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キンゴ・スネン(Kingo Sunen) (キャラクター、マーベル) 初登場:Eternals #11(1977年5月) 属性:エターナルズ 、男性格 概要 エターナルズの一員。武者風の鎧を着て、大小二本の刀を差している。素浪人・忍者風の服装をしているときもある。 他のエターナルズと違い、苗字にあたる部分(スネン)がある。 エターナルズとして北海道に降り立ち、16世紀ごろ(戦国~安土桃山?)日本のサムライの生き方を学んだ。 現代ではアクション映画スターとして生活している。 能力 エターナルズとしての高い身体能力や特殊な能力などを持っているとされるが、彼自身は特殊能力を用いた戦闘は好まず刀を用いた武士としての伝統的な戦いを好む。 アメコミ@wiki
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2019年まで博多駅校でチューターをしていた。翌年から小倉駅校のお偉いさんになったらしい。 彼自身北予備での浪人経験があり、アドバイスは聞くべき。 特に計画を立てることについて力説している。 英語系の学科を出てるため和文英作文の添削をしてくれる。 見た目はヤンキー中身もヤンキー。板書はチューターらしからぬ「進路の紙」「今日出すやつ」 生徒を下の名前で呼ぶ。英語科の福嶋先生の教え子で彼の授業の時に当時の学籍番号を添えて板書をするも見事にスルー笑 下の名前を「健弘(よしひろ)」といい、博多駅校にいる吉廣チューターと仲がいい。
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[部分編集] 艶 [倒鼠双杉]北条早雲-天昇虎- SSレア #ref error :ご指定のページがありません。ページ名を確認して再度指定してください。 必要兵力 29 Lv1 攻 3370 防 3060 知 3910 LvMAX 攻 10100 防 9180 知 11720 スキル [北条の黎明【風】] Lv1/10 自分自身の攻防アップ 武芸者計略 敵HPダウン【発動率:中】 売却価格 両 コメント 「さぁさぁっ!!新九郎のっ、虎の時代の幕開けぇっ!!」只の浪人からサガミ統一を果たした下克上の覇者。その知略は北条家の礎となり、武勇は北条家を関東の覇者へ押し上げた。 台詞 図鑑 備考 転生ガチャ限定 コメント 名前
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作者:(略して)将軍 ※立ち絵素材元:ミラーイメージ様 時代劇風の忍と侍立ち絵素材 レンジ:近距離 属性:風 兵種:サムライ タイプ:格闘型 所属:フリーバード ルーツ:オンミョウ 解説 東方の国、バンドーから流れてきた素浪人。 元々はオオバというそこそこの家に生まれたサムライだったらしいが、 指導層の腐敗が嫌になった所に、ある事件に巻き込まれた末に国を出奔。 フリーバードとして、金を稼ぎつつ新たな士官先を求めている。 剣の腕前は流派の免許を取得であり相当なもので、有事においては確実に敵を立つ実力派 ……だが、普段はどことなく抜けている。 どこかに仕送りをしている様である。 【データ】
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辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 名詞 ① 他の要素がつけ加わらない、ありのままのさまをいう。そのままであること。他の語と複合して、「素肌」「素手」「素足」「素顔」「素焼」などと用いることもある。 ※志不可起(1727)「何によらずかざりつくろひのなきを、すのままなど云、素の字也」※歌舞伎・三千世界商往来(1772)口幕「素(ス)で貸しては、踏まれる事が、みすみす見えてあるわいの」 素 ② 邦楽用語。本式の演出に対する略式の演出。芝居用の音楽を芝居から離して純演奏会風に演奏したり、鳴物入りの長唄を三味線だけの伴奏で演奏したり、伴奏入りの声曲を無伴奏でうたったりすること。→素語り・素謡(すうたい)・素唄。 ③ 日本舞踊で、特別な扮装(ふんそう)をせず、黒の紋付に袴(はかま)、または着流しで踊ること。素踊り。 接頭辞 名詞などの上に付けて用いる。① 多く人を表わす語に付いて、平凡である、みすぼらしいなど軽べつの意を添える。「素町人」「素浪人」など。 ※浄瑠璃・新うすゆき物語(1741)下「す奴め邪魔ひろぐか。そこ退て勝負させい」 ② ただ、それだけである、他の要素が加わらない意を添える。「素一分」「素一本」など。 ③ 状態や様子を示す語の上に付けて、そのさまを強調する意を添える。「素寒貧」「素早い」「素頓狂」など。 広辞苑 ①ありのまま。 「―のままの演技」「―顔」 素 ②なにも伴わないこと。 「―で浄瑠璃を語る」「―で踊る」「―手」「―うどん」 ③(他の語の上に付けて)㋐軽蔑の意をこめて、ただの、みすぼらしい、などの意を表す語。 「―寒貧」「―町人」 ㋑程度のはなはだしいことを示す語。 「―早い」「―ばしこい」 大言海 接頭辞 〔 直 (スグ)ノ意カ、 素 (ソ)ノ音ノ轉カ〕(一){物事ノ、 裝 (ヨソ)ハズ、被ハズ、他物ヲ加ヘズシテ、アリノママナル。ハダカ。 持統卽位前紀「被 レ 髮 徒跣 (スアシニシテ)奔赴」浮世床(文化、三馬)二編、下「御 佩刀 (ハカセ)ハ極メル、 形 (ナリ)ハりうとシテ居ルカラ、ナカナカ、素一步ノ御客トハ、見エネヘ」「す顏」す手」す話」す 謠 (ウタヒ)」す 面 (メン)」す飯」す通リ」 素 (二)他念ナク、專一ナルコト。 「す早シ」すバシコシ」 (三)又、俗ニ、 平凡 (ツネ)ノ意トシテ、罵ル語トス。 「す浪人」す 丁稚 (デツチ)」 検索用附箋:名詞名称大和支那 検索用附箋:接頭辞 附箋:名称 名詞 大和支那 接頭辞
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装備 名称 防御力 重量 備考 浪人の腰甲 120 300 海東国華地域 イベント 腰甲・肩甲製作 浪人防具製作 武士の腰甲 140 400 武人の腰甲 ■概要 今回、新大陸導入に伴い、新装備「肩甲」「腰甲」を導入します。 ■詳細 【肩甲】 【腰甲】 「肩甲」「腰甲」は所持ウィンドウ内に保有している状態でダブルクリック、 またはドラッグで装着することができ、上記の画像の位置に装着されます。 【新付与値改造】 ①江華 渡し場 道具屋(128 135)に[新付与値改造]で会話。 ②挑戦する等級×10,000銀銭、新五行具を使用して(肩甲、腰甲)を改造。 ③+1~+3への改造は「成功/維持」が、+4~+5への改造は「成功/維持/下落」が +6以上の改造(+5から+6にする場合)は「成功/維持/下落/破壊」があります。【2/15追記】 【新五行具昇級】【2/15追記】 ①江華 渡し場 道具屋(128 135)に[新五行具昇級]で会話。 ②同等且つ同じ属性の新五行具5個で昇級が行なえ、上位の新五行具(属性 ランダム)が獲得可能。 【新強化改造】【2/15追記】 ①江華 渡し場 道具屋(128 135)に[新強化]で会話。 ②挑戦する等級×10,000銀銭、新強化石(一)または新強化石(二)を使用して(肩甲、腰甲)を改造。 ③+1~+3への改造は「成功/維持」が、+4~+5への改造は「成功/維持/下落」が +6以上の改造(+5から+6にする場合)は「成功/維持/下落/破壊」があります。 ※「腰甲」「肩甲」の強化値は、既存の他の防具の強化値とは異なります。ご注意ください。 ※新強化石の仕様につきましてはこちら 【新五行属性付与】【2/15追記】 ①江華 渡し場 道具屋(128 135)に[新五行属性付与]で会話。 ②属性が付与されていない「肩甲」「腰甲」を入れて、100,000銀銭で付与が可能(属性 ランダム) 【獲得方法】 ・「肩甲」「腰甲」:江華地域モンスター討伐時、低確率でドロップ。 またはイベント・キャンペーンで獲得可能【2/15追記】 ・「新五行具」:江華地域ボスモンスター「地石文」討伐時、一定確率でドロップ。 またはイベント・キャンペーンで獲得可能【2/15追記】 ※洛陽城 製造壺[防具強化](強化等級改造)、[水晶装着]や 江華 渡し場 道具屋[新強化石(二)製作]等は今後実装予定です。【2/15追記】 ■更新履歴 2016年12月21日 情報の掲載 2017年2月15日 情報の追記 名前 コメント
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NieA_7 ●6.5点 宇宙人との共存が当たり前のことになった世界を舞台に 苦学生である主人公と「アンテナ無し」の居候宇宙人ニアの貧しくもたくましい生活を描いた作品。 派手な展開は無く、だた淡々と「ちょっと変った世界での普通の生活」をひたすら丁寧に描いているのが特徴。 (途中で思わせぶりな展開になるのだが、それも無視されて終わる)物語の主な舞台となる季節が「夏」である ことを非常に強く強調している(暑苦しさの描写など)ため夏の時期には見ないほうがいいかも。 ●5点 地球に居付いたヘタレ宇宙人と貧乏浪人女の日常。 悪くないけど展開が淡々としすぎで途中で飽きた。
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ハケン占い師アタル 登場人物 コメント テレビ朝日系列で放送されていたドラマ作品。 登場人物 ワルビアルorエーフィ:的場中 マニューラ:上野誠治 ハハコモリ:神田和実} ペルシアン:目黒円 フーディン:田端友代 持ち物ものしりメガネ必須 キリキザンorミロカロス:大崎結 コイキングorヒマナッツ:代々木匠 コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る 草案 ケッキングorコモルーorコイキング:司法浪人生 神田和実の夫で無職なので ニャオニクス♀ :キズナ 使い手のゴシカが占い師なので リザードン:八王子剛 初代ミラクルレッドなので=初代炎の御三家 ニューラ:上野みずほ 誠治の娘 マンキー:大崎ケン -- (名無しさん) 2019-03-18 19 22 48
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高野山にて殉死 山本主殿 山田三十郎 不破万作 玄隆西堂 雀部重政 切腹 木村重茲(助命後自裁) 木村志摩守(賜死) 前野長康(助命後自裁) 前野景定(賜死) 羽田正親(賜死) 服部一忠(賜死) 渡瀬繁詮(賜死) 明石則実(賜死) 一柳可遊賜(賜死) 粟野秀用(賜死) 白江成定(賜死) 熊谷直澄(賜死) その他 三好吉房(改易・流罪) 六角義郷(改易) 木下吉隆(改易・流罪) 里村紹巴(蟄居) 浅野幸長(流罪→のちに復帰) 前野忠康(浪人) 滝川雄利(除封) 荒木元清(追放) 菊亭晴季(流罪) 土御門有脩(流罪) 小早川秀秋(減封)
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- 【宇宙戦艦ヤマトのファンクラブ(1996)】古本マニア雑学ノート さきほども名前の出たアニメ「宇宙戦艦ヤマト」のブームは、実はここから火がついた、 と言っていい。あの作品は、最初TV放映されたとき、視聴率がふるわず、放映期間を 短縮されたものだった。ところが、その再放送の嘆願書が各地方のTV局に殺到し、 後に日本中を席巻するヤマト・ブームを巻き起こしたのであるが、その、 そもそもの発端はこの札幌のN書店の伝言板コーナーだったと言っていい。 『古本マニア雑学ノート』(ダイアモンド社)P.119〜120 「再放送の嘆願書が各地方のTV局に殺到」と書いてあるのだから、『ヤマト』のファンが各地で活動していたのはわかっているのに、どうしてそれらのファンよりも自分が先に活動していたと思うのだろう。 唐沢が浪人をしていたのは1977年のことだが、『ヤマト』の本放送は1974年10月から75年3月までで、本放送の時点で既に熱心なファンが存在していて、その証拠に1975年の星雲賞を受賞しているのだ。 くりかえしになるが、唐沢の活動が『ヤマト』のブームを起こしたという話には大いに疑問を持たざるを得ない。唐沢俊一にとっては良い思い出なのかもしれないが、だからと言って事実と反することを言ってはいけない。 そんなこんなで高校時代は過ぎていった。大学は理系を受験したが、もともと数学は大の苦手だった上に、古書店めぐりばかりしていて勉強を全然していなかったから、受かるわけもなく、一年浪人するハメになった。 しかし、この浪人時代の一年は、その後の僕の人生を大きく変えた。それまで古書趣味のような、どちらかというと孤独な趣味に走り、友人もあまり多くなかった僕だったが、当時札幌の地下鉄の駅前にあったNという書店の伝言板に、SF・アニメ同好会の会員募集があり、そこに入会したのだ。「S・S」という会で、何やらナチスの親衛隊みたいな名称だが、これはアニメ「宇宙戦艦ヤマト」のエンディング・テーマ「真っ赤なスカーフ」(SCARLETSCARF)から取ったものだった。 ここで、僕のそれまでの古書趣味が大いに役立った。例えば、スペースオペラのことを語るにしても、当時、日本のスペオペの最大の紹介者だった野田昌宏氏の『宇宙の英雄たち』『宇宙船野郎』などという、基本的著作を読んでいる者は、同世代にはほとんどいなかった。これらはそのころすでに、出版社にも在庫がほとんどなくなっていた本だったのだ。ハヤカワSFシリーズも同様。これらを古書店で手に入れ、読んでいた僕は、新参者ではあったが、たちまちその同好会のリーダー格になった。それまで個人の趣味に過ぎなかった読書が、他人に対する力になったのだ。周りの人間や、両親にまで、“暗い”とか言われていた本への執着が、初めて、世間的な価値になることを知ったのである。当然のことながら、そこでの活動に大いにハマった。 毎日のように仲間とツルんで書店めぐり、映画館めぐりをし、同人誌を編集し、映画のフィルムを借り出してきて上映会を行い、もう、自分が予備校生であることなど忘れて、ファン活動に熱中した。こういうものに熱中する年齢だったのだろう。もちろん古書店通いも続けていたが、買うのはやはりSF一辺倒になりつつあった。僕の短くもない古書遍歴のうちで、おそらく唯一、本の収集の系統を定めていた時期だったのではないか、と思う。 『古本マニア雑学ノート』P.116〜118 古本好きの孤独な少年が仲間を見つけて活動に励んでいる様子がうかがえる文章である。伊藤剛さんが仰っていたように唐沢は高校時代友達がいなかったのかもしれない。個人的に面白かったのは、「もともと数学は大の苦手だった上に」というところ。数学が苦手ならガセビアで数字の間違いが多発するのも無理はないのかもしれない。 しかし、やはりというか、唐沢は『ヤマト』という作品自体はそれほど好きではないということもわかる。唐沢が活動に熱心になったのは、何かの作品が好きだからというわけではなく、同年代の友達が知らない知識を披露することで集団の中でイニシアチブを取れたからなのだろう。そして、だからこそ、唐沢はいまどきのオタクを嫌っているのだと思う。 第一に、「この作品について語るなら、あの作品を見ていなきゃ話にならない」という唐沢の(同好会でスペースオペラについて語ったような)やりかたは、今現在ではあまり有効ではない。キャラクターを目当てに作品を見ているファンにしてみれば、別にそんなことには興味がないのである。唐沢や岡田斗司夫はそのようなファンを批判するが、作品の見方は人それぞれなのだから、批判したってしょうのないことだろう。唐沢だって「萌え」は昔からあったと以前書いていたではないか。第二に、今では昔のマニアックなネタでも簡単に調べられてしまうので、唐沢が同好会でやったようなひけらかしはできなくなっている。それどころか、唐沢が語っていたネタの間違いまでバレてしまうようになっているのだ(これはオタク関係のネタだけでなく雑学についても言えることだが)。オタクが変化したというよりは、過去の作品の復刻やネットの普及によって唐沢のやりかたが通用しなくなったと言った方がいい(だからなのか、唐沢は最近ネットを批判してばかりいるのだが)。 そして、もうひとつ付け加えるなら、唐沢は「プロデュース」についてよく語っているが、唐沢が好きなのは「プロデュース」ではなく「同好会」なのだと思う。札幌の同好会で初めて自分の知識が役に立った経験が忘れられないのだろう。誤解して欲しくないのだが、自分は唐沢が「同好会」をやってることをバカにするつもりはない。夏コミで自ら売り子をやっている唐沢を見て思わず感心してしまったのくらいなのだから(夏コミの模様は8月17日の記事を参照)。コミケに参加したり(もちろん冬コミにも参加するんだろうし)劇団と仕事をすることもどんどんやればいいと思う。ただ、そういうことを「プロデュース」というのはちょっと違うような気がするのだが。 【宇宙戦艦ヤマトのファンクラブ(1999)】トンデモ創世記2000 忘れもしない、七七年頃だから大学一年の頃、札幌で「宇宙戦艦ヤマト」のファンクラブを運営 していたんですよ。その前に高校生の頃「スター・ウォーズ」のファンクラブを作ろうとしたんですよ。 まだ日本に「スター・ウォーズ」が来る前に、ファンクラブを作って日本で最初の公認を取ろうとした んですよ。 実は、「ペリー・ローダン」で取っているんですよ、公認を。 会員があんまり活動してくれなかったので終わったんだけど。「SFマガジン」に広告出して、ドイツの 「ペリー・ローダン」の出版元まで許可を取って、一応、僕は事務局長をやってたんです。 で、「ペリー・ローダン」は地味だから、これからは「スター・ウォーズ」で公認を取ろうとしたら、 大阪の方かどこかで先に取られちゃったんだよね。その「スター・ウォーズ」ファンクラブで作った 会誌をジョージ・ルーカスのところに送ったら、「勝手に作るな、五百万円払え」って言われてた。 あーよかった、最初に作らなくってという(笑)。 そういう活動が忙しくて、わざと一浪したんですよ。ファンクラブ作って一年で僕等が卒業してしまうと、 札幌の活動は壊滅状態になるということで。"わざと"というと恰好いいけど、それにかまけて大学受験 の勉強をしなかったんですよね。で、一年間の浪人時代に札幌にプロデューサーの西崎義展さんを 呼んだりした。まだ「宇宙戦艦ヤマト」の映画版を作る前ですね。 『トンデモ創世記2000』1999.8 スター・ウォーズの日本公開は1978年、唐沢が浪人している時で、アメリカで公開されたことで雑誌「スターログ」などで特集が組まれたのは1977年。唐沢が高校3年でヤマトを知ったのと同じ頃。 唐沢は志水一夫との共著である『トンデモ創世記2000』(扶桑社文庫)の中で、『ペリー・ローダン』『スター・ウォーズ』のファンクラブ作りに失敗した後で『ヤマト』のファンクラブを作ったことを語っている。『スター・ウォーズ』の全米公開は1977年だから、唐沢が高校2年のときにはファンクラブを作れるはずがない。 まあ、好意的に解釈するなら、「高校2年のときにファンになって、浪人時代にファンクラブを結成した」ということになるが、熱心なファンなのに2年間何もしなかったのはおかしいだろう。 つまり、唐沢は浪人時代にファンクラブをやっていたとしたらブームを起こせるはずがないということに気づいて、高校のときから活動していたという話にしようと考えたのだが、かえってツジツマが合わなくなってしまったというマヌケな話なのである。 それとも、自分の過去を記憶しておくのも病的に苦手なんだろうか。あと、『ペリー・ローダン』と『スター・ウォーズ』のファンクラブを作ろうとしているところをみると、題材はなんでもいいから仲間と活動したいという気持ちが見えてしまう(なお、『ペリー・ローダン』ファンクラブについては「SFマガジン」に広告を出したと唐沢は発言しているが、当時の「SFマガジン」にそのような広告は見当たらないという)。やっぱり『ヤマト』はそんなに好きじゃないってことか。 「トンデモ創世記2000」の中ではこんな事を語っています ヤマトに高校3年の時に出逢ったが(今回のインタビューでは2年にシフト)ヤマトの事を語る相手がいなかった。その時、札幌のマニアックな書店「リーブルなにわ」にマニア向けのサークル伝言板があったという事を喋った後(P32) その中に「『宇宙戦艦ヤマト』のファンクラブを作りませんか?」って、 わずか一行、目立たなくあったんですよ。すぐに連絡して参加しましたよ。 唐沢俊一は今回のインタビューでは自らサークルを作ったような感じになっていますが、参加しただけなんですよね。と学会にしても後乗りなのに現在は「創始メンバー」みたいな顔をしていますけど。 この「リーブルなにわ」の上にあるのが「ヤマトのレコードが異常に売れるレコード店」 しかし、そもそもおかしいのが前述の本では「ヤマト関連のレコードがとにかくこの店で売れるという事で」と書いているんですが、打ち切りになった人気の無いハズの番組なのに、なぜ「関連レコード」が出ているんだろう?という事です。つまり、必死にレコードを買っていた時はすでにヤマトは注目され、劇中で使われた音楽などをまとめたレコードが発売されていたんですよ。 1976年12月:アルバム「交響組曲宇宙戦艦ヤマト」 その前に、TV版で使われた劇中音楽をまとめたアルバムは発売されている。 わざわざ交響組曲に編曲したものが発売されるというのは、アニメ界だけでなく、かなり大事件だった。 今回のインタビューでは「高校2年ころ」と成っていますが、以前は高校3年の時だった。高校2年だと1975〜1976年、高 唐沢の歴史の中では ペリーローダンのファンクラブ スターウォーズのファンクラブを作ろうとしたが一番が取れずに断念。 宇宙戦艦ヤマトのファンクラブ という順番となってる。 唐沢はこれまで何度も「高校三年の時にヤマトと出会い」と語っていたが、今回は「高校二年」に時間をシフトしている。これは高校3年ではファンクラブの作成が1976年以降になってしまうという事。 実はヤマトのファンクラブは1976年の段階で日本各地に出来ていた。 そのファンクラブの動きが活発になり日本各地で再放送運動が行われ(1975年に神戸で女子大サークルが始めたのが最初だとも言われている)、それを受けてヤマトに関するビジネスが動き始める。 1976年12月:アルバム「交響組曲宇宙戦艦ヤマト」 1976年12月:西崎義展の「オールナイトニッポン」異例の4時間スペシャル 1977年6月号:雑誌「月刊OUT」表紙に大々的にヤマトを使った特集号 1977年8月6日「宇宙戦艦ヤマト」映画版1作目が封切り 1977年8月:ムック「ロマンアルバム宇宙戦艦ヤマト」異例の大ヒット もう、どう考えても1976年にヤマトを知り、誰ぞが書いた「ファンクラブを作りませんか?」に参加したって、日本各地のファンクラブの盛り上がりに参加していただけって事でしょ? それを高校2年、1975年スタートに変えるとかなり印象が変わってくる。 唐沢くん勉強したね。 でも1975年スタートだと、「スター・ウォーズ」のファンクラブを断念して、という話がおかしくなるんだよね。 さらに「ペリー・ローダン」の公認ファンクラブは高校一年の頃? というか、ペリー・ローダンに関しては日本事務局とかがシッカリしているので、ヘタにそんなデマを言うと、公式に突っ込まれる危惧があるんだよね。 【宇宙戦艦ヤマトのファンクラブ(2008.10)】 高校2年のころアニメの『宇宙戦艦ヤマト』が放送されたんですが、 初期で打ち切られてしまった。だけどすごく面白かったから、 「『ヤマト』をブームにしよう!」と思ったんですよ。北海道の片隅で。 (中略) で、最初にやったのが、仲間たちと全員で『ヤマト』のレコードを1軒の店だけで買うんです。 そうすると、全国でもその店でだけバーンと売り上げが上がる。 それとアニメの再放送の嘆願書を出したり、ラジオへのリクエストハガキも出しまくった。 その結果、『ヤマト』の関係者が「北海道で『ヤマト』を盛り上げている子たちに会いたい!」 って来てくれて。 「Zipper」2008年10月号の「Ozipper」というコーナー 唐沢のコメントを受けてインタビュアーは「すごい!まさにブームを作り出したと! その後、『宇宙戦艦ヤマト』は映画化もされて今も語り継がれる作品に…」と言っている。 「『ヤマト』のブームを起こした」というのは、唐沢俊一の持ちネタのひとつだが、 実はこれには重大な疑惑が持たれている。 その理由として「唐沢のファンクラブは他の『ヤマト』ファンクラブに比べて結成がだいぶ遅い」 「『ヤマト』の関係者は全国をまわっていたため、北海道に来たとしても別に特別なことではない」 ということが挙げられる。 唐沢の活動は『ヤマト』のブームにそれなりに貢献したのだろうが、『ヤマト』のブームを起こした というのは明らかにオーバーである。それに実に不思議なのだが、浪人時代にそれほど『ヤマト』に 熱中していたにも関わらず、唐沢の著書では『ヤマト』についてほとんど書かれていないのだ。 『ヤマト』からは卒業してしまったということなのか、それとも『ヤマト』に熱中していたのではなく、 活動すること自体に熱中していたということなのか。 検証blog