約 4,637 件
https://w.atwiki.jp/merail/pages/50.html
駅名 接続路線 名古屋 清洲線 丸の内 久屋大通 栄町線 小川 車道 内田町 池下 覚王山 守山線 本山 東山公園 北高針 上社 本郷 高針橋 植田 平針 神沢 熱田線(予定) 徳重 左京山 大高線・知立線 大高(建設中) 北大府(計画中) 名和(建設中) 知多線 柴田(建設中) 知多線 大江(建設中) 知多線 道徳(建設中) 知多線 竜宮(建設中) 築地口(建設中) 荒子川公園(建設中) 入場(建設中) 中島 熱田線 高畑 岩塚 中村公園 中村日赤(建設中) 本陣(建設中) 名古屋 上記に参照
https://w.atwiki.jp/merail/pages/2.html
メニュー トップページ 運行情報 運賃表 ニュースリリース バスはこちら 地下交通博物館 路線 東根・天童・東村山・山形 (Merail株式会社管轄) ■ 東南村山線 ■ 七日町線 ■ 王将線 ■■ 長谷堂線・村山特別支援学校通学線 ■ 西山形線 ■ 小白川・県庁線? ■ 桜田線 ■ 高嶋・高擶線 ■ 倉津川線 ■ 寒河江街道線 ■ 出羽路線? 2009.07.20開業 置賜 (地下交株式会社管轄) ■ 成島線? ■ 塩井線? ■ 笹野線? ■ 東西線? ■ 高畠線? 瀬名鉄道 瀬名本線 小金線 山原線 山戸線 尾張鉄道 名環線(旧桜本線・本郷線・高畑線) 栄町線 守山線 熱田線 大高線 清洲線 八宮市営地下鉄 南北線 東西線 豊浜線 車両 こちら メニュー メニュー2 リンク ランキング ここを編集
https://w.atwiki.jp/led-gallery/pages/450.html
臨港線 船61 日の出町経由 船橋海浜公園 船61 日の出町経由 丸善 船61 日の出町経由 西浦町 船62 潮見町・日の出町経由 京成船橋駅 船62 日の出町・潮見町経由 船橋海浜公園 船62 丸善・潮見町経由 船橋海浜公園 船63 南本町経由 京成船橋駅 船63 南本町経由 本社営業所 船63 南本町小学校経由 京成船橋駅 船63 南本町小学校経由 丸善 市内線 西船11 船橋市役所経由 京成船橋駅 西船11 船橋市役所経由 西船橋駅 西船11 船橋市役所 西船11 西船橋駅 西船12 京成船橋駅 西船12 西船橋駅 南船橋線 船71 京成船橋駅 船71 ららぽーと 船71 ららぽーと・海老川経由 京成船橋駅 船71 海老川・ららぽーと経由 南船橋駅 南船橋栄町線 南船11 南船橋駅 南船11 本社営業所 東船橋線 船41 東船橋駅経由 京成船橋駅 船41 東船橋駅経由 津田沼駅 津田沼ららぽーと線 ら01 ららぽーと東口・南船橋駅 ら01 谷津駅経由 津田沼駅 ら01 津田沼経由 東船橋駅 柏井線 下総中山駅 市営霊園 その他 回送車 教習車 臨時 京成バスシステム 臨時 初日の出号
https://w.atwiki.jp/led-gallery/pages/154.html
臨港線 船61 日の出町経由 丸善 船61 日の出町経由 西浦町 船62 潮見町・日の出町経由 京成船橋駅 船62 日の出町・潮見町経由 船橋海浜公園 船62 丸善・潮見町経由 船橋海浜公園 船63 南本町経由 京成船橋駅 船63 南本町経由 本社営業所 船63 南本町小学校経由 丸善 船64 潮見町・南本町小学校経由 京成船橋駅 船64 南本町小学校・潮見町経由 船橋海浜公園 市内線 西船11 船橋市役所経由 京成船橋駅 西船11 船橋市役所経由 西船橋駅 西船11 船橋市役所 西船11 西船橋駅 西船12 京成船橋駅 西船12 西船橋駅 南船橋線 船71 京成船橋駅 船71 ららぽーと 船71 ららぽーと・海老川経由 京成船橋駅 船71 海老川・ららぽーと経由 南船橋駅 南船橋栄町線 南船11 南船橋駅 南船11 本社営業所 東船橋線 船41 東船橋駅経由 京成船橋駅 船41 東船橋駅経由 津田沼駅 津田沼ららぽーと線 ら01 ららぽーと東口・南船橋駅 ら01 谷津駅経由 津田沼駅 ら01 津田沼経由 東船橋駅 柏井線 下総中山駅 市営霊園 保健医療福祉センター 中山01 船橋法典駅入口経由 下総中山駅 中山01 船橋法典駅入口経由 市営霊園 貸切・特定バス 無料送迎 ららぽーと ららぽーと⇔船橋駅南口 無料送迎 千葉ビール園 無料 ニッケコルトンプラザ 貸切 メルセデス・ベンツ日本 その他 回送車 教習車 臨時 臨時 初日の出号 京成バスシステム
https://w.atwiki.jp/nagoya_siden/pages/20.html
名古屋市電2000形は、1800形にはじまる名古屋市電の「和製PCCカー」の最終形式であると同時に、戦後の日本の路面電車を代表する形式のひとつでもある。 概要 1956年12月 - 1958年5月にかけて総数29両が日本車輌製造と輸送機工業で製造された、名古屋市電の中では最後の新形式となる車両である。 同時期に投入された800形がどちらかというとメーカーが提案・主導して、新機軸を意欲的に採り入れて製造された車両であったのとは異なり、2000形は当時の路面電車車両の最新技術を集大成した、最高級の仕様となっていた。 その車体設計は、従来車両の概念を打ち破る斬新なものとなった。 車体構造は、1900形(1902以降)を引き継いで、床下まで一面をスカートで覆う形となっているが、側面窓配置がD4D4Dと、1900形までとは異なり、運転台直後の小窓が省略された。 従来車両では中央を除く乗降扉は2枚引き戸か折り戸を採用していたが、この車両では全てが1枚引き戸となったことから、従来小窓があった部分までドアを拡大したためである。 側面窓も全面的に大型化されただけでなく、上段窓下部がサッシュレスとなり、下段窓上部のアルミ枠が細かったことから、同じような窓構造を採用したモハ71001同様、遠くから見ると一枚窓のように見え、集光性が大きく増した。前面は1800形以降の新車同様、方向幕の左右に通風器のルーバーがついたオーソドックスな3枚窓であるが、2000形では中央の運転台窓と行先方向幕を大型化したことや本形式で本格採用された行灯式系統板とあいまって精悍なフロントマスクを形作り、側面の印象と併せると近代的で軽快な車両に仕上がった。塗色は、名古屋市電標準の上半クリーム、下半グリーンのツートンカラーであるが、1962年ごろまでは1900形と同様に裾の部分がダークグリーンに塗り分けられていて、スリートーンになっていた。 また、集電装置にもそれまでのピューゲルに代わってZパンタを採用している。 その他に新機構が取り入れられた点としては、運転台機器を全面カバーで覆うようにしたことや、空気ブレーキにブレーキシューでなく電機子軸を外締め式のブレーキドラムで締める方式を採用したことなどがある。 電装品は1900形の装備品を改良したものを搭載しているが、同形式と共に、「PCCカー(無音電車)」の設計を取り入れたものでもあった。また、ヘッドライトやテールライトに自動車用の部品を採用し、コストダウンを図っている。台車は、コイルばねの日車NS6、日立KL-8、KL-8Aを履いているが、2002のみは1957年に空気ばねの日立KL10に換装された。 運用 2000形は全車浄心車庫に配置され、メインルートの栄町線(広小路線)を走る11号系統(浄心町~名古屋駅前~笹島町~栄町(1966年以降栄に改称)~覚王山)をはじめ、循環系統の3号系統(名古屋駅前~六反小学校前~鶴舞公園~平田町~菊井町~名古屋駅前)や10号系統(秩父通~柳橋~八熊通~船方~熱田駅前)など、浄心車庫所属の各系統で使用された。後年、浄心車庫担当路線の廃止が相次ぐと、高辻車庫担当の30号系統(名古屋駅前~六反小学校前~鶴舞公園~高辻~堀田駅前)、35号系統(名古屋駅前~六反小学校前~鶴舞公園~高辻~桜山町~新瑞橋)の運用が浄心車庫に移管され、2000形が専属運用されるようになった。 所属車庫の浄心車庫が名古屋駅に一番近いことから、必然的に名古屋駅前起終点の系統に多く投入されたため、名古屋駅前ではいつでも姿を見ることができた車両でもあった。 ワンマン化から廃車まで 2000形の投入によって、名古屋市電に残存していた単車は駆逐された。栄町線では稲葉地車庫所属の1800形と、上江川線・下江川線では港車庫所属の800形と並走し、都心部の栄では800形や沢上車庫所属の1900形とクロスするなど、名古屋市電が誇る最新鋭の車両群と競演を重ねた。その後、1964年からモーターをはじめとした電気部品の冷却効果を高めるために前面バンパー下にスリットを入れる改造を行い、1966年~1968年にかけてワンマン改造を実施した。その際、前面ナンバー部分にワンマンカー表示灯を設置したため、ナンバーの文字を小型化したうえで系統板の下に移設している。 名古屋市電廃止の過程では、前述のように他車庫所属の路線を浄心車庫担当に変更して極力2000形を有効活用しようとしたが、1971年11月の熱田駅前~西稲永間廃止に伴う運用見直しによって、2001,2002,2029の3両が2000系初の廃車となり、残り26両も1972年3月1日の浄心車庫の廃止に伴い、他車庫に転属することなく全車が廃車となった。 保存車 3両が保存され、現在は2両が現存している。 2017 廃車後、守山区の幼稚園で保存されていたが、交通局によって保存される事が決まり、日進工場にて修復後、「レトロ電車館」にて保存、展示されている。 2025 廃車後、前頭部が名古屋市北区清水にある元旅行代理店に設置。取り込まれている建物の改築工事の際も撤去されず、現在も残っている。 2029 廃車後、藤が丘に存在していた名古屋市電展示場に保存されていたが、展示場が1979年3月末をもって閉鎖され、貨2、1475以外の車両と共に飛島村に廃棄され、その後解体、撤去された。
https://w.atwiki.jp/nagoya_siden/pages/22.html
概要 老朽化した木造ボギー車LB形の台車・電装品を流用して、新製車体と組み合わせて製造された車両で、戦時中の1944年9月に日本車輌製造によって最初の9両が製造・投入され、終戦後も1946年9月から1948年11月にかけて日本車輌製造・新潟鐵工所の2社によって増備され、合計27両が製造された。 車体は、1400形類似の13m級中型車で、張り上げ屋根の側面窓配置1D4D4D1、2段上昇窓で両端扉は2枚引戸、中央扉は1枚引戸となっていた。前面は3枚窓で、中央扉上に方向幕を、右窓上に通風口(設置されていない車両もあった。確認できている車両は1169・1170・1171・1176の4両。)を、窓下に前灯と車番を取り付けていた。直接制御方式で、足回りは50PSモーターを2基装備、ブリル76E2類似のコピー台車(但し高床台車)を履いていた。車内の内装は戦中・戦後の製造ゆえに天井の内張りなし、座席は板張り、車内灯は裸電球と粗末なものだったが、これらは1950年頃から順次改装されていった。 本形式は1400形以降に製造された車両の中では唯一の13m車で定員も100名と多いことから輸送力確保の面で重宝したため、後述のように日本車両製造製の1151 - 1170の20両は、昭和30年代から各種の改造が施されて、主力車の1400形や1500形に伍して使用された。その一方で新潟鐵工所製の1171 - 1177の7両は高床車のまま残置された。 1960年代以降の名古屋市電の縮小期にはまず高床車が置き換え対象となり、他社への譲渡や花電車への改造が実施され、1968年2月の大津町線大津橋 - 熱田線金山橋間の廃止に伴う運用減によって最後まで残った1172が廃車されることで、高床車は消滅した。低床改造されたグループは1972年2月末の浄心車庫・稲葉地車庫閉所時による車両の転配属の際に1166 - 1170の5両が廃車されるまで1両の廃車も出さなかった。その後1974年2月の熱田方面の路線廃止に伴う沢上車庫閉所時に1156 - 1165の10両が廃車されたが、残る1151 - 1155の5両は路線全廃の日まで残存した。 運用 大部分の車両が安田車庫(大久手)に配置されており、同車庫の担当系統から市東南部を走行する系統に多く運用され、メインラインの栄町線(広小路線)に乗り入れる60号系統(八事 - 大久手 - 今池 - 笹島町 - 名古屋駅前)や62号系統(瑞穂通三丁目 - 今池 - 笹島町 - 名古屋駅前(後に大門通))では輸送力を生かして2600形、2700形、3000形といった連接車各形式や名古屋市電が誇る1800形や2000形などの和製PCCカーとともに栄町線の主力として市内中心部でよく見ることができる車両であった。その後1955年までに日本車両製造製の20両は後述の低床改造のうえ安田車庫に集結した。高床車グループは浄心→沢上→港→稲葉地と各車庫を転々としながら他社への譲渡や花電車への改造で少しずつ在籍車を減らし、前述のように1968年2月に全車置き換えられて消滅した。 低床改造されたグループは安田車庫の主力車としてワンマン化改造も実施され、その輸送力を生かして市東部を走る60・61・63の各系統で運行され、1974年3月31日の路線全廃まで運用された。 改造 低床化改造・セミ無音化改造 種車の台車・モーターをそのまま使用していたために、登場時は高床式だった同形式を、1400形同様の低床式に改造した。改造は2段階に分けて実施され、その過程でセミ無音化された車両もあったが、全車には及ばなかった。 1953年実施の1151 - 1160は、低床76E2類似の台車に交換して低床化された。 1955年実施の1161 - 1170は、1800形後期車に採用された弾性車輪・ドラムブレーキ付きの住友FS61Aを新製して交換、低床化と同時にセミ無音化(セミPCCカー)化された(1968年頃から廃車となった車両の76E2類似台車やNS-1型台車に再交換され、セミ無音車ではなくなった。)。 花電車への改造 高床のまま残った1171 - 1177の内、1964年から1965年にかけて1171・1174・1175・1177の4両が花電車に改造された。改造内容は運転台部分を残して車体を解体し、集電装置を取り付けるための櫓を設置するもので、付帯工事としては強度確保のため、台車脇部分に補強材を取り付けた。改造にあたっての改番は以下の通り。 1171・1177・1175・1174→花13 - 花16 ワンマン化改造 1968年頃から、低床化されて残存していた20両全車が改造された。いわゆる「標準ワンマン」化改造であり、大型のワンマン表示器を前灯下部に取り付け、車番は小型化の上、系統番号表示器の下部に移設、運転台のワンマン操作卓は小型のものを設置した。進行方向に対して前扉を乗車用、中扉を降車用としたため、後扉は締切扱いとされ、外観は3扉車ながら実質は左右非対称の前中2扉車となった。 譲渡車 低床化されなかった7両のうち、1173・1176の2両が1964年11月に豊橋鉄道に譲渡され、同社の900形→モ3900形(3901・3902)となったが、1971年に廃車されている。 保存車 4両が保存されたが、既に現存しない。 1162・1163・1164 三重県南伊勢町(旧 南島町)に焼肉店として利用された後に放置され、2000年代後半から2010年代前半に3両とも撤去された。状態は最悪で、一切手入れはされていなかった模様。 1165 詳細不明。国内の工業街に放棄されていたとの事。
https://w.atwiki.jp/nagoya_siden/pages/21.html
名古屋市電2700形は、連接構造を採用した、2車体3台車の車両であった。 概要 老朽化した単車2両を連接車1編成に改造し、老朽車両の一掃と輸送力の確保を目的に計画された車両で、単車の部品をできるだけ流用できるよう、高床車として設計されていた。名古屋市電としては2600形・3000形に続く、3形式目の連接車として、1946年から1948年にかけて木南車輌製造で11編成が製造された(当初はさらに増備する予定があったが、11編成の製造で打ち切られた。この際、同社には製造途中の鋼体が5編成分残っており、交通局はこの鋼体を引き取って、中型ボギー車の1700形5両に改造した。)。 終戦直後の混乱した時期に登場した車両であるが故に、中古部品を流用して粗末な内装で竣工した車両もあれば、新品を使ってしっかりした内装で竣工した車両もあり、その出来映えはバラバラであったと言われるが、後に主要部品の交換や低床化が行われて面目を一新、ラッシュ時を中心に輸送力を発揮した。 車体は側面窓配置1D3D3の車体を背中合わせに2両1組としており、普通屋根ではあるが俗に「木南スタイル」と呼ばれる、深いカーブのおでこを持つ。前面は3枚窓だが、方向幕は右窓上に付いている関係で、右窓のみ天地寸法が短い。直接制御で、モーターは50PSのものを2基装備したが、12m級の中型ボギー車と変わらない出力のため、全長18m級の2車体連接車には非力であった。 本形式の車番は他の2形式と同様、車番の後ろにA,B,Cといったアルファベットをつけることで連結位置を示すといったものではなく、2両一組で同じ車番とするものであった。 運用 全車が浄心車庫に配置され、同車庫が担当する系統の中でも輸送力が必要な、栄町線(広小路線)を走る系統(11号系統=浄心町~名古屋駅前~栄町~覚王山=など)を中心に運用されていた。昭和40年代に入ると全車高辻車庫に転属し、ここでも輸送力を発揮したが、運用範囲は次第にラッシュ時のみに狭まってゆき、またワンマン化改造には適さない車体構造のため、1970年までに全車が廃車された。 改造 台車交換・低床化改造 1953年に、NS-1(両端)・NS-2(中間)に交換され、低床化が行われた。改造は全車に及んだ。台車は日本車輌製造の製品(NS-1は新型台車であるため、本形式の廃車後は、1150形に転用された。)。 保存車 1両が保存されたが、現存しない。 2702 廃車後、1970年7月15日に開設された「名古屋市電展示場」に保存されていたが、展示場が1979年3月末をもって閉鎖され、貨2、1475以外の車両と共に飛島村に廃棄され、その後解体、撤去された。
https://w.atwiki.jp/nagoya_siden/pages/14.html
名古屋市電1400形は、名古屋市交通局が軽量化に留意し、流線型を取り入れるなど、城頼の名古屋市電の車両から大きくモデルチェンジした画期的な車両であるとともに、昭和戦前期の日本の路面電車を代表する形式の一つである。 概要 1400形は1936年12月から1937年2月にかけてまず20両が投入され、汎太平洋平和博覧会の観客輸送に備えた。その後も5次にわたって増備は続き、1941年(昭和16年)12月から1942年(昭和17年)4月の最終増備に至るまで日本車輌製造・木南車輌製造・新潟鐵工所により、総計75両が製造投入された。 製造に当たっては名古屋市電の標準形式となることを目標に製作されたため、日本車輌の技術者を顧問に招いて、十数回も設計に変更が加えられた末に完成した。車体は12mクラスの中型車で、従来車と大きく異なる張り上げ屋根の側面窓配置1D4D4D1、2段上昇窓で両端扉は2枚引戸、中央扉は1枚引戸となっていた。張り上げ屋根は戦中戦後に登場した900形、1500形、1600形、1700形、2700形が通常屋根で登場した以外は各形式に継承されたほか、窓配置は2扉車の1070形、1600形と2700形連接車の車体を流用した1700形、それに連接車各形式を除くその後に登場した名古屋市電各形式の標準的な窓配置となった。この他、両端扉に接する部分の客用窓及び車端部の窓の上部にはRが設けられ、優雅なアクセントになっていた。前面は3枚窓で、中央扉上に方向幕を、窓下にヘッドライトとナンバーを取り付けていた。足回りは45HPモーター(一部に35HP×2、50HP×2を搭載したものもあり)を2個備え、ブリル39E2類似のコピー台車を履いていたが、このモーターは従来車と比べて出力が弱いため、それまでに登場した3扉大型ボギー車の1200形、1300形が頑丈一点張りの重厚な車体であったことから一転して、車両の軽量化にも力が加えられた。また、塗装も当時西町車両工場で鋼体化改造が進められていた改造単車に採用された窓周りイエローオーカー、腰周りグリーンのツートンカラーとなり、この塗装が名古屋市電の標準色となった。 このように、名古屋市電の従来車両に比べても、極めて斬新かつ優秀な車両の実現となり、本形式において戦後の2000形にまでつながる名古屋市電スタイルが確立された。また、1400形は同時期に登場した大阪市電901形とそのモデルチェンジ車の大阪市電2001・2011形、神戸市電700形、京都市電600形、阪神国道線71形(金魚鉢)と並んで、戦前の日本の路面電車を代表する車両となった。 戦前・戦中の1400形 1400形は当初の目的どおり名古屋汎太平洋平和博覧会の観客輸送に充当され、数は少ないながらも博覧会の動くパビリオンとしての役割を果たした。その後増備が続けられるとともに各線に投入され、2600形をはじめとした連接車各形式ともども、戦時体制が進行する中で軍需工場への労働者を中心とした通勤客輸送に重用された。太平洋戦争末期の戦災で5両が全焼、また終戦直後にも1両が事故で車体大破し、これらの車両(Nos1405,1416,1420,1423,1432,1410)は復旧時に1500形に準じたボディーへ改められたが、1500形とは側窓のRの有無で区別することができる。 戦後の1400形 戦後も1500形以降、路線の延長と老朽車の置き換えを目的に新車が増備され、1953年(昭和28年)以降に登場した1800形以降は1900形、2000形と名古屋市電が誇る和製PCCカーが続々と登場し、更にNSL車800形も登場したが、扱いよい1400形は乗務員の評判もよく、これらの新車が登場した後においても市電の主力車として走り続けた。中でも地下鉄東山線開業前後の栄町線の輸送力が逼迫していたことから、3扉で大量乗降に適した1400形は連接車などと併せて栄町線を担当する池下車庫(1958年(昭和33年)12月から稲葉地車庫)、浄心車庫、安田車庫に集中配置され、押し寄せる乗客をさばいた。しかし、地下鉄東山線の延伸に伴って相対的に市電の役割が低下すると1400形は各車庫に転出、市内各地で見られるようになった。 その後の1400形は、1966年(昭和41年)の港車庫担当系統のワンマン化の際に前面方向幕の右横にワンマン表示灯を取り付けたり、車内にワンマンカー関連機器を取り付ける改造を実施した。このタイプのワンマンカーは後に登場した標準型のものと異なっていたことから、通称「港型ワンマン」とも呼ばれていた。また、同時期に下之一色分所に配属された1444,1445の2両は下之一色線内の単線続行運転に対応できるよう、正面方向幕左側に後続車確認標識灯を取り付けた。こうして下之一色線にも入線したことから、1400形は名古屋市電のボギー車の中では唯一全線で運用された車両となった。1960年代後半からワンマン改造が全車に施工されることになるが、このときのワンマン改造ではワンマン表示灯を前面窓下に設け、ナンバーの文字を小型化して系統板の下に移設したほか、車内機器も小型化された。なお、港型ワンマン改造車についても1968年以降から標準型への再改造が実施されている。この他、1962年(昭和37年)ごろから1401-1430のうち戦災復旧車を除く車両の窓枠のアルミサッシ化を実施したほか、時期は不明であるが1410,1417,1423,1454の4両の前面方向幕右横にルーバーを取り付け、車内の換気能力の向上を図った。 1400形は市電の末期に至るまで全車庫を転属して残存全路線を走り続けた。初めての廃車は1971年(昭和46年)4月の浄心延長線秩父通 - 下江川線八熊通間、高岳線東新町 - 清水口延長線黒川間、八事線安田車庫前 - 八事間廃止に伴うもので、1464-1475の12両が廃車された。同年11月の築港線熱田駅前 - 築地線支線西稲永間廃止の際には1408,1457-1463の8両が廃車されたが、1972年(昭和47年)2月末の浄心車庫・稲葉地車庫閉所時による車両の転配属の際には和製PCCカー各形式が大量廃車されたにもかかわらず、1400形は1両も廃車されることなく残存の沢上、高辻、安田の3車庫に集結し、1974年(昭和49年)の全廃時まで主役の座を守り続けた。他の事業者への譲渡車両としては、1971年4月に廃車された車両のうち1465-1471,1473,1474の9両が豊橋鉄道へ譲渡された。同車はモ3100形となってそのうちの7両が冷房改造を実施され、2006年(平成18年)まで主力車両として活躍していた。 その後、モ3102のみがマルーン一色の塗装となり、車体イルミネーション用の配線が追加され、イベント専用車兼予備車として残された。その後も名古屋市電生まれ最後の営業車両としての活躍が続いていたが、2011年2月に運用から離脱し休車となったが、2017年に廃車が決定し、2018年(平成30年)2月下旬に赤岩口車庫より搬出(撤去処分)された。 保存車 9両が保存され、現在は3両が現存している。 1401 廃車後、名古屋市白川公園内の「名古屋市科学館」の外に保存されている。野外保存で、車内公開はされていないものの状態は非常に良く、今後も安泰と思われる。また、過去には現在「レトロ電車館」に保存されている3003も縦に並んで保存されていた。 1403 廃車後、愛知県弥富市の「弥富市間崎公園」に保存され、1982年まで現存が確認されているが撤去され、現存しない。 1407 詳細不明。既に現存しない。 1411 廃車後、愛知県愛西市八開村に存在した「電車ラーメン」の店舗として利用されていたが既に撤去され、現存しない。 1414 詳細不明。個人が保存していたが、現存しない。 1421 廃車後、ダイエー上飯田店(現・イオン上飯田店)にて保存され、その後「レトロ電車館」に移転、保存されている。状態は屋内で、公共施設の為非常に良く、今後も安泰である。 1426 愛知県日進市の東小学校に保存されており、市電廃止後に個人から譲渡された物。小学校の為砂埃は被っているものの上屋があり、丁寧に整備されている為非常に状態は良好である。一度整備され、その際に熊本市電から部品提供を受けている。 1461 愛知県稲沢市の稲沢団地に保存されていた。かつては団地内の児童図書館として利用された後、状態が悪化した為倉庫として転用、その後2000年代に入って解体、撤去された。状態は極めて悪く、窓は塞がれ、車体の至る所に錆が見られていた。 1475 廃車後、藤が丘に存在していた名古屋市電展示場に保存されていたが、1979年に閉鎖となった際に東山動植物園に移転、保存されていた。 しかし、整備の手が回らず老朽化しており、1995年に解体、撤去された。
https://w.atwiki.jp/nagoya_siden/pages/16.html
名古屋市電1550形 1800形と同時期に登場したが、機器などのグレードを落とした、廉価版の車両であった。 概要 550形は1953年12月に最初の5両が投入され、翌1954年12月までに合計12両が、日立製作所・日本車輌製造・輸送機工業の3社によって製造された。 1400形以来の流れを汲む片側3扉・12m級の中型車で、側面窓配置は1D4D4D1、2段上昇窓で両端扉は2枚引戸、中央扉は1枚引戸となっていた。外観は同時期に登場した1800形(1801~1814)とほぼ同一である。ただし木製の扉や窓枠・白熱電球の車内照明・直接制御方式を採用するなど、ダウングレード版の車両である。足回りは50PSのモーターを2基装備、KS40Jまたはブリル76E2類似の台車を履いていた。1800形と比較され「インチキ無音電車」のあだ名があった。 性能的には1500形とほぼ同一の旧型車であり、12両の小所帯形式だったが、堅実で扱い易いため、路線縮小過程での廃車は見送られ、大部分が路線全廃時まで残存した。 運用 新造直後には全車が浄心車庫に配置され、上江川線や栄町線(広小路線)など、同車庫担当系統で運用された。その後は稲葉地車庫や沢上車庫に分散配置され、市内中心部を走る系統で運用されることが多かった。最末期には全車が安田車庫に配置され、沢上車庫廃止時に1561・1562の2両が廃車されたが、残る10両は路線全廃時まで活躍した。 路線全廃日の「サヨナラ電車」3両の内の1両は、同形式から1555が選ばれ、装飾を施されて最後の力走を行った。 改造 前面方向幕大型化 1962年8月に、1551が改造を受けた。本改造はこの1両だけで終わり、他車・他形式に及ぶことはなかった(ただし使用期間は短く、後に表示部分をマスキングして、他車と同じサイズの方向幕を使用するようになった。)。 ワンマン化改造 1969年までに全車が改造された。形態的にはいわゆる「標準ワンマン」で、車体全周に赤帯を追加、運転台の操作卓は小型のものを、ワンマン表示器は前灯下部に大型のものを装備した。また前灯下部にあった車番は小型化の上、系統番号表示器の下部に移設された。 ワンマン運行では「前乗り後降り」(運賃前払い)とされていたため、進行方向に対して前扉を乗車用、中扉を降車用として、後扉は締切扱いとした。このためワンマン化改造後は、外観こそ3扉車であるが、実質は左右非対称の前中2扉車となっていた。 譲渡車 沢上車庫廃止時に廃車となった1561・1562の2両が、1974年3月に岡山電気軌道に譲渡され、同社の3800形(3801・3802)となったが、既に廃車されている。 1551から1560までの台車が1974年伊予鉄道に譲渡され、電動機交換のうえ、モハ50型(70~78)の台車振替に使用された。 保存車 4両が保存され、現在は1559一両のみが現存している。 1555・1558 愛知県一宮市の国道22号線沿いに車体がコンクリートブロックの上に置かれていたが、最後に現存が確認されていた1996年時点で放置されており状態は最悪で部品は欠損、木製の乗降ドアは破壊されている上、欠落した窓には鉄格子が溶接されていた。車体の錆も酷かったが、パンタグラフは残っていた。その後撤去された為、既に現存しない。 1556 愛知県大府市の某所に存在していたが、2010年代前後に撤去されている。状態は悪く、車体の至る所に錆が見られていた。 1559 岐阜県のひるがの高原に現在も放置されている。屋根は崩落し、状態は最悪であるが、現在も残っている。とある株式会社が現在も所有しており私有地の為、無許可の訪問は非推奨。
https://w.atwiki.jp/tokaiindex/pages/1379.html
おおつまちせん【大津町線】 大津町線とは、名古屋市交通局が運営していた軌道線で、栄町電停と大津橋電停を結んでいた。