求するのもこれまた当然。 04/09/22 23 11 26 オーストリアはドイツと共に青島に権益を持ち、イタリアも上海などの共同租界に権益を持っています。 ちなみに、第一次大戦の日本軍による青島攻撃では、オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍の巡洋艦が最後まで抗戦していますし、第二次大戦まで、イタリアは軍艦を中国に駐留させており、あまつさえ河川用砲艦を保有していました。 また、ベルギー、オーストリアなどは宣教師による布教活動の自由を清朝に認めさせていますし、鉄道敷設権も有していたはずです。 04/09/22 23 30 45 映画のラストエンペラー観たんですが、西太后が崩御したときに、口に突っ込まれた黒真珠は何でしょうか? 何の意味があるのでしょうか? 腐敗防止の為に「玉」を含ませたのでは?我が国でも古代には行なわれた様です。『東方見聞録』にジパングの習慣として真珠を死者の口に入れると書かれているのも、これに関係したものでしょう。 当時の我が国にはそんな習慣は無く、真珠の価値も認められていませんでした。 山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/09/24 23 25 32 李鴻章の北洋艦隊の戦力は日本海軍よりもまさっていたのですか? 軍事力の比較は難しいです。ただ軍艦の数字上の性能なら北洋艦隊が勝っていました。 ところが、訓練はほとんど出来ていなかったようですし、そもそも北洋艦隊自体が、李鴻章の私兵的存在で南洋艦隊等との協力があるませんでした。 士官たちも、海軍の知識に怪しく、軍事顧問団のドイツ人が実質指揮しているようなものでしたので、日本海軍に負けたのも無理はないといった感じです。 02/03/02 17 45 結果が解ってしまっている現在から見ると、比較は難しいということになりますが、開戦前の艦隊戦闘力の比較であれば、定遠と鎮遠の2隻の30センチ砲装備の戦艦を保有していた北洋艦隊が優勢と考えられていました。 日本海軍にはこの2艦に対抗できる艦が存在せず、最大の扶桑も両艦の半分の排水量で、無理に30センチ砲を搭載した三景艦も、単なる気休め程度で、実際には船体に対して砲が強力すぎて実用にはならない状況でした。ただ、訓練不足と兵員の質が低いために、訓練度に勝る日本海軍が小口径の速射砲によって戦闘力を奪い、圧倒したという結果になりました。 しかし、艦隊決戦では定遠と鎮遠を沈めることはできず、水雷艇の夜襲でやっと定遠を撃沈しています。日清戦争全体の帰趨からすれば、黄海の制海権を確保した段階で、日本海軍の勝利ということですが、単純に北洋海軍より日本海軍が強かったとは言いにくいですね。 02/03/02 22 45 いつになったら『清史』は編纂されるのでしょうか? 『清史』は台湾の中華書局から出版されています。 :02/11/25 06 51 日清戦争に勝利した日本は下関講和条約で領土の割譲と賠償金を得ましたが、三国干渉によって遼東半島を返還させられました。このとき、日清間で改めて講和条約を改正したのでしょうか。それとも条約上はそのままだったのでしょうか。 日清間での賠償と領土割譲については下関条約で完結している。 受け取った遼東半島を日本が返還したのは、あくまでも日本独自の事情によるもので、下関条約に何ら影響を及ぼさない。従って、講和条約の改正は行なっていない。 04/02/09 22 18 袁世凱の家族って袁世凱の死後皆殺しにされたって本当? 殺されていない。 袁世凱には妻一人、妾9人。 男子17人の子供、女子は不明。 長男克定。一男二女。生存。 次男克文。 03/04/16 01 09 辛亥革命のとき欧米列強はなんで、やり易い清につかなかったの? 1911.10~1912.2の時点では孫文らはまだ反乱勢力だろ。それに、各省が反旗を翻しても、欧米列強が力を与えれば、簡単に鎮圧できたのに 欧米列強の帝国主義国家にとって、スペインなどの略奪型の植民地政策と異なり、資本進出が目的でしょうから清朝のような旧式体制よりある程度の近代化は欧米にとっても都合がよいでしょう。 :02/11/10 20 15 孫文って結局は勢力を維持するために袁世凱に革命を売り渡した張本人じゃないのですか? 北京,南京とも手づまり状況のもとで孫・袁間に電報談判が行われ,清国皇帝の退位と袁世凱の共和制賛成を条件に,孫文は大総統位を袁世凱に譲ることにした。2月12日,皇帝退位の上諭が発せられ,秦の始皇帝以来の王朝支配の終焉をみた。孫文は袁世凱に位をひきつぐまえに民主的な臨時約法(軍政から憲政にいたる過渡期の最高法規。憲法と考えてよい)を作りあげた。立法機関(臨時参議院)は人権を確立し,民主を擁護するための多くの法律を制定した。4月初め,孫文は辞職し,南京の諸機関はみな北京へと移り,新しい共和国は袁世凱のもとに統一された。 革命の成果として誕生した民国では,人々は自由を享受し,未来への希望にもえていた。政党の乱立,新聞の族生はその社会的現象であり,辮髪の剪截,纏足(てんそく)の解放はその個人的表現だった。武昌蜂起1周年に際し,北京では天壇が一般開放されたが,これほど帝国から民国への移行を実感させることはなかったろう。孫文は袁世凱と協定を行い,政治を袁世凱にまかせて,自分は10万kmの大鉄道網の建設に当たることにしたほどであった。 しかし,北洋軍閥の頭目と革命家が現実に歩調を合わせて前進することはできなかった。12年暮れから翌年初めにかけて中国最初の国会選挙が行われ,袁世凱の与党が敗北した。勝利した国民党は中国同盟会を母体としたものだったが,反袁というわけではなく,責任内閣制のもとで民国を運営していこうと考えていたにすぎない。しかし袁世凱はそれも独裁への障害であるとし,3月,国民党の中心人物である宋教仁を暗殺した。 孫文はこの段階で反袁武装闘争の必要を認識したが,黄興をはじめ多くは法律による解決を主張した。その間に袁世凱は国会の権限を踏みにじってイギリス,ドイツ,フランス,ロシア,日本の5国銀行団から2500万ポンドにもおよぶ善後借款を結び態勢をととのえた。列強は革命の勢いの強いあいだは中立を装っていたが,今や公然と北洋軍閥を清朝にかわる中国での代理人に仕立てあげることにしたのである。7月,追いつめられた国民党側は九江,南京等で蜂起したが,いずれも簡単に袁世凱の手でねじふせられた。いわゆる第二革命の敗北である。武昌蜂起から1年有半,革命派は政権を握りながら国民の期待にほとんど応えられなかったことにより,孤立状態で蜂起したのである。たしかに彼らは,前も今も反動的独裁者に対して闘争をしかけたのだが,前に彼らを支持した諸勢力は,いまやほとんど背を向けてしまったのだから,その敗北も必然だったわけである。 辛亥革命は民国を作りだし,民国は袁世凱に献げられたかのようにもみえたが,それは同時につぎの跳躍のための屈膝でもあった。 03/04/16 11 09 清廉で真面目すぎる人間が政権とると、周囲の政治家や国民にも自分と同様の清廉さや真面目さを求めてしまい、けっきょくろくなことにならない、という典型。 日本では松平定信なんかがこのタイプ。 03/04/16 13 34 でも結局このときの決断が結果として、国民党を誤解させ、革命理念を踏みにじられ、日本の侵略を許し、支配者が清から袁ら軍閥にかわっただけじゃん 急ぎすぎてあせった結果がのちの40年におよぶ泥沼の内戦に続いたんじゃないの? 03/04/16 20 06 この決断がなければ、清皇帝は退位しなかったんじゃないかな。やむをえなかったと思うが。侵略は列強・日本に責任ありだし、内乱は北伐で統一されるはずだったのでは。何かあの時の対案は何かありますか? 03/04/16 22 40 袁世凱の野望を見抜けたなかったあるいは信じていた孫文が痛い 。彼は立憲元首で名誉職にしようとするつもりみたいだったけど 。だいたい孫文は袁世凱の事知ってたのか? 日清戦争、戊戌政変、清末の袁世凱を観察していれば十分に予想できたこと 。双十事変が予想外な事で急な決断を迫られたとはいえはっきり言って極めて下手糞ななやり方だったと思う 03/04/18 00 29 現代中国で孫文はどういう扱いになっているのでしょうか?孫文を評価するということは台湾政府の正当性を認めることになりそうだしかといって毛沢東も孫文の下で働いてたこともあり・・・ 中共にとっても、「国父」です。 孫文を評価するということは 台湾政府の正当性を認めることになりそうだし それは違います。 孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を掲げて共産党と合作しました。台湾政府を樹立した蒋介石は、孫文と革命への裏切り者という評価ですので、孫文を「国父」あるいは「革命の父」と尊崇することに矛盾はありません。 :02/07/31 17 51 洪秀全の最後を教えてください。資料集だと自殺、別の本には病死と書いてあるし・・。一体どっちが正しいのでしょうか? 高島俊男の本によれば、自殺説と病死説、どっちもそれなりに正しいとのこと。 もともと洪秀全は科挙に4回だか5回だか連続して落第した時に高熱を出して寝込んで以来ちょっと頭がおかしかったらしい(というかその寝込んでいる間に夢の中でキリストに会ったと言って教団を作った)。 で、死の直前、官軍に包囲されて食料が残り少なくなり、側近に対策を尋ねられた洪秀全は「甘露(雑草)を食え」と指示したそうな。 当然部下はみんな拒否したんだけど、洪秀全はそれに怒って「よし、誰も食わないなら俺が見本を見せてやる」と言ってそれ以来雑草しか食べなくなり、結果栄養失調が原因で死んでしまったとさ。 : 03/02/28 17 23 中国内戦っていうのは米ソの代理戦争じゃないよね? でも、共産党はソ連が援助したってのは聞いたことがあるんだが… うん。良い質問だね。 戦前、戦中の共産党はソ連共産党が指導するコミンテルンのもとに統制されていたんだな。つまり、各国の共産党はコミンテルンの指導のもとに、実際にはソ連共産党の都合で行動させられていた。理論的には「労働者の祖国、ソ連邦を防衛することは、世界の共産主義者にとって急務」だということで、各国の共産主義活動や共産主義革命よりも、ソ連という唯一の共産党支配の下にある国家を日本やドイツから防衛することを優先させたんだ。このために、コミンテルン時代の各国共産党の行動はかなり解り難くなっている。 中国について言えば、スターリンは中国の共産主義革命よりも、当時は極東地域で軍事的に大きな力を持っていた日本を牽制してくれる勢力に期待し、これを支援することを原則としていた。具体的には毛沢東の共産党よりも蒋介石の国民党のほうに肩入れしていたんだ。そして、中国共産党に対しては、国民党と合作して日本と戦うように「抗日」連合工作を第一の目標として活動するように指示していた。だから、少なくとも日本が敗北するまでの間はソ連と中国国民党の関係は緊密だったんだ。蒋介石の息子で後継者でもある蒋経国はソ連で教育を受けているくらいだな。 日本が敗北した後は、毛沢東に対する支援も強化されてはいるが、国民党とただちに絶縁したわけではなく、毛沢東の優位が明確になるまで、ソ連の立場は微妙だった。だから、単純に国民党のバックがアメリカで共産党のバックがソ連の代理戦争というには、実態はもっと複雑だったということ。 : 03/01/08 21 27 蒋介石ってなんであんなに比較的簡単に北伐を成功できたの? 北伐も細かくみるとかなりの激戦もあったようですが、成功の一番の理由は、黄埔軍学校による系統的な軍事教育による北伐軍は、単なる賃金かせぎの兵の集団より強かった。広州資本の積極的な資金援助もありました。 :02/11/10 20 15 南京国民政府時代、北京はどういう存在だったのですか? 盧溝橋事件は誰が発砲したかは問題じゃなく、北京近くで起こったことが問題であるとよく言われますが… 辛亥革命、袁世凱の死後、北京にも南京にも中華民国が出来たので首都が二つできてしまった。1928年6月15日北伐完了。そこで蒋介石は、北京という言葉は北の首都という意味なので北京を北平と呼び名を変えた。また北京のある省の直隷省をこれも中心のニュアンスがあるので、河北省に変えて南京政府が正式だということを強調した。 03/04/25 23 50 岩波新書128 山本市朗著「北京三十五年、上下」はどうですか? もう少し前は、ピエール・ロチ著「北京最後の日」東海大学出版会 盧溝橋事件の本は山のようにある。 03/04/26 09 28 上海の租界に「犬と中国人は入るべからず」という看板があったのは本当? 黄浦公園(Public Garden)における「犬と支那人は入るべからず」なる表札の有無の問題だが、確かに、こういう表札があった、と言うこと自体は、いわゆる都市伝説の類だったらしい。だがこの話は以下の点で単なるネタとして片づけるわけにはいかない要素がある。即ち、 (1)この伝説は決して日本だけに存在したものではなく世界的普遍性のあるものだったこと (2)さらに現実においても、これに準ずる規則が存在したことは事実だったこと (3)ただその規則による公園への入園制限は、より広範囲の存在に対し適用されたのであり 「犬と支那人」だけが閉め出されたのではなかった、といった点においてである。 この事情について Leo Ou-fan Lee は SHANGHAI MODERN The Flowering of a New Urban Culture in China, 1930-1945 Harvard UP 1999 において以下のように述べている。 A humiliating reminder of the Western imperialist presence was, of course, the notorious sign of exclusion that reportedly hung at the gate of the Public Garden in the International Settlement No Chinese or Dogs Allowed. The real sign, though no less humiliating to the Chinese, did not exactly read this way. It was a bulletin listing five regulations first decreed in 1916. The first regulation reserved parks for the use of foreign residents. The second stipulated that dogs and bicycles are not admitted, and was followed by the third Chinese are not admitted except in the case of native servants accompanying their white employers. The fourth and fifth regulations excluded Indians (except for those in dignified attire) and Japanese (except for those wearing Western clothing).(p.29) つまりこの規則は原則として人間は白人オンリー、自転車や犬もだめ、ということであり日本人すら洋服を着ていなければ入ることは出来なかったし、逆に中国人であっても、召使いとして主人と一緒になら入れた。確かに人種差別的ではあり特に中国人には屈辱的だったろうが、それでも元ネタの「犬と支那人は入るべからず」とはニュアンスが異なることは認めなくてはならない。即ち「犬」は「自転車」と対で入園禁止なのであり、別に中国人を犬並みの存在と見なし、かつ扱った訳ではなかったのである。なお、この規則は1927に蒋介石派が上海の実権を掌握したとき廃棄されたという。 :Krt:03/12/11 21 46 毛宅東って大躍進政策とか失敗してめっちゃ人民死なせまくったんですよね?なのになんで中国のお札になるほど偉大に扱われてるんですか? 北朝鮮みたいに『毛沢東将軍マンセー!』とか言わないんですか? 言うなら『毛主席ワンスイ!』 文革中は「人民の赤い太陽」のような美称が使われていた。 04/02/12 13 39 とにかく創業の君主は中国では偉く、神に等しい。 漢の創業:劉邦 唐の創業:李淵~李世民 宋の創業:趙匡胤 明の創業:朱元璋 清の創業:ヌルハチ 中華人民共和国の創業:毛沢東 04/02/12 14 27 日本は日中戦争などなどで中国でいろいろやっちゃって中国に損害を与えたのに、国交回復したときに中国が賠償金を求めなかったのはどうしてですか?? 日本が戦っていた時期の中国の正統政府は中華民国。終戦時もそう。共産中国は賠償請求できる正統政府でないことが中心根拠だが、蒋介石がいらないと言ったものを中共のほうが要求するのは面子のてんでも言えなかった。 :02/12/03 18 28 賠償艦というものはあったりする 04/06/16 12 27 そうそう、「雪風」他、駆逐艦ばかり7隻。 でも彼女らは中華民国(つーか台湾)海軍の主力として大切にされてねぇ、そこがなんだか嬉しいのですよ。他の国に持ってかれた艦の運命が、標的艦とか解体とか悲惨なのばっかりなんでね。 04/06/16 13 57 日本には支那に対して『ODA払ってやってるんだからよー』みたいな態度を取るの人が多いですが、支那事変の際の賠償金なしを考慮すれば、ODAの名のもとで、使い道はともかくそれ相当の金額を支那に与えるのは当然っちゃ当然じゃないか。って思うんですが、どうなんでしょう? 青木の実況中継には支那の損害額は今の日本円で1000兆円って書いてあったし… 共産党は日本の対外資産をそっくり接収した。 特に満州には日本が最新の工業設備をごっそり置いていってて、国交化正常交渉の時に毛沢東が「満州で十分すぎるほどもらったから賠償はいりませんよ」って日本の外交官に言ったと言う話が残っているぐらいウハウハだったらしい。 向こうは賠償権放棄してるんだから、こっちから自発的に出すこともないんでないかなあ?ODAは中国の外交&対日政策が上手だからいいように金を引き出されてるだけで、「払ってやってるもん」じゃなくて「手玉に取られて払わされてるもん」だから、ODAを出してるから日本の方が立場的に上って訳じゃないんだけどね。 04/08/30 03 29 それとヴェルサイユの教訓から、相手の経済が破綻しかねない額の戦後賠償は取らないってのが国際社会では一般的になってるんで、仮に「日本は中国に1000兆円賠償しろ」って条約が結ばれそうになったら、よそからブーイングくらいまくると思う。 04/08/30 03 35 なんで中国はチベットの独立を認めないんですか? 認めてしまうと中華地域を除く周辺部が全て分離独立してしまうから。 特に新彊ウィグル自治区、貴州省、青海省といった奥地は中国にとっても一種の植民地の扱いであり、チベットだけを特別扱いする訳にはいかない。 ちなみに、新彊ウィグル自治区は東トルキスタン共和国として一時独立してたりする。 :03/11/26 22 29 中華圏ではなぜ奴隷制が発達しなかったの? 西方の奴隷制度の発達というのは、どの時代を想定しているのかな。ギリシャ・ローマの古代奴隷制度なら、対応する時代は周代の奴隷制度だろう。 西欧の古典時代ほどは都市国家間の戦争や征服戦争が多くなかったために、量的には少なめだろうが、制度的にはほぼ等値だと思う。 近代の植民地プランテーションの労働力としての奴隷制度であれば、対応する制度は東アジアには存在しない。 中世から近世の農奴を中心とする奴隷制度だと、ちょっと複雑になるな。中国そのものでは、後漢の時代に奴隷解放が行われて、その後は実質的な農奴制は存在しても制度としての奴隷制はなかったことになる。 ただ、中華圏というのが周辺国を含むのであれば、朝鮮は奴婢という戸籍制度を持っていて、19世紀中頃でも人口の30%は奴隷だった。 02/03/03 12 43 日本史を知るにあたって中国資料が重要な位置を占めることがありますが逆に中国史を知るにあたって日本側の資料はどのような位置づけなのでしょうか? 中国史で引用される有名な日本側史料に『韃靼漂流記』があります。 越前の船乗りたちが満洲へ漂着した時の記録で、当時の満州族の風習を伝えており資料価値の高いものだとされて居ます。平凡社東洋文庫で手軽に読めます。 :おぎまる ◆JJi5gOTcvk :04/09/04 22 32
https://w.atwiki.jp/minkewenku/pages/118.html
作者 亚布 原址 (1) 正文 内容摘要:印章文字:又称哈拉帕印章文字,或印度印章文字,是出土于印度河流域的古代文字。因为诸多原因,至今尚未破译。笔者曾在拙作《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》中断言:印章文字是伏羲书契,哈拉帕是昆仑墟。这是因为印章出土地哈拉帕古城遗址,与中国古代帝都昆仑墟十分接近,并且还有四枚图画印章表现的内容,与《山海经》的记述极度吻合。 笔者沿着《山海经》的脉络,参照水书、甲骨文和金文,尝试破译了50枚印章上的文字。从破译的结果来看:仅仅破译了50枚印章,就出现了12位中国古籍上夏朝以前的人物。这些人物包括伯子杼、大禹、因乎、贰负、虞舜、共工、仁羿、用侯、丹朱、巫咸、华胥、曾侯。这些人物都记述在《山海经》、《古本竹书纪年》及《史记》里。50枚印章里还包含有“余、施、殷、曾、用、朱、有虞氏、昆吾氏、风、卜、曲、牛、储、且、世、邠、华胥氏、穀穀、干”19个上古姓氏。 由于印章文字破译出来的内容,多处与《山海经》和《古本竹书纪年》吻合,笔者断定:所谓的印度河文明乃是中华远古文明,印章文字乃是中国古文字,是生活在印度河流域的中华先民使用过的文字。 第一章 印章文字所处年代及社会状况 无论要破译哪一种未知古代文字,首先要做的都是断代工作。要确定这种文字语言所处的年代,被什么人使用,这些人有着怎样的生活方式,他们的宗教信仰,政治体系、风俗、地缘关系和该文字有关的历史书籍,文化传承等等,都要分析清楚,就是要在破译之前,首先复原所要破译文字所处的历史环境。这样做既有助于文字的破译,又有助于检验我们破译出来的文字是否正确。 笔者曾在拙作《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》中断言:巴基斯坦印出土的印章文字是夏朝以前的伏羲书契,哈拉帕是昆仑墟。之所以敢这样肯定的放言,原因有三: 一、印章文字与中国古代帝都昆仑墟的地缘关系 出土印章文字的哈拉帕古城,尽管离中国更近,可发现印章文字的人,却还是把它归结为印度文明。稍有点历史知识的人,都会知道:印章文字大约发现于1922年-1930年之间,而那个时候的印章发掘地还在英属印度统治之下,并不是现在的巴基斯坦。因为发现印章文字的人,是带有浓厚殖民意识的西方人,他所要做的工作就是:为殖民合法化找到理论依据。这也就催生了雅利安人入侵印度的神话,催生了中国文明西来学说。自诩进步文明的西方考古工作者,也自然不会把哈拉帕这顶桂冠给中国戴上,这也就成了印章文字至今还没破译的瓶颈。 按照《穆天子传》所云:“自宗周瀍水以西,至于河宗之邦,阳纡之山,三千有四百里。自阳纡西至于西夏氏,二千又五百里”。就是说周朝的时候,镐京(今西安市)到西夏氏的距离合周制五千九百里,约合现在二千零四十公里。笔者在百度地图上使用测距软件,测得西安向西二千零四十公里处,正是现在的中巴边境,五河之源。 也就是《山海经》里面所说的昆仑山。而昆仑山周朝时隶属于西夏氏。那么,西夏氏是不是和我们一样,也是夏朝的后裔呢?笔者认为:是。因为周穆王效仿古天子巡狩四方,入西夏诸国以后,多逢宗亲,就像是回到老家一样。况且出土印章文字的哈拉帕古城,就位于喀喇昆仑山与喜马拉雅山交界处。而中国古籍上也一再强调:“海内昆仑墟远在西北,帝之下都”。尽管古籍上记载的昆仑山和现在的喀喇昆仑山,所指的范围可能不太一致,但不会出其左右。 二、印章文字与水书、甲骨文的同源关系 水书与甲骨文同源这个事实,在现在的华文世界里没有争议。我曾对水书、甲骨文和金文进行过对比研究:分析得出的结果也是水书比甲骨文古老,甚至比印章文字还古老。虽然现在的水书受汉字的影响严重,但从可以确定为原始水书文字的情况来看,水书中的文字都是最基本的生活诉求,就连官爵之类的文字都极少出现,说明水书产生于阶级社会之前,也停止造字于阶级社会之前。停止造字以后,水书就因袭汉字,往往是把汉字反写,以示区别。而印章文字情况截然不同。在《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》里面,我破译过“帝、王、公、侯、伯、子”六个字,而且把这几个印章文字与甲骨文、金文进行了对比,做了论证。从这个现象上可以看出当时的印章文字,尽管变体很多,还处在发展阶段,但肯定比水书成熟。从印章文字和甲骨文的发展规律来看:印章文字和甲骨文都借鉴了古老水书的造字方法,只不过印章文字是朝向简洁的符号化发展,而甲骨文却恰恰相反,朝向繁缛的象形文字发展,但其同源性是显而易见的。笔者还发现一个有趣的巧合:根据统计资料显示:哈拉帕印章文字基本字符有400多个。这与我们现代汉语有400多个字根的数目极为吻合。这似乎也证明了甲骨文,乃至现代汉语,是在印章文字基础上完善起来的。 三、图画印章与《山海经》的映证关系 考古需要实证,我们无法回避这个问题。如果在哈拉帕和摩亨佐.达罗古城,出土了一件《山海经》里面记述的文物,可以用巧合解释。而问题却是:在哈拉帕和摩亨佐.达罗古城遗址出土了多件《山海经》里面记述的文物,这就不能不让我们引起重视。据我考证:至少有四枚图画印章,刻画的是《山海经》里面记述的故事。它们是黄帝战蚩尤、应龙杀蚩尤和夸父、二八神、怪兽“双双”。这些印章故事,被我写成《印章上的山海经故事》,发在贴吧里。 综合以上三点,又结合《山海经》记述的年代,我把印章文字的年代断在伏羲至于夏朝,就是大约公元前3100年-公元前1600年。这1500年也正是中国无信史阶段,甚至当今有些网友开始怀疑夏朝是否真的存在,这已经动摇了中华五千年文明的根基。 笔者认为:不仅夏是信史,而且伏羲也是信史。近些年,笔者使用巴基斯坦的出土印章,对照《山海经》、《古本竹书纪年》、《穆天子传》、《史记》、《尚书》等史籍研究,隐约看到一个纵横在亚洲大地,上至伏羲,下至夏朝的庞大古国。按《山海经》所记述的范围来看:这个帝国疆域西至伊朗高原;东抵中国海,北到西伯利亚,南达印度洋。应该是那个时代最强大的帝国。 既然已把印章文字的年代,断在伏羲至于夏朝,大约公元前3100年至-公元前1600年之间。那么回头看看中国古籍上有关这段历史的记载。在印章文字破译工作中,笔者主要采信《山海经》和《古本竹书纪年》,兼杂《史记》、《尚书》等。之所以这样选择,是根据各种史书的成书年代及经过不同而定。 《山海经》海经部分,成书年代可确定为伏羲至于夏朝,正处于我要破译的印章文字年代,又是上古群巫秉图直言,极为可信。 《古本竹书纪年》是魏国史书,成书于战国时代,可能原始史料更早。成书早于《史记》,且有编年,不易伪造,多处记载均于《山海经》契合。据《竹书》记载 “(尧)七十六年,司空伐曹魏之戎,克之”。可见曹魏历史久远,且毗邻西北,是黄帝东进第一站,定有正面接触。 《史记》对伏羲至于夏朝的记述是司马迁择史及民间传说著成。成书时间距该段历史久远,故未必准确。 《尚书》为孔子所修撰,儒家重德轻史。有道是:巫言皆实,道言皆玄,儒言皆高尚。儒学的经典,只言帝功,不言帝过。有删书之嫌。孔子自己都直言不讳的说:“知我者其惟春秋乎!罪我者其惟春秋乎”! 那么,笔者就从《山海经》收篇之处入手,分析印章文字所处年代的社会状况。 《山海经.海内经》结尾说:“黄帝生骆明,骆明生白马,白马是为鲧。帝俊生禺号,禺号生淫梁,淫梁生番禺,是始为舟。番禺生奚仲,奚仲生吉光,吉光是始以木为车。少昊生般,般是始为弓矢。帝俊赐羿彤弓素[矢曾],以扶下国,羿是始去恤下地之百艰。帝俊生晏龙,晏龙是为琴瑟。帝俊有子八人,是始为歌舞。帝俊生三身,三身生义均,义均是始为朽[亻垂],是始作下民百朽。后稷是播百穀。稷之孙曰叔均,是始作牛耕。大比赤阴是始为国。禹、鲧是始布土,均定九州。炎帝之妻,赤水之子听[讠夭]生炎居。炎居生节并,节并生戏器,戏器生祝融,祝融降处于江水,生共工。共工生术器,术器首方颠,是复土壤,以处江水。共工生后土,后土生噎鸣,噎鸣生岁十有二。洪水滔天,鲧窃帝息壤以堙洪水,不待帝命。帝令祝融杀鲧于羽郊。鲧复生禹,帝乃命禹卒布土,以定九州”。 这一段文字是全书之精妙,也是全书之玄妙!文中叙述的帝系顺序为:黄帝-帝俊-禹-鲧-炎帝-鲧-禹。这个排序相当混乱,以至于使读者如坠云雾。是历史本来就是这样的,还是古人排序错了? 笔者以为都不是。参考一下《古本竹书纪年》,很容易理清其顺序,黄帝以下当是:黄帝-鲧-禹。据《史记》记载:“炎帝欲侵陵诸侯,诸侯咸归轩辕”。可见炎帝时候,轩辕还没有称帝,那么黄帝肯定是排在炎帝之后了。根据《山海经》来看炎帝又出于帝俊。那么该文的帝系排序就应该是:帝俊-炎帝-黄帝-鲧-禹。 从此段文字反常的帝系排序来看:《山海经》在夏朝时一定有过重大修撰,因为夏人为黄帝苗裔,故把黄帝排在文首,把禹列在文尾。 那我把“禹、鲧是始布土,均定九州”这段重复的话删掉,重新排序一下:《山海经.海内经》: “帝俊生禺号,禺号生淫梁,淫梁生番禺,是始为舟。番禺生奚仲,奚仲生吉光,吉光是始以木为车。少昊生般,般是始为弓矢。帝俊赐羿彤弓素[矢曾],以扶下国,羿是始去恤下地之百艰。帝俊生晏龙,晏龙是为琴瑟。帝俊有子八人,是始为歌舞。帝俊生三身,三身生义均,义均是始为朽[亻垂],是始作下民百朽。后稷是播百穀。稷之孙曰叔均,是始作牛耕。大比赤阴是始为国。炎帝之妻,赤水之子听[讠夭]生炎居。炎居生节并,节并生戏器,戏器生祝融,祝融降处于江水,生共工。共工生术器,术器首方颠,是复土壤,以处江水。共工生后土,后土生噎鸣,噎鸣生岁十有二。黄帝生骆明,骆明生白马,白马是为鲧。洪水滔天,鲧窃帝息壤以堙洪水,不待帝命。帝令祝融杀鲧于羽郊。鲧复生禹,帝乃命禹卒布土,以定九州”。 概括上文:记述的其实都是帝俊伏羲一家之事。是说帝俊有子八人,却有两个主要支系直接影响后世历史:一支是少昊支系;另一支是炎黄(即少典)支系。 少昊支系:帝俊生禺号,禺号即是一世少昊,八传至少昊挚,被颛顼逐到西方。 炎黄支系:帝俊生三身。参考《大荒西经》记载:“有西周之国,姬姓,食穀。有人方耕,名曰叔均。帝俊生后稷,稷降以百穀。稷之弟曰台玺,生叔均。叔均是代其父及稷播百穀,始作耕。有赤国妻氏。有双山”。古人把孕一儿称作“双身”,孕两儿就是“三身”。所谓“帝俊生三身”,就是帝俊和娥皇孪生了后稷和台玺两兄弟,封为少典。后稷的儿子是义均,也叫朽[亻垂],姚姓,后来的舜就出生在姚虚。台玺的儿子是叔均,姬姓,后娶赤国妻氏赤水之子听[讠夭],就是一世炎帝。黄帝也是姬姓,自然出于叔均,所以无论炎黄二氏皆言出于少典氏。 现在让我们来还原一下那个时候的社会生活状况。 笔者从上文共摘取出:帝、舟、车、弓矢、羿、国、琴瑟、歌舞、百巧、播百穀、牛耕、双山、洪水、九州,十四项事物。 之所以这样做,我是要把这些《山海经》里面所说的事物,拿来与印章对比。看看印章上到底有没有这些事物,以此证明我的断代工作不是姑妄之言。 通过对印章图案和文字的对照分析,结果发现:印章文字上确实有帝、有舟(见于图片印章之上)、未见车、有弓矢、有羿、有国(有帝必有国)、有琴、有舞、有百巧、播百穀(见于图片印章)、有牛耕(见于图片印章)、未见双山、未见洪水、见九州官员(帝、王、公、侯、伯、子、男)。 十四项中只有“车”、“双山”和“洪水”三项未见。可能是因这三种事物与印章的功能关系不大,抑或是因笔者手头印章资料有限。但车、双山和洪水三种事物在《古本竹书纪年》和《山海经》里面有见。笔者相信随着对印章文字考证的深入,会有发现。 除此之外,那个时代和印章文字有关的还有什么呢? 《史记·三皇本记》说:“庖牺氏、风姓,代隧人氏继天而王。母曰华胥,履大人迹于雷泽而生庖牺,以类万物之情,造书契以代结绳之政”。这里面的“庖牺氏”就是太昊伏羲。伏羲的母亲“华胥”这一古老姓氏,读者会在后面的破译中看到。文中说伏羲“造书契以代结绳之政”,这说明伏羲时代的书契沿袭了结绳的某些印记,我在印章文字里,的确发现了“玄、兹、索(或读素)”三个字。 伏羲至于夏朝1500年间和印章文字有关的事情,笔者就掌握这么多。接下来笔者要做的工作是:在印章文字里面,复活这些上古的事物。 第二章 印章文字破译 要破译印章文字,其方法和破译甲骨文差不多,就要对印章文字进行分类、训诂、查证。 为了使破译工作容易展开,我把印章分成:素章、徽章、图画章。 一、素章就是没有图案的印章。又分为有名素章和无名素章。 二、徽章就是有帝王、动物图案的印章。又分为有名徽章和无名徽章。 三、图画章就是以叙事为题材的,图案形象生动,具有纪念意义的印章。图画章又分为有字图画章和无字图画章。笔者因资料有限,迄今仅发现:黄帝战蚩尤、应龙杀蚩尤与夸父、二八神和怪兽“双双”四枚图画章。 直观地看印章:公爵基本是素章。徽章上端坐着的人是帝;昂首挺胸的麒麟(独角兽)多为侯爵;器宇轩昂的牛多为伯爵;低首乞怜的牛或其他动物多为降爵。 印章上的独角兽,其实就是中国古代传说的麒麟。许慎《说文》记述的很明白:“麒,仁兽也,麋身牛尾一角;麐,牝麒也”。对照一下印章上的独角兽,完全是“麋身牛尾一角”。西凉武昭王《麒麟颂》也说:“一角圆蹄,行中规矩,游必择地,翔而后处,不蹈陷阱,不罹罗罟。”《说苑》亦有:“含仁怀义,音中律吕,行步中规,折旋中矩,择土而后践,位平然而后处,不群居,不旅行,纷兮其质文也,幽问循循如也”。可见古人把麒麟描绘成仁厚君子,风度谦谦的样子。因此麒麟便成为统治者、王、侯的象征。《古本竹书纪年》就记载:“帝尧陶唐氏。元年丙子,帝即位,居冀。五年,初巡狩四岳。七年,有麟”。这里的“有麟”就是被推举为圣人。 《淮南子》还有:“应龙生建马,建马生麒麟”之句。应龙就是黄帝部族,杀死夸父和蚩尤的那个豹部首领。由此可见:麒麟与黄帝部族存在渊源,反映到印章上面也就自然而然了。 中国民间还有“牛生麒麟猪生象”的传说。这也隐隐透露出牛与麒麟存在嫡亲关系。而印章里面,牛多为伯,为长辈,似乎也印证了民间传说。 为了方便读者阅读,我选取了50枚印章图片,从0001开始进行编码,并称之为印章图码;对要破译的文字也从0001开始进行编码,并称之为印章字码。然后把破译出来的带有印章字码的印章文字,对照水书、甲骨文、金文列成《 印章文字单字破译表 》,使它初具字典功能,以备破译印章原文使用。 为了简化工作,我又把要破译的印章文字分成数字类、帝爵类、符号类、书契类。 一、数字类:包含了从“一”到“十”和“百、千、万”,共13个字。 二、帝爵类:包括“帝、帝帝、王、公、侯、伯、子、男”,共8个字。 三、符号类:包括“省写复读符号”2个 ;“玄、兹、素(索)”结绳符号3个,共个5个符号。 四、书契类:共有62个文字。书契类也就是正文类,之所以叫书契类,是因为笔者认为这种文字始造于伏羲,沿用至夏末。 破译文字之前,还要先给读者补习一点“切音和训诂”的知识。因为笔者非专业人士,所言未必正确,采用的术语也未必专业,个人目的:是为了让普通读者读懂我这篇论文,所以采用科普读物的语言来讲解。 训诂:就是研究古字的原始含义,弄清古字的标准发音,用以正确地解读古籍。其方法是:对单体象形字,主要考察它的读音和原始意义;对合体会意字,不仅要考察它原始的意义,还要准确切读文字的读音,我称之为切音。切音以后,还有把切读出来的文字,对译成现代汉语。 切音,也叫急读或者切读。形象点说:就是发音时剪切掉辅次音阶,保留主韵音阶。举个典型的例子,如:“费”字。在还没有拼音字母的上古时期,“费”字有两种读法:口语音可以读作“弗贝”,书面语就读作“费”。在音韵上讲:“费”是“弗贝”切。用现代汉语拼音表示:fú beì切feì。通俗的讲:“弗贝”急读就是“费”。“弗贝”在现代汉语里面叫连绵词。连绵词拆解之后,单个文字就与连绵词本身的意义再无关联。这种例子很多。如“祁连”急读为“乾”;“昆仑”急读为“坤”。 从“费”字切读中不难悟出:上古的字,既有表意功能,又有表音功能。通俗的说:上古的文字,即是文字,又是拼音。这就是我破译印章文字的突破点。时至今日还有很多专家学者,为印章文字到底是表音文字,还是表意文字而争论不休。那我告诉大家:印章文字即是表音文字,又是表意文字。它即是文字,又是拼音。 笔者在印章文字与水书的对比过程中,还发现水书也有类似以字表音的现象,如:以“雨”代“与”;以“六”代“禄”;以“益”代“宜”等等,值得研究。 对于切音,笔者的经验是:有直切和模糊切之分。 所谓直切:就如“弗贝切费”,直接用合体字的两个部首拼读。 所谓模糊切:就是用单体字的音,或合体字的音部,进行拼读。比如“匈奴”切读之后就是“胡”;“[马匋][马余]”切读之后就是“[马交]”。 但需要注意的是:有些文字的古音与今音不同。估计约占古文字十分之三。这就要求我们尽可能的使用古音切读,切可不是信口开河,胡乱切读,那样就违背了做学术的初衷。 对于“训诂”,笔者想举例说明,这样读者更容易接受。就举《山海经》里面频繁出现的两个字:“其”和“有”。也许有些读者会笑了!这个简单啊!“其”就是他、他们。“有”就是有啊!有此一解,《山海经》不成神书难矣! 今天笔者对印章文字的破译,其实就源于多年以前读研《山海经》时,对“其”和“有”的独到解释。 “其”字,甲骨文是象形文字,箕形,是上古氏族图腾。因为上古人逐水草而居,往来迁徙不定。为了防止相同氏族的人在几代以后,异地相逢,还能相认,各个氏族便制作了属于自己的图腾。“其”就是“棋”或“旗”。金文里的“棋”字更形象了,为两手将“其”挂在木杆之上。所以氏族驻地,必置“其”于辕门外。“其”就是他们的图腾,后来引申为他或他们之意。 “有”字,甲骨文也是个象形文字,是上古的族旗或族徽。上古“有国的人”就是“侯”。“侯”字“有”音。金文“有”字,形为旗杆上挂着一面“旗”,是王族标志。因此上古王族多称自己为“有某氏”。比如黄帝称“有熊氏”,就是他们的族旗上画着熊。因为族旗是王族标志,所以两族汇聚,无论是敌是友,必先看“有”。“有”则贵,无则贱。“有”为族旗,还可以考证在《国语.鲁语上》:“共工氏之伯九有”。是说共工氏族有九面族旗,即共工氏有九个部族。 下面我用《山海经》里面的章节给读者验证一下。 《海外西经》载:“奇肱之国在其(一臂国)北。‘其’人,一臂三目,有阴有阳,乘文马。‘有’鸟焉,两头,赤黄色,在‘其’旁”。这句话的真实意思是说:奇肱国在他们(一臂国)的北边。图腾画的是人,(图腾上的人)一臂三目,可以看见那人的前胸后背(犹似侧影),骑着华丽的骏马。(悬挂的)族旗上面画的是鸟,两头,赤黄色,立在图腾旁。 如果把“其”当做“他们”,把“有”当“有”来解释,就会令人感觉荒诞怪异,不知所云。 就历史起源来看:“其”比“有”更古老,“其”代表氏族;“有”代表部族或侯国。这个问题会在《第三章》的破译中浮现出来。 懂得了切音和训诂,对古籍的解释就不会人云亦云,望文生义了。 下面请读者和我一起,分类破译印章文字。 一、数字类 只要是智慧生物,第一认识肯定是自然数。像哈拉帕这种文明社会,数字在肯定社会生活中,起着平衡社会成员的作用。因此印章文字里一定有数字无疑,难的是:我们如何从这些看似杂乱无章的文字里,把他们挑选出来。 通过谨慎研究,笔者在50枚印章图片中,选取了“一、二、三、四、五、七、十”7个文字。又根据印章数字的排列规律,增加了“六、八、九”3个数字。虽然没有找“百、千、万”3个字,但笔者还是把“百、千、万”三个字进行了编码,以便日后破译缀入。并把选取出来的印章数字和水书、甲骨文、金文进行对比,列成表一。 表一:印章文字单字破译表(数字类),印章字码0001-0013。 file ///C \Users\ADMINI~1\AppData\Local\Temp\ksohtml\wpsF006.tmp.png 在表一里可以发现:原来上古数字源于数手指。读者请看印章文字的变体“一、二、三、”和水书“一、二、三”,就是手掌上伸着的指头。这一点可以证明水书和印章文字一样古老,而甲骨文则要年轻的多。 那么再看印章文字正体和甲骨文、金文的“一、二、三、四”,对比字形完全相同,只是甲骨文、金文横写,而印章文字竖写罢了。 还要注意一下金文“十”字,是一个“五”字,下面加一个“黑点”,意思是还有一个“五”。这个黑点就是金文的省写复读符号。 稍后我们会看到:印章文字里也有省写复读符号。以上选取的这些印章数字,对与不对,权且记下,待在《第三章》验证给读者。 二、帝爵类 共破译“帝、帝帝、王、公、侯、伯、子、男”8个印章文字。 对于中国上古封爵问题,《通典.职官.封爵》载:“黄帝:方制万里,为万国,各百里;唐虞夏:建国凡五等:公、侯、伯、子、男;殷:公、侯、伯三等,公百里,侯七十里,伯五十里;周:公、侯、伯、子、男五等,公侯百里,伯七十里,子男五十里。周公居摄改制,大其封,公五百里,侯四百里,伯三百里,子二百里,男百里”。 有明确记载最早的封侯时间是《山海经.海内经》:“炎帝之孙伯陵,伯陵同吴权之妻阿女缘妇,缘妇孕三年,是生鼓、延、殳,始为侯”。除此,笔者再没发现比这更早的记述。 帝爵类文字,我已经在《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》里面论述过了,这里就不再赘述。 表二:印章文字单字破译表(帝爵类),印章字码0014-0021。 file ///C \Users\ADMINI~1\AppData\Local\Temp\ksohtml\wpsF017.tmp.png 在这里笔者要修正一些内容:“帝、王、公、伯”,都是用官帽标识等级。“帝”的帽子是倒三角形的;“王”的帽子好像两只羽毛,但据笔者进一步考证:印章文字的“玨”字应是戴玉冠的舞者,因为印章文字上面部首“玨”对应的是甲骨文“珏”字,就是和在一起的两块玉。下面部首对应的是甲骨文“舞”字。“玉”也音“羽”,极可能巫王不祭祀的时候戴羽冠;“公”的帽子尖尖的;“伯”的帽子好像套着一个环。“子”(爵)是没有官帽的,他还还小,从甲骨文中看:他只能伏在母亲的背上,食俸禄,不参政。 侯:甲骨文、金文都是象形字形,象射张布中矢之形。张布就是用兽皮制成的箭靶。《小尔雅·广器》载:“射有张布谓之矦”。“矦”是侯的异体字。以此可见:“侯”有一项重要的生活内容,就是习射弓箭。印章文字“侯”是象形字,形如立着的族旗。这与《山海经》中“有”字更为接近 。因此上古“侯”字“有”音。据笔者考证:印章文字的“侯”字,已演变成现代汉字姓氏里常见的偏旁“阝”,如:鄧、郮、邸、邬、邯、郜等。他们分别是登侯、周侯、氐侯、乌侯、甘侯、告侯的合体字。也可以这样讲:凡带有“阝”旁的姓氏,均是由上古诸侯封号演变而来的。更正拙作《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》中,“侯”字也是合体字,实为“用侯”。此外还有邠侯、虞候、曾侯等,在后面的破译中会一一呈现。 细心地读者一定会发现:《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》中没有破译男爵。笔者在此破译。 男:印章图码0049,印章字码0021。 《说文》:“男,丈夫也。从男从力,言男用力于田也”。《说文》的解释只对了一半。男:田音。上古“男”就是“田”。甲骨文里“男”字有两种写法。一种是从田从手,一种是从田从力。这两个名词“男”对应着两个动词“田”,即“畋”和“佃”。 古时“田”字概念与今天不同。人类最初的生产生活方式是由狩猎、放牧、再过渡到耕种的。所以古时的“田”分为:猎田、牧田、耕田。三个“田”字,字形虽相近,但用途不同。 甲骨文中从田从手的“男”字,对应的是动词“畋”字。“畋”字是个会意字,从攴(pū)从田。“攴”,甲骨文画作手持木棒,临于陷阱旁,即畋猎,意为猎杀猎物。《古本竹书纪年》夏史记载:“汝艾夜使人袭断其首,乃女歧也。浇既多力,又善走,艾乃畋猎,放犬逐兽,因嗾浇颠陨,乃斩浇以归于少康”。这里就记述了汝艾使用“畋猎”的方法,使浇坠入猎田的陷阱,并杀死他。 古时还有牧田。《周礼·载师》 “牛田牧田”。这里的“牛田牧田”都是牧田,只不过“牛田”是用来养公家牛的田。 甲骨文中还有一个从田从力的“男”字,这个“男”字从金文以后就固定为耕田之男了,因为周朝是以农立国的。而这时候的“男”字,对应的动词就是“佃”,从人从田。意思是人在田间耕作。 印章文字的“田”字实际就是“男”字,可译作现代汉语:田、男。读:田、男。 从对印章文字帝爵类的破译结果来看,与《通典.职官.封爵》记载:“唐虞夏:建国凡五等:公、侯、伯、子、男”一致。或许这也是“印章文字是伏羲书契”的一个明证。 读过《古本竹书纪年》的人都会有一个共同的印象,就是夏、商、周对帝王的称谓不同。夏以前皆称帝,而商、周皆称王。笔者认为:促使夏帝国灭亡的原因不止是商汤伐夏,而是万国不来朝夏。即使商汤灭夏以后,“始居夏社”,同样万国也没来朝商。这说明殷朝的疆域和统治范围远不及夏朝,夏朝在商汤之时已经分裂。尽管后来逐渐有朝觐殷商者,但均来自东方,而对于西方,殷朝多言征伐。或许因此,历代殷朝君主才不敢称帝,只能称王。《古本竹书纪年》殷史记载:“武丁。王,殷之大仁也。力行王道,不敢荒宁,嘉靖殷邦,至于小大,无时或怨。是时舆地,东不过江、黄,西不过氐、羌,南不过荆蛮,北不过朔方,而颂声作,礼废而复起,庙号高宗”。可见到了殷王武丁的时候,殷朝已迁九鼎,定居中原。而周是殷的诸侯,所以更不敢称帝。 三、符号类 符号是客观事物或主观思维,在人脑中的具体抽象或形象。符号可以用书写的方式表达,也可以用体姿语言,声音,甚至眼神传达。只要在群体内能够被理解,能够互通,就是符号。我将要破译的是印章文字里面语言符号。它们是符号,但也有语言功能。 表三:印章文字单字破译表(符号类),印章字码0022、0023、0031、0036、0056。 file ///C \Users\ADMINI~1\AppData\Local\Temp\ksohtml\wpsF018.tmp.png 1、省写复读符号 在图0001、图0005、图0007和图0008里面,“省写复读符号”可能困扰了不少学者。其实它跟我们今天的省写复读符号“り”是一样的。只不过今天是连写,上古是正写。印章文字里还有“两字省写复读符号”,相当现代书写里的“りり”。而金文里的省写复读符号却是以“一点”带过。 由于印章文字里“省写复读符号”和“印”字频繁出现,以至于很多学者都把印章文字定性为拼音文字了。其实我在接触印章文字的初期,也曾有过这种想法,但当我把这两个字符,做一个定义之后,转机马上出现了。 2、结绳记事符号 在图0005、图0006、图0019中,笔者发现了可能比伏羲书契更为古老的文字符号,它们是“玄、兹、素(索)”。虽然我知道它们是文字,会在后面的书契类里破解它们,但我还是把它们在符号类里说明一下。笔者认为“玄、兹、素(索)”这三个字,来源于更古老的结绳记事符号。 结绳记事,也叫奇普(英文khipu),我译之为“其谱”。结绳记事相传起源于和燧人氏同时期的弇兹氏,就是《山海经.海内北经》中:“西王母梯几而戴胜(枚),其南有三青鸟,为西王母取食”文中的“三青鸟”部族。“三青鸟”部族首领均是女子。结绳一股的女首领,叫玄女;结绳二股的女首领,叫兹女。结绳三股的女首领。叫素女,或叫须女。伏羲氏风姓就来自于这个部落,所以我才说“玄、兹、素(索)”这三个符号更古老。果真如此,那可能在伏羲以前就已经有文字的雏形了。 四、书契类 书契类破译是本篇论文的重点,笔者主要采用印章图片原文,逐字破译。单字破译后还会在《第三章》里面,使用印章原文配合史书进行验证。 那么,我就从印章文字里面经常出现的“鱼”形符号开始破译。在破译之前,请读者千万不要忘记我前面讲过的切音和训诂,否则,将无法破译印章文字。 为了方便读者阅读,我把将要破译的62个印章文字列成表四,以便读者对照阅读。 表四:印章文字单字破译表(书契类),印章字码0024-0085。 更多内容搜索《古文字学术报告:亚布破译印章文字》 3�{RX¡ 表四:印章文字单字破译表(书契类),印章字码0024-0085。 1、鱼:印章图码0001,印章字码0024。 鱼:印章文字、水书、甲骨文、金文都是象形字,像鱼形。 《山海经.海外北经》载:“汉水出[鱼付]鱼之山。帝颛顼葬于阳,九嫔葬于阴,四蛇卫之”。文中的“[鱼付]鱼”,在《山海经》里有多种写法,如附禺、务隅、扶余等。这说明鱼、禺、隅、余,都读鱼。 《古本竹书纪年》夏史记载 “帝杼。元年己巳,帝即位,居原。杼或作帝宇,一曰伯杼。杼,能帅禹者也,故夏后氏报焉”。这又说明:“杼、宇、禹”同音。而禺、禹在甲骨文里又是同型字。这说明:“鱼、禺、余、隅、余、杼、宇、禹”都读鱼音。 《山海经.大荒西经》:“有人反臂,名曰天虞”。《山海经.海外东经》:“朝阳之谷,神曰天吴,是为水伯”。那么,这里面的“天虞”和“天吴”是不是同一个官职?“虞”和“吴”是不是同一个字?帝舜的时候,曾封伯益为虞官,专管草木鸟兽之事。同时帝舜就出生在有虞氏。先秦以前吴、虞通用。《左传》僖公五年的“虞仲”,被《吴越春秋》引为“吴仲”。可见上古吴、虞是一个字。 再请看印章字码0066“吴”字的金文写法,左下角有一鱼形,按照古代汉字的拼读习惯,这个鱼形就是声部,故“虞”读作鱼。吴、虞是一个字,“吴”也读鱼。 综上所述:上古的鱼、禺、余、隅、余、杼、宇、禹、虞、吴都读做鱼。那么我们就可以反过来想:现代汉字的鱼、禺、余、隅、余、杼、宇、禹、虞、吴,都可以用印章文字里的“鱼”字代替。读:鱼。 2、矢:印章图码0001,印章字码0025。 印章文字“矢”字,和水书、甲骨文、金文一样象矢形。矢音。 《山海经.海内经》 “少昊生般,般是始为弓矢。”上古“矢”用于诸侯土地面积的确定。“矢”通“屎”。因为上古诸侯射出的箭,和“豹、虎、熊、罴”拉的屎,所落之地,皆为领地。 “矢”通“施”。《诗·大雅·江汉》 :“矢其文德,洽此四国”。 “矢”通“誓”。《诗·卫风·考槃》 “永矢弗谖”。《广雅》:“矢,直也”。 印章文字“矢”译作现代汉字:矢、屎、施、誓、直。读做:矢。 3、网:印章图码0001,印章图码0025,印章字码0026。 网:《说文》 “网,庖牺所结绳以渔”。《易·系辞下》:“(伏羲)作结绳而为罔罟,以佃以渔,盖取诸离”。这说明网是伏羲发明的。网也是罔,上古网、罔都读做网。印章文字“网”字,象网形,网音。可译作现代汉字:网、罔。4、印:印章图码0003,印章字码0027。印:甲骨文为会意字,左为一只手(持印章)朝下,右为一人长跪状。水书是象形字,为纸上有一印迹。学理工科的同学一看就清楚了,印章文字的“印”字也是象形字,只不过印章文字的“印”字是主视图,而水书“印”字是俯视图。 《说文》:“印,执政所持信也”。蔡邕说 ”《独断》玺者,印也。印者,信也”。《小尔雅》:“玺谓之印”。“按,古上下通曰玺。秦以来,天子、诸侯、王称玺,独以玉;列侯至二千石曰章”。这说明秦以前,无论官阶大小都可以用玉印,都叫做玺。秦以后除了天子、诸侯、王可以用玉印,称作“玺”,余者皆称“章”。单从哈拉帕出土印章材质来看,我们的确看不出官阶等级,这也侧面证明了这个说法。印章文字中“印”可译作玺、章、印。上古读“玺”。因为印章文字概念已被大家所接受,笔者按今音,通译做“印”。但切音时要读:玺。 5、因:印章图码0005,印章字码0028。因:也写作“囙”。是个很古老的文字,本意是靠垫,《山海经》中频繁出现。 甲骨文、金文,象人靠在席子上。而印章文字直接画成“靠垫”形状。《说文》说:“因,就也”。有因循之意。《论语·为政》:“殷因于夏礼,所损益可知也”。 “因”与“亲”同音,有“亲”之意。《诗·大雅·皇矣》:“因心则友”。 “因”古同“姻”。《诗经·我行其野》:“昏姻之故,言就尔宿”。这里的“昏姻“是指野蛮抢婚的原因,并不是今天的文明婚姻。 “因”也是姓氏。参照《山海经》和《古本竹书纪年》“河伯僕牛”之事,“因”同“殷”。 印章文字“因”字,读“因”。译作现代汉字:因、姻、亲、殷。6、乎:印章图码0005,印章字码0029。乎 :本意是“呼”。甲骨文、金文像呼喊时声波上扬之状。印章文字变体与甲骨文金文一致;印章文字正体,画作呼号时二目圆睁。 “乎”后引申为疑问或反诘之意,类似“你说?” “乎”通“于”。《礼记》:“ 素富贵,行乎富贵;素贫贱,行乎贫贱”。印章文字“乎”字,读“乎”。可译作现代汉字:乎、呼、于。7、西:印章图码0005,印章字码0030。西:印章文字、甲骨文、金文的“西”字,只在方圆变化间,字体一模一样。为同一个字。印章文字,读:西。译为现代汉字:西。8、玄:印章图码0005,印章字码0031。玄:是古老的文字符号,来源于上古弇兹氏结绳记事,“玄”就是有一股的绳。印章文字、甲骨文、金文里,“玄”都是象形文字。印章文字展现的是绳头,甲骨文和金文展现的是绳身。 “玄”通“弦”,即弓绳。“玄”字印章文字里译作:玄、弦。读作:玄。9、浮鱼:印章图码0005,印章字码0032。浮鱼:印章文字是一个氏族符号,画作鱼破水而出,会意为“浮鱼”。《山海经.海外北经》:“务隅之山,帝颛顼葬于阳,九嫔葬于阴”。据此推断:“浮鱼”氏族和颛顼有关。“浮鱼”与“务隅、附禺、扶余”同音,皆可对译。10、弗:印章图码0006,印章字码0033。《说文》:“弗,矫也”。甲骨文与金文都是象形字,形似两曲木反束,以矫其正。可见“弗”有“背”之意,“背”有“负”之意。“弗”与“负”同音,互为通假。《孟子.梁惠王上》:“ 颁白者不负戴于道路矣”。 弗通“沸”。《汉书.司马相如传》“汹涌彭湃,滭弗密汨”。弗通“怫”。《汉书.沟洫志》:“吾山平兮钜野溢,鱼弗郁兮柏冬日”。 “弗”通“不”。《吕氏春秋.察今》:“澭水暴益,荆人弗知”。 “弗”也是笔的名称。《说文》:“楚谓之聿,吴谓之不律,燕谓之弗”。 印章文字“弗”,字形与甲骨文、金文相近,是符号化了的文字。读:弗。译作:弗 、负、沸、怫、不。11、玺两:印章图码0006,印章字码0034。玺两:印章文字玺两为切音字,玺两切降,即xǐ liǎng切xiáng。12、鸦:印章图码0006,印章字码0035。鸦:水书与印章文字皆为象形字。印章文字译作:鸦。读:鸦。13、兹:印章图码0006,印章字码0036。兹:是古老的文字符号,来源于上古弇兹氏结绳记事,兹就是有两股的绳。印章文字、甲骨文、金文里,“兹”都是象形文字。印章文字展现的是绳头,甲骨文和金文展现的是绳身。印章文字“兹”读作:兹。译作:兹、之。14、水:印章图码0007,印章字码0037。水:印章文字、水书、甲骨文、金文均是象形字,形似流水。《释名》:“水,准也。”。可见上古“水”和“准”连用。“水准”切音为:舜或顺。水(shuǐ)的韵母ui,上古读un。如《诗·周颂·维天之命》:“骏惠我文王 ,曾孙笃之”。这里的“惠(huì)”训为“顺(shùn)”,韵母ui,读un。印章文字“水”可译作现代汉字:水、舜、顺。读作:水。15、弓:印章图码0008,印章字码0038。弓:印章文字、水书、甲骨文、金文均是象形字。《说文》:“ 弓,兵也,所以发矢”。上古领兵之人也称“公”。故“公”也称“ 弓”。《山海经》:“在昆仑之北,柔利之东。相柳者,九首人面,蛇身而青。不敢北射,畏共工之台”。“弓”实为“共工”切读。可见印章文字里面的“弓”字,可以译作现代汉字:弓、公、共、工。读作:弓。16、弜:印章图码0008,印章字码0039。弜:《说文》:“弜:强也。从二弓。凡弜之属皆从弜”。可见“弜”上古读:强,或读弓弓、共工。这可能是因为共工力大无比,手可开双弓,是一位神射手。所以《山海经》才说“不敢北射,畏共工之台”。17、夷:印章图码0009,印章字码0040。夷:印章文字、甲骨文、金文均是象形字。图形都是人形与弓、矢的组合。《说文》说:“夷俗仁。仁者寿。有君子不死之国。按天大,地大,人亦大。大象人形。而夷篆从大。则与夏不殊。夏者,中国之人也。从弓者,肃慎氏贡楛矢石砮之类也。以脂切。十五部。出车,节南山,桑柔,召旻傳皆曰。夷,平也。此与君子如夷,有夷之行,降福孔夷傳夷易也同意。夷即易之假借也。易亦训平。故假夷为易也。节南山一诗中平易分释者,各依其义所近也。风雨傳曰夷悦也者,平之意也。皇矣傳曰夷常也者,谓夷节之假借也。凡注家云夷伤也者,谓夷即痍之假借也。周礼注夷之言尸也者,谓夷即尸之假借也。尸,陈也。其他训释皆可以类求之”。从这段文字中可以看出来,古代“夷”可以表示仁、易、痍、尸。印章文字“夷”字,可译作:夷、仁、易、痍、尸。读:夷。18、[羽/开]:印章图码0009,印章字码0041。[羽/开]:读“开”,实为“羿”。《说文》:“ [羽/开],亦古诸侯也。一曰射师。从羽幵声”。“[羽/开]”是“羿”的古字,意为射师。印章文字“[羽/开]”画作一人身背羽箭,双腿叉开,实为射姿。“羿”或“[羽/开]”的字音,分别是从上羽声,从下开声。印章文字中“[羽/开]”可译作:[羽/开]、羿。笔者按照现代汉语,从上羽声,在印章文字里面译作“羿”。但切音时读:开。引申一下。《山海经.海内西经》:“百神之所在。在八隅之岩,赤水之际,非仁羿莫能上冈之岩”。这里面的“仁羿”,出现在我破译的印章图码0009里面。印章图码0009音译为:“三(等伯).夷羿印”。按《说文》:“夷俗仁”。即夷也可读仁。夷羿可译成仁羿。通过这种转译,印章文字破译出来的“夷羿”,就变成《山海经》里面的“仁羿”。笔者想:这绝非巧合。19、曾:印章图码0010,印章字码0042。 曾:是上古的姓氏。印章文字、甲骨文、金文均是象形字。意思是领地内有田。《管子·轻重戊》 :“有虞之王,烧曾薮,斩群害,以为民利”。有虞之王就是舜,烧了曾族的领地,说明这个姓氏非常古老。 “曾”通“层”。《淮南子·本经》:“大厦曾架,拟于昆仑”。这句话表明昆仑墟是多层建筑 。这与哈拉帕和摩亨佐.达罗古城建筑风格一致。 “曾”通“增”。《孟子·告下子》:“所以动心忍性,曾益其所不能”。印章文字的“曾”字可译作现代汉字:曾、层、增。读:曾。20、用:印章图码0012,印章字码0043。 用:甲骨文象形字,桶形。通“桶”,引申为用。《苍颉篇》:“用,以也”。《易.益》:“利用为大作”。《书.微子》:“乃攘窃神胝之牺牷牺用”。 “用”也是古老的姓氏。《古本竹书纪年》 “帝芬。十六年,洛伯用与河伯冯夷斗”。上古诸侯有筑“桶城”者,以桶为姓。桶,用也。因此在印章文字“用”字出现在“侯”字旁边,译作“用侯”。印章文字里“用”字,译作:用、桶。读:用。21、有:印章图码0012,印章字码0044。 有:是个象形文字。印章文字为一旗状。金文“有”字,形似旗杆上挂着族旗。甲骨文“有”字与印章文字“侯”字为同形字,故“有”通“侯”。《易·杂卦》说:“大有众也”。犹是说:光明正大的旗帜下会聚集很多人。“有”同“又”。《韩非子·五蠹》:“ 割地朝者三十有六国”。印章文字中的“有”可以译作现代汉字:有、侯、又。读:有。22、囿:印章图码0012,印章字码0045。囿:从囗(wéi),有声。是古代帝王皇家的园林。因专属,而竖族旗于园内。印章文字也是象形字,像园内立一族旗。而甲骨文是园内有林木。《古本竹书纪年》 “黄帝。二十年,景云见,以云纪官。麒麟在囿,神鸟来仪”。印章文字里“囿”可以译作现代汉字:囿、有。读作:囿。23、雨:印章图码0014,印章图码0018,印章字码0046。 雨:印章文字、水书、甲骨文、金文均是象形字,字形基本一致。印章文字变体“雨”字是雨滴中有水,更接近金文。《管子·形势解》:“ 雨,濡物者也”。《说文》:“雨,水从云下也”。印章文字“雨”译作现代汉字 雨。读:雨。24、益:印章图码0014,印章字码0047。益 :古同“溢”。 水书、甲骨文、金文皆从皿,从水,像水从器皿中漫出的样子。印章文字表现的是往器皿中加水。《古本竹书纪年》载 “帝启。二年,费侯伯益出就国”。印章文字“益”译作现代汉字:益、溢。读:益。25、降:印章图码0015,印章字码0048。降:印章文字的“降”,与甲骨文、金文字的“降”字左边偏旁字形相同,都是梯形,有连降三阶之意。从印章文字“梯”字还可以看出来:“梯”有上之意,而“降”有下之意。《说文》:“ 降,下也”。《诗·大雅·公刘》:“复降在原”。《山海经.海内经》:“黄帝妻雷祖,生昌意。昌意降处若水,生韩流”。印章文字的“降”可译作现代汉字 降。读:降。26、丹:印章图码0015,印章字码0049。丹:印章文字的“丹”字,画的是丹水有四条支流。金文的“丹”字也画出三条水形,加上左边偏旁,也为四条支流。虽然甲骨文的“丹”字比金文简化,没画出水形,只画出了生产丹砂的工具,但丹朱降居丹水是不争的事实。笔者认为,这个字是印章文字的“丹”字,读:丹。27、朱:印章图码0015,印章字码0050。朱:印章文字、水书、甲骨文和金文字的“朱”字,均像蜘蛛。《古本竹书纪年》 “帝子丹朱避舜于房陵,舜让,不克。朱遂封于房,为虞宾。三年,舜即天子之位”。《韩非子·十过》:“禹作祭器,墨染其外,而朱画其内”。根据这两句话分析:丹朱降居丹水组织生产的丹砂,主要是用于漆染祭器。在那个时代,管理丹水应该是个很神圣的职位。印章文字中“朱”可译作现代汉语:朱。读:朱。28、困:印章图码0016,印章字码0051。困:印章文字、甲骨文、金文都是从囗( wéi),象房的四壁;里边是生长的树木。理解为废弃的房屋。《说文》:“困,故庐也”。《周礼·地官·禀人》:“行而无资谓之乏,居而无食谓之困”印章文字译作:困。读:困,音同“昆”。29、木:印章图码0016,印章字码0052。木:因为在印章文字、甲骨文、金文“困”字都是从囗( wéi),内生一木。故笔者把“木”字也一并译出来,留给以后使用。 “木”是象形字。甲骨文和金文写的有枝有根。水书有根无枝。印章文字有枝无根。印章文字也读:木。《说文》:“ 木,冒也。冒地而生”。《春秋繁露》:“木者,春生之性。农之本也”。综合两句话可以看出来:木有“生”之意,生有“性”之意。上古“生”、“性”、“姓”,为同一字。印章文字的“木”字有枝无根,而把无枝有根的“木”字留下来,表示“生、性、姓”。在后面的破译中,再带给读者。30、舞:印章图码0016,印章图码0034,印章字码0053。印章文字的“舞”字,乃王之身形,上古皆巫王《说文》释巫:“象人两袖舞形”;“筮巫以玉事神”。因此巫与舞蹈、玉器、祭祀有关。非王不能上祭台。这与印章文字“舞”字一样。印章文字“舞”,读:舞。译做:舞、巫、吾。巫乃王,王自言为吾。综合“困”和“舞”,看《古本竹书纪年》 “帝仲康。六年,锡昆吾,命作伯”。《山海经.海内经》 “有九丘,以水络之:名曰陶唐之丘、有叔得之丘、孟盈之丘、昆吾之丘、黑白之丘、赤望之丘、参卫之丘、武夫之丘、神民之丘”。我把“困舞”二字模糊切读作:昆吾。31、弟:印章图码0017,印章字码0054。弟:本意是“梯”。因梯为木制,现在汉语的“梯”字才从木。 《说文》:“梯,木阶也”。在印章文字、水书、甲骨文、金文里,“弟”都是象形文字,都是梯形。上古“弟”字通“悌”。《商君书·去强》 :“国有礼有乐,有诗有画,有善有修,有孝有弟,有廉有辩”。还通“第、涕”。梯还通“凭”。《字汇》:“梯,凭也,若梯邪倚著也”。《山海经.海内北经》 :“西王母梯几而戴胜杖”。可见印章文字的“弟”可译作:弟、悌、第、涕、凭。读:弟。32、风:印章图码0019,印章字码0055。风:天之使,万物播者。风是上古最古老的姓氏。伏羲就是风姓的后代,据传上古弇兹氏观风遂得风历,便以风为姓。《山海经》和《尚书》里面都有四方风神的记述,风神也叫风伯,后来发展到“八风”。印章文字、甲骨文的“风”字皆是鸟形,故也可以通“凤”,因上古“风皇”,也称“凤皇”。水书的“风”字,画作三撇,刮风之状,与印章文字和甲骨文不类。印章文字“风”字读:风。译作:风、凤。33、素:印章图码0019,印章字码0056。“素”或“索、须”:是古老的文字符号,来源于上古弇兹氏结绳记事,“素”就是有三股的绳。印章文字、水书、甲骨文、金文里,“素”都是象形文字。印章文字展现的是绳头,水书、甲骨文和金文展现的是绳身。“素、须”古意与现代汉语意义不同,“索”古意与现代汉语意义相同。印章文字“素”读作:素。译作:素、索、须。34、卜:印章图码0020,印章字码0057。卜: 中国古代凡祭祀、征伐、田猎、出入、年成、风雨、疾病皆要占卜吉凶。卜:古汉语读“僕”。《周礼·大卜》:“问龟曰卜”。卜官,卜卦之人。卜作为一种职业,后来演变成姓氏。 印章文字、甲骨文、金文里字形一样,皆是一字。印章文字译作:卜、僕。读:卜。35、射:印章图码0021,印章图码0046,印章字码0058。射:印章文字、水书、甲骨文、金文均是象形会意,象箭在弦上,待发。不过印章文字的变体有点像小篆,人形可理解为“身”字。《礼记·射义》:“射者,男子之事也”。上古有一种习俗叫“射牛”。帝王、诸侯祭祀天地、宗庙,必亲自射牛以示隆重。读者请看图0046印章的图面,看看那个人射的是不是牛?射:还有“舍”之意。《诗经.清庙》:“不显不承,无射于人斯”。这里的“射”为“舍”,舍弃之意。印章文字里的“射”字,译作:射、舍。读 射。36、曲:印章图码0023,印章字码0059。曲:古代的姓。 印章文字、甲骨文、金文里字形相同。和《广雅·释诂一》说的一样:“曲,折也”。《说文》解:“曲,象器曲受物之形”。笔者认为:“曲”字是上古音和词组保存最好的一个字。读者可以体会一下:如曲录;曲律;曲弯弯;曲蟮;曲盖;曲兵;曲谕;曲止;曲言;曲譬;曲子;曲邃;曲狭;曲复;曲止;曲至;曲防;曲延臣算;曲心矫肚;曲意;曲就;曲全;曲惠;曲智;曲胜;曲艺。由此可见上古曲氏对中国文化的影响。 印章文字里面的“曲”,译作:曲。读:曲。37、牛:印章图码0025,印章字码0060。牛:印章文字、水书、甲骨文、金文均是同一字形,为“牛”字。《说文》:“牛,大牲也”。《大戴礼记·曾子天圆》:“牛曰太牢”。《连山易》里面有“兼山物”之语,兼山卦位在东南,是少昊的封地,盛产水牛,这里的“物”便是指牛。物,从牛,勿声。《说文》 :“物,万物也。牛为大物,天地之数起于牵牛,故从牛”。《礼记·乐记》:“物以群分”。这也是说牛。所以上古“牛”读“物”,像牛叫之声。印章文字“牛”译作 牛、物。切音读:物。38、蝇:印章图码0026,印章图码0047,印章字码0061。蝇:象形字。印章文字、甲骨文、金文皆写作苍蝇状。印章文字译作:蝇。读:蝇。39、豕:印章图码0026,印章字码0062。豕:象形字。印章文字、甲骨文、金文皆写作猪形,即是“豕”。印章文字译作:豕。读:豕。40、储:印章图码0026,印章字码0063。储:即储君、太子。亦称:储贰、储宫、皇储。储也是姓氏。印章文字“储”是合体会意字。即是少帝居于室,为“储”。印章文字译作:储。读:储。41、山:印章图码0027,印章字码0064。山:象形字。印章文字、水书、甲骨文、金文皆画作山形。 印章文字译作:山。读:山。42、且:印章图码0027,印章字码0065。且:上古“且”与“祖”是同一个字,为男根。哈拉帕出土文物中就有一件石雕男根。印章文字、甲骨文、金文里的“且”字,都是男根形状。“祖”应该是殷商以后发展为形声字的。从示,且(jǔ)音。“示”为祭祀,“且”为男祖。“祖”字合起来意思就是祭祀男祖。《说文》:“祖,始庙也”。 “祖”通“初”。《庄子.山木》:“浮游乎万物之祖”。上古“且”与“祖”均是姓氏。印章文字“且”译作:且、祖、初。读:且。43、吴:印章图码0028,印章字码0066。甲骨文中未发现“吴”字,可能和“鱼”是同一个字。先秦以前吴、虞通用。金文“虞”字左下角有一鱼形,和印章文字的“吴”字神似。“虞”,鱼部。读作鱼。印章文字中的“吴”也读:鱼。译作:吴、虞。44、贝:印章图码0028,印章字码0067。贝:印章文字、甲骨文和金文字皆是贝壳展开之状。印章文字译作:贝。读:贝。45、三三:印章图码0029,印章字码0068。印章文字“三三”,切读为“鄯善”。即sān sān音同shàn shàn。46、疆:印章图码0030,印章字码0069。疆:《说文》 “畺:界也。从畕;三,其界画也”。印章文字的“疆”字正是此意,并和印章文字“囿”字形意相近,皆从囗(wéi)。“囿”是古代帝王皇家的园林,族旗竖于园中。而“疆”是王侯封地“田”的范围。在印章文字里面都是会意字。按现代文字“疆”字会意,上古王侯封地应该是两箭之地。“疆”字很古老。《山海经.大荒北经》载:“北海之渚中有神,人面鸟身,珥两蛇,践两赤蛇,名曰禺彊”。文中的“禺彊”两个字,在印章文字里面我们全部见到了。印章文字里“疆”译作:疆。读:疆。47、单:印章图码0036,印章字码0070。 “蟾蜍”古称“蟾诸”或“蝉蜍”。故“蝉”通“蟾”。“蝉”即是“单”,“虫单”切读为“蝉”。在印章文字、甲骨文、金文里皆是象形字。“蟾”形。“蟾”在现代汉语里是形声字,从虫詹声。印章文字“单”译作:蟾。读:蟾。48、世:印章图码0037,印章字码0071。世:古同“丗”、“卋”。金文字形似“止”,意为终止。《说文》:“ 三十年为一世”。印章文字“世”是印章文字正体的“四”字加一横,意思是四十年为一世。与现在的“世”字定义相差十年,可能是时代不同所致。“世”与“生”同。《列子·天瑞篇》:“亦如人自世之老,皮肤爪发,随世随落”。 “世”又通“嗣”。《列子·杨朱》 :“卫瑞木叔者,子贡之世也”。 “世”指嫡长。通“大”。《释名》:“世父言为嫡统继世也。故世子亦曰大子”。 “世”通“太”。《庄子·大宗师》:“滀乎进我色也,与乎止我德也;厉乎其似世乎”!“世”也是姓。《风俗通》有:“秦大夫世钧”。印章文字“世”,读:世。译作现代汉语:世、生、嗣、大、太。49、开:印章图码0037,印章字码0072。开:参见印章字码0041“[羽/开]”字。“开”是“[羽/开]”字音首,故译为“开”字,读“开”。50、凡:印章图码0039,印章字码0073。凡:印章文字、甲骨文、金文皆是象形字。像铸器之模,即“范”。 《广雅》:“ 凡,皆也”。如《周礼·春官序》:“凡内女之有爵者”。从这句话来看:上古女人和男人一样享有等同的社会地位。 凡:也是古代乐谱音符,类似现在的简谱“发”。印章文字的“凡”,读:凡。可译作现代汉语:凡、范、发。51、午:印章图码0041,印章字码0074。午:是地支的第七位,与天干相配,用以纪年。“午”字,印章文字、甲骨文、金文皆绳结之状,怀疑此字源于结绳符号,有待研究。 “午”通“仵”。《礼记·哀公问》:“午其众以伐有道,求得当欲,不以其所”。 “午”通“迕”。《荀子·富国》 :“视可午其军、取其将”。 印章文字的“午”,读作:午。译作现代汉语的午、仵、迕。52、玺三:印章图码0041,印章字码0075。玺三:印章文字切音字。玺三切读为“咸”,即xǐ sān切xiān。53、小:印章图码0041,印章字码0076。小:印章文字、甲骨文和金文字皆是同一字形,只是书写方向相反。印章文字的“小”,译作:小。读作:小。54、邠:印章图码0043,印章字码0077。邠国:古代传说的西方极远之国。《古本竹书纪年》 “殷.河亶甲。十五年,命邠侯高圉”。“邠”,即“分”。印章文字、甲骨文和金文中笔画间架基本一致。甲骨文和金文竖着写的,印章文字为了美观,是横着写的,这与印章“丹朱”两字,书写方式一致。可见上古对书写的规范性不是很强,只要能读懂就可以了。印章文字依现代汉语译作:邠,读:邠。55、生:印章图码0043,印章字码0078。《古本竹书纪年》 “禹笑曰:吾受命于天,屈力以养人。生,性也;死,命也”。《说文》:“姓,人所生也”。由此看来“生”即同于“性”,也同于“姓”。印章文字的生为木之根本,有根方能生发。甲骨文、金文“生”字皆是木发于土。印章文字的“生”字,可译作:生、性、姓。读做:生。56、浮:印章图码0043,印章字码0079。《广雅》:“浮,漂也。浮游也”。从水,孚声。印章文字里的浮为鱼向上顶水。这个字与金文会意极为相似。金文为一子鱼,奋力逆水而去,也有顶之意。为“浮”。参考印章字码0032“浮鱼”氏族符号,“浮”与“附、务、扶”同音。“浮”可译作:浮、附、务、扶。读:浮。57、华:印章图码0044,印章字码0080。华:花也。也为姓氏。印章文字、水书、金文皆为花开之态,尤其水书“华”字与印章文字“华”字最为神似。皆花型。印章文字“华”译作现代汉字:华、花。读作:华。58、琴:印章图码0044,印章字码0081。琴:也写作“琹 ”、“珡”。象形。小篆字形,象乐器形,上面“玨”象弦和弦柱,下面象琴身。“琴,弦乐也。神农所作,洞越练朱五弦,周加二弦,象形”。《说文》:“琴,古文从瑟金省声”。说明“琴”字和现在的读音差别很大。 印章文字的“琴”字和金文有类似之处,金文上面画的是弦柱,下面是琴身,这可能是琴到周朝时形状改变了。而印章文字的琴身更像今天的竖琴。 印章文字的“琴”字跟“神农所作,洞越练朱五弦”一样,画着五根弦。在前面“舞”字的破译中,我们知道“王”即是“巫 ”、是“舞”。就是祭祀的神职人员。按照上古的命名方式,一般都以职业命名。比如虞官就叫虞侯,卜官就叫卜伯,河官就叫水伯,雨官就叫雨师。那让我们来看看古代使用琴的乐官叫什么?古代的乐官叫做胥人。《礼记·王制》:“小胥大胥”。它注释道 “皆乐官属也”。《礼记》:“大胥是敛,众胥佐之”。“小胥大胥”都是胥人。图0044印章上刻着“王”字,一定是大胥了,简称为胥。那么印章印章图码0044这个“琴”字。也可以当做“胥”字解释。胥也是姓氏。《史记·扁仓传》:“胥与公往见之”。这里的胥就是指个姓胥的人。印章文字把“琴”字译作:琴、胥。读作:琴、胥。59、十四:印章图码0045,印章字码0082。十四:筹算总和十四,译做:十四。可以参考一下《山海经.海内经》:“共工生后土,后土生噎鸣,噎鸣生岁十有二”。“岁十有二”这几个字看起来突兀,其实这是它们的读音。如果使用印章文字书写,它也是两个字的连绵词。一个是“岁”字,另一个是组合在一起的十二个竖线。这样就与前文的共工、后土对照工整了。同时笔者认为:“岁十有二”是指“岁星纪年”。也就是说从八世炎帝“岁十有二”时,已开始使用“岁星纪年”了。60、穀:印章图码0047,印章字码0083。穀:古汉字是象形会意字,为谷仓内堆满粮食。《说文》:“穀,百谷之总名。从禾,穀声”。意为装粮食的壶,即“库”。 《说文》:“壶:昆吾圆器也。象形。从大,象其盖也”。文中的“昆吾”是夏朝的重要诸侯国。印章文字也是象形会意字,为谷仓内有谷堆。穀:也与“谷”通假,粮食的总称。“穀穀”也是姓氏。出自姬姓,后简写为郤。据《鼠璞》所载,古代有郤姓,唐叔虞后代,后去掉邑旁改为谷姓。《魏书·官氏志》:“北魏代北复姓有谷会氏,鲜卑族,入中原改为谷姓”;《唐书》:“唐代谷那律,复姓谷那,东夷人,他的后代改谷姓”。 “穀”字印章文字里译作:穀、郤、谷。读作:穀。61、中:印章图码0048,印章字码0084。中:象形字。印章文字、水书、甲骨文、金文皆或作物之中心,字形相同,为同一个字。《周礼·射人》:“与太史数射中”。这里的“中”是靶心。中:还通仲。伯、仲、弟,仲居中。印章文章“中”译作:中、仲。读作:中、仲。 62、干:印章图码0049,印章字码0085。干:印章文字、甲骨文、金文都是是象形文字,像叉子样形的武器,既可用于进攻,又可用于防御,有盾的作用。《方言》:“盾,自关而东或谓之干”。可见“干”是“盾”的异称。《礼记·儒行》载:“礼义以为干橹”。其注曰 “干橹,小楯大楯也”。 因此《礼记·檀弓下》才说:“ 能执干戈以卫社稷”。“干”与“岸”音同,通“岸”。《诗·魏风·伐檀》:“坎坎伐檀兮,置之河之干兮”。 “干”通“犯”。《说文》 “干:犯也。从反入,从一”。《公羊传·宣公十二年》:“以干天祸” 。“干”也是姓氏。印章文字“干”可译作现代汉语:干、岸、犯。读:干。 第三章 印章文字破译结果验证对于印章文字的读写顺序问题,笔者是这样解决的。网上说:“印章文字,首行从右向左写,第二行从左向右写,像牛犁地一样往复”。因为笔者所得到的资料都是图片,不排除有反方向的图片。所以不好以方向论断读写顺序问题。但经过笔者细心比对,发现印章文字的排列,有两种基本规律。一种是:封号+等级+姓名+印字(或省略印字);另一种是:封号+等级+印字(或省略印字)。封号和等级很多时候是反正不分的,但“印”字多数居后。如果“印”字多次出现,那它就的作用就是装饰功能,没有具体意义。最后笔者采用这种方法。在《第二章》里面,我对印章文字是单字破译的。这种方法破译出来的文字,无法验证破译结果是否正确。那么现在,我要把破译出来的单字,放回到印章里,如果破译出来的结果,在某部史书上找到了,那就足以证明我破译的文字无误。除此之外,我没有别的办法。而这个切入点很难选择,如果我选择一枚简单的印章,比如拿《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》里面,已经破译的“三等王、四等公”,定然不会为读者所瞩目。看来我只能选择一枚比较复杂的印章,来说服读者。我在《印章上的山海经故事》里面曾讲到过怪兽“双双”。看看我能不能用《印章文字单字破译表》,破译怪兽“双双”。图0001 图0002 读者一眼就会看出:图0001、图0002两枚印章上,刻画的明明是同一个怪兽?笔者也认同这种观点。而且我认为它就是《山海经》里面的怪兽“双双”,相信这两枚印章的价值很大,因为上面都刻有文字,如果能对照破译了,信息量应该十分丰富。《山海经.大荒南经》记载:“南海之外,赤水之西,流沙之东,有兽,左右有首,名曰[足术]踼。有三青兽相并,名曰双双”。文中连续出现两个“有”字来叙述怪兽,我已经在《第二章》中解释了,“有”就是族旗或族徽。而文中所述:初看像是说两种怪兽。细读才发现:这是同一种怪兽的两种称谓。恰恰又在巴基斯坦,这两枚印章又一起出土了。现在我才理解《大荒南经》这句话的意思:原来这种怪兽正面看“左右有首,名叫“[足术]踼”;侧面看“三青兽连体,名叫双双”。那笔者的论断对不对?也就是说“[足术]踼”是不是“双双”。因为在众多的《山海经》译本中,“[足术]踼”与“双双”都被当做两种怪兽来解释,笔者不敢苟同。看来“[足术]踼”到底是不是“双双”的问题,还要仔细研究。按照中国古代造字方法,笔者理解“[足术][足昜]”两字左边“足”部,说明该怪兽为四足动物,而右边“术昜”是两字的音部,切读之后结果是这样的。“术昜”切“双”,即shù shāng切shuāng。可见我的想法是对正确的。“[足术]踼”就是“双双”,是同一怪兽。那么图0001、图0002上的文字到底是不是“[足术]踼”或“双双”呢?对照《第二章》的《印章文字单字破译表》,我先把图0001、图0002上的印章文字音译出来,然后再表音或切音。图0001上的印章文字,对照《印章文字单字破译表》,这六个印章文字对译上的印章字码是: [0019.0020].0022.0024.0025.0026 。印章字码对应的六个印章文字读音是:伯子り鱼矢网图0002上的印章文字,对照《印章文字单字破译表》,这两个字对译上的印章字码是:0007.0018。印章字码对应的两个印章文读音是:七侯。那么图0002可以直接译为:七(等)侯。看来图0001不切音难懂其义。笔者把图0001切音为:伯子り杼.双。即“矢网”切“双”,即shī wǎng切shwāng。因文句里有个省写复读符号“り”,故译做:伯子杼.双双。这简直令人难以置信!我对印章文字“矢网”的切读,竟然与对《山海经》“[足术]踼”的切读,得到是一模一样的结果。读者可能会说:这是巧合。只是巧合的事情后面越来越多!我们知道了“双双”是图0001、图0002两枚印章上怪兽的名字,这和《山海经.大荒南经》记载的一模一样。那“伯子杼”又是谁?在《古本竹书纪年》夏史中有这样的记载 “伯子杼帅师灭戈”。“(伯子杼)帝杼。元年己巳,帝即位,居原。杼或作帝宇,一曰伯杼。杼,能帅禹者也,故夏后氏报焉”。原来“伯子杼”是夏朝的一个帝王,帝杼或称帝宇,也称伯杼。 难道历史会这么巧合?古代巴基斯坦地区,也有一个和“伯子杼”姓名履历一摸一样的帝王?当然不会。我破译的“伯子杼.双双”,就是帝杼。族徽是怪兽“双双”,或叫“[足术]踼”、“矢网”。这个结果也印证了我一直把《山海经》里面的“有”字,译作“族旗或族徽”是正确的。一枚小小的印章,就把《山海经》和《古本竹书纪年》紧紧的联系到一起。这不得不令我对《山海经》和《古本竹书纪年》这两本饱受非议的古籍刮目相看。对“[足术]踼”和“矢网”的切读,还让我想起《古本竹书纪年》上,一件发生在夏朝的重大历史事件。《古本竹书纪年》这样记载:“帝廑。一名胤甲。元年己未,帝即位,居西河。四年,作西音”;“帝孔甲。元年乙巳,帝即位,居西河。五年,作东音”。 这可能是夏朝历史上最大的一次语音规范运动。“西音”就是当时夏朝西部的语音,例如“[足术]踼”和“矢网”;“东音”就是当时夏朝东部的语音,例如:“双双”。而东音最典型的代表作品,据《古本竹书纪年》记载:当算是帝孔甲的《破斧之歌》。通过“[足术]踼”和“矢网”的切读,还可以看出来:当时夏朝西部的语音,是使用文字进行标注切读的,文字可以不固定,只要切读后发音一致就可以了。而切读出来的“双”就是“东音”。而“东音”的“双”就只能读“双”了。这也印证了我在《第二章》论述过的,之所以我能破译印章文字,突破点就是:“上古的文字,即是文字,又是拼音”。这也难怪众多的学者,对这种文字的表达方式大惑不解。语言文字发展到了夏朝帝廑的时候,夏朝西部和东部的语音拼读混乱,甚至交流上都出现问题了,不得已才有“帝廑:四年,作西音;帝孔甲:五年,作东音”的举措。历经两代帝王,对全国语音进行了一次强制性的规范。这个重要的历史事件,也为后来汉语的规范化、标准化做出了巨大贡献。从图0001、图0002破译结果来看:帝杼是从子爵、伯爵、侯爵做起,最后才做到帝王。是一步步干上去的务实的帝王。虽然笔者尚未弄清图0001和图0002这两枚印章是出土于哈拉帕,还是出土于摩亨佐.达罗,但就《山海经.大荒南经》记述的地理位置上来看,这两枚图画印章应该出土于今天的摩亨佐.达罗,也就是《古本竹书纪年》所称的“帝即位,居原”。 图0003 图0004我在《印章上的山海经故事》里面还讲到过“二八神”。我认为“二八神”和图0003印章记述的是同一事件。《山海经.海外南经》载:“羽民国在其东南,其为人长头,身生羽。一曰在比翼鸟东南,其为人长颊。有神人二八,连臂,为帝司夜于此野。在羽民东。其为人小颊赤肩,尽十六人”。上文中所说的羽民国,是《山海经.海外南经》从西南角向东南角排列的第三个国家。那么图0003这枚印章就应该出土于哈拉帕古城。印章上面描绘的共有九人:一人立于礼台之上,明显是帝,另一人是头领,跪于帝前,其余七人皆“连臂”,印章的背景是牧场,也就是“野”,这八人的装束皆头戴鸟羽,除了人数少了一半,场景与“二八神”的记述一模一样。笔者认为:所谓“二八神”确有其事,应该理解为两个八人一组的神,是帝的两个南方卫队,临南海(孟加拉湾)为帝司夜。这枚印章只是其中一个卫队,这样的印章一定共有两枚,只是那枚印章遗失了,或还未出土罢了。将图0003印章上的文字,对照《印章文字单字破译表》,这四个字对译上的印章字码是:0014.0014.0024.0027。印章字码对应的四个印章文读音是:帝帝鱼印。我把它译作:帝.禹印。 笔者注意到:和图0003印章还有一枚十分相近的印章图0004,对照《印章文字单字破译表》,图0004五个字对译上的印章字码是:0014.0014.0027.0024.0027。印章字码对应的两五个印章文读音是:帝帝印鱼印。我把图0004译作:帝印.禹印。 《山海经》里面的“二八神”,到底是为哪一个“帝”司夜一直是个谜。现在通过对印章文字的破译,我可以告诉读者了:他们是在帝禹司夜。 图0005 图0006 让我们再破译两枚印章。看图0005上的印章文字,对照《印章文字单字破译表》,这九个印章文字对译上的印章字码是:0002.0028.0028.0029.0024.0030.0031.0023.0032。 印章字码对应的九个印章文字读音是:二因因乎鱼西玄りり浮鱼。 因图0005文句里有“两字省写复读符号“りり”,故切音为:二.因因乎余.西玄.浮浮鱼鱼。译做:二(等侯).因因乎余.西玄.附附禺禺。还可以简读为:二(等侯).因乎.西玄.附禺。 “因因乎余”和“因乎”被记述在《山海经.大荒南经》 “南海渚中有神,人面,珥两青蛇,践两赤蛇,曰不廷胡余。有神名曰因因乎乎,南方曰因乎,夸风曰乎民,处南极以出入风”。 据印章0005文字分析:“因乎”是南方风神的官职名称,这枚印章是属于一位名字叫“西玄”观风官,印章的主人来源于一个叫“附禺”的氏族。 文中的“不廷胡余”,就是《古本竹书纪年》里面所称的“西音”,而“因因乎乎”或“因乎”,则是“东音”,尽管在《山海经》里称作“南方曰因乎”,但这并不矛盾。因为《山海经》的记述者一直在强调“昆仑墟远在西北”,这也就透露出记述者身在“东南”,熟读《山海经》的人都知道:《山海经》里面有些国家,一会儿记在《南经》,一会儿又记在《东经》,可见上古对方位的划分不是很严格的。笔者认为:夏朝时“东音”与“西音”的关系,类似于今天的南方话和北方话。只不过现在是以长江为界划分的,也不知道夏朝以前是不是这样。 根据《山海经.大荒南经》对南风神“因乎”的记载:“南海渚中有神”。因为“渚”是水中小块陆地的意思,那么,南风神“因乎”所处的地理位置最有可能的,就是今天的柬埔寨和越南南部了。 再看图0006上的印章文字,对照《印章文字单字破译表》,这七个印章文字对应的印章字码是: 0002.0033.[0027.0002].0024.0035.0036.0027。 印章字码对应的七个印章文字读音是:贰弗[玺两(xī liǎng)]鱼鸦兹印。 切读之后为: 贰负.降.窳窫之印。 这里的“窳窫(yú yā)”,《山海经》里叫“窫窳(yā yú)”。“贰负杀窫窳”被记述在《山海经.海内西经》里。“贰负之臣曰危,危与贰负杀窫窳。帝乃梏之疏属之山,桎其右足,反缚两手(与发),系之山上木。在开题西北”。从印章图0006那头牛低首乞怜的表情上看,这枚印章的主人一定是降伯,这与《山海经》的记述一致。 通过以上对六枚印章的破译,特别是在对“伯子杼.双双”及南风神“因乎”,及贰负“降”窫窳的切读中,笔者发现《山海经》里面还有不少这种切读现象,比如:“折丹”切读为“折”,即是东风神;“石夷”切读为“韦”,即是西风神;“[马匋][马余]”切读为“[马交]”,即是同一种兽;“困因”切“殷”,即是指殷国。此类现象很多。据此笔者推断:由于《山海经》叙述的地域广阔,成书时间久远,肯定是一部“东音”、“西音”并用的古代书籍。音韵学家们可以好好研究一下,从中一定可以衍生出一门新学科,权且叫做:《山海经》音韵学。 看了我对以上六枚印章的破译,现在读者应该理解我为什么一再强调:“印章文字是伏羲书契”。那是因为我对印章文字的破译结果,都印证在《山海经》和《古本竹书纪年》里面,特别是印证在夏朝或夏朝以前的历史中。诸多吻合之处,绝不能用巧合而一言蔽之。 既然大家都了解了我破译印章文字的方法,为了节省篇幅,对其它印章的破译,我就不再用叙述的方法了。尽管后面的破译中还会出现很多古籍上的人物,但解释的空间就留给读者吧。现在我直接使用《印章文字单字破译表》,以查字典的方式,破译印章图码0007-0050印章原文。并把破译过程和结果,以列表的方式,呈现给大家。 表五:印章原文破译表,印章图码0001-0050。 看完《印章原文破译表》,读者肯定会将信将疑。天书一样的东西,真的会被你破译了?其实我比大家更关注破译结果的准确性。因此在整个破译过程,我采取的是由难至简,处处设卡的方式。在选取50枚印章的时候,我担心对于一个没有被破译的单字,只在一枚印章上进行验证,还不能说明破译的准确性,因此我就故意选择了一些,带有重复文字的印章。而对于每个印章文字,只破译一次,就列入《印章文字单字破译表》,当做“字典文字”,然后直接拿到其他印章上使用。 当50枚印章破解之后,我对50枚印章里重复出现的文字,做了一个初步统计。排除“帝、王、公、侯、伯、子、印”,出现的频率高的文字,又排除出现频率低于3次的文字。最后我统计出来的结果是:鱼字出现13次;弓字出现8次;夷字出现6次;蝇字出现4次;弟字出现5次;吴字出现4次;益字出现6次;省写复读符号出现4次。从统计结果上来看,这些文字符号反复出现在不同的印章里,而破译的结果,均未发现在逻辑上有什么矛盾之处。而恰恰相反,仅仅破译了50枚印章,就出现了12位古籍上记载的人物。这些人物包括伯子杼、大禹、因乎、贰负、虞舜、共工、仁羿、用侯、丹朱、巫咸、华胥、曾侯。此外还发现“附禺”、“怪兽双双”两个图腾或族徽。这些人物及氏族都记述在《山海经》、《古本竹书纪年》及《史记》里,并且相互印证。 破译中还发现印章上姓氏居多。50枚印章中共有“余、施、殷、曾、用、朱、有虞氏、昆吾氏、风、卜、曲、牛、储、且、世、邠、华胥氏、穀穀、干”19个姓氏,均是上古姓氏。笔者还有点儿个人体会:就是对印章文字的研究越深入,就越离不开《山海经》和《古本竹书纪年》这两本书。综合以上结果,只能说明一个问题:我的《印章文字单字破译表》具有字典功能,我对印章文字的破译基本成功。 当然我破译的印章文字也不一定全部正确,肯定还需在今后的工作中进一步修正,但至少我已经找到破译印章文字的钥匙,全面破译印章文字,只是一个时间的问题了。 由于印章文字破译出来的内容,多处与《山海经》和《古本竹书纪年》吻合,笔者断定:所谓的印度河文明乃是中华远古文明,印章文字乃是中国古文字,是生活在印度河流域的中华先民使用过的文字。印章文字所属年代:夏朝至于伏羲。 这样一来,印章的用途也了然于世了。其实印章就是官方印符,并不是现在网上流传的那样,是护身符或是商人物货往来的凭据。印度河印章和我们现在使用的印章功能没有什么区别,只是被我们现代人给神秘化了。庆幸笔者破译了印章文字。如果让外国人抢先破译了,那我们真的无颜做炎黄子孙了。 本来这篇论文还可以破译更多的印章文字,或者是直接编译成《印章文字字典》,但因笔者收集不到更多的印章资料,此事也只能搁下。现在看来:仅凭我个人之力,是无法完成此项工作了。据说哈拉帕和摩亨佐.达罗古城遗址还有泥版文书出土,或许大量的历史信息就记录在上面。印章文字破译工作实在关乎中华民族荣辱。亚布虽卑微,拳拳爱国之心,片刻未泯。 最后总结一下,此次成功破译印章文字的重大意义: 第一、印章文字的破译成功,把中华文明五千年历史,变为中华文明五千年信史。把中国历史从夏朝上推到伏羲,期间1500多年,有典有册,有出土文物、文字。 第二、印章文字的破译成功,粉碎了《山海经》是神话的谬论。确立了《三海经》的正史地位。同时也结束了《古本竹书纪年》是伪书的说法。 第三、印章文字的破译成功,抨击了中华文明“西来说”。中华文明就是土生土长的文明。据史料显示,直到魏晋,还有中国人生活在印度河(古称赤水)南岸。 第四、印章文字的破译成功,确定了夏朝至于伏羲,都城皆在昆仑墟,主要是在现在的哈拉帕,后期迁都至摩亨佐.达罗。对于这一点,国人不必纠结。摊开地图,就会看到:巴基斯坦与中国比邻而居,哈拉帕就在喜马拉雅山脚下,印度河水也是从喜马拉雅山缓缓流下。文明的传承是靠文化,而不是遗产。俄罗斯的祖坟埋在乌克兰,但谁又能否定俄罗斯的历史。犹太人靠一本《圣经》亡国后两千年复国,但谁又能小看以色列?如果有一天我们移民太空,但谁又敢说我们不是炎黄子孙? 第五、印章文字的破译成功,催生了印章文字学科。是继金文、甲骨文之后的另一种中国古代文字。为发掘中国古代历史提供了现实手段,为中华民族的伟大复兴增添了精神动力。 古代文字破解,应该是当今最好玩的智力游戏。参与者不可胜数,成功者却寥若晨星。今天我能破译成功,也是十几年来坚持的结果。但我个人认为:成功确实带有偶然性。我的学术成果,不一定能使所有人接受。但清者自清,浊者自浊。借用孔子一句话:“知我者其惟印章文字!罪我者其惟印章文字”! 2017年2月8日定稿于贵州
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/1424.html
日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 ~ 長谷部恭男(東大法学部教授(憲法学))『法とは何か』p.149 要旨■日本の憲法学の教科書にありがちな諸々の理想のごった煮的な意味内容ではなく、本家である英米法の本来の用法に合致した意味内容で「法の支配」という言葉を理解すべきである。 ※本ページが難しい方は、まず リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配をご覧下さい。 <目次> ■1.このページの目的 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明◆1.日本の辞書による定義 ◆2.英米圏の辞書による定義 ■3.「法の支配」理念の整理◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 ◆2.「法の支配」理念整理表 ◆3.主権論と「法の支配」 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) ■6.関連用語 ■7.参考図書 ■8.ご意見、情報提供 ■1.このページの目的 多くの憲法学や法理学(法哲学)の教科書では、憲法の基本原理ないし中核的法理念として「法の支配(rule of law)」という用語が強調されている。 しかし、この「法の支配」の意味内容は、論者によって全くバラバラで不明瞭であって、特に日本では「法の支配」の本家である英米圏での標準的な用法とは懸け離れた意味でこの言葉が使用されるという問題ケースが多く見受けられる。 このページでは、この「法の支配」理念について、①正義論および②主権論との関係に留意しながら整理し明晰化していく。 ※なお「概念(concept)」は「~はどうあるか」(⇒ 概念論)、「理念(ideal)」は「~はどうあるべきか」(⇒ 理念論)という意味であるが、以下の文章では両者の使い分けは厳密でないことに注意。 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明 ◆1.日本の辞書による定義 ※関連する人名を含む ほう-の-しはい【法の支配】 (rule of law) 広辞苑 イギリスの法律家コークが、国王は神と法の下にあるべきである、として、ジェームズ1世の王権を抑制して以来、「人の支配」に対抗して認められるようになった近代の政治原理。コークのいう法は、イギリスの判例法で、立法権をも抑制する点で、法治主義とは異なるが、後に法治主義と同義に用いることもある。 ほうのしはい【法の支配】 rule of law 日本語版ブリタニカ 法至上主義的な思想、原則。 (1) どんな人でも、通常裁判所が適用する法律以外のものに支配されない、あるいは、 (2) 被治者のみでなく、統治者・統治諸機関も、法の支配に服さなければならぬ、とする、「法のもとにおける統治」の原理。 イギリスの伝統に根ざす思想であり、自然法思想にも淵源をもつ、法の権力に対する優位性の主張である。 A.ダイシーは、その著『憲法入門』(1885)のなかで、①議会主権と、②法の支配、がイギリスの2大法原理である、としたが、 1 ここから、人間とその自由を権力から守るイギリス型法治主義の原則が確立され、 2 アメリカにおいては、司法権優越の原理を生んだ。 20世紀に入り、経済・社会情勢の著しい変化につれ、伝統的な法支配の原則に対するいろいろな批判も起っている。 コーク【Edward Coke】 広辞苑 イギリスの法律家。権利請願の起草者。13世紀の法律家ブラクトン(H. Bracton ~1268)の著述を引用して「法の支配」(rule of law)を説いたことでも名高い。(1552~1634) ブラクトン Bracton, Henry de 日本語版ブリタニカ [生] 1216 デボン? [没] 1268 エクスター/デボン? イギリスの法律家、裁判官。ときにはイギリスの中世で最も偉大な法律家といわれる。 本名はブラットン Braton であったが、死後ブラクトンの名で伝わる。法律家として名が現れるのは、1245年以降で、48~68年に南西諸県、ことにサマーセット、デボン、コーンウォールで巡回裁判所の判事を務めた。 ローマ法・教会法に造詣が深く、50~56年に中世イギリス法を集大成した『イギリス法律慣習法』 De Legibus et Consuetudinibus Angliae は有名。 同書中の「王もまた神と法の下にある」という言葉は、法の支配原理の象徴的言辞として、しばしば引用されている。 ※この様に日本の辞典類では「法の支配」について割と簡潔な記述しかないが、英米圏ではだいぶ認識が違っているようである。 ◆2.英米圏の辞書による定義 rule of law collins The rule of law refers to a situation in which the people in a society ①obey its laws and ②enable it to function properly. (翻訳) 法の支配とは、ある社会における人々が、①その諸法を遵守しており、かつ、②社会を適切に機能させている、状況をいう。 ※残念ながら、 Britannica Concise Encyclopedia および Oxford Dictionary of English には rule of law の項目がないため、 英文wikipedia(2014.3.15時点) で代用する。 rule of law 英文wikipedia The rule of law (also known as nomocracy) primarily refers to the influence and authority of law within society, especially as a constraint upon behavior, including behavior of government officials.The phrase can be traced back to the 16th century, and it was popularized in the 19th century by British jurist A. V. Dicey. The concept was familiar to ancient philosophers such as Aristotle, who wrote "Law should govern".Rule of law implies that every citizen is subject to the law, including law makers themselves.It stands in contrast to the idea that the ruler is above the law, for example by divine right. Despite wide use by politicians, judges and academics, the rule of law has been described as "an exceedingly elusive notion" giving rise to a "rampant divergence of understandings… everyone is for it but have contrasting convictions about what it is." At least two principal conceptions of the rule of law can be identified a formalist or "thin" definition, and a substantive or "thick" definition. ① Formalist definitions of the rule of law do not make a judgment about the "justness" of law itself, but define specific procedural attributes that a legal framework must have in order to be in compliance with the rule of law. ② Substantive conceptions of rule of law go beyond this and include certain substantive rights that are said to be based on, or derived from, the rule of law. HistoryAlthough credit for popularizing the expression "the rule of law" in modern times is usually given to A. V. Dicey, development of the legal concept can be traced through history to many ancient civilizations, including ancient Greece, China, Mesopotamia, India and Rome. (1) AntiquityIn Western philosophy, the ancient Greeks initially regarded the best form of government as rule by the best man.Plato advocated a benevolent monarchy ruled by an idealized philosopher king, who was above the law. Plato nevertheless hoped that the best men would be good at respecting established laws, explaining that "Where the law is subject to some other authority and has none of its own, the collapse of the state, in my view, is not far off; but if law is the master of the government and the government is its slave, then the situation is full of promise and men enjoy all the blessings that the gods shower on a state." More than Plato attempted to do, Aristotle flatly opposed letting the highest officials wield power beyond guarding and serving the laws. In other words, Aristotle advocated the rule of law It is more proper that law should govern than any one of the citizens upon the same principle, if it is advantageous to place the supreme power in some particular persons, they should be appointed to be only guardians, and the servants of the laws.According to the Roman statesman Cicero, "We are all servants of the laws in order that we may be free." During the Roman Republic, controversial magistrates might be put on trial when their terms of office expired. Under the Roman Empire, the soverign was personally immune(legibus solutus), but those with grievances could sue the treasury. (omission) (2) Modern timesAn early example of the phrase "rule of law" is found in a petion to James Ⅰ of England in 1610, from the House of Commons Amongst many other points of happiness and freedom which your majesty's subjects of this kingdom have enjoyed under your royal progenitors, kings and queens of this realm, there is none which they have accounted more dear and precious than this, to be guided and governed by the certain rule of the law which giveth both to the head and members that which of right belongeth to them, and not by any uncertain or arbitrary form of government … In 1607, English Chief Justice Sir Edward Coke said in the Case of Prohibitions(according to his own report) "that the law was the golden met-wand and measure to try the causes of the subjects;and which protected His Majesty in safety and peace with which the King was greatly offended, and said, that then he should be under the law, which was treason to affirm, as he said; to which I said, the Bracton saith, quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(That the King ought not be under any man but under God and the law.)." Meaning and Categorization of interpretationsDifferent people have different interpretations about exactly what "rule of law" means. According to political theorist Judith N. Shklar, "the phrase 'the rule of law' has become meaningless thanks to ideological abuse and general over-use, but neverthless this phrase has in the past had specific and important meanings. Among modern legal theorists, most views on this subject fall into three general categories the formal(or "thin") approach, the substantive(or "thick") approach, and the functional approach.The "formal" interpretation is more widespread than the "substantive" interpretation. 1 Formalists hold that the law must be prospective, well-known, and have characteristics of generality, equality, and certainty. Other than that, the formal view contains no requirements as to the content of the law. This formal approach allows laws that protect democracy and individual rights, but recognizes the existence of "rule of law" in countries that do not necessarily have such laws protecting democracy or individual rights. 2 The substantive interpretations holds that the rule of law intrinsicaly protects some or all individual rights. 3 The functional interpretation of the term "rule of law", consistent with the traditonal English meaning, contrasts the "rule of law" with the "rule of man".According to the functional view, a society in which government officers have a great deal of discretion has a low degree of "rule of law", whereas a society in which government officers have little discretion has a high degree of "rule of law". The rule of law is thus somewhat at odds with flexibility, even when flexibility may be preferable. The ancient concept of rule of law can be distinguished from rule by law, according to political science professor Li Shuguang "The difference … is that, under the rule of law, the law is preeminent and can serve as a check against the abuse of power. Under rule by law, the law is a mere tool for a government, that suppresses in a legalistic fashion." (omission) (翻訳) 法の支配(それはまたノモクラシーとしても知られている)とは、第一に社会における法の影響力や権威、特に政府当局の行為を含む行為の抑制に関して謂われるものである。このフレーズは16世紀に遡ることができ、19世紀に英国の法律家A. V. ダイシーによって一般に知られるようになった。この概念は、「法が統治すべきである」と書いたアリストテレスのような古代の哲学者達にお馴染みのものだった。 法の支配は、法の作成者も含めて、全ての市民が法に従うことを含意する。それは、王権神授説の例のような、支配者は法の上位にある、とする観念とは対照的である。 政治家・判事・学者によって広く使用されているにも関わらず、法の支配は「誰もが承知するが、しかし、それが何であるかについて対照的な信念しかもっていない・・・収拾がつかないほど多様な諸理解」を惹起する「非常に捉えどころにない観念」として説明されてきた。 少なくとも法の支配について2つの主要な概念解釈(conception)を特定することが可能である:すなわち、①形式的ないし「薄い」定義と、②実質的ないし「濃い」定義、である。 ① 法の支配の形式的定義(definition)は、法の「正当性」自体を判定することはないが、ある法的枠組みが法の支配に適合するといえるために必ず保持しなければいけない特定の手続的属性を定義している。 ② 法の支配の実質的概念解釈(conception)は、それ(形式的定義)を超えて、法の支配がそれに依拠しており、その派生源となっている、ある特定の実質的諸権利を内包する。 歴史近代における「法の支配」という表現の一般的認知は通常A. V. ダイシーの功績であるが、その法的概念の発達自体は、古代ギリシア・チャイナ・メソポタミア・ローマを含む多くの古代文明の歴史上に見出すことが可能である。 (1) 古代西洋哲学では、古代ギリシアにおいて、当初は、政府の最善の形態は、最良の人物による支配だ、と見なされていた。 プラトンは、法を超越する理想的な哲人王による、慈悲深い君主制を唱導した。 プラトンは、それでもなお、最善の人物達が確立された諸法を上手く尊重していくことに期待を寄せて、以下のように解説している。 「法が他の何らかの権威に服しており、何らそれ自体の内容を持たないところでは、私見では、国家の崩壊はそう遠くない。 しかし、もし、法が政府の主人であり、政府が法の僕(しもべ)であるならば、その場合は、状況は希望に満たされており、人々は神々が国家に降り注ぐあらゆる祝福を享受する。」 プラトンの企図をさらに超えて、アリストテレスは、最高位の当局者達が法が保護し奉仕する範囲を超えて権力を行使することに、きっぱりと反対した。 すなわち、アリストテレスは、法の支配を(以下のように)唱導した。法が統治することが、市民のうちの誰(が統治すること)よりも、より適切である。 同様の原理に則り、もし、ある特定の人物達への最高権力の付与が好都合である場合には、諸法の保護者達および奉仕者達だけが、その任を与えられるべきである。 ローマの政治家キケロによれば、「我々が全員、法に奉仕するのは、我々が自由であらんが為である。」ローマ共和制の期間、嫌疑のかかった執政官達は、彼らの任期が終了したときに、たいてい査問にかけられた。 ローマ帝制下では、統治者は個人としては不可侵(無答責)であったが、しかし不平を持つ人々は国費で訴訟を起こすことが可能だった。 (中略) (2) 近代「法の支配」という文句の初期の使用例の一つは、1610年のイングランドで、庶民院がジェームズ1世に対して行った請願の中に見出される。この王国の陛下の臣民が、この王室の諸祖先・この王国の諸王・諸女王の下で享受してきた諸々の幸福と自由のあらゆる諸点の中でも、以下の事柄以上に彼ら(臣民)が愛着を示し大切に抱き続けてきたものは他にありません。すなわち、(彼らは)主長と構成員の双方に、どの権利が彼らに帰属しするかを決め与える、ある特定の「ルール・オブ・ザ・ロー(rule of the law ※原文ママ)」によって道を示され統治されるのであり、そして如何なる不確実または恣意的な形態の政府によって統治されるのではない、ということ。1607年、イングランドの主席裁判官エドワード・コーク卿は、禁止令状事件において、(彼自身の報告によれば)以下のように発言した。 「法とは、臣民達の訴訟を審理し、陛下を安全に保護するところの黄金の超越的杖であり物差しである。そして、それは陛下の安全と平和を保護する。」 それに対して国王は非常に立腹して曰く「ならば余は法の下にあるべきことになるが、その断言は反逆罪である」と。 それに応えて曰く、「ブラクトンは「quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(国王は何人の下にもあるべきでないが、神と法の下にあるべきである)」と云った、と」 意味と解釈カテゴリー「法の支配」が正確には何を意味するか、について人々は全く異なった解釈を持っている。 政治理論家ジュディス・N・シュクラーによれば、「イデオロギー的誤用と一般的濫用のせいで、『法の支配』という文句は無意味なものとなったが、それにも関わらず、この文句は過去において、特有かつ重要な幾つかの意味を持ち続けてきた。」という。近代の法理論家達の間で、このテーマに関する大方の見解は3つの一般的なカテゴリーに識別される。すなわち、①形式的(ないし「薄い」)アプローチ、②実質的(ないし「濃い」)アプローチ、そして③機能的アプローチ、である。①「形式的」解釈は、②「実質的」解釈よりも、より広く受け入れられている。 1 ①形式主義者達は、法は、(a)予見可能で、(b)公知であり、そして(c)一般性/一様性/確実性という諸特性をもたねばならない、と考えている。 それ以外には、①形式的見解は、法の内実という点に関しては何の要求事項も持っていない。 この①形式的アプローチは、デモクラシーと個人の諸権利を保護する諸法を許容するが、デモクラシーや個人の諸権利を保護するそうした諸法を必ずしも持たない諸国においても「法の支配」が存在する(と想定する見解である)と受け止められている。 2 ②実質的な諸解釈は、法の支配は幾つかの、または全ての個人の諸権利を実質的に保護している、と考えている。 3 「法の支配」という用語の③機能的解釈は、伝統的な英語の意味に合致しており、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」と「ルール・オブ・マン(人の支配)」とを対照的に説明する。③機能的見解によれば、政府職員が非常に大きな裁量権を保持している社会では「法の支配」は低い水準にあり、その一方で、政府職員が小さな裁量権しかもたない社会では「法の支配」は高い水準にあることになる。 法の支配は、このように柔軟性を持つ点で-たとえ、その柔軟性が好ましい場合があるとしても-何かしら中途半端(な言葉)である。 政治科学教授リー・シャガンによれば、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」という古代の概念は、以下の点で「ルール・バイ・ロー(法による支配)」と区別することができる。すなわち「その違いは・・・ルール・オブ・ロー(法の支配)の下では、法は卓越しており、権力の悪用に対する歯止めとして役立てることが可能である。ルール・バイ・ロー(法による支配)の下では、法は、法的な趨勢を抑制する単なる政府の道具である。」(以下省略) ※このように英米圏では、「法の支配」について、①形式的アプローチ、②実質的アプローチ、③機能的アプローチという3様のアプローチが区別されている。このうち①②は正義論(法価値論)に関係するアプローチであり、③は主権論に関係するアプローチである。 ※以下、順に「法の支配」理念について整理していく。 ■3.「法の支配」理念の整理 ◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 政治思想・政治哲学の根本的価値が「自由(freedom/liberty)」という言葉で表現されるように、 法思想・法哲学の根本的価値は「正義(justice)」という言葉で伝統的に表現されてきた。 そこでまず、この「正義」概念を整理し、「法の支配」理念(①形式的および②実質的アプローチ)との関係を考察していく。 ※参考ページ 正義論まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 ほうかちろん【法価値論】legal axiology 日本語版ブリタニカ 法的な価値について考察する研究分野。法的な価値は正義という言葉で表現されることが多いから、正義論といってもよい。 古代ギリシア以来、法哲学の主要分野をなしてきたが、最近は、①規範的倫理学と、②分析的倫理学の区別に対応して、①規範的法価値論と②分析的法価値論(メタ法価値論)とが明確に区別されるようになった。 せいぎ【正義】 広辞苑 ① [荀子(正名)]正しいすじみち、人がふみ行うべき正しい道。「-を貫く」 ② [漢書(律暦志上)]正しい意義または注解。「尚書-」 ③ (justice) (ア) 社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。 これを単に形式的なものと見るマルキシズムは、真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張するが、現在ではイデオロギーを超えた正義が模索されている。 (イ) 社会の正義に適った行為をなしうるような個人の徳性。 せいぎ【正義】justice 日本語版ブリタニカ 人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値。 . 善(※注: agothos, bonum, good)と同義に用いられることもあるが、 (1) 善が、主として人間の個人的態度にかかわる道徳的な価値を指すのに対して、 (2) 正義は、人間の対他的関係の規律にかかわる法的な価値を指す。 . 正義とは何か、という問題については、古来さまざまな解答が示されてきたが、一般的な価値ないし価値基準に関する見解と同様に 1 正義を客観的な実在と考える客観主義的・絶対主義的正義論と、 2 正義を主観的な確信と考える主観主義的・相対主義的正義論とに大別できよう。 法思想の領域では、だいたいにおいて、自然法論が 1 前者に、法実証主義が 2 後者に、属する。 . 従来の正義論のうちでは、アリストテレスやキケロの見解が名高く、与えた影響も大きい。 (ア) アリストテレスは、道徳と区別される正義(特殊的正義)について、①配分的正義と、②交換的正義(平均的正義、調整的正義とも訳される)とを区別し、 ① 前者は、公民としての各人の価値・功績に応じて、名誉や財貨を配分することにおいて成立し、 ② 後者は、私人としての各人の相互交渉から生じる利害を平均・調整することにおいて成立する、とした。 (イ) キケロは、この①配分的正義と同様な内容を、「各人に彼のものを」という公式で表現した。 ※サイズが合わない場合は こちら をクリック。 こうした「正義」概念に基く法理念・法思想を、英米圏では一般に「法の支配(rule of law)」と呼んでいる。 ◆2.「法の支配」理念整理表 ※サイズが合わない場合は こちら をクリック。 ◆3.主権論と「法の支配」 伝統的な意味での「法の支配」理念(③機能的アプローチ)は、「人の支配(= 特定者の意思に基く統治)」を拒絶することから、「国民主権」「人民主権」といった「主権論(= 主権者の意思に基く統治原理)」と両立しない。 ⇒ 従って、「法の支配」を認める場合は、 ① 日本国憲法の「国民主権」規定に関して、「主権者意思説」以外の立場から解釈する必要が生じ、さらに、 ② 今後目指される憲法改正ないし新憲法制定に際しては、現行憲法にあるような主権者意思としての「国民主権」を連想させる文言は厳しく排除することが望まれる。 ↓詳しい説明はここをクリックして表示/非表示切り替え + ... 歴史主義・伝統主義 (英米法) 反歴史主義・リセット主義 (大陸法) 権利の本質 人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として歴史的権利を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場 人間は自然状態において、生来的に自然権(natural right)を有していたが、社会契約(social contract)を結んで自然権を一部または全部放棄し、人定法(実定法:positive law)を定めた、とする立場 法の本質 法は特定の共同体の中で人々の社会的ルールとして自生した(特定の人物の意思によらずに時間をかけて次第に生成されてきた)(法=社会的ルール説)(★注3)⇒この立場は、真の法=ノモス(個別の共同体毎に自生的に発展してきた人為的ではあるが特定の意思によらざる法)とする見解と親和的である。 法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(法=主権者意思[命令]説)(★注1、★注2)⇒この立場には、①真の法=理性から演繹された自然法(フュシス)とする近代的自然法論、および、②真の法など存在せず主権者の意思・命令としての人為法があるのみとする純然たる法実証主義、の2通りの見解がある。 誰が法を作るのか 法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(経験主義、批判的合理主義)⇒「法は“発見”するもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を否認(特定時点の世代の人々が制定できるのは原則として「憲法典(形式憲法)」迄であって、「国制(実質憲法)」は世代を重ねて徐々に確立されていくものに過ぎない) 法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(設計主義的合理主義)⇒「法は“主権者”が作るもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を肯定(特定時点の世代の人々は「憲法典(形式憲法)」のみならず「国制(実質憲法)」をも意図的に確立することが可能である) 補足 共同体毎に個別的→共同体に固有の「国民の権利」と「一般的自由」の二元論と親和的価値多元的・相対主義的、帰納的、保守主義・自由主義・非形而上学的な分析哲学と親和的法の支配ないし立憲主義と順接 全人類に普遍的→共同体や歴史的経緯を超える普遍的な人権イデオロギーと親和的絶対主義的(但し価値一元的な傾向と価値相対主義的な傾向との両面がある)演繹的、急進主義・全体主義・形而上学的な観念論哲学と親和的国民主権や法治主義と順接 実例 英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。大日本帝国憲法(明治憲法)も日本の歴史的伝統を重んじる形で当時としては最大限に熟慮を重ねて制定された フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)※但し“解釈”により日本の歴史・伝統を過剰に毀損しない慎重な運用が為されてきた 主な提唱者 コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトンなお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ハート ホッブズ、ロック、ルソーなお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック (★注1)「法=主権者意思[命令]説」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。 ① 君主主権 君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。 ② 人民主権 君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=プープル主権説)。ルソーの社会契約説が代表例。 ③ 国民主権 君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一とする者が多い)。なお国民主権の具体的意味については、(1)最高機関意思説と、(2)制憲権(憲法制定権力)説が対立しており、さらに(2)は、 1 ナシオン主権説と 2 プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。一般的に国民主権という場合は、 1 ナシオン主権説(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。 ④ 議会主権 英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における国王/女王(the king/queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論 ⑤ 国家主権 帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」が主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である ⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、大日本帝国憲法(明治憲法)は制定時において明確に歴史主義の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば ⑥ “法”主権 つまり「法の支配」・・・歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束するという立場だった。 ⇒なお、大正デモクラシー期には、ドイツ法学の「⑤国家主権説」を直輸入した美濃部達吉の「天皇機関説」が通説となり、それがさらに天皇機関説事件によっていわゆる①君主主権説に転換したのは昭和10年(1935年)以降の僅か10年間である。 (★注2)「法=主権者意思[命令]説」は、法を特定の立法者/思想家の価値観(例:カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想や自然法論・人権論)あるいは政治イデオロギー(例:マルクス主義やナチス期ドイツ思想)に還元してしまう危険が高く、全体主義への接近を許してしまう。 ※以下、「法=主権者意思[命令]説」の法体系モデル。 ※図が見づらい場合⇒ こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) (★注3)「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1960年以降にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。 ※以下、「法=社会的ルール説」の法体系モデル。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照。 ※サイズが画面に合わない場合は こちら 及び こちら をクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※なお、自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ 国家解体思想の正体 参照 ※(補足説明)ハートの法=社会的ルール説のいう「ルール(rule)」という用語は、図にあるように、①事実(外的視点からの捉え方)と②規範(内的視点からの捉え方)の二重構造(=観測者から見れば①事実(社会的事実)だが、法共同体の構成員から見れば②規範だ、という③第3のカテゴリー)になっている、という独特の意味で使用されており、①事実と②規範を峻別する方法二元論(ケルゼンら新カント学派の方法論)と大きく異なっている点に注意(→こうした①事実でもあり②規範でもある③第3のカテゴリーの導入によって、ハート理論は「単なる①事実(=認識)から、なぜ②規範(=価値判断)が生まれるのか」という難問のクリアを図っている)。 ※参考ページ 主権論と法の支配の関係 リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解 ※整理表を作成するに当たって参照した著名論者の見解を比較します。 ◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) p.13以下 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配 近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするが、この立憲主義思想は法の支配(rule of law)の原理と密接に関連する。 1. 法の支配 法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。それは、専制的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。 ジェイムズ一世の暴政を批判して、クック(Edward Coke, 1552-1634)が引用した「国王は何人の下にもあるべきでない。しかし神と法の下にあるべきである」というブラクトン(Henry de Bracton, ?-1268)の言葉は、法の支配の本質をよく表している。 法の支配の内容として重要なものは、現在、 ① 憲法の最高法規性の観念 ② 権力によって侵されない個人の人権 ③ 法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law) ④ 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重 などだと考えられている。 2. 「法の支配」と「法治国家」 「法の支配」の原理に類似するものに、《戦前の》ドイツの「法治主義」ないしは「法治国家」の観念がある。この観念は、法によって権力を制限しようとする点においては「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、少なくとも、次の二点において両者は著しく異なる。 (一). 民主的な立法過程との関係 第一に、「法の支配」は、立憲主義の進展とともに、市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図ること、従って権利・自由を制約する法律の内容は国民自身が決定すること、を建前とする原理であることが明確となり、その点で民主主義と結合するものと考えられたことである。 これに対して、戦前のドイツの法治国家(Rechtsstaat)の観念は、そのような民主的な政治制度と結びついて構成されたものではない。もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものに過ぎない。従って、それは、如何なる政治体制とも結合し得る形式的な観念であった。 (ニ). 「法」の意味 第二に、「法の支配」に言う「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも固く結びつくものであったことである。 これに対して、「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることが出来る容器のような)形式的な法律に過ぎなかった。そこでは、議会の制定する法律の中身の合理性は問題とされなかったのである。 もっとも、《戦後の》ドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から《実質的法治国家》へと移行しており、法治主義は英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.24~ (イ) 法の支配 a) 「法の支配」の二つの要請 「法の支配」は「人の支配」に対する概念で、人によるその場その場の恣意的な支配を排除して、予め定められた法に基づく支配によって自由を確保することを目的とする。 法の支配により自由を実現するためには、 まず第一に、 自由を保障するような内容の法(正しい法)を制定することが必要であり、 第二に、 その法を忠実に適用し執行することが必要である。 法の忠実な執行という要請を実現するために、法を制定する権力(立法権)と執行する権力(執行権)と法の争いを裁定する権力(裁判権)を分離し異なる機関に授けるという考えが生ずるが、これが後述する権力分立の原理である。執行権は、立法権がつくった法律を忠実に解釈適用し執行していく義務を負い、忠実に執行しているかどうかが争いになったときには、裁判所が判断するという体制である。 では、正しい法の制定という要請を実現するにはどうしたらよいか。 一つは、 法律の制定に抑制・均衡(checks and balances)のメカニズムを組み込む方法がある。チェック・アンド・バランスも権力分立の内容をなすが、たとえば議会を二院制にして法律の制定には両院の合意が必要であるとしたり、国王あるいは大統領の拒否権や裁可権を認めたり、さらには、裁判所に法律の合憲性の審査権を与えたりして、複数の機関の合意と均衡が形成された場合しか法律の制定はできないようにし、このチェック・アンド・バランスによって法律の内容が行き過ぎるのを阻止し、法律の「正しさ」を確保しようとするものである。 もう一つは、 法律の制定に国民の同意を得るという方法である。これも後述の国民主権の原理と表裏の関係にある問題であるが、国民の権利を制限するような法律を制定する場合には、少なくとも国民を代表する議会の同意を必要とすることにして、法律の内容の「正しさ」を確保しようとするのである。 現実には、この二つの方法を組み合わせて、法律の内容が自由を侵害するものとならないよう配慮している。 その具体的ありようは国により異なるが、それを支えている理念は権力分立(抑制・均衡)と国民主権である。 このように、法の支配は権力分立と国民主権の原理に密接に結びついているのである。 b) 裁判所の役割 正しい法律が制定されれば、その忠実な執行を確保すればよく、このために最も重要な役割を果たすのが裁判所である。 近代において法の支配の観点から最も重視されたのは、絶対王政を倒して国王の権力を法律の下に置くことであったから、法の支配は国王のもつ執行権(行政権)を法律に従わせることの確保を中心に制度化が構想され、その結果、国王から独立の裁判所が行政の法律適合性を裁定するという体制が目指された。 この場合、この裁定の任にあたることになったのが、イギリスのように「通常裁判所」(司法裁判所あるいはコモン・ロー裁判所とも呼ばれる)のこともあれば、フランスやドイツのように、通常裁判所とは別系統の「行政裁判所」を生み出していった国もあった。 法の支配を徹底するためには、行政が法律に従っていることを確保するだけでは不十分である。 法律が憲法に違反していないかどうかを独立の裁判所が判断する制度を実現する必要がある。しかし、それが実現するのは、一般には現代に入ってからであり、近代の段階では、このような違憲審査制度は、唯一アメリカ合衆国において採用されていたにすぎない。 したがって、国民の権利が現実にどの程度保障されるかは、どのような内容の法律が制定されるかに依存することとなった。 イギリスでは、法的には国会主権の原理がとられ、法律が最高の力をもつとされたが、法思想としては中世以来の、国王も議会も拘束される「高次の法」が存在するという観念が強固に生き残り(*)、国民の権利を侵害するような法律がつくられることに阻止的に働いた。 フランスでも、国民主権の下に国民を代表する議会が優位する体制が確立し、法律(議会)が志向の力をもったが(**)、市民階級の成熟とともに選挙権が拡大され、第三共和政期には議会が国民の意思を反映するようになり、法律が国民の権利を侵害することは少なくなったといわれる。これに対し、ドイツでは、市民階級の成熟が遅れ議会が力をもつに至らず、「法律に基づく行政」の原理が法律の内容・実質を問わないものと理解されるようになり、たとえ権利を制約するような法律でも、行政がそれに従ってなされる限り、「法治国家」(Rechtsstaat)が存在するとされた。 これを「形式的法治国家」と呼んでいる。 (*)イギリスのルール・オブ・ロー(rule of law)イギリスの法の支配の特徴を定式化したダイシー(Albert Venn Dicey, 1835-1922)は、法の支配を国会主権と並ぶイギリス憲法の基本原理として提示し、この法の支配は判例法(コモン・ロー)と制定法から成る「正規の法」(regular law)の支配として確立されたと説明している。重要なのは、コモン・ローが具体的事件の中で発見された正義(理性)と観念されたのみならず、制定法も類型的事例に関して一般的抽象的に発見された正義と観念されていたということであり、法の支配が究極的には社会の中で妥当している「高次の法」の支配と考えられたことである。 (**)フランスにおける「法律適合性の原理」(principe de Legalite)1789年のフランス革命は、国民主権を宣言し、主権者国民を代表する国民議会を「主権的意思(一般意思)」の表明」としての法律の制定権者とし、執行権の役割を法律の執行に限定した。この結果、執行権の行為は厳格に法律に従うことを求められた。この原理を「法律適合性の原理」と呼び、かかる国家体制を「法律適合性国家」(Etat legal)と呼ぶ。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.387~ (1) 法の支配の目的と構造 法の支配は、支配者の恣意的で気まぐれな支配を意味した「人の支配」を否定するために主張された観念であった。人の支配は、権力がどのように行使されるかの予測を困難にし被治者の地位を不安定にする。 そこで、被治者の安定した地位と権利を保障することを目的に、法の支配が求められたのである。支配者の意思からは独立に予め存在する法に従って支配(権力の行使)が行われること、これが法の支配の要求であった。ゆえに、法の支配を制度として確立するためには、まず第一に、権利を保障した内容をもつ「法」の確立が必要であり、第二に、支配が法に従って行われているかどうかを裁定する中立的な機関が必要である。立憲君主政において立法権(議会)と司法権(裁判所)が君主の権力から分離・独立したのは、権利保障のための法の支配の確立という観点からはきわめて自然な展開であり、18世紀イギリスの立憲君主政がモンテスキューの三権分立論の基礎となったのもこの観点から理解できる。 国民主権モデルにおいては、この論理はさらに発展し、法の支配の制度化の論理として「法の段階構造」が形成される。 つまり、法はその定立機関との関連でいくつかの法形式に分化され、法形式間に効力の上下関係が設定されて、下位の法形式は上位の法形式に自己の根拠をもたねばならず、上位の法形式に違反してはならないとの原則が確立されるのである。日本国憲法においては、基本的には、「憲法→法律→命令(政令→府・省令、規則)」という段階構造が形成されている。 それぞれの法形式は法定立機関の違いに対応しており、下位の法形式を上位の法形式の「執行」と捉えると、法定立機関と法執行機関が分離されていることが重要である。 そして、下位の法形式が上位の法形式に違反していないかどうかを、中立的な第三者機関としての裁判所が審査することにより、法の支配の実現が期されているのである。 支配(政治)を法に服せしめるには、政治活動を法的行為・法形式へと「翻訳」しなければならない。法の言葉に移し換えることにより、政治を法の論理の中に取り込み法による枠づけが可能となるのである。 政治は、法の衣をまとい、法の段階構造の中で法の論理を使って自らを正当化しなければならず、その正当化が受け入れられうるものかどうかが中立的な裁判所により判断される。 これが法の支配の基本構造である。 それは、ある意味では、「目的-手段」思考の政治を「要件-効果」へと枠づける操作ということができよう。 LEC『C-Book 憲法Ⅰ《総論・基本的人権》』 p.35~ 法の支配 1.はじめに 定義: すべての国家権力が正しい法に拘束されるという原則 ← 人の支配 → 正しい法(正義の法)に基く支配(法の内容を問題にする) → 国民の権利、自由を保障することが目的 → 英米法系(イギリス、アメリカ)の国々で発達 2.法の支配の内容 (1) 個人の人権保障 (2) 憲法の最高法規性の承認(憲法は行政権のみならず立法権をも拘束する) (3) 手続の適正を要求する(適正手続 = due process of law) (4) 裁判所の役割の重視(最高法規性の担保) 3.日本国憲法における法の支配の現れ 「正しい法 = 憲法」によって「法の支配 = 憲法による支配」 ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) 長谷部恭男『法とは何か』(2011年刊) p.148-9 法の支配という概念もいろいろな意味で使われます。ときには、人権の保障や民主主義の実現など、あるべき政治体制が備えるべき徳目のすべてを意味する理念として用いられることもありますが、こうした濃厚な意味合いで使ってしまうと、「法の支配」を独立の議論の対象とする意味が失われます。 法の支配は人の支配と対比されます。ある特定の人(々)の恣意的な支配ではなく、法に則った支配が存在するためには、そこで言う「法」が人々の従うことの可能な法でなければなりません。そのために法が満たすべき条件として、次のようないくつかの条件が挙げられてきました。・・・(中略)・・・。こうした、法の公開性、明確性、一般性、安定性、無矛盾性、不遡及性、実行可能性などの要請が、法の支配の要請と言われるものです。 日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 長谷部恭男『憲法 第5版』(2011年刊) p.xxx 1.2.5 法の支配 法の支配は、国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することにより、国民の自由を保障しようとする理念である。 △ 法の支配の内容 「人の支配」ではなく、「法の支配」を実現するためには、何よりもそれが従うことの可能な法でなければならず、法に基づいて社会生活を営むことが可能でなければならない。そのためには、①法が一般的抽象的であり、②公示され、③明確であり、④安定しており、⑤相互に矛盾しておらず、⑥遡及立法(事後立法)が禁止され、⑦国家機関が法に基づいて行動するよう、独立の裁判所によるコントロールが確立していること、が要請される(長谷部 [2000] 第10章)。このような法の支配の要請は、法令の公布に関する規定(憲法7条1号)や憲法41条の「立法」の概念、司法の独立(憲法76条以下)の他、憲法31条以下の諸規定に具体化されている(8.3.2. (3) 【法の支配との関係】 参照)。 △ 「善き法」の支配 法の支配は、「善き法」の支配と同視されることがある。 形式的法治国と実質的法治国の概念を対置し、法の支配を後者と同視する考え方もその一例である。また、個人の尊厳や基本的人権の保障、国民主権など、近代立憲主義の諸要請がすべて法の支配に含まれるとする者もいる。 しかし、このように法の支配を濃厚な意味で理解してしまえば、この概念を独立に検討する意義は失われる。 確かに、法の支配の内容とされる法の一般性・抽象性・明確性・安定性、および遡及立法の禁止は、法が法として機能するための、つまり法が人の行動の指針として機能するための必要条件である。立法が個別的にしかも事後的に為され、法の文言も不明確であり、しかも朝令暮改のありさまでは、人々は国家機関の行動について如何なる予測を立てることもできず、そのため法に従って行動することは不可能となるであろう。 しかし、人種差別立法や出版物の検閲制度を設定する法も、やはり法として機能するためには、これらの特徴を備えている必要がある。 これらの特徴はいずれもそれ自体としては、悪法の支配とも十分に両立し得る。また、前述のような法の支配の内容は、法が民主的に定められるか否かとは関係がない。 法が法として機能するために、今掲げたような幾つかの条件が必要であることが、法と道徳との必然的なつながりを意味するといわれることもあるが、これも誤りである。 切れ味の良いことがナイフの道徳性を示していないのと同様、法が法として機能するための条件を備えていることは、法の道徳性を示していない。 今述べたとおり、きわめて不道徳な目的を持つ法も、法として機能するためには、このような条件を備えていなければならない。 △ 法の支配の限界 さらに、法の支配は、法が備えるべき条件の一つに過ぎず、他の要請の前に譲歩しなければならない場合もあることに留意しなければならない。法の支配の要請がどこまで充足されるべきかは程度問題であり、個別の企業を国有化するための立法や女性のみを保護対象とする労働立法も、一般抽象性の点で悖(もと)るところがあるとしても、政府の役割の拡大した福祉国家の下においては肯認され得るであろう。 法の支配を支える根拠となる個人の自律や社会の幸福の最大化という目的自体が、国家の役割の拡大をもたらしているからである。 △ 【形式的法治国と実質的法治国】法の支配の観念と関連して、法治国(Rechtsstaat)の概念を、形式的法治国と実質的法治国の2つに区分することがある。形式的法治国論はあらかじめ定められた法形式さえ取れば人民の権利・自由を無制約に侵害できるという考え方であり、実質的法治国論は、法律の内容に一定の実質的限界があるとの考え方であるとされる。もっとも、日本のような成文の憲法典を持つ国家において、この2つを区別する意義については疑いがある。すなわち、最高法規たる憲法典に、実質的法治国概念が前提とする正しい法内容が書き込まれていない限り、その国は実質的法治国とはいえないであろうし、他方、憲法典に下位の法令が充足すべき正しい法内容がすでに書き込まれているのであれば、形式的法治国概念からしてもすべての国家機関はその正しい法内容に従って行動すべきである。両者を区別する意義があるとすれば、せいぜい憲法改正の限界についてであろう。なお、形式的法治国概念が、法の一般性・抽象性や遡及性、裁判の独立性など法の支配の要請をも否定し得る概念として理解されているのであれば、それは当然、本文で述べた法の支配とは両立し得ない。 ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) 田中成明『現代法理学』p.329~、P.337~ 「法の支配」は、伝統的な法的価値の中核をなすものであり、法による正義の実現の中心的目的とされてきた。 (中略) わが国における「法の支配」をめぐる最近の議論では、「法の支配」は、最も狭い意味では、英米における伝統的な「人の支配ではなく、法の支配を」という「法の支配(Rule of Law)」原理と同じものと理解されており、このような共通の理解を背景に、様々な「法の支配」論が展開されている。 そして日本国憲法の基礎にあるのはこのような英米法的な「法の支配」であり、このことは、①憲法の最高法規性の明確化、②不可侵の人権の保障、③適正手続きの保障、④司法権の拡大強化、⑤違憲審査制の確立、などのその特徴に照らして明らかであるという理解が、戦後憲法学の通説的見解である。 「法の支配」の概念や要請内容をめぐる最近の議論のいては、フラーの「合法性」概念などを中核に法の形成・実現に関する形式的・手続的要請に限定して理解する形式的アプローチと、 一定の基本権・民主制・立憲主義などの制度的要請を取り込んで理解する実質的アプローチとを対比する構図が一般的である。 (中略) 「法の支配」の概念や要請内容について、法が法であるために最低限備えるべき内在的価値である形式的正義と手続的正義の要請を中核としていることにはほとんど異論はない。 多義的・論争的となるのは、このような形式的・手続的要請を基軸に、議論領域ごとに「法の支配」が目指している価値理念と、「法の支配」を実効的に確保・実現するための具体的な制度の構成・運用原理との双方向に実質化して議論する段階で、 「法の支配」の概念や要請内容にそれらの価値理念や制度構成・運用原理をどこまで取り込むかについて、見解が分れることに起因しているとみられる。 (中略) また、正しい法や善き政治との関連づけによる実質化については、「法の支配」の正しい法や善き政治への志向性を全面的に否定するのは適切ではないけれども、「法の支配」の意義は、正しい法や善き政治の追求・実現やその手段というよりも、その追求・実現手段に一定の制度的制約を課し、甚だしく不正な法や悪い政治を排除するという消極的な規制原理というところにあるとみるべきであろう。具体的には、自由公正な市民社会の円滑な作動を確保するために、権力の恣意専断を抑止し、不当な自由の制限や理不尽な格差を排除することが「法の支配」の核心的要請であり、「法の支配」をめぐる議論を拡散させないためにも、「法の支配」の目指す価値理念については・・・(中略)・・・「消極的アプローチ」をとるのが適切であろう。 (中略) 例えば、F. A. ハイエクは、法的準則が不正義な行為を禁止する消極的なものであるだけでなく、正義の識別基準もまた消極的なものであるとして、「我々は、誤謬や不正義を絶えず排除することによってしか、真理や正義に近づくことができず、 最終的な真理や正義に我々が到達したことを確認することはできない」とする。 そして、正義の積極的な識別基準がなくとも、何が不正義かを示す消極的な基準はあるという事実は、完全に新しい法システムを構築するには不十分だとしても、現にある法をより正義に適ったものに発展させる適切な指針とはなり、重要な意義をもっていることを指摘している。 (中略) 価値観の多様化・流動化が経験的事実として存在し、実質的正義原理などの究極的価値の積極的な理論的基礎づけの可能性をめぐって見解の対立が続くなかで、法的思考における価値判断も主観的・相対的なものにすぎないと考えられがちである。 けれども、裁判において第一次的に求められる価値判断は、何が不正義かに関する消極的な判断であり、消極的アプローチが示唆しているように、 何が不正義として非難され回避されるべきかについては、何が正義かについて違憲が対立している人々の間でも、具体的判断が重なり合い、その限りでコンセンサスがみられることが一般に考えられている以上に多い。そして、裁判の手続過程が、このような社会的コンセンサスに反映された正義・衡平感覚を適切に汲み上げつつ展開されるならば、 実質的正義の実現に直接的ではなくとも間接的に貢献できる範囲は、裁判の機能の考え方次第では、意外に広いのである。 田中成明『現代法理学』 p.316~、P.327~ (L. L. フラー『法と道徳』(1964年刊) による「合法性(Legality)」の基本要請) このこと(※注:法の目的は、法外在的な実質的目的に限らない、ということ)をとりわけ強調したのは、「合法性(legality)」という一連の手続的要請を法システム自体の存立と作動に関わる内在的な構成・運用原理として提示したL. L. フラーである。彼は、法システムをもっぱら法外在的な社会的目的の実現のための手段にすぎないとみるプラグマティズム的な法道具主義が支配的であることを憂い、一般的に目的=手段関係の考察において、社会的目的を実現する制度や手続自体に内在する制約を重視すべきことを力説した。 法システムについても、合法性を「法を可能ならしめる道徳」「法内在的道徳」として、この種の内在的制約と位置づけ、この合法性が法によって実現できる実質的目的の種類を限定していることに注意を喚起している。フラーは、合法性の基本的要請として、 ①法の一般性、②公布(の事実)、③遡及法の濫用の禁止、④法律の明晰性、⑤法律の無矛盾性、⑥法律の服従可能性、⑦法の相対的恒常性、⑧公権力の行動と法律との合致 という八つを挙げているが、英米において「法の支配」の要請内容と了解されているものと大体同じと理解されている。 このような合法性は、立法者や裁判官に目的・理想を示すだけでなく、法システムの存立に不可欠な条件をも示しており、これら八つの要請のどれか一つでも全面的に損なわれると、もはや、「法」システムと呼ぶことはできず、市民の服従義務も基礎付けることができないとされる。 そして、合法性の要請は基本的に手続的なものであり、法外在的な実質的目的に対しても、たいていは中立的であるが、人間を責任を負う行為主体とみる点では中立的ではなく、 このような人間の尊厳を損なう実質的目的を法システムによって追求することは許されないと考えている。 本書でも、「法の支配」の核心的要請内容を、フラーの合法性の八原理を基軸に理解し、このような意味では法の支配をフラーの合法性概念とほぼ互換的に用い、 「司法的正義」については、このような法の支配の要請を個別的事例において具体的に確保・実現することに関わるものと理解することにしたい。 佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) p.79以下 従って、日本国憲法が定める具体的な諸制度は、そのような「自由」の維持発展に多かれ少なかれ寄与するものとして意図されているといえるが、「自由」のための基本的な制度的原理として要約するとすれば、「権力分立」の原理と「法の支配」の原理ということになろう。 (ハ) 「法の支配」の原理 「法の支配」の観念は古典古代のギリシャにその起源をもち、その後の西欧の長い歴史的過程の中で紆余曲折をたどりながら・・・17世紀のイギリスにおいて近代的な個人の「自由」の観念と結びついてより具体的で明確な形をとって現出したのものである。 ロックは、法の目的は、自由を廃止したり、制限したりすることではなく、むしろ自由を維持し、拡大することにあり、法のないところには自由はないことを力説した。 自由とは、他の人々による拘束や暴力から解放されることであるが、このことは法のないところでは不可能であること、他人の気まぐれな意思の対象とされることなく、自らの意思に従って行動できるということが自由の意味するところであること、 にロックは関心を向けたのである。 成文憲法中に個人の自由を列挙することによってその保障の確実さを期そうとした、アメリカ独立革命期の邦の憲法が、「法による統治であって、人間による統治ではない」ことを力説したのも、ロックのそのような発想に通ずる。従って、「法の支配」という場合の「法」観念は独特のものであることが注意されなければならない。 それは簡単にいえば、自由な主体たる人間の秩序の中で自ら発生してくるような「法」、換言すれば、自由な主体たる人間の共存を可能ならしめる上で必要とされる「法」ということになろう。(因みに、ハイエクは、人間社会における秩序を、「自生的秩序(spontaneous order)」と「組織(organization)」とに分かち、それぞれを古典古代のギリシャの kosmos [本来、「国家ないし共同体における正しい秩序」を意味する発生的秩序]と taxis [例えば、軍隊の秩序のような人為的秩序] とに対応させている。 「自生的秩序」は多くの人間の行為の所産ではあるが、人間の意図・企画によって作られたものではないのであり、そのような「自生的秩序」の法はノモス [nomos] と呼ばれ、「組織」の規則であるテシス [thesis] と対比される。そして、このように捉えられた「法」の支配と自由との結びつきが示唆されている。) 先に触れた近代的な「権力分立」の原理は、この「法」観念との結びつきで理解される必要がある。つまり、「立法」「司法」「行政」は、独自の制度的倫理構造をもちつつ「法」に対してそれぞれ独自のかかわり合い方をするものであって、それらの分離なしには個人の「自由」はありえないとされたということである。 1 「立法」について、ロックは、すべての市民に等しく適用される「正しい行為に関する一般的なルール」を想定したが、 実際、一般に、立法府の力といえども無制限とは観念されず、そのような「一般的ルール」の定立に限定され、かかるルールによってすべての権力に必要な制限を課すことが期待された。 2 モンテスキューによって「人間の間でしかく恐るべき裁判権」と呼ばれた「裁判権」は、「法」による裁判権、同じくモンテスキューのいう「法の言葉を述べる口」としての裁判権、つまり「司法権」として把握され、 そのことによってむしろ個人の「自由」の重要な守りテとしての地位をもつに至った。 3 「行政」については「法」による統制が課題とされ、その自由裁量性に猜疑の目が向けられた。 ダイシーは、「法の支配」をもって、「種々の見地からみてイギリス憲法の下で個人の権利に与えられた保障」としてその性格を把握し、その具体的内容として、 ① 専断的権力に対立するものとしての通常の法の絶対的優位ということ、すなわち、国の通常裁判所において通常の法的な方法で確定された法に明白に違反する場合を除いて何人も処罰されず、または合法的に身体もしくは財産を侵害されえないという命題、 ② 法の前の平等、すなわち、地位または身分を問わずあらゆる人が国の通常の法に服しかつ通常裁判所に服するという命題、 ③ 憲法の一般的法原則(人身の自由の権利や公の集会の権利など)は個々の事件において私人の権利を決定する判決の結果であるという命題、 を指摘した。 このダイシーの言葉からもうかがわれるように、「法の支配」にあっては裁判所が格別の役割を担っており、アメリカ合衆国で登場した違憲立法審査制は、この「法の支配」を徹底したものであるということができる。もっとも、ダイシーの右の指摘については、当時のイギリス法の現実をどれ程忠実に描写するものであるか疑問の余地があり、また、自由放任主義的な消極国家を基盤としていることは否定し難く、 現代積極国家段階においてそのままではもはや妥当しないことは承認されなければならない。 しかし、「個人の権利保障」という「法の支配」の性格の意義は積極的に評価さるべきであり、国家機能とりわけ行政権の拡大・裁量権の増大の不可避性を前提とした上で、公権力の恣意性を具体的にいかにコントロールするかの観点から、 「法の支配」の原理を再構築し、一層展開せしめて行くことが必要というべきである。 日本国憲法は、詳細な基本権のカタログを掲げつつ、憲法の最高規範性の確認(97条1項)の下に、司法権を強化し、行政事件に関する裁判権もそれに取り込む一方(76条)、裁判所に違憲立法審査権を付与しており(81条)、 明らかに「法の支配」の原理に立脚していることを示している。 ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) F. A. Hayek 『自由の条件Ⅱ 自由と法』(1960年刊) p.194以下 法の支配は、立法全体に対する制限であるという事実から推論されることは、それ自体が立法者の可決する法律と同じ意味での法律ではありえないということである。憲法上の規定は、法の支配の侵害を一層困難にするであろう。 それらは慣習的な法律制定による不注意な侵害を防ぐのに役立つかもしれない。しかし最高の立法者は、法律によって自分自身の権力を決して制限することができない。 というのは、かれは自分のつくったいかなる法律をもいつでも廃棄できるからである。したがって、法の支配(the rule of law)とは法律の規則(a rule of the law)ではなく、法律がどうあるべきかに関する規則(a rule concerning what the law ought to be)、 すなわち超-法的原則(a meta-legal doctrine)あるいは政治的理念(a political ideal)である。それは、立法者がそれによる制約を自覚しているかぎりは有効である。 民主主義のもとでは、それが共同社会の道徳上の伝統、多数の人が共有し、問題なく受け容れる共通の理念の一部を形成しないかぎり、法の支配は普及しないであろうということになる。 (原文)From the fact that the rule of law is a limitation upon all legistlation, it follows that it cannnot itself be a law in the same sense as the laws passed by the legistor.Constitutional provisions may make infringements of the rule of law more difficult. They may help to prevent inadvertent infringements by routine legislation.But the ultimate legislator can never limit his own powers by law, because he can always abrogate any law he has made. The rule of law is therefore not a rule of the law, but a rule concerning what the law ought to be, a meta-legal doctrine or a political ideal.It will be effective only in so far as the legislator feels bound by it. In a democracy this means that it will not prevail unless it forms part of the moral tradition of the community, a common ideal shared and unquestioningly accepted by the majority. F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.120以下 立法が法の唯一の源泉である、という概念から二つの観念が引き出されている。それらは、初期の擬人化による誤りが生き残っているあの誤れる設計主義から全面的に導出されているが、現代ではほとんど自明のこととして受け入れられるようになり、政治の展開に大きな影響を与えてきた。最初のものは、これはより高次の立法者を必要とし等々と無限に続くから、その権力を制限することができない最高の立法者があるに違いないとする信念である。 第二のものは、その最高の立法者が制定したものは何であれ法であり、彼の意志を表現するもののみが法である、とする考えである。 ベーコン、ホッブズ、オースティン以来、まずは国王の、後には民主制議会の、絶対権力の一見疑う余地のない正当化に一役買った、最高の立法者の必然的に無制限な意志という概念は、 法という用語が組織の熟慮の上での足並みの揃った行為を導くルールに限定されるならばその場合にのみ、自明であるように思われる。 このように解釈すれば、ノモスという初期の意味では全ての権力に対する障壁となるはずであった法は、逆に権力行使の道具となる。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.158以下、P.171以下 結局のところ、司法過程から生じる正義に適う行動ルール、すなわちノモスまたは本章でみた自由の法と、次章の研究対象となる権威によって制定された組織のルールとの違いは、前者が人間のつくったのではない自生的秩序の諸条件から導かれるのに対し、後者は特殊化された意図に資する組織の熟慮の上での構築に役立つという事実の中にある。前者は、それらがすでに守られていた実践を明文化したにすぎないという意味でか、 すでに確立されているルールに依拠する秩序を円滑かつ効率的に運営しようというのであれば、それらはこうしたルールの必要補完物と見なされなければならないという意味で、発見されるのである。自生的な行為秩序の存在が裁判官にその固有の仕事を課さなかったならば、それらは発見されなかったであろう。 したがって、それらは、特定の人間的意志とは無関係に存在するものと当然考えられる。 一方、特定の結果を目指す組織のルールは、組織者の設計する知性の自由な発明品であろう。(中略)憲法憲法という法に包含されている政府の諸権力の割り当てと制限に関する全てのルールは、まず、我々が「法」と呼びならわしてはいるが、組織のルールであって正義に適う行動ルールではないルールに、属する。 これらのルールは、広く、特別な威厳を付与されている、あるいは他の法に対するより大きな尊敬が払われてしかるべき、「最高」級の法とみなされている。 しかし、これを説明する歴史的理由はあるものの、それらのルールを普通いわれているように他の全ての法の源泉としてでなく、法の維持を保障するための上部構造と見るほうが、適当である。しかし、こうしたこと(※注:憲法という法に特定の威厳と基本的な性格が与えられていること)で、憲法が、基本的に、事前に存在する法体系の中の法を施行するためにそうした法体系の上に構築された上部構造であるという事実が、変わるわけではない。いったん確立されると、憲法は、他のルールがそこからその権威を引き出すという論理的な意味で「第一義的」であるようにみえるが、それはなおこれらの事前に存在するルールの支持を企図している。それは、法と秩序を守り、他のサービスの給付装置を提供する手段をつくりだすが、法と正義が何であるかを定義しない。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』(1976年刊) p.70以下、P.88以下 だが、法を立法者の意志の産物として定義すると、その内容が何であれ立法者の意志の表出全てが「法」に包摂され(「法は全く任意の内容をもってよいことになる」(※注:H.ケルゼン))。その内容は法とよばれる様々な言明の間の何ら重要な区別をなさないという見解が、特に、正義は、いかなる意味でも、何が実際に法であるかを決めるものではなくて、むしろ何が正義であるかを決めるものが法であるという見解が、生まれてくる。旧来の伝統とは逆に、法の制定者は正義の創造者であるという主張が、法実証主義の最も特徴的な教義となった。 (中略)主権という概念は、国家という概念と同様に、国際法のための不可欠の用具である - その概念をそこでの出発点として受け入れるならば、そのことによって、国際法というまさにその観念が無意味にされることはない、とまでは確信できないが。しかし、法秩序の内部的性格の問題を考察するためには、どちらの概念も、人を迷わせるばかりでなく、不要であるように思える。事実、自由主義の歴史と同一である立憲主義の歴史全体は、少なくともジョン・ロック以降は、主権についての実証主義者の概念や全知全能の国家という関連概念に対する闘争の歴史であった。 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) p.41以下から抜粋⇒全文は 第7章 法の支配 へ 1. 「法の支配」の捉え方 (1) 法の支配とは何でないのか 「法の支配」は、多くの人が口にする基本概念でありながら、その実体につき合意をみない難問である。とはいえ、法の支配の目指すところについては、論者の間におおよその合意がある。“その目的は、可能な限りすべての国家機関の行為を法のもとにおいて、その恣意的な活動を統制し、もって人々の基本権を保障せんとするところにある。” が、この機能論的な説明は、法の実体の解明にはなっていない。 また、法の支配とは何でないのか、という疑問についても、法学者の間で合意がみられる。その解答としては、次のふたつがある。 第一。 “法の支配は、絶対君主の統治にみられたような「人に支配」、すなわち、ルールに基かない、その場当たりの恣意的な権力発動を通して人々を支配することではない。” 第二。 “法の支配は、法治主義ではない。法治主義とは、国民の権利義務に変動を与えるとき、その国家意思は議会の意思を通して実定法化されるべきこと、 そして、行政はその議会法を執行し(“法律なければ行政なし”)、裁判所は議会制定法に準拠して法的紛争を解決すること、をいう。” (2) 法の支配と法治主義 「法の支配」にいう法は、民主的機関である議会の制定する法律をも統制し、主権者の意思をも統制する機能をもっている。この機能については、法学者は異論を唱えないだろう。未解決の争点は、“その狙いのために、法の支配にいう「法」がいかなる属性をもっているのか”というところにある。 (3) 法の支配と正義 法の支配とは、《主権者といえども、人為の法を超える高次の法のもとにある》という思想を起源とする。 それは、法(law)と立法(legislation)との区別のもとで、前者が後者を指導する、という思想である。高次の法 higher law とは、・・・(中略)・・・“fundamental law”と同じである。 Higher law または fundamental law の内容は、《正義に適っているルール》を指してきた。 ところが、「正義」の捉え方は歴史によって変転し、論者によってさまざまとなっているために私たちを混乱させているのだ。 法の支配を正義と関連づけるとき、その捉え方には、大きくふたつの流れがみられた。 第一は、 問題の法令の実質・内容を問う立場である。正義の種類からいえば、実質的正義論に属する。その典型的立場が自然法論である。 第二は、 問題の法令の形式を重視するタイプである。正義の種類でいえば、形式的正義論である。 これは、問題の法令が、どのような特定の人びとをも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で普遍的な形式を満たしているか否かを問うのである。 これは、《人為法が普遍的に妥当する形式をもっていれば、不正を最小化できる》といいたいのだ。 2. 「法の支配」の理論と憲法典 (1) 法の支配の理論化 法の支配を脱実体化しながら理論体系としたのが、イギリスの法学者A. ダイシー(1835~192年)である。彼は、臨機(場当たり)でなく、誰もが知りえて、特定可能な対象にではなく、誰に対しても等しく恒常的に適用されうる法の形式を、「正規の法 regular law」と呼んだ。それは、《類似の事案は同じように法的に解決される》という平等原則のなかから浮かび出た形式である。 それは、多年にわたる実践と蓄積のなかで、次第しだいに、人間が獲得してきた法的知識だった。 その法的知識を専門的に修得するのが法曹であり、なかでも裁判官である。身分の独立保障をうけてきた裁判官は、当事者の主張に耳を傾けながら、正しい解決のために、誰に対しても等しく適用されてきた論拠を発見するのである。 (2) 法の支配の突出部 形式的正義論をベースとする法の支配の考え方には、 (ア) 法は特権を容認せず、一般的普遍的な形式をもたなければならない、 (イ) 法は公知(誰もが前もって知りうるもの)で恒常的でなければならない、 (ウ) その適用に矛盾があってはならない、 という命題が伴っている。これらの命題は、法の予見性・安定性に資し、経済自由市場における交易を一挙に促進することとなった。 自由市場の生育を可能としたのは、法の支配という憲法上の基本概念だった。法の支配が、経済的自由、身体・生命の自由その他の自由へと拡大するにつれて、自由主義国家の基盤ができあがっていったのだ。 法の支配は、経済市場における諸自由だけでなく、国家の刑罰権と課税権とを有効に統制する論拠となった。 罪刑法定主義と租税法律主義が、法令の遡及的適用を排除したり、慣習を法源たりえないとしたり、法令の裁量的適用に警戒的であるのは、法の支配の思想が、一部実定法上に突出したためである。 法の支配は、われわれの権利義務に関する実定法(人為法)を指導するメタ・ルールである。 法の支配という思想は、あるルールを実定化するにあたって実定法を先導する上位のルールである。たとえ憲法を含む実定法が法の支配を謳ったとしても、それこそが「自己言及のパラドックス」にすぎないのだ。 (3) 法の支配と憲法との関係 法の支配は、国家の不正義を最小化するための理念として、歴史上さまざまな論者が肉付けしてきた。 この理念は、sovereignty、なかでも、君主の有してきたそれをまず統制しようとした。 sovereignty は、「主権」と訳出されるが、この訳語では伝えきれないニュアンスをもった言葉である。それは、「主権」というよりも、絶対権または最高権といったほうがいいだろう。 憲法は、最高・絶対の主権を統制するための「基本法」として、歴史に登場した。このことからも分かるように、憲法は、法の支配という構想の必須部なのだ(が、しかし、憲法が法の支配にいう法ではない)。 主権の帰属先が君主から国民になった場合でも、法の支配の理念に変更はない。 今日においても、すべての国家機関、なかでも国民の主権と、国民代表機関である議会とを、法のもとにおく必要があるのだ。 そのために、憲法は法の支配の理念の一部を組み込もうとする。 1 統治の機構においては、①独立の保障される司法部、②特別裁判所の禁止、③憲法条規の最高法規性の宣言がこれであり、 2 権利章典の部においては、①適正手続保障、②遡及処罰の禁止、③公正な裁判の保障等がこれである。 もっとも、こうした個別の条規を列挙することは、憲法と法の支配との関係を考えるにあたっては二次的な意味しかもたない。 教科書のなかには、法の支配について、(ア)憲法の最高法規性、(イ)基本権の尊重、(ウ)適正手続保障、(エ)司法審査制を列挙するものがある。 もしこの思考が法の支配の論拠を日本国憲法典に求めようとしているのであれば、ひとつの体系内に根拠を求める「自己言及のパラドックス」に陥ってしまっている。 もし論拠を示したものではなく、“法の支配がかような諸点に現れている”というのであれば、(イ)と(ウ)はダブルカウントであり、(エ)は法の支配の内在的な要請ではなく(英国には、司法審査制はない)、法の支配を有効にするための手段にすぎないことの説明に欠けている。 このように、憲法と法の支配との関係をみるとしても、要注意点は、《憲法典という実定化された法が法の支配にいう“法”ではない》ということである。 たしかに、憲法典は法の支配の理念を一部活かしている。が、しかし、「憲法典=法の支配」ではない。 (4) 法の支配と主権との関係 《法の支配は憲法典や主権をも統制する》とのテーゼを理解するためには、次の(ア)~(ウ)に留意しておかなければならない。 (ア) 一般の教科書によれば、国民主権にいう「主権」とは、憲法制定権力のことを指す。 (イ) 主権は、国制を意味する憲法を創出する力であり(憲法を作り出す力としての主権。以後、憲法制定権力を「制憲権」という)、憲法典は、この制憲権によって作り出される。 (ウ) [制憲権→憲法典]という理論上の順序関係を考えれば、憲法典によって主権を統制することはできない。 では、「憲法典によって主権を統制することはできない」とき、主権(制憲権)は何によって規範的な拘束を受けているのだろうか? 実体的正義論者は、自然法、人間の理性、人間の尊厳等をあげるだろう。これらの実体的要素はいずれも客観性に欠けるとみる批判的な論者であれば、「主権者の自己拘束だ」というかもしれない。 それらの解答を、私はいずれも受容しない。《主権を規範的に統制するもの、それが法の支配だ》、これが私の解答である。 法の支配にいう「法」とは、実定的な法ではなく、最低限の形式的正義のことだ、と私は理解している。 (5) 法の支配と法律との関係 法の支配は、先に触れたように、国民の主権や、国民代表機関である議会の権限(法律制定権)をも統制する理念である。 では、法の支配は、議会の立法権(法律制定権)をどのように統制するか?私のような、形式的正義論者は、こう解答するだろう。《議会が法律を制定するにあたっては、一般的普遍的な形式をもたせなければならない》。 この解答は、日本国憲法41条の「立法」の解釈に活かされるだろう。立法(法律)が一般的普遍的であるという形式を満たすとき、それは 第一に、 一定の要件を満たす限り誰に対しても適用されうるとする点で道徳的にみて正当であり、 第二に、 予見可能性・法的安定性を増すという点で経済的にみて合理的である。 法の一般性・普遍性とは、法規範の名宛人が事前に特定可能でないことをいう。法の支配にとって最も警戒され続けてきた点は、法が人的な属性に言及しながら、特定可能な人びとを特別扱いすることだった。 法の支配は、人的な特権を忌避して、誰であれ自分の限界効用を自由に(国家から公法規制や指令を受けないで)満足させてよい、とする思想でもあるのだ。 ※その他参照先 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)第一部 国家と憲法の基礎理論 第四章 立憲主義と法の支配 ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) 1 英米圏の標準的な理解では「法の支配」とは、①まず第一に「手続的正義・形式的正義」を中核とする法内在的正義の要請をいい、②配分的正義など「実質的正義」に関する要請は、あくまで周縁的に考慮されるに留まる。 2 次に、③「法の支配」がどのような働きを果たすのか、を考える機能的アプローチでは、それが「人の支配」ではないことから主権論との関係が問題となる。⇒「法の支配」は「特定の人の“意思”に基く支配」を拒絶しており、主権者(法=主権者意思説)と両立しない。(「君主主権」(君主一人の意思による支配)のみならず集合意思としての「国民主権」も原理的には「法の支配」と両立しない)。 では、特定の人の意思の産物ではない「法」とはいったい何なのか? ⇒ それは「ノモス(nomos 意図せざる人為の法)」つまり歴史的構築物としての「法」(自生的秩序の法)である。(すなわち、フュシス(physis, natural law 自然法)やテシス(Thesis 純然たる実定法)ではない) 1 では、①手続的・形式的正義に関する法準則が「法の支配」の中核要素である、と述べたが、③機能的アプローチでは、そうした形式を超える「何らかの実質的価値」を想定していることになる。 しかしそれでも、この場合の「実質的価値」は、左派系の正義論にありがちな、(1)人権保障、(2)憲法の最高法規性、といったものではなくて、ノモス概念としての「法」=特定の共同体で自生的に発展してきた慣習法であることから、実質的意味の憲法(国制)に接近する。 ⇒この③を、①の(狭義の)「法の支配」と区別して、「国体の支配」ないし「ノモスの支配(nomocracy)」と呼ぶべきである。 3 最後に、「法の支配」の「法」と、(a)実質的意味の憲法(国体法ないし国制)および、(b)形式的意味の憲法(憲法典)、との関係について整理する。 ①(狭義の)「法の支配」は、あくまで消極的に理解されるべき法理念(「~は法ではない」、という形式の言明で表現されるもの)であり、憲法を含めた立法全体に対する制限となるメタ・ルールであって、法規範ではない。 これに対して、③ノモスは、成文であれ不文であれ、「~は法である」という形式の言明で、一応は積極的に把握されうる法規範としての実体(substance)をもつもの、である。 さらに、テシスは、その定義から完全に積極的に把握できる成文法(実定法 positive law)である。 ■6.関連用語 ほうち-しゅぎ【法治主義】 広辞苑 ① 人の本性を悪と考え、徳治主義を排斥して、法律の強制による人民統治の重要性を強調する立場。韓非子がその代表者。ホッブズも同様。 ② 王の統治権の絶対性を否定し、法に準拠する政治を主張する近代国家の政治原理 → 法の支配 ほうちしゅぎ【法治主義】rule of law(※注:原文ママ) 日本語版ブリタニカ 行政は議会において成立した法律によって行われなければならない、とする原則。 1 行政に対する法律の支配を要求することにより、 2 恣意的・差別的行政を排し、国民の権利と自由を保障することを目指したもので、立憲主義の基本原則の一つに挙げられている。この原則に基く国家を、法治国家という。 ほうち-こっか【法治国家】 広辞苑 国民の意思によって制定された法に基づいて国家権力を行使することを建前とする国家。①権力分立が行われ、②司法権の独立が認められ、③行政が法律に基いて行われる、とされる。法治国→ 警察国家 ほうちこっか【法治国家】Rechtsstaat 日本語版ブリタニカ 行政および司法が、あらかじめ議会の制定した法律によって行われるべきである、という法治主義の国家。すなわち、全国家作用の法律適合性ということが、法治国家の本質とされたのであるが、 1 その際、イギリス法の「法の支配」 rule of law と違い、 2 行政および司法が、国民の代表機関たる議会によって制定された法律に適合していればよい、 という形式的側面が重視された結果、法治国家論は、法律に基きさえすれば、国民の権利・自由を侵害してよい、という否定的な機能を果たし、法や国家の目的・内容を軽視する法律万能主義的な傾向を内包していた。 (1) 第二次世界大戦後、西ドイツは、この点に反省を加え、(a)立法・行政および裁判を直接に拘束する不可侵・不可譲の基本的人権を承認し、(b)これを確保するために憲法裁判所を設置して、これに法令の憲法適合性を審査する権限を与えた。 (2) 日本の場合も、憲法は、裁判所に、いわゆる法令審査権を与えている(81条)。 このようにして、 [1] 行政・司法が単に法律に適合している、という形式面のみならず、 [2] その法律の目的・内容そのものが、憲法に適合しなければならない、 という原則が確立され、それによって、いわば法治主義の実質的貫徹が期されている。 ■7.参考図書 『法の支配 - オーストリア学派の自由論と国家論』 (阪本昌成 著(2006年刊))オーストリア学派の社会哲学をもとに、「法の支配」を自然法思想の呪縛から解放した目から鱗の名著 『法とは何か - 法思想史入門』 (長谷部恭男:著(2011年刊))こちらも読み易く内容の確りした良書 ■8.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック + ... test - 名無しさん (2019-07-29 09 07 34) 以下は最新コメント表示 test - 名無しさん (2019-07-29 09 07 34) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/138.html
日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 ~ 長谷部恭男(東大法学部教授(憲法学))『法とは何か』p.149 要旨■日本の憲法学の教科書にありがちな諸々の理想のごった煮的な意味内容ではなく、本家である英米法の本来の用法に合致した意味内容で「法の支配」という言葉を理解すべきである。 ※本ページが難しい方は、まず リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配をご覧下さい。 <目次> ■1.このページの目的 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明◆1.日本の辞書による定義 ◆2.英米圏の辞書による定義 ■3.「法の支配」理念の整理◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 ◆2.「法の支配」理念整理表 ◆3.主権論と「法の支配」 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) ■6.関連用語 ■7.参考図書 ■8.ご意見、情報提供 ■1.このページの目的 多くの憲法学や法理学(法哲学)の教科書では、憲法の基本原理ないし中核的法理念として「法の支配(rule of law)」という用語が強調されている。 しかし、この「法の支配」の意味内容は、論者によって全くバラバラで不明瞭であって、特に日本では「法の支配」の本家である英米圏での標準的な用法とは懸け離れた意味でこの言葉が使用されるという問題ケースが多く見受けられる。 このページでは、この「法の支配」理念について、①正義論および②主権論との関係に留意しながら整理し明晰化していく。 ※なお「概念(concept)」は「~はどうあるか」(⇒ 概念論)、「理念(ideal)」は「~はどうあるべきか」(⇒ 理念論)という意味であるが、以下の文章では両者の使い分けは厳密でないことに注意。 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明 ◆1.日本の辞書による定義 ※関連する人名を含む ほう-の-しはい【法の支配】 (rule of law) 広辞苑 イギリスの法律家コークが、国王は神と法の下にあるべきである、として、ジェームズ1世の王権を抑制して以来、「人の支配」に対抗して認められるようになった近代の政治原理。コークのいう法は、イギリスの判例法で、立法権をも抑制する点で、法治主義とは異なるが、後に法治主義と同義に用いることもある。 ほうのしはい【法の支配】 rule of law 日本語版ブリタニカ 法至上主義的な思想、原則。 (1) どんな人でも、通常裁判所が適用する法律以外のものに支配されない、あるいは、 (2) 被治者のみでなく、統治者・統治諸機関も、法の支配に服さなければならぬ、とする、「法のもとにおける統治」の原理。 イギリスの伝統に根ざす思想であり、自然法思想にも淵源をもつ、法の権力に対する優位性の主張である。 A.ダイシーは、その著『憲法入門』(1885)のなかで、①議会主権と、②法の支配、がイギリスの2大法原理である、としたが、 1 ここから、人間とその自由を権力から守るイギリス型法治主義の原則が確立され、 2 アメリカにおいては、司法権優越の原理を生んだ。 20世紀に入り、経済・社会情勢の著しい変化につれ、伝統的な法支配の原則に対するいろいろな批判も起っている。 コーク【Edward Coke】 広辞苑 イギリスの法律家。権利請願の起草者。13世紀の法律家ブラクトン(H. Bracton ~1268)の著述を引用して「法の支配」(rule of law)を説いたことでも名高い。(1552~1634) ブラクトン Bracton, Henry de 日本語版ブリタニカ [生] 1216 デボン? [没] 1268 エクスター/デボン? イギリスの法律家、裁判官。ときにはイギリスの中世で最も偉大な法律家といわれる。 本名はブラットン Braton であったが、死後ブラクトンの名で伝わる。法律家として名が現れるのは、1245年以降で、48~68年に南西諸県、ことにサマーセット、デボン、コーンウォールで巡回裁判所の判事を務めた。 ローマ法・教会法に造詣が深く、50~56年に中世イギリス法を集大成した『イギリス法律慣習法』 De Legibus et Consuetudinibus Angliae は有名。 同書中の「王もまた神と法の下にある」という言葉は、法の支配原理の象徴的言辞として、しばしば引用されている。 ※この様に日本の辞典類では「法の支配」について割と簡潔な記述しかないが、英米圏ではだいぶ認識が違っているようである。 ◆2.英米圏の辞書による定義 rule of law collins The rule of law refers to a situation in which the people in a society ①obey its laws and ②enable it to function properly. (翻訳) 法の支配とは、ある社会における人々が、①その諸法を遵守しており、かつ、②社会を適切に機能させている、状況をいう。 ※残念ながら、 Britannica Concise Encyclopedia および Oxford Dictionary of English には rule of law の項目がないため、英文wikipedia(2014.3.15時点)で代用する。 rule of law 英文wikipedia The rule of law (also known as nomocracy) primarily refers to the influence and authority of law within society, especially as a constraint upon behavior, including behavior of government officials.The phrase can be traced back to the 16th century, and it was popularized in the 19th century by British jurist A. V. Dicey. The concept was familiar to ancient philosophers such as Aristotle, who wrote "Law should govern".Rule of law implies that every citizen is subject to the law, including law makers themselves.It stands in contrast to the idea that the ruler is above the law, for example by divine right. Despite wide use by politicians, judges and academics, the rule of law has been described as "an exceedingly elusive notion" giving rise to a "rampant divergence of understandings… everyone is for it but have contrasting convictions about what it is." At least two principal conceptions of the rule of law can be identified a formalist or "thin" definition, and a substantive or "thick" definition. ① Formalist definitions of the rule of law do not make a judgment about the "justness" of law itself, but define specific procedural attributes that a legal framework must have in order to be in compliance with the rule of law. ② Substantive conceptions of rule of law go beyond this and include certain substantive rights that are said to be based on, or derived from, the rule of law. HistoryAlthough credit for popularizing the expression "the rule of law" in modern times is usually given to A. V. Dicey, development of the legal concept can be traced through history to many ancient civilizations, including ancient Greece, China, Mesopotamia, India and Rome. (1) AntiquityIn Western philosophy, the ancient Greeks initially regarded the best form of government as rule by the best man.Plato advocated a benevolent monarchy ruled by an idealized philosopher king, who was above the law. Plato nevertheless hoped that the best men would be good at respecting established laws, explaining that "Where the law is subject to some other authority and has none of its own, the collapse of the state, in my view, is not far off; but if law is the master of the government and the government is its slave, then the situation is full of promise and men enjoy all the blessings that the gods shower on a state." More than Plato attempted to do, Aristotle flatly opposed letting the highest officials wield power beyond guarding and serving the laws. In other words, Aristotle advocated the rule of law It is more proper that law should govern than any one of the citizens upon the same principle, if it is advantageous to place the supreme power in some particular persons, they should be appointed to be only guardians, and the servants of the laws.According to the Roman statesman Cicero, "We are all servants of the laws in order that we may be free." During the Roman Republic, controversial magistrates might be put on trial when their terms of office expired. Under the Roman Empire, the soverign was personally immune(legibus solutus), but those with grievances could sue the treasury. (omission) (2) Modern timesAn early example of the phrase "rule of law" is found in a petion to James Ⅰ of England in 1610, from the House of Commons Amongst many other points of happiness and freedom which your majesty's subjects of this kingdom have enjoyed under your royal progenitors, kings and queens of this realm, there is none which they have accounted more dear and precious than this, to be guided and governed by the certain rule of the law which giveth both to the head and members that which of right belongeth to them, and not by any uncertain or arbitrary form of government … In 1607, English Chief Justice Sir Edward Coke said in the Case of Prohibitions(according to his own report) "that the law was the golden met-wand and measure to try the causes of the subjects;and which protected His Majesty in safety and peace with which the King was greatly offended, and said, that then he should be under the law, which was treason to affirm, as he said; to which I said, the Bracton saith, quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(That the King ought not be under any man but under God and the law.)." Meaning and Categorization of interpretationsDifferent people have different interpretations about exactly what "rule of law" means. According to political theorist Judith N. Shklar, "the phrase 'the rule of law' has become meaningless thanks to ideological abuse and general over-use, but neverthless this phrase has in the past had specific and important meanings. Among modern legal theorists, most views on this subject fall into three general categories the formal(or "thin") approach, the substantive(or "thick") approach, and the functional approach.The "formal" interpretation is more widespread than the "substantive" interpretation. 1 Formalists hold that the law must be prospective, well-known, and have characteristics of generality, equality, and certainty. Other than that, the formal view contains no requirements as to the content of the law. This formal approach allows laws that protect democracy and individual rights, but recognizes the existence of "rule of law" in countries that do not necessarily have such laws protecting democracy or individual rights. 2 The substantive interpretations holds that the rule of law intrinsicaly protects some or all individual rights. 3 The functional interpretation of the term "rule of law", consistent with the traditonal English meaning, contrasts the "rule of law" with the "rule of man".According to the functional view, a society in which government officers have a great deal of discretion has a low degree of "rule of law", whereas a society in which government officers have little discretion has a high degree of "rule of law". The rule of law is thus somewhat at odds with flexibility, even when flexibility may be preferable. The ancient concept of rule of law can be distinguished from rule by law, according to political science professor Li Shuguang "The difference … is that, under the rule of law, the law is preeminent and can serve as a check against the abuse of power. Under rule by law, the law is a mere tool for a government, that suppresses in a legalistic fashion." (omission) (翻訳) 法の支配(それはまたノモクラシーとしても知られている)とは、第一に社会における法の影響力や権威、特に政府当局の行為を含む行為の抑制に関して謂われるものである。このフレーズは16世紀に遡ることができ、19世紀に英国の法律家A. V. ダイシーによって一般に知られるようになった。この概念は、「法が統治すべきである」と書いたアリストテレスのような古代の哲学者達にお馴染みのものだった。 法の支配は、法の作成者も含めて、全ての市民が法に従うことを含意する。それは、王権神授説の例のような、支配者は法の上位にある、とする観念とは対照的である。 政治家・判事・学者によって広く使用されているにも関わらず、法の支配は「誰もが承知するが、しかし、それが何であるかについて対照的な信念しかもっていない・・・収拾がつかないほど多様な諸理解」を惹起する「非常に捉えどころにない観念」として説明されてきた。 少なくとも法の支配について2つの主要な概念解釈(conception)を特定することが可能である:すなわち、①形式的ないし「薄い」定義と、②実質的ないし「濃い」定義、である。 ① 法の支配の形式的定義(definition)は、法の「正当性」自体を判定することはないが、ある法的枠組みが法の支配に適合するといえるために必ず保持しなければいけない特定の手続的属性を定義している。 ② 法の支配の実質的概念解釈(conception)は、それ(形式的定義)を超えて、法の支配がそれに依拠しており、その派生源となっている、ある特定の実質的諸権利を内包する。 歴史近代における「法の支配」という表現の一般的認知は通常A. V. ダイシーの功績であるが、その法的概念の発達自体は、古代ギリシア・チャイナ・メソポタミア・ローマを含む多くの古代文明の歴史上に見出すことが可能である。 (1) 古代西洋哲学では、古代ギリシアにおいて、当初は、政府の最善の形態は、最良の人物による支配だ、と見なされていた。 プラトンは、法を超越する理想的な哲人王による、慈悲深い君主制を唱導した。 プラトンは、それでもなお、最善の人物達が確立された諸法を上手く尊重していくことに期待を寄せて、以下のように解説している。 「法が他の何らかの権威に服しており、何らそれ自体の内容を持たないところでは、私見では、国家の崩壊はそう遠くない。 しかし、もし、法が政府の主人であり、政府が法の僕(しもべ)であるならば、その場合は、状況は希望に満たされており、人々は神々が国家に降り注ぐあらゆる祝福を享受する。」 プラトンの企図をさらに超えて、アリストテレスは、最高位の当局者達が法が保護し奉仕する範囲を超えて権力を行使することに、きっぱりと反対した。 すなわち、アリストテレスは、法の支配を(以下のように)唱導した。法が統治することが、市民のうちの誰(が統治すること)よりも、より適切である。 同様の原理に則り、もし、ある特定の人物達への最高権力の付与が好都合である場合には、諸法の保護者達および奉仕者達だけが、その任を与えられるべきである。 ローマの政治家キケロによれば、「我々が全員、法に奉仕するのは、我々が自由であらんが為である。」ローマ共和制の期間、嫌疑のかかった執政官達は、彼らの任期が終了したときに、たいてい査問にかけられた。 ローマ帝制下では、統治者は個人としては不可侵(無答責)であったが、しかし不平を持つ人々は国費で訴訟を起こすことが可能だった。 (中略) (2) 近代「法の支配」という文句の初期の使用例の一つは、1610年のイングランドで、庶民院がジェームズ1世に対して行った請願の中に見出される。この王国の陛下の臣民が、この王室の諸祖先・この王国の諸王・諸女王の下で享受してきた諸々の幸福と自由のあらゆる諸点の中でも、以下の事柄以上に彼ら(臣民)が愛着を示し大切に抱き続けてきたものは他にありません。すなわち、(彼らは)主長と構成員の双方に、どの権利が彼らに帰属しするかを決め与える、ある特定の「ルール・オブ・ザ・ロー(rule of the law ※原文ママ)」によって道を示され統治されるのであり、そして如何なる不確実または恣意的な形態の政府によって統治されるのではない、ということ。1607年、イングランドの主席裁判官エドワード・コーク卿は、禁止令状事件において、(彼自身の報告によれば)以下のように発言した。 「法とは、臣民達の訴訟を審理し、陛下を安全に保護するところの黄金の超越的杖であり物差しである。そして、それは陛下の安全と平和を保護する。」 それに対して国王は非常に立腹して曰く「ならば余は法の下にあるべきことになるが、その断言は反逆罪である」と。 それに応えて曰く、「ブラクトンは「quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(国王は何人の下にもあるべきでないが、神と法の下にあるべきである)」と云った、と」 意味と解釈カテゴリー「法の支配」が正確には何を意味するか、について人々は全く異なった解釈を持っている。 政治理論家ジュディス・N・シュクラーによれば、「イデオロギー的誤用と一般的濫用のせいで、『法の支配』という文句は無意味なものとなったが、それにも関わらず、この文句は過去において、特有かつ重要な幾つかの意味を持ち続けてきた。」という。近代の法理論家達の間で、このテーマに関する大方の見解は3つの一般的なカテゴリーに識別される。すなわち、①形式的(ないし「薄い」)アプローチ、②実質的(ないし「濃い」)アプローチ、そして③機能的アプローチ、である。①「形式的」解釈は、②「実質的」解釈よりも、より広く受け入れられている。 1 ①形式主義者達は、法は、(a)予見可能で、(b)公知であり、そして(c)一般性/一様性/確実性という諸特性をもたねばならない、と考えている。 それ以外には、①形式的見解は、法の内実という点に関しては何の要求事項も持っていない。 この①形式的アプローチは、デモクラシーと個人の諸権利を保護する諸法を許容するが、デモクラシーや個人の諸権利を保護するそうした諸法を必ずしも持たない諸国においても「法の支配」が存在する(と想定する見解である)と受け止められている。 2 ②実質的な諸解釈は、法の支配は幾つかの、または全ての個人の諸権利を実質的に保護している、と考えている。 3 「法の支配」という用語の③機能的解釈は、伝統的な英語の意味に合致しており、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」と「ルール・オブ・マン(人の支配)」とを対照的に説明する。③機能的見解によれば、政府職員が非常に大きな裁量権を保持している社会では「法の支配」は低い水準にあり、その一方で、政府職員が小さな裁量権しかもたない社会では「法の支配」は高い水準にあることになる。 法の支配は、このように柔軟性を持つ点で-たとえ、その柔軟性が好ましい場合があるとしても-何かしら中途半端(な言葉)である。 政治科学教授リー・シャガンによれば、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」という古代の概念は、以下の点で「ルール・バイ・ロー(法による支配)」と区別することができる。すなわち「その違いは・・・ルール・オブ・ロー(法の支配)の下では、法は卓越しており、権力の悪用に対する歯止めとして役立てることが可能である。ルール・バイ・ロー(法による支配)の下では、法は、法的な趨勢を抑制する単なる政府の道具である。」(以下省略) ※このように英米圏では、「法の支配」について、①形式的アプローチ、②実質的アプローチ、③機能的アプローチという3様のアプローチが区別されている。このうち①②は正義論(法価値論)に関係するアプローチであり、③は主権論に関係するアプローチである。 ※以下、順に「法の支配」理念について整理していく。 ■3.「法の支配」理念の整理 ◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 政治思想・政治哲学の根本的価値が「自由(freedom/liberty)」という言葉で表現されるように、 法思想・法哲学の根本的価値は「正義(justice)」という言葉で伝統的に表現されてきた。 そこでまず、この「正義」概念を整理し、「法の支配」理念(①形式的および②実質的アプローチ)との関係を考察していく。 ※参考ページ 正義論まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 ほうかちろん【法価値論】legal axiology 日本語版ブリタニカ 法的な価値について考察する研究分野。法的な価値は正義という言葉で表現されることが多いから、正義論といってもよい。 古代ギリシア以来、法哲学の主要分野をなしてきたが、最近は、①規範的倫理学と、②分析的倫理学の区別に対応して、①規範的法価値論と②分析的法価値論(メタ法価値論)とが明確に区別されるようになった。 せいぎ【正義】 広辞苑 ① [荀子(正名)]正しいすじみち、人がふみ行うべき正しい道。「-を貫く」 ② [漢書(律暦志上)]正しい意義または注解。「尚書-」 ③ (justice) (ア) 社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。 これを単に形式的なものと見るマルキシズムは、真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張するが、現在ではイデオロギーを超えた正義が模索されている。 (イ) 社会の正義に適った行為をなしうるような個人の徳性。 せいぎ【正義】justice 日本語版ブリタニカ 人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値。 . 善(※注: agothos, bonum, good)と同義に用いられることもあるが、 (1) 善が、主として人間の個人的態度にかかわる道徳的な価値を指すのに対して、 (2) 正義は、人間の対他的関係の規律にかかわる法的な価値を指す。 . 正義とは何か、という問題については、古来さまざまな解答が示されてきたが、一般的な価値ないし価値基準に関する見解と同様に 1 正義を客観的な実在と考える客観主義的・絶対主義的正義論と、 2 正義を主観的な確信と考える主観主義的・相対主義的正義論とに大別できよう。 法思想の領域では、だいたいにおいて、自然法論が 1 前者に、法実証主義が 2 後者に、属する。 . 従来の正義論のうちでは、アリストテレスやキケロの見解が名高く、与えた影響も大きい。 (ア) アリストテレスは、道徳と区別される正義(特殊的正義)について、①配分的正義と、②交換的正義(平均的正義、調整的正義とも訳される)とを区別し、 ① 前者は、公民としての各人の価値・功績に応じて、名誉や財貨を配分することにおいて成立し、 ② 後者は、私人としての各人の相互交渉から生じる利害を平均・調整することにおいて成立する、とした。 (イ) キケロは、この①配分的正義と同様な内容を、「各人に彼のものを」という公式で表現した。 ※サイズが合わない場合はこちらをクリック。 こうした「正義」概念に基く法理念・法思想を、英米圏では一般に「法の支配(rule of law)」と呼んでいる。 ◆2.「法の支配」理念整理表 ※サイズが合わない場合はこちらをクリック。 ◆3.主権論と「法の支配」 伝統的な意味での「法の支配」理念(③機能的アプローチ)は、「人の支配(= 特定者の意思に基く統治)」を拒絶することから、「国民主権」「人民主権」といった「主権論(= 主権者の意思に基く統治原理)」と両立しない。 ⇒ 従って、「法の支配」を認める場合は、 ① 日本国憲法の「国民主権」規定に関して、「主権者意思説」以外の立場から解釈する必要が生じ、さらに、 ② 今後目指される憲法改正ないし新憲法制定に際しては、現行憲法にあるような主権者意思としての「国民主権」を連想させる文言は厳しく排除することが望まれる。 ↓詳しい説明はここをクリックして表示/非表示切り替え + ... 歴史主義・伝統主義 (英米法) 反歴史主義・リセット主義 (大陸法) 権利の本質 人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として歴史的権利を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場 人間は自然状態において、生来的に自然権(natural right)を有していたが、社会契約(social contract)を結んで自然権を一部または全部放棄し、人定法(実定法:positive law)を定めた、とする立場 法の本質 法は特定の共同体の中で人々の社会的ルールとして自生した(特定の人物の意思によらずに時間をかけて次第に生成されてきた)(法=社会的ルール説)(★注3)⇒この立場は、真の法=ノモス(個別の共同体毎に自生的に発展してきた人為的ではあるが特定の意思によらざる法)とする見解と親和的である。 法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(法=主権者意思[命令]説)(★注1、★注2)⇒この立場には、①真の法=理性から演繹された自然法(フュシス)とする近代的自然法論、および、②真の法など存在せず主権者の意思・命令としての人為法があるのみとする純然たる法実証主義、の2通りの見解がある。 誰が法を作るのか 法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(経験主義、批判的合理主義)⇒「法は“発見”するもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を否認(特定時点の世代の人々が制定できるのは原則として「憲法典(形式憲法)」迄であって、「国制(実質憲法)」は世代を重ねて徐々に確立されていくものに過ぎない) 法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(設計主義的合理主義)⇒「法は“主権者”が作るもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を肯定(特定時点の世代の人々は「憲法典(形式憲法)」のみならず「国制(実質憲法)」をも意図的に確立することが可能である) 補足 共同体毎に個別的→共同体に固有の「国民の権利」と「一般的自由」の二元論と親和的価値多元的・相対主義的、帰納的、保守主義・自由主義・非形而上学的な分析哲学と親和的法の支配ないし立憲主義と順接 全人類に普遍的→共同体や歴史的経緯を超える普遍的な人権イデオロギーと親和的絶対主義的(但し価値一元的な傾向と価値相対主義的な傾向との両面がある)演繹的、急進主義・全体主義・形而上学的な観念論哲学と親和的国民主権や法治主義と順接 実例 英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。大日本帝国憲法(明治憲法)も日本の歴史的伝統を重んじる形で当時としては最大限に熟慮を重ねて制定された フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)※但し“解釈”により日本の歴史・伝統を過剰に毀損しない慎重な運用が為されてきた 主な提唱者 コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトンなお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ハート ホッブズ、ロック、ルソーなお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック (★注1)「法=主権者意思[命令]説」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。 ① 君主主権 君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。 ② 人民主権 君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=プープル主権説)。ルソーの社会契約説が代表例。 ③ 国民主権 君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一とする者が多い)。なお国民主権の具体的意味については、(1)最高機関意思説と、(2)制憲権(憲法制定権力)説が対立しており、さらに(2)は、 1 ナシオン主権説と 2 プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。一般的に国民主権という場合は、 1 ナシオン主権説(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。 ④ 議会主権 英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における国王/女王(the king/queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論 ⑤ 国家主権 帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」が主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である ⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、大日本帝国憲法(明治憲法)は制定時において明確に歴史主義の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば ⑥ “法”主権 つまり「法の支配」・・・歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束するという立場だった。 ⇒なお、大正デモクラシー期には、ドイツ法学の「⑤国家主権説」を直輸入した美濃部達吉の「天皇機関説」が通説となり、それがさらに天皇機関説事件によっていわゆる①君主主権説に転換したのは昭和10年(1935年)以降の僅か10年間である。 (★注2)「法=主権者意思[命令]説」は、法を特定の立法者/思想家の価値観(例:カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想や自然法論・人権論)あるいは政治イデオロギー(例:マルクス主義やナチス期ドイツ思想)に還元してしまう危険が高く、全体主義への接近を許してしまう。 ※以下、「法=主権者意思[命令]説」の法体系モデル。 ※図が見づらい場合⇒こちらを参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) (★注3)「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1960年以降にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。 ※以下、「法=社会的ルール説」の法体系モデル。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照。 ※サイズが画面に合わない場合はこちら及びこちらをクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※なお、自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ 国家解体思想の正体 参照 ※(補足説明)ハートの法=社会的ルール説のいう「ルール(rule)」という用語は、図にあるように、①事実(外的視点からの捉え方)と②規範(内的視点からの捉え方)の二重構造(=観測者から見れば①事実(社会的事実)だが、法共同体の構成員から見れば②規範だ、という③第3のカテゴリー)になっている、という独特の意味で使用されており、①事実と②規範を峻別する方法二元論(ケルゼンら新カント学派の方法論)と大きく異なっている点に注意(→こうした①事実でもあり②規範でもある③第3のカテゴリーの導入によって、ハート理論は「単なる①事実(=認識)から、なぜ②規範(=価値判断)が生まれるのか」という難問のクリアを図っている)。 ※参考ページ 主権論と法の支配の関係 リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解 ※整理表を作成するに当たって参照した著名論者の見解を比較します。 ◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) p.13以下 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配 近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするが、この立憲主義思想は法の支配(rule of law)の原理と密接に関連する。 1. 法の支配 法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。それは、専制的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。 ジェイムズ一世の暴政を批判して、クック(Edward Coke, 1552-1634)が引用した「国王は何人の下にもあるべきでない。しかし神と法の下にあるべきである」というブラクトン(Henry de Bracton, ?-1268)の言葉は、法の支配の本質をよく表している。 法の支配の内容として重要なものは、現在、 ① 憲法の最高法規性の観念 ② 権力によって侵されない個人の人権 ③ 法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law) ④ 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重 などだと考えられている。 2. 「法の支配」と「法治国家」 「法の支配」の原理に類似するものに、《戦前の》ドイツの「法治主義」ないしは「法治国家」の観念がある。この観念は、法によって権力を制限しようとする点においては「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、少なくとも、次の二点において両者は著しく異なる。 (一). 民主的な立法過程との関係 第一に、「法の支配」は、立憲主義の進展とともに、市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図ること、従って権利・自由を制約する法律の内容は国民自身が決定すること、を建前とする原理であることが明確となり、その点で民主主義と結合するものと考えられたことである。 これに対して、戦前のドイツの法治国家(Rechtsstaat)の観念は、そのような民主的な政治制度と結びついて構成されたものではない。もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものに過ぎない。従って、それは、如何なる政治体制とも結合し得る形式的な観念であった。 (ニ). 「法」の意味 第二に、「法の支配」に言う「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも固く結びつくものであったことである。 これに対して、「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることが出来る容器のような)形式的な法律に過ぎなかった。そこでは、議会の制定する法律の中身の合理性は問題とされなかったのである。 もっとも、《戦後の》ドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から《実質的法治国家》へと移行しており、法治主義は英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.24~ (イ) 法の支配 a) 「法の支配」の二つの要請 「法の支配」は「人の支配」に対する概念で、人によるその場その場の恣意的な支配を排除して、予め定められた法に基づく支配によって自由を確保することを目的とする。 法の支配により自由を実現するためには、 まず第一に、 自由を保障するような内容の法(正しい法)を制定することが必要であり、 第二に、 その法を忠実に適用し執行することが必要である。 法の忠実な執行という要請を実現するために、法を制定する権力(立法権)と執行する権力(執行権)と法の争いを裁定する権力(裁判権)を分離し異なる機関に授けるという考えが生ずるが、これが後述する権力分立の原理である。執行権は、立法権がつくった法律を忠実に解釈適用し執行していく義務を負い、忠実に執行しているかどうかが争いになったときには、裁判所が判断するという体制である。 では、正しい法の制定という要請を実現するにはどうしたらよいか。 一つは、 法律の制定に抑制・均衡(checks and balances)のメカニズムを組み込む方法がある。チェック・アンド・バランスも権力分立の内容をなすが、たとえば議会を二院制にして法律の制定には両院の合意が必要であるとしたり、国王あるいは大統領の拒否権や裁可権を認めたり、さらには、裁判所に法律の合憲性の審査権を与えたりして、複数の機関の合意と均衡が形成された場合しか法律の制定はできないようにし、このチェック・アンド・バランスによって法律の内容が行き過ぎるのを阻止し、法律の「正しさ」を確保しようとするものである。 もう一つは、 法律の制定に国民の同意を得るという方法である。これも後述の国民主権の原理と表裏の関係にある問題であるが、国民の権利を制限するような法律を制定する場合には、少なくとも国民を代表する議会の同意を必要とすることにして、法律の内容の「正しさ」を確保しようとするのである。 現実には、この二つの方法を組み合わせて、法律の内容が自由を侵害するものとならないよう配慮している。 その具体的ありようは国により異なるが、それを支えている理念は権力分立(抑制・均衡)と国民主権である。 このように、法の支配は権力分立と国民主権の原理に密接に結びついているのである。 b) 裁判所の役割 正しい法律が制定されれば、その忠実な執行を確保すればよく、このために最も重要な役割を果たすのが裁判所である。 近代において法の支配の観点から最も重視されたのは、絶対王政を倒して国王の権力を法律の下に置くことであったから、法の支配は国王のもつ執行権(行政権)を法律に従わせることの確保を中心に制度化が構想され、その結果、国王から独立の裁判所が行政の法律適合性を裁定するという体制が目指された。 この場合、この裁定の任にあたることになったのが、イギリスのように「通常裁判所」(司法裁判所あるいはコモン・ロー裁判所とも呼ばれる)のこともあれば、フランスやドイツのように、通常裁判所とは別系統の「行政裁判所」を生み出していった国もあった。 法の支配を徹底するためには、行政が法律に従っていることを確保するだけでは不十分である。 法律が憲法に違反していないかどうかを独立の裁判所が判断する制度を実現する必要がある。しかし、それが実現するのは、一般には現代に入ってからであり、近代の段階では、このような違憲審査制度は、唯一アメリカ合衆国において採用されていたにすぎない。 したがって、国民の権利が現実にどの程度保障されるかは、どのような内容の法律が制定されるかに依存することとなった。 イギリスでは、法的には国会主権の原理がとられ、法律が最高の力をもつとされたが、法思想としては中世以来の、国王も議会も拘束される「高次の法」が存在するという観念が強固に生き残り(*)、国民の権利を侵害するような法律がつくられることに阻止的に働いた。 フランスでも、国民主権の下に国民を代表する議会が優位する体制が確立し、法律(議会)が志向の力をもったが(**)、市民階級の成熟とともに選挙権が拡大され、第三共和政期には議会が国民の意思を反映するようになり、法律が国民の権利を侵害することは少なくなったといわれる。これに対し、ドイツでは、市民階級の成熟が遅れ議会が力をもつに至らず、「法律に基づく行政」の原理が法律の内容・実質を問わないものと理解されるようになり、たとえ権利を制約するような法律でも、行政がそれに従ってなされる限り、「法治国家」(Rechtsstaat)が存在するとされた。 これを「形式的法治国家」と呼んでいる。 (*)イギリスのルール・オブ・ロー(rule of law)イギリスの法の支配の特徴を定式化したダイシー(Albert Venn Dicey, 1835-1922)は、法の支配を国会主権と並ぶイギリス憲法の基本原理として提示し、この法の支配は判例法(コモン・ロー)と制定法から成る「正規の法」(regular law)の支配として確立されたと説明している。重要なのは、コモン・ローが具体的事件の中で発見された正義(理性)と観念されたのみならず、制定法も類型的事例に関して一般的抽象的に発見された正義と観念されていたということであり、法の支配が究極的には社会の中で妥当している「高次の法」の支配と考えられたことである。 (**)フランスにおける「法律適合性の原理」(principe de Legalite)1789年のフランス革命は、国民主権を宣言し、主権者国民を代表する国民議会を「主権的意思(一般意思)」の表明」としての法律の制定権者とし、執行権の役割を法律の執行に限定した。この結果、執行権の行為は厳格に法律に従うことを求められた。この原理を「法律適合性の原理」と呼び、かかる国家体制を「法律適合性国家」(Etat legal)と呼ぶ。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.387~ (1) 法の支配の目的と構造 法の支配は、支配者の恣意的で気まぐれな支配を意味した「人の支配」を否定するために主張された観念であった。人の支配は、権力がどのように行使されるかの予測を困難にし被治者の地位を不安定にする。 そこで、被治者の安定した地位と権利を保障することを目的に、法の支配が求められたのである。支配者の意思からは独立に予め存在する法に従って支配(権力の行使)が行われること、これが法の支配の要求であった。ゆえに、法の支配を制度として確立するためには、まず第一に、権利を保障した内容をもつ「法」の確立が必要であり、第二に、支配が法に従って行われているかどうかを裁定する中立的な機関が必要である。立憲君主政において立法権(議会)と司法権(裁判所)が君主の権力から分離・独立したのは、権利保障のための法の支配の確立という観点からはきわめて自然な展開であり、18世紀イギリスの立憲君主政がモンテスキューの三権分立論の基礎となったのもこの観点から理解できる。 国民主権モデルにおいては、この論理はさらに発展し、法の支配の制度化の論理として「法の段階構造」が形成される。 つまり、法はその定立機関との関連でいくつかの法形式に分化され、法形式間に効力の上下関係が設定されて、下位の法形式は上位の法形式に自己の根拠をもたねばならず、上位の法形式に違反してはならないとの原則が確立されるのである。日本国憲法においては、基本的には、「憲法→法律→命令(政令→府・省令、規則)」という段階構造が形成されている。 それぞれの法形式は法定立機関の違いに対応しており、下位の法形式を上位の法形式の「執行」と捉えると、法定立機関と法執行機関が分離されていることが重要である。 そして、下位の法形式が上位の法形式に違反していないかどうかを、中立的な第三者機関としての裁判所が審査することにより、法の支配の実現が期されているのである。 支配(政治)を法に服せしめるには、政治活動を法的行為・法形式へと「翻訳」しなければならない。法の言葉に移し換えることにより、政治を法の論理の中に取り込み法による枠づけが可能となるのである。 政治は、法の衣をまとい、法の段階構造の中で法の論理を使って自らを正当化しなければならず、その正当化が受け入れられうるものかどうかが中立的な裁判所により判断される。 これが法の支配の基本構造である。 それは、ある意味では、「目的-手段」思考の政治を「要件-効果」へと枠づける操作ということができよう。 LEC『C-Book 憲法Ⅰ《総論・基本的人権》』 p.35~ 法の支配 1.はじめに 定義: すべての国家権力が正しい法に拘束されるという原則 ← 人の支配 → 正しい法(正義の法)に基く支配(法の内容を問題にする) → 国民の権利、自由を保障することが目的 → 英米法系(イギリス、アメリカ)の国々で発達 2.法の支配の内容 (1) 個人の人権保障 (2) 憲法の最高法規性の承認(憲法は行政権のみならず立法権をも拘束する) (3) 手続の適正を要求する(適正手続 = due process of law) (4) 裁判所の役割の重視(最高法規性の担保) 3.日本国憲法における法の支配の現れ 「正しい法 = 憲法」によって「法の支配 = 憲法による支配」 ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) 長谷部恭男『法とは何か』(2011年刊) p.148-9 法の支配という概念もいろいろな意味で使われます。ときには、人権の保障や民主主義の実現など、あるべき政治体制が備えるべき徳目のすべてを意味する理念として用いられることもありますが、こうした濃厚な意味合いで使ってしまうと、「法の支配」を独立の議論の対象とする意味が失われます。 法の支配は人の支配と対比されます。ある特定の人(々)の恣意的な支配ではなく、法に則った支配が存在するためには、そこで言う「法」が人々の従うことの可能な法でなければなりません。そのために法が満たすべき条件として、次のようないくつかの条件が挙げられてきました。・・・(中略)・・・。こうした、法の公開性、明確性、一般性、安定性、無矛盾性、不遡及性、実行可能性などの要請が、法の支配の要請と言われるものです。 日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 長谷部恭男『憲法 第5版』(2011年刊) p.xxx 1.2.5 法の支配 法の支配は、国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することにより、国民の自由を保障しようとする理念である。 △ 法の支配の内容 「人の支配」ではなく、「法の支配」を実現するためには、何よりもそれが従うことの可能な法でなければならず、法に基づいて社会生活を営むことが可能でなければならない。そのためには、①法が一般的抽象的であり、②公示され、③明確であり、④安定しており、⑤相互に矛盾しておらず、⑥遡及立法(事後立法)が禁止され、⑦国家機関が法に基づいて行動するよう、独立の裁判所によるコントロールが確立していること、が要請される(長谷部 [2000] 第10章)。このような法の支配の要請は、法令の公布に関する規定(憲法7条1号)や憲法41条の「立法」の概念、司法の独立(憲法76条以下)の他、憲法31条以下の諸規定に具体化されている(8.3.2. (3) 【法の支配との関係】 参照)。 △ 「善き法」の支配 法の支配は、「善き法」の支配と同視されることがある。 形式的法治国と実質的法治国の概念を対置し、法の支配を後者と同視する考え方もその一例である。また、個人の尊厳や基本的人権の保障、国民主権など、近代立憲主義の諸要請がすべて法の支配に含まれるとする者もいる。 しかし、このように法の支配を濃厚な意味で理解してしまえば、この概念を独立に検討する意義は失われる。 確かに、法の支配の内容とされる法の一般性・抽象性・明確性・安定性、および遡及立法の禁止は、法が法として機能するための、つまり法が人の行動の指針として機能するための必要条件である。立法が個別的にしかも事後的に為され、法の文言も不明確であり、しかも朝令暮改のありさまでは、人々は国家機関の行動について如何なる予測を立てることもできず、そのため法に従って行動することは不可能となるであろう。 しかし、人種差別立法や出版物の検閲制度を設定する法も、やはり法として機能するためには、これらの特徴を備えている必要がある。 これらの特徴はいずれもそれ自体としては、悪法の支配とも十分に両立し得る。また、前述のような法の支配の内容は、法が民主的に定められるか否かとは関係がない。 法が法として機能するために、今掲げたような幾つかの条件が必要であることが、法と道徳との必然的なつながりを意味するといわれることもあるが、これも誤りである。 切れ味の良いことがナイフの道徳性を示していないのと同様、法が法として機能するための条件を備えていることは、法の道徳性を示していない。 今述べたとおり、きわめて不道徳な目的を持つ法も、法として機能するためには、このような条件を備えていなければならない。 △ 法の支配の限界 さらに、法の支配は、法が備えるべき条件の一つに過ぎず、他の要請の前に譲歩しなければならない場合もあることに留意しなければならない。法の支配の要請がどこまで充足されるべきかは程度問題であり、個別の企業を国有化するための立法や女性のみを保護対象とする労働立法も、一般抽象性の点で悖(もと)るところがあるとしても、政府の役割の拡大した福祉国家の下においては肯認され得るであろう。 法の支配を支える根拠となる個人の自律や社会の幸福の最大化という目的自体が、国家の役割の拡大をもたらしているからである。 △ 【形式的法治国と実質的法治国】法の支配の観念と関連して、法治国(Rechtsstaat)の概念を、形式的法治国と実質的法治国の2つに区分することがある。形式的法治国論はあらかじめ定められた法形式さえ取れば人民の権利・自由を無制約に侵害できるという考え方であり、実質的法治国論は、法律の内容に一定の実質的限界があるとの考え方であるとされる。もっとも、日本のような成文の憲法典を持つ国家において、この2つを区別する意義については疑いがある。すなわち、最高法規たる憲法典に、実質的法治国概念が前提とする正しい法内容が書き込まれていない限り、その国は実質的法治国とはいえないであろうし、他方、憲法典に下位の法令が充足すべき正しい法内容がすでに書き込まれているのであれば、形式的法治国概念からしてもすべての国家機関はその正しい法内容に従って行動すべきである。両者を区別する意義があるとすれば、せいぜい憲法改正の限界についてであろう。なお、形式的法治国概念が、法の一般性・抽象性や遡及性、裁判の独立性など法の支配の要請をも否定し得る概念として理解されているのであれば、それは当然、本文で述べた法の支配とは両立し得ない。 ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) 田中成明『現代法理学』p.329~、P.337~ 「法の支配」は、伝統的な法的価値の中核をなすものであり、法による正義の実現の中心的目的とされてきた。 (中略) わが国における「法の支配」をめぐる最近の議論では、「法の支配」は、最も狭い意味では、英米における伝統的な「人の支配ではなく、法の支配を」という「法の支配(Rule of Law)」原理と同じものと理解されており、このような共通の理解を背景に、様々な「法の支配」論が展開されている。 そして日本国憲法の基礎にあるのはこのような英米法的な「法の支配」であり、このことは、①憲法の最高法規性の明確化、②不可侵の人権の保障、③適正手続きの保障、④司法権の拡大強化、⑤違憲審査制の確立、などのその特徴に照らして明らかであるという理解が、戦後憲法学の通説的見解である。 「法の支配」の概念や要請内容をめぐる最近の議論のいては、フラーの「合法性」概念などを中核に法の形成・実現に関する形式的・手続的要請に限定して理解する形式的アプローチと、 一定の基本権・民主制・立憲主義などの制度的要請を取り込んで理解する実質的アプローチとを対比する構図が一般的である。 (中略) 「法の支配」の概念や要請内容について、法が法であるために最低限備えるべき内在的価値である形式的正義と手続的正義の要請を中核としていることにはほとんど異論はない。 多義的・論争的となるのは、このような形式的・手続的要請を基軸に、議論領域ごとに「法の支配」が目指している価値理念と、「法の支配」を実効的に確保・実現するための具体的な制度の構成・運用原理との双方向に実質化して議論する段階で、 「法の支配」の概念や要請内容にそれらの価値理念や制度構成・運用原理をどこまで取り込むかについて、見解が分れることに起因しているとみられる。 (中略) また、正しい法や善き政治との関連づけによる実質化については、「法の支配」の正しい法や善き政治への志向性を全面的に否定するのは適切ではないけれども、「法の支配」の意義は、正しい法や善き政治の追求・実現やその手段というよりも、その追求・実現手段に一定の制度的制約を課し、甚だしく不正な法や悪い政治を排除するという消極的な規制原理というところにあるとみるべきであろう。具体的には、自由公正な市民社会の円滑な作動を確保するために、権力の恣意専断を抑止し、不当な自由の制限や理不尽な格差を排除することが「法の支配」の核心的要請であり、「法の支配」をめぐる議論を拡散させないためにも、「法の支配」の目指す価値理念については・・・(中略)・・・「消極的アプローチ」をとるのが適切であろう。 (中略) 例えば、F. A. ハイエクは、法的準則が不正義な行為を禁止する消極的なものであるだけでなく、正義の識別基準もまた消極的なものであるとして、「我々は、誤謬や不正義を絶えず排除することによってしか、真理や正義に近づくことができず、 最終的な真理や正義に我々が到達したことを確認することはできない」とする。 そして、正義の積極的な識別基準がなくとも、何が不正義かを示す消極的な基準はあるという事実は、完全に新しい法システムを構築するには不十分だとしても、現にある法をより正義に適ったものに発展させる適切な指針とはなり、重要な意義をもっていることを指摘している。 (中略) 価値観の多様化・流動化が経験的事実として存在し、実質的正義原理などの究極的価値の積極的な理論的基礎づけの可能性をめぐって見解の対立が続くなかで、法的思考における価値判断も主観的・相対的なものにすぎないと考えられがちである。 けれども、裁判において第一次的に求められる価値判断は、何が不正義かに関する消極的な判断であり、消極的アプローチが示唆しているように、 何が不正義として非難され回避されるべきかについては、何が正義かについて違憲が対立している人々の間でも、具体的判断が重なり合い、その限りでコンセンサスがみられることが一般に考えられている以上に多い。そして、裁判の手続過程が、このような社会的コンセンサスに反映された正義・衡平感覚を適切に汲み上げつつ展開されるならば、 実質的正義の実現に直接的ではなくとも間接的に貢献できる範囲は、裁判の機能の考え方次第では、意外に広いのである。 田中成明『現代法理学』 p.316~、P.327~ (L. L. フラー『法と道徳』(1964年刊) による「合法性(Legality)」の基本要請) このこと(※注:法の目的は、法外在的な実質的目的に限らない、ということ)をとりわけ強調したのは、「合法性(legality)」という一連の手続的要請を法システム自体の存立と作動に関わる内在的な構成・運用原理として提示したL. L. フラーである。彼は、法システムをもっぱら法外在的な社会的目的の実現のための手段にすぎないとみるプラグマティズム的な法道具主義が支配的であることを憂い、一般的に目的=手段関係の考察において、社会的目的を実現する制度や手続自体に内在する制約を重視すべきことを力説した。 法システムについても、合法性を「法を可能ならしめる道徳」「法内在的道徳」として、この種の内在的制約と位置づけ、この合法性が法によって実現できる実質的目的の種類を限定していることに注意を喚起している。フラーは、合法性の基本的要請として、 ①法の一般性、②公布(の事実)、③遡及法の濫用の禁止、④法律の明晰性、⑤法律の無矛盾性、⑥法律の服従可能性、⑦法の相対的恒常性、⑧公権力の行動と法律との合致 という八つを挙げているが、英米において「法の支配」の要請内容と了解されているものと大体同じと理解されている。 このような合法性は、立法者や裁判官に目的・理想を示すだけでなく、法システムの存立に不可欠な条件をも示しており、これら八つの要請のどれか一つでも全面的に損なわれると、もはや、「法」システムと呼ぶことはできず、市民の服従義務も基礎付けることができないとされる。 そして、合法性の要請は基本的に手続的なものであり、法外在的な実質的目的に対しても、たいていは中立的であるが、人間を責任を負う行為主体とみる点では中立的ではなく、 このような人間の尊厳を損なう実質的目的を法システムによって追求することは許されないと考えている。 本書でも、「法の支配」の核心的要請内容を、フラーの合法性の八原理を基軸に理解し、このような意味では法の支配をフラーの合法性概念とほぼ互換的に用い、 「司法的正義」については、このような法の支配の要請を個別的事例において具体的に確保・実現することに関わるものと理解することにしたい。 佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) p.79以下 従って、日本国憲法が定める具体的な諸制度は、そのような「自由」の維持発展に多かれ少なかれ寄与するものとして意図されているといえるが、「自由」のための基本的な制度的原理として要約するとすれば、「権力分立」の原理と「法の支配」の原理ということになろう。 (ハ) 「法の支配」の原理 「法の支配」の観念は古典古代のギリシャにその起源をもち、その後の西欧の長い歴史的過程の中で紆余曲折をたどりながら・・・17世紀のイギリスにおいて近代的な個人の「自由」の観念と結びついてより具体的で明確な形をとって現出したのものである。 ロックは、法の目的は、自由を廃止したり、制限したりすることではなく、むしろ自由を維持し、拡大することにあり、法のないところには自由はないことを力説した。 自由とは、他の人々による拘束や暴力から解放されることであるが、このことは法のないところでは不可能であること、他人の気まぐれな意思の対象とされることなく、自らの意思に従って行動できるということが自由の意味するところであること、 にロックは関心を向けたのである。 成文憲法中に個人の自由を列挙することによってその保障の確実さを期そうとした、アメリカ独立革命期の邦の憲法が、「法による統治であって、人間による統治ではない」ことを力説したのも、ロックのそのような発想に通ずる。従って、「法の支配」という場合の「法」観念は独特のものであることが注意されなければならない。 それは簡単にいえば、自由な主体たる人間の秩序の中で自ら発生してくるような「法」、換言すれば、自由な主体たる人間の共存を可能ならしめる上で必要とされる「法」ということになろう。(因みに、ハイエクは、人間社会における秩序を、「自生的秩序(spontaneous order)」と「組織(organization)」とに分かち、それぞれを古典古代のギリシャの kosmos [本来、「国家ないし共同体における正しい秩序」を意味する発生的秩序]と taxis [例えば、軍隊の秩序のような人為的秩序] とに対応させている。 「自生的秩序」は多くの人間の行為の所産ではあるが、人間の意図・企画によって作られたものではないのであり、そのような「自生的秩序」の法はノモス [nomos] と呼ばれ、「組織」の規則であるテシス [thesis] と対比される。そして、このように捉えられた「法」の支配と自由との結びつきが示唆されている。) 先に触れた近代的な「権力分立」の原理は、この「法」観念との結びつきで理解される必要がある。つまり、「立法」「司法」「行政」は、独自の制度的倫理構造をもちつつ「法」に対してそれぞれ独自のかかわり合い方をするものであって、それらの分離なしには個人の「自由」はありえないとされたということである。 1 「立法」について、ロックは、すべての市民に等しく適用される「正しい行為に関する一般的なルール」を想定したが、 実際、一般に、立法府の力といえども無制限とは観念されず、そのような「一般的ルール」の定立に限定され、かかるルールによってすべての権力に必要な制限を課すことが期待された。 2 モンテスキューによって「人間の間でしかく恐るべき裁判権」と呼ばれた「裁判権」は、「法」による裁判権、同じくモンテスキューのいう「法の言葉を述べる口」としての裁判権、つまり「司法権」として把握され、 そのことによってむしろ個人の「自由」の重要な守りテとしての地位をもつに至った。 3 「行政」については「法」による統制が課題とされ、その自由裁量性に猜疑の目が向けられた。 ダイシーは、「法の支配」をもって、「種々の見地からみてイギリス憲法の下で個人の権利に与えられた保障」としてその性格を把握し、その具体的内容として、 ① 専断的権力に対立するものとしての通常の法の絶対的優位ということ、すなわち、国の通常裁判所において通常の法的な方法で確定された法に明白に違反する場合を除いて何人も処罰されず、または合法的に身体もしくは財産を侵害されえないという命題、 ② 法の前の平等、すなわち、地位または身分を問わずあらゆる人が国の通常の法に服しかつ通常裁判所に服するという命題、 ③ 憲法の一般的法原則(人身の自由の権利や公の集会の権利など)は個々の事件において私人の権利を決定する判決の結果であるという命題、 を指摘した。 このダイシーの言葉からもうかがわれるように、「法の支配」にあっては裁判所が格別の役割を担っており、アメリカ合衆国で登場した違憲立法審査制は、この「法の支配」を徹底したものであるということができる。もっとも、ダイシーの右の指摘については、当時のイギリス法の現実をどれ程忠実に描写するものであるか疑問の余地があり、また、自由放任主義的な消極国家を基盤としていることは否定し難く、 現代積極国家段階においてそのままではもはや妥当しないことは承認されなければならない。 しかし、「個人の権利保障」という「法の支配」の性格の意義は積極的に評価さるべきであり、国家機能とりわけ行政権の拡大・裁量権の増大の不可避性を前提とした上で、公権力の恣意性を具体的にいかにコントロールするかの観点から、 「法の支配」の原理を再構築し、一層展開せしめて行くことが必要というべきである。 日本国憲法は、詳細な基本権のカタログを掲げつつ、憲法の最高規範性の確認(97条1項)の下に、司法権を強化し、行政事件に関する裁判権もそれに取り込む一方(76条)、裁判所に違憲立法審査権を付与しており(81条)、 明らかに「法の支配」の原理に立脚していることを示している。 ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) F. A. Hayek 『自由の条件Ⅱ 自由と法』(1960年刊) p.194以下 法の支配は、立法全体に対する制限であるという事実から推論されることは、それ自体が立法者の可決する法律と同じ意味での法律ではありえないということである。憲法上の規定は、法の支配の侵害を一層困難にするであろう。 それらは慣習的な法律制定による不注意な侵害を防ぐのに役立つかもしれない。しかし最高の立法者は、法律によって自分自身の権力を決して制限することができない。 というのは、かれは自分のつくったいかなる法律をもいつでも廃棄できるからである。したがって、法の支配(the rule of law)とは法律の規則(a rule of the law)ではなく、法律がどうあるべきかに関する規則(a rule concerning what the law ought to be)、 すなわち超-法的原則(a meta-legal doctrine)あるいは政治的理念(a political ideal)である。それは、立法者がそれによる制約を自覚しているかぎりは有効である。 民主主義のもとでは、それが共同社会の道徳上の伝統、多数の人が共有し、問題なく受け容れる共通の理念の一部を形成しないかぎり、法の支配は普及しないであろうということになる。 (原文)From the fact that the rule of law is a limitation upon all legistlation, it follows that it cannnot itself be a law in the same sense as the laws passed by the legistor.Constitutional provisions may make infringements of the rule of law more difficult. They may help to prevent inadvertent infringements by routine legislation.But the ultimate legislator can never limit his own powers by law, because he can always abrogate any law he has made. The rule of law is therefore not a rule of the law, but a rule concerning what the law ought to be, a meta-legal doctrine or a political ideal.It will be effective only in so far as the legislator feels bound by it. In a democracy this means that it will not prevail unless it forms part of the moral tradition of the community, a common ideal shared and unquestioningly accepted by the majority. F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.120以下 立法が法の唯一の源泉である、という概念から二つの観念が引き出されている。それらは、初期の擬人化による誤りが生き残っているあの誤れる設計主義から全面的に導出されているが、現代ではほとんど自明のこととして受け入れられるようになり、政治の展開に大きな影響を与えてきた。最初のものは、これはより高次の立法者を必要とし等々と無限に続くから、その権力を制限することができない最高の立法者があるに違いないとする信念である。 第二のものは、その最高の立法者が制定したものは何であれ法であり、彼の意志を表現するもののみが法である、とする考えである。 ベーコン、ホッブズ、オースティン以来、まずは国王の、後には民主制議会の、絶対権力の一見疑う余地のない正当化に一役買った、最高の立法者の必然的に無制限な意志という概念は、 法という用語が組織の熟慮の上での足並みの揃った行為を導くルールに限定されるならばその場合にのみ、自明であるように思われる。 このように解釈すれば、ノモスという初期の意味では全ての権力に対する障壁となるはずであった法は、逆に権力行使の道具となる。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.158以下、P.171以下 結局のところ、司法過程から生じる正義に適う行動ルール、すなわちノモスまたは本章でみた自由の法と、次章の研究対象となる権威によって制定された組織のルールとの違いは、前者が人間のつくったのではない自生的秩序の諸条件から導かれるのに対し、後者は特殊化された意図に資する組織の熟慮の上での構築に役立つという事実の中にある。前者は、それらがすでに守られていた実践を明文化したにすぎないという意味でか、 すでに確立されているルールに依拠する秩序を円滑かつ効率的に運営しようというのであれば、それらはこうしたルールの必要補完物と見なされなければならないという意味で、発見されるのである。自生的な行為秩序の存在が裁判官にその固有の仕事を課さなかったならば、それらは発見されなかったであろう。 したがって、それらは、特定の人間的意志とは無関係に存在するものと当然考えられる。 一方、特定の結果を目指す組織のルールは、組織者の設計する知性の自由な発明品であろう。(中略)憲法憲法という法に包含されている政府の諸権力の割り当てと制限に関する全てのルールは、まず、我々が「法」と呼びならわしてはいるが、組織のルールであって正義に適う行動ルールではないルールに、属する。 これらのルールは、広く、特別な威厳を付与されている、あるいは他の法に対するより大きな尊敬が払われてしかるべき、「最高」級の法とみなされている。 しかし、これを説明する歴史的理由はあるものの、それらのルールを普通いわれているように他の全ての法の源泉としてでなく、法の維持を保障するための上部構造と見るほうが、適当である。しかし、こうしたこと(※注:憲法という法に特定の威厳と基本的な性格が与えられていること)で、憲法が、基本的に、事前に存在する法体系の中の法を施行するためにそうした法体系の上に構築された上部構造であるという事実が、変わるわけではない。いったん確立されると、憲法は、他のルールがそこからその権威を引き出すという論理的な意味で「第一義的」であるようにみえるが、それはなおこれらの事前に存在するルールの支持を企図している。それは、法と秩序を守り、他のサービスの給付装置を提供する手段をつくりだすが、法と正義が何であるかを定義しない。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』(1976年刊) p.70以下、P.88以下 だが、法を立法者の意志の産物として定義すると、その内容が何であれ立法者の意志の表出全てが「法」に包摂され(「法は全く任意の内容をもってよいことになる」(※注:H.ケルゼン))。その内容は法とよばれる様々な言明の間の何ら重要な区別をなさないという見解が、特に、正義は、いかなる意味でも、何が実際に法であるかを決めるものではなくて、むしろ何が正義であるかを決めるものが法であるという見解が、生まれてくる。旧来の伝統とは逆に、法の制定者は正義の創造者であるという主張が、法実証主義の最も特徴的な教義となった。 (中略)主権という概念は、国家という概念と同様に、国際法のための不可欠の用具である - その概念をそこでの出発点として受け入れるならば、そのことによって、国際法というまさにその観念が無意味にされることはない、とまでは確信できないが。しかし、法秩序の内部的性格の問題を考察するためには、どちらの概念も、人を迷わせるばかりでなく、不要であるように思える。事実、自由主義の歴史と同一である立憲主義の歴史全体は、少なくともジョン・ロック以降は、主権についての実証主義者の概念や全知全能の国家という関連概念に対する闘争の歴史であった。 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) p.41以下から抜粋⇒全文は 第7章 法の支配 へ 1. 「法の支配」の捉え方 (1) 法の支配とは何でないのか 「法の支配」は、多くの人が口にする基本概念でありながら、その実体につき合意をみない難問である。とはいえ、法の支配の目指すところについては、論者の間におおよその合意がある。“その目的は、可能な限りすべての国家機関の行為を法のもとにおいて、その恣意的な活動を統制し、もって人々の基本権を保障せんとするところにある。” が、この機能論的な説明は、法の実体の解明にはなっていない。 また、法の支配とは何でないのか、という疑問についても、法学者の間で合意がみられる。その解答としては、次のふたつがある。 第一。 “法の支配は、絶対君主の統治にみられたような「人に支配」、すなわち、ルールに基かない、その場当たりの恣意的な権力発動を通して人々を支配することではない。” 第二。 “法の支配は、法治主義ではない。法治主義とは、国民の権利義務に変動を与えるとき、その国家意思は議会の意思を通して実定法化されるべきこと、 そして、行政はその議会法を執行し(“法律なければ行政なし”)、裁判所は議会制定法に準拠して法的紛争を解決すること、をいう。” (2) 法の支配と法治主義 「法の支配」にいう法は、民主的機関である議会の制定する法律をも統制し、主権者の意思をも統制する機能をもっている。この機能については、法学者は異論を唱えないだろう。未解決の争点は、“その狙いのために、法の支配にいう「法」がいかなる属性をもっているのか”というところにある。 (3) 法の支配と正義 法の支配とは、《主権者といえども、人為の法を超える高次の法のもとにある》という思想を起源とする。 それは、法(law)と立法(legislation)との区別のもとで、前者が後者を指導する、という思想である。高次の法 higher law とは、・・・(中略)・・・“fundamental law”と同じである。 Higher law または fundamental law の内容は、《正義に適っているルール》を指してきた。 ところが、「正義」の捉え方は歴史によって変転し、論者によってさまざまとなっているために私たちを混乱させているのだ。 法の支配を正義と関連づけるとき、その捉え方には、大きくふたつの流れがみられた。 第一は、 問題の法令の実質・内容を問う立場である。正義の種類からいえば、実質的正義論に属する。その典型的立場が自然法論である。 第二は、 問題の法令の形式を重視するタイプである。正義の種類でいえば、形式的正義論である。 これは、問題の法令が、どのような特定の人びとをも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で普遍的な形式を満たしているか否かを問うのである。 これは、《人為法が普遍的に妥当する形式をもっていれば、不正を最小化できる》といいたいのだ。 2. 「法の支配」の理論と憲法典 (1) 法の支配の理論化 法の支配を脱実体化しながら理論体系としたのが、イギリスの法学者A. ダイシー(1835~192年)である。彼は、臨機(場当たり)でなく、誰もが知りえて、特定可能な対象にではなく、誰に対しても等しく恒常的に適用されうる法の形式を、「正規の法 regular law」と呼んだ。それは、《類似の事案は同じように法的に解決される》という平等原則のなかから浮かび出た形式である。 それは、多年にわたる実践と蓄積のなかで、次第しだいに、人間が獲得してきた法的知識だった。 その法的知識を専門的に修得するのが法曹であり、なかでも裁判官である。身分の独立保障をうけてきた裁判官は、当事者の主張に耳を傾けながら、正しい解決のために、誰に対しても等しく適用されてきた論拠を発見するのである。 (2) 法の支配の突出部 形式的正義論をベースとする法の支配の考え方には、 (ア) 法は特権を容認せず、一般的普遍的な形式をもたなければならない、 (イ) 法は公知(誰もが前もって知りうるもの)で恒常的でなければならない、 (ウ) その適用に矛盾があってはならない、 という命題が伴っている。これらの命題は、法の予見性・安定性に資し、経済自由市場における交易を一挙に促進することとなった。 自由市場の生育を可能としたのは、法の支配という憲法上の基本概念だった。法の支配が、経済的自由、身体・生命の自由その他の自由へと拡大するにつれて、自由主義国家の基盤ができあがっていったのだ。 法の支配は、経済市場における諸自由だけでなく、国家の刑罰権と課税権とを有効に統制する論拠となった。 罪刑法定主義と租税法律主義が、法令の遡及的適用を排除したり、慣習を法源たりえないとしたり、法令の裁量的適用に警戒的であるのは、法の支配の思想が、一部実定法上に突出したためである。 法の支配は、われわれの権利義務に関する実定法(人為法)を指導するメタ・ルールである。 法の支配という思想は、あるルールを実定化するにあたって実定法を先導する上位のルールである。たとえ憲法を含む実定法が法の支配を謳ったとしても、それこそが「自己言及のパラドックス」にすぎないのだ。 (3) 法の支配と憲法との関係 法の支配は、国家の不正義を最小化するための理念として、歴史上さまざまな論者が肉付けしてきた。 この理念は、sovereignty、なかでも、君主の有してきたそれをまず統制しようとした。 sovereignty は、「主権」と訳出されるが、この訳語では伝えきれないニュアンスをもった言葉である。それは、「主権」というよりも、絶対権または最高権といったほうがいいだろう。 憲法は、最高・絶対の主権を統制するための「基本法」として、歴史に登場した。このことからも分かるように、憲法は、法の支配という構想の必須部なのだ(が、しかし、憲法が法の支配にいう法ではない)。 主権の帰属先が君主から国民になった場合でも、法の支配の理念に変更はない。 今日においても、すべての国家機関、なかでも国民の主権と、国民代表機関である議会とを、法のもとにおく必要があるのだ。 そのために、憲法は法の支配の理念の一部を組み込もうとする。 1 統治の機構においては、①独立の保障される司法部、②特別裁判所の禁止、③憲法条規の最高法規性の宣言がこれであり、 2 権利章典の部においては、①適正手続保障、②遡及処罰の禁止、③公正な裁判の保障等がこれである。 もっとも、こうした個別の条規を列挙することは、憲法と法の支配との関係を考えるにあたっては二次的な意味しかもたない。 教科書のなかには、法の支配について、(ア)憲法の最高法規性、(イ)基本権の尊重、(ウ)適正手続保障、(エ)司法審査制を列挙するものがある。 もしこの思考が法の支配の論拠を日本国憲法典に求めようとしているのであれば、ひとつの体系内に根拠を求める「自己言及のパラドックス」に陥ってしまっている。 もし論拠を示したものではなく、“法の支配がかような諸点に現れている”というのであれば、(イ)と(ウ)はダブルカウントであり、(エ)は法の支配の内在的な要請ではなく(英国には、司法審査制はない)、法の支配を有効にするための手段にすぎないことの説明に欠けている。 このように、憲法と法の支配との関係をみるとしても、要注意点は、《憲法典という実定化された法が法の支配にいう“法”ではない》ということである。 たしかに、憲法典は法の支配の理念を一部活かしている。が、しかし、「憲法典=法の支配」ではない。 (4) 法の支配と主権との関係 《法の支配は憲法典や主権をも統制する》とのテーゼを理解するためには、次の(ア)~(ウ)に留意しておかなければならない。 (ア) 一般の教科書によれば、国民主権にいう「主権」とは、憲法制定権力のことを指す。 (イ) 主権は、国制を意味する憲法を創出する力であり(憲法を作り出す力としての主権。以後、憲法制定権力を「制憲権」という)、憲法典は、この制憲権によって作り出される。 (ウ) [制憲権→憲法典]という理論上の順序関係を考えれば、憲法典によって主権を統制することはできない。 では、「憲法典によって主権を統制することはできない」とき、主権(制憲権)は何によって規範的な拘束を受けているのだろうか? 実体的正義論者は、自然法、人間の理性、人間の尊厳等をあげるだろう。これらの実体的要素はいずれも客観性に欠けるとみる批判的な論者であれば、「主権者の自己拘束だ」というかもしれない。 それらの解答を、私はいずれも受容しない。《主権を規範的に統制するもの、それが法の支配だ》、これが私の解答である。 法の支配にいう「法」とは、実定的な法ではなく、最低限の形式的正義のことだ、と私は理解している。 (5) 法の支配と法律との関係 法の支配は、先に触れたように、国民の主権や、国民代表機関である議会の権限(法律制定権)をも統制する理念である。 では、法の支配は、議会の立法権(法律制定権)をどのように統制するか?私のような、形式的正義論者は、こう解答するだろう。《議会が法律を制定するにあたっては、一般的普遍的な形式をもたせなければならない》。 この解答は、日本国憲法41条の「立法」の解釈に活かされるだろう。立法(法律)が一般的普遍的であるという形式を満たすとき、それは 第一に、 一定の要件を満たす限り誰に対しても適用されうるとする点で道徳的にみて正当であり、 第二に、 予見可能性・法的安定性を増すという点で経済的にみて合理的である。 法の一般性・普遍性とは、法規範の名宛人が事前に特定可能でないことをいう。法の支配にとって最も警戒され続けてきた点は、法が人的な属性に言及しながら、特定可能な人びとを特別扱いすることだった。 法の支配は、人的な特権を忌避して、誰であれ自分の限界効用を自由に(国家から公法規制や指令を受けないで)満足させてよい、とする思想でもあるのだ。 ※その他参照先 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)第一部 国家と憲法の基礎理論 第四章 立憲主義と法の支配 ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) 1 英米圏の標準的な理解では「法の支配」とは、①まず第一に「手続的正義・形式的正義」を中核とする法内在的正義の要請をいい、②配分的正義など「実質的正義」に関する要請は、あくまで周縁的に考慮されるに留まる。 2 次に、③「法の支配」がどのような働きを果たすのか、を考える機能的アプローチでは、それが「人の支配」ではないことから主権論との関係が問題となる。⇒「法の支配」は「特定の人の“意思”に基く支配」を拒絶しており、主権者(法=主権者意思説)と両立しない。(「君主主権」(君主一人の意思による支配)のみならず集合意思としての「国民主権」も原理的には「法の支配」と両立しない)。 では、特定の人の意思の産物ではない「法」とはいったい何なのか? ⇒ それは「ノモス(nomos 意図せざる人為の法)」つまり歴史的構築物としての「法」(自生的秩序の法)である。(すなわち、フュシス(physis, natural law 自然法)やテシス(Thesis 純然たる実定法)ではない) 1 では、①手続的・形式的正義に関する法準則が「法の支配」の中核要素である、と述べたが、③機能的アプローチでは、そうした形式を超える「何らかの実質的価値」を想定していることになる。 しかしそれでも、この場合の「実質的価値」は、左派系の正義論にありがちな、(1)人権保障、(2)憲法の最高法規性、といったものではなくて、ノモス概念としての「法」=特定の共同体で自生的に発展してきた慣習法であることから、実質的意味の憲法(国制)に接近する。 ⇒この③を、①の(狭義の)「法の支配」と区別して、「国体の支配」ないし「ノモスの支配(nomocracy)」と呼ぶべきである。 3 最後に、「法の支配」の「法」と、(a)実質的意味の憲法(国体法ないし国制)および、(b)形式的意味の憲法(憲法典)、との関係について整理する。 ①(狭義の)「法の支配」は、あくまで消極的に理解されるべき法理念(「~は法ではない」、という形式の言明で表現されるもの)であり、憲法を含めた立法全体に対する制限となるメタ・ルールであって、法規範ではない。 これに対して、③ノモスは、成文であれ不文であれ、「~は法である」という形式の言明で、一応は積極的に把握されうる法規範としての実体(substance)をもつもの、である。 さらに、テシスは、その定義から完全に積極的に把握できる成文法(実定法 positive law)である。 ■6.関連用語 ほうち-しゅぎ【法治主義】 広辞苑 ① 人の本性を悪と考え、徳治主義を排斥して、法律の強制による人民統治の重要性を強調する立場。韓非子がその代表者。ホッブズも同様。 ② 王の統治権の絶対性を否定し、法に準拠する政治を主張する近代国家の政治原理 → 法の支配 ほうちしゅぎ【法治主義】rule of law(※注:原文ママ) 日本語版ブリタニカ 行政は議会において成立した法律によって行われなければならない、とする原則。 1 行政に対する法律の支配を要求することにより、 2 恣意的・差別的行政を排し、国民の権利と自由を保障することを目指したもので、立憲主義の基本原則の一つに挙げられている。この原則に基く国家を、法治国家という。 ほうち-こっか【法治国家】 広辞苑 国民の意思によって制定された法に基づいて国家権力を行使することを建前とする国家。①権力分立が行われ、②司法権の独立が認められ、③行政が法律に基いて行われる、とされる。法治国→ 警察国家 ほうちこっか【法治国家】Rechtsstaat 日本語版ブリタニカ 行政および司法が、あらかじめ議会の制定した法律によって行われるべきである、という法治主義の国家。すなわち、全国家作用の法律適合性ということが、法治国家の本質とされたのであるが、 1 その際、イギリス法の「法の支配」 rule of law と違い、 2 行政および司法が、国民の代表機関たる議会によって制定された法律に適合していればよい、 という形式的側面が重視された結果、法治国家論は、法律に基きさえすれば、国民の権利・自由を侵害してよい、という否定的な機能を果たし、法や国家の目的・内容を軽視する法律万能主義的な傾向を内包していた。 (1) 第二次世界大戦後、西ドイツは、この点に反省を加え、(a)立法・行政および裁判を直接に拘束する不可侵・不可譲の基本的人権を承認し、(b)これを確保するために憲法裁判所を設置して、これに法令の憲法適合性を審査する権限を与えた。 (2) 日本の場合も、憲法は、裁判所に、いわゆる法令審査権を与えている(81条)。 このようにして、 [1] 行政・司法が単に法律に適合している、という形式面のみならず、 [2] その法律の目的・内容そのものが、憲法に適合しなければならない、 という原則が確立され、それによって、いわば法治主義の実質的貫徹が期されている。 ■7.参考図書 『法の支配 - オーストリア学派の自由論と国家論』(阪本昌成 著(2006年刊))オーストリア学派の社会哲学をもとに、「法の支配」を自然法思想の呪縛から解放した目から鱗の名著 『法とは何か - 法思想史入門』(長谷部恭男:著(2011年刊))こちらも読み易く内容の確りした良書 ■8.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック + ... test - 名無しさん (2019-07-29 09 07 34) 以下は最新コメント表示 test - 名無しさん (2019-07-29 09 07 34) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/2255.html
改行ズレ/画像ヌケ等で読み辛い場合は、ミラーWIKI または図解WIKI をご利用ください 日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 ~ 長谷部恭男(東大法学部教授(憲法学))『法とは何か』p.149 要旨■日本の憲法学の教科書にありがちな諸々の理想のごった煮的な意味内容ではなく、本家である英米法の本来の用法に合致した意味内容で「法の支配」という言葉を理解すべきである。 ※本ページが難しい方は、まず リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配をご覧下さい。 <目次> ■1.このページの目的 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明◆1.日本の辞書による定義 ◆2.英米圏の辞書による定義 ■3.「法の支配」理念の整理◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 ◆2.「法の支配」理念整理表 ◆3.主権論と「法の支配」 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) ■6.関連用語 ■7.参考図書 ■8.ご意見、情報提供 ■1.このページの目的 多くの憲法学や法理学(法哲学)の教科書では、憲法の基本原理ないし中核的法理念として「法の支配(rule of law)」という用語が強調されている。 しかし、この「法の支配」の意味内容は、論者によって全くバラバラで不明瞭であって、特に日本では「法の支配」の本家である英米圏での標準的な用法とは懸け離れた意味でこの言葉が使用されるという問題ケースが多く見受けられる。 このページでは、この「法の支配」理念について、①正義論および②主権論との関係に留意しながら整理し明晰化していく。 ※なお「概念(concept)」は「~はどうあるか」(⇒ 概念論)、「理念(ideal)」は「~はどうあるべきか」(⇒ 理念論)という意味であるが、以下の文章では両者の使い分けは厳密でないことに注意。 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明 ◆1.日本の辞書による定義 ※関連する人名を含む ほう-の-しはい【法の支配】 (rule of law) 広辞苑 イギリスの法律家コークが、国王は神と法の下にあるべきである、として、ジェームズ1世の王権を抑制して以来、「人の支配」に対抗して認められるようになった近代の政治原理。コークのいう法は、イギリスの判例法で、立法権をも抑制する点で、法治主義とは異なるが、後に法治主義と同義に用いることもある。 ほうのしはい【法の支配】 rule of law 日本語版ブリタニカ 法至上主義的な思想、原則。 (1) どんな人でも、通常裁判所が適用する法律以外のものに支配されない、あるいは、 (2) 被治者のみでなく、統治者・統治諸機関も、法の支配に服さなければならぬ、とする、「法のもとにおける統治」の原理。 イギリスの伝統に根ざす思想であり、自然法思想にも淵源をもつ、法の権力に対する優位性の主張である。 A.ダイシーは、その著『憲法入門』(1885)のなかで、①議会主権と、②法の支配、がイギリスの2大法原理である、としたが、 1 ここから、人間とその自由を権力から守るイギリス型法治主義の原則が確立され、 2 アメリカにおいては、司法権優越の原理を生んだ。 20世紀に入り、経済・社会情勢の著しい変化につれ、伝統的な法支配の原則に対するいろいろな批判も起っている。 コーク【Edward Coke】 広辞苑 イギリスの法律家。権利請願の起草者。13世紀の法律家ブラクトン(H. Bracton ~1268)の著述を引用して「法の支配」(rule of law)を説いたことでも名高い。(1552~1634) ブラクトン Bracton, Henry de 日本語版ブリタニカ [生] 1216 デボン? [没] 1268 エクスター/デボン? イギリスの法律家、裁判官。ときにはイギリスの中世で最も偉大な法律家といわれる。 本名はブラットン Braton であったが、死後ブラクトンの名で伝わる。法律家として名が現れるのは、1245年以降で、48~68年に南西諸県、ことにサマーセット、デボン、コーンウォールで巡回裁判所の判事を務めた。 ローマ法・教会法に造詣が深く、50~56年に中世イギリス法を集大成した『イギリス法律慣習法』 De Legibus et Consuetudinibus Angliae は有名。 同書中の「王もまた神と法の下にある」という言葉は、法の支配原理の象徴的言辞として、しばしば引用されている。 ※この様に日本の辞典類では「法の支配」について割と簡潔な記述しかないが、英米圏ではだいぶ認識が違っているようである。 ◆2.英米圏の辞書による定義 rule of law collins The rule of law refers to a situation in which the people in a society ①obey its laws and ②enable it to function properly. (翻訳) 法の支配とは、ある社会における人々が、①その諸法を遵守しており、かつ、②社会を適切に機能させている、状況をいう。 ※残念ながら、 Britannica Concise Encyclopedia および Oxford Dictionary of English には rule of law の項目がないため、英文wikipedia(2014.3.15時点) で代用する。 rule of law 英文wikipedia The rule of law (also known as nomocracy) primarily refers to the influence and authority of law within society, especially as a constraint upon behavior, including behavior of government officials.The phrase can be traced back to the 16th century, and it was popularized in the 19th century by British jurist A. V. Dicey. The concept was familiar to ancient philosophers such as Aristotle, who wrote "Law should govern".Rule of law implies that every citizen is subject to the law, including law makers themselves.It stands in contrast to the idea that the ruler is above the law, for example by divine right. Despite wide use by politicians, judges and academics, the rule of law has been described as "an exceedingly elusive notion" giving rise to a "rampant divergence of understandings… everyone is for it but have contrasting convictions about what it is." At least two principal conceptions of the rule of law can be identified a formalist or "thin" definition, and a substantive or "thick" definition. ① Formalist definitions of the rule of law do not make a judgment about the "justness" of law itself, but define specific procedural attributes that a legal framework must have in order to be in compliance with the rule of law. ② Substantive conceptions of rule of law go beyond this and include certain substantive rights that are said to be based on, or derived from, the rule of law. HistoryAlthough credit for popularizing the expression "the rule of law" in modern times is usually given to A. V. Dicey, development of the legal concept can be traced through history to many ancient civilizations, including ancient Greece, China, Mesopotamia, India and Rome. (1) AntiquityIn Western philosophy, the ancient Greeks initially regarded the best form of government as rule by the best man.Plato advocated a benevolent monarchy ruled by an idealized philosopher king, who was above the law. Plato nevertheless hoped that the best men would be good at respecting established laws, explaining that "Where the law is subject to some other authority and has none of its own, the collapse of the state, in my view, is not far off; but if law is the master of the government and the government is its slave, then the situation is full of promise and men enjoy all the blessings that the gods shower on a state." More than Plato attempted to do, Aristotle flatly opposed letting the highest officials wield power beyond guarding and serving the laws. In other words, Aristotle advocated the rule of law It is more proper that law should govern than any one of the citizens upon the same principle, if it is advantageous to place the supreme power in some particular persons, they should be appointed to be only guardians, and the servants of the laws.According to the Roman statesman Cicero, "We are all servants of the laws in order that we may be free." During the Roman Republic, controversial magistrates might be put on trial when their terms of office expired. Under the Roman Empire, the soverign was personally immune(legibus solutus), but those with grievances could sue the treasury. (omission) (2) Modern timesAn early example of the phrase "rule of law" is found in a petion to James Ⅰ of England in 1610, from the House of Commons Amongst many other points of happiness and freedom which your majesty's subjects of this kingdom have enjoyed under your royal progenitors, kings and queens of this realm, there is none which they have accounted more dear and precious than this, to be guided and governed by the certain rule of the law which giveth both to the head and members that which of right belongeth to them, and not by any uncertain or arbitrary form of government … In 1607, English Chief Justice Sir Edward Coke said in the Case of Prohibitions(according to his own report) "that the law was the golden met-wand and measure to try the causes of the subjects;and which protected His Majesty in safety and peace with which the King was greatly offended, and said, that then he should be under the law, which was treason to affirm, as he said; to which I said, the Bracton saith, quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(That the King ought not be under any man but under God and the law.)." Meaning and Categorization of interpretationsDifferent people have different interpretations about exactly what "rule of law" means. According to political theorist Judith N. Shklar, "the phrase 'the rule of law' has become meaningless thanks to ideological abuse and general over-use, but neverthless this phrase has in the past had specific and important meanings. Among modern legal theorists, most views on this subject fall into three general categories the formal(or "thin") approach, the substantive(or "thick") approach, and the functional approach.The "formal" interpretation is more widespread than the "substantive" interpretation. 1 Formalists hold that the law must be prospective, well-known, and have characteristics of generality, equality, and certainty. Other than that, the formal view contains no requirements as to the content of the law. This formal approach allows laws that protect democracy and individual rights, but recognizes the existence of "rule of law" in countries that do not necessarily have such laws protecting democracy or individual rights. 2 The substantive interpretations holds that the rule of law intrinsicaly protects some or all individual rights. 3 The functional interpretation of the term "rule of law", consistent with the traditonal English meaning, contrasts the "rule of law" with the "rule of man".According to the functional view, a society in which government officers have a great deal of discretion has a low degree of "rule of law", whereas a society in which government officers have little discretion has a high degree of "rule of law". The rule of law is thus somewhat at odds with flexibility, even when flexibility may be preferable. The ancient concept of rule of law can be distinguished from rule by law, according to political science professor Li Shuguang "The difference … is that, under the rule of law, the law is preeminent and can serve as a check against the abuse of power. Under rule by law, the law is a mere tool for a government, that suppresses in a legalistic fashion." (omission) (翻訳) 法の支配(それはまたノモクラシーとしても知られている)とは、第一に社会における法の影響力や権威、特に政府当局の行為を含む行為の抑制に関して謂われるものである。このフレーズは16世紀に遡ることができ、19世紀に英国の法律家A. V. ダイシーによって一般に知られるようになった。この概念は、「法が統治すべきである」と書いたアリストテレスのような古代の哲学者達にお馴染みのものだった。 法の支配は、法の作成者も含めて、全ての市民が法に従うことを含意する。それは、王権神授説の例のような、支配者は法の上位にある、とする観念とは対照的である。 政治家・判事・学者によって広く使用されているにも関わらず、法の支配は「誰もが承知するが、しかし、それが何であるかについて対照的な信念しかもっていない・・・収拾がつかないほど多様な諸理解」を惹起する「非常に捉えどころにない観念」として説明されてきた。 少なくとも法の支配について2つの主要な概念解釈(conception)を特定することが可能である:すなわち、①形式的ないし「薄い」定義と、②実質的ないし「濃い」定義、である。 ① 法の支配の形式的定義(definition)は、法の「正当性」自体を判定することはないが、ある法的枠組みが法の支配に適合するといえるために必ず保持しなければいけない特定の手続的属性を定義している。 ② 法の支配の実質的概念解釈(conception)は、それ(形式的定義)を超えて、法の支配がそれに依拠しており、その派生源となっている、ある特定の実質的諸権利を内包する。 歴史近代における「法の支配」という表現の一般的認知は通常A. V. ダイシーの功績であるが、その法的概念の発達自体は、古代ギリシア・チャイナ・メソポタミア・ローマを含む多くの古代文明の歴史上に見出すことが可能である。 (1) 古代西洋哲学では、古代ギリシアにおいて、当初は、政府の最善の形態は、最良の人物による支配だ、と見なされていた。 プラトンは、法を超越する理想的な哲人王による、慈悲深い君主制を唱導した。 プラトンは、それでもなお、最善の人物達が確立された諸法を上手く尊重していくことに期待を寄せて、以下のように解説している。 「法が他の何らかの権威に服しており、何らそれ自体の内容を持たないところでは、私見では、国家の崩壊はそう遠くない。 しかし、もし、法が政府の主人であり、政府が法の僕(しもべ)であるならば、その場合は、状況は希望に満たされており、人々は神々が国家に降り注ぐあらゆる祝福を享受する。」 プラトンの企図をさらに超えて、アリストテレスは、最高位の当局者達が法が保護し奉仕する範囲を超えて権力を行使することに、きっぱりと反対した。 すなわち、アリストテレスは、法の支配を(以下のように)唱導した。法が統治することが、市民のうちの誰(が統治すること)よりも、より適切である。 同様の原理に則り、もし、ある特定の人物達への最高権力の付与が好都合である場合には、諸法の保護者達および奉仕者達だけが、その任を与えられるべきである。 ローマの政治家キケロによれば、「我々が全員、法に奉仕するのは、我々が自由であらんが為である。」ローマ共和制の期間、嫌疑のかかった執政官達は、彼らの任期が終了したときに、たいてい査問にかけられた。 ローマ帝制下では、統治者は個人としては不可侵(無答責)であったが、しかし不平を持つ人々は国費で訴訟を起こすことが可能だった。 (中略) (2) 近代「法の支配」という文句の初期の使用例の一つは、1610年のイングランドで、庶民院がジェームズ1世に対して行った請願の中に見出される。この王国の陛下の臣民が、この王室の諸祖先・この王国の諸王・諸女王の下で享受してきた諸々の幸福と自由のあらゆる諸点の中でも、以下の事柄以上に彼ら(臣民)が愛着を示し大切に抱き続けてきたものは他にありません。すなわち、(彼らは)主長と構成員の双方に、どの権利が彼らに帰属しするかを決め与える、ある特定の「ルール・オブ・ザ・ロー(rule of the law ※原文ママ)」によって道を示され統治されるのであり、そして如何なる不確実または恣意的な形態の政府によって統治されるのではない、ということ。1607年、イングランドの主席裁判官エドワード・コーク卿は、禁止令状事件において、(彼自身の報告によれば)以下のように発言した。 「法とは、臣民達の訴訟を審理し、陛下を安全に保護するところの黄金の超越的杖であり物差しである。そして、それは陛下の安全と平和を保護する。」 それに対して国王は非常に立腹して曰く「ならば余は法の下にあるべきことになるが、その断言は反逆罪である」と。 それに応えて曰く、「ブラクトンは「quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(国王は何人の下にもあるべきでないが、神と法の下にあるべきである)」と云った、と」 意味と解釈カテゴリー「法の支配」が正確には何を意味するか、について人々は全く異なった解釈を持っている。 政治理論家ジュディス・N・シュクラーによれば、「イデオロギー的誤用と一般的濫用のせいで、『法の支配』という文句は無意味なものとなったが、それにも関わらず、この文句は過去において、特有かつ重要な幾つかの意味を持ち続けてきた。」という。近代の法理論家達の間で、このテーマに関する大方の見解は3つの一般的なカテゴリーに識別される。すなわち、①形式的(ないし「薄い」)アプローチ、②実質的(ないし「濃い」)アプローチ、そして③機能的アプローチ、である。①「形式的」解釈は、②「実質的」解釈よりも、より広く受け入れられている。 1 ①形式主義者達は、法は、(a)予見可能で、(b)公知であり、そして(c)一般性/一様性/確実性という諸特性をもたねばならない、と考えている。 それ以外には、①形式的見解は、法の内実という点に関しては何の要求事項も持っていない。 この①形式的アプローチは、デモクラシーと個人の諸権利を保護する諸法を許容するが、デモクラシーや個人の諸権利を保護するそうした諸法を必ずしも持たない諸国においても「法の支配」が存在する(と想定する見解である)と受け止められている。 2 ②実質的な諸解釈は、法の支配は幾つかの、または全ての個人の諸権利を実質的に保護している、と考えている。 3 「法の支配」という用語の③機能的解釈は、伝統的な英語の意味に合致しており、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」と「ルール・オブ・マン(人の支配)」とを対照的に説明する。③機能的見解によれば、政府職員が非常に大きな裁量権を保持している社会では「法の支配」は低い水準にあり、その一方で、政府職員が小さな裁量権しかもたない社会では「法の支配」は高い水準にあることになる。 法の支配は、このように柔軟性を持つ点で-たとえ、その柔軟性が好ましい場合があるとしても-何かしら中途半端(な言葉)である。 政治科学教授リー・シャガンによれば、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」という古代の概念は、以下の点で「ルール・バイ・ロー(法による支配)」と区別することができる。すなわち「その違いは・・・ルール・オブ・ロー(法の支配)の下では、法は卓越しており、権力の悪用に対する歯止めとして役立てることが可能である。ルール・バイ・ロー(法による支配)の下では、法は、法的な趨勢を抑制する単なる政府の道具である。」(以下省略) ※このように英米圏では、「法の支配」について、①形式的アプローチ、②実質的アプローチ、③機能的アプローチという3様のアプローチが区別されている。このうち①②は正義論(法価値論)に関係するアプローチであり、③は主権論に関係するアプローチである。 ※以下、順に「法の支配」理念について整理していく。 ■3.「法の支配」理念の整理 ◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 政治思想・政治哲学の根本的価値が「自由(freedom/liberty)」という言葉で表現されるように、 法思想・法哲学の根本的価値は「正義(justice)」という言葉で伝統的に表現されてきた。 そこでまず、この「正義」概念を整理し、「法の支配」理念(①形式的および②実質的アプローチ)との関係を考察していく。 ※参考ページ 正義論まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 ほうかちろん【法価値論】legal axiology 日本語版ブリタニカ 法的な価値について考察する研究分野。法的な価値は正義という言葉で表現されることが多いから、正義論といってもよい。 古代ギリシア以来、法哲学の主要分野をなしてきたが、最近は、①規範的倫理学と、②分析的倫理学の区別に対応して、①規範的法価値論と②分析的法価値論(メタ法価値論)とが明確に区別されるようになった。 せいぎ【正義】 広辞苑 ① [荀子(正名)]正しいすじみち、人がふみ行うべき正しい道。「-を貫く」 ② [漢書(律暦志上)]正しい意義または注解。「尚書-」 ③ (justice) (ア) 社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。 これを単に形式的なものと見るマルキシズムは、真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張するが、現在ではイデオロギーを超えた正義が模索されている。 (イ) 社会の正義に適った行為をなしうるような個人の徳性。 せいぎ【正義】justice 日本語版ブリタニカ 人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値。 . 善(※注: agothos, bonum, good)と同義に用いられることもあるが、 (1) 善が、主として人間の個人的態度にかかわる道徳的な価値を指すのに対して、 (2) 正義は、人間の対他的関係の規律にかかわる法的な価値を指す。 . 正義とは何か、という問題については、古来さまざまな解答が示されてきたが、一般的な価値ないし価値基準に関する見解と同様に 1 正義を客観的な実在と考える客観主義的・絶対主義的正義論と、 2 正義を主観的な確信と考える主観主義的・相対主義的正義論とに大別できよう。 法思想の領域では、だいたいにおいて、自然法論が 1 前者に、法実証主義が 2 後者に、属する。 . 従来の正義論のうちでは、アリストテレスやキケロの見解が名高く、与えた影響も大きい。 (ア) アリストテレスは、道徳と区別される正義(特殊的正義)について、①配分的正義と、②交換的正義(平均的正義、調整的正義とも訳される)とを区別し、 ① 前者は、公民としての各人の価値・功績に応じて、名誉や財貨を配分することにおいて成立し、 ② 後者は、私人としての各人の相互交渉から生じる利害を平均・調整することにおいて成立する、とした。 (イ) キケロは、この①配分的正義と同様な内容を、「各人に彼のものを」という公式で表現した。 ※サイズが合わない場合はこちら をクリック。 こうした「正義」概念に基く法理念・法思想を、英米圏では一般に「法の支配(rule of law)」と呼んでいる。 ◆2.「法の支配」理念整理表 ※サイズが合わない場合はこちら をクリック。 ◆3.主権論と「法の支配」 伝統的な意味での「法の支配」理念(③機能的アプローチ)は、「人の支配(= 特定者の意思に基く統治)」を拒絶することから、「国民主権」「人民主権」といった「主権論(= 主権者の意思に基く統治原理)」と両立しない。 ⇒ 従って、「法の支配」を認める場合は、 ① 日本国憲法の「国民主権」規定に関して、「主権者意思説」以外の立場から解釈する必要が生じ、さらに、 ② 今後目指される憲法改正ないし新憲法制定に際しては、現行憲法にあるような主権者意思としての「国民主権」を連想させる文言は厳しく排除することが望まれる。 ↓詳しい説明はここをクリックして表示/非表示切り替え + ... 歴史主義・伝統主義 (英米法) 反歴史主義・リセット主義 (大陸法) 権利の本質 人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として歴史的権利を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場 人間は自然状態において、生来的に自然権(natural right)を有していたが、社会契約(social contract)を結んで自然権を一部または全部放棄し、人定法(実定法:positive law)を定めた、とする立場 法の本質 法は特定の共同体の中で人々の社会的ルールとして自生した(特定の人物の意思によらずに時間をかけて次第に生成されてきた)(法=社会的ルール説)(★注3)⇒この立場は、真の法=ノモス(個別の共同体毎に自生的に発展してきた人為的ではあるが特定の意思によらざる法)とする見解と親和的である。 法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(法=主権者意思[命令]説)(★注1、★注2)⇒この立場には、①真の法=理性から演繹された自然法(フュシス)とする近代的自然法論、および、②真の法など存在せず主権者の意思・命令としての人為法があるのみとする純然たる法実証主義、の2通りの見解がある。 誰が法を作るのか 法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(経験主義、批判的合理主義)⇒「法は“発見”するもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を否認(特定時点の世代の人々が制定できるのは原則として「憲法典(形式憲法)」迄であって、「国制(実質憲法)」は世代を重ねて徐々に確立されていくものに過ぎない) 法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(設計主義的合理主義)⇒「法は“主権者”が作るもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を肯定(特定時点の世代の人々は「憲法典(形式憲法)」のみならず「国制(実質憲法)」をも意図的に確立することが可能である) 補足 共同体毎に個別的→共同体に固有の「国民の権利」と「一般的自由」の二元論と親和的価値多元的・相対主義的、帰納的、保守主義・自由主義・非形而上学的な分析哲学と親和的法の支配ないし立憲主義と順接 全人類に普遍的→共同体や歴史的経緯を超える普遍的な人権イデオロギーと親和的絶対主義的(但し価値一元的な傾向と価値相対主義的な傾向との両面がある)演繹的、急進主義・全体主義・形而上学的な観念論哲学と親和的国民主権や法治主義と順接 実例 英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。大日本帝国憲法(明治憲法)も日本の歴史的伝統を重んじる形で当時としては最大限に熟慮を重ねて制定された フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)※但し“解釈”により日本の歴史・伝統を過剰に毀損しない慎重な運用が為されてきた 主な提唱者 コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトンなお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ハート ホッブズ、ロック、ルソーなお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック (★注1)「法=主権者意思[命令]説」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。 ① 君主主権 君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。 ② 人民主権 君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=プープル主権説)。ルソーの社会契約説が代表例。 ③ 国民主権 君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一とする者が多い)。なお国民主権の具体的意味については、(1)最高機関意思説と、(2)制憲権(憲法制定権力)説が対立しており、さらに(2)は、 1 ナシオン主権説と 2 プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。一般的に国民主権という場合は、 1 ナシオン主権説(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。 ④ 議会主権 英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における国王/女王(the king/queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論 ⑤ 国家主権 帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」が主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である ⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、大日本帝国憲法(明治憲法)は制定時において明確に歴史主義の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば ⑥ “法”主権 つまり「法の支配」・・・歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束するという立場だった。 ⇒なお、大正デモクラシー期には、ドイツ法学の「⑤国家主権説」を直輸入した美濃部達吉の「天皇機関説」が通説となり、それがさらに天皇機関説事件によっていわゆる①君主主権説に転換したのは昭和10年(1935年)以降の僅か10年間である。 (★注2)「法=主権者意思[命令]説」は、法を特定の立法者/思想家の価値観(例:カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想や自然法論・人権論)あるいは政治イデオロギー(例:マルクス主義やナチス期ドイツ思想)に還元してしまう危険が高く、全体主義への接近を許してしまう。 ※以下、「法=主権者意思[命令]説」の法体系モデル。 ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) (★注3)「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1960年以降にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。 ※以下、「法=社会的ルール説」の法体系モデル。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照。 ※サイズが画面に合わない場合はこちら 及びこちら をクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※なお、自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ 国家解体思想の正体 参照 ※(補足説明)ハートの法=社会的ルール説のいう「ルール(rule)」という用語は、図にあるように、①事実(外的視点からの捉え方)と②規範(内的視点からの捉え方)の二重構造(=観測者から見れば①事実(社会的事実)だが、法共同体の構成員から見れば②規範だ、という③第3のカテゴリー)になっている、という独特の意味で使用されており、①事実と②規範を峻別する方法二元論(ケルゼンら新カント学派の方法論)と大きく異なっている点に注意(→こうした①事実でもあり②規範でもある③第3のカテゴリーの導入によって、ハート理論は「単なる①事実(=認識)から、なぜ②規範(=価値判断)が生まれるのか」という難問のクリアを図っている)。 ※参考ページ 主権論と法の支配の関係 リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解 ※整理表を作成するに当たって参照した著名論者の見解を比較します。 ◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) p.13以下 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配 近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするが、この立憲主義思想は法の支配(rule of law)の原理と密接に関連する。 1. 法の支配 法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。それは、専制的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。 ジェイムズ一世の暴政を批判して、クック(Edward Coke, 1552-1634)が引用した「国王は何人の下にもあるべきでない。しかし神と法の下にあるべきである」というブラクトン(Henry de Bracton, ?-1268)の言葉は、法の支配の本質をよく表している。 法の支配の内容として重要なものは、現在、 ① 憲法の最高法規性の観念 ② 権力によって侵されない個人の人権 ③ 法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law) ④ 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重 などだと考えられている。 2. 「法の支配」と「法治国家」 「法の支配」の原理に類似するものに、《戦前の》ドイツの「法治主義」ないしは「法治国家」の観念がある。この観念は、法によって権力を制限しようとする点においては「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、少なくとも、次の二点において両者は著しく異なる。 (一). 民主的な立法過程との関係 第一に、「法の支配」は、立憲主義の進展とともに、市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図ること、従って権利・自由を制約する法律の内容は国民自身が決定すること、を建前とする原理であることが明確となり、その点で民主主義と結合するものと考えられたことである。 これに対して、戦前のドイツの法治国家(Rechtsstaat)の観念は、そのような民主的な政治制度と結びついて構成されたものではない。もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものに過ぎない。従って、それは、如何なる政治体制とも結合し得る形式的な観念であった。 (ニ). 「法」の意味 第二に、「法の支配」に言う「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも固く結びつくものであったことである。 これに対して、「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることが出来る容器のような)形式的な法律に過ぎなかった。そこでは、議会の制定する法律の中身の合理性は問題とされなかったのである。 もっとも、《戦後の》ドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から《実質的法治国家》へと移行しており、法治主義は英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.24~ (イ) 法の支配 a) 「法の支配」の二つの要請 「法の支配」は「人の支配」に対する概念で、人によるその場その場の恣意的な支配を排除して、予め定められた法に基づく支配によって自由を確保することを目的とする。 法の支配により自由を実現するためには、 まず第一に、 自由を保障するような内容の法(正しい法)を制定することが必要であり、 第二に、 その法を忠実に適用し執行することが必要である。 法の忠実な執行という要請を実現するために、法を制定する権力(立法権)と執行する権力(執行権)と法の争いを裁定する権力(裁判権)を分離し異なる機関に授けるという考えが生ずるが、これが後述する権力分立の原理である。執行権は、立法権がつくった法律を忠実に解釈適用し執行していく義務を負い、忠実に執行しているかどうかが争いになったときには、裁判所が判断するという体制である。 では、正しい法の制定という要請を実現するにはどうしたらよいか。 一つは、 法律の制定に抑制・均衡(checks and balances)のメカニズムを組み込む方法がある。チェック・アンド・バランスも権力分立の内容をなすが、たとえば議会を二院制にして法律の制定には両院の合意が必要であるとしたり、国王あるいは大統領の拒否権や裁可権を認めたり、さらには、裁判所に法律の合憲性の審査権を与えたりして、複数の機関の合意と均衡が形成された場合しか法律の制定はできないようにし、このチェック・アンド・バランスによって法律の内容が行き過ぎるのを阻止し、法律の「正しさ」を確保しようとするものである。 もう一つは、 法律の制定に国民の同意を得るという方法である。これも後述の国民主権の原理と表裏の関係にある問題であるが、国民の権利を制限するような法律を制定する場合には、少なくとも国民を代表する議会の同意を必要とすることにして、法律の内容の「正しさ」を確保しようとするのである。 現実には、この二つの方法を組み合わせて、法律の内容が自由を侵害するものとならないよう配慮している。 その具体的ありようは国により異なるが、それを支えている理念は権力分立(抑制・均衡)と国民主権である。 このように、法の支配は権力分立と国民主権の原理に密接に結びついているのである。 b) 裁判所の役割 正しい法律が制定されれば、その忠実な執行を確保すればよく、このために最も重要な役割を果たすのが裁判所である。 近代において法の支配の観点から最も重視されたのは、絶対王政を倒して国王の権力を法律の下に置くことであったから、法の支配は国王のもつ執行権(行政権)を法律に従わせることの確保を中心に制度化が構想され、その結果、国王から独立の裁判所が行政の法律適合性を裁定するという体制が目指された。 この場合、この裁定の任にあたることになったのが、イギリスのように「通常裁判所」(司法裁判所あるいはコモン・ロー裁判所とも呼ばれる)のこともあれば、フランスやドイツのように、通常裁判所とは別系統の「行政裁判所」を生み出していった国もあった。 法の支配を徹底するためには、行政が法律に従っていることを確保するだけでは不十分である。 法律が憲法に違反していないかどうかを独立の裁判所が判断する制度を実現する必要がある。しかし、それが実現するのは、一般には現代に入ってからであり、近代の段階では、このような違憲審査制度は、唯一アメリカ合衆国において採用されていたにすぎない。 したがって、国民の権利が現実にどの程度保障されるかは、どのような内容の法律が制定されるかに依存することとなった。 イギリスでは、法的には国会主権の原理がとられ、法律が最高の力をもつとされたが、法思想としては中世以来の、国王も議会も拘束される「高次の法」が存在するという観念が強固に生き残り(*)、国民の権利を侵害するような法律がつくられることに阻止的に働いた。 フランスでも、国民主権の下に国民を代表する議会が優位する体制が確立し、法律(議会)が志向の力をもったが(**)、市民階級の成熟とともに選挙権が拡大され、第三共和政期には議会が国民の意思を反映するようになり、法律が国民の権利を侵害することは少なくなったといわれる。これに対し、ドイツでは、市民階級の成熟が遅れ議会が力をもつに至らず、「法律に基づく行政」の原理が法律の内容・実質を問わないものと理解されるようになり、たとえ権利を制約するような法律でも、行政がそれに従ってなされる限り、「法治国家」(Rechtsstaat)が存在するとされた。 これを「形式的法治国家」と呼んでいる。 (*)イギリスのルール・オブ・ロー(rule of law)イギリスの法の支配の特徴を定式化したダイシー(Albert Venn Dicey, 1835-1922)は、法の支配を国会主権と並ぶイギリス憲法の基本原理として提示し、この法の支配は判例法(コモン・ロー)と制定法から成る「正規の法」(regular law)の支配として確立されたと説明している。重要なのは、コモン・ローが具体的事件の中で発見された正義(理性)と観念されたのみならず、制定法も類型的事例に関して一般的抽象的に発見された正義と観念されていたということであり、法の支配が究極的には社会の中で妥当している「高次の法」の支配と考えられたことである。 (**)フランスにおける「法律適合性の原理」(principe de Legalite)1789年のフランス革命は、国民主権を宣言し、主権者国民を代表する国民議会を「主権的意思(一般意思)」の表明」としての法律の制定権者とし、執行権の役割を法律の執行に限定した。この結果、執行権の行為は厳格に法律に従うことを求められた。この原理を「法律適合性の原理」と呼び、かかる国家体制を「法律適合性国家」(Etat legal)と呼ぶ。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.387~ (1) 法の支配の目的と構造 法の支配は、支配者の恣意的で気まぐれな支配を意味した「人の支配」を否定するために主張された観念であった。人の支配は、権力がどのように行使されるかの予測を困難にし被治者の地位を不安定にする。 そこで、被治者の安定した地位と権利を保障することを目的に、法の支配が求められたのである。支配者の意思からは独立に予め存在する法に従って支配(権力の行使)が行われること、これが法の支配の要求であった。ゆえに、法の支配を制度として確立するためには、まず第一に、権利を保障した内容をもつ「法」の確立が必要であり、第二に、支配が法に従って行われているかどうかを裁定する中立的な機関が必要である。立憲君主政において立法権(議会)と司法権(裁判所)が君主の権力から分離・独立したのは、権利保障のための法の支配の確立という観点からはきわめて自然な展開であり、18世紀イギリスの立憲君主政がモンテスキューの三権分立論の基礎となったのもこの観点から理解できる。 国民主権モデルにおいては、この論理はさらに発展し、法の支配の制度化の論理として「法の段階構造」が形成される。 つまり、法はその定立機関との関連でいくつかの法形式に分化され、法形式間に効力の上下関係が設定されて、下位の法形式は上位の法形式に自己の根拠をもたねばならず、上位の法形式に違反してはならないとの原則が確立されるのである。日本国憲法においては、基本的には、「憲法→法律→命令(政令→府・省令、規則)」という段階構造が形成されている。 それぞれの法形式は法定立機関の違いに対応しており、下位の法形式を上位の法形式の「執行」と捉えると、法定立機関と法執行機関が分離されていることが重要である。 そして、下位の法形式が上位の法形式に違反していないかどうかを、中立的な第三者機関としての裁判所が審査することにより、法の支配の実現が期されているのである。 支配(政治)を法に服せしめるには、政治活動を法的行為・法形式へと「翻訳」しなければならない。法の言葉に移し換えることにより、政治を法の論理の中に取り込み法による枠づけが可能となるのである。 政治は、法の衣をまとい、法の段階構造の中で法の論理を使って自らを正当化しなければならず、その正当化が受け入れられうるものかどうかが中立的な裁判所により判断される。 これが法の支配の基本構造である。 それは、ある意味では、「目的-手段」思考の政治を「要件-効果」へと枠づける操作ということができよう。 LEC『C-Book 憲法Ⅰ《総論・基本的人権》』 p.35~ 法の支配 1.はじめに 定義: すべての国家権力が正しい法に拘束されるという原則 ← 人の支配 → 正しい法(正義の法)に基く支配(法の内容を問題にする) → 国民の権利、自由を保障することが目的 → 英米法系(イギリス、アメリカ)の国々で発達 2.法の支配の内容 (1) 個人の人権保障 (2) 憲法の最高法規性の承認(憲法は行政権のみならず立法権をも拘束する) (3) 手続の適正を要求する(適正手続 = due process of law) (4) 裁判所の役割の重視(最高法規性の担保) 3.日本国憲法における法の支配の現れ 「正しい法 = 憲法」によって「法の支配 = 憲法による支配」 ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) 長谷部恭男『法とは何か』(2011年刊) p.148-9 法の支配という概念もいろいろな意味で使われます。ときには、人権の保障や民主主義の実現など、あるべき政治体制が備えるべき徳目のすべてを意味する理念として用いられることもありますが、こうした濃厚な意味合いで使ってしまうと、「法の支配」を独立の議論の対象とする意味が失われます。 法の支配は人の支配と対比されます。ある特定の人(々)の恣意的な支配ではなく、法に則った支配が存在するためには、そこで言う「法」が人々の従うことの可能な法でなければなりません。そのために法が満たすべき条件として、次のようないくつかの条件が挙げられてきました。・・・(中略)・・・。こうした、法の公開性、明確性、一般性、安定性、無矛盾性、不遡及性、実行可能性などの要請が、法の支配の要請と言われるものです。 日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 長谷部恭男『憲法 第5版』(2011年刊) p.xxx 1.2.5 法の支配 法の支配は、国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することにより、国民の自由を保障しようとする理念である。 △ 法の支配の内容 「人の支配」ではなく、「法の支配」を実現するためには、何よりもそれが従うことの可能な法でなければならず、法に基づいて社会生活を営むことが可能でなければならない。そのためには、①法が一般的抽象的であり、②公示され、③明確であり、④安定しており、⑤相互に矛盾しておらず、⑥遡及立法(事後立法)が禁止され、⑦国家機関が法に基づいて行動するよう、独立の裁判所によるコントロールが確立していること、が要請される(長谷部 [2000] 第10章)。このような法の支配の要請は、法令の公布に関する規定(憲法7条1号)や憲法41条の「立法」の概念、司法の独立(憲法76条以下)の他、憲法31条以下の諸規定に具体化されている(8.3.2. (3) 【法の支配との関係】 参照)。 △ 「善き法」の支配 法の支配は、「善き法」の支配と同視されることがある。 形式的法治国と実質的法治国の概念を対置し、法の支配を後者と同視する考え方もその一例である。また、個人の尊厳や基本的人権の保障、国民主権など、近代立憲主義の諸要請がすべて法の支配に含まれるとする者もいる。 しかし、このように法の支配を濃厚な意味で理解してしまえば、この概念を独立に検討する意義は失われる。 確かに、法の支配の内容とされる法の一般性・抽象性・明確性・安定性、および遡及立法の禁止は、法が法として機能するための、つまり法が人の行動の指針として機能するための必要条件である。立法が個別的にしかも事後的に為され、法の文言も不明確であり、しかも朝令暮改のありさまでは、人々は国家機関の行動について如何なる予測を立てることもできず、そのため法に従って行動することは不可能となるであろう。 しかし、人種差別立法や出版物の検閲制度を設定する法も、やはり法として機能するためには、これらの特徴を備えている必要がある。 これらの特徴はいずれもそれ自体としては、悪法の支配とも十分に両立し得る。また、前述のような法の支配の内容は、法が民主的に定められるか否かとは関係がない。 法が法として機能するために、今掲げたような幾つかの条件が必要であることが、法と道徳との必然的なつながりを意味するといわれることもあるが、これも誤りである。 切れ味の良いことがナイフの道徳性を示していないのと同様、法が法として機能するための条件を備えていることは、法の道徳性を示していない。 今述べたとおり、きわめて不道徳な目的を持つ法も、法として機能するためには、このような条件を備えていなければならない。 △ 法の支配の限界 さらに、法の支配は、法が備えるべき条件の一つに過ぎず、他の要請の前に譲歩しなければならない場合もあることに留意しなければならない。法の支配の要請がどこまで充足されるべきかは程度問題であり、個別の企業を国有化するための立法や女性のみを保護対象とする労働立法も、一般抽象性の点で悖(もと)るところがあるとしても、政府の役割の拡大した福祉国家の下においては肯認され得るであろう。 法の支配を支える根拠となる個人の自律や社会の幸福の最大化という目的自体が、国家の役割の拡大をもたらしているからである。 △ 【形式的法治国と実質的法治国】法の支配の観念と関連して、法治国(Rechtsstaat)の概念を、形式的法治国と実質的法治国の2つに区分することがある。形式的法治国論はあらかじめ定められた法形式さえ取れば人民の権利・自由を無制約に侵害できるという考え方であり、実質的法治国論は、法律の内容に一定の実質的限界があるとの考え方であるとされる。もっとも、日本のような成文の憲法典を持つ国家において、この2つを区別する意義については疑いがある。すなわち、最高法規たる憲法典に、実質的法治国概念が前提とする正しい法内容が書き込まれていない限り、その国は実質的法治国とはいえないであろうし、他方、憲法典に下位の法令が充足すべき正しい法内容がすでに書き込まれているのであれば、形式的法治国概念からしてもすべての国家機関はその正しい法内容に従って行動すべきである。両者を区別する意義があるとすれば、せいぜい憲法改正の限界についてであろう。なお、形式的法治国概念が、法の一般性・抽象性や遡及性、裁判の独立性など法の支配の要請をも否定し得る概念として理解されているのであれば、それは当然、本文で述べた法の支配とは両立し得ない。 ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) 田中成明『現代法理学』p.329~、P.337~ 「法の支配」は、伝統的な法的価値の中核をなすものであり、法による正義の実現の中心的目的とされてきた。 (中略) わが国における「法の支配」をめぐる最近の議論では、「法の支配」は、最も狭い意味では、英米における伝統的な「人の支配ではなく、法の支配を」という「法の支配(Rule of Law)」原理と同じものと理解されており、このような共通の理解を背景に、様々な「法の支配」論が展開されている。 そして日本国憲法の基礎にあるのはこのような英米法的な「法の支配」であり、このことは、①憲法の最高法規性の明確化、②不可侵の人権の保障、③適正手続きの保障、④司法権の拡大強化、⑤違憲審査制の確立、などのその特徴に照らして明らかであるという理解が、戦後憲法学の通説的見解である。 「法の支配」の概念や要請内容をめぐる最近の議論のいては、フラーの「合法性」概念などを中核に法の形成・実現に関する形式的・手続的要請に限定して理解する形式的アプローチと、 一定の基本権・民主制・立憲主義などの制度的要請を取り込んで理解する実質的アプローチとを対比する構図が一般的である。 (中略) 「法の支配」の概念や要請内容について、法が法であるために最低限備えるべき内在的価値である形式的正義と手続的正義の要請を中核としていることにはほとんど異論はない。 多義的・論争的となるのは、このような形式的・手続的要請を基軸に、議論領域ごとに「法の支配」が目指している価値理念と、「法の支配」を実効的に確保・実現するための具体的な制度の構成・運用原理との双方向に実質化して議論する段階で、 「法の支配」の概念や要請内容にそれらの価値理念や制度構成・運用原理をどこまで取り込むかについて、見解が分れることに起因しているとみられる。 (中略) また、正しい法や善き政治との関連づけによる実質化については、「法の支配」の正しい法や善き政治への志向性を全面的に否定するのは適切ではないけれども、「法の支配」の意義は、正しい法や善き政治の追求・実現やその手段というよりも、その追求・実現手段に一定の制度的制約を課し、甚だしく不正な法や悪い政治を排除するという消極的な規制原理というところにあるとみるべきであろう。具体的には、自由公正な市民社会の円滑な作動を確保するために、権力の恣意専断を抑止し、不当な自由の制限や理不尽な格差を排除することが「法の支配」の核心的要請であり、「法の支配」をめぐる議論を拡散させないためにも、「法の支配」の目指す価値理念については・・・(中略)・・・「消極的アプローチ」をとるのが適切であろう。 (中略) 例えば、F. A. ハイエクは、法的準則が不正義な行為を禁止する消極的なものであるだけでなく、正義の識別基準もまた消極的なものであるとして、「我々は、誤謬や不正義を絶えず排除することによってしか、真理や正義に近づくことができず、 最終的な真理や正義に我々が到達したことを確認することはできない」とする。 そして、正義の積極的な識別基準がなくとも、何が不正義かを示す消極的な基準はあるという事実は、完全に新しい法システムを構築するには不十分だとしても、現にある法をより正義に適ったものに発展させる適切な指針とはなり、重要な意義をもっていることを指摘している。 (中略) 価値観の多様化・流動化が経験的事実として存在し、実質的正義原理などの究極的価値の積極的な理論的基礎づけの可能性をめぐって見解の対立が続くなかで、法的思考における価値判断も主観的・相対的なものにすぎないと考えられがちである。 けれども、裁判において第一次的に求められる価値判断は、何が不正義かに関する消極的な判断であり、消極的アプローチが示唆しているように、 何が不正義として非難され回避されるべきかについては、何が正義かについて違憲が対立している人々の間でも、具体的判断が重なり合い、その限りでコンセンサスがみられることが一般に考えられている以上に多い。そして、裁判の手続過程が、このような社会的コンセンサスに反映された正義・衡平感覚を適切に汲み上げつつ展開されるならば、 実質的正義の実現に直接的ではなくとも間接的に貢献できる範囲は、裁判の機能の考え方次第では、意外に広いのである。 田中成明『現代法理学』 p.316~、P.327~ (L. L. フラー『法と道徳』(1964年刊) による「合法性(Legality)」の基本要請) このこと(※注:法の目的は、法外在的な実質的目的に限らない、ということ)をとりわけ強調したのは、「合法性(legality)」という一連の手続的要請を法システム自体の存立と作動に関わる内在的な構成・運用原理として提示したL. L. フラーである。彼は、法システムをもっぱら法外在的な社会的目的の実現のための手段にすぎないとみるプラグマティズム的な法道具主義が支配的であることを憂い、一般的に目的=手段関係の考察において、社会的目的を実現する制度や手続自体に内在する制約を重視すべきことを力説した。 法システムについても、合法性を「法を可能ならしめる道徳」「法内在的道徳」として、この種の内在的制約と位置づけ、この合法性が法によって実現できる実質的目的の種類を限定していることに注意を喚起している。フラーは、合法性の基本的要請として、 ①法の一般性、②公布(の事実)、③遡及法の濫用の禁止、④法律の明晰性、⑤法律の無矛盾性、⑥法律の服従可能性、⑦法の相対的恒常性、⑧公権力の行動と法律との合致 という八つを挙げているが、英米において「法の支配」の要請内容と了解されているものと大体同じと理解されている。 このような合法性は、立法者や裁判官に目的・理想を示すだけでなく、法システムの存立に不可欠な条件をも示しており、これら八つの要請のどれか一つでも全面的に損なわれると、もはや、「法」システムと呼ぶことはできず、市民の服従義務も基礎付けることができないとされる。 そして、合法性の要請は基本的に手続的なものであり、法外在的な実質的目的に対しても、たいていは中立的であるが、人間を責任を負う行為主体とみる点では中立的ではなく、 このような人間の尊厳を損なう実質的目的を法システムによって追求することは許されないと考えている。 本書でも、「法の支配」の核心的要請内容を、フラーの合法性の八原理を基軸に理解し、このような意味では法の支配をフラーの合法性概念とほぼ互換的に用い、 「司法的正義」については、このような法の支配の要請を個別的事例において具体的に確保・実現することに関わるものと理解することにしたい。 佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) p.79以下 従って、日本国憲法が定める具体的な諸制度は、そのような「自由」の維持発展に多かれ少なかれ寄与するものとして意図されているといえるが、「自由」のための基本的な制度的原理として要約するとすれば、「権力分立」の原理と「法の支配」の原理ということになろう。 (ハ) 「法の支配」の原理 「法の支配」の観念は古典古代のギリシャにその起源をもち、その後の西欧の長い歴史的過程の中で紆余曲折をたどりながら・・・17世紀のイギリスにおいて近代的な個人の「自由」の観念と結びついてより具体的で明確な形をとって現出したのものである。 ロックは、法の目的は、自由を廃止したり、制限したりすることではなく、むしろ自由を維持し、拡大することにあり、法のないところには自由はないことを力説した。 自由とは、他の人々による拘束や暴力から解放されることであるが、このことは法のないところでは不可能であること、他人の気まぐれな意思の対象とされることなく、自らの意思に従って行動できるということが自由の意味するところであること、 にロックは関心を向けたのである。 成文憲法中に個人の自由を列挙することによってその保障の確実さを期そうとした、アメリカ独立革命期の邦の憲法が、「法による統治であって、人間による統治ではない」ことを力説したのも、ロックのそのような発想に通ずる。従って、「法の支配」という場合の「法」観念は独特のものであることが注意されなければならない。 それは簡単にいえば、自由な主体たる人間の秩序の中で自ら発生してくるような「法」、換言すれば、自由な主体たる人間の共存を可能ならしめる上で必要とされる「法」ということになろう。(因みに、ハイエクは、人間社会における秩序を、「自生的秩序(spontaneous order)」と「組織(organization)」とに分かち、それぞれを古典古代のギリシャの kosmos [本来、「国家ないし共同体における正しい秩序」を意味する発生的秩序]と taxis [例えば、軍隊の秩序のような人為的秩序] とに対応させている。 「自生的秩序」は多くの人間の行為の所産ではあるが、人間の意図・企画によって作られたものではないのであり、そのような「自生的秩序」の法はノモス [nomos] と呼ばれ、「組織」の規則であるテシス [thesis] と対比される。そして、このように捉えられた「法」の支配と自由との結びつきが示唆されている。) 先に触れた近代的な「権力分立」の原理は、この「法」観念との結びつきで理解される必要がある。つまり、「立法」「司法」「行政」は、独自の制度的倫理構造をもちつつ「法」に対してそれぞれ独自のかかわり合い方をするものであって、それらの分離なしには個人の「自由」はありえないとされたということである。 1 「立法」について、ロックは、すべての市民に等しく適用される「正しい行為に関する一般的なルール」を想定したが、 実際、一般に、立法府の力といえども無制限とは観念されず、そのような「一般的ルール」の定立に限定され、かかるルールによってすべての権力に必要な制限を課すことが期待された。 2 モンテスキューによって「人間の間でしかく恐るべき裁判権」と呼ばれた「裁判権」は、「法」による裁判権、同じくモンテスキューのいう「法の言葉を述べる口」としての裁判権、つまり「司法権」として把握され、 そのことによってむしろ個人の「自由」の重要な守りテとしての地位をもつに至った。 3 「行政」については「法」による統制が課題とされ、その自由裁量性に猜疑の目が向けられた。 ダイシーは、「法の支配」をもって、「種々の見地からみてイギリス憲法の下で個人の権利に与えられた保障」としてその性格を把握し、その具体的内容として、 ① 専断的権力に対立するものとしての通常の法の絶対的優位ということ、すなわち、国の通常裁判所において通常の法的な方法で確定された法に明白に違反する場合を除いて何人も処罰されず、または合法的に身体もしくは財産を侵害されえないという命題、 ② 法の前の平等、すなわち、地位または身分を問わずあらゆる人が国の通常の法に服しかつ通常裁判所に服するという命題、 ③ 憲法の一般的法原則(人身の自由の権利や公の集会の権利など)は個々の事件において私人の権利を決定する判決の結果であるという命題、 を指摘した。 このダイシーの言葉からもうかがわれるように、「法の支配」にあっては裁判所が格別の役割を担っており、アメリカ合衆国で登場した違憲立法審査制は、この「法の支配」を徹底したものであるということができる。もっとも、ダイシーの右の指摘については、当時のイギリス法の現実をどれ程忠実に描写するものであるか疑問の余地があり、また、自由放任主義的な消極国家を基盤としていることは否定し難く、 現代積極国家段階においてそのままではもはや妥当しないことは承認されなければならない。 しかし、「個人の権利保障」という「法の支配」の性格の意義は積極的に評価さるべきであり、国家機能とりわけ行政権の拡大・裁量権の増大の不可避性を前提とした上で、公権力の恣意性を具体的にいかにコントロールするかの観点から、 「法の支配」の原理を再構築し、一層展開せしめて行くことが必要というべきである。 日本国憲法は、詳細な基本権のカタログを掲げつつ、憲法の最高規範性の確認(97条1項)の下に、司法権を強化し、行政事件に関する裁判権もそれに取り込む一方(76条)、裁判所に違憲立法審査権を付与しており(81条)、 明らかに「法の支配」の原理に立脚していることを示している。 ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) F. A. Hayek 『自由の条件Ⅱ 自由と法』(1960年刊) p.194以下 法の支配は、立法全体に対する制限であるという事実から推論されることは、それ自体が立法者の可決する法律と同じ意味での法律ではありえないということである。憲法上の規定は、法の支配の侵害を一層困難にするであろう。 それらは慣習的な法律制定による不注意な侵害を防ぐのに役立つかもしれない。しかし最高の立法者は、法律によって自分自身の権力を決して制限することができない。 というのは、かれは自分のつくったいかなる法律をもいつでも廃棄できるからである。したがって、法の支配(the rule of law)とは法律の規則(a rule of the law)ではなく、法律がどうあるべきかに関する規則(a rule concerning what the law ought to be)、 すなわち超-法的原則(a meta-legal doctrine)あるいは政治的理念(a political ideal)である。それは、立法者がそれによる制約を自覚しているかぎりは有効である。 民主主義のもとでは、それが共同社会の道徳上の伝統、多数の人が共有し、問題なく受け容れる共通の理念の一部を形成しないかぎり、法の支配は普及しないであろうということになる。 (原文)From the fact that the rule of law is a limitation upon all legistlation, it follows that it cannnot itself be a law in the same sense as the laws passed by the legistor.Constitutional provisions may make infringements of the rule of law more difficult. They may help to prevent inadvertent infringements by routine legislation.But the ultimate legislator can never limit his own powers by law, because he can always abrogate any law he has made. The rule of law is therefore not a rule of the law, but a rule concerning what the law ought to be, a meta-legal doctrine or a political ideal.It will be effective only in so far as the legislator feels bound by it. In a democracy this means that it will not prevail unless it forms part of the moral tradition of the community, a common ideal shared and unquestioningly accepted by the majority. F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.120以下 立法が法の唯一の源泉である、という概念から二つの観念が引き出されている。それらは、初期の擬人化による誤りが生き残っているあの誤れる設計主義から全面的に導出されているが、現代ではほとんど自明のこととして受け入れられるようになり、政治の展開に大きな影響を与えてきた。最初のものは、これはより高次の立法者を必要とし等々と無限に続くから、その権力を制限することができない最高の立法者があるに違いないとする信念である。 第二のものは、その最高の立法者が制定したものは何であれ法であり、彼の意志を表現するもののみが法である、とする考えである。 ベーコン、ホッブズ、オースティン以来、まずは国王の、後には民主制議会の、絶対権力の一見疑う余地のない正当化に一役買った、最高の立法者の必然的に無制限な意志という概念は、 法という用語が組織の熟慮の上での足並みの揃った行為を導くルールに限定されるならばその場合にのみ、自明であるように思われる。 このように解釈すれば、ノモスという初期の意味では全ての権力に対する障壁となるはずであった法は、逆に権力行使の道具となる。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.158以下、P.171以下 結局のところ、司法過程から生じる正義に適う行動ルール、すなわちノモスまたは本章でみた自由の法と、次章の研究対象となる権威によって制定された組織のルールとの違いは、前者が人間のつくったのではない自生的秩序の諸条件から導かれるのに対し、後者は特殊化された意図に資する組織の熟慮の上での構築に役立つという事実の中にある。前者は、それらがすでに守られていた実践を明文化したにすぎないという意味でか、 すでに確立されているルールに依拠する秩序を円滑かつ効率的に運営しようというのであれば、それらはこうしたルールの必要補完物と見なされなければならないという意味で、発見されるのである。自生的な行為秩序の存在が裁判官にその固有の仕事を課さなかったならば、それらは発見されなかったであろう。 したがって、それらは、特定の人間的意志とは無関係に存在するものと当然考えられる。 一方、特定の結果を目指す組織のルールは、組織者の設計する知性の自由な発明品であろう。(中略)憲法憲法という法に包含されている政府の諸権力の割り当てと制限に関する全てのルールは、まず、我々が「法」と呼びならわしてはいるが、組織のルールであって正義に適う行動ルールではないルールに、属する。 これらのルールは、広く、特別な威厳を付与されている、あるいは他の法に対するより大きな尊敬が払われてしかるべき、「最高」級の法とみなされている。 しかし、これを説明する歴史的理由はあるものの、それらのルールを普通いわれているように他の全ての法の源泉としてでなく、法の維持を保障するための上部構造と見るほうが、適当である。しかし、こうしたこと(※注:憲法という法に特定の威厳と基本的な性格が与えられていること)で、憲法が、基本的に、事前に存在する法体系の中の法を施行するためにそうした法体系の上に構築された上部構造であるという事実が、変わるわけではない。いったん確立されると、憲法は、他のルールがそこからその権威を引き出すという論理的な意味で「第一義的」であるようにみえるが、それはなおこれらの事前に存在するルールの支持を企図している。それは、法と秩序を守り、他のサービスの給付装置を提供する手段をつくりだすが、法と正義が何であるかを定義しない。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』(1976年刊) p.70以下、P.88以下 だが、法を立法者の意志の産物として定義すると、その内容が何であれ立法者の意志の表出全てが「法」に包摂され(「法は全く任意の内容をもってよいことになる」(※注:H.ケルゼン))。その内容は法とよばれる様々な言明の間の何ら重要な区別をなさないという見解が、特に、正義は、いかなる意味でも、何が実際に法であるかを決めるものではなくて、むしろ何が正義であるかを決めるものが法であるという見解が、生まれてくる。旧来の伝統とは逆に、法の制定者は正義の創造者であるという主張が、法実証主義の最も特徴的な教義となった。 (中略)主権という概念は、国家という概念と同様に、国際法のための不可欠の用具である - その概念をそこでの出発点として受け入れるならば、そのことによって、国際法というまさにその観念が無意味にされることはない、とまでは確信できないが。しかし、法秩序の内部的性格の問題を考察するためには、どちらの概念も、人を迷わせるばかりでなく、不要であるように思える。事実、自由主義の歴史と同一である立憲主義の歴史全体は、少なくともジョン・ロック以降は、主権についての実証主義者の概念や全知全能の国家という関連概念に対する闘争の歴史であった。 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) p.41以下から抜粋⇒全文は 第7章 法の支配 へ 1. 「法の支配」の捉え方 (1) 法の支配とは何でないのか 「法の支配」は、多くの人が口にする基本概念でありながら、その実体につき合意をみない難問である。とはいえ、法の支配の目指すところについては、論者の間におおよその合意がある。“その目的は、可能な限りすべての国家機関の行為を法のもとにおいて、その恣意的な活動を統制し、もって人々の基本権を保障せんとするところにある。” が、この機能論的な説明は、法の実体の解明にはなっていない。 また、法の支配とは何でないのか、という疑問についても、法学者の間で合意がみられる。その解答としては、次のふたつがある。 第一。 “法の支配は、絶対君主の統治にみられたような「人に支配」、すなわち、ルールに基かない、その場当たりの恣意的な権力発動を通して人々を支配することではない。” 第二。 “法の支配は、法治主義ではない。法治主義とは、国民の権利義務に変動を与えるとき、その国家意思は議会の意思を通して実定法化されるべきこと、 そして、行政はその議会法を執行し(“法律なければ行政なし”)、裁判所は議会制定法に準拠して法的紛争を解決すること、をいう。” (2) 法の支配と法治主義 「法の支配」にいう法は、民主的機関である議会の制定する法律をも統制し、主権者の意思をも統制する機能をもっている。この機能については、法学者は異論を唱えないだろう。未解決の争点は、“その狙いのために、法の支配にいう「法」がいかなる属性をもっているのか”というところにある。 (3) 法の支配と正義 法の支配とは、《主権者といえども、人為の法を超える高次の法のもとにある》という思想を起源とする。 それは、法(law)と立法(legislation)との区別のもとで、前者が後者を指導する、という思想である。高次の法 higher law とは、・・・(中略)・・・“fundamental law”と同じである。 Higher law または fundamental law の内容は、《正義に適っているルール》を指してきた。 ところが、「正義」の捉え方は歴史によって変転し、論者によってさまざまとなっているために私たちを混乱させているのだ。 法の支配を正義と関連づけるとき、その捉え方には、大きくふたつの流れがみられた。 第一は、 問題の法令の実質・内容を問う立場である。正義の種類からいえば、実質的正義論に属する。その典型的立場が自然法論である。 第二は、 問題の法令の形式を重視するタイプである。正義の種類でいえば、形式的正義論である。 これは、問題の法令が、どのような特定の人びとをも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で普遍的な形式を満たしているか否かを問うのである。 これは、《人為法が普遍的に妥当する形式をもっていれば、不正を最小化できる》といいたいのだ。 2. 「法の支配」の理論と憲法典 (1) 法の支配の理論化 法の支配を脱実体化しながら理論体系としたのが、イギリスの法学者A. ダイシー(1835~192年)である。彼は、臨機(場当たり)でなく、誰もが知りえて、特定可能な対象にではなく、誰に対しても等しく恒常的に適用されうる法の形式を、「正規の法 regular law」と呼んだ。それは、《類似の事案は同じように法的に解決される》という平等原則のなかから浮かび出た形式である。 それは、多年にわたる実践と蓄積のなかで、次第しだいに、人間が獲得してきた法的知識だった。 その法的知識を専門的に修得するのが法曹であり、なかでも裁判官である。身分の独立保障をうけてきた裁判官は、当事者の主張に耳を傾けながら、正しい解決のために、誰に対しても等しく適用されてきた論拠を発見するのである。 (2) 法の支配の突出部 形式的正義論をベースとする法の支配の考え方には、 (ア) 法は特権を容認せず、一般的普遍的な形式をもたなければならない、 (イ) 法は公知(誰もが前もって知りうるもの)で恒常的でなければならない、 (ウ) その適用に矛盾があってはならない、 という命題が伴っている。これらの命題は、法の予見性・安定性に資し、経済自由市場における交易を一挙に促進することとなった。 自由市場の生育を可能としたのは、法の支配という憲法上の基本概念だった。法の支配が、経済的自由、身体・生命の自由その他の自由へと拡大するにつれて、自由主義国家の基盤ができあがっていったのだ。 法の支配は、経済市場における諸自由だけでなく、国家の刑罰権と課税権とを有効に統制する論拠となった。 罪刑法定主義と租税法律主義が、法令の遡及的適用を排除したり、慣習を法源たりえないとしたり、法令の裁量的適用に警戒的であるのは、法の支配の思想が、一部実定法上に突出したためである。 法の支配は、われわれの権利義務に関する実定法(人為法)を指導するメタ・ルールである。 法の支配という思想は、あるルールを実定化するにあたって実定法を先導する上位のルールである。たとえ憲法を含む実定法が法の支配を謳ったとしても、それこそが「自己言及のパラドックス」にすぎないのだ。 (3) 法の支配と憲法との関係 法の支配は、国家の不正義を最小化するための理念として、歴史上さまざまな論者が肉付けしてきた。 この理念は、sovereignty、なかでも、君主の有してきたそれをまず統制しようとした。 sovereignty は、「主権」と訳出されるが、この訳語では伝えきれないニュアンスをもった言葉である。それは、「主権」というよりも、絶対権または最高権といったほうがいいだろう。 憲法は、最高・絶対の主権を統制するための「基本法」として、歴史に登場した。このことからも分かるように、憲法は、法の支配という構想の必須部なのだ(が、しかし、憲法が法の支配にいう法ではない)。 主権の帰属先が君主から国民になった場合でも、法の支配の理念に変更はない。 今日においても、すべての国家機関、なかでも国民の主権と、国民代表機関である議会とを、法のもとにおく必要があるのだ。 そのために、憲法は法の支配の理念の一部を組み込もうとする。 1 統治の機構においては、①独立の保障される司法部、②特別裁判所の禁止、③憲法条規の最高法規性の宣言がこれであり、 2 権利章典の部においては、①適正手続保障、②遡及処罰の禁止、③公正な裁判の保障等がこれである。 もっとも、こうした個別の条規を列挙することは、憲法と法の支配との関係を考えるにあたっては二次的な意味しかもたない。 教科書のなかには、法の支配について、(ア)憲法の最高法規性、(イ)基本権の尊重、(ウ)適正手続保障、(エ)司法審査制を列挙するものがある。 もしこの思考が法の支配の論拠を日本国憲法典に求めようとしているのであれば、ひとつの体系内に根拠を求める「自己言及のパラドックス」に陥ってしまっている。 もし論拠を示したものではなく、“法の支配がかような諸点に現れている”というのであれば、(イ)と(ウ)はダブルカウントであり、(エ)は法の支配の内在的な要請ではなく(英国には、司法審査制はない)、法の支配を有効にするための手段にすぎないことの説明に欠けている。 このように、憲法と法の支配との関係をみるとしても、要注意点は、《憲法典という実定化された法が法の支配にいう“法”ではない》ということである。 たしかに、憲法典は法の支配の理念を一部活かしている。が、しかし、「憲法典=法の支配」ではない。 (4) 法の支配と主権との関係 《法の支配は憲法典や主権をも統制する》とのテーゼを理解するためには、次の(ア)~(ウ)に留意しておかなければならない。 (ア) 一般の教科書によれば、国民主権にいう「主権」とは、憲法制定権力のことを指す。 (イ) 主権は、国制を意味する憲法を創出する力であり(憲法を作り出す力としての主権。以後、憲法制定権力を「制憲権」という)、憲法典は、この制憲権によって作り出される。 (ウ) [制憲権→憲法典]という理論上の順序関係を考えれば、憲法典によって主権を統制することはできない。 では、「憲法典によって主権を統制することはできない」とき、主権(制憲権)は何によって規範的な拘束を受けているのだろうか? 実体的正義論者は、自然法、人間の理性、人間の尊厳等をあげるだろう。これらの実体的要素はいずれも客観性に欠けるとみる批判的な論者であれば、「主権者の自己拘束だ」というかもしれない。 それらの解答を、私はいずれも受容しない。《主権を規範的に統制するもの、それが法の支配だ》、これが私の解答である。 法の支配にいう「法」とは、実定的な法ではなく、最低限の形式的正義のことだ、と私は理解している。 (5) 法の支配と法律との関係 法の支配は、先に触れたように、国民の主権や、国民代表機関である議会の権限(法律制定権)をも統制する理念である。 では、法の支配は、議会の立法権(法律制定権)をどのように統制するか?私のような、形式的正義論者は、こう解答するだろう。《議会が法律を制定するにあたっては、一般的普遍的な形式をもたせなければならない》。 この解答は、日本国憲法41条の「立法」の解釈に活かされるだろう。立法(法律)が一般的普遍的であるという形式を満たすとき、それは 第一に、 一定の要件を満たす限り誰に対しても適用されうるとする点で道徳的にみて正当であり、 第二に、 予見可能性・法的安定性を増すという点で経済的にみて合理的である。 法の一般性・普遍性とは、法規範の名宛人が事前に特定可能でないことをいう。法の支配にとって最も警戒され続けてきた点は、法が人的な属性に言及しながら、特定可能な人びとを特別扱いすることだった。 法の支配は、人的な特権を忌避して、誰であれ自分の限界効用を自由に(国家から公法規制や指令を受けないで)満足させてよい、とする思想でもあるのだ。 ※その他参照先 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)第一部 国家と憲法の基礎理論 第四章 立憲主義と法の支配 ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) 1 英米圏の標準的な理解では「法の支配」とは、①まず第一に「手続的正義・形式的正義」を中核とする法内在的正義の要請をいい、②配分的正義など「実質的正義」に関する要請は、あくまで周縁的に考慮されるに留まる。 2 次に、③「法の支配」がどのような働きを果たすのか、を考える機能的アプローチでは、それが「人の支配」ではないことから主権論との関係が問題となる。⇒「法の支配」は「特定の人の“意思”に基く支配」を拒絶しており、主権者(法=主権者意思説)と両立しない。(「君主主権」(君主一人の意思による支配)のみならず集合意思としての「国民主権」も原理的には「法の支配」と両立しない)。 では、特定の人の意思の産物ではない「法」とはいったい何なのか? ⇒ それは「ノモス(nomos 意図せざる人為の法)」つまり歴史的構築物としての「法」(自生的秩序の法)である。(すなわち、フュシス(physis, natural law 自然法)やテシス(Thesis 純然たる実定法)ではない) 1 では、①手続的・形式的正義に関する法準則が「法の支配」の中核要素である、と述べたが、③機能的アプローチでは、そうした形式を超える「何らかの実質的価値」を想定していることになる。 しかしそれでも、この場合の「実質的価値」は、左派系の正義論にありがちな、(1)人権保障、(2)憲法の最高法規性、といったものではなくて、ノモス概念としての「法」=特定の共同体で自生的に発展してきた慣習法であることから、実質的意味の憲法(国制)に接近する。 ⇒この③を、①の(狭義の)「法の支配」と区別して、「国体の支配」ないし「ノモスの支配(nomocracy)」と呼ぶべきである。 3 最後に、「法の支配」の「法」と、(a)実質的意味の憲法(国体法ないし国制)および、(b)形式的意味の憲法(憲法典)、との関係について整理する。 ①(狭義の)「法の支配」は、あくまで消極的に理解されるべき法理念(「~は法ではない」、という形式の言明で表現されるもの)であり、憲法を含めた立法全体に対する制限となるメタ・ルールであって、法規範ではない。 これに対して、③ノモスは、成文であれ不文であれ、「~は法である」という形式の言明で、一応は積極的に把握されうる法規範としての実体(substance)をもつもの、である。 さらに、テシスは、その定義から完全に積極的に把握できる成文法(実定法 positive law)である。 ■6.関連用語 ほうち-しゅぎ【法治主義】 広辞苑 ① 人の本性を悪と考え、徳治主義を排斥して、法律の強制による人民統治の重要性を強調する立場。韓非子がその代表者。ホッブズも同様。 ② 王の統治権の絶対性を否定し、法に準拠する政治を主張する近代国家の政治原理 → 法の支配 ほうちしゅぎ【法治主義】rule of law(※注:原文ママ) 日本語版ブリタニカ 行政は議会において成立した法律によって行われなければならない、とする原則。 1 行政に対する法律の支配を要求することにより、 2 恣意的・差別的行政を排し、国民の権利と自由を保障することを目指したもので、立憲主義の基本原則の一つに挙げられている。この原則に基く国家を、法治国家という。 ほうち-こっか【法治国家】 広辞苑 国民の意思によって制定された法に基づいて国家権力を行使することを建前とする国家。①権力分立が行われ、②司法権の独立が認められ、③行政が法律に基いて行われる、とされる。法治国→ 警察国家 ほうちこっか【法治国家】Rechtsstaat 日本語版ブリタニカ 行政および司法が、あらかじめ議会の制定した法律によって行われるべきである、という法治主義の国家。すなわち、全国家作用の法律適合性ということが、法治国家の本質とされたのであるが、 1 その際、イギリス法の「法の支配」 rule of law と違い、 2 行政および司法が、国民の代表機関たる議会によって制定された法律に適合していればよい、 という形式的側面が重視された結果、法治国家論は、法律に基きさえすれば、国民の権利・自由を侵害してよい、という否定的な機能を果たし、法や国家の目的・内容を軽視する法律万能主義的な傾向を内包していた。 (1) 第二次世界大戦後、西ドイツは、この点に反省を加え、(a)立法・行政および裁判を直接に拘束する不可侵・不可譲の基本的人権を承認し、(b)これを確保するために憲法裁判所を設置して、これに法令の憲法適合性を審査する権限を与えた。 (2) 日本の場合も、憲法は、裁判所に、いわゆる法令審査権を与えている(81条)。 このようにして、 [1] 行政・司法が単に法律に適合している、という形式面のみならず、 [2] その法律の目的・内容そのものが、憲法に適合しなければならない、 という原則が確立され、それによって、いわば法治主義の実質的貫徹が期されている。 ■7.参考図書 『法の支配 - オーストリア学派の自由論と国家論』 (阪本昌成 著(2006年刊))オーストリア学派の社会哲学をもとに、「法の支配」を自然法思想の呪縛から解放した目から鱗の名著 『法とは何か - 法思想史入門』 (長谷部恭男:著(2011年刊))こちらも読み易く内容の確りした良書 ■8.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック + ... test - 名無しさん (2019-07-29 09 07 34) 以下は最新コメント表示 test - 名無しさん (2019-07-29 09 07 34) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/249.html
日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 ~ 長谷部恭男(東大法学部教授(憲法学))『法とは何か』p.149 要旨■日本の憲法学の教科書にありがちな諸々の理想のごった煮的な意味内容ではなく、本家である英米法の本来の用法に合致した意味内容で「法の支配」という言葉を理解すべきである。 ※本ページが難しい方は、まず リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配をご覧下さい。 <目次> ■1.このページの目的 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明◆1.日本の辞書による定義 ◆2.英米圏の辞書による定義 ■3.「法の支配」理念の整理◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 ◆2.「法の支配」理念整理表 ◆3.主権論と「法の支配」 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) ■6.関連する用語 ■7.参考図書 ■8.ご意見、情報提供 ■1.このページの目的 多くの憲法学や法理学(法哲学)の教科書では、憲法の基本原理ないし中核的法理念として「法の支配(the rule of law)」という用語が強調されている。 しかし、この「法の支配」の意味内容は、論者によって全くバラバラで不明瞭であって、特に日本では「法の支配」の本家である英米圏での標準的な用法とは懸け離れた意味でこの言葉が使用されるという問題ケースが多く見受けられる。 このページでは、この「法の支配」理念について、①正義論および②主権論との関係に留意しながら整理し明晰化していく。 ※なお「概念(concept)」は「~はどうあるか」(⇒ 概念論)、「理念(ideal)」は「~はどうあるべきか」(⇒ 理念論)という意味であるが、以下の文章では両者の使い分けは厳密でないことに注意。 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明 ◆1.日本の辞書による定義 ※関連する人名を含む ほう-の-しはい【法の支配】 (rule of law) 広辞苑 イギリスの法律家コークが、国王は神と法の下にあるべきである、として、ジェームズ1世の王権を抑制して以来、「人の支配」に対抗して認められるようになった近代の政治原理。コークのいう法は、イギリスの判例法で、立法権をも抑制する点で、法治主義とは異なるが、後に法治主義と同義に用いることもある。 ほうのしはい【法の支配】 rule of law 日本語版ブリタニカ 法至上主義的な思想、原則。 (1) どんな人でも、通常裁判所が適用する法律以外のものに支配されない、あるいは、 (2) 被治者のみでなく、統治者・統治諸機関も、法の支配に服さなければならぬ、とする、「法のもとにおける統治」の原理。 イギリスの伝統に根ざす思想であり、自然法思想にも淵源をもつ、法の権力に対する優位性の主張である。 A.ダイシーは、その著『憲法入門』(1885)のなかで、①議会主権と、②法の支配、がイギリスの2大法原理である、としたが、 1 ここから、人間とその自由を権力から守るイギリス型法治主義の原則が確立され、 2 アメリカにおいては、司法権優越の原理を生んだ。 20世紀に入り、経済・社会情勢の著しい変化につれ、伝統的な法支配の原則に対するいろいろな批判も起っている。 コーク【Edward Coke】 広辞苑 イギリスの法律家。権利請願の起草者。13世紀の法律家ブラクトン(H. Bracton ~1268)の著述を引用して「法の支配」(rule of law)を説いたことでも名高い。(1552~1634) ブラクトン Bracton, Henry de 日本語版ブリタニカ [生] 1216 デボン? [没] 1268 エクスター/デボン? イギリスの法律家、裁判官。ときにはイギリスの中世で最も偉大な法律家といわれる。 本名はブラットン Braton であったが、死後ブラクトンの名で伝わる。法律家として名が現れるのは、1245年以降で、48~68年に南西諸県、ことにサマーセット、デボン、コーンウォールで巡回裁判所の判事を務めた。 ローマ法・教会法に造詣が深く、50~56年に中世イギリス法を集大成した『イギリス法律慣習法』 De Legibus et Consuetudinibus Angliae は有名。 同書中の「王もまた神と法の下にある」という言葉は、法の支配原理の象徴的言辞として、しばしば引用されている。 ※この様に日本の辞典類では「法の支配」について割と簡潔な記述しかないが、英米圏ではだいぶ認識が違っているようである。 ◆2.英米圏の辞書による定義 rule of law collins The rule of law refers to a situation in which the people in a society ①obey its laws and ②enable it to function properly. (翻訳) 法の支配とは、ある社会における人々が、①その諸法を遵守しており、かつ、②社会を適切に機能させている、状況をいう。 ※残念ながら、 Britannica Concise Encyclopedia および Oxford Dictionary of English には rule of law の項目がないため、 英文wikipedia(2014.3.15時点) で代用する。 rule of law 英文wikipedia The rule of law (also known as nomocracy) primarily refers to the influence and authority of law within society, especially as a constraint upon behavior, including behavior of government officials.The phrase can be traced back to the 16th century, and it was popularized in the 19th century by British jurist A. V. Dicey. The concept was familiar to ancient philosophers such as Aristotle, who wrote "Law should govern".Rule of law implies that every citizen is subject to the law, including law makers themselves.It stands in contrast to the idea that the ruler is above the law, for example by divine right. Despite wide use by politicians, judges and academics, the rule of law has been described as "an exceedingly elusive notion" giving rise to a "rampant divergence of understandings… everyone is for it but have contrasting convictions about what it is." At least two principal conceptions of the rule of law can be identified a formalist or "thin" definition, and a substantive or "thick" definition. ① Formalist definitions of the rule of law do not make a judgment about the "justness" of law itself, but define specific procedural attributes that a legal framework must have in order to be in compliance with the rule of law. ② Substantive conceptions of rule of law go beyond this and include certain substantive rights that are said to be based on, or derived from, the rule of law. HistoryAlthough credit for popularizing the expression "the rule of law" in modern times is usually given to A. V. Dicey, development of the legal concept can be traced through history to many ancient civilizations, including ancient Greece, China, Mesopotamia, India and Rome. (1) AntiquityIn Western philosophy, the ancient Greeks initially regarded the best form of government as rule by the best man.Plato advocated a benevolent monarchy ruled by an idealized philosopher king, who was above the law. Plato nevertheless hoped that the best men would be good at respecting established laws, explaining that "Where the law is subject to some other authority and has none of its own, the collapse of the state, in my view, is not far off; but if law is the master of the government and the government is its slave, then the situation is full of promise and men enjoy all the blessings that the gods shower on a state." More than Plato attempted to do, Aristotle flatly opposed letting the highest officials wield power beyond guarding and serving the laws. In other words, Aristotle advocated the rule of law It is more proper that law should govern than any one of the citizens upon the same principle, if it is advantageous to place the supreme power in some particular persons, they should be appointed to be only guardians, and the servants of the laws.According to the Roman statesman Cicero, "We are all servants of the laws in order that we may be free." During the Roman Republic, controversial magistrates might be put on trial when their terms of office expired. Under the Roman Empire, the soverign was personally immune(legibus solutus), but those with grievances could sue the treasury. (omission) (2) Modern timesAn early example of the phrase "rule of law" is found in a petion to James Ⅰ of England in 1610, from the House of Commons Amongst many other points of happiness and freedom which your majesty's subjects of this kingdom have enjoyed under your royal progenitors, kings and queens of this realm, there is none which they have accounted more dear and precious than this, to be guided and governed by the certain rule of the law which giveth both to the head and members that which of right belongeth to them, and not by any uncertain or arbitrary form of government … In 1607, English Chief Justice Sir Edward Coke said in the Case of Prohibitions(according to his own report) "that the law was the golden met-wand and measure to try the causes of the subjects;and which protected His Majesty in safety and peace with which the King was greatly offended, and said, that then he should be under the law, which was treason to affirm, as he said; to which I said, the Bracton saith, quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(That the King ought not be under any man but under God and the law.)." Meaning and Categorization of interpretationsDifferent people have different interpretations about exactly what "rule of law" means. According to political theorist Judith N. Shklar, "the phrase 'the rule of law' has become meaningless thanks to ideological abuse and general over-use, but neverthless this phrase has in the past had specific and important meanings. Among modern legal theorists, most views on this subject fall into three general categories the formal(or "thin") approach, the substantive(or "thick") approach, and the functional approach.The "formal" interpretation is more widespread than the "substantive" interpretation. 1 Formalists hold that the law must be prospective, well-known, and have characteristics of generality, equality, and certainty. Other than that, the formal view contains no requirements as to the content of the law. This formal approach allows laws that protect democracy and individual rights, but recognizes the existence of "rule of law" in countries that do not necessarily have such laws protecting democracy or individual rights. 2 The substantive interpretations holds that the rule of law intrinsicaly protects some or all individual rights. 3 The functional interpretation of the term "rule of law", consistent with the traditonal English meaning, contrasts the "rule of law" with the "rule of man".According to the functional view, a society in which government officers have a great deal of discretion has a low degree of "rule of law", whereas a society in which government officers have little discretion has a high degree of "rule of law". The rule of law is thus somewhat at odds with flexibility, even when flexibility may be preferable. The ancient concept of rule of law can be distinguished from rule by law, according to political science professor Li Shuguang "The difference … is that, under the rule of law, the law is preeminent and can serve as a check against the abuse of power. Under rule by law, the law is a mere tool for a government, that suppresses in a legalistic fashion." (omission) (翻訳) 法の支配(それはまたノモクラシーとしても知られている)とは、第一に社会における法の影響力や権威、特に政府当局の行為を含む行為の抑制に関して謂われるものである。このフレーズは16世紀に遡ることができ、19世紀に英国の法律家A. V. ダイシーによって一般に知られるようになった。この概念は、「法が統治すべきである」と書いたアリストテレスのような古代の哲学者達にお馴染みのものだった。 法の支配は、法の作成者も含めて、全ての市民が法に従うことを含意する。それは、王権神授説の例のような、支配者は法の上位にある、とする観念とは対照的である。 政治家・判事・学者によって広く使用されているにも関わらず、法の支配は「誰もが承知するが、しかし、それが何であるかについて対照的な信念しかもっていない・・・収拾がつかないほど多様な諸理解」を惹起する「非常に捉えどころにない観念」として説明されてきた。 少なくとも法の支配について2つの主要な概念解釈(conception)を特定することが可能である:すなわち、①形式的ないし「薄い」定義と、②実質的ないし「濃い」定義、である。 ① 法の支配の形式的定義(definition)は、法の「正当性」自体を判定することはないが、ある法的枠組みが法の支配に適合するといえるために必ず保持しなければいけない特定の手続的属性を定義している。 ② 法の支配の実質的概念解釈(conception)は、それ(形式的定義)を超えて、法の支配がそれに依拠しており、その派生源となっている、ある特定の実質的諸権利を内包する。 歴史近代における「法の支配」という表現の一般的認知は通常A. V. ダイシーの功績であるが、その法的概念の発達自体は、古代ギリシア・チャイナ・メソポタミア・ローマを含む多くの古代文明の歴史上に見出すことが可能である。 (1) 古代西洋哲学では、古代ギリシアにおいて、当初は、政府の最善の形態は、最良の人物による支配だ、と見なされていた。 プラトンは、法を超越する理想的な哲人王による、慈悲深い君主制を唱導した。 プラトンは、それでもなお、最善の人物達が確立された諸法を上手く尊重していくことに期待を寄せて、以下のように解説している。 「法が他の何らかの権威に服しており、何らそれ自体の内容を持たないところでは、私見では、国家の崩壊はそう遠くない。 しかし、もし、法が政府の主人であり、政府が法の僕(しもべ)であるならば、その場合は、状況は希望に満たされており、人々は神々が国家に降り注ぐあらゆる祝福を享受する。」 プラトンの企図をさらに超えて、アリストテレスは、最高位の当局者達が法が保護し奉仕する範囲を超えて権力を行使することに、きっぱりと反対した。 すなわち、アリストテレスは、法の支配を(以下のように)唱導した。法が統治することが、市民のうちの誰(が統治すること)よりも、より適切である。 同様の原理に則り、もし、ある特定の人物達への最高権力の付与が好都合である場合には、諸法の保護者達および奉仕者達だけが、その任を与えられるべきである。 ローマの政治家キケロによれば、「我々が全員、法に奉仕するのは、我々が自由であらんが為である。」ローマ共和制の期間、嫌疑のかかった執政官達は、彼らの任期が終了したときに、たいてい査問にかけられた。 ローマ帝制下では、統治者は個人としては不可侵(無答責)であったが、しかし不平を持つ人々は国費で訴訟を起こすことが可能だった。 (中略) (2) 近代「法の支配」という文句の初期の使用例の一つは、1610年のイングランドで、庶民院がジェームズ1世に対して行った請願の中に見出される。この王国の陛下の臣民が、この王室の諸祖先・この王国の諸王・諸女王の下で享受してきた諸々の幸福と自由のあらゆる諸点の中でも、以下の事柄以上に彼ら(臣民)が愛着を示し大切に抱き続けてきたものは他にありません。すなわち、(彼らは)主長と構成員の双方に、どの権利が彼らに帰属しするかを決め与える、ある特定の「ルール・オブ・ザ・ロー(rule of the law ※原文ママ)」によって道を示され統治されるのであり、そして如何なる不確実または恣意的な形態の政府によって統治されるのではない、ということ。1607年、イングランドの主席裁判官エドワード・コーク卿は、禁止令状事件において、(彼自身の報告によれば)以下のように発言した。 「法とは、臣民達の訴訟を審理し、陛下を安全に保護するところの黄金の超越的杖であり物差しである。そして、それは陛下の安全と平和を保護する。」 それに対して国王は非常に立腹して曰く「ならば余は法の下にあるべきことになるが、その断言は反逆罪である」と。 それに応えて曰く、「ブラクトンは「quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(国王は何人の下にもあるべきでないが、神と法の下にあるべきである)」と云った、と」 意味と解釈カテゴリー「法の支配」が正確には何を意味するか、について人々は全く異なった解釈を持っている。 政治理論家ジュディス・N・シュクラーによれば、「イデオロギー的誤用と一般的濫用のせいで、『法の支配』という文句は無意味なものとなったが、それにも関わらず、この文句は過去において、特有かつ重要な幾つかの意味を持ち続けてきた。」という。近代の法理論家達の間で、このテーマに関する大方の見解は3つの一般的なカテゴリーに識別される。すなわち、①形式的(ないし「薄い」)アプローチ、②実質的(ないし「濃い」)アプローチ、そして③機能的アプローチ、である。①「形式的」解釈は、②「実質的」解釈よりも、より広く受け入れられている。 1 ①形式主義者達は、法は、(a)予見可能で、(b)公知であり、そして(c)一般性/一様性/確実性という諸特性をもたねばならない、と考えている。 それ以外には、①形式的見解は、法の内実という点に関しては何の要求事項も持っていない。 この①形式的アプローチは、デモクラシーと個人の諸権利を保護する諸法を許容するが、デモクラシーや個人の諸権利を保護するそうした諸法を必ずしも持たない諸国においても「法の支配」が存在する(と想定する見解である)と受け止められている。 2 ②実質的な諸解釈は、法の支配は幾つかの、または全ての個人の諸権利を実質的に保護している、と考えている。 3 「法の支配」という用語の③機能的解釈は、伝統的な英語の意味に合致しており、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」と「ルール・オブ・マン(人の支配)」とを対照的に説明する。③機能的見解によれば、政府職員が非常に大きな裁量権を保持している社会では「法の支配」は低い水準にあり、その一方で、政府職員が小さな裁量権しかもたない社会では「法の支配」は高い水準にあることになる。 法の支配は、このように柔軟性を持つ点で-たとえ、その柔軟性が好ましい場合があるとしても-何かしら中途半端(な言葉)である。 政治科学教授リー・シャガンによれば、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」という古代の概念は、以下の点で「ルール・バイ・ロー(法による支配)」と区別することができる。すなわち「その違いは・・・ルール・オブ・ロー(法の支配)の下では、法は卓越しており、権力の悪用に対する歯止めとして役立てることが可能である。ルール・バイ・ロー(法による支配)の下では、法は、法的な趨勢を抑制する単なる政府の道具である。」(以下省略) ※このように英米圏では、「法の支配」について、①形式的アプローチ、②実質的アプローチ、③機能的アプローチという3様のアプローチが区別されている。このうち①②は正義論(法価値論)に関係するアプローチであり、③は主権論に関係するアプローチである。 ※以下、順に「法の支配」理念について整理していく。 ■3.「法の支配」理念の整理 ◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 政治思想・政治哲学の根本的価値が「自由(freedom/liberty)」という言葉で表現されるように、 法思想・法哲学の根本的価値は「正義(justice)」という言葉で伝統的に表現されてきた。 そこでまず、この「正義」概念を整理し、「法の支配」理念(①形式的および②実質的アプローチ)との関係を考察していく。 ※参考ページ 正義論まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 ほうかちろん【法価値論】legal axiology 日本語版ブリタニカ 法的な価値について考察する研究分野。法的な価値は正義という言葉で表現されることが多いから、正義論といってもよい。 古代ギリシア以来、法哲学の主要分野をなしてきたが、最近は、①規範的倫理学と、②分析的倫理学の区別に対応して、①規範的法価値論と②分析的法価値論(メタ法価値論)とが明確に区別されるようになった。 せいぎ【正義】 広辞苑 ① [荀子(正名)]正しいすじみち、人がふみ行うべき正しい道。「-を貫く」 ② [漢書(律暦志上)]正しい意義または注解。「尚書-」 ③ (justice) (ア) 社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。 これを単に形式的なものと見るマルキシズムは、真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張するが、現在ではイデオロギーを超えた正義が模索されている。 (イ) 社会の正義に適った行為をなしうるような個人の徳性。 せいぎ【正義】justice 日本語版ブリタニカ 人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値。 . 善(※注: agothos, bonum, good)と同義に用いられることもあるが、 (1) 善が、主として人間の個人的態度にかかわる道徳的な価値を指すのに対して、 (2) 正義は、人間の対他的関係の規律にかかわる法的な価値を指す。 . 正義とは何か、という問題については、古来さまざまな解答が示されてきたが、一般的な価値ないし価値基準に関する見解と同様に 1 正義を客観的な実在と考える客観主義的・絶対主義的正義論と、 2 正義を主観的な確信と考える主観主義的・相対主義的正義論とに大別できよう。 法思想の領域では、だいたいにおいて、自然法論が 1 前者に、法実証主義が 2 後者に、属する。 . 従来の正義論のうちでは、アリストテレスやキケロの見解が名高く、与えた影響も大きい。 (ア) アリストテレスは、道徳と区別される正義(特殊的正義)について、①配分的正義と、②交換的正義(平均的正義、調整的正義とも訳される)とを区別し、 ① 前者は、公民としての各人の価値・功績に応じて、名誉や財貨を配分することにおいて成立し、 ② 後者は、私人としての各人の相互交渉から生じる利害を平均・調整することにおいて成立する、とした。 (イ) キケロは、この①配分的正義と同様な内容を、「各人に彼のものを」という公式で表現した。 ※サイズが画面に合わない場合は こちら 参照。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (with) こうした「正義」概念に基く法理念・法思想を、英米圏では一般に「法の支配(rule of law)」と呼んでいる。 ◆2.「法の支配」理念整理表 ※サイズが画面に合わない場合は こちら をクリック願います。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (with) ◆3.主権論と「法の支配」 伝統的な意味での「法の支配」理念(③機能的アプローチ)は、「人の支配(= 特定者の意思に基く統治)」を拒絶することから、「国民主権」「人民主権」といった「主権論(= 主権者の意思に基く統治原理)」と両立しない。 ⇒ 従って、「法の支配」を認める場合は、 ① 日本国憲法の「国民主権」規定に関して、「主権者意思説」以外の立場から解釈する必要が生じ、さらに、 ② 今後目指される憲法改正ないし新憲法制定に際しては、現行憲法にあるような主権者意思としての「国民主権」を連想させる文言は厳しく排除することが望まれる。 ↓詳しい説明はここをクリックして表示/非表示切り替え + ... 歴史主義・伝統主義 (英米法) 反歴史主義・リセット主義 (大陸法) 権利の本質 人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として歴史的権利を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場 人間は自然状態において、生来的に自然権(natural right)を有していたが、社会契約(social contract)を結んで自然権を一部または全部放棄し、人定法(実定法:positive law)を定めた、とする立場 法の本質 法は特定の共同体の中で人々の社会的ルールとして自生した(特定の人物の意思によらずに時間をかけて次第に生成されてきた)(法=社会的ルール説)(★注3)⇒この立場は、真の法=ノモス(個別の共同体毎に自生的に発展してきた人為的ではあるが特定の意思によらざる法)とする見解と親和的である。 法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(法=主権者意思[命令]説)(★注1、★注2)⇒この立場には、①真の法=理性から演繹された自然法(フュシス)とする近代的自然法論、および、②真の法など存在せず主権者の意思・命令としての人為法があるのみとする純然たる法実証主義、の2通りの見解がある。 誰が法を作るのか 法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(経験主義、批判的合理主義)⇒「法は“発見”するもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を否認(特定時点の世代の人々が制定できるのは原則として「憲法典(形式憲法)」迄であって、「国制(実質憲法)」は世代を重ねて徐々に確立されていくものに過ぎない) 法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(設計主義的合理主義)⇒「法は“主権者”が作るもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を肯定(特定時点の世代の人々は「憲法典(形式憲法)」のみならず「国制(実質憲法)」をも意図的に確立することが可能である) 補足 共同体毎に個別的→共同体に固有の「国民の権利」と「一般的自由」の二元論と親和的価値多元的・相対主義的、帰納的、保守主義・自由主義・非形而上学的な分析哲学と親和的法の支配ないし立憲主義と順接 全人類に普遍的→共同体や歴史的経緯を超える普遍的な人権イデオロギーと親和的絶対主義的(但し価値一元的な傾向と価値相対主義的な傾向との両面がある)演繹的、急進主義・全体主義・形而上学的な観念論哲学と親和的国民主権や法治主義と順接 実例 英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。大日本帝国憲法(明治憲法)も日本の歴史的伝統を重んじる形で当時としては最大限に熟慮を重ねて制定された フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)※但し“解釈”により日本の歴史・伝統を過剰に毀損しない慎重な運用が為されてきた 主な提唱者 コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトンなお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ハート ホッブズ、ロック、ルソーなお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック (★注1)「法=主権者意思[命令]説」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。 ① 君主主権 君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。 ② 人民主権 君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=プープル主権説)。ルソーの社会契約説が代表例。 ③ 国民主権 君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一とする者が多い)。なお国民主権の具体的意味については、(1)最高機関意思説と、(2)制憲権(憲法制定権力)説が対立しており、さらに(2)は、 1 ナシオン主権説と 2 プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。一般的に国民主権という場合は、 1 ナシオン主権説(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。 ④ 議会主権 英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における国王/女王(the king/queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論 ⑤ 国家主権 帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」が主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である ⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、大日本帝国憲法(明治憲法)は制定時において明確に歴史主義の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば ⑥ “法”主権 つまり「法の支配」・・・歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束するという立場だった。 ⇒なお、大正デモクラシー期には、ドイツ法学の「⑤国家主権説」を直輸入した美濃部達吉の「天皇機関説」が通説となり、それがさらに天皇機関説事件によっていわゆる①君主主権説に転換したのは昭和10年(1935年)以降の僅か10年間である。 (★注2)「法=主権者意思[命令]説」は、法を特定の立法者/思想家の価値観(例:カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想や自然法論・人権論)あるいは政治イデオロギー(例:マルクス主義やナチス期ドイツ思想)に還元してしまう危険が高く、全体主義への接近を許してしまう。 ※以下、「法=主権者意思[命令]説」の法体系モデル。 ※図が見づらい場合⇒ こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) (★注3)「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1960年以降にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。 ※以下、「法=社会的ルール説」の法体系モデル。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照。 ※サイズが画面に合わない場合は こちら 及び こちら をクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※なお、自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ 国家解体思想の正体 参照 ※(補足説明)ハートの法=社会的ルール説のいう「ルール(rule)」という用語は、図にあるように、①事実(外的視点からの捉え方)と②規範(内的視点からの捉え方)の二重構造(=観測者から見れば①事実(社会的事実)だが、法共同体の構成員から見れば②規範だ、という③第3のカテゴリー)になっている、という独特の意味で使用されており、①事実と②規範を峻別する方法二元論(ケルゼンら新カント学派の方法論)と大きく異なっている点に注意(→こうした①事実でもあり②規範でもある③第3のカテゴリーの導入によって、ハート理論は「単なる①事実(=認識)から、なぜ②規範(=価値判断)が生まれるのか」という難問のクリアを図っている)。 ※参考ページ 主権論と法の支配の関係 リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解 ※整理表を作成するに当たって参照した著名論者の見解を比較します。 ◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) p.13以下 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配 近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするが、この立憲主義思想は法の支配(rule of law)の原理と密接に関連する。 1. 法の支配 法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。それは、専制的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。 ジェイムズ一世の暴政を批判して、クック(Edward Coke, 1552-1634)が引用した「国王は何人の下にもあるべきでない。しかし神と法の下にあるべきである」というブラクトン(Henry de Bracton, ?-1268)の言葉は、法の支配の本質をよく表している。 法の支配の内容として重要なものは、現在、 ① 憲法の最高法規性の観念 ② 権力によって侵されない個人の人権 ③ 法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law) ④ 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重 などだと考えられている。 2. 「法の支配」と「法治国家」 「法の支配」の原理に類似するものに、《戦前の》ドイツの「法治主義」ないしは「法治国家」の観念がある。この観念は、法によって権力を制限しようとする点においては「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、少なくとも、次の二点において両者は著しく異なる。 (一). 民主的な立法過程との関係 第一に、「法の支配」は、立憲主義の進展とともに、市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図ること、従って権利・自由を制約する法律の内容は国民自身が決定すること、を建前とする原理であることが明確となり、その点で民主主義と結合するものと考えられたことである。 これに対して、戦前のドイツの法治国家(Rechtsstaat)の観念は、そのような民主的な政治制度と結びついて構成されたものではない。もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものに過ぎない。従って、それは、如何なる政治体制とも結合し得る形式的な観念であった。 (ニ). 「法」の意味 第二に、「法の支配」に言う「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも固く結びつくものであったことである。 これに対して、「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることが出来る容器のような)形式的な法律に過ぎなかった。そこでは、議会の制定する法律の中身の合理性は問題とされなかったのである。 もっとも、《戦後の》ドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から《実質的法治国家》へと移行しており、法治主義は英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.24~ (イ) 法の支配 a) 「法の支配」の二つの要請 「法の支配」は「人の支配」に対する概念で、人によるその場その場の恣意的な支配を排除して、予め定められた法に基づく支配によって自由を確保することを目的とする。 法の支配により自由を実現するためには、 まず第一に、 自由を保障するような内容の法(正しい法)を制定することが必要であり、 第二に、 その法を忠実に適用し執行することが必要である。 法の忠実な執行という要請を実現するために、法を制定する権力(立法権)と執行する権力(執行権)と法の争いを裁定する権力(裁判権)を分離し異なる機関に授けるという考えが生ずるが、これが後述する権力分立の原理である。執行権は、立法権がつくった法律を忠実に解釈適用し執行していく義務を負い、忠実に執行しているかどうかが争いになったときには、裁判所が判断するという体制である。 では、正しい法の制定という要請を実現するにはどうしたらよいか。 一つは、 法律の制定に抑制・均衡(checks and balances)のメカニズムを組み込む方法がある。チェック・アンド・バランスも権力分立の内容をなすが、たとえば議会を二院制にして法律の制定には両院の合意が必要であるとしたり、国王あるいは大統領の拒否権や裁可権を認めたり、さらには、裁判所に法律の合憲性の審査権を与えたりして、複数の機関の合意と均衡が形成された場合しか法律の制定はできないようにし、このチェック・アンド・バランスによって法律の内容が行き過ぎるのを阻止し、法律の「正しさ」を確保しようとするものである。 もう一つは、 法律の制定に国民の同意を得るという方法である。これも後述の国民主権の原理と表裏の関係にある問題であるが、国民の権利を制限するような法律を制定する場合には、少なくとも国民を代表する議会の同意を必要とすることにして、法律の内容の「正しさ」を確保しようとするのである。 現実には、この二つの方法を組み合わせて、法律の内容が自由を侵害するものとならないよう配慮している。 その具体的ありようは国により異なるが、それを支えている理念は権力分立(抑制・均衡)と国民主権である。 このように、法の支配は権力分立と国民主権の原理に密接に結びついているのである。 b) 裁判所の役割 正しい法律が制定されれば、その忠実な執行を確保すればよく、このために最も重要な役割を果たすのが裁判所である。 近代において法の支配の観点から最も重視されたのは、絶対王政を倒して国王の権力を法律の下に置くことであったから、法の支配は国王のもつ執行権(行政権)を法律に従わせることの確保を中心に制度化が構想され、その結果、国王から独立の裁判所が行政の法律適合性を裁定するという体制が目指された。 この場合、この裁定の任にあたることになったのが、イギリスのように「通常裁判所」(司法裁判所あるいはコモン・ロー裁判所とも呼ばれる)のこともあれば、フランスやドイツのように、通常裁判所とは別系統の「行政裁判所」を生み出していった国もあった。 法の支配を徹底するためには、行政が法律に従っていることを確保するだけでは不十分である。 法律が憲法に違反していないかどうかを独立の裁判所が判断する制度を実現する必要がある。しかし、それが実現するのは、一般には現代に入ってからであり、近代の段階では、このような違憲審査制度は、唯一アメリカ合衆国において採用されていたにすぎない。 したがって、国民の権利が現実にどの程度保障されるかは、どのような内容の法律が制定されるかに依存することとなった。 イギリスでは、法的には国会主権の原理がとられ、法律が最高の力をもつとされたが、法思想としては中世以来の、国王も議会も拘束される「高次の法」が存在するという観念が強固に生き残り(*)、国民の権利を侵害するような法律がつくられることに阻止的に働いた。 フランスでも、国民主権の下に国民を代表する議会が優位する体制が確立し、法律(議会)が志向の力をもったが(**)、市民階級の成熟とともに選挙権が拡大され、第三共和政期には議会が国民の意思を反映するようになり、法律が国民の権利を侵害することは少なくなったといわれる。これに対し、ドイツでは、市民階級の成熟が遅れ議会が力をもつに至らず、「法律に基づく行政」の原理が法律の内容・実質を問わないものと理解されるようになり、たとえ権利を制約するような法律でも、行政がそれに従ってなされる限り、「法治国家」(Rechtsstaat)が存在するとされた。 これを「形式的法治国家」と呼んでいる。 (*)イギリスのルール・オブ・ロー(rule of law)イギリスの法の支配の特徴を定式化したダイシー(Albert Venn Dicey, 1835-1922)は、法の支配を国会主権と並ぶイギリス憲法の基本原理として提示し、この法の支配は判例法(コモン・ロー)と制定法から成る「正規の法」(regular law)の支配として確立されたと説明している。重要なのは、コモン・ローが具体的事件の中で発見された正義(理性)と観念されたのみならず、制定法も類型的事例に関して一般的抽象的に発見された正義と観念されていたということであり、法の支配が究極的には社会の中で妥当している「高次の法」の支配と考えられたことである。 (**)フランスにおける「法律適合性の原理」(principe de Legalite)1789年のフランス革命は、国民主権を宣言し、主権者国民を代表する国民議会を「主権的意思(一般意思)」の表明」としての法律の制定権者とし、執行権の役割を法律の執行に限定した。この結果、執行権の行為は厳格に法律に従うことを求められた。この原理を「法律適合性の原理」と呼び、かかる国家体制を「法律適合性国家」(Etat legal)と呼ぶ。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.387~ (1) 法の支配の目的と構造 法の支配は、支配者の恣意的で気まぐれな支配を意味した「人の支配」を否定するために主張された観念であった。人の支配は、権力がどのように行使されるかの予測を困難にし被治者の地位を不安定にする。 そこで、被治者の安定した地位と権利を保障することを目的に、法の支配が求められたのである。支配者の意思からは独立に予め存在する法に従って支配(権力の行使)が行われること、これが法の支配の要求であった。ゆえに、法の支配を制度として確立するためには、まず第一に、権利を保障した内容をもつ「法」の確立が必要であり、第二に、支配が法に従って行われているかどうかを裁定する中立的な機関が必要である。立憲君主政において立法権(議会)と司法権(裁判所)が君主の権力から分離・独立したのは、権利保障のための法の支配の確立という観点からはきわめて自然な展開であり、18世紀イギリスの立憲君主政がモンテスキューの三権分立論の基礎となったのもこの観点から理解できる。 国民主権モデルにおいては、この論理はさらに発展し、法の支配の制度化の論理として「法の段階構造」が形成される。 つまり、法はその定立機関との関連でいくつかの法形式に分化され、法形式間に効力の上下関係が設定されて、下位の法形式は上位の法形式に自己の根拠をもたねばならず、上位の法形式に違反してはならないとの原則が確立されるのである。日本国憲法においては、基本的には、「憲法→法律→命令(政令→府・省令、規則)」という段階構造が形成されている。 それぞれの法形式は法定立機関の違いに対応しており、下位の法形式を上位の法形式の「執行」と捉えると、法定立機関と法執行機関が分離されていることが重要である。 そして、下位の法形式が上位の法形式に違反していないかどうかを、中立的な第三者機関としての裁判所が審査することにより、法の支配の実現が期されているのである。 支配(政治)を法に服せしめるには、政治活動を法的行為・法形式へと「翻訳」しなければならない。法の言葉に移し換えることにより、政治を法の論理の中に取り込み法による枠づけが可能となるのである。 政治は、法の衣をまとい、法の段階構造の中で法の論理を使って自らを正当化しなければならず、その正当化が受け入れられうるものかどうかが中立的な裁判所により判断される。 これが法の支配の基本構造である。 それは、ある意味では、「目的-手段」思考の政治を「要件-効果」へと枠づける操作ということができよう。 LEC『C-Book 憲法Ⅰ《総論・基本的人権》』 p.35~ 法の支配 1.はじめに 定義: すべての国家権力が正しい法に拘束されるという原則 ← 人の支配 → 正しい法(正義の法)に基く支配(法の内容を問題にする) → 国民の権利、自由を保障することが目的 → 英米法系(イギリス、アメリカ)の国々で発達 2.法の支配の内容 (1) 個人の人権保障 (2) 憲法の最高法規性の承認(憲法は行政権のみならず立法権をも拘束する) (3) 手続の適正を要求する(適正手続 = due process of law) (4) 裁判所の役割の重視(最高法規性の担保) 3.日本国憲法における法の支配の現れ 「正しい法 = 憲法」によって「法の支配 = 憲法による支配」 ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) 長谷部恭男『法とは何か』(2011年刊) p.148-9 法の支配という概念もいろいろな意味で使われます。ときには、人権の保障や民主主義の実現など、あるべき政治体制が備えるべき徳目のすべてを意味する理念として用いられることもありますが、こうした濃厚な意味合いで使ってしまうと、「法の支配」を独立の議論の対象とする意味が失われます。 法の支配は人の支配と対比されます。ある特定の人(々)の恣意的な支配ではなく、法に則った支配が存在するためには、そこで言う「法」が人々の従うことの可能な法でなければなりません。そのために法が満たすべき条件として、次のようないくつかの条件が挙げられてきました。・・・(中略)・・・。こうした、法の公開性、明確性、一般性、安定性、無矛盾性、不遡及性、実行可能性などの要請が、法の支配の要請と言われるものです。 日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 長谷部恭男『憲法 第5版』(2011年刊) p.xxx 1.2.5 法の支配 法の支配は、国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することにより、国民の自由を保障しようとする理念である。 △ 法の支配の内容 「人の支配」ではなく、「法の支配」を実現するためには、何よりもそれが従うことの可能な法でなければならず、法に基づいて社会生活を営むことが可能でなければならない。そのためには、①法が一般的抽象的であり、②公示され、③明確であり、④安定しており、⑤相互に矛盾しておらず、⑥遡及立法(事後立法)が禁止され、⑦国家機関が法に基づいて行動するよう、独立の裁判所によるコントロールが確立していること、が要請される(長谷部 [2000] 第10章)。このような法の支配の要請は、法令の公布に関する規定(憲法7条1号)や憲法41条の「立法」の概念、司法の独立(憲法76条以下)の他、憲法31条以下の諸規定に具体化されている(8.3.2. (3) 【法の支配との関係】 参照)。 △ 「善き法」の支配 法の支配は、「善き法」の支配と同視されることがある。 形式的法治国と実質的法治国の概念を対置し、法の支配を後者と同視する考え方もその一例である。また、個人の尊厳や基本的人権の保障、国民主権など、近代立憲主義の諸要請がすべて法の支配に含まれるとする者もいる。 しかし、このように法の支配を濃厚な意味で理解してしまえば、この概念を独立に検討する意義は失われる。 確かに、法の支配の内容とされる法の一般性・抽象性・明確性・安定性、および遡及立法の禁止は、法が法として機能するための、つまり法が人の行動の指針として機能するための必要条件である。立法が個別的にしかも事後的に為され、法の文言も不明確であり、しかも朝令暮改のありさまでは、人々は国家機関の行動について如何なる予測を立てることもできず、そのため法に従って行動することは不可能となるであろう。 しかし、人種差別立法や出版物の検閲制度を設定する法も、やはり法として機能するためには、これらの特徴を備えている必要がある。 これらの特徴はいずれもそれ自体としては、悪法の支配とも十分に両立し得る。また、前述のような法の支配の内容は、法が民主的に定められるか否かとは関係がない。 法が法として機能するために、今掲げたような幾つかの条件が必要であることが、法と道徳との必然的なつながりを意味するといわれることもあるが、これも誤りである。 切れ味の良いことがナイフの道徳性を示していないのと同様、法が法として機能するための条件を備えていることは、法の道徳性を示していない。 今述べたとおり、きわめて不道徳な目的を持つ法も、法として機能するためには、このような条件を備えていなければならない。 △ 法の支配の限界 さらに、法の支配は、法が備えるべき条件の一つに過ぎず、他の要請の前に譲歩しなければならない場合もあることに留意しなければならない。法の支配の要請がどこまで充足されるべきかは程度問題であり、個別の企業を国有化するための立法や女性のみを保護対象とする労働立法も、一般抽象性の点で悖(もと)るところがあるとしても、政府の役割の拡大した福祉国家の下においては肯認され得るであろう。 法の支配を支える根拠となる個人の自律や社会の幸福の最大化という目的自体が、国家の役割の拡大をもたらしているからである。 △ 【形式的法治国と実質的法治国】法の支配の観念と関連して、法治国(Rechtsstaat)の概念を、形式的法治国と実質的法治国の2つに区分することがある。形式的法治国論はあらかじめ定められた法形式さえ取れば人民の権利・自由を無制約に侵害できるという考え方であり、実質的法治国論は、法律の内容に一定の実質的限界があるとの考え方であるとされる。もっとも、日本のような成文の憲法典を持つ国家において、この2つを区別する意義については疑いがある。すなわち、最高法規たる憲法典に、実質的法治国概念が前提とする正しい法内容が書き込まれていない限り、その国は実質的法治国とはいえないであろうし、他方、憲法典に下位の法令が充足すべき正しい法内容がすでに書き込まれているのであれば、形式的法治国概念からしてもすべての国家機関はその正しい法内容に従って行動すべきである。両者を区別する意義があるとすれば、せいぜい憲法改正の限界についてであろう。なお、形式的法治国概念が、法の一般性・抽象性や遡及性、裁判の独立性など法の支配の要請をも否定し得る概念として理解されているのであれば、それは当然、本文で述べた法の支配とは両立し得ない。 ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) 田中成明『現代法理学』p.329~、P.337~ 「法の支配」は、伝統的な法的価値の中核をなすものであり、法による正義の実現の中心的目的とされてきた。 (中略) わが国における「法の支配」をめぐる最近の議論では、「法の支配」は、最も狭い意味では、英米における伝統的な「人の支配ではなく、法の支配を」という「法の支配(Rule of Law)」原理と同じものと理解されており、このような共通の理解を背景に、様々な「法の支配」論が展開されている。 そして日本国憲法の基礎にあるのはこのような英米法的な「法の支配」であり、このことは、①憲法の最高法規性の明確化、②不可侵の人権の保障、③適正手続きの保障、④司法権の拡大強化、⑤違憲審査制の確立、などのその特徴に照らして明らかであるという理解が、戦後憲法学の通説的見解である。 「法の支配」の概念や要請内容をめぐる最近の議論のいては、フラーの「合法性」概念などを中核に法の形成・実現に関する形式的・手続的要請に限定して理解する形式的アプローチと、 一定の基本権・民主制・立憲主義などの制度的要請を取り込んで理解する実質的アプローチとを対比する構図が一般的である。 (中略) 「法の支配」の概念や要請内容について、法が法であるために最低限備えるべき内在的価値である形式的正義と手続的正義の要請を中核としていることにはほとんど異論はない。 多義的・論争的となるのは、このような形式的・手続的要請を基軸に、議論領域ごとに「法の支配」が目指している価値理念と、「法の支配」を実効的に確保・実現するための具体的な制度の構成・運用原理との双方向に実質化して議論する段階で、 「法の支配」の概念や要請内容にそれらの価値理念や制度構成・運用原理をどこまで取り込むかについて、見解が分れることに起因しているとみられる。 (中略) また、正しい法や善き政治との関連づけによる実質化については、「法の支配」の正しい法や善き政治への志向性を全面的に否定するのは適切ではないけれども、「法の支配」の意義は、正しい法や善き政治の追求・実現やその手段というよりも、その追求・実現手段に一定の制度的制約を課し、甚だしく不正な法や悪い政治を排除するという消極的な規制原理というところにあるとみるべきであろう。具体的には、自由公正な市民社会の円滑な作動を確保するために、権力の恣意専断を抑止し、不当な自由の制限や理不尽な格差を排除することが「法の支配」の核心的要請であり、「法の支配」をめぐる議論を拡散させないためにも、「法の支配」の目指す価値理念については・・・(中略)・・・「消極的アプローチ」をとるのが適切であろう。 (中略) 例えば、F. A. ハイエクは、法的準則が不正義な行為を禁止する消極的なものであるだけでなく、正義の識別基準もまた消極的なものであるとして、「我々は、誤謬や不正義を絶えず排除することによってしか、真理や正義に近づくことができず、 最終的な真理や正義に我々が到達したことを確認することはできない」とする。 そして、正義の積極的な識別基準がなくとも、何が不正義かを示す消極的な基準はあるという事実は、完全に新しい法システムを構築するには不十分だとしても、現にある法をより正義に適ったものに発展させる適切な指針とはなり、重要な意義をもっていることを指摘している。 (中略) 価値観の多様化・流動化が経験的事実として存在し、実質的正義原理などの究極的価値の積極的な理論的基礎づけの可能性をめぐって見解の対立が続くなかで、法的思考における価値判断も主観的・相対的なものにすぎないと考えられがちである。 けれども、裁判において第一次的に求められる価値判断は、何が不正義かに関する消極的な判断であり、消極的アプローチが示唆しているように、 何が不正義として非難され回避されるべきかについては、何が正義かについて違憲が対立している人々の間でも、具体的判断が重なり合い、その限りでコンセンサスがみられることが一般に考えられている以上に多い。そして、裁判の手続過程が、このような社会的コンセンサスに反映された正義・衡平感覚を適切に汲み上げつつ展開されるならば、 実質的正義の実現に直接的ではなくとも間接的に貢献できる範囲は、裁判の機能の考え方次第では、意外に広いのである。 田中成明『現代法理学』 p.316~、P.327~ (L. L. フラー『法と道徳』(1964年刊) による「合法性(Legality)」の基本要請) このこと(※注:法の目的は、法外在的な実質的目的に限らない、ということ)をとりわけ強調したのは、「合法性(legality)」という一連の手続的要請を法システム自体の存立と作動に関わる内在的な構成・運用原理として提示したL. L. フラーである。彼は、法システムをもっぱら法外在的な社会的目的の実現のための手段にすぎないとみるプラグマティズム的な法道具主義が支配的であることを憂い、一般的に目的=手段関係の考察において、社会的目的を実現する制度や手続自体に内在する制約を重視すべきことを力説した。 法システムについても、合法性を「法を可能ならしめる道徳」「法内在的道徳」として、この種の内在的制約と位置づけ、この合法性が法によって実現できる実質的目的の種類を限定していることに注意を喚起している。フラーは、合法性の基本的要請として、 ①法の一般性、②公布(の事実)、③遡及法の濫用の禁止、④法律の明晰性、⑤法律の無矛盾性、⑥法律の服従可能性、⑦法の相対的恒常性、⑧公権力の行動と法律との合致 という八つを挙げているが、英米において「法の支配」の要請内容と了解されているものと大体同じと理解されている。 このような合法性は、立法者や裁判官に目的・理想を示すだけでなく、法システムの存立に不可欠な条件をも示しており、これら八つの要請のどれか一つでも全面的に損なわれると、もはや、「法」システムと呼ぶことはできず、市民の服従義務も基礎付けることができないとされる。 そして、合法性の要請は基本的に手続的なものであり、法外在的な実質的目的に対しても、たいていは中立的であるが、人間を責任を負う行為主体とみる点では中立的ではなく、 このような人間の尊厳を損なう実質的目的を法システムによって追求することは許されないと考えている。 本書でも、「法の支配」の核心的要請内容を、フラーの合法性の八原理を基軸に理解し、このような意味では法の支配をフラーの合法性概念とほぼ互換的に用い、 「司法的正義」については、このような法の支配の要請を個別的事例において具体的に確保・実現することに関わるものと理解することにしたい。 佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) p.79以下 従って、日本国憲法が定める具体的な諸制度は、そのような「自由」の維持発展に多かれ少なかれ寄与するものとして意図されているといえるが、「自由」のための基本的な制度的原理として要約するとすれば、「権力分立」の原理と「法の支配」の原理ということになろう。 (ハ) 「法の支配」の原理 「法の支配」の観念は古典古代のギリシャにその起源をもち、その後の西欧の長い歴史的過程の中で紆余曲折をたどりながら・・・17世紀のイギリスにおいて近代的な個人の「自由」の観念と結びついてより具体的で明確な形をとって現出したのものである。 ロックは、法の目的は、自由を廃止したり、制限したりすることではなく、むしろ自由を維持し、拡大することにあり、法のないところには自由はないことを力説した。 自由とは、他の人々による拘束や暴力から解放されることであるが、このことは法のないところでは不可能であること、他人の気まぐれな意思の対象とされることなく、自らの意思に従って行動できるということが自由の意味するところであること、 にロックは関心を向けたのである。 成文憲法中に個人の自由を列挙することによってその保障の確実さを期そうとした、アメリカ独立革命期の邦の憲法が、「法による統治であって、人間による統治ではない」ことを力説したのも、ロックのそのような発想に通ずる。従って、「法の支配」という場合の「法」観念は独特のものであることが注意されなければならない。 それは簡単にいえば、自由な主体たる人間の秩序の中で自ら発生してくるような「法」、換言すれば、自由な主体たる人間の共存を可能ならしめる上で必要とされる「法」ということになろう。(因みに、ハイエクは、人間社会における秩序を、「自生的秩序(spontaneous order)」と「組織(organization)」とに分かち、それぞれを古典古代のギリシャの kosmos [本来、「国家ないし共同体における正しい秩序」を意味する発生的秩序]と taxis [例えば、軍隊の秩序のような人為的秩序] とに対応させている。 「自生的秩序」は多くの人間の行為の所産ではあるが、人間の意図・企画によって作られたものではないのであり、そのような「自生的秩序」の法はノモス [nomos] と呼ばれ、「組織」の規則であるテシス [thesis] と対比される。そして、このように捉えられた「法」の支配と自由との結びつきが示唆されている。) 先に触れた近代的な「権力分立」の原理は、この「法」観念との結びつきで理解される必要がある。つまり、「立法」「司法」「行政」は、独自の制度的倫理構造をもちつつ「法」に対してそれぞれ独自のかかわり合い方をするものであって、それらの分離なしには個人の「自由」はありえないとされたということである。 1 「立法」について、ロックは、すべての市民に等しく適用される「正しい行為に関する一般的なルール」を想定したが、 実際、一般に、立法府の力といえども無制限とは観念されず、そのような「一般的ルール」の定立に限定され、かかるルールによってすべての権力に必要な制限を課すことが期待された。 2 モンテスキューによって「人間の間でしかく恐るべき裁判権」と呼ばれた「裁判権」は、「法」による裁判権、同じくモンテスキューのいう「法の言葉を述べる口」としての裁判権、つまり「司法権」として把握され、 そのことによってむしろ個人の「自由」の重要な守りテとしての地位をもつに至った。 3 「行政」については「法」による統制が課題とされ、その自由裁量性に猜疑の目が向けられた。 ダイシーは、「法の支配」をもって、「種々の見地からみてイギリス憲法の下で個人の権利に与えられた保障」としてその性格を把握し、その具体的内容として、 ① 専断的権力に対立するものとしての通常の法の絶対的優位ということ、すなわち、国の通常裁判所において通常の法的な方法で確定された法に明白に違反する場合を除いて何人も処罰されず、または合法的に身体もしくは財産を侵害されえないという命題、 ② 法の前の平等、すなわち、地位または身分を問わずあらゆる人が国の通常の法に服しかつ通常裁判所に服するという命題、 ③ 憲法の一般的法原則(人身の自由の権利や公の集会の権利など)は個々の事件において私人の権利を決定する判決の結果であるという命題、 を指摘した。 このダイシーの言葉からもうかがわれるように、「法の支配」にあっては裁判所が格別の役割を担っており、アメリカ合衆国で登場した違憲立法審査制は、この「法の支配」を徹底したものであるということができる。もっとも、ダイシーの右の指摘については、当時のイギリス法の現実をどれ程忠実に描写するものであるか疑問の余地があり、また、自由放任主義的な消極国家を基盤としていることは否定し難く、 現代積極国家段階においてそのままではもはや妥当しないことは承認されなければならない。 しかし、「個人の権利保障」という「法の支配」の性格の意義は積極的に評価さるべきであり、国家機能とりわけ行政権の拡大・裁量権の増大の不可避性を前提とした上で、公権力の恣意性を具体的にいかにコントロールするかの観点から、 「法の支配」の原理を再構築し、一層展開せしめて行くことが必要というべきである。 日本国憲法は、詳細な基本権のカタログを掲げつつ、憲法の最高規範性の確認(97条1項)の下に、司法権を強化し、行政事件に関する裁判権もそれに取り込む一方(76条)、裁判所に違憲立法審査権を付与しており(81条)、 明らかに「法の支配」の原理に立脚していることを示している。 ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) F. A. Hayek 『自由の条件Ⅱ 自由と法』(1960年刊) p.194以下 法の支配は、立法全体に対する制限であるという事実から推論されることは、それ自体が立法者の可決する法律と同じ意味での法律ではありえないということである。憲法上の規定は、法の支配の侵害を一層困難にするであろう。 それらは慣習的な法律制定による不注意な侵害を防ぐのに役立つかもしれない。しかし最高の立法者は、法律によって自分自身の権力を決して制限することができない。 というのは、かれは自分のつくったいかなる法律をもいつでも廃棄できるからである。したがって、法の支配(the rule of law)とは法律の規則(a rule of the law)ではなく、法律がどうあるべきかに関する規則(a rule concerning what the law ought to be)、 すなわち超-法的原則(a mete-legal doctrine)あるいは政治的理念(a political ideal)である。それは、立法者がそれによる制約を自覚しているかぎりは有効である。 民主主義のもとでは、それが共同社会の道徳上の伝統、多数の人が共有し、問題なく受け容れる共通の理念の一部を形成しないかぎり、法の支配は普及しないであろうということになる。 (原文)From the fact that the rule of law is a limitation upon all legistlation, it follows that it cannnot itself be a law in the same sense as the laws passed by the legistor.Constitutional provisions may make infringements of the rule of law more difficult. They may help to prevent inadvertent infringements by routine legislation.But the ultimate legislator can never limit his own powers by law, because he can always abrogate any law he has made. The rule of law is therefore not a rule of the law, but a rule concerning what the law ought to be, a mete-legal doctrine or a political ideal.It will be effective only in so far as the legislator feels bound by it. In a democracy this means that it will not prevail unless it forms part of the moral tradition of the community, a common ideal shared and unquestioningly accepted by the majority. F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.120以下 立法が法の唯一の源泉である、という概念から二つの観念が引き出されている。それらは、初期の擬人化による誤りが生き残っているあの誤れる設計主義から全面的に導出されているが、現代ではほとんど自明のこととして受け入れられるようになり、政治の展開に大きな影響を与えてきた。最初のものは、これはより高次の立法者を必要とし等々と無限に続くから、その権力を制限することができない最高の立法者があるに違いないとする信念である。 第二のものは、その最高の立法者が制定したものは何であれ法であり、彼の意志を表現するもののみが法である、とする考えである。 ベーコン、ホッブズ、オースティン以来、まずは国王の、後には民主制議会の、絶対権力の一見疑う余地のない正当化に一役買った、最高の立法者の必然的に無制限な意志という概念は、 法という用語が組織の熟慮の上での足並みの揃った行為を導くルールに限定されるならばその場合にのみ、自明であるように思われる。 このように解釈すれば、ノモスという初期の意味では全ての権力に対する障壁となるはずであった法は、逆に権力行使の道具となる。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.158以下、P.171以下 結局のところ、司法過程から生じる正義に適う行動ルール、すなわちノモスまたは本章でみた自由の法と、次章の研究対象となる権威によって制定された組織のルールとの違いは、前者が人間のつくったのではない自生的秩序の諸条件から導かれるのに対し、後者は特殊化された意図に資する組織の熟慮の上での構築に役立つという事実の中にある。前者は、それらがすでに守られていた実践を明文化したにすぎないという意味でか、 すでに確立されているルールに依拠する秩序を円滑かつ効率的に運営しようというのであれば、それらはこうしたルールの必要補完物と見なされなければならないという意味で、発見されるのである。自生的な行為秩序の存在が裁判官にその固有の仕事を課さなかったならば、それらは発見されなかったであろう。 したがって、それらは、特定の人間的意志とは無関係に存在するものと当然考えられる。 一方、特定の結果を目指す組織のルールは、組織者の設計する知性の自由な発明品であろう。(中略)憲法憲法という法に包含されている政府の諸権力の割り当てと制限に関する全てのルールは、まず、我々が「法」と呼びならわしてはいるが、組織のルールであって正義に適う行動ルールではないルールに、属する。 これらのルールは、広く、特別な威厳を付与されている、あるいは他の法に対するより大きな尊敬が払われてしかるべき、「最高」級の法とみなされている。 しかし、これを説明する歴史的理由はあるものの、それらのルールを普通いわれているように他の全ての法の源泉としてでなく、法の維持を保障するための上部構造と見るほうが、適当である。しかし、こうしたこと(※注:憲法という法に特定の威厳と基本的な性格が与えられていること)で、憲法が、基本的に、事前に存在する法体系の中の法を施行するためにそうした法体系の上に構築された上部構造であるという事実が、変わるわけではない。いったん確立されると、憲法は、他のルールがそこからその権威を引き出すという論理的な意味で「第一義的」であるようにみえるが、それはなおこれらの事前に存在するルールの支持を企図している。それは、法と秩序を守り、他のサービスの給付装置を提供する手段をつくりだすが、法と正義が何であるかを定義しない。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』(1976年刊) p.70以下、P.88以下 だが、法を立法者の意志の産物として定義すると、その内容が何であれ立法者の意志の表出全てが「法」に包摂され(「法は全く任意の内容をもってよいことになる」(※注:H.ケルゼン))。その内容は法とよばれる様々な言明の間の何ら重要な区別をなさないという見解が、特に、正義は、いかなる意味でも、何が実際に法であるかを決めるものではなくて、むしろ何が正義であるかを決めるものが法であるという見解が、生まれてくる。旧来の伝統とは逆に、法の制定者は正義の創造者であるという主張が、法実証主義の最も特徴的な教義となった。 (中略)主権という概念は、国家という概念と同様に、国際法のための不可欠の用具である - その概念をそこでの出発点として受け入れるならば、そのことによって、国際法というまさにその観念が無意味にされることはない、とまでは確信できないが。しかし、法秩序の内部的性格の問題を考察するためには、どちらの概念も、人を迷わせるばかりでなく、不要であるように思える。事実、自由主義の歴史と同一である立憲主義の歴史全体は、少なくともジョン・ロック以降は、主権についての実証主義者の概念や全知全能の国家という関連概念に対する闘争の歴史であった。 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) p.41以下から抜粋⇒全文は 第7章 法の支配 へ 1. 「法の支配」の捉え方 (1) 法の支配とは何でないのか 「法の支配」は、多くの人が口にする基本概念でありながら、その実体につき合意をみない難問である。とはいえ、法の支配の目指すところについては、論者の間におおよその合意がある。“その目的は、可能な限りすべての国家機関の行為を法のもとにおいて、その恣意的な活動を統制し、もって人々の基本権を保障せんとするところにある。” が、この機能論的な説明は、法の実体の解明にはなっていない。 また、法の支配とは何でないのか、という疑問についても、法学者の間で合意がみられる。その解答としては、次のふたつがある。 第一。 “法の支配は、絶対君主の統治にみられたような「人に支配」、すなわち、ルールに基かない、その場当たりの恣意的な権力発動を通して人々を支配することではない。” 第二。 “法の支配は、法治主義ではない。法治主義とは、国民の権利義務に変動を与えるとき、その国家意思は議会の意思を通して実定法化されるべきこと、 そして、行政はその議会法を執行し(“法律なければ行政なし”)、裁判所は議会制定法に準拠して法的紛争を解決すること、をいう。” (2) 法の支配と法治主義 「法の支配」にいう法は、民主的機関である議会の制定する法律をも統制し、主権者の意思をも統制する機能をもっている。この機能については、法学者は異論を唱えないだろう。未解決の争点は、“その狙いのために、法の支配にいう「法」がいかなる属性をもっているのか”というところにある。 (3) 法の支配と正義 法の支配とは、《主権者といえども、人為の法を超える高次の法のもとにある》という思想を起源とする。 それは、法(law)と立法(legislation)との区別のもとで、前者が後者を指導する、という思想である。高次の法 higher law とは、・・・(中略)・・・“fundamental law”と同じである。 Higher law または fundamental law の内容は、《正義に適っているルール》を指してきた。 ところが、「正義」の捉え方は歴史によって変転し、論者によってさまざまとなっているために私たちを混乱させているのだ。 法の支配を正義と関連づけるとき、その捉え方には、大きくふたつの流れがみられた。 第一は、 問題の法令の実質・内容を問う立場である。正義の種類からいえば、実質的正義論に属する。その典型的立場が自然法論である。 第二は、 問題の法令の形式を重視するタイプである。正義の種類でいえば、形式的正義論である。 これは、問題の法令が、どのような特定の人びとをも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で普遍的な形式を満たしているか否かを問うのである。 これは、《人為法が普遍的に妥当する形式をもっていれば、不正を最小化できる》といいたいのだ。 2. 「法の支配」の理論と憲法典 (1) 法の支配の理論化 法の支配を脱実体化しながら理論体系としたのが、イギリスの法学者A. ダイシー(1835~192年)である。彼は、臨機(場当たり)でなく、誰もが知りえて、特定可能な対象にではなく、誰に対しても等しく恒常的に適用されうる法の形式を、「正規の法 regular law」と呼んだ。それは、《類似の事案は同じように法的に解決される》という平等原則のなかから浮かび出た形式である。 それは、多年にわたる実践と蓄積のなかで、次第しだいに、人間が獲得してきた法的知識だった。 その法的知識を専門的に修得するのが法曹であり、なかでも裁判官である。身分の独立保障をうけてきた裁判官は、当事者の主張に耳を傾けながら、正しい解決のために、誰に対しても等しく適用されてきた論拠を発見するのである。 (2) 法の支配の突出部 形式的正義論をベースとする法の支配の考え方には、 (ア) 法は特権を容認せず、一般的普遍的な形式をもたなければならない、 (イ) 法は公知(誰もが前もって知りうるもの)で恒常的でなければならない、 (ウ) その適用に矛盾があってはならない、 という命題が伴っている。これらの命題は、法の予見性・安定性に資し、経済自由市場における交易を一挙に促進することとなった。 自由市場の生育を可能としたのは、法の支配という憲法上の基本概念だった。法の支配が、経済的自由、身体・生命の自由その他の自由へと拡大するにつれて、自由主義国家の基盤ができあがっていったのだ。 法の支配は、経済市場における諸自由だけでなく、国家の刑罰権と課税権とを有効に統制する論拠となった。 罪刑法定主義と租税法律主義が、法令の遡及的適用を排除したり、慣習を法源たりえないとしたり、法令の裁量的適用に警戒的であるのは、法の支配の思想が、一部実定法上に突出したためである。 法の支配は、われわれの権利義務に関する実定法(人為法)を指導するメタ・ルールである。 法の支配という思想は、あるルールを実定化するにあたって実定法を先導する上位のルールである。たとえ憲法を含む実定法が法の支配を謳ったとしても、それこそが「自己言及のパラドックス」にすぎないのだ。 (3) 法の支配と憲法との関係 法の支配は、国家の不正義を最小化するための理念として、歴史上さまざまな論者が肉付けしてきた。 この理念は、sovereignty、なかでも、君主の有してきたそれをまず統制しようとした。 sovereignty は、「主権」と訳出されるが、この訳語では伝えきれないニュアンスをもった言葉である。それは、「主権」というよりも、絶対権または最高権といったほうがいいだろう。 憲法は、最高・絶対の主権を統制するための「基本法」として、歴史に登場した。このことからも分かるように、憲法は、法の支配という構想の必須部なのだ(が、しかし、憲法が法の支配にいう法ではない)。 主権の帰属先が君主から国民になった場合でも、法の支配の理念に変更はない。 今日においても、すべての国家機関、なかでも国民の主権と、国民代表機関である議会とを、法のもとにおく必要があるのだ。 そのために、憲法は法の支配の理念の一部を組み込もうとする。 1 統治の機構においては、①独立の保障される司法部、②特別裁判所の禁止、③憲法条規の最高法規性の宣言がこれであり、 2 権利章典の部においては、①適正手続保障、②遡及処罰の禁止、③公正な裁判の保障等がこれである。 もっとも、こうした個別の条規を列挙することは、憲法と法の支配との関係を考えるにあたっては二次的な意味しかもたない。 教科書のなかには、法の支配について、(ア)憲法の最高法規性、(イ)基本権の尊重、(ウ)適正手続保障、(エ)司法審査制を列挙するものがある。 もしこの思考が法の支配の論拠を日本国憲法典に求めようとしているのであれば、ひとつの体系内に根拠を求める「自己言及のパラドックス」に陥ってしまっている。 もし論拠を示したものではなく、“法の支配がかような諸点に現れている”というのであれば、(イ)と(ウ)はダブルカウントであり、(エ)は法の支配の内在的な要請ではなく(英国には、司法審査制はない)、法の支配を有効にするための手段にすぎないことの説明に欠けている。 このように、憲法と法の支配との関係をみるとしても、要注意点は、《憲法典という実定化された法が法の支配にいう“法”ではない》ということである。 たしかに、憲法典は法の支配の理念を一部活かしている。が、しかし、「憲法典=法の支配」ではない。 (4) 法の支配と主権との関係 《法の支配は憲法典や主権をも統制する》とのテーゼを理解するためには、次の(ア)~(ウ)に留意しておかなければならない。 (ア) 一般の教科書によれば、国民主権にいう「主権」とは、憲法制定権力のことを指す。 (イ) 主権は、国制を意味する憲法を創出する力であり(憲法を作り出す力としての主権。以後、憲法制定権力を「制憲権」という)、憲法典は、この制憲権によって作り出される。 (ウ) [制憲権→憲法典]という理論上の順序関係を考えれば、憲法典によって主権を統制することはできない。 では、「憲法典によって主権を統制することはできない」とき、主権(制憲権)は何によって規範的な拘束を受けているのだろうか? 実体的正義論者は、自然法、人間の理性、人間の尊厳等をあげるだろう。これらの実体的要素はいずれも客観性に欠けるとみる批判的な論者であれば、「主権者の自己拘束だ」というかもしれない。 それらの解答を、私はいずれも受容しない。《主権を規範的に統制するもの、それが法の支配だ》、これが私の解答である。 法の支配にいう「法」とは、実定的な法ではなく、最低限の形式的正義のことだ、と私は理解している。 (5) 法の支配と法律との関係 法の支配は、先に触れたように、国民の主権や、国民代表機関である議会の権限(法律制定権)をも統制する理念である。 では、法の支配は、議会の立法権(法律制定権)をどのように統制するか?私のような、形式的正義論者は、こう解答するだろう。《議会が法律を制定するにあたっては、一般的普遍的な形式をもたせなければならない》。 この解答は、日本国憲法41条の「立法」の解釈に活かされるだろう。立法(法律)が一般的普遍的であるという形式を満たすとき、それは 第一に、 一定の要件を満たす限り誰に対しても適用されうるとする点で道徳的にみて正当であり、 第二に、 予見可能性・法的安定性を増すという点で経済的にみて合理的である。 法の一般性・普遍性とは、法規範の名宛人が事前に特定可能でないことをいう。法の支配にとって最も警戒され続けてきた点は、法が人的な属性に言及しながら、特定可能な人びとを特別扱いすることだった。 法の支配は、人的な特権を忌避して、誰であれ自分の限界効用を自由に(国家から公法規制や指令を受けないで)満足させてよい、とする思想でもあるのだ。 ※その他参照先 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)第一部 国家と憲法の基礎理論 第四章 立憲主義と法の支配 ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) 1 英米圏の標準的な理解では「法の支配」とは、①まず第一に「手続的正義・形式的正義」を中核とする法内在的正義の要請をいい、②配分的正義など「実質的正義」に関する要請は、あくまで周縁的に考慮されるに留まる。 2 次に、③「法の支配」がどのような働きを果たすのか、を考える機能的アプローチでは、それが「人の支配」ではないことから主権論との関係が問題となる。⇒「法の支配」は「特定の人の“意思”に基く支配」を拒絶しており、主権者(法=主権者意思説)と両立しない。(「君主主権」(君主一人の意思による支配)のみならず集合意思としての「国民主権」も原理的には「法の支配」と両立しない)。 では、特定の人の意思の産物ではない「法」とはいったい何なのか? ⇒ それは「ノモス(nomos 意図せざる人為の法)」つまり歴史的構築物としての「法」(自生的秩序の法)である。(すなわち、フュシス(physis, natural law 自然法)やテシス(Thesis 純然たる実定法)ではない) 1 では、①手続的・形式的正義に関する法準則が「法の支配」の中核要素である、と述べたが、③機能的アプローチでは、そうした形式を超える「何らかの実質的価値」を想定していることになる。 しかしそれでも、この場合の「実質的価値」は、左派系の正義論にありがちな、(1)人権保障、(2)憲法の最高法規性、といったものではなくて、ノモス概念としての「法」=特定の共同体で自生的に発展してきた慣習法であることから、実質的意味の憲法(国制)に接近する。 ⇒この③を、①の(狭義の)「法の支配」と区別して、「国体の支配」ないし「ノモスの支配(nomocracy)」と呼ぶべきである。 3 最後に、「法の支配」の「法」と、(a)実質的意味の憲法(国体法ないし国制)および、(b)形式的意味の憲法(憲法典)、との関係について整理する。 ①(狭義の)「法の支配」は、あくまで消極的に理解されるべき法理念(「~は法ではない」、という形式の言明で表現されるもの)であり、憲法を含めた立法全体に対する制限となるメタ・ルールであって、法規範ではない。 これに対して、③ノモスは、成文であれ不文であれ、「~は法である」という形式の言明で、一応は積極的に把握されうる法規範としての実体(substance)をもつもの、である。 さらに、テシスは、その定義から完全に積極的に把握できる成文法(実定法 positive law)である。 ■6.関連する用語 ほうち-しゅぎ【法治主義】 広辞苑 ① 人の本性を悪と考え、徳治主義を排斥して、法律の強制による人民統治の重要性を強調する立場。韓非子がその代表者。ホッブズも同様。 ② 王の統治権の絶対性を否定し、法に準拠する政治を主張する近代国家の政治原理 → 法の支配 ほうちしゅぎ【法治主義】rule of law(※注:原文ママ) 日本語版ブリタニカ 行政は議会において成立した法律によって行われなければならない、とする原則。 1 行政に対する法律の支配を要求することにより、 2 恣意的・差別的行政を排し、国民の権利と自由を保障することを目指したもので、立憲主義の基本原則の一つに挙げられている。この原則に基く国家を、法治国家という。 ほうち-こっか【法治国家】 広辞苑 国民の意思によって制定された法に基づいて国家権力を行使することを建前とする国家。①権力分立が行われ、②司法権の独立が認められ、③行政が法律に基いて行われる、とされる。法治国→ 警察国家 ほうちこっか【法治国家】Rechtsstaat 日本語版ブリタニカ 行政および司法が、あらかじめ議会の制定した法律によって行われるべきである、という法治主義の国家。すなわち、全国家作用の法律適合性ということが、法治国家の本質とされたのであるが、 1 その際、イギリス法の「法の支配」 rule of law と違い、 2 行政および司法が、国民の代表機関たる議会によって制定された法律に適合していればよい、 という形式的側面が重視された結果、法治国家論は、法律に基きさえすれば、国民の権利・自由を侵害してよい、という否定的な機能を果たし、法や国家の目的・内容を軽視する法律万能主義的な傾向を内包していた。 (1) 第二次世界大戦後、西ドイツは、この点に反省を加え、(a)立法・行政および裁判を直接に拘束する不可侵・不可譲の基本的人権を承認し、(b)これを確保するために憲法裁判所を設置して、これに法令の憲法適合性を審査する権限を与えた。 (2) 日本の場合も、憲法は、裁判所に、いわゆる法令審査権を与えている(81条)。 このようにして、 [1] 行政・司法が単に法律に適合している、という形式面のみならず、 [2] その法律の目的・内容そのものが、憲法に適合しなければならない、 という原則が確立され、それによって、いわば法治主義の実質的貫徹が期されている。 ■7.参考図書 『法の支配 - オーストリア学派の自由論と国家論』 (阪本昌成 著(2006年刊)) 『法とは何か - 法思想史入門』 (長谷部恭男:著(2011年刊)) ■8.ご意見、情報提供 名前 コメント ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/2034.html
改行ズレ/画像ヌケ等で読み辛い場合は、ミラーWIKI または図解WIKI をご利用ください 日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 ~ 長谷部恭男(東大法学部教授(憲法学))『法とは何か』p.149 要旨■日本の憲法学の教科書にありがちな諸々の理想のごった煮的な意味内容ではなく、本家である英米法の本来の用法に合致した意味内容で「法の支配」という言葉を理解すべきである。 ※本ページが難しい方は、まず リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配をご覧下さい。 <目次> ■1.このページの目的 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明◆1.日本の辞書による定義 ◆2.英米圏の辞書による定義 ■3.「法の支配」理念の整理◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 ◆2.「法の支配」理念整理表 ◆3.主権論と「法の支配」 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) ■6.関連用語 ■7.参考図書 ■8.ご意見、情報提供 ■1.このページの目的 多くの憲法学や法理学(法哲学)の教科書では、憲法の基本原理ないし中核的法理念として「法の支配(rule of law)」という用語が強調されている。 しかし、この「法の支配」の意味内容は、論者によって全くバラバラで不明瞭であって、特に日本では「法の支配」の本家である英米圏での標準的な用法とは懸け離れた意味でこの言葉が使用されるという問題ケースが多く見受けられる。 このページでは、この「法の支配」理念について、①正義論および②主権論との関係に留意しながら整理し明晰化していく。 ※なお「概念(concept)」は「~はどうあるか」(⇒ 概念論)、「理念(ideal)」は「~はどうあるべきか」(⇒ 理念論)という意味であるが、以下の文章では両者の使い分けは厳密でないことに注意。 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明 ◆1.日本の辞書による定義 ※関連する人名を含む ほう-の-しはい【法の支配】 (rule of law) 広辞苑 イギリスの法律家コークが、国王は神と法の下にあるべきである、として、ジェームズ1世の王権を抑制して以来、「人の支配」に対抗して認められるようになった近代の政治原理。コークのいう法は、イギリスの判例法で、立法権をも抑制する点で、法治主義とは異なるが、後に法治主義と同義に用いることもある。 ほうのしはい【法の支配】 rule of law 日本語版ブリタニカ 法至上主義的な思想、原則。 (1) どんな人でも、通常裁判所が適用する法律以外のものに支配されない、あるいは、 (2) 被治者のみでなく、統治者・統治諸機関も、法の支配に服さなければならぬ、とする、「法のもとにおける統治」の原理。 イギリスの伝統に根ざす思想であり、自然法思想にも淵源をもつ、法の権力に対する優位性の主張である。 A.ダイシーは、その著『憲法入門』(1885)のなかで、①議会主権と、②法の支配、がイギリスの2大法原理である、としたが、 1 ここから、人間とその自由を権力から守るイギリス型法治主義の原則が確立され、 2 アメリカにおいては、司法権優越の原理を生んだ。 20世紀に入り、経済・社会情勢の著しい変化につれ、伝統的な法支配の原則に対するいろいろな批判も起っている。 コーク【Edward Coke】 広辞苑 イギリスの法律家。権利請願の起草者。13世紀の法律家ブラクトン(H. Bracton ~1268)の著述を引用して「法の支配」(rule of law)を説いたことでも名高い。(1552~1634) ブラクトン Bracton, Henry de 日本語版ブリタニカ [生] 1216 デボン? [没] 1268 エクスター/デボン? イギリスの法律家、裁判官。ときにはイギリスの中世で最も偉大な法律家といわれる。 本名はブラットン Braton であったが、死後ブラクトンの名で伝わる。法律家として名が現れるのは、1245年以降で、48~68年に南西諸県、ことにサマーセット、デボン、コーンウォールで巡回裁判所の判事を務めた。 ローマ法・教会法に造詣が深く、50~56年に中世イギリス法を集大成した『イギリス法律慣習法』 De Legibus et Consuetudinibus Angliae は有名。 同書中の「王もまた神と法の下にある」という言葉は、法の支配原理の象徴的言辞として、しばしば引用されている。 ※この様に日本の辞典類では「法の支配」について割と簡潔な記述しかないが、英米圏ではだいぶ認識が違っているようである。 ◆2.英米圏の辞書による定義 rule of law collins The rule of law refers to a situation in which the people in a society ①obey its laws and ②enable it to function properly. (翻訳) 法の支配とは、ある社会における人々が、①その諸法を遵守しており、かつ、②社会を適切に機能させている、状況をいう。 ※残念ながら、 Britannica Concise Encyclopedia および Oxford Dictionary of English には rule of law の項目がないため、英文wikipedia(2014.3.15時点) で代用する。 rule of law 英文wikipedia The rule of law (also known as nomocracy) primarily refers to the influence and authority of law within society, especially as a constraint upon behavior, including behavior of government officials.The phrase can be traced back to the 16th century, and it was popularized in the 19th century by British jurist A. V. Dicey. The concept was familiar to ancient philosophers such as Aristotle, who wrote "Law should govern".Rule of law implies that every citizen is subject to the law, including law makers themselves.It stands in contrast to the idea that the ruler is above the law, for example by divine right. Despite wide use by politicians, judges and academics, the rule of law has been described as "an exceedingly elusive notion" giving rise to a "rampant divergence of understandings… everyone is for it but have contrasting convictions about what it is." At least two principal conceptions of the rule of law can be identified a formalist or "thin" definition, and a substantive or "thick" definition. ① Formalist definitions of the rule of law do not make a judgment about the "justness" of law itself, but define specific procedural attributes that a legal framework must have in order to be in compliance with the rule of law. ② Substantive conceptions of rule of law go beyond this and include certain substantive rights that are said to be based on, or derived from, the rule of law. HistoryAlthough credit for popularizing the expression "the rule of law" in modern times is usually given to A. V. Dicey, development of the legal concept can be traced through history to many ancient civilizations, including ancient Greece, China, Mesopotamia, India and Rome. (1) AntiquityIn Western philosophy, the ancient Greeks initially regarded the best form of government as rule by the best man.Plato advocated a benevolent monarchy ruled by an idealized philosopher king, who was above the law. Plato nevertheless hoped that the best men would be good at respecting established laws, explaining that "Where the law is subject to some other authority and has none of its own, the collapse of the state, in my view, is not far off; but if law is the master of the government and the government is its slave, then the situation is full of promise and men enjoy all the blessings that the gods shower on a state." More than Plato attempted to do, Aristotle flatly opposed letting the highest officials wield power beyond guarding and serving the laws. In other words, Aristotle advocated the rule of law It is more proper that law should govern than any one of the citizens upon the same principle, if it is advantageous to place the supreme power in some particular persons, they should be appointed to be only guardians, and the servants of the laws.According to the Roman statesman Cicero, "We are all servants of the laws in order that we may be free." During the Roman Republic, controversial magistrates might be put on trial when their terms of office expired. Under the Roman Empire, the soverign was personally immune(legibus solutus), but those with grievances could sue the treasury. (omission) (2) Modern timesAn early example of the phrase "rule of law" is found in a petion to James Ⅰ of England in 1610, from the House of Commons Amongst many other points of happiness and freedom which your majesty s subjects of this kingdom have enjoyed under your royal progenitors, kings and queens of this realm, there is none which they have accounted more dear and precious than this, to be guided and governed by the certain rule of the law which giveth both to the head and members that which of right belongeth to them, and not by any uncertain or arbitrary form of government … In 1607, English Chief Justice Sir Edward Coke said in the Case of Prohibitions(according to his own report) "that the law was the golden met-wand and measure to try the causes of the subjects;and which protected His Majesty in safety and peace with which the King was greatly offended, and said, that then he should be under the law, which was treason to affirm, as he said; to which I said, the Bracton saith, quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(That the King ought not be under any man but under God and the law.)." Meaning and Categorization of interpretationsDifferent people have different interpretations about exactly what "rule of law" means. According to political theorist Judith N. Shklar, "the phrase the rule of law has become meaningless thanks to ideological abuse and general over-use, but neverthless this phrase has in the past had specific and important meanings. Among modern legal theorists, most views on this subject fall into three general categories the formal(or "thin") approach, the substantive(or "thick") approach, and the functional approach.The "formal" interpretation is more widespread than the "substantive" interpretation. 1 Formalists hold that the law must be prospective, well-known, and have characteristics of generality, equality, and certainty. Other than that, the formal view contains no requirements as to the content of the law. This formal approach allows laws that protect democracy and individual rights, but recognizes the existence of "rule of law" in countries that do not necessarily have such laws protecting democracy or individual rights. 2 The substantive interpretations holds that the rule of law intrinsicaly protects some or all individual rights. 3 The functional interpretation of the term "rule of law", consistent with the traditonal English meaning, contrasts the "rule of law" with the "rule of man".According to the functional view, a society in which government officers have a great deal of discretion has a low degree of "rule of law", whereas a society in which government officers have little discretion has a high degree of "rule of law". The rule of law is thus somewhat at odds with flexibility, even when flexibility may be preferable. The ancient concept of rule of law can be distinguished from rule by law, according to political science professor Li Shuguang "The difference … is that, under the rule of law, the law is preeminent and can serve as a check against the abuse of power. Under rule by law, the law is a mere tool for a government, that suppresses in a legalistic fashion." (omission) (翻訳) 法の支配(それはまたノモクラシーとしても知られている)とは、第一に社会における法の影響力や権威、特に政府当局の行為を含む行為の抑制に関して謂われるものである。このフレーズは16世紀に遡ることができ、19世紀に英国の法律家A. V. ダイシーによって一般に知られるようになった。この概念は、「法が統治すべきである」と書いたアリストテレスのような古代の哲学者達にお馴染みのものだった。 法の支配は、法の作成者も含めて、全ての市民が法に従うことを含意する。それは、王権神授説の例のような、支配者は法の上位にある、とする観念とは対照的である。 政治家・判事・学者によって広く使用されているにも関わらず、法の支配は「誰もが承知するが、しかし、それが何であるかについて対照的な信念しかもっていない・・・収拾がつかないほど多様な諸理解」を惹起する「非常に捉えどころにない観念」として説明されてきた。 少なくとも法の支配について2つの主要な概念解釈(conception)を特定することが可能である:すなわち、①形式的ないし「薄い」定義と、②実質的ないし「濃い」定義、である。 ① 法の支配の形式的定義(definition)は、法の「正当性」自体を判定することはないが、ある法的枠組みが法の支配に適合するといえるために必ず保持しなければいけない特定の手続的属性を定義している。 ② 法の支配の実質的概念解釈(conception)は、それ(形式的定義)を超えて、法の支配がそれに依拠しており、その派生源となっている、ある特定の実質的諸権利を内包する。 歴史近代における「法の支配」という表現の一般的認知は通常A. V. ダイシーの功績であるが、その法的概念の発達自体は、古代ギリシア・チャイナ・メソポタミア・ローマを含む多くの古代文明の歴史上に見出すことが可能である。 (1) 古代西洋哲学では、古代ギリシアにおいて、当初は、政府の最善の形態は、最良の人物による支配だ、と見なされていた。 プラトンは、法を超越する理想的な哲人王による、慈悲深い君主制を唱導した。 プラトンは、それでもなお、最善の人物達が確立された諸法を上手く尊重していくことに期待を寄せて、以下のように解説している。 「法が他の何らかの権威に服しており、何らそれ自体の内容を持たないところでは、私見では、国家の崩壊はそう遠くない。 しかし、もし、法が政府の主人であり、政府が法の僕(しもべ)であるならば、その場合は、状況は希望に満たされており、人々は神々が国家に降り注ぐあらゆる祝福を享受する。」 プラトンの企図をさらに超えて、アリストテレスは、最高位の当局者達が法が保護し奉仕する範囲を超えて権力を行使することに、きっぱりと反対した。 すなわち、アリストテレスは、法の支配を(以下のように)唱導した。法が統治することが、市民のうちの誰(が統治すること)よりも、より適切である。 同様の原理に則り、もし、ある特定の人物達への最高権力の付与が好都合である場合には、諸法の保護者達および奉仕者達だけが、その任を与えられるべきである。 ローマの政治家キケロによれば、「我々が全員、法に奉仕するのは、我々が自由であらんが為である。」ローマ共和制の期間、嫌疑のかかった執政官達は、彼らの任期が終了したときに、たいてい査問にかけられた。 ローマ帝制下では、統治者は個人としては不可侵(無答責)であったが、しかし不平を持つ人々は国費で訴訟を起こすことが可能だった。 (中略) (2) 近代「法の支配」という文句の初期の使用例の一つは、1610年のイングランドで、庶民院がジェームズ1世に対して行った請願の中に見出される。この王国の陛下の臣民が、この王室の諸祖先・この王国の諸王・諸女王の下で享受してきた諸々の幸福と自由のあらゆる諸点の中でも、以下の事柄以上に彼ら(臣民)が愛着を示し大切に抱き続けてきたものは他にありません。すなわち、(彼らは)主長と構成員の双方に、どの権利が彼らに帰属しするかを決め与える、ある特定の「ルール・オブ・ザ・ロー(rule of the law ※原文ママ)」によって道を示され統治されるのであり、そして如何なる不確実または恣意的な形態の政府によって統治されるのではない、ということ。1607年、イングランドの主席裁判官エドワード・コーク卿は、禁止令状事件において、(彼自身の報告によれば)以下のように発言した。 「法とは、臣民達の訴訟を審理し、陛下を安全に保護するところの黄金の超越的杖であり物差しである。そして、それは陛下の安全と平和を保護する。」 それに対して国王は非常に立腹して曰く「ならば余は法の下にあるべきことになるが、その断言は反逆罪である」と。 それに応えて曰く、「ブラクトンは「quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(国王は何人の下にもあるべきでないが、神と法の下にあるべきである)」と云った、と」 意味と解釈カテゴリー「法の支配」が正確には何を意味するか、について人々は全く異なった解釈を持っている。 政治理論家ジュディス・N・シュクラーによれば、「イデオロギー的誤用と一般的濫用のせいで、『法の支配』という文句は無意味なものとなったが、それにも関わらず、この文句は過去において、特有かつ重要な幾つかの意味を持ち続けてきた。」という。近代の法理論家達の間で、このテーマに関する大方の見解は3つの一般的なカテゴリーに識別される。すなわち、①形式的(ないし「薄い」)アプローチ、②実質的(ないし「濃い」)アプローチ、そして③機能的アプローチ、である。①「形式的」解釈は、②「実質的」解釈よりも、より広く受け入れられている。 1 ①形式主義者達は、法は、(a)予見可能で、(b)公知であり、そして(c)一般性/一様性/確実性という諸特性をもたねばならない、と考えている。 それ以外には、①形式的見解は、法の内実という点に関しては何の要求事項も持っていない。 この①形式的アプローチは、デモクラシーと個人の諸権利を保護する諸法を許容するが、デモクラシーや個人の諸権利を保護するそうした諸法を必ずしも持たない諸国においても「法の支配」が存在する(と想定する見解である)と受け止められている。 2 ②実質的な諸解釈は、法の支配は幾つかの、または全ての個人の諸権利を実質的に保護している、と考えている。 3 「法の支配」という用語の③機能的解釈は、伝統的な英語の意味に合致しており、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」と「ルール・オブ・マン(人の支配)」とを対照的に説明する。③機能的見解によれば、政府職員が非常に大きな裁量権を保持している社会では「法の支配」は低い水準にあり、その一方で、政府職員が小さな裁量権しかもたない社会では「法の支配」は高い水準にあることになる。 法の支配は、このように柔軟性を持つ点で-たとえ、その柔軟性が好ましい場合があるとしても-何かしら中途半端(な言葉)である。 政治科学教授リー・シャガンによれば、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」という古代の概念は、以下の点で「ルール・バイ・ロー(法による支配)」と区別することができる。すなわち「その違いは・・・ルール・オブ・ロー(法の支配)の下では、法は卓越しており、権力の悪用に対する歯止めとして役立てることが可能である。ルール・バイ・ロー(法による支配)の下では、法は、法的な趨勢を抑制する単なる政府の道具である。」(以下省略) ※このように英米圏では、「法の支配」について、①形式的アプローチ、②実質的アプローチ、③機能的アプローチという3様のアプローチが区別されている。このうち①②は正義論(法価値論)に関係するアプローチであり、③は主権論に関係するアプローチである。 ※以下、順に「法の支配」理念について整理していく。 ■3.「法の支配」理念の整理 ◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 政治思想・政治哲学の根本的価値が「自由(freedom/liberty)」という言葉で表現されるように、 法思想・法哲学の根本的価値は「正義(justice)」という言葉で伝統的に表現されてきた。 そこでまず、この「正義」概念を整理し、「法の支配」理念(①形式的および②実質的アプローチ)との関係を考察していく。 ※参考ページ 正義論まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 ほうかちろん【法価値論】legal axiology 日本語版ブリタニカ 法的な価値について考察する研究分野。法的な価値は正義という言葉で表現されることが多いから、正義論といってもよい。 古代ギリシア以来、法哲学の主要分野をなしてきたが、最近は、①規範的倫理学と、②分析的倫理学の区別に対応して、①規範的法価値論と②分析的法価値論(メタ法価値論)とが明確に区別されるようになった。 せいぎ【正義】 広辞苑 ① [荀子(正名)]正しいすじみち、人がふみ行うべき正しい道。「-を貫く」 ② [漢書(律暦志上)]正しい意義または注解。「尚書-」 ③ (justice) (ア) 社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。 これを単に形式的なものと見るマルキシズムは、真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張するが、現在ではイデオロギーを超えた正義が模索されている。 (イ) 社会の正義に適った行為をなしうるような個人の徳性。 せいぎ【正義】justice 日本語版ブリタニカ 人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値。 . 善(※注: agothos, bonum, good)と同義に用いられることもあるが、 (1) 善が、主として人間の個人的態度にかかわる道徳的な価値を指すのに対して、 (2) 正義は、人間の対他的関係の規律にかかわる法的な価値を指す。 . 正義とは何か、という問題については、古来さまざまな解答が示されてきたが、一般的な価値ないし価値基準に関する見解と同様に 1 正義を客観的な実在と考える客観主義的・絶対主義的正義論と、 2 正義を主観的な確信と考える主観主義的・相対主義的正義論とに大別できよう。 法思想の領域では、だいたいにおいて、自然法論が 1 前者に、法実証主義が 2 後者に、属する。 . 従来の正義論のうちでは、アリストテレスやキケロの見解が名高く、与えた影響も大きい。 (ア) アリストテレスは、道徳と区別される正義(特殊的正義)について、①配分的正義と、②交換的正義(平均的正義、調整的正義とも訳される)とを区別し、 ① 前者は、公民としての各人の価値・功績に応じて、名誉や財貨を配分することにおいて成立し、 ② 後者は、私人としての各人の相互交渉から生じる利害を平均・調整することにおいて成立する、とした。 (イ) キケロは、この①配分的正義と同様な内容を、「各人に彼のものを」という公式で表現した。 ※サイズが合わない場合はこちら をクリック。 こうした「正義」概念に基く法理念・法思想を、英米圏では一般に「法の支配(rule of law)」と呼んでいる。 ◆2.「法の支配」理念整理表 ※サイズが合わない場合はこちら をクリック。 ◆3.主権論と「法の支配」 伝統的な意味での「法の支配」理念(③機能的アプローチ)は、「人の支配(= 特定者の意思に基く統治)」を拒絶することから、「国民主権」「人民主権」といった「主権論(= 主権者の意思に基く統治原理)」と両立しない。 ⇒ 従って、「法の支配」を認める場合は、 ① 日本国憲法の「国民主権」規定に関して、「主権者意思説」以外の立場から解釈する必要が生じ、さらに、 ② 今後目指される憲法改正ないし新憲法制定に際しては、現行憲法にあるような主権者意思としての「国民主権」を連想させる文言は厳しく排除することが望まれる。 ↓詳しい説明はここをクリックして表示/非表示切り替え +... 歴史主義・伝統主義 (英米法) 反歴史主義・リセット主義 (大陸法) 権利の本質 人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として歴史的権利を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場 人間は自然状態において、生来的に自然権(natural right)を有していたが、社会契約(social contract)を結んで自然権を一部または全部放棄し、人定法(実定法:positive law)を定めた、とする立場 法の本質 法は特定の共同体の中で人々の社会的ルールとして自生した(特定の人物の意思によらずに時間をかけて次第に生成されてきた)(法=社会的ルール説)(★注3)⇒この立場は、真の法=ノモス(個別の共同体毎に自生的に発展してきた人為的ではあるが特定の意思によらざる法)とする見解と親和的である。 法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(法=主権者意思[命令]説)(★注1、★注2)⇒この立場には、①真の法=理性から演繹された自然法(フュシス)とする近代的自然法論、および、②真の法など存在せず主権者の意思・命令としての人為法があるのみとする純然たる法実証主義、の2通りの見解がある。 誰が法を作るのか 法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(経験主義、批判的合理主義)⇒「法は“発見”するもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を否認(特定時点の世代の人々が制定できるのは原則として「憲法典(形式憲法)」迄であって、「国制(実質憲法)」は世代を重ねて徐々に確立されていくものに過ぎない) 法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(設計主義的合理主義)⇒「法は“主権者”が作るもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を肯定(特定時点の世代の人々は「憲法典(形式憲法)」のみならず「国制(実質憲法)」をも意図的に確立することが可能である) 補足 共同体毎に個別的→共同体に固有の「国民の権利」と「一般的自由」の二元論と親和的価値多元的・相対主義的、帰納的、保守主義・自由主義・非形而上学的な分析哲学と親和的法の支配ないし立憲主義と順接 全人類に普遍的→共同体や歴史的経緯を超える普遍的な人権イデオロギーと親和的絶対主義的(但し価値一元的な傾向と価値相対主義的な傾向との両面がある)演繹的、急進主義・全体主義・形而上学的な観念論哲学と親和的国民主権や法治主義と順接 実例 英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。大日本帝国憲法(明治憲法)も日本の歴史的伝統を重んじる形で当時としては最大限に熟慮を重ねて制定された フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)※但し“解釈”により日本の歴史・伝統を過剰に毀損しない慎重な運用が為されてきた 主な提唱者 コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトンなお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ハート ホッブズ、ロック、ルソーなお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック (★注1)「法=主権者意思[命令]説」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。 ① 君主主権 君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。 ② 人民主権 君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=プープル主権説)。ルソーの社会契約説が代表例。 ③ 国民主権 君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一とする者が多い)。なお国民主権の具体的意味については、(1)最高機関意思説と、(2)制憲権(憲法制定権力)説が対立しており、さらに(2)は、 1 ナシオン主権説と 2 プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。一般的に国民主権という場合は、 1 ナシオン主権説(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。 ④ 議会主権 英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における国王/女王(the king/queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論 ⑤ 国家主権 帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」が主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である ⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、大日本帝国憲法(明治憲法)は制定時において明確に歴史主義の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば ⑥ “法”主権 つまり「法の支配」・・・歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束するという立場だった。 ⇒なお、大正デモクラシー期には、ドイツ法学の「⑤国家主権説」を直輸入した美濃部達吉の「天皇機関説」が通説となり、それがさらに天皇機関説事件によっていわゆる①君主主権説に転換したのは昭和10年(1935年)以降の僅か10年間である。 (★注2)「法=主権者意思[命令]説」は、法を特定の立法者/思想家の価値観(例:カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想や自然法論・人権論)あるいは政治イデオロギー(例:マルクス主義やナチス期ドイツ思想)に還元してしまう危険が高く、全体主義への接近を許してしまう。 ※以下、「法=主権者意思[命令]説」の法体系モデル。 ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) (★注3)「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1960年以降にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。 ※以下、「法=社会的ルール説」の法体系モデル。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照。 ※サイズが画面に合わない場合はこちら 及びこちら をクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※なお、自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ 国家解体思想の正体 参照 ※(補足説明)ハートの法=社会的ルール説のいう「ルール(rule)」という用語は、図にあるように、①事実(外的視点からの捉え方)と②規範(内的視点からの捉え方)の二重構造(=観測者から見れば①事実(社会的事実)だが、法共同体の構成員から見れば②規範だ、という③第3のカテゴリー)になっている、という独特の意味で使用されており、①事実と②規範を峻別する方法二元論(ケルゼンら新カント学派の方法論)と大きく異なっている点に注意(→こうした①事実でもあり②規範でもある③第3のカテゴリーの導入によって、ハート理論は「単なる①事実(=認識)から、なぜ②規範(=価値判断)が生まれるのか」という難問のクリアを図っている)。 ※参考ページ 主権論と法の支配の関係 リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解 ※整理表を作成するに当たって参照した著名論者の見解を比較します。 ◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) p.13以下 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配 近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするが、この立憲主義思想は法の支配(rule of law)の原理と密接に関連する。 1. 法の支配 法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。それは、専制的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。 ジェイムズ一世の暴政を批判して、クック(Edward Coke, 1552-1634)が引用した「国王は何人の下にもあるべきでない。しかし神と法の下にあるべきである」というブラクトン(Henry de Bracton, ?-1268)の言葉は、法の支配の本質をよく表している。 法の支配の内容として重要なものは、現在、 ① 憲法の最高法規性の観念 ② 権力によって侵されない個人の人権 ③ 法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law) ④ 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重 などだと考えられている。 2. 「法の支配」と「法治国家」 「法の支配」の原理に類似するものに、《戦前の》ドイツの「法治主義」ないしは「法治国家」の観念がある。この観念は、法によって権力を制限しようとする点においては「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、少なくとも、次の二点において両者は著しく異なる。 (一). 民主的な立法過程との関係 第一に、「法の支配」は、立憲主義の進展とともに、市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図ること、従って権利・自由を制約する法律の内容は国民自身が決定すること、を建前とする原理であることが明確となり、その点で民主主義と結合するものと考えられたことである。 これに対して、戦前のドイツの法治国家(Rechtsstaat)の観念は、そのような民主的な政治制度と結びついて構成されたものではない。もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものに過ぎない。従って、それは、如何なる政治体制とも結合し得る形式的な観念であった。 (ニ). 「法」の意味 第二に、「法の支配」に言う「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも固く結びつくものであったことである。 これに対して、「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることが出来る容器のような)形式的な法律に過ぎなかった。そこでは、議会の制定する法律の中身の合理性は問題とされなかったのである。 もっとも、《戦後の》ドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から《実質的法治国家》へと移行しており、法治主義は英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.24~ (イ) 法の支配 a) 「法の支配」の二つの要請 「法の支配」は「人の支配」に対する概念で、人によるその場その場の恣意的な支配を排除して、予め定められた法に基づく支配によって自由を確保することを目的とする。 法の支配により自由を実現するためには、 まず第一に、 自由を保障するような内容の法(正しい法)を制定することが必要であり、 第二に、 その法を忠実に適用し執行することが必要である。 法の忠実な執行という要請を実現するために、法を制定する権力(立法権)と執行する権力(執行権)と法の争いを裁定する権力(裁判権)を分離し異なる機関に授けるという考えが生ずるが、これが後述する権力分立の原理である。執行権は、立法権がつくった法律を忠実に解釈適用し執行していく義務を負い、忠実に執行しているかどうかが争いになったときには、裁判所が判断するという体制である。 では、正しい法の制定という要請を実現するにはどうしたらよいか。 一つは、 法律の制定に抑制・均衡(checks and balances)のメカニズムを組み込む方法がある。チェック・アンド・バランスも権力分立の内容をなすが、たとえば議会を二院制にして法律の制定には両院の合意が必要であるとしたり、国王あるいは大統領の拒否権や裁可権を認めたり、さらには、裁判所に法律の合憲性の審査権を与えたりして、複数の機関の合意と均衡が形成された場合しか法律の制定はできないようにし、このチェック・アンド・バランスによって法律の内容が行き過ぎるのを阻止し、法律の「正しさ」を確保しようとするものである。 もう一つは、 法律の制定に国民の同意を得るという方法である。これも後述の国民主権の原理と表裏の関係にある問題であるが、国民の権利を制限するような法律を制定する場合には、少なくとも国民を代表する議会の同意を必要とすることにして、法律の内容の「正しさ」を確保しようとするのである。 現実には、この二つの方法を組み合わせて、法律の内容が自由を侵害するものとならないよう配慮している。 その具体的ありようは国により異なるが、それを支えている理念は権力分立(抑制・均衡)と国民主権である。 このように、法の支配は権力分立と国民主権の原理に密接に結びついているのである。 b) 裁判所の役割 正しい法律が制定されれば、その忠実な執行を確保すればよく、このために最も重要な役割を果たすのが裁判所である。 近代において法の支配の観点から最も重視されたのは、絶対王政を倒して国王の権力を法律の下に置くことであったから、法の支配は国王のもつ執行権(行政権)を法律に従わせることの確保を中心に制度化が構想され、その結果、国王から独立の裁判所が行政の法律適合性を裁定するという体制が目指された。 この場合、この裁定の任にあたることになったのが、イギリスのように「通常裁判所」(司法裁判所あるいはコモン・ロー裁判所とも呼ばれる)のこともあれば、フランスやドイツのように、通常裁判所とは別系統の「行政裁判所」を生み出していった国もあった。 法の支配を徹底するためには、行政が法律に従っていることを確保するだけでは不十分である。 法律が憲法に違反していないかどうかを独立の裁判所が判断する制度を実現する必要がある。しかし、それが実現するのは、一般には現代に入ってからであり、近代の段階では、このような違憲審査制度は、唯一アメリカ合衆国において採用されていたにすぎない。 したがって、国民の権利が現実にどの程度保障されるかは、どのような内容の法律が制定されるかに依存することとなった。 イギリスでは、法的には国会主権の原理がとられ、法律が最高の力をもつとされたが、法思想としては中世以来の、国王も議会も拘束される「高次の法」が存在するという観念が強固に生き残り(*)、国民の権利を侵害するような法律がつくられることに阻止的に働いた。 フランスでも、国民主権の下に国民を代表する議会が優位する体制が確立し、法律(議会)が志向の力をもったが(**)、市民階級の成熟とともに選挙権が拡大され、第三共和政期には議会が国民の意思を反映するようになり、法律が国民の権利を侵害することは少なくなったといわれる。これに対し、ドイツでは、市民階級の成熟が遅れ議会が力をもつに至らず、「法律に基づく行政」の原理が法律の内容・実質を問わないものと理解されるようになり、たとえ権利を制約するような法律でも、行政がそれに従ってなされる限り、「法治国家」(Rechtsstaat)が存在するとされた。 これを「形式的法治国家」と呼んでいる。 (*)イギリスのルール・オブ・ロー(rule of law)イギリスの法の支配の特徴を定式化したダイシー(Albert Venn Dicey, 1835-1922)は、法の支配を国会主権と並ぶイギリス憲法の基本原理として提示し、この法の支配は判例法(コモン・ロー)と制定法から成る「正規の法」(regular law)の支配として確立されたと説明している。重要なのは、コモン・ローが具体的事件の中で発見された正義(理性)と観念されたのみならず、制定法も類型的事例に関して一般的抽象的に発見された正義と観念されていたということであり、法の支配が究極的には社会の中で妥当している「高次の法」の支配と考えられたことである。 (**)フランスにおける「法律適合性の原理」(principe de Legalite)1789年のフランス革命は、国民主権を宣言し、主権者国民を代表する国民議会を「主権的意思(一般意思)」の表明」としての法律の制定権者とし、執行権の役割を法律の執行に限定した。この結果、執行権の行為は厳格に法律に従うことを求められた。この原理を「法律適合性の原理」と呼び、かかる国家体制を「法律適合性国家」(Etat legal)と呼ぶ。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.387~ (1) 法の支配の目的と構造 法の支配は、支配者の恣意的で気まぐれな支配を意味した「人の支配」を否定するために主張された観念であった。人の支配は、権力がどのように行使されるかの予測を困難にし被治者の地位を不安定にする。 そこで、被治者の安定した地位と権利を保障することを目的に、法の支配が求められたのである。支配者の意思からは独立に予め存在する法に従って支配(権力の行使)が行われること、これが法の支配の要求であった。ゆえに、法の支配を制度として確立するためには、まず第一に、権利を保障した内容をもつ「法」の確立が必要であり、第二に、支配が法に従って行われているかどうかを裁定する中立的な機関が必要である。立憲君主政において立法権(議会)と司法権(裁判所)が君主の権力から分離・独立したのは、権利保障のための法の支配の確立という観点からはきわめて自然な展開であり、18世紀イギリスの立憲君主政がモンテスキューの三権分立論の基礎となったのもこの観点から理解できる。 国民主権モデルにおいては、この論理はさらに発展し、法の支配の制度化の論理として「法の段階構造」が形成される。 つまり、法はその定立機関との関連でいくつかの法形式に分化され、法形式間に効力の上下関係が設定されて、下位の法形式は上位の法形式に自己の根拠をもたねばならず、上位の法形式に違反してはならないとの原則が確立されるのである。日本国憲法においては、基本的には、「憲法→法律→命令(政令→府・省令、規則)」という段階構造が形成されている。 それぞれの法形式は法定立機関の違いに対応しており、下位の法形式を上位の法形式の「執行」と捉えると、法定立機関と法執行機関が分離されていることが重要である。 そして、下位の法形式が上位の法形式に違反していないかどうかを、中立的な第三者機関としての裁判所が審査することにより、法の支配の実現が期されているのである。 支配(政治)を法に服せしめるには、政治活動を法的行為・法形式へと「翻訳」しなければならない。法の言葉に移し換えることにより、政治を法の論理の中に取り込み法による枠づけが可能となるのである。 政治は、法の衣をまとい、法の段階構造の中で法の論理を使って自らを正当化しなければならず、その正当化が受け入れられうるものかどうかが中立的な裁判所により判断される。 これが法の支配の基本構造である。 それは、ある意味では、「目的-手段」思考の政治を「要件-効果」へと枠づける操作ということができよう。 LEC『C-Book 憲法Ⅰ《総論・基本的人権》』 p.35~ 法の支配 1.はじめに 定義: すべての国家権力が正しい法に拘束されるという原則 ← 人の支配 → 正しい法(正義の法)に基く支配(法の内容を問題にする) → 国民の権利、自由を保障することが目的 → 英米法系(イギリス、アメリカ)の国々で発達 2.法の支配の内容 (1) 個人の人権保障 (2) 憲法の最高法規性の承認(憲法は行政権のみならず立法権をも拘束する) (3) 手続の適正を要求する(適正手続 = due process of law) (4) 裁判所の役割の重視(最高法規性の担保) 3.日本国憲法における法の支配の現れ 「正しい法 = 憲法」によって「法の支配 = 憲法による支配」 ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) 長谷部恭男『法とは何か』(2011年刊) p.148-9 法の支配という概念もいろいろな意味で使われます。ときには、人権の保障や民主主義の実現など、あるべき政治体制が備えるべき徳目のすべてを意味する理念として用いられることもありますが、こうした濃厚な意味合いで使ってしまうと、「法の支配」を独立の議論の対象とする意味が失われます。 法の支配は人の支配と対比されます。ある特定の人(々)の恣意的な支配ではなく、法に則った支配が存在するためには、そこで言う「法」が人々の従うことの可能な法でなければなりません。そのために法が満たすべき条件として、次のようないくつかの条件が挙げられてきました。・・・(中略)・・・。こうした、法の公開性、明確性、一般性、安定性、無矛盾性、不遡及性、実行可能性などの要請が、法の支配の要請と言われるものです。 日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 長谷部恭男『憲法 第5版』(2011年刊) p.xxx 1.2.5 法の支配 法の支配は、国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することにより、国民の自由を保障しようとする理念である。 △ 法の支配の内容 「人の支配」ではなく、「法の支配」を実現するためには、何よりもそれが従うことの可能な法でなければならず、法に基づいて社会生活を営むことが可能でなければならない。そのためには、①法が一般的抽象的であり、②公示され、③明確であり、④安定しており、⑤相互に矛盾しておらず、⑥遡及立法(事後立法)が禁止され、⑦国家機関が法に基づいて行動するよう、独立の裁判所によるコントロールが確立していること、が要請される(長谷部 [2000] 第10章)。このような法の支配の要請は、法令の公布に関する規定(憲法7条1号)や憲法41条の「立法」の概念、司法の独立(憲法76条以下)の他、憲法31条以下の諸規定に具体化されている(8.3.2. (3) 【法の支配との関係】 参照)。 △ 「善き法」の支配 法の支配は、「善き法」の支配と同視されることがある。 形式的法治国と実質的法治国の概念を対置し、法の支配を後者と同視する考え方もその一例である。また、個人の尊厳や基本的人権の保障、国民主権など、近代立憲主義の諸要請がすべて法の支配に含まれるとする者もいる。 しかし、このように法の支配を濃厚な意味で理解してしまえば、この概念を独立に検討する意義は失われる。 確かに、法の支配の内容とされる法の一般性・抽象性・明確性・安定性、および遡及立法の禁止は、法が法として機能するための、つまり法が人の行動の指針として機能するための必要条件である。立法が個別的にしかも事後的に為され、法の文言も不明確であり、しかも朝令暮改のありさまでは、人々は国家機関の行動について如何なる予測を立てることもできず、そのため法に従って行動することは不可能となるであろう。 しかし、人種差別立法や出版物の検閲制度を設定する法も、やはり法として機能するためには、これらの特徴を備えている必要がある。 これらの特徴はいずれもそれ自体としては、悪法の支配とも十分に両立し得る。また、前述のような法の支配の内容は、法が民主的に定められるか否かとは関係がない。 法が法として機能するために、今掲げたような幾つかの条件が必要であることが、法と道徳との必然的なつながりを意味するといわれることもあるが、これも誤りである。 切れ味の良いことがナイフの道徳性を示していないのと同様、法が法として機能するための条件を備えていることは、法の道徳性を示していない。 今述べたとおり、きわめて不道徳な目的を持つ法も、法として機能するためには、このような条件を備えていなければならない。 △ 法の支配の限界 さらに、法の支配は、法が備えるべき条件の一つに過ぎず、他の要請の前に譲歩しなければならない場合もあることに留意しなければならない。法の支配の要請がどこまで充足されるべきかは程度問題であり、個別の企業を国有化するための立法や女性のみを保護対象とする労働立法も、一般抽象性の点で悖(もと)るところがあるとしても、政府の役割の拡大した福祉国家の下においては肯認され得るであろう。 法の支配を支える根拠となる個人の自律や社会の幸福の最大化という目的自体が、国家の役割の拡大をもたらしているからである。 △ 【形式的法治国と実質的法治国】法の支配の観念と関連して、法治国(Rechtsstaat)の概念を、形式的法治国と実質的法治国の2つに区分することがある。形式的法治国論はあらかじめ定められた法形式さえ取れば人民の権利・自由を無制約に侵害できるという考え方であり、実質的法治国論は、法律の内容に一定の実質的限界があるとの考え方であるとされる。もっとも、日本のような成文の憲法典を持つ国家において、この2つを区別する意義については疑いがある。すなわち、最高法規たる憲法典に、実質的法治国概念が前提とする正しい法内容が書き込まれていない限り、その国は実質的法治国とはいえないであろうし、他方、憲法典に下位の法令が充足すべき正しい法内容がすでに書き込まれているのであれば、形式的法治国概念からしてもすべての国家機関はその正しい法内容に従って行動すべきである。両者を区別する意義があるとすれば、せいぜい憲法改正の限界についてであろう。なお、形式的法治国概念が、法の一般性・抽象性や遡及性、裁判の独立性など法の支配の要請をも否定し得る概念として理解されているのであれば、それは当然、本文で述べた法の支配とは両立し得ない。 ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) 田中成明『現代法理学』p.329~、P.337~ 「法の支配」は、伝統的な法的価値の中核をなすものであり、法による正義の実現の中心的目的とされてきた。 (中略) わが国における「法の支配」をめぐる最近の議論では、「法の支配」は、最も狭い意味では、英米における伝統的な「人の支配ではなく、法の支配を」という「法の支配(Rule of Law)」原理と同じものと理解されており、このような共通の理解を背景に、様々な「法の支配」論が展開されている。 そして日本国憲法の基礎にあるのはこのような英米法的な「法の支配」であり、このことは、①憲法の最高法規性の明確化、②不可侵の人権の保障、③適正手続きの保障、④司法権の拡大強化、⑤違憲審査制の確立、などのその特徴に照らして明らかであるという理解が、戦後憲法学の通説的見解である。 「法の支配」の概念や要請内容をめぐる最近の議論のいては、フラーの「合法性」概念などを中核に法の形成・実現に関する形式的・手続的要請に限定して理解する形式的アプローチと、 一定の基本権・民主制・立憲主義などの制度的要請を取り込んで理解する実質的アプローチとを対比する構図が一般的である。 (中略) 「法の支配」の概念や要請内容について、法が法であるために最低限備えるべき内在的価値である形式的正義と手続的正義の要請を中核としていることにはほとんど異論はない。 多義的・論争的となるのは、このような形式的・手続的要請を基軸に、議論領域ごとに「法の支配」が目指している価値理念と、「法の支配」を実効的に確保・実現するための具体的な制度の構成・運用原理との双方向に実質化して議論する段階で、 「法の支配」の概念や要請内容にそれらの価値理念や制度構成・運用原理をどこまで取り込むかについて、見解が分れることに起因しているとみられる。 (中略) また、正しい法や善き政治との関連づけによる実質化については、「法の支配」の正しい法や善き政治への志向性を全面的に否定するのは適切ではないけれども、「法の支配」の意義は、正しい法や善き政治の追求・実現やその手段というよりも、その追求・実現手段に一定の制度的制約を課し、甚だしく不正な法や悪い政治を排除するという消極的な規制原理というところにあるとみるべきであろう。具体的には、自由公正な市民社会の円滑な作動を確保するために、権力の恣意専断を抑止し、不当な自由の制限や理不尽な格差を排除することが「法の支配」の核心的要請であり、「法の支配」をめぐる議論を拡散させないためにも、「法の支配」の目指す価値理念については・・・(中略)・・・「消極的アプローチ」をとるのが適切であろう。 (中略) 例えば、F. A. ハイエクは、法的準則が不正義な行為を禁止する消極的なものであるだけでなく、正義の識別基準もまた消極的なものであるとして、「我々は、誤謬や不正義を絶えず排除することによってしか、真理や正義に近づくことができず、 最終的な真理や正義に我々が到達したことを確認することはできない」とする。 そして、正義の積極的な識別基準がなくとも、何が不正義かを示す消極的な基準はあるという事実は、完全に新しい法システムを構築するには不十分だとしても、現にある法をより正義に適ったものに発展させる適切な指針とはなり、重要な意義をもっていることを指摘している。 (中略) 価値観の多様化・流動化が経験的事実として存在し、実質的正義原理などの究極的価値の積極的な理論的基礎づけの可能性をめぐって見解の対立が続くなかで、法的思考における価値判断も主観的・相対的なものにすぎないと考えられがちである。 けれども、裁判において第一次的に求められる価値判断は、何が不正義かに関する消極的な判断であり、消極的アプローチが示唆しているように、 何が不正義として非難され回避されるべきかについては、何が正義かについて違憲が対立している人々の間でも、具体的判断が重なり合い、その限りでコンセンサスがみられることが一般に考えられている以上に多い。そして、裁判の手続過程が、このような社会的コンセンサスに反映された正義・衡平感覚を適切に汲み上げつつ展開されるならば、 実質的正義の実現に直接的ではなくとも間接的に貢献できる範囲は、裁判の機能の考え方次第では、意外に広いのである。 田中成明『現代法理学』 p.316~、P.327~ (L. L. フラー『法と道徳』(1964年刊) による「合法性(Legality)」の基本要請) このこと(※注:法の目的は、法外在的な実質的目的に限らない、ということ)をとりわけ強調したのは、「合法性(legality)」という一連の手続的要請を法システム自体の存立と作動に関わる内在的な構成・運用原理として提示したL. L. フラーである。彼は、法システムをもっぱら法外在的な社会的目的の実現のための手段にすぎないとみるプラグマティズム的な法道具主義が支配的であることを憂い、一般的に目的=手段関係の考察において、社会的目的を実現する制度や手続自体に内在する制約を重視すべきことを力説した。 法システムについても、合法性を「法を可能ならしめる道徳」「法内在的道徳」として、この種の内在的制約と位置づけ、この合法性が法によって実現できる実質的目的の種類を限定していることに注意を喚起している。フラーは、合法性の基本的要請として、 ①法の一般性、②公布(の事実)、③遡及法の濫用の禁止、④法律の明晰性、⑤法律の無矛盾性、⑥法律の服従可能性、⑦法の相対的恒常性、⑧公権力の行動と法律との合致 という八つを挙げているが、英米において「法の支配」の要請内容と了解されているものと大体同じと理解されている。 このような合法性は、立法者や裁判官に目的・理想を示すだけでなく、法システムの存立に不可欠な条件をも示しており、これら八つの要請のどれか一つでも全面的に損なわれると、もはや、「法」システムと呼ぶことはできず、市民の服従義務も基礎付けることができないとされる。 そして、合法性の要請は基本的に手続的なものであり、法外在的な実質的目的に対しても、たいていは中立的であるが、人間を責任を負う行為主体とみる点では中立的ではなく、 このような人間の尊厳を損なう実質的目的を法システムによって追求することは許されないと考えている。 本書でも、「法の支配」の核心的要請内容を、フラーの合法性の八原理を基軸に理解し、このような意味では法の支配をフラーの合法性概念とほぼ互換的に用い、 「司法的正義」については、このような法の支配の要請を個別的事例において具体的に確保・実現することに関わるものと理解することにしたい。 佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) p.79以下 従って、日本国憲法が定める具体的な諸制度は、そのような「自由」の維持発展に多かれ少なかれ寄与するものとして意図されているといえるが、「自由」のための基本的な制度的原理として要約するとすれば、「権力分立」の原理と「法の支配」の原理ということになろう。 (ハ) 「法の支配」の原理 「法の支配」の観念は古典古代のギリシャにその起源をもち、その後の西欧の長い歴史的過程の中で紆余曲折をたどりながら・・・17世紀のイギリスにおいて近代的な個人の「自由」の観念と結びついてより具体的で明確な形をとって現出したのものである。 ロックは、法の目的は、自由を廃止したり、制限したりすることではなく、むしろ自由を維持し、拡大することにあり、法のないところには自由はないことを力説した。 自由とは、他の人々による拘束や暴力から解放されることであるが、このことは法のないところでは不可能であること、他人の気まぐれな意思の対象とされることなく、自らの意思に従って行動できるということが自由の意味するところであること、 にロックは関心を向けたのである。 成文憲法中に個人の自由を列挙することによってその保障の確実さを期そうとした、アメリカ独立革命期の邦の憲法が、「法による統治であって、人間による統治ではない」ことを力説したのも、ロックのそのような発想に通ずる。従って、「法の支配」という場合の「法」観念は独特のものであることが注意されなければならない。 それは簡単にいえば、自由な主体たる人間の秩序の中で自ら発生してくるような「法」、換言すれば、自由な主体たる人間の共存を可能ならしめる上で必要とされる「法」ということになろう。(因みに、ハイエクは、人間社会における秩序を、「自生的秩序(spontaneous order)」と「組織(organization)」とに分かち、それぞれを古典古代のギリシャの kosmos [本来、「国家ないし共同体における正しい秩序」を意味する発生的秩序]と taxis [例えば、軍隊の秩序のような人為的秩序] とに対応させている。 「自生的秩序」は多くの人間の行為の所産ではあるが、人間の意図・企画によって作られたものではないのであり、そのような「自生的秩序」の法はノモス [nomos] と呼ばれ、「組織」の規則であるテシス [thesis] と対比される。そして、このように捉えられた「法」の支配と自由との結びつきが示唆されている。) 先に触れた近代的な「権力分立」の原理は、この「法」観念との結びつきで理解される必要がある。つまり、「立法」「司法」「行政」は、独自の制度的倫理構造をもちつつ「法」に対してそれぞれ独自のかかわり合い方をするものであって、それらの分離なしには個人の「自由」はありえないとされたということである。 1 「立法」について、ロックは、すべての市民に等しく適用される「正しい行為に関する一般的なルール」を想定したが、 実際、一般に、立法府の力といえども無制限とは観念されず、そのような「一般的ルール」の定立に限定され、かかるルールによってすべての権力に必要な制限を課すことが期待された。 2 モンテスキューによって「人間の間でしかく恐るべき裁判権」と呼ばれた「裁判権」は、「法」による裁判権、同じくモンテスキューのいう「法の言葉を述べる口」としての裁判権、つまり「司法権」として把握され、 そのことによってむしろ個人の「自由」の重要な守りテとしての地位をもつに至った。 3 「行政」については「法」による統制が課題とされ、その自由裁量性に猜疑の目が向けられた。 ダイシーは、「法の支配」をもって、「種々の見地からみてイギリス憲法の下で個人の権利に与えられた保障」としてその性格を把握し、その具体的内容として、 ① 専断的権力に対立するものとしての通常の法の絶対的優位ということ、すなわち、国の通常裁判所において通常の法的な方法で確定された法に明白に違反する場合を除いて何人も処罰されず、または合法的に身体もしくは財産を侵害されえないという命題、 ② 法の前の平等、すなわち、地位または身分を問わずあらゆる人が国の通常の法に服しかつ通常裁判所に服するという命題、 ③ 憲法の一般的法原則(人身の自由の権利や公の集会の権利など)は個々の事件において私人の権利を決定する判決の結果であるという命題、 を指摘した。 このダイシーの言葉からもうかがわれるように、「法の支配」にあっては裁判所が格別の役割を担っており、アメリカ合衆国で登場した違憲立法審査制は、この「法の支配」を徹底したものであるということができる。もっとも、ダイシーの右の指摘については、当時のイギリス法の現実をどれ程忠実に描写するものであるか疑問の余地があり、また、自由放任主義的な消極国家を基盤としていることは否定し難く、 現代積極国家段階においてそのままではもはや妥当しないことは承認されなければならない。 しかし、「個人の権利保障」という「法の支配」の性格の意義は積極的に評価さるべきであり、国家機能とりわけ行政権の拡大・裁量権の増大の不可避性を前提とした上で、公権力の恣意性を具体的にいかにコントロールするかの観点から、 「法の支配」の原理を再構築し、一層展開せしめて行くことが必要というべきである。 日本国憲法は、詳細な基本権のカタログを掲げつつ、憲法の最高規範性の確認(97条1項)の下に、司法権を強化し、行政事件に関する裁判権もそれに取り込む一方(76条)、裁判所に違憲立法審査権を付与しており(81条)、 明らかに「法の支配」の原理に立脚していることを示している。 ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) F. A. Hayek 『自由の条件Ⅱ 自由と法』(1960年刊) p.194以下 法の支配は、立法全体に対する制限であるという事実から推論されることは、それ自体が立法者の可決する法律と同じ意味での法律ではありえないということである。憲法上の規定は、法の支配の侵害を一層困難にするであろう。 それらは慣習的な法律制定による不注意な侵害を防ぐのに役立つかもしれない。しかし最高の立法者は、法律によって自分自身の権力を決して制限することができない。 というのは、かれは自分のつくったいかなる法律をもいつでも廃棄できるからである。したがって、法の支配(the rule of law)とは法律の規則(a rule of the law)ではなく、法律がどうあるべきかに関する規則(a rule concerning what the law ought to be)、 すなわち超-法的原則(a meta-legal doctrine)あるいは政治的理念(a political ideal)である。それは、立法者がそれによる制約を自覚しているかぎりは有効である。 民主主義のもとでは、それが共同社会の道徳上の伝統、多数の人が共有し、問題なく受け容れる共通の理念の一部を形成しないかぎり、法の支配は普及しないであろうということになる。 (原文)From the fact that the rule of law is a limitation upon all legistlation, it follows that it cannnot itself be a law in the same sense as the laws passed by the legistor.Constitutional provisions may make infringements of the rule of law more difficult. They may help to prevent inadvertent infringements by routine legislation.But the ultimate legislator can never limit his own powers by law, because he can always abrogate any law he has made. The rule of law is therefore not a rule of the law, but a rule concerning what the law ought to be, a meta-legal doctrine or a political ideal.It will be effective only in so far as the legislator feels bound by it. In a democracy this means that it will not prevail unless it forms part of the moral tradition of the community, a common ideal shared and unquestioningly accepted by the majority. F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.120以下 立法が法の唯一の源泉である、という概念から二つの観念が引き出されている。それらは、初期の擬人化による誤りが生き残っているあの誤れる設計主義から全面的に導出されているが、現代ではほとんど自明のこととして受け入れられるようになり、政治の展開に大きな影響を与えてきた。最初のものは、これはより高次の立法者を必要とし等々と無限に続くから、その権力を制限することができない最高の立法者があるに違いないとする信念である。 第二のものは、その最高の立法者が制定したものは何であれ法であり、彼の意志を表現するもののみが法である、とする考えである。 ベーコン、ホッブズ、オースティン以来、まずは国王の、後には民主制議会の、絶対権力の一見疑う余地のない正当化に一役買った、最高の立法者の必然的に無制限な意志という概念は、 法という用語が組織の熟慮の上での足並みの揃った行為を導くルールに限定されるならばその場合にのみ、自明であるように思われる。 このように解釈すれば、ノモスという初期の意味では全ての権力に対する障壁となるはずであった法は、逆に権力行使の道具となる。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.158以下、P.171以下 結局のところ、司法過程から生じる正義に適う行動ルール、すなわちノモスまたは本章でみた自由の法と、次章の研究対象となる権威によって制定された組織のルールとの違いは、前者が人間のつくったのではない自生的秩序の諸条件から導かれるのに対し、後者は特殊化された意図に資する組織の熟慮の上での構築に役立つという事実の中にある。前者は、それらがすでに守られていた実践を明文化したにすぎないという意味でか、 すでに確立されているルールに依拠する秩序を円滑かつ効率的に運営しようというのであれば、それらはこうしたルールの必要補完物と見なされなければならないという意味で、発見されるのである。自生的な行為秩序の存在が裁判官にその固有の仕事を課さなかったならば、それらは発見されなかったであろう。 したがって、それらは、特定の人間的意志とは無関係に存在するものと当然考えられる。 一方、特定の結果を目指す組織のルールは、組織者の設計する知性の自由な発明品であろう。(中略)憲法憲法という法に包含されている政府の諸権力の割り当てと制限に関する全てのルールは、まず、我々が「法」と呼びならわしてはいるが、組織のルールであって正義に適う行動ルールではないルールに、属する。 これらのルールは、広く、特別な威厳を付与されている、あるいは他の法に対するより大きな尊敬が払われてしかるべき、「最高」級の法とみなされている。 しかし、これを説明する歴史的理由はあるものの、それらのルールを普通いわれているように他の全ての法の源泉としてでなく、法の維持を保障するための上部構造と見るほうが、適当である。しかし、こうしたこと(※注:憲法という法に特定の威厳と基本的な性格が与えられていること)で、憲法が、基本的に、事前に存在する法体系の中の法を施行するためにそうした法体系の上に構築された上部構造であるという事実が、変わるわけではない。いったん確立されると、憲法は、他のルールがそこからその権威を引き出すという論理的な意味で「第一義的」であるようにみえるが、それはなおこれらの事前に存在するルールの支持を企図している。それは、法と秩序を守り、他のサービスの給付装置を提供する手段をつくりだすが、法と正義が何であるかを定義しない。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』(1976年刊) p.70以下、P.88以下 だが、法を立法者の意志の産物として定義すると、その内容が何であれ立法者の意志の表出全てが「法」に包摂され(「法は全く任意の内容をもってよいことになる」(※注:H.ケルゼン))。その内容は法とよばれる様々な言明の間の何ら重要な区別をなさないという見解が、特に、正義は、いかなる意味でも、何が実際に法であるかを決めるものではなくて、むしろ何が正義であるかを決めるものが法であるという見解が、生まれてくる。旧来の伝統とは逆に、法の制定者は正義の創造者であるという主張が、法実証主義の最も特徴的な教義となった。 (中略)主権という概念は、国家という概念と同様に、国際法のための不可欠の用具である - その概念をそこでの出発点として受け入れるならば、そのことによって、国際法というまさにその観念が無意味にされることはない、とまでは確信できないが。しかし、法秩序の内部的性格の問題を考察するためには、どちらの概念も、人を迷わせるばかりでなく、不要であるように思える。事実、自由主義の歴史と同一である立憲主義の歴史全体は、少なくともジョン・ロック以降は、主権についての実証主義者の概念や全知全能の国家という関連概念に対する闘争の歴史であった。 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) p.41以下から抜粋⇒全文は 第7章 法の支配 へ 1. 「法の支配」の捉え方 (1) 法の支配とは何でないのか 「法の支配」は、多くの人が口にする基本概念でありながら、その実体につき合意をみない難問である。とはいえ、法の支配の目指すところについては、論者の間におおよその合意がある。“その目的は、可能な限りすべての国家機関の行為を法のもとにおいて、その恣意的な活動を統制し、もって人々の基本権を保障せんとするところにある。” が、この機能論的な説明は、法の実体の解明にはなっていない。 また、法の支配とは何でないのか、という疑問についても、法学者の間で合意がみられる。その解答としては、次のふたつがある。 第一。 “法の支配は、絶対君主の統治にみられたような「人に支配」、すなわち、ルールに基かない、その場当たりの恣意的な権力発動を通して人々を支配することではない。” 第二。 “法の支配は、法治主義ではない。法治主義とは、国民の権利義務に変動を与えるとき、その国家意思は議会の意思を通して実定法化されるべきこと、 そして、行政はその議会法を執行し(“法律なければ行政なし”)、裁判所は議会制定法に準拠して法的紛争を解決すること、をいう。” (2) 法の支配と法治主義 「法の支配」にいう法は、民主的機関である議会の制定する法律をも統制し、主権者の意思をも統制する機能をもっている。この機能については、法学者は異論を唱えないだろう。未解決の争点は、“その狙いのために、法の支配にいう「法」がいかなる属性をもっているのか”というところにある。 (3) 法の支配と正義 法の支配とは、《主権者といえども、人為の法を超える高次の法のもとにある》という思想を起源とする。 それは、法(law)と立法(legislation)との区別のもとで、前者が後者を指導する、という思想である。高次の法 higher law とは、・・・(中略)・・・“fundamental law”と同じである。 Higher law または fundamental law の内容は、《正義に適っているルール》を指してきた。 ところが、「正義」の捉え方は歴史によって変転し、論者によってさまざまとなっているために私たちを混乱させているのだ。 法の支配を正義と関連づけるとき、その捉え方には、大きくふたつの流れがみられた。 第一は、 問題の法令の実質・内容を問う立場である。正義の種類からいえば、実質的正義論に属する。その典型的立場が自然法論である。 第二は、 問題の法令の形式を重視するタイプである。正義の種類でいえば、形式的正義論である。 これは、問題の法令が、どのような特定の人びとをも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で普遍的な形式を満たしているか否かを問うのである。 これは、《人為法が普遍的に妥当する形式をもっていれば、不正を最小化できる》といいたいのだ。 2. 「法の支配」の理論と憲法典 (1) 法の支配の理論化 法の支配を脱実体化しながら理論体系としたのが、イギリスの法学者A. ダイシー(1835~192年)である。彼は、臨機(場当たり)でなく、誰もが知りえて、特定可能な対象にではなく、誰に対しても等しく恒常的に適用されうる法の形式を、「正規の法 regular law」と呼んだ。それは、《類似の事案は同じように法的に解決される》という平等原則のなかから浮かび出た形式である。 それは、多年にわたる実践と蓄積のなかで、次第しだいに、人間が獲得してきた法的知識だった。 その法的知識を専門的に修得するのが法曹であり、なかでも裁判官である。身分の独立保障をうけてきた裁判官は、当事者の主張に耳を傾けながら、正しい解決のために、誰に対しても等しく適用されてきた論拠を発見するのである。 (2) 法の支配の突出部 形式的正義論をベースとする法の支配の考え方には、 (ア) 法は特権を容認せず、一般的普遍的な形式をもたなければならない、 (イ) 法は公知(誰もが前もって知りうるもの)で恒常的でなければならない、 (ウ) その適用に矛盾があってはならない、 という命題が伴っている。これらの命題は、法の予見性・安定性に資し、経済自由市場における交易を一挙に促進することとなった。 自由市場の生育を可能としたのは、法の支配という憲法上の基本概念だった。法の支配が、経済的自由、身体・生命の自由その他の自由へと拡大するにつれて、自由主義国家の基盤ができあがっていったのだ。 法の支配は、経済市場における諸自由だけでなく、国家の刑罰権と課税権とを有効に統制する論拠となった。 罪刑法定主義と租税法律主義が、法令の遡及的適用を排除したり、慣習を法源たりえないとしたり、法令の裁量的適用に警戒的であるのは、法の支配の思想が、一部実定法上に突出したためである。 法の支配は、われわれの権利義務に関する実定法(人為法)を指導するメタ・ルールである。 法の支配という思想は、あるルールを実定化するにあたって実定法を先導する上位のルールである。たとえ憲法を含む実定法が法の支配を謳ったとしても、それこそが「自己言及のパラドックス」にすぎないのだ。 (3) 法の支配と憲法との関係 法の支配は、国家の不正義を最小化するための理念として、歴史上さまざまな論者が肉付けしてきた。 この理念は、sovereignty、なかでも、君主の有してきたそれをまず統制しようとした。 sovereignty は、「主権」と訳出されるが、この訳語では伝えきれないニュアンスをもった言葉である。それは、「主権」というよりも、絶対権または最高権といったほうがいいだろう。 憲法は、最高・絶対の主権を統制するための「基本法」として、歴史に登場した。このことからも分かるように、憲法は、法の支配という構想の必須部なのだ(が、しかし、憲法が法の支配にいう法ではない)。 主権の帰属先が君主から国民になった場合でも、法の支配の理念に変更はない。 今日においても、すべての国家機関、なかでも国民の主権と、国民代表機関である議会とを、法のもとにおく必要があるのだ。 そのために、憲法は法の支配の理念の一部を組み込もうとする。 1 統治の機構においては、①独立の保障される司法部、②特別裁判所の禁止、③憲法条規の最高法規性の宣言がこれであり、 2 権利章典の部においては、①適正手続保障、②遡及処罰の禁止、③公正な裁判の保障等がこれである。 もっとも、こうした個別の条規を列挙することは、憲法と法の支配との関係を考えるにあたっては二次的な意味しかもたない。 教科書のなかには、法の支配について、(ア)憲法の最高法規性、(イ)基本権の尊重、(ウ)適正手続保障、(エ)司法審査制を列挙するものがある。 もしこの思考が法の支配の論拠を日本国憲法典に求めようとしているのであれば、ひとつの体系内に根拠を求める「自己言及のパラドックス」に陥ってしまっている。 もし論拠を示したものではなく、“法の支配がかような諸点に現れている”というのであれば、(イ)と(ウ)はダブルカウントであり、(エ)は法の支配の内在的な要請ではなく(英国には、司法審査制はない)、法の支配を有効にするための手段にすぎないことの説明に欠けている。 このように、憲法と法の支配との関係をみるとしても、要注意点は、《憲法典という実定化された法が法の支配にいう“法”ではない》ということである。 たしかに、憲法典は法の支配の理念を一部活かしている。が、しかし、「憲法典=法の支配」ではない。 (4) 法の支配と主権との関係 《法の支配は憲法典や主権をも統制する》とのテーゼを理解するためには、次の(ア)~(ウ)に留意しておかなければならない。 (ア) 一般の教科書によれば、国民主権にいう「主権」とは、憲法制定権力のことを指す。 (イ) 主権は、国制を意味する憲法を創出する力であり(憲法を作り出す力としての主権。以後、憲法制定権力を「制憲権」という)、憲法典は、この制憲権によって作り出される。 (ウ) [制憲権→憲法典]という理論上の順序関係を考えれば、憲法典によって主権を統制することはできない。 では、「憲法典によって主権を統制することはできない」とき、主権(制憲権)は何によって規範的な拘束を受けているのだろうか? 実体的正義論者は、自然法、人間の理性、人間の尊厳等をあげるだろう。これらの実体的要素はいずれも客観性に欠けるとみる批判的な論者であれば、「主権者の自己拘束だ」というかもしれない。 それらの解答を、私はいずれも受容しない。《主権を規範的に統制するもの、それが法の支配だ》、これが私の解答である。 法の支配にいう「法」とは、実定的な法ではなく、最低限の形式的正義のことだ、と私は理解している。 (5) 法の支配と法律との関係 法の支配は、先に触れたように、国民の主権や、国民代表機関である議会の権限(法律制定権)をも統制する理念である。 では、法の支配は、議会の立法権(法律制定権)をどのように統制するか?私のような、形式的正義論者は、こう解答するだろう。《議会が法律を制定するにあたっては、一般的普遍的な形式をもたせなければならない》。 この解答は、日本国憲法41条の「立法」の解釈に活かされるだろう。立法(法律)が一般的普遍的であるという形式を満たすとき、それは 第一に、 一定の要件を満たす限り誰に対しても適用されうるとする点で道徳的にみて正当であり、 第二に、 予見可能性・法的安定性を増すという点で経済的にみて合理的である。 法の一般性・普遍性とは、法規範の名宛人が事前に特定可能でないことをいう。法の支配にとって最も警戒され続けてきた点は、法が人的な属性に言及しながら、特定可能な人びとを特別扱いすることだった。 法の支配は、人的な特権を忌避して、誰であれ自分の限界効用を自由に(国家から公法規制や指令を受けないで)満足させてよい、とする思想でもあるのだ。 ※その他参照先 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)第一部 国家と憲法の基礎理論 第四章 立憲主義と法の支配 ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) 1 英米圏の標準的な理解では「法の支配」とは、①まず第一に「手続的正義・形式的正義」を中核とする法内在的正義の要請をいい、②配分的正義など「実質的正義」に関する要請は、あくまで周縁的に考慮されるに留まる。 2 次に、③「法の支配」がどのような働きを果たすのか、を考える機能的アプローチでは、それが「人の支配」ではないことから主権論との関係が問題となる。⇒「法の支配」は「特定の人の“意思”に基く支配」を拒絶しており、主権者(法=主権者意思説)と両立しない。(「君主主権」(君主一人の意思による支配)のみならず集合意思としての「国民主権」も原理的には「法の支配」と両立しない)。 では、特定の人の意思の産物ではない「法」とはいったい何なのか? ⇒ それは「ノモス(nomos 意図せざる人為の法)」つまり歴史的構築物としての「法」(自生的秩序の法)である。(すなわち、フュシス(physis, natural law 自然法)やテシス(Thesis 純然たる実定法)ではない) 1 では、①手続的・形式的正義に関する法準則が「法の支配」の中核要素である、と述べたが、③機能的アプローチでは、そうした形式を超える「何らかの実質的価値」を想定していることになる。 しかしそれでも、この場合の「実質的価値」は、左派系の正義論にありがちな、(1)人権保障、(2)憲法の最高法規性、といったものではなくて、ノモス概念としての「法」=特定の共同体で自生的に発展してきた慣習法であることから、実質的意味の憲法(国制)に接近する。 ⇒この③を、①の(狭義の)「法の支配」と区別して、「国体の支配」ないし「ノモスの支配(nomocracy)」と呼ぶべきである。 3 最後に、「法の支配」の「法」と、(a)実質的意味の憲法(国体法ないし国制)および、(b)形式的意味の憲法(憲法典)、との関係について整理する。 ①(狭義の)「法の支配」は、あくまで消極的に理解されるべき法理念(「~は法ではない」、という形式の言明で表現されるもの)であり、憲法を含めた立法全体に対する制限となるメタ・ルールであって、法規範ではない。 これに対して、③ノモスは、成文であれ不文であれ、「~は法である」という形式の言明で、一応は積極的に把握されうる法規範としての実体(substance)をもつもの、である。 さらに、テシスは、その定義から完全に積極的に把握できる成文法(実定法 positive law)である。 ■6.関連用語 ほうち-しゅぎ【法治主義】 広辞苑 ① 人の本性を悪と考え、徳治主義を排斥して、法律の強制による人民統治の重要性を強調する立場。韓非子がその代表者。ホッブズも同様。 ② 王の統治権の絶対性を否定し、法に準拠する政治を主張する近代国家の政治原理 → 法の支配 ほうちしゅぎ【法治主義】rule of law(※注:原文ママ) 日本語版ブリタニカ 行政は議会において成立した法律によって行われなければならない、とする原則。 1 行政に対する法律の支配を要求することにより、 2 恣意的・差別的行政を排し、国民の権利と自由を保障することを目指したもので、立憲主義の基本原則の一つに挙げられている。この原則に基く国家を、法治国家という。 ほうち-こっか【法治国家】 広辞苑 国民の意思によって制定された法に基づいて国家権力を行使することを建前とする国家。①権力分立が行われ、②司法権の独立が認められ、③行政が法律に基いて行われる、とされる。法治国→ 警察国家 ほうちこっか【法治国家】Rechtsstaat 日本語版ブリタニカ 行政および司法が、あらかじめ議会の制定した法律によって行われるべきである、という法治主義の国家。すなわち、全国家作用の法律適合性ということが、法治国家の本質とされたのであるが、 1 その際、イギリス法の「法の支配」 rule of law と違い、 2 行政および司法が、国民の代表機関たる議会によって制定された法律に適合していればよい、 という形式的側面が重視された結果、法治国家論は、法律に基きさえすれば、国民の権利・自由を侵害してよい、という否定的な機能を果たし、法や国家の目的・内容を軽視する法律万能主義的な傾向を内包していた。 (1) 第二次世界大戦後、西ドイツは、この点に反省を加え、(a)立法・行政および裁判を直接に拘束する不可侵・不可譲の基本的人権を承認し、(b)これを確保するために憲法裁判所を設置して、これに法令の憲法適合性を審査する権限を与えた。 (2) 日本の場合も、憲法は、裁判所に、いわゆる法令審査権を与えている(81条)。 このようにして、 [1] 行政・司法が単に法律に適合している、という形式面のみならず、 [2] その法律の目的・内容そのものが、憲法に適合しなければならない、 という原則が確立され、それによって、いわば法治主義の実質的貫徹が期されている。 ■7.参考図書 『法の支配 - オーストリア学派の自由論と国家論』 (阪本昌成 著(2006年刊))オーストリア学派の社会哲学をもとに、「法の支配」を自然法思想の呪縛から解放した目から鱗の名著 『法とは何か - 法思想史入門』 (長谷部恭男:著(2011年刊))こちらも読み易く内容の確りした良書 ■8.ご意見、情報提供 ↓これまでの全コメントを表示する場合はここをクリック +... test - 名無しさん (2019-07-29 09 07 34) 以下は最新コメント表示 test - 名無しさん (2019-07-29 09 07 34) 名前 ラジオボタン(各コメントの前についている○)をクリックすることで、そのコメントにレスできます。 ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/1702.html
日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 ~ 長谷部恭男(東大法学部教授(憲法学))『法とは何か』p.149 要旨■日本の憲法学の教科書にありがちな諸々の理想のごった煮的な意味内容ではなく、本家である英米法の本来の用法に合致した意味内容で「法の支配」という言葉を理解すべきである。 ※本ページが難しい方は、まず リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配をご覧下さい。 <目次> ■1.このページの目的 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明◆1.日本の辞書による定義 ◆2.英米圏の辞書による定義 ■3.「法の支配」理念の整理◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 ◆2.「法の支配」理念整理表 ◆3.主権論と「法の支配」 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) ■6.関連する用語 ■7.参考図書 ■8.ご意見、情報提供 ■1.このページの目的 多くの憲法学や法理学(法哲学)の教科書では、憲法の基本原理ないし中核的法理念として「法の支配(the rule of law)」という用語が強調されている。 しかし、この「法の支配」の意味内容は、論者によって全くバラバラで不明瞭であって、特に日本では「法の支配」の本家である英米圏での標準的な用法とは懸け離れた意味でこの言葉が使用されるという問題ケースが多く見受けられる。 このページでは、この「法の支配」理念について、①正義論および②主権論との関係に留意しながら整理し明晰化していく。 ※なお「概念(concept)」は「~はどうあるか」(⇒ 概念論)、「理念(ideal)」は「~はどうあるべきか」(⇒ 理念論)という意味であるが、以下の文章では両者の使い分けは厳密でないことに注意。 ■2.「法の支配」の辞書的定義・用語説明 ◆1.日本の辞書による定義 ※関連する人名を含む ほう-の-しはい【法の支配】 (rule of law) 広辞苑 イギリスの法律家コークが、国王は神と法の下にあるべきである、として、ジェームズ1世の王権を抑制して以来、「人の支配」に対抗して認められるようになった近代の政治原理。コークのいう法は、イギリスの判例法で、立法権をも抑制する点で、法治主義とは異なるが、後に法治主義と同義に用いることもある。 ほうのしはい【法の支配】 rule of law 日本語版ブリタニカ 法至上主義的な思想、原則。 (1) どんな人でも、通常裁判所が適用する法律以外のものに支配されない、あるいは、 (2) 被治者のみでなく、統治者・統治諸機関も、法の支配に服さなければならぬ、とする、「法のもとにおける統治」の原理。 イギリスの伝統に根ざす思想であり、自然法思想にも淵源をもつ、法の権力に対する優位性の主張である。 A.ダイシーは、その著『憲法入門』(1885)のなかで、①議会主権と、②法の支配、がイギリスの2大法原理である、としたが、 1 ここから、人間とその自由を権力から守るイギリス型法治主義の原則が確立され、 2 アメリカにおいては、司法権優越の原理を生んだ。 20世紀に入り、経済・社会情勢の著しい変化につれ、伝統的な法支配の原則に対するいろいろな批判も起っている。 コーク【Edward Coke】 広辞苑 イギリスの法律家。権利請願の起草者。13世紀の法律家ブラクトン(H. Bracton ~1268)の著述を引用して「法の支配」(rule of law)を説いたことでも名高い。(1552~1634) ブラクトン Bracton, Henry de 日本語版ブリタニカ [生] 1216 デボン? [没] 1268 エクスター/デボン? イギリスの法律家、裁判官。ときにはイギリスの中世で最も偉大な法律家といわれる。 本名はブラットン Braton であったが、死後ブラクトンの名で伝わる。法律家として名が現れるのは、1245年以降で、48~68年に南西諸県、ことにサマーセット、デボン、コーンウォールで巡回裁判所の判事を務めた。 ローマ法・教会法に造詣が深く、50~56年に中世イギリス法を集大成した『イギリス法律慣習法』 De Legibus et Consuetudinibus Angliae は有名。 同書中の「王もまた神と法の下にある」という言葉は、法の支配原理の象徴的言辞として、しばしば引用されている。 ※この様に日本の辞典類では「法の支配」について割と簡潔な記述しかないが、英米圏ではだいぶ認識が違っているようである。 ◆2.英米圏の辞書による定義 rule of law collins The rule of law refers to a situation in which the people in a society ①obey its laws and ②enable it to function properly. (翻訳) 法の支配とは、ある社会における人々が、①その諸法を遵守しており、かつ、②社会を適切に機能させている、状況をいう。 ※残念ながら、 Britannica Concise Encyclopedia および Oxford Dictionary of English には rule of law の項目がないため、英文wikipedia(2014.3.15時点) で代用する。 rule of law 英文wikipedia The rule of law (also known as nomocracy) primarily refers to the influence and authority of law within society, especially as a constraint upon behavior, including behavior of government officials.The phrase can be traced back to the 16th century, and it was popularized in the 19th century by British jurist A. V. Dicey. The concept was familiar to ancient philosophers such as Aristotle, who wrote "Law should govern".Rule of law implies that every citizen is subject to the law, including law makers themselves.It stands in contrast to the idea that the ruler is above the law, for example by divine right. Despite wide use by politicians, judges and academics, the rule of law has been described as "an exceedingly elusive notion" giving rise to a "rampant divergence of understandings… everyone is for it but have contrasting convictions about what it is." At least two principal conceptions of the rule of law can be identified a formalist or "thin" definition, and a substantive or "thick" definition. ① Formalist definitions of the rule of law do not make a judgment about the "justness" of law itself, but define specific procedural attributes that a legal framework must have in order to be in compliance with the rule of law. ② Substantive conceptions of rule of law go beyond this and include certain substantive rights that are said to be based on, or derived from, the rule of law. HistoryAlthough credit for popularizing the expression "the rule of law" in modern times is usually given to A. V. Dicey, development of the legal concept can be traced through history to many ancient civilizations, including ancient Greece, China, Mesopotamia, India and Rome. (1) AntiquityIn Western philosophy, the ancient Greeks initially regarded the best form of government as rule by the best man.Plato advocated a benevolent monarchy ruled by an idealized philosopher king, who was above the law. Plato nevertheless hoped that the best men would be good at respecting established laws, explaining that "Where the law is subject to some other authority and has none of its own, the collapse of the state, in my view, is not far off; but if law is the master of the government and the government is its slave, then the situation is full of promise and men enjoy all the blessings that the gods shower on a state." More than Plato attempted to do, Aristotle flatly opposed letting the highest officials wield power beyond guarding and serving the laws. In other words, Aristotle advocated the rule of law It is more proper that law should govern than any one of the citizens upon the same principle, if it is advantageous to place the supreme power in some particular persons, they should be appointed to be only guardians, and the servants of the laws.According to the Roman statesman Cicero, "We are all servants of the laws in order that we may be free." During the Roman Republic, controversial magistrates might be put on trial when their terms of office expired. Under the Roman Empire, the soverign was personally immune(legibus solutus), but those with grievances could sue the treasury. (omission) (2) Modern timesAn early example of the phrase "rule of law" is found in a petion to James Ⅰ of England in 1610, from the House of Commons Amongst many other points of happiness and freedom which your majesty's subjects of this kingdom have enjoyed under your royal progenitors, kings and queens of this realm, there is none which they have accounted more dear and precious than this, to be guided and governed by the certain rule of the law which giveth both to the head and members that which of right belongeth to them, and not by any uncertain or arbitrary form of government … In 1607, English Chief Justice Sir Edward Coke said in the Case of Prohibitions(according to his own report) "that the law was the golden met-wand and measure to try the causes of the subjects;and which protected His Majesty in safety and peace with which the King was greatly offended, and said, that then he should be under the law, which was treason to affirm, as he said; to which I said, the Bracton saith, quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(That the King ought not be under any man but under God and the law.)." Meaning and Categorization of interpretationsDifferent people have different interpretations about exactly what "rule of law" means. According to political theorist Judith N. Shklar, "the phrase 'the rule of law' has become meaningless thanks to ideological abuse and general over-use, but neverthless this phrase has in the past had specific and important meanings. Among modern legal theorists, most views on this subject fall into three general categories the formal(or "thin") approach, the substantive(or "thick") approach, and the functional approach.The "formal" interpretation is more widespread than the "substantive" interpretation. 1 Formalists hold that the law must be prospective, well-known, and have characteristics of generality, equality, and certainty. Other than that, the formal view contains no requirements as to the content of the law. This formal approach allows laws that protect democracy and individual rights, but recognizes the existence of "rule of law" in countries that do not necessarily have such laws protecting democracy or individual rights. 2 The substantive interpretations holds that the rule of law intrinsicaly protects some or all individual rights. 3 The functional interpretation of the term "rule of law", consistent with the traditonal English meaning, contrasts the "rule of law" with the "rule of man".According to the functional view, a society in which government officers have a great deal of discretion has a low degree of "rule of law", whereas a society in which government officers have little discretion has a high degree of "rule of law". The rule of law is thus somewhat at odds with flexibility, even when flexibility may be preferable. The ancient concept of rule of law can be distinguished from rule by law, according to political science professor Li Shuguang "The difference … is that, under the rule of law, the law is preeminent and can serve as a check against the abuse of power. Under rule by law, the law is a mere tool for a government, that suppresses in a legalistic fashion." (omission) (翻訳) 法の支配(それはまたノモクラシーとしても知られている)とは、第一に社会における法の影響力や権威、特に政府当局の行為を含む行為の抑制に関して謂われるものである。このフレーズは16世紀に遡ることができ、19世紀に英国の法律家A. V. ダイシーによって一般に知られるようになった。この概念は、「法が統治すべきである」と書いたアリストテレスのような古代の哲学者達にお馴染みのものだった。 法の支配は、法の作成者も含めて、全ての市民が法に従うことを含意する。それは、王権神授説の例のような、支配者は法の上位にある、とする観念とは対照的である。 政治家・判事・学者によって広く使用されているにも関わらず、法の支配は「誰もが承知するが、しかし、それが何であるかについて対照的な信念しかもっていない・・・収拾がつかないほど多様な諸理解」を惹起する「非常に捉えどころにない観念」として説明されてきた。 少なくとも法の支配について2つの主要な概念解釈(conception)を特定することが可能である:すなわち、①形式的ないし「薄い」定義と、②実質的ないし「濃い」定義、である。 ① 法の支配の形式的定義(definition)は、法の「正当性」自体を判定することはないが、ある法的枠組みが法の支配に適合するといえるために必ず保持しなければいけない特定の手続的属性を定義している。 ② 法の支配の実質的概念解釈(conception)は、それ(形式的定義)を超えて、法の支配がそれに依拠しており、その派生源となっている、ある特定の実質的諸権利を内包する。 歴史近代における「法の支配」という表現の一般的認知は通常A. V. ダイシーの功績であるが、その法的概念の発達自体は、古代ギリシア・チャイナ・メソポタミア・ローマを含む多くの古代文明の歴史上に見出すことが可能である。 (1) 古代西洋哲学では、古代ギリシアにおいて、当初は、政府の最善の形態は、最良の人物による支配だ、と見なされていた。 プラトンは、法を超越する理想的な哲人王による、慈悲深い君主制を唱導した。 プラトンは、それでもなお、最善の人物達が確立された諸法を上手く尊重していくことに期待を寄せて、以下のように解説している。 「法が他の何らかの権威に服しており、何らそれ自体の内容を持たないところでは、私見では、国家の崩壊はそう遠くない。 しかし、もし、法が政府の主人であり、政府が法の僕(しもべ)であるならば、その場合は、状況は希望に満たされており、人々は神々が国家に降り注ぐあらゆる祝福を享受する。」 プラトンの企図をさらに超えて、アリストテレスは、最高位の当局者達が法が保護し奉仕する範囲を超えて権力を行使することに、きっぱりと反対した。 すなわち、アリストテレスは、法の支配を(以下のように)唱導した。法が統治することが、市民のうちの誰(が統治すること)よりも、より適切である。 同様の原理に則り、もし、ある特定の人物達への最高権力の付与が好都合である場合には、諸法の保護者達および奉仕者達だけが、その任を与えられるべきである。 ローマの政治家キケロによれば、「我々が全員、法に奉仕するのは、我々が自由であらんが為である。」ローマ共和制の期間、嫌疑のかかった執政官達は、彼らの任期が終了したときに、たいてい査問にかけられた。 ローマ帝制下では、統治者は個人としては不可侵(無答責)であったが、しかし不平を持つ人々は国費で訴訟を起こすことが可能だった。 (中略) (2) 近代「法の支配」という文句の初期の使用例の一つは、1610年のイングランドで、庶民院がジェームズ1世に対して行った請願の中に見出される。この王国の陛下の臣民が、この王室の諸祖先・この王国の諸王・諸女王の下で享受してきた諸々の幸福と自由のあらゆる諸点の中でも、以下の事柄以上に彼ら(臣民)が愛着を示し大切に抱き続けてきたものは他にありません。すなわち、(彼らは)主長と構成員の双方に、どの権利が彼らに帰属しするかを決め与える、ある特定の「ルール・オブ・ザ・ロー(rule of the law ※原文ママ)」によって道を示され統治されるのであり、そして如何なる不確実または恣意的な形態の政府によって統治されるのではない、ということ。1607年、イングランドの主席裁判官エドワード・コーク卿は、禁止令状事件において、(彼自身の報告によれば)以下のように発言した。 「法とは、臣民達の訴訟を審理し、陛下を安全に保護するところの黄金の超越的杖であり物差しである。そして、それは陛下の安全と平和を保護する。」 それに対して国王は非常に立腹して曰く「ならば余は法の下にあるべきことになるが、その断言は反逆罪である」と。 それに応えて曰く、「ブラクトンは「quod Rex non debed esse sub homine, sed sub Deo et lege(国王は何人の下にもあるべきでないが、神と法の下にあるべきである)」と云った、と」 意味と解釈カテゴリー「法の支配」が正確には何を意味するか、について人々は全く異なった解釈を持っている。 政治理論家ジュディス・N・シュクラーによれば、「イデオロギー的誤用と一般的濫用のせいで、『法の支配』という文句は無意味なものとなったが、それにも関わらず、この文句は過去において、特有かつ重要な幾つかの意味を持ち続けてきた。」という。近代の法理論家達の間で、このテーマに関する大方の見解は3つの一般的なカテゴリーに識別される。すなわち、①形式的(ないし「薄い」)アプローチ、②実質的(ないし「濃い」)アプローチ、そして③機能的アプローチ、である。①「形式的」解釈は、②「実質的」解釈よりも、より広く受け入れられている。 1 ①形式主義者達は、法は、(a)予見可能で、(b)公知であり、そして(c)一般性/一様性/確実性という諸特性をもたねばならない、と考えている。 それ以外には、①形式的見解は、法の内実という点に関しては何の要求事項も持っていない。 この①形式的アプローチは、デモクラシーと個人の諸権利を保護する諸法を許容するが、デモクラシーや個人の諸権利を保護するそうした諸法を必ずしも持たない諸国においても「法の支配」が存在する(と想定する見解である)と受け止められている。 2 ②実質的な諸解釈は、法の支配は幾つかの、または全ての個人の諸権利を実質的に保護している、と考えている。 3 「法の支配」という用語の③機能的解釈は、伝統的な英語の意味に合致しており、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」と「ルール・オブ・マン(人の支配)」とを対照的に説明する。③機能的見解によれば、政府職員が非常に大きな裁量権を保持している社会では「法の支配」は低い水準にあり、その一方で、政府職員が小さな裁量権しかもたない社会では「法の支配」は高い水準にあることになる。 法の支配は、このように柔軟性を持つ点で-たとえ、その柔軟性が好ましい場合があるとしても-何かしら中途半端(な言葉)である。 政治科学教授リー・シャガンによれば、「ルール・オブ・ロー(法の支配)」という古代の概念は、以下の点で「ルール・バイ・ロー(法による支配)」と区別することができる。すなわち「その違いは・・・ルール・オブ・ロー(法の支配)の下では、法は卓越しており、権力の悪用に対する歯止めとして役立てることが可能である。ルール・バイ・ロー(法による支配)の下では、法は、法的な趨勢を抑制する単なる政府の道具である。」(以下省略) ※このように英米圏では、「法の支配」について、①形式的アプローチ、②実質的アプローチ、③機能的アプローチという3様のアプローチが区別されている。このうち①②は正義論(法価値論)に関係するアプローチであり、③は主権論に関係するアプローチである。 ※以下、順に「法の支配」理念について整理していく。 ■3.「法の支配」理念の整理 ◆1.法価値(=正義)論の構造と「法の支配」 政治思想・政治哲学の根本的価値が「自由(freedom/liberty)」という言葉で表現されるように、 法思想・法哲学の根本的価値は「正義(justice)」という言葉で伝統的に表現されてきた。 そこでまず、この「正義」概念を整理し、「法の支配」理念(①形式的および②実質的アプローチ)との関係を考察していく。 ※参考ページ 正義論まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 ほうかちろん【法価値論】legal axiology 日本語版ブリタニカ 法的な価値について考察する研究分野。法的な価値は正義という言葉で表現されることが多いから、正義論といってもよい。 古代ギリシア以来、法哲学の主要分野をなしてきたが、最近は、①規範的倫理学と、②分析的倫理学の区別に対応して、①規範的法価値論と②分析的法価値論(メタ法価値論)とが明確に区別されるようになった。 せいぎ【正義】 広辞苑 ① [荀子(正名)]正しいすじみち、人がふみ行うべき正しい道。「-を貫く」 ② [漢書(律暦志上)]正しい意義または注解。「尚書-」 ③ (justice) (ア) 社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。 これを単に形式的なものと見るマルキシズムは、真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張するが、現在ではイデオロギーを超えた正義が模索されている。 (イ) 社会の正義に適った行為をなしうるような個人の徳性。 せいぎ【正義】justice 日本語版ブリタニカ 人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値。 . 善(※注: agothos, bonum, good)と同義に用いられることもあるが、 (1) 善が、主として人間の個人的態度にかかわる道徳的な価値を指すのに対して、 (2) 正義は、人間の対他的関係の規律にかかわる法的な価値を指す。 . 正義とは何か、という問題については、古来さまざまな解答が示されてきたが、一般的な価値ないし価値基準に関する見解と同様に 1 正義を客観的な実在と考える客観主義的・絶対主義的正義論と、 2 正義を主観的な確信と考える主観主義的・相対主義的正義論とに大別できよう。 法思想の領域では、だいたいにおいて、自然法論が 1 前者に、法実証主義が 2 後者に、属する。 . 従来の正義論のうちでは、アリストテレスやキケロの見解が名高く、与えた影響も大きい。 (ア) アリストテレスは、道徳と区別される正義(特殊的正義)について、①配分的正義と、②交換的正義(平均的正義、調整的正義とも訳される)とを区別し、 ① 前者は、公民としての各人の価値・功績に応じて、名誉や財貨を配分することにおいて成立し、 ② 後者は、私人としての各人の相互交渉から生じる利害を平均・調整することにおいて成立する、とした。 (イ) キケロは、この①配分的正義と同様な内容を、「各人に彼のものを」という公式で表現した。 ※サイズが画面に合わない場合はこちら 参照。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (with) こうした「正義」概念に基く法理念・法思想を、英米圏では一般に「法の支配(rule of law)」と呼んでいる。 ◆2.「法の支配」理念整理表 ※サイズが画面に合わない場合はこちら をクリック願います。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (with) ◆3.主権論と「法の支配」 伝統的な意味での「法の支配」理念(③機能的アプローチ)は、「人の支配(= 特定者の意思に基く統治)」を拒絶することから、「国民主権」「人民主権」といった「主権論(= 主権者の意思に基く統治原理)」と両立しない。 ⇒ 従って、「法の支配」を認める場合は、 ① 日本国憲法の「国民主権」規定に関して、「主権者意思説」以外の立場から解釈する必要が生じ、さらに、 ② 今後目指される憲法改正ないし新憲法制定に際しては、現行憲法にあるような主権者意思としての「国民主権」を連想させる文言は厳しく排除することが望まれる。 ↓詳しい説明はここをクリックして表示/非表示切り替え + ... 歴史主義・伝統主義 (英米法) 反歴史主義・リセット主義 (大陸法) 権利の本質 人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として歴史的権利を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場 人間は自然状態において、生来的に自然権(natural right)を有していたが、社会契約(social contract)を結んで自然権を一部または全部放棄し、人定法(実定法:positive law)を定めた、とする立場 法の本質 法は特定の共同体の中で人々の社会的ルールとして自生した(特定の人物の意思によらずに時間をかけて次第に生成されてきた)(法=社会的ルール説)(★注3)⇒この立場は、真の法=ノモス(個別の共同体毎に自生的に発展してきた人為的ではあるが特定の意思によらざる法)とする見解と親和的である。 法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(法=主権者意思[命令]説)(★注1、★注2)⇒この立場には、①真の法=理性から演繹された自然法(フュシス)とする近代的自然法論、および、②真の法など存在せず主権者の意思・命令としての人為法があるのみとする純然たる法実証主義、の2通りの見解がある。 誰が法を作るのか 法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(経験主義、批判的合理主義)⇒「法は“発見”するもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を否認(特定時点の世代の人々が制定できるのは原則として「憲法典(形式憲法)」迄であって、「国制(実質憲法)」は世代を重ねて徐々に確立されていくものに過ぎない) 法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(設計主義的合理主義)⇒「法は“主権者”が作るもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を肯定(特定時点の世代の人々は「憲法典(形式憲法)」のみならず「国制(実質憲法)」をも意図的に確立することが可能である) 補足 共同体毎に個別的→共同体に固有の「国民の権利」と「一般的自由」の二元論と親和的価値多元的・相対主義的、帰納的、保守主義・自由主義・非形而上学的な分析哲学と親和的法の支配ないし立憲主義と順接 全人類に普遍的→共同体や歴史的経緯を超える普遍的な人権イデオロギーと親和的絶対主義的(但し価値一元的な傾向と価値相対主義的な傾向との両面がある)演繹的、急進主義・全体主義・形而上学的な観念論哲学と親和的国民主権や法治主義と順接 実例 英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。大日本帝国憲法(明治憲法)も日本の歴史的伝統を重んじる形で当時としては最大限に熟慮を重ねて制定された フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)※但し“解釈”により日本の歴史・伝統を過剰に毀損しない慎重な運用が為されてきた 主な提唱者 コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトンなお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ハート ホッブズ、ロック、ルソーなお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック (★注1)「法=主権者意思[命令]説」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。 ① 君主主権 君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。 ② 人民主権 君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=プープル主権説)。ルソーの社会契約説が代表例。 ③ 国民主権 君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一とする者が多い)。なお国民主権の具体的意味については、(1)最高機関意思説と、(2)制憲権(憲法制定権力)説が対立しており、さらに(2)は、 1 ナシオン主権説と 2 プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。一般的に国民主権という場合は、 1 ナシオン主権説(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。 ④ 議会主権 英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における国王/女王(the king/queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論 ⑤ 国家主権 帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」が主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である ⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、大日本帝国憲法(明治憲法)は制定時において明確に歴史主義の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば ⑥ “法”主権 つまり「法の支配」・・・歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束するという立場だった。 ⇒なお、大正デモクラシー期には、ドイツ法学の「⑤国家主権説」を直輸入した美濃部達吉の「天皇機関説」が通説となり、それがさらに天皇機関説事件によっていわゆる①君主主権説に転換したのは昭和10年(1935年)以降の僅か10年間である。 (★注2)「法=主権者意思[命令]説」は、法を特定の立法者/思想家の価値観(例:カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想や自然法論・人権論)あるいは政治イデオロギー(例:マルクス主義やナチス期ドイツ思想)に還元してしまう危険が高く、全体主義への接近を許してしまう。 ※以下、「法=主権者意思[命令]説」の法体系モデル。 ※図が見づらい場合⇒こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) (★注3)「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1960年以降にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。 ※以下、「法=社会的ルール説」の法体系モデル。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照。 ※サイズが画面に合わない場合はこちら 及びこちら をクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※なお、自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ 国家解体思想の正体 参照 ※(補足説明)ハートの法=社会的ルール説のいう「ルール(rule)」という用語は、図にあるように、①事実(外的視点からの捉え方)と②規範(内的視点からの捉え方)の二重構造(=観測者から見れば①事実(社会的事実)だが、法共同体の構成員から見れば②規範だ、という③第3のカテゴリー)になっている、という独特の意味で使用されており、①事実と②規範を峻別する方法二元論(ケルゼンら新カント学派の方法論)と大きく異なっている点に注意(→こうした①事実でもあり②規範でもある③第3のカテゴリーの導入によって、ハート理論は「単なる①事実(=認識)から、なぜ②規範(=価値判断)が生まれるのか」という難問のクリアを図っている)。 ※参考ページ 主権論と法の支配の関係 リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 ■4.(参考)「法の支配」に関する様々な見解 ※整理表を作成するに当たって参照した著名論者の見解を比較します。 ◆1.左翼の見解(芦部信喜、高橋和之、LEC) 芦部信喜『憲法 第五版』(2011年刊) p.13以下 五. 立憲主義と現代国家 - 法の支配 近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とするが、この立憲主義思想は法の支配(rule of law)の原理と密接に関連する。 1. 法の支配 法の支配の原理は、中世の法優位の思想から生まれ、英米法の根幹として発展してきた基本原理である。それは、専制的な国家権力の支配(人の支配)を排斥し、権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理である。 ジェイムズ一世の暴政を批判して、クック(Edward Coke, 1552-1634)が引用した「国王は何人の下にもあるべきでない。しかし神と法の下にあるべきである」というブラクトン(Henry de Bracton, ?-1268)の言葉は、法の支配の本質をよく表している。 法の支配の内容として重要なものは、現在、 ① 憲法の最高法規性の観念 ② 権力によって侵されない個人の人権 ③ 法の内容・手続の公正を要求する適正手続(due process of law) ④ 権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重 などだと考えられている。 2. 「法の支配」と「法治国家」 「法の支配」の原理に類似するものに、《戦前の》ドイツの「法治主義」ないしは「法治国家」の観念がある。この観念は、法によって権力を制限しようとする点においては「法の支配」の原理と同じ意図を有するが、少なくとも、次の二点において両者は著しく異なる。 (一). 民主的な立法過程との関係 第一に、「法の支配」は、立憲主義の進展とともに、市民階級が立法過程へ参加することによって自らの権利・自由の防衛を図ること、従って権利・自由を制約する法律の内容は国民自身が決定すること、を建前とする原理であることが明確となり、その点で民主主義と結合するものと考えられたことである。 これに対して、戦前のドイツの法治国家(Rechtsstaat)の観念は、そのような民主的な政治制度と結びついて構成されたものではない。もっぱら、国家作用が行われる形式または手続を示すものに過ぎない。従って、それは、如何なる政治体制とも結合し得る形式的な観念であった。 (ニ). 「法」の意味 第二に、「法の支配」に言う「法」は、内容が合理的でなければならないという実質的要件を含む観念であり、ひいては人権の観念とも固く結びつくものであったことである。 これに対して、「法治国家」に言う「法」は、内容とは関係のない(その中に何でも入れることが出来る容器のような)形式的な法律に過ぎなかった。そこでは、議会の制定する法律の中身の合理性は問題とされなかったのである。 もっとも、《戦後の》ドイツでは、ナチズムの苦い経験とその反省に基づいて、法律の内容の正当性を要求し、不当な内容の法律を憲法に照らして排除するという違憲審査制が採用されるに至った。その意味で、現在のドイツは、戦前の形式的法治国家から《実質的法治国家》へと移行しており、法治主義は英米法に言う「法の支配」の原理とほぼ同じ意味をもつようになっている。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.24~ (イ) 法の支配 a) 「法の支配」の二つの要請 「法の支配」は「人の支配」に対する概念で、人によるその場その場の恣意的な支配を排除して、予め定められた法に基づく支配によって自由を確保することを目的とする。 法の支配により自由を実現するためには、 まず第一に、 自由を保障するような内容の法(正しい法)を制定することが必要であり、 第二に、 その法を忠実に適用し執行することが必要である。 法の忠実な執行という要請を実現するために、法を制定する権力(立法権)と執行する権力(執行権)と法の争いを裁定する権力(裁判権)を分離し異なる機関に授けるという考えが生ずるが、これが後述する権力分立の原理である。執行権は、立法権がつくった法律を忠実に解釈適用し執行していく義務を負い、忠実に執行しているかどうかが争いになったときには、裁判所が判断するという体制である。 では、正しい法の制定という要請を実現するにはどうしたらよいか。 一つは、 法律の制定に抑制・均衡(checks and balances)のメカニズムを組み込む方法がある。チェック・アンド・バランスも権力分立の内容をなすが、たとえば議会を二院制にして法律の制定には両院の合意が必要であるとしたり、国王あるいは大統領の拒否権や裁可権を認めたり、さらには、裁判所に法律の合憲性の審査権を与えたりして、複数の機関の合意と均衡が形成された場合しか法律の制定はできないようにし、このチェック・アンド・バランスによって法律の内容が行き過ぎるのを阻止し、法律の「正しさ」を確保しようとするものである。 もう一つは、 法律の制定に国民の同意を得るという方法である。これも後述の国民主権の原理と表裏の関係にある問題であるが、国民の権利を制限するような法律を制定する場合には、少なくとも国民を代表する議会の同意を必要とすることにして、法律の内容の「正しさ」を確保しようとするのである。 現実には、この二つの方法を組み合わせて、法律の内容が自由を侵害するものとならないよう配慮している。 その具体的ありようは国により異なるが、それを支えている理念は権力分立(抑制・均衡)と国民主権である。 このように、法の支配は権力分立と国民主権の原理に密接に結びついているのである。 b) 裁判所の役割 正しい法律が制定されれば、その忠実な執行を確保すればよく、このために最も重要な役割を果たすのが裁判所である。 近代において法の支配の観点から最も重視されたのは、絶対王政を倒して国王の権力を法律の下に置くことであったから、法の支配は国王のもつ執行権(行政権)を法律に従わせることの確保を中心に制度化が構想され、その結果、国王から独立の裁判所が行政の法律適合性を裁定するという体制が目指された。 この場合、この裁定の任にあたることになったのが、イギリスのように「通常裁判所」(司法裁判所あるいはコモン・ロー裁判所とも呼ばれる)のこともあれば、フランスやドイツのように、通常裁判所とは別系統の「行政裁判所」を生み出していった国もあった。 法の支配を徹底するためには、行政が法律に従っていることを確保するだけでは不十分である。 法律が憲法に違反していないかどうかを独立の裁判所が判断する制度を実現する必要がある。しかし、それが実現するのは、一般には現代に入ってからであり、近代の段階では、このような違憲審査制度は、唯一アメリカ合衆国において採用されていたにすぎない。 したがって、国民の権利が現実にどの程度保障されるかは、どのような内容の法律が制定されるかに依存することとなった。 イギリスでは、法的には国会主権の原理がとられ、法律が最高の力をもつとされたが、法思想としては中世以来の、国王も議会も拘束される「高次の法」が存在するという観念が強固に生き残り(*)、国民の権利を侵害するような法律がつくられることに阻止的に働いた。 フランスでも、国民主権の下に国民を代表する議会が優位する体制が確立し、法律(議会)が志向の力をもったが(**)、市民階級の成熟とともに選挙権が拡大され、第三共和政期には議会が国民の意思を反映するようになり、法律が国民の権利を侵害することは少なくなったといわれる。これに対し、ドイツでは、市民階級の成熟が遅れ議会が力をもつに至らず、「法律に基づく行政」の原理が法律の内容・実質を問わないものと理解されるようになり、たとえ権利を制約するような法律でも、行政がそれに従ってなされる限り、「法治国家」(Rechtsstaat)が存在するとされた。 これを「形式的法治国家」と呼んでいる。 (*)イギリスのルール・オブ・ロー(rule of law)イギリスの法の支配の特徴を定式化したダイシー(Albert Venn Dicey, 1835-1922)は、法の支配を国会主権と並ぶイギリス憲法の基本原理として提示し、この法の支配は判例法(コモン・ロー)と制定法から成る「正規の法」(regular law)の支配として確立されたと説明している。重要なのは、コモン・ローが具体的事件の中で発見された正義(理性)と観念されたのみならず、制定法も類型的事例に関して一般的抽象的に発見された正義と観念されていたということであり、法の支配が究極的には社会の中で妥当している「高次の法」の支配と考えられたことである。 (**)フランスにおける「法律適合性の原理」(principe de Legalite)1789年のフランス革命は、国民主権を宣言し、主権者国民を代表する国民議会を「主権的意思(一般意思)」の表明」としての法律の制定権者とし、執行権の役割を法律の執行に限定した。この結果、執行権の行為は厳格に法律に従うことを求められた。この原理を「法律適合性の原理」と呼び、かかる国家体制を「法律適合性国家」(Etat legal)と呼ぶ。 高橋和之『立憲主義と日本国憲法憲法 第3版』(2013年刊) p.387~ (1) 法の支配の目的と構造 法の支配は、支配者の恣意的で気まぐれな支配を意味した「人の支配」を否定するために主張された観念であった。人の支配は、権力がどのように行使されるかの予測を困難にし被治者の地位を不安定にする。 そこで、被治者の安定した地位と権利を保障することを目的に、法の支配が求められたのである。支配者の意思からは独立に予め存在する法に従って支配(権力の行使)が行われること、これが法の支配の要求であった。ゆえに、法の支配を制度として確立するためには、まず第一に、権利を保障した内容をもつ「法」の確立が必要であり、第二に、支配が法に従って行われているかどうかを裁定する中立的な機関が必要である。立憲君主政において立法権(議会)と司法権(裁判所)が君主の権力から分離・独立したのは、権利保障のための法の支配の確立という観点からはきわめて自然な展開であり、18世紀イギリスの立憲君主政がモンテスキューの三権分立論の基礎となったのもこの観点から理解できる。 国民主権モデルにおいては、この論理はさらに発展し、法の支配の制度化の論理として「法の段階構造」が形成される。 つまり、法はその定立機関との関連でいくつかの法形式に分化され、法形式間に効力の上下関係が設定されて、下位の法形式は上位の法形式に自己の根拠をもたねばならず、上位の法形式に違反してはならないとの原則が確立されるのである。日本国憲法においては、基本的には、「憲法→法律→命令(政令→府・省令、規則)」という段階構造が形成されている。 それぞれの法形式は法定立機関の違いに対応しており、下位の法形式を上位の法形式の「執行」と捉えると、法定立機関と法執行機関が分離されていることが重要である。 そして、下位の法形式が上位の法形式に違反していないかどうかを、中立的な第三者機関としての裁判所が審査することにより、法の支配の実現が期されているのである。 支配(政治)を法に服せしめるには、政治活動を法的行為・法形式へと「翻訳」しなければならない。法の言葉に移し換えることにより、政治を法の論理の中に取り込み法による枠づけが可能となるのである。 政治は、法の衣をまとい、法の段階構造の中で法の論理を使って自らを正当化しなければならず、その正当化が受け入れられうるものかどうかが中立的な裁判所により判断される。 これが法の支配の基本構造である。 それは、ある意味では、「目的-手段」思考の政治を「要件-効果」へと枠づける操作ということができよう。 LEC『C-Book 憲法Ⅰ《総論・基本的人権》』 p.35~ 法の支配 1.はじめに 定義: すべての国家権力が正しい法に拘束されるという原則 ← 人の支配 → 正しい法(正義の法)に基く支配(法の内容を問題にする) → 国民の権利、自由を保障することが目的 → 英米法系(イギリス、アメリカ)の国々で発達 2.法の支配の内容 (1) 個人の人権保障 (2) 憲法の最高法規性の承認(憲法は行政権のみならず立法権をも拘束する) (3) 手続の適正を要求する(適正手続 = due process of law) (4) 裁判所の役割の重視(最高法規性の担保) 3.日本国憲法における法の支配の現れ 「正しい法 = 憲法」によって「法の支配 = 憲法による支配」 ◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) 長谷部恭男『法とは何か』(2011年刊) p.148-9 法の支配という概念もいろいろな意味で使われます。ときには、人権の保障や民主主義の実現など、あるべき政治体制が備えるべき徳目のすべてを意味する理念として用いられることもありますが、こうした濃厚な意味合いで使ってしまうと、「法の支配」を独立の議論の対象とする意味が失われます。 法の支配は人の支配と対比されます。ある特定の人(々)の恣意的な支配ではなく、法に則った支配が存在するためには、そこで言う「法」が人々の従うことの可能な法でなければなりません。そのために法が満たすべき条件として、次のようないくつかの条件が挙げられてきました。・・・(中略)・・・。こうした、法の公開性、明確性、一般性、安定性、無矛盾性、不遡及性、実行可能性などの要請が、法の支配の要請と言われるものです。 日本の憲法の教科書類を見ると、「法の支配」の名の下に、人権の保障や民主主義、権力分立など、望ましい政治体制が備えるべきあらゆる徳目が並べられていることが少なくありません。しかし、ここまで濃厚な意味で「法の支配」を理解してしまうと、法の支配を独立して検討の対象とする意味はほとんどないように思われます。・・・(中略)・・・。こうした「法の支配」ということばの使い方の背景には、善いことである以上は、そのすべてが予定調和して100パーセント実現できるはずだというバラ色の想定があるのではないでしょうか。私としては・・・限定的な意味での「法の支配」を議論の対象とする方が、学問のあり方としても生産的だし、こうした意味を前提としてもっぱら議論をしている諸外国の研究者と議論するときも、誤解が少なくて善いのではないかと考えます。 長谷部恭男『憲法 第5版』(2011年刊) p.xxx 1.2.5 法の支配 法の支配は、国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することにより、国民の自由を保障しようとする理念である。 △ 法の支配の内容 「人の支配」ではなく、「法の支配」を実現するためには、何よりもそれが従うことの可能な法でなければならず、法に基づいて社会生活を営むことが可能でなければならない。そのためには、①法が一般的抽象的であり、②公示され、③明確であり、④安定しており、⑤相互に矛盾しておらず、⑥遡及立法(事後立法)が禁止され、⑦国家機関が法に基づいて行動するよう、独立の裁判所によるコントロールが確立していること、が要請される(長谷部 [2000] 第10章)。このような法の支配の要請は、法令の公布に関する規定(憲法7条1号)や憲法41条の「立法」の概念、司法の独立(憲法76条以下)の他、憲法31条以下の諸規定に具体化されている(8.3.2. (3) 【法の支配との関係】 参照)。 △ 「善き法」の支配 法の支配は、「善き法」の支配と同視されることがある。 形式的法治国と実質的法治国の概念を対置し、法の支配を後者と同視する考え方もその一例である。また、個人の尊厳や基本的人権の保障、国民主権など、近代立憲主義の諸要請がすべて法の支配に含まれるとする者もいる。 しかし、このように法の支配を濃厚な意味で理解してしまえば、この概念を独立に検討する意義は失われる。 確かに、法の支配の内容とされる法の一般性・抽象性・明確性・安定性、および遡及立法の禁止は、法が法として機能するための、つまり法が人の行動の指針として機能するための必要条件である。立法が個別的にしかも事後的に為され、法の文言も不明確であり、しかも朝令暮改のありさまでは、人々は国家機関の行動について如何なる予測を立てることもできず、そのため法に従って行動することは不可能となるであろう。 しかし、人種差別立法や出版物の検閲制度を設定する法も、やはり法として機能するためには、これらの特徴を備えている必要がある。 これらの特徴はいずれもそれ自体としては、悪法の支配とも十分に両立し得る。また、前述のような法の支配の内容は、法が民主的に定められるか否かとは関係がない。 法が法として機能するために、今掲げたような幾つかの条件が必要であることが、法と道徳との必然的なつながりを意味するといわれることもあるが、これも誤りである。 切れ味の良いことがナイフの道徳性を示していないのと同様、法が法として機能するための条件を備えていることは、法の道徳性を示していない。 今述べたとおり、きわめて不道徳な目的を持つ法も、法として機能するためには、このような条件を備えていなければならない。 △ 法の支配の限界 さらに、法の支配は、法が備えるべき条件の一つに過ぎず、他の要請の前に譲歩しなければならない場合もあることに留意しなければならない。法の支配の要請がどこまで充足されるべきかは程度問題であり、個別の企業を国有化するための立法や女性のみを保護対象とする労働立法も、一般抽象性の点で悖(もと)るところがあるとしても、政府の役割の拡大した福祉国家の下においては肯認され得るであろう。 法の支配を支える根拠となる個人の自律や社会の幸福の最大化という目的自体が、国家の役割の拡大をもたらしているからである。 △ 【形式的法治国と実質的法治国】法の支配の観念と関連して、法治国(Rechtsstaat)の概念を、形式的法治国と実質的法治国の2つに区分することがある。形式的法治国論はあらかじめ定められた法形式さえ取れば人民の権利・自由を無制約に侵害できるという考え方であり、実質的法治国論は、法律の内容に一定の実質的限界があるとの考え方であるとされる。もっとも、日本のような成文の憲法典を持つ国家において、この2つを区別する意義については疑いがある。すなわち、最高法規たる憲法典に、実質的法治国概念が前提とする正しい法内容が書き込まれていない限り、その国は実質的法治国とはいえないであろうし、他方、憲法典に下位の法令が充足すべき正しい法内容がすでに書き込まれているのであれば、形式的法治国概念からしてもすべての国家機関はその正しい法内容に従って行動すべきである。両者を区別する意義があるとすれば、せいぜい憲法改正の限界についてであろう。なお、形式的法治国概念が、法の一般性・抽象性や遡及性、裁判の独立性など法の支配の要請をも否定し得る概念として理解されているのであれば、それは当然、本文で述べた法の支配とは両立し得ない。 ◆3.中間派の見解(田中成明、佐藤幸治) 田中成明『現代法理学』p.329~、P.337~ 「法の支配」は、伝統的な法的価値の中核をなすものであり、法による正義の実現の中心的目的とされてきた。 (中略) わが国における「法の支配」をめぐる最近の議論では、「法の支配」は、最も狭い意味では、英米における伝統的な「人の支配ではなく、法の支配を」という「法の支配(Rule of Law)」原理と同じものと理解されており、このような共通の理解を背景に、様々な「法の支配」論が展開されている。 そして日本国憲法の基礎にあるのはこのような英米法的な「法の支配」であり、このことは、①憲法の最高法規性の明確化、②不可侵の人権の保障、③適正手続きの保障、④司法権の拡大強化、⑤違憲審査制の確立、などのその特徴に照らして明らかであるという理解が、戦後憲法学の通説的見解である。 「法の支配」の概念や要請内容をめぐる最近の議論のいては、フラーの「合法性」概念などを中核に法の形成・実現に関する形式的・手続的要請に限定して理解する形式的アプローチと、 一定の基本権・民主制・立憲主義などの制度的要請を取り込んで理解する実質的アプローチとを対比する構図が一般的である。 (中略) 「法の支配」の概念や要請内容について、法が法であるために最低限備えるべき内在的価値である形式的正義と手続的正義の要請を中核としていることにはほとんど異論はない。 多義的・論争的となるのは、このような形式的・手続的要請を基軸に、議論領域ごとに「法の支配」が目指している価値理念と、「法の支配」を実効的に確保・実現するための具体的な制度の構成・運用原理との双方向に実質化して議論する段階で、 「法の支配」の概念や要請内容にそれらの価値理念や制度構成・運用原理をどこまで取り込むかについて、見解が分れることに起因しているとみられる。 (中略) また、正しい法や善き政治との関連づけによる実質化については、「法の支配」の正しい法や善き政治への志向性を全面的に否定するのは適切ではないけれども、「法の支配」の意義は、正しい法や善き政治の追求・実現やその手段というよりも、その追求・実現手段に一定の制度的制約を課し、甚だしく不正な法や悪い政治を排除するという消極的な規制原理というところにあるとみるべきであろう。具体的には、自由公正な市民社会の円滑な作動を確保するために、権力の恣意専断を抑止し、不当な自由の制限や理不尽な格差を排除することが「法の支配」の核心的要請であり、「法の支配」をめぐる議論を拡散させないためにも、「法の支配」の目指す価値理念については・・・(中略)・・・「消極的アプローチ」をとるのが適切であろう。 (中略) 例えば、F. A. ハイエクは、法的準則が不正義な行為を禁止する消極的なものであるだけでなく、正義の識別基準もまた消極的なものであるとして、「我々は、誤謬や不正義を絶えず排除することによってしか、真理や正義に近づくことができず、 最終的な真理や正義に我々が到達したことを確認することはできない」とする。 そして、正義の積極的な識別基準がなくとも、何が不正義かを示す消極的な基準はあるという事実は、完全に新しい法システムを構築するには不十分だとしても、現にある法をより正義に適ったものに発展させる適切な指針とはなり、重要な意義をもっていることを指摘している。 (中略) 価値観の多様化・流動化が経験的事実として存在し、実質的正義原理などの究極的価値の積極的な理論的基礎づけの可能性をめぐって見解の対立が続くなかで、法的思考における価値判断も主観的・相対的なものにすぎないと考えられがちである。 けれども、裁判において第一次的に求められる価値判断は、何が不正義かに関する消極的な判断であり、消極的アプローチが示唆しているように、 何が不正義として非難され回避されるべきかについては、何が正義かについて違憲が対立している人々の間でも、具体的判断が重なり合い、その限りでコンセンサスがみられることが一般に考えられている以上に多い。そして、裁判の手続過程が、このような社会的コンセンサスに反映された正義・衡平感覚を適切に汲み上げつつ展開されるならば、 実質的正義の実現に直接的ではなくとも間接的に貢献できる範囲は、裁判の機能の考え方次第では、意外に広いのである。 田中成明『現代法理学』 p.316~、P.327~ (L. L. フラー『法と道徳』(1964年刊) による「合法性(Legality)」の基本要請) このこと(※注:法の目的は、法外在的な実質的目的に限らない、ということ)をとりわけ強調したのは、「合法性(legality)」という一連の手続的要請を法システム自体の存立と作動に関わる内在的な構成・運用原理として提示したL. L. フラーである。彼は、法システムをもっぱら法外在的な社会的目的の実現のための手段にすぎないとみるプラグマティズム的な法道具主義が支配的であることを憂い、一般的に目的=手段関係の考察において、社会的目的を実現する制度や手続自体に内在する制約を重視すべきことを力説した。 法システムについても、合法性を「法を可能ならしめる道徳」「法内在的道徳」として、この種の内在的制約と位置づけ、この合法性が法によって実現できる実質的目的の種類を限定していることに注意を喚起している。フラーは、合法性の基本的要請として、 ①法の一般性、②公布(の事実)、③遡及法の濫用の禁止、④法律の明晰性、⑤法律の無矛盾性、⑥法律の服従可能性、⑦法の相対的恒常性、⑧公権力の行動と法律との合致 という八つを挙げているが、英米において「法の支配」の要請内容と了解されているものと大体同じと理解されている。 このような合法性は、立法者や裁判官に目的・理想を示すだけでなく、法システムの存立に不可欠な条件をも示しており、これら八つの要請のどれか一つでも全面的に損なわれると、もはや、「法」システムと呼ぶことはできず、市民の服従義務も基礎付けることができないとされる。 そして、合法性の要請は基本的に手続的なものであり、法外在的な実質的目的に対しても、たいていは中立的であるが、人間を責任を負う行為主体とみる点では中立的ではなく、 このような人間の尊厳を損なう実質的目的を法システムによって追求することは許されないと考えている。 本書でも、「法の支配」の核心的要請内容を、フラーの合法性の八原理を基軸に理解し、このような意味では法の支配をフラーの合法性概念とほぼ互換的に用い、 「司法的正義」については、このような法の支配の要請を個別的事例において具体的に確保・実現することに関わるものと理解することにしたい。 佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) p.79以下 従って、日本国憲法が定める具体的な諸制度は、そのような「自由」の維持発展に多かれ少なかれ寄与するものとして意図されているといえるが、「自由」のための基本的な制度的原理として要約するとすれば、「権力分立」の原理と「法の支配」の原理ということになろう。 (ハ) 「法の支配」の原理 「法の支配」の観念は古典古代のギリシャにその起源をもち、その後の西欧の長い歴史的過程の中で紆余曲折をたどりながら・・・17世紀のイギリスにおいて近代的な個人の「自由」の観念と結びついてより具体的で明確な形をとって現出したのものである。 ロックは、法の目的は、自由を廃止したり、制限したりすることではなく、むしろ自由を維持し、拡大することにあり、法のないところには自由はないことを力説した。 自由とは、他の人々による拘束や暴力から解放されることであるが、このことは法のないところでは不可能であること、他人の気まぐれな意思の対象とされることなく、自らの意思に従って行動できるということが自由の意味するところであること、 にロックは関心を向けたのである。 成文憲法中に個人の自由を列挙することによってその保障の確実さを期そうとした、アメリカ独立革命期の邦の憲法が、「法による統治であって、人間による統治ではない」ことを力説したのも、ロックのそのような発想に通ずる。従って、「法の支配」という場合の「法」観念は独特のものであることが注意されなければならない。 それは簡単にいえば、自由な主体たる人間の秩序の中で自ら発生してくるような「法」、換言すれば、自由な主体たる人間の共存を可能ならしめる上で必要とされる「法」ということになろう。(因みに、ハイエクは、人間社会における秩序を、「自生的秩序(spontaneous order)」と「組織(organization)」とに分かち、それぞれを古典古代のギリシャの kosmos [本来、「国家ないし共同体における正しい秩序」を意味する発生的秩序]と taxis [例えば、軍隊の秩序のような人為的秩序] とに対応させている。 「自生的秩序」は多くの人間の行為の所産ではあるが、人間の意図・企画によって作られたものではないのであり、そのような「自生的秩序」の法はノモス [nomos] と呼ばれ、「組織」の規則であるテシス [thesis] と対比される。そして、このように捉えられた「法」の支配と自由との結びつきが示唆されている。) 先に触れた近代的な「権力分立」の原理は、この「法」観念との結びつきで理解される必要がある。つまり、「立法」「司法」「行政」は、独自の制度的倫理構造をもちつつ「法」に対してそれぞれ独自のかかわり合い方をするものであって、それらの分離なしには個人の「自由」はありえないとされたということである。 1 「立法」について、ロックは、すべての市民に等しく適用される「正しい行為に関する一般的なルール」を想定したが、 実際、一般に、立法府の力といえども無制限とは観念されず、そのような「一般的ルール」の定立に限定され、かかるルールによってすべての権力に必要な制限を課すことが期待された。 2 モンテスキューによって「人間の間でしかく恐るべき裁判権」と呼ばれた「裁判権」は、「法」による裁判権、同じくモンテスキューのいう「法の言葉を述べる口」としての裁判権、つまり「司法権」として把握され、 そのことによってむしろ個人の「自由」の重要な守りテとしての地位をもつに至った。 3 「行政」については「法」による統制が課題とされ、その自由裁量性に猜疑の目が向けられた。 ダイシーは、「法の支配」をもって、「種々の見地からみてイギリス憲法の下で個人の権利に与えられた保障」としてその性格を把握し、その具体的内容として、 ① 専断的権力に対立するものとしての通常の法の絶対的優位ということ、すなわち、国の通常裁判所において通常の法的な方法で確定された法に明白に違反する場合を除いて何人も処罰されず、または合法的に身体もしくは財産を侵害されえないという命題、 ② 法の前の平等、すなわち、地位または身分を問わずあらゆる人が国の通常の法に服しかつ通常裁判所に服するという命題、 ③ 憲法の一般的法原則(人身の自由の権利や公の集会の権利など)は個々の事件において私人の権利を決定する判決の結果であるという命題、 を指摘した。 このダイシーの言葉からもうかがわれるように、「法の支配」にあっては裁判所が格別の役割を担っており、アメリカ合衆国で登場した違憲立法審査制は、この「法の支配」を徹底したものであるということができる。もっとも、ダイシーの右の指摘については、当時のイギリス法の現実をどれ程忠実に描写するものであるか疑問の余地があり、また、自由放任主義的な消極国家を基盤としていることは否定し難く、 現代積極国家段階においてそのままではもはや妥当しないことは承認されなければならない。 しかし、「個人の権利保障」という「法の支配」の性格の意義は積極的に評価さるべきであり、国家機能とりわけ行政権の拡大・裁量権の増大の不可避性を前提とした上で、公権力の恣意性を具体的にいかにコントロールするかの観点から、 「法の支配」の原理を再構築し、一層展開せしめて行くことが必要というべきである。 日本国憲法は、詳細な基本権のカタログを掲げつつ、憲法の最高規範性の確認(97条1項)の下に、司法権を強化し、行政事件に関する裁判権もそれに取り込む一方(76条)、裁判所に違憲立法審査権を付与しており(81条)、 明らかに「法の支配」の原理に立脚していることを示している。 ◆4.リベラル右派の見解(ハイエク、阪本昌成) F. A. Hayek 『自由の条件Ⅱ 自由と法』(1960年刊) p.194以下 法の支配は、立法全体に対する制限であるという事実から推論されることは、それ自体が立法者の可決する法律と同じ意味での法律ではありえないということである。憲法上の規定は、法の支配の侵害を一層困難にするであろう。 それらは慣習的な法律制定による不注意な侵害を防ぐのに役立つかもしれない。しかし最高の立法者は、法律によって自分自身の権力を決して制限することができない。 というのは、かれは自分のつくったいかなる法律をもいつでも廃棄できるからである。したがって、法の支配(the rule of law)とは法律の規則(a rule of the law)ではなく、法律がどうあるべきかに関する規則(a rule concerning what the law ought to be)、 すなわち超-法的原則(a meta-legal doctrine)あるいは政治的理念(a political ideal)である。それは、立法者がそれによる制約を自覚しているかぎりは有効である。 民主主義のもとでは、それが共同社会の道徳上の伝統、多数の人が共有し、問題なく受け容れる共通の理念の一部を形成しないかぎり、法の支配は普及しないであろうということになる。 (原文)From the fact that the rule of law is a limitation upon all legistlation, it follows that it cannnot itself be a law in the same sense as the laws passed by the legistor.Constitutional provisions may make infringements of the rule of law more difficult. They may help to prevent inadvertent infringements by routine legislation.But the ultimate legislator can never limit his own powers by law, because he can always abrogate any law he has made. The rule of law is therefore not a rule of the law, but a rule concerning what the law ought to be, a meta-legal doctrine or a political ideal.It will be effective only in so far as the legislator feels bound by it. In a democracy this means that it will not prevail unless it forms part of the moral tradition of the community, a common ideal shared and unquestioningly accepted by the majority. F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.120以下 立法が法の唯一の源泉である、という概念から二つの観念が引き出されている。それらは、初期の擬人化による誤りが生き残っているあの誤れる設計主義から全面的に導出されているが、現代ではほとんど自明のこととして受け入れられるようになり、政治の展開に大きな影響を与えてきた。最初のものは、これはより高次の立法者を必要とし等々と無限に続くから、その権力を制限することができない最高の立法者があるに違いないとする信念である。 第二のものは、その最高の立法者が制定したものは何であれ法であり、彼の意志を表現するもののみが法である、とする考えである。 ベーコン、ホッブズ、オースティン以来、まずは国王の、後には民主制議会の、絶対権力の一見疑う余地のない正当化に一役買った、最高の立法者の必然的に無制限な意志という概念は、 法という用語が組織の熟慮の上での足並みの揃った行為を導くルールに限定されるならばその場合にのみ、自明であるように思われる。 このように解釈すれば、ノモスという初期の意味では全ての権力に対する障壁となるはずであった法は、逆に権力行使の道具となる。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅰ ルールと秩序』(1973年刊) p.158以下、P.171以下 結局のところ、司法過程から生じる正義に適う行動ルール、すなわちノモスまたは本章でみた自由の法と、次章の研究対象となる権威によって制定された組織のルールとの違いは、前者が人間のつくったのではない自生的秩序の諸条件から導かれるのに対し、後者は特殊化された意図に資する組織の熟慮の上での構築に役立つという事実の中にある。前者は、それらがすでに守られていた実践を明文化したにすぎないという意味でか、 すでに確立されているルールに依拠する秩序を円滑かつ効率的に運営しようというのであれば、それらはこうしたルールの必要補完物と見なされなければならないという意味で、発見されるのである。自生的な行為秩序の存在が裁判官にその固有の仕事を課さなかったならば、それらは発見されなかったであろう。 したがって、それらは、特定の人間的意志とは無関係に存在するものと当然考えられる。 一方、特定の結果を目指す組織のルールは、組織者の設計する知性の自由な発明品であろう。(中略)憲法憲法という法に包含されている政府の諸権力の割り当てと制限に関する全てのルールは、まず、我々が「法」と呼びならわしてはいるが、組織のルールであって正義に適う行動ルールではないルールに、属する。 これらのルールは、広く、特別な威厳を付与されている、あるいは他の法に対するより大きな尊敬が払われてしかるべき、「最高」級の法とみなされている。 しかし、これを説明する歴史的理由はあるものの、それらのルールを普通いわれているように他の全ての法の源泉としてでなく、法の維持を保障するための上部構造と見るほうが、適当である。しかし、こうしたこと(※注:憲法という法に特定の威厳と基本的な性格が与えられていること)で、憲法が、基本的に、事前に存在する法体系の中の法を施行するためにそうした法体系の上に構築された上部構造であるという事実が、変わるわけではない。いったん確立されると、憲法は、他のルールがそこからその権威を引き出すという論理的な意味で「第一義的」であるようにみえるが、それはなおこれらの事前に存在するルールの支持を企図している。それは、法と秩序を守り、他のサービスの給付装置を提供する手段をつくりだすが、法と正義が何であるかを定義しない。 F. A. Hayek 『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』(1976年刊) p.70以下、P.88以下 だが、法を立法者の意志の産物として定義すると、その内容が何であれ立法者の意志の表出全てが「法」に包摂され(「法は全く任意の内容をもってよいことになる」(※注:H.ケルゼン))。その内容は法とよばれる様々な言明の間の何ら重要な区別をなさないという見解が、特に、正義は、いかなる意味でも、何が実際に法であるかを決めるものではなくて、むしろ何が正義であるかを決めるものが法であるという見解が、生まれてくる。旧来の伝統とは逆に、法の制定者は正義の創造者であるという主張が、法実証主義の最も特徴的な教義となった。 (中略)主権という概念は、国家という概念と同様に、国際法のための不可欠の用具である - その概念をそこでの出発点として受け入れるならば、そのことによって、国際法というまさにその観念が無意味にされることはない、とまでは確信できないが。しかし、法秩序の内部的性格の問題を考察するためには、どちらの概念も、人を迷わせるばかりでなく、不要であるように思える。事実、自由主義の歴史と同一である立憲主義の歴史全体は、少なくともジョン・ロック以降は、主権についての実証主義者の概念や全知全能の国家という関連概念に対する闘争の歴史であった。 阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) p.41以下から抜粋⇒全文は 第7章 法の支配 へ 1. 「法の支配」の捉え方 (1) 法の支配とは何でないのか 「法の支配」は、多くの人が口にする基本概念でありながら、その実体につき合意をみない難問である。とはいえ、法の支配の目指すところについては、論者の間におおよその合意がある。“その目的は、可能な限りすべての国家機関の行為を法のもとにおいて、その恣意的な活動を統制し、もって人々の基本権を保障せんとするところにある。” が、この機能論的な説明は、法の実体の解明にはなっていない。 また、法の支配とは何でないのか、という疑問についても、法学者の間で合意がみられる。その解答としては、次のふたつがある。 第一。 “法の支配は、絶対君主の統治にみられたような「人に支配」、すなわち、ルールに基かない、その場当たりの恣意的な権力発動を通して人々を支配することではない。” 第二。 “法の支配は、法治主義ではない。法治主義とは、国民の権利義務に変動を与えるとき、その国家意思は議会の意思を通して実定法化されるべきこと、 そして、行政はその議会法を執行し(“法律なければ行政なし”)、裁判所は議会制定法に準拠して法的紛争を解決すること、をいう。” (2) 法の支配と法治主義 「法の支配」にいう法は、民主的機関である議会の制定する法律をも統制し、主権者の意思をも統制する機能をもっている。この機能については、法学者は異論を唱えないだろう。未解決の争点は、“その狙いのために、法の支配にいう「法」がいかなる属性をもっているのか”というところにある。 (3) 法の支配と正義 法の支配とは、《主権者といえども、人為の法を超える高次の法のもとにある》という思想を起源とする。 それは、法(law)と立法(legislation)との区別のもとで、前者が後者を指導する、という思想である。高次の法 higher law とは、・・・(中略)・・・“fundamental law”と同じである。 Higher law または fundamental law の内容は、《正義に適っているルール》を指してきた。 ところが、「正義」の捉え方は歴史によって変転し、論者によってさまざまとなっているために私たちを混乱させているのだ。 法の支配を正義と関連づけるとき、その捉え方には、大きくふたつの流れがみられた。 第一は、 問題の法令の実質・内容を問う立場である。正義の種類からいえば、実質的正義論に属する。その典型的立場が自然法論である。 第二は、 問題の法令の形式を重視するタイプである。正義の種類でいえば、形式的正義論である。 これは、問題の法令が、どのような特定の人びとをも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で普遍的な形式を満たしているか否かを問うのである。 これは、《人為法が普遍的に妥当する形式をもっていれば、不正を最小化できる》といいたいのだ。 2. 「法の支配」の理論と憲法典 (1) 法の支配の理論化 法の支配を脱実体化しながら理論体系としたのが、イギリスの法学者A. ダイシー(1835~192年)である。彼は、臨機(場当たり)でなく、誰もが知りえて、特定可能な対象にではなく、誰に対しても等しく恒常的に適用されうる法の形式を、「正規の法 regular law」と呼んだ。それは、《類似の事案は同じように法的に解決される》という平等原則のなかから浮かび出た形式である。 それは、多年にわたる実践と蓄積のなかで、次第しだいに、人間が獲得してきた法的知識だった。 その法的知識を専門的に修得するのが法曹であり、なかでも裁判官である。身分の独立保障をうけてきた裁判官は、当事者の主張に耳を傾けながら、正しい解決のために、誰に対しても等しく適用されてきた論拠を発見するのである。 (2) 法の支配の突出部 形式的正義論をベースとする法の支配の考え方には、 (ア) 法は特権を容認せず、一般的普遍的な形式をもたなければならない、 (イ) 法は公知(誰もが前もって知りうるもの)で恒常的でなければならない、 (ウ) その適用に矛盾があってはならない、 という命題が伴っている。これらの命題は、法の予見性・安定性に資し、経済自由市場における交易を一挙に促進することとなった。 自由市場の生育を可能としたのは、法の支配という憲法上の基本概念だった。法の支配が、経済的自由、身体・生命の自由その他の自由へと拡大するにつれて、自由主義国家の基盤ができあがっていったのだ。 法の支配は、経済市場における諸自由だけでなく、国家の刑罰権と課税権とを有効に統制する論拠となった。 罪刑法定主義と租税法律主義が、法令の遡及的適用を排除したり、慣習を法源たりえないとしたり、法令の裁量的適用に警戒的であるのは、法の支配の思想が、一部実定法上に突出したためである。 法の支配は、われわれの権利義務に関する実定法(人為法)を指導するメタ・ルールである。 法の支配という思想は、あるルールを実定化するにあたって実定法を先導する上位のルールである。たとえ憲法を含む実定法が法の支配を謳ったとしても、それこそが「自己言及のパラドックス」にすぎないのだ。 (3) 法の支配と憲法との関係 法の支配は、国家の不正義を最小化するための理念として、歴史上さまざまな論者が肉付けしてきた。 この理念は、sovereignty、なかでも、君主の有してきたそれをまず統制しようとした。 sovereignty は、「主権」と訳出されるが、この訳語では伝えきれないニュアンスをもった言葉である。それは、「主権」というよりも、絶対権または最高権といったほうがいいだろう。 憲法は、最高・絶対の主権を統制するための「基本法」として、歴史に登場した。このことからも分かるように、憲法は、法の支配という構想の必須部なのだ(が、しかし、憲法が法の支配にいう法ではない)。 主権の帰属先が君主から国民になった場合でも、法の支配の理念に変更はない。 今日においても、すべての国家機関、なかでも国民の主権と、国民代表機関である議会とを、法のもとにおく必要があるのだ。 そのために、憲法は法の支配の理念の一部を組み込もうとする。 1 統治の機構においては、①独立の保障される司法部、②特別裁判所の禁止、③憲法条規の最高法規性の宣言がこれであり、 2 権利章典の部においては、①適正手続保障、②遡及処罰の禁止、③公正な裁判の保障等がこれである。 もっとも、こうした個別の条規を列挙することは、憲法と法の支配との関係を考えるにあたっては二次的な意味しかもたない。 教科書のなかには、法の支配について、(ア)憲法の最高法規性、(イ)基本権の尊重、(ウ)適正手続保障、(エ)司法審査制を列挙するものがある。 もしこの思考が法の支配の論拠を日本国憲法典に求めようとしているのであれば、ひとつの体系内に根拠を求める「自己言及のパラドックス」に陥ってしまっている。 もし論拠を示したものではなく、“法の支配がかような諸点に現れている”というのであれば、(イ)と(ウ)はダブルカウントであり、(エ)は法の支配の内在的な要請ではなく(英国には、司法審査制はない)、法の支配を有効にするための手段にすぎないことの説明に欠けている。 このように、憲法と法の支配との関係をみるとしても、要注意点は、《憲法典という実定化された法が法の支配にいう“法”ではない》ということである。 たしかに、憲法典は法の支配の理念を一部活かしている。が、しかし、「憲法典=法の支配」ではない。 (4) 法の支配と主権との関係 《法の支配は憲法典や主権をも統制する》とのテーゼを理解するためには、次の(ア)~(ウ)に留意しておかなければならない。 (ア) 一般の教科書によれば、国民主権にいう「主権」とは、憲法制定権力のことを指す。 (イ) 主権は、国制を意味する憲法を創出する力であり(憲法を作り出す力としての主権。以後、憲法制定権力を「制憲権」という)、憲法典は、この制憲権によって作り出される。 (ウ) [制憲権→憲法典]という理論上の順序関係を考えれば、憲法典によって主権を統制することはできない。 では、「憲法典によって主権を統制することはできない」とき、主権(制憲権)は何によって規範的な拘束を受けているのだろうか? 実体的正義論者は、自然法、人間の理性、人間の尊厳等をあげるだろう。これらの実体的要素はいずれも客観性に欠けるとみる批判的な論者であれば、「主権者の自己拘束だ」というかもしれない。 それらの解答を、私はいずれも受容しない。《主権を規範的に統制するもの、それが法の支配だ》、これが私の解答である。 法の支配にいう「法」とは、実定的な法ではなく、最低限の形式的正義のことだ、と私は理解している。 (5) 法の支配と法律との関係 法の支配は、先に触れたように、国民の主権や、国民代表機関である議会の権限(法律制定権)をも統制する理念である。 では、法の支配は、議会の立法権(法律制定権)をどのように統制するか?私のような、形式的正義論者は、こう解答するだろう。《議会が法律を制定するにあたっては、一般的普遍的な形式をもたせなければならない》。 この解答は、日本国憲法41条の「立法」の解釈に活かされるだろう。立法(法律)が一般的普遍的であるという形式を満たすとき、それは 第一に、 一定の要件を満たす限り誰に対しても適用されうるとする点で道徳的にみて正当であり、 第二に、 予見可能性・法的安定性を増すという点で経済的にみて合理的である。 法の一般性・普遍性とは、法規範の名宛人が事前に特定可能でないことをいう。法の支配にとって最も警戒され続けてきた点は、法が人的な属性に言及しながら、特定可能な人びとを特別扱いすることだった。 法の支配は、人的な特権を忌避して、誰であれ自分の限界効用を自由に(国家から公法規制や指令を受けないで)満足させてよい、とする思想でもあるのだ。 ※その他参照先 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)第一部 国家と憲法の基礎理論 第四章 立憲主義と法の支配 ■5.「法の支配」とは何か(暫定的な要約) 1 英米圏の標準的な理解では「法の支配」とは、①まず第一に「手続的正義・形式的正義」を中核とする法内在的正義の要請をいい、②配分的正義など「実質的正義」に関する要請は、あくまで周縁的に考慮されるに留まる。 2 次に、③「法の支配」がどのような働きを果たすのか、を考える機能的アプローチでは、それが「人の支配」ではないことから主権論との関係が問題となる。⇒「法の支配」は「特定の人の“意思”に基く支配」を拒絶しており、主権者(法=主権者意思説)と両立しない。(「君主主権」(君主一人の意思による支配)のみならず集合意思としての「国民主権」も原理的には「法の支配」と両立しない)。 では、特定の人の意思の産物ではない「法」とはいったい何なのか? ⇒ それは「ノモス(nomos 意図せざる人為の法)」つまり歴史的構築物としての「法」(自生的秩序の法)である。(すなわち、フュシス(physis, natural law 自然法)やテシス(Thesis 純然たる実定法)ではない) 1 では、①手続的・形式的正義に関する法準則が「法の支配」の中核要素である、と述べたが、③機能的アプローチでは、そうした形式を超える「何らかの実質的価値」を想定していることになる。 しかしそれでも、この場合の「実質的価値」は、左派系の正義論にありがちな、(1)人権保障、(2)憲法の最高法規性、といったものではなくて、ノモス概念としての「法」=特定の共同体で自生的に発展してきた慣習法であることから、実質的意味の憲法(国制)に接近する。 ⇒この③を、①の(狭義の)「法の支配」と区別して、「国体の支配」ないし「ノモスの支配(nomocracy)」と呼ぶべきである。 3 最後に、「法の支配」の「法」と、(a)実質的意味の憲法(国体法ないし国制)および、(b)形式的意味の憲法(憲法典)、との関係について整理する。 ①(狭義の)「法の支配」は、あくまで消極的に理解されるべき法理念(「~は法ではない」、という形式の言明で表現されるもの)であり、憲法を含めた立法全体に対する制限となるメタ・ルールであって、法規範ではない。 これに対して、③ノモスは、成文であれ不文であれ、「~は法である」という形式の言明で、一応は積極的に把握されうる法規範としての実体(substance)をもつもの、である。 さらに、テシスは、その定義から完全に積極的に把握できる成文法(実定法 positive law)である。 ■6.関連する用語 ほうち-しゅぎ【法治主義】 広辞苑 ① 人の本性を悪と考え、徳治主義を排斥して、法律の強制による人民統治の重要性を強調する立場。韓非子がその代表者。ホッブズも同様。 ② 王の統治権の絶対性を否定し、法に準拠する政治を主張する近代国家の政治原理 → 法の支配 ほうちしゅぎ【法治主義】rule of law(※注:原文ママ) 日本語版ブリタニカ 行政は議会において成立した法律によって行われなければならない、とする原則。 1 行政に対する法律の支配を要求することにより、 2 恣意的・差別的行政を排し、国民の権利と自由を保障することを目指したもので、立憲主義の基本原則の一つに挙げられている。この原則に基く国家を、法治国家という。 ほうち-こっか【法治国家】 広辞苑 国民の意思によって制定された法に基づいて国家権力を行使することを建前とする国家。①権力分立が行われ、②司法権の独立が認められ、③行政が法律に基いて行われる、とされる。法治国→ 警察国家 ほうちこっか【法治国家】Rechtsstaat 日本語版ブリタニカ 行政および司法が、あらかじめ議会の制定した法律によって行われるべきである、という法治主義の国家。すなわち、全国家作用の法律適合性ということが、法治国家の本質とされたのであるが、 1 その際、イギリス法の「法の支配」 rule of law と違い、 2 行政および司法が、国民の代表機関たる議会によって制定された法律に適合していればよい、 という形式的側面が重視された結果、法治国家論は、法律に基きさえすれば、国民の権利・自由を侵害してよい、という否定的な機能を果たし、法や国家の目的・内容を軽視する法律万能主義的な傾向を内包していた。 (1) 第二次世界大戦後、西ドイツは、この点に反省を加え、(a)立法・行政および裁判を直接に拘束する不可侵・不可譲の基本的人権を承認し、(b)これを確保するために憲法裁判所を設置して、これに法令の憲法適合性を審査する権限を与えた。 (2) 日本の場合も、憲法は、裁判所に、いわゆる法令審査権を与えている(81条)。 このようにして、 [1] 行政・司法が単に法律に適合している、という形式面のみならず、 [2] その法律の目的・内容そのものが、憲法に適合しなければならない、 という原則が確立され、それによって、いわば法治主義の実質的貫徹が期されている。 ■7.参考図書 『法の支配 - オーストリア学派の自由論と国家論』 (阪本昌成 著(2006年刊)) 『法とは何か - 法思想史入門』 (長谷部恭男:著(2011年刊)) ■8.ご意見、情報提供 松尾幸太郎氏blog 内容が詰め込まれすぎていて参考になり過ぎて困るほど。憲法における「法の支配」の意味と意義http //blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444639.html -- 名無しさん (2014-04-05 03 31 16) 名前 コメント ■左翼や売国奴を論破する!セットで読む政治理論・解説ページ 政治の基礎知識 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 政治思想(用語集) リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る ※別題「デモクラシーの真実」 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 ※別題「リベラリズムの真実」 保守主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ ナショナリズムとは何か ケインズvs.ハイエクから考える経済政策 国家解体思想(世界政府・地球市民)の正体 左派・左翼とは何か 右派・右翼とは何か 中間派に何を含めるか 「個人主義」と「集産主義」 ~ ハイエク『隷従への道』読解の手引き 最速!理論派保守☆養成プログラム 「皇国史観」と国体論~日本の保守思想を考える 日本主義とは何か ~ 日本型保守主義とナショナリズムの関係を考える 右翼・左翼の歴史 靖國神社と英霊の御心 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 国体とは何か① ~ 『国体の本義』と『臣民の道』(2つの公定「国体」解説書) 国体とは何か② ~ その他の論点 国体法(不文憲法)と憲法典(成文憲法) 歴史問題の基礎知識 戦後レジームの正体 「法の支配(rule of law)」とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 立憲主義とは何か ※概念/理念定義、諸説紹介 まとめ 「正義」とは何か ~ 法価値論まとめ+「法の支配」との関係 正統性とは何か ~ legitimacy ・ orthodoxy の区別と、憲法の正統性問題 自然法と人権思想の関係、国体法との区別 「国民の権利・自由」と「人権」の区別 ~ 人権イデオロギー打破のために 日本国憲法改正問題(上級編) ※別題「憲法問題の基礎知識」 学者別《憲法理論-比較表》 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価 よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編) よくわかる現代左翼の憲法論Ⅱ(長谷部恭男・追討編) ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ
https://w.atwiki.jp/jap0/pages/205.html
はじめに ここでは、世界史の基本事項(世界史の全体像)の内容を前提に、さらに世界史を細かく掘り下げていくためのページです。少なくとも、共通テストで出題されるレベルの必修用語はすべてこのページに網羅しました。ですから、用語集として使っても構いませんし、一番いいのは、共通テストの過去問を解いた後、各選択肢に出てきた用語をこのページで検索にかけ、時代(縦)・地域(横)を頭に入れていくという使い方です。(参考:iPhoneでのページ内検索方法。パソコンの場合は、Ctrl+F)この使い方に慣れていくことで、インプット(理解・記憶)とアウトプット(実戦)が交錯し、普通に勉強するよりも学習の質・スピードが倍増するはずです。 1. 先史時代 ア.人類の進化 人類直立歩行 道具 火の使用 言語の使用 化石人類 人類の出現 年代 猿人 更新世 ラミダス猿人 サヘラントロプス アウストラロピテクス ホモ=ハビリス ホモ=フロレシエンシス 打製石器 礫石器 ホモ=エレクトゥス(原人) ジャワ原人/北京原人 周口店 ハイデルベルク人 握斧(ハンドアックス) 旧人:ネアンデルタール人 剥片石器 新人 ホモ=サピエンス アフリカ単一起源説 クロマニヨン人 石刃技法 洞穴絵画:アルタミラ(スペイン)/ラスコー(フランス) 人類の拡散 ウォーレス線 旧石器時代 イ.文化から文明へ 新石器時代:農耕・牧畜 新石器革命/農業革命(農耕の開始) 磨製石器 潅漑農業文明 金属器 都市文字 ウ.人類と言語の分化 人種アニミズム トーテミズム神話 シャーマニズム インド=ヨーロッパ語族 セム語系/ハム語系 オーストロネシア語族 2. 古代オリエント ◉古代オリエント世界 ア.オリエント世界 メソポタミア 肥沃な三日月地帯 ティグリス・ユーフラテス川 メソポタミア文明 イ.シュメール人の都市国家 青銅器 シュメール人 ギルガメッシュ叙事詩 シュメール文化 都市国家 ウル(cf.ウルの軍旗)/ウルク/ラガシュ アッカド王国:byサルゴン1世/メソポタミア初統一 セム語系 ウル第3王朝 シュメール法典 ウ.メソポタミアの統一と周辺地域の動向 古バビロニア王国(バビロン第一王朝):byアムル人/メソポタミア再統一 バビロン ハンムラビ王 ハンムラビ法典 民族移動 インド=ヨーロッパ語族 小アジア/アナトリア 鉄器 ハットゥシャ(ボアズキョイ) ミタンニ/カッシート/ヒッタイト エラム人 イラン高原 多神教 マルドゥク神 ジッグラト 楔形文字/占星術/太陰暦▶太陰太陽暦に修正/1週7日制 エ.エジプトの統一王朝 ハム語系 エジプト文明:ナイル川/ノモス/ファラオ 古王国:メンフィス/クフ王/ピラミッド 中王国:テーベ/ヒクソス侵入で滅亡 エジプト新王国 トトメス3世 アメンホテプ4世/イクナートン テル=エル=アマルナ アマルナ文書 アマルナ革命 アマルナ美術 ラメセス2世 カデシュの戦い アブシンベル神殿 エジプト末期王朝 ラー/アメン=ラー アメン神 アトン神 オシリス神 ミイラ 死者の書 王家の谷 ツタンカーメン王 神聖文字(ヒエログリフ)/パピルス 太陽暦 シャンポリオン ロゼッタ=ストーン オ.東地中海世界の諸民族 シリア パレスチナ カナーン人 海の民 ペリシテ人 アラム人:ダマスクス/アラム文字 フェニキア人 ウガリト シドン・ティルス ヘブライ人:ユダヤ教 イスラエル人 ユダヤ人 ヤハウェ 出エジブト モーセ/十戒 ヘブライ王国 イェルサレム ダヴィデ ソロモン イスラエル王国 ユダ王国 バビロン捕囚 一神教 律法(トーラー) シナゴーグ 旧約聖書「嘆きの壁」 カ.古代オリエントの統一 アッシリア:オリエント初統一 戦車 サルゴン2世 アッシリア帝国 アッシュール=バニパル王 ニネヴェ/王立図書館 アッシリア帝国の公用文字 ネブカドネザル2世 メディア王国/リディア王国/新バビロニア王国/エジプト王国 エクバタナ サルデス貨幣 エフェソス イラン人/イラン系民族 アケメネス朝ペルシア:オリエント再統一 ペルシア帝国 キュロス2世:建国/ユダヤ人解放 カンビュセス2世 ダレイオス1世 ペルセポリス スサ サトラップ/王の目、王の耳/王の道/駅伝制 ローリンソン ベヒストゥーン碑文 ゾロアスター教 ゾロアスター/ツァラトゥストラ アフラ=マズダ&アーリマン 最後の審判 ミトラ教 アレクサンドロス大王の東方遠征 ペルシア帝国の滅亡 ヘレニズム時代 セレウコス朝シリア キ.パルティアとササン朝の興亡 パルティア:東西交易の利益独占/都はクテシフォン バクトリア[→大月氏→クシャーナ朝] アルサケス/アルサケス朝 ヘカトン ピュロス ミトラダテス1世 ササン朝ペルシア:マニ教成立 アルデシール1世 シャープール1世 エデッサの戦い ホスロー1世エフタル ク.イラン文明の特徴 ゾロアスター教 アヴェスター マズダク教 パールスィー 3. 古代ギリシア ア.地中海世界の風土 ギリシア地中海世界 シチリア島 ミノルカ島 マルタ島 ロードス島 クレタ島 サルデーニャ島 コルシカ島 キプロス島 黒海 イ.エーゲ文明 シュリーマン トロイア遺跡 ミケーネ遺跡 エヴァンズ クノッソス ヴェントリス 線文字B クレタ文明/ミノス文明 ミノス王 ミケーネ文明:byギリシア人の一派アカイア人 ティリンス ピュロス トロイア戦争 貢納 王政 暗黒時代 鉄器 ドーリア人:ミケーネ文明を滅亡させた/スパルタ イオニア人:アテネ アイオリス人:テーベ 海の民 ウ.ポリスの成立と発展 アクロポリス シノイキスモス/集住植民市/植民活動 アルファベット ヘレネス/ヘラス バルバロ イデルフォイ 隣保同盟 オリンピアの祭典/古代オリンピック マッサリア ネアポリス タレントゥム ビザンティオン シラクサ エ.市民と奴隷 ポリスの市民 ポリスの貴族 アルコン ポリスの平民 メトイコイ/在留外人 アゴラ クレーロス 奴隷/奴隷制度 オ.アテネとスパルタ アテネ ラウレイオン銀山 スパルタ ヘイロータイ&ペリオイコイ リュクルゴスの制 スパルタの軍国主義 カ.民主政へのあゆみ 王政貴族政 貨幣 重装歩兵・密集部隊 キュロン ドラコンの立法 ソロン/ソロンの改革 財産政治 僭主政 ペイシストラトス クレイステネス 五百人評議会 陶片追放:危ない僭主(非合法の独裁者)を防止 デーモス キ.ペルシア戦争とアテネ民主政 アケメネス朝ペルシア帝国 ダレイオス1世 ペルシア戦争 イオニア地方/イオニアの反乱 ミレトス エフェソス マラトンの戦い クセルクセス1世 テルモピュライの戦い レオニダス サラミスの海戦:三段櫂船▶戦後、漕ぎ手の無産市民の発言力高まる テミストクレス プラタイアの戦い ペリクレス デロス同盟 民会 市民権法(アテネ) 公職の抽選制 アテネの民主政/デモクラシー民衆裁判所/陪審制 弾劾裁判 ク.ポリスの変質 ペロポネソス戦争 ペロポネソス同盟 衆愚政治by扇動政治家(デマゴーゴス):ペリクレスの死後登場/ポリスの衰退を招く コリント戦争 大王の和約 テーベ エパミノンダス 傭兵 マケドニア ペラ フィリッポス2世 デモステネス イソクラテス カイロネイアの戦い コリントス同盟 ケ.ヘレニズム時代 アレクサンドロス アレクサンドロス大王の東方遠征 ペルシア帝国 グラニコス河の戦い イッソスの戦い アルベラの戦い(ガウガメラの戦い) ペルシア帝国の滅亡 ダレイオス3世 アレクサンドロスの大帝国 アレクサンドリアの建設 ディアドコイ/ディアドコイ戦争 アンティゴノス朝 マケドニアイプソスの戦い セレウコス朝シリア セレウキア アンティオキア ペルガモン王国 バクトリア マカベア戦争 ハスモン朝 プトレマイオス朝エジプト ヘレニズム ヘレニズム時代/ヘレニズム三国 4. 古代ローマ ア.ローマ共和政 イタリア人ラテン人ローマ王政(ローマ)エトルリア人貴族共和政パトリキ・貴族プレブス・平民重装歩兵コンスル・執政官元老院民会身分闘争聖山事件平民会護民官十二表法カヌレイウス法ケンソル・戸口監察官リキニウス・セクスティウス法ローマ共和政ホルテンシウス法新貴族・ノビレスディクタトル・独裁官市民法 イ.地中海征服とその影響 半島統一戦争サムニウム戦争ピュロス王アッピア街道タレントゥム分割統治植民市自治市同盟市ローマ市民権ポエニ戦争カルタゴシチリア属州/プロヴィンキアカンネーの戦いハンニバルザマの戦いスキピオカトーヒスパニアマケドニア戦争アリストニコスの蜂起総督(ローマ)徴税請負人騎士・エクイテス中小農民の没落ラティフンディア/ラティフンディウム/大土地所有制奴隷無産市民・プロレタリアパンと見せ物閥族派/オプティマテス平民派/ポプラレスシチリアの奴隷反乱 ウ.内乱の一世紀 グラックス兄弟の改革内乱の1世紀マリウススラユグルタ戦争兵制改革/職業軍人制イタリア同盟市戦争ミトリダテス戦争スパルタクスの反乱剣奴/剣闘士奴隷奴隷反乱第1回三頭政治ポンペイウスクラッススカエサルガリアガリア遠征インペラトルブルートゥスキケロ第2回三頭政治アントニウスレピドゥスオクタウィアヌスクレオパトラアクティウムの海戦ガレー船プトレマイオス朝エジプト エ.ローマ帝国 ローマ帝国ローマプリンケプスアウグストゥスプリンキパトゥス/元首政ローマ皇帝ローマの平和/パックス=ロマーナネロウェスパシアヌスユダヤ戦争ポンペイ五賢帝ネルウァトラヤヌスダキアハドリアヌスアントニヌス=ピウスマルクス=アウレリウス=アントニヌスアルメニアパルティアロンディニウムルテティアウィンドボナカラカラ万民法アントニヌス勅令季節風貿易イギリス(古代)ブリタニア オ.3世紀の危機 ローマ帝国の軍隊/3世紀の危機/軍人皇帝/ゲルマン人/ササン朝ペルシア/ウァレリアヌス/パルミラ解放奴隷/コロナトゥス/コロヌス カ.西ローマ帝国の滅亡 ディオクレティアヌス➡四分統治(四帝統治)/テトラルキア専制君主政/ドミナートゥスコンスタンティヌスキリスト教の公認ソリドゥス金貨コンスタンティノープルテオドシウス東ローマ帝国西ローマ帝国西ローマ帝国の滅亡オドアケル キ.キリスト教の成立 パレスチナヘロデ王ポンティオ=ピラト死海文書イエスキリストキリスト紀元キリスト教使徒ペテロパウロ教会新約聖書ヒエロニムス一神教 ク.迫害から国教化へ キリスト教迫害カタコンベコンスタンティヌスキリスト教の公認ミラノ勅令キリスト教の国教化ニケーア公会議公会議アタナシウス派三位一体説アリウス派正統異端ユリアヌス帝エフェソス公会議ネストリウス派カルケドン公会議単性説コプト教会アルメニア教会 ケ.ローマの生活と文化 ローマ文化コロッセウムパンテオンアッピア街道フォルム/フォロ=ロマーノ公共浴場ガール橋/ローマの水道ローマ法ユリウス暦グレゴリウス暦ローマ字ウェルギリウスホラティウスオウィディウスキケロリウィウス/『ローマ建国史』タキトゥスポリビオス政体循環史観プルタルコスストラボンプリニウスマルクス=アウレリウス=アントニヌス自省録セネカエピクテトス新プラトン主義プトレマイオス天動説ガレノスミトラ教マニ教エウセビオス教父アウグスティヌス告白録神の国 5. 西ヨーロッパ世界の成立 1節 西ヨーロッパ世界の成立 先頭へ ア.ヨーロッパの風土と人びと ヨーロッパインド=ヨーロッパ語族ギリシア人イタリア人ケルト人ラ=テーヌ文化ガリア人ブリトゥン人スコット人ゲール人 イ.ゲルマン人の大移動 ゲルマン人ガリア戦記ゲルマニア民会トイトブルクの戦い民族移動ゲルマン人の大移動フン人パンノニア東ゴート人/東ゴート王国 西ゴート人/西ゴート王国:イベリア半島 アラリックヴァンダル人/ヴァンダル王国ガイセリックブルグンド人/ブルグンド王国フランク人/フランク王国アングロ=サクソン人七王国アッティラカタラウヌムの戦いオドアケルテオドリックランゴバルド人/ランゴバルド王国 ウ.フランク王国の発展とイスラームの侵入 フランク王国メロヴィング朝クローヴィスクローヴィスの改宗宮宰/マヨル=ドムスイスラームのヨーロッパ侵入トゥール・ポワティエ間の戦いカール=マルテルカロリング朝ピピン エ.ローマ=カトリック教会の成長 五本山ローマ=カトリック教会レオ1世コンスタンティノープル教会キリスト紀元ローマ教皇グレゴリウス1世修道院運動ビザンツ帝国聖像禁止令レオン3世/レオ3世(ビザンツ皇帝)ローマ教皇領ピピンの寄進ラヴェンナ オ.カール大帝 カール大帝ザクセン人伯辺境伯巡察使アーヘンアヴァール人カロリング=ルネサンスカールの戴冠レオ3世キリスト教会の東西分裂ローマ=カトリック教会ギリシア正教/ギリシア正教会 カ.分裂するフランク王国 ヴェルダン条約メルセン条約東フランクザクセン朝ハインリヒ1世マクデブルクオットー1世マジャール人レヒフェルトの戦いヨハネス12世オットーの戴冠神聖ローマ帝国イタリア政策神聖ローマ皇帝帝国教会政策西フランクユーグ=カペーカペー朝パリドイツフランスイタリア キ.外敵の侵入と西ヨーロッパの混乱 ノルマン人/第2次民族大移動 スカンディナヴィア半島 ヴァイキング ノルマンディ/ノルマンディ公国 ロロ ノルマン人の南イタリア征服 シチリア島 シチリア王国(両シチリア王国):byルッジェーロ2世 大ブリテン島 イギリス ブリタニア アングロ=サクソン七王国 イングランド王国 エグバート デーン人/デーン朝 アルフレッド大王 クヌート ノルマンディー公ウィリアム(ウィリアム1世):ノルマン征服▶ノルマン朝 ヘースティングスの戦い バイユー=タペストリー リューリク ノヴゴロド国 ルーシ 毛皮 キエフ公国 北欧諸国=デンマーク・スウェーデン・ノルウェー ノルマン人の北アメリカ到達 アイスランド グリーンランド ク.封建社会の成立 封建社会封建的主従関係恩貸地制度従士制諸侯(ヨーロッパ)騎士荘園領主/封建領主/荘園領主農奴/農奴制不輸不入権領主裁判権 ケ.教会の権威 ローマ=カトリック教会階層制組織/ヒエラルキア大司教司教司祭十分の一税神の平和/神の休戦修道院運動ベネディクトゥスモンテ=カシノベネディクト派クリュニー修道院聖職売買聖職叙任権/叙任権闘争グレゴリウス7世ハインリヒ4世破門カノッサの屈辱ヴォルムス協約インノケンティウス3世教皇権の最盛期 6. 東ヨーロッパ世界の成立 ア.ビザンツ帝国の繁栄と衰亡 東ローマ帝国ビザンツ帝国ギリシア正教ノミスマコンスタンティノープル皇帝教皇主義 ユスティニアヌス(6世紀):『ローマ法大全』ハギア=ソフィア聖堂イスラームのビザンツ帝国侵攻 ヘラクレイオス1世(7世紀) レオン3世 アレクシオス1世:プロノイア制=封建制度(貴族に軍役と引き換えに土地を付与) 聖像禁止令聖像崇拝問題イコンマケドニア朝マンジケルトの戦い/マラーズギルドの戦いブルガール人/ブルガリア帝国ラテン帝国ニケーア帝国コンスタンティノープル陥落 イ.ビザンツ帝国の社会と文化 軍管区制/テマ制 屯田兵制 ビザンツ様式 モザイク壁画 サン=ヴィターレ聖堂 ウ.スラヴ人と周辺諸民族の自立 スラヴ人 東スラヴ人 ノヴゴロド国 キエフ公国 ロシア ウラディミル1世 バトゥ キプチャク=ハン国 タタールのくびき アレクサンドル=ネフスキー モスクワ大公国 イヴァン3世 ツァーリ モスクワ 南スラヴ人 セルビア人/セルビア王国 バルカン半島 コソヴォの戦い ボスニア王国 クロアティア人 スロヴェニア人 西スラヴ人 ポーランド王国:カジミェシュ3世▶中心都市クラクフにヤゲウォ大学設立 リトアニア/リトアニア=ポーランド王国 ヤゲウォ朝 チェック人 モラヴィア王国 ベーメン王国/ボヘミア王国 プラハ ブルガール人/ブルガリア ヴォルガ=ブルガール王国 ブルガリア帝国 キリル文字:byキュリロス ハンガリー王国 ルーマニア人 7. 中世ヨーロッパの変容 ア.十字軍とその影響 西ヨーロッパ中世世界の変容三圃制重量有輪犂オランダの干拓レコンキスタ巡礼サンチャゴ=デ=コンポステラ十字軍運動ウルバヌス2世クレルモン宗教会議イェルサレム王国十字軍国家エデッサ伯国アンティオキア公国サラーフ=アッディーンリチャード1世第4回十字軍ラテン帝国宗教騎士団ドイツ騎士団テンプル騎士団ヨハネ騎士団少年十字軍ジャン=ド=ブリエンヌの十字軍アッコン イ.商業の復活 東方貿易/レヴァント貿易 貨幣経済(中世ヨーロッパ) 遠隔地貿易 地中海商業圏 北海・バルト海交易 シャンパーニュ地方:ヨーロッパ商業の中心地/定期市/北海と地中海を結ぶ 商業の復活/商業ルネサンス 地中海沿岸都市:ヴェネツィア(ヴェネツィア共和国)/ジェノヴァ(ジェノヴァ共和国)/ミラノ(ミラノ公国) フィレンツェ/フィレンツェ共和国 バルト海沿岸都市:リューベック/ハンブルク ブレーメン ガン(ヘント) ブリュージュ フランドル地方 ロンドン マインツケルン ニュルンベルク アウクスブルク フランクフルト マクデブルク ノヴゴロド ウ.中世都市の成立 都市司教座都市自治都市/都市共和国/コムーネ帝国都市/自由都市ロンバルディア同盟レニャーノの戦いハンザ同盟 エ.都市の自治と市民 「都市の空気は自由にする」ギルド商人ギルド同職ギルドツンフト闘争フッガー家 オ.封建社会の衰退 荘園制の崩壊貨幣地代農奴解放黒死病/ペスト死の舞踏ヨーマン農民一揆封建反動ジャックリーの乱ワット=タイラーの乱ジョン=ボール火砲/火器ユダヤ人迫害ゲットー カ.教皇権の衰退 ボニファティウス8世フィリップ4世アナーニ事件教皇のバビロン捕囚クレメンス5世アヴィニヨン教皇権の衰退教会大分裂/大シスマ異端審問魔女裁判ウィクリフフスコンスタンツ公会議公会議至上主義ジギスムントフス戦争 3節-2 西欧中世世界の変容 先頭へ キ.イギリスとフランス プランタジネット朝 アンジュー伯/アンジュー帝国ヘンリ2世トマス=ベケットジョンカンタベリー大司教大憲章/マグナ=カルタヘンリ3世シモン=ド=モンフォールモンフォール議会議会/議会制度身分制議会模範議会エドワード1世イギリス議会制度上院下院ジェントリ/郷紳フランスカペー朝パリフィリップ2世ブーヴィーヌの戦いルイ9世アルビジョワ派/カタリ派アルビジョワ十字軍ワルド派フィリップ4世三部会王の奇蹟 ク.百年戦争とバラ戦争 フランドル地方毛織物ギエンヌ地方/アキテーヌ地方ヴァロワ朝 エドワード3世:百年戦争開始(フランス王位継承権を主張) 火砲/火器/大砲/鉄砲エドワード黒太子黒死病農民一揆ジャックリーの乱ワット=タイラーの乱ブルゴーニュ公ヘンリ5世ジャンヌ=ダルクオルレアンカレーシャルル7世バラ戦争ランカスター朝ヨーク朝リチャード3世ヘンリ7世テューダー朝星室庁裁判所ウェールズアイルランドスコットランド ケ.スペインとポルトガル イベリア半島国土回復運動/レコンキスタエル=シドカスティリャ王国アラゴン王国ポルトガル王国イスパニア/スペイン王国イサベルフェルナンド5世カトリック両王1492年グラナダユダヤ教徒追放令コンベルソマラーノジョアン2世 コ.ドイツ・スイス・イタリア・北欧 ドイツ神聖ローマ帝国イタリア政策シュタウフェン朝フリードリヒ1世フリードリヒ2世大空位時代金印勅書カール4世選帝侯マインツハプスブルク家ウィーン領邦/領邦国家/ラント 東方植民:byドイツ人/エルベ川以東にブランデンブルク辺境伯領が創設 スイス イタリア:ギベリン(皇帝党)vsゲルフ(教皇党) ノルマン朝(シチリア)パレルモシチリアの晩祷ナポリ王国デンマークスウェーデンノルウェーマルグレーテカルマル同盟フィン人 8. インド史 ◉インダス文明:インダス川/モエンジョ=ダーロ/ハラッパー/ドーラヴィーラー/ロータル/ドラヴィダ人/印章/インダス文字(未解読) ◉アーリヤ人の侵入とガンジス川流域への移動:インド社会の形成/カイバル峠/パンジャーブ何前民族移動/鉄器/牛/ヴェーダ時代/リグ=ヴェーダ/ガンジス川/都市国家/ヴァルナ制/バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラ/不可触民(パーリヤ)/ジャーティ/カースト制度/バラモン教 ◉都市国家の成長と新しい宗教の展開:十六王国時代(マガダ国〔ナンダ朝:アレクサンドロス大王のインド侵入を阻止〕vsコーサラ国)/仏教(ガウタマ=シッダールタ)/サールナート/ジャイナ教(ヴァルダマーナ)/ウパニシャッド(ブラフマン・アートマン) ◉マウリヤ朝:チャンドラグプタ/パータリプトラ/カウティリヤ/アショーカ王/カリンガ国/ダルマ/石柱碑/ブラーフミー文字/仏典結集/ストゥーパ@サーンチー ◉バクトリア:王メナンドロス/サカ族により征服/インド北西部に侵入▶クシャーナ朝に組み込まれる ◉クシャーナ朝:カニシカ王/仏教保護/ガンダーラ美術:ヘレニズムと仏教が融合/プルシャプラ/ガンダーラ地方/季節風貿易/大乗仏教/菩薩信仰/ナーガールジュナ/部派仏教/小乗仏教(上座部仏教)/スリランカ/パーリ語 ※バーミヤン(アフガニスタンの仏教遺跡) ※マトゥラー(ガンダーラとほぼ同時期に仏像制作が始まった都市) ※サータヴァーハナ朝:ローマと季節風貿易◀『エリュトゥラー海案内記』/都プラティシュターナ/インド洋交易圏 ◉グプタ朝:チャンドラグプタ1世/サンスクリット語が公用語に▶チャンドラグプタ2世(全盛期) ※ヒンドゥー教(ブラフマー神・シヴァ神・ヴィシュヌ神)/マヌ法典:ヴァルナごとの生活規範 ※サンスクリット文学:カーリダーサの戯曲『シャクンタラー』/二大叙事詩『マハーバーラタ』(◀歌集『バガヴァッド=ギーター』)『ラーマーヤナ』 ※ゼロの概念/グプタ様式/アジャンター石窟寺院/エローラ石窟寺院 ※仏教の衰退/密教(ヒンドゥー教と融合して生まれた仏教) ◉ヴァルダナ朝(カナウジ/ハルシャ=ヴァルダナ/ナーランダー僧院 ◉ラージプート時代(プラティーハーラ朝・チャーハマーナ朝/パーラ朝/ラシュトラクータ朝/チャールキヤ朝:ハルシャ=ヴァルダナに対抗) ◉南インドとインド洋交易:ドラヴィダ人/海の道/ギリシア系商人/インド洋交易圏/港市国家/マラッカ海峡/香辛料/絹・絹織物/茶/陶磁器/チョーラ朝/パッラヴァ朝/パーンディヤ朝/スリランカ:シンハラ王国➡タミル人(タミル語はドラヴィダ系)と対立 ◉イスラーム勢力のインド進出:ガズナ朝(王マフムード)・ゴール朝(アフガニスタンに成立/インドに侵入/ラージプート諸国と抗戦)▶デリー=スルタン朝(奴隷王朝(ゴール朝のマムルーク・アイバクが建設/モスク:クトゥブ=ミナール)▶ハルジー朝▶トゥグルク朝(ヴィジャヤナガル王国と対立/バフマン朝が自立)▶サイイド朝▶ロディー朝(アフガン系) ◉ムガル帝国(デリー/ペルシア語が公用語):バーブル(カーブルを拠点/パーニーパットの戦いでロディー朝征服/回想録『バーブル=ナーマ』)▶フマーユーン(アフガン系のスール朝による一時的な支配)▶アクバル(新宗教ディーネ=イラーヒー/アグラ遷都/ファテープル=シークリー遷都/マンサブダール制〔位階制〕/ジャーギール制〔土地の徴税権〕/ジズヤの廃止)▶シャー=ジャハーン(タージ=マハル)▶アウラングゼーブ(ジズヤの復活) ◉インド=イスラーム文化の開化:ミニアチュール(細密画/ムガル絵画)/ラージプート絵画(庶民的)/ウルドゥー語(アラビア語・ペルシア語とヒンディー語の合体)/シク教創始byナーナク◀カビール〔宗教家〕によるイスラム教のスーフィズムとヒンドゥー教のバクティ信仰の融合 ◉インド地方勢力の台頭:マラーター王国(シヴァージー)▶マラーター同盟▶マイソール王国(イギリスと抗戦) 9. イスラーム史 ◉イスラーム教の誕生:ベドウィン/メッカ/ジャーヒリーヤ/クライシュ族/一神教・神アッラー/預言者ムハンマド(クライシュ族)▶メディナ移住=ヒジュラ/偶像崇拝の否定/政教一致/イスラーム暦/ヒジュラ暦/ムスリム/ウンマ/カーバ神殿/コーラン/シャリーア(イスラーム法)/他教徒は「啓典の民」として容認/六信五行/バスラ/フスタート ◉正統カリフ時代:アブー=バクル▶ウマル(ジハード(聖戦)で征服地にミスル(軍営都市)設置/エジプトのイスラーム化/カーディシーヤの戦い/ニハーヴァントの戦い→ササン朝滅亡→イラン人のイスラーム化進む)▶ウスマーン▶アリー(拠点はクーファ/ハワーリジュ派により暗殺) ◉ウマイヤ朝(都ダマスクス/ウマイヤ=モスク):ムアーウィヤ(元シリア総督/スンナ派:シーア派と対立/イマーム/カルバラーの戦い)▶北アフリカのチュニス獲得▶アブド=アルマリク(アラビア語公用語化/アム川以北のマー=ワラー=アンナフル獲得)▶ワリード1世(ジブラルタル海峡からイベリア半島侵入/西ゴート王国征服)▶トゥール・ポワティエ間の戦い ※税制:「アラブ帝国」▶マワーリー(非アラブ改宗者)にもジンミー(異民族)にもジズヤ・ハラージュ強制 ◉アッバース朝:アブー=アルアッバース(タラス河畔の戦いで唐を破る→製紙法)▶マンスール(バグダード建設)▶ハールーン=アッラシード(アッバース朝最盛期)▶マームーン(知恵の館開設)▶イスラーム帝国の分裂(各地の総督=アミールの自立)▶アッバース朝の滅亡byフラグ ※税制を改革:「イスラーム帝国」▶ジズヤはジンミーのみ、ハラージュは全員払う=ムスリム間平等の実現 ※ホラーサーンが拠点に ※ザンジュの乱 ◉分裂期:ターヒル朝(イラン)▶サッファール朝(イラン)/イドリース朝(モロッコ)/アグラブ朝(チュニジア)/ルスタム朝(アルジェリア)/トゥールーン朝(エジプト) ◉3カリフ時代(10世紀):アッバース朝・後ウマイヤ朝・ファーティマ朝 ◉イベリア半島と北アフリカ:後ウマイヤ朝(コルドバ/アブド=アッラフマーン3世:ファーティマ朝に対抗してカリフを自称)▶ムラービト朝(マラケシュ/ベルベル人/マグリブ)▶ムワッヒド朝▶マリーン朝▶ハフス朝▶ザイヤーン朝▶ナスル朝(グラナダ/アルハンブラ宮殿) ※サード朝(モロッコ/マラケシュ征服/ポルトガルの侵入に対抗) ◉エジプト(カイロ):ファーティマ朝(シーア派のイスマーイール派※暗殺教団/カリフ自称/アズハル学院)▶アイユーブ朝(サラディン/ヒッティーンの戦い)▶マムルーク朝(チェルケス人がマムルークに/十字軍に勝つbyバイバルス/アインジャールートの戦いでモンゴル軍破る/サトウキビ栽培普及/カーリミー商人活躍) ◉イラン:ブワイフ朝(大アミール)▶セルジューク朝(トゥグリル=ベク/称号スルタン/マンジケルトの戦い/マリク=シャーニザーム=アルムルク/ニザーミーヤ学院/ルーム=セルジューク朝/ニケーアコンヤザンギー朝)▶イル=ハン国(ガザン=ハン/宰相ラシード=アッディーン『集史』) ※イラン=イスラーム文化 ◉イスラームの国家と経済:イスラームの貨幣経済/ディナール金貨/ディルハム銀貨/アター制/イクター制/ムスリム商人/カーリミー商人/ダウ船/隊商交易(キャラバンサライ) ◉トルコ系民族の進出とソグド人:中央アジア/オアシスの道/トルコ系民族/騎馬遊牧民/丁零高車鉄勒/突厥/ササン朝ペルシア/エフタル/突厥文字/ウイグル/隋/ブハラ/サマルカンド/唐/安史の乱/イラン系民族/ソグド人/ソグド商人/ソグディアナ/絹の道(シルクロード)/マニ教/仏教/キリスト教/ゾロアスター教/ソグド文字/ウイグル文字/モンゴル文字/満州文字/キルギス/西ウイグル王国/ハザール=カガン国 ◉トルキスタンの成立:中央アジアのトルコ化/西トルキスタン/ソグディアナ/ソグド人/ゾロアスター教/サマルカンド/東トルキスタン/マニ教/仏教/新疆 ◉中央アジア:サーマーン朝(ブハラ/ガズナ朝自立:アルプテギンによる北インド侵攻)▶カラ=ハン朝(トルコ語辞典完成byカシュガリー) ◉ティムール朝(サマルカンド):ティムール/アンカラの戦い/シャー=ルフ/トルコ=イスラーム文化/ヘラートウルグ=ベクアリシール=ナヴァーイーウズベク人シャイバニ/シャイバニ朝 ◉オスマン帝国:オスマン1世(小アジアでルーム=セルジューク朝より自立)▶オルハン=ベイ(ブルサを新首都に)▶ムラト1世(オスマン帝国の半島支配/アドリアノープル遷都/コソヴォの戦い:ハンガリーなど破る)▶バヤジット1世(ニコポリスの戦い/アンカラの戦い/スルタンを称す)▶メフメト2世(コンスタンティノープルの陥落/イスタンブルへ改称/トプカプ宮殿/寛容な宗教政策→ミッレト)▶セリム1世(マムルーク朝征服)▶スレイマン1世(モハーチの戦いでハンガリー征服/ウィーン包囲(第1次)/プレヴェザの海戦/カピチュレーション/スレイマン=モスクbyミマーリ=シナン)▶セリム2世(レパントの海戦) ※軍事:シパーヒー(トルコ人騎兵/ティマール制➡スルタンから土地+徴税権を付与)/イェニチェリ(常備軍/征服地のキリスト教徒から徴兵/鉄砲で武装させる) デヴシルメ(キリスト教徒の男子を強制的に徴用した制度) ※ヴェズィラーザム(オスマン衰退期にスルタンに代わり実験を握った大宰相) ◉サファヴィー朝(タブリーズ):イスマーイール1世(サファヴィー教団の長/シーア派の十二イマーム派/称号シャー/チャルディランの戦い:セリム1世のオスマン帝国軍と)▶アッバース1世(ホルムズをポルトガルから奪還/イスファハーンを新首都に/王の広場・王のモスク/ペルシア絨毯◀ミニアチュールの影響) ※軍事:キジルバシュ(騎兵集団) 10. オスマン帝国衰退期(領土侵攻&独立運動) ◉エジプト:マムルークの一掃(byエジプト総督ムハンマド=アリー)/エジプト=トルコ戦争➡ウンキャル=スケレッシ条約/ロンドン会議/ロンドン4ヵ国条/約5国海峡協定/スエズ運河開通/ウラービー革命(反乱)➡イギリスによる保護国化 ◉オスマン帝国(衰退期):イギリス東インド会社の進出(バスラに商館設置)➡第2次ウィーン包囲➡カルロヴィッツ条約(ハンガリーをオーストリアに割譲/トランシルヴァニアを獲得)➡アゾフ海占領byピョートル1世➡チューリップ時代(フランス文化の影響)➡ムスタファ3世(エカチェリーナ2世による南下政策➡露土戦争➡クチュク=カイナルジ条約➡クリミア半島のクリム・ハン国失う)➡セリム3世(西欧化改革開始➡ニザーム=ジェディット[西欧式軍隊]創設)➡マフムト2世(イエニチェリの全廃/アーヤーン(地方有力者)が富を蓄積/ワッハーブ王国(リヤド)樹立(ワッハーブ派のイブン=アブドゥル=ワッハーブによるイスラーム改革運動⬅サウード家の保護)/トルコ=イギリス通商条約)➡アブデュルメジト1世(ギュルハネ勅令/タンジマート[恩恵改革]/クリミア戦争)➡アブデュルハミト2世(ミドハト憲法by宰相ミドハト=パシャ⬅新オスマン人[オスマン帝国における近代化を目指した]の影響/露土戦争➡ベルリン条約) ◉イラン:サファヴィー朝(アッバース1世➡ホルムズ島からポルトガル駆逐)➡アフシャール朝(テヘラン/byナーディル=シャー➡死後、アフガニスタンが独立➡アフガン王国・ドゥッラーニー朝成立byパシュトゥーン人)➡ゼンド朝(シーラーズ/byカリム・ハン)➡カージャール朝(byアーガー=ムハンマド/イラン=ロシア戦争➡トルコ・マンチャーイ条約/バーブ教成立byサイイド=アリ=ムハンマド/バーブ教徒の乱/アフガン戦争➡イギリスによるアフガニスタン保護国化/タバコ=ボイコット運動⬅パン=イスラーム主義のアフガーニー[※弟子がムハンマド=アブドゥフ]追放/イラン立憲革命)➡パフレヴィー朝(レザー=ハン)➡イランの石油国有化byモサデグ⬅イラン=クーデタ➡パフレヴィー2世の専制政治復活+国際石油資本(メジャーズ)の反撃➡白色革命(近代化政策)➡イラン革命byホメイニ(➡第2次石油危機/イラン・アメリカ大使館人質事件)➡イラン=イスラーム共和国成立➡イラン=イラク戦争(イラク共和国[サダム=フセイン/バース党]のイラン侵攻)+クウェート侵攻⬅湾岸戦争byアメリカ(ブッシュ[父])中心の多国籍軍)➡同時多発テロbyビン=ラーディン(アル=カーイダ)⬅アフガニスタンのターリバーン政権(⬅ソ連撤退後アフガニスタン内戦で台頭)が匿っているとして、アメリカ(ブッシュ[子])のアフガニスタン攻撃(アフガニスタン戦争)➡イラク戦争⬅日本の自衛隊海外派遣 ※スエズ以東(アデンなど)からの撤兵byウィルソン(英)内閣➡アラブ首長国連邦(UAE)・南イエメン独立(➡イエメン共和国(北と南が合併)) ※アラブ民族主義運動:パン=イスラーム主義への抵抗 ◉アルメニア(カフカス地方) ※アラブ文化復興運動(シリアのアラブ人キリスト教徒から起こったアラブ人としての自覚を促す運動) 11. 中国史 ◉中国の古典文明 漢民族中国の少数民族雑穀長江稲作農業 黄河文明:前期は仰韶文化(彩陶)▶後期は竜山文化 長江文明:河姆渡遺跡 良渚文化黒陶三足土器灰陶 都市国家三皇五帝夏三星堆殷中原商殷墟奴隷/奴婢甲骨文字漢字青銅器邑邑制国家 周(西周):都は鎬京▶洛邑/封建制/青銅貨幣 渭水易姓革命禅譲放伐諸侯(中国)卿・大夫・士井田法宗族宗法 春秋時代犬戎 周の東遷東周覇者春秋の五覇斉の桓公晋の文公楚の荘王尊王攘夷呉王夫差越王勾践秦の穆公宋の襄王戦国時代戦国策王富国強兵戦国の七雄晋(春秋)韓魏趙斉燕楚秦(戦国)孝公什伍の制 オ.社会変動と新思想 鉄製農具牛耕潅漑農業貝貨刀銭布銭蟻鼻銭円銭臨淄諸子百家儒家孔子儒学・儒教魯論語孟子荀子墨家墨子道家老子荘子法家商鞅韓非名家兵家呉起/呉子縦横家蘇秦張儀合従連衡陰陽家鄒衍陰陽五行説農家詩経春秋楚辞屈原木簡・竹簡 カ.秦の統一:秦(統一と滅亡):始皇帝(⬅李斯)/都は咸陽/郡県制/半両銭/小篆/焚書・坑儒/万里の長城建設by蒙恬/南海郡設置/兵馬俑(始皇帝陵の東方に発見)/陳勝・呉広の乱で滅亡 項羽劉邦垓下の戦い キ.漢代の政治 前漢:都は長安/郡国制(劉邦)▶呉楚七国の乱▶郡県制(武帝) 年号/元号中国の暦法 対外政策:匈奴衛青霍去病張騫大月氏烏孫敦煌郡大宛/フェルガナ衛氏朝鮮楽浪郡南越 経済政策:塩・鉄・酒の専売制:by桑弘羊 均輸法平準法五銖銭限田策宦官外戚 新:王莽/赤眉の乱で滅亡 後漢劉秀/光武帝洛陽 党錮の禁:後漢の桓帝のとき/官僚弾圧 黄巾の乱太平道張角五斗米道/天師道張陵 ク.漢代の社会と文化 郷挙里選豪族儒学の官学化董仲舒五経五経博士劉向訓詁学鄭玄讖緯説紙蔡倫張衡紀伝体司馬遷史記班固漢書編年体説文解字 ケ.秦・漢帝国と世界 中華思想張騫 班超:西域都護▶甘英をローマ帝国に派遣▶安息国(パルティア)に妨害される 日南郡(後漢の一番南):大秦王安敦到来/4代和帝のとき 帯方郡交趾郡倭人徴姉妹の反乱冊封体制 イ.分裂の時代 黄巾の乱▶後漢の滅亡 赤壁の戦い 三国時代 魏:曹操▶王は息子の曹丕(そうひ)(文帝)/都は洛陽 呉:孫権/都は建康(現在の南京) 蜀:劉備/都は成都 関羽 張飛 諸葛孔明 五丈原 晋/西晋:八王の乱(内乱)▶五胡の南下▶永嘉の乱(匈奴の反乱)で滅亡 司馬炎/武帝 永嘉の乱 司馬睿 東晋 五胡十六国 ●[北](五胡十六国時代→北魏→東魏・西魏→北斉・北周) 五胡十六国時代:鳩摩羅什(西域生まれ)の仏典翻訳 北魏:均田制 西魏:府兵制(農民を徴兵) ●[南](東晋→宋→斉→梁→陳)▶陳は隋に滅ぼされる 劉淵 漢/前趙 前秦 苻堅 淝水の戦い 拓跋氏 北魏 吐谷 渾太 武帝 孝文帝 平城 洛陽 漢化政策 均田制 三長制 東魏・西魏 北斉・北周 南北朝 江南 劉裕 宋▶斉▶梁(侯景の乱)▶陳 魏晋南北朝時代 六朝 ウ.社会経済の変化 門閥貴族 貴族 九品中正 屯田制:魏 占田法 課田法 戸調式 均田制 露田 土断法 エ.魏晋南北朝の文化 中国仏教 仏図澄 道安 慧遠 鳩摩羅什:仏典を翻訳 法顕 仏国記 法難/廃仏 三武一宗の法難 敦煌雲 崗竜門武帝(梁) 達磨 道教 神仙思想 寇謙之 新天師道 道観 道士 道蔵 老荘思想 竹林の七賢 阮籍 嵆康 清談 六朝文化 陶潜/陶淵明 謝霊運 昭明太子 文選 顧愷之(こがいし)『女史箴図(じょししんず)』:宮廷の女性への戒め 王羲之(おうぎし)『蘭亭序』:詩をまとめた本の序文 三国志 斉民要術/賈思勰 水経注/酈道元 傷寒論 オ.朝鮮と日本の国家形成 朝鮮/朝鮮半島古朝鮮衛氏朝鮮楽浪郡帯方郡朝貢貊族高句麗丸都城広開土王/好太王広開土王碑平壌韓民族三韓新羅慶州百済扶余加羅/加耶三国時代日本邪馬台国卑弥呼魏志倭人伝大和政権倭の五王 ◉東アジア文化圏の形成 ア.隋の統一と唐の隆盛 隋:楊堅/都は大興城(長安) 均田制租調庸制府兵制選挙科挙律令/律令制度煬帝大運河聖徳太子遣隋使高句麗遠征唐李淵/高祖 李世民:貞観の治/貞観政要天可汗高宗都護府安南都護府羈縻政策 イ.唐代の制度と文化 律令/律令制度三省六部中書省門下省尚書省御史台州県制科挙秀才科明経科進士科蔭位の制均田制(唐)口分田永業田租調庸制丁男役・徭役/雑徭荘園 府兵制:西魏のとき/北魏の均田制で土地をもらった農民を軍隊として動員 開元通宝唐の文化長安中国仏教道教景教大秦景教流行中国碑祆教摩尼教回教/清真教揚州広州市舶司蕃坊大食唐の仏教玄奘慈恩寺/大雁塔大唐西域記義浄華厳宗天台宗真言宗末法思想浄土教/浄土宗禅宗会昌の廃仏円仁唐の儒教孔穎達五経正義唐詩王維李白杜甫白居易 古文復興(韓愈・柳宗元/四六駢儷体の否定➡漢代以前の古文を復興)山水画呉道玄李思訓閻立本欧陽詢褚遂良顔真卿唐三彩 ウ.唐と隣接諸国 唐と隣接諸国突厥東突厥西突厥突厥文字オルホン碑文ウイグルウイグル文字都護府羈縻政策冊封体制新羅白村江の戦い百済高句麗骨品制慶州朝鮮の仏教仏国寺石窟庵渤海/海東の盛国靺鞨大祚栄上京竜泉府日本遣唐使大化改新平城京チベット/吐蕃ソンツェン=ガンポチベット文字チベット仏教吐谷渾南詔王玄策ベトナム エ.唐の動揺 則天武后周(武周)武韋の禍 玄宗:開元の治 募兵制節度使タラス河畔の戦い楊貴妃安史の乱安禄山史思明藩鎮両税法楊炎市飛銭塩専売制 黄巣の乱⬅朱全忠鎮圧 王仙芝 オ.五代の分裂時代:後梁→後唐→後晋→後漢→後周/都は開封(後唐のみ洛陽)/後晋では燕雲十六州を遼に譲る ア.東アジアの勢力交代 契丹高麗王建開城大理大越国高麗版大蔵経金属活字高麗青磁国風文化刀伊日宋貿易鎌倉幕府源頼朝鎌倉仏教広州泉州明州市舶司 ウ.宋の統治 宋/北宋▶都は開封→臨安/澶淵の盟(多額の銀や絹を遼に)、慶暦の和約(宋→西夏)、紹興の和約(南宋→金)/北宋は金により滅亡(靖康の変) 趙匡胤/太祖開封太宗文治主義中書門下省枢密院禁軍科挙(宋)州試省試殿試形勢戸官戸神宗王安石王安石の改革/新法青苗法均輸法市易法募役法保甲法保馬法方田均税法新法党旧法党司馬光 靖康の変:都が金によって占領 徽宗欽宗高宗江南 南宋:都は臨安/モンゴル帝国(5代)により滅亡 秦檜岳飛淮河 エ.宋代の社会 開封草市鎮行作宋銭交子会子佃戸/佃戸制江南の開発囲田圩田占城稲蘇湖/江浙蘇州景徳鎮茶(中国)絹馬貿易/茶馬貿易 茶の専売 制方臘の乱 ◉モンゴル民族の発展 ア.モンゴルの大帝国:チンギス→オゴタイ→グュク[プラノ=カルピニが派遣される]→モンケ→フビライ モンゴル/モンゴル民族モンゴル文字クリルタイハン/汗/大ハーンチンギス=ハンモンゴル帝国/大モンゴル国千戸制ウルスヤサナイマン/ホラズム朝(ホラズム=シャー国)征服/西夏オゴタイ 金:都は燕京(北京)/モンゴル帝国(2代)により滅亡 カラコルム耶律楚材バトゥワールシュタットの戦いモンケフラグ3ハン国の分立イル=ハン国/フラグ=ウルスタブリーズキプチャク=ハン国/ジョチ=ウルスサライチャガタイ=ハン国オゴタイ=ハン国(参考項目)/アリクブケハイドゥの乱 イ.元の東アジア支配 フビライ大都上都元南宋の滅亡史天沢回回砲厓山の戦い大元ウルス高麗武臣政権/崔氏モンゴルの高麗支配三別抄の乱高麗版大蔵経金属活字高麗青磁元の遠征活動日本遠征日元貿易ベトナム元のベトナム遠征チャンパーパガン朝ペグー朝ジャワ島タイ人スコータイ朝ラームカムヘン王タイ文字シンガサリ朝マジャパヒト王国真臘風土記モンゴル人第一主義(参考項目)色目人漢人南人中書省行中書省/行省元代の科挙ダルガチジャムチ/站赤牌符ムスリム商人蒲寿庚杭州/キンサイ泉州広州明州元の大運河交鈔オルトク元の文化元曲/西廂記/琵琶記/漢宮秋趙孟頫元末四大家染付 ウ.モンゴル時代のユーラシア 東西交流プレスター=ジョンの伝説タタールの平和 プラノ=カルピニ:ローマ教皇インノケンティウス4世によって派遣された(情報収集のため)/元のグユク=ハンのとき ルブルックマルコ=ポーロ世界の記述/東方見聞録ラッバン=ソウマ モンテ=コルヴィノ:カトリック布教(元の都で) マリニョーリ 郭守敬:授時暦◀イスラームの天文学を取り入れた 細密画(ミニアチュール):イスラーム世界で発達◀中国絵画の影響 集史チベット仏教パスパ文字パスパ エ.モンゴル帝国の解体 交鈔の濫発紅巾の乱韓山童韓林児白蓮教弥勒仏元の滅亡北元 ◉東アジア世界の動向 ア.14世紀の東アジア 紅巾の乱by朱元璋 白蓮教弥勒仏/下生信仰 朱元璋(洪武帝):紅巾の乱/元の最後・明の最初/都は南京 一世一元の制北元江南倭寇李成桂朝鮮王朝/李朝漢城科田法科挙(朝鮮) イ.明初の政治 明の皇帝専制政治明の行政機構中書省を廃止六部の皇帝直属五軍都督府/都察院里甲制/民戸/里長戸/甲首戸/里老人賦役黄冊魚鱗図冊科挙(明)明律明令六諭衛所制/軍戸靖難の役建文帝 永楽帝:都を北京に 紫禁城内閣(中国)内閣大学士宦官永楽大典四書大全五経大全明のベトナム支配永楽帝のモンゴル遠征明の十三陵鄭和/南海諸国遠征カリカットホルムズアデンモガディシュマリンディ海禁 ウ.明朝の朝貢世界 朝貢貿易琉球王国マラッカ王国朝鮮王朝/李朝世宗金属活字訓民正音/ハングル士林/士禍足利義満勘合貿易/日明貿易日朝貿易ベトナム胡朝黎朝黎利/レ=ロイ 異民族:オイラト・タタール エセン=ハン土木の変正統帝長城の改修明の時期区分 エ.朝貢体制の動揺 大航海時代香辛料アチェ王国マタラム王国バンテン王国シャムアユタヤ朝日本町タウングー朝ラオ人ランサン王国ランナー王国北虜南倭ダヤン=ハンアルタン=ハン後期倭寇王直日本銀石見銀山スペイン銀貨銀(中国・日本)馬蹄銀 カ.東アジアの状況 キリスト教の日本伝来南蛮貿易天正遣欧使節豊臣秀吉の朝鮮侵略/壬辰・丁酉の倭乱 李舜臣:亀甲船▶倭軍に打撃 台湾ゼーランディア城キリスト教禁教令(日本)慶長遣欧使節/支倉常長鎖国長崎/出島/唐人屋敷張居正万暦帝宦官東林派顧憲成東林書院女真満州ヌルハチ/太祖アイシン/後金八旗満州文字ホンタイジ/太宗清チャハル部山海関明の滅亡李自成の乱 崇禎帝▶李自成の乱で滅亡 ◉清代の中国と隣接諸地域 ア.清朝の統治 呉三桂 藩王 順治帝:都は北京 康煕帝:中国統一 鄭氏台湾鄭芝竜鄭成功遷界令三藩の乱雍正帝乾隆帝紫禁城満漢併用制八旗緑営軍機処康煕字典 『古今図書集成』/四庫全書/文字の獄辮髪令(薙髪令)/白蓮教 イ.清朝支配の拡大 ネルチンスク条約ジュンガルウイグルキャフタ条約新疆藩部理藩院改土帰流チベット仏教ツォンカパ黄帽派ダライ=ラマ/活仏ポタラ宮殿 ウ.清朝と東アジア 宗主国属国保護国両班党争朝鮮の儒教李退渓李栗谷陶山書院燕行使小中華思想琉球王国鎖国長崎朝鮮通信使 エ.清代の社会と文化 海禁(清) 銀 海関 ジャンク船 南洋 華僑/華僑 公行:特許商人の組合@広州/南京条約で廃止 トウモロコシ サツマイモ 盛世滋生人丁 地丁銀 12. 北方民族 1節 草原の遊牧民とオアシスの定住民 先頭へ ア.遊牧民の社会と国家 遊牧民騎馬遊牧民遊牧国家 /草原の道/ステップ=ロード イ.スキタイと匈奴 スキタイ匈奴/匈奴帝国烏孫月氏トハラ/大夏単于冒頓単于匈奴の分裂東匈奴西匈奴南匈奴北匈奴鮮卑フン人柔然可汗 ウ.オアシス民の社会と経済 西域オアシス都市隊商交易タリム盆地/タクラマカン砂漠敦煌トゥルファン/高昌国クチャ/亀茲ホータン/于闐カシュガル/疏勒ソグディアナオアシスの道/シルクロード中央アジア 2節 北方民族の活動と中国の分裂 先頭へ ア.北方民族の動向 民族移動北方民族匈奴の分裂南匈奴羯鮮卑氐羌五胡 イ.北方の諸勢力 契丹キタイ耶律阿保機/太祖遼燕雲十六州 澶淵の盟:北宋から遼に/銀や絹 征服王朝二重統治体制契丹文字タングート李元昊西夏/大夏 慶暦の和約:宋から西夏に 西夏文字女真/女直ツングース系完顔阿骨打/太祖金耶律大石西遼/カラ=キタイ猛安・謀克女真文字燕京盧溝橋 13. 大航海時代と対外進出 ア.大航海時代 大航海時代遠洋航海術香辛料胡椒レコンキスタオスマン帝国エンリケセウタマディラ島アゾレス諸島ヴェルデ岬ジョアン2世インド航路の開拓 バルトロメウ=ディアス:喜望峰到達ヴァスコ=ダ=ガマコヴィリャンカリカットイブン=マージドリスボン イ.アメリカ大陸への到達 スペインイサベルコロンブスカラック船カラベル船トスカネリ西インド諸島サン=サルバドル島インディオインディアス植民地分界線教皇子午線アレクサンデル6世トルデシリャス条約ブラジルアマゾン川カボットカブラルアメリゴ=ヴェスプッチアメリカ大陸バルボアカルロス1世セビリャマゼラン/マガリャンイスマゼラン海峡太平洋フィリピンラプラプサラゴサ条約モルッカ諸島/香料諸島征服者/コンキスタドールコルテスアステカ王国の滅亡ピサロインカ帝国の滅亡クスコインカの反乱ラス=カサスインディアスの破壊についての簡潔な報告エスパニョーラ島ブラジル植民地黒人奴隷アシエント ウ.商業革命と価格革命 世界の一体化商業革命リスボンアントウェルペン/アントワープ資本主義的世界経済価格革命ポトシ銀山銀スペイン銀貨農場領主制/グーツヘルシャフト再版農奴制近代世界システムエンコミエンダ制分益小作制トウモロコシサツマイモジャガイモトマトアメリカ大陸原産の農作物 ア.アジア市場の攻防 ポルトガルのアジア進出ディウ沖の海戦香辛料貿易胡椒アルメイダアルブケルケゴアスリランカマラッカモルッカ諸島広州マカオ種子島平戸オマーンイスラーム世界での黒人奴隷貿易サイイド=サイードスペインフィリピンマニラアカプルコガレオン船/ガレオン貿易ネーデルラント連邦共和国オランダ東インド会社バタヴィアアンボイナ事件ケープ植民地台湾鎖国長崎インド(6)ヨーロッパ勢力の進出 イギリス東インド会社:拠点▶マドラス/ボンベイカルカッタ 英蘭戦争フランス東インド会社ポンディシェリシャンデルナゴルデュプレクス英仏植民地戦争/英仏百年戦争(第2次)カーナティック戦争プラッシーの戦いクライヴ イ.アメリカにおける植民地争奪 スペインの植民地支配アシエンダ制ハドソンオランダ西インド会社ニューネーデルラント植民地/ニューアムステルダムフランス(4)カルティエカナダシャンプランケベックルイジアナヴァージニアニューイングランド13植民地インディアンジャマイカウィリアム王戦争ライスワイク条約ハイチアン女王戦争 ユトレヒト条約▶イギリス領拡大/ニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方をフランスから/ジブラルタル・ミノルカ島をスペインから ジェンキンズの耳戦争ジョージ王戦争フレンチ=インディアン戦争ジブラルタル パリ条約:カナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ(fromフランス)、フロリダ(fromスペイン)獲得 フロリダ:スペインから買収 ウ.三角貿易 黒人奴隷/黒人奴隷貿易ギニア地方ベニン王国ダホメ王国サン=トメ島プランテーション三角貿易/大西洋貿易システム砂糖砂糖プランテーション綿花タバココーヒー中間航路アシエント第一帝国ブリストルリヴァプール 14. ルネサンス ア.ルネサンス ルネサンスイタリア(3)ネーデルラントヒューマニズム/人文主義フィレンツェメディチ家コジモ=デ=メディチプラトン=アカデミーロレンツォ=デ=メディチユリウス2世イタリア戦争サヴォナローラチェーザレ=ボルジアローマ教皇マキァヴェリ君主論ミラノ公 イ.文芸と美術 ダンテ神曲ペトラルカボッカチォデカメロンチョーサーカンタベリ物語ロイヒリンエラスムス愚神礼賛トマス=モアユートピアラブレーガルガンチュワとパンタグリュエル物語モンテーニュセルバンテスシェークスピアフレスコ画油絵技法フランドル派ファン=アイク兄弟ジョットマサッチョ遠近法ギベルティルネサンス様式ブルネレスキサンタ=マリア大聖堂ドナテルロブラマンテボッティチェリラファエロミケランジェロ最後の審判レオナルド=ダ=ヴィンチ最後の晩餐モナ=リザ万能人ブリューゲルデューラーホルバインサン=ピエトロ大聖堂レオ10世 ウ.科学と技術 地動説コペルニクスジョルダーノ=ブルーノ羅針盤遠洋航海術 火薬:宋代に実用化▶イスラーム世界▶ヨーロッパへ 火砲活版印刷術グーテンベルク製紙法の伝播 15. 宗教改革 ア.宗教改革の始まり 贖宥状/免罪符レオ10世サン=ピエトロ大聖堂ローマの牝牛ドイツ(3)宗教改革ヴィッテンベルクルター九十五ヶ条の論題福音信仰/福音主義信仰義認説キリスト者の自由ヴォルムス帝国議会ヴォルムス勅令カルロス1世/カール5世ザクセン選帝侯フリードリヒヴァルトブルク城 聖書のドイツ語訳 騎士戦争フッテンドイツ農民戦争ミュンツァーシュパイアー帝国議会領邦教会制宗教戦争メランヒトンプロテスタントカトリック教会シュマルカルデン同盟シュマルカルデン戦争アウクスブルクの和議ルター派 イ.カルヴァンと宗教改革の広がり ツヴィングリチューリヒカルヴァンジュネーヴキリスト教綱要神権政治予定説長老主義/長老制度カルヴァン派ユグノーゴイセン/ヘーゼン長老派/プレスビテリアンピューリタン万人祭司主義イギリス宗教改革ヘンリ8世首長法イギリス国教会修道院の解散エドワード6世一般祈祷書メアリ1世エリザベス1世統一法信仰箇条主教制再洗礼派 ウ.対抗宗教改革 対抗宗教改革/反宗教改革トリエント公会議パウルス3世宗教裁判所イエズス会イグナティウス=ロヨラフランシスコ=ザビエル魔女狩りグレゴリウス暦 16. 主権国家体制の形成 ア.主権国家と主権国家体制 主権国家/主権国家体制絶対王政/絶対主義社団/中間団体問屋制マニュファクチュア有産市民層/ブルジョワジー イ.イタリア戦争 イタリア(3)イタリア戦争フランス(3)シャルル8世神聖ローマ帝国神聖ローマ皇帝フランソワ1世カルロス1世/カール5世ローマの劫略カトー=カンブレジ条約軍事革命鉄砲傭兵 ウ.スペインの全盛期 ハプスブルク家マクシミリアン1世カルロス1世/カール5世オーストリアハプスブルク帝国スペイン=ハプスブルク家オーストリア=ハプスブルク家フェルディナント1世フェリペ2世レパントの海戦スペインのポルトガル併合太陽の沈まぬ国マドリード エ.オランダの独立とイギリスの海外進出 ネーデルラント ゴイセン/ヘーゼンオランダ独立戦争/八十年戦争ユトレヒト同盟オラニエ公ウィレムネーデルラント連邦共和国オランダ総督オランダ南ネーデルラント(南部10州)無敵艦隊アルマダ戦争スペインの衰退オランダ東インド会社オランダと日本東インド会社オランダ西インド会社アムステルダムスペインの衰退イギリス(4)テューダー朝ジェントリ治安判事エリザベス1世メアリ=ステュアートイギリス宗教改革イギリス議会政治毛織物/毛織物工業囲い込み/エンクロージャー(第1次)救貧法グレシャムドレーク私拿捕船/私掠船海賊ヴァージニアローリーイギリス東インド会社レヴァント会社 オ.フランスの宗教内乱と絶対王政 フランス(3)シャルル8世フランソワ1世コレージュ=ド=フランスユグノーユグノー戦争カトリーヌ=ド=メディシスサンバルテルミの虐殺ボーダンブルボン朝アンリ4世ナントの王令絶対王政/絶対主義ガリカニスムルイ13世リシュリュー三部会フランスルイ14世マザランフロンドの乱高等法院ピレネー条約 カ.17世紀の危機と三十年戦争 17世紀の危機 三十年戦争ベーメンの反乱フェルディナント2世デンマークヴァレンシュタインスウェーデングスタフ=アドルフ ウェストファリア条約▶①信教徒容認②神聖ローマ帝国解体(諸侯独立)③フランスがアルザス地方獲得④スウェーデンが西ポンメルン(北ドイツ)獲得⑤オランダとスイスの独立承認 アルザス領邦主権国家バルト帝国カタルーニャの反乱 キ.東方の新しい動き プロイセン公国ブランデンブルク選帝侯国ブランデンブルク=プロイセンホーエンツォレルン家ベルリンユンカープロイセン王国 イヴァン4世/雷帝ツァーリズムカザン=ハン国タタール人アストラハン=ハン国 イェルマークシベリアボリス=ゴドゥノフ ミハイル=ロマノフ:ロマノフ朝創始/初代皇帝(ツァーリ) 農奴制 17. 重商主義と啓蒙専制主義 ア.重商主義 17世紀の危機重商主義/重金主義/貿易差額主義/産業保護主義コルベールフランス東インド会社フランス西インド会社官僚制常備軍絶対王政/絶対主義社団/中間団体植民地 イ.イギリス革命 イギリス(5)ジェントリスコットランドステュアート朝ジェームズ1世火薬陰謀事件メアリ=ステュアート同君連合王権神授説フィルマーピューリタンチャールズ1世権利の請願コーク/クックコモン=ロースコットランドの反乱イギリス革命短期議会長期議会大抗議書イギリスの宗教各派ピューリタン革命議会派独立派長老派王党派クロムウェル鉄騎隊新型軍ネースビーの戦い共和政/コモンウェルス水平派ディガーズアイルランド征服スコットランド征服航海法イギリス=オランダ戦争/英蘭戦争ネーデルラント連邦共和国(オランダ)ニューヨーク市民革命市民/ブルジョワ/ブルジョワジージェントルマン ウ.イギリス議会政治の確立 護国卿王政復古チャールズ2世審査法非国教徒 人身保護法:絶対王政復活に対する議会の抵抗から トーリ党ホィッグ党名誉革命寛容法ジェームズ2世メアリ2世ウィレム3世/ウィリアム3世ネーデルラント連邦共和国権利の宣言権利の章典政党/政党政治立憲君主政内閣イギリス議会制度アン大ブリテン王国スコットランド併合責任内閣制ジョージ1世ハノーヴァー朝ウォルポールイギリス(6) エ.ルイ14世の時代 フランス(4)ルイ14世ボシュエヴェルサイユ宮殿南ネーデルラント継承戦争オランダ侵略戦争ファルツ戦争/アウクスブルク同盟戦争オランダの衰退ナントの王令の廃止スペイン継承戦争フェリペ5世ユトレヒト条約ラシュタット条約ニューフアンドランドアカディアハドソン湾地方ジブラルタルミノルカ島ルイ15世ポーランド継承戦争ロレーヌポンパドゥール オ.プロイセンとオーストリア プロイセン王国(3)フリードリヒ=ヴィルヘルム1世フリードリヒ2世 オーストリア継承戦争:プロイセン勝利▶アーヘンの和約=シュレジエン獲得 外交革命:オーストリアのマリア=テレジアが長年の敵フランスと同盟 七年戦争:シュレジエン奪回ならず/同時にフレンチ=インディアン戦争、プラッシーの戦い、カーナティック戦争 パリ条約:カナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ(fromフランス)、フロリダ(fromスペイン)獲得 第二次百年戦争の意義:イギリスの植民地拡大→三角貿易→産業革命/アメリカ独立革命/フランス革命 ▶フランス革命▶自由・平等GET バイエルン フベルトゥスブルク条約 啓蒙専制主義/啓蒙専制君主ユンカーオーストリア(4)カール6世プラグマティッシェ=ザンクチオン神聖 ヨーゼフ2世宗教寛容令農奴解放令ベーメン(2)ハンガリー(3)南ネーデルラント カ.北方戦争とロシア ステンカ=ラージンの乱:彼はコサック(半農半牧で生活する人)の首領 ピョートル1世:西欧化政策(上からの改革)+大国化(南下政策)/ペテルブルク建設 ネルチンスク条約:清の康煕帝と/国境画定 ベーリング:ベーリング海峡発見+アラスカ獲得 北方戦争:カール12世(スウェーデン国王)と争う/ニスタットの和約 エカチェリーナ2世プガチョフの反乱ロシアの農奴制クリミア半島クリム=ハン国ラクスマン キ.ポーランドの分割 ポーランド(3)ヤゲウォ朝選挙王制シュラフタポーランド分割ロシア(4)プロイセン(3)オーストリア(4)コシューシコ 18. 産業革命 ア.世界最初の産業革命 産業革命イギリス(6)資本主義社会二重革命イングランド銀行国債メシュエン条約シティ囲い込み/エンクロージャー(第2次)農業革命ノーフォーク農法 イ.機械の発明と交通機関の改良 綿工業/木綿工業綿織物マンチェスターキャラコ論争ジョン=ケイ/飛び杼ハーグリーヴズ/ジェニー紡績機アークライト/水力紡績機クロンプトン/ミュール紡績機カートライト/力織機ホイットニー蒸気機関ニューコメンワットエネルギー革命(第1次)鉄鉱石/鉄工業石炭/石炭業ダービー父子ヘンリ=コート運河鉄道蒸気船サヴァンナ号トレヴィシックスティーヴンソンストックトン-ダーリントン間マンチェスター・リヴァプール鉄道フルトン世界の工場イギリスの産業革命産業革命の波及ベルギーの産業革命フランスの産業革命ドイツの産業革命アメリカの産業革命ロシアの産業革命日本の産業革命植民地 ウ.資本主義体制の確立と社会問題 資本主義/資本主義社会人口の都市集中マンチェスターバーミンガムリヴァプール労働問題労働組合団結禁止法機械うちこわし運動/ラダイト運動ピータールー事件工場法都市の変容 19. アメリカ独立革命 ア.北アメリカ植民地の形成 13植民地ピルグリム・ファーザーズメイフラワー号プリマスヴァージニアジョージアペンシルヴェニアクウェーカーマサチューセッツ植民地議会プランテーション黒人奴隷インディアンベーコンの反乱年季奉公人重商主義七年戦争フレンチ=インディアン戦争ジョージ3世国王の宣言砂糖法印紙法代表なくして課税なしパトリック=ヘンリータウンゼント諸法茶法ボストン茶会事件ボストン港封鎖強圧的諸条令茶の世界史 イ.アメリカ合衆国の独立 アメリカ独立戦争大陸会議レキシントンの戦いワシントントマス=ペイン/コモン=センスフィラデルフィアアメリカ独立宣言ジェファソンアメリカ連合規約アメリカ合衆国アメリカ合衆国国旗/星条旗フランスの参戦サラトガの戦いフランクリンラ=ファイエットコシューシコ武装中立同盟ヨークタウンの戦い連合会議パリ条約ルイジアナフロリダ ウ.合衆国憲法の制定 アメリカ合衆国の建国憲法制定会議連邦派/フェデラリスト反連邦派/アンチ=フェデラリストアメリカ合衆国憲法権利章典(アメリカ)三権分立アメリカ連邦議会アメリカ大統領アメリカ連邦政府アメリカ最高裁判所連邦主義人民主権アメリカの外交政策ハミルトンワシントン特別区アメリカ独立革命大西洋革命アメリカの黒人奴隷制 20. フランス革命(ルイ16世の統治への反発) ア.フランス革命の構造 フランス(5)アンシャン=レジーム/旧制度第一身分第二身分第三身分ブルジョワ啓蒙思想シェイエス第三身分とは何かフランス革命大西洋革命英仏通商条約(1786) イ.立憲君主政の成立 ルイ16世アメリカ独立戦争への参戦テュルゴーネッケル三部会開催国民議会/憲法制定議会球戯場の誓い/テニスコートの誓いバスティーユ牢獄襲撃三色旗大恐怖封建的特権の廃止十分の一税人権宣言ラ=ファイエットヴェルサイユ行進アッシニア聖職者基本法ミラボージャコバン=クラブル=シャプリエ法ヴァレンヌ逃亡事件マリ=アントワネットシャン=ド=マルスの虐殺ピルニッツ宣言1791年憲法立憲君主政オランプ=ド=グージュ女性の権利宣言 ウ.戦争と共和制 立法議会フイヤン派ジロンド派/ジロンド派内閣マノン=ロランブリッソコンドルセ対オーストリア開戦/フランス革命戦争オーストリアプロイセンラ=マルセイエーズ8月10日事件サンキュロットテュイルリー宮殿国民公会普通選挙/男性普通選挙ヴァルミーの戦い王政廃止第一共和政ジャコバン派マラーロベスピエールダントン山岳派/モンターニュ派ルイ16世処刑ピット対仏大同盟(第1回)ヴァンデーの反乱ジロンド派の追放ジャコバン派独裁公安委員会1793年憲法/ジャコバン憲法封建地代の無償廃止亡命貴族/エミグレ最高価格令徴兵制国民軍の形成革命暦メートル法理性の崇拝保安委員会革命裁判所恐怖政治ギロチンエベール最高存在の祭典テルミドールのクーデタ 21. ナポレオン エ.皇帝ナポレオンの誕生 総裁政府1795年憲法バブーフナポレオンコルシカ島イタリア遠征カンポ=フォルミオの和約ナポレオン戦争エジプト遠征対仏大同盟(第2回)ブリュメール18日のクーデタ統領政府/執政政府第一統領宗教協約/コンコルダートアミアンの和約フランス銀行ナポレオン法典/フランス民法典ナポレオン1世第一帝政 オ.ナポレオンの大陸支配 ピット第3回対仏大同盟トラファルガーの海戦ネルソンアウステルリッツの戦いフランツ2世ライン同盟神聖ローマ帝国の消滅オーストリア帝国イエナの戦いバタヴィア共和国オランダ(フランスによる支配)イタリア(フランスによる支配)大陸封鎖令/ベルリン勅令ティルジット条約ワルシャワ大公国ポルトガル征服スペインスペインの反乱/スペイン独立戦争ゴヤプロイセンプロイセン国制改革シュタインハルデンベルク農民解放(プロイセン)フィヒテ/ドイツ国民に告ぐドイツロシア遠征/モスクワ遠征第3回対仏大同盟ライプツィヒの戦い/諸国民戦争エルバ島ルイ18世百日天下ワーテルローの戦いウェリントンセントヘレナ島 22. ウィーン体制(革命前に戻そう)by露独墺 ア.ウィーン会議 ウィーン会議:メッテルニヒ(オーストリア外相(がいしょう)) 正統主義:タレーラン提唱 ウィーン体制 ウィーン議定書:イギリスのスリランカやケープ植民地獲得/ポーランド立憲王国成立(※ロシア皇帝の支配[兼任])/プロイセンのラインラント獲得/オランダ立憲王国成立/スイスの永世中立国化 ドイツ連邦パックス=ブリタニカ/神聖同盟提唱・四国同盟(のち五国同盟[フランス追加])結成byアレクサンドル1世 イ.ウィーン会議の動揺と七月革命 ウィーン体制の動揺自由主義ナショナリズム/民族主義国民国家ブルシェンシャフトカールスバートの決議カルボナリスペイン立憲革命デカブリストの乱 フランス復古王政(シャルル10世) ルイ18世 アルジェリア出兵 七月革命➡七月王政byルイ=フィリップ➡二月革命➡ルイ=フィリップの亡命➡第二共和政(ルイ=ブラン) ベルギーの独立ベルギー中立化ポーランドの反乱ドイツの反乱イタリアの反乱 ウ.イギリスの自由主義的改革 自由主義的改革◀産業革命による労働者階級の成長+七月革命の影響 審査法の廃止(非国教徒の公職就任を可能に)▶カトリック教徒解放法 オコンネル奴隷貿易禁止奴隷制度廃止ウィルバーフォース腐敗選挙区 選挙法改正(第1回):産業資本化のみ▶労働者の不満▶チャーティスト運動(参政権要求) グレイ 人民憲章自由貿易主義 ピール 東インド会社の中国貿易独占権廃止/穀物法の廃止(by反穀物法同盟/コブデン、ブライト)/航海法廃止 ジェントルマン資本主義パーマーストン エ.ギリシアの独立と東方問題 ギリシア独立戦争/ギリシア愛護主義/ナヴァリノの海戦/ロンドン会議ギリシア王国ギリシア語論争東方問題南下政策エジプト=トルコ戦争ダーダネルス=ボスフォラス海峡黒海中立化 オ.社会主義思想の成立 空想的社会主義:ロバート=オーウェン(イギリス/工場経営者/労働者の待遇改善を訴える▶一般工場法)/サン=シモン(フランス)/フーリエ(フランス) ルイ=ブランプルードン 科学的社会主義(マルクス/エンゲルス) 共産党宣言 カ.1848年革命 選挙法改正運動(フランス) 改革宴会 ギゾー臨時政府ラマルティーヌ国立作業場四月普通選挙六月蜂起カヴェニャック第二共和政憲法 三月革命(ウィーン三月革命/ベルリン三月革命) フランクフルト国民議会(ドイツ統一目指す)オーストリア帝国ドイツ統一問題諸国民の春ベーメン民族運動パラツキースラヴ民族会議ハンガリー民族運動コシュートクロアティアミラノ蜂起ヴェネツィアロンバルディア ルイ=ナポレオンによるクーデター▶第二帝政(ナポレオン3世)→対外戦争(クリミア戦争○、メキシコ出兵×、普仏戦争×)→第二帝政終了▶第三共和政▶パリ・コミューン成立(労働者が権力を握る) 23. ヨーロッパの再編 ア.クリミア戦争 ヨーロッパの憲兵ニコライ1世南下政策クリミア戦争聖地管理権セヴァストーポリパリ講和会議/パリ条約ダーダネルス=ボスフォラス海峡黒海中立化モルダヴィアワラキア イ.ロシアの改革 ロシア(5)アレクサンドル2世農奴解放令ゼムストヴォツァーリズムミールポーランド(4)ポーランドの反乱(1863)ナロードニキ/ヴ=ナロードインテリゲンツィアアナーキズム/無政府主義 露土戦争(ロシア=トルコ戦争) パン=スラヴ主義サン=ステファノ条約 ウ.イギリスのヴィクトリア時代 ヴィクトリア朝ヴィクトリア女王ロンドン万国博覧会ロンドン第二帝国二大政党制保守党自由党ディズレーリグラッドストン選挙法改正(第2回)秘密投票法選挙法改正(第3回)教育法労働組合法アイルランド(4)アイルランド問題アイルランド併合大ブリテンおよびアイルランド連合王国ユニオン=ジャックジャガイモ飢饉移民青年アイルランド党フィニアンアイルランド国民党アイルランド土地法アイルランド自治法案 エ.フランス第二帝政と第三共和政 第二帝政ナポレオン3世パリ改造パリ万国博覧会英仏通商条約(1860)デパートフランスの鉄道クリミア戦争 メキシコ出兵インドシナ出兵アロー戦争レセップススエズ運河スペイン王位継承問題普仏戦争スダンの戦い国防政府/臨時政府ティエールパリ=コミューン第三共和政第三共和政憲法 オ.イタリアの統一 イタリア(5)イタリア統一/リソルジメント青年イタリアマッツィーニミラノ蜂起ヴェネツィア蜂起ローマ共和国カルロ=アルベルトサルデーニャ王国ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世カヴールプロンビエール密約イタリア統一戦争ヴィラフランカの和約ロンバルディアサヴォイアニース中部イタリア併合ガリバルディシチリア占領ナポリ王国イタリア王国トリノヴェネツィア併合ローマ教皇領占領ローマ(5)トリエステ南チロル未回収のイタリアヴァチカンローマ教皇 カ.ドイツの統一 ドイツ関税同盟ドイツの鉄道ドイツの産業革命プロイセン王国フランクフルト国民議会大ドイツ主義小ドイツ主義ユンカービスマルク鉄血政策デンマーク戦争シュレスヴィヒ・ホルシュタイン普墺戦争北ドイツ連邦スペイン王位継承問題エムス電報事件普仏戦争アルザス・ロレーヌ キ.ドイツ帝国の成立とビスマルク外交 ドイツ帝国ヴィルヘルム1世ドイツ帝国憲法連邦制ドイツ皇帝連邦参議院帝国議会文化闘争社会主義運動社会主義者鎮圧法ラサールベーベルビスマルクの社会政策保護貿易法(ドイツ)ビスマルク外交/ビスマルク体制三帝同盟 露土戦争▶サン=ステファノ条約(ロシア◎とオスマン帝国)▶①ルーマニア/セルビア/モンテネグロの独立②ブルガリア自治公国成立(オスマン帝国の支配のもと)▶公正なる仲介人ビスマルクによる調停▶ベルリン会議(1878)で修正▶ベルリン条約(ロシアへの圧力)▶ロシアの保護国の予定だったボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリアが統治▶ロシアの三帝同盟離脱▶独墺同盟(再提携・密約)▶新三帝同盟(ビスマルクの働きかけ)▶三国同盟(独墺同盟+イタリア)▶ブルガリア問題▶オーストリアの新三帝同盟離脱▶再保障条約(ロシアとの密約) アウスグライヒオーストリア=ハンガリー帝国フランツ=ヨーゼフ1世 ※ロシアの中央アジア進出(三ハン国(ティムール滅亡後に成立/ブハラ=ハン国・ヒヴァ=ハン国・コーカンド=ハン国➡すべてロシアにより併合[保護国化])➡ジャディード(改革運動) ク.北ヨーロッパ諸国その他 スウェーデン(3)フィンランド(2)ノルウェー(2)デンマーク(2)スペイン(7)カルリスタ戦争プロヌンシアミエントスペイン九月革命カシケ ケ.国際的諸運動の進展 第1インターナショナル国際労働運動メーデーバクーニンナイティンゲール国際赤十字/赤十字条約デュナン国際オリンピック大会ザメンホフエスペラント女性解放運動ウルストンクラフト 24. アメリカ合衆国の発展 ア.ラテンアメリカの独立 ラテンアメリカの独立ハイチハイチの独立トゥサン=ルベルチュールパラグアイシモン=ボリバル大コロンビアエクアドルボリビアパナマ会議ベネズエラコロンビアサン=マルティンアルゼンチンチリペルートゥパク=アマルの反乱メキシコイダルゴブラジルの独立クリオーリョメスティーソインディオムラートカウディーリョ太平洋戦争(南米) イ.領土の拡大 ジェファソンリパブリカン党ルイジアナ買収アメリカ=イギリス戦争/米英戦争/1812年戦争モンローモンロー教書モンロー主義カニング孤立主義ジャクソンジャクソニアン=デモクラシースポイルズ=システムホイッグ党(アメリカ)アメリカの領土拡大フロリダ明白な天命/マニフェスト=デスティニーテキサスオレゴンアメリカ=メキシコ戦争/米墨戦争カリフォルニア西漸運動フロンティアゴールド=ラッシュインディアンインディアン強制移住法涙の旅路保留地/インディアン居留地 ウ.南北戦争 アメリカの南北対立北部南部綿花プランテーション自由貿易主義アメリカの黒人奴隷制保護関税政策連邦主義州権主義ミズーリ協定奴隷州自由州地下鉄道運動ハリエット=タブマン逃亡奴隷法カンザス・ネブラスカ法民主党共和党アンクル=トムの小屋/ストゥドレッド=スコット判決ジョン=ブラウンの蜂起南北戦争アメリカ合衆国リンカンアメリカ連合国ジェファソン=デヴィスリッチモンドホームステッド法奴隷解放宣言ゲティスバーグの戦いグラント エ.工業国アメリカの誕生 黒人奴隷制の廃止憲法修正第13条憲法修正第14条黒人投票権/憲法修正第15条南部諸州の復帰/再建シェアクロッパー黒人差別黒人取締法クー=クラックス=クラン/KKKジム=クロウ黒人分離政策アメリカの政党政治フロンティアの消滅ウーンデットニーの虐殺ロング=ドライブ大陸横断鉄道アメリカの産業革命移民(アメリカ)苦力/クーリー新移民中国人移民排斥法自由の女神像アメリカ労働総同盟/サミュエル=ゴンパース金ぴか時代マーク=トウェイン日本の開国アラスカ買収 25. 近代の中東・インド 26. 帝国主義と列強の展開 ◉帝国主義:第2次産業革命/石油電気/電力金融/資本恐慌/独占資本/カルテル(独)・トラスト(米)・コンツェルン(独・日)/ベルエポック ◉イギリス ディズレーリ[保](スエズ運河株買収/ロスチャイルド家/ウラービーの反乱)➡ソールズベリ[保](植民相ジョゼフ=チェンバレン:イギリス植民地会議/オーストラリア連邦/ニュージーランド自治領(ドミニオン)/南アフリカ戦争(ボーア戦争)勃発)➡アスキス[自](国民保険法byロイド=ジョージの改革/議会法(下院の優位確立)/アイルランド自治法成立・未実施) ※カナダ連邦(英国初の自治領) ※アイルランドでの民族運動:シン=フェイン党結成/イースター蜂起 ※社会主義運動:フェビアン協会(バーナード=ショー・ウェッブ夫妻/のちの労働党の母体)/独立労働党(ケア=ハーディ)/労働代表委員会/社会民主連盟/労働党 ◉フランス:第三共和政/フランス領インドシナ連邦/ブーランジェ事件/ドレフュス事件(⬅反ユダヤ主義/ゾラ擁護/シオニズム運動byヘルツル)/パナマ事件(レセップスがパナマ運河建設会社破産を国民に隠してもらうことを狙って賄賂を贈ったスキャンダル事件) ※フランスの労働問題:労働総同盟(サンディカリズム=労働者の直接行動を推進)/急進社会党/フランス社会党(ジャン=ジョレス)/政教分離法 ◉ドイツ:ヴィルヘルム2世(世界政策)/ドイツ社会民主党(ベルンシュタイン:修正主義)/第2インターナショナル ◉ロシア:ツァーリ/ツァーリズム/シベリア鉄道/ロシア社会民主労働党:ボリシェヴィキ(レーニン)vsメンシェヴィキ(マルトフ/プレハーノフ)/社会革命党(エスエル)/立憲民主党(カデット)/ニコライ2世/日露戦争➡第1次ロシア革命▶血の日曜日事件(byガポン/@ペテルブルク)➡戦艦ポチョムキンの反乱(ソヴィエト[評議会]結成/十月宣言(byニコライ2世⬅初代首相ウィッテの進言/国会[ドゥーマ]))➡モスクワ蜂起➡首相ストルイピンによる弾圧&農業改革(= ミールの解体 ロシアの近代化に際して新たな支持基盤をほしかったので、ミールの下で働いていた貧農を自作農にすれば彼らの支持が得られると考えた。しかし、結果的に失敗し、貧富の差は拡大し、国民の不満は爆発した ) ◉アメリカ:フロンティアの消滅/大財閥の出現(ロックフェラー・カーネギー・モーガン)/シャーマン反トラスト法/クレイトン反トラスト法(ウィルソンのとき)/人民党/アメリカ社会党 ①マッキンリー[共]:ハワイ併合(中国・日本からの移民によるサトウキビ生産増▶アメリカ人入植者増▶併合を主張▶ハワイ共和国成立)/米西戦争➡パリ条約=グアム・フィリピン・プエルトリコ併合/門戸開放宣言(ジョン=ヘイ/機会均等・領土保全) ②セオドア=ローズヴェルト[共]:革新主義(進歩主義)・棍棒外交・カリブ海政策➡パナマ運河建設 ③ウィルソン[民]:ハイチで軍政/新しい自由(トラストの禁止)/ドル外交/宣教師外交 ◉第2インターナショナルハーグ万国平和会議ハーグ陸戦条約常設仲裁裁判所開戦に関する条約(ハーグ条約) アフリカ分割 ◉フランス(アフリカ横断政策):チュニジアの保護国化➡サハラに南下➡スーダン➡ファショダ事件➡「アフリカの角」を3ヵ国で分割:エリトリア〔イタリア〕、ジブチ〔フランス〕、ソマリランド〔北部イギリス・南部イタリア〕➡マダガスカル ※モロッコ:第1次モロッコ事件(byヴィルヘルム2世)➡アルヘシラス会議➡第2次モロッコ事件➡フランスによる保護国化 ◉イギリス(アフリカ縦断政策[3C政策]):①スーダン(マフディーの反乱byムハンマド=アフマド)/②ローデシア[現ザンビア、ジンバブエ](byセシル=ローズ:ケープ植民地首相)/③ケープ植民地支配(もともとブール人[ケープ植民地に入植したオランダ系白人]の植民地)➡グレート=トレック(ブール人による北方大移動)➡ナタール・トランスヴァール共和国・オレンジ自由国建国➡ 南アフリカ戦争[ブール戦争] トランスヴァール共和国にダイヤモンド鉱山が発見されたことがきっかけ ➡南アフリカ連邦成立) ◉イタリア:リビア(元はトリポリ・キレナイカ➡イタリア=トルコ戦争➡ローザンヌ条約➡植民地化・改名) ◉ドイツ:タンザニア(マジマジの蜂起➡綿花強制栽培に対する反乱) ◉ベルギー:ベルギー王レオポルド2世の指示でスタンリー(イギリス生まれのアメリカ人探検家/宣教師リヴィングストン救出/コンゴ探検成功)派遣➡植民地化の準備(インフラ整備)➡ベルリン会議(列強国による調停)➡アフリカ分割のルール決定(=先占権の確認=早い者勝ち)&コンゴ自由国承認 ◉独立国:①エチオピア(アドワの戦い➡イタリアに勝利)/②リベリア(アメリカの解放奴隷による独立国) ◉太平洋地域の分割 太平洋オーストラリアアボリジニー流刑植民地白豪主義ニュージーランドマオリ人スペインフィリピン領有グァムハワイ/ハワイ王国リリウオカラニハワイ併合ニューギニア ◉ラテンアメリカ諸国の従属と抵抗 シモン=ボリバルパン=アメリカ会議キューバスペインメイン号事件米西戦争/アメリカ=スペイン戦争キューバの独立プラット条項グアンタナモ基地パナマパナマ運河メキシコメキシコ革命レフォルマ戦争 メキシコ出兵(ナポレオン3世による介入)➡マクシミリアン(オーストリア皇帝の弟)皇帝擁立➡フアレスらの抵抗➡独立➡ディアスの独裁➡メキシコ革命(マデロ[自由主義者]・サパタ[農民指導者]+ピリャ/民主的憲法制定)➡カランサ➡カルデナス(ポピュリズム型の政治) ◉列強の二極分化とバルカン危機:露仏同盟3B政策建艦競争光栄ある孤立日英同盟英仏協商英露協商三国協商三国同盟バルカン問題オーストリア=ハンガリー帝国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合ロシアセルビアブルガリアパン=スラヴ主義バルカン同盟オスマン帝国第1次バルカン戦争アルバニア第2次バルカン戦争パン=ゲルマン主義 27. アジアの民族運動 ◉清朝の動揺とヨーロッパの進出:清の動揺白蓮教徒の乱団練天理教徒の乱ロシアの東アジア進出ネルチンスク条約キャフタ条約ラクスマン マカートニーアマースト三跪九叩頭ネイピア 三角貿易(中国の銀の流出/アヘン/東インド会社の中国貿易独占権廃止)ジャーディン=マセソン商会 アヘン戦争(⬅林則徐によるアヘン没収)➡不平等条約=南京条約(香港島割譲/上海[外国人居留区=租界設置]など五港開港/公行廃止)・五港通商章程・虎門寨追加条約(領事裁判権[治外法権]認可・関税自主権放棄・最恵国待遇)・望厦条約・黄埔条約➡太平天国の乱(by洪秀全[客家]・拝上帝会/滅満興漢)➡太平天国建国(天京)➡天朝田畝制度/辮髪と纏足の禁止/捻軍ミャオ族郷勇(湘軍(曾国藩)・淮軍(李鴻章)・楚軍(左宗棠))+常勝軍(ゴードン)➡洋務運動(中体西用/総理各国事務衙門設置※同治の中興(同治帝/実権は西太后))/アロー戦争:アロー号事件(イギリス船籍を主張する船の乗組員が逮捕)➡英仏vs清➡天津条約➡円明園焼討➡北京条約(九竜半島南部を英に) 日清戦争➡下関条約(朝鮮の独立/遼東半島・台湾・澎湖諸島を失う)➡日清通商航海条約➡三国干渉・露清密約(東清鉄道)・中国分割(租借地➡膠州湾[独]/旅順・大連[露]/威海衛[英]/広州湾[仏]➡門戸開放宣言)➡変法運動(by康有為・梁啓超・光緒帝➡戊戌の政変by西太后)/仇教運動(反キリスト教運動)➡義和団事件(北清事変)➡北京議定書(辛丑和約)➡中国分割➡日英同盟(∵露の脅威)➡日露戦争➡第1次ロシア革命➡セオドア=ローズヴェルトによる調停➡ポーツマス条約(関東州/南満州鉄道)※利権回収運動進む 桂=タフト協定 日露協約 英露協商 日仏協約 日本人移民排斥運動 光緒新政(科挙の廃止/憲法大綱発表/新軍編成)➡辛亥革命(第一革命):by孫文⬅華僑/鉄道国有化政策(※四国借款団)➡四川暴動➡武昌蜂起➡中華民国成立(臨時大総統孫文)➡清の滅亡(宣統帝退位)by袁世凱=臨時大総統に➡臨時約法➡国民党圧勝(宋教仁⬅暗殺)➡第二革命(中華革命党結成)➡袁世凱独裁体制(大総統➡皇帝)➡第三革命➡北洋軍閥の反発➡軍閥割拠(安徽派➡直隷派➡奉天派)➡広東軍政府by孫文 ※アイグン条約(byムラヴィヨフ[露])➡北京条約(沿海州獲得➡ウラジヴォストーク港建設)➡イリ条約(⬅イリ事件) ※モンゴル:外モンゴル&チベット独立➡内モンゴルは中華民国に編入➡外モンゴルはモンゴル人民共和国に ※興中会(孫文@ハワイ)・華興会(黄興)・光復会(章炳麟)➡中国同盟会(孫文➡三民主義・四大綱領/機関紙『民報』)➡国民党➡中華革命党➡中国国民党 ◉明治維新:日本の開国(日米和親条約/日露和親条約/プチャーチン/日米修好通商条約)➡日清修好条規/琉球帰属問題/台湾出兵/樺太・千島交換条約/マリア=ルース号事件 ◉東アジア国際秩序の再編:朝鮮王朝の危機丁若鏞洪景来の乱シャーマン号事件大院君朝鮮の開国江華島事件日朝修好条規/江華条約開化派/独立党金玉均朴泳孝事大党閔妃壬午軍乱甲申政変天津条約(1885,日清間)帝国主義下の朝鮮日清戦争北洋艦隊北洋軍甲午農民戦争/東学の乱全琫準東学崔済愚日本の産業革命 ◉日本の韓国併合:帝国主義下の朝鮮/閔妃暗殺事件大韓帝国高宗第1次日韓協約第2次日韓協約/韓国の保護国化韓国統監府第3次日韓協約義兵闘争衛正斥邪ハーグ密使事件安重根/伊藤博文暗殺事件韓国併合韓国併合条約日本の朝鮮植民地支配総督府/朝鮮総督府武断政治 ◉インドでの民族運動の形成:インドインド帝国イギリスのインド植民地支配/インドの民族運動(19世紀後半)インドの鉄道ヒンドゥー教改革運動/ヒンドゥー復古主義ラーム=モーハン=ローイサティダヤーナンダ=サラスヴァティーラーマクリシュナバネルジー全インド国民協議会インド国民会議ナオロジー国民会議派(ヒンドゥー教徒)インドのイスラーム教徒カーゾン ベンガル分割令(分割統治)➡反英運動➡全インド=ムスリム連盟➡カルカッタ大会四綱領(英貨排斥・スワデーシ・スワラージ・民族教育)by国民会議派(ティラク) ◉東南アジアでの民族運動の形成と挫折:インドネシアの民族運動カルティニサミンの民ブディ=ウトモサレカット=イスラーム/イスラーム同盟 フィリピン独立運動:byホセ=リサール(フィリピン民族同盟を組織) カティプーナン:ホセ=リサールの同志/フィリピン革命を主導 アギナルド:米西戦争参加&フィリピン共和国樹立➡フィリピン独立法(10年後の独立が認められる)➡フィリピン独立準備政府発足➡戦後、完全独立➡マルコス独裁➡新人民軍[共]・モロ民族解放戦線[イスラム]➡ベニグノ=アキノ[野党]暗殺事件➡ピープルパワー革命=マルコス独裁終了➡コラソン=アキノ大統領 フィリピン=アメリカ戦争 ベトナムの民族運動ファン=ボイ=チャウドンズー運動/東遊運動日仏協約東京義塾ベトナム光復会 ◉西アジアの民族運動と立憲運動:オスマン帝国(6)青年トルコ/統一と進歩委員会オスマン主義改革勅令青年トルコ革命エンヴェル=パシャパン=トルコ主義 28. 第一次世界大戦 ◉勃発:サライェヴォ事件:オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者夫妻が暗殺/フランツ=フェルディナント/ボスニア/セルビア/連合国(協商国)vs同盟国/ヴィルヘルム2世/モンテネグロ/日本の参戦/オスマン帝国の参戦/ブルガリア/ルーマニア/ギリシア/イタリアの参戦/シュリーフェン計画/ベルギー/マルヌの戦い(@西部戦線)/タンネンベルクの戦い(@東部戦線)/ガリポリの戦い/ヴェルダン/ソンムの戦い/航空機(飛行機)/毒ガス/戦車/潜水艦/ルシタニア号事件/無制限潜水艦作戦/アメリカ合衆国の参戦 ◉戦時外交と総力戦:ロンドン秘密条約➡イタリア参戦(フィウメ獲得を約束してもらう)/サイクス・ピコ協定➡フセイン・マクマホン協定➡バルフォア宣言/ロレンスハーシム家ヒジャーズ王国 戦後自治の約束(インド)ドイツ社会民主党キール軍港の水兵反乱ドイツ革命労兵評議会/レーテスパルタクス団ドイツ共産党ローザ=ルクセンブルクリープクネヒトドイツ共和国 ◉ロシア革命とソヴィエト政権:ラスプーチン(怪僧)暗殺/第2次ロシア革命:二月革命/社会民主労働党(ボリシェヴィキ[多数派]vsメンシェヴィキ[少数派])・社会革命党(エスエル)・立憲民主党(カデット)/二重権力(臨時政府とソヴィエト)/レーニンの帰国(スイスから)➡四月テーゼ「すべての権力をソヴィエトへ」/七月暴動(ケレンスキーへの反発)➡失敗➡ケレンスキーによる戦争継続/十月革命(トロツキーの指導)➡ソヴィエト政権(ソヴィエト=ロシア/ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国)樹立➡憲法制定議会➡全ロシア=ソヴィエト会議(レーニンによる議会閉鎖)➡ボリシェヴィキ独裁(プロレタリア独裁)➡平和についての布告(民族自決など)・土地についての布告➡フィンランド・バルト三国・ポーランドの独立➡ブレスト=リトフスク条約(ドイツと)/反革命軍(白軍)による抵抗➡対ソ干渉戦争(⬅チェコ兵捕虜(チェコスロヴァキア軍団)の反乱/シベリア出兵/ソヴィエト=ポーランド戦争byピウスツキ)・バスマチ運動(@トルキスタン)➡戦時共産主義(赤軍の組織・チェカ[非常委員会]による取締・コミンテルン(第三インターナショナル)創設(byレーニン)➡ハンガリー革命(byクン=ベラ)⬅ホルティによる鎮圧)➡クロンシュタット反乱➡新経済政策[ネップ](byレーニン/英ソ通商協定)➡ソヴィエト社会主義共和国連邦成立(ロシア・ウクライナ・ベラルーシ[白ロシア]・ザカフカース)➡ソヴィエト社会主義憲法制定・世界各国のソ連の承認(ラパロ条約[to独]・日ソ基本条約) ※全ロシア=ムスリム大会:ロシア内のイスラーム系諸民族の全体会議➡連邦主義 ※中央アジアの分離:タタール自治共和国樹立(byスルタンガリエフ:はじめボリシェヴィキに協力➡のちにスターリンと対立➡逮捕・処刑)/カザフ自治共和国/ウズベク=ソヴィエト社会主義共和国(タシケント)/キルギス=ソヴィエト社会主義共和国/タジク=ソヴィエト社会主義共和国 ※首都:ペテルブルク➡ペトログラード➡モスクワ➡サンクト・ペテルブルク ※共産党:ボリシェビキ➡ロシア共産党➡ソ連共産党➡ロシア共産党 29. ヴェルサイユ体制 ◉ヴェルサイユ体制とワシントン体制:パリ講和会議/ウィルソン/アメリカの外交政策/十四カ条(民族自決など)/ロイド=ジョージ/クレマンソー/ヴェルサイユ条約/アルザス・ロレーヌ/ザール/ポーランド回廊/ドイツの軍備制限/ラインラント/サン=ジェルマン条約(オーストリア)➡フィウメがセルブ=クロアート=スロヴェーン王国へ(ロンドン秘密条約に基づいてイタリアが割譲を要求したが、ウィルソンが拒否∵秘密外交の禁止)➡ダヌンツィオによる選挙➡ムッソリーニが併合(その後ユーゴスラビア連邦へ返還➡解体して今はクロアチア共和国の領土)/ヌイイ条約(ブルガリア)/トリアノン条約(ハンガリー)/セーヴル条約(オスマン帝国)/委任統治/オスマン帝国領の分割案/国際連盟/アメリカの国際連盟不参加/国際労働機関/常設国際司法裁判所/ヴェルサイユ体制/ダンツィヒ(海港都市/ドイツ帝国領だったが国際連盟の管理する自由市に=事実上ポーランドが支配)/ワシントン会議/ハーディング/ワシントン海軍軍備制限条約/九カ国条約/四カ国条約/日英同盟の破棄 ◉国際協調と軍縮の進展:ギリシア/イズミル(スミルナ)/ギリシア=トルコ戦争/ローザンヌ条約 ドイツ賠償問題/ジェノヴァ会議/ルール占領(⬅ドイツの賠償金支払いの不履行)/ロカルノ条約➡ドイツの国際連盟加盟/ジュネーヴ海軍軍縮会議/不戦条約/パリ不戦条約/ブリアン=ケロッグ協定/ブリアン/ケロッグ/ロンドン軍縮会議 ◉西欧諸国の停滞 ロイド=ジョージ/挙国一致内閣/選挙法改正(第4回)/女性参政権/男女平等参政権/イギリスの女性参政権/選挙法改正(第5回)/マクドナルド労働党内閣/アイルランド自由国/北アイルランド/アルスター地方/デ=ヴァレラ/イギリス帝国会議/ウェストミンスター憲章/イギリス連邦(英領コモンウェルス)/エール(アイレ)/ポワンカレ/ドイツ社会民主党/キール軍港の水兵反乱/ドイツ革命/労兵評議会(レーテ)/スパルタクス団/ドイツ共産党/ローザ=ルクセンブルク/リープクネヒト/ドイツ共和国/ヴァイマル憲法/ヴァイマル共和国/エーベルト/インフレーション/レンテンマルクbyシュトレーゼマン/賠償問題/ドーズ案/ヤング案/ローザンヌ会議/ヒンデンブルク/ヒトラー エ.東欧・バルカン諸国の動揺とイタリアのファシズム ユーゴスラヴィア王国/小協商/チェコスロヴァキア共和国/マサリク/ルーマニア/ブルガリア/ファシスト党(ムッソリーニ)/イタリア社会党/北イタリアのストライキ/ローマ進軍/ファシズム/アルバニア併合/ ラテラノ条約:ヴァチカン市国独立/スペイン/プリモ=デ=リベラ ◉ソ連の社会主義建設:レーニンの死➡一国社会主義論(スターリン)vs世界革命論(トロツキー)/五カ年計画(第1次・ソ連)/コルホーズ・ソフホーズ ◉アメリカ合衆国の繁栄:戦間期アメリカの女性参政権/ジャネット=ランキン/共和党/ハーディング/クーリッジ/フーヴァー/自動車/フォード/大量生産・大量消費/現代大衆文化/ラジオ/ワスプ(WASP)/禁酒法/サッコ=ヴァンゼッティ事件移民法 30. アジア・アフリカの民族主義 ア.第一次世界大戦と東アジア 民族資本(中国)文学革命陳独秀新青年胡適白話文学魯迅李大釗北京大学大正デモクラシー政党内閣(日本)関東大震災普通選挙法(日本)治安維持法 イ.日本の動きと民族運動 日本の第一次世界大戦への参戦南洋諸島青島二十一カ条の要求山東問題石井・ランシング協定段祺瑞シベリア出兵ニコライエフスク事件米騒動民族自決三・一独立運動文化政治大韓民国臨時政府五・四運動北京大学ヴェルサイユ条約調印拒否領土保全霧社事件 ウ.国民党と共産党 中華民国孫文(1)中国国民党カラハン宣言コミンテルン中国共産党ヨッフェ/孫文=ヨッフェ共同宣言第1次国共合作中国国民党一全大会孫文(2)国民党の改組連ソ・容共・扶助工農/新三民主義五・三〇運動国民政府(中国)広州国民政府/広東国民政府蔣介石黄埔軍官学校国民革命軍北伐国民革命武漢政府南京事件上海クーデタ国共分裂南京国民政府東三省張作霖関東軍山東出兵済南事件張作霖爆殺事件/満州某重大事件張学良浙江財閥買弁国民政府の中国統一関税自主権の回復(中国)毛沢東紅軍井崗山瑞金 / 中華ソヴィエト共和国 エ.インドでの民族運動の展開 インドの反英闘争(20世紀)インド防衛法インドの戦後自治約束インド統治法ローラット法アムリットサール事件非暴力・不服従運動(第1次)非協力運動ガンディーハルタールヒンドゥ=スワラージ非暴力・不服従サティヤーグラハヒラーファト運動コミュナリズムインド共産党憲政改革調査委員会/サイモン委員会ネルーラホールプールナ=スワラージ第2次非暴力・不服従運動塩の行進英印円卓会議ハリジャン新インド統治法/改正インド統治法 パキスタン決議(ムスリム国家の独立宣言byジンナー:全インド=ムスリム連盟)➡カシミール帰属問題➡パキスタン=イスラム共和国独立➡インド=パキスタン戦争➡バングラディシュ人民共和国独立➡パキスタンの核実験 オ.東南アジアでの民族運動の展開 インドシナ共産党 タイ立憲革命 ピブン➡サリットによる開発独裁 カ.トルコ革命とイスラーム諸国の動向 トルコ革命ムスタファ=ケマル/ケマル=アタテュルク オスマン帝国(7)滅亡ギリシア=トルコ戦争/侵入ギリシア軍との戦いトルコ大国民議会スルタン制廃止ローザンヌ条約トルコ共和国(1)トルコ共和国(2)世俗主義改革カリフ制廃止エジプト(20世紀)エジプト王国ワフド党ムスリム同胞団エジプト=イギリス同盟条約第3次アフガン戦争アフガニスタン独立 イラン ロレンスイブン=サウードヒジャーズ=ネジド王国サウジアラビア王国アラブ諸国の独立ハーシム家イラク/イラク王国トランスヨルダン/ヨルダンレバノンシリアパレスチナシオニズム キ.アフリカの民族主義 モロッコリーフ戦争リーフ共和国アフリカ民族会議/ANCパン=アフリカ会議パン=アフリカニズムデュボイス 31. 世界恐慌とファシズム ◉世界恐慌とその影響:世界恐慌/ウォール街/暗黒の木曜日/フーヴァースムート=ホーリー法/フーヴァー=モラトリアム ◉ニューディールとブロック経済:ニューディール政策(フランクリン=ローズヴェルト)/農業調整法(AAA)/全国産業復興法(NIRA)/テネシー川流域開発公社(TVA)/グラス=スティーガル法/アメリカの金本位制停止/ロンドン世界通貨経済会議/ワグナー法/産業別労働者組織委員会/産業別組織会議(CIO)/社会保障法(アメリカ)/ケインズ/アメリカのソ連の承認/善隣外交➡プラット条項(キューバへの干渉権)撤廃/中立法 ◉イギリス:マクドナルド挙国一致内閣/イギリスの金本位制停止/保護関税法/オタワ連邦会議/スターリング=ブロックブロック経済 ◉フランス:フラン=ブロック/仏ソ相互援助条約/アムステルダム国際反戦大会/反ファシズム人民戦線(社会党・共産党など)byブルム(社会党党首) ◉満州事変・日中戦争と中国の抵抗:満州事変(by関東軍)⬅柳条湖事件/南満州鉄道爆破事件第1次上海事変満州国溥儀熱河作戦塘沽停戦協定リットン調査団日本の国際連盟脱退華北分離工作冀東防共自治政府十二・九学生運動国共内戦長征毛沢東遵義会議延安通貨統一/幣制改革/法幣コミンテルン第7回大会➡八・一宣言by中国共産党➡抗日民族統一戦線蔣介石張学良西安事件日中戦争二・二六事件盧溝橋事件第2次上海事変支那事変第2次国共合作八路軍南京虐殺事件重慶/重慶爆撃張鼓峰事件ノモンハン事件日米通商航海条約の破棄東亜新秩序中ソ不可侵条約汪兆銘援蔣ルート ◉ナチス=ドイツとヴェルサイユ体制の破壊:ドイツ共和国/ヒトラー/国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)/ミュンヘン一揆/『我が闘争』/ユダヤ人排斥/1932年選挙/国会議事堂放火事件(共産党弾圧の口実)➡全権委任法/ナチス=ドイツ/第三帝国/ヴァイマル憲法の消滅/総統(フューラー)国家/ゲーリング/ゲッベルス/ヘス/突撃隊(SA)/親衛隊(SS)/ゲシュタポ/ヒトラー=ユーゲント/ニュルンベルク法/水晶の夜/ロマ(ジプシー)/強制収容所/アウトバーン/ドイツの国際連盟脱退/ジュネーヴ軍縮会議/侵略の定義に関する条約/ザール編入/ドイツの再軍備(徴兵制復活)/ストレーザ戦線/英独海軍協定/仏ソ相互援助条約/ラインラント進駐/四カ年計画/ワールドカップ/ベルリン=オリンピック/ナチスに対する抵抗運動/キンダートランスポート ◉ソ連の五カ年計画とスターリン体制:スターリン体制/粛清/第2次五カ年計画/スターリン憲法/ソ連の国際連盟加盟 コミンテルン第7回大会➡ディミトロフが人民戦線結成を提起 ◉ファシズム諸国の攻勢と枢軸の形成:エチオピア侵攻(併合)byムッソリーニ/ベルリン=ローマ枢軸/スペイン革命➡共和国成立➡ファシスト登場➡スペイン内戦(ゲルニカ)➡スペイン人民戦線(⬅国際義勇軍)➡フランコによる独裁//二・二六事件/日独防共協定➡三国防共協定/ギリシアのファシズム 32. 第二次世界大戦 ◉ナチス=ドイツの侵略と開戦:オーストリア併合・ズデーテン地方/宥和政策byネヴィル=チェンバレン[英]/ミュンヘン会談/チェコスロヴァキア解体/ベーメン(ボヘミア)/メーレン(モラヴィア)/スロヴァキア/メーメル地方/ダンツィヒ(ポーランド回廊)/イタリアの参戦/アルバニア併合/独ソ不可侵条約/ドイツ軍のポーランド侵攻/ソ連軍のポーランド侵攻/奇妙な戦争 ◉ヨーロッパの戦争:ソ連=フィンランド戦争/ソ連のバルト三国併合/カチンの森事件/ベッサラビア(ルーマニアが併合)/デンマーク・ノルウェー侵攻/オランダ・ベルギー侵攻/ダンケルク/フランスの降伏➡ヴィシー政府byペタン ⬅レジスタンス(抵抗運動)+自由フランス政府成立byド=ゴール/チャーチル/武器貸与法/バルカン侵攻/パルチザン/日ソ中立条約 ◉独ソ戦と太平洋戦争 独ソ戦/英ソ軍事同盟/フランクリン=ローズヴェルト/大西洋憲章/コミンテルンの解散/ユダヤ人の大量殺害・ホロコースト強制収容所・アウシュヴィッツ/日本と第二次世界大戦/フランス領インドシナ進駐/日独伊三国同盟・日ソ中立条約➡スターリングラードの戦い/ABCDライン/日米交渉/近衛文麿内閣/東条英機内閣/真珠湾攻撃➡アメリカの参戦/マレー半島占領/香港占領/フィリピン占領/マニラ入城/シンガポール占領/インドネシア侵攻/ビルマ侵攻/大東亜共栄圏/皇民化政策(創氏改名/朝鮮人の強制連行/朝鮮・台湾での徴兵制)/軍政/泰緬鉄道/抗日武装闘争/大東亜会議/日華基本条約/日華新協定/不平等条約の撤廃(中国)/北ベトナム大量餓死事件 ◉ファシズム諸国の敗北:枢軸国/連合国/ガダルカナル撤退/マンハッタン計画/イタリアの降伏byバドリオ内閣/連合国の戦後処理構想/チャーチル/アルカディア会談/連合国共同宣言/カサブランカ会談/カイロ会談[対日](カイロ宣言)/蔣介石:新生活運動(大衆動員)を展開/テヘラン会談[対独]/ワルシャワ蜂起/パーセンテージ協定/ポーランド問題/ノルマンディー上陸作戦/ドイツ本土空爆(ドレスデン空襲)/ヒトラー暗殺計画/サイパン陥落/ヤルタ会談(ヤルタ協定・ヤルタ体制)/ヒトラー自殺➡ドイツの無条件降伏/沖縄戦/東京大空襲/ポツダム会談(トルーマン)➡ポツダム宣言/原子爆弾/マンハッタン計画/広島・長崎/ソ連の対日参戦/中ソ友好同盟条約/日本の無条件降伏 33. 冷戦構造(と日欧の復興) ◉戦後の国際政治・経済秩序:大西洋憲章/モスクワ宣言/ダンバートン=オークス会議/サンフランシスコ会議/国際連合憲章/国際連合(国際連合総会/安全保障理事会/経済社会理事会/信託統治理事会/国際司法裁判所/ユネスコ/国際労働機関/世界保健機関)/集団安全保障/集団的自衛権/常任理事国(拒否権)/国連軍/国連事務総長/フィラデルフィア宣言/ユニセフ/国際連合の加盟国/世界人権宣言・国際人権規約/ジェノサイド条約/ブレトン=ウッズ会議(ブレトン=ウッズ体制)/国際通貨基金(IMF)/国際復興開発銀行(IBRD)/関税と貿易に関する一般協定(GATT:自由貿易推進/のちの世界貿易機関)/固定為替相場制/ポツダム協定/ドイツ4カ国分割占領・ベルリン分割管理/国際軍事裁判所・ニュルンベルク裁判/ナチス裁判/オーストリア4カ国共同管理/オーストリア国家条約➡永世中立/パリ講和条約/イタリア講和条約/日本の民主化:連合国軍最高司令官総司令部(GHQ:マッカーサー)/日本国憲法/極東国際軍事裁判所/昭和天皇 ◉ヨーロッパの東・西分断:イギリスの労働党内閣byアトリー/重要産業国有化/イギリスの社会保障制度/ベヴァリッジ報告/アイルランド共和国/フランス第四共和政byド=ゴール/フランス共産党/社会党/人民共和派/イタリア王政廃止/キリスト教民主党/イタリア共産党/東ヨーロッパ社会主義圏/人民民主主義/統一労働者党(ポーランド)/オーデル=ナイセ線/コミンフォルムのユーゴスラヴィア除名(自主管理社会主義byティトー)/チャーチル:鉄のカーテン演説/トルーマン=ドクトリン(封じ込め政策を採用)➡マーシャル=プラン:封じ込め政策の一環⬅コミンフォルム(共産党情報局)・経済相互援助会議(コメコン)/ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)/スターリン体制/ベネシュ/チェコスロヴァキアのクーデタ➡西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約・英仏ベネルクス)➡北大西洋条約機構(NATO)/ヴァンデンバーグ決議/ベルリン問題/ベルリン封鎖/通貨改革/ドイツの東西分断/西ドイツ基本法(ボン基本法)/ドイツ連邦共和国成立➡アデナウアー(キリスト教民主同盟(CDU)結成⬅キリスト教社会同盟(CSU)と姉妹関係)による経済復興/パリ協定(1954)➡西ドイツ再軍備+NATO加盟⬅ワルシャワ条約機構結成により反発/ドイツ民主共和国(東ドイツ社会主義統一党(SED)が権力独占➡ウルブリヒトの指導)➡ベルリン暴動(⬅スターリンの死) ◉朝鮮戦争と冷戦体制の成立:朝鮮の分断(北緯38度線/大韓民国(李承晩)と朝鮮民主主義人民共和国(金日成))➡平和のための結集ののち国連軍出動➡中国人民義勇軍派遣➡朝鮮休戦協定(板門店)/朝鮮特需➡日本の再軍備(警察予備隊➡自衛隊)/サンフランシスコ講和会議➡サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約➡対共産圏包囲網の形成/米比相互防衛条約(フィリピン)/相互安全保障法(MSA)/太平洋安全保障条約(ANZUS)/東南アジア条約機構(SEATO/バンコク)/バグダード条約機構(METO)➡イラク革命(王政から共和制に)➡イラクのMETO脱退➡中央条約機構(CENTO)➡イラン革命後に解体(イランとトルコが抜けて、イギリスとパキスタンしか残らなくなったから)/核兵器開発競争(ソ連・アメリカ・イギリスの核実験)/水素爆弾/第五福竜丸事件(アメリカの水爆実験により日本の漁船が被爆)/アイゼンハウアー/まき返し政策 ◉「雪どけ」と冷戦の再燃➡スターリンの死去/ジュネーヴ会議/ジュネーヴ4巨頭会談/ソ連共産党第20回大会(平和共存)➡スターリン批判/非スターリン化時代➡反ソ暴動(ポズナニ暴動)・ハンガリー反ソ暴動(byナジ=イムレ)/フルシチョフ(コミンフォルム解散)/ポーランド(ゴムウカ)/人工衛星(スプートニク)/大陸間弾道ミサイル(ICBM)/U2型機事件/ベルリンの壁/キューバ危機(➡ソ連の譲歩):核ミサイル基地建設+ケネディ政権による海上封鎖 ◉アメリカの繁栄と西欧・日本の復興:トルーマン/フェアディール/タフト・ハートレー法/マッカーシズム(赤狩り)/アイゼンハウアー=ドクトリン/軍産複合体/ケネディ/ヨーロッパの統合/シューマン=プラン ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)➡ローマ条約➡ヨーロッパ経済共同体(EEC)・ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)➡ヨーロッパ共同体EC/三極構造/アルジェリア問題/第五共和政憲法/フランスの核実験/フランスの中華人民共和国承認/フランスのNATO脱退/五月危機/奇跡の経済復興/西ドイツ=フランス友好条約/キージンガー/ドイツ社会民主党/ブラント:東方外交(東欧との関係改善)➡デタントへ/イギリスのEEC不参加➡ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)/イギリス病/ポンド切り下げ/日本の経済成長/55年体制/日ソ共同宣言/北方領土問題/日本の国連加盟/日米安保条約改定(安保闘争)/高度経済成長/日韓基本条約/学生運動/沖縄返還 ◉米ソ両大国の動揺:公民権運動/キング牧師/ワシントン大行進/ケネディ暗殺/ジョンソン/偉大な社会公民権法/アファーマティヴ・アクション/マルコムX/投票権法/アメリカ・ベトナム国交回復//キング牧師暗殺/ブラックパワー/インディアン問題/キッシンジャー➡ニクソン=ドクトリン(アジアでの介入を抑制)/ウォーターゲート事件/フォード/カーター(人権外交➡新パナマ運河条約:パナマ運河返還を約束)/フルシチョフ解任/コスイギン/ブレジネフ(デタント/社会の停滞)/アルバニア/ホジャ/デジ/チャウシェスク(ルーマニアで独裁➡処刑)/ハンガリー/カーダール/チェコ事件/チェコスロヴァキア社会主義共和国/プラハの春byドプチェク(チェコスロヴァキアの民主化運動)を指導/人間の顔をした社会主義/ブレジネフ=ドクトリン/制限主権論/憲章77 ◉国際経済体制と戦後政治のゆき詰まり:ドル=ショック/スミソニアン協定/変動相場制 ◉米・ソ軍縮と緊張緩和の進展/核兵器廃絶運動/ストックホルム・アピール/ラッセル=アインシュタイン宣言/パグウォッシュ会議/部分的核実験停止条約(大気圏内外水中核実験停止条約/PTBT)/中国の核実験/国際原子力機関(IAEA)/デタント(緊張緩和)➡核軍縮➡核拡散防止条約(核不拡散条約/NPT)➡戦略兵器制限交渉(第1次)(SALT・Ⅰ/ICBMの数に上限設定)・戦略兵器制限交渉(第2次)(SALT・Ⅱ)/迎撃ミサイル制限条約/核戦争防止協定/戦略防衛構想(SDI)/包括的核実験禁止条約(CTBT)/核兵器禁止条約/新START/ソ連=西ドイツ/武力不行使条約/西ドイツ=ポーランド国交正常化条約/東西ドイツ基本条約/東西ドイツの国連同時加盟/ヘルシンキ宣言/全欧安全保障協力会議(CSCE)/全欧安全保障協力機構(OSCE)/ユーロ=コミュミズム/スペインの民主化/ギリシアの民主化 ◉先進経済地域の統合化:ドル=ショック/変動相場制/先進国首脳会議(サミット/G7)/多国籍企業/北アイルランド紛争/アイルランド共和国軍(IRA)/新自由主義経済政策byサッチャー[保]/フォークランド戦争(マルビナス戦争)/ブレア/ドイツ連邦共和国/コール/ヴァイツゼッカー/ベルリンの壁開放➡ドイツ統一/シュレーダー/緑の党/ミッテラン(コールと協調して欧州統合目指す)/シラク/コアビタシオン/分離独立運動/北アイルランド紛争/スコットランド/ベルギーの言語戦争/フラン/デレン/拡大EC/イギリスのEC加盟/シェンゲン協定/ヨーロッパ連合(EU)/マーストリヒト条約/ユーロ/EUの東方拡大/欧州憲法(EU憲法)/ルクセンブルク/スペインの民主化/ギリシアの民主化/キプロス紛争/レーガン/プラザ合意/ブッシュ(G.H.W)=(父)/湾岸戦争/クリントン/北米自由貿易協定/世界貿易機関(WTO)/ブッシュ(G.W.)=(子)/9・11同時多発テロ/イラク戦争/ユニラテラリズム/サブプライム問題(リーマン=ショック)/ギリシア財政危機/ユーロ危機/米国・メキシコ・カナダ協定 ◉社会主義:世界の解体と変容/ソ連の停滞/反体制知識人/サハロフ/ソルジェニーツィン/ソ連のアフガニスタン侵攻byブレジネフ(⬅親ソ派政権成立後の内戦が背景/第二の冷戦開始)/西側諸国によるモスクワ=オリンピックのボイコット/デタント終了&新冷戦へ/ゴルバチョフ:①グラスノスチ(情報公開)・ペレストロイカ(改革)・新思考外交➡市場経済導入➡新ベオグラード宣言(バルト三国独立)/アフガニスタン撤退/中ソ関係正常化(ゴルバチョフ訪中)➡中距離核戦力(INF)全廃条約(INF)➡マルタ会談で冷戦終結➡ソ連共産党の解党/ソ連解体・ロシア連邦/独立国家共同体(CIS)/チェルノブイリ原発事故/保守派クーデタ(ソ連共産党)/エリツィン/サンクト=ペテルブルク/プーチン/ジョージア(グルジア)/アゼルバイジャン/アルメニア/中央アジア5ヵ国=ウズベキスタン共和国・カザフスタン共和国・キルギス共和国・タジキスタン共和国・トルクメニスタン共和国/ワレサ:「連帯」をつくってポーランドの民主化運動を主導/ヤルゼルスキ/ホネカー/ドイツ統一/東欧革命/ハンガリーの民主化/チェコスロヴァキアの民主化(ビロード革命)/ハヴェル/チェコスロヴァキアの連邦解消/ブルガリアの民主化/ジフコフ/ルーマニアの民主化/ポーランドの民主化/ユーゴスラヴィアの解体=クロアティア独立・スロヴェニア独立・マケドニア独立・ボスニア=ヘルツェゴヴィナ独立/セルビア/新ユーゴスラヴィア連邦/セルビア=モンテネグロ/モンテネグロの分離/セルビア共和国/ボスニア内戦/民族浄化/ミロシェヴィッチ/ユーゴスラヴィア内戦/ボスニア=ヘルツェゴヴィナ和平合意/アルバニア/コソヴォ問題/コメコン解散・ワルシャワ条約機構解散/エストニア・ラトヴィア・リトアニア/ベラルーシ/ウクライナ/モルドバ/NATOの東方拡大/EUの東方拡大/ヴィシェグラード=グループ 34. 第三世界の自立と危機 ◉東アジア・東南アジアの解放と分断:国共内戦(第2次)/中国国民党/双十協定/政治協商会議/中華民国憲法/新民主主義論/人民解放軍/蔣介石/台湾二・二八事件/中華民国政府/中華人民共和国人民政治協商会議/土地改革法/三反五反運動/第1次五カ年計画(中国)/中華人民共和国憲法/済州島/四・三事件/フクバラハップ/ハーグ協定/ラオスの独立 ◉南アジア・西アジア・アラブ諸国の自立への模索:ガンディー/インドを立ち去れ運動/チャンドラ=ボース/ジンナー/インド独立法/インド連邦/インド共和国/アンベードカル/ スリランカの独立(スリランカ共和国➡イギリス連邦を離脱➡スリランカ民主社会主義共和国➡タミル人問題) マラヤ連邦➡マレーシア(連邦)➡シンガポールの分離独立(リー=クアンユー首相)➡マレーシアにはマハティール首相就任 ◉第三世界の連帯:コロンボ会議(南アジア5か国)/平和五原則by周恩来&ネルー/平和十原則byアジア=アフリカ会議(バンドン会議@スカルノ)➡アフリカ諸国の独立(アフリカの年)➡非同盟諸国首脳会議(非同盟主義のインド、エジプト、ユーゴスラビアなど/米ソ二大国を牽制)/新植民地主義(ネオ=コロニアリズム) ◉アフリカ諸国の独立:【〜1950年代】独立国家は①南アフリカ(南アフリカ連邦(イギリスの支配)➡アパルトヘイト(人種隔離政策➡黒人差別)➡南アフリカ共和国成立➡ナミビアを領土に編入(WWⅠ後)➡反アパルトヘイト運動byネルソン=マンデラ(投獄➡釈放➡大統領に)➡ナミビア独立➡アパルトヘイト諸法撤廃byデクラーク)・②エチオピア(エリトリア独立運動&エチオピア革命(➡ハイレ=セラシエ1世退位)&エチオピア=ソマリア戦争)・③エジプト・④リベリアのみ➡【1950年代前半】リビア独立➡カダフィの独裁政権/スーダン・モロッコ・チュニジア独立⬅バンドン会議/アルジェリア戦争➡ブルギバ民族解放戦線(FLN)結成byベン=ベラ➡エヴィアン協定(独立承認by仏)➡アルジェリア民主人民共和国独立➡【1950年代後半】ガーナ共和国独立(サハラ以南初)byエンクルマ(➡アフリカ統一機構(OAU)指導)➡ギニア共和国独立byセク=トゥール➡【アフリカの年】マリ・ナイジェリア・ベナン共和国・チャド・マダガスカル・ソマリア(ソマリア内戦)・コンゴ共和国独立➡コンゴ動乱➡ルムンバ首相がソ連に接近⬅親米のモブツ派により処刑➡モブツ派の独裁➡崩壊➡コンゴ民主共和国/ケニア独立/タンザニア(ニエレレ大統領)独立/ザンビア独立➡【1970年代以降】ポルトガルの民主化(ポルトガル革命)➡サラザール政権崩壊➡ギニアビサウ&モザンビーク&アンゴラ独立/ローデシア独立宣言➡ジンバブエ共和国独立 ※アフリカ連合(AU) ◉ラテンアメリカ諸国とキューバ革命:リオ協定(米州共同防衛条約)/米州機構(OAS)(アメリカによる封じ込め政策/南北米大陸21カ国で結成)/中央情報局(CIA)/ アルゼンチン:ペロン(妻エヴァ=ペロン/ポピュリズム)/グアテマラ/アルベンス/ボリビア革命/キューバ革命/バティスタ/カストロ/ゲバラ/キューバ社会主義宣言/進歩のための同盟/キューバ危機 ◉動揺する中国:第2次五カ年計画by毛沢東(大躍進/ソ連に依存しない重工業化と人民公社建設)/廬山会議/劉少奇/台湾海峡危機/金門・馬祖砲撃/チベット反乱➡ダライ=ラマ14世のインド亡命➡中印国境紛争/中ソ友好同盟相互援助条約(ソ連の権益継承)➡しかし中ソ対立/中ソ技術協定破棄/中国の核実験/中ソ国境紛争⬅珍宝島事件(ダマンスキー島事件)/文化大革命by毛沢東(⬅紅衛兵(こうえいへい)・林彪(りんぴょう))vs劉少奇(走資派)➡林彪事件➡批林批孔運動by江青(こうせい)ら四人組➡四つの現代化(国防・工業・農業・科学技術)by周恩来➡周恩来死去後に第一次天安門事件(反四人組)➡同年に毛沢東死去➡文化大革命の終了➡華国鋒政権(四人組逮捕)➡鄧小平政権➡改革開放政策(=資本主義の復活/人民公社の解体)➡四つの基本原則(社会主義の道/プロレタリア独裁/共産党の指導/マルクス・レーニン主義、毛沢東思想)により共産党独裁強化➡胡耀邦(こようほう)協力➡民主化に理解を示し失脚➡趙紫陽(民主化運動容認)➡胡耀邦死去➡二次天安門事件(民主化要求のデモ)➡鎮圧➡鄧小平の南巡講話(改革開放路線の立て直し)➡社会主義市場経済導入by江沢民/香港返還&マカオ返還/中国のWTO加盟/元の切り上げ ※国交:ニクソン訪中(米中関係の改善)➡鄧小平訪米(withカーター)➡米中国交正常化/日中共同声明➡日中国交正常化➡日中平和友好条約 モンゴル国/チベット問題/チベット自治区/新疆ウイグル自治区/ウイグル人の独立運動/東トルキスタン独立運動 ボートピープル/主体思想/平壌宣言 ◉ベトナム戦争とインドシナ半島:ベトナム民主共和国(北ベトナム/ホー=チ=ミン:ベトナム独立同盟(ベトミン)指導者)独立➡フランスの再支配➡インドシナ戦争➡ベトナム国byバオ=ダイ➡ディエンビエンフーの戦い➡ジュネーヴ会議➡ジュネーヴ休戦協定➡ベトナム共和国成立(南ベトナム/ゴ=ディン=ジェム)➡南べトナム解放民族戦線(ベトコン/北ベトナム/反米組織)結成➡トンキン湾事件➡北爆開始・恒常化➡ベトナム反戦運動byジョンソン➡パリ和平会談(強硬派の影響で難航)➡アメリカのカンボジア・ラオス侵攻(※第2次インドシナ戦争)➡パリ和平協定(アメリカ軍の撤退)➡サイゴン陥落(ホーチミン市へ名称変更)➡ベトナム社会主義共和国成立/ドイモイ(開放経済政策)導入 ◉カンボジア王国独立➡クーデタによるロン=ノル親米政権成立➡シハヌーク国王(反米)追放(以降、カンボジア内戦)➡アメリカのカンボジア侵攻(ホーチミンルート封鎖のため)➡制圧➡民主カンプチア成立➡ポル=ポト政権(クメール=ルージュの指導者)[親中]成立➡ベトナム軍のカンボジア侵攻➡カンボジア人民共和国樹立byヘン=サムリン政権[親ソ・親ベトナム]➡ポル=ポト派撃破➡中越戦争/カンボジア和平協定➡国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)成立➡カンボジア王国成立(⬅シハヌークの総選挙勝利)/ラオス内戦/ラオス愛国戦線(パテト=ラオ)/ラオス人民民主共和国 ◉アジアの開発独裁: ◉大韓民国における開発独裁&強権政権衰退:李承晩(四月革命:政権打倒)➡張勉➡韓国軍部クーデタ➡朴正煕(日韓基本条約/金大中事件:大統領選挙落選後日本で民主化運動をしている際に拉致される)➡朴正煕大統領射殺事件➡光州事件➡全斗煥による鎮圧・軍部独裁政権➡盧泰愚(ノテウ)➡金泳三(キムヨンサム)➡金大中(キムデジュン/太陽政策:北朝鮮との宥和政策/金正日と会談)➡盧武鉉(ノムヒョン) ◉インドネシア:インドネシア共和国独立byスカルノ[共]➡インドネシア独立戦争(対蘭)➡インドネシア連邦共和国成立(パンチャシラ(建国五原則):神への信仰・民族主義・民主主義・社会主義・人道主義)※西イリアン問題➡ナサコム体制(NASACOM/民主主義・イスラム教・共産主義)➡九・三〇事件(共産党弾圧)➡スハルトが鎮圧・大統領に東南アジア諸国連合(ASEAN)結成 ◉第三世界の分化:南北問題/発展途上国経済協力開発機構(OECD)/国連貿易開発会議(UNCTAD)/南南問題/資源ナショナリズム/新国際経済秩序(NIEO)/新興工業経済地域(NIEs=韓国・台湾・香港・シンガポール) ◉第三世界における強権支配の後退: ◉中華民国(台湾):蒋介石による戒厳令➡日華平和条約・米華相互防衛条約➡米中接近による苦境(⬅国連の中国代表権=台湾追放)➡蔣経国(蒋介石死後)による開発独裁➡経済成長+民主化運動➡戒厳令解除➡李登輝(国民党)➡陳水扁(民進党) アジア通貨危機/ /インディラ=ガンディー首相(⬅暗殺byシク教徒)➡ラジブ=ガンディー首相/ヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー=ナショナリズム)/インド人民党/アヨーディヤ問題/インドの核実験/ネパール/タイ軍事クーデタ/タクシン/アジェンデ/チリ軍部クーデタ/ピノチェト独裁政権/チリ民政移管/フォークランド戦争(マルビナス戦争)/民政移行/エクアドル/ニカラグア/ソモサ/サンディニスタ民族解放戦線/ニカラグア革命/コスタリカ/パナマ侵攻/グレナダ侵攻/エルサルバドル内戦/グアテマラ内戦/制度的革命党/ウルグアイ南米南部共同市場/ベネズエラ=ボリバル共和国/チャベス 35. 地域紛争 ◉アラブ世界の分裂とその影響: パレスチナ問題 エジプト王国独立➡アラブ連盟結成 パレスチナ分割案by国連➡イスラエル共和国成立(初代首相ベングリオン)➡第一次中東戦争➡パレスチナ難民発生 エジプト革命(エジプト共和国独立/自由将校団ナギブ➡ナセル[親ソ])➡アスワン=ハイダム援助を米英が拒否➡スエズ運河国有化宣言➡第二次中東戦争➡ナセルの威信高揚➡アラブ民族主義の高まり➡アラブ連合共和国(シリアと合併)成立&イラク革命➡イラク共和国独立➡レバノン暴動➡アイゼンハウアー=ドクトリンに基づくアメリカの軍事介入 第3次中東戦争(六日間戦争)➡イスラエル大勝(占領地区:シナイ半島/ゴラン高原/ヨルダン川西岸/ガザ地区)➡アラブ石油輸出国機構(OAPEC/前身は石油輸出国機構(OPEC))成立/ヨルダン内戦(ヨルダン王国内でテロ活動を続けるPLOへの大弾圧➡ファタハ[PLOのゲリラ組織]が「黒い9月」を組織し報復=首相殺害)➡ミュンヘン・オリンピック襲撃事件(イスラエルの選手を人質に) 第4次中東戦争(サダト[エジプト=アラブ共和国]によるイスラエル奇襲+石油戦略➡第1次石油危機/シリア=アラブ共和国も協力)➡レバノン内戦(⬅首都ベイルートにPLOが拠点を移す)➡キリスト教徒マロン派と対立➡シリアの介入・イスラエルの侵攻➡ヒズボラの抵抗/キャンプ=デーヴィット合意(エジプト=イスラエルの和平について合意)➡エジプト=イスラエル平和条約(シナイ半島返還/イスラエルのペギン[リクード党首]とエジプトのサダト)➡サダト大統領暗殺➡ムバラク後継/第1次インティファーダ(イスラエル占領支配への抵抗)➡ハマス創設(イスラーム原理主義/ガザ地区の解放を目指し現在も活動)/中東和平会議(マドリード会議/湾岸戦争直後/具体的成果なし)➡オスロ合意➡パレスチナ暫定自治協定(イスラエルのラビンとPLOのアラファトで/クリントン大統領仲介)➡パレスチナ暫定自治行政府成立/インティファーダ(第2次)byシャロン➡ロードマップ発表 ◉多発する地域紛争とあらたな国際協力の模索:分離独立運動/ケベック問題/北アイルランド紛争/バスク問題/オレンジ革命/ロシアのクリミア併合/クリミア危機/ウクライナ東部紛争/チェチェン紛争/ジョージア(グルジア)紛争/ナゴルノ=カラバフ紛争/コソヴォ共和国/東ティモール/アチェ紛争/チベット問題/ウイグル人の独立運動(東トルキスタン独立運動)/上海協力機構/スーダン内戦/ダルフール紛争/南スーダン共和国/ルワンダ内戦/スコットランド住民投票/北マケドニア/国連の変質/平和維持活動/国連平和維持軍/国際刑事裁判所/化学兵器禁止条約/東南アジア友好協力条約(TAC)/ASEAN憲章/国連人間環境会議/国連環境開発会議/リスボン条約/マララ=ユスフザイ/アラブの春(例:ジャスミン革命@チュニジア)➡シリア内戦(アサド政権vsイスラム国(IS)出現vsクルド人自立の動き[クルド人問題])/バーレーン/シャルリー=エブド社襲撃事件/パリ同時多発テロ/日本の集団的自衛権容認/香港民主化運動/イラン核合意/ネタニヤフ政権/イギリスのEU離脱/BLM運動/中国共産党/ロシアのウクライナ侵攻/NPT再検討会議/BRICS 36. 東南アジア史 ◉東南アジアの基本地理:インドシナ半島/紅河(ホン川)/メコン川/チャオプラヤ川/マレー半島/スマトラ島/ジャワ島ボルネオ島(カリマンタン島) ◉ベトナム 北部:著しい中国化(ハノイが拠点)/ドンソン文化(青銅器の銅鼓) 大越国成立:李朝(国号「ダイベト(大越)」を使用/ハノイに都)▶陳朝(モンゴル軍の侵攻を退ける/最盛期/ベトナム文字「字喃」(チュノム)が普及/一時的に明の支配下)▶黎朝(莫氏・鄭氏〔ハノイを拠点〕・阮氏〔フエを拠点とする政権=広南国〕)▶西山朝(西山の乱)▶阮朝(フエ/阮福暎/フランス人宣教師ピニョーの支援) 中南部:チャンパー(チャム人が建国)/サーフィン文化 ◉カンボジア 扶南(インド文化/東南アジア初の統一国家/港市国家/オケオ遺跡)▶真臘(唐と国交/ヒンドゥー教に)▶クメール朝(スールヤヴァルマン2世▶ジャヤヴァルマン7世(最盛期)/アンコール=ワット(寺院)/アンコール=トム(都)/タイのアユタヤ朝の圧迫で衰退) ◉ビルマ:ドヴァーラヴァティー王国(モン人)▶パガン朝(ビルマ最初の統一王朝/小乗仏教/宋と国交を開く/元の侵略で滅ぶ)▶ペグー朝▶トゥングー朝▶アラウンパヤー朝(コンバウン朝)(最盛期)▶イギリスの植民地▶アウンサン(タキン党指導者)暗殺➡ビルマ連邦共和国独立➡途中から軍政➡アウンサンスーチーの民主化運動➡ミャンマーに改称 ◉タイ:スコータイ朝(タイ人最初の王朝/クメールから政治制度を取り入れ、元とも国交を開く/ラームカムヘン王が小乗仏教を保護)▶アユタヤ朝(明と交易/イスラム教のマラッカ王国を避けて日本や西ヨーロッパの貿易船が来航/クメール朝を圧迫/アラウンパヤー朝に滅ぼされる)▶トンブリー朝(タークシン王・処刑)▶ラタナコーシン朝(チャクリ朝)(ラーマ1世)/バンコク/今も続く) ◉スマトラ島:シュリーヴィジャヤ王国(海上貿易で繁栄/港市国家)▶マラッカ王国の支配▶アチェ王国 ◉ジャワ島:シャイレーンドラ朝(大乗仏教→ボルブドゥールの仏塔)▶クディリ朝(ヒンドゥー教に/ワヤン(人形影絵劇)発達)▶シンガサリ朝▶マジャパヒト王国(モンゴル軍の侵略の混乱後に成立/貿易国として繁栄)▶マタラム王国(古マタラム王国と区別)・バンテン王国 ◉マレー半島:マラッカ王国(東南アジア最初のイスラーム国家)▶ポルトガルの占領/ジョホール王国(マラッカ王国のスルタンが建国)▶オランダ・イギリスによる植民地化 ◉東南アジアのイスラーム化:中国商人/海の道/ジャンク船/三仏斉元の遠征活動/元のベトナム遠征/ムスリム商人/サンドラ=パサイ王国 マニラ アカプルコ ガレオン船/ガレオン貿易 銀:メキシコ銀/日本銀 マカオ 朱印船貿易/日本町できる 香辛料 ネーデルラント連邦共和国 オランダ東インド会社 バタヴィア アンボイナ事件 イギリス東インド会社 ◉南・東南アジアの植民地化 ア.西欧勢力の進出とインドの植民地化 ムスリム商人 東インド会社 インド産綿布 銀 ムガル帝国 イギリス東インド会社 フランス東インド会社 アフシャール朝 ナーディル=シャー カーナティック戦争 プラッシーの戦い クライヴ ベンガル地方 ベンガル太守/ベンガル知事/ベンガル総督 ディーワーニー ブクサールの戦い/バクサルの戦い マイソール戦争 ティプー=スルタン マラーター戦争 シク戦争 シク王国 パンジャーブ併合 グルカ戦争 藩王国 カシミール イ.植民地統治下のインドと大反乱 イギリスのインド植民地支配(19世紀前半まで) 東インド会社のインド貿易独占権廃止 東インド会社の商業活動停止 インド総督ザミンダール/ザミンダーリー制 ライヤットワーリー制 イギリス産業革命とインド ネイボッブ インド大反乱/シパーヒーの反乱/セポイの乱 シパーヒー ラクシュミー=バーイー デリー ムガル帝国の滅亡 イギリス東インド会社解散 インド統治法 藩王国 分割統治 ウ.東南アジアの植民地化 インドネシア オランダ領東インド イギリス=オランダ協定 ジャワ戦争 ディポネゴロ パドリ戦争 政府栽培制度 ファン=デン=ボス アチェ戦争 マレー半島 イギリス領マラヤ ペナン マラッカの植民地化 シンガポール マラッカ海峡 ラッフルズ 海峡植民地 マレー連合州 スズ/ゴム インド人移民/印僑 ビルマ:コンバウン朝 イギリス=ビルマ戦争/ビルマ戦争 メキシコ銀 マニラ開港 モロ戦争 インドシナ出兵:サイゴン条約▶フランスにベトナム南部(コーチシナ)割譲▶カンボジア保護国化▶フエ条約(ユエ条約)でフランスによる事実上のベトナム保護国化 清仏戦争:天津条約(1885)▶フランスによるベトナム保護国化▶フランス領インドシナ連邦 劉永福 黒旗軍 ラオス保護国化 ラーマ4世 ボウリング条約 ラーマ5世/チュラロンコーン 37. アフリカ史 ◉古代のアフリカ:クシュ王国(メロエ⬅アッシリアに追われて遷都)➡アクスム王国(@エチオピア) ◉イスラーム化:ガーナ王国(金をサハラ産の塩と交換)➡マリ王国(トンブクトゥ繁栄/マンサ=ムーサによるメッカ巡礼)➡ソンガイ王国 ◉アフリカ東岸:港湾都市のモガディシュ・マリンディ・モンバサ・ザンジバル・キルワ・ソファラにムスリム商人定住/スワヒリ語が共通語に(バントゥー語+アラビア語の影響)/モノモタパ王国(ザンベジ川流域)/ジンバブエ遺跡(石造遺跡) ◉アフリカ中部:カネム=ボルヌー王国(イスラーム教国/奴隷貿易)/コンゴ王国 38. 南北アメリカ史 ア.アメリカ先住民 ベーリング海峡 アメリカの先住民/インディオ メソアメリカ文明 トウモロコシ サツマイモ ジャガイモ トマト トウガラシ アメリカ大陸 原産の農作物 コカ イ.マヤ・アステカ文明とインカ文明 オルメカ文明 マヤ文明:中央アメリカ/4〜16世紀/マヤ文字/二十進法/精密な暦法 テオティワカン文明 トルテカ文明 アステカ文明 アステカ王国 テノチティトラン チナンパ農法 チャビン文化 アンデス文明 モチカ文化 ナスカ文化 ティアワナコ文化 チムー帝国 インカ文明 ケチュア族 インカ帝国:クスコ/マチュピチュ/キープ(結縄) 39. 朝鮮史 40. 文化史・テーマ史 ◉ギリシアの生活と文化 ギリシア文化 アーカイック期 古典期 オリンポス12神 ホメロス『イリアス』/『オデュッセイア』 ヘシオドス『労働と日々』 ギリシア悲劇・喜劇 三大悲劇詩人:アイスキュロス/ソフォクレス『オイディプス王』/エウリピデス アリストファネス/女の平和 イオニア自然哲学 タレース ピタゴラス ヘラクレイトス デモクリトス ヒポクラテス ソフィスト プロタゴラス ソクラテス プラトン イデア論 アカデメイア アリストテレス リュケイオン ディオゲネス 犬儒学派 ヘロドトス/歴史 トゥキディデス/戦史 クセノフォン フェイディアス:パルテノン神殿(ドーリア式)再建/withペリクレス イオニア式 コリント式 パルテノン ヘレニズム コイネー コスモポリタニズム ストア派 ゼノン エピクロス派 アレクサンドリア(エジプト) ムセイオン エラトステネス アリスタルコス アルキメデス エウクレイデス/ユークリッド ミロのヴィーナスラオコーン サモトラケのニケ 古典古代 枢軸時代 ◉宋代の文化 士大夫 宋学/朱子学 理気二元論 性即理 格物致知 大義名分論 華夷の別 周敦頤 朱熹/朱子 四書 資治通鑑 陸九淵 欧陽脩 蘇軾(蘇東坡) 唐宋八大家 儒教 文化圏 院体画 文人画 宋磁 白磁 青磁 詞 雑劇 禅宗 漢訳大蔵経 全真教 王重陽 正一教 木版印刷 三大発明=火薬/羅針盤/活字印刷 ◉明後期の社会と文化 木綿/綿織物 南京 木綿 湖広 生糸 景徳鎮 陶磁器 染付 赤絵 山西商人 新安商人/徽州商人 会館・公所 一条鞭法 郷紳 抗租運動 鄧茂七の乱 奴変民変明の文化 董其昌 南宗画/南画 北宗画/北画 小説 牡丹亭還魂記 陽明学 王陽明 心即理 知行合一 李贄/李卓吾 キリスト教宣教師 李時珍:『本草綱目』(薬草についての資料集め) 農政全書 天工開物 宋応星 崇禎暦書 フランシスコ=ザビエル マテオ=リッチ 徐光啓:『幾何原本』(エウクレイデスの幾何学の書を翻訳) 坤輿万国全図 ◉清の文化 考証学(顧炎武・黄宗羲) 公羊学 『紅楼夢』(小説) 儒林外史 聊斎志異 桃花扇伝奇 京劇 キリスト教宣教師 アダム=シャール/湯若望 フェルビースト/南懐仁 ブーヴェ/白進皇輿全覧図 カスティリオーネ/郎世寧 円明園 典礼問題 イエズス会 キリスト教の布教禁止 シノワズリ ◉イスラーム文明の発展 ア.イスラーム文明の特徴 イラン=イスラーム文化/トルコ=イスラーム文化/インド=イスラーム文化/中世ヨーロッパとイスラーム文化 トレド イ.イスラームの社会と文明 ウラマー カーディ モスク マドラサ スーク/バザール ワクフ 神秘主義/スーフィズム スーフィー ガザーリー 神秘主義教団 カーディリー教団 メヴレヴィー教団 ウ.学問と文化活動 アラビア語/固有の学問・外来の学問/シャリーア(イスラーム法) ハディース ブハーリー タバリー イブン=ハルドゥーン『世界史序説』 知恵の館(アッバース朝のバグダード/ギリシア語からアラビア語へ翻訳) アラビア数字/ゼロの概念 錬金術 フワーリズミー ウマル=ハイヤーム ルバイヤート ジャラーリー暦 イドリーシー イブン=シーナー『医学典範』/イブン=ルシュド(アリストテレス研究) 翻訳学校 千夜一夜物語/アラビアン=ナイト フィルドゥシー シャー=ナーメ イブン=バットゥータ『三大陸周遊記』 ミナレット岩のドーム ミニアチュール(細密画◀中国絵画の影響)/アラベスク(文様) イスラーム美術の特徴 ◉中世ヨーロッパ ア.教会と修道院 教会破門 修道院 修道院運動 ベネディクトゥス モンテ=カシノ ベネディクト派 シトー派 大開墾時代 托鉢 修道会 フランチェスコ会 フランチェスコ ドミニコ会 神学 ラテン語 ヒエロニムス イ.学問と大学 カロリング=ルネサンス アルクィン カロリング小字体 スコラ学 普遍論争 アンセルムス アベラール 12世紀ルネサンス:ギリシア古典・アラビア語文献がラテン語へ翻訳 トマス=アクィナス ロジャー=ベーコン ウィリアム=オブ=オッカム 大学 七自由学科 ボローニャ大学 サレルノ大学 パリ大学 オクスフォード大学 ケンブリッジ大学 プラハ大学 学寮制/コレッジ制 羊皮紙 ウ.美術と文学 ロマネスク様式 ピサ大聖堂 ゴシック様式 ステンドグラス ノートルダム大聖堂 ランス大聖堂 ケルン大聖堂 シャルトル大聖堂 カンタベリー大聖堂 騎士道物語 ローランの歌 吟遊詩人(トゥルバドゥール/ミンネジンガー):恋愛をテーマとした抒情詩を歌う ◉ルネサンス ア.ルネサンス ネーデルラント ヒューマニズム/人文主義 フィレンツェメディチ家 コジモ=デ=メディチ プラトン=アカデミー ロレンツォ=デ=メディチ ユリウス2世 イタリア戦争 サヴォナローラ チェーザレ=ボルジア ローマ教皇 マキァヴェリ君主論 ミラノ公 イ.文芸と美術 ダンテ神曲 ペトラル カボッカチォ デカメロン チョーサー カンタベリ物語 ロイヒリン エラスムス愚神礼賛 トマス=モア ユートピア ラブレー ガルガンチュワとパンタグリュエル物語 モンテーニュ セルバンテス シェークスピア フレスコ画 油絵技法 フランドル派 ファン=アイク兄弟 ジョットマサッチョ 遠近法 ギベルティ ルネサンス様式 ブルネレスキ サンタ=マリア大聖堂 ドナテルロ ブラマンテ ボッティチェリ ラファエロ ミケランジェロ 最後の審判 レオナルド=ダ=ヴィンチ最後の晩餐 モナ=リザ 万能人 ブリューゲル デューラー ホルバイン サン=ピエトロ大聖堂 レオ10世 ウ.科学と技術 地動説コペルニクス ジョルダーノ=ブルーノ 羅針盤 遠洋航海術 火薬 火砲 活版印刷術 グーテンベルク製紙法の伝播 ◉17~18世紀の西欧文化 ア.科学革命と近代的世界観 科学革命 望遠鏡 ニュートン ロンドン王立協会 ガリレイ ガリレオ裁判 ケプラー リンネ ハーヴェー ラヴォワジェ ジェンナー/種痘法 フランクリン フランシス=ベーコン デカルト方法序説 ライプニッツ単子論 カント グロティウス戦争と平和の法 ホッブズ リヴァイアサン ロック統治二論 社会契約説 イ.啓蒙思想 啓蒙思想 モンテスキュー ヴォルテール ルソー ディドロ/ダランベール:『百科全書』(あらゆる知識を体系化)/フランスの啓蒙思想家 重農主義 ケネー 自由放任/レッセ=フェール 古典派経済学アダム=スミス諸国民の富 ウ.宮廷文化 バロック美術:ヴェルサイユ宮殿byルイ14世 ロココ美術:サンスーシ宮殿byフリードリヒ2世 ルーベンス ファン=ダイク エル=グレコ ベラスケス 古典主義(文学):三代劇作家コルネイユ、ラシーヌ、モリエール▶ルイ14世の宮廷で活躍 アカデミー=フランセーズ/フランス学士院 サロン ワトーブーシェバッハ エ.成長する市民と文化 レンブラント ミルトン失楽園 バンヤン タバコ茶(ヨーロッパ) 砂糖 コーヒー:コーヒーを飲む習慣はイスラム世界からヨーロッパへ コーヒーハウス デフォー ロビンソン=クルーソー スウィフト ガリヴァー旅行記 新聞/ジャーナリズム 生活革命 ◉19世紀欧米の文化 ア.ロマン主義と自然主義 古典主義(文学) ゲーテ シラー 新古典主義(美術) ダヴィド ロマン主義 グリム兄弟 スコット バイロン スタール ユーゴー プーシキン ドラクロワ ベルリオーズ 写実主義 スタンダール フローベール ドストエフスキー トルストイ クールベ ドーミエ 自然主義 コロー/ミレー ゾラ 耽美主義 ワイルド 象徴主義 マネ:フランス/印象派先駆者 モネ:フランス/印象派、『印象・日の出』 ルノワール セザンヌ ゴーガン ゴッホ 後期印象派(ポスト印象主義) アール=ヌーボー イ.哲学と人文・社会科学 ヘーゲル マルクス コント マルサス リカード リスト 保護貿易主義 ウ.科学・技術と市民生活 ファラデー マイヤー ヘルムホルツ レントゲン/X線の発見 リービヒ パストゥール コッホ ダーウィン進化論 メンデル モールス(モース) 海底電信ケーブル ロイター通信 トマス=クック ベル/電話 マルコーニ ダイムラー ディーゼル ノーベル ライト兄弟 オスマン 地下鉄 エ.地理上の探検 オーストラリア タスマン クック 北極海 ピアリー アムンゼン(ノルウェーの探検家/南極点到達)➡スコット(南極点到達) グリニッジ天文台 ◉現代文明 ア.現代科学と生活・環境の変化 アインシュタイン 原子爆弾 ノーベル賞 分子生物学/DNA抗生物質 ペニシリン/フレミング イ.現代文明による危機 環境問題=地球温暖化/砂漠化/オゾン層破壊 モントリオール議定書 スリーマイル島原発事故 アジェンダ21 京都議定書 チェルノブイリ原発事故 パリ協定(2015) ウ.現代文化 現代の思想 実存主義サルトル 精神分析学フロイト マックス=ウェーバー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 ケインズ レヴィ=ストロース カウンター・カルチャー アンドレ=マルロー ヘミングウェー スタインベック ソルジェニーツィン 魯迅 ピカソ 映画 ハリウッド チャップリン
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/37.html
501 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 00 50 31 ID NBiHEQOO0 495 >孫ピンは実質将として軍を率いた ってどこから?単に身体的な問題だというのなら、それこそわざわざ田忌を名目上の 司令官にもってくる必要もなく孫ピンをそのまま将に任命すればいい。しかし彼が任 じられたのは田忌の参謀。 あと 488 趙奢っていつのまに確定に入っていたの? 彼は将としての才能があったのかもしれないが、実際に歴史上では将としては記録を 残していない。 502 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 00 52 22 ID NBiHEQOO0 あらなにかおかしなことに。 501の最後の二行は、「~田忌の参謀」の後にはいります。 503 岩城 2007/01/20(土) 01 04 43 ID 3rKkmY6H0 501 でも作戦立案は参謀である孫ピンの役目だろ? そんでもってちゃんと勝ってるし。 ・・・でも将軍に任ぜられなかったってことは将に必須の指揮統率能力において 孫ピンは田忌に及ばなかった、ってことになるんかな? いやしかし入墨者(罪人の証) を士卒の上に立たせるのが憚られたとも考えられるし・・・なんかわからんくなってきた。 494 悪い。擁護しようとしたがおれの腕ではこのへんが限度のようだ。苦手な時代に首突っ込むと怪我するな。 504 ◆ExdqqU82h. sage 2007/01/20(土) 01 07 42 ID /jn8HMOr0 503 トリ=トリップ 名前欄に、#のあとにテキトーな文字入れて個人識別する。 ちなみに「#春秋戦国」と入れてみる。 505 ◆JEhdU3V6hU 2007/01/20(土) 01 09 57 ID 3rKkmY6H0 504 おお。なるほど。そんじゃ俺は#岩城でいいわけだ。早速やってみるよ。サンクス。 506 ◆ExdqqU82h. sage 2007/01/20(土) 01 11 30 ID /jn8HMOr0 505 いや、バラしたらトリップの意味ないやんw あくまであなたしか知らない「文字」入れないと、 コテハンと一緒で他人が成りすましできるでしょ。 507 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 01 12 48 ID wBaZAhww0 ネット初心者か……道理であれくらいの煽りで過剰反応して、スレを混乱させた訳だ 本来なら2ch初心者ですら半年間ROMってるのが優良ねらーってもんだが トリもコテも板の最初のガイドに載ってる 聞く前に自分で調べる。ここは普通の掲示板じゃないので初心者には冷たいのです ついでにメル欄にsageと入れればスレは上がりません 508 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/20(土) 01 13 52 ID 3rKkmY6H0 そやね。そんじゃ、今後自分しか知らん言葉を使おう。 いやぁ、ええもん教えてもらった。感謝感謝。 509 ◆ExdqqU82h. sage 2007/01/20(土) 01 16 12 ID /jn8HMOr0 507 まあいいじゃん。 数少ない(?)中国英雄ファン同士マターリいきましょうや。 510 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 01 27 26 ID wBaZAhww0 509 中国史ファンである前にちゃねらーでもあるので、溜息一つぐらいは尽きたくもなるけどな 508はここが中英板でよかったな。住人の質によっちゃ叩かれてたろ 次から空気嫁よ 511 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 02 09 14 ID XeTJqHmRO 半年ロムってろってギャグだからな? ちゃんと理解してるよな? 512 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 02 50 21 ID wBaZAhww0 半年ロムはギャグというか煽りの常套句だけど 実際、2ch素人はROMから始めた方がいいのは真理だよ 513 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/20(土) 05 11 03 ID j4er0kts0 いや、案外ギャグと思えなかったり。 ・・・あのときの俺、キレて頭に血が上ってたし。 まぁ相手にも不快感与えたし、スレ全体に嫌な雰囲気残したしで反省はしております。マジで。 ROMから、というのは一応、一年間くらいあっちこっちのスレに首突っ込んで「面白そーやなー」とは思ってたわけですわ。 そしたら「中国」「名将」で検索したらここがヒットして、こりゃ参加せねばなるまいと。 まぁ実際参加したのは後漢からだが、非常に楽しかったわけです。全時代にわたって叩き台出しから議事進行まで自分の裁量で進行できたし。 でもチョーシ乗るとあかんね。今後の戒めとして「今後キレたらスレから永久撤去」という俺ルールで自分を律しようと思っております。 まぁ、言い訳以上。 514 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 06 45 45 ID enTCR6aw0 コテつけてるとまたそれが原因で荒れかねないから 自己主張もほどほどにな 515 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/20(土) 07 16 42 ID Kb8yrJ6o0 2年ほどにちゃんやってるが、トリのつけかたは知ろうとしなかった。 おもしろそうだからやってみる。 516 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 09 13 13 ID ErAzpK8oO 503 サンクス まあ仕方ないよw W孫子大好きな俺でも上手く説明できてないのに。孫ピンは記録が少ないことだし・・・ 俺の知ってるかぎりでは孫ピン、ホウ涓は兵法丸暗記のまぐれ屋では無いとおもうけど・・・ あと、参謀ていうか一応斉の威王に軍師として任命されてるんだけど・・・ (最初、威王は将軍に任命したが孫ピンは自分が無実とはいえ刑余の身であることを理由に辞退している) 競馬で三回中二回勝つ方法を提示、田忌がその才能の凄さに驚き、 威王の前でも同じことをやってみせ、威王もその才能の凄さを認めたんだよ。 (競馬はあくまでも切っ掛けだからな) あと斉の将軍であり、推挙してくれた田忌の顔を立てたんじゃないか? 孫ピンも田忌にはいろいろ恩義があるし、実力さえ試せれば地位など関係なかったと俺は推理。 さっき終わりにすると言ってまた語ったがこれで最後にするから突っ込みは勘弁なw 517 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 11 28 00 ID PagI/FoR0 作戦立案すればいいなら孫ピン以外の参謀も名将に入れていいのか? 518 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 12 02 01 ID PazvjKyM0 516 孫ピンが名将に上がること自体には反対はしないが・・・ 最初、威王は将軍に任命したが孫ピンは自分が無実とはいえ刑余の身であることを理由に辞退している 将軍に任命されたからといって、将軍としての実績がない以上、適正がある証拠にはならない かつ孫ピン自身の辞退の理由が、そのまま将軍に適さない(将帥としてのカリスマ性などの欠如)ことの証明 競馬云々の逸話 作戦立案能力の才能があるという裏付けにはなっても、将軍としての才能とは全く関係ない 519 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 12 37 29 ID PazvjKyM0 518 訂正 将軍としての才能(誤)→将軍としての統帥面の才能(正) 520 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 13 05 36 ID wBaZAhww0 もうこうなったら田忌の方を推薦した方がいい気がしてきた 有能な部下に支えられるのも将軍の才能の一つだし 521 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 13 19 48 ID PazvjKyM0 田忌+孫ピンあたり、セットで考えた方がしっくり来るケースは、2人で1人分ってのは駄目かね 孫武+伍員あたりもそういうくくりで考えるとか・・・ 522 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 13 59 08 ID 6Y2VCu6m0 楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以上の7名が確定組 田忌+孫ピン 孫武+伍員 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2名組4名で2人分確定 特例を認めてもらう代わりに、この9名分で 選定終了でもいいかもしれない。 もしくは、残り1名を選定してもよいがね。 523 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 14 36 31 ID PagI/FoR0 特例には反対だな 人数合わなくなるし 524 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 14 36 59 ID 7Q2ZlK8g0 楚の荘王(熊侶)を推薦した 457だけど廉頗が確定で楚の荘王(熊侶)が落選とは・・・orz 楚の荘王(熊侶)の軍事的功績は凄いものがあると思うぞ。 一応春秋五覇に名を列ねてるし、士会を推薦してる人もいるんだし・・・ 525 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 14 46 25 ID wBaZAhww0 信陵君もどうなんだ?って話が出たような・・・ 526 522 sage 2007/01/20(土) 15 17 54 ID 6Y2VCu6m0 あくまで、推薦してる人間の多さで絞っただけだから、 適切に修正してください。 527 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 15 23 56 ID oLePAn9+0 趙の武霊王も、戦闘に本格的な騎馬を導入して 秦に対抗出来るまで国力を上げたところはなかなかだと思うけど ドウデスカネ 528 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 16 12 33 ID PazvjKyM0 戦国の方が圧倒的に多いし、春秋から 457氏推薦の楚の荘王に一票 あとは戦国の候補入れ替え調整要否の議論してみては? 529 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 16 21 47 ID 6Y2VCu6m0 524 荘王時代の楚の軍事功績は、確かに凄いのだが、 全ての戦いで、荘王が陣頭指揮をしていたかが、 不明瞭なのが問題ありかと思う。 荘王自身の功績が明らかなら支持する人も増え るでしょう。出展があるならご教示ください。 これだけだと、なんなので廉頗についての説明 廉頗 秦を討ち、昔陽を取る。斉を破り、陽晋を陥とす。 これらの功により上卿に任ぜられる。 上卿になった後は、長平の戦いの防戦の後、魏を2 回、燕を3回討っている。 こう書くと割とパッとしない戦歴に見えるが、長 平の戦いで大軍を失った後も(李牧が趙の国防を 背負っていた頃と似たような勢力関係でもある。) 西に秦、東に斉という大国に挟まれた地理関係で、 趙が国を保てたのは、廉頗の存在が大きい。 (廉頗のソースはWebなので、大いに突っ込みを入 れてください) 530 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 17 01 31 ID yekxWgzM0 廉頗って、長平で惨敗した趙を舐めた燕王が大軍を差し向けてくるんだけど、 数倍の戦力を樂乗とコテンパンに破って、逆に燕の本土まで攻め入ってるよね 戦国趙では野戦攻城で最も働いてるし、ほぼ負けなしだけど、ただ当時の有名な 名将とは殆ど戦ってないといったあたりがマイナス要素 531 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 17 21 37 ID k4aCH2Ip0 レンパさん名将には全く異論なし 532 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 21 26 10 ID 6Y2VCu6m0 伍子胥・孫武 呉王闔閭の代に小国であった呉に仕え、富国強兵を行う。 当時の中国勢力圏の3分の1ほどを占める超大国楚の首都 を奪い、滅亡寸前まで追いつめる。 次の呉王夫差の代に滅亡するまでに、春秋戦国時代におい て、唯一と言っても過言ではないレベルで呉の名を残すま での輝かしい功績を残す。 (夫差は国を滅ぼしているのでマイナスが大きい) 楽毅が燕を富国強兵し、斉を滅亡寸前まで追い込んだこと に匹敵すると思う。 前スレでは、孫武は将じゃないと云う意見が多かったのが、 難点ですか。 533 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 21 35 02 ID /Kh3ZoCa0 魏・燕・斉を滅ぼした王賁がどうしてノミネートされてないんだ? あと、李信や蒙武といった、 始皇帝の統一戦の名将が王翦以外に、 候補に挙がっていないのが不思議。 魏ゼン、樗里疾の宰相コンビも、十分な実績があると思う。 534 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 21 39 20 ID NBiHEQOO0 史書では、将とされているんだけどね。>孫武 ただそのわずかな記録をみても、孫武個人が将としてどう働いたのか、どんな功績を 樹てたのかが不明なのがいたい。 征楚戦については、どこまでが孫武の功績でどこからが伍子胥の功なのかと区分けが 出来ないってのが、この二人を評価するのを難しくしている。 535 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 22 16 38 ID 6Y2VCu6m0 春秋は個人の軍功について記載されている資料が少ない 気がする。だから五覇などの評価が難しい。 五覇以外に司馬穰苴なども候補に挙げるくらいはしてもい いんだけど、なかなか難しいね。 533 ノミネートするのであれば、その理由とともに推薦してください。 個人的には強国で、ほとんど負けしらずの時代の将は、特筆 するだけの功績がないとなあと思います。 この時代で特筆する秦将は、白起と王翦かと思います。 536 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 23 15 57 ID NBiHEQOO0 535 その理屈だと、商オウの改革前でまだ大国になっていない(小国でもないけど)秦の時代に 五カ国連合軍を撃破して対趙・魏・楚戦で活躍、負け知らずの樗里疾などは確定入り? 533 そのあたりは、活躍した諸将の代表としてって面もある。 537 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 23 21 38 ID 7Q2ZlK8g0 529 楚の荘王(熊侶)について 晋と激突したヒツの戦いはもちろん、戎の討伐、鄭を多数回、宋・陳・蕭・庸・百濮・舒蓼など 数々の戦闘に出陣、策をねったのは荘王自身。 春秋五覇のなかで政治家、軍人として、最も才能を発揮。 「鳴かず飛ばず」の逸話がしめすように、非常に才知に富み、ある意味狡猾でさえある。 荘王については史記・左伝・荀子などを見てくれ。 538 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 23 23 36 ID 7Q2ZlK8g0 樗里疾について援護。 樗里疾(チョリシツ)は生来滑稽(円転自在)で、知恵はたくましく、秦人は彼を智嚢(ちえぶくろ)とあだ名した。 B.C.330樗里疾は右更(爵14等)に任じられ、魏の曲沃を討ち、邑民をことごとく追い出し、その地を秦の版図に入れた。 B.C.318樗里疾は秦恵文君の命で、韓・趙・魏・燕・斉の連合軍を迎え撃ち、 これと修魚に戦って、韓将申差を虜にし、趙の公子渇、韓の太子奐を破り、首を斬ること八万二千に及んだ。 B.C.314樗里疾は魏の焦を攻め降し犀首を走らせ、韓の岸門を破り、首級一万を斬った。 B.C.313趙を攻め、趙将荘豹を虜にする。 樗里疾は甘茂を恵文君に推挙し、恵文君は甘茂を将軍に取り立てた。 B.C.312楚が韓を攻めたため、秦恵文君の命で韓を助けて楚を討ち、魏章を輔佐して楚将屈カイを破り、 漢中を取った。その功で封じられ、厳君と号した。 B.C.309秦が初めて丞相を置き、樗里疾は甘茂とともに丞相となり、右丞相に任じられた。 B.C.308樗里疾は韓に出て、韓の宰相となった。このとき戦車100乗を仕立てて周に入国した。 周王赧は護衛兵を出して迎え、 すこぶる敬意を払った。 武王が没すると、昭襄王が立ち、樗里疾はますます尊重された。 B.C.306樗里疾は再び秦の宰相となった。 秦人の諺に「力は任鄙、智は樗里」というのがある。 廉頗は確定でいいんじゃないか。 539 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 23 38 55 ID PazvjKyM0 536 樗里疾はもろに商鞅の改革後でしょ? 直後だからまだ効果が出てくる前だっていう意味? 540 535 sage 2007/01/20(土) 23 45 42 ID 6Y2VCu6m0 536 535の下3行は個人的な意見ですから。 樗里疾もそうですが、司馬錯も秦が強国になる 軍事的契機を作ったとも言えますね。 両者共に有力な候補でしょう。 537 楚の荘王自身の軍功であるなら、こちらも有力な 候補でしょう。 しかし、この3名を候補として決定することについて は、他の方の意見を採り入れた方がよいと思います。 541 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 00 12 59 ID TkCHJ8kI0 533 ノミネート理由 王賁 魏・燕・斉・代を滅ぼした。 蒙武 王翦の副将として、楚・越を滅ぼす。 李信 遼東で燕王を捕らえる。王賁の副将として、代、斉を滅ぼす。 魏ゼン 魏の河内を攻略し、六十余城を落とした。 魏将芒卯を破り、魏都大梁を包囲した。 魏を討ち、暴鵞を破って首級四万を斬り、三県を奪った。 白起や胡傷とともに三晋を攻め、魏将芒卯を破り、 首を斬る事十万。魏の巻・蔡陽・長社・趙の観津を取った。 樗里疾は上で言及されてるからいいかな。 542 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 00 13 03 ID xxt+W++A0 途中経過を書いておきます。 確定組(でいいですよね?) 楽毅 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 審査中 樗里疾 司馬錯 楚の荘王 伍子胥 孫武 魏無忌(信陵君) 趙奢 伍子胥・孫武は、その実態が分かりづらい。 魏無忌・趙奢は、対秦戦の勝利とはいえ、 一発屋との見方あり。(趙奢には対斉戦で の功績もありますけどね) 543 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 00 57 02 ID jwJnnNVX0 武霊王は無視ですかそうですか 544 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 01 12 39 ID xxt+W++A0 武霊王自身の軍功を挙げて推薦してくださいな。 545 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 01 21 38 ID MtB0GBoT0 武霊王…胡服騎射と中山国を滅ぼしたくらいかね?あと北方に領土を拡げた。 武霊王の初期には趙は秦に負け続けなんだが、これはまだ幼君の頃だしな。 まあ、趙奢よりは有力な候補じゃないかと個人的には思う。 546 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 05 17 17 ID HsOq6oJZ0 537楚の荘王(熊侶)について投下。 楚軍が鄭軍を討ったとき、鄭は陳と共に楚への服従を誓う盟約を交わしたが、 すぐさま晋が鄭へ圧力をかけたため、鄭は楚に背いて晋に屈した。 まさに「日の出には楚へ隷従し、日の入りには晋へ平伏す」 といったどっちつかずの外交策で、両国から怒りを買っていた鄭の裏切りに激怒した荘王は 紀元前597年、大軍をもって鄭都を包囲。 三ヶ月の攻防の末、晋からの援軍も期待できないと万策尽きた鄭伯襄公は降伏した。 楚では降伏してもいつ裏切るかわからない鄭など滅ぼしてしまった方がいいという家臣もいたが、 荘王は鄭の存続を許し、器量のあるところを見せた。 絶纓の会の時、后の着物に悪戯をした蒋雄に対し機転を利かせ不問にした。 それに感激した蒋雄は荘王が秦に囲まれピンチに陥った時、命を張って荘王を助けた。 器量の大きさはプラスαにならないか? 547 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 06 45 58 ID OFEn38vU0 これまで伍子胥を推してたわけだが、 孫武と伍子胥はどっちかに一本化したほうが有利かも分からんね。 俺はエピソード的に伍子胥の肩持ちなんだけど、総じてみると自ら軍事理論を構築し、 実戦でそれを証明して見せた孫武に託したほうがいい気がしてきた。 伍子胥は夫差を諌めすぎて自刎させられてるし、孫武はその辺どうなんやろ? 身を全うしたのかな? 548 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 08 05 33 ID OFEn38vU0 時間空いたけど連投。趙の武霊王に対抗してこの人を。 【秦の繆公】 即位後間もなく、自ら兵を率いて茅津を伐ち、勝った。 賢臣・百里奚と蹇叔を獲る。 某年秋、自ら将として晋を伐ち、河曲で決戦、戦勝。 驪姫の乱を避けて秦を頼った夷吾を保護、百里奚に軍を率いさせ夷吾の入晋を助ける。 夷吾は晋公となった暁には「八城を割いて秦に献上する」と約束したが、 位に就くと約束を反故にし、使者を殺した。丕豹はこの背信に乗じて晋を撃つべしと主張したが、 繆公は「晋君と百姓は心が通じ合っている」としてこの件を不問に付した。ただし心の中で丕豹の言を重用した。 繆公十二年、旱のため食糧を求めた晋に、「夷吾は敵だが晋の百姓に罪はない」として食糧を与えた。 二年後、今度は秦が飢饉となった。これに乗じて晋軍が攻め寄せたが、繆公は丕豹を将として自らも親征し、晋軍を潰走させた。 退却する晋公を僅かな麾下とともに自ら追ったが逆に晋軍に囲まれ、負傷。しかし「三百野人」に助けられて危機を脱し、晋公を捕らえるにいたる。 周室から同姓の晋公を殺さないで欲しいと嘆願され、妻にも頼まれたので処刑は取りやめ、国に帰した。かわりに河西の地を割譲させた。 繆公二十四年、晋の公子重耳を晋君として擁立した。 翌年秋、晋文公とともに周の襄王を助けて出兵、王弟・姫帯を伐ち殺した。 二十八年、晋文公を助けて鄭を囲んだが、「晋が強くなるのは秦の憂いです」というものがあり兵を退いた。 のち百里奚の諌めを無視して百里視、西乞術、白乙兵らを鄭に遠征させたが敗北、 しかしその罪をとがめず、責任は賢臣らの意見を聞かなかった自分にあったとして不問に付し、自らを律した。 戎王の使者・由余が賢明であることを知り、戎王を堕落させるために女楽を送った。 三十六年、百里視らを将として秦を撃たせ、百里視らは雪辱に燃えて勇躍奮戦し、大いに敵を破った。 三十七年、由余の策に従って戎王を伐ち、十二国を併呑し、領土千里を開いて、ついに西戎の覇者となる。 人望が厚く、死後秦人は「黄鳥を歌う」の詩を作って英霊を称え、殉死するもの百七十七人にのぼった。 ・・・将軍に任せてることも何度かあるけど、たいていの場合親政して勝ってるので名将といってよいかと。 この段階で候補増やすのもなんだし、審査落ちでもいいけど。 549 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 09 46 12 ID QYD6D4jYO 547 孫武は~身を全うしたのかな? 孫武は空気を読み、平和的に隠遁し、太湖のほとりあたりで静かな余生を送り、 兵法書を纏め上げたのだろうと推測してる専門家もいるけどね!! 俺もそうじゃないかなと思うな。 史記には「呉が、西方の雄、楚を破り、北は斉や晋を脅かし、 天下に名をとどろかせたのは、孫武の働きによるところが大きい」と記されてるし、 事実、江陵にあった楚の都を陥落させてる。 それを考慮して俺も伍子胥より孫武を推すよ。 あの情勢を読む鋭さ、優れた統率力と戦略戦術は侮れないものがあるし。 550 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 10 25 32 ID xxt+W++A0 孫武と伍子胥について補足 楚の荘王が、近隣の小勢力を吸収して確立した 版図を(その勢力から云っても凄い功績ではある) それまで歴史上で名前すら出てこなかった小国が 滅亡寸前まで追い込んだわけで、楚の荘王より 功績で上回ると思う。 551 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 12 26 46 ID OFEn38vU0 士会についての推薦文、 周室の内乱平定の功労者。呉の荘王に勝利した唯一(じゃなかったわけだが)の将軍でもある。 これだけじゃあまりにも根拠薄弱なので、春秋紀伝引っ張り出して補足。 ただし古い漢語はわからんので訳は適当。台詞とか政事駆け引きの部分は無視してとりあえず戦功だけ書いた。 【士会】 通称范武子。濮城の戦いでは若年ながら帷幄に参与し、晋軍を勝利に導いた。 趙盾が政変を起こして霊公を立てると先蔑とともに秦に亡命、将となりしばしば晋軍を破って、晋人を悩ませた。 秦将賈季とともに西戎を撃って功あり。 晋には士会とまともに戦える将がなく、中行桓子の提案で彼を晋に引き戻す策を講じた。 いろいろあって(このあたり難しくて読めん)帰国するも、趙盾を嫌いこれを患う。 景公元年、楚が鄭を伐つと上軍の将として出陣、鄭を救う。 同三年、再び楚が鄭を犯したときには楚軍を覆滅して鄭を救った。 邲の戦いで晋軍は楚に大敗、さらに七度戦い七回敗れたが、ただ一人士会率いる上軍だけは敗北を知らなかった。 七年、赤狄を撃破。 周室の動乱を平定、周の典礼に倣い晋の国法を定める。 八年、郤克が斉に赴き、笑いものにされて帰ってきた。その怒りは凄まじく、 なにがあろうと斉人を討ち滅ぼさねば気がすまない、という体であったので、士会は自ら上軍の将を降りて郤克に譲った。 その後も晋の重鎮として「晋に范武子在り。才徳諸卿に冠す」と称えられる。 権力に阿らず、人生における進退の潔さを特筆されている。 ・・・こんなもんで少しは復権したかなと。 552 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 12 53 02 ID OFEn38vU0 551 訂正。前置き文にある呉の荘王に~は楚の荘王ね。呉の荘王って誰やねん。 で、士会が荘王に大勝ちしたのは景公三年の鄭救出戦のとき。 荘王とは晋国七連敗のときにもぶつかってるんかな? そこまで書いてないからわからん。 553 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 12 53 07 ID HsOq6oJZ0 孫武は確定でいいんじゃない? あとは楚の荘王(熊侶)樗里疾、武霊王、王賁、蒙武、 李信、魏ゼン、秦の繆公、士会を推す人がいるし、審議中という感じか? 魏無忌(信陵君)、趙奢は一発屋だという意見も出てる。 俺も魏無忌(信陵君)が名将?と前スレから思ってた、任侠を貫いた人物としては高く評価するが・・・ 554 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 13 44 53 ID gOsZQHg40 墨家集団まるまるっと含めるなら墨子もいいんだけどな 555 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 14 13 18 ID xxt+W++A0 墨子は、個人的には軍を率いた将っていう気がしないなあ。 孫武が確定で、残り3名だとして、中では、楚の荘王が一番、有力 だと思う。 それと秦将を推薦してる人は、候補に挙がってる秦将の功績を 格付け(というか順位づけ)してくれないだろうか。 556 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 14 47 22 ID HZxitqQH0 墨子よりは荘王だよなあ・・ 557 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 16 13 43 ID EuPDMnAs0 トップは荘王として、二番手あたりで士会、こんかな? 一応荘王に大勝した男だし。 まぁ勝利したっていっても戦略的歴史的にそう大きな意義がある戦いじゃなかったし、 荘王としても楚の国力がダウンしたわけでなし、負けたからって大した瑕でもないわけだが。 それでも一応勝ちは勝ち、っつーことで。敗戦記録を見落としてるのかも知れんがなんとなく生涯無敗っぽいし。 558 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 17 57 01 ID jG5A6EKT0 557 士会については二番手評価は疑問、推薦してる人が多数いるようには見えないのだが・・・ 敗戦は、公子雍を秦から迎えるときに趙盾に負けて亡命してるのがあるかも 士会の場合、正卿で全体の指揮権持った戦闘は赤狄討ったのと周室の乱くらい? 鄭の救援のときは正卿前だから上軍の将の時代で上軍だけの派遣で、 楚の軍もそれに応じた少なさだった=本格的な侵攻ではなかったと思われる 間違いなく名将ではあるのだが、時期に恵まれなかったという気がする 樗里疾の方が領土拡大や撃破した敵の規模の面で士会よりは上じゃない? 商鞅の改革以後、秦が一大強国にのし上がって統一に至る流れを決定付けた意義は大きい 司馬錯も蜀平定その他の功が多いけど、樗里疾で代表させるってことでどうか 541 蒙武は王翦の副将だし、王翦確定してるので不要 もし候補に上げるなら親父の蒙ゴウの方がいいんでないのかな(信陵君の連合軍に負けてるけど) 李信は楚を攻めるとき20万で十分と大言吐いた挙句、 項燕に大敗して王翦に尻拭いしてもらってるのが駄目すぎ 始皇帝に最初から20万で攻めろといわれて負けたんなら情状酌量してもよいだろうが・・・ 王賁は確かに功績多いのだけど、秦統一の最終局面で楚以外は勝って当たり前の相手 楚の攻略のときに名前が全く挙がらないあたり、親父の王翦にはかなわない 王翦に功績が集中しないように、っていう配慮で任されてた面もある 559 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 18 08 15 ID GwbYllVo0 確かに士会推してるのは俺一人(多分)。 実際士会は領土拡大一切してないしなぁ。 本気の大軍を動員した荘王を完膚なきまで倒したとかあればもうひと踏ん張りできるんだが、 ここは涙を呑んでもらうかな。 560 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 18 12 53 ID HsOq6oJZ0 522 B.C559が晋についた為、荘王が鄭を討つ。晋の士会が鄭を救援、楚軍は 水の北で撃退された。 楚の荘王の唯一最高の宿敵・士会は中国史を代表する天下無双の大軍師。 戦略と戦術に於いて桁外れに天才的なセンスを持ち、政治家としてのバランス感覚も絶妙。 当初こそ趙盾とのイザコザで秦に亡命したモノの、イザ晋に復帰するや、 常に晋の要として大活躍。晋・楚の対決ムードが高まる中、周辺諸国を圧倒したのは勿論、 疾風怒濤の北進を続けていた楚・荘王さえもボッコボコに打ち砕いた程。 (荘王に敗北の味を教えたのは、只一人、後にも先にも士会だけ!)。 郤缺と共に晋を覇者たらしめ、中原の覇者としての毅然とした態度とプライドで 楚の侵攻を抑え込んだ手腕は見事の一語に尽きるだろう。 、軍事・政治・外交に持ち前のバランス感覚を十二分に発揮し続けたのだった。 そして、後世、人々は士会のコトを懐かしみ、慕い、彼のコトをこー評価した。 「晋の歴史上、士会こそが最高の宰相である!」と。 逆に言えば楚の荘王は士会以外に生涯負け無しってことになるな。 561 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 18 18 42 ID GwbYllVo0 おお、士会推してる人俺のほかにもおった。 しかも文体が熱い!! すぐ淡白に諦めた俺とは偉い違いだわ。 562 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/21(日) 18 19 44 ID 3jZN/82mO あまり熱すぎると周りは引くから注意 563 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 18 23 55 ID jG5A6EKT0 560 すまん、俺には宮城谷昌光小説の過剰な主人公補正に毒されてるようにしか思えない つかほとんどttp //www2s.biglobe.ne.jp/~ko-ba/rekisi/aki.11.htmのNo.212のコピペだな 564 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 18 27 24 ID HsOq6oJZ0 スマン 552の間違いだ 俺は士会より樗里疾を推すよ。 士会の評価を書いたのは別に擁護したんじゃなく、公平な評価を述べただけだし、 判断はみんなにまかせる。 565 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 18 32 12 ID GwbYllVo0 <ttp //www2s.biglobe.ne.jp/~ko-ba/rekisi/aki.11.htmの212のコピペ 見てきた。ホントにまんまやん。同じ人が書いてるとかと違うんかな? 別の人がパクッとったらまずい気がするが。 566 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 18 42 07 ID jwJnnNVX0 563 と同じく またミヤギタニ信者か と思ってしまった やっぱりこぴぺかよ 567 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 19 07 26 ID xxt+W++A0 残り枠では、楚の荘王と樗里疾が1歩リードってところかな。 もう1名は、士会・司馬錯ってところ? 個人的には、伍子胥を入れたいけどね。評価が難しいから 仕方がないね。 568 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 19 24 13 ID jG5A6EKT0 途中経過ってこんなもんかな? 確定組 楽毅 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 確定への格上げ有力 楚の荘王 樗里疾 孫武 審査中候補 士会 司馬錯 伍子胥 魏無忌(信陵君) 趙奢 趙の武霊王 ノミネートあり 王賁 蒙武 李信 魏ゼン 秦の繆公 あといつのまにか消えたけど孫ピンは結局落選? 569 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 19 50 04 ID Vd7zrGzN0 なんか時代別にスレ分けしたほうが良くない? 570 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 19 58 35 ID xxt+W++A0 569 春秋戦国は、もう少しで結論が出そうなので、 その時点で時代別にスレ分けするかを決めても いいかも。 571 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 20 08 21 ID GJB0bUMX0 【秦の繆公】 推薦理由は 548を。 それまで西戎の一国に過ぎなかった秦を西方の雄に発展させ、 秦が覇道を邁進する原点となった人物。度量も広けりゃ戦も上手い、 一代にして西方十二国を征服し千里に渡る領土を手に入れたというだけでもかなりの武功。この人はほとんど毎戦親征してるし。 せめて趙の武霊王の対抗馬として候補の端にでも昇格させたいものだが、ノミネートで終わるか? ・・・なんか俺、ここんところ標準語と地元言葉がごっちゃになってるな。なんか変な感じだわ。特に問題ないけど。 572 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/21(日) 20 48 33 ID nUcG41zMQ 韓信と范蠡 573 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/21(日) 20 58 47 ID gyfAVt37O 士会を推してる人に質問なんだけど春秋紀伝って何? 左氏伝や公羊伝や穀リョウ伝なら知ってるんだけど初めて聞いた資料の名なんで。 決してあげあしをとってるんじゃなくて興味を持っただけなんであしからず。 574 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 20 59 30 ID jwJnnNVX0 人数少ないせいか一部の人の意見で決まってしまいそうだね・・ そういう趣旨のスレだから仕方ないか 575 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 21 20 30 ID xxt+W++A0 574 他の時代好きな人に迷惑になるから、早めに結論を 出したいけど、そうすると参加出来る人数が少なくの は自然の理ですからね。 576 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. sage 2007/01/21(日) 21 58 34 ID DMPP2ctk0 敗北後の処理が上手いってことで宋の目夷とかダメ? 577 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 22 01 39 ID wnmWhe3W0 1-4 中国、チベット、南モンゴル、東トルキスタンの征服者”毛沢東”を追加して下さい。 578 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 22 19 50 ID jG5A6EKT0 576 史記世家とか読む限り、名相としてならまだしも、 名将としてはお話にならないかと・・・ 具体的な将軍としての業績って記述できます? 579 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. sage 2007/01/21(日) 22 24 54 ID DMPP2ctk0 578 具体的にできないから取り下げる。 580 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 22 41 08 ID QYD6D4jYO 577 定義から外れてるから毛沢東は既に却下されてるけど・・・ 前の方のレス読んだか? 581 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/22(月) 00 46 43 ID U+5x+ObUO いつになったら漢代の話題に入るの? 582 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 01 36 01 ID cmKvu9yN0 紀元前、紀元後1000年まで、近代までの3つに分けたほうがいいんじゃない 30人 40人 30人ぐらいな感じで 583 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/22(月) 02 42 23 ID w0A3XmI+0 573 春秋紀伝 24史外編っていうシリーズ内のひとつ。ホントは専攻の宋史新編だけ欲しかったんだけど、 分売不可だから30万出して全158巻まとめ買いした。 春秋紀伝は読んで字のごとく、春秋時代の人物を紀伝体で綴ったもの。史記にはない記述やら人物やら載ってるけど 文体がえらい古い漢語なうえ影印本で字が読みづらかったりする。あとなぜか呉の項に孫武が載ってない。 史料価値はまぁ、中の上ぐらい? もっと読みやすかったら評価上がるんやけど。 レスがずいぶん遅れてすいません。8時ごろから寝てました。 584 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/22(月) 06 58 31 ID 0KGaXbt90 長期経済予測データ 日本VS●● http //qwe125mn.hp.infoseek.co.jp/11.html 2ちゃんねらーが言ってた事は外れたね。 585 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 10 56 56 ID orV0d1EE0 気になったけど、 538もサイト記事の丸々転載なんじゃ? 586 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 11 24 49 ID Waw8X6NI0 582 時代ごとの武将数に偏りが無いようにという本スレの趣旨を無視したレスだな。 前スレで時代区分を散々話し合ったのを知らんのか? 587 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 11 48 17 ID RHtWmefzO 585 樗里疾を推薦してる人が詳しい功績を示さないから 功績をサイトから流用して貼っただけじゃない? 援護って書いてるし。 588 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 15 14 52 ID mZfeztZgO 素人に質問させてください 白起と王剪ってどっちが名将としての評価高いの? 589 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 18 37 01 ID RHtWmefzO 孫武の功績とその後 孫武は楚の需要拠点である舒と六の二都市を占拠。 慌てた楚は勇猛な武将に精兵を率いさせ反撃に出たが、孫武の作戦は一枚上手で逆に殲滅させる。 孫武が呉に凱旋すると占領地は敵に取り返されるが、孫武が出撃すると楚軍はいつも撤退。 そんなことを数年の間に五回以上も繰り返す。 闔廬七年、預章の戦いで孫武は楚の大軍を完膚なきまで打ち破り、楚の都、郢に迫った。 その為に楚の昭王は都を捨て楚の属国である隋に逃亡、呉軍はついに楚の国都、郢に入城。 その二年後楚が水軍を率いて呉領に侵入、それに対し孫武は水軍を編成、 長江で楚の水軍を大破させ楚軍は壊滅、敗残兵を長江北岸へ敗走させた。 次期君主の夫差の早々と器量を見切り、闔廬や伍子胥の説得を退け引退を申し出た。 それを承諾した闔廬はこれまでの功績に対し孫武に富春の領地を与えた。 それ以後、孫氏一族は代々富春で細々と兵法を教え暮らす。 以上、呉越春秋、左伝、戦国策より抜粋。 590 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 19 59 13 ID nlNMNz8o0 どうも 488です。 【確定】 楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 孫武 士会 【候補】 趙奢 ☆伍員(子胥) 夫概 ☆樗里疾 趙無恤 王子成父 先軫 ☆楚の荘王(熊侶) 蒙ゴウ 司馬錯 趙の武霊王 秦の繆公 王賁 蒙武 李信 魏ゼン 魏無忌(信陵君)は、すでに確定です。 自ら率いた兵で秦を2回も敗走させて、その内一回は 候補にも挙がってる蒙ゴウを破っています。 五カ国の兵をまとめるのも大変な統率力だと思いますよ。 孫武と士会を確定に挙げてみました。どうでしょう? 孫武が名将であるということは、比べることは出来ませんが 誰もが認めていることだと思います。 あと士会は推挙されている方の説明通りの功績と、 候補に挙がっている楚の荘王を敗走させています。 591 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 20 21 57 ID 91PvwxQk0 白起が指揮してたら信良君は脱糞して敗走してたと思う 592 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 20 55 02 ID rttp9XS/0 信陵君が他の確定組と戦って、勝てる気がしないんだよね。 士会も同様。戦績が少ない。 593 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 21 04 57 ID nlNMNz8o0 人にはジャンケンみたいに相性があったりしますからね 実際にどうだったかはわかりませんよ? 白起だって廉頗の長期戦を嫌って謀略で更迭させてますからね。 信陵君が名将じゃないというのなら、信陵君がいようがいまいが 秦は白起で趙や魏を滅ぼしてるはずでしょう? 蒙ゴウは、候補にも挙がらないということですか? 594 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 21 21 46 ID rttp9XS/0 593 >信陵君が名将じゃないというのなら、信陵君がいようがいまいが >秦は白起で趙や魏を滅ぼしてるはずでしょう? 白起がその凄まじい勝ちっぷりのわりに秦の領土を広げられなかったのは、 上に立つ宰相魏ゼン(この人、将軍としては本当に有能なのだが)の無定見によるところが大きい。 長期的な展望に立って、白起をコントロールできる指導者がいたら、 趙も魏もとっくの昔に滅んでいたと思う。 >蒙ゴウは、候補にも挙がらないということですか? 蒙ゴウは名前が挙がっているだけで、議論の対象にはなっていない。 荘王、樗里疾らの有力候補とは一緒に考えないほうがいい。 595 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 22 03 28 ID nlNMNz8o0 592 594 士会が外されるとなると、楚の荘王もはずされますよ。 それに、今まで確定に入ってた人を1日や2日で 外してしまうのもどうかと思われます。 白起を対象にしていますが、それは無意味な議論です。 思うのであれば実際に戦わせてみてください。 ifではなく、実際に起こった事象によって選択されるべきです。 蒙ゴウはここの候補に挙がっているんです。 その蒙ゴウに勝ったという事は、ここでの判断は その候補より優秀ということです。 士会も同様だと思います。 確定組みと比べるのではなく候補の中で比較するべきです。 596 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 22 18 15 ID jlqAqn7WO 595 つまり周瑜を外すなら曹操は外れ、どちらか一方なら周瑜を優先させる、という事? 597 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 22 24 20 ID rttp9XS/0 595 >確定組みと比べるのではなく候補の中で比較するべきです。 確定組と遜色ない人物を選ぶためには、 確定組との比較も重要だと思うが。 あと、あなたは蒙ゴウが候補に挙がっていることに 随分執着しておいでのようだが、 上で述べたとおり、蒙ゴウは名前が挙がっているだけで、 議論の対象にはなっていない。 他の議論の対象になっている候補とは、分けて考えるべき。 598 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 22 26 35 ID nlNMNz8o0 596 じゃあどうやって比較するの? 599 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 22 31 58 ID rttp9XS/0 598 打ち破った敵の強さ、勝利の数、切り開いた(守り抜いた)領土の大きさ、 などなど。 信陵君、士会は上記の点において、 荘王、樗里疾に大きく劣っていると思う。 600 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 22 38 07 ID 7uObMFPV0 590 孫武は 589が孫武の功績をバッチリ挙げて来てますから確定でいいと思います。 なんか揉めてますが俺は楚の荘王に一票入れときます。 601 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/22(月) 22 50 58 ID tkiMh9I3O >>583ありがとう、そんなもんがあったんだ初めて知った。 出来れば著者と制作年代も教えてもらえますか。かねがねすいません。 士会はその功績を見れば十分名将なんですが、領土を広げたわけでもなく、彼の軍事行動が時代を変えたわけじゃないのがつらいですね。 602 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 23 00 56 ID nlNMNz8o0 それでは春秋戦国時代確定は下記の通りでよいですか? 【確定】 楽毅 楚の荘王 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 孫武 士会 樗里疾 今日のところはこんな感じでまとまってますね。 599さんの評価で行けば、魏ゼン 秦の繆公あたりで 異論が出ると思うので数日待ちませんか? 異論が無ければ確定ということで次の時代に進みましょう。 603 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/22(月) 23 03 04 ID u35ztlRSQ てか孫武はなんで確定じゃないんだ? そうとう凄い戦績だと思うが 604 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 23 06 32 ID rttp9XS/0 602 いいんでない。 605 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 23 14 38 ID FHy+B08r0 結局士会入ったんだ。うーん・・ 606 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 23 35 14 ID nlNMNz8o0 605 一応、推薦人は多いよ。 不公平にならないように、推薦人の多い人物で議論したつもりです。 信陵君は以前確定組、士会は現在のところ推薦される方が複数居る。 ですから、今居る人たちの好みだけで決まったのではいけませんからね。 好みだけで言えば、趙の武霊王を入れたいですよw 当時、騎馬といえば戦車が主流だった時代に本格的な騎馬術を 中華にもたらして異民族の脅威をなくし秦に対抗できる 軍事力を趙に持たせた人ですからね。 だからといって、戦績は楽毅や廉頗に比肩するとは言えません。 その点が残念でならない。 607 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 23 52 21 ID 2VzgALeH0 606 「歴史に与えた影響」でいけばまず外せない存在なんですけどねー>武霊王 個人的には、士会を外すのに一票。決して一発屋というわけでもないのだが。 ただ、じゃあ変わりに誰をと言われると推薦に困る。武霊王は悪くない選択 かも。中山国を滅ぼし西北に領土を拡げたという実績もある。 残り9人は賛成。しかし戦国時代に偏ったな。まあ春秋は史料の問題もあるから 仕方ないのかもしれんが。 608 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 23 52 37 ID BosB3UtM0 とりあえず、春秋戦国時代は 602で確定で良いんじゃないかね。 次の時代に移る前に、各時代でスレ立てするかを決めないか? 後代の人は大分、待ちぼうけしている模様だし。 609 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 00 05 11 ID RD0UY7LC0 601 春秋紀伝について追記。 清の李鳳雛著。・・・清なんだ、えらく文体が難しいから相当昔の人が書いたもんやと思ってた。 帰ってきたら士会が入選? 推していた身としては嬉しいが推薦人俺一人だと思ってたんでちょっと複雑。 領土拡大してないし歴史を変えた一戦に参加したわけでもないし、そんなに優遇しなくてもいいかな~とか半分諦めてただけに。 610 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 00 08 48 ID 6ijFD4ux0 そろそろ次の時代へ移っていいのかな? まっ、俺は元と明が専攻なんで、 まだまだ議論に加われないわけなんだが・・・ 611 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 00 13 13 ID KM4omg4yO 608 変にスレを分散させるとややこしくなると思うんだけど 個人的には現状維持でいいと思う 612 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 00 13 14 ID p+wkYiLJ0 信陵君外れたのかよ、がっかりもいいところだ 5ヶ国の連合軍を率いるなんて相当の名声がなきゃできないことなのに一発屋扱いか 613 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 00 18 23 ID 6ijFD4ux0 612 名声≠将器 614 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 00 23 00 ID p+wkYiLJ0 5ヶ国の連合軍を指揮できたのは紛れもなく 当時信陵君に並び立つ将器を持った者がいないとされたからだろうに 615 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 00 28 59 ID KnZjDsvl0 信陵君の将器ってのは劉邦のそれと似てる気がしないでもない。 実際に兵を指揮するより、将の将たる指揮に長けていたのでは ないかと。 616 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 00 30 10 ID ZbyiMUzQQ 韓信、項羽、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、 617 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 01 02 01 ID OHl5x/oWO 士会を外すなら田単を推す つうか一回も議論の話題に出てないんだな 618 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 09 37 ID 6ijFD4ux0 折角結論が固まってきたのに、また蒸し返すの? まぁ、納得いかない人がいるのなら、とことんまで話し合ったほうがいいんだろうけど・・・ こりゃ、マジでスレを分散させたほうがいいかもな。 619 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 17 55 ID KnZjDsvl0 春秋戦国で異論がある人は、統一秦~前漢時代が 決まるまでに、意見をまとめておいて、統一秦~前漢 時代が決定した後に、書き込みすれば良いんじゃない? 620 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 22 48 ID aRk32VPw0 結論案が出たばかりなのに、異論のある人の発言を封じるような趣旨の発言はどうかと・・・ 602から士会のぞいた9人確定で、次候補が順に士会、信陵君、趙の武霊王にしといてはダメか? 621 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 31 28 ID KnZjDsvl0 620 つまり、現状のまま、とことん結論が出るまで話し合えと 言いたいの? 広く意見を訊くなら、それなりの期間をとらないと無理だ ろうから、 619の発言をしてるんだけど。 622 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 38 13 ID aRk32VPw0 621 わかりにくくてすまんです。 620の前半は 618向け もし 620でいくにしても、決定時期は 619くらいでよろしいかと。 623 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 53 04 ID KnZjDsvl0 そいじゃあ、人数少ない時間でなんだけど。 【確定】 楽毅 楚の荘王 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 孫武 樗里疾 士会がとりあえず10番目の候補 ただし、10番目は他の将に入れ替わる可能性あり 春秋戦国で異論がある人は、統一秦~前漢時代が 決まるまでに、意見をまとめておいて、統一秦~前漢 時代が決定した後に、書き込みする。 ってところで、統一秦~前漢時代にバトンタッチで良い かな? 624 478 sage 2007/01/23(火) 02 50 33 ID e54nKVPx0 私は賛成。 いっそ、田中芳樹の百選で九十九人選出、残り一人は欠番としたみたいに各時代も 九人にして残り一人枠をあけておくというのもいいかも。 …と思ったが、時代によっては10人枠でも足りないなんて意見がでてるし、余計かな。 625 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 04 44 57 ID p+wkYiLJ0 春秋戦国はかなり長い期間だから春秋からまともに名将を選ぼうとすると どうしても10人からあふれてしまう と言ったら決めた枠を今更どうこうと袋叩きにされてしまうかな 626 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 05 33 09 ID izo+WHiD0 623 賛同します。 では統一秦~前漢にいきますか。 627 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 09 59 39 ID 6W0hBuE60 個人的には春秋は車引きながらヤァヤァやってる時代だから 他の時代でガチで殺し合いしてるのに比べて劣って見える 628 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 10 57 00 ID 6ijFD4ux0 625 まぁ、今更時代区分議論を蒸し返すつもりは無いけど、 一応参考までに名相スレで使用されている このスレの時代区分を更に改良した区分法を載せとくね。 春秋(周の東遷~晋の分裂) BC770年~BC403年 367年間 戦国・秦・楚(晋の分裂~前漢の統一) BC403年~BC202年 201年間 前漢・新(前漢の統一~後漢の全国統一) BC202年~36年 238年間 後漢・三国・西晋(後漢の全国統一~西晋の滅亡) 36年~316年 280年間 東晋・五胡十六国~隋(東晋の建国~隋の滅亡) 317年~618年 301年間 唐(唐の建国~唐の滅亡) 618年~907年 289年間 五代・北宋・遼(唐の滅亡~南宋の建国) 907年~1127年 220年間 南宋・金~元(南宋の建国~元の北走) 1127年~1368年 241年間 明(元の北走~清の入関) 1368年~1644年 276年間 清(清の入関~清の滅亡) 1644年~1912年 268年間 629 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 12 41 18 ID chwlD3EDO 625 628 春秋戦国がせっかく落ち着ついたんだし、 第一、時代区分はみんなで論議して決めたことだしこのままでいいだろ。 589で孫武の功績を挙げた者だけど自分が一押しの武将を確定させたいなら、 士会・荘王や樗里疾みたいに功績や推薦理由を具体的に述べたほうがいいと思うぞ。 ほぼ結論が出ようとしてる段階に文句いうのはどうかと思うけどな。 孫武は功績があやふやだったからキッチリと功績を挙げたんだし、その方が議論しやすいだろ? とことん論議して落選になっても趙奢、伍子胥、孫ピンを推薦した人は文句は言ってないんだし、 みんなも納得するだろ? どうかなこの意見。 630 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 17 07 09 ID izo+WHiD0 627 >個人的には春秋は車引きながらヤァヤァやってる時代だから http //www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/rekisi/heisei/ss3.htm 631 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 17 38 30 ID r8P8dcGc0 628 思いっきり蒸し返してる件について。 だけどなかなかいい区分だと思うw 632 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 20 10 45 ID KnZjDsvl0 とりあえず一段落ついたんだし、春秋戦国についての書き込みは しばらく自粛しようよ。 633 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 20 47 47 ID cFdoig8J0 【名前】趙充国 【推薦理由、というか具体的武功】 1/2 武、昭、宣帝の三代に仕えた西漢王朝随一の将軍にして政治家。若くして羽林に入り、騎射にすぐれて頭角を現した。 沈着にして勇猛。智謀あり、若い頃から将帥の品格と態度を備え、好んで兵法を学び、周辺少数民族の事情に通暁していた。 弐帥将軍李広利の副軍司馬として匈奴征伐に随行するも匈奴の騎兵隊に包囲された。食糧は断たれ馬は疲れ果て、死傷者は莫大。 趙充国は壮士100余人を率いて囲みに突撃、身に二十あまりの傷を受けながら道を開き、この奮戦によって李広利は命を拾った。 昭帝のとき武都の氐賊が反乱を起こすと、趙充国は大将軍護軍都尉とされて出撃し、西祈王を捕らえた。 中郎将、水衝都尉、後将軍を歴職、のち大将軍霍光とともに宣帝を擁立し、功により営平候に封ぜられた。本始年間(前73-前70)、 蒲楼将軍の肩書きを与えられて匈奴征伐に出征、凱旋後再び後将軍、少府。 元康、神爵年間(前65-前58)にかけて、対羌族問題の第一人者として活躍、基本的に『戦わずして勝つ』を至上とし、 示威と慰撫とを使い分けて漢に服属させる策をとった。ところが義渠安国が羌族の指導者30人と兵士1000人を 無駄に殺したので羌族は叛乱、匈奴と手を組んで侮れない大勢力となる。 前61年、匈奴の虚閭権渠単于が10万余の騎兵を率いて南方をふさぐいだがやってきた将軍が趙充国と知ると戦わずして兵を返した。 ようやくにして朝廷は羌人の脅威を認め、これを鎮定するのが急務とされた。宣帝は御史大夫邴吉を遣わして趙充国にに諮った。 『羌族平定の任務には誰を将軍とすべきか?』趙充国はおのれが高齢であることも連続作戦の辛苦も顧みず、 『老臣以上に適任なものは誰一人としておりません』と自薦した。宣帝はまたこうも問うた。『反乱平定にはどれほどの軍隊が必要であろうか?』 趙充国は答える。『百聞は一見にしかず。はるか遠くの軍情を推定するのは非常に難しいものです。私は迅速に金城に赴き、実地の地図を 描いたうえで作戦方案を決定し、その上で主上に上奏しようと思います』 前61年、現地入り。目の前の軍功を追い求めるものではなく、謀によって辺境の長期安寧を求める策を選んだ。叛乱の首魁である先零羌だけを攻撃し、 叛乱に随従させられた罕羌、幵羌ら諸羌の罪は不問とした。慰撫工作のみならず戦術的にも意を用い、常々斥候を放って遠く離れた場所を偵察させ、 行軍の際には下士官と同じように戦闘準備をし、宿営を張るときには自分で陣を張った。自らに勤労を課すことこと謹厳で、士卒を愛護し下士官をいたわった。 このようなので、彼が金城に到着するやたちまち士気は上がり、威望は遠くとどろいた。 634 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 20 48 21 ID cFdoig8J0 2/2 彼と一緒に対羌族戦を任されて出戦したもう一人の将軍、辛武賢はこの戦略に不満を持ち、速決速戦を唱えて出陣、宣帝もこれを許し、 趙充国に彼の部下として働くよう下命した。趙充国は辛武賢の策が危険であることを悟っていたので前後三回にわたって自らの計画を反復説明し、 同時に宣帝の問いにも明快な回答を返した。毎度書を奏し、宣帝はそれらすべてを公卿・大臣たちの間に諮り、議論を交わした。 趙充国を支持する大臣は最初全体の十分の三にすぎなかったが、後には過半数を数え、最終的には百人中八十人の大臣が趙充国の戦略に同意した。 詔書を得た趙充国は先零羌を攻撃、大勝をおさめた。漢軍は羌人が遺棄した馬、牛、羊10万余頭と四千輌の車を手に入れた。趙充国は罕羌、幵羌の 地に兵を進めた。漢軍は軍紀厳明、秋毫も犯さず、命令に背くものは斬ったので、罕羌、幵羌らは漢軍の威徳に感じ、戦わずして帰服した。 趙充国は奏書の中で屯田による十二の利点と戦における追撃がもたらす十二の危険を列挙し、そのうえで屯田策は軍費を省き労役を軽減し、 さらには人民から農業を奪うことなく、また武備を以って『戦わずして勝つ』方策であると強調、 一例としては騎兵を養うことの無駄を挙げ、 騎兵を解除すれば支出をどれほど節約できるかを説いた。彼の屯田策は実際に成果を上げ、 国庫は以前に比べて大いに潤った。 趙充国は屯田策をもって叛羌を威服せしめ、その短い任期において非常に大きな成功を収めた。前六十年時点で漢に降伏したもの三万一千二百人、 黄河あるいは湟水に溺れて死んだもの及び飢餓により餓死したもの五、六千人、斬首されたもの七千六百人、南山に盤踞する叛羌の残党四千人。 この年秋、羌族の若零、离留、且種、児庫らが叛首・先零羌の大豪族、犹非、楊玉らを殺し、残党四千余人を率いて帰順した。ここにいたって 羌族の叛乱は徹底解決を見た。 のち老齢をもって致仕するが、異民族問題が持ち上がるとそのつど召されて機密に参与した。前51年卒。享年86歳。謚は壮侯。 ・・・《漢書》趙充国列伝を自分なりに訳して削って書き込んだしろものなんで、間違ってるとこもあるかも。そのときはご容赦を。 635 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 20 50 52 ID cFdoig8J0 633 634 一応統一秦~前漢に入ったって事で書き込み。 2つに分けにゃならんとは思わんかった。 まぁ、項羽は俺が挙げんでも誰かが推薦するやろ、っちゅーわけでこの人。 636 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 20 54 12 ID izo+WHiD0 【名前】周亜夫(父) 【時代】前漢 【推薦理由】呉楚七国の乱の時、大尉であった周亜夫は将軍に任命された。 その際何度も反乱軍に攻撃を仕掛けるように景帝に命じたのにも関わらず、反乱軍じは勢い盛んであるが、大儀に背いているため、長くは持たないと見たと判断し、周亜夫は守りの戦略を貫いた。 果たしてそのうちに反乱軍は我慢しきれず、何度も戦いを挑んできたが、 それでも周亜夫が動かず、また奇計で虚を突く戦法をとっ手も、すべて周亜夫に見破られた。 反乱軍が最後に仕方なく撤退したが、この機に乗じて周亜夫は精鋭部隊を率いて追撃し、大勝利を納めた。 文帝は、あの男こそが、真の将軍たる人物だ。」 と、彼を褒め称え、死に際しては皇太子の劉啓(後の景帝)に向かって、 「もし大掛かりな戦争が起こったならば、周亜夫を軍の総帥にして事態を解決せよ。」 と遺言したと言われてるし、実際その通りになった。親の七光りにならないみごとな活躍振りを強く推薦したい。 637 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 21 13 00 ID KnZjDsvl0 途中で改行入れてくれ それとあまり長くても推薦としては却ってマイナスに なる気がする。適当に要点をまとめてくれ 638 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 21 18 49 ID cFdoig8J0 637 すまん。あれもこれも入れんとなぁ、とか思ってたらえらい長くなった。 あれでも相当削ったんだが。 次回から気をつけるんで今回は大目に見てくれると助かる。 639 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 21 19 14 ID 6W0hBuE60 やっぱ戦歴の点で厳しいなぁ>周亞夫 もし周亞夫を入れると、似たような王守仁も入れなきゃならなくなる 640 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 21 35 05 ID KM4omg4yO やっぱり周亜夫は一発屋のイメージが… 641 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 21 36 44 ID e54nKVPx0 623 でひとまず確定、次の時代へということでオケ? いちおう区切りとかは入れとこうぜ。あと次の議論時代の候補者リストとか。 642 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 21 40 17 ID cFdoig8J0 忘れてた。 統一秦~前漢 【確定組】 韓信 霍去病 衛青 灌嬰 【候補】 項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、 周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦 とりあえず周亜父と趙充国に一票ずつってことで。 643 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 21 43 46 ID KnZjDsvl0 比較のポイント 599から 打ち破った敵の強さ、勝利の数、切り開いた(守り抜いた)領土の大きさ、 などなど。 記載例 589 638 別に責めてる訳じゃない。 台詞的な部分は出来るだけカットすると書きやすくなりそうだね。 644 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 21 58 52 ID wbPilzaYO なんでスレわけないの? ここを本スレにして時代区分でわけてスレ立てたほうがいいってのが主流だと思ったんだけど あんまり長く待たせると議論したい人がスレから離れていってしまうよ 645 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 22 06 08 ID KnZjDsvl0 スレ分けの話は、統一秦~前漢の選考が本格化する前に 話し合って方が良いとは思うけど。 なんか、スルーされてるんだよね。 646 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 22 07 22 ID P7h0ddan0 644 今のレス数なら、スレ分けする必要もないんじゃないかな。 むしろ、細分化された各スレが共倒れになることを恐れる。 647 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 22 55 54 ID izo+WHiD0 639-640さんより戦歴が厳しい、一発屋との指摘があったので投下。 紀元前159年冬、匈奴の兵3万が上郡に侵入し、また別に3万が雲中郡に侵入した時、 文帝は軍の駐屯地に向かい、将兵の労をねぎらい、また視察した。 その際、劉礼、徐悍の陣は文帝一行を素通りさせたが、 周亜夫の陣は文帝が割り符を見せ周亜夫の許可があるまで 軍中に置いては皇帝の命令でも将軍の許可があるまで従うことが出来ないと拒否、 文帝一行を陣内に入れささなかった。 この視察を通して、文帝は劉礼、徐悍と比べ、軍令が非常に整っていることを評価し、 周亜夫が優秀な軍事的人材であるとことを認めた。 文帝、景帝の時代、何度も北方の匈奴の侵攻を撃退し、文帝から「真将軍」と賞賛され、景帝も周亜夫に丞相の位を授けた。 将軍としての胆力、冷静さは呉漢、岳飛と共に高く評価されています。 こんな感じでどうでしょうか? 周亜夫は決してだだの一発屋ではないですよ。 王守仁が入る入らないは別として王守仁を過小評価し過ぎでは? 648 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 23 08 31 ID e54nKVPx0 自分の知らない、詳しくない時代のことを説明されるのはそれだけで楽しいと 個人的には思っているので、このままでいいと思う。 変に細分化して衰退してもね。時代スレごとで選定基準が微妙に変化していく 可能性もあるし。 649 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 23 12 12 ID cFdoig8J0 煩雑を避けて簡潔にしてみた。 【名前】趙充国 【時代】前漢 【推薦理由】 武、昭、宣帝の三代に仕えた、西漢王朝随一の将軍にして政治家。 ひととなりは沈着にして勇猛。智謀あり、若い頃から将帥の品格と 態度を備え、好んで兵法を学んだ。 天漢2年、副将として匈奴討伐に全身に出征するが逆に囲まれる。 20の創を負いながら李広利を救った。 昭帝のとき武都の氐族を平定、西祈王を擒らえる。 大将軍霍光とともに宣帝を擁立、佐命の勲により営平侯とされる。 本始年間(前73-前70)、匈奴討伐に出征、 大勝して凱旋、ふたたび後将軍となる。 元康、神爵年間(前65-前58)にかけて、西漢王朝における 羌族対策の主要人物として活躍、「戦わずして降す」を根本にすえて 敵の首魁、先零羌のみを撃ち、罕羌、幵羌らは不問として投降させた。 屯田策を上奏、財政を潤沢とする12の方策を奉じる。 短い任期の間についに叛羌を感服せしめた。 前60年時点で漢に降伏したもの3万1200人、黄河或いは湟水に 飲まれて死んだもの五、六千人、斬首されたもの七千六百人、 南山に盤踞する叛羌の残党四千人。 この年秋、羌族の若零、离留、且種、児庫らが叛首・先零羌の 大豪族、犹非、楊玉らを殺し、残党四千余人を率いて帰順、 ここにいたって羌族の叛乱は徹底解決を見た。 老齢により致仕。引退しても国家が往年のように少数民族問題に 直面すると、常に請われて謀に参与した。前51年卒。享年86歳。謚は壮侯。 むやみに兵を動かさず、最小限の用兵で敵を威服させる才覚をもって推薦。 ・・・まぁ、一票は一票のままやけど。 650 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/23(火) 23 29 06 ID IJhFtqvx0 とりあえず援護ということで。簡単に紹介。 【名前】 趙充国 【時代】 前漢 【理由】 李広利の失策により城を包囲され窮地に陥ると、 100人余りの決死隊を率いて自らも負傷するが囲みを突破して道を開く。 その後も度々匈奴などを打ち破り武名をとどろかせ、趙充国が軍を率いている という報告を聞いただけで十万の大軍も進攻をやめて引き上げる程だった。 羌族の巡察をしていた安国の失策により反乱がおきると、70歳を過ぎている にもかかわらず戦地に赴き反乱を制圧した。 651 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/23(火) 23 44 30 ID IJhFtqvx0 とりあえず、項羽は確定で良いと思うのだけど、どうでしょう? 史記と漢書を再び読み返し中。復習に丁度いいなやっぱり。 652 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 23 51 31 ID 6W0hBuE60 647 その駐屯の逸話は文帝が誉めたってだけだし、その後一ヶ月先端を開かずにで匈奴6万は撤退してる 文帝を軍紀に従わせて歩かせたりする融通の利かない性格は後年、自身の失脚に起因するし(まあ、軍事とは関係ないけど) 呉楚七国の乱は相手が補給線を無視したり、無策に進軍したりしてしてアホなことしてるので、 周亜夫じゃなくても時間の差はあれ、制圧出来たと俺は思ってる 匈奴撃退の将軍は他の候補組も同じ連中が多いので周亜夫は厳しいと思う 653 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 00 06 13 ID iEZQ8Ei60 651 前々から主張してるひとりだが、俺も項羽は確定に同意 どうしていまのいままで候補に留まってるのか疑問なくらいだったし 654 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/24(水) 00 46 19 ID /Yk6FYOf0 メジャーどころには、かえって欠点がクローズアップされてしまう嫌いがあるためからかなぁ。 項羽の将としての武威は、相当なものなのに、戦略的に追い詰められていく過程でマイナス評価されてしまうという感じ? 知名度の低い武将やら将軍やらは、そのマイナスが目立たない、あるいは知られていない、というところか。 655 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/24(水) 00 54 06 ID nBfhw0zaO 項羽はまあ入れていいと思う 李広と李陵は有名だが活躍は個人的な武勇が主で、全軍は勿論一軍の勝利にもあまり繋がってないので外すべき あと、これは個人的感想だが田横や英布は名将と言うには小粒過ぎないかな 656 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 00 54 22 ID etJ/v/sxO 651 653 俺は逆に項羽がなんで名将なんだと思うけど・・・ パワーとカリスマだけで突っ走る猛将じゃないの? 章邯を降伏させたのは援軍が来なかった所為でもし援軍が来てたら、 勝敗はどうなってたかわからないと思うけど。 斉を攻略するもすぐに彭越に奪い返されてるし、 彭城奪還の際、漢の連合軍56万を3万で打ち破りってるけど、 相手は油断してたし、所詮烏合の衆だろ。 戦略能力は乏しいは、兵站を考えず戦線は延ばすし、人材を使いこなす能力にも欠けてる。 名将と呼ぶには無理があるんじゃないか? 657 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 03 44 45 ID o9ZmT7OGO 656 逆にあれだけインテリジェンスに欠けているくせに、 戦術レベルの優秀さ位である程度何とかなった事がスゴいと思うが (言い過ぎか?) 658 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 05 33 56 ID ok4go3fR0 657 同意 戦略を欠き、兵站を考えず人材を使いこなせずあそこまで勝ち続けたのが 逆に凄い 勝ち続けるのが名将なら項羽は名将でいいんじゃない? 659 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 06 51 18 ID YHZuWxr/0 このスレでの将の器量を測る基準は用兵の巧みさや戦術だからね。 戦略性は付加価値的なものと考えたほうがいいんじゃないの? 660 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 07 29 48 ID etJ/v/sxO 項羽に戦術力などあるか? ただ力で押し捲るだけなようなキガス。 章邯を打ち破りった時に背水の陣と同じこと (項羽の方が先だけどな)やったぐらいしか思い浮かばない・・・ 英布、呂布の大型版=項羽 661 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 07 49 42 ID Tw8nMV5M0 項羽は、傑出した個人的な武勇が、特異なまでに 戦術的勝利にという結果を出した希有な例でしょ。 実際、秦の命脈を絶ち、一時的にとはいえ中国の 覇権を握っている。 (と同然だろとの突っ込みもありそう) ただ、君主としては、その判断基準が理や利ではな く、情であったことが欠点で、最後には滅亡している。 個人的には、珍しい例ての名将で良いと思う。 662 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 08 05 06 ID eDoTlNQA0 項羽は名将だろう 最後はアレだが、あそこまで勝ち続けたのは凄い 項羽に反対してるのはひとりだけっぽいし 多数決ならもう確定でもいいのでは 663 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 08 50 10 ID 57khU75A0 IDで見る限り、反対してるのは3名以上いる模様だが。 このスレの定義だと、項羽が名将では無いということの 方がおかしい。 664 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/24(水) 08 57 15 ID nBfhw0zaO 秦末漢初の候補から、俺は劉邦を推す 秦末の混乱期に軍事的能力で頭角を表し、項羽と並んで楚懐王より秦攻略を命じられるまでになり、 相手の主力が項羽と戦っている隙だったとはいえ、調略なども駆使して秦本国を落としている 対楚戦では項羽を抑えながら別の軍が諸国を下すという戦略の一つの核として項羽と対峙を続け、 かなり危険な時も乗り切って抑え役を果たしている 敗走しても兵を韓信から吸収したりゲリラ活動をしつつ軍を再編成するなど、判断力や行動力は優れている 統一後も多くの戦いを親征して反乱鎮圧をこなしている 彭城や白登の大敗が印象的で、負けてばかりなどとも言われるが、それらを差し引いても充分過ぎる実績じゃないかと思う 665 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/24(水) 08 57 36 ID LOGOTXq10 戦略や君主としての判断能力は欠けていたとしても、 自ら率いて戦った戦闘はほとんどに勝利しています。 いくら烏合の衆だからといっても、そうそう3万程度の勢力で 50万以上の敵を打ち破るなんて芸当できませんよ。 歴史上、大軍を寡兵で打ち破った例は幾つかありますが、 ほとんど防衛戦であったはずです。それを自ら寡兵で臨んで 大軍を打ち破るという芸当はそうは無いと思われます。 これを一人の部将として考えたのなら、これほど心強いものは無いでしょう? 霍去病だって、兵は飢えてるのに自分は平気で豪華な料理を食べ 同僚の境遇を理解し同情しようともしない。 戦術には天才でも、お坊ちゃん武将です。 666 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/24(水) 09 36 21 ID /Yk6FYOf0 李存勗も、戦術の天才と言われているけど、君主としては落第もいいところ。 そうそう二物も三物も天は与えていない… 与えられているのは、劉秀とか李世民とかほんの一握りのひとだけ。 項羽は陣頭指揮によって、戦闘に勝利しまくっているから名将として評価して間違っていないと考える。 667 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/24(水) 09 53 52 ID IBmLhJRGO 鉅鹿の戦いにおいて秦軍の主力を打ち破ったのはもっと評価されていいと思うんだよね ただ戦略の面では劉邦(作戦立案したのは張良だけど)に結果的に負けてるのが大きなマイナスかな 668 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 11 54 59 ID iEZQ8Ei60 項羽の戦い方が力押しだけって、釣りかと思ってしまった 669 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 15 04 28 ID +jrQ2WIv0 668 急にマンガの話になっちゃった、みたいな?w 670 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 19 38 46 ID 9TSQzzaQ0 項羽を散々困らせ、得意のゲリラ戦で影から劉邦をサポートした彭越なんかどうでしようか? 彭越はたえず各地に出没し、漢の遊軍として楚軍を撹乱、撃破し、 梁では楚軍の後方の糧道を断ってますし、 それにより項羽は何度もあと一歩というところで撤退を余儀なくすることに。 671 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 20 24 46 ID bq+qml0Q0 項羽は確定入りでいいと思う。 もう何人も言っているが、あれだけ欠点・錯誤・失敗を大量に抱えて、それでも 局地戦の勝利で優勢を何年も保たせたという例は、戦史上滅多にお目にかかれる ものじゃあない。 「戦術でなく個人的武勇」という意見もあったが、逆に戦術を凌駕する個人的武勇 の凄みを感じるのみ。 君主としてリーダーとして落第というのも同意だが、このスレは名君列伝では ないしな。 664 劉邦はむしろ「リーダーに戦術能力は必ずしも必要とは限らない」の好例かと。 無能だとは思いません。英布討伐など劉備個人の将としての功績もあります。 それでも、時代を代表する将とするには格落ちの感は否めません。 672 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 21 27 00 ID iEZQ8Ei60 項羽は武勇ばかりじゃなく、それなりの戦術眼と用兵を心得て戦ってるでしょ。 個人の武勇だけで数倍や数十倍の戦力差を覆せるわけでもないし。 鉅鹿や彭城で顕著だけど、相手の急所を迅速に衝き、強襲をかけて突き崩すと 徹底的に戦果を拡大させて甚大な出血を強いる手法を採ってる。 不利な状況での短期決戦では特に秀でた用兵といってもいい。 どちらかというと武勇ばかりにモノをいわせているのは固陵の戦いとか最後の あがきでなんじゃないかな。 673 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 21 47 39 ID dBLowdhJ0 項羽は、なんとなく知的に感じないところが「名」将と思わせないんだろうか? たしかに屈指の将ではあるんだけど、名将と言われるといまいち納得できない部分がある・・・ 確定に入れることに異存はないですが。 674 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 22 19 08 ID Tw8nMV5M0 逆に項羽は、もの凄い天才で、彼は真に配下の求めることを 理解できず、配下は彼の考えを理解できずに、次第に部下を 失っていったのではないかと想像してみたり。 675 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 22 26 01 ID etJ/v/sxO 項羽が名将と言う意見が多数挙がっているので決定には意義はないけど。 俺が敢えて反対意見を述べたのは 項羽が候補止まりになっているのをなぜかと議論もせずに、 確定入りさせようとしてたからだぞ。 同じ確定させるにしてもみんなが納得する形で確定入りさせた方がいいだろ? 俺のこの意見って変か? 676 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/24(水) 22 29 40 ID /Yk6FYOf0 675 あれ? 逆に、「確定じゃなくて、なぜ候補なのか」、という話で確定要素を話していたんじゃないのかな? 前スレでは、その辺後回しにしたからなぁ。 おれはそれを辛口評価、メジャー叩きと評してはいたが… 677 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/24(水) 22 33 36 ID nBfhw0zaO 671 劉邦についてその意見には文句はないが、英布や彭越、田横あたりが劉邦より軍事面を総合的に見て上とは思わないので、劉邦が落ちるのであれば彼等も軒並み落ちるということだなあ 678 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 22 50 06 ID hB2A0C4P0 田横はともかく英布や彭越とは将としての能力は低いと思う>劉邦 679 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 23 10 22 ID 9TSQzzaQ0 英布はどちらかの陣営に引き込み入れれば有利ぐらいかな? 推薦した本人が言うのもなんですが彭越は項羽の行動を散々邪魔をしているよね。 それにより一局集中出来なかったのは事実では? 韓信の働きは桁外れな訳だし。 680 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 23 36 09 ID nBfhw0zaO 彭越はともかく英布がそれほど優れていたというのはピンとこないなあ いや、優秀だったとは思うが、ここで名将と言われるほどだろうか? 誰か俺に凄さを教えて欲しい 681 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/24(水) 23 48 06 ID NCWSj9l+0 名将というより猛将て感じだな 682 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 23 52 52 ID Tw8nMV5M0 英布 項梁の軍に加わり、秦を滅亡させるまでの戦いの間に 項羽から九江王に任じられる程の戦功を挙げた。 以下は戦功と関係ない部分で、秦軍数十万人を殺害 したり、一説によれば、項羽の命で、義帝を殺害したとい う。同時代の梟雄の一人 683 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 00 26 40 ID XAgmHUZR0 >項梁の軍に加わり、秦を滅亡させるまでの戦いの間に項羽から九江王に任じられる程の戦功を挙げた。 これだと、英布と同時に王に封じられた他の諸王と何が異なるのかがわからないよな。 例えば、魏豹は魏の二十余城を攻略。申陽は河南郡を平定。司馬卬は河内を平定。呉芮や 共敖もそれぞれの土地を平定し、また項羽に従って函谷関を攻撃している。 684 682 sage 2007/01/25(木) 00 43 56 ID dIy0ZUor0 他の諸王との差違は、 英布は、項羽と共に咸陽まで行軍し、 項羽の配下で唯一王に任じられている。 言うまでもないけど、項羽の論功表彰は、 自らの身を滅ぼすほどにおかしな基準で あったけど、その項羽が英布の武功は 認めていたということだよね。 まあ、それでも個人的には名将に推薦は したくない類の人だと思う。 685 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/25(木) 00 54 25 ID EHeoCAvqO 項羽が認めたのは英布の戦功(能力)というより、汚れ仕事を含め項羽の忠実な将として働いたことに対する報酬と言えないかな? 勿論、無能なら忠実でも使われないだろうが、名将に入れるほどの能力の証拠にはならないでしょう 686 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 01 08 39 ID XAgmHUZR0 684 魏豹や申陽も咸陽まで従軍してますよ。あと章邯、司馬欣、董翳の降服した秦の三将も。 項羽の配下という立場は、当時の彼らは変わりません。 こうしてみると、項羽によって王に立てられたものは、ほぼ全て項梁や項羽の楚軍に従う 以前に、一勢力のリーダーとして独行していた者といえる(劉邦も含めて)。 単純なエコヒイキという割には、最初から項氏集団に従っていた龍且、鐘離昧、季布という 連中は王にしていない。 まあ言いたいことは、英布は王になった前も後もそれほど優れた功績を挙げた形跡がない、 もしくは見当たらないということです。 687 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/25(木) 01 19 31 ID EHeoCAvqO 項羽による天下の切り分けは、ちゃんと目的と法則があったよ 旧六国の王族を復活させる一方で、その地に実力で割拠し項羽に従った有力者にも土地を与え、王族の末裔と分割統治させている (自分以外)巨大な勢力が生まれないようにする措置だったのだろう 後の漢王朝のように反乱を監視するシステムと速やかに乱を鎮圧できる圧倒的軍事力があれば問題ないだろうが、項羽にはそれだけの実力が無かったのであっというまに破綻した あの封建の問題点はえこひいきではなく項羽の自分に対する過大評価 688 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 09 03 24 ID gFjGI32XO 687 要するに項羽のグランドビジョンは時代遅れってこと。 いかにも楚人らしい発想だな。 でもな不公平人事と項一族をえこひいきしてたのは事実だろ? 689 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/25(木) 16 54 50 ID vK+RSSbVQ 項羽、彭越、章邯一票ずつ 章邯はやはり囚人ばかりの軍隊を駆使して勝ち続けたのは並大抵の将ではなかったと思うから 690 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 18 29 24 ID XAgmHUZR0 ではもう項羽は確定入りってことで 統一秦~前漢 【確定組】 項籍(羽) 韓信 霍去病 衛青 灌嬰 【候補】 周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、 周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦 個人的な推薦は章邯、周亜夫、趙充国、范明友、陳湯。 691 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 18 29 24 ID gFjGI32XO 俺も章邯、彭越に一票ずついれとくよ。 章邯は確かに囚人を見事に精鋭に仕立て上げ、周文、田臧、張賀、伍除ら陳勝率いる反乱軍を撃退してるし、 候補に挙がっている項梁をわざと油断させ、夜襲にて見事に撃退してるしな。 援護の要請さえ通っていれば項羽にすんなり降伏しなかっただろうし、 かなりハンデのある状態であれだけ見事な活躍をしたんだから凄いと思うぞ。 韓信には敗れているがそれはまあ仕方ないよな。 彭越も得意のゲリラ活動で項羽の思惑をたびたび打ち砕き、軍の命である兵籠を奪い、 漢軍にそれを提供、その為項羽は何度も劉邦を仕留め損なったんだよな。 彭越の活動も韓信と同様、漢王朝樹立に大きく貢献したんだし、 決して只のオヤジではないんじゃよな。 692 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 20 38 14 ID gZi5eZIz0 李広だけ候補にいて程不識がいないのはちょっと哀れ 693 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/25(木) 21 14 56 ID 4EZfoQMx0 この人の推薦者がまだいないようなので自分で書く。 【名前】陳湯 【時代】前漢 【推薦理由】 字は子公、書を好み学問に通達し、文章を作ることに巧みであった。 貧乏で貪欲、郷里では嫌われ者。 長安に行き、富平侯・張勃の推挙で官を得る。 西域に出たいと強く望み、甘延寿の副将として西域に出た。 建昭三年、甘延寿とともに再び出陣、知略をもって 1518人を斬り、145人を生け捕って郅支単于を斬ったが、 独断専行の行為があったとして自ら弾劾した。 元帝はその態度を潔しとして嘉したが、 陳湯に鹵獲物着服の罪があったため 恩賞が与えられることはなく、逆に罪に問われた。 宗正・劉向が弁護したので赦され、黄金百斤を賜り関内候とされる。 射声校尉となるが以前の鹵獲物着服の罪が蒸し返され、投獄された。 太中大夫の谷永の上奏により獄から出され、一兵卒に。 段会宗が烏孫の兵に包囲されたとき、 「援軍は不要、まもなく吉報が届くでしょう」と述べ、実際その通りになった。 従事中郎となり、以後軍事に関わることの一切が陳湯の意見で定められるようになる。 人から代価をもらって上奏文を作るアルバイトをし(その中には簒奪者・王莽もいた)、 また、虚言を奉って衆を惑わした罪が露見して、辺境に送られる。 しかし議郎の耿育が陳湯の無実を上奏し、 「深きをさぐり遠きをきわめて国威を掲げ、国家積年の恥をそそいだ」 功があるとして庇いだて、それにより許されて長安に還った。同地で没す。 没後、王莽が新を建てると、旧恩に報いるため破胡候の爵位を追贈した。 郅支単于を破った天才的用兵家ながら俗欲にもあふれる人間臭さをもって推薦。 【ついでに】 楼蘭王・安帰を斬って楼蘭を平定した傳介子 蘇武に随行して匈奴に拘留されたが、 ようやく故国に帰って後将軍・趙充国の後任となった常恵 しばしば西域に出陣して手柄を立て、 車帥を破り匈奴の日逐王を殺して初代西域都護となった鄭吉 らも候補にしてはどうやろ。 前漢には初期以外名将と呼ぶに足る将軍が少ないようなんで。 694 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/25(木) 21 31 28 ID 4EZfoQMx0 693 まちがい。前漢初期以外、というより漢楚争覇時代以降。 李広とか好きやけど当世10選に入るかっていえば難しそうやからね。 695 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 22 29 10 ID K4t365ol0 【名前】彭越 【時代】前漢 【推薦理由】秦末期の戦乱の中で大盗賊として活躍。劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げた。 劉邦が秦の首都・咸陽へ向けて進軍する途中で魏の領内にある昌邑を攻め、彭越はこれに協力して昌邑を攻め落とした。 劉邦が項羽と対立するようになった時、 彭越は梁で暴れ周り、都市をいくつも落とした。 斉王田栄が背き使者を送って彭越を将軍に任じ済陰より南下させ楚を撃たせた。 討伐に来た蕭公角率いる楚軍を彭越は大いに撃ち破った。 漢王の三年彭越は常にあちこちと任来し漢の遊軍となり楚を撃ち、 梁の地において楚軍の背後の糧道を断ち切った。 その為に項羽軍には食糧不足が続き、主敵であるはずの劉邦へ全戦力を向けることができず、 結果何度となく劉邦の窮地を救うことになった。 漢王の四年、漢王と項羽がケイヨウで対峙した際に彭越はスイ陽、外黄など十七城邑を攻め落とす。 漢王の五年、彭越はまたも昌邑一帯の20余城を降し、10余万斛の兵籠を入手、これを漢王に供給。 垓下の戦いに参戦楚を打ち破った。 確かに名将に関しては 694さんの言う通りだと思います。 それは国が動乱から平和へと推移していったので仕方ないことでしょうね。 696 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 23 13 33 ID RFioDuNA0 統一秦~前漢を謳っているんだったら、少なくとも蒙恬、李信、王賁あたりは入れてもいいんじゃねえ? 【名前】王賁 【時代】秦 【推薦理由】 魏、燕、斉攻略の総司令を務める 特に魏の大梁攻略戦では大規模な水攻めを行い、大梁を壊滅させて一気に魏を滅亡させている 国力差とかでケチつきそうだが、それでも軍事的功績では親父に匹敵していると言っても過言じゃない 【名前】蒙恬 【時代】秦 【推薦理由】 30万の大軍を率いて、匈奴からオルドスを奪回、万里の長城を建設させ、漠北の遊牧世界と 中華帝国との間に画期的な防衛線、境界線を築く(その是非はともかくとして) でも、本業は明らかに文官だよなあ(実家は軍人一家だが)、最初の頃は対楚戦で負けてるのが マイナスだな 【名前】李信 【時代】秦 【推薦理由】 上記2名とほぼ同じ、秦の統一事業に大きく貢献した点を評価して 対燕戦では、寡兵で燕軍を攻め、太子丹を捕虜にしている でも、この人の場合は、代々の子孫が有名だわな 功績が分散されがちだが、英布や田横あたりよりは上に来ても良いと思う 697 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 02 30 10 ID 6O3G8+lJ0 696 時代の区切り的に秦の統一後にほとんど事績がない王賁と李信は対象外では? もし実績ご存知でしたらご教示ください あと王賁の実績は優秀だけど親父が前時代で確定してるからやや押しが弱い・・・ 李信は対楚戦での失態が蒙恬以上にマイナスなので苦しい 698 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 03 21 32 ID DEgs2M5bO 蒙恬も30万の大軍を率いて、匈奴からオルドスを奪回、万里の長城を建設させた、 斉の討伐と匈奴の押さえ役ぐらいしか功績が思い浮かばないけどな。 凄いと言えば凄いけど・・・ 699 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/26(金) 12 50 22 ID 2qZgLV6hO 流れが止まってきたしもうこの時代は 韓信 衛青 霍去病 灌嬰 蒙恬 項羽 周亜夫 李広 陳湯 趙充国 の十人で確定ってことにして、次の後漢の選定に入らないか? 700 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 14 16 46 ID Le3dm7lhO 699 蒙恬と李広に異議あり 劉邦にチェンジ汁 701 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/26(金) 14 26 01 ID mgfN0Wf2Q 俺もその二人チェンジ 章邯と彭越推し 702 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 14 30 32 ID 8IXy9T0C0 周亜夫も異議ありな人いるし 章邯推してる人結構いるし 703 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 15 47 41 ID UJQm6mqR0 李信はヘタレだからいらね 704 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 16 24 08 ID DEgs2M5bO 701-702に同意 統一後の蒙恬の功績は匈奴からオルドスを奪回、万里の長城を建設させたぐらいだし、 李広、范明友、陳湯ら匈奴討伐、遠征組は趙充国に比べるとかなり見劣りな感じがする。 705 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 17 07 26 ID nvlFKfQt0 名将の定義。 1敵にしたくない。 2上司にしたい。 3部下にしたい。 「一発屋である=実力が疑問」というのはおかしい。 大事なのは政権の首脳が司令官に与えた軍隊への政治的要求を、どの程度達成させたかということ。 周亜夫を外して迷子や単なる騎兵隊長を入れるのは理解不能。 706 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 17 12 12 ID ZzSFPnm10 項羽が確定に入る前は、灌嬰も項羽と比較してどうかと いう話があったな。 この時代は傑出した存在はいるけど、その数が少ないよう な気がする。 707 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 17 33 51 ID 8IXy9T0C0 705 一発屋である事じゃなくて 斃した相手が無能であることが外される理由になってるようだが? 708 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/26(金) 17 38 54 ID lsVncBUw0 704 <李広、范明友、陳湯ら匈奴討伐、遠征組は趙充国に比べるとかなり見劣りな感じがする。 に対して陳湯を弁護。 陳湯は郅支単于を斬っただけと違って段会宗が自ら囲みを解いて勝利することを予見、 先見の明によって元帝期の軍事行動の全権を任されるに到ったわけやし、 それで(軍事的には)ヘマこいたこともない。 単純に現場で戦った李広・范明友ほかとは戦略眼のレベルで格が違う。 やや見劣りするとはいえ趙充国にそれほど水をあけられてるとは思わんのやが、どうか? まぁ巨星・傑物といえるかどうかで言うとそれは無理やなと思うが、 705の提唱する名将の条件のうち 敵にしたくない 部下にしたい は満たしてると思う。上司にこんな奴おったらたまらんけど。 709 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 17 49 01 ID vd7E7OfFO 705 その条件、2と3は曖昧な条件すぎないか? 上司は有能すぎる部下を嫌うし、部下は厳しすぎる上司を嫌うものだけど、これは名将の条件と一部重なる 処世術や人心掌握術なんかで回避できるけどそれは+αの部分でもあると思うし 710 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 18 09 57 ID DEgs2M5bO 708 陳湯をそこまで弁護するなら俺はこれ以上は反対せえへんよ。 ちょっと厳しすぎたか堪忍してやw ちなみに章邯、彭越の評価はどないですか? 711 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/26(金) 18 24 08 ID lsVncBUw0 710章邯、彭越の評価(ただしあくまで個人的意見ね) 章邯はもし援軍が速攻でやってきたら項羽に勝ってしまったかも知れん将才の持ち主だけに 個人的には高評価。まぁ降伏せずに最後まで戦って散ったらもっとかっこよかったんやけど。 彭越はみんなが言うとおりゲリラ戦の天才やないかと。とにかく項羽の後方をかきまわして 全力を振るえんようにチクチク刺すやり口はやり手のイジメ(?)に匹敵する。 城もかなりの数落としとるし、明らかに英布より上やと思う。 終わりを全うすればなお良しやったんやけど、まぁ功臣粛清は多かれ少なかれどの王朝でもあるけんね。 ちゅーわけで、蒙恬、李広よりこの二人のほうが十選にはふさわしいかと。李広は個人的には好きなんやが。 712 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 18 31 36 ID gmMOfOjTO このスレは定期的に俺ルールが発動するなぁ 713 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/26(金) 19 13 19 ID mgfN0Wf2Q 彭越は確定でいいと思うんだが 714 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 19 20 44 ID 0jIemonB0 ・上司にしたい が名将の条件ならカクキョヘイは落選だね。 715 696 sage 2007/01/26(金) 19 39 55 ID LY1QBMf80 697 いや、王賁らが斉を滅ぼして秦の天下統一が成ったわけだから、統一秦最大の軍事的功労者に なるんじゃないの 696の三名は 開国の功臣が入らないのは、おかしくねえ? (統一後の軍事行動が伴わないという理由で却下されたら、王朝初期の将軍が落ちるぞ) 少なくとも、王賁の戦績は韓信や項羽に劣るとは言え、周亜夫あたりには匹敵するものだと思うけどね しかし、周亜夫を外そうとする理由もよく分からんな 相手が自滅とか平気で言ってるようだけど(前スレあたりの話だが) 実際の戦場では相手の内部情報や具体的な敵情を判断する方法はほとんどないよ (間者や斥候といった「目」「耳」を出しても、敵情の全容を解明するのは困難だもの) それを的確に状況判断して、最良の行動を選択した点でかなりの名将だと思うんだが 一発屋を擁護させてもらえれば、彼らのような人物さえあらわれない時代においては 靖康の変みたいな状況や、あるいは永楽帝による簒奪が平気で行われてしまうんだろうけど それでも、彼らを評価できないのかなあ 716 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/26(金) 19 52 43 ID ofrlpcLH0 一発で終わらせた、という評価もできる場合があると思う。 717 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 19 54 04 ID BDe4c61U0 この時代の候補者で一発屋って誰のこと? 一発屋であることを理由に候補から外そうとしてる住人 いるかい? 718 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 20 00 29 ID DEgs2M5bO 717 周亜夫は一発屋なんだって 理由は相手がヘタレだからだってさ・・・orz 719 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 20 03 47 ID BDe4c61U0 周亜夫の一発屋は 640のイメージ発言くらいじゃないか。 イメージを覆すだけの戦功を挙げればよいではないっすか。 720 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 20 14 58 ID BDe4c61U0 連投スマン 匈奴相手の戦功は評価が低いようだが、騎馬民族相手に 農耕民族が平原や草原などの、騎馬民族の得意とする地 形で勝利を挙げるというのは、割と凄いことですよ。 721 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 20 37 19 ID nvlFKfQt0 上司にも部下にも出来ないなら敵にするしかない。 その意味で去病は最悪。対遊牧民族で活躍出来るのは並みの指揮官より一段上のように思う。 また、出自の劣等感からか部下にも上司にも人気が無かったようだが、 個人的に衛青は1~3のすべてを満たしている。 722 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 20 38 10 ID gmMOfOjTO 他の連中も対匈奴戦のエキスパートという意見も出てる 周亜夫に否定的なのは一発屋だからじゃなくて そういう諸々の理由でしょ? なんか被害妄想じゃね? 723 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 03 21 ID nvlFKfQt0 白頭山の戦い以来続く外患「匈奴問題」は武帝期に衛霍の二人が活躍してある程度納得し得る状況を作った。 一方、呉楚七国の乱はやはり高祖の時代から続く内憂「諸侯王問題」が解決された重要な戦争。 劉氏に政権をくれてやったのが韓信なら、それを磐石にしたのは周亜夫。 724 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/26(金) 21 07 53 ID Le3dm7lhO 秦を占領し漢の基礎を築いた→劉邦 各国を討ち漢を統一に導いた→韓信 反乱諸侯を討ち漢を安定した統一政権に脱皮させた→周亜夫 最強の外敵を討った→衛青・霍去病 725 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 14 14 ID 8IXy9T0C0 それは歴史的な重要度であって武将としてどーのって話ではなかろう 726 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 14 25 ID LY1QBMf80 719-720 うーん、李広利のような「圧倒的国力差」でゴリ押しして西域遠征を成功させるという力技が 存在するからなあ、というのは冗談 国力的には、河西回廊を漢が獲得した時点で、もう匈奴側の劣勢確定でしょ そういう意味で、以降の対匈奴戦争は意味合いがかなり異なってくるものだと思っているんだが 漢を圧倒する巨大帝国の座から転落し始めた匈奴を漠北へ駆逐する戦争 残念ながら、その程度なら李牧や蒙恬、古くは武霊王が達成しているわけだし (逆に言うと、衛青、霍去病の化け物っぷりが際立つわけだが 彼らと同じレベルは、唐初の対突厥戦争か徐達の北伐ぐらいになるから) 727 719 sage 2007/01/26(金) 21 31 56 ID BDe4c61U0 726 720は、周亜夫に対する援護の意図ではない。 李広、范明友、陳湯あたりの匈奴討伐組の評価が低い感じが 見受けられるので、書いているだけ。 728 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 42 10 ID +/G783Mb0 まあ確かに国力の(彼我の)差があるという点もあるが、李広と衛青・霍去病とでは やはり差が生じるよなあ。蒙恬は軍事的功績というよりは官僚としての働きが大きい ような。 715 統一の功績を称えるのなら、どう考えても王翦は越えられないでしょ。 729 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 45 42 ID nY/2bV910 【名前】鄭吉 【時代】前漢 【推薦理由】車師を破って西域南道を征服し、匈奴の日逐王を降伏させた。 後に西域北道を征服し、初代西域都護に任命された。 730 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 48 56 ID h7FRmgbv0 715 統一の功績だと春秋戦国に回されるんじゃないの? 731 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 54 33 ID 2qZgLV6hO 729 鄭吉は初めて西域都護に任ぜられたって事で結構有名だけど あんまり具体的な事跡がよく分かんないんだよね 732 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 57 48 ID nY/2bV910 731 漢書の原文を読んで書いたんだが、 功績はこれだけしか載ってなかった。 伝もめちゃくちゃ短かった。 実績不足かなあ? 733 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 59 54 ID Le3dm7lhO 基本的に西域は軍事的には貧弱だかんね 大変なのは遠いこと 734 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 22 02 11 ID FY0Hkwmx0 730に同意。自分もそう思います。 あと劉邦を推してる人がいますが劉邦は大して勝った試しがないのでは? 意地の悪い言い方をすれば逃げ上手なだけでは? 秦攻略は張良の策略に因るものが殆どで劉邦はそれに従っただけでは? (採用するしないの判断力も将才には入りますが) 漢統一後の謀反は地方の反乱に過ぎないから 大した功績ではないという意見が以前に出てますし。 735 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 22 05 14 ID 2qZgLV6hO 732 自分も昔、初代西域都護はどんな凄い奴なんだろうと漢書を調べてみたら あまりにも素っ気ない記述で驚いたことある さすがに百選にいれるのは厳しいかもね 736 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 22 14 05 ID BDe4c61U0 東トルキスタンの地域って、漢・唐(これはごく短い期間)・清代の 3度しか中国の支配下に置かれてないよな。 これって凄いことじゃないのか。 737 715 sage 2007/01/26(金) 22 14 26 ID LY1QBMf80 730 実はスレ区分上、紀元前221年が両方にまたがっていたりする 「統一」秦の解釈次第だな 統一秦~前漢に加えれば、まず章邯と蒙恬より確実に上に来る将軍だ 章邯は隋の張須陀と被ってるな、二人揃って候補どまりは不憫すぎる どっちか入れてやりてえが 韓信 衛青 霍去病 灌嬰 項羽 周亜夫 陳湯 趙充国 個人的には、これに王賁と章邯で十傑、多分無理だろう 738 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 22 31 41 ID Le3dm7lhO 734 俺は劉邦を推している 一度でも敗走したら名将と呼べないというなら別だが、 劉邦は敖倉を巡って項羽と対峙し続け、命さえ危険になるギリギリまで粘っている 打ち破られてもゲリラ的行動や速やかな再編成で戦場に戻り、相手が項羽でなければ楚軍(曹咎など)を圧倒している また、負け続けといっても劉邦は中原への進出を食い止められているだけであり、項羽は劉邦の侵攻があるからこそ韓信に手が回らなかったのだから、劉邦自身が項羽にとってかなり脅威だったのは間違いない 項羽の方が上というのは分かるが、負けているからといって能力が無いとは限らない また沛公から頭角を表し秦を征服するまでの実績は否定しようがないと思うのだが 張良の策、レキ食其の策…とか言い出したらキリがないよ 実質的に決定権が劉邦にあったのなら、劉邦の功績でしょう 晩年の反乱鎮圧は確かに国力の差もあるだろうが、長期化させることなく平定した手腕は認めてもいいんじゃないか? 結局、劉邦より明らかに軍事的功績のある人物がいないんだよ 敢えて言うなら韓信と項羽だけ 739 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 22 33 08 ID +/G783Mb0 737 王賁でも李信でも、統一後にもなにか目覚しい功績があるのならいいんですけどね。 少なくとも、 696で出たのは統一前の功績のみ。だったら統一前の人物として、比較 の対象は王翦や白起になります。この二人もしくは他の春秋戦国の確定組の名将達 と比べて差し替えられるほどの功績・将才があったと言えますか? 740 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 23 23 10 ID LY1QBMf80 739 やっぱ、そういう認識になるわな 魏・燕・斉を攻略した彼の軍事手腕、まさしく韓信がそれに趙・西楚覇王撃破加えた戦績を残すまで 春秋戦国期においては、親父王翦に次ぐ領土獲得者と言って何ら問題がないものだ まあ、春秋戦国を再度議論するときに推薦することにするわ 741 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 00 13 12 ID gQuqZoXN0 738 一度でも敗走したらって劉邦は何度敗走してるんだよ 負けの多さにもかかわらず命を落とさなかった点はある意味凄いけど 秦を征服するまでに章邯に破られてるし 裏切った雍歯から豊邑を攻め取れなかった 細かいところを見ていけば城邑を攻め取れなかったり敵に敗れてから 兵を集めなおして再度攻撃ってのを何度も繰り返している それはそれで戦略としてはいいけど、秦が一度負けると瓦解して元に戻せない状態になっているから 効果があったわけで対等の条件ではないし 兵を率いた時の能力を考えれば名将とは思わない 数々の名臣の作戦戦略戦術を一まとめにして全て劉邦の功にするという やり方は乱暴すぎて、もしそれが通るなら一々何も語る気にはならんな 742 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 00 21 14 ID UBYThCFT0 劉邦ねえ・・・ 名将というイメージはないが、 確かに同時代の連中の中では戦に勝ってるんだよなあ。 743 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 00 53 46 ID Da4NyyxXO 471 >数々の名臣の作戦戦略戦術を一まとめにして全て劉邦の功にするというやり方 については誤解と言っておく 言葉が足りない俺が悪かったが 献策した臣下や派遣された将の功績を全て主に帰するつもりはないよ ただ、韓信のように独立して行動していたのは別にして、献策を取捨選択したり使う将を選んだりした主を無視は出来ないと言ってる 具体的には劉邦が秦を落とす時の策は、張良やレキ食其にとっての功績であると同時に実行して結果を出した劉邦にとっても立派な功績であり能力の証だということ 744 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 00 54 11 ID 9W+iq81y0 劉邦の用兵力を考えれば、名将の水準に達してないだろ。 745 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/27(土) 00 55 44 ID Da4NyyxXO 741だった 746 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 01 03 56 ID JF915E0B0 743 でもそれって、用兵の才、劉邦個人の将才じゃあないよね。 部下の意見を聞いた、という点については函谷関の閉鎖など明らかな失敗もある。 これは個人的なイメージにすぎないのだが、劉邦は「AかBか?」でAの方が優れている と思うからこちらを採用という決断を下したというよりは、「Aが優れていると思われる のでこちらを採用すべきです」と言われて「じゃあそうしよう」と決断したように思える。 あくまで、私個人がそういう印象を抱いているというだけですが。 747 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 01 12 50 ID BEI74e6z0 「時代区分ごとに”必ず”10人選ばなければならない」 という前提に問題がある。 高祖の単独の指揮で↓の連中と勝負になるか? 韓信、衛青、霍去病、項羽、周亜夫、陳湯、趙充国 ならない。よって失格。 決して「名将じゃない」とは思わない。 けど兵法を極めてるタイプでもないので除外するのが妥当だと思う。 あと灌嬰は猛者だとは思うが名将としては微妙。。。 関張とか秦尉遅のような系統は除外したほうがスッキリする。 項羽だけがその系統でも規格外なのでケチはつけない。 748 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 01 44 33 ID eKQFGk/O0 747 灌嬰は文句無く名将でしょう。 灌嬰の戦績は凄いんだし、決して只の猛者ではない。 749 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 01 50 49 ID eKQFGk/O0 連投スマン 彭越についての推薦文 史記には魏豹と共に卑しい身分の出身であったが千里の地を席巻し南面し、 弧と称し敵を殺し勝に乗じて名声は日ごと高まったとある。 韓信にやや劣るものの漢に対する貢献度では負けてはいないはず。 後方での撹乱行動は項羽にとってイジメどころか寧ろ嫌がらせに近いと思うな。 750 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/27(土) 05 13 22 ID davQkqlCQ てか彭越が入らないのおかしい 後戦国時代に活躍した武将は入れるべきじゃないと思う