約 555,499 件
https://w.atwiki.jp/nankin_2ch/pages/22.html
一 原告の主張の要旨 原告は、本件検定処分ないし検定意 見について適用違憲の主張が認められないとしても、本件検定処分ないし検定意見が裁量権を逸脱、濫用したものとして違 法であるとし、その理由として次のとおり主張する。 1 教科書検定処分は、国民(教科書著作者や児童・生徒)の学問の自由、教育の自由、学習の自 由及び表現の自由を制限する処分であるから、その裁量の範囲 は厳格に限定されたものと解しなければならない。また、戦後教育改革は、戦前における教育の国家統制への反省から、中央集権的な教育行政機構を解体して、 その地方分権化を図り、機構の地方自治を実現するとともに、戦前における教育行政による権力的支配から教育を解放し、教育の自由性を確立したが、教科書検 定制度は、この改革の一環として、戦前ないし戦時中の教科書国定制度を改めるものとして発足したものであって、その趣旨は、民間の創意工夫を尊重し、個性 のある多様多彩な教科書の登場に道を開こうとするものであったといえる。更に、検定基準は、多義的で包括的であるが、それだけに、幅広い解釈が可能であ り、そこに教科書著作者の広い創意工夫の余地があるのであって、そのもとで多様な教科書記述が許容されるべきである。 2 以上のように、教科書 検定処分が国民の権利・自由にかかわる処分であること、教科書検定制度の沿革、趣旨・目的は、検定基準の内容に照らせば、文部大 臣は、教科書検定権限の行使に当たり、教科書著作者の自主性を尊重する立場に立つべきであり、また、修正意見については、これにより教科書著作者に対し修 正意見のとおり原稿記述を修正することを余儀なくし、あるいは検定不合格の理由とされているものである以上、比例原則の見地からみて、文部大臣は、教科書 の記述が、教科書著作者の創意工夫や専門的判断に基づき、学問上、教育上相応の根拠を有するときは、非拘束的な指導助言としての改善意見を付することは別 として、原則として修正意見を付することは控えるべきであり、修正意見を付し得るのは、検定基準の各条項に照らし、教育的配慮の見地から、あえて当該記述 の修正を求めるに足りるだけの格別の強い根拠がある場合に限られるものと解しなければならない。 二 当裁判所の総論的判断 1 教科書検 定の法的性格 教科書検定の法的性格については、これが文部大臣の検定権限の行使についての裁量の有無及びその範囲についての判断にかかわるもの と して当事者間に争い があるので、裁量権濫用についての検討に先立ち、まず、この点を判断する。 教科書は、さきに第二、一で判示したとおり、 学校 教育に用いられる主たる教材であって、心身ともに未発達の児童・生徒が使用するものであるとともに、そ の使用が義務付けられていること、これに伴い、児童・生徒の心身の発達段階に応じた適切な内容の選択及び組織配列が求められ、その内容において一定の水 準、正確性、中立・公正が確保される必要があることなどの点で、一般の図書とは異なる特殊な性質を有する図書であるから、国民は、憲法上出版の自由を保障 されることから直ちに教科書をも出版する自由を有しているということはできないのである。もとより、右のような一般の図書とは異なる特殊な性質を有する教 科書の制度を採用するか否かは、立法政策の問題であるが、現行の教育関係法令はかかる制度を採用しており、このことが憲法又は教育基本法の各規定に違反す るものでないことはさきに第四に判示したとおりである。したがって、検定の申請をもって、国民の有する教科書出版の権利の禁止の解除を求めるものであると する許可行為説は、採用し得ない。 また、教科書検定は、事柄の性質上、また、本件検定当時の検定基準の内容からみても、行政機関が客観的基準に 照らして一義的にその適否を判断するもので あるということはできず、確認行為説もまた採り得ない。 そして、既に第二において認定した教科書検 定 の手続及びその運営からみると、教科書検定は、文部大臣が新規に著作された図書又は既に発行ずみの特定の図 書に対し、その著作者又は発行者の申請に基づき、高等学校等の学校において教科書として採択を受け使用され得る法律上の資格を設定するか否かを審査決定す る行政処分であり、検定合格処分により、右の法律上の資格が設定されるものであるから、その法的性格は、特許行為の一種と解すべきである。もっとも、教科 書検定の法的性格が右のとおり解されるからといって、教科書の出版が国の固有の権利であって、検定合格処分はこれを検定申請者に対し分与するものであると するものではないことはいうまでもないし、教科書検定の法的性格から直ちに文部大臣の検定権限の行使についての裁量の有無及びその範囲についての結論が一 義的に導かれるものでないことに留意すべきである。 2 学校教育法二一条一項が文部大臣に対し教科書検定の権限を付与したものと解すべきである ことは、さきに第二、二において判示したとおりであるが、特に 文部大臣による検定権限の行使がいかなる程度に法令上覊束されるかを定めた明文の規定は存しない。 検定の対象は、教科書の記述内容等であって、日 々進歩する学界の状況を把握した上で当該記述の学問上の適切性、児童・生徒の心身の発達段階や学習の適時 性を考慮した上での当該記述の教育上の適切性、教育内容の一定水準が確保されているとともに過不足ない記述となっているかとの観点からの当該教科書の適切 性等相互に関連する幾多の考慮事項を含み、その判断は高度の学問的ないし教育的専門性・技術性を持つものであること、その検定基準自体が前述のとおり抽象 的、概括的にならざるを得ないので、検定権限について客観的に適正かつ公正な行使をするために、判断の基礎となるべき学界の状況、適切な教育的配慮の在り 方等関連諸事項について広く研究すべきものであり、その方策として文部大臣は、教育職員、学識経験者等から成る教科用図書検定調査審議会に諮問して検定処 分の判断を行うこととされているものの、この判断については、事柄の性質上、ある程度の見解の相違を来すことも免れないものであることを考慮し、かつ、教 科書検定の前記法的性格に徴すると、文部大臣が教科書検定に当たって付する検定意見ないし合否(条件付処分を含む。)の処分については、文部大臣に右のよ うな理由に対応する裁量権があることを認めざるを得ないのである。 ところで、教育基本法は、前記第一、三2のとおり、憲法において教育の在り方 の基本を定めることに代えて、我が国の教育及び教育制度全体を通ずる基本理 念と基本原理を宣明することを目的として制定されたものであって、一般に教育関係法令は、当該法令に別段の定めがない限り、できる限り教育基本法の規定及 び同法の趣旨、目的に沿うように解釈・運用されるべきものと解されることに照らせば、文部大臣の検定権限もまた、同法及び右権限を定めた学校教育法の目 的、趣旨に合致するように行使されなければならないのである。そして、教科書検定関係法令として、学校教育法八八条、一〇六条の委任に基づき制定された教 科書図書検定規則及び教科用図書検定基準、更に検定基準の実質的内容を構成している学習指導要領、実施細則、内規等が定められているところ、これらの関係 法令も、前述のとおり、教育基本法及び学校教育法の目的、趣旨に沿うものと認められるのであるから、結局、文部大臣の検定権限の行使は、その裁量に属する とはいえ、右の教科書検定関係法令の各規定の趣旨に則ってなされなければならないことはいうまでもない。したがって、右権限の行使が右の趣旨に合する合理 的範囲にとどまるものである限り、当不当の問題を生ずることはあっても国家賠償法上違法の問題が生ずる余地はないが、右権限の行使が、裁量権の範囲を超え 又はその濫用があったときには、同法上違法となるというべきである。もっとも、法が処分を行政庁の裁量に任せる趣旨、目的、範囲は、各種の処分によって一 様ではなく、これに応じて違法とされる場合もそれぞれ異なるから、各処分ごとにこれを検討すべきところ、これを文部大臣の検定権限行使の判断についてみる に、教科書検定が文部大臣の裁量に委ねられる前示の趣旨、目的にかんがみると、文部大臣の検定処分における判断が、その判断の基礎とされた学界の状況等に 誤認があることなどにより事実の基礎を欠く場合、学界の一般的状況や原稿記述の有する根拠など当然考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮 していること若しくは当該記述の検定基準違反の程度についての文部大臣の評価が明らかに合理性に欠くことなどにより、当該検定処分が社会通念上著しく妥当 性を欠く場合、検定権限の行使が検定制度の目的と関係のない目的や動機に基づくものであるときなど裁量の認められた趣旨・目的に違反した場合又は検定権限 が恣意的に平等原則に違反して行使された場合は、裁量権の範囲を超え又はその濫用があったものとして、当該検定処分は、違法となるものと解するのが相当で ある。 そして、裁判所は、文部大臣の検定処分が違法か否かを審理、判断するに当たって、文部大臣の立場に立って、いかなる検定処分とすべきで あったかを判断し、 その結果と当該検定処分とを比較してこれを論ずべきものではなく、文部大臣の裁量権の行使に基づく検定処分が前示の意味において裁量権の範囲を超え又はそ の濫用があったと認められるか否かによってこれを審理、判断すべきものである。このことは、文部大臣が個別に付した検定意見についても同様であって、この 場合、文部大臣が付した検定意見に対しては、それらが教科書検定関係法令の趣旨に即し、教科書の内容における一定水準の確保、正確性及び中立・公正の保持 並びに教育的配慮の観点に基づいて示されたものであって、学界の状況や教育的配慮に照らし文部大臣の検定意見に合理的な根拠があると認められる限り、原則 として、裁量権の範囲の踰越ないし濫用による違法があったものとすることはできないというべきである。 もとより、文部大臣は、検定処分当時の学 界の状況の客観的認識に基づき、原稿記述の有する学問的根拠ないし教育的配慮も考慮した上で、これを修正すべき か等につき検定意見を付すべきものであるから、裁判所が、検定意見の合理的根拠の有無を判断するに当たっても、検定意見の根拠のみを切り離して検討するの では足らず、これを原稿記述の根拠との相対的関係において検討して、その合理性を判断しなければならないと解すべきである。したがって、検定意見と原稿記 述とがそれぞれ相応の根拠を有する場合には、文部大臣が原稿記述に対し検定意見を付したことが、学界の状況、それぞれの学問的根拠、教育的配慮の合理性等 に照らして、社会通念上著しく不当であると認められる場合に初めて、裁量権の濫用による違法があるというべきである。もっとも、教育内容に対する国家的介 入は、できるだけ抑制的であることが要請されること、教育基本法一〇条の規定は、教育の自主性尊重の見地から、これに対する不当な支配となることのないよ うにすべき旨の限定を付しており、国家の介入が許容される目的のために必要かつ相当と認められる範囲に限られることは、さきに第四、一に判示したとおりで あり、また、教科書検定が教科書著作者の表現の自由及び学問の自由にかかわるものであること、更に、何をもって中立・公正とみるかを客観的に判定すること が困難な場合があり、中立・公正の名のものに検定機関の価値観が検定意見に入り込む危険があることを考えると、文部大臣は、検定権限の行使について慎重で あるべきであり、前記のように原稿記述も相応の根拠を有する場合に検定意見を付することには、その妥当性に批判の余地があるといえよう。しかしながら、か かる検定意見も、あくまで教科書内容の一定水準の維持、中立・公正の確保ないし教育的配慮を目的とし、教科書検定関係法令の各規定に従い、さきに述べた裁 量審査の基準に反しない限りにおいては認められるというほかないのであり、また、教科書は、教育の主たる教材であるとはいえ、検定意見の付された原稿記述 に係る歴史的事実ないし見解を教育現場から完全に排除するという効果まで持つものではないこと等を配慮すると、法的見地からは、右のような場合に検定意見 を付することをもって、教育に対する不当な支配に当たり、あるいは教育に対する権力的介入として必要かつ相当な範囲を超えるものとすることはできない。 ま た、本件各検定処分について文部大臣により付された検定意見には、修正意見及び改善意見の二種があること並びに改善意見の内容については、前記第二、 五認定のとおりであって、修正意見が教科書記述に対して権力的介入を行うものであるのに対し、改善意見は指導助言にとどまるものであり、裁判所が文部大臣 の付した各検定意見につき、裁量権行使の当否を判定するに当たっても、右に述べた修正意見と改善意見の実質に即した判断をすべきであって、各検定意見の根 拠に必要とされる合理性にもおのずから軽重の違いがあるというべきである。但し、改善意見であっても、内閲本審査において教科書調査官がそれに従った修正 を執拗に要求し、ことさらに検定審査手続を遅延させるなどの方法により改善意見の域を超えて修正を強制するに至ったものとみるべき場合には、修正意見に準 じてこれを判断すべきである。 三 昭和五五年度検定における裁量権濫用の違法 1 親鸞及び「日本の侵略」に関する記述について (一) 〈証拠〉によると、1 三省堂の申請に係る本件教科用図書原稿本(甲第一号証。以下、第三項において「本件原稿」という。)の「法然・親鸞らは朝廷 から弾圧をうけたが、親鸞はこれにたいし、堂々と抗議の言を発して屈しなかった。」との本文の記述に対し、文部大臣は、右記述では、親鸞が弾圧を受けた時 点で抗議声明をするなど何らかの抗議行動をしたかのように読み取れるが、親鸞がそのような行動をしたというのはどういう学説に基づいて記述されているか分 からない。仮に親鸞が教行信証のなかで朝廷を批判した行為をとらえて、「堂々と抗議の言を発して屈しなかった」と記述しているとすれば、教行信証の記述 は、後になって親鸞が当時のことを追憶したものであるから、生徒に誤解を与えないよう表現を再検討されたいとして、検定基準(社会科に関するものをいう。 以下同じ。)に照らし、必要条件である第1[教科用図書の内容とその扱い]3(選択・扱い)「(1)本文、問題資料などの選択及び扱いには、学習指導を進 める上に支障を生ずるおそれのあるところなどの不適切なところはないこと。」に欠けるとして改善意見を付したこと、2 本件原稿の「中国では、西安事件を きっかけとして、国民政府と共産党の抗日統一戦線が成立し、日本の侵略に対抗して中国の主権を回復しようとする態度が強硬にあらわれてきた。」との本文の 記述に対し、文部大臣は、「侵略」という用語は罪悪というはっきりした評価を含む用語であるから、自国の教科書で自国の行為の表現として使用する点は教育 的見地から再考されたい、また、本件原稿の他の箇所においては、「列強の中国進出」、「ヨーロッパ列強の中国領土進出」とあり、「日本の中国への武力進 出」という表現も二例あるから、「日本の侵略」という記述についても、他の二例のように「武力進出」などと、より客観的な言葉で表記・表現を統一してはど うかとして、検定基準に照らし、必要条件である第1[教科用図書の内容の記述]2(表記・表現)「(3)漢字、仮名遣い、送り仮名、ローマ字つづり、用 語、記号などの表記は適切であり、これらに不統一はないこと。」に欠けるとして改善意見を付したことが認められる。 (二)ところが、原告は、文 部大臣から右各改善意見が付されたにもかかわらず、これに従った修正に応じなかったことは、さきに第三、一1で判示したとおり であって、右(一)1親鸞及び2「日本の侵略」についての各記述に関しては、原告に損害が発生していると認めることができないことは、後に第七、二におい て説示するとおりである。 したがって、右各記述に関しては、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は理由がないことが明らかである から、文部大臣の検定権限行使の裁 量権濫用の違法については判断の限りでない。 2 草莽隊に対する記述について (一)〈証拠〉による と、三省堂の申請に係る本件原稿の「朝廷の軍は年貢半減などの方針を示して人民の支持を求め、人民のなかからも草莽隊といわれる義勇 軍が徳川征討に進んで参加したが、のちに朝廷方は草莽隊の相楽総三らを『偽官軍』として死刑に処し、年貢半減を実行しなかった。」との本文の記述に対し、 文部大臣は、本件原稿記述は、「朝廷の軍」を主語として、これに何らの限定も付していないので、朝廷の軍が全国的に年貢半減を実施する方針を示したにもか かわらず、その方針を実行しなかったように読めるが、草莽隊の一つであって相楽らに率いられた赤報隊については、基礎史料である「赤報記」の史料批判さえ 行われておらず、基礎的事実の確定は今後の考察に待つという段階にあって、朝廷が相楽総三に対し年貢半減についての勅諚を与えたにもかかわらず、これを実 行しなかったとは断定できず、その他、朝廷の軍が全国的に地域や時間の限定なしに年貢半減の方針を示したという史料はどこにもなく、今日明確に言えること は、征討軍の先鋒隊と称して従軍した相楽総三の率いる赤報隊が旧幕府領については当年年貢を半減する旨の高札を掲げたというにとどまるのであり、したがっ て、朝廷の軍が朝廷の政策方針として年貢半減を実施する方針を全国的に示したのに実行しなかったと断定するような原稿記述は、不正確であり、検定基準に照 らし、必要発件である第1[教科用図書の内容の記述]1(正確性)「(1)本文、資料、さし絵、注、地図、図、表などに誤りや不正確なところはないこ と。」に欠けるものして修正意見を付したことが認められる。 (二)〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。 (1)朝廷が相 楽総三に対し年貢半減の勅諚を与えたか否かの点を含め年貢半減の方針が朝廷の軍によって採用されたか否か、年貢半減(令)布告の状況等に関 する基礎史料として次のようなものがある。 「赤報記」(甲第二一九号証)には、「右両度建白依之於太政官坊城大納言殿ヨリ御渡之勅諚書」「但今度 不図干戈ニ至候義ニ付テハ万民塗炭之苦モ不少依之 是迄幕領之分総テ当年租税半減被仰付候昨年未納之分モ可為同様来巳年以後之処ハ御取調之上御沙汰可被為在候義ニ候間右之旨分明ニ可申付事」あり、信州大学 教授高木俊輔は、これについて史料批判を加え、明治八年以前にはすでにまとめられていたものであること、その内容は詳細であるとともに維新の政局の全体的 動きと対応していること、太政官において筆写の過程で校訂を加えられていること等から極めて信用度の高いものと判断している。昭和五五年度検定に至るま で、赤報記の信用度・正確性について疑問を提起する見解は学界に現れていない。 また、「復古記」(太政官編纂・東京帝国大学蔵版、内外書籍株式 会社発行)は、明治政府の正式な出版物として太政官の編纂になるもので、明治元年の戊辰 戦争に関する基礎的史料であり、史料の内容の豊かさと正確性において比類のないものとされているが、その「巻一九」(昭和五年、甲第二二三号証)の「明治 元年正月一二日」には、次のような綱文(史料から読み取れる事実を要約した文章)がある。「○滋野井公壽、綾小路俊実ノ使者、相良武振書ヲ上リ、官軍ノ徽 章ヲ賜ヒ、且東征先鋒ノ命ヲ奉センコトヲ請ヒ、又旧幕府領地ノ租税ヲ減センコトヲ建議ス、乃チ公壽、俊實ニ命シテ、東海道鎮撫使ノ約束ヲ受ケ、又旧幕府領 地今年租税ノ半ヲ免セシム。」また、この綱文の後には、「赤報記」「大原重實蹟書」によるものとして年貢半減令について次の一文が引用されている。「但、 今度、不図干戈ニ至リ候儀ニ付テハ、万民塗炭之苦モ不少、依之、是迄幕領之分、総テ当年租税半減被仰付候、昨年未納之分モ可為同様、来巳年以後之処ハ、御 取調之上御沙汰可被為在候儀ニ候間、右之旨分明可申聞事。」。 更に、「維持史料綱要」(維新史料編纂事務局編、昭和一三年)は、維新史関係の事 件内容とその内容を示す重要史料名を知る上に極めて便利で研究者必携の 書といわれるものであるが、その「巻八」(甲第二三四号証の二)の「明治元年正月一二日条」には、相楽総三の年貢半減の建白について次のような綱文があ る。「待従滋野井公壽及前待従綾小路俊實ノ使者相楽總三、書ヲ上リ、赤報隊ニ官軍ノ徽章ヲ賜ヒ、東征先鋒ノ命ヲ拝センコトヲ請ヒ、又旧幕領地ノ租税ヲ減 ジ、民心ヲ収メンコトヲ建議ス。乃チ、公壽・俊實ニ命ジテ東海道鎮撫総督ノ指導ヲ受ケ、又旧幕領本年租税ノ半ヲ免ゼシム。大原重實履歴赤報隊小寺玉晁戊辰 雑記 史談会速記録」。 右の綱文には、相楽総三の建議の相手方や年貢半減令を発令した機関の記載がないことは、被告主張のとおりであるが、他 方、「維新史料綱要巻一」(甲第二 二四号証の一)の「例言」には、「天皇ノ御言動ヲ記スルニハ、例ヘバ出御・行幸等ノ敬語ヲ用ヒテ、其文ノ主格トシテ天皇ヲ称スルヲ避ク。朝廷ノ行事・令達 ヲ叙スル場合ニモ、同ジク朝廷ノ文字ヲ表ハサズシテ、直ニ其事ヲ記セリ。又朝廷ニ上ル稟請ノ類ヲ叙スル場合ニ於テモ、亦其文ノ目的格トシテ特ニ朝廷ノ文字 ヲ表ハスコトナシ。但、朝廷ト幕府トヲ併記スル必要アル場合ニハ、此例ニ拠ラズ。」とあり、これによれば、先に挙げた綱文において、相楽總三が「旧幕領ノ 租税ヲ減」ずる「コトヲ建議」した相手方は朝廷であり、「旧幕領本年租税ノ半ヲ免ゼシ」めたものも朝廷であったと解すべきことになるとされている(このこ とは時野谷滋教科書調査官も、その証言において認めるところである。)。 なお、右認定のとおり、「復古記」「維新史料綱要」いずれも、明治維新 についての基礎的史料であると同時に、「赤報記」等の史料に対する史料批判を加え た上で読み取れる事実についての編者らの認識を綱文として明らかにしたものであって、一般に容易に参照し得るものであるから、これらはいずれも昭和五五年 度検定当時の学界の状況を構成するものとみて妨げないものと解される。 (2)高木教授は、前掲「赤報記」等の史料による研究に基づき、「明治維 新章莽運動史」 (勁草書房、昭和四九年、甲第二一六号証、乙第八八号証)を著したが、前記(1)の点に関し、概略次のとおりの見解が明らかにし て いる。 1 相楽総三は、慶応四年(明治元年)正月、綾小路俊実と滋野井公寿の二卿の使者として赤報隊を正式に官軍の一部に認めて欲しい旨の嘆 願を した。これに対 し、同月一一日に朝廷の太政官議定・参与局から、「義徒」を集めて「皇軍之威光」を輝かすよう励まれたい旨の達書が下された。これは、二卿宛に「義徒」つ まり相楽ら草莽を集めた赤報隊を官軍先鋒隊として肯認したことになる。更に、相楽総三は、同一二日、議定・参与局あてに、官軍東征には民心を幕府から切り 離す必要がある。そのため、「幕領之分ハ、暫時之間、賦税ヲ軽ク致シ候ハゝ、天威之難有ニ帰嚮シ奉リ」目的を達成できるだろう、とする建白をした。これに 対して太政官から、「是迄幕領之分、総テ当年租税半減被仰付候、昨年未納之分モ為可同様」との沙汰が下された。ここに年貢半減が朝廷の政策として採用され たということができる。これを受けて相楽総三らの赤報隊は、「年貢半減」の布告をしながら進軍していくことになった。ところが、一月下旬には、赤報隊の悪 評を理由として隊に帰洛命令が出たが、赤報隊一番隊である相楽隊だけは官軍東征の成功のためには碓氷峠の占拠が絶対に不可欠であると判断し、あえて東山道 へ進軍を続け,二月一四日には碓氷峠の占拠を果たした。その後、総督府は、二月一〇日付で信州諸藩宛に、相楽隊を「偽官軍」として取り押えるよう命じ、相 楽を含む幹部八人は、三月三日に下諏訪において処刑された。 2 年貢半減令の布告者は、赤報隊にとどまるものでなく、「復古記」とよばれ、一月 一四日には山陽道三藩宛に太政官の名で本年度年貢半減が布告されている し、一月二七日には北陸道でも若狭・越前諸藩宛に北陸道鎮撫総督から布告されている。そのほかの年貢半減令の例としては、「年貢半減令」関係史料表(甲第 二二〇号証)記載のとおり、全部で一六例を数えることができる。半減の対象も、旧幕府領のみにとどまるものではなく、「復古記」によれば、山陽道三藩に出 された年貢半減令では幕府領とともに「其他賊徒之所領等」とあり、朝廷に刃向かう藩すなわち朝敵藩の領知分にも半減令を実施せよとされており、また、当年 の年貢のみにとどまるものではなく、「赤報記」、「復古記」によれば、赤報隊及び山陽道三藩に対するものには「昨年未納之分モ可為同様、来巳年以後之処 ハ、御取調之上御沙汰可被為在候」とあり、昨年未納の分についても年貢半減を実施することとされていた。 また、「復古記」によれば、一月一四 日の山陽道三藩宛の年貢半減の布告にもかかわらず、一月二七日の朝廷の三道鎮撫使及び関西諸藩に対する命令では年貢 半減については触れておらず、疑問に思った岡山藩の伺いに対して「御取消相成候旨御口達有之」として年貢半減令が取消になったことが明らかにされ、また、 一月二七日の若狭・越前諸藩宛の年貢半減令にもかかわらず、三月五日の北陸道総督府の加賀・越前・越後諸藩への達書では年貢半減について触れていない。右 のとおり正式な取消の形をとらずに年貢半減令の取消がなされていった。 もっとも、前掲「明治維新草莽運動史」には、具体的には、山陽道三審宛の 年貢半減令布告の例が挙げられているにとどまる。 (3)高木教授の見解以外の学界の状況をみると、以下のとおりである(なお著者の肩書中には、 以 前のものも含む。)。 北大教授田中彰は、「日本の歴史24明治維新」(小学館、昭和五一年、甲第二一八号証、乙第九〇号証)において、赤報隊 につ いては「作家長谷川伸著『相 楽総三とその同志』 (昭和一八年刊)が有名だが、最近では新進の維新史研究者高木俊輔著『維新史の再発掘』 (昭 和四五年刊)、同『明治維新新草莽運動史』(昭和四九年刊)が、たんねんな名簿づくりや志士群象の追跡によって、これをうかびあがらせている。」とし て高木説に高い評価を与えるとともに、「一月一二日、相楽らは年貢半減の建白を新政府首脳に提出、これをいれて新政府は、この日ただちに旧幕領への年貢半 減令(前年の未納分も同様)を発した。そして、赤報隊には東海道鎮撫使の指揮をうけることを命じたのである。(中略)だが、こられの隊の背後には、謀略の 黒い影がせまっていた。謀略とは何か。相楽らに『偽官軍』のレッテルをはることである。というのも、新政府は一月下旬、年貢半減令を取消していたのだ。財 政的にゆるされるはずもないこの半減令を、諸藩からの伺いに対し口頭で取消していたのである。これでは、相楽らがそれを知るよしもない。彼らが半減令で民 心をひきつけてすすめばすすむほど、相楽隊は総督府の統制にしたがわない『強盗無頼之党』で、不当に武器をたくわえた『偽官軍』だとされたのである。新政 府にとっては、年貢半減令をふりかざす彼らが、『世直し』の潮流をいちだんとはげしく、それとむすびつくかもしれない、という危惧があったからだ。」とし ている(なお、既に同人著「体系・日本歴史5明治国家」(日本評論社、昭和四二年、甲第二二九号証)にも、簡潔ながら相楽総三と赤報隊の顛末につき同趣旨 の記述がある。)。 名城大学教授原口清は、「戊辰戦争」(塙書房、昭和三八年、甲第二二六号証、乙第八九号証)において、「政府は、旧幕領の年 貢半減(戊辰半減、昨年未納 分も同様)を赤報隊に申し渡した。」「年貢半減令は、一月一二日に布告されているが、同一四日、政府が長門・安芸・備前三藩に山陽道三諸藩の向背を問わ せ、旧幕領の調査を命じたときには、まだ年貢半減をうたっていた(『復古記』〈第一冊〉五五七頁)。ところが同月二七日、三道鎮撫使および関西諸藩に命 じ、旧幕領の土地台帳を提出させたときには、年貢半減については一言もふれていない。これに対する諸藩からの伺に対しては、口頭で、年貢半減令は取消しに なった旨を答えている(章政家記〈同上〉七四六頁)。つまり正月下旬から年貢半減令は取消しになったのだが、取消しの公然たる布告はなかったのである。北 陸道総督の、正月二七日の若狭・越前諸藩宛達書の中には、年貢半減令が含まれているが、これは連絡不便のため、取消しがまだ達しなかったせいであろう。と いうのも、三月五日に、同総督府の加賀・越中・越後諸藩に対する達書は、年貢半減令はとりのぞかれているからである。しかし、奥羽・北陸地方で戦況が困難 をきわめると、政府軍は年貢半減の布達をしばしば行なっている。たとえば、六月に北陸道副総督四条隆平は在越の会津・桑名領の年貢半減を布達し、平潟口で も八月に田租の全免あるいは半減令を下し、越後口でも八月に全免令をだしている。」としている。また、原口教授は、「日本近代国家の形成」(岩波書店、昭 和四三年、甲第二二七号証)においても、「草莽隊は、総督府の指揮下に従順に行動したものは僅少の酬いを得たが、独自性が強くて積極的に活動し、年貢半減 令のように新政府が当初にはかかげ、のちには否定したものを依然として宣伝するなど、新政府・総督府の方針と対立したものは、多くの無実の罪状をつくりあ げられ弾圧された。」としている。 また、横浜市立大学教授遠山茂樹は、「国民の歴史19明治維新」(文英堂、昭和四四年、甲第二八号証)におい て、「王政復古成立当初の京都政府が、『旧 弊御一洗』『百事御一新』『万民の塗炭の苦を救わん』と布告し、軍隊進撃の沿道に、年来の苛政に苦んでいるものは遠慮なく本陣に訴え出よと令し、幕府領の 年貢半減を通達したことは、民心をひきつける上で、大きな効果をあげることとなった。(中略)京都政府は、軍事上から一月十二日年貢半減を命じたが、この 月の下旬には早くも財政難から半減をとりけさなければならなかった。(中略)京都政府は一揆の味方ではないという方針をあきらかにする必要があった。それ なのに勝手に年貢半減を布告し、困窮者には救助すると約束してまわる赤報隊の存在は迷惑であった。そこで、『偽官軍』の名で、抹消してしまったのであっ た。」としている。 更に、「幕末維新人名事典」(奈良本辰也監修、学藝書林、昭和五三年、乙第九二号証)の「相楽総三」の項(師岡担当部分)に おいては、「同日、租税軽減 を建白、容れられて幕府領の租税半減をゆるされ、通過の村村で実施。」とされている。 そして、本件検定当時までに 高 木教授らの前記見解を否定する学説が文献等に発表されたことはなかった。 (4)これに対し、昭和音楽大学教授勝部真長は、次のような見解を もって いる。 慶応四年正月ころの朝廷は流動的であって、はたして赤報隊が官軍として承認されたといえるか、また、朝廷が年貢半減令を正式な政策 として採 用したといえ るか疑問である。なるほど、「赤報記」は、赤報隊のことを知るには第一の文献であるが、著者が不明で原本も失われていること、太政官に於ては「坊城太納 言」より「勅諚書」を受けたとする部分があるものの、当時坊城大納言という人物は存在しないこと、「史談速記録第七八輯」(編集・史談会、明治三二年、乙 第一五〇号証)では、油川信近の談話として「議定・参与」より「御達書」を受けたとされており、赤報記の記述とは差異があることなどから、「赤報記」によ り直ちに勅諚があったといえるか疑問である。むしろ、年貢半減は、朝廷の全国的な政策ではなく、当時太政官参与であった西郷隆盛の個人的な軍略であったと 考えられる。また、相楽総三は、伊牟田尚平と益満休之助とともに薩摩藩の計略であった関東撹乱の実行者であったが、相楽総三が処刑されたのは、関東撹乱の 証拠隠滅をもくろんだ西郷隆盛の謀略によるものであって、年貢半減の取消に起因するものであるとはいえない。 しかしながら、同証人は、右見解 を、これまで発表したことはなく(したがって、学界での評価又は批判を受けたこともなく)、これをもって昭和五五年度検 定当時の学界の状況を構成する一見解とみることはできない。したがって、同証人の見解をもって、検定意見を基礎付けるものとはなし得ないといわざるを得な い。 (5)以上によれば、昭和五五年検定当時の学界の状況としては、朝廷が、相楽総三の建白を容れて年貢半減をその政策として採用し、相楽総三 らにその布告を 許しながら、後にこれを取消して相楽総三らを死刑に処したとする高木教授の説と同趣旨の見解を述べ、あるいはこれを支持するもの(右取消の理由はともかく として)があるのみで、高木説に反対しあるいはその根拠となる史料を批判する見解は現れていないことが認めらる。また、年貢半減令が出された事例が幾つか 報告され、かつその事例がかなり広い範囲に及んでいるということが学界の認識であったことは、被告においても認めるところである。 (三)右に認 定した事実に照らせば、基礎史料である「赤報記」の史料批判さえ行われておらず、基礎的事実の確定は今後の考察に待つという段階にあり、今日 明確に言えることは征東軍の先鋒隊と称して従軍した相楽総三の率いる赤報隊が旧幕府領については当年年貢を半減する旨の高札を掲げたというにとどまる、と いう検定理由は、いまだ学界に現れていない教科書調査官の個人的見解に根拠を有するにとどまり、昭和五五年度検定当時の学界においては右検定理由に沿う見 解は存しなかったというほかない。そして、本件検定意見は、原稿記述が検定基準に照らし正碓性に欠けるとする修正意見であり、修正意見に従った修正が加え られた結果、内閲本審査合格後の記述は、「徳川氏追討の軍には、人民のなかから草莽隊といわれる義勇軍も参加した。その一つである相楽総三らのひきいる赤 報隊は旧幕府領の当年の年貢半減などの方針を高札に掲げて人民の支持を求めたが、朝廷方は進軍途中の相楽らを『偽官軍』として死刑に処した。年貢半減は、 実行されず……」となったのであるが(内閲本審査合格後の記述については当事者間に争いがい。)、この記述では、赤報隊が官軍先鋒隊として認められたもの で、年貢半減の高札が朝廷の勅諚に基づくものであるとする昭和五五年度検定当時の学界の一般的な見解にかえって沿わない結果となっているといわざるを得な い。 右のとおり、本件検定理由が学界に現れていない教科書調査官の個人的見解に基づくにとどまり、検定当時の学界ではこれに沿う見解は表明され ていなかった こと、本件検定意見が修正意見であること、検定意見に付してこれに沿った修正を強制したことによりかえって検定当時の学界の一般的見解に反する記述をもた らすと結果となったことを合せ考えるときは、本件検定意見に合理的根拠があったとすることはできず、文部大臣が、検定基準の前記正確性(1)の観点から修 正意見を付したことは、学界の状況の誤認により事実の基礎を欠いたか又は学界の一般的状況や原稿記述の有する根拠など当然考慮すべき事項を考慮しなかった ものであって、社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権の範囲を超え又はこれを濫用したものといわざるをえないのである。 なるほど、検定理由が、 原稿記述に「朝廷の軍は年貢半減を示して……年貢半減を実行しなかった。」とあることから、朝廷が軍の全国的に年貢半減を実施す る方針を示したにもかかわらず、その方針を実行しなかったように読めるとする点については、かかる読み方自体があり得ないではないし、「維新史料綱要」の 綱文では「旧幕領本年租税ノ半ヲ免ゼシム。」とされている(「復古記」もこれと同旨)ことから、この範囲では検定意見にそれなりの根拠があったといえない ではないが、検定意見はこれにとどまるものではなく、赤報隊が官軍先鋒隊として認められ、年貢半減の高札が朝廷の勅諚に基づくものであるとする学界の一般 的見解に基づく記述部分に対してもこれを不正確とし、その修正を強制するものであり、この点に合理的根拠があるとはし得ない以上、文部大臣が検定意見を付 したことが裁量権の範囲を超えたものであるとの結論を左右するものではない。 ちなみに、〈証拠〉によれば、昭和六一年度検定においては、前記 「新日本史」の本件原稿記述と同じ箇所につき、「徳川氏追討の軍には、人民のなかから草 莽隊といわれる義勇軍も参加した。その一つである相楽総三らのひきいる赤報隊は旧幕府領の当年の年貢半減などの方針を高札をかかげて人民の支持を求めた。 朝廷方は、赤報隊の措置を許したほかにも、長門・安芸・備前3藩にも同じ方針を示した。しかし、いずれも取り消され、進軍途中の相楽らは『偽官軍』として 処刑された。」との改訂申請に係る記述が合格本として採用されていることが認められるところ、右記述は、相楽の率いる赤報隊が、旧幕府領については当年年 貢を半減する旨の高札を掲げたということを表すにとどまらず、赤報隊が少なくとも右措置につき朝廷方から許可を得ていたことを前提にしているものとみるほ かなく、文部大臣は、時点が異なるとはいえ、同じ問題について本件検定意見を後に重要な点で変更したものというべきであろう。 3 南京事件に関 する記述について (一)〈証拠〉によると、本件原稿の脚注「南京占領直後、日本軍は多数の中国軍を殺害した。南京大虐殺アトロシティーとよばれ る。」との記述に対し、文部 大臣は、右記述は南京事件が南京占領直後に軍の命令により日本軍が組織的に行った殺害行為であるかのように読み取れるが、南京事件についての研究の現状か らみて、「南京占領直後」という発生時期の点及び「軍の命令により日本軍が組織的に行った」という態様の点において、いずれもこのように断定することはで きないので、検定基準に照らし、必要条件である第1 [教科用図書の内容の記述]1(正確性)「(1)本文、資料、さし絵、注、地図、図、表など に誤りや不正確なところはないこと。」及び「(3)一面的な見 解だけを十分な配慮なく取り上げていたり、未確定な時事的事象について断定的に記述していたりするところはないこと。」に欠けるとして修正意見を付したこ とが認められる。 原告は、時野谷滋教科書調査官が理由告知の際に告知した理由においては、本件原稿記述が軍の命令によって行われたものであると 読み取れるということは問 題とされていなかったにもかかわらず、本件訴訟において、被告は検定理由の主張を変更したものであると主張する。なるほど、前掲第一二号証によれば、時野 谷滋教科書調査官が理由告知の際には軍の命令によって行われたものであると読み取れることとを指摘していないことが認められるが、証人時谷滋の証言及び弁 論の全趣旨によれば、「軍の命令によって行われたと読み取れる」という主張は、「日本軍が組織的に行ったものと読み取れる」という趣旨をふえんしたもので あることが認められるから、被告が検定理由についての主張を変更したものとはいうことはできない。 なお、検定意見が、南京事件そのものの存在を 否定する趣旨ではないことは、教科書調査官が理由告知の際に「南京占領の混乱の中で多数の中国軍民が犠牲に なった」ことは事実であることを認めていることから明らかである。 (二)〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。 (1)一 橋大学教授藤原彰は、その研究に基づき、南京大虐殺は軍上層部の命令による日本軍の組織的犯行であり、混乱の中で起きたものではないとの見解を有 しているが、その見解の詳細と根拠は、以下のとおりである。 1 南京大虐殺は日本軍の組織的犯行であることについて 昭和五五年度検定当時 においても、極東国際軍事裁判の記録、後に(3)に挙げる洞富雄の著作及び洞富雄編「日中戦争史資料」、防衛庁防衛研修所戦史室編 「戦史叢書(支那事変陸軍作戦)」、当事者の体験記などから、南京大虐殺が日本軍の組織的行為であったということができる。 日中戦争開始直後の昭 和一二年八月五日、陸軍次官は、支那駐屯軍参謀長宛に陸支密一九八号「交戦法規ノ適用ニ関スル件」を通牒し、「現下ノ情勢ニ於テ帝 国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約』ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラ ズ」とし、国際法に拘泥することなく行動せよといい、さらに「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト見ラルル如キ言動(例ヘバ戦利品、俘虜等ノ名称ノ使 用)」などは避けるよう指示しているのであるが、国際法に拘泥せず、さらに俘虜の名称を使うなということは、捕虜を作るな、捕虜は処分せよという通牒とし て理解されたであろう。また、極東国際軍事裁判の法廷で武藤章は、「中国ノ戦争ハ公ニ『事変』トシテ知ラレテヰマスノデ、中国人ノ捕ヘラレタ者ハ俘虜トシ テ取扱ハナイトイフ事ガ決定サレマシタ」と証言している(「極東国際軍事裁判速記録」第四四号・昭和二一年八月八日証言)。このように軍中央部の方針は 「捕虜にはしない」と理解された。 佐々木到一少将の指揮する第一六師団歩兵第三〇旅団は、「旅団は本一四日南京北部城内及城外を徹底的に掃蕩せ んとす」とし、更に「各隊は師団の指示ある 迄俘虜を受付くるを許さず」(歩兵第三八聯隊の「昭和一二年一二月一四日南京城内戦闘詳報第一二号」)とする旅団命令を出している。それにもかかわらずこ の戦闘詳報第一二号の付表には、「俘虜(将校七〇、下士官兵七一三〇)」とあり、多くの捕虜を抱え込んだ事実を示している。また、同じ、佐々木旅団長指揮 下の歩兵第三三聯隊の「南京付近戦闘詳報」では、「自昭和一二年一二月一〇日至昭和一二年一二月一四日歩兵第三三聯隊鹵獲表」に「俘虜将校一四、准士官下 士官兵三〇八二」と記し、「俘虜は処断す」と記している。また「敵の遺棄死体(概数)」の項では、「一二月一〇日二二〇、一一日三七〇、一二日七四〇、一 三日五五〇〇、以上四日計六八三〇」とし、「備考、一二月一三日の分は処決せし敗残兵を含む」とある。これらの記述は旅団命令として捕虜を受け付けず、捕 虜が出た場合は「処断」すなわち集団虐殺したことを示している。 右のとおり、捕虜の集団虐殺は、捕虜を捕虜として扱わないという軍中央部の指示 や、捕虜を作るなという軍の命令によって行われたものであって、軍の正規 の命令系統の下で組織的に行われたものである。 次に、南京攻略は、日 本 軍による典型的な包囲殲滅戦であり、戦闘の帰趨は日本軍の完全な勝利に決定していたにもかかわらず、日本軍は、現場で投降を勧告 することもほとんどないままに、無力の敗残兵も追撃し、その大多数を殺害した。これは、戦闘行動の名に値しない一方的で非人道的な殺戮であった。同時に、 敗走する中国軍将兵とともに多数の中国人難民も日本軍の掃射の対象となった。また、南京占領時に「便衣兵」として連行され殺害された中国将校は、戦闘意識 を完全に消失し、武器と軍服を捨てて便衣を身につけて難民区に潜伏した者であるから、便衣兵狩りも正規の戦闘行為とはいえない。更に、日本軍による便衣兵 の認定は、極めて主観的なもので、多数の一般市民が「便衣兵」と誤認され処刑された。右の敗残兵殲滅及び「便衣兵」狩りは、南京城内掃蕩という任務として 軍の基本的組織も維持したまま行われたのである。 そのほか、南京城内に突入した日本軍が、各所で不必要な放火、大規模な略奪、強姦を繰り返した ばかりでなく、確たる理由もなく一般市民を虐殺しているこ とは、「ニューヨーク・タイムズ」紙南京特派員F・テイルマン・ダーディンの報道(甲第二四三号証)、エドガー・スノー著「アジアの戦争」、極東国際軍事 裁判の記録等から明らかである。もっとも、日本軍が組織的に一般市民を殺害せよとの命令を出したわけではないが、市民に対する殺害が起こったのは、敗残兵 狩りないし徴発という軍隊の単位としての行動中のことであり、軍幹部はこれを取締ることなく放置していたのであるから、日本軍の組織的行為であると考えて 差し支えない。 2 南京大虐殺が混乱の中の出来事ではないことについて 日本軍が南京を占領した昭和一二年一二月一三日には、中国軍の組 織的抵抗は、基本的には終わっていた。したがって、占領が混乱の中で行われることはな く、同月一七日の入城式も何の混乱もなく実施できた。それにもかかわらず、捕虜の虐殺、「便衣兵狩り」などの蛮行は、昭和一三年一月末まで続けられてい る。この事実は、南京での蛮行が「混乱の中」で起きたものではないことを示している。 以上のほか、藤原教授は、「証言による南京戦史(最終 回)」(「偕行)昭和六〇年三月号所収、甲第二五一号証)、「南京攻略戦『中国第十六師団長日 記』」(「増刊歴史と人物」所収、中央公論社、昭和五九年、甲第二三七号証)を日本軍の組織的犯行と判断される根拠として挙げるが、これらはいずれも、本 件検定以後に出版されたものであるから、昭和五五年度検定当時の学界の状況を構成するものとして考慮し得ない。 (2)これに対し、戦史研究家児 島襄は、昭和五五年度検定当時の南京事件に関する研究状況からみて、南京占領下の軍政として中国の軍人と民間人を殺害する という方針が確立し、これに基づいて軍の命令による殺害が組織的に行われたと断定することはできなかったと判断している。その見解の詳細と根拠は、以下の とおりである。 南京事件に直接関係する史料は非常に少なく、戦闘に関するもの以外としては、国民党の首都地方法院首席検察官陳光廣の報告書、南 京安全区国際委員会の記 録が中心であり、日本側のものとしては、戦闘詳報、戦陣日誌がある。 戦闘詳報の中には、「午後二時零分、聯隊長ヨリ左 ノ 命令ヲ受ク。左記 イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ。其ノ方法ハ十数名ヲ捕虜シ逐次銃殺シテハ 如何。」というものが残されているが、この戦闘詳報の部隊名は不明であり、記述の中にある旅団名もわからない。したがって、命令自体が、旅団の独断命令で あるのか、それとも、上級の師団、軍、方面軍からの下令であったのかも、判然としない。もっとも、第一三師団第一〇三旅団長山田少将が、師団司令部及び上 海派遣軍司令部に問い合わせて、「始末せよ」との指示を受けていることからすると、前記戦闘詳報が伝える捕虜刺殺の旅団命令も、更に上級司令部からの下令 であり、また、広範囲に下達されたものとみられる。しかし、実際に、その命令が確実に実行され組織的に行われたかについては、疑問があるし、具体的な命令 の内容が「殺せ」ということだったのか、それとも「処分せよ」という命令(「処分」には「釈放」も含む。)を「殺せ」と解釈して実行したのかは、資料が不 足していて不明である。 また、陳光廣の前記報告書は、被虐殺者総数を三九万一七八五人としているが、他方、南京安全区国際委員会の前記報告が記 録する日本軍の暴状は、ほとんど が強姦と略奪に関するものであり、昭一二年一二月一二日から同月一八日までの間に、委員会が耳にした日本軍によって殺された中国人の数は僅かであったとさ れ、陳光廣の報告書に適合するような記録は、南京安全区国際委員会の報告の中には見出することができない。 中支那方面軍司令官松井石根大将は、 昭和一二年一二月九日、南京攻略の下令につけ加えて友軍相撃、外国権益の損壊、掠奪、放火又は失火などの不祥事の発 生を防止するよう厳重な注意をしており、また、後に日本将兵の不祥事を聞知し泣いて将兵を叱責するとともに、遺憾の意を表明したのであり、捕虜殺害の命令 は右の注意等と矛盾するものであって、中支那方面軍司令官の命令があったとは考えられない。また、第十軍司令官柳川平助中将も、同年一一月一七日、婦女暴 行、金品強奪の犯行は,皇軍の威武をけがすものであるとして、「隷下将兵克ク自省自戒シ、軍紀厳正益々士気ヲ振起シ、各々其ノ任務ニ邁進スベシ」との訓示 を下達していることからも、同様に考えられる。 以上のとおり、昭和五五年度検定当時において、南京事件の正確な実態を客観的資料で明らかにする ことは困難であって、捕虜を虐殺するという方針が日本軍 において確定し、組織的に行われたと断定することはできなかった。 また、南京攻略に 至 る戦闘は、中国側の軍民合わせた強い戦意と抵抗に遭い、日本軍にとって苦戦の連続であり、当時の日本軍各部隊は、いずれも敵愾心と恐 怖心にをこわばらせれていた。他方、中国軍側は、南京を放棄して更に奥地で戦いを続けるが、南京でもできるだけ抵抗を続けることとする方針を採っており、 蒋介石に続き首都衛戊司令官唐生智が昭和一二年一二月一二日に首都放棄命令を発して南京から脱出すると、南京市内は無政府状態となり、中国軍は指揮命令系 統を失い、あるものは「便衣」に着替えたり、またあるものは武器を捨てて脱出しようとしたが、このような敗残兵や避難民の流出入に伴う騒乱状態などによっ て極度の混乱状態に陥った。このような混乱状態の中で、掃蕩戦の段階などで、一部の日本兵が民間人を殺害したことは事実であるが、昭和五五年度検定当時、 その実態が正確に把握されていたとはいい難く、日本軍が組織として民間人に襲い掛かったと断定する史料は存在しなかった。 更に、敗残兵による抵 抗が続いていたために、南京城内の安全確保のため、掃蕩戦も長期に及び徹底的に行わなければならなかったが、敗残兵及び便衣兵は、 投降兵と区別すべきで、決して無抵抗であったものではなく、むしろ戦意旺盛であったと記録されており、したがって、敗残兵及び便衣兵に対し全くの無抵抗の 状況で一方的に殺害行為が行われたものではない。 (3)昭和五五年度検定までの学界の状況についてみると、藤原教授は、極東国際軍事裁判におい て事件の全貌がはじめて明らかにされ、エドガー・スノー著 「アジアの戦争」、歴史学研究会「太平洋戦争史(昭和二九年)、洞富雄著「近代戦史の謎(昭和四二年)、家永三郎著「太平洋戦争」(岩波書店、昭和四三 年、甲第二四五号証の一)などの著作が南京事件に触れていたところ、本多勝一著「中国の旅」(朝日新聞社、昭和四七年、甲第二三一号証)、洞富雄著「南京 事件」(昭和四七年、後記「決定版南京大虐殺」に収載)、洞富雄編「日中戦争史料8南京事件1」「日中戦争史資料9 南京事件2」(河出書房新社、昭和四 八年)、洞富雄著「まぼろし化工作批判・南京大虐殺」(昭和五一年、後記「決定版南京大虐殺」に収載)などの著作により南京事件の研究が大きく進んだとし ている。他方、洞、本多らの研究に対し、否定的な見解を示すものとしては、鈴木明著「『南京大虐殺』のまぼろし」(文芸春秋社、昭和四八年)、山本七平著 「私の中の日本軍」(文芸春秋社、昭和五〇年)があった。 なお、藤原教授は、昭和五七年以降南京大虐殺に関する研究が急速に進んだとして、洞富 雄著「決定版南京大虐殺」(徳間書店、昭和五七年、甲第二四四号 証)、本多勝一著「南京への道」(「朝日ジャーナル」所収、昭和五九年、甲第二三二号証)、藤原彰著「南京大虐殺」(岩波書店、昭和六〇年、甲第二五〇号 証)、吉田裕著「天皇の軍隊と南京事件」(青木書店、昭和六一年、甲第二四六号証)、洞富雄著「南京大虐殺の証明」(朝日新聞社、昭和六一年、甲第二四七 号証)、秦郁彦著「南京事件ー『虐殺』の構造」(中央公論社、昭和六一年、甲第二四八号証)、洞富雄著ほか「南京事件を考える」(大月書店、昭和六二年、 甲第二四九号証)を挙げるが、これらはいずれも昭和五五年以降に出版されたものであるから、本件検定当時の学界を構成するものとしては考慮し得ないこと は、さきに(1)に判示したとおりである(但し、昭和五五年度検定当時に発表されていた論稿を収載した部分を除く。)。 (三)本件原稿記述が、 「日本軍は首都南京その他の主要都市や主要鉄道沿線などを占領し〔4〕、中国全土に戦線をひろげたが、」という記述の脚注〔4〕と して付されたものであることにかんがみれば、本件原稿記述が、南京占領直後に日本軍が組織的に中国軍民を殺害したように読める、との検定理由にも合理的根 拠があるといわざるを得ない。 他方、昭和五五年度検定当時の学界の状況をみると、前記(二)認定の事実にかんがみれば、当時、日本軍が軍の命令 によって組織的に中国軍捕虜や民間人を 虐殺したものであるとする見解も既に有力に主張されており、これに沿う史料も現われきていたということができ、右事実に照らせば、原告の本件記述には相当 の理由があるというべきである。したがって、このように相当の根拠をもってなされている原稿記述に対し。修正意見を付することについては、その妥当性につ いて批判の余地のあるところであろう。しかしながら、当時、中国軍民を殺害したことが、日本軍の組織的犯行であると断定することには慎重な見解も少なから ずあったこと(これら両説の優劣については、当裁判所のよく判断し得るところではない。)、文部大臣の検定意見も、日本兵によって残虐行為が行われたこと を否定するものではなく、それが日本軍の命令によって行われた組織的行為であった点について昭和五五年当時にあらわれた史料に基づいてはこのように断定す ることができないとする趣旨であったことにかんがみれば、文部大臣が検定基準の前記正確性(1)及び(3)の観点から修正意見を付したことをもって直ちに 合理的根拠を欠き社会通念上著しく不当なものであったとすることはできない。 (四)ところで、原告は、本件原稿記述は、昭和五一年の申請に係る 改訂検定(以下「昭和五一年度検定」という。)の際に問題とされることなく合格したもの であり、更に、昭和五八年度の改訂検定の際には「日本軍は……殺害し……」という同様の記述は、そのまま合格しているのであるから、本件検定意見は、一貫 性を欠く恣意的なものであり、検定権限を濫用するもので違法である旨主張する。 〈証拠〉によると、昭和五五年度検定(新規検定)における本件原 稿記述は、昭和五一年度検定(改訂検定)の際に新たに書き加えられた記述であるが、同検定 においては改善意見も付されることなく原稿記述がそのまま合格したにもかかわらず、昭和五五年度検定においては、さきに(一)に認定したとおりの理由によ る修正意見が付されたこと、昭和五八年度検定は、昭和五五年度検定の合格本の記述、すなわち、「日本軍は、中国軍のはげしい抗戦を撃破しつつ激昂裏に南京 を占領し、多数の中国軍民を殺害した。」との記述を、「日本軍の南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには中国婦人をはずかしめたり するものが少なくなかった。」との記述に書き換えようとしてした改訂申請についてのものであるが、昭和五八年度検定(改訂検定)においては、後記四 2(一)のとおり、右原稿本の記述のうち、「日本軍将兵の……少なくなかった」の箇所についてのみ修正意見が付され、「日本軍は、……殺害し」の記述には 何らの検定意見も付されず、結局、「日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには暴行や略奪などをおこなうものが少なくなかっ た。」との記述が合格本として採用されたこと、右の三回の検定は、いずれも同一の教科書調査官の担当であったことが認められ、日本軍による中国軍民殺害の 記述につき、右各検定は、その対応において首尾一貫していないと受け取られる面のあることは否定できない。 しかしながら、本件原稿記述について の昭和五五年度検定は、右の他の二度の検定がいずれも改訂検定であるのに対し、新学習指導要領の施行を前提としたい わゆる新規検定であって、従来の教科書記述を根本的かつ全面的に見直したものに対してされたもので、より慎重にされるべき性質のものであり、したがって、 さきに第二、五2において判示したとおり、その審査の方法も、いわゆる白表紙本によって行われるもので、審査の公正が担保される仕組になっており、改訂検 定の場合と異なること、現に昭和五五年度検定の際には、昭和五一年度検定のときに比し、本件原稿記述に係る問題についての調査も一層進展していたこと、さ きに(三)において判示したとおり、本件修正意見は、その理由自体に合理性があること、昭和五八年度検定の原稿記述(その合格本の記述も同じ。)において は、日本軍による中国軍民の殺害は南京占領の「さい、」されたものであるとされているのに対して、本件原稿記述においては、それは南京占領「直後」にされ たものとなっていほか、前者においては、日本軍による中国軍民殺害の事実とともにそれ以外の事実の記載があるのに対して、後者においては、右殺害の事実の みが記載されていて、本件原稿記述は全体として、右殺害についての日本軍による組織行為的性格がより強調して印象付けられる体裁になっており、両者は必ず しも同一の記述とはいえないこと、さきに第一、三2(三)において判示したとおり、昭和五八年度検定に先立つ昭和五七年に、社会科の検定基準の必要条件と して、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」との基準が新たに追加され、検 定制度を取り巻く事情に変化がみられたこと、昭和五八年度検定においては、前記第一、三2(三)のような事情の下で昭和五五年度検定の場合のように例えば 「混乱の中で」との語句の挿入を求めることが中国軍民の殺害を正当化するような誤解を生ずる虞もあったため、そのような意見を付することは止めたことの各 事実が認められ、これらの点を総合勘案すると、文部大臣が、昭和五一年度及び昭和五八年度の各検定の場合には検定意見を付さなかったにもかかわらず、本件 検定においては、右二度の検定の場合と同一かほぼ同一内容の本件原稿記述に対して修正意見を付したとしても、これをもって、直ちに、一貫性に欠ける恣意的 な行政行為として、裁量の範囲を超え又はこれを濫用した違法なものと断ずることはできない。 四 昭和五八年度検定における裁量権濫用の違法 1 朝鮮人民の反日抵抗に関する記述について (一)〈証拠〉によると、昭和五五年度検定済教科書の「一八九四(明治二七)年、朝鮮に東学党の乱が お こると両国は出兵したが、乱鎮定後の内政をめぐって 両国の関係はさらに悪化し、同年八月ついに日清戦争がはじまった。その翌年にわたる戦いで、日本軍の勝利がつづいた。」という記述を、「一八九四(明治二 七)年、ついに日清戦争がはじまった。その翌年にわたる戦いで、日本軍の勝利がつづいたため、戦場となった朝鮮では人民の反日抵抗がたびたびおこってい る。」と書き換えようとする改訂検定申請に対し、文部大臣は、右記述のうち、「朝鮮では人民の反日抵抗がたびたびおこっている。」という箇所は何を指して いるのか明らかでない、もし、「反日抵抗」がいわゆる東学の乱の再挙について述べたものではないとするならば、著者のいう「反日抵抗」がたびたび起こった ということは、高度な学術的研究の成果に基づくものであるとしても、まだ学界に紹介されていない一説といわざるを得ないので、高校教師にとっても理解困難 であり、授業に利用し得る事柄ではないし、もし、右の「反日抵抗」が東学の乱の再挙について述べたものであるとするならば、いわゆる東学の乱の初発を記述 しないで再挙のみを記述するのは生徒に混乱を与える結果となるというものであり、検定基準に照らし、必要条件である第1〔教科書図書の内容とその扱い〕 3(選択・扱い)の「(1)本文、問題、資料などの選択及び扱いには、学習指導を進める上に支障を生ずるおそれのあるところなどの不適切なところはないこ と。」に欠けるとして修正意見を付したことは認められる。 なお、原告は、本件検定意見は、日清戦争の侵略戦争としての側面を教科書に反映させた くないとの意図から出たものであり、修正意見に従った修正を加えた ことにより、朝鮮人民が反日抵抗に立ち上がったという歴史的事実が歪められたと主張するが、検定意見が、朝鮮人民の反日抵抗の事実を否定する趣旨ではな く、また、朝鮮人民の反日抵抗についての記述の削除を求めるものではないことは、前掲甲第一七号証から明らかに認められ、右主張は失当である。 (二) 〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。 (1)奈良女子大学教授中塚明は、その研究に基づき、「日清戦争の研究」(青木書店、昭 和 四三年、甲第一八五号証、乙第五五号証)を著したが、その中で、 「朝鮮人民は、このように日本軍にたいする非協力という消極的な抵抗を試みただけではない。さらに武器をとって積極的に日本軍に反抗した。甲午農民戦争の 秋の蜂起がそれである。……東学の指導者たちのあいだには、暴力を拒否し、武装蜂起に反対する者もあって、農民軍の再挙を妨げたが、しかし農民のあいだの 反日の気運はおさえられるものではなかった。一八九四年の秋にはいると、公然たる抗日武装闘争が各地にひろまり、伝統的に農民反乱の激化地帯であった慶 尚・全羅・忠清の三南地方はもとより、京畿・江原・黄海・平安の各道でも、日本軍があいついで朝鮮農民に襲撃されるという事態がおこった。そして日本軍は その鎮圧のため軍事行動を余儀なくさせられるようになった。「全★準を指揮者とする農民軍の主力は、公州を攻撃したが、日本軍のはげしい反撃にあって敗北 し、農民軍は混乱して各地に分散してしまった。しかし、もともとこの甲午農民戦争の秋の蜂起は、東学の教門によって統一的に指導されていたというよりも、 地域別に各地の指導者にひきいられておこったものであった。」「この甲午農民戦争の秋の蜂起(九月起包といわれる)は、明らかにこの年の春の農民蜂起をふ くめての、従来のそれとは性質を異にしていた。この年の春の蜂起は李朝末期の紊乱と封建的支配者の苛酷な搾取にたいする反乱であったのにたいし、この秋の 再蜂起は、明らかに日本の軍事的な侵略に反対することが主な動機となっていた。」とし、また、「万有百科大事典6」(小学館、昭和四九年、甲第一八八号 証)の「日清戦争」及び「東学党の乱」の項においても同旨を述べ、甲午農民戦争の秋の蜂起(第二次農民戦争)においては、従来東学党の乱の再挙と呼ばれて きた全★準の指導による蜂起以外に各地で起こされた農民らの反日抵抗が重要であったこと、甲午農民戦争の春の蜂起と秋の蜂起とではその性格を異にし、春の 蜂起が主に朝鮮の封建支配階級に向けられたものであったのに対し、秋の蜂起は、日本の侵略にする朝鮮人民の民族解放闘争という性格を有していたことを明ら かにした。 また、中塚教授は、朝鮮人民の反日抵抗を教科書に記述する教育的意義について、日清戦争を日本の近代化という側面からだけ教えるので はなく、それが一方 で朝鮮に対する侵略戦争であったことを教えることが必要であり、日清戦争をこのような歴史的位置付けのもとに考察しようとすれば、日本への従属の深まりに 対して朝鮮人民の動向がどうであったかを生徒に考えさせることが近隣諸国に対する国際的な理解を進める上でも重要であるとしている。 (2)中塚 教授の見解に対する学界の状況 前掲「日清戦争の研究」は、「日本史研究」第九九号(日本史研究会、昭和四三年、甲第一九四号証)において京都大 学 人文学研究所助手(現京都府立大学助 教授)井口和起から、「史林」第五一巻第四号(史学研究会、昭和四三年、甲第一九六号証)において現花園大学教授姜在彦からそれぞれ高い評価を受けてお り、朝鮮史研究会編「新朝鮮史入門」(龍渓書舎、昭和五六年、甲第一九三号証)、中村道雄外編「世界史のための文献案内」(山川出版社、昭和五七年、甲第 一九四号証)、「日本の歴史26 日清・日露付録『月報26』」(小学館、昭和五一年、甲第二〇一号証)においても、日清戦争に関する基本的文献の一つと して掲げられている。 また、上智大学教授藤村道生は、「日清戦争」(岩波書店、昭和四八年、甲第一九〇号証、乙第五七号証)において、姜教授 は、「甲午農民戦争」(岩波書 店、岩波講座「世界歴史22」所収、昭和四四年、甲第一八七号証)において、日清戦争及び甲午農民戦争の性格について、中塚教授と同様の見解を明らかにし ている。 更に、都留文科大学講師(現熊本商科大学教授)朴宗根は、その後、日清戦争中の朝鮮人民の動向を詳細に研究し、「日清戦争と朝鮮」(青 木書店、昭和五七 年一二月、甲第一八六号証、乙第六九号証)を著したが、同書において、日清戦争開始後の朝鮮人民の反日抵抗を大別して、第二次農民戦争以前の散発的な抵抗 運動ないしは義兵運動、第二次農民戦争、第二次農民戦争後の反日抵抗のそれぞれに分け、第二次農民戦争(甲午農民戦争の秋の蜂起)以外にも多様な反日抵抗 が存在したことを明らかにしている。右の「日清戦争と朝鮮」は、「日本史研究」第二五一号(日本史研究会、昭和五八年七月、甲第一九七号証)に中塚教授か ら高い評価を受けている(なお、同書は、その後、「専修人文論集」第三二号(専修大学学会、昭和五九年、甲第一九八号証)において専修大学教授矢澤康祐か ら、「歴史評論」第四一〇号(昭和五九年、甲第一九九号証)において趙景達からそれぞれ高い評価を受けたが、いずれも本件検定後のものであるから、考慮し 得ない。)。もっとも、朴教授自身、右「日清戦争と朝鮮」において「この九四、九五年の反日蜂起のなかで、従来は全★準らの第二次農民戦争を高く評価する あまりに、京釜、京義路と、江原道、普州、左水営地方の蜂起がなおざりにされてきたきらいがある(史料的制約にもよるが)。全★準らの闘争を高く評価する ことについて異論はないが、私は、それ以外の広範な地域における多様な形態で展開された蜂起を見なおす必要があると考えている。」と述べ、第二次農民戦争 (甲午農民戦争の秋の蜂起)が反日抵抗の中心であることを指摘するとともに、その以外の反日抵抗については昭和五七年頃の学界においても研究が十分でな かったことを指摘している。 ところで、甲午農民戦争は、東学教徒ではない貧民たちがむしろ主力となっており、単なる宗教的な反乱ではなく、反封 建的・反侵略的民族的性格を持つもの であるから、「東学党の乱」という呼称自体適切ではないし、また、全★準を指導者とする蜂起を東学党の乱と呼ぶとしても、甲午農民戦争の秋の蜂起(第二次 農民戦争)には、従来東学党の乱の再挙と呼ばれた全★準の指導者とする蜂起以外に各地での農民らの反日抵抗があったこと、これらを含めて東学党の乱の再挙 と総称するときは、これを単なる宗教戦争と誤解させ、日本の侵略に対する朝鮮人民の民族解放闘争という秋の蜂起の性格を見失わせる可能性もあることから、 「東学党の乱」の再挙と「甲午農民戦争」の秋の蜂起(第二次農民戦争)とは区別すべきであるというのが中塚教授の見解である。しかしながら、昭和五八年度 検定当時において、「甲午農民戦争」と「東学党の乱」を厳密に区別する見解が一般的であったということはできず、両者を区別せずに「東学党の乱」と表記さ れることも少なくなかった。すなわち、中塚教授自身、前掲「万有百科大事典6」において、「甲午農民戦争(東学党の乱)」と記述し、この点につき、「いき なり甲午農民戦争と書いても一般の読者が分らないということを慮ってこういう表記をした」と証言しているし、従来、日本では一般的に「東学党の乱」という 呼称が用いられてきたとしている。また、姜教授も、前掲「甲午農民戦争」おいて「従来日本では、この農民戦争を『東学の乱』または『東学匪乱』と呼びなら わされてきており、今もおおくの場合それが踏襲されてきている。」としている。藤村教授も、「日本外交史辞典」(外務省外交史料館、昭和五四年、乙第六一 号証)の「日清戦争」の項において、「民間宗教の一派東学は、地域的に分散した農民の不満を結合し、九四年春、朝鮮南部を中心に大規模な反乱を起こした (東学党の乱または甲午農民戦争)。」として両者を必ずしも区別しない記述をしている。更に、原告も、昭和五五年度検定申請の教科用図書原稿本においては 「東学党の乱」について記載し、これと区別された農民戦争について記載をしていない。 (3)元皇学館大学教授坂本夏男は、その証言において、東 学党の乱の初発と再挙との間には、清国及び日本の兵を退去させることを前提に全州和約が締結さ れ、また、農繁期に入って農民軍が帰郷したため、両者の間に三、四か月の空白があるが、東学党の乱の再挙は、初発において東学の組織を利用して農民軍が組 織化されていたことが重要な要因となっており、再挙も初発と同様に東学道徒である全★準に指導された農民軍が主力となった点に変わりはなく、再挙は初発な くして全く別個に起こったものではないので、両者は蜂起の対象を異にするものの、その性格は一貫性を有すると考えられるとしている。したがって、教科書の 記述として、東学党の乱の初発は、日清戦争の契機となった事件でもあり、再挙を記述するならば初発を記述せざるを得ないとしている (4)山辺健 太郎著「日韓併合小史」(岩波書店、昭和四一年、乙第五六号証)、松下芳男著「近代の戦争1日清戦争」(人物往来社、昭和四一年、乙第六六号 証)、梶村秀樹著「甲午農民戦争と『甲午改革』」(勁草書房、渡部学編「朝鮮近代史」所収、昭和四三年、乙第六七号証)、姜在彦著「甲午農民戦争」(岩波 書店、岩波講座「世界歴史22」所収、昭和四四年、乙第六八号証)、藤村道生著「日清戦争」(岩波書店、昭和四八年、乙第五七号証)、宇野俊一著「日本の 歴史26日清・日露」(小学館、昭和五一年、乙第五九号証)の記述をみると、いずれも甲午農民戦争又は東学党の乱の初発と再挙について書かれており、再挙 についてのみ記述されているものはない。また、隈谷三喜男著「日本の歴史22大日本帝国の試煉」(中央公論社、昭和四一年、乙第五八号証)には初発の記述 はあるが再挙の記述はない。 なお、本件検定のあった昭和五八年度及びその前年度の検定で合格した高校日本史教科書は、一五冊であるが、その中で 初発に触れずに再挙のみについて記述 する教科書はなく、初発と再挙を取り上げた一冊(三省堂「高校日本史改訂版」ー乙第六三号証)及び本件教科書を除き、その余の教科書は、甲午農民戦争又は 東学党の乱の初発のみについて記述している。 (三)そこで、本件検定意見が合理的根拠を有するものといえるか否かについて検討する。 な るほど、さきに(二)(1)及び(2)において認定した中塚教授の見解及びこれに対する学界の状況(特に朴教授の著作)を前提とすれば、本件原稿記述 が、東学党の乱の再挙を含むいわゆる甲午農民戦争の秋の蜂起(第二次農民戦争)のみならず、その前後に起きた組織的・散発的なあらゆる形態での朝鮮人民に よる日本軍に対する総ての抵抗を指すものであることが理解できるといえよう。しかしながら、右の記述の前後に文脈のみから考えると、高校生にとって右記述 における「反日抵抗」が何を指し示すものか客観的に明らかでないとする検定理由にも根拠がないということはできない。 また、中塚教授の説くよう に、とりわけ甲午農民戦争の秋の蜂起が主に朝鮮の封建支配階級に向けられていたのに対し、秋の蜂起が日本の侵略に反対する民族 解放闘争の性格を著しく強めていたという史実にかんがみ、日本の朝鮮に対する従属化政策を実現しようとした日清戦争の歴史的位置付けをより正確に理解させ ようとする教育的配慮に照らせば、朝鮮の内政問題であり、単なる宗教戦争にすぎないとの誤解を生み易い「東学党の乱」の記述を削り、その代わりに中塚教授 らの最新の研究に基づき日清戦争中に侵略してきた日本軍に対して朝鮮人民が各地で抵抗した事実を端的に記述した本件原稿記述にはそれ相当の学問的根拠と教 育的配慮があるというべきである。したがって、このように相当の根拠をもってなされている本件原稿記述に対し修正意見を付することについてはその妥当性に ついて批判の余地のあるところであろう。 しかしながら,他方、本件原稿記述にいう「反日抵抗」も、東学党の乱の再挙を含む甲午農民戦争の秋の蜂 起(第二次農民戦争)を中心とするものであるこ と、それ以外の反日抵抗については昭和五八年度検定当時の学界でも研究が十分でなかったこと(朴教授の前記論文も、発表直後でいまだその評価が定っていた とはいい難い。)、甲午農民戦争と東学党の乱を峻別する考えが学界において完全に一般化してきたとまではいえず、「甲午農民戦争」を「東学党の乱」と表記 するものも相当あったことに照らすと、本件原稿記述の「人民の反日抵抗」を「東学党の乱」の再挙を指すものと理解することが合理的根拠を欠くとすることは できず、また、さきに(二)(4)において認定したとおり、本件検定のあった昭和五八年度及びその前年度の検定で合格した高校日本史教科書にあっては、そ の大多数が、甲午農民戦争あるいは東学党の乱の初発のみについて記述していること、一般概説書でも同様であることに、さきに(二)(3)において認定した 坂本教授の見解を合わせ考えれば、本件原稿記述について東学党の乱の初発を記述しないで再挙のみを記述することは、生徒にとって日清戦争を巡る日本と朝鮮 の基本的情勢や戦争の歴史的経過についての理解を困難にするだけでなく誤解を生じさせる虞があって、教科書の記述としては不適切である、として検定理由が 合理的根拠を欠くということはできず、したがって、文部大臣が検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことをもって、社会通念上著しく妥 当性を欠くものとすることはできない。 2 日本軍の残虐行為に関する記述について (一)〈証拠〉によると、昭和五五年度検定済教科書 の「日本軍は、中国軍のはげしい抗戦を撃破しつつ激昂裏に南京を占領し、多数の中国軍民を殺害した。」 との脚注の記述を、「日本軍は南京占領のさい、多数の中国軍民を殺害し、日本軍将兵のなかには中国婦人をはずかしめたりするものが少なくなかった。」と書 き換えようとする改訂検定申請及び同教科書の他の箇所の脚注に「このために、日本軍はいたるところで住民を殺害したり、村落を焼きはらったり、婦人をはず かしめるものなど、中国人の生命・貞操・財産などにはかりしれないほど多大の損害をあたえた。」という記述を挿入しようとする改訂検定申請に対し、文部大 臣は、「中国婦人をはじかしめたりするものが少なくなかった」あるいは「婦人をはずかしめるもの」という記述については、このような事実があったことは認 められるけれども、このような出来事は人類の歴史上、どの時代のどの戦場にも起ったことであり、原告もその著書「大平洋戦争」において「古代以来の世界的 共通慣行例から日本軍もまたもれるものではなかった。」とする認識をもっているようであるから、特に日本軍の場合だけこれを取上げるのは選択と扱いの上で 問願があり、本件原稿記述は、検定基準に照らし、必要条件である第1〔教科用図書の内容とその扱い〕3(選択・扱い)の「(2)学習指導を進める上に必要 なさし絵、写真、注、地図、図、表などが選ばれており、これらに不適切なものはないこと。」及び「(4)全体の扱いは調和がとれており、特定の事項を特別 に強調し過ぎているところはないこと。」に欠けるものとして、修正意見を付したことが認められる。 (二)〈証拠〉を総合すると、次の事実を認め ることができる。 (1)一橋大学教授藤原彰は、一五年戦争期とりわけ南京事件を含む日中戦争期の日本軍は、日清・日露戦争期の日本軍と比較して も、また、当時の他国の軍隊 と比較しても、強姦の常態化という点で、きわだった特徴を有していたとし、その史料として、「支那事変地ヨリ帰還ノ軍隊・軍人ノ状況」(河出書房新社、洞 富雄編「日中戦争史資料8 南京事件1」所載、甲第二五二号証)、稲葉正夫編「岡村寧次大将資料(上)」(原書房、昭和四五年、甲第二五三号証)を挙げ、 また、日本軍に特有の従軍慰安婦の存在自体が、一五年戦争期の日本軍にとりわけ多くの強姦事件が発生したことを間接的に示しているとする。 そし て、愛知大学教授江口圭一も同旨の見解を有している。 また、原告は、軍が積極的にも消極的にも日本兵に強姦を許容して士気を鼓舞したとし、その 史 料として、「小川平吉関係文書1」みすず書房、昭和四八年、 甲第二六〇号証)、「極東国際軍事裁判判決」(河出書房新社、洞富雄編「日中戦争史資料8南京事件1」所載、甲第二六一号証)、松本重治著「上海時代 (下)」(中央公論社、昭和五〇年、甲第三九〇号証)、「地のさざめごと旧制静岡高等学校戦没者遺稿集」(講談社、昭和四三年、甲第三九一号証)、田村泰 次郎著「蝗」(新潮社、昭和四〇年、甲第三九二号証の一)を挙げている。 なお、藤原教授は、秦郁彦著「南京事件」(中央公論社、昭和六一年、甲 第二四八号証) に、「略奪、強姦を餌に兵を進撃させた往年の蒙古軍を思わせるが、見方によっては、昭和の日本軍は一段と悪質だった。建前では、 強 姦が発覚すると処罰され ることになっていたので、証拠滅失のため、ついでに殺害、放火してしまう例が多かったからである。」とあることを根拠の一つとして挙げるが、同書は、発行 時期に照らし、昭和五八年度の学界を構成するものとしては考慮し得ない。 更に、藤原教授は、日本軍の強姦行為について教科書に記述することの教 育的意義として次の二点を挙げている。第一に、日本軍による強姦行為は、中国戦線 における日本の戦争犯罪の重要な一環をなしていたばかりでなく、現在に至るまで中国側に深い傷痕を残しているという深刻な現実に対する配慮の問題であると する。第二に、強姦問題は、日本の中国に対する侵略戦争であったという一五年戦争の本質や日本軍の性格・体質を理解する上で重要な素材を提供しているとす る。すなわち、一五年戦争が大義名分を持たず、明確な目的を欠くものであったため、駆り出された兵士には自暴自棄的な雰囲気がひろがり、強姦等の非人間的 な蛮行を生み出す土壌があったのであり、また、日本軍は、兵士の自発性を徹底的に封殺する抑圧的管理制度をとり、兵士に対し非人間的処遇を行っていたこと から兵士たちには軍隊に対する不満がうっ積したが、軍幹部は日本兵による中国民衆に対する強姦等の非行を黙認することによって軍隊内の秩序の維持を図ろう としたのであるとしている。 (2)他方、原告は、「太平洋戦争」(岩波書店、昭和四三年、甲第二四五号証の一)において、南京事件についての記 述に関し、日本兵の残虐行為の責任が軍 幹部にあることを述べる文脈中で、「軍の平素からのあり方が戦時かような残虐性を発揮する必然性を内在させていたこと、たとい形式的な『上官の制止』が あったとしても、軍隊において兵卒の『反抗力を麻痺させる手段として、性に関する政策に寛大であったり、なんらかの機会に過度の性的燥宴を許したりする』 古代以来の世界的共通慣行例から日本軍もまたもれるものでなかったのは『慰安所』公設の事実に徴し明白であること等から考え、南京その他作戦地での残虐行 為(特に性関係の)について最大の責任が軍幹部にあるのを否定するわけにいかない。」と述べており、「反抗力を麻痺させる手段として、性に関する政策に寛 大であったり、なんらかの機会に過度の性的燥宴を許したりする」のが広く世界に見られる軍隊固有の本性であるとしている。また、藤原教授も、その意見書 (甲第二三八号証)において、一般社会から隔離された閉鎖的な集団である軍隊の成員が、特に戦地において強姦等の非行に走る傾向があるのは、一般論として は否定することができないとしている。 更に、児島襄は、その証言において、戦争という特異な状況の下での婦人凌辱の事例の実態に関して 正確に把握し得る資料は、ほとんど存在せず、その正確な 実態というものは把握できず、したがって、他の戦争の事例と比較して日中戦争における強姦が特に多かったと断定的に論ずることは非常に難しいと考えざるを 得ないとする。前掲「支那事変地ヨリ帰還ノ軍隊・軍人ノ状況」においては、いくつかの強姦の事例が挙げられているものの、他方「一般ニ士気旺盛ニシテ、軍 紀・風紀ハ概ネ厳粛ニ保持セラレアル」とも記されている。 (三)そこで、検定意見が合理的根拠を持つものであるかどうか否かについて検討する。 南 京事件を含む一五年戦争の中で日本兵による中国婦人の強姦ないし凌辱の事例があったことは、被告においても認めるところであるし、さきに(二)(1) において認定したとおり、一五年戦争期の日本軍の強姦行為がきわだった特徴を有していたとし、日本軍の強姦行為について教科書に記述することに相当な教育 的意義があるとする見解が有力に主張されていることにかんがみれば、住民殺害、村落への放火、強姦と併記する原稿記述に対し、文部大臣がその中で特に強姦 のみの削除を求める修正意見を付したことについて、これを積極的に肯認し得る事由を見出すことは困難といわざるを得ない。しかしながら、他方、前記(二) (2)において判示したとおり、一五年戦争期の日本軍の強姦行為をもってきわだって特徴的とすることに慎重な見解もあること(双方の見解の優劣は、当裁判 所のよく判断し得るところではない。)及びその他前記(二)(2)摘示の点にかんがみれば、日本軍の強姦行為を記述することが特定の事項を特別に強調する ことになるという趣旨の検定意見が合理的根拠を欠くものであるとは断じ得ず、文部大臣が検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことを もって、社会通念上著しく不当であったとまではいうことはできない。 3 七三一部隊に関する記述について (一)〈証拠〉によると、昭和 五五年度検定合格済教科書の脚注に「またハルビン郊外に七三一部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国 人を捕らえて生体実験を加えて殺すような残虐な作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた。」との記述を挿入しようとする改訂検定申請に対し、 文部大臣は、いわゆる七三一部隊については、学界の現状は史料収集の段階であって、専門的学術研究が発表されるまでに至っていないので、これを教科書に取 り上げることは時機尚早であるとして、検定基準に照らし、必要条件である第1〔教科用図書の内容とその扱い〕3(選択・扱い)の「(2)学習指導を進める 上に必要なさし絵、写真、注、地図、図、表などが選ばれており、これらに不適切なものはないこと。」に欠けるとして、修正意見を付したことが認められる。 な お、検定意見が、右七三一部隊の存在や日本軍による生体実験の事実を否定する趣旨ではなく、七三一部隊に関する事実を教科書に記述する教育的意義を否 定する趣旨でもないことは、前掲甲第一七号証、証人時野谷滋の証言によって認められる。 (二)〈証拠〉によると、次の事実が認められる。 (1) 昭和五八年度検定当時までに公刊された七三一部隊に関する文献、資料は、愛知大学教授江口圭一の挙げるところによれば、従前公刊されたものの復刻版 二点及び改訂版を含め三六点の多きに及んでいる。中でも昭和五六年から昭和五八年にかけて作家森村誠一が発表した「悪魔の飽食」全三巻(一巻及び二巻は光 文社ー後に角川書店、三巻は角川書店、甲第二五六ないし第二五八号証、乙第一〇八、第一〇九、第一一一号証)は、1旧七三一部隊員の証言、2旧七三一部隊 幹部に対する尋問調書を含むアメリカ軍の資料、3ハバロフスク軍事裁判記録、4旧七三一部隊幹部による医学学術論文、5中国における取材などを総合的に検 討して七三一部隊の実態を詳細に描いたもので、大きな反響を呼び、特にこれ以後七三一部隊は世人の注目を集めるに至った。その他、七三一部隊については、 新聞、テレビ等でも数多く報道されている。 また、七三一部隊の存在につき、昭和五八年度検定当時発表されていた学術書としては、原告著「太平洋 戦争」(岩波書店、昭和四三年、甲第二四五号証の 一)、長崎大学助教授(現教授)常石敬一著「消えた細菌戦部隊ー関東軍第七三一部隊ー」(海鳴社、昭和五六年、甲第二七三号証)、右常石敬一助教授及び ジャーナリストの朝野富三の共著「細菌戦部隊と自決した二人の医学者」(新潮社、昭和五七年、甲第二五五号証資料一の二)があり、外国での文献としては、 ジョン・パウエルの「歴史の隠された一章」と題する論文(「悪魔の飽食ノート」収載、甲第二五五号証資料一の三)がある。右の「消えた細菌戦部隊」は、ハ バロフスク軍事裁判記録を基本とし、日本の医学、軍医学関係文献その他を探索して、七三一部隊の全体像を描いたもので、江口教授によると、同書は、七三一 部隊において生体解剖がなされていたことを自然科学史研究者の立場から論証した点に特色があるとされる。 江口教授は、現代史については、専門的 研究者は限られており、専門的研究者以外の作家、ジャーナリスト又は一般人によって現代史研究・叙述の優れた作品 が数多く生み出されていること、現代史上の諸事件・史実については、その細部に至るまでの全容が完全に解明されているというケースは例外であること、実際 に教科書では必ずしも学問的に究明されていない事件でも記述されていることから、専門的学術研究が発表されていないとしても、教科書に七三一部隊を記述す ることはなんら差し支えないというべきところ、七三一部隊についての本件原稿記述の内容は、前掲「太平洋戦争」で既に確認されており、昭和五八年度検定当 時の学界では、右のような文献ないし資料、特に前掲の「悪魔の飽食」及び「消えた細菌戦部隊」によって更に具体的に解明されていたとする。森村も、「悪魔 の飽食ノート」(晩聲社、昭和五七年、甲第二六四号証、乙第一一〇号証)において、「ハルピン市南方二〇キロの荒野の一角に本拠を定めた七三一本部には多 数のマルタがハルピン憲兵隊本部や同特務機関によって絶えず供給され、二日に三体のハイペースで細菌実験、毒ガス実験の生体材料となって殺された。実験の 中には、冷水を浴びせた身体を零下三五度を超す極寒の大気に晒す『凍傷実験』や、ペストの生菌を注射し、発病から死に至るまで克明に記録する実験等があ」 り(「マルタ」とは、生体実験の対象とされた捕虜を指している。)、このことは既刊の刊行物によって判明していたとし、同様の見解を明らかにしている。 (2) 他方、拓殖大学教授秦郁彦は、七三一部隊に関する前記著作及びその資・史料とされた文献について次のとおりの見解を有している。 1 資料的価値 が 高いと思われる旧日本軍自体における公式の資料は、終戦時に滅失されたといわれており、いまだに発見されていない。 2 前掲「悪魔の飽食」及 び 「消えた細菌戦部隊」の基礎資料とされた「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書 類」(外国語図書出版所、昭和二五年、乙第一一八号証ー甲第二六七号証はその復刻版)には、ハバロフスクにおいて行われた七三一部隊関係者の軍事裁判の尋 問調書、起訴理由書、公判記録、判決文などが収録されているが、この書物は、非公開裁判の記録の一部とされるものであるうえ、これには、通常この種のもの に付されている奥付・序文がないため、訳者、日本での出版社、発行年など書物の来歴を窺うことができず、また、モスクワで印刷されたものがどうして当時ア メリカの占領下にあった日本で発行されたのかなどの点で史料としての疑問が多く、原本に当たり検証することもできない同書を学術的に利用するには慎重な検 討が必要である(なお、右公判書類については、森村も、前掲「悪魔の飽食ノート」において、「ハバロフスク軍事裁判記録はあくまで勝者が敗者を裁いたド キュメントであり、さらに供述証言に応じた元隊員たちの複雑なおもわくもからんで、七三一の本質をうかがわせるものではあっても同部隊の正確な全容を示す ものではない。」としている。)。 3 前掲「悪魔の飽食」の基礎資料の一つとされている旧七三一部隊幹部に対する尋問をまとめたアメリカ軍によ る調査記録は、その史料価値は高いと考えられ るものの、当時占領下という状況で米軍が尋問した結果であるから、その任意性、信ぴょう性、供述された範囲(生体実験等重要部分を欠く。)等に疑問があ り、慎重に扱うことが必要であるところ、これらは、昭和五六、七年ころに初めてアメリカ合衆国で研究者が一般に利用できるような状態に立ち至ったのであ り、昭和五八年度検定以前には、我が国では、同記録のごく一部分が紹介されていたにすぎず、いまだ十分な史料批判が行われていたということはできない。 4 前掲「悪魔の飽食」における旧七三一部隊員の証言に基づく部分は、内容が主に医学にかかわる問題であるのに、元隊員の中でも医師でない下級隊員(その ほとんどが匿名)の証言がほとんどで、医師が中心となる上級隊員の証言が全く欠けている点、文書的裏付けに欠ける点(なお、生体解剖の現場写真は偽写真で あった。)等で、信頼性に問題があって、無条件にこれを利用することは危険である。また、他に、関係者の証言を収録した文献、資料が多数あるものの、いず れも下級隊員の手記であったり、あるいはジャーナリストが伝文や風評をまとめたりしたものであって、史料の信用性を十分検討した学術的研究書として発表し たものではない。 そして、歴史叙述については、史料を厳密に考証した上、必ずその裏付けを採って行われることが要請されるところ、前掲「太平洋 戦争」は、前掲ハバロフス ク軍事裁判記録を基本とし、他には史料として問題のある非学術的雑誌記事に基づいて叙述したにとどまるし、常石助教授の著作も、学術的研究書に付されるの が通例である注が付されていないという点で形式が不十分であり、当該記述がいかなる文献資料に基づいたものであるかを第三者において照合可能なものとなっ ていないうえ、重要な箇所に全くの推測に基づく所があるなど問題があるので、結局、昭和五八年度検定当時には、右要請に応えた専門的学術研究が発表される に至っていなかった、といわざるをえず、いわゆるフエル・レポート(石井部隊長らが生体実験を行ったことを認めたといわれるアメリカ軍史料)が発見されて いない昭和五八年度検定当時においては、七三一部隊に関する研究はいまだ不十分であって、教科書に記述し得るほど、学術的研究としてはまとまっていなかっ たというべきである。 なお、森村も、前掲「悪魔の飽食ノート」において、前掲「悪魔の飽食」出版までは、七三一部隊関係の本もあったが、信頼す べきものは二点しかない旨述 べ、また、「七三一のシステムや個々の実験の具体的内容と種類、およびその担当責任者名、実験諸設備、細菌工場の実態、さらにマルタ供給のルートとその収 監設備、実験の犠牲者が『三〇〇〇人以上』とされる根拠等については、これまでどのような文献資料も明らかにしていなかった。」とし、「七三一の全体像は 先人の諸労作にもかかわらず、依然として曖昧糊たる霧のかなたに烟っていた」と記している。 (三)そこで、本件検定意見が合理的根拠を有するも のといえるか否かについて検討する。 右に認定したとおり、昭和五八年度検定当時、史料として問題がなくはなかったにせよ、いわゆる七三一部隊に 関 しては既に数多くの文献・資料が公刊されて いたこと、中でも前掲「悪魔の飽食」、「消えた細菌戦部隊」を高く評価し、昭和五八年度検定当時の日本近・現代史の学界においては、七三一部隊に関し本件 原稿記述に表現された程度の事実はすでに十分確認されていたとする見解があること等に照らせば、本件原稿記述程度の七三一部隊に関する記述についてその削 除を求める修正意見を付すことが果たして当を得たものといえるかは、問題とする余地のあるところであろう。しかしながら、他方、当時の学界においては、七 三一部隊に関する学術的研究はいまだ不十分であったとして高等学校の教科書においてこの点についての事実を記述することに慎重であるべきものとする見解も あること(これら双方の学問的見解の優劣については、当裁判所の判断し得るところではない。)にかんがみれば、七三一部隊を教科書に取り上げることは時機 尚早であるとする検定理由が合理的根拠を欠くということはできず、文部大臣が検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことをもって、社会 通念上著しく妥当性を欠くものと断ずることはできない。 4 沖縄戦に関する記述について (一)〈証拠〉によると、昭和五五年度検定済教 科書の「沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が戦火のなかで非業の死に追いやられ た。」との脚注の記述を「沖縄県は地上戦の戦場となり、約一六万もの多数の県民老若男女が戦火の中で非業の死をとげたが、その中には日本軍のために殺され た人も少なくなかった。」との記述に書き換えようとする改訂検定申請に対し、文部大臣は、沖縄戦における沖縄県民の犠牲については、沖縄戦の記述の一環と して、県民が犠牲になったことの全貌が客観的に理解できるようにするため、最も多くの犠牲者を生じさせた「集団自決」のことを書き加える必要があり、右申 請に係る本件原稿記述は、検定基準に照らし、必要条件である[教科用図書の内容とその扱い]3(選択・扱い)の「(2)学習指導を進める上に必要なさし 絵、写真、注、地図、図、表などが選ばれており、これらに不適切なものはないこと。」及び「(4)全体の扱いは調和がとれており、特定の事項を特別に強調 し過ぎているところはないこと。」に欠けるとして、修正意見を付したことが認められる。 (二)〈証拠〉を総合すると、沖縄戦に関する昭和五八年 度検定当時の学界の状況について、次の事実を認めることができる。 (1)沖縄戦の特徴について 沖縄戦は、住民を全面的に巻き込んだ戦闘 で あって、軍人の犠牲を上回る多大の住民犠牲を出したこと、また、住民犠牲の中でも、日本軍によって殺害された 人が少なくなかったこと、更に、各地で住民の集団自決が発生したことが、沖縄戦の大きな特徴であるとされている。この点について、沖縄戦の体験者であり広 報学専攻の琉球大学教授大田昌秀は、「総史沖縄戦」(岩波書店、昭和五七年、甲第二八七号証、乙第一二三号証)において、「守備軍は、住民の守護神たりえ なかったのみではない。直接間接に軍との共死を強要し、あまっさえ数百人(一〇〇〇人を越すともいわれる)にのぼる住民にスパイの汚名を着せて殺害までし た。」とし、沖縄戦における日本軍による住民殺害は、軍隊が一般民衆を守るものではないという教訓を生み出す事実であるとしている。「沖縄★史」第8巻各 論編7(琉球政府、昭和四六年、乙第一三八号証)も、沖縄戦通史第三章「戦場下の沖縄県民」の中で第七節として「スパイ嫌疑と残虐」という項目を立てて、 各地における日本軍の住民に対するスパイ嫌疑と惨殺の事例を記述しているほか、歴史学研究会編「太平洋戦争史5」(青木書店、昭和四八年、乙第一三九号 証)も、「沖縄県民の悲劇は敵軍である米軍の残虐行為にとどまらず、『友軍』である日本軍の残虐行為にも苦しめられたことにある。」として、これを裏付け ている。 また、大田教授は、集団自決について、前掲「総史沖縄戦」の中で、「沖縄戦のいま一つの特徴は、各地で住民の〈集団自決〉が発生したこ とである。」「慶 良間列島中の渡嘉敷、座間味、慶留間の島々で地元住民が集団自決を決行したことである。しかも、自決の方法は〈むごい〉というよりない、文字どおり、目を 覆わしめるものがあった。老いた夫妻や親子、兄弟が草刈り鎌や鍬、あるいは手榴弾などでお互いに殺しあったり、みんなで手を取り合って〈猫いらず〉をあお るなどして一せいに死んでしまったからである。守備隊長が『命令した』とか『いや、命令はしていない』といったぐあいに、集団自決の全容については、今も 真相は不明のままである。だが、多数の住民が集団自決をした事実は、否定しようもない。」「狭小な島嶼における戦闘は、遅かれ早かれ,避けようもなく住民 に物心両面で甚大な犠牲を強いる結果となることは十分予測できる。その意味では、慶良間列島の戦闘は、その後につづく沖縄戦における軍・民〈玉砕〉の態様 をあらゆる面で象徴的に示したものといえる。」と述べて、この点を明らかにしている。 (2)日本軍による住民加害について 沖縄戦の一大 特徴とみられる住民殺害を含む日本軍による多数の住民加害が発生した原因については、日本軍の地元住民に対する過度の不信感にあるとされて おり、このことは、昭和二〇年四月九日に発せられ、同年五月五日に長勇参謀長名で公布された「爾今軍人軍属ヲ問ハス標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ 談話シアル者ハ間謀トミナシ処分ス」との沖縄守備軍司令部の命令や「島嶼作戦においては、原住民に気を許してはならぬ。原住民は敵が上陸してきたとき敵を 誘導し、スパイ行為をするからである」との日本軍部隊の訓令などからも窺われるとおり、日本軍が沖縄県民をスパイ視していた事実によっても明らかであると されている。 日本軍による住民加害の事実を、国作成に係る公的文献を中心にみると、次のとおりである。 1 日本軍による住民虐殺 「沖 縄作戦講話録」(陸上自衛隊幹部学校、昭和三六年、甲第三一一号証、乙第一三七号証、以下「講話録」という。)所掲の厚生省調査では、死没者として 「友軍よりの射殺」の事実が、「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(陸上自衛隊幹部学校、昭和三五年、甲第三三二号証、以下「史実資料」 という。)では、戦闘協力者として「正当な理由なく、友軍敗残兵に殺害されたもの」のあることがそれぞれ挙げられている。 元大本営船舶参謀で あった厚生省引揚援護局勤務の事務官馬淵新治は、講話録において、「軍側特に下級幹部において、戦勢の不利に赴くに従い、各地で住民 のスパイ嫌疑による斬殺が各所に散見され、戦後の今も語りつがれている」、「友軍による殺害は既述したスパイ嫌疑によるものゝ外、首里戦線崩壊後島尻地区 に於て住民が避難中の自然壕に侵入して来た四散部隊が、泣き叫ぶ幼児が敵に発見される動機となるとしてこれを殺害し、或いはその母親が強要されて我が子を 扼殺した事例があります。特に敵が全く上陸しなかった久米島(沖縄本島を距る約五〇浬の海上にある。)に於て海軍守備隊長が軍に非協力であり、且つスパイ の嫌疑があるとして住民を殺害したことは今も虐殺行為の典型として語り続けられている」と述べ、また、史実資料において、「敵上陸以後、所謂『スパイ』嫌 疑で処刑された住民についての例は十指に余る事例を聞いているが、目下調査したところによると、在来から沖縄に居住していた住民で軍の活動範囲内で敵に通 じたものは皆無と断じて差支えないと思う。」として、日本軍の手による住民虐殺の事実を明らかにしている。 2 壕追出し 講話録では「壕 提供」、史実資料では「自巳の壕を追い出されて、敵の艦砲、空襲によって死没したもの」がそれぞれ挙げられている。 馬淵は、講話録において、 「こ れらの犠牲者は御承知の首里主陳地帯の崩壊に伴い、第2線陣地につくため、既に逃げ道のない住民が居住する自然壕を取上 げ、米軍の砲爆撃下に住民を追い出したことに基因するものが相当あるのであります。」とし、史実資料において、「心ない将兵の一部が勝手に住民の壕に立ち 入り、必要もないのに軍の作戦遂行上の至上命令である、立退かないものは非国民、通敵者として厳罰に処する等の言辞を敢えてして、住民を威嚇強制のうえ壕 からの立退きを命じて巳の身の安全を図った」、「戦斗が不利となり、島尻地区に軍の主力が後退するに至るや、非戦斗員である住民安住の壕を軍の必要に基い て、強制収用して、壕外に放逐し、無辜の老幼婦女子を死地に投じて多数の犠牲者を生ぜしめている。」として、日本兵による住民の壕からの追出しの事実を明 らかにしている。 3 食糧強奪 史実資料によると、馬淵は、日本軍将兵のうちには、「ただでさえ貧弱極まりない住民の個人の非常用糧食を 徴発と称して掠奪するもの」のあったことを挙 げ、食糧強奪の事実のあったことを明らかにしている。 4 自決の強要 史実資料には、「友 軍 より自決を強要されたもの」が挙げられている。また、前掲「太平洋戦争史5」においては、渡嘉敷村及び座間味村における集団自決は 守備隊隊長の命令によるものとし、右の集団自決による犠牲者数合計六八三人を「日本軍の手によって殺害された沖縄県民の数」の中に算入している。前掲「沖 縄★史」第8巻各論編7も、「第七節スパイ嫌疑と残虐」の中で、渡嘉敷島、座間味島及び阿嘉島の集団自決の例を挙げ、守備隊隊長の命令によって住民が集団 的に、自決し、あるいは自決を強要されたとしている(なお、隊長命令の存否については後記(4)参照。)。 以上のとおり、日本軍による犠牲者と して挙げられるものの中には、日本軍により直接殺害された者と、間接的に日本軍によって死を強制されたものなどがあ る。しかし、間接的に死を強制されたものを、日本軍により直接射殺又は斬殺されたものと犠牲の態様において異なるとして、日本軍による犠牲者ではないと区 別することはできないとする見解も存する。 なお、証人一冨襄は、沖縄戦は軍・県・民が一体となり一致協力して遂行したものであり、日本軍が住民 を殺害したとは信じ難く、仮に、軍人による殺害が あったとしても極めて特異な事象であって、日本軍自体が行ったものとは評価し得ない旨、日本軍が住民を壕から追い出し、あるいはこれに自決を強要したとす る確実な資料はなく、仮に、これがあったとしても、日本軍のために殺されたと表現するのは当たらない旨供述するが、同証人の証言全体の趣旨に照らせば、右 供述部分は、日本軍の行動を擁護する立場から同人の推測ないし個人的信念を述べたものというほかなく、沖縄戦に関する学界の客観的状況を証言するものとは 認められないから、右供述部分は採用の限りでない。 (3)「集団自決」について 大田教授は、さきに述べたとおり、前掲「総史沖縄戦」に おいて、沖縄戦の一つの特徴として、住民の「集団自決」の発生を挙げ、また、「沖縄ー戦争と平 和」(日本社会党、昭和五七年、甲第二九一号証)、「沖縄戦とは何か」(久米書房、昭和六〇年、甲第二九〇号証)、「慰霊の塔」(那覇出版社、昭和六〇 年、甲第三〇六号証)、「これが沖縄戦だ」(琉球新報社、昭和五二年、甲第三一〇号証)の各著述においても、「集団自決」の事実を大きく取り上げている。 更に、原告も、当審の主張において、「集団自決」が、それ自体県民の犠牲の痛ましい例として、日本軍による住民殺害と並ぶ沖縄戦の特徴であるといえるとし ているところである。 「集団自決」の原因については、集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への 恐怖心、軍の住民に対する防謀対 策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘されている。そして、「集団自決」の実態については、住民は、生き残れる展望のない絶望的な情況下で、様々 な要因から「集団自決」に追い込まれたもので、これを戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものとして美化するのは当たらないとするのが一般的 であり、したがって、教科書に単に「集団自決」と記述するときは、住民が他の要因等とは関係なしに本来自発的に自らの意思で自殺したものとの誤解を招く虞 があり、不適切であると指摘されている。 (4)犠牲となった住民の数について 沖縄戦においては、一家全滅の例が多く、また戦争中に戸籍 の多くが焼失したこともあって、住民の犠牲者数を明らかにする客観的資料は存在せず、住民の犠 牲の全貌を明らかにすることは困難であるといわれているが、各資料にみられる犠牲者数ないしはその内訳等は次のとおりである。 沖縄県援護課の資料 によると、沖縄県民の死没者総数は、約九万四〇〇〇人とされているが、この数字は、沖縄戦直前の昭和一九年一二月の沖縄群島の人口 (宮古八重山を除く。)四九万一九一二人から昭和二一年一月の沖縄群島の人口三一万五七七五人、県外疎開者約六万二〇〇〇人及び沖縄出身軍人軍属死没者二 万八二二八人を差し引いて、沖縄群島の県民死没者推定数として八万五九〇九人を算出し、これに宮古八重山の死没者及び調査もれとして見込んだ右数の一割に 当たる八五〇九人を加えた九万四四九九人という数字から得たものである。 前掲の講話録所掲の厚生省調査によると、遺家族援護法の戦闘協力者とし て昭和二五年三月末までに申告された陸軍関係死没者四万八五〇九人のうち一四才未 満の死没者一万一四八三人についてこれを死亡原因別に区分して、「友軍よりの射殺」一四人、「自決」三一三人、この他、「壕提供」一万〇一〇一人、「食糧 提供」七六人等となるとされている。さきに述べたとおり、馬淵は、かかる数字を前提に、右の「壕提供」には、日本軍が「既に逃げ道のない住民が居住する自 然壕を取上げ、米軍の砲爆撃下に住民を追い出したことに基因するものが相当ある」としている。 前掲「沖縄★史」第8巻各論編7に挙げられている 事例を合算すると、住民殺害が八〇人余、「集団自決」が六一三人と推計される。また、「観光コースでな い沖縄」(高文研、昭和五八年、乙第一四〇号証)所掲の一覧表によると、日本軍による住民殺害は約一七八人、「集団自決」は喜屋武半島では数百人、その他 の地域では約六六三人と推計される。更に、「平和への証言ー沖縄県立平和祈念資料館ガイドブック」(沖縄県生活福祉部援護課、昭和五八年、乙第一四一号 証)所掲の一覧表によると、日本軍による住民殺害(壕追出しや自決強要を含む)は少なくとも一一〇人、「集団自決」は五一〇人余と推計される。もっとも、 同表では、「南部一帯では、スパイ容疑処刑、壕追出し、自決強要、食糧略奪、幼児虐殺など日本軍による住民犠牲が頻発しているが現在なおその正確な数は確 定されていない。」とされている。 大田教授は、一般図書、沖縄県の各市町村史(誌)、防衛庁戦史室所蔵資料等の文献に基づき、沖縄戦の死者のう ち、日本軍によって直接に殺害された住民は 少なくとも二九八人、「集団自決」による者(個別の自決を含む)は少なくとも八二四人でそのうち守備軍将兵による自決命令によるものとされているもの(渡 嘉敷島、座間味島の例)は四八三人、日本軍による壕追出しによって死亡した者は少なくとも二九一人、日本軍によって殺害された朝鮮人は少なくとも一一一 人、守備隊兵士によって強制的に移住させられたためにマラリアによって死亡した住民は少なくとも四三五〇人であるとしている(なお、大田教授は、自決命令 があったとされている「集団自決」の中に渡嘉敷島の例を挙げているが、本件検定当時の学界においては、自決命令の存在を否定ないし疑問視する見解もあり、 必ずしも学界が自決命令の存在を肯定する見解で固まっていたということはできない。)。もっとも、日本軍によって直接殺害された住民の数は、実数では一〇 〇〇人を超えるという見解もあり、大田教授自身、八〇〇人は超えると考えられるとしている。 (三)右に認定した昭和五八年度検定当時の学界の状 況等にかんがみると、沖縄戦における日本軍による住民の犠牲者の中には、日本軍によって直接殺害された 者のほか、日本軍によって自決を強要された者、日本軍によって壕を追い出され、あるいは食糧を強奪されたため死亡するに至った者があるとするのが、概ね学 界における一般的理解であるということができる。もっとも、「日本軍のために殺された人」との本件原稿記述は、文言上、これら様々な態様の住民犠牲のすべ てを指すと理解することは困難であって、単に「日本軍のために殺された人」というときは、日本軍によって直接殺害された人のみを指すものと理解するのが通 常であるというべきである。そうすると、右本件原稿記述は、日本軍による住民犠牲の中の住民射殺ないし斬殺の事実を記述したことになるが、かかる事実が一 般的に沖縄戦の一大特徴とされる点である以上、右原稿記述について、これを特定の事項を特別に強調し過ぎたものであるとした検定意見が、当を得たもので あったかについては、批判の余地があるところといえよう。また、検定意見は、「集団自決」による犠牲者が最も数が多いとするのであるが、住民の犠牲の全貌 についての客観的な資料は存在せず、昭和五八年度検定以降現在も住民の犠牲についての調査がいまだに進行中の段階にあること、スパイ嫌疑で殺害された住民 の数は一〇〇〇人近くにのぼるとする見解もあること、日本軍による住民犠牲には、直接射殺又は斬殺された人のほか、壕追出し、食糧強奪、自決の強要などに より死亡した人も含まれるとされていることに照らせば、このように断定することには問題があろう。 しかしながら、その後、その要因や実態につい て徐々に明らかにされるに至ったものの、本件検定当時においては、「集団自決」も沖縄戦の大きな特徴の一つ であるとされていたこと、検定意見もあくまでかかる「集団自決」の事実の記述を求めるにすぎず、沖縄戦の一大特徴とされる日本軍による住民殺害の事実を否 定するものではなく、また、これについての記述の削除を求めるものではないことにかんがみれば、「集団自決」は様々な要因から発生したものであってこれを 犠牲的精神によるものとして美化することがないようにその記述や教育には配慮を要するとしても、文部大臣が、「集団自決」について記述することを求めて、 検定基準の前記(選択・扱い)の観点から修正意見を付したことをもって、いまだ合理的根拠を欠き著しく不当なものとまですることはできない。 五 五七年度正誤訂正申請について 文部大臣が昭和五七年度に三省堂の行った正誤訂正申請の受理を拒否したと認めることができないことは、さきに第 三、二に判示したとおりであり、文部大臣 が右申請の受理を拒否したことを前提とする原告の請求は、その余について判断するまでもなく理由がないことが明らかである。 なるほど、文部省初等 中等教育局検定課の検定調査第一係長岸継明が、正誤訂正申請書を持参した三省堂従業員に対し、南京大虐殺に関する申請部分は正誤訂 正の要件を充たさないので、右部分の申請の再考を示唆し、これを受けて三省堂従業員が右申請書を持ち帰ったことは、さきに第三、二2において判示したとお りであるが、岸の右示唆が社会通念上相当な範囲を超えたものであって申請の受理の拒否に至ったとみるべき事情があったと認めるに足りる証拠はない。また、 さきに第一、三2(三)において認定したとおり、文部大臣は、昭和五七年一一月二四日、昭和五六年度に検定を終えた高等学校の歴史教科書については、正誤 訂正の手続によって修正しない旨の談話を発表しており、正誤訂正申請があっても正誤訂正を承認しない趣旨を明らかにしていたということができる。しかしな がら、他方、前掲乙第四六号証によると、昭和五七年八月六日の衆議院文教委員会で、文部省初等中等教育局長が、「正誤訂正の申請があれば受け付けないとい うことを申し上げたわけではございません。」と答弁していることが認められ、この事実に照らせば、文部大臣が、正誤訂正申請があった場合に、申請を受理し ないことまでも明らかにしていたということはできず、他に右原認定を覆すに足りる証拠はない。更に、前掲甲第一三二ないし第一三五号証によると、三省堂以 外に幾つかの教科書発行者が正誤訂正を申請したのに対し、いずれも文部大臣がその申請を受理するに至っていないことが認められるが、これをもって、本件に おいて文部大臣が申請の受理を拒否したものということはできない。以上のほか、本件においては、本件記録によって窺われる諸事情を勘案しても、文部大臣が 三省堂の行った正誤訂正申請の受理を拒否したと認めるに足りる事情は見出すことはできない。 したがって、三省堂の行った正誤訂正申請がこれまで の正誤訂正制度の運用に照らし正誤訂正の要件に該当するか否か又は文部大臣の検定権限行使における裁 量権濫用の違法については、その判断の限りではない。 第七 損害賠償義務1 昭和五五年度検定における草莽隊に関する記述箇所に対する文部大臣の 検定権限の行使が当該権限を濫用又は逸脱したものであって違法 であることは、すでに前記第六、三2に判示したとおりである。 〈証拠〉による と、 右の違法な検定権限の行使によって、原告は、心ならずも原稿記述の修正を余儀なくされ、これにより受忍限度を超える精神的苦痛を受けた ことが認められるところ、右精神的苦痛は、諸般の事情にかんがみ、金一〇万円をもって慰藉するのが相当というべきである。 二 原告は、昭和五五年 度検定における親鸞及び日本の侵略に関する各記述箇所につき、文部大臣の改善意見に基づき教科書調査官から執拗な修正要求を受けて その記述の変更を迫られたことにより、また、二度にわたり法的根拠のない拒否理由書を提出させられたことにより、多大な精神的損害を受けた旨主張する。 し かしながら、仮に、文部大臣の右各改善意見が違法であったとしても、そもそも改善意見は、修正意見とは異なり、修正を行うか否かを著作者ないし発行者 の最終的判断に委ねるものであるところ、原告は、「改善意見は検定に関する法令規則によれば、修正しなくても検定手続きを完成する上になんらさしつかえな いはずです。改善意見の理解にくいちがいがあったとすれば、そのかぎりでは著者として再検討を加えますが、学問的・教育的配慮の当否にわたるものにあって は、結局は見解の相違というほかなく、そのような論争に応ずる法律上の義務は存しないはずです」との拒否理由書を提出して、文部大臣の右各改善意見に従っ た修正を行わなかったことは、前示第三、一2に判示したとおりであって、本件全証拠によっても,右各改善意見又はこれらに基づく教科書調査官の説得によ り、原告が受忍限度を超える精神的苦痛を受けるに至ったとみるべき事情はなんら認めることができない。また、原告の意を受けて、三省堂が二度にわたり右各 改善意見に対して、拒否理由書を提出したことは、当事者間に争いがなく、原告本人尋問の結果中には、教科書調査官が原告に対して右書面の提出を強制した旨 の原告の主張に沿った供述部分がみられるが、右供述部分は、にわかに採用することができず、他に原告の右主張事実を認めるに足りる証拠はない。かえって、 文部大臣が聴聞の一環として検定申請者に対し、改善意見に従った修正の拒否理由を記載した書面の提出の機会を与えることは、かかる書面の提出の強制など特 段の事情の認められない限り、適正手続の趣旨に沿うもので相当というべきである。 したがって、原告の主張は採用することができず、他に昭和五五 年度検定における親鸞及び日本の侵略に関する各記述箇所に対する検定意見により原告が損害 を受けたと認めるに足りる証拠はない。 三 教科書 検 定は、被告国の機関である文部大臣がその権限に基づきこれを実施するものであるが、文部大臣及びその職務上の補助者である教科書調査官らは、 昭和五五年度検定における草莽隊に関する記述箇所についての前記違法な検定権限の行使について、それぞれ関与したものであり、かつ、本件各証拠によれば同 人らはその点について少なくとも過失があったものと認められ、原告は、これにより右損害を被ったものであるから、被告国は、その公務員である同人らによる 前記損害を賠償すべき義務がある。 第八 結論 以上説示のとおりであって、原告の本訴請求のうち、文部大臣らの前記の違法な検定権限の行 使による損害賠償金一〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌 日である昭和五九年二月一一日から支払ずみに至るまで民事法定利率五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分は、理由があるから認容し、その余は失当 として棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文を適用し、仮執行の宣言については、相当でないからこれを付さないこととし、主文のとおり判 決する。 (裁判長裁判官 加藤和夫 裁判官 西謙二 裁判官 鹿子木康)
https://w.atwiki.jp/iwannabethewiki/pages/2885.html
製作者 Origami DL先↓ http //www.mediafire.com/download/dcg6vuw338s4udj/i+wanna+check+needle.zip
https://w.atwiki.jp/iwannabethewiki/pages/4848.html
製作者 Lucien DL先↓ http //www.mediafire.com/file/q7sigyb7bha08x1/I_wanna_Awful_Needle_4.zip
https://w.atwiki.jp/iwannabethewiki/pages/4226.html
製作者 Shdowsflou DL先↓ http //www.mediafire.com/file/bgw539w7uodp6ip/I_wanna_be_the_lou_needle.rar
https://w.atwiki.jp/iwannabethewiki/pages/3503.html
製作者 letcreate123 DL先↓ http //www.mediafire.com/download/1jsoldki36hsf1y/I+Wanna+Trash+Needle.zip
https://w.atwiki.jp/iwannabethewiki/pages/3908.html
製作者 Regr3t DL先↓ http //www.mediafire.com/download/o0tkgofz7f2t118/The+Empress+needle.rar
https://w.atwiki.jp/iwannabethewiki/pages/4809.html
製作者 アイリス DL先↓ http //www.mediafire.com/file/1uj6ra0isz6dc22/I+wanna+abyss+needle.zip
https://w.atwiki.jp/iwannabethewiki/pages/4115.html
製作者 Lucien DL先↓ http //www.mediafire.com/download/3f9g8944a2oaxg1/I_wanna_Awful_Needle_2.zip
https://w.atwiki.jp/iwannabethewiki/pages/2409.html
製作者 Origami. DL先↓ http //www.mediafire.com/download/9f2ei3vwbh7hfsc/I+wanna+white+needle.zip
https://w.atwiki.jp/iwannabethewiki/pages/4401.html
製作者 BreedPineapple DL先↓ http //www.mediafire.com/file/4nh8c7cgjcqkr6d/I+Wanna+Be+The+Gus+Needle.zip