約 362,820 件
https://w.atwiki.jp/takedasan30/pages/15.html
過去スレッド 週刊現代八百長報道スレ23 武田さんの脳内取材(2009/07/28(火)-2011/02/08(火)) 週刊現代八百長報道スレ22 武田さんオワタ\(^o^)/(2009/03/26(木)-2009/08/01(土)) 週刊現代八百長報道スレ21 武田さん別の次元へ!!(2009/02/16(月)-2009/03/27(金)) 週刊現代八百長報道スレ20 俺に250万円(・∀・)クレ!!(2008/12/02(火)-2009/02/20(金)) 週刊現代八百長報道スレ19 またも打ち止め?(2008/11/02(日)-2008/12/03(水)) 週刊現代八百長報道統一スレッド17 豊ノ島が転向?(実質18、2008/10/15(水)-2008/11/02(日)) 週刊現代八百長報道統一スレッド17 ビデオで検証?(2008/10/05(日)-2008/10/16(木)) 週刊現代八百長報道統一スレッド16 1月に被告側立証(2007/10/31(水)-2008/10/06(月)) 週刊現代八百長報道統一スレッド15 現代記事掲載(2007/06/13(水)-2007/10/29(月)) 週刊現代八百長報道統一スレッド13 現代記事掲載(実質14、2007/05/22(火)-2007/06/13(水) ) 週刊現代八百長報道統一スレッド13 現代記事掲載(2007/05/22(火)-2007/05/28(月)) 週刊現代八百長報道統一スレッド12 現代記事掲載(2007/03/27(火)-2007/05/22(火)) 週刊現代八百長報道統一スレッド11 現代記事掲載(2007/03/20(火)-2007/03/27(火)) 週刊現代八百長報道統一スレッド10 現代記事掲載(2007/03/12(月)-?) 週刊現代八百長報道統一スレッド9 現代記事掲載(2007/02/28(水)-?) 週刊現代八百長報道統一スレッド8 現代記事掲載(2007/02/19(月)-?) 週刊現代八百長報道統一スレッド7 現代記事掲載(2007/02/12(月)-?) 週刊現代八百長報道統一スレッド6 現代記事掲載(2007/02/11(日)-?) 週刊現代八百長報道統一スレッド5 現代記事掲載(2007/02/09(金)-?) 週刊現代八百長報道統一スレッド4 現代記事掲載(2007/02/08(木)-2007/02/09(金)) 週刊現代八百長報道統一スレッド3 現代記事掲載(2007/02/06(火)-?) 週間現代八百長報道統一スレッド2 現代記事掲載(2007/02/01(木)-?) 週間現代八百長報道統一スレッド1 現代記事掲載(2007/01/29(月)-?) 相撲板関連スレッド 本スレの源流 朝青龍の八百長報道について・・・★3(2007/01/24(水)-?) 朝青龍の八百長報道について・・・★2(2007/01/22(月)-?) 朝青龍の八百長報道 (2007/01/22(月)-?) 週刊現代の話題に限らない八百長本スレッド いつまでたっても八百長ばっかり!Part9 相撲板以外の関連スレッド 雑誌板 週刊ポスト&週刊現代&週刊プレイボーイ総合スレ 週刊現代(2008/01/17(木) -?)
https://w.atwiki.jp/fates/pages/40.html
性分業下での男の優位 とすると[男の女に対する]優位は、あるとして、どこにあるのか。一つに、生活のための財の供給を独占することによって女を従属させることができる。一つに、男が生産する側にいて、女が消費させる側にいることで、価値的な優位に立つ。一つが物質的な水準における優位であるとすれば、第二のものは価値の水準における優位である。(11) 生産の優位→男の優位 この社会では勤労に価値が付与され、生産の優位がある。生産によって取得されたものが正当に所有されるものとなる。そのような社会では、誰かが働かなくてよいことは、誰かがそれが可能であるほど働いていること示し[原文ママ]、肯定的な価値が付与される。そしてその価値を担うのは男である。そこに「男の甲斐性」が示される。(12) 稼ぐことのできない男の不利さ 男が、自分一人が稼ぎ手であるなら、またそのことがその男の価値を示すものだとされるなら、とくに自分の雇用が安定しない場合、その男は自らが稼ぎ手であることが苦痛であるかもしれない。実際稼ぎ手であることができず、その家庭での地位を失う。(14)
https://w.atwiki.jp/mahabharatapotal/pages/13.html
マハーバーラタ日本語訳 英文から日本語に起こしました。 登場人物等の関連リンクは全然置けていないので、今後充実させていく予定です。 第01巻 アーディ パルヴァ 始まりの巻(物語の始まり) 第02巻 サヴァ パルヴァ 集会の巻(賭博と亀裂) 第03巻 ヴァナ パルヴァ 森林の巻(5王子達の森での12年の隠遁) 第04巻 ヴィラータ パルヴァ ヴィラータ王の巻(5王子達のマツヤ国隠遁) 第05巻 ウディヨーガ パルヴァ 努力の巻(クルクシェートラの戦い開戦前夜) 第06巻 ビーシュマ パルヴァ ビーシュマの巻(開戦後 1日目〜10日目) 第07巻 ドローナ パルヴァ ドローナの巻(開戦後11日目〜15日目) 第08巻 カルナ パルヴァ カルナの巻(開戦後16日目〜17日目) 第09巻 シャリヤ パルヴァ シャリヤの巻(開戦後18日目の戦い) 第10巻 サウプティカ パルヴァ 夜襲の巻(最後の夜襲と戦争終結) 第11巻 スリ パルヴァ 女性達の巻(戦後に残された者たちの嘆き) 第12巻 サンティ パルヴァ 平和の巻(5王子長兄の即位) 第13巻 アヌササナ パルヴァ 説法の巻(長老ビーシュマの教え) 第14巻 アスワメーダ パルヴァ 馬犠牲祭の巻(5王子統治の進展) 第15巻 アスラヴァシカ パルヴァ 隠棲の巻(王と后の隠棲) 第16巻 マウサラ パルヴァ 棍棒合戦の巻(ヤドゥ族の乱) 第17巻 マハプラスサニカ パルヴァ 旅立ちの巻(5王子ヒマラヤへ旅立つ) 第18巻 スヴァルガロハニカ パルヴァ 天界の巻(5王子の昇天)
https://w.atwiki.jp/ggk2012/
現代芸術研究会GGK@wikiへようこそ! 更新内容紹介 ① wikiトップページに最下部にコメントフォームを追加しました ② トップページの画像をランダム表示設定にしました イベント紹介 Ⅰ 2013年 1/12(土) 仙台 enn 2nd にて 3大学合同ライブ 開催 Ⅱ 2013年 /() 未定 サークル紹介 現代芸術研究会とは? 現代の芸術を個々の感性で広げて行こう!というテーマを元に活動しているサークルです。 以下活動内容 音楽 バンド活動、作曲を行っています。他大学との合同ライブや地域のお祭へのバンド参加も行っています。 写真撮影 一眼レフを所持しているメンバーやデジタルカメラを使っての撮影です。活動中の写真だけでなくそれぞれの感性によって切り取られた風景画や記念撮影などもしています。 絵・絵画 スケッチブックに自分が描きたいものを描く、ライブの看板を作成、PCのペイントを利用しての個人作品など色々とあります。 合宿 サークルメンバーが普段出来ない経験を得ようと遠征する企画を立て、いわば旅行のような活動も行っています。 よくわかんないからもっと簡単な説明が必要だって? 多種多様で色々なことをしていますが、普段は暇なときはゲームやカードで遊んでいたり、音楽であればジャムやセッションをしたり 「腹減ったからマク●ナルド行こうぜ」、バカなことやってみたり、ダンスしてみたり、何気ないシーンを写真や動画を撮ってみたり・・・ 誰でも気軽に来ることが出来て絶えず笑いがある居場所、そしてなんでも出来る場所、それが「現代芸術研究会」です ※上記をクリックすると活動内容にリンクします←Check! 掲示板 ここを見て思ったこと、気づいたこと、質問、見に来たよ~ぐらいでいいので書いてってね 名前 test - T test - 2012-10-28 07 17 42 test てすとw - G 2012-10-27 19 45 35 う - 名無しさん 2012-10-27 19 46 34 あ - 名無しさん 2012-10-27 19 58 24 合計: - 今日: - 昨日: - トップページの合計: -
https://w.atwiki.jp/savagetide5th/pages/530.html
Unearthed Arcana Modern Magic 第5版の『Dungeon Master’s Guide』が2014年にリリースされたとき、第9章「ダンジョン・マスターの作業場」の2ページは多くの注目を集めた。これらのページは火器と爆発物の使用に関するルールを扱っており、古典冒険である『Expedition to the Barrier Peaks』のように、DMがD D世界に現代の武器や異質の武器を導入することを可能にしてくれる拡張ルールであった。 しかしながら、もし我々がほんのちょっとだけ現代が影響を及ぼすようなものではなく、実際に現代の時代を舞台とするキャンペーン用にD Dルールを拡張するつもりであればどうするのか? 『d20 Modernロールプレイング・ゲーム』は2002年、第3版ルールセットでそれを成し遂げた。現在、基本クラスのためのさまざまなアーキタイプ、伝統、領域、その他の選択肢といった最新版での繰り返しが行なわれており、これらは全てカスタマイゼーションの機会を提供している。そのことを考慮して、この記事では現在を舞台とするセッティングでの呪文発動キャラクターのレパートリーを拡張する新しいルールを提供する。 これらのルールは『Behind the Screens』の「My New d20 Modern Campaign」の記事を基にしており、その記事ではD D第5版用のサイドアーム、ロング・アーム、そして現代の鎧を紹介している。 ウィザード Wizard 知識こそウィザードの技の中核であり、現代の環境は大部分の魔術師が夢見ることもなかったほどの知識を提供する。 秘術の伝統:科学魔術 ウォーロック Warlock 現代のウォーロックは都市生活における目には見えない無作為性を利用し、想像だにしなかった方法でテクノロジーのエネルギーを呼び覚ます。 超自然的パトロン:機械の中の幽霊 追加の妖術 現代の武器に慣れ親しんだウォーロックはそれらの武器を通じて彼らの魔法を利用する方法を学ぶことができる。 アーケイン・ガンスリンガー クレリック Cleric 現代キャンペーンにおける多くのクレリックに関して、生活は都会の環境とそこでの奮闘に支配されている。 都市の領域 能力判定とハッキング道具 Ability Checks and Hacking Tools 現代を舞台とするキャンペーン設定における大部分のキャラクターはコンピュータの使用に良く精通しており、日常の作業(ハード・ディスク内やインターネットを検索する、電気装置の通常の機能を使うなど)のためにテクノロジーを利用する際には自動的に成功する。特に挑戦的なテクノロジーの作業(コンピュータ内に隠された情報を見つけ出す、装置内から削除された情報を復旧するなど)については、キャラクターはDMが設定した難易度に対する【知力】判定を行なう。しかしながら、一部の技術的な作業―プロテクトされたコンピュータ・システムを破る、電気装置の秘密の機能にアクセスする、あるいはそのようにデザインされている訳ではない方法で装置を使用するなど―には、特別なハッキング道具を使用する必要がある。 ハッキング道具:このキットには大部分のコンピュータ・システムと電気装置にアクセスするために必要なハードウェアとソフトウェアが含まれている。ハッキング道具への習熟によって、君はコンピュータ・システムや電気装置に接続したり、それらを使用したりするために行なうあらゆる【知力】判定に習熟ボーナスを加算できるようになる。このキットは背負い袋や道具箱の中に収まるようになっている。 新しい呪文 下記の現代用の呪文はすべてウィザード、ウォーロック、そしてソーサラーの呪文リストとして適合したものである。†が付された呪文はパラディン呪文リストにも適合する。 初級魔法(0レベル) オン/オフ 1レベル インファリブル・リレイ リモート・アクセス 2レベル アーケイン・ハッキング ディジタル・ファントム ファインド・ヴィークル† 3レベル インヴィジビリティ・トゥ・キャメラズ プロテクション・フロム・バリスティクス ヘイワイヤ 4レベル コンジュア・ノウボット システム・バックドア シンクロニシティ 5レベル コミューン・ウィズ・シティ シャットダウン アーケイン・ハッキング インヴィジビリティ・トゥ・キャメラズ インファリブル・リレイ オン/オフ コミューン・ウィズ・シティ コンジュア・ノウボット システム・バックドア シャットダウン シンクロニシティ ディジタル・ファントム ファインド・ヴィークル プロテクション・フロム・バリスティクス ヘイワイヤ リモート・アクセス ダニエル・ヘルミックはWizards of the CoastのInsiderとD D Research and Developmentスタジオの元従業員である。君はTwitterで彼の活動を追うことができ、彼のハンドルは@jabjabslicejabである。 Unearthed Arcanaトップページに戻る
https://w.atwiki.jp/gendai4koma/pages/68.html
ざく切り4コマとは、いとととの「区切り4コマ」に着想を得たトウソクジン(現代4コマ作家)が提唱した表現方法。 概要 「区切り4コマ」がはじめから区切り記号によって分割された文字列を4コマと見なすのに対し、こちらは文字列をスラッシュ【/】を用いてその名の通りざく切りし強制的に4分割する。文字列をそのまま分割する手法(例:ヘリコプター→ヘ/リ/コプ/ター)と、文字や文字列を構成要素ごとに分断する手法(例:品川→口/口/口/川)との2つが主要なアプローチである。いとととから「強制4分割に通ずる試み」と評される。 文字列の分割 文字列や文字の構成要素の分断 のちにトウソクジンが「無」を4分割した作品を、桜桃が「切れ目」を4分割した作品、文字列へ無造作に十字の切れ込みを入れた作品を生み出し、ざく切り4コマの解釈は大きく拡張された。謎解きへの派生も見られる。2023年10月頃一時的に大流行し、以後はほとんど作られなくなった。 「粗製濫造」はざく切り4コマの高い拡張性と"節操のなさ"を象徴する作品。 カオスな現状はXの検索一覧をご覧下さい→【リンク】 関連 区切り4コマ 強制4分割
https://w.atwiki.jp/fates/pages/67.html
前項では恋愛ができないことという、仕方のなさそうな問題を取り上げた。その際にも少し触れたが、現在では恋愛が結婚や性行為の前提条件とされている。いわゆる性・愛・結婚の三位一体であるが、性と結婚との結びつきは近年ではなくなりつつあり、愛(恋愛)と結婚及び性との結びつきが残っているのである。このことが、恋愛のできない苦しみの中心を成しているのかもしれない。 そこでまずは結婚とセクシュアリティの簡単な歴史を、恋愛との関係という観点から記述したい。 まずは結婚について考えよう。そもそも恋愛は結婚と対立することはあっても、不可分のものとされることはなかった。恋愛の起源とされる宮廷恋愛では、水野に従うと、恋愛が、貴族制の産物である結婚とは基本的に対立していた(水野 2006 45)。貴族ではない一般の人々は恋愛ということさえ考えなかっただろう。日本においても明治以前の農村では共同体の中で気の合う者同士が結婚する形が多かったと推測できる。明治に入りもともとは貴族階級のものであった見合い結婚が一般化する。そうすると結婚が恋愛とは対立する事態も発生した。ところが、井上俊の考察によると、1970年代までには、恋愛と結婚とが結び付けられる傾向が強くなり、恋愛結婚が一般化した(井上 1973)。山田の言う「恋愛と結婚の結合戦略」(山田 1994 126)である。ちょうど恋愛の意味合いが「深く魂より愛する」ものから主観的な欲求へと、つまり恋愛が激烈で制御できないものから飼いならすことができるものへと移行してきたことと並行している。国立社会保障・人口問題研究所の調査によると、1960年代後半には恋愛結婚の割合が見合い結婚の割合を上回り、それ以降も恋愛結婚は増加して今日では圧倒的な割合を占めている(国立社会保障・人口問題研究所 2006)。さらに、小谷野によると、見合い結婚に含むべき結婚相談所でさえも恋愛をしていると思わせる仕組みになっているそうである(小谷野 2005)。加えて、現在結婚していても恋愛を感じなくなったら、つまり相手に欲求を引きつけられることがなくなったら、特にほかに恋愛を感じる人がいればなおさら、離婚することが正当化される傾向にある。 それでは次にセクリュアリティについて考えよう。先にあげた柳父による恋愛の定義からも窺えるように、日本においてはおよそ明治以前には、セクシュアリティについてさほど論じられていなかったように推測される。 明治以降の様子については赤川学に詳しい。彼によると、明治期には1875年に出版された『造化機論』を始めとした、開化セクソロジーが導入される。そこでは解剖学的な知識が紹介され、正規の夫婦内での生殖が持ち上げられていた(赤川 1999 104)が、恋愛とは関係なかった。その後「性欲」という用語が広まり、性欲は本能であるので何らかの方法で満たさなければならなく、どのようにして満たすのがよいかといった「性欲のエコノミー問題」が論じられるようになる(赤川 1999 179-202)。ここでもセクシュアリティ(性欲)と恋愛とは分離させられている。1970年代以降には人々の関心の中心は、この「性欲のエコノミー」から、「親密性パラダイム」へと移行することになる(赤川 1999 376)。赤川の言う「親密性パラダイム」とは、「あらゆる性行動の領域において、その当否を判断する基準として「愛」や「親密性」が大きな位置を占めるようになってきていること」(赤川 1999 382)であり、「アンソニー・ギデンズいうところの「親密な関係性」ないし「純粋な関係性」に近似する概念」(赤川 1999 382)である。赤川はまた、「親密性パラダイム」では「愛さえあれば婚姻外セックスも同性愛も婚前セックスも肯定され、同様に愛がなければ、婚姻内のセックスであろうとも否定される」(赤川 1999 383)としている。赤川は続けて、現代では「親密性パラダイム」の一人勝ちといった状態であり、それに勝てるような展望は開かれていない(赤川 1999 383-4)としながらも、誰もが愛や親密性を求めて生きなければならない「親密性パラダイム」の息苦しさを指摘している(赤川 1999 390-1)。現代ではセクシュアリティと恋愛とが密接に結びついているのである。 「愛さえあればどのような性行為をしてもよい」という「親密性パラダイム」の裏を返せば、愛が認められないような親密性に欠ける行為は非難される。「セクハラ」などは当然非難されることに加え、あらゆる倒錯的行為が市民権を得つつある現在でさえも、本人の同意が認められない小さい子どもを相手とする性的な行為は糾弾されるのである。「おたく」が、いくら宮崎勤の連続幼女誘拐事件があったとはいえ、ペドフィリアとあまりに強く結び付けられがちなのはこのためかもしれない。どちらも相手の同意を問うことができないという点で共通しているので、相手の欲求を引きつけて同意を得ようと努力している人たちから非難されると考えることができる。 ここまで、結婚とセクシュアリティの、恋愛に対する関係を見てきた。両者とも1970年代から恋愛との結びつきが目立つようになり、現代では恋愛抜きでは結婚も性行為も認められないほどにまでその結びつきが強まっている。赤川は「親密性パラダイム」という言葉をもっぱらセクシュアリティとの関連で用いていたが、結婚に関しても、「親密性パラダイム」が支配していると言えよう。本論文ではこれ以降、「親密性パラダイム」という言葉をセクシュアリティだけでなく、結婚にまで拡張して用いる。 現代では極めて強い影響力を持っている「親密性パラダイム」では「恋愛(愛)」が要請される。しかし、恋愛の内実は不確かであり、実際に愛情生活を営むためにはあまり高尚なものを求めるわけにもいかず、恋愛が「相手の同意を得ること」程度の意味しか持っていないように感じられる。そうして恋愛が、前項で紹介したような、「特定の相手と心理的、身体的コミュニケーションをとりたい欲求」ほどのものでしかなくなる。 恋愛が「深く魂より愛する」のではなく「コミュニケーションをとりたい欲求」に拠っているのなら、その相手はある特定の人でなければならないわけではなく、交換可能である。実際、雑誌やテレビで組まれている恋愛特集では不特定多数の相手が想定されている。さらにただ交換可能であるだけではなく、序列化される。コミュニケーションをとりたい欲求を多く引きつける人と、あまり引きつけない人との差が発生するのである。こうして人々に商品価値が付与され、いわば恋愛市場が成立するのである。それゆえ、エコノミストである森永卓郎の次のような記述が、ある種の描写としてそれなりの説得力をもつ。 散弾銃方式で撃ち落とすことのできた女性[女性の集団に手当たり次第に声をかけ、いわば散弾銃の雨を降らせた結果脈があった女性]を口説くときには、「こんなことを言ったら逃げてしまうのではないか」などとあれこれ考える前に、「ボクと付き合ってください」と気軽に言ってしまうことだ。そして、女性に断られたら、「失礼しました」とサッと身を引き、絶対に深追いをしてはいけない。すぐに意識を切り替えて、次の女性に向かうのである。それでもダメな場合は、また散弾を放てばいいだけの話だ。(森永 2003 178) さらに、インターネットの出会い系サイトが、実際にどれほど真剣に利用されているかはともかくとして、こういった事態を端的に示している。携帯電話やインターネットの普及が、恋愛の自由化を促進しているのである。 ここまでで論じてきたように、現代では愛情生活における自由化が進行している。「親密性パラダイム」という言葉で表現されるように、結婚やセクシュアリティに恋愛が必要不可欠とされる。そしてその恋愛は「コミュニケーションをとりたい欲求」ほどのものでしかなく、相手の人格を深く尊敬することなどよりも、相手を物と見なしていかに多くの欲求を獲得するかが重視される傾向にある。こうした一連の変化に伴っていくつかの問題が目立つようになってきている。 第一に、結婚やセクシュアリティに恋愛が必要とされることによって、恋愛ができない場合の不具合が非常に大きくなっている。このような状況で恋愛ができないということは、結婚や性行為もできないことを導くので、結婚や性行為を望む人にとって非常に大きな問題になる。 そして第二に、恋愛が相手にコミュニケーションをとりたい欲求でしかないなら、そこでの争いは避けられない。欲求と欲求がぶつかり合うと争いが生じる。例えば、AさんはBさんとコミュニケーションをとりたいと思っているが、BさんはAさんとコミュニケーションをとりたいとは思っていない場合を想像しよう。AさんはBさんに恋愛感情を抱いているが、BさんはAさんに恋愛感情を抱いてないということである。恋愛が絶対的な価値を持っており、そのほかに二人の関係を調整するような規範がないとするなら、争いが発生しがちである。AさんがBさんの上司であったりすると、Bさんは「ストーカー」や「セクハラ」で苦しむかもしれない。逆にBさんのほうがAさんより強い立場にあるなら、「ストーカー」や「セクハラ」だとして、AさんはBさんの身の回りから排除されるかもしれない。「セクハラ」や「ストーカー」といった問題は、当事者の内面を基準にしているので、原理的にはどちらが正しいかを決めることができないのである。もちろん、実際の裁判などでは、外的な行為も考慮される。現実的には「ストーカー」や「セクハラ」を甘受する事例が多く、現在のようにそれらを訴える道が開かれたことには歴史的な意義がある。しかし、「ストーカー」や「セクハラ」に対して敏感になりすぎて、少しでもその疑いがあれば相手を排除しようとするのも問題である。 外的な規範や制度ではなく、恋愛という内面が重視されるために争いが生じやすくなるのである。恋愛感情があるからといってそれを相手に押し付けるのも問題であり、恋愛感情がないからといって相手をひどく扱うことも問題である。後者の問題は本章で紹介した本田透の事例に見られる。恋愛に関してすべてが内面の欲求に還元され、外的な基準が衰退していったために、恋愛が困難になっているのである。そのことを山田は次のように表現している。「現在恋愛が難しくなっているのは、何が恋愛かという主観的構成の規則に対する合意が失われつつあるからだ」(山田 1994 120)。 第三に、恋愛が商品化されること、言い換えると、恋愛市場が現れることによって、恋愛ができる人とできない人とに二極化する傾向にあるのではないだろうか。商品化されるということは、一つの量的基準によってその人の価値が量られることである。そうすると価値の高い人と低い人との差が発生する。商品化されていないと価値を比べることができない。本田透が主張しているように、「おたく」は、この恋愛市場に反対しているのではないだろうか。その恋愛市場で不利益を被る人たち、つまり「モテない」人たちが「おたく」になりやすいということもうなづける。こうした弱者でなくても、恋愛が商品化されることに反感を覚える人たちもいるだろう。 次に恋愛の自由化によって目立つようになったこれらの問題に対する対策を考えよう。 恋愛が結婚や性行為に必須とされること自体が悪いとは主張しづらい。「親密性パラダイム」という言葉を作った赤川も、その息苦しさを指摘していた。とはいえ、必ずしも恋愛があるわけではないような、いわば友愛結婚のような形態もあってよいだろうし、恋愛と切り離して性行為そのものを楽しむのもよいかもしれない。 しかし、恋愛がコミュニケーションをとりたい欲求に還元され、それが絶対的な基準とされることには反対したい。社会生活を営む上では欲求を我慢することも必要である。したくてもしてはいけないことがあり、したくなくてもしなくてはいけないことがある。それは考えてみれば当たり前のことである。してよいこととよくないことの基準を決める際に参照される価値観はいろいろ考えられるだろう。しかしその基準を内面の欲求にすることは、結果的に強い人に加担することになるだけで、何の基準も示していない。女性の発言力を高めるという政治的意義は否定しないが、上野千鶴子の言う「したいときにしたい相手とセックスする自由」(上野 1998 29)などは否定すべきである。 恋愛の商品化に伴い弱者が生まれるという問題は深刻である。「おたく」のように、恋愛市場の外へ出ようとするのも一つの手ではある。
https://w.atwiki.jp/nasakenai/pages/81.html
252 :無名草子さん:2009/01/17(土) 08 47 11 さて、先日に続いてレビューなど。 本日のおすすめは、池内恵『現代アラブの社会思想 終末論とイスラーム主義』講談社現代新書。 タイトル通り、現代アラブ・ムスリムの社会思想について扱ったもの。 1967年、第三次中東戦争にアラブ連合がボロ負けしてからの 中東社会の思想についてまとめたものですが、 アラブ社会の共産主義との繋がり、イスラーム主義について理解するには非常に良い本です。 アラブ人が何を考えているか知るには最も手頃ではないでしょうか。 イスラム教が如何に現代社会に適合できず、袋小路に追い詰められているかわかることと思います。 ただし、中東の歴史・事件史については他の本も参照すること。 wikiでは、後半トンデモスレスレとあったが、 筆者はエジプトで公開資料を淡々と読み進め、考察する形を取っているので、 本のトンデモっぷりはアラブのトンデモっぷりをあらわしていると言えます。 だってあっちじゃ、社会的地位のある人が平然とノストラダムスの予言張りのトンデモを主張するんだぜ? 298 :無名草子さん:2009/01/22(木) 13 06 34 >池内恵『現代アラブの社会思想 終末論とイスラーム主義』(講談社現代新書) これはいったん保留にしてほしい。 この本が出たのは2002年。 アラブ思想は深刻な閉塞状況にあるという論旨だったが、 果たしてその見方はその後の7年を占うのに有用だったろうか。 9.11の翌年、この本が日本の読者に与えた戦慄は、 必ずしもその後の歴史の裏書きを得ることは無かったように思える。 476 :無名草子さん:2009/02/05(木) 00 30 37 252 遅レスで、後半トンデモと書いた者だけども、 どっかのレビューでもあったが「陰謀論とオカルトがあんまりつながってない」気がするんだよね 大体、世紀末にオカルトが蔓延するのは、後進国だっつうなら、日本はどうなんだとw オウム事件ってなんだったんだと。当時ハルマゲドンって5%くらい信じてたんだから あと、イスラム圏の人が「西暦」で世紀末を叫んでるってこと自体に、 中東の西洋化を感じることができる、ともいえると思うんだが (実際、1500年代くらいにイスラム暦の世紀末運動は起きている、と鈴木の論文にある) 池内さんはものすごい分析的に見て、勉強になる人だけど(東大オメ) ちょっと、「自分の視点が常に正しい」って力が強すぎる気がする。 あれの三部が代わりに「書物の運命」の二部のサイード批判だったら文句なしベストだけどね。 ⇒アマゾンリンク
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/160.html
目次 1.ストレス・マネジメント 2.都市型生活の問題 3.運動不足の解消 4.新しき提案 5.未来人の健康管理 (一九八八年七月四日の霊示) 1.ストレス・マネジメント エドガー・ケイシーです。今日もまた、こうして私の霊示を送れることをとても幸いに思います。さて、先日は「治病の原理」について、お話をいたしました。そのなかでいくつかの病気についての対策ということを立てましたが、病気そのものの数はそれよりもはるかに多いので、あれだけではとてもすべてはカバーできません。そこで私はこの第3章において、主として病気の予防、予防医学的見地に立った現代人の健康法について考えてみたいと思います。ついてはまず最初に、「ストレス・マネージメント」ということで少しお話をしてみましょう。 何と言っても現代という時代を医学的に眺めて見た時に、いちばんたいせつな点、あるいはいちばん注意を要する点は何かと言えば、ストレスの多い社会となっているということです。このストレスの管理ができない場合は、もう人間の生命は長くないと言ってもいいかもしれません。 このストレスには、個人レベルのストレスと社会レベルのストレスとの両者があります。個人レベルのストレスは、もちろん個人としての健康を害し、病気になるひとつのきっかけとなるわけですが、社会レベルのストレスというのは何になるかと言うと、これがやはり戦争というような大きなかたちになったりしてゆくのです。 現代という時代を見ると、この個人レベルのストレスで病気が流行(はや)り、社会レベルのストレスが多いために、また戦争の予兆があちらにもこちらにも出てきているようです。それは、平和時においては人びとの闘争本能のようなものが抑圧され、それがどこかになんらかの形をとって出てこようとしているというようにも見えます。 このストレス・マネージメントの話において、私はまず個人のストレス・マネージメントの領域についてお話をしておきたいと思います。なぜ、現代はそれほどストレスが多いのか。その理由は主として三つに絞られると私は考えています。 第一は、これは情報量の増大ということです。現代のような情報化社会においては、なかなか単調な日々を送らせてもらえないものです。これがひとつの原因になっているようです。毎日毎日、新聞、ラジオ、テレビその他さまざまなマスメディアによって新しい情報が絶えず流され続けており、それを吸収しないと時代についていけなくなってしまうのです。過去、人類が享受していたような、おだやかなのんびりとした平坦な日々というものを味わえないようになっているのです。朝、日が昇れば起き、夕方、日が落ちるころには夕食を食べ、家族団欒(だんらん)をして、そしてすぐ眠りに入るというような、そうした平穏な、おだやかに流れていくような生活が忘れ去られ、複雑でせわしない生活がよしとされる時代となったのです。 考えてみれば、これは幸福感の質が変わってきたということでもあろうかと思います。原始の時代と言いますか、遙かなる昔の、父親が狩猟に出て、そして獲物を捕って帰ってくる、妻が料理の準備をして夫の帰りを待ち、子供たちも夕食を待っているという生活。獲物が多ければ喜び、そして料理にも熱が入り、狩りの話をみんなでして、そして家族みんなが楽しそうに喜んでいる姿、そのようにして得ていた幸福感が果たして現代人のものと比べてみて、どれほど見劣りがすると言えましょうか。 幸福というのは、決して複雑な世界のなかだけにあるものではないのです。単純な世界の、素朴な喜びのなかにも深い幸福感というものはありますし、しかもそれは幸福の基本型であるとも思うのです。 そのような原始時代の人にとってみれば、たとえば学校のテストで何点の成績を取ったとか、あるいはボーナスがいくら増えたとかいうような議論は、たとえ聞いたとしてもチンプンカンプンでありましょう。彼らはお金というものに対する感覚さえないでしょう。また社会的肩書き、たとえば重役になった、あるいは社長になったといってもまったくピンとこないでしょう。彼らは現に自分たちに役に立つものが手に入った時にただ素直に喜ぶ、そうした喜びを幸福としていたと思うのです。 こうしてみると、現代の複雑な、情報過多のストレスというのは結局多くの人間が、複数の価値観を持ち始めているということ、異質な価値観というものが発生しているということが、その原因の一つであるのではないのかと考えられるということです。 また、このような情報の氾濫から始まって、次は交通のラッシュの問題がありましょう。父通機関がどうしても混み合い、そして勤労意欲が減退してきているということです。これはどの国の主要都市においても頭を悩ましている問題であると思います。 それからストレスの発生原因の三番目のものとしては、これは家庭生活の良好な維持ということがなかなかできなくなっているという、そのような点に求められるでしょう。現代人は、家族生活を営むということが下手になってきたのです。昔であるならば、離婚をするというようなことは、それほど多くあることではなかったのですが、現代人では離婚というのは急増してきています。これはいったい何か問題なのでしょうか。やはりここにも大きな弊害が忍び寄っているように思うのです。 それは何かというと、結局のところ、仕事上のストレスが家庭のなかに相当持ち込まれているということが言えるかもしれません。妻に夫の仕事の内容がわからないということ、これもひとつのストレスなのです。狩猟時代には夫の仕事は妻にとって明瞭なものでした。そして、夫がどればどの仕事をしたのだろうかということは、捕ってきた獲物をみればだいたいわかったものです。ところが現代の管理社会のなかにおいては、妻は夫が何をして帰ってくるのかがわからないのです。つまり、その長時間の間、夫が何をして働いているのかがわからないのです。そして、夫の自分への愛の量を帰ってくる時刻で計ってみたり、サービスの量で計ってみたりする。このようになると、夫のほうは会社で疲れて帰ってきて、そのうえ家庭サービスをさせられるというようなことで、ますます気がめいってくることがあります。このように、お互いが噛み合わなくなっているわけです。これも結局、妻が夫の仕事の内容をほとんどわからないということに、その原因があるのかもしれません。 このような三つのストレスの原因があって、現代は多くの病気が発生しているようです。そしてその根本にあるのは、やはり人間には、その個人個人独自の自分にあったライフスタイルというものがあるのであり、このライフスタイルを一律に規定しようとするところに実はかなりの無理があるようです。また世間の風潮によって、現在偏差値志向などというものがあるようです。けれども、みんなが立派だと思う方向、あるいはそれが社会における出世であると思う方向へと全員が流れていこう流れていこうとしているようですが、これに対してはもう少し、自分は自分という独立独歩の考え方を確立していってもよいのではないかと思うのです。他人の生き方に流されない人生を考えるということです。 またこれは、国単位でも同じようなことが言えるのです。何が言えるかというと、国単位のストレスというのは、民族間の優劣、国と国との間の優劣を競い合い、このようなものでもって追いつけ追い越せと競争をし、そして先方の国に負けるのではないかと思うと、やたら軍備を増強してみたり威嚇してみたり、こうした原始的な精神性がまだまだ残っていて、そこから発生しているのです。これに対しては、私は国家というものをひとつの人間としてみたてたときに、その国家単位の考え方、行動パターンといった一人の人間としての国の文化レベルを早く高いものにしたいものだと考えます。それはまるで原始人たち、しかもそれは原始人のなかでも特に野蛮な人たちがお互いに覇を競っているような、人食い人種の世界、そうしたものを国家単位で演じているかのようにも見えるのです。その根本の原因は、結局、言葉の違う種族である他国のことを信用できないということが、その根本原因になっていると思えるのです。 こうしてみると、現在海外旅行ばやりのようですが、多くの人がもっと早い時期から海外というものをいろいろと経験してみるということもひとつであろうと思います。修学旅行というようなもので日本国内のいろんなところへ若い生徒たちが行っているようですが、できるならば子供の時代に海外体験というものを短期間でもよいから積ましてやりたいものです。夏休みとして一か月も休みを作るのならば、そういった時に宿題ばかりやらさないで、一か月ぐらい他の国にも見学のために訪問させてみるのです。たとえば、アフリカとか、インドであるとか、中国、ヨーロッパといった国において、そこの子供たちをどこかの学校どうしが交換して面倒をみるような制度をつくり、一か月ぐらいそこに滞在していろいろと他の国の風土を学んでみるということ、そのようなことを考えてみてもよいのではないでしょうか。今、国民性ということを創ることを重視していますが、それ以外に早くから他の民族の、他の国の人たちの生活を知るということ、そしてみんな友達なんだということを知るということがとてもたいせつなことであろうと思います。 2.都市型生活の問題 さて、このストレス・マネジメントの話をすると、結局いびつな部分として出てくることは、都市型生活ということになるのかもしれません。都市というものはやはりストレスを生みやすいものなのです。しかしその反面、都市はまた繁栄のみなもとであることも事実であり、文化の源泉であることも事実です。田舎においてはなかなか文化というものは栄えないものです。都市にはやはり文化が栄えるのです。そこには盛り場もあり、若者たちもたくさん集まりいろいろな文化が栄えるものです。ただそのようにしていろんな文化が栄える反面、そのストレス管理がむすかしいのもまた事実です。都市型生活には、この両面があるように思います。 さて今、霊となった私の眼で見て、この都市型生活の問題を考えてみたいと思います。そうすると、ここにおいて結局何が問題であるかというと、経済のシステムの中において個々の企業がバラバラに自社の発展だけを願ってその活動を行なってきたということです。そしてあちこちに工場を造り、本社や支店をつくり活動してきましたが、結局そうした個々の私企業の自由の追求と、国家単位、あるいは地域単位で見た生活様式、あるいは交通様式、こうしたものとの間にバランスがとれなくなってきているということが言えるのではないかと思うのです。 私は、もはや大都市においては単なる個人、あるいは私企業の自由の追求だけではやっていけないのではないかと思います。こうしたところにおいてストレス・マネージメントをなしていくためには、そのように、お金があれば自由勝手に土地を買い、ビルを建てるという、そうした自由はもうあまり許されないのではないのかと、そのように思います。もちろん地方において土地が余っているようなところであるならば、好きなように建てたいものは建てたらよいと思うのですが、大都市圏においてはもうそれほど大きな自由はないと考えねばならない。やはりもうある程度の行政指導の枠のなかで、そういった企業活動などもなされていく必要があるのではないかと思います。 そうすると、都市には不自由性が発生しますので、ますます地方へと企業も人も流れて行くことが多くなってちょうどよくなっていくのではないのか。田舎では自由があるということになっていけば、そこでいろんな企業が出来たり、個人の生活が生まれてくることもあるのではないのか。そのように私は思います。このように、都市のなかではある程度、共産主義社会ではありませんが、もうかなり地域の行政府主導型、あるいは国家主導型でやっていく以外方法がないのではないでしょうか。一つの体制のなかに二つの考えがあるのはおかしいかもしれませんが、私はそれでよいと思うのです。人口何百万人か以上の大都市においては、もう個人個人の自由はある程度制限され、今以上にもっとその街が住みよいものとなるために公的な企画が入るべきであると、そのように考えます。 三百万なら三百万、五百万なら五百万の住人がなかよく住むことができ、かつ健康的に住むことができるためには、どれだけの緑が必要であって、どれだけの交通網の充実が必要であるのか、どの辺にベッドタウンが必要であるのか。官庁や、あるいは工場群、企業群がいったいどの辺にあるのがいいのか。こうしたことをもう少し公共性を持った観点から、やはり整理するべきだと思います。 したがって、日本の国なども国有地というものがあるのでしょうが、こうした人口三百万なら三百万人以上の都市の土地はすべて公有という形を明瞭にして、国家所有型にしてしまえばよいのです。そしてそのなかは、やはり国家のある程度のプランにもとづいて動かせるようにしていくのがよいと思います。そうすると、自由を求めて地方へ田舎へと企業も人も出て行きますので、これは人口の分散をうながしますし、また、都市に残っている人にとっても、そこは非常に計画性がある都市になっているのでとても住みごこちがよくなっていくと思います。こういう思い切った工夫をしないかぎり、なかなか現在の都市型生活を切り替えることはできないと思います。 この都市型生活を切り替えるのは、都市を要するにある意味で逆に不自由にしていくことです。都市をもう少し不自由にするということ。人間として最低限の生活を享受できるようにするためには、それなりにやはり計画型に切り替えていくことが必要です。そしてそれが嫌なものは地方へ、あるいは近郊へと移っていただくことです。このようにしていったほうがよいと思います。こうした人口過密のところで、それぞれの人聞が自由な活動をしようとするからこそ、いろんな問題が起きてくるのです。そうしたことを、私は提案しておきたいと思います。 3.運動不足の解消 さて、第三に、「運動不足の解消」について話をしておきます。これも主として都市型生活と関係があるといってもよいでしょう。何といっても一日のうちの大部分の時間を会社でしばられているというのが、ほとんどのケースであろうと思います。朝の八時、九時から出勤して夜の八時、九時、あるいは夜中まで、こうした勤務が続いていると思います。そこで、このような中で、どのようにして運動量を確保するかということがたいせつになります。もちろん週末にゴルフなどやっている人もいるでしょう。それはそれでよいかもしれませんが、それだけでは根本的な解決にはなりません。 私は運動というものは、あるいはスポーツというものは週に三回はしなければ意味がないと思っています。できれば毎日少しずつでもやるほうがいいし、毎日できないとするならば、できれば週に三回、各一時間は取っていただきたいものです。そのような願いを持っています。けれども現代のように朝早くから、夜遅くまで働いているようなサラリーマンの生活であっては、運動する場はもうほとんどないといってよいというのが現実でありましょう。 ここで私は、一つの考え方をまた提案したいと思うのです。現在多くの企業ではどうやって経費を捻出し、そして税金から逃れられるかということで一生懸命工夫をしているようです。利益を上げればその分担金を取られるので、どうやって経費を作るかということで熱心になっているようですが、ひとつこれも制度的に見直す必要があると思うのです。 たとえば会社のビルを造るときには、必ず運動施設をそのなかに造るというようなことについて一定の義務づけをする、あるいは方向づけをするという必要があると思うのです。特に大きなビルになった場合、小さな二階建て三階建てではそれはむずかしいかもしれませんが、何十階建てのようなビルを造る場合には、必ずそのビルのなかにスポーツ施設を設けるということです。たとえばプールであるとか、アスレチックスであるとか、そうしたものを必ず設けるということ、これを義務づけるのです。 そして、そのために要した費用についてはもちろん必要経費として控除をする、そのように考えていけばよいと思います。したがって、税全面で何らかの優遇をする必要があると思います。そうしたスポーツ施設などに力を注いだ場合には、ある程度税全面での優遇が得られるようにすれば、各企業は競ってでもスポーツ施設などを社内に造るようになるでしょう。 そして、会社のなかには残業が多いところもあるでしょうが、一日のうち勤務時間が八時間を越え、あるいは九時間を越え、十時間以上に達する場合には、その間の三十分なり一時間、そうしたスポーツ施設で汗を流す時間を社員に対し許容する、社内規則として許容する、そのような方法をとるのがよいように思います。 これについては、今後近未来社会におけるこれからの各企業は、はっきりと割り切って必要な費用だと思わねばならないと思います。そうでなければ、生物存在としての人間がもうだんだん生きていけなくなるのです。奇形児となっていくのです。人間の筋肉というのは、本来もっともっと強いものとして出来ており、それは狩猟にも使えるようになっているのです。ところが現代のサラリーマンたちを例えば狩りに連れ出したとして、いったい何人の人が獲物をしとめることができるでしょうか。その足、その眼、その手でいったい何人の人が獲物をしとめることができるでしょうか。それだけ現代人をその体格あるいは肉体について見た場合、退化してきているのです。これはやはりなんらかの点で改善しなければならないと思います。書類仕事だけではそうした体力を要求されることがないのです。 したがって、大企業、一定数以上の企業、たとえば従業員の人数が千人以上の企業であるならば、社内に何らかのそうしたスポーツ施設を設けるべきです。そしてそのなかで一定の時間自由に遊べるようにするべきです。このようなことをできれば指導したいと思います。そうでなければ今後ブロイラーのような都市型生活者が増えて、しだいしだいに体の具合の悪い人が増えてくるでしょう。また、そのサラリーマンの家族でも社宅などに住んでいる方も多いでしょうから、そうしたところでも運動設備をできるだけ準備していくということがたいせつです。それはもう各個人、あるいは私的企業の自由な判断にまかすことではなく、もうそうした福利厚生の部分についての公的な指導が必要な時期に来ていると思うのです。 4.新しき提案 さて、そうした都市型生活を中心として話をしてきました。またその提案のひとつとして、各企業に、そうしたスポーツ設備を設けるといった話もいたしました。さて、それ以外に、私の考える新しき提案があります。 それは、都市の造形といいますか、形式、あるいは計画に関することなのですが、できればこれから都市計画をするときには、都市の中央部分を憩いの場としていくことがたいせつだと思います。ドーナツ型の都市をなるべく造るようにしたほうがよいのです。これは、人間の精神構造、心理構造からいってもそのようになっているのです。ドーナツ型の都市の中央の部分に、くつろぎの場、憩いの場を造ってやることです。 そうすると、多くの仕事で疲れた人たちが、安らぎを求めて真ん中へ真ん中へと寄ってくるようになります。そうすると、いろんな仕事をしている人たち、いろんな生活をしている人たちが、その中央部分に集まってくることになるのです。その中央部分がいったい何になるかというと、それがすなわち都市の広場となるのです。広場となって、そこでいろいろな行事があったり、催し物が開かれたり、そうしたことにより文化の交流も盛んになり、人びとの語らいも進むのです。やはりどうしてもその形が四角い都市構造だと、そういうことができにくくなっていくのです。できれば新しい都市の場合には、ドーナツ型の都市を造っていただきたいと思います。そして、その真ん中には自由な空間、そういうものを必ず造っていただきたいのです。これは、人間の心を非常に和らげる効果があるのです。 もうひとつは、現在リゾート地の開発ということが非常に流行っているようですが、このリゾートについての考え方が今後必要であると思います。日本のリゾートにおける問題は、一定の時期に大量の人口が集まり過ぎるというところにその問題があるのです。海水浴客にしても、結局夏場一か月、二か月の間に集中して大量の人が出るのです。正月もまた大量の人が動き、お盆も大量の人が移動するのです。ゴールデン・ウィークもまた同じです。このようにして大量の人が一時期に集中するということが、リゾート地への人びとの移動を妨げているように思います。 したがって、これについては、やはり考え直す必要があるということです。そのリゾート地における人の分散化をはかるためには、たとえば毎年交代で業種なら業種によって、その夏休みを取る時期を変えるようにしていくという方法があるのです。あるいは地域によって、申し合わせによってお盆ならお盆の時期をずらしていくという必要があるのではないかと、このように思います。 また、それ以外の問題としては、単身赴任というような現象が起きていて、この単身赴任による男性の独り生活がふえており、そして週末に自宅に帰ってくるというようなこうした決まったパターンが、しだいに出来つつあるようです。もちろん海外への単身赴任ということもあるでしょう。これもまた、家庭を破壊する原因として非常に大きく影響しているように思います。 では、この単身赴任の問題をどのように考えればよいのか。これは止むを得ないことなのかどうか。もちろんこの単身赴任の問題も決して一概に悪いことだとは言えず、企業のなかに生きる者にとっては、それだけのキャリアを積むという意味合いがあることも事実であり、また一か所に定住するのではなくて、いろんな場所における生活を経験できるという意味でそのメリットはあるでしょう。 さて、後は家庭の問題です。家庭の問題としていちばん大きいのが、やはり教育でありましょう。教育のところがひっかかり、単身赴任が生じていることが多いと思います。ではその教育の問題、子供の教育の問題、学校の問題をどう考えるかということです。これについては、結局価値観の問題がひとつにはあげられるのではないでしょうか。つまり、スパルタ教育によってこそ学問が身につき、そして人間の成功への道が開けるのであると、このように思うのが多くの親たちの主たる考え方であるために、それほど素質のない子供を一生懸命きびしく教育しているというのが現状であろうと思います。 ただ、私の実在界に還ってからの考え方を述べてみますと、人間はそうした知識だけでもって成功していくことは、本当は不可能であるといってもよいと思うのです。結局、人間が成功していく要因は、実はその人の霊性なのです。その人の霊性がいったいどのようなものであるかによって、その人の成功、不成功が決まっていくのです。したがって、学問的なるもの、学校で学ぶような知識だけでもって、そのようなものが左右されると思ってはいけないのです。あくまでもその人間の霊性の開発ということがたいせつなのです。 したがって、教育の改革の原点を霊性の開発の方にもってくるということが、どうしても必要であるように思います。現在においては、霊性開発ということがまったく教育において行なわれていないのです。この霊性の開発という観点から教育というものを見直したときに、これは決して大都会の受験校が霊性の開発にとってふさわしいとは言えない、ということがわかるのです。この霊性の開発ということを主眼に置くのならば、それにはむしろ田舎のほうがよいかもしれないのです。地方のほうがよいかもしれないのです。このような観点から教育というものを見直していくとするならば、この都市教育と地方教育の格差というものについて、今までとはまったく違った別の次元から解決をつけていく必要があると思います。 また、学校においても、現在のように学問的な知識だけで能力を選別する方式だけをよしとしてはならないのであり、これからはそうした霊性の高い子弟を教育するようなシステムが必要となってくるでありましょう。霊的にある程度目覚めている人たちを集めて教育するような学校、そうしたものが必要であるように私は思います。 5.未来人の健康管理 さて、最後に、「未来人の健康管理」ということについて語ってみたいと思います。これは、将来起きるべきことを、ここにおいて先取りして話をしてみたいと思うのです。 そうすると、未来人の健康管理とは、ある意味で職業選択の自由とも関連しているように思われるのです。一生のうちで働く期間を四十年なら四十年とすると、この四十年間をまったく同じ仕事をして費やすというのもひとつではありますが、それだけではあまりにももったいないのではないかという考え方があります。したがって、この四十年のうちの何年かは本人の自由によって、もといた仕事場に帰ってこれるという前提つきで他の仕事に出ることができる、このようなことも必要なのではないでしょうか。また、ある程度、健康的な職業につくということも経験ができるという、こうしたことも大事なのではないかと、私はそのように思うのです。 今の職業選択における一番の問題点は、他のものにいったん職業がえをすると、もうもとに戻れなくなるということなのです。たとえば管理社会の中に生きていて、そこにおいてもう行き詰まりを感じている人は、保養も兼ねて一年ないし二年まったく違うところで働いてみるのです。たとえば、観光産業のなかで働いてみる。あるいは、農業、漁業のような仕事もしてみる。このようになっておれば、非常に面白い人生が送れると思います。農業というものも今のような個人レベルでの仕事だけではなくて、ある程度、企業が組織的に大規模に農業をやっていくべきだと私は思っていますが、そうしたところに雇用の造出をしておけば、一生のうちである程度いろんな職業を経験できるようになります。そしてもとの所にも戻れるというような、そうした計画が可能であろうと思います。そうした需要供給のバランスを保つために、また新たな仕事もできてくるであろうと思うのです。 このように、職業の単調化を避けて他のものをも経験できるような、そうした仕組みにしていくことがてきれば、結局自分の健康を害するような生活を今自分がしていると思えば、それなりに切り替えができるようになっていくと思います。現在たとえば証券マンであるとか、商社マンであるとか、そうした忙しい仕事についている人たちは、あまりそのなかに長く居続けるととても強いストレスを蓄積していくことになっていきます。こうした時に一つの会社だけというのではなく、多数異業種間で提携し合い人材の異動ということを計画し、相互に健康管理をするとよいと思います。またその反対に、のんびりとした仕事をしている人にとっては、むしろもっと刺激的な環境も必要となってくるでありましょう。 このように、一つの仕事ばかりを長期間ずっと続けてすることに対して、ある程度、肉体的な管理、精神の健康ということを考えて、多少そうした仕事のローテーション、社内ローテーションだけではなく、社外ローテーションをも組み合わせてゆくということです。そして海が好きな人や山が好きな人など、いろいろあるでしょうから、そうしたものをも調整していくこともできるでしょう。あるいは、一生のうち一時期は郷里のほうでも仕事ができるというような、そうした仕組みを創っていくことが健康の管理にもなるのだと思います。 また、未来人ということに限って特に言ってみるとするならば、今後発達してくるものはやはり「予防医学」でありましょう、どのように医学というものを予防的見地から行なっていくか、そして病気を事前に抑えるか、ということが、今後もっと合理的に考えられるようになると思います。 おそらくは、ある人を人間ドックのような装置に入れて分析してみると、将来どういう病気にかかる可能性があるか、そうしたものが瞬時に出てくるようになるでしょう。そしてそれを避けるためには、どういう運動が必要か、どのような健康管理が必要か、こうしたものがはっきりと数値としてコンピューターによって出されるような、そうした時代がもうそこまで来ていると思います。これはかなり碓実に予想できるものであると思います、そうした健康管理、これが始まっていくでしょう。 もうひとつ未来大の健康管理において、言い落としてはならないことは、それは、食事の管理ということになります。この食事の問題も、現在かなり個人個人のレベルに任されている点がありますが、現代およびこれからの未来人にとっては、この食事の管理ということが非常に大きな課題となります。おそらくは今後、たとえばプロの調理人とか栄養士などの能力とはまた別に、食事管理能力ということ、健康維持のための食事管理能力というようなものが、ひとつの国家資格のようなものになっていくでしょう。そしてその資格が一級であるとか二級であるとか、そうしたものも今後出来てくるでしょう。その免許・資格を奥さんが取るのが望ましい、と言われるような、そうした時代になると思います。 以上で「現代人の健康法」の話を終えたいと思います。
https://w.atwiki.jp/gensouiri/pages/1255.html
正確に言えば「幻想入り」ではなく、「現代入り」である。 しかしながら、クオリティはノベル型としてかなり高い水準である。 今後の展開に期待するばかり。 -- (名無しさん) 2008-07-26 03 59 58 現代入りは幻想入りとちょい違い、なじみのある世界で 東方キャラが活躍するという幻想入りとは違った魅力があって面白い。 -- (名無しさん) 2008-09-04 07 50 02 1004番目の雨男です。話には直接関係しないと思いますけど「射命丸が現代に行った」ということを動画でネタにさせてもらったのでご報告します。 -- (雨男) 2009-03-01 21 55 54 作者の構成力が素晴らしい 小ネタや伏線も巧妙で、BGMのセンスも抜群、 ぶっちゃけほぼ全方面完璧な名作 ラストはもちろん涙腺破壊爆弾付きで -- (名無しさん) 2011-05-24 01 21 52 やはり素晴らしい作品でした。続きあるといいな♪ -- (ブワッ(;_;)) 2015-10-22 13 33 30