約 28,521 件
https://w.atwiki.jp/ookamisw/pages/100.html
デカダンスRPGイノセンス オンライン用テキストキャラクターシート ──────────────────────────────────────── PL:マヤ ──────────────────────────────────────── 「私を陥れた人間は決して許さない」 キャラ名 :ソフィー・ドロテーア 年齢 :18 性別 :女 堕落レベル:0/16〈 堕落確定レベル 〉 権力レベル:5 学歴 :大学教育 境遇 :〈焚書官〉【抵抗判定】と、超常現象に関する【知識判定】「+10」 境遇 :〈策士〉《陰謀工作》の手配に限り《権力レベル》「+1」、【手配判定】「+20」 立場:魔狩人 階級 :聖職者階級 家柄 :騎士階級 運勢 :安定平穏 楔:自分の立場 魅力 :《アルビノ》《童顔》《小柄》 嗜好 :《典雅》《美髭》《病的》 性癖 :《観察》《研究》《支配》 経験点 :0 ──────────────────────────────────────── 《 命運:10 》《 穢れ:00 》《 所持金:80 》《 経験点:00 》 ──────────────────────────────────────── 《 能力値 》 〈 能力合計値【430/500】成長限界合計値 〉 器用 機敏 体格 知恵 意思 権力 財力 基礎【60】【40】【40】【70】【60】【80】【80】 + + + + + + + 成長【 】【 】【 】【 】【 】【 】【 】 合計【 】【 】【 】【 】【 】【 】【 】 ──────────────────────────────────────── 《 罪 》 憤怒 怠惰 傲慢 暴食 色欲 強欲 嫉妬 【 2 】【 0 】【 2 】【 1 】【 1 】【 2 】【 4 】 ──────────────────────────────────────── ■ 装備品・所持品・乗物 《武器》 【 素手 】 種別:近接片手 価値:-- 重量:-- 射程:0PT 威力:0 備考:素手攻撃 【 短剣 】権力80 種別:近接片手 価値:45 重量:10 射程:0PT 威力:1 備考: 【 クロスボウ 】権力80 種別:射撃両手 価値:60 重量:40 装填:3 射程:4~10PT 威力:4 備考:矢は5本につき「重量:1」「価格:5」 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 《 防具 》 【 衣装:豪奢で派手な服 】 価値:60 重量:00 備考:なし 【 鎧:ソフトレザー 】権力80 価値:60 重量:20 備考:威力2以上の射撃 【 盾:マンゴーシュ 】権力80 価値:30 重量:10 備考:威力2以上の射撃 【衣装】防御:【腕部】- 【脚部】- 【急所】- 【頭部】- 【 鎧 】防御:【腕部】10 【脚部】10 【急所】5 【頭部】5 【 盾 】防御:【腕部】10 【脚部】5 【急所】5 【頭部】5 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 《 所持品 》 種別:消耗品 【 - 】 価値:00 重量:00 備考: 種別:非消耗品 【 水袋 】 価値: 5 重量:10 備考:飲み水1日分 【 教典 】 価値: 5 重量:20 備考: 【 - 】 価値:00 重量:00 備考: 【 - 】 価値:00 重量:00 備考: 種別:装身具 【 ガヴェルシンボル 】 価値:45 重量: 5 備考:権力80 【 豪奢な外套 】 価値:50 重量:10 備考:権力80 【 豪奢な帽子 】 価値:40 重量: 1 備考:権力80 【 マスク 】 価値:35 重量:00 備考:権力80 総合重量:46/80(体格×2) ──────────────────────────────────────── 《 乗物 》 【 幌馬車 】権力80、価格60 始動:3 速度:3 命運:4 耐久:10 積載:1000 備考: 【 軍用馬 】権力80、価格60 始動:1 速度:4 命運:6 耐久:- 積載:250 備考: 【軽鎧】〈重量:50〉〈防護:一律10〉〈権力:80〉〈価格:30〉 ──────────────────────────────────────── ■ 家 《 家屋 》 【 城の居館 】40+5*2+4*3+3*5=77 部屋数:28 階層:5 厩:10 住人: 未管理の部屋数:0 雇用済従者:10(上級2、中級3、下級5) 従者の部屋数:5 ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 《 保管物 》 種別:所持品 【 睡眠薬 】×2 価値: 10 重量: 5 備考: 【 毒薬 】×2 価値: 20 重量: 5 備考: 【 解毒剤 】×2 価値: 10 重量: 5 備考: 【 - 】 価値: 00 重量:00 備考: 種別:家具 【 書架 】×2(書庫) 価値: 20 重量:60 備考:【家】の中で行う【知識判定】に「+5」 【 加工場 】(キッチン) 価値: 20 重量:60 備考:【家】の中で行う【解体判定】と【加工判定】の時間半分 【 快眠寝具 】(寝室) 価値: 60 重量:80 備考:必要休息時間-2時間 【 鍵付きトラップ箱 】×2 価値: 20 重量:30 備考:重量20までの【所持品】を、総重量100まで 種別:仕掛け 【 快適キッチン 】(キッチン) 価値: 20 重量:-- 備考: 【 水道 】×2(キッチン、浴室) 価値: 80 重量:-- 備考: 【 強化窓 】×4(自室、寝室、屋根裏、地下室) 価値: 10 重量:-- 備考: 【 隠し扉 】×2(寝室、屋根裏) 価値: 20 重量:-- 備考: 総合価値:500/560( (財力-未管理の部屋数)×保管 ) ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 《部屋割り》 屋根裏:「倉庫」 5 階:「自室」「寝室」 4 階:「執事」「」「」 3 階:「メイド長」「メイド上」「」「」 2 階:「メイド」「メイド」「メイド」「書庫」「執務室」「」 1 階:「キッチン」「食堂」「ホール」「浴室・洗濯場」「応接間」 地下室:「倉庫」 地下牢:「」「」「」「」「」「」 ──────────────────────────────────────── ■ 設定他 外見設定 :歳にそぐわぬ童顔&低身長。5歳くらい幼く見られる。 白い肌に白い髪に赤い目、アルビノって怖い。 経歴設定 :弟が生まれたから女は政略結婚の道具にしようと思ったけど、 こいつ弟に嫉妬して騒動ばかり起こしやがる鬼子じゃねぇか修道院へぽーい。 しかし、持ち前の知識欲からの成り上がり欲が非常に高く、すごい勢いで成長、その結果すごい人とコネを作った。 ■ シナリオ履歴/シート変更履歴 (堕落レベルの変動や成長、特殊な設定追加や変更を行った場合は、概要を記してください。)
https://w.atwiki.jp/picnicbu/pages/93.html
元来著名人・名士を表す言葉で、特別な権力や財力をもつ人間、もしくはそういったグループのリーダーや役職者を表した。時が経つにつれ、芸能・スポーツにおいて、こういった権力者に匹敵するほど権力や財力を持つものが現れ、メディアにより彼らに強く脚光が浴びせられるようになると、メディア露出の多い芸能界やスポーツ界においての有名人の事をいうように変容していった。現在、日本ではセレブと略され、金持ち、優雅、高級、などの意味合いで使用される事が多い。 言葉の語幹はラテン語形容詞celeberに由来し、有名な(celebrated)という意味を持つ事から、元来は有名人といった訳が近く、元来の英語ではセレブリティという言葉自体に「金持ち」や「優雅」などの意味合いはない。 最終更新日:2007年04月15日19時50分08秒
https://w.atwiki.jp/ideology-database/pages/124.html
The New Order 寡頭的自由主義 アイコン編集 英名 Oligarchic Liberalism 別名 登場作品 The New Order 上位イデオロギー 自由保守主義 主要なイデオローグ 革命の潜在性の残り火が燃え盛る炎となったとき、過去数世紀の封建貴族は次々と悲劇に見舞われた。領主たちは逃走し、彼らの複雑な抑圧体制もろとも崩壊した。旧体制の焼け焦げた死骸の上に、自由主義の松明が立てられたのだろうが、旧勢力が残した権力の空白は埋められなかった。そこで、空白を埋めるために新しい階級が現れた。それが寡頭政治家だ。 偉大な自由主義の伝統は、人間の不可侵で普遍的な権利を宣言し、民主的な政体を確立する。権力は人民に属し、人民が代表者に選挙によって委任することで形成される国家である。一見、これは寡頭政の概念と相容れないように見えるかもしれない。しかし、厳格なイデオロギーの枠を越えて見てみれば、矛盾は溶解し、統一が形成される点に到達するはずだ。富と豊かさを持つ寡頭政治家達は獰猛な大衆と乖離しているかもしれないが、自らを大衆の利益の前衛として位置づけることで、彼らは民主的な過程の先頭に立つことができるのだ。 権力は人民に属し、権力は人民から生まれる。しかし、実は人民は自分たちで自分を支配することができない。人民にとって幸いなことに、常に慈悲深い寡頭政治家が彼らの名の下に自由主義の松明を掲げ、支配するだろう。彼らの民主的な代表者として。 (TNO日本語化Modより引用)
https://w.atwiki.jp/saikyoumousou5/pages/478.html
【妄想属性】僕は嘘をついてはいけない 【作品名】ハリー・ポッター 【名前】ドローレス・アンブリッジ 【属性】自称校長 【大きさ】【攻撃力】【防御力】【素早さ】成人女性並み 【特殊能力】ホグワーツ高等尋問官としての権力を使い自身や相手の設定を幾らでも好き勝手に変更できる また、スリザリン生の中から選りすぐった高等尋問官親衛隊が彼女に味方する 高等尋問官親衛隊は彼女と同等の権力を持ちあらゆる全てより前から幾らでも行動可能 【長所】権力 【短所】存在そのもの 295 :格無しさん:2016/06/05(日) 17 59 30.14 ID a/2ZPhC2 ドローレス・アンブリッジ 考察 あらゆる全てより前から設定変更出来る ランカ・リーと同列
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/209.html
「法の支配」が「立法者の支配」と化するとき、少なくとも原則として、人類史上先例のない「法の名において」の圧制への道が開かれる。 ~ G.サルトーリ(アメリカの政治学者) 『デモクラシーの理論』(1965年) 通常は「民主主義」と翻訳されるデモクラシー(democracy)について、考えていくページ <目次> ■1.デモクラシーとは何か◆藤井厳喜(国際政治学者)WEBサイト 第01講「デモクラシーとは何だろう?」 ◆辞書による説明 ◆自由主義思想家による説明 ■2.政体分類と政体変遷論◆古代ギリシャ・ローマの政体論 ◆政体変遷の実例 ■3.立憲政体(“法の支配”の下にある混合政体)の確立◆混合政体の実例 ◆古代ローマの混合政体 ◆イギリスの立憲君主制の確立(権威と権力の分離型) ◆アメリカ合衆国の立憲政体の確立(厳格な三権分立型) ◆なぜ混合政体が安定するのか? ■4.立憲政体の普及◆欧州諸国における混乱~立憲政体確立までの経緯 ◆権威と権力の分離の伝統が確立していた日本 ◆日本の立憲政体の確立(五箇条ご誓文~明治憲法制定) ■5.大衆デモクラシーの発展と脅威◆真正デモクラシーと衆愚政治(モボクラシー)の比較 ◆無制限デモクラシーは全体主義に至る ◆なぜ我々は騙されるのか? ◆「国民主権」の誤用:「誰が支配するか」ではなく「いかに専制を防ぐか」 ■6.真正デモクラシーでは権力は“法の支配”の下にある◆真の憲法(国憲、国体)とは何か ◆真の憲法(国憲・国体)の再叙述=自主憲法制定 ■7.参考図書 ■8.ご意見、情報提供 ■1.デモクラシーとは何か ◆ 藤井厳喜(国際政治学者)WEBサイト 第01講「デモクラシーとは何だろう?」 http //www.nicovideo.jp/watch/sm9721169 藤井厳喜アカデミー【国民の為の政治学】第01講「デモクラシーとは何だろう?」(平成22年2月12日) (コメントを消す場合は、画面にカーソルを当て右隅のマークをクリックしてください。) http //www.nicovideo.jp/watch/sm9721520 藤井厳喜アカデミー【国民の為の政治学】第01講「デモクラシーとは何だろう?」特別補足篇 (コメントを消す場合は、画面にカーソルを当て右隅のマークをクリックしてください。) ◆辞書による説明 (1) ブリタニカ・コンサイス百科事典(democracyの項)より全文翻訳 最高権力が一般民衆(the people)に帰属しており、彼らが、 1 直接的に、または、 2 通常は定期的な自由選挙に係る代議制度を通して間接的に、最高権力を行使する政治形態(form of government)。 直接民主政体(direct democracy)においては、公衆(the public)は政治に直接参加する(例として、①古代ギリシャの幾つかの都市国家、②ニュー・イングランドの幾つかのタウン・ミーティング、③近代スイスのカントン)。 今日の殆どのデモクラシーは代議制である。代議制民主政体(representative democrasy)は、欧州中世期から啓蒙期を通して発展した理念と制度によって、そしてアメリカとフランスの革命において大きく興起した。 デモクラシーは今日では、①普通選挙、②公職を巡る競争、③言論と出版の自由、④法の支配、を当然に含意するものとなっている。 デモクラシー(民主政体) 1 直接デモクラシー 古代ギリシャの幾つかの都市国家(アテネなど)、スイスのカントン(小郡) の2つの形態 2 間接デモクラシー(代議制デモクラシー) 近代以降の殆どの国民国家(nation state)で採用されているデモクラシー (2) オックスフォード英語事典(democracyの項)より抜粋翻訳 ・全人口集団または一国家の全有資格者による政体(a system of government:政治形態)であって、典型的には選出された代議員を通して行われる。 語源(ギリシャ語) democratia ← demos(=the people:一般民衆) + -cratia(=power, rule 権力、支配)⇒「一般民衆による権力、支配」 (3) コウビルド英語事典(democracyの項)より全文翻訳 1 ・デモクラシー(democracy)とは、人々(people)が投票によって自身の支配者を選出する政体(a system of government)である。 2 ・デモクラシー(a democracy)とは、一般民衆(the people)が投票によって自身の政府を選出する国家(a country)である。 3 ・デモクラシー(democracy)とは、組織や企業やグループを運営する制度(a system)であって、各々のメンバーは投票と諸決定への参加の資格が付与されている。 ◆自由主義思想家による説明 (1) J.F.スティーブン(英国コモン・ロー学者、王座裁判所判事)『自由、平等、友愛』(1873) 「我々は、支配者を打倒する代わりに、頭数を数えることで力を試すことに同意している。…勝利を得るのは、最も賢明な人々の側ではなく、当分の間、優越的な力(疑いもなく、叡智がその中の一要素である)を、最大多数の積極的共感を支持に取り付ける事によって示す側にある。少数派は譲歩するが、それは、間違っていると確信するからではなく、少数派だと確信するからである。」 (2) K.R.ポパー(オーストリア出身でナチス支配期に英国に帰化した科学哲学者)『開かれた社会とその敵』(1945) 「・・・というのは二つの主要なタイプの政府が区別されるかも知れないからである 1 第一のタイプは、血を流すことなく-例えば総選挙によって-排除することの出来る政府から成る。即ち①社会制度は統治者が被統治者によって追い払われる手段を提供し、②社会的伝統はこれらの制度が権力を握っている人々によって容易に破棄されないことを保証する。 2 第二のタイプは、被統治者が革命の成功による以外-即ち大抵の場合、全く-排除することの出来ない政府から成る。 私は「民主政体(democracy)」という用語を第一のタイプの政府、また「専制政体(autocracy)」や「独裁政体(tyranny)」という用語を第二のタイプに対する速記表現として提案する。これは伝統的な語法に一致すると思われる。」 (3) L.ミーゼス(オーストリア出身でナチス支配期にアメリカに帰化した経済学者)『人間行為論』(1949) 「国内の平和のために、自由主義は民主政体的政府(democratic government)を目指す。それゆえ、民主政体(democracy)は革命的制度ではない。それどころか、それは革命や内乱を防ぐまさしく手段なのである。民主政体(democracy)は、政治を多数者の意思に平和的に適合させるための手段を提供する。」 (4) F.A.ハイエク(オーストリア出身でナチス支配期にイギリスに帰化した経済学者・法哲学者・政治思想家)『法と立法と自由(第3巻):自由人の政治的秩序』(1979) 「政治的理想を表現する大部分の用語の宿命であると思われるが、「デモクラシー」はその用語の本来の意味とはほとんど関係のない様々な事柄を記述するために使われてきたし、今でも、実際に意味されるものが「平等(equality)」であるところで、しばしば使われている。 1 厳密に言えば、それは、政府の裁決を決定するための方法、ないしは手続きに関係するのであって 2 政府の何らかの実質的な善、あるいは狙い(例えば一種の物質的平等)に関係するものでも、非政府組織(例えば教育・医療・軍事あるいは商業に関する組織)に合理的に適用できる方法でもない。これらの誤用はいずれも「デモクラシー」という言葉からあらゆる明確な意味を奪っている。」 「デモクラシーは、専制支配(autocracy)から我々を保護する唯一のもの(例え、その現行形態においては確かなものでないにしても)であるために、固守するに値する理想である、ということである。」「今までに発見された平和的な政権交代の唯一の方法として、それは消極的な価値ではあるが、最高の価値の一つである。それは疫病に対する予防策に匹敵する。」 (5) J.A.シュンペーター(オーストリア出身でナチス支配期にアメリカに帰化した経済学者、但し自由主義より社会主義的傾向が強い)『資本主義、社会主義、デモクラシー』(1942) 「デモクラシーは一つの政治的な方法である。即ちデモクラシーは、政治的-立法的・行政的な-決定に到達するためのある型の制度的装置であって、従って、一定の歴史的条件下で、それが生み出すどんな結果にも関係なく、それ自体では目的となり得ないものである。」 ■2.政体分類と政体変遷論 ◆古代ギリシャ・ローマの政体論 古代ギリシャ/ローマ世界において、プラトン/アリストテレス/ポリュビオスといった哲人・歴史家が様々な政体の分類と変転原因を研究しています。 (1)支配者の数、と、(2)統治の状態(良好か堕落しているか)の2つの基準に着目した彼らの分類は、近代以降の各国の政体変動の分析にも大いに参考になります。 ただし後述のように、これらの分類には、近代の国民国家が革命・内乱・戦争の末にようやく確立した(3)「権威と権力の分離」や「権力分立」という政体安定化のための重要要素の観点が欠落していることに留意して下さい。 支配者の数 一人 少数 構成員全員 良好な形態 ①君主政体(monarchy) ②貴族政体(aristocracy) ③民主政体(democracy) 堕落した形態 ⑥僭主政体(tyranny) ⑤寡頭政体(oligarchy) ④衆愚政体(mobocracy) ※僭主(せんしゅ)とは、武力や大衆扇動などの非合法的な手段で支配者に成り上がった者をいい、統治の正統性を持つ君主と区別されます。 これらの政体間の変遷について様々な順序が考えられました。 例えば、プラトンは『国家』において、①完全国家(君主政体)⇒②名誉政体(貴族政体)⇒⑤寡頭政体(富裕層の支配)⇒③民主政体(自由すなわち無法の支配)⇒⑥僭主政体 …という順序で国家は一直線に堕落していくと考えました。 また、ポリュビオスは『歴史』において、①君主政体⇒⑥世襲により僭主政体に堕落⇒②貴族政体⇒⑤寡頭政体に堕落⇒③民主政体⇒④衆愚政体に堕落⇒再度①君主政体に戻る ・・・という順序で政体が循環すると考えました(政体循環論)。 こうした古代ギリシャ及びローマ世界の実経験に学んだ哲人・歴史家たちの研究は、以下のようにまとめられ、この認識が近代に至るまで長く統治者や知識人にとって政治に関する常識とされました。 (1) 良臣や賢者に支えられて理想の名君が統治する①君主政体が最良の政体(政治形態)である。 (2) 無知・無責任・強欲な貧民が大勢を占める一般民衆が政治を取り仕切る③民主政体は早晩、④衆愚政治に堕落する。 (3) ④衆愚政治の混乱の中から、大衆扇動に長けた人物が出て権力を奪取し、最悪の⑥僭主政体が出現する。 ◆政体変遷の実例 上記の古代ギリシャ・ローマの政体分類と政体変遷論を実例に当て嵌めて考察します。 国家 ①君主政体(monarchy) ③民主政体(democracy) ④衆愚政体(mobocracy) ⑥僭主政体(tyranny) その後 (1) 古代アテネ 王国 共和国 ペロポネソス戦争敗戦後三十僭主制 民主政体回復するも弱体化→マケドニア王国に服属 (2) 古代ローマ 王国 共和国 第一回三頭政治→カエサル(シーザー)独裁→第二回三頭政治 オクタヴィアヌスの統一→元首制を採用した安定的な帝政へ (3) 17世紀イギリス 王国(前期スチュワート朝) 長期議会の支配(名目上は王国) 共和国(残部議会) 共和国(護国卿O.クロムウェル独裁) クロムウェル死後息子R.クロムウェルが後継するも無能のため無政府状態に陥る→王政復古(後期スチュワート朝)→名誉革命(立憲君主政体確立) (4) 18世紀フランス 王国(前期ブルボン朝) 国民議会の支配(名目上は王国) 第一共和政(国民公会の支配→ジャコバン独裁→総裁政府) ナポレオン独裁(統領政府→第一帝政へ) ナポレオン戦争で敗北→王政復古(後期ブルボン朝)→七月王政(オルレアン朝) (5) 19世紀フランス 王国(オルレアン朝) 第二共和政 ルイ・ナポレオン独裁(共和国大統領→第二帝政へ) 普仏戦争で敗北→第三共和政でようやく安定 (6) 20世紀ドイツ 第二帝国 ワイマール共和国 ナチス独裁(第三帝国) 第二次大戦で敗北→西側のみ連邦共和国となり安定 (7) 20世紀ロシア 帝国(ロマノフ朝) 臨時政府(ケレンスキー首班) ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)…共産党一党独裁(レーニン→スターリン) 第二次大戦で勢力拡大→国内の圧政と長期の米ソ冷戦で疲弊→解体 (8) 20世紀中国 帝国(清朝) 中華民国…袁世凱独裁→軍閥割拠→蒋介石(国民党政府)独裁→国共内戦 中華人民共和国…共産党一党独裁(毛沢東→鄧小平) 共産党独裁は現在も継続 ■3.立憲政体(“法の支配”の下にある混合政体)の確立 上記の政体分類のうち良好な形態である、①君主政体、②貴族政体、③民主政体、の3つの各々の長所を組み合わせることにより、安定的で有能な政体が生まれることが、次第に経験的に認識されるようになりました。(混合政体mixed government) こうした混合政体では、各機関の権力の妥当する範囲や相互関係を調整するための合意が、慣習あるいは成文として明示され、各機関がそれを遵守することによって政体の安定性が担保されます。 分立された各機関の権力が、不文あるいは成文の国憲に拘束され、相互に抑制することにより権力の独占や濫用が防止される政体を立憲政体(constitutional government)といいます。 ◆混合政体の実例 国家 ①君主政体の要素 ②貴族政体の要素 ③民主政体の要素 (1) 古代ローマ(共和政) ①´コンスル(執政官) ②´元老院 ③´平民会・・・護民官を選任 (2) 古代ローマ(帝政) ①皇帝 ②´元老院(名目的) ③´平民会(名目的)・・・護民官(名目的)を選任 (3) イギリス ①国王 ②貴族院(上院) ③庶民院(下院)・・・首相を事実上選任 (4) アメリカ ①´大統領 ②´元老院(上院) ③代議院(下院) (5) フランス ①´大統領 ②´元老院(上院) ③国民議会(下院)・・・首相を選任 (6) ドイツ ①´大統領(名目的) ②´連邦参議院 ③連邦議会(下院)・・・首相を選任 (7) 日本(明治憲法下) ①天皇 ②貴族院 ③衆議院…首相を選任(1924-32) (8) 日本(現憲法下) ①天皇 ②´参議院 ③衆議院・・・首相を選任 ※①´は擬似君主的な要素、②´は擬似貴族的な要素 説明 権威と権力を保持 権威のみ保持 権力のみ保持 ◆古代ローマの混合政体 ギリシャ出身で共和制ローマの将軍小スキピオの家庭教師を務めた歴史家ポリュビオスは、ローマの共和政体が、①2名のコンスル(執政官)+②貴族階級の元老院+③平民階級の平民会および彼らの代表である2名の護民官、という君主政体・貴族政体・民主政体の3要素を複合しており、カルタゴやマケドニアなどのライバル国に比較して、はるかに安定的かつ有効に機能していることを指摘しました。 共和制ローマは、その後の領域拡大と経済発展による社会の複雑化に対して、従来の任期1年・2名という弱体なコンスル制では対処できなくなり、元老院を中心とする閥族派(スゥラ)と平民派(マリウス)の抗争(衆愚制)、軍事力や財力を背景にした有力政治家による三頭政治(寡頭制)やカエサル独裁(僭主制)の時期を経て、カエサルの後継者であるオクタヴィアヌスによる武力統一に至ります。 オクタヴィアヌスはローマ市民の感情に配慮して元老院の権威を尊重し、元老院から「第一の市民」(プリンケプス=元首)という称号を授けられて実質的にローマに帝政を敷くことになります。この元老院に代表される共和制の精神を加味した専制的ではない帝政を元首制(プリンキパトス)といい、アメリカ合衆国の政体(大統領+元老院+代議院)はこれを模して設計されるなど近代の政治制度にも大きな影響を及ぼしています。 その後ローマでは、ネロ・カリギュラなどの暴君も一時出ましたが、元老院の権威を受けて帝国を統治する五賢帝と呼ばれる名君が輩出して帝国は大いに繁栄しました。 ◆イギリスの立憲君主制の確立(権威と権力の分離型) 16世紀後半のエリザベス女王の統治下で大いに国力の伸張したイングランドは、女王に後継者がいなかったため縁戚のスコットランド国王を新国王に迎え入れました。 ところがカトリック教徒(スコットランドはカトリック国)であった新国王側は、新教徒(イングランド国教会や清教徒)に宗教的圧迫を加えたので、国王と議会が衝突し、清教徒であるO.クロムウェル率いる鉄騎兵が勇戦した議会側が勝利を収めました(清教徒革命)。 O.クロムウェルは国内の混乱を武力収拾すると、国王を処刑し、共和政(コモンウェルス)を樹立しました(護国卿政権)。 彼の死後、後を継いだR.クロムウェルは政治的に無能で、一時的に無政府状態に陥ったために、貴族など有力者は、大陸に亡命政権を立てていた王室に帰還を求めました(王政復古(1660))。 しかしカトリック教徒の国王側が、宗教政策で再度国民を圧迫したため、議会のトーリー・ホイッグ両党が連名でオランダに嫁いでいた新教徒のメアリー王女と夫のオレンジ公オランダ総督ウィリアムに『権利章典』の承認と引き換えに王位を差し出して、旧教徒の国王一家を追放しました(名誉革命)。 その後、メアリー女王の妹であるアン女王が即位した時期に、フランスに亡命していたカトリックの旧王一族の復位を避けるため、王位継承者を新教徒に限定する『王位継承法』が定められ、その規定に従って、アン女王没後に、ドイツから新教徒のハノーバー公が王位に迎え入れられました。(なおアン女王の時代に、イングランドとスコットランドが統一して連合王国(U.K.=イギリス)が誕生しています。) ドイツ生まれの新国王ジョージ1世は、英語が話せず閣議を主催できなかったために、ホイッグ党の指導者であったウォルポールがこれを代行し、議会の有力党の党首が国政を執る責任内閣制が生まれました。 こうして、イギリスにおいて「国王は君臨すれども統治せず」という政治原則、つまり、①権威(Authority)を体現する国王と、②権力(Power)を保持する議会という「権威と権力の分離」が確立されました。 国王と議会は、ともに『マグナ・カルタ』『権利請願』『権利章典』『王位継承法』などの成文法典や慣習化された不文律を含む国憲(constitution)を遵守し、国王のみならず、議会もまた「絶対無制限の権力」を行使することは許されません。 国王・議会・司法官が共に“法”(制定法ではなくコモン・ロー(慣習法たる祖法))に拘束され、 議会といえども無制限の権力を行使しえない原則を『法の支配』(rule of law)といい、 このように『法の支配』の下にある制限された君主政体を『立憲君主政体』といいます。 18世紀のイギリス法学者ブラックストーンは大著『イギリス法釈義』を著わして、「法の支配」の原則を定式化しました。 また19世紀後半に活躍したジャーナリストのウォルター・バジョットは『イギリス憲政論』を著わして、「権威(政府の尊厳的部分)と権力(政府の実用的部分)」が分離され安定的に運用されているイギリス政体を明瞭な筆致で分析・描写しました。 ブラックストーンの著作は、アメリカ合衆国の建設者たちに大いに参考にされ、バジョットの著作は明治憲法の制定に関わる論議に参考にされました。 ところが、バジョットの後に出た憲法学者のA.V.ダイシーは、主著『憲法序説』で、イギリス憲法の特徴を、①法の支配、②議会主権、③憲法慣習律、の3つであると定式化し、本来は、①法の支配と両立しないはずの、②議会主権(議会が最高権力を持つ)という説が流布したまま現在に至っています。 ◆アメリカ合衆国の立憲政体の確立(厳格な三権分立型) 1783年にイギリスから正式に独立を承認されたアメリカ東部13邦では、法制度の整備・運用に当たって、前述したブラックストーンの『イギリス法釈義』が大いに参考にされましたが、実体が曖昧な不文憲法ではなく、明文憲法を採択して政府の権限を明確化することが、分立した各邦との権限の境界を明確にする必要から強く求められ、世界最初の近代的成文憲法である「アメリカ合衆国憲法」が起草されて、各邦が激論の末に順次これを批准して、1788年にアメリカ合衆国が建国されました。 イギリス国王の権威から離れたアメリカでは、イギリス式の厳格な「権威と権力の分離」方式は困難でしたが、ローマ帝国の元首制や、ルネサンス期イタリアの共和国の国政を参考に、①国家元首たる大統領(擬似国王的な存在)、②元老院(Senate:上院、各州等分の議席配分で擬似貴族院的な存在)、③代議院(House of Representatives:下院、人口に比例して各州に議席を割り当てる平民院的な存在)の3機関を分立させ、①大統領、②元老院に権力と共に一定の権威を付与する方式を採用しました。 それと共に、違憲立法審査権を持つ強力な、④司法裁判所を設置して、特に議会の立法権を制約する仕組みを設け、行政(大統領府)・立法(議会)・司法(裁判所)、の三権が互にチェック バランスを行う厳格な三権分立方式を採用しました。 アメリカ式の成文憲法によって国政を規律する方式を『立憲主義』(constitutionalism)といい、 立憲主義に基づく民主政体を『立憲民主政体』といいます。 このように厳密には、イギリスは立憲君主政体(constitutional monarchy)であり、アメリカ合衆国は立憲民主政体(constitutional democracy)なのですが、イギリスにおいても、政府(立法および行政)の実権は選挙を通して一般民衆に保持されていると見なしうるので、これを民主的政府あるいは民主的政治(democratic government)と呼ぶ今日の用例が発生しました。 ◆なぜ混合政体が安定するのか? アメリカ型の厳格な権力分立が機能している場合を除いて、一般に権威と権力が未分離な前近代的政体においては、権力者による専制支配に陥りやすく、これを取り除くには、革命やクーデターによるしか方法がない。これに対して、 権威と権力が分離されている政体では、権力の所在が移動しても、 権威が不動であるために、政治的混乱に陥る危険が回避される。 つまり不動の権威の存在が、伝統と相まって、暴力によらない民主的な(=頭数を数えて行う)権力の交代を保障する。 現代においても多くのアジア・アフリカの新興諸国、最近までのラテン-アメリカ諸国が政治的に不安定なのは、①国内に伝統的な政治的権威の担い手が存在せず、②権力者の専制支配に陥りがちで、③それゆえに、アメリカ型の厳格な権力分立制度の確立も不可能だからである。 ■4.立憲政体の普及 欧州諸国は、安定的で有能な立憲政体を確立するまでに、各々数十年単位の混乱を経験することになりました。 こうした混乱のあとで出現した立憲政体は、次の3パターンに分類できます。 (1)権威と権力が明確に分離されたイギリス型の立憲君主政体(権力分立は不徹底) (2)厳格な権力分立によりCHECK BALANCEを機能させるアメリカ型の立憲民主政体 (3)上記の折衷型で、名目的な大統領と責任内閣制を採用した立憲民主政体 ◆欧州諸国における混乱~立憲政体確立までの経緯 国家 混乱の開始 混乱のピーク 混乱の収束 混乱期間 混乱後に採用された政体 イギリス 清教徒革命(1640-49) クロムウェル独裁(1653-59) 名誉革命(1688) 49年間 イギリス型 フランス フランス大革命(1789-99) ジャコバン独裁(1793-94) 第三共和制発足(1871) 82年間 折衷型 ドイツ ドイツ革命・敗戦(1918) ナチス独裁(1933-45) ドイツ連邦共和国発足(1949) 32年間 折衷型 ロシア ロシア革命(1917) スターリン個人独裁(1924-53) ソ連邦崩壊・ロシア独立(1991) 74年間 アメリカ型 ◆権威と権力の分離の伝統が確立していた日本 欧州諸国は、近代において各々、数十年規模の国内の混乱や戦争の経験を通じて、ようやくイギリス型の「権威と権力の分離」やアメリカ型の「厳格な三権分立」に保障された安定した立憲政体にたどり着いたのであるが、日本においては既に古代から、権威(天皇)と権力(蘇我氏・藤原氏など)の分離の伝統が自生しており、ことに中世期以降は、天皇(および公家)は専ら権威のみを保持し、権力は武士階級が保有するという二重構造が定着した。 幕末に欧米列強の脅威が高まると、従来の幕藩体制では有効な対処が出来ず、折から高まっていた尊皇攘夷の思想潮流に押し流される形で、徳川政権は、専ら権威のみを保持していた朝廷に対して、政治権力の返還を願い出るに至った(大政奉還)。 朝廷は、これを受け入れて王政復古の大号令を発したが、その直後に朝廷の実権を握る倒幕派公家が長州・薩摩など西国雄藩と図って、徳川家に将軍職のみならずその広大な領地の返還と内大臣職の辞官をも要求する挙に出たため、倒幕派と佐幕派の武力抗争が勃発した(戊辰戦争)。 しかしながら、緒戦の鳥羽伏見の戦で敗北した徳川家は朝廷の権威に対して恭順の態度に出たために、戊辰戦争は幕府と朝廷および薩長など西国雄藩の全面戦争とはならず、なお薩長の政権奪取の方式に不満を覚える佐幕派と討伐軍との局所的な武力抗争に留まり、まもなく薩長と公家が中核を占める維新政権が確立された。 ◆日本の立憲政体の確立(五箇条ご誓文~明治憲法制定) 戊辰戦争で、江戸城開城の行われる1ヶ月前の1867年3月、京都において明治天皇が皇祖皇宗の神霊に誓う形式で、維新政権の基本方針を示した「 五箇条のご誓文 」が宣布された。 そのご誓文は第一条に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と明記されており、維新政権においては、従来の武士階級による権力の独占ではなく、広く国民から意見を集めて国家の方針を決定することが示された。 五箇条御誓文(慶応4年(明治元年)3月14日) 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス 一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ 以降、この第一条を根拠に、国民各層の意見を求める具体的な制度の導入が官民双方から熱心に検討されるようになり、板垣退助らの自由民権運動(1874年以降)、国会開設の詔勅(1881)を経て、大日本帝国憲法発布(1889)、大日本帝国憲法施行・第一回衆議院選挙(1890)に至って、日本にも混合政体と代議制デモクラシーを備えた立憲政体が確立された。 薩長藩閥は、憲法制定当初はなお超然内閣(議会の動向とは独立した内閣)を主張する者が多かったが、まもなく円滑な政治運営のために議会と協調し多数派を獲得する方針に転換し、のちには議会で多数を占める党派から首相を選出する英国型の政治運営方式(「憲政の常道」と呼ばれる)が導入されるに至った(1924-32まで)。 代議制に関しては、なお当初は財産による制限により国民の中に占める有権者の割合が低かったが、国力の上昇とともに有権者の範囲は徐々に拡大されていき、大正期に入ると第二次護憲運動の成果によりついに男子普通選挙権が実現する運びとなった(1925年以降)。 このように戦前の日本には、当時の欧米諸国と全く遜色のない議会制デモクラシーが営まれていたのである。 ■5.大衆デモクラシーの発展と脅威 上記のように欧米や日本では、近代の国民国家の政体は、①混合政体を、不文または成文憲法によって保障する立憲政体として徐々に確立されていった。 その中で、混合政体のうち特に権力を代表する部分である民主政体部分は、古代ギリシャにおけるような直接デモクラシーではなく、有資格者が投票により選任する代議制デモクラシー(間接デモクラシー)として発展してきた。 有権者の範囲は、当初はどの国家も一定の財産などを前提とした一般民衆の中の限られた部分に過ぎなかったが、近代化が進み一般国民の間に政治的権利を求める動きが高まるに従って、段階的に有権者の範囲が拡大され、やがて一定年齢以上の国民に一律に投票権を付与する制度(普通選挙制度)が普及していった。 こうして成立した民主政体部分が肥大化した政治体制を、俗に大衆デモクラシー(mass democracy)という。 大衆デモクラシーは、立憲政体を生み出した当初の思想家たちが危惧したように、デモクラシーのモボクラシー化(衆愚政体化)の危険をもたらした。 君主政体・貴族政体・民主政体の混合した安定した政体として確立された近代の立憲政体が、その民主政体部分の肥大化によって、古代ギリシャ・ローマ時代からのセオリー(理論)どおりに、衆愚政治に接近していってしまう事態に至ったのである。 ◆真正デモクラシーと衆愚政治(モボクラシー)の比較 真正デモクラシー 衆愚政治(モボクラシー) 権力の制限 多数者の同意を得た権力であっても“法”(一般ルール)に従う必要がある。⇒制限された政府権力(自由と共存) 多数者の賛同を得た権力は無制限である⇒全能の政府権力(自由を圧殺=全体主義化) 憲法との関係 成文憲法は、憲法自体の規定により改訂できる。しかしその場合でも、真の憲法(constitution:国憲、国体)に違反する内容を定めることは出来ない 憲法(成文憲法)は、その時々の多数派の意向により自由に改訂できる。なお民衆の意思が全てに優先するので、成文憲法を超える真の憲法(国憲、国体)といったものは認められない(人定法主義) 立法権との関係 立法府が定めた法律であっても、司法府によって違憲(“法”(一般ルール)違反)とされる場合がある(司法府による違憲立法審査権の行使) 立法府が定めたものが法である。多数派の同意を得た立法府は無制限に法を定めうる。 思想的背景 英米法の伝統、イギリス経験論の伝統 大陸法の伝統、大陸合理論の伝統 ◆無制限デモクラシーは全体主義に至る 「政府が行うことは全て、多数者の同意を必要とする」というデモクラシーの原則は、「多数者の賛同があれば政府は無制限に権力を行使しうる」ということを決して意味しない。この両者は完全に別物である。 しかし、近代の歴史の教える所によれば、ことに20世紀の歴史では、有力な扇動者が「権力はもはや人民の手中にあるのだから、人民の権力を制限する必要はない」と訴えて、この主張が現実に実行に移された事例が幾つもある(人民主権論)。 こうして、デモクラシーはモボクラシー(衆愚政治)を経て、全体主義(totalitarianism)という新たな専制支配(autocracy)・独裁政治(tyranny)に変容する。 ◆なぜ我々は騙されるのか? 我々が、扇動者の悪魔の囁きにだまされてしまうのは、一つには「デモクラシーが(その来歴から見て)単なる手段(制度)であって目的ではない事」を理解し損ねるからである。 例えば日本語においては、「民主主義」という訳語自体が一つの誤解の元、あるいはトリックとなっている。 democracy は -ism(主義・思想)ではなく -cracy(制度)である。 このページの一番上に示した辞書による説明を見ても明らかなとおり、democracy は a system of government(政治あるいは政府の一制度)に過ぎず、日本語に訳す場合は「民主政体」「民主政治」が正しい。「民主主義」という言葉は日本語として既に定着はしているが、明らかな誤訳である。 ※もし「民主主義」(国家の主権が人民にあり、人民が主体となって全体の幸福・利益を図ることを目的とする主義・思想)という訳語を使うならば、それは democratism という余り使われない単語に対して使うのが正しい。 デモクラシーという制度は、それ自体が何か目的を持っているわけではないが、それが平和的な権力交代を可能にするほぼ唯一の政治的方法であり、その効用が高いために近代以降に世界の国々に順次普及していった制度である。 上に述べたような全体主義者によって詐称されたデモクラシー(人民民主主義)ではなく、真正のデモクラシーを採用する国々は、国民の大部分が①意見の形成と、②形成された意見の実現に向けて自発的に参加する事が期待できるので、短期はそうでなくとも、中長期的に見ると、小数のエリートが大多数の無力の人民の指導をする体制の国々に比較して、明らかに良好な政治的・経済的また文化的な成果を達成することが可能となるのである。 但し、歴史に明らかなとおり、デモクラシー(民主政体)は、扇動に弱いという弱点を抱えている。特に外部からの強い意図(イデオロギー)を持った誘導工作に弱いことが実証されている。 これを克服するためには、国民一人一人の情報識別能力の向上が必須であるが、一般に何時の時代・どのような地域をとっても、それは困難なことのようである。 ◆「国民主権」の誤用:「誰が支配するか」ではなく「いかに専制を防ぐか」 「誰が支配するか」という主権論は、ブルボン朝フランス王国のような「君主主権」を主張する者に対抗する上で一定の意味はあったであろうが、現代では「国民主権」(あるいは「人民主権」)つまり「国民全員(人民全員)が主権者である」と声高に唱えることに、果たしてどれだけ意味があるのだろうか? 「国民全員が主権者である」という言葉が、全体主義者によって「国民が同意したことは無制限に実行されてよい」という誘導に利用されていないだろうか? 「国民全員が主権者である」という言葉は、国民へのご機嫌取り的な含意を取り除けば、実質的には「何も言っていない」のと同じではないだろうか? 政治において、まず第一に考えるべきことは、「悪い政治」(専制支配)が出現する可能性を あらかじめ取り除く制度的な仕組みを整えておくことである。(制度的抑制) 「デモクラシー」が「民主主義」と誤訳され、それが一種のスローガン化(価値・目的化)している所では、この大事な視点が見失われがちである。 我々はむしろ「デモクラシー」を、それが平和的な権力移動を可能にするほぼ唯一の方法として基本的には評価しながらも、常に「衆愚政治(モボクラシー)」に堕落し易いものとして警戒し、それを防止する制度的仕組みを真剣に考案する必要がある。 ■6.真正デモクラシーでは権力は“法の支配”の下にある ここで真正デモクラシーのあり方を再度確認しよう。 真正デモクラシーでは、権力は“法”(=一般ルール)によって制約される。 この原則を“法の支配”という。 なお、ここでいう“法”とは立法府の定める「法律」ではなくて、「真の憲法、国憲、国体」である。 ◆真の憲法(国憲、国体)とは何か 戦後教育を受けた我々にとって、憲法といえば成文憲法しか思い浮かばず、それが国家の唯一最高の法規だと多くの人が信じこんでいるが、戦前においては、そのようなことは決してなかったのである。 例えば、戦前において、「国体」という言葉の解釈を巡って激論が交わされたが、この「国体」という概念は、明治憲法の制定に先立って存在すると見なされ、明治憲法は国体を部分的に明文化したものである、という建前が取られていた。 戦後においても、例えば、日本国憲法第九条は、明確に軍隊の保有を禁止しているが、最高裁判所の憲法判断は「自衛隊は合憲」である。 最高裁判所の判決理由では、憲法の文言の一部を拡張解釈して「自衛隊は合憲」の結論を導出しているが、憲法がもし今ある成文憲法だけだとすれば、どう憲法を読んでも「自衛隊は明らかに武力を保有しているため違憲」という判断にしかならないはずである。 それでも自衛隊が合憲となるのは、成文憲法である日本国憲法より上位に“真の憲法=国憲・国体”が存在し、それが日本国民の当然の権利として、武力の保持を認めている(つまり現行憲法は、真の憲法=国憲・国体に違反している)と解釈するのが真っ当なあり方である。 こうした真の憲法=国憲・国体が、たとえ有権者の多数の賛同を得ても、立法府や行政府には、無制限の権力を行使して国民の自由を圧殺する権限は認められない、という一般ルールを定めている、と見なすのが、真正デモクラシーである。 真正デモクラシーは、“法”(一般ルール)に拘束され、無制限の権力を決して認めない。 この“法”を憲法(国憲・国体)という。この場合の憲法は成文憲法とは限らない。 ◆真の憲法(国憲・国体)の再叙述=自主憲法制定 明治憲法は、五箇条のご誓文(1867)宣布より23年の歳月をかけて、最終的に伊藤博文・井上馨・金子堅太郎・伊東巳代治の四名により編纂され1889年に発布された。 この間、国民各層から多様な民間試案が発表され、喧々諤々の激論が交わされた。 今の教科書では、明治憲法はプロイセン憲法を真似ただけの外見的立憲主義の非民主的憲法などと教わるが、これは全くの歪曲である。 上記4名の中で、伊藤博文はアメリカ憲法の注釈書『ザ・フェデラリスト』を終始参考にして憲法注釈に取り組んだことが知られており、金子堅太郎はイギリス保守思想の代表者エドマンド・バークの著作を部分訳ながら本邦初訳したことで知られる親英米派である。 伊藤博文が統一間もないドイツおよびオーストリアに憲法取調べに出向いて学んだのは、憲法の条文ではなくて、憲法を編纂する上での心構えである。すなわち「憲法は自国の歴史・伝統が体現されたものでなくてはならぬ」という歴史法学の方法論である。 こうして熟慮の末に日本の歴史・伝統を踏まえて編纂されたのが明治憲法であり、当時の日本は堂々の自主憲法を制定したのである。 もちろん明治憲法が、日本的な立憲体制と真正デモクラシーを制度的に保障する仕組みに欠けていたのは事実である。だが、それは明治憲法の欠陥というよりは時代的な制約であろうし、昭和初期の世界的な激動の中で立憲政体が機能不全に陥ったのは何も日本だけではないのである。 戦後まもなくに、GHQ作成原文を翻訳して作った日本国憲法には、当然ながら日本の歴史・伝統への考慮はない。日本の真の憲法(国憲・国体)を汲んでいないのである。(加えて、日本の安全保障への考慮すらない亡国憲法である。) 明治の先達に倣って、①日本の歴史・伝統を踏まえ、②真正デモクラシーの制度的保障を備えた、自主憲法を制定するために国民各層が目覚めることが必要である。 ■7.参考図書 『法と立法と自由』(全3巻)F.A.ハイエク著(1971-79) 第一部:ルールと秩序第二部:社会正義の幻想第三部:自由人の政治的秩序 【関連】 リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 国家解体思想の正体 リベラリズムの真実 日本国憲法改正問題(上級編) 明治憲法の真実 ■8.ご意見、情報提供 今度の参院選は我が国の大衆デモクラシーの衆愚度合いが問われる選挙になるものと覚悟せざるを得ない。内容的にまだまだ粗いと思うが、そうした衆愚政治の問題を考えていくために当ページをとりあえず作成しました。 -- ページ作成者 (2010-06-14 21 54 07) 凄く良いページですね -- 名無しさん (2010-12-03 17 21 44) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/1755.html
阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第七章 国民主権と憲法制定権力 p.99以下 <目次> ■第一節 国民主権にいう「国民」の意味[107] (一)視点によって「国民」もさまざまな意味をもつ [108] (ニ)「国民」は実在する統一体であるかどうか論争され続けている [109] (三)二つの主権論はフランス独特の論争である ■第ニ節 わが国における国民主権論争[110] (一)国家法人説のもとで主権的機関は選挙人団とされる [111] (ニ)ノモス主権説はそれ特有の主権概念を前提としていた [112] (三)国民主権のイデオロギー性が次第に気づかれてくる [113] (四)ナシオン主権・プープル主権をめぐって主権論争はピークに達した [114] (五)主権の見方によって代表制のあり方も変化する [115] (六)主権の見方は日本国憲法の解釈にも影響するといわれる [116] (七)主権論争は「主権」の法的性質の理解の違いを反映している [117] (八)フランス流主権論争は個別的結論を決定しない ■第三節 憲法制定権力の意義[118] (一)憲法制定権力は意思主義的発想を基礎とする [119] (ニ)政治的意思としての制憲権の発動は国制の正当性まで根拠づけない ■第四節 制憲権の理論化とその展開[120] (一)シェイエスは第三階級の圧倒的有利を説きたかった [121] (ニ)シェイエスは事実上の力としての制憲権を考えていた [122] (三)シェイエス以降、制憲権と改正権との本質的差異が強調されてくる [123] (四)シュミットはさらに精密な制憲権論を作り上げた ■第五節 制憲権の法的性質[124] (一)制憲権は実力であるか [125] (二)制憲権は規範的力であるか [126] (三)制憲権は受動的な監視権限であるか [127] (四)制憲権は実定憲法の正当性原理であるか [128] (五)制憲権論は有害無益であるか ■第六節 国民主権と憲法典との関係[129] (一)制憲権の主体は歴史的に変転してきた [130] (ニ)制憲権論は憲法典の構造まで指示しているか [131] (三)制憲権が意思の発現であるとすれば、その本質は実力と理解せざるを得ない [132] (四)制憲権は意思の力であるとする理論は、合理的人間像に基づく近代哲学の嫡流に属する ■第一節 国民主権にいう「国民」の意味 [107] (一)視点によって「国民」もさまざまな意味をもつ 国民には、国家権力の主体としてのそれ(主体としての国民)と、国家行為の対象としてのそれ(客体としての国民)とがある、と先に指摘した([14]参照)。 その区分が、能動的な国家構成員であるところの市民(シトワイアン、シティズン)と、支配に服する臣民(シュジェ、サブジェクト)とに対応する。 そのほかの分類法としては、(ア)憲法典の基本権主体としての国民、(イ)国家機関としての国民(選挙その他憲法典上の規定によって機関権限が認められた場合のそれ)、がある。 本章では、国家権力のあり方を最終的に決定する主体としての国民の意義を問う。 [108] (ニ)「国民」は実在する統一体であるかどうか論争され続けている 「国民」の意義は、全体としての国民を、実在する一つの統一体としてみるか、それとも、観念的な統一体とみるかによって、変わる。 この点はフランス憲法学上これまで盛んに論議されてきた。 そこでの論争はこうである。 A説は、個々のシトワイアンが国家内で集結すれば、個々の構成員に分解できない一つの意思のもとで一つの集合体を実在させるに至る、とみる(この把握の仕方は、いうまでもなく、方法論的集団主義のそれである)。その実在する集合体を「人民(プープル)」といい、その意思を「一般意思」または「共同意思」という。)人民は、実在する統一体であるから、意思・活動能力をもち、統治のあり方を決定する意思の主体となる、とみられる。実在する人民が、国家の最終的な統治のあり方を決定する場合をもって「人民(プープル)主権」という。 これに対してB説は、全体としての国民は、観念的にのみ存在するのであって、君主のような社会的実在ではないとみる。それを「国民(ナシオン)」という。抽象的観念的存在である国民は、意思・活動能力ももたず、具体的政治的権限を行使する主体とはなりえない、とみられる。観念的存在たる国民が、国家の最終的な統治のあり方を決定するものと想定される場合をもって、「国民(ナシオン)主権」という。ナシオン主権理論は、ドイツで説かれた国家法人説のフランス版である。フランスにおいても「国家は一国民の法的人格である」(エスマン)と説かれたように、国民を抽象的に捉えれば、全国民は観念のなかで人格化されて、その人格がもう一つの人格たる国家と同一視されるに至るのである。 [109] (三)二つの主権論はフランス独特の論争である こうした論争は、フランス憲法史に顕著な形で現れた。 まず、フランス革命の人権宣言3条は、「あらゆる主権の淵源は人民(プープル)に存する。いかなる団体も個人も人民により明示的に発しない権力を行使するを得ず」と謳って、人民が政治的最高決定権、つまり、憲法制定権力をもつことを明らかにした。 ところが、1791年憲法では、革命の進行を抑制しようとする市民層(ブルジョアジイ)の思想を反映して、3篇2条において「主権は国民(ナシオン)に属する。人民のいかなる部分もいかなる個人も主権の行使を簒奪することはできない」と謳われた(樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』第Ⅱ部参照)。 こうした論争は、フランス特有の社会的勢力間の権力闘争を巡る歴史的背景と抽象理論を好むフランス人特有の思考法をもっているのであって、我が国に直輸入される必要はない。 ■第ニ節 わが国における国民主権論争 [110] (一)国家法人説のもとで主権的機関は選挙人団とされる 国家法人説が支配的であった日本国憲法制定当時には、国家の諸機関のうち、優越的な政治的決定権を有している機関が主権者であると考えられていた。 この把握の仕方は、最高機関意思説と呼ばれる([15]参照)。 この立場からすれば、主権者とは、「機関としての国民(選挙人団)」となる。 しかし、この説には、次のような難点が残されている。 ① 国民が選挙人団という国家機関とされるのは、憲法典または有権者の範囲を決定している公選法の定めの帰結であって、憲法典や法律から憲法(国制)を理解するという本末転倒の論理であること、 ② わが国の場合、憲法41条が「国会は、国権の最高機関」としていることと抵触する可能性のあること、 ③ 主権概念を具体的な諸政治機関の内部に求めていること(主権とは、国家支配の源泉という意味であったはずである)、 ④ 国家を法人と捉えるのは、国家への権利義務の帰属を法技術的に説明するための道具であって、それ以外の局面で、国家を法人と捉える必要はないこと、 ⑤ 国民の中に、主権者と、そうでない者とが存在する、と考えることは、国民国家として成立した近代国家における国民概念と整合的でないこと。 [111] (ニ)ノモス主権説はそれ特有の主権概念を前提としていた 国家法人説的思考から脱却しようとした憲法制定時直後の学説においては、ノモス主権か国民主権かという論争がみられた(尾高-宮沢論争)。 前者(※注釈:A説)は、政治を最終的に決定し指導するものが、事実や実力ではなく、正義に適うルール、つまり、古代ギリシャ人たちがノモスと呼んだもの(ローマ人のいうイウス ius)でなければならないという観点から、日本国憲法のもとにおいても、主権はノモスにあるとみる説である。 これに対して、後者(※注釈:B説)は、主権論の論点は政治の最終的決定権が誰に帰属するかを問うものである以上、如何なる自然人(またはその集団)が主権の主体となるかを明らかにするものでなければならず、実体のないノモスにその淵源を求めてはならない、と説いた。 この論争は、あるべき妥当性を政治の究極に探求する法哲学と、政治的決定権の具体的な帰属先を探求する憲法学とのアプローチの差を反映していた。 憲法学的にみると、後者の優勢のうちに論争は終結せざるを得なかった。 ノモスが sovereign とする思考は、本来、法の支配にいう「法」の内容に求めるべきものであって、国民主権論の土俵で論ずることに無理があったのである。 J. S. ミルが指摘したように、権力を行使する「民衆」は、権力を行使される「民衆」と必ずしも同一ではない以上、B説(※注釈:宮沢の国民主権説)が正当である。 [112] (三)国民主権のイデオロギー性が次第に気づかれてくる 1960年代になると、論者は、国民主権論が現実の統治権力を制限するよりも正当化する理論に堕してはいないか、との疑念を抱き始めた。 なぜなら、現実には、代表制のもとで、代表が国民から法上独立して統治をしているにも拘らず、徒(いたずら)に国民主権を強調することは、代表の統治権力を国民の名で正当化することになるからである(代表制については、後の[155]~[164]でふれる)。 そこで、当時の論者は、主権を実質化するためには、如何なる代表制であればよいか、自問することになる。 そのために主張されてくるのが、すぐ後にふれる半代表制の理論である(なお、本書の半代表に対する否定的見方については、[166]をみよ)。 [113] (四)ナシオン主権・プープル主権をめぐって主権論争はピークに達した 1970年代になると、フランス憲法学の成果を引証しながら、論者は、我が憲法典の採用する主権原理が、ナシオン主権、プープル主権のいずれに定礎しているかにつき論争を始めた(杉原-樋口論争)。 こうした論者は、プープル主権、ナシオン主権でいう「プープル」「ナシオン」の意義については見方を共通にしつつも、それが如何なる統治構造や代表制を伴うか、という点で見解を異にした(もっとも、有権者団をプープル、国民全体をナシオンとみる立場もある)。 [114] (五)主権の見方によって代表制のあり方も変化する ナシオン主権のもとでは、フランスの1791年憲法が謳ったように、「権力の唯一の淵源である国民は、委任によってのみその権力を行使しうる」とされ、間接民主制のもとでの代表制が採用される。この代表制を「純(粋)代表」という(詳しくは、後の[159]参照)(この91年憲法は、王の身体から国家を分離することを目的として制定された。そこに持ち出されたのが、国家の真の構成要素である「国民」であった。国家は「国民」に要約される法人とみられ、ここに国家と国民とが同一化されたのである。ナシオン主権論は、先の[108]でふれるように、フランス流の国家法人説と理解してよい)。 これに対して、プープル主権のもとでは、統一体としての意思をもつ実在としての人民が、政治的決定に自ら参与することが統治構造上の原則となる。すなわち、直接民主制が憲法典上の原則とされなければならない。もっとも、プープル主権のもとであっても、統治の分業が不可避である場合、代表の存在は不可欠となる。直接民主制と妥協しうる代表のあり方としては、半代表制、つまり、代表者意思と人民意思との事実上の同一性を確保する代表制が考えられる。プープル主権原理が、果たして、半代表制を許容するものか否かにつき、我が国のフランス憲法研究者の中でも見解の一致をみない。 [115] (六)主権の見方は日本国憲法の解釈にも影響するといわれる また、右の論争は、基本的には、日本国憲法がプープル主権原理に基づいているとの共通点をみせながらも、如何なる代表観に立っているかにつき、次のような差異をみせる。 A説は、現行憲法典がナシオンからプープル主権への移行期にあって、両者の原理を合わせもっているものの、後者への方向をより強く示しているものとの前提に立って、プープル主権のもとで採用される命令的委任(後述の[159]参照)やリコール制の導入を図ることも現行制度上可能である、とする(杉原泰雄『国民主権と国民代表制』374~9頁)。A説はその論拠として、第一に、歴史法則がナシオンからプープルへの展開を示していること、第二に、主権論の民主化がなければ多数者の人権保障もありえないこと、を挙げる。ところが、人間社会に歴史法則などありようもなく(個々の人間の行為の集積に法則性などなく)、また、主権の民主化が基本権保障にとっての条件であるとすることも、誤った想定である(民主主義は自由の条件ではない)。 B説は、プープルが主権を有するとの命題を立てたとしても、それが統治のあり方を決定するものではない、と考える(樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』290頁以下)。統治者(または統治)と、被統治者(またはその基本権)との間には、埋め尽くし難いギャップが存在するのであって、主権の民主化または主権の権力性を強調するよりも、一方で、主権を実定憲法典の正当性原理として理解するにとどめ、他方で、人権論をもって統治権力に対抗していく方向を重視すべきであると、このB説は説くのである。 [116] (七)主権論争は「主権」の法的性質の理解の違いを反映している さらに、この見解の対立は、主権をどう定義するかとも関連している。 A説は、主権とは国家における包括的統一的支配権(国権)をいい、主権論とは、それが誰に帰属するかという帰属原理を問うものでなければならない、という(国権帰属説)。確かに、この説がいうように、帰属原理如何を問うことが正しい思考であるとしても、それが発動の方向を明確に指示しているわけではなく、人民意思の発動を限界づけるものを問わないまま主権を「包括的統一的支配権」ないし「国権」と構成しても、主権の本質を明確にしたことにはならない(もともと「国権」とは、国家法人説における国家という団体の権利を指していた)。 これに対してB説は、主権とは憲法制定権力、つまり、「国家の最終的な政治的あり方を決定する力または権威」をいうとする(制憲権説)。それは、誰が、どのように憲法制定権力を発動するかを問うのである(その理論は次節でふれる)。 [117] (八)フランス流主権論争は個別的結論を決定しない いずれにせよ、ナシオン主権か、プープル主権かという論争は、「国民」概念の多義性を我々に気づかせるものの、特殊フランス的論争であって、我が国の憲法(国制)解釈に直接の関連をもたない([108]参照)。 憲法解釈に関連性はないものの、一つだけ確実にいえることは、プープル主権論こそ自由な国家にとって最も危険な理論であることである。 その危険性は、主権の万能性と、服従契約としての社会契約を説くルソーの次の理論に現れている(巻末の人名解説をみよ)。 「主権者が自分で侵すことのできぬような法律を自らに課すことは、政治体の本性に反するものである・・・・・・。いかなる種類の根本法[憲法]も、社会契約でさえも、全人民という団体に義務を負わすことはなく、また負わすことはできないことは明らかである。」「社会契約を空虚な法規としないために、この契約は、何人にせよ一般意思への服従を拒む者は、団体全体によってそれに服従するように強制されているという約束を、暗黙のうちに含んでいる。そして、その約束だけが他の約束に効力を与え得るものである。このことは、市民が自由であるように強制される、ということ以外の如何なることをも意味しない」(ルソー『社会契約論』第一編第七章)。 歴史上、この理論は、デュギーや O. ギールケが正当にも指摘した如く、最も血腥い暴政者によって援用され、立憲主義によっていささかも重要な役割を演じなかった。 だからこそ、近代立憲主義は、プープル主権からの「補助的予防装置」(J. マディスン)を講ずる必要性を絶えず説いてきたのである。 ■第三節 憲法制定権力の意義 [118] (一)憲法制定権力は意思主義的発想を基礎とする 憲法制定権力(制憲権)とは、憲法(国制)そのものを基礎づけ、憲法典上の諸機関に権限を付与する権力または権威をいう、とされる。 その権力または権威の淵源は、通常、人(特に、国民)の意思に求められている(芦部『憲法制定権力』3頁は、制憲権を「国家の政治的実存の様式及び形態に関する具体的な全体的決断をなす政治的意思」としている)。 国民の意思に淵源をもつとする制憲権理論を、社会契約と誤って結びつけながら、最初に実定憲法で高々と謳ったのは、マサチューセッツの憲法であった。 その前文に曰く、 「政治的統一は、個人の自由意思による結合によって成立し、それは社会契約の結果であり、この契約により一定の法律に従い一般的利益に合致して統治が為される目的のもとに、人民の全体が各市民と、各市民が市民全体と契約を結ぶのである。」 ところが、その起草者J. アダムスの考えたほどには制憲権理論は単純ではなかった。 [119] (ニ)政治的意思としての制憲権の発動は国制の正当性まで根拠づけない 制憲権を議論するに当たっての論点は、次の如くである。 ① 制憲権の本質は、「権力」すなわち「実力」であるか。 ② 権力または実力の淵源が、統一目的のもとに結集する人々の「政治的意思」にあると考えてよいか。 ③ 制憲権によって創り出された憲法(国制)は、事実状態または権力関係であるか、それとも、規範的秩序であるか(この点については第二章の[32]~[33]をみよ。少なくとも、憲法制定権力にいう憲法とは、我々が日常的に使う「憲法典」を意味しない。制憲権とは、「国制を決定する権力」を指す)。 ④ 制憲権は改正権と同質であるか。 ⑤ 制憲権の主体は、国民であるか、それとも、それ以外でありうるか。国民であるとした場合、その捉え方如何。 意思から権力や正当性が生まれるとする思考は、先に指摘したように([34]参照)、法実証主義のそれである。 ところが、「政治的意思」から権力が生まれ、同時にそれが正当であることを論証することは困難である。 国民の政治的意思といったところで、現実の統治は、少数者による統治である。 国民の政治的意思から国制が基礎づけられるというのは、社会契約論と同様に、合理的な国家はどうあるべきか、という仮設にとどまる。 また、「政治的意思」という「政治」の意義は、政治学においても論争を呼ぶ概念である。 かように、制憲権の本質等を理解するに当たって、我々は様々な難問に遭遇する。 制憲権論の基本的狙いは、那辺(※注釈:なへん、どのあたり)にあったのか。 同理論が体系化されるまでの展開を以下で概観した後、制憲権の本質をみることにしよう。 ■第四節 制憲権の理論化とその展開 [120] (一)シェイエスは第三階級の圧倒的有利を説きたかった 制憲権を最初に体系的に論じたのは、A. シェイエス(1748~1836)である。 彼は、政治社会における個々の市民(シトワイアン)が共通の目的をもって憲法契約に参加するば、プープルという一つの集合体とその共同意思を成立させるとみたうえで、この共同意思のもつ力が主権である、と考えた(シェイエス『第三階級とは何か』)。 この契約によって生じた統一体としてのプープルは、共同意思を発動して憲法(国制)を創設するに当たって(すなわち、制憲権を発動するに当たって)、代表者の意思を常に統制すべく、その共同意思を憲法典という法規範の中に集約して、委任の条件と範囲を代表者に対して示すのである。 制憲権そのものは、超実定憲法上の意思力であり、憲法典は、制憲者意思によって作り出された人為的ルール(設計的意思の所産)なのである。 シェイエスの制憲権理論は、政治的統一体創設のための社会契約と、政治的統一体の憲法契約とを時間的にも、理論的にも区別した点で出色であった(シェイエス著、大岩誠訳『第三階級とは何か』82頁参照)。 彼の理論の目的は、第一に、「国民の共同意思の力=制憲権=主権」という定式を確立することによって、当時圧倒的多数を占めていた第三階級に主権が帰属すべきこと、第二に、憲法によって作り出された権力(特に立法権)は、決して委任の条件と範囲を変えることはできないこと(制憲権と立法権の守備範囲の差)を明らかにすることにあった。 ただし、制憲権と改正権の区別は明確に意識されていない。 [121] (ニ)シェイエスは事実上の力としての制憲権を考えていた シェイエスにおいては、制憲権は、人権保障の領域にあっては、「人権宣言」によって統制されるものの、統治機構の領域では、実体的にも手続的にも法的制約に服さず(この側面は、「実定法超越的」と表現される)、至上最高のものであり、いつでも発動して実定憲法をいかようにも変えることができるもの(その側面は、「実定憲法破壊的」と表現される)、と考えられている(彼は『第三階級とは何か』84頁において、こういう。「国民は全てに優先して存在し、あらゆるものの源泉である。その意思は常に合法であり、その意思こそ法そのものである。それに先立ち、その上にあるものとしては、唯ひとつ、自然法があるに過ぎぬ」)。 彼の理論は、絶対的多数者たる第三階級の意思を一般意思(共同意思)とする、革命のための政治的目論見をもっていた。 その狙いは市民革命によって達成されたものの、共同の敵を失った後にあっては、人民の意思が統一的な公的利益に収斂するとの命題に対して理論上も実践上も疑念が持たれるに至る。 その疑念があるとはいえ、彼の思想は、「誰もが一人として数えられる」という市民的平等のみならず、政治的自由を近代国家のルールとしてもたらし、普通選挙制の到来を準備したのである。 [122] (三)シェイエス以降、制憲権と改正権との本質的差異が強調されてくる 彼の理論が現実政治のなかで実現された後は、右の疑念を反映して、制憲権から超実定憲法的性格を如何に払拭するか、という課題が中心的論争対象となる。 それを解決すべく、制憲権は実定憲法典制定と同時にその権力的性格を自ら凍結し、実定憲法典の正当性を支える原理に変質した、とする理論が登場する。 この段階で制憲権論は、立法権と制憲権の区別を論拠づけるものから、改正権との区別を根拠づけるものへと焦点を移していくことになる。 すなわち、改正権は「憲法によって作り出された権限」であって、「憲法を創り出す権力」とは異なる、と意識されるに至ったのである。 実際、フランス1791年憲法は、制憲権を実定憲法典の正当性原理として凍結させたばかりでなく、改正権から峻別し、さらには、改正権の発動についても厳格な手続を踏むこと、および、改正内容にも限界があることを明示した。 [123] (四)シュミットはさらに精密な制憲権論を作り上げた 目をドイツに転じてみよう。 C. シュミット以前のドイツの理論状況は、国家法人説、概念法学が主流であったため、自然人の意思が権力を生み出すとか、国制のなかに権力的階梯構造が存在する、とかいった理論の成立する余地を残さなかった。 この伝統に決別を告げたのがシュミットであった(巻末の人名解説をみよ)。 彼は、制憲権とは、国家全体のあり方を決定する実力(または権威)をもった政治的意思であるとして、次のような理論を構築した。 まず、この意思の所産を Verfassung (憲法)と呼び、それと個別条規の統一体たる「憲法律」(Verfassungsgesetz)とを区別し、さらに憲法律と、それによって付与された権能とを区別する。 つまり、彼の理論は、「政治的意思たる制憲権→憲法→憲法律→憲法律によって付与された権能(その一つが改正権)」という公式のもとで、政治的意思が階梯的な規範を作り上げていくことを説いたのである。 ■第五節 制憲権の法的性質 【表10】 我が国の制憲権論 ① 実力説(※注釈:A説) 制憲権は、意思(なかでも国民の意思)の発動であり、事実上の力である。(※注釈:佐藤幸治) ② 権限説(※注釈:B説) 制憲権は、一定の規範の授権によって発動される権限である。(※注釈:清宮四郎、芦部信喜) ③ 監督権限説(※注釈:C説) 制憲権は、代表を監督するために発動される権限である。 ④ 正当性原理説(※注釈:権威説、D説) 制憲権は、実定憲法制定とともに、憲法典を支える正当性の源となる。 ⑤ 有害無益説(※注釈:E説) 制憲権を実力と捉えれば実定憲法にとって有害であり、正当性原理であるとすれば無益である。 [124] (一)制憲権は実力であるか 我が国の制憲権への見方も、歴史的にみられた諸説を反映して、さまざまである。 まずA説は、制憲権をもって、法外的な政治的事実の問題とみる(実力説)。 もっとも、その中でも、A'説は、制憲権そのものは政治的事実または意思による決断であっても、その政治的決断に当たって、国民が憲法典を創り上げる際に何を選択する(した)か、という視点を重視する。 同論者は、我が国の制憲権者たる国民が、「よき社会」の形成発展のために自然権保障型を中心部分とする立憲主義的憲法典を選択し、「自己拘束」した、と考えるのである(佐藤・99頁)。 右のA説に対しては、近代立憲主義思想は、制憲権を実力とみないで、ある種の規範によって統制された(またはされるべき)もの、との前提に立って、その規範内容を模索してきたのではなかったか、換言すれば、意思の降り立つ先を事前に示すもの、または、意思自体を拘束するものは何であるかを看過したままでよいか、との疑問が残される。 同様に、A'説についても、政治的決断を事前に限定する何らかの力を問わないままでよいか、との疑問が残される。 「国民の自己拘束」に言及するだけの理論では不十分である。 歴史上の思想家たちは、国民の意思を制約する精神的能力として、例えば、①実践理性(I. カント)、②判断力(A. アレント)、③合理的コミュニケーション能力(J. ハーバーマス)を構想してきたのではなかったか。 [125] (二)制憲権は規範的力であるか B説は、制憲権が根本規範による授権によって根拠づけられた法的な力であるとする(権限説)。 もっとも、その根本規範の捉え方に関して、ケルゼンの如く、仮設的・形式的に実定法の前提として措定するB1説、実定的に定立された実体的法規範と捉えるB2説がある(清宮Ⅰ・33頁)。 ところが、B1説、B2説ともに、根本規範の実体につき、客観性を欠くうらみがある。 なかでも、実定法体系を規範化するルールを、同一の実定法体系に求めるB2説は、根本的な誤りを犯している([94]参照)。 また、制憲権が、個人の尊厳または人格価値不可侵の原則によって規範的拘束を受けているとするB3説もある(芦部・前掲書)。 この説は、制憲権が自然法によって授権されるという「権限説」と、正当性の根拠ともみる(すぐ後の[127]でふれる)「正当性原理説」との折衷説のようである。 権力的モメント(※注釈:moment 契機、物事の変化や発展を引き起こす動的要因となるもの)を示す場合の制憲権の主体は選挙人団、正当性のモメントを示す場合の制憲権の主体は全国民である、と、その担い手によって制憲権の属性に変化をもたせるのが、このB3説の特徴である。 このB3説に関しても、 第一に、 選挙人団は、国家創設後に国法上に登場する概念であって、国制創設の前段階で議論する制憲権の主体とはなり得ないはずではないか、という疑問が残される。選挙人団概念を制憲権論に持ち込むことは、最高国家機関をもって主権者とする説と、国民主権の議論とを混同させるであろう。 第二に、 個人の尊厳または人格不可侵の原則の内容が、制憲権を枠づけるほどの具体的内容をもっているかどうか、疑問とせざるを得ない。さらに、 第三に、 これらの原則が制憲権を拘束するとの命題は結論の提示であって、なぜに、これらの拘束力が付与されるのか(人間の実践理性の故か、自然法の要請なのか)、当該法体系の外にある論拠が示されない限り、それは空論である([94]参照)。 [126] (三)制憲権は受動的な監視権限であるか C説は、制憲権をもって、代表に対して同意を与えまたは与えないことを通して受動的に権力を監督する、現に存在している国民全体の一般意思をいう、とする(監督権力説)。 しかしながら、制憲権は、受動的性格をもつものではなく、代表の権力統制を超えて、権力または権威を積極的に創出するものではなかったか。 代表権力に対する監督は、選挙権や責任政治のレヴェルで志向されるべき問題領域である。 さらには、今日のような多元的社会にあって、一般意思に言及すること自体、もはや不可能といわざるを得ない(ここにいう「多元的」とは、個々人が階層的に秩序づけられておらず、各人の目的が多種多様であることをいう)。 [127] (四)制憲権は実定憲法の正当性原理であるか D説は、制憲権をもって、実定憲法典の正当性を支える最終的権威であると捉える(正当性原理説または権威説)。 この説によれば、本質的には権力(意思力)であり、超実定的な性質をもった制憲権が、実定憲法制定と同時に実定憲法の中に凍結され、正当性の原理となるのである(この説にいう「正当性」の意義、根拠は明確ではないが、おそらく、「正当性」とは、始源的権力保持者が憲法制定に同意したがゆえに拘束力をもつ、ということなのであろう。ここにも合理的意思の神話がみられる)。 もっとも、この見解は、実定憲法を制定すべく発動された制憲権を、実定憲法から事後的に説明するものであって、時間的な観点が、前ニ説とは異なっており、これらの説を同一次元で論議し評価することは避けたほうがよい。 制憲権論は、時間的にも論理的にも実定憲法に先立つ段階を考察対象とする論議である。 権力創出の時点での制憲権の性質をどうみるかという論点と、創出後のそれをどうみるかという論点とを、混同してはならない。 右のD説のように、権力創出時点での制憲権を超実定的かつ実定憲法破壊的と考えることは、創出される権力の正当性やその限界、さらには権力の維持・行使の条件を厳しく問わないことになろう。 [128] (五)制憲権論は有害無益であるか E説は、国民主権にいう主権を制憲権と捉えること自体が有害無益である、とする。 というのは、制憲権に超実定法的性格づけをするとすれば、実定憲法破壊的な危険性を認めることになり、他方、制憲権を単なる正当性の問題に押し込めるとなると、主権を理念的な空虚なものにしてしまうからである。 この点を考慮したうえでE説は、主権を国家における統一的包括的支配権(国権)をいうものと構成して、主権理論はそれが誰に帰属するかを問う議論でなければならない、と主張する。 そのうえで、統一的包括的支配権がプープルに帰属する、とE説は結論するのである。 ところが、この説については、 ① 主権が統一的包括的支配権(国権)であるとしても、その実体は何なのか([116]参照)、 ② その帰属先を分析するだけでは、主権の本質とその限界につき正答を得るに至らないのではないか、 との疑問が残る。 このE説が、制憲権としての主権理論を有害無益であると断罪するのであれば、それをさらに、デュギーほどに徹底して、神秘的な、人民の一体意思を基礎とする国民主権の観念自体を有害無益であるとする道筋をも模索すべきではなかったか。 国民の構成員一人ひとりの選好を総計して生ずる集団的決定は、実は、個人を守らないばかりか、多数派自身をも守らないことが多いのである。 この点に気づいてか、デュギーはいう、「国民主権の神秘的性質は、事実に反して、神秘的性質なしに有り得たよりも遥かに長い間活動期間を国民主権の観念に与えた。しかし国民主権の観念が創造力を失う時が来た。・・・・・・国民主権の観念は最も確実なる事実と明らかに矛盾する」と(デュギー『公法変遷論』20頁)。 本書における制憲権の捉え方は、[132]でふれる。 ■第六節 国民主権と憲法典との関係 [129] (一)制憲権の主体は歴史的に変転してきた 制憲権の主体は、必ずしも国民であるとは限らない。 歴史的には、その主体は君主であることが多かった。 しかし、これまでの憲法理論史をみると、特に啓蒙思想期以降、制憲権は社会契約によって成立した政治的統一体としての国民が発動する権力または権威であると論じられてきており、その主体を国民に求めるのが主流である。 国民が制憲権の主体となる場合をもって「国民主権」という。 国民を主体とする制憲権論、すなわち国民主権論は、統治権力の正当な源泉が国民の意思にあることを説くための理論である(権力創出のための理論)。 その理論は、さらに、社会契約理論と結びついて、国家が社会構成員の合意を通して統治権力を獲得することまで説いた(統治権力獲得のための理論)。 すなわち、国民主権または制憲権の理論は、統治権力の創出および獲得の正当性までを問うものであった。 [130] (ニ)制憲権論は憲法典の構造まで指示しているか 現実の政治過程は、権力の創出、獲得、維持および行使というプロセスからなる。 今後の議論は、今日の統治が「基礎をもたないシステム」となりつつあることを考慮した場合([22]参照)、実定憲法典のもとで維持・行使される統治権の正当性を問うものでなければならない。 換言すれば、権力と権限の行使が、究極的には、人々の公共的な議論を通しての合意に基づく法規範や政治制度に定位しているか否か、不断に検証されなければならない。 権力の創出および獲得の正当性までを問うてきた制憲権論が、権力の維持・行使の正当性まで問いうるものか、疑問となる。 もしも制憲権論が、憲法典の構造の正当性まで指示するものであれば、この疑問も解決されるのであるが。 果たして制憲権論は、最終的な政治的決定権限が誰に帰属するかという論点ばかりでなく、実定憲法の正当性やそのもとでの統治権の行使の正当性を担保するだけの構成(組織)原理を指し示しているであろうか。 この点に関しX説は、日本国民が制憲権を発動するに当たって、立憲主義的内容を選択し、自己拘束して、(イ)統治制度の民主化、(ロ)公開討論の場の確保、という「実定憲法上の構成原理」を日本国憲法に組み込んだとの理解を示して、この疑問を解決しようとする(佐藤・100~101頁)。 その構成原理の具体的要素は、 ① 民意をできる限り反映する「民主的」統治メカニズムを備えること、すなわち、選挙人となりうる人物が最大であること、 ② 選挙人の意思が反映されるよう統治制度が整備されること、 ③ 選挙人の意思が自由に反映できるために、統治者批判が自由であること、 といった要素が挙げられる。 ところが、右の①~③は、「国民主権」によって必然的に要請されるものではない。 先にふれたように([56]参照)、①~③は、統治される国民が統治者に対して有効なコントロールを及ぼすための装置である(「統治される民主主義」)。 国民主権論を右要素と結び付けようとする試みは、実現されるべくもない「治者と被治者との自同性」を夢想する姿に近い。 X説と同様に、X'説は、国民主権とは、選挙人団としての国民がその権力を行使する際の様々なチャネルの整備をも含意している、と解する(芦部『憲法講義ノートⅠ』121頁)。 この見解は、制憲権が正当性原理にとどまらず、権力的色彩を持っていること、その権力主体が国民(選挙人団)であること、を前提にしている。 この立場を推し進めれば、憲法典は有権者意思を反映するような道筋、たとえば、民選議会、参政権、表現の自由等を備えておかなければならない、というX説と同一の見解に帰着することになる。 ところが、この説には、主権概念の混同がみられる。 すなわち、既に [15] においてふれたように、主権とは、あるときには、具体的に存在する国家機関のうちの優越的権限を有している機関をいう場合(「国家最高機関としての主権」)、またときには、最終的支配意思の源をいう場合(「憲法制定権力としての主権」)等があるが、右のX'説は、両者を制憲権概念のなかで説こうとしている点に無理がある。 憲法典上要請される構成原理または統治構造は、あくまで、出来上がった憲法典から理解すべきものである。 その理解に当たって、統治過程の民主化の要請と、国民主権論とを結びつけない道筋も真剣に検討されなければならない。 となると、Y説のように、国民主権の概念と民主的選挙制度等との直接的関連性なし、と考えるべきであろう。 この説によれば、「すべての権力は国民に由来するという [国民主権の] 公式は、代議士の選挙が定期的に繰り返されることに関してよりも、むしろ憲法を制定する集団として組織された国民が、代議制立法府の権力を定める排他的権利を持つことに関連して言われた」のである(ハイエク『自由の条件Ⅱ』66頁)。 この立場を徹底させれば、国民主権はあくまで憲法制定権力と同義であって、主権者が実定憲法の構成原理として何を選択するかは、事前に示されることは決してなく、主権者の選択に委ねられることになるばかりか、国民主権にいう国民が観念的統一体に過ぎないものである以上、主権は正当性原理に過ぎない、と捉えられることになろう。 正当性原理としての国民主権は、独裁制をも許容するものであって、具体的政治組織のあり方については何も指示せず、ただ、すべての国家機関が国民の権威づけのもとに権能を行使することを理念的に示すにとどまる、との理解も十分成立しうる(小嶋・105頁。もっとも、この論者といえども、空虚な主権論とならないために、全体の奉仕者としての公務員観(15条)が要求されると説く)。 [131] (三)制憲権が意思の発現であるとすれば、その本質は実力と理解せざるを得ない 制憲権が人民の意思から発せられる力であると想定するのであれば、その本質は事実上の力であると理解せざるを得ない。 それは、他の力からの授権を要しない実力である。 実力と考えざるを得ないからこそ、近代立憲主義は、それと対立し、それを制約する別の力を追い求めてきたのである。 その別の力とは、自由の概念であった。 もっとも、自由の概念も不動不変ではありえない。 後世は、後世にとっての自由が保障されなければならない。 そのために、憲法典は、後世に対して開かれた部分を用意するのが通例である。 その部分が憲法改正規定である。 改正規定によって後世に開かれた部分を残していることが、現行憲法典の拘束力保持理由の一つである。 従来の制憲権論は、制憲権を野放しにしないために、何らかの権威に由来するものと想定して、根本規範を設定したりして、その権威の淵源(正当性)を追い求めてきた(権威と制憲権との垂直的布置の理論)。 今日までの諸理論は、その追究に成功していない。 この点は次のように考えるべきであろう。 意思の力を淵源とする制憲権は、権威に由来するものではなく、制憲権とは独立に存在する「法」によって横からの制約を受けている(法と制憲権との水平的布置の理論。「法の支配」は、まさにこれを狙ったのである)。 この「法」は、各人の自由な領域を保護する普遍妥当な抽象的ルールである。 このルールを、ハイエクに倣って「自由の法」と呼んでもよい(巻末の人名解説をみよ)。 「自由の法」は、超越論的な思弁の中にあるのではなく、人間社会が事実上存在するその瞬間から生まれ、人間が経験によって学び得た準則である(自由の本質については『憲法理論Ⅱ』で論ずる)。 「自由の法」に代えて、「個人の尊厳」、「人格価値不可侵」といった茫漠とした用語に拠るとすれば、制憲権を制約する内実をその中に発見することは期待できないであろう。 [132] (四)制憲権は意思の力であるとする理論は、合理的人間像に基づく近代哲学の嫡流に属する では、意思から力が発生するという保証はなく、政治的統一意思は今日のような多元的社会にありようもない、とする本書のような醒めた目からすれば、制憲権理論はどう再構成されればよいか。 制憲権の理論は、人民の意思が全ての権力の源であるとする社会契約理論と結びついたフィクションである。 社会契約の理論そのものが、《そうあって欲しいものを合理的に理論化しようとした擬制である》以上、その上に構築された制憲権理論も、擬制に過ぎない。 歴史上、その思想の力が、現実の政治世界に影響を与え、実力としての市民革命という形態をとることもあったし、摩擦なく円滑に実定憲法典の基本理念として採用されることもあった。 制憲権の本質は、実力でもなければ、権限でもない。 それは、合理的国家のあるべき姿を説くための仮設である。 その仮設は、ある国では、それを拒否し続けた専制君主を打倒する革命の理論として実際に採用された。 その現実は「制憲権=実力」と後世に映ることになった。 またある国では、社会契約理論をモデルとした実定憲法典を制定した。 そこでは、制憲権は、実定憲法典を支える「正当性原理」として後世に映ることになるのである。 もともと、制憲権論は、君主という一人の意思の絶対的力に代えて、人民の意思を統治の根底に置く革命の理論であった。 その理論は、君主を排除するところまでは指示するものの、統治の最終的なあるべき姿を指示することはできない。 統治の最終的あるべき姿は、人民の意思や制憲権の理論を統制するものに求めなければならない(もっとも、ある理論が政治的決定に最強の影響を与えることはある)。 だからこそ、我々は「法」、「自由」に言及してこれを統制しようとするのである。 このように考えれば、「国民が制憲権をもつ」とする命題こそ擬制中の擬制である。 一方で、制憲権の主体は観念上の抽象的存在たる「国民」であるとし、他方で、制憲権の本質は実力であると主張することは、自己矛盾である。 というのは、制憲権が実力であれば、具体的に存在する自然人によって行使されるはずのものであって、抽象的存在たる国民が主体となることは不可能だからである(制憲権が抽象的存在たる国民に「帰属する」との表現を用いても解決とならない)。 有効な権力概念であろうとすれば、その保有者が一定の事柄を為し得るか否かを基礎づけなければならず、これに失敗する理論は空論である。
https://w.atwiki.jp/h_session/pages/2084.html
名前:秋津水枝 性別:女 地位:私立序院学園理事長 年齢・誕生日:25歳・10月31日 設定 この学園で最も権力のある女性にして、最も権力のある人間。 父親は国内で有数の製薬会社で代表取締役を務めているが、水枝は愛妾との間の私生児であり、認知はされていない。 出資者である父親の後押しを受けて、また名前を出せない立場である父の代行者として、理事長に就任した。 だが本来なら傀儡となるはずだった彼女は、父親の権力さえも人質に取り、かなりの自由裁量を認められている。 理事たち、出資者、そして生徒たちとの間にある危ういバランスの上に彼女の今の権力は保持されており、 どちらにバランスが崩れても恐らく彼女は奈落にまっさかさまということになるだろう。 アイルランド、ダブリン大学のトリニティ・カレッジと、アメリカのノートルダム大学にそれぞれ2年半在籍し、 20歳にして政治学の博士号を取得している。今も籍だけはノートルダム大学大学院にあり、そのうち法学の博士号も 取るつもりらしい。 性格的には尊大な自身家で、さばさばした男らしいところのある女性。 年齢的には教師より学生に近いが、お世辞にも親しみやすい雰囲気を纏っているとはいえない。 経歴 私立序院学園理事長 性癖 性的にはかなり奔放で、おおよそどういうプレイも許容範囲。 自分が主導権を握ることが多いが、時には蹂躙されることも楽しむ。 相手が男でも女でも動物でも道具でも気にしない。
https://w.atwiki.jp/centurio/pages/108.html
韓非子 人物 中国戦国時代の韓の国に生まれた思想家です。 (韓は中国の王朝で現在の韓国とは別です。) 思想の内容は政治に関するもので、権力の重要性に着目し、 王は治世を通してどうあるべきかを論じたいわゆる「帝王学」です。 韓非子は非常に人間不信が強かったと言われ、彼の思想では 人間への警戒と、有無を言わさぬ強制とが全般に横たわっているといえます。 法・術・勢 韓非子の政治思想において中心をなす、三本の柱となる概念です。 法とは「従うべきもの」、つまり上の者(君主)からの命令です。 下の者(臣下)が動く上での「規準」となります。 法は文書に著して明らかにしておくべきものとされ、 儒教の徳治主義に対して法治主義(法実証主義)の先駆けになったと言われます。 術とは下の者の扱い方のことで、韓非子は具体例として賞罰の運用を挙げます。 上の者が下の者をどう動かすかの技術を指します。 勢とは今の言葉でいえば「権力」です。 権力には政治学的に色々な捉え方が存在しますが、共通していえることは、 「上の者が下の者を強制的に動かす力」であるということです。 地位的に下である者が「従わざるをえない」と考える状況のことをいいます。 その根拠(権力装置)となるものには軍事力や利害関係などがありますね。 これらから、韓非子の政治理論は、 君主(上の者)が規範である「法」を与え、それを「勢」で強制し、 臣下(下の者)がそれに従う。 君主は臣下の働きに応じて賞罰といった「術」を行う。 という整然としたシステムでした。 法・術・勢は密接に関係しあって帝王中心の政治システムとなるのです。 勢への傾倒 さて、韓非子が前述の三要素の中でも特に重視したのが「勢」です。 これは「権勢」の「勢」であり、政治的な権力です。 勢の発想の元となったのは戦国時代の慎到という思想家です。 慎到においては、勢は君主が広く民衆までもを服従させる概念とされましたが、 これを韓非子は君主と臣下に限定して捉え直しています。 韓非子は、勢とは君主が君主であるための第一条件であると言います。 君主は権力を独占し、臣下を思うままに動かして治世を行う。 そうすることで、君主の利益は守られ、国家も安定する。 儒家の言うような個人の「徳(道徳)」に頼って政治をしてはいけない。 これは、ニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』にも通じる内容です。 人間不信 韓非子は戦国時代の一国に生まれた人物です。 韓の国は互いに争い合う多くの国に囲まれ、 地理的には苦しい位置にあったようです。 マキャヴェッリもまた、都市に分かれ戦争の絶えない時代のイタリアに生まれ、 争うばかりでまとまることのない祖国の姿を見てきた人物です。 そんな彼らにとって、人間とは信用ならない生き物でした。 韓非子は人間を、ひたすらに利益を追求する動物、と言っています。 そのような人間を御すには、信頼、愛情といった関係は無意味でした。 臣下はおろか、家族を除いた親族、妻でさえ信用ならないと 韓非子は著書で漏らしています。 そこで、相手がどう思ったところで従わざるを得ない原理、 つまり、勢や権力が登場してきます。 武力などに裏付けられた君主の権力は、臣下を必ず従わせます。 所詮は利害のためにしか動かない人間を賞罰によって操作し、 独占する権力によって強制的に働かせること。 それが韓非子の理論のすべてでありました。 宿命に対する脆弱性 韓非子の理論は、政治的に上下関係にある者の間柄を 勢の概念で整然と説明するものでした。 ところで、勢を権力の意味で用いるのは韓非子特有の用法であり、 一般的な中国古代思想では「勢」は自然の移り変わりを表します。 自然の移り変わりとは例えば天災です。 洪水、旱魃、寒冷、地震、強風などのことです。 韓非子の理論では、君主は権力で臣下という人間を完全に御しますが、 一方でこういった自然に対しては全く無力といえます。 自然の移り変わりに限ったことではありませんが、 理論では説明も対処も出来ない実際というのは、 (特に韓非子のような古い時代では)往々にしてあるものです。 それは運命論でいうところの「宿命」に相当するものでしょう。 韓非子は自著内で終始理論的な「勢」を論じていますが、 こういった、言ってしまえば「理不尽な」現実問題については 全く何も言っていないようです。 単なる理論書であるからといえばそれまでですが、 人と人の繋がりを全て利害であるという一方で 人生訓的文面が一切見当たらないのはなかなか世知辛いものです。 「無為」を為せ 無為の一般的な意味は「なにもしないこと」です。 この言葉は主に、老子の思想として知られているかと思います。 老子においては、「なにもしない」は本当になにもしないというよりも、 「ことさらに目的に執着しない」「躍起にならない」のように 自然な態度でいることが最上である、といった意味でした。 これに対して、韓非子の場合、本当になにもしないことをいいます。 これについては多数の解釈があるようですが、 政治的な視点で「(特に君主や元首が)なにもしない」といえば いわゆる「夜警国家」の考え方を想起させるでしょう。 夜警国家とは、国家は最低限の機能(警察や法律)だけを行い、 ほかに国民に介入するようなことは「なにもしない」という考え方です。 それにより、国民には自己責任の上で最大限の自由が確保されます。 これは近代のヨーロッパで台頭した政治思想ですが、 もし無為がこのことを指しているのであれば、前述の帝王学とともに 韓非子には並々ならぬ先見の明があるといえましょう。 もう一つは、君主が「なにもしない」ことが 臣下の態度に及ぼす効果に着目した解釈です。 君主について「なにもしない」ことを具体的に言った一文に以下があります。 好を去り悪を去れば、群臣(ぐんしん)素を見(あらわ)さん。 口語訳すると、 「気に入った、気に入らないの考えを隠しておけば、臣下は本心を表すだろう」 とでもなるでしょう。 気に入る、気に入らないとは、ここでは政策の話です。 君主が政治上の判断を安易に見せずに黙っておけば(=なにもしない)、 臣下たちは業を煮やして自分の考えを吐露するだろう、というのです。 君主にとって臣下が何を考えているのか把握することは重要です。 対立する考えの部下を抱えていると、君主は都合が悪いでしょう。 そこで、臣下に本心を吐かせる手段として「無為」を行う、というわけです。
https://w.atwiki.jp/intelljp/pages/75.html
ロシア連邦内務省に関する規程(Положение о Министерстве внутренних дел Российской Федерации) I.総則 1.ロシア連邦内務省(以下「ロシアMVD」という。)は、移民分野を含む内務分野における国家政策の立案及び実現並びに規範法的規制に関する機能を実施する連邦執行権力機関である。 ロシアMVDの活動の指導は、ロシア連邦大統領が実施する。 4.ロシアMVDは、その活動において、ロシア連邦憲法、連邦憲法法、連邦法、ロシア連邦大統領及びロシア連邦政府の法令、ロシア連邦の国際条約及び本規程により指導される。 6.ロシアMVDは、他の連邦執行権力機関、ロシア連邦主体執行権力機関、地方自治機関、社会団体及び組織と協同で、その活動を実施する。 II.権限 III.活動の組織 15.ロシアMVDの所在地は、モスクワ市である。
https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/8011.html
スタジオパストラルの変名。 ■内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎 演出 6 ■関連タイトル 内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎 SPECIAL BOX 【初回生産限定】