約 741,878 件
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/4533.html
塚本神社 大阪府大阪市淀川区に鎮座する塚本神社の御朱印です。 ★住所 大阪府大阪市淀川区塚本2-2-7 -
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/331.html
書籍別メニュー 要注目書籍 幸福瞑想法 +... 第1章 幸福瞑想法とは 第2章 禅の瞑想 第3章 無為自然の瞑想 第4章 満月瞑想 第5章 止観瞑想 第6章 足ることを知る瞑想 第7章 対人関係調和の瞑想 第8章 光の瞑想 第9章 幸せの瞑想 第10章 希望の瞑想 第11章 自己実現瞑想 第12章 頭の良くなる瞑想 第13章 宇宙即我の瞑想 書籍INDEX 空海の霊言 +... 第1章 空海・弘法大師の霊訓 Part1 第1章 空海・弘法大師の霊訓 Part2 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part1 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part2 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part3 第3章 天台智顗大師の霊訓 Part1 第3章 天台智顗大師の霊訓 Part2 第4章 恵果阿闍梨の霊訓(一) 第5章 恵果阿闍梨の霊訓(二) Part1 第5章 恵果阿闍梨の霊訓(二) Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1985.11 キリストの霊言 +... 第1章 イエス・キリストの霊訓(Ⅰ) 第2章 イエス・キリストの霊訓(Ⅱ) 第2章 イエス・キリストの霊訓 質疑応答&余聞 第3章 モーゼの霊訓 Part1 第3章 モーゼの霊訓 Part2 第4章 アモンの霊訓 第5章 リエント・アール・クラウドの霊訓 出版:潮文社/ 発行年月:1986.1 天照大神の霊言 +... 第7章 聖徳太子の霊訓 出版:潮文社/ 発行年月:1986.3 ソクラテスの霊言 +... 第1章 ソクラテスの霊訓(一) 第2章 ソクラテスの霊訓(二) 第3章 カントの霊訓(一) 第4章 カントの霊訓(二)Part1 第4章 カントの霊訓(二)Part2 第5章 エジソンの霊訓 Part1 第5章 エジソンの霊訓 Part2 第6章 リンカーンの霊訓 第7章 ガンジーの霊訓 出版:潮文社/ 発行年月:1986.6 坂本竜馬の霊言 +... 第1章 坂本竜馬の霊訓 Part1 第1章 坂本竜馬の霊訓 Part2 第2章 坂本竜馬の霊訓 Part1 第2章 坂本竜馬の霊訓 Part2 第3章 吉田松陰の霊訓 第4章 勝海舟の霊訓 Part1 第4章 勝海舟の霊訓 Part2 第5章 西郷隆盛の霊訓 第6章 福沢諭吉の霊訓 Part1 第6章 福沢諭吉の霊訓 Part2 第7章 木戸孝允の霊訓 Part1 第7章 木戸孝允の霊訓 Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1986.7 卑弥呼の霊言 +... 卑弥呼の霊訓 卑弥呼の霊訓2 弟橘媛の霊訓 紫式部の霊訓 第6章 ナイチンゲールの霊訓 Part1 第6章 ナイチンゲールの霊訓 Part2 第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1 第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1986.10 高橋信次霊言集 +... 第1章 人生の目的と使命 Part1 第1章 人生の目的と使命 Part2 第2章 反省、瞑想、祈りについて 第2章 質疑応答 第3章 悟りについて Part1 第3章 悟りについて Part2 第4章 真の幸せ、真の安らぎ 第5章 足ることを知る Part1 第5章 足ることを知る Part2 第6章 心と肉体の関係 第7章 自力と他力 第8章 心の仕組み 出版:潮文社/ 発行年月:1986.12 孔子の霊言 +... 第1章 孔子の霊訓 Part1 第1章 孔子の霊訓 Part2 第2章 孟子の霊訓 Part1 第2章 孟子の霊訓 Part2 第3章 老子の霊訓 Part1 第3章 老子の霊訓 Part2 第4章 荘子の霊訓 Part1 第4章 荘子の霊訓 Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1987.1 谷口雅春霊言集 +... 第1章 天上界に帰る 第2章 生命の実相を語る 第3章 光明思想の本義 第4章 神の子人間の本質 第5章 光一元の神秘力 第6章 本来病なし 第7章 言葉の創化力 第8章 真理は汝を自由にする 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.2 日蓮聖人霊示集 +... 第1章 職業の悩み Part1 第1章 職業の悩み Part2 第2章 病気の悩み Part1 第2章 病気の悩み Part2 第3章 恋愛・結婚の悩み Part1 第3章 恋愛・結婚の悩み Part2 第4章 夫婦問題の悩み 第5章 人生の諸問題の悩み Part1 第5章 人生の諸問題の悩み Part2 第6章 神理伝道の悩み 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.4 高橋信次の新復活 +... 第一章 新復活 第二章 人類救済の原理 第三章 愛と慈悲の世界 第四章 正義の時代 第五章 大宇宙と神理 第六章 心と科学 第七章 地獄界から高級霊界への旅 第八章 神理問答集 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.5 親鸞聖人霊示集 +... 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.5 内村鑑三霊示集 +... 第1章 キリスト教と日本 第2章 無教会派について 第3章 日本を憂う 第4章 イエスの働き 第5章 新しき時代への警鐘 第6章 七大天使の働き 第7章 新エルサレム 第8章 未来への福音 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.7 出口王仁三郎霊示集 +... 第1章 神のまたの名 第2章 月の時代と星の時代 第3章 天女の舞い 第4章 神通力 Part1 第4章 神通力 Part2 第5章 七曲がりの丘 第6章 天狗と仙人 Part1 第6章 天狗と仙人 Part2 第7章 大仏への道 第8章 お立て直し Part1 第8章 お立て直し Part2 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.8 谷口雅春霊示集 +... 第1章 人類幸福化の原理 第2章 唯神実相哲学 第3章 人類無罪宣言 第4章 真説・神想観 第5章 本来肉体なし 第6章 光の行軍 第7章 日本神道の秘密 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.11 高橋信次の天国と地獄 +... 第1章 愛とは何か Part1 第1章 愛とは何か Part2 第2章 悪霊と憑依 Part1 第2章 悪霊と憑依 Part2 第3章 守護・指導霊の役割 Part1 第3章 守護・指導霊の役割 Part2 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.12 イエス・キリスト霊示集 +... 第1章 愛の復活 第2章 神の愛 Part1 第2章 神の愛 Part2 第3章 祈りと生活 Part1 第3章 祈りと生活 Part2 第4章 キリストの使命 Part1 第4章 キリストの使命 Part2 第5章 新時代の精神 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.1 天照大神の降臨 +... 第一章 美しき国 第二章 わが教えの根本 第三章 秩序の原理 第四章 神の愛する人間像 第五章 日本を憂う 第六章 信仰の優位 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.7 谷口雅春の大復活 +... 第1章 生死を超越せよ 第2章 霊格の向上とは何か 第3章 女性の本質 第4章 発展の構図 第5章 霊界見聞録 第6章 久遠の今を生きる 第7章 愛と性を超えて 第8章 内在する叡知の発見 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.8 ピカソ霊示集 +... 第1章 ピカソの霊示1 Part1 第1章 ピカソの霊示1 Part2 第1章 ピカソの霊示1 Part3 第2章 ピカソの霊示2 Part1 第2章 ピカソの霊示2 Part2 第3章 ゴッホの霊示 第4章 ベートーベンの霊示 第5章 シェークスピアの霊示 第6章 ダンテの霊示 第7章 松雄芭蕉の霊示 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.9 エドガー・ケイシー霊示集 +... 第1章 リーディングとは何か 第2章 治病の原理 Part1 第2章 治病の原理 Part2 第3章 現代人の健康法 第4章 宗教の諸問題 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part1 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part2 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part3 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part4 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.10 新・運命の開拓 +... 第一章 光の賛歌 第二章 神の栄光 第三章 生命の本質 Part1 第三章 生命の本質 Part2 第四章 神々は集う 第五章 運命の開拓 Part1 第五章 運命の開拓 Part2 第六章 向上の原理 Part1 第六章 向上の原理 Part2 第七章 積極的人生の方法 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.3 谷口雅春・光はここに +... 第1章 実相としての光 第2章 輝ける日々 第3章 祈りとは何か 第4章 経済問題解決の法 第5章 神の子の健康法 第6章 信仰と奇跡 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.3 新・モーゼ霊訓集 +... 第1章 暁の章 第2章 科学の章 Part1 第2章 科学の章 Part2 第3章 太陽の章 Part1 第3章 太陽の章 Part2 第4章 星の章 第5章 大自然の章 Part1 第5章 大自然の章 Part2 第6章 希望の章 第7章 ダイヤモンドの章 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.3 スウェーデンボルグ霊示集 +... 第一章 我が人生観 第2章 霊界と結婚 第3章 キリスト教と私 第4章 私の見た地獄界 第5章 転生輪廻のしくみ 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.3 新・神霊界入門 +... 第1章 神霊界入門 Part1 第1章 神霊界入門 Part2 第2章 地獄界と竜宮界 第3章 天上界の秘密 Part1 第3章 天上界の秘密 Part2 第4章 天使の役割 第5章 女性論・人生論 Part1 第5章 女性論・人生論 Part2 第6章 六次元神界の実相 Part1 第6章 六次元神界の実相 Part2 第7章 小桜姫の新霊言 出版:幸福の科学出版 / 発行年月:1989.4 真説・八正道 +... 第2章 正見 第3章 正語 第4章 正業 第5章 正命 第6章 正思 第7章 正進 第8章 正念 第9章 正定 第10章 総論 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.4 ニュートン霊示集 +... 第1章 科学の本質 第2章 光とは何か 第3章 エネルギーの源泉 第4章 私の見た世界 第5章 人間を科学する 第6章 宇宙の秘密 第7章 未来科学の姿 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.6 太陽のメッセージ +... 第1章 いま神理の太陽が昇る Part1 第1章 いま神理の太陽が昇る Part2 第2章 魂の世界とその真実 Part1 第2章 魂の世界とその真実 Part2 第3章 愛の力・愛の神秘 Part1 第3章 愛の力・愛の神秘 Part2 第3章 愛の力・愛の神秘 Part3 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part1 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part2 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part3 第5章 神理文明の流転と黄金の時代 Part1 第5章 神理文明の流転と黄金の時代 Part2 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part1 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part2 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part3 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.7 ユートピア価値革命 +... 第1章 新時代の展望 第2章 ユートピアとは何か Part1 第2章 ユートピアとは何か Part2 第3章 ユートピア価値について 第4章 未来型人間とは 第5章 ユートピア価値革命 第6章 ユートピアと経済 第7章 理想的ユートピア論 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.8 高橋信次復活の原点 永遠編 +... 第1章 新創世記 第2章 甦る仏教 第3章 永遠の生命 第4章 心の法則 第5章 運命を超えて 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.8 高橋信次復活の原点 天使編 +... 第1章 天使の再来 第2章 ポスト・ノストラダムスの時代 第3章 神は光なり 第4章 幸福への道標 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.9 高橋信次復活の原点 希望編 +... 第1章 悟りへの段階 第2章 人類の夜明け 第3章 神々は招く 第4章 希望の光 第5章 不退転の心 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.10 高橋信次復活の原点 太陽編 +... 第1章 生死を超えて 第2章 未来への遺産 第3章 目覚めへの道 第4章 啓示と宗教 第5章 太陽の心 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.11 ゼウス霊示集 +... 第1章 ゼウス登場 第2章 神々の饗宴 第3章 新しき神となるために 第4章 ゼウスの悟り 第5章 ギリシャ的精神の起源 第6章 大いなる光の最期 第7章 ゼウスの復活とアポロンの使命 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.11 高橋信次復活の原点 新生編 +... 第1章 生命と進化 第2章 中道とはなにか 第3章 心と行い 第4章 新経済学 第5章 神理文明論 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1990.1
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/33.html
目次 1.現代日本に思う 2.神の不在 3.道徳の欠如 4.師の不在 5.勇気の必要性 6.根本的立て直しの時 1.現代日本に思う 現在の日本において、いちばんの問題と言えるのは、心の中心の部分の不在ということであろうと思います。 国がどのように乱れても、国の中心となる考え方、国の根本となる考え方が固まっている時には、国の乱れはやがて収まっていきます。 これに反して、根本思想、中心の思想が定まっていない時に、混乱が来、国難が来た時に、その国は分解してやがて潰れていくものです。 私は、現代の日本に、そして、現代の日本人に特に問いかけたておきたいこととしては、根本的なるものを持て、心の中軸を持てということであります。心の中軸を持たない人間は、やがてさまざまな試練のなかを乗り越えていくことができなくなっていくでありましょう。 これに反して、心の中軸を持っている人は、その中軸を頼りにして、どのような困難の時にも、どのような嵐の時にも、乗り越えていけるのではないかと思います。 この「克服の原理」ということが、何にもまして大切ではないでしょうか。 結局のところ、自分自身の心、一人ひとりの心のなかに、「確固たる不動心」ができているかどうか、ということであろうと思います。 では、その過去たる不動心は、一体どのようにしてできるのでしょうか。 やはり根本的には、人間の内にはそうした核となるべきものはあるけれども、それに気付くという過程においては、さまざまな方々かの力、環境の力や人びとの力が働いているということを、無視することはできないのだと私は思うのです。 この意味において、「環境づくり」ということが、とてもとても大切なことのように思われるのです。まず、「人的環境」であります。人びとが善良であって、信仰心に溢れている人びとであるならば、そうしたなかで育った子供たちもまた、善良で信仰心溢れた子供たちが育っていくでありましょう。信仰深い人びとの間に生まれた子供は、間違いなく信仰深いのです。心のきれいな人びとの間に生まれた子供は、やがて心がきれいになって育っていくこととなっていきます。 このように、やはり人的環境ということは、とてもとても大事であろうとおもいます。 この人的な環境を、別な側面から捉え直すとするならば、教育環境と言ってもよいかも知れません。 その人間が生まれ育つ過程において、どのようなものを学び取るか、学び得るか。また、その者が学び取る材料として、如何なるものを提供することができるのか。これが問題となるのです。 こうしてみると、現代の日本を見たときに、心の大切さ、人間の生き方の大切さ、また、信仰の大切さを説いたものが非常に少ないということ。こうしたことが言えるのではないでしょうか。 根本原因は、やはり、唯物思想であろうと思います。そうして無神論を名乗ることが、知識人の証明であるかの如き社会風潮でもあろうと思います。 こうした風潮のなかには、マスコミと言われる新聞、テレビ、雑誌、こうしたものどもの害悪が激しいとと言えると思います。こうしたものたちは、一体自分達がどれ程社会に、世の中に、人びとに、そして、現代から後代の人びとに害悪を流しているかということを知らねばなりません。 つまらない風俗雑誌が、あちらにもこちらにも溢れて、そしてそのなかに流れておるのは、この世だけがすべてだという考え、快楽追及の考え、物こそすべてだという考え、これが中心であり、「神」とか「霊」とかいうと一笑に付してしまう、そうした現状があります。 報道という姿勢に関しても、やはりひとつの観点が要る、ひとつの視点が要る。それは、この地上は神の心の反映が実現されるべきところであるという視点です。神理に基づいた視点です。神理から観て、現在の世の中のどこがどう違っているのか、どの部分をどのように伸ばしていけばよいのか。こうした面を見逃して、勝手な憶測や、勝手な価値判断から、いろんな情報を氾濫させている彼らの存在は、非常に問題となります。 こうした風潮に対して、勇気を持って立ち上がる人が数多く出てこなければなりませんし、報道関係の人びとのなかからも、心ある人たちが出現することが大いに期待されるわけです。 2.神の不在 神が沈黙して語らないと思っている愚かな者たちよ。神がいつもお前たちの見るに堪えない行いを放置していると思っている族(やから)たちよ。神は黙ってはいない。神は見過ごしてはいない。神は沈黙してはいない。神はあなた方に常に語っているということを知りなさい。 神の不在の責任は、神そのものにあるのではなくて、その神をどのように感じ、どのようにそれから学び、、どのようにそれを日々の生活に行じていくかという、あなた方一人ひとりに問題があるのだということを知りなさい。神が不在しているのではなく、神を信ずる人間が不在しているのであり、神から学ぼうとする人間が不在しているのである。 あなた方の神とは一体何か。 正月の時に、神社詣りをするだけの神であるのか。それとも、受験の時や、結婚の時の祈願をするだけの神であるのか。もちろん、神のなかには、そのような祝いごとを取り仕切っている者もいる。しかし、それはあくまでも、信仰の本道ではない。信仰の本道にあるのは、この天地を治めている神の経綸です。この神の経綸の下に、人びとは生きていかねばならないこととなっているのです。 さすれば、神の不在を嘆くよりも、神を信じない人間の数多きを嘆きなさい。神の心を心として生きていかない人間の、数多きことを嘆きなさい。それはあなた方人間の責任であるということを知りなさい。 本当の幸福とは、根本的にすべてを知るということ。すべてを知ったなかで、自らを最高度に発揮していくということ、これが素晴らしいことなのです。これが本当の生き方なのです。 ここに、人生の根本があるということを知りなさい。本当の世界を知らず、神の創られた世界を知らずして、生きているということの恥ずかしさを知りなさい。そうした世界のなかで、弱々しく生きている自分たちの愚かさを知りなさい。 神は黙ってはいない。神は手をこまねいて見ているのではない。神は常に熱い視線でもって、あなた方を見ている。あなた方を見守っている。私がこのように送る神示も、また、神が黙っていないことの、神があなた方を放置していないことの証明に他ならないと思う。 私がこのように語るということが、かつてあったであろうかということを知って欲しい。その意味を知って欲しい。 あなた方は今、自分たちが如何に怠惰な生活を送っているかということに、気がつかねばならない。怠惰の理由は、どこにあるのか。怠惰の理由は時代の持つ意味を知らないからではないのか。また、自分が立たされている、この立場の意味を知らないからではないのか。 今、新たなる風が巻き起こっている。大いなる嵐が始まっている。これは日本を立て直すための嵐である。 神の不在を嘆くなかれ、神の不在を嘆いている自分の無力さを嘆け。今、こうした、大いなる風が起きる時、大いなるつむじ風が起きる時、この時に、同時代に居合わせたあなた方よ、わが言葉を学べ。わが言葉を学んだならば、それを行じていけ。それを一人でも多くの人に弘めてゆけ。そこに、本当の生き方がある。人間としての原点がある。神の子としての原点があると思う。 まず、神というものを思い出せ。そうして自らもまた、その神から出ている人間であるということを知れ。 さすれば、「親に似ぬ子は鬼子」というではないか。親に似るように努力せよ。親の心は明るく豊かであり、希望に満ちているのだ。あなた方だけが何ゆえに、それ程悲しい顔をするのか。辛そうな顔をするのか。不幸を背負っているような顔をするのか。そうしたものを吹き払え。一陣の塵の如く、吹き払ってしまえ。大いなる風でもって、薙ぎ払ってしまえ。禊払(みそぎはら)ってしまえ。そこに、あなた方の真実の姿が現われてくるであろう。 3.道徳の欠如 人びとよ、知りなさい。神の心に適(かな)っていない方向での努力は、決して実を結ぶことはないのです。神の心を、邪魔立てするような方向においては、決して本当の意味での成功ということはないのです。 やはり、心において、方向において、思いにおいて、神と共に在(あ)るということが大事なのです。この、神と共に在るということが、より普遍的なかたちとなり、より多くの人々に、わかるようなかたちとして存在するために、道徳というものがあるのです。道徳というのは、信ずるべき対象ではなくて、守るべき規則です。ルールです。人間として、生きていく上での知恵です。この知恵の固まりが、道徳というのです。 日本人よ。あなた方は、かつて自分達が築き上げてきた道徳というものを捨てました。家庭の道徳を捨てました。そうしたものを、封建的なるものとして捨ててしまいました。間違いを生むものとしてすててきました。 捨てたくば、捨てるがよい。ただ、それに代わるものを見出しなさい。古き道徳を捨てたならば、新しき道徳を打ち立てなさい。その時に初めて、捨てたということに意味が出てくるのです。単に捨てただけでは、何にもならぬ。 あなた方は古き道徳を捨てて、一体何を得たのですか。そこに得たものは、アメリカ的な、愚民主義の民主政治ではないのですか。性の退廃ではないのか。家庭の崩壊ではないのですか。また、女性の心の荒廃ではないのですか。こうしたことを、もっともっと深く考えてみなさい。 特に日本女性よ。あなた方は戦前の美徳をどこに失ったか。権利のみを主張して、本当の意味で、信義に適っていない女性たちの如何に増えたことか。男性を複製したような女性が、如何にこの大和の国の地に溢れてきたことか。それは非常に溢れている。嘆かわしいことです。女性のいちばん大切な優雅な心を捨て、女性のいちばん大切な奥ゆかしさを捨て、女性のいちばん大切な内助の功、献身の美徳を捨て、それらを一笑に付し、自由気ままにいきているあなた方よ。深く自らを顧(かえり)みなさい。深く自らを反省しなさい。 本当の女性のありかたというものは、美しき献身の美です。献身の美徳です。献身の美徳です。それが本当の女性の素晴らしさであり、美しさであるのです。 現代日本の女性たちよ。同じく日本の地に在る私が、女性の眼でもってあなた方を見る時に、どうしても言っておかねばならぬこと、それが、この献身の美徳です。 あなた方は他の人びとに対して、一体如何ほど尽くしたことがあったでしょうか。一体どれほど尽くしたことがあったでしょうか。どのように多くの人びとのために、身を挺(てい)したことがあったでしょうか。身を粉にしたことがあったでしょうか。 自らの成果を誇らず、飾らず、そして、密(ひそ)やかに、奥ゆかしく多くの人びとのために生きていく。これが日本女性の美徳です。こうした美徳を捨てた時に、あなた方の堕落がはじまっていったのです。 どうか、そうしたことに流されることなく、そうした外面の美や、上辺(うわべ)の心に騙(だま)されることなく、内心の美を輝かして生きていきなさい。そこに、女性としての道徳の登場の場面が、またあるはずでしょう。 4.師の不在 日本を憂う際に、どうしても忘れてはならなぬことが、もう一つあります。それは、「師の不在」ということです。すなわち、人びとを導く人の不在ということです。 この師の不在ということは、現代において、大変大きな問題となっているのではないでしょうか。師が不在であるということ、人びとを導く人がいないということ、真の指導者がいないということは、その時代にとっては、大変嘆くべきことであります。大変残念なことであります。 時代のなかにおいて、師を見出すということは、非常に困難を極めております。けれども、いつの時代にも、いつの地域にも、必ず師はいたのです。その師を発見できなかったのは、やはり、その時代に生きていた人びとの罪であったのです。間違いであったのです。私は、そのように思います。 人びとよ、現代に師がいないということを嘆くなかれ。現代は師が不在であるということを嘆くなかれ。現代のなかにも、必ず師はいるのです。あなた方の師はいるのです。自らの目にかけた色眼鏡を取り去り、心にかかった靄(もや)を取り去った時に、現代に、また、師がいるということを、大師がいるということを、神近き人がいるということを、あなた方は知るに至るのです。 大師の存在は、やがて、地域を超え、日本という国の枠を超えて、世の人びとの間に広がっていくでありましょう。 師の不在を、単に嘆いてはならない。自らの心の内に求めていきなさい。師を求めていきなさい。自らの内面を掘り下げれば掘り下げる程、そこに、自らが師に近づいていることを知るでしょう。 大師と合うためには、大師と出会うためには、そして、大師の導きを受けるためには、自らもまた、それだけの神性を具(そな)えておらねばならぬ。自らもそれだけの、心の輝きを持っていなければならぬ。 師は弟子を選ぶということを知りなさい。本当の教えというものは、そのなかに必ず厳しい面がある。弟子が師を選んでいるだけではない。師もまた、弟子を選ぶということを知りなさい。弟子としての態度を知りなさい。弟子としての学びの姿勢を忘れるな。学ぶという気持ち、学ぶという姿勢を忘れ去った時に、師は弟子の前から姿を消すであろう。そのような弟子を教育はしないでしょう。 弟子たる者、深く帰依するという姿勢を忘れるな。弟子たる者、師から学ばんとしている姿勢を忘れるな。自分の心のなかに、師への愛慕(あいぼ)、思慕(しぼ)を持っているという姿勢を忘れるな。この姿勢を忘れ、師もまた、自分と対等であるかの如く思い、お互いに教わったり、教えたりする仲だと錯覚するようになった時に、その弟子は、ひとつの間違いを犯したことになるのです。師というものは、帰依という姿を通して、初めてすべてを明らかにするのです。一人の師から、どれだけのものを学びとるかということは、その者に対する信じ方、その者に対する心の姿勢によるのです。師の心の扉は、自らの心の扉が開いただけ、教えを放つのです。自らの心の窓を開け、心の窓を開け。大きく開け。開いた分だけの教えが流れが、愛の流れが、あなた方の心に流れ込んでくるでしょう。 師は不在ではない。師は必ずいる。必ずいるが、必ず教えるとは限らないということです。その人の傍(そば)に、十年いようと、二十年いようと、心の扉が開かねば、本当の意味において、心にかかった霧を晴らさないで見ていたならば、何ら学ぶことはないでしょう。それは、傍近くに存在したというだけであって、その人の心にとってなんらのプラスにもならなかったということです。 信仰というものは、すべてを見出していく道である。すべてを投げ出し、すべてを見出していく道である。 小さな小さな自分の我を捨てよ。自我を捨てよ。計算心を捨てよ。計算心がある時に、師は本当の意味での教えを説くことはない。汝らの心のなかにある打算を捨てよ。 弟子の心のなかに打算がある時、師はすべてを与えることはない。すべてを教えることはない。そうしたこととなっているのです。弟子たちが捨てれば捨てた程、また、新たなものが与えられていくのです。 師の不在を嘆く者よ、師の教えの不足を嘆く者よ、自らの立場を省(かえり)みなさい。汝らは捨てていないのではないのか。汝らは何かの間違いを犯しているのではないのか。汝らは、師に対して、計算心で接しているのではないのか。師に対して、打算心で近づいているのではないのか。何らかの欲心がありて近づいているのではないのか。自らが、よりよく扱われるということのみを求めて、近づいているのではないのか。真実の教えの道というものは、そうしたものではない。本当にすべてを捨てて来なければ、真実の道は開かないということを知りなさい。それだけの厳しさがあるということを知りなさい。 師が不在であると言われる現今であるが、弟子もまた不在であるということを私は嘆くものです。本当の意味での真理を求め、信仰を求める弟子の不足よ。打算のみを求め、自らの利益のみを求めて生きていく人の数の多さよ。こうした人びとが心を改めないでは、本当の意味での信仰というものを打ち立てることはできない。私は、そのように思います。 5.勇気の必要性 勇気なくして、新たな時代が拓けたということはありません。勇気なくして、新時代の精神ができあがったということもありません。勇気はすべてのすべてです。勇気ありてこそ、新たな時代が拓けていくのです。 私はみなさま方に、三つの勇気の大切さを語っておきたいと思います。 第一の勇気は、これは、信仰の勇気です。信ずるということの勇気です。信ずるという行為は、それ自体がひとつの勇気である。行動であるということを知りなさい。 信ずるということは、相手のなかに最高のものを見出す、神の中に完全無欠なるものを見出すという姿です。その姿は、一躍神の世界に跳入するための勇気を必要とするのです。 現代のように実証主義の時代において、勇気を持って生きると言うことは、限りなく大変です。信仰を持っていきるということは、すなわち、勇気を持って生きることと同じなのです。他の人びとが認めないことを、自らが認めて生きるということ。これは何にもまして大事なことであろうと私は思います。 第二の勇気とは何かというと、この世的なる欲望と闘う勇気です。 この世的なる欲望、人間として生きている以上、さまざまな誘惑があります。地位とか、名誉とか、金銭とか、異性であるとか、いろんな欲望があります。ともすれば、そのなかで流されていきます。それが人間の愚かさです。そうした愚かさは、何とかして克服していかねば、神の世界に入ることは許されていないのです。 その愚かさを克服する方法とは、一体何でしょうか。私は、それをやはり、欲望と闘わんとする決心にあると見ます。地上的なものを脱するためには、ぬるま湯から出ていく、風邪をひくかも知れぬという危惧(きぐ)はありながらも、勇ましくぬるま湯から出るという、外に身を投げ出すという行為が必要です。 執着を断つという行為がなければ、本当の意味において、人生は開けてこない。神の目で見た素晴らしい自分はできない。信仰に至ることはできない。心の目を、心の窓を開くことはできないのです。 第三の勇気とは、すなわち、是(これ)、向上の意欲であろうと思います。 人間はともすれば易きにつき、易きいに流れ、怠惰な生活に流れていきます。そうした時に、日々自らを立て直さんとし、日々自ら向上を目指して生きて行くということは、限りなく勇気のいることです。 みなさまを向上させようとするものは少なく、みなさまを堕落させようとするものの数は多い。平凡な生活に流されていく誘因はいくらでもありますが、しかし、平凡な生活のなかから非凡な力を生み出していくためには、数限りない勇気と努力が必要です。常に向上を目指して生きるということ、これがまた、大いなる勇気そのものであるということを、あなた方に知っていただきたいと思います。 三つの勇気について語りましたが、これはすなわち、その時どきにおける大いなる自覚と決心、決意ということでもあります。その時どきに、自らの使命を自覚し直し、決意し直し、そして、決心をするということ。日々に是(これ)、決心であり、日々是、決意であり、日々是、自覚です。そうした自覚がなくて、勇気が生まれるということは、決してないのです。 そこに、自覚を通して、大いなる世界への道が開けてくるのです。神理の門に至る道は非常に険しいのです。坂道となっているのです。そう簡単には、その神理に至る門をくぐることはできないのです。この世的なる執着を捨て、重荷を捨て、ひたすらひたすらその山道を登っていかないでは、神理の道を乗り越えることはできません。その関門到達するためには、勇気という名の鍵が、どうしても必要なのです。 あなた方の多くに言っておきます。数多くの人に言っておきます。勇気なくして、本当の人生は開けない。時折、毎日でもよい、毎週でもよい、毎月でもよいが、自らに勇気があるか、意気地なしになっていないか、卑怯者となっていないか、そうしたことを考え直してもらいたいと思います。 6.根本的立て直しの時 今の日本は、私たち神の目から見て、到底、座視することのできない現状にあると思います。神の国において、神を信じない国民(くにたみ)が溢れているということは、この日本の神々にとって、どれほどの恥辱(ちじょく)であるかということを、あなた方は考えたことがありますか。日本の国を治めている我らから見て、この地上の国民(くにたみ)が神を信じていないということが、どれ程恥ずかしいことであるかということを、あなた方は知っていますか。そうしたことがいつもでも許されると思いますか。 あなた方も私たちの立場に立って、地上というものを見ていただきたいのです。自らの本質が、霊であるということを知らずして、生きている人がどうしてこれ程多いのか。これを見て何と思いますか。恥ずかしいとは思いませんか。情けないと思いませんか。悔しいと思いませんか。 みなさんが神であったならば、この日本の国民(くにたみ)の嘆くべき現状をどう思いますか。あなた方であったら、どうしますか。どうすればよいと思いますか。 神が直接に、みなさま方に怒りをぶつけるといいうことはないでしょう。しかしながら、厳しい姿となって指導することもあるということは、知らねばなりません。みなさんが、私たちの立場に立ったならば、厳しく子供を諭(さと)すように叱(しか)ってみせることがあると思わないでしょうか。 本来であるならば、あなた方の前に姿を現して、あなた方全員に対して、憂国の思いを語りたい。日本の国を、私がどれほど愛し、どれほど憂いているかということを語りたい。この私の、内心の悲痛な思いを、断腸の思いを、知ってもらいたい。 あなた方は、自覚もなく生きているが、その無自覚な民を養っている神がいるということ、これを忘れてはならない。 根本的立て直しの時に際会して、私は、三つの立て直しの柱を打ち立てることとした。 神というものに対する信仰を、大多数の日本人に持たせるということ、これが第一です。神に対する信仰を持たせる。神を信じさせる。国民の九割以上の人が信ずるような世界にしたい。こう強く願っています。 第二は、霊的世界についての確信であります。霊的な世界が確かにあるということを、人間には魂があって、それが肉体という乗り舟に乗って魂修行をしているということを信じさせたい。そうして、その魂修行は、今世のみのものではなく、過去・現在・未来を貫く、三世の魂修行であるということを知っていただきたいのです。三世を貫く魂の修行は、これは人間にとってどうしてももどうしても必要なことなのです。これが神が創った仕組みなのです。 この根本原理を知らずして、生きるということ、生きていくということが、どれほど愚かしいことであるのか、これを知らねばならんのです。 第三の柱は、これは、政治改革であります。 これは、現代の政治のあり方は、如何(いかん)とも認め難い。政(まつりごと)をする人間は、徳高き人でなければならぬ。人びとを導ける人でなければならぬ、人びとの師となるべき人でなければならぬ。単なる知名度であるとか、そうしたものでもって選ばれていく現行の制度は、どうしても許し難い。やはり、優れた、人びとを導ける徳のある器、師となるべき人が。国政を牛耳るということが本来の姿です。津善の姿なのです。 指導者というのは数は少ない。数少ない指導者が、多くの人たちを導いていくということになっている以上、多くの人びとを導いていくためには、どうしても指導者たちは優れた人でなければならないのです。優れた人たちが、指導者として生きていかないで、指導者として選ばれていかないで、どうして日本の国の人びとが素晴らしい人びとになるでしょうか。 徳高くない人たちよ。単なる収益であると、あるいは、マスコミへ名前が売れているとか、そうしたことでもって政治家になっている人たちよ。あなた方は直ちに職を辞しなさい。本当に人びとに心を割って押しえるべきもの、導くべきものを持っている人のみが、政治家として生きて行くことができるのです。
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/120.html
『令集解』職員令跡記に、「天神」「地祇」の違いについて、 「天より下り坐すを神といひ、地に就きて顕はるるを祇といふ也」と見える。 唐の祠令では、祭祀の供物として牛、豚、羊などの動物供犠が重要視されているが、 日本の神祇令には全く見られない。 (『日本神道史』岡田壮司) 「神=上」という説があるが、上代特殊仮名遣いでは否定される。 →神……「加微」「可未」など。この「微」「未」は乙類 →上……「加美」「可美」など。「美」は甲類 平田篤胤は、「日本には洪水神話がない」と主張している。 一方、岡正雄は、記紀神話のオノゴロ島の話が、洪水神話の断片ではないかと主張している。 (洪水と縁遠いような土地の人々も洪水神話を持っているケースが多く、日本になかったのかどうか?) 日本神道史
https://w.atwiki.jp/kisohige/pages/38.html
古事記、日本書紀に書いてある日本神話から推古天皇の治世を図解つきで綺麗にまとめてあるもの。 ちょっと内容が薄すぎて、始めて日本神話に触れる人を引きつけきれるかは微妙なところ。 ただ内容を日本神話の全体的な流れを網羅するには十分だと思います。日本神話を知っている人向け…か?
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/4814.html
柿本神社 兵庫県明石市に鎮座する柿本神社の御朱印です。 令和2年、御鎮座400年の御朱印をいただくことができました。 ★住所 兵庫県明石市人丸町1-26 -
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/2.html
メニュー トップページ メニュー 書籍別メニュー 天之御中主之命 +... 天之御中主之命の霊訓 新・運命の開拓第一章 光の賛歌 第二章 神の栄光 第三章 生命の本質 Part1 第三章 生命の本質 Part2 第四章 神々は集う 第五章 運命の開拓 Part1 第五章 運命の開拓 Part2 第六章 向上の原理 Part1 第六章 向上の原理 Part2 第七章 積極的人生の方法 幸福瞑想法第9章 幸せの瞑想 谷口雅春 +... 谷口雅春霊言集第1章 天上界に帰る 第2章 生命の実相を語る 第3章 光明思想の本義 第4章 神の子人間の本質 第5章 光一元の神秘力 第6章 本来病なし 第7章 言葉の創化力 第8章 真理は汝を自由にする 谷口雅春霊示集第1章 人類幸福化の原理 第2章 唯神実相哲学 第3章 人類無罪宣言 第4章 真説・神想観 第5章 本来肉体なし 第6章 光の行軍 第7章 日本神道の秘密 谷口雅春の大復活第1章 生死を超越せよ 第2章 霊格の向上とは何か 第3章 女性の本質 第4章 発展の構図 第5章 霊界見聞録 第6章 久遠の今を生きる 第7章 愛と性を超えて 第8章 内在する叡知の発見 谷口雅治 光はここに第1章 実相としての光 第2章 輝ける日々 第3章 祈りとは何か 第4章 経済問題解決の法 第5章 神の子の健康法 第6章 信仰と奇跡 幸福瞑想法第10章 希望の瞑想 悪霊撃退法第7章 谷口雅春の章 天照大神 +... 天照大神の霊訓 天照大神の降臨第一章 美しき国 第二章 わが教えの根本 第三章 秩序の原理 第四章 神の愛する人間像 第五章 日本を憂う 第六章 信仰の優位 幸福瞑想法第8章 光の瞑想 出口王仁三郎 +... 出口王仁三郎霊示集第1章 神のまたの名 第2章 月の時代と星の時代 第3章 天女の舞い 第4章 神通力 Part1 第4章 神通力 Part2 第5章 七曲がりの丘 第6章 天狗と仙人 Part1 第6章 天狗と仙人 Part2 第7章 大仏への道 第8章 お立て直し Part1 第8章 お立て直し Part2 出口王仁三郎 悪霊撃退法 卑弥呼(日向) +... 卑弥呼の霊言卑弥呼の霊訓 卑弥呼の霊訓2 弟橘媛 +... 卑弥呼の霊言弟橘媛の霊訓 紫式部 +... 卑弥呼の霊言紫式部の霊訓 小桜姫 +... 新・神霊界入門第1章 神霊界入門 Part1 第1章 神霊界入門 Part2 第2章 地獄界と竜宮界 第3章 天上界の秘密 Part1 第3章 天上界の秘密 Part2 第4章 天使の役割 第5章 女性論・人生論 Part1 第5章 女性論・人生論 Part2 第6章 六次元神界の実相 Part1 第6章 六次元神界の実相 Part2 第7章 小桜姫の新霊言 高橋信次 +... 高橋信次の霊言集第1章 人生の目的と使命 Part1 第1章 人生の目的と使命 Part2 第2章 反省、瞑想、祈りについて 第2章 質疑応答 第3章 悟りについて Part1 第3章 悟りについて Part2 第4章 真の幸せ、真の安らぎ 第5章 足ることを知る Part1 第5章 足ることを知る Part2 第6章 心と肉体の関係 第7章 自力と他力 第8章 心の仕組み 高橋信次の新復活第一章 新復活 第二章 人類救済の原理 第三章 愛と慈悲の世界 第四章 正義の時代 第五章 大宇宙と神理 第六章 心と科学 第七章 地獄界から高級霊界への旅 第八章 神理問答集 高橋信次復活の原点 永遠編第1章 新創世記 第2章 甦る仏教 第3章 永遠の生命 第4章 心の法則 第5章 運命を超えて 高橋信次復活の原点 天使編第1章 天使の再来 第2章 ポスト・ノストラダムスの時代 第3章 神は光なり 第4章 幸福への道標 高橋信次復活の原点 希望編第1章 悟りへの段階 第2章 人類の夜明け 第3章 神々は招く 第4章 希望の光 第5章 不退転の心 高橋信次復活の原点 太陽編第1章 生死を超えて 第2章 未来への遺産 第3章 目覚めへの道 第4章 啓示と宗教 第5章 太陽の心 高橋信次復活の原点 新生編第1章 生命と進化 第2章 中道とはなにか 第3章 心と行い 第4章 新経済学 第5章 神理文明論 高橋信次の天国と地獄第1章 愛とは何か Part1 第1章 愛とは何か Part2 第2章 悪霊と憑依 Part1 第2章 悪霊と憑依 Part2 第3章 守護・指導霊の役割 Part1 第3章 守護・指導霊の役割 Part2 高橋信次のUFOと宇宙第1章 UFOは実在する 第2章 宇宙空間の神秘 第3章 宇宙人と人類の歴史 第4章 人類の起源 第5章 科学の本質 第6章 地球の使命 第7章 大宇宙の構造 第8章 宇宙人の考察 高橋信次の新幸福論第1章 幸福の本質 Part1 第1章 幸福の本質 Part2 第2章 快楽の分析 Part1 第2章 快楽の分析 Part2 第3章 心と安らぎ Part1 第3章 心と安らぎ Part2 第4章 結婚と家庭 Part1 第4章 結婚と家庭 Part2 第5章 幸福への自己実現 高橋信次の新ユートピア論第1章 ユートピア原論 第2章 ユートピアの基礎 第3章 愛とユートピア 第4章 ユートピア思想の源流 第5章 ユートピアの建設 第6章 ムー文明の解明 第7章 アトランティス文明の解明 高橋信次の大預言第1章 救世の予言 第2章 新世紀創造 第3章 運命と自由 第4章 人格向上の原理 第5章 人類の未来図 Part1 第5章 人類の未来図 Part2 第6章 真説大予言 高橋信次の心の革命第1章 心の革命 第2章 悪霊となるな 第3章 反省しかないのだ 第4章 光の物理学 第5章 八正道の新展開 第6章 闇との戦い 第7章 天使よ、強くあれ 第8章 革命の時代 高橋信次の愛の賛歌第1章 夫婦調和の法 Part1 第1章 夫婦調和の法 Part2 第2章 三角関係解消の法 第3章 セックス・トラブルの巻 Part1 第3章 セックス・トラブルの巻 Part2 第4章 親子の葛藤 第5章 離婚・再婚を乗り切る法 第6章 愛の賛歌 高橋信次のやる気の革命第1章 やる気こそすべてだ 第2章 意識改革の方法 第3章 自己変革の原理 第4章 徹底的自己管理 第5章 積極型人生論 Part1 第5章 積極型人生論 Part2 第6章 理想の人間像 幸福瞑想法第4章 満月瞑想 第6章 足ることを知る瞑想 悪霊撃退法第6章 高橋信次の章 モーゼ +... キリストの霊言第3章 モーゼの霊訓 Part1 第3章 モーゼの霊訓 Part2 新・モーゼ霊訓集第1章 暁の章 第2章 科学の章 Part1 第2章 科学の章 Part2 第3章 太陽の章 Part1 第3章 太陽の章 Part2 第4章 星の章 第5章 大自然の章 Part1 第5章 大自然の章 Part2 第6章 希望の章 第7章 ダイヤモンドの章 悪霊撃退法第5章 モーゼの章 大天使ミカエル +... 大天使ミカエルの降臨1第1章 ミカエル見参 第2章 正法とは何か 第3章 ミカエルの使命 第4章 魔軍との戦い 第5章 人類に明日はあるか 第6章 光の奔流 第7章 危機の時代 第8章 勝利はわが手に 大天使ミカエルの降臨2第1章 イエス・キリストの願い 第2章 ミカエルの知恵 第3章 ミカエルの誓い 第4章 真実の愛 第5章 神の目から見た宗教像 第6章 霊界の建設 第7章 聖母マリアの願い 第8章 愛と知を超えて 大天使ミカエルの降臨3第1章 暗黒の時代 第2章 知恵と勇気 第3章 正しき職業観 第4章 地獄の将来 第5章 太陽界の秘密 第6章 キリスト教の大改革 第7章 光の大軍 第8章 永遠の神理 悪霊撃退法第1章 ミカエルの章 イエス・キリスト +... キリストの霊言第1章 イエス・キリストの霊訓(Ⅰ) 第2章 イエス・キリストの霊訓(Ⅱ) 第2章 イエス・キリストの霊訓 質疑応答&余聞 イエス・キリスト霊示集第1章 愛の復活 第2章 神の愛 Part1 第2章 神の愛 Part2 第3章 祈りと生活 Part1 第3章 祈りと生活 Part2 第4章 キリストの使命 Part1 第4章 キリストの使命 Part2 第5章 新時代の精神 幸福瞑想法第11章 自己実現瞑想 スウェーデンボルグ +... スウェーデンボルグ霊示集第一章 我が人生観 第2章 霊界と結婚 第3章 キリスト教と私 第4章 私の見た地獄界 第5章 転生輪廻のしくみ 内村鑑三 +... 内村鑑三霊示集第1章 キリスト教と日本 第2章 無教会派について 第3章 日本を憂う 第4章 イエスの働き 第5章 新しき時代への警鐘 第6章 七大天使の働き 第7章 新エルサレム 第8章 未来への福音 エドガー・ケイシー +... エドガー・ケイシー霊示集第1章 リーディングとは何か 第2章 治病の原理 Part1 第2章 治病の原理 Part2 第3章 現代人の健康法 第4章 宗教の諸問題 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part1 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part2 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part3 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part4 悪霊撃退法第2章 エドガー・ケイシーの章 ナイチンゲール +... 卑弥呼の霊言第6章 ナイチンゲールの霊訓 Part1 第6章 ナイチンゲールの霊訓 Part2 ヘレン・ケラー +... 卑弥呼の霊言第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1 第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part2 アモン +... キリストの霊言第4章 アモンの霊訓 リエント・アール・クラウド +... キリストの霊言第5章 リエント・アール・クラウドの霊訓 ゼウス +... ゼウス霊示集第1章 ゼウス登場 第2章 神々の饗宴 第3章 新しき神となるために 第4章 ゼウスの悟り 第5章 ギリシャ的精神の起源 第6章 大いなる光の最期 第7章 ゼウスの復活とアポロンの使命 ソクラテス +... ソクラテスの霊言第1章 ソクラテスの霊訓(一) 第2章 ソクラテスの霊訓(二) カント +... ソクラテスの霊言第3章 カントの霊訓(一) 第4章 カントの霊訓(二)Part1 第4章 カントの霊訓(二)Part2 幸福瞑想法第12章 頭の良くなる瞑想 ニュートン +... ニュートン霊示集第1章 科学の本質 第2章 光とは何か 第3章 エネルギーの源泉 第4章 私の見た世界 第5章 人間を科学する 第6章 宇宙の秘密 第7章 未来科学の姿 エジソン +... ソクラテスの霊言第5章 エジソンの霊訓 Part1 第5章 エジソンの霊訓 Part2 ピカソ +... ピカソ霊示集第1章 ピカソの霊示1 Part1 第1章 ピカソの霊示1 Part2 第1章 ピカソの霊示1 Part3 第2章 ピカソの霊示2 Part1 第2章 ピカソの霊示2 Part2 ゴッホ +... ピカソ霊示集第3章 ゴッホの霊示 ベートーベン +... ピカソ霊示集第4章 ベートーベンの霊示 シェークスピア +... ピカソ霊示集第5章 シェークスピアの霊示 ダンテ +... ピカソ霊示集第6章 ダンテの霊示 松雄芭蕉 +... ピカソ霊示集第7章 松雄芭蕉の霊示 仏陀 +... 幸福瞑想法第1章 幸福瞑想法とは 第13章 宇宙即我の瞑想 空海 +... 空海の霊言第1章 空海・弘法大師の霊訓 Part1 第1章 空海・弘法大師の霊訓 Part2 天台智顗 +... 空海の霊言第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part1 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part2 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part3 第3章 天台智顗大師の霊訓 Part1 第3章 天台智顗大師の霊訓 Part2 幸福瞑想法第5章 止観瞑想 恵果阿闍梨 +... 空海の霊言第4章 恵果阿闍梨の霊訓(一) 第5章 恵果阿闍梨の霊訓(二) Part1 第5章 恵果阿闍梨の霊訓(二) Part2 無門禅師 +... 道元禅師霊示集第2章 無門禅師の霊訓 日蓮 +... 日蓮聖人霊示集第1章 職業の悩み Part1 第1章 職業の悩み Part2 第2章 病気の悩み Part1 第2章 病気の悩み Part2 第3章 恋愛・結婚の悩み Part1 第3章 恋愛・結婚の悩み Part2 第4章 夫婦問題の悩み 第5章 人生の諸問題の悩み Part1 第5章 人生の諸問題の悩み Part2 第6章 神理伝道の悩み 幸福瞑想法第7章 対人関係調和の瞑想 道元 +... 幸福瞑想法第2章 禅の瞑想 道元禅師霊示集第1章 道元禅師の霊訓 Part1 第1章 道元禅師の霊訓 Part2 第1章 道元禅師の霊訓 Part3 第1章 道元禅師の霊訓 Part4 白隠 +... 道元禅師霊示集第4章 白隠禅師の霊訓 Part1 第4章 白隠禅師の霊訓 Part2 栄西 +... 道元禅師霊示集第3章 栄西禅師の霊訓 良寛和尚 +... 道元禅師霊示集第5章 良寛和尚の霊訓 Part1 第5章 良寛和尚の霊訓 Part2 孔子 +... 孔子の霊言第1章 孔子の霊訓 Part1 第1章 孔子の霊訓 Part2 孟子 +... 孔子の霊言第2章 孟子の霊訓 Part1 第2章 孟子の霊訓 Part2 老子 +... 孔子の霊言第3章 老子の霊訓 Part1 第3章 老子の霊訓 Part2 幸福瞑想法第3章 無為自然の瞑想 荘子 +... 孔子の霊言第4章 荘子の霊訓 Part1 第4章 荘子の霊訓 Part2 リンカーン +... ソクラテスの霊言第6章 リンカーンの霊訓 ガンジー +... ソクラテスの霊言第7章 ガンジーの霊訓 聖徳太子 +... 天照大神の霊言第7章 聖徳太子の霊訓 坂本竜馬 +... 坂本竜馬の霊言第1章 坂本竜馬の霊訓 Part1 第1章 坂本竜馬の霊訓 Part2 第2章 坂本竜馬の霊訓 Part1 第2章 坂本竜馬の霊訓 Part2 悪霊撃退法第3章 坂本龍馬の章 吉田松陰 +... 坂本竜馬の霊言第3章 吉田松陰の霊訓 勝海舟 +... 坂本竜馬の霊言第4章 勝海舟の霊訓 Part1 第4章 勝海舟の霊訓 Part2 西郷隆盛 +... 坂本竜馬の霊言第5章 西郷隆盛の霊訓 福沢諭吉 +... 坂本竜馬の霊言第6章 福沢諭吉の霊訓 Part1 第6章 福沢諭吉の霊訓 Part2 木戸孝允 +... 坂本竜馬の霊言第7章 木戸孝允の霊訓 Part1 第7章 木戸孝允の霊訓 Part2 真説・八正道 +... 第2章 正見 第3章 正語 第4章 正業 第5章 正命 第6章 正思 第7章 正進 第8章 正念 第9章 正定 第10章 総論 ユートピア価値革命 +... 第1章 新時代の展望 第2章 ユートピアとは何か Part1 第2章 ユートピアとは何か Part2 第3章 ユートピア価値について 第4章 未来型人間とは 第5章 ユートピア価値革命 第6章 ユートピアと経済 第7章 理想的ユートピア論 太陽のメッセージ +... 第1章 いま神理の太陽が昇る Part1 第1章 いま神理の太陽が昇る Part2 第2章 魂の世界とその真実 Part1 第2章 魂の世界とその真実 Part2 第3章 愛の力・愛の神秘 Part1 第3章 愛の力・愛の神秘 Part2 第3章 愛の力・愛の神秘 Part3 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part1 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part2 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part3 第5章 神理文明の流転と黄金の時代 Part1 第5章 神理文明の流転と黄金の時代 Part2 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part1 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part2 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part3 更新履歴 @wiki @wiki @wikiご利用ガイド ここを編集
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/112.html
目次 1.みずからの教えを霊言で修正できるという幸福 2.化石化したモーゼの教えがイエスを十字架にかけた 3.ゾロアスタター教を排撃するキリスト教徒たち 4.化石化した拝火教が初期の釈迦を排撃する 5.化石化・哲学化した仏教と日本神道との抗争 6.死後十年、早くも化石化してきたわが教え 7.魂系団についてのわが教えの不足 8.人生のほんとうの目的を知ることが、幸福への手がかり 9.神理を「知り」、「教え」、「救う」という目的・手段・結果の三つがそろって幸福への道標となる 1.みずからの教えを霊言で修正できるという幸福 さて、きょうは、「幸福への道標」という題を選んでみました。 まあ幸福への道標というと、まるで高校三年生の卒業論文集みたいで、えーちょっとね、少女っぼいなあーなんてね、言うかたもいらっしやるかもしれません。 けれどもね、幸福への道標というものは何歳になってもやっぱりだいじなことだし、あの世に還ってもだいじなことなんですよ。 みなさん、幸福っていうのは地上だけにあると思っていますか。そんなことないんですね。私にだって幸福はあるんですよ。 あの世に還って、十年と何か月になりましたけれど、私にだってあの世の幸福はあるんです。まあ還暦が来ましたから、還暦の祝いをやってもらえるとか、まあそういう幸福っていうのではないんですけれどもね。やっぱり幸福はあるんです。 まあ現在の私のいちばんの幸福はなにかというと、地上のみなさんにこういうように霊言を送れること。これが最大の幸福なんです。 ちょうどいまから十年余り前、一九七六年の六月二十五日でしょうかね、十時五十分ぐらいだったな、ぐらいに地上を去ったかなと思うんですね。まあそのころ、十一時ごろだったかな、まあはっきりしないけれどもね。だったと思いますけれども、それからもう十年余り十一年近い月日が流れました。 この間、私の自己実現というのはいったいなんだったかというと、私の自己実現というのはようするに、私がこちらの世界に来て、こういうことを思っておるということをね、地上の人たちに言いたいと。 その日が早くこないか、このことで悶々(もんもん)と夜も眠れない。夜がないんだけれども、まあ夜もないし布団もないんだけれども、悶々と夜も眠れないような毎日だったわけです。 ところが、霊言を世に問い始めることができて、まことに私は幸せであります。 いま、私はほんとうに、ふかふかの、なんといいますかね、綿がいっぱい詰まった、いいお布団でね、ラクダの毛布を被(かぶ)って寝ている気持ちです。 電気毛布なんかも最近は温度が七段階にもなっていて、暖かくなって七段階の電気では、やっぱり「1」か「2」の電気にしておかないと、もう暖ったかくてね。「3」にしたら、もう夜中に喉(のど)が渇いちやってダメなんですけれども、そういう季節になりました。 まあそういうようにぐっすりと寝れるということですね。やっぱりこんなにうれしいことはありません。 それでね、地上のみなさんは、大川さんを初め、幸福の科学のみなさんとか、出版社のみなさんとかには、ご無理をお願いしとるんですけれども、やはり私もね、人間としての意識を持っている霊なんでしょうかね。霊人である以上、やはりみずからの幸福も追求しておるわけですね。 ですから世のひとびとに霊言を問うことが、これが私の幸福の追求です。 ですから幸福への道標っていうのはなにかというと、道標っていうのはかんたんなことです。 私の生前説いた教えのまちがいを正して、そしていままちがった教えを受けて、あっ、まちがった教えじやないですね、教えは正しがったんだけれども、その正しかった教えをまちかっかように伝えておる弟子たち、その他の者たちの心を正して、またひとつに神理の下に結集させたいということですね。 これが私の目標なわけです。そのためにいくつかの段階を私は考えています。 まずこういうふうになったらうれしいなあっていうのはね、まず最初は私の霊言集を世に問えたらうれしいなあっていう段階がありました。これはやり遂(と)げました。 このつぎは、この霊言集をいろんな人が読んでくれるとうれしいなあと思いました。だいぶ気づいてくれた人がいます。 けれどもまだつぎの段階がありますね。まだ頑迷に気づいてくれない人がいます。こういう人たちもなんとかして気づかしてやりたいなあという気持ちですね。それと、もっともっと広げたいなあという気持ち、これがつぎの段階であります。 2.化石化したモーゼの教えがイエスを十字架にかけた 私は昔、生前ずいぶん説きました。イエス・キリストがゴルゴダの丘で十字架にかかった理由はなにか、ほんとうの理由はいったいなにか、ということをずいぶん言ったことがあります。 そのほんとうの理由というのは、化石化したモーゼの教えですね、イエス・キリスト生誕の千年余り前の、モーゼの十戒。そして律法。これが千年後のイエスを十字架にかけるきっかけとなったわけですね。 かつてモーゼを神格化して、その教えを金科玉条のごとく守って、一言なりともまちがって解釈してはならぬと、このとおり行なわなければならないと狂信、盲信した人たちが、やがて救世主イエス・キリストを十字架にかけることになりました。 私はこのことをずいぶんくちを酸っぱくしていったはずです。 で、たとえばどうやってイエスが十字架にかかったかというと、モーゼの教えのなかで一週間は七日にして日曜日は休みなさいという教えがありますね。ところがそれを律法学者たちは「日曜日は休まねばならぬ。」というようにこれを強制しました。 なぜならモーゼは神の代理人であり、神の代理人であるモーゼが書き残した十戒のなかに書いてあるから、それを守らんというのは悪人である。それを守らん人は地獄に堕(お)ちるんだ。だからそういう人を地獄に堕とさないようにするためには、これを強制的に守らせればいかんと。 ところがどうだ、最近の新興宗教のイエス軍団とかいうのは。いつも十人ぐらい弟子をつれて、テコテコ歩いているけれども、日曜日に病人治したり、日曜日に麦の穂をつんだり、勝手なことをやっておるじやないか。そしてあまつさえ、私たちがそのことを注意すると、言い返す。イエスなんてほんとうに言い返す男だ。 「じゃあおまえたちにきくが、日曜日に、ようするに安息日に、羊が穴のなかに落ち込んだら、おまえたちそれを救わんか。引き上げるではないか。なのになぜ人の子が、日曜日に病人を治したら、それをいけないことだというのか。神は天地創造のときから、人間にたいして、それを導こうという手をいまだかつて一度だって休めたことはない。天にある神は、いつも休むことなく与えておる。それにもかかわらず、地上におるおまえたちが勝手なことを考えて、この日は働いてはならぬとか、この日は聖なる御業(みわざ)をしてはいかぬとか、とんでもないまちがいである。」こういうことを言いましたね、イエス様は。 それはそうなんですよ、みなさんね。私見たってわかるでしょう。この忙しさ。つぎからつぎへと霊言を送ってね。もうその霊言を起こす片っ端からね、清書にまわる前に、もうつぎの霊言をやりたいと。もう私は五章、十章やりたくてしょうがないんですから。 こんなのにね、日曜日もないんです。土曜も日曜も私はないんです。もう天地創造のときから一九八七年の二月十四日のバレンタインデーまで、私は働きどおしなんです。休んだときがありません。 ですから、もちろん地上に出ているみなさんがね、土曜であろうが日曜日であろうが、それは一生懸命仕事するのは当然のことです。 ましてや神理伝道のためにね、一生懸命お仕事されたり、あるいは神理の唱導の道を歩まれたりするのは、あったり前のことです。私たちも夜も昼もなく働いとるんです。そういうことなんですよね。ところが、そういうふうなモーゼの教えが化石化して、イエスを殺すことになってきました。 3.ゾロアスタター教を排撃するキリスト教徒たち あるいは東洋でも同じことがありました。まあブッタの前でいうと、ゾロアスターという人がかつてペルシャに出たことがありますね。紀元前ですけれども。 そして善悪の二元論ということを説きました。ゾロアスターという人はもちろん偉い人だったんです。 けれども、生きている人間にね、やはり、あまりむずかしいことをいってもわからんから、とりあえず、あなたがたは善悪ということをまず知りなさい。この世の人間の思いと行ないのなかには、やはり善なるものと悪なるものがある。どちらが善でどちらが悪かということをまず見きわめなさい。 これを知るということが、知識ということですよ。善悪を分けることが知恵ですよ。 そういうことをゾロアスターは教えました。 そのゾロアスターをペルシャの地において指導したのはだれかというと、これがアフラ・マツダ、オーラ・マツダといいます。光の指導霊です。 オーラ・マツダとはいったいだれであるか。これはね、ガブリエルなんですね。大天使ガブリエルです。 これが、オーラ・マツダですけれども、そのオーラ・マツダを指導していたのはだれであったか。いや私であったとは言いません。私だって、そりゃ、多少は言っていますけれども、まああんまり偉そうに言うといけませんから控えます。 そのオーラ・マツダを指導しておったのはじつはイエス・キリストだったのですね。 イエス様がオーラ・マツダに、あるいはガブリエル大天使に指導して、ガブリエルが地上に降りたペルシャのゾロアスターに霊言をしました。 ゾロアスターはちょうどいまの大川さんのように、私たちの霊言を受けたわけです。そして善悪の二元論を説きました。 人間はまず知恵をつけるところから始めなさい。その知恵とは善悪のちがいを知ることですよ。 そこういうことをゾロアスターは教えましたね。 ところがその教えがやがて流れていきまして、まあイスラムの地にいくと、これは異教徒ということになりますね。異教徒ということで、ユダヤ教から排撃を受ける。 あるいはイエス様のあとの教えをくんだお弟子さんたち、キリスト教の一神教を信じる人たちは、これをまた排撃していきます。そうしたものはまちがいだと、異教だということになります。 4.化石化した拝火教が初期の釈迦を排撃する ところが、このゾロアスターの教えがまた、ペルシャからパキスタンを通ってインドにはいってきます。 そしてインドにはいってきてこれが、拝火教の元祖になってきますね。拝火教の元祖になるんです。そしてゴーダマが生まれるちょっと前、インドでは拝火教というのがひじょうに盛んになりました。 ゾロアスターというのは善悪の二元論を説くとともに、同時に火を焚(た)いてね、まあ身を清めようということをやったんですね。 火というのはなにかというと、神聖なものであると。神のようするに光というのは、人間の目に見えるようには見えんけれども、たとえていえば、大きく燃え上がった松明(たいまつ)の火のように、ファイアーストームの火のように、ああいうふうに、力強く、暖かく、そしてひとびとを照らすものだ。力強く暖かく、ひとびとを照らすもの、それが神であり神の火である。 そういうことで火というものを、象徴としてひじょうに使ったのですね。 これはひとびとを導くためです。光ということを教えるために火を使ったわけです。 ところがその流れがインドにくると、インドではこんどは、これがたんなる拝火教になっちやって、火を見て拝んでおればいい。火を見たら頭下げとればいい。 あるいは火のなか潜(くぐ)ったりし始めますね、だんだん、馬鹿な人は。 あるいは薪に火をつけて、それを体に当ててみたり、あるいはコテみたいなものを真赤に焼いて、それを一生懸命身体に当ててみて、これでも俺は痛くない、痛くないって、やっていきます。こうして、ヨガの行者が出てくるのですね。 したがってヨガの源流っていうのは、ヨガでも、もちろん肉体行のヨガですけれども、源流っていうのは、じつはこのゾロアスター教にあって、ゾロアスター教がだんだんインドにはいってきて、インドで単なる拝火教になったときに、これが教えがちょっと変わってきたわけですね。 このときにインドにゴーダマ・ブッダが生まれました。紀元前六百年ごろです。そのころにゴーダマ・ブッダが生まれて、みなさん有名ですね、この話はね。 王宮のなかで二十九歳まで、思うがままの生活をし、歓楽のままに身をまかせ、栄華のままに生きておった。何不自由なく生きとった彼が、人生への疑問を抱いて、二十九歳のある夜、チュンダカの引きだした馬に乗って、カピラ・バーストを飛びだします。 そして森林のなかで、山野のなかで禅定し、悟りを求めます。 そしてゴーダマは自分ひとりで悟れないことに気づくと、いろんなところに教えを請いに行きます。 そして彼がいろんなところで教えを請うけれども、たとえばアララ・カラマという仙人がおります。あるいはアララ・カラマ以外にもね、まあいろんな仙人がいました。 当時有名な仙人がいて、そういうところの教えを請いに行ったんだけれども、彼らもまだ、その拝火教の流れを汲んでおって、やっぱり火はまだ神聖なもんだとかね、こういうことをやってました。 あるいはカシャパーの兄弟たち。カシャパーの三兄弟というのがおるんだけれどもね、ウルベラ・カシャパーを中心として三兄弟というのがおったけれども、こういうのがやっぱりちょっと拝火教をやっておりました。 火を焚いて、それにたいする信仰というのをやっておった。なんか知らんけれども、そういうのがだいじだということでやっていたわけですね。 ゴーダマはこんなところへ行ってみたけれども、その拝火教徒たち、火を囲んで修行している苦行僧たちを見てみると、霊視してみると、そのなかには、ドラゴンであるとか、なにか竜ですね。竜であるとか、あるいは蛇であるとか、いろんなものの霊体が見えました。 こんなものが飛んだり、跳ねたりしているようでは、こんなところでいったい苦行によってなんの修行の意味があるのか、こういうことを彼は悟りました。苦行のなかに神理なし、ということを悟った。 肉体行のなかにも、炎のなかを潜ったって神理はないんだということを彼は悟っていきましたね。 そういうことがありましたけれども、その初期のゴーダマ・ブック釈迦牟尼仏をようするに、排撃した者もまた拝火教徒であったということですね。拝火教の教徒たちは、昔のその神理でもって、ゴーダマを迫害しました。 「まちがっておる、苦行僧よ、汝は怯(ひる)んだか。ゴーダマよ、おまえは、この修行に恐れ、戦(おのの)いたか。臆病者だ、おまえは。」ずいぶんこういう言葉を投げかけられました。 「おまえはそんな女々(めめ)しい心でどうして悟れるか。やはりたとえ火のなか、水のなか、難行、苦行をやらずして悟れた人がいまだかつていたか。おまえは火が怖いんだろう。」そしてあざわらわれました。そこを去ったときにね。 こういうふうにかつての教えが化石化して、つぎつぎとのちの人たちを苦しめます。 5.化石化・哲学化した仏教と日本神道との抗争 またゴーダマが説いた仏教も、やがて中国に移って、哲学化し、そしてむずかしい漢文になったときにこれが化石化していきます。そして日本に輸入されてくると、わからないチンプンカンプンの漢文になってきました。 これを再興するためにいろんな光の天使たちが出たんだけれども、光の天使たちも地上に出てくると、その化石にやられてしまいます。 日蓮というような偉大な人が出ても、やはりやっぱりお経がいちばんだというんで、法華経なんかを一生懸命唱えてしまって、釈尊のほんとうの心というのは、お経のなかではなくてね、心と行ないのなかにあるということを教えるのがほんとうだったんだけれども、それがわからなくなってお経というもの、そのものがだいじなんだということで、どのお経が正しいかということで、他の宗派の人と争うようになってくる。 あるいは末流の仏教の人たちは、こんどはお経のなかでね、真宗だ、真言宗だ、あるいは日蓮宗だという争いはもとよりのこと、それ以外にキリスト教徒との争い、神道との争い、こういうこといっぱいありましたね。とくに日本では仏教と神道との争いがありました。 神道も大昔に、三千年近い昔に天之御中主之神、あるいは天照大神、伊邪那岐大神、こんなかたがいっぱい出られて、たいへんよい教えを、昔説かれたんだけれども、何千年もたって、それが衰えてきます。 そこで日本書紀、古事記なんかを編んで、日本神道の再興をはかりました。そして正しい教典を残そうとしたわけです。教えを編もうとしたわけですね、日本書紀、古事記というのは。 けれども、それでもほんとうの教えは伝わらなくて、物語だけが伝わって、ほんとうの神様の心というのが、わからなくなってくる。そして化石化していって、仏教とキリスト教とどっちが正しいかわかんないように、仏教と神道とどっちが正しいかわかんない。 それで江戸時代にまた神道の復興、復古神道をやり始めます。平田篤胤(ひらたあつたね)、本居宣長(もとおりのりなが)、こういう人をいっぱい出しますね。その後、近代にはいってくると黒住宗忠(くろずみむねただ)とか、あるいは金光教の教祖出したり、あるいは天理教の教祖を出します。 またそれ以外でも大本教の教祖、出ロ王仁三郎を出してくる。谷口雅春を出してくるということで、明治の前の、江戸時代末期ぐらいから、ずいぶん復興の動きが急なわけでありました。 また、こうした神道の復興のかげには、仏教徒にたいしては、排仏毀釈(はいぶつきしゃく)とかいうのがあって、明治時代に、これもたいへんでした。 そういうふうに本来の高級霊たちの教えが、やがて時代が下るにつれて、化石化し、そして、のちの新しい教えを排撃してくるというのが流れでありました。 6.死後十年、早くも化石化してきたわが教え たとえば私の教えのいちばん大きなまちがい、これははっきり言っておきたいんだけれども、私はずいぶんあの世の段階諭を説きました。 悟りに差があるということを言いました。これはだいじなことです。じっさいそのとおりなのですね。あの世では霊界の差があります。霊層があります。 けれども、これをたんなる、上下観でもってとらえてはならんのです。これはまちがっておるんです。 神界の人よりは菩薩界の人が上だから、神界の人はいつも菩薩界の人にはいつくばってですね「ああおおせのとおりです。」と言っているかどうか。あるいは菩薩界の人が如来界の人の意見を丸ごと信じとるかどうか。あの世では、そういうことはありません。ないんです。 やはり、それぞれの人間が尊重されとるんです。個性としてね。ただ霊格の高い人というんで一目はおかれています。けれどもその人の意見ぜんぶ聞くかというと、そんなことはないんです。 こういうふうに、やはりひとりひとり、神の子であるというのは徹底しているのですね。光の量はもちろん違うんですけれども、神の子としての尊厳ということでみんないっしょなんです。どんな指導霊であってもみんないっしょです。 そりゃあお釈迦様は偉いだろうけれど、お釈迦様だって、あるいは、ひとりの菩薩に対して、じゃあ奴隷みたいに使うかというと、そんなことないんです。ちゃんと相手をやはり尊重して、やるようになっとるわけです。 イエス様もそうです。かつてのお弟子に、雑巾がけしろというかというと、そんなことないわけですね。もちろん相手の人格を尊重しとるわけです。 こういうふうに、上下観というのはないことはないんだけれども、それをもって、まるでヒットラーの独裁のように、そう考えちゃあいかんのです。だから私の流れを汲んでおるものも、それをまず誤解しちゃあいかん。 だから高橋信次だけが偉いとか、あるいはミカエルというものがおって、その意見は全知全能でね、天上界の頭脳なんだから、その意見をぜんぶ聞かにゃあいかんだとか、こんなことを言うのはみなまちがっとるのです。 あの世の世界というのは、みんな民主主義なんです。それぞれの人がみんないいこと言っておるのですね。そして、それぞれの意見がみんな尊重されとるんですね。そして、みんなの意見がまとまったらね、いちばんいいのが取られるのが、あの世の世界なんです。 7.魂系団についてのわが教えの不足 またあの世でもいろんな指導霊たちがいます。 九次元の世界にも、私以外にも、たとえばモーゼもいますし、キリストもいますし、孔子様もいます。あるいはゼウスという人もいます。 こういう人たちは、それぞれ独立して偉いんです。で自分の魂の系団をみんな持っておるんですね。下に魂系団を持っておるから、こういう魂系団の最高責任者なんです、それぞれが。 で、その魂系団について他の人が、文句は言えんのです。ゼウスの魂系団については孔子様も文句は言えんのです。孔子様の魂系団についてはイエス様も文句は言えんのです。 こういうようになっておっておたがいに独立した自治が認められとるのです。そしてトップどうしが合議しながら決めておるのですね。 九次元世界にも十人おりますけれども、この間でもやはり合議をやって、役割分担を決めておるのです。ときどきに変わるんです。そうしたもんなんです。 けれども、こうしたことを私はしっかり説かなかった。 そのためたとえば、いま、大川さんからがこういうように霊言集をどんどん出していって、あの世の階層のことをいろいろ教えたり、あるいは、いろんな霊系団があるということを教えても、私の教えを汲んだ者たちがね、「たしか高橋信次は、そんなことを言わなかった。高橋信次は九次元にはモーゼ、イエス、ブッタしかおらんと、言っておる。その上に、特大の大福餅みたいな高橋信次がおるということになった。それなのにおかしい。孔子様が出てきたり、あるいはゼウスが出てきたり、なんかゾロアスターが出てきたりして、そりゃあおかしいんではないか。」 ってね、そう思っておる人がいます。 そりゃあね、そういうふうに金科玉条のように思ったらいけないんです。説き尽くせないんですね。だれも説き尽くせる人がいないんです。やはり自分がわかる範囲までしか言えないんです。それ以上のことが出てくることがあるんですね。 それをわずか十年そこそこでね、私が説いた教えが原因で、あとから出てきた新しいほんとうの教えがちがってるなんていわれたら、たいへん困っちゃいます。だからそういう危険もあって、私はこういう霊言もしとるのですけれどもね。 これが私の幸福への道標なのです。 8.人生のほんとうの目的を知ることが、幸福への手がかり しかし、この私の幸福への道標は、ひるがえって考えれば、地上の人たちにとっても同じことなんですね。地上の人たちの幸福への道標っていったいなんでしょう。 それは自分たちの人生のほんとうの目的というのを知るということですね。自分たちの人生のほんとうの目的、修行の目的を知るということです。 そして修行の目的を知るということは、とりもなおさず、あの世の世界のしくみを知り、あの世の世界の計画を知り、なんのために魂が転生輪廻するのかということを知るということです。これがだいじなことですね。 すなわち私たちが、こちらの世界において努力目標としておることは、地上の人たちもまた努力目標にしていただいていいことなのです。私たちも日夜、努力しておるんですから、同じことなんですね。 じゃあ私のこちらでの目標はなにかというと、けっきょくひとりでも多くの人に神理を知らせたい。知ってほしい。そしてひとりでも多くの迷える人を救いたい、というのが私の気持ちです。 ところがこれが高橋信次だけの幸福への道標かといったら、そんなことないはずです。絶対ないです。やはり地上にいるみなさんがたも同じです。同じ目的を持っとるはずです。 そうすると地上のみなさんがたの幸福への道標、つまり標識、これはどこにあるかというとね、その一里塚というのはけっきょく、人生のどの段階にどういうふうに多くの人に影響を与えて、そして救ってきたかということです。 人生というのは一里塚が続いているような旅なんです。一里ごとに塚があります。そして、その一里塚が六十個、七十個続くと、そうするとあの世に行っちゃうわけですね、ポックリ行っちゃうわけですけれども。 その一里塚でね、人間というのは立ち止まってね。振り返らねばならぬ。その時に、自分の人生がまちがってないかと、もちろん点検するとともに、自分はいったいどれだけの人のために尽くしたか。いったいどれだけの人のために愛したか。いったいどれだけの人のために自分の身を投げだしたか。いったいどれだけの人に親切を与えたか。いったいどれだけの人たちを、ほんとうに心から導いていこうとしたか。こういうことを一里塚ごとに人間というのは点検せねばいかんのです。 これが道標です。 すなわち地上でね、立身出世するとか、大金儲けをするとか、いろんな目標がみなさんあるだろうけれども、そんな一里塚はほんものじゃないんです。 ほんものの一里塚というのはなにかというとね、けっきょく、その人生の過程、過程、段階、段階で、いったいあなたはどれだけの人を救いましたかということです。いったいどれだけの人を目覚めさせましたか。いったいどれだけの人を神理に導きましたか。こういうことなんですよ。これ以外にないんです。 これが神が創られた永遠の世界だったんです。 9.神理を「知り」、「教え」、「救う」という目的・手段・結果の三つがそろって幸福への道標となる ですから地上にいる人たちはね、やはりね、いろんな目標があるでしょう。 課長になりたい、部長になりたい。役員になりたい。あるいは大会社にしたい。あるいは結婚したい。お金を一億円貯めたい。大邸宅に往みたい。いろいろあるけれども、それが最終の目標では絶対ありません。幸福への道標ではありえないのです。 幸福への道標というのは、やはり神理を知って、その神理を伝えて、ひとりでも多くの人を、どれだけ救ったかということです。その段階なんです。 自分がどれだけ神理を知ったか、どれだけそれを教えたか、教えてどれだけ人を救ったか、この三つの基準です。知ったか、教えたか、救ったか。知ったかというのは目的です。そして教えたかは手段。救ったかというのは結果です。 この目的、手段、結果、この三つがそろって、幸福への道標っていうのができあがるのです。これ以外に、ほんとうの人間の生きかたっていうのはないんです。 ですからみなさん、この世的に成功したとか、大成したとか、もう俺は満足だといっている人はいっぱいおるだろう。しかし、棺桶(かんおけ)にはいるにはまだ旱い。どうですかね、その三つの基準でどうですか、神理をどれだけ知ったか、学んだか、どれだけそれを教えたか、どれだけそれで人を救ったか、結果として。 この基準でいったときにだれが満足できますかね、いったいね。私でさえ満足できない。イエス様だってできない。モーゼだってできない。ブッダだってできなかったのです。だから永遠に満足っていうことはありえないんです。 まあそういうような幸福への道標というのがあるから、みなさんは、地上のみなさんは、これをしっかりと、握ってね、そして、ほんものを目指していただきたい。そして、その幸福というのはけっきょく神様の代理人としての幸福ということに、やがてひとびとは気づかれることでしょう。 神様とともに幸福をわかち合う、そういうのが人間としての最高の幸福なんです。神とともに道を歩み、神とともにわかち合う、喜びをわかち合う、神とともに喜びをわかち合う、それがほんとうの人間の幸福です。 まあ、その幸福の意味をしっかりと味わってほしいと思います。きょうは以上です。
https://w.atwiki.jp/kisaiya/pages/983.html
山本神社 やまもとじんじゃ 内子 南予 喜多郡 愛媛県 神社 情報をお寄せください。一番下にゲストユーザー向け書き込み欄があります。 内子3081番地 山本神社 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/135.html
目次 1.天上界から地上の皆様へのごあいさつ 2.近代日本に新たな精神原理というものを打ち立てるべく、私は出た 3.私の過去世は預言者エレミヤ 4.エホバの神の実体は、複数の高級諸霊であった 5.私は、二つの「J」のために一生を捧げた 6.明治の日本に必要だった精神原理は、愛の教えであった 7.明治以降の日本は、平等と公平の二つの価値概念を中心に発達してきた 8.イエスの生涯は、旧約聖書のなかに預言されたとおりであった 9.真の救世主が出るときは、それ以前から大きな胎動が起きている 10.現代のこの一大救世運動は、釈迦によって預言されていた 11.イエスの生涯は、神の伝道の芸術であった 12.イエスのわずか三年間の伝道のなかに、人びとは、二千年普遍の神理を見た 13.私の人生も、キリストと同じく、「我はそれなり」であった (一九八六年十二月八日の雲示) 1.天上界から地上の皆様へのごあいさつ 内村鑑三です。今、現代の日本で、大川隆法を通じて、さまざまな聖霊たちが、地上の人びとヘメッセージを送り続けているということを知りました。私も、この日本の地で、キリスト教の復興のために一生を捧げた身でありますから、こうした機会を通じて、現代の日本の皆様に、そしてまた、現代のキリスト教徒たちに、心の教えを語ることができる機会を与えられましたことを心から感謝したいと思います。 私の感謝は、現在生きていらっしゃる皆様に対してだけではなく、私にこのような機会をくださった天にまします我が主イエス・キリストに対する感謝でもあります。そこで、キリストの御光のなかにおいて、これから私は、地上の皆様に、私に可能な範囲で、私が体験したこと、私が考えたこと、またクリスチャンたちにとくに訴えたいことなどを、今日から八日間にわたってお話をしていきたいと思います。 あの世の私たちが考えていることを、このような形で地上の皆様に公表できるという機会は、おそらく二千年に一回あるかないかでしょう。こうした機会に際会(さいかい)できたことは、私にとっても嬉しいことであり、このような形で、肉体なき私が皆様に言葉を伝えられるということは、これにまさる感激はありません。また、地上の皆様も、これから現前に繰り広げられてゆくこの奇蹟に対して、おおいなる敬意を払うべきであろうと思います。 私たちのように宗教家は、この地上を去っても、まだいろいろと悔いることがとくに多いと言えます。ああしたら、人びとを教え導くことができたのではないか。こういうふうにしたら、もっと多くの人たちを救うことができたのではないか。こういう思いというものが、いつになっても絶えません。それは、近代に出た私だけではなく、数百年前、あるいは数千年前に地上を去った方がたにとっても、同じことが言えます。つまり宗教家にとっては、できるだけ多くの病める魂たちを救うということが使命ですので、ここまでやればよいという限界がないからです。 そういう意味において、私が地上においてやリ残したこと、また、私の教えにおいて修正されるべきこと、こうした点について、皆様の前にそれを開示し、今、ご説明できるという機会を持てたことをほんとうに嬉しく思っております。 2.近代日本に新たな精神原理というものを打ち立てるべく、私は出た 今日は第一日目ですが、第1章として、「キリスト教と日本」という大きな題を選んでみました。このことに関して、四十五分ほどお話をしていきたいと思います。その間(かん)、退屈される方もいらっしゃるかもしれませんが、ご寛容にお聞き下さるようお願いいたします。 さて、私は、明治という時代に日本に生を受けて、明治、大正、そして、昭和のはじめという三つの時代にわたり活動する機会を与えられたわけであります。 明治という時代は、非常な動乱期でありました。徳川幕府という三百年近く続いてきた体制が崩れて、新たな時代がはじまる移り変わりのときであったわけです。古い価値観が崩れ、新しい価値の体系が出てくる。そういう時代のなかで、人びとは、大きな期待を抱いておりました。イエス・キリスト誕生のときのようなメシヤ降臨の期待とはもちろん別個のものでありますが、新たな時代がこれから開けてくるという期待、自分たちの力によって、新たな時代をつくっていくことができるという期待、そうしたもろもろの期待が、人びとの間に渦巻いておったのであります。 私は、そうした時代を選んで、この日本に生まれました。そして、私の一生のほとんどは、皆様ご存知のように、クリスチャンとして、生きたわけであります。これについては、また後ほど、詳しくお話する予定です。 明治の頃の日本というのを見てみると、維新の志士が活躍して、新たなる政治体制の確立ということに重点が置かれた。また、自由主義経済の萌芽のようなものが現われてきた。わが国に憲法が発布され、内閣制度がスタート。そして、天皇陛下の名のもとに、新たな国づくりというものが生まれてきた。そうした時代だったと言えます。 天皇陛下というものを象徴として担(かつ)ぎ、旧幕府体制、これに代わるものとして置いたのは、それはそれでよいでしょう。しかし、日本人というのは、何かと精神的な支柱というものをほしがるものだということを、私はつくづくと感じました。この点について、もう少し詳しく説明しましょう。 日本人は、昔の忠君愛国の精神で生きてきたわけです。つまり、封建時代の滅私奉公にはじまり、お家大事(だいじ)、藩に仕え、藩主は、徳川幕府、徳川将軍家に仕えるという形での忠君愛国ですが、これはまあ儒教でしょうね、とにかく、儒教の影響を非常に受けたと言えます。しかし、時代が変わり明治となった。ところがまた、今までのものに代わる新たなる精神的支柱というものを欲(ほっ)したわけです。 とはいえ、その精神的支柱というものが何だかわからない。そこで、まず、天皇主義というのを持ってきた。単なる象徴天皇制ではない実権のある天皇制ということですね。そして、天皇というものを現人神(あらひとがみ)ではありませんが、生ける神様のように奉(たてまつ)った。明治とは、こういう時代だったのです。 ただ、そうした時代において、天皇の復古主義というものは、まあ、昔からある主義でもあるし、こうしたものを新たな日本に取り入れる必要があるのか。むしろ、新たな精神原理というものを近代日本に打ち立てるべきではないか。そう考えて、私は、この地上に生まれて来たわけであります。 3.私の過去世は預言者エレミヤ 内村鑑三の過去世は、預言者でありました。今から二千五、六百年前ですから、ちょうど釈尊(しゃくそん)がインドにおいて活躍していた時代と同じ頃に、古代イスラエルの地に生まれました。私が預言者として生きていたときの名は、エレミヤと申します。旧約聖書のなかに、「エレミヤ書」というのがありますが、これは、私が預言者として、当時、神と呼ばれていた唯一の主から受けた啓示をまとめて、世に伝えていたものです。 現代において、今、大川隆法が受けているような啓示と同じようなものだと言えます。当時、私は、こうしたものを、明瞭な形ではなかったとはいえ、霊聴というものでもって、主の言葉を聞くことができました。そこで、それらを書きとめては、当時の人びとに、「主の言葉は、これなり」と説教して回っていたわけです。 当時は、バビロニアが攻めてくるというような国の危難の時代でありましたから、人びとは邪宗を、邪教を信じておったわけであります。そこで、私は、人びとに伝えたのです。そういう邪宗を信じておったならば、必ずや国難が生じて、人びとは苦しみを受ける、と。まず、外国の軍隊が攻めてくるであろう。軍隊とは、すなわち、バビロンの勢力である。ネブカドネザル王の軍勢が攻めてくるであろう、と。それのみならず、飢饉(ききん)、あるいは、蝗(いなご)などの害虫による被害も起きるであろう。もろもろの天変地異に見舞われるはずである。こうしたことのすべては、人びとの心がまちかっており、正しい教えに帰依(きえ)していないがための心の不調和から起きる結果である、と。 こういうことを、私は、伝え、語ったわけです。 現在では、怒りの神とか、神罰を与え給う神などという表現は流行(はや)りません。しかし、二千数百年前という大昔のことですから、そうした形で訴えないと、人びとはわからなかったわけであります。日本でも、昔は、仏罰があたるとか、神罰があたるとかよく言いました。では、具体的に仏罰、神罰というものがあるかと言えば、そういう形があるわけではありません。ところが、そうした方便をも使わねば、人びとは理解できない時代だったのです。 「エレミヤ書」のなかにおいて、私は、その万能の主、万軍のエホバが人びとに罰を与え給うということをずいぶん言いました。現代の人びとから見れば、時代錯誤的(さくごてき)であって、そうした怒り狂う神というものは、とうてい承服しがたいものでありましょうけれども、時代が時代であれば、そうした警告も必要だったということです。 諄々(じゅんじゅん)と法を説いてわかるような段階にある人間というものは、よほど悟っている人であるはずです。あるいは、教えが広がって心に余裕ができている時代でなければ、そういう人間は現われないでしょう。激しい国難が襲ってくるような末世の時代においては、そうした法でもって、人びとに教えを説くことは、なかなかできません。とはいえ、まちがった教え、災難イコール危難だとする原始的な方法というのをそのままにしておいたのでは、何よりも人びとのためになりません。そこで、私は、ほんとうの神の存在を信じていなかった人びとのために、主として預言という形で、教えを説いたわけであります。私の教えのなかに、それほどの心の教えがあったかどうかは知りません。しかし、唯一の神、エホバの神があったということ、あるということを人びとに信じさせ、正しい信仰に目覚めさせるという、この一事のために、私は、数十年の人生を送ったのです。 4.エホバの神の実体は、複数の高級諸霊であった このエホバの神の実体は、一体何者であるかということを、人びとは不思議に思うでしょう。しかしまあ、主としてエホバの神と言われていた実体があったのでありますが、はっきりした明瞭なものでなくて、ほんとうは複数の指導霊たちが天上界にいたわけであります。アラーとかエホバとか言われていた特殊な個性を特った高級霊もおりましたけれども、それ以外にも、イエス・キリストの、要するに誕生前の生命、こうしたものも指導しておりました。あるいは、仏陀の生命体というものも、インドで活躍しておったけれども、時代が同時代であったから、そうした生命体の一部は、またイスラエルの地でも指導というものはやっていたのです。 すなわち、こうした形での高級諸霊のことを、まあ、エホバと呼んでおったのであります。そして、そのなかでも特定な人はもちろんいたわけですけれどもね。ですから、そうしたエホバにあたる高級諸霊もいたわけですけれども、必ずしも彼だけの言葉だけではありません。もろもろの指導霊たちの言葉です。 当時の人たちには、そうした高級諸霊がたくさんいて、そうした方がたがいろいろなことを語るという教えというのが不可能であったがために、エホバの名を通じて、語っておったわけです。現代のように時代が進んでくると、日蓮の言葉であるとか、空海の言葉であるとか、あるいは、キリストの言葉であるとか、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の言葉であるとか、こういうことを言っても人びとがわかる段階に来ておるけれども、当時はわからなかったわけです。まあ、そういうことで、当時の人としては、今流に言うならば、親神様が来て、語ったというようなことであったのかもしれません。 5.私は、二つの「J」のために一生を捧げた 私が預言者エレミヤとして存在した時代から二千数百年たって、日本の地に生まれ、内村鑑三として肉を持ちました。しかし、生命体としては、やはり主としてキリスト教系の光を身に呈しておるがために、私はキリスト教というものを広めたわけであります。 日本の地にも、鉄砲伝来の頃から、原始キリスト教の形で入って来てはおりました。西暦千四、五百年頃のことですね。ですから、皆さんも、天草四郎などと言ってね、バテレン、島原の乱、こういうのがあったということを知っておるであろうし、あるいは、細川ガラシアとか、そうしたバテレン信者たちがいたということも、知っておるでしょう。あるいはまた、高山右近ですか、こういうクリスチャンもおりました。もちろん、当時の彼らが知っていたクリスチャニズム、キリスト教というのは、ある程度、歪(ゆが)められたものではあったわけですが、ともあれ、そういう伝統が、すでに日本の国にもあったということです。 しかし、それだけでは、ちょっともの足りないということで、本格的なキリスト教を明治の日本に持ち込むべく出たのが内村鑑三であったわけであります。もちろん、同時代に出たのは、私ひとりだけではありません。ほかにも有名なクリスチャンたちが、数多く出ました。そして、日本のなかでは、内村鑑三、その弟子の流れで矢内原忠雄とか、塚本虎二、こうした無教会派の流れというものがあったわけです。 さて、今日の本題である「キリスト教と日本」ということに関して、もう少し話を進めていきたいと思います。私の著書のなかにも述べておりますが、私は、二つの「J」、このために一生を送りたいと願ったわけであります。二つの「J」とは何か。ひとつはジャパン、すなわち、日本であります。もうひとつの「J」とはジーザス・クライスト、すなわち、イエス様です。つまり、日本とイエス・キリスト、この二つの「J」のために、私は一生を捧げる決意をしたわけであります。 先ほども申し上げましたが、当時の日本を考えたときに、天皇という生ける神というものをつくってしまって、その前に、人びとがひれ伏すという考え、これに対しては、私は、何とも承服しがたいものがあったわけであります。生きている人間が高級神霊のエネルギーを呈して地上に出る、神の代理人として出るということは、もちろんあり得ることであります。しかし、神の代理人であるならば、神の代理人としての、やはりそれだけの使命と霊格を備えておらねばならんのではないかと、こう思ったわけです。 新生日本において、ほんとうの神のもとに人びとが集(つど)うならともかく、たまたま血族で天皇家というところに生まれたがために、その人が神となるのは、これは原始の時代の宗教にすぎません。ですから、近代における宗教としては、どうしても納得しがたいものがあったわけであります。 私が考えるには、人びとが、その前において、ひざまずき、ひれ伏するに足る人、それは、やはりイエス様をおいて他にはないと思いました。ですから、このイエスの愛の教え、こうしたものこそがほんとうの教えであるし、また、日本人にはない教えであろうと思います。 6.明治の日本に必要だった精神原理は、愛の教えであった 今まで、伝統的な日本の国を律してきたものは、孔子の儒教、すなわち上下の秩序を保つという教えでありました。あるいはまた、日本神道系における秩序の概念であったと言えるでしょう。 しかし、明治は、四民平等の時代であります。つまり、すべての人が、神の子として、自由自在に活躍できる時代でありました。そこで、そういう時代に必要な精神原理とは一体何であるかと考えるに、それは、やはり愛の教えであろうと私は思ったのです。 愛とは、何か。愛の本質というのは、まさに、人間平等の思想なのです。人間に上下があり、忠君愛国ではありませんが、主(あるじ)と臣下とがあるという考えでいったならば、そこにあるのは、一方的な愛の押し売り、上から下に与えるだけの愛、これでしかないと思うのです。 しかし人間は、すべて神の子なのです。とすれば、神の子であるということにおいて、やはり平等であるべきだ、と私は思うのです。平等であるとは、人間としての能力が平等であるとか、生まれ持っての性格が平等であるとか、経済力が平等であるとか、こういうことでは、もちろんありません。こうしたことは、あくまでも地上に現われたるさまざまな顕現態様(たいよう)の差異であって、神の子、人間の本質とは、また別のものなのです。ですから、人間は、神の子であるということ、まず、これを認める。神の子であるという前提のもとに、平等であるということを認める。かくしてはじめて、愛ということが納得できるのです。そうではないでしょうか。 では、愛とは、何ですか。愛とは、一体何でしょう。もともと人間は、今言ったように、神から分かれてきた生命です。であるならば、他人と見えるものでも、これは他人ではなくて、ほんとうは兄弟なのです。同じ生命、同じ親から生まれて来た兄弟なのです。そして、兄弟であるからこそ、人びとは仲良くしなければいけないのです。この原理が、明治の日本には必要だと思いました。すなわちそれは、上下観ではなくて、平等観であり、横のつながりなのです。 7.明治以降の日本は、平等と公平の二つの価値概念を中心に発達してきた では、平等であればいいのか。まあ、こういう考えもあるでしょう。それだけでは、もちろん、足りないことがあります。そのために、明治以降の政府は、しきりに学問というものを奨励しました。福沢諭吉さんという人を出して、「学問のすすめ」、こういうものを、神様は書かせました。そして、人間というものは、天のもとに平等で、その努力によって報われる社会、そういったことを説かしたわけです。彼は宗教家ではありませんでしたが、そうした原理を説きました。福沢さんは、今、私がいるところと同じようなところにいて、よく話をしております。 個人の努力、あるいは、その努力の差によって、さまざまな社会における役割を変えていく。これは、機会が平等に与えられるということにおいて、ほんとうの公平さだと思います。ですから、近代の政治、あるいは、社会の原理というのは、平等と公平、この二つの原理から成り立っていると思います。 平等の原理とは、愛の原理です。人間は、すべて神の子で、愛しあわねばならないという愛の原理。公平の原理とは、等しい機会が与えられた以上、その努力と努力の結果によって差異がつくられていく。これが公平の原理です。ですから、一生懸命勉強した人が報われず、何も勉強しなくても、大金持ちの家に生まれただけで、幸せになるというような社会だとしたならば、どこかがおかしいと言えるのです。ともあれ、明治以降の社会というものは、この平等と公平の二つの価値概念を中心に発達してきたと思います。 とはいえ、一方では、伝統的な秩序観、上下観というものが、何度も何度も繰り返して出てきた。この平等観、すなわち、人間はすべて平等ではあるのですけれども、平等観のなかにも、ある程度の差がある。その部分ですね。では、その差として、生きている人間が認めていいものは何か。それは、はっきりと神の子として地上に出て、人びとを救っていった救世主イエス・キリストだと言えます。何人も、イエス・キリストの前には、平等だと私は思う。しかし、天皇陛下のもとに平等かと言えば、問題がある。つまりそれは、血筋で決められた地位だからです。人間がつくった偶像だからです。 しかし、イエス・キリストが、神の教えをほんとうに地上に持っていらした人であり、その人格において、過去、最大の人格者であったということは、だれもが否(いな)めない事実でありましよう。ですから、手近に、その人の前にかしずき、その人の前にひざを折るというのであるならば、イエスに対する信仰を抜きにして、それは語れないと私は思います。 8.イエスの生涯は、旧約聖書のなかに預言されたとおりであった ここで、イエス・キリストの信仰について、少し話をしておきたいと思います。イエス・キリストは、今から約二千年前、ナザレという地において、貧しい家庭、大工の子供として生まれました。 しかし、幼少時から、さまざまな霊的能力というものを発揮し、教会などで説法することもままありました。天使たちの声を聞き、姿を見るというような奇蹟的な現象は、小さい頃から現われていたとはいえ、彼自身は、非常に努力の人であり、また、ずいぶん勉強した人でもありました。正規の学問は受けておりませんでしたが、当時の旧約聖書などを大変に勉強しておりました。ですから、イエスは、旧約聖書のさまぎまなところを暗誦(あんしょう)するまで読んでおられた。そのことは、その教えの端々(はしばし)に出てきておるのであります。 さて、イエスについて、すべてを語ることはできませんが、大切なことは、救世主としての自覚と、その預言についてだと思います。イエスの生涯、三十三年の生涯というものを振り返ってみると、まさしく旧約聖書のなかに預言されたとおりの生涯であったといえます。 9.真の救世主が出るときは、それ以前から大きな胎動が起きている 旧約聖書のなかには、イスラエルの民のなかから救世主が出て来るということがすでに謳(うた)われておりました。今から三千二百年も前に、モーゼが奴隷であったヘブライの民、すなわち、後のイスラエルの民を解放したように、イスラエル、このユダヤの地に、やがて救世主が現われるということは、イエス・キリストが生まれる千年、あるいは、それ以上も前から予言されていました。私は、イエスの出る約五、六百年ほど前に肉を持ちましたけれども、すでに、その予言を知っておりました。旧約の預言者がつぎつぎと出ましたが、メシヤ降臨ということで、いろんな方が予言していきました。 ですから、イエスの三十三年の生涯というものは、千年ぐらいも前から計画されていたことなのです。たくさんの預言者が、さまざまな預言を残していって、ぎりぎりいっぱいまでですね、いろんな予言というものをしておったわけです。そして、とくにイエスが誕生する百年ほど前から、そうしたメシヤ降臨の思想というものがかなり濃厚になってきました。 これをとくに信奉していたのは、エッセネ派というひとつの宗派であったわけです。このエッセネ派というのは、今で言うならば、まあ、ある意味での新興宗教のようなものだったと言えます。そして、昔のモーゼの法を奉ずる律法者たちというのは、今で言えば、仏教学者か、そうした者であったと思います。 今でも、そうでしょう。たとえば、仏教を例にとっても、禅宗、念仏宗、こうしたものをいろいろと現代にも伝えている者がおる。しかし、それとは別に、昭和期においても、さまぎまな新しい宗教というものが、雨後の竹の子のように出て来ており、そうした新しい宗教の信者たちは、自分たちの教祖こそがメシヤであるというようなことを言っておる。当時にしても、いろいろなメシヤが出るということが予言されていたために、我こそはと名のって出た人がたくさんおりました。名前こそ残っていませんが、我こそは、我こそは、といろいろに言っていたのです。 ちょうどイエスの時代に、神は、バプテスマのヨハネと後に言われていた洗礼者・預言者を送りました。このヨハネがイエスに先立って、さまざまな奇蹟を起こしておったわけです。ヨハネが、ヨルダン川の辺(ほとり)で、水によって洗礼を与えていた。これは史実にもあり、有名な話です。では、バプテスマのヨハネの力とは、何か。 洗礼ということがありますが、結局、浄霊ですね、現在で言えば、浄霊をやっておったわけです。その儀式として、水によって洗礼をする。こういうことをしておったのです。要するに、ヨハネは、悪霊に憑(つ)かれた人たちから、悪霊を追い出したり、そういうことをしておったわけです。 また、彼自身にも、さまざまな啓示が下ったので、それについて発表したりもしていた。そして、彼は、いずれ偉大な救世主が生まれるということを人びとに告げ知らせたのです。すなわち、「やがて、その方が来るであろう。私は、その方の靴の紐(ひも)を解く値打ちすらない。それほど偉大な方が来るであろう」ということを言っておりました。 また、ヨハネ以外にも、イエス・キリストが生まれる前における予言というのが、いくつか残っています。これが、聖書に出てくる東方(オリエント)の学者たちです。つまり、オリエント世界の学者たちが、星の動きを見て、ベツレヘムのほうに、どうやら救世主が生まれたらしい、偉大な星が現われた、と。こういう予言をずいぶんしておりました。このように、イエス降臨の前から、預言者たちは、さまざまなことをやっておったのです。すなわち、ほんとうの救世主が出るというのは、それ以前から、大きな胎動が起きるものです。ですから、それが、必ず予言として伝えられたのだと言えます。 10.現代のこの一大救世運動は、釈迦によって預言されていた 現代の日本にも、こうした預言はあるはずです。そして現在、日本を中心に一大救世の動きが起こってきつつあるわけでありますけれども、この日本において、一大救世運動が起きるということは、すでにインドの時代において、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)によって預言されておったことです。釈迦牟尼仏は、今から二千五百年前の当時、東方の国にまた甦(よみがえ)って人を救うということを預言したことがありました。また、末法の世には、弥勒菩薩(みろくぼさつ)というものが下生(げしょう)して、弥勒下生ということがあって、人びとを救うであろうと、こういうことも言われています。まあ、これは仏教のほうですから、私は深入りはしませんけれども、そうしたなかで、東の国、あるいは、時代的な末法の時代というのは、どこにあたるかというと、まさしく現代です。現代の日本にあてはまるのです。 ですから、これから、ひとつの大きな救世運動が起きていくと思います。そして、後になって、人びとは、そういえば、以前に予言されていたことなどは、こうしたことであったのかと気がついていくようになるはずです。 11.イエスの生涯は、神の伝道の芸術であった 話をまた、イエスの時代に戻しましょう。イエスの時代には、イエス出現の予言があり、さまざまな予兆があり、そして、バプテスマのヨハネが出て、イエス・キリストの誕生を告げたわけです。 イエス・キリストの霊的自覚自体は、幼年時七歳頃からありました。十代になると、いろいろな地、インドのほうなどへも行ったことがあったようです。あるいは、ペルシヤのほうで修行したこともあったようです。あるいはまた、エジプトのほうで、魂の永遠について学んだこともあったようです。ともあれ、そうした霊的修行を十代、二十代のはじめにかけてしておったのです。そうしたことについては、いずれイエス・キリスト自身からお聞きになるとよろしいでしょう。 二十代におけるイエス自身は、まだ自分の心を磨くための修行をずいぶんやっておったようです。父親の仕事を手伝いながら、休みの日には、洞窟のなかに篭(こも)ったり、山のなかに行って、ひとり静かに瞑想しておったようです。そして、心のなかで、高級霊たちと会話をしておったようです。エレミヤとして、イエスよりも先に生まれた私は、当時、イエスに啓示を与えたことがあります。ですから、彼にしても、霊的修行はずいぶん積んでおったわけです。そして、イエスが三十歳になったとき、天命が下った。 「イエスよ、今、お前は、ヨルダン川のほうへ歩いて行きなさい。そこで、バプテスマのヨハネに会うであろう。そこから新しいはじまりが起きる。ヨハネは、お前が何者であるかを、人びとに語るであろう。そして、ヨハネの前にいる人たちが、まず、お前の最初の弟子になるであろう。そうした弟子たちを携(たずさ)えて、お前は伝道に入っていきなさい。お前は、これから十二弟子に会っていくであろう」 こういう聖霊の預言が彼の身に臨みました。そこで、彼は、その預言のとおりのことを実行していったのです。その後、三十三歳の十字架までの物語は、あまりにも有名であります。 救い主が十字架にかかって死ぬということは、旧約聖書で、すでに預言されておりました。すなわち、千年以上も前からイエス・キリストの、そのような人生が予定されていたのです。個人として見れば、不幸な人生であったかもしれません。しかし、それもまた、神の御業(みわざ)、神の人生の芸術、神の伝道の芸術、これが現われんがための、奇蹟であり、そうしたドラマであったのだと思います。 12.イエスのわずか三年間の伝道のなかに、人びとは、二千年普遍の神理を見た わずか三年間のキリストの伝道ではありましたが、人びとは、この伝道のなかに、人生の神理を知り、二千年語り継がれる普遍の神理というものを見たわけです。このように、ほんとうの教えとは、教えの期間が長ければ、それでよいというものではないのです。ほんとうのものであれば、短くてもよい。ですから、そういう意味で、今、あなた方も、新たな教えを説いているわけですけれども、ただ長々と説けばいいものではなくて、そのなかに真実のものを説いていっていただきたいと思います。それが、ほんとうの教えなのです。 イエス・キリストにしても、三年の間にさまざまなことを語ったために、同時代の人に理解されなかったといううらみがあります。また、私から見ても、ずいぶんほんとうのことを言いすぎていると思うことも多いと言えます。しかし、彼は、自分の時間がないために、すべてを語ったわけです。彼にして時間があれば、もっといろんなことを言ったでありましょうけれども、なかったがために、彼はあまりにもはっきりと言いすぎている。「我はそれなり」ということをずいぶん言っています。「我はそれなり」とは何か。すなわち、「あなたは来たるべきメシヤであるか」と、こう問われて、「我はそれなり」と答えているわけです。今の日本では、「我はそれなり」と答えられる人というものは、なかなかそう簡単にいるものではありません。しかし、イエスは、それだけの自覚をはっきりと持っていました。実際、それは真理でありました。しかし、その真理がゆえに、彼は十字架にかけられたのです。「救世主なリ」と語ったがために、結局のところ、十字架にかかったのです。 ですから、もし、イエスが、「そうではない、私は神のお弟子のひとりであって、ひとつの教えを説こうとしているだけである」と、こういう姿勢で言ったならば、おそらく十字架にはかからなかったでしょう。 「我はそれなり。我は救世主なり」と彼は、はっきりと明言した。それゆえに生命を縮めたのです。しかし、それもまた、彼の預言されたストーリーであったからです。私は、このイエス・キリストの勇気に対して、敬意を払いたいと思うのです。 13.私の人生も、キリストと同じく、「我はそれなり」であった 内村鑑三の人生も、やはり同じでした。すなわち、「我はそれなり」でありました。「我はクリスチャンなり」「我はキリスト者なり」ということで、天皇陛下に対する不敬事件を起こしたこともあります。しかし、「我はそれなり」、これは、私の信念であったからです。「我はキリストの僕(しもべ)なり。キリストの僕として、日本に生まれるなり。そのために一生を送るなり。天皇陛下のためにあらず」と、私は、はっきりと言いました。そのために、イエスに及んだと同じ災厄(さいやく)が、私にも及びました。ただし、私は今だに、それを後悔しておりません。後の世の人びとのためには、私が妥協しない人生を歩んだことはよかったと思います。 私は、これからいろんなことを話していきますけれども、まず今日、あなた方に言っておきたいことは、「我はそれなり」という自覚、これが大事だということです。段階的に法を説いていく方便も、もちろん、大事ですけれども、「我はそれなり」との自覚が大事だということを知っていただきたいのです。そして、そのために、たとえどのような迫害を受けようとも、「我はそれなり」という、この気持ち、この気概、これだけは忘れないでいただきたい。 これをもって、今日の第一回目の話を終わりといたします。ありがとうございました。