約 1,644,395 件
https://w.atwiki.jp/naveehna/
万田酵素で自分でも気づかないうちにダイエット! 親元を離れ一人で生活するようになってから、 はっきりと食生活が悪くなっているのを自覚していました。 自分で作るのもあまりできなくて‥と言うより、手間がかかるので、 サプリメントを摂ってみようと思い立ちました。 種類は本当に多く、選択に困りましたが、万田酵素にしてみようと思ったのは、 53種類の原材料が含まれている、ということが魅力だったからです。 ありとあらゆる栄養素がぎゅーーっと凝縮されている理由は、 穀類、海藻類、果実や根菜などを発酵させているからです。 いつも口にする食事では、私の場合バランス的にみて栄養はとても悪いので、 本当に私にはぴったりのサプリメントでした。 実際に普段の食事では、栄養バランスは最悪なので、 私にとってはかなりありがたいサプリメントです。 自分に合うかどうかわからないので、試供品セットをオーダーしました。 何日かは身体の変化はこれといって感じませんでした。 しかし、セットを飲み終わると、朝起きる時に爽快なことに気づき、びっくりしました。 目覚めバチッ!とまではいきませんが、起きるのが辛くなかったのです。 いつも朝はぎりぎりまでベッドの中でしたので、これはぜひ継続したい! と思って、ただちに買うことにしました。 ビタミンやミネラルやアミノ酸が凝縮されて含有されている万田酵素では 不足した栄養素を確実に摂ることができます。 毎日きちんと自炊されている人でも、実際には本当にバランスのとれた 食事は作れているとは限りません。 嫌いなものが多かったり、偏食ぎみであったり、少ししか食べられない人も、 万田酵素であれば、気軽に不足を補うことが出来ます。 毎日の飲用で、腸の内側の環境が良くなってきたのでしょうか。長年悩みだった 便秘症状もなくなりました。 一ヵ月後、気づかないうちに1.5kg体重が減少していたことが いちばん嬉しかったです。 代謝がよくなったのも、万田酵素によるものです。 自分でも気づかないうちに、ダイエットにもなっていました! 万田酵素のおかげで、代謝も良くなったみたいです。 知らない間にダイエットまでできちゃいました! 万田酵素の口コミと評判
https://w.atwiki.jp/southerncross/pages/16.html
WI-FI対戦や、チーム交流戦で嫌われる行為や、禁止されている行為を紹介します。 禁止されている行為 対戦中のリセット・・・自分に三敗がつきます。ですが、相手にも迷惑ですので、必ずやってはいけないことです。 改造ツールの使用・・・当然ながら、改造ツールを使用すれば、強くはなりますが、相手にしてみれば面白くないでしょう。 相手に迷惑がかかる、相手を不快にするような行為は、絶対に止めましょう。 嫌われるカスタマイズ 以下は、バランスがよくない、また、相手を不快にする装備などです。 使用するのは自己責任です。嫌われても責任は自分にあります。 自粛少数(もはや、気にしなくてもかまわない部類) ☆ロボ シャイニングファイター+グランダー バーニングビースト+グランダー 単純に着地の隙が消せるほか、走り始めのスピードも早くなる。 リトル+アクロバット系 自爆→ダウン→オーバーロード→特攻をかける これはかなり嫌われる(もしかしたら完全自粛の部類に入るかも) 多段ジャンプ型 他のロボに比べて、空中能力が高い。(ハイジャンプをつければ、れっきとした自粛部類) ☆ガン フェニックス(リトル以外) 相性差が激しい グラビティ 相性差が大きめ サンダーボルト 制圧力が強く、遠距離から撒く作業を強いりがち メテオフォール なれればたいしたことないが、同タイプのガンの上位になりやすい マグナム 確定距離の広さから、相手に作業を強いりがち Vレーザー・スナイパー・スコーピオン 優秀 ☆ボム なし ☆ポッド ウェーブ 制圧力の高さから、相手に作業を強いりがち サテライト・サテライトH 対地・対空と設置系最強のポッド ☆戦法 ずっと同じカスタマイズ 飽きる、せめてジオラマは変えよう 自粛多数(使用可能の場合も) ☆ロボ エアリアルビューティー+ハイジャンプ ファッティバイス+ハイジャンプ 高空中から一方的な攻撃が可能 ☆ガン グライダー 追尾力高、威力高と優れている 3ウェイ 高範囲・高連射・追尾高・高威力 フェニックス+リトル 相性差が更に激しい グラビティ+リトルorビーストorヒヨコ 楽々大ダメージ(開戦500ダメージオーバー) ☆ボム スマッシュ+リトル 地上の相手にも当たる上、壁越しボムが大いに強力 ☆ポッド 無し ☆戦法 スカイヤーでの逃げ撃ち戦法の多用 相手側も作業を強いられがち 一部ロボのアタック連打での移動 コメット・レイ01で行なうと、相手は逃げるしかなくなる場合も 完全自粛 ☆ロボ エアリアルビューティー+アクロバットボム ファッティバイス+アクロバットボム 駆け引きするまでもなく恐ろしく強い ☆ガン ニードル 高連射で、なおかつ判定・弾速・ダウン力高 スターダスト 威力、範囲友に高 ☆ボム アクロバット+アクセルガン WI-FIラグを利用した連射 アイドリングD 広範囲・高持続・高連射・高威力 ☆ポッド アンブレラ 高威力・広範囲・対地対空両用 重要 一般的に厨装備とは、相手に使われて面白くない物、また、使い手が弱くても実力をカバーできる物である。 自分が対応できない物を「これは厨だ!厨装備だ!」と言う方もいるかもしれないが、これは大抵は練習不足である。 また、そもそも厨装備という考え方を考え自体を批判する声もある。 そもそも、このゲームはカスタマイズを楽しむものなのに、その楽しみが制限されるわけである。 これらのパーツは、人によっては気分を害する人もいるため、使用すると嫌われやすい。 しかしながら、使う側にも色々理由がある。
https://w.atwiki.jp/situboufujikkou/pages/137.html
ニートをバカにしたり批判したりするのは何故だ? 大物Youtuber速報 8. syamu_game2024年02月22日 05 08 60 56自分で考えろ 69 65考えろそして考えたことを実行してみろ 何も解説したり反論できないが偉そうにしたいやつの常套句きちゃったね あーあ、黙ってれば醜態さらさずに済んだのにね こんなセリフが令和の時代にまだ通用すると思ってる可哀そうなオジサマ
https://w.atwiki.jp/kt108stars/pages/6203.html
185 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/09/12(月) 07 29 12.65 ID ??? 昔のNOVAで演神(職業ごとの人格カードが用意されており、カードに応じてその職業になりきれるようなサイバーウェア)を 入れて、不慣れなジャンルでのサポートをGMに依頼したら自分で考えろといわれたなー キャラメイク時点で、サポートなしじゃ提示されたハンドアウトはどれも微妙に困るぞ、 と事前に宣言しといたのでプレイ中は他PLがサポートしてくれて問題はなかったが。 GMが終始不機嫌だったのはかんべんしろと思った。 263 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2011/09/12(月) 22 01 47.44 ID ??? 185 やぁお友達、災難だったな でもこの手の思考パターンでプレイしている奴は案外多いんだぜ PCは参加者のバランスよりも自分の趣味重視、同経験点でも組み方によって圧倒的な性能差、 背負った設定の為PCに撤退や逃走の選択肢なし、敵データの詳細は戦闘開始するまで不明 こんな環境で遊んでたら誰だって“PCが敵に勝てるのは当たり前”って考え方に染まってしまうさ 賢い奴は遊ぶシステムによって思考パターンを差し替えられるんだけど ずっと同じ鳥取で似たような傾向のシステムばっかりで遊んでると、TRPGが全てそうだと思いこんじまう スレ283
https://w.atwiki.jp/hyon/pages/113.html
110 名前: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日: 2006/08/25(金) 12 35 07.47 ID F4VRnbs00 「Zzz…………うーん……」 「お目覚めかな?」 「あれ、先生……私、どうしたん、っ私!?」 「ああ、驚いたろうが問題ない。自分や他人の名称に対する認識を、ちょっと書き換えさせてもらっただけだ」 「な、何で……?」 「なに、その姿で一人称が俺というのは、いささか問題ある気がしてね」 「その姿って……おわっ、胸が大きい!?ってことは下も……無い!?」 「ふむ、その他の言葉遣いはおいおい改めてもらうとしよう」 「何でこんなっ……むぐ……(キスされた!?)」 「……君の治療の副作用さ。なにが起こるかわからないといったろう」 「……っ、はぁ、はぁ、だからって……」 「さて、報酬は何でもすると言ってくれたな。さっそくしてもらおう」 「何を……」 「簡単な仕事だ。君が欲しい」 「っ、やめっ!?そ (省略されました。続きを読みたい方は、ご自分で続編をお書きください) 113 名前: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 投稿日: 2006/08/25(金) 13 01 54.51 ID yrVnwS/k0 「簡単な仕事だ。君が欲しい」 「っ、やめっ!?そっ、そこは・・・!」 淡々と、変わり果てた私の体を丹念に愛撫する。 そのタッチはいやらしく、それでいて優しい。 「!!・・・ふぁ・・・そこは・・・らめなんだからっ・・・」 「ふむ。感度は良好のようだな」 男の手が私の秘所に届く。 新品のように綺麗な女壷を男の指がかき回す。 女性を数多く手玉にしてきた男の所為だろうか、 はては女性に変わってしまった副作用で感度が過剰に高ぶっているのか、 私は抗う心とは裏腹に、体は敏感に反応してしまった。 これが女性の快感・・・ ジワジワと押し寄せてくる快感の波。 「ひどく淫らな濡れようだ。逆らうつもりは無いのか?」 「へ、変なこと、いうなぁ・・・!・・・ふぁ・・・・ひゃあ!」 「その割には体がビクついているな」 「そっそれは・・・あっ・・・そこはダ (省略されました。続きを読みたい方は、ご自分で続編をお書きください)
https://w.atwiki.jp/blgblg01/pages/20.html
私が以前在宅ワークでお世話になっていた会社で、ワーカーさんの担当をしていた 方がとっても良心的な人でパソコンでの仕事を始めたばかりの初心者の私にもわからないところを丁寧にわかりやすく、終業時間外でもこっそり個人アドレスを教えてくれて助言してくれたりしていたんですよね。 初心者の私にはすごく心強く安心して仕事が出来たし、その人のおかげですごく成長出来たんです。 でもそれからしばらくしてその人、退職しちゃったんです。 退職するので担当が変わりますという挨拶のメールが届いてすぐに辞められました。 結婚でもされたのかな?とか思っていたのですがそれから徐々に案件が減ってきて結局その会社に見切りをつけて他の会社を探していたところ…なんとその辞めた人の名前をある在宅ワーク関連の求人サイトで発見!! 在宅ワーカーを募集していたのですぐに応募してみました。 もちろんビジネス ですからいくら前の会社でやり取りしていたとしてもしっかりとその会社のトライアルを受け、また一緒に仕事をすることが出来ました。 副業 として働いていた会社を退職し、自分で起業したのだそうです。そしてビックリしたのが以前の会社で案件が減っていったと思っていた今まであった案件が全てその人の会社に流れてました…。 どういう理由でクライアントの人が発注先を変えたのか…価格?人間性? その辺はわかりませんがやっぱりしっかりした人なんだな…って思ってしまいました。 私は本職が忙しくなりその後その会社も辞めたので今どうしているのかはわかりませんが…。
https://w.atwiki.jp/mhfyj/pages/497.html
「シーズン3.0 “変幻、アクラ・ヴァシム”」より可能になった機能 求人区では、「募集文」より「自分で入力する」を選択することで、 全角12文字・半角24文字以内で、自由に「募集文」を入力することができる。 使用例 「双3笛1」 双剣3人笛1人 「火事場」 要スキル火事場力+2 「運○」/「運×」 運気スキル許可/不許可 「ガチ」/「ハメ」 相応の装備によるガチ戦闘/相応の装備と戦術によるハメ戦闘
https://w.atwiki.jp/83452/pages/13378.html
憂が高校に上がってしばらくして、変な病気にかかってしまいました。 正確には病気かどうか、実はよくわかっていません。お医者さんには行ってないので。 でも、微小であるとは言え、こうして生活に支障があって、本人が困っているのだから、これは多分病気と言っていいのではないかと思います。 病名は不明。インターネットで検索してみましたが、同じような症状は見つかりませんでした。 お医者さんに行こう、と、何度か言ってみましたが、憂は恥ずかしがって決して首を縦には振りません。 まぁ、気持ちは分かります。私が憂の立場だったら、きっと同じようなリアクションをしたでしょうから… 普段の生活には、ほとんど支障はありません。ご飯だって前と同じ物が食べられるし、運動だって全く問題ありません。 ただ、月に2、3回くらい、こんな風に発作のように症状が現れるだけです。 その発作だって、ある意味、たいした事はありません。こうして私が「処理」してあげれば良いだけなのですから。 憂「お姉ちゃん…はぁ…お姉ちゃぁん…」 憂の声で目が覚めました。私の肩を揺すりながら、火照った体を押し付けながら…はぁはぁと、熱っぽい吐息を漏らしながら。憂が私を呼んでいます。 唯「憂…始まっちゃったの?」 眠い目をこすりながら時計を見ると、午前1時。正直なところ、眠いです。眠くてしょうがないです。 でも、憂を放っておく事はできません。今起きて、私が「して」あげないと、きっと朝まで、憂はずっと一人で苦しむ事になるのですから。 憂「お姉ちゃん…ごめんね…ごめんね…こんな遅くに…ううっ…」 唯「憂、いいからね?ほら、おいで?」 布団をめくって、憂を招き入れます。ベッドから体を半分ずらし、憂が横になるスペースを作って、枕は半分こにします。 シングルベッドなので、向かい合って抱き合うようにすると、ちょうどいい案配のポジションになります。 そして…憂の発作を鎮めるために。 唯「じゃあ…するね?」 憂「うん…はぁっ…はあっ…」 すりすり、と、憂のお股に押し付けた太ももを、擦り付けるように動かします。 擦れる度に、憂が熱い吐息と喘ぎ声を漏らし、少しずつ高まって行くのが分かります。 唯「うい…いいこ、いいこ…」 ギュッと、私の胸にしがみついてくる憂を、頭を撫でながら、額にキスしながら、徐々に高めていきます。 憂「ああっ…おねえちゃあん…」 私の胸に、赤ちゃんのようにすりすりと顔を押し付けながら。 私の足の動きに合わせるように、お股をすりすりと擦り付けながら。 憂も、自らを徐々に高めて行きます。 キシキシと、ベッドが軋む音。憂の甘い声と、熱い吐息。布が擦れる音に混じって、微かにぴちゃぴちゃと水音。 憂「はあ、はあ、おねえちゃん、おねえちゃんっ」 切羽詰まったような憂の声。それに合わせるように、益々激しく、貪欲に、憂の動きがエスカレートしていきます。 普段の、あどけない憂の姿からの乖離と、むせ返るような熱気に、嫌が応にも私の興奮をかき立てられます。 …私は、実の妹に。実の妹の女の行為に、興奮し、欲情していました。 唯「うい…うい…」 憂「おねえちゃん…おねえちゃあん…」 憂は、短く悲鳴のような喘ぎ声を上げて、ようやく果てました。 … もう、半年以上も前でしょうか。夜中に突然、憂に起こされたのです。 そのときは、全く状況が分からないまま、憂が私の布団に入ってきて…そして、意味も分からず、促されるままに、憂のお股を擦っていました。 当時の私は、全くその手の知識が無く、憂が変な病気になったと思って、とても不安でした。 (まあ、実際、変な病気だった訳ですが。) でも、その行為というか、欲求自体は、病気でもなんでもなく、私たちの年頃の女の子なら普通の事だったのです。 唯「おなにー…って、何?」 最初の発作が治まり、私は憂にいろんな事を教わりました。 性欲。 要するに、エッチしたい、という欲求です。 憂は、というか年頃の女の子は、個人差はあれど、みんな性欲があって、それを鎮めるために、自分で自分の体を慰めているのだそうです。 これを、オナニーと言うそうです。 澪ちゃんも、りっちゃんも、ムギちゃんも、あずにゃんも、多分みんなしてるんだそうです。 憂は、顔を真っ赤にしながら、私に教えてくれました。 で、ここで本題です。 憂も、オナニーをするそうです。よくしているそうです。(全然知りませんでした。) オナニーすると、しばらくすると一番気持ちよくなって、それで体が満足するそうなのですが、どういう訳かそのときに限っては、その「一番気持ちよく」ならず、三時間くらい悶々とし続けていたそうです。 そして、本能的に私のところに来て…本来なら絶対に許されない行為をしてしまった、のだそうです。 そう言って、憂はさめざめと、泣きながら謝りました。 憂「ごめんね…ごめんね…気持ち悪いよね…ううっ…」 私はそのときは、言っている意味がよくわからなくて、ストレートにその時の感想を伝えました。 憂が気持ち悪いなんて、あり得ない、と。それが例え、どんなにいけない事でも、異常な事であっても、受け入れると。 いつものように何も考えず、無配慮に、容認しました。許容しました。 またこういう事があったら、いつでも手伝ってあげると、意味もよくわからないまま、憂の「性欲」を一身に引き受ける事を確約したのでした。 それ以来、憂はときどきこうして夜中にやってきて、私の体を使ってオナニーします。 普段は、自分一人の行為で満足出来るそうなのですが、ときどき、どう頑張っても満足出来なくなる日があって、そのときだけ私のところに来るそうです。 私以外でも、憂を満足させてあげられるのかな? そう聞くと、憂は、多分大丈夫だと言っていました。これは、多分、自分で自分を満足させられなくなる病気なんだろう、と。 そういうとき、何もせず、我慢するとどうなるのかな? そう聞くと、憂は、多分…途中で、精神がおかしくなる、と言っていました。 多分、これは、そういう病気なんだろう、と。 自分で自分を満足させられない病気。満足出来ないと、精神がおかしくなってしまう病気。 自分では満足出来ないから、こうして自分以外の、姉である私の体で、満足させてもらう。ただ、それだけ。 これが憂にどのくらい負担になっているかは、正直なところよく分かりません。 普段の憂は、それまでの憂と全く変わったようには見えず、ある意味完全に割り切っているようにも見えます。 私も、そんな憂に合わせて、その夜の事は一切表に出さず、それまで通りに振る舞っています。振る舞っているつもりです。 しかし… やっぱりこれは、憂にとっては辛い事に違いないのです。 オナニーは、自分でするからオナニーなのです。 オナニーは、性欲を抑制する為の行為です。 抑制しきれず、その性欲を自分以外に委譲したとしたら…それは、もうオナニーではないのです。それはもう、エッチなのです。 だからこれは、本当のエッチなんです。 つまり私の妹は、実の姉と、エッチしているんです。 つまり私も、実の妹と、エッチしているのです。 … 幸いこの発作は、夜にしか起こりませんでした。 なので、外出先で突然…という事もなく、しつこいようですが、実生活には殆ど影響がありませんでした。 ただ気がかりなのは、今後一生この病気が続くのだとしたら、憂は必ず誰かと一緒に暮らして行く必要がある、という事です。 一日も欠かさず、誰かと一緒にいないと駄目なのです。いつ発作が起こるか分からないので。 一人で旅行に行ったりする事もだめですし、一人暮らしなんてもっての他です。 けいおん部の合宿には、念のため同行させました。みんな歓迎してくれたし、その日は結局発作は起こらなかったので、憂も私も純粋に楽しむ事が出来ました。 ですが…例えば、修学旅行はどうでしょう。さすがに、同行させるわけにはいきませんし、逆に同行するわけにもいきません。 それに、友達の家にお泊まりしたり、そう言った事も基本的にはできません。 前に一度、りっちゃんと澪ちゃんがお泊まりに来たときに、発作が起こってしまいました。 そのときは、こっそりと憂の部屋に行って、声を抑えて行為をしました。 …翌朝、澪ちゃんの態度がどことなくぎくしゃくしていて、ああ、聞かれちゃったんだな、と悟りました。 その後、澪ちゃんはしばらく、ちょっと私とは一線引いているようでしたが、次第に前のように接してくれるようになり、結局すぐに元通りの関係に戻りました。 多分、澪ちゃんなりに私たちの関係を(多分間違えて)理解し、熟考した末に、最終的に受け入れてくれたんだと思います。 ひょっとすると、私が気づかなかっただけで、りっちゃんも聞いていたのかもしれません。 とは言え、仮に聞いていたとしても、やっぱりりっちゃんも、澪ちゃんと同様に受け入れてくれたんだろうと思います。 多分、それがムギちゃんでも、あずにゃんでも、和ちゃんでも同じだったんだろうと思います。 そして、私たちが行為に及んだ本当の理由を打ち明けたとしても。 同情や心配などはあっても、決して、それまでの関係が崩れる事はあり得ないのでしょう。 そう考えると、この、憂の病気は、何となく暗黙のうちに「秘密」にする前提があったのですが、その前提が変わってきます。 基本的には、私一人が憂についていればなんの問題もありません。 ただし、私が病気したり、さっき挙げたように修学旅行のときなどは困った事になります。 常に一人の人間に完全に依存するよりは…何人かの親しい人間に打ち明け、トータルで常に誰かが対処出来るようにした方が、安全性というか、確実性が高まるのではないか、と思い至りました。 唯「という理屈なんだけど…どうかな?」 憂に相談してみたところ、やはり最初は戸惑っていました。 ですが、いろんなリスクを二人で話し合い、最終的には、自分たち以外の誰かに、最低一人は打ち明けるべきだ、という結論に達しました。 ここで問題になるのが、最初の人選です。 別になにも、いたずらに大人数に触れ回る必要は無いのです。必要最低限、少しずつ浸透させていって、最終的に理想的な状態にできればよいのです。 なので、最初は、一人に絞ります。 一人に絞ったとき、人選の問題はあっさり解決しました。 あずにゃんです。 憂の、最も親しい友人の一人。 私の可愛くて頼もしい後輩。 学年もクラスも憂と同じで、今後修学旅行や、考えたくはありませんがもし日中に発作が起こっても対処が可能で、現時点ではこれ以上無い人選だと思われました。 そんな矢先、憂が、初めて日中に発作を起こしました。 3時間目の休み時間の終了間際に、憂からのメールが届きました。 Title ごめんね はじまっちゃったみたい 2棟 2F 一番奥の個室 唯「りっちゃん、ごめん私トイレ!」 律「おぉーい、もう授業はじまるぞー?!」 万が一、日中に発作が起こったら… 私たちは、念のためその場合についても話し合っていました。 二人で早退するという案もありましたが、実際発作が起きたときに家まで戻れるかどうか不安があったため、学校で対処する方向で検討しました。 そうすると、選択肢は非常に狭まり、自然と、どこかトイレの個室でこっそりと対処する、という事になっていました。 今がまさにその状況でした。 自分たちの教室から大きく外れて、特殊教室が並ぶ校舎へ駆け込み、そのまま階段を1段飛ばしで駆け上がります。 唯「はあ、はあ、はあ」 息が上がっていました。息を鎮めながら、憂にメールを送りました。 送信と同時に、一番奥の個室から振動音が聞こえ、私はそこに向かいました。 唯「…憂…あけて…」 カチャリ、と鍵を開ける音がして、続いてキィと扉が開きました。 隙間から覗く憂の顔は、赤く火照って、既に完全に出来上がっている様子でした。 憂「おねえちゃん…ごめんね…ぐすっ…」 はあはあと息を荒げ、足をもじもじと摺り合わせながら、憂が私に抱きついてきました。 唯「よしよし…遅くなってごめんね…」 声を潜め、息をひそめながら、私は憂を腰掛けさせました。 唯「…あー、どうしようか…」 普段は家だったので、行為が終わった後でシャワーを浴びて着替える事が出来ましたが、ここではそう言う訳にはいきません。 いつもの様に抱き合って高める事も出来ませんし、なるべく汚れないようにする必要があります。 唯「憂、パンツ下ろして?」 憂は、泣きそうな程困った顔をしていました。でもしょうがないんです。私は半ば無理矢理憂の下着を下し、股を露出させました。 唯「憂、スカート上げてて」 手短に。必要最低限の行為で。 憂の感じるところはよく把握していたので、効率よく、そこを刺激していきます。 憂は、声を抑えるために、ハンカチをくわえて苦しそうにうめいています。実際には、苦しいのではありませんが。 ほんの1、2分、行為を続けると、憂は小さな身体を震わせながら、あっけなく達しました。 余韻を味わうように、私はしばらく憂のお股をさすりながら、空いた手で憂を抱きしめます。 憂は両手で私にしがみつきながら…いつものように、私の胸に顔を擦り付け、余韻に浸るように甘えて… そして、ふい、と、顔を上げました。 真っ赤な顔に、潤んだ瞳。行為を終えた直後の、火照った表情は、堪らなく艶っぽくて、私は思わずドキッとしました。 そして、その潤んだ瞳が徐々に閉じられ…顎を、ちょっとだけ上げて… 憂は、私の唇を、求めてきました。 私は求められるままに、憂にキスをしました。 はじめての、唇と唇のキス。 …はじめは、憂の発作を鎮めるためだけの行為でした。 いつしかそれは、変質し…愛しい憂の身体を、ただ求める行為になっていました。 憂とキスをかわして、私はようやく、その事に気づいたのです。 性別の枠を超え、家族、姉妹という枠を超えて。 私は憂を、愛してしまっていたのです。 2
https://w.atwiki.jp/kameyama2011/pages/195.html
福嶋卒論 第3章結果責任から考える行為 3-0前提とされる自由 章を改めてもう一方の個人を終着とする責任である結果責任について考えていくこととしよう。ここでもやはり、結果責任を担うために必要な自由がどのようなものかを考えておくべきであるが、それが前章冒頭で述べたカント的自由とは異なった概念として必要であることをまず整理しておきたい。 この文脈で語られるのは、一定の機構のもとで他者からの束縛や強制を受けない状態としての、ホッブズが提示した「近代的自由」といわれる自由である。ホッブズは自由とは、「運動の外的障害の欠如である」と定義づけ、人間にとって自らの意志に従ってなすところを妨げられないことが自由であるとする。しかしこのままの自由では、自分が生きていくために他人を排除することが含まれてしまうため、人間は相互に契約を行って「国家」を造り他者を傷つける自由を放棄した。このことによって獲得した新たな自由が「市民的自由」と呼ばれるものであり、王や貴族などの支配者が権力を行使する「主権者の自由」とは異なる、個人の「私的なもの」としての自由である。その転換には、個人とは社会や国家に埋もれているものではなく、それらに先立って存在する自由な存在であるという認識があり、その前提のもとでは法や道徳といった社会的な拘束とは個人の自由に対する束縛としか見えなくなってしまう。自由が無条件に認められており、説明責任を負うのは法や道徳の側になる 。 自由とはあくまで人間本来の状態である自然状態において備わっているものであり、それを規制することには常に理由が必要である、ということであるから、ここで重要なのは個人がその意図することを妨げられることなく思うままに振舞うことであり、個人に責任を帰結するために必要な制度である。しかし、いくら詳細な制度を設定し個人にその遵守を義務付けても、完璧に遂行できる人間などどれだけいるのだろうか。それぞれの論点について、以下考えてみようと思う。 3-1別選択可能性 市民的自由が保障されているということは、行為者が意志することを妨げられることなしに実行できるということ、すなわち選択者がその選択をコントロールしているということである。言い換えれば、他の事柄を選択しようと思えばできたが、さまざまな選択肢がある中から他でもないその事柄を選択したといえる、ということであり、別選択可能性がある、ということである。この選択のなかには、実際に行為として現れる部分としての別行為可能性と、個人が内面的にそうしようと思う部分として別意志可能性の二種類の選択可能性が含まれると考えられるが、いずれの場合においてもここでいう「別」とは、それらを選択したら実際の選択を実現できなくなるという意味であり、両立できないalternativeであるという性質をもつ。また「可能性」という点においては、いくつかの選択肢があることと、その中から自分で選択する、という要素が含まれている。ここでは、この別選択可能性と、すべては因果的に決定されているという決定論との関係とはいかなるものなのかを確認していきたい。 まず因果的決定論とはなにか。すべての現象には原因があり、すべては原因なしには生じないという因果律と、自由などは存在せずすべては決定されているという決定論が一体の形で主張されてきたもので、「時間と場所を問わず、あらゆる出来事はその出来事より以前のある時点で世界に生じたあらゆる出来事、ならびに世界を支配する(自然)法則という二つの要素によって決定されている 」という立場に立つ。もし本当にすべてのことが予め決まっているのであれば、自由を論ずることはできずすなわちそれに伴う責任が成立しないことになってしまうが、果たしてこの問題をどう考えるべきだろうか。決定論と責任の成立という問題をめぐっては、双方が同時に成立するかしないかによって両立論compatibilismと非両立論incompatibilismという立場に分かれて論争が続けられているということだが、責任を考えていく上での重要な論点のひとつとして、自分なりに整理してみたい。 決定論と責任が両立しないとした場合、人間の自由とはあくまでも因果律とは無関係にあるということになるが、それはいかにして可能かが問題となる。因果律がないということは、あらゆる出来事がまったく同じように繰り返されたとしても同じように選択するとは限らない、ということであるから、選択をしようとするまさにそのときまで何を選択するかは分からない、ということになる。自由であるときほど自分がどのような選択をするのかわからない、というのでは、その自由によって逆に選択者が拘束されるという現象が引き起こされてしまうため、別選択可能性は担保されなくなってしまう。またその逆に、すべては因果律によって決定されているとすれば、人間には自由などないのであるから、すべての出来事はその他の帰結をもつことはできない以上行為者に責任を問うこともできなくなる。いささかこじつけのようではあるが、この点が解決できないかぎり両立論をとらざるをえないのではないだろうか。 では両立論をとる場合ではどのように考えられてきたのであろうか。ホッブズやロックが言うところの自由において、自分の意志が邪魔されずに実現でき、何らの物理的心理的障害もなく行為することができているということこそが重要なのであり、それがたとえ自然法則と過去の世界の出来事とによって決定されていたとしてもそれはそれでよいという。すなわち、ここで言われている自由とはあくまでも“行為の”自由という限定が伴う自由なのであり、行為の自由は認めつつも行為の原因となる意志については自由を認めるものではない。意志するとおりに意志するという意志の自由は否定されるのであって、なぜなら行為の意志が生じるためにはその意志を意志する作用が必要であり、その意志の意志のまた意志が無限に必要になってしまう。これは実際の行為が生じているという事実と矛盾することを示すのだから、行為の意志は他の現象と同じく必然的に生じるといわざるをえないという見解である。 これらのことから、ここで問題にするべき自由とは行為の自由として、あるいは行為におけるひとの自由として論ずべきであることが見えてくる。つまり行為の自由として設定された自由の概念に対してならば、決定論の思想は自由を脅かすものではないということである。この一連の流れにおいて考えられてきた因果律と自由の折衷としての「選択の自由」とは、黒田の解説によれば「この現実世界ではすべての現象は因果法則に従って必然的に生じ、人間の行為もその例外ではない。しかし実際になされたものと違った行為を当事者が選択することも可能であったと言えるかぎり、それは自由な行為である。ただし実際には彼は別の行為を選ばずその行為を選び、選んだうえは必然的にその行為が生じたのであって、そのかぎりでは決定論の主張が正しい 」ということである。ここに因果的決定論と責任の関係は一応の回答を得たと考えるべきではないだろうか。 よって結果責任を考える際に前提とされる自由とは、別行為可能性があるという意味での行為の自由であるといえそうであるが、別意志可能性を否定し行為の意志を決定する因果律とは自然法則という意味での因果律ではなく、行為者が行為の最終的原因とみなされる以上は自由による因果律でなくてはならないであろうことに注意したい。自由による因果性とは、結果としての行為と原因としての自由意思とのあいだではなく、結果としての責任と原因としての自由意思とのあいだに成立する 。これはまさにカントが行った因果律についての区別であり、前章にて無条件に道徳法則に従うという自由についてみてきた呼応責任の考え方に通ずるように思われる。この考察を踏まえたうえで次の論点である、市民的自由を拘束するものとしての法や道徳において提示される責任とは、いったいどのようなものなのか、というポイントに移りたい。 3-2責任という社会装置 さてここで確認したいのは、結果責任を考えるうえで不可欠である法や道徳といった基準についての事柄である。結果責任とは個人を終着点としてそれ以上はさかのぼらないという整理を踏まえているわけだが、その追求の根拠ともいえる個人の「外」の位置にあるシステム全般といってよいだろう。予め合意されているという前提のもとに設定され、その上で遵守を要請されている規則というのが建前ではあるが、私たちの日常的な心情においてはなくては困るもののどちらかといえば煩わしく、負わされているもの、課せられているものという受動的な意味合いのほうが強いのではないだろうか。現在の社会で適用されている明文化された法とは、もともとは市民の合意に基づいて自ら直接に能動的に定めた生活のうえでのルールであったはずであるが、いつしかそれは私たちの手を離れてあたかも別空間で作られて有無を言わせず強いられているかのようにも感じられる。それは法に限らず、こうあるべき、という基準を示すもの―例えば習慣や一般常識といわれるもの、しきたりなど―ならば多かれ少なかれ共通して持っている性質とも言えるであろう。ではこのような変換はどのようにして起こったのだろうか。 この変換を考えるうえで、ホッブズとルソーの思想が参考になる。近代的な個人を想定する以上は、人間を超越する神や自然などによって社会秩序が保たれるのではなく、人間自身が司るが絶対性をもつ道徳や法を制定しなければならない。伝統社会で神が担っていた役割を、市民社会では神以外のものが担うことを想定する必要があり、それはホッブズでいう「リヴァイアサン=君主」であり、ルソーでいう「一般意志」である 。 ホッブズが導入した「リヴァイアサン」とはどういうものか。ホッブズは自然状態では万人の万人による闘争が発生するのは必然であるから、その回避のためには社会構成員がほぼ均等な力を持っているのに対し、絶大な権力を持つただ一人の君主を主権者として設置すべきであると主張する。主権者である君主の意志に、市民が絶対服従する状態を作り出す必要があるということだ。社会契約は各構成員のあいだで結ばれるのであり、主権者と各構成員のあいだにおいてではない。まず君主がいて共同体が成立するのではなく、共同体が成立する際に構成員の生命安全を保証するための手段としてその外部にはじき出された主権者という存在があることになる。しかしこれはすなわち絶対主義の構図であり、これでは真の国民主権は成就されないという批判を向けたのがルソーである。あくまでも個人の権利から出発したホッブズを評価しつつも、その不徹底さを批判し、共同体の外部に出ることなく社会秩序を正当化しようと試みたのである。 では、ルソーの示す社会秩序の根拠とはなにか。それは各構成員の私的意志を超越する「一般意志volonté générale」であり、これは単なる市民の総意(volonté de tous)とは違って部分性を含んでいてはならないし、あくまでも一般的で普遍的な基準となるものであるから、個人を超越する全体存在を必然的に要請するという点では共同体の外部にあるということになる。この、ルソーにおける外部の論理構造は以下の通りである。社会に闘争が生まれる根源とは、模倣から隣人と同じものを欲しがったり、自らが本当に必要とする以上の量を欲したりする悪癖にあり、したがって自由で平等な理想的な社会の建設のためにはこの他律的な自尊心をなくさなければならない。他者との比較で自尊心が生まれるのであるから、その克服のためには比較ができないように他者との相互関係を断ち、独立の個人として各市民が存立しなければならない。純粋で本物の欲望とは自然状態にある人間の心底から沸く自己愛であり、それを基に定立される一般意志に則って社会秩序をうち立てればよい。いったん隔離された孤独な個人を、その自由を保ちながらも社会において有機的に組織するためには、せっかく分離した個人を再び直接的な水平的相互関係で結ぶのではなく、各個人を直接かつ個別に国家に垂直的に結びつけるべきであると考えた。 このルソーの「一般意志」を具体的に表現し書き留めたものが「法」であり、近代法の根拠となったわけであるが 、このような共同体の外部にあるものが成立する過程について、今一度その機制に着目して考えてみたい。外部にあるものとはあくまでも共同体の内部から発生するという意味では、その源泉は常に内部にあるのであるから外部を含んだ系の内側にあるといえる。しかし、共同体という枠組みを置いてその内部と外部という見方をすれば、それは紛れもなく外部に存在する。すなわち、共同体が成立し安定状態が保たれるためには、構成員の相互作用から生じる定点(アトラクタ)がその外部に沈殿する必要がある。このような定点は初めからあるように見えるが、実際には人々が互いに影響しあいながら生み出すものなのである。そしてその外部が社会秩序を維持するために機能していることが、人間の意識に対して隠蔽されなければ、生み出された秩序は正当性を欠いてしまうであろう。 かくして共同体の内部で生活に根付いた決まりごとにすぎなかったものが、いかにして社会の外部にある一種の虚構へと変換されたのかが見えてきた。すなわち、私たちが責任とは外から押し付けられているものであると感じることは、このシステムが成功裡に働いている証でもある。よって小浜が指摘するように、責任とは「起きてしまった事態→収まらない感情→責任を問う意識→意図から行為へというフィクションの作成 」という論理的な順序をもつものであり、責任があるから罰せられるのではなく罰せられることが責任の本質をなす、ともいえるのであろう。責任とは社会秩序を維持するために作り出された、ある種の社会装置の一部と考えられる。 3-3媒介としての個人意識 前節で確認したように、結果責任を問うということは社会装置によって定められた刑罰や社会的制裁の速やかなる実行を進めるプロセスの一端であり、私たち各個人へと収斂する仕方で課されている。しかし、その装置の成り立ちがいくら一般意志を根拠においていても、実際の場面では法を犯すものや常識を外れる行為を行うものは後をたたない。私たちは反面で行為の自由を有しているのであるから、当然といえば当然である。すべての人間のすべての行為に関しての一般意志が明文化されているはずはないのだから、一般意志に悖る行動がすべて違法であるとも限らないし、法を遵守していればそれで一般意志が実現されるとも限らない。いくら社会装置を設定しても、各個人に守る気がなければ機能しないであろうし、完全な装置などそもそも実現不可能であるようにも思える。ここでは、外部を創出する社会の相互作用を担う構成員としての個人とは、ルソーのいう自尊心など持たず自己愛にあふれた仮想の人間像ではありえないという事実のもと、具体的にはどのような人びとであるべきか、という点を考えてみたい。 私たちが積極的とは限らないにしろ承認している外部、すなわち法や道徳、習慣などは、人間の在り方とはまったく無関係にただ厳然としてあるのではなく、もちろんそれらを遵守し、それらに則って日々を過ごすべきであることが大前提としてある。人間関係において何か揉め事が起こった場合や事故や過失が起こった場合に、すみやかにそれらを解決するばかりでなく、規定があることによって問題事それ自体を回避できるのであるから、賛同の度合いはさまざまであれ、「守るべき」という価値判断を含むものといえるだろう。この価値判断については疑うことはないとするも、個別の法やきまりについてすべてがその価値判断に値するかどうかは別の問題である。もし「守るべきではない」「守る必要がない」などの判断が下される場合も、それはその個別の法やきまりが本来守られるべき基準を満たしていないからこそ否定されるのであるから、潜在的に「守るべき」という価値判断を行っていることになる。そしてこれらの判断を行うのは、他ならぬ私たち一人ひとり、個人である。一般意志も個から出発する以上、個への還元は避けられない。 しかるに、いくら強固で厳密な外部を設定したとしても、その出発点が個人であるのだから個人の内部においてなされる価値判断抜きには、このシステムは作動しない。責任が外から押し付けられる一方で、どうしてもそれを自発的に引き受けざるを得ない構造が見えてくるのである。そして私たちは、価値判断に応じた行為を実行する実践能力を持つという意味で非常に合理的なのであり、「~すべき」という判断に対して実際に何をすることが最も合理的であるかを導き出すことができる。喉が渇けば水を飲むべき、なのであり、もし今は喉が乾いていなくても、運動をすれば喉が渇くであろうから水を携帯すべき、というように、日常の些細な行為であってもそれがいかに合理的であるかが窺える。このような合理的実践能力が人間にはそなわっている以上、個人による価値判断とそれに伴う実践を要求することはそれほど突拍子もないことではないはずであろう。 とはいえ、ではただただ馬鹿正直に決められたことを常に守り、自分は常に正しい、と言っていればよいかというと、そうではない。状況に応じて柔軟に対応する、ということが、時として規則を曲げることであったり破ることであったりする場面にはしょっちゅう出くわす。しかし、事は日常のほんの些細なことで誰にも迷惑はかからない(ように見える)場合に限定されない。それが例えば、国家が定めた法を「遵守する=違反していない」というロジックによって看過されることである場合、事態は一気に深刻になる。ここに「正義」という問題が浮上してくるのである。 法に適うという基準は必要不可欠であるが、それは疑問の余地がないことを意味しない。何らかの基準を定めるということは、その基準さえ満たせばそれでよい、という逆説を生む。合法であればよく、違法でなければよい。さらにいえば、行為者は故意にその結果を引き起こしたのでなければ、罪に問われないこともある。また、法により基準が定められていなければ、審議のしようがない。まずは基準をどう定めるか、ということに争点は移行し、真に問題とされる個別の事柄は隔離されていく、というような現象もありうる。今なお全面解決には至っていない水俣病の例などを考えてみれば、法のもつこれらの側面は否定のしようがない。法と権力が結びつかざるを得ない構造で、その構造からはじかれてしまうものは常に存在することを無視してはいけないのであり、その権力は常に正義であるとは限らないことを看過してはいけないのである。普遍的な適用可能性を求めることと、個別具体的な異議申し立てに耳を傾けることは、両立されなければならない。 しかしここで、異議申し立てについても注意しておかなければならない。異議を唱えなければ異議はないものとみなされる、という当たり前の前提が、時として黙殺につながる危険性を孕むということだ。水俣では、国家・チッソ・チッソの城下町である水俣市の市民という大多数の強大な連帯を前に、身体的被害をこうむった人々は当初は異議の申し立てなどできなかったという事実からもわかるように、「声なき声」の存在が提起する問題に敏感であらねばならない 。 このように、個人に終着するはずの結果責任を担うためには、個人から発せられる自発性という媒介が不可欠である。それを各人がいかにして持ちうるか、という問題は、前章で述べてきた呼応責任の問題でもある。すなわち、結果責任を担う、責任主体としての個人であるということは、呼応責任を担う自律した個人たることと同義なのであるが、強調されるのはそのような個人はひとりでに形成されるものではないという点である。人間関係によって形成されるはずの自発性を欠いた結果、押し付けられる責任はかろうじて担うことはできるものの、自ら積極的能動的に責任を担おうとする姿勢は培われることがないのであるから、当事者意識など持ちようがないと分析できる。
https://w.atwiki.jp/aica8bit/pages/87.html
自分で考えれって! 『自分で考えれって!』 とは?