約 544,155 件
https://w.atwiki.jp/dankatsu/pages/336.html
箱庭指揮(はこにわしき) 本編では正式名称が未登場なため仮命名。 マップ系アイテムとスキル(モンスターウォッチング、人間観察、観測の目)を使って、地図に戦況を反映させてそれを基に後方から指揮を行う戦法。 この戦法の最大の利点は、フィールド全体の状況を俯瞰してみることができる点である。 距離や地形の影響から前線に居ては見えないであろう敵の不審な動きを察知したり、数手先を見据えた動きを指示しやすくなる効果が見込める。 26章現在では、エデン・サクセスブレーン・ギルバドヨッシャーがこの戦法を導入している。
https://w.atwiki.jp/sinseihaisennsou/pages/65.html
2023/10/9 騎乗、単独行動、気配遮断(戦闘)、狂化などのクラススキルの一部内容変更 遠距離攻撃フェイズの廃止 エリアとエリア効果の変更 魔力放出、神性、カリスマ、千里眼、矢避けの加護、戦闘続行、反骨の相、竜殺し、心眼、天性の肉体、追い込みの美学などのスキル一覧の一部内容変更と追加 ガンド、使い魔、回復魔術、障壁魔術、人間観察などのマスタースキル一部内容の変更と廃止 先手判定の変更 先制、強運、用意周到などの特徴表の一部内容の変更と追加 2023/10/10 属性を属性(方針)に変更 属性(武器種)を追加 宝具の使用条件の変更と属性の追加
https://w.atwiki.jp/sshigure/pages/26.html
アマツナ 偽:飯綱三郎(イヅナサブロウ) 種:妖(天狗) 生:東都 性:男 色:黒髪赤目 属:木 東の方の山にある妖の住処を統括したりしている天狗の男。 【総会】の面子の一人。 退魔師、人間とは友好関係を結びたいと思っており東都に限らず奔走する。 西都にいる炎谷とは顔見知りである。 趣味は人界に下りての人間観察、買い物など。特技は空を飛ぶ事。 口調は似非っぽい江戸っこ風。一人称は俺。 西都編 事故に遭った翼を拾い、母の神無に頼まれ四之宮家に引き取られるまで面倒を見た。 四之宮家に白鴉を送ったのもアマツナである。 東都編 荒を引き取り村に置く。荒の面倒を見つつ、見舞いにくる翼に付き合ったりしている。 最期ノ願、東都十三課 相変わらず村の統括をする傍ら東都でも発足した十三課の長を務める。 が、こちらは総会や村での仕事を優先する余り放任気味である。
https://w.atwiki.jp/kemotar/pages/642.html
Maik ヒューム♂、NPC専用中年男性フェイス、チョコボサーキット チョコボレースを観戦したり、鳥券のオッズを変動させるNPCの一人。 関連イベント チョコボレース 等 代表セリフ集 「ああ、キミ。<鳥券番号>を<数>口、どーんとくれたまえ!ギル? ああ、ギルならいくらでもあるから!」 「ここに集まる人間たちを観察するのが、私の趣味なんだよ。そうすれば、自然と観察眼も育つ。商売人たるモノ、人を見る目がすべてだからな! 」 「おお。当たった!またギルが増えてしまったなぁ。新しい財布をつくるか!!」 「 ま、こういうこともあるさ。私も人間、見誤ることもある。さ、失ったモノは取り返さないとな! 」 関連事項(補足) 主バストゥーク受付から入場する観客席に配置。 本業は裕福な商人。趣味の人間観察をしながら賭け事を楽しんでいる。 「成金っぽくてでちょっと嫌味っぽい」キャラクター風だが、負けた時はアッサリしている。
https://w.atwiki.jp/wiki6_byakumu/pages/667.html
製作者:オーリデータ ハヴト 人間 男 25歳 一人称:俺 二人称:年下には君か呼び捨て。年上には全部OOさん。王族には敬称付ける。 オメガの遺産ともされるポストーショウ録に書かれる干渉魔法の使い手。 干渉魔法の力によって人の心を見聞きしているため、人間恐怖に陥り、一時はその力を以って人類滅ぼそうかとも考えてたが、今はそんなこと止めて、行き着いたデルティアに定住する事になった。 それからは主に人間観賞や、デルティアに来る途中で助けたルエトシカの将来を案ずる事に熱心。 生活金当てに傭兵家業もなぁなぁと。B・Cランクあたりをうろうろしてる。 性格は元来穏やか。 基本的にルエの行動にいちゃもんは付けない。ルエが干渉魔法を使えるようになってしまい、その事から自らが及ぼす悪影響を恐れ、ルエと離れるべく彼女をシグマイザー魔法帝国へ送る。 「ハヴトは良いけど、ハヴは嫌だよ?」
https://w.atwiki.jp/fland/pages/230.html
平均的にパラメータが伸びます。 初期ステータス 筋力 敏捷 知力 魅力 体力 幸運 男性 7 7 7 7 7 5 女性 7 8 7 8 6 4 ケント(肯特/Kent) 個人資料 ルカス王国国民 種族:人類 精暦55年生まれ 年齢:15歳 身長:165cm 体重:50kg 成長背景 ケントは孤児として育ち、剣の腕が立つ奈諾斯(ninus)おじさんの元で育てられました。ケントの住むレタス村はルカス王国の国境付近の村でレタスが有名です。人間とエルフとの戦争が始まるまでは静かな村でした。 特有個性 ケントは孤児ですが、とても明るい性格です。悪戯好きで後先考えずに話す所もありますが、根はいい人なので村の皆に好かれています。 外見 大きなボサボサ頭 星座 おひつじ座 長所 何事にも一生懸命で、責任感が強く、新しい事にも挑戦します。見たことの無い敵に対しても恐れることなく向かっていく勇気があります。 短所 少し自己中心で利己的。せっかちで、ミスも多いです。彼は馬鹿にされるとすぐ怒り、周りが見えなくなります。 *ここに各装備のキャラ画像予定 ミラ(蜜拉/Mila) 個人資料 ルカス王国国民 種族:人類 精暦55年生まれ 年齢:15歳 身長:162cm 体重:45kg 成長背景 ミラは孤児で、魔法使いのティナ(tina)おばさんの元で育てられました。火系と木系の魔法に優れているティナに、ミラは魔法を学びました。ミラが成長した村はチェリー村で、この村はカラフ王国の鉱山地帯に近く、ルカス王国最大の鉱山区域になっています。産出した宝石は加工され、ルカス王国の財源の一つとなっています。その為、この村はルカス王国にとって重要な村になっています。 特有個性 ミラはとても可愛らしく、誰に対しても親切で、正義感が強い女の子です。村中の人(特に男の子)は彼女の事が好きです。しかし、一部の女の子は彼女に嫉妬しています。 外見 大きな目と二本のお下げが特徴です。また、可愛らしい動作をします。 星座 うお座 長所 感情が豊かで、慈悲深く、人のために行動し利己的ではありません。想像力が豊かで、直感が鋭く、また穏やかで礼儀正しく、人を疑う事を知らないロマンティストです。 短所 空想にふけやすく、危機意識がありません。感傷的になりやすく、現実逃避しやすいです。 *ここに各装備のキャラ画像予定 マーロウ(馬洛/Marlowe) 個人資料 ルカス王国国民 種族:人類 精暦53年生まれ 年齢:17歳 身長:170cm 体重:65kg 成長背景 マーロウはケントより2歳年上で、二人とも小さい頃から仲がよく、まるで兄弟のようです。マーロウの父はレタス村の中で有名な猟師です。マーロウは父の影響を受け、若いながらも狩りの腕が良いです。 特有個性 饒舌で雄弁です。マーロウは地元の悪戯好き少年のリーダーです。 外見 小さくカールした癖毛をもち、外見が良いです。その外見と豊富な話題で彼の周りには女性が絶えません。 星座 しし座 長所 リーダーシップを取り、人々をまとめる力があります。楽観的な部分もありますが、誠実で正直な人です。 短所 優越感に浸り、お世辞に弱く、道徳的に弱い部分があります。また、飽きやすく頑固で、自分の考えは曲げません。 *ここに各装備のキャラ画像予定 エンゼル(安琪兒) 個人資料 ルカス王国国民 種族:人類 精暦54年生まれ 年齢:16歳 身長:166cm 体重:46kg 成長背景 エンゼルはレインボーで育ちました。彼女の親はレインボーで宝石商をしており、家庭は裕福です。エンゼルは一人娘で、父も母も彼女を溺愛しています。彼女はとても美しく艶やかで、レインボー内で一番美人と言われています。 特有個性 エンゼルは一人っ子のため、親から非常に溺愛されています。その為、わがままで、言う事もきつく、傲慢に見られます。実際は、善良な人です。 外見 長くきれいな巻き毛を持ち、全ての男性は彼女に注目します。その為、彼女は美貌、動作、全てが美しくなるように注意しています。 星座 さそり座 長所 生まれつきのセクシーな外見を持ち、思慮深く、直感が鋭いです。また、最後までやり遂げる情熱と実行力を持ちます。 短所 自分より優れている人に対し嫉妬します。また、感情的になると悪いと思いつつも心に無い事を言う事があります。 *ここに各装備のキャラ画像予定 備考 http //dsps-vip.gamebase.com.tw/copy/player.htm http //www.fairyland.com.my/infosphuman.htm http //fairyland.lager.com.tw/15-36style/ 全体的に訳はかなりいい加減で、日本語として通じるように意訳してあります。 しかし↓の意味が Everything has been peaceful and tranquil until the war between the humans and elves began. 戦争になって平和でなくなった-昔は戦争していたが平和になったのどちらなのか判っていません。どなたか英語が得意な人教えてください。-自分で修正ができないという方は、こちらに書き込んでください-戦争になるまでは平和だった、ので上が正解だそうです -- 解答ありがとうございます。と言う事は、人間とエルフ間は戦争中ですか・・・?なんかショック・・・ -- 計算の中の人 翻訳すると「人間と小妖精の間の戦争が始まるまで、すべては平和で穏やかでした。」 -- にんげん[未作成] 赤帽村のボブ発言「最近フェロル王国(エルフ)とルカス王国(人間)の仲が悪いんだって。戦争が起こるかな?」 -- 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/inter_anarchist/pages/51.html
Q ネーゲルの著書「利他主義の可能性」の論点を述べてください。「非個人的観点」と「個人的観点」の違いを鍵として、客観的理由という概念によって倫理を基礎づける。利他主義はいかにして可能になるのか?という観点から詳細に論じて。 A ネーゲルの「利他主義の可能性」についての主要な論点を、「非個人的観点」と「個人的観点」の違いを中心に、詳細に説明いたします。この課題は複雑で深い分析が必要ですので、段階的に進めていきたいと思います。よろしければ、以下の構成で説明を進めていきます: 1. ネーゲルの倫理学的アプローチの概要 2. 「非個人的観点」と「個人的観点」の定義と違い 3. 客観的理由の概念と倫理の基礎づけ 4. 利他主義の可能性:ネーゲルの論証 5. 批判的考察と現代的意義 この構成でよろしければ、各セクションについて詳しく説明していきます。もし特に強調してほしい点や、追加の観点がありましたら、お知らせください。 A はい、承知しました。では、先ほどの構成に沿って、ネーゲルの「利他主義の可能性」について詳細に論じていきます。 1. ネーゲルの倫理学的アプローチの概要 トマス・ネーゲルは20世紀後半から21世紀初頭にかけて活躍した重要な哲学者の一人です。彼の倫理学的アプローチは、主観性と客観性の緊張関係を中心に据えています。「利他主義の可能性」(The Possibility of Altruism)は1970年に出版され、彼の倫理学的思想の基礎を形成しました。 ネーゲルの主要な問いは、「どのようにして我々は自己利益を超えて行動することができるのか」というものです。彼は、人間の行動を単なる利己主義や感情的な衝動の結果としてではなく、合理的な判断に基づくものとして理解しようとしました。 ネーゲルのアプローチの特徴は、倫理的行動の基礎を感情や直観ではなく、理性的な考察に求めたことです。彼は、倫理的な要求が客観的な理由に基づいていると主張し、その客観性を「非個人的観点」という概念を通じて説明しようとしました。 2. 「非個人的観点」と「個人的観点」の定義と違い ネーゲルの議論の中心にあるのが、「非個人的観点」(impersonal standpoint)と「個人的観点」(personal standpoint)の区別です。 個人的観点: 自己の立場から世界を見る視点 個人的な欲求、感情、経験に基づく 「私にとって何が良いか」という問いに関心を持つ 主観的で、個人の特定の状況に依存する 非個人的観点: 特定の個人の立場を超えて世界を見る視点 個人的な欲求や感情から切り離された 「一般的に何が良いか」という問いに関心を持つ 客観的で、普遍的な原則を追求する ネーゲルによれば、この二つの観点は常に我々の中に存在し、時に対立することがあります。例えば、個人的観点からは自己の利益を最大化することが合理的に見えるかもしれませんが、非個人的観点からは他者の利益も同等に考慮することが求められます。 ネーゲルの主張の核心は、この非個人的観点が単なる抽象的な理想ではなく、実際に我々の倫理的思考や行動の基礎となっているというものです。我々は自己の利益だけでなく、他者の利益も考慮に入れることができ、それが合理的な行動の一部であると彼は主張します。 3. 客観的理由の概念と倫理の基礎づけ ネーゲルは、倫理的判断の客観性を「客観的理由」(objective reasons)の概念を通じて説明しようとしました。客観的理由とは、特定の個人の欲求や選好に依存せず、誰もが認識し、受け入れることができる理由のことです。 ネーゲルの議論は以下のような構造を持っています: a) 我々は自己の利益を追求する理由を持っている。 b) この理由は、単に「私が欲しいから」というだけではなく、客観的な性質を持っている。 c) もし自己の利益を追求する理由が客観的なものであれば、同様の状況にある他者の利益を考慮する理由も客観的なものでなければならない。 d) したがって、我々は他者の利益を考慮する客観的な理由を持っている。 この論理によれば、利他的な行動は単なる感情的な衝動や社会的な規範の結果ではなく、合理的な思考の帰結として理解することができます。ネーゲルは、この客観的理由の概念を通じて、倫理の基礎を主観的な感情や直観ではなく、合理的な思考に求めようとしたのです。 4. 利他主義の可能性:ネーゲルの論証 ネーゲルの「利他主義の可能性」という著作のタイトルが示すように、彼の主要な関心は利他主義が如何にして可能になるかを示すことでした。ネーゲルの論証は以下のようなステップで進められます: a) 自己利益の合理性: まず、ネーゲルは自己利益を追求することが合理的であるという一般的な前提から出発します。我々が自分の将来の利益を考慮して行動することは合理的であると広く認められています。 b) 時間的中立性: ネーゲルは、将来の自己の利益を考慮することの合理性が、時間的な中立性に基づいていると主張します。つまり、現在の自己と将来の自己を同等に扱うことが合理的だということです。 c) 個人間の中立性: 次に、ネーゲルは時間的中立性の論理を個人間の関係に拡張します。もし時間的に異なる自己を中立的に扱うことが合理的であるなら、異なる個人を中立的に扱うことも同様に合理的であると彼は主張します。 d) 利他主義の合理性: この論理に従えば、他者の利益を自己の利益と同等に考慮することは合理的な行動の一部となります。これが利他主義の可能性の基礎となります。 e) 客観的理由の役割: この全プロセスを支えているのが客観的理由の概念です。自己利益を追求する理由が客観的なものであるなら、他者の利益を考慮する理由も同様に客観的でなければならないとネーゲルは主張します。 ネーゲルの論証の重要な点は、利他主義を単なる感情的な反応や社会的規範の結果としてではなく、合理的な思考の帰結として理解しようとしたことです。彼にとって、利他主義は理性的な個人が採用すべき立場なのです。 5. 批判的考察と現代的意義 ネーゲルの議論は倫理学に大きな影響を与えましたが、同時にいくつかの批判も受けています: a) 個人的観点の軽視: ネーゲルの理論は非個人的観点を重視するあまり、個人的な感情や経験の重要性を軽視しているという批判があります。実際の道徳的判断において、個人的な感情や直観が果たす役割を過小評価しているのではないかという指摘です。 b) 理性主義的バイアス: ネーゲルの approach は非常に理性主義的であり、人間の非合理的な側面を十分に考慮していないという批判もあります。実際の人間行動は、ネーゲルが想定するほど合理的ではないかもしれません。 c) 客観的理由の存在への疑問: ネーゲルが主張するような客観的理由が本当に存在するのか、またそれを如何にして認識できるのかという点に疑問を呈する批判者もいます。 d) 利他主義の動機づけの問題: たとえ利他主義が合理的だと理解したとしても、それが実際の行動につながるかどうかは別問題だという指摘もあります。ネーゲルの理論は利他的行動の合理性を示すことはできても、その実践を十分に動機づけられないのではないかという批判です。 しかし、これらの批判にもかかわらず、ネーゲルの理論は現代の倫理学において重要な位置を占め続けています。その理由としては以下のようなものが挙げられます: a) 倫理の客観性の擁護: 道徳的相対主義が広く受け入れられている現代において、ネーゲルの理論は倫理の客観性を擁護する重要な論拠を提供しています。 b) 理性と倫理の結びつき: ネーゲルの理論は、倫理的行動を感情や直観だけでなく、理性的思考の結果として理解することを可能にします。これは、倫理的議論をより合理的なものにする可能性を開きます。 c) グローバルな倫理への示唆: 非個人的観点の重視は、グローバルな問題に対処する際の倫理的フレームワークを提供します。気候変動や世界的な貧困など、個人の直接的な利害を超えた問題に対処する際に有用な視点を提供します。 d) AI倫理への応用: 人工知能の発展に伴い、機械に倫理を実装する必要性が高まっています。ネーゲルの理論は、感情や直観に頼らない倫理的推論のモデルを提供し、AI倫理の分野に重要な示唆を与えています。 結論: ネーゲルの「利他主義の可能性」は、倫理学における重要な転換点の一つとなりました。彼の理論は、利他主義を感情や社会規範の産物としてではなく、合理的思考の帰結として理解することを可能にしました。 「非個人的観点」と「個人的観点」の区別、そして「客観的理由」の概念を通じて、ネーゲルは倫理の客観性を擁護し、利他的行動の合理的基礎を提供しようとしました。彼の理論は、我々が自己利益を超えて行動する可能性を示すだけでなく、そうすることの合理性を主張しています。 ネーゲルの理論は批判も受けていますが、その影響力は現代の倫理学においても健在です。特に、グローバルな問題や人工知能の倫理など、現代的な課題に対処する際に重要な視点を提供しています。 結局のところ、ネーゲルの「利他主義の可能性」は、我々が単なる利己的な存在ではなく、理性を通じて自己を超えた視点を持つことができる存在であることを示そうとした試みだと言えるでしょう。それは、人間の倫理的能力への深い信頼に基づいた、挑戦的かつ刺激的な哲学的探求なのです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/35.html
目次 1.神々の諸相 2.高級霊の本質 3.低級霊への考え方 4.地獄の存在 5.神と悪魔 6.理想的人間 1.神々の諸相 天照です。今日は、神々、高級霊、低級霊、こうしたことについてお話をして参りたいと思います。 日本では、古来より、八百万(やおよろず)の神々といって、たくさんの神がおられると言われています。これは、神近き人びと、あるいは、高級霊と言われる人びとに対する国民の長い間の尊敬の念が、そのようにさせたのだとも言えましょう。 神々と称されている方々も、その姿が、あまりにも人間的であることからわかりますように、かつては、地上で肉体を持って生きたことのあった方々です。彼らの多くは、地上にあったときに、その偉大な霊能力ゆえに、神と称されていた方々です。そうした名が後のちに語り伝えられて、現在では、高天原(たかまがはら)に数々の神がいらっしゃるということになっています。 この、古事記等で有名な高天原でありますが、これが現にあるか否かということが、みなさんの多くの方々の疑問に思われることだと思いますが、高天原と言われる霊域は、現にあるのです。それは、主として、この日本という国の、立体的な話をするならば、上空にある霊域ということになりましょうが、そこに数々の神が集まっておられるのです。 その情景を話すとするならば、やはり荘厳な金色(こんじき)に光る大地があり、そうして、そのなかに、ひときわ高い山があります。その山は七色に光りながら、その頂上がどこまでつながっているかがわかりません。 こうして、その山を中心にして、様々な色の美しい雲が棚引(たなび)いています。この山のことを、高天原中心山(たかまがはらちゅうしんざん)と申します。その高さは、地上的なる感覚で言うならば、一万メートルをも越えているような高さではないかと思います。そのぐらいの高い山であります。 そうして、その麓(ふもと)には、古代の衣装をした神々が数多く住んでおられます。この麓にあたる部分が、あなた方がよく知っている言葉では、菩薩界と言われる世界であろうかと思います。日本の神域、霊域においても、数々の諸菩薩がおられるわけであって、ここでも、数百、あるいは、数千に近い方々が一緒に住んでおられます。そのなかには、もちろん、近、現代の日本に出られた神々もおられるために、非常に変わった身なりをしている方もおられますが、大多数の方は、やはり、古代の神々のような姿をして、住んでおられます。 その多くの方々は、その高天原に、たとえて言うならば、出雲大社であるとか、伊勢神宮であるとか、そうした神社、社(やしろ)というようなものを造ってそこを中心に生活しているのです。そして、彼らの大多数の人の仕事というものは、やはり、どのようにして人びとを指導するか、また、日本という国をどのようにして今後よい方向に指導していくか、こうしたことを日々話し合い、考え合っているのです。 この高天原にいる神々の内で、その半分以上の方々は、現に地上に在る人びとを指導しています。各人が何人か受け持ちをしていて、地上に生きている、その神の使命を帯びた方々を、何らかのかたちで指導しています。それは、宗教家であったり、学者であったり、財界人であったり、あるいは、政治家であったりすることもあり、その職種は多様に分かれておりますが、地上にある人びとを導いて、この日本の国を、素晴らしいものとして造っていくためにやっているのです。 また、高天原のなかには、地上にある外務省、外務局にあたるような仕事もあってこの日本の国に、異国の神々が教えを説かんとして来られる時に、その許可を与えたり、その影響度の範囲を決めたりする仕事をしている方々も、現におられます。 こうした高天原に、多くの神々が住みたもうておられますが、たとえば私は、どういうところに住んでいるかというと、たいたての場合、この高天原中心山の八合目ぐらいのところに大きな神殿を造って住んでいるのです。そうしてたいていの場合は、この山からは降りてまいりませんが、月に一度は山を下って麓に降り立ち、この高天原の諸神相集う席上で、お話をしているのです。こういう意味において、現在でも私は、日本神道系のなかの主催神のひとりとして活躍をしているのです。 また、私は、高天原中心山の八合目に住んでいると言いましたが、この頂上に住んでおられると言われている方が、天之御中主之神です。この方が、高天原中心山の頂上に住んでおられると言われているのです。 そのお姿は、真(まこと)に神々(こうごう)しく、また年の頃は、七十歳ぐらいにも見えますが、白いあご髭(ひげ)、てかてかと赤銅色(しゃくどういろ)に光るお顔、そうして、体から発散する黄金色のオーラ、その白い衣装のまばゆいこと、こうした高齢とは思えぬほどの精力に満ち、気力に満ちた方、そうして、力強い言霊を発する方、この方が、天之御中主之神と言われる方です。 この方も、どこにお住まいかは多くの方は存じ上げませんが、しかし、時折、神々を指導し、また、地上への直接の指導もされているようです。 これが、私たちが住んでいる高天原の本当の姿であります。 2.高級霊の本質 さて、神々とも呼ばれる彼ら高級霊の本質は、一体どこにあるのか、その点について、説明をしていきたいと思うのです。 彼らは生まれつきの神であるのか、あるいは、神となった方々であるのか、それについて話をしてみたいと思うのです。これに関しては、二つの考え方があり、神は最初から神であり、高級霊は最初から高級霊であるという考え方もありますし、あるいは、転生輪廻(てんしょうりんね)の過程において、高級霊へと生長していったとする考え方もあるでしょう。 実際、高天原に住んでおられる諸神霊の出生(しゅっしょう)、その神となられた謂(いわ)れを考えてみますに、結局彼らは、やはり、その八割ぐらいの方は、当初より、高級霊として、存在していた方のように思います。日本の国が造られるに際して、神々と称する方が集め寄せられたことは事実であり、彼らを中心勢力として、この日本の国を造っていったという事実はあります。この意味において、神は最初から神であると言えましょう。 しかし、残りの二割ほどの人は、最初から神ではなかった方々もおられます。それは、この日本という国で、さまざまな時代に降りていって大いなる仕事をしているうちに、神と並び称されるような偉大な心性、心というものを持つに至った方々がおられるからです。彼らは、まだ新参(しんざん)の者であるゆえに大変恐縮をしておりますが、ただ、その仕事が大いなる評価を得たということに対しては、大変な自信を持っています。 神々の世界では、やはり、魂の古さということが、ひとつの指標になります。同じく高天原に住んでいたとしても、太古より住んでいる方とそうでない方とでは、やはり、その神としての格に違いがあります。この意味で、新しく神となられた方であっても、まだ、その人が高天原の住人として日が浅いことがその容貌にも出ています。 それは、どことなく人間くささが漂っているということであります。地上に在っては、人間くさいということは、ひとつの喜ばれるべき特質とも言われているでしょうが、この高天原においては、人間くささがあるということは、大変恥ずかしいこととされています。いち早く人間的属性を捨て去った者こそが、本当の神と称されるようになってくるのです。 心のなかに人間的なる属性が残っている方は、常にそのことに劣等感をいだいていることが多く、他の神々と接するに際しても、どうにかして、その人間くささを見破られないように、他の人に気づかれないようにと、心を遣(つか)っているようです。 地上においては、成功という名のもとにさまざまなことに手を伸ばし、社会的な地位や名声や金銭で自ら得意満面となっていた者たちは、この世界に来れば、そうしたことをどれだけ思わなかったか、思わなかったように見せたいという気持ちで、いっぱいになっていくのです。地上に在った時に、人びとに羨(うらやま)しがられたような職業に就いていた人が、どれほどそのことを隠そうとしているかということを、みなさんはご存知でしょうか。 たとえば、政治家であっても、総理大臣となったような人のなかにも高級霊はおりますが、地上にいた時に、神の僕(しもべ)として生ききらずに、自分が日本でいちばん偉いというような思いで生きてきた人は、こちらに還ってから、その心境を隠すことで大変苦労しています。どうにかして、その古着を捨てたいと思っているのだけれども、如何(いかん)せん、地上時代のそのなごりが、拭(ぬぐ)い去れないで苦しんでいることが多いのです。 歴代の政治家のなかで、この菩薩界という所、高天原の神々に近い席を許された方として、まず、明治の時代においては、伊藤博文(いとうひろふみ)という方もいます。あるいは、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)という方もいます。これ以外にも、大正期になりましょうか、原敬(はらたかし)という名前で言われている元首相も来ています。 昭和期になっては、高橋是清(たかはしこれきよ)、近衛文麿(このえふみまろ)らも、地上を去って後は、こちらでは、そうした神々と同じ待遇を受けております。 3.低級霊への考え方 低級霊への考え方というのは、非常に難しいものがあります。その言葉自体のなかに、彼らに対する軽蔑の念がこもっているからです。 ここに二つの、二律背反する価値が存在します。ひとつは、人間はすべて神の子であり、神の分け御霊であるという考え方です。今ひとつの考え方は、しかし、人間にはやはり、魂の高下があるという考え方です。確かに本質的に見るならば、すべての魂は神より分かれて来たものであって、その神より分かれてきたという点において、一点の疑問もさしはさむ余地はないのです。 しかし、神より分かれてきた者であっても、その人生行路をどのように渡っていくかということに関して、自由性というものが与えられているのです。 たとえば、子供に対して母親が、真っ白の体操服、トレーニングウェアというものを与えたとしても、子供は、それで野球をし、相撲をし、体操をしているうちに、やがて泥んことなっていく でしょう。泥んことなった体操着は、それ自体がもともと汚れていたかといえば、そうではない。もともとは、純白のものであったと言えましょう。 この意味において、私は、彼らが現在、悪という姿、低級霊という姿になっているということは、もともと真っ白な服を与えられているにもかかわらず、それが、汚れた状態にあるということだと思います。如何に優れた子供であっても如何に素晴らしい子供であっても、泥んこで汚れた姿でもって家のなかに入れ、食事をさせ、そして居間で自由にさせ、布団のなかに入れる母親はいないでしょう。そうした子供を見たならば、まず、その服を着替えさせることを勧めます。また、手や足を洗うことを勧めるはずです。そうでなければ、いくら食事がしたいと言っても、その願いはかなえられませんし、いくら布団のなかでぐっすり眠りたいと言っても、その願いもかなえられないこととなるでしょう。 このように低級霊というものはやはり本質ではない。本質ではなくて、現れ方であるというふうに、理解することが大事であろうと思います。やはり、心がいろんなことによって汚れていたり、曇っていたりすることが、低級霊の本質であって、それは、彼らが本来、そのように創られているということではない。素晴らしいものであっても、それをどのように使うかということが、各人の責任において任されているということが、その本質にあるわけです。 真っ白な体操着を与えられたからといって、それをまったく汚さないように、いつもいなければいけないかと言えば、そうではありません。そうであれば、スポーツというものはできません。ただ、汚れた服であるならば、それを取り替え、洗濯するということが大事だということです。ここに、禊ぎ祓いの考え方が出てくるわけです。地上というものは、そうした泥や汚れの付きやすい世界であるために、これを常々よく洗濯し、美しいものとしていく必要があるのです。そうしたことをしないと、本当に素晴らしい本来の色、これを取り戻すことができないのです。 したがって、私は、地上のみなさまに申し上げたいのですが、本来、悪人はいないということ。本来、低級霊もいないということ。本来、根本から間違っている方はいないということ。これを信じていただきたい。たとえどのように、その姿が悪人として現れているとしても、本当にその方が悪人として生まれついているわけではないということです。 それは、すべての人のなかには、優しい気持ちというものがあるからです。どのように悪人として世を渡っている方であっても、そのなかに、一片の優しさは必ず潜んでいるものです。 その優しさがあるということが、すなわち、その方が神の子であるという事実を示していると思うのです。神の子であるという事実は、こうして明らかとなっていくのです。 4.地獄の存在 地獄はについて語られた書物は、数多いと思います。また、日本においても、昔より、地獄絵巻であるとか、地獄図であるとかいうものが示されて、そこには大変な厳しい環境かあるといわれています。西洋においても地獄についての話は種か尽きないようです。先進国のみならず、後進国においても、地獄についての考え方かどこの国にもあります。 さて、しかし、現代の日本人で、地獄を信じている人は数少ないと思います。「そんなことをしたら地獄に堕(お)ちるぞ」と言われたとしても、それはほんの笑い話としてしか受けとめられないのが事実です。しかし、現に地獄と称されるものはあります。それは、本当に物理的なる姿として、たとえば血の池であるとか、針の山であるとか、そうした、ところがあるわけではないのですが、心の世界として、心の風景として、そうしたものがあるということです。 それは、みなさんのうちの多くの方々は、悪夢というものを見られた経験があると思うのです。悪夢のなかでみなさんは、恐ろしい姿をした動物であるとか、人間であるとかに襲いかかられたり、命を取られそうになった経験があるでしょう。その恐怖の思いがあるでしょう。実は、地獄の世界というものは、そうした悪夢の世界とまったく同じ世界だと言ってもいいでしょう。 夢のなかでは、さまぎまな奇想天外なことが続々と起きますが、実際の霊の世界においても、こうした夢で見るのと同じく、奇想天外なことか数多く起きてきます。それは一見、無秩序に見えたり、脈絡(みゃくらく)がないように見えますが、その通りいろんなものが目の前に現れ、いろんな経験をさせられるようになる。気がつけば一転して、まったく違った場所に出ている。こうしたことが、よくあるようになってきます。 この夢の世界、悪夢の世界というのは、大多数の人は、実はその魂が睡眠中に肉体を抜け出して、地獄の世界をさまよっていることが多いのです。そうして、あの世の世界というものを、いち早く勉強させよっとしているのです。そうした魂の経験をしているのです。 それゆえ、地獄とは何かかわからないとすればヽ悪夢の世界だと思えばよいのです。 こうした夢現(ゆめうつつ)の世界が、死後に続いているのです。 実際それはその通りであって、地獄にいる大多数の人たちは、生前、神を信じず、また霊を信じず、死後の世界のことを信じていなかった方々です。彼らは地上を去っても、自らが一体何をしているのか、どういう生命(いのち)を生きているのかということに関して、信頼できないでいるのです。自己認識かできないでいるのです。白分か一体どのようになっているのかということが、わからないでいます。それゆえ、悪夢のなかを漂(ただよ)っているのとまったく同じ状況となっていきます。 そうした方が、やがて自分の姿をつかみ、自分が地獄にいるということをわかるまでに、かなりの時間を要するようになります。早い人ならば、もちろん、数日ぐらいでわかっていきますが、遅い人であれば、三年経っても、五年経っても、十年経ってもわからないでいます。ただ、地上時間で言って、五十年、百年と経っていった時に、どうやらその悪夢の世界が、白分の住んでいる世界であるということだけは、はっきりと実感することができるようになっていきます。 ただ、彼らの大多数は、それが地獄のように見えたとしても、自分はたまたまこうした世界にいるだけであって、なんとかしてここから脱出しようと思うのです。間違って、自分はこういう世界に紛れ込んだのだけれども、何とかして、この世界から逃れ出したいというふうに考えているのです。 けれども残念なことに、地上で生きていた時に、なぜ自分が地獄におちるというようなことになるかということを、知らないままに生きていたのです。何が善で、何が悪かということを知らないで生きていた。地獄などは、ほんの笑い話、昔話として一笑に付していた。ところが、それが現実に現れてきた時に、自分はすがるべきものが何もないということを知るのです。 この意味において、地上にいた時に、何らかの宗教に属していたということは、ひとつの救いになることはあります。それは、そうした宗教に属していたということによって、その魂のなかに一条の救いの道が用意されているからです。すなから、自分の信じていた教えを、ひたすらに思い出すということによって、「反省」という方法か与えられたり、あるいは、「祈り」という方法が与えられたりするからです。そうすることによって、その宗教を指導をしていた高級霊たちが、その方を導こうとして、努力し始めるということが言えるのです。 私はこの意味において、地上に生きていた時に、なんらかの宗教心を持って生きるということが、とてもとても大切であるように思います。そうした気持を持って生きるということが、結局は死後の世界においても、ひとつの救いとなっていると思うのです。 思考の材料、考える材料を持たずに生きてきた人ほど哀(あわ)れな存在はありません。彼らは藁(わら)にもすがるつもりで、周りの人に救いを求めようとするのですが、そこに、知った人が推もいないのです。この意味において、生きている時に、魂の教師役、先生役を持っているということは、とてもとても大事なことであろうと思います。 もちろん、何が正しい教えであるか、何が本当の宗教であるかという考えに関しては、多様なものの見方ができるわけであり、そうして、きまざまな教えの違いが、同時代の混乱を生んでいることは事実でしょう。ただ、二千年もの歴史をもっていて、今なお、多くの人を引きつけている教えは、やはりそれだけの内容があり、それだけの指導霊たちがいるということは、事実であろうと思います。 何が本物であるかということがわからないのであるならば、歴史的に名のある教えにつけばよいと思います。それは仏教であっても、キリスト教であっても、神道であってもよいと思います。また、そうした古い教えでもの足リなぃ方は、新しい教えのなかで、非常に自分の納得のいく教えがあったならば、それについていくことも大事であろうと思います。 また、現在、私たち高天原の高級諸霊が、このようなかたちで、地上にいるみなさまに続々と教えを伝えておりますから、こうした教えを生きているうちに学んでいただくことによって、あの世に旅立たれた後に、迷わずにもといた世界に還って来れるということがあると思います。 いずれにしても、地獄の存在は、魂の真実に関して、無知なる人びとが数多いということに起因していると思います。もっともっと多くの人たちは、魂の真実に目覚めてゆかねばなりません。そうしなければ、本当の意味での地獄からの脱出ということは決してできないわけです。 5.神と悪魔 6.理想的人間 神と言われる言葉にも多義性があり、宇宙の根本神の心はなかなか計り難いものがありますが、三千年の歴史のなかで、神とも称されきた私の立場から言うならば、神の愛する人間像には三つの姿があると言えるのではないかと思います。 第一の姿は、「秩序と調和を大切にする人間」です。 秩序を大事にする考えは、結局、調和を生んでいきます。秩序と調和という、この大いなる原理、これを大切にして、そして社会全体の美しい姿を描き出していくこと。これが大事です。秩序を破るということは、それ自体がひとつの不調和であり、地獄図であります。秩序を大切にしていく。そして、調和を大事にしていく。人びととの間の和を大事にしていく。協調を大事にしていく。ここが重要ではないかと思います。 この意味で、現代に蔓延している自我我欲を主張する生き方、我欲、我流の生き方に対して、私は、厳しい警告をしておきたいと思います。それが、地獄を生んでいる原因であるということに、気付かねばなりません。 秩序と調和ということを大切にして、自然の姿、あるべき姿に持っていくということ、これが大事です。上役は部下を指導し、部下は上役に仕え、師は弟子を指導し、弟子は師に仕える。こうした本来あるべき姿に立ち戻ることが、とてもとても大事であると私は思います。 神の愛する人間像の第二として、私は、「愛の実践」ということをあげておきたいと思います。 愛の実践とは、すなわち、多くの人びとに美しい人生を生きて頂きたいと思う心、願う心です。多くの人びとに、真実の人生を生きてもらいたいと願う心、それを助けようと願う心です。多くの人たちが本当に幸せになるために、何らかの努力を惜しまないという心、それが愛の実践です。 あなたは今日一日、どれだけ多くの人を喜ばしたでしょうか。多くの人びとを幸せにするような努力をしたでしょうか。私は、それが大切であると申しているのです。 多くの人びとを愛するということ。これが何にもまして重要なことです。自らに与えられた一日という時間を無駄にすることなく、愛の実践に生きることです。自分として、どのような生活をすることが多くの人びとへの愛となるか、これを深く深く考えて頂きたいと、私は思います。 神の愛する人間像の第三として、私は、「無限に発展していく人間」ということをあげたいと思います。 神はやはり、最大の愛そのものでありますから、自らの下にある人びとに、みな、繁栄していただきたい、良くなっていただきたいと願っているのです。 さすれば、理想的な人間とは、常に向上発展を目指していく人間であり、自らの過ちを改めるにやぶさかでない人間であります。自らがたとえ間違ったとしても、すぐさまそれを改め、より素晴らしい人間として生長していけるように、常に努力、精進を怠(おこた)らない人、それこそが、神の愛する姿であろうと思います。 また、神の神たるゆえんは、高級霊の高級霊たるゆえんは、やはり、自らも向上していこうとする気持ちを持っているということが言えると思います。自らも、より高度な人生観を磨き、より大いなる認識力を得、より大いなる指導力を築かんとしている。それが、多くの人びとの姿であります。この理想的な人間像、これを、やはり追求していくことが大事なのではないだろうか。私はそのように思います。 神の愛する人間とは、結局、神近くなっていくために大切な条件を守るということでありましょう。 もう一度繰り返すとするならば、まず、「秩序と調和」ということを大事にすること。秩序と調和なくしての社会の平和、ユートピアということはないということ。さらに、個人の義務として、責務として、「愛の実践」があるということ。愛を述べ伝えるという必要があるということ。他の人びとを良くしょうという思いがあること。 そして第三に、「発展」という考え、「繁栄」という考え、自らも伸びていき、自らも天高くなっていこうとする気持ち、そして、また、大いなる役割を与えられたならば、その役割を実践し、実行し、巨大な巨大な光となって世の中を導いていこうとする気持ち、これが大事です。 神の愛する人間像には、本当の地獄霊も悪魔もありません。そうした者は、神の愛する人間像を知らない人たちの生き方なのです。 どうか、この三つの観点、秩序と調和を目指し、愛を実践し、自らも発展していこうという、この三つの観点を忘れずに、大いなる人格を築いて生きていっていただきたいと思います。
https://w.atwiki.jp/nouryoku/pages/2622.html
歌え 踊れ 笑え 玉座の我を楽しませろ 我が血の色に染めて 名前 神崎無楽(仮名、本名不明) 生年月日 12月25日(嘘の可能性あり) 年齢 24歳 性別 男性 身長 189cm 体重 73kg 趣味 人間観察(主に少女) 所属 神崎壱属長兄 好きなタイプ 年下の少女・愛する弟、妹 嫌いなタイプ 殺し合い大好きな子 【容姿】赤髪の長髪 ひょろりとした細身で長身 高級そうな眼鏡をかけ きっちりとスーツを着た人物 【能力】不明 【性格】どんな相手にもにっこりと接する気さくな感じ 無力曰く、「年下好き」だとか 【戦闘方法】所持している小型チェーンソーを使うであろう、詳細不明 【備考】神崎無力の兄 家出した無力を追ってきたが、今はてきとーに泳がせているとの事 妹に無欲という人物がいる
https://w.atwiki.jp/idsimon/pages/7.html
人間工学講座 1 パーセンタイル(値) 2 フェイル・セーフ 3 植物性機能 4 緊張性頸反射 5 超正常刺激 6 疲労 7 人工環境 8 恒常性 9 体温調節 10 温熱指数 11 空気環境 12 睡眠 13 感性と理性 14 脳内神経伝達物質 15 快・不快時の生理反応 16 脳活動の評価法 17 自律神経 18 ストレス 19 心拍数 20 高齢者と体力 21 エネルギー代謝 22 身体負荷(運動強度)の評価 23 日常生活動作 24 車いす生活 25 生物の多様性 26 自然選択 27 生体リズム 28 適応 29 直立二足歩行 30 照明 3 マルチン式人体計測法 4 時定数と高域遮断周波数 5 音圧レベルと騒音レベル 20 ヒューマンエラーの分類と原因 30 感覚