約 250,083 件
https://w.atwiki.jp/raycy/pages/179.html
安岡孝一氏による読み方は、http //slashdot.jp/search.pl?op=journals uid=21275 q=QWERTY。そのmy解題は アンチ「QWERTY言説」紹介ショートヴァージョン、『キーボード配列QWERTYの謎』共著者安岡孝一タイプライター歴史学の特徴と方法、アンチ「QWERTY言説」の検討、安岡孝一共著『キーボード配列QWERTYの謎』など。 安岡孝一氏は、「never jam! upstrike式は絡まったりしない」説であり、タイプバスケット上のタイプバーの配置による配列変遷史の検討手法を、少なくとも、アップストライク機に関しては、棄却した。ここの中の人は、その棄却された、安岡孝一氏が決して採るはずのないナンセンスな手法を適用して論を進めている、いわば「タイプバスケットの呪縛」説論者といえよう。あるいは、タイプバスケットに呪縛された論者である。 依拠プロトコル 参照する歴史学の方法。浪川健治が史料への踏み込み方として挙げた点を参考に進めたい。歴史学における言説の取り扱いはどうなっている?考察対象:白須裕之、浪川健治、安岡孝一。http //b.hatena.ne.jp/raycy/20090825#bookmark-15530216 対象とする歴史的言説(古くからの、古伝承) 対象となる、伝承、ないし俗説は、いったいどのような形をしているのか。伝承:http //www26.atwiki.jp/raycy/?cmd=search keyword=%E4%BC%9D%E6%89%BF 各務忠方『誰にも分るタイプライターの構造と使ひ方』(太陽堂書店, 大正13年11月)108ページhttp //slashdot.jp/~yasuoka/journal/423141 キーの配列に就ては何故アルファベット順に配列されて居らぬかは初學者の誰しも起す疑問であるが、現に使用せられてゐるキーの配置はUnivenrsal又は Standard Keyboardと稱せられて、此配列法は左右双手を相互に迅速に活動し、平均に使用させんが爲めで、之れによつてタイプバーの衝突を比較的に輕減する事が出來、尚ほ又速力の點から云つても最も利益があるのである。http //www26.atwiki.jp/raycy/pages/116.html 小林三郎『英文Typewriterの発達とDvorak Keyboardについて』, 電気通信大学学報, 第18号 (1965年8月), pp.69-78 機械の働きがにぶいため1つの文字を打ってから次の文字を打つまでに前に打った文字Barが徐々に下ってきて途中で衝突のおそれが大きい.これをできる限り避けるため,頻度の大きい文字が円形の一方に偏在せぬよう分散させたhttp //www26.atwiki.jp/raycy/pages/123.html 2ちゃんねる よろしければ配列について教えろ その8より名無しさん:2009/08/05(水) 「高速打鍵でバーがもつれないようにするため、QWERTY配列は意図的に打ちにくく設計してある」 俗説「バーが絡まない範囲で可能な限り打ちやすく」http //www26.atwiki.jp/raycy/pages/177.html これは、実際、市中から採取された文言である。「意図的に打ちにくく」は、「バーがもつれないように・バーが絡まない範囲で」かつ「可能な限り打ちやすく」が二大目標レンマで、その結果が「打ちにくく」と感じるのは、絡み対策の必要性を軽視できる観点にいるからでもあろう。絡み対策の必要認識の軽重の問題であろう。 『キーボード配列QWERTYの謎』@amazon#ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。商品の説明。出版社/著者からの内容紹介。(消費者リテラシー的観点に立てば、”本の売り文句能書き。情報生産?者側・情報配信販売者側からの説明。生産・販売者側の論理の押し付け。”と、一応は一旦、バッファしておくべきであろう。) タイプライターのキーボードがQWERTY配列だったのは、どうしてなんだろう。 「タイプライターのキーボードは、元々はABC順に並んでたんだ。でも、タイピストのスピードが上がるにつれて、タイプライターの性能がついていけなくなり、印字をおこなうアーム同士が絡まるトラブルが増えていった。そこで、アームの衝突を防ぐために、タイピストがなるべく打ちにくいようなキー配列をデザインしたんだ。それがQWERTY配列だよ」http //b.hatena.ne.jp/raycy/20090823#bookmark-15485050 この最後の例は、後知恵構成的、実際の取材文言といえるかどうか。なぜなら、本書の構成上、後段でたたきやすいように、伏線が埋め込まれている可能性あり、、取り扱い注意、、 だが、この文面だと、「アーム同士が絡まるトラブルが増えていった。そこで、アームの衝突を防ぐために」となっている。これは、「絡まる」に「衝突」も含まれるのか、あるいは、少なくとも、「衝突」という事象を認識対象には挙げているってことだ。なあ。てか、「アームの衝突を防ぐために」説と読めるなあ。ならば、ショールズらの開発期に限局すれば、真言である可能性があるかもしれないタイプだな。タイピストをテスタータイピストと読み、あとはアームの問題だけだ。アップストライクを思い浮かべていない問題は、デコード者側の問題で文言メッセージ記号信号符号とは別だ。文面を読む人が読めば、アップストライクのことときちんとデコードして読むことも可能だ。読む者聞くものが、どのような古語デコード表を持っているかによる。アームという機構だって、英語文献ではどうなってますか? そうか、古語なんだな、、現代語と同じ顔して、歴史古語が混じってる、、歴史辞書を参照して読まなきゃならないわけわかのいわば「のりと祝詞」状態なんだよ、言説は。タイプバーはどうだろかな。開発期のタイプライター、それは、アップストライクだったんですよ。タイプライターの古語。フロントストライク機時代の日本人に説明するならば、当時1870年ごろ開発期のいわゆるアーム部位、ショールズらはタイプバーと記し、あるいはタイプ・レヴァーやレター・レヴァーなどと呼ばれた、。US Patents の long-arm and short-arm そうだ、むしろ、タイプバーは呼称として確立しておらず、むしろ、サイエンティフィック・アメリカンが記した、タイプ・レヴァーのほうが、一般に周知された語句ということにさえなる。そしてそれら現物を共通に理解しうる説明概念的呼称としては、むしろ、アームのほうが、通用概念として、ことに初期タイプライター黎明期においては、幅を利かせていたぐらいかもしれない。 「打ちにくくなるように」は、「ポストelectronic era」的な観点移動によって起こったことかもしれない。人間工学もある現在の観点から見れば、そのショールズらの解決策は、使い勝手第一主義ではなくて、機構的制約下での最善化であった。そこんとこ、現代の観点からみれば、限界がありますよってな。 ほんとに、「なるべく打ちにくく」ってな文言は、あったのかなあ。そういう言説は、あったのだろうか。最遅配列、遅とは言ってないのか。最回りくどい配列かな、何だろ、最まどろっこしい配列、最わずらわしい配列、最煩雑配列、、 意図的に打ちにくく、わざと打ちにくく、は、あっても、 なるべく打ちにくく、っていうのは、最大限できる限り打ちにくく 最もならば、最大とは限らず、大雑把に言ってかなり最大の部類に属するってな使い方もあろうが、 意図的に、わざとは、そういうチューニング方針のもとってことで、なるべく絡まない方針のもと、それと打ちにくいは、必ずしも同義でない、比例しない、、。 なるべく絡まずに結果としてトータルなるべく早く打てるようにした。なるべくが二つけんかしてる。ま、これが、レンマが二つ、ジ・レンマ状況。そこで、間を取った解決、ほどの問題が出てくる。ほどほどのバランス、程度。最善的解決案が求められる、 その結果が、「打ちにくくした」と受け取られてしまう、、 ポストelectronic era さて、同じ事象でも、どの観点から眺めるかで、事情は異なってくる。http //blog.goo.ne.jp/raycy/s/electronic+era 坂村健の 二倍ダッシュ ――つまり アフターというかポストelectronic eraの、タイプバー関係ない世代から見れば、みょうちくりんな制約があったものだ、それと、打ちやすさとは、両立するの?ってな感じはある。 ところがどっこい、全部ではないが、両立する面も、確かにある程度はあるんだなあ、これが。ってのが、いまの感触。もちろん、最善って意味じゃなくて。まあ最悪ってわけじゃあないってな。 どういう点かというと、感じとしては、まず、digraphをタイプバスケット上でつなげると、打ちずらそうな感じがする。ホームポジションとか、一段に並ばなくて、ジグザグになっちゃいそうだ。でもないかな?THだけが特に、高頻度子音連続文字digraphなのかな? あと、数字段を設けたて、そこに母音の多くをはめ込んだ。 でもじゃあなんでDvorakはそうしなかったか。ん。 まっ、おいおい考える。ってか、Dvorak時代には、タイプバスケットは半円になっていたから、文字上段でも中段でも、どっちでも大して絡みやすさの程度が変わらなくなっていたからかな? あっ、Dvorakもフロントストライク式の絡み制約下のQWERTY式スタガー配置制約下でのデザインであったと、想定してます。http //blog.goo.ne.jp/raycy/e/707c682eec7c211df6ca9612e9e04fe0 http //www26.atwiki.jp/raycy/pages/94.html ショールズ後年特許配列 でも、ショールズらのも、文字段を3段にしていたからよかったのであって、その後のショールズ後年特許のように文字段をほぼ中二段だけにしてしまっては、どうだったか。タッチタイプ時代に果たして対応できたか、、#ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。http //www26.atwiki.jp/raycy/pages/143.html 山田尚勇も感心するように、あたかもタッチタイプ時代を見越したのかのような配列にQWERTYはある意味成っていたhttp //blog.goo.ne.jp/raycy/e/a2a3f8f3d862cfe26305ac12845eb4ce。だが、ショールズには、その意図はなかった、というのが、この後年特許配列の意味するところであろう。どちらかといえば、頻出digraphのタイプバー配置隣接忌避に注力した配置ではなかったのか。#ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 http //www26.atwiki.jp/raycy/pages/163.html http //www26.atwiki.jp/raycy/pages/145.html 安岡孝一氏はこの配列を称揚しているようであった。というか、「QWERTYはたまたま手元にあっただけの通過点」http //blog.goo.ne.jp/raycy/e/7b66b03b97802a62728cba97fc966e21だったっけかな。後年特許配列の権利、1890年2月17日年のショールズ没後、ショールズ特許を引き継いだ者http //slashdot.jp/~yasuoka/journal/377632が、どういう判断だったのか、この配列を採用しなかった。いわゆるタッチタイプ時代に入りつつあったころ、かな、マッガリンとかだっけか。 この配列を、現代のタッチタイプで使うとしたら、どう評価されるか、、 指の置き方が違うのかな?右手中心 左手は、、 link_trackback() counter -
https://w.atwiki.jp/kameyama2011/pages/387.html
『中世民衆思想』一気読み会(内容編) 一、なぜ今「親鸞」なのか?―現代的意義 ▼一般的な親鸞像に対するアンチテーゼとして なぜ本書において、親鸞が注目されるのか。その現代的意義は明示的には述べられていない。一般的に言えば、親鸞は悪人正機説(悪人こそ救われる)や専修念仏(ただ念仏を唱えるだけで救われる)、易行の徹底などによって、身分や階級に規定されない信仰を解いたその“平等性”と“普遍性”が注目され、その信仰論は「現代人を魅了してやまない」(4)。実際に、2010年以降に出版されたものに限っても親鸞に関する諸著作は200以上に上り 、その人気が伺われる。 しかし、このように現代人に広く親しまれている“普遍的”な思想家としての親鸞像は、「現代人の近代主義的読み込みに過ぎないのではないか」というのが著者の問題意識の一つである。本書の「焦点は親鸞の思想にある」(3)にもかかわらず題名が『中世民衆思想と法然浄土教』とされている理由の一つは、法然や親鸞のような「頂点的思想家の意義は中世人、特に民衆の生活思想の反省的表現、あるいは民衆の思想的自己表現の理論化にこそある」(5)という立場であり、本書のねらいは、親鸞の信仰と思想を「中世という時代と民衆の思想的自己表現との緊張関係」(6)の中にある「歴史に埋め込まれた親鸞」像として改めて描き出すことにある。 ▼「災害社会」と親鸞 また、本書で論じられることはないが、著者は後の論文(亀山2012)において、「社会とは本質的に身体的な空間領域であり、そこでの人間関係の構造はそれ自体であるのではなく、直接的間接的にそこでの自然との関係の中で存在する」という認識から、中世を「災害社会」として捉え直した上で、新たに親鸞の信仰と思想の歴史的基盤として位置づけている。 中世前期に起こった気候変動(寒冷化)が、前時代の耕作地の大開拓ゆえに「災害」として被害を増幅され、それが人災(戦乱、悪行横行)の要因となり天災の被害をさらに増幅させた。中世は天災・人災の悪循環的に相乗する「災害社会」であり、それは中世人に「下降の時代」を意識させた。このような「災害社会」を背景として、末法思想や「現世安穏・後生善処」の「無常」観が広まっていった、という。 本書の論旨とはややずれるが、大震災と不況の真っ只中にある現代において親鸞の思想になんらかのヒントがあるのではないか。本書をそのような視点を持って読んだとしても間違いではないだろう。 二、各章の要約(伊藤2012による) 序章 中世浄土教の思想史的研究への基礎視角 親鸞研究の方法論に関してまず、哲学的思想的アプローチと歴史学的アプローチとの対比と、その相互の齟齬が示される。哲学的アプローチは中世に生きた親鸞を、現代から超歴史的に、あたかも現代思想において位置づけ、一方、歴史学的アプローチは宗教者親鸞を扱うにあたって、専ら歴史にのみ関心を寄せ、親鸞の信仰と思想への関心は薄い、と著者は指摘する。その反省から、親鸞の生きた時代のイデオロギー的対立の中での、かつ、民衆による浄土教受容の意義を踏まえた親鸞(「歴史に埋め込まれた親鸞像」)の検討、という方法論への立脚が表明される。 次に、服部之総の「史的唯物論的」親鸞把握と三木清の「人間学的」親鸞把握との対比がなされる。服部は宗教を「認識論主義的」な断面でのみ見ようとし、本質的には宗教的求道に関わる内面的精神的問題への顧慮はない。他方三木は問題点をもちながらも信仰としても親鸞を模索した。このような対立に関して、著者は史的唯物論における「認識論主義的宗教論」(宗教を「本質的に幻想的虚構の世界として、専ら自然・社会・人間の非科学的非合理的認識という側面」から理解)の啓蒙主義を批判する。 その上でその克服のため、フォイエルバッハに依拠しながら「実践としての宗教」「生活の術としての宗教」(47)という宗教観を提示する。注目されるのは疎外現象の持つ積極的意義、すなわち宗教における疎外という否定的関係の中に、人間にとって本質的な共同性欲求や自己確証欲求が保存・実現されているという性質である。宗教の本質とは、主体と自然・社会との本質的連関を介しての自己確証であり、活動的人間的感性の対象化活動としての生活の術である。 第一章 法然浄土教の歴史的意義と課題 歴史学の成果に基づいて浄土教と親鸞の歴史的捉え直しがなされる。平安末期から親鸞の生きた鎌倉初期にかけて、浄土教は支配イデオロギーであり、天台や真言などの浄土教が正統派で、法然の専修念仏は異端であった。 古代律令体制の崩壊と、荘園開発に主導される身体性の出現は中世において、イデオロギーとしては古代神々の無力に代わって汚穢の現実の解決の超越的威力を持つと観念される浄土教として現れた。こうして末法思想、厭離穢土欣求浄土の観念は全社会的な「体制的危機意識」としての位置を占めた。この主役であった天台や真言など八宗の浄土教は、諸行往生論すなわち賢愚・貴賎・善悪による往生の階層性をいって、世俗における社会的上下・能力の不平等・努力の差異を往生と連動させる。対して、専修念仏はこれを真っ向から否定して世俗・現世の諸々の差異を超えて万人平等の単一往生を言う異端であった。荘園領主化した八宗は自宗の仏・菩薩を土地神や領主の氏神と結びつけ民衆の崇拝儀礼をとりこんだ。荘園経営は八宗の直接の存立基盤であり、専修念仏の輩の神祇不拝はこの権益を決定的に侵害するものだった。 このような法然浄土教の歴史的位置が親鸞解明の不可欠の前提として示される。 第二章 正統派浄土教の民衆展開の方法と論理 正統派浄土教は広範な民衆の間で布教された。親鸞の検討に入る予備的考察として、無住の『沙石集』を素材として、物語的再構成を手法としつつ、日本の中世民衆にとっての宗教、としての浄土教、の姿が明らかにされる。 第三章 武士の法然浄土教受容の論理と基礎 では、異端たる法然浄土教は民衆にどう受容されたか、「民衆」カテゴリーの一部たる「弱小武士」津戸三郎と熊谷直実の専修念仏信心の在り様を通して民衆における法然浄土教の受容の一端を見る。 第四章 都市民衆と農民の浄土教受容の生活的基礎 浄土教が民衆の間にこれほどまでに広まったという歴史的事象の背後にある社会的要因、すなわち広範な都市や農村の民衆による浄土教受容の歴史的社会的条件の解明がなされる。 中世初期の都市では、「戦乱・疫病・飢饉の頻発による死者の増大」と「死体の氾濫放置の常態化」(256)がみられ、「排泄物は放置」され生活空間は汚物と「汚臭に満ちた穢れた空間であった」(257)。農村では、農業技術史上牛耕馬耕の開始と畜糞の肥料化の時期が農民による浄土教受容期とほぼ重なり合う。臭穢つまり汚れの観念が悪人の観念と結びついたのである。 浄土教にはイデオロギーとしての多面性、全体として体制転換を媒介する普遍性と流動性・不安定性があり、中世支配層の支配イデオロギー(抑圧性)であるとともに抵抗思想(解放性)ともなる。民衆の欲求を最も先鋭的に思想化したのが法然浄土教であり、その核心は「平等観念と仏法の王法に対する優位の観念」だった。浄土教は「民衆の自己存在への肯定的意味づけを促進し、存在権の、民衆による思想的自己表明の意義を担った」(56)のである。 第五章 法然浄土教民衆化の直接的思想化 浄土教の「民衆性、悪人往生、他力易行論」において法然親鸞と並ぶもう1人の提唱者、浄土教史では従来軽視されてきた一遍が親鸞と対比され、その再評価がなされる。 著者は一遍のイデオロギー的位置を以下のように指摘する。「一方で悪人往生・他力易行論を徹底し、他方では神祇崇拝・諸行往生の肯定という理論的には対立する命題が中世の現実から要請され、その現実に基礎を置くのが一遍である。一遍の主張は[…]専修念仏と『顕蜜主義』的浄土教の、専修念仏サイドからの融合を意味する」。「一遍の主観的意図は別として一遍浄土教が、独自の支配権を獲得しつつある武士・在地領主層のイデオロギーの一翼となっていたことを示す。それは上昇しようとする自立的小農民を再び被支配者層へと秩序付ける原理になるというパラドックスを示す」(302)。 第六章 法然浄土教民衆化の批判的思想化 「非僧非俗」をキータームとして、権力化した仏教界で、また民衆との社会的関係において、さらにそれ以上に信仰者親鸞自身の内面的ありかたを親鸞がどう捉えていたかが検討される。 著者は親鸞の非僧非俗論には二つの段階があるという。第一は、正統派浄土教八宗による訴えによって、幕府が僧籍剥奪、流罪としたことに抗しての抗議奏上段階での「非僧非俗」である。弾圧への抗議、国家公認の官僧でないことの自認と、求道心を捨ててはいない点がその主旨であり、ほぼ通説どおりに捉えられる。 対して第二段階としての晩年の「非僧非俗」は、一般的枠組みを超える。「親鸞にとって末法の世においてはすべての人が愚かな罪人である。阿弥陀仏の前では僧もなければ俗もない。宗教的次元では顕蜜体制的な形式的僧俗分類は否定される」。ここでは第一段階とは大きく異なり、内面的あり方に焦点が当てられる。「愚禿に包摂される非僧非俗は、自己の位置を肯定的に表現する存在命題ではなく、永遠の理念ないし当為命題であり、それが実現できないことへの悲嘆を伴った自己否定的なそれと解すべきであ」(357)って、「自己悲嘆としてしかありようのない自己肯定である」と著者は言う。 親鸞の反権力主義は、親鸞の社会的歴史的認識というよりもむしろ信の問題として形成発展させられてきた。「親鸞においては宗教的内省が同時に彼の生きる歴史的社会への批判性を担保している」 終章 法然浄土教の理論的純化と民衆からの乖離 もうひとつの重要なキーターム「自然法爾」の検討を通じて、親鸞の宗教的到達が考察される。 著者は親鸞による「自然法爾」を「一切の人間の意図的意識的関与を否定した人間のありようが自然である」(368)と解し、その要点を四つ挙げる。 ①親鸞は念仏往生を本願とする阿弥陀仏を「真」とし、人格的阿弥陀仏を「仮」とした。阿弥陀仏の根拠に法(ダルマ)があり、自然法爾は法の論理である。従って現実世界の事象は法とは別の論理によって理解されるべき、と親鸞は想定している。 ②弥陀の本願力すなわち法の顕現は人間の作為ではなく、諸行往生=人間からの作用は徹底否定される。したがって現世での階層的ヒエラルキーのみならず、宗教的ヒエラルキーも否定される。 ③神祇崇拝はもちろん、造塔、来迎の奇瑞奇跡、可視的浄土の世界を現出させることは煩悩、自力のはからいである。親鸞の思想は「名号の一点がなければ」「信仰対象としての超越的存在をすべて否定する完全な無神論であ」り、「おどろくべきすさまじい結論である」(378)と捉えられる。 ④現世、人間の歴史的世俗世界、現実世界での人間の主体的在り様を強調する。親鸞は現世を生きる基本的スタンスを能動的なものと捉え、人間の作為が原理となる世界として理解する。(380)現実世界での営為は法とは別の次元である。 上記四点は、当時一般的広がっていた「自然法爾」解釈が、正統派浄土教が説く諸行往生と、それがイデオロギー的に支配する荘園体制の現実を肯定するようにみえたことに対抗しての親鸞の理論的解明の成果である。 ◇論点 親鸞の信仰と思想がなぜ現代でもこれほど注目されるのか 現代においてそれを取り上げることの意義はなにか 伊藤(2012)による疑問点 自己確証は宗教に限らず、人間の営為であれば芸術をはじめすべてにいえるのではないか。 著者の書き方では法や自然を超感性的なもの、あるいは人間が議論したり理解したりすることができないもの、と読めるが、超感性的なものや超自然的なものを否定することが親鸞への接近の前提条件ではないか。 ◇参考文献 田平暢志「書評―『中世民衆思想と法然浄土教』」(『唯物論と現代』、2004.6) 伊藤敬「読書ノート『歴史に埋め込まれた親鸞』の宗教イデオロギー」(『唯物論と現代』48号、2012.6) 亀山純生「〈災害社会〉の中世と〈夢〉を転機とする親鸞の信仰」(同上)
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/301.html
871(貞観13)鳥海山、噴火 紀元前466 鳥海山、大規模な山体崩壊を起こす。 844(承和11) 安慧、出羽国の講師に任じられる。 864(貞観6年1月) 慈覚大師・円仁、没。 864(貞観6年7月) 富士山噴火。 868(貞観10) 天台座主安慧、没。 869(貞観11)7月13日 三陸沖地震。M 8.6〜9.0、貞観三陸津波、死者約1,000人。多賀城損壊。 871(貞観13年4月8日) 鳥海山、噴火及び溶岩流? 878(元慶2年3月) 出羽、元慶の乱。「夷俘が蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡。夷俘は周辺に火を放った。出羽守藤原興世も逃亡」。翌年、藤原保則が反乱を鎮撫。 891(寛平3) 天台座主円珍(智証大師)、没。 900(昌泰3) このころ平将門、出生か。 901(延喜元) 菅公、大宰府に左遷。2年後、同地で没。 903(延喜3) 空也上人、生まれる。 915(延喜15) 十和田火山、大噴火。 921(延喜21)ごろ 安倍晴明、生まれる。十和田湖噴火から六年。 ◇参照:Wikipedia 各項目。 ※ 貞観地震の2年後に鳥海山が大規模噴火したことに注意。いまのところ、噴火の兆候が見られるという県内報道は聞かない。 ※ 鳥海山の貞観噴火は『三代実録』貞観13年5月16日条にくわしい。歴史学・地震学両面からの言及がすでに相当数あるはず。 ※「鳥海山 紀元前466年」でウェブを検索。1996(平成8)年、埋もれ木の年輪年代測定から噴火年が判明したことを秋田県教育委員会が発表。 ※『山形県災異年表 増補第7版』(山形地方気象台・山形県農林水産部、1990)によると、貞観11年(869)(貞観地震と同年)に「蔵王山噴火」とある。出典は武者金吉編『日本地震史料』(武者は、今村明恒や寺田寅彦の指導を受ける)。『県史』『山形市史』『上山市史』などを確認するも、いまのところ貞観11年の蔵王噴火の記録を見つけられない。(2011.9.1追記) 8.21 1 55、南太平洋バヌアツM7.5。3 19、M7.4。 2011.8.22:公開 八面玲瓏。 2011.9.1:更新 目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 秋田・山形両県知事がそろって台湾へ観光客誘致に出向く。火山学者のリサーチと見解が聞きたいところ。 -- しだ (2011-08-22 06 50 50) メモ:それぞれの出典・典拠を確認すること。 -- しだ (2011-08-22 21 42 21) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/sims2mio/pages/103.html
趣味・修繕 関連スキル: 技術 お勧めキャリア: 犯罪、医療、自然科学など お勧め専攻:物理学、数学、歴史学 お勧め性格:内気で快活。魚座のシムや蟹座のシムを作成すると、修繕が持って生まれた趣味になりやすいです。 お勧め願望:知識願望、家族願望 主に登場するシム:通常タウニーは蟹座や魚座など。魚座のほうが登場頻度は高い関係で、訪れるシムが殆ど皆快活でその辺のシムに感謝しています。ただ、初対面で感謝しても拒否されることが多いので、少しおしゃべりしてから感謝した方が人間関係をアップさせやすいです。誰かが鉄道模型を操作してそれを眺めるシムが多いのと、一部のシムがテレビを見たりロボットの模型を見たりしているのでまず喧嘩は起こらないでしょう。ただし、気難しいシムで蟹座の家族や魚座の知識と相性の悪いプレイヤーシム(例えば牡羊座の名声やロマンス)が修繕の趣味を持った場合は話は別ですが。バックアップデータで再プレイしたところ、代表者は再プレイ前と同じくエリックだったのですが、乙女座のシムが数人来て、乙女座の男子学生とダウンタウンの成人女性がけんかしていました。 会員制秘密区画・ウィルのガレージについて この区画には家電製品各種やラジコンカー各種、そして目玉アイテムは鉄道模型です。ただ、家電製品をいじる場合には電気製品の場合、感電には注意しましょう。シャワーならたとえいじって壊しても、修理すれば技術スキルも上がり、修繕の情熱も上がります。ただ、自作機製作経験のある私としては、パソコンをいじることができないのがちょっと残念かな、と思います。一応、安物の本棚がありますので本を読んで勉強し、感電防止のためにも技術スキルを上げておきましょう。 ヴィンテージカーについて ヴィンテージカーは自宅にしか設置できません。当然ながら、ウィルのガレージには存在しません。ガレージと名が付いているのに車がないというのも悲しい話ですが。修復するのはボディーとエンジンですが、エンジンはたまに爆発します(死んだり、スキルが下がったりする訳ではないのでご安心下さい)。最初はボディーから修復するのが良いでしょう。ボディーもエンジンも修復したら、好きな色にペイントできます。塗装も終えて修復し終えた後は、通常の車として利用できますし、売って別のヴィンテージカーを新たに買ってもいいかもしれません。修復すると体力の減りやすいバグはフリータイムのパッチで修正されたはずなのに、アパートライフを入れたら再び体力が減りやすくなっていました。おまけに、十代のシムが車を修復しようとしても行動がキャンセルされます。 ショップ経営に乗り出すなら 家電製品の販売店や、ロボット販売店、自動車販売店などがお勧めです。おもちゃに対する興味が増えるため、美術と工芸の趣味も持っている場合はおもちゃ店を経営するのもいいでしょう。
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/163.html
<目次> ■当ページの目的 ■先ず何よりも・・・ ■経済政策の対立軸~「新自由主義経済政策」か「ケインズ派経済政策」か ■経済学(1).現代経済学(近代経済学)とマルクス経済学 (2).ミクロ経済学とマクロ経済学 (3).新自由主義とケインズ派 ■経済政策 ■経済学は社会科学の女王~数値とモデルで説明できなければ無価値 ■定性的な言説に、定量的な分析を加える工夫を~「数値で考える」「モデル化する」 ■参考サイト ■ご意見、情報提供 ■当ページの目的 当サイトでは政治の政策の中で経済のお話などがたくさん出てきます。 経済についての基礎知識がないと、財政政策・金融政策などの良し悪しの判断が難しくなります。 そこで、今まで経済に興味を持っていなかった方々へ、 経済の基礎的な知識を勉強していただくため、このページを設けました。 全くの初心者でも分かるように説明いたします。 ■先ず何よりも・・・ Blog Ranking ニュース部門不動の1位三橋貴明氏のblog 新世紀のビッグブラザーへ を毎日読もう! 数年前から「集合知」を束ねて韓国の経済崩壊を見事予想、韓国サイドから「King of Net-Uyo」の称号を贈られた"伝説のネラー"。 日経新聞なんか毎日毎日、懸命に読み込んでいた頃の自分は一体何だったんだ・・・(※最近の日経新聞は特亜バイアスが異常に強い) コメント欄で展開される様々な分析も興味深い。何はともあれ、このblogだけは読みましょう!関連ページ⇒ 三橋貴明? ■経済政策の対立軸~「新自由主義経済政策」か「ケインズ派経済政策」か 麻生政権は、サブプライム・ローン危機に対応して、小泉政権期の経済政策から大胆に軌道修正を図りましたが、政策効果が漸く現れ始めた所で政権交代となってしまいました。 鳩山民主党政権は、せっかく成立した補正予算の一部執行停止を明言しており、今後整合的な経済政策を提示・実行できるのか懸念されます。 新自由主義経済政策 ケインズ派経済政策 政府介入 小さな政府を志向 大きな政府を志向 典型例 小泉政権、なお福田赳夫(元首相)以来の清和会(町村派)の基本的経済政策 小渕政権、麻生政権なお田中角栄(元首相)以来の経世会(津島派)の基本的経済政策 マクロ政策 金融政策重視市場の自立調整機能を信頼 財政政策重視政府の介入による市場調整 財政方針 財政再建を優先 財政出動を容認 構造改革 構造改革を推進 構造改革に否定的 物価動向 デフレ傾向・長期で円高 インフレ傾向・長期で円安 その他 市場効率化の結果として(一時的な)格差拡大を招来市場全体の成長力は伸張(パイの拡大) 競争制限・政府介入の結果として比較的均等分配市場全体の成長力は衰弱(パイの萎縮) ケインズvs.ハイエク ※英国の経済学者J.M.ケインズの名は広く知られていますが、F.A.ハイエクの名は一般には余り知られていません。この機会に覚えましょう。 ※ハイエクは、1980年代の英サッチャー 米レーガン両政権の諸政策に理論的基礎を与えた20世紀後半の最重要の経済学者・法思想家・政治哲学者です。 ※ハイエクは、日本ではノーベル経済学賞を受賞した経済学者、という限定した紹介のされ方をする場合が多いのですが、実際には法思想・政治哲学を経済学とリンクさせつつ生涯追求し続けた一代の碩学であり、ナチス・ドイツや旧ソ連・東欧諸国などの全体主義体制に対して激しい闘志を燃やしたことで知られます。 ※参考⇒ ハイエク著『隷従への道』の要約(計画経済などの設計主義的合理主義が、旧ソ連・ナチス型の全体主義に至る危険性を訴えた有名な動画) (更に詳しくは、ハイエクと自由主義へ) ■経済学 裏組曲「近代経済学」 (1).現代経済学(近代経済学)とマルクス経済学 経済学を大きく分けると、①現代経済学(近代経済学、近経)と②マルクス経済学(マル経)の2種類があります。 ①現代経済学は、資本主義の経済学、②マルクス経済学は社会主義や共産主義の国の経済学です。 資本主義とは、資本(工場設備や農具など物理的な生産手段のこと)の私有を認め、市場(マーケット)を通じて自由な価格形成を認める立場です。所得は個々人の能力に応じて分配されます。 共産主義とは、資本の私有を認めず、価格や生産量は政府が決定し、所得は能力には無関係に、個々人の必要に応じて分配されます。 社会主義とは、共産主義が実現される一歩手前の段階で、資本の私有は認めないが、所得は能力に応じて分配する、とするものです。 日本は資本主義の国ですから、①現代経済学が主流ですが、かっては(戦前や、戦後~1970年頃まで)②マルクス経済学もかなり盛んでした。 しかし1970年前後には社会主義・共産主義陣営の諸国の経済的停滞が広く知られるようになり、1980年前後に中国の市場経済への転換の動きが始まり、1990年前後にはソ連・東欧諸国が崩壊・体制変更するに至ったため、現在では②マルクス経済学が省みられることは殆どなくなっています。 (2).ミクロ経済学とマクロ経済学 ミクロ経済学は、個々の企業や家計の経済行動や、ある財やサービスの市場を分析します。 マクロ経済学は、一国のすべての財とサービスを足し合わせ、金額化して、その構成や変化を分析します。 (3).新自由主義とケインズ派 18世紀の英国の経済学者アダム・スミスによって確立された経済学を古典派経済学といいます。価格の自由伸縮性と市場の自動調整機能を前提とし、政府の市場介入を最小限に抑えるべきと考えます。 ケインズ派経済学は、世界恐慌を克服するために、1930年代半ばに英国の経済学者ケインズによって提唱された経済学で、古典派の前提とする価格の自動伸縮性と市場の自動調整機能に懐疑的で、不況期には政府が積極的に市場に介入すべきと考えます。 ケインズ派経済学は戦後隆盛を極めましたが、1970年代の石油ショック以降の先進国の不況を解決できませんでした。そこで、1980年頃から、かっての古典派経済学にならって、政府の市場介入を減らし市場の自動調整機能を活性化させようと考える新自由主義経済学が盛んになってきました。 市場万能を唱える新自由主義経済学は、1980-2000年代に大きな潮流となりましたが、近年サブプライム・ローン危機が発生し、ケインズ派経済学が再度見直されています。 組曲「マルクス経済学」 ■経済政策 マクロ経済への政府の介入(あるいは不介入)のことです。 経済の実態を的確に判断し、①古典派、②ケインズ派、両方の経済理論を適宜応用して、有効な経済政策を打ち出すことが求められます。 経済政策には、①財政政策(租税政策含む)、②金融政策、③為替政策、の3つがあります。 整合性の取れた経済政策を立案する必要があります。 ※ 例えば、①財政政策として国債を増発した場合には、通常は金利が上昇し財政政策の効果を減殺する(クラウディング・アウト)ので、②金融政策として金利引き下げを同時に行う必要が生じます(ポリシー・ミックス)。 ※ また、③為替政策は、日本の場合は、米国の経済状態や政策方針により、独自の為替介入が余り効果を持たない場合が多くあります。 「経済成長は全てを癒す」 ※ パイの奪い合いにエネルギーを費やすよりも、分配の対象となるパイ自体を大きくして各自の取り分を増やす、という方針です。 ※ これは、戦後一貫して自民党が推し進めてきた経済政策の根本姿勢で、この方針により日本は今日の経済繁栄を築き上げました。 ※ 一方、かっての社会党(現:社民党)や共産党は「パイの分配先をAからBに変えよ」という要求ばかりを提議してきました。 ※ その傾向は、現在の民主党にも強く見られ、今後の監視が必要です(パイの奪い合いに終始して、経済成長への戦略がない懸念が強い)。 ■経済学は社会科学の女王~数値とモデルで説明できなければ無価値 経済の実勢や、経済政策の効果(及び効果予測)は、経済統計(あるいはその予測値)によって評価されます。 経済政策を巡る論争も、当然、①経済統計に基づく数値データや、②それらを分析して組み立てたモデル、を通じて行われます。 ⇒ 論理的に辻褄の会わない(すなわち非科学的な)意見は厳しく排除されます。(経済学が「社会科学の女王」と呼ばれる所以) これは、怪しい言説が横行している、(1)政治学(政治論争) や (2)歴史学(歴史論争)と大きな違いであり、これらの分野は、経済学(経済論争)の在り方を大いに見習う必要があります。 かって経済学の分野でも、マルクス経済学が人々の心を捉えていた時期が長く続きました。 しかし、それは、旧共産主義国・社会主義国の経済的な崩壊という結末を迎えて、日本の経済学の分野からほぼ一掃されました。 ところが、(1)政治学、(2)歴史学 の分野では、今でも隠れマルキスト達が、リベラルや進歩派を名乗って居座ったままです。 ※ (1)政治学(政治論争)では、未だに丸山眞男(自由主義者の看板を掲げた隠れマルキスト)を絶賛したり、「天皇制ファシズム」など実証研究により既に否定された概念を使用する人物、 ※ (2)歴史学(歴史論争)では、「十五年戦争」「アジア太平洋戦争」などの何処の国の立場にいるのか分からない用語を未だに使用する人物、がそれに該当します。 経済学は、①数値志向、かつ、②オペレーション(運用)重視 ⇒ 分析者の思想や価値観は、余り意味を持たない(分析にバイアスが掛かっていると結果が伴いません) 分析の基本は、帰納法(実証的分析)です。安易に(教条的な)演繹法のワナに嵌らないよう注意しましょう。 このページの上のほうで、三橋貴明氏のブログを薦めていますが、それは、三橋氏の経済分析が、徹頭徹尾「数値データ重視」であり、各国の経済実態や各党の経済政策の評価にあたって、必ず数値データに裏付けられた根拠を提示しているからです。 ■定性的な言説に、定量的な分析を加える工夫を~「数値で考える」「モデル化する」 例えば、「民主党は売国政党だ」「麻生総理は愛国者だ」は、ともに定性的な言説です。(物事のある性質を記述⇒定性分析) これに対して、「民主党は87%が売国議員、13%が愛国議員だ」「麻生首相は、愛国・売国評価基準によれば +15ポイントの素晴らしい愛国者だ」は定量的な言説です。(成分量や構成比を記述⇒定量分析) このサイトでも、2CHなどの掲示板でも、ある現象の一側面だけを捉えた言説は多いです(そのような言説は余り説得力を持ちません)。 言説に説得力を持たせるのは、①数値データ、と、②整合性の取れたモデルの提示、です。 モデルには、(1)図モデル、(2)表モデル、(3)関数モデル(数式モデル)、があります(関数モデルが組み立て出来れば一番有効)。 言論の質を高める一つの作法として、定量分析を心掛け、またモデル化して表現する工夫を試してみましょう。 ■参考サイト 新世紀のビッグブラザーへ(ameblo版) 日比野庵 本館 ■ご意見、情報提供 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/nihonnkiki/pages/271.html
執筆者 森園祐一(F9 糞虫小僧 オケラ) 54歳生活保護無職 神奈川県座間市相武台4-16-12 コーポ信和Ⅱ103号室 このページは問題がありますが、移管しました。 <目次> 執筆者 森園祐一(F9 糞虫小僧 オケラ) 54歳生活保護無職 神奈川県座間市相武台4-16-12 コーポ信和Ⅱ103号室 このページは問題がありますが、移管しました。 ■当ページの目的 ■先ず何よりも・・・ ■経済政策の対立軸~「新自由主義経済政策」か「ケインズ派経済政策」か ■経済学(1).現代経済学(近代経済学)とマルクス経済学 (2).ミクロ経済学とマクロ経済学 (3).新自由主義とケインズ派 ■経済政策 ■経済学は社会科学の女王~数値とモデルで説明できなければ無価値 ■定性的な言説に、定量的な分析を加える工夫を~「数値で考える」「モデル化する」 ■参考サイト ■ご意見、情報提供 ■当ページの目的 当サイトでは政治の政策の中で経済のお話などがたくさん出てきます。 経済についての基礎知識がないと、財政政策・金融政策などの良し悪しの判断が難しくなります。 そこで、今まで経済に興味を持っていなかった方々へ、 経済の基礎的な知識を勉強していただくため、このページを設けました。 全くの初心者でも分かるように説明いたします。 ■先ず何よりも・・・ Blog Ranking ニュース部門不動の1位三橋貴明氏のblog新世紀のビッグブラザーへを毎日読もう! 数年前から「集合知」を束ねて韓国の経済崩壊を見事予想、韓国サイドから「King of Net-Uyo」の称号を贈られた"伝説のネラー"。 日経新聞なんか毎日毎日、懸命に読み込んでいた頃の自分は一体何だったんだ・・・(※最近の日経新聞は特亜バイアスが異常に強い) コメント欄で展開される様々な分析も興味深い。何はともあれ、このblogだけは読みましょう!関連ページ⇒ 三橋貴明 ■経済政策の対立軸~「新自由主義経済政策」か「ケインズ派経済政策」か 麻生政権は、サブプライム・ローン危機に対応して、小泉政権期の経済政策から大胆に軌道修正を図りましたが、政策効果が漸く現れ始めた所で政権交代となってしまいました。 鳩山民主党政権は、せっかく成立した補正予算の一部執行停止を明言しており、今後整合的な経済政策を提示・実行できるのか懸念されます。 新自由主義経済政策 ケインズ派経済政策 政府介入 小さな政府を志向 大きな政府を志向 典型例 小泉政権、なお福田赳夫(元首相)以来の清和会(町村派)の基本的経済政策 小渕政権、麻生政権なお田中角栄(元首相)以来の経世会(津島派)の基本的経済政策 マクロ政策 金融政策重視市場の自立調整機能を信頼 財政政策重視政府の介入による市場調整 財政方針 財政再建を優先 財政出動を容認 構造改革 構造改革を推進 構造改革に否定的 物価動向 デフレ傾向・長期で円高 インフレ傾向・長期で円安 その他 市場効率化の結果として(一時的な)格差拡大を招来市場全体の成長力は伸張(パイの拡大) 競争制限・政府介入の結果として比較的均等分配市場全体の成長力は衰弱(パイの萎縮) ケインズv.s.ハイエク ※英国の経済学者J.M.ケインズの名は広く知られていますが、F.A.ハイエクの名は一般には余り知られていません。この機会に覚えましょう。 ※ハイエクは、1980年代の英サッチャー 米レーガン両政権の諸政策に理論的基礎を与えた20世紀後半の最重要の経済学者・法思想家・政治哲学者です。 ※ハイエクは、日本ではノーベル経済学賞を受賞した経済学者、という限定した紹介のされ方をする場合が多いのですが、実際には法思想・政治哲学を経済学とリンクさせつつ生涯追求し続けた一代の碩学であり、ナチス・ドイツや旧ソ連・東欧諸国などの全体主義体制に対して激しい闘志を燃やしたことで知られます。 ※参考⇒ハイエク著『隷従への道』の要約(計画経済などの設計主義的合理主義が、旧ソ連・ナチス型の全体主義に至る危険性を訴えた有名な動画)(更に詳しくは、ハイエクと自由主義へ) ■経済学 裏組曲「近代経済学」 (1).現代経済学(近代経済学)とマルクス経済学 経済学を大きく分けると、①現代経済学(近代経済学、近経)と②マルクス経済学(マル経)の2種類があります。 ①現代経済学は、資本主義の経済学、②マルクス経済学は社会主義や共産主義の国の経済学です。 資本主義とは、資本(工場設備や農具など物理的な生産手段のこと)の私有を認め、市場(マーケット)を通じて自由な価格形成を認める立場です。所得は個々人の能力に応じて分配されます。 共産主義とは、資本の私有を認めず、価格や生産量は政府が決定し、所得は能力には無関係に、個々人の必要に応じて分配されます。 社会主義とは、共産主義が実現される一歩手前の段階で、資本の私有は認めないが、所得は能力に応じて分配する、とするものです。 日本は資本主義の国ですから、①現代経済学が主流ですが、かっては(戦前や、戦後~1970年頃まで)②マルクス経済学もかなり盛んでした。 しかし1970年前後には社会主義・共産主義陣営の諸国の経済的停滞が広く知られるようになり、1980年前後に中国の市場経済への転換の動きが始まり、1990年前後にはソ連・東欧諸国が崩壊・体制変更するに至ったため、現在では②マルクス経済学が省みられることは殆どなくなっています。 (2).ミクロ経済学とマクロ経済学 ミクロ経済学は、個々の企業や家計の経済行動や、ある財やサービスの市場を分析します。 マクロ経済学は、一国のすべての財とサービスを足し合わせ、金額化して、その構成や変化を分析します。 (3).新自由主義とケインズ派 18世紀の英国の経済学者アダム・スミスによって確立された経済学を古典派経済学といいます。価格の自由伸縮性と市場の自動調整機能を前提とし、政府の市場介入を最小限に抑えるべきと考えます。 ケインズ派経済学は、世界恐慌を克服するために、1930年代半ばに英国の経済学者ケインズによって提唱された経済学で、古典派の前提とする価格の自動伸縮性と市場の自動調整機能に懐疑的で、不況期には政府が積極的に市場に介入すべきと考えます。 ケインズ派経済学は戦後隆盛を極めましたが、1970年代の石油ショック以降の先進国の不況を解決できませんでした。そこで、1980年頃から、かっての古典派経済学にならって、政府の市場介入を減らし市場の自動調整機能を活性化させようと考える新自由主義経済学が盛んになってきました。 市場万能を唱える新自由主義経済学は、1980-2000年代に大きな潮流となりましたが、近年サブプライム・ローン危機が発生し、ケインズ派経済学が再度見直されています。 組曲「マルクス経済学」 ■経済政策 マクロ経済への政府の介入(あるいは不介入)のことです。 経済の実態を的確に判断し、①古典派、②ケインズ派、両方の経済理論を適宜応用して、有効な経済政策を打ち出すことが求められます。 経済政策には、①財政政策(租税政策含む)、②金融政策、③為替政策、の3つがあります。 整合性の取れた経済政策を立案する必要があります。 ※ 例えば、①財政政策として国債を増発した場合には、通常は金利が上昇し財政政策の効果を減殺する(クラウディング・アウト)ので、②金融政策として金利引き下げを同時に行う必要が生じます(ポリシー・ミックス)。 ※ また、③為替政策は、日本の場合は、米国の経済状態や政策方針により、独自の為替介入が余り効果を持たない場合が多くあります。 「経済成長は全てを癒す」 ※ パイの奪い合いにエネルギーを費やすよりも、分配の対象となるパイ自体を大きくして各自の取り分を増やす、という方針です。 ※ これは、戦後一貫して自民党が推し進めてきた経済政策の根本姿勢で、この方針により日本は今日の経済繁栄を築き上げました。 ※ 一方、かっての社会党(現:社民党)や共産党は「パイの分配先をAからBに変えよ」という要求ばかりを提議してきました。 ※ その傾向は、現在の民主党にも強く見られ、今後の監視が必要です(パイの奪い合いに終始して、経済成長への戦略がない懸念が強い)。 ■経済学は社会科学の女王~数値とモデルで説明できなければ無価値 経済の実勢や、経済政策の効果(及び効果予測)は、経済統計(あるいはその予測値)によって評価されます。 経済政策を巡る論争も、当然、①経済統計に基づく数値データや、②それらを分析して組み立てたモデル、を通じて行われます。 ⇒ 論理的に辻褄の会わない(すなわち非科学的な)意見は厳しく排除されます。(経済学が「社会科学の女王」と呼ばれる所以) これは、怪しい言説が横行している、(1)政治学(政治論争) や (2)歴史学(歴史論争)と大きな違いであり、これらの分野は、経済学(経済論争)の在り方を大いに見習う必要があります。 かって経済学の分野でも、マルクス経済学が人々の心を捉えていた時期が長く続きました。 しかし、それは、旧共産主義国・社会主義国の経済的な崩壊という結末を迎えて、日本の経済学の分野からほぼ一掃されました。 ところが、(1)政治学、(2)歴史学 の分野では、今でも隠れマルキスト達が、リベラルや進歩派を名乗って居座ったままです。 ※ (1)政治学(政治論争)では、未だに丸山眞男(自由主義者の看板を掲げた隠れマルキスト)を絶賛したり、「天皇制ファシズム」など実証研究により既に否定された概念を使用する人物、 ※ (2)歴史学(歴史論争)では、「十五年戦争」「アジア太平洋戦争」などの何処の国の立場にいるのか分からない用語を未だに使用する人物、がそれに該当します。 経済学は、①数値志向、かつ、②オペレーション(運用)重視 ⇒ 分析者の思想や価値観は、余り意味を持たない(分析にバイアスが掛かっていると結果が伴いません) 分析の基本は、帰納法(実証的分析)です。安易に(教条的な)演繹法のワナに嵌らないよう注意しましょう。 このページの上のほうで、三橋貴明氏のブログを薦めていますが、それは、三橋氏の経済分析が、徹頭徹尾「数値データ重視」であり、各国の経済実態や各党の経済政策の評価にあたって、必ず数値データに裏付けられた根拠を提示しているからです。 ■定性的な言説に、定量的な分析を加える工夫を~「数値で考える」「モデル化する」 例えば、「民主党は売国政党だ」「麻生総理は愛国者だ」は、ともに定性的な言説です。(物事のある性質を記述⇒定性分析) これに対して、「民主党は87%が売国議員、13%が愛国議員だ」「麻生首相は、愛国・売国評価基準によれば +15ポイントの素晴らしい愛国者だ」は定量的な言説です。(成分量や構成比を記述⇒定量分析) このサイトでも、2CHなどの掲示板でも、ある現象の一側面だけを捉えた言説は多いです(そのような言説は余り説得力を持ちません)。 言説に説得力を持たせるのは、①数値データ、と、②整合性の取れたモデルの提示、です。 モデルには、(1)図モデル、(2)表モデル、(3)関数モデル(数式モデル)、があります(関数モデルが組み立て出来れば一番有効)。 言論の質を高める一つの作法として、定量分析を心掛け、またモデル化して表現する工夫を試してみましょう。 ■参考サイト 新世紀のビッグブラザーへ(ameblo版) 日比野庵 本館 ■ご意見、情報提供 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/51.html
<目次> ■当ページの目的 ■先ず何よりも・・・ ■経済政策の対立軸~「新自由主義経済政策」か「ケインズ派経済政策」か ■経済学(1).現代経済学(近代経済学)とマルクス経済学 (2).ミクロ経済学とマクロ経済学 (3).新自由主義とケインズ派 ■経済政策 ■経済学は社会科学の女王~数値とモデルで説明できなければ無価値 ■定性的な言説に、定量的な分析を加える工夫を~「数値で考える」「モデル化する」 ■参考サイト ■ご意見、情報提供 ■当ページの目的 当サイトでは政治の政策の中で経済のお話などがたくさん出てきます。 経済についての基礎知識がないと、財政政策・金融政策などの良し悪しの判断が難しくなります。 そこで、今まで経済に興味を持っていなかった方々へ、 経済の基礎的な知識を勉強していただくため、このページを設けました。 全くの初心者でも分かるように説明いたします。 ■先ず何よりも・・・ Blog Ranking ニュース部門不動の1位三橋貴明氏のblog新世紀のビッグブラザーへを毎日読もう! 数年前から「集合知」を束ねて韓国の経済崩壊を見事予想、韓国サイドから「King of Net-Uyo」の称号を贈られた"伝説のネラー"。 日経新聞なんか毎日毎日、懸命に読み込んでいた頃の自分は一体何だったんだ・・・(※最近の日経新聞は特亜バイアスが異常に強い) コメント欄で展開される様々な分析も興味深い。何はともあれ、このblogだけは読みましょう!関連ページ⇒ 三橋貴明 ■経済政策の対立軸~「新自由主義経済政策」か「ケインズ派経済政策」か 麻生政権は、サブプライム・ローン危機に対応して、小泉政権期の経済政策から大胆に軌道修正を図りましたが、政策効果が漸く現れ始めた所で政権交代となってしまいました。 鳩山民主党政権は、せっかく成立した補正予算の一部執行停止を明言しており、今後整合的な経済政策を提示・実行できるのか懸念されます。 新自由主義経済政策 ケインズ派経済政策 政府介入 小さな政府を志向 大きな政府を志向 典型例 小泉政権、なお福田赳夫(元首相)以来の清和会(町村派)の基本的経済政策 小渕政権、麻生政権なお田中角栄(元首相)以来の経世会(津島派)の基本的経済政策 マクロ政策 金融政策重視市場の自立調整機能を信頼 財政政策重視政府の介入による市場調整 財政方針 財政再建を優先 財政出動を容認 構造改革 構造改革を推進 構造改革に否定的 物価動向 デフレ傾向・長期で円高 インフレ傾向・長期で円安 その他 市場効率化の結果として(一時的な)格差拡大を招来市場全体の成長力は伸張(パイの拡大) 競争制限・政府介入の結果として比較的均等分配市場全体の成長力は衰弱(パイの萎縮) ケインズv.s.ハイエク ※英国の経済学者J.M.ケインズの名は広く知られていますが、F.A.ハイエクの名は一般には余り知られていません。この機会に覚えましょう。 ※ハイエクは、1980年代の英サッチャー 米レーガン両政権の諸政策に理論的基礎を与えた20世紀後半の最重要の経済学者・法思想家・政治哲学者です。 ※ハイエクは、日本ではノーベル経済学賞を受賞した経済学者、という限定した紹介のされ方をする場合が多いのですが、実際には法思想・政治哲学を経済学とリンクさせつつ生涯追求し続けた一代の碩学であり、ナチス・ドイツや旧ソ連・東欧諸国などの全体主義体制に対して激しい闘志を燃やしたことで知られます。 ※参考⇒ハイエク著『隷従への道』の要約(計画経済などの設計主義的合理主義が、旧ソ連・ナチス型の全体主義に至る危険性を訴えた有名な動画)(更に詳しくは、ハイエクと自由主義へ) ■経済学 裏組曲「近代経済学」 (1).現代経済学(近代経済学)とマルクス経済学 経済学を大きく分けると、①現代経済学(近代経済学、近経)と②マルクス経済学(マル経)の2種類があります。 ①現代経済学は、資本主義の経済学、②マルクス経済学は社会主義や共産主義の国の経済学です。 資本主義とは、資本(工場設備や農具など物理的な生産手段のこと)の私有を認め、市場(マーケット)を通じて自由な価格形成を認める立場です。所得は個々人の能力に応じて分配されます。 共産主義とは、資本の私有を認めず、価格や生産量は政府が決定し、所得は能力には無関係に、個々人の必要に応じて分配されます。 社会主義とは、共産主義が実現される一歩手前の段階で、資本の私有は認めないが、所得は能力に応じて分配する、とするものです。 日本は資本主義の国ですから、①現代経済学が主流ですが、かっては(戦前や、戦後~1970年頃まで)②マルクス経済学もかなり盛んでした。 しかし1970年前後には社会主義・共産主義陣営の諸国の経済的停滞が広く知られるようになり、1980年前後に中国の市場経済への転換の動きが始まり、1990年前後にはソ連・東欧諸国が崩壊・体制変更するに至ったため、現在では②マルクス経済学が省みられることは殆どなくなっています。 (2).ミクロ経済学とマクロ経済学 ミクロ経済学は、個々の企業や家計の経済行動や、ある財やサービスの市場を分析します。 マクロ経済学は、一国のすべての財とサービスを足し合わせ、金額化して、その構成や変化を分析します。 (3).新自由主義とケインズ派 18世紀の英国の経済学者アダム・スミスによって確立された経済学を古典派経済学といいます。価格の自由伸縮性と市場の自動調整機能を前提とし、政府の市場介入を最小限に抑えるべきと考えます。 ケインズ派経済学は、世界恐慌を克服するために、1930年代半ばに英国の経済学者ケインズによって提唱された経済学で、古典派の前提とする価格の自動伸縮性と市場の自動調整機能に懐疑的で、不況期には政府が積極的に市場に介入すべきと考えます。 ケインズ派経済学は戦後隆盛を極めましたが、1970年代の石油ショック以降の先進国の不況を解決できませんでした。そこで、1980年頃から、かっての古典派経済学にならって、政府の市場介入を減らし市場の自動調整機能を活性化させようと考える新自由主義経済学が盛んになってきました。 市場万能を唱える新自由主義経済学は、1980-2000年代に大きな潮流となりましたが、近年サブプライム・ローン危機が発生し、ケインズ派経済学が再度見直されています。 組曲「マルクス経済学」 ■経済政策 マクロ経済への政府の介入(あるいは不介入)のことです。 経済の実態を的確に判断し、①古典派、②ケインズ派、両方の経済理論を適宜応用して、有効な経済政策を打ち出すことが求められます。 経済政策には、①財政政策(租税政策含む)、②金融政策、③為替政策、の3つがあります。 整合性の取れた経済政策を立案する必要があります。 ※ 例えば、①財政政策として国債を増発した場合には、通常は金利が上昇し財政政策の効果を減殺する(クラウディング・アウト)ので、②金融政策として金利引き下げを同時に行う必要が生じます(ポリシー・ミックス)。 ※ また、③為替政策は、日本の場合は、米国の経済状態や政策方針により、独自の為替介入が余り効果を持たない場合が多くあります。 「経済成長は全てを癒す」 ※ パイの奪い合いにエネルギーを費やすよりも、分配の対象となるパイ自体を大きくして各自の取り分を増やす、という方針です。 ※ これは、戦後一貫して自民党が推し進めてきた経済政策の根本姿勢で、この方針により日本は今日の経済繁栄を築き上げました。 ※ 一方、かっての社会党(現:社民党)や共産党は「パイの分配先をAからBに変えよ」という要求ばかりを提議してきました。 ※ その傾向は、現在の民主党にも強く見られ、今後の監視が必要です(パイの奪い合いに終始して、経済成長への戦略がない懸念が強い)。 ■経済学は社会科学の女王~数値とモデルで説明できなければ無価値 経済の実勢や、経済政策の効果(及び効果予測)は、経済統計(あるいはその予測値)によって評価されます。 経済政策を巡る論争も、当然、①経済統計に基づく数値データや、②それらを分析して組み立てたモデル、を通じて行われます。 ⇒ 論理的に辻褄の会わない(すなわち非科学的な)意見は厳しく排除されます。(経済学が「社会科学の女王」と呼ばれる所以) これは、怪しい言説が横行している、(1)政治学(政治論争) や (2)歴史学(歴史論争)と大きな違いであり、これらの分野は、経済学(経済論争)の在り方を大いに見習う必要があります。 かって経済学の分野でも、マルクス経済学が人々の心を捉えていた時期が長く続きました。 しかし、それは、旧共産主義国・社会主義国の経済的な崩壊という結末を迎えて、日本の経済学の分野からほぼ一掃されました。 ところが、(1)政治学、(2)歴史学 の分野では、今でも隠れマルキスト達が、リベラルや進歩派を名乗って居座ったままです。 ※ (1)政治学(政治論争)では、未だに丸山眞男(自由主義者の看板を掲げた隠れマルキスト)を絶賛したり、「天皇制ファシズム」など実証研究により既に否定された概念を使用する人物、 ※ (2)歴史学(歴史論争)では、「十五年戦争」「アジア太平洋戦争」などの何処の国の立場にいるのか分からない用語を未だに使用する人物、がそれに該当します。 経済学は、①数値志向、かつ、②オペレーション(運用)重視 ⇒ 分析者の思想や価値観は、余り意味を持たない(分析にバイアスが掛かっていると結果が伴いません) 分析の基本は、帰納法(実証的分析)です。安易に(教条的な)演繹法のワナに嵌らないよう注意しましょう。 このページの上のほうで、三橋貴明氏のブログを薦めていますが、それは、三橋氏の経済分析が、徹頭徹尾「数値データ重視」であり、各国の経済実態や各党の経済政策の評価にあたって、必ず数値データに裏付けられた根拠を提示しているからです。 ■定性的な言説に、定量的な分析を加える工夫を~「数値で考える」「モデル化する」 例えば、「民主党は売国政党だ」「麻生総理は愛国者だ」は、ともに定性的な言説です。(物事のある性質を記述⇒定性分析) これに対して、「民主党は87%が売国議員、13%が愛国議員だ」「麻生首相は、愛国・売国評価基準によれば +15ポイントの素晴らしい愛国者だ」は定量的な言説です。(成分量や構成比を記述⇒定量分析) このサイトでも、2CHなどの掲示板でも、ある現象の一側面だけを捉えた言説は多いです(そのような言説は余り説得力を持ちません)。 言説に説得力を持たせるのは、①数値データ、と、②整合性の取れたモデルの提示、です。 モデルには、(1)図モデル、(2)表モデル、(3)関数モデル(数式モデル)、があります(関数モデルが組み立て出来れば一番有効)。 言論の質を高める一つの作法として、定量分析を心掛け、またモデル化して表現する工夫を試してみましょう。 ■参考サイト 新世紀のビッグブラザーへ(ameblo版) 日比野庵 本館 ■ご意見、情報提供 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/imonoshi/pages/20.html
信仰・神学序論 1. “神学”の概念 2. 神学の方法 3. 神学の諸学問 4. 神学のモデル 5. 二十世紀の神学と第二ヴァティカン公会議からの転換 6. キリスト教の偉大な神秘 1. “神学”の概念 1.1. 神学の語源 ギリシャ-ローマ世界 新約聖書 初期キリスト教 東方キリスト教 西方キリスト教 1.2. 神学の性質-神学とは 広義 狭義 神学の条件:信仰 1.3. 神学の対象-何を扱うか 神中心主義的提題 キリスト中心主義的提題 その他の特徴 1.4. 神学の主体-誰が行うか 共同体的意味での主体-教会 個人的意味での主体-神学研究における理性と信仰 1.5. 神学の言葉-どう語るか 近代言語哲学 近年の哲学 アナロジー 1.6. 学問としての神学 問題の所在 トマスの提題 トマスの答えの検証 神学と学問 2. 神学の方法 2.1. 実証的方法 auditus fidei 実証的方法の性質 神学の場・ 聖書 traditio costitudiva・ 伝統 traditio interpretativa・ 信仰感覚、教導職、神学 実証神学の目的 研究の方法 2.2. 思弁的方法 intellectus fidei 神秘の知 中世の神学概念としての思弁 思弁的方法の特徴:演繹的方法 思弁の課題 2.3. 二つの方法の融合 3. 神学の諸学問 3.1. 護教論神学から基礎神学へ 3.2. 教理神学 Optatam totius の定める教理神学 新しい方向付け 3.3. 聖書神学 3.4. 教父神学と教父文献学 教父神学 教父文献学 3.5. 典礼神学 典礼 典礼神学 3.6. 道徳神学 道徳神学と教理神学 第二ヴァティカン公会議の展望 Optatam totiusuの定める道徳神学 現代道徳神学の諸考察 3.7. 霊性神学 定義 霊性神学と現代神学 3.8. 司牧神学 司牧神学の原理 司牧神学の内的構造 3.9. 伝道神学 伝道神学 伝道 3.10. エキュメニズム神学 エキュメニズムのカトリック的原理 エキュメニズムと神学 3.11. 教会の法 その概念と性質 新しい方向付け 3.12. 教会の歴史 4. 神学のモデル 4.1. 様々なモデル見取り図 Seckler Lafont O'Collins Coda 4.2. 聖書と神学 第一神学としての聖書 聖書における神学モデル 4.3. 各時代の神学モデル グノーシス・知恵の書モデル 中世のスコラ主義モデル スコラ主義-実証主義モデル 現代神学の歴史学-解釈学モデル 5. 二十世紀の神学と第二ヴァティカン公会議からの転換 5.1. 歴史的概要 5.2. 第二ヴァティカン公会議からの転換 三位一体論的地平 キリスト論的方向付け 教会論的位相 5.3. 現在の傾向と問題 解放の神学 フェミニズム神学 諸宗教の神学 神学と教導職 5.4. 二十世紀の神学者たち J. Daniélou H. de Lubac H.U. von Balthasar K. Rahner P. Rossano J. Dupuis H. Küng 6. キリスト教の偉大な神秘 6.1. 三位一体の神秘 問題の所在 聖書における三位一体 神学における三位一体 今日的理解における三位一体の神秘 6.2. 人間の神秘 聖書における人間の神秘 神学的人間論の歩み 6.3. アダムとイヴによる原初のイコン イコンの陰:原罪 イコンの修復:罪からの解放と親子関係 第一学年>信仰・神学序論へ
https://w.atwiki.jp/cgwj/pages/64.html
ヴォルシ(理:volci)とは、多義的な単語であり、「シルシに基づく社会的なステロタイプ」(cilcien ranmiatniexi'el)を指す。日本語文献ではケートニアー性社会役割とも言う。 目次 概要 ヴォルシと社会 歴史 シルシ表現のヴォルシ性 関連ページ 概要 ヴォルシは近代において提唱された社会的な概念である。その基盤はケートニアーであるか、ネートニアーであるかを表すシルシという概念にあり、シルシに基づいて社会的に常識や前提とされているステレオタイプやテンプレート的な考え方を指す。例えば、ケートニアーであれば軍人や警察官となって戦わなければならないといった先入観もヴォルシの一つである。 これを提唱したのはレシェール・イスナシュテイユであり、その「ヴォルシの構造的差別の歴史学」の議論によりヴォルシ学を興隆したとも言われる。 ヴォルシと社会 近現代を通して特にユエスレオネではヴォルシに基づく差別的言動は能力差別(理:volciera)と呼ばれ、タブーとなっていった。一般的に大災害前世代と呼ばれる世代の人間は旧弊なヴォルシ差別を持ち合わせているとされており、それに対してユエスレオネ生まれの世代はヴォルシフリー(理:nefvolciolera)の思想を持つものが多いとされる。この差はウェールフープの機械化によるケートニアーのネートニアー化が近代以降急激に進んだため、ユエスレオネがその特異点となったことにより起こったと考えられている。 歴史 スキュリオーティエ叙事詩の時代には、既にケートニアーとネートニアーに対するヴォルシ的構造が成立していたとされている。スキュリオーティエ叙事詩第四章34節にはケートニアー職の記述が存在する。中世においては、ケートニアーは武人として騎士の地位に付き外政を担い、ネートニアーは文化と内政を担うようなヴォルシが発達した。ネートニアー詩人がケートニアーの武人の活躍を詠うようになり、独特な相互構造を生むようになったが近代以降のウェールフープの機械化や国民軍の発達により、そのような封建的構造は崩れることになった。結果的に形骸化したヴォルシは差別的構造を残すようになり、近現代社会における重篤な問題となっていった。 シルシ表現のヴォルシ性 "Ci's yst ytus ler m'eskilst, faula ta liaxu." 「彼女が仮住まいから出ると、ファウラが立っていた」 ――スキュリオーティエ叙事詩四章二十九節 ファイクレオネの言語のシルシ表現(ケートニアー・ネートニアーに関する表現)は、それぞれのヴォルシ性を帯びている。近代以前はこのため実際に対象のシルシとあっていなくても、シルシ表現が使われることがあった。上記の例では、外見だけでファウラ(ネートニアー女性)であると決めているが、すなわち「戦場に向かないような可憐な少女」というヴォルシ性からファウラと言っているだけで、彼女のシルシは問題になっていない。 現代においてこのような表現は時代遅れに成りつつあるが、ヴォルシ主義者によって用いられることもある。 関連ページ ヴォルシ主義 ひとことリパライン語におけるvolci, cilciの説明 辞書におけるvolciの説明 migdalにおける「ヴォルシ論」リパライン語におけるシルシ表現のヴォルシ性について F.G.フィレナによるヴェルテール哲学批判に基づくヴォルシ性表現の肯定 レクタール・ド・シャーシュによるヴォルシ表現批判 リパライン語の世代差
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/44.html
トップページ>中国>中国学研究 『中国学研究』40、2007.6 文学 兪聖浚「盛唐盧象の待交」 語学 鄭蓮実「『五輪全備諺解』異体字の類型分析」 林慶姫「中国語方位表現に表れた文化心理」 宋和妍「中国語挨拶言葉と呼称の文化的意味分析」 政治学 이희옥「深圳特区モデルの限界と新しい都市発展戦略」 経済学 구기보「中国国有企業の所有制改革と株式制発展」 社会学 강명주「韓国の輸出成果に対する中国の影響分析」 장영석「中国労働者の文革参与と工場管理」 金鍾賢「中国都市「社区建設」を通じて見た社区制秩序の本質」 文化学 박자영「画報雑誌と視覚性:『良友』を通じて見たナショナリズムと植民主義の問題」 歴史学 裴淑姫「南宋初対金関係の変化と河南・陜西地域」 金泳信「軍閥統治期奉天の都市発展:東北大学の設立と教育都市としての発展」 法学 강효백「韓・中法の淵源に関する比較研究」 『中国学研究』39、2007.3 박흥수「漢字数字の文化的意味」 임영택「敦博本『六祖壇経』前置詞研究」 박재승「機械翻訳のための蝙蝠詞辞典構築についての研究」 양경미「韓中中間言語の中の「可是」類の談話機能研究」 정윤철「「在+場所名詞」構造の認知的分析」 김상균「中国語人力の採用決定要因と産学協力教育訓練方案に関する研究」 류기수「『楽章集』の詞牌運用に関する考察」 유봉구「中国現代歴史小説の形成と発展過程」 김경남「新生代作家と1990年代中国小説」 최병헌「中国自動車産業における企業戦略変化方向分析」 전병곤「中国NGO成長と政治発展」 홍정륜「中国の地域経済協力と韓中、韓中日FTAについての示唆点」 김동하「中央地方関係を通じて見た中国鉄鋼需給決定要因」 박윤철「中国社会の環境意識台頭と環境運動団体の組織化」 김영환「魏晋南北朝時代羯族の初期社会研究:後趙建立以前の羯族を中心に」 『中国学研究』38、2006.12 허선영「漢代文字瓦当の種類に関する研究」 맹주억「老乞大諺解類諸版本中「将」の翻訳に関する研究」 金海月、呉錚「「之」字の結合と漢語量詞語法化の影響」(中) 이주화「現代中国語重畳の形態論的分析」 김종호「現代中国語副詞「差点児」と被修飾語」 김혜원「中国語感覚形容詞の空感覚的意味転移の特徴」 이영월「大学中国語教材の発音教育分析」 郭沂濱「対外漢語聴力祠堂中図式理論の導入」(中) 고진아「杜詩の中の自我表現類型と特徴」 최웅혁「韋應物の「吏隠」とその田園詩」 서정희「『西遊記』の唐三蔵研究Ⅱ:唐三蔵の「般若心経」に対する悟りの過程とその意義を中心に」 김용운「紅衛兵詩歌研究」 안영은「紅色経典の再造意義探索」 김영신「民国政府成立前後の軍政改革と財政統一」 조재송「中国「統一多民族国家論」の論拠と虚実」 김종현「中国基層政権の権力関係分析」 신주식「中国社会主義市場経済の段階別発展理論の登場背景と理論論争に関する研究」 임승권「土地増値税の運営に関する分析」 1-10 11-20 21-30 31-40 41-50 51-60 61-70