約 31,872 件
https://w.atwiki.jp/hyakuwa08/pages/71.html
208 名前: うめ2 投稿日: 2008/08/23(土) 02 25 41 ID m8PDj1p50 愚麗斗地獄 これは個人的に体験した話です。 昔、インターネットが一般的になる前に、パソコン通信というのがありました。 その最大手がニフティサーブで、そこではCBといういまのチャットみたいな機能があったのです。 おいらはそこの「B2」というところの常連だったのですが、ある日、変な奴がきました。 そいつは「愚麗斗地獄」という名前で、「殺す」「死ね」とか危険ワード連発。 みんな呆れて放置したけどおいらはなんか興味もって話きいていたんです。 そしたら「いらいらして人殺したい」、「弟にプロレス技かけてるけどつまんね」などなどの暴言。 でもたまに「普通」になるときがあって、近場の女の子がデートとかしたんですが、なんかハンサムだけど恐かった」という話で。 そいつのことを忘れていて、一年くらいたったあとに「神戸の例の事件」が起きたのです。 名前のセンスとか、年齢とか、いろいろと完璧に一致するのですが、報道だと「彼はパソコン通信はやっていなかったとか。 でもそのころに流行始めたインターネットでは、「酒鬼xx」というHPを見たとか目撃情報が。 真相はヤブのなかですが、いまでもいやーな気分になるのが、 「そんなに殺したいなら勝手に人とか殺せよ」 と冗談のつもりでおいらが書き込んだことです。 【完】
https://w.atwiki.jp/wiki7_frontier/pages/36.html
https://w.atwiki.jp/efzranbato/pages/68.html
リーグ戦 試合への参加人数は29人でした。 リプレイ番号は割愛。おおよそ以下の様に並んでいます。 A B C D A ― 1-1 1-2 1-3 B ― 1-4 1-5 C ― 1-6 D ― リプレイのダウンロード ※今回はざん氏にまとめて頂いたデータをpng変換して載せております。 使用キャラを併記していないので、ご不明の際は参加者一覧をご覧下さい。 予選(リーグ) 本戦(トーナメント) 決勝(リーグ) 一位 骨髄(長森) 二位 なぎさ(香里) 三位 Tony(七瀬) .
https://w.atwiki.jp/urakagi/pages/160.html
第六屆 幻想之宴中文IRC網路交流賽 主辦:裏鍵(urakagi@gmail.com) 時間 2/6(五)下午 8 30,預計11點左右結束 地點 中文IRC聊天室(打開FFO後,點選IRC (CHATROOM) - CHINESE) 比賽規則 瑞士制,直到全勝者剩下一人為止 每回合一戰決勝負,限制時間30分鐘 時間到後仍未決定勝負時,以當時進行的回合為第1回合計算,最多延長到第6回合。第6回合結束仍無法分出勝負的話,以和局作收。 因線路不穩或程式Bug導致中斷時以再戰優先,若時間不足則出事方敗,不知斷線責任歸屬則以和局計算 決定Deck後即不可變更,不需先行告知,要偷換請不要被抓包 先攻者無咒力,起手手牌咒卡一張以下可再調度一次 使用套牌沒有限制 Deck&Replay: 比賽結束後,在此wiki上可貼上你的deck和對戰replay供檢討或他人參考 非強制,不過我當然是希望大家能多分享 備註 無法連上IRC的人請寄信和我聯絡 歡迎大家參與! 共用帳號:utage/utage 比賽結果 Rank Name Points Opp% 1 Kouun 9 0.44 2 balooful 6 0.66 3 CJ 6 0.55 4 IMZ 6 0.44 5 demonblood 3 0.66 6 Urakagi 3 0.55 7 zero88 3 0.33 8 NightDream 0 0.66 Deck 1位 Kouun(L) 2位 balooful(L)? 3位 CJ(L) 4位 IMZ(L魔理莎2霊夢2) 5位 demonblood(L)? 6位 Urakagi(L)? 7位 zero88(L)? 8位 NightDream(L)? 比賽replay Round 1 06 CIRC CJ VS IMZ O-X 06 CIRC NightDream VS Kouun X-O 06 CIRC Urakagi VS balooful? X-O 06 CIRC zero88 VS demonblood? X-O Round 2 06 CIRC balooful VS CJ? O-X 06 CIRC Kouun VS demonblood O-X 06 CIRC NightDream VS IMZ X-O 06 CIRC zero88 VS Urakagi? X-O Round 3 06 CIRC balooful VS Kouun X-O 06 CIRC CJ VS demonblood? O-X 06 CIRC IMZ VS Urakagi O-X 06 CIRC NightDream VS zero88? X-O
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/170.html
唐書巻八十一 列伝第六 三宗諸子 燕王忠 沢王上金 許王素節 褒信王璆 孝敬皇帝弘 裴居道 章懐太子賢 邠王守礼 広武王承宏 燉煌王承寀 懿徳太子重潤 譙王重福 節愍太子重俊 讓皇帝憲 汝陽王璡 漢中王瑀 景倹 恵荘太子撝 恵文太子範 嗣岐王珍 恵宣太子業 嗣薛王知柔 高宗に八子があった。後宮の劉氏は李忠を生み、鄭氏は李孝を生み、楊氏は李上金を生み、蕭淑妃は李素節を生み、武后は李弘・李賢・中宗皇帝・睿宗皇帝を生んだ。 燕王李忠は、字を正本といった。帝(高宗)は始めて太子となったとき忠が産まれ、宮中で宴会を開いた。突然太宗の臨幸があり、宮臣に詔していうには、「朕始めて孫ができた。共に楽しみたい」 酔っぱらって帝(高宗)は立ち上がって舞い、群臣もならい、席次にあるものは皆舞い、下賜品には差があった。貞観二十年(646)、始め陳王となり、永徽年間(650~655)初頭、雍州の牧を拝受した。王皇后には子がなく、后の舅の柳奭は王皇后を説得して、忠を母とすれば、これを立てて必ず自身の親とするだろうとした。后は承諾し、帝に請うた。またと褚遂良・韓瑗・長孫无忌・于志寧らも相継いで請うた。遂いに立てて皇太子とした。王皇后が廃后となると、武后の子の李弘は年三歳であり、許敬宗は后の旨をこいねがい、建言して「国には正嫡があります。太子は漢の劉彊の故事と同じくすべきです。」と言った。帝は敬宗を召見していった「嫡を立てるにはどのようにする?」 答えていう「正のもとはすなわち万事治まることです。太子は国のもとです。しばらく東宮を微し出せば、今正嫡があることを知るでしょう。自ら安じなけらば。位をうかがって自ら安ぜず、社稷のはかりごとではありません。」 帝は言った「忠はもとより謙譲だ。」 敬宗が言った「よく太伯のようになれば、またよくないことなどありましょうか?」 ここに降して梁王・梁州都督に封じ、甲第、封戸二千、物二万段を賜い、にわかに房州刺史にうつした。忠は寝ても恐れて安心して生活することができず、婦人の衣を着て刺客に備え、しばしば妖夢があり、かつて自ら占った。事は露見し、廃されて庶人となり、黔州の李承乾の故宅に幽閉された。 麟徳年間(664-665)初頭、宦官の王伏勝が武后に罪を得たが、許敬宗はすなわち忠と上官儀と伏勝の謀反を誣告し、死を賜った。年二十二歳。子はなかった。翌年、太子李弘が表を奉って収葬を願ったから、これを許した。神龍年間(705-707)初頭、追封し、また贈太尉・揚州大都督とした。 原悼王李孝は、永徽元年(650)に始めて許王となり、𣏌王李上金・雍王李素節の二王とともに同じく封ぜられた。早く薨去した。神龍年間(707-710)初頭、追封および謚があった。 沢王李上金は、始め𣏌王となった。永徽三年(652)、益州大都督を遙領した。鄜・寿の二州の刺史を歴任した。武后そはその母を憎み、そのため役人が誣奏し、封邑を削り、うつして澧州に置いた。しばらくして武后は表向きは喜んでいるかのようにしており、𣏌王上金・鄱陽王李素節に表して朝集を聴かしめ、義陽公主・宣城公主の二公主にそれぞれ夫秩を増加した。これによって上金を沔州刺史に、素節を岳州刺史としたが、しかしついに朝廷に参与することはなかった。高宗が崩じたが、上金・素節・二公主に詔して哀に赴かせた。文明元年(684)、王を畢王とし、またうつして沢王とした。五州の刺史を歴任した。載初年間(690)、武承嗣は周興をそそのかして上金・素節の謀反を誣告し、召して御史の獄に繋がれた。上金は素節がすでに殺されたことを聞いて、即ち縊死した。七人の子はあわせて顕州に流刑となり、あるいは死んだ。神龍年間(705-707)初頭、追って官爵を戻し、子の李義珣に王を嗣がせた。 李義珣は、始め流謫され、身を匿して雇われ人となっていた。許王李瓘を継いでその爵邑を受け、義珣に告げて仮の継承としたが、再度嶺外に流された。開元年間(713-741)初頭、素節の子李璆を許王李瓘の後継としたが、玉真公主が義珣が実は上金の子であると上表したから、すなわち璆の爵を奪い、再度義珣をして王を継がせ、率更令に任じられた。薨去し、子の潓が嗣いだ。 許王李素節は、始め雍王となり、雍州牧を授けられた。まさに童子の頃から、即ち日に千言を読んだ。徐斉聃に師事し、自らつとめ励ました。帝はこれを愛し、岐州刺史に転じて、さらに郇王とした。母が殺され、素節を地方に出して申州刺史とした。乾封年間(666-668)初頭、素節に詔して病により入朝を免じたが、実際には病んでおらず、忠孝論を著して自らの意見を明らかとしたからであった。倉曹参軍の張柬之が上奏すると、帝はその誣告を取り上げないようにしようとしたが、武后はますます喜ばなかったから、収賄に連座して鄱陽王に降格し、封戸什七を削り、移して袁州に置き、終身禁錮とした。儀鳳三年(679)、岳州刺史とし、さらに葛王とし、また王を移して三州の刺史とした。李上金とともに同じく追捕されて都に赴き、道中葬送の列で哭する者を聞いて、左右に言った、「病死なぞ何の得るところがあろうか。当然哭するべきだというのか?」 龍門駅にいたって絞殺された。年四十三歳。葬礼は庶人の礼をもって行われた。子の瑛等九人はすべて誅殺されたが、ただ李琳・李瓘・李璆・李欽古はまだ幼なかったので、長く雷州に幽閉された。 中宗が復位すると、追ってもとの封とし、また開府儀同三司・許州刺史を贈位し、乾陵に陪葬された。李瓘に詔して王を継がせ、実封戸四百とした。開元年間(713~741)初頭、李琳を封じて越王を継がせ、李璆に沢王を継がせた。琳は右監門衛将軍に至り、子の李随は夔国公に封じれた。李瓘は衛尉卿となり、上金の子に抑えられて封を得ず、鄂州別駕に貶された。よって詔して継嗣王より外れた者は皆宗室に帰し、すなわち嗣江王李禕を信安王とし、嗣蜀王䄖を広漢王とし、嗣密王徹を濮陽王とし、嗣曹王臻を済国公とし、嗣趙王琚を中山王とし、武陽王継宗を澧国公とした。瓘は累遷して太子詹事となった。薨去し、蜀郡大都督を贈位した。二子の李解・李需は皆幼なく、璆の子李益に継がせた。天宝十四載(755)、李解に始めて王を継がせた。 李璆は、初めは嗣沢王を継ぎ、降されて郢国公、官宗正・光禄卿となったが、累進して褒信王に封ぜられた。初め張九齢が龍池頌を撰し、興慶宮に石碑としたが、宗室の子女が盛徳をなさないため、さらに璆に命じて頌をつくらせ、花萼楼の北に建てた。天宝年間(742-756)初頭、再度宗正卿を拝命した。性格は友弟には聡敏で、宗室の子女に一善あれば、推薦しないことはなかった。そのため宗室で宮中にある者の多くは璆に申し上げた。薨ずると、江陵郡大都督を贈位された。二子があった。李謙は郢国公・梓州刺史となり、李巽は汝南郡公となった。 李欽古は巴国公に封じられ、子の李賁が継いだ。 孝敬皇帝李弘は、永徽六年(655)に始めて代王となり、潞王とともに同じく封ぜられた。顕慶元年(656)、立てられて皇太子となった。春秋左氏伝を率更令の郭瑜より受学し、楚の世子商臣がその君を弑殺する場面に至ると、嘆いて書を閉じて「聖人の垂訓はどうしてこのような邪悪を書くのだろうか?」といった。郭瑜は「孔子が春秋をつくったのは、善悪を必ず書き、褒善を推奨するためで、悪を貶しめて誡めとするためです。だから商臣の罪は千年たっていてもなお消えることはないのです。」と言った。李弘は「それならば聞くに忍びないところは、願わくはその書を読もう。」と言った。郭瑜は拝して言う、「里に勝母と名付ければ曾子は足を踏み入れなかったといいます。殿下生まれつき孝行者で、不道徳の道を退け、見聞きすることはありません。臣はこのように聞いています。君主の地位を安定させ、人民をよく統治するには、人民に礼儀を教えるのが最もよいと。だからこそ孔子は『礼を学ばないと、ひとり立ちしてやっていけない』と言ったのです。願わくば改めて礼を受学して下さい。」 太子は「よし」と言った。顕慶四年(659)、元服した。また賓客の許敬宗・右庶子の許圉師・中書侍郎の上官儀・中舎人の楊思倹に命じて、即ち文思殿で古今の文章を抽出して『瑤山玉彩』と名付けた。およそ五百篇。書を奏じて、帝は賜物三万段、ほかの臣には賜うことそれぞれ差があった。また詔して五日に一度は光順門に赴き決事させた。総章元年(668)、国学にて釈采(八月の上の丁の日に行なう孔子の祭)し、顔回に太子少師を、曾参に太子少保を贈位することを請い、制可された。 たまたま有司が遼東に遠征する兵士が亡命したり、亡命して原隊に戻らない者を、身は死刑とし、家族は没官とした。李弘は諫めておもうようは、「兵士は病となってもどうなるかわからず、あるいは被虜、もしくは溺死・圧死しても、軍法は戦死でなければ、則ち隊を同じくする者は全員連座します。法家が亡命と判断すれば、家族は本当に亡命した者と同様に没官となります。伝(書経 大禹謨)には「罪のない人間を殺すよりは、むしろ法律に合わないことがあってもこれを許すほうがよい」といいます。臣請うらくはその科(とが)を条別し、全て一緒にすることが無いことを。」 詔して裁可した。帝は東都に行幸し、詔して監国となった。時に関中が飢饉となり、李弘は廡下の兵で楡皮・蓬の実を食べる者を見て、うちしおれて家令に命じて寺に米を給付せしめた。 義陽公主・宣城公主の二公主は母の故をもって掖廷に幽閉され、四十になっても結婚していなかった。李弘は聞いて見るにたえず、建言して降嫁されることを願い出た。武后は怒り、即ち当上の衛士に結婚させ、このために寵愛を失った。また同州の沙苑を貧民に分けることを請うた。たまたま妃裴と結婚したが、有司が贄用の白雁をたまたま苑中で捕獲したこと奏上した。帝は喜んで「漢は朱雁を獲て楽府の歌とつくった。今白雁を得て結婚の贄となった。結婚はすなわち人倫の首である。我には恥じることなどない。」と言い、礼がおわると、法を曲げて岐州に大赦した。 帝はかつて侍臣に語って「弘は仁孝で、大臣に賓礼していまだかつて過はなかった。」と言ったが、武后はまさに志を伸さんとして、李弘の奏請はしばしば武后の意向に違うた。上元二年(674)、合璧宮の行幸に従って、鴆毒を盛られて薨去した。年二十四。天下はこれを嘆かない者はいなかった。詔して「太子は若くして病気となり、朕はその回復を待って、まさに位を譲ろうとした。心は広く真心篤く、すでに命をうけ心はのびやかとなったが、病は日に日に重くなり、臨終を迎えてしまった。謚を孝敬皇帝とする。」といった。緱氏に葬り、墓号は恭陵、制度はすべて天子の礼を用い、百官は権制に従って三十六日服喪した。帝は自ら睿徳紀を製り、石を陵の側に刻んだ。陵を造営すること巨費を費し、人民は厭いてこれに苦しんだ。投石して所部の官司を傷つけ、官吏を殺傷した。妃は薨去し、謚して哀皇后といった。子なく、永昌年間初頭(689)、楚王隆基(後の玄宗)を後嗣とした。中宗が即位すると、詔して主を太廟に合祀し、義宗と号した。開元年間(713~741)、有司が奏じて「孝敬皇帝、よろしく廟を東都洛陽に建てるべきで、諡を廟の名としましょう。」と言った。詔して裁可され、ここに義宗の号を廃止した。 妃は裴居道の娘で、婦徳があったが、父・裴居道は妃のために内史納言に任命され、太子少保・翼国公を歴任した。酷吏のために貶められ、獄死した。 章懐太子李賢は、字を明允といった。容姿端麗で、幼い頃より高宗に愛された。年数歳にして、一度読書すればたやすく忘れず、論語の「賢を賢として色を易(かろん)ず」に至り、一二度これを読んだ。高宗が理由を問うと、答えて「性実はこれを愛す。」と言った。高宗は李勣に語って、早熟であると称した。始め潞王となり、幽州都督・雍州牧を歴任した。沛王に移り、揚州大都督・右衛大将軍に累進し、名を徳に改めた。雍王に移り、よって雍州牧・涼州大都督を領し、実封千戸となった。上元年間(674-676)にまた名を賢に戻した。 この時、皇太子が薨去し、その六月、李賢を立てて皇太子とした。にわかに監国とする詔があり、李賢に決裁させたところ最も明審であり、朝廷は讃えた。高宗は手ら勅して褒賜した。李賢はまた諸儒を招集し、左庶子の張大安・洗馬の劉訥言・洛州司戸参軍事の格希玄・学士の許叔牙・成玄一・史蔵諸・周宝寧らとともに范曄の『後漢書』の注釈書をつくり、上奏した。高宗はよしとして段物数万を賜った。 時に正諫大夫の明崇儼は左道をもって武后のために信ずるところとなり、崇儼は英王(中宗)は太宗に類し、相王(睿宗)は貴しとした。李賢はこれを聞いて憎み、宮人はあるいは李賢が武后の姉・韓国夫人の所生であると伝えたから、李賢はますます疑った。武后は『少陽政範』・『孝子伝』を撰述して李賢に賜り、何度も書簡を送ったが、かえっていろいろ不安になった。調露年間(679-680)、高宗は東都(洛陽)にあって、崇儼は強盗のために殺された。武后は李賢の謀と疑い、人を遣わして太子の陰謀をあばき、薛元超・裴炎・高智周に詔してこれをまじわりおさめ、甲冑数百領を東宮で発見した。高宗はもとより李賢を愛し、その罪は軽いとしたが、武后は「賢は心に反逆があり、大義は親を滅ぼすことにありました。赦してはなりません。」といったから、廃太子となり庶人におとされた。甲冑は天津橋で焼却処分とし、大安普州刺史に貶し、劉訥言を振州に配流し、連座して流罪となる者は十数人に及んだ。開耀元年(681)、李賢を巴州に移した。 武后が政権を獲得すると、左金吾将軍の丘神勣に詔して李賢の邸宅を捜索し、迫って自殺させた。年三十四歳。武功は顕福門に挙哀し、丘神勣を畳州刺史に左遷した。追ってもとの王号に復した。神龍年間(705-707)初頭、司徒を贈号し、使を遣わして亡骸を移し、乾陵に陪葬した。睿宗が即位すると、皇太子および謚を追号した。三子があった。李光順・李守礼・李守義。 李光順は楽安王となり、義豊王に移された、誅殺された。李守義は犍王となり、桂陽に徙封され、薨去した。先天年間(712-713)、光順に莒王を、守義に畢王を追封した。 李守礼、王を嗣ぎ、始め名を光仁と称し、太子洗馬に任じられた。武后が武周革命をし、宗室は自由を失った。守礼は父のために罪を得て、睿宗の諸子とともに宮中に幽閉されること十余年におよんだ。睿宗が相王に封ぜられ、許されて外邸に出た。ここにおいて守礼らも始めて外に居住し、改めて司議郎となった。中宗が即位すると、またもとの封に戻り、光禄卿を拝受し、実封戸五百を得た。唐隆元年(710)、邠王に封じられた。睿宗が即位すると、検校左金吾衛大将軍を兼任し、出て幽州刺史となり、単于大都護を兼任し、司空となった。開元年間(713-741)初頭、累進して為州刺史となった。その時寧王・申王・岐王・薛王も同じく刺史となり、皆幕僚を選任してはじめ綱紀を保った。守礼はひとり狩猟・飲酒をし、領事しなかった、そのため源乾曜・袁嘉祚・潘好礼は皆、邠府長史・州佐となって、監督した。後に諸王が京師に戻ると、守礼以外は支えて王となり、特に才能がなくても多く寵愛したから、子は六十余人、称すべき者はなかった。常に息銭数百万の負債があった。ある者は少子を勧めたが、守礼は「どうして天子の兄を葬むる者がないのだろうか?」といった。諸王はにわかに高貴となるたびに歓喜するのであった。岐王はかつて守礼が雨晴を予測できることを上奏した。帝はなぜかと問うと、答えて「臣には何があるわけでもありません。天后(武后)の時、太子が罪を被り、臣は宮中に幽閉されました。その時勅によって杖刑を受けること約四三、皮膚に傷跡が出来、雨の前になると(痛みに)悶え、晴れになるとよくなります。だから知ることができるのです。」といって涙を流し、帝もあわれに思って心をいためた。薨去し、年七十、太尉を贈位した。子は李承宏・李承寧・李承寀が記すべき者である。 李承宏は、広武王に封ぜられたが、当人ではないのに連座して、房州別駕に貶しめられた。戻って宗正卿となった。広徳元年(763)、吐蕃が京師に入り、天子は陝西に逃亡した。虜(吐蕃)宰相の馬重英(タクラ・ルコン)が承宏を立てて皇帝とし、翰林学士の于可封・霍瓌を宰相とした。賊(吐蕃)が退くと、詔して承宏を華州に追放し、死んだ。 李承寧は封じられて邠王を継承した。 李承寀、燉煌王となり、宗正卿を拝受した。僕固懐恩とともに回紇に使して和親し、即ちその娘を結納して妃とし、毘伽公主に封じられた。薨去し、司空を贈位された。 唐制に、郡王を嗣ぐ者は四品の階を加え、親王・王子は緋を服す、とある。開元年間(713-741)、張九齢が「寧王・薛王および邠王の三子は王でありますが賜紫となっており、ほかは皆緋を服しています。官は六局の郎を越えず、王府の掾・属はよって員外に置かれています。」と奏上した。後に帝は蜀に到ってから皆紫を服させた。 中宗に四子があった。韋庶人が李重潤を生み、後宮が李重福・李重俊・殤帝を生んだ。 懿徳太子李重潤は、もとの名を重照といい、武后の諱を避けて改名した。帝(中宗)が皇太子のとき、東宮で産まれ、高宗は喜ぶこと甚だしく、乳月が満つと、天下に大赦し、永淳と改元した。この年、立てて皇太孫とし、開府して官属を設置した。帝は吏部侍郎の裴敬彝・郎中の王方慶にどうか問うた。答えて「礼に嫡子はありますが、嫡孫はありません。漢・魏に太子があって、子はただ王に封じています。晋に愍懐太子を皇太孫に立て、斉は文恵太子の子を立てて皇太孫としましたが、みな東宮にありました。今太子があって、また太孫を立てるのは、古よりあったことはありません」と答えた。帝は「自ら作るがどうか?」と言うと、「礼記に「君子は孫を抱いて子を抱かず」というのは、孫は王の父のかたしろを(祭祀の際にもつのは)、昭穆が同じだからです。陛下ははじめて皇孫を建てました。もとより千億の慶の支えとなるでしょう。」と答えた。帝は喜び、議官属に詔して。敬彝ら奏上して、師・傅・友・文学・祭酒・左右長史・東西曹掾・主簿・管記・司録・六曹等の官を設置し、王府一級を加えたが、士卒を補充することはなかった。まさに嵩山に封禅しようとして、太子(中宗)を東都(洛陽)に赴かせ、太孫に京師(長安)を留守させた。 中宗が廃位されると、太孫府も廃され、庶人に貶され、別に囚われとなった。中宗が(皇太子に)復位すると、郡王に封じられた。大足年間(701)、張易之兄弟が武后の寵愛を得ると、重潤とその妹の永泰公主とその夫武延基とともに秘かに謀議を行ったと誣告され、武后は怒り、杖殺した。年十九歳。 重潤は容貌・行いに秀で、孝行で愛され、罪によらず誅殺されたから、人は皆涙を流した。神龍年間初頭(705-707)、皇太子および謚を追贈し、乾陵に陪葬し、墓を号して陵とし、主を贈って公主とした。 譙王李重福は、高宗の時、唐昌郡王に封ぜられ、平恩に移封された。長安年間(701-704)末年に王に進んだ。神龍年間(705-707)初頭、韋庶人が張易之兄弟と謗って重潤を陥れ、濮州員外刺史に貶しめ、合・均二州に移ったが、二州を領事することはなかった。景龍三年(703)、中宗が親ら南郊に祀し、天下に大赦した。十悪はみな許し、流人は帰ることができた。重福は帰ることができず、自ら「人民は皆自ら新しくなっても、一子が棄て去られた。天下は平らかとなったが、もとよりこのようになるのか」と言ったが、答えはなかった。 韋后が政権を握り、左屯衛大将軍の趙承恩・薛思簡に詔して兵をもって護衛させた。睿宗が即位すると集州に移されることになったが、まだ行かないうちに、洛陽の男子の張霊均が重福に説いて、「大王は嫡長でおられて、まさに天子となるべきです。相王(玄宗)は大難を平らげたとはいえ、どうして天子の位に越えて即位することがありましょうか?昔、漢は呂氏を誅殺して東より代王(文帝)を迎えました。今、百官士庶は皆、王が来ることを願っています。王がもし秘かに東都(洛陽)に行幸し、留守を殺し、兵を擁して西に陝西を拠点とすれば、河南・河北はしたがい、天下は得られるでしょう」と言った。重福はまた霊均とその党の鄭愔を遣わして策謀をし、鄭愔はまた密かに重福を招いて天子とし、あらかじめ睿宗を称して皇季叔とし、李重茂を皇太弟とし、中元克復元年と称した。鄭愔は自ら左丞相と署名し、内外文武の事を司り、霊均を右丞相・天柱大将軍とし、出征の事を司り、そのほかは職次によって官位を除目した。重福は均州より霊均と早馬に乗って東都(洛陽)に走り、駙馬の裴巽の家を宿とした。洛陽令の候巽は、重福に驚いてあわてて逃げたから、左右の屯営兵を奪おうとした、天津橋に到って、従うことを願った者は数百人となった。侍御史の李邕はこれに遭遇し、まず走って右屯営に到り、「譙王は先帝より罪を得た罪人なのに、勝手に都に入って反乱しようとしている。お前たちは努めて功績を立てて富貴を取れ」と言った。ようやく皇城の諸門が閉じられて重福を拒んだ。重福は右営に触れ回ったが動かすことができず、左掖門に走ったが、すでに閉鎖されていたから、怒って放火してこれを焼いた。左営兵はひたせまり、衆は遂に壊滅し、重福は山谷に走った。翌日、留守の裴談が全兵を以て大捜索したため、漕渠に身を投げて死んだ。年三十一歳。その死体を磔とした。帝は詔して三品の礼をもって葬った。 節愍太子李重俊は、聖暦三年(700)に義興王となった。神龍年間(705-707)初頭に衛王となり、洛州牧を拝し、実封千戸に封じられた。にわかに揚州大都督に任じられ。翌年皇太子となった。太后(武后)の喪とともに、皇太子の冊礼を減らされ、詔して在藩の食封となり、東宮に歳納した。給事中の盧粲が、「太子と列国と同じく封ずることは法ではありません。」と上言したため、詔してこれを止めた。 重俊は性格は明るく華やかであったが、掟を守ることが少なった。既に楊璬・武崇訓を賓客とし、二人は寵愛をたのんで教養がなかった。ただ狩猟や蹴鞠で互いに遊び仲間というだけであった。左庶子の姚珽がしばしば上疏して諫め導き、右庶子の平貞慎がまた孝経議・養徳などの伝を献上したが、太子は受け入れたとみえつつ用いることはなかった。武三思は韋皇后の勢力と迎合し、まさに反逆を謀ろうとし、内心太子を嫌っていた。武崇訓と武三思の子は、安楽公主をたっとび、常に公主をそそのかして重俊を辱め、韋皇后が産んだ子でなかったから、罵倒して奴だと言った。しばしば皇太子位の廃位を願い、自ら皇太女となろうとした。 神龍三年(707)七月、重俊は怒り、遂に李多祚を率い、左羽林将軍の李思沖・李承況・独孤禕之・沙吒忠義と、偽って左羽林および千騎の兵を発して武三思・武崇訓、その郎党十余人を殺害し、左金吾大将軍の成王李千里をして宮城を守らせ、自らは兵を率いて粛章門にはしり、門を破壊して関に入り、韋后・安楽公主・昭容上官の所在を探した。韋后は帝を抱えて玄武門に登り、宰相楊再思・蘇瓌・李嶠および宗楚客・紀処訥は兵二千余人を率いて太極殿を守り、帝は右羽林将軍の劉仁景らを召喚して留軍の飛騎百人を率いて防御した。李多祚の兵は進むことができず。帝は欄干に掴って重俊についた千騎に語って「お前たちは我が爪牙である。どうしてたちまち反乱をするのか?よく賊を斬った者には褒賞があろう」といったから、ここにおいて士卒は戈をかえして李多祚を斬り、ほかの郎党は壊滅した。重俊は逃亡して終南山に入り、突厥に逃げようとしたが、宗楚客が果毅の趙思慎を遣わしてこれを追撃し、重俊は野で休憩しているところを左右の者に殺された。詔して首級を朝堂にあげ太廟に献じ、あわせて武三思・武崇訓の柩に告げた。睿宗が即位すると、加えて謚され、定陵に陪葬された。 初め、重俊が殺害されると、官属はあえて顧みる者はなかった。ただ永和県の丞の寧嘉勗が号哭し、衣を解いてその首級を包んだ。当時の人はこれを義とした。宗楚客は怒り、獄に下して平興県の丞に降格し、卒した。ここ(睿宗の即位)にいたってまた永和県の県令を追贈された。 重俊の子の李宗暉は、景雲三年(709)に湖陽郡王に封じられた。天宝年間(742-756)、太常員外卿にいたり、薨去した。 睿宗に六子があった。粛明劉皇后は李憲を生み、宮人柳氏は李撝を生み、昭成竇皇后は玄宗皇帝を生み、崔孺人は李範を生み、王徳妃は李業を生み、後宮は李隆悌を生んだ。 譲皇帝李憲は、始め永平王となった。文明元年、武后は睿宗を皇帝としたから、憲を立てて皇太子とした。睿宗が(廃位され)皇嗣に降格されると、(李憲も)さらに皇孫に冊され、諸王とともにみな宮中から出て、開府して官属が置かれた。長寿二年(693)、寿春王に降格され、衡陽・巴陵・彭城の三王とともに同封とされた。また詔があって宮中に入った。中宗が即位すると改めて蔡王とされたが、固辞して受けなかった。唐隆元年(710)に宋王に進封された。 睿宗(が復位すると)東宮を立てようとした。憲が嫡子長男であり、またかつて太子であったが、弟の楚王(玄宗)に大功がありそのため久しく定められなかった。憲は辞退して「儲君は(皇帝の)副であり、天下の公器です。平時であれば正嫡が先んじ、国難であれば功績が先んじるのが、社稷の重きとするところです。付授が適正でなければ、天下は失望します。臣死を以て請うとことです。」といって涕泣して固辞した。時の大臣もまた楚王に社稷を定めるの功があると言い、また貴賤を問わず嫡子(であるからといって皇太子にすることに)抵抗し、朝議が紛糾した。帝は憲が譲ったことをよしとし、遂にこれを許し、楚王を立てて皇太子とした。憲を雍州牧・揚州大都督・太子太師とし、実封は二千戸に及び、甲第・物段五千・良馬二十・奴婢十房・上田三十頃を賜った。尚書左僕射に進み、また司徒を兼任した。司徒は辞退し、さらに太子賓客となった。 時に太平公主に謀があり、姚元崇・宋璟は帝に申して、請いて憲および申王李成義を出して刺史とし、謀は雲散した。すなわち司徒兼蒲州刺史となり、司空に進んだ。玄宗が蕭至忠・岑羲の難を鎮めると、憲(の官職を)進めて太尉とし、千戸を増戸したが、固辞した。さらに開府儀同三司を授け、太尉・揚州大都督を解任した。寧王となり、また太常卿を兼任した。開元十四年(726)、太常卿を辞し、しばらくしてまた太尉に復した。沢・岐・涇の三州の刺史を歴任し、累進して封は五千五百戸に到った。二十九年(741)に薨去した。 初め、睿宗の五子は邸宅を東都(洛陽)積善坊にならべて、「五王子宅」と号した。邸宅を上都(長安)隆慶坊に賜うにおよんで、また「五王宅」と号した。玄宗は太子となって、かつて大衾で長枕をつくり、諸王とともにこれを共にしようとした。睿宗は知って喜ぶこと甚しかった。先天年間に到って、隆慶坊の旧邸を興慶宮とし、憲および薛王に勝業坊に邸宅を、申・岐二王に安興坊に邸宅を賜い、興慶宮の側に環状に列べ、興慶宮の西・南に楼を設置し、その西には「花萼相輝之楼」と書き、南には「勤政務本之楼」と書いた。玄宗は時々これに登って、諸王が楽を奏でるのを聞いて、必ずしばしば召喚して楼に登らせ、ともに同じく榻(いす)に座り、あるいは邸宅に行幸して、詩を詩して大いに嬉び、金帛を賜いともに喜んだ。諸王は朝に側門から帰り、つぶさに楽んでほしいままに痛飲し、撃毬・闘鶏・鷹や犬をはしらせて楽しみ、このようにして歳月は絶えず、いたるところにたやすく勅使の労があいつづき、世に天子友悌といい、古えにはなかったことであった。帝が情愛厚いのはおもう天性のものだろうか、讒言してその関係を乱そうとしても、ついに揺るぐことはなかった。ある時、鶺鴒数千匹が麟徳殿の廷樹に集まり、翔棲をひとめぐりした。左清道率府長史の魏光乗が頌をつくり、天子友悌の祥(しるし)とした。帝は喜んだから、また頌をつくった。 憲は最も慎重な人で、未だかつて政治に干渉したり人と交わったことがなかったから、帝はますます信に重きを置いた。書を憲らに賜って、「魏の文帝の詩に『西山一に何ぞ高し、高高して殊に極る無し。上に両仙童有り、飲まずまた食わず。我に一丸薬を与う。光耀五色あり。これを服すること四五日、身体羽翼を生ぜり』とあるが、朕は服薬して羽翼を求めるたびに言っている、どうして兄弟も天生の羽翼のようにしなかったのか、と。陳思王(文帝の弟曹植)の才は、国を経営するに充分であったが、その朝廷に謁見することが絶え、ついに憂死し、魏は天下を統一する前に司馬氏に簒奪されてしまった。どうして神丸の効き目などあろうか?虞舜は聖人だったが、驕りを捨て去って九族と和親し、九族はすでに睦じく、百姓に分かち明らかにした。今数千年がすぎ、天下は善に帰している。これは朕が寝食を忘れて慕い感嘆するところである。この頃余暇のため、仙人の記録を撰述して神方への道を得たが、これを食べると必ず長寿であるという。今この薬を持っているが、願わくば兄弟に与えてともに長齢に到り、いつまでも果てしないだろう」と。後に申王らが相継いで薨去し、ただ憲のみが健在であった。帝は親しく接することますます厚かった。誕生日のたびに必ずその邸宅に行幸して寿ぎ、往々として邸宅に泊まった。日常でも毎日賜わり物がない日はなかったが、尚食総監やあちこちより進献された酒・酪および珍しい食事などはすべて分け与えた。憲はかつて歳尽録を請い、史官を目付に賜り、数百紙に及んだ。のちに病となり、医者が付ききりとなり膳を、大勢の医者が騎乗してきて互いの顔を見合うほどであった。僧の崇一なるものが治療すると、やや治り、帝は喜ぶことはなはだしく、緋袍・銀魚を賜った。そのうちに重病となり、薨去した。年六十三。帝は声を失うほど慟哭し、左右の者も皆涙を流した。 帝は、憲が実際に天下に推戴され、世の行いは高かったのに、大号を称さなかったから、追謚して譲皇帝とし、尚書左丞相の裴耀卿・太常卿の韋縚を遣して持節奉冊した。その子の李璡は上表して、憲が平素より謙譲であったことを述べ、あえて大号にはあたらないとした。制(みことのり)して許されなかった。葬儀の時、天子の服一揃を出して、右監門大将軍の高力士に詔して、帝自ら手書した位牌を置き、妃の元氏に恭皇后の号を贈り、橋陵の旁らに葬られた。葬るにあたって、中使に勅して璡らを諭し、死出の具を与え、衆をしてこれを見させ、倹約を示した。担当役人が諸陵のようにするよう請い、千味の食を墳中に設けたが、監護使の裴耀卿が建言して「食料は水陸千余種もいるようであり、馬・牛・驢馬・小牛・鹿・鵞鳥・鴨・魚・雁など肉、および薬酒三十名は、盛夏の育てるものであり、多く殺すべきものではありません。礼の典拠を探してみましたが、依拠できるところはありません。陛下が譲皇帝の志を述べるごとに、つとめは質素倹約にあります。願わくば取り省いて折衷されますように」と。詔して裁可されたが、葬列はすでに出発しており、大雨で、慶王李潭らに詔して塗泥(内装工事)を実行させた。葬列の歩みは十里に及び、墓を号して恵陵といった。 憲はかつて帝に従って万歳楼で舞ったが、帝が複道の上より衛士がすでに食事して、その余りを溝中に投棄したのを見て、帝は怒り、高力士に詔してこれを杖殺させようとしたが、憲は従容として「複道の上より人を窺っていれば、士を恐れさせて不安になり、かつ大体を失います。どうして生命をその食べ残しより軽んじるのでしょうか?」といい、帝はよって中止し、高力士に「王は私の難を救ったというべきであろう。そうでなければ、誤まって士を殺すところであった」と言った。また涼州が新曲を献じ、帝は別室に御し、諸王を召してこれを観覧した。憲は、「曲は良いのですが、しかしながら宮殿より離れて属さず、商は乱れて暴政となり、君主の卑しいこと下にせまり、臣下は僭って上を犯します。音楽が弱くはじまって次第に音声が形となっています。詠歌をひもとき人事を見るに、臣はいつの日か遠くをさすらうの禍があることを恐れます」といい、帝は押し黙ってしまった。安史の乱が勃発すると、世上は憲が音楽を審かにしていったのを思い起こした。 李憲はもとの名を成器といい、昭成太后の諡を避けて、申王李成義とともに改めて今の名とした。憲の子は十九人、その聞えたる者は、李璡・李嗣荘・李琳・李瑀がいる。 李璡は容貌が優れて整っており、性格は心が清く無私品行で、弓を射るのをよくし、帝はこれを愛した。汝陽王に封じられ、太僕卿を歴任した。賀知章・褚庭誨・梁渉らと親しかった。薨去し、太子太師を贈位された。 李嗣荘は、幼くして令名があり、太子左諭徳となり、済陰王に封じられた。薨去し、幽州大都督を贈られた。 李琳は、秘書監・嗣寧王となり、天子が蜀に行幸するのに従った。薨去した。 李瑀は、早くより優れた人材との声望があり、偉丈夫であった。始め隴西郡公に封じられた。帝が蜀に行幸するのに従い、河池に到り漢中王に封じられ、山南西道防禦使となった。乾元年間(758-760)初頭、蕭国公主が回紇に降嫁すると、瑀に詔して特進・太常卿・持節冊となり回紇の威遠可汗に謁した。瑀はまた音楽に詳しく、かつて早朝に永興里を過ぎると笛の音が聞こえた。周囲に「これは太常寺の笛工か?」と聞き、「そうです」との返答があった。ある日面識があり、「何故寝ながら吹いたのか?」と聞き、笛工は驚いて謝った。また康崑崙が琵琶を演奏するのを聞いて、「琵の音が多く、琶の音が少ない、これではまだ五十四絲の大絃を弾くべきではないな」と言った。楽家は自分より下の逆鼓を琵といい、自分より上の順鼓を琶といった。粛宗が詔して群臣の馬を収公して戦さの助けとしたが、瑀と魏少游はともに所有したままで手放さなかった。帝は怒り、蓬州長史に左遷した。薨去し、太子太師を贈られ、謚を宣とした。孫に李景倹がいる。 李景倹は、字は寛中。進士に及第した。博覧強記で、よく古えの王・覇者の成敗の大略をいい、自負が高く士大夫に屈するところがなかった。王叔文らは更にこれを褒め、管仲・諸葛亮に比するとした。王叔文が失脚・賜死したが、景倹は母の喪に服していたため連座を免れた。韋夏卿が東都を守ると、幕下に招かれた。竇群が中丞に任じられると、引き上られて監察御史となり、竇群が左遷されると、景倹もまた江陵戸曹参軍となった。累進して忠州刺史に抜擢された。元和年間(806-820)末、入朝したが用られず、また澧州刺史となった。もとより元稹・李紳と親しく、二人は翰林にあっては、景倹の才を述べていた。延英殿にて帝の言葉を奉るに及んで、景倹は自ら感情を抑えて知見を述べた。穆宗はこれを憐れんで、追って詔して倉部員外郎としたが遣されなかった。翌月、諫議大夫を拝した。性格は横柄で、酒を飲んでは気をほしいままにし、語っては宰相を攻撃したから、蕭俛・段文昌は帝に訴え、建州刺史に左遷された。元稹は君を得て、これを助けとするためにまた諌議大夫に復任した。馮宿・楊嗣復・温造・李肇らとともに史官独孤朗所にあり、景倹は酔って、中書省にいたって宰相の王播・崔植・杜元穎を慢罵し、官吏は言をしりぞけてあつく謝罪して去らせたが、結局漳州刺史に左遷された。馮宿らもみな放逐されてしまった。漳州に到着する前に、元稹が輔政し、楚州刺史に改められた。議する者は、景倹が丞相を辱め、左遷されて未だ任地に至る前に任を変更するのはよくない、といった。元稹は恐れ、少府少監に改め、馮宿らもことごとく還した。景倹は不幸にして志を得ずに卒した。しかしその人となりは財を軽んじ、義に篤かったから、没して後、士は悲嘆にくれた。 恵荘太子李撝は、もとの名を成義といった。生まれた時、武后は母親が賎しい身分であったから、他の子と同列にせず、僧万回に示したところ、万回は詭って「これは西土の樹神であり、よろしく兄弟とすべきです」と言ったから、武后は喜んで養った。垂拱三年(685-688)、始めて恒王となり、衛・趙二王と同じく封ぜられた。にわかに衡陽王に改められた。睿宗が即位すると、申王に進められ、岐・薛と二王同じく封ぜられた。累進して右衛・金吾二大将軍となり、実封は千戸に至った。司徒に進み、益州大都督を兼任し、四州の刺史となった。開元八年(720)、刺史を停め、また司徒となった。薨去し、冊書して太子位および謚を贈られ、橋陵に陪葬された。 李撝は性格は寛容で、容儀は優れて重々しかった。後嗣がなく、詔して譲皇帝(李憲)の子の李珣を後嗣とし、懐寧王とし、移して同安に封ぜられた。薨去した。天宝年間(742-756)、また譲皇帝の子の李璹を後嗣とした。 恵文太子李範は、始めの名を隆範といった。玄宗が即位すると、薛王隆業とともに帝の諱を避けて二名(隆字)を撤去した。初め鄭王となり、改めて衛王に封ぜられた。にわかに巴陵王に降封されたが、岐王に進み、太常卿・并州大都督・左羽林大将軍となった。玄宗が太平公主を誅すると、功によって封を賜り、薛王業とともに並んで五千戸となった。為州刺史を歴て、太子太傅に遷った。開元十四年(726)に薨去し、冊書して太子位および謚を贈られ、橋陵に陪葬された。帝は慟哭して、毎日の食事を下げさせること数十日に至り、群臣がしいて請うたからようやく復した。 李範は好学で、書を巧みにし、儒士を愛し、貴賎分け隔てることなく礼を尽した。閻朝隠・劉廷琦・張諤・鄭繇らとともに善くし、常に飲酒して詩を賦し互いに楽しんだ。また書画を蒐集し、皆世間に珍しいものとした。初め、隋が亡ぶと、禁内の図書は湮放し、唐が興ると募り訪れ、ようやくにしてまた出てきて秘府に納めた。長安年間(701-705)初頭、張易之が奏して天下の名工や表装職人に、密かに肖像画を模写させたが、ほとんど分けずに秘かに家に隠した。誅殺されると、ことごとく薛稷が取り出して持ち去ったが、薛稷もまた敗死すると、範がこれを入手した。後についに火事によって焼失してしまった。駙馬都尉の裴虚己は讖緯をよくし,密かに範とともに讖緯を弄んだことに連座して、嶺南に流された。劉廷琦は雅州司戸に左遷され、張諤は山茌丞となった。しかしながら帝と範の間には少しの間隙などなかった。周囲に言って「兄弟の情は天が至ったもので、我においてはどうして違うというのだろうか!争っては強いて結び付けようとしても、我はついに讖緯の助けなどいらないのだ」と。時に王毛仲らが卑賎より身分を起こしてにわかに貴族となり、諸王は見れば必ず礼を加えたが、ひとり範のみは接してももとのままであった。子の李瑾が嗣いだ。 李瑾は落ちぶれて名誉や礼法に飾らず、酒色に沈んだ。太僕卿を歴て、河東王に封じられたが、にわかに薨去し、太子少師を贈られた。天宝年間(742-756)、また薛王李業の子、略陽公李珍を嗣岐王とした。 李珍は、容貌は立派な偉丈夫で、宗正員外卿となり、蔚州鎮将の朱融と親しかった。朱融かつて珍が上皇に似ていると言ったから、そのため陰謀となり、金吾将軍の邢済のところに行って、「関外の敵は間近となったが、京師は騒々しくなっている、どうするか?」と言ったが、邢済は「私は金吾であり、天子の押衙(護衛長)である。死生をもって従うから、どうして自分だけ逃れるというのだろうか?」と言うと、朱融は「嗣岐王にまみえても深謀遠慮などないのか」と言ったから、邢済は上聞し、粛宗は詔して珍を廃して庶人とし、死を賜った。朱融の郎党は皆誅殺され、邢済は抜擢されて桂管防禦使となった。 恵宣太子李業は、始め趙王となり、中山王に降封され、都水使を授けられた。彭城にうつり、陳州別駕を兼ねた。薛王に遷り、羽林大将軍・荊州大都督となった。好学であったから秘書監を授けられた。開元年間(713-741)初頭、太子少保に進められ、太保を拝し、歴州刺史に累進した。 初め、母が早くに亡くなり、従母(ままはは)の賢妃が養った。開元八年(720)、賢妃を外邸に迎え、これに仕えるにはなはだ謹厳であった。その妹の淮陽公主・涼国公主もまた早くに卒したが、妹らの遺児の甥と自身の子を均しく育てたから、帝はますます愛した。かつて病にかかり、帝は自ら鬼神を祀って除災した。病が癒えるとその邸宅に行幸し、酒を置き詩を賦してはじめて生きる喜びとした。帝がかつて病となると、業の妃の弟の内直郎の韋賓と殿中監の皇甫恂が吉凶の事を妄言したから、韋賓は連座して死罪となり、皇甫恂は錦州刺史に左遷された。妃は恐れて、降服して罪を待ったが、業はまたあえて入謁することもなかったから、帝は聞いて、すみやかにこれを召すと、業は殿下に伏して罪を請うた。帝は走っていってその手を取って「私が兄弟を疑うようなことがあれば、天地がともにこれを咎めるだろう!」といい、ついに兄弟間の友愛に復し、よって妃を諭して復位した。にわかに司徒に進んだ。開元二十二年(734)、業は病となり、帝はこれを憂いて、一昔の容髪が一変し、よって仮眠程度となり、快方を夢見て、目覚めると業の病が少しだけよくなっていた。邠王李守礼らは請うてこの事を史官に記録させた。薨去すると、帝は悲しみのあまり食事ができなかった。冊書して加贈および謚し、橋陵に陪葬された。 十一子があり、その聞こえたる者は李瑗・李瑒・李琄がいる。帝は後に追って李業を思い、瑗らを引見しこれを慰め、詔を下して共に実封千戸を賜った。瑗を楽安王、瑒を滎陽王・宗正卿、琄を嗣薛王、鴻臚卿とした。天宝年間(742-756)、琄の舅の韋堅が李林甫のために弾劾され、連座して夷陵別駕に左遷され、夜郎・南浦に移し置かれた。安禄山の乱がおこると、京師に帰還した。 曾孫の李知柔は、王を嗣ぎ、再び宗正卿となった。しばらくして京兆尹に抜擢された。はじめ、鄭国渠・白渠がふさがり、民は年を越せなかった。知柔は長安近郊を調査し、治めて旧道を回復し、灌漑できるようになることは昔のようであり、ついに旱魃の恐れはなくなった。民は宮中に詣でて石碑を建てて功績を記すことを請うたが、知柔が固辞したから固讓どうしようもなかった。加えて検校司徒・同中書門下平章事に累進した。また詔して太廟を修造し、判度支・充諸道塩鉄転運使となった。昭宗が莎城に出ると、ひとり知柔のみが従い、乗輿の器物・料理などにわかにすべて司り、大いに細やかにすべて備わった。性格は倹約で、位は貴顕に通じていたが、邸宅に居住することがなかった。しばらくもしないうちに出て清海軍節度使に拝せられ、鎮にあっては清廉で、貢献の時に入朝し、検校太傅となり、侍中を兼ねた。仕えることおよそ四紀(48年)、常に宗室の鏡となった。鎮にて卒した。 隋王李隆悌は、始め汝南王に封ぜられた。早く薨去し、睿宗は追王し、荊州大都督を贈ったが、爵位は伝わらなかった。 賛にいわく、中宗は失道し、身は母のために廃位され、妻に弑殺され、四子もみなその終わりをよくせず、後嗣もまた伝わらなかった。ほとんど天がその徳を穢して絶やしたようなものであったが、なぜなのか?彼はもとより自ら天を絶ったに他ならないのだ。睿宗は聖子があり、一人は天命を受けて天子となり、一人は帝号を追号され、三人は太子号を贈られた。天はこの報いを与え、福は無窮に流れた。盛んなるかな! 前巻 『新唐書』 次巻 巻八十 列伝第五 『新唐書』巻八十一 列伝第六 巻八十二 列伝第七
https://w.atwiki.jp/senesis/pages/64.html
第六話Q A Q:酒井と教皇の20年前に何があったの? A:教皇が武蔵への大々的な旧派進出を目論み、当時現役で三河の学生だった酒井達によって防がれました。 「失われたもの」とは旧派の進出の失敗による十五年分のK.P.A.Italiaの没落や作れる筈だった他国における旧派の基盤、とかそのへんかと思われます。 Q:蜻蛉切返還の時の各々の思惑のようなもの A:二代→拙者が格好いいとこ見せることで極東住民にまだ戦える力が残っているのだと教えるで御座る 宗茂→残念ですが私の方が凄いので諦めて下さい 大雑把に言うとこんな感じです。 Q:何で正純の不信任決議だす流れに? A:ややこしいのでちょっと長くなります。 武蔵内部の意見は、 三年梅組「ホライゾンを助けにいきたい」 暫定議会「事を荒立てないようにすべき」 の二つに割れており、どっちかに意見を統一しなければいけません。 が、その為の生徒総会(実質国会)を開く為の権限は、今、正純以外没収されています。 そして当の正純は軟禁に近い状態になっている為、開く事は出来ません。 また、権限者が全員いなくなってしまったとき、臨時生徒総会を開く事が出来るという校則があるのですが、正純の権限が残っているためそれも使えません。 が、権限者を辞めさせる、と言う議題だけはその性質上権限者抜きでも臨時生徒総会が開けるように定められているため、今回はこれを利用する事にしました。 要するに「セージュン早く来ないと辞めさせちまうぞー」と脅しをかけて呼び出す訳です。 ちなみにその結果、 正純が来る=そのまま正式な生徒総会を開いてホライゾンを助けに行くか決める 来ない=正純を辞めさせて今度こそ権限者がいなくなるので、臨時生徒総会が開けるようになる為、そこで同じ事を決める と、どちらに転んでも生徒総会が開けることになります。 Q:何で今回はゴッドフラッシュ入らなかったの? A:噂ですが「男から触る」「モミングする」がまずいそうです。あくまで噂ですが。 以下の用語は公式サイトにも説明があります。 パドヴァ教導院 総長連合 P.A.ODA 地動説 機関部会 領主部会 原作者の解説のまとめのURLです。 http //togetter.com/li/210365 小ネタ 御広敷の表示枠 人口942××人(4/21現在) *十と一の位ちょっと読み取れず 食料備蓄 1435×××匁 *下三桁ちょっと判別不能 食料自給率(生産額ベース)9.4% 食料自給率(カロリーベース)8.2% 生命礼賛 ロリコンのタッチは犯罪、生命礼賛のタッチは神聖な行為。 十歳以上はババア。ロリババアはこれを認めない。 ……うん、逮捕されるといいね? 浅間の作文 長いので格納。 +... 私のして欲しい事 三年梅組 浅間・智 ・あらすじ(敬称略) トーリはオパイした。必ず、かの破廉恥千 万なホラオパを揉まねばならぬと決意した。 トーリは政治がわからぬ。トーリは、総長兼 生徒会長である。服を脱ぎ、エロゲを嗜み暮 らして来た。けれどもオパイに対しては人一 倍にBINKANであった。きょう未明トー リは家を出発し、多摩に行き、結構離れた青 雷亭にいく筈だった。トーリは十八の、奇妙 ………………、そう、奇妙な姉と暮している。 この姉は、まあどうでもいい。いやよくない ですけど。 ともあれ告白も間近だったのである。トー リはそれゆえ、告白の方法や技術やらを相談 に、橋の上で会議もしたのだ。先ず、忍者の 失敗談を聞き、それから騎士の乳揉んでぶつ とばされた。ええ、されました。 トーリには竹馬の友があった。点蔵である。 もはや走れエロス。時空を超えてモーソーヒオ国の国語の教科書がここに……! ちなみに川上氏曰く「二、三枚目から本気モードに入」るそうな。何をだ。 aunaun 漢字表記は「阿吽阿吽」らしい。680円。 表紙の女性は前作「終わりのクロニクル」のディアナ・ゾーンブルクに酷似している。 「この人がお手本!」とか書いてあるが不老長生術による若作りを参考にってそれは(・──編集者は切断される 銀髪キャラ特集 OPで点蔵達が見ている「雷撃股間書」の表紙にもさりげなくそう書かれている。 「番屋でチョバってきた」との事だが、ひょっとして元の持ち主は……。 エアファンタジーシティ 銀髪キャラ特集で紹介されていたゲーム。エロゲ雑誌の特集なのでおそらくR元服。 紹介されているキャラは作者の別作品「Obstacle overture」のアルケミストだろうか。 キャッチコピーは「失敗ばかりだけど、いつも元気な錬金術士(見習い)の女の子♪」 右下の錬金術士っぽさ皆無のエロ衣装もどうやら同一人物らしい(金髪バニーは遊び人という別キャラ)。 余談だが、氏の過去作品にエアファンタジーシティならぬ「エアリアルシティ」と言うのがある。セルフパロ? 10万27歳 デーモ○小暮閣下ネタ?
https://w.atwiki.jp/euphshaker/pages/76.html
皆様こんにちは、はじめましての方は、はじめまして。イリアスのゾイド講座、始まります。 第六回となる今回は、グランドカタストロフ直後のヘリック共和国軍水陸両用機、バリゲーターTSについてお話させて頂きます。 同時期に使用されたドスゴドス、エクスグランチュラと違い、この機体は旧バリゲーターの姿をほぼそのまま保っています。旧来機との外見的な差異は、背部に増設されたバックパック……TS(スラスターシステム)の存在です。 外部増設型補助動力自体は、古くはガリウスの時代から存在しました。「イオン過給機」と呼ばれる装備で、主にゾイドの積載量を増加させるのに使用されています。ゾイドコアの養分である金属イオンを供給する装備であり、現代でもレブラプター等が「イオンチャージャー」というこの流れを汲む装備を施されていますね。 こういった外部補助装置とスラスターシステムの違いは何か、それはエネルギーの伝達システムにあります。 イオン過給機のような装備がゾイドの機体に配線された伝達回路を通じてコアにエネルギーを供給するのに対し、スラスターシステムはその過程をすっ飛ばし、直にパワーユニット……すなわちゾイドコアにエネルギーを伝達することで、従来とは比べものにならない伝達効率を実現しているのです。 物の流れとは、長ければ長いほどその勢いを削ぎとられます。地球、特に日本の河川がいい例で、始点からの距離が長いほど……すなわち下流に行くに従い、流れは弱くなります。 スラスターシステムとは、例えるならば河川の上流がいきなり海に注ぐようなものです。いえ、もっと極端に言うなれば、滝が海に注ぐ様を想像してみて下さい。立ち上る水しぶきの量は、凄まじいものになるでしょう? 乱暴な例えではありますが、本当に原理はこれです。 なぜ、このようなシステムが実用化したのか。その影にあるのは、やはりこの時代のキーゾイド……キングゴジュラスの存在です。この機体が持つ重力制御機構……グラビティモーメントの伝達のために使用されていた伝達システムを転用したものと思われ、同様の機構がヴァルガにも存在するため、ある意味でこの2機は兄弟機といえなくも……いえ、この時代の機体には、どんな形にせよキングゴジュラスの技術を継いだものが多い以上、無意味な分類でしたね。 しかしながら、なぜか「この」スラスターシステムを搭載したのは本機及びティガゴドスの初期生産ロットのみで、以降のTS搭載機にはパワーユニット直結の外部ケーブルが存在しています。 なぜこのような仕様になったのか、一説にはリーバンテ島戦後にリル・メリル主任がスパイ容疑で身柄を確保されたためとも言われており、未だ明確な理由は判明していません。 いずれにせよ、ただでさえ外部に露出するという弱点を抱えるTSにさらにケーブルという目立つ弱点が付いた事で、前線の士気が下がったとかなんとか……。ウワサですよ? ちなみに第二次生産ロットの機体は、やはりパワーが落ちているとのウワサもあります。 本機はただバリゲーターにスラスターシステムを装備したのみではなく、いくつかの改良点も存在します。その最たるポイントがガイロス帝国軍機の残骸から回収・再現された「アイスメタル・マテリアル装甲」で、「ドスゴドスに振り回されジークドーベルに激突しても、相手が壊れる」という凄まじい強度を発揮。当然ながら耐圧性も大幅に上昇し、潜水深度も増しました。ま、いくらか改良案が出たもののコクピットは剥き出しのままなので、意味は無かったんですけどね……。 この機体強度を利用し、前述の通りドスゴドスの尾部に噛み付いて「ジョイント」し、横回転で敵機を薙ぎ倒す「ターボアクセレイション・ハンマーアタック」なる合体攻撃フォーメーションが存在します。当然、気をつけないと口の隙間からフッ飛ばされます。パイロットが。ログ・バイス大佐は化け物か何かでしょうか……。 出力が増大したことにより陸戦能力も高まり、海岸等場所を選べばヴァルガにも引けをとらない戦闘が可能とのこと。ただし残念ながら、グラビティアタックを考慮に入れない場合のみですが。 またリーバンテ島では塹壕掘削など、前線での戦闘支援にも使用出来る汎用性も評価されました。 当然海戦の性能もアップしています。浅海域での戦闘ならば、当時の海戦専用機ダークネシオスとも互角以上。ただしこれは上陸作戦仕様という装備の相性がはまったという理由もあり、また深海域になればなるだけ、バリゲーターが不利になります。これは本来渡河作戦や河川での戦闘を前提にした機体設計そのものから来る弱点なので、仕方が無いところではあるのですけどね。 とこのように、スラスターシステムという力で蘇ったバリゲーターについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか? 中央大陸戦争初期から中期にかけての機体でありながら、僅かな改装で最新鋭機に匹敵するゾイドに生まれ変わったバリゲーター。磁気嵐など様々な要因が複合した結果ではありますが、それでもゾイドが秘めた大きな可能性を見せてくれる事例ではないかと、私は思います。 最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。では皆様、ご機嫌よう。イリアスでした。
https://w.atwiki.jp/ssekaiju_maze2/pages/136.html
第六階層(ミニイベント) 座標の見方 26階A-1(a,1) 〇〇〇 種別 階層 / 場所 汎用 テキスト集トップ タイトル画面 キャンプメニュー その他 メインシナリオ オープニング ミッション? 樹海 メインシナリオ 第一階層 第二階層 第三階層 第四階層 第五階層 第六階層 ミニイベント 第一階層 第二階層 第三階層 第四階層 第五階層 第六階層 遺跡 メインシナリオ B1F? B2F? B3F? B4F? B5F? ミニイベント B1F? B2F? B3F? B4F? B5F? 街 NPC フロースの宿 シトト交易所 鋼の棘魚亭 冒険者ギルド ラガード公宮 酒場情報収集 第一階層 第二階層 第三階層 第四階層 第五階層 第六階層 クエスト 第一階層 第二階層 第三階層 第四階層 第五階層 第六階層 公国直営料理店 会話する? メニュー開発? 探索準備? 宣伝計画? 都市開発? ※このリンク表は、テキスト集クラシックモード共通のものです。編集はここから。 ※リンク表の中身は仮のものです。ゲーム発売後、ゲーム内容に合わせて改善する必要があります。 座標の見方 1 A a,1 a,2 a,3 a,4 a,5 b,1 b,2 b,3 b,4 b,5 c,1 c,2 c,3 c,4 c,5 d,1 d,2 d,3 d,4 d,5 e,1 e,2 e,3 e,4 e,5 [部分編集] 26階 A-1(a,1) 〇〇〇 上へ
https://w.atwiki.jp/kamikaze4u/pages/250.html
魔物詳細第六階層C・試練の階層 ※☆はレアモンスター、▼はエリアボスとなる。レアモンスター撃破で煌石+1、エリアボス撃破でエリア攻略となり、攻略したメンバーに報酬が入る。 ※●印のエリアは、◆のエリアを全て攻略しないと進むことができない。 ※攻略済みの場所は、エリアボスが出現しなくなり、報酬も得ることができなくなります。 ※攻略後の場所への再探索は、エリアボスの代わりに通常魔物が1体、ランダムでエンカウントします。 漣村(攻略済み) 蒼の南西にある小さな島の村。 BOSS1:美馬小恋・喜屋武健 BOSS2:双海思永 必須メンバー:東雲直 攻略メンバー第一回:桐石登也・東雲直・祠堂統・鬼ヶ原空 西蘂町(攻略済み) 紅の西に位置する、小さな町。 BOSS:安土優・東絛慶介 必須メンバー:東雲直 攻略メンバー第一回:桐石登也・東雲直・日野守桜 特区ギルド(攻略済み) 蒼特区ギルド。 BOSS:大門・白銀汽水 必須メンバー:東雲直 攻略メンバー第一回:烏月揚羽・東雲直・志島武生・神崎信(同行者) スラム第一エリア(攻略済み) 裏路地と繋がっているスラムの第一エリア。 BOSS:灰原 必須メンバー:鬼ケ原空・幸村カヤ・水鏡流星(同行者) 攻略メンバー第一回:福良練・鬼ヶ原空・幸村カヤ・水鏡流星(同行者) 神風学園高等部(攻略済み) 神風学園高等部錬武場。 BOSS:東十常司・櫻井六花 必須メンバー:藤八沙耶・福良練 攻略メンバー第一回:藤八沙耶・福良練・祠堂統・鎮守由衛(同行者) 神風学園大学部(攻略済み) 神風学園大学部正門。 BOSS:城ヶ崎憲明 必須メンバー:藤八沙耶・志島武生 攻略メンバー第一回:白神凪・桐石登也・柳茜・天瀬麻衣・日野守桜・向坂維胡琉・藤八沙耶・志島武生 ◆茜ギルド(攻略済み) 茜ギルド訓練場。 BOSS:塚田マキ・白鳥礼二・新城抉 必須メンバー:柳茜・幸村カヤ 攻略メンバー第一回:柳茜・板垣勝猛・幸村カヤ・風見次郎(同行者) ◆紅ギルド(攻略済み) 紅ギルド訓練場。 BOSS1:厨二の鯨波・むいむいX BOSS2:桜御亮 必須メンバー:桐石登也・東雲直 攻略メンバー第一回:桐石登也・東雲直・鬼ヶ原空・風見(同行者) ◆スラム第2エリア(攻略済み) スラム第一エリアの先にある第2エリア。 BOSS:槐志渡・尸黄泉 必須メンバー:鬼ケ原空 攻略メンバー第一回:白神凪・柳茜・鬼ヶ原空 ◆葵ギルド(攻略済み) 葵ギルド訓練場。 BOSS:藤咲真琴 必須メンバー:六角屋灼 攻略メンバー第一回:白神凪・六角屋灼・福良練・風見次郎(同行者) ◆神風学園ギルド(攻略済み) 神風学園ギルド訓練場。 BOSS 佐治宗一郎 必須メンバー:藤八沙耶・風見(同行者) 攻略メンバー第一回:藤八沙耶・柳茜・天瀬麻衣・福良練・風見次郎(同行者) ◆神風学園地下区画≪ソラリス≫(攻略済み) 神風学園地下にある秘密施設。 BOSS 氷川仁・大林幸太・紫堂陽人 必須メンバー:幸村カヤ 攻略メンバー第一回:桐石登也・鬼ヶ原空・幸村カヤ・臥龍ヒアデス(同行者) ●エリア45(攻略済み) 蒼特区の北西にある草原エリア。 BOSS:小此木剛毅・天城宗次郎 必須メンバー:烏月揚羽・桐石登也 攻略メンバー第一回:烏月揚羽・桐石登也・幸村カヤ ★葵地下研究所(攻略には第六階層Cのエリアを全て攻略している事) 挑戦回数 報酬 1回のみ 小此木剛毅IN(同行者) エリュシオンを開発していた、土御門家のラボ。 BOSS:零 必須メンバー:神崎信(同行者) 攻略メンバー第一回:
https://w.atwiki.jp/kamikaze4u/pages/251.html
魔物詳細第六階層D・試練の階層 ※☆はレアモンスター、▼はエリアボスとなる。レアモンスター撃破で煌石+1、エリアボス撃破でエリア攻略となり、攻略したメンバーに報酬が入る。 ※●印のエリアは、◆のエリアを全て攻略しないと進むことができない。 ※攻略済みの場所は、エリアボスが出現しなくなり、報酬も得ることができなくなります。 ※攻略後の場所への再探索は、エリアボスの代わりに通常魔物が1体、ランダムでエンカウントします。 葵・軍事施設(攻略済み) 葵の陸軍本部にある軍事施設演習場 BOSS:鷺沢二佐、木嶋分隊長、司城三笠 必須メンバー:柳茜・日野守桜・向坂維胡琉 攻略メンバー第一回:柳茜・日野守桜・向坂維胡琉 土御門邸(攻略済み) 葵にある土御門別邸。 BOSS1:メイド長・メイドA・メイドB・メイドC BOSS2:龍志狼 必須メンバー:六角屋灼 攻略メンバー第一回:烏月揚羽・六角屋灼・祠堂統・福良練・鬼ヶ原空・幸村カヤ 姫神邸(攻略済み) 紅にある姫神別邸。 BOSS1:不知火正忠 BOSS2:姫神百合 必須メンバー:日野守桜・福良練 攻略メンバー第一回:柳茜・日野守桜・福良練・志島武生 東十常邸(攻略済み) 粥満にある東十常本邸。 BOSS:東十常剣 必須メンバー:幸村カヤ 攻略メンバー第一回:天瀬麻衣・鬼ヶ原空・幸村カヤ・風見次郎(同行者) 松原研究所(攻略済み) 葵にある松原研究所。 BOSS:松原クリストフ・松原エレナ 必須メンバー:日野守桜 攻略メンバー第一回:桐石登也・東雲直・日野守桜・志島武生・北嶺真帆(同行者) ◆呪いの館(攻略済み) 蒼の山奥にある廃墟。 BOSS1:四空元帥 BOSS2:上条天羅 BOSS3:マクベ・紅蓮の暗殺者 必須メンバー:東雲直 攻略メンバー第一回:桐石登也・東雲直・鬼ヶ原空・水鏡流星(同行者) ◆宮廷前広場(攻略済み) 粥満宮廷前にある広場。 BOSS:炎治陽機・神楽屋織姫 必須メンバー:藤八沙耶・神崎信(同行者) 攻略メンバー第一回:烏月揚羽・藤八沙耶・向坂維胡琉・神崎信(同行者) ◆第十二電脳区画(攻略済み) バーチャル世界。 BOSS:上条森羅 必須メンバー:六角屋灼 攻略メンバー第一回:白神凪・六角屋灼・福良練 ◆藤屋咲(攻略済み) 蒼の山奥にある忍者屋敷。 BOSS1:条魔小太郎・条魔半蔵 BOSS2:地影景勝 必須メンバー:祠堂統 攻略メンバー第一回:日野守桜・祠堂統・志島武生・風見次郎(同行者) ●カーネリア大聖堂深部(攻略済み) 粥満のカーネリア大聖堂の地下に広がるエリア。 BOSS:東十常一 必須メンバー:福良練 攻略メンバー第一回:六角屋灼・天瀬麻衣・福良練 ★土御門本邸(攻略済み) 粥満にある土御門本邸。 BOSS:土御門正宗 必須メンバー:土御門伍代(同行者) 攻略メンバー第一回:六角屋灼・福良練・幸村カヤ・土御門伍代(同行者) □■□異次元闘技場(攻略済み) 第六層最奥にある、シンプルな闘技場。ただし周りは異次元空間になっている。 BOSS:マザー・マッドマン 必須メンバー:無し(ただし最大NPC含めて6人参加可能) 攻略メンバー第一回:白神凪・桐石登也・柳茜・向坂維胡琉・福良練・志島武生