約 764,557 件
https://w.atwiki.jp/a-maho/pages/111.html
格闘や5m以内での攻撃、防御、移動に使用します 保有兵科 歩兵 レンジャー 山岳騎兵 保有係 なし
https://w.atwiki.jp/armyfaq/pages/34.html
夏期休暇を利用して祖父の戦歴を調査しようと思っているのですが、(488 472) 同期の桜って、海軍兵学校の歌ですよね?陸軍の召集兵がなぜ歌っているんでしょうか?(488 501) 旧軍の幹部候補生(乙)は一部が除隊せず軍に留まり、職業軍人になったという解釈でいいのでしょうか?(488 266) 去年、硫黄島を題材にしたドラマで輸送機から竹槍が下ろされるシーンがあったようですが本当に竹槍持っていったんですか?(488 163) 上等兵が下士官を殴ったのにお咎めはなかった、という事って有り得るのでしょうか(487 884) 星の数よりメンコの数とは良く聞きますが、「メンコ」とは何のことですか?(487 915) 大東亜戦争の時、祖父がどの部隊にいて、どんな活動をしていたのか知りたいのですが(487 736) ロシアのシステマ、韓国のテコンドー、のように軍人はそれぞれの国に特徴のある素手格闘技も習うと思うのですが、大日本帝国軍の軍人は何を習得させられていたんでしょうか?(487 554) 旧軍では酒保?で購入する時はタバコや酒の税金が免税になったと聞いた事があるのですが本当でしょうか?(487 78) 第2次世界大戦のバトル・オブ・ブリテンを、日本軍はどのように研究、分析したのでしょうか?(486 313) 昭和17年は戦況が悪化してきたとはいえ、虚弱な兵隊を徴兵しなくてはならないほど、兵隊の数合わせに困っていたのでしょうか?(485 910) 戦前の南洋行政(戦中も)について、書いてある本を知りたいんですが(485 596) 何で、明治政府は作ったばかりの兵部省をすぐに潰して、陸軍省・海軍省の2つに分けたんですか?(485 531) 1943年に医学部生だった場合、学徒出陣の対象になったのでしょうか?(484 616) 旧日本軍の徴兵検査では肛門に指突っ込んで痔の検査をしたとの事ですが、痔の有無ってそんなに重要だったのでしょうか? 第二次大戦中の日本軍はさまざまな分野で技術的に後れを取っていたそうですが光学機器の分野もそうなのでしょうか?(479 454) 日本軍の装備について質問したいのですが、足にくるくる巻いてる布みたいな奴ってなんか意味があるんでしょうか?(480 507) 旧軍の陸軍省や海軍省では毎年の予算編成ではそこの文官が対応してたのでしょうか?(480:622) 旧日本軍で、従軍記章というものは、従軍しさえすれば誰でももらえるものだったんですか? (480 823) 昭和六年乃至九年事変従軍記章は、上海事変に従軍していれば貰えるはずですよね?上海事変にいったはずの祖父の写真には、支那事変従軍記章しか佩用してませんでした。 (481 584) 戦時下の日本では戦死や空襲などの損害も補償されてたのでしょうか? (482 240一部文章入れ替え) 帝国陸海軍は、兵器の部品などを、同一規格のものとしなかったのはなぜですか?(482 292) アメリカ人技術者が中島など航空機エンジンメーカーで指導に当たっていたのはいつごろまでですか?(483 693) 戦前の日本軍人が持ってた拳銃あると思いますが、日本製の拳銃の人気はどうだったの?(483 963) 夏期休暇を利用して祖父の戦歴を調査しようと思っているのですが、(488 472) ネットで調べると各都道府県が軍歴証明書というものを発行しているようです。 (祖父は陸軍だったことはわかっているものの、それ以外の事は親も知りません) そこで教えてください。 軍歴証明書はどこの都道府県で発行してくれるのでしょうか。 戦後(除隊した時)住んでいた県、死亡した時に住んでいた県、申請者(私)が 住んでいる県などいろいろと考えられて困っています。 徴兵事務は、通常、本人の本籍地の役所が担当しました。 したがって、まずお爺さまの本籍地の役所に問い合わせて見てください。 (488 479) 旧軍人軍属の恩給、軍歴証明書に関する業務 http //www.mhlw.go.jp/bunya/engo/seido04/index.html (488 518) 靖国神社【 祭神の調査 】 (通信用語の基礎知識) 基本的には、大東亜戦争で散華された軍人はみな合祀されている。 自分の親兄弟、ないし祖父、曽祖父などが祭神であるかどうかを調べることも可能で、希望あらば 参集殿の受付へ出向き、依頼の書類を書けば、一週間程度で返事が送られてくる(無料)。 返信される書面には、次の事項が記載される。 英霊の名前(生前が山田太郎なら、英霊の名前は山田太郎命) 一、階級 二、所属部隊 三、死歿年月日 四、死歿場所 五、死歿時本籍地 六、死歿時御遺族 七、合祀年月日 崇敬奉賛会(有料)に入会し、書類を書けば、豪華な装丁の「祭神之記」が送られてくる(無料)。 靖国神社 社務所(全体に関するお問い合わせ) 〒102-8246 東京都千代田区九段北3-1-1 TEL:03-3261-8326(代表) FAX:03-3261-0081(代表) (488 530) 同期の桜って、海軍兵学校の歌ですよね?陸軍の召集兵がなぜ歌っているんでしょうか?(488 501) うちの祖父は召集兵で中国の方へ行っていたようですが、捕虜になる事もなく帰ってきました。 それで、戦友?と飲む度に『同期の桜』を歌っているのですが 同期の桜って、海軍兵学校の歌ですよね? 陸軍の召集兵がなぜ歌っているんでしょうか? (本人に聞くのも気がひけるので教えて下さい) 同期の桜は陸海軍問わず、歌われてます。 (488 509) 同期の桜は編曲を海軍士官がやっただけで、陸海軍問わず流行った曲ですが。 なんか変な偏見がない? (488 513) 『同期の桜』は、海軍の軍歌ではなく、当時の流行歌(戦時歌謡)の一つでした。 陸軍の応召兵だった方々が歌っても、何の不思議もありませんよ。 (488 515) 旧軍の幹部候補生(乙)は一部が除隊せず軍に留まり、職業軍人になったという解釈でいいのでしょうか?(488 266) 旧軍の兵制について教えてください。 幹部候補生(乙)Wikiを見ると 「軍曹または伍長に任官し、平時は兵役期間を終えると除隊し、予備役に編入」とあります。 平時では上記の一部が除隊せず軍に留まり、職業軍人になったという解釈でいいのでしょうか? それとも常設師団の下士官には職業軍人はほとんどいなかった、という感じなのでしょうか? 平時は兵役期間を終えると除隊し、予備役に編入 本来の制度 予備役編入・除隊→在郷軍人(市民)に戻る→必要に応じ召集→下士官として軍務につく 太平洋戦争のパターン 予備役編入・除隊→即日召集→下士官として引き続き軍務につく 「予備役編入・除隊→召集」は書類上の処理だけで、実質的には同じ部隊で引き続いて軍務についてるわけ 下士官には職業軍人はほとんどいなかった 乙幹(下士官)を志願した時点で職業軍人の道を選択したことになる (488 411) 幹部候補生ちゃあ本来は、土官学校出身の幹部と違って、 戦争中必要だが大量消費される下級指揮官(中隊長くらいまで)を大量生産 する為に作られた制度。試験等により選抜されて、甲種が少尉~ 乙種が下士官。 ぶっちゃけ、イイ人材を取り込むために軍が考え出して、それなりに昇進党優遇されてた制度。 元々は100円少尉だったっけかな…金持ち子弟の優遇制度だったのだが、廃止されて、 2次大戦の頃に復活した筈。 で、戦前の話だが… 兵隊奴隷、下士官道楽、士官は商売と言われてた。 給料的にもそうだった。最上層の下士官は最下層の士官である新品少尉よりは給料良かったが、 兵隊出身で下士官経由で士官のそこそこになるのは、めっちゃムズイ。 少佐になったら「兵隊大将」と呼ばれるくらい稀なことだった。 新品少尉はまあ 今でいう新入社員かな。古手の準社員より時間当たり給料は少なくてもそのうち上がる。 下士官はまあ・・・農家の次男坊三男坊の重要な就職先でもあったので、 派遣社員のそこそこ専門資格持ち くらいかな。 ちなみに士官はとらば~ゆの自由が無かったが、下士官以下は任期切れたら 転職可能。(戦争中等で召集(赤紙)されたら無理だが) その代わり下士官は定年が士官に比べて早かった筈。 幹部候補生でなくても、兵隊から年月かけて下士官になるのが 平時の普通。 昇進していったら、各種学校へ半年とか派遣されて技能を覚えて、昇進していく。 で、ある程度以上有能なら、任期切れる頃には上から継続してくれって頼まれる。 (488 433,435) 去年、硫黄島を題材にしたドラマで輸送機から竹槍が下ろされるシーンがあったようですが本当に竹槍持っていったんですか?(488 163) 「竹の棒」はいろんな利用価値があるので資材として持って行った。 竹なら軽いしね。 硫黄島は植生が貧弱で建設資材にするような木がないので、そうした物も本土からの 輸送が必要だった。 (488 166) 硫黄島に向かう輸送船に青竹を多数積ませたのは事実です。 これは、乗船する兵士一人一人に救命胴衣を付けさせることができないので、 もし船が撃沈されたときには兵士がこの青竹を頼りに浮遊し、他の艦船から 救出してもらう確率を上げるためです。 「闘魂 硫黄島」(光人社NF文庫 堀江芳孝)の中で堀江参謀が上記の理由で 青竹を買い付ける描写があります。 (488 552 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 上等兵が下士官を殴ったのにお咎めはなかった、という事って有り得るのでしょうか(487 884) 祖父が戦争中に上等兵だかだった時に 余りに横暴な下士官(軍曹?)の仕打ちにキレてぶん殴ってしまったという話を聞きました。 その後本人は営倉入りを覚悟したそうなのですが、何故かお咎めはなかったそうです。 祖父は腕っ節が強かったので仕返しを恐れたのではないかと言ってましたが 仮にも階級社会の軍でこういう事って有り得るのでしょうか 何か理由があって、わざと横暴や理不尽な仕打ちをして、 部下がどう反応するか様子を見る、というのは陸軍に時々見られ、 自衛隊でも一部受け継がれているらしい証言を聞くことがある。 一種の根性試しみたいなものらしい。 それの可能性。 あるいは、単に部下に殴られたということを、上官が自分の面子を 気にして表ざたにしなかっただけという可能性もある。 (他に人間がいて、それを見ていたとかの状況では無理だが) (487 888) 営倉とか軍法に基づいて裁くにはちゃんとした理由が必要。 なので権力に笠を着て横暴に振舞った結果がそれだと、世間体を気にして口を噤んだ可能性が大。 兵隊に舐められる(若しくは後ろ弾の可能性がある)下士官は階級社会以前に、クソの役にも立たないから。 星の数で従わせるのは士官、メンコの数で従わせるのが下士官。 (487 914) 星の数よりメンコの数とは良く聞きますが、「メンコ」とは何のことですか?(487 915) メンコの数=兵隊稼業で飯を食った数=年季 と言う解釈でおk。 (487 916) コメの飯⇒「コ」と「メ」を入れ替えてメコ⇒語呂悪いのであいだに「ン」がはさまって「メンコ」 要するに軍隊で何回ゴハンを食ったかってこと もっとも旧軍は麦飯交じりのごはんだったけど (487 918) ぐぐったらこういうの出てきました: http //www.geocities.jp/mor25/sikann.htm メンコとは兵食のことである。明治時代の兵食は、檜の曲げ物で作った、 「面つう」という器に盛りつけて、一人づつ配食した。 内務班で、飯を盛りつけるようになったのは、大正時代になってからである。 昔は、炊事班で一人分づつ、盛りつけたのである。 「面つう」は、元来、乞食の持つ食器であった。これがメンコ飯の由来となった。 面つうというのは「面桶(めんつう)」いわゆる「わっぱ」のことと 思われますね。 http //dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8 p=%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%A4 dtype=0 stype=0 dname=0na pagenum=1 index=20228218164100 (487 990) 大東亜戦争の時、祖父がどの部隊にいて、どんな活動をしていたのか知りたいのですが(487 736) 厚生労働省社会援護局に聞いてみ (487 742) ロシアのシステマ、韓国のテコンドー、のように軍人はそれぞれの国に特徴のある素手格闘技も習うと思うのですが、大日本帝国軍の軍人は何を習得させられていたんでしょうか?(487 554) 相撲と柔道 (487 556) どちらかといえば銃剣術や剣道を頑張ってた。相撲とか柔道はやってたかもね (487 561) 自衛隊は徒手空拳を頑張ってる。日本古来の体術や合気道がベースになってるみたいです。 戦前は陸軍将校が空手、柔道などを組み合わせた徒手空拳を習っていたそうです。 兵卒は「自主的に」格闘術を習っていましたが、柔道、剣道、相撲などは部隊ごとにやっていたみたいです。 ただし、実践というより「体育」「精神教育」の一貫という意味合いが強かった模様。 銃剣術、短剣格闘は頑張っていました。 (487 833) 旧軍では酒保?で購入する時はタバコや酒の税金が免税になったと聞いた事があるのですが本当でしょうか?(487 78) もし本当なら、大量に買って市中で売りさばくなんてこともあったのでしょうか? (もし私の聞き間違いでしたら、ごめんなさい) 免税だったかはしらないが、基本的にツケで購入する酒保での支払い金額の 上限が設定されており、どうしても必要な日用品+αと少量の嗜好品が購入できる 金額しか枠がなかったようなので、そんな犯罪まがいのことをやるメリットがないと 思うぞ。 (487 81) 大体の品物が市価よりも安く買えた。 タバコなどに関しても、ただ税金を引いた額よりも安かったようです。 なので、帰郷時のお土産として酒保でタバコを買うことも少なくなかった。 (487 106) 第2次世界大戦のバトル・オブ・ブリテンを、日本軍はどのように研究、分析したのでしょうか?(486 313) まだそのころはアメリカ、イギリスと戦争をする前だったので、 ロンドンには駐在武官とかいたと思うのですが、 防空体制はこう築くべきだとか、或いは逆に空爆する時はこうすべきだとか、 バトル・オブ・ブリテンでどういう教訓を得たのでしょうか? もしかして、ノモンハンみたいになにもしなかったのでしょうか? 当時は防空演習も盛んに行われており、防空や対空についての関心は高く、 政府機関からも国民向けに様々な情報提供を行っています。 1940年10月には、ロンドン空襲について爆撃痕などの写真が掲載されると共に、 日本の都市が空爆されたらと言うシミュレーションが国民向けに宣伝されています。 例えば、敵の250kg爆弾が百貨店の一角と路面電車の正面道路上に命中した場合、 百貨店は滅茶苦茶に破壊され、自動車は百貨店4階まで吹き上げられ、水道管、ガス管、 通信線も破壊され、百貨店内並びに道路上の人々も無残な死を遂げると言う結論が出て います。 一方で、焼夷弾による火災は軽視し、10kg級油脂焼夷弾については、消防ポンプを使わずに、 バケツリレーで消火すると言う楽観的な見通しが考えられています。 で、その結果として空襲対策には防空壕を建設すべしと言う結論に持って行っています。 空襲を阻止すると言う点においては、「そうむざむざと、我が国上を敵機の蹂躙に任す様な事は 無い」としながらも、各都市の空襲の例を見ると、「侵入する敵機を全部捕捉撃滅することは不可能」 であるとし、普段の防空訓練と、「我が国土は我が手で護るという決意」が大切であると言う精神論に なっています。 1938年当時は、国民の安全を考え、空襲時の避難方法とか毒ガスから身を守る方法が考えられて いましたが、1941年になると、空襲から逃げずに消火活動をせよ、防空壕は身を潜める場所ではなく、 積極的な防護活動をするための待機所である、となっています。 因みに、この方針転換は、1941年11月の防空法第一次改正から行われたもので、BoBやモスクワ空襲など の影響も如実に受けていると言えるでしょう。 また、従来は毒ガス弾対策が考えられていましたが、欧州の空襲ではその様なものが使われなかった事から、 焼夷弾対策に重点を移しているのも特徴です。 (486 534 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 昭和17年は戦況が悪化してきたとはいえ、虚弱な兵隊を徴兵しなくてはならないほど、兵隊の数合わせに困っていたのでしょうか?(485 910) 日本軍の徴兵関係に詳しい方お願いいたします。 亡くなった母方の祖父は徴兵検査を丙種合格?というギリギリで通った虚弱にもかかわらず、 昭和17年に徴兵されて日本と中国の間を往復していた艦船(輸送船でしょうか?)に上等兵(衛生兵) として勤務していたと聞きました。 昭和17年は戦況が悪化してきたとはいえ、そんな虚弱な兵隊を徴兵しなくてはならないほど、 兵隊の数合わせに困っていたのでしょうか? 素人の質問にお答えいただければ幸いです。 平時には25%ぐらいしか徴兵されないわけですが、戦況が悪化してくると、 男という男が徴兵されるようになりました。俗にいう根こそぎ動員です。 (485 914) 衛生兵なら医者かもしくは、日赤の社員とかが家族にいませんでしたでしょうか? 当時、軍医が払底していました。 よって、医療現場に関係する人間であれば、結構な確率で徴兵に引っかかります。 (485 970 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦前の南洋行政(戦中も)について、書いてある本を知りたいんですが(485 596) それについて適切な書はありますか? 統治そのものであれば、戦前の朝日年鑑を漁るのが一番です。 古い本であれば、国会図書館か琉球大学にある、矢内原忠雄著『南洋群島の研究』(1935年刊:岩波書店)が 最も詳しいか、と。 統治状況ならば、神山晃令氏の論文「日本の国際連盟脱退と南洋群島委任統治」 (近代外交史研究会『変動期の日本外交と軍事』(1987年、原書房刊)所収) くらいかなぁ。 最近の状況は分からないので、もしかしたら、新しく研究本が出ているかも知れませんが。 (485 623 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 何で、明治政府は作ったばかりの兵部省をすぐに潰して、陸軍省・海軍省の2つに分けたんですか?(485 531) また、大正の軍縮期などに、重複する陸軍省・海軍省の軍政部門の統一を図ろうと しなかったんですか? 思うに、兵部省の解体を行ったから、軍の不統一→昭和の悲劇を招いたように思え てなりませんが・・・・・ 現代のカナダ軍の例にもあるように、統一するのが難しいからだろう… 陸海の上に統合した組織を作るのはありだろうが、 そういうのは(組織というか部署というか)確か、ちゃんとあったような? 詳しくないが。 でもって、その上でやはり軍政が分裂してしまっているというのは他国でも結構例があるが。 (485 533) 薩摩閥と長州閥からのリクエストのため。 明治、大正期の軍部は維新の元勲を多数出してるこの 2つの派閥のバランスに苦労してたんだよ。 (485 534) 「お雇い外国人」的なタイトルのが中公新書にあるから読んでみ つまりは制度も西欧から輸入、輸入先の先進国から来た顧問外国人たちがそれぞれの国家利権のために 統合不能なぐらい違った文化を作っちまった (485 535) 少なくとも、兵部省の解体と軍の不統一は大して関係あるとは思えない。 当時の世界を見れば、国防省のように軍事関係の省が一つだけなんて国の方が少なく、 陸海(空)軍でそれぞれ部署を持ってる方が多かった。 それに、たとえ軍政面で一つの省でもその下の陸海軍の部署で反発がある事は容易に 想像がつく。 余談だけど、アメリカは未だに陸海空軍省がそれぞれあって、その上に国防総省が あるという形になってる。省内省だな。 (485 537) 元々が軍閥の集合体みたいな政権だったから、軍政部門の統一ポストに誰が就くかで揉めまくった。 だから、揉め事を避ける為に敢えて設けなかった。 病巣は早めに取り除くべきだったのは言うまでもないが。 (485 543) 1943年に医学部生だった場合、学徒出陣の対象になったのでしょうか?(484 616) 学徒出陣はないが、卒業繰り上げで、 軍医見習いとして召集される可能性がある。 (484 629) 旧日本軍の徴兵検査では肛門に指突っ込んで痔の検査をしたとの事ですが、痔の有無ってそんなに重要だったのでしょうか? 痔は治りにくいし酷くなると歩くこともできないくらいの苦痛になる。 兵隊は歩くのが仕事だし、戦場は痔持ちに優しい環境ではない。 戦場で行軍も戦闘もできなくなるような爆弾を抱えている人間は採らないってことだね。 ググってみたら徳川の家臣の榊原康勝が、大阪夏の陣の直後に痔で死んでるそうだ。 戦場で痔が破れて鞍が血まみれになるまで馬に乗り続けたのが原因らしい。 (376 57) 第二次大戦中の日本軍はさまざまな分野で技術的に後れを取っていたそうですが光学機器の分野もそうなのでしょうか?(479 454) 比較的ましだったが、ドイツとかに比べるとかなり劣る。 米軍機に積んであった照準器とかも複製不可 (479 455) ましっていうか、数少ない割とまともな分野の一つだっただろう。 あとドイツと比べるのは間違ってるw (479 456) シュミットカメラの技術が無いので、f値の明るい偵察機用カメラが作れなかった フィルムの感度が低い当時では大変なハンデだった。 (479 457) 光学機器に関しては当時のドイツは世界を圧してるからなー。 今でも一、二を争う。 (479 458) 日本軍の装備について質問したいのですが、足にくるくる巻いてる布みたいな奴ってなんか意味があるんでしょうか?(480 507) 名称とかはあるんでしょうか 教えて下さい ゲートル 行軍時の足の保護むくみ予防などの為の物、別に軍だけの装備ではない、 きゃはんなど昔からある旅支度のひとつ。 (480 508) ゲートル。疲労防止が目的。本来なら足にピッタリなオーダーメイドブーツにしたいんだが、日本は貧乏なので布切れでがまんした (480 509) 巻脚絆(まききゃはん、なまって「まっきゃはん」とか)とも言うね。 (480 510) 旧軍の陸軍省や海軍省では毎年の予算編成ではそこの文官が対応してたのでしょうか?(480:622) 個人のイメージとしてサーベル下げた軍人が大蔵省の役人に頭をヘコヘコ下げてお願いしてるのは想像できん のですが。やはり陸軍省や海軍省付きの文官がやってた? 当然、それなりの折衝はあったようだが、今と違って、軍事費に対して寛容だった風潮が、他部門の官僚や世論にも あったんで、軍人がひたすら頭を下げて…ってイメージとは少し違ったようだ。 特に、建造費はかかるが、完成予定のスペックは秘匿したい…なんて戦艦クラスの予算編成についても、色々と 融通は利かせてくれたらしい。 (480 630) 旧日本軍で、従軍記章というものは、従軍しさえすれば誰でももらえるものだったんですか? (480 823) それだけでなく、関係が有れば、後方の補給関係の人ももらえた。 ちなみに太平洋戦争の従軍記章は、配布される前に終戦になったので、 誰も持ってない。 (480 827) 昭和六年乃至九年事変従軍記章は、上海事変に従軍していれば貰えるはずですよね?上海事変にいったはずの祖父の写真には、支那事変従軍記章しか佩用してませんでした。 (481 584) 第2次上海事変以降の関係者なら、支那事変従軍記章しか貰ってないはずだが。 (481 585) 戦時下の日本では戦死や空襲などの損害も補償されてたのでしょうか? (482 240一部文章入れ替え) 当時の日本生命などの生命保険会社や損害保険会社の 広告をネットで見てたのだけど 戦死の保険はあった 富国生命(今はもうない)辺りが有名 戦災被害は保険の免責条件に当たるので死んだら死に損 (482 241) 帝国陸海軍は、兵器の部品などを、同一規格のものとしなかったのはなぜですか?(482 292) アメリカはそうしていたようですし、 その方が作業効率もよく、修理も早いと思うのですが。 規格通りの精度で部品を作る技術がなかったから。 だから、現物合わせで、組み合わせる名人の存在が不可欠だった。 (482 294) 今のJISのような工業規格を作ろうとしていたところで戦争が始まった。 (482 299) 規格統一って想像以上に労力・予算・時間が要る。 長い目でみれば確かにプラスだが、短・中期的になら 工場毎の都合で量産させる方が数が揃うわけね。 ま、ぶっちゃけて言うと日本には規格統一を試みられるだけの国力と時間がなかったということ。 (482 303) アメリカ人技術者が中島など航空機エンジンメーカーで指導に当たっていたのはいつごろまでですか?(483 693) 日米関係が決定的に悪化する結構遅くまでいたようなことを何かの本で 読んだような気がするんですが忘れてしまったので 昭和16年の中頃までだったような 中島航空エンジン史的なタイトルの本に詳しかったと思う 大きめの図書館ならまず間違いなくあるので、今日が休みなら行ってみれば? 昔みたく冷房が効いてないのが残念だが (483 717) 戦前の日本軍人が持ってた拳銃あると思いますが、日本製の拳銃の人気はどうだったの?(483 963) やっぱ欧米の拳銃の方が扱いやすさや命中率は上だったのかな まだまだ工業後進国なので人気がなかった。 輸入がとだえるまで将校は欧米製拳銃を好んで購入した (484 97)
https://w.atwiki.jp/army2ch/pages/341.html
旧日本軍の戦艦・空母・巡洋艦の話題は、各種戦艦・大和型・日本の空母・重巡・軽巡をご覧下さい。 震洋やマルレは、木製のようですが、夜間に出撃したかどうかわかりませんが、連合軍のレーダーに引っ掛かる可能性があったのでしょうか? 戦標船改E型の「焼玉エンジン」ってなんでしょうか? かなり前の神戸新聞の投稿欄に祖父が呉海軍工廠で特殊潜航艇を作っていた(回天か?)という50代くらいの女性の投稿があったのですが、 旧日本海軍の給油艦知床型(一番艦能登呂)は軍艦でしょうか? 「梨」→「わかば」の改装はどんなものだったのですか? 丹陽こと雪風が賠償艦として、国民党に貰われていったエピソードは有名ですが 戦時中、帆船日本丸が輸送船として瀬戸内海を走ってたと聞いたのですが、知ってる方教えて下さい。 正規工作艦明石の歴史と性能について教えて 旧日本海軍の艦艇は大和級戦艦からバルバスバウが装備されていますが中身はバウソナーなのでしょうか? 日本の軍艦で、艦命符字で大和・JGAA、長門・JGIA、赤城・JQSAってありますが、何の略? 防空駆逐艦「秋月」には射撃用のコンピュータが積まれていたのですか? 内火艇の火はどういう意味ですか? 大戦中の日本の大型艦っていくどと蒸気タービンを機関としてるのに燃料がねえから作戦行動がとれないっておかしくないですか? 標的艦となった摂津に積まれた遠隔無線誘導装置の製造国・メーカーを教えてください 旧日本海軍の艦艇の艦首には、フレアはあってもナックルは一部の駆逐艦にしかない、という印象なのですが、実際はどうだったのでしょうか。 日本軍の輸送艦で最大搭載量の艦ってなに?またどれくらい積めるの 帝国海軍で「内火艇」を「うちびてい」と呼んでいたらしいけど、これって一体どこから出た呼び方なんじゃろか。 第二次大戦時に艦船の探照灯は、どれぐらい使用されたんでしょうか? 帝国陸軍の河川用装甲砲艇は、日本軍の武装解除後に国共内戦やベトナム独立戦争で使用されたんでしょうか? 大発って何ですか?ダイハツという車の会社と関係があるのでしょうか? 大戦中、日本ではコンクリート製の輸送船が作られ、これが結構優れものだったと言いますが、 対潜兵器の「捕獲網」は、どのように使うのでしょうか? 日本の戦時標準船の「改E」系列は、きわめて評判が悪いようですが、 日本の駆逐艦で主砲塔を一基下ろして、機銃を載せるという改装をした艦があったと思うのですが 特設航空機運搬艦に飛行艇は積めますか? 日本海軍は機動部隊防空のための秋月型を多数製造しましたが、秋月型以外に防空目的の駆逐艦を設計したのでしょうか? 日本軍の特設工作船ってどんな船かわかります? 大戦初期の日本の揚陸艦って神州丸くらいしか聞きませんが、当然他にもありますよね? 日本の防空駆逐艦は米国と比較して低性能だったのでしょうか? 秋月級は防空駆逐艦であるのに初期は対空機銃装備が少ないのは、どうしてなんでしょうか? 「艦」と「艇」はどう違うのですか? 日本では漁船を改造した特設掃海艇や特設駆潜艇を数多く作りましたが、これらには爆雷や掃海具は当然として、砲や機銃は装備されたのでしょうか? 震洋やマルレは、木製のようですが、夜間に出撃したかどうかわかりませんが、連合軍のレーダーに引っ掛かる可能性があったのでしょうか? 海の上には波があり、シークラッターという複雑なエコーが常に流動しています。 これは潜水艦のシュノーケルや水上艦のステルス化が一定以上進まない原因なのですが、 逆に補足する側にとっても障害になります。 つまり、ある程度波のある海上に浮かんでいるだけで、隠れ蓑をまとっているのと 同じ効果があるのです。 そのため、対水上レーダによる小型木造船の遠距離補足には現代でもある程度の 限界があります。 マラッカ海峡付近の海賊はこの原理を利用し、パンチュンという小型高速の 動力付き木造船を駆使して気付かれる前に大型タンカー等の死角に入り込もうと する手口を使っています。 ただし、いってしまえばそれまでの事で、人員の少ない民間船ならともかく 警戒要因の多い警備や軍用艦船にとっては、闇夜に紛れて油断の合間を縫う 程度の効果しかなく、戦時下で警戒を厳にしていると厳しいものがあるでしょう。 なにせ、旧軍は夜間の対魚雷警戒すら目視で航跡を発見する方法で対処しています。 (657 378) 戦標船改E型の「焼玉エンジン」ってなんでしょうか? 「焼玉エンジン」は、ピストンで圧縮されたガスを、バーナーで熱した鋳物の球に接触して爆発させる機関で、通常は重油を燃料とする。 戦時中、特に、終戦間近には、石油不足で、魚油などが使 われた。 浦安市郷土博物館に実演展示されています (5 834) かなり前の神戸新聞の投稿欄に祖父が呉海軍工廠で特殊潜航艇を作っていた(回天か?)という50代くらいの女性の投稿があったのですが、 彼女の投稿によると祖父は設計の重要な立場に居たらしく家には資料があるとか。 そして彼女は祖父のことを誇りに思い、特殊潜航艇の他にも「水陸両用魚雷」なる物も開発していたと証言。 ソースは示せず、恐縮ですが、はたしてそんな兵器は存在するのでしょうか? 確証はありませんが、特4式内火艇のことではないでしょうか? 設計が呉工廠造船調査部で 製造が三菱重工、さらに改修が呉工廠で行われています。 設計は堀元美少佐一人で行われたそうなので(また堀氏は潜航艇建造には不参加) この改修の際に関わられたの工廠関係者の方ではないかと (10 名無し厨尉) 単に第二次大戦前までの「海防艦」というのは、単に旧式、二線級となった 軍艦の総称で、海防戦艦的な用途に使われたというのは些か穿ちすぎの ような気がします。 単に「予備艦」という艦種であれば、そこに配属される将兵の士気にも関わ りますし、国民の視線も冷ややかでしょう。 多少なりとも、軍艦っぽいネーミングにしてイメージ向上を行ったのが真相 ではないでしょうか。 (10 名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2) 旧日本海軍の給油艦知床型(一番艦能登呂)は軍艦でしょうか? 旧海軍で軍艦は以下のものだけです。(太平洋戦争末期) 戦艦 航空母艦 1等巡洋艦 2等巡洋艦 水上機母艦 潜水母艦 敷設艦 練習戦艦 練習巡洋艦 というわけなので日本海軍の中では給油艦である知床型は軍艦ではないです。 (18 バッチ3) 「梨」→「わかば」の改装はどんなものだったのですか? 昭和20年屋代島沖で沈められました。 大蔵省が業者に売却して、昭和29年に引き上げられ、スクラップとして払い下げましたが、状態が良かったために、 その業者が防衛庁に売り込みを図り、紆余曲折の末、護衛艦となったものですね。 「梨」→「わかば」は、沈没していたために、多分船体内部の洗浄、機関修理は実施したでしょうが、 機関を撤去してまでするのであれば、貧乏所帯の海自は買わなかったでしょう。 あとは、武装を米式の対潜護衛艦並みに、更に電測兵装を追加しているだけのようです。 他にも枚挙に暇がありませんが、比較的有名なのが真珠湾で沈んだ戦艦の再生、 ツーロン港で自沈した駆逐艦の再生というのがあります。 (24 眠い人 ◆ikaJHtf2) 丹陽こと雪風が賠償艦として、国民党に貰われていったエピソードは有名ですが 丹陽は具体的に何年ごろから何年ごろまで、中華民国の旗艦だったのでしょうか? 丹陽について細かい話をこちらを見てください。 nttp //homepage1.nifty.com/HARPOON/UMAX15.html なお、文中に出てくるグリーヴス級駆逐艦とは DD421ベンソンとDD427ヒラリーPジョーンズで、54年に中華民国に引渡されております。 その他リヴァモア級駆逐艦2隻(DD431プランケット/DD456ロッドマン)も 59年と54年に引き渡されています。 (33 名無し軍曹) 戦時中、帆船日本丸が輸送船として瀬戸内海を走ってたと聞いたのですが、知ってる方教えて下さい。 運輸省管轄で、石炭輸送を行っていたそうです。 (11 名無し厨尉) 正規工作艦明石の歴史と性能について教えて 昭和9年度の軍縮条約下に於ける第二次補充計画によって建造が計画され、 1937年に佐世保工廠で起工、1939.7.31に竣工しています。 この艦は当時最新鋭だった、米海軍の工作艦メデューサ級をタイプシップとして 建造されており、艦内には日本でも最新鋭のドイツ、米国製の精密加工機械を装備していました。 1942年の改○5計画によって三菱横浜にて同型2隻を建造する計画でしたが、 資源不足、戦局の推移によって実現しませんでした。 実現したら、「三原」「桃取」になっていたようです。 太平洋戦争勃発時はフィリピン攻略部隊に属し、以後はトラック島に在泊し、 その陸上工作部と共同で損傷艦の修理に活躍しました。 1944.2.17~18に掛けての米軍のトラック空襲で大破し、3.30にパラオで空襲を受けて沈没しました。 排水量9000t、全長158.5×全幅20.5×喫水6.25m、機関タービン10,000shp、速力19.2kt、 武装として12.7cm連装高角砲2門を艦の前後に装備し、艦内に工作機械114台を設置、 工員433名が17の工場に分かれて、勤務していました。 (47 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧日本海軍の艦艇は大和級戦艦からバルバスバウが装備されていますが中身はバウソナーなのでしょうか? 詳細な資料が手元にないのですが、バルバスバウを装備しているのは大和型戦艦と翔鶴型空母 くらいです。 あとの艦はたいていスプーンバウかクリッパーバウのはず。 ソナーにしても装備している艦はそんなに多くなく、海防艦などがハルソナーを装備していて バウソナーは装備していません。 バウソナーを装備しだしたのは戦後の艦です。 それに、大和型戦艦のバルバスバウって今の商船みたいに大きくないです。 (51 名無し軍曹) 大和の艦首には水中聴音器が装備されてます。 (51 437) 日本の軍艦で、艦命符字で大和・JGAA、長門・JGIA、赤城・JQSAってありますが、何の略? 国際無線符合 現在のフネにもあるよ。 (53 8) 防空駆逐艦「秋月」には射撃用のコンピュータが積まれていたのですか? そんな事実はありません。 (60 742) 電波探信儀はレーダーです。コンピュータとは呼ばないほうがよいでしょう。 1.戦艦にも電探は積まれていました。 2.陸軍では電波警戒機という名でレーダーを使用していました。 (60 745) えー秋月級に限らず、高射砲を装備している艦にはだいたい「高射装置」という 対空射撃用の照準装置が付いていました。これは機械式計算機を組み込んだもので (これについては高射装置以外の管制装置も同じですが)、様々な情報を入力すると 射撃諸元を示すようになっていました。 なお、このような射撃装置は海軍の一部の防空陣地にも設置されていたといいます。 陸軍については私の手元に資料がないもので・・・。 上のレスにもありますが機械式計算機ですのでコンピュータとは言い難いですね。 また、最近の調査で秋月級の初期の艦も装置自体は1基しか積んでいなかった という説がでてきたようです。 (60 747) 普通の高射砲部隊には射撃指揮コンピュータ等配備されていたのでしょうか? 佐貫マタオ氏の書いた本にドイツの高射砲部隊には単純なアナログコンピュータと いうべきものが装備されていたとか書いていたような気がします。 (60 748) 内火艇の火はどういう意味ですか? 大辞林第二版より [内火艇]ないかてい 内燃機関で走る小艇。 (61 822) 大戦中の日本の大型艦っていくどと蒸気タービンを機関としてるのに燃料がねえから作戦行動がとれないっておかしくないですか? 蒸気機関って石炭と水で動くはずなんで、石炭は日本で取れるんで問題ないんじゃないですか? それは石炭燃焼缶の場合だろ。海軍のフネは重油燃焼缶だったので、大規模な改造が必要。 石炭を動力源にするか、重油を動力源にするかで、同じ蒸気タービンと言えど、出力や特性が全然違ってくる。 フェラーリ持ってきて、アルコールでも動くんじゃね?って言うのと一緒。 石油は液体なのでポンプで圧力を掛ければボイラー内に入っていくが、石炭は固体なので人が投げ込まねばならない。 また、石油はバーナーを奥まで伸ばせるのでボイラーの厚みを大きく出来るが、石炭だと人の投げ込める距離以上は 無意味なので厚く出来ない。 その分大型化できず数を揃えなければならなくなる。 このため石油が世界中の港の多くて入手できるようになると石炭専焼ボイラーや混焼ボイラーは廃れ、重油専焼ボイラーが主流となる。 また、日本国内で取れる石炭はあまり質が良くない。 蒸気機関だって、確かに燃料は選ばないがそれは構造が単純だから、釜に入れればとりあえず燃えるだけであって 蒸気を発生させるのに必要な燃料を投入しなければ、燃費の問題で逆に非効率になったり、出力不足で動きません なんてことも普通だ。 極端な話、石炭の代わりに木炭とか紙とかで蒸気機関動力船を動かせなんて、どれだけ燃料積むんだよってことになるし (507 290-315) 標的艦となった摂津に積まれた遠隔無線誘導装置の製造国・メーカーを教えてください 海軍の技術研究本部電気部が昭和三年に開発しました。 システムは速力管制装置と針路管制装置を組み合わせた物です。 動力の電動機と電池を使用して無線操縦をします。 但し、ボイラーの自動噴燃装置はドイツのアスカニア社が開発した物を輸入して機関の遠隔管制に使用しました。 参照図書はなんと! 歴史群像2001年12月号のp12です。 我ながら歴群を見直しましたね。 追記、 システムの予算化は昭和9年に認められました。 摂津の標的艦としての完成は昭和12年です。 操作関係に関してはWikiの標的艦摂津に記載されています。 (601 不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk) 旧日本海軍の艦艇の艦首には、フレアはあってもナックルは一部の駆逐艦にしかない、という印象なのですが、実際はどうだったのでしょうか。 当時の日本の軍艦はより良好な凌波性や高い速力を追求しまくっていたので、より自然なライン を追求した当然の結果と思われる。艦首/艦尾形状、舵など、あらゆる部分について、熱心な トライ&エラーが繰り返されていた。 ところが戦時になり、テクがどうこう言う前に「数」が足りなくなったので、「松」型駆逐艦に至って ようやく簡素化されナックルになった。性能低下が心配されたが、予想に反して大したデメリット は出なかったという。それまでが"凝りすぎ"だったというわけ。 (299 105) 日本軍の輸送艦で最大搭載量の艦ってなに?またどれくらい積めるの 二次大戦の輸送船は枢軸・連合とも一般商船を徴用したものがほとんどで、専用の輸送艦は開戦後に建造されている。 連合軍側最大の輸送船は豪華客船として有名なクイーン・メリーで8万1237総トン。 日本で最大は日本水産の捕鯨母船第3図南丸が1万9206総トンで、タンカーとして使った。 タンカー以外の特設運送艦では、日本郵船の浅間丸型1万6947総トンが最大かな。 まあ単純に排水量で言うと、戦艦や正規空母でさえ輸送任務についてるけど。 日本ではそもそも1万総トン超える商船自体数える程しかないし、新田丸型とか氷川丸型とかほとんどが豪華客船だな。 (俺初質スレ431 689) 帝国海軍で「内火艇」を「うちびてい」と呼んでいたらしいけど、これって一体どこから出た呼び方なんじゃろか。 http //www.warbirds.jp/ansq/21/B2001408.html 以上から見て、明治大正期には「うちびてい」と言っていたものが、昭和に入って遅くとも昭和10年までには「ないかてい」と呼称が変更されたものと考えます。 (684 370) 第二次大戦時に艦船の探照灯は、どれぐらい使用されたんでしょうか? 日本海軍の戦術では、夜襲に於て探照灯を使用した射撃と言うのがデフォでした。 従って、夜襲を行う場合は、探照灯を結構使用しています…としか回答出来ないなぁ。 但し、連合国の電探精度が上がると逆に目標にされて悲惨な目に遭うわけですが。 (286 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 帝国陸軍の河川用装甲砲艇は、日本軍の武装解除後に国共内戦やベトナム独立戦争で使用されたんでしょうか? 残念ながら、陸戦兵器の整備に手一杯で、(中国共産党の場合は)次いで空軍の整備、 水上兵力は後回しとなり、結局使用されていません。 尤も、利用する場所がありませんし。 (278 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大発って何ですか?ダイハツという車の会社と関係があるのでしょうか? 大発(大発動艇)は陸軍運輸部が開発した戦車・重量兵器用陸用舟艇です。 大正13年の訓令事項により 武装兵約60名を搭載しえること 馬匹・野砲・軍需品を搭載しえること 重量六トンを限度とすること などを条件として開発されました。、 大正14年に試作型であるA型(LB-A)が完成し、さらに改良型として船首の一部を 歩板にしたB型・船底肋骨を2本にしたC型・大型化して戦車の揚陸を可能としたD型が 製造されました。 D型は全長14.88メートル、自重9.5トンで八九式中戦車が搭載可能でした。 さらに戦車の重量増に対応して97式中戦車(13.5トン)搭載可能な15トン型特大発動艇 「〇セ(丸の中にセ)-LB」や26トン戦車搭載可能な30トン型大発動艇を 超大発動艇(S-N-LB)として試作しています。これは大型発動艇とも呼ばれました。 この他にも木製大発動艇・折畳式大発動艇などが開発されました。 また、兵員揚陸用として小発動艇が存在し、A~C型が製造されました。これは C型で自重3.5トン、武装兵20名または物資3トンが搭載可能でした。 (124 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 大戦中、日本ではコンクリート製の輸送船が作られ、これが結構優れものだったと言いますが、 コンクリートで軍艦(砲雷撃艦は無理でしょうが、空母・護衛艦など)を作るのは無理でしょうか? コンクリ船建造時の担当官の考え方としては、 (1) 本格的な量産は考えない。コンクリ船は鋼船の補助的な存在程度のものであって、これにより 幾分の補いは付くが、これだけに頼る訳にはいかない。 (2) 鋼材の供給力が十分に成った時には廃止されるべきものであって、戦時中と雖も、便法とされる べきものである。 と言うものであり、期待はしていません。 逆に、 (1) 船価は、鋼船の二倍になるので、特別の措置を必要とする。 (2) 建造地には、冬期でもコンクリート工事施工可能な温暖な地を必要とすること。 (3) 線材として、甲造船の際に余る鋼材を充てることになっていたが、甲造船そのものが少なくなったので、 線材が利用出来なくなったこと。 (4) コンクリートも良質のものが必要であること。 (5) 鋼材の使用量は確かに少なくなるが、逆に型枠に使用する木材の使用量が二倍以上必要となること。 と言うデメリットが発生しており、また、普通のコンクリートでは、耐水性の問題で、没水部を薄板鋼板で覆っています。 耐水性コンクリートとして硫酸銅セメントを用いることが考えられ、小型船が進水間際まで行きました。 このほか、マグネシヤセメント船も研究されましたが、これとて、 (1) 一隻当り所要資材のうち鋼材の使用量は余り減らないし、木材も従来の木造船の半分を消費する。 (2) マグネシヤの原料は朝鮮あるいは関東州であり、内地にはない。 (3) 構造から鑑みても、木造船に比べて工数と建造機関が掛かりすぎる。 と言う理由で、研究はされたものの、実用は見送られています。 (128 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 対潜兵器の「捕獲網」は、どのように使うのでしょうか? 日本の正規捕獲網艇は燕と鴎の2隻なので、2艘曳きトローリングと同じ要領と思っていましたが 特設捕獲網艇の場合、特設駆潜艇2隻と特設捕獲網艇1隻で1個駆潜隊を編制すると最近知りました。 1隻でどうやって曳くのでしょうか? 一四式一型あるいは二型が用いられています。 これは、長さ100m、幅35mの鋼索製の網で、五枚を一組とし、網の上方には浮子を、 下方には海底に達する索を取付け、重錘を以て海上に沈着させるものです。 特設捕獲網艇は、最大500~1000総トンの貨客船、客船、貨物船で、改造要領は、 船尾楼甲板上に鉄骨木製の捕獲網敷設台を設けます。 これは、大きく外舷から張り出した矩形平面のもので、両側には網を掛ける柵が 立っています。 後部船倉を網庫として、捕獲網は網庫内に四組搭載し、二組を敷設台上に組立て てから敷設します。 敷設台後方には網用錨ダビッドがあり、網は台の後端から滑り落ちる仕掛けです。 要は曳航するのではなく、落っことして、置いておく様な感じでしょうか。 (143 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本の戦時標準船の「改E」系列は、きわめて評判が悪いようですが、 やはり改Eの大量産と言う方針は誤りだったのでしょうか? 1941年秋の状況で無限と言うほどの船腹量が必要になってきますが、 D型以上の建造は施設的にも材料的にも行き詰まってきたことで、その 改善が見込めず、全くの応急用としてのE型船量産という着眼点はそれ なりに良かった訳でして。 その特徴として、 (1)小型であるため建造技術が簡単で必ずしも専門家、熟練工を多数必要としない、 (2)建造施設を簡易、かつ、急速に設備しうる。 (3)量産思想に依って、工作し得る程度の大きさである (4)主要材料である厚板は、造船材を作成していない中小製鉄所の設備、技術でも量産可能。 と、誠に以て、良いことずくめで、特に軍備と競合しないので、海軍としては魅力的に写ったのだと 思いますが、量産したは良いものの…。 (1)冬季北方、日本海での使用は困難(航行できないと言うが、こんな所を走らせるために作ったんじゃない、 と設計者は切って捨てていますが。) (2)低速である(軽荷状態で強風を船首方向から受けると操舵、保針に困難が生じる、というのは認めましょう。) (3)居住性不良(思想と観点の問題と、設計者は切って捨てていますが) (4)工事粗漏(造船所の責任と、設計者は切って捨てていますが) (5)機関故障(焼玉機関は焼玉としては出力過大だけど、これは油と発動機工場の質低下に帰する、と設計者は切って捨てていますが) (6)焼玉揚貨機の不調(工作不良と運航者の問題と、設計者は切って捨てていますが) と例によって、基礎技術の伴わない状況が出てきています。 また、船型の改善が難しく、播磨造船所では、貨物船を油槽船に切り替えるために、月間10隻の竣工予定が、7隻に落ち込んだりして います。 (143 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本の駆逐艦で主砲塔を一基下ろして、機銃を載せるという改装をした艦があったと思うのですが 樅級は1943年頃から3番砲を撤去して代償に対空火器と電探を装備。 神風級は1943~44年に掛けて4番12cm砲を撤去してその跡と艦橋前部に25mm連装機銃2基づつを装備。 若竹級も12cm砲を2基降ろして対空機銃を増備。 睦月級は12cm砲1~2門を降ろして対空機銃を増備。 吹雪級は1943年後期頃から12.7cm3番砲塔を降ろして25mm三連装機銃2基と換装し、艦橋前面に25mm連装 機銃1基と2,3番魚雷発射管中間に25mm三連装機銃2基を追加。 初春級は1944年に入って、単装砲塔を撤去し、25mm三連装機銃1基と換装。 白露級も初春級と同様。 朝潮級は1944年頃に12.7cm2番砲塔を撤去して吹雪級と同様の改装を実施。 夕雲級は1944年以降に12.7cm2番砲塔を撤去して25mm三連装機銃2基と換装。 但し、最後期に建造されたものは、砲塔撤去が無かったです。 ついでに、千鳥級は後部主砲を撤去し、25mm連装機銃2基、単装4基を増強、 鴻級も同様ですが、25mm単装機銃の門数が5基になっています。 (155 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 特設航空機運搬艦に飛行艇は積めますか? 飛行艇は搭載できません。 大艇の補充は基本的には空輸になっていた筈。 空運乙は、若干機(2~3機)の水偵を後部上甲板上に露天格納するほか、主翼、胴体を分解して船倉内に10機が搭載 出来るようになっています。 また、前後部の船倉、甲板間貨物倉の大部分がドラム缶入りのガソリン、爆弾、魚雷の格納所であり、前部は人員と各種 雑物件の収容所となっていました。 りおん丸の場合は、前部中甲板区画は航空隊兵員、飛行場設営隊員など500名分の居住区画、船橋楼内の上甲板区画 が船固有の兵員室、船尾楼は准士官以上の居住区で、40名収容。 貨物倉内の一部には機械工場、木工工場、鍛冶、熔接工場が設置され、石炭庫と真水タンクを増設しています。 なお、名古屋丸は潜水母艦からの改造であり、船倉内に解体機を搭載しませんでした。 (156 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本海軍は機動部隊防空のための秋月型を多数製造しましたが、秋月型以外に防空目的の駆逐艦を設計したのでしょうか? 駆逐艦と言うより、当初は巡洋艦を志向しています。 英国の旧式軽巡洋艦改造の防空巡洋艦を手本に、旧式化した天龍型とか5500t型軽巡洋艦の主砲を 高角砲に換装し、高射装置を完備、雷装を全廃して直衛艦とするのが一番最初。 ところが、これは予算が可成り掛かる上に、防空性能不十分、しかも、旧式と言えど、未だ十分に水雷 戦隊旗艦として役に立つこともあり、又、これらは艦隊決戦に際し、重雷装艦とすることが考えられまし たので、防空巡洋艦構想は後に多摩が改造されただけでした。 で、その替わりに新型の防空巡洋艦を設計します。 これは大淀型とほぼ同じ9000tで、10cm高角砲の連装砲塔を12基搭載、高射装置は4基搭載という立派 なものでしたが、これは威力十分な替わりに船価が高く、実現の見込み無く、一艦で対応する巡洋艦よりも、 数隻で対応する駆逐艦の大型化という方向に進んでいきます。 当初は、駆逐艦ではなく、直衛艦という種別でこの艦は呼ばれました。 これで設計されたのが、W-115計画案で、原案は魚雷発射管無し、第二案で、魚雷発射管1基を搭載し、 第三案はそれが二基に増えました。 結局第三案は過大に過ぎ、第二案を元に計画が進められています。 なお、○5計画では、島風型のボイラーと主機を採用し、速力を33ktsから37ktsに向上、基準排水量を300t 増して3000tとし、魚雷発射管には新設計の6連装を1基搭載し、機器配置は缶-機-缶-機の交互配置を 日本の駆逐艦では初めて採用する予定でした。 (238 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本軍の特設工作船ってどんな船かわかります? 「特設」と言うのは、民間の船を徴用して、海軍の籍に入れたものです。 特設工作艦(工作船でなく)なら、民間の6,000総トンの貨物船に工作施設を備え、 損傷応急修理を目的とし、工作施設は戦況の最後まで機能を果たさなければ ならず、しかも、この艦を失えば、味方の修理能力が落ちることから、敵からも執拗に ねらわれたため、損耗の最も多い艦種です。 その施設は、例えば、上甲板に作業場、飛行機工場、電気・航海・光学・無線工場を 持ち、第二甲板には各科倉庫、機械工場、工具室、魚雷工場、木工場を、船艙内に新設 した甲板には索具および塗具倉庫、救難要具および鋼材などの材料庫、造兵・造機材料庫、 補機室、鍛冶工場、溶接工場、造船・造兵材料庫、そして、船艙には弾薬庫、救難関係倉庫、 糧食庫、修理材料庫、鍛冶工場、鋳物工場を備えています。 専門の工作艦には、明石、そして旧式戦艦の改造である朝日がありましたが、1941年の松栄丸を 皮切りに、山彦丸、八海丸、山霜丸、白沙、そして、2TM改造の慶昭丸が改造されています。 これら特設艦は全部撃沈されています。 (162 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 大戦初期の日本の揚陸艦って神州丸くらいしか聞きませんが、当然他にもありますよね? 1935年に神州丸が播磨造船で建造されました。 これは極秘に建造されたもので龍城とかMT船という名称で呼ばれました。 船内に上陸用舟艇を20隻収容し、上陸地に近づくと、船尾のドアを開けて、後部に舟艇を出すLSD的用法を 想定していたほか、九一式戦闘機と九七式軽爆撃機を20機装備し、カタパルトで発進させ、上空援護に当たる 様になっていました(これは実際には遣われていませんが)。 日中戦争では、杭州湾上陸戦などで用いられました。 太平洋戦争では、ジャワ上陸作戦に投入されましたが、味方巡洋艦の魚雷が命中して撃沈、後引き揚げられて、 再使用され、1945年1月にフィリピンで撃沈されています。 この同型船として、民間船として陸軍が資金を出す形で、建造されたのが、あきつ丸、にぎつ丸、熊野丸、ときつ丸 の4隻です。 但し、ときつ丸は建造中止になりました。 あきつ丸、にぎつ丸は、日本海運の客船として建造され、途中で、上甲板上面全部に飛行甲板を取付け、空母兼 上陸用舟艇母艦となりました。 これらは主に、対潜用空母として、三式連絡機、カ号観測機を搭載することになっており、空母的な外観が 色濃くなっています(1944年には更に飛行甲板を延長する予定でした)。 あきつ丸は1944年11月15日に撃沈、にぎつ丸は1944年1月12日に撃沈されています。 熊野丸は川崎汽船の持ち船として建造されましたが、こちらも、船橋構造物は撤去した空母的外観になって います。 但し、完成が1945年3月になったので、使用されず、敗戦後、引揚げ船となって、1947~51年まで、川崎汽船 の貨物船として使用されました。 航空機設備を持たないものとしては、同じく民間船として陸軍が資金を出す形で、摩耶山丸、吉備津丸、玉津丸、 高津丸、日向丸、摂津丸の6隻です。 これらは、後部に上陸用舟艇20~25隻程度を搭載しています。 摩耶山丸、玉津丸はいずれも、三井造船で建造され、前者は三井商船、後者は大阪商船で使用予定でした。 しかし、1942~44年に完成と同時に陸軍に引き渡され、前者は1944年11月17日に撃沈、後者も1944年8月19日に撃沈 されました。 高津丸は浦賀船渠で建造され、1944年完成、こちらは山下汽船の持ち船でした。 1944年11月のオルモック湾上陸を果たしましたが、二度目の上陸戦で撃沈。 吉備津丸、日向丸、摂津丸は日立因島で建造された戦時標準船1Aの改造で、吉備津丸は1943 年完成、1945年8月7日に触雷沈没、日向丸は1945年完成で、3月30日に触雷沈没、摂津丸は 1945年完成で、実戦に参加せずに終わりました。 戦後、摂津丸は引き揚げ業務に従事後、日本水産に引き渡されて捕鯨船団の冷凍船となりまし たが、南氷洋で事故によって沈んでいます。 なお、ときつ丸は、1944年10月に進水しましたが、1945年3月に工事中止、戦後に工事再開し、 1946年3月2日に日本海運の商船として引き渡されました。 戦争中に建造されたのは何隻でしょう? 21隻が「太平洋戦争中に」建造されました。 22号については、1945年4月25日に呉工廠で進水しましたが、6月23日に90%完成状態で、 工事中止となっています。 なので、太平洋戦争中には21隻竣工。 しかし、22号は戦後工事を再開し、完成させていますので、輸送艦1号型としては、22隻建造 されています。 蛇足ですが、残りの23~46号は1945年3月に全部キャンセルされ、解体、鋼材は他に転用され ました。 (219 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本の防空駆逐艦は米国と比較して低性能だったのでしょうか? 一応、秋月を想定しているとして…。 日本の駆逐艦の場合は、対空機関砲としては25mm機関砲しかなく、それも、複葉機全盛の 時代に導入された代物でした。 その上は10cm高角砲であり、中口径の機関砲が無かった(毘式は無いに等しい)ので、 弾幕がどうしても薄くなりがちでした。 対空射撃完成機構については、九四式高射装置であり、これは優秀なものと言えるでしょう。 砲側の高射装置は、当初は複雑な構造の方位板測的装置と射撃盤を装備する予定でしたが、 結果的に簡便な照準器になっていますので、高射装置が破壊された後の戦闘力は落ちます。 末期には、九四式高射装置が供給不足となったので、2基取り付けるべきものを1基にしたりして いますし…。 また、米国に比べると電子機器の性能が少し劣っていたため、夜間の対空戦闘は困難でした。 更に個艦戦闘ではなく、集団的な戦闘となると米側の方が上を行きます。 運用とかについては、米軍の方に一日の長があります。 (201 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 秋月型 12隻 フレッチャー型 175隻 アレン・M・サムナー型 70隻 43年後半辺りの米海軍の場合だと レーダーで捕捉→待機していた戦闘機が向かい迎撃→余ったのを各艦迎撃って流れが出来てる 一方日本海軍でもそういった考えは有ったけど態々数を増やした戦闘機に爆装させて 米艦隊に突入させたりレーダーや航空機の誘導がお粗末だったり (201 738) 秋月級は防空駆逐艦であるのに初期は対空機銃装備が少ないのは、どうしてなんでしょうか? 秋月型設計時は、まだ本格的な対空戦闘なんて経験してないし。 訓練でさえ駆逐艦が本格的な対空訓練したのは昭和15年以降。 その後機銃は需要ばかり増えるけど、生産供給能力は全く不充分で、昭和19年のマリアナ戦あたりで漸く安定してくる。 軍縮明けで新造艦が増えただけでなく、開戦後は特設艦艇や徴用商船まで武装しなくちゃならん。 供給能力が足りないから、小艦艇は後回しで戦後や空母が優先になる。 (俺初質スレ710 591) 「艦」と「艇」はどう違うのですか? 「艦」と「艇」を分ける明確な基準はありません。 最小の「艦」は佐久間艇長で有名な第6潜水艦。全長22m強・排水量60t弱。 最大の「艇」は元セニャーウィンの見島。全長79m、排水量5000t弱。 日露戦争後に量産した駆逐「艦」を大正末にそのまま掃海「艇」に流用したこともあり、 サイズは基準ではないです。 任務が同じで「艦」と「艇」が対応して違いが見られるのは 駆逐艦と水雷艇(境界は600t) 敷設艦と敷設艇(とはいえ規定なし。最小敷設艦八重山は1100t、最大敷設艇神島は770tで大きく違う) 潜水母艦と潜水艦母艇(これも規定なし。潜水艦母艇の運用は近海に限定された巡洋艦崩れの老朽艦) 大正8年に潜水艇はすべて潜水艦に改称され、潜水艇に留め置かれたものは1隻もなく、 明確な区別があるとはいえません。 砲艦と砲艇、海防艦と海防艇は任務そのものが明確に違うので、同列には扱えません。 戦闘に用いる「艦」と「艇」に明確な区別はないと書きましたが 「特務艦」と「特務艇」は明確に違いがあります。 特務艦は実戦には参加せず、後方支援を行うもので、戦闘時は沈まないよう逃げるか祈るか…。 特務艇は沿岸部や軍港に限定されますが、戦闘となれば射撃に機雷敷設に爆雷投射に突撃していく戦闘用の船です。 「砲艇」は日華事変時には実在しました。 「砲艦」では進入できないクリークや池でパトロールや機銃掃射などを行うもので、 類別表には記載されない「雑役船」扱いです。 「海防艇」は終戦に間に合わなかった幻の類別で 「海防艦」が船団護衛をするのとまったく違い、こちらは回天運搬船でした。 (207 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 日本では漁船を改造した特設掃海艇や特設駆潜艇を数多く作りましたが、これらには爆雷や掃海具は当然として、砲や機銃は装備されたのでしょうか? ソースが大昔の丸スペ(49号)で申し訳ないが 開戦前から特設駆潜艇は徴用が進められていたが 当初の砲装備は艇首に8cm砲・短8cm砲などで機銃類は装備されていなかった その後特設艇にも対空火力の必要性が言われるようになり 18年以降は7.7mm機銃や13mm機銃を増備するようになった 特設監視艇についてはこの本では分からないが、 その後建造された哨戒特務艇が25mm機銃4挺と爆雷のみ、駆潜特務艇は機銃1挺と爆雷のみであることを考えると 特設監視艇の装備も精々が機銃1挺程度と推察される 余談だがこの丸スペの44P上に第7昭南丸(355総トン)のほぼ真横から見た写真が載っていて キャプションでは「前檣と船檣の間に94式爆雷投射機を装備」と書いてあるが どう見ても大型の迫撃砲があるようにしか見えない 蛇足だが。 大内健二氏の光文社文庫本シリーズを読むと答が書いてあるよ。 戦う日本漁船とか特設艦艇入門とか。 (721 657-659)
https://w.atwiki.jp/army2ch/pages/206.html
日本軍に狙撃兵っていたんでしょうか? 乃木希典の評価って軍板的にはどうなんでしょうか? 何故「関東軍」というのでしょうか?名前の由来を教えてください。 旧日本軍に軍刑務所ってあったんですか? 日本軍の憲兵隊は陸海軍の一部だったのでしょうか? 海軍工廠とか陸軍造兵廠とかありますが、「工廠」と「廠」の違いってなんですか 第2次大戦中、日本の陸軍と海軍の予算はどちらが多かったのですか? 憲兵隊による「督戦隊」とはなんですか? 旧日本軍で敵に寝返った例はありますか? 日本軍は敵前逃亡した恥ずかしい軍だったのですか? 日本軍は弾薬不足に悩まされたと良く聞きますが、”貧国強兵”を読んでいたら、1941年度の弾薬在庫が100会戦分、1945年度でも95会戦分とありました。 近衛兵について教えて下さい。良家出身者しかなれないってのは本当ですか? 何で大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍で話し方が違うの? 首相・陸相・参謀総長で陸軍大将の東条英機と陸軍元帥であった杉山元、畑俊六らとは陸軍内においてはどちらが上だったのですか? 旧日本軍じゃ普通の兵士の事を何というのですか? 大日本帝国では大戦末期少年将校とか言う子供が戦車乗ったり、飛行機乗ったり、潜水艦乗ったり通信兵したりしたって本当ですか? 祖父ですが、大正2-3年生まれで本職は警視庁の警察官、中国戦線に3回も出兵・・ってのは一体どういう状況でこういうことになったんでしょうか 賊軍側とされた藩で、明治維新前に生まれていて陸大もないような時代に陸軍大将や陸軍中将になるのは困難なのでしょうか? シンガポールを占領した日本軍の風紀はどうだったんですか? 善通寺に師団があったのはなぜですか? 旧軍では参謀本部の参謀ってどのくらい居たの? 日本軍は、末端将兵が捕虜になることを禁じていたくせに、どうして海軍乙事件ではのうのうと敵の捕虜になった福留参謀長を不問としたんですか? 旧軍の小銃は一丁一丁手作りで量産に不向きだったといいますが、小銃弾の生産体制や品質はどうだったんでしょうか? 日本帝国軍では、補給が完全に絶たれた戦線では人肉食もあったとよく聞きますが本当ですか? 戦前の軍人や警官の階級って、どんな法律や勅令で規定されてたんですか? 統帥権干犯ってどういう意味? 戦前の日本の制度で上官を殴るとどの程度の罰則ですか? 戦前の日本には国防省や統合参謀本部を作るべきだという動きは無かったのでしょうか? 旧日本軍では偵察用のオートバイにハーレーダビッドソンのライセンス生産版の陸王が採用されていたそうですが、国産のキャブトンやメグロは使われていなかったんですか? 第二次世界大戦で日本軍が集団投降した戦いってあったんですか? 戦闘詳報って、どの部隊でも書くんですか? 日本では統帥の一元化を試みる人物はいなかったのでしょうか? 大日本帝国が日露戦争以降、国力に見合わない拡大政策を取ったのは何故でしょうか? 日本はドイツにならって、機甲部隊の整備に特に力を入れたのですか? 旧日本軍の場合、人種差別反対を掲げてアジア開放を謳っていたから、軍隊内部でも身分や人種による差別はなかったのですか? 日本軍の参謀や幕僚の組織編成 陸海軍は同じ20mmでも弾薬の規格が異なっていたのですか? 満州事変前後で陸大閥の一夕会や二葉会などが陸軍内の実権を握るのですが、彼らの出てくる前に中枢にあった薩摩閥(上原勇作派の系統)と長州閥(田中義一派の系統)はその後、いったいどうしていたんでしょうか? 皇軍は皇居の方を向いて遥拝してたんでしょうか? 予科練卒は最速で20歳と聞きました。そのときの階級は何なんですか? 日本はガタルカナルなど南の島に基地を作りましたが、物資を運ぶ輸送船は陸軍が海軍に借りると言う形で船を貸してもらったんですか? 旧日本軍の職業軍人の戦死率と、一般召集兵の戦死率ってどっちが高かったんですか? 陸軍士官学校、海軍兵学校の定員は何人なんでしょうか? 明治期の軍人恩給って大体いくら位ですか? 何故日本軍は突撃や戦闘に臨んでは軍旗を処分し、自沈や沈没間際になった艦艇は旭日旗を撤収するのですか? 日本海軍の軍艦は世界でもトップ・クラスなのに、何で陸軍の装備は、世界のトップと較べると見劣りするんですか? 戦争中、日本では化学兵器やレーダー関連の開発等で、理系大学の研究室と軍の研究所との共同研究はしていたんでしょうか? 日本軍に狙撃兵っていたんでしょうか? 分隊内で射撃の上手い兵を、狙撃兵と呼んでいました。 外国のような、特別に養成された狙撃兵は居ないようです。 狙撃銃は三八式ベースの九七式狙撃銃と、九九式ベースの九九式狙撃銃というのがありましたが、 これも特別に作られたものではなく、量産した三八式や九九式の中から精度の良い品を選んで、 それにスコープを付けた物を、上記の射撃優秀者に優先的に支給していたそうです。 ただ、米側の記録によると、木の上から撃ち落した日本軍狙撃兵が持っていたのは、 殆どが普通の三八式や九九式だったそうです。 (29 566) 乃木希典の評価って軍板的にはどうなんでしょうか? 不幸な人物、というのが共通した評価です。 部下に大被害を出すことが分かってた旅順攻略戦をやらせるのには、 ちょっと神経が繊細すぎる人物であった、ということでしょうか。 ちなみに軍事板一般の性質として、戦術より戦略に重きを置くという傾向があります。 旅順攻略戦は、極東の小国家が陸軍大国と喧嘩するということの戦略的な無理が集中した部分ですから 第三軍の被害を指弾するときにはまず最初に そうした無理な戦場を設定してしまった大本営を批判するのがこの板での「物の道理」です。 (32 418) 何故「関東軍」というのでしょうか?名前の由来を教えてください。 万里の長城の東の果て、渤海にめんした地域は山海関といい 古代から中華防衛の要衝でした この関の東、つまり遼東半島の租借地防衛の軍ですので関東軍だったはずです 日本の関東も箱根の関の東という意味です (34 613) 旧日本軍に軍刑務所ってあったんですか? もちろん軍刑務所は存在します。いわゆる軍法会議にかけられた上量刑を決定します。 量刑の内容は死刑・懲役・禁固などでその他に懲罰として 謹慎・譴責・礼遇停止・免官・営倉・降等などがあります。 日本には公式には懲罰部隊というものは存在しません。 (38 305) 日本軍の憲兵隊は陸海軍の一部だったのでしょうか? 日本軍では、平時は憲兵は陸軍大臣に属するということに なっていて、海軍に憲兵はないです。 ですので海軍軍人も陸軍の憲兵に取り締まられるということになります。 ただ、第2次大戦中の戦時で海軍が軍政を布いていたところでは 「海軍特別警察隊」というものが置かれて憲兵のようなことをしていたようです。 (39 295) 海軍工廠とか陸軍造兵廠とかありますが、「工廠」と「廠」の違いってなんですか 「工廠」は旧陸海軍に直属し、武器・弾薬など軍需品を製造した工場です。 「廠」は主に公的機關の施設に使われる場合が殆どで、 とりわけ軍事関係の各種施設に多用されました。(作業場や倉庫にも廠を使う。) 造兵廠ってのはもともと管理組織で、たとえば陸軍造兵廠本部の下に東京工廠を置いて 陸軍造兵廠東京工廠とか言ってたようです。 昭和14年に兵器行政本部が設置され造兵廠が行なっていた業務を全て担当するようになったので、 各種工廠も「○○造兵廠」と呼ばれるようになったとの事です。 (40 246) 第2次大戦中、日本の陸軍と海軍の予算はどちらが多かったのですか? 予算額だけなら、1940~41年まで陸軍省と海軍省の予算はほぼ拮抗しています。 1940:陸軍省:1,192,469千円/海軍省:1,033,711千円 1941:陸軍省:1,515,250千円/海軍省:1,497,374千円 1942年は陸軍が逆転し、1943年は海軍が逆転しています。 1942:陸軍省:55,847千円/海軍省:22,736千円 1943:陸軍省:677千円/海軍省:1,152千円 とはいえ、ここには数字の絡繰りがありまして、一般歳出予算ではこの金額ですが、 陸海軍の打出の小槌として、臨時軍事費特別会計予算があり、これらは、際限なく 使用できるものです。 陸軍関係は部隊派遣維持、時局即応の兵備改善、作戦資材の応急整備、航空要員の 急速補充、造兵設備の増強、占領鉄道の管理改良経費として、海軍関係では、艦船部 隊の派遣維持、艦船航空兵力と軍需品の急速充実、工作通信補給、施設整備と、南方 物資補給費用として、公債収入と植民地金融機関からの借り入れで、1943年までに、 全体では569億9,464万7,000円に達しています。 これの使い道は軍機と言うことで政府にも報告されませんでした。 (43 眠い人 ◆ikaJHtf2) 憲兵隊による「督戦隊」とはなんですか? 督戦隊が必要なのは、士気が低い軍隊において、恐怖に駆られた兵士が 逃亡すると全戦線が崩壊する危険があった場合です。 特に嫌々兵士にされた場合には必要性があります。 日本軍の場合、徹底的な教育が功を奏して、督戦の必要はありませんでした。 また逃亡した場合は、親兄弟も村八分にされる世論が形成されていました。 二○三高地攻略も同じです。 特に、当時は国民皆兵と言うこともなかったはずなので、兵隊に選ばれるのは 地域や本人にとっても名誉でした。 そこで、敵前逃亡などしようものなら…。 (44 眠い人 ◆ikaJHtf2) 補足しますと日本軍にも「督戦する」という言い方はあったようです。 ただ、意味合いとしては「前線に赴いて現場の将兵に激をとばす」という感じのものです。 御存知の通り、督戦隊はありませんでした。 個人的な感想ですが、職業軍人はともかく、 徴兵された日本の兵士にとっての督戦隊は「銃後」だったのかも。 (44 509) 旧日本軍で敵に寝返った例はありますか? 捕虜になった後に積極的に情報提供を行った例なら有ります。 捕虜になること自体をありえない事としてしまったため、 いったん捕虜になってしまうと箍が外れたように米軍に協力することも 多かったそうな。 また、末期になると個人の判断で投降してくることもあったそうで。 (44 機甲自転車) 日本軍は敵前逃亡した恥ずかしい軍だったのですか? 虎頭要塞のように、ソ連軍の進撃を少しでも遅らせるため 最後の一人まで戦死した戦線もあります。 そして関東軍首脳部が尻尾まいて逃げたのも事実。 どちらも「日本軍」です。 (44 367) 日本軍は弾薬不足に悩まされたと良く聞きますが、”貧国強兵”を読んでいたら、1941年度の弾薬在庫が100会戦分、1945年度でも95会戦分とありました。 一番多かった年でも消費量が40会戦分程なので、裕に2年分は在庫があります。 使い切っていたならともかく、こんなに在庫を残して弾薬不足とはどういう事なのでしょう? 理由は2つ 1つは弾薬在庫があっても、それが戦場に存在するとは限らないこと これは貧弱な補給線だとか、機械力の不足で迅速な輸送ができないなど もう1つは、時代の流れ WW2には1人殺すために必要な弾薬量が、それ以前に想定されていた 量を10倍、100倍の単位で上回ったため、規定の弾薬量ではまったく足りなかった 砲弾の場合、基数で計算してると思うけど、ハッキリ言えば想定の10倍く らい使用してたんだよね。現実に日本軍は一年で全ての部隊が40会戦もする ような作戦は実施してないでしょ。 (46 176,178) 近衛兵について教えて下さい。良家出身者しかなれないってのは本当ですか? 貴官が、どのようにしてその情報を入手したのかわからぬが、 微妙にずれている。(伝言ゲーム的な情報混乱であろうか?) 確かに、近衛兵の場合、「家柄」等もみるが、それは、士族とか、平民といったもののことではない。 社会主義や、共産主義、無政府主義等の反皇室・反社会思想の持ち主が親戚や身近にいて、 影響を受けていないかをみる。 体格については、小官、よく知らぬのだが、甲種合格が、大前提であろう。 (46 315) 何で大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍で話し方が違うの? 日本史板で見た気がするが、陸軍は長州閥が中心になって創設されたので、 自分達の国の固い言葉使いを押し付けたためあんな口調になったそうですよ。 海軍で敬称をつけないのは階級自体が敬称だという考えからだそうです。 (48 907) 「○○であります」という口調も、もともと長州弁の言いまわし、という風に聞いたことがあるぞ。 (48 908) 首相・陸相・参謀総長で陸軍大将の東条英機と陸軍元帥であった杉山元、畑俊六らとは陸軍内においてはどちらが上だったのですか? 階級的には杉山元、畑俊六元帥の方が上。 でも陸軍内部での実権的には東条の方が上。 日本陸軍では元帥は「長老」扱いで会社で言うと「相談役」に近い。 ただ、下から上がってきた命令書に印を押すだけの存在。 (46 962) 旧日本軍じゃ普通の兵士の事を何というのですか? 兵卒。 (47 831) 大日本帝国では大戦末期少年将校とか言う子供が戦車乗ったり、飛行機乗ったり、潜水艦乗ったり通信兵したりしたって本当ですか? 陸軍少年飛行兵や海軍の海軍予科飛行練習生のことですかね? 卒業しても17~8才ですから少年って言えば少年ですが。 陸軍少年飛行兵は昭和9年、海軍の少年飛行兵は昭和5年(甲種予科練は昭和12年)ですから 昔からあった制度です。ただ、戦争末期には人材不足から若年でも戦場に投入されたのは事実。 あとは 昭和19年制定された特別甲種幹部候補生制度とか。 いずれにしても、15~6歳の少年が戦場へ出ることは日本ではなかったと思います。 (48 636) 祖父ですが、大正2-3年生まれで本職は警視庁の警察官、中国戦線に3回も出兵・・ってのは一体どういう状況でこういうことになったんでしょうか 多分、大陸に於て治安要員または公安要員としての手腕を期待されたのかも知れません。 また、例えば、警察でも何らかの技能を身に付けている(例えば、自動車の運転など)のであれば、 幾度も召集がかけられます。 最初は兵役の時に籤に当たったのかも知れませんし、充員召集(臨時召集ではない)の名簿に掲載 されたのかも知れません。 2度目は日華事変での要員不足ではないか、と。 3度目は治安師団を作る際の要員不足と言ったところでしょうか。 (599 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 賊軍側とされた藩で、明治維新前に生まれていて陸大もないような時代に陸軍大将や陸軍中将になるのは困難なのでしょうか? またなった人を十人程度ご教示願いたいです。よろしくお願いします。 中将、大将への昇進は難しかった。 立見尚文 桑名、石本新六 姫路、小泉正保 水戸、村岡惇 幕臣、一戸兵衛 弘前、大島久道 秋田、柴五郎 会津、梅沢道治 仙台、中村覚 彦根、大谷喜久蔵 小浜 奥羽越列藩では、無理だよ。 (600 オッチャン ◆UMCByHJxYk) 小倉の奥保鞏を追加ね。賊軍出身者の出世頭 元帥・参謀総長になって、華族にも列されて、 立見よりも出世した。 (601 21) シンガポールを占領した日本軍の風紀はどうだったんですか? 中公新書の「思い出の昭南博物館」では、英国兵による略奪や地元民による略奪が多かった 様ですが、日本軍については、占領直後は兵士単位としての略奪などは無かった様です。 但し、海軍将校たちによる、南洋域やインド洋地域の海図の持ち出し、陸軍将校たちによる 南洋域や豪州本土の地誌などの持ち出しはあった様です。 (402 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 善通寺に師団があったのはなぜですか? まず、善通寺は交通の要衝で、此処から四国各地に行くことが出来ます。 一朝事が有れば、即座に対応出来る位置にあります。 また、瀬戸内海に面しているため、外征を行う場合にも、船舶輸送が容易に行える土地になります。 更に、広島、姫路などの各師団との連携が容易に取れます。 また、牙が抜かれたとは言え、高松はかつての朝敵であり、其処に師団司令部を設置する訳にいきません。 徳島はあまりに大阪、姫路に近く、かつては高知に吸収されていました。 香川も同様に、最初は徳島に、次いで愛媛に吸収されていましたが、愛媛に関しては、広島の対岸にあり、 その影響下にあります。 ならば、高知は、と言うと、これも反政府運動の盛んな土地であり、かつては自前の軍事力で暴動を鎮圧した ことがあり、政府としては疑問の目で見ているところがありました。 これらを勘案すると、いずれも県都に師団を設置するのは難しかった訳です。 善通寺の場合は、京極家自体が勤皇派ですし、地域的に比較的安定していた為、広島鎮台の分営が最初に 設置された流れもあり、次に師団を拡張する際に、この分営を師団に昇格させたと言う形になっています。 (326 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧軍では参謀本部の参謀ってどのくらい居たの? 大本営陸軍参謀部(昭和16年12月19日現在)の主要編制(戦史叢書 大本営陸軍部 1 昭和17年4月まで) ※ 「海」は海軍からの兼勤、「ケ」は部外からの兼勤、「兼」は大本営内相互又は参謀本部との兼勤 参謀総長 大将(1)、参謀次長(中将1) 総務部 (部長 少将) 庶務課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(2、兼1) 第1課 (課長 大佐) 少佐(1、ケ1) 第1部 部長(中将) 第2課 (課長 大佐) 大佐(海1)、中佐(5、海2)、少佐(6、兼1、海1)、大尉(1) 第3課 (課長 中佐) 中佐(2)、少佐(7) 第4課 (課長 大佐) 中佐(海1)、少佐(3)、大尉(1) 第2部 (部長 少将) 部付(兼1) 第5課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(1) 第6課 (課長 大佐) 大佐(1)、中佐(2)、少佐(3) 第7課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(1) 第8課 (課長 大佐) 中佐(1、兼1)、少佐(1、兼1) 第3部 (部長 兼 少将) 第9課 (課長 大佐) 中佐(兼1)、少佐(兼2) 第10課 (課長 大佐) 中佐(兼2、海1)、少佐(1) 第11課 (課長 大佐) 中佐(兼1、海1)、少佐(1) 第20班 (班長 大佐) 大佐(兼1)、中佐(1、兼1、海1)、少佐(1、兼1) 研究班 (班長 大佐) 中佐(1、兼1)、少佐(1、兼3) 第18班 (班長 兼 少将) 大佐(1)、中佐(1) (325 746) 日本軍は、末端将兵が捕虜になることを禁じていたくせに、どうして海軍乙事件ではのうのうと敵の捕虜になった福留参謀長を不問としたんですか? 福留参謀長は捕虜になった際に暗号表を奪われるという失態を犯した。 そのため、「捕虜になった」ことを咎めると、 「本来遭難した時点で処分しなければならなかった暗号表を処分し忘れた上捕虜になって敵の手に渡してしまった」 ことが公になってしまうので、そもそも「捕虜になった」こと自体を「なかったこと」にしてしまったので。 「表向きはそれでもいいけど、責任は取らせるべきだ」という議論はあったが、 とにかく「暗号表を奪われた」ことだけは隠蔽しなければいけなかったため、 一切の処分ができなかった。 (607 904) 旧軍の小銃は一丁一丁手作りで量産に不向きだったといいますが、小銃弾の生産体制や品質はどうだったんでしょうか? ほぼ、陸軍兵器廠の第一陸軍造兵廠第1製造所で一手に作られ、関東大震災後に 九州小倉に陸軍造兵廠の分工場が作られ、こちらでも銃弾が製造されています。 一般に造兵廠自体は、最先端の生産設備を導入し、その技術は高いものでしたが、 量産技術は余り高いものとは言えず(それでも、民間に比べれば遙かに高い)、 戦時中も、前線からの要求を満たすことはありませんでした。 (497 313,眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本帝国軍では、補給が完全に絶たれた戦線では人肉食もあったとよく聞きますが本当ですか? またこれは殺しあって共食いという感じだったのでしょうか?それとも死体の肉を漁っていたのでしょうか? 友軍の屍肉は食べちゃいけませんという命令が出た地域があるので あったのか無かったのかといえばあったのでしょう。 屍肉が基本らしいですが、応用的にどういうことがあったのかは・・・まあ真相は闇の中ですよ。 (360 514) 真っ先になくなるのは尻かももの肉だったようです グアム島では人肉食によりアメリカの裁判で処刑されていますが、その人の証言では肝臓が旨いとか… 人肉を食った人は動物蛋白を急に採ったせいか肌に艶が出てくるので、何となく食ったのが分かったそうです ガダルカナルやフィリピンなどて特に報告されています (360 515) 戦前の軍人や警官の階級って、どんな法律や勅令で規定されてたんですか? 海軍について言えば、1868年に制定された海軍武官官階と言うのが最初に来て、次いで 1872年の海軍武官官階で全階級を設定し、1878年以降は海軍武官官階及海軍卒職階 となっています。 陸軍は、陸軍武官官等表と言うのが、1868年に制定され、1874年に改訂されていっています。 (614 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 統帥権干犯ってどういう意味? 統帥権という用語は、大日本帝国憲法で用いられている言葉。 形式的には、天皇が最高司令官であり、軍隊を統率する権能を持っていることを表した言葉です。 軍人たちが使った「統帥権干犯」というのは、 「神聖なる天皇のみが持つ統帥権を侵害するのか!」てーことですよ。 軍部に批判的な文官や政治家なんかが、軍部の意思決定を覆そうとしたり、批難したりすると、 「お前、それは統帥権干犯だ」という風に言って、それらを封じ込めて来たわけです。 (613 128) 戦前の日本の制度で上官を殴るとどの程度の罰則ですか? 陸軍刑務所行きだろ。立派に前科者の仲間入りです。 陸軍刑法第60条 上官ヲ傷害シ又ハ之ニ対シテ暴行若ハ脅迫ヲ為シタル者ハ左ノ区別二従テ処断ス 1 敵前ナルトキハ1年以上ノ有期懲役又ハ禁錮二処ス 2 其ノ他ノ場合ナルトキハ10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処スル (創作質問55 471) 戦前の日本には国防省や統合参謀本部を作るべきだという動きは無かったのでしょうか? 軍政組織は1872年に陸軍省と海軍省が設置されるまで、兵部省がいわゆる国防省的な組織と言えたかもしれないぞ。 先の大戦の大本営は、陸軍参謀本部と海軍軍令部を隷下に置く、統合参謀本部的な組織だとも。 まあ、ネタ発言だと取ってくれても構わないけどな。 結局、組織なんてもんは分化と統合を繰り返すもんだし、看板だけっていうのなら、 戦前にも、陸海軍の統合組織はあったぞ…てー話。 なかなか一度できた垣根を取っ払うって難しい。 イギリスだって、1923年に3軍統合の参謀本部委員会を作っちゃいるが、 器作って酒入れずの状態が長いこと続いた。 陸海空軍の各省の上に立つ国防省だって、1940年に西方戦役が勃発して、 チェンバレン内閣が倒れた後に、チャーチルが作るまでなかった。 それさえも当初は、とにかく国防省は作ったが、職掌も決まらずチャーチルが首相兼任で、 内実が伴うのは戦後になってからと言ってもいいくらいだ。 アメリカだって、統合参謀本部の設立が1946年。国防省(国防総省)の発足は47年。 大本営の設置で軍令組織を建前だけ、表面だけにせよ一本化した日本は、先駆的だったかもしれないw (620 479) 旧日本軍では偵察用のオートバイにハーレーダビッドソンのライセンス生産版の陸王が採用されていたそうですが、国産のキャブトンやメグロは使われていなかったんですか? メグロ号は、1941年に陸軍の試験に提出しましたが採用となりませんでした。 キャプトン号も同様、宮田製作所のアサヒ号は1940年に早くも見切りを付けて自転車製作に 転業しました。 他に、広島でSSD号というのが試作され、軍用試験に供されましたが、経営的に不成功。 まともに軍で採用されたのは、陸王の他、日本内燃機のくろがね号、岡本工業の能りつ号の 三種類で、後に、97式自動二輪車が、日本内燃機や東洋工業で製作されています。 (622 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第二次世界大戦で日本軍が集団投降した戦いってあったんですか? 表だって公表されているものとしては東部ニューギニア。 有名なものとしては、昭和20年5月3日に第41師団歩兵第239聯隊第2大隊(大隊長中佐以下将校4名、下士官兵37名) がアポレンガ付近で豪州軍に投降(なお、この大隊長は元山砲兵第41聯隊の大隊長。砲兵聯隊は火砲を全部失ったた め、昭和19年9月に解体され人員は各歩兵聯隊に編入されていた)。 そのほか、豪陸軍公刊戦史によれば、昭和20年8月10日に大尉以下12名が、同11日に大尉以下16名が投降したとの 記録がある。 (306 49) 戦闘詳報って、どの部隊でも書くんですか? 書きます 戦闘詳報というのは各種情報 人事・情報・訓練(運用) 兵站の部隊情報をまとめたものです。 一日1回程度上級部隊に提出をします。 毎日書くのは「戦闘要報」(海軍では「戦闘概報」)で、「戦闘詳報」は戦闘が終了したときに書くものです。 ○戦闘要報 : 一部の戦闘が終わったとき(又は当日その局を結ぶに至らなかったとき)、日没後速やかに 各部隊隊長が当面の戦闘経過概要、彼我の態勢、敵情判断及びこれに対する自己の企図、 彼我の損害概数、弾薬燃料の残余と消費量概数などを報告するもの ○戦闘詳報 : 一方面の戦闘終了後、各級指揮官が、戦闘の詳細を記録して提出する報告文書 主要記載事項は、戦闘前の彼我態勢の概要、各時期における戦闘経過、関係部隊の動作。 彼我の交戦兵力、敵の団隊号・将帥の氏名・編制・装備・戦法、戦闘後における彼我の形勢 概要、戦訓など 参考 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%97%98%E8%A9%B3%E5%A0%B1 (304 18-39) 日本では統帥の一元化を試みる人物はいなかったのでしょうか? 天皇で一元化してるやん 実際の作戦指導のレベルで、補弼機関としては「大本営」で一元化してないか? 明治28年、日清戦争を控えて戦時大本営条例が制定公布されたが、この制度をめぐ って陸軍が参謀総長を幕僚長として陸海軍の統一的運用を行うことを主張したことか ら、海軍との激しい対立が起こった。 その時は陸軍の主張は通ったものの、海軍は海軍軍令部条例を制定、海軍の作戦 については海軍軍令部長の専管事項とすることと定めることで妥協が成立した。 しかし、戦争が終わった後、再び改正をめぐって統帥の一元化を主張する陸軍と陸軍 出身の参謀総長に異質な海軍作戦をゆだねることは出来ないとした海軍の対立が再 燃し、結果、明治38年に陸海軍の両幕僚長を並立することとして改正された。 そのためには陸海軍の対立を調整する機関が必要なため、明治31年、その目的で元 帥府が設置され、同日、元帥府設置の詔が出され、小松宮彰仁親王、山県有朋、 大山巌両陸軍大将、西郷従道海軍大将らが元帥府に列せられた。 しかし、明治35年に西郷従道が亡くなると元帥府に意見調整機能はなくなっていまい、 元帥府は重要軍務について天皇の諮詢に応じる機関となった。 その後、陸海軍の対立は形を変えたが、太平洋戦争終戦まで続いた。 (303 507-614) 大日本帝国が日露戦争以降、国力に見合わない拡大政策を取ったのは何故でしょうか? 内政的には、大国ロシアを打ち破った栄光の軍隊を、戦争が終わったからと言って縮小するなどできなかった。 また日露戦争の辛勝を政府が隠した事が、戦後処理に対する民衆の不満を徒に大きくした。 日清戦争の勝利で莫大な賠償金を得たのに、日露戦争ではそれがなかった、これはおかしい、 「本来戦争ってのはもっと儲かるはずだ。」こんな考えが世間的に広まってきていた。 外政的には、未だロシアの脅威が消えない状況で軍縮などできるはずもなかった。 また世界恐慌に対し他の列強諸国は植民地内で財を循環させるブロック経済方式を取ったが、 植民地らしい植民地を持たなかった日本は新たに財を循環させるべき地を獲得する必要があった。 これら内政的・外政的要因が組み合わさり、拡大政策がとられた。 (戦争板初質スレ3 496) 日本はドイツにならって、機甲部隊の整備に特に力を入れたのですか? 1940年にドイツ、イタリアへ軍事視察団を派遣して、ポーランド戦や、フランス戦での 戦車戦の実情や戦訓を情報収集していますが 戦車の整備に力を入れました。 ドイツの活躍を見て以来、それまでの冷淡な態度がうって変わって「戦車サマ、サマ」になったのです。 なんだかんだで97式中戦車は2000輌以上生産され、ピーク時には年産1000輌に迫りました。 これで戦車師団を編成し、陸軍の決戦兵力にしようとしたのです。 (659 ゆうか ◆u8WC078ef5ch) 「ドイツの電撃戦に影響を受け戦車の有用性は認識され、 1941年(昭和16年)2月には陸軍機甲本部が新設されて機甲部隊に関する教育・編制・技術開発の諸業務の統括調整が図られた。 (中略) 部隊は編成されたものの肝腎の戦車や自動車・砲は揃わないといった状態がほとんどで、 その上一部の戦車連隊が抽出されてしまうなどして、 その編制すら満足になることはなかった。 下記、ウィキペディアの機甲師団の大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷を参照ください。 ttp //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E7%94%B2%E9%83%A8%E9%9A%8A (659 霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg) 日華事変以前と比べて帝国陸軍の 航空機の生産量は約5倍、戦車の生産量は約20倍。 ついでに昭和17年度に策定された需給計画では 航空機 戦車 昭和17年 6,400 1,500 昭和18年 8,000 2,000 もうひとつ隠れたカラクリがあります。 昭和17年度の航空関連に配当された鋼材7.4万トン、予算13億円に対して 戦車・自動車は鋼材7.6万トン、予算5億6千万。 資材の配当量では航空機より上だったりします。 日本は昭和18年度までは、戦車を航空機の次に序列して優先生産を計画してます。 昭和19年に入ると一転してほとんど顧みられなくなり、その落差が日本の戦車軽視を錯覚させているのです。 (659 ゆうか ◆u8WC078ef5ch) 旧日本軍の場合、人種差別反対を掲げてアジア開放を謳っていたから、軍隊内部でも身分や人種による差別はなかったのですか? 例外はあるかもしれないが、おおむね平等に扱われる。 というのも、下手に差別したりすると、戦闘中に後ろから弾が飛んでくるから。 朝鮮出身者も、正規軍人であれば平等に扱われたようだ。 (ただ、反乱の可能性があるとして、労働力として軍属で連れて行った朝鮮人労働者をひとまとめにして隔離した事例はある。) ただ、これらは軍隊と言う組織の性格上のことであって、人種差別反対を掲げてアジア開放を謳っていたことは無関係。 (296 578) 日本軍の参謀や幕僚の組織編成 戦史叢書「本土決戦準備 1 -関東の防衛-」によれば、 第1・第2総軍司令部 参謀長(大将・中将)1名,参謀副長(中将・少将)1名,参謀(大佐)2名,参謀(中佐・少佐)6名,参謀(少佐・大尉)4名 方面軍司令部(第5,第10~第13,第15~第17) ケは軍管区司令部との兼勤 参謀長(中将・少将)1名,参謀副長(中将~大佐)ケ1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名] 軍管区司令部(北部・台湾・東北・東部・東海・中部・西部・朝鮮) ケは方面軍司令部との兼勤 参謀長(中将・少将)ケ1名,参謀副長(中将~大佐)1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名] 軍司令部(第50~第58) 参謀長(中将・少将)1名,参謀(大佐~大尉)5名 師団司令部(近衛第3,第44,第72,第73,第81,第84,第93) 参謀長(大佐)1名 参謀(中佐~大尉)3名 師団司令部(第140,第142,第143,第151,第152,第157) 参謀長(1名),参謀(3名) 師団司令部(第201,第202,第209,第214) 参謀長(中佐)1名 参謀(少佐・大尉)2名 師団司令部(第221,第222,第224,第229,第234,第308,第316,第321,第322,第354,第355) 参謀長(大佐・中佐)1名 参謀2名 (294 259) 陸海軍は同じ20mmでも弾薬の規格が異なっていたのですか? 陸軍内だけでも20mm機関砲弾だけで以下の6種類あるんだが。 20*80 20*142 20*125 20*94 20*113 20*99RB 海軍と統一する前に陸軍内部で統一するのが先だろ。 (676 717) 満州事変前後で陸大閥の一夕会や二葉会などが陸軍内の実権を握るのですが、彼らの出てくる前に中枢にあった薩摩閥(上原勇作派の系統)と長州閥(田中義一派の系統)はその後、いったいどうしていたんでしょうか? 薩摩閥は陸軍内では元々そんなに大きくないし、 長州閥は山縣の死んだのと長州閥の専横を嫌った若手将校が 一夕会を結成してこれに対抗しようとした為、、その後は急速に衰えてしまいました。 一夕会結成の中心となったのが小畑敏四郎、岡村寧次、永田鉄山の三人です。 ですが、小畑と永田の方針の違いからこの会は二つに分裂してしまいます。 これが永田を旗頭とする統制派と、小畑を旗頭とする皇道派です。 (288 431) 皇軍は皇居の方を向いて遥拝してたんでしょうか? 皇居遥拝は植民地(最初は朝鮮半島)向けに“発明”された儀式だが 戦中じゃ本土の日本人にも広まっていたんだぜ おれの親父は船乗りだったが、毎朝船長の主導で皇居遥拝をやったと話していた 昭和40年代ぐらいまでに作られた戦争映画には皇居遥拝のシーンがわりとよくでてくる (287 46) 予科練卒は最速で20歳と聞きました。そのときの階級は何なんですか? それと卒業後は毎年大尉までは自動的に昇進するというのは本当ですか? 甲飛は、16歳(1943年以降は15歳、1944年には中学二年修了程度)で入隊し、二等飛行兵から進んで、 2年半の教育終了後に上等飛行兵曹、更に練習航空隊撰修学生として1年教育の後、23歳で少尉となる ことが予定されています。 前述の通り、最初の入隊年齢が下がっているので、少尉任官が20歳というのはあり得る話ではあります。 乙飛は、15歳(1941年以降は14歳)で入隊し、二等航空兵から開始して、19歳で二等航空兵曹、25歳で 飛行兵曹長、29歳で少尉となることが予定されていました。 そこまでは自動的な昇進ですが、それ以後は人事考課に従って昇進が決められます。 (287 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本はガタルカナルなど南の島に基地を作りましたが、物資を運ぶ輸送船は陸軍が海軍に借りると言う形で船を貸してもらったんですか? それとも陸軍の要請で海軍がそこまで船を動かしたんですか? 上海事変が起きたときに、陸軍は輸送船を確保できなかったために出動できず 海軍の上海特別陸戦隊が予想外の勝利を重ねてしまい、陸軍の威信と活動計画が潰れてしまいました。 そこで、事変解決後に、陸海軍がそれぞれどの民間船を借りて運用するかを明確化した計画が立ちます。 日華事変はあまりにも突発的に発生したので、この民間船運用計画は使えず、 増援部隊を海軍艦船で派遣する羽目になってます。 そこで、さらに民間船運用計画を具体化する一方、陸軍独自の揚陸艦計画も立ちました。 太平洋戦争は、1年半以上の時間をかけて陸海軍の担当部署を分けた上で開戦に臨みました。 民間の輸送船を借りる際も、陸軍がこの船を徴用・海軍がこの船を徴用…と事前に話し合ってます。 この協議によって、たとえば日本郵船りま丸・りすぼん丸は陸軍が借り、りおん丸は海軍が借りると決まり これによって、りま丸は兵員輸送用の「蚕棚」、りおん丸は飛行機修理工具をセッティングできるわけです。 陸軍は20万トン分の輸送船を維持する契約ができ、護衛はもちろん海軍艦船が付きました。 しかし当然ながら、補給任務を続けているうちに撃沈される船も増えてくるので、 新造船の取り合いや陸海軍間での契約差し替えが必要になりました。 陸軍はとにかく輸送に必要な輸送船を欲しがり続けてますが、海軍もそれは同じことです。 閣議で陸軍18万トン減少案が突き出されて、逆に37万トン増加を主張する参謀本部と大きく見解が分かれ 佐藤賢了軍務局長と田中新一1部長が殴り合ったのは余談…。 (278 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 旧日本軍の職業軍人の戦死率と、一般召集兵の戦死率ってどっちが高かったんですか? 士官でも後方勤務と前線勤務がありますし、士官と兵でもまた違いますし、一般召集兵についても 二種類有るので、一概には言えませんが…。 指揮官先頭などの伝統があるので、前線勤務の士官の戦死率は高いです。 太平洋戦争開始前には既に前線勤務の士官は払底しており、そのために大学生の様な高等教育を 受けた人間で充当する構想が進んでいます(これは俗に言う学徒動員)。 兵士の中では、充員召集を受けた者と、臨時召集を受けた者では、前者の方が大事にされます。 極端な話、臨時召集を受けたものを先に立たせて、後から充員召集を受けた者が付いていくと言う 状況もあったようです。 これは、充員召集が、元々の計画に従って宛われた将兵であるのに対し、臨時召集は単に該当師団に 欠員が出た者を召集で補う為に起きたりしています。 (107 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 陸軍士官学校、海軍兵学校の定員は何人なんでしょうか? また、陸大、海大の定員は? 入学者数のデータは入手できなかった。逆に卒業者数から類推してほしい。 まあ定員はないに等しいように見受けられる。 陸士の場合(ソース:「日本陸軍がよくわかる事典」PHP) 士官生徒時代(明10~22)、1期117名。最少6期(明16)59名・最多11期(明22)207名。 士官候補生時代 1期(明23)147名、5期(明27)200人突破、 9期(明30)650人に急増、以後600~700人で推移。 18・19期(明38・40)それぞれ920名、1068名とピーク。翌年は反動で276名に激減。 22期(明43)以後700人前半で推移、29期(大6)536名に激減、以後200~400人で推移。 53期(昭15)1719名に激増、以後2200名程度で推移。57期(昭19)2413名。 海兵の場合(ソース:参拾壱頁) 1期(明6)2名、以後、平均的に30名未満で推移。 27期(明32)113名、初めて100人突破。 30期(明35)188名に急増。32期(明37)192名、ピーク。以後100名前後で推移。 50期(大12)255名・51期(大3)236名と例外的に突出、翌年反動で60名強。 55期(昭2)以後120名強で推移。 66期(昭13)200人突破、以後激増、73期(昭19)898名。 陸大・海大はデータなし (107 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 補足。 海軍大学校は明治21年に甲号生徒9名を送り出し、25年までは平均9名(23年のみ2名)、 27年に将校科となって、5~8名、明治31年以降は甲種となって33年まで一桁台となり、 日露戦争時は一時途絶えますが、35年に一挙に44名が卒業し、再び39年まで卒業が途絶え、 以降は20名~30名で推移します。 以後昭和13年に30名、15年に27名となり、最後が18年の25名です。 一方の陸軍大学校は、明治18年に10名を卒業させ、以後は明治31年まで10~20名で推移します。 明治32年に一挙に40名前後に拡充し、同じく日露戦争の2年間は卒業生を輩出せず、明治42年に55名 に拡充されます。 以後、50~70名前後で推移し、昭和に入ると50名前後となります。 昭和13年、16年は年に2回卒業生を輩出し、昭和16年以後は毎回70名以上が卒業していきます。 更に昭和19年には年3回卒業生を輩出し、毎回100名近くが卒業しています。 最後が昭和20年8月卒業の120名でした。 (107 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 明治期の軍人恩給って大体いくら位ですか? 明治三十年あたりの。 う~ん、資料を探したのですが、昭和期のものしか見つからず。 △普通恩給 … 一定年限に達して退職した軍人と准軍人に賜る一般的な恩給。 准士官以上は在職13年以上14年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。 14年以上は、1年増す毎に退職前の棒給年額の150分の1に相当する金額を加算。 下士官以下は、在職12年以上13年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。 13年以上は、1年増す毎に下士官は7円、兵は6円を加算。 △増加恩給 … 公務中に傷病を受け、不具廃疾となった場合に軍人、准軍人に加算。 なお、准軍人とは、陸軍の見習士官、海軍の海軍候補生など。 △傷病年金 … 公務中に永続性の傷痍、疾病罹患により、不具廃疾に至らなくとも、これが原因で3年以内に退職 した者、または下士官以下退職後3年以内にこれがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。 △傷病賜金 … 下士官以下公傷、病にて傷病年金を受ける程度でなくても、これが為退職、または退職後1年以内に これがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。 支給額は最大660円、最低120円で16項目に区分される。 △一時恩給 … 在職准士官以下3年、下士官2年以上で恩給を受ける年限に達せずして退職した者に支給され、金額 は退職当時の棒給月額に在職数を乗じた額。 △扶助料 … 戦闘または戦闘に準ずべき公務で死亡した者の遺族には、普通恩給の金額、普通公務にて死亡した者 の遺族には、普通恩給の10分の8、その他は10分の5を支給。 △一時扶助料 … 在職3年以上で恩給を受ける年限に達せずして在職中死亡した者の遺族に支給され、支給基準は一時 恩給と同様。 ちなみに1943年当時の士官、准士官の年棒は以下の通り。 大将:6600円、中将:5800円、少将5000円 大佐:4150円、中佐:3220円、少佐:2330円 大尉:一等(海軍は一級以下同じ):1900円、二等:1650円、三等1470円 陸軍軍楽大尉:一等:2150円、二等:1900円、三等:1750円 海軍特務大尉:一級:2070円、二級:1191円 中尉:一等(海軍は一級以下同じ)1130円、二等:1020円 陸軍軍楽中尉:一等:1540円、二等:1390円 海軍特務中尉:一級:1740円、二級:1630円 少尉:850円 陸軍軍楽少尉:一等:1240円、二等:1130円 海軍特務少尉:一級:1470円、二級:1368円 海軍各科少尉候補生:670 准士官(陸軍):一等960円、二等:900円 准士官(海軍):一級:1220円、二級:1150円、三級:1043円、四級:930円 (109 眠い人 ◆gQikaJHtf2 ) 何故日本軍は突撃や戦闘に臨んでは軍旗を処分し、自沈や沈没間際になった艦艇は旭日旗を撤収するのですか? ちょっと勘違いがあるようなので。 陸軍が軍旗を処分する、というのは、これから全滅します、という意思表示の一種です。 だれも軍旗を持ち帰らない、だが敵の手には渡せない、だから処分する。 全滅覚悟の攻撃でない限りは、軍旗はきちんと持っていきます。 記憶によれば、軍旗を神聖視する習慣は西南戦争から始まったようです。 根拠・伝統があるわけではなく、元々は軍旗は単なる旗以上のものではなかったのです。 海軍の軍艦旗は陸軍の場合と異なり、フネの備品の一つにすぎず、 消耗品です。神聖視はされていません。 吹きさらしのなか、掲げっぱなしですから当然破れてきます。補修が追いつかなくなったら交換。 フネが沈む、というときに軍艦旗をおろす暇がある場合は限られます。 非常時には気がついた者がおろすという程度ですが、 自沈は若干時間に余裕があることが多いので、軍艦の生涯の幕引きとして下ろすのです。 (109 924) 日本海軍の軍艦は世界でもトップ・クラスなのに、何で陸軍の装備は、世界のトップと較べると見劣りするんですか? 陸海の予算分配に偏りがあったのですか? アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告書に書かれていたので書いておきまする。 1940~45年度に於ける陸海軍臨時軍事費特別会計、軍需省の歳出決算額で、日本銀行支払小切手によるもの。 これを原資料に、陸軍省、海軍省がそれぞれ地域別(海軍は無し)、費目別に算出しています。 1945年は4月~10月の上半期のみで単位は100万円です。 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年 陸軍省 4,191 6,383 10,368 15,764 45,511 20,808 海軍省 1,532 3,104 8,385 13,779 19,069 17,553 軍需省 1,244 10,472 8,993 合 計 5,723 9,487 18,753 30,787 75,052 47,412 陸:海 7:3 7:3 5:5 5:5 6:3 4:3 即ち、初期は概ね陸軍優位に推移していますが、中期~末期は対等になってきています。 次いで、上の表をこのうち費目別に編集し、うち兵器燃料費を抽出すると、 (若干インフレ率など会計処理的な推計が入っていますが) 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年 陸軍省 1,625 1,797 3,267 4,558 3,085 3,725 海軍省 978 1,814 5,629 9,114 8,022 5,619 合 計 2,603 3,611 8,896 13,672 11,607 9,344 陸:海 6:4 5:5 4:6 3:7 3:7 4:6 となります。 (115 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦争中、日本では化学兵器やレーダー関連の開発等で、理系大学の研究室と軍の研究所との共同研究はしていたんでしょうか? しています。 化学兵器に関しては、既存技術の応用だったために、大学との共同研究はしていません。 医学的研究という面ならありましたが。 電波兵器については、日本学術会議電波研究委員会と東北大学の共同研究から出発しています。 他にも原子爆弾の研究にも大学との共同研究が為されています。 (270 眠い人 ◆gQikaJHtf2)
https://w.atwiki.jp/army2ch/pages/324.html
旧軍の陸と海、そして航空隊で徴兵の基準は違っていたのでしょうか? 背が小さかったら徴兵は免れたって聞きましたけど本当なんでしょうか? 東亜戦時に徴兵検査にみたずに入隊できたかった、しなかった人は、当時だと非国民と呼ばれるんですか? 日本軍は弾一発なくなっていても報告書を書かされるほど厳しかったと聞いたんですが本当ですか? 戦前の日本は何故、海軍省と陸軍省と、二つも軍関係の省があったのでしょう。 戦陣訓と軍刑法とはどんな関係にあったんでしょうか。 旧日本軍の撃ち空薬莢の管理は厳しくて1つ無くしても探し回ったそうですが 山本五十六は英雄か、はたまた日本を奈落のそこに落とした人間の一人か? 旧日本軍は従軍牧師のような制度は存在しないの? 愛新覚羅王女川島芳子さんの軍隊での階級は何ですか? 電信兵(?)というのはあったのでしょうか? 旧日本軍は戦前の、いわゆる平時にはどのぐらいの規模だったのでしょうか? 軍人さんが亡くなった場合、遺族に恩給が出ますが、亡くなってすぐに出るものなんでしょうか? 日本軍は世界的に見て強かったのですか? 旧軍の技術士官は「軍人ではあっても戦闘員」ではないと言う認識でOKですか? 近衛師団の兵は逮捕権もってるんですか? 天皇が大元帥として奉勅命令をだして陸海軍を統帥する場合の手続きを教えて下さい。 せっかく兵部省の元に陸海軍の両方を置いていたのに、その兵部省を廃止して陸軍省・海軍省の2つに分けてしまったのは何故でしょうか? 旧陸海軍は異なった仮想敵国を立てていましたが、海軍の対ソ戦研究、陸軍の対米戦研究というものは行われていたのでしょうか? 旧軍の少尉クラスの人間は、私生活においての生活水準はいかほどったのでしょうか 旧軍の予備役軍人(将官)の人がいますがどのような生活をしていたのですか? 明治の旧軍創設時、薩摩閥と長州閥に別れていましたが、やはり仲は悪かったんですか? 銃剣道は、元はフランス人が戸山学校に講師?として指導したのが始まりというのを聞いたのですが、本当でしょうか? 38式歩兵銃や零戦、一式陸攻、90式戦車などの数字は開発完了当時の年数にちなむものですよね? 兵士が戦地から故郷に宛てた手紙って、送料はどのくらいしたのでしょうか。 将校は終身制なんですよね? 陸軍と先鋭的に対立していた海軍がなぜ独自の憲兵を持たず陸軍憲兵に部内警察業務を委託してたのですか? 陸軍と海軍ではなぜ用語の統一がされなかったんですか? 機関銃中隊が無い部隊というのを聞いたのですが。 日本軍は自動小銃の有効性に気付いていなかったのですか? 日本軍の磁気信管にはどういう問題があったの? 旧軍兵士が死亡した場合、家族にはどうやって伝えられたの? 二等兵から佐官クラスに出世することは可能ですか 旧軍の陸と海、そして航空隊で徴兵の基準は違っていたのでしょうか? 徴兵は陸・海軍別々ではなく、陸軍の徴兵官が徴兵検査を行い一定の割合で海軍に 人員を振り分けていました。 一方海軍はもともと志願兵を重視しており、各鎮守府ごとに志願兵徴募の組織を設けていました。 昭和16年までは海軍の兵員で徴兵者の占める割合は5~6割程度です。 甲種合格の基準は身長155センチ・視力裸眼0.6でしたが、海軍は視力に関しては厳しく 裸眼視力1.0が必要でした。 陸軍が徴兵を行うという理由から海軍は陸軍と比べて兵員の体格がやや劣る傾向にあったそうです。 (50 名無し軍曹) 背が小さかったら徴兵は免れたって聞きましたけど本当なんでしょうか? あってもおかしくない。 戦争中でも全員を取れるほど軍隊の規模はでかくない。 また、背が低いのは徴兵検査の等級を下げる一因。 特に末期はそれだけでは決まらないが、原因にはなりうる。 また、徴兵検査自体は戦争してなくても徴兵制をしいていれば 取られる率は低いがある。 (52 951) 甲種合格の基準は身長155センチ・視力裸眼0.6でしたが、海軍は視力に関しては厳しく 裸眼視力1.0が必要でした。 陸軍が徴兵を行うという理由から海軍は陸軍と比べて兵員の体格がやや劣る傾向にあったそうです。 (52 955) 東亜戦時に徴兵検査にみたずに入隊できたかった、しなかった人は、当時だと非国民と呼ばれるんですか? 身体的に不合格の場合、そう呼ばれません ただ世間的に「情けないヤツ」と見られました 左翼的思想などで刑務所に収監されたり、徴兵検査そのものを逃げると非国民と呼ばれました (53 235) 非国民とは言われなかったですよ、軍隊にいけなかった人達は 他にも軍需工場などで働きましたし、農業などの食料を生産する仕事も ありますので。 (53 236) 日本軍は弾一発なくなっていても報告書を書かされるほど厳しかったと聞いたんですが本当ですか? 装備の管理については「書類上は」大変厳しかったことは確かです (弾一発レベルで管理していたかは知らない、スマソ) ただし「書類上は」というところがクセモノで、員数調査がある時だけ 他の部隊から融通してもらったりとかいったことも許容されて居たようで いわゆる旧陸軍の抱えていた組織上の欠陥としてよく指摘される「員数主義」 (書類上のつじつまさえ合っていれば実態はどうでもいい)です。 「厳しかった」と言えるかどうかは激しく疑問。 (54 299) 戦前の日本は何故、海軍省と陸軍省と、二つも軍関係の省があったのでしょう。 主に予算問題が原因です。 兵部省は陸軍の発言権が強く、兵部省に充てられた予算の9割以上が陸軍費に 充当されるに及び、予算配分の均等を望んだ海軍側の提案を受け入れる形で実施されました。 また、実際省務が陸海軍部に分割されて実施されていた点、 西欧における陸海軍の性質が異なる事も原因になったようです。 (55 31) 戦陣訓と軍刑法とはどんな関係にあったんでしょうか。 「戦陣訓」は「生きて虜囚の辱めを受けず」のフレーズが有名ですが、元々は軍規弛緩を正す ためにつくられたもの。占領地での略奪、命令違反などが横行したもので。 陸軍刑法との関係だと、状況の悪化を受け具体的細目を示した大臣告示(もしくは通達)のよ うな位置づけではないかと。 捕虜になることを問題視されるようになったのは何も「戦陣訓」のせいだけではなく、それ以前 (昭和初期)から捕虜をタブー視する非公式規範が軍や社会の中で醸成されていたようです。 そうした結果太平洋戦争以前でも、例えばノモンハン事件では多数の悲劇が生じました。 日露戦争の頃は違ったのですが・・・。 海軍は詳しくないのですが、将官で捕虜になったけどお咎め無しになった事件がありました。 もっとも下々の場合はそうはいかなかったようですが。 (56 525) 旧日本軍の撃ち空薬莢の管理は厳しくて1つ無くしても探し回ったそうですが 誰が、いつごろ、どのような理由で薬莢管理を厳しくしたのですか。 回収して資源として再利用するために日中戦争前後から 行われています。 実戦でも可能であれば薬莢回収は行っています。 演習においては、必ず薬莢回収を行っています。 ついでに、襲撃機キ-102の試作の際、当初機関砲に薬莢 受けは付けていなかったのですが、陸軍上層部の意向で、 薬莢受けを取り付けたと言う話もあります。 (57 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 山本五十六は英雄か、はたまた日本を奈落のそこに落とした人間の一人か? 海軍航空の育ての親としては評価が高いと思われ。 戦争指導に関しては賛否別れるといったところじゃないか? (57 283) 旧日本軍は従軍牧師のような制度は存在しないの? 中国戦線では従軍僧が同行していた(やっていたお坊さんに直接体験を聞いたことがある) その他、特に南方では多分いなかったはず 米軍とは違い、従軍僧は軍人ではなくて大谷教団が派遣していたので(えーと、他のも 派遣した宗派があったようだがよく知らない)軍属扱いかな (60 208) 愛新覚羅王女川島芳子さんの軍隊での階級は何ですか? 川島芳子の軍隊の階級は確かなかったはずです。 基本は自称で上尉と名乗っていたかと記憶しています。 (61 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 電信兵(?)というのはあったのでしょうか? 死んだ祖父が戦時中、それだったらしいのですが・・・ 日本陸軍の場合、通信兵種は工兵科に属します。 通信兵は歩兵旅団に通信隊として配属されるほか、師団の工兵大隊内部に電信聯隊という独立した 部隊としてもありました。 更に敗戦までに、工兵隊の膨張に伴い、通信隊司令部、電信聯隊、独立有線中隊、特殊無線隊、 超短波無線中隊、固定通信隊が出来、船舶輸送司令部配下には船舶通信聯隊も作られています。 また、陸軍通信学校では、軍用通信の教育と軍用鳩の育成を行います。 甲種は中少佐大尉に三ヶ月、乙種は大中尉に八ヶ月、丙種は尉官に八ヶ月、丁種は下士官に八ヶ月 の教育を行い、特種学生は尉官に暗号教育を三ヶ月、鳩学生は尉官下士官に二~四ヶ月の教育を 行います。 このほか、陸軍少年通信兵学校というのもあり、通信関係現役下士官(少年通信兵)養成の二年制 の学校で、1941年に設置されました。 卒業後、兵長として一年隊付きの後、伍長になります。 日本海軍ならば、通信兵種は、兵科に属します。 元々、水雷兵種に属していたもので、教育課程は、1930年に分離独立しています。 高等科は大中尉に一年、普通科は中少尉に四~六ヶ月、特修科は佐尉官、兵曹長、上等兵曹に四~六ヶ月、 専攻科は高等科卒に一年の教育を行なうものです。 (122 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧日本軍は戦前の、いわゆる平時にはどのぐらいの規模だったのでしょうか? 1930年で陸軍25万、海軍5万。 1931年で陸軍23万、海軍78,430。 1932年、陸軍30万、海軍83,822。 1933年、陸軍35万、海軍88,968。 1934年、陸軍35万、海軍97,069。 1935年、陸軍35万、海軍98,896。 1936年、陸軍40万、海軍107,461。 ちなみに、現役徴集率(その年の徴兵検査を受検した適齢者で、現役兵として 実際に入営した者の割合)は、1933年で20.1%。 1938年は46.9%となっている。 (126 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 軍人さんが亡くなった場合、遺族に恩給が出ますが、亡くなってすぐに出るものなんでしょうか? 戦争中に恩給をもらって生活するということはあったのでしょうか? 該当者の死亡確定後、1942年までは地方長官、1942年11月以降は市町村長への申請によって 在職三年以上ならば、遺族に扶助料として、公務中の死亡なら普通恩給の10分の8、それ以外なら 10分の5が支給されますが、その在職年限に達せざるに死亡した場合は、一時扶助料となり、その 金額は一時恩給と同額、即ち、死亡当時の棒給月額に在職数を乗じた額が一度だけ支給されます。 このほか、徴兵保険というのがあり、死亡の場合は保険会社から掛け金が支給されるものもあります。 今の富国生命が、その徴兵保険で大きくなった会社です。 いずれにしても、1942年までは地方長官決裁ですから、申請してもその支給までは暫く掛りますし、 恩給だけで生活するのは、半農半漁の自給自足が可能な人なら何とかなるでしょうが、それ以外の 人は、家族の為に再婚するか、自分自身が働きに出るかしないといけませんでした。 一時扶助料は文字通り一時金だけですしね。 (264 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本軍は世界的に見て強かったのですか? 何が強さの基準となるのかはっきりしないが、 まあ普通に考えれば陸海軍ともに世界的に見ても強かったな。 単に上には上がいるというだけで、当然下には下がいる。 (俺初質スレ433 177) 歩兵や水雷戦隊、航空隊に関しては連度も装備も良好で強かったのは確かだ! ただし陸軍なら対戦車装備が乏しかったし、砲兵には予備弾が少なく継戦能力が低かった。 さらには前線航空管制が無く、有力な航空直協が行えなかった。 海軍なら重巡洋艦以上の水上艦に関しては、明確に「強い」と言えるほどの実績に乏しいな! 夜間近接戦闘とか、トロくさい護衛空母を追いかけるんなら強かったが。 (俺初質スレ433 179) 旧軍の技術士官は「軍人ではあっても戦闘員」ではないと言う認識でOKですか? また左官待遇の「技官」という職種があったらしいのですが、技術士官との相違は何なのでしょうか? 陸軍の場合は、砲工科技術将校を以て構成しています。 即ち、彼等は兵科将校としての役割を持っています。 従って、戦闘員の扱いになります。 海軍の場合は、造船、造機、造兵の各科を統合したもので、彼等は、将校相当官に 位置づけられます。 従って、兵科将校ではありません。 「技官」は、軍属で軍人ではありません。 あくまでも、軍人以外で、本人の意思によって職業として陸海軍に勤務する者であり、 文官、雇員、傭人に分けられますが、技術官は文官扱いです。 その待遇はピンキリで、親任官待遇、つまり大将相当から、兵卒待遇まで様々ありま した。 (260 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 近衛師団の兵は逮捕権もってるんですか? 治安維持法に反する思想犯(例えば君主制の撤廃、共和制の実現、プロレタリア独裁政府の 樹立、国家否認、植民地独立、私有財産制度否認などなど)については、近衛師団が取締を 行うものではなく、検事局、特別高等警察、憲兵隊が担います。 近衛師団の兵が逮捕、拘禁する場合は、賢き処に対する直接行動(例えば、天皇に爆弾を 投げる、ピストルで狙撃する、日本刀で斬りつけるなど)を行った場合だけです。 (余談ながら、天皇行幸の際に供奉するサイドカーの側車前面にはカバーがありません。 これは、いざというとき、すぐに行動に移せる様にとの教訓からこのような仕儀になっています。) (141 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 天皇が大元帥として奉勅命令をだして陸海軍を統帥する場合の手続きを教えて下さい。 天皇の統帥権には、国防計画に関する事項、作戦計画に関する事項、平時に於ける陸海軍兵力の使用に関する事項、 戦時に於ける陸海軍兵力の使用、即ち、作戦・運用に関する事項、軍隊及び軍人の訓練・懲罰・内部組織に関する事項 が含まれます。 これらの統帥権を行使するのは、帷幄の機関、即ち、参謀総長、軍令部総長、陸海軍大臣の上奏に基づき行なわれるもの とされています。 上奏を行なうのは、あくまでも、「事の軍機軍令に係り奏上するもの」で、これらは、「陸軍大臣、海軍大臣より内閣総理大臣に 報告すべきもの」なのですが、屡々、この部分は忘れ去られています。 帷幄上奏に基づき勅定されるのが軍令で、手続き的には、参謀本部、軍令部、または陸海軍省で作成したものを、参謀総長、軍令部 総長、陸海軍大臣が天皇に上奏し、天皇が親署の後、御璽を鈐し、主任の陸軍大臣、海軍大臣が年月日を記入し、これに副署します。 これで成立する訳です。 本来は、これを公布する際には、内閣総理大臣への報告が必要ですが、先述のように屡々無視されています。 また、公布は、公示を必要としない場合もありますが、公示が必要な場合は、上諭を付し、官報に記載します。 ちなみに、2.26事件の様なクーデターとかに行なわれた戒厳大権、戦時、内乱勃発時に行なわれる非常大権については、これは 統帥権の埒外になります。 (146 眠い人 ◆gQikaJHtf2) せっかく兵部省の元に陸海軍の両方を置いていたのに、その兵部省を廃止して陸軍省・海軍省の2つに分けてしまったのは何故でしょうか? 兵部省から海軍が分離したのは、明治5年のことです。 元々、日本の軍隊というのは、中央政府軍としての御親兵と、地方の治安維持のために鎮台を各地に 設けているところからスタートし、その人材は、各大名家の藩兵から募っていた訳です。 しかし、徴兵制が施行され、平民出身の兵士が各鎮台に入営し、歩兵聯隊9個が編成されました。 また海軍も明治5年以降拡張が続きます。 国内治安優先の軍隊から外征用軍隊への転換を促したのは、兵部大輔の山県有朋で、彼は1871年12月、 兵部少輔の川村純義、西郷従道と共に、政府に「軍備意見書」を提出し、常備兵、予備兵からなる徴兵制 導入、軍艦、海岸砲台の建造、幹部養成学校や軍工廠の設置を行ない、しかる後に朝鮮半島を利益線として 確保し、ロシアの南下に備えるとしました。 これを実現するには一つの組織では難しく、結果的に分割した方が良いと言うことになり、陸軍省と海軍省を 並立させた訳です。 但し、「陸海軍」と海軍が従になったのは、明治5年からの事で、明治初年は海陸軍と称しています。 余談ながら、原敬はその日記で、死に至るまで「海陸軍」と書き記していたそうです。 (148 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧陸海軍は異なった仮想敵国を立てていましたが、海軍の対ソ戦研究、陸軍の対米戦研究というものは行われていたのでしょうか? 海軍は日ソ間の戦争を深く研究してはいませんでした。 そのツケが現れたのが尼港事件。 以後、ようやく冬季の沿海州行動がスムーズにできるように、 膠州や見島などに砕氷改造を施し、やがて大泊を就役させることになります。 また、満州事変後に建国させた満州国の水上戦力指導のために駐満海軍部を設置し、 この特務機関の主任務を ・陸軍省も参謀本部も把握できていない関東軍の状況把握 ・ソ満国境付近での対ソ諜報活動 ・満州海軍の指導 として掲げ、対関東軍諜報活動の片手間に、国境ソ連軍の動向調査を行っています。 要は、たいした対ソ研究はやってないんですね…軍令部でも課一つで対応してましたし。 (248 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 旧軍の少尉クラスの人間は、私生活においての生活水準はいかほどったのでしょうか 陸軍少尉の場合、年俸は850円で、恩給法13条では仮定棒給年額が160万円とされています。 これは大学事務官、事務官補、関税官などより低く、判任官三等七級より高いものです。 判任官は、技手、外務書記生、警務官補、裁判所書記、看守長、帝大助手、文部省直轄学校助教授、 二等郵便局長、警部、警部補、消防士が軍人以外に挙げられます。 これより下が、判任官待遇で、小学校教諭、府県書記技手、三等郵便局長、巡査、鉄道手です。 生活水準としては今と同じで、贅沢さえしなければ、そこそこ暮らせる状況でしょうね。 (157 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧軍の予備役軍人(将官)の人がいますがどのような生活をしていたのですか? 人生色々ですわな。 将官まで勤め上げた人なら、余程のことがない限り、基本的には、何処かの軍需関係の 企業や軍関係の外郭団体、その他でも地方公共団体が拾い上げてくれます。 今の何処ぞの国の公務員と同じだと…。 例えば、55歳の大佐(兵科の場合)であれば、少将に進級することが無ければ、現役から 退くことになります。 現役のままでも、補職の命令がなければ待命となります。 待命と言うのは、俸給は支払われますが、職がない状態です。 待命期間は1年で、この間に補職が為されないと、休職となります。 この間に就職活動とかする訳で。 休職期間は2年で、これが過ぎると予備役に編入されます。 そして、現役定限年齢に達した日の翌3月31日に後備役に編入されます。 後備役の期間は6年で、それを過ぎると退役になります。 (1941年以降は予備役6年で後備役は無くなる) なお、待命~休職は人によってまちまちで、この手続きを経ずに本人の願いによる 場合、あるいは健康状態や、人事上の都合で、直接予備役編入という場合もありま した。 (159 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 明治の旧軍創設時、薩摩閥と長州閥に別れていましたが、やはり仲は悪かったんですか? 派閥同士の対立は何処でも同じです。 特に山梨軍縮、宇垣軍縮の時の陸軍内部の対立は、山県有朋から連綿と続く長州閥の占める 陸軍中枢と、それに対抗するそれ以外の極端な保守派が対立していますが、この保守派の中 には、薩摩閥を多く抱えていました。 ちなみに、薩摩閥、長州閥の優遇というのは日露戦争以後、山県有朋の隠棲後は表向き影を 潜め、士官学校出の様々な出身地の人々が徐々に増えていっています。 海軍については、薩摩閥が多かったですが、こちらは西郷従道など薩摩出身者が部内の融和 に勤しんだため、対立が極端になるといったことは少なかったようです。 (159 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 銃剣道は、元はフランス人が戸山学校に講師?として指導したのが始まりというのを聞いたのですが、本当でしょうか? 陸軍は当初フランスをお手本にしてた。銃剣術もフランス式だったが、 西南戦争なんかやってみると、これがあまり役に立たない。 戸山学校などではこっそり日本の槍術を取り入れた日本式銃剣術を研究。 陸軍のお手本がドイツに変ったのを機にこれが採用された。 軍では「銃剣術」であったが、学校等では武道「銃剣道」として広がり、 戦後はこの武道としての銃剣道が残った、ということ。 (235 512) 38式歩兵銃や零戦、一式陸攻、90式戦車などの数字は開発完了当時の年数にちなむものですよね? 明治初年の陸軍創設の頃は、兵器は海外からの輸入に頼っていたので、海外の輸入先である国の制定年度を呼称していました。 明治13年からは、基幹兵器となる小銃が初めて国産化されたため、以後、採用年度が制定年度として各兵器に冠せられました。 明治13年から大正15年(実際は大正14年)までは、元号を制定年度としています。 本来は、「○○年式」という呼称が正しいのですが、明治31~45年にかけては、その体裁が崩れ、三八式歩兵銃、 四五式榴弾砲という形で、「年式」省いた略称が喧伝されたケースもありました。 昭和期に入ると、制定年度で、呼称を付けるのは、大正期と紛れやすくなるため、陸軍では皇紀の下二桁を 冠することに切り替えました。それは、昭和元年の八六式から開始されています。 皇紀は昭和15年に2600年となりますが、昭和15年制式のものを陸軍は一〇〇式、海軍は零式とし、 以後は下一桁を以て兵器に冠しています。 (169 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 兵士が戦地から故郷に宛てた手紙って、送料はどのくらいしたのでしょうか。 葉書は兵士に対しては,一定枚数が配られ,その通信費はタダ,封書・航空便は内地と同じ金額を支払います.電報,書留, 現金書留はありませんが,貯金,為替は取り扱っています. (176 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 将校は終身制なんですよね? 将校は終身官であり、退役しても退官しない限り軍人です。 退官は、処分などにより免官となる場合などに限られ、普通には無い訳で。 で、将校は、現役→予備役→後備役→退役という形で推移していきます。 兵役では、旧陸軍の場合、一般的に満20歳(1944年から19歳)から陸軍2年、海軍3年の期限で、 教育のため軍隊に入って軍の根幹足るべき者が現役、その現役の終わった者全員(軍残留者除く) が予備役、これが陸軍5年4ヶ月、海軍4年あり、戦時には最優先で召集されます。 この予備役が終わった者全員は後備役となり、戦時は予備役が払底した後に召集を受けます。 但し、日華事変で後備兵役者が多数召集されて、予備役と区分する意味が無く、後備兵役の名で 自他共に老人扱いする弊を除くべく、1941年に予備役に統一されました。 後備兵役は、陸軍10年、海軍5年であり、1941年以降は、予備役として、現役を退いて後、陸軍15年、 海軍12年となっています。 (231 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 陸軍と先鋭的に対立していた海軍がなぜ独自の憲兵を持たず陸軍憲兵に部内警察業務を委託してたのですか? 憲兵は陸軍大臣に属する兵科ではありますが、海軍大臣の指揮をも受けます。 これは明治31年勅令第337号の憲兵条例に定められたものでした。 更に遡るなら、1881年(明治14年)3月11日の憲兵条例第一条で、海軍の取締も定められています。 海軍大臣の指揮を受けるのは、海軍軍人をも取り締まる為でしたが、この規程は内地限りのもので、 戦地には適用されないとして、海軍は太平洋戦争時、海軍が軍政を布いた地域に、「海軍特別警察隊」 を設置しました。 これは、占領地の軍事警察、日本軍に対するあらゆる言動の取締り、敵スパイ活動の防止、海軍軍人の 軍紀法律違反事件、非軍人日本人の犯罪行為などあらゆる情報を集め司令部に報告することを任務と していました。 この組織は、1942年半ばから設置されましたが、設置に当っては、当然陸軍憲兵関係者の強い反対が あったようです。 現地では、白地に赤字で「特警」と書いた腕章を捲き、いつも拳銃を持って巡回し、憲兵同様に現地人や 日本軍人にも恐れられています。 (131 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 陸軍と海軍ではなぜ用語の統一がされなかったんですか? 「用語」と言われても広範囲にわたるので、 「零式vs百式」程度のたわいないものから「動員vs出師準備」みたいな意思疎通不能のものまで様々ですが…。 機器や物資の呼称が陸海軍で食い違う原因の一つに「陸海軍御用達」の会社の存在があります。 たとえば陸軍寄りの川崎航空と海軍寄りの愛知航空、海軍寄りの三菱造船と陸軍寄りの三井造船 それぞれ陸海軍の要求に応えられるだけの大企業なので、海外企業と提携することも多く コンセプトは同じでも呼称や仕組みが異なる機器が各企業でも生まれたりもします。 そんな企業に対し、退役陸海軍将校が役員として天下りしてくるので、 そのぶん軍と企業の癒着は強まり、陸軍専用会社・海軍専用会社の壁はますます厚くなり 技術交流も進めづらくなって、企業同士の意思疎通もうまくいかず、 名が異なる同じ機構が陸海軍に採用されるという悪循環が起きもするわけですが。 (225 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 機関銃中隊が無い部隊というのを聞いたのですが。 機関銃中隊は編成に存在します。 後方警備部隊でも編成表上にありますし、本土決戦用師団でも存在しています。 但し、資料にある時点が、派遣された先での編成というものであれば、機関銃中隊の欠落は十分考えられます。 と言うのも、日本の船舶輸送では、兵士は兵士、装備品は装備品、弾薬は弾薬という形で分けて 輸送していました。 欧米の場合は、兵士、装備品、弾薬、車輌などが或程度一定の比率で分けられていますが、これ には無駄なスペースが出来てしまいます。 日本の船舶にはそんなに余裕がないので、出来るだけ、単一のものを輸送する傾向にありました。 で、なるべく、それに関連する人員も乗せるようにしています。 そんな時に、ある船舶が沈んだらどうなるか。 例えば、其処に機関銃中隊の装備が搭載されていたら、機関銃中隊諸共装備は失われる訳です。 フィリピン向け輸送船団ヒ81なんかそう言う典型例ですね。 (213 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本軍は自動小銃の有効性に気付いていなかったのですか? 自動火器の有効性について日本軍は、日清日露の戦闘で嫌と言う程経験して居り 小銃の自動化以前に歩兵装備としての軽便機関銃の開発を急ぎました。 ガーランド小銃の有効性以前に、軽機関銃等を豊富に装備した日本軍の自動火器は遥かに充実しており 火砲などの支援が得られない状況では、火力において日本軍は米軍を常に凌駕していたのが事実です。 兵站への半端ではない負担と、急遽数量を確保した為に多数の種類の弾薬を同時に運用せねばならなかった為に 弾薬不足が慢性化してしまった為に、弾薬の不足がより深刻化した事が、 戦争後半での火力不足の実情で、兵站さえまともであれば、火力では勝っていたのです。 (702 三等自営業 ◆LiXVy0DO8s) 日本軍の磁気信管にはどういう問題があったの? 磁気信管は不発が多かった事があげられる。 要因としては電気技術、工作技術が現在とくらべて未熟であったためとしか言いようが無いけども、 とりわけ日本においては電線の絶縁技術不足が致命的だった。 現在では当たり前のリード線(電線)のビニル被覆(電線の皮)を日本では多く作れなかったので、 油紙や油を染ませた布を銅線に巻きつけることで絶縁被覆としていたけど、 ビニル被覆に比べると格段に絶縁性能が低くて、絶縁不良(ショート、短絡)による動作不良を多く起こした。 これは魚雷だけではなく、当時の日本のほぼ全ての機械に潜在する動作不良の要因だった。 (722 339) 旧軍兵士が死亡した場合、家族にはどうやって伝えられたの? 日本軍の兵士が戦場で死亡した場合、その戦死は、先ず電報(内報)で役場に伝えられる。 その内容は、兵事係から家族に通知されるが、正式な戦死公報は数ヶ月、長ければ数年かかる場合もあった。 戦死公報には、本人の姓名階級と本籍地に加え、死亡日時と場所と死亡原因が記述されている。 また、遺族に対しては、遺品並びに戦死の状況を記した戦死概況が手渡される事もあったが、 太平洋戦争末期には、戦死公報のみが送られている。 (しょうもない知識を披露するスレ11 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 二等兵から佐官クラスに出世することは可能ですか 少数だが、陸海軍とも、再下級兵から累進して、佐官になった人はいる (俺初質スレ1024 950) 海軍の場合、戦前から開戦後しばらくまでは、兵隊上がりの最高位は特務大尉までで、 佐官は退役時に1日のみ少佐に特進するのと、戦死後の特進に限られていたかと 戦争中に中堅士官が足りなくなり、特務士官から、正規の少佐への道が開けたんじゃなかったかな (俺初質スレ1024 952)
https://w.atwiki.jp/ss-wars/pages/15.html
歩兵(日本軍) 基本性能 装甲 移動 燃料 索敵 対潜索敵 変形 対空 対地 対艦 4 50 2 1 - 10 20 80 装備 兵器名 対陣 対空 対装 対非 対艦 対潜 射程 命中 1 2 3 4 ライフル 80 0 10 80 0 0 1 3 5 - - - NOT - - - - - - - - - - - - NOT - - - - - - - - - - - - NOT - - - - - - - - - - - - 生産 時期 費用 進化1 進化2 進化3 進化4 進化元 開始時 100 - - - - 無し
https://w.atwiki.jp/battlefield1942/pages/145.html
小銃 三八式歩兵銃 三八式実包6.5mm弾5発 銃剣装着可 最小射撃誤差0.25 威力12.9 極めて長い小口径の歩兵用ライフルです。 6.5mm弾使用なので威力は少し落ちますが、低反動かつ比較的高初速なので命中精度に優れています。 このライフルのための対戦車擲弾発射器も用意されています。 形が本物のアリサカライフルに似ていたからだと思う(≧∇≦) -- 名無しさん (2012-12-02 07 35 52) 三八式歩兵銃は1929年?生まれで九九式歩兵銃が出たあとも八割の軍人がこの旧式の武装で出ていました -- 名無しさん (2012-12-02 09 20 41) ☝のものです間違いが有りましたので訂正します製造年1905年でした -- 名無しさん (2012-12-02 09 26 19) 大きさは -- 名無しさん (2013-02-01 11 37 49) テスト -- (名無しさん) 2013-05-04 22 32 19 今もファンランドあたりでは猟銃として使っているらしい -- (名無しさん) 2014-08-02 10 08 15 戦後も朝鮮やベトナムでアメリカ相手に戦い続けた名銃 -- (名無しさん) 2014-08-03 16 28 50 ↑2 ファンランドじゃなくてフィンランドかと -- (名無しさん) 2015-03-31 14 59 24 どうしようかっこいい -- (名無しさん) 2015-09-15 23 05 04 本物のアリサカライフルって何だ・・・? アリサカライフルってのは小銃の系統を指す言葉であって大元になった三十年式歩兵銃の開発者である有坂成章の名前が由来。 三八式も九九式もその三十年式の発展形になる訳だからまとめてそう呼ばれるってこと。 海外でもちゃんと区別する時は画像にある様に「Arisaka Type 38」とか「Arisaka Type 99」とか表記されてる。 -- (名無しさん) 2018-06-07 19 11 20 名前 コメント すべてのコメントを見る 三八式騎銃 三八式実包6.5mm弾5発 最小射撃誤差0.65 威力12.9 銃剣装着不可 歩兵銃とは対照的に、非常に短いカービンです。 軽く短いことは行軍中には有り難いですが、戦闘には活かされません。 これまでのアリサカ・カービンと置き換えで配備されます。 いい銃ですね。 -- 明 (2013-03-01 19 20 36) 名前 コメント すべてのコメントを見る 九九式小銃 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (type99_3.jpg) 7.7mm弾 5発 銃剣装着可 最小射撃誤差0.25 威力16.5 大戦中~後期で使用される日本軍のボルトアクション式小銃。 米軍のM1ガーランドやスプリングフィールドに比べ威力に劣る。逆に命中率で勝る。 38式と違ってカス当たりで殺せないことは少なくなるが銃剣のリーチは下がった -- (名無しさん) 2015-06-03 15 45 28 名前 コメント すべてのコメントを見る 四式自動小銃 Type4_rifele_4.jpg 7.7mm弾 10発 銃剣装着可 最小射撃誤差0.25 威力16.5 米軍のガーランドを基にした自動銃。 精度に優れ、またガーランドと異なりマガジンの途中ロードが可能、クリップが落ちる音は勿論しない。 しかもガーランドより命中率がいい。威力はガーランドに比べ劣る。 大戦後期に一部マップで登場する。 ガランド?ガーラントじゃなかったっけ? -- 名無しさん (2009-10-02 18 47 20) ガーランドだと思う -- 名無しさん (2009-10-03 08 08 34) ガランドで合ってますお -- 名無しさん (2009-11-10 00 10 41) ガーランドより扱いやすい。 -- 名無しさん (2011-09-03 00 09 31) 扱い役すいと言っても日本軍のライフルでしょ?壊れやすかったんじゃない? -- 名無しさん (2012-12-02 07 40 30) ↑ゲームの話だから・・・ -- 名無しさん (2012-12-10 23 27 12) マガジンは固定式でちゃんとクリップx2の給弾? -- 名無しさん (2013-01-12 01 34 32) かっこいいね―。 -- ??????さん (2013-03-01 19 25 34) 重さは? -- 名無しさん (2013-03-02 15 00 58) 日本で一番強い武装 -- (名無しさん) 2013-11-10 02 19 00 名前 コメント すべてのコメントを見る 短機関銃 MP18 ベ式機関短銃 50発 最小射撃誤差1.00 威力5.55 正式名称「独國一九一八年式機関短銃」 WW1でも使用されたドイツ製の短機関銃。それが日本に輸入や鹵獲され海軍陸戦隊や憲兵隊が使用した。 使用弾丸が7.62mm弾なので、FHのMP18より若干威力が弱いが命中率は向上している。 連射速度は100式機関短銃より遅い。ちなみにドイツ軍の登場するマップでは何故か登場しない。 名前 コメント すべてのコメントを見る 一〇〇式機関短銃 8mm南部弾(十四年式拳銃実包)30発 最小射撃誤差0.75 威力5.02 銃剣装着不可 日本軍の制式短機関銃です。 平均よりもかなり威力が劣っていますが、その分射撃時の反動が穏やかで集弾性に優れます。 また、発射速度も比較的高い部類です。 (Type100SMG Used with permission from LotRS) なんかMP18に似てる -- 名無しさん (2010-03-13 16 15 16) MP18は確かドイツで使われていたものです。同盟国の日本が初めての短機関銃として開発 -- そう (2010-04-01 22 55 26) 機関短銃ですね -- 名無しさん (2010-08-07 00 07 11) 結構命中精度高いな。 -- 名無しさん (2011-09-03 00 10 02) この短機関銃の後期のものだとこの短機関銃の2倍の速さで発射出来たが試作だけだった?(゚Д゚) -- 名無しさん (2012-12-03 18 31 47) どこで出てくんのこれ? -- (名無しさん) 2013-12-19 18 28 31 これ持ち方どうにかなんないかねぇ -- (名無しさん) 2014-05-19 04 03 47 名前 コメント すべてのコメントを見る 機関銃 九六式軽機関銃 6.5mm弾30発 最小射撃誤差0.45 威力12.9 銃剣使用不可 スコープ付きなので、遠距離から射撃できる。銃剣はただの飾りなので使えない。 銃剣は、銃身先端へのバラスト目的ですね。 しかし軽機をSMGっぽい使い方をしていたとの米軍側の証言も多いですから、 いざというときの刺突用にもなりますかね。 -- (名無しさん) 2018-06-28 17 32 44 名前 コメント すべてのコメントを見る 九九式軽機関銃 7.7mm弾30発 最小射撃誤差0.55 威力16.5 銃剣装着不可 九六式軽機関銃より精度以外の点で勝る。連射速度も速く、高性能な機関銃。 名前 コメント すべてのコメントを見る 拳銃 九四式拳銃 8mm南部弾(十四年式拳銃実包)6発 最小射撃誤差1.00 威力5.02 日本軍の代表的な拳銃。 小隊長の副武装として用意される他、パイロットや戦車兵なども装備する。 米軍はこれをコルトCo45と言っていました -- 名無しさん (2013-02-01 11 33 15) 出てきたかこれ? -- (名無しさん) 2013-12-19 18 30 09 引き金を押してないのに誤射するやつだ -- (名無しさん) 2014-03-09 19 47 59 別名スーサイド(自殺)・ナンブ -- (名無しさん) 2014-03-20 21 31 07 名前 コメント すべてのコメントを見る 十四年式拳銃 8mm南部弾(十四年式拳銃実包)8発 最小射撃誤差1.00 威力5.02 米軍のコルトに比べると威力が劣る。九四式拳銃よりこちらの方が登場する場合が多いかもしれない。 名前 コメント すべてのコメントを見る 対戦車火器 九九式破甲爆雷 爆破時間9秒 1個・2個積重ね・4個積重ね の3タイプ。 4個積重ねの物は設置時間が長く、威力は1個単体より大きいが戦車に置いてもすぐ落ちる。 1個か2個積重ねを使うのが現実的かもしれない。 史実では、ドイツの吸着式爆弾みたいに装甲に貼りつけたりしていた。 名前 コメント すべてのコメントを見る 二式タ弾 40mm対戦車弾(タ弾) 最大貫通力65mm 日本軍の対戦車グレネード。威力は低く、軽戦車や装甲車くらいにしか使えない。中戦車以上にはまず通用しないだろう。 んにゃ、側面狙いならシャーマン墜ちるで -- (名無しさん) 2013-06-23 20 02 33 集団運用すれば駆逐艦ですら堕ちる -- (名無しさん) 2015-06-03 15 46 31 名前 コメント すべてのコメントを見る 火炎瓶 大戦全期間で登場する。大戦序盤の軽戦車程度にしか威力は期待できないが、対人用としても使える。 名前 コメント すべてのコメントを見る 四式七糎噴進砲 HEAT弾4発 最小射撃誤差0.75 最大貫通力80mm 装填時間5.6sec ロケット推進でHEAT弾を投射する歩兵用対戦車火器で、同クラス対戦車火器で最高クラスの弾速による良好な弾道特性、および二脚による伏射安定性を備えています。 弾頭サイズが比較的大きく範囲効果も広いため、敵歩兵を標的とした運用も効果的です。 一方で、旋転安定弾頭による高精度と代償に、装甲貫通力が90mm程度に留まっており、他の携行対戦車火器よりはむしろ歩兵砲に近い性格の火器となっています。 名前 コメント すべてのコメントを見る 四式九糎噴進砲 HEAT弾4発 最小射撃誤差0.75 最大貫通力120mm 装填時間5.6sec 七糎噴進砲を拡大した対戦車火器で、装甲貫通力が120mmに向上しています。 範囲効果も向上しており、軟目標に対してはほぼ野砲と同等の効力を発揮します。 弾頭の大型化により携行弾数が減少しており、また弾道特性は7cm型から若干悪化しているため、慎重な照準と予備弾薬位置の把握が重要です。 こんなものが日本軍にあったとは?(゚Д゚) -- 名無しさん (2012-12-02 07 50 17) 名前 コメント すべてのコメントを見る 九七式自動砲 20x125mm弾7発 (AP弾) 最大貫通力42mm 最小射撃誤差0.1 弾丸の質量127g 初速800m/s (HE弾) 最大貫通力23mm 弾丸の質量127g 初速820m/s 大口径の自動ライフル。20mmと大口径なので、かなりの威力が期待できる。ただもちろん中戦車以上にはほぼ無力。 また榴弾も使用できるので、機関銃巣や軟目標に対しても効果的。 これ、どこにあるの? -- 名無しさん (2008-01-30 16 24 45) ガ島の枢軸本陣や、硫黄島の飛行場近くの修理台付き建物の中にあったと思う -- 名無しさん (2008-01-30 22 22 11) サンクス 助かりますた -- 名無しさん (2008-02-04 15 25 35) リスポンしたときのコンクリ製の建物の地下によくある。 -- 名無しさん (2011-09-07 23 37 23) ツラギにもあるよ -- 名無しさん (2012-05-11 16 52 09) 名前 コメント すべてのコメントを見る 自爆キット 右クリックで叫び、左クリックで自爆。シャーマンやT34程度の戦車なら、側で自爆すれば撃破できる。 重戦車は1発で撃破できないので、気合で戦車によじ登ってエンジンルームの上で自爆しないと撃破できない。 プライマリを押した約一秒後に爆発する。 威力はなかなかのものだが自殺扱いなので多用するとスコアが悲惨なことになり最悪、マイナススコアにより自動キックされてしまう、ほどほどに。 なぜかセカンダリで軍刀の横薙ぎが出せる。 名前 コメント すべてのコメントを見る レールガン と号電気投擲砲 # 装弾数20発 装填時間7秒 最小射撃誤差0.1 電磁誘導で弾を加速させて発射するレールガンです。 発射する際に必要となる電力は当時の国内の総発電量を超えていますがゲームでは思う存分撃つことができます。 例えスーパー・パーシングを相手にしても3発あれば葬ることができるでしょう。基本的に隠されて置いている。 と号電気投擲砲は前バージョンで隠し武器だったはずが毎回持ち出されあまりに強すぎたため1発ごとにリロードが必要になり、 発射位置が特定できるよう雲を引くようになり、さらに一定確率で自爆するようになった。 FHSWdev 【FHSWちょっといい話】より ちなみにマジで開発をしていたというから驚きだ。 北海道のどこに落ちてますか? -- 名無しさん (2013-03-03 18 32 28) 北海道にはとうの昔に出なくなったよ -- 名無しさん (2013-03-13 15 15 01) アラスカのどこに落ちてるの?探してんだけど… -- (名無しさん) 2013-08-09 13 39 06 昔は内地にもあったよね。 -- (名無しさん) 2013-09-02 14 09 20 今も内地にあるよ。この前撃たれてビビった。 -- (名無しさん) 2013-11-04 14 14 18 ↑内地のどこですか?(A1とかA2とか) -- (名無しさん) 2013-11-09 21 29 16 神社の裏で発見した -- (名無しさん) 2013-11-10 02 15 15 神社はどこですか??(A1とかA2とか) -- (名無しさん) 2013-11-10 12 50 05 それくらい自分で探せよ -- (名無しさん) 2013-12-18 07 03 19 最近自爆する確率が上がった気がする -- (名無しさん) 2015-03-25 00 57 34 名前 コメント すべてのコメントを見る 近接武器 三十年式銃剣 日本軍の銃剣で、剣と呼ぶに相応しい長さを持っている。 三八式歩兵銃、九九式小銃、四式自動小銃に着剣される。 銃剣が使えない・・・ -- 名無し (2008-02-16 19 57 09) 歩兵で1押して右クリックで刺せるよ -- 名無しさん (2008-05-05 00 10 15) じいちゃんが隠し持ってた剣だ! -- 名無しさん (2009-11-11 03 55 01) ↑何・・・だとwwwww -- 名無しさん (2009-11-19 19 25 14) けっこう長い -- 名無しさん (2010-12-29 15 28 29) 二式はないんですかねぇ -- 帝國 (2011-05-22 22 07 55) 二式は試作だけだった?(゚Д゚) -- 名無しさん (2012-12-02 07 51 43) 名前 コメント すべてのコメントを見る 九八式軍刀 威力8.07 射程距離 80 日本軍の軍刀です。プライマリで縦斬りセカンダリで横薙ぎをします。 横薙ぎ攻撃は左右への攻撃範囲がとても広い反面、打撃力は縦斬りよりも劣ります。 名前 コメント すべてのコメントを見る その他 一〇〇式火炎放射器 日本軍の火炎放射器です。性能は他国の物とあまり変わりません。 こんなのありましたっけ・・・ -- 名無しさん (2010-12-02 16 21 56) あるある -- 名無しさん (2010-12-04 16 58 55) 戦時中の国策映画にも出てきたね。空挺部隊が使ってた。 -- 名無しさん (2010-12-12 08 01 27) 戦時中の日本ニュースの映像で見たことある! -- 名無しさん (2010-12-14 17 42 06) アメリカ軍はこの火炎放射器を見て自分達の火炎放射器を作ったと言われる(^ω^) -- 名無しさん (2012-12-03 18 51 17) 一番言いたいのは何で映画で出したってことだε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘ -- 猫型ロボット (2012-12-03 18 55 30) 火炎放射器じゃなくて火焔放射器じゃね? -- (名無しさん) 2014-07-17 11 46 13 名前 コメント すべてのコメントを見る 手榴弾 九七式手榴弾 日本軍の手榴弾です、性能は他国と変わりません。 これってちゃんと発火動作(鉄兜とか軍靴にこすりつける)するの? -- (名無しさん) 2013-05-21 17 01 49 アメリカと同じモーションだからしないよ -- (名無しさん) 2013-05-21 20 46 14 名前 コメント すべてのコメントを見る 十一年式発煙手榴弾 日本軍の発煙手榴弾です。 ソ連同様、それほど多くは配備されていないかも知れません。 コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る 八九式重擲弾筒 ※下のやり方が正しい使用方法である、右上の体勢で使用すると骨折の危険がある、しかしそれをした所でインゲームでダメージを受ける事は無いが。 着発式と7秒時限式の二種類の弾を選ぶことができます。 また、小銃を持たない擲弾兵のキットが追加されました。 このキットは小銃兵より多い弾薬を持ち、さらに対戦車榴弾と発煙弾も選択できます。一応拳銃は所持しているため自衛戦闘をすることは可能です。 コメント これ、鹵獲した米兵が膝に当てて撃つものかと思ったらしく 太ももの骨砕く米兵が続出したそうだな -- (名無しさん) 2013-12-13 18 55 45 これに使われてた89式榴弾を地面にうめて地雷代わりにもしたそうな -- (名無しさん) 2014-01-27 07 33 56 米兵が膝に当ててうった結果骨折を招いたやつだ -- (名無しさん) 2014-02-24 17 40 17 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/vgmginfo/pages/89.html
ベジマギ攻略VGMGトップ スキル一覧 ⇒ やさい詳細 ベジマギ攻略VGMGトップ イベント チタケの神隠し ●移動方向 ■ ■ や ■ ■ ●特徴 やさい名 レア度 コスト スキル マナ スキル詳細 鉄爪の白兵戦士エビイモ R 4 アームズブレイカー 3 全ての敵のATを小DOWN、自身のATを小UP ●ステータス・グラフ(自軍のやさいLvは最大100。それ以上は敵軍のデータ) Lv HP AT スキル効果 60 611 99 19down+9up 98 910 147 29down+14up
https://w.atwiki.jp/arcciel/pages/11.html
WWⅡ 日本軍シリーズ No.8013 空母「赤城」 No.8014 空母「飛龍」 No.8015 九七式中戦車チハ No.8016 五式戦闘機 No.8017 局地戦闘機 紫電改 ◆先行販売分 No.3073 空母「隼鷹」 No.3080 九九式艦上爆撃機 No.3081 九七式艦上攻撃機 ★追加分 No.9007 R 艦上爆撃機 彗星 No.9008 R 特殊攻撃機 橘花 No.9009 SR 艦上攻撃機 流星 No.9010 R 戦艦「霧島」 No.9011 SR 五式中戦車チリ No.9012 UR 空母「信濃」
https://w.atwiki.jp/bsp_matome/pages/53.html
空挺兵 上陸兵