約 1,371,019 件
https://w.atwiki.jp/harukaze_lab/pages/220.html
大塩平八郎 山本周五郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)大塩平八郎《おおしおへいはちろう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)行|矢部駿河守《やべするがのかみ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#8字下げ] ------------------------------------------------------- [#8字下げ]一[#「一」は中見出し] 大塩平八郎《おおしおへいはちろう》は偉人伝中の人ではない、悪く云うと一種の奇人であろう。 王陽明《おうようめい》の人となりを敬慕してもっぱらその学を修め、大坂与力として活躍した期間には、町奉行|矢部駿河守《やべするがのかみ》という俊英な上官を得て、その才腕を充分に揮《ふる》った。彼が治獄の術に長じていたのはたしかで、なかにも文政十年に断行した天主教徒の検挙と、同じく十二年、奸吏が豪商等と結托して政治を紊《みだ》していた事実を摘発、その私した金三千両を市民に与えた果敢ぶりとは有名である。しかしそれは上官に矢部駿河守という名伯楽を得たからで、駿河守が勘定奉行として江戸へ去り、後任に跡部山城守《あとべやましろのかみ》という凡愚漢が来ってからは、その鋭鋒もとみに生色を喪ったのである。 平八郎が有用の材であって、巧みに活動せしむればおおいに治績を挙げ得るということを知っていたのも、もしその操縦を誤れば大事をもしでかすべき人物であると見透していたのも、じつに矢部駿河守その人であった。つまり平八郎は名馬であって名騎手ではなかった。従って駿河守が去ると間もなく、跡目を伜《せがれ》柄之助《とものすけ》に譲って隠居し、決心洞《せんしんどう》書院(学校)を興して諸生の教育に当ったが、原来教育などという地味な仕事が性に合うはずはなく、その講筵は常に時流を忿る彼の悲憤慷慨をもって終始し、ついに特記すべき業績なくして終ったのである。 平八郎はひとたび怒りを発すると、自らこれを抑えることのできない質であった。その良き現れが奸吏の涜職摘発となり、他の現れが天保事件となったのである。――矢部駿河守は大坂町奉行として在任中、控えの間でしばしば平八郎と会ったが、ある時、食事をともにしながら時局を論じたことがあった。 当時、幕府は財政窮乏の極に達していた。上は将軍家より旗本、諸大小名、諸富豪、庶民に至るまで、淫逸《いんいつ》驕奢《きょうしゃ》の流れは一世を風靡《ふうび》し、遊里、戯場の発達、軟文学の汎濫、富籤《とみくじ》の隆盛等、未曽有の活況を呈し――世はあげて刹那的に、投機的に、享楽的に趣いていた。かかる状態が国家の財政にどう影響するかは言うをまつまい。これを一家に考えてみても、主人主婦から子供、奴婢《どひ》に至るまでが、もしかような逸楽に耽っていて家政の成立つわけがないのである。はたして、憲政十一年から文化十三年に至る十八年間に、幕府は五十余万両に達する財用不足を生じた。 幕府は窮策して、諸侯たちはじめ一般庶民にまで献上金を要求し、大坂の富商たちに前後約百万両の御用金を命じた。これらが下層階級にどう響いてゆくかは分りきったことである。しかしなお足らず、文政元年新たに二分判金を鋳造し、二枚をもって小判一枚換えとしたが、元禄の改鋳以来、数次のことで、すでに世界最悪の貨幣となっていたものを、さらに粗悪に吹返したのだから、一般にこれを、 「――元文小判」 と云ってはなはだしくこれを嫌った。 悪貨の流通に従って物価の騰貴を招く、庶民の生活は日に日に窮乏してきた。しかも幕府はいささかも済民の策を計らず、政治は停頓し、秩序は紊《みだ》れ、一人としてこれを匡救《きょうきゅう》しようとする者がなかったのである。 矢部駿河守と会食したとき、平八郎はこの事実をあげて痛論した。彼はやや肥り肉で髪が濃く、大きなよく光る双眸をもっていたが、論旨が時弊の核心に触れると、 「かようなことでは国が亡び申すぞ」 と、食卓を叩きたて、満面に朱を注いで、怒髪衝冠《どはつしょうかん》という形相になった。駿河守はあまりに平八郎の忿激が烈しかったので、勉めてこれを慰撫するようにしていたが、彼はいつかな鎮まるようすもなく、――食卓上にあった金頭の焼魚を採ると、いきなりその頭から尾までぶりぶりと噛砕いてしまった。 平八郎は偉人ではなかったのだ、忿激の理由が国家を憂えてのことではあっても、こういう奇矯な表現はいわゆる大人物のすべきところではないのである。しかし同時にまた平八郎が偉人英雄でなく、一個|峻侠《しゅんきょう》の人物であったところに、その存在の価値と大いなる意義があったということはできよう。 [#8字下げ]二[#「二」は中見出し] 矢部駿河守は、勘定奉行として去るに臨み、後任の跡部山城守に向って、 「与力大塩平八郎は傑物である、彼を信任して良く用うれば、必ず治績があがるに相違ない、しかしもし奉行の威をもって御駕せんとすれば、必ず禍を将来するであろう」 と云った。 跡部山城は凡俗人であったから、 「駿河侯は器量人と聞いていたが、大任の継伝に当って一与力の操縦をことごとしく議するところを見ると、噂ほどの者ではない」 と空嘯《そらうそぶ》いていたという。こんな人間ゆえ平八郎の才幹を看《み》る明がなく、平八郎もその下に仕うることを潔しとしなかったので、跡目を保柄之助に譲って退隠した。 致仕した彼は、洗心洞を開校してもっぱら教育のことに当ったが、しかし眼は絶えず時勢の上に注がれていた。 この時、世相はいよいよ険悪を加えるばかりだった。天保三年以来、不作、凶作あい続き、そのうえ新鋳の悪貨が汎濫したので、諸物価――ことに米価の騰貴は驚くべきものがあり、江戸市中においてさえ餓死者道に横たわるというありさまであったから、地方の惨状は云うまでもない、窮民は集団的に土地を捨て、これに武士の牢人たちが加わって群盗となり、諸所に出没して富豪を襲撃したり良民を掠奪したりし始めた。 この状態は天保七、八年に至って極まり、すでに幕府、諸侯もこれを鎮圧する手段に困惑するありさまとなった。 かかる世態をなんで平八郎が黙視し得よう、彼は再三奉行所を叩いて善処すべきを進言した。しかし山城守はてんで耳を傾けようともしないのである。平八郎はついに怒って、 「そもそも奉行職はいかなるが本務であるか、国を治め民を安んずること能《あた》わずば、冠せる沐猴《もっこう》に過ぎぬではないか、――巷《ちまた》に斃死する餓死者を見られい、街《ちまた》にどよむ窮民の叫びを聞かれい、尊公もし今にしてなすところ無くんば、大事は大坂城下より発するであろう」 と怒号した。山城守もさすがにその語勢の猛なるに辟易して、 「そういうことなればただちに関東の指令を乞うて方策をたてよう」 と答えた。 「手温《てぬる》いことを!」 平八郎は膝を叩いて詰寄った、「ことは危急に迫っている、今日救いの手を下さなければ今日餓死する人間が群れているのに、関東へ伺いをたてるなどとは迂遠極まる話だ、よろしく尊公の裁量をもって救民の法を断行されたい」 「しかし、たんに奉行職として専断にことを行うわけには参らぬ」 「なぜいかんのか」 平八郎は膝を進めて、「おそらく尊公は専断の罪に問われるのを惧《おそ》れるのであろうが、身を殺して仁をなすということもある、ぜひとも断行していただきたい」 「なる程、身を殺して仁をなすとはある。しかしそれなら他人に進めるまえに、なにゆえそともとがそれを実践しないのか」 小人の云いそうな揚足取りである。これが平八郎をすっかり怒らせた。 「よろしゅうござる」 彼は面色を変じながら答えた、「身を殺せとあれば殺しましょう、しかしいちおうお断り申しておくが、平八郎が身を殺すとちと[#「ちと」に傍点]うるそうござりまするぞ」 云い捨てて起った。 そのとき、彼はすでに大事を決行すべき肚を決めていたのである。しかし、――彼はそれからも富豪たちを歴訪して、救民の業を計ったのである。かつて与力として辣腕をふるっていた時分には、唯々諾々《いいだくだく》と彼の意を迎えた連中も、洗心洞主としての彼には一顧も与えなかった。 「――もはや穏便の策及ばず」 彼の公憤は激発した。 平八郎は幼少より書物を愛し、生涯に買い求めた希書珍籍は棟に充ちていた、そして彼は何よりもその蔵書に愛着をもち、珍重していたのであるが、――それらを断然売却した。 伜の柄之助が訝って、 「御愛蔵の書籍をどう遊ばします」 「書籍のみではない、売れる物は家具什器ことごとく売却する所存だ、この危急存亡の期《とき》に当って万巻の書が何になる」 柄之助は父が例の癇癪を起しているのに気付いた。 「しかし、父上、当家を全部裸にしても、救うことのできる者はわずかな数ではございませぬか、窮民は天下に充満しております。さように短気を遊ばさずとも、万人を救う策を講ずるのが本当ではございませぬか」 「父はできるだけのことをしたのだ」 平八郎は黙念と云った、「しかし駄目だ、上には一人として、人間がいない、みんな眠れる豚だ。城中に千万の黄金を擁し、御蔵に万石の米を死蔵しながら、一指も救恤のために動かそうとせぬ、――大塩家の微財をもってどれほどの人が救えるか、そちの言に俟《ま》たずともよく知っている、しかし万民を救うことができないとしたら一隣人だけでも救わねばならぬ、そのうえで父にはさらに思案があるのだ」 柄之助は父の眉宇《びう》に閃く不穏の色を見てとったが、もはやなにも云わなかった。 [#8字下げ]三[#「三」は中見出し] 書籍その他を売って得た金は七百両あまりになった。 平八郎はその金の半分で米を買い、半分を一朱金に換えた。そして家の門を開いて積上げ、困窮の人たちを招いて分配したが、そのとき密かに一枚ずつ刷物を添えて、 「――天満橋、天神橋のあたりに火事が起ったら、志のある者はすぐ集って来るよう」 と伝えた。 かくて天保八年二月十九日、平八郎は旧僚友の与力、同心のうち、風をしたってはせ参じた潮田《うしおだ》、小泉《こいずみ》、渡辺《わたなべ》、荘司《しょうじ》、近藤《こんどう》、平山《ひらやま》らを中心に、摂津《せっつ》、河内《かわち》の農民合せて五百余をもって蹶起《けっき》したのである。 まず天満組屋敷へ火が放たれた。かねてこのことあらんと待受けていた窮民たちは、火の手を見るよりたちまち群集して来る、一味は鉄砲、火矢、棒、刀、竹槍を揮《ふる》って進撃。建国寺を焼いて猛然と奉行所へ肉薄した。 しかし奉行所においても、はやく内通する者があって防戦の準備はできていたから、とっさに天満、天神の三橋を撤して拒み、一党が難波橋へ廻るうちに急遽兵を催してこれに当った。かくて大塩方は二た手に別れ、城兵と大坂在番の諸侯とを合した軍を相手に、果敢な市街戦を展開したのである。 もちろん、戦いに利の無いのは分っている。悪闘苦戦の後、同志を次々に討たれ、挙に加わった衆もまた形勢の悪化を見て敗走するなど、月を越えて三月に入るや、ほとんど擾乱は屏息するに至ったのである。かくて同月二十七日、大塩父子は油掛町|五郎兵衛《ごろべえ》なる者の別宅に隠れているところを幕吏に襲われて、遁れざるを知り、自ら火を放って焚死し、ことにまったく天保の乱は鎮定したのである。 こうした事実だけからみると、平八郎の挙は失敗に終っているが、ここでいちおう、――彼の真意を考えてみたい。この事件に当って彼の採った戦法はまったく無謀であった、凡愚でない平八郎がどうしてこんな不態《ぶざま》な失敗を演じたかという点を理解しなければならぬ。 『東湖随筆《とうこずいひつ》』という書物に、彼の人となりをもっともよく識っている矢部駿河守の言葉が載っているが、それには彼の言行を評した後、 「大坂城の仔細は平八郎のもっとも精通するところである。もし彼にしてじつに叛逆の大望があったならば、何を措いても大坂城へ立籠るべきで、彼ならそれができたのである、しかるに城へはよらず、かえって不利になる戦法を採ったことは何故であるか……?」 と言葉を濁している。 この「何故不利な戦いをしたか!」というところに真相があるのだ。 思うに彼がことを起したのは、警世の木鐸《もくたく》を打鳴らすためだったのである、眠れる豚どもの耳へ冷水《れいすい》一|斛《こく》を注いだのである。始めから戦に勝つ意志も無かったし、自分が賊名の下に死ぬことも承知のうえだった、身を殺して正義のあるところを顕章すれば足りたのだ。 彼がもし偉大な人物であったら、おそらくこんなことはやらなかったに違いない、彼が陽明学に通じ、自らの中斉と号しながら、性来の僑激剛偏《きょうげきごうへん》を抑制することができず、ひとたび怒を発すれば利害を弁ぜず起ち、その奇僑なる性のゆえにこのことに及んでのである、そしてじつに、大塩中斉の存在価値もそこにあったのである、竹越与三郎《たけこしよさぶろう》氏はその『日本経済史』において、 「――かく民乱を生ずるに至ったる一事は、幕府が経済上より同一原因をもって倒れざるべからず運命を暗示したので、このことたるや陳勝呉広《ちんしょうごこう》にも比すべきものである」 という意味のことを云っている。かく仔細に案ずれば、彼もまた無くてはならぬ人物の一人であった。 底本:「抵抗小説集」実業之日本社 1979(昭和54)年2月10日 初版発行 1979(昭和54)年3月1日 二版発行 底本の親本:「青年太陽」 1937(昭和12)年1月号 初出:「青年太陽」 1937(昭和12)年1月号 ※表題は底本では、「大塩平八郎《おおしおへいはちろう》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ
https://w.atwiki.jp/tekiyakusaikyou/pages/1953.html
【作品名】時空の旅人(FCゲーム) 【ジャンル】バカゲー 【名前】大塩平八郎 【属性】学者 【大きさ】成人男性並み 【攻撃力】刀所持(たぶん)。成人男性を一瞬で切り殺せる 【防御力】鍛えた人並。 【素早さ】鍛えた人並。成人男性に抵抗させる暇も与えず斬り殺せる。 【長所】なんかテンプレにすると強そう 【短所】あらゆる理由で主人公を殺しにかかる 挙句の果てには刀を渡そうとして間違って刺し殺す始末 【備考】本作では様々な歴史上の人物と出会い、彼らからの質問に二択で応えていく形式でゲームが進む 機嫌を損ねると大概どの人物も主人公を殺しにかかる。 vol.96参戦 vol.98 371 名前:格無しさん[sage] 投稿日:2015/11/06(金) 11 26 32.56 ID 0E/yoUyR [2/4] 大塩平八郎 考察 ○>関谷=レイジ>成松=ヤン・ウェンリー 一瞬で人が切り殺せるので勝ち ×赤司征十郎:先読みされまくりでハサミ負け ×ジノービ :切った後に復活されて氷漬け負け ×針麗 :鍛えた程度ではスズメバチは無理負け 赤司征十郎>大塩平八郎>関谷= vol.96 494 :格無しさん:2015/04/01(水) 19 59 15.82 ID Qsz2NZOo 493 クイズに不正解で、出題者(大塩平八郎)から回答者が切られる と言う事なんだろうけど、回答者は成人男性なのか? なんだか、クイズ番組の不正解で、その気になれば逃げられる 身体的ダメージを受けるようなペナルティを、 エンタメのために受け入れて回避しないのと同じにも見える。 497 :格無しさん:2015/04/01(水) 23 45 31.11 ID AJoH7yfF 494 この話は原作映画の脇役である「クシジマ・トシト」さん(成人男性)が、様々な歴史を巡り、偉人とお話をしながら 歴史を改変していこうと目論むという筋書きになっている 別にペナルティでも何でもなく、偉人の機嫌を損ねるとぶっ殺される 例:本能寺で信長から「外を見てくれないか」と言われ、無視→「返事の仕方も知らんのか」→のぶながにきりころされました(原文ママ) 言い争いをする家康と三成の両方にいい顔をする→両方の機嫌を損ねる→二人から餅を無理矢理口に押し込まれる→いきがつまってしにました 西郷隆盛から「私はただの金持ちかと思うか」と言われ、ハイを選ぶ→「悪かったな!」→さいごうになぐりころされました 終始こんな感じで、クイズではなく恋愛ゲームみたいに質問に応答していくパターン 大塩との会話画面では画面に大塩とその部屋しか映ってない
https://w.atwiki.jp/nihonjindakedo/pages/23.html
211 :名無しさんの主張:2011/12/31(土) 19 43 51.33 ID ??? 信長、秀吉、家康の誰が好き? みたいな質問が多いように、日本人は権力者が大好き 大塩平八郎や天草四郎みたいに正義を主張して戦ったタイプは全く人気がない 212 :名無しさんの主張:2011/12/31(土) 19 47 44.96 ID ??? 弱者を守ろう、救おうとした人物は嫌われるね。 歴史上の人物にしてもドラマや小説の人物も、 目的のために泣く泣く(腹の中では大笑い)弱者を切り捨てる人物が好まれる。 239 :名無しさんの主張:2011/12/31(土) 21 19 15.46 ID ??? 日本人が抱くイメージ 信長=偉大な権力者様。冷酷なところが素敵。 秀吉=偉大な権力者様。立身出世の理想像。 家康=偉大な権力者様。忍耐力を見習うべき。 大塩平八郎=反逆者のクズ。キチガイ暴徒。氏ね。 天草四郎=反逆者のクズ。キチガイ狂信者。氏ね。 683 名無しさんの主張 2012/01/29(日) 07 43 55.40 ID ??? 大塩平八郎は融通が効かず協調性に欠ける上に勘違いしてヒーロー気取りする嫌な奴 豊臣秀吉は上司への忠誠を忘れない誠実な人柄な上に下品な芸もできて親しみが持てるいい奴 601 名無しさんの主張 2012/02/18(土) 08 04 22.16 ID ??? 大塩平八郎は本当に人気が無いよね 教科書でも5行くらいの説明ではい終わりだから 大塩の魅力や功績が全然教えられてないっていうのは大きいね (これは日本の歴史教育全般に言える問題) 大塩は奉行所の与力っていう役職だったんだけど 今でいうなら警察署長の役職 つまり警察署長(与力)が政府(幕府)や大企業(豪商)の酷さに気付いて 反乱を起こしたって話だったんだよね マジで格好良過ぎだよね しかもただ武力で反乱起こしただけじゃなくて、 その為に自分の莫大な財産を投げ打ってるからね 「奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、 仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、 得た資金を持って救済に当たっていた。 しかしこれをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。」 「利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、 武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。 一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、 豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、 金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。」 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%AE%E4%B9%B1 大塩は陽明学を信奉してたんだけど、みんな陽明学って知ってる? 698 名無しさんの主張 2012/02/18(土) 16 59 16.67 ID BicgNnyn [1/1回発言] だね それだけ所蔵してるだけでもすごいけど それらを読んでたんだろうから物凄い 「大塩は32歳の時に、私塾『洗心洞』を大阪天満の自宅に開いていた。 教えていたのは陽明学。彼は学者としても広く知られており、 与力や同心、医師や富農にその思想を説いていた。塾の規律は厳しく、 朝2時に講義が始まり、真冬でも戸を開け放していたが、門弟は増える一方だった。 奉行所を隠居した大塩は、一介の学者として学問の道を究めようとし、 1833年(40歳)“知”は“行動”が一致して 初めて生きるとする「知行合一」を説いた『洗心洞剳記(さつき)』を刊行する。 大塩は著作の最後を「口先だけで善を説くことなく善を実践しなければならないのだ」と締めくくり、 門弟と共に富士山に登り同本を山頂に納めた。」 あの人の人生を知ろう ~ 大塩平八郎 http //kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic18.html 今の日本に一番必要な学問は陽明学だよ 733 + 1:名無しさんの主張[sage] 2012/05/04(金) 07 29 50.03 ID ??(1) 大塩平八郎や吉田松陰、西郷隆盛、高杉晋作の存在は教えるけど、 彼らのバックボーンとなった精神である陽明学を教科書に載せないのは恣意的だと思うね 現代でさえ陽明学を知られたら困る東朝鮮 知行合一とは、陽明学という中国の儒学者・王陽明(1472-1528)が起こした儒学の主要命題である。 意味を簡潔に言うと、「思ったら、行動する。」という、実践主義の思想である。 その為、日本にも数多くの信奉者がいるのが陽明学である。 世界でも稀に見る革命であった明治維新を成し遂げた志士の精神的指導者達に、 陽明学に造詣が深い人が多いのがその実践主義を裏付けている証拠だろう。 有名どころでは、中江藤樹、熊沢蕃山、佐久間象山、川井継之助、吉田松陰、高杉晋作、大塩平八郎、西郷隆盛等など。 徳川幕府が、推奨していた朱子学は、権力側に都合の良い儒学であった。 「上が上でも、下は文句を言わず付き従わなくてはいけない」 という上下の秩序を重んじる思想が、朱子学であった。しかし、陽明学は、 「上が上なら、下も下になるのはしょうがない。組織やグループの命運は上が握っている」 という、反体制的な思考を基礎とする儒学であった。 自ずと、体制側には都合が悪い。 長い戦国時代が終わり、江戸幕府を開いた徳川家康は、思想統制に苦心していた。 戦争のない社会を作る。 つまり、徳川の社会を未来永劫続けたい。 しかしいまだ、上下の秩序を問題とせず下克上の気風が色濃く残っていた、江戸開府当時。 それを、都合良く抑えるのには、武士に武芸への傾倒を捨てさせ、武芸学問奨励へと向かわせるのが良いと考えた。 その都合の良い学問が、朱子学であった。 上下の名分を重んじる上下関係を根本にする朱子学は、思想言論統制にピッタリであった。 家康の相談役であった朱子学の大家・林羅山が、幕府公認の正学として朱子学奨励の任が与えられた。 それと共に、他の学問が迫害された。 特に、「上下関係よりも、正しさが重要視される」 上には都合の悪い陽明学は危険視され、後に風紀を乱すものとして禁止される事になる。 新与太随筆 http //ameblo.jp/takayukimie9141974171981/entry-10049967393.html 888 名無しさんの主張 2012/02/05(日) 21 45 32.84 ID 6VjqnIMd [3/3回発言] 「主に日本は江戸時代で既に社会規範に上位する原理ってものが認知されてない 昔から何も考えず上に従え」という意見に、そうではないと反論したわけだよね? だから江戸時代の封建制の話ををしたのだよ。 欧米の封建制のように契約書を作り、そこにサインし、契約を守り通すこと、 道徳的義務を果たすことを権力者が神に誓ったかというと、全くそんなことはないだろう。 江戸時代における「社会規範に上位する原理」とは具体的に何なのかを聞いても、 当時の人間で答えられる者はほとんど誰もいないと思う。 「社会規範に上位する原理」が発展して庶民が徳川幕府の正当性を疑わないよう、 幕府は徹底的にキリスト教を弾圧し、外来思想を排除し、仏教は僧侶を公務員にして 支配することで骨抜きにし、儒教は権力者の道徳について問う本質的部分を削り、 徳川体制に従うことがいかに正しい生き方かという主張を昌平坂学問所で競わせた。 今で言うところの御用学者として儒学者は使われていた。 「社会規範に上位する原理」は厳禁で、体制を疑った人は「お縄」になった。 一握りの陽明学者だけが「社会規範に上位する原理」を考え、大塩平八郎のような 特異な人物も生まれたわけだが、例外中の例外だし、もちろん潰された。 ちなみに、江戸時代以前だって「社会規範に上位する原理」は存在しなかった。 「双務的契約」というのも、江戸時代のような終身雇用身分保障がなかったので、 当然、すぐもらえる見返りが欲しいという要求を臣下が行っただけの話で、 古今東西、傭兵や盗賊団が行なってきたような約束と同じ話。 守るべき原理が存在しなかったからこそ、契約もいい加減で、そこに道徳的意味もなく、 宣誓もしないし、だからこそ「裏切り」が日常茶飯事だった。 ドナルド・キーンによれば、江戸時代までの日本の戦や乱を調べてみると、 裏切りが非常に多く、裏切りによって勝敗の流れが決まることが大半なので衝撃的だそうだ。 577 名無しさんの主張 2012/02/18(土) 03 37 48.67 ID ??? なぜその三人なのかわからないが、 織田信長は暴力で権力闘争に勝っただけの権力者だし、 本居宣長は中国叩きして日本の伝統をひたすら賛美する国学者だし、 山本七平は少しは言論でメスを入れたかもしれないが、評論家だし高く評価されてもいない。 日本では社会の腐敗にメスを入れる正義感の強い人物は潰されるし評価されないし人気もない。 大塩平八郎もそうだが、江藤新平も人気なくて可哀想だね。 英米流の三権分立・法の支配・民主主義・行政訴訟(←どれも日本では未だに機能していない)を、 明治最初期の時点でセットで日本に導入しようとしたり、奴隷(芸者)解放令を出したりして、 アブラハム・リンカーンの日本人版のような政治家だったのに、 人気ゼロだし、そもそも何をした人物なのかも知られていない。 むしろ彼を狡猾な罠にはめて殺した卑怯な大久保利通の方がはるかに人気があるという始末。 日本人は正義感の強い人を見ると生理的嫌悪感を覚える。逆に、 「なんだかんだ言って世の中は力が全て。それが真実。認めないのは平和ボケした偽善者だ!!」 というタイプの人物には心の底から憧れたり親近感を覚えたりする。 580 名無しさんの主張 2012/02/18(土) 03 57 48.52 ID ??? 日本の一般人にそこまで求めるなよw 頭の悪さは一流だぞw 大塩、江藤は知名度がないし、 大久保が評価されるのは後釜に伊藤博文という初代がいるしな 日本人は善悪の概念がなく勝者につくだけ 133 名無しさんの主張 2012/02/26(日) 17 55 30.67 ID ??? 竜馬が人気なのは剣術の達人のサムライと、海賊という、 子供が喜びそうな武勇イメージが重なっているからであって キング牧師が尊敬されているのとは全く質が異なる。 単に強くて天真爛漫でカッコイイから人気というだけ。 弱者や国民の権利を守るため、権力の腐敗を暴くために生真面目に 活動して潰された大塩平八郎や江藤新平は全く話題にもならない。 238 名無しさんの主張 2011/12/05(月) 10 43 42.23 ID ??? 大塩平八郎なんかは幕府の腐敗を嘆き、弱者を救おうと強者に挑んだが、 そういう例は確かに少ないな 694 名無しさんの主張 2012/01/29(日) 09 28 30.58 ID ??? まとめてみた。 日本人は自分と他人の優劣をすぐに比較する。 本当の善人を見ると醜い自分にコンプレックスを感じ、叩き潰したり、自分と同じくらい低俗なところまで引き摺り下ろす。 偽善者や悪人を見ると「親近感」を感じて喜ぶ。日本人はそういう民族。 だから高潔な人物が日本ではなかなか生まれないし、生まれたとしても大塩平八郎のように 人気は皆無で時代劇にも映画にもドラマにもならずスルーされる。 679 + 1:名無しさんの主張[sage] 2012/02/09(木) 22 43 48.58 ID ??(1) どこまで低俗で下劣な人間なのかを競い合っているのが日本人なんじゃない? 大塩平八郎タイプの高潔な人間は嫌われるし、 豊臣秀吉のように下品で好色なところをアピールした方が人気者になれる 395 標準日本人 ◆lEN.d.nqvE 2012/03/23(金) 22 16 15.09 ID ??? 行動派の人が良い方向に行けば大塩平八郎や田中正造のように、悪い方向に行けば辻政信や牟田口廉也のような人間になるんだと思う 行動派の悪い人たちをどうやって良い方向に向いてもらうか どうやって大多数を占める非行動派に行動を起こしてもらうか この2点が鍵になりそうな気がする 172 名無しさんの主張 2012/03/26(月) 22 04 33.43 ID ??? 大塩が人気ないのは不良臭、ヤンキー臭、芸人臭がしないからだと思う 標準的日本人が好む人間像と正反対 180 名無しさんの主張 2012/03/26(月) 22 11 55.67 ID ??? 後半三人は結果敗者となった大塩と違い、まあ名誉・権力もあったしな やみくもに真似して従うためのご主人を嗅ぎ分ける能力があるのかね 741 名無しさんの主張 2012/04/05(木) 01 51 53.46 ID ??? 「探さなくてもいくらでもある」のが欧米 「探してもいくらもない」のが日本 ちなみに、聖徳太子の話は、天皇の権威を正当化するために日本書紀で創り上げられた「でっちあげ」。 「厩で処女の母親から生まれた厩戸皇子」とか、その設定からして、中国の景教を経由した キリスト教福音書の猿真似だけど日本人は恥ずかしくないのかね? 十七条の憲法の第三条に書かれているように、聖徳太子の説く心は、天皇は天(神)なんだから 絶対服従しろという論理で、西洋社会が産み出した個人主義、「人間は人間に絶対服従する必要はない」と対照的。 自分たちの権威権力を正当化するための神話や憲法(?)に善意や良心なんてあるわけがないw 悪意の結晶だよw 石田心学はよく知らないが、Wikipediaによれば、 倫理というよりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことを説いており、 寄付や援助など本業以外での「社会貢献」を活動の中心とする欧米のCSRにはない特徴がある。 ということらしいから、欧米企業のような寄付や援助をしないことの正当化、カネ儲けの独善的美化にしかならないのだろうねw 大塩平八郎は立派だけど潰されたし、その弱者救済や反権力腐敗の思想は明治維新には受け継がれていない。 自由民権運動も立派だけど、Wikipediaに書かれているように、 大日本帝国憲法をもってしても自由民権運動の真意がかなえられる事は無く、これらの権利を永久不可侵の「基本的人権」 と定めた1947年の日本国憲法施行によってでしか自由民権運動の真の成功は達成し得なかったのである。 というわけで、アメリカに占領されるまで、恐怖と暴力によるキチガイ体制で一億総玉砕がどうのこうのと日本は大暴走していたからなw 33 名無しさんの主張 2012/04/06(金) 23 03 19.07 ID ??? 真面目というより「良心のある人間」を目の敵にして叩き潰すのが日本流。 昔からずっとそうだよ。 江戸時代にしたって大塩平八郎みたいな人は主張も無視され相手にされず潰されたし、 戦前戦中も良心のある人は特高警察にみんな潰され、 善人の遺伝子が排除され、邪悪な遺伝子だけが濃縮されてきた。
https://w.atwiki.jp/history_chronicle/pages/24.html
プロフィール 大塩平八郎。江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。 切支丹逮捕、奸吏糾弾、破戒僧遠島などの実績をあげ、名与力と評された。 38歳で与力を辞職し、私塾「洗心洞」を開く。 天保の大飢饉に際し、奉行所に民の救済を請うが受け入れられず、自らの蔵書を売って窮民を救った。その後、幕政を批判して兵を挙げるが、敗れて自殺する。これは後に、「大塩平八郎の乱」と呼ばれた。 アビリティ 戦闘開始から4ターンの間、味方ユニットの攻撃が30%上昇するバフを付与する。 パネルブースト「攻撃」発動時の与ダメージ量が25%増加する。 アンサースキル/陽明学 敵単体に威力110の火属性ダメージを与える。 SPスキル/大塩平八郎の乱(SP6) 3ターンの間、味方全体の攻撃が45%上昇するバフを付与する。 火力支援型の火属性ユニット。 SPスキルのバフ付与量が大きく、回転率もそこそこなのが特徴。 パネルブーストの与ダメ増加は属性を問わず発揮されるため、バフと相まってかなりの火力を出すことができる。 小ネタ 手にしているのは蜂起の際に掲げた「救民」の旗。 自ら屋敷に放った炎の中、周りには決起を呼びかける檄文と思しきものが舞っている。 背景の本の山は窮民救済のために売り払った蔵書と思われる。
https://w.atwiki.jp/anchorlegendscenario/pages/406.html
シナリオ名「大塩平八郎暗殺作戦」 システム名「シノビガミ」 注意:戦国編を想定しています 世は江戸時代。平穏に見えるこの世の中に,1つの飢饉が近寄っていた。 それは後に,「天保の飢饉」と呼ばれるものである。住民は飢えに苦しみ, 街には死者が溢れていた。勿論の如く,江戸幕府に救援を求める声が相次いだ。 情勢を見かねた幕府は各地に御救小屋を設置し,この災害を救済せんとした。 しかし豪商による米の買い占めが起こったがために米の価格も急騰し, この御救小屋でも高貴な武士のみを救済することが精いっぱいであった。 この状況に業を煮やした役人がいる。それが大塩平八郎であった。 時は今,彼が民衆を率いて乱を引き起こそうとしているところである。 さて,君たちはそんな戦国の世で幕府に使えるシノビである。 既に密告により彼の乱が行われていることは承知のことである。 幕府は君たちに,大塩平八郎の暗殺によるこの乱の鎮圧を命じた。 ―今宵もまた,偽れぬもののために,影と影がぶつかりあう。 以下GM専用。反転して読んでください。 使命と秘密の例 使命:幕府の命に従い,大塩平八郎を殺害せよ 秘密:実は大塩平八郎は君の親友である。彼を遠方の地に逃がせ 使命:豪商の命に従い,大塩平八郎を殺害せよ 秘密:君は豪商に恨みを持っている。この乱を成功させ,雇い主の豪商を殺害せよ 使命:組織の命に従い,大塩平八郎を殺害せよ 秘密:大塩平八郎は妖魔である。調査のために彼を拉致し,組織まで届けよ 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/32228.html
へいはちろう【登録タグ へ もわもわP 曲 鏡音リン】 作詞:もわもわP 作曲:もわもわP 編曲:もわもわP 唄:鏡音リン 曲紹介 東郷じゃなくて、大塩の方。(作者コメより転載) 歌詞 (PIAPROより転載) 欲に狂ったあきんどどもが 金がすべてと恥知らず 持たざる者を蔑んで 長夜之飲 立ち上がれ 平八郎 立ち上がれ 平八郎 お前の怒りが世の中正すぜ 今日も能なし役人どもが 相場ばかりを気にしてる 民の心を忘れ果て 禄盗人 燃えたぎれ 平八郎 燃えたぎれ 平八郎 お前の刀が邪悪を払うぜ 四海困窮 天禄永終 これが天下の御政道 よみがえれ 平八郎 よみがえれ 平八郎 お前の力が今こそ要るんだ コメント 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/anchorlegendscenario/pages/416.html
陽明学者で元大坂東町奉行所与力の大塩平八郎が、1837年2月19日、天保の飢饉で苦しむ民衆の救済と 腐敗した幕政の改革を訴え、門弟の武士や農民ら約300人を率いて蜂起した。 大坂の町の約5分の1が焼けたとされるが、半日で鎮圧された。約40日後、隠れ家で見つかり自害した。 …これが、現代に伝わる「大塩平八郎の乱」の概要である。 しかし、ある日を境にその常識は崩れ去ってしまった。 君がぺらぺらと歴史の教科書を見ていると、「大塩平八郎の乱」の部分が「天保の乱」と名前も変わり、 その時代に大塩平八郎は病で亡くなっており、農民のみの一揆となっている。 他にも、明智光秀は本能寺にて返り討ちに遭い、戦死するなど、歴史が改ざんされてきている。 …何かがおかしい… 君は、その歴史を修正するために立ち上がる。 シナリオ名:遙かなる時空の中で 「もしも」の歴史があるとしたら、君はどんな歴史を望みますか? システム:指定なし 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/anzrtrpg/pages/94.html
キャラクター名 高上平八郎(たかがみ へいはちろう) コードネーム ? ワークス 高校生 カヴァー 高校生 年齢 17歳 性別 男 星座 双子座 消費経験点 身長 167cm 体重 61kg 血液型 B型 35点 シンドローム オプショナルシンドローム サラマンダー なし 能力値 肉体 8 感覚 1 精神 2 社会 2 白兵 4LV 射撃 LV RC 2LV 交渉 LV 回避 LV 知覚 1LV 意志 LV 調達 LV 運転 LV 芸術 LV 知識 LV 情報:噂話 3LV ライフパス 出自 義理の両親 HP最大値 36 常備化ポイント 1 経験 大きな転機 財産ポイント 0 行動値 4 邂逅 保護者 戦闘移動 9m 全力移動 18m 覚醒 命令 衝動 飢餓 侵食値 15 侵食値 14 基本侵食値 29 エフェクト 名称 LV タイミング 技能 難易度 対象 射程 侵食値 制限 0:コンセントレイト 2 メジャー シンドローム 2 【効果】組み合わせた判定のクリティカル値を-LV(下限値7)する。) 炎の刃 5 メジャー 白兵・射撃 ―― ―― ―― 2 ―― 組み合わせた攻撃の攻撃力+[LV×2] 氷の回廊 1 マイナー ―― 自動成功 自身 至近 0 ―― 飛行状態で戦闘移動を行う。この時移動距離に+[Lv*2]mする 白熱 2 マイナー ―― 自動成功 自身 至近 3 ―― 使用したシーンの間、素手のデータを以下のように変更する。種別:白兵 技能: 白兵 命中:0 攻撃力:+[Lv+5] ガード値:4 射程:至近 結合粉砕 5 メジャー シンドローム 対決 ―― ―― 4 ピュアブリード 超高温と超低温を交互に叩きつけ、分子間に働く結合力を破壊する。このエフェクトを組み合わせた攻撃のダイスを+Lv個する。さらに対象の装甲値を無視してダメージを算出 6:(エフェクト名記入) (Lv数値記入) (タイミング記入) (技能記入) (難易度記入) (対象記入) (射程記入) (侵食値記入) (制限記入) 【効果】(効果文章記入) キャラクター設定 育ての親が実の両親ではなく、父方の叔父夫婦であることを除けば、ごく普通の高校生。物事に対して、ぼんやりとした反応を返すことが多く、活発な方ではない。性格はよく言えば物静か、悪く言えば無気力で、必要がない限り、まず自分から動こうとはしない怠け者。運動はとにかく苦手で、頭もあまり良くない。ただ、山間の寒村の出身で、小学校、中学校は片道一時間近くかかる山道を毎日のように自転車で往復していた経験から、脚力と持久力は密かに自信がある。趣味は読書で、興味がない分野でも読み漁る。文字さえ見るだけで幸せという変態じみた乱読屋。ただ、記憶力は良くないため、読んだ本でも、興味がない内容はすぐに忘れてしまう。両親がいなくなった原因は、趣味の登山で遭難したため。既に行方不明になって七年が経過しているため、死亡扱いとなっている。叔父夫婦には息子と娘がいる。年子であり、両方とも平八郎の二つ下である。引取先は父方の叔父なので、苗字は変わっていない。父の名前は平次郎。高上家の男子の名前は、祖父の昌一郎の名前から生まれた順に数字となっている。 固定ロイス 関係 名前 感情(Possive) 感情(Negative) 備考 Dロイス 奇妙な同居人 坂崎いつせ 好意○ 悔悟 賢者の石のため、平八郎から離れられない者。高上家に居候することになる。 養子先の家族 高上喜三郎、高上広野、高上晴十郎、高上吉野 好意○ 家族 父の弟の高上喜三郎の家族。平八郎を引き取る。 一般アイテム 名称 種別 技能 常備化 噂好きの友人 噂話で判定するときには2r10+3が4r10+3となる。 (名称記入) (種別記入) (技能記入) (常備化記入) 合計 侵蝕率修正 現在の侵蝕率 0%~59% 60%~79% 80%~99% 100%~129% 130%~159% 160%~199% 追加ダイス ±0 +1 +2 +3 +4 +5 エフェクト上昇 ±0 +1 +2
https://w.atwiki.jp/kyokushidan/pages/39.html
東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人である。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であった英国のジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、『陸の乃木 海の東郷』と乃木希典陸軍大将と並び称され、日露戦争の英雄として国民の尊敬を集めた。 ※Wikipediaより転載 ではない。決してない。ないと信じたい。 おーい、誰か東郷平八郎の行方を知らんか?
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/527.html
Template Infobox 軍人? 東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1847年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人である。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であった英国のジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、『陸の乃木 海の東郷』と乃木希典陸軍大将と並び称され、日露戦争の英雄として国民の尊敬を集めた『日本の歴史 明治』より。。 生涯 生い立ち 薩摩国鹿児島城下の加冶屋町二本松馬場(下加治屋町方限)に、薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。幼名は仲五郎、14歳の時元服して平八郎実良と名乗る。慶応3年(1867年6月に分家して一家を興す。薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。 イギリス留学 大政奉還、明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが、大久保は「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」と言い断った。次いで西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定した。東郷の才能を軍人にあると見込んだ西郷の人物眼の確かさをも物語るものであろう。 当初英国ダートマスの王立海軍兵学校への留学を希望したが英国の事情で許されず、商船学校のウースター協会で学ぶことになる。留学先では「togo、china」とからかわれるなど苦労が多く、おしゃべりだった性格はすっかり無口になってしまったと言われている。しかし宮古湾海戦に参戦していたことを告げると、一躍英雄として扱われることとなった。この留学の間に国際法を学んだことによって、日清戦争時に防護巡洋艦浪速の艦長として停船の警告に応じない英国の商船(高陞号)を撃沈するにあたって、このことは国際法に違反しない行為であると正しく判断できたのだとされている。さらに、このときの沈着な判断力が、のちに連合艦隊司令長官に人選される要素となった。 帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際、東郷の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。 日清戦争 明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。 日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。これは後の対米戦備での位置づけから閑職であったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。但し、東郷自身は中央への移動を希望していたようである。しかしながら日露開戦前の緊迫時期に海軍首脳の山本権兵衛に呼び戻され、明治36年(1903年)12月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。本来は常備艦隊司令長官である日高壮之丞がそのまま就任するのが筋であったが、山本が我の強い日高を嫌って命令に忠実な東郷を据えたのだといわれる。しかし実際には、日高が健康問題を抱えており指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷が至極順当に選ばれたというのが真相であった。 またこの時、明治天皇に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われている。 日露戦争 250px|thumb|連合艦隊旗艦[[三笠 (戦艦)|三笠の艦橋で指揮をとる東郷、1905年]] 明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦三笠に座乗してロシア東洋艦隊(ロシア第一太平洋艦隊)の基地である旅順港の攻撃(旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。 そして明治38年(1905年)5月27日、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し 」と秋山真之参謀が起草し大本営に一報を打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した晩年になってこの文言を、1932年の軍人勅諭奉戴五十周年記念放送においてレコードに録音した。このことで肉声が残っている。。東郷は丁字戦法「トウゴウ・ターン」を使って海戦に勝利を納めた。 この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたトルコにおいても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は国民的英雄となった『学び、考える歴史』浜島書店。その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった『学び、考える歴史』浜島書店。 日露戦争後 日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進する。日露戦争終了直後、訪問艦にてイギリスに渡洋、他の将校・乗組員とともにサッカー(フットボールリーグ、ニューカッスル・ユナイテッドのホームゲーム)を観戦ニューカッスル・ユナイテッド、初期の黄金期の出来事である。ニューカッスルは造船所や兵器工廠、砲廠アームストロング社などがあり、日本にとって重要な取引先であり留学先でもあった。日本海海戦にもこの造船所で作られた戦艦が多数参加、主力艦を占めた。。 明治38年(1905年)から同42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。明治40年(1907年)には伯爵を授爵。大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年(1926年)に大勲位菊花章頸飾を受章。当時の頸飾受章者は皇太子裕仁親王と閑院宮載仁親王だけだった。 また、タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなった。 晩年 末次信正、加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用し軍政に干渉した。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題はその典型であるが、その他に明治以来の懸案であった兵科と機関科の処遇格差の是正(一系問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても東郷は改革案に反対した。結局、この問題は終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。その他にも、第一種軍装を詰襟から英国式のダブルに変更する案が出たが、「この服(詰襟を指す)で、日本海海戦に勝ちました」との東郷の一言で、変更の話は立ち消えになった。 壮年時代はよく遊び、料亭に数日間も居続けたり、鉄砲打ちに出かけたりしたが、晩年は質素倹約を旨とし、趣味といえば盆栽と碁を嗜む程度であった。自ら七輪を用いて、料理をすることもあったという。しかし新聞記者に対し妻が、新婚時代内職して家計を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配を掛けたことはないと激怒した。 死去 昭和9年(1934年)、88歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。死去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。6月5日に国葬が執り行われた。国葬の際にはイギリス帝国海軍東洋艦隊旗艦の重巡洋艦ケント、アメリカ海軍アジア艦隊旗艦のヒューストンやフランス、オランダ、イタリア、中国の艦船が直ちに東京湾を目指して出港。儀仗隊を葬列に参加させ、弔砲を定刻に発砲し、偉大な功績を称えた中国の軍艦寧海は国葬時刻に間に合わぬと判断し、儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせ、自らは後日弔意を示した。 東郷の遺髪は英海軍のホレーショ・ネルソンの遺髪と共に海上自衛隊幹部候補生学校(江田島)に厳重に保管されている。 子孫には海軍兵学校40期生で少将になった息子の東郷実、その子で72期生の東郷良一(少尉で重巡洋艦摩耶に乗組み、比島沖海戦で戦死し2階級特進で大尉になった)、曾孫には防衛大学校卒の幹部海上自衛官がいる。係累の東郷良尚は日本ユニセフ協会の副会長である。 影響 神格化 死後東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現福津市)に「東郷神社」が建立され神として祭られた。但し東郷自身は生前乃木神社建立の時、将来自身を祭る神社の設立計画を聞いて、止めて欲しいと強く懇願したが、結局神社は建立されている。また銅像が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園と鹿児島県鹿児島市の多賀山公園にある。東京都府中市には別荘地に建立された東郷寺があり、桜の名所である。 晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた。海軍省内では伏見宮博恭王軍令部総長とともに「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障碍とみなされた。井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐したうえで、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と語っている。また岡田啓介・米内光政・山本五十六なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。 錬度を上げることに熱心で聯合艦隊解散の辞に「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」という言葉を残している。 昭和天皇は学習院時代、院長であった乃木希典については印象深く、尊敬もしていると述べているが、東宮御学問所総裁であった東郷については、後年、記者の質問に「何の印象もない」と答えている。 東郷元帥の名を冠した「東郷鋼(はがね)」という鉄鋼製品が作られていた事から、東郷元帥に反発する海軍内の佐官や将官の手で「東郷バカネ」という地口が作られ、流布したという。ただ実際は海外鋼輸入問屋河合鋼鉄のライバル流通が考え出した洒落という説もある。日本の産業界が当時、国産第一を標榜していた背景で考察する事も可能である参考、「たたらのはなし」日立金属HP。 東郷ビール伝説 「長年ロシアの圧迫を受けてきた北欧諸国では人気絶大で、フィンランドでは東郷の肖像をラベルにしたビールが売られていた」といういわゆる「東郷ビール伝説」があるが、これは1970年から1992年まで製造され2003年に復刻版製造された「提督ビールシリーズ」の一つで、山本五十六、また日露戦争で東郷と戦ったロシアのステパン・マカロフ、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー両提督も同じシリーズのラベルになっており、フィンランドで特別に東郷平八郎が人気絶大といった事実はない。東郷のラベルのものは1971年製造開始された。なお現在日本で販売されている「東郷ビール」は、オランダで製造されているプライベートビールに日本の会社がフィンランド「提督ビールシリーズ」で使われた東郷ラベルをつけているものである。 逸話 死後、私邸が東郷元帥記念公園として使用される。現在でも私邸に置かれていた獅子像などが残っている。 一般に寡黙、荘重という印象があるが時として軽忽な一面もみせた。晩年学習院に招かれた際、講演中に生徒に「将来は何になりたいか」と質問し「軍人になりたい」と答えた生徒に「軍人になると死ぬぞ」 「なるなら陸軍ではなく海軍に入れ。海軍なら死なないから」と発言し、陸軍大将であった乃木希典院長を憮然とさせたというエピソードがある。 東郷は宮古湾海戦にて奮戦、戦死した甲賀源吾を軍人として尊敬していた。また、明治新政府によって逆賊として斬首に処せられた小栗忠順の名誉を後に回復している。日本海海戦でバルチック艦隊を破って後、山村で隠棲していた彼の遺族を私邸に招き、「日本海海戦で勝利を得たのは、(小栗上野介が生前に建造した)横須賀造船所で艦隊の十分な補給と整備を受けることができたからである」と故人の功績を称え、感謝の言葉を惜しまなかったという。 東郷の国葬に併せて米英両国から日本向けに追悼のメッセージがラジオで放送された。アメリカからはウィリアム・スタンドレイ海軍作戦部長のメッセージがNBCから、イギリスからはボルトン・イヤーズ=モンセル海軍大臣のメッセージが英国放送協会からそれぞれ放送されたが、アメリカからの放送では予定より早く終了したため、時間調整に日本の曲として『お江戸日本橋』『かっぽれ』という、おおよそ追悼に似つかわしくない音楽が放送されてしまうというハプニングが起こった。この模様が全国に生中継されてしまった日本国内では、アメリカ側の選曲を問題視する声が一部で出たという。 ワシントン軍縮条約の結果主力艦の保有比率が対米英6割と希望の7割より低く抑えられたことに憤激する将官達に向かって、「でも訓練には比率も制限もないでしょう」と諭したと言われる。(伊藤正徳著「連合艦隊の最後」) 日本海海戦時カール・ツァイスの双眼鏡を敵の沈没状況や降伏確認に使用した。この双眼鏡は5倍と10倍兼用で、発売されて間もない1904年(明治37年)小西本店(現コニカミノルタホールディングス)が輸入したもの。現在は三笠記念館に収蔵されている。 元国連事務総長のブトロス・ガリは日本に来ると必ず東郷神社に参拝した。エジプト出身であるガリは「小さい頃、ものすごく励まされた、心を解放された」と言っている。 水生昆虫のカワゲラにはトウゴウカワゲラ属(Togoperla )がある。これは、チェコ人昆虫学者Frant Klapálekが東郷平八郎にちなんで名づけたとされ、他にもオオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)、カミムラカワゲラ(上村彦之丞)と名づけられたカワゲラ属が存在する。 東郷が亡くなった1934年にはブラジルでカステロエス会社が東郷へのオマージュとして『Cigarros Guensui』という銘柄のタバコを販売した。宣伝には日本語で『聖将東郷元帥永久の思ひ出にシガーロス「元帥」を日本の皆様に捧ぐ』と書かれていた。 日本海海戦の際、旗艦三笠に掲げられた大将旗は1911年、英国国王ジョージ5世の戴冠式に明治天皇の名代、東伏見宮依仁親王に随行して出席した際、かつての留学先だった海員練習船「ウースター」校に寄贈されていた。日本側にこうした経緯を記した記録がなかったため、長らく所在不明となっていたが、2004年東郷神社の松橋暉男宮司が著書の執筆にあたり調査したところ、ウースター校の財産を引き継いでいる財団マリン・ソサエティーが、同時に寄贈された銀杯や東郷元帥の胸像とともに所蔵していることがわかった。神社側が来年の大祭の際に貸してもらうよう申し入れたところ、無償で永久貸与されることになった。 系譜 東郷氏 桓武平氏渋谷氏流 吉左衛門実友━┳実猗 ┣祐之進(夭折) ┣小倉壮九郎 ┣平八郎━━━━┳彪━━┳一雄―=┳良夫━━┳良久━━┳龍太 ┗四郎左衛門実武┣實 ┣良子 ┣尚子 ┗平 ┗将平 ┗八千代┗百子 ┗宗子 東郷を演じた俳優 田崎潤 - 『明治天皇と日露大戦争』 三船敏郎 - 『日本海大海戦』・『日本海大海戦 海ゆかば』 渡哲也 - 『坂の上の雲』(NHK・21世紀スペシャル大河ドラマ) 脚注 参考文献 真木洋三 『東郷平八郎 (上・下)』 ISBN 4163084304 ISBN 4163084401 ISBN 416730502X ISBN 4167305038 星亮一 『沈黙の提督―海将 東郷平八郎伝』 ISBN 4769809891 生出寿 『海軍の父 山本権兵衛~日本を救った炯眼なる男の生涯』 ISBN 4769804504 ISBN 4769820542 『日本戦艦史』(『世界の艦船』増刊号)海人社、1988 ノビコフ, プリボイ 『ツシマ―バルチック艦隊の壊滅 (上・下)』 ISBN 4562014768 ISBN 4562022515 ISBN 4562022523 司馬遼太郎 『坂の上の雲』 文春文庫(1999年版) 1 ISBN 4167105764、2 ISBN 4167105772、3 ISBN 4167105780、4 ISBN 4167105799、5 ISBN 4167105802、6 ISBN 4167105810、7 ISBN 4167105829、8 ISBN 4167105837 吉村昭 『海の史劇』、新潮文庫、ISBN 4101117101 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月5日 (木) 14 30。