約 3,335 件
https://w.atwiki.jp/yamazakikoutarou/pages/25.html
星雅彦(作家) (本稿は私が当時の村長や駐在巡査や若干の村民から取材した集団自決の内容を、私なりにまとめ、悲劇の再現を試みたものである。いな、悲劇再現とは、口はばったい言種である。ただひたすら二十六年前の悪夢を想像してみたまでである) 集団自決を追って 砲弾とどろく渡嘉敷島 米軍上陸で動揺する村民 闇の雨中を西山盆地へ集結 "玉砕するしかない" 「みんな一緒に死のうね」 修羅場と化した西山盆地 二十六年前(一九四五年)に、沖縄戦の最初の上陸地点、慶良間列島の中の渡嘉敦島で、想像を絶するような陰惨な悲劇があった。それは、日本の末端の皇国の民の、玉砕という名のもとに引き起こした"集団自決。である―― 砲弾とどろく渡嘉敷島 集団自決があったのは、前夜の雨がやんだ後のくもり空が、茂った木の葉の間から見える西山盆地の雑木林の中で、三月二十八日の午後一時ごろだった。 三月二十三日には、初めての本格的な空襲で、村の役場や郵便局が焼けたので、ほとんどの村民はそれぞれの壕に避難したり、荷物を運んだりした。二十四日も空襲で、二十五日には、艦砲射撃も加わって、島は遠く近く砲弾のとどろく音と地鳴りにあけくれた。 夜になって、無気味な静けさの中で、防衛隊が二人、壕の入口まできて、ウシ(三十七歳の主婦)に向かって「阿嘉島にアメリカーが上陸したそうだ」「阿嘉島の人たちは、みんな玉砕したそうだ」と知らせてくれた。三人の子供をかかえたウシは、この渡嘉敷島の暗い運命を予感して、大変なことになったと思った。 古波蔵村長(三十三歳)は、在郷軍人であった。このさい、日本軍に協カして戦いたい気持ちもあったが、日本の特幹隊は遠くトカシクに本部をおいていて、すぐに行けもせず、また彼は家族といっしょに壕に避難していたので、家族のことも気になって、何度も壕を出たりして、若い青年たちを走らせ情報をキャッチすることに努めていた。が、阿嘉島がやられているとは聞いたが、玉砕したとは聞いてなかった。 安里駐在巡査(二十九歳)は、沖縄本島に妻子を置いて単身一月下旬に赴任したぱかりで、島の地形も日本軍のこともよくわからなかった。しかし彼は二、三日前から、赤松隊長を探し出すために、トカシクの山の中を歩き回っていた。日本軍の動きはあわただしく、阿波連に向かって移動していたので、馴れぬ山道をあっちこっち歩いたが、二十五日も二十六日も赤松隊長には逢えなかった。 大本営からの阿嘉島は玉砕した(注.誤報であった)という情報は、安里巡査の耳にも入っていた。誰から聞いたかは憶えてないが、とにかく、巡査よりも村民のほうが先に、戦況やそうした近海の米軍の動きなどをよく感じ取っていた。 敵の軍艦が慶良間海峡に侵入していることは山の上から見ればすぐわかったが、大町大佐が阿嘉島から阿波連の海岸に立ち寄ったということは、極秘中の極秘のはずだが、防衛隊が彼に教えてくれた。安里巡査はあせっていた。小学生まで陣地構築に協力してきた村民が、これから先どうあらねぱならぬか、安里巡査は赤松隊長に相談したかったのだ。村長も一刻も早く隊長と相談してこいということだった。 翌二十七日も砲弾のとび交う中を、腰にぷらさげたサーベルをカチャカチャ音させて歩き回り、やっと西山のほうへ移動したばかりの赤松隊長の居所をつきとめた。その間に、出会った防衛隊や朝鮮人軍夫や村民から、特攻舟艇の破壊作業のことや、米軍の上陸や、日本軍が迎撃する交戦の模様を、伝え聞いた。 支那(北支から中支)で軍隊生活をおくった経験のある安里巡査は、これまでに阿度か軍隊生活を話題にし、日本軍が「こっぴどく支那人をやっつけた」ことを話したことがあったが、あの残虐なことが、あすはわが身にふりかからねば幸いだがと、ふと不安に思った。なにしろ兵隊たちの間から、米軍の捕虜になったら間違いなく戦車で礫き殺されるという風聞が出ていて、それは疑う余地がないようだった。 ただ一方には、日本が最後には勝つ、という信念があった。がしかし、それは惨澹たる道程の果てに、最終的に勝利の結果を産むという、悲壮な意味を含んでいて、自分たちは犠牲にならねばならぬかもしれぬという気持ちが同居していた。そうした心情は村民の一般的傾向であった。 米軍上陸で動揺する村民 三月二十六日の朝、米軍が阿波連から上陸したことが村民に知れたったとき、村民のほとんどは動揺し、壕から壕へ移動した。 ウシは子供たち(長女十二歳.二女七歳.長男三歳)を連れて、屋敷内の壕から、港に向かって西側の川向こうの山の麓の壕に行った。そこにはすでに二家族が入っていた。その家族の中の十六、七歳になる少年たち二人が、あわただしく出たり入ったりして落ち着かず、しきりに死ぬ覚悟で何かしなければならぬといったりしていた。竹ヤリを持ち歩く姿は、頼もしい感じであった。ウシたちは、ガテカル(嘉手刈)の壕で一夜をあかした。 翌二十七日になると、敵が攻めてくるのが感じられたし、阿波連から避難してきた人たちも敵が押し寄せてきていると話していたので、ウシたちは、ウンナガーラ(恩納川)近くに叔父たちが掘った壕があるのを思い出して、そっちへ向かった。その途中で、山のほうのミーヤーの上のところで、アメリカーが何やら作業しているのが見えた。 ウンナガーラのイチャチチというところの壕に着いたら、叔父や十八歳になるその息子は「いざとなったら、天皇陛下万歳をいって死ぬんだ」と語し合っていた。けれども、敵機の爆音は、ひっきりなしに聞こえるし、遠くから砲弾の炸裂音が近づいてくるように聞こえるので、みんなぴどくおぴえていた。ウシは「死ななくても、すむよ、友軍がついているから大丈夫よ」と逆に元気づける始末だった。 安里巡査は、朝から敵機に見つからぬよう隠れたりしながら、午後も夕方近くなって、やっと西山の谷間の日本軍の陣地を探しあてて、そこではじめて赤松隊長と逢った。そこへたどりつくまでに、空襲ですっかり焼けた部落や山林の中を歩いているとき、安里巡査は沖縄本島にいる妻子の安否を思った。渡嘉敷に赴任してから、一度は宇久校長(沖縄本島出身)といっしょに御真影を保管するために沖縄本島に渡ったことがあったが、あのとき帰ってこなければよかったと、彼は後悔したりもした。 西山のトトンジャーラ(イシッピ川)の奥地の日本軍の陣地は、移動してきたばかりで何もできてなくて、朝鮮人軍夫や兵隊たちが、盛んにタコ壷を掘っていた。陣地壕はまだほとんど掘られてなかった。赤松隊長は、陣地構築の指図をしていた。(注・防衛隊や軍夫や村民の幾人かは、集団自決の後日、壕掘り作業に出ている―小嶺善吉らの証言。二十七日に地下壕内で将校会議か開かれたという記録は間違いで、将校は分散したタコ壺の中か外で戦闘配置についていた。村民をどうこうするという会議を開く余裕はまったくなかった―知念朝睦〈少尉〉の証言) そこで安里巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらよいかわからないので、軍のほうでなんとか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。 そのとき赤松隊長は、次のようにいった。島の周囲は敵に占領されているから、誰もどこにも逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難していたほうがよい。場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう(注・比嘉喜順、旧姓・安里、元駐在巡査の証言)。そこで安里巡査は早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。彼自身も、各壕を回っていい伝えて歩いた。 防衛隊の一人は、古波蔵村長にいち早くほぽ正確な伝達をした。そして村長からも、同様の伝達が出た。それは人の口から人の口へ、すぱやくつぎつぎと広がって伝わっていったが、村民のあるものは赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だといった。 闇の雨中を西山盆地へ集結 ウシたちの壕には、防衛隊の一人がきて、「村長命令だ、ウンナガーラから西山にのぼれ」といった。そこで迷いながらも、ウシたちはともかく出掛けるしたくをしていた。こんどは三人の防衛隊がきて「もうすぐそこに敵がきている」「みんな西山に登ってください」「村長命令です、西山に集まってください」と口々にいった。その三人の防衛隊は、ウシの弟、モリスケ叔父、ミサトの叔母の妹の夫で、三人とも輿奮してせきたてていた。村長命令とあらば、どんなことでも従うほかはないと、ウシは思った。 ウシたちが恩納川を登って行くうちに、雨はどしゃぶりになった。ウシは三歳の息子をおぷって、七歳の二女の手を引いて歩いた。十二歳の長女(本誌119ページの安座間豊子さん)は、三日分の食糧(米と黒砂糖とカツオ節)を入れたランドセルを背負って、ウシの後につづいた。ウシたちは、ずぶぬれになって暗い谷川のふちを歩き、ときどき滑って水の中へ落ちこんだりした。ぬれた赤土はよく滑るし、もう夜になっていて、何も見えなかった。 ざわめくような足音や、親子の名を呼び合う人声で、多数がぞろぞろ西山へ向かっていることが判った。ウシは長女に三日分の食糧だけを持たせてあったが、一日か二日、西山に避難するつもりだった。後でわかったことだが、ある人たちは、クワやナタやカマを持っていた。それらの農具は、西山で壕や小屋をつくることを予想して持ち運ぱれたのだ。多数が持っていた一メートルほどの棍棒は、荷物を肩にかけて持ち運ぶときに使われた。 恩納川の上流の谷間の上のほうが、西山の盆地だった。日本軍の最後の本部となった陣地は、小高い山を一つ隔てた小さいもう一つの谷間(トトンジャーラの上流)にあった。この二つの谷間の川は、渡嘉敷部落からは別々に並行しているが、上流に行くにしたがって接近し、西山高地に達するところで、深い谷底に小さい溝のようになって消えていた。西山の頂上の平たんな雑木林は、この二つの谷間の北方にあった。そこが西山盆地で、戦後、村民が玉砕場と称するところである。 その日の、雨の降りしきる夜半、渡嘉敷村の約三分の二の人たちが、ウンナーガーラ(恩納川)にそって苦心しながら北上した。そして、ほとんどが、上流の谷間の林の中で一夜を明かした。そのあたりには、以前に建てた避難小屋が三軒あったが、大多数は身を隠す場所が見つからず、野ざらしであった。ウシたちは、大きな木の葉を手探りで集めて、それを敷いてその上に横になり、眠るともなくうつらうつらしていた。 そのころ、阿波連の人たちは、約一時間遅れて西山にようやく到着していた。その多数は、阿波連から上陸した米軍に追われて渡嘉敷へ向かっている途中で、人々の口から「西山に集まれという村長命令が出ている」と聞かされ、渡嘉敷部落の人たちの後につづいたのだった。阿波連の人たちのほとんどは、それぞれ山の壕に避難していたが、食糧や衣類などは壕に残したまま、荷物らしい荷物は持たず、手ぶらの人も少なくなかった。また、壕やトカシクの野戦病院に、ケガ人を残してきた人もいた。 一方、渡嘉敷村の女子青年団は、不断から日本軍に献身的につくしていたので、いざとなったら皇国のために死ぬ覚悟ができていて、それぞれ懐中にカミソリを隠し持っていた。また防衛隊の過半数は、何週間も前に、日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった。 "玉砕するしかない" 三月二十八日は曇天だった。木の葉の間から、チラチラと朝の光が見え、まどろんでいた村民は起きて、雨で黄色く濁った谷川の水で顔を洗ったり水を飲んだりした。ウシは弁当箱に水をくんできて、子供たちに飲ませたり黒砂糖をなめさせたりした。食事らしい食事は誰もしなかったし、そんな準備をする余裕も元気もなかった。みんな打ち沈んでいた。こんもりと潅木のおい茂っているその谷間いったいには、見渡すかぎり村民が終結していた。朝の七時ころになって、防衛隊の数人がどなるように、「みんな上のほうに集まれ」「西山盆地に集まれ」と叫んだ。それで村民は命令どおり、そこからわずか二百メートルほど離れた平たんな場所に移動した。 ウシたちが、そこの雑木林にたどり着いたときには、すでに多数の渡嘉敷部落の人たちが入りこんでいて、みんな十人か十五人ぐらいずつかたまって、地べたにすわっていた。しぜんに肉親を中心に親族同士が寄り集まっていた。後から後からぞろぞろと、阿波連の人たちもつづいて入ってきて、およそ千人の集団となった。それから約三時間、集められた村民はそのまま放ったらかされていた。 その間、集団の一角に、村長を中心にして、郵便局長や校長や助役や巡査や役場の人たちと防衛隊の幹部ら、約十数人が寄り集まって、何やらしきりに協議していた。そのころになると、上空には敵の偵察機がぐるぐる回っていた。茂った木の葉から、ときどき敵機がよぎって行くのが見えた。「これからどうするかという意見を出し合ったが、話し合っていくうちに、玉砕するほかはない、という結論になってしまった。しぜんに、玉砕ということになって、その恐怖感から逃れられなくなった」(比嘉喜順らの証言) そこで気丈夫な古波蔵村長は、具体的にどういうふうにするか、と話を進展させた。あれこれ意見が出たが、結局、みんなが死ぬにしては、手榴弾が足りないということになった。一人の防衛隊が、「友軍の弾薬貯蔵庫から、手榴弾を取ってきましょうか」と申し出たことから、それに一決して、不断から親しく兵隊と接触している防衛隊三人が出掛けることになった。 それから一時間後に、防衛隊によって、ひそひそと村民に「玉砕する」話がひろめられた。村の指導者たちは、バラバラになって、それぞれの家族や親戚の人たちに、「やさしく説得するように」玉砕のことを話した。阿波連の防衛隊たちは、少し離れて散在している部落の人たちに、もっと中心に寄り集まるようにいい伝えた。 集まった村民は、恐怖に打ちおびえながらも、静かに親族同士で輪になってすわった。渡嘉敷の人たちは、比較的に荷物を持ち運んできていたので、死ぬ覚悟を決めて着替える人が少なくなかった。が、集団のはずれにいる人たちの中には、まだ暖昧な気持ちで、これから何が起こるか、何もわからず、集団自決を予想だにしない人たちがいた。 古波蔵村長は、次のような理由から、駐在巡査を通じて赤松隊長から玉砕命令が出たにちがいないと、ひそかに思っていた。西山にきて協議の緒果、いわぱ自発的に玉砕することになりはしたが、昨日、安里巡査一人が赤松隊長に逢ってきた結果、集合が決まったこと、それから安里巡査は一人死ぬのを避けるふうに、「自分は村民の玉砕を見とどけて、軍に報告したい」(米田惟好<当時の古波蔵村長>の証言)といって、いざというときには少し離れたところに彼一人立っていたというのである。(注・米田惟好の解釈―軍は持久戦を考えて食糧確保のため、村民に対し「ロベらし」「足手まとい」だと思ったにちがいない) 「みんな一緒に死のうね」 「アメリカーが上陸して、家も焼かれてしまったし、帰るところもないし、どうせ死ぬならみんないっしょのほうがいい」とウシの弟の防衛隊が話しているとき、安里巡査がきて、「手榴弾が破裂するときは手にしっかり握っていたほうがよい」と助言した。それから間もなくして、古波蔵村長がみんなの中央に立って、「敵にとり囲まれてもう逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」と、声をふるわせながらいった。 急にしーんと静まり返った。ウシはその気になって、誰かが持ってきた茶わんに水を入れて、みんなの前に差し出し、「みんないっしょに、あきらめて、死のうね」といい終わるか終わらないうちに、遠くで誰かが「発火用意、打て!」と叫ぶと同時に、ぱあーんぱあ-んぱあーんと、つづいて手榴弾の炸裂音が聞こえた、ウシはわなわな震えがきて、水をこぼしたとき、急に耳を強く打たれたようになって、何が何やらわからなくなった。 ウシが気がついたときには、彼女自身は三歳の子供を抱いたまま僻せになっていた。目の前に倒れている二人の娘も無傷でねぼけたような顔で起き上がった。が、手榴弾を持っていた弟は、断末魔の様子で、血だらけの片手をがたがたふるわせて倒れていた。その背後には、弟の妻が、両眼をほおの上にとび出させたまま、死んでいた。 ウシはわが目を疑い、からだをまるめて俯せたままで、まわりをながめた。と、たくさんの死体がころがっているのを見届けると同時に、まったくとつぜん、鳥が泣き叫ぷようないやな声が入り乱れて聞こえてきた。 「アキサミヨーアキサミヨー」(感嘆詞)「母ちゃんよー母ちゃんよー」「アンマーヨーアンマーヨー」(母親の呼称)と悲痛におおぜいが叫んでいた。頭上からはブーンブーンブーンと敵機の爆音が響いていた。ウシは動転し、しばらく目をとじていた。が、ふたたび周囲を見まわした。手榴弾を破裂させた弟は死に、そのすぐ側にいた自分たちは無事だったのだ。そして、まわりにいた親族の七、八人は即死していた。それからウシは、何やらうめきながら逃げて行く集団を見た。 赤い血を鮮明につけたケガ人たちや、恐怖のあまり泣き叫ぶ女子供たちをまじえて、約三百人あまりが、わさわさ押し合うようにしてそこから立ち去って行くのだった。その逃げて行く集団の中に、郵便局長と村長がいるのがはっきり見えた。 ……集団自決の場所から群をなして立ち去ってきた約三百人は、日本軍の陣地のほうへ向かってなだれたが、三百メートルも行かぬうちに、米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。米軍の砲弾は、どこからくるのか判然としなかったが近くでどんどん炸裂した。その破片にあたって即死したものが幾人かいた。弾にあたって郵便局長の妻も倒れて死に、局長は子供を背負わなければならなくなった。その集団は、そこで立ち往生したまま、騒いでいた。 村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている) おりしも助けを求めてなだれこんだその集団は、日本軍陣地の百メートル近くまできていた。日本軍は戦闘配置についていたが、発砲は自滅に等しいとみて、ただ敵の様子をうかがっていた。そこへ泣き叫ぶ村民がなだれこんできたので、追い払うために、将校は一様に抜刀して威嚇した。たちまち村民は悪夢からさめたように静まりかえり、恩納川の谷間へと散り散りに去って行った。 修羅場と化した西山盆地 一方、西山盆地では、ほとんど無傷でいた阿波連の人たちの間から、無残な殺し合いが始まっていた。それは三百人の集団がアラシのように立ち去った直後だった。遠くで、迫撃砲が激しく炸裂するのを、生き残っている多数の村民は上の空で聞きながら、ある人たちはナタやガマを借りて生ま木を切って棍棒を作っていた。その側で、母や妹や弟を、青年になった息子が、ベルトでつぎつぎと締め殺していた。また手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では、持ってきた農具がそのまま凶器に変わって、血縁へ向かって理解しがたい怨念を打ち出すように、妻子を惨殺しはじめた。 ウシたち親子四人は「ここは地獄だ、早く逃げよう」と、いったんそこから立ち去りかけたが、血相をかえた阿波連のお婆さんたちが下のほうからきて「下からオランダー(外人)が登ってくるよ、いまに耳や鼻を切り取られるよ」といわれ、こわくなって舞い戻った。アメリカ人につかまることへの恐怖感がつのった。ちょうど十メートルぐらい離れたところに、夫の妹たちが生き残っていて、茫然とすわっていた。そこには、ケガして歩けない人たちが二十人ぐらい集まっていた。ウシたちはそこへ助けを求める気持ちで行った。すぐ側で、イノハさん(医者)は、不発弾の手榴弾を何度も石にたたきつけていた。 彼はあきらめて、それを投げ捨て「何かないか」とキョロキヨロしていた。そのとき小学生の息子が、「お父さんポク肥後ノ守があるよ」と小刀を出した。するとイノハさんは、「お母さんからね」というとすぐ、自分の妻の首を切り、それから息子と娘の首も、つぎつぎと切って、見ているまえで、彼は木の股に小刀をはさんで、自分の首を押しあててずっと刺しこみつづけた。そして急にガクンとぐったりなってころがり倒れた。 それが契機となって、隣の家族は、急に殺気立って、妻がおびえている夫を叱った。「日本人じゃないの! あんた男のくせに殺しきれないの!」と中年の女は、ナタを振り上げ、すわっている四、五歳の女の子の頭をめった打ちにして殺し、それからうなだれている夫を、「エイ、エイ、エイ」と叫びながら同様に打ち殺した。すると連鎖的に、老人が孫の頭をつかんで、カマでその頸動脈をかき切った。血が倒れた首から噴き上げた。 「アキサミョー」(感嘆詞)「私も殺してください」とウシは思わず叫んだ。だが老人は、振り向きもせず黙って木に登り、首つりのしたくをするのだった。 ウシが気が変になったように、「クルチ、クミソウリ」(殺してください)と小声で繰り返し言っているとき、七歳になる二女は「死にたくない、死にたくない」と泣き叫んだ。長女は妹を腹の下に隠すように押えつけ、ただ恐ろしさのあまりじっとしていた。そのとき、阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている梶棒で撲殺するのだった。 その中の金城重明(現牧師)という十六歳の少年がウシの側へ近寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径十センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押えて後込みしている長女の頭へたたきつけた。ギャツという声が短く走り、頭から血が流れた。少年はもう一度たたきつけた。娘たちは動かなくなった。それから少年は血走った目をむいて、ウシを見た。ウシは祈るように、「重明……」と小声でいって目を閉じた。ガーンと頭が割れるような音がした。ウシは額の上を二度叩きつけられるのを感じた後、意識を失った。 何時間かたって、ウシも長女も意識を取り戻した。夕方間近くなっていた。周囲は死者ぱかりだった。首つり自殺をとげた死体が、十五、六人、潅木にぶらさがっていた。二女は痴呆状態になってすわっていた。ウシが抱いていた子供は、口がほおのところへ移って顔がゆがんでいた。ウシの額に振りおろされた棍棒は勢いあまって子供の顔にもあたったようである。 ウシは急にわれに返って、娘に、「水をくんできて」と叫んだ。娘はふらふら立ち上がり、ころがっている薬カンを拾って、水をくみに行った。その間、ウシは自分の顔いっぱいについている血糊をソデでふき、割れた前頭部からまだ血か流れるのを防ぐために、湿った赤土を取って傷口に塗りこんだ。それから娘がくんできた水を、抱いた子供の顔にかけた。すると子供は全身ひきつらせ、顔をぶるぶるけいれんさせて、元に戻った口から血のアワを出した。「生き返ったよ」と、ウシは思わず笑顔になった。 それからウシたち親子四人は、なんとか生きようと思い、谷間のほうへ下りて行った。 (え・粟津潔)
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1105.html
通028 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第3 争点及びこれに対する当事者の主張 第3・4 争点4(真実性の有無)について 第3・4(1) 被告らの主張 第3・4(1)ウ 渡嘉敷島について 第3・4(1)ウ(キ)(安里巡査の説明と星雅彦記者の記事) 原告らは,渡嘉敷島の集団自決の経緯について,安里巡査の説明(甲B16)と星雅彦記者の記事(甲B17)に基づいて主張しているが,両者の説明はいずれも信用性がない。 まず,星雅彦については,いかなる対象についていかなる取材を行ったか明らかでないし,星雅彦自身認めるとおり,星雅彦の記事は,星の想像に基づいたものにすぎない。 安里巡査については,集団自決の現場へ住民を集結させながら,状況を赤松大尉に報告するため自決はできないとして,自らは,集団自決の現場から少し離れたところから見ていたとされる人物であり(乙9・768頁),その責任を逃れるため,集団自決は軍や赤松大尉の命令によるものではなかったとしなければならない立場にある人物であるから,信用性がない。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1774.html
目次 戻る 通2-026 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第2 事案の概要等 第2の3 前提事実及び争点 【原判決の引用】 (原)第3 争点及びこれに対する当事者の主張 (原)4 争点4(真実性の有無)について (1)被控訴人らの主張 第3の4(1)ウ 渡嘉敷島について (原)第3・4(1)ウ(キ)(安里巡査の説明と星雅彦記者の記事)* (判決本文p57) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 控訴人らは, 渡嘉敷島の集団自決の経緯について, 安里巡査の説明(甲B16)と星雅彦記者の記事(甲B17)に基づいて主張しているが, 両者の説明はいずれも信用性がない。 まず, 星雅彦については, いかなる対象についていかなる取材を行ったか明らかでないし, 星雅彦自身認めるとおり, 星雅彦の記事は, 星の想像に基づいたものにすぎない。 安里巡査については, 集団自決の現場へ住民を集結させながら, 状況を赤松大尉に報告するため自決はできないとして, 自らは, 集団自決の現場から少し離れたところから見ていたとされる人物であり(乙9・768頁), その責任を逃れるため, 集団自決は軍や赤松大尉の命令によるものではなかったとしなければならない立場にある人物であるから, 信用性がない。 目次 戻る 通2-026 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2184.html
星、上原両氏のチャンネル桜出演に思う 2009/7/27 ni0615 残念な事実です。上原正稔氏、星雅彦氏のふたりはついに「チャンネル桜」の番組に出演しました。 「1/2【沖縄集団自決】うらそえ文藝・星雅彦氏、1フィート運動・上原正稔氏に聞く[桜 H21/7/27] 」 http //www.youtube.com/watch?v=nPZz66ixfWA 私としては星雅彦氏の転落を信じたくなかったのですが、これで決定的となりました。 大城将保(嶋津与志)氏ら沖縄県史編纂人脈にある識者の皆さんも、この2人に対する批判あるいは忌憚の無い意見を表明していただきたいと思います。それがないと、沖縄県民はもとより私のような裁判に注目したヤマトンチュウも、もやを拭いきれません。むろん諸氏の見解に幅広いスペクトルがあることは歓迎します。 上記の桜ビデオを聞いての私の第1印象です。 1、上原=星の「うらそえ文芸」対談の再現 2、上原の長々とした自己顕示と太田元知事への恨み節 3、恨み節を退屈気に聞きながらノートの端をバリバリとかきむしる星 4、最後に星が照屋昇雄を持ち上げるが、その話が始まったかと思うところでチャンネル桜側が突然カット おそらく、なぜ照屋氏を証人席に立たせなかったのか、といった原告弁護人批判でも始まったので、カットしてしまったのでしょうか? で桜ビデオは、 「2/2【沖縄集団自決】「軍命令」とせざるを得なかった事情・照屋昇雄氏に聞く[桜 H21/7/27] 」 http //www.youtube.com/watch?v=LsVIOTLd-vQ へと続きます。 チャンネル桜専属キャスターの大高未貴氏が今回改めて照屋氏に取材したのかと思ったら、期待におお外れ、それは旧ビデオ「軍命令はなかった」(H19.4.5)でした。・・・・奥茂治氏らのまえで照屋氏が語るもの。チャンネル桜社長水島総氏も同席し後半で質問の声あり。 これは、“援護法審査会議に赤松が出席し東大総長茅誠司に説得される、それを照屋昇雄が見ていた”という、荒唐無稽なもの。 私は書き起こしましたので、まったく不整合な箇所は幾らでも指摘できます。 こんな人物を 「真相の核心」として期待していたという星雅彦氏の言には、いかに立場を変転させたとはいえ耳を疑います。 このビデオの内容は、当時の「正論」に水島氏が要約していますが、そこでは事実関係の荒唐無稽さは覆い隠されています。おそらく星雅彦氏は、産経新聞の記事かこの「正論」記事しか読んでいないのでしょう。 今からでも遅くはありません、照屋昇雄氏のなまの「証言」に接するべきです。 「照屋証言」の虚偽をスルーするような人が、『鉄の暴風』の不確実性をなじったところで、説得力はないでしょう。 いずれにしても、沖縄の知識人は「収容所列島にいるから真実を語れない」(上原)とまで言われて、黙っている必要はもう無いとおもいます。 (補足) 後半ビデオのスタジオ部分で井尻某氏が、「沖縄は72年まで米軍の占領下にあった、占領下の言論であったことを忘れるな」と繰り返しているが、沖縄の戦後の言論が、「米軍は解放軍」から「米軍基地反対」へと移行していった長い足跡を、井尻氏らチャンネル桜は完全に無視しようとしている。 「沖縄を返せ!」の意味を無視し捻じ曲げることが一定の効果をあげているのかもしれない。 「米軍基地反対」「祖国復帰運動」など体験したものあるいは書籍を読んだ者には残る記憶を、WEBにも遺す努力が必要になってきた。 米軍基地反対が強く叫ばれた中でも、「鉄の暴風」が読まれ続けたのは何故か、それが米軍迎合ではないからではなかったか。チャンネル桜は意識的にその問いを避ける。そして星氏や上原氏もまた、いっさいを「援護法」に還元して大事なことを忘れさせようとしている。 星雅彦と照屋昇雄 2009-07-30 星雅彦氏はチャンネル桜の別バージョンにも出演していることが解りました。 http //www.youtube.com/watch?v=ur6rdRd8tMo 既報のバージョンでは、 4、最後に星が照屋昇雄を持ち上げるが、その話が始まったかと思うところでチャンネル桜側が突然カット でしたが、あたらしいバージョンではインタビューの後に、キャスターである井上和彦が、星氏の軍命令否定は照屋昇雄証言を根拠にしているかのような解説を加えています。 ところが星氏は。「うらそえ文芸」14号では照屋昇雄のことには一切触れておらず、井上いうような根拠あるいは「私が一番注目している照屋さんの話」という自身の言葉の裏づけについて、何の説明もしていません。 これは星雅彦氏に問いたださねばならないことです。 なお、「照屋証言」のビデオの書き起こしは、拙ブログにおいて、近日中に留意点メモをつけて近く公開する予定です。 15年戦争資料庫
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2113.html
http //www.worldtimes.co.jp/today/kokunai/090610-4.html 「集団自決の軍命はなかった」 作家の星雅彦、上原正稔氏が会見 沖縄県庁 「沖縄集団自決」で軍命はなかったと語る星雅彦氏(右)と上原正稔氏=9日、沖縄県庁記者クラブで 第二次世界大戦末期の沖縄戦で多くの民間人が犠牲となった問題で、作家の星雅彦氏と上原正稔氏は9日、沖縄県庁で記者会見し、軍による自決命令はなかったことを強調し、濡れ衣を着せられている元隊長に謝罪すべきだと訴えた。沖縄県出身の有識者が軍命説を真っ向から否定するのは初めて。 星氏は「集団自決はこれまで隊長命令と信じられていたが、その誤解を解きたい」と記者会見を開いた理由を述べた。今年5月1日に出版された総合文芸誌「うらそえ文藝」第14号で、両氏は集団自決問題をテーマに対談し、論文を発表。慶良間諸島の赤松嘉次隊長と梅澤裕隊長が軍命を出した事実は一切なく、県内のマスコミによってスケープゴートとされているという内容が、大きな波紋を投げ掛けている。 上原氏は「あたかも2人を悪者に仕立てた沖縄タイムスと琉球新報の責任は非常に重い」と強調。「真実が明らかになった今、沖縄県民は2人の隊長に謝罪し、人間の尊厳を取り戻すべきだ」と訴えた。 曽野綾子「神話」をめぐる話題 「集団自決」問題について補足 「集団自決」問題について(また)産経と世界日報が華麗なコンボ Youtube「軍命令はなかった」-『うらそえ文藝』会見・前半 桜 H21/6/15 Youtube「軍命令はなかった」-『うらそえ文藝』会見・後半 桜 H21/6/15 沖縄戦ニュース
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/763.html
潮1971年11月号 琉球弧に住んで十六年島尾敏雄 日本人による植民地支配の原型大城立裕 生き残った沖縄県民100人の証言 集団自決を追って星雅彦 《私記》私は自決を命令していない赤松嘉次 沖縄の若者はなぜ悩む沢木耕太郎 トップページへ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1113.html
通036 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第3 争点及びこれに対する当事者の主張 第3・4 争点4(真実性の有無)について 第3・4(2)原告らの主張 第3・4(2)エ 渡嘉敷島について 第3・4(2)エ(ア) 集団自決の経緯 第3・4(2)エ(ア) 集団自決の経緯a (原告らによる再構成:3月23日~27日朝)* b (原告らによる再構成:3月27日午後~隊長からの指示伝達)* c (原告らによる再構成:住民避難と3月28日朝の村幹部"協議")* d (原告らによる再構成:手榴弾の炸裂まで)* e (原告らによる再構成:村長の逆上と将校の威嚇)* f (原告らによる再構成:阿波連の人々の集団自決)* 安里巡査の「沖縄県警察史」における記述(甲B16・772ないし775頁)及び星雅彦の取材結果(甲B17・210ないし213頁)によれぱ,渡嘉敷島の集団自決の経緯は,概ね以下のようなものであったことが分かる。 安里巡査の「沖縄県警察史」における記述と、星雅彦氏の取材結果「集団自決を追って」と、この2つからどうして下記のような物語が生まれるのか、とても不思議だ。安里巡査が1971年までに星雅彦氏に語ったことと、1988年に「沖縄県警察史」に語ったこととの矛盾や差異を、原告弁護団はどう処理したのだろうか、とても不可解だ。星雅彦氏が、安里(比嘉)巡査と古波蔵(米田)村長との、相対立する2つの見解を併記しているにもかかわらず、理由を示さず勝手に一方だけを抜き出した原告弁護団の恣意性には、恐れ入った。この裁判提訴のプロパガンダ性がここに凝縮されているのかもしれない。…(引用者) a (原告らによる再構成:3月23日~27日朝)* 昭和20年3月23日には初めて本格的な渡嘉敷島への空襲が行われ,村役場や郵便局が焼けた。同月25日には,艦砲射撃も加わった。古波蔵村長は在郷軍人であり,安里巡査は,沖縄本島に妻子を置いて単身1月下旬に赴任したばかりであった。小学生まで陣地構築に協カしてきた住民が,これからどうすべきか相談するため,安里巡査は,同月27日朝から赤松大尉を捜し回った。 b (原告らによる再構成:3月27日午後~隊長からの指示伝達)* 安里巡査は,同月27日午後,タ方近くになって,西山の谷間の日本軍陣地で陣地構築の指示をしていた赤松大尉に会った。陣地壕はまだほとんど掘られていなかった。赤松大尉は,安里巡査に対し, 「島の周囲は敵に包囲されているから,逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから,住民は一か所に避難した方がよい。」 と言った。そこで,安里巡査は,居合わせた防衛隊員に西山盆地への集合の伝達を依頼し,自らも各壕を回って伝えた。防衛隊の1人から古波蔵村長へ伝達をし,古波蔵村長からも同様の伝達が出た。 c (原告らによる再構成:住民避難と3月28日朝の村幹部"協議")* 渡嘉敷村の約3分の2の住民が,大雨の中を恩納川に沿って北上した。米軍に追われた阿波連の人たちは。1時間遅れて西山に到着した。同月28日午前7時ころ,防衛隊の数人が西山盆地に集まれと叫び,住民は命令どおり200メートル離れた平坦な場所へ移動した。郵便局長,校長,助役,幹部十数人が,3時間ほど,これからどうするかについて協議した。話し合ううち,玉砕するしかないという結論になった。 d (原告らによる再構成:手榴弾の炸裂まで)* 具体的にどうするかという段階になって,全員が死ぬには手榴弾が足りなかったため,防衛隊の1人が、 「友軍の弾薬貯蔵庫から,手榴弾を取ってきましょう。」 と申し出,防衛隊3人が出かけた。 それから1時間後に,防衛隊が住民に対し玉砕の話を広めた。村の指導者は,それぞれ家族や親戚に玉砕の話をした。古波蔵村長が全員の中央に立って, 「敵に取り囲まれて逃げられないから,玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳を唱え,笑って死のう。」 と言った。 手榴弾の炸裂音が起こった。 e (原告らによる再構成:村長の逆上と将校の威嚇)* 逃げ出す集団もあった。集団から立ち去った約300人が,日本軍陣地へ向かったが,300メートルも進まないうちに,米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。村長は逆上して 「女,子どもは足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい。」 と叫んだ。そこで防衛隊長である屋比久孟祥と富山兵事主任が,日本軍陣地に駆け込み,住民を撃ち殺すために機関銃を貸してほしいと願い出たが,そのような武器は持ち合わせていないと怒鳴りつけられた。住民の集団が日本軍陣地100メートルまで接近していたが,将校は,泣き叫ぶ住民に対し,抜刀して立ち去るよう威嚇した。 住民は,恩納川の谷間へと散っていった。 f (原告らによる再構成:阿波連の人々の集団自決)* 西山盆地でほとんど無傷でいた阿波達の人たちは,300人の集団が去った後,殺し合いを始めた。迫撃砲の炸裂晋を聞きながら,なたや鎌を借りて生木を切ってこん棒を作り,ベルトで家族を殺した。 手榴弾で死にそこなった住民は,農具を凶器にして殺し合った。 こうして集団自決があったのは,昭和20年3月28日の午後1時ころであった。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1768.html
目次 戻る 通2-034 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第2 事案の概要等 第2の3 前提事実及び争点 【原判決の引用】 (原)第3 争点及びこれに対する当事者の主張 (原)4 争点4(真実性の有無)について (1)被控訴人らの主張 第3の4(1)ウ 渡嘉敷島について (原)第3・4(2)エ(ア) 集団自決の経緯 (判決本文p75~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 (原)第3・4(2)エ(ア) 集団自決の経緯a (控訴人らによる再構成:3月23日~27日朝)* b (控訴人らによる再構成:3月27日午後~隊長からの指示伝達)* c (控訴人らによる再構成:住民避難と3月28日朝の村幹部"協議")* d (控訴人らによる再構成:手榴弾の炸裂まで)* e (控訴人らによる再構成:村長の逆上と将校の威嚇)* f (控訴人らによる再構成:阿波連の人々の集団自決)* 安里巡査の「沖縄県警察史 第二巻」における記述(甲B16・772ないし775頁)及び星雅彦の取材結果(甲B17・210ないし213頁)によれぱ, 渡嘉敷島の集団自決の経緯は, 概ね以下のようなものであったことが分かる。 安里巡査の「沖縄県警察史」における記述と、 星雅彦氏の取材結果「集団自決を追って」と、 この2つからどうして下記のような物語が生まれるのか、 とても不思議だ。安里巡査が1971年までに星雅彦氏に語ったことと、 1988年に「沖縄県警察史」に語ったこととの矛盾や差異を、控訴人弁護団はどう処理したのだろうか、とても不可解だ。星雅彦氏が、安里(比嘉)巡査と古波蔵(米田)村長との、相対立する2つの見解を併記しているにもかかわらず、理由を示さず勝手に一方だけを抜き出した控訴人弁護団の恣意性には、恐れ入った。この裁判提訴のプロパガンダ性がここに凝縮されているのかもしれない。…(引用者) a (控訴人らによる再構成:3月23日~27日朝)* 昭和20年3月23日には初めて本格的な渡嘉敷島への空襲が行われ, 村役場や郵便局が焼けた。同月25日には, 艦砲射撃も加わった。古波蔵村長は在郷軍人であり, 安里巡査は, 沖縄本島に妻子を置いて単身1月下旬に赴任したばかりであった。小学生まで陣地構築に協カしてきた住民が, これからどうすべきか相談するため, 安里巡査は, 同月27日朝から赤松大尉を捜し回った。 b (控訴人らによる再構成:3月27日午後~隊長からの指示伝達)* 安里巡査は, 同月27日午後, タ方近くになって, 西山の谷間の日本軍陣地で陣地構築の指示をしていた赤松大尉に会った。陣地壕はまだほとんど掘られていなかった。赤松大尉は, 安里巡査に対し, 「島の周囲は敵に包囲されているから, 逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから, 住民は一か所に避難した方がよい。」 と言った。そこで, 安里巡査は, 居合わせた防衛隊員に西山盆地への集合の伝達を依頼し, 自らも各壕を回って伝えた。防衛隊の1人から古波蔵村長へ伝達をし, 古波蔵村長からも同様の伝達が出た。 c (控訴人らによる再構成:住民避難と3月28日朝の村幹部"協議")* 渡嘉敷村の約3分の2の住民が, 大雨の中を恩納川に沿って北上した。米軍に追われた阿波連の人たちは, 1時間遅れて西山に到着した。同月28日午前7時ころ, 防衛隊の数人が西山盆地に集まれと叫び, 住民は命令どおり200メートル離れた平坦な場所へ移動した。郵便局長, 校長, 助役, 幹部十数人が, 3時間ほど, これからどうするかについて協議した。話し合ううち, 玉砕するしかないという結論になった。 d (控訴人らによる再構成:手榴弾の炸裂まで)* 具体的にどうするかという段階になって, 全員が死ぬには手榴弾が足りなかったため, 防衛隊の1人が、 「友軍の弾薬貯蔵庫から, 手榴弾を取ってきましょう。」 と申し出, 防衛隊3人が出かけた。 それから1時間後に, 防衛隊が住民に対し玉砕の話を広めた。村の指導者は, それぞれ家族や親戚に玉砕の話をした。古波蔵村長が全員の中央に立って, 「敵に取り囲まれて逃げられないから, 玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳を唱え, 笑って死のう。」 と言った。 手榴弾の炸裂音が起こった。 e (控訴人らによる再構成:村長の逆上と将校の威嚇)* 逃げ出す集団もあった。集団から立ち去った約300人が, 日本軍陣地へ向かったが, 300メートルも進まないうちに, 米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。村長は逆上して 「女, 子どもは足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい。」 と叫んだ。そこで防衛隊長である屋比久孟祥と富山兵事主任が, 日本軍陣地に駆け込み, 住民を撃ち殺すために機関銃を貸してほしいと願い出たが, そのような武器は持ち合わせていないと怒鳴りつけられた。住民の集団が日本軍陣地100メートルまで接近していたが, 将校は, 泣き叫ぶ住民に対し, 抜刀して立ち去るよう威嚇した。 住民は, 恩納川の谷間へと散っていった。 f (控訴人らによる再構成:阿波連の人々の集団自決)* 西山盆地でほとんど無傷でいた阿波達の人たちは, 300人の集団が去った後, 殺し合いを始めた。迫撃砲の炸裂晋を聞きながら, なたや鎌を借りて生木を切ってこん棒を作り, ベルトで家族を殺した。 手榴弾で死にそこなった住民は, 農具を凶器にして殺し合った。 こうして集団自決があったのは, 昭和20年3月28日の午後1時ころであった。 目次 戻る 通2-034 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/845.html
ふたつの赤松大尉手記 二つの赤松手記 太平洋戦争末期1945年3月すえ、米軍上陸攻撃の最中、沖縄の渡嘉敷島島民3百有余を集団死に至らしめた責任者とされた元海上挺進隊長大尉赤松嘉次氏は、戦後26年目の1971年、51歳のとき2つの雑誌に相次いで手記を載せた。1つは沖縄地方総合誌『青い海』6月号に載せた「私たちを信じてほしい」であり、もう一つは、全国総合月刊誌『潮』11月号に載せた「《私記》私は自決を命令していない」である。 赤松氏はその前年1970年の3月、渡嘉敷島で行われた慰霊祭への出席を目的に復帰前の沖縄に渡航したが、抗議にあって慰霊祭出席をとりやめた。 二つの赤松手記はどちらも、その抗議のことを踏まえて書かれた物だが、内容を読むとそこには興味深い相違がある。前者は「弁解の言葉」であるが、後者は「逆告発の書」である。後者のほうが字数が多くその分内容が変わっても不思議ではないが、言葉使いや文体まで相当大きく変わっているのである。 筆者は、後者の月刊誌『潮』11月号掲載「手記」は、プロの文筆家の代筆によるのではないかと疑いを持つ。もちろん、アマチュアの寄稿文を雑誌編集者が手を入れたり、ページ内に収める添削をすることは当然だが、2つの文章を比較した「文相」の違いを、皆さんはどう読み取るのだろうか? 後者の手記が、故赤松嘉次氏本人の遺稿として、現在係争中の裁判所に『書証』として提出されているだけに、私は気になる。 しかもこの「手記」の内容は、曽野綾子著「ある神話の背景」のモチーフと構成に、そっくりまま引き継がれているように見えるのは、気のせいだろうか? 戦後25~6年その当時、赤松氏を"迎えた"渡嘉敷島の心情や、沖縄の一般的雰囲気については、同じ『青い海』9月号から引いてみる。 沖縄戦からの発想星雅彦 集団自決の思想間宮則夫
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2340.html
沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実 index 次のものを資料として・・・・ 次のものを資料として・・・・この作品のために次のものを資料として使わせて頂きました。 (ここに列挙されてない重要な資料) この作品のために次のものを資料として使わせて頂きました。 『沖縄』比嘉春潮・霜多正次・新里恵二著 岩波新書 『沖縄ノート』大江健三郎著 岩波新書 『沖縄問題二十年』中野好夫・新崎盛暉著 岩波新書 『沖縄』饒平名智太郎(よへなちたろう)著 三一新書 『沖縄・この現実』石田郁夫著 三一書房 『沖縄教職員会』関 広延著 三一書房 『沖縄奪還 68~ 70』波照間洋著 三一書房 『沖縄・本土復帰の幻想』吉原公一郎著 三一書房 『沖縄戦記・鉄の暴風』沖縄タイムス社刊 『日米最後の戦闘』米国陸軍省編・外間正四郎訳 サイマル出版会 『沖縄戦史』上地一史著 時事通信社 『沖縄県史』8沖縄戦通史 琉球政府 9沖縄戦記録I 琉球政府 『沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 327 『渡嘉敷島住民集団自決の真相』石田郁夫『サンデー毎日』五十周年記念特集号 『沖縄は日本兵に何をされたか』『潮』昭和四十六年十一月号 『那覇に感ず』島尾敏雄 朝日新聞昭和四十五年五月十五日夕刊 『慶良聞戦況報告書』渡嘉敷村 『慶良問戦況報告書」座間味村 『慶良間列島・渡嘉敷島村の戦闘概要』昭和二十八年三月二十八日 渡嘉敷村遺族会 『秘録沖縄戦史』山川泰邦著 沖縄グラフ社 『悲劇の沖縄戦』浦崎 純『太陽』昭和四十五年九月号 平凡社 陣中日誌 星雅彦エッセイ 沖縄タイムス 昭和四十五年四月三日付 崎原恒新氏エッセイ『鎮魂』 琉球新報 昭和四十五年四月二十八日付 『沖縄戦記』戸次(べつき)寛(未発表) 『手記』赤松嘉次(未発表) 『修親』第十五巻第六号 昭和四十七年六月号 『旧陸軍刑法』昭和二十六年十一月 陸幕法務課 『サン=テグジュペリ 愛と死』ジュール・ロワ著 山崎庸一郎訳 晶文社 328 『思考と行動における言語』S・I・ハヤカワ著 大久保忠利訳 岩波現代叢書 『非政治的人間の考察』トーマス・マン著 前田敬作・山口知三訳 筑摩書房 『 OKINAWA, Victory in the Pacific 』Nichols Shaw TUTTLE 『こわれたパーソナリティ』カール・メニンジャー 草野栄三良・小此木啓吾訳 日本教文社 (ここに列挙されてない重要な資料) 沖縄戦・渡嘉敷島 集団自決の真実 index