約 764,557 件
https://w.atwiki.jp/taiheiyou/pages/14.html
日本軍・陸上兵器 → 進化 → 改良 戦車系 九二式重装甲車 ┗ 改修九四式軽装甲車 TK ┣ 九五式軽戦車 ハ号 ┃ ┣ 九八式軽戦車 ケニ ┃ ┃ ┗ 二式軽戦車 ケト ┃ ┣ 特二式内火艇 カミ ┃ ┃ ┗ 特三式内火艇 カチ ┃ ┃ ┣ 特五式内火艇 トク ┃ ┃ ┗ 特四式内火艇 カツ ┃ ┗ 四式軽戦車 ケヌ ┗ 九七式軽装甲車 テケ 戦車・自走砲系 八九式中戦車 乙型 ┣ 九七式中戦車 チハ ┃ ┣ 九七式中戦車改 新砲塔チハ ┃ ┃ ┣ 二式砲戦車 ホイ ┃ ┃ ┗ 四式砲戦車 ホロ ┃ ┣ 一式中戦車 チヘ ┃ ┃ ┣ 三式中戦車 チヌ ┃ ┃ ┃ ┗ 四式中戦車 チト ┃ ┃ ┃ ┗ 五式中戦車 チリ ┃ ┃ ┗ 特三式内火艇 カチ ┃ ┃ ┣ 特五式内火艇 トク ┃ ┃ ┗ 特四式内火艇 カツ ┃ ┣ 一式砲戦車 ホニⅠ ┃ ┃ ┗ 三式砲戦車 ホニⅢ ┃ ┃ ┗ 試製75粍砲戦車 ナト車 ┃ ┃ ┗ 試製105粍砲戦車 カト車 ┃ ┃ ┗ 試製105粍砲戦車 ホリ車 ┃ ┗ 一式砲戦車 ホニⅡ ┃ ┗ 四式砲戦車 ホロ ┗ 九五式重戦車 ジロ ┗ 超重戦車 オイ 対戦車砲・自走砲系 九四式37粍速射砲 ┗ 一式機動47粍砲 ┗ 三式砲戦車 ホニⅢ ┗ 試製75粍砲戦車 ナト車 ┗ 試製105粍砲戦車 カト車 ┗ 試製105粍砲戦車 ホリ車 野砲・自走砲系1 改造三八式野砲 ┗ 九二式歩兵砲 ┗ 機動九〇式野砲 ┗ 一式砲戦車 ホニⅠ ┗ 三式砲戦車 ホニ ┗ 試製75粍砲戦車 ナト車 ┗ 試製105粍砲戦車 カト車 ┗ 試製105粍砲戦車 ホリ車 野砲・自走砲系2 四一式山砲 ┣ 九四式山砲 ┗ 二式砲戦車 ホイ 野砲・自走砲系3 四年式15糎榴弾砲 ┣ 機動九一式10糎榴弾砲 ┃ ┣ 九六式15糎榴弾砲 ┃ ┗ 一式砲戦車 ホニⅡ ┃ ┗ 四式砲戦車 ホロ ┗ 四式砲戦車 ホロ 野砲・列車砲系 八九式15糎加農砲 ┗ 九二式10糎加農砲 ┗ 九〇式24糎列車加農砲 野砲・自走ロケット系 九六式中迫撃砲 ┗ KB トラック/15糎多連装噴進砲 高射砲系 十四年式10糎高射砲 ┗ 八八式7糎野戦高射砲 ┗ 九九式8糎高射砲 高射砲・自走砲系 九六式25粍双連機銃 ┗ 九八式20糎高射機関砲 ┗ 九八式五屯牽引車/20粍高射機関砲 ┗ 試製対空戦車 ソキ車 装甲列車系 臨時装甲列車 ┗ 九四式装甲列車 輸送車系 KB 1.5屯トラック ┣ KB トラック/15糎多連装噴進砲 ┗ KCY スキ車 歩兵系1 日本軍・歩兵(甲) ┗ 日本軍・機関銃携行歩兵(甲) ┗ 日本軍・重兵装歩兵(甲) ┗ 日本軍・近衛兵(甲) 歩兵系2 日本軍・初年兵 ┗ 日本軍・古年次兵 ┗ 日本軍・重兵装歩兵(乙) ┗ 日本軍・近衛兵(乙) 歩兵系3 日本軍・動員兵(甲) ┗ 日本軍・歩兵(乙) ┗ 日本軍・機関銃携行歩兵(乙) ┗ 日本軍・重兵装歩兵(丙) 歩兵系4 日本軍・動員兵(乙) ┗ 日本軍・歩兵(丙) ┗ 日本軍・機関銃携行歩兵(丙) 歩兵系5 日本軍・学徒兵 ┗ 日本軍・機関銃携行学徒兵 ┗ 日本軍・重機関銃携行学徒兵 歩兵系6 日本軍・初年学徒兵 ┗ 日本軍・古年次学徒兵 ┗ 日本軍・機関銃携行学徒兵 ┗ 日本軍・重兵装学徒兵 歩兵系7 日本軍・騎兵(甲) ┗ 日本軍・近衛騎兵 歩兵系8 日本軍・騎兵(乙) ┗ 日本軍・重兵装騎兵 歩兵系9 日本軍・空挺兵(甲) ┗ 日本軍・精鋭空挺兵(甲) 歩兵系10 日本軍・空挺兵(乙) ┗ 日本軍・精鋭空挺兵(乙) 歩兵系11 日本軍・海軍陸戦隊歩兵 ┗ 日本軍・特別陸戦隊歩兵
https://w.atwiki.jp/ygo000/pages/403.html
効果モンスター 星4/光属性/機械族/攻1600/守 0 このカードが戦闘によって相手モンスターを破壊する度に、 自分はカードを1枚ドローした後手札からカードを1枚選択してデッキの一番下に戻す。 まず、このステータス、効果を見た瞬間に、このカードが萌えの塊であることはわかるだろう。 白兵戦=戦うヒロイン お手伝い=メイド ロボ=機械っ娘 名前だけでも3つも萌え要素が含まれている。 次に効果を見てみよう。 ゴブリンのやりくり上手のような効果だ。 つまり、彼女は貧乏または節約家属性も備えているのだ。 極めつけはその守備力。0というとても低いものだ。 これは彼女が打たれ弱いという欠点も持っているということだ。 キャラをつくるとき欠点をつくれというのは必ず言われることである。 さて、ここまでは萌え要素としての彼女を紹介してきたが、実践的な活用方法も紹介していこう。 このカードの最大の利点は、ヴォルカニックバレットととの相性の良さにある。 ヴォルカニックバレットは炎族・守備力0のモンスターであり、その効果は墓地に存在するときに一度、500ライフ払うことで同名モンスターをデッキから手札に加えるというもの。 お手伝いロボの効果と相性がいいのは言うまでもないだろう。 さらに、重爆撃禽ボムフェネクス、起爆獣ヴァルカノンの融合素材となったり、カメンレオンで吊り上げることもできる。 特に、ヴァルカノンについては激しいディスアドバンテージを軽減することができるので非常に優秀だ。 このように、白兵戦型お手伝いロボは2つの意味で「お手伝い」してくれることだろう。 幸い、彼女の魅力に気付いている決闘者は少ない。だがそれも時間の問題だろう。 彼女の魅力が世に知れ渡る前にあなただけの彼女を購入すべきだ。 7スレ目 108 :名無しプレイヤー@手札いっぱい。:2013/08/18(日) 08 05 12.09 ID TeWzrQTM0 白兵戦=戦うヒロイン お手伝い=メイド ロボ=機械っ娘 なんてハイレベルなこじつけなんだ すごいよぉ!こんな意訳が出来るなんて君はなんて変態デュエリストなんだ! これでイラストを差し替えれば完璧やな Tag:ヒロインアド メイド 名前アド 機械っ娘 正当評価 節約家属性
https://w.atwiki.jp/army2ch/pages/33.html
戦死した兵士の家族にはなんらかの補償はされたのでしょうか? 東条英機の竹槍事件とはどういったものなのでしょうか? 旧日本軍の「参謀旅行」って何ですか?外国に勝手に視察に逝って国際法には触れないのでしょうか? 日本はドイツからの、Me163,Me262などの飛行機に関する技術協力はあったようですが、キングタイガーなどの戦車関係の技術協力はなかったんでしょうか? 軍と警察が信号を赤で渡ることについてものすごくもめたことがあったと聞きましたが、なぜそんなにもめたのか詳細を教えてください。 旧日本軍には軍事参議院なる組織が存在したようですがこの組織はどういう機能を有していたのでしょうか? なんで、旧日本陸軍、海軍は仲が悪かったんでしょうか? 日本軍の場合、皇族と違って、華族の特別扱いはなかったような記憶があるのですが 太平洋戦争当時,日本軍に植民地のはずの朝鮮半島出身の将校,それも将官がいたというのは本当ですか。 前の大戦の徴兵逃れの方法ってどんなのがあったんでしょうか? 成人男子って全員徴兵されたのですか? 旧軍とかで伝統のシゴキとか懲罰があったら教えてください。 中野の兵学校の通信業務とは、情報収集(スパイ活動)のことですか? 関東軍には中国地方出身の兵隊もいたのですか? 日本側が米英の航空機、艦艇、車輌等をどう呼称していたのかお教えください。 なぜ「旧」日本軍のように、旧をつけるんですか。 旧日本軍では徴兵されて兵役についていた人がすでに職を持つ人だった場合、徴兵されている間にその人の会社が倒産した場合、再就職先の紹介とかしてくれたのでしょうか? 日本の大戦中の学徒動員についてですが、大学からの動員で最初から士官候補生としてもらえる人と兵隊にされる人はどう違うのでしょうか? 旧日本軍の空軍が発足しなかったのは陸軍と海軍は相当仲が悪かったせい? 憲兵隊とはどんな役割を果たしていたのでしょうか? 「士官候補生」の位置付けと権限は、具体的にどんなものだったのでしょうか? パットン・ロンメル・モンティこれに匹敵する日本の将軍って誰? 大日本帝国の時代 配属先部隊はどのように決められていたのでしょうか? 旧軍の部隊略号で師団をDとか旅団をBsとか言いますがこれの由来って何語? 昭和5年ごろ、飛行機免許(民間機)をもっていた青年が居たとして、旧日本軍の航空兵に入った後パイロットの道を歩むということはありうるのでしょうか。 日本軍の部隊編制がわかるHPがあったら教えてください。 最盛期の帝國陸海軍の実力は、当時の世界の軍事力と比して、如何ほどだったのでしょうか 旧海軍は空挺部隊を保有してたのですか? 最盛期の帝國陸海軍の実力は、当時の世界の軍事力と比して、如何ほどだったのでしょうか 旧軍は兵員輸送に馬車を使用しなかったのですか? 旧日本軍の話になるのですが、軍人さんが軽機関銃などを自宅に持ち帰ることはあったのでしょうか? 旧日本軍に、外国人は入ることはできたのでしょうか? 旧日本軍でのいろいろなものの呼び方が知りたいのですがどこか参考になるサイト等ありませんか? 大日本帝國軍憲兵隊の装備って主になんだったんでしょうか? 旧日本軍の階級って、陸海軍の間でも絶対的だったのでしょうか? 広島は日本最大の軍事拠点だったってホントですか? WW2の旧日本軍の航空軍と飛行師団て同じ意味ですか? 旧日本軍の高学歴者のための短期現役っていうのがあるけど、短期って通常はどのくらいなんですか。 旧日本軍の最高部の役職って何つーの? 陸軍士官学校、海軍兵学校と陸軍大学、海軍大学は何が違うのですか? 旧日本軍は「海兵隊」と「陸戦隊」とを別物としていたのでしょうか? 1907年に制定された帝国国防方針にロシアが1位で入ってるの何故なんでしょうか? 関東大震災の際、軍が朝鮮人虐殺に加わったというのは、それなりの根拠があるのでしょうか。 皇族が軍人になったら、士官学校くらいはフリーパスとしても、少尉から順番に出世していくの? 戦前の日本では北朝鮮のように定期的に軍事パレードが行われることは無かったのですか? 日本陸海軍航空隊で初めて撃墜を記録したのは誰なのでしょうか? 大東亜戦争中の日本軍の将兵で”短期現役”っていうのがあったらしいですが平均でどのくらいですか? 「軍神」という呼称は軍の正式なもの? 旧日本軍には航空軍なる組織は存在した? 戦前の日本では基地祭や体験航海のような国民と触れ合うイベントはあったんですか? 陸軍士官学校、海軍兵学校の卒業生は何人なんでしょうか?また、陸大、海大の定員は? 旧日本軍の軍、方面軍、総軍はミリタリーシンボルではどうなるんでしょうか? 大阪の部隊は弱いって本当ですか?歌にまでなったって聞きましたが。 明治期の軍人恩給って大体いくら位ですか? 太平洋戦争時の日本軍兵士の数はどれくらいですか? 旧軍の軍人が武官として海外の大使館付になっていましたが、 旧日本陸・海軍のトップは陸軍参謀総長・海軍軍令部総長? 参謀と幕僚と司令部付の違いがわかりません 旧軍では問題を起こしてやめさせられる事を、懲戒免職と呼んだのでしょうか? 日本に優秀な狙撃兵はいたのでしょうか。 大日本帝国時代の軍医の位置づけはどんなものなのでしょうか? 戦中は軍にも車の車校とかあって、免許とかもいったの? 旧軍の伍長って下士官じゃないんですか? 旧日本軍の軍医に関してですが、階級はどの位だったのですか? 日本軍ってまだいるんですか? 大日本帝国において部落出身者への士官学校、兵学校入学時における差別、昇進における差別はあったのでしょうか? 戦前の日本で、軍と警察のエリートコースを教えて下さい。 日本帝国軍に、ナチスドイツの武装SS外国人義勇兵部隊のような「非主流民族で構成されたエリート親衛部隊」 旧軍にもドイツみたいな「肉弾戦車撃破記章」とか「歩兵突撃記章」のような勲等はあったのですか? 戦前の日本陸軍と海軍は「仲が良かった」具体的事例は何かあるのかい? 日本軍はいろんな無線を傍受されて、暗号も解読され、待ち伏せされたりかなり情報戦に弱かったのでしょうか。 旧日本軍に電信兵というのはいたのでしょうか? 旧日本陸海軍の高級士官、少将以上で最年少記録は何歳でしょうか? 戦前の、いわゆる平時に旧日本軍はどのぐらいの規模だったのでしょうか? よく旧日本軍の餓死の話を聞きますが、人間は水と塩があれば1月は生きるし周りは全部海でしょ。なんで海水飲まないんですか? 何故、大日本帝國では、陸軍省と海軍省で国防関連の省庁が二つに分かれて存在していたのでしょうか? 旧軍の参謀ってのは、何をする人なんですか? 日本軍は、上官の命令に従って行ったことに対しては部下は責任を問われないと聞きましたが WW2の時の日本軍がブルドーザーとか持ってなかったって本当ですか? 償勤兵ってなんですか? 自衛隊にもあるんでしょうか? 兵隊が占領地で個人的に何か物を買おうとした場合それは軍票で買うと思うのですが 旧軍では玉砕命令が出て、でも何か生き残ってしまった場合、帰還したら死刑ですよね? 旧軍で連隊区司令官という役職がありましたが、これは連隊長とどう違うのでしょうか? 日本においても戦闘機王とかライフル王みたいな武勇伝ってあるんですか? 旧軍の電熱服は危険と聞いたのですがどのへんが危険なのでしょうか? 日本軍の将軍・提督に対する教育はいかなるものだったのでしょうか? 日本の帝国陸海軍の一般的な兵士の身長や体重はどれ位だったんですか? 民間人がいきなり将校になる道もあったんですか? 終戦時の日本の軍人ってどれくらいいたの? 何故、日本陸軍航空隊、海軍航空隊などでは、英語の識別信号を使用するようになったのですか? 隊で意見が割れ、一部が隊長とともに玉砕し、一部が副隊長と供に生還した場合、副隊長は敵前逃亡などの罪に問われるのでしょうか? 日本軍では鹵獲した武器は使わないってことが徹底していた、というのは本当ですか? 日本軍の愚かさを示す、最高というか最低のエピソードは何ですか? ポツダム昇進って? 旧日本軍の使っていた「軍刀」が正式な日本刀(玉鋼を鍛えて研ぎ出したものではない)そうですが、では軍刀は一体どのような素材で作ったものなのでしょうか? 軍人の転籍や昇進なども、一般企業と同じく一年に一度か二度、締めや年度頭に有ったりするのでしょうか? 旧日本軍が使っていたバイクは、どんなものがありますか? 祖父の倉庫を見せてもらってたら兵隊さんのシルエットと何か城みたいなものが描かれた冊子が出てきたんですが、これの由来は分かりませんでしょうか 兵士が戦死して、遺体や遺品が残っていれば遺族に返還されますか? 旧軍で、兵士が戦死した場合、その遺族に恩給は支払われるのですか? 日本軍とタバコとの関係ですが、軍人に好かれてたタバコの銘柄って分かりますか 旧軍の暗号が筒抜けだったのは全軍通じて?陸軍だけは解読できなかったとか聞いたんですが。 旧軍において、剣術を学んでいた人間はどの程度いたのでしょうか? 1943年の日本の大学生の学徒動員の際は、陸海軍の士官学校や兵学校でも、学期の短縮や繰上げ卒業はあったのでしょうか? 鎌倉に今も見学できる旧軍の軍事施設などはありますか? 竹槍の実戦投入を日本軍が本気で考え始めたのは、いつ頃からなんでしょうか? 日本軍に狙撃兵っていたんでしょうか? 乃木希典の評価って軍板的にはどうなんでしょうか? 何故「関東軍」というのでしょうか?名前の由来を教えてください。 旧日本軍に軍刑務所ってあったんですか? 日本軍の憲兵隊は陸海軍の一部だったのでしょうか? 海軍工廠とか陸軍造兵廠とかありますが、「工廠」と「廠」の違いってなんですか 第2次大戦中、日本の陸軍と海軍の予算はどちらが多かったのですか? 憲兵隊による「督戦隊」とはなんですか? 旧日本軍で敵に寝返った例はありますか? 日本軍は敵前逃亡した恥ずかしい軍だったのですか? 日本軍は弾薬不足に悩まされたと良く聞きますが、”貧国強兵”を読んでいたら、1941年度の弾薬在庫が100会戦分、1945年度でも95会戦分とありました。 近衛兵について教えて下さい。良家出身者しかなれないってのは本当ですか? 何で大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍で話し方が違うの? 首相・陸相・参謀総長で陸軍大将の東条英機と陸軍元帥であった杉山元、畑俊六らとは陸軍内においてはどちらが上だったのですか? 旧日本軍じゃ普通の兵士の事を何というのですか? 大日本帝国では大戦末期少年将校とか言う子供が戦車乗ったり、飛行機乗ったり、潜水艦乗ったり通信兵したりしたって本当ですか? 戦前の軍人さんの最高学歴を教えて下さい 旧日本軍は…戦艦や通信基地や戦闘機も電信でしたっけ? 日本陸海軍で反跳爆撃が確立した時期はいつでしょうか? 祖父ですが、大正2-3年生まれで本職は警視庁の警察官、中国戦線に3回も出兵・・ってのは一体どういう状況でこういうことになったんでしょうか 賊軍側とされた藩で、明治維新前に生まれていて陸大もないような時代に陸軍大将や陸軍中将になるのは困難なのでしょうか? シンガポールを占領した日本軍の風紀はどうだったんですか? 善通寺に師団があったのはなぜですか? 旧軍では参謀本部の参謀ってどのくらい居たの? 日本軍は、末端将兵が捕虜になることを禁じていたくせに、どうして海軍乙事件ではのうのうと敵の捕虜になった福留参謀長を不問としたんですか? 旧軍の小銃は一丁一丁手作りで量産に不向きだったといいますが、小銃弾の生産体制や品質はどうだったんでしょうか? 日本帝国軍では、補給が完全に絶たれた戦線では人肉食もあったとよく聞きますが本当ですか? 戦前の軍人や警官の階級って、どんな法律や勅令で規定されてたんですか? 統帥権干犯ってどういう意味? 戦前の日本の制度で上官を殴るとどの程度の罰則ですか? 戦前の日本には国防省や統合参謀本部を作るべきだという動きは無かったのでしょうか? 旧日本軍では偵察用のオートバイにハーレーダビッドソンのライセンス生産版の陸王が採用されていたそうですが、国産のキャブトンやメグロは使われていなかったんですか? 第二次世界大戦で日本軍が集団投降した戦いってあったんですか? 戦闘詳報って、どの部隊でも書くんですか? 日本では統帥の一元化を試みる人物はいなかったのでしょうか? 大日本帝国が日露戦争以降、国力に見合わない拡大政策を取ったのは何故でしょうか? 日本はドイツにならって、機甲部隊の整備に特に力を入れたのですか? 旧日本軍の場合、人種差別反対を掲げてアジア開放を謳っていたから、軍隊内部でも身分や人種による差別はなかったのですか? 日本軍の参謀や幕僚の組織編成 陸海軍は同じ20mmでも弾薬の規格が異なっていたのですか? 満州事変前後で陸大閥の一夕会や二葉会などが陸軍内の実権を握るのですが、彼らの出てくる前に中枢にあった薩摩閥(上原勇作派の系統)と長州閥(田中義一派の系統)はその後、いったいどうしていたんでしょうか? 皇軍は皇居の方を向いて遥拝してたんでしょうか? 予科練卒は最速で20歳と聞きました。そのときの階級は何なんですか? 日本はガタルカナルなど南の島に基地を作りましたが、物資を運ぶ輸送船は陸軍が海軍に借りると言う形で船を貸してもらったんですか? 旧日本軍の職業軍人の戦死率と、一般召集兵の戦死率ってどっちが高かったんですか? 陸軍士官学校、海軍兵学校の定員は何人なんでしょうか? 明治期の軍人恩給って大体いくら位ですか? 何故日本軍は突撃や戦闘に臨んでは軍旗を処分し、自沈や沈没間際になった艦艇は旭日旗を撤収するのですか? 日本海軍の軍艦は世界でもトップ・クラスなのに、何で陸軍の装備は、世界のトップと較べると見劣りするんですか? 戦争中、日本では化学兵器やレーダー関連の開発等で、理系大学の研究室と軍の研究所との共同研究はしていたんでしょうか? 旧軍の陸と海、そして航空隊で徴兵の基準は違っていたのでしょうか? 背が小さかったら徴兵は免れたって聞きましたけど本当なんでしょうか? 東亜戦時に徴兵検査にみたずに入隊できたかった、しなかった人は、当時だと非国民と呼ばれるんですか? 日本軍は弾一発なくなっていても報告書を書かされるほど厳しかったと聞いたんですが本当ですか? 戦前の日本は何故、海軍省と陸軍省と、二つも軍関係の省があったのでしょう。 戦陣訓と軍刑法とはどんな関係にあったんでしょうか。 旧日本軍の撃ち空薬莢の管理は厳しくて1つ無くしても探し回ったそうですが 山本五十六は英雄か、はたまた日本を奈落のそこに落とした人間の一人か? 旧日本軍は従軍牧師のような制度は存在しないの? 愛新覚羅王女川島芳子さんの軍隊での階級は何ですか? 旧軍の飛行団は飛行師団から独立してたのですか? 電信兵(?)というのはあったのでしょうか? 旧日本軍は戦前の、いわゆる平時にはどのぐらいの規模だったのでしょうか? 軍人さんが亡くなった場合、遺族に恩給が出ますが、亡くなってすぐに出るものなんでしょうか? 日本軍は世界的に見て強かったのですか? 旧軍の技術士官は「軍人ではあっても戦闘員」ではないと言う認識でOKですか? 近衛師団の兵は逮捕権もってるんですか? 天皇が大元帥として奉勅命令をだして陸海軍を統帥する場合の手続きを教えて下さい。 せっかく兵部省の元に陸海軍の両方を置いていたのに、その兵部省を廃止して陸軍省・海軍省の2つに分けてしまったのは何故でしょうか? 旧陸海軍は異なった仮想敵国を立てていましたが、海軍の対ソ戦研究、陸軍の対米戦研究というものは行われていたのでしょうか? 旧軍の少尉クラスの人間は、私生活においての生活水準はいかほどったのでしょうか 旧軍の予備役軍人(将官)の人がいますがどのような生活をしていたのですか? 明治の旧軍創設時、薩摩閥と長州閥に別れていましたが、やはり仲は悪かったんですか? 銃剣道は、元はフランス人が戸山学校に講師?として指導したのが始まりというのを聞いたのですが、本当でしょうか? 38式歩兵銃や零戦、一式陸攻、90式戦車などの数字は開発完了当時の年数にちなむものですよね? 兵士が戦地から故郷に宛てた手紙って、送料はどのくらいしたのでしょうか。 将校は終身制なんですよね? 陸軍と先鋭的に対立していた海軍がなぜ独自の憲兵を持たず陸軍憲兵に部内警察業務を委託してたのですか? 陸軍と海軍ではなぜ用語の統一がされなかったんですか? 機関銃中隊が無い部隊というのを聞いたのですが。 日本軍は自動小銃の有効性に気付いていなかったのですか? 日本軍の磁気信管にはどういう問題があったの? 旧軍兵士が死亡した場合、家族にはどうやって伝えられたの? 二等兵から佐官クラスに出世することは可能ですか どうして旧日本軍(大日本帝国)に「空軍」が出来なかったのでしょうか? 陸軍の士官学校や陸軍大学校は皇族や朝鮮の王室の人ならほぼ無試験で入れたみたいですが、彼らは入学してしまえば一般の入学生と同じようにスパルタ教育されたの? 旧日本軍では銃(他の装備も?)は天皇から貸していただいたものなので壊れても携行しなければならないとされていたという記述を何処かで見ました。 戦死した兵士の家族にはなんらかの補償はされたのでしょうか? 知ってる範囲でお答えします。一部間違いがあるかも知れません。 妻子が居る場合、子供が20歳になるまで 妻が再婚するまでの補償は、有ったようです。 旧軍人、軍属は年金が有りますから補償も有ったと思います。民間人は不明です。 (5 343) 東条英機の竹槍事件とはどういったものなのでしょうか? 毎日新聞に「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」という記事が載り、東条英機は毎日新聞を差し押さえ、記者の新名丈夫の懲罰召集を命令。 一方、海軍は新名丈夫記者処罰に同情。彼を従軍記者として召集したため、陸軍と対立する。 (6 37 旧日本軍の「参謀旅行」って何ですか?外国に勝手に視察に逝って国際法には触れないのでしょうか? 現在の自衛隊で言うところの「現地戦術」だね。 教育とかで地図上で行う「図上戦術」を、現地現物で行いながら「あそこに砲兵を配置」とか「この経路は戦車の前進が出来る」とかやっていってお勉強するの。 別に外国と言わずに国内でやるよ。 (7 ミリ屋哲) 日本はドイツからの、Me163,Me262などの飛行機に関する技術協力はあったようですが、キングタイガーなどの戦車関係の技術協力はなかったんでしょうか? タイガーは研究目的のを潜水艦で輸入しようとしたね。戦況悪化で駄目だったけど。 ドイツと日本は地理的に連絡困難ということもあり、特に独ソ開戦後は潜水艦による連絡に頼ることとなりました。 日本駐独大使館が戦争末期に資料としてティーガーⅠ型を購入していますが、輸入は不可能でした。 Me262、Me163などはジェットエンジンの実物、書類資料が潜水艦で送られ、 戦争末期に準コピー製品の「橘花」「秋水」などが開発されていますが、そのまま終戦を迎えました。 (7 721-722) 軍と警察が信号を赤で渡ることについてものすごくもめたことがあったと聞きましたが、なぜそんなにもめたのか詳細を教えてください。 ゴーストップ事件と呼ばれています。発端は、赤信号を渡る制服の軍人を警察官が制止したことです。 これが、第4師団と大阪府との対立に発展し、ついには陸軍省と内務省との対立にまで発展します。 軍人は統帥権条項により天皇の命令にのみ服するのであり、警察官の制止に従う必要はない、というのが陸軍側の主張でした。 当時の内務大臣は政党政治家であり、政党政治体制下で抑圧されていた軍部が、 五・一五事件や満州事変などを背景にして政党政治に対して攻撃を加えたと見る見解もあります。 (7 938) 旧日本軍には軍事参議院なる組織が存在したようですがこの組織はどういう機能を有していたのでしょうか? 日清戦争当時、陸主海従だった大本営の制度を、日露戦争前に改訂したのを機に 陸海軍同等にしたことで生まれた機関で、従来天皇からの後家紋には陸軍だけの判断で答えていた物を、 陸海軍協同の実を上げるために作られた物です。 構成員は、陸海軍元帥、陸海各大臣・陸軍参謀総長・海軍軍令部長及び軍事参議官に親補された陸海軍将官が充てられ、 天皇からの諮詢に対して意見を上奏するための機関でした。 (18 眠い人 ◆ikaJHtf2) なんで、旧日本陸軍、海軍は仲が悪かったんでしょうか? ドイツ軍の仲の悪さは有名ですよ。英米もいいわけではないです。 縄張り意識がありますからね。 (18 バッチ3) 何処の国でも陸と海は犬猿の仲です。両者の仲が良い例を見た事が無い。 なぜ帝国軍は指揮系統を一本化しなかったのでしょうか 大本営があるじゃないか。 (111 946) 軍の指揮官と言えど、それぞれの専門分野があります。 当時、それを一本化できなかったのは、情報分野・通信分野等が未発達だったからです。 とはいえ今でも本当の意味で統合一本化できてる軍隊も未だ無く、 アメリカ軍が「統合一本化に向け実績を作り将来目指して研究している」程度の段階です。 陸軍と海軍の関係が良好でないのは、軍の風土からくる部分も大きく、 それはここでは書ききれない程です。 それらの効果もあって、当時は陸海軍の連携が上手く進まなかったのです。 (111 948) そんなもん、一言で言い切れるぞ 陸軍と海軍の不仲の原因は、どこの国でも予算の奪い合いだぜ (111 949) 本を読むべき。 『日本を滅ぼした国防方針』あたりがいいと思われる。 日露戦争終了直後から太平洋戦争の勃発までの歴史的経緯を踏まえて、 陸海間の方針の分裂の事情をかいつまんで教えてくれる。 読んだ上で、さらに質問を重ねた方がいいと思う。 (111 950) 日本軍の場合、皇族と違って、華族の特別扱いはなかったような記憶があるのですが 確か前田利為侯(前田家の当主)とか、伊達宗茂とかは少尉任官だった ような気がします。 皇族関係は結構順調な出世をしはったと思いますけど。 (21 眠い人 ◆ikaJHtf2) 太平洋戦争当時,日本軍に植民地のはずの朝鮮半島出身の将校,それも将官がいたというのは本当ですか。 「洪思翊中将の処刑」(こうしよくちゅうじょうのしょけい) 私が持っている本は、 出版 文藝春秋 著者 山本七平 洪思翊中将の人柄や経歴、 連合国による戦犯裁判、 日本、韓国、西洋の文化の違い、等について書かれている本です。 私には、大変興味深く、ためになった本です。 韓国について考える人は必読ではないかと思っています。 (21 愚考) あとは皇族になりますけど、李王垠中将がいますね。 この方は、明治30年に李太王の第七男子に生まれ、韓国併合で皇族に列せられ、 大正9年に梨本宮守正王の長子と結婚されました。 陸士29期で、有末中将と同期ですね。 昭和14年に近衛第二旅団長、15年に留守第四師団長となり、昭和16年に第51師団長に補任され、 昭和18年に第一航空軍司令官になって、昭和20年に軍事参議官になっています。 あと李鍵公(李王の甥)がいます。 この人は明治42年生まれ、陸士45期で昭和16年に少佐となり、昭和19年に第一軍作戦参謀、 昭和20年に中佐に進級し、第二総軍参謀となりましたが、広島の原爆で殉職されています。 (21 眠い人 ◆ikaJHtf2) 前の大戦の徴兵逃れの方法ってどんなのがあったんでしょうか? 一般的に徴兵というのは役場の戸籍係とかが或る程度恣意的に行っていたので、 そう言った方々と懇意にしていれば、徴兵されることは滅多にありませんでした。 あとは、医学生になることですかな。 (26 眠い人 ◆ikaJHtf2) 成人男子って全員徴兵されたのですか? 平時で16%。日中戦争当時で50%、太平洋戦争末期でも70%です。 平時に乙、丙合格で現役免除になった人でも太平洋戦争末期の根こそぎ動員で召集をかけられてます。 20歳の徴兵検査で甲種合格した壮丁の内、くじ引きで現役入営した人はその後も 「予備役」(5年4ヶ月)として戦争が始まると動員されます。 その後、後備役10年です。 未訓練の乙種、丙種合格の人は補充兵役(12年4ヶ月)としてその後になります。 (26 92) 旧軍とかで伝統のシゴキとか懲罰があったら教えてください。 旧海軍では「罰直」と称して下記のようなことが行われていたそうです。 衣嚢支え・・・衣嚢(ダッフルバッグのようなもの)を両手で頭上に持ち上げ、その体勢を数分間継続 蜂の巣・・・衣嚢を収める「衣嚢棚」に潜り込む。 ほかにも、配膳済みのテーブルを集団で支えるものなどもあったかと。 ちなみに、「デコピン」は「牛殺し」と呼ばれていたそうです。 (24 ちゃぎ) 中野の兵学校の通信業務とは、情報収集(スパイ活動)のことですか? 中野学校はいわゆる諜報活動関係の教育を行ったところだよ。 (38 719) 関東軍には中国地方出身の兵隊もいたのですか? 関東軍の「関東」は旧満州地方の別名でして日本の「関東地方」とはまったく関係ありませんので 中国地方出身の兵士が所属していても何の不思議もありません。 #日本なのに「中国」地方みたいなもんです。 (65 289) ちなみに、関東軍の関東とは中国の「山海関の東」という意味です。 (65 ゆうか ◆9a1boPv5wk) 日本側が米英の航空機、艦艇、車輌等をどう呼称していたのかお教えください。 日本側は連合軍の兵器に特にコードネームとかはつけてなかった。 現場で、ペロハチとかメザシとかカツオブシとか呼んでたという話はあるが。 (66 88) なぜ「旧」日本軍のように、旧をつけるんですか。 日本軍なんて一つしかないから旧なんてつける必要ないんじゃないですか? 自衛隊が特殊な存在のためです 下記のように 「日本軍ではなく自衛隊です」のように「自衛隊が軍隊じゃない」意味と 「自衛隊がWW2以前の日本軍じゃない」意味が区別できないため 旧日本軍とあえて呼びます (68 907) 旧日本軍では徴兵されて兵役についていた人がすでに職を持つ人だった場合、徴兵されている間にその人の会社が倒産した場合、再就職先の紹介とかしてくれたのでしょうか? 徴兵された兵士は通常、勤務していた会社を退職して入営しました (1年以上の休職期間を認める企業は現在でも皆無) その間に会社が倒産しても、軍に責任はありませんし、兵士本人にも かつての同僚を思いやる感傷以外は影響はありません また、軍は兵役を終えた兵士の就職斡旋も行いませが、軍の外郭団体が 退役兵士の世話を焼いた時期もあったそうです (69 596) 日本の大戦中の学徒動員についてですが、大学からの動員で最初から士官候補生としてもらえる人と兵隊にされる人はどう違うのでしょうか? っていうか、徴兵されるのはあくまでも兵で士官は志願が原則です。 いわゆる学徒動員というのは文科系の学生に対する徴兵猶予の停止の事を指します。 徴兵猶予を停止された学生は召集されて兵になったわけですが、それを嫌った学生が 志願して海軍専修予備生徒や陸軍甲種幹部候補生になったりしたのです。 (71 名無し軍曹) 旧日本軍の空軍が発足しなかったのは陸軍と海軍は相当仲が悪かったせい? まったくそのとおり。陸軍はドイツに山下奉文を派遣して、空軍発足と統帥の組織統合を計画 したが海軍の反対にあってあぼーん。終戦まで陸海組織統合問題は解決しなかったとさ。 現代のお役所にも通じますね。日本の伝統かもね。 (73 899) さらに加えて、憲法問題もありました。 明治憲法に「天皇は陸海軍を統帥す」とかかれていたため、 空軍の創設は、憲法の改正が必要、 =不可能、 という、 どこぞできいたような問題があったそうです。 (73 901) 憲兵隊とはどんな役割を果たしていたのでしょうか? 憲兵隊は、いわば軍内の警察機構です 戦前から戦中の日本の憲兵隊はここから大きく権限を拡張して、一般国民の 思想統制にも当たりました 山田定 「憲兵日記」(新人物往来社)、森本賢吉 「憲兵物語」(光人社) 大谷敬二郎 「憲兵 自伝的回想」(新人物往来社) などを読まれると良いと思います (75 600) 「士官候補生」の位置付けと権限は、具体的にどんなものだったのでしょうか? 小隊長の下で見学しているだけ? 陸軍ではそのようです。 見習い期間の階級は准尉と同じ階級章で名称だけ「見習い士官」と呼ばれていたそうです。 小野田寛郎の「ルバング島ひとりぼっち」に詳しくでています。 (76 17) 17に補足? PHP文庫の「日本陸軍がよくわかる事典」の文面をまるまる信じるならば 「士官候補生」は「見習士官」とはまったく別物といえるようです。 「士官候補生」は 大正9年までは、「陸士に入るまで」 昭和11年までは、「陸士予科を終えて陸士本科に入るまでの半年間」 以後は「予科士官学校を終えて陸士に入るまで (航空士官学校に入る者は士官候補生の期間なし)」 で、陸士または本科に入るときに「軍曹」の階級が充てられた…とのこと。 士官候補生として着任した部隊が原隊となり、そこで兵科を決める。 陸士または本科には、原隊から出向、という形式で入学する。 …みたいなことが書いてあります。(…これホンマ?) (76 名無しトンボ釣り) パットン・ロンメル・モンティこれに匹敵する日本の将軍って誰? 参考として、秦郁彦(この人に関する毀誉褒貶はともかく)選・名将 戦術家型名将(いわゆる「戦上手」) ロンメル グデーリアン モンティ パットン アイケルバーガー 宮崎繁三郎 ハルゼー ミッチャー 田中頼三 木村昌福 角田覚治 戦略家型名将 マッカーサー ニミッツ スプルーアンス アレキサンダー カニンガム ルントシュテット マンシュタイン ジューコフ 今村均 小沢治三郎 (79 228) 大日本帝国の時代 配属先部隊はどのように決められていたのでしょうか? 本籍地の陸軍師団か海軍海兵団に入営することになっていました。 陸軍は2年間、海軍は3年間の兵営生活だそうですが、戦時下の対応はどのようなっていたのでしょうか? 昭和二十年当時でも最低三ヶ月の訓練期間が設けられていたそうです。 (79 797) 旧軍の部隊略号で師団をDとか旅団をBsとか言いますがこれの由来って何語? 英語です。 師団:Division 旅団:Brigade(Bsは混成旅団) (82 414) 昭和5年ごろ、飛行機免許(民間機)をもっていた青年が居たとして、旧日本軍の航空兵に入った後パイロットの道を歩むということはありうるのでしょうか。 「パイロットの道を歩むということはありうる」と言う質問の意図が不明確なんだよね。 本人が軍に入ってもパイロットとしてやっていきたいと望んでいるのか。 それとも本人の意志に関わりなく軍がパイロットに割り振ろうとしているのか。 どちらの状況を聞いているのか分からない。 パイロットでも医者でも特技を持って入って来た人間が、軍の中でその特技を生かそうと 思ったら、軍としても無理に別のコースを割り当てることもそうないだろう。人材は貴重だからね。 だからと言って個人の希望が自動的に通るほど甘い社会でもない。 「ありうるのでしょうか」と聞かれたら、「ありうる」としか答えようがないだろうね。 (83 15) 便乗して私も・・・ ここでは評判の良くない源田實氏の著作によると、搭乗員の選抜は適性試験の 結果を元に(本人の希望とは無関係に)一方的に行われた、とあります。 ただし本人に飛行機への熱烈な想いがあれば当局も考慮するのではないかとの 記述もあったように思いますので、もし質問の青年が希望するならそのように なる可能性は高いのではないかと考えます。 氏が飛行学生に任じられたのが昭和3年なので大体条件に合うと思いますが、 これは海軍の事であり、源田氏は海軍兵学校出の仕官であるという点が 質問の意図に合ってないかもしれません。 (83 24) 日本軍の部隊編制がわかるHPがあったら教えてください。 充実してるコンテンツがあるものはあまりありません・・・ 後は書籍に頼るほうがいいでしょう(手ごろなものでは新人物往来社から出ている「陸軍部隊総覧」等のもの) 強いてあげればこのシリーズスレの初期に第一総軍氏が師団の編制や歴史を簡単にまとめられていますので、参考に (84 213) 戦前の師団は、いろんな型があり、精鋭である1桁師団と300代師団ではまったく編制が違います。 支隊は、臨時に編制される諸兵科連合部隊で、 ドイツ軍や米軍が多用したような戦闘団に近いものです。 支隊は、編成部隊であり、編制部隊とは区別します。 (84 214) 最盛期の帝國陸海軍の実力は、当時の世界の軍事力と比して、如何ほどだったのでしょうか 沿岸警備レベルの海軍でなかったことは確かですが、外洋型といいきれるほどの 展開能力を有していたわけでもなく、強力な近海型海軍、といったところでしょう。 ただ正面戦力はともかく、後方支援や兵站に関してはさほどではありませんでした。 (84 247) 旧海軍は空挺部隊を保有してたのですか? Yes。 横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(堀内部隊)がそれです。 1942年1月11日にセレベス島のメナド攻略戦が最初で、次いでチモール島 クーパン攻略戦に投入されています。 (85 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 最盛期の帝國陸海軍の実力は、当時の世界の軍事力と比して、如何ほどだったのでしょうか 軍事力は、国家の総合力を基盤とした、政治的な意志を持って運用される 槍の穂先にあたる、正面装備や艦艇、組織としての陸海軍はそれなりだが 柄にあたる政治、持つ人にあたる国家は2流以下 軍事力:1流半 政治:3流 経済:2流半 つーことで、個人的に2流に決定(こんなもの主観でしか判定できん) (85 17) 旧軍は兵員輸送に馬車を使用しなかったのですか? 馬匹は、砲兵と輜重で一杯稼働してますので 馬車で兵員輸送するような余裕なんてありませんでした。 (85 103) 人間様が担ぐ荷物も勘定に入ってるんだから無理。 (85 110) まあ一部では自動車化された部隊はあったけどね・・・ (85 111) 旧日本軍の話になるのですが、軍人さんが軽機関銃などを自宅に持ち帰ることはあったのでしょうか? 戦後の話だが、陸上自衛隊が保管していた九二式重機関銃を、 映画の小道具として貸し出すことになり、 役作りのためにある俳優が自宅にまで持ち帰って、 教範通りの手入れだけでなく、磨きをかけて撮影に臨んだという。 古きよき時代というべきか。 (86 154) いっぱいありました ヤクザの抗争にもよく使われてました(拳銃だけど) 今でも田舎の蔵などから出てくることがあります (86 158) 旧日本軍に、外国人は入ることはできたのでしょうか? 陸軍の歩兵部隊とか、戦闘機部隊に混血の人はいました。 戦闘機部隊なら、来栖大尉(戦前の米国大使の息子)が有名です。 (文春文庫の未知の剣などに詳しいかと) また、日系人で日本に来て、そのまま軍隊に入った例もあります。 (87 眠い人 ◆gQikaJHtf2) そういや来栖大尉って、靖国では「迎撃戦中戦死」ってなってるけど、 ほんとは味方機のプロペラで首を飛ばされて亡くなったんだよな (87 745) 旧日本軍でのいろいろなものの呼び方が知りたいのですがどこか参考になるサイト等ありませんか? 光人社NF文庫の「戦時用語の基礎知識」とか、岩波アクティブ新書の 「戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る」とか、岩波新書「日本の軍隊」 辺りを参考になさっては? 結構安価で手に入りやすいですし。 (88 眠い人 ◆gQikaJHtf) 大日本帝國軍憲兵隊の装備って主になんだったんでしょうか? 基本的に武装は拳銃と軍刀のみです。 兵も軍刀を装備していました。 海軍では艦長および分隊長には司法警察権が与えられていましたが、 憲兵に該当する組織はなく、必要の場合には陸軍の憲兵が派遣されました。 (92 126) 旧日本軍の階級って、陸海軍の間でも絶対的だったのでしょうか? 陸海軍が違っても、階級の差は絶対。 日本の陸海軍は階級が1対1で対応しているし。 ただ、相手の階級章の意味がわからない場合も多く、 「どっちが先に敬礼するか」 でトラブルが起きることも多かった。 余談だけど、外国軍の将校にも敬礼するのが世界的なルール。 (92 136) 広島は日本最大の軍事拠点だったってホントですか? 日清戦争中は大本営が置かれていました。 (93 90) 最大というのは明らかに誇大だと思います。 しかし、太平洋戦争の最末期である1945年4月7日には、広島に第二総軍 司令部が置かれています。これは、鈴鹿山系で日本を東西に分割し、 西側にある全陸軍地上部隊を統括的に指揮する司令部でした。 また、宇品港は軍港として非常に重要な位置にありました。陸軍船舶司令部が 1942年に置かれています。 また、本土決戦になり、東京の中央政府の指揮が及ばなくなったときには、 広島に置かれていた中国地方総監府が、中国地方の行政の最高指導機関となること になっていました。 また、交通という観点から見た場合、広島には鉄道管理局も置かれていました。 てな具合です。 (93 101) WW2の旧日本軍の航空軍と飛行師団て同じ意味ですか? 違います。 時期によってかなりの違いがありますが、太平洋戦争半ば頃の陸軍航空部隊は、 上から 航空軍>飛行師団>飛行団>飛行戦隊>中隊 となっていました。 この他に独立編制の小部隊はいろいろありますし、場合によっては中間の階層 が抜けたり、細部は複雑なので、あくまで参考程度に。 大戦末期になると、航空軍の上に航空総軍を創設、また、飛行戦隊内の中隊を 廃止したりしています。 (94 345) 旧日本軍の高学歴者のための短期現役っていうのがあるけど、短期って通常はどのくらいなんですか。 短期現役士官の期間は二年間。ただし昭和17年からは昭和17年からは大卒が3ヶ月、 専門学校卒が10ヶ月の見習い士官の期間を経て士官になりました。 元々はロンドン軍縮会議後の軍事予算の削減の必要性から生まれた制度で、 海軍で主計科、機関科、軍医科に民間大学の卒業生を士官候補生として採用した物です。 この他陸軍でも、師範学校卒業者を五~七か月の短期現役兵制として採用する制度がありました。 (94 649) 予算が限られている日本陸軍が、軍事力を向上するには2つの手段があった 1 師団数を増やす 2 装備を向上する 宇垣軍縮では、師団数が減ったがその代わり4単位制から3単位制になり 師団あたりの火力は倍増した>第1総軍氏が詳しい しかし、日中戦争などにもつれ込み、師団数の拡大が行われると 金のかかる質の向上よりも、より簡単な兵力の増大に走り 気がつくとWW2の勃発とともに1.5流装備だったのが 相対的に2流になってしまった。 (94 696) 旧日本軍の最高部の役職って何つーの? 日本軍だと、一般的には天皇って答えるべきだろうな。 (94 952) 戦前の日本なら、建前上は天皇。 次に陸軍大臣、海軍大臣という役職がありました。内閣の大臣職の一つですね。 その下となると、陸軍省海軍省の中の役職になります。 大臣に次ぐ省のトップが次官で・・と以下かなりの数の役職があります。 まあ、現在に引き継がれる日本の官僚機構の特徴なのですが、 組織上の上下関係はあっても、常に明確なトップダウン式の命令系統が 機能していたわけではありません。特に昭和に入ってからの軍は この機能が大幅に乱れ、正直めちゃくちゃになった。 大臣にしても次官にしても、まわりによって「持ち上げられる」ことで就任するため、 下の者の言いなりになることがあった。集団無責任体制ですな。 (94 955) 陸軍大臣、海軍大臣は軍政のトップで 軍令側には参謀総長、軍令部総長がいてこれらは大臣(というか内閣)と独立に天皇に従属 (94 960) 古代~現代に至る軍隊の最高司令官は、基本的には国家元首です。 (皇帝、国王、天皇、大統領、共産党書記長など) で、軍には編制と装備の維持をつかさどる軍政面と、作戦をつかさどる軍令面があり、 軍政面のトップは国防省などの組織で、代表者は大臣。 軍令面のトップは陸海空各軍の総司令官ですが、これを国家元首が兼ねるため、 「制服組」としては総司令官に隷属する各軍司令官がトップとなります。 現代のアメリカ合衆国のように、参謀本部がある場合、 参謀は(軍事に素人である)大統領のために作戦を立案するという存在ですが、 彼らには命令権がないため、名目上は単なるアドバイザに近いです。 しかし、国家元首が総司令官を勤める国家において、 実質的な「軍のトップ」といえるのは、やはり参謀総長ということになるでしょう。 (94 977) 「旧日本軍の最高の役職」 ちょっと逸れますが、文字通りにとらえるなら、「天皇はすべての統治者」だったのだから 「軍の役職」などに就いていなかった、とも考えられるかも。 「最高の役職」について「形式上の最高責任者である天皇」は棚上げにして、 「実質的な意味で開戦や終戦をも決定する者」と把握するなら、 「形の上で合議を行って天皇の判断を仰ぐ御前会議」における 陸軍大臣・海軍大臣・陸軍参謀総長・海軍軍令部長(など)」 ということになるのかな? (94 979) 陸軍士官学校、海軍兵学校と陸軍大学、海軍大学は何が違うのですか? 陸士/海兵は将校を養成するための学校ですが、 陸軍・海軍大学校は将校に対して用兵に関する高等学術を教授する学校です。 その目的は高級指揮官や参謀将校の養成です。 推薦を受けた上で入学試験を受け、大尉から少佐クラスで入学しました。 (陸大本科は中尉・少尉クラス) これらの学校、特に陸大はエリート養成学校としての性格が強く、陸大卒業者は "天保銭"と呼ばれた徽章を胸に帯びていました。(1936年に廃止) 陸大での偏った教育と過剰なエリート意識が戦争指導を誤らせたとはよく言われます。 (95 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 旧日本軍は「海兵隊」と「陸戦隊」とを別物としていたのでしょうか? 海兵隊は後に鎮台兵になったワケだが。 (96 155) 明治19年11月5日の海軍陸戦隊概則によるもので、 単なる名称変更。 (96 156) 1907年に制定された帝国国防方針にロシアが1位で入ってるの何故なんでしょうか? 制定の3年前に勝利してますよね・・ まだ、その頃は復讐戦を警戒してたからな。 まあ、それに陸軍は最後まで第一仮想敵はロシア(ソ連)だし (96 418) 講和したからって戦争の危機が消え去った訳じゃないだろ。 (96 419) 制限戦争に一度勝てたからといって(勝ち逃げ講和できたからといって) 相手国の脅威が薄れる事はないので。 (96 426) 関東大震災の際、軍が朝鮮人虐殺に加わったというのは、それなりの根拠があるのでしょうか。 根拠は、あったと主張する側が示さなければなりません。 なかったという証拠は提示することは困難ですし、法廷ではあったと主張する側に 存在証明をする義務があります。 あったという証拠が無い以上、それは無かったと認識すべきです。 軍が組織的に関わった等、初耳です。また、6000人虐殺など眉唾もいい所。 北朝鮮人の主張を間に受けるほど日本人は御人好しになったのですか? (97 568) 568氏のおっしゃるとおりですが、当時の内部告発本とされている 『軍隊と赤化』という書籍には、震災時に憲兵司令官小泉六一少将が 「朝鮮人を自ら軍刀にて数回殴打し陸軍刑法の所謂陵虐罪を犯したる事実あるにもかかわらず不問に」 などという記述が出てきたりしています。 高官が震災時このような行動をとった、という言説があったという参考までに (97 571) 軍が朝鮮人を組織的に殺害していたという事実は、無いようです。 むしろ震災から数日経過した後には、朝鮮人を演習場へかくまうなど、保護 にあたっています。 しかし、間接的な責任ならば、あったといわざるを得ません。 朝鮮人殺害を行ったのは、各地の「自警団」ですが、震災直後の社会不安の 中で、治安維持のため、軍は自警団に武器を貸し与えています。 この武器が結果的に朝鮮人殺害に使われたことは、事実です。 また、軍が一旦は保護した朝鮮人を、自警団に引き渡したという例もいくつかあったようです。 自警団のメンバーには、多数の在郷軍人が含まれていたのも事実です。 甘粕事件や亀戸事件のように、軍による社会主義者・無政府主義者の殺害が あったこともまた事実です。 (97 572) 皇族が軍人になったら、士官学校くらいはフリーパスとしても、少尉から順番に出世していくの? それとも、殿下方は別格? 皇族、王族については、士官学校(海軍兵学校、陸軍士官学校)を出ています。 そこから、陸軍大学校、海軍大学校に上がるケースも多かったようです。 (98 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦前の日本では北朝鮮のように定期的に軍事パレードが行われることは無かったのですか? 演習後の操練とかそう言うもので、パレードは行なわれています。 特に学徒出陣の際の神宮外苑でのパレードは有名ですね。 (99 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本陸海軍航空隊で初めて撃墜を記録したのは誰なのでしょうか? 1932年2月22日 生田乃木次大尉(海軍) 使用機は三式艦戦。 (99 ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E) 大東亜戦争中の日本軍の将兵で”短期現役”っていうのがあったらしいですが平均でどのくらいですか? 二年。それから将兵ではなく士官だけです。正式には二年現役と言います。 徴兵された兵士にも短期現役制度がありましたが、こちらは1941年の兵役法改正時に廃止されてます。 (99 147) 「軍神」という呼称は軍の正式なもの? 神道の教えでは人間死んだらみんな神様になる? 違います。神としてお祀りする事で神になられます。 誰でも祀る様になったのは最近の事です。 近代以前は有力者や何か大事を起したりした者しかお祀りしませんでした。 それ以外の「葬儀」は神道的には“穢れ”であり、 “魂の救済”は基本的に仏法僧の縄張りです。 近代になってから帝国軍人をお祀りする専属の機関が追加されました。 神式「葬儀」なんて珍妙なものに到っては、あくまで戦後の代物なのです。 (101 名無しコミュニスト) 旧日本軍には航空軍なる組織は存在した? 陸軍にはその組織のひとつとして「航空軍」は存在しました。 また、海軍にも航空軍に相当する「航空艦隊」がありました。 (104 449) 当たり前の事ですが、海軍航空隊は海軍所属であり海軍の作戦に従事し、当然の事ながら海上での活動が主になります。 陸軍飛行隊は陸軍所属であり陸軍の作戦に従事します。 地域による住み分けと言う訳では有りません。 (104 453) 日本海軍と陸軍の航空隊の活動を調べるとその当たり混乱するんだよねぇ (104 454) 戦前の日本では基地祭や体験航海のような国民と触れ合うイベントはあったんですか? 陸軍では「軍旗祭」などの形で兵営開放が行われていました。 (105 29) 海軍に関しては、現在も行なわれていますが、天皇陛下ご臨席の大演習の後の 観艦式で、その偉容を国民に見せるようにしていました。 うちの祖母も昭和5年の観艦式で長門だかに乗っています。 (105 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 陸軍士官学校、海軍兵学校の卒業生は何人なんでしょうか?また、陸大、海大の定員は? そして、その卒業生から将官になるのは、年に何人ぐらいだったんでしょうか? 入学者数のデータは入手できなかった。逆に卒業者数から類推してほしい。 まあ定員はないに等しいように見受けられる。 陸士の場合(ソース:「日本陸軍がよくわかる事典」PHP) 士官生徒時代(明10~22)、1期117名。最少6期(明16)59名・最多11期(明22)207名。 士官候補生時代 1期(明23)147名、5期(明27)200人突破、 9期(明30)650人に急増、以後600~700人で推移。 18・19期(明38・40)それぞれ920名、1068名とピーク。翌年は反動で276名に激減。 22期(明43)以後700人前半で推移、29期(大6)536名に激減、以後200~400人で推移。 53期(昭15)1719名に激増、以後2200名程度で推移。57期(昭19)2413名。 海兵の場合(ソース:参拾壱頁) 1期(明6)2名、以後、平均的に30名未満で推移。 27期(明32)113名、初めて100人突破。 30期(明35)188名に急増。32期(明37)192名、ピーク。以後100名前後で推移。 50期(大12)255名・51期(大3)236名と例外的に突出、翌年反動で60名強。 55期(昭2)以後120名強で推移。 66期(昭13)200人突破、以後激増、73期(昭19)898名。 (107 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 544補足。 海軍大学校は明治21年に甲号生徒9名を送り出し、25年までは平均9名(23年のみ2名)、 27年に将校科となって、5~8名、明治31年以降は甲種となって33年まで一桁台となり、 日露戦争時は一時途絶えますが、35年に一挙に44名が卒業し、再び39年まで卒業が途絶え、 以降は20名~30名で推移します。 以後昭和13年に30名、15年に27名となり、最後が18年の25名です。 一方の陸軍大学校は、明治18年に10名を卒業させ、以後は明治31年まで10~20名で推移します。 明治32年に一挙に40名前後に拡充し、同じく日露戦争の2年間は卒業生を輩出せず、明治42年に55名 に拡充されます。 以後、50~70名前後で推移し、昭和に入ると50名前後となります。 昭和13年、16年は年に2回卒業生を輩出し、昭和16年以後は毎回70名以上が卒業していきます。 更に昭和19年には年3回卒業生を輩出し、毎回100名近くが卒業しています。 最後が昭和20年8月卒業の120名でした。 (107 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧日本軍の軍、方面軍、総軍はミリタリーシンボルではどうなるんでしょうか? 師団がXX、軍団がXXXといったミリタリーシンボルはNATO式といって、 こういった表記は国や時期によって異なります。 (旧日本軍やドイツ、ソ連などは旗印を用いたりしています) ちなみに戦史資料などでNATO式を用いる場合、方面軍はXXXXX、総軍はXXXXXXです。 もっとも実際には方面軍は英米連合軍の軍(XXXX)、総軍が軍集団(XXXXX)に相当するレベルです。 (108 311) 大阪の部隊は弱いって本当ですか?歌にまでなったって聞きましたが。 まあ強いか弱いかなんて一概には言えないが。 大阪では戦前から”商売>>>・・>兵役”という考えが強く 兵役後に軍に留まる人の割合が全国で最も少なかったとのこと。 一方、明治期に脚気による兵の大量死が問題と成った時に 初めて麦飯を取り入れたのが大阪師団(鎮台だったかも)で 発病率を一桁下げることに成功していたりする。 (中央からは蹴られたが) (109 488) 明治期の軍人恩給って大体いくら位ですか? う~ん、資料を探したのですが、昭和期のものしか見つからず。 △普通恩給 … 一定年限に達して退職した軍人と准軍人に賜る一般的な恩給。 准士官以上は在職13年以上14年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。 14年以上は、1年増す毎に退職前の棒給年額の150分の1に相当する金額を加算。 下士官以下は、在職12年以上13年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。 13年以上は、1年増す毎に下士官は7円、兵は6円を加算。 △増加恩給 … 公務中に傷病を受け、不具廃疾となった場合に軍人、准軍人に加算。 なお、准軍人とは、陸軍の見習士官、海軍の海軍候補生など。 △傷病年金 … 公務中に永続性の傷痍、疾病罹患により、不具廃疾に至らなくとも、これが原因で3年以内に退職 した者、または下士官以下退職後3年以内にこれがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。 △傷病賜金 … 下士官以下公傷、病にて傷病年金を受ける程度でなくても、これが為退職、または退職後1年以内に これがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。 支給額は最大660円、最低120円で16項目に区分される。 △一時恩給 … 在職准士官以下3年、下士官2年以上で恩給を受ける年限に達せずして退職した者に支給され、金額 は退職当時の棒給月額に在職数を乗じた額。 △扶助料 … 戦闘または戦闘に準ずべき公務で死亡した者の遺族には、普通恩給の金額、普通公務にて死亡した者 の遺族には、普通恩給の10分の8、その他は10分の5を支給。 △一時扶助料 … 在職3年以上で恩給を受ける年限に達せずして在職中死亡した者の遺族に支給され、支給基準は一時 恩給と同様。 ちなみに1943年当時の士官、准士官の年棒は以下の通り。 大将:6600円、中将:5800円、少将5000円 大佐:4150円、中佐:3220円、少佐:2330円 大尉:一等(海軍は一級以下同じ):1900円、二等:1650円、三等1470円 陸軍軍楽大尉:一等:2150円、二等:1900円、三等:1750円 海軍特務大尉:一級:2070円、二級:1191円 中尉:一等(海軍は一級以下同じ)1130円、二等:1020円 陸軍軍楽中尉:一等:1540円、二等:1390円 海軍特務中尉:一級:1740円、二級:1630円 少尉:850円 陸軍軍楽少尉:一等:1240円、二等:1130円 海軍特務少尉:一級:1470円、二級:1368円 海軍各科少尉候補生:670 准士官(陸軍):一等960円、二等:900円 准士官(海軍):一級:1220円、二級:1150円、三級:1043円、四級:930円 (109 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争時の日本軍兵士の数はどれくらいですか? 太平洋戦争勃発時の動員兵力は全体で60個師団220万人(糧食250万人分)、このうち南方作戦に投入したのは、 僅か13個師団30万人(糧食40万人分)。 残りは、満州に24個師団120万人、中国に30個師団65万人に張り付いていた。 以降は以下の通り。 内地 中国 満州 南方 1942年度末 50万人 68万人 70万人 50万人 1943年度末 70万人 68万人 60万人 92万人 1944年度末 121万人 80万人 46万人 163万人 1945年度末 278万人 120万人 78万人 164万人 (110 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧軍の軍人が武官として海外の大使館付になっていましたが、 外務省と同じようにエリートコースの人は英米などの列強国、傍系の人はそれほどでもない国、と言った感じだったんでしょうか? そのとおり。 陸軍なら独仏、海軍なら英米大使館附が成績優秀者の勤務先。 (110 352) 旧日本陸・海軍のトップは陸軍参謀総長・海軍軍令部総長? それとも陸・海軍大臣?(天皇は除きます) 格で言えば、親任官の陸海軍大臣のほうが 勅任官の参謀総長・軍令部総長よりも上。 (110 697) 最高司令官である天皇を除くと、軍令の最高責任者は参謀総長および軍令部総長、 軍政の最高責任者は陸海軍大臣ということになります。 (110 698) 大日本帝国憲法では大臣は皆同じ地位です (110 714) 大日本帝国の内閣総理大臣は、大統領制下の首相みたいなもんで 現在の象徴天皇下の首相とは別物でした 陸海軍の軍事権については、統帥権を持つ大元帥の専有物であり、まったく干渉できません 陸海大臣現役武官制がとられた後には軍の意向で内閣不一致がおこり、内閣が潰れることもしばしばありました (110 716) 本来は、明治22年の内閣官制で、 「事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルゝノ件ヲ 除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」 となっており、統帥事項に関するもののみ奏上するもので、軍政事項は内閣総理大臣 への報告を行なわなければなりませんでしたが、統帥事項の範囲を拡大して解釈したり、 内閣官制に書かれた規程を無視することも珍しくありませんでした。 ちなみに、内閣総理大臣は各大臣の首班として、旨を承けて、行政各部の統一を保持するもの と定められ、内閣に於いては同輩者中の第一人者たる地位が認められたに過ぎません。 従って、各大臣への命令を行なう権限はなく、施政の大本の方針を定めてこれを閣員に示し、 閣員間に衝突があるときはその調和を図り、各省主任の事務にしても、 内閣全体の方針に矛盾の無いよう警告するなどの任務を有するのみです。 (110 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 参謀と幕僚と司令部付の違いがわかりません 参謀、幕僚、司令部付 まず、司令部付きから。 人事管理上、司令部に所属しているということ。 実際、何をしているかは場合による。 臨時配属の幕僚、指揮官の代理、部隊等の損耗の補充要員、部外への研修・派遣等。 「参謀」と「幕僚」 旧軍の語において、参謀と幕僚を使い分ける場合、参謀は指揮・情報等、 作戦に直接関わる分野に携わる者、幕僚は庶務業務等の実施者と使い分けた。 自衛隊では、すべて「幕僚」と呼び、「参謀」は使用していない。 (110 652) 司令部で庶務・秘書などの業務を担当するのは「副官」です。 旧日本陸軍では「参謀」と「副官」を合わせて「幕僚」と呼びました。 (110 見習士官) 旧軍では問題を起こしてやめさせられる事を、懲戒免職と呼んだのでしょうか? 普通に考えれば予備役編入でしょうな。 しかし、本当の不始末なら「机に拳銃が置いてある」が正解かも。 (111 536) 軍人としての身分を完全に剥奪されることはなかったのですか? 何か細かいことをいろいろと知りたそうだから 取り敢えず「陸軍刑法」でもググりなさい (111 538) WW1の英軍には野戦処罰No1なんてのがあったな。 敵の砲弾の射程内にある固定物に縛り付けるらしい。怖・・・ (111 539) そりゃ、「免官」という例もあるだろうけど、「不始末」の中身にもよるよね。 無能じゃ普通は免官に出来ないだろ。 (111 540) 陸軍刑法で規定されてるのは刑事罰だけじゃなかったっけ? (111 541) ほんとに知りたかったら刑法だけじゃなく関連規則も調べるだろう (111 542) 不名誉除隊という言い方もある (111 547) 547さんのおっしゃるとおり、米軍の場合は非常に重大な問題を起こした兵士は、 不名誉除隊となります。これは自衛隊における懲戒免職にほぼ相当します。 より軽い刑として名誉除隊もあります。 (111 551) 日本に優秀な狙撃兵はいたのでしょうか。 狙撃銃はありましたし、狙撃をもって敵兵に恐れられた事例はあります。 ただし、現代一般的に認識されている(あるいは大戦時のドイツ、ロシア、フィンランド) ような狙撃兵としての事例とは微妙に違います。 狙撃兵個人の名が敵にまで知られ、恐れられるような事はありませんでした。 (112 188) 38式は狙撃銃なみに良く当たる。 (112 セイラ・マス・大山 ◆q.I9V7ewls) 大日本帝国時代の軍医の位置づけはどんなものなのでしょうか? 陸軍の場合、軍医は衛生部に属しています。 衛生部というのは、医者、薬剤師、歯科医などが属しており、獣医は獣医部に属しています。 彼等は、兵科には属していませんので、尉官以上は将校担当官と呼ばれます。 大学卒は、二等軍医または二等薬剤官、専門学校卒は三等軍医または三等薬剤官に任官します。 この将校担当官になる人は、大学医学部、医学専門学校、大学薬学科、薬学専門学校卒業生を見習医官、 見習薬剤官に採用し、陸軍軍医学校で教育します。 (あくまでも卒業生の教育であって、この段階では軍が医師を養成する訳ではありません) 陸軍軍医学校は、軍陣医学、薬学、看護に関しての教育を行なうもので、甲種は乙種修了の大中尉に一年、 乙種は初任中少尉(大学、専門学校卒の医師、薬剤師)に一年、丙種は少尉候補者(看護)に一年、 丁種は下士官(看護)に三ヶ月、他に幹部候補生対象の11ヶ月の教育がありました。 歯科医は、1940年に新設されたものです。 また、1933年には軍医候補生というのが新設され、医師免許のある志願者を軍医候補生として、 一ヶ月歩兵連隊と陸軍病院で教育し、大学卒は二等軍医に任じ、二年間現役、後予備役とする制度です。 1937年には軍部隊の拡大に伴い、医師が不足した為、医師免許を持つ者は強制的に軍医予備員とし (軍医予備員を志願しなければ、応召では一兵卒として扱われます)、短期教育で、 予備役衛生軍曹、召集で部隊編入時に、予備役見習士官としています。 太平洋戦争中は、前線に医師が払底した為、本来は軍医の召集年限を上げたかったのですが、 それでは苦しいことがバレバレだからというので、全兵科の召集年限を上げたりしています。 海軍は、官制としては、軍医科、薬剤科(後に歯科医科、看護科が追加となる)からなっています。 陸軍と違うのは、軍医科は士官のみであること、大学、専門学校卒の志願者から選び、 大学卒は中尉に、専門学校卒は少尉に任ぜられます(1942年以降は二ヶ月の見習尉官を経ます)。 予備役将校担当官というものはなく、短期現役士官制度、現役士官制度という制度を1924年作り、 二年現役後、予備役に編入されます。 海軍の軍医学校は、医師、薬剤師資格を持つ者が対象で、高等科学生(大尉に一年)、 普通科学生(新任尉官に六ヶ月)、選科、専修学生(看護兵曹長で特務士官要員)の制度がありました。 ちなみに、医者になるのは、初等教育(6年)、中学校(5年)あるいは高等女学校(5年)を出た後、 高等学校あるいは大学予科(3年)から大学(3年)に進んで医者になる場合と、 中学校、高等女学校卒業後、専門学校(3年以上)を卒業して医者になる場合がありました。 専門学校は昭和の初めには、東京、岩手、九州、昭和、東京女子、大阪高等、 大阪女子高等の各医学専門学校の他、日大専門部医科、帝国女子医学薬学専門学校がありました。 1939年以降は軍医不足になった為、全帝国大学医学部と医科大学に臨時付属医学専門部が併設され、 単独校として、官立の樺太、青森、前橋、松本、米子、秋田県立、徳島県立、和歌山県立、奈良県立、広島県立、 県立鹿児島、山梨県立、三重県立、兵庫県立、山口県立、横浜市立、大阪市立、名古屋市立女子、福島県立女子、 岐阜県立女子、私立順天堂の医学専門学校と、官立東京、福岡県立の医学歯学専門学校が設けられました。 これらは、戦後、順次大学になっています。 歯科医は全て専門学校で養成され、大学教育としては行なっていません。 修業年限は3~4年。 官立は東京高等歯科医学校(前述の東京医学歯学専門学校)のみで、私立として、日大専門部歯科、日本、 東京、大阪、九州(これは前述の福岡県立となる)、東洋女子、 日本女子に各歯科医学専門学校が設けられています。 (115 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦中は軍にも車の車校とかあって、免許とかもいったの? 1935年前後、大学卒の初任給が60円前後、対して自動車の価格は、 キャデラック・フリートウッドが35,000円、リンカーン・ゼファーが9,000円、シヴォレーが4,000円、 ダットサンが2,100円でしたから、自家用の免許を持った人はあまりおらず、殆どが職業運転士でした。 で、今、手元にあるのが、KKKのバス事業の資料しかないのですが、 まず、運転士になりたい人は、会社に入って、現役運転士の補助になります。 この現役運転士がお師匠となり、補助に付くと、その一挙手一投足を目で盗み、 庫内で自習をします。 いい人に当たると、結構手取り足取り教えてくれた人も居たようですが。 そんなこんなで数ヶ月すると、路上教習になります。 で、これにお師匠と試験官が付いて、路上に出て一通りの運転動作をした上、 問題が発生しなければ、運転免許証が発行されます。 後で資料が出てきたらまた書き込みますが、軍でもほぼ同じ育成課程を経ていたかと思います。 (118 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本軍では航空機パイロットよりも自動車ドライバーのほうが稀少だったそうな (118 31) 実際に運転された人の話が一番ですよ…。 軍用のは、ちょっと今掘り出せない(戦車の資料はいっぱいあるんですがね)ですが、 民間用のは、地方出版物のもので、例えば、「房総の乗合自動車」とかそう言うものがあります。 内務省が自動車運転に関する規制を考え始めたのは、 大正8年に内務省警保局・土木局が連名で出した自動車取締令によるものです。 これを基に、各府県は自動車取締細則を定めて運用します。 ちなみに、軍事とは離れますが、大正12~13年の千葉に於ける一年間の交通事故件数は61件、 歩行者の死者3名、負傷者41名、従業員の負傷者1名、その他13名で、 事故を起こした運転士61名のうち、15名は無免許です。 運転手の養成所はありましたが、数が足りず、免許取得の運転手の添乗の下、 助手が無免許でハンドルを握らせています。 流石にこの状態は不味いので、大正15年に自動車取締令施行細則が改訂され、 業務用(乗合、貨物)と自家用とナンバープレートが色分けされ、 そのナンバーも外せない構造となります。 また、戦前から昭和20年代に掛けては、自動車運転免許状を交付される人と言うのは 大型乗用車、乗合自動車、自動貨車とそれに準ずる車輌くらいなもので、 排気量500cc以下の小型乗用車、オート三輪には免許が不要でした。 余談ですが、うちの母親は昭和30年に免許を取ったのですが、 従兄弟のルノー4CVで路上教習を受けて、試験に臨み、受かったらしいです。 (119 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ちと訂正しておきます。 無試験免許(今日の原付免許と違い、学科試験も無しの文字通り単なる許可証)を 無免許としている資料(当時のものも含む)が非常に多いのですが、免許証そのものは必要です。 最寄の警察署で1時間程度の手続きで(地域差あり。手数料は手元に資料がありません)交付されます。 その適用対象である小型自動車の区分は 大正13年~昭和5年 360cc以下 ~昭和9年 500cc以下 ~昭和11年 750cc以下(2サイクルは500cc以下) 昭和12年以降~ 廃止 となっていました。 (119 30) 余談ですが、戦前すでに運転免許を取得するための自動車教習所は存在しました。 東京では荻窪あたりにダットサン専門の教習所があったそうで、 戦後まもなく教習を受けに行った人によると、1~2回横に乗せた程度で あとは適当に練習しろといわれたそうな。 それでも卒業免状を交付してもらったので鮫州の試験所に試験を受けにいくと 実地試験を免除されて法規試験のみを受けたそうです。 ところがこの試験たるや、前の方に居た2~3人に適当に口頭で質問をして それのみで全員が合格とされたとか。 (自動車ジャーナリスト小林彰太郎の自伝より) (119 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 旧軍の伍長って下士官じゃないんですか? 旧軍の場合は、伍長ってのは、兵の中の「まとめ役の兵」じゃなかったか? 確か、旧軍の場合、「兵隊」というと「伍長以下」を指した。 (118 414) 旧日本軍の軍医に関してですが、階級はどの位だったのですか? 軍医になる方法はいくつかありますが、いずれにせよ、 民間の学校で医学教育を受けた者を軍医として採用していました。 大学の医学部卒業生は中尉、専門学校(旧制)卒業者は少尉から軍歴をスタートさせることになります。 志願の他に、招集の場合もありました。 戦前の日本には徴兵制度がありましたが、学生の場合は徴兵が延期されるので、 卒業後に招集を受け、軍医として約2年勤務するわけです。 この場合、本人の希望次第では、永続勤務も可能でした。 また、卒業後、軍医として勤務するという条件で、軍が学資を出し、 医大などに志願者を通学させる制度もありました。 軍医の最高階級は、中将でした。 中将~少尉という名称を使わなかった時代もあります。 森鴎外は、陸軍軍医総監まで上り詰めていますが、 これは当時の軍制で中将に相当した軍医の階級です。 (111 733) 将校扱いなのですね。下士官レベルから始まると思っていました。 あの再度の質問で恐縮ですが、軍医中尉と衛生中尉は全然違いますよね? 軍医中尉と衛生中尉は別物です。 衛生○○っていうのは、基本的に累進した衛生兵(海軍は看護兵)です。 医師と看護師みたいなもの。 あと、軍医は将校相当官で、兵科(戦闘職域)将校より一段下に見られていました。 たとえば、部隊(または艦艇)の指揮官が次々倒れ、 軍医中佐と少尉の2人だけが生き残った場合、少尉の方が指揮官になります。 さすがにこれはまずかろうということで、陸軍は昭和15年からこの制度を改めましたが、 細かな区別は終戦までそのままでした。 (111 737) 軍医は非戦闘員(?)ということを聞いたことがあるのですが、という事は丸腰だったのでしょうか? 軍刀や拳銃は携帯してました (111 740) 軍刀は持ってますよ。格好が付かないから(w 国際法上、衛生要員が、護身用の武器を所持することは認められています。 (111 741) 軍人としての身分を完全に剥奪されることはなかったのですか? 何か細かいことをいろいろと知りたそうだから 取り敢えず「陸軍刑法」でもググりなさい (111 538) 日本軍ってまだいるんですか? 旧日本軍は第二次世界大戦の敗戦と共に解散しました。 日本国は憲法9条の都合上、軍隊と自称する組織は現在のところ保有しておりません。 その代わりに、自衛隊と言う組織を保有しております。 同様に「軍隊」がありませんので「軍艦」も現在の日本にはありません。 海上自衛隊が保有している水上戦闘艦は原則として全て「護衛艦」と呼ばれます。 むろん、これらは日本国内の政治的都合のみによる話で、 他所の国の皆様から見れば自衛隊だろうが護衛艦だろうが、 軍隊であり軍艦であると判断されるのは致し方の無いことでしょう。 (113 473) 大日本帝国において部落出身者への士官学校、兵学校入学時における差別、昇進における差別はあったのでしょうか? 県教委から文化財保護委員を委嘱されてる郷土研究の長老いわく 新平民に陸士・海兵の受験資格はなかった、とのこと。 兵・下士官の実態は聞いていないので不明。 (114 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 戦前の日本で、軍と警察のエリートコースを教えて下さい。 陸軍の場合 幼年学校で銀時計→陸士で軍刀→陸大で天保銭→中央 (116 192) 警察のエリートコースというものは存在しない。 あえて言えば高校卒→帝大卒恩賜→内務省入省であるが、 このあとは地方自治体の役人やったり、警察署長やったりして、 ある程度の年になれば知事になったり、警視総監になったりする。 警察畑のみ歩むようなことはない。 つまり、きのうまで知事だったのが、人事異動で今日は警視総監となる。 (116 199) 日本帝国軍に、ナチスドイツの武装SS外国人義勇兵部隊のような「非主流民族で構成されたエリート親衛部隊」 的なものはあったのでしょうか? ありません。「独立」させた旧植民地において現地人による軍を編成した例(インドネシアや ビルマなど)、植民地からの志願兵を受け入れ後には徴兵した例(朝鮮・台湾)はありますが、 管見の限りそのようなタイプの部隊が編成されたことはないはずです。 (117 209) 川島威伸率いる台湾の高砂族部隊があったはず。 近衛ではないけど。 (117 211) 「非主流民族で構成されたエリート親衛部隊」 なんて物は無い。 ノルトラントやヴィーキング師団等はあくまでも主流民族であるアーリア系民族として構成された訳で それ以外の義勇SS師団はエリート扱いされた事も無い。 (117 214) インド義勇軍は日独双方に居た。 (117 215) インド義勇軍は、インド国民軍と言ってボーズ首席のインド国民政府の軍隊。 李登輝総統は、学徒兵から士官になられたのです。士官学校出の朝鮮系の将官もおられたはず。 (117 216) 朝鮮戦争時、韓国軍の指揮官には士官学校でが多かった。白大将も士官学校出 (117 217) 旧軍にもドイツみたいな「肉弾戦車撃破記章」とか「歩兵突撃記章」のような勲等はあったのですか? 日本陸軍に於いて、軍人も受けることが出来る勲等は、 大勲位菊花章頸飾から勲八等宝冠章まであります。 このほかに、軍人のみが授与される功一級~七級までを金鵄勲章と言います。 将官は功一級~三級、佐官は功二級~四級、尉官は功三級~五級、准士官は 功四~六級、下士官は功五級~六級、兵は功六級~七級が授けられます。 これらには終身年金も付いていました(1941年には一時金となる)。 これら金鵄勲章は、武功抜群の陸海軍将兵と軍属に賜るもので、ドイツ軍の様な 戦車を破壊したから功績章を授与するとかそう言う正確のものではありません。 また、記章類としては、従軍或いは戦役、事変に関係した軍人、軍属、 民間人に拝受される従軍記章、皇室、国家の典儀、大事業を記念すべき表章として 制定された、記念章があるだけです。 (120 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 眠い人さんの補足として、以前の回答から追記の上転載。 金鵄勲章は昭和17年以降、戦死者でなければ授与されない勲章になってしまいました。 このため海軍では、生存者を対象に前線の航空艦隊司令長官や艦長の裁量により、 司令賞の授与や特別善行賞一線付与などが行われました。 また、逐次感状(表彰状)や短刀の授与も行われています。 感状の授与は陸海軍感状授与規程に基づいて行われました。 ただし、これらには記章等は与えられていません。 陸軍では感状の他には昭和19年に陸軍武功徽章(甲・乙)が制定され、金鵄勲章に匹敵する 生存者授章勲章として軍司令官以上の高級司令官によって授与されました。 武功徽章は楯を縦横に重ねて十字形にしたデザインで、中央に「武功」の文字が書かれています。 甲章は個人の武勲に対して、乙章は部隊の武勲に対して授与されたものでした。 海軍には同様の勲章は存在せず、陸軍のみの独自の勲章でした。 (120 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE 戦前の日本陸軍と海軍は「仲が良かった」具体的事例は何かあるのかい? 海上護衛をなかなかやってくれない軍令部に対して陸軍が文句を言ってくれたおかげで、対応が改善した。 そのせいか「海上護衛戦」では陸軍の悪口がほとんど出てこない。 (121 166) そんなのが海軍全体と陸軍全体の共同が上手く行ってた証拠になるんだったら、 世の中に仲の悪い組織関係は存在しないと思われ そのせいか「海上護衛戦」では陸軍の悪口がほとんど出てこない。 (121 176) 日本軍はいろんな無線を傍受されて、暗号も解読され、待ち伏せされたりかなり情報戦に弱かったのでしょうか。 日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争(リチャード・オルドリッチ/著 光文社)によると 日本軍のシンガポール、香港侵攻は英軍の暗号解読によって使用部隊から開戦日時まですべて 明らかになっていたにも拘らず、日本軍は英軍を打ち破っている まぁ暗号解読だけじゃ戦争には勝てないってことだな (122 93) 旧日本軍に電信兵というのはいたのでしょうか? もし、あったのであればどういう兵科だったのでしょうか? あった。通常なら歩兵 (122 958) 日本陸軍の場合、通信兵種は工兵科に属します。 通信兵は歩兵旅団に通信隊として配属されるほか、 師団の工兵大隊内部に電信聯隊という独立した部隊としてもありました。 更に敗戦までに、工兵隊の膨張に伴い、通信隊司令部、電信聯隊、独立有線中隊、特殊無線隊、 超短波無線中隊、固定通信隊が出来、船舶輸送司令部配下には船舶通信聯隊も作られています。 また、陸軍通信学校では、軍用通信の教育と軍用鳩の育成を行います。 甲種は中少佐大尉に三ヶ月、乙種は大中尉に八ヶ月、丙種は尉官に八ヶ月、 丁種は下士官に八ヶ月の教育を行い、特種学生は尉官に暗号教育を三ヶ月、 鳩学生は尉官下士官に二~四ヶ月の教育を行います。 このほか、陸軍少年通信兵学校というのもあり、通信関係現役下士官(少年通信兵)養成の 二年制の学校で、1941年に設置されました。 卒業後、兵長として一年隊付きの後、伍長になります。 日本海軍ならば、通信兵種は、兵科に属します。 元々、水雷兵種に属していたもので、教育課程は、1930年に分離独立しています。 高等科は大中尉に一年、普通科は中少尉に四~六ヶ月、特修科は佐尉官、兵曹長、 上等兵曹に四~六ヶ月、専攻科は高等科卒に一年の教育を行なうものです。 (122 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧日本陸海軍の高級士官、少将以上で最年少記録は何歳でしょうか? 鳥尾小弥太は25歳くらいでいきなり少将に任官されてる。 少尉からこつこつ昇進した人間の中での最年少将官なら皇族の誰かだろう。 終戦時の最年少将官は春仁王あたりかな? (123 208) 秩父宮が陸軍少将に任官したのが昭和20年3月で42歳。 大体ここらへんでないの? (123 209) 伏見宮博恭王(元帥海軍大将)の海軍少将任官は38歳のとき。 ただし宮様は海軍兵学校卒業じゃないけど。 まあ、ダントツは大正天皇の陸海軍少将任官(19歳)だな(w (123 210) 昭和天皇は18で陸海軍少将になってるが。 (123 215) 戦前の、いわゆる平時に旧日本軍はどのぐらいの規模だったのでしょうか? 支那事変直前の陸軍は常備17個師団 うち、朝鮮軍に師団2 台湾軍に歩兵連隊2 支那駐屯軍に旅団1 関東軍に師団4と独立守備隊が5 内地に11個師団 (126 802) その頃の陸軍師団や旅団は、どのぐらいの規模なのでしょうか? 師団は二個の旅団からなり旅団は二個の連隊からなり、人員は2万人程度。 独立混成旅団は四個の独立歩兵大隊を主力とし、諸兵連合で1万人程度。 で、平時編制だと定員満たしてない部隊も多いから。 (126 807) 802に追加 関東軍には独立混成第一旅団及び独立混成第十一旅団があったね。 後、騎兵集団(騎兵旅団3)もあった。 支那駐屯歩兵旅団は約5700 (126 809) 平時編制の師団は1万くらい。だから陸軍トータル23,4万>平時 (126 816) 1930年で陸軍25万、海軍5万。 1931年で陸軍23万、海軍78,430。 1932年、陸軍30万、海軍83,822。 1933年、陸軍35万、海軍88,968。 1934年、陸軍35万、海軍97,069。 1935年、陸軍35万、海軍98,896。 1936年、陸軍40万、海軍107,461。 ちなみに、現役徴集率(その年の徴兵検査を受検した適齢者で、現役兵として 実際に入営した者の割合)は、1933年で20.1%。 1938年は46.9%となっている。 (126 眠い人 ◆gQikaJHtf2) よく旧日本軍の餓死の話を聞きますが、人間は水と塩があれば1月は生きるし周りは全部海でしょ。なんで海水飲まないんですか? 海水の塩分濃度は、人間の血液よりもかなり高いので、体内の塩分濃度を下げるために、 更に大量の水が必要になる。 結局、海水を飲んだところで、食糧事情はいっこうに好転しない。 (369 103) せっかく日本人は刺身を食べられるのに、魚を釣らなかったの? 魚を獲ったり釣ったりした人は沢山いた。 でも、日本とは全然生息してる魚の種類が違うので、どれが食べられる魚 なのかよく分からず、毒のある魚に当たって死ぬ人が続出した。 また昼間海に出るとよく通りすがりの米軍機に銃撃されることになった。 手榴弾や砲弾を使ったバクダン漁(水中に爆発物を投げ込んで爆圧で気絶 して浮いてくる魚を捕まえる)も熱心に行われたが、やっぱり「食べていい 魚と駄目な魚」の区別がよくつかず、やっぱり当たって死ぬ人が続出した。 とある人の手記で、たった一つ残った手榴弾を巡って 「バクダン漁をするか自爆自決用に温存するか」 で揉めて殺し合いになった、という何とも言えない話が。 (369 119) 何故、大日本帝國では、陸軍省と海軍省で国防関連の省庁が二つに分かれて存在していたのでしょうか? 今の日本みたいに、防衛省で一つに統合した方が、いろいろな面で効率的だと思うのですが。 昔は兵部省っていう現代の国防省みたいな役所だったんだが、長州と薩摩の派閥争い によって陸軍省と海軍省に分離した。 ちなみに当時は、陸軍と海軍は別々に大臣を持つのが世界的にもトレンディではあった。 (491 466) 旧軍の参謀ってのは、何をする人なんですか? ガ島で川口少将が辻参謀の意見で解任されてますけど、辻参謀は中佐ですよね。 階級とは関係なく作戦や人事を行う偉い人って認識でいいですか? 川口少将は現場の指揮官。 対して辻は大本営から派遣されて作戦を監督する立場にある。 つまり地方の支店長と社長の意向を受けて派遣された本社社員の違い。 辻は川口少将の指揮下にある訳ではないので、この場合階級より権限の違いが重要という訳。 (498 458) 軍司令官 │└──軍参謀 ←参謀は、部隊の指揮系統「ライン」からは外れてる「スタッフ」の一種。 師団長 軍とか師団とかの各レベルのライン上指揮官を、作戦立案面で補佐。 │└──師団参謀 つまり、命令権限や人事権限を直接には持たない。いわば相談役。 連隊長 │ 大隊長 ←こういうふうに縦に並んで指揮系統の一部になってるのが「ライン」 │ 兵隊 上のようなのが本来の区分なんだが、実際の日本軍では参謀が作戦の実権を握り、 部隊長名義で勝手に命令出しまくりという事態が多発した。 (他方、部隊長は具体的指示をしないでどっしり構えるのが美徳とする傾向もあったらしい。) しかも、現地指導のために、上級司令部から 458みたいにして派遣されてきた参謀の場合、 特に無茶苦茶をやる傾向があったようで。 関東軍からノモンハンへ派遣された辻参謀(少佐)は、将軍クラスのいる師団司令部を牛耳った。 (498 466) 日本軍は、上官の命令に従って行ったことに対しては部下は責任を問われないと聞きましたが それなら、なぜ2.26事件の決起に参加させられた下士官や兵は「おまいら死んで来い」とばかりに 中国戦線などの激戦地に飛ばされてしまったのですか? どこの国でも建前と本音というのはありますが、日本の場合は一度失敗をしたものは一族郎党皆殺しっていう雰囲気があって・・ 特に軍隊ではたとえ上官の命令といえども、軍全体の意向に反したものは基本的に死刑もしくは自決もしくは玉砕を強要される。 漫画家の水木しげる氏は戦時中にニューブリテン島バイエンに上陸したが、支隊長が玉砕命令を出してほとんどが玉砕、わずかに生き残った将校は自決、 兵や下士官は次回の戦闘で先頭に立って玉砕を強要された(が、戦闘がなくて助かった)。 要は日本軍の場合は「失敗もしくは命令に反したものは氏ね」ということ。まあ例外もわずかにあるが。 ただし、参謀に限っては建前上何の権限もなく、責任も問われないことになっていると聞いたが。 辻政信はノモンハンで失敗しても返り咲いている。この経緯についてはよくわからんので識者レスきぼんぬ。 (503 308) 辻ーんのノモンハンでの失敗後の処遇に関する磯谷廉介中将(当時関東軍参謀長)の述懐を引用すると、 「ノモンハン事件に対して、辻参謀の言動が大きな影響を及ぼしたことは事実である。 しかし、作戦指導の大綱は、副長以上が決済したものであって、責任は一少佐に過ぎない 辻参謀にあったのではなく、特に軍参謀長と軍司令官が負わなければならないものであった」 (「悪魔的作戦参謀 辻正信」光人社NF文庫 生出 寿 より) ということになります。 そこには幕僚の独断専行を追認して責任は自分で被るのが立派な将軍という思想が あったように思われます。 実際に植田謙吉関東軍司令官と磯谷参謀長は予備役に編入されています。 辻ーんが復権できたのは、服部卓四郎参謀本部作戦課長の引きがあったのと、 当時辻ーんは独自に南方作戦に関する研究を行っていたので、それが東條英機の 目に留まって、いわば「南方通」と思われていたという事情があったり。 (503 316 名前:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) WW2の時の日本軍がブルドーザーとか持ってなかったって本当ですか? 当時の日本の重機の普及状況ってどんな感じなんでしょう?ドーザーないならショベルとかダンプもなし? ブルドーザーが開発されたのは1923年。 しかも当初はタイヤ型で、現在と同じキャタピラ型になったのはかなり後です。 意外に思うかもしれませんが、1940年代においては超ハイテク機器だったわけですよ。 まだまだ世間に普及してるものじゃなかったんです。 (360 23) 国産初のブルドーザーは昭和18年、小松製作所が陸・海軍それぞれの発注に対して生産している。 遅きに失しているとも言えるけど、持っていなかったわけではない。 ショベルやダンプ、トラクターはそれより前に国産が生まれているが、 昭和初期は雇用確保の為に「なんでも人力」の時代で、普及ははかばかしくなかったとか。 (360 24) 償勤兵ってなんですか? 自衛隊にもあるんでしょうか? もともとは旧軍時代から使われてた言葉で、 陸軍刑務所から出た後に徴兵期間が残ってると、償勤扱いになった。 あと、自衛隊にもある。 ショーキン=償勤隊員。 刑務所勤務(服役とは言わない)中は無給となり、 本来の給与の30%にあたる額を国庫に納めなければならない。 これが納めきれない場合は、下番後(出所とはいわない)、働いて返すことになっている。 (512 683) 兵隊が占領地で個人的に何か物を買おうとした場合それは軍票で買うと思うのですが 駐屯地で日本円で給料をもらい、それを軍票に両替するのですか それとも、最初は銀行振込で駐屯地で引きおろすときに軍票で引き出すのですか 戦争中だと、補給によってはお金すら配達できない地域もあったと思うのですが その場合、給料はどうなるのでしょうか 給与のうち、現地で使用する分については軍票で支給される。 自宅渡し扱いにする分は軍用郵便局または野戦郵便局の口座への振込みいう形で支給される。 それから軍票で支給することができない戦場にいて、かつ戦死が確認されていない場合 (例:末期のラバウルにいる場合)には口座に振り込まれ続けていく。 (358 367) 旧軍では玉砕命令が出て、でも何か生き残ってしまった場合、帰還したら死刑ですよね? 死ぬくらいなら敵に降伏するべ、と考えた人も多くいたんですか? まず玉砕命令というものは存在しない。あくまで作戦を実行した結果として玉砕するだけ。 また基本的に捕虜になっただけでは死刑になることはない、死んでこいとばかりに死地に送り込まれたりはするが。 降伏する兵は少数だがいた。 しかし一般には敵兵に捕まったらなぶり殺しにされると信じられていた(少なくとも中国戦線ではそうだった)し、 一度捕虜になれば日本に帰っても居場所がない、しかも本人のみならず家族まで中傷にさらされる羽目になるので 降伏を選ぶ日本兵は特筆に値するほど少なかった (519 796,モッティ ◆uSDglizB3o) 旧軍で連隊区司令官という役職がありましたが、これは連隊長とどう違うのでしょうか? 連隊区司令官と連隊長は兼務ですか? 両者は別のもの。 簡単にいうと「連隊」は軍隊で、「連隊区司令部」は役所(自衛隊の地方連絡部のようなもの)。 連隊区司令部(司令官)は、連隊区内における徴兵・召募・恩賞・職業補導、留守業務、在郷軍人の服役・召集、在郷軍人会、 青年学校、国防思想の普及などに関する事務を掌った。 連隊区は、昭和16年10月31日以前は概ね常設師団の歩兵連隊所在地と沖縄に置かれたが、昭和16年11月1日以降は、概ね都道府県ごとに1つ置かれた。 ただし、北海道は4つ(旭川・札幌・函館・釧路)。 また、朝鮮・台湾・満州には兵事区が置かれたが、樺太には豊原連隊区が置かれた。 (524 806) 日本においても戦闘機王とかライフル王みたいな武勇伝ってあるんですか? ある意味、ルーデルやヘイヘより凄いのがいる。 舩坂弘軍曹 擲弾筒分隊長として大暴れし、部隊壊滅後は重傷を負ったまま 米軍指揮所へ潜入、発見・反撃されて戦死判定を受けるが3日後に蘇生。 その後、捕虜収容所を脱出し、敵弾薬庫を爆破した上で生還。 長嶺公夫少尉 拳銃と手榴弾のみで敵飛行場に突入し、敵航空機の発進を阻止。 迎撃に出てきた敵戦車2両を手榴弾で撃破したのち、装甲車両からの 射撃で負傷しながらも応戦、生還。 (526 653) 旧軍の電熱服は危険と聞いたのですがどのへんが危険なのでしょうか? 坂井氏によると、海軍の電熱服は感電したり発火したりする危険性が高かったそうです。 重くて、あまり暖かくなく、危険性が高いということで嫌われたようで。 (526 26 ◆yoOjLET6cE) 日本軍の将軍・提督に対する教育はいかなるものだったのでしょうか? 戦争の勝敗に影響を与える要素として国力と軍事技術などがあげられますが やっぱり一軍・艦隊を指揮することになる将の能力も戦争の勝敗に重大な影響を与えますよね? 日本には数多くの名将、愚将が生まれましたが、日本の将軍や提督は補給や兵站の事についてちゃんと教育を受けていたのですか? 日本で将官になる人の場合、大抵は陸軍大学校もしくは海軍大学校を経ています。 陸軍大学校は参謀本部所管の参謀養成教育期間で、2年以上隊付勤務を行った中少尉(後に大尉も含まれる様になります)を選抜して、 高等戦術・戦略を修めさせ、併せて軍制、幕僚要務を始めとする社会科学・語学などの軍人に必要な専門教育を行うものです。 その受験は、概ね中尉時代の隊付期間中に受験勉強をし、隊長の推薦を経て受験します。 試験科目は、軍事学・外国語・数学+後に本邦史が加わります。 修業年限は平時3年ですが、1937年頃から参謀要員不足で2年となり、1942年は1.5年、1943年は1年、1945年2月入学は半年となりました。 教育内容は、交通学・歴史学・数学・統計学・国際公法・国法学・外国語(英仏独露中の内一つ)・馬学・衛生学・経理学・兵器学・築城学・ 参謀要務・戦史・戦術・海戦術・兵要地誌・兵棋・要塞戦術・馬術・見学(騎兵学校・海軍大学校・要塞)・野外測量・現地戦術・参謀演習 旅行・戦史旅行・隊付勤務・秋期演習参与・特別大演習参与などでした。 こうした教育内容は確かに参謀を教育するのには有利であった反面、学校教育では指揮官教育・管理者教育・経営者教育の視点が無い 為、参謀から高級指揮官となっても、参謀の頭で指揮をする事が多く、かつ、隊付勤務は進級条件を満たす為に最低年限行う為、大隊長 を経験せずに聯隊長となったり、聯隊長、旅団長も経ずに師団長になるケースも多く、部隊指揮の能力を磨く間もなく高級指揮官になって 現場を知らずに作戦を立てたりするケースが出ています。 また、無天組(陸軍大学校の教育を受けない組)が叩き上げで指揮官になった場合は、逆に参謀経験がない為、広い視野が無く、参謀を使い 熟すことは出来ないと言う欠点が組織的にありました。 因みに、陸大卒業を表わす「天保銭」という言葉。 明治でもこの天保銭は8厘として通用した訳ですが、一般庶民からすれば、「天保銭」は、「大きな形なのに1銭にも満たない」と言う軽蔑の意味で 使っていたりします。 海軍大学校は、海軍士官に高度の学術を教授する最高学府ですが、この内、エリート養成の意味があったのは甲種学生を指します。 甲種学生は大尉任官後1年の海上勤務を経た者で大抵は海兵卒業後10年程度が必要です。 1935年までは修業期間2年、以後短縮が始まり、1943年の最後の入学者になると8ヶ月となりました。 甲種学生の教育科目は、戦略戦術・戦務(作戦)・戦史・軍政学・兵器学・航海学・兵要地誌・陸軍戦術・築城学・交通学・衛生学・法学・ 歴史(海事史・外交史)・統計学・語学(英仏独露中の内1~2を選択)です。 但し、甲種学生を経たからと言って、陸軍ほどこれに偏重している訳ではなく、寧ろ海兵卒業時の成績が進級の条件となるケースが 多かったりします。(とは言え、陸軍に比べるとと率が高いだけで、海大卒の将官進級率は82.9%と陸軍と大差ないですが。 (527 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本の帝国陸海軍の一般的な兵士の身長や体重はどれ位だったんですか? 平時の場合は甲種合格者の中から徴兵されますので、身長1.55m(1940年以降は1.52m)以上となります。 更に、胸囲が身長の半分以上、筋骨薄弱でなく、裸眼視力0.6以上(1940年以後は0.3以上で矯正視力0.8以上)、 特記する疾病や精神の異常がない者とされています。 海軍は陸軍と同じ徴兵で区分された為、最低限の数値としてはこんな感じとなります。 (527 127 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 民間人がいきなり将校になる道もあったんですか? 水木しげる先生の「総員玉砕せよ!」を読んでいたんですが、 玉砕命令にもかかわらず生き残ったとして自決させられた将校2名(ともに少尉)は 一人は女学校の先生、一人は金持ちの一人息子だとのこと。 この人たちはシャバでは民間人だったって事ですよね。 中等学校の学校教練に合格した後、徴集で二等兵として入営後、志願して幹部候補生となり、 2年間の訓練として見習士官を経て予備役少尉となる幹部候補生制度による場合もありますね。 1927年までは1年志願兵制度として、府県立中等学校卒業者で服役中の費用を自弁出来る場合は 1年間で帰休出来る制度でした。 終末試験で合格すると下士官として予備役編入、勤務演習に出て合格すると将校となります。 制度自体は幹部候補生制度になっても、1933年までは費用自弁が残り、特別扱いしていました。 (542 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 「総員玉砕せよ!」は手元に無いのですが、そのモデルになったズンゲン守備隊の自決した 二人の将校のうちの一人である加古忠男中尉(少尉ではない)は東京高等師範学校卒で、 愛知県桑名市内の中学に理科教師として勤務中に召集されたとのことです。 ですからおそらく、召集された後に甲種幹部候補生に選抜されて士官になったのでは ないかとおもわれます。 (542 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 終戦時の日本の軍人ってどれくらいいたの? 戦没者数付き http //www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/siryo/siryo16.html (550 153) 何故、日本陸軍航空隊、海軍航空隊などでは、英語の識別信号を使用するようになったのですか? 無線で味方を呼び合うときの識別信号を、「敷島一(しきしまいち)」や「富岳(ふがくに)」などの母国語である 日本語の識別信号ではなく、「RedOne(レッドワン)」や「ArcherTwo(アーチャーツー)」などを使用するようになったのですか? 日本語だと相対的に言い難いし分かり辛いし喋るのに時間が掛かるから、 より言いやすく短時間で喋れる英語に取って代わられた。 戦闘のテンポが速く、ノイズも多い航空無線では、 日本語は定着せず英語のコールサインに取って代わられた。 別に英語に拘っているわけではなく、 ポルトガル語、フランス語、ドイツ語なども併用されるし、 日本語が完全に使用されないわけでもない。 国軍で外国語を使用するからと言って、 愛国心に欠けているとか、売国奴とか、外国の犬に成り下がっていると言うことではない。 要するに高効率化と適材適所優先という流れ。 (553 113) 隊で意見が割れ、一部が隊長とともに玉砕し、一部が副隊長と供に生還した場合、副隊長は敵前逃亡などの罪に問われるのでしょうか? 水木しげるの戦記漫画で、戦況の悪化した東南アジアの前線の部隊が気が付いたら敵に包囲され、 その際にその場で玉砕すべきと主張する隊長と、敵の包囲を突破して本隊に合流すべきと主張する副隊長が対立 結果、隊の一部が隊長とともに玉砕し、一部が副隊長と供に本隊へ行くという場面があります 包囲突破は敵前逃亡にはなりませんです。 抗命罪として罰せられますが、死ななかったので勝ち組ですね。 方針を決定してないまま戦闘になったのなら逃亡はしてない(戦闘には参加してるんだから)ので軍規違反ではない。 ただ部隊の方針として「この場で玉砕」が決定されたってんなら従わなければ違反。 上級司令部が「そこで玉砕しろ」って命令出してたりしたら完全に違反。 でも隊長が本隊に「我等玉砕ス」なんて通信送ってたりすると 「なんでお前ら生きてるんだ、さては逃げてきたんだろう」 と言われて敵前逃亡扱い、銃殺コース・・・ということもありえる。 現実にはどこの軍隊でも規定にかかわらず大概の場合 「部隊指揮官は戦死したけど自分たちは生きて帰って来た」 ばあいには 「仲間を見捨てて逃げて来たな」 って目で見られて弁解無用の扱いをされることがほとんど。 包囲された部隊が全滅したあと、包囲を突破して味方陣地にたどり着いた部隊が脱走したと誤解されて将校 が自決した(させられた)とか、全員が前線に送り返されて「死守」を命じられたとか、敵陣地の(どう考えても 成功するとは思えないような)攻撃を命じられたとかの例は多数ある。 水木しげるの漫画はニューブリテン島のズンゲンでの実話に基づいて書かれたものだったと思う。 「ズンゲンの実話」 玉砕を主張する若い大隊長(少佐)と遊撃戦を主張するベテラン中隊長(中尉)が対立 →大隊長は中隊長に「一部の部下をやるから好きなようにしろ」と命令 →大隊長は司令部に「最後の斬り込みを敢行する」と打電し、無線機を破壊して自決 →中隊長は脱出の途中で戦死するが先任小隊長が部下を率いて後方の味方陣地にたどり着く →小隊長は後方陣地の指揮官から「師団から守備隊は玉砕したと大本営に報告したので前線に追い返して死 所を与えてやれとの命令があった」と言われ、敵陣地の攻撃を命じられる →部隊は攻撃のために出発するが逡巡し味方陣地に帰ってくる →派遣されてきた参謀が別の地区(ヤンマー)の守備隊に合流し、そこを死守せよとの師団命令を伝達 →ヤンマー到着後、先任小隊長と将校1名は自決 沖縄戦でも小禄に孤立した海軍部隊の司令官(大田少将)が、玉砕寸前に陸軍の参謀長(長少将)に対して 「敵後方を攪乱又は遊撃戦を遂行のため、相当数の将兵を残置する。右将来の為一言申し残す次第なり」 という電報を発信している。 これは、大田司令官が部下に包囲された陣地を脱出して攪乱・遊撃戦を命じるとともに、これらの部隊が脱 走したと陸軍に誤解されないよう配慮したものであるとされている。 (349 614-644) 日本軍では鹵獲した武器は使わないってことが徹底していた、というのは本当ですか? 陸上自衛隊の幹部学校の教官を中心に執筆された 『陸戦史集2 第二次世界大戦 マレー作戦』(陸戦史研究普及会編・原書房・S41) のP85にコタバル上陸戦に関する以下のような記述があります。 ==引用== 戦果 主なろ獲品(ママ) 重(軽)機関銃七三 重(軽)迫撃砲 一五 高射砲 八 飛行機 七 爆弾 六,六三〇 装甲車、牽引車 三六 自動車 八四 機関車、貨車 三四 ガソリン 二三六罐 重油 三七七罐 捕虜 ハイデラバットの大隊長ヘンドリック中佐以下九〇名 右のろ獲品(ママ)は、その後クワラクライの戦闘で獲得したものと併せ、 以後、佗美支隊が上級部隊から一品の補給も受けなかったにもかかわらず、 数百キロの機動作戦を行ない、迅速にカンタンを占領する上に大きな貢献をした。 ==引用終わり== この本にはこの部分だけではなく、何カ所か、マレー作戦における機動戦の成功には 鹵獲品による燃料・食糧の確保の他火力の補完が大きな役割を果たしたという記述があります。 この本は当時の参謀レベルの人々への取材も豊富であり、信用がおける本かと思います。 どうも徴発権限を師団レベルに移譲することもあって、その辺が命令書うんぬんの話に なってくるのではないかと思いますが。 旧軍資料の『差押軍需品に対する諸問題』には 軍は戦場に於て我が軍の鹵獲若は押収せる敵対者の兵器、器材に対しては戦争法規 の精神に則り当然我が軍の手に帰すべく旧所属との間に於ける債務関係等に就ては 敢て我が軍の感知するところにあらざる (中略) 支那軍の使用又は保管しありたる兵器及其他軍需品は現場に於て監視し其散逸を防 止することに勉めあり但右の内軍事上竝治安維持上又は貧民救済等の為必要已むを 得ざるものに限り一部使用しあり と、はっきり鹵獲品を使用する場合があることが記してありますよ。 海軍では鹵獲した艦艇は兵装を日本式に(場合によっては機関も)改め、 各地の工作部で整備のうえその多くを哨戒や護衛に活用しておりました。 調べればいくらでも実例は出てくるよね 「ソ」連製軽機関統鹵獲に関する件 昭和15年 発信者 戊集団参謀長 二十日西山咀西方地区ニ於テ攻撃シ比較的新式ノ「ソ」連製「デグチャレフ」軽機関銃一挺ヲ鹵獲セリ 「ソ」連製兵器ノ鹵獲ハ当軍ニ於テハ最初ニシテ近ク写真ニ依リ報告スルモ既ニ本軽機関銃ノ性能等判明シアルヲ以テ 実物ハ当軍ニ於テ使用スル予定ナリ (347 151-158) 日本軍の愚かさを示す、最高というか最低のエピソードは何ですか? 最低かどうかはわからんが・・・ 1944年5月の中国戦線、歩兵一個中隊が豪雨の中を「雨を恐れて戦争ができるか」と強行軍を命じられた。 路上で水が腰まで浸かるような状態となり、濡れた装備の重さに倒れる者続出。水が退いてみると166名が 陸上で溺死体となって発見された・・・戦死ではなく事故死扱いであった。 (557 911) もう少し補足しておくと……。 この事件を起こしたのは中国北支戦線、河南省で作戦行動中の第二十七師団(師団長:竹下義晴中将)です。 当時いわゆる大陸打通作戦のために行動していた師団は、京漢線打通作戦のために 4~5月にかけての20日ほどですでに四百キロを踏破していましたが、さらに湘桂作戦のために 漢口集結を命ぜられ、確山から信陽を経て漢口へ向かう行軍を始めました。 しかし、その時点で師団の将兵は激しく消耗しており、さらに糧秣の不足や米空軍の空襲により 夜間行軍を強いられたことなどから、栄養失調からくる下痢や関節炎、靴擦れの悪化による 歩行不能者が師団内に既に多発していました。 5月14日、長台関付近に達していた師団は前方の渡河点での混乱に巻き込まれて前進が停滞していました。 前進できず立ちすくむ将兵たちに20時頃、突然局地的な大集中豪雨が襲いかかりました。 驚異的な雨量の上に風速十メートル、体感温度は五度にまで下がるという恐ろしいまでの天候の変化に 辺り一帯は泥の海と化し、動くことも出来ない将兵たちは凍えて泥の中に倒れていきます。 翌朝までに泥の海に溺れ、あるいはすでに発病していたために衰弱して命を落とした『凍死者』は 師団全体で百六十六名に達しました。 この死者の多くは歩行不能のために馬車等で護送中だった入院予定の患者でした。 この事件の後も師団は信陽や漢口の野戦病院に約千五百人の患者を残して作戦を継続しましたが、 患者の中にはパラチフスで入院した竹下師団長も含まれています。 この事件の責任の所在は明らかにされることはありませんでしたが、予想し得ない気候の激変、 突然の豪雨に対する対応処置の不徹底や交通整理の不首尾などが原因に挙げられています。 また、第二十七師団には3月に補充されたばかりの体力の劣弱で年嵩の補充兵が約二千人ほどおり、 これらの兵が過酷な戦場に対応できなかったことも死者を増やした原因となっています。 (558 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) ポツダム昇進って? 「ポツダム昇進」というのは、終戦後(=ポツダム宣言受諾後)も復員せずに戦後処理をする旧軍の人間に 米軍が便宜的に部内限りでの権限を与えていた事を指している。別に終戦によって一律に昇級が行われた訳じゃありません。 緒戦時に英軍からの鹵獲食糧を「チャーチル給養」と呼んだりしたのと同じ言い回し。 (347 940) 旧日本軍の使っていた「軍刀」が正式な日本刀(玉鋼を鍛えて研ぎ出したものではない)そうですが、では軍刀は一体どのような素材で作ったものなのでしょうか? 戦時に粗製濫造された軍刀は昭和刀と呼ばれ、日本刀とは別物扱い。 玉鋼というのはタタラ炉を使って砂鉄から作った鋼で、現在ではこれを使って 人の手で鍛えてないとまず日本刀として認められない。 素材は鋳鉄、洋鋼、ステンレス、自動車のスプリングなど色々。 機械で打ち伸ばして作るのが多かったが人の手で鍛えたものもある。 (346 742) 軍人の転籍や昇進なども、一般企業と同じく一年に一度か二度、締めや年度頭に有ったりするのでしょうか? 一次~二次頃の戦時中の日本軍でお願いします。 海軍の場合は、大正八年海軍考課規則(達第82号)などに代表される様に、 きちんと人事考課表を作成して、それを年1回提出して、それを元に昇進を決める 形になります。 被考課者は佐官から1等兵までで、1人1葉の甲表と部下全員を比較して記す 乙表の2種類からなり、「考課表調整ノ任ニ在ル諸官ハ常ニ部下ノ才幹、性行及技能等 ノ察知ニ努メ必要ナル資料ヲ整備シ何時ニテモ其ノ考課表ヲ調整シ得ル準備アルヲ要 ス」とされています。 今の人事考課と同じく、本人記入の部分と調整官記入の部分からなり、調整官記入欄は、 テンプレが無く、全てを自分の言葉で書かねばなりませんでした。 よって、調整官(上司)も被考課者の全てに知悉し、表現力や語彙力が要求されました。 調整官は、艦船の場合は、士官以上、候補生は副長、下士官兵は分隊長で高等官でないと 作成出来ませんでした。 戦時とかだとその限りにはありませんが、平時の場合は、年に1回の昇進という 形になったりしています。 因みに、陸軍にも同様な考課表がありましたが、本人記入欄は無く、海軍よりも 簡易でした。 (562 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧日本軍が使っていたバイクは、どんなものがありますか? 我が国で軍用バイクが初めてテストされたのは大正3年9月。アメリカ製インディアン 単気筒4馬力のモデルがそのモデルです。 陸軍ではこのテストの結果をもとにして、大正4年にドグラスとトライアンフのモデルをテストし、 自動二輪車の伝令用としての有用性を確認しています。 この後にハーレー・ダビットソン、ヘンダーソンなどのモデルを含めてテストした結果、 陸軍はハーレー・ダビットソンの本格採用に踏み切りました。 日本内燃機で組み立てられた1930年型のモデルは軍に採用されて93式自動二輪車となっています。 このころからハーレー・ダビットソンは日本国内に支店を設立し、三共と共同して 昭和8年から日本での製造に取り掛かりました。 そしてハーレー1934年型の国産型が製造されて「陸王」の最初のモデルとなり、 陸軍ではこれを陸軍制式95式自動二輪車として採用しました。 このハーレー・ダビットソンと三共の合弁会社は昭和11年に三共内燃機、さらに昭和12年に 陸王内燃機と社名を変更しています。 この陸王のモデルに側車起動装置を付けて後輪・側車の二輪駆動にしたのが97式側車付自動二輪車で、 陸海軍の代表的なモデルとして陸王内燃機のほかに東洋工業、岡本工業、日本内燃機などで 製造されました。 これより先、昭和5年には日本自動車KK(後の日本内燃機)がBMWをサンプルにした 水平対向2サイクル1500ccのオートバイを作り、これが92式軍用側車として 採用されています。 (568 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 祖父の倉庫を見せてもらってたら兵隊さんのシルエットと何か城みたいなものが描かれた冊子が出てきたんですが、これの由来は分かりませんでしょうか 中味がよく判らないので多分ですが、戦場画帳もしくは戦場写真帳ではないでしょうか。 大陸との戦争を行っていた当時、出入りの写真館などが出張って、周辺の風景写真を 撮り溜めたり、近くにいる兵隊さんに色々ポーズを取って貰ったりして、勇壮な日本軍を 演出して貰い、これらを組み合わせて、お土産用の写真帳などにしたものです。 徴兵から帰ってくる時には戦地からの土産としてよく買われています。 (573 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 兵士が戦死して、遺体や遺品が残っていれば遺族に返還されますか? 遺体や遺品については、日中戦争くらいまでは、遺体は荼毘に付されて、骨箱に入れられ、 帰ってきますし、遺品もあれば引き渡されます。 但し、返還は大体数ヶ月単位の日にちが掛かります。 従って、太平洋戦争が激化してくると、遺品、遺髪も引き渡されることは無くなっていきます。 (339 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧軍で、兵士が戦死した場合、その遺族に恩給は支払われるのですか? 兵役期間が二年に満たない場合は資格欠格となり支給されません。 日本の話であれば、 S28年の恩給法改正による軍人恩給の復活以降は、公務扶助料の支給に 勤務年限による欠格はなかったと思いますが。 (339 522,555) 日本軍とタバコとの関係ですが、軍人に好かれてたタバコの銘柄って分かりますか 軍用銘柄がありました。 誉・光・八紘です。 下記、紙巻煙草を参照ください。 http //kon-tan.hp.infoseek.co.jp/equip/japarmy_navy/taba.html (579 霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.) 旧軍の暗号が筒抜けだったのは全軍通じて?陸軍だけは解読できなかったとか聞いたんですが。 基本的に、海軍は暗号の補給の問題があったので「有限乱数」方式を使用していた。 だから、一度解かれると筒抜けになる。 陸軍は、それよりも暗号強度の高い「無限乱数」方式を使っていたからなあ。 無限乱数は、無作為で作られた場合理論上解けないからねえ。 (336 緑装薬4 ◆8R14yKD1/k) 陸軍は乱数表を一回の通信で破棄するワンタイムパッド方式の暗号だった。 この暗号は理論上は絶対に解読不可能。 どの乱数表を使用するか直前にならないと判別不能なので、 何かの拍子で連合国側が乱数表を収得しても役に立たなかった。 そこで陸軍の暗号表に付いた連合国側のあだ名は「トイレットペーパー」 もっとも、これは貧乏で通信機器が貧弱で通信量が少ないからこそ出来た芸当だが。 (336 75) 旧軍において、剣術を学んでいた人間はどの程度いたのでしょうか? あと、もしやっていたなら、流派は何が主流だったのでしょうか? とりあえず、士官はみんな何かしらの剣術は学んでる。 経験のない奴も戸山流剣術を士官学校で学んでる。 戸山流 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%B1%B1%E6%B5%81 (584 883) 1943年の日本の大学生の学徒動員の際は、陸海軍の士官学校や兵学校でも、学期の短縮や繰上げ卒業はあったのでしょうか? 海軍兵学校では、昭和18年9月卒業の海兵七十二期は2か月学期を短縮し、 昭和19年3月卒業の海兵七十三期は当初の予定よりさらに卒業を4か月繰り上げられて 修業期間は2年4か月となっています。 (585 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 鎌倉に今も見学できる旧軍の軍事施設などはありますか? 鎌倉というか平塚駅の北側に平塚海軍火薬廠の遺構があるくらいです。 横浜ゴムの敷地内には横浜ゴム平塚製造所記念館がありますが、これは火薬廠の水交社の集会所でした。 また、周辺には平塚空襲で焼け焦げた電柱とか、焼夷弾直撃で割れた墓石もあります。 あと、藤沢市御所見の少年の森内に横穴陣地、新林公園内に横穴陣地と砲台の遺構があります。 本土決戦用には他に江ノ島の岩盤を刳貫いた東西二箇所に江ノ島砲台跡があり、鎌倉市稲村ヶ崎公園の 崖下波打ち際に横穴陣地があり、東側には銃眼が見られます。 これは、伏龍の発進基地とされたところでした。 (594 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 竹槍の実戦投入を日本軍が本気で考え始めたのは、いつ頃からなんでしょうか? 定番のサイト「藤田兵器研究所」によると、日中戦争での輜重兵の後方自衛用に 作製・使用されたのが最初で、昭和17年ごろから国内・外地で戦意高揚と後方警備の目的で 竹槍訓練が開始されるようになったとか。 (329 840) 日本軍に狙撃兵っていたんでしょうか? 分隊内で射撃の上手い兵を、狙撃兵と呼んでいました。 外国のような、特別に養成された狙撃兵は居ないようです。 狙撃銃は三八式ベースの九七式狙撃銃と、九九式ベースの九九式狙撃銃というのがありましたが、 これも特別に作られたものではなく、量産した三八式や九九式の中から精度の良い品を選んで、 それにスコープを付けた物を、上記の射撃優秀者に優先的に支給していたそうです。 ただ、米側の記録によると、木の上から撃ち落した日本軍狙撃兵が持っていたのは、 殆どが普通の三八式や九九式だったそうです。 (29 566) 乃木希典の評価って軍板的にはどうなんでしょうか? 不幸な人物、というのが共通した評価です。 部下に大被害を出すことが分かってた旅順攻略戦をやらせるのには、 ちょっと神経が繊細すぎる人物であった、ということでしょうか。 ちなみに軍事板一般の性質として、戦術より戦略に重きを置くという傾向があります。 旅順攻略戦は、極東の小国家が陸軍大国と喧嘩するということの戦略的な無理が集中した部分ですから 第三軍の被害を指弾するときにはまず最初に そうした無理な戦場を設定してしまった大本営を批判するのがこの板での「物の道理」です。 (32 418) 何故「関東軍」というのでしょうか?名前の由来を教えてください。 万里の長城の東の果て、渤海にめんした地域は山海関といい 古代から中華防衛の要衝でした この関の東、つまり遼東半島の租借地防衛の軍ですので関東軍だったはずです 日本の関東も箱根の関の東という意味です (34 613) 旧日本軍に軍刑務所ってあったんですか? もちろん軍刑務所は存在します。いわゆる軍法会議にかけられた上量刑を決定します。 量刑の内容は死刑・懲役・禁固などでその他に懲罰として 謹慎・譴責・礼遇停止・免官・営倉・降等などがあります。 日本には公式には懲罰部隊というものは存在しません。 (38 305) 日本軍の憲兵隊は陸海軍の一部だったのでしょうか? 日本軍では、平時は憲兵は陸軍大臣に属するということに なっていて、海軍に憲兵はないです。 ですので海軍軍人も陸軍の憲兵に取り締まられるということになります。 ただ、第2次大戦中の戦時で海軍が軍政を布いていたところでは 「海軍特別警察隊」というものが置かれて憲兵のようなことをしていたようです。 (39 295) 海軍工廠とか陸軍造兵廠とかありますが、「工廠」と「廠」の違いってなんですか 「工廠」は旧陸海軍に直属し、武器・弾薬など軍需品を製造した工場です。 「廠」は主に公的機關の施設に使われる場合が殆どで、 とりわけ軍事関係の各種施設に多用されました。(作業場や倉庫にも廠を使う。) 造兵廠ってのはもともと管理組織で、たとえば陸軍造兵廠本部の下に東京工廠を置いて 陸軍造兵廠東京工廠とか言ってたようです。 昭和14年に兵器行政本部が設置され造兵廠が行なっていた業務を全て担当するようになったので、 各種工廠も「○○造兵廠」と呼ばれるようになったとの事です。 (40 246) 第2次大戦中、日本の陸軍と海軍の予算はどちらが多かったのですか? 予算額だけなら、1940~41年まで陸軍省と海軍省の予算はほぼ拮抗しています。 1940:陸軍省:1,192,469千円/海軍省:1,033,711千円 1941:陸軍省:1,515,250千円/海軍省:1,497,374千円 1942年は陸軍が逆転し、1943年は海軍が逆転しています。 1942:陸軍省:55,847千円/海軍省:22,736千円 1943:陸軍省:677千円/海軍省:1,152千円 とはいえ、ここには数字の絡繰りがありまして、一般歳出予算ではこの金額ですが、 陸海軍の打出の小槌として、臨時軍事費特別会計予算があり、これらは、際限なく 使用できるものです。 陸軍関係は部隊派遣維持、時局即応の兵備改善、作戦資材の応急整備、航空要員の 急速補充、造兵設備の増強、占領鉄道の管理改良経費として、海軍関係では、艦船部 隊の派遣維持、艦船航空兵力と軍需品の急速充実、工作通信補給、施設整備と、南方 物資補給費用として、公債収入と植民地金融機関からの借り入れで、1943年までに、 全体では569億9,464万7,000円に達しています。 これの使い道は軍機と言うことで政府にも報告されませんでした。 (43 眠い人 ◆ikaJHtf2) 憲兵隊による「督戦隊」とはなんですか? 督戦隊が必要なのは、士気が低い軍隊において、恐怖に駆られた兵士が 逃亡すると全戦線が崩壊する危険があった場合です。 特に嫌々兵士にされた場合には必要性があります。 日本軍の場合、徹底的な教育が功を奏して、督戦の必要はありませんでした。 また逃亡した場合は、親兄弟も村八分にされる世論が形成されていました。 二○三高地攻略も同じです。 特に、当時は国民皆兵と言うこともなかったはずなので、兵隊に選ばれるのは 地域や本人にとっても名誉でした。 そこで、敵前逃亡などしようものなら…。 (44 眠い人 ◆ikaJHtf2) 補足しますと日本軍にも「督戦する」という言い方はあったようです。 ただ、意味合いとしては「前線に赴いて現場の将兵に激をとばす」という感じのものです。 御存知の通り、督戦隊はありませんでした。 個人的な感想ですが、職業軍人はともかく、 徴兵された日本の兵士にとっての督戦隊は「銃後」だったのかも。 (44 509) 旧日本軍で敵に寝返った例はありますか? 捕虜になった後に積極的に情報提供を行った例なら有ります。 捕虜になること自体をありえない事としてしまったため、 いったん捕虜になってしまうと箍が外れたように米軍に協力することも 多かったそうな。 また、末期になると個人の判断で投降してくることもあったそうで。 (44 機甲自転車) 日本軍は敵前逃亡した恥ずかしい軍だったのですか? 虎頭要塞のように、ソ連軍の進撃を少しでも遅らせるため 最後の一人まで戦死した戦線もあります。 そして関東軍首脳部が尻尾まいて逃げたのも事実。 どちらも「日本軍」です。 (44 367) 日本軍は弾薬不足に悩まされたと良く聞きますが、”貧国強兵”を読んでいたら、1941年度の弾薬在庫が100会戦分、1945年度でも95会戦分とありました。 一番多かった年でも消費量が40会戦分程なので、裕に2年分は在庫があります。 使い切っていたならともかく、こんなに在庫を残して弾薬不足とはどういう事なのでしょう? 理由は2つ 1つは弾薬在庫があっても、それが戦場に存在するとは限らないこと これは貧弱な補給線だとか、機械力の不足で迅速な輸送ができないなど もう1つは、時代の流れ WW2には1人殺すために必要な弾薬量が、それ以前に想定されていた 量を10倍、100倍の単位で上回ったため、規定の弾薬量ではまったく足りなかった 砲弾の場合、基数で計算してると思うけど、ハッキリ言えば想定の10倍く らい使用してたんだよね。現実に日本軍は一年で全ての部隊が40会戦もする ような作戦は実施してないでしょ。 (46 176,178) 近衛兵について教えて下さい。良家出身者しかなれないってのは本当ですか? 貴官が、どのようにしてその情報を入手したのかわからぬが、 微妙にずれている。(伝言ゲーム的な情報混乱であろうか?) 確かに、近衛兵の場合、「家柄」等もみるが、それは、士族とか、平民といったもののことではない。 社会主義や、共産主義、無政府主義等の反皇室・反社会思想の持ち主が親戚や身近にいて、 影響を受けていないかをみる。 体格については、小官、よく知らぬのだが、甲種合格が、大前提であろう。 (46 315) 何で大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍で話し方が違うの? 日本史板で見た気がするが、陸軍は長州閥が中心になって創設されたので、 自分達の国の固い言葉使いを押し付けたためあんな口調になったそうですよ。 海軍で敬称をつけないのは階級自体が敬称だという考えからだそうです。 (48 907) 「○○であります」という口調も、もともと長州弁の言いまわし、という風に聞いたことがあるぞ。 (48 908) 首相・陸相・参謀総長で陸軍大将の東条英機と陸軍元帥であった杉山元、畑俊六らとは陸軍内においてはどちらが上だったのですか? 階級的には杉山元、畑俊六元帥の方が上。 でも陸軍内部での実権的には東条の方が上。 日本陸軍では元帥は「長老」扱いで会社で言うと「相談役」に近い。 ただ、下から上がってきた命令書に印を押すだけの存在。 (46 962) 旧日本軍じゃ普通の兵士の事を何というのですか? 兵卒。 (47 831) 大日本帝国では大戦末期少年将校とか言う子供が戦車乗ったり、飛行機乗ったり、潜水艦乗ったり通信兵したりしたって本当ですか? 陸軍少年飛行兵や海軍の海軍予科飛行練習生のことですかね? 卒業しても17~8才ですから少年って言えば少年ですが。 陸軍少年飛行兵は昭和9年、海軍の少年飛行兵は昭和5年(甲種予科練は昭和12年)ですから 昔からあった制度です。ただ、戦争末期には人材不足から若年でも戦場に投入されたのは事実。 あとは 昭和19年制定された特別甲種幹部候補生制度とか。 いずれにしても、15~6歳の少年が戦場へ出ることは日本ではなかったと思います。 (48 636) 戦前の軍人さんの最高学歴を教えて下さい PHP文庫の「日本陸軍がよくわかる事典」に簡潔に書かれています。 将校の育成に関わる教育制度、昭和13年以降は 幼年学校・中学→予科士官学校(兵科決定)→隊付訓練→陸士→見習士官(原隊) パイロットは、予科士官学校を出たら、さっそく航空士官学校入りのようです。 陸大は陸軍省直轄の、教育総監部に属しない唯一の教育機関で、ここが最高学府。 隊務2年以上~少尉任官後8年以内+部隊長の推薦…というのが受験資格です。 …と要約してみたのでし。 (69 名無しトンボ釣り) 旧日本軍は…戦艦や通信基地や戦闘機も電信でしたっけ? 日本軍の無線通信は基本的に電信。 隊内無線のような近距離無線では無線電話だった。 戦闘機に装備した隊内無線が役に立たなかったのは、 当時の日本の技術では質のよい小型の無線機が作れなかったから。 特に飛行機用はエンジンのイグニッションノイズによる電波妨害が酷かったそうな。 (80 134) 日本陸海軍で反跳爆撃が確立した時期はいつでしょうか? ビスマルク海峡の悲劇 を受けて海軍の陸上機部隊で研究、訓練を 開始したという記述を見たことがあります。 試験の結果は良好で採用することになったみたいです (90 597) 祖父ですが、大正2-3年生まれで本職は警視庁の警察官、中国戦線に3回も出兵・・ってのは一体どういう状況でこういうことになったんでしょうか 多分、大陸に於て治安要員または公安要員としての手腕を期待されたのかも知れません。 また、例えば、警察でも何らかの技能を身に付けている(例えば、自動車の運転など)のであれば、 幾度も召集がかけられます。 最初は兵役の時に籤に当たったのかも知れませんし、充員召集(臨時召集ではない)の名簿に掲載 されたのかも知れません。 2度目は日華事変での要員不足ではないか、と。 3度目は治安師団を作る際の要員不足と言ったところでしょうか。 (599 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 賊軍側とされた藩で、明治維新前に生まれていて陸大もないような時代に陸軍大将や陸軍中将になるのは困難なのでしょうか? またなった人を十人程度ご教示願いたいです。よろしくお願いします。 中将、大将への昇進は難しかった。 立見尚文 桑名、石本新六 姫路、小泉正保 水戸、村岡惇 幕臣、一戸兵衛 弘前、大島久道 秋田、柴五郎 会津、梅沢道治 仙台、中村覚 彦根、大谷喜久蔵 小浜 奥羽越列藩では、無理だよ。 (600 オッチャン ◆UMCByHJxYk) 小倉の奥保鞏を追加ね。賊軍出身者の出世頭 元帥・参謀総長になって、華族にも列されて、 立見よりも出世した。 (601 21) シンガポールを占領した日本軍の風紀はどうだったんですか? 中公新書の「思い出の昭南博物館」では、英国兵による略奪や地元民による略奪が多かった 様ですが、日本軍については、占領直後は兵士単位としての略奪などは無かった様です。 但し、海軍将校たちによる、南洋域やインド洋地域の海図の持ち出し、陸軍将校たちによる 南洋域や豪州本土の地誌などの持ち出しはあった様です。 (402 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 善通寺に師団があったのはなぜですか? まず、善通寺は交通の要衝で、此処から四国各地に行くことが出来ます。 一朝事が有れば、即座に対応出来る位置にあります。 また、瀬戸内海に面しているため、外征を行う場合にも、船舶輸送が容易に行える土地になります。 更に、広島、姫路などの各師団との連携が容易に取れます。 また、牙が抜かれたとは言え、高松はかつての朝敵であり、其処に師団司令部を設置する訳にいきません。 徳島はあまりに大阪、姫路に近く、かつては高知に吸収されていました。 香川も同様に、最初は徳島に、次いで愛媛に吸収されていましたが、愛媛に関しては、広島の対岸にあり、 その影響下にあります。 ならば、高知は、と言うと、これも反政府運動の盛んな土地であり、かつては自前の軍事力で暴動を鎮圧した ことがあり、政府としては疑問の目で見ているところがありました。 これらを勘案すると、いずれも県都に師団を設置するのは難しかった訳です。 善通寺の場合は、京極家自体が勤皇派ですし、地域的に比較的安定していた為、広島鎮台の分営が最初に 設置された流れもあり、次に師団を拡張する際に、この分営を師団に昇格させたと言う形になっています。 (326 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧軍では参謀本部の参謀ってどのくらい居たの? 大本営陸軍参謀部(昭和16年12月19日現在)の主要編制(戦史叢書 大本営陸軍部 1 昭和17年4月まで) ※ 「海」は海軍からの兼勤、「ケ」は部外からの兼勤、「兼」は大本営内相互又は参謀本部との兼勤 参謀総長 大将(1)、参謀次長(中将1) 総務部 (部長 少将) 庶務課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(2、兼1) 第1課 (課長 大佐) 少佐(1、ケ1) 第1部 部長(中将) 第2課 (課長 大佐) 大佐(海1)、中佐(5、海2)、少佐(6、兼1、海1)、大尉(1) 第3課 (課長 中佐) 中佐(2)、少佐(7) 第4課 (課長 大佐) 中佐(海1)、少佐(3)、大尉(1) 第2部 (部長 少将) 部付(兼1) 第5課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(1) 第6課 (課長 大佐) 大佐(1)、中佐(2)、少佐(3) 第7課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(1) 第8課 (課長 大佐) 中佐(1、兼1)、少佐(1、兼1) 第3部 (部長 兼 少将) 第9課 (課長 大佐) 中佐(兼1)、少佐(兼2) 第10課 (課長 大佐) 中佐(兼2、海1)、少佐(1) 第11課 (課長 大佐) 中佐(兼1、海1)、少佐(1) 第20班 (班長 大佐) 大佐(兼1)、中佐(1、兼1、海1)、少佐(1、兼1) 研究班 (班長 大佐) 中佐(1、兼1)、少佐(1、兼3) 第18班 (班長 兼 少将) 大佐(1)、中佐(1) (325 746) 日本軍は、末端将兵が捕虜になることを禁じていたくせに、どうして海軍乙事件ではのうのうと敵の捕虜になった福留参謀長を不問としたんですか? 福留参謀長は捕虜になった際に暗号表を奪われるという失態を犯した。 そのため、「捕虜になった」ことを咎めると、 「本来遭難した時点で処分しなければならなかった暗号表を処分し忘れた上捕虜になって敵の手に渡してしまった」 ことが公になってしまうので、そもそも「捕虜になった」こと自体を「なかったこと」にしてしまったので。 「表向きはそれでもいいけど、責任は取らせるべきだ」という議論はあったが、 とにかく「暗号表を奪われた」ことだけは隠蔽しなければいけなかったため、 一切の処分ができなかった。 (607 904) 旧軍の小銃は一丁一丁手作りで量産に不向きだったといいますが、小銃弾の生産体制や品質はどうだったんでしょうか? ほぼ、陸軍兵器廠の第一陸軍造兵廠第1製造所で一手に作られ、関東大震災後に 九州小倉に陸軍造兵廠の分工場が作られ、こちらでも銃弾が製造されています。 一般に造兵廠自体は、最先端の生産設備を導入し、その技術は高いものでしたが、 量産技術は余り高いものとは言えず(それでも、民間に比べれば遙かに高い)、 戦時中も、前線からの要求を満たすことはありませんでした。 (497 313,眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本帝国軍では、補給が完全に絶たれた戦線では人肉食もあったとよく聞きますが本当ですか? またこれは殺しあって共食いという感じだったのでしょうか?それとも死体の肉を漁っていたのでしょうか? 友軍の屍肉は食べちゃいけませんという命令が出た地域があるので あったのか無かったのかといえばあったのでしょう。 屍肉が基本らしいですが、応用的にどういうことがあったのかは・・・まあ真相は闇の中ですよ。 (360 514) 真っ先になくなるのは尻かももの肉だったようです グアム島では人肉食によりアメリカの裁判で処刑されていますが、その人の証言では肝臓が旨いとか… 人肉を食った人は動物蛋白を急に採ったせいか肌に艶が出てくるので、何となく食ったのが分かったそうです ガダルカナルやフィリピンなどて特に報告されています (360 515) 戦前の軍人や警官の階級って、どんな法律や勅令で規定されてたんですか? 海軍について言えば、1868年に制定された海軍武官官階と言うのが最初に来て、次いで 1872年の海軍武官官階で全階級を設定し、1878年以降は海軍武官官階及海軍卒職階 となっています。 陸軍は、陸軍武官官等表と言うのが、1868年に制定され、1874年に改訂されていっています。 (614 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 統帥権干犯ってどういう意味? 統帥権という用語は、大日本帝国憲法で用いられている言葉。 形式的には、天皇が最高司令官であり、軍隊を統率する権能を持っていることを表した言葉です。 軍人たちが使った「統帥権干犯」というのは、 「神聖なる天皇のみが持つ統帥権を侵害するのか!」てーことですよ。 軍部に批判的な文官や政治家なんかが、軍部の意思決定を覆そうとしたり、批難したりすると、 「お前、それは統帥権干犯だ」という風に言って、それらを封じ込めて来たわけです。 (613 128) 戦前の日本の制度で上官を殴るとどの程度の罰則ですか? 陸軍刑務所行きだろ。立派に前科者の仲間入りです。 陸軍刑法第60条 上官ヲ傷害シ又ハ之ニ対シテ暴行若ハ脅迫ヲ為シタル者ハ左ノ区別二従テ処断ス 1 敵前ナルトキハ1年以上ノ有期懲役又ハ禁錮二処ス 2 其ノ他ノ場合ナルトキハ10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処スル (創作質問55 471) 戦前の日本には国防省や統合参謀本部を作るべきだという動きは無かったのでしょうか? 軍政組織は1872年に陸軍省と海軍省が設置されるまで、兵部省がいわゆる国防省的な組織と言えたかもしれないぞ。 先の大戦の大本営は、陸軍参謀本部と海軍軍令部を隷下に置く、統合参謀本部的な組織だとも。 まあ、ネタ発言だと取ってくれても構わないけどな。 結局、組織なんてもんは分化と統合を繰り返すもんだし、看板だけっていうのなら、 戦前にも、陸海軍の統合組織はあったぞ…てー話。 なかなか一度できた垣根を取っ払うって難しい。 イギリスだって、1923年に3軍統合の参謀本部委員会を作っちゃいるが、 器作って酒入れずの状態が長いこと続いた。 陸海空軍の各省の上に立つ国防省だって、1940年に西方戦役が勃発して、 チェンバレン内閣が倒れた後に、チャーチルが作るまでなかった。 それさえも当初は、とにかく国防省は作ったが、職掌も決まらずチャーチルが首相兼任で、 内実が伴うのは戦後になってからと言ってもいいくらいだ。 アメリカだって、統合参謀本部の設立が1946年。国防省(国防総省)の発足は47年。 大本営の設置で軍令組織を建前だけ、表面だけにせよ一本化した日本は、先駆的だったかもしれないw (620 479) 旧日本軍では偵察用のオートバイにハーレーダビッドソンのライセンス生産版の陸王が採用されていたそうですが、国産のキャブトンやメグロは使われていなかったんですか? メグロ号は、1941年に陸軍の試験に提出しましたが採用となりませんでした。 キャプトン号も同様、宮田製作所のアサヒ号は1940年に早くも見切りを付けて自転車製作に 転業しました。 他に、広島でSSD号というのが試作され、軍用試験に供されましたが、経営的に不成功。 まともに軍で採用されたのは、陸王の他、日本内燃機のくろがね号、岡本工業の能りつ号の 三種類で、後に、97式自動二輪車が、日本内燃機や東洋工業で製作されています。 (622 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第二次世界大戦で日本軍が集団投降した戦いってあったんですか? 表だって公表されているものとしては東部ニューギニア。 有名なものとしては、昭和20年5月3日に第41師団歩兵第239聯隊第2大隊(大隊長中佐以下将校4名、下士官兵37名) がアポレンガ付近で豪州軍に投降(なお、この大隊長は元山砲兵第41聯隊の大隊長。砲兵聯隊は火砲を全部失ったた め、昭和19年9月に解体され人員は各歩兵聯隊に編入されていた)。 そのほか、豪陸軍公刊戦史によれば、昭和20年8月10日に大尉以下12名が、同11日に大尉以下16名が投降したとの 記録がある。 (306 49) 戦闘詳報って、どの部隊でも書くんですか? 書きます 戦闘詳報というのは各種情報 人事・情報・訓練(運用) 兵站の部隊情報をまとめたものです。 一日1回程度上級部隊に提出をします。 毎日書くのは「戦闘要報」(海軍では「戦闘概報」)で、「戦闘詳報」は戦闘が終了したときに書くものです。 ○戦闘要報 : 一部の戦闘が終わったとき(又は当日その局を結ぶに至らなかったとき)、日没後速やかに 各部隊隊長が当面の戦闘経過概要、彼我の態勢、敵情判断及びこれに対する自己の企図、 彼我の損害概数、弾薬燃料の残余と消費量概数などを報告するもの ○戦闘詳報 : 一方面の戦闘終了後、各級指揮官が、戦闘の詳細を記録して提出する報告文書 主要記載事項は、戦闘前の彼我態勢の概要、各時期における戦闘経過、関係部隊の動作。 彼我の交戦兵力、敵の団隊号・将帥の氏名・編制・装備・戦法、戦闘後における彼我の形勢 概要、戦訓など 参考 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%97%98%E8%A9%B3%E5%A0%B1 (304 18-39) 日本では統帥の一元化を試みる人物はいなかったのでしょうか? 天皇で一元化してるやん 実際の作戦指導のレベルで、補弼機関としては「大本営」で一元化してないか? 明治28年、日清戦争を控えて戦時大本営条例が制定公布されたが、この制度をめぐ って陸軍が参謀総長を幕僚長として陸海軍の統一的運用を行うことを主張したことか ら、海軍との激しい対立が起こった。 その時は陸軍の主張は通ったものの、海軍は海軍軍令部条例を制定、海軍の作戦 については海軍軍令部長の専管事項とすることと定めることで妥協が成立した。 しかし、戦争が終わった後、再び改正をめぐって統帥の一元化を主張する陸軍と陸軍 出身の参謀総長に異質な海軍作戦をゆだねることは出来ないとした海軍の対立が再 燃し、結果、明治38年に陸海軍の両幕僚長を並立することとして改正された。 そのためには陸海軍の対立を調整する機関が必要なため、明治31年、その目的で元 帥府が設置され、同日、元帥府設置の詔が出され、小松宮彰仁親王、山県有朋、 大山巌両陸軍大将、西郷従道海軍大将らが元帥府に列せられた。 しかし、明治35年に西郷従道が亡くなると元帥府に意見調整機能はなくなっていまい、 元帥府は重要軍務について天皇の諮詢に応じる機関となった。 その後、陸海軍の対立は形を変えたが、太平洋戦争終戦まで続いた。 (303 507-614) 大日本帝国が日露戦争以降、国力に見合わない拡大政策を取ったのは何故でしょうか? 内政的には、大国ロシアを打ち破った栄光の軍隊を、戦争が終わったからと言って縮小するなどできなかった。 また日露戦争の辛勝を政府が隠した事が、戦後処理に対する民衆の不満を徒に大きくした。 日清戦争の勝利で莫大な賠償金を得たのに、日露戦争ではそれがなかった、これはおかしい、 「本来戦争ってのはもっと儲かるはずだ。」こんな考えが世間的に広まってきていた。 外政的には、未だロシアの脅威が消えない状況で軍縮などできるはずもなかった。 また世界恐慌に対し他の列強諸国は植民地内で財を循環させるブロック経済方式を取ったが、 植民地らしい植民地を持たなかった日本は新たに財を循環させるべき地を獲得する必要があった。 これら内政的・外政的要因が組み合わさり、拡大政策がとられた。 (戦争板初質スレ3 496) 日本はドイツにならって、機甲部隊の整備に特に力を入れたのですか? 1940年にドイツ、イタリアへ軍事視察団を派遣して、ポーランド戦や、フランス戦での 戦車戦の実情や戦訓を情報収集していますが 戦車の整備に力を入れました。 ドイツの活躍を見て以来、それまでの冷淡な態度がうって変わって「戦車サマ、サマ」になったのです。 なんだかんだで97式中戦車は2000輌以上生産され、ピーク時には年産1000輌に迫りました。 これで戦車師団を編成し、陸軍の決戦兵力にしようとしたのです。 (659 ゆうか ◆u8WC078ef5ch) 「ドイツの電撃戦に影響を受け戦車の有用性は認識され、 1941年(昭和16年)2月には陸軍機甲本部が新設されて機甲部隊に関する教育・編制・技術開発の諸業務の統括調整が図られた。 (中略) 部隊は編成されたものの肝腎の戦車や自動車・砲は揃わないといった状態がほとんどで、 その上一部の戦車連隊が抽出されてしまうなどして、 その編制すら満足になることはなかった。 下記、ウィキペディアの機甲師団の大戦期の日本戦車師団の装備・編成の変遷を参照ください。 ttp //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E7%94%B2%E9%83%A8%E9%9A%8A (659 霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg) 日華事変以前と比べて帝国陸軍の 航空機の生産量は約5倍、戦車の生産量は約20倍。 ついでに昭和17年度に策定された需給計画では 航空機 戦車 昭和17年 6,400 1,500 昭和18年 8,000 2,000 もうひとつ隠れたカラクリがあります。 昭和17年度の航空関連に配当された鋼材7.4万トン、予算13億円に対して 戦車・自動車は鋼材7.6万トン、予算5億6千万。 資材の配当量では航空機より上だったりします。 日本は昭和18年度までは、戦車を航空機の次に序列して優先生産を計画してます。 昭和19年に入ると一転してほとんど顧みられなくなり、その落差が日本の戦車軽視を錯覚させているのです。 (659 ゆうか ◆u8WC078ef5ch) 旧日本軍の場合、人種差別反対を掲げてアジア開放を謳っていたから、軍隊内部でも身分や人種による差別はなかったのですか? 例外はあるかもしれないが、おおむね平等に扱われる。 というのも、下手に差別したりすると、戦闘中に後ろから弾が飛んでくるから。 朝鮮出身者も、正規軍人であれば平等に扱われたようだ。 (ただ、反乱の可能性があるとして、労働力として軍属で連れて行った朝鮮人労働者をひとまとめにして隔離した事例はある。) ただ、これらは軍隊と言う組織の性格上のことであって、人種差別反対を掲げてアジア開放を謳っていたことは無関係。 (296 578) 日本軍の参謀や幕僚の組織編成 戦史叢書「本土決戦準備 1 -関東の防衛-」によれば、 第1・第2総軍司令部 参謀長(大将・中将)1名,参謀副長(中将・少将)1名,参謀(大佐)2名,参謀(中佐・少佐)6名,参謀(少佐・大尉)4名 方面軍司令部(第5,第10~第13,第15~第17) ケは軍管区司令部との兼勤 参謀長(中将・少将)1名,参謀副長(中将~大佐)ケ1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名] 軍管区司令部(北部・台湾・東北・東部・東海・中部・西部・朝鮮) ケは方面軍司令部との兼勤 参謀長(中将・少将)ケ1名,参謀副長(中将~大佐)1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名] 軍司令部(第50~第58) 参謀長(中将・少将)1名,参謀(大佐~大尉)5名 師団司令部(近衛第3,第44,第72,第73,第81,第84,第93) 参謀長(大佐)1名 参謀(中佐~大尉)3名 師団司令部(第140,第142,第143,第151,第152,第157) 参謀長(1名),参謀(3名) 師団司令部(第201,第202,第209,第214) 参謀長(中佐)1名 参謀(少佐・大尉)2名 師団司令部(第221,第222,第224,第229,第234,第308,第316,第321,第322,第354,第355) 参謀長(大佐・中佐)1名 参謀2名 (294 259) 陸海軍は同じ20mmでも弾薬の規格が異なっていたのですか? 陸軍内だけでも20mm機関砲弾だけで以下の6種類あるんだが。 20*80 20*142 20*125 20*94 20*113 20*99RB 海軍と統一する前に陸軍内部で統一するのが先だろ。 (676 717) 満州事変前後で陸大閥の一夕会や二葉会などが陸軍内の実権を握るのですが、彼らの出てくる前に中枢にあった薩摩閥(上原勇作派の系統)と長州閥(田中義一派の系統)はその後、いったいどうしていたんでしょうか? 薩摩閥は陸軍内では元々そんなに大きくないし、 長州閥は山縣の死んだのと長州閥の専横を嫌った若手将校が 一夕会を結成してこれに対抗しようとした為、、その後は急速に衰えてしまいました。 一夕会結成の中心となったのが小畑敏四郎、岡村寧次、永田鉄山の三人です。 ですが、小畑と永田の方針の違いからこの会は二つに分裂してしまいます。 これが永田を旗頭とする統制派と、小畑を旗頭とする皇道派です。 (288 431) 皇軍は皇居の方を向いて遥拝してたんでしょうか? 皇居遥拝は植民地(最初は朝鮮半島)向けに“発明”された儀式だが 戦中じゃ本土の日本人にも広まっていたんだぜ おれの親父は船乗りだったが、毎朝船長の主導で皇居遥拝をやったと話していた 昭和40年代ぐらいまでに作られた戦争映画には皇居遥拝のシーンがわりとよくでてくる (287 46) 予科練卒は最速で20歳と聞きました。そのときの階級は何なんですか? それと卒業後は毎年大尉までは自動的に昇進するというのは本当ですか? 甲飛は、16歳(1943年以降は15歳、1944年には中学二年修了程度)で入隊し、二等飛行兵から進んで、 2年半の教育終了後に上等飛行兵曹、更に練習航空隊撰修学生として1年教育の後、23歳で少尉となる ことが予定されています。 前述の通り、最初の入隊年齢が下がっているので、少尉任官が20歳というのはあり得る話ではあります。 乙飛は、15歳(1941年以降は14歳)で入隊し、二等航空兵から開始して、19歳で二等航空兵曹、25歳で 飛行兵曹長、29歳で少尉となることが予定されていました。 そこまでは自動的な昇進ですが、それ以後は人事考課に従って昇進が決められます。 (287 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本はガタルカナルなど南の島に基地を作りましたが、物資を運ぶ輸送船は陸軍が海軍に借りると言う形で船を貸してもらったんですか? それとも陸軍の要請で海軍がそこまで船を動かしたんですか? 上海事変が起きたときに、陸軍は輸送船を確保できなかったために出動できず 海軍の上海特別陸戦隊が予想外の勝利を重ねてしまい、陸軍の威信と活動計画が潰れてしまいました。 そこで、事変解決後に、陸海軍がそれぞれどの民間船を借りて運用するかを明確化した計画が立ちます。 日華事変はあまりにも突発的に発生したので、この民間船運用計画は使えず、 増援部隊を海軍艦船で派遣する羽目になってます。 そこで、さらに民間船運用計画を具体化する一方、陸軍独自の揚陸艦計画も立ちました。 太平洋戦争は、1年半以上の時間をかけて陸海軍の担当部署を分けた上で開戦に臨みました。 民間の輸送船を借りる際も、陸軍がこの船を徴用・海軍がこの船を徴用…と事前に話し合ってます。 この協議によって、たとえば日本郵船りま丸・りすぼん丸は陸軍が借り、りおん丸は海軍が借りると決まり これによって、りま丸は兵員輸送用の「蚕棚」、りおん丸は飛行機修理工具をセッティングできるわけです。 陸軍は20万トン分の輸送船を維持する契約ができ、護衛はもちろん海軍艦船が付きました。 しかし当然ながら、補給任務を続けているうちに撃沈される船も増えてくるので、 新造船の取り合いや陸海軍間での契約差し替えが必要になりました。 陸軍はとにかく輸送に必要な輸送船を欲しがり続けてますが、海軍もそれは同じことです。 閣議で陸軍18万トン減少案が突き出されて、逆に37万トン増加を主張する参謀本部と大きく見解が分かれ 佐藤賢了軍務局長と田中新一1部長が殴り合ったのは余談…。 (278 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 旧日本軍の職業軍人の戦死率と、一般召集兵の戦死率ってどっちが高かったんですか? 士官でも後方勤務と前線勤務がありますし、士官と兵でもまた違いますし、一般召集兵についても 二種類有るので、一概には言えませんが…。 指揮官先頭などの伝統があるので、前線勤務の士官の戦死率は高いです。 太平洋戦争開始前には既に前線勤務の士官は払底しており、そのために大学生の様な高等教育を 受けた人間で充当する構想が進んでいます(これは俗に言う学徒動員)。 兵士の中では、充員召集を受けた者と、臨時召集を受けた者では、前者の方が大事にされます。 極端な話、臨時召集を受けたものを先に立たせて、後から充員召集を受けた者が付いていくと言う 状況もあったようです。 これは、充員召集が、元々の計画に従って宛われた将兵であるのに対し、臨時召集は単に該当師団に 欠員が出た者を召集で補う為に起きたりしています。 (107 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 陸軍士官学校、海軍兵学校の定員は何人なんでしょうか? また、陸大、海大の定員は? 入学者数のデータは入手できなかった。逆に卒業者数から類推してほしい。 まあ定員はないに等しいように見受けられる。 陸士の場合(ソース:「日本陸軍がよくわかる事典」PHP) 士官生徒時代(明10~22)、1期117名。最少6期(明16)59名・最多11期(明22)207名。 士官候補生時代 1期(明23)147名、5期(明27)200人突破、 9期(明30)650人に急増、以後600~700人で推移。 18・19期(明38・40)それぞれ920名、1068名とピーク。翌年は反動で276名に激減。 22期(明43)以後700人前半で推移、29期(大6)536名に激減、以後200~400人で推移。 53期(昭15)1719名に激増、以後2200名程度で推移。57期(昭19)2413名。 海兵の場合(ソース:参拾壱頁) 1期(明6)2名、以後、平均的に30名未満で推移。 27期(明32)113名、初めて100人突破。 30期(明35)188名に急増。32期(明37)192名、ピーク。以後100名前後で推移。 50期(大12)255名・51期(大3)236名と例外的に突出、翌年反動で60名強。 55期(昭2)以後120名強で推移。 66期(昭13)200人突破、以後激増、73期(昭19)898名。 陸大・海大はデータなし (107 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 補足。 海軍大学校は明治21年に甲号生徒9名を送り出し、25年までは平均9名(23年のみ2名)、 27年に将校科となって、5~8名、明治31年以降は甲種となって33年まで一桁台となり、 日露戦争時は一時途絶えますが、35年に一挙に44名が卒業し、再び39年まで卒業が途絶え、 以降は20名~30名で推移します。 以後昭和13年に30名、15年に27名となり、最後が18年の25名です。 一方の陸軍大学校は、明治18年に10名を卒業させ、以後は明治31年まで10~20名で推移します。 明治32年に一挙に40名前後に拡充し、同じく日露戦争の2年間は卒業生を輩出せず、明治42年に55名 に拡充されます。 以後、50~70名前後で推移し、昭和に入ると50名前後となります。 昭和13年、16年は年に2回卒業生を輩出し、昭和16年以後は毎回70名以上が卒業していきます。 更に昭和19年には年3回卒業生を輩出し、毎回100名近くが卒業しています。 最後が昭和20年8月卒業の120名でした。 (107 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 明治期の軍人恩給って大体いくら位ですか? 明治三十年あたりの。 う~ん、資料を探したのですが、昭和期のものしか見つからず。 △普通恩給 … 一定年限に達して退職した軍人と准軍人に賜る一般的な恩給。 准士官以上は在職13年以上14年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。 14年以上は、1年増す毎に退職前の棒給年額の150分の1に相当する金額を加算。 下士官以下は、在職12年以上13年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。 13年以上は、1年増す毎に下士官は7円、兵は6円を加算。 △増加恩給 … 公務中に傷病を受け、不具廃疾となった場合に軍人、准軍人に加算。 なお、准軍人とは、陸軍の見習士官、海軍の海軍候補生など。 △傷病年金 … 公務中に永続性の傷痍、疾病罹患により、不具廃疾に至らなくとも、これが原因で3年以内に退職 した者、または下士官以下退職後3年以内にこれがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。 △傷病賜金 … 下士官以下公傷、病にて傷病年金を受ける程度でなくても、これが為退職、または退職後1年以内に これがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。 支給額は最大660円、最低120円で16項目に区分される。 △一時恩給 … 在職准士官以下3年、下士官2年以上で恩給を受ける年限に達せずして退職した者に支給され、金額 は退職当時の棒給月額に在職数を乗じた額。 △扶助料 … 戦闘または戦闘に準ずべき公務で死亡した者の遺族には、普通恩給の金額、普通公務にて死亡した者 の遺族には、普通恩給の10分の8、その他は10分の5を支給。 △一時扶助料 … 在職3年以上で恩給を受ける年限に達せずして在職中死亡した者の遺族に支給され、支給基準は一時 恩給と同様。 ちなみに1943年当時の士官、准士官の年棒は以下の通り。 大将:6600円、中将:5800円、少将5000円 大佐:4150円、中佐:3220円、少佐:2330円 大尉:一等(海軍は一級以下同じ):1900円、二等:1650円、三等1470円 陸軍軍楽大尉:一等:2150円、二等:1900円、三等:1750円 海軍特務大尉:一級:2070円、二級:1191円 中尉:一等(海軍は一級以下同じ)1130円、二等:1020円 陸軍軍楽中尉:一等:1540円、二等:1390円 海軍特務中尉:一級:1740円、二級:1630円 少尉:850円 陸軍軍楽少尉:一等:1240円、二等:1130円 海軍特務少尉:一級:1470円、二級:1368円 海軍各科少尉候補生:670 准士官(陸軍):一等960円、二等:900円 准士官(海軍):一級:1220円、二級:1150円、三級:1043円、四級:930円 (109 眠い人 ◆gQikaJHtf2 ) 何故日本軍は突撃や戦闘に臨んでは軍旗を処分し、自沈や沈没間際になった艦艇は旭日旗を撤収するのですか? ちょっと勘違いがあるようなので。 陸軍が軍旗を処分する、というのは、これから全滅します、という意思表示の一種です。 だれも軍旗を持ち帰らない、だが敵の手には渡せない、だから処分する。 全滅覚悟の攻撃でない限りは、軍旗はきちんと持っていきます。 記憶によれば、軍旗を神聖視する習慣は西南戦争から始まったようです。 根拠・伝統があるわけではなく、元々は軍旗は単なる旗以上のものではなかったのです。 海軍の軍艦旗は陸軍の場合と異なり、フネの備品の一つにすぎず、 消耗品です。神聖視はされていません。 吹きさらしのなか、掲げっぱなしですから当然破れてきます。補修が追いつかなくなったら交換。 フネが沈む、というときに軍艦旗をおろす暇がある場合は限られます。 非常時には気がついた者がおろすという程度ですが、 自沈は若干時間に余裕があることが多いので、軍艦の生涯の幕引きとして下ろすのです。 (109 924) 日本海軍の軍艦は世界でもトップ・クラスなのに、何で陸軍の装備は、世界のトップと較べると見劣りするんですか? 陸海の予算分配に偏りがあったのですか? アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告書に書かれていたので書いておきまする。 1940~45年度に於ける陸海軍臨時軍事費特別会計、軍需省の歳出決算額で、日本銀行支払小切手によるもの。 これを原資料に、陸軍省、海軍省がそれぞれ地域別(海軍は無し)、費目別に算出しています。 1945年は4月~10月の上半期のみで単位は100万円です。 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年 陸軍省 4,191 6,383 10,368 15,764 45,511 20,808 海軍省 1,532 3,104 8,385 13,779 19,069 17,553 軍需省 1,244 10,472 8,993 合 計 5,723 9,487 18,753 30,787 75,052 47,412 陸:海 7:3 7:3 5:5 5:5 6:3 4:3 即ち、初期は概ね陸軍優位に推移していますが、中期~末期は対等になってきています。 次いで、上の表をこのうち費目別に編集し、うち兵器燃料費を抽出すると、 (若干インフレ率など会計処理的な推計が入っていますが) 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年 陸軍省 1,625 1,797 3,267 4,558 3,085 3,725 海軍省 978 1,814 5,629 9,114 8,022 5,619 合 計 2,603 3,611 8,896 13,672 11,607 9,344 陸:海 6:4 5:5 4:6 3:7 3:7 4:6 となります。 (115 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 戦争中、日本では化学兵器やレーダー関連の開発等で、理系大学の研究室と軍の研究所との共同研究はしていたんでしょうか? しています。 化学兵器に関しては、既存技術の応用だったために、大学との共同研究はしていません。 医学的研究という面ならありましたが。 電波兵器については、日本学術会議電波研究委員会と東北大学の共同研究から出発しています。 他にも原子爆弾の研究にも大学との共同研究が為されています。 (270 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧軍の陸と海、そして航空隊で徴兵の基準は違っていたのでしょうか? 徴兵は陸・海軍別々ではなく、陸軍の徴兵官が徴兵検査を行い一定の割合で海軍に 人員を振り分けていました。 一方海軍はもともと志願兵を重視しており、各鎮守府ごとに志願兵徴募の組織を設けていました。 昭和16年までは海軍の兵員で徴兵者の占める割合は5~6割程度です。 甲種合格の基準は身長155センチ・視力裸眼0.6でしたが、海軍は視力に関しては厳しく 裸眼視力1.0が必要でした。 陸軍が徴兵を行うという理由から海軍は陸軍と比べて兵員の体格がやや劣る傾向にあったそうです。 (50 名無し軍曹) 背が小さかったら徴兵は免れたって聞きましたけど本当なんでしょうか? あってもおかしくない。 戦争中でも全員を取れるほど軍隊の規模はでかくない。 また、背が低いのは徴兵検査の等級を下げる一因。 特に末期はそれだけでは決まらないが、原因にはなりうる。 また、徴兵検査自体は戦争してなくても徴兵制をしいていれば 取られる率は低いがある。 (52 951) 甲種合格の基準は身長155センチ・視力裸眼0.6でしたが、海軍は視力に関しては厳しく 裸眼視力1.0が必要でした。 陸軍が徴兵を行うという理由から海軍は陸軍と比べて兵員の体格がやや劣る傾向にあったそうです。 (52 955) 東亜戦時に徴兵検査にみたずに入隊できたかった、しなかった人は、当時だと非国民と呼ばれるんですか? 身体的に不合格の場合、そう呼ばれません ただ世間的に「情けないヤツ」と見られました 左翼的思想などで刑務所に収監されたり、徴兵検査そのものを逃げると非国民と呼ばれました (53 235) 非国民とは言われなかったですよ、軍隊にいけなかった人達は 他にも軍需工場などで働きましたし、農業などの食料を生産する仕事も ありますので。 (53 236) 日本軍は弾一発なくなっていても報告書を書かされるほど厳しかったと聞いたんですが本当ですか? 装備の管理については「書類上は」大変厳しかったことは確かです (弾一発レベルで管理していたかは知らない、スマソ) ただし「書類上は」というところがクセモノで、員数調査がある時だけ 他の部隊から融通してもらったりとかいったことも許容されて居たようで いわゆる旧陸軍の抱えていた組織上の欠陥としてよく指摘される「員数主義」 (書類上のつじつまさえ合っていれば実態はどうでもいい)です。 「厳しかった」と言えるかどうかは激しく疑問。 (54 299) 戦前の日本は何故、海軍省と陸軍省と、二つも軍関係の省があったのでしょう。 主に予算問題が原因です。 兵部省は陸軍の発言権が強く、兵部省に充てられた予算の9割以上が陸軍費に 充当されるに及び、予算配分の均等を望んだ海軍側の提案を受け入れる形で実施されました。 また、実際省務が陸海軍部に分割されて実施されていた点、 西欧における陸海軍の性質が異なる事も原因になったようです。 (55 31) 戦陣訓と軍刑法とはどんな関係にあったんでしょうか。 「戦陣訓」は「生きて虜囚の辱めを受けず」のフレーズが有名ですが、元々は軍規弛緩を正す ためにつくられたもの。占領地での略奪、命令違反などが横行したもので。 陸軍刑法との関係だと、状況の悪化を受け具体的細目を示した大臣告示(もしくは通達)のよ うな位置づけではないかと。 捕虜になることを問題視されるようになったのは何も「戦陣訓」のせいだけではなく、それ以前 (昭和初期)から捕虜をタブー視する非公式規範が軍や社会の中で醸成されていたようです。 そうした結果太平洋戦争以前でも、例えばノモンハン事件では多数の悲劇が生じました。 日露戦争の頃は違ったのですが・・・。 海軍は詳しくないのですが、将官で捕虜になったけどお咎め無しになった事件がありました。 もっとも下々の場合はそうはいかなかったようですが。 (56 525) 旧日本軍の撃ち空薬莢の管理は厳しくて1つ無くしても探し回ったそうですが 誰が、いつごろ、どのような理由で薬莢管理を厳しくしたのですか。 回収して資源として再利用するために日中戦争前後から 行われています。 実戦でも可能であれば薬莢回収は行っています。 演習においては、必ず薬莢回収を行っています。 ついでに、襲撃機キ-102の試作の際、当初機関砲に薬莢 受けは付けていなかったのですが、陸軍上層部の意向で、 薬莢受けを取り付けたと言う話もあります。 (57 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 山本五十六は英雄か、はたまた日本を奈落のそこに落とした人間の一人か? 海軍航空の育ての親としては評価が高いと思われ。 戦争指導に関しては賛否別れるといったところじゃないか? (57 283) 旧日本軍は従軍牧師のような制度は存在しないの? 中国戦線では従軍僧が同行していた(やっていたお坊さんに直接体験を聞いたことがある) その他、特に南方では多分いなかったはず 米軍とは違い、従軍僧は軍人ではなくて大谷教団が派遣していたので(えーと、他のも 派遣した宗派があったようだがよく知らない)軍属扱いかな (60 208) 愛新覚羅王女川島芳子さんの軍隊での階級は何ですか? 川島芳子の軍隊の階級は確かなかったはずです。 基本は自称で上尉と名乗っていたかと記憶しています。 (61 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧軍の飛行団は飛行師団から独立してたのですか? 飛行師団隷下の物と、独立飛行団の両方がある。 (87 292) 電信兵(?)というのはあったのでしょうか? 死んだ祖父が戦時中、それだったらしいのですが・・・ 日本陸軍の場合、通信兵種は工兵科に属します。 通信兵は歩兵旅団に通信隊として配属されるほか、師団の工兵大隊内部に電信聯隊という独立した 部隊としてもありました。 更に敗戦までに、工兵隊の膨張に伴い、通信隊司令部、電信聯隊、独立有線中隊、特殊無線隊、 超短波無線中隊、固定通信隊が出来、船舶輸送司令部配下には船舶通信聯隊も作られています。 また、陸軍通信学校では、軍用通信の教育と軍用鳩の育成を行います。 甲種は中少佐大尉に三ヶ月、乙種は大中尉に八ヶ月、丙種は尉官に八ヶ月、丁種は下士官に八ヶ月 の教育を行い、特種学生は尉官に暗号教育を三ヶ月、鳩学生は尉官下士官に二~四ヶ月の教育を 行います。 このほか、陸軍少年通信兵学校というのもあり、通信関係現役下士官(少年通信兵)養成の二年制 の学校で、1941年に設置されました。 卒業後、兵長として一年隊付きの後、伍長になります。 日本海軍ならば、通信兵種は、兵科に属します。 元々、水雷兵種に属していたもので、教育課程は、1930年に分離独立しています。 高等科は大中尉に一年、普通科は中少尉に四~六ヶ月、特修科は佐尉官、兵曹長、上等兵曹に四~六ヶ月、 専攻科は高等科卒に一年の教育を行なうものです。 (122 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧日本軍は戦前の、いわゆる平時にはどのぐらいの規模だったのでしょうか? 1930年で陸軍25万、海軍5万。 1931年で陸軍23万、海軍78,430。 1932年、陸軍30万、海軍83,822。 1933年、陸軍35万、海軍88,968。 1934年、陸軍35万、海軍97,069。 1935年、陸軍35万、海軍98,896。 1936年、陸軍40万、海軍107,461。 ちなみに、現役徴集率(その年の徴兵検査を受検した適齢者で、現役兵として 実際に入営した者の割合)は、1933年で20.1%。 1938年は46.9%となっている。 (126 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 軍人さんが亡くなった場合、遺族に恩給が出ますが、亡くなってすぐに出るものなんでしょうか? 戦争中に恩給をもらって生活するということはあったのでしょうか? 該当者の死亡確定後、1942年までは地方長官、1942年11月以降は市町村長への申請によって 在職三年以上ならば、遺族に扶助料として、公務中の死亡なら普通恩給の10分の8、それ以外なら 10分の5が支給されますが、その在職年限に達せざるに死亡した場合は、一時扶助料となり、その 金額は一時恩給と同額、即ち、死亡当時の棒給月額に在職数を乗じた額が一度だけ支給されます。 このほか、徴兵保険というのがあり、死亡の場合は保険会社から掛け金が支給されるものもあります。 今の富国生命が、その徴兵保険で大きくなった会社です。 いずれにしても、1942年までは地方長官決裁ですから、申請してもその支給までは暫く掛りますし、 恩給だけで生活するのは、半農半漁の自給自足が可能な人なら何とかなるでしょうが、それ以外の 人は、家族の為に再婚するか、自分自身が働きに出るかしないといけませんでした。 一時扶助料は文字通り一時金だけですしね。 (264 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本軍は世界的に見て強かったのですか? 何が強さの基準となるのかはっきりしないが、 まあ普通に考えれば陸海軍ともに世界的に見ても強かったな。 単に上には上がいるというだけで、当然下には下がいる。 (俺初質スレ433 177) 歩兵や水雷戦隊、航空隊に関しては連度も装備も良好で強かったのは確かだ! ただし陸軍なら対戦車装備が乏しかったし、砲兵には予備弾が少なく継戦能力が低かった。 さらには前線航空管制が無く、有力な航空直協が行えなかった。 海軍なら重巡洋艦以上の水上艦に関しては、明確に「強い」と言えるほどの実績に乏しいな! 夜間近接戦闘とか、トロくさい護衛空母を追いかけるんなら強かったが。 (俺初質スレ433 179) 旧軍の技術士官は「軍人ではあっても戦闘員」ではないと言う認識でOKですか? また左官待遇の「技官」という職種があったらしいのですが、技術士官との相違は何なのでしょうか? 陸軍の場合は、砲工科技術将校を以て構成しています。 即ち、彼等は兵科将校としての役割を持っています。 従って、戦闘員の扱いになります。 海軍の場合は、造船、造機、造兵の各科を統合したもので、彼等は、将校相当官に 位置づけられます。 従って、兵科将校ではありません。 「技官」は、軍属で軍人ではありません。 あくまでも、軍人以外で、本人の意思によって職業として陸海軍に勤務する者であり、 文官、雇員、傭人に分けられますが、技術官は文官扱いです。 その待遇はピンキリで、親任官待遇、つまり大将相当から、兵卒待遇まで様々ありま した。 (260 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 近衛師団の兵は逮捕権もってるんですか? 治安維持法に反する思想犯(例えば君主制の撤廃、共和制の実現、プロレタリア独裁政府の 樹立、国家否認、植民地独立、私有財産制度否認などなど)については、近衛師団が取締を 行うものではなく、検事局、特別高等警察、憲兵隊が担います。 近衛師団の兵が逮捕、拘禁する場合は、賢き処に対する直接行動(例えば、天皇に爆弾を 投げる、ピストルで狙撃する、日本刀で斬りつけるなど)を行った場合だけです。 (余談ながら、天皇行幸の際に供奉するサイドカーの側車前面にはカバーがありません。 これは、いざというとき、すぐに行動に移せる様にとの教訓からこのような仕儀になっています。) (141 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 天皇が大元帥として奉勅命令をだして陸海軍を統帥する場合の手続きを教えて下さい。 天皇の統帥権には、国防計画に関する事項、作戦計画に関する事項、平時に於ける陸海軍兵力の使用に関する事項、 戦時に於ける陸海軍兵力の使用、即ち、作戦・運用に関する事項、軍隊及び軍人の訓練・懲罰・内部組織に関する事項 が含まれます。 これらの統帥権を行使するのは、帷幄の機関、即ち、参謀総長、軍令部総長、陸海軍大臣の上奏に基づき行なわれるもの とされています。 上奏を行なうのは、あくまでも、「事の軍機軍令に係り奏上するもの」で、これらは、「陸軍大臣、海軍大臣より内閣総理大臣に 報告すべきもの」なのですが、屡々、この部分は忘れ去られています。 帷幄上奏に基づき勅定されるのが軍令で、手続き的には、参謀本部、軍令部、または陸海軍省で作成したものを、参謀総長、軍令部 総長、陸海軍大臣が天皇に上奏し、天皇が親署の後、御璽を鈐し、主任の陸軍大臣、海軍大臣が年月日を記入し、これに副署します。 これで成立する訳です。 本来は、これを公布する際には、内閣総理大臣への報告が必要ですが、先述のように屡々無視されています。 また、公布は、公示を必要としない場合もありますが、公示が必要な場合は、上諭を付し、官報に記載します。 ちなみに、2.26事件の様なクーデターとかに行なわれた戒厳大権、戦時、内乱勃発時に行なわれる非常大権については、これは 統帥権の埒外になります。 (146 眠い人 ◆gQikaJHtf2) せっかく兵部省の元に陸海軍の両方を置いていたのに、その兵部省を廃止して陸軍省・海軍省の2つに分けてしまったのは何故でしょうか? 兵部省から海軍が分離したのは、明治5年のことです。 元々、日本の軍隊というのは、中央政府軍としての御親兵と、地方の治安維持のために鎮台を各地に 設けているところからスタートし、その人材は、各大名家の藩兵から募っていた訳です。 しかし、徴兵制が施行され、平民出身の兵士が各鎮台に入営し、歩兵聯隊9個が編成されました。 また海軍も明治5年以降拡張が続きます。 国内治安優先の軍隊から外征用軍隊への転換を促したのは、兵部大輔の山県有朋で、彼は1871年12月、 兵部少輔の川村純義、西郷従道と共に、政府に「軍備意見書」を提出し、常備兵、予備兵からなる徴兵制 導入、軍艦、海岸砲台の建造、幹部養成学校や軍工廠の設置を行ない、しかる後に朝鮮半島を利益線として 確保し、ロシアの南下に備えるとしました。 これを実現するには一つの組織では難しく、結果的に分割した方が良いと言うことになり、陸軍省と海軍省を 並立させた訳です。 但し、「陸海軍」と海軍が従になったのは、明治5年からの事で、明治初年は海陸軍と称しています。 余談ながら、原敬はその日記で、死に至るまで「海陸軍」と書き記していたそうです。 (148 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧陸海軍は異なった仮想敵国を立てていましたが、海軍の対ソ戦研究、陸軍の対米戦研究というものは行われていたのでしょうか? 海軍は日ソ間の戦争を深く研究してはいませんでした。 そのツケが現れたのが尼港事件。 以後、ようやく冬季の沿海州行動がスムーズにできるように、 膠州や見島などに砕氷改造を施し、やがて大泊を就役させることになります。 また、満州事変後に建国させた満州国の水上戦力指導のために駐満海軍部を設置し、 この特務機関の主任務を ・陸軍省も参謀本部も把握できていない関東軍の状況把握 ・ソ満国境付近での対ソ諜報活動 ・満州海軍の指導 として掲げ、対関東軍諜報活動の片手間に、国境ソ連軍の動向調査を行っています。 要は、たいした対ソ研究はやってないんですね…軍令部でも課一つで対応してましたし。 (248 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 旧軍の少尉クラスの人間は、私生活においての生活水準はいかほどったのでしょうか 陸軍少尉の場合、年俸は850円で、恩給法13条では仮定棒給年額が160万円とされています。 これは大学事務官、事務官補、関税官などより低く、判任官三等七級より高いものです。 判任官は、技手、外務書記生、警務官補、裁判所書記、看守長、帝大助手、文部省直轄学校助教授、 二等郵便局長、警部、警部補、消防士が軍人以外に挙げられます。 これより下が、判任官待遇で、小学校教諭、府県書記技手、三等郵便局長、巡査、鉄道手です。 生活水準としては今と同じで、贅沢さえしなければ、そこそこ暮らせる状況でしょうね。 (157 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 旧軍の予備役軍人(将官)の人がいますがどのような生活をしていたのですか? 人生色々ですわな。 将官まで勤め上げた人なら、余程のことがない限り、基本的には、何処かの軍需関係の 企業や軍関係の外郭団体、その他でも地方公共団体が拾い上げてくれます。 今の何処ぞの国の公務員と同じだと…。 例えば、55歳の大佐(兵科の場合)であれば、少将に進級することが無ければ、現役から 退くことになります。 現役のままでも、補職の命令がなければ待命となります。 待命と言うのは、俸給は支払われますが、職がない状態です。 待命期間は1年で、この間に補職が為されないと、休職となります。 この間に就職活動とかする訳で。 休職期間は2年で、これが過ぎると予備役に編入されます。 そして、現役定限年齢に達した日の翌3月31日に後備役に編入されます。 後備役の期間は6年で、それを過ぎると退役になります。 (1941年以降は予備役6年で後備役は無くなる) なお、待命~休職は人によってまちまちで、この手続きを経ずに本人の願いによる 場合、あるいは健康状態や、人事上の都合で、直接予備役編入という場合もありま した。 (159 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 明治の旧軍創設時、薩摩閥と長州閥に別れていましたが、やはり仲は悪かったんですか? 派閥同士の対立は何処でも同じです。 特に山梨軍縮、宇垣軍縮の時の陸軍内部の対立は、山県有朋から連綿と続く長州閥の占める 陸軍中枢と、それに対抗するそれ以外の極端な保守派が対立していますが、この保守派の中 には、薩摩閥を多く抱えていました。 ちなみに、薩摩閥、長州閥の優遇というのは日露戦争以後、山県有朋の隠棲後は表向き影を 潜め、士官学校出の様々な出身地の人々が徐々に増えていっています。 海軍については、薩摩閥が多かったですが、こちらは西郷従道など薩摩出身者が部内の融和 に勤しんだため、対立が極端になるといったことは少なかったようです。 (159 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 銃剣道は、元はフランス人が戸山学校に講師?として指導したのが始まりというのを聞いたのですが、本当でしょうか? 陸軍は当初フランスをお手本にしてた。銃剣術もフランス式だったが、 西南戦争なんかやってみると、これがあまり役に立たない。 戸山学校などではこっそり日本の槍術を取り入れた日本式銃剣術を研究。 陸軍のお手本がドイツに変ったのを機にこれが採用された。 軍では「銃剣術」であったが、学校等では武道「銃剣道」として広がり、 戦後はこの武道としての銃剣道が残った、ということ。 (235 512) 38式歩兵銃や零戦、一式陸攻、90式戦車などの数字は開発完了当時の年数にちなむものですよね? 明治初年の陸軍創設の頃は、兵器は海外からの輸入に頼っていたので、海外の輸入先である国の制定年度を呼称していました。 明治13年からは、基幹兵器となる小銃が初めて国産化されたため、以後、採用年度が制定年度として各兵器に冠せられました。 明治13年から大正15年(実際は大正14年)までは、元号を制定年度としています。 本来は、「○○年式」という呼称が正しいのですが、明治31~45年にかけては、その体裁が崩れ、三八式歩兵銃、 四五式榴弾砲という形で、「年式」省いた略称が喧伝されたケースもありました。 昭和期に入ると、制定年度で、呼称を付けるのは、大正期と紛れやすくなるため、陸軍では皇紀の下二桁を 冠することに切り替えました。それは、昭和元年の八六式から開始されています。 皇紀は昭和15年に2600年となりますが、昭和15年制式のものを陸軍は一〇〇式、海軍は零式とし、 以後は下一桁を以て兵器に冠しています。 (169 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 兵士が戦地から故郷に宛てた手紙って、送料はどのくらいしたのでしょうか。 葉書は兵士に対しては,一定枚数が配られ,その通信費はタダ,封書・航空便は内地と同じ金額を支払います.電報,書留, 現金書留はありませんが,貯金,為替は取り扱っています. (176 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 将校は終身制なんですよね? 将校は終身官であり、退役しても退官しない限り軍人です。 退官は、処分などにより免官となる場合などに限られ、普通には無い訳で。 で、将校は、現役→予備役→後備役→退役という形で推移していきます。 兵役では、旧陸軍の場合、一般的に満20歳(1944年から19歳)から陸軍2年、海軍3年の期限で、 教育のため軍隊に入って軍の根幹足るべき者が現役、その現役の終わった者全員(軍残留者除く) が予備役、これが陸軍5年4ヶ月、海軍4年あり、戦時には最優先で召集されます。 この予備役が終わった者全員は後備役となり、戦時は予備役が払底した後に召集を受けます。 但し、日華事変で後備兵役者が多数召集されて、予備役と区分する意味が無く、後備兵役の名で 自他共に老人扱いする弊を除くべく、1941年に予備役に統一されました。 後備兵役は、陸軍10年、海軍5年であり、1941年以降は、予備役として、現役を退いて後、陸軍15年、 海軍12年となっています。 (231 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 陸軍と先鋭的に対立していた海軍がなぜ独自の憲兵を持たず陸軍憲兵に部内警察業務を委託してたのですか? 憲兵は陸軍大臣に属する兵科ではありますが、海軍大臣の指揮をも受けます。 これは明治31年勅令第337号の憲兵条例に定められたものでした。 更に遡るなら、1881年(明治14年)3月11日の憲兵条例第一条で、海軍の取締も定められています。 海軍大臣の指揮を受けるのは、海軍軍人をも取り締まる為でしたが、この規程は内地限りのもので、 戦地には適用されないとして、海軍は太平洋戦争時、海軍が軍政を布いた地域に、「海軍特別警察隊」 を設置しました。 これは、占領地の軍事警察、日本軍に対するあらゆる言動の取締り、敵スパイ活動の防止、海軍軍人の 軍紀法律違反事件、非軍人日本人の犯罪行為などあらゆる情報を集め司令部に報告することを任務と していました。 この組織は、1942年半ばから設置されましたが、設置に当っては、当然陸軍憲兵関係者の強い反対が あったようです。 現地では、白地に赤字で「特警」と書いた腕章を捲き、いつも拳銃を持って巡回し、憲兵同様に現地人や 日本軍人にも恐れられています。 (131 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 陸軍と海軍ではなぜ用語の統一がされなかったんですか? 「用語」と言われても広範囲にわたるので、 「零式vs百式」程度のたわいないものから「動員vs出師準備」みたいな意思疎通不能のものまで様々ですが…。 機器や物資の呼称が陸海軍で食い違う原因の一つに「陸海軍御用達」の会社の存在があります。 たとえば陸軍寄りの川崎航空と海軍寄りの愛知航空、海軍寄りの三菱造船と陸軍寄りの三井造船 それぞれ陸海軍の要求に応えられるだけの大企業なので、海外企業と提携することも多く コンセプトは同じでも呼称や仕組みが異なる機器が各企業でも生まれたりもします。 そんな企業に対し、退役陸海軍将校が役員として天下りしてくるので、 そのぶん軍と企業の癒着は強まり、陸軍専用会社・海軍専用会社の壁はますます厚くなり 技術交流も進めづらくなって、企業同士の意思疎通もうまくいかず、 名が異なる同じ機構が陸海軍に採用されるという悪循環が起きもするわけですが。 (225 鷂 ◆Kr61cmWkkQ) 機関銃中隊が無い部隊というのを聞いたのですが。 機関銃中隊は編成に存在します。 後方警備部隊でも編成表上にありますし、本土決戦用師団でも存在しています。 但し、資料にある時点が、派遣された先での編成というものであれば、機関銃中隊の欠落は十分考えられます。 と言うのも、日本の船舶輸送では、兵士は兵士、装備品は装備品、弾薬は弾薬という形で分けて 輸送していました。 欧米の場合は、兵士、装備品、弾薬、車輌などが或程度一定の比率で分けられていますが、これ には無駄なスペースが出来てしまいます。 日本の船舶にはそんなに余裕がないので、出来るだけ、単一のものを輸送する傾向にありました。 で、なるべく、それに関連する人員も乗せるようにしています。 そんな時に、ある船舶が沈んだらどうなるか。 例えば、其処に機関銃中隊の装備が搭載されていたら、機関銃中隊諸共装備は失われる訳です。 フィリピン向け輸送船団ヒ81なんかそう言う典型例ですね。 (213 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本軍は自動小銃の有効性に気付いていなかったのですか? 自動火器の有効性について日本軍は、日清日露の戦闘で嫌と言う程経験して居り 小銃の自動化以前に歩兵装備としての軽便機関銃の開発を急ぎました。 ガーランド小銃の有効性以前に、軽機関銃等を豊富に装備した日本軍の自動火器は遥かに充実しており 火砲などの支援が得られない状況では、火力において日本軍は米軍を常に凌駕していたのが事実です。 兵站への半端ではない負担と、急遽数量を確保した為に多数の種類の弾薬を同時に運用せねばならなかった為に 弾薬不足が慢性化してしまった為に、弾薬の不足がより深刻化した事が、 戦争後半での火力不足の実情で、兵站さえまともであれば、火力では勝っていたのです。 (702 三等自営業 ◆LiXVy0DO8s) 日本軍の磁気信管にはどういう問題があったの? 磁気信管は不発が多かった事があげられる。 要因としては電気技術、工作技術が現在とくらべて未熟であったためとしか言いようが無いけども、 とりわけ日本においては電線の絶縁技術不足が致命的だった。 現在では当たり前のリード線(電線)のビニル被覆(電線の皮)を日本では多く作れなかったので、 油紙や油を染ませた布を銅線に巻きつけることで絶縁被覆としていたけど、 ビニル被覆に比べると格段に絶縁性能が低くて、絶縁不良(ショート、短絡)による動作不良を多く起こした。 これは魚雷だけではなく、当時の日本のほぼ全ての機械に潜在する動作不良の要因だった。 (722 339) 旧軍兵士が死亡した場合、家族にはどうやって伝えられたの? 日本軍の兵士が戦場で死亡した場合、その戦死は、先ず電報(内報)で役場に伝えられる。 その内容は、兵事係から家族に通知されるが、正式な戦死公報は数ヶ月、長ければ数年かかる場合もあった。 戦死公報には、本人の姓名階級と本籍地に加え、死亡日時と場所と死亡原因が記述されている。 また、遺族に対しては、遺品並びに戦死の状況を記した戦死概況が手渡される事もあったが、 太平洋戦争末期には、戦死公報のみが送られている。 (しょうもない知識を披露するスレ11 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 二等兵から佐官クラスに出世することは可能ですか 少数だが、陸海軍とも、再下級兵から累進して、佐官になった人はいる (俺初質スレ1024 950) 海軍の場合、戦前から開戦後しばらくまでは、兵隊上がりの最高位は特務大尉までで、 佐官は退役時に1日のみ少佐に特進するのと、戦死後の特進に限られていたかと 戦争中に中堅士官が足りなくなり、特務士官から、正規の少佐への道が開けたんじゃなかったかな (俺初質スレ1024 952) どうして旧日本軍(大日本帝国)に「空軍」が出来なかったのでしょうか? 独立空軍を作ろうにも、 太平洋戦線では洋上航空戦が中心なので海軍は独立空軍のために機材や人員を引き抜かれたくないだろうし、 かといって陸軍航空隊単独で独立空軍を作るほどの規模もないしその必要性も薄い 同じく洋上航空戦が重要だったアメリカだって戦後まで独立空軍作ってないしな (俺初質スレ2049 863) アメリカの場合、法制上独立してなかっただけで39年ごろから実質的に陸軍の管轄から離れてるよ で、戦争がなければもっと早期に独立するはずだった 議会の反対論がかなり強かったので遅れる可能性もあったけど (俺初質スレ2049 864-865) 日本もドイツがやってるからうちもやろうで陸軍は乗り気だったけど海軍が反対で流れた (俺初質スレ2049 864-865) もともと航空戦力は陸・海の支援火力にすぎないと言う考えが根本にあったからね。 今の自衛隊は陸・海・空が別れているが、これが必ずしもいいとも言えない。 例えば海自艦船が敵襲を受けて航空機支援を求めても、空自とは別組織なので意思決定が面倒 海自のお偉いさんが要支援と判断→空自のお偉いさんに支援要請 →空自のお偉いさんが要支援&支援可能と判断→支援命令 とお偉いさん2人の判断が必要になってしまう。 海自の隷下であれば海自の判断・作戦に従って動くので指揮命令が圧倒的にスムーズ (俺初質スレ2049 868) 陸軍の士官学校や陸軍大学校は皇族や朝鮮の王室の人ならほぼ無試験で入れたみたいですが、彼らは入学してしまえば一般の入学生と同じようにスパルタ教育されたの? 皇族は別扱いで、無条件に主席卒業確定。 (俺初質スレ20501 241) 上級生にシバかれたりするのは確実に無い 皇族軍人は任官後も実務にあまり携わらない人の方が多いし (俺初質スレ20501 242) 平時に外地に赴任しててもきな臭くなるとどこからともなく転属命令が出て、内地に戻れる。 (俺初質スレ20501 243) 北白川宮永久王みたいに大陸で事故死する宮家もいるから、一概にそうとも言えない (俺初質スレ20501 244-245) 旧日本軍では銃(他の装備も?)は天皇から貸していただいたものなので壊れても携行しなければならないとされていたという記述を何処かで見ました。 でも、戦争映画などでは鹵獲した米軍の武器を使用しているシーンがあり、その際三八式歩兵銃などは持っていませんでした。 実際のところ、壊れたり弾切れの銃は捨ててもよかったんですか ニューギニアで戦った砲兵の手記では、撤退のときに中隊長命令で38歩兵銃(弾薬切れ)を 崖下に投げ捨てる模様が描かれている (俺初質スレ434 803) 兵全員が小銃持ってるわけじゃないし 故障したり吹っ飛んだりで銃がなくなる 平時なら部品ひとつでも無くせばリンチで下手したら自殺に追い込まれるが最前線で玉砕戦線じゃなんでもありです (俺初質スレ434 804)
https://w.atwiki.jp/daisenryakudaitoua2/pages/20.html
→進化 →改良 戦車系 九二式重装甲車 ┗改修九四式軽装甲車 TK ┣九五式軽戦車 ハ号 ┃┣九八式軽戦車 ケニ ┃┃┗二式軽戦車 ケト ┃┣特二式内火艇 カミ ┃┃┗特三式内火艇 カチ ┃┃ ┣特五式内火艇 トク ┃┃ ┗特四式内火艇 カツ ┃┗四式軽戦車 ケヌ ┗九七式軽装甲車 テケ 戦車・自走砲系 八九式中戦車 乙型 ┣九七式中戦車 チハ ┃┣九七式中戦車改 新砲塔チハ ┃┃┣二式砲戦車 ホイ ┃┃┗四式砲戦車 ホロ ┃┣一式中戦車 チヘ ┃┃┣三式中戦車 チヌ ┃┃┃┗四式中戦車 チト ┃┃┃ ┗五式中戦車 チリ ┃┃┗特三式内火艇 カチ ┃┃ ┣特五式内火艇 トク ┃┃ ┗特四式内火艇 カツ ┃┣一式砲戦車 ホニⅠ ┃┃┗三式砲戦車 ホニⅢ ┃┃ ┗試製75粍砲戦車 ナト車 ┃┃ ┗試製105粍砲戦車 カト車 ┃┃ ┗試製105粍砲戦車 ホリ車 ┃┗一式砲戦車 ホニⅡ ┃ ┗四式砲戦車 ホロ ┗九五式重戦車 ジロ ┗超重戦車 オイ 対戦車砲・自走砲系 九四式37粍速射砲 ┗一式機動47粍砲 ┗三式砲戦車 ホニⅢ ┗試製75粍砲戦車 ナト車 ┗試製105粍砲戦車 カト車 ┗試製105粍砲戦車 ホリ車 野砲・自走砲系1 改造三八式野砲 ┗九二式歩兵砲 ┗機動九〇式野砲 ┗一式砲戦車 ホニⅠ ┗三式砲戦車 ホニⅢ ┗試製75粍砲戦車 ナト車 ┗試製105粍砲戦車 カト車 ┗試製105粍砲戦車 ホリ車 野砲・自走砲系2 四一式山砲 ┣九四式山砲 ┗二式砲戦車 ホイ 野砲・自走砲系3 四年式15糎榴弾砲 ┣機動九一式10糎榴弾砲 ┃┣九六式15糎榴弾砲 ┃┗一式砲戦車 ホニⅡ ┃ ┗四式砲戦車 ホロ ┗四式砲戦車 ホロ 野砲・列車砲系 八九式15糎加農砲 ┗九二式10糎加農砲 ┗九〇式24糎列車加農砲 野砲・自走ロケット系 九六式中迫撃砲 ┗KB トラック/15糎多連装噴進砲 高射砲系 十四年式10糎高射砲 ┗八八式7糎野戦高射砲 ┗九九式8糎高射砲 高射砲・自走砲系 九六式25粍双連機銃 ┗九八式20糎高射機関砲 ┗九八式五屯牽引車/20粍高射機関砲 ┗試製対空戦車 ソキ車 装甲列車系 臨時装甲列車 ┗九四式装甲列車 輸送車系 KB 1.5屯トラック ┣KB トラック/15糎多連装噴進砲 ┗KCY スキ車 歩兵系1 日本軍・歩兵(甲) ┗日本軍・機関銃携行歩兵(甲) ┗日本軍・重兵装歩兵(甲) ┗日本軍・近衛兵(甲) 歩兵系2 日本軍・初年兵 ┗日本軍・古年次兵 ┗日本軍・重兵装歩兵(乙) ┗日本軍・近衛兵(乙) 歩兵系3 日本軍・動員兵(甲) ┗日本軍・歩兵(乙) ┗日本軍・機関銃携行歩兵(乙) ┗日本軍・重兵装歩兵(丙) 歩兵系4 日本軍・動員兵(乙) ┗日本軍・歩兵(丙) ┗日本軍・機関銃携行歩兵(丙) 歩兵系5 日本軍・学徒兵 ┗日本軍・機関銃携行学徒兵 ┗日本軍・重機関銃携行学徒兵 歩兵系6 日本軍・初年学徒兵 ┗日本軍・古年次学徒兵 ┗日本軍・機関銃携行学徒兵 ┗日本軍・重兵装学徒兵 歩兵系7 日本軍・騎兵(甲) ┗日本軍・近衛騎兵 歩兵系8 日本軍・騎兵(乙) ┗日本軍・重兵装騎兵 歩兵系9 日本軍・空挺兵(甲) ┗日本軍・精鋭空挺兵(甲) 歩兵系10 日本軍・空挺兵(乙) ┗日本軍・精鋭空挺兵(乙) 歩兵系11 日本軍・海軍陸戦隊歩兵 ┗日本軍・特別陸戦隊歩兵 today - yesterday -
https://w.atwiki.jp/daisenryakudaitoua2/pages/19.html
→進化 →改良 空母型1 鳳翔型 ┗龍驤型 空母型2 赤城型 ┗大鳳型 空母型3 加賀型 ┗大鳳型 空母型4 蒼龍型 ┗飛龍型 ┣翔鶴型 ┗雲龍型 空母型5 千歳型(水上機母艦) ┗千歳型(軽空母) 空母型6 日本軍油槽艦 ┗祥鳳型 戦艦系 金剛型 ┗扶桑型 ┗伊勢型 ┣長門型 ┃┗大和型 ┃ ┣信濃型(実際は改装ではなく進化) ┃ ┗大和型(最終改装型) ┃ ┣797号艦型 ┃ ┗795号艦型 ┗伊勢型(最終改装型) 重巡洋艦系1 古鷹型 ┗青葉型 ┗妙高型 ┗高雄型 重巡洋艦系2 最上型 ┣伊吹型 ┣利根型 ┣最上型(最終改装型) ┗大淀型 軽巡洋艦系 天龍型 ┗球磨型 ┗長良型 ┗川内型 ┗阿賀野型 駆逐艦系 峯風型 ┗神風型 ┗睦月型 ┗吹雪型 ┣初春型 ┃┗白露型 ┗朝潮型 ┣陽炎型 ┃┗夕雲型 ┣秋月型 ┃┗島風型 ┗松型 海防艦系 占守型 ┗御蔵型 ┗丙型 輸送艦・空母系 日本軍特設輸送艦 ┣隼鷹型 ┣大鷹型 ┃┗海鷹型 ┣神鷹型 ┗一等輸送艦 ┗二等輸送艦 潜水艦系1 海大3型a ┗海大5型 ┗海大6型a ┗海大7型 潜水艦系2 巡潜1型 ┗巡潜3型 ┣巡潜甲型 ┃┣巡潜乙型 ┃┃┣巡潜甲型 ┃┃┗巡潜丙型 ┃┃ ┣巡潜甲型 ┃┃ ┗巡潜乙型 ┃┗巡潜丙型 ┣巡潜乙型 ┗巡潜丙型 潜水艦系3 海中5型 ┗中型 ┗潜高型 ┗潜高小型 潜水艦系4 甲標的型 ┗海龍型 today - yesterday -
https://w.atwiki.jp/zerosen/pages/14.html
日本軍キャンペーン
https://w.atwiki.jp/r-type-tactics/pages/841.html
型番 Bhw-Gns3B 名称 ゲインズ3白兵戦型・改 種別 人型接近戦機 HP 125 索敵距離 3 燃料 40 スピード(加速時) 3(4+) チャージ -- 回避性能(加速時) 40%(7%) AcePilot(回避性能) 48%(9%) 開発コスト なし 開発条件 なし(追加ダウンロードコンテンツ) weapon 名称 弾数 威力 射程 命中率 用途 分類 備考 ゲインズクロー 15 52 1-1 85% 攻/反 光学白兵戦兵器 エクスカリバー 4 77 1-1 78% 攻撃 光学白兵戦兵器 体当たりH 99 75 1-1 75% 攻撃 体当たり ノックバック 特性・搭載 占領可能 解説: 元来は長距離支援型の機動兵器であったが、接近戦用に改造されたタイプ。 機動力と破壊力で相手に近づき、一撃で葬り去る。 加速機能が追加された。 青くなって帰ってきたゲインズ3白兵戦型。戦闘能力は据え置きで、加速機能が追加されている。 加速するとスピードが4+になるので元の機体よりもかなり使いやすくなった。 ただしエクリプス系同様、加速すると回避が低下する点には気を付けたい。 番外編序盤では手負いの謎戦闘機にトドメを刺すのに使えるし、反撃のゲインズクローも命中が高いため削り役に使える。 ほのかな光では一長一短なのでナスルエル・ナスルとどっちを入れるかかなり迷うところ。思い切ってバイド・システムαを1機切るのも1つの手かもしれない。 後半は接近戦闘しかできないのでゲインズ2よりも若干見劣りするが、戦力としては決して悪くない。旗艦の護衛役やジャミングからの奇襲等プレイスタイルにもよるが十分長く使い続けることができる。 初出 R-TYPE TACTICS Ⅱ(PSP) よくよく見ると武器以外はゲインズ2と同じだったりする。(ゲインズ3はゲインズと同じ。) 改造するときにフレームをゲインズの物に戻さないほうがよかったのでは?というツッコミは禁句。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/army2ch/pages/222.html
日本軍戦車の黄帯迷彩って、本当に効果があったのでしょうか? 四式中戦車関係の文献史料って現存してるのでしょうか。 戦前・戦中の日本戦車に多用されたシーソー式の懸架装置についての質問です。 旧日本陸軍はロシア・ソ連が仮想敵国だったはずなのに,なんであんなに戦車がしょぼいんですか? 旧日本軍の戦車は米戦車に比べてかなり装甲が薄かったそうですが,何故もっと装甲を厚く出来なかったのですか? 「三式飛行戦車」これってなにか分かりますか? チハ チヌ ホニとか言うけれど、この法則ってどうなってるの? 旧日本軍の”砲戦車”っていったいどういう意味で付いた名前なんでしょ? 日本の戦車は手榴弾一発であぼーんされるものなんでしょうか? 九七式中戦車が最近まで競争試作だった事を知らなかったド初心者です。 第2次大戦中、日本軍の戦車がアメリカ軍の戦車を撃破したことってあるんですか? 97式中戦車について質問です。 日本海軍の軍艦はずいぶんと強力だったのに日本陸軍の戦車は超弱かったのはなぜですか? 二次大戦中の日本の戦車は、連合軍の重機の弾丸すら貫通してしまうほど、装甲が薄いと聞いたのですが、どうなのでしょう? 旧日本軍の戦車には防弾ガラスがなく、単に風通しがいい窓だったというのは本当ですか? 日本軍の戦車ですが、開戦前ならともかくM4やらパンターやらT-34やら出てきた大戦中盤以降になっても、デザインに進歩が見られないように思うのですが 大戦中の戦車って、トランスミッションがよく壊れたらしいけど日本軍の戦車ってどうなの? チハは57mm砲を長砲身化して攻撃力を向上させることは、できなかったんでしょうか? 「日本の戦車は港のクレーン能力によって重量を制限された」などと言われますが、単に輸送船からランプを使って自走で積み降ろしすれば良かったんでは? 五式中戦車や、計画のみで終わったホリ車の主砲には半自動装填機を組み込む予定だったようですが、 日本戦車の戦闘力不足の一因ってやっぱり馬力不足? 砲塔はチハとかでも自動で回転したんだよね? 97式中戦車改はなぜ一式機動砲をそのまま流用して搭載せず、砲身をやや切り詰めた一式戦車砲をわざわざ採用したのでしょうか? 日本が試作したという100トン重戦車について教えて下さい 小銃の徹鋼弾でチハの装甲の20mmの部分を零距離で撃てば貫通しますか? チハたんの後継戦車が、なかなか本格的に生産、運用されなかった訳は? なんで旧日本陸軍の戦車ってあんなに弱いの? 司馬遼太郎が戦車をヤスリで削った話の真偽について教えて下さい 陸軍は本土決戦のため三式戦車を温存してたようですが、1945年夏の時点のM4シャーマンに勝てたでしょうか? 四式中戦車や五式中戦車の後継は計画されてましたか? 日本軍の戦車はM4に対抗できたんですか? 3式中戦車にベンチレーターがついてないという記事がP誌に載ってましたが、本当でしょうか? 一式中戦車の主砲はその主砲でシャーマンは撃破できたのでしょうか。 司馬遼太郎が日本の戦車エンジンについて、でかい、馬力がない、複雑で運用が難しい、という欠陥だらけのもの書いてましたが。 日本軍の戦車は走行しながら主砲を撃てた、というのは本当でしょうか? 九七式中戦車の砲塔内には、何発の弾薬を積めますか? 日本軍の戦車の燃費はどれぐらいだったんでしょう? チハでM3やM4に対抗出来たんですか? 日本戦車はソ連戦車と違って無線が完備していたんでしょうか? 日本軍戦車の黄帯迷彩って、本当に効果があったのでしょうか? 日本戦車の黄色迷彩は集団の時、台数がわかりにくくなる効果があるらしいです。 (7 665) 四式中戦車関係の文献史料って現存してるのでしょうか。 独立した資料はありませんが、デルタ出版の本(日本の戦車)とか、 世界戦車戦史(図書出版:絶版)に掲載されていたか、と記憶しています。 あと、文林堂の日本の戦車写真集とか…くらいでしょうか。 あとは、米国国立公文書館くらいにありそうですけど…。 (16 眠い人 ◆ikaJHtf2) 戦前・戦中の日本戦車に多用されたシーソー式の懸架装置についての質問です。 この方式を採ることによる、主な長所と欠点はなんだったのでしょうか? うろ覚えで資料が出てこないので恐縮ですが、 (長所) 履帯の設置性に優れている 走行性、防弾性が板バネ式に比べると勝っている。 (短所) 上下動が激しく、それがなかなか減衰しない。 即ち、行動中の砲の照準が付け難い。 (16 眠い人 ◆ikaJHtf2) 旧日本陸軍はロシア・ソ連が仮想敵国だったはずなのに,なんであんなに戦車がしょぼいんですか? 当時,戦車に戦車を当てるのは「愚作」とどこの国でもされてました. WW2が始まるまでは,戦車の仕事は歩兵の支援である,とされていました. もちろん,歩兵の支援も現在に至るまで戦車の重要な仕事ですが,当時はそれ「だけ」でよいとされていました. 武装,装甲,機動力,いずれもその前提で作られており,砲は初速の遅い短砲身でしたから,装甲を貫通させる目的には適していませんでした. (でも,先見の明のあったいくつかの国は,戦車に長砲身砲を搭載しています.ソ連もその国の一つ) また,戦車の部隊運用法も,その方針に則って,少数ずつの分散配置が普通だったため,戦車同士が遭遇する確率は低いと見なされていました. ノモンハンの影響なんかでT-34とか作られましたが,本格的に対戦車戦闘を考慮して作られた戦車はティーガーが最初じゃないかな? で,対戦車砲ですが,こちらもノモンハンで37ミリが通用しなかったため,1式47ミリ速射砲が作られてます. こいつはBTシリーズが一応仮想敵だったんで,更に装甲の厚いM4なんかには通用せず,最終的に有効な対戦車砲は作られませんでした. 旧日本軍の戦車は米戦車に比べてかなり装甲が薄かったそうですが,何故もっと装甲を厚く出来なかったのですか? 満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え,重量を押さえていた. また,港湾施設のクレーンの能力に限界が有った事と,輸送用船舶の床面強度に限界が有った事も,重量上の制約の一因と言われる. それなのに,燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い. 結果として,装甲が貧弱になった. ただ,第二次世界大戦前までは日本軍の戦車の装甲は諸外国戦車や米戦車と大して変わりは無い. 大陸での本格的な戦車戦を経験しなかったのと,海に囲まれた国土と想定される戦場等から,限られた国力を航空機や艦船を作る事に突っ込んだ為,戦車は後回しにされた. (軍事板) 「三式飛行戦車」これってなにか分かりますか? 詳しいデータは覚えてないけど、確か2式軽戦車をグライダーの翼をつけた奴 空挺部隊用だったはず、無論失敗作 (24 460) チハ チヌ ホニとか言うけれど、この法則ってどうなってるの? 前の字は戦車の中戦車・軽戦車・砲戦車等の属性 後ろはイロハ順 つまりチハ車は「中戦車で、3番目に製作された戦車」 ホニ車は「砲戦車で~」というわけ 皇紀は関係ありません (27 103) 「チ」は中戦車のチを表す。※軽戦車の場合は「ケ」 「ハ」はイロハを意味し、開発順を表す。 この略称が使用されるようになったのはチハとチニの競争試作時からで、 それ以前の戦車については 八九式軽(中)戦車>イ号 九五式軽戦車>ハ号 と呼称された。 九五式重戦車については不明であるが、のちに自走砲化した車輌に「ジロ」があるので、 もしかすると「ロ号」だったのかもしれないし、あるいは「ロ」は欠番だったのかもしれない。 いずれもそれを裏付ける資料が無いので断定出来ない。 (41 143) 重戦車は「ジ○」。 同様に軽は「ケ○」。 (44 401) 旧日本軍の”砲戦車”っていったいどういう意味で付いた名前なんでしょ? 直協支援用装甲戦闘車両 (29 833) 日本の戦車は手榴弾一発であぼーんされるものなんでしょうか? 中に放り込まないと無理でしょうね。 日本の戦車はエンジンだけは燃えにくいので。 (39 眠い人 ◆ikaJHtf2) 九七式中戦車が最近まで競争試作だった事を知らなかったド初心者です。 試作で負けた方の戦車はどういうもの(制作社、性能諸元)だったのでしょう。 また、負けた理由はなんだったのでしょうか? チニ車です。 チハは三菱ですが、チニは大阪砲兵工廠が制作しました。 乗員はチハより1名少ない3名。エンジンは九五式軽戦車のものを搭載し、 装甲、速力、その他諸元はほぼ拮抗していました。 外見はスマートになったチハってとこですかね。 チニはチハに比べて価格の安さが魅力で、陸軍側はチニ車の方を推していましたが、 直後に日華事変が始まって軍事予算が増大した為に、多少高価でも設計的に余裕のあるチハが採用されました。 (39 536) 第2次大戦中、日本軍の戦車がアメリカ軍の戦車を撃破したことってあるんですか? もちろんあります。 至近距離から側面や背面を打ち抜いたり 障害物を乗り越えようとして車体下部を晒したところを狙撃したり 挙句の果てには爆雷つんで体当たりをしたりと、およそ思いつく事はやっています。 さらに鹵獲M3軽戦車でM3中戦車を撃破した例もあります スチュアートなどの軽戦車ならばビルマなどで チハ車でも榴弾を多数命中させるとかで撃破できたそうです。 シャーマンになると47mm速射砲や90式野砲、 それを搭載した戦車なら辛うじで可能です。 有名なところだとルソン島で機動砲兵第2連隊の 一式砲戦車がシャーマンをいくらか撃破したらしいです。 (39 270-271) 97式中戦車について質問です。 砲塔の上についている手摺がアンテナだと聞いたことが有るのですが、 ラジオチューナーについているものと同じループアンテナということでよろしいのでしょうか? アンテナタイプと指向性について誤解があるようですが。 ループアンテナは、アンテナ自体をループとして結合/終端させ、ループ内をとおる 電界をエネルギとして効率よく取得しよう、というアンテナです。副次効果として、 ループに結合しやすい位置にある外部導電体を、サブエレメントのアンテナとして 利用できるという特徴もあります。ポケベルのアンテナなんてそうやね。 んで、97式のアンテナについては、電気的にはループアンテナとは言えません。 単純に、中波帯域の長くて邪魔くさいホイップアンテナをうりゃーとひん曲げて 砲塔に沿わせる形状にして、ひっつけただけです。 もしアレがループアンテナだったら、指向性はお空と地べたに向けて 発生しちまいます。はい。 (40 電波な人) 日本海軍の軍艦はずいぶんと強力だったのに日本陸軍の戦車は超弱かったのはなぜですか? 「超弱い」って程じゃない。チハ車(97式)なら3号初期型以上だし、同時代の標準レベルだ。 戦争が始まって戦車なんか開発してる余裕がなくなったのが大きいだろう。 ろくな対戦車火器を持たない中国軍を追い回すのはチハ車で十分だし、 アメリカ相手なら飛行機優先。戦車の生産数自体が非常に少ない。 (43 442) 二次大戦中の日本の戦車は、連合軍の重機の弾丸すら貫通してしまうほど、装甲が薄いと聞いたのですが、どうなのでしょう? 軽戦車では装甲は薄かったですし、八九式戦車の装甲も薄かったようです。 しかし、九七式中戦車以後の装甲の厚さは、世界の趨勢に何とか追いついています。 尤も、それ以上に対戦車砲の発達、連合軍側の戦車の発達が早すぎて、意味を為してはいませんが。 後、鋼板の製作水準にも問題があり、炭素が多く含まれ、結構割れやすかったようです。 (46 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 九五式軽戦車の装甲は最厚部で12mm、九七式中戦車で25mm、それに対し 当時のM2重機関銃の貫通力はAPを使用して100mで20㎜前後。 近距離なら九五式は貫通するでしょう。まあ、もともとM2重機は装甲車両や 観測気球を撃破するために開発されたんで仕方ないかもしれませんが。 (46 679) 旧日本軍の戦車には防弾ガラスがなく、単に風通しがいい窓だったというのは本当ですか? ちは改の車長のキューポラを見る限り、防弾ガラスは入ってますね。 展視孔と言われるスリットは、ただの穴の様です。 穴を開けた円盤を高速回転させて弾片の侵入を防ぐ装置だの、プリズム使用の潜望鏡(普通は鏡を使う)だの、使い物にならない物の研究はしてますね。 (55 701) 日本軍の戦車ですが、開戦前ならともかくM4やらパンターやらT-34やら出てきた大戦中盤以降になっても、デザインに進歩が見られないように思うのですが なんででしょうか? 日本には「T-34ショック」は生じてないのでパンターのような方向性への進化は 起きようがない。 ドイツから情報は入っていたらしいが。 替わりに「M3スチュアートショック」「M4シャーマンショック」が発生し、それらは 一式砲戦車(とりあえず対戦車戦闘できる長砲身の砲載せろ)や三式中戦車(泥縄的に75mmカノン砲装備に改良) 三式砲戦車(砲塔廻んなくてもいいから三式中戦車の数が欲しい)となって結実してる。 これらはドイツで言うならIV号F2型や75mmL48装備の対戦車自走砲/駆逐戦車の位置にある だろう。 そして、これらの上位機種として四式や五式といった重戦車が開発されていた。 この2種は戦前からの重戦車開発の流れと戦争での戦訓が合わさったものなので、ティーゲルに 相当する位置にある。 あと、「戦争で対峙したソビエトの戦車にショックを受け、急遽それまでの設計思想を捨てて改良した」 と言う位置には、ノモンハンでの「BTショック」を受けて開発された九七式改や一式戦車が ある。 (480 454) 大戦中の戦車って、トランスミッションがよく壊れたらしいけど日本軍の戦車ってどうなの? いやよく壊れた。 でも、あの当時はどこの国のもトランスミッションがデリケートですぐ壊れるのは結構当たり前。 別に日本のだけに限った話ではなく、どこもそんなもの。 アメリカのものだけはわりとマトモな出来だったが、やっぱり荒っぽく扱うとすぐに壊れた。 ソビエトの戦車は起動輪が後ろにある=トランスミッションが後部にある、のでどれもレバーが 延々とロッドを介して操作することになるため、レバー操作がやたら重くて大変だと不評だった。 「ハンマーでブッ叩かないと切り替わらない」と言われ、でも実際にそんなことした日には 当然レバーとロッドが壊れる。 ドイツの戦車は作動そのものは快調だが丁寧に操作しないとすぐに壊れる繊細な作りな上 頻繁かつ綿密な調整と整備を必要とした。 戦車は重い車体を無理やり走らせてるので別に設計に欠陥がなくてもトランス ミッションが壊れやすく、ずっと後になってトルクコンバーター式のトランス ミッションが普及するまでは変速機関係は戦車のウィークポイントであり続けた。 (534 556) チハは57mm砲を長砲身化して攻撃力を向上させることは、できなかったんでしょうか? 優秀な砲を拡大していくと言う発想は当時よく見られた傾向。 日本も長砲身57mm砲を完成させている。試作のみね。 ただし、57mm砲を長砲身にしたと言う発想じゃなく一式47mm機動砲の拡大型。 装甲貫徹力は 1000mにて60mmと言われている。 ただし、日本製の鋼板撃ってテストした可能性があるから、アメリカやイギリスの 装鋼材に対してもそのような性能が出るかどうかは俺の調べた範囲では判らない。 何故チハに積まないか?と言い出すとおかしな話になる チハ車はノモンハンの戦訓から47mm砲の新砲塔を搭載することにした。 だが、欧州戦の情報や実際にアメリカの戦車など研究した結果からより高い火力を 持ったチト車を開発する。 つまり新主砲を搭載する新戦車が必要と考えたんだと判るよね。 そこから急場しのぎにでもチハに積めるような物では無かったと想像出来る。 もう一つ、57mm砲が完成した時点で一式中戦車の生産が始まっており、その意味 でも積む意味が無い。新型戦車に積むって決定で良いじゃないですか。 ところが完成した試作砲は貫通力が低いのでチト車には使わないことにした。 (47mm砲より上かどうかは問題ではなく、情勢に適応しない。) また、貫通力の割りに重い点が問題視され、砲そのものが不採用になったので 他の車種や砲戦車への搭載も当然されていない。 完成していない訳でもないし、合理性云々より出来事の時系列を理解しなければ ならないよ。 (349 74) 「日本の戦車は港のクレーン能力によって重量を制限された」などと言われますが、単に輸送船からランプを使って自走で積み降ろしすれば良かったんでは? 当時輸送に使われてた貨物船は今のバルクキャリアの様なタイプが殆ど、 RoRo船なんかは車両を大量輸送する時代になって現れた。 当時にもフェリーは有ったが艀に毛が生えたような物で、外洋を長距離航海出来るような物じゃない。 でバルクキャリアはクレーン無しじゃ重量物の積み下ろしは出来ない、 舷側までのランプを作っても(それ自体長大で強度が必要な大変な物になるが)船倉に降ろせない。 それなら舷側を切り取ってランプをつけ、船倉にもランプを付け多層にすればRoRo船になるが、 そんな(当時は)普段使わないものが海上輸送の主体となるほど転がっているわけない。 要は重車両を輸送・運用するインフラが全く整ってない事が問題で、クレーンの能力だけに理由を求めるのもやや一面的。 (567 485) 五式中戦車や、計画のみで終わったホリ車の主砲には半自動装填機を組み込む予定だったようですが、 なぜこんな複雑で厄介そうな、ドイツ軍ですら採用していないような機構にしようとしたんでしょう? チビの日本兵の装填手だと、巨大な砲弾を抱えて砲尾に突っ込むだけの体力が無いとでも思ったんでしょうか? いくつも勘違いがある。 半自動装填装置自体は簡素な装置で、事前に装填主が装置に砲弾を装填しておくことで ここ一番の連射性能を上げるだけ。 何故それが必要かと言うと、一つには日本人の体格の問題。 アメリカの場合は数十tある兵器を人力操作する上で、特にパワーアシストの開発 に注力せずに体格の良い者を戦車兵にすることで対応した。 (戦後、自衛隊がアメリカの戦車を運用しようとした時に体格の差が問題になった。) 日本では47mm砲の時点で問題を抱えており、戦車長が砲の操作をアシストしていた。 にも関わらず、戦車の乗員が定数割れしたまま運用することもあるような始末。 砲塔の動力旋回にも頓着せずに主砲が47mmの高初速砲になっても肩押し式の主砲を 好むくらいで、逆に主砲が75mmクラスになった所で装填・排莢操作の自動化の必要 性を認識した。(つまり体格が原因で着眼点が少し他国と違っていた。) 当時でも自動装填装置はアメリカがベルト式の物を研究しており、実用化も可能な レベルに近づいていたが、ま、ドイツ相手にはもっと他の研究に注力すべきと判断 したんですな。 もう一点。殊更にドイツのテクノロジーが優れていたと言うような事実もない。 赤外線暗視装置など開発が他国より目立って先行した技術もあるが逆も多い。 ドイツが出来なかったから難しい技術などと言うことは無い。 (343 288) 日本戦車の戦闘力不足の一因ってやっぱり馬力不足? 馬力は関係ない。 統制型の次は航空用ガソリンエンジンの再利用、ディーゼルターボ開発をしていた。 エンジンに関しては無いなら作っている。それが理由で戦車開発が出来ない要因にはなってない。 まず、機甲戦力を持ち始めた当時、戦車の開発・配備にかけられる予算が過小だったために安価に数を 揃えられないかと言う思想が根付いてしまい、転換できない派閥があったとされる。 一式や新砲塔チハはBT-7に対抗すべく作った訳だが、太平洋戦争に突入後、敵方がM3軽戦車 程度しか保有しておらず、対抗可能と判断したために、その後の戦車開発がスローペースになっている。 もう一つは、省力化機器や土木作業機械、自動車工学が未発達だったことや、(当時併合していた朝鮮 半島を含む)自国内や満州、南方戦線の道路事情が悪かったことも大きい。 (実際、ソ連側が満州に侵攻した際もT-34やM4よりBT-7Mの方が使いやすかったとされる。) 我が国の運用者には、戦車が30tクラスになると既に限界を超えてしまうと言う発想があり、逆にそれ より重い戦車を運用するための技術開発が遅れていた。 (当時の日本人の体格では75mm長砲身砲の操砲は困難になってしまっているくらいで、アシスト装置が 無ければ装填はおろか、操縦操作なども困難だろうと思われる。) 情報の見誤り・軽視もあった。 開戦前~大戦前期にかけて、欧州、と言うよりもソ連戦車に引っ張られて各国の戦車が重厚長大に なっていく過程で、それを後追いした。(先回りして強力な物を作ろうと言う発想が無かった。) ドイツの駐在武官から、欧州戦の情報は入っていたが思いっきり軽視して対応が遅れている。 まあ、こんな話がある。 ソ連軍人がまだ友好的な頃、ドイツの4号戦車を見学して、その余りのショボさに「強力な 戦車を隠している」と信じて疑わなかった。 ドイツ側はその態度からソ連はより強力な 戦車を開発していると早い時期に予想出来たし、その後もスパイ情報があったが軽視していた。 我が国はさらにその後で欧州の戦車が75mm砲を撃ち合っていると聞いたが、なかなか自分達に 波及する話とは思えない訳で、M3軽戦車にワンサイドで勝てる戦車を作っている内にエラいことに なってしまった。 (569 639) チリ車(五式)のエンジンは既存の航空用(BMWのライセンス品で練習機に使っていた) で800馬力。 ドイツのHL230より高出力だったりするけど。 そもそも、日本の戦車は戦闘力不足のものしか無いと言うのが誤りで、試製100t戦車・120t戦車では10cmカノンを搭載している。 これらの戦車では、航空用エンジンを2基、伝達ギアでリンクさせており、強力なエンジンが無いなら無いなりの工夫をしている。 馬力不足と言われても他国同様に航空用エンジン引っ張り出したり、アメリカのH型パワーパックのようにまとまりは良くなくても エンジン2基の連結でさらなる馬力アップも行っている。 100t戦車の場合、操作系に油圧アシスト装置を導入したり後方駆動を採用するなど、一部M4シャーマンより進歩的な部分のある。 ところがテストしてみると、不整地では重すぎでスタックしまくり、舗装道路では舗装を壊すので。 過荷重でテスト以前の問題。44年末まで放置した後、解体。 120t戦車は車体のみでテストすると流石に操縦性や抗堪性に問題ありと判断されている。 作れないでも無いし、作っても見たが、いきなりハードル上げすぎてるって言うのが実状。 (570 283) 砲塔はチハとかでも自動で回転したんだよね? 手動です Ⅳ号J型も手動です (321 726) 97式中戦車改はなぜ一式機動砲をそのまま流用して搭載せず、砲身をやや切り詰めた一式戦車砲をわざわざ採用したのでしょうか? これは単純にチハ改や、本命のチヘの砲塔に収めるにあたって後座長が問題となったからです。 狭い砲塔の中の戦車兵さんたちにとっては、高速で後退してくる砲は正に恐怖なのです。 ハ号の戦車砲も九四式速射砲より短砲身の物になってますね。(後に換装されてますが) (315 11) 日本が試作したという100トン重戦車について教えて下さい 100㌧戦車は又の名を"大イ車"(もしくはミト車)と呼ばれ、基本構造は89式中戦車を 約5倍の大きさにスケールアップしたものです。 重量約100㌧ *全長10㍍ *全幅4.2㍍ *全高4㍍ 装甲厚 前面:75㍉ 側面:35㍉+35㍉(スカート) 武装 105㍉カノン砲×1・75㍉速射砲×2・7.7㍉機銃×3 エンジン BMW水冷12気筒550馬力×2基 作ったはいいがでかすぎて工場の門を出られず、走らせれば重すぎて腹を打つわ キャタピラが外れるわサスはヘタるわさんざんだったようです。 (47 名無し軍曹) http //www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta0248.htm 1940年、100t重戦車 (走行テストで100tの重量を走行装置部分が支えられず自壊) 荒地走行テストでずぶずぶ沈んでしまったとか... 日本の道路を走れなかったとか(幅が広すぎ) 速度はエレファント以下... 装甲もたいした厚さではなく役に立たないので分解されました。 (312 559) 小銃の徹鋼弾でチハの装甲の20mmの部分を零距離で撃てば貫通しますか? 無理 九五式軽戦車の最厚部(12mm)以外なら可能 というか末期のは金質が悪化してたので最厚部も撃ち抜かれるかも (俺初質スレ431 828) チハたんの後継戦車が、なかなか本格的に生産、運用されなかった訳は? 航空機なら、なかなか苦労しながらも更新が結構進んでいるのに。 まさに理由はそれだよ。 戦車作るなら工場設備は飛行機生産に回す。 鉄使うなら船舶の建造に回す。 島嶼やアジアが主戦場という戦局から戦車の優先順位が低かった。 (515 164) なんで旧日本陸軍の戦車ってあんなに弱いの? ごく単純に言うと、技術(とそれを支える国力)が無かった。 砲、装甲、エンジンどれも。特にエンジンが力不足なのは痛かった。 サイズや重量に制限がでちゃうからね。 よく言われるのが港湾設備の問題。戦闘重量を増やし過ぎると海外展開が難しくなる。 2つ目が対戦車戦闘というのを重視していなかった事。 そして対戦車戦能力が必要だと気付いたときには航空主兵に転換していて資材が回ってこなくなった。 ぶっちゃけるとノモンハンまでザコ支那軍相手で優秀な戦車なんか必要なかったから作らなかった それがノモンハンでソ連戦車にコテンパンにされてさすがにヤバイと思ってようやく着手 苦労してやっと完成したのがチハ改や一式 しかしこの子が登場した頃には既に30トンやら50トンやらの化け物戦車が跋扈していましたとさ 当時戦車は歩兵科に属していて戦車は歩兵の陣地攻撃を支援するものであると考えられていた。 騎兵の機械化を行うとき、「戦車対戦車の戦いは騎兵の抜刀突撃並に同じくありえない」と切り捨てられている。 92式、94式、97式装甲車(騎兵連隊を改変した捜索連隊が主に装備)が実質戦車なのに装甲車と名乗ったのも 兵科間のセクショナリズムから。 ただ、チハ車が比較的新砲塔にできたことに現れているように、先見の明のアル設計者と一部の 用兵側は戦車対戦車が起こることを予期していた。 (362 743-751) 司馬遼太郎が戦車をヤスリで削った話の真偽について教えて下さい 戦時中に戦車兵だった氏は、 「開戦初期の日本の戦車の装甲は鋼鉄で出来ていて、ヤスリをかけても歯が立た なかった。しかし、戦争末期の戦車の装甲は容易にヤスリで削れた。敗戦間際の 日本は戦車の装甲に使う鋼鉄にすら事欠いていた」 といった趣旨のことを書かれていたのですが、これは本当なのでしょうか? 一応、過去に出た意見を総ざらいしてあげとく 軟鋼を使ってたという文そのものが司馬の捏造説 軟鋼をあえて使用することで抗弾性の向上を図っていた説 実は資材不足でホントにただの鉄を使って作ってました説 真偽のほどは不明。 漏れが知っているのは、 1)司馬が、末期の戦車には鑢が掛かったという話を公表。 2)軍事研究家?が、わざと軟らかくしていたんだと紙上で反論。 3)元戦車工場勤務の方が、末期には鋼鉄は手に入らず、普通の鉄を 使用していたと再反論。 って話でつ。御参考までに。 (101 389-417) 圧延鋼板の製造配分に関しては、1944年春から陸軍向けが頗る少なくなり、 重火器の生産が高射砲を除いて停止され、弾薬生産が削減され、戦闘用車輌 の生産が激減し、軽戦車の生産が事実上停止し、中戦車、装甲車輌の生産が 著しく削減されると言う状況にはなっていますが。 (101 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 陸軍は本土決戦のため三式戦車を温存してたようですが、1945年夏の時点のM4シャーマンに勝てたでしょうか? 昭和20年5月参謀本部によって出された「戦車用法」によると、 「三式中戦車は600メートルにおいてM4戦車の正面を貫通し得るも 命中角の関係上その公算は僅少にして、側面および背面を攻撃するを要すること多し。」 とあります。 装甲も強力とは言えず、正面から打ち合うのはやはりかなり苦しい戦車かと。 (104 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 四式中戦車や五式中戦車の後継は計画されてましたか? エンジンを過給器付空冷DieselとしたチリII型の計画はありましたし、120t戦車の 計画はありましたが、計画途中で敗戦となっています。 なお、1943年以降、陸軍の考え方としては、戦車の量的充当よりも質的向上に ウェイトを置いたため、三式の主砲換装は考慮されていましたが、四式の性能 向上までは考慮されなかった様です。 (274 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本軍の戦車はM4に対抗できたんですか? 新砲塔チハで正面から撃ちあってもほとんど勝ち目がないので 待ち伏せて側面や背面から射撃して対抗してた。爆薬付けて特攻することさえあった。 75mm砲を搭載した一式自走砲や三式戦車ならだいぶマシだが、不利な戦いには違いない (俺初質スレ432 モッティ ◆uSDglizB3o) 3式中戦車にベンチレーターがついてないという記事がP誌に載ってましたが、本当でしょうか? 終戦までに日本軍の戦車にはベンチレーターは装備されていませんでした。 チハ車による実験では、密閉して前方銃で30発も発射すると軽い一酸化炭素中毒の 症状がでてきたそうです。 特に銃手席ではガスの滞留が激しかったようです。 対策としては、射撃の中止・各窓扉の全開などがありますが、信じがたいことに 現場では車長が扇子を用意して前方銃手席をあおぎ、一酸化炭素を拡散したとか。 (123 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 一式中戦車の主砲はその主砲でシャーマンは撃破できたのでしょうか。 一式中戦車の主砲は47mmです。(試作一号車は57mmですが) Shamanを撃破する場合は、可成り目標に近づくか、後ろや側面を狙うしかありませんでした。 47mm砲の性能的には、直角に命中すれば500m離れた80mmの鋼板を撃ち抜くことが出来ます。 ただ、実際に戦車第二師団がフィリピンのルソン平原で戦闘した際には、70mまで近づかないと、 M4の最厚部51mmの装甲を撃ち抜けませんでした。 それは徹甲弾の材質に問題があったということでしょうか? 特殊鋼、特に、ニッケル系やマンガン系の材料不足と、金属回収で回収した金属粉を 混合した事による脆さが出ているので、戦争が進展する程、問題が発生したのではな いかと思います。 ちなみに、同じような初速(47mmは810m/sec)の砲で、例えば英国の2ポンド砲は、 初速850m/sec、射距離1,000mで装甲貫徹力42mm(47mmは同じ距離で30mm)、米軍の 37mm砲は、初速775m/sec、射距離1,000mで装甲貫徹力60mmになります。 一つ上のクラス、英軍の6ポンド砲では、初速786m/secですが、射距離1,000mで46mm、 米国の75mm砲では、初速700m/secですが、射距離1,000mで69mmになっていますね。 (236 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 司馬遼太郎が日本の戦車エンジンについて、でかい、馬力がない、複雑で運用が難しい、という欠陥だらけのもの書いてましたが。 本当でしょうか? 九七式中戦車に用いられていた、三菱ザウラー式SA12200VD(複渦流式V型直噴12気筒/ボア120mm×ストローク160mm、 170馬力/2000回転、重量1200kg)に関しては、噴射系統がデリケートで調整が難しく、耐久力に欠けるきらいがあり、 動力性能に関しても、公称200馬力の筈が、実力は170馬力程度しか出ず、しかも、白煙、黒煙が甚だしく、 更に五月蠅い(三菱の整備員曰く、豆煎りエンジンと言っていた)。 シリンダとシリンダヘッドは4本の長い通しボルトで共諦めする方式で、チェンブロックや他車の動力を用いた エンジン吊り出しが頻々と行われたのも車載状態での整備性が悪かったからで、ローラータペットを用いた4弁方式に ついても、こなれておらず、しかも、直噴はまだ未完成の技術でした。 このエンジンを他社のエンジン設計技術者が評して曰く、「まるで航空発動機のような、屁理屈の塊のようなエンジン」と 評していたそうです。 当時の軍用車両用ガソリンエンジンでは、オクタン価の制約から余り攻め込んだ設計が為されず、車輌、兎も角人員が 生きて帰ってこられる信頼性を重視したために非常に甘い設計になっていました。 他方、ディーゼルに関しては、池貝とか三菱、いすゞなどが犇めいていたため、性能重視型の設計ではありましたが、 それでも、軍用、就中、統制であるがために、設計には十分な余裕を持たされ、最大出力時正味平均有効圧が可成り 低い状態に置かれていました。 本来は、常用時の負荷率は低い筈ですから、最大出力時の正味平均有効圧を高くしても良かったのですが、 第四技術研究所や、戦車部会のメンバーが、作戦行動中に逆上した操縦者が、無闇にアクセルを踏んで全負荷に近い 運転を続けて、エンジンを壊すことを心配したためか、パワートレイン側の問題があったのかもしれません。 (187 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本軍の戦車は走行しながら主砲を撃てた、というのは本当でしょうか? 「行進射」と言って、日本陸軍の戦車による通常の射撃方法です。 砲手と操縦手が連携して、発射の際にわずかに速度を落として射撃を行います。 当然命中率や発射速度は低下し、五七ミリ砲では 一分間の発射速度:1~2発(停止時:5~12発) 500メートルでの命中公算:17パーセント(同:65パーセント)になりました。 したがって実際には戦車小隊(四輌)で行進と停止を併用して射撃を行います。 (223 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 九七式中戦車の砲塔内には、何発の弾薬を積めますか? 八九式戦車の資料しか手元にありませんが、八九式乙型の場合は、8発入り弾薬箱が5段車体内に 装備されており、これに加えて、即応予備として4発砲弾架に掛かっています。 つまり、44発が車体内に置いてありました。 なお、甲型では50発入り弾薬箱が2つ車体内にあり、これらが車長、砲手の腰掛けを兼ねていました。 砲側には、右側面に4発、左側面に2発の57mm砲弾架があります。 九七式中戦車の資料は、カッタウェイしか無いので、しかとは言いかねますが、砲塔前部に4発の弾薬架があり、 砲塔後部にも、5発分の弾薬架がありました。 また、車体内部には57mm砲の弾薬箱が最大3箱あった様です。 1箱20発入りとして40発、即応用として10発程度あったのではないでしょうか。 (215 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本軍の戦車の燃費はどれぐらいだったんでしょう? 日本戦車の燃費 八九式中戦車(甲) 0.64km/l 八九式中戦車(乙) 1.00km/l 九七式中戦車 0.85km/l 九七式中戦車改 0.85km/l 一式中戦車 0.64km/l 三式中戦車 0.64km/l 四式中戦車 0.63km/l (しょうもない知識を披露するスレ10 眠い人 ◆gQikaJHtf2) チハでM3やM4に対抗出来たんですか? 1942年4月、ビルマへの第二期侵攻作戦の為、戦車部隊が投入された。 彼の地で対決するのは、当時アジアに於ける連合軍最強の戦車である、M3軽戦車。 と言う訳で我らがチハタンがM3軽戦車の装甲をぶち抜けるか、研究することになった。 標的は遺棄されたM3軽戦車、迎え撃つは、各中隊から選抜されたチハタン、第一中隊で鹵獲したM3軽戦車。 最初に各車1発の57mm徹甲弾を装填し、標的に向けて500mの距離から射撃。 それは狙い過たず、砲塔に2発、車体に1発命中していたのだが、その部分の塗料がはげていただけで、 徹甲弾は粉みじんになっていた。 次いで、M3の37mm徹甲弾を同じ距離500mで射撃…これは見事に貫通していた。 それでは、と、300mの射距離で徹甲弾発射。 これも木っ端微塵に徹甲弾の方が飛び散るだけだった。 そこで、射距離300mから今度は榴弾で側面を集中的に撃ってみた。 すると、M3軽戦車の側面には衝撃で装甲板に30cm平方の穴が穿たれたのである。 と言う訳で、M3軽戦車に対し、チハタンの戦法は、 「小隊(3両)で300m以内に肉薄し、1両が囮となって正面に、残りが側面に回り、近距離から 榴弾の一斉射撃を側面に対して行なう」 と言うことになった。 信じられなくはないが本当だ。 30cm平方ってことは、装甲接合のリベットが吹き飛んではがれたのかな? 装甲の溶接部が衝撃で割れたラスィ。 (信じられないが、本当だPart21 眠い人 ◆ikaJHtf2) 日本戦車はソ連戦車と違って無線が完備していたんでしょうか? チハ(九七式中戦車)だと、いわゆる「鉢巻き」(無線アンテナ)を標準装備している。 (俺初質スレ1024 416)
https://w.atwiki.jp/shiwon_u/pages/31.html
日本軍最強伝説 兵士1人が日本刀1本で100人以上斬り殺せるほどの戦闘能力と有り余る予備の日本刀を持ち、 銃剣と単発銃のみで80万人以上殺すなど、原爆以上の破壊力を持つ携行兵器を誇り、 各植民地で無駄に現地人を殺してまわるほど武器弾薬が余っていて、 320万人もの現地労働者を動員し、そのうち100万人が死ぬほどの労働条件でも反乱を起こさせないほどの統率能力を使って、 国境地帯に計19ヶ所、4700kmにおよぶ要塞および1700kmもの地下要塞を作るほどの労働力を動員し、 その工事後1万人を生き埋めにしたり、揚子江の川幅を2m以下にしたり、するほどの高い土木技術を持ち、 沖縄で米軍上陸後も市民に玉砕命令が出せるほど命令系統がしっかりしていて、 当時オランダ領だったインドネシアにも開戦前から日本軍用の慰安婦を送り込むほど先見性があり、 日本兵の数を上回るほどの従軍慰安婦を一日に一人あたり何十人も暴行するほど体力と食料があって、 AVが無かった時代にも関わらず慰安婦に顔射するほど独創性に富み、 韓国で文化施設はもちろん一般家庭にある辞書から料理本に至るまで処分してまわるほど暇で、 保護するために植民地ではなく「併合」したにも関わらず、韓国の運気を捻じ曲げるために、山の頂上に鉄杭を埋め込むほど風水に明るく、 韓国の優れた建築施設・街・鉄道を全て接収することなく破壊し尽くした上、 新たに日本のダメな建築物に建て替えるほど資材と資財が有り余っていて、 当時の朝鮮の人口のおよそ半数近くを日本へピストン輸送するほど燃料と船舶が豊富で、 中国で家々に火を放ちまくり無駄に虐殺した民間人の死体を一カ所に集めてたっぷりとガソリンをまいて燃やすほど石油資源に余裕があり、 人間の脂肪から、航空燃料を作れるほど錬金術に長けた日本軍が負けたのは戦後最大のミステリー 2007/03/16(金) 10 42 | URL | 774 #-[ 編集]
https://w.atwiki.jp/r-type-tactics/pages/523.html
発見ミッション 【番外編】No.17 狂った植物の星 間接支援攻撃用人型機動兵器を白兵戦仕様へ換装するための武装。 開発にこのトレジャーが必要な機体 ゲインズ3白兵戦型 トレジャー:地球連合軍一覧に戻る トレジャー:グランゼーラ革命軍一覧に戻る