約 5,628 件
https://w.atwiki.jp/katty520/pages/25.html
勝利の人生、幸福な人生のために、何が大切か。 それは、日々、瞬間瞬間、生命力を満々とたたえていくことである。 そのカギこそ、信心である。真剣なる祈りである。 とくに、朗々たる声、すがすがしい声で、勤行・唱題を行いたい。 日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経は師子が吼えるようなものである」(御書1124頁、通解)と仰せである。 弱々しい声ではいけない。師子が吼えるように力強く、そしてまた、白馬が駆けるように生き生きと、勤行・唱題を実践したい。 そして、魔を破り、無量無辺の仏力・法力を引き出しながら、勇んで行動に打って出たい。 若々しく! はつらつと! 我らは、堂々と、勢いよく前進しようではないか! 【山梨最高協議会 2006-09-03 聖教新聞2006年9月13日付】 瞬間瞬間、生命力を満々と!
https://w.atwiki.jp/oeidrerheui/pages/70.html
古代・平安 十握の剣(天之尾羽張) イザナギノミコト 草薙の剣(天叢雲の剣) ヤマトタケル 叢雲の剣 蘇我入鹿 小烏の名刀 時次郎 小鍛冶宗近(子狐丸) 三条宗近 童子切安綱・蜘蛛切 源頼光 鬼切(髭丸) 渡辺綱 獅子王の太刀 源頼政 中世・千億 小備前友成 能登守教経 手水鉢切りの名刀 梶原平三景時 院宣の太刀 木曾義仲 今剣・薄緑 九朗判官義経 岩融 武蔵坊弁慶 巴型・静型薙刀 巴御前 静御前 菊水の宝剣 大森彦七 赤木柄の刀 曾我五郎 「伊賀越物」の正宗 妖刀村正(籠釣瓶) 佐野次郎左衛門 太郎太刀・次郎太刀 真柄十郎左衛門・十蔵父子 波泳ぎ兼光・鉄砲切り助真 上杉謙信 赤穂義士の愛刀 友切丸・北辰丸 花川戸助六 青江下坂 福岡貢・春藤次郎左衛門 日吉丸 明智光秀 ◆コラム:南北と黙阿弥 ●猛虎の刀――薩摩源五兵衛 ◆コラム:江戸の信仰 ●倶梨迦羅丸――雪姫 ◆コラム:刀身彫刻 ●『新薄雪物語』の刀――正宗・来国行 ●世話物文楽の刀 ●村雨丸――犬塚信乃 ◆コラム:『天竺徳兵衛韓噺』波切丸 □第4章江戸幕末 ●家宝の名刀・祝宴の名刀――菊地半四郎・美濃部伊織 ●平手造酒の刀――平手造酒 ◆コラム:江戸三大道場 ●加賀五郎義兼――国定忠治 ●落語の刀 ◆コラム:町人と刀 ●長曾禰虎徹・和泉守兼定――近藤勇・土方歳三 ◆コラム:池田屋事件が語る新選組銘刀伝
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/9450.html
傳光山 高照寺 でんこうざん こうしょうじ 千葉県勝浦市にある日蓮宗の寺院。 所在地 千葉県勝浦市勝浦49 乳公孫樹 樹齢千年以上とも推定される。千葉県天然記念物に指定されている。 2024-07-14 . 関連項目 旅行記一覧 この項目のタグ 2024年 2024年7月 勝浦市 千葉県 寺院 歴史 タグ「勝浦市」がついた項目 2006年9月27日 / 2006年9月28日 / 2006年9月29日 / 2007年12月9日 / 2009-07-18 / 2009年7月外房 / 2016-03-28 / 2024-07-14 / 鵜原海水浴場 / 鵜原理想郷 / おせんころがし / 覚翁寺 / 勝浦朝市 / 勝浦タンタンメン / 勝浦ホテル三日月 / 官軍塚 / きんつばや / 高照寺 / 国道128号 / 千葉県道82号 / 千葉県道178号 / 千葉県道246号 / 八幡岬 / ホテル三日月イン / 松の家 / 松の湯(勝浦市) / 守谷海水浴場 タグ「千葉県」「寺院」がついた項目 覚翁寺 / 崖ノ観音 / 笠森観音 / 高照寺 / 神野寺 / 西願寺 / 清澄寺 / 高倉観音 / 誕生寺 / 長福寿寺 / 成田山新勝寺 / 日本寺 / 飯高寺 / 布施弁天 / 法華経寺 / 萬徳寺
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/1073.html
正中山 法華経寺 せいちゅうざん ほけきょうじ 千葉県市川市にある、日蓮宗大本山の寺院。 五重塔、祖師堂、法華堂、四足門が重要文化財に指定されている。 所在地 千葉県市川市中山二丁目10-1 時間 9:00~16:00 URL http //www.hokekyoji.com/ 地図 より大きな地図で 千葉県 を表示 祖師堂 重要文化財 屋根材:杮葺 屋根形状:比翼入母屋造り 歴史 1260年(文応元年):開基 2010-01-03 仁王門 五重塔 祖師堂 法華堂 刹堂 四足門 関連項目 内田祥三 寺院建築 房総の魅力500選 旅辞典2 歴史的建造物一覧 歴史的建造物写真 この項目のタグ 2010年 2010年1月 2010年1月3日 千葉県 寺院 寺院建築 市川市 歴史 歴史的建造物 重要文化財 タグ「市川市」がついた項目 2015-07-25 / 2017-10-21 / 法華経寺 タグ「千葉県」「重要文化財」がついた項目 旭橋(箱根町) / 笠森観音 / 香取神宮 / 旧学習院初等科正堂 / 旧御子神家住宅 / 神野寺 / 西願寺 / 成田山新勝寺 / 飯高寺 / 法華経寺 / 渡辺家住宅
https://w.atwiki.jp/antihappyscience/pages/65.html
GLA教団から幸福の科学に相次いだ苦情(1988年春頃より) 関谷晧元著「虚業教団」より、関谷氏の回顧 1988年の春、はじめてGLAから正式な抗議文が送られてきた。内容は、『繰り返しニセ信次先生の本を出されては困るから止めてはしい』というものだった。それを読んだ私たちは、『なにがニセ信次だ!』『信次先生の霊が語っておられるのだぞ』と大いに憤慨した。 しかし、GLAが抗議するのもあたりまえだろう。(中略)宗教学者の島田裕巳の調べによれば、その霊言集は16冊になり、大川に降りた回数も70回になるという。この数は、はかの霊とくらべて群を抜いて多い。〈幸福の科学〉を特徴づける最も重要な高級霊なのである。GLAとしては、当然心中おだやかではない。亡くなった自分たちの教祖、神とも崇める教団創設者が、こともあろうに何の関係もない他教団に出現し、生前には聞いたこともないような話をしだしたのだから。 その後もGLAからは何度も抗議文が送られてきた。内容証明も二度ほど来ている。しかし、このときの大川はフライデー事件のときと違い悠然としていた。『放っておけ。返答する義務はないのだから』と取り合おうとしなかった。GLAの幹部がついに中原の自宅まで訪ねてきた。事務所ではなく、中原の自宅へ行ったのはどういうわけだろう。大川の『高橋信次』は、元GLA信者である中原の影響によるものと見なしたからなのか。とすれば、彼らは私たちが当時見落としていたものを、敏感に察知していたことになる。この訪問は、たまたま中原が留守だったために空振りに終わった。しかし、その報せがもたらされると、〈幸福の科学〉本部にはたちまち緊張が走った。ついに衝突の時がきたか!と、誰もが顔を強張らせた。 結局、何らかのかたちでGLAと接触しなければなるまいという結論に達した。『谷口雅春霊言集』もあるから、同じトラブルが生長の家とも起こる可能性があった。日蓮を祖とする日蓮宗、創価学会、空海の真言宗、親鸞の浄土真宗……可能性は至るところにあった。 高橋守の証言(江川紹子構成「私は大川隆法に裏切られた 『幸福の科学』元幹部が告発」 『週刊文春』1991年10月3日号掲載) 高橋信次先生といえば、こんなことがありました。GLAから、大川さんに会いたいという申し入れがあったんです。最終的には内容証明がきましたから、これを役員会で検討した。 私は「会ったらいいじゃないですか。そうすれば、大川先生の霊言の正しさが証明されるし、高橋先生の霊とお話しできれば、お弟子さんたちも納得する」と申し上げたんですが、結局彼は逃げたんですね。とうとう会いませんでした。 名前 コメント このページを編集
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/109.html
1. 在野右翼の登場~アジアの革命支援(孫文の中華革命・アギナルドの比国独立・B.ボースの印度独立etc.) (1) 頭山満(1855-1944)と玄洋社(1881結成-1946解散) 頭山は福岡藩士の子で、西郷傘下の矯志会で学んだが西南戦争中は萩の乱に連座して入獄しており死を免れた。出獄後に民権・国権伸張運動に加わり、政治結社玄洋社を結成し、東亜連帯による欧米列強の排除・アジア諸国の独立を信念として晩年まで精力的に活動した。 (2) 内田良平(1874-1937)と黒龍会(1901結成-1931改組) 内田も福岡藩士の子で、玄洋社幹部であった叔父平岡浩太郎の影響を受けて右翼運動に加わり、大陸雄飛の為の組織として黒竜会を結成。孫文らの辛亥革命では最強の戦力となって革命に貢献したが、孫文の満州割譲の盟約の撤回にあい、満州独立論に転じた。 2. 経済恐慌と右翼思想の軍部への浸透 (1) 大川周明(1886-1957)と5.15事件(1932.5.15) 頭山・内田は思想家である前に活動家であったが、大川周明は国家社会主義(大資本家による経済搾取の排除・政党政治の打破)とアジア主義(アジア諸民族との連携と日本の主導による有色人種の解放・西洋文明との決別)を思想として唱え、1930年前後の経済恐慌期に貧しい農村出身者の多い軍部に強い影響力を及ぼした。1932年には大川の日本改造案の実行を企てた一部の海軍将校と愛郷塾(農本的国家主義者の結社)塾生らが5.15事件(犬養毅首相を射殺したクーデター事件)を起こして、政党内閣制を崩壊させた。 (2) 北一輝(1883-1937)と2.26事件(1936.2.26) 北一輝は佐渡の出身で初め幸徳秋水・堺利彦の社会主義運動に関心を持っていたが、大陸浪人の宮崎滔天らと知り合い、内田良平・孫文らの中華革命運動に参加。『日本改造法案大綱』を発刊(1923)してアジア主義と国家改造論を唱え、陸軍青年将校に強い影響力を及ぼした。1937年に2.26事件(国家改造を目指す皇道派将校が1500人余りの部隊を率いて首相官邸などを襲撃、斉藤実内相・高橋是清蔵相などを射殺したクーデター事件)が発生すると反乱将校達の理論的首謀者として検挙され刑死した。 3. 宗教系(仏教系)右翼の登場~右翼思想の過激化 (1) 井上日召(日蓮宗僧侶)と血盟団事件(1932) 群馬県出身の日蓮宗の僧侶。血盟団を組織し、国家革新(昭和維新)実現のため「一人一殺」を合言葉に1932年、井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井財閥重鎮)を暗殺。無期懲役となるが後に特赦を受けた。なお後の日本赤軍のリーダー重信房子の父親は血盟団員であり、井上日召は赤ん坊の重信を膝に抱いたことがあるといわれる。 (2) 田中智学(日蓮宗系新興教団)と「八紘一宇」論 田中は日蓮宗の在家信者組織として国柱会を組織し、日蓮主義と国家主義の統合を目指した。1903年には、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」なる新語を『日本書紀』巻第三神武天皇の条の「掩八紘而爲宇」の記述から造り、日本は世界を道義的に統一する使命がある、とする思想を唱えた。のちにこの言葉が人口に膾炙して大東亜戦争のスローガンにまでなった。 (3) 加藤玄智(浄土真宗在家信者)と天皇絶対神論・国家的神道論 加藤は新仏教同志会の創立者の一人であり、東京帝国大学で宗教学を教えた浄土真宗の信者であるが、同僚の外国人教授の天皇論に刺激を受けて、1912年に『我が国体思想の本義』を刊行し、古来からある天皇「神裔」論を超えて天皇「現人神」論を提唱して「日本に於いては臣民は天皇に絶対服従する」とする天皇絶対神論を主張した。1925年には更に「国家的神道(State Shinto)」なる新語を造り外国に日本人の信仰の在り方として積極的に紹介したために、欧米諸国に、この天皇絶対神論と国家神道論が日本の宗教の実態だと誤解され、後にGHQによる神道指令と天皇の所謂人間宣言を招き、今に至るまで戦前の宗教的制度についての広範な誤解を招いている。 4. 思想統制の開始~マルクス主義への対抗イデオロギーとして (1) 天皇機関説事件(1935)と国体明徴運動 上杉慎吉博士の天皇主権説に対抗して、美濃部達吉博士が唱えた天皇機関説は1920年前後の大正デモクラシー期には学界の通説となっていたが、1930年代の経済恐慌期に国家主義的な右翼思想が勢力を増すと、右翼団体の過激派が天皇機関説を「不敬」として美濃部博士を襲撃し重傷を負わせる事件が発生(天皇機関説テロ事件)。国会でも美濃部博士の説を攻撃する議員が現れ、さらに政府に対して「国体明徴」(統治権の主体は天皇にあることを明示すること)を要求する動きが発生し、政府はこれを呑んで美濃部博士の天皇機関説は破棄され、博士は貴族院議員を辞職、天皇機関説を述べた著書3冊は発禁処分とされた。 (2) 『国体の本義』刊行(1937) 1930年前後に上に述べたような右翼思想が提唱され伸張した背景には、①経済恐慌の進行、という要因の他に、その経済恐慌による貧困を解決する思想としてマルクス主義思想が急速に知識人・学生層に拡散しており、②それに対抗するイデオロギーとして(頭に天皇を頂くだけで、中身は実は殆ど同じの)国家社会主義的な思想が必要だった、という現実からの要因があった。そうしたマルクス主義思想への対抗イデオロギーとしての日本国家の公定の国家観を示すガイドラインとして、1937年には『国体の本義』が刊行された。 5. 支那事変と国家総動員体制~全体主義化の進行 (1) 近衛文麿内閣(1937-38,1940-41)と新体制運動 1936年の2.26事件のあと、広田弘毅・林銑十郎内閣と続いたが、いずれも陸軍・海軍・財界・政党人の意見調整に失敗し内閣崩壊。元老・西園寺の推薦の下に、各界の期待を担って近衛文麿内閣が発足し、難局に当たることになった。(第一次近衛内閣)近衛内閣は発足してまもなく後に支那事変の勃発に見舞われ、戦線不拡大方針を声明しながらも、ズルズルと大陸内部への戦争に引きずり込まれ、1938.12の汪兆銘(中国国民党左派で蒋介石のライバル)の重慶脱出を契機に総辞職した平沼騏一郎・阿部信行・米内光政各々の短期内閣が続く期間に、近衛は、陸相・海相・外相候補を私邸に招いて方針を調整し(荻窪会談)、1940年7月第二次近衛内閣を組閣。政治・経済の全体主義化を進めて非常時乗り切りを図ったが、支那事変の解決の目処は立てられず、米英蘭の経済封鎖を招いて日米破局に至った。 (2) 国家総動員法成立・東亜新秩序声明(1938) 1937年から38年にかけて支那事変が始まると、近衛内閣は国家総動員法を成立させて国内の経済統制に着手せざるを得なくなった(経済の全体主義化)。近衛内閣は更に欧米列強のブロック経済圏に対抗して、日満支3国による東亜ブロック(東亜新秩序)建設を声明した。 (3) 大政翼賛会結成(1940) 政党政治は1932年の5.15事件を経て、36年の2.26事件を持って機能をほぼ停止し形骸化していたが、国家総動員体制の非常時において、更に一国一党の翼賛政治が望ましいとする近衛首相の提言に従い、各党は解散して大政翼賛会に集結した(政治の全体主義化)。 (4) 企画院・昭和研究会~革新官僚の暗躍 近衛内閣の新体制運動を具体的に企画するブレインとして尾崎秀実・蝋山政道・三木清・風見章・和田博雄・勝間田清一ら昭和研究会に集った革新官僚が台頭し、企画院を拠点として総合的な国策企画に当たったが、その実態は尾崎・蝋山・和田・勝間田に代表される国家主義者に偽装した左翼社会主義者の暗躍であった。1941年4月には企画院に対して財界・右翼から赤化思想を疑う声が挙がり、翌年1-4月に和田・勝間田など17名が検挙されるに至った(企画院事件)なお近衛のブレインの尾崎秀実はソ連のスパイ・ゾルゲと通じた工作員であり、尾崎に近い西園寺公一(元老・西園寺公望の孫)も工作員の可能性が高く、近衛の日支和平工作・日米交渉妥結を妨害したとみられる。 6. 敗戦と右翼運動の壊滅~現在まで (1) 赤尾敏(1899-1990)と大日本愛国党(1951-) 赤尾は愛知県出身で先ず社会主義に目覚めて東京の左翼運動に参加したが、仲間の裏切りに遭い検挙され、釈放後に右翼国家主義者に転向した。1942年の翼賛選挙で衆議院に当選。戦後に公職追放され、その解除後に大日本愛国党を結党(1951)し、東京銀座で一貫して反共反ソを訴える街頭演説を行って戦後の右翼活動家の代表的存在となった。 (2) エセ右翼団体の暗躍 GHQの命令により、頭山満系の玄洋社・内田良平の黒竜会の流れを引く大日本生産党などの伝統的な在野右翼結社は解散させられ、右翼運動は壊滅した。そうした状況の中で、朝鮮右翼・同和系右翼が進出(右翼運動を乗っ取り)、愛国者のイメージ・ダウンを狙いとする下品な街宣活動を常態化させ一般国民に「右翼=基地外」という認識を刷り込んでいる(現状では、右翼団体構成員の約3割が朝鮮系、約6割が同和系(左メニュー上部の動画参照))。本来の右翼は国粋主義にも係わらず、明治神宮や靖国神社、果ては皇室行事まで妨害するエセ右翼、中国や北朝鮮・朝鮮総連がピンチになると自作自演の異常な抗議活動を行い「日本人=加害者」というイメージを刷り込む御用右翼まで登場している。 (3) 維新政党新風と「行動する保守」運動の登場(2007-) 上に述べたように戦前/戦後を通じて伝統的な右翼は「アジア主義(アジア諸民族との連携による排欧米主義)」を色濃く打ち出しており、それが戦後の朝鮮系による右翼乗っ取りにも繋がったのだが、近年「アジア主義との決別」を宣言する新しい右翼運動が登場、中共のチベット弾圧に対する抗議活動や朝日新聞など反日メディアに対する糾弾、外国人参政権問題・不法滞在外国人問題の告発・一般国民への啓蒙活動などに大きな役割を果たしており、今後の動向が注目される。 人物やキーワード紹介として主にwikipediaをリンクしていますが、一般にwikipediaの内容は歴史問題の説明に関しては教科書的な自虐史観に偏っていることにご注意下さい。(関係する事件の発生日時や人物名などについては正確であり、また参考となる膨大な情報が詰まっているので、研究用として敢えてリンクしています) 参考リンク:日本の右翼
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/652.html
朝山日乗。日蓮宗の僧侶。 元は出雲の尼子晴久に仕え、のち毛利元就の元へ。 毛利の書簡を持って松永久秀の元へ向かう途中で捕縛されたが、 正親町天皇の勅命で釈放された。 そののち、天皇と織田信長の間を周施往来した。 1568年(永禄十一年)の撰銭令では信長の奉行人として、 明智光秀らと並んで署名している。 ルイス・フロイスらが信長から京都市中への居住許可・安全確保の朱印状を得た際、 キリシタン排斥運動を展開し、一時は天皇のキリシタン禁制綸旨を引き出している。 そうした活動から、キリシタンらに「悪魔の直属」などと呼ばれたりした。 (『信長と天皇』今谷明) 信長と天皇 中世的権威に挑む覇王 (講談社学術文庫)
https://w.atwiki.jp/21seiki-kyougaku/pages/19.html
開目抄講義 【1】 1、本因本果とは何か。 2、爾前二種の失を述べよ。 3、発迹顕本とは何か。 4、空欄を埋めなさい。 「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の( )・( )・( )なるべし」 【2】 1、五重相対がなぜ必要か述べなさい。 2、五重相対をすべて述べなさい。 【3】 1、第六天の魔王の本質とは何か。 2、「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」の御文の“此れ”とは何か。 3、釈尊は六難九易を何のために説かれたか。 4、次の空欄を埋めなさい。 「今度・強盛の( )を・をこして退転せじと願しぬ」 5、池田名誉会長は、「末法における万人成仏という誓願を成就するにあたって、大聖人が強調されたのは『信の力』です」と述べている。なぜ『信の力』といえるのか、述べなさい。
https://w.atwiki.jp/kameyama2011/pages/264.html
第三節〈まことのことば〉の啓蒙性 まず、作品の輪郭を概観しよう。「春と修羅」の冒頭において、詩を語っているおれ(=賢治)は、激情のあまり唾を吐き、歯軋りしながら湿地帯をさまよっているひとりの修羅であるという宣言がなされる。作品自体はおれ(=賢治)=修羅の怒りに応じるように少しずつ各行の段組がずれはじめ、中盤は詩の構成全体が上下にうねりだし、そのうねりの直中において修羅の憤怒の理由は語られる。つまり、「まことのことばはうしなはれ」(l.20)ており、「(まことのことばはこゝになく 修羅のなみだはつちにふる)」(l.45)のだと。 自身から〈まことのことば〉が失われているという表現が真だとすれば、この詩もまた〈まことのことば〉によって構成されたものではなくなる。逆にこの詩は〈まことのことば〉によって語られたと主張するならば、〈まことのことば〉が失われているという詩の内容は偽となるだろう。このエピメニデスのパラドックス(*1)と同形の、発言する主体へと無限に回帰する自己言及的パラドックスは、発言する主体を常に不安にさせる。 フランスの哲学者ミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)は、この自己言及的パラドックス解決点として言説の主体と言説の間に階層構造を導入する。(*2)つまり、フーコーは「私は嘘つきだ」という言説があるとき、それを述べている言説の主体を分離させ、言説の主体を言説よりも上位の審級におく。「私は『私は嘘つきだ』と言う」ときに、最初の私は次の私よりも上位にあり、別のものとしてある。この場合、〈まことのことば〉が失われているという表現を、〈まことのことば〉によって構成することは一見、可能であるように思われる。だが、もし語る‘私’と、‘私’に語られる“私”を分離したとすれば、言明において私はまったく同時に二人いることになり、そのこと自体が虚構fictionにならないだろうか? それはどちらかの私を仮の姿として貶め、傷つかない私は諂曲模様(*3)を描き、語る主体をますます卑屈な修羅へと導くことにならないだろうか? それとも、私が同時に複数の――異なる場所にいることは可能なのだろうか? この問いを考えるために、宮澤賢治に影響を与えた天台・日蓮の十界互具思想(*4)を見てみよう。前章のとおり、賢治は大正九年国柱会に入会したが、そのとき信仰の本尊たるべく授与された日蓮の曼陀羅を、彼は生涯身辺から離さなかった。日蓮は曼陀羅において、法華経の世界観を一枚の図に仮託する。そのなかに日蓮が『観心本尊鈔』で説く《十界互具》も語られている。賢治は自身のなかに修羅や畜生、餓鬼といった六道の下層に存在する意識が自身の内部に潜んでいることを絶えず気にし続けており、「人間の世界における修羅の成仏」を願っていた。この修羅からの脱出を法華経の文脈で読むとすれば、大塚の論考するように《捨身布施》へと至ることになるだろう。それは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という大乗仏教の利他行の精神のもとに「宇宙の微塵となりて無方の空にちらば」ることである。この部分は「春と修羅」の後半で「(このからだそらのみじんにちらばれ)」と望む修羅の独白と一致している。そして、身体をばらばらに粉砕して散開することは、私が同時に複数の――異なる場所にいるための十分条件ともなる。だが、たとえ自身が粉々に散らばり空に撒かれて二度と地上に降りてこないとしても、私の語るべき真実はただ一つのそれのみであるとしたらどうだろう? そして、ただ一つのそれのみの真実を語る言葉――〈まことのことば〉は失われているのだから、修羅=賢治の捨身布施への投企は彼の憤怒を最終的に消し去りはしない。糸杉Zypressen(はいよいよ黒く、賢治の怒りをかき立てる。 それにしても、不可能とされる〈まことのことば〉とはなんなのだろうか? 賢治が熱烈な法華経行者であることや「春と修羅」が灌仏会に書かれたことなどをふまえると、〈まことのことば〉とは真言(釈迦の発した言葉)と解釈することができるだろう。だが、修羅が涙を流しながら怒り、歯軋りするのは彼のいる四月の気層の底に〈まことのことば〉が見いだせないからである。ここで問いが生まれる。そもそもなぜ私は〈まことのことば〉とは何であるかをすでに知っているのだろうか? 千葉一幹は『賢治を探せ』(*5)で、〈まことのことば〉を、かつて乳児の頃に、自分の頭上を行き交っていた大人たちの声を〈まことのことば〉の原型として指摘する。つまり、大人の世界の特徴は発話-音声をともなった息吹によって互いの動きが左右されるということであり、横臥したままの乳児にすれば、遥か上空で言葉が行き来することによって人が人に触りもしないのに人が動くという奇跡が起こっているように思える。このかつてあった奇跡の記憶が、賢治に〈まことのことば〉の原型を与え、幼児が大人たちの声を学習するのと同形の希求と、まだ言葉を話せないという苦痛を再現させるという。賢治=修羅のいる四月の気層の底に〈まことのことば〉が見いだせないのは、自身の使っている言葉が、かつて幼児の時に記憶していた大人たちの言葉とは似ても似つかないように思えるからであり、この落差に修羅は怒りに燃え、無力に涙する。 千葉の〈まことのことば〉の発達心理学的な素描は大筋で賛同することができる。言語は話者の内部にあるとされる感情や意志を伝達するための媒介物であり、世界に直接作用するような性質をもつものではない。言語は、間接的なコミュニケーションを成り立たせるものであり、話し手と聞き手を不完全な形で媒介するものでしかないが、それでもなお、私たちが感情や意志の疎通に熱意をもつのは、言語習得の起源において声の奇跡を知っているからだろう。自身から〈まことのことば〉が失われ、作品が〈まことのことば〉とは似ても似つかないもので構成されたものであるという意識もそれで説明することができる。多数の人々とは違い、おれ=賢治は〈まことのことば〉を強烈に希求してしまう要因としての性的衝動からも説明が可能なので、病理学的側面からは千葉の論考がもっとも妥当性が高いだろう。 では、幼少時の記憶の再演である〈まことのことば〉はなぜ啓蒙主義的性格を帯び始めるのだろうか? それを考えるに先立って、啓蒙主義的な操作が汎歴史的に暴力性と近似していることを確認しておこう。今日、一般に言われる啓蒙主義は十八世紀のジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau 1712 - 1778)とイマヌエル・カント(Immanuel Kant 1724 - 1804)の知見が重要な位置を占める。しかもこの二人の著作の内容は狭い意味で合理主義的なものではなく、むしろその内容はきわめて観念的で専制的な要素を内包している。(それは現実の近代資本主義の姿に対応している。というのも近代とは、合理性と科学性、あるいは自由と寛容が主張されつつ、しかし現実には歴史上最も大がかりな規模で暴力性と専制性が猛威をふるった時代であったからだ。)ルソーの思想は過激かつ神秘主義的であり、カントは霊能者・スウェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg 1688 - 1772)の批判に彼独自の思想の出発点を持つ。この二人の思想を要約すると、個々人をそれ自身において共同体たらしめることであり、それと平行して共同体へと還元不能な時間(ないしは歴史)と事物の内容といった要素を放逐することにある。つまり、自由な諸個人(ルソーの言う「自然状態」)と、それによって形成される共同体は、別々の次元に存在してはならないという原則が啓蒙主義の前提にはある。それは同時に、世界の(真実の世界の)存立を、人間の抽象的な営為以外の、例えば神に基礎づけることの禁止であり、人間の認識に世界と同等の普遍性を期待させることでもある。だが、もちろんその原則と期待は限定された人間の演算能力ゆえに裏切られ、裏切られた憤懣は回収不能な外部への攻撃性となって表出する(そして戦争が起こる)。この暴力の駆動過程は末法時代の日本においては日蓮がその著作『開目抄』で折伏を最適の布教法と判定する過程とまったく同形である。今日の日蓮宗が摂受も行うようになったのは、安土問答(1579)の法論で浄土宗に負けてからであり、それまでは折伏一辺倒であったことを思い出そう。法華経のみがゴータマの内証の悟りそのままを説き示し、法華経以外の教説はゴータマが衆生の機根に随って、衆生の好むところに随って説法し、真実に誘引するための方便の低い権教(後に棄てられるべき仮の教え)であるとする法華経の教説は、〈まことのことば〉を絶対他者に向けて送信しようと模索していた賢治を随喜させた。その体験は彼自身に真実を与えた現実的体験と、法華経の教説で説かれる真実を錯綜させるほど強力なものであったし、また賢治が自覚されないままに法華経を〈まことのことば〉として使用する際の必要条件であった。だが前述の通り、賢治とゴータマの真実は結合することができないのでやがて破綻を迎える。 では、内的体験の圏域を脱しない〈まことのことば〉とは、結局のところ単に個人の枠内にとどまる独我論的-一人称的なものにすぎないのだろうか? (*1)ギリシアの詩人エピメニデス(前500年?)の詩とされるものが、新約聖書の偽作「テトスへの手紙」1章12節にある。この「すべてのクレタ人は嘘つきだ、とクレタの預言者が言った。」という一節は、1908年にバートランド・ラッセルが型理論についての論文で引用し、広く知られることとなった。 (*2)フーコー『外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー』(朝日出版社 1978) P.11~P.16 (*3)見田宗介『宮沢賢治―存在の祭りのなかへ』(岩波書店1987)。見田は修羅の特性を「諂曲(てんごく):自分の意思を曲げて他人に媚びへつらうこと」に見出している。 (*4)「十界」とは、生命の境涯を十種に分類したもので、仏法の生命観の基本。十界はそれぞれ、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界のこと。このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて「四聖(ししょう)」ともいう。 (*5) 千葉一幹『賢治を探せ』(講談社 2003)
https://w.atwiki.jp/fft_mod/pages/50.html
バッシュ ジョブ能力 ベスラ要塞(パーティー加入時) グローグの丘(スペシャルバトル) ジョブ能力 MOVE3 JUMP3 C-EV10 装備可能アイテム 剣、騎士剣、刀、盾、兜、鎧、ローブ、マント、腕輪、指輪、小手、靴 ミスト 名称 射程/垂直 範囲/垂直 MP Sp 効果 備考 闇と暗黒の衝撃 4方向 5/3(敵) 00 25 軽減不可 イノセンス 自分中心 3/3(敵) 00 34 解消:レビテト,リレイズ,リジェネ,プロテス,シェル,ヘイスト,リフレク,オーラ,パワーブレイク,マインドブレイク 武器属性 フルブレイク 武器依存 1 25 Now 付加:パワーブレイク,マインドブレイク アサルトブレイク 3/4 1他 10 34 ウェポンブレイク 武器依存 1 5 Now ブレイク(武器) シールドブレイク 武器依存 1 5 Now ブレイク(盾) リアクションアビリティ 名称 効果 発動条件 備考 ハメどる たたかうで先制攻撃 物理攻撃 サポートアビリティ 名称 効果 備考 剣装備可能 ジョブに拘わらず剣を装備できるようになる 捨て身 与/被ダメージ5割UP まじゅう使い 隣接した3h以内のモンスターの技を一つ増やす ムーブアビリティ 名称 効果 備考 習得JpUP Jp習得量5割UP MOVE+1 MOVE+1 ベスラ要塞(パーティー加入時) ジョブ到達レベル 侍Lv6 装備 正宗、クリスタルの盾、クリスタルヘルム、クリスタルメイル、ブレイサー グローグの丘(スペシャルバトル) ジョブ到達レベル 侍Lv8 A 戦技 R カウンター S 防御力UP M 精神統一 装備 正宗、源氏の盾、まもりの腕輪、ン・カイの腕輪、ヒスイの腕輪