約 3,184 件
https://w.atwiki.jp/rinseidou/pages/28.html
出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 別天津神(ことあまつがみ)は、古事記において、天地創発の時にあらわれた五柱の神々を云う。 古事記上巻の冒頭では、天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)が、いずれも「独神」(対となる夫婦神を持たない神)として成って、そのまま身を隠したという。 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 高御産巣日神(たかみむすひのかみ) 神産巣日神(かみむすひのかみ) その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神として身を隠した。 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ) 天之常立神(あめのとこたちのかみ) これら五柱の神を、天津神の中でも特別な存在として「別天津神」と呼ぶ。別天津神の次に神世七代の神が現れた。 最も初期に誕生し、その神性も特別扱いされる別天津神は、本来ならば天照大神(あまてらすおおみかみ)を凌駕するはずである。天照大神を高天原の最高神であるとし、またその子孫であると主張することによって自らの王権を権威付けたい天皇、ひいては朝廷にとって、これはいかにも都合が悪い。この矛盾を解消するために、古事記・日本書紀編纂の過程において別天津神は隠れたことにされた、と考えることができるだろう。つまり、存在はするが影響力は持たない“別格”としたのである。 ちなみに、伊弉諾尊(いざなきのみこと)は素盞嗚尊(すさのおのみこと)を黄泉の国へ追放した後に身を隠しているし、伊弉冉尊(いざなみのみこと)は天照大神が生まれる前に亡くなっているため、やはり天照大神の最高神としての地位を脅かすことはない。
https://w.atwiki.jp/ange/pages/126.html
劉備編 序章1 ~時は後漢末~ 朝廷は宦官や外戚の台頭で乱れに乱れ、村々には盗賊や強盗が跳梁跋扈し、 田畑は荒れ、民は貧しく、善良な人々はただ嘆くばかりの毎日を送っていた。 そんな先行きの見えない世相の中、ぶつけるあてのない鬱憤を持て余した若者たちは 徒党を組み、愚連隊のような行為に明け暮れていた。 彼らは同じように徒党を組み暴れまわる他の若者らと時に抗争し、 時に打ち倒したそのグループを吸収しさらに大きくなり、 時には気まぐれに盗賊団を征伐し、あるいは逆に盗賊そのものの行為を行ったりして、 先行きの見えない世の中から背を向け、面白おかしく暮らしていた。 そうしたこの時代大陸の各地で見られた愚連隊の一つに、 幽州を拠点とする《犠・雄・軍》というグループがあった。 劉備なる若者をリーダーとする、紛う事なき不良少年たちの集まりである。 劉備「……あーん?漢王朝の腐敗?宦官の跳梁跋扈?んなもんどうでもいいっつーの。 そんなことよりこの幽州で誰が最速か決めようぜ~♪」 この劉備なる若者、「俺はさる高貴な一族の末裔なんだぜ。なんつってw」が口癖の 軽薄でほら吹きとして知られた若者なのだが、 なぜか人を惹き付ける力を持っており、 当初十数名でスタートした《犠・雄・軍》だったが、 他の愚連隊と抗争を続けているうちにアレヨアレヨという間に 100人を超え、200人をも超えて、いつしか幽州の若者らのグループで 最大の勢力へと成り上がっていた。 この結果に劉備自身調子づき、ますますホラの規模も大きくなり、ついには 「へへへ、俺がいつかこの漢の大地の救世主になってやるよ。 もちろん、その時は《犠・雄・軍》にもいっぱい良い目を見させてやるからな♪ だからオメーら、一生俺様についてくるんだぜ」 などと増長する始末であった。
https://w.atwiki.jp/kansangokushi/pages/119.html
編集 李咸は、後漢後期の人物。 情報 李咸 姓氏 李 諱 咸 字 元卓 本貫地 汝南郡西平県 起家 茂才(司徒胡広による) 官歴 高密県令 大鴻臚(或いは太僕) 太尉 骸骨 事跡 若くして父を亡くしたようで、孤特(孤児として援助もなく)にして自立したという。家は貧しく母は老いていたため、常にみずから田地を耕して母に奉養した。魯詩、春秋公羊伝、三礼を学んだ。三府が並んで辟した。結局は司徒胡広が茂才に推挙し、高密県令に除(任命)された。政は奇異(稀で優れて)が多く、青州はその状を朝廷に表した。 建寧三年、大鴻臚から太尉を拜した(或いは建寧四年、太僕からの昇進ともいう)。相(大臣)の位にあってから、身をひきしめて下を率い、常に脱粟の飯と醬菜のみを食べ、州郡と交通せず、刺史、二千石(郡太守)の牋記(文書)は、公の事でなければ開いて省ることがなかった。老を以って骸骨(退官)を乞い、許しを見て、これまでの賜りものを悉く還して、牛車にぼろの牛車に乗って、息子に御者をさせて、夜明けに京師を発った,百僚が追って送ろうとして道に満ち溢れたが、とうとうまみえることができなかった。西平県の実家は古く貧しく狹いものだったので、草廬(草葺きの家)をたよることになった。 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 西平県 学歴 三礼 学歴 春秋公羊伝 学歴 魯詩 官歴 大鴻臚 官歴 太僕 官歴 太尉 官歴 県令 徴召 汝南郡 茂才 辟召 関連項目・人物 「李咸」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
https://w.atwiki.jp/inazuma1134/pages/6.html
妖魔大戦の歴史 はるか昔、邪馬台国の女王卑弥呼が国を治めるために使った鬼道。それは、これまでのこの世に存在し得なかった力を使役する事で得られた技であった。人々はその力に恐れ敬い、彼女はその力を持って絶対的な存在として国のトップに立った。彼女の死後も壱与によってその力は引き継がれ、邪馬台国は倭の国に安定をもたらした。 しかし、彼女の死後、状況は一変する。力を得し者と持たざるものが対立したのである。鬼道の力を得た者は『鬼』と呼ばれて人々から恐れられ、疎まれる存在となっていった。鬼達は、その人外の力の為に国を追われた。しかし、それでも人々はその人外の力を恐れた。いつか彼らから復讐されるのではないか、いつか自分達が彼らに滅ぼされるのではないか。そう考えた彼らは、鬼達を滅ぼそうとしたのである。何千と言う兵士で鬼の里を襲撃した彼らは、多くの命と引き換えに鬼の一族を滅ぼす事に成功した。 力を持たざるもの、後の大和朝廷は卑弥呼の一族を根絶やしにして大きな力を得た。しかし、卑弥呼の一族は滅びても鬼道の力はなくならなかった。一族の者達が死ぬ間際に人々に掛けた呪いは、陰の気、例えば恨み、嫉妬、憎しみ、苦しみを持つ人々を魔物へと変える究極の鬼道であった。 人々は、そういったものたちの事を、妖しの術によって姿を変えられた魔物、妖魔と呼ぶようになった。妖魔達は、鬼道を司った鬼達程の力は無かったが、人以上の強大な力を持っていた。同時に妖気によって魔物へと堕生してしまった者は、その妖気を断ち切らねば肉体が死ぬ事がないため、霊的な能力を持つものでなければ倒す事が出来なかった。そこで組織されたのが聖霊士であった。 妖魔と人の千年以上にわたる長い戦いは、ここから始まったのである。
https://w.atwiki.jp/eirei/pages/229.html
役小角(えんの おづぬ)、役行者(えんの ぎょうじゃ)日本(大和国葛木上郡)634~706統率:C 武力:E 政治:C 知力:A 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------呪術者。修験道の開祖として知られる。伝説では「前鬼」と「後鬼」を従えたり、藤原鎌足の病を治癒したといわれる。神仏調和を唱えたが、弟子の讒言によって謀反の疑いをかけられ、流刑に処された。 大伴家持(おおともの やかもち)日本718~785統率:B 武力:C 政治:B 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------貴族、歌人。大納言・大伴旅人の子。越中、因幡、薩摩、上総、伊勢などの地方官を歴任し、早良親王の春宮大夫を務める。最終的に従三位・中納言となり、蝦夷征討の責任者として持節征東将軍に任じられる。三十六歌仙の一人で、小倉百人一首では『中納言家持』とされている。 太安万侶(おおの やすまろ)日本????~723統率:C 武力:D 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------元明天皇に仕えた文官。稗田阿礼の誦習した『帝紀』、『旧辞』を筆録して『古事記』を編纂した。従四位下、民部卿で、贈従三位。 葛野王(かどののおおきみ)日本669~706統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------皇族。弘文天皇と十市皇女の第一皇子。正四位上・式部卿。器量が広く、深い見識も備えていた。皇族の筆頭である高市皇子が亡くなり、持統天皇が皇族らを集めて皇太子の擁立について議論させたところ、直系による皇位継承を主張した。 義淵(ぎえん)日本643~728統率:B 武力:D 政治:C 知力:A 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------法相宗の僧。元興寺で学び、龍蓋寺などを創建し、僧正に任じられる。玄昉・行基・隆尊・良弁・道慈・道鏡など多くの門下を持つ。 行基(ぎょうき)日本(河内国大鳥郡)668~749統率:A 武力:D 政治:A 知力:B 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------法相宗の僧。百済系渡来人氏族の末裔。関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業に活動し、温泉、貯水池、港を多く開いた。民衆の煽動者として朝廷から弾圧されるが、後に厚遇され、日本初の大僧正となる。聖武天皇に奈良東大寺の大仏造立の監督官に任じられる。 元正天皇(げんしょうてんのう)、氷高皇女(ひたかのひめみこ)日本680~748統率:D 武力:E 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第44代女帝。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子と元明天皇の長女で、文武天皇の姉。養老律令の編纂を藤原不比等らに命じ、三世一身の法を制定する。 元明天皇(げんめいてんのう)、阿閉皇女(あへのひめみこ)日本661~722統率:D 武力:D 政治:B 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第43代女帝。天智天皇の第四皇女。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の妻で、文武天皇、元正天皇の母。日本で最初の貨幣、和同開珎を鋳造し、大宝律令を整備した。また、藤原京より平城京に遷都した。 孝謙天皇(こうけんてんのう)、稱德天皇(しょうとくてんのう)、阿倍内親王日本718~770統率:D 武力:E 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第46代女帝、復位して第48代女帝。聖武天皇の娘。病に臥せっていたが、看病に当たっていた道鏡を寵愛した。不満を持った藤原仲麻呂の乱を平定し、吉備真備を重用した。宇佐神宮の信託で道鏡を次の天皇にまでしようとした。 光仁天皇(こうにんてんのう)、白壁王(しらかべのおおきみ)日本709~770統率:D 武力:E 政治:D 知力:E 文化:D 魅力:E--------------------------------------------------------------------------------第49代天皇。天智天皇の第七皇子・志貴皇子の第六子。 光明皇后(こうみょうこうごう)、安宿媛(あすかべひめ)日本701~760統率:C 武力:D 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の娘。皇太子の基王が夭逝したため長屋王の変が起きる。聖武天皇と共に仏教に深く帰依し、貧民のために悲田院、施薬院を多く設立し、奈良の法華経寺で千人の垢を洗い流した「千人施浴」の伝承が残る。和歌や書にも通じ、正倉院を設立して宝物を保管させた。 早良親王(さわらしんのう)日本750~785統率:B 武力:C 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------皇族。光仁天皇の皇子で、桓武天皇の弟。母の高野新笠が下級貴族の娘だったため、出家し、『親王禅師』と呼ばれた。桓武天皇の即位と共に還俗するが、藤原種継の暗殺に連座して廃される。無実を訴えて断食し、憤死した。後に事故や病死が相次ぎ、早良親王の祟りと畏れられた。 持統天皇(じとうてんのう)、鸕野讚良(うののさらら)日本645~703統率:C 武力:E 政治:D 知力:B 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------第41代女帝。天智天皇の娘。壬申の乱の間は吉野に逃れていたが、後に天武天皇と結婚する。薬師寺を建立し、また、伊勢神宮の外宮で第一回の式年遷宮を行った。万葉歌人としても『万葉集』に名を連ねる。 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)、大炊王(おおいおう)日本733~765統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------第47代天皇。天武天皇の皇子・舎人親王の七男。唐で安禄山の乱が発生した為、九州の警備を強化した。孝謙天皇が道鏡を重用すると不仲になり、政治・賞罰の権限は稱德天皇(復位した孝謙天皇)に奪われた。藤原仲麻呂の乱が起きると、仲麻呂と関係が深かった事から淡路国に流罪となった。 聖武天皇(しょうむてんのう)、首皇子(おびとのみこ)日本701~756統率:C 武力:D 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第45代天皇。文武天皇の第一皇子。長屋王の変、藤原広嗣の乱が起きた。仏教に深く帰依し、国分寺建立の詔を発し、行基を起用し、奈良東大寺を建立した。墾田永年私財法を制定した。この治世下で、鑑真が来日した。 橘奈良麻呂(たちばなの ならまろ)日本721~757統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------参議。贈太政大臣。橘諸兄の子。橘氏長者。父、橘諸兄の失脚後の藤原仲麻呂の専横に強い不満を持ち、藤原仲麻呂排除を画策した(橘奈良麻呂の乱)が密謀が漏れて逮捕されて獄死した。 橘諸兄 (たちばなの もろえ)、葛城王、葛木王(かつらぎのおおきみ)日本684~757統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------元皇族。敏達天皇の後裔・美努王の子。橘氏長者。疫病によって藤原四兄弟をはじめ、多くの議政官が病死したため、右大臣に任命され朝廷の中心となった。聖武天皇を補佐し、左大臣、正一位となる。後に、藤原仲麻呂と対立し、讒言を受けて失脚する。 道鏡(どうきょう)、弓削道鏡(ゆげの どうきょう)日本(河内国)700~772統率:A 武力:C 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------法相宗の僧。弓削櫛麻呂の子だが、天智天皇の孫ともされる。看病禅師として孝謙天皇の病を祈祷した事で信頼を得て、政治に関わり、法王となった。さらには宇佐神宮の神託で、皇族以外で初の天皇になるという話まで持ち上がった。称徳天皇が病没すると、往時の権力はなくなった。 長屋王(ながやのおおきみ)日本684~729統率:B 武力:C 政治:A 知力:B 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------皇族、公卿。左大臣。天武天皇の皇子の高市皇子の子。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮を務めたが、後に、藤原宮子の称号を巡って藤原四兄弟と対立する。国家の転覆を企てているとして藤原宇合の軍勢に屋敷を包囲され、毒をあおって自殺した。 稗田阿礼(ひえだの あれ)日本????~????(8世紀)統率:C 武力:D 政治:C 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------天武天皇に仕えた舎人。驚異的な記憶力で『帝紀』、『旧辞』を諳んじる事が出来た。元明天皇の代になって詔により、阿礼の誦するものを太安万侶が筆録して『古事記』を編纂した。男性であったとも女性であったともいわれている。 藤原宇合(ふじわらの うまかい)、藤原馬養日本694~737統率:B 武力:B 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------公卿。藤原不比等の三男で、藤原四兄弟の一人。参議式部卿兼大宰帥。第九回遣唐使の副使。按察使が設置されると、常陸守として安房・上総・下総の按察使に任命される。また、持節大将軍に任命され蝦夷の反乱を平定し、難波宮の造営責任者、西海道節度使などを務めた。藤原式家の祖。 藤原清成(ふじわらの きよなり)日本????~????(8世紀)統率:C 武力:D 政治:C 知力:D 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------藤原式家。藤原宇合の三男。長兄の藤原広嗣が乱を起こすと、連座して無位無官に処されたと考えられる。 藤原種継(ふじわらの たねつぐ)日本737~785統率:B 武力:C 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------公卿。藤原式家。藤原清成の長男。中納言、贈太政大臣。桓武天皇の信任厚く、長岡京遷都のための造宮使に任じられる。しかし、夜間の視察中に矢で射られ暗殺された。この暗殺事件に連座して大伴氏や早良親王など多くの者が処罰された。 藤原綱手(ふじわらの つなで)日本????~740統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------参議・藤原宇合の四男(または五男)。北九州において兄・藤原広嗣が起こした朝廷への反乱に加わる。しかし、大野東人率いる朝廷軍に鎮圧され、捕らえられて兄と共に処刑された。 藤原永手(ふじわらの ながて)日本714~771統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------公卿。藤原北家。藤原房前の次男。左大臣、贈太政大臣。長男の鳥養が夭折したため、実質的に北家の長となった。藤原仲麻呂と対立し、一時不遇の次期を過ごしたが、藤原仲麻呂の乱で孝謙天皇に付き、太政官の筆頭公卿の地位を手にした。『長岡大臣』と呼ばれた。 藤原仲麻呂(ふじわらの なかまろ)、恵美押勝日本706~764統率:B 武力:C 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------公卿。藤原南家。藤原武智麻呂の次男。正一位・太政大臣。孝謙天皇が即位する頃に紫微中台の長官、紫微内相などを歴任し、橘奈良麻呂の乱を鎮めて権勢を振るう。官職を唐風に改めるなどした。後に孝謙上皇や道鏡との関係が悪化し、軍備の掌握を図るが、官軍に捕らわれて斬首される(藤原仲麻呂の乱)。 藤原広嗣(ふじわらの ひろつな)日本????~740統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------参議・藤原宇合の長男。従五位下に叙爵して大養徳(大和)守となるが朝廷内の反藤原勢力の台頭で大宰少弐として太宰府に左遷される。反藤原勢力の吉備真備と玄昉を追放すべきとの上奏を朝廷に送るが、逆に聖武天皇に召喚の詔勅を受ける。しかし、召喚に応じず反乱(藤原広嗣の乱)を起こしたため、大野東人の追討を受けて処刑された。 藤原房前(ふじわらの ふささき)日本681~737統率:A 武力:C 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------公卿。藤原不比等の次男で、藤原四兄弟の一人。参議、贈太政大臣。巡察使として東海道の行政監察などを行ない参議となる。政敵である長屋王を失脚させて、藤原一族の中心的存在として、藤原北家の祖となった。他の兄弟に先んじて天然痘で没する。能楽『海人』にも登場する。 藤原不比等(ふじわらの ふひと)日本659~720統率:A 武力:C 政治:A 知力:A 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------公卿。中臣鎌足の次男。天智天皇の寵臣。軽皇子(文武天皇)の擁立に尽力し、娘の宮子を嫁がせて首皇子(聖武天皇)を産ませ、外戚として権力を手に入れた。大宝律令や養老律令の編纂にも関わる。死後、太政大臣となり『文忠公』、『淡海公』を贈諡された。 藤原真楯(ふじわらの またて)日本715~766統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------公卿。藤原北家。藤原房前の三男。聖武天皇の寵愛を受けて、傍流ながら大納言まで昇進した。 藤原麻呂(ふじわらの まろ)日本695~737統率:C 武力:D 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------公卿。藤原不比等の四男で、藤原四兄弟の一人。参議、兵部卿、山陰道鎮撫使。持節大使として大野東人と共に陸奥国から出羽国への直通路開削事業を行なう。藤原一族の中心的存在として、藤原南京家の祖となった。 藤原武智麻呂(ふじわらの むちまろ)日本680~737統率:B 武力:D 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------公卿。藤原不比等の長男で、藤原四兄弟の一人。左大臣まで務め、贈太政大臣。首皇子(聖武天皇)の春宮傅(家庭教師)を務め、大学制度の設立に尽力した。藤原一族の中心的存在として、藤原南家の祖となった。 文武天皇(もんむてんのう)、軽皇子(かるのみこ)日本683~707統率:C 武力:C 政治:A 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------第42代天皇。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子と元明天皇の長男で、元正天皇の弟。30年ほど断絶していた遣唐使派遣を再開する。大宝律令を完成させ、全国に公布する。 山上憶良(やまのうえの おくら)日本666?~733?統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------貴族、歌人。官位は従五位下、筑前守。第7回遣唐使の一員として唐に渡り儒教や仏教などを学んだ。帰国後は伯耆国、大宰府、筑前国などの地方官を務めた。官人ながら社会的な矛盾を付いた歌を多数詠み、『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などを残す。 山部赤人(やまべの あかひと)日本????~736統率:D 武力:D 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------歌人、下級官人。外従六位下・上総少目。『万葉集』や『拾遺和歌集』、小倉百人一首に和歌が入首している。柿本人麻呂とともに『歌聖』と呼ばれ、三十六歌仙の一人にも数えられている。 和気清麻呂(わけの きよまろ)、別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)日本(備前国藤野郡)733~799統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------高級官僚。和気広虫の弟。道鏡を皇位に就けよという神託を確かめ、偽りであると報告したため、称徳天皇の怒りを買い、別部穢麻呂と改名させられ流刑となった。後に「朝臣」の姓を賜り、民部卿などを務めた。 和気広虫(わけの ひろむし)、別部狭虫(わけべの せまむし)、法均尼日本(備前国藤野郡)730~799統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------女官。和気清麻呂の姉。葛木連戸主の妻だったが、出家する。弟の清麻呂に連座して別部狭虫と改名させられて流刑にされる。後に「朝臣」の姓を賜る。孤児の養育に尽力した。
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1687.html
ゲンショウシチ 列伝 水滸伝一〇八星の1人。天敗星。席次第三十一位。判断力に長けた阮家の三男。生き荒神の「活閻羅(カツエンラ)」と呼ばれた。兄弟と共に石碣村で漁師をしていたが、呉用から生辰綱(役人の賄賂)の強奪を持ちかけられ、快諾。計画成功後、石碣村に攻め寄せた官軍の何濤を撃退し、梁山泊に身を投じた。入山後も臨機応変に物事に対応。朝廷から傲慢な使者が来ると、使者が携えてきた御酒をどぶろくとすり替え、使者の面目を潰した。方臘(ホウロウ)征討後、謀反を疑われて官職を剥奪されたが、心中喜んで再び漁師となった。水軍頭領。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 52 74 60 26 68 280 126 186 順位 偏差値 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 長い 長い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 B A C C C S 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 62 43 66 53 49 36 59 36 51 30 74 49 順位 偏差値 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 推進 水上でZOC無視 マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 73 4/5 1/5 1/3 170 184 240(71歳) 猪突 猪突 乱暴 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 阮小七 親愛 宋江、呉用、公孫勝、劉唐、晁蓋 なし 嫌悪 高俅、童貫、蔡京、史文恭 なし 陸では戟を、海では火矢を撃ちまくろう。 本人の能力は低いので、誰かの副将として使う程度しかないか。 -- (名無しさん) 2017-02-15 23 44 56 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/th-gotouchi/pages/21.html
山形のページ(暫定) ここは山形のページです wikipedia 山形 有名・特徴的な所(暫定) 自然・風土 米沢市…米沢牛と、戦国時代末期にこの地を治めていた直江兼続で有名。 フェーン現象…1933年7月25日、山形県山形市気象台が、日本の気温の当時における最高記録40.8℃を記録したことから、フェーン現象が山形県の印象として広まった。これは飯豊連峰を越えた南西の強風が、飯豊山の斜面を吹き下るときに、乾燥した高温の風となって山形市に吹き付けたためである。なお、現在の最高記録は2007年8月16日の岐阜県多治見市および埼玉県熊谷市で記録された40.9℃である。 産業 さくらんぼ だだちゃ豆 花笠まつり 将棋駒(天童市)…山形県天童市は将棋駒の生産地として知られ、全国生産量のの95%以上を天童市が占めている。 歴史 西行戻しの涙坂 (寒河江市) 五色の石…続日本後紀によれば、田川郡西の浜に石が降ったという。この浜は砂ばかりで、石と呼べるものは小石すら落ちていない砂浜であったが、鏃や鉾のような形をした、赤、白、青、黒などの石が落ちており、みな、西の方へその切っ先を向けていたという。朝廷には戦乱の前兆を見る向きもあったが、同年、遣唐使の一部が南方に漂着し、賊と戦ったが、神の助けを得て勝つことが出来たという事件があり、西の浜に降ったのはそのときの神の助けによるものであるとした(賊の武器を神が奪って、西の浜に降らせたのだろうか?神の投げつけた武器が西の浜に降ったということだろうか?)。 最上氏…室町時代には伊達氏の傘下となるが、伊達氏が内部分裂を起こすと、独立を果たした。戦国時代には、義光が勢力を拡大した。伊達氏とは因縁浅からぬ関係にあったが、妹義姫(伊達政宗の母)が両家の間を取り持ち、破局が訪れることは無かった。1600年、上杉景勝が徳川家康に対して挙兵すると、直江兼続の侵攻を受けるが徹底して抗戦した。その後、撤収する上杉軍を長谷堂城に追撃したが反撃に遭った。江戸時代には山形藩57万石を領し、義光の全盛によってこの地は発展していくが、後継者に恵まれず、家臣団の対立も発生し、義光死後、大名としての最上氏は歴史から姿を消した。 上杉鷹山…米沢藩第9代藩主。上杉治憲。米沢藩の財政立て直しを図った名君として知られる。傾いた財政のみならず、飢饉にも苦しめられたが、非常食の普及、学問所の再興、質素倹約などの改革を行った。 神社仏閣 鳥海山大物忌神社…飽海郡にある、出羽国一宮。鳥海山頂の本社と、麓の吹浦と蕨岡の2か所の口之宮の総称として大物忌神社と称する。主祭神は大物忌大神であり、鳥海山の神とされ、倉稲魂命のことと言われている。また、口之宮には月読命も祀られている。朝廷がこの地に進出した頃、鳥海山は活発に活動しており、その噴火は蝦夷反乱の前兆ともされたと言う。そのため、鳥海山を祀ることで、蝦夷の平定、支配の安定を図ったものと考えられている。また、古くから山岳信仰の地であり、後には修験道が盛んになった。 城輪(キノワ)神社…酒田市にある出羽国二宮。祭神は倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)、食物神宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)である。8世紀初頭に創建されたとされ、この地は当時対蝦夷最前線に位置することから、出羽柵鎮守としての意味合いを持っていたとも考えられている。近くには出羽国府跡とされる城輪柵跡がある。 出羽三山…羽黒山、月山、湯殿山のことで、修験道の霊場として有名。月山…出羽三山の主峰であり、その名は月の神ツキヨミノミコトから頂いたと言われている。月山神社の祭神はツキヨミノミコトである。七月から九月までのわずかな期間しか登拝することができない。 伝承 天狗の相撲場…夏、山の中にコケや砂地に覆われた一定の領域があるとこう呼んだという。月山、朝日岳、黒森山にもあったとされ、黒森山では松茸取りに行った男が、見たこともない大男に出くわしたとされる。 シュパン…山形県怪談百話によれば、酒井藩の武士宅に出たとされる妖怪。天井からぶら下がる赤ら顔の大入道で、武士が捕まえようとすると体が縮まっていき、消えてしまったという。 東方に関係ありそうな事柄(暫定) 山形のブランド野菜に蔵王サファイアがある。生産量が少なく、入手困難な逸品。色艶はその名のごとく宝石に例えられる。 山形花笠まつり…昭和38年(1963)に行われた「蔵王夏まつり」の一部、「花笠音頭パレード」が、独立、昭和40年(1965)からは単独の「山形花笠まつり」として行われるようになったもの。艶やかな衣装と花笠をあしらった笠を手にした踊り手が山形市で踊る。 出羽三山…出羽三山を開山したのは、祟峻天皇の子、蜂子皇子である。蜂子王子は八咫烏に導かれてこの地にたどり着いたという。出羽三山山頂にはそれぞれ、出羽神社、月山神社、湯殿山中腹に湯殿山神社がある。 候補キャラ スターサファイア 秋 穣子(果樹王国) 秋 静葉(果樹王国) 風見 幽香(花笠) 犬走 椛(将棋) 西行寺 幽々子 (西行法師) 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/chaos-blade/pages/989.html
夜叉姫-反逆の徒- 威風を備える逆徒の姫君-反逆の徒- 基本情報 フレーバーテキスト 未進化 + ++ 最終 上限突破進化 セリフ集 参加イベント 参加ログインストーリー エキストラコンテンツ 基本情報 夜叉姫 夜叉姫+ 夜叉姫++ [瞬雷]夜叉姫 威風を備える逆徒の姫君 能力値 能力値 能力値 能力値 スキル 荒魂の導き スキル 秘槍術・流れ星 関連家臣 [お尻を触られる] 遠野王 天楼[稀に相談を受ける] 夜叉 フレーバーテキスト 未進化 かつての朝廷に弓を引いた豪族の娘として生まれ、妖術使いとしての才能を開花させる。世が流れ移ろい当の豪族はおろか、朝廷自体も歴史の舞台から姿を消して久しい頃、秘術により若い姿を保つ夜叉姫は遠野の領域にその身を置いている。権力に媚びへつらわない生き様を貫く彼女にとって、妖魔界の生活においてもそれは例外ではない。身分関係も曖昧な遠野の風土が肌にあう、とは彼女の談「あいつら今日もあんなに騒いで……あら?遠野から出て何するつもりよ」 + 遠野の領域を後する一同を見送る夜叉姫の元に遠野王からの指令が届く。宝物庫より盗まれたはずの百鬼夜行が賊に妙な事を吹き込まれ、遠野の一部の妖魔を扇動して仙狐の城へ侵攻を始めたと。ついては、直ぐに動く事が出来る夜叉姫に旅の共と、助っ人として仙狐に協力せよとの内容だった「王も直接出向くの?また何を嗅ぎつけてるんだか……あの暇人め」 ++ 千変刀 百鬼夜行と彼女が引き連れる軍勢は、軍勢と呼べる程に統率された物では無かった。鬼道衆の正規軍はともかく、遠野の暇を持て余した妖魔、何となくついてきてしまった妖魔等も混在しており進軍速度が芳しくない。その点を突いて遠野王と夜叉姫は、この迷惑な集団が目指す城へ先んじてに到達する事が出来た「こんな奴らの相手する奴も災難よね。ええ、分かってるわよ、他人事じゃないわよ……」 最終 千変刀 百鬼夜行が標的とする城に辿り着き、迫る脅威の存在を伝える遠野王。夜叉姫に彼らに可能な限りの手助けを、と言い残し早々に遠野の領域に引き返してしまう。妖魔と人が肩を並べて笑い合う奇妙な城は夜叉姫の興味を引き、彼女は手にする薙刀の感触を静かに確かめる「人間とは袂を別って久しいけど、変な奴が増えてるわね……王の手前もあるし、それなりには働いてやるかな」 上限突破進化 龍血樹から採取された蔓(ツル)は武具に加工され、姿が失われてもなお霊体として現世に留まった。これもひとえに龍血樹、その母体となる龍の生命力の強さを物語っている。蔓は武具の所有者の意思に従い第三、第四の手として活用する事が可能であるため、夜叉姫の戦闘力も飛躍的に向上した「これでやっと私も威厳出てきちゃった?お父さんに近づいちゃった……?うんうん!よその領域まで出向いてきた甲斐あったわね」 セリフ集 マイページ(未進化) 別に夜叉さんとは関係無いから、私百鬼夜行の特徴?そうねえ……頭が弱い事かしらこの無駄に賑やかな空気は遠野に近いわね私も昔は色々と無茶やったものよ マイページ(中途進化) 私のお父さんは殺しても死なないし、まだ生きてるかも貴方の家臣は緊張感無いわね。でも、相手がアレだと無理も無いか…昔の私は荒れてたからさ、遠野の適当な空気に救われたの普通に酔っ払いが転がってるし、仙狐の城もこんなのなの?遠野王ってすぐお尻触ってくるの、その度に刺してるけど夜叉さんって言うおかしな妖魔が居るけど、私とは無関係だからね妖術は結構極めちゃったから、最近はもっぱらこの得物よ夏場はいいけど、足が冷えちゃうのよね マイページ(最終進化) マイページ(突破) 妖術は結構極めちゃったから、最近はもっぱらこの得物よあら、お殿様も私に刺されたいの?遠野王ってすぐお尻触ってくるの、その度に刺してるけど昔の私は荒れてたからさ、遠野の適当な空気に救われたの私のお父さんは殺しても死なないし、まだ生きてるかも夜叉さんって言うおかしな妖魔が居るけど、私とは無関係だからね夏場はいいけど、足が冷えちゃうのよねお殿様が偉そうな奴じゃなくて良かった一難去ってまた一難か、頑張ろうね無関係とは言いつつも、夜叉さんの物真似は出来るけどね バトル開始 妖術も悪く無いけど今は断然これよね、ズブズブっと私って結構残酷なのよ、あえて苦しませちゃうけどご免なさいね見える?貴方達の未練や恨みを吸って私の薙刀はどんどん可愛くなるの バトル開始(突破) この姿、何よりもお父さんに見て欲しかったな 進軍時 ここまで暴れるのも久しぶりね肩慣らしに付き合ってもらうわよ良かった、全然さび付いてなかったしこの調子で感覚を取り戻そうっと貴方も国に帰った方がいいみたいねこれで一丁あがりね穿つわよ!遠野の連中みたいにもっと適当に生きればいいのにお釣りは要らないわよ刺し貫く!私の得物に血を吸わせると、もっと凶暴になるわよ?ぼさっとしてるからよ!切り払う!ここまで来ると手加減なんて無理無理!少しは頭を使ったら?覚悟が出来てるから向かって来たんでしょ? 進軍時(突破) 後ろにも眼があるようなものだからね威厳のこもった一撃を食らいなさい!堂々と、我が道を貫くっ!遊んであげる! 参加イベント 魔刀戦記-百鬼夜行- 参加ログインストーリー [[]] エキストラコンテンツ +...
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/150.html
資治通鑑巻第二百二十七 唐紀四十三 徳宗神武聖文皇帝二 徳宗神武聖文皇帝二建中二年(辛酉、七八一年) 六月,庚寅,以浙江東、西觀察使、蘇州刺史韓滉為潤州刺史、浙江東、西節度使,名其軍曰鎮海。 張著至襄陽,梁崇義益懼,陳兵而見之。藺杲得詔不敢發,馳見崇義,請命。崇義對著號泣,竟不受詔。著覆命。癸巳,進李希烈爵南平郡王,加漢南、漢北兵馬招討使,督諸道兵討之。楊炎諫曰:「希烈為董秦養子,親任無比,卒逐秦而奪其位。為人狼戾無親,無功猶屈強不法,使平崇義,何以制之!」上不聽。炎固爭之,上益不平。荊南牙門將吳少誠以取梁崇義之策干李希烈,希烈以少誠為前鋒。少誠,幽州潞人也。 時內自關中,西暨蜀、漢,南盡江、淮、閩、越,北至太原,所在出兵,而李正己遣兵扼徐州甬橋、渦口,梁崇義阻兵襄陽,運路皆絕,人心震恐。江、淮進奉船千餘艘,泊渦口不敢進。上以和州刺史張萬福為濠州刺史。萬福馳至渦口,立馬岸上,發進奉船,淄青將士停岸睥睨不敢動。辛丑,汾陽忠武王郭子儀薨。子儀為上將,擁強兵,程元振、魚朝恩讒謗百端;詔書一紙徵之,無不即日就道,由是讒謗不行。嘗遣使至田承嗣所,承嗣西望拜之曰:「此膝不屈於人若干年矣!」李靈曜據汴州作亂,公私物過汴者皆留之,惟子儀物不敢近,遣兵衛送出境。校中書令考凡二十四,月入俸錢二萬緡,私產不在焉;府庫珍貨山積。家人三千人,八子、七婿皆為朝廷顯官;諸孫數十人,每問安,不能盡辯,頷之而已。僕固懷恩、李懷光、渾瑊輩皆出麾下,雖貴為王公,常頤指役使,趨走於前,家人亦以僕隸視之。天下以其身為安危者殆三十年,功蓋天下而主不疑,位極人臣而眾不疾,窮奢極欲而人不非之,年八十五而終。其將佐至大官、為名臣者甚眾。 壬子,以懷、鄭、河陽節度副使李艽為河陽、懷州節度使,割東畿五縣隸焉。 北庭、安西自吐蕃陷河、隴,隔絕不通,伊西、北庭節度使李元忠、四鎮留後郭昕帥將士閉境拒守,數遣使奉表,皆不達,聲問絕者十餘年。至是,遣使間道歷諸胡自回紇中來,上嘉之。秋,七月,戊午朔,加元忠北庭大都護,賜爵寧塞郡王;以昕為安西大都護、四鎮節度使,賜爵武威郡王;將士皆遷七資。元忠姓名,朝廷所賜也,本姓曹,名令忠;昕,子儀弟之子也。 李希烈以久雨未進軍,上怪之,盧杞密言於上曰:「希烈遷延,以楊炎故也。陛下何愛炎一日之名而墮大功?不若暫免炎相以悅之。事平復用,無傷也。」上以為然。庚申,以炎為左僕射,罷政事。以前永平節度使張鎰為中書侍郎、同平章事。鎰,齊丘之子也。以朔方節度使崔寧為右僕射。 丙子,贈故伊州刺史袁光庭工部尚書。光庭天寶末為伊州刺史,吐蕃陷河、隴,光庭堅守累年,吐蕃百方誘之,不下。糧竭兵盡,城且陷,光庭先殺妻子,然後自焚。郭昕使至,朝廷始知之,故贈官。 辛巳,以邠寧節度使李懷光兼朔方節度使。 癸未,河東節度使馬燧,昭義節度使李抱真,神策先鋒都知兵馬使李晟,大破田悅於臨洺。時悅攻臨洺,累月不拔,城中食且盡,府庫竭,士卒多死傷。張伾飾其愛女,使出拜將士曰:「諸群守戰甚苦,伾家無它物,請鬻此女為將士一日之費。」眾皆哭,曰:「願盡死力,不敢言賞!」李抱真告急於朝,詔馬燧將步騎二萬與抱真討悅,又遣李晟將神策兵與之俱;又詔幽州留後朱滔討惟岳。燧等軍未出險,先遣使持書諭悅,為好語。悅謂燧畏之,不設備,又與抱真合兵八萬,東下壺關,軍於邯鄲,擊悅支軍,破之。悅方急攻臨洺,分李惟岳兵五千助楊朝光。明日,燧等進攻朝光柵,悅將萬餘人救之,燧命大將李自良等御之於雙岡,令之曰:「悅得過,必斬爾!」自良等力戰,悅軍卻。燧推火車焚朝光柵,斬朝光,獲首虜五千餘級。居五日,燧等進軍至臨洺,悅悉眾力戰,凡百餘合,悅兵大敗,斬首萬餘級。悅引兵夜遁,邢州圍亦解。 時平盧節度使李正己已薨,子納秘之,擅領軍務。悅求救於納及李惟岳,納遣大將衛俊將兵萬人,惟岳遣兵三千人救之。悅收合散卒,得二萬餘人,軍於洹水;淄青軍其東,成徳軍其西,首尾相應。馬燧帥諸軍進屯鄴,奏求河陽兵自助;詔河陽節度使李艽將兵會之。 八月,李納始發喪,奏請襲父位,上不許。 梁崇義發兵至江陵,至四望,大敗而歸,乃收兵襄、鄧。李希烈引軍循漢而上,與諸道兵會;崇義遣其將翟暉、杜少誠逆戰於蠻水,希烈大破之;追至疏口,又破之。二將請降,希烈使將其眾先入襄陽慰諭軍民。崇義閉城拒守,守者開門爭出,不可禁。崇義與妻赴井死,傳首京師。 范陽節度使朱滔將討李惟岳,軍於莫州。張孝忠將精兵八千守易州,滔遣判官蔡雄說孝忠曰:「惟岳乳臭兒,敢拒朝命;今昭義、河東軍已破田悅,淮寧李僕射克襄陽,計河南諸軍,朝夕北向,恆、魏之亡,可佇立而須也。使君誠能首舉易州以歸朝廷,則破惟岳之功自使君始,此轉禍為福之策也。」孝忠然之,遣牙官程華詣滔,遣錄事參軍董稹奉表詣闕,滔又上表薦之。上悅。九月,辛酉,以孝忠為成徳節度使。命惟岳護喪歸朝,惟岳不從。孝忠徳滔,為子茂和娶滔女,深相結。 壬戌,加李希烈同平章事。 初,李希烈請討梁崇義,上對朝士亟稱其忠。黜陟使李承自淮西還,言於上曰:「希烈必立微功;但恐有功之後,偃蹇不臣,更煩朝廷用兵耳。」上不以為然。希烈既得襄陽,遂據之為己有,上乃思承言。時承為河中尹,甲子,以承為山南東道節度使。上欲以禁兵送上,承請單騎赴鎮。至襄陽,希烈置之外館,迫脅萬方,承誓死不屈,希烈乃大掠闔境所有而去。承治之期年,軍府稍完。希烈留牙將於襄州,守其所掠財,由是數有使者往來。承亦遣其腹心臧叔雅往來許、蔡,厚結希烈腹心周曾等,與之陰圖希烈。 初,蕭嵩家廟臨曲江,玄宗以娛游之地,非神靈所宅,命徙之。楊炎為相,惡京兆尹嚴郢,左遷大理卿。盧杞欲陷炎,引郢為御史大夫。先是,炎將營家廟,有宅在東都,憑河南尹趙惠伯賣之,惠伯買以為官廨,郢按之,以為有羨利。杞召大理正田晉議法,晉以為:「律,監臨官市買有羨利,以乞取論,當奪官。」杞怒,貶晉衡州司馬。更召它吏議法,以為:「監主自盜,罪當絞。」炎廟正直蕭嵩廟地,杞因譖炎,云「茲地有王氣,故玄宗令嵩徙之。炎有異志,故於其地建廟。」冬,十月,乙未,炎自左僕射貶崖州司馬。遣中使護送,未至崖州百里,縊殺之。惠伯自河中尹貶費州多田尉。尋亦殺之。 辛丑,冊太子妃蕭氏。 癸卯,祫太廟。先是,太祖既正東向之位,獻、懿二祖皆藏西夾室,不饗。至是,復奉獻祖東向而饗之。 徐州刺史李洧,正己之從父兄也。李納寇宋州,彭城令太原白季庚說洧舉州歸國。洧從之,遣攝巡官崔程奉表詣闕,且使口奏,並白宰相,以「徐州不能獨抗納,乞領徐、海、沂三州觀察使,況海、沂二州,今皆為納有。洧與刺史王涉、馬萬通素有約,苟得朝廷詔書,必能成功。」程自外來,以為宰相一也,先白張鎰,鎰以告盧杞。杞怒其不先白己,不從其請。戊申,加洧御史大夫,充招諭使。 十一月,戊午,以永樂公主適檢校比部郎中田華,上不欲違先志故也。 蜀王傀,更名遂。 辛酉,宣武節度使劉洽,神策都知兵馬使曲環,滑州刺史襄平李澄,朔方大將唐朝臣,大破淄青、魏博之兵於徐州。 先是,李納遣其將王溫會魏博將信都崇慶共攻徐州,李洧遣牙官溫人王智興詣闕告急。智興善走,不五日而至。上為之發朔方兵五千人,以朝臣將之,與洽、環、澄共救之。時朔方軍資裝不至,旗服弊惡。宣武人嗤之曰:「乞子能破賊乎!」朝臣以其言激怒士卒,且曰:「都統有令,先破賊營者,營中物悉與之。」士皆憤怒爭奮。 崇慶、溫攻彭城,二旬不能下,請益兵於納。納遣其將石隱金將萬人助之,與劉洽等相拒於七里溝。日向暮,洽引軍稍卻。朔方馬軍使楊朝晟言於唐朝臣曰:「公以步兵負山而陳,以待兩軍。我以騎兵伏於山曲,賊見懸軍勢孤,必搏之。我以伏兵絕其腰,必敗之。」朝臣從之。崇慶等果將騎二千逾橋而西,追擊官軍,伏兵發,橫擊之。崇慶等兵中斷,狼狽而返,阻橋以拒官軍。其兵有爭橋不得,涉水而度者。朝晟指之曰:「彼可涉,吾何為不涉!」遂涉水擊,據橋者皆走,崇慶等兵大潰。洽等乘之,斬首八千級,溺死過半。朔方軍士盡得其輜重,旗服鮮華,乃謂宣武人曰:「乞子之功,孰與宋多?」宣武人皆慚。官軍乘勝逐北,至徐州城下,魏博、淄青軍解圍走,江、淮漕運始通。 己巳,詔削李惟岳官爵;募所部降者,赦而賞之。 甲申,淮南節度使陳少游遣兵擊海州,其刺史王涉以州降。十二月,李納密州刺史馬萬通乞降;丁酉,以為密州刺史。 崔漢衡至吐蕃,贊普以敕書稱貢獻及賜,全以臣禮見處。又,雲州之西,當以賀蘭山為境,邀漢衡更請之。丁未,漢衡遣判官與吐蕃使者入奏。上為之改敕書、境土,皆如其請。 加馬燧魏博招討使。 徳宗神武聖文皇帝二建中三年(壬戌、七八二年) 春,正月,河陽節度使李艽引兵逼衛州,田悅守將任履虛詐降,既而復叛。 馬燧等諸軍屯於漳濱。田悅遣其將王光進築月城以守長橋,諸軍不得渡。燧以鐵鎖連車數百乘,實以土囊,塞其下流,水淺,諸軍涉渡。時軍中乏糧,悅等深壁不戰。燧命諸軍持十日糧,進屯倉口,與悅夾洹水而軍。李抱真、李艽問曰:「糧少而深入,何也?」燧曰:「糧少則利速戰,今三鎮連兵不戰,欲以老我師。我若分軍擊其左右,悅必救之,則我腹背受敵,戰必不利。故進軍逼悅,所謂攻其所必救也。彼苟出戰,必為諸君破之。」乃為三橋逾洹水,日往挑戰,悅不出。燧令諸軍夜半起食,潛師循洹水直趨魏州,令曰:「賊至,則止為陳。」留百騎擊鼓鳴角於營中,仍抱薪持火,俟諸軍畢,則止鼓角匿其旁。伺悅軍畢渡,焚其橋。軍行十里所,悅聞之,帥淄青、成徳步騎四萬逾橋掩其後,乘風縱火,鼓噪而進。燧按兵不動,先除其前草莽百步為戰場,結陳以待之,募勇士五千餘人為前列。悅軍至,火止,氣衰,燧縱岳擊之,悅軍大敗。神策、昭義、河陽軍小卻,見河東軍捷,還鬥,又破之。追奔至,三橋已焚,悅軍亂,赴水溺死不可勝紀,斬首二萬餘級,捕虜三千餘人,屍相枕藉三十餘里。 悅收餘兵千餘人走魏州。馬燧與李抱真不協,頓兵平邑浮圖,遷延不進。悅夜至南郭,大將李長春閉關不內,以俟官軍,久之,天且明,長春乃開門納之。悅殺長春,嬰城拒守。城中士卒不滿數千,死者親戚,號哭滿街。悅憂懼,乃持佩刀,乘馬立府門外,悉集軍民,流涕言曰:「悅不肖,蒙淄青、成徳二丈人大恩,不量其力,輒拒朝命,喪敗至此,使士大夫肝腦塗地,皆悅之罪也。悅有老母,不能自殺,願諸公以此刀斷悅首,提出城降馬僕射,自取富貴,無為與悅俱死也!」因從馬上自投地。將士爭前抱持悅曰:「尚書舉兵徇義,非私己也。一勝一負,兵家之常。某輩累世受恩,何忍聞此!願奉尚書一戰,不勝則以死繼之。」悅曰:「諸公不以悅喪敗而棄之,悅雖死,敢忘厚意於地下!」乃與諸將各斷髮,約為兄弟,誓同生死。悉出府庫所有及斂富民之財,得百餘萬,以賞士卒,眾心始定。復召貝州刺史刑曹俊,使之整部伍,繕守備,軍勢復振。李納軍於濮陽,為河南軍所逼,奔還濮州,征援兵於魏州。田悅遣軍使符璘將三百騎送之,璘父令奇謂璘曰:「吾老矣,歷觀安、史輩叛亂者,今皆安在!田氏能久乎!汝因此棄逆從順,是汝揚父名於後世也。」嚙臂而別。璘遂與其副李瑤帥眾降於馬燧。悅收族其家,令奇慢罵而死。瑤父再春以博州降,悅從兄昂以洺州降,王光進以長橋降。悅入城旬餘日,馬燧等諸軍始至城下,攻之,不克。 丙寅,李惟岳遣兵與孟祐守束鹿,朱滔、張孝忠攻拔之,進圍深州。惟岳憂懼,掌書記邵真復說惟岳,密為表,先遣弟惟簡入朝;然後誅諸將之不從命者,身自入朝,使妻父冀州刺史鄭詵權知節度事,以待朝命。惟簡既行,孟祐知其謀,密遣告田悅。悅大怒,使衙官扈岌往見惟岳,讓之曰:「尚書舉兵,正為大夫求旌節耳,非為己也。今大夫乃信邵真之言,遣弟奉表,悉以反逆之罪歸尚書,自求雪身,尚書何負於大夫而至此邪!若相為斬邵真,則相待如初;不然,當與大夫絕矣。」判官畢華言於惟岳曰:「田尚書以大夫之故陷身重圍,大夫一旦負之,不義甚矣。且魏博、淄青兵強食富,足抗天下,事未可知,奈何遽為二三之計乎!」惟岳素怯,不能守前計,乃引邵真,對扈岌斬之。發成徳兵萬人,與孟祐俱圍束鹿。丙寅,朱滔、張孝忠與戰於束鹿城下,惟岳大敗,燒營而遁。兵馬使王武俊為左右所構,惟岳疑之,惜其才,未忍除也。束鹿之戰,使武俊為前鋒,私自謀曰:「我破朱滔,則惟岳軍勢大振,歸,殺我必矣。」故戰不甚力而敗。 朱滔欲乘勝攻恆州,張孝忠引兵西北,軍於義豐。滔大驚,孝忠將佐皆怪之,孝忠曰:「恆州宿將尚多,未易可輕。迫之則並力死鬥,緩之則自相圖。諸君第觀之,吾軍義豐,坐待惟岳之殄滅耳。且朱司徒言大而識淺,可與共始,難與共終也!」於是滔亦屯束鹿,不敢進。 惟岳將康日知以趙州歸國,惟岳益疑王武俊,武俊甚懼。或謂惟岳曰:「先相公委腹心於武俊,使之輔佐大夫,又有骨肉之親。武俊勇冠三軍,今危難之際,復加猜阻。若無武俊,欲使誰為大夫卻敵乎!」惟岳以為然,乃使步軍使衛常寧與武俊共擊趙州,又使王士真將兵宿府中以自衛。 癸未,蜀王遂更名溯。 淮南節度使陳少游拔海、密二州,李納復攻陷之。 王武俊既出恆州,謂衛常寧曰:「武俊今幸出虎口,不復歸矣!當北歸張尚書。」常寧曰:「大夫闇弱,信任左右,觀其勢終為朱滔所滅。今天子有詔,得大夫首者,以其官爵與之。中丞素為眾所服,與其出亡,曷若倒戈以取大夫,轉禍為福,特反掌耳。事苟不捷,歸張尚書,未晚也。」武俊深以為然。會惟岳使要藉謝遵至趙州城下,武俊引遵同謀取惟岳。遵還,密告王士真。閏月,甲辰,武俊、常寧自趙州引兵還襲惟岳。遵與士真矯惟岳命,啟城門納之。黎明,武俊帥數百騎突入府門。士真應之於內,殺十餘人。武俊令曰:「大夫叛逆,將士歸順,敢違拒者族!」眾莫敢動。遂執惟岳,收鄭詵、畢華、王它奴等,皆殺之。武俊以惟岳舊使之子,欲生送之長安。常寧曰:「彼見天子,將復以叛逆之罪歸咎於中丞。」乃縊殺之,傳首京師。深州刺史楊榮國,惟岳姊夫也,降於朱滔,滔使復其位。 復榷天下酒,惟西京不榷。 二月,戊午,李惟岳所署定州刺史楊政義降。時河北略定,惟魏州未下。河南諸軍攻李納於濮州,納勢日蹙。朝廷謂天下不日可平。甲子,以張孝忠為易、定、滄三州節度使,王武俊為恆冀都團練觀察使,康日知為深趙都團練觀察使,以徳、林二州隸朱滔,令還鎮。滔固請深州,不許,由是怨望,留屯深州。王武俊素輕張孝忠,自以手誅李惟岳,功在康日知上,而孝忠為節度使,己與康日知俱為都團練使,又失趙、定二州,亦不悅。又詔以糧三千石給朱滔,馬五百匹給馬燧。武俊以為朝廷不欲使故人為節度使,魏博既下,必取恆冀,故先分其糧馬以弱之,疑,未肯奉詔。 田悅聞之,遣判官王侑、許士則間道至深州,說朱滔曰:「司徒奉詔討李惟岳,旬朔之間,拔束鹿,下深州,惟岳勢蹙,故王大夫因司徒勝勢,得以梟惟岳之首,此皆司徒之功也。又天子明下詔書,令司徒得惟岳城邑,皆隸本鎮。今乃割深州以與日知,是自棄其信也。且今上志欲掃清河朔,不使蕃鎮承襲,將悉以文臣代武臣。魏亡,則燕、趙為之次矣;若魏存,則燕、趙無患。然則司徒果有意矜魏博之危而救之,非徒得存亡繼絕之義,亦子孫萬世之利也。」又許以貝州賂滔。滔素有異志,聞之,大喜,即遣王侑歸報魏州,使將士知有外援,各自堅。又遣判官王郅與許士則俱詣恆州,說王武俊曰:「大夫出萬死之計,誅逆首,拔亂根,康日知不出趙州,豈得與大夫同日論功!而朝廷褒賞略同,誰不為大夫憤邑者!今又聞有詔支糧馬與鄰道,朝廷之意,蓋以大夫善戰無敵,恐為後患,先欲貧弱軍府,俟平魏之日,使馬僕射北首,朱司徒南向,共相滅耳。朱司徒亦不敢自保,使郅等效愚計,欲與大夫共救田尚書而存之。大夫自留糧馬以供軍;朱司徒不欲以深州與康日知,願以與大夫,請早定刺史以守之。三鎮連後,若耳目手足之相救,則它日永無患矣!」武俊亦喜,許諾,即遣判官王巨源使於滔,且令知深州事,相與刻日舉兵南向。滔又遣人說張孝忠,孝忠不從。 宣武節度使劉洽攻李納於濮州,克其外城。納於城上涕泣求自新,李勉又遣人說之。癸卯,納遣其判官房說以其母弟經及子成務入見。會中使宋鳳朝稱納勢窮蹙,不可捨,上乃因說等於禁中,納遂歸鄆州,復與田悅等合。朝廷以納勢未衰,三月,乙未,始以徐州刺史李洧兼徐、海、沂都團練觀察使,海、沂已為納所據,洧競無所得。 李納之初反也,其所署徳州刺史李西華備守甚嚴,都虞候李士真密毀西華於納,納召西華還府,以士真代之。士真又以詐召棣州刺史李長卿,長卿過徳州,士真劫之,與同歸國。夏,四月,戊午,以士真、長卿為二州刺史。士真求援於朱滔,滔已有異志,遣大將李濟時將三千人聲言助士真守徳州,且召士真詣深州議軍事,至則留之,使濟時領州事。 庚申,吐蕃歸曏日所俘掠兵民八百人。 上遣中使發盧龍、恆冀、易定兵萬人詣魏州討田悅。王武俊不受詔,執使者送朱滔。滔言於眾曰:「將士有功者,吾奏求官勳,皆不遂。今欲與諸君敕裝共趨魏州,擊破馬燧以取溫飽,何如?」皆不應。三問,乃曰:「幽州之人,自安、史之反,從而南者無一人得還,今其遺人痛入骨髓。況太尉、司徒皆受國寵榮,將士亦各蒙官勳,誠且願保目前,不敢復有僥冀。」滔默然而罷。乃誅大將數十人,厚撫循其士卒。康日知聞其謀,以告馬燧,燧以聞。上以魏州未下,王武俊復叛,力未能制滔。壬戌,賜滔爵通義郡王,冀以安之。滔反謀益甚,分兵營於趙州以逼康日知,以深州授王巨源。武俊以其子士真為恆、冀、深三州留後,將兵圍趙州。 涿州刺史劉怦與滔同縣人,其母,滔之姑也,滔使知幽州留後,聞滔欲救田悅,以書諫之曰:「今昌平故里,朝廷改為太尉鄉、司徒裡,此亦大夫不朽之名也。但以忠順自持,則事無不濟。竊思近日務大樂戰,不顧成敗而家滅身屠者,安、史是也。怦忝密親,默而無告,是負重知。惟司徒圖之,無貽後悔。」滔雖不用其言,亦嘉其盡忠,卒無疑貳。 滔將起兵,恐張孝忠為後患,復遣牙官蔡雄往說之。孝忠曰:「昔者司徒發幽州,遣人語孝忠曰:『李惟岳負恩為逆』,謂孝忠歸國即為忠臣。孝忠性直,用司徒之教。今既為忠臣矣,不復助逆也。且孝忠與武俊皆出夷落,深知其心最喜翻覆。司徒勿忘鄙言,它日必相念矣!」雄復欲以巧辭說之,孝忠怒,欲執送京師。雄懼,逃歸。滔乃使劉怦將兵屯要害以備之。孝忠完城礪兵,獨居強寇之間,莫之能屈。滔將步騎二萬五千發深州,至束鹿。詰旦將行,吹角未畢,士卒忽大亂,喧噪曰:「天子令司徒歸幽州,奈何違敕南救田悅!」滔大懼,走入驛後堂避匿。蔡雄與兵馬使宗頊等矯謂士卒曰:「汝輩勿喧,聽司徒傳令。」眾稍止。雄又曰:「司徒將發范陽,恩旨令得李惟岳州縣即有之,司徒以幽州少絲纊,故與汝曹竭力血戰以取深州,冀得其絲纊以寬汝曹賦率,不意國家無信,復以深州與康日知。又,朝廷以汝曹有功,賜絹人十匹,至魏州西境,盡為馬僕射所奪。司徒但處范陽,富貴足矣,今茲南行,乃為汝曹,非自為也。汝曹不欲南行,任自歸北,何用喧悖,乖失軍禮!」眾聞言,不知所為,乃曰:「敕使何得不為軍士守護賞物!」遂入敕使院,擘裂殺之。又呼曰:「雖知司徒此行為士卒,終不如且奉詔歸鎮。」雄曰:「然則汝曹各還部伍,詰朝復往深州,休息數日,相與歸鎮耳。」眾然後定。滔即引軍還深州,密令諸將訪察唱率為亂者,得二百餘人,悉斬之,餘眾股慄。乃復舉兵而南,眾莫敢前卻。進,取寧晉,留屯以待王武俊。武俊將步騎萬五千取元氏,東趣寧晉。 武俊之始誅李惟岳也,遣判官孟華入見。上問以河朔利害,華性忠直,有才略,應對慷慨。上悅,以為恆冀團練副使。會武俊與朱滔有異謀,上遽遣華歸諭旨。華至,武俊已出師,華諫曰:「聖意於大夫甚厚,苟盡忠義,何患官爵之不崇,土地之不廣,不日天子必移康中丞於它鎮,深、趙終為大夫之有,何苦遽自同於逆亂乎!異日無成,悔之何及!」華曏在李寶臣幕府,以直道已為同列所忌,至是為副使,同列尤疾之,言於武俊曰:「華以軍中陰事奏天子,請為內應,故得超遷。是將覆大夫之軍,大夫宜備之。」武俊以其舊人,不忍殺,奪職,使歸私第。 田悅恃援兵將至,遣其將康愔萬餘人出城西,與馬燧等戰於御河上,大敗而還。 時兩河用兵,月費百餘萬緡,府庫不支數月。太常博士韋都賓、陳京建議,以為:「貨利所聚,皆在富商,請括富商錢,出萬緡者,借其餘以供軍。計天下不過借一二千商,則數年之用足矣。」上從之。甲子,詔借商人錢,令度支條上。判度支杜佑大索長安中商賈所有貨,意其不實,輒加搒捶。帛粟麥者,皆借四分之一,封其櫃窖。百姓為之罷市,相帥遮宰相馬自訴,以千萬數。盧杞始慰諭之,勢不可遏,乃疾驅自他道歸。計並借商所得,才二百萬緡,人已竭矣。京,叔明之五世孫也。 甲戌,以昭義節度副使、磁州刺史盧玄卿為洺州刺史兼魏博招討副使。 初,李抱真為澤潞節度使,馬燧領河陽三城。抱真欲殺懷州刺史楊鉥,鉥奔燧。燧納之,且奏其無罪,抱真怒。及同討田悅,數以事相恨望,二人怨隙遂深,不復相見。由是諸軍逗橈,久無成功,上數遣中使和解之。及王武俊逼趙州,抱真分麾下二千人戍邢州,燧大怒曰:「餘賊未除,宜相與戮力,乃分兵自守其地,我寧得獨戰邪!」欲引兵歸。李晟說燧曰:「李尚書以邢、趙連壤,分兵守之,誠未有害。今公遽自引去,眾謂公何!」燧悅,乃單騎造抱真壘,相與釋憾結歡。會洺州刺史田昂請入朝,燧奏以洺州隸抱真,請玄卿為刺史,兼充招討之副。李晟軍先隸抱真,又請兼隸燧,以示協和。上皆從之。 14.盧龍節度行軍司馬蔡廷玉惡判官鄭雲逵,奏貶莫州參軍。雲逵妻,朱滔之女也,滔復奏為掌書記。雲逵深構廷玉於滔,廷玉又與檢校大理少卿朱體微言於泚曰:「滔在幽鎮,事多專擅,其性非長者,不可以兵權付之。」滔知之,大怒,數與泚書,請殺二人者,泚不從。由是兄弟頗有隙。及滔拒命,上欲歸罪於廷玉等以悅滔,甲子,貶廷玉柳州司戶,體微萬州南浦尉。 14.盧龍節度行軍司馬の蔡廷玉は判官の鄭雲逵を憎み、奏上して莫州参軍に左遷させた。鄭雲逵の妻は朱滔の娘であり、朱滔もまた奏上して掌書記とした。鄭雲逵は深く蔡廷玉を朱滔と対立し、蔡廷玉もまた検校大理少卿の朱体微とともに朱泚にむかって、「朱滔は幽州にあって統治し、事は専断を多くしています。その性格は長者の風ではなく、兵権を付してはなりません」と言ったが、朱滔はこれを知って大いに怒り、しばしば朱泚に書簡を送って、二人を殺すことを願ったが、朱泚は従わなかった。これより兄弟はかなり不仲となり、朱滔が命令を拒むと、お上は罪を蔡廷玉らに帰して朱滔を喜ばせようとした。甲子、蔡廷玉を柳州司戸に、朱体微を万州南浦尉に左遷した。 15.宣武節度使劉洽攻李納之濮陽,降其守將高彥昭。 15.宣武節度使の劉洽が李納の濮陽を攻撃し、その守将の高彦昭を降伏させた。 16.朱滔遣人以蠟書置髻中遺朱泚,欲與同反。馬燧獲之,並使者送長安,泚不之知。上驛召泚於鳳翔,至,以蠟書並使者示之,泚惶恐頓首請罪。上曰:「相去千里,初不同謀,非卿之罪也。」因留之長安私第,賜名園、腴田、錦彩、金銀甚厚,以安其意;其幽州、盧龍節度、太尉、中書令並如故。 上以幽州兵在鳳翔,思得重臣代之。盧杞忌張鎰忠直,為上所重,欲出之於外,己得專總朝政,乃對曰:「朱泚名位素崇,鳳翔將校班秩已高,非宰相信臣,無以鎮撫,臣請自行。」上俯首未言,□巳又曰:「陛下必以臣貌寢,不為三軍所伏,固惟陛下神算。」上乃顧鎰曰:「才兼文武,望重內外,無以易卿。」鎰知為杞所排而無辭以免,因再拜受命。戊寅,以鎰兼鳳翔尹、隴右節度等使。 初,盧杞與御史大夫嚴郢共構楊炎、趙惠伯之獄,炎死,杞復忌郢。會蔡廷玉等貶官,殿中侍御史鄭詹誤遞文符至昭應送之,廷玉等行已至藍田,召還而東,廷玉等以為執己送朱滔,至靈寶西,赴河死。上聞之,駭異,盧杞因奏:「朱泚必疑以為詔旨,請遣三司使案詹。」又言:「御史所為,必稟大夫,請並郢案之。」獄未具,壬午,杞奏杖殺詹於京兆府;貶郢費州刺史,卒於貶所。 16.朱滔は人を遣わして蝋書を髻中に置き朱泚に遣わし、ともに叛かせようとした。馬燧はこれを逮捕して、使者とあわせて長安に送った。朱泚はこれを知らなかった。お上は朱泚を鳳翔から召喚して、やって来ると、蝋書と使者を見せた。朱泚は恐れて頓首して罪を請うた。お上は、「互いに千里離れているのに、最初から同じ謀なぞできようか。卿の罪ではない」と言い、そこで長安の私邸に留め、名園・肥沃な田・彩錦・金銀を賜ること非常にあつかった。その意が安らかであったから、幽州・盧龍節度・太尉・中書令はすべてもとの通りであった。。 お上は幽州の兵を鳳翔に置き、重臣にこれを代わせようと思った。盧杞は張鎰の実直さを嫌って、お上のためといって、外に出させ、自身で朝政を専ら統べようと思ったから、そこで、「朱泚は名や位は最初から高く、鳳翔の将校の班秩はすでに高いので、宰相が信ずる臣でなければ、鎮撫することができません。臣は自ら行かせてください」と答えた。お上は首を俯いてまだ言う前に、盧杞はまた、「陛下は必ず臣の容貌が悪く、三軍が伏さないと思われているのでしょう。陛下のお考えをお聞かせください」と言い、お上はそこで張鎰を振り返って、「才は文武を兼ね、衆望は内外に重く、卿に代えるほかはなかろう」と言い、張鎰は、盧杞が排斥しようとしていて、辞退して免れることができないことを知り、そこで再拝して命を受けた。戊寅、張鎰を鳳翔尹・隴右節度等使を兼任させた。 それより以前、盧杞は御史大夫の厳郢とともに楊炎と事を構え、趙恵伯の獄で楊炎が死に、盧杞は厳郢を嫌った。たまたま蔡廷玉らが官を貶め、殿中侍御史の鄭詹が誤って文を逓送して昭応に送り、蔡廷玉らがすでに藍田にいたり、召喚されて東に行き、蔡廷玉らが自身を朱滔に遅らせようとしていると思い、霊宝の西に到ると、河に赴いて死んだ。お上はこれを聞いて驚き、盧杞がそこで、「朱泚は必ず詔旨のためだと疑うでしょう。三司を派遣して鄭詹を取り調べさせてください」と奏じ、また「御史が行ったことは必ず大夫が報告を受けています。あわせて厳郢も取り調べしましょう」と言ったが、獄はまだ備わっていなかった。壬午、盧杞は奏杖殺鄭詹を京兆府で杖殺し、厳郢を費州刺史に左遷することを上奏し、ついに貶所で死んだ。 上初即位,崔祐甫為相,務崇寬大,故當時政聲藹然,以為有貞觀之風。及盧杞為相,知上性多忌,因以疑似離間群臣,始勸上以嚴刻御下,中外失望。 淮南節度使陳少游奏,本道稅錢每千請增二百。五月,丙戌,詔增它道稅錢皆如淮南;又鹽每斗價皆增百錢。 朱滔、王武俊自寧晉南救魏州,辛卯,詔朔方節度使李懷光將朔方及神策步騎萬五千人東討田悅,且拒滔等。滔行至宗城,掌書記鄭雲逵、參謀田景仙棄滔來降。 丁酉,加河東節度使馬燧同平章事。 辛亥,置義武軍節度於定州,以易、定、滄三州隸之。張光晟之殺突董也,上欲遂絕回紇,召冊可汗使源休還太原。久之,乃復遣休送突董及翳密施、大、小梅錄等四喪還其國,可汗遣其宰相頡子思迦等迎之。頡子思迦坐大帳,立休等於帳前雪中,詰以殺突董之狀,欲殺者數四,供待甚薄。留五十餘日,乃得歸。可汗使人謂之曰:「國人皆欲殺汝以償怨,我意則不然。汝國已殺突董等,我又殺汝,如以血洗血,污益甚耳!今吾以水洗血,不亦善乎!唐負我馬直絹百八十萬匹,當速歸之。」遣其散支將軍康赤心隨休入見,休竟不得見可汗而還。六月,己卯,至長安,詔以帛十萬匹、金銀十萬兩償其馬直。休有口辯,盧杞恐其見上得幸,乘其未至,先除光祿卿。 朱滔、王武俊軍至魏州,田悅具牛酒出迎,魏人歡呼動地。滔營於愜山,是日,李懷光軍亦至,馬燧等盛軍容迎之。滔以為襲己,遽出陳。懷光勇而無謀,欲乘其營壘未就擊之。燧請且休將士,觀釁而動,懷光曰:「彼營壘既立,將為後患,此時不可失也。」遂擊滔於愜山之西,殺步卒千餘人,滔軍崩沮。懷光按轡觀之,有喜色。士卒爭入滔營取寶貨,王武俊引二千騎橫衝懷光軍,軍分為二。滔引後繼之,官軍大敗,蹙入永濟渠溺死者不可勝數,人相蹈藉,其積如山,水為之不流,馬燧等各收軍保壘。是夕,滔等堰永濟渠入王莽故河,絕官軍糧道及歸路。明日,水深三尺餘。馬燧懼,遣使卑辭謝滔,求與諸節度歸本道,奏天子,請以河北事委五郎處之。滔欲許之,王武俊以為不可。滔不從。秋七月,燧與諸軍涉水而西,退保魏縣以拒滔,滔乃謝武俊,武俊由是恨滔。後數日,滔等亦引兵營魏縣東南,與官軍隔水相拒。 李納求援於滔等,滔遣魏博兵馬使信都承慶將兵助之。納攻宋州,不克,遣兵馬使李克信、李欽遙戍濮陽、南華以拒劉洽。 甲辰,以淮寧節度使李希烈兼平盧、淄青、兗鄆、登萊、齊州節度使,討李納。又以河東節度使馬燧兼魏博、澶相節度使。加朔方、邠寧節度使李懷光同平章事。 神策行營招討使李晟請以所將兵北解趙州之圍,與張孝忠合勢圖范陽,上許之,晟自魏州引兵北趨趙州,王士真解圍去。晟留趙州三日,與孝忠合兵北略恆州。 演州司馬李孟秋舉兵反,自稱安南節度使。安南都護輔良交討斬之。 八月,丁未,置汴東、西水陸運、兩稅、鹽鐵使二人,度支總其大要而已。 辛酉,以涇原留後姚令言為節度使。 盧杞惡太子太師顏真卿,欲出之於外。真卿謂杞曰:「先中丞傳首至平原,真卿以舌舐面血。今相公忍不相容乎!」杞矍然起拜,然恨之益甚。 九月,癸卯,殿中少監崔漢衡自吐蕃歸,贊普遣其臣區頰贊隨漢衡入見。冬,十月,辛亥,以湖南觀察使曹王皋為江南西道節度使。皋至洪州,悉集將佐,簡閱其才,得牙將伊慎、王鍔等,擢為大將,引荊襄判官許孟容置幕府。慎,兗州人;孟容,長安人也。慎常從李希烈討梁崇義,希烈愛其才,欲留之,慎逃歸。希烈聞皋用慎,恐為己患,遺慎七屬甲,詐為復書,墜之境上。上聞之,遣中使即軍中斬慎,皋為之論雪;未報。會江賊三千餘眾入寇,皋遣慎擊賊自贖;慎擊破之,斬首數百級而還,由是得免。 盧杞秉政,知上必更立相,恐其分己權,乘間薦吏部侍郎關播儒厚,可以鎮風俗。丙辰,以播為中書侍郎、同平章事。政事皆決於杞,播等斂衽無所可否。上嘗從容與宰相論事,播意有所不可,起立欲言,杞目之而止。還至中書,杞謂播曰:「以足下端愨少言,故相引至此,曏者奈何發口欲言邪!」播自是不復敢言。 戊辰,遣都官員外郎河中樊澤使於吐蕃,告以結盟之期。 丙子,肅王詳薨。 十一月,己卯朔,加淮南節度使陳少游同平章事。 田悅徳朱滔之救,與王武俊議奉滔為主,稱臣事之,滔不可,曰:「愜山之捷,皆大夫二兄之力,滔何敢獨居尊位!」於是幽州判官李子千、恆冀判官鄭濡等共議:「請與鄆州李大夫為四國,俱稱王而不改年號,如昔諸侯奉周家正朔。築壇同盟,有不如約者,眾共伐之。不然,豈得常為叛臣,茫然無主,用兵既無名,有功無官爵為賞,使將吏何所依歸乎!」滔等皆以為然。滔乃自稱冀王,田悅稱魏王,王武俊稱趙王,仍請李納稱齊王。是日,滔等築壇於軍中,告天而受之。滔為盟主,稱孤;武俊、悅、納稱寡人。所居堂曰殿,處分曰令,群下上書曰箋,妻曰妃,長子曰世子。各以其所治州為府,置留守兼元帥,以軍政委之;又置東西曹,視門下、中書省;左右內史,視侍中、中書令;餘官皆仿天朝而易其名。 武俊以孟華為司禮尚書,華竟不受,嘔血死。以兵馬使衛常寧為內史監,委以軍事。常寧謀殺武俊,武俊腰斬之。武俊遣其將張終葵寇趙州,康日知擊斬之。 李希烈帥所部兵三萬徙鎮許州,遣所親詣李納,與謀共襲汴州。遣使告李勉,云已兼領淄青,欲假道之官。勉為之治橋、具饌以待之,而嚴為之備。希烈竟不至,又密與朱滔等交通,納亦數遣遊兵渡汴以迎希烈。由是東南轉輸者皆不敢由汴渠,自蔡水而上。 十二月,丁丑,李希烈自稱天下都元帥、太尉、建興王。時朱滔等與官軍相拒累月,官軍有度支饋糧,諸道益兵,而滔與王武俊孤軍深入,專仰給於田悅,客主日益困弊。聞李希烈軍勢甚盛,頗怨望,乃相與謀遣使詣許州,勸希烈稱帝,希烈由是自稱天下都元帥。 司天少監徐承嗣請更造《建中正元曆》;從之。
https://w.atwiki.jp/th_seiti/pages/243.html
関係あるとみられるもの 東風谷早苗(東方風神録ほか) 住所 〒392-0015 長野県諏訪市中洲 JR中央本線「茅野」駅からおよそ3km(徒歩約40分) 諏訪大社上社本宮から徒歩10分 旧大祝邸 諏訪大社の神職である大祝の住んでいた屋敷である。 平成14年(2002年)に最後の大祝が亡くなってからは無人となり、現在は諏訪市が管理している。 表門 大祝が存命のころはよく開かれていたらしい。 ほとんどただの廃墟となった旧大祝屋敷 文政13年(1830年)に焼失したのち天保年間に再建された屋敷は、4重の堀に囲まれた約3000坪の敷地に約320の主屋が建てられ、 2棟の土蔵、別荘、女性が月経や出産のときにこもる「たや部屋」などの別棟も備える広大なものであった。 しかし時代を経て敷地とともに主屋も縮小され、昭和初期には約80坪になり、平成22年の調査では約43坪となっていた。 ただし、北側の3つの部屋はほぼ天保年間の姿を保ったまま現在まで残されている。 表門に向かって右奥に見学用の入り口から敷地内に入り、建物をぐるっと一周する散策路内のみ立ち入ることが出来る。 大祝と神長官 諏訪の信仰を理解するうえで避けては通れないのが、諏訪大戦の元ネタともなった土着神話と中央神話の対立である。 中央神話勢力の中心となったのが建御名方命の末裔とされる諏訪氏である。 平安時代以降は領主としてこの地を統治する一方で、諏訪明神の依代として諏訪社の頂点に位置する役職「大祝(おおほうり)」を代々務めてきた。 大祝は諏訪大社上社の祭神、あるいは現人神であるともいわれ、5,6歳から15,6歳までの務めが終わると最高位から離れて隠居していた。 生き神様を祀る信仰が存在し続けた神社は全国でも珍しいとされる。 簡単に言うと神奈子様側。 一方で、土着神話勢力の中心となったのが洩矢神の末裔とされる守矢氏である。 今からおよそ1500~1600年ほど前、大和朝廷の支配が及ぶ以前からこの地に居た土着の部族で、洩矢神と呼ばれ守屋山を神の山としていた(*1)。 中世・近世においては諏訪大社上社の筆頭神官である神長(官)を代々務めてきた一族である。 守矢家の祈祷は一子相伝で、神長以外ほかの何人もたずさわるを許されない秘伝であった。 簡単に言うと諏訪子様側。 古来より諏訪の地では、洩矢神(ミシャグジ神と同一視されることもある)が信仰を集めていた。 そこに出雲より建御名方命が侵攻したため、洩矢神との争いになる(天竜川の戦い)。 「諏訪大明神絵詞」などの伝承によれば、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北したという。 これによって建御名方命は諏訪明神として諏訪大社に祭られ、諏訪氏は上社大祝を務めることとなり、守矢氏は上社の筆頭神官となった。 平安時代以降は諏訪氏は神官であると同時に武士としても活躍し、領主としてこの地を支配することとなった。 諏訪大社が信濃国一之宮として朝廷から重んじられていたことや、建御名方命が軍神なので武人から崇敬を受けていたことなどから、 中央勢力の中において諏訪氏は長きにわたって高い権威を誇示してきた。 その一方で守矢氏は、立場の上では神長官という大祝を補佐する役割でありながら、上社の祈祷と政務事務の実権を握り、 大祝という存在をコントロールしつつ伝統の信仰を守り続けていたのである。 こうした権力の二重構造はたびたび両家に確執を生み、大祝霊廟と千歳社など現在でもその抗争が表面化した痕跡をたどることができる。 そして明治維新によって、両家は大きな転機を迎えることとなる。 明治5年に神職の世襲制が廃止され、中央から派遣された宮司が祭主を務めることになったのだ。 これによって大祝職は廃止され、「最後の大祝」となった諏方弘氏が平成14年(2002年)に跡継ぎ不在のまま亡くなったため、大祝家諏方氏はなくなってしまった。 また神長官職も廃止されたため、「最後の神長官」となった守矢家76代目の守矢実久氏を最後に完全な秘伝は受け継がれなくなり、 現在の当主である78代目の守矢早苗さんは、祖父実久氏から簡単な話は聞いたようだが秘伝は受けていないという(*2)。 こうして考えると、建御名方命・八坂刀売命を元ネタとしているとされる八坂神奈子、洩矢神・ミシャグジを元ネタとしている洩矢諏訪子、 そして「風祝」でありながら「早苗」の名を持つ東風谷早苗という3人(3柱?)のキャラクターはとても大きな歴史的背景を背負っているということが想像できる。 関連 神長官守矢史料館・御頭御射宮司総社 神長官守矢家の史料館で、敷地内には大祝霊廟もある。 洩矢神社 洩矢神と建御名方命の戦いの際に、洩矢神側が本陣を置いたとされる場所にある神社。 藤島神社 上記の戦いの際に、建御名方命側が本陣を置いたとされる場所にある神社。 守屋山 守矢氏が古来より「神の山」とした山。 名前