約 1,448,007 件
https://w.atwiki.jp/akatonbowiki/pages/109.html
このページはこちらに移転しました タイムマシン 作詞・作曲/94スレ606 ●悲しみに落ちぶれているだけの人生 そんなんじゃつまんないだろう? 楽しむ事を知らない人生 そんなんじゃつまんないだろう? 「人間」というだけの存在 ぼくはまだ何もしていない 「これからやるさ」もう何年経つだろう 夢を見る ★生きてく意味を失くした時 その人生は終わりを告げる まだ始まってもいないのに 途方に暮れる未来 タイムマシンでもあればいいのにな 「あきらめたらそこで終わり」 どっかのお偉いさんが言ってたな 僕は耳をふさいでた 「あきらめ時が関心」 そう言い聞かせた 電車の中ふと外を見る 過ぎてく風景まるで 僕の人生だなぁと小さくこぼした 結局ただの幻想紀さ ▲生きてく意味を失くした時 その人生は終わりを告げる 終わったのなら作り直せ 今からでも遅くはない タイムマシンなんかいらない 必要なのは自分の意思 ●リピート ★リピート ▲リピート タイムマシンなんかいらない 生きてく意味を見つけろ 未来を信じて 音源 タイムマシン (このページは旧wikiから転載されました)
https://w.atwiki.jp/sentai-kaijin/pages/3381.html
賢吾「あの強さは、人間じゃない!」 【名前】 超進化生命ミュータミット 【読み方】 ちょうしんかせいめいみゅーたみっと 【登場作品】 仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX 【詳細】 財団Xのレム・カンナギが研究によって誕生させた超人の一種。 劇中では「強制突然変異による超進化生命」とも目され、身体能力が格段に向上し、異なる姿に変貌した者も存在する。 仮面ライダー図鑑によれば、ミュータミットとは生物の活動エネルギーを生み出すミトコンドリアの遺伝子ゲノムに調整を施し、 強制突然変異により超進化を起こした人間であると定義されている。 自分で細胞分裂の制御を行うことで生身の状態でも超人的な能力を発揮可能。 だがカタルに施された改造は細胞分裂の制御が未完成のため、サドンダスに変貌しないとミュータミットとしての能力を発揮できないという。
https://w.atwiki.jp/morimart/pages/6.html
アーカイブ @wikiのwikiモードでは #archive_log() と入力することで、特定のウェブページを保存しておくことができます。 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/25_171_ja.html たとえば、#archive_log()と入力すると以下のように表示されます。 保存したいURLとサイト名を入力して"アーカイブログ"をクリックしてみよう サイト名 URL
https://w.atwiki.jp/kiririn/pages/169.html
230 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2011/01/11(火) 00 44 25 ID zAAvZpiT0 大介「人生相談がある」 京介「俺は実の父親に人生相談されたコトについて人生相談したいんだが 誰に相談したらいいか教えてくれ、親父」 大介「いいから聞け」 京介「桐乃はアンタの娘だよ、間違いなく……んで? なんだ?」 大介「京介……パンツを脱ぐんだ」 京介「今日から田村さん家の子になります。 高坂のおじさん、今日まで育ててくれてありがとうございました」 大介「俺が使うんじゃない」 京介「使わせネェよ!」 大介「桐乃が使う」 京介「殺すぞ変態野郎」 大介「いいから聞け、京介。俺は見てしまった ……桐乃が俺のパンツを嗅いでいるところをな」 京介「そりゃ幻覚だ」 大介「俺も桐乃の趣味には一定の理解を示しているし アレを今日まで育ててきた人間だ。 桐乃もトイレに行くし、性欲もあることを理解している……残念ながら」 京介「アンタの中で娘はアイドルか何かなのかよ!?」 大介「だから桐乃がムラムラして男性のパンツを嗅ぐ、という行為は認めざるをえん」 京介「いや、否定しようぜ。それが躾だ」 大介「問題は俺のパンツということだ」 京介「眼だけじゃなくて耳まで悪いのか、クソ親父」 大介「俺には母さんがいる。だから俺のパンツはダメだ」 京介「お袋がいなけりゃOKなのかよ、この変態野郎」 大介「仮定の話だろうと、母さんが死んでいるとか口にするな」 京介「言ってねぇ!」 大介「本来なら、然るべき男性のパンツを嗅ぐべきであろうが だが、ハンパな男を桐乃の彼氏として認めるわけにはいかん」 京介「最後の一行だけは同意してやる」 大介「だからお前のパンツを桐乃にやれ。わかったな」 京介「親父、いい加減に……」 桐乃「話は聞いたわ!」 京介「桐乃! お前もこの変態親父に言ってやれ!」 桐乃「ホントはアンタのパンツなんてゴメンだけど……お父さんが言うなら我慢してあげる! 感謝しなさいよね。ホラ、さっさとパンツ出す! 出せ! 出しなさいよ!」 京介「」 -------------
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/28592.html
ゆうyuuじてき【登録タグ ZOLA PROJECT YUU ゆ トライアド 曲】 作詞:トライアド 作曲:トライアド 編曲:トライアド 唄:YUU(ZOLA PROJECT) 曲紹介 自由人で生きていこうよ! トライアド氏 の11作目。 9月に開催した勝手にZOLA総選挙の優勝曲です!YUUはやっぱあざといな。(作者コメ転載) PVは welt氏 が手掛ける。 歌詞 週刊誌もニュースも気にしてらんない ごめん NO 興味 猫のように自由人! 過ぎる日々さ あぁ、転がる世界 忙しい your life 僕はいいや そういうの疲れちゃう 楽しくないのに笑うのはイヤ 僕の人生は僕のもんでしょ 悠々自適ほら 生きていこうよ 僕の目を見つめて 笑い合いたい同士 流れるライン揉まれて 焦燥感 君のことなんか 誰も見てないのに あぁ、才色兼備 尽きない審議 きりがないや そういうの疲れちゃう ドキドキな展開がいいな 好きなものは好きだそうでしょ 全身全霊 ほらやってみようよ 僕と手を繋いで 笑顔最高同士 あぁ、綺麗な世界 楽しい My life 君もきっと いつか見えるはず 楽しくないのに笑うのはイヤ 僕の人生は僕のもんでしょ 悠々自適ほら 生きていこうよ 僕と手を繋いで 笑い合いたい同士 コメント バンブラPで知りました。カッコいいバンドサウンドと共感できる歌詞が良かったです。 -- 名無しさん (2015-10-24 21 37 56) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/450.html
目次 1.もう一人の自分に気づく 2.使命の自覚 3.悟りとは「これが私だ。」と言いきれること 4.悟りの道程 5.自らを捨てるということ 6.執着を捨てる想念のトレーニング 7.偽物の自分との対決 8.心に執着なく、日々湯上がりの気分で生きる 9.心の原点回帰 10.中道からの発展 11.自己チェックと中道 12.「反省、感謝、与える愛」の循環 13.愛の行為と真心 14.人生に光彩を放つ瞬間 15.時間の大切さを徹底的に知る方法 16.夢は時間と空間を拡大する 17.勇気の原点 18.努力するという名の幸福 19.新しき世紀へ向かって 1.もう一人の自分に気づく 悟りの話をいろいろとしてまいりましたが、いちばんだいじなことは、まず目を開くということです。世の中にはあまりにも、目の開けていない方が多すぎるのです。その目を開くことによって、まず第一歩がはじまると言ってよいと思います。 では、目を開くということは、いったいどのようなことでしょうか。それは、もう一人の自分に気がつくということであります。すなわち私たちは、どうしてもこの目で見える肉体がイコール自分であると思っているのですが、実際はそうではなく、この肉体舟を支配しているもう一人の自分がいるということに気づくことが、まず出発点であるということなのです。これに気がつかずに一生を終わってしまう方が、いったいどれほどいるかと思うと私は残念でなりません。 幸いに気づくことができた人のなかにも、もっと早い時点で、もう一人の自分に気づいていたならば、その人の人生はおそらく変わっていたということもあるでしょう。みなさん方のなかにも神理に出会われてからと、出会う前とでは考え方がガラリと変わってしまったという人は数多くいらっしゃることと思います。私自身もまったく変わってしまった一人です。 もう一人の自分を知るということは、けっきょく、新たな視点を得るということと同じです。自分自身をみつめ、自分の人生を考える意味で新たな視点を得るということです。その新たな視点とは何かといえば、それを言い換えれば「霊的人生観」ということだと思うのです。 この「霊的人生観」の観点から自分をみつめたときに、まったく違った自己像というものが浮かんでくるのです。それまでみなさんは、少なくても肉体の我という視点で、ご自分をみつめて、あくせくしたり、悩んだり、苦しんだりされていたと思いますが、霊的自分、もう一人の自分と出会ったときに、その世界観はおそらく違ったものになるであろうと思います。 2.使命の自覚 私自身、前にも語りましたように、霊的世界があることを気持ちの上では一〇〇パーセント、実感としても九九パーセント信じていたわけであります。しかし、実際にそのような世界が、厳然としてあるということを知ったときには、やはり、これは容易なことではないという感じを受けました。 笑い話かなにかのようにいわれていた地獄や悪霊や悪魔という存在が、これはやはり現実のものであり、自分とかけ離れたところにあるものではないということです。そして、この地上に生きているみなさんが、もしかすれば、今後かれらのような運命をたどるかもしれないということに気づいたときに、私は、これは大変なことになったと思いました。 この事実を知っている自分はどうしなければならないのか。だれもが、この地上の人生だけを通ごせればよいと思っているけれども、その行く先がどのようになっているのか、それを知った人間として、自分がどうしなければならないのかを考えたときに、ひじょうに重い使命感を感じたのを覚えています。 それはちょうど、列車事故が起こりそうなことに気づいてそれを避けようとしている人のたとえにも似ているであろうと思います。少し先に行ったところで落石事故があって、線路の上に大きな石が落ちている、あるいは、レールがはずれている。このような危機を発見したときに、そばには赤旗もなければ、何もない。しかし向こうからやって来る列車をなんとか止めないと、これは大惨事になる。このような状況で、必死に手を振っている人の姿にひじょうに似ているように思います。 ところが、大部分のみなさんは、この列車の乗客のごとく、客車のなかではまったく安心しきっているわけなのです。そして談笑し、新聞を読んだり本を読んだりして過ごしているのです。目的地に間違いなく着くものだと信じています。ところが、その少し先に落石があって、線路がふさがれている。このときにどうやってそれを教えるのか。そして、そのことを知っている者が、自分以外にだれもいないとすれば、はたしてどうするのであろうか。大変な状況です。まさしくこのような感じにも似ているといえましょう。 もし、人生の早い時点でこの霊的人生観というものを持っており、そしてそれに基づいていかに人生を見、生きてゆけばよいのかということを悟っていたとするならば、大部分の方は将来ぶつかるであろう事故から身を守ることができ、大惨事といったような未来図はなくてすむのです。しかし、あにはからんや安閑としているうちにそのような道をたどっていくことになるわけです。そして、この事実に気がついたときに、じっとしていられないのは私だけではなく、おそらく読者のみなさんもそうであろうと思います。冗談や、あるいは創作でこのようなものを書いているわけではありません。これは真実、そうであるから、そうだと私は書いているにすぎないのです。 3.悟りとは「これが私だ。」と言いきれること さてそこで、そのようにもう一人の自分に気づくこと、そこから、やがて悟りというものが近づいてくるわけです。私は、ほんとうの自分に出会うということを、『太陽の法』で次のように説明しております。 「自分で自分の心を探究しないで、いったいだれがこの真実を教えてくれるというのでしょうか。あなた自身が、あなたの真実の姿を語れずして、いったいだれがそれを語ってくれるのでしょうか。『悟り』とはほんとうの自分自身に出会うことです。ほんとうの自分の真実なる心を自分自身で語れることです。これが『私だ。』と言いきれることなのです。」これは、私なりの悟りを語ってみたものです。もちろん、悟りの定義にはいろいろあるでしょう。いろいろなアプローチ、切りロがあり、いろいろな説明ができるのは言うまでもありません。いろいろな説明ができますが、それなりに悟りというものをつかんでしまう必要があるのです。それをわかりやすく言ってみたものです。悟りとは、ほんとうの自分自身に出会うこと。そしてほんとうの自分自身の真実なる心を自分自身で語れること。つまり、「これが私だ。」と言いきれることである、と定義したわけなのです。 禅のなかでも、「悟り」とはなにか、ということは大きな問題であるのでしょうが、基本的に禅宗などで求められている悟りというものも実はこういったことであろうと私は思います。「これが私だ。これがほんとうの私だ。」と言いきれること。このあたりと禅宗などで言っている悟りとは、ほぼ同義であると言っても過言ではないでしょう。もちろん、それがすべてではありません。しかし、出発点なのであります。 みなさん自身、自分をふり返ってこれがほんとうの自分だと語れますか。ほかの人に対して、私はこういう人間です、これがほんとうの私です、真実の私の姿ですということを語れますか。すなわち、言葉を換えるとするならば、神の子としての自分を見出すことができたか、自分の内なる仏性をつかむことができたかどうか、ということなのです。これがだいじなわけです。 4.悟りの道程 また、悟りの道程としては、「自らを知るとは、自らが神の子であることを知ることです。神の御心(みこころ)を知るということなのです。そして、目をひらくとは自らの霊性に気づき、四次元以降の実在界の存在に対して心をひらくということなのです。」(『太陽の法』)と説明しています。したがって真実、目を開きたいならば、まず自らの心の探究をすることから始めるべきであり、神の国への手がかりは、そこにあるということなのです。 自らが神の子であることにまず気づくこと。では気づくためにはどうするか。それは、まず自らの霊性に気づくこと、霊的存在であることに気づくこと。そして、四次元以降の実在界の存在に対して心を開くことです。自らの内に宿る霊的なるものを知り、さらに四次元以降の世界の探究に進むわけです。ここへ進まなければなりません。 私たちが、いろいろなかたちで勉強しているものもやはり、このような手順を踏んでいるわけです。各人の心、この正しき心を探究していって、そして心の探究からやがて、目は四次元以降の世界に開かれていく、真実の世界への旅立ちとなっていくのです。ほんとうの世界を知りたいという思いです。そして、その思いは、おのずからそれを成就し、達成することを要請するものです。 5.自らを捨てるということ ここで私は、「自らを知るためには、自らを捨てることです。」と提唱してみたいと思います。この「捨てる」ということは、いったい何かということですが、本物の自分を知るためには、偽物の自分を捨てなければならないということです。つまり、偽物の自分に気づくことが、偽物の自分を捨てる第一歩となります。 後生だいじに、これが自分であると、あるいはこれがいちばん大切なものであると思って握っているもの、これは各人各様にあるのです。これこそが自分であり、これが失われたならば、自分は大変なことになってしまう、と思っているものが実はたくさんあるのです。 ところが、それはたいていの場合、その人の人間性にとって、ほんとうは本質的でないことが、往々にしてあるのです。たとえば会社の社長さんであれば、その人にとっては社長であることがすなわち自分であり、これを捨てては自分の自己実現の場はない、自分にはもうこれしかないと思っていて、その地位を握りしめているけれども、ほんとうはそれを取り去ったときに、その人自身が出てくるということがあるのです。残念ながら人生はそうしたものなのです。それを握っているうちには、なかなか出てこないのです。捨てたときにはじめて現われてくるのです。これは、地位だけでなく金銭に対する考え方でもそうです。また、成功に対する考え方においてもそうです。 私自身もこの道に入るときは、いっさいを捨ててしまったのです。もうどうなってもよい、ということで自分を捨てたわけでありますが、その結果やはり、捨てれば逆に与えられるということを経験いたしました。不思議なことです。仲間を捨てれば仲間が与えられるのです。 「いままでの人間関係も、もう全部捨てよう。この道に入るために邪魔になるならすべてを捨て、清算する、今までのつきあいもいらない、お金もいらない、もう何もいらない。それでもかまわない。ただ、もうやるしかない。」ということでいっさいを捨て去ったときに、その結果、逆に仲間は増えてきたわけです。 ご存じのように、いま駆けつけてくださる人がどんどん増えてきて、ますます発展しています。不思議なくらいです。なぜこのようになるのか、私もよくわかりませんが、どんどん発展していきます。他の会社と違って資本金ゼロではじまって、儲けようという気などもさっぱり起きなかったのですが、どんどん人が増えてきて、ますます事業が大きくなり、客観的に成功していくのですから、まことに不思議です。特にそのようにしなければならないとは思っていないけれどもそうなるのです。捨てれば与えられるというのはほんとうのことなのです。また、人間関係においてもそうです。捨てたら与えられるのです。 6.執着を捨てる想念のトレーニング お金などでも、儲けよう儲けようと思っている人がいると思いますが、あまり思っているとかえって儲からないということもあるのです。それはなぜかといいますと、執着の強い人は、まわりの人からみていると、いかにも金儲けをしようと必死にやっているな、という感じが漂ってきてだんだんいやになってくるのです。そして、その人の商売に協力したくなくなってくるということがあります。 なにか知らないけれども、この人から買うよりは、よそで買ったほうがいいとか、この人に売るよりは、安くてもいいからよそに売ってやろうとか、そのような感じにだんだんなってくるのです。こういった波動というものは微妙に出てくるのです。別に、ルンペンになることを勧めているわけではありませんが、どこかで一度思いきって捨ててみるという気侍ちも必要であると思います。少なくとも精神的に捨ててみるのはだいじなことです。 実際に貯金通帳をゴミ箱に捨てる必要もありませんし、家を捨てる必要もありませんが、精神的に自分が後生だいじに思っているもの、これを取り去ればどうなるかというところを、一度真剣に考えてみる必要があるのです。これは一つの賭と言えるかもしれませんが、意外に精神的に楽になるかもしれません。自分が、これだけは、とつかんでいるものが、意外に自分を苦しめている元凶であるのかもしれません。そういうことが、大いにありうるものなのです。 それはまことに不思議な感じなのです。会社の新入社員であれば、自分はこんな小さな会社のなかで一生通ごすなんてとんでもないこと、ほんの自己実現の足がかりの舞台ぐらいでしかない、と思っているわけです。そしていずれは世界を股にかけて大きな仕事を、などと普通思っているのですが、入って何年かたっていくうちに、給料の百円か二百円の差が気にかかってくるのです。 またボーナスともなれば同期と比べて十円、二十円の差が気にかかってくるというように、だんだん小さな自分になっていきます。いつかしらず、そういうようになっていくのです。そして、そこから逃れがたい自分というものを発見していくのです。 それをいっぺん全部とりはらってみれば、意外に大きな自分が出てくるのです。小さなもののなかに、ほんとうは押しこめているのです。アラジンの魔法のランプのように出てくれば巨人となるのだけれども、ランプのなかに入ってしまって、普段は小さくなっているのです。ほんとうはもっと大きなものであるはずが、小さくなっています。その自分を小さくしているもの、この偽物の自分を捨てるということを考えてみる必要があるのです。 いま自己実現のブームということもありますが、これとは逆に、「これこそが自分のすべてだ。」と思っているものをいったん捨ててみればどうなるか、この想念のトレーニングをやっていただきたいのです。 たとえば、主婦の方であれば、子供が自分の生きがいという方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。実際に、子供を捨てたりすれば問題はありますが、子供という生きがいを取られても、はたして、生きていくに足る自分であるのか、生きるに足る人生であるのか、こう考えたときに、はたと気づくことがあると思うのです。 この子こそは、この子だけはと思って、目のなかに入れても痛くないような感じを抱いている人もいるけれども、これを取ったときにどうなるのか。このこととは、いったんどこかで対決しなくてはいけないことなのです。 もし、真に捨てることに成功したならばそのときにはじめて自分というものがどれほど重いという感じで日々を生きていたのかがわかります。実際、肩やからだが重いのです。それはいろいろな精神的な執着を持っているからなのです。確かにこれは精神的なものから来ているのですけれども、ほんとうに重たいのです。 ですから、これを取り去ったときにどうなるかといえば、ほんとうに体が軽くなるわけです。その感じをたぶん得られると思います。人の心にはいつかしら、これがあって当然だというような執着がミノ虫の殼のようにたくさんついているのです。冬は寒いからこのようなミノ虫の殼のようなものがないと生きていけないと思って、葉っぱをまわりにいっぱいつけているのです。そして、これこそが自分であると一生懸命に思っている姿なのです。 7.偽物の自分との対決 ①他人から愛を奪い取る自分 それでは、この自分を小さくする偽物の自分というものを、いくつかあげてみましょう。まず「他人から愛を奪い取る自分」というものがあります。これにあたる人はかなり多いのではないでしょうか。よく考えてみてください。このようなことは、教えられなくては意外にわからないのです。 「他人から愛を奪い取る自分」、これを偽物の自分といわれて、びっくりされないでしょうか。これこそが人生の目的だと思っていたのではないでしょうか。これがために生きていたのだと思ってはいませんか。一般の人はこのようなことをいわれると、びっくりするのが普通です。「他人から愛を奪い取る自分」、これを偽物と言われればいったい本物はどこにいるのだろうかと心配してしまいます。 より多くの愛を奪い取れる自分、これが欲しくていい学校も行くし、いい会社にも行くし、いい奥さんももらいたいし、いい子供も欲しいし、いろいろありますが、けっきょく、愛を奪いたいから、もっと愛が欲しいからこのようになっているのだと思うのです。 しかし、ここで待てよと思ってみると、意外な発見があるのです。それは私たちが生きている真の世界の発見であります。私たちは実際どのような世界に生きているのだろうかというと、第3章の「すずめと太郎」の話の章(『太陽のメッセージ』、『太陽の法』第3章)で説明いたしましたが、実は与えられっぱなしの世界のなかで私たちは生きているのです。 考えてみれば私たちは実にいろいろなものを与えられています。まことに不思議な感を覚えるかもしれませんが、すべて与えられているのです。よくよく考えてみれば、いちばん大切なものは、すでにただで与えられているのです。 ただで与えられないものは、それは人間がせかせかとしてつくったものであり、売り買いしているものなのです。ところがいちばん本質的な部分、水とか、空気とか、太陽の熱とか、このようなものは全部ただなのです。これは不思議です。与えられているのです。そうしたものがあればこそ、動・植物も存在し、人間も基本的には生きていけるようになっているのです。そんなに贅沢(ぜいたく)さえ言わなければ、ほんとうは死にはしないのです。 ところが人間は、そういうなかで自分たちでいろいろな価値観を築き、文化をつくって枠をはめ、そのなかでルールをきめて、こうでなければ生きていけないというものをたくさんこしらえてきているのです。もう一度これを原点に戻してみる必要があるのではないでしょうか。 このような与えきり、すべて与えられている世界にいながら、いったい何を欲しがっているのでしょうか。それでもまだ、もっともっと欲しいと言っているのが人間なのです。お金持ちであっても、まだまだお金が欲しいと言っているのです。感覚が麻卑(まひ)してくるのでしょうか。そしてますます自分の肩書きや地位がついてくると、だんだんと、もらうことのほうが当然だと思いがちになってきて、次第しだいにそれが、まったく当然のことと思うようになってくるのです。 昔から、地位・名誉をいけないものの代表のように、言いましたが、これは地位・名誉そのものが悪いわけではなくて、高いところに登ってしまうと与えられているということがわからなくなるということが、その理由となっているわけです。実際、大名仕事をやっている人などをみると、自分がどれだけ与えられているか、感謝が足らないかということが、わからなくなっているケースが多いのです。それで、よく地位や名誉が否定されることになるわけです。 しかし、高い地位についている方が悟っていれば、それだけ大きな影響力があるわけでありますから、ほんとうはそれ自体は悪いことではないのです。ところが、だいたい人は高く登れば登るほど、与えられていればいるほど、不思議なことに、もっともっと奪いたくなり、そこに「足ることを知らない心」が生まれてくるのです。しかも、本人はそれが地獄的な心であることにすら気づかずに自らの人生を終わっていくのです。ここに悲劇が生まれるのです。 ②神を信じない自分 偽物の自分としての二番目には、「神を信じない自分」というものがあります。もっとも憐れむべきなのは神を信じず、神が創られた世界を信じていない人たちです。そして人間とは男女の性的結合の結果、偶然に生まれて、一人一人がばらばらの個人として生きているのだと思っている人たちなのです。ここに最も憐れむべき偽物の自分があるのです。「証明のできない神など信じられない。信じろというならば、証拠を出せ。」という人はもうすでに神を裁いていて、神を裁けるほど自分が偉いと思い上がっているのです。 人間は地球の誕生以前からいらっしゃる神の存在を証明することはできません。できるとするならばそれは、やはり二つの思い上がりにすぎないのです。悠久の昔からある神の存在、この地球の歴史そのものでも四五億年以上もあるのです。私たちの人生はわずか七、八十年です。この一億倍に近い時間のなかを、この地球は生きていて、そのなかでいろいろな生命を育んできているのです。この地球を四五億年間生かしてきた神の御心が、私たちに、はたしてわかるのか、と考えたときに、これをわかると断定するのは、かなり傲慢な考えであると言えるでしょう。 ですから、人間というものは次第に地位が上がって、そして自分が得意になってくると、自分が認めたくないもの、自分が納得のいかないもの、証明できないもの、このようなものは値打ちがない、意味がないと思いがちなのです。偉い人ほどそうなっていきます。私が見ていると、偽物の自分というものが仮面のようになっていて、それがガチガチにくっついていてもう取れないのです。自分の立場、たとえば大臣だから、博士だから、あるいは会社の社長、重役だからという仮面を通してしか判断できなくなってしまい、自分はこういう考えをする、判断するということを変えることができないようになってくるのです。これは、ひじょうに恐ろしいことなのです。 ③精進しない自分 偽物の自分の三番目は、「精進をしない自分」です。これはほとんどの方が思いあたるのではないでしょうか。これを、さらに細かく分けるとすれば、第一は怠け心がある自分。第二に神理を学ぼうとしない自分。第三は他人を公平にみない自分。第四に素直でない自分。このようなものがあげられます。ここまで言われて、あたっていないという人はめずらしいのではないでしょうか。 怠け心、これはだれにでも、みなあります。私にも、まったくないとは言えないので、あるものはあると言わざるをえません。ですから、これは出ざるをえないものなので、そのつど点検をするしかないわけです。怠け心が出て、いけないと思えばそこで頑張ることです。時どき自分に対して意識的に引き締めをしないとだめです。そうしないと、いつの間にかだらだらとした人生になっていきます。 生活にいろいろな刺激と張り合いがなくなってきて、惰性で生きてゆくようになってしまうので、このようなときには、もう一回締め直しが必要です。その締め直しとは何かといいますと、やはり自分なりに目標をつくってみることです。あまり、先の長いことではなくてもよいのですから、少なくとも、三か月、六か月、一年くらい先の目標を一回立ててみることです。自分の生活が惰性になってきて、怠けてきたなと思ったときに、それなりの目標を立ててみること、これが大切です。 私もこの、人間が怠ける習慣があることを自己観察によって、よく知っているので、なるべくみなさんにはいろいろな目標を設けていただけるようにしているのです。それでいろいろな課題を与えたり、目標を与えたりしているわけです。人間は甘いもので、そうしていないとどうしても怠けていくのです。 二番目は「神理を学ぼうとしない自分」、これも同じような意味がありますが、学ぶというだけであっても、全然違うことを学んでいる人はたくさんいるからなのです。私はそれを見るにつけ、ひじょうに気の毒になることが多いのです。知識の世界においても、第一巻のほうでも少し触れましたが、学者の論文などを見ていますと、方法論だけに終始しているものが多いのです。たいへん残念です。いろいろな資料から断片を引っ張ってきて、注を付けることに生きがいを感じている人もいるのです。注をつけて、何とかいう本の何ページの何行目にはこう書いてある、ということの正確さを一生懸命に競っているのです。いかに人が見ていないような資料を引っ張ってくるかということに生きがいを感じているのです。そしてそれが知的なことだと思っているのです。 このようなことを霊的に見れば、ほんとうは全然価値がないのです。それどころか、もしかすると人間の魂を、もっともっと狭めているのかもわかりません。ものごとをいつも顕微鏡で見ているような、そんな頭になってしまって、その枠をはずせないのです。ほんとうのものがわからなくなっているのです。まことに残念であります。 真の創造の意味 また、将来、機会があれば創造に関する本、あるいは創造法であるとか、独創法というような本を書いてみたいと思っているのですが、これなども、現在ひじょうに有名な方々が書かれたものを見ていても、創造というのは、やはり異質なものの組み合わせであるとか、断片の組み合わせをすればよいであるとかということが多いのです。 彼らは地上的に、いろいろとあるものを組み合せて、そのブレンドのしかたで、創造性が出てくるのだということを言っています。三次元的な創造性では、確かにそのようなこともあるかもしれません。しかしながら、それは創造性というよりも、むしろ、仕事のしかた、仕事術ということであって、そこではそういうことはあるかもしれません。ところが、真の創造とは何かを知ってしまったならば、このようなものは、ほんとうはおかしくて読めないのです。 エジソンには申しわけないけれども、真の創造というのは九九パーセントのイスピレーション(霊感)と一パーセントのパースピレーション(汗)であるといったように、まったく逆のところがあるのです。組み合わせではないのです。 ほんとうにすばらしいアイディアというものは、実在界にものすごくあふれているのです。もういくらでもそこから引っ張っていってほしいというように、実在界はアイディアの宝庫なのです。そして、現にアイディアを与えたいと思っている人が、いくらでもいるのです。これを受け取ることをしないで、何を一生懸命に資料を集めているのでしょうか。そういう感じがします。ほんとうの創造とは、そうした実在界にあふれているアイディアをどのように引っ張ってくるかということなのです。 そのための方法はどうしたらよいのかというと、これは霊道を開けとは言いませんが、実は天上界にアンテナを向けて波長が合えば、実際上、引いてこれるのです。私などは、ぽーっとしていると、インスピレーションがどんどん降りてきて、アイディアもどんどん湧き出てきて、現実的には対応できなくなるほどなのです。それにすべて対応していると仕事がいっぱい増えてくるので、なるべくインスピレーションを受けないように、一生懸命に努力して囲いをつくっているくらいなのです。実際につぎからつぎへと新しいアイディアが降りてくると、かえって仕事ができなくなるので、降りてこないようにバリヤーを張っています。 神理に目覚めて、努力して、心が澄んできますと、インスピレーションはどんどん降りてきます。それは嘘のように降りてきます。ですから、これは仕事の世界でも同じことなのです。みなさん方も仕事の世界で、いろいろと悩むことはたくさんあると思いますが、そのようなときには、自分の心を正して、瞑想をしても、瞑想しなくても同じことでありますが、この守護霊や指導霊のインスピレーションを受けられるようになってきますと、すばらしいヒントや、まったく思いがけない新しい仕事上のアイディアが、いくらでも出てくるようになります。 それは、現在の時代の考え方としてはせいぜいこのようなものだとみな思っているけれども、過去の文明の時代においては、違った社会制度があり、違った会社のような組織があり、いろいろなやり方を工夫していたわけです。このときの知恵を引っ張ってくることができるようになれば、アイディアに限りがなくなってきます。この世的な工夫だけではすまなくて、いろいろなところに出てきます。 ですから、おそらく、こういうことが可能になってくれば、人の頭脳の力というものはものすごく増えていくことになります。生きている人間のIQは、計っても、せいぜい高くて二〇〇くらいでありますが、これがたとえば、実在界の天才の頭脳を五人分引っ張ってくるだけで、IQ二〇〇〇くらいの値打ちになってきます。あるいはそれ以上になります。 このように、実在界にあふれているアイディアを引っ張ってくるということ、これがだいじです。そうしますと、商売をしていても、事業をおこなっていても、つぎつぎと信じられないほど、いろいろなアイディアが出てきます。私はこのようなことをみなさんに、ぜひ知ってほしいと思います。 三番目に「他人を公平に見ない自分」。公平に見るということは、ひじょうに難しいことです。どうしても、自分というものが入ります。 また、四番目に、「素直でない自分」です。これも、うなずかれる方は多いと思います。人間はどうしても素直ではないのです。なぜ素直でないかといいますと、何十年も生きてきて、自分はこういうやり方でなければ生きてゆけないという、自分なりの癖ができているのです。このような人は、それなりの生き方をしますし、その生き方を人に押しつけるか、あるいは、その生き方を通して人を見ます。 素直になるという気持ち、これは常に自分を引き戻してみる努力をしていないと、なかなかなれないのです。社会に出てから、素直に生きる、などということを教えられたことがあるでしょうか、もう忘れ去って久しいのではないでしょうか。子供のときには、素直になりなさいと言われたことがあったとしても、大人になってからは、もう、一度も言われたことがない人が多いのではないかと思います。これを忘れているのです。そして、その素直さを忘れた心が、物事を正しく見えなくしているのです。 ですから、また反省法でもとりあげてみたいと思いますが、正見の一つの要素も、この素直さなのです。心が素直でない人は、正しく見るということはできないからです。素直でないということは必ず歪んだレンズで、歪んだ像を見ているのと同じです。それでも、自分は物事を正しく見ていると言う方もいるかもしれませんが、「貴方は素直な方ですか」と聞いてみたとき、「いや、やはりいろいろとひねくれた考えをするようです。」という答えであるなら、残念ながら、おそらくその人の目に映っている像もどこか歪んでいるはずです。素直でないと、百パーセントありのままの映像は映りません。 ④執着だらけの自分 四番目は、「執着だらけの自分」というものをあげることができます。これも難しいことです。執着というのは、霊的に見れば、まるでトリモチのように見えます。執着のある人を見ていますと、その人の頭の上であるとか、肩の上や、手のなかであるとか、何かトリモチがついた棒きれを、いつもくっつけているような感じがするのです。 その人が動いていく、いろいろなところでくっつけているのです。それは、たとえばハエ取り紙と同じといってもよいのですが、そのようなものをぶらさげていれば、いろいろなところでゴミをくっつけていくのは当然のことなのです。しかし、実際上、心というものは、そのようなものなのです。ハエ取り紙のように、いろいろなところで、いろいろな事件にあうたびに、ペタペタといっぱいくっつけてゆくのです。そして、それが落ちていないのです。それを霊的な目から見れば、いろいろな人の言葉とか、事件とか、悩みとか、そのような想念が、毛玉のようにたくさんくっついているのがはっきりとわかります。 水晶玉のようなものもありますが、だいたいは毛糸の玉のようにいっぱい毛が出ているのです。そしていろいろな物がこれについているというのが実際であろうかと思います。ですから、トリモチのようにいろいろな物がつきやすいのが自分の心であるから、いま自分には何がついているのかという観点をぜひとも持ってほしいのです。 自分の心にいま何がついているか、今日一日で絶対何かつけているのは間違いないのです。何が今日ついたのか、一日の間に起きた出来事や、思ったことが原因で何かついているものがあるはずなのです。これをふり返ってみることです。何がついたかを考えて、それが適切なものかどうかを考えてみるのです。そして、それがそうでないものであると気づいたときには、やはりこれを取っていく作業が必要になってくるわけです。 ではなぜ執着を捨てなければいけないかと申しますと、別の言い方をすれば、人生は無常なものであり一日一生の思いで生きなければ、執着だらけのままでいつ何どき死に見舞われるかもしれない。ですからけっきょく、いつ死んでも、未練を残さないであの世に旅立てるような自分にしておきなさい、ということなのです。まだまだ先があると思ってあとでまとめて清算しようと思っても、そのときは意外に早く来ることがありますよ、ということなのです。 天国ではこのような執着を持っていては生きられないのです。ですからこのような事実を知って、いつも毎日毎日決算を終わっておきなさいということです。決算を終わっておきなさいということは、帳簿尻をちゃんと合わせておきなさい、今日一日の商売をみてどうなったかをガッチリと合わせておきなさいということなのです。あとで、まとめてやろうとはしないことです。
https://w.atwiki.jp/darkness00/pages/299.html
真摯な悩み、ネタ、その他もろもろ何でもござれ K-1が可能な範囲で答えを探すお手伝いをしよう ガンダムマイスターになる為に必要なものはなんですか><? -- Daddy (2008-09-23 23 19 56) あなたは何なんですか? -- ヤンデレ (2008-09-23 23 21 24) どうやったらスーパーコーディネーターになれますか?>< -- るしふぇる (2008-09-23 23 22 21) Daddy様 強いて言えば「ガンダムに乗る理由」でしょうかね。 -- K-1 (2008-09-23 23 27 41) ヤンデレ様 あなたなら分かる筈。 -- K-1 (2008-09-23 23 28 19) るしふぇる様 メンデルの怪しい工場で調整を受けましょう>< でも身の補償はしません>< あとコーディネーターじゃなくてコーディネ『イ』ターです。 -- K-1 (2008-09-23 23 36 01) 阿修羅をも凌駕する存在になるためには、どうすればいいのでしょうか? それと便座カバー -- タバスコ星の王子 (2008-09-23 23 58 28) タバスコ星の王子様 某Gさんは部下が理不尽な攻撃で殺されてしまった怒りで阿修羅をも凌駕しました。貴方も怒りをきっかけに凌駕できるかもしれません。これなんてサイヤ人? -- K-1 (2008-09-24 00 05 50) 右手に盾を左手に盾を! -- しれとこ (2008-09-24 17 40 51) 右手に剣を左手に剣を! -- たばとこ (2008-09-24 22 14 53) しれとこ様、たばとこ様 で、何? -- K-1 (2008-09-24 22 20 54) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kagemiya/pages/373.html
ふははははは!!!!!こんばんわ木っ端ども!!!!!何故生きているのだ西洋術師!!!!!!!!!! もうすぐ木っ端同士の下らぬ争いが始まるようだが!!!!!!前夜は我の予想通り過ぎる結末になってしまった!!!!ふははははは!!!!!良い拾い物をしたわ!!!!!!!! しかし!!!!!!連日の酷使によって!!!!!!!!!うっかり座に帰還させてしまいそうだから!!!!!!!!!今日は休憩させてやることにした!!!!!!!!!我は慈悲深いからな!!!!!!!!! よって!!!!!!!!今日は!!!!!!!人生相談の如く各陣営の願いの判断をしてやろう!!!!!!!気楽に聞くが良い!!!!!!!!!! と思ったがオデュッセウス組の願いが変更されるようだな!!!!!!!我!!!!!!!!予想外!!!!!!!!!! まず!!!!!!!現在生き延びている陣営!!!!!!!!!! 姑息なるアーチャー陣営!!!!!!!! 戦艦と大和撫子のアーチャー陣営!!!!!!!!! 戦闘時の知能がやや心配なアーチャー陣営!!!!!!!!! 辛気臭いセイバー陣営!!!!!!!!!!! そろそろ玉を作るべきランサー陣営!!!!!!! マスターが我的に怖いライダー陣営!!!!!!!!!! 以上だ!!!!!!!!我的には猛獣にはもう少し頑張って欲しかったが!!!!!!!!あそこで令呪逃走しないのが間違いであったな!!!!!!!!まあそうしたら詰みであったが!!!!!!!! 姑息なるアーチャー陣営!!!!!!!ふははははは!!!!!同盟相手が我の想像を絶する阿呆で助かったな!!!!!!!!!!あの状況でまだ『平等』な契約を結ぼうとするなど!!!!!!!!!!笑いすぎて大地が揺れ始めたわ!!!!!!!!!!!! ジャーナリストなる職のことは一切わからぬが!!!!!!!!!!あの様子では魑魅魍魎どころか雑魚人間の甘言にもあっさり騙されかねないな!!!!!!!!! まずはマスター!!!!!!!貴様の行動からは誇りなど欠片も感じぬな!!!!!!!!!!!更にサーヴァント風情に篭絡されるなど黒子に惑わされるような女と同レベルよ!!!!!!!!! ふははははは!!!!!それはさて置いて!!!!!!!!!コネを作るためだけに命を賭けるなど馬鹿なことを!!!!!!!!!!圧倒的な実力でもって周囲を黙らせようとする気概も持たぬか!!!!!!!!! バッドエンドについては!!!!!!!!!まあ敗退したら確定でそうなるだろうな!!!!!!!!現状マスターとしての仕事が少なすぎる!!!!!!!!強力なサーヴァントも持ち腐れよのう!!!!!!! オデュッセウス!!!!!!!!!!正義の味方は諦めろ!!!!!!!!!!!!策を弄し敵に全力を出させず敵からは恨まれ味方からは距離を取られるのが策士の本質よ!!!!!!!!!! あえて言うのならば!!!!!!!!!!!一個人の味方にだけはなれるやも知れんがな!!!!!!!!!!!実力があるのに頭を使うからそうなる!!!!!!!!!!!!ふッはははははは!!!!!!! 戦艦と大和撫子のアーチャー陣営!!!!!!!!!!!!ふははははは!!!!!巻き込まれぬと良いな!!!!!!!!!!!! あえて言うのならば!!!!!!!!!どんな形であろうと納得の出来る別れの準備をすることだ!!!!!!!!!!!唐突な別れは仮に肉体が無事でも精神に多大な影響を与えるだろう!!!!!!!!!! 戦艦大和!!!!!!!!!!今のところは誇るが良い!!!!!!!!!貴様は西洋という腐った土地であろうとその身で国を守ることに成功したことは事実だからな!!!!!!!!!! ふははははは!!!!!後は!!!!!!!!堂々とした退場・あるいは優勝をすれば良いことしかないが!!!!!!!戦士と呼べるのは今回の参加者ではルーグ!!!!コンラ!!!!!!!謙信ぐらいのものだろう!!!!!!!!卑劣な二人組に襲われそうになったら令呪切ってでも逃げ出すことだ!!!!!!!!!!! 戦闘時の知能がやや心配なアーチャー陣営!!!!!!!!!生き残りたいようだが!!!!!!!現状関係者がいないせいで最早聖杯の起動を見るぐらいしか当初の目的を達成することは出来んな!!!!!!!! だが!!!!!!!!!親しくなった陣営ならば聖杯に願いをかける所を見る程度のことは許されるやも知れぬし!!!!!!!!!!オランダを救った恩を利用すれば監督役辺りからあばら家程度の住処は貰えるかもしれんな!!!!!!!!せいぜい巻き込まれて死なぬことだ!!!!!!! コンラ!!!!!!!!……ふははははは!!!!!割と切実な願いで茶化しにくいぞ!!!!!!!!!だが此度は祖父という関係者がおり!!!!!!!全力で力をぶつけることができた!!!!!!!!!願いの成就はともかくとして満足して消えることは出来るかもしれんな!!!!!!!!! 辛気臭いセイバー陣営!!!!!!!ふははははは!!!!!それでもなお不平等な条約に気づけぬとはな!!!!!!!トロイアが存在する限り約束通り闘ったら敗北は確定しているぞ!!!!!!!!せいぜい反故にできぬ約束を守り最後に敗退するが良い!!!!! せいじ!!!!!!!!!!!サーヴァントの願いを気づけぬようでは貴様はいっそ途中敗退の方が救われるぞ!!!!!!!!それも堂々とした陣営に真っ向から後腐れなく挑んだうえでな!!!!!!!! 早急にその辛気臭い西洋女武士と仲を深め真の願いを聞くことだ!!!!!!!!!!取り返しのつかなくなるうちにな!!!!!!!!!!!! ランスロット!!!!!!!!あそこは主君のために裏切りという汚名を被ることも忠義の一つではないか!!!!!!????そうであろう!!!!!!裏切りの騎士よ!!!!!!!!! 正直!!!!!!!!救いようのない願いだな!!!!!!!!!!!せいぜい必要としてくれた存在がいることに気づけるかどうかが分岐点と言ったところか!!!!!!!!!!!堂々とした戦士とぶつかって敗退することが案外マスターのためになるやもしれんな!!!!!!! どうしたランサー陣営!!!!!!!!!さっさと玉を作らぬか!!!!!!!!!マスターの願いは!!!!!!!!!ようやく聖杯にかけるに相応しい願いだな!!!!!!!!なぜこのような参加者が集まらなかった!!!!!!!!! だが!!!!!!!!!未熟な時に刻印を入れられることによって得た体質ならば修練の結果によっては克服することも出来るのではなかろうか!!!!!!!!!魔術刻印なんぞ少し代を重ねた西洋術師ならばだいたい埋め込んでいるからな!!!!!!!!忌々しい!!!!!!!! ランサー!!!!!!!!!!なんなのだ貴様!!!!!!!!!!!マスターの願いを叶えられれば万事成功と言ったところか!!!!!!!!!血気に逸ってくだらぬ最期を迎えるようにすることだな!!!!!!!!!!! ライダー陣営!!!!!!!!!貴様のマスターは真に正気なのか!!!!!!?????狐憑きならば我が全霊で祓うぞ!!!!!!!!!!聖杯の中身はいまだわからぬが故!!!!!!!!判断は!!!!!!保留だ!!!!!!!! 謙信!!!!!!!!!!!ふははははは!!!!!災難であるな!!!!!!!!!!!!だが我は応援しておるぞ!!!!!!!!!!日ノ本の男としてな!!!!!!!!!!! 戦士として満足に戦がしたいというのにままならぬものよのう!!!!!!!!だが!!!!!!!!ルーグ!!!大和!!!!!コンラあたりとは満足した戦が出来るであろうな!!!!!!とくにコンラはどうやら挑まれた勝負は断れぬらしいぞ!!!!!!! あとは迷いを捨てて全力でぶつかって来るランスロットと言ったところか!!!!!!!!!!!オデュッセウスも実力的にはいやむしろ全力でなら我的に頭一歩抜け出している感あるがな!!!!!!!!!!! ふははははは!!!!!以上だ!!!!!!!!!せいぜいかなわぬ願いに向かってあがき続けるが良い!!!!!!!!木っ端ども!!!!!!!!!!!
https://w.atwiki.jp/snowblood/pages/13.html
【発行国】日本国特許庁(JP) 【公報種別】公開特許公報(A) 【公開番号】特許公開2005−143294 【公開日】平成17年6月2日(2005.6.2) 【発明の名称】若い男性の人格形成の方法 【発明の開示】 【発明が解決しようとする課題】 【0009】 男性の人格形成において、特に、社会的正義感を醸成し、犯罪の少ない世の中とし、また、ニート、フリーターといった層が増大するのを、いくらかでも防止し、ひいては、日本国家と日本国の産業の発展に寄与する為の、若い男性の人格形成の方法を提供することを課題とする。 【課題を解決するための手段】 【0010】 この発明は、本発明者の実体験に基づいて着想したものであり、他にもいろいろな方法があると推察する。男性の人格形成において、社会的正義感を有する人格形成を行う為の、映画の持つ効果を活用することを特徴とする、人格形成の方法に関する。つまり、本発明は、凶悪殺人犯罪、振込み詐欺、幼児誘拐殺人等々、特に比較的若い年代層の男性の残忍な事件が続発する世の中となり、このような事態を少しでも緩和するための、一手段を提供するものである。これらの犯罪の増大は、防犯設備や、防犯グッズの提供という、あらたな産業を活性化させる意味においては、それなりの産業的意味があるとは言えるが、やはり、多面的な施策を講じて、犯罪の少ない世の中にすることが、社会投資の無駄をなくし、国民の生活の向上と、日本社会の産業の育成の基礎作りに必要なものと考える。 【0011】 本発明者は、今までの自らの経験から、若き日(大学生時代)に、映画により、精神的な影響をかなり受けた。本発明者のいうところの映画とは、任侠映画であり、さらに具体的には、東映の1966年の「日本大侠客」に始まり、1972年の「関東緋桜一家」に終了し、女優藤純子さんが準主演で出演していた、約50作あまりを言う。なお、相手役は、高倉健さん、菅原文太さんのものであることに結果的に限定され、これらは、すべて、藤純子さんの父、俊藤浩二さんが、プロデュースしたものである。 【0012】 すなわち、本発明は、下記の構成を要旨とする。 (1)若い男性の人格形成において、社会的正義感を持つ人格形成を行う為に、映画の持つ効果を活用することを特徴とする、人格形成の方法。 (2)映画が、任侠映画あるいは、任侠映画に類似した作品であることを特徴とする、人格形成の方法。 (3)映画が、女優藤純子が主演または、準主演しているものであることを特徴とする、人格形成の方法。 現在、これらの映画は、一部、ビデオ、DVDにより、販売されている。しかし、全作品を入手することは困難であり、今後、インターネット等により、容易に多くの作品が、若者にも、提供されるようになることが期待される。 【発明の効果】 【0013】 本発明者の経験から、(1)から(3)を実施することにより、青年期において、社会的正義感が醸成されたと考えている。(当時、1970年前後は、女優藤純子の全盛期であり、特に「緋牡丹博徒」8作は大ヒットした。) 【実施例】 【0014】 なお、本発明を実施例によって、さらに具体的に説明するが、本発明は実施例に限定されるものでない。 本発明者は、以下のことを実践し、社会的正義感を醸成ことができた。 (1)1968年から1972年初春にかけて、藤純子さんの映画を多数観た。 (2)40歳後半からの中年になってからは、ビデオやDVD(一部図書も)コレクションして、1970年前後において、ピークになった藤純子主演の映画を繰り返し鑑賞し、自分の人生の生き方について、任侠映画がかなり大きな影響を与えていたことを再認識するとともに、勧善懲悪という単純な哲学の奥深さと、日本の様式美が具現化されていることに改めて感動した。簡単に言えば、自分の生き方に正義感とそれに対する自信を得たということである。(1)については、直接映画館にかよったが、(2)については、当然ながら、ビデオソウト、DVDソフト、およびそれらの再生装置を利用している。なお、私自身の経験からは、ホームシアターとか、大型画面のテレビとかは、基本的には必要ないと考える。要するに、ソフトのコンテンツが最も重要な要素となる。ただ、若き日の人格形成において、存在が大きかったのは、(1)であり、(2)は、中年になってからの心の癒し的効果のほうがむしろ大きいとも言える。 【0015】 <結果> 東映任侠映画の鑑賞により、男として生きることの一種の価値観を比較的、若い時に形成することができた。ただ、勧善懲悪という単純な哲学は、裏も表もある現実の社会生活において、狡猾に生きるという面ではマイナスの面もあったと思われる。したがって、社会で大きな権力を握ろうとする男性には、あまりお勧めできないし、また、登場する悪役の生き方の方が参考になるかもしれない。これは、各人の価値観の問題であるが、「正義」という言葉が死後になりつつある現代社会において、東映任侠映画はその価値が再評価されるべき時代に来ているものと考える。 【0016】 ただ、東映任侠映画の場合、藤純子に加え、高倉健、鶴田浩二、菅原文太という、稀有なスーパースターの存在によって、具現化された世界であり、たまたま、俊藤プロデューサーの企画により、1966年から1972年初春にかけて、日本の社会に大ヒットした、きわめて一時的現象であった。特に、藤純子の存在なくしては、成立しない世界であり、日本映画界が、品位の低下した娯楽的テレビ番組にすでにとってかわられつつあった時代に、日本の映画世界に最後の花を咲かせた作品群であった。 【0017】 なお、以下は、藤純子の演じた任侠映画というものを、知らない若年世代が大部分を占める世の中になったので、そういう世代のために、藤純子の出演した任侠映画とはどういうものであるか、藤純子(現在、富司純子)さんへのファンレターを紹介し、東映任侠映画と藤純子さんの紹介としたい。 【0018】 富司 純子 様 拝啓 一目だけでもお会いして、お礼を申し上げたいのですが。 私は、貴女の緋牡丹博徒以来の大ファンで、昭和24年生まれの男です。今年の6月9日で50歳になりました。子供は、3人で男、女、女の3人です。長男は貴女の長男とほぼ同じ歳で今年の8月に22歳になります。今年はひどい就職難でしたが、なんとか就職も決まりほっと一息ついているところです。 貴女の舞台を見るのは、7月26日(1列19番席)で4回目です。最初は芸術座で祇園の姉妹を見させていただきました。2回目は帝国劇場で山田五十鈴さんと出ておられたのを見させていただきました。3回目は7月13日に本所深川ふしぎ草子をついこないだ見させていただきました。いつも一番前の席を採るようにしていますので、ほんとに間近に見させて戴いており感謝しております。 実は私、4年前から鬱病にかかり、最近はいくらか回復してきましたが、最初ころは自殺願望が強く苦しみながら会社勤めをしている毎日でした。 そんな時、私を救ってくれたのは新宿TSUTAYAで見つけた貴女の数々のビデオです。何の楽しみも見出せなかった私に、生きる喜びを与えていただきました。そうこうするうち、緋牡丹博徒シリーズは東映ビデオから発売されましたので、1巻〜8巻までをすべて揃え、すでに100回ずつぐらい見させていただいております。 また、3年ぐらい前の徹子の部屋や、ついこのあいだのスタジオパークもビデオに採り、これまた何十回となく見させていただいております。 貴女の追悼記念番組が組まれるころは、多分私は世の中にいないとは思いますができるだけ長く、貴女の舞台を見ていきたいと思っております。 また、藤純子の写真集を東映が出してくれないかと願っております。(貴女の本は国立国会図書館に行かないと見られませんので。) 私は字が下手でワープロで書いて申し訳ありません。どうかこの手紙が貴女のお目にとまりますように。 敬具 平成11年7月18日 [作品の大筋] 置いてけ堀に現れる岸涯小僧は、浮かばれない漁師や魚屋の生まれ変わり。魚屋だった亭主を亡くしたばかりのおしずの耳に、そんな噂が飛び込んできた。思いあまって出掛けた置いてけ堀でおしずは意外なものを見る『置いてけ堀』。人殺しが起きた場所で「落ち葉さえなければ」と呟く茂七の言葉を聞き、毎夜落ち葉を掃除するお袖。そんな彼女に物陰から視線を送る男がいた『落ち葉なしの椎』 。本所深川七不思議を題材に、人情味溢れる物語を集めた時代編。 【0019】 富司 純子 様 拝啓 お元気ですか。先日(10月17日)に、妻と二人で「音菊天竺徳兵衛」を拝見させていただきました。菊五郎様は、はじめて拝見いたしましたが、男っぷりのいい方で、さすが、貴女が19歳の時心を動かされたものと感心いたしました。 菊之助様は、菊五郎様にも似ておられましたが、純子様にも似た雰囲気があって、緋牡丹お竜がすっと立った様をどことなく感じたしだいでございます。 ところで、私は貴女が、会場にいらっしゃらないかと時々、音羽会の受付付近を見ておりましたところ、最初の幕間の時にお見かけして、たいへん幸福な気持ちになりました。 近づいて声をおかけするには恐れ多いことでしたので、10メートル程はなれた位置で拝見させていただきました。貴女が、会場入口付近に座っておられた女性のグループの方へ歩いて来られました際、私の方に向かって軽く会釈していただき(私の気のせいかもしれませんが)大変幸福に感じたしだいです。 なんといっても、貴女の着物の着慣れた着こなしにほれぼれいたしました。 10月23日には、ドリームメーカーを見ましたが、朗らかなお母さん役が、お竜さんとはまた違っていい雰囲気でした。 来年の1月16日には、(音羽会に予約はしてあるのですが)券が採れれば、 妻と二人で、「滝の白糸」を拝見させていただく予定にしております。 お体を大切に、主婦として、大マネージャーとして、大女優としてがんばって下さい。 敬具 平成11年10月27日 【0020】 富司 純子 様 拝啓 お元気でお過ごしでしょうか。 11月の歌舞伎座公演中で忙しい中、このような私の手紙を読んでいただけるとしたら、かえってご迷惑をかけていることになっているとは思いつつも又手紙を出してしまいました。 貴女には、不本意なことかもしれませんが、11月6日には「日本女侠伝・侠客芸者」を新宿の映画館で見てきました。貴女の美しい芸者姿にほれぼれしたしだいです。1969年の作品ですからもう30年も前の作品になるのですね。残念なことですが山下耕作監督もすでになくなられましたし。 実は以前にも同じ映画館で「日本大侠客」という映画も見ました。主演は鶴田浩二さんで、たしか貴女は、「お竜」という鉄火芸者の役で、最後に自殺してしまうかわいそうな役でしたね。こちらは1966年の作品ですから今から33年も前の作品です。貴女は、日本映画史の最後の大女優だったのだなあとつくづく思います。 私は、女渡世人シリーズを見たことがないので、ビデオ屋さんにもないし、上映されたらぜひ見たいと思っております。 1971年8月10日号キネマ旬報「任侠藤純子おんなの詩」のP100に渡辺武信氏の評が、「藤純子の澄んだ切れ長の眼、それは見ひらかれれば、火のように燃え、微笑する時、そよ風のようにゆらぎ、ひとたび伏せられると夜のように暗い」と書かれております。今でもそうですね。2000年1月の「滝の白糸」の舞台を拝見させていただくのを楽しみにしております。 敬具 平成11年11月7日 「日本大侠客」 九州の侠客議員として知られる吉田磯吉の長男・敬太郎が書いた自伝をもとに、マキノ雅弘監督が鶴田浩二主演で映画化。明治中期、新工業地帯として胎動し始めた北九州の港町・若松を舞台に、熱烈な郷土愛に燃える吉田磯吉が青春の全てをかけて悪徳ヤクザ一家に敢然と闘いを挑む。磯吉を慕い、彼のピンチを救う鉄火芸者・お竜を藤純子が好演。この役は後年、藤純子の当たり役である“緋牡丹博徒”シリーズの女侠客・緋牡丹のお竜の原型となった。 【0021】 富司 純子 様 拝啓 お元気で、多岐にわたり、ご活躍・お過ごしのことと思います。 来年の1月は楽しみにしておりますが、もう「滝の白糸」の練習は始められてお忙しいのでしょうか、それとも12月に入ってからの練習でしょうか。 ところで、貴女の方にはすでにサンプルが届いていることと思いますが、最近、東映から「傑作シリーズ」のCDが発売されているのを見つけましたので、さっそく貴女の主演作品のものを購入しました。(いまさら、昔のものが発売されて貴女にとっては、不愉快かもしれませんが?)サウンドトラック版ですから、あの手の商品は貴女には印税も入らないのでしょうか。入らないとしたら、まったく貴女にとってはまったく不本意な商品でしょうね。 1ファンとしては、眼も疲れませんし、ビデオにはない良さがあって楽しませていただいております。 つまらない、手紙の内容で、もしお目にとまり、貴重な時間を割かせてしまいましたらごめんなさい。 ではお元気でご活躍下さい。 敬具 平成11年11月14日 【0022】 富司 純子 様 拝啓 ついついまた、手紙をまた書いてしまいました。貴女が高倉健さんのファンだったのを、この間のNHKスタジオパークで聞き、私も若い時から男優では高倉健さんが一番好きですので、大変嬉しく思いました。(「鉄道員」は5回も見ました。「おもちゃ」は1回でしたけれど。) ところで先日は、高倉健さんのCD(キングレコード)を買ってみようかと思い、「決定版・高倉健」というのを買いましたところこれが、なんと大当たりでした。途中に「昭和残侠伝・死んで貰います」の健さん(秀次郎)と貴女(幾太郎)の再会の場面と、「日本侠客伝・昇り龍」の健さん(玉井金五郎)に貴女(お京)が刺青を入れるのを頼む場面等が歌と歌の間に収録されているのです。貴女はこのCD持っていまいすか? もっとも貴女にはCDを聞く時間などないとは思いますが。でも記念に持っておかれたら、よいかと思いますが。「死んで貰います」と「昇り龍」はどちらも名作ですね。「昇り龍」では最後に貴女が死んでしまう悲しい役でしたが。健さんと貴女が着流しで並んだ姿の美は、空前にして絶後ですね。私も同世代にこの世の中に生きてこれてほんとうによかったと思います また、最近、東映から出た傑作シリーズ(藤純子)もなかなかの逸品でした。 被牡丹シリーズも良かったのですが、Vol.2の関東緋桜一家の音楽はなかなかいい曲ですね。最後の方で、貴女(鶴次)が「に組(?)」の着物を着て健さんの後を追いかけるシーンが思い出されます。夜寝る前に聞きますと静かな気持ちになりよく眠れます。 富司純子の名を名乗られてからは、「あ・うん」とNHKの「詩城の旅びと」が印象に残っております。貴女(水田たみ)が豆を上に飛ばして口に入れるシーンとか、緒方拳さん(木村企画部長)に「通子さん(中川安奈)をお好きなのですね。」と言われるシーンとかが。フランス語はいつ練習されたのでしょうか。(お忙しい身でありながら。) またまた、とりとめもないことを書いてしまってごめんなさい。 では、お元気でますますがんばって下さい。 敬具 平成11年11月18日 【0023】 富司 純子 様 拝啓 お元気でお過ごしですか 国立劇場、歌舞伎座、新橋演舞場と続けて、旦那様、菊之助様が出場されていますので、忙しい日々をお送りのことと思います ところで、12月2日には、「滝の白糸」の1月16日の観覧券が到着し、希望の席がとれていましたので、大変悦んでおります。妻と二人で見に行く日を心待ちしております。 もう稽古は、始まったのでしょうか。貴女は、家の内外でいろいろな役があって大変な忙しさですね。まあ美空ひばりさんなんかは、3回練習すれば、本番のレコーディングOKという話しを聞いたことがありますが、貴女も東映時代にマキノ監督に鍛えられて、そんなに練習しなくても体が自然に動いていくのでしょうか? それとも影で、いろいろな努力をなさっているのでしょうか。 結婚ラプソディ「東京の女対大阪の女」はビデオに撮ってあり、時々見ますが、貴女の作り上げてきたイメージとは違って、なんだか妙な感じがしました。 12月10日からは、鶴田浩二さんと共演の「総長賭博」と高倉健さんと共演の「死んで貰います」が、新宿の映画館で上演されるので見に行くつもりにしております。 では、お元気で、がんばって下さい。 敬具 平成11年12月3日 【0024】 富司 純子 様 拝啓 お元気ですか。徒然なるままに、目前にNHKのビル(澄みきった日は、富士も目に入るのですが)を見ながら、お昼休みにまたワープロをたたいてしまった私です。 電車の中吊り広告を見ていたら、尾上菊之助の記事が出ているとの案内があり、読んでみました。菊之助様は、ほんとうにハンサムで精悍な感じですね、目付きは、純子様に似ているのでしょうか、切れ長の眼がすてきですね。で、その先を読んでいくと富司純子様の記事が載っているのですね、「滝の白糸」には1ヶ月は練習するとか書いてありました。1月16日がますます楽しみになってきますが、私のようなファンは、貴女の芸がどうこう等の話しは、ある意味では、どうでもいいことです。富司純子様には、他をもって替え難い魅力がある(黒柳徹子様の言葉を借りれば)訳ですから、貴女を見ているだけでいいのです。私のようなファンが多いと思いますよ。どうか気楽にさばいて下さい。 あの記事の中で、女優としては、娘も対等というような事が書かれておりましたが、女優の世界はきびしいですね。(歌舞伎の世界の方が、菊五郎様と菊之助様は師匠と弟子の関係ですものね。) では、お元気で、練習に、家事にお励み下さい。 敬具 平成11年12月6日 輝くようなみずみずしい美貌と清潔な色気。明日の歌舞伎界を背負う若手スターの旗手。女方も二枚目もいい。祖父・梅幸や父・菊五郎の役をしっかりうけ継ぎつつ、歌舞伎以外にも積極的に出演して意欲をみせている。 【0025】 富司 純子 様 拝啓 お元気ですか。12月12日は、新宿の映画館で、「総長賭博」と「死んで貰います」を見ました。「総長賭博」は、1968年の作で、若山富三郎さんの女房役で、若山さんが鶴田さんに殺されてしまう悲しい役でした。貴女の出演場面もあまり多くなく大して大きな感動を覚えませんでした。昭和残侠伝「死んで貰います」のほうは、1970年の作ですが、貴女の芸者姿が、とても色っぽくすてきでした。「止めやしません。だけど死なないで下さい。・・あとは、私の義理に生きて下さい」という最後の部分の台詞が印象的でした。とはいえ、30年ぶりに見た高倉健さんの、鍛えられた上半身の裸姿が、筋肉質の胸板といい、太い腕といい、男心に改めてほれぼれいたしました。 12月31日からは、加藤泰監督の名作「三代目襲名」が上映されます。あの映画では、たしか、初江とかいう遊郭の遊女の役だったと思います。まだ東映に所属して間も無い時期の映画だったかと思いますが、今から楽しみにしております。もちろん、1月16日の「滝の白糸」は一番の楽しみですが、映画のスクリーンには舞台にはない迫力がありますね。 では、年末、お元気でおすごし下さい。 敬具 平成11年12月13日 昭和残侠客伝「死んで貰います」 大正末期。家を飛び出して放浪していた花田秀次郎(高倉健)は、賭場でのケンカがもとで服役。面会に来た寺田(中村竹弥)と妹に、「世話になった」という芸者見習の幾江(幾太郎) (藤純子)という女性に金を渡してもらうよう頼む。服役中に関東大震災が起こり、秀次郎は家族を案じるが何もできない自分に苛立つ。時代は移り昭和初め、出所した秀次郎は生家の深川の料亭に戻ることにする。震災で妹は亡くなり、母は視力を失っていて、店は板長の重吉(池部良)が切り盛りしていた。寺田の計らいで、今は一人前の売れっ子芸者となった幾江とも再会でき、秀次郎は素性を隠してカタギとして板前修業を始めることに。しかし、一旦ヤクザな身となった秀次郎が足を洗うのはそう容易いことではなく…数ある『昭和残侠伝』シリーズの中でも、名作と名高い1本です。(私はまだ2本しか観れてないけど…)大元の筋の、老舗の組が新興ヤクザの無茶な勢力にやられ、義理堅い主人公が殴り込みに…という筋はそのままに、親子の情や、男の友情などの人の情けの描写の方に重点が置かれて、またそれがとても自然で、細やかに描かれてて、情を知ってる人間なら、誰もが涙することでしょう。古き良き日本人の姿があります。秀次郎と幾江の純愛も、ヘタしたらすんごくクサくなりそうな話なのに、やっぱりいいな〜と思ってしまう。あんなヒトなら何年でも待っていたくなるよ。 【0026】 富司 純子 様 拝啓 お元気ですか。「滝の白糸」お疲れ様でした。13、16、20日と結局3回も見てしまいました。長いせりふが続いて、せりふを覚えるのもたいへんですね。16日は、最前列の席が採れましたので、よく見させていただきました。 貴女の黒いストッキングから見える足が、新鮮でセクシーな印象に残りました。 貴女の足は、緋牡丹博徒の立ちまわりの時少し見えるだけでしたから。 流し台の上に乗って空間を飛び交う時は、最初は、怖くありませんでしたか? 今後の出演スケジュールはあるのでしょうか?音羽会からのたよりを待っていればわかることなのですが。 敬具 平成12年1月26日 【0027】 富司 純子 様 拝啓 お元気ですか。相変わらず忙しい毎日を送っておられることと思いますが、「滝の白糸」が終わって一息ついているころでしょうか。 私は,2月5日に新宿で「昇り龍」を見てきました。1970年12月3日封切りの映画ですね。貴女は25歳ぐらいでしょうか。当時の映画としては、やや長編で110分ぐらいのものですね。高倉健さんと貴女のからみのシーンが一番多い作品ではないでしょうか。話しの内容は、まさに美人薄命といった感じのものですが、貴女があまり美しくシャシンになっているので、見とれて涙を出す暇がありません。 NHKのスタジオパークで、貴女も高倉健さんのファンだったと知りましたが、ファンの方とあれだけ長いシーンを撮ると、その時だけは、ほんとに好きになってしますのでしょうね。(かたせ梨乃さんが、極妻の映画の話で擬似恋愛をするものだと話しておられましたからこれもスタジオパークですが。) 「昇り龍」は、映画館に当時のポスターガ残っていて貼られていました。今あんなポスターを手に入れようとしても高価で手が出ないとおもいますが。 映画館には、結構人が入っていました平均年齢は、60歳ぐらいだと思います。今度の貴女の出演映画のスケジュールは未定ですが、また行きたいですね。 正月上映された「三代目襲名」は体調を崩して見逃してしまいました。 では、お元気で、ますますご活躍下さい。 敬具 平成12年2月7日 【0028】 富司 純子 様 拝啓 お元気ですか。先日は、高倉腱さんの、CD「東映傑作シリーズ 昭和残侠客伝」を購入しました。収録されている2作品共、共演が三田佳子さんであるのが残念なところです。唐獅子牡丹はしょうがないにしても、もう一作は「死んで貰います」を収録してほしかったですね。現在「日本侠客伝」も注文中です。このようなマニアックな商品は、一回ある程度の数製作すると、あとを作らなくなるようで、売り出した時に買うのを躊躇すると、もう手に入らなくなります。 それにしても、貴女の「傑作シリーズ」はvol.1、2共に、手に入れておいてよかったと思います。毎日寝る前に聞いております。 ところで、3月10日からは、新宿の映画館で「日本大侠客」が上映されます、貴女のスクリーンからあふれるようなお色気をまた見ることができるのを楽しみにしております。 菊五郎様と菊之助様の歌舞伎は、財源的な理由もあり、見ることができなく、申し訳ありません。 ではお元気で。 敬具 平成12年2月19日 【0029】 富司 純子 様 拝啓 お元気ですか。東映傑作シリーズ高倉健主演作品のVol.4も購入しました。日本侠客伝の第1作に貴女は、出演なさっていたのですね。Vol.4は、日本侠客伝の第1作と第2作が収録されているのですが、第2作には、貴女は出演しておりません。「昇り龍」を収録してくれたなら、最高に幸せでしたのに、残念です。 私は、日本侠客伝の第1作をまだ見たことがありませんので、時間がとれたら、新宿のTSUTAYAで借りて来て、見たいと思っております。出演者の順番もまだ、藤純子様が数名のあとに書かれていますので、まだまだ本格的に人気の出る前の作品ではないかと思いますが、その意味で逆に見る価値がありそうです。 今回も、つまらない内容の手紙で、申し訳ありません。 次回は「日本大侠客」を見たあとの感想など書かせていただきます。 敬具 平成12年2月25日 【0030】 富司 純子 様 拝啓 お元気ですか。 さっそく、日本侠客伝シリーズの第一作のビデオを見てみました。1964年の作品で、今から36年も前の作品なのですね。私は、まだ15歳ぐらいで、貴女も19歳ぐらいの時の作品かと思います。高倉健さんの恋人役で、出る場面もまだまだ少なく、とても初々しい感じがしました。貴女は、緋牡丹博徒をやられるようになったころから、また一段と美しくなられたのですね。9年間の藤純子としての女優の間にも、女性としてどんどん成長されていった様子がよくわかります。 ところで、新宿のビデオ店を見ていましたら、東映傑作シリーズ藤純子主演作品のVol.3が置かれておりました。内容は、日本女侠伝シリーズで、「真っ赤な度胸花」と「鉄火芸者」が収録されておりました。私は、「侠客芸者」は見たことがあるのですが、この両作品は見たことがありません。ビデオ化もされていないようで、ビデオ店をさがしても見当たりませんでした。Vol.3をさっそく購入して聞いてみましたが、緋牡丹シリーズと違って、歌が入っていないのが残念でした。 また、つまらない内容の手紙で申し訳ありません。 敬具 平成12年2月28日 今は亡き木場政に恩義のある客分の清治は長吉に迷惑をかけまいと女房のお咲に別れの挨拶をすると一人沖山組に殴り込んだ。悽惨な死闘の甲斐なく清治は息絶えた。清治の死体を見た長吉の心は決った。『男の喧嘩は一生に一度しかない』という親分の言葉を思いつつ。子分を連れた長吉は祭りの騒ぎにまぎれ沖山組に殴り込み決死の戦いを挑んだ。悲惨な戦いであった。沖山兄弟を倒し、この殴り込みに一人生き残った長吉も今は獄中で静かに判決を待っている。木場は元通りに活況を呈し、深川は平穏を取戻した。 【0031】 富司 純子 様 拝啓 お元気ですか。優秀助演女優賞の受賞おめでとうございます。(最優秀に選ばれるのではないかと思っておりましたが、少し残念でした。) 3月12日は、2回目ですが「日本大侠客」を見てきましたが、貴女が20歳ぐらいの時の作品で、貴女のお色気が画面から飛び出しそうでした。鶴田浩二さんの相手役よりも、やはり高倉健さんの相手役が似合いますね。 3月31日からは、昭和残侠伝「唐獅子仁義」が始まります。前回見ました「昇り龍」、今回の「日本大侠客」、次回の「唐獅子仁義」の三作とも、最後に貴女が死んでしまう、かわいそうな役ですね。 高倉健さんと共演さけたのは、「あ・うん」が最後だと思いますが、私を含めた日本映画のファンのためにもう一度共演作が世に出ることを期待しております。我々昭和40年代の東映任侠映画ファンもだんだん歳をとってきました。当時の藤純子様の写真集が出版されることを期待しております。 舞台出演も期待しておりますので、お忙しい中がんばって下さい。 敬具 平成12年3月17日 (日本大侠客) この映画は、俊藤プロデューサーの娘でもある藤純子が大抜擢されて、一躍売れっ子になった作品としても有名。映画の中で藤純子は鉄火肌の芸者・お竜を演じてピストルをぶっ放すが、これが後の『緋牡丹博徒』へとつながって行く。マキノ監督は『緋牡丹博徒』シリーズを1本も撮っていないのだが、間接的な生みの親になったというわけだ。 俊藤プロデューサーはこの作品を「マキノの親父には名作傑作が数々あるけど、これはまちがいなくその一本だと思う」と言っているのだが、僕の見立てはちょっと違う。確かに面白い映画なのだが、この映画の鶴田浩二は最初から立派すぎると思うのだ。幼い頃から定職に就かず、朝鮮に出稼ぎに出ても無一文で帰ってきたあげく、料亭に嫁いだ姉の居候になっている磯吉。彼はあちこちから借金をして姉や義兄に迷惑をかけているものの、それでもどこか憎めない人間的魅力の持ち主です。 【0032】 富司 純子 様 拝啓 お元気で、忙しく、おすごしのことと思います。 5月は旦那様、菊之助様が歌舞伎座に出演中で特に大変ですね。5月末から6月初めにかけては、寺島しのぶ様も出演なされてご家族全員活躍の程喜ばしく思います。また、7月にはいよいよ新橋演舞場で、「巧名が辻、山内一豊」千代役で出演ですね。音羽会で7月20日の切符を入手させていただく予定です。私は、とにかく顔を拝見できればいいので、妻の反対を押し切って最前列を希望しました。 ところで4月30日には、新宿の映画館で「緋牡丹博徒(第1作)」を上映しておりました。娘さんの時の感じとお竜さんになった時の感じが、すっかり変わるのに改めて驚きました。山下耕作監督が、お竜さんにあえて地味な着物を着せて見せたかったと書いておられましたが。 でも、何と言っても、もう一度観てみたいのは、「お竜参上」ですね。貴女が一番美しくシャシンになっているのではないでしょうか。 なお、私事ですが、長男(貴女の長男、菊之助様と同じ歳と思いますが)は、福岡に着任しました。家業のない者のつらさで、私自身、故郷をはなれてはや30年近くになります。 敬具 平成12年5月9日 やまのうち かずとよ のつま(1557〜1617年)夫、一豊は織田信長の部下。一豊のために嫁入り仕度のお金で馬を購入、その馬の手入れをした。信長はそれを喜び、ほめたたえた。 【0033】 富司 純子 様 拝啓 お元気でお過ごしのことと思います。ところで妻から聞いたのですが、来年はNHKの大河ドラマに出演されるそうですね。私は通常は、大河ドラマを見ません(渡哲也さんの織田信長の時は見ましたが)。来年は毎週楽しみにして見ようと思っております。 また、今月の26日からは、新宿の映画館で、「一宿一飯」が上映されます。学生時代に見た、相手の男が傘の上を空を描いて舞い、池に落ちて行くシーンと鮮やかな緋牡丹を見せる黄色の着物のシーンが思い出され、これもまた楽しみにしております。 敬具 平成12年5月16日 明治十七年秋。上州の農民たちは、高利貸倉持に収穫物をカタに取られ困っていた。・・一方、笠松はひそかに倉持と結託、上州一帯の生糸の総元締会社設立を図っていた。この計画を察知した戸ヶ崎は、農民に犠牲を強いる笠松のやり方に怒り、笠松一家に殴り込んだ。その時は、お竜は戸ヶ崎のはからいで四国の熊虎一家を訪ねていた。戸ヶ崎が殴り込んだことをお竜はそこで聞いたが、戸ヶ碕一家は笠松一家によって全滅したのだった。お竜は急ぎ上州に戻ったが、そこはもう日の出の勢いの笠松一家の勢力圏になっていたのだ。後日のことを考慮した戸ヶ崎によって彼の娘まちと結婚して戸ヶ崎組の跡目を継いだ勇吉は血気にはやって殴り込んだが、逆に私刑を受ける有様だった。お竜はそんな勇吉を何かと助けていたが、関八州の親分の一人宮内がその後楯となってくれた。一方笠松は邪魔なお竜を消そうとして襲ったが、一匹狼周太郎に阻まれた。しかし、笠松にはもう一つ企みがあった。戸ヶ崎組の経営する郵便馬車の権利を手に入れることだった。笠松はまちを脅し、ついにその権利書を手に入れたのだ。憤怒に燃えた勇吉は、笠松組と争いなぶり殺したあってしまった。ここに至っては、お竜も決心せざるを得なかった。周太郎とともに勇吉の葬合戦とばかり、笠松組に欧り込み、笠松を倒したのだった。 【0034】 富司 純子 様 拝啓 お元気でお過ごしのことと思います。旦那様、菊之助様は5月大歌舞伎で、純子様にとってもお忙しい毎日のことと思います。 ところで、私も昨日(21日)には、一番列車に乗り、朝7時には一幕見の切符購入の列に並び源氏物語を見ることができました。双眼鏡片手に遥か遠くの舞台を見下ろすのもなかなかいいものでした。特に3幕目の菊之助様の若紫は、とても美しくて素敵でした。まだ本物を読んだことのない私ですが、源氏物語の外郭がわかったようで、たいへん楽しい一日でした。 また、夜には大河ドラマで秀頼の役で出演されているのを拝見しまして、冨司純子様の若き日を思い起こさせるような気がしました。 28日は、「一宿一飯」を見に行く予定ですが、何とその日に「花と龍」も上映されるということです。今から楽しみにしております。 敬具 平成12年5月22日 歌舞伎源氏が初演されたのは昭和26年。1951年3月のことです。東京大空襲で焼失していた歌舞伎座がようやく再建されました。戦争中にも上演予定があったそうですが、当時は源氏物語がタブーとされていた時代で上演できませんでした。戦争が終って帝も現人神から人間天皇におなりあそばし、ようやく源氏物語が文学や芸術として大手を振って歩けるようになったわけです。 初演の時光源氏を演じたのは、今回光源氏を演じる市川新之助さんの祖父、十一世市川團十郎でした。当時歌舞伎役者の中でもダントツのイイ男でした。写真を見ると新之助さんによく似ています。新之助さんは今の歌舞伎界の若手のホープでかつお祖父さん似のイイ男という評判です。 また、昭和45年、58年の上演組は、今回光君、紫の上、頭中将を演じる「平成三之助」こと新之助、菊之助、辰之助の父に当たる当代團十郎、菊五郎、故初代辰之助という、当時の歌舞伎界を背負って立つ人気若手組でした。源氏物語ファンだけでなく、ずっと昔から歌舞伎を見つづけてきた歌舞伎ファンにも非常に思い入れのある演目なのです。 【0035】 富司 純子 様 拝啓 お元気でお過ごしのことと思います。5月大歌舞伎も終わり、ほっと一息といったところでしょうか、それとも、いよいよ「山内一豊の妻」の役作りで忙しくなるのでしょうか。 5月28日は、「花と龍」「一宿一飯」を見てきました。貴女のみずみずしい美しさが両方の映画にあふれており、楽しませていただきました。「一宿一飯」で貴女が、緋牡丹の刺青を見せる時、涙が出ていたのですね。スクリーンを注意して見ておりましたら、気がついたのですが、あれは、肌を見せることに対する悔しさ、それとも演技でしょうか? 6月には、貴女の出演する映画の上演は組まれておりません。残念ながら・・・。でも、7月にはいよいよ新橋演舞場で貴女の舞台が見られます。双眼鏡も10倍のものを買いましたし、あとはチケットが来るのを待つばかり。 ところで、「舞ちゃん」という雌犬のほかに、まだ2匹犬がいるということですが、まだ元気ですか? 私の家には、4歳の「モモ」という猫が一匹いますが、元気です。 当面は、昨年のNHKのスタジオパークのビデオと貴女の東映のCDでも聞いて過ごしましょう。 またつまらない手紙になってしまって申し訳ありません。 敬具 平成12年5月29日 山尾組を追放され、愛するマンを連れて彦島を離れた金五郎。昔の仲間と組を立ち上げた彼は、併合組の集会で女賭博師のお京と再会する。 【0036】 富司 純子 様 拝啓 猛暑のおり、連日の新橋演舞場でのご公演大変なことと思います。 7月13日と20日は、巧名が辻を拝見させていただきました。13日は3階席で、20日は一階最前列で。(渡辺徹さんは汗をたらたら流しながら演技されていたのですね。) 7月3日には、徹子の部屋に出演なされていたのをビデオで撮っておきましたので、楽しませていただいております。(音羽会の案内では、7月5日になっていましたので、あやうくビデオを撮り逃がすところでしたが、娘が新聞のテレビ番組表で見つけてくれました。)貴女のトークビデオは、3年前の徹子の部屋と、1年前のNHKスタジオパークとで、3本目を収集したわけですが、今回のチャイナドレスの容姿が一番すてきに見えました。ただ、コマーシャルが多く、実質30分もないのが残念です。 7月15日は、新宿の昭和館で、「お竜参上」を見てきました。30年前の映画になると思いますが、今さらながら加藤泰監督の傑作だと思います。 同じ月に30年の時間を隔てた両方の貴女を観るのは、30年を経てもなお、美しくていらっしゃるのに驚くばかりです。 ところで、12月には元禄港歌が再演されるとかで、チケットが手に入るのを楽しみにしております。 名古屋の中日劇場の10月公演とお忙しい日々が続くようですが、がんばって下さい。 敬具 平成12年7月24日 東映任侠映画といえば、活気のあった日本製娯楽映画全盛時代の良さがあるよね。いわゆる定番のプログラム・ピクチャーなんだけど、水戸黄門のごとく安心して見ていられるのだ。この映画も最初から最後までお約束だらけ。いいヤクザと悪いヤクザがいて、悪いヤクザは悪行三昧、いいヤクザは我慢に我慢を重ねて最後に怒り大爆発。もちろん最後は正義が勝つ!その単純さが許された時代っていいな。見所はなんといってもお竜さんの大活躍だ。どんな問題もお竜さんが出れば万事解決。悪人どももお竜さんには敵わない。1人で切って切って皆殺し。そんなバカなとも思うが、かっこいいからいいじゃん。無敵の渡世人ながら女っぽさも忘れない藤純子の艶やかさが素敵だ。菅原文太と交わすストイックな愛情表現もいい。そして嵐寛寿郎親分の貫禄ときたら、もう渋すぎます。定番ネタの中に自分流の美学を忘れない加藤秦のこだわりの演出もこの映画の魅力です。 【0037】 富司 純子 様 拝啓 猛暑の中、巧名が辻もあっと言う間に終わった感じがしますが、ご本人はやっと終わったという感じでしょうか。 貴女の舞台を観られる機会も、私の人生において、この先、さほど数多くはないと思いつつ、3回も観覧させていただきました。 ところで、最近マガジンハウスから「銀幕の名花」というタイトルの図書が発行されておりましたので、購入してみました。本がビニールでシールされていましたが、表紙には貴女の写真が載っていましたので、本文の中にも掲載されていることは、確実にわかるものの、いったい貴女のために何ページ割かれているのかわからず、一種の賭けで、思い切って購入してみました。実際に割かれていたのは6頁でした。(大女優は、6頁、その他の女優さんは1頁でした。)6頁の中で掲載されている写真の中では、鶴田浩二さんと一緒に写っている写真が印象的でした。(当然のことながら、鶴田浩二さんも、30年前は、若々しくおられたのですね。ガンのために意外と早く亡くなられたのが、いまさらながら残念です。) 日本映画の歴史において、貴女は、最後の大女優と言われており、日本映画も「関東緋桜一家」を最後に黄金期の終わりを告げることになるわけですが、貴女の若き日の9年間における約90本の映画出演の偉業は、永遠に残るものと思います。 そう言えば、5月ごろ、新宿で「車夫遊侠伝・喧嘩辰」を見ましたが、あの映画では貴女のキスシーンが出てきてびっくりしました。貴重なシーンを見た気がしました。キスシーンは、あれ一つでは、ないでしょうか?(大奥丸秘物語にキスシーンがあったかどうか忘れましたが。) 8月のお盆前後には、新宿で、「おたの申します」が上映されます。郷里に帰っている期間を短縮して、ぜひこれを見ようと思っております。 8、9月はご主人の菊五郎様は夏休みで、貴女もごゆっくりされるのでしょうか。ご主人様と良き夏休みを過ごされることを期待しております。 敬具 平成12年8月1日 PART2へつづく…
https://w.atwiki.jp/gamemania0302/pages/91.html
期間限定で統合チャンネルが開設され、統合前の人々と交流することができる。