約 600 件
https://w.atwiki.jp/onjyakyujoshi3/pages/373.html
【名前】 河越 順 【容姿】栗色のショートヘア 垂れ目の下に黒子 身長171㎝ 【生年月日】1975年 11月7日 【所属】福岡ダイエーホークス(93〜2002) 【利き腕】右投右打 【守備位置】投手 【能力】142 コントロールE44スタミナD57 スライダー2 シュート1 短気 クイック○ 打たれ強さ4 人気者 弾道2 G14 E40 F27 D52 E43 三振 【背番号】57 【球歴】リトル→シニア→福岡北高 【性格】福岡出身ながら、まるで江戸っ子のように切符のよい性格をしている。努力家ではあるが中々芽がでず、夜な夜な平和台球場近くの屋台で涙していた。度々乱闘騒ぎを起こし、女子選手では珍しく珍プレー好プレーのレギュラー格だった。 【その他】 ドラフト5位ながら当時は珍しい女子選手であったこと、本人のよくもわるくも華々しい性格のおかげか度々テレビに取り上げられ、引退後しばらくはバラエティー番組に呼ばれていた。 現在は球界から身を引き、平和台球場近くで居酒屋「順ちゃん」を切り盛りし、当時のファンと交友を深めている。
https://w.atwiki.jp/mayshared/pages/48.html
河越 明日羽 基本情報 名前 河越 明日羽(かわごえ あすは) 学年・クラス 高等部 2年5組 性別 女 年齢 16 身長 159 体重 53 性格 標準クール系。清く正しく美しく色々と綺麗に育ってきた普通のいい人 生い立ち 剣道場を営む親の元に生まれ、幼少から剣道を習い、かなりの腕前中等部から双葉学園に入り、近接戦闘訓練を行う高校一年からは実践経験も積んでいる 基本口調・人称 ~だ。~かい? 私、君、彼、彼女 特記事項 類型的な剣道一直線美少女昆虫や爬虫類は大丈夫だけど魚類はダメ。切り身は食べられる キャラデータ情報 総合ポイント 22 レベル 7 物理攻防(近) 4+1 物理攻防(遠) 2 精神攻防 3 体力 4 学力 3 魅力 3 運 3 能力 知覚強化・視力強化でラルヴァや異能の力を見ること 特記事項 なし その他詳細な設定 能力:知覚強化、視力を強化し、ラルヴァや異能の力を見ることが出来る。剣技を習得している。 装備:無銘の刀。近接+1。 特徴:剣道を習い、授業で近接戦闘訓練を受けている標準的な戦闘員。2年生になってそれなりに経験を積んでいる。 登場作品 【導入短編】 【シャイニング!】 【シャイニング!3】 【シャイニング! 番外】 【シャイニング!4】 ROND 【シャイニング!5】 【キャンパス・ライフ特別編1-4】 登場作品のリンクを貼ってください。後から追加もしていってください 作者のコメント
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/1809.html
埼玉県川越市に所在する史蹟。 桓武平氏の流れをくむ、関東の有力武士、河越氏の館の跡。 2009年、この史蹟の調査で、高さ6.1cm、幅1.8cmの銅製の像が発見されている。 衣と袴姿で、烏帽子をかぶり、手に笏を持っており、仏像ではなく神像であると見られる。 また、足元部分には鋳型に銅を流した際の名残でるバリが見られるという。 このような銅製の神像は、全国でも10例ほどしか見られない珍しいものだとか。 (zsphereコメント:同記事に載った専門家の話に、神仏習合の影響下にあると見られる事から 中世の修験者などによる遺物かとも考えられるが、しかし平地で出土するなど 謎が多い、とのこと。面白い。他の事例も調べてみるかな) 参考文献 朝日新聞デジタル2014年10月1日記事
https://w.atwiki.jp/cpre/pages/875.html
[裏]川越城 地獄平 投剣 ☆7 [無印] 特技: 【配置】自身が敵の攻撃対象にならない 射程内の敵の被ダメージが25%上昇 最大化時、射程内の敵の与ダメージが30%低下 所持特技: 所持しているだけで投剣城娘の攻撃後の隙が4%短縮 計略: 50秒 気5 25秒間対象の攻撃と攻撃速度が1.8倍 防御が50%低下 対象の射程内の敵の移動速度が50%低下 [改壱] 特技: 【配置】自身が敵の攻撃対象にならない 射程内敵の防御が30%低下、被ダメージが30%上昇 最大化時、射程内敵の与ダメージが35%低下 計略: 45秒 気5 25秒間対象の攻撃と攻撃速度が2倍 防御が50%低下 対象の射程内の敵の移動速度が50%低下 テキスト確認:[無印]23/08/01,[改壱]23/02/07 【ユーザー作成の記事】 編集メモ: [改壱]特技3行目の"射程内敵の"はゲーム中の表記通り(23/02/07確認)
https://w.atwiki.jp/sengoku-taisen/pages/1316.html
未カード化武将について あ行あ う お か行か き く こ さ行さ し す た行た ち つ と な行な に ね は行は ひ ふ へ ほ ま行ま み も ゆ よ ら行り る ろ 未カード化武将について 群雄伝に登場したり、武将カードの裏面テキストに名前が記載されていたりする人物の一覧。 古い世代の人物も多いが、今後のカード追加でカード化されるかもしれない。 あ行 あ 饗庭局(あえばのつぼね) ????年 - 1615年 浅井亮政の娘・鶴千代の次女。 長政の娘である茶々(後の淀殿)の乳母の一人となり、以降も名代や使者を務めるなど高級侍女として仕える。 最期は大坂夏の陣で敗れて自害した豊臣秀頼や淀殿に殉じて、子の長秋と共に自害した。 赤座 直保(あかざ なおやす) ????年 - 1606年 父は赤座直則。永原孝治の父。 赤座氏は朝倉氏家臣123家を所収した「一乘録」にその名が記されており、 直保や父の直則も朝倉氏家臣であった可能性が高い。 関ヶ原の戦いで初めは西軍の大谷吉継の軍に属して北国口で戦ったが、本戦で小早川秀秋が東軍に寝返ったのに呼応し、 脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠らと共に東軍に寝返り、大谷軍を壊滅させる。 だが事前に通款を明らかにしなかったとの理由で、戦後、徳川家康にその功を認められず、所領を没収された。 他家 槍足軽 1.5 5/1 正兵の構え (群雄伝・関ヶ原伝・西軍の章 第十話) 赤穴 光清(あかな みつきよ) 1493年 - 1542年 赤穴盛清の父。 大内義隆の出雲遠征にて、陶晴賢の部隊と交戦の末、討ち死にした。 他家 槍足軽 1.5 4/5 正兵の構え (毛利伝第一章第五話) 秋月 文種(あきづき ふみたね) 1512年 - 1557年 筑前の国人領主である秋月氏15代目当主。 元は大内家に属していたが、大寧寺の変で大内義隆が死亡すると大友家に付く。 しかし毛利元就の調略に応じて大友家に反旗を翻したことから立花道雪らに討伐され、自刃する。 朝倉 景豊(あさくら かげとよ) ????年 - 1503年 敦賀郡司朝倉家当主。姉妹を教景ら朝倉宗家に嫁がせて権勢を誇る。 さらなる権力を狙い義兄弟たちを唆して反乱を起こすが、教景を始めとする義兄弟らは誰も誘いに乗らず孤立。 宗家当主朝倉貞景直々の出陣もあり、圧倒的戦力差の前に自害に追い込まれた。 浅井朝倉 槍足軽 2.0 8/4 邪道の構え (武将列伝3第九章第一話) 足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる) ????年 - 1498年 堀越公方・足利政知の嫡男。 廃嫡され幽閉されていたが、父の死後に脱獄し、弟の潤童子を殺害し公方を継ぐ。 家臣の讒言を受けて重臣を殺害するなどの暴政をしたことから伊豆国が内乱状態に陥り、それに乗じた北条早雲により追放される。 他家 槍足軽 1.5 6/1 叛逆の狼煙 (武将列伝3第七章第三話) 足利 義尹(あしかが よしただ) 1466年 - 1523年 室町幕府第10代将軍。 初名は義材(よしき)で、8代将軍・足利義政の死後に将軍職を継ぐ。 細川政元のクーデター(明応の政変)に遭って将軍職を失い、幽閉されるが逃亡し、この間に義尹と改名する。 放浪の末に周防へたどり着くと大内義興を後ろ盾として将軍に復職。名も義稙(よしたね)と改める。 足利 義晴(あしかが よしはる) 1511年 - 1550年 室町幕府第12代将軍で、足利義輝、義昭の父。 先代将軍の足利義稙が管領・細川高国と対立・出奔したことから11歳で征夷大将軍に就任する。 将軍家の権威を取り戻すべく活動はしていたが、細川家の内紛に巻き込まれるなどして挫折している。 足利 義尚(あしかが よしひさ) 1465年 - 1489年 室町幕府第9代将軍で、足利義政の子。 彼が生まれる以前に義政は弟の義視を養子としていたため応仁の乱の一因となり、山名宗全によって総大将に担がれる。 応仁の乱の最中である1473年に将軍に就任し、乱が集結した後に六角家を征伐するなどして弱体化した幕府権力を回復した。 かなりの美丈夫であり「緑髪将軍」と称されたという。 穴山 信友(あなやま のぶとも) 1506年 - 1560年 武田家の家臣で、穴山梅雪の父。 先代までは主に今川家に与しており武田家との関係は芳しくなかったが、 武田信虎の次女・南松院を妻に迎えて外戚となった事で誼を通じ、良好な関係を築いた。 またその後も今川家との繋がりは保っており、今川義元の娘・嶺松院と武田義信の婚姻などにも尽力し 武田家の対外交渉において重要な役割を担った。 阿部 正豊(あべ まさとよ) ????年 - 1535年 三河松平家の家臣。 主君の松平清康が織田信秀との戦の最中に父・定吉が信秀と組み謀反を企んでいるという噂が流れ、 「もし自分が濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明してほしい」という誓書を父から預かっていたが 翌日早朝に清康の本陣で馬離れの騒ぎが起きた際に、父が誅殺されたのだと勘違いし清康を背後から惨殺してしまった。 正豊はその場で斬り殺され、それを知った定吉は責任を取り自害しようとしたが、 清康の嫡男・松平広忠に許され、そのまま家臣として仕えている。 尼子 勝久(あまご かつひさ) 1553年 - 1578年 尼子誠久の子。 新宮党粛清の際に逃げ延び、京都東福寺の僧となっていた。 後に山中鹿之助らが彼を担いで尼子家再興を目指した。 一時期、月山冨田城の奪還に成功するも毛利軍に押され、上月城陥落後、切腹となった。 尼子 倫久(あまご ともひさ) 1546年 - 1623年 尼子晴久の次男で、尼子義久の弟。 第二次月山富田城の戦いでは南側の塩谷口を守り、山中幸盛らと共に吉川軍と戦った。 他家 足軽 1.5 4/5 正兵の構え (毛利伝第二章第四話、第五話) 荒川 義広(あらかわ よしひろ) ????年 - ????年 ??年三河国の豪族。 家康の東条城攻めに協力し、その軍功により徳川家康の異母妹である市場姫を娶る。 しかし三河一向一揆が起こった際に一向衆側についたため、一揆が鎮圧された後は河内国へ亡命した。 その最期には諸説あり、そのまま河内国で病没したとも、三河で蟄居中に没したとも伝えられる。 有馬 豊氏(ありま とようじ) 1569年 - 1642年 丹波福知山藩主、のち筑後久留米藩初代藩主。久留米藩有馬家2代。 関ヶ原の戦いでは東軍に与し、美濃国岐阜城攻めや関ヶ原本戦で後ろ備えを務めた。 有馬父子の功績に対して同年12月、家康は、父の則頼には有馬家の発祥地である有馬郡三田2万石の知行を許し、 豊氏を山陰の丹波福知山6万石に加増のうえ転封とした。 寛永14年、島原の乱が勃発すると、豊氏は当時江戸にあり、老齢であったのにもかかわらず自ら島原まで出陣している。 島原の乱では久留米藩から6300余人が出陣しており、戦死173人、手負い1412人を出している。 他家 槍足軽 2.0 7/6 正兵の構え (群雄伝・関ヶ原伝・西軍の章 第六話) 飯坂 宗康(いいざか むねやす) ????年 - 1589年 伊達家家臣。 小梁川泥蟠斎の仲介で娘の猫御前を伊達政宗の側室として差し出す。 世継ぎとなる男子がいなかったので、宗康の死により飯坂家は一度断絶したが 政宗と新造の方との子の宗清が養子に入り1604年に再興している。 池田 勝正(いけだ かつまさ) 1539年 - 1578年 三好長慶の死後、摂津池田氏当主として盟友三好氏と共に松永久秀と戦った。 織田信長が上洛すると抵抗するもやむなく降服するが、領地安堵どころか摂津守護に任じられる。 その後、本圀寺の変での救援や桂川での一騎駆け、金ヶ崎の戦いでの殿軍で功を挙げた。 一族衆である荒木村重が調略によって三好氏に寝返ると池田城から追放されるが、村重が信長の家臣になると池田に戻り隠居した。 伊丹親興・和田惟政と並んで「摂津三守護」と称される。 池田 盛周(いけだ もりちか) ????年 - ????年 最上家家臣。元は大宝寺氏に仕えていた。 慶長出羽合戦では志駄義秀に敗れるも、最上家は勝利し恩賞を得た。 治水事業にも優れた手腕を発揮し、彼の通称を取った「悪次郎堰」は現在もその名を残している。 生駒 家宗(いこま いえむね) ????年 - 1556年 吉乃の父で、灰・油の商いと馬借で冨を築いた尾張小折の土豪。 吉乃が織田信長の側室に迎えられたことで織田家と縁戚関係を結び、信長に仕え重用された。 伊丹 雅興(いたみ まさおき) ????年 - ????年 伊丹康直の父。 伊東 祐安(いとう すけやす) ????年 - 1572年 日向伊東家家臣。 父・伊東祐武は伊東家八代目当主・伊東祐充の死後に反乱を起こして自害するが祐安らは許され、一門衆として伊東義祐に仕える。 木崎原の戦いの戦いでは敗走する伊東軍の殿を務め、戦死する。 他家 足軽 1.5 4/5 正兵の構え (島津伝第一章第四話) 伊東 義祐(いとう よしすけ) 1512年 - 1585年 日向伊東家の第10代当主。 弟・祐吉が家督を継いだため自身は出家していたが、3年後に祐吉が病没すると還俗し10代当主として相続した。 島津家と長らく日向の覇権争いをしていたが、木崎原の戦いで3000の軍勢を用いながら 島津義弘のわずか300の寡兵に大敗し、それを契機に伊東家は衰退の一途を辿る。 やがて本拠である佐土原も追われ進退窮まった義祐は、大友宗麟を頼り豊後に落ち延びるが その宗麟も耳川の戦いで島津に大敗したため、豊後を離れその後は流浪の身となり諸国を巡る余生を送った。 う 上杉 顕定(うえすぎ あきさだ) 1454年 - 1510年 越後の守護大名・上杉房定の次男。 関東管領・上杉房顕が男子を残さず没したため、室町幕府8代将軍・足利義政に命じられ養子として家督を継ぐ。 永正6年、父の後を継いで越後守護となった兄・房能が長尾為景の謀反により討たれたと聞いて激昂し、 越後へ攻め入って一度は為景らを越中へ追放したが、翌年に猛反攻を受け自刃した。 他家 騎馬隊 2.5 8/5 気 援軍 (武将列伝3第七章第三話) 上杉 定勝(うえすぎ さだかつ) 1604年 - 1645年 上杉景勝の嫡男。 母である桂岩院は産後に程なく死去したため、直江兼続・お船の方夫妻に育てられた。 1623年に景勝が没した後は、家督を相続し出羽米沢藩の第2代藩主となる。 「万事質素律儀を作法を旨とし、専ら文武忠孝に励む事」という法令を出しており、 父祖から受け継がれし謹厳実直を是とした藩政を敷いた。 上杉 定正(うえすぎ さだまさ) 1443年 - 1494年 相模国の守護で、関東管領上杉氏の一族・扇谷上杉家の当主。 名将・太田道灌を擁し、関東においてその権勢を拡大させていったが 道灌の才知と声望の高さから次第に猜疑心と不信感を募らせるようになり、ついには暗殺に至る。 道灌の謀殺は家中に衝撃を与え、多くの家臣が主家の管領上杉氏へ走ったため定正の勢力は大きく衰退してしまった。 その後、伊勢宗瑞(北条早雲)と結んで主家に対して叛逆を企てるが、戦で渡河中に落馬して死去した。 他家 槍足軽 2.0 7/7 気 方陣 (武将列伝3第七章第二話) 上杉 朝興(うえすぎ ともおき) 1488年 - 1537年 扇谷上杉家の当主であった叔父・上杉朝良の養子となり家督を継ぎ、朝良の死後は実権を掌握する。 北条氏綱率いる北条軍に江戸城を攻撃された際は迎撃するも敗退し、江戸城を奪われて河越城へと逃亡した。 その後は、山内上杉家の上杉憲房や甲斐国の武田信虎などとの同盟を謀っている。 小沢原の戦いで北条氏康に敗れ、江戸城を奪還できぬまま河越城で病死した。 他家 足軽 1.5 4/5 正兵の構え (北条伝第一章第一話) 上杉 朝定(うえすぎ ともさだ) 1525年 - 1546年 上杉朝興の子。朝興の死後家督を継ぎ当主となる。 深大寺城を築いて後北条氏に備えるが、北条氏綱に河越城を攻められ敗走、松山城に居城を移した。 北条氏康に対抗するため、山内上杉家の上杉憲政と和睦し、駿河の今川義元と連携を図る。 義元の挙兵に合わせて、諸大名らと連合した8万の大軍で河越城を攻め、河越城主北条綱成を落城寸前まで追い込んだ。 しかし後詰に駆け付けた氏康の奇襲に遭い扇谷上杉軍は大敗、他の連合軍は四散した。 朝定は河越城を奪還できぬまま討死した。 他家 足軽 1.5 4/5 正兵の構え (北条伝第一章第一話) 上杉 朝良(うえすぎ ともよし) 1473年 - 1518年 扇谷上杉家当主。伯父・定正の養子となり家督を継ぐ。 太田道灌亡き扇谷上杉家を引っ張れる程の器量は無く、山内上杉家との対立および伊勢宗瑞(北条早雲)の台頭に苦しむ。 一度は伊勢宗瑞の力も借りて山内上杉家に大勝するが、猛反撃を受けて隠居に追い込まれ、甥の上杉朝興に家督を譲った。 他家 騎馬隊 1.5 6/5 突貫の構え (武将列伝3第七章第五話) 上杉 房能(うえすぎ ふさよし) 1474年 - 1507年 越後の守護大名。 越後上杉家を戦国大名とすべく、在地領主の権限を制約しようとしたが強い反発を受けてしまう。 その後、自身の養子である定実を擁立し反旗を翻してきた守護代の長尾為景に攻められ、自刃に追い込まれた。 海野 棟綱(うんの むねつな) ????年 - ????年 東信濃を古くから支配していた滋野三家の嫡流である海野家の当主。 海野平の戦いで武田・村上・諏訪連合軍に敗れ領地を失い、その後失地回復は成らなかった。 浦上 宗景(うらがみ むねかげ) ????年 - ????年 備前の戦国大名。 兄・政宗が幼少より家督を相続していたが、尼子親和派である兄と意見が対立し浦上家は分裂する。 そこで宗景は毛利家と同盟することにより、兄の勢力を駆逐して備前の支配者となった。 それから浦上家は徐々にその版図を広げていくが、配下であった宇喜多直家の謀反により 所領を奪われて追放されてしまった。追放後は黒田長政の誘いで筑前にて出家したと伝えられる。 お 近江局(おうみのつぼね) ????年 - ????年 浅井亮政の娘・鶴千代の三女(しかしそれには諸説あり、亮政の娘であるとも、久政の養女であるとも言われる)。 美濃の斎藤家との関係強化のため、義龍の正室となる。 大内 義長(おおうち よしなが) ????年 - 1557年 大友義鑑の次男で、宗麟の弟。元の名は大友晴英。 大内義隆とは叔父甥の関係にあり、義隆に嫡子・義尊が生まれるまでは大内家の猶子であった。 大寧寺の変にて義隆が自刃後、陶晴賢によって大内家の当主となった。 しかし大内、大友両家でこれといった功績は残して無く厄介者扱いされていた。 そのため晴賢が厳島の戦いで戦死した後、さしたる抵抗も出来ず毛利軍に攻められ自害した。 他家 足軽 1.5 4/5 正兵の構え (毛利伝第二章第三話) 大浦 為則(おおうら ためのり) 1520年 - 1567年 大浦氏当主。父・政信が戦死したため家督を継ぐが、生来病弱のため政務は家臣に任せていたと言う。 娘の戌姫(阿保良姫)の婿として津軽為信を迎え、養嗣子とした。 大関 親信(おおぜき ちかのぶ) 15??年 - 15??年 魚沼郡浦佐城主で、水原親憲の父。官途は阿波守。 大友 親貞(おおとも ちかさだ) ????年 - 1570年 大友宗麟の末弟、又は甥。 龍造寺隆信討伐のため、大軍を率いて肥前に侵攻する。占朴にこだわり長期戦を選んだため、士気を緩ませてしまう。 酒宴を開いていたところに鍋島直茂・成松信勝らによる奇襲を受け、討死。 大西 覚養(おおにし かくよう) ????年 - 1578年 阿波の国人領主。 三好家と密接な関係を築き、阿波や讃岐・伊予の辺境を支配した。 三好家が衰退し長宗我部家が台頭すると、弟の大西頼包を人質として和議を結ぶ。 しかし三好家が織田家と結託して長宗我部家に対決姿勢を取ったと知ると 和議を破棄して反攻するが、元親の軍勢に敗れ降伏した。 大政所(おおまんどころ) 1513年 - 1592年 豊臣秀吉、秀長、朝日姫の母。本名は、なか。 織田家に仕える足軽だった木下弥右衛門に嫁ぎ、日秀尼(秀次の母)と秀吉を産む。弥右衛門の死後、竹阿弥と再婚して秀長、朝日姫を産んだ。 秀吉が関白に任じられると従一位に叙せられる。 大森 藤頼(おおもり ふじより) ????年 - 1503年 扇谷上杉家家臣で小田原城主を務めていた大森氏頼の次男。 北条早雲が領内で狩りをすることを許可した事により、勢子になりすましていた兵の奇襲を受け、小田原城を追われる。 他家 弓足軽 1.5 4/8 柵 前線への采配 (武将列伝3第七章第四話) 小国 重頼(おぐに しげより) ????年 - 1601年 上杉家の家臣で天神山城主。小国頼久の子。 謙信に付き従い、武勇に誉れがあったと言われる。 天正10年(1582年)に小国氏の家中で内紛があった際、主君である上杉景勝の命により 直江兼続の実弟で樋口兼豊の次男・与七(後の大国実頼)を養子に迎えた。 小倉 実房(おぐら さねふさ) ????年 - 1570年 六角義賢の家臣。正室はお鍋の方。 織田信長と親交があり、幾度となく信長の危難を避ける手助けをしたが 金ヶ崎の戦いにて信長を逃がした事で義賢の怒りを買い、滅ぼされた。 小鹿 範満(おしか のりみつ) ????年 - 1487年 今川氏の一族である小鹿氏の武将。 今川家第6代当主・今川義忠が戦死した際、嫡男の龍王丸(後の今川氏親)が幼少だった事から 後継者として名が上がったが、範満派と龍王丸派が対立し数度の合戦に及ぶ内乱状態に発展してしまう。 そこで事態を重く見た室町幕府の介入により、龍王丸が成人するまで範満が家督を代行することで決着した。 しかし龍王丸が成人しても家督を返そうとしなかったため、業を煮やした氏親の母・北川殿が 室町幕府より呼び寄せた伊勢盛時(後の北条早雲)に攻められ自害した。 今川家 槍足軽 1.5 6/5 死闘の構え (武将列伝3第七章第二話) 織田 信興(おだ のぶおき) ????年 - 1570年 織田信秀の七男で信長の弟。 早くから兄信長に従い、信長からの信頼も厚かった。 信長の命で弥富服部党当主の服部友貞不在の時を狙って攻め立て勝利し、鯏浦城と小木江城を築く。 以後は小木江城に在城し、服部党と東方面の長島を牽制する役目を担った。 しかし信長包囲網の形成と共に、居城である小木江城を伊勢長島の一向一揆に囲まれ、孤立無援の中で奮戦するも落城・自害する。 織田 信賢(おだ のぶかた) ????年 - ????年 岩倉織田氏の織田信安の嫡男。 父信安が弟信家を寵愛し跡継ぎにしようとしたため、居城岩倉城から追放し城主となる。 織田信勝や斎藤義龍らと結んで織田信長に対抗するが、浮野の戦いで敗れる。 他家 足軽 1.5(?) 5/5 正兵の構え (織田伝第一章第十話、豊臣伝第一章第七話) 織田 信友(おだ のぶとも) ????年 - 1555年 守護代清洲織田氏の継承者で尾張清洲城城主。 織田信勝の家督相続を支持し織田信長と対立するが敗れる。 さらに信長暗殺を謀るが失敗、かえって清洲城に焼き討ちを受けるなど追い込まれる。 他家 足軽 1.5(?) 5/5 正兵の構え (織田伝第一章第三話、同第五話) 織田 信広(おだ のぶひろ) ????年 - 1574年 織田信長の父・信秀の庶出の長男で信長の兄に当たる。 第二次小豆坂の戦いで先鋒を務めるが敗北、安祥城の守備を任される。 太原雪斎に城を攻められ安祥城は陥落し生け捕りにされる。 後に松平竹千代(徳川家康)との人質交換で織田家へ送還される。 織田家 足軽 1.5(?) 4/5 正兵の構え (豊臣伝第一章第二話) 織田 信安(おだ のぶやす) ????年 - 1591年 岩倉織田氏こと織田伊勢守家当主。 信長とはかつて友好関係にあったものの、信長の父信秀の死後は関係が疎遠になる。 斎藤道三の死後は斎藤義龍を支持して信長に敵対し、稲尾の戦いでも信勝に味方した。 その後信賢を廃嫡しようとしたことで逆に追放され、義龍・龍興に仕える。 斎藤家滅亡後は京に逃れるが同族の誼として信長に罪を許された。 か行 か 海津局(かいづのつぼね) ????年 - 1656年 浅井亮政の娘・鶴千代の長女。 夫の浅井政高が豊臣秀吉に臣従すると、共に大坂へ赴き秀吉の側室・淀殿の侍女として仕えた。 海部 友光(かいふ ともみつ) ????年 - ????年 阿波三好家家臣。 病気の療養に出ていた島親益を那佐湾にて発見し、これを討った。 だが弟の死に烈火の如く激怒した長宗我部元親の猛攻に遭い、あえなく居城は落城する。 その後は落ち延びて紀州の縁者を頼ったとされるが、消息は不明。 桂 広澄(かつら ひろずみ) ????年 - 1524年 桂元澄の父。毛利家の庶流である安芸坂氏の嫡男に生まれたが、分家して桂家を興している。 本家の当主である坂広秀が相合元綱を担いで謀反し討たれたことから、一族の者として責任を取り自害する。 金子 元宅(かねこ もといえ) 1551年? - 1585年 東伊予一帯を統治していた豪族。 1578年に誼を通じていた長宗我部家に降り、元親の四国統一に大いに貢献する。 豊臣秀吉の四国征伐に対し迎え撃つが、秀吉配下の小早川隆景率いる毛利軍に討たれた。 鐘捲 自斎(かねまき じさい) ????年 - ????年 剣豪。名は通家もしくは通宗。初め富田景政に師事し中条流を修め、のちに鐘捲流を興す。 弟子の前原弥五郎(伊東一刀斎)のひたむきな鍛錬を認め、奥義「高上極意五点」を伝えた。 「巌流島の決闘」で有名な佐々木小次郎も彼の弟子であると言われている。 本作に登場する印牧能信は彼の一族であるとも言われる。 川上 忠堅(かわかみ ただかた) 1558年 - 1586年 川上忠智の嫡男で、久智、忠兄の兄。久林の父。 沖田畷の戦いでは敵総大将である龍造寺隆信の首級をあげるという大功を挙げ、隆信の脇差を戦利品として得ている。 肥前の国人領主・筑紫広門との戦いでは筑紫晴門を一騎打ちの末に討ち取るが、この時受けた怪我が元でまもなく死去した。 川上 忠智(かわかみ ただとも) ????年 - 1607年 島津家臣で川上久智、忠兄の父。久林の祖父。 島津義弘の家老として日向国高鍋、大隅国栗野、薩摩国馬越、大隅国蒲生などの地頭を務めた。 軍事でも木崎原の戦い、沖田畷の戦いなどに参戦している。 神尾 忠重(かんお ただしげ) ????年 - 1577年 家は代々今川家の臣だが、彼自身は一条信龍に仕えた。 1573年に須和(後の阿茶局)と結婚し一子をもうけたが、その4年後に没している。 き 城井 鎮房(きい しげふさ) 1536年 - 1588年 豊前城井谷城主。強弓を扱う武勇の士。 主家である宇都宮家のために奔走する父・長房に代わり、若い頃から本領を任されその維持に力を尽くした。 秀吉の九州征伐の際、一度は従属の姿勢をとるが本領安堵を頑なに拒否されたため決起。 そのあまりの剛勇に手を焼いた黒田孝高(官兵衛)は、和議を結ぶと偽って鎮房を誘い出し、一族もろとも騙し討ちにしてしまった。 他家 弓足軽 2.5(?) 8/5 制気 正兵の構え (武将列伝第十章九話) 木曾 義康(きそ よしやす) 1514年 - 1579年 信濃国南部の木曾氏の18代当主で木曾義昌の父。 武田信玄の信濃侵攻に当初は対抗するが、更なる侵攻を受けて武田家に降伏した。 北畠 具親(きたばたけ ともちか) ????年 - 1586年 北畠具教の弟。 奈良興福寺東門院院主の地位にあったが、兄の死を受け還俗して伊勢に戻る。 兄の仇である織田信長・信雄父子に対して、北畠家の旧臣を集めて挙兵するも鎮圧された。 吉川 興経(きっかわ おきつね) ????年 - 1550年 吉川氏当主で、毛利元就の次男吉川元春の義父。 武勇に優れた武将ではあったものの戦略眼や政治力に乏しかったとされ、 大内氏と尼子氏が争う中で、その時々の形勢によって両陣営の間で鞍替えを繰り返した。 そして天文11年(1542年)の第一次月山富田城の戦いで、大内氏を裏切り多大な犠牲を出した事により 不信感を募らせた重臣らが元春を養子に迎えて吉川氏の家督を継がせ、興経を強制的に隠居させてしまった。 他家 足軽 1.5(?) 4/5 正兵の構え (毛利伝第一章第七話) 肝付 兼続(きもつき かねつぐ) 1511年 - 1566年 大隅の戦国大名で、肝付氏の第16代当主。 島津家との関係を重視しており、島津忠良の長女を妻に迎え、自身の妹を忠良の子・島津貴久に嫁がせるなど良好な関係を保った。 だが、大隅の平定を成し遂げると島津家との関係が次第に悪化し、 竹原山の戦いで貴久の弟・島津忠将を討ち取ると本格的に敵対するようになる。 その後も島津家とは激しい戦いを繰り広げたが、永禄9年に隠居城の志布志付近で没した。 肝付 兼演(きもつき かねひろ) ????年 - 1552年 肝付兼盛の父。 大隅国人肝付氏庶流。加治木城主。肝付本家と袂を分かち、島津氏に従う。 後に島津実久(薩州家)に従い反旗を翻すも、伊集院忠朗らの討伐を受けて降伏。所領を安堵される。 く 九戸 政実(くのへ まさざね) 1536年 - 1591年 南部氏の家臣。九戸城主。九戸信仲の子。 晴政・晴継の死後、信直との対立し、「九戸政実の乱」を起こすが、 天正19年、怒涛の勢いで討伐軍により、政実・実親の籠る九戸城も包囲攻撃を開始されると、 善戦した政実であったが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、4日に出家姿で討伐軍に降伏した。 秀次の陣へと引き出された政実・実親兄弟らは死を覚悟しており従容として斬首された。 他家 槍足軽 2.0 7/7 陸奥の迅雷 (群雄伝・関ヶ原伝・東軍の章第二章) 朽木 元綱(くつき もとつな) 1549年 - 1632年 近江の戦国武将。父は室町幕府の奉公衆を務めた朽木晴綱。 元亀元年(1570年)、朝倉攻めにおいては織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に織田家に臣従。 信長の死後は豊臣秀吉に仕え、蔵入地代官任命、豊臣姓下賜、朽木谷2万石安堵と厚遇された。 関ヶ原の戦いでは当初は西軍に属するが、小早川秀秋に呼応して脇坂安治や小川祐忠、赤座直保らと共に東軍に寝返る。 戦後9,590石に減封され大名の格を失い、以後は旗本として幕府に仕えた。 他家 槍足軽 1.5 5/5 正兵の構え (群雄伝・関ヶ原伝・西軍の章 第十章) 蔵田 直信(くらた なおのぶ) ????年 - 1523年 尼子氏の侵攻の際に鏡山城副将として毛利元就らと戦った。 戦線が膠着状態に陥いると、元就から蔵田家の家督を継がせることを条件に寝返りを持ち掛けられる。 直信はこれに応じて寝返り、尼子軍を城内へ手引きした。 これにより鏡山城は落城したが、尼子経久に寝返りを非難されて処刑された。 他家 弓足軽 1.5 4/5 正兵の構え (毛利伝第一章第一話) 蔵田 房信(くらた ふさのぶ) ????年 - 1523年 尼子氏傘下の毛利元就・吉川国経らの鏡山城侵攻に対して、大内方として叔父蔵田直信と共に迎え撃った。 尼子軍を城に近づけない奮戦を見せるが、元就の策によって叔父直信が寝返り、城内に尼子軍が侵する。 一昼夜本丸に籠もるが遂には落城し、房信も自害した。 他家 槍足軽 1.5 4/5 正兵の構え (毛利伝第一章第一話) 栗山 善助(くりやま ぜんすけ) 1550年 - 1631年 黒田官兵衛、長政の家臣。本名は利安。他の家老・宿将とは別格として「一老」とまで称された黒田家筆頭家臣。 母里太兵衛の台詞に出てくる「義兄者(あにじゃ)」であり(母里太兵衛のフレーバーテキストに出てくる大友義統は別人)、 有岡城に監禁された官兵衛の救出等、黒田氏の戦に貢献し続けた。 黒田騒動で知られる栗山大膳は善助の子。 群雄伝・武将列伝 第十章 天下人の軍師 合間のキャラクターとして登場。 黒田 秀忠(くろだ ひでただ) 1492年 - 1546年 上杉謙信の父・長尾為景の信任を受けて、黒田家を継承した。 為景が息子に家督を譲った後謀反を起こすが、謙信の部下に居城を攻められ降伏した。 他家 槍足軽 2.0(?) 7/5 正兵の構え (上杉伝第一章第二話) こ 近衛 前嗣(このえ さきつぐ) 1536年 - 1612年 公家・近衛家当主であり、関白左大臣や太政大臣を務めた。絶姫の兄。 長尾景虎や三好三人衆・松永久秀、赤井直正、本願寺顕如などを頼り各地を転々とする。 織田信長の奏上により帰洛を許されると信長との親交を深め、要請される形で和議や調停に携わる。 児玉 元良(こだま もとよし) ????年 - ????年 毛利家重臣。児玉就方の甥で、二の丸殿の父。 毛利五奉行を担った人物としても知られ、輝元の指揮下で数多くの合戦に参加した。 娘が幼い頃より輝元に見初められて執拗に迫られていた事を快く思っておらず、 二の丸殿が12歳の時に同じ毛利家家臣の杉元宣に嫁がせている。 しかし諦めきれない輝元は配下の佐世元嘉に命じて、二の丸殿を元宣から無理やり強奪してしまった。 駒姫(こまひめ) 1581年 - 1595年 最上義光の娘。東国一の美少女と名高く、その美貌を聞きつけた豊臣秀次の側室となる約定を取り付けられる。 しかし輿入れのために京に着いた矢先、秀次が高野山に追放、切腹させられたことで他の側室同様に連座して死罪を命じられる。 父・義光が必死に助命嘆願したことから秀吉も死罪の撤回を命じたが、その早馬が刑場に着いた時には既に処刑されていたという。 さ行 さ 西郷 義勝(さいごう よしかつ) ????年 - 1571年 徳川家臣。祖父・正勝、父・元正が今川との戦いで戦死したことから幼くして家督を継ぐ。 戸塚忠春の娘(西郷局)を後妻として娶るが、武田家との戦いで戦死する。 彼女との間に生まれた子である勝忠は秀忠の異父兄という立場から重用され、家康の十男で紀州藩初代藩主となる頼宣に仕えた。 坂井 大膳(さかい だいぜん) ????年 - ????年 清洲織田家の織田信友の重臣。 織田信秀の死後、人質に取って織田信長に反旗を翻すが撃破される。 他家 足軽 1.0(?) 3/3 力萎えの術 (織田伝第一章第三話、同第五話) 相良 頼房(さがら よりふさ) 1574年 - 1636年 相良義陽の次男で、肥後人吉藩初代藩主。 兄・相良忠房が疱瘡で急死したため、12歳で家督を継承し、島津配下として大友攻めなどに従軍する。 関ヶ原では当初西軍についていたが、本戦で西軍が敗れると東軍に内応し、大垣城を攻め垣見家純を討ち取る。この功で所領を安堵された。 桜井 霞之助(さくらい かすみのすけ) ????年 - ????年 真壁氏幹の家老・桜井大隅守の子で、霞流を学んだ剣客。 霞流は氏幹が興した流派で、霞之助は氏幹の弟子とも孫弟子とも言われている。 斎藤伝鬼坊に決闘を挑んだが、返り討ちに遭い殺された。 佐治 信方(さじ のぶかた) 1553年? - 1574年?(諸説あり) 元々は知多半島で水軍を率いていた豪族で、桶狭間の戦いの後に信長に臣従した。 信長からは妹であるお犬の方を嫁に貰い受けたり、名前に「信」の字を拝謁するなど 異例の厚遇を受けていたが、伊勢長島攻めにて討ち死にしている。 三条 公頼(さんじょう きんより) 1495年 - 1551年 藤原北家の流れを汲む転法輪三条家の当主。 質素倹約を旨とした家風や時勢に伴い家計に苦しんだ。 そのため、次女三条夫人を武田家へ輿入れに、三女如春尼を管領細川晴元へ養女にそれぞれ送り出している。 し 志賀夫人(しがふじん) ????年 - 1587年 戸次鎮連の正室。戸次統常の母。 1586年、鎮連の裏切りを恥じた志賀夫人(鎮連の妻、統常の母)は、 統常の出陣に際して、統常の幼い弟たちを刺殺(※但し、統利は殺害されなかったようである)、 統常に決死の覚悟を求めた。 統常はそれに奮起し、伝来の書物や家宝を焼き、最期の戦い「戸次川の戦い」に出陣していった。 統常を見送った母の志賀夫人はその直後に自害して果てた。 篠原 長房(しのはら ながふさ) ????年 - 1573年 三好家の重臣で、三好義賢に仕える。 義賢が討死した後は三好長治を補佐し、三好家を取りまとめた。 畿内においても優れた執政手腕を発揮し、長慶の死後も衰退へ向かう三好家をよく支えたが 同じ一族である篠原実長の讒言を聞いた長治によって居城を攻められ、自害した。 島津 実久(しまづ さねひさ) 1510年 - 1553年 薩州家島津第5代当主で、島津義虎の父。 自らが宗家当主となるべく勝久に家督を譲るよう迫るが、その方法が力ずくであったために勝久は日新斎と組んで逆に駆逐されてしまう。 その後も日新斎と争い続けるが最終的には降伏して出水に隠棲した。 島津 忠辰(しまづ ただとき) 1565年 - 1593年 島津義虎の嫡男で忠隣の兄。 豊臣秀吉の九州征伐では肥後方面を守るが、有馬晴信の裏切りにあって本領の出水に撤退する。 朝鮮出兵で義弘と別の陣にするよう秀吉に直訴するが却下され、さらに病気と称して上陸しなかったことで秀吉の怒りを買い改易される。 島津 彰久(しまづ てるひさ) 1567年 - 1595年 島津貴久の甥である以久の長男で、一門衆・垂水島津家の初代当主。妻は玉姫。 沖田畷の戦いなどで功があり、義久が上洛した際は供をして父・以久の人質として数年間を京で過ごす。 文禄・慶長の役では本家の島津忠恒に従い朝鮮へ渡海するが、病により陣中で没した。 島津 久信(しまづ ひさのぶ) 1584年 - 1637年 垂水島津家の4代目当主。母親は玉姫で、島津義久の外孫にあたる。 一時は義久の後継者として擁立されたが、従兄弟の忠恒との後継争いに敗れ失脚する。 その後は乱行を繰り返すようになり、罰として蟄居させられるも奇行は止まなかったため 最期は毒殺されたと伝えられる。 上条 定憲(じょうじょう さだのり) ????年 - ????年 越後上杉氏の一族である上条上杉氏当主。 守護上杉氏への下克上を成した長尾氏に対し反抗的だったが、為景によって定実が幽閉された際には兵を挙げた。が、成果は得られなかった。 しかし、為景の後盾が崩れると国内外の勢力を味方につけて攻勢を強め、為景を隠居に追い込んだ。 す 杉 元宣(すぎ もとのぶ) ????年 - 1589年 毛利家家臣で、毛利五奉行の一人である児玉元良の娘(二の丸殿)を娶る。 しかし幼少の頃から目をつけ、思慕していた毛利輝元によって妻を強奪されてしまう。 主君とはいえ輝元のあまりの悪行に激怒した元宣は、豊臣秀吉に直訴するべく出立した。 それを聞いた小早川隆景は、輝元とその側近が犯した愚行を恥じながらも 毛利家にとっての危機と判断して追手を放ち、元宣は道中で殺害されてしまった。 諏訪 頼満(すわ よりみつ) 1473年 - 1540年 諏訪頼重の祖父。諏訪家中興の祖と称される。 当時諏訪家は惣領家と大祝家に分裂していたが、これを統一し当主と大祝を兼任。南信濃に一大勢力を築き上げた。 一時は甲斐の武田信虎とも渡り合ったが、後に和睦している。 他家 槍足軽 2.0 7/5 挑発 (武将列伝3第八章第三話) た行 た 高遠 頼継(たかとお よりつぐ) ????年 - 1552年 諏訪氏庶流の高遠氏の当主。 武田信玄が諏訪氏との同盟を破棄して侵攻するとそれに与する。 他家 槍足軽 1.5(?) 5/1 正兵の構え (武田伝第一章第二話) 武田 信清(たけだ のぶきよ) 1560年 - 1642年 武田信玄の七男。里美の子。 7歳で法善寺に入り玄竜を号するが、後に兄勝頼の命令で還俗する。 甲斐源氏の旧族である安田氏の名跡を継承し、海野城の城主となる。 田原 親賢(たはら ちかかた) ????年 - 1600年 大友氏の家臣・奈多鑑基の子として誕生し、大友宗麟の義兄(妻の兄)にあたるため、側近として重用された。 関ヶ原の戦いに先だって旧主・大友義統が毛利氏の手引きで西軍に与して挙兵すると、 他家へ仕えていた宗像鎮続や吉弘統幸をはじめ豊後各地から集まった大友旧臣らとともにこれに従った。 しかし、石垣原の戦いで鎮続・統幸は討死し、吉統は黒田如水に降伏した。 親賢は中川氏に帰参するも、西軍方の太田一吉との戦闘(佐賀関の戦い)に投入され討死した。 他家 鉄砲隊 2.0 7/6 気 占領妨害 (関ヶ原伝・九州の章 第三話) 田屋 明政(たや あきまさ) ????年 - ????年 北近江の土豪で、浅井氏の一族。 浅井亮政の嫡男・政弘に世継の男子が出来ないまま早世したため、娘の鶴千代の婿として亮政の養子となる。 しかし後に亮政が庶子の久政を後継者に選んだため、彼は姓を戻し身を引いたという。 ち 千葉采女(ちばうねめ) ????年 - ????年 上野国平井城主で伊勢姫の親。 つ 津田 宗達(つだ そうたつ) 1504年 - 1566年 堺の豪商・天王寺屋の主人。 茶湯の「天下三宗匠」として、千利休・今井宗久とともに並び称せられた津田宗及の父。 と 土岐 頼芸(とき よりのり) 1502年 - 1582年 土岐氏当主の座を巡って兄の頼武やその子頼純と対立した。 美濃とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主及び美濃守護となった。 しかし、後に重臣の斎藤道三に追放された。 徳川 義直(とくがわ よしなお) 1601年 - 1650年 徳川家康の九男で、尾張藩初代藩主。 大坂の陣にも参戦し、夏の陣では後詰めとして活躍する。 儒学を奨励し、林羅山が上野忍ヶ丘に孔子廟を建立する際にも資金協力している。 富田 景政(とだ かげまさ) ????年 - 1593年 富田勢源の弟。兄が眼病を患い剃髪すると家督を譲られた。 越前朝倉氏に仕えていたが、その没落後は前田利家に仕えた。 後に「名人越後」と称される富田重政の養父でもある。 豊臣 秀保(とよとみ ひでやす) 1579年 - 1595年 日秀の子で秀次、秀勝の弟。 叔父の秀長に嗣子がいなかったことから、当時まだ幼い秀長の娘の婿養子という形で秀長の後を継ぐ。 1595年に17歳の若さで病死したというのが通説だが、死因には異説もある。 な行 な 直江 信綱(なおえ のぶつな) ????年 - 1581年 お船の最初の夫。総社長尾家の出身とされる(父親については諸説あり)。 御館の乱では景勝方について活躍し、乱の終結後に重用されたが、河田長親の遺領をめぐるトラブルで殺害される。 お船との間には子がいたが、お船が兼続と再婚するにあたり出家させられたという。 中村 一氏(なかむら かずうじ) ????年 - 1600年 豊臣家家臣。 紀州征伐や小田原征伐で武功を積み、豊臣政権では三中老の一人に任命された。 中村 一栄(なかむら かずしげ) ????年 - 1604年 豊臣政権三中老の1人である中村一氏の弟。 兄の一氏は、徳川家康が江戸に転封となったのち駿府に封ぜられ、一栄は沼津三枚橋城主となった。 慶長5年(1600年)一氏は、関ヶ原の戦いで東軍に属すが、上杉氏討伐で東上する家康に病床で自らが参陣できないことを詫び、 弟を陣代として会津征伐に参加させた。一氏は合戦前の7月17日に病没。 一栄は小山評定ののち反転した東軍に加わり、桂市兵衛、織田四郎左エ門、鈴木勝元らと犬山城を攻め開城させたが、 関ヶ原の戦いの前日の杭瀬川の戦いでは、西軍の島清興隊の罠にはまり、 有馬豊氏と共に撃破され、野一色助義ら30余名が討ち取られてしまう。 他家 弓足軽 2.0 7/6 正兵の構え (群雄伝・関ヶ原伝・西軍の章 第六話) 鍋島 清房(なべしま きよふさ) 1513年 - ????年 鍋島直茂の父。 鍋島家は龍造寺家の重臣の家柄で、家兼が隆信を擁して挙兵した時もこれに呼応している。 隆信が家督を継ぐことには当初反対していたが、本家家老に諭されたこともあり後見役となった。 慶誾尼が継室として嫁いだ経緯は、「佐賀の押し掛け嫁」として知られている。 鍋島 茂里(なべしま しげさと) 1569年 - 1610年 鍋島直茂の養子で伊勢龍姫の夫。旧姓は石井。 武勇に優れていることから直茂より鍋島軍の先鋒に指名され、直茂・勝茂をよく補佐した。 成田 氏長(なりた うじなが) 1542年 - 1596年 成田長泰の嫡男で、甲斐姫の父。 父の隠居で家督を継ぎ北条家に仕えていたが、秀吉の小田原征伐にて北条家が滅亡すると、蒲生氏郷の配下となる。 またのちに娘の甲斐姫が秀吉の寵愛を受けた事もあり、大名として下野2万石に封ぜられた。 成瀬 正義(なるせ まさよし) 1535年 - 1573年 徳川家家臣。 家康の主要な合戦の多くに参加し、武功を挙げる。 三方ヶ原の戦いで盟友の鳥居忠広と共に決死の覚悟で武田軍に突撃し、討ち死にした。 南部 晴継(なんぶ はるつぐ) 1570年 - 1582年 南部晴政の嫡男。 信直が養子になった後で誕生したことから信直が疎まれる原因ともなった。 晴政の死後に家督を継いだが程なく死亡。病死とも暗殺とも言われている。 に 二階堂 盛義(にかいどう もりよし) 1544年 - 1581年 須賀川城主。蘆名家と対立、敗北後に嫡男・盛隆を人質に差し出して蘆名家臣となる。 その後、盛隆が蘆名家の家督を継ぐと、蘆名を後盾として自らの勢力を伸ばし、二階堂家の全盛期を築く。 ね 禰津 元直(ねづ もとなお) 1495年 - 1575年 里美こと禰津御寮人の父。 武田信虎の信濃侵攻に破れ所領を奪われるが、諏訪頼重を通じて知行を安堵された。 武田臣下となり、子の政直に家督を譲った後に、功をたて旧領を回復した。 は行 は 羽柴 秀勝(はしば ひでかつ) 1568年 - 1586年 織田信長の四男で羽柴秀吉の養子。 秀吉は信長の葬儀では秀勝を喪主とし、弔い合戦では秀勝を織田信孝と共に旗印としている。 秀吉の甥で江の二人目の夫、羽柴秀勝とは同姓同名の別人である。 林 通具(はやし みちとも) 1516年 - 1556年 林秀貞の弟で通称は美作守。 稲生の戦いでは柴田勝家とともに出陣するが討ち死にした。 織田家 鉄砲隊 1.5(?) 5/1 正兵の構え (織田伝第一章第八話、豊臣伝第一章第六話) 林 弥七郎(はやし やしちろう) ????年 - ????年 橋本一巴とは旧知の仲である弓の名手。 浮野の戦いにおいては敵同士となり、弓対鉄砲の組討ちを演じた。 ひ 疋田 景兼(ひきた かげとも) 1537年 - 1605年 疋田陰流の開祖で、通称は豊五郎(文五郎とも)。上泉信綱の弟子で、甥とも言われる。 信綱と共に長野家に仕えていたが、主家が滅ぶと信綱の武者修行に同行する。 柳生宗厳が上泉信綱に勝負を挑んだ際、代わりに勝負を引き受けて宗厳を負かしたとも言われている。 平賀 源心(ひらが げんしん) ????年 - 1537年 信濃源氏の流れを汲む豪族・大井氏の一族で信濃国の平賀城主。玄信とも呼ばれる。 武田家の海ノ口城攻めに対し一ヶ月近く抗戦したが、武田晴信の奇策により落城し 教来石景政(後の馬場信春)に討たれたと言われる。 弘中 隆包(ひろなか たかかね) 1521年 - 1555年 大内家の家臣、毛利元就やその息子達とも親交があった。 陶晴賢に従っていたが毛利元就の計略によって晴賢に江良房栄の殺害を命じられてしまう。 厳島の戦いでは晴賢に罠ではないかと進言するも、聞き入られることはなくその結果として大内家は敗北した。 最後は晴賢を逃がすため奮戦するが力及ばず討死、晴賢も自害と相成った。 他家 槍足軽 1.5(?) 4/5 正兵の構え (毛利伝第二章第二話) ふ 不破 光治(ふわ みつはる) ????年 - 1580年 早くから美濃国の斎藤氏に仕え西美濃四人衆と呼ばれる一人。 斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え緒戦に参陣する。 越前一向一揆平定後は柴田勝家のもとで、府中三人衆と呼ばれ活動する。 へ 戸次 鎮連(べっき しげつら) ????年 - 1586年 豊後国の戦国大名・大友氏家臣。大友氏庶流・戸次氏の16代当主。 天正13年、猶父・立花道雪が死去。いよいよ、大友氏の衰運は決定的となる。翌年、大友家加判衆となる。 同年、島津氏が北進して豊後国まで進出すると、鎮連は島津氏に内応したとされ(実際に内応したかは不明、 他の南部衆が裏切ったため、同様に疑いをかけられたとも、諌言を繰り返して義統に疎まれていたためとも)、 大友義統によって誅殺、もしくは自害に追い込まれた。嫡男の統連が統常に改名して跡を継いだ。 ほ 北条 氏舜(ほうじょう うじとし) ????年 - 1581年? 北条氏繁の長男で、母は氏康の娘の七曲殿。 武蔵岩付城の城代を務め、後に当主・氏政の子の北条氏房が岩付城主となると玉縄城の主となる。 北条 繁広(ほうじょう しげひろ) 1576年 - 1612年 北条氏繁の五男で、母は氏康の娘の七曲殿。 豊臣秀吉の小田原征伐では兄らとともに伊豆国・山中城で奮戦するも敗退、相模国・玉縄城で徳川家康に降伏した。 降伏後は一時家康に仕えたが、嫡男を失った氏勝に乞われ養子となり、兄の治める下総国・岩富城に入る。 しかしそれを快く思わなかった家臣の一派が、氏勝の死後に秘かに家康の甥・氏重を養子に迎えて家督を相続させてしまう。 激怒した繁広は徳川2代将軍・秀忠に訴え出たが、翌年に急死。後に顛末を知った家康により繁広の嫡男・氏長が旗本として遇された。 北条 為昌(ほうじょう ためまさ) 1520年 - 1542年 北条氏綱の三男。 幼くして玉縄城主となるが23歳の若さで病没。家督は北条綱成が為昌の養子となる形で継いだ。 宝蔵院 胤栄(ほうぞういん いんえい) 1521年 - 1607年 興福寺の僧で、宝蔵院流槍術の開祖。 柳生宗厳と共に上泉信綱の元で剣術を学ぶ一方、大膳太夫盛忠に師事して槍術を学び、 「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌」と謳われる十文字槍を用いた槍術を開眼するに至る。 晩年は僧の身でありながら殺生の技を究めていた自身に対する悩みから槍を置き、僧としての活動に専念した。 保科 正之(ほしな まさゆき) 1611年 - 1673年 徳川秀忠の四男。幼名は幸松丸。 家康の庇護を受けていた武田信玄の次女である見性院に養育され、またその縁で旧武田家臣の信濃高遠藩主・保科正光に預けられた。 そして正光の死に伴って家督を継ぎ、高遠藩3万石の藩主となる。 異母兄である徳川幕府3代将軍・家光にことのほか気に入られており、 出羽山形藩での白岩一揆の鎮圧の功などもあって、陸奥会津藩23万石という大身の大名に引き立てられた。 その後も幕政・藩政に優れた手腕を発揮し、江戸初期の三大名君の一人と称されている。 細川 昭元(ほそかわ あきもと) 1548年 - 1592年 細川晴元の子。 父の没後に三好三人集と結託して足利義昭に敵対するが、三好家の没落後は義昭に臣従する。 また足利将軍家の没落後には、管領を担ってきた名門の出身と言う事もあり 織田信長に重用され、信長の妹であるお犬の方を妻に娶った。 細川 晴元(ほそかわ はるもと) 1514年 - 1563年 如春尼の養父。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄・本願寺顕如の義兄に当たる。 三好長慶らの父三好元長の助けで細川京兆家の家督争いに勝利するが、直後から元長と対立する。 本願寺一向一揆の蜂起依頼を提言し元長を敗死させるが、長慶が離反したためその後長らく争った。 細川 政元(ほそかわ まさもと) 1466年 - 1507年 応仁の乱の際に東軍を率いた細川勝元の嫡男。 乱の最中に病死した父の後継としてわずか8歳で家督を相続し、丹波・摂津・土佐守護に就任した。 乱の終息後、日野富子らと結託して明応の政変を起こし、管領の畠山政長を追い落として自らが就任する。 そして擁立した将軍を事実上の傀儡にして幕政を掌握、世に言う「京兆専制」を確立した。 修験道に没頭して生涯独身だったため実子はおらず、3人の養子を迎えるが後継者の指定を次々と変えたため 各家臣の対立が激化し、最期は実権を握ろうとした一派によって暗殺されてしまった。 堀 秀治(ほり ひではる) 1576年 - 1606年 堀秀政の長男。 幼少期に父が死去したため所領召し上げの危機に陥るが、堀直政の尽力により無事家督を相続する。 関ヶ原の戦いでも直政の助言に従い東軍に付くことで所領を守り抜いた。 本多 政重(ほんだ まさしげ) 1580年 - 1647年 本多正信の次男。 徳川家臣・倉橋長右衛門の養子になるが諍いを起こして出奔し、宇喜多秀家の家臣となる。 関ヶ原の戦いでは、秀家に従い西軍として奮戦するもあえなく敗北。 西軍方ではあったが臣下の立場でもあり、また徳川家重臣である正信の子でもあった為か罪には問われなかった。 その後、父・正信への接近を図ろうとしていた直江兼続から婿養子の誘いがあり、兼続の娘・於松を娶る。 以降は前田家の治める加賀藩に仕え、所領の安堵に尽力した。 ま行 ま 町田 久倍(まちだ ひさます) 1553年 - 1600年 島津家家臣。 忠良・貴久・義久・義弘四代に仕え、義久・義弘の代には家老を務める。 豊臣秀吉の九州征伐で島津家が敗れ降伏した際には、義久の供として付き従って聚楽第へ赴いた。 秀吉の死後は徳川家康・石田三成の対立の中で情報収集にあたったが、関ヶ原の合戦の直前に播磨で病没した。 松倉 重信(まつくら しげのぶ) 1538年 - 1593年 筒井家家老。幼くして家督を継いだ順慶に仕える。 松倉右近の通称で知られ、島左近と並んで筒井氏の両翼と目され「右近左近」と称された。 み 三浦 道寸(みうら どうすん) 1451年 - 1516年 本名は三浦義同。道寸は出家名。 三浦家の内部分裂を制し、力で当主の座を奪い取った豪腕。 北条早雲に城を追われた大森藤頼を保護した事から早雲と敵対し、以後早雲にとって最強最大の宿敵となる。 他家 騎馬隊 2.5? 8/9 制 気 力萎えの術 (武将列伝3第七章第五話) 水野 忠重(みずの ただしげ) 1541年 - 1600年 水野忠政の九男で、勝成の父。 兄・水野信元と共に織田家に属していたが、後に兄とは不仲になり徳川家康に仕えて姉川や三方ヶ原の戦いで軍功を重ねる。 佐久間信盛の追放後は既に死亡していた兄の旧領を賜って再び織田家に属し、本能寺の変では信忠とともに二条城にいたが脱出。 以後は織田信雄→豊臣秀吉と主を変え、秀吉の死後に再び家康に従い、関ヶ原でも東軍に属するが、本戦前に西軍方の加賀井重望に暗殺された。 三隅 国定(みすみ くにただ) ????年 - 1570年 石見国の豪族で、陶晴賢の配下。 晴賢が倒された後も、勢力を広げてきた毛利元就に対し反抗を続けたが、 那賀星城・鷹巣城攻略戦にて毛利元氏らに討たれた。 三好 吉房(みよし よしふさ) 1522年 - 1612年 低い身分の生まれであったが、日秀と結婚していたことから秀吉に取り立てられ、武士として出世する。 長男である秀次が三好康長の養子となったことから自身も三好姓を名乗るようになる。 秀次が切腹となった際に連座して改易されるが、秀吉の死後に罪を許された。 も 毛利 幸松丸(もうり こうまつまる) 1515年 - 1523年 毛利興元の嫡男。父の病死により2歳で家督を継ぐ。 叔父に当たる元就や外祖父である高橋久光が後見役として実権を握っていた。 鏡山城の戦に従軍するが、帰還後まもなく病死。首実検に立ち合った時のショックから病に陥ったという説もある。 最上 義守(もがみ よしもり) 1521年 - 1590年 最上義光の父。 天文の乱では稙宗に付き、長谷堂城を奪還するなどして伊達家の従属状態から脱却する。 秀吉による小田原征伐の時期に死亡したことから、義光が遅参する原因となっている。 最上 義康(もがみ よしやす) 1575年 - 1603年 最上義光の嫡男。 英邁かつ温厚な人物であったが、家臣の讒言により父義光との仲が険悪になった。 程なくして家臣の手により暗殺されるが、義光は残された日記から義康の忠心を知り深く後悔する。 しかし嫡男を失った影響は大きく、のちに後継者争いが発生して最上家は改易となった。 ゆ 柚木崎 正家(ゆのきざき まさいえ) ????年 - 1572年 日向伊東家家臣で、「日州一の槍突き」と呼ばれた勇将。 木崎原の戦いにて釣り野伏せにかかった伊東軍の殿を務め奮戦する。 この時島津義弘を射るも義弘の愛馬・長寿院栗毛が屈んで回避したため、そのまま義弘に討ち取られた。 他家 足軽 2.0 7/2 正兵の構え (島津伝第一章第四話) 由良 国繁(ゆら くにしげ) 1550年 - 1611年 上野国の戦国大名。 群雄割拠の関東で生き残るため、管領上杉氏、北条氏、上杉謙信、織田信長と様々な大名の元を渡り歩いた。 天正11年、北条氏の戦勝祝いの茶会に出かけた際に家臣が造反し北条氏に反抗したため、そのまま小田原城に幽閉されてしまう。 その後無事に開放されたものの領土を大きく削られてしまった事に不満を抱き、北条氏に反旗を翻したが 北条氏直との戦いに敗れ降伏、再び小田原城へ篭もる事になった。 豊臣秀吉の小田原征伐時には母の妙印尼が秀吉に与して功を挙げたため、そのまま秀吉の配下となる。 秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いの際は江戸城の守備を任された。 よ 吉江 宗信(よしえ むねのぶ) 1505年 - 1582年 吉江景資の父。 御館の乱では景勝側に付き、織田に寝返った石黒成綱の居城・木舟状を落とすなど老齢ながら武功を上げている。 織田との戦いでは魚津城に籠城するものの、子の景資ともども自害した。 吉田 重高(よしだ しげたか) 1508年 - 1585年 吉田重政の子で吉田流弓術の継承者。 六角義賢へ伝授されていた家伝の返伝がなされ、日置吉田流出雲派の祖となる。 吉弘 統幸(よしひろ むねゆき) 1563年-1600年 豊後国の戦国大名・大友氏の家臣で屋山城城主・吉弘鎮信の子として誕生。 耳川の戦いで、父・鎮信が戦死すると、家督を継いだのち、衰退する大友氏の勢力挽回を目指し忠誠を尽くした。 朝鮮役で明将・李如松の軍旗を奪った功により豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞讃され一対の朱柄の槍を許されていた豪傑であり、 石垣原の戦いでは、統幸は釣り野伏せ戦術を使って鉄砲隊の攻勢で黒田軍の先鋒隊を大損害に与える獅子奮迅の活躍をするが、 次第に戦況が劣性に変わると、統幸は主君・大友義統に別れを告げ、残りの手勢30余騎で黒田勢に突撃。 七つ石において旧知の黒田家臣・井上之房に功を挙げるため、自刃して討たれたといわれる。 他家 槍足軽 2.0 7/5 気 不屈の構え (関ヶ原伝・九州の章 第三話) ら行 り 龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ) 1556年 - 1607年 龍造寺隆信の子。 隆信の死後に家督を継ぐが、島津の勢いは止められずに結局降伏することになる。 豊臣秀吉の九州征伐時にはいち早く秀吉に降って肥後32万石を安堵されるが、程なく隠居させられて実権を鍋島直茂に移されてしまった。 る ルイス・フロイス 1532年 - 1597年 ポルトガル出身でキリスト教カトリック派の宣教師。 布教目的で来日後に織田信長に謁見する。当時の仏教界に失望していた信長の承認を得てキリスト教の布教を許された。 以後は布教活動の傍ら日本におけるイエズス会の活動記録を編纂し、「日本史」を完成させる。 この「日本史」はキリスト教の布教史として、また日本側にとっても歴史を知る上で貴重な史料となった。 ろ 六角 定頼(ろっかく さだより) 1495年 - 1554年 六角義賢の父。出家していたが兄・氏綱の早世を受けて還俗し、家督を継ぐ。 足利将軍家の後ろ盾として三好氏と戦う、北近江の混乱に乗じて浅井家を傘下に置くなどして六角家の全盛期を築き上げた。 後に織田信長が取り入れたことで知られる楽市楽座を初めて導入した人物とも言われている。 他家 槍足軽 2.0 7/7 采配 (武将列伝3第九章第三話) 六角 義治(ろっかく よしはる) 1545年 - 1612年 六角義賢の嫡男。 後藤賢豊、壱岐守親子を殺害した「観音寺騒動」で父・義賢ともども観音寺城を追われる。 その後、蒲生定秀、賢秀親子の尽力で観音寺城に戻るが、家督は弟の六角義貞に譲った。
https://w.atwiki.jp/furinkazan/pages/44.html
河越夜戦 第23回 2007年6月10日 河越夜戦 視聴率20.8% 編集途中です。 コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る 風林火山 RSS表示 #bf
https://w.atwiki.jp/cpre/pages/197.html
[肝試し]川越城 平 鈴 ☆6 [無印] 特技: 巨大化する度に射程内の敵の 防御が20、与ダメージが5%低下 計略: 40秒 気5 25秒間対象の足止め数が2増加 被ダメージを40%軽減 敵の攻撃の40%をダメージとして反射 [改壱] 特技: 巨大化する度に射程内の敵の 防御が30、移動速度が6% 与ダメージが6%低下 テキスト確認:24/07/20
https://w.atwiki.jp/game_staff/pages/109.html
河越 巧 【かわごえ たくみ】 パイロットウイングス (SFC / Nintendo 1990) プログラマー 加藤周平、矢島肇と共同。 カービィボウル (SFC / Nintendo 1994) マップCADプログラマー 菅浩秋と共同。 スターフォックス2 (SFC / Nintendo 発売中止) プログラマー Dylan Cuthbert、川口恭弘と共同。 スーパーマリオ64 (N64 / Nintendo 1996) Camera Programmer ウェーブレース64 (N64 / Nintendo 1996) デモシーケンスプログラマー 辻村大介、中村元と共同。 マリオカート64 (N64 / Nintendo 1996) デモシーケンスプログラマー 矢島肇と共同。 ゼルダの伝説 時のオカリナ (N64 / Nintendo 1998) Cinema Scene Director 森直樹と共同。 ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 (N64 / Nintendo 2000) Cinema Scene Director ルイージマンション (GC / Nintendo 2001) Ending Design 高橋伸也、渡辺剛、小林竜二、西森啓介と共同。 ピクミン (GC / Nintendo 2001) Demo Support 宮本圭と共同。 スーパーマリオ サンシャイン (GC / Nintendo 2002) Demo Design 森直樹、桑原浩安、蒔田俊介と共同。 ゼルダの伝説 風のタクト (GC / Nintendo 2002) Demo Design 森直樹、桑原浩安、蒔田俊介と共同。 マリオカート ダブルダッシュ!! (GC / Nintendo 2003) デモデザイン 森直樹、桑原浩安と共同。 ゼルダの伝説 4つの剣+ (GC / Nintendo 2004) Demo Design 桑原浩安と共同。 ピクミン2 (GC / Nintendo 2004) Movie Demo Design 森直樹、朝川里美、曻大祐、桑原浩安、蒔田俊介と共同。 メトロイド プライム2 (GC / Nintendo 2005) Special Thanks スーパーマリオスタジアム ミラクルベースボール (GC / Nintendo 2005) ムービーサポート メトロイドプライム ハンターズ (NDS / Nintendo 2006) NINTENDO COMPANY, LTD. スペシャルサンクス ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス (Wii, GC / Nintendo 2006) Cinema Scene Director 高野充浩と共同。 ゼルダの伝説 夢幻の砂時計 (NDS / Nintendo 2007) Special Thanks マリオストライカーズ チャージド (Wii / Nintendo 2007) イントロムービースーパーバイザー スーパーマリオギャラクシー (Wii / Nintendo 2007) スペシャルサンクス マリオカートWii (Wii / Nintendo 2008) Special Thanks スーパーマリオスタジアム ファミリーベースボール (Wii / Nintendo 2008) Movie Support Wiiであそぶ ピクミン (Wii / Nintendo 2008) Demo Design 福田元晃と共同。 Wiiであそぶ ピクミン2 (Wii / Nintendo 2009) Demo Design 福田元晃と共同。 PUNCH-OUT!! (Wii / Nintendo 2009) Special Thanks New スーパーマリオブラザーズ Wii (Wii / Nintendo 2009) Demo Scene Director ゼルダの伝説 大地の汽笛 (NDS / Nintendo 2009) Special Thanks METROID Other M (Wii / Nintendo 2010) Special Thanks ドンキーコング リターンズ (Wii / Nintendo 2010) Special Thanks ゼルダの伝説 スカイウォードソード (Wii / Nintendo 2011) Cinema Scene Planning 吉田繁樹(D)、森直樹、桑原浩安、福田元晃、柏木信太郎、平野弘樹、荒谷朋恵、Ryo Hamadaと共同。 参考 社長が訊く Wii プロジェクト - Vol.5 『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』編
https://w.atwiki.jp/okayamasiro/pages/286.html
城主 別名 遺構 歴史 概要 縄張り図 所在地 交通自家用車 登城口 注意 写真遠景写真 城内写真 登城記録・感想等 参考文献 更新日 城主 村上隆重 別名 馬越城 遺構 歴史 概要 縄張り図 所在地 笠岡市神島 より大きな地図で 笠岡市の城跡 を表示 交通 自家用車 登城口 注意 写真 遠景写真 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 ( .jpg) imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 ( .jpg) 城内写真 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 ( .jpg) imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 ( .jpg) 登城記録・感想等 参考文献 「日本城郭大系 13」 更新日 2010年01月31日
https://w.atwiki.jp/sengokujidai/pages/4.html
戦国時代板の基礎知識 これくらいは知っておかないとバカにされますよ ってことです 戦国時代全般編 治安はそれほど悪くはなかった(京都も自治組織みたいなのがあった)ので、世紀末状態ではない だが流石に大名家と大名家の境目あたりはやばい 領土の大きさよりも石高が大事 例えば尾張とかあんなに狭いのに50万石を越える大国 1万石×250が大体動かせる兵数 例えば50万石なら12500 100万石なら25000程度が一応の目安(ただし朝鮮出兵ではこの倍の1万石×500人で出兵している大名がいる) テレビもインターネットも無い時代だったので数字がかなりいい加減 桶狭間で今川4万とか耳川で大友6万とかそんなのありえない 一揆討伐を現在の価値観(その辺の一般人と職業軍人の戦いのような物だと思い込む)で考えるのは間違い 惣構は結構あちこちの城に存在した 織田信長編 信長は人望があった 信長は意外といい人 信長はそれほど残虐ではない 信長はイメージ程短気ではない 信康(徳川家康の息子)は信長が殺したわけじゃない 信長に都合が悪く家康に都合のいい話は大抵江戸時代の創作(姉川の戦い、信康殺しなど) 信長と光秀は仲がいい 好きで焼き討ちやってるわけじゃない(美濃攻めの時に山ごと焼けばすぐに城が取れるのにしなかった) 好きで宗教勢力の皆殺ししているわけでもない。信長が戦ったのは世俗勢力としての宗教勢力で、別に一向宗の信仰・布教は禁止していない 長篠の戦いでは三段撃ちしてない 楽市楽座のオリジナルは信長ではなく六角さん 他の大名もやっている(今川氏真?も) 稲生の戦い、森部の戦い、天王寺の戦いなど寡兵で大軍を破った戦がたくさんある だが桶狭間はまぐれ勝ちという意見が強い 三方が原の戦い最大の被害者 包囲網を相手にしながらでも信玄ぐらい倒せる 本能寺の変が無かったら確実にあと数年で天下統一 豊臣秀吉編 領民に愛された太閤様なんて嘘 残虐行為が多い 本能寺の変時点では秀吉は家臣筆頭の柴田、第2位の明智 色々といい扱いを受けていた丹羽の下 4番目ぐらい 信長が死んでから信長の悪口をあることないこと言いまくるあたり文句なしで性格が悪い 信長と同じくワンマン それほど竹中や黒田に頼っていない だが秀長の力無くして天下人秀吉はありえなかった 政策は信長の引き継ぎ&誰でもやるレベルの事がほとんど。刀狩り後も農民が刀持ってたり、太閤検地も架空の石高が提出されてたりする 朝鮮出兵での戦いは終始日本優勢。でも統治は別 豊臣家滅亡の原因は全てコイツ 秀頼は多分コイツの子供じゃない 悪い噂が絶えないが、徳川家によって貶められている部分もあるので注意すべし 徳川家康編 忠実な三河武士などいない。だいたいオヤジの死因からして… 自分に都合の悪いことは全部信長に押し付けた(息子殺し、三方が原で3000しか兵を送ってくれなかった など) 姉川での奮闘など無かった というより、姉川の戦い自体それほど大規模な戦いでは無かった 三方が原の戦いはあそこで逃げたら国人がついてきてくれなくなるので仕方なしの出陣 家康のミスではないし信玄がすごいわけでもない 妥当 実はそれほど酷い人質時代というのは無い 別段、人望があったわけではない。三河一向一揆、信康粛清、重臣・石川数正の寝返り、信濃の一揆、大久保長安事件・・・ 一向衆との約束を破って寺を壊し、信玄との約束を破って氏真を見逃し、信長との約束を破って武田家臣を匿い、毛利との約束を破って領地を取り上げ、秀吉との約束を破って秀頼を(ry 秀吉の墓を破壊した 残虐度は 秀吉>家康>信長 実は鎖国してない。むしろ海外貿易に積極的 江戸時代の平和は外敵がいなかったから 都合の悪いエピソードはあったとしても260年かけて念入りに消されている 武田信玄?編 戦国時代で最も過大評価されている過大四天王(武田上杉島津伊達真田 5人いるが気にしてはいけない)の筆頭格 常に優勢な状態で戦いを挑んだため寡兵で大軍を破った戦とかない そのくせ何度も負けてるからコイツやっぱ戦下手だろ 信虎以上の重税を課していた 領民から嫌われていた 政権奪取後暫くは板垣信方の傀儡だった。板垣が戦死するまで制御する事は出来なかった 所詮国人のまとめ役的存在なので組織作りはダメ 人を使うのも本当に上手かったのかどうか・・ 信長が恐れたりするような人物じゃなかった 親分(今川義元)には頭が上がらない 三方が原は3倍の兵力差があった 別に信玄が凄いわけじゃない イナゴ戦法(相手の国から物資を奪う)と人身売買によりなんとか国が成り立っていた 自転車操業 川中島は霧の中で退却中に偶然当たっただけ 武田家滅亡の原因は全てコイツ わざわざ相手から同盟を申し込んでくれているにも関わらず考えなしに同盟を切っていくのはバカすぎてフォローのしようがない 自分が四面楚歌の時信長に「どうか見捨てないで下さいよ。あんたが頼りなんだから」と哀願しておきながら、信長が四面楚歌に陥ったら即裏切るという素敵な思考回路の持ち主 最初から甲斐22万石を丸ごと持っている とかなり恵まれている 最初から5000の兵力を動かせたのだからかなり恵まれている 信濃には大名がいなかった(豪族ばっか)のでかなり恵まれている 最後の西上作戦も実は上洛しようとしてなかったことが分かってきている というか家康領を横取りしている最中でも信長にご機嫌取りの手紙を出したりしている。無論信長はマジギレしているので取り付く島はなし 病弱 武田勝頼?編 「偉大な信玄、バカな勝頼」は大間違い。むしろ信玄がバカ それなりにできる武将だった 信玄のせいで後継者としては最悪のスタートを切るハメに 馬防策に向かって突撃し続けた、は完全なるフィクション 失策とされる事にもそれなりの理由がある 織田との和睦を模索するも使者は信長に門前払いされる。もちろん信玄のせい 中央集権化を恨んだ重臣連中が武田滅亡後、責任を勝頼に押し付けた 上杉謙信?編 イナゴ戦法と人身売買が得意 うえすぎは○○城を奪い100の金と200の兵糧を手に入れた・・・というゲームみたいなことを実際にしていたという恐るべき大名 信玄とほぼ互角=別に戦上手でもない 内政は結構得意 信玄と好敵手とか言われているが、願文やら書状を見る限り、本気で信玄を嫌悪していた模様 10万の大軍で北条を攻めるも二の丸もできていない小田原城を落とせなかった 領土拡大の欲が無かったのではなくて領土拡大できなかっただけかもしれない 最後のほうはどさくさにまぎれて北陸のほうをだいぶ取っていて100万石の大大名に 織田家との国力の差を考えるとどう考えても勝てっこない 越後本国の譜代に何度も反乱を起こされる 関東管領の家柄を手に入れてさえ 手取川の戦いはあったかどうかすらも微妙 あったとしても小規模 女性説は珍説 今川家編 義元は超有能 義元の「義」は将軍・足利義晴の義。通字をもらってるあたり、信玄とは格が違う(武田晴信の「晴」も義晴から拝領) 実は和歌が苦手 氏真も無能ってわけじゃない 伊達政宗編 「独眼竜」は明治時代の創作。元は中国の武将のあだ名 騎馬鉄砲隊は本当にあったのか知らないが、あったとしてもそんなに強かったのかどうか 早めの家督継承は当時、割と一般的だった。織田信忠は19歳、今川氏真は20歳前後で譲られている 北条家編 北条姓を使い出したのは氏綱からだといわれている 俗に早雲と呼ばれる初代は素浪人ではなく、家族を殺された将軍が報復として伊豆の茶々丸をぶっ殺す為に派遣した幕府官僚 茶々丸はすぐに殺されたわけではなく、諸大名と連携してかなりしぶとく抵抗を続けていた 早雲の実績は大分氏綱から吸われている 氏康がやった河越城の戦い(11000で60000の軍勢を破った戦)は諸説あるものの上杉と北条のバランスを見る限りあってもおかしくない戦であり、戦国時代に残る素晴らしい戦 氏康・綱成・氏繁・氏政、みな篭城ばっかしてる 名君が比較的多い家柄 毛利家編 国人領主のまとめ役の典型例。 「毛利両川」と言えば聞こえはいいが、要するに毛利家の支配を確立できてない証拠。織田家と北畠・神戸家との関係と比べてみれば良く分かる 厳島の戦いは捏造が激しい。陶軍はそれほど優勢ではなかったし、元就の策略なんて存在しない。村上水軍の帰趨がすべて 元就が生涯に100回の戦を経験?どうカウントしてるの??? 家柄が良くなく謀略が多いので人望は微妙 元就が八ヵ国の大名というのは、ちょっとしか領土のない筑前・豊前もカウントしての事 よくも悪くも元就の遺言に振り回される 輝元は総大将、吉川は空弁当、秀秋は裏切り。天下も狙えたのに所領大幅減。毛利両川(笑) 島津家編 外交オンチ 敵兵の数を実際より多く記録する事にかけては右に出る者なし 鬼という割に得意技は伏兵 2部隊で挟撃しようとしたら片方が壊滅 これがなぜか釣り野伏せ呼ばわりされる わざと弱い部隊を敵にぶつけて敗走させるリアル釣り野伏せ 関ヶ原でのアレは敵中突破ではなく、道をそれて逃げた 200年以上も徳川家を恨み続ける 仏教勢力編 お坊さんは丸腰ではありません。僧兵がいっぱい、鉄砲もいっぱい 基本的に権力者です 信者が貢いでくれるのでとっても裕福です 女人禁制の比叡山になぜか女が 宗派が違うお坊さん同士が戦争する事もあります 非常に広い敷地を持っている上、土塁や堀で囲まれているのが普通。このため大名に陣地として利用されること多し 本能寺の変 編 黒幕などいない 光秀の動機は・・・領地召し上げ、母を見殺し、「我々も骨を折った甲斐が(ry」、魚を堀に捨てた、これらはすべてフィクション 現在では、長宗我部との外交打ち切りが発端、と言われている 秀吉が「天が下なる」を「天が下知る」に改変 信長だけでなく信忠まで死んでしまった事、幼い三法師だけがヘタに生き残ってしまった事が織田家にとって痛恨 信忠は逃げようと思えばほぼ確実に逃げられた。逃げなかったのは判断ミス もし信忠が生き残っていたら織田家が天下統一し、秀吉の天下はなかったと言われている。1人の人間の判断で歴史が変わった瞬間。家康はお察しください 本能寺は当時の寺の例に漏れず防備があった上、京都にも惣構があった。信長は完全に油断していたわけではない 諸将が出払ってて信長が少勢で信忠も一緒にいて光秀が近くで軍を率いてた・・・というだけでなく、信忠が京に行こうと思ったのは変の5日前(5月27日書状)、光秀の与力4人が全員謀反に同意、などなど、非常に偶然性の強い出来事だった。『変がなくても信長はいつか殺されだたろう』なんてのは大間違い 変の前日は日食。これも光秀の心理に影響を与えたかもしれない いろいろ考慮しても光秀側の勝ち目は非常に薄い。ここだけは江戸時代から変わらない