約 9,135 件
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/56627.html
登録日:2024/07/11 Thu 16 00 48 更新日:2024/07/17 Wed 12 21 04 所要時間:約 15 分で読めます ▽タグ一覧 00年クラシック世代 Agnes Flight G1馬 きっと空を その戦いに勝ったことで、燃え尽きてしまった馬もいる。 アグネスタキオン アグネスフライト アグネスフローラ アグネスレディー アグネス一族 エアシャカール サラブレッド サンデーサイレンス産駒 ダービーを勝つために生まれてきた馬 ダービー馬 三冠を阻止した馬 三宅正治 夢の飛翔 故馬 日本ダービー 栗毛 武豊 河内の夢か 豊の意地か 河内の夢も飛んできている 河内洋 渡辺孝男 牡馬 種牡馬 競走馬 長寿 長浜博之 馬 きっと空を 僕は夢なんて見ない あるのはただ確信だけだ だから完璧に思えたプランが 崩れたとしても嘆かない 原因を究明して立て直し 次の機会にベストを尽くす その姿勢こそが大切だ そうこれは静かな戦いなのだ 僕にだって空を飛べると 立証するための戦いなのだ ───名馬の肖像 2022年 日本ダービー アグネスフライト(Agnes Flight)は、日本の元競走馬、種牡馬。 偉大なる「アグネス一族」のため、関西の名手河内洋のため、ダービーを勝つために生まれてきた栗毛の貴公子である。 + 目次 【データ】 【誕生】 【競走馬時代】デビューまで デビュー河内洋 第67回東京優駿・日本ダービー 種牡馬生活 評価 フィクション作品への登場 【データ】 性別:牡 毛色:栗毛 誕生:1997年3月2日 死没:2023年1月11日 享年:26歳 父:サンデーサイレンス 母:アグネスフローラ 母父:ロイヤルスキー 主戦騎手:河内洋(14戦中11回騎乗) 調教師:長浜博之(栗東) 馬主:渡辺孝男 生産者:社台ファーム 産地:北海道千歳市 獲得賞金:2億9919万3000円 通算成績:14戦4勝 [4-2-0-8] 主な勝鞍:2000年GⅠ 東京優駿(日本ダービー)、GⅢ京都新聞杯 【誕生】 1997年3月2日、社台ファームにて、アグネスフローラの4番仔・栗毛の牡馬が誕生した。父は97年3月までに産駒GⅠ勝利数10勝を記録していた日本最高の種牡馬サンデーサイレンスである。 祖母アグネスレディーは折手牧場の名牝イコマエイカンの仔である。1979年オークス馬であり、牡馬相手に重賞2勝した名馬である。生まれ故郷・折手牧場から社台ファームに移った10日後に事故死する悲しい最期を遂げている。 「母が勝てなかった桜花賞を獲りたい」という願いから生まれたのが、アグネスフライトの母アグネスフローラである。1990年に5戦無敗で桜花賞を制した名牝だが、レース中に故障しオークス2着後、骨折が立ち直らず繁殖牝馬となった。 母娘2代でクラシック優勝を成し遂げた一族は大きな問題を抱えていた。みな脚部不安を抱え、無事にデビューするのさえ難しいのである。きょうだいのアグネスセブンオーはデビューできず、アグネスセレーネーは1戦して引退、みな屈腱炎に苦しんでいた。 母の父ロイヤルスキーは安い種付け料で成功した名種牡馬。BMSとして武豊騎乗で仏国GⅠムーラン・ド・ロンシャン賞を優勝したスキーパラダイスや1999年に春秋マイル制覇を果たすエアジハードを輩出している。なお産駒には気性の荒さが目立つがロイヤルスキー自身は牧場見学者に人懐っこい性格だったと伝わる。 無事に誕生した栗毛の牡馬はすぐさま社台ファームで注目された。牧場代表・田辺滋久は「走るサンデー(サイレンス)の牡馬らしく、それほど大きいというわけではないのですが、無駄のない雰囲気を持っているという印象」と見立て、どうやら母父ロイヤルスキー譲りの温厚な馬だという。 一族のオーナー・渡辺孝男の耳にも4番仔の評判はすぐに入った。 全兄で長男のアグネスタカオーには渡辺自身の名をつけたが大成しなかった。今度こそアグネスフローラのいい仔に育って羽ばたいてくれ、そんな願いを込めて 渡辺が経営する印刷製版会社が発行する広報紙『飛翔』からフライト(flight)をとり、冠名「アグネス」と合わせて「アグネスフライト」と馬名登録したのであった。 なお「アグネス」は渡辺の長女がファンだった歌手アグネス・チャンから拝借し始まったものである。アグネスレディーの所有は元々子供たちのためだった。1700万円という当時としては高額馬だったアグネスレディーは、長浜師の父・彦三郎の軽い勧めで即決された。「まさか本当に買うとは思わなかった」と彦三郎は言うが、当時渡辺氏妻を亡くしたばかりで、残された2人の娘の幸せのために「子供たちと馬とで、楽しく暮らしていこう」という理由で馬主を始めたのだった。 1978年、初期馬アグネスホープは、4連勝で毎日杯を制し皐月賞6着・NHK杯10着後、12番人気で挑んだ日本ダービーでサクラショウリを半馬身追いつめる2着に健闘した。翌年にアグネスレディーがオークスを優勝したのもあって、これ以降、渡辺は「東京2400m」に対して強いこだわりを持つようになった。 【競走馬時代】 デビューまで アグネスフライトが1歳8月に入厩したのは栗東・長浜博之厩舎である。母アグネスフローラを管理した人物で、1990年には関西・優秀調教師賞を受賞している。尚且つアグネスレディーを管理した長浜彦三郎の息子でもある。祖母・母を育てた大川鉄雄厩務員、三冠馬ナリタブライアンを破ったスターマンを鍛えた影山一馬調教助手(*1)に託され、慎重に調教されていった。 長浜師はアグネス一族を長い間見てきただけあって「この一族は脚が弱いので、仕上げには特に気をつけなければならない」そう覚悟していた。 その予想は的中してしまう。デビューに向けて力を入れていた10月に脚部不安を発症、2歳デビューは絶望的となり、長浜師は脚への負担が軽いプール調教でじっくりと育てるしかなかった。 この頃、社台ファームではとある馬が注目されていた。 気品あふれるアグネスフライト、ダービーオーナー・関口房朗期待大のフサイチゼノン、GⅠ期待の牝馬マニックサンデー…これらを抑えて「エアスクデット」という牡馬が一番注目されていた。 半姉エアデジャヴーはクイーンS優勝、桜花賞3着・オークス馬2着・秋華賞3着を記録しており、「エアスクデット」は姉以上のスピードと加速力、4本脚のままでジャンプする元気はクラシック確実だろうと見られた。だが、最も注目されたのはサンデーサイレンス産駒らしい気性の悪さだった。調教助手たちがくじ引きで担当決めするような最悪の気性難はたちまち噂になった。 「エアシャカール」に馬名変更され10月末にデビューした。…ところが5着だった。日本ダービー連覇の武豊が騎乗し、レース後「今はまだ全然足りないけれど、クラシックには乗ってくるでしょう」と語った。…これはあまりいい意味ではなかった。 武豊はスペシャルウィーク・アドマイヤベガの時は「ダービーを意識」「クラシックを狙える」と語っており、エアシャカールは彼らほどではないと示唆したのだ。 アグネスフライト陣営が必死にケアしていた12月、エアシャカールはOPホープフルSをクビ差で勝利、「完成度ではスペシャルウィーク、アドマイヤベガに劣るけれど、将来性では負けない」と武豊に言わさせるまでに成長していた。 なお、2歳時に最もクラシックに近いと騒がれたのは凱旋門賞馬の仔カーネギーダイアンであった。新馬戦で良血サマーベイブ(*2)を破ると黄菊賞で上がり34.9の末脚で圧勝(*3)、ナリタブライアンの驚異的レコード(*4)を0.3秒縮める1分47秒5という好タイムであり注目されたが、アグネスフライト同様脚が悪く長期休養に入っている。 アグネスフライトは2000年2月6日、京都競馬場の新馬戦でデビューを果した。 鞍上は祖母・母の手綱を握った河内洋、新馬戦の1週間前に長浜師より声がかかった。 デビュー 河内洋 体重制限に苦労しながら3度の受験を経て1974年に中央競馬でデビュー、デビュー戦で初騎乗・初勝利を挙げると関西新人賞を受賞した。1980年には全国リーディングジョッキーを受賞し、生涯で3度リーディングに輝き、騎手会長にもなった(*5)。 「ターフの魔術師」武邦彦を兄弟子に持ち、6年目の1979年にはアグネスレディーでオークスを制し八大競走初制覇、アグネスレディーはこの年1勝だったが勝ち方が評価され、最優秀4歳牝馬に選出された。 上に福永洋一・下に田原成貴という二人の天才に挟まれながら卓越したコース取り・美しい騎乗フォームが評価され、特に牝馬の扱いはトップクラスであり『牝馬の河内』と呼ばれた。 河内洋は史上初の三冠牝馬メジロラモーヌ、短距離の名牝ダイイチルビー・ニシノフラワーを操る中で、武邦彦から学んだ先行策だけでなく、切れ味を活かす騎乗も磨いた。 ハシハーミットで菊花賞、カツラノハイセイコ・メジロブライトで天皇賞・春、レガシーワールドでジャパンカップ、ヒカリデユールで有馬記念を制して八大競走での強さを見せた。桜花賞はアグネスフローラを含め4勝、マイルの皇帝ニホンピロウイナーなど短距離でも圧倒的成績を残し、ミッドナイトベットで香港国際競走優勝と関西一の騎手となっていた。 そんな河内でさえ縁のないレースがあった。東京優駿・日本ダービーである。 1979年、アグネスレディーでオークス優勝直後にトウホクハヤテでダービー初騎乗するが25着/26頭という結果。81年に2度目の挑戦はアストロコマンダーで23着/27頭だった。 翌年3番人気ロングヒエンで挑むもゲートで突進して外枠発走の15着、87年に久々騎乗するがマイラーのホクトヘリオスでは13着、翌年サッカーボーイで1番人気に支持されたがまともに走れる状態ではなかったため15着。続くロングシンホニーで連続1番人気になるが5着だった。 90年メルシーアトラ5番人気11着、91年イイデサターン12番人気12着、92年ヤマニンミラクル9番人気10着、93年ラリーキャップ13番人気16着、94年マルカオーカン16番人気7着、97年ショウナンナンバー12番人気13着と掲示板すら届かず。 98年には14番人気ボールドエンペラーで猛然と追い込むも2着、5馬身前にスペシャルウィーク、鞍上は兄弟子・武邦彦の息子で河内洋にとって弟弟子の武豊であった。 99年ニシノセイリュウ9番人気11着…天才と言われた福永洋一・田原成貴はダービー未勝利のまま引退し、弟弟子・武豊に先を越され、ここまで16戦未勝利、45歳とそろそろ引退してもおかしくない年齢であった。「ダービーには良い思い出がありませんでした」と後年コメントしている。 思えばアイネスフウジン20万人からの中野コール、ウイニングチケット柴田政人の悲願、夢を掴んだ武豊…様々なドラマを見てきた河内洋にとって、自身が手掛けた一族の貴公子の騎乗は願ってもないチャンスだった。 アグネスフローラを「岡部さんにとってのシンボリルドルフのような存在」と語り、「いつか、フローラの子でフローラよりもっと大きな仕事をしたい」と願った河内洋はついにアグネスフライトに騎乗する。 しかし…「まだ仕上がりきっていないかな。動きがちょっと重い」という感触は現実のものとなった。 2番人気ながらスタートからなかなか進まず、最後方の競馬に。「レディーやフローラはシャッといくタイプだったから、フライトもレースになれば少しはいけると思っていた」河内はやや期待はずれに思ったのかもしれない。 しかし、アグネスフライトは非凡な馬であった。第3コーナーを11番手で回ったアグネスフライトは一気に加速し河内と周りを驚かせる。 良馬場とはいえ雨の影響で湿っていた競馬場、上り35.9最速の強烈なまくりで後続を4馬身突き放し見事に勝利したのだ。 河内は「外に持ち出してからは、エンジンが違ったね。これからが楽しみな馬だね」と喜び、長浜師は、渡辺オーナーに「ひょっとしたら、こいつは怪物になるかもしれません」と興奮気味に報告、牧場での評判通りに活躍すると思われた。 皐月賞トライアル・報知杯弥生賞には評判馬エアシャカール・フサイチゼノンやマイネルビンテージ・ラガーレグルス・ジョウテンブレーヴ重賞級、後の中山グランドジャンプ勝ち馬ブランディス、トウカイテイオー産駒期待のチタニックオーとハイレベルな馬が揃っていた。 スプリングSも同様で期待のフジキセキ産駒ダイタクリーヴァ、2歳時最注目のカーネギーダイアン、重賞級にはヤマニンリスペクト・ミデオンビット・エリモブライアン・トッププロテクター、帝王賞・川崎記念を制することになるカネツフルーヴが揃っていた。 アグネスフライト陣営は「皐月賞になんとか間に合わせたい」ということで手薄なOP若葉Sに出走することとした。 1番人気は怪我から復帰した2戦2勝ヒダカサイレンス、エリカ賞で後の京成杯勝ちマイネルビンテージ・地方名馬ミツアキサイレンスを破ったことが評価されていた。 とはいえ他にはゆりかもめ賞快勝のモリスガタほどで2番人気として勝算があった。 しかし…当日アグネスフライトはマイナス22kgの上、何が気に入らないのかイライラしていた。精神的には幼く血統的な勝気な性格が悪い方向に出てしまう。 河内は強気の騎乗を見せたが、終始機嫌が悪く後方のまま末脚不発で12着惨敗、11番人気クリノキングオー・9番人気タイムリートピックの決着で馬連3万馬券という大波乱だった。 河内は「これは、時間がかかるかもしれないな・・・と思った」と落胆し、陣営は皐月賞を断念せざるを得なかった。 大川厩務員は河内に「気合をつけるような騎乗をすると掛かってしまう」という弱点を言い忘れていたという。 「残念皐月賞」ことOP若草Sに出走したが「底が見えた」という評価から、前走で撃沈したヒダカサイレンス・河内が手綱を取ったレガシーワールドの半弟レガシーアンサーに続く3番人気に。 河内はアグネスフライトのいくままに、フライト自身がやる気を出すまで待つ競馬に切り替えた。3コーナーで動かず「直線に入った時、すぐに反応しなかった」と肝を冷やす河内をよそに、阪神の短い直線で末脚を爆発させジンワラベウタに半馬身差をつけ優勝。 ヒダカサイレンスはここでも振るわず生涯未勝利のまま、レガシーアンサーはあまり出世せずに終わった。なお、3着スターリングローズは後にJBCスプリントな等重賞6勝、5着タップダンスシチーはジャパンC・宝塚記念を優勝するという、歴史的名馬が後方にいたのだった。 肝心の皐月賞は1番人気ダイタクリーヴァを2番人気エアシャカールが差し切り優勝。3着に13番人気チタニックオーが突っ込み、3番人気ラガーレグルス競走中止という波乱もあった。前者は脚の爆弾により高知へと行き、後者は悪質なファンにより競走馬として活躍できずに消えていった。弥生賞勝ちフサイチゼノンは皐月賞を回避し陣営のいざこざに巻き込まれた。この辺りが2000年クラシック世代の内国産組の運命を表しているように後年思うことになる。 河内は「ラクではないけれど、意外性を感じさせる勝ち方」といいつつも後方一気しかできない現状、賞金不足が否めない状況は楽観視できず、脚のコンディションを見ながらも日本ダービーのためには無理しなければならなかった。 「ダービー向きと思っていたこの馬で、皐月賞が獲れました。こうなると、当然もっと大きなところも視野に入ってきますね」と河内の弟弟子・武豊は語った。管理する森調教師は青葉賞からダービーを目指そうとしていた馬での勝利は「予想外」だったという。 スペシャルウィーク・アドマイヤベガで連覇した次は前人未到の日本ダービー3連覇、そして英国のキングジョージ6世 クイーンエリザベスダイヤモンドS遠征を予告する。 名馬スペシャルウィークが成し遂げられなかったことをエアシャカールに託すまでに、河内とアグネスフライトにとって大きな存在となっていた。 ダービーのためGⅢ京都新聞杯へ出走した。1番人気は武豊騎乗で前走・皐月賞を11番人気5着に入った後の函館記念勝ち馬ヤマニンリスペクトである。覚醒まで時間のかかるタップダンスシチー・カネツフルーヴもいた(*6)。 「2着でもいい」と言う渡辺オーナーに対し長浜師は「2着なら、ダービーでは用はありません」と厳しい発言をしている。「エアシャカールは強い。あの馬にはかなわないかもしれない」、ダービー優勝を現実のものとするためかなりの熱意があった。 河内はひたすらアグネスフライトに任せ、最後方の競馬で第4コーナーへ。後ろから3頭目の位置から異次元の末脚で先行馬を撫で切り、11番人気マルカミラーに3馬身差つけて圧勝、上り34.5という頼もしい切れ味を見せ、ダービーへの切符を手にした(*7)。 「年が経つとともに、ダービーに勝ちたいという気持ちが強くなってきた」「ダービーを勝てたら騎手を辞めてもエエ、いうのは別に政人さんだけやない。自分も辞めてもエエと思ってるんやけどね」こうつぶやくようになった河内は45歳になっていた。デビュー24年目・通算19回目の44歳で悲願のダービー制覇を果たした柴田政人の背中とその後を見ていた河内は、「これがラストチャンスかもしれない」と、自分に残された騎手生活が長くないことを分かっていた。 ダービーフェスティバルにおいて自身の想いをあらわにした。「良馬場でやりたいね。あとは、運が回ってくれば、だろうな・・・」 「思い出のダービーは?」との質問に「今年のダービーを思い出にしたい」と答えた後、独占インタビューの申し込みをすべて断り、前日の中京競馬場での騎乗を諦めて東京競馬場で数回騎乗をし、集中力を高め、ダービーの日に備えていた。 第67回東京優駿・日本ダービー 1番人気は単勝2.0倍断トツの皐月賞馬エアシャカール、2番人気は4.8倍の皐月賞2着に馬ダイタクリーヴァ、アグネスフライトは5.1倍の3番人気、4番人気は7.8倍・青葉賞を勝ち復調をアピールしたカーネギーダイアン。サラブレッドクラブ・ラフィアは3頭出しであった。 エアシャカールの入れ込みの激しさに却って安心感を覚え、冷静に偉業を見据える武豊、父フジキセキの果たせなかったクラシックの夢を見つめるダイタクリーヴァとルーキー・高橋亮、そこを見せず数多の夢を託されたアグネスフライトと河内洋…18頭18人は熱く燃えていた。 河内は、長浜厩舎のスタッフたちによって渾身の仕上げをかけられたアグネスフライトの万全の仕上がりを確認すると大変満足し「いい勝負ができる」と確信した。 長浜師は「これは河内のダービーだ、好きに乗ってこい!」そう送り出したのだった。 「アグネスレディー、アグネスフローラの手綱を取った河内洋、17度目の夢を掴むかアグネスフライト」 「そして、夢は日本最強から世界最強へ、二冠を目指すエアシャカールと史上初のダービー3連覇へ、武豊」 本馬場入場は少しチャカつき、発汗もあったが最早問題はない。ただ後方での競馬に徹するだけだった。 「エアシャカールを意識しすぎて、アグネスフライトのよさを消してしまっては何にもならない」と、とにかく末脚の温存を河内は考えていたのだが…アグネスフライトはデビュー以来最高のスタートを切ってしまった。 「よりにもよって、こんな時に出るなよ…」と、まともなスタートを切る可能性などまったく想定していなかった河内は「このまま行かれたら、困るな・・・」と思いつつもアグネスレディー・アグネスフローラで磨き上げてきた折り合い技術でアグネスフライトをそっと下げて、スタート後間もなく息を入れ、かかることもなく馬群の最高峰につけた。 一方、後方策を狙っていたエアシャカール・武豊にも思いがけない出来事が起きていた。 前走・皐月賞で逃げたパープルエビスの逃げに絡むように、マイネルブラウ・タニノソルクバードが先手争いに加わり、ハイペースに。アグネスフライト・ダイタクリーヴァら人気馬が揃って後方待機となったため、その他の馬たちは容易に深追いできず、馬群は縦長に広がってしまった。 圧倒的1番人気の動きでレースが一転することなど競馬ファンの目にもわかっており、「エアシャカールと豊は、いつ動くのか」というプレッシャーが東京競馬場に漂っていた。 残り800mから内につけていたエアシャカールを武豊は、コーナーを回る際に外へと持ち出し、その勢いで一気に末脚勝負へと持ち込もうとしていた。他の馬に妨害されず、自身も他の馬を妨害しないように配慮していた。 「アグネスフライトのよさ、直線での末脚を引き出す」という河内の目論見は「エアシャカールをマークしていたわけではない」にも拘らず、武豊の取った騎乗と一致していたのだ。 「これまでで一番スムーズな競馬だ」静かにヒートアップしていく河内は、「セーフティリードだと思った」エアシャカール陣営に襲い掛かる。 同じ父を持ち、同じ牧場で生まれたエアシャカール・アグネスフライトと、同じ師のもとで騎手としてデビューした師弟関係の河内洋・武豊による一騎討ちは内で粘るタラクシア・ジョウテンブレーヴを置き去りにして自然と起こったのだ。 「ゴールよ、まだ来るな、まだ来るな」「向こうの方が強いのかな」 「ここまできたのに、やらないでどうする」「あと100mでダービーが終わってしまうのに」 追い詰められた河内洋の激に応えアグネスフライトは末脚を伸ばしていく。 「脚色は、相手の方がいい。馬体を併せての叩き合いにしなければ、一気に差し切られてしまう」 武豊は、咄嗟にエアシャカールに左鞭を入れると右にササり、アグネスフライトと一瞬接触する斜行となった。審議のランプが光ってもなお、2頭はまったく怯むことなくサンデーサイレンス産駒同士の激情と二人の願いはゴール板まで譲らなかった。 「さぁ500メートル!!直線コース!生涯一の夢舞台!残り400!栄光まで400! ジョウテンブレーヴ先頭!ジョウテンブレーヴ先頭か!外からは懸命にアタラクシア! あるいはエアシャカール!エアシャカール! アグネスフライトきた!!! 外からアグネス!外からアグネス! しかしエアシャカール!エアシャカール!豊だ! アグネス! 河内の夢も飛んできている!! エアシャカールか!エアシャカールか!それともアグネスか!アグネスか! 河内の夢か!!豊の意地か!!どっちだ!!! エアシャカールか!アグネスフライトか! 豊のV3か!河内洋、悲願のダービー制覇か!! すばらしい競馬です!武豊、河内洋、師弟コンビの一騎打ち!! 外から河内!内で武豊!」 フジテレビ・三宅正治アナウンサー 「勝った!」とゴール後にガッツポーズを挙げた河内だったが、すぐ不安になった。 「オレ、本当に勝ったんやろうか?」という気持ちで他の騎手を見つめると「おめでとうございます!」と返ってくるが確信は得られず。 「ユタカに聞けば確実だ」と待っているが、武豊は帰って来ない。 …ウイニングランするのかな?いや、ゆっくりこっちに来ると「勝ったかな?」という問いに複雑な想いを殺して「おめでとうございます・・・!」と兄弟子に握手し祝福した。 ゴール板は確定しアグネスフライトが1着、写真判定ではアグネスフライトとエアシャカールの差はわずかに7cmだった。 「ついに、自ら手綱を取った名牝の仔で、念願の日本ダービーを獲りました」16万人のファンが「河内コール」で祝福する中、何度も右手を上げてウイニングランを見事に飾った。 長浜師の「せっかくのダービーですし、大騒ぎしなくていいじゃないですか」という声によりエアシャカールの斜行は詮索されることなく、二冠・三連覇の夢と共に終わった。 渡辺オーナーはゴール前で絶叫した後、「やっとやな・・・」と天に向かってつぶやいた。すでにこの世を去った妻、アグネスレディー、長浜彦三郎、アグネスの名馬たちに掛けた言葉だったろう。 アグネスレディ―、アグネスフローラに続いてクラシックを優勝し、史上初めてとなる親仔三代クラシック優勝、母仔三代クラシック優勝という唯一無二の偉業を果たした。 夢破れたエアシャカールであったが、海外遠征の野望を実現する。3歳馬にとって斤量有利なキングジョージ6世 クイーンエリザベスダイヤモンドSに出走、3番人気に支持された。 しかし昨年エルコンドルパサーを凱旋門賞で倒したモンジューの持ったままの競馬に惨敗し8馬身差5着だった。 一方アグネスフライトはダービーの疲れにより夏はソエの治療に。神戸新聞杯で復帰しエアシャカールとの再戦が注目されていた。しかし高熱のハプニングで出走するのがやっとだった。エアシャカールも帰国まもなくであり殆ど休みなどなかった。「今まで自分が乗ってきた馬の中でも一番かもしれない」と河内はコメントしていたが、結果は夏の上り馬フサイチソニックの2馬身差2着、なおフサイチソニックは屈腱炎によりこれが最後のレースとなってしまった。 セントライト記念勝ち馬はアドマイヤボスだった。ダービー馬アドマイヤベガの全弟でクラシックを期待されたが脚部不安から回避、前哨戦で不甲斐ない結果だったクラシックホースにファンは不安を覚え始める。 エアシャカールは武豊に丸投げされ、「この馬の頭の中がどうなっているのかを見てみたい」と嘆かれながら調教に励んだ。一方アグネスフライト陣営は気性面での成長を実感しあまり不安はなかったという。 本番・菊花賞では、エアシャカールを上回る1.9倍の1番人気に推された。ところが武豊の名騎乗が光る。好スタートから中団につけると、「右回りである菊花賞の京都競馬場では、エアシャカールは内によれることになる。ならば、内ラチ沿いぎりぎりに走れば、エアシャカールはよれたくてもよれられない」という考えの下、ロスのない競馬で内を突き、トーホウシデンとのマッチレースをクビ差で制し二冠達成。 アグネスフライトは距離が長かったのか、気性が良くなりすぎたのか、末脚不発で5馬身遅れての5着に終わった。 「準三冠馬」に上り詰めたライバルに一矢報いるべく、2頭はジャパンCに続けて出走した。しかしこれが没落のきっかけになるとはだれも思っていなかった。 2000年6戦無敗のテイエムオペラオー、それに食い下がるメイショウドトウ・ステイゴールド、KGⅡ&QEDS2着の国際派ファンタスティックライトら海外馬7頭が参戦。 3歳世代はエアシャカール・アグネスフライト・オークス馬シルクプリマドンナ・NHKマイルC勝ちイーグルカフェが顔をそろえた。 ダイワテキサス・マチカネキンノホシに獲得賞金差で菊花賞馬ナリタトップロードが除外されるハイレベルなレースに、アグネスフライトらはどこまでやれるか期待された。 しかし…末脚不発のまま4番人気アグネスフライト13着、3番人気エアシャカール14着、イーグルカフェはブービー負け、シルクプリマドンナ殿負け…3歳世代が見事に下位独占、テイエムオペラオーから2秒以上つけられた惨敗。 たかが1戦とはいえ、「2000年クラシック世代は、実はとてつもなく弱い世代だったのではないか」という空気が広がるのも無理はなく(*8)、 エアシャカールは「最弱世代の代表格」、アグネスフライトは「(三冠を阻止して)三冠馬の威厳を守った」などという皮肉な評価をされてしまう。 年明けは京都記念で復帰、しかし2勝クラスのマックロウの2着…大阪杯は伏兵トーホウドリームの10着…一族の宿命・屈腱炎を発症し春は全休となってしまった。 「外からあっという間に抜け出されてしまったものなあ。内容としては及第点なんだが」…河内はあいまいなコメントの裏にアグネスフライトの限界を示唆していた。 大阪杯の2週間後の皐月賞は、アグネスフライトの全弟アグネスタキオンが、4戦4勝で皐月賞を制した。 「デビュー戦を見た時、兄は『怪物になるかもしれない』と思ったが、弟は『怪物だ』と思った」と長浜師は言った。アグネスフライトの時代はもう終ろうとしていた。 後年、白井元調教師と松浪記者の対談で「単純にお兄さんよりもたくましい。スケールアップしている」「どっちがパワーとスピードが優れているかといわれれば、答えはアグネスタキオン。すぐにわかるレベルの違いがありますね」といわれている。 何とか維持を見せたいと、現役続行のため治療を選び、1年7か月後の2002年10月の天皇賞・秋で復帰する。アグネスタキオンは屈腱炎で引退し、種牡馬としての活躍が期待されていた。 勝浦正樹に乗り替わった天皇賞・秋は16番人気、3歳新星シンボリクリスエスを前にエアシャカール・トーホウシデンが4・5着と健闘する遥か後方で15着。後藤浩輝と挑んだジャパンCは15番人気、海外馬の一騎討ちを眺めるだけの最下位16着だった。 6歳も現役続行し京都記念へ。ここで2月末で引退の河内洋と久々にコンビを組み5番人気に支持された。「フライトは、僕にダービーを勝たせるために生まれてきたような馬。僕の最後の重賞でこの馬に乗れるのは運命というよりほかに言いようがないね」という河内の重賞最終騎乗に少し応え0.3秒差6着に健闘した。 翌日、河内は引退した。ビデオレターの中で武豊は、ダービーでアグネスフライトに抜かれたことで兄弟子・河内を「嫌いになりました」と冗談交じりに送っていた。 河内最後のダービーはアグネスタキオンに代わって騎乗したダンツフレームの2着、勝ったのは皐月賞で2着に破ったジャングルポケットだった。 その後アグネスフライトは松永幹夫と阪神大賞典に挑み13着、引退となった。 5月10日、京都競馬場の引退式では、ダービーのゼッケン番号4を着用し、調教師に転身した河内を乗せて最後の雄姿を見せたのだ。 エアシャカールとは3勝4敗。 彼も彼で菊花賞以来未勝利のまま(重賞2着3回、GⅠ4着2回)、脚部不安と「最弱の二冠馬」という不名誉を抱えて引退していった。 種牡馬生活 現役引退後は日高スタリオンで種牡馬になった。アグネスタキオンは、父サンデーサイレンスと同じ社台スタリオンステーションで繋養され、年間200頭の繁殖牝馬を集めるとG1馬を輩出し期待に応えた。 一方のアグネスフライトは初年度に鼠径ヘルニア、2年目も病気で振るわず、3年目92頭がピークだった。 なおアグネスタキオンは2008年のリーディングサイアーとなった翌年2009年に早逝。しかしアグネスフライトには弟の代替としての需要すらなく、8年目の2011年を最後に種牡馬を引退した。 ……結局サンデー系種牡馬としては同期のアドマイヤボス(*9)やアッミラーレ・ニューイングランド・ゴールドヘイロー(*10)に一歩上を行かれる結果となったが、それでも種牡馬入りまもなく事故死したエアシャカールと比べれば遥かにマシではあった。 産駒は一応末脚自慢が目立つも、JRAでは産駒128頭中23頭しか勝ち上がらず、8600万円稼いだワンダーアシャードと札幌日経OP3着フミノヤマビコが代表馬か。重賞馬はインザエアが佐賀・ロータスクラウン賞を優勝したのみだった。BMSもJRA3勝ホッコーアカツキほどである。 「血統を考えると、もう少し活躍馬が出ても不思議ないけど…」そう関係者は言葉を濁した。 種牡馬引退後は生まれ故郷・社台ファームに乗馬として引き取られ、若いホースマンたちの指導役となった。2015年9月に社台ブルーグラスファームに移り、功労馬厩舎にてローエングリン・スカーレットブーケ・スティンガーたちと悠々自適で健康的な放牧生活を送っていた。 「サンデーサイレンスの仔だから、ちょっとうるさいところもありましたけど、年齢を重ねてだいぶ落ち着きも出てきました。ただ、まだ寂しがり屋の面が残っていて、放牧地でも厩舎でも、周りに馬がいた方が安心するようです。周りに馬がいなくなると心細いのか、仲間を探して走りまわったりします」という可愛いエピソードもあった。 2023年1月11日、起立不能となり、懸命な治療も回復の見込みが立たず安楽死。享年26歳。 社台ファーム場長・東礼治郎は「エアシャカールと体をぶつけ合いながらもハナ差で勝利をもぎ取ったダービーのゴールシーンは鮮明に脳裏に焼き付いています。祖母の代から3代続けてクラシックレースを制した血のドラマに感動しました。長きに亘り、我々と過ごしてくれたことに感謝の気持ちで一杯です。安らかに眠って欲しいと思います」とコメントした。 評価 JRAの「最強馬決定戦」であるクラシックは長らく外国産馬を完全に締め出す政策だったが、1998年世代のエルコンドルパサーとグラスワンダーの活躍や2000年クラシック世代の動向等により「クラシックの勝ち馬が世代最強馬ではない」という問題が見えてきた事もあり、 2000年の天皇賞春・秋の枠数限定外国産馬参戦解放に続いて、翌年から段階的に外国産馬のクラシック登録解禁が行われている。 だが初年度はアグネスタキオンら内国産馬が活躍し、外国産馬がクラシック優勝したのは2007年オークスを制したローブデコルテまで待たなければならない。 とはいえ「時期によっては外国産馬の方が世代最強馬」というのは2002年世代の芝王道路線で活躍したシンボリクリスエスと牝馬のファインモーションが証明したが(*11)、きっかけは2000年クラシック世代だった。 初めにNHKマイルカップ馬となったイーグルカフェは、ジャパンCブービー負け後七夕賞優勝後立て直し、G1ジャパンCダート優勝を果たした。 クラシック初戦で戦ったタップダンスシチーはシンボリクリスエス・ファインモーションを退け宝塚記念・ジャパンCを優勝した。 ゼンノエルシドがマイルCS、ノボジャックがJBCスプリントを優勝し、アグネスデジタルは馬場不問、テイエムオペラオーに引導を渡しGⅠ6勝を記録している。 そもそも2000年クラシック世代の最優秀2歳牡馬は外国産馬、香港でGⅠ3勝することになるエイシンプレストンだった。 そして「準三冠馬」エアシャカールは「内国産馬の中では1番頑張った」「それなりに強い」、アグネスフライトは「エアシャカールの三冠を阻止した功労馬」「彼のおかげでシャカールは『最弱馬』と言われなくて済んだ」「ダービーで燃え尽きた馬」「河内にダービー取らせるためだけに生まれたような軌跡の馬」とみなされている。 しかしファンは「シャカールとタキオンのぶんまで長生きしたな大往生や」「世代レベルは最弱扱いやけどあのダービーは最高のダービーやったわ」と思い出の馬として受け止めている。 河内は振り返る。 「行きたがったので我慢させる競馬を教えないといけない」「勝ったとはいえ、目標を“ダービー制覇”と考えると、もっとはじけてくれないと…と感じました」と苦悩する日々、しかし京都新聞杯で「考えていた以上の脚で差し切ってくれました」「これだ!!」「能力的には十分に通用すると考えていました」と前向きになる。 「勝負は時の運だから、それ以上に意識したことがありました」「勝ち負けはともかく“悔いのないレースをしよう”と心掛けました」その思いが実現されたのだった。 訃報を受けて「ダービーを勝ってくれたので、俺の人生を大きく変えてくれた馬。あの時、45歳だったのでラストチャンスだと思っていた。ゴールの瞬間『勝った』と思ったけど、その後、(武)豊が『おめでとうございます』と言ってくれて勝ちを確信した。いいレースだった。あの馬はああいう感じ(最後方から)で乗らないと、と思っていた。一世一代の大勝負やったね。最後は伸びてくれるのを信じていた。最後はエアシャカールと接触して、普通はひるむけど、根性を出してくれた。豊のダービー3連覇を阻止したね。えらいことやったなあ」と思い出を振り返った。 現役引退後も何度か会いに行っていたと明かし「最後に会ったのは2、3年前かな。去年の夏も苦しい時期があったみたいで、乗り越えたけど、力尽きたかな。いつかはこういう時がくる。感謝しかない。この血統は(弟の)アグネスタキオンも乗ったし、桜花賞(母アグネスフローラ)、オークス(祖母アグネスレディー)、皐月賞(タキオン)、ダービーとみんな勝ってくれた。タキオンも亡くなったし、ひとつの時代が終わった感じ。ありがとうですね。安らかに」と、偲んだ。 アグネスフライトは2月デビューからわずか3カ月半でダービーを制した。それはアグネスレディーの誕生から24年が経っていた。渡辺孝男オーナーと長浜調教師親子、河内洋、そしてアグネス一族の想いの蓄積であり、奇跡ではなく必然な勝利だったのだろう。 「ダービーを勝つために生まれてきた馬」と言うなど容易ではない生涯だった。 なお2001年には渡辺孝男氏が循求器病研究振興財団にアグネスフライトらが稼いだ賞金を心臓移植支援基金として寄付している。厚生労働省坂口力大臣より感謝状が贈られ「アグネス基金」と名付けられた。アグネスフライトの走りで救われた人もいるだろう。 フィクション作品への登場 『馬なり1ハロン劇場』 出番自体はモブ率が多めなものの、2000年ダービー回では主役を務めており、母がカワチ騎手の事ばかり気にしているように見える様子に嫉妬し一時低迷するも、その真意を母から聞かされた事で立ち直りダービーを勝利した。 また弟アグネスタキオンのラジオたんぱ2歳S後、勝ちに喜ぶ弟のある無知に気づき、ちょっとした悪戯発言を行っていた。 …皐月賞回で父サンデーサイレンスと同父のフジキセキ・菊花賞回でゴーステディとクリノキングオーに主役を持っていかれたエアシャカールは泣いていい。 追記・修正は夢と執念を乗せた方にお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 是非ともウマ娘化してほしい馬の一頭なんだけど、その場合ウマ娘のタキオンに突然お姉さんがいる設定が生えてしまうことに -- 名無しさん (2024-07-12 01 09 12) ↑ オルフェ登場からドリジャ実装までドリジャの話出たことなかったはず、だからその辺は気にしないでいいのかもしれない? -- 名無しさん (2024-07-12 09 55 43) ↑ ナリブはプロジェクト発足当時からいたがハヤヒデが生えてきたのはもうちょっと後だったし大丈夫大丈夫 -- 名無しさん (2024-07-12 11 09 05) 姉は生えるものだからね仕方ないねというかシャカールが史実的にそんなに関わりの深いわけでもないウマ娘に絡まれて総受け呼ばわりされてる現状を変えられるのはアグネスフライトしかいないのよね -- 名無しさん (2024-07-12 16 26 47) 姉が生える問題はマックにもダスカにも当てはまるがそれよりは辻褄が合わせやすいと思う -- 名無しさん (2024-07-12 22 23 34) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/sysd/pages/2307.html
カワチ薬品 本店:栃木県小山市大字卒島1293番地 【商号履歴】 株式会社カワチ薬品(1980年7月4日~) 【株式上場履歴】 <東証1部>2002年12月4日~ <店頭>2000年9月21日~2002年12月3日(東証1部に上場) 【筆頭株主】 財団法人河内奨学財団 【連結子会社】 株式会社倉持薬局 茨城県坂東市 100% 【沿革】 当社の創業者である河内良三郎は、昭和35年7月栃木県栃木市に医薬品等の小売業を目的として「河内薬品」を創業いたしました。昭和42年4月「有限会社 河内薬品」(代表取締役 河内良三郎、資本金 1,000千円)を設立し法人組織といたしました。 昭和42年4月 有限会社 河内薬品を設立。 昭和55年7月 株式会社カワチ薬品に改組。(資本金 2,200万円 保有店舗数12店舗) 昭和57年3月 本店を現在の栃木県小山市に移転。 昭和59年10月 栃木県宇都宮市の三の沢店に当社初のPOS(販売時点情報管理システム)レジを導入。 昭和61年4月 プライベートブランド商品の開発及び販売を開始。 昭和61年10月 埼玉県久喜市に久喜店を設置。埼玉県への出店開始。 平成元年7月 栃木県宇都宮市の川俣店にて酒類販売免許を取得。 平成元年11月 群馬県伊勢崎市に伊勢崎店を設置。群馬県への出店開始。 平成2年12月 全店POS(販売時点情報管理システム)化計画を開始。 平成4年1月 福島県福島市に鎌田店を設置。福島県への出店開始。 平成4年4月 仙台市青葉区に南吉成店を設置。宮城県への出店開始。 平成4年10月 茨城県日立市の田尻店を増床し、売場面積417坪のメガ・ドラッグストアを設置。 平成6年3月 EOS(電子発注システム)を導入。 平成7年4月 福島県白河市に売場面積677坪のメガ・ドラッグストア、白河店を設置。 平成8年10月 茨城県日立市の田尻店に初の調剤薬局を併設。調剤事業を開始。 平成11年8月 群馬県富岡市に、調剤薬局を組み入れた売場面積1,011坪のメガ・ドラッグストア、富岡店を設置。 平成12年4月 矢板南店(栃木県矢板市)が、福祉用具貸与事業所に指定され事業開始。 平成12年6月 千葉県千葉市におゆみ野店を設置。千葉県への出店開始。 平成12年9月 店頭売買有価証券として日本証券業協会(現ジャスダック証券取引所)へ登録。 平成12年11月 山形県山形市に山形南店を設置。山形県への出店開始。 平成13年5月 商品の共同仕入を目的として、株式会社サンドラッグと業務提携に関する覚書を締結。 平成14年7月 岩手県盛岡市に盛岡みたけ店を設置。岩手県への出店開始。 平成14年11月 新潟県長岡市に長岡店を設置。新潟県への出店開始。 平成14年12月 東京証券取引所市場第一部へ上場。 平成15年6月 長野県佐久市に佐久平店を設置。長野県への出店開始。 平成17年8月 東京都多摩市に多摩ニュータウン店を設置。東京都への出店開始。 平成18年12月 茨城県に本社を置く株式会社倉持薬局を完全子会社化。 平成19年2月 静岡県静岡市に清水鳥坂店を設置。静岡県への出店開始。 平成20年2月 山梨県甲府市に小瀬店を設置。山梨県への出店開始。
https://w.atwiki.jp/etcranking/pages/5765.html
近畿日本鉄道 全駅の乗車人数の割合(定期)で少ない順ランキング 一覧説明 近畿日本鉄道 全駅を定期で利用者で駅の利用割合をランキングにしています。 ランキング 順位 駅名 乗車人数の割合(定期) 1 高安山 0.000% 2 近鉄宮津 0.010% 3 柏原南口 0.061% 4 木津川台 0.067% 5 狛田 0.096% 6 十条 0.098% 7 信貴山口 0.101% 8 山田川 0.104% 9 東寺 0.107% 10 三山木 0.126% 11 伏見 0.128% 12 駒ヶ谷 0.132% 13 伊勢田 0.133% 14 安堂 0.150% 15 汐ノ宮 0.155% 16 河堀口 0.163% 17 上鳥羽口 0.172% 18 服部川 0.183% 19 額田 0.194% 20 富野荘 0.196% 21 久津川 0.214% 22 桃山御陵前 0.232% 23 寺田 0.238% 24 堅下 0.267% 25 法善寺 0.274% 26 川西 0.276% 27 新祝園 0.278% 28 長田 0.282% 29 今川 0.295% 30 枚岡 0.315% 31 上ノ太子 0.316% 32 恩智 0.322% 33 北田辺 0.327% 34 布忍 0.377% 35 久宝寺口 0.390% 36 興戸 0.395% 37 小倉 0.421% 38 柏原 0.426% 39 大阪教育大前 0.448% 40 俊徳道 0.454% 41 道明寺 0.464% 42 向島 0.465% 43 高鷲 0.467% 44 富田林西口 0.473% 45 河内永和 0.519% 46 高見ノ里 0.527% 47 土師ノ里 0.532% 48 滝谷不動 0.583% 49 新田辺 0.636% 50 石切 0.665% 51 大久保 0.699% 52 針中野 0.701% 53 矢田 0.719% 54 今里 0.728% 55 東花園 0.788% 56 弥刀 0.796% 57 荒本 0.843% 58 恵我ノ荘 0.850% 59 高安 0.908% 60 吉田 0.916% 61 河内長野 0.933% 62 河内花園 0.950% 63 若江岩田 0.989% 64 富田林 1.042% 平均 1.163% 65 新石切 1.177% 66 竹田 1.194% 67 河内天美 1.238% 68 河内国分 1.245% 69 近鉄丹波橋 1.274% 70 喜志 1.377% 71 瓢箪山 1.517% 72 古市 1.622% 73 河内山本 1.642% 74 八戸ノ里 1.722% 75 近鉄八尾 1.984% 76 河内松原 1.992% 77 京都 2.309% 78 河内小阪 2.400% 79 長瀬 2.458% 80 藤井寺 2.466% 81 布施 2.923% 82 近鉄日本橋 3.305% 83 上本町 5.405% 84 近鉄難波 9.949% 85 大阪阿部野橋 12.002% 86 鶴橋 12.683% 合計 100.000% 最大 12.683% 最少 0.000% ねーむ コメント すべてのコメントを見る トップページ
https://w.atwiki.jp/post_map/pages/1048.html
下野小金井郵便局 読み仮名:しもつけこがねい 郵便番号:〒329-04・〒323-01(元は延島郵便局が集配)・〒329-06(元は下野小金井(上三川)郵便局が集配) 集配地域:栃木県下野(しもつけ)市の旧・河内(かわち)郡南河内(みなみかわち)町域、旧・下都賀(しもつが)郡国分寺(こくぶんじ)町域、小山(おやま)市の旧・下都賀郡桑絹(くわきぬ)町のうち旧々・下都賀郡絹(きぬ)村域、河内郡上三川(かみのかわ)町の元々の上三川町域および旧・河内郡本郷(ほんごう)村域。 1.jpg 下野小金井郵便局局舎 2.jpg 下野小金井郵便局取集時刻掲示 達成状況[20**年*月**日現在] 普通のポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 コンビニポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 ポスト考察 ●編集中 ポスト番号考察 ●編集中 設置傾向考察 ●編集中 取集時刻考察 ●編集中 取集ルート考察 ●編集中 時刻などの掲示 ●編集中
https://w.atwiki.jp/kotokoto2/pages/2125.html
所在地広島県賀茂郡河内町大字入野 開業日1953/12/25 接続路線山陽本線 隣接駅河内(山陽本線:神戸方面) 白市(山陽本線:門司方面) 訪問日2001/7/29 戻る
https://w.atwiki.jp/if_notss/pages/189.html
年度 頭 タイム 1着 騎手 2着 騎手 3着 騎手 1着馬の父 成績 1994 2 01.8 ホクセイアンバー 小原義之 イブキファイブワン 芹沢純一 メモリータイヨウ 角田晃一 アンバーシャダイ ◆ 1995 2 00.2 スプリングバンブー 岸滋彦 ゴールデンジャック 上村洋行 テイエムジャンボ 河内洋 ワッスルタッチ ◆ 1996 2 00.7 ヒシナタリー 角田晃一 スターマン 熊沢重文 スギノブルボン 松永昌博 Seattle Slew ◆ 1997 2 00.6 ゲイリーイーグル 河内洋 イブキニュースター 高橋亮 シンカイウン 北沢伸也 Mujtahid ◆ 1998 1 46.0 テイエムオオアラシ 福永祐一 ツルマルガイセン 高橋亮 ビワタケヒデ 藤田伸二 セクレファスター ◆ 1999 1 58.5 アンブラスモア 須貝尚介 ニシノダイオー 河内洋 エイシンビンセンス 野元昭嘉 ラシアンボンド ◆ 2000 1 59.7 ミッキーダンス 佐藤哲三 アンブラスモア 須貝尚介 エイシンビンセンス 野元昭嘉 ダンスホール ◆ 2001 2 00.3 マヤノアブソルート 福永祐一 パラダイスヒルズ 高橋亮 ミッキーダンス 河内洋 デインヒル ◆ 2002 1 59.7 アラタマインディ 飯田祐史 イブキガバメント 芹沢純一 マヤノアブソルート 福永祐一 A.P. Indy ◆ 2003 2 00.7 サンライズシャーク 幸英明 グリーンブリッツ 池添謙一 エイシンスペンサー 吉田稔 サクラホクトオー ◆ 2004 1 58.5 メイショウカイドウ 武豊 メイショウバトラー 武幸四郎 オースミステイヤー 福永祐一 スキャン ◆ 2005 1 58.0 メイショウカイドウ 武豊 ワンモアチャッター 福永祐一 セフティーエンペラ 安藤勝己 スキャン ◆ 2006 6 1 58.2 ニホンピロキース 赤木高太郎 サンレイジャスパー 佐藤哲三 コンゴウリキシオー 岩田康誠 タマモクロス ◆ 2007 7 1 58.7 サンレイジャスパー 佐藤哲三 ニホンピロキース 赤木高太郎 アラタマサモンズ 芹沢純一 ミスズシャルダン ◆ 2008 5 1 58.6 ケンブリッジレーザ 安藤光彰 ミヤビランベリ 岩田康誠 ワンモアチャッター 鮫島良太 タイキシャトル ◆
https://w.atwiki.jp/seikouudoku/pages/62.html
底本:昭和47年10月15日実業之日本社発行『山本周五郎 修道小説集』 一 或日のこと本多忠勝が岡崎の城へのぼると、遠侍(とおざむらい)に旧知の京極高次が控えているのをみつけた。 「近江殿(おうみどの)ではないか」 「おお平八殿か、是は久々の対面じゃな」 「かけちがってとんと会わぬが、だいぶ小鬢(こびん)に霜がふえたのう」 笑いながら平八郎はそこへ坐ったが、高次の傍らにちんまりかしこまっている少年をみつけて、 「是は誰じゃな」 「わしの忰(せがれ)じゃ、今日上様に初のお目見得を仕るで連れて来た。――これ御挨拶をせい、こちらは本多忠勝殿じゃ」 少年は鈴のように張った大きな眼で、眤(じっ)と忠勝を見上げながら、 「わたくしは京極熊若丸でござります」 力のある良い声だ。 平八郎は眼を細くして幾度も頷(うなず)き、 「おお、よい児じゃのう、何歳になる」 「七歳でござります」 「京極家の祖先は佐々木高綱公、名家に生れた仕合せには、高綱公に劣らぬ武勇の将になるのだぞ」 自分の子でも愛(いつくし)むように訓(おし)えてから、高次の方へ振返って、一別来の話をはじめた。 ところで、平八郎は話に興じながら、時々片手をあげて熊若丸の頭を撫(な)でた。もちろん悪気があってするのではないが、少年の方ではありがたくないらしい。二度三度までは我慢していたが、四度めの手が来ると、 「無礼でござろう」 吃驚(びっくり)するような声で叫びながら、いきなり平八郎の手をひっ払った。平八郎も驚いたが父の高次も驚いた。 「これ何をする、熊若」 「否(いいえ)え、勘弁できませぬ」 熊若丸は差添えの柄(つか)に手をかけた。 「我慢していれば良い気になって、さっきから何度もひとの頭へ手をかける、無礼至極な致し方です」 「や、これは失策」 忠勝は身をすくめて、 「子供好きの癖でつい撫でたのじゃ、頭へ手をやったと思われては困る、赦(ゆる)せ赦せ」 「厭(いや)です、常の日なら別、今日は上様へお目通りをする大切な体、こんな辱(はずか)しめを受けたままで御前へ出られますか」 「そう云われては尚更困る、粗忽(そこつ)じゃ、どうか枉(ま)げて勘弁して呉れ」 平八郎気の毒な位縮まってしまった。 「それほど仰有(おっしゃ)るなら」 熊若丸はきっとして 「わたくしに貴方の頭を撫でさせて呉れますか」 「儂(わし)の頭を撫でる?ほう、それで勘弁して呉れるか」 「大まけですが勘弁致しましょう」 「やれやれ、ではそれ」 ぬっと苦笑しながら頭を差出す。熊若丸は拳骨(げんこつ)を固めると、力任せに忠勝の頭をがんと殴(なぐ)りつけた。 「む!撫でる筈ではないか」 「是が京極流の撫で方でございます」 けろりとしている。 「はははは京極流か、遖(あっぱ)れ遖れ。よく殴った、平八郎の頭へ手をあげた者はお許(もと)唯一人であろうぞ。その度胸(どきょう)を忘れるなよ」 云いながら思わず熊若丸の頭へ手を伸ばしたが、慌(あわ)てて引込め、 「ほほ、また叱られるぞ」 明るく笑って立上った。 これが後に二十四万石を抛(ほう)って癇癪(かんしゃく)を破裂させた京極忠高の幼時のことで、言ってみれば彼が最初の癇癪玉だったのである。 二代将軍秀忠から諱字(いみなじ)を貰って忠高となったのが慶長八年、同じく十一年には従(じゅ)五位下(いのげ)の侍従兼若狭守に任官したが、相も変らず癇癪が直らなかった。 忠高の母常光(じょうこう)は賢母で、大坂の陣には寄手と城中を往来し、和議を成立させた程の女丈夫であるが、この忠高の癇癪にはほとほと手を焼いた。 それで将軍秀忠の第四女保子が忠高の妻として輿入れして来たとき、何よりも先に、 「ほかにお頼みはありませぬ。心懸りなのは忠高の癇癪、どうぞ御許様の力で撓(た)められるものなら撓(た)めてやって下さいませ」 懇々と頼んだ。 保子はもとより利発の女であったから、常光夫人の言葉を胆に銘じ、よくよく忠高を抑えたので、その後大した過ちもなく過ぎた。 父高次の没後遺封を継いだ忠高は、大坂両陣に殊功を樹(た)て、逐年(ちくねん)累進(るいしん)して寛永二年には従四位下に叙し右近衛権少将(うこんえごんのしょうしょう)に陞(のぼ)り、やがて出雲、隠岐、石州で二十四万余石を領するに至った。 二 寛永八年の夏のことである。 備中狭野(びっちゅうきの)の城主松平河内守信敏から使者が来て、一通の書状を呈出した。忠高が披(ひら)いてみると、 (近頃貴家へ仕官した梶井源左衛門(かじいげんざえもん)なる者は、当藩に於いて布目玄蕃(ぬのめげんば)と申すを討って立退いた不逞(ふてい)の男である。玄蕃の兄で主膳と申すが仇討を願い出ているので討たせてたり度く思うに就いて、源左衛門を当方へお引渡し願い度い) 文面の大意はそういうことであった。 梶井源左衛門はその年の春、百石を以て忠高に抱えられた武士で、武芸に達し人品骨柄(じんぴんこつがら)秀で、遖(あっぱ)れものの役に立つべき奴と、新参ながら忠高に愛されていた。 忠高はすぐに源左衛門を呼び出した。 「源左、斯様(かよう)な書面が参って居る、読んでみい」 「は」 源左衛門は河内守の書状を読むと、静かに面をあげた。 忠高が、 「玄蕃というのを討ったのは事実か」 「は、討ったと申せばそれに相違はござりませぬが、武道の論がもとで互いの雌雄(しゆう)を決すべく、河州侯(こうしゅうこう)の許しを得て立合いましたもの、討つも討たるるも後怨(こうえん)をのこさずと、固く約束を仕っての上でござります」 「狭野を立退いたは如何なる理由じゃ」 「元来玄蕃は河州侯出頭の者にて、同族も多いことにござりまする故、わたくしが居りまして万一にも騒動なんど起っては一藩の恥と存じ、退身致してござります」 「そうか」 忠高は頷(うなず)いて、 「それ丈聞けば充分じゃ、退って宜い」 「は」 源左衛門は平伏したが、 「併(しか)し、御意は如何にござりましょうや、相成るべくは狭野へ参り、主膳と勝負を致し度く存じまするが」 「宜い宜い、余に任せて置け」 源左衛門をさげて忠高は河内守へ書状を認(したた)めた。 (仔細(しさい)を糺(ただ)したところ、源左に非分ありとは認め難いし、また一旦家臣とした者をおいそれと他家へ引渡すような、情を知らぬ仕方は当家の風ではないから、御申出はかたくお断りをする。併し仇討のことであれば、つけ狙って討たるる分には一向差支えないことである) 書状を使者に持たせて帰すと、それなりいつか忠高はそのことを忘れて了(しま)った。 寛永十年江戸在府中のことである。 或日登城して詰(つめ)の間(ま)にいると、つかつかと一人の老人がやって来て、 「若狭殿でござるな」 と声をかけた。 「如何にも忠高でござるが」 「儂(わし)は河内じゃ」 老人は傲然(ごうぜん)と名乗った。 その頃江戸城中で、若い領主達から毛虫のように嫌われている老人がいた。「横車の河内」と呼ばれて、我意の強い横紙破り、気の弱い者はこの老人を見た許(だけ)で逃げだして了う位、したがって当人益々良い気持で、我物顔に押廻っている。 ――忠高はすぐに、 ――ははあ是が例の横車だな。 と思ったから、慇懃(いんぎん)に辞儀をして、 「お見外(みそ)れ仕った。御無礼」 「ふん」 河内は鼻で笑って、 「梶井源左衛門は健在かな」 と云った。 忠高は訝(いぶか)しそうに老人を見上げたが、はっと先年のことを思出した。 梶井源左衛門を引渡せと言って来た、あの時の松平河内守、――あれがこの横車の河内と同一人であったのだ。改めて相手を見直した忠高、曽(かつ)ての我儘な申分と云い、また眼前に思上った様子を見せつけられて、むらむらと癇(かん)がたって来たから思わず荒い調子が出た。 「左様、至極壮健で居ります」 「ふふん、なる程」 老人は意地の悪い冷笑をくれて、 「ま、宜かろう。結構じゃ、結構じゃ、――布目主膳もな、武芸出精(しゅっしょう)にて時の来るのを待兼ねて居るのじゃ、いずれ面白い勝負が見られることであろうよ、のう若狭殿」 人を喰った態度である。忠高はそれ以上老人の顔を見ていたら、自分の癇癪がどう破裂するか分らぬと思って、 「多用でござれば是にて、――」 と立上って其場を去った。 それ以来この老人は忠高と顔を合せる毎にねちねちと絡(から)みかかって、小意地の悪い皮肉や憎まれ口を叩いては、忠高の癇をつつき廻すのであった。 三 或時のこと、…… 城中詰の間で、七八名集って軍陣の話をしていると、松平河内守が席へ割込んで来て、高声に言葉を挿んだ。 「戦陣の功名(こうみょう)もさることながら、人の運不運は知れぬものじゃ。如何に抜群の功名をたてたところで、運の薄い者は出世も出来ぬ。一例を申せば本多平八郎殿よ、大小の合戦五十余度(たび)、大坂の陣で果てられる迄軍功は数知れぬ豪勇の仁であったが、結局は二十万石足らずの扶持(ふち)じゃ、ところが運の良いになると親の代まで廩米(りまい)三千苞(ほう)ばかりの小身であったものがさしたる戦功もなくして易々二十四万石に経昇(のぼ)る」 じろりと忠高に一瞥(べつ)をくれて、 「運じゃ、なに運が良ければ、その上にまたひきと云う奴もある。親のひきもあるし、また女房のひきもある」 明らかに忠高を諷(ふう)した言葉だ。 ――うぬ!と思ったが、堪えて、そ知らぬ顔でいると、 河内守は振返って、 「左様ではござらんか若狭殿」 「――――」 「盧毛(ろもう)の駻馬(かんば)を乗る術(すべ)は知らずとも、女房を乗り当てることさえ上手なれば、出世立身は望み次第、のう若狭殿」 「なる程」 忠高はもりあがって来る癇癪を抑えながら、努めて、冷やかに答えた。 「世間にはそのような物の観方もござるよ、俗にねじけ者の僻(ひが)みと申してな」 「な、なに、ねじけ者の僻み?」 老人の面がさっと変った。 「僻みに相違ござるまい、それともまた論功行賞に当ってお上に依怙(えこ)の御沙汰(ごさた)があったと申されるか」 「儂(わし)はお上の事を引合に出しはせぬ」 「功を賞さるるのは将軍家の思召に依ることでござるぞ、是を非難するのは即ちお上に対して不平を懐かるることではござらぬか、――僻みと申したのは拙者の遠慮でござる、それがお気に入らずば理非の程をきっと糺(ただ)し申そう」 「――――」 遉(さすが)の横車河内、是には半句の返す言葉もなかった。一座の面々良い気持そうに、赧黒(あかぐろ)くふくれあがった河内守を見やっていた。併し、忠高は必ずしも良い気持ではなかった。秀忠の娘を妻にしている自分を、快からず思っている者は松平河内守一人ではないのである。現にその一座の中にも、河内の風刺を痛快そうに見ている者があった。 「何と云う量見の狭い人々だ」 そう思う一方――妻のひき立てで、矢張自分は過分の立身をしているのかも知れぬ、という疑が起って、 「いっそ保を離別するか」 と考えるのであった。 併し、当時の大名達が、いずれも妾(しょう)を蓄えているに反して、忠高だけが妻一人を守って、在国中も女を近づけぬ程愛し合っている仲であったから、離別などとは思いもよらぬことであった。 「どうか遊ばしましたが、お顔の色が悪うござりまするが」 邸へさがると、保子が気遣わしげに忠高を見て、そっと笑いながら言った。 「癇をお立て遊ばしましたな」 「分るか」 忠高は苦笑した。 「大きな癇癪筋が二本、お額の両脇に見えて居ります。何か御不快がござりましたか」 「つまらぬ事じゃ、もう納まったから案ぜずとも宜い」 妻の顔を見ているうちに、忠高はもやもやとした胸のわだかまりが霧のように晴れてゆくのを感じた。 その翌年の春のことである。 国入りをする為に、江戸を発足した忠高の行列が、途中保土カ谷の宿をぬけ出て暫(しばら)くすると、供先に何か起ったとみえて停(とま)って了(しま)った。 「どうした」 「は」 駕籠(かご)脇の士が直に走って行った。 忠高の供先がだらだら登りの坂にかかった時である。松並木の蔭から仰々(ぎょうぎょう)しい装束をした一人の武士が大剣を抜いて乱暴にも共先の中へ、 「弟の仇だ、源左衛門出合え!」 と喚(わめ)きながら暴れこんで来た。 顔色も変っているし、すっかりうわずって言葉もよく分らぬ有様である。供先の面々は驚いて抜刀しながら取囲んだ。 「狼藉者(ろうぜきもの)!」 先手頭の松木市郎右衛門が、馬を乗りつけて来て大音に、 「手に余らば討取れ」 と叫ぶ、乱暴者は金切声で、 「仇討、仇討でござる」 「なに仇討だ?」 四 「拙者は松平河内守の家臣、布目主膳と申す者でござる。弟玄蕃の敵梶井源左衛門、お供の中に在りとつき止めて推参仕った。尋常の勝負お許しが願い度い」 蒼白な顔で主膳は仇討免許状を差出した。 「手前主人河内守も、この先のところに行列を駐(と)めて居ります」 「暫(しばら)く待たれい」 市郎右衛門は馬をかえして、忠高に此始末を語った。 忠高は言下に、 「不埒(ふらち)な下郎、作法も弁(わきま)えず、斯様(かよう)な途上に抜刀して供先を乱すなぞ赦(ゆる)せぬ奴。構わぬからひっ括(くく)って了え」 「お言葉にはござりますが、免許状を持って居り、また街道十丁余のところに河内守殿が行列を駐めて居らるると――」 「なに河内守がいるとか」 忠高は嚇(かっ)となった。 「やり居ったな、――よし、馬曳(ひ)け」 「は!」 乗馬が来ると忠高はとび乗って、 「源左を呼べ」 「は」 近習の者が走って行ったがすぐに倉惶として源左衛門を連れ戻った。 「源左か」 「は」 「布目主膳という奴が、供先に仇討と名乗って出た、ちと仔細(しさい)あって此場で立合せねばならぬ、余が後見を致す故存分にやれ」 「は、御途上の妨(さまた)げを仕り、何とも申訳ござりませぬ」 「勝てよ」 と云うと馬を進めた。 立合の事が定った。場所は坂を登りつめた右側の草原を撰み、河内守の行列は忠高の一行と相対して原の東西に居並んだ。 やがて仕度をして主膳と源左衛門が、両方から進出て来て向合った。主膳は漸く落着を取戻したとみえて顔色は良く進退も立派である。源左衛門が近寄ると大音に、 「弟玄蕃の仇梶井源左衛門、覚悟」 と名乗る。源左衛門は静かに頷いて、 「参れ」 と一言。 主膳は大剣抜いて青眼(せいがん)につけ、鋩子尖(きっさき)をやや下げ気味にぐっと右足を寄せる。一刀を突に取ろうという構えである。――源左衛門はまだ抜かない、充分に体を浮かせて眤(じっ)と相手の眼をみている。 「えい!」 主膳は一声を放った。 「――――」 「えい、おっ!」 第二声、源左衛門の右足が動きを起す!刹那!主膳の体が躍った。 「や――」 同時に源左衛門の左足が弾んで、きらりと剣光が空を切った。主膳は踏止まろうとするように一瞬蹈鞴(たたら)を踏んだが、突を入れた大勢のまま、だだだだ、二三間のめって、草の中へどうと倒れた。 「あっ」 「やった!」 東西一時に息を呑む。源左衛門は静かに懐紙を取出して剣に拭をかけていた。 河内守の家臣が、思出したように駈けて行って見ると、布目主膳は首を殆ど斬放されて即死していた。――それを聞くより、河内守は血相を変えて立上る。いま立去ろうとする源左衛門を、 「待て待て、逃げるか」 と呼止めた。忠高も床几(しょうぎ)を立った。 「此上にも何か御用か」 「無論のことじゃ」 河内守はつかつかと進出て、 「主膳が討たれた上は、布目の親族が居るで、これに仇討をさせねばならぬぞ」 まさに横車である。 「無法なおことを云われな」 忠高は鋭く、 「子の仇は親は討たず、弟の仇を兄は討たずと申す、主膳との立合でさえ表沙汰(おもてざた)ならぬ儀であるのに此上親族の者との勝負などおもいもよらぬことでござる」 「ははあ、ならんと申すか」 河内守は冷笑して、 「ならんとあれば儂(わし)も河内守じゃ、一度云い出して後へ引く訳にはゆかぬぞ、此上は腕ずくと致そうか」 「ない」 「家臣の仇は儂の仇も同様、これが河内のお国振りじゃ、用意さっしゃれ」 忠高の面上さっと血の気が去った。 ――我慢ならぬ。 と思った時、 「や、梶井!」 と叫ぶ声。 振返ると、二三人の者が源左衛門の傍へ走寄っている。 五 「どうした」 忠高が小走りに寄って見ると、源左衛門は草の上に端坐してみごとに切腹していた。 「や、源左!」 源左衛門は蒼白の面をあげる。 「殿――、御前を汚(けが)し奉り――」 「――――」 「申訳、ござりませぬ」 なつかしげに、眸子(ひとみ)をあげて忠高の顔を見守ながら、 「数々の御配慮、勿体なく、忝(かたじけ)のう、御情のほど七生まで、忘却は仕りませぬ」 「うむ」 忠高は顔を外向(そむ)けた。 「やあ腹をしたか」 のこのこやって来た河内守、 「笑止(しょうし)の者よな、それ程勝負が怖しければ、勘弁する法もあったにのう、流石(さすが)に若狭殿の御家風は違ったものじゃ、ははは」 「河州!まだ申すか」 忠高がたまらず出る。 「と、殿、暫(しばら)く」 源左衛門が苦痛を忍んで叫んだ。 「源左を、犬死に遊ばしまするか――」 「む――」 忠高は胸をしめつけられる思い出、踏止まった。自分さえ亡ければ此場が無事に納まるとみて、敢然自刃した源左衛門の思切った、いじらしい覚悟がずんと心底にこたえたのである。 「源左、何も云わぬぞ、快く死ねよ」 「殿にも御武運、長々に」 「さらばだ」 馬を曳かせる忠高は其場を去った。 一年の在国が終った。冬から痛み始めた虫歯が、春になっても良くならず、参勤のために江戸へ発駕する頃は殊に痛みのひどい時期であった。 旅程順よく大井川の手前、金谷の宿へ着いたのが、三月十二日、二三日前から川上に豪雨が続いたので、忠高の行列が宿へ入る半刻(はんとき)ばかり前に渡は川止となっていた。運の悪い時には悪いもので、是より一刻ほど以前、例の横車の河内が川を越していたのである。 島田へあがった河内守、自分のあとに京極忠高が川止をくっていると知ったから、又しても悪戯(いたずら)がしたくなったらしい。 「ちとからかって呉れよう、筆を持て」 料紙硯(りょうしけん)を取寄せると、何やらさらさらと走り書きにする。弓術師範で側近に召使っている瀬沼百太郎というのを招いた。 「是をな、矢文(やぶみ)にして金谷宿へ射込んでみい、届くであろうが」 「は、仕りましょう」 「あいつ奴(め)、さぞ癇癪を起すことであろう、面の見えぬのが残念じゃ」 にやにや笑って、近習を従えて河原へ乗出し、床几を据えて頑張った。 川止に阻(はば)まれて金谷の旅館に入った忠高、折からまた痛み出した歯の療治にかかっていた。生来壮健で、それまで殆ど医薬の味というものを知らなかった忠高は、少しも験(ききめ)のみえぬ医療に些(いささ)か業(ごう)を煮やしていた。――その時も医師竹島似斎(たけじまじさい)が調じて来た薬湯を一口含むや、 「えい智慧のない」 と言ざま、金碗ごと庭へ叩きつけ、 「毎(いつ)も毎も同じ薬湯、半年の余も用いて効のないものをいつ迄使う気だ」 「は――」 似斎が平伏するのえ、 「医を以って仕え乍(なが)ら、歯痛ひとつ、満足に療治が出来ぬのか」 「申訳ござりませぬ、早速――」 「ええもう宜い、退れ」 似斎は唾壷(だこ)を捧げて怱々(そうそう)に退った。――それと殆ど入れ違いに、供頭を勤める神崎太夫が入って来た。 「申上げまする」 「不快だ、急用でなかったら後にせい」 「は」 と平伏したが、持って来た一通の書面を差出した。 「川向うより矢文として、射て参りましたそうで、宿役人よりの届出にござります」 「矢文?――見せい」 忠高が受取ってみると、宛名(あてな)は正に自分、裏をかえすと松平河内守とあった。 「またか」 むらむらとこみあげて来る憎悪、痛みをこらえ乍ら封を切って読む。 (拝呈。貴、京極家の祖先は佐々木四郎高綱と承る。四郎殿はいみじき武勇の人にて宇治川の先陣に、遖(あっぱ)れ急流を乗り切って一番乗の功名をたてられし事、正に三歳の童児も知るところ、熟熟(つらつら)惟(おもんばか)れば泰平の世こそ有難けれ、斯許(かばかり)の出水に川を止められ、晏如(あんにょ)として惰眠(だみん)を貪(むさぼ)るを得るとは、借問答す若狭守忠高侯、宇治川の戦にあって尚四郎高綱たるを得るや如何(いかん)。河内守) 六 「む!」 読みも終らず、忠高は書面をびりびりと引裂いて投捨てながら、 「武太夫丹波を呼べ!」 「は、――」 蒼惶(そうこう)として京極丹波が来る、忠高は癇に顫える声で、 「丹波、忠高は京極の家を潰すぞ、家臣には済まぬが、武道の為だ何も云うな」 「殿――」 「聞かぬ、止めだて無用」 すっくと立った。 「鎧櫃(よろいびつ)を持て、馬の用意ある者はいずれも物具を着けて余に続け」 「どう遊ばしまするか」 「川を乗切るのだ、仕度を急げ」 そう云って奥へ入った。 癇癪が爆発した。長いこと抑えに抑えてきた癇癪が。川止は天下の法度で、これを犯すことは関所を破るに等しい罪科である。勿論それを承知の爆発だ。 四半刻と経たぬうちに、大鎧を着けた馬上の忠高を先に凡そ三十騎余り、いずれも鎧物具して駿馬(しゅんめ)にまたがり、礫(こいし)を蹴たてて河原へ乗出した。 遥(はるか)に見やれば、島田の川岸には松平河内守の一行が嘲るようにい並んで此方(こっち)を見戍(みまも)っている。忠高は水際へ来ると水勢を案ずる暇もなく、 「続け、一騎も後れるな!」 叫びざま、矢のように渦巻き流れる濁流の中へ、ざんぶとばかり馬を乗入れた。 続く三十余騎いずれも戦場往来の勇士、大坂両陣にめざましく働いて、旗本だけでも三百余級の首を挙げたという強者(つわもの)揃いだ。 「殿に後れる勿(なか)れ!」 「一代の水馬ぞ、眼に物見せてやれ」 わっとおめいて乗入れた。 金谷宿は勿論、島田宿の方でもそれを見るより、川止で宿泊中の諸侯、何事が起ったかと、それぞれ旅館を固め、河原へ人数を出して警戒に当った。 泰平の世に鎧武者三十余騎が、律を破って川を乗切るのだから、両岸の人々の驚きも一倍であったに相違ない。 ――唯眼を瞠(みは)り手を振って、あれよあれよと騒ぐうち、さしもの急流を一人の欠くる者なく、みごとに乗切って対岸へあがった。 遉(さすが)に横車の河内、胆を消した。 「是はいかん」 慌てて床几を立って、後を振返り旅館の方へ逃げ出した。――と、見るより忠高、 大音をあげて、 「河内殿見参仕ろう」 と叫んだ。 「四郎高綱の後裔(こうえい)、京極忠高の水馬、如何御覧じたか承り度い、河内守殿」 鼬鼠(いたち)のように、こけつまろびつ河内守は夢中で逃げて行く、背をまるめて、履物も脱ぎ捨てて、いやその早いこと、 「はははは」 忠高は馬を煽(あお)って追い詰めながら、思わず腹を揺(ゆす)って笑い出した。 「ははははは、あっははははは」 河内守は右へ左へ、恐怖に身を顫わせながらうろうろと逃げ廻る。 「ははははは、あの態(ざま)、ははははは」 癇癪も消しとんだ。歯の痛みも忘れた、そして胸いっぱいに吐出す笑いが、晴れあがった大空に、明るく活々(いきいき)とひびき渡った。 法度を犯した律に依って、京極家は取潰し、二十四万石の領地を没収されたのは無論のことであった。 江戸邸に入った忠高は、妻保子の顔を見ると流石(さすが)に悄然(しょうぜん)として、 「済まなかった、保――勘弁して呉れ」 「なんの」 夫人は静かに頭を振って、 「よう遊ばしました、憚(はばか)りながら御先祖の名を辱(はずかし)めぬお立派お働きわたくしも嬉しゅう存じます」 「おお、赦して呉れるか」 「はい」 と云って、にっこり笑いながら、 「二十四万石を抛ての癇癪、さぞさっぱり遊ばしましたでございましょう」 「この通りじゃ」 忠高は胸を寛げると、大肌を手でぴしゃりと打ちながら声高く笑った。 松平河内守は、この事件では別にお咎(とが)めはなかったが、間もなく些細(ささい)な失策から国替えになり、十七万石から一遍に二万石ばかりの小身におとされてしまった。 忠高はその後半歳あまりして世を去ったが、特旨(とくしゅ)に依って弟の子高和に家督を命ぜられ、播磨(はりま)の竜野に六万石を賜って、京極家を再興した。
https://w.atwiki.jp/choubuncomedian/pages/47.html
1989 読み方 いちきゅうはちきゅう(詳細不明) 結成年 2005年 プロデューサー河内長門守 説明 不明 名前の由来 不明 実績 不明 参照 河内長門守
https://w.atwiki.jp/gogoanison/pages/166.html
オープニング 「SEVENTH MOON」 作詞:K.INOJO 作曲・編曲:河内淳貴 歌:Fire Bomber 月刊アニメージュ年間グランプリ(アニメソング部門) 3位(第17回)、11位(第18回) VIPPERが選ぶアニソンベスト100+α 99位(第4回) エンディング 1.「MY FRIENDS」 (第1~35話) 作詞:M.MEG 作曲:川野美紀 編曲:河内淳貴 歌:Fire Bomber 月刊アニメージュ年間グランプリ(アニメソング部門) 7位(第17回)、16位(第18回) 2.「…だけど ベイビー!!」 (第36~48話) 作詞:チエ・カジウラ 作曲・編曲:大田要 歌:チエ・カジウラ 3.「突撃ラブハート(アコースティック・バージョン)」 (最終話) 作詞:K.INOJO 作曲:河内淳貴 歌:熱気バサラ(福山芳樹) 挿入歌 ※オープニング、エンディング使用曲を除く。 1.「PLANET DANCE」 (第1話~) 作詞:K.INOJO 作曲:須藤英樹 編曲:河内淳貴 歌:Fire Bomber 2.「突撃ラブハート」 (第1話~) 作詞:K.INOJO 作曲・編曲:河内淳貴 歌:Fire Bomber 2chのアニソンランキング 97位(2007年12月版)、94位(2008年05月版) 3.「HOLY LONELY LIGHT」 (第20話~) 作詞:K.INOJO 作曲:須藤英樹 編曲:湯川とうべん 歌:Fire Bomber ※第20話でバサラが連日の徹夜を経て作り第21話から22話にかけてレコーディング、第23話で完成版が流される。 4.「TRY AGAIN」 (第40話~) 作詞:K.INOJO、福山恭子 作曲:福山芳樹 編曲:田中裕千 歌:Fire Bomber 2chのアニソンランキング 216位(2007年12月版)、340位(2008年05月版) VIPPERが選ぶアニソンベスト100+α 64位(第3回) 5.「LIGHT THE LIGHT」 (第41話~) 作詞:K.INOJO 作曲:TSUKASA 編曲:田中裕千 歌:Fire Bomber ※ストーリーの展開上ミレーヌがソロで歌う場面が多く見られる。 6.「MY SOUL FOR YOU」 (第2話~) 作詞:K.INOJO 作曲:福山芳樹 編曲:河内淳貴 歌:Fire Bomber ※第2話でバサラが作曲する場面が描かれ、第3話で完成版を披露。アコースティック・ギターバージョンが存在する。 7.「REMEMBER 16」 (第17話) 作詞:K.INOJO 作曲・編曲:河内淳貴 歌:Fire Bomber 8.「SUBMARINE STREET」 (第29話~) 作詞:K.INOJO 作曲・福田俊哉 編曲:湯川とうべん 歌:Fire Bomber ※バサラが眠りについたプロトデビルンのシビルを起こそうとする場面で用いられる。 9.「POWER TO THE DREAM」 (第33話~) 作詞:K.INOJO 作曲:福山芳樹 編曲:田中裕千 歌:Fire Bomber ※原曲はHUMMING BIRDの「まだまにあうさ」。 10.「SPIRAL ANSWER」 (第44話) 作詞:K.INOJO 作曲:中村裕介 編曲:田中裕千 歌:Fire Bomber 11.「SWEET FANTASY」 (第9話~) 作詞:M.MEG 作曲:大槻啓之 編曲:湯川とうべん 歌:Fire Bomber ※劇中ではデビュー曲の「PLANET DANCE」に次ぐ2ndシングルという位置づけであり、プラネット・チャート初登場2位を獲得したという設定。 12.「PILLOW DREAM」 (第26話~) 作詞:M.MEG 作曲:出雲麻紀子 編曲:湯川とうべん 歌:Fire Bomber 13.「君に届け→」 (第35話~) 作詞:M.MEG 作曲:M.Project 編曲:山田貢司 歌:Fire Bomber ※ステージ上や戦場で歌う場面はなく、ミレーヌがバサラを想いながら歌う場面がほとんど。 14.「fall」 (第36・41話) 作詞:M.MEG 作曲:M.Project 編曲:山田貢司 歌:Fire Bomber ※第36話にてアカペラ、第41話でイントロ部分のみ使用。 イメージソング・キャラクターソング 関連作品 マクロス7 銀河がオレを呼んでいる! (1995) 投票用テンプレ SEVENTH MOON(マクロス7/OP/FIRE BOMBER/1994) MY FRIENDS(マクロス7/ED1/FIRE BOMBER/1994) 突撃ラブハート(マクロス7/IN/FIRE BOMBER/1994) TRY AGAIN(マクロス7/IN/FIRE BOMBER/1994) OP…オープニング曲、ED…エンディング曲、IN…挿入曲、TM…主題曲 IM…イメージソング・キャラクターソング
https://w.atwiki.jp/varwhawraj/pages/14.html
鯉町小学校 錦山小学校 牛島小学校 鷹月小学校 鷹月東小学校 山守小学校 浜矩小学校 慶南小学校 盛口小学校 盛田小学校 河内小学校 河内北小学校 葉森小学校 福口小学校 銀山小学校 西銀山小学校 大迫小学校 箱守小学校 函館口小学校 宝塚鷹取小学校 宝塚台小学校