約 1,371 件
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/21.html
清 確定者(8名) 洪承疇 多鐸(ドド) 施琅 策稜(ツェリン) 楊遇春 僧格林沁(サンゴリンチン) 1811年-1865年 左宗棠 1812年-1885年 石達開 1831年-1863年 候補者(8名) 劉永福 明亮 岳鐘キ 兆恵 宋景詩 阿桂 李秀成 彭玉麟
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/15.html
三国・両晋十六国 確定者(9名) 鄧艾 197年?-264年 石勒 274年-333年 祖逖 王猛 符柳が挙兵した際、これを鎮圧。 陝城を落し、符[庚]を捕えて長安に送り内乱を平定。 前涼が前秦に侵攻した際、姚萇と共に涼軍を撃退。 李儼が救援を符堅に請うた際、王猛は各地に兵を派遣して守備を固めさせた上で楊安と共に枹罕救援に向かい、迎撃してきた前涼の張天錫を大いに破り、前涼軍に、戦死者・降伏した兵を合わせて一万七千の打撃を受えた。 これにより絶縁していた前涼は再び前秦に藩属した。 ~3スレ目 126より~ 劉曜 ?-328年 慕容垂 326年-396年 慕容恪 桓温 312年-373年 拓跋珪 371年-409年 候補者(5名) 陶侃 石虎 謝艾 謝玄 冉閔
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/20.html
明 確定者(9名) 徐達 1332年-1385年 常遇春 朱棣 1360年-1424年 戚継光 1528年-1587年 袁崇煥 1584年-1630年 朱元璋 1328年-1398年 李文忠 1339年-1384年 張士徳 馬芳 候補者(4名) 李自成 邵栄 秦良玉 胡深
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/17.html
南北朝 確定者(10名) 劉裕 363年-422年 檀道済 ?-436年 韋叡 陳慶之 484年-539年 拓跋燾(トウ) 408年-452年 明元帝(拓跋嗣)の長男。十六歳で父が崩じて即位。 はじめ宋と修交し、華北の統一に意を注いだ。 北方の柔然がしばしば侵犯したので迎撃してこれを破る。 また親征して高車族三十余万を帰服させた。夏・北燕・北涼を滅ぼして華北を統一した。 劉宋を討つために百万と称した大軍を率いて親征、劉宋を散々に打ち破った。 なおこの南征のときに行われた殺戮はすさまじく、北魏軍の通過した郡県は荒涼を極めた。 北魏軍は瓜歩まで進軍したが、結局、長江を渡ることはなく都の平城に凱旋し、捕虜となった宋民5万余戸は、畿内に分配した。 東西両方面への八面六臂の活躍により、華北の統一に成功し、五胡十六国時代の終焉させた。 ~3スレ目 208より~ 蘭欽 字は休明。 大通元年(527)、北伐して擬山城 まで進行、大都督・劉属率いる20万の兵を潰滅させた。 同年、魏の太守・ 柴集らの連合軍を破る。 彭城城主・楊目がその子楊孝?を派遣、蘭欽を攻めると逆撃してこれを破った。 ついでに?州刺史・劉海游を破り、その帰途で厥固城を抜いた。 楊目が派遣した数万の援軍も蘭欽はたやすく破り、別将・曹龍牙を斬って京師に凱旋した。 桂陽、陽山、始興の異民族叛乱もたちまち平定、天漆に盤踞する蛮族の首領・晩時得を攻め破り、衡州刺史・元慶和が叛将厳容に包囲されるとこれの救援に向かい、羅渓で厳容を打ち破った。 ついで密勅により襄陽に急行、北魏の正将・托跋勝の侵攻を撃退する。 假節を授かり光烈将軍を拝し、通生行台・元子礼を破る。 魏の大将・薛儁らと交戦、勝利して彼らを擒らえ、梁、漢中を平定。改めて持節を授かる。 魏の都督・董紹、張献が南鄭を囲むと梁州刺史・杜懐瑶の救援要請に応じ、高橋城の戦いで魏の二将を大破、斬首3000を数える。追撃に移り斜谷に入って董紹らを追い立てるも、西魏の相、 宇文黒泰より軍馬2000を送られて追撃を中止、互いに友好を結ぶ。 凱旋して仁威将軍に昇進した。広州・俚の陳文達兄弟が叛いたので、これを攻めて二人を共に擒らえた。 為政者としても有能で仁政を敷き、民衆は石碑を建てて彼の功徳を称えた。 散騎常侍、平南将軍、広州刺史とされるも、前任刺史の南安候に妬まれて毒殺された。 陳慶之とともに廉頗、李牧、衛青、霍去病らに匹敵する名将と称えられる。 ~3スレ目 204より~ 斛律光 525年-572年 高洋 529年-559年 侯景の乱に乗じて梁に出兵し、淮南を奪い、郢州で勝利した。 また西魏と争って江陵を奪った。 北伐して契丹・突厥・柔然など諸民族を破り、宇文泰を撃退し、その宇文泰に戦闘の才を讃えられる。 また楊[小音]ら学者を任用するなど内外に対して国制を整えた。 酒を好んで奇行が多く淫虐を好み、非常に才能のある人で、戦闘に強く、落ち着き払って大度ある君主で『資治通鑑』には、「高洋のころ周人つねに斉兵の西出を恐れて冬に河を守って氷を砕いたが、高湛のとき却って斉人氷を砕いて周兵に備うる」と記される。 ~3スレ目 262より~ 韋叔裕 高歓に包囲されたが、五十日の篭城戦の末にこれを撃退。 淮南を経略。尉遅迴の反乱を鎮圧。 ~3スレ目 214より~ 段韶 候補者(0名)
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/12.html
春秋戦国 確定者(9名) ◎楽毅 生没年不明 早期に確定入りして異論もなく目立った推薦・紹介文なし ◎楚の荘王(熊侶) ?~紀元前591年 国政を整備した荘王は周辺諸国を圧迫し、領土を広げた。 国を合併させること26、地を開くこと3000里。 陳の内乱に乗じて一時併合し、鄭を攻めて陳と共に属国化した。 邲の戦いで晋を撃破。 この戦い以降、晋は暫くの間低迷期に入り、楚の荘王の威光が天下を覆った。 王(しかも明君)でありながら自ら戦場に出て采配を振るった点を考慮して推薦したい。 (其ノ弐 457より) ◎白起 ?~紀元前257年 春秋戦国時代に白起を超える将軍はそうそういないと思われる (初代 235より) ◎李牧 ?~紀元前229年 対匈奴対策の創始者。グレイト。 (其ノ弐 343より) ◎王翦 生没年不明 王翦を超える統一貢献度の高い名将などいないといってみる (初代 207より) 王翦の凄いところは、水陸両面でオールマイティに采配を揮い、 君主の軍事的行動の要求に必ず応え、それでいて自らの生を全うさせたことだね。 (初代 212より) ◎呉起 ?~紀元前381年 我欲が強く好色だったが、部下に対しては公平で信頼を得た。 魏に仕えて秦の城5つを抜き、しばしば威名を挙げるも、 魏の宰相公叔に疎まれ楚に亡命。 悼王の信頼を得て百越を伐ち、三晋を退け、秦を撃って 生涯64戦12引き分け無敗の記録を残す。 悼王死後・・・については語る必要ないか。さっきも書いたし。 (生涯最後のときにまでただでは死ななかった。) (其ノ弐 352より) 南は百越を平定、北は陳・蔡を併合、三晋(韓・魏・趙)を撃退 西は秦を伐って楚を一大強国に伸ばし上げた。 生涯成績、通算76戦64勝12引き分け、負け無し、 軍中に於いての人心掌握もまさに完璧。 (其ノ弐 432より) ◎廉頗 生没年不明 恵文王から悼襄王まで、40年にわたって趙の宿将をつとめた大元勲。 恵文王のとき斉を破り、晋陽を取る。 孝成王のときには燕を破り、講和条件として5城を割譲せしめた。 蘭相如と深い友情で結ばれ、この二人がいるがために秦は趙を攻撃できないほどだった。 のち、長平の戦いで白起と対峙するも秦の流言に乗った王のために更迭され、第一線から退けられる。 王の信頼を得ることができず乱を起こして出奔、魏に投ずるも用いられなかった。 「再び趙の兵を率いたいものだ」と言い残して没。 (其ノ弐 353より) 四十年にわたって趙を守護した大元勲。若い頃は楽毅の五カ国同盟軍にも参加した (っけか? どーも確証がもてん) 蘭相如との刎頚の交わりで高名。廉頗と蘭相如が健在であるうちは 秦でさえうかつに趙を攻めることは出来なかった。 長平の戦いでもちびりちびりとやられつつも防備に専念、 白起ですらうかつに大攻勢を仕掛けることは出来なかった。 若造の趙括に更迭されたことに憤激するも、邯鄲防衛に尽力。 楚・魏の救援を得て趙は命脈を保つ。 長平で趙括が敗れた五年後、燕が趙を攻めるとこれを迎撃、主将栗原を殺し、 逆撃して燕都を囲んだ。和平の条件として五城を割譲させる。 さらに魏を撃って繁陽を攻め、ここを攻略するも孝成王が死ぬと後援者を失い、 楽乗ごときに更迭された怒りから一暴れして出奔、魏に亡命するも用いられなかった。 「再び趙の兵を率いて戦いたいものだ」と言い残して寿春で死んだ。 白起をてこずらせたことをはじめとする数々の武功、 悲劇的な晩年のエピソード。どっちも十分だと思うが足りんかな。 (其ノ弐 464より) ◎孫武 生没年不明 功績とその後 孫武は楚の需要拠点である舒と六の二都市を占拠。 慌てた楚は勇猛な武将に精兵を率いさせ反撃に出たが、孫武の作戦は一枚上手で逆に殲滅させる。 孫武が呉に凱旋すると占領地は敵に取り返されるが、孫武が出撃すると楚軍はいつも撤退。 そんなことを数年の間に五回以上も繰り返す。 闔廬七年、預章の戦いで孫武は楚の大軍を完膚なきまで打ち破り、楚の都、郢に迫った。 その為に楚の昭王は都を捨て楚の属国である隋に逃亡、呉軍はついに楚の国都、郢に入城。 その二年後楚が水軍を率いて呉領に侵入、それに対し孫武は水軍を編成、 長江で楚の水軍を大破させ楚軍は壊滅、敗残兵を長江北岸へ敗走させた。 次期君主の夫差の早々と器量を見切り、闔廬や伍子胥の説得を退け引退を申し出た。 それを承諾した闔廬はこれまでの功績に対し孫武に富春の領地を与えた。 それ以後、孫氏一族は代々富春で細々と兵法を教え暮らす。 以上、呉越春秋、左伝、戦国策より抜粋。 (其ノ弐 589より) ◎樗里疾 ?~紀元前300年 韓・趙・魏・燕・斉の連合軍を迎え撃ち、韓将申差を生け捕り、趙渇、韓奐を破り、八万二千の首を斬った。 曲沃、漢中を秦の版図に加えた。その他にもたびたび趙や魏と戦い、勝利した。 生涯不敗を誇り、「力は任鄙、智は樗里」と称せられた。秦の初代丞相でもある。 (其ノ弐 356より) 樗里疾(チョリシツ)は生来滑稽(円転自在)で、知恵はたくましく、秦人は彼を智嚢(ちえぶくろ)とあだ名した。 B.C.330樗里疾は右更(爵14等)に任じられ、魏の曲沃を討ち、 邑民をことごとく追い出し、その地を秦の版図に入れた。 B.C.318樗里疾は秦恵文君の命で、韓・趙・魏・燕・斉の連合軍を迎え撃ち、これと修魚に戦って、 韓将申差を虜にし、趙の公子渇、韓の太子奐を破り、首を斬ること八万二千に及んだ。 B.C.314樗里疾は魏の焦を攻め降し犀首を走らせ、韓の岸門を破り、首級一万を斬った。 B.C.313趙を攻め、趙将荘豹を虜にする。 樗里疾は甘茂を恵文君に推挙し、恵文君は甘茂を将軍に取り立てた。 B.C.312楚が韓を攻めたため、秦恵文君の命で韓を助けて楚を討ち、 魏章を輔佐して楚将屈カイを破り、漢中を取った。その功で封じられ、厳君と号した。 B.C.309秦が初めて丞相を置き、樗里疾は甘茂とともに丞相となり、右丞相に任じられた。 B.C.308樗里疾は韓に出て、韓の宰相となった。このとき戦車100乗を仕立てて周に入国した。 周王赧は護衛兵を出して迎え、すこぶる敬意を払った。 武王が没すると、昭襄王が立ち、樗里疾はますます尊重された。 B.C.306樗里疾は再び秦の宰相となった。 秦人の諺に「力は任鄙、智は樗里」というのがある。 (其ノ弐 538より) 候補者(3名) ○士会 生没年不明 通称范武子。濮城の戦いでは若年ながら帷幄に参与し、晋軍を勝利に導いた。 趙盾が政変を起こして霊公を立てると先蔑とともに秦に亡命、将となりしばしば晋軍を破って、 晋人を悩ませた。秦将賈季とともに西戎を撃って功あり。 晋には士会とまともに戦える将がなく、中行桓子の提案で彼を晋に引き戻す策を講じた。 いろいろあって(このあたり難しくて読めん)帰国するも、趙盾を嫌いこれを患う。 景公元年、楚が鄭を伐つと上軍の将として出陣、鄭を救う。 同三年、再び楚が鄭を犯したときには楚軍を覆滅して鄭を救った。 邲の戦いで晋軍は楚に大敗、さらに七度戦い七回敗れたが、 ただ一人士会率いる上軍だけは敗北を知らなかった。 七年、赤狄を撃破。周室の動乱を平定、周の典礼に倣い晋の国法を定める。 八年、郤克が斉に赴き、笑いものにされて帰ってきた。 その怒りは凄まじく、なにがあろうと斉人を討ち滅ぼさねば気がすまない、 という体であったので、士会は自ら上軍の将を降りて郤克に譲った。 その後も晋の重鎮として「晋に范武子在り。才徳諸卿に冠す」と称えられる。 権力に阿らず、人生における進退の潔さを特筆されている。 (其ノ弐 551より) ○魏の信陵君(魏無忌) ?~紀元前244年 自ら率いた兵で秦を2回も敗走させて、その内一回は 候補にも挙がってる蒙ゴウを破っています。 五カ国の兵をまとめるのも大変な統率力だと思いますよ。 (其ノ弐 590より) ○趙の武霊王(趙雍) ?~紀元前295年 胡服騎射と中山国を滅ぼしたくらいかね?あと北方に領土を拡げた。 武霊王の初期には趙は秦に負け続けなんだが、これはまだ幼君の頃だしな。 まあ、趙奢よりは有力な候補じゃないかと個人的には思う。 (其ノ弐 545より)
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/19.html
南宋・金・元 確定者(9名) 宗沢 岳飛 1103年-1141年 宣和年間に募兵によって参じる。 宗澤のもとに配属され、その勇猛さ、兵法、運用の妙を絶賛される。 宗澤が死んで後、汜水関において金将を討ち、その軍を大破。 精鋭300を伏せては金軍を夜襲し、潰走させる。 王善ら賊軍、合して50万には、わずか800で撃破した。 金の南下によって、高宗が逃げ回っている最中、金軍の後方にあって、その軍と6戦戦い皆勝ち、多くの将帥を捕らえた。 金軍が常州に再度やってきたときも4戦皆勝ち、清水亭での戦いでは敵の屍が15里にわたったという。 南宋が杭州を確保でき、政府として機能できた戦功の第一は岳飛。 これは張俊が奏上している。 華南の賊軍討伐に奔走したあと、襄漢を平らげ完顔宗弼の南下に伴いくだんの朱仙鎮の戦いで完顔宗弼を撃破し開封に追い返した。 朱仙鎮は開封から目と鼻の先だった。 結局開封奪回は、岳飛をおそれた金の謀略(と予想)と秦檜の横槍で実行できず。 民衆に慕われ、食料など進んで提供されている。 ~4スレ目 132より~ 完顔宗望(オリブ) 孟珙(キョウ) ?-1246年 伯顔(バヤン) 1236年-1294年 対宋戦にて総司令官に任命される。 その際、鄂州、常州、無錫、湖州などの都市を陥落させる。 南宋の都、臨安府を落とし、宋の恭帝ら皇族を捕縛。 南宋の武将、趙文義、范興を討ち取る。 南宋の宰相、賈似道を撃破。 ~4スレ目 42より~ 拖雷(トゥルイ) 1192年-1232年 阿朮(アジュ) 兀良合台の子、速不台の孫にあたる。 両淮を平定し、汴、臨安を陥とし、二十数州を降し、六十七県を支配した。23年、昔刺木の叛乱を平定に北伐し、翌年凱旋。 のち征西にも参加したが、まもなく病没した。享年54歳。河南王を追贈された。 阿朮は士兵に対して温厚であったが同時に厳格であり、部下が無辜の民を傷つけるのを厳しく禁止した。 ~4スレ目 50より~ 速不台(スブタイ) 1176年-1248年 察罕帖木児(チャガン・テムル) ?-1362年 字は廷瑞。 代々河南に定住するナイマン出身のウイグル人で、至正十二年に紅巾軍に対して自衛軍を結成。 李思斉とともに羅山の紅巾軍を打ち破り、朝廷に帰順して華北を確保し、その功により汝寧府達魯花赤に任ぜられた。また河北河南で幾度となく紅巾軍を撃破し、功により河北行枢密院事へと累進。 十七年には陝西に援軍として馳せ参じ、鳳翔で紅巾軍を撃破、関中を平定する。 十八年に軍を率いて京師に入りし、兵を晋南・太行の隘地に分屯させた。 陝西行省右丞・陝西行台侍御史・同知河南行枢密院事となる。 十九年、梁の大宋紅巾軍を攻め、開封を陥落させて紅巾軍の統一を崩壊させた。 二十一年、山東の紅巾軍の内紛に乗じて、兵を五路に分けて進撃し、田豊・王士誠らを降す。 二十二年、山東を転戦し益都包囲中の最中、田豊・王士誠に刺殺される。 ~4スレ目 191より~ 候補者(6名) 海山(カイシャン) 張弘範 郭侃 丞相史天沢に見出されその家で教養を学ぶ。知勇兼備し二十歳のとき百戸長となった。 金の伯撒が衛州を侵すとここを守り、大勝して敵軍4万を潰走させる。金主を襲い閼伯台を破った。 速不台の節度下に入り汴を攻め金の元帥・崔立を降す。のち再び史天沢の節度下に戻り太康に屯する。 フビライ即位後中国に戻る。国号を定めること、都城を修築すること、尚書省、御史台の設置、学校その他の創建、そして宋伐戦の方略などを上奏する。 宋伐戦の方略はやはり荊州、襄陽地方の攻略を要とするもの。中統二年、江漢大都督府理問官となる。 翌年、益都の李壇と徐州総管李杲哥の叛乱平定に出陣、李杲哥を殺す。南宋の夏貴が辺境を脅かすとこれを攻め破り軍民1万余を奪う。夏貴が3万の軍勢を率いて再度辺境を騒がすとこれを迎撃、1千余を斬り殺し、戦艦2百艘を奪った。 至元五年、呉乞児と道士・胡王の乱を平定、七年、改めて白馬に駐留して僧侶・臧羅漢、彰徳の趙当驢の叛乱を鎮める。 功績により万戸長。阿朮の襄陽攻めに従軍、襄陽・樊城が落ちた後、長江を渡って江南を平らげた。 寧海州の知州とされる。功績により千戸長とされた。 ~4スレ目 47より~ 阿里海牙(アリハイヤ) 張俊 南宋の高宗の時代にに活躍した武将。字は伯英。 元匪賊で朝廷に帰順後、抗金戦にて戦功を立て岳飛、韓世忠共に抗金の三大将軍に数えられている。 苗伝・劉正彦が乱を起こすと、韓世忠・呂頤浩らとともに鎮圧。 建炎元年、御営司統制官となり、三年には明州城を守り、金兵の来攻を阻止し、高橋にて勝利する。 その後、完顔宗弼が大軍を率い南下してくると、城を放棄逃走。 紹興初年、江淮招討使に任命される。 各地にて叛乱を鎮圧し、叛将李成を討つ。 紹興五年、淮西を宣撫し、斉の劉猊を打ち負かす。 十年には、部将の王徳を北上させ、亳州に勝利するも、高宗・秦檜の意を迎えて軍を引き帰させる。 紹興十一年、劉?・楊沂中と合流して、淮西を援護し、柘皐で金軍を破った。 同年には和議に賛同し、軍権を返上し、枢密使に任ぜられる。 晩年には清河郡王に封ぜられ、太師に上っている。 高宗に寵愛され、死後に循王に追封される。 優れた戦術家だったものの利に敏い処があり、将兵の略奪を禁止しなかったり、劉?を排斥や後に秦檜と結託し岳飛を讒言して逮捕の要因を作った。 ~4スレ目 172より~ 拡廓帖木児(ココテムル)
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/14.html
新・後漢 確定者(9名) ◎劉秀 紀元前6年-57年 後漢の光武帝、廟号は世祖 紹介・推薦文上がるまでもなく確定したが、一時確定から外す議論もあった 思いきって光武帝を外してみるのはどうでしょうか? 確かに昆陽の一戦等でみられるように光武帝は優れた将ではありますけど 全国統一の過程における功績は配下の将達の貢献が大きいと思うし 呉漢や馮異等を選出しておけば敢えて光武帝自身をランクインさせる必要も無いかなと その案、いいかもしれませんね。 劉秀自身も有能な将なのですが、雲台28将を 上手く使いこなした、名君として扱い、あえて外してみる提示案を みんなで検討してみるのも一つの手だと思います。 しかしなぁ… 皇帝に即位した後も、賈復や馬武らよりも真っ先に敵陣に斬り込み、 敵兵を斬りつつ陣頭指揮するあたり、項羽を彷彿とさせる統帥ぶりを発揮しているしなぁ… これは劉邦や劉備らと違い、紛れもない名将の証明なんだけどなぁぁ (其ノ弐 845、846、847より) ◎馮異 ?~34年 光武帝の挙兵後、潁川で配下に加わり多くの苦労をともにする。 兵士の信頼の厚く、読書家で春秋左氏伝、孫子に通じ兵法に明るく、 温和な性格で、兵士に戦場以外では他の部隊の後ろにいるように命じていた。 また軍の規律が高く、掠奪行為をしなかったため敵にも慕われ、 投降した兵士たちは馮異の部下になりたいと願ったほど。 戦功を立てたが、謙虚な人柄で決して自分から発言せずに 一人離れて大木の木陰に座って休んでいたので、大樹将軍とあだ名された。 戦歴としては偏将軍として河北で戦い、孟津将軍として河内を守っている。 河内にて寇恂らと蘇茂を大破し洛陽に迫り、 陽夏侯に封じられ、七尺の宝剣を賜る。弘農郡を降伏させる。 征西大将軍となり、禹に代わって赤眉と戦いこれを破る。 延岑と戦いこれを討つ。 公孫述の将軍程焉と戦い破り、その為咸陽王と呼ばれた。 隗囂の将軍行巡と戦いこれを破り、隗囂と隗純を撃退。 公孫述の将軍趙匡と戦い斬るも陣中にて没する。 人柄の良さ、古典・兵法に精通、且つ戦上手、光武帝の腹心中の腹心で軍師格。 馮異こそ名将の鏡だと個人的には思う。。。 (其ノ弐 871より) ◎呉漢 ?~44年 目立った紹介・推薦文上がらず(岑彭との比較) ◎耿弇(エン) 3年~58年 字は伯昭。生来学問を好み、上谷太守にして黄老の学を修めた父・況に学んだ。騎射を 見てこれに傾倒し、将帥の道を歩む。 劉秀が廬奴にいると聞くとはせ参じて拝謁し、「漁陽太守は南陽宛(劉秀の地元)の人、 上谷の太守はわが父です。この二郡から騎兵1万人ずつを発せば、邯鄲なぞ恐るるにたり ません」と進言、劉秀は「君は北道のよき案内役だ」と笑うもたまたま薊で乱が起こり南征。 耿弇は上谷に帰って父に進言、寇恂、景丹らとともにそれぞれ騎兵2千、歩兵1千を率いて 出陣、漁陽の兵と合流して南進し、王郎の大将、九卿、校尉以下4百余を斬り、兵卒3万人の 首級を挙げた。涿郡から河間の22県を平定し、劉秀に再閲。劉秀は大いに喜び、将帥らに 「まさに上谷、漁陽の士大夫とこの大功をともにすべし」と発破をかけて邯鄲を抜いた。 偏将軍を叙す。父・況は大将軍・興義候とされた。 更始帝が劉秀の勢力拡大をおそれ、軍を解除して召し戻そうとしたとき、劉秀に「弇願わくは 幽州に帰り、益々精兵を発して以って大計をなさん」と述べて劉秀自立の覚悟を決めさせた。 劉秀は幽州の全兵力を発して南進し、耿弇は常にその先鋒を務めて銅馬・高湖・赤眉・青犢を 破った。尤来・大槍・五幡を追撃、呉漢ら12将軍とともにこれを追い、ついに平谷でこれを 大破、首級3万余を挙げる。劉秀即位後、建威大将軍とされた。驃騎大将軍景丹・強弩将軍陳俊 らとともに厭新将軍劉茂を破って降す。建武3年(27)、延岑・杜弘の軍と戦って大勝。斬首 三千余、将士50人を生け捕りにし、杜弘を投降させた。5年(29)、呉漢とともに富平、獲索の 賊を討ち、降るもの4万余という大勝を飾る。 詔を受けて張歩を撃ち、虚報と謀略(ホントはここが耿弇伝のキモなんやけど、割愛)とを駆使して 大いにこれを破る。光武帝は自ら車賀でこれをねぎらい、「その功は韓信よりも高い」と絶賛した。 耿弇はさらに張歩を追い、投降させ、ついでに五校の残党も平らげて、斉の地を悉く平定した。 生涯に平らげた郡は46、陥とした城はおよそ300。一度の敗戦すら経験することがなかった。 建武13年(37)、大将軍を辞めて政治顧問となり、“四方の異議あるごとに、すなわち 召し入れて籌策を問われた”らしい。永平元年(58)年、56歳にして没。謚は愍。 情報戦の巧妙さと寡を以って衆を破る精緻な用兵は雲台28将の中でもトップクラス。また、 戦時が終わって文治の時代が来ると剣を書に持ち替えて政治顧問となる適応力の高さも推薦理由として挙げたい。 (其ノ弐 854より) ◎樊崇 赤眉軍の実質的な指導者。勇猛で名が知られ、決起後、すぐに数万人の勢力をつくる。 新軍を各地で破り、太師・王匡率いる新の大軍にも勝利をおさめ、新の権威を地に落とした。 その後、緑林の更始帝に降伏するが離反。長安を目指して進軍する。 その過程で更始帝軍に連戦連勝した。兵が集まり、三十万に達する。 ここで読み書き、計算ができない樊崇は劉盆子を立て、自立し、御史大夫となる。 その後、ついに更始帝を降伏させ、長安を占領する。 だが、政務が乱れ、統治ができず、食料が足りなくなり、長安の西を攻める。 略奪を繰り返し、その際、兵を大勢、凍死させる。 その時、光武帝配下の鄧禹が長安に来て、公称百万の大軍で攻めかかるが、これを大破する。 再び、長安を手に入れ、南にいた延岑を討伐させるために、 副将格の逢安に十数万の軍で攻めさせる。 その虚を鄧禹が再び攻めるがまた撃破する。 逢安は敗れて逃げ帰り、長安は食料が全くなかったため、二十数万を率いて東に帰る。 途上、鄧禹にまた襲われるがまた撃破。しかし、馮異に敗れる。 退路を自ら来た光武帝と耿エンに阻まれ、やむを得ず降伏する。後に謀反をおこして処刑される。 ポイント (1) まだ、有力な山賊に過ぎなかった頃、新の官軍を精鋭をうち破っている。 新の与えた打撃は光武帝にも匹敵する。 (2) 武将としては弱くはなかった(一応、天下はとった) 更始帝陣営の武将たちを破り、更始帝を降伏させている。 更始帝陣営に内紛を起きていたが、その原因を作ったのは赤眉軍自身の勝利である。 (3) 内政では失敗しているが、『名将』としてなら大きな減点にはならないはず。 それより、光武帝二十八将の筆頭・鄧禹を三度も破っているのは大きい。 鄧禹はこのせいで名将としての評価は低いが、 凡庸ならば、光武帝がここまで重任を担わせるはずはないと思える。 鄧禹は馮異たちの劣らぬ武将であった可能性もありえる。 少ないとも良将ではあったのではないか。 それを不利な状況で三度も破ったのは賞賛に値する。 (4) 部隊が寄せ集めの雑軍である。これを数十万を統率し、 戦いにおいては勝利に導いているのは評価できる。 (其ノ弐 857、858より) ◎班超 32年~102年 目立った紹介・推薦文上がらず ◎段熲(ケイ) 泰山、琅邪の賊の東郭竇、公孫挙三万余人を 大いに破って斬首すること万余、これを鎮圧した。 焼当、焼何、当煎、勒姐等の八種羌が隴西、金城を侵したため、 一万二千騎を率いてこれを撃破。首二千級を斬り、捕虜数万を得た。 羌が張掖を侵すと、大帥を斬り、千六百人を殺し、さらに首三千余級を斬った。 勒姐、零吾種が允街を囲んだため、救援に向かい、数百人を斬った。 羌五六千人が武威、張掖、酒泉を侵すと、護羌校尉となって三千余戸を降伏させた。 万余の兵を率いて勒姐種を撃破し、その酋長を斬り、四千余級の首を得た。 復た勒姐種を撃ち、四百余級の首と二千人の捕虜を得た。 当煎種を湟中で撃ち、首級数千を得た。 西羌と戦って斬首すること二万三千級、捕虜数万、家畜八百万頭を得て、 万余戸を降伏させた。 (其ノ弐 891より) ◎馬賢 ?~141年 護羌校尉、弘農太守として141年に戦死するまでの間、先零羌の叛乱平定を皮切りに 20年以上にわたって三輔地域から涼州にかけての諸羌の叛乱を討伐し続けた (皇甫規、張奐、段ケイよりも戦績は凄いと思う) 主な戦績 三輔、益州を領有し趙魏に国境を接していた、零昌(シ眞零の子)率いる先零羌の別種を 任尚の指揮下で大いに破り、三輔、益州を快復する 馬賢派遣前に、羌族鎮圧に任じられていた鄧隲、任尚率いる官軍は先零羌に手も足も出ず 河東、河内まで侵入を許してしまう体たらくであったが 馬賢派遣以降は一挙に反撃に転じ、先零羌を遂には瓦解に追い込んでいる またその任期中に、隴西、安定、北地、上など、諸郡を諸羌から快復している まあ、戦死がマイナスか (其ノ弐 840より) ◎曹操 155年~220年 目立った紹介・推薦文上がらず 候補者(2名) ○岑彭 ?~35年 信義を守る義士で、規律高い軍隊を率いて電撃戦を展開、秦豊を滅ぼす、 呉漢が隗囂に破れた際には殿軍として奮戦、公孫述討伐に活躍した。 その軍の規律は高く兵士は精鋭、行軍速度が速く、 長駆敵の予想しないところにあらわれて攻撃し、数倍の敵を打ち破った。 (其ノ弐 979より) ○周瑜 175年~210年 孫策が暗殺され、その遺言で孫家陣営の軍事責任者となる。 赤壁の戦いに於いて曹操の南下を受けると抗戦を主張し、それが決まると全権を委ねられた。 水軍に長けている孫権軍の長所を最大限生かし、 曹操軍を完全に押さえ込み、曹操軍の軍船を焼き払う。 この戦いで、初めて曹操を撃退した武将として天下に轟いた。 江陵を攻め曹仁・徐晃らを撃破。牛渚の合戦、呉郡の戦い、黄祖討伐に参戦。 (其ノ弐 979より)
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/16.html
隋唐 確定者(10名) 楊素 ?-606年 李世民 598年-649年 李靖 571年-649年 李勣 594年?-669年 裴行倹 薛仁貴 郭子儀 697年-781年 李光弼 李克用 856年-908年 史思明 ?-761年 候補者(2名) 李晟 李愬
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/18.html
五代十国・北宋・遼 確定者(10名) ◎李存勗 885年-926年 幼名、亜子。唐朝廷から晋王に封ぜられ、河東節度使に任じられた李克用の息子。後唐荘宗。 西暦907年、唐帝国を宣武軍節度使の朱全忠が簒奪し、代わって後梁国を建国した。父・李克用はその前年からも朱全忠と敵対していたが、病床に臥し朱全忠討伐を李存勗に遺言した。李存勗はそれを守り、後梁討伐のため出兵する。 ながらく後梁軍に包囲されていた潞州を先制攻撃で救出したことを手始めに、各戦線で後梁軍に連勝する。後梁皇帝・朱晃(朱全忠)をして「子を持つならば、李亜子のごとくあるべし。我が子など豚か犬」と嘆かせた。 後梁との戦線が一旦収まると、李存勗は矛先を転じ、幽州、滄州を得て大燕皇帝と称していた劉守光を討った。そのうちに後梁皇帝・朱晃は崩じ、後梁には揺るぎが生じた。後梁から離反した朱友謙を援護した李存勗は、後梁の大将・康懐貞を撃破し、魏州に軍を進め、ここにて後梁の名将・劉鄩と対決する。 晋陽を直接狙った劉鄩は、長雨のためやむなく退却し、貝州にて持久の構えを取った。それに対し李存勗は偽退却によって劉鄩をつり出し、突出したところを三方からの挟撃でこれを大破した。 李存勗は魏州の精鋭「銀槍効節都」を己が親軍に編入し、さらに軍を進め、西暦918年、黄河南岸に渡り、麻家渡から胡柳陂に出た。後梁軍は賀瓌を大将とし迎撃させた。 「胡柳陂の戦い」は両軍ともに総力戦となり、最終的には晋王軍が勝利したが、大将の周徳威を失うなど、犠牲も多大だった。そのため、数年は後梁に対しての攻勢は一進一退となったが、鎮州の騒乱を鎮め、ようやく西暦923年魏州にて皇帝即位を宣言したので、ここに後唐国がはじまった。 同年、後梁の大将・王彦章を撃破して、ついに後梁を滅ぼしたのである。 洛陽に都を置いた李存勗は唐制への回帰と伶人(芸能人)をそばに置き、狩りや演劇に熱心となり、また唐末期の害悪であった宦官を復活させ、その讒言によって建国の功臣たる郭崇韜を殺すなど、明らかな失政がめだった。さらに建国後、親衛軍を冷遇したため、それが昂じて鄴都において李嗣源擁立という事件が発生した。西暦926年流れ矢に当たった李存勗は、「水、水」と言って息を引き取ったという。 ◎柴栄 921年-959年 ケイ州竜岡県の新興地主層出身。父は柴守礼、叔母は後の後周太祖郭威の夫人、諡されて聖穆皇后といった。 沈着にして寡黙な人となりで、秀でた容貌をしており、騎射をよくし、史書に通じた。 後唐荘宗が斃れて明宗がたったおり、荘宗の後宮に入っていた聖穆皇后は明宗により故郷へと帰された。その帰路、風体みすぼらしい郭威が通り過ぎ、その首元にあった雀のかたちをした黒子が目を引いた。それが貴人の相ということで、聖穆皇后はさっそく結婚した旨を告げたが、父である柴翁はあきれて「お前は皇帝の後宮に入っていた身分なのだから、相手は節度使こそ相応しいというのに、あんな貧相な男がいいとはなんとした」と反対したが、聖穆皇后は押し切って郭威と婚姻したという。 二人の間に子があったかなかったか、聖穆皇后は実兄柴守礼の子をいたくかわいがっており、養子に迎えることとした。これが柴栄である。当時郭威はまだ侍衛親軍(禁軍)の下級武人だったので家は貧しく、ために若い頃の柴栄は行商人に連れられて各地を旅し、郭家の家計を助けた。一方で、聖穆皇后の教えを受け、学問や兵法の勉強に励み、騎射を習った。郭威は家が貧しいにも関わらず酒の量を控えることができず、いつも家計を圧迫しては聖穆皇后にたしなめられたという。その聖穆皇后が若くして死去して後も、柴栄は郭家の子として残った。ひとつには、当時の社会現象だった仮子制度の影響と思われる。 郭威について。(後唐明宗期、ベン州において朱守殷が挙兵したおり、石敬トウに侍衛親軍の指揮権が与えられ討伐の任がくだされた。そのとき郭威は石敬トウらと面識を得、特に劉知遠と親交をもったと思われる。後、後晋朝が始まってすぐギョウ都留守の范延光が挙兵したとき、討伐の任には楊光遠を充て、その麾下に郭威は配属される人事となっていたが、「楊光遠ではおれを使いこなすことができない。それができるのは劉公(劉知遠)だけだ」といって断ったという。やがて劉知遠は太原に出鎮することになり、郭威はそれに従った) やがて劉知遠が即位し後漢が開かれると、郭威は累進して枢密使となり、柴栄もその麾下にあって左監門衛大将軍とされ、郭威軍閥の中核を任された。後漢隠帝期、功臣の勢力を恐れた隠帝が郭允明、後匡胤、李業らとはかって郭威や柴栄の家族を皆殺しにし、郭威らをも亡き者にしようと企んだので、郭威は魏において起ち、軍を率いて後漢を滅ぼし、広順元年(951)1月、後周が建国される。 後周朝が開いても、柴栄はセン州にて北への備えの任にあり続け、養子でありながら京師に上ることは許されなかった。それは郭威が、もと同僚で兄と慕う枢密使・王峻の意向を拒否できずにいたからだといわれる。王峻は柴栄を警戒しており、理由をつけては上京を許さなかった。 このセン州節度使時代、柴栄は前妻を後漢隠帝によって殺されたので、後妻を迎えた。それが有力節度使、符彦卿(李存審の四男)の娘、符氏、後の後周宣懿皇后である。また柴栄の治める領内は常に静粛で盗賊も出没しなかったという。 驕った王峻は、やがて郭威により左遷され、ようやく都入りした柴栄は開封府尹として手腕を発揮し、顕徳元年(954)1月、郭威の死を受け即位した。後周の世宗である。 即位早々の不安定を衝いて、北漢が攻めてくると、廷臣の反対意見を押しのけて自ら軍を率いて親征した。澤州高平において激突した後周軍と北漢軍は、後周軍の右軍が敵前逃亡するに及んで北漢の優勢となった。《五代史補》「世宗誅高平敗将」によれば、このとき優勢で安堵した北漢の皇帝劉崇は、本陣で部下と酒を飲んでいたところ、50騎ほどを従えた柴栄に本陣に乗り込まれたと書かれている。それを見た趙匡胤は兵を揃えて突撃し、目覚しい活躍をしたので、北漢軍はたまらず潰走したのだった。 北漢の名将・張元徽を討ち、必敗を覆した柴栄は、その勢いをもって北漢討伐に移ったが、北漢を助勢した契丹軍と補給不足に悩まされて撤退に追い込まれた。 顕徳2年(955)5月、後蜀に獲られていた秦、鳳、階、成の四州を奪還するため、向訓と王景を遣わした。後蜀将・李廷珪らのために攻略戦がうまくいかず、撤退の気運が高まったが、柴栄はさらに韓通を援軍として派遣し、趙匡胤をして攻撃強化命令を伝えさせた。 そして同年11月、南唐の勢力を殺ぐため、淮南攻略を発動した。枢密使・李穀を先鋒にして電撃的に淮河を越えさせた柴栄は、禁軍大将・李重進を急行させ、南唐将・劉彦貞を撃破し、趙匡胤をもって清流関~ジョ州の皇甫暉を討たせた。また韓令坤を揚州に向わせ、寿州以外の淮南主要部を手中にしたが、肝心の寿州の劉仁贍が粘り、年が明け、やがて雨季となったので、南唐軍の反撃が強化された。 一旦開封に戻った柴栄は、翌顕徳4年(957)2月、急建造した闘艦を中心とする新水軍をもって再び淮南にたった。自ら甲冑を着込んで陣頭指揮し、紫金山に陣取る南唐軍5万のうち4万を壊滅させた柴栄はその勢いで寿州城もついに陥とした。再び開封に一旦帰り、同年10月には三度淮南にたった。 南唐の各所の抵抗をすべて排して揚子江の制水権をも手中にし、南唐をして国号、帝号を去らせ、従属国とすることに成功したのだった。顕徳6年(959)3月、たびたび侵略してくる契丹、北漢軍を叩くため、燕雲十六州に対して親征をおこなった。北伐に水軍をもって臨んだ後周軍に契丹軍は驚き、風を望んで降るものが相次いだ。益津関、瓦橋関の抵抗を粉砕して、瀛、莫2州を回復した柴栄は幽州を指呼の間に臨んだが、病を発して斃れた。開封に帰還し、同年6月19日、39歳にして世を去った。諡号は睿武孝文皇帝、廟号は世宗。 ◎趙匡胤 927年-976年 ◎楊師厚 ◎狄青 ◎李存審 ◎狆(チュウ)師道 ◎楊延昭 ◎李継遷 ◎耶律徳光 902年-947年 候補者(0名)
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/26.html
sfくいはskじゃsdsdsdfcsad