約 3,335 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2114.html
http //sankei.jp.msn.com/life/education/090610/edc0906102117005-n1.htm 沖縄集団自決「軍の命令ではない」 地元誌が特集記事 2009.6.10 21 15 第2次大戦末期の沖縄戦で守備隊長が住民に自決を強いたとされる「沖縄集団自決」について「軍命による自決ではなく、切羽詰まった住民が自殺した悲惨な事件だった」とする特集記事が沖縄県浦添市文化協会発刊の「うらそえ文藝」第14号に掲載され、波紋を広げている。特集には、自決現場を目撃した当時の米軍の報告書や住民の証言などが収録され、問題の発端となった地元紙、沖縄タイムス発刊の「鉄の暴風」こそが訂正すべきと結論づけている。 「鉄の暴風」で自決を強いたと名指しされた守備隊長や遺族らは、この記述を元に書かれた大江健三郎氏の「沖縄ノート」に対し出版差し止めなどを求めているが、昨年秋の2審判決では訴えが退けられ、現在、最高裁で争われている。 この特集記事を書いたのは同誌編集長で沖縄県文化協会長の星雅彦氏と沖縄戦ドキュメンタリー作家として知られる上原正稔氏の2人。 http //sankei.jp.msn.com/life/education/090610/edc0906102117005-n2.htm 上原氏は長く「鉄の暴風」を疑ったことがなく、現地調査した作家の曽野綾子氏が1973年に「ある神話の背景」で疑問を呈したさいも、軍命による集団自決を事実として信じて疑わなかった。ところが、沖縄タイムスや琉球新報などで沖縄戦に関連した連載記事を書くうちに、新たな住民の証言や米軍の報告書などを入手、「(『鉄の暴風』は)現地調査しないまま軍命による集団自決をでっち上げたという結論に達した」という。 上原氏によると、こうした結論を2年前に琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」と説明している。 また、星氏も沖縄県史編纂(へんさん)で40年ほど前に、集団自決事件の起きた渡嘉敷島を訪問した際、住民の話から軍命の存在に疑問を抱いたが、「鉄の暴風」が沖縄県民の間で定着し、疑問を差し挟めない状況だった。しかし、「今回は勇気を持って真実を知らせるべきと決心した」と、話している。 富田詢一・琉球新報社編集局長の話「上原氏への圧力はありません」 「集団自決」問題について補足 「集団自決」問題について(また)産経と世界日報が華麗なコンボ 沖縄戦ニュース
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1762.html
目次 戻る 通2-014 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第2 事案の概要等 第2の3 前提事実及び争点 【原判決の引用】 (原)第3 争点及びこれに対する当事者の主張 (原)4 争点4(真実性の有無)について (判決本文p34~) (1)被控訴人らの主張 第3の4(1)ア 背景事情 第3の4(1)イ 座間味島について(原)第3・4(1)イ(ア) 自決命令を示す文献等 (原)第3・4(1)イ(イ) 控訴人ら主張の文献,見解等に対する反論 (原)第3・4(1)イ(ウ) 座間味村の公式見解と控訴人梅澤の対応 (原)第3・4(1)イ(エ) 援護法適用のための捏造について 第3の4(1)ウ 渡嘉敷島について(原)第3・4(1)ウ(ア) 自決命令を示す文献等 (原)第3・4(1)ウ(イ) 控訴人ら主張の文献等に対する反論 (原)第3・4(1)ウ(ウ) 自決命令の命令者・伝達者・受領者について (原)第3・4(1)ウ(エ) 自決命令の言い換えについて (原)第3・4(1)ウ(オ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計について (原)第3・4(1)ウ(カ) 自決命令を記載していた文献の絶版等について (原)第3・4(1)ウ(キ)(安里巡査の説明と星雅彦記者の記事)* (原)第3・4(1)ウ(ク) 証人知念朝睦及び皆本証人の各証言について (2)控訴人らの主張 第3の4(2)ア 真実性の対象となる命令 第3の4(2)イ 援護法適用のための捏造 第3の4(2)ウ 座間味島について(原)第3・4(2)ウ(ア) 集団自決は盛秀助役の命令で行われたこと (原)第3・4(2)ウ(イ) 被控訴人ら主張の文献に対する反論 (原)第3・4(2)ウ(ウ) 自決命令を否定する文献,見解等 (原)第3・4(2)ウ(エ) 座間味村の公式見解と控訴人梅澤の対応について 第3の4(2)エ 渡嘉敷島について(原)第3・4(2)エ(ア) 集団自決の経緯 (原)第3・4(2)エ(イ) 手榴弾の交付について (原)第3・4(2)エ(ウ) 文献に対する反論 (原)第3・4(2)エ(エ) 自決命令を否定する文献,見解等 (原)第3・4(2)エ(オ) 自決命令の命令者・伝達者・受領者が不在であること (原)第3・4(2)エ(カ) 自決命令の言い換え (原)第3・4(2)エ(キ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計 (原)第3・4(2)エ(ク) 自決命令を記載していた文献の絶版等 目次 戻る 通2-014 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/629.html
中公新書261 名嘉正八郎・谷川健一編 沖縄の証言(下) 庶民が語る戦争体験 中央公論社刊 昭和46年9月15日印刷 昭和46年9月25日発行 はじめに 『沖縄の証言(上)』は沖縄本島の中部が中心であるのにたいして、『沖縄の証言(下)』は南部を中心とする。上巻の「はじめに」で述べたように、本書は『沖縄県史』の中の一巻である『沖縄戦記録』をもとに編纂したものであるが、下巻には、アメリカ軍による国吉(くによし)部落の避難民虐殺の記録と本部(もとぶ)半島の記録を新しく聞書きして収録した。上巻と同じく下巻も宮城聰(みやぎそう)と星雅彦(ほしまさひこ)が体験者の話を文章化する仕事にあたった。 下巻の舞台である沖縄本島南部は、沖縄戦が最後の破局に突入した地域であり、それだけに沖縄の人たちの受難は形容を絶するものとなっている。八重瀬(やえす)岳のほかにはさしたる山もない茫漠(ぼうばく)とした丘陵地帯で、果ては断崖となって南の海にそぎ落とされるこの南部に、三十万と推定される沖縄住民と日本軍が入りまじって、陛海空からアメリカ軍の攻撃を受けた。 日本軍最高司令部のあったところは、かつて「枯れ摩文仁(まぶに)」と呼ばれた不毛の土地であった。カヤやススキの生いしげる以外になにものもない荒涼とした風景をいろどるものは、たえまない硝煙の中を逃げまどう避難民と絶望の色をかくすことのできない日本軍だけであった。一分ごと一時間ごとに母や子を失う地獄図絵が展開されるなかで、日本軍と沖縄住民の対立は極度に尖鋭化していった。沖縄死守を呼号する日本軍が沖縄の非戦闘員を保護するどころか、そのあからさまな敵対者の役割を果たす光景がいたるところで見られた。日本軍の国土観念には、沖縄の住民は不在でありふくまれていなかったことは、本書に述べられた証言によって指摘できる。沖縄を守ることが可能かという問題は、沖縄の往民を守ることがはたして可能かという疑問にほかならないことがこんにちなおいわれうる。 ことさらつけ加えるまでもないことであるが、編者が本書を刊行しようとする意図は、沖縄の庶民の言語に絶する戦争体験をひろく日本国民に知らしめ、二度とこのような悲劇が起こらないようにすることにある。沖縄戦の悲彦な体験を沖縄の人たちだけに背負わせて事足れりとすることばできない。そのかぎりなく重い体験記録は、日本国民が共同で受けつぐべき遺産である。一九七二年本土復帰によって、翁エアの社会は激変することがあろうとも、沖縄の戦後社会の土台にすえられたこの戦争体験の記録は微動だにすることなく、ながく後世にまで伝えられるであろうことはまちがいない。 なお本書と同名の書物が沖縄タイムス社から出版されている。併読されるたらぼ沖紬戦とそれにつづく戦後の沖縄の社会を知る貴重な手がかりとなることを付記しておく。 一九七一年八月十五日 名嘉正八郎 谷川健一 目次
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1102.html
通025 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第3 争点及びこれに対する当事者の主張 第3・4 争点4(真実性の有無)について 第3・4(1) 被告らの主張 第3・4(1)ウ 渡嘉敷島について 第3・4(1)ウ(エ) 自決命令の言い換えについて 第3・4(1)ウ(エ) 自決命令の言い換えについてa (古波蔵村長の供述について)* b (富山兵事主任の供述について)* a (古波蔵村長の供述について)* 原告らは。古波蔵村長が命令の受領を明確にできない以上,古波蔵村長の供述から自決命令を認定することは不可能である旨主張する。 しかし,古波蔵村長は,「沖縄県史 第10巻」において,赤松大尉の命令によって軍陣地の裏側の盆地に集合させられたこと,陣地から飛ぴ出レてきた防衛隊員と合流したこと,米軍の艦砲や迫撃砲が執拗に撃ち込まれている状況であったこと,防衛隊員の持ってきた手榴弾で集団自決が行われたこと,古波蔵村長自身防衛隊員から手榴弾を渡されたことなどを具体的に供述しており,古波蔵村長が,赤松大尉が自決命令を出したことを明確にしていることは明らかである。 b (富山兵事主任の供述について)* また,原告らは,昭和63年になって突然,手榴弾の配布を自決命令であると語り始めた富山兵事主任の供述も信用できない旨主張する。 しかし,富山兵事主任には供述を捏造する理由も必要性もなく,また,富山兵事主任の供述は,前記のとおり,詳細である上,実際に手榴弾を交付されて自決命令を受けた場所を指し示すなど,非常に具体的である。また,「潮」1971年11月号(甲B21)の記事は簡単なものであって(同記事には「自決のときのことは話したくないンですがね…」とある。),にわかに手榴弾を配布したことが自決命令であると言い出したということでは全くない。富山兵事主任は,朝日新聞の記事(乙12)において,「43年後の今になってなって初めてこの証言を?」との問いに対し, 「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし,あの玉砕が,軍の命令でも強制でもなかったなどと,今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは,もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが,あらためて証言しておこうと思った」 と供述し,供述をした理由を明確にしている。そして,このことは原告が赤松大尉の命令がなかったことの根拠としている星雅彦「集団自決を追って」(甲B17)当資料庫所収 においても, 「防衛隊の過半数は,何週間も前に日本軍から一人あて2個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら,それで戦うか自決するかにせよということであった。」 と記載されているところである。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」
https://w.atwiki.jp/tamaroco/pages/8.html
星雅のページ Counter - 神出鬼没というか、居たり居なかったりというか。 でも課金はしてるのです。 うちの子達紹介 星雅 ♀アサシン90/50 ギルドたまら・ろこら職位お肴大好き♪ HP/SP 6308/484 STR 84+12 AGI 81+11 VIT 1+2 INT 1+4 DEX 45+8 LUK 1 ATK 371-404+24 DEF 30+3 HIT 143 CRI 1 MATK 5~6 FLEE 242 ASPD 165 MDEF 0+5 スキル うろ覚え(汗) 出没時間 21時~0時…その他不定期 よく居る狩場 アイン↑のジオMAP。AIR-EDGE接続なので、ぬるくやってます。 お気に入りのエモノはTHスチレ×2。きっと転生しても使ってると思う(・ω・) 一言どうぞ。 一言掲示板みたいなのも付けれますよ。 -- 星雅 (2005-07-01 14 49 55) こんなことも出来るのですね~。わくわく♪ -- ろこ。 (2005-07-03 01 10 09) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1771.html
目次 戻る 通2-023 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第2 事案の概要等 第2の3 前提事実及び争点 【原判決の引用】 (原)第3 争点及びこれに対する当事者の主張 (原)4 争点4(真実性の有無)について (1)被控訴人らの主張 第3の4(1)ウ 渡嘉敷島について (原)第3・4(1)ウ(エ) 自決命令の言い換えについて (判決本文p55~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 (原)第3・4(1)ウ(エ) 自決命令の言い換えについてa (古波蔵村長の供述について)* b (富山兵事主任の供述について)* a (古波蔵村長の供述について)* 控訴人らは, 古波蔵村長が命令の受領を明確にできない以上, 古波蔵村長の供述から自決命令を認定することは不可能である旨主張する。 しかし, 古波蔵村長は, 「沖縄県史 第10巻」において, 赤松大尉の命令によって軍陣地の裏側の盆地に集合させられたこと, 陣地から飛ぴ出レてきた防衛隊員と合流したこと, 米軍の艦砲や迫撃砲が執拗に撃ち込まれている状況であったこと, 防衛隊員の持ってきた手榴弾で集団自決が行われたこと, 古波蔵村長自身防衛隊員から手榴弾を渡されたことなどを具体的に供述しており, 古波蔵村長が, 赤松大尉が自決命令を出したことを明確にしていることは明らかである。 (引用者注)古波蔵村長が語る3月27日, 28日の事実経過は, その両日村長と行動を共にしたという, 金城武徳氏の手記『パイン缶詰は戦争の味』(渡嘉敷村史所収)の記述とも符合します。 b (富山兵事主任の供述について)* また, 控訴人らは, 昭和63年になって突然, 手榴弾の配布を自決命令であると語り始めた富山兵事主任の供述も信用できない旨主張する。 しかし, 富山兵事主任には供述を捏造する理由も必要性もなく, また, 富山兵事主任の供述は, 前記のとおり, 詳細である上, 実際に手榴弾を交付されて自決命令を受けた場所を指し示すなど, 非常に具体的である。また, 「潮」1971年11月号(甲B21)の記事は簡単なものであって(同記事には「自決のときのことは話したくないンですがね…」とある。), にわかに手榴弾を配布したことが自決命令であると言い出したということでは全くない。富山兵事主任は, 朝日新聞の記事(乙12)において, 「43年後の今になってなって初めてこの証言を?」との問いに対し, 「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし, あの玉砕が, 軍の命令でも強制でもなかったなどと, 今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは, もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが, あらためて証言しておこうと思った」 と供述し, 供述をした理由を明確にしている。そして, このことは控訴人が赤松大尉の命令がなかったことの根拠としている星雅彦「集団自決を追って」(甲B17)当資料庫所収 においても, 「防衛隊の過半数は, 何週間も前に日本軍から一人あて2個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら, それで戦うか自決するかにせよということであった。」 と記載されているところである。 目次 戻る 通2-023 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/625.html
中公新書256 名嘉正八郎・谷川健一編 沖縄の証言(上) 庶民が語る戦争体験 中央公論社刊 昭和46年7月25日初版 昭和57年2月1日5版 はじめに 本書は沖縄戦における沖縄住民の記録である。沖縄戦の記録は数多く出版されているが、沖縄戦下の非戦闘員の動きは、こんにちまでかならずしも正確かつ克明に伝えられていなかった。非戦闘員がどのように沖縄戦に対処したか、その把握が明確になされない以上は、いかに沖縄がこうむった戦争の惨禍を力説しようとも、それはどこか説得を欠くものとなって終わる。決定的な証言とはなにか。事実の再現である。それを体験者が自分の口をとおして語ることである。 沖縄史料編集所が、『沖縄県史』の編纂事業の一環としてこころみたのは、まさしくこのことであった。これにたいして、はたして事実の再現は可能か、という疑問がないではない。戦後二十六年をへたこんにち、往時の記憶はうすれ、正確を欠くことになるのではないか、という懸念が外部からよせられた。しかし、人間はもっとも痛切な体験を心の奥底に秘めて生きる。それは口に出さないだけ、かえって腐蝕と風化をまぬかれて、なまなましく保存される。沖縄史料編集所長の名嘉正八郎(なかしようはちろう)が、宮城聰(みやぎそう)と星雅彦(ほしまさひこ)に委嘱して、沖縄戦を体験した住民に面接し、その聞書きをとることにしたとき、外部からよせられた懸念は一掃された。体験者たちは、自分の苦難の過去を驚くべき細部にいたるまで記憶し、それを忘却していなかったからである。それは忘れようにも忘れることのできない体験であったからだ。こころみに思え。自分の家が焼かれ、壕を追わ i れ、自分の母、あるいは自分の子が眼前で死んでゆくのを目撃したものが、それを忘れることができるかどうか。 名嘉、宮城、星は千名に近い沖縄住民に接し、生活者である民衆が、概念をまじえない純粋な戦争体験の記憶を保持していることを確認した。聞書ぎによる非戦闘員の戦争体験の記録の特色はまさにここに存する。 かつて、このように大規模に沖縄住民の生の声が集められたことはなかった。この戦争に生き残った者の声は、無限の恨みをのんで死んだ地下の声なき声を代弁し、沖縄戦の記念碑となって後世に伝えられる。 この記録の集成である『沖縄戦記録』は、『沖縄県史』の一巻として、一九七一年六月に刊行された。(『沖縄県史』は琉球政府の事業で、沖縄県史編集審議会の答申にもとづき、行政主席の決裁をへて政府立沖縄史料編集所が執行する。) しかしその刊行部数はかぎられており、一方沖縄戦の未知の実相を日本国民にひろく知らせる必要のあることを感じ、県史収録の記録の一部を土台として本書を編むことにした。 沖縄戦は、沖縄本島北都の本部(もとぶ)半島と、伊江(いえ)島をのぞけぱ、主として、沖縄本島の中部から南部にかけて行なわれた。本書は戦況の推移にしたがって、二巻に分けることにした。上巻は沖縄本島の中部地区の住民の記録を中心とし、下巻は南部の住民の記録を中心としている。また上巻には、『県史』にはない慶良間(けらま)諸島と伊江島の住民の戦争体験記録を取材して収録した。下巻には、北部(本部半島)の記録と沖縄住民の収容所体験を併録する。 ii 沖縄住民の体験談を聞書きし、それを文章化する仕事には宮城、星があたった。上巻の解説は、谷川がこれを担当した。下巻の解説は、名嘉がこれを担当した。 最後に、上巻だけでなく下巻をも併読して、沖縄戦下の住民の苦難の体験の全貌をつかんでいただきたいと切望する。 一九七一年七月一日 名嘉正八郎 谷川健一 iii 目次
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/724.html
正論2006年9月号(産経新聞社・扶桑社) 靖国特集 沖縄集団自決冤罪訴訟が光を当てた日本人の真実 弁護士 徳永信一 こじつけの手法 渡嘉敷島の場合は、もっと手の込んだ捏造がなされていた。 朝日新聞は昭和63年6月16日付夕刊に、当時、渡嘉敷村役場で兵事主任だった富山真順氏の語を新証言と銘打ち、 「3月20日に軍が17才未満の少年らを非常招集して2個の手榴弾を配り、兵器軍曹が『いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残り一個で自決せよ』と命じた」と報じた。この記事は、平成2年3月に出版された渡嘉敷村の『村史通史編』に収載され、これを執筆した安仁屋政昭沖縄国際大学教授は、手榴弾が軍の厳重な管理のもとに置かれた武器であることを理由に、「これこそ『自決強要』の物的証拠というものである」と主張する。 手榴弾の配布をもって自決強要の物的証拠だとする安仁屋教授の主張は、同教授の「解釈」ないし「評価」にすぎないものを事実だと強弁するものである。つまり、手榴弾の配布は自決命令と同じことだというすりかえのレトリックを用いて、自決命令をこじつけようとしているのだ。 しかも、そもそもこの新証言には重大な疑問がある。 富山氏は、沖縄戦を特集した『潮』1971年11月号に、手記を寄せていた。そこには「いざとなれぱ敵を殺してから自分も死のうといつも2個の手榴弾をぶらさげていた」とある。そして同じ『潮』に掲載された星雅彦著『集団自決を追って』には、村長から機関銃を借りてこいと言われて、軍陣地に駆け込んだ富山氏が「足手まといになる住民を撃ち殺すから機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせていない」とどなりつけられたことが記録されている。また、昭和62年に出版された渡嘉敷村史資料編には、富山氏の証言が掲載されているが、そこでは青少年を招集して手榴弾を配布したことなど一切語られていない。富山氏の新証言なるものの信頼性は限りなく怪しい。 さらにまた、百歩譲って、富山氏の前記証言を真実だと仮定してみても、米軍が上陸する前、赤松隊と村民が協カしあって特攻ボート等の整備作業を行っていた昭和20年3月20日の時点での「手榴弾の配布」を「これこそ『自決強要』の物的証拠」とする論理そのものが成立しえないことは明らかであろう。赤松隊は、3月20日時点では、まもなく特攻隊として敵艦隊に突撃して自爆する予定だったのだ。後に守備隊に転身し、持久戦を闘うことになろうとは夢にも思っていなかったのである。 赤松元大尉は、『ある神話の背景』のなかで、「正直言って、初め村の人たちをどうするかなどということは、頭にありませんでした。何故かとおっしゃるんですか。我々は特攻隊です。死ぬんですから、後のことは、講かがなんとかやるだろうと思ってました。すくなくとも我々の任務ではない、という感じですね。」と語っている。 特攻で全減する部隊が、その後にあるかも知れない米軍の上陸に備え、住民に自決用の手榴弾を配ったとしても、それは「捕虜になるよりは死を」という村民の願いに応えたものに過ぎない。そもそも軍が全減した後の自決命令に強制カがあろうはずもない。かかる手榴弾の配布をもって、住民に自決を強要した証拠だとする安仁屋教授の主張が、こじつけとすりかえの詭弁であることは誰の目にも明らかであろう。 目次 | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1415.html
今日の訪問者 - 沖縄戦資料index 【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」 証言記録「沖縄住民虐殺」―日兵逆殺と米軍犯罪 沖縄戦と民衆(目次) 歴博「集団自決」展示問題 大田昌秀講演「沖縄戦と集団自決裁判について」 読める判決「集団自決」=大阪地裁判決と裁判資料 読める控訴審判決「集団自決」 =大阪高裁判決と裁判資料 「ある神話の背景」の研究 「海上挺進第三戦隊陣中日誌」の研究 Index 沖縄戦資料index地理渡嘉敷村ガイド 文献 沖縄戦根元史料作戦と戦闘経緯 沖縄戦前夜 慶良間諸島の戦闘と集団自決 住民虐殺 体験証言沖縄県史渡嘉敷 座間味 阿嘉 慶留間 渡嘉敷村史 座間味村史 その他 軍政と住民動員 富山証言と手榴弾配布 朝鮮人軍夫と朝鮮人慰安婦 援護法 米軍資料 戦時報道 防衛研究所資料 論争史戦後ルポ 潮1971年11月号 青い海1971年6月号 曽野・太田論争など 家永教科書裁判の頃 「ある神話の背景」分析 否定派の裁判提起裁判を起こした右翼の経緯 産経新聞「正論」 雑誌「正論」「WILL」 日本会議学生が行ったアンケート 藤岡信勝氏が発した闘争指令 原告関係者資料梅澤証言 赤松嘉次・赤松隊資料 安里証言 海上挺進第2戦隊関係 照屋「証言」 世界日報特集 その他関係者資料大江健三郎氏関連資料 その他 狼魔人歪曲関係 星雅彦、上原正稔 最近の論評書評 07教科書検定 9.29沖縄県民大会 リンク その他 地理 渡嘉敷村ガイド 渡嘉敷村なんでもデータより 渡嘉敷村サイト・集団自決について01.慶良間諸島の沖縄戦(未作成)(PDF保存) 02.渡嘉敷島戦跡案内図(未作成)(PDF保存) 03.白玉之塔(未作成)(PDF保存) 04.自決跡地(未作成)(PDF保存) 05.戦跡碑(未作成)(PDF保存) 戦跡碑 白玉之塔 特攻艇秘匿壕 阪神さんの写真記録 文献 沖縄戦と民衆(目次) 戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦 鉄の暴風・悲劇の離島・集団自決 渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』 沖縄戦根元史料 作戦と戦闘経緯 wikipedia沖縄戦 公刊戦史を写真と地図で探る 「戦闘戦史」 読谷村史 戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦New 第三十二軍の戦備の度 海上挺進戦隊の運用 海上挺進戦隊、特幹生、マルレ 慶良間駐留部隊の戦没将兵数 座間味戦記 竹田宮と第84師団派遣中止 沖縄戦前夜 3月20日頃は決戦必至緊迫の時期八原博通など 「沖縄決戦 高級参謀の手記」前夜 p131 慶良間諸島の戦闘と集団自決 鉄の暴風・悲劇の離島・集団自決 『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同New 渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』New 渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』New 座間味戦記 渡嘉敷村史資料編:慶良間諸島の戦争(解説)(未作成) 沖縄県史より渡嘉敷村(未作成) 沖縄県史より座間味村(未作成) 赤松元戦隊長の認識と態度 海上挺進隊出撃後の島民は? 「新沖縄県史」について→沖縄県教育委員会 事実を追いかける(4)1次資料:座間味村史を読む 住民虐殺 沖縄戦における「集団自決」と「住民虐殺」の事例一覧 「日の丸」ときくと、すぐ思いうかべる事件がある。太田良博 証言記録「沖縄住民虐殺」―日兵逆殺と米軍犯罪佐木隆三 パンフレット『これが日本軍だ』 われらの「内」なる戦争犯罪田口汎 座間味島でも住民虐殺は起きていた 体験証言 沖縄県史 渡嘉敷 字渡嘉敷徳平秀雄『渡嘉敷島の集団自決』(未作成) 字渡嘉敷米田惟好『渡嘉敷村長の証言』(未作成) 本部付警戒小隊長知念朝睦『副官の証言』 阿波連金城ナヘ『集団自決とそのあと』 阿波連大城良平『渡嘉敷島で起こったこと』(未作成) 字渡嘉敷小嶺源次『渡嘉敷島防衛隊』(未作成) 匿名座談会『渡嘉敷女子青年団』(未作成) 座間味 字座間味宮里とめ『座間味島の戦闘』(未作成) 字座間味宮里美恵子『座間味の集団自決』 字座間味宮平初子『集団自決』(未作成) 字座間味宮里ナヘ『壕生活』(未作成) 字座間味中村春子『爆弾を受けて』(未作成) 字座間味宮平カメ・高良律子『山の中へ避難』(未作成) 字座間味宮城初枝『女子青年団』 字座間味吉田春子『軍と共に』 阿嘉 字阿嘉中村仁勇『青年義勇隊』 字阿嘉宮平ウメ子『炊事班』(未作成) 字阿嘉金城初子『南洋引揚者』(未作成) 字阿嘉中島フミ『戦場で出産』(未作成) 字阿嘉与那嶺康永『防衛隊の戦闘参加』(未作成) 字阿嘉仲地和子『自決を思いとどまって』(未作成) 字阿嘉垣花武一『阿嘉島の戦闘経過』(未作成) 字阿嘉照喜名定盛『食糧問題』(未作成) 慶留間 字慶留間中村米子『慶留間の集団自決』(未作成) 字慶留間大城昌子『自決から捕虜へ』 字慶留間兼城三良(父)大城昌子(娘)『集団自決』(未作成) [[]] 渡嘉敷村史 金城武徳『パイン缶詰は戦争の味』 山城盛治『私は後ろからささえる役だった』 玉城源二『巡査に連れ出され処刑された二人の少年』 小嶺勇夫『集団自決の重傷者を救け出した』渡嘉敷村史より 小嶺幸信『一〇・一〇空襲と戦場になった島』渡嘉敷村史より 富山眞順『一〇・一〇空襲・沈められた連絡船と……』 小嶺園枝『後生(グソー)スガイ(死装束)で雨の山道を』 富里安江『赤ん坊のミルク代りに椎の実を噛み砕いて…』 座間味村史 宮平貞子『死んではいけない』New その他 知花くらら、祖父の沖縄戦集団自決体験(YouTube) 友軍兵士がわが子を殺した 空襲そして艦砲射撃 山の中へ 自決未遂… 朝鮮人軍夫のこと 日本軍国主義と沖縄人 友軍にやられたよ 吉川勇助さん 吉川嘉勝さん 宮平春子さんと宮村トキ子さん姉妹の証言 上洲幸子さん 女性たち 「中尉」と「隊長」 毒おむすび渡された仲里議長 「沖縄の証言」(上)より 「沖縄の証言」(下)より 集団自決などをめぐって(論争史) 証言の意味するもの・・・谷川健一 写真集沖縄戦より 生き残った沖縄県民100人の証言 軍政と住民動員 沖縄戦について―戦時警備と総動員警備、軍命令の2種類 宮崎日誌に見る戒厳令検討 国頭国士隊の文書綴『秘密戦ニ関スル書類』 報道宣伝・防諜等ニ関スル県民指導要綱 防衛隊について 32軍による沖縄県民に対する戦争指導 沖縄新報:昭和19(1944)年12月8日第2面 住民動員それぞれの体験3防衛隊・男子学徒隊読谷村史 住民動員「義勇隊」文書発見/「根こそぎ」実態示す 警察官の秘密戦活動に関する日記 富山証言と手榴弾配布 3月20日頃は決戦必至緊迫の時期 「沖縄決戦 高級参謀の手記」前夜 p131 軍の自決命令 私は聞いた朝日新聞1988年6月16日夕刊 兵器軍曹とは 手榴弾 「元鰹節加工場敷地の顛末記」 朝鮮人軍夫と朝鮮人慰安婦 「集団自決」論争の陰に隠れて 沖縄県内の慰安所 渡嘉敷島に送られた朝鮮人軍夫の名簿(未作成) 援護法 「集団自決」早期認定/国、当初から実態把握 「軍命捏造」証言に反論/「集団自決」訴訟 「捏造」証言の元援護課職員人事記録で指摘/国の方針決定時担当外 米軍資料 沖縄タイムス:宣伝ビラ 戦況応じ配布/沖縄戦時の米軍文書発見 New OKINAWA THE LAST BATTLE Seizure o f the Kerama Islands New 戦時報道 沖縄新報Archives New 防衛研究所資料 防衛研究所資料<沖台 沖縄> <沖台 沖縄>トピック 論争史 戦後ルポ 集団自決の島――沖縄・慶良間25年目の暑い夏New 潮1971年11月号 琉球弧に住んで十六年島尾敏雄 日本人による植民地支配の原型大城立裕 生き残った沖縄県民100人の証言 集団自決を追って星雅彦 《私記》私は自決を命令していない赤松嘉次 青い海1971年6月号 私たちを信じてほしい赤松嘉次 曽野・太田論争など 集団自決などをめぐって 論争点(某ブログにて)本文 家永教科書裁判の頃 「裁かれた沖縄戦」安仁屋政昭 赤松元戦隊長の認識と態度 「ある神話の背景」分析 沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実 index 1968~1973の関係者経緯 曽野綾子に関するiza 戦争を知っていてよかった なぜ日本人は成熟できないのか 曽野綾子に関するメモ 沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄 『切りとられた時間』抜粋 いわば馥郁たる優しさ田村隆一 石川水穂による沖縄戦闘争宣言(未作成) PHP文庫「ある神話の背景」田村隆一解説 否定派の裁判提起 裁判を起こした右翼の経緯 特集・沖縄集団自決:虚構の軍命令 軍命令はなかったことを教える、授業実践報告服部 剛 沖縄戦集団自決についての取り組み昭和史研究所 沖縄集団自決冤罪訴訟と教科書検定との関係を初めて知る方に南木隆治 2005/7/24産経新聞記事 2007/1/1「靖國応援団の歩みと皆様への感謝」南木隆治 産経新聞「正論」 再論・沖縄集団自決・良心の欠けた不誠実な弁明秦郁彦 沖縄戦の集団自決と大江氏裁判秦郁彦 沖縄集団自決をめぐる理と情秦郁彦 集団自決と検定・沖縄集会「11万人」の怪秦郁彦 集団自決と検定それでも「命令」の実証なし 曽野綾子 集団自決と検定「正確さ」犠牲にはできない八木秀次 再論・沖縄集団自決藤岡信勝 「政治的妥協」の愚を繰り返すな藤岡信勝 集団自決と検定“トリック報道”で世論誘導藤岡信勝 なんのための教科書修正か岡本行夫 雑誌「正論」「WILL」 教科書検定に「沖縄条項」の創設を許してはならない藤岡信勝 完全に破綻した大江健三郎の論理藤岡信勝 大江裁判:失笑“大弁解”採録 日本会議学生が行ったアンケート 藤岡信勝氏が発した闘争指令 文科省に抗議の電話を! 原告関係者資料 梅澤証言 沖縄集団自決、梅澤隊長の濡れ衣櫻井よしこ 座間味島集団自決事件に関する隊長手記(沖縄史料編集所紀要11) 関西の防衛を支える会機関紙「國の支え」32号より 梅澤裕インタビュー平成21年9月12日(土) 赤松嘉次・赤松隊資料 海上挺進第三戦隊の配備地図(赤松戦隊長らの回想による) 渡嘉敷島に残留した別部隊員 赤松部隊「陣中日誌」の原本と改本New 赤松隊「陣中日誌」改竄の一端 赤松嘉次 本人文書 & 反映文書一覧表(仮) 赤松隊関係「史実調査参考資料報告」 赤松資料:「戦史資料 昭和二十一年一月九日調整」 海上挺進基地第3大隊戦闘概要 沖縄作戦 殉国日記 index 赤松元戦隊長の認識と態度 赤松氏デビュー1968.4.6週刊新潮 赤松氏デビュー1968.4.8琉球新報 1970.3.27沖縄タイムス(未作成) 私たちを信じてほしい青い海1971年6月号 《私記》私は自決を命令していない潮1971年11月号 渡嘉敷島隊長は「自決命令」を不本意でも認めたことはない 1970年3月赤松來沖時の報道(未作成) 安里証言 安里喜順氏の証言 海上挺進第2戦隊関係 海上挺進基地第2大隊第3中隊陣中日誌 照屋「証言」 「軍命令」は創作だった・元琉球政府職員が勇気ある告白証言藤岡信勝 「軍命令は創作」初証言・元琉球政府の照屋昇雄さん<産経新聞>平成18年8月27日 正論:軍命令を否定する証言元琉球政府の照屋昇雄さん産経新聞2006.8.27 真相を墓場まで持ち込んだ二人 世界日報ネット販売店/飛び出した証言(下)-辞令書を示し、照屋氏反論 世界日報特集 【簡単なまとめ】 妄説に断! 渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった 照屋ビデオ採録 照屋昇雄氏に関するメモ 世界日報特集 沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防 New その他関係者資料 大江健三郎氏関連資料 人間をおとしめるとはどういうことか 抜粋「沖縄ノート」 その他 沖縄戦負兵日記 写真図説:日本の侵略 狼魔人歪曲関係 源哲彦 沖縄タイムス「論壇」投稿 沖縄新報:昭和19(1944)年12月8日第2面 星雅彦、上原正稔 星、上原両氏のチャンネル桜出演に思う 最近の論評 林博史教科書検定への異議 林博史教科書検定制度の「詐欺」 janjan軍隊は住民を守らない・今、なぜ沖縄戦の事実を歪曲するのか 2007/09/17 雑誌正論沖縄集団自決冤罪訴訟が光を当てた日本人の真実弁護士・徳永信一 「沖縄」はなぜ歪曲、攻撃されるのか大城将保 アエラ記事の誤りを指摘して勉強するコーナー 世界日報鴨野守による座間味島民への人格攻撃記事 チェック資料:「集団自決に軍命はなかった」と口に出せない沖縄「言論封鎖社会」週刊新潮 櫻井よしこ チェック資料: 沖縄戦、県民疎開に尽力した知事 櫻井よしこ 週刊新潮 世界2007年6月号 世界2007年7月号 検証「集団自決」ジェンダーの視点から 宮城晴美 「集団自決(強制集団死)」森住卓 書評 『沖縄戦 強制された「集団自決」』 丹念な分析で「真相」に迫る 出版:狙われた「集団自決」 沖縄の涙…怒りの声 シリーズ:『沖縄・問いを立てる』(全6巻)紹介 07教科書検定 リンク「けーし風」読者の集い(3) 沖縄戦特集 「軍の強制」明記/執筆者坂本氏申請へ沖縄タイムズ2007年10月28日 事実を追いかける(2)検定意見と修整内容について 沖縄集団自決・教科書から「軍命令」削除検定撤回狙うNHK報道中村粲 文科省最終承認~検定審第2部会日本史小委員会の報告(平成19年12月25日) 共同アピール 「あぶない教科書」を子どもたちに渡してはならない 9.29沖縄県民大会 県議会意見書 9.29沖縄県民大会大会決議 座間味・宮平春子さん(代読) 渡嘉敷・吉川嘉勝さん 高校生の発言 沖縄・集団自決日本軍関与:教科書検定撤回もとめて11万人のうねり 集会の虚構と実体日本会議熊本理事長 多久善郎 リンク:かつぼたつ 大会運営 リンク 戦争と沖縄 「戦争と沖縄」8参考文献のページ 沖縄戦の記憶・本館 沖縄戦の記憶・沖縄戦体験の証言 大田昌秀講演「戦後沖縄の挑戦」 西浜楢和さん「沖縄通信」 その他 月刊ビューポイント■ダイジェスト版世界日報 1945年3月の月暦 TOP | 沖縄戦庫
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/640.html
原告準備書面(2)全文2006年3月24日その3 ソース:http //www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page022.html 原告準備書面(2)全文2006年3月24日その1 原告準備書面(2)全文2006年3月24日その2 原告準備書面(2)全文2006年3月24日その3 原告準備書面(2)全文2006年3月24日その4 原告準備書面(2)全文2006年3月24日その3第2 渡嘉敷島における集団自決の神話と実相1 渡嘉敷島の集団自決の神話 2 渡嘉敷島における集団自決の経過の概要(1) 集団自決があったのは3月28日の午後 1時頃であった。 (2)安里巡査は、27日午後、夕方近くになって西山の谷間の日本軍陣地で (3)渡嘉敷村の約2/3 の人の人達が大雨の中を恩納川にそって (4)具体的にどうするかという段になって。みんなが死ぬにしては (5)逃げ出す集団もあった。集団から立ち去った約300 人が、 (6)西山盆地でほとんど無傷でいた阿波連のひとたちのあいだでは 3 『鉄の暴風』と赤松命令説(1)赤松命令説の発端 (2)『鉄の暴風』に登場した赤松命令説a)赤松隊長の自決命令で集団自決が行われたと断定した最初の資料である『鉄の暴風』は b)『鉄の暴風』を作成した沖縄タイムス社は昭和23年に設立され c)これによれば、太田良博は渡嘉敷島には自らは行かなかった。 (3)「軍命令による集団自決」の証言者a) 証言者の一人は、 b)しかし、軍の関係者で、何らかの取材を受けた人は、 c)軍と島民との間で連絡役などもした安里喜順元巡査は、 c)しかし沖縄タイムスが、『鉄の暴風』の「まえがき」に嘔うように、 (4)『鉄の暴風』の本質的な誤り 4 自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在(1)『鉄の暴風』の記述 (2)赤松元大尉は自決命令を出したことを明確に否定している(甲B2)。 (3)赤松隊長から自決命令が出されるとすれば、 (4)また『鉄の暴風』で「27日、地下壕内の将校会議で (5)自決命令と間違われる可能性のあるものに (6) 仮に、自決命令が出たとすれば (7)渡嘉敷島の村長は古波藏惟好、兵事主任は富山真順、 5 赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』(1)『戦闘概要』は古波藏惟好と (2)『戦闘概要』( 乙10)と極めて類似している資料に、『戦争の様相』がある(乙3)。 (3)『戦闘概要』は渡嘉敷村遺族会編著となっており、 (4) 仮に『戦闘概要』が「戦傷病者戦没者遺族等援護法」( 以下「援護法」という) (5) そのような空気の中で昭和32,3年まで、 6 自決命令の言い換え(1)古波藏惟好の場合a)古波蔵(米田)惟良元村長は、 b)また古波藏(米田)惟好元村長は、 c)また、『渡嘉敷村長の証言』供述に記載された経過 d)古波藏惟好元村長は、『沖縄県史第10巻』における (2)富山真順元兵事主任の場合a)富山(新城)真順元兵事主任は b)しかも、富山真順元兵事主任によれば、 c)さらに富山真順元兵事主任は、 d) また手榴弾は防衛隊に配付されたものであるが、 e)星雅彦著『集団自決を追って』に記載される f)どうやら富山真順元兵事主任は、 g)捕虜になる不名誉を避けるというのは h)防衛隊長の屋比久孟祥は 第2 渡嘉敷島における集団自決の神話と実相 1 渡嘉敷島の集団自決の神話 本件書籍三『沖縄問題20年』(甲A2)は、渡嘉敷島の集団自決について次のように記述している。 「立ち上がることもなければ、戦うこともなく、民衆を殺しただけの軍隊もあった。ほとんどすべての沖縄戦記に収録されている、慶良間の赤松部隊の話がもっとも顕著な例である。那覇港外に浮かぶ慶良間列島は、晴れた日には琉球大学のある丘から一望のもとに見渡せる美しい島々で、戦前は野性の鹿の住み屋として知られていた。この慶良間列島の渡嘉敷島には、赤松大尉を隊長とする海上特攻隊130 名が駐屯していた。この部隊は船舶特攻隊で、小型の舟艇に大型爆弾2 個を装備する人間魚雷であった。だが赤松大尉は船の出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した。そして住民約3 百名に手榴弾を渡して集団自決を命じた。赤松大尉は、将校会議で『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』と主張したという。」 そしてこれがあたかも事実であるかのように喧伝された。 2 渡嘉敷島における集団自決の経過の概要 しかし、安里喜順元巡査(甲B16・沖縄県警察史2巻772~775頁)や星雅彦記者(甲B17・1971年『潮』11月号『集団自決を追って』210~213頁) によると、赤松隊長による自決命令はなく、現実の渡嘉敷島の集団自決の経過は概ね以下のようなものであったことがわかる。 (1) 集団自決があったのは3月28日の午後 1時頃であった。 3月23日には初めて本格的渡嘉敷島への空襲で村の役場や郵便局が焼けた。25日には艦砲射撃も加わった。古波藏村長(33 歳) は在郷軍人であった。安里巡査は、沖縄本島に妻子を置いて単身1 月下旬に赴任したばかりであった。小学生まで陣地構築に協力してきた村民が、これからどうするか赤松隊長に相談するために安里巡査は、27日朝から赤松隊長を捜し回った。 (2)安里巡査は、27日午後、夕方近くになって西山の谷間の日本軍陣地で 陣地構築の指図をしていた赤松隊長にあった。陣地壕はまだほとんど掘られていなかった。赤松隊長は安里巡査に「島の周囲は敵に包囲されているから、逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難したほうがよい。」といった。そこで安里巡査は、居合わせた防衛隊員に西山盆地への集合の伝達を依頼し、自らも各壕を回って伝えた。防衛隊の一人から村長へ伝達をし、村長からも同様な伝達が出た。 (3)渡嘉敷村の約2/3 の人の人達が大雨の中を恩納川にそって 北上した。米軍に追われた阿波連の人たちは1 時間遅れて西山に到着した。3 月28日、朝7 時ころ、防衛隊の数人が「西山盆地」に集まれと叫び、村民は命令どおり200 m離れた平坦な場所に移動した。3時間の間、集団の中で村長、郵便局長、校長、助役や巡査や録場の幹部十数人が協議していた。これからどうするかを意見を出し合ったが、話し合ううちに「玉砕するほかない。」という結論になってしまった。しぜんに玉砕ということになって、その恐怖心から逃れられらなくなった。 (4)具体的にどうするかという段になって。みんなが死ぬにしては 手榴弾が足りないということになり、一人の防衛隊が、「友軍の弾薬貯蔵庫から、手榴弾を取ってきましょう」と申出、防衛隊3人が出掛けた。 それから1時間後に防衛隊によって村民に対する玉砕する話がひろめられた。村の指導者はそれぞれ家族や親戚の人に玉砕の話をした。古波藏村長がみんなの中央に立って「敵に取り囲まれてもう逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」と言った。手榴弾の炸裂音が起こった。 (5)逃げ出す集団もあった。集団から立ち去った約300 人が、 日本軍陣地へ向かってなだれたが、300mも行かないうちに米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。村長は逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい」と叫んだ。その意思をうけた防衛隊長屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順が集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ「住民を撃ち殺すから、機関銃を貸して欲しい」と願い出たが「そんな武器は持ち合わせていない」とどなりつけられた。なだれ込んだ集団は日本軍陣地100 mまで来ていた。泣き叫ぶ村民を将校は抜刀して立ち去るように威嚇した。 村民は恩納川の谷間へと散っていった。 (6)西山盆地でほとんど無傷でいた阿波連のひとたちのあいだでは 300 人の集団が立ち去ったあとで無残な殺し合いが始まっていた。迫撃砲の炸裂を聞きながら、ナタやカマを借りて生木を切ってこん棒を作り、ベルトで家族を殺していた。 手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では農具を凶器に殺し合った。渡嘉敷島では、このとき多数の人が集団自決したと言われる。 3 『鉄の暴風』と赤松命令説 赤松隊長が出したとされる渡嘉敷島の自決命令は、どのようにして現れたか、誰が言い出したものかが問題である。 (1)赤松命令説の発端 渡嘉敷島の自決命令について、最初に記載された資料は『鉄の暴風』(乙2 )と『慶良間列島渡嘉敷島戦闘概要』(以下『戦闘概要』という)(乙10・資料1)であるが『戦闘概要』と同じ機会に同一人により作成されと思われる『慶良間列島戦況報告書の渡嘉敷島戦争の様相』(以下『戦争の様相』という)(乙3)には自決命令の記載がない。その後に作成された渡嘉敷島の自決命令にふれるに関する文書は、『鉄の暴風』か『戦闘概要』を引写し、あるいは脚色を一部加えたものに過ぎない。 以下、『鉄の暴風』を曽野綾子作『ある神話の背景』(以下『神話の背景』という)(甲18) や関係資料をもとに検討する。 (2)『鉄の暴風』に登場した赤松命令説 赤松元隊長が否定する自決命令はどういう経過で、『鉄の暴風』に記載されたのだろうか。 a)赤松隊長の自決命令で集団自決が行われたと断定した最初の資料である『鉄の暴風』は 沖縄タイムス編著で朝日新聞から昭和25年8 月2 日に発行された(甲B7) 。 『鉄の暴風』によると、 「翌3月26日の午前6 時米軍の一部が渡嘉敷島に上陸した。住民はいち早く各部落の退避壕に避難し、守備軍は、渡嘉敷島の西北端、恩納河原付近の西山A 高地に移動したが、移動完了とともに、赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対して「住民は捕虜になる怖がある。軍が保護して直ぐ西山A 高地の軍陣地に避難終結せよ」と命令を発した。さらに住民に対する赤松大尉の伝言として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」ということも駐在巡査から伝えられた。さらに28日には、恩納河原の住民に対して思いがけない自決命令が赤松大尉からもたらされ『ことここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに5日目だった」、「住民には自決用として、32発の手榴弾が渡されていたが、さらにこの時のために、20発増加された」、「翌27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』と主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身) は悲憤のあまり、慟哭して軍籍にある身を痛感した。」 と記載されている。 b)『鉄の暴風』を作成した沖縄タイムス社は昭和23年に設立され 『鉄の暴風』の編纂を企画したのは、翌24年であった。「まえがき」には、「壕中で新聞開発の使命に生きた、旧沖縄新報社全社員は、戦場にあって具に体験した苛烈な戦争の実相を世の人々に報告すべき責務を痛感し‥‥」と書かれている。また「まえがき」は、執筆者が牧浜篤三、伊佐良博、沖縄タイムス記者であったとしている。 曽野綾子氏は『神話の背景』(甲B18)で執筆者の「太田良博氏」に取材したことを紹介している。太田良博と『鉄の暴風』の「まえがき」の伊佐良博とは同一人物である。 c)これによれば、太田良博は渡嘉敷島には自らは行かなかった。 辛うじて那覇で捕らえた二人の証言者から取材した。一人は「当時の座間味村の助役であり、現在の沖縄テレビ 社長である山城安次郎」もう一人は「南方から復員して帰ってきていた宮平栄治」という。山城安治郎は目撃していない渡嘉敷島の事件についてどんな証言をしたのであろうか。もう一人の宮平栄治は「そのような取材をうけた記憶はない」と言っているのである(甲B18・『神話の背景』51p )。 (3)「軍命令による集団自決」の証言者 『鉄の暴風』で渡嘉敷島の「軍命令による集団自決」を証言した者は誰であろうか。 a) 証言者の一人は、 座間味村の助役山城安次郎であり、もう一人は、自身は取材をうけた記憶はないという戦後南方から復員した宮平栄治であった(甲B18・『神話の背景』51p )。 どちらも渡嘉敷の惨劇の立会者ではなく、「証言」したとしても、間接的なものでしかない。実際に証言できる人は、直接事件を体験し、または目撃した島民と、当時島に駐留していた軍人だけである。 b)しかし、軍の関係者で、何らかの取材を受けた人は、 赤松隊長はもとより、隊長の副官で隊長の命令はすべて承知している立場にある沖縄出身の知念朝睦元少尉も含めて、一人もいない。 c)軍と島民との間で連絡役などもした安里喜順元巡査は、 知念元少尉と同様沖縄出身だが地元ジャーナリズムの取材は昭和45年まで一切受けたことがないという。 残るは古波蔵元村長以下、事件を体験、または目撃した渡嘉敷島民だけであるが、事件の起こった当時の異常な状況を考えれば、軍の命令があったかなかったか、あったとしたら誰を介して、誰に命令が来たかなど証言できる人は村長、助役等、ごく小数のはずである。 山城安次郎、宮平栄治の両名が『鉄の暴風』の取材に実際に協力したとしても、事件の現場にいて指導的立場にあった古波蔵元村長や屋比久元防衛隊長等に証言を求めざるを得なかったであろう。 ところが古波蔵元村長の自決命令に関して説明するところは極めて曖昧であり、屋比久元防衛隊長が自決命令について発言している事実は確認出来ない。 c)しかし沖縄タイムスが、『鉄の暴風』の「まえがき」に嘔うように、 「苛烈な実相を、世の人々に報告すべき責務を痛感した」のであれば、戦後は内地に復員していて連絡が取りにくかったであろう赤松元大尉はともかく、少なくとも、沖縄在住の知念元副官や安里元巡査にすらインタビューした形跡もないということは沖縄タイムスの編集方針が当初から、政治的で偏ったものであったか、または地元住民側からこれらの人々を排除する働きかけがあったかのいずれかとしか考えられない。 地元住民側からこれらの人々を排除する働きかけがあったとは考えにくい。けだし、渡嘉敷島の住民と赤松部隊の元隊員と戦病死隊員の遺族は昭和25年から渡嘉敷島民との合同慰霊祭を5年ごとに行って、往時を偲び、戦死者、戦没者の霊を弔い交流を深め60周年にあたる平成16年 3月28日まで続けられた事実がある。また赤松元隊長の恩賜の時計や浮田堅次郎軍医の聴診器が渡嘉敷村の資料館に記念品として展示されている事実からして渡嘉敷島の村民と赤松部隊の関係者との間に溝があったとは考えがたい。そうすれば、『鉄の暴風』が当初から沖縄タイムスの政治的で偏った編集方針により作成された疑いが強いものといえる。 (4)『鉄の暴風』の本質的な誤り さらに『鉄の暴風』には、渡嘉敷島の記述に本質的な誤りがある。 『鉄の暴風』は米軍の渡嘉敷島への上陸が3月26日午前6時頃であったとするが、米軍の渡嘉敷島への上陸は防衛庁防衛研修所戦史室による『沖縄方面陸軍作戦』においては3月27日の午前9時8分から9時43分とされている。 米軍上陸という決定的に重大な記録的事実が間違って『鉄の暴風』に記載され、さらにその後に作成された『戦闘概要』や『戦争の様相』においても米軍上陸が3月26日と間違って引用されている。これは事実調査の杜撰さと合わせて、『鉄の暴風』、『戦闘概要』、『戦争の様相』が一様に信用できないことを示している。 4 自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在 赤松元大尉から自決命令が出されたかを、別の視点で検討する。 (1)『鉄の暴風』の記述 前述のとおり赤松元大尉からの自決命令にふれる最初の資料は『鉄の暴風』であり、そこでは「恩納河原に避難中の住民に対して思い掛けぬ自決命令がもたらされた。『ことここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに5日目だった」(乙2・34 頁) 、「住民には自決用として、32発の手榴弾が渡されていたが、さらにこの時のために、20発増加された( 乙2・35頁) 、「翌27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉( 沖縄出身) は悲憤のあまり、慟哭して軍籍にある身を痛感した」と記載されている( 乙2・36頁) 。 (2)赤松元大尉は自決命令を出したことを明確に否定している(甲B2)。 さらに恩納河原に避難中の住民にもたらされたとされる自決命令はだれを通じて、住民側の誰に伝えられたか全く不明である。命令者も受領者も伝達者も分からない命令はあり得ないにもかかわらず、『鉄の暴風』では自決命令があったとされる。 (3)赤松隊長から自決命令が出されるとすれば、 副官であった知念元少尉を通じてであるはずであるが、知念元少尉は自決命令が出た事実を否定する。 『沖縄県史第10巻』所収の手記『副官の証言』で、知念元少尉は、「赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けてはやまったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。私は赤松の側近の一人ですから赤松隊長から私を素通りしていかなる下命も行われないはずです。集団自決の命令なん私はきいたことも、みたこともありません。最も、いま現存しているA氏が機関銃を借りにきていました村民を殺すためだというので赤松に追い返されていました」という(乙9・773頁上段)。 副官が知らない自決命令ということはあり得ない。そうすると赤松隊長から自決命令が出た事実がないことになる。 (4)また『鉄の暴風』で「27日、地下壕内の将校会議で 自決命令が出た際に、自決命令を聞いた」とされる知念元少尉はこの事実を否定する。知念元少尉は「地下壕は3月27日当時掘られていなかったし、従って地下壕の将校会議は開かれた形跡はない」というのである(甲B4) (甲B18・『神話の背景』112 ~123頁)(甲B17・1971年『潮』11月号星雅彦の『集団自決を追って』208頁上段から中段) 。 なによりも、赤松隊長の命令を聞いたとされる知念元少尉に沖縄の報道関係者から昭和45年までにインタビューをした形跡が全くないのである (甲B18 ・『神話の背景』123 頁) 。 知念元少尉に確かめないで、しかも知念元少尉が経験したこともない地下壕、将校会議について記述する『鉄の暴風』は、その部分については全く信用性がないことになる。そうであれば、当然にその際の自決命令も、虚偽ということになるし、他の部分の記述にも信用性がないことになる。 (5)自決命令と間違われる可能性のあるものに 赤松隊長が安里巡査に「避難したほうが良い」といった言葉がある。これを、あるものは「赤松隊長の命令」とよび、またあるものは「指示」と呼ぶ(甲B17・星雅彦著『集団自決を追って』208頁下段)。 赤松元隊長も、これが、自決命令と曲解されるきっかけとなったかもしれないというが(甲B2・217上段) 、安里巡査は曽野氏の取材に対し「集合命令」は隊長の命令ではなく、「あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きてくれ、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから部隊の近くのどこか避難させておいてくれ」と隊長にいわれ、住民を「生かすために」山の中に避難させたところ「村長以下、みな幹部もね、捕虜になるより死んだほうがいい」と半狂乱になり、恐怖に駆り立てられた状況を説明している(甲B18・『神話の背景』124 ~127頁)(甲B16・沖縄県警察史2 巻773 ~775 頁) 。 そうすると集合命令と部下集合指示の差があっても「赤松隊長が自決命令を出した」と結論づけることは到底、不可能である。 (6) 仮に、自決命令が出たとすれば その命令が村に伝達される経過が必要である。そうすると軍から渡嘉敷村の村民側に伝達するのは誰かということになる。 伝達役として考えられるものに、役場で招集等軍関係の事務を担当していた兵事主任、臨時招集された住民からなる防衛隊の隊長、村の駐在巡査がある。 古波藏元村長によれば、「軍からの命令は安里喜順を通じて村長に伝えられるのであって、それ以外の方法では伝えられない」と断言する(甲B18・『神話の背景』122 頁)。 そうであれば安里喜順が赤松元隊長の命令を伝達しなければ、命令は村長に届かないはずである。 ところが、安里喜順は赤松隊長から自決命令が出た事実を認めていない(甲B16・沖縄県警察史第2 巻) 。『神話の背景』でも、安里喜順巡査は、赤松隊長が自決命令を出したことを否定し、むしろ「あんたたちは非戦闘員だから、生きられる限り生きてくれ」と言ったと証言している(甲B4)(甲B18・『神話の背景』124 頁) 。 命令を伝達するはずの安里元巡査は自決命令が出たことを認めていないのであるから、自決命令を伝達していないことは明らかである。 安里元巡査は敵からの攻撃の中で「村民が混乱の中で、死ぬしかないということで、自決を始めた。その方法は手榴弾であったり、剃刀、桑、棒であった」 というのであり(甲B20・週刊朝日1970年8 月21日号21頁5 段目~22頁4 段目迄) (甲B16・沖縄県警察史第2巻772 ~775頁) 、命令で自決したこと を明確に否定している。 そうであれば、自決命令で集団自決したとする結論を導くことは到底不可能である。 (7)渡嘉敷島の村長は古波藏惟好、兵事主任は富山真順、 防衛隊長が屋比久孟祥であるが、このうち誰が赤松元隊長からの自決命令を受領したのか明らかにした資料はない。 古波藏元村長は、自決命令がどのようにして自分に伝えられたのか、誰から伝えられたのかを明確にしない。『神話の背景』でも、自決命令があって自決に至った経過を明らかにしない。むしろ「敵が上陸したということが、まあいけないということですね。何にしてももう決行しようということになって」「喋ったわけではなくて、そういう気持ちになっているわけです」と極めて歯切れが悪く、自決命令があった事実そのものを明確にしない(甲B18・『神話の背景』118 ~119 頁) 。 5 赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』 (1)『戦闘概要』は古波藏惟好と 渡嘉敷村吏員防衛隊長屋比久孟祥等の記憶を辿って作成したものであると記載され、作成は昭和28年3月28日となっている(乙10・6頁上段) 。 その内容は「昭和20年3月28日午前10時頃、樹民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地へ集まったが、島を占領した米軍は友軍陣地北方2,3 百米の高地に陣地を構え、完全に包囲態勢を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」というものである( 乙10・12 頁下段) 。 この防衛隊員が誰かは不明である。自決命令が下されたのであれば、防衛隊長である屋比久孟祥が防衛隊員を通じて赤松隊長の自決命令を把握していないとは考えられないが、屋比久孟祥が自決命令を認めた資料はこれまで確認できない。 しかし、3 月28日に住民の混乱のなかで自決が始まり、失敗した者を殺すために機関銃を借りに軍陣地に行って追い返されたのが兵事主任富山真順と防衛隊長屋比久孟祥であるとする星雅彦の『集団自決を追って』よりすれば(甲B17・1971年『潮』11月号『集団自決を追って』212 頁上段)、自決命令が無かったことは明らかである。自決命令が出ていたとすれば、機関銃を貸さないことは説明がつかないのである。 (2)『戦闘概要』( 乙10)と極めて類似している資料に、『戦争の様相』がある(乙3)。 『戦闘概要』と『戦争の様相』はその内容が「一方が、他方をひき写したことが確実な程に両者は酷似している。」のである。 ところが、前後の文章は戦『戦闘概要』と全く同じであるにもかかわらず、『戦闘概要』には「時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」と記載された一文だけが『戦争の様相』では完全に抜けている( 乙10・12 頁下段) 。 (3)『戦闘概要』は渡嘉敷村遺族会編著となっており、 私的な書物の体裁であるが、『戦争の様相』は慶良間列島戦況報告書渡嘉敷村座間味村と両村が共同製作した公的文書の体裁である(甲B23・慶良間戦況報告書) 。 そうすると、『戦闘概要』という私的文書では自決命令が記載されていたところが『戦争の様相』という公的文書とする段階では自決命令を削除したことは明らかである。しかし、『戦争の様相』では古波藏惟好と渡嘉敷村吏員防衛隊長屋比久孟祥という少なくとも公的立場にいた二人が公的な文書に、「赤松隊長の自決命令」を記載させなかった事実は、「赤松隊長の自決命令」がなかったことを推測させるに十分である。けだし、『戦争の様相』には、古波藏惟好と渡嘉敷村吏員防衛隊長屋比久孟祥等の記憶を辿ってその概要をまとめたとあるところから、「赤松隊長の自決命令」は二人の記憶になかったと思われるからである。 遺族会編の『戦闘概要』には自決命令が記載されたのは、遺族会編の私的文書であれば、確認されていない、あるいは事実に反する自決命令が記載されても構わないと考えたとものと推測される。 (4) 仮に『戦闘概要』が「戦傷病者戦没者遺族等援護法」( 以下「援護法」という) の適用を当時の厚生省に申請した際、資料として提出した文書の一部であったとしても、『戦争の様相』を作成する際、その記載を避けた事情は推測に難くない。座間味村の宮里盛秀元助役兼防衛隊長のように自決命令を下した本人が集団自決によって死亡していて、その実弟が、原告梅澤を「軍命令」の責任者に仕立て上げた場合とは事情が異なるからである。 ただ、当時軍命令で自決したことにしないと、島民で死んだ人たちの遺族に年金が降りなかったという背景がある。 厚生省援護局調査課沖縄班の話によると、援護法ができたのは昭和27年であり、渡嘉敷の場合は軍の要請で戦闘に参加したということで島民全体が準軍属とみなされ、気の毒で戦死とみなした。その判定が行われたのは昭和32年から33年にかけてであるが、適用は27年にさかのぼっている。集団自決が行われたのは事実であり、それは戦争なしでは惹起されたものではなかった。多くの人が死んだ。多くの家庭で生きていてもらわねばならない人が死んだ。生きている人を、死者よりも大切にするために、年金は必要であった(甲B18:『神話の背景』169,170 頁) 。 (5) そのような空気の中で昭和32,3年まで、 渡嘉敷をめぐる周囲の関係者が「軍命令による玉砕を主張することは年金を得るために必要であり、自然であり、賢明であったと言える」という指摘もある( 甲B18 号証・『神話の背景』169,170 頁) 。 しかし、遺族が年金を取得する目的であったとしても赤松元隊長の自決命令がなかったにもかかわらず、長い年月にわたり「赤松隊長の自決命令」を前提に集団自決が語られ、赤松元隊長に対する誹謗中傷が続けられることは赤松元隊長や親族には耐えがたいことであり、赤松元隊長が死亡した現在もその遺族には耐えがたい苦痛によって苦しみ続けているのである。 6 自決命令の言い換え (1)古波藏惟好の場合 a)古波蔵(米田)惟良元村長は、 「自決命令はしなかった、と赤松はいっているが、住民を部隊の陣地へ集合させておきながら、出ていけというのは、住民に死ねというのと同じではありませんか」という( 甲B20:週刊朝日22頁4 段目) 。 しかし、部隊の陣地は戦闘のためのものであって、住民が避難すれば敵の攻撃をもっとも受けやすいところであり、住民の避難場所としては危険すぎるし、軍の活動に支障が生じることから、部隊の陣地への集合を命じるはずがない。住民が軍陣地に押しかけたとしたら住民の安全の為に退去を求めるのは当然のことである。 そうであれば、古波藏元村長のいう「軍陣地からの退去要求」が即、自決命令とするのは明らかに無理な論理である。 b)また古波藏(米田)惟好元村長は、 『沖縄県史第10巻』の『渡嘉敷村長の証言』において「軍の陣地の裏側の盆地に集合するようにといわれた。命令とあらばと、村民をせかせて、盆地へ行った。米軍は西山陣地千メートルまで迫っていた。赤松の命令は、村民を救う何か得策かも知れないと私は心の底でそう思っていた。上流で防衛隊員と合流した。その時米軍はA高地を占領し、そこから機銃を乱射して私たちの行く手を拒んでいるようであった。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった。防衛隊員の持ってきた手榴弾があちこちで爆発した」と述べている( 乙9・768 頁上段) 。 そうすると古波藏元村長は週刊朝日の記事では「軍陣地に集合させておきながら、軍陣地から出ていけということは、自決せよということだ」といいながら、『沖縄県史第10巻』に収録された供述(乙9・768頁上段) では、「軍の陣地の裏側の盆地に集合するようにといわれた」「盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった」というのである。赤松元隊長が村民を「軍陣地に集合させ」たのではなく、陣地から「出て行け」と言われたのでもないことは明らかである。 c)また、『渡嘉敷村長の証言』供述に記載された経過 からみれば、集団自決が始まった段階までは、古波藏元村長は、盆地への集合は、住民を救う赤松の得策と考えていたのであり、赤松元隊長から自決命令が出たという認識がなかったことを明確に物語っている。 むしろ、安里巡査が沖縄県警察史で説明するところからすれば、軍の陣地に押しかけたのは集団自決が始まった後で、自決に失敗したため、あるいは恐怖に駆られて逃げ出した住民が、軍陣地に押しかけた際に、将校から退去を求められたことを指している可能性が強い。 そうであれば、集団自決の後に軍陣地に押しかけて退去を求められたことを死ねということだと古波藏元村長は言っていることになる(甲B16:沖縄県警察史2 巻774,775 頁) 。だから、集団自決が始まるまで赤松元隊長から自決命令が出ていなかったことは明らかである。 少なくとも古波藏惟好元村長には自決命令が届かなければ、自決命令があったと考えることはできない。村長が知らない自決命令で村民の多くが自決するということはありえないのである。 d)古波藏惟好元村長は、『沖縄県史第10巻』における 供述では「盆地への集合命令」は認めているものの、「赤松隊長の自決命令」を認めてはいない。それだけでなく、新たに防衛隊員から手榴弾を交付されたことに問題を向けるのである(乙9・768 頁上段、769 頁上段) 。 古波藏元村長は「自らに送達された赤松大尉からの自決命令があったか、否か」という決定的事実についてすら曖昧な供述に終始し、事実を明らかにしないまま、防衛隊員から手榴弾を交付されたことを自決命令に結び付けたいものと推測されるのである。 これは明らかに争点をずらしているに過ぎないし、論理の飛躍である。 結局、命令の村民側の最終的受領者である古波藏惟好元村長が命令の受領を明確にできない以上、同人の証言から赤松元隊長の自決命令を認定することは不可能である。 (2)富山真順元兵事主任の場合 a)富山(新城)真順元兵事主任は 手榴弾を兵器軍曹が配付した際に一発は敵と戦うために、一発は捕虜になる時には、自決せよと言って渡したという( 乙12:1988年6 月16日付朝日新聞) 。 しかし、その兵器軍曹が15才から17才未満の少年と役場の職員に手榴弾を渡した事実そのものが疑わしい。仮に事実だとしても、そのことから赤松隊長から自決命令が出たことにはならない。 b)しかも、富山真順元兵事主任によれば、 手榴弾を渡したのは3月20日頃のことであるという。手榴弾を渡したことが自決命令なら、古波藏元村長や村民にはこの時点で、自決命令をうけたとの認識がなければならないであろう。ところが古波藏元村長を始め、渡嘉敷村民でこの時、自決命令があったと認識した者はいない(『沖縄県史第10巻』所収の村民供述参照)。 『鉄の暴風』の記述によれば、自決命令は3月27日から3月28日にかけて軍の陣地の北側の盆地に移動を開始してからという認識だったはずである(乙3・34~36頁) 。 さらに古波藏元村長、屋比久孟祥元防衛隊長らの記憶をもとに作成されたとされる『戦闘概要』によれば、「3月28日午前10時頃、迫撃砲は赤松陣地に迫り、住民の住の終結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」というのである(乙10・12 頁下段)。自決命令は3月28日に出されたものであったはずである。 それより1週間も前に自決命令が出た事実を他の村民や村長が認識した事実がないにもかかわらず、富山真順元兵事主任は、手榴弾を配布した際のやり取りから自決命令があったとするのである。 c)さらに富山真順元兵事主任は、 『潮の1971年11月号』の手記では赤松隊長からの自決命令に全く触れていないにもかかわらず (甲B21:『潮』1971年11月号122頁) 、『1988年6月1日の前記朝日新聞』(乙12) では、俄に、手榴弾を配付したことが自決命令であるといい出したものである。1971年11月号の『潮』で自決命令にふれなかった者が何故、手榴弾の配付で自決命令があったと言いだすのであるか、不可解である。「後で考えてみれば、手榴弾を配られた時が、自決命令があった時だ」というような曖昧な自決命令はありえない。 そもそも、いつ出たか明確でない自決命令ということはありえないであろう。出た時が明らかでないということは、自決命令の時期が自決命令と受け止める人によって異なることを意味するからである。こんな曖昧な命令はありえない。 問題になる命令は自決せよという「赤松隊長の命令」なのである。 d) また手榴弾は防衛隊に配付されたものであるが、 西山陣地の北の盆地に避難した後、敵軍の迫撃砲などの攻撃を受けて大混乱になった村民が進退極まった中で自決するしかないという話になった時、防衛隊の持っている手榴弾を配付し、手榴弾での自決が始まったというのが安里喜順元巡査や作家の星雅彦氏の明らかにする経過である(甲B17:1971年『潮』11月号210 ~213 頁)(甲B16:沖縄県警察史2 巻774,775 頁) 。 自決命令が出たから自決したのではなく、手榴弾を使って自決したから命令があったことになるという富山真順の主張は明らかに無理な論理である。 e)星雅彦著『集団自決を追って』に記載される 安座間豊子の母ウシらから見た経過は以下のとおりである。 「『西山盆地に集まれ』といわれ、雑木林にたどり着いた。・・その間村長を中心とする郵便局長や校長や助役や巡査や役場の人たちと防衛隊の幹部ら十数人が寄り集まって協議していた。これからどうするかという意見を出し合ったが、話し合っていくうちに玉砕するほかはないという結論になってしまった。自然に玉砕ということになって、その恐怖から逃れられなくなってしまった」( 比嘉(改姓後は安里) 喜順らの証言) 。 結局、皆が死ぬにしては、手榴弾が足りないということになった。一人の防衛隊が「友軍の弾薬貯蔵庫から手榴弾をとってきましょうか」と申し出たことから、不断から親しく防衛隊と接触している防衛隊3人が出掛けることになった。・・・間もなくして古波藏村長がみんなの中央に立って「敵にとり囲まれてもう逃げられない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」と声をふるわせながら言った。手榴弾の爆発する音が聞こえた。・・村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい」と叫んだ。その意思を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城(富山)真順は集団より先がけて日本軍陣地に駆け込み「住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせていない」とどなりつけられた。(甲B17:1971年『潮』11月号210 ~213頁) 。 f)どうやら富山真順元兵事主任は、 赤松元隊長が、住民に自決命令を出していないことを知っていながら、3月28日の経過からは自決命令を導き出すことが出来ないと判断して、3月20日の手榴弾の配布を持ち出して自決命令をこじつけようとしているものである。 赤松隊長から自決命令が出ていたのならば、兵事主任富山真順と防衛隊長屋比久孟祥が、死ねない住民を殺すために機関銃を借りに行ったとき赤松元隊長から「そんな武器は持ち合わせていない」と拒絶されるはずがないのである。それにもかかわらず富山真順が3月20日に手榴弾を配ったことで自決命令があったと強弁を続けるとしたら、あるいは古波藏元村長が陣地からの退去を要求することが自決命令と同じだと主張し、あるいは防衛隊員が自決の際に手榴弾を配布したのが解せないとして自決命令に結び付ける態度をとることからすると複数の自決命令が存在することになる。人により、時により自決命令が存在したり、しなかったり、複数存在したりする曖昧な自決命令とはそもそも存在しないことを物語る。 g)捕虜になる不名誉を避けるというのは 当時の国民の多くが共通に感じていたことであり、米軍にどのような扱いを受けるのかという恐怖もあった。捕虜になるなら自決する覚悟を国民の多くが持っていたのであり、そのことは『沖縄県史第10巻』所収の村民らの供述からも明らかである。兵器軍曹が〝万一の時〟には自決用に使えというのはこのような国民の多くの考えを確認したものであって、自決命令などではない。だから赤松隊長の自決命令があったことにはならない。そもそも、手榴弾を配ることを自決命令にあたるとするのは牽強付会の極みである。それでは手榴弾を配られなかった阿波連の住民の集団自決は説明がつかなくなるであろう。 h)防衛隊長の屋比久孟祥は 自決命令の受領の事実を明らかにしない。しかし、その理由も明らかである。3月28日に自決命令など無い状態で、住民の混乱のなかで自決が始まり、失敗した者を殺すために機関銃を借りに軍陣地に行って追い返された事実からすれば、自決命令があったと強弁することは出来ないからである。 ところが、防衛隊長の屋比久孟祥が関与した渡嘉敷村の遺族会編の『戦闘概要』では自決命令があったと記載し、同じく屋比久孟祥が関与した渡嘉敷村の作成にかかる『戦争の様相』では自決命令が削除されていることは前述した通りである。 このように自決命令は関係者の思惑で、如何様にも記載され、主張される用語と化しているのである 戻る | index | 次へ