約 2,251 件
https://w.atwiki.jp/sysd/pages/757.html
アズビル金門 本店:東京都板橋区大原町13番1号 【商号履歴】 アズビル金門株式会社(2012年4月1日~) 株式会社金門製作所(1948年7月27日~2012年4月1日) 【株式上場履歴】 <東証1部>1957年8月14日~2008年3月26日(株式会社山武と株式交換) <大証1部>1961年10月2日~2004年9月14日(上場廃止申請) 【沿革】 明治37年3月 金門商会を創始、東京市神田区及び本所区に工場(計量計測事業)を新設 明治45年6月 東京府北豊島郡巣鴨に本社及び東京工場、大阪市に大阪工場、福岡市に福岡工場(計量計測事業)を新設 昭和20年4月 東京都板橋区志村に本社及び東京工場を移転 昭和23年7月 金門商会(個人事業)を株式会社金門製作所とする 昭和28年2月 東京において株式店頭公開 昭和32年8月 東京証券取引所上場 昭和33年1月 照明事業・石英事業を開始 昭和34年1月 大阪府東大阪市に工場を新設、大阪工場を移転 昭和36年10月 東京証券取引所、大阪証券取引所市場第一部上場(第一部・二部市場制導入に伴う指定替え) 昭和37年4月 金門石英硝子株式会社(株式会社金門コルツへ社名変更)(石英事業)を設立 昭和42年11月 照明事業を分離し、金門電気株式会社(照明事業・計量計測事業)を設立 昭和55年5月 株式会社白沢製作所(計量計測事業)を設立 平成2年9月 唐津精器株式会社(計量計測事業)を設立 平成7年1月 和歌山精器株式会社(計量計測事業)・瑞穂精器株式会社(計量計測事業)を設立 平成8年4月 大阪工場・福岡工場を閉鎖 平成8年8月 東京工場の計量計測事業の一部を閉鎖 平成10年10月 本店所在地を東京都板橋区志村より東京都板橋区大原町に変更 平成12年9月 本社機構を東京都文京区へ移転 平成12年11月 東京工場の跡地を譲渡 平成15年3月 大阪工場の跡地を譲渡 平成16年1月 株式会社産業再生機構による支援決定及び「事業再生計画」の策定 平成16年3月 株式会社金門コルツ(石英事業)の株式譲渡契約を締結 平成16年6月 100%出資の子会社、株式会社金門白沢他6社を製造請負会社等として新規設立 平成16年9月 大阪証券取引所上場廃止 平成16年9月 株式会社白沢製作所他7社を吸収合併 平成16年9月 「事業再生計画」の一環として、従来株主保有株式の9割につき減資を実施 平成16年9月 株式会社産業再生機構、株式会社りそな銀行及び株式会社みずほコーポレートによる第三者割当による優先株式の発行 平成16年12月 株式取得により白河精機株式会社を子会社とする 平成17年3月 金門電気株式会社(照明事業)株式譲渡契約を締結 平成17年12月 株式会社山武が株式会社産業再生機構、株式会社りそな銀行及び株式会社みずほコーポレート銀行から優先株式を買取。当社の主要株主となる 平成18年1月 株式会社山武が株式会社産業再生機構より譲受けた第Ⅰ種優先株式を普通株式に転換。当社の親会社となる 平成18年3月 株式会社金門光波(その他事業)株式譲渡契約を締結 平成18年3月 「事業再生計画」の完了
https://w.atwiki.jp/katemato000/pages/42.html
[W]湾岸線 "Wangan Line" 管轄 新花影高速鉄道 駅数 29駅 電化方式 全線電化 最高速度 135km/h 路線図 路線概要 湾岸線(わんがんせん)とは、新花影高速鉄道 新宮新都心駅から酔都駅を結ぶ幹線である。 ナンバリングは[W].。ラインカラーはミディアムブルー。 花影地区東南部の湾岸新都心計画の一環として作られた路線であり、沿線には近未来都市が広がっている。 また、宮の平から花影本線、新宮新都心から伴花線を経由して 伴急電鉄 と直通をしており、多大な輸送量を誇る。 使用車両 通勤型 N1900系 N2000系2000番台 以下の車両は花影本線からの乗り入れ車両。 N2000系 N1500系 N5200系 大東鉄道1200/1220系 大東鉄道1400系 大東鉄道5600系 ※大鉄の通勤型は運用乱れ時に乗り入れてくることがある。 以下の車両は伴急線からの乗り入れ車両。 伴急2100系 伴急3000系 特急型 伴急12000系(特急 サイレントJoker) 大東鉄道20000系( Speed Liner ) N10000系( Speed Liner WIND ) N11000系( 特急霊鳥 ) KJ11000系( 特急霊鳥 ) N3100系(大鉄直通C特急) 大東鉄道16000系/16050系(大鉄直通C特急) N3200系(花影~酔都 C特急) N3300系(特急天色) HEL1形+N24系客車(寝台特急アクアリウス) 駅一覧 駅名 よみ 備考 至伴花線・伴急電鉄線 新伴田・可奈川元町・周防・北沢文庫/麗花市/伴田空港方面 新宮新都心 しんぐうしんとしん 伴花線と接続。 南新宮 みなみしんぐう 竿戸 さおと 原巳浜付近に同じ地名がある 国際展示場 こくさいてんじじょう 羽藤坂 はとうさか 高山寺 たかやまでら 南条 なんじょう 西太山 にしたやま 御池中央 おおいけちゅうおう 永山 こみやちょう 西野原 にしのはら 酔都方に花影本線への連絡線あり。 宮の平 みやのひら 花影本線・湾岸モノレールと接続。 元町 もとまち 中央区役所 ちゅうおうくやくしょ 花影本線からの列車は一部此処で折り返す。 片手町 かたてちょう 盛口 もりぐち 楯山斑 たてやまふ 四条逸見 しじょういつみ えりか 四条酔華 しじょうすいか 湾岸五条 わんがんごじょう 二井原 にいはら 久が原 ひさがはら 地下鉄防湾線と接続 一条 いちじょう 第二学区 だいにがっく 鷲逗ライトレールと接続。 中込 なかごみ 原の台 はらのだい 桜並木通 さくらなみきどおり 酔都 すいと 地下鉄線と接続。 施設 車庫・工場 名称 最寄り駅 詳細 湾岸車両センター 四条本所 四条酔華 湾岸線全車両が所属している。 電留線等 名称 最寄り駅 詳細 SST1-3号留置 新宮新都心 3線 14両対応。 高山寺留置 高山寺駅 新宮新都心方 1線 10両対応。 CT1-2号留置 中央区役所酔都方 2線。花影本線からの列車が折り返すのが多い。 酔都駅地下1-3号留置 酔都 3線 14両対応。折り返しの特急が使用。 小ネタ 準備中 元ネタ お台場地区 友人の架空鉄道の一路線を吸収合併しました。
https://w.atwiki.jp/ymeconomy/pages/804.html
オカルトに戻る 問題文 文字 答え 1972年、高知市の中学生が謎の飛行物体を捕まえた事件の舞台 介良 けら 1977年にニューネッシーと呼ばれる死骸を引き上げた漁船 瑞洋丸 ずいようまる 2003年に亡くなった、霊能者として一世を風靡した女性 宜保愛子 ぎぼあいこ UFOで町おこしをしている石川県の都市です 羽咋市 はくいし 「UMA(未確認動物)」という言葉を初めて使用した動物学者 実吉達郎 さねよしたつお 「国際気能法研究所」代表で精神世界研究の第一人者です 秋山眞人 あきやままこと 「サイエンス・エンタティナー」という肩書きで活躍する漫画家 飛鳥昭雄 あすかあきお 「聖徳太子の地球儀」にある伝説の大陸を意味する文字 墨瓦臘泥加 メガラニカ 「竹内文書」の写本を残したとされる、竹内宿裲の孫 平群真鳥 へぐりのまとり 「デジャ・ヴュ」と呼ばれる感覚を日本語ではこう称します 既視感 きしかん 「都市伝説テラー」としておなじみのお笑いタレントです 関暁夫 せきあきお 「人魚のミイラ」で有名な和歌山・西光寺の学文路○○○? 苅萱堂 かるかやどう 『アガスティアの葉』などで日本にサイババを紹介 青山圭秀 あおやままさひで 『オーラの泉』にも出演したスピリチュアルカウンセラー 江原啓之 えはらひろゆき ノストラダムスの予言集はこの名前で紹介されることが多い 諸世紀 しょせいき ベストセラー『ノストラダムスの大予言』の著書は? 五島勉 ごとうべん 宇宙服を着ている姿という説が有名になった○○○土偶? 遮光器 しゃこうき 鎌倉時代に大友義能が編纂したとされる古文書 上記 うえつふみ 漢字伝来以前の古代日本で使用されていたとされる文字の総称 神代文字 かみよもじじんだいもじ 金剛力士像の怒りに触れて海に沈んだという鹿児島沖の島 万里ヶ島 まんりがしま 恵美須像の怒りに触れて海に沈んだという別府湾の島 瓜生島 うりゅうじま 現代怪談『新耳袋』の題名の元になった随筆『耳袋』の著者 根岸鎮衛 ねぎししずもりねぎしやすもり 古文書『東日流外三群誌』に登場する遮光器土偶の姿をした神 荒覇吐 アラハバキ 庚申(かのえさる)の日に人間の体から出てくるという虫 三尸 さんし 江戸の「本所七不思議」の中でも有名な話の一つ 燈無蕎麦 あかりなしそば 雑誌『ムー』の愛読者のことをこう呼びます ムー民 むーみん 三途の川で亡者の着物をはぐといわれています 脱衣婆 だつえば 児童向けオカルト本の名著『ふしぎだがほんとうだ』作者 斎藤守弘 さいとうもりひろ 術者などが用いる、両端の尖った法具 独鈷 とっこどっこ 生きたまま魂が抜け出す心霊現象のことです 幽体離脱 ゆうたいりだつ 太古史研究家の三浦一郎が世に問うた『○○文書』? 九鬼 くかみ 超能力者として注目されたエスパー清田の名前 益章 ますあき 突然に大きな音が鳴り響く「天狗倒し」で有名な山の一つ 英彦山 ひこさん 肉体は滅びても魂は永遠に継続するという仏様の考え 輪廻転生 りんねてんしょう 日本のピラミッドの調査で知られる研究家 酒井勝軍 さかいかつとき 風が切り傷を作る現象 鎌鼬 かまいたち 明治期の都市伝説で幽霊機関車をさした言葉 偽汽車 にせきしゃ 明治神宮内にあるパワースポットとして話題となりました 清正井 きよまさのいど
https://w.atwiki.jp/kemovmatome/pages/217.html
登録日: 更新日:2024/02/01 Thu 06 51 00NEW! ▽タグ一覧 仮面 昼部 穿いてない族 魚骨家 鹿 プロフィール 身長:216cm 体重:不明(増減が激しい為測っても意味が無い) 年齢:不明 デビューした日:2022年6月6日 誕生日:本来の誕生日は捨て子の為不明。食べた人間の誕生日である10月9日を暫定的に使っている。 好きなもの/こと/ひと:肉、酒(イエーガーマイスター等)、豆乳、怖がっている人間を見る事、(森の番人として)狩り、ホラー(ゲーム,小説,映画etc...)、格闘ゲーム、筋トレ、FPS、インディーズゲーム漁り、クリエイターの方、魚骨家、動物の可愛い動画、某掃除屋ケモVの屋根裏先輩 苦手なもの:虫(幼い頃に嫌々食べていた為、存在自体は平気)、ニンゲンども、緊急地震速報と同じ効果音、謎解き(特に音階をあわせるタイプ)、ハウスダスト、裏切り(嫌いなものトップ3に入る) イラスト:ウオボネ モデリング:雨沢パネ 2024年の抱負:【あまり酒とカフェインに頼らないで配信をする】 エピソード 2024/1/26 Twitter(現X)にてスペース「寂しいので寝床から少し喋ります。凸待ちもしているかもしれません。」から 本人曰く油断するとすぐ脱ぐ癖があるとのこと。 腰痛対策として腰に貼るカイロを付けるといいらしい。(低温やけどについては個人の責任) 配信が重なり合うゴールデンタイムは基本寝ている様子… 配信タイトル (配信した順) Nightmare of Decay Cardboard Ground Lurk in the Dark Prologue Hell Architect Phasmophobia Dead by Daylight GO HOME SENSEs Midnight オーバーウォッチ1 Skinwalker Hunt マリオカート8 RAFT スプラトゥーン3 STRANGER BLABLUE CROSS TAG BATTLE Deliver Us The Moon SIGNALIS Deep Rock Galactic Tick Tock A Tale for Two 怨念-Malice- 原神 My Lovely Daughter Project Winter Potion Permit いっき団結 Sons Of The Forest インソムニア 頭の中の劇場 パラノマサイト FILE23 本所七不思議 The Part Within The Mortuary Assistant Crab Champions Factorio Cooking Companions Layers of Fear Looking Up I See Only A Ceiling Among Us オーバーウォッチ2 Operation:Tango 忘れないで、おとなになっても。 コラボ相手一覧 (通話しながら一緒に遊んだり凸してお話しした方も含む) (五十音順) 蒼井 シュウ 朱鐘 灰斗 暁城 ゼット 冉秋 カトク 吾狸 七春 雨蔵 せいた 家入 ケブル 囲呀良 ホリス 善知鳥 たかちよ 馬芝 リク 大盛 満帆 尾弐束 タイガ 金城 ブライド カラシ 北見 ユウ キルミア ぐらいむ 鐡 剣助 黒鋼 ハク ごうゆう號 来幸 純胤 柴エナ 柴 凛太郎 Zeed Aster 千夜 ちよ 只野 イカ 橘 亜蓮 龍神 イブキ 辰蛇 伊吹 付喪 コバコ 虎丸 玲音 夏凪 優斗 七菱 ルート 二ノ宮 キンジ 縫衣 こすけ ネクロム ジィク 端白 もがみ 氷宮 ナルミ 吠黒 コクバ 星戌 セン 頬白 凪 熊白 デボア 斑目 どつ 抹皚 遊氣 三ケ山 銀次 みちびきトヲリ 光黑 コナキ 森乃 くま ヤギハタ やどかりおおかみ 屋根裏 ソウジ 月見里 みつき 雪牙 ライト 蘇牙神 ハル リアン・アイデン リュウジ レオパード聖騎士長(レオパード・シュトラーセ) 渡雲 リンク X(Twitter) YouTube
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/6467.html
旧 本所警察署 駒形橋交番(駒形橋地域安全センター) きゅう ほんじょけいさつしょ こまがたばしこうばん 東京都墨田区にある昭和初期に建てられた交番建築。 所在地 東京都墨田区吾妻橋1-12-15 地図 より大きな地図で [[東京の歴史的建造物]] を表示 設計:不詳 竣工:昭和初期 階数:平屋 関連・参考サイト 関連項目 2012-04-07 2012年度/行った所写真 東京巡り/歴史的建造物 この項目のタグ 2012年 2012年4月 交番建築 墨田区 昭和初期 東京都 歴史 歴史的建造物 近代建築 タグ「墨田区」がついた項目 2012-04-07 / 2016-01-16 / 2021-05-14 / 2022-07-30 / 2022-07-31 / 江戸東京博物館 / 大横川親水公園 / 岡田商事 / 北十間川 / 旧中川水辺公園 / 旧駒形橋交番 / 巨牛荘石原本店 / 蔵前橋 / 言問橋 / 駒形橋 / 志゛満ん草餅 / 白鬚橋 / すみだリバーウォーク / 隅田公園 / 東京スカイツリー / 東京都慰霊堂 / 東京都復興記念館 / 東京ソラマチ / ぴょんぴょん舎Te-su / 横網町公園 / 横十間川 / 両国駅 / 両国橋 タグ「東京都」「昭和初期」がついた項目 浅草駅4番出入口上屋 / 浅草橋 / 愛宕隧道 / 伊勢丹新宿店本館 / 市ヶ谷水管橋 / 上野駅 / 桜蔭中学校・高等学校本館 / 大隈講堂 / 大倉集古館 / 小笠原伯爵邸 / 岡田商事 / 奥多摩駅 / 奥多摩橋 / お茶の水女子大学 / 外苑橋 / 海洋ビルヂング / 学士会館 / 学習院初等科 / 数馬分校記念館 / 勝鬨橋 / 勝海舟記念館 / カトリック神田教会 / カトリック築地教会 / 上恩方郵便局 / 北里記念医学図書館 / 旧博物館動物園駅 / 旧王電ビルヂング / 旧大久野郵便局 / 旧駒形橋交番 / 旧忍旅館 / 旧高輪虎屋 / 旧東京市立愛宕高等小学校 / 旧文部省庁舎 / 九段会館 / 慶應義塾大学信濃町キャンパス / 京華女子中学・高等学校校舎 / 国立科学博物館日本館 / 小杉湯 / 国会議事堂 / 小松橋 / さかえビル / 崎川橋 / 三福ビル / 市政会館・日比谷公会堂 / 彰栄保育福祉専門学校 / 上智大学四谷キャンパス / 白鬚橋 / 白金桟道橋 / 新川橋 / 新高橋 / 千田橋 / 大栄橋 / 泰明小学校 / 千登世橋 / 東京都慰霊堂 / 東京都復興記念館 / トーキョーアーツアンドスペース本郷 / 東京国立博物館 / 東京慈恵会医科大学付属病院 / 東京女子医科大学病院一号館 / 東京諸聖徒教会 / 東京大学医科学研究所 / 東京大学本郷キャンパス / 常盤小学校 / ロシア正教会駐日ポドヴォリエ聖ニコライ聖堂 / 南栄荘 / 日清製粉小網町ビル / 日本館 / 日本基督教団芝教会 / 日本橋ダイヤビルディング / 日本橋野村ビルディング / 日本民藝館 / 東秋留橋 / 日立目白クラブ / ビラグルネワルト / 比留間歯科医院 / 平久橋 / 法曹会館 / 本郷中央教会 / 松住町架道橋 / 万世橋 / 三井本館 / 三越日本橋本店 / 港区立郷土歴史館 / 南高橋 / 村川家住宅 / 明治生命館 / 目黒新橋 / 目白聖公会 / 森のささやき / 柳橋 / 山梨中央銀行東京支店 / 山本歯科医院 / 湯島聖堂 / 両国駅 / 両国橋 / 六郷水門 / 和光 / 早稲田小学校 / 早稲田大学早稲田キャンパス
https://w.atwiki.jp/hikoushiki/pages/42.html
対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 一味同心する農民たち 文永(1264-1274)のころ、炎天が続き、全国的に飢饉が蔓延した。中世においては、水量豊かな大河川を灌漑に利用するに至っていなかった。そのため、干ばつによる飢饉が今回起った。農民たちは苦しみ、彼らの不満と鬱積が次の社会を作り出すエネルギーとなる。 中世は農村の時代であった。農民を始め、武士・僧侶・商人、手工業者も主に農村に住む。京都・奈良・鎌倉などの中枢都市を別とすれば、国の中心は農業であった。彼らは公領として国司に年貢を納めるか、私領として荘園領主に年貢を納めるかをした。 農民の生活は貧しかった。彼らは汚れた小屋に住み、家財道具はほとんどなかった。日の出とともに起きて働き、夜が来れば藁に潜って寝る生活を繰り返していた。 鎌倉初期、農民は鉄・塩などの必需品を除き自給自足していた。ゆえに農民は市場にかかわることがなかった。ところが中期になると市場が発達し、農民は作物を市で売り、年貢を貨幣でおさめるようになった。市場での商売および市場の管理を専業とする元小作人も現れ始めた。しかしながら、ほとんどの農民の生活は豊かにならなかった。彼らは地頭からの厳しい年貢の取り立てや、非法な略奪にしばしば苦しんだ。 農民間でもしばしば争いが起きた。境争論という、土地の境界を争うもめ事である。農業・漁業において土地の広さは重要である。農民たちは自らの利益を守るため、一致団結して行動し、しばしば訴訟や実力行使を行った。彼らが団結したのは境界の問題だけではない。領主の支配に苦しんでいたという共通の条件にも強く依存している。 (Jiyu) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 地頭と領主の対立 荘園の支配権を巡る紛争が各地で頻発していた。そのうち最も多いのが、地頭と 雑掌 の境界紛争である。農民も市場に関与してくることになったので、支配権の存在はさらに重要になり、紛争がさらに増えた。幕府は紛争はなるべく和与(示談)で解決するように勧めた。しかし、後ほど不服を訴えて蒸し返す例も少なくなかった。 彼らのうちどちらが善玉で、どちらが悪玉であったかと考えると、どちらも悪玉である。立場は違えど、彼らは自らの利益を最大化するために数多くの非法な取り立て、農民の搾取を行った。法に従わぬ彼らの暴虐は、幕府の最大の悩みの種となっていく。 そのような情勢の中、農民は現実を見据えて生きるようになる。旧来の伝統的な恩情関係を破棄し、結束して交渉を行うといったスタンスにシフトしたのである。彼らはしばしば不作などの理由をつけて、なるべく年貢を支払わぬようにふるまった。貧農だけでなく、成り上がりを目指す有力な農民も彼らと強調し、共に戦った。彼らは時に農業的要所を押さえて、その活動はより政治的になっていく。 この時期はすべての階級が泥臭く打算的なふるまいをした時期である。崇高さや高尚さはなく、人間のむき出しの欲望があらわとなった。伝統や権威が次第に泥にまみれていく。時代が変わっていく。 (Jiyu) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 分裂する天皇家 1272年(文永九)後嵯峨法皇が崩御する。法皇亡きあと、誰が政務の実験を握るかが問題となった。第三子である後深草上皇の系列か、第七子である亀山天皇の系列になるかが主な焦点だった。後嵯峨法皇は皇統のことは何も遺さなかったので、揉める元となった。 天皇が政治の実権をどれほど握ったか、一言で言い表すのは難しい。摂関家や幕府などの社会的勢力関係で相対的に変動するからである。天皇家は膨大な荘園を直接的・間接的に支配できた。天皇制は既に形式と化していたが、天皇家は最高級の権威を持った集団として存在していた。その惣領の地位が誰に移るかというのは、皇太子個人の問題ではなく、血統集団としての皇族派閥や彼らに与する貴族の趨勢に大きくかかわっていた。 後深草と亀山の争いは前者に軍配が上がった。伏見天皇が即位し、後深草院の院生が始まる。亀山院希望を失い出家してしまう。天皇家はこの対立により、事実上二つに分裂してしまう。亀山院方では、後宇多上皇が京都嵯峨の大覚寺を再興し、以後もその子孫が大覚寺と関係が深かった。後にこの系統は「 大覚寺統 」と呼ばれた。同様に後深草院側は、持明院を仙洞御所(上皇が住む場所)とし、子孫も深くかかわったので「 持明院統 」と呼ばれた。 この時代の天皇は、政治には関与せずにもっぱら儀礼のみを行った。院生が始まってからの平均即位年齢は八歳と十カ月、平均在位期間は約十年であることからも、たんある形式的な地位であったことがうかがえる。しかし、現在のような象徴的存在かというとそうでもなかった。膨大な荘園群という経済的基盤に裏打ちされた権威は残っていたので、「御心のままに」権力をふるうことがしばしばあった。豪奢にはふるまえるが、あくまでも政治の覇権は幕府に、といった二重構造が存在していた。 (Jiyu) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 御家人制の崩壊 この時代になると御家人は、零細化してまた権力を失い、無力化していた。その要因の一つは、非御家人・凡下・山僧による高利貸しであった。このような御家人以外の人々は、鎌倉時代には多く存在しており、また反幕府的な傾向が強かった。これは、幕府が非常に強固な権力組織であり、彼らをもまた従えんとしていたことに他ならない。 彼らは、主に寺社や朝廷につかえている者が多かった。寺社・朝廷は当時、莫大な荘園を抱え、非御家人らの人々はこの門閥的政治勢力と密接に関連していた。この寺社・朝廷らは孰れも京都・奈良に集中的に存在し、それゆえこれらの場は物資の移動・集積・交換を通して物流の要となったのである。この時代、京都には既に商人が発生して富裕の者もおり、また京都から各地の港、さらに東アジアへと至る大きな交易ネットワークも存在していた。そしてこの動きが、社会へも大きな影響を与えることになる。 この時代の商人は、主に座の商人である。寺社朝廷などに課役を支払う一方で、特権的に特定生産物の流通を支配したのである。 この商業の浸透は御家人にも影響を与えることになり、税なども銭貨による支払いも行われるようになってゆく。すると、御家人も所領へ送る代官として、銭勘定に詳しい山僧や借上(高利貸し)を利用するようになるが、やがて彼らに所領も奪われて没落してしまう者も出た。この傾向は泰時代には既に現れていたものだが、この中世となっていよいよ深刻化したのである。 これに対抗して出されたのが永仁の徳政令である。これは越訴――上告の禁止、質流れ・売却地の返還・金の貸し借りに関する訴訟の禁止によって成り立っていた。しかし、これは却って経済に混乱を招き、却って非御家人らの所領押領を招くことさえあった。それゆえ、結局は徳政令を撤回することとなっている。 この結果は、非御家人層の勢力を幕府が圧殺することに失敗したことに由来する。しかしこれは、決して幕府の横暴ではなく、東国から発布したが故であったといえる。当時、東国は未だ商業発展せざるところであった一方、西国はもはや切り離せぬものとなっていたのである。そしてこの西国での商業発展が、新たな政治動向への影響をあたえるのである。 また、御家人の惣領制の動揺もあった。世代を重ねることに所領分割によって所領が狭小となり、また血縁関係も薄くなることによって、惣領を巡る一族内の争いが頻発しつつあったのである。そしてこれは惣領制を利用する幕府体制にも動揺を与えることになった。 (Spheniscidae) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 悪党横行 武士の中には、本所の支配に抵抗する者――悪党がいる。本来、本所はそれを自らの手で討伐するものであるが、本所が幕府にの権力を借りて討伐を図ることも多かった。それは、本所にそれだけの権力が無い者も多かったからである。 伊賀国黒田庄では、弘安ごろより悪党が跋扈し、本所・東大寺に対する反抗が非常に激しかった。東大寺は幕府の権力による鎮圧を図るも、地頭設置を迫られることとなり、なかなか鎮圧は進まなかった。彼らには、幾らかの与党も存在したものに、倫理的な面からすると住民の殺戮も辞さず、ために住民との敵対関係があったといえる。 このような状況故、浪人や流浪の僧といった、体制の外にある人々は、幕府の警戒の対象となった。このころになると、異形の者と呼ばれる武装集団が、各地に出没するという事態にもなっている。そしてこのような動きは幕府を揺り動かすことになる。彼らの中には、開墾に踏み出す人々もいた。 当時、叡山をはじめとする寺社では仏法と王法とは車の両輪であるように考えられていた。しかしその中で、人法興隆という言葉が叫ばれるようになる。人法とは世俗での生活を表し、仏法や王法では非難されるものもこれを通して行われることがあった。 悪党や悪僧と呼ばれる人々は、銭をもっとも重要とした。彼らはまず交易とそれを通して得られる銭をその行動理由としていたのである。幕府はこれを討伐しようとしたが、討伐は必ずしも成功しなかった。悪党は御家人や守護とも結びついていたためである。そうして勢力を伸ばした悪党は、愈々時代を動かしていくことになる。 (Spheniscidae) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 「主上御謀反」 後醍醐天皇が帝位へつくと、記録所が設置された。これは、天皇が親政するための裁決機関であり、後醍醐天皇が非常に政治へ意欲的であったということが言える。また、後醍醐は宋学の勉強会を数度開いていたが、これは討幕相談という側面があり、また無礼講の宴会も行って、それによって武士をもその計画に引きこもうとした。しかし、この計画は一度は失敗に終わる。正中の変と言うが、これはあっさり露見することとなる。結果、天皇の側近は流刑に処せられることになる。 このころより、「主上御謀反」という言葉が使われるようになる。主上より幕府を上に見る風潮があった、ということは否定できないだろう。 一方、奥州ではこの時代より内乱が勃発。北条氏はこの対処に苦労することになった。また同時に幕府内でも、権力闘争が起こっていた。 立太子について、幕府の介入について後醍醐天皇は思うのままにすることができず、幕府への反感を募らせることになる。やがて後醍醐天皇は流通統制を行う一方で、討幕の計画をいよいよすすめた。しかしこれは吉田定房の密告によって再び露見。後醍醐天皇は笠置山で挙兵するも、陥落し、譲位させられてしまったのであった。 (Spheniscidae) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 楠木合戦 日本歴史上、楠木正成ほど有名で、素性のわからぬ人物もない。本拠地も家系も謎であった。はっきりしていることは、かれが名もない河内の小土豪にすぎなかったこと、それだけにかれの周辺には「悪党」ムードが漂ってもいたであろうことだけである。 一三三一年の赤坂城合戦では、幕府軍と楠木正成の軍が戦ったが、楠木の智略により赤坂城はなかなか落ちなかった。そのまま四五日過ごしたが、急な籠城であったため城中に食料が尽きてしまったらしく、正成は風雨の夜に城に火をかけ、闇にまぎれて脱出して行方をくらました。 こうして赤坂の楠木の城は落ち、備後の桜山も自刃したので、天下平穏に帰したかに見えた。 関東の大軍は十月末から十一月のはじめにかけて鎌倉へ帰還し、鎌倉からは後醍醐天皇の謀叛にくみした公卿や武士の処罰のため、二人の奉行人が京都へ派遣された。いよいよ戦後処理である。 幕府の奉行人は持明院方に公卿・僧侶らの罪名のリストを示し、処分方法について「聖断」をあおいだが、これに対し幕府の判断に任せるという仰せがあった。 そこで十二月二十七日、関東の使者は後醍醐天皇を隠岐に、第一宮尊良を土佐に、妙法院宮宗良を讃岐に配流すると奏上した。 こうして一三三二年三月七日、後醍醐天皇は隠岐へと流された。これを手始めに、この三月から六月にかけて諸皇子・公卿・僧侶・武士の配流・処刑がつぎつぎに行われた。 一三三二年四月二十八日、京都では改元して正慶というめでたい年号がえらばれたが、この翌年、後醍醐天皇が隠岐から帰還したあと、光厳天皇も年号もみな否認してしまったから、元弘の年号は息を吹き返し、三年まで(正確には四年正月二十八日まで)あることになった。本書では便宜上元弘で通す。 その年の春から夏のころ、後醍醐の皇子尊雲法親王すなわち護良親王は、吉野・十津川方面の土豪たちを味方に組織して廻っていた。 親王のほかにも楠木正成がどこかで挙兵の準備をしていたし、またここ数十年のあいだ欲求不満をたえず暴発させていたかの悪党的な武士どもが無数にいた。そして隠岐の配所にある後醍醐「先帝」も強靭な意志をもって再起のときを待っていた。 一三三二年も冬に入ったころ、楠木正成は河内・和泉から摂津にかけての一帯に出没し、十二月には赤坂城を急襲していっきょに奪回してしまった。 翌年の正月には正成は摂津の天王寺から渡辺まで兵を進めていたが、もちろん六波羅もてをこまねいていたわけではない。暮れの十二月九日には畿内・近国の武士たちに、護良親王および楠木正成の征伐のために京都へ参集するように命令を発していた。 正月には正成は河内の各所で戦い、幕府方の軍勢を追い落とした。その後六波羅の派遣した軍勢もまたこれをたくみに追い落とした。 正成がこうした兵力を持ちえたのは、摂・河・泉一帯の小土豪をたくみに把握していたためと思われる。いわばひろい意味での悪党が、こうして軍事力の重要な要素になってきていた。 このころになると、正成のほかにも護良親王の令旨をうけて挙兵する者が各地にあらわれてきた。 機内・西国にまたもや兵乱おこって大動揺を来しているという報告に、幕府はふたたび東国の軍勢を召集して大軍を西上させた。軍勢は五万ともいい三十万ともいう。 京都へ着いた東国の軍勢は諸国の軍勢と共に、大手(河内路をへて赤坂城へ向かう軍勢)、搦手(奈良路をへて金剛山へ向かう軍勢)、もう一手(紀伊路から吉野山へ向かう軍勢)の三手に分けられ、正月の末から二月はじめごろ三方同時に進軍を開始した。 それぞれ激烈な戦いが行われたが、赤坂城は城中へ水を引く樋を発見され、水を絶たれて陥落した。 正成がかまえた城はこの方面に多数あったらしいが、しだいしだいに陥落し、残るところは正成がこもる金剛山の千早城のみとなった。 金剛山へ押し寄せていたのは搦手の軍勢であるが、いまやこれに赤坂・吉野の寄手もくわかり、三方の大軍を挙げて千早城を総攻撃することになった。二月も末ごろのことである。 千早城合戦は百万あまりの幕府軍と千人に足らぬ軍勢で城にたてこもる正成軍との争いであるが、城はなかなか落ちなかった。『太平記』によれば、正成は用水の便もしらべ水は確保していたし、大石を投げかけたり矢を射続けたりと智略を尽くして戦った。また、わら人形をおとりに、攻めてきた兵を返り討ちにしたりもした。 これに対し幕府側は梯を作り深い堀に橋を渡して城へ斬りこむ計略を考え、実行するなどしたが、油と火矢によって橋は炎上、数千の兵が一人残らず焼け死んでしまったという。 そうこうしているうちに、吉野・十津川・宇陀・宇智一帯の野伏ども七千人余りが大塔宮の命をうけて峰や谷にかくれ、千早の寄手の補給路をふさいだため、寄手の軍勢は引き揚げはじめた。野伏どもはこれを待ち受けて討ち取った。 千早城の寄手ははじめ百万ともいわれたが、こうして減ってゆき、いまでは十万しかいなくなってしまった。 これが『太平記』の語る千早城合戦の内容である。 『太平記』が狙ったのは千早城合戦の正確な記録を伝えることではなく、功名や恩賞に目がくらんだ鎌倉武士の大群とそれを手玉にとる正成の智略や奇抜な戦術を対比することで、鎌倉武士を笑いとばすことであった。 では、正成の戦術なるものがでたらめな作り話かというと、そんなことはなかったと考えられる。 このような合戦が、このころ少なくとも機内・西国では一般化していたと筆者はみる。こうした戦術は、蒙古襲来から半世紀間、連年どこかで行われていた悪党の合戦により編み出されたのである。正成の戦術は、悪党や郷民のさまざまな合戦のなかで鍛えられた戦術にほかならない。 一三三三年閏二月二十四日の暁、後醍醐天皇は隠岐を脱出した。 天皇は船上山を行在所ときめて、さっそく諸国の武士へあてて綸旨を発し、味方について忠勤をはげむよう促した。西国各地の武士にはすでに動揺の色が濃く、かなりの者が船上山に馳せ参じた。 三月には天皇方の軍勢はかなりの勢力になっており、京都への進発の方針がきめられたが、先陣として千種忠顕が山陰道を進撃することになった。 (Shade) 対応するregion、endregionプラグインが不足しています。対になるようプラグインを配置してください。 鎌倉の最期 千早城攻防戦が膠着状態に陥る以前、幕府軍を背後から牽制する合戦が西国の播磨、伊予、および肥後から起こっていた。 播磨の赤松則村は京都の六波羅の軍勢と戦ったが、一三三二年に護良親王の令旨を受け、翌年正月に挙兵、近辺の武士たちを従えるとともに備中と播磨の境の船坂峠をおさえて西国軍の上洛を遮断した。 また閏二月から三月にかけては摂津の西北部一帯で六波羅の軍勢と合戦をくりかえし、三月にはさらに東へ進み、京都の西南、山崎・八幡方面へ拠点を移した。赤松勢は、このときから五月までずっとこの辺りに拠点をおき、たえず京都をおびやかしつづけた。 赤松勢が度重なる合戦にやや衰えたころ、山陰道からは千種忠顕の軍勢がせまり、やがて入京したが、この公卿の大将は六波羅軍との合戦に敗北し、丹波まで退却してしまった。とはいえ、忠顕はその後も丹波を根拠にして京都をうかがっていた。 こうして六波羅の軍勢は、合戦に勝ち続けながらも次第に不利になっていった。 伊予に蜂起した土居通増・得能通綱・怱那重清らの勢力も次第に大きくなり、瀬戸内海に幕府にとって由々しい敵対勢力をつくりあげた。 九州では鎮西探題に反感をいだいていた少弐・大友両氏と、肥後の菊池武時が令旨が届いたのを契機として挙兵の密約をかわしたが、探題の北条英時が彼らの挙動を警戒し始めたため、少弐・大友は変心してしまった。武時は自分だけで挙兵したが、敗死。これが九州における北条氏にたいする叛逆の最初であった。 鎌倉ではこうした各方面の情勢への対策として、足利尊氏・名越高家の二人にそれぞれの軍勢をひきいて上洛させた。三月末ごろのことである。 尊氏はかねてより北条高時に不満をいだいていた上、今度の出陣命令もかれの病気中であったということもあり、いよいよ反感をいだいた。 そこで三河の矢矧まで来たとき、かれはいよいよ北条氏に叛旗をひるがえす決心をした。 そして、一度京都に入り、丹波へ越え、同国の篠村で挙兵した。そこまで行ったのは、一つには山陰道を進撃するとみせかけるためであり、もう一つには千種忠顕の軍勢と合流して京都を攻めるためであった。 五月七日ごろには尊氏の軍勢は六波羅勢と対峙した。この合戦は激烈をきわめたが、六波羅勢はしだいに敗退し、ついに六波羅の城郭にたてこもった。 探題の仲時と時益は光厳天皇と後伏見・花園の両上皇を伴い、夜半に六波羅をすてて東へはしった。しかし、山科四宮河原あたりにさしかかると、落人をねらう野伏がひしめき、また夜も明けて近江平野に入って、守山あたりからもまた野伏がひしめいていた。 それらの襲撃に多く疵ついた一行は、翌九日、番場で峠がふさがれており、先行きにも希望が持てないことを思い、蓮華寺の前で自刃した。六波羅の軍兵はこうして全滅したのである。 一三三一年、後醍醐天皇は光厳天皇を廃し、正慶の年号を元弘に復し、光厳天皇の名による官爵をことごとく削り、すべてを光厳天皇の即位以前に戻すという詔を発した。後醍醐天皇は自分が天皇として続いていたというたてまえを押し通したのである。 天皇は六波羅の攻略がすべて天皇一身から出たものであるかのように初めからそういう態度をとりつづけていた。 これに対し、足利尊氏もまた、六波羅攻めにおいてあたかもかれが天皇からすべて委任された大将軍の地位にあるかのごとくに天下の武士に臨んだのである。そのため、六波羅を攻略したのは赤松則村や千種忠顕をはじめ多数の武士の協力であったにかかわらず、成果はあたかも尊氏一人の号令によるかのような印象を与えた。 五月八日、その前夜に六波羅が陥落した日、新田義貞は北条氏を討つ挙兵の旗をかかげた。 新田義貞は武家の名門であったが、北条氏の執権のもとでは足利氏よりもさらに冷遇され、世間ではあたかも足利の一支族であるかにさえ軽視されていた。新田義貞が北条氏に叛逆をくわだてるにいたった理由、および足利氏に終始対抗的であった理由はこの点に深くかかわっていた。 新田義貞の場合、いわば動乱に乗じて北条氏から覇権を奪取しようというのが主たる目的であった。 義貞は利根川をこえて武蔵国に入り、ひたすら鎌倉をめざして南下した。義貞に呼応して関東各地の武士団がぞくぞくと馳せくわわり、軍勢はみるみる大きくなっていった。 あいつぐ合戦はいずれも激烈をきわめた。 挙兵以来わずか十日で戦局はすでに鎌倉の攻防戦をむかえたのである。 幕府は三方へ討手を差し向けた。一方は下道、つぎの一方は武蔵路、もう一方は中道である。諸方へ軍勢が配置され、十八日朝からいまを最期の合戦が開始された。 二十一日から二十二日にかけ、鎌倉の防禦はやぶれ、最期のときがきた。高時が自刃し、百五十年にわたる鎌倉幕府はこうして滅亡した。 (Shade)
https://w.atwiki.jp/shiotaono/pages/154.html
水海道総合車両センター(みつかいどうそうごうしゃりょうセンター)は、茨城県常総市にある塩田鉄道の車両基地である。 水海道駅の東方、東水海道駅の北に位置し、出入庫は水海道駅を介して行われる。 車両配置数、運用範囲ともに塩鉄一で、塩鉄最大の車両センターである。関東地方の車両整備は当車両センターで行われている。 歴史 所属車両の車体に記される略号 配置車両本ミツ表記(本所所属) 本ミチ表記(古河、川越支所所属) 運用一覧R運用R-1運用 M運用 A運用 D運用 H運用 歴史 1898年3月12日 開設。 所属車両の車体に記される略号 「本ミツ」・・・本社所属を意味する「本」と、水海道を意味する「ミツ」から構成される。 直流型車両「本ミチ」・・・本社所属を意味する「本」と、水海道を意味する「ミ」、直流を表す「チ」から構成される。 配置車両 本ミツ表記(本所所属) 2009年4月1日現在の配置車両は以下のとおりである。 670系電車? 0番台10両・5両編成各5本が配置されている。 本線(銚子~大月)・関東本線・東埼線・小山線・千葉線で運用されている。 主に緩行線運用についている。 672系電車? 0番台10両・5両編成各7本が配置されている。 本線(銚子~大月)・関東本線・東埼線・小山線・千葉線・友部線・東北線(北浦~いわき)で運用されている。 平日は主に緩行線運用についている。休日はこの限りではない。 703系電車? 0番台10両・5両編成各4本が配置されている。 本線(銚子~大月)・関東本線・東埼線・小山線・千葉線・友部線・東北線(北浦~いわき)で運用されている。 平日は主に緩行線運用についている。休日はこの限りではない。 713系電車? 0番台10両・5両編成各8本が配置されている。 本線(銚子~甲府)・関東本線・小山線・千葉線・友部線・東北線(北浦~郡山)・日光急行線(小山~那須岳)で運用されている。 平日は主に快速運用についている。 719系電車? 0番台7両が配置されている。 本線(銚子~古河)・小山線・千葉線・友部線・東北線(北浦~郡山)で運用されている。 閑散時の普通列車として運転されている。定期列車の増結時に使用されることもある。 721系電車? ↑非貫通型先頭車 0番台10両・5両編成各2本が配置されている。 本線・関東本線・小山線・東北線(北浦~古川)で運用されている。 主に東京⇔仙台、三本木・古川の俊快速に使用されている。 731系電車? ↑非貫通型先頭車 0番台10両・5両編成各4本が配置されている。 本線・関東本線・小山線・東北線(北浦~古川)で運用されている。 主に東京⇔仙台、三本木・古川の俊快速に使用されている。 733系電車? 0番台10両・5両編成各3本が配置されている。 本線(銚子~大月)・関東本線で運用されている。 主に緩行線列車の運用についている。 737系電車? ↑3000番台 3000番台10両・5両編成各3本、5000番台10両・5両編成各3本が配置されている。 本線(銚子~甲府)・関東本線・小山線・東埼線・千葉線・友部線・東北線(北浦~郡山)・日光急行線(小山~那須岳)・首都急行中武線で運用されている。 かなり広めの運用範囲を持つ。 739系電車? ↑試作型リニューアル車 0番台10両・5両編成各21本、1000番台10両・5両編成各36本が配置されている。 本線(銚子~甲府)・関東本線・小山線・東埼線・千葉線・友部線・東北線(北浦~福島)・東間線・京磐急行電鉄線・日光急行線(小山~那須岳)・首都急行中武線・五川鉄道線で運用されている。 関東地方全域で見ることができるほど広い運用範囲を持つ。 741系電車? ↑2000番台 1000番台10両・5両編成各6本、2000番台10両・5両編成各6本、2500番台10両・5両編成各3本、9000番台2両編成2本が配置されている。 本線(銚子~甲府)・関東本線・小山線・東埼線・千葉線・東北線(北浦~日立)・東間線・京磐急行電鉄線・首都急行中武線で運用されている。 成田空港連絡は主に1000番台が、首都急行乗り入れは主に2000番台が、近距離俊快は主に2500番台が担当している。9000番台は測量車。 743系電車? ↑非貫通型先頭車 2000番台10両・5両編成各18本が配置されている。 本線・関東本線・小山線・東埼線・千葉線・東北線(北浦~一ノ関)・京磐急行電鉄線・甲富線・五川鉄道線・杜の都線(仙台~八木山~秋保温泉)で運用されている。 主に東京⇔仙台、三本木・古川の俊快速に使用されている。成田ウィングラインの空港俊快にも使用される。間合い運用で最遠一ノ関まで顔を出す。 751系電車? 0番台10両・5両編成各15本が配置されている。 本線(銚子~大月)・関東本線・小山線・東埼線・千葉線・日光急行線(小山~那須岳)・首都急行中武線で運用されている。 古河以東から直通する緩行線運用が多いが、時々快速運用もこなす。 775系電車? 1000番台10両・5両編成各17本が配置されている。 本線・関東本線・小山線・友部線・甲富線・東北線(北浦~福島)で運用されている。 1000番台はもともと優等列車用に製造されたため、原則として長距離の特快の運用に使用される。 また、古河・川越以遠の臨時通勤快速にもこの車両が使用される。 777系電車? 0番台4両が配置されている。 本線(銚子~古河)・小山線・千葉線・友部線・東北線(北浦~郡山)で運用されている。 閑散時の普通列車として運転されている。定期列車の増結時に使用されることもある。 781系電車? ↑貫通型先頭車 0番台10両・5両編成各7本が配置されている。 本線・関東本線・小山線・東北線(北浦~一ノ関)・京磐急行電鉄線・甲富線・杜の都線(仙台~八木山~秋保温泉)で運用されている。 主に東京⇔仙台、三本木・古川の俊快速に使用されている。間合い運用で最遠一ノ関まで顔を出す。 787系電車? 0番台5両編成22本が配置されている。 本線(銚子~古河)・小山線・千葉線・友部線・東北線(北浦~いわき)で運用されている。 H運用の大幅増加に伴い増備されたH運用限定のセミクロス車。2編成連結の10両運行が多いが、5両や15両編成での運行もある。 1013系電車? ↑非貫通型先頭車 0番台10両・5両編成各1本が配置されている。 本線・東北線(北浦~いわき)で運用されている。 1021系電車? 0番台10両・5両編成各2本が配置されている。 本線・東北線(北浦~いわき)で運用されている。 1025系電車? 0番台10両・5両編成各4本が配置されている。 本線・東北線(北浦~いわき)で運用されている。 1027系電車? ↑非貫通型先頭車 0番台10両・5両編成各2本が配置されている。 本線・東北線(北浦~いわき)で運用されている。 1029系電車? 0番台8両編成4本が配置されている。 「きたかぜ」号専用車両。その他増結車両が多数配置されている。 EF700形電気機関車 0番台10両が配置されている。 高速貨物列車に運用されている。 本ミチ表記(古河、川越支所所属) 747系電車? 0番台10両・5両編成各12本が配置されている。 本線(古河~大月)・関東本線・小山線・東埼線・千葉線(柏~龍角寺・成田~成田空港)・日光急行線(小山~那須岳)・首都急行中武線で運用されている。 緩行線運用が多いが、時々快速運用もこなす。 751系電車? 0番台10両・5両編成各7本が配置されている。 本線(古河~大月)・関東本線・小山線・東埼線・千葉線(柏~龍角寺・成田~成田空港)・日光急行線(小山~那須岳)・首都急行中武線で運用されている。 交直両用ではあるものの、ミチ車は直流区間のみの運用である。 755系電車? 0番台10両・5両編成各13本が配置されている。 本線(古河~大月)・関東本線・小山線・東埼線・千葉線(柏~龍角寺・成田~成田空港)・日光急行線(小山~那須岳)・首都急行中武線で運用されている。 最近は中武線乗り入れ運用が増えてきている。 757系電車? 0番台10両・5両編成各7本が配置されている。 本線(古河~大月)・関東本線・小山線・東埼線・千葉線(柏~龍角寺・成田~成田空港)・日光急行線(小山~那須岳)・首都急行中武線で運用されている。 関東本線乗り入れ運用のみで活躍する珍しいアルミ車。 775系電車? 0番台10両・5両編成各20本が配置されている。 本線(古河~大月)・関東本線・小山線・東埼線・千葉線(柏~龍角寺・成田~成田空港)・五川鉄道線で運用されている。 緩行線の普通列車でのみ運用される。 運用一覧 R運用 東京発着の特別快速・快速をメインとした運用で、すべての運用に739系1000番台、775系1000番台が、また一部運用には他の形式も投入される。東京発着俊快速運用と同様に、東京に向かう列車番号が偶数である。 R-1運用 東京福島間の特別快速を含む長距離運用。739系1000番台、775系1000番台による固定運用となっている。 1日目 水海道 6 41→特別快速 602R→7 56 東京 8 07→特別快速 801R→12 49 福島 17 46→特別快速1702R→22 30 東京 22 40→特別快速 2201R→24 10 土浦 平日は15両固定で運転されるが、土休日は基本編成10両のみを担当し、付属編成は三本木総合車両センター郡山派出の2+3両が担当する。(3両の送り込みは金・休前日に毎日運行の1910I・2210I・2309Iに増結され水海道へ。新日和田へは月曜・休日の翌日に毎日運行の607Iに増結される。2両の送り込みは金・休前日に毎日運行の2106Iに増結され水海道へ。新日和田へは月曜・休日の翌日に毎日運行の711Iに増結される。) また、土浦到着後夜間滞泊し翌日の504Rとなるため、土・休日の付属編成入れ替えを兼ねた5両編成のみの運用が毎日設定されている。 水海道 23 51→普通 5301R→24 17 土浦 24 28→回送 5402R→水海道 この運用は、付属編成の入れ替えが必要ない曜日の場合は運用車両の限定はされず、様々な車両で運用されている。入れ替えが必要な場合は、5301Rが739系1000番台・775系1000番台の5両で、5402Rは郡山派出の2+3両で運用される。 2日目(平日) 土浦 5 01→特別快速 504R→6 37 品川 6 58→特別快速 603R→8 26 宇都宮 8 37→特別快速 804R→10 00 東京 10 06→特別快速 1003R→14 21 郡山 14 28→回送 1403R→14 32 郡山派出 15 54→回送 1504R→15 58 郡山 16 17→特別快速 1604R→20 32 東京 20 50→通勤快速 2003R→21 59 成田 22 20→特別快速 2204R→23 46 羽田空港 23;54→回送 2303R→23 58 八潮操車場 2日目(土休日) 土浦 5 01→特別快速 504R→6 37 品川 6 58→特別快速 603R→8 26 宇都宮 8 37→特別快速 804R→10 00 東京 10 06→特別快速 1003R→14 21 郡山 14 28→回送 1403R→14 32 郡山派出 15 54→回送 1504R→15 58 郡山 16 17→特別快速 1604R→20 32 東京 20 50→特別快速 2003R→22 01 成田 22 20→特別快速 2204R→23 46 羽田空港 23;54→回送 2303R→23 58 八潮操車場 3日目 八潮操 6 24→回送 3605R→6 28 品川 6 42→特別快速 605R→10 19 いわき11 07→特別快速 1106R→14 38 東京 14 50→特別快速 1405R→19 06 郡山 19 10→回送 1905R→19 13 郡山派出 4日目 郡山派出 6 53→回送 608R→6 57 郡山 7;26→特別快速 708R→11 42 東京 11 53→特別快速 1107R→15 24 いわき 16 17→特別快速 1608R→19 49 東京 20 08→特別快速 2007R→23 00 ときわ新町 23 05→回送 2307R→23 10 高萩 5日目 高萩 5 15→特別快速 510R→8 13 東京 8 37→特別快速 809R→11 08 銚子 11 32→特別快速 1110R→14 03 東京 14;21→特別快速 1409R→16 09 那須塩原 16 31→特別快速 1610R→18 25 東京 18 48→特別快速 1809R→22 17 いわき 6日目 いわき 5 39→特別快速 512R→9 08 東京 9 20→特別快速 911R→12 49 いわき 13 07→特別快速 1312R→16 39 東京 16 51→特別快速 1611R→19 51 高萩 20 11→特別快速 2012R→23 11 東京 23 17→回送 2312R→23 24 八潮操 7日目 八潮操 5 49→回送 513R→5 56 東京 6 05→特別快速 613R→10 20 郡山 11 23→特別快速 1114R→15 41 東京 15 52→特別快速 1513R→19 27 いわき 19 41→普通 1914R→21 28 北浦 21 45→普通 2113R→23 35 いわき 8日目(平日) いわき 6 47→特別快速 616R→10 16 東京 10 40→特別快速 1015R→12 56 那須岳 13 10→特別快速 1316R→15 27 東京 15 39→特別快速 1515R→17 43 甲府 18 03→特別快速 1816R→20 07 東京 20 21→通勤快速 2015R→21 40 成田空港 21 50→各駅停車 2116R→21 59 成田 8日目(土休日) いわき 6 47→特別快速 616R→10 16 東京 10 40→特別快速 1015R→12 56 那須岳 13 10→特別快速 1316R→15 27 東京 15 39→特別快速 1515R→17 43 甲府 18 03→特別快速 1816R→20 07 東京 20 21→特別快速 2015R→21 41 成田空港 21 50→各駅停車 2116R→21 59 成田 9日目(平日) 成田 4 43→回送 417R→4 49 成田空港 5 00→通勤快速 518R→6 19 東京 6 30→特別快速 617R→9 04 銚子 9 54→特別快速 918R→12 57 東鎌倉 13 14→特別快速 1317R→15 20 土浦 16 07→特別快速 1618R→17 39 東京 17 51→特別快速 1717R→20 45 ときわ新町 20;54→特別快速 2018R→24 03 羽田空港 24 10→回送 2417R→24 14 八潮操 9日目(土休日) 成田 4 43→回送 417R→4 49 成田空港 5 00→特別快速 518R→6 20 東京 6 30→特別快速 617R→9 04 銚子 9 54→特別快速 918R→12 57 東鎌倉 13 14→特別快速 1317R→15 20 土浦 16 07→特別快速 1618R→17 39 東京 17 51→特別快速 1717R→20 45 ときわ新町 20;54→特別快速 2018R→24 03 羽田空港 24 10→回送 2417R→24 14 八潮操 10日目(平日) 八潮操 6 45→回送 620R→6 49 羽田空港 7 02→特別快速 719R→8 52 大月 9 07→特別快速 920R→10 40 東京 10 53→特別快速 1019R→13 26 銚子 13 37→特別快速 1320R→16 08 東京 16 21→特別快速 1619R→17 41 成田空港 17 47→通勤快速 1720R→19 04 東京 19 15→特別快速 1919R→21 23 那須湯本 21 51→特別快速 2120R→23 54 上野 10日目(土休日) 八潮操 6 45→回送 620R→6 49 羽田空港 7 02→特別快速 719R→8 52 大月 9 07→特別快速 920R→10 40 東京 10 53→特別快速 1019R→13 26 銚子 13 37→特別快速 1320R→16 08 東京 16 21→特別快速 1619R→17 41 成田空港 17 44→特別快速 1720R→19 05 東京 19 15→特別快速 1919R→21 23 那須湯本 21 51→特別快速 2120R→23 54 上野 11日目 上野 5;43→特別快速 521R→7 10 大月 7 25→特別快速 722R→8 57 東京 9 10→特別快速 921R→10 31 成田空港 10 39→特別快速 1022R→11 59 東京 12 11→特別快速 1221R→14 42 銚子 15 14→特別快速 1522R→17 47 東京 18 05→特別快速 1821R→19 07 青梅 19 50→特別快速 1922R→20 53 東京 21 06→特別快速 2121R→22 35 土浦 23 06→普通 2322R→23 28 水海道 M運用 本線快速運用を中心とした運用。一部の特快もこちらの運用である。使用車両は主に本所のセミクロスシート車であるが、限定はされていないのでロングシート車が運用に入る場合もある。運用範囲もR運用並みに幅広く、首都急線直通運用も多く設定されている他、最遠で郡山までの運用(東京22 02発の最終運用)がある。 A運用 本線交流区間から緩行線へと直通する各駅停車を中心とした運用。本所の739-0系や751系といったロングシート車で運転される。ダイヤが乱れた際は古河・川越支所の751系による代走が行われる場合がある。 D運用 小山・古河・青梅・川越といった直流区間のみを走行する各駅停車・快速の運用。古河・川越支所の車両で運行される。なおダイヤが乱れた際は751系に限り、古河以遠の交流区間へ代走として直通する場合がある。 H運用 古河以東のみを走行する普通列車の運用。本線だけでなく、小山線、千葉線、友部線、そして東北線いわきまでの運用も担当する。5・10両の運用が多く、セミクロス車が基本だがたまに俊快速用車両が充当される。
https://w.atwiki.jp/sawahonpo/
会社概要 社 名     株式会社日本介護福祉グループ        (略称 JC-Group,英語表記 Japan Care Wellbeing-Group.co.,ltd) 本社所在地   〒130-0026        東京都墨田区両国4-25-9三和ビル3階 主な事業所   北海道 東京 千葉 山梨 九州         [東海支部]         〒453-0015         愛知県名古屋市中村区椿野21-2 第2太閤ビル6F         TEL.052-462-8630 FAX.052-462-8631         [九州支部]         〒812-0013         福岡県福岡市博多区博多駅東1-16-7 博多駅東尾崎ビル301         TEL.092-409-9527 FAX.092-409-9528 代表番号    03-5625-4456 FAX番号     03-5625-4457 設 立     平成17年5月 資本金     35,000,000円 代表者     代表取締役会長 藤田英明        代表取締役社長 小柳壮輔 事業内容    ・小規模デイサービス(通所介護)「茶話本舗(さわほんぽ)」事業        ・小規模デイサービス(通所介護)「茶話本舗(さわほんぽ)」フランチャイズ事業        ・介護・医療・福祉特化型コンサルティング事業        ・講演会・講習会・セミナー等講師受託事業        ・居宅介護支援事業 アイルケアプランセンター        ・訪問介護事業 アイルヘルパーステーション        ・メディカルフィットネス(通所介護)「Green Label (グリーンレーベル)」事業 取引銀行    三菱東京UFJ銀行 本所支店/みずほ銀行 浅草支店/京葉銀行 市川支店 加盟団体    ・東京中小企業家同友会        ・東京商工会議所        ・社会福祉法人東京都社会福祉協議会        ・日本在宅介護協会        
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/140.html
大鳥城(おおとりじょう) 所在地福島市飯坂町舘ノ山 別称鳳城、鵬城、丸山城 築城年寛治年間(1087-94)、保元二年(1157)など 築城者佐藤季春、佐藤元治(基治)など 城主変遷奥州藤原氏[佐藤氏]… 廃城年文治五年(1189)か 現状舘ノ山公園(大鳥神社)、大鳥中学校 概要 大鳥城は福島県福島市に所在した城館跡であり、奥州藤原氏に従い信夫郡周辺を支配した信夫庄司佐藤氏の本拠地であった。 歴史 寛治年間(1087-94)信夫庄司佐藤季春が築いたとも、保元二年(1157)季春の孫(子とも?)佐藤元治(基治)が築いたともいわれている。「吾妻鏡」に拠れば後者とされているが、季春の代にはすでに築かれていたと考えられている。元治が築城の際に鶴を城中に埋めて守護神としたため大鳥城と名付けた、とする伝説がある。 佐藤氏は俵藤太藤原秀郷の後裔で、平泉の奥州藤原氏、西行法師らと同族であり、元治は秀郷より13代目の子孫にあたるとされている。奥州藤原氏に従い信夫郡近隣を支配し、元治の子継信、忠信兄弟は源義経に従い源平合戦に参加している。継信は文治元年(1185)屋島合戦で義経の身代わりとなり討死、翌年忠信は吉野山で義経一行を救うも捕らえられ、京都で自害を遂げている。 文治五年(1189)源頼朝は、藤原氏攻略のために28万といわれる大軍を奥州へ送った。藤原氏はこれに備えて阿津賀志山防塁を築き、17万の軍勢で頼朝軍を迎え撃った。しかし決戦となった石那坂、阿津賀志山合戦で大将であった西木戸(錦戸)太郎藤原国衡(藤原氏4代泰衡異母兄)は敗走、軍勢の中心であった元治ら佐藤一族もことごとく討死した。大鳥城をはじめ、朝日館、五十目館、芋殻館、五郎兵衛館、名倉館、平田館など、佐藤一族の城館はこの合戦ののち壊滅し荒廃したとされている。 一説には、元治は奥州合戦で敗れた後捕らえられ、その後許されて本所へ帰されたともいわれ、元治の長男隆治が信夫郡に居住、佐藤一族の主流として勢力を張ったとも伝わる。また元治の弟師泰の末裔佐藤清親が、建武五年(延元三・1338)佐藤十郎左衛門入道を称し、伊勢国に移住するまで信夫本郷を本拠に活躍したことも知られており、大鳥城は南北朝期まで整備、拡張され使用されたとも考えられている。 また、根子屋に残る赤舘という地名から、応永年間(1394-1428)大膳大夫政宗が関東公方足利満兼との合戦で拠った赤館がこの城であるとも考えられている。 現状・感想 現在、主郭部である一の平周辺は舘ノ山公園となっており、大鳥神社の周囲には土塁、空堀が残っています。二の平はその西方の平場で、矢庫の跡と伝えられ、その西側が搦手とされています。三の平は現在野球場や大鳥中学校の敷地となっており、佐藤一族の館があったといわれています。 大手門のあった付近は「大門」の地名が残っており、近くの住民の方にお聞きしたところ、昔は明瞭な土塁が残っていたとおっしゃってました。 関連項目 福島県の城館一覧 安倍氏・奥州藤原氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/shiotaono/pages/119.html
塩田鉄道関東本線(かんとうほんせん)は、東京都大田区の羽田空港駅から、埼玉県北足立郡伊奈町の伊奈中央駅までを結ぶ塩田鉄道の路線である。 路線データ 運行形態広域輸送基本的な運行形態 ラッシュ時のみの運行形態 土・休日のみの運行形態 方向別運用案内関東本線~本線水海道・銚子方面 関東本線~本線青梅・甲府方面 東埼線方面 小山線方面 関東本線~本線~東北線方面 地域輸送 乗り入れ列車 使用車両現在使用されている車両 歴史 駅一覧・接続路線 路線データ 営業区間 羽田空港駅~伊奈中央駅 駅数 28駅 複々線区間 東京~伊奈中央間 複線区間 上記以外全線 電化区間 直流1500V 運転指令所 関東地方総合指令室 閉塞方式 ATC方式 保安装置 D-ATC 最高速度 130Km 最高速度 160Km(上野~伊奈中央間) ラインカラー アクアブルー■ 運行形態 運行列車は普通・快速・通勤快速・特別快速・俊快速・特急の6つである。 広域輸送 ほぼすべての列車が全線または、東京~伊奈中央間を運転しており、ほぼすべての列車が他路線に乗り入れする。 近距離用の列車で車内清掃が行われる場合は時々であり、最短で3分ほどで折り返してゆく。 グリーン車付きの長距離運用向け編成は始発駅にて基本的に10分前後で折り返してゆく。車内清掃も行われるが、折返し時間が短い場合、グリーン車以外の清掃を省略する事や、 終着駅の二駅ほど前から車内清掃員が乗車し、あらかじめ空席を清掃することもある。 また、終着駅到着後から始発駅出発まで時間が空く場合(3,40分以上)、大抵の場合は八潮操車場まで回送され、整備後に再び始発駅まで回送される。 2018年3月17日より、東京〜本線水海道以遠と、東北線系統の一部列車が川口より武総本線経由へと変更となる。そのため、関東本線経由の列車は水海道・小山始発などが中心となる。 基本的な運行形態 羽田空港・品川・東京・首都急市ヶ尾・新百合ヶ丘・首都急小金井~久喜・古河・水海道・小山・川越・青梅・越谷・柏間の各駅停車 羽田空港・品川・東京・東鎌倉・二俣川・首都急市ヶ尾・新百合ヶ丘・首都急小金井~古河・水海道・土浦・友部・小山・宇都宮・川越・青梅・柏・千葉ニュータウン中央・成田・成田空港・龍角寺間の快速 東京・三浦市役所・三崎口・葉山町・逗子・東鎌倉~水海道・土浦・銚子・水戸・日立・ときわ新町・高萩・いわき・郡山・小山・宇都宮・大月・甲府・成田・成田空港間の特別快速 東京・三浦市役所・葉山町~銚子・水戸・那須岳・いわき・仙台・古川・秋保温泉・甲府間の俊快速 ラッシュ時のみの運行形態 羽田空港・東京~大宮・つくば・土浦・友部・北浦・銚子・千葉ニュータウン中央・龍角寺・西守谷・結城八千代間の各駅停車 羽田空港・東京~古河・川越・成田空港・龍角寺間の通勤快速 土・休日のみの運行形態 東京~銚子・大洗・柿岡・大月・成田空港・土浦(成田経由)間の各駅停車 東京~銚子・日立・いわき・柿岡・土浦(成田経由)・大月・甲府間の快速 東京~福島・会津若松・新富士間の特別快速 方向別運用案内 関東本線にはターミナル駅が多く、多方面へ列車が発着するため、ここでは主な運用を方向別に紹介する。なお、東京・品川・羽田空港始発を中心に紹介する。 関東本線~本線水海道・銚子方面 関東本線のメイン運用の一つである。 伊奈中央より本線に乗り入れ、古河・水海道方面へと向かう列車で、各駅停車・快速(全区間快速と古河まで快速の二種類)・特別快速・通勤快速・俊快速の運用がある。 各駅停車は水海道本所車と古河・川越派出車による運用で、派出車による運用は直流区間のみであるため、最長で古河までとなる。そのため、古河行きまたは久喜行きの運用に充当される。 本所車による運用では土浦行きが最も多く、次いで水海道行き、つくば行きが多い。早朝には、羽田空港発銚子行きの長距離列車も存在する。 快速列車は全区間快速と、古河まで快速による二種類が存在する。土浦行きが中心で、水海道行き、友部行きと続く。快速列車は、上野・川口・浦和・大宮で俊快速・通勤快速の、田端新町、吉野ヶ丘で俊快速・通勤快速・特別快速の通過待ちが行われる場合がある。 また、古河まで快速の運用の場合は、ほとんどの運用で古河以遠で通過待ちまたは待避が行われる。 特別快速の運用は、後述する東北線直通運用も含め土浦以遠からの運用が多く、本線のみの運用では土浦・銚子発着が特に多い。 ただ、夕方以降は北浦以遠は東北線方面への直通のみとなるため、水海道経由の銚子行きは東京14 31分発が最終である。(銚子発水海道経由東京行きの最終は銚子18 47発) また、午前を中心に首都急線直通の特快の運用がある。一部の運用は塩鉄車運用の日と首都急車運用の日がある。最長の運用は銚子方面行きの場合、三浦市役所6 37分発銚子行き(首都急車のみの運用)、逆方向は前の運用の折返しである銚子12 14発三浦市役所行きである。 俊快速は東北線乗り入れを除くと東京または三浦市役所~銚子間の運用で、どちらも四時間おきの運用である。 2018年3月17日より、東京始発の銚子行きを中心とした一部列車は、武総本線を経由する。なお、首都急行線へと直通する運用については、これまで通り関東本線を経由したルートでの運行となっている。 関東本線~本線青梅・甲府方面 関東本線のメイン運用の一つである。 東上尾より短絡線経由で本線に乗り入れ、川越・青梅方面へと向かう列車で、各駅停車・快速(全区間快速と川越まで快速の二種類)・特別快速・通勤快速・俊快速の運用がある。 各駅停車は基本は古河・川越派出車による運用である。川越・青梅行きの運用が存在する。大半の場合は羽田空港始発である。 快速においても古河・川越派出車による運用が非常に多く、また早朝深夜を除いて全区間快速運用である。羽田空港~青梅間の快速運用は特に多く、おおむね15~30分間隔で、関東本線快速の基本的な運用の一つとなっている。 2012年4月以降に川越まで快速運用が登場したため、川越以遠の始発列車が繰り上げ、最終列車の繰り下げが行われた。 上野23 47発で川越まで快速の列車は最長の大月行きであり、大月駅で夜間滞泊が行われ、翌朝川越から快速となる4 31発羽田空港行き(大月~梅郷間一番列車)となる。この列車がこの方面の快速運用最長の列車である。 特別快速は本所車による運用で、二時間に一本が大月・甲府まで運行されている。甲府発着は午後のみの運用である。 俊快速は東京・成田空港~甲府間の運用で、どちらも四時間おきの運用である。 東埼線方面 木崎より短絡線経由、または大宮で東埼線に乗り入れ、柏・成田方面へと向かう列車で、各駅停車・快速・特別快速・通勤快速・俊快速の運用がある。 各駅停車は越谷区の運用が多めである。東京方面~越谷・柏・千葉ニュータウン中央・成田・龍角寺行きであり、千葉線に乗り入れるものは成田区による運用もある。 大宮方面からの乗り入れの場合、越谷・柏・柏の葉キャンパス発着がほとんどである。 快速列車は成田区が最も多いが、水海道区による運用も存在する。東京~成田・龍角寺間の運用が基本で、成田空港発着も存在する。東京14 49着の列車は一日一本のみの利根新町発(13 19発)である。 特別快速は成田空港へ向かう列車と、千葉線経由で土浦方面へ向かう列車の二種類が存在。前者は成田・水海道区の運用で、平日ラッシュ時は通勤快速となる列車だが、後者は成田区のみの運用で、平日ラッシュ時も特別快速として運用される。 後者の運用は土浦行きと銚子行きの二種類が存在。この列車は浦和発車前(さらに銚子発列車の場合は土浦発車前まで)「成田経由」と案内される。成田区のみの運用なのも、関東本線・本線区間での誤乗防止のためである。 土浦~東京間の所要時間は本線経由に比べると十分ほど長いが、夕方にも銚子行きが運用されるため利用客は多い。 俊快速は東京・甲府~成田空港間の運用で、どちらも四時間おきの運用である。 小山線方面 古河で小山線に乗り入れ、小山方面へと向かう列車で、各駅停車・快速・特別快速の運用がある。 各駅停車、快速ともに羽田空港~小山間の運用が非常に多く、関東本線の主要な運用の一つである。また、首都急線乗り入れ運用も存在する。 ラッシュ時には小山駅をまたぎ、結城八千代まで向かう運用も存在する。 特別快速はすべてが日光急行線に乗り入れる運用だが、本数はあまり多くない。一部に首都急線乗り入れ運用もあり、実に三社に乗り入れる運用となっている。 関東本線~本線~東北線方面 北浦までは上記の本線運用と同様だが、北浦より東北線に乗り入れ、大洗、日立方面へと向かう列車で、関東本線内の駅を発着する列車に限定すると、特別快速と俊快速による運用がある。 関東本線内を走行する特別快速の運用のメインの系統であり、約一時間に一本存在する。最も多いのはいわき行きで、いわきへ向かう列車が8本、東京へ向かう列車が9本ある。次いで郡山発着が四往復存在する。 朝の東京へ向かう列車、夜のいわき方面へ向かう列車が特に多く、朝に至っては15分間隔で運転される時間帯がある。 走行距離が非常に長く、所要時間が三時間を超える列車も多い。東京8 07発の列車は、東京発着の特快としては最長の福島行きであり、全線走破に4時間42分(東京行きの場合2分長い4時間44分)を要する。 また上記の列車は土・休日には、磐越西線直通会津若松行きを連結するため、土・休日も合わせた列車だとこちらの列車が最長となる。なお会津若松→東京の全線走破に5時間27分を要する。 前述のように走行距離が長いことから、始発や終着の時刻が極端なものが多く、勿来4 02発東京行きを始めとし、郡山4 38発東京行きなどが設定されている。 東京22 02発郡山行きの列車は、非常に遅い時間まで走行する列車であり、いわき到着地点で25 31、終点郡山には26 17に到着する。この列車は、日本一遅い終電でもある。 このような時間まで運行できる要因として挙げられるのは、いわき~郡山間の大部分が大深度トンネルの区間であり、騒音が少ないからと言われている。 なお車両は全てが水海道車による運用である。 俊快速は東京~古川・秋保温泉間で一時間に一本運用されている。早朝深夜はいわき・郡山発着も存在する。なお水海道車と三本木車による運用である。 2018年3月17日より、東北線系統の列車は大多数が武総本線経由へと変更になっている。なお、少数ではあるがこれまで通り関東本線廻りの運用も存在する。 地域輸送 ほとんどが広域輸送のため、地域輸送は東京・品川~羽田空港間などに限定される。 乗り入れ列車 この路線は、他の路線からの乗り入れ列車も多い。 塩田鉄道東埼線 塩田鉄道本線 塩田鉄道武総本線(羽田空港-上野(各駅停車以外)・川口(各駅停車)間) 五川鉄道線 首都急行中武線(大宮-伊奈中央間) 使用車両 現在使用されている車両 670系電車? 672系電車? 703系電車? 713系電車? 721系電車? 731系電車? 733系電車? 737系電車? 739系電車? 741系電車? 743系電車? 747系電車? 751系電車? 755系電車? 757系電車? 767系電車? 769系電車? 771系電車? 773系電車? 775系電車? 781系電車? 1013系電車? 1015系電車? 1017系電車? 1019系電車? 1021系電車? 歴史 1991年3月12日 全線開業。 2010年10月20日 羽田空港国際線ターミナル駅開業。 2018年3月17日 本線茨城方面・東北線へと直通する列車の大多数が武総本線経由へと変更になる。 駅一覧・接続路線 駅名 乗り換え 所在地(県名) 所在地(自治体) 羽田空港駅 京急空港線、東京モノレール 東京都 大田区 羽田空港国際線ターミナル駅 京急空港線、東京モノレール 東京都 大田区 京浜島駅 東京都 大田区 新八潮駅 東京都 品川区 大井競馬場駅 東京モノレール 東京都 品川区 北立会川駅 東京都 品川区 北品川駅 京急線 東京都 品川区 品川駅 新幹線、JR線、京急線、五川鉄道線 東京都 港区 新橋駅 JR線、ゆりかもめ、地下鉄 東京都 港区 東京駅 新幹線、JR線、地下鉄 東京都 千代田区 新日本橋駅 JR線、地下鉄 東京都 中央区 秋葉原駅 JR線、つくばエクスプレス、地下鉄 東京都 千代田区 本御徒町駅 JR線、地下鉄 東京都 台東区 上野駅 新幹線、塩田鉄道武総本線、JR線、地下鉄 東京都 台東区 日暮里駅 JR線、京成線、地下鉄 東京都 荒川区 田端新町駅 塩田鉄道武総本線 東京都 北区 梶原駅 都電荒川線 東京都 北区 足立新田駅 東京都 北区 川口駅 塩田鉄道武総本線、JR線 埼玉県 川口市 青木町駅 埼玉県 川口市 芝川口駅 埼玉県 川口市 南浦和駅 JR線 埼玉県 さいたま市 浦和駅 JR線 埼玉県 さいたま市 木崎駅 埼玉県 さいたま市 大宮駅 新幹線、JR線、東武線、塩田鉄道東埼線、首都急中武線 埼玉県 さいたま市 宮原駅 JR線 埼玉県 さいたま市 吉野ヶ丘駅 埼玉県 さいたま市 東上尾駅 埼玉県 上尾市 伊奈中央駅 ニューシャトル、塩田鉄道本線 埼玉県 伊奈町