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『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 注 3 ジャワ 図2 ジャワ島 1944年初頭、中部ジャワの複数の婦女子抑留所やスマラン市で、ヨーロッパ人及び印欧混血人の「婦人や少女」が、強制的に慰安婦として連行されたという比較的知名度の高い事件が多発した。しかし、このような「事件」はジャカルタでは、長期にわたり起こっていた。これら個々の事例の詳細は後述するが、オランダBC級戦犯裁判になったようなスマラン慰安所事件を含む中部ジャワやジャカルタの事例は、日本占領期ジャワ全体を通して見ると比較的希な出来事であった。しかし、たとえ希少なものであっても、この事件に関するオランダBC級戦犯裁判の資料は、陸軍第16軍兵 ―113― 站部の責任者が取調官に供述した文書をもとにしており、ジャワの慰安婦の概要を描き出す資料としては価値の高いものである。兵站部責任者の証言によると、慰安所設置の許可は、慰安婦になる女性が志願者である事また日本語とマレー語で書かれた趣旨書に本人の署名がある事を満たしているということが条件であった。兵站将校が慰安所設置の許認可を持っていたため、この兵站部責任者の証言はスマラン慰安所事件の戦犯裁判の判決にも影響を及ぼした23)。判決文には、この将校の証言を引用している箇所があるが、証言資料の全文はまだ見つかっていない。実際この証言資料が存在すれば、この将校の(判決に影響を与えるほど)豊富な証言内容は第16軍の認可慰安所の政策の中身を知り得ることが可能であろう。第16軍占領下のジャワで起きた他の事例の資料は、まとまったものはなく、誰が誰の許可で慰安所を設置したか、「娼館」は許可を得た慰安所だったのか、どのように女性を募ったのか、また集められた女性たちは誰だったのかなど多くの判り難い点がある。事実、何点もの公文書に矛盾点が見られる。たとえ1つの事例を記述した資料が複数あったとしても、それが1つの情報源からの情報で、検討されず使用し、新たな資料として作成され、短絡的に結論を出しているにすぎないものなら、そのような多くの資料はむしろ慰安婦に関することがなにかあったのかもしれないといった程度の警告を発する役割をしているにすぎないのである24)。 今回の調査で検証したジャワの慰安婦に関係の資料は、情報に限りがあったが、小規模な慰安所、「バー」、そして他の性的サービスを提供していた施設が比較広範囲に存在していたという証拠は見つかった。いくつかの報告書から、スラバヤ市内には何ヶ所もの売春専用地区があったらしく、その地区が軍の設備に近接していることやその規模の大きさから、おそらく許可を得た慰安所で軍当局から厳しく監視されていたと思われる25)。バンドゥン、マゲラン、ソロ、マラン、スラバヤなどの都市に位置した何軒ものホテルが、慰安所として運営されていた26)。ジェンベル[Jember]にあった「バー」も1942年から1943年まで似たような機能をもっていた。キリスト教徒のメナド人がスマランで所有していた、カロリナ・バー[Carolina]やレストラン数軒は、常連の日本人や中国人客のために慰安所にもなっていた27)。また他の資料によると、ソロにあった旧オラニャホテル[Oranjehotel]は、日本占領期には軍慰安所フジ・リオカン(富士旅館?)になり、そこには複数の「バー」もあったようだ28)。この慰安所フジ・リオカンママは、インドネシア人の慰安婦のことを説明するとき、他の公文書の中でしばしば引用されていた。カリジャティ飛行場の慰安所に関しての詳細は後述するが、1943年には既に設置されていたようである。サラティガにあったシン・コー・カン[Sin Ko Kan]婦女子抑留所では、子供たちが毎朝抑留所の周りに捨てられていた使用済みのコンドームを目にするので、この事が若い母親の頭痛の種であったと記述されている29)。戦争中のオランダ軍情報局[NEFIS]の資料には、慰安所にいた女性がインドネシア人であったという記述が頻繁にでてくる。また、日本人、中国人、印欧混血人が慰安所にいたという報告もあった。 女性の徴募に主題の焦点を当てている資料も数点見つかった。印欧混血人やヨーロッパ人が、周旋業やホテルの経営に関わっていたという資料もあったが、これは全体から見れば比較的少数の出来事のようであった。多人種・多民族で構成されていた警察30)また憲兵隊も、ケースによっては関係があった。慰安所に関する確固とした証拠は滅多に無く、記述のある資料でも、せいぜい1行か2行程度で、ヨーロッパ人の戦後の証言か、第2次世界大戦中に連合軍が捕まえたインドネシア人 ―114― 等に尋問した結果をまとめた程度のものであった。また、比較的長文の慰安婦に関する公文書は3ヶ所の公文書館に散在して、まとまって保存されてはいない。 オランダ情報局[NEFIS]の報告書について言及するなら、この報告書はどの程度正確性をもっているのか不明であるため、研究者が使用する際には十分注意を払う必要がある。しかしNEFISの資料としての価値は、戦犯裁判資料や戦後調査でヨーロッパ人や印欧混血人にかかわることに焦点を絞って作られた文書とは異なり、歴史の欠落部を埋めるということに鑑みれば、NEFIS資料の価値の高さは次に掲げる引用文からでも理解できる。例えば、数人のインドネシア人兵補の尋問を元にして書かれた報告書には31)「マランでは、未婚の原住民[natives]の少女が、日本人将校の不道徳な使用目的で調達され、数軒のホテルへ連れて行かれた。多くの回答者が、1943年7月頃には、既にカリジャティ飛行場の慰安所が開設していたことを証言している。少女たちは50セントで、日本兵を受け入れさせられた。少女たちは監視され、毎週身体検査を受けさせられていた。病気になった者は、新しい少女に代えられた。施設には通常少女15人、日本人300人程度がいた」。また、メナド人の男性の尋問調書には32)、次のような説明があった。「スラバヤ市内のバクミ通り[Bakmistraat]にあった旧グランド・ホテルへ、将校や、准将、軍曹を運転していくように命令された。ここには、日本軍人相手の慰安所があり、収容されていたのは全員が日本人少女であった。もう1ヶ所の立ち入り禁止区域は、日本人陸軍将兵用の慰安所のあった地域で、プリンス通り[Prins Straat]の西側沿い全域から、ロウデン通り[Louden Straat]も包含した西2区画の地域であった。ロウデン通りの南北両端は閉鎖されていたため、プリンス通り以外から入ることはできなかった。周囲は3メートル以上の高さの竹製の塀で囲われていた。ここでは、インドネシアのありとあらゆる人種の女性が慰安婦になっていた。また、陸軍のどのランクの人間もここに来ていた」。 注へ 次へ 【目次】
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「慰安婦」問題 調査報告・1999 インドネシアにおける慰安婦調査報告 倉沢愛子 ソース:http //www.awf.or.jp/program/pdf/p089_105.pdf Ⅱ インドネシアの従軍慰安婦──歴史的実態── インドネシアにおける慰安婦調査報告Ⅱ インドネシアの従軍慰安婦──歴史的実態──1 慰安婦募集の過程 2 軍管理慰安所の状況 3 私設慰安所の場合 4 終戦後 さて、以上がインドネシアにおいて従軍慰安婦問題がどのような経緯で社会問題となり、また犠牲者の女性たちとそれを支援する民間団体が、現在どのような形で補償問題と取り組んでいるかについての経緯である。 次に、現実に元従軍慰安婦の女性たちが日本時代に被った体験について述べたい。インドネシアにおける軍慰安所、あるいは従軍慰安婦に関する戦争当時の文書は、筆者の知るかぎり同国内にはまったく残っていないため、その事実を把握する作業は極めて困難である。そもそもインドネシアにおける日本軍ならびに軍政当局の資料は、終戦時に多くが日本軍の手によって焼却されたといわれている。焼却を免れた一部の資料は、まもなく終戦処理のために上陸してきた連合軍によって接収され、その内容に応じて一部はイギリスに、また多くのものは旧宗主国のオランダへ送られた。従って、従軍慰安婦に関する記録が残っているとすれば、それはむしろイギリスないしオランダの文書館にである。 インドネシア各地の俘虜収容所からオランダ人女性が連れだされて慰安婦にされた事実は、終戦直後に連合軍により戦争犯罪として問題にされ、それに関与した日本軍関係者がバタヴィアのBC級戦犯裁判で裁かれた。従ってその裁判関係の記録がオランダに残っている。ところがインドネシア人慰安婦のことは、バタヴィア軍事法廷ではまったく問題にされることはなく、不問にふせられていたため、文書になっているものは少ない。 このように公文書が皆無に近いため、以下の記述は、関係者からの証言という形に頼らざるを得なかった。実は筆者が1980年から81年にかけて、ジャワの農村で日本軍政期の歴史に関する聞き取り調査を実施した時にも、元慰安婦たちに会って話を聞きたいと思い探したのであるが、その段階では本人も周囲の者も口が固く、1人も見つけることはできなかった。しかし、補償問題とのからみで多くの人が名乗り出ているいま、面接調査はかなりたやすくなった。 とはいえ、彼女たちの多くは、これまでにもすでに多くの日本人の訪問を受け、そのたびに今度こそは補償が、と期待したがいつも裏切られてきたという現実があるため、かなり懐疑的になっている。しかも「すでに○○さんに話したのになぜ同じ日本人に対して何度も同じことをしゃべらなくてはならないのか」と不思議がる。日本人の考え方も一様ではなく、さまざまな組織や個人がそれぞれ異なる立場や思惑で調査しているという事情は理解しかねるようであった。そこで調査する側の意図をかなり詳細に尋ね、よほど納得がいかないと面会してくれない。補償問題に関する将来の良い展開を期待して喜んで証言してくれるという時期は去ったように思われる。 そのような中から法律援護協会ジョクジャカルタ支部を通じて15名、兵補協会を通じて25名、計40名の元従軍慰安婦と称する女性(ただしうち4名は家族が代理に証言)と、慰安所を直接見聞した証人3名の証言を得ることができた。その内容に加えて、関係者がかつて新聞・雑誌・テレビ等を通じて語ったこと、彼らが手記にまとめたもの、これまでに日本人ならびにインドネシア人研究者や支援団体のメンバーが面接調査をした記録などを参考にし、判明したいくつかの点を以下にまとめたい。 1 慰安婦募集の過程 インドネシアにおいても、当初従軍慰安婦は、もともと売春を生業としていた女性たちを中心に募集された。しかしそれでは十分賄うことができず、やがて一般の女性から募集された。人種的な近似性のゆえに、バンカ島のマルガレタ(ホ・スイ・リウ)さんのような中国系の女性が好まれたようであるが、絶対数が少ないので、圧倒的多数はプリブミの女性であった。ジョクジャカルタのマルディエムさんのように一部の慰安婦は都市部から選ばれたが、多くは村落社会から募集された。 Ⅰでも述べたように、名乗り出ている女性たちの中には、日本人将校の現地妻だった者、強姦された者なども数多く含まれている。そこで面接に際しては、本来の意味の慰安婦、すなわち軍が管理する慰安所に一定期間置かれて、繰り返し性的な相手をさせられた者、という範疇にあてはまる女性だけを選別してもらうよう頼んだ。しかし、にもかかわらず、われわれの予想に反して、40名の中にはさまざまなタイプの女性が混ざっていた。中でも多いのは、どの部隊の者も利用できる公的な慰安所ではなく、特定の部隊が独自に女性を集めて自分たちだけが利用した私設の慰安所のようなところ(正式には慰安所という用語は使用していないが)で働かされた者である。多くの場合それは、軍の兵舎の建物や、軍が運営している特定の工場の内部などに女性を多数住まわせ、将兵が必要に応じて「活用」するという形であった。なぜか、西ジャワ地区での調査対象となった女性の中にこのタイプが多かった。 当人たちはもちろんのこと、兵補協会や法律援護協会の関係者たちも、その種の私設慰安所と、軍管理の慰安所とは性格が異なるということに納得がいかないようであった。ここではとりあえず便宜上、前者を「準慰安婦」、後者を「慰安婦」というふうに区別し、そのおのおのについて叙述するが、他の個人的強姦や現地妻のケースについては特に触れない。 慰安婦の場合、多くが居住地の区長や隣組の組長を通じて募集が行われたようである。「学校へ行かないか」とか「いい仕事があるが応募しないか」という形で誘いを受けたと述べている。単なる誘いであった場合もあれば、ノーといえないような強い雰囲気だったこともある。労務者の徴用も同じであるが、徴用令が施行されていた朝鮮や台湾とは違って、占領地では形式上は自由応募ということになっていた。とはいえそれでは、現実にはなかなか人数が集まらないので、村長や区長にノルマが課されるということが多かった。当時の権力関係からして、住民は村の役人や長老にはとても逆らえない状況であったため、そうなるとほぼ強制に近いこともなされたのではないかと思われる。 日本軍の占領期には、総動員体制のもと、村落社会に対する介入や干渉が強化され、住民を強力に統制して、特定の目的に向けて動員するためのメカニズムが導入された。本来共同体の代表としての性格の強かった村落の長を、政府の役人のように変え、細やかに中央の命令を実行させていった。また、日本の組織を真似て隣組制度が導入され、これを通じて上意下達や相互監視を徹底させた。米の供出、労務供出などにおいても、目標が達成されなかった場合には最終的には、隣組に連帯責任が課され、組長に大きなプレッシャーがかかる。そのため組長は何とかして命令を遂行しようと努力し、そのしわ寄せが個々の住民にいくのであった。労務者の場合でも、慰安婦の場合でもとりわけ、より貧しい者、より弱い者に対して大きなプレッシャーがかかるのが常であった。 中には、実際娘がどんな仕事をさせられるのか実態をうすうす感じていた親もいたようであるが、日本軍の命令に反抗することの恐ろしさや、食料難、生活苦の中で差し出された前金に心を動かされてしかたなく娘を手放したこともあるといわれる。 「強制」とはいっても、実際日本軍将兵が銃を突きつけてというようなケースは、厳密な意味での従軍慰安婦募集の場合にはむしろ少なく、以上述べたような行政機構や村役場を通じての半強制が行われていたというのが一般的であろう。 それに対して、「準慰安婦」の場合には、日本軍将兵が個人的に女性を「手込めにする」あるいは、上官の個人的な命令を受けて「女狩り」に行く、つまり、実際に軍人が直接手を出して連行したというケースが多かったようである。この場合は、村から町に働きに出ている女性が帰り道を襲われるというようなケース、あるいは、両親が仕事で出掛けていて1人で留守番をしている間にさらわれるというようなケースもみられる。 いずれのタイプの場合も、連れていかれた時の少女たちの年齢は想像以上に低く、14-15歳というケースもかなりある。当初は筆者にも信じがたいことであったが、当時村落社会での結婚年齢はかなり若かったうえ、慰安婦の対象とされたのは「未婚の女性」であったことを考えると、そのような年齢になってしまうものと思われた。他に未亡人も恰好の対象とされた。ただし、「準慰安婦」の場合は、家庭状況を調べたうえでの連行ではないので、場合によっては夫のいる既婚者が連れていかれた場合もあるし、年齢もまちまちである。 輸送状況の困難な時代であったので、もちろんジャワ島内で働かされた者が絶対的に多いが、カリマンタンなど遠くの島へ送られた者もいる。これは、出身地から切り離すことによって、逃亡の機会を防ぐという意味があったのかもしれない。現に、「なぜ逃亡しなかったのか」というような質問に対し、「逃げだしても匿ってくれるところがなかったから」というような回答が多かった。今回の聞き取り対象者の中で、自分が住んでいた島以外へ連れていかれた者は、わずか5名しかいない。 2 軍管理慰安所の状況 慰安所の運営は多くが、日本人軍属や民間人に任されていたようである。元慰安婦の多くは、背後に日本人がいたことを知っており、その日本人の名もおおむね明確に記憶しているが、日常的に直接女性たちを管理したのは、インドネシア人男性であることが多かった。 慰安所は将校用、一般兵士用、民間人用などに分かれていた。同じ市内に幾つかあり、ランクの高い慰安所には日本人女性や朝鮮人・台湾人女性がいたという。実は日本人の慰安婦も多数インドネシアに送られていた。基本的には、本来売春を職業としている者で、希望に基づいて募ったといわれているが、真偽のほどは分からない。彼女たちは終戦間際になると俄か看護婦となって陸軍病院へ移され、現に終戦時には看護婦として連合軍当局に報告された。従って、収容所や引き揚げ者名簿の中では看護婦という扱いになっている。 慰安所は新たに新設された場合もあるが、なかには既存のホテル(ソロのフジ・ホテルなど)や、レストランを改造したもの(スカブミのスハルティンさんの場合など)もあった。いずれも、女性たちは個室を割り当てられ、そこを3交代制で、複数の仲間と共同利用した。 慰安婦たちは当時は地域社会から白い目で見られ、日本軍の「犠牲者」として同情を受けることはほとんどなかった。従って日曜日などに外出許可が出ても、地域の人々との交流はまったくなかった。 兵隊たちは、休暇が出るといっせいに慰安所にかけつけることが多かったので、しばしば団体で列を成してやってきた。そのため、慰安婦たちは、概ね、短時間に多くの客の相手をしなければならないことが多かった。中には一晩に数人から10人くらいを受け入れたと証言している者も多かった。 兵隊たちは、慰安所の入口で「キップ」を買って「有料」で慰安所を利用するわけであり、慰安婦にも、客の数に応じて収入が入ることになっていた。しかし彼女たちの訴えによれば、多くの場合その報酬は未払いになっていたという。ただし、食事、衣装、化粧品などには事欠かなかった。周辺にいた証人たちの証言によれば、その生活は豊かで華やかでさえあったという。 しかし問題は金銭的、あるいは物質的なことではなく、ほとんど自由を束縛されたうえ、1日に何人もの客を強制的に取らされ、からだが疲弊してしまったことである。多くの女性が健康を害している。ただし性病に対しては、日本側も非常に敏感になっており、必ずコンドームの使用が義務づけられていたうえ、毎週定期的に軍医や衛生兵による検査が行われた。しかしそれ以外の健康管理は十分に行われていなかったようである。しかもコンドームの使用を義務づけていたにもかかわらず、マルディエムさんのように妊娠する者もいた。そのような場合には強制的に堕胎を強いられたが、中絶は罪悪であると教えられてきたイスラム教徒の彼女たちにとって、それは精神的な重圧であった。 3 私設慰安所の場合 それに対して、「準慰安婦」たちが入れられた、軍の兵舎内や工場内の私設慰安所の場合は、いろいろな意味で環境がもっと悪かったようである。「準慰安婦」の場合は、いわば、その部隊の将兵が女性を拉致してきて、そのままうむを言わさず自分たちの欲望の捌け口として使ったわけであるから、これらの女性の存在は軍司令部には秘密であったと思われる。そのため、慰安婦に一般に与えられていたような、健康管理のための措置もなされなかった。すなわち妊娠や性病を防ぐためのコンドームの使用もおそらく義務づけられてはいなかったであろうし、軍医や衛生兵による定期的な健康診断もなく、性病蔓延に対する衛生的な措置はなんらなされていなかった。 また、彼女たちを利用する日本軍将兵は、正式の慰安所の場合のように「キップ」を買ったりはしていない。従って女性たちはもちろん何の報酬も受けていない。それどころか彼女たちのための正式な食料、衣料品の供給さえなかったようである。従って多くが、食事はありあわせで、時には1日1食であった、などと述べている。 「準慰安婦」の場合、多くは遠方へ連れていかれることはなく、居住地の近くで活用されている。たとえ、遠くの部隊へ連れていきたいと考えても、公的な存在でなかったから、その輸送手段も確保することはできなかったのであろう。 4 終戦後 日本軍が降伏した時、慰安婦たちはその場で自然解散という形になった。バリックパパンなど、すでに1945年8月15日以前に、連合軍の攻撃を受けてその地の日本軍が逃走したような地域では、慰安婦たちも命からがら逃走している(ジョクジャカルタ在住のスハルティさんのケース)。出身地の近くで働かされていた女性たちは、理論上、自力で故郷へ戻ることは、物理的には困難なことではなかった。しかし現実には、故郷には恥ずかしくて帰れなかったという者が多かった。現に、家に戻ってきても近所の人々が罵ったり、悪口をいう場合があったという。日本軍の犠牲者としての同情よりも、思いやりのない軽蔑の眼差しを向ける者が多かったのであろう。 カリマンタンなど遠隔地で終戦を迎えた者は、すぐには帰郷できない場合も多かった。マルディエムさんのように、現地で結婚相手を見つけ、ずっと後になってからジャワへ戻る機会を得た者もいる。反対にバンカ島からパレンバンへ連れて行かれたマルガレタさんも、そのまま故郷には帰れず、パレンバンにとどまり、やがてその地で結婚した。 かなり多くの女性がその後過去を隠して結婚しているが、中には健康を害して結婚できず、一生独身で暮らした者もいる。また結婚した女性の中で、子宝に恵まれた者は比較的少なく、慰安婦時代の日常が、いかに彼女たちの健康を蝕んでいたかがよくわかる。 インドネシアにおける慰安婦調査報告index
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『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 注 4 スマラン―スマラン慰安婦事件 インドネシアで起こった最も知名度の高い「慰安婦」に関する事件は、1944年初頭アンバラワとスマランに位置したアンバラワ第1または第6抑留所、アンバラワ第9抑留所、ハルマヘラ抑留所、ゲンダンガン抑留所という4ヶ所の民間人抑留所から、印欧混血人とオランダ人女性約35人を慰安婦にするため連行した事件であった33)。事件は、抑留所の管理を軍政監部から軍司令部つまり、行政官から軍当局に監理を移管するという通達が出された1943年11月3日と移管を施行した1944年3月1日の間に発生した。アンバラワ第1或いは第6抑留所で選ばれた女性によると、1944年2月23日、抑留所中庭に17歳から28歳までの女性全員が並ばされた後、1人ずつ抑留所事務所へ出頭しなければならなかった。2月24日には、再選考のため、前日並ばされた女性のうちから20人が事務所へ出頭しなければならなかった34)。2月26日に、10人の女性がその抑留所から連れて行かれ、他の抑留所からの女性たちと共にスマラン市内のカナリ通り[Kanarielaan]に位置する1軒の建物へ案内され、そこで日本語で書かれた趣旨書に署名するように強要された。同日あるいは2~3日後、その建物内で再び選考され、それぞれがスマランにある4ヶ所の慰安所へ連れて行かれた。 表1 慰安所名称と所在地40) 慰 安 所 名 称 所 在 地 旧建物名称 日の丸 ブラカン・ケブン通り[Belakang Kebon]41)。ホテル・ドゥ・パビリオン[Hotel du Pavillon](所在地ボジョン[Bodjong]11番地)裏手。 中国ホテル、ホァ・ユー[Hwa Yoe]。 青雲荘または双葉荘 チャンディ・バル地区パラレル通り[Paralelweg]にあるホテル・スプレンディット[Hotel Splendid]向い。 スマラン倶楽部 ヘニー通り[Genielaan]8番地。後日、ニュー・チャンディ通り[Nw. Tjandiweg]34番地に移動42)。 ホテル・スプレンディット建物内。後日、ホテル・ヴァン・ブリュッセル[Hotel van Brussel]に移動。 将校倶楽部 ウイ・ティヨン・ビン通り[Oei Tiong Binweg]。 他の抑留所でも同様の経過を辿っていた。それぞれの抑留所では、日本人男性の一団が若い女性を選考する際、趣旨を知らされていない抑留所のリーダーが渋々ながらではあるが協力し、おこな ―115― われた。抑留所の女性達に、協力しなければならないように仕向けるといったように強制の度合いもかなり幅があった。一方、アンバラワ第8抑留所(別称スモウォノ抑留所)、バンコン抑留所、ランぺルサリ抑留所といった所では、抑留所の婦女子の強力な抵抗により若い女性たちが連れ去られるのを未然に防ぐことができた。ゲダンガン抑留所のように、年上の女性たちが志願することで、若い女性たちが助かった事例もあった35)。 抑留所から女性を調達し慰安所を開設するときは、第16軍軍政監部長官から出されたガイドラインに従い兵站部将校が許可を出すようになっていた。このガイドラインには、慰安所の許可を受けるには、①女性が自分の意志で働くこと、②趣旨を示した文書に本人の署名があること、③定期的な身体検査をおこなうこと、④定期的に金銭を支給することという条件を満たしていなければならなかったようである36)。実際、4ヶ所の抑留所の女性徴募には、複数の将校と慰安所の支配人または慰安所経営者が関わった。慰安所では、1週間に1度医師が慰安婦の身体検査をしたが、充分な治療はほとんどせず、検査にあたった医師が強姦することさえあった。 慰安所の経営者や支配人は、当時全員が20歳から40歳(1903年から1923年生まれ)の内地出身の日本人であった。少なくとも2名は、日本がインドネシアを占領したわずか数ヶ月後にはジャワに上陸し、1人はバーと慰安所を、もう1人は慰安所を開いていた37)。 スマラン事件の慰安所は、東京から1人の将校が(抑留所移管後の様子を視察)調査に訪れたとき、女性たちの意志に反し慰安婦として働かされていることを知らされ、間もなくジャカルタの軍司令部の命令により閉鎖に至った38)。結局、慰安所の営業は2ヶ月余で閉鎖された。ここで働かされた女性たちは、その後ボゴールのコタ・パリス抑留所に移動させられ、そこで特別な医療手当てを受け、家族との再会を果たした。当時スマラン在住の日本人医師によると、それから3ヶ月後、印欧混血人女性を使い、同じ場所で慰安所が再開業をすることになったという。更に1つの慰安所の経営者は、1943年1月から終戦までの約2年半の間、スマラン州知事の依頼により慰安所を営業していたと説明している39)。スマラン慰安所事件の慰安所の名称及び所在地は表1 の通りであった。 このスマラン事件の関係者のうち、バタビア戦犯裁判で13人に求刑が言い渡され、1人の極刑を含め11人に有罪という判決が下された。バタビア ―116― BC級戦犯裁判のスマラン慰安婦事件の判決文と関連公文書資料の数点は、既にオランダ語の原文とその日本語訳が日本国内に紹介されている43)。判決文には、警察が作成した証人及び被害者の尋問調書の短い引用があり、これは1944年の事件状況だけではなく、1947年から1949年までBC級裁判でどのような種類の証拠が採用されたかという事を研究者に提供している。抑留所からの犠牲者と数件の証人尋問は単に女性の徴募の状況を繰り返し、名前を列挙したにすぎないが、いくつかの資料には、慰安所の状況が詳細に記され、慰安所のようすを理解する手がかりになった。 何人かの女性は、金銭を受け取ることを拒否したが、他の女性は金銭を受け取り、慰安所の会計係りに直接、或いは誰か知り合いに頼み「予約」を入れるといったことで間接的に支払い、女性たちは受け取った金で自由な時間を得る事も可能であった。将校倶楽部では、1晩に1人の男性を取らされていた。男性は4ギルダーを(慰安所の会計に)支払い、慰安婦は1ギルダー1セントを受け取っていた。この金で食べ物や衛生用品を購入していたようである44)。1944年4月頃、スマラン倶楽部から慰安所日の丸へ移った1人の女性は、一般邦人や軍人は、1時間あたり1ギルダー50セントの券を買い、その時空いている女性を自由に選べたと証言している。女性は45セント受け取り、この金は「慰安所で働いている原住民の女中」45)に頼んで食べ物を受け取り、慰安所で出される不味い食べ物を補っていたという。彼女が最初いたスマラン倶楽部では、メナド人男性が働いていた。スマラン倶楽部では、常に強姦や暴行の話で持ち切りだったが、時々親切な人、慰安婦との性交渉を拒否する人、少しでも楽に生きていくための要領を教えた人たちの事も話に出てきていたという。一例には、スマラン在住の1人の女性が、慰安所に入れられている妹に薬を送ったり、1人の民間日本人の知り合いに「予約」を入れてもらい、少しは慰安婦の妹を守ることもできた46)。あるヨーロッパ人医師は、性病の治療をした女性から無理矢理慰安所へ連れて行かれたことを聞かされ、すぐに1人の日本人患者に慰安所にいる女性を助けてくれるように頼んだという47)。慰安所に隣接していたレストランが何軒かあったが、そこで出されていた飲食物等は不明であったが、レストランで働いていた印欧混血人やインドネシア人の女性たちが以前慰安所で働いていたと示唆する資料はあった48)。 スマラン慰安所事件の資料所蔵に関して言及するとすれば、バタビアBC級戦犯裁判の公判に直接関係のある資料が中心である。国立戦争資料研究所[RIOD]が最もまとまった形で資料を保存している。RIODの資料は、被告人や他の日本人の尋問調書、警察の調書、民間人抑留所にいたヨーロッパ人及び印欧混血人等からの情報資料に加え判決文である。このような資料とは多少性質の異なる資料が、外務省公文書室から見つかった。スマラン慰安所の計画から開設にいたるまで深く関与していた容疑でオランダから追及された1人の将校が自殺したときの遺書である49)。他の資料と比較し、遺書には、あまり信憑性のない慰安所開設計画経過の状況が、慰安所の実施状況とともに記述されている。またこの事件に関して、上官としての責任を示唆している。多種の証言資料尋問調書があるなかで、やはり事件経過の概要に関して言えば、裁判所が文書を見直しまとめあげた、納得のできる情報が提示されているという点からも、スマラン慰安所事件判決文3点が一番信頼できる資料といえよう。 ―117― 注へ 次へ 【目次】
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『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 注 7 ジャカルタ(旧バタビア) 1946年から始まったバタビアBC級戦犯裁判の ―118― 初期に、1人の日本人男性の裁判があった。彼は戦前の1920年から1941年11月までバタビアに住み57)、1942年6月に曙倶楽部というレストランを、そして1943年9月にはバタビア市長の命を受け58)、桜倶楽部、別称ガン・ホーニング[Gang Horning]慰安所という一般邦人向けの慰安所を開業した。この日本人経営者には、行政側から強い圧力がかかり、慰安所を開業することになったが、本人は日々の事業経営から遠のき、この男性のヨーロッパ人愛人が大抵の事を一手に引き受けていた。大勢の印欧混血人を含むヨーロッパ人が雇われていたが、通常、女性の募集は最初にレストランで働くということで雇用し、その後強要し慰安所に移動させた。BC級バタビア戦犯裁判では、愛人兼支配人のヨーロッパ人女性が、憲兵隊が懲らしめに来ると女性を脅していたことと、女性たちが慰安所にいることがその経営者の利益に大きく関わっていたという理由から、彼の責任が追及され、結局、「強制売春の戦争犯罪」59)で有罪の判決が言い渡された。この曙・桜倶楽部事件は、バタビアBC級戦犯裁判のなかでも数少ない「強制」売春裁判の1つであるが、その少ない中でも軍があまり関与していなかった事件は、このケースだけであった。 プールヘイストは報告書の中で、ヨーロッパ人「マダム」の記述があるものの、日常の事業経営や女性の募集、女性への脅しを行ったこの「マダム」の役割の記述は避けながら、日本人経営者を「ひも」と言い切っている。国立戦争資料研究所所蔵のこの資料は、公式な裁判記録で、数点の被告人尋問調書と判決文からなる。資料はこの男性を有罪判決に導き出すために作成されたものであるが、それぞれの資料は豊富な情報を含んでいるため、次にあげる7項目のような調査に関しては有意義な資料であると思われる。①曙倶楽部と桜倶楽部の関係、②慰安所の開設にあたりバタビア市長とその秘書の役割、③慰安所の管理での憲兵隊の役割(1ヶ月に1度管理検査が実施されていたという)、④ヨーロッパ人(含む印欧混血人)慰安婦の始まりとヨーロッパ人慰安婦募集の形態と状況、⑤多数のヨーロッパ人によるレストランと慰安所の運営、⑥慰安所を辞めると憲兵から罰を受けるという決まり文句とその影響力、⑦慰安所の日常的機能等。 曙・桜倶楽部のバタビア(特に民間抑留所から)と中部ジャワでの慰安婦募集は、数人のヨーロッパ人仲介人の手助けで、この愛人兼支配人の主導で行われていたが、日本人経営者も何度となく中部ジャワの慰安婦「募集旅行」に参加していた。女性たちは、「自分たちの自由意志」で慰安所の仕事に加わる事を条件とし、身体検査は必須、公式には17歳以下の女性は慰安所で働けない(だが最低でも、2つの事例でこの規則は歪曲されていたが)、女性たちは月給の他に客からの花代の歩合を受け取るような条件であった。結局のところ、バタビア抑留所から集められた女性たちのうち何人かは戦前から娼婦だったといわれていたので、比較的広範囲に(戦前から)ヨーロッパ人娼婦が存在していたと思われる。しかし、それでも何人かの女性はウェイトレスになるか1人の特定の男性とだけ性的関係を持つものと信じていたようである。極度な貧困状態が、慰安所で働く1つの引き金になっていたことは明らかである。一度慰安所へ入ると、女性たちはそこへ止まるように強硬に圧力をかけられ、慰安所を離れる許可は決してもらえず、逃げ出そうとした女性たちは直ちに官警に逮捕され短期拘置された後、慰安所に一度戻されてから慰安所を解雇された。 重要な事として、バタビア曙・桜倶楽部の裁判記録が、公娼制度と慰安婦制度の境界がいかに曖昧なものであるか示していることである。確かに、当時ジャワは軍政下ということもあって、軍は設 ―119― 置や規則に関与していたが、慰安所は、軍が組織として設置したり、将兵たちの使用目的の為に設置されたわけではなかったようだ。また、強制売春と「自由意志売春」(真の自由意志の売春がこの世に存在するかどうかも疑問であるが)の違いも曖昧であり、女性たちは、少なくとも時にはだまされ、慰安所に止まらせるために脅されてもいた。 表2 バタビア慰安所等 人 数 「慰安婦」年齢等(順序不同) チョコ・クラブ・マンガライ[Choko Club Manggarai] 4人 27歳、40歳、21歳、28歳。 テロッ・ベテン(軍司令部)[Telok Beteng] 9人 24歳、23歳、32歳、28歳、30歳、25歳、22歳、25歳。 シリカワ[Shirikawa] 7人 33歳、34歳、30歳、35歳、27歳、29歳、39歳。 サクラバー[Sakurabar] 10人 32歳、28歳、33歳、51歳、37歳、25歳、34歳、23歳、29歳、1名年齢不詳。内2名はインドネシア出身。 国立公文書館[ARA]で調査した他の公文書からは、少しではあるもののジャカルタにいた慰安婦に関する更なる情報を得られた。例えば、ガン・ホーニング慰安所(別称:桜バー。前述の桜倶楽部の事)、そしてあまり知名度の高くないペトジョ[Petodjo]にあったハンヴェグ[Hanweg]慰安所60)へ女性を調達、補充、また支配人のような仕事に従事していた2人のヨーロッパ人女性の記述もあった。どのような方法でいつ頃集められた情報か不明であったが、4軒の慰安所にいた女性の人数から年齢等の記述も見つかった(表2 参照)。 注へ 次へ 【目次】
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「慰安婦」問題 調査報告・1999 インドネシアにおける慰安婦調査報告 倉沢愛子 ソース:http //www.awf.or.jp/program/pdf/p089_105.pdf インドネシアにおける慰安婦調査報告(付録)兵補協会登録慰安婦数 (付録)兵補協会登録慰安婦数 Nomor Daerah/Cabang(地域) Jumlah ianfu(人数) 01. Sumatera Utara(Medan) 1,249(orang) 02. Sumatera Barat(Padang) 57 orang 03. Riau(Pekanbaru) 70 orang 04. Sumatera Selatan(Palembang) 386 orang 05. DKJ(Jakarta) 453 orang 06. Jawa Barat(Bandung) 4,289 orang 07. Jawa Tengah(Brebes-Pekalongan) 132 orang 08. Jawa Timur(Tulung Agung) 148 orang 09. Kalimantan Barat(Pontianak) 6 orang 10. Kalimantan Tengah(Palangkaraya) 4 orang 11. Kalimantan Selatan(Banjarmasin) 277 orang 12. Kalimantan Timur(Balikpapan) 19 orang 13. Sulawesi Utara(Minahasa-Bitung) 286 orang 14. Sulawesi Selatan/Tenggara(Sulawesi Tengah) 7,244 orang 15. Nusa Tenggra Barat(Bima) 1,727 orang 16. Nusa Tenggara Timur/(Timor Timur) 2,994 orang 17. Jambi 83 orang 18. Lampung Tengah 149 orang 計 19,573 orang インドネシアにおける慰安婦調査報告index
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「慰安婦」問題 調査報告・1999 インドネシアにおける慰安婦調査報告 倉沢愛子 ソース:http //www.awf.or.jp/program/pdf/p089_105.pdf はじめに この調査は1998年7月から9月まで、インドネシアのジャワ島において約2ヵ月にわたり筆者が実施した。インドネシアでは調査活動には大統領直属の国立科学院からの許可が必要であるが、今回筆者は、ガジャマダ大学農村地域開発研究所にスポンサーになってもらい、「情報が村落社会にいかに伝達されているか」というテーマで許可を得て、その一環として、慰安婦登録や女性基金の償い金に関する情報がどのように伝えられているかを調査した。とはいえ諸般の事情もあり、慰安婦自身へのインタビューは第三者(インドネシア語のできる日本人ならびにインドネシア人)に委託した。ただしインフォーマント探しなどにおいては、筆者自身が段取りをした。 その結果面接調査は、元従軍慰安婦として名乗り出ている女性40名、支援団体関係者4名、目撃証人3名に対して実施できた。その調査地はジャカルタ、ボゴール、バンドゥン、スカブミ、ジョクジャカルタ、ソロに及んだ。 面接調査の他には、慰安婦関係の文献収集に多くの時間をかけた。その対象機関は国立文書館、国立図書館、戦略作戦研究所(CSIS)、日刊新聞「コンパス(Kompas)」社のデータ・サービス、Alocita研究所(ジョクジャカルタ)、映画制作会社などに亘っている。その結果インドネシアの新聞・雑誌における慰安婦問題記事の収集、当時の写真、さらに慰安婦を題材にした小説や映画(ビデオ化したもの)を収集することができた。 以下、調査の結果知りえた内容を報告したい。 インドネシアにおける慰安婦調査報告index
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インドネシア語(マレーシア語)は簡単な言語なので習得しやすいです。 そんなに遠くもないですし将来性も抜群で、かつ貞操観念の高い国の一つです。 インドネシアの人口は日本の二倍”二億四千万人”いますので、積極的に狙ってもいいオススメの国です。 インドネシアの地域別情報 案外簡単に結婚できる貞操最強の国※注意 インドネシアの貞操観念も近年は下降気味 妻がバージンではなかったので離婚 インドネシアに住む華僑 インドネシアの男尊女卑 先にネットで現地に在住している日本人と交流を持つ インドネシア美女にモテる秘訣 俺はこの方法で優良なインドネシア娘との交際まで漕ぎ着けた インドネシアのバレンタインではコンドームの売り上げが激増? - インドネシア雑記帳 その他 インドネシア - 海のむこうに ~外人嫁・海外脱出など~ - アットウィキ インドネシアの地域別情報 情報通な他人様のブログより 380 :名無しさん:2013/12/22(日) 17 36 48 離婚しない結婚相手の見つけかた http //blue.ap.teacup.com/ciero/100.html 「インドネシアの人々」2006/5/15 アチェ州 アチェはインドネシアで最初にイスラム教が入ってきた地域で、住民のほとんどは敬虔なイスラム教徒です。 オランダ殖民史上最もてこずった地域であり、アジアの民族解放、インドネシア独立を旗印に掲げた日本軍と手を結び、 日本の敗戦で日本軍の武器弾薬から要塞までを無償で譲り受けオランダ軍に激しく抵抗し、オランダにインドネシアの植民地支配をあきらめさせインドネシア独立のきっかけを作った地域でもあります。 地理的にも性格的にも薩摩隼人に似たところがあるアチェの人々は日本人に対して誠に親切で、今回のスマトラ沖の大津波の救援時に日本の自衛隊にだけ強く残留の要望がありましたが、 他国の軍隊には強く撤退を要望しているインドネシア政府の立場もあり、日本が残るならアメリカも残ると表明したアメリカ軍が領土的と石油利権の確保の野心が見え見えとして最もインドネシア側が嫌うので日本の自衛隊もやむなく帰国したいきさつがあります。 このような親日的な風土の中でスマトラ沖の大津波で被災した女性を妻にするのはいかが、ただしインドネシア語を夫の側で意思疎通に不自由の無い程度まで勉強することが条件です。 州都バンダアチェまでジャカルタ経由で飛んでください。 北スマトラ州 日本が世界的規模のアサハンダム建設し日本のアルミ産業をここに集約した。日本人技術者の滞在する人も多く日本語熱の盛んな地域、インドネシア第3位の大都市メダンがある。 観光資源に恵まれているところで、巨大なトバ湖の中のサシモール島は淡路島と同じということでその巨大さがわかる、また高原避暑地ブラスタギは高原野菜と果物の産地としても有名、メダンから70キロ。 メダンは戦争中は日本の近衛師団が駐屯していた補給基地であったのでこの地域一帯のお年寄りは酔うと日本軍の軍歌のオンパレードとなる。きわめて親日的なところです。代表的な亭主関白州。 西スマトラ州 典型的なカカア天下州。ミナンカバラ族は全て娘が家督を相続し好みの男をムコを取る。女性は美人でしっかり者、女性が全ての決定権を持つ。 ミナンカバラ族はパダン商人とも呼ばれ商才はインドネシア随一、男は商人として全て外に出てゆくという。初代副大統領のハッタ氏はパダンの出身です。 南スマトラ州 昔スリビジャヤ王国がありインドネシアに初めて仏教がインドから入ったにもかかわらず、州都パレンバンには仏教の遺跡はない、全てイスラム教徒によって取り壊されたという。 日本は太平洋戦争が始まるとまずパレンバンに落下傘部隊を降下させ、占領した。現在は巨大石油コンビナートがある。パレンバンの沖のバンカ島は全島錫で出来ているといわれている。 観光資源が豊富なところ、インテリが多く、犯罪が少ない州。 西部ジャワ州 海抜800メートルー1000メートルの高地、スンダ美人といわれ肌は白く頭の良いインドネシアの代表的美人が多い州 中部ジャワ州 日本の京都、奈良のように遺跡が多いところ、イスラム教化されたときにスマトラのように破壊せず、土を仏教の寺院にかぶせたため近年発掘された。 出稼ぎに出る女性が多い。結婚相手を捜す穴場かも、しかしインドネシア語が出来ないと駄目。 東部ジャワ州 日本からの進出企業が多いところ、スラバヤは日本で言うと大阪に当たる。 日本総領事館がある。日本語のできる女性に遇う可能性あるも、やはり男性もインドネシア語ができないと。 戦時中日本海軍の大補給基地があったところ。初代大統領のスカルノ大統領の廟がある。 スラウエシ島 かってはセレベス島と呼ばれていた島でK字状で4つの大きな半島からなる。 面積は日本の本州とほぼ同じ、北部のミナハサ族、中部のトラジャ族、南部のブギス族、南東部のケンダリー族の4種族が住み行政区分もそれに従い4州に分かれている。 経済的に極めて重要な島。 北スラウェシ州 州都メナド 高価なスパイスの世界的な産地、戦前から日本人が大勢働いていた。昭和17年1月11日、海軍落下傘部隊とともに、日本の陸海軍が敵前上陸し激戦の末48人の戦死者を出しつつ占領した。 ポルトガル、スペイン、イギリス、オランダ、日本と支配者が入れ替わったため混血が進み、肌の色がインドネシア随一の白さと所得の高さ、頭脳明晰、美人の誉れ高い。農民の自家用車はベンツの新車、娘はガルーダ航空の客室乗務員という。キリスト教徒が多い。 中部スラウェシ州 古くから日本の国策会社南洋拓殖の社員がスラウェシ全島に大勢入り農業開発に従事していた。 南東スラウェシ州 日本が真珠の養殖試験に初めて成功したのは、ここのプートン島。州都ケンダリーの広い飛行場には戦時中、日本の爆撃機が集結していた。 南スラウェシ州 ブギス族の州で農業では「幻のコーヒー」で有名なトラジャコーヒーの栽培、ほかインドネシア随一の豊かな農業地帯。 またブギス族は養殖漁業の天才でもあり、世界中から日本に輸入される「養殖えび」の中でブギス族のものが最も品質が良い。戦時中、日本の海軍と陸軍の重要な食糧補給基地が置かれた。 マルク州 アンボン島 ポルトガルからオランダまでインドネシアの植民地支配はアンボン島から始まった。そのため住民はカトリックからプロテスタントとキリスト教徒に改宗している。 植民地支配の過程でアンボン人を中間管理職に登用した。中級官吏、尉官の将校、警察署長など。 アンボン人とはアンボン島、ハルク島、サパルア島の人々をいう。 インドネシア独立後、アンボン人はオランダの支援を得て、反乱を起こしたが鎮圧された。 スカルノ大統領は「そんなにオランダが恋しかったら送ってやるからこの国から出て行け」と1949年当時に5万人のアンボン人をオランダに送りつけた。 以上日本と関係の深かった地方に重点を置いていくつかの地方についてのべました。太平洋戦争の重要な目的の一つはインドネシアをオランダの植民地支配から脱却させ、独立させるということでした。日本軍はインドネシアの全土に展開しました。戦後も日本企業はたくさんインドネシアに進出しています。日本語学校も各地にあり、日本語のできる女性はインドネシア全土に散在しています、しかし男性がインドネシア女性と結婚するならインドネシア語が出来ることが必要です。 インドネシア語は日本軍がマレー語を基本に近代化した半人造語で日本軍が普及に尽力して公用語となった言葉です。インドネシアは地方ごとに約250の方言というより言語があるといわれています。 インドネシアの女性と結婚するならインドネシア語の習得は絶対に必要で、ヒヤリングも重要だからです。日本人男性にむかって、必死の思いで恥ずかしさをこらえながら、「私をあなたのお嫁にしてください」とインドネシア語で、つぶやくインドネシアの少女がいてもインドネシア語が出来ない人は、それを聞き逃しているのです。インドネシア人の少女にとって日本人の男性と結婚することは理想ですから。 インドネシアはイスラム教国ですからコーランの教えに従って、社会保障の見地から正妻は4人、権妻(妾)は10人まで認められているのです。インドネシア語さえ出来れば親日国インドネシアの女性と結婚するのは簡単です。 日本では妻は1人しか認められませんから、そのためにインドネシアで暮らす日本人も多いのです。 案外簡単に結婚できる貞操最強の国 110 : スレ主 ◆L2sKD00GPo : 投稿日:2012/11/14 03 05 04ID lCuJIyVZ ところで、前スレで訪問ビザの話が出てましたが、自分の彼女の分はあっさり通りました。 判断はその国の領事館長だけの場合と、日本の外務省か何処かに照会する場合とあるとのことでした。 自治体が発行する納税証明書と二人が映っている写真を数枚用意しました。日本で職についていて最もらしい資料が用意できれば、想像しているより簡単に呼び寄せられるのではないかと思いました。 これを利用すれば、案外簡単に結婚できる貞操最強の国を見つけました。 しかも人口が多く資源も豊富で今後大国になると著名な経済学者が押している国です。 それはインドネシアです。 http //app.m-cocolog.jp/t/typecast/653192/549224/60847617 この方法だとイスラム教に入信しなくても結婚できるそうです。 インドネシア人可愛いじゃないですか。 http //jkt48.com/member/list?lang=jp この中だとジェシカ・フェランダが自分の好みです。 貞操最強 結婚手続き、日本に住むなら簡単 人口非常に多く出生率が高く若い子がどんどん増えている。 インドネシア語は簡単 結構いいかも ※注意 インドネシアの貞操観念も近年は下降気味 146 :名無しさん:2013/07/09(火) 23 36 28 興味深い記事を見つけた インドネシア人「お前らこれでも日本人女性と付き合いたいってか?」 http //honnesia.doorblog.jp/archives/27218583.html https //megalodon.jp/?url=http%3A%2F%2Fhonnesia.doorblog.jp%2Farchives%2F27218583.html https //megalodon.jp/2019-0422-0750-17/honnesia.doorblog.jp/archives/27218583.html 引用 でもね、現実に目をやってみれば、まだ生娘な日本人の女の子を見つけることは本当に難しいんだ。 早い話が、もう処女ではないってこと。 147 :名無しさん:2013/07/09(火) 23 38 51 そして 146のコメント見てると、 今のインドネシアで処女を探すのは結構難しい模様。 しかし彼らは日本のことをよく知ってるわ。 148 :名無しさん:2013/07/10(水) 01 37 14 インドネシアも都会では処女率下がってると、現地人が言ってるね。現に俺も3年前にジャカルタで現地女とセックスしたからな。 彼女の社会的立場はよく分からんが(売春婦でないことは確か)。 中古品を掴みたくないなら、それなりの場所で探すんだな 大都市がって言うなら、ジャカルタだって同じどころか、もっとヒドイ それから大事なのはおしゃべり好きなキャピキャピしたのを避けるってことだ この人の意見はとても冷静であり、世界的に共通して言えることだ。 他にも、暗に「結婚する女とそれ以外の女」を分けることの大切さを仄めかしてるコメントもあるね。 妻がバージンではなかったので離婚 167 : 名無しさん ~君の性差~ : 投稿日:2012/12/09 21 12 45ID JBrfQZLS 【インドネシア】妻がバージンではなかったので離婚 http //www.cnn.co.jp/world/35025394.html まあ、仕方ないね。 インドネシアに住む華僑 25 : 名無しさん ~君の性差~[] : 投稿日:2012/12/27 09 16 52ID prFV2/HH インドネシア人可愛いじゃないですか。 (JKT48 = インドネシアのジャカルタ版AKBのサイトです) http //jkt48.com/member/list?lang=jp この中だとジェシカ・フェランダが自分の好みです。 30 : 何だかんだでvietnam : 投稿日:2012/12/27 12 42 40ID 38qaMIxz 25 そりゃインドネシア人じゃないよ。 インドネシアに住む華僑だよ。 食文化も言語も全く別物だよ。 だから、宗教もイスラムじゃないって。 イスラムならブルカだっけ、かぶるし、偶像崇拝を禁じてるから、 そもそもこんなAKBなんか参加するわけないじゃん。 今、インドネシアの華僑は排斥運動に合っているらしい。 まあ、華僑というのは、自分たちの民族の事しか考えず、他国に利益をもたらすことも無く、 民族の優位性(大中華思想)を唱え、コミュニティを形成することから、当然といえば当然か。 インドネシアでは、レイプの対象になっていて、凄まじい数の華僑少女が武器を持った土人族の集団に襲われ、 集団強姦に遭っているとニュースになっていた。 インドネシアの男尊女卑 (別スレから転載) 186 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 2013/01/20(日) 04 05 53.76 ID b5F9Al8/0 161 インドネシアなんかは男尊女卑がぶっ飛んでて、いかに女を働かせて楽をするかが男のステータスなのよ おかげで女性の就労人口が高くて、女性自身も自立心が高く理知的。その辺も今後インドネシアが伸びる理由の一つなんだとか。 代わりに男は働くことは働くけど甘ったれらしい。 あと、旧共産圏なんかは男女平等の名残で女性は働き者。ロシアの最新鋭戦闘機をオバちゃんが組み立ててることとか有名。 先にネットで現地に在住している日本人と交流を持つ 31 : 何だかんだでvietnam : 投稿日:2012/12/27 13 08 23ID 38qaMIxz 前スレから んでどうすれば海外の人たちと接点が持てるか、については具体的にどんな手段があるでしょうか? 7 都内とかだと交流会やバザーみたいなのもあるっぽいけど、こっちは田舎だからそういったイベントがあんまり無くてねぇ。 やっぱりインターネット経由で知り合うのが手っ取り早いのかな。 9 日本からだとネット経由が一番手っ取り早いでしょう。 現地で探せばそりゃもっと簡単ですが、それ言っちゃうとキリないので。 まずは、前置きとして、 俺は情報を気が向いたときに投下する役だから、アホらしいやり取りには参加しない。 んで俺は結局、紹介してもらっちゃったクチだけど、 もし、紹介ではなく、出会いでベトナム人を攻略したいなら、 「ワールドフレンズ」が最も最短且つ確実な方法だと思う。 っていうか、それ以外にあの国では、お勧めできるルートは無いんじゃね? (vietnamcupid.comというのも有るけど、欧米人目当てだからね・・当然ベトナム人も英語可) そもそも前者は日本人と知り合うために作られたサイトだからね。 昔は(十年弱ぐらい前は)、登録のベトナム人は数人だけだったが、 今は、たくさんのベトナム人が登録している。 現地の日本語学校通っていて相手を探している人もいる。 本当は、これはとっておきで教えたくは無かったんだけど、 俺はどうせ結婚しちゃったし、今となっては関係ないからねぇ。 ttp //www.worldfriends.jp/ これからの人、頑張って味噌。くれぐれも、生半可な気持ちで日本の恥だけは(以下略 77 : 笹熊 ◆padbKxYJag : 投稿日:2012/12/28 20 23 53ID WBaWMCPu 31 なるほど! 先にネットで現地に在住している日本人と交流を持つっていう手段もあったのか! これは大変参考になったなぁ。というわけで少し調べてみたんだが インドネシアだと「よろずインドネシア」って掲示板で交流できるみたいね。 http //yorozu.indosite.org/index.html 他にも色々あるかもだけど個人的にインドネシアが少し気になるのとすぐに見つかったのがこれだったよ。 インドネシア美女にモテる秘訣 情報通な他人様のブログより 176 :名無しさん ~君の性差~:2014/03/31(月) 21 12 29.64 ID awWTy50h 親日の国 インドネシア02 ~インドネシア美女にモテる秘訣~ Cewek Indonesia cantik sekali! http //masamukamaga.blogspot.com/2013/02/02-kenapa-cewek-indonesia-cantik-sekali.html?m=1 ところで、私のいるバンドゥンという街はとても美女が多い街です。 インドネシア人の中でもインドネシアで一番美女が多い街としても有名なようで、実際、街中には美女が溢れています。 そして、日本人はとてもモテます。リアリティを持って考えているかどうかは別としても、 日本人と結婚したいということを常日頃から言う女性もとても多いです。 大変ありがたいことです(・・・同時にちょっと怖いことも多いですが、それはさておき)。 バンドゥンに限らず、ジャカルタやスラバヤ、マランなどどこへ行ってもそうなのですが、インドネシアには本当に美女が多いです。 俺はこの方法で優良なインドネシア娘との交際まで漕ぎ着けた 339 :名無しさん:2013/11/20(水) 21 33 24 現地調達とか簡単に言ってるけど難易度高過ぎじゃね? 一応wiki見たけど、今一どうすればいいか分からない。 340 :名無しさん:2013/11/20(水) 21 52 54 自分も分かりません。こういう海外事情に詳しい知り合いも居ませんし…。 取りあえず語学勉強はしてます。因みに金はたっぷりあります。 341 :名無しさん:2013/11/20(水) 23 10 39 339-340 おk。 まずは難しい話を抜きにして【旅行】について考てみよう。 例えば都内在住の人間が地方へ旅行に行ったとして、 現地で友人を作ることが出来る人と、そうでない人に別れる。 そういう能力に恵まれてる人は、たった一日の滞在で自宅に泊めてくれる関係の人間を作ることが出来るし、 またその能力に劣る人は、一ヶ月居ても知人一人作ることも出来ない。 要はこの延長線上に、現地妻的なセフレ作ったり、恋人や配偶者を見つける猛者が居る訳だ。 ただ勘違いして欲しくないのは、「そういう”能力”」とは言ったものの、正確には能力の有無というより、意識の違いと言ったほうが正しいかもしれないということ。 342 :名無しさん:2013/11/20(水) 23 19 07 そして本題だけど、 海外旅行中に知り合い作る方法が全く思い浮かばないような人も中には居るだろうから具体的なアドバイス。 直感でまともそうな人に頼みごとをする(道案内など) ↓ お礼がしたいと食事に誘う、相手の都合が悪かったなら「是非時間がある時に」と連絡先を聞く たったこれだけ。 一例に過ぎないし、勿論そう簡単に行くものでもないけど、 何となく分かったかな? 運が良ければ、一人と仲良くなるだけで十分とも言える。 恋愛・結婚の話題を出して、その会話の流れで、良い相手が見付かったら結婚しようかと思ってると伝えれば良い。 「バージン守ってて家事が出来る良い子が居れば結婚しようかなあと思ってる」とか「日本語勉強してる子とか居る?」みたいにね。 その仲良くなった人が良い意味でお節介で、姉妹、姉妹の知人、親戚、親戚の親戚、と紹介してくれるかもしれない。 いくらでも輪が広がる。 基本はこれの繰り返しとなる。俺はこの方法で優良なインドネシア娘との交際まで漕ぎ着けた。 よく数打ちゃ当たると言われてるけど、本当にその通り。まずは”現地人との繋がり”を作っていく。 運も必要だから、差ほど苦労せずに理想の相手が見付かる人も居るし、一向に見付からない人やそもそも紹介されるとこまでに辿り着けない人も居るだろう。 でも、兎に角やってみないことには始まらん。 343 :名無しさん:2013/11/20(水) 23 30 37 但し、ベトナム人女性と婚約した人も言ってたが、 女を探すというその目的の為だけに行くと、不思議と巡り合わないもんなんだよね。 そういう意味では、海外旅行を根本的に楽しめない人は厳しいかも。 休暇として純粋に旅行を楽しみつつそっちの方も、というのが理想的かな。 まあこんなジンクスみたいなものは、何の根拠もない話なので聞き流してくれて構わんがw 344 :2ch外処のスレ主 ◆L2sKD00GPo:2013/11/20(水) 23 37 05 結局のところ場数を踏むしかないと思います。 自分でいうのもなんですが、今の自分だったら若くて可愛くて自分だけをひたすら愛してくれる子を探すのはとても簡単です。 それは自分だったからできたということはなくて、おおよそ日本男性であれば自分と同じような経験を積んできた人であれば誰でも到達可能な話です。 まあ、だまされたと思って地球の歩き方でも買ってぷらっと旅行にいってみてください。 何も行動しなければ始まりません。 インドネシアのバレンタインではコンドームの売り上げが激増? - インドネシア雑記帳 http //indonesia-zakkicho.ldblog.jp/archives/22450589.html その他 インドネシアのコスプレイヤー World Kawaii Gallery - Lucu Lucu.Press https //luculucu.press/?s=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2 site luculucu.press インドネシア https //www.google.com/search?client=firefox-b-m q=site%3Aluculucu.press+%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2 oq=site%3Aluculucu.press+%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2 aqs=heirloom-srp.. インドネシア - 海のむこうに ~外人嫁・海外脱出など~ - アットウィキ https //www59.atwiki.jp/uminomukou/sp/pages/17.html
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/531.html
「慰安婦」問題 調査報告・1999 インドネシアにおける慰安婦調査報告 倉沢愛子 ソース:http //www.awf.or.jp/program/pdf/p089_105.pdf Ⅰ 戦後補償問題としての慰安婦問題 インドネシアにおける慰安婦調査報告Ⅰ 戦後補償問題としての慰安婦問題1 インドネシア社会における「慰安婦問題」認識 2 慰安婦問題に関するマスコミ報道の始まり 3 日弁連弁護士のインドネシア訪問 4 法律援護協会への登録 5 兵補協会による慰安婦の登録 6 アジア女性基金の償い金に関する情報 7 インドネシア政府の態度 1 インドネシア社会における「慰安婦問題」認識 第2次大戦中、日本軍占領下のインドネシアで、多くの女性(インドネシア人、華人、オランダ人)が、日本兵の性的犠牲になったことはインドネシア社会では周知の事実であった。たとえば、1959年4月3日付けのインドネシアの新聞(Mestika紙)には、日本の賠償支払いに関連した投書が掲載されているが、その中で、日本からの賠償を本当に受け取る権利があるのは、日本の兵士たちの横暴の犠牲者になった人々であるとして、「聖戦を戦う手伝いのための売春婦として連れていかれた少女たち」のことに触れている。 筆者自身1980年から1981年にかけてジャワ農村で実施した調査の中でも、そういう女性のことはしばしば耳にした。それは、この村の○○の娘が、「学校へ入れてやる」と騙されて日本軍に連れて行かれ日本兵の女にされた、というような話である。 また、そのような女性を題材とした小説や映画は早い時期から作られていた。たとえば、1982年には「カダルワティ──5つの名を持つ女──(Kadarwati Wanita dengan Lima Nama)」と題するパンディル・クラナの小説が出版され、のちに映画化もされた。さらに1986年には「欲望の奴隷(Nafsu Budak)」と題する映画が制作・上演された。この映画はあまりにも有名で、そのため今でもマスコミ等では、「慰安婦」を象徴する代名詞としてしばしばこの「欲望の奴隷」という表現が使われるほどである。 性的な犠牲になった女性という場合、かならずしもすべてが厳密な意味での従軍慰安婦を意味するわけではない。非常に多くの女性が、特定将校の「女中」あるいは「現地妻」のような形で、専属的に性的な奉仕をさせられていた。そしてそのようなケースの場合、必ずしも「強制」によるものではなく、そのことにより本人あるいは家族に対し保障されるさまざまな物質的な利益を考えて、ある程度納得のうえでその道を選んだ者もいる。あるいは時には純粋な恋愛に近いかたちで関係が始まった場合もあるだろう。インドネシア社会では、そういったさまざまなケースと、厳密な意味での従軍慰安婦を、ほとんどの人が区別して理解していない。またわれわれが、いくらその区別を説明してもなかなか納得してもらえない。それがこの国での慰安婦調査の場合の最大のネックである。 いずれにせよ、その頃の小説や映画、あるいは人々の記憶の中では、このような日本軍の性的犠牲になった人々は、かつては「イアンフ」という明確な用語で認識されていたわけではなかった。この言葉自体はインドネシア社会ではきわめて新しいもの、つまり、1991年12月に韓国で名乗りを上げた元従軍慰安婦が日本政府に補償金支払いを求める訴えを起こし、いわゆる従軍慰安婦問題が国際的にクローズアップされて以来のことである。 2 慰安婦問題に関するマスコミ報道の始まり その当時たまたまジャカルタに長期滞在していた筆者の記憶では、この問題が大きくインドネシアのマスコミを賑わせるようになったのは1992年7月以降のことだった。1992年7月6日付けの全国紙「コンパス」が、「読売新聞」の記事を紹介し「日本軍が第2次大戦中、アジア諸国の女性を慰安婦として募集するにあたって、軍が関与していたという事実を証明する文書127点が発見された」と伝えた。次いで、7月7日の各紙に、「日本政府が6日、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、インドネシア出身の元慰安婦に対する謝罪の意を表明した」と報道された。 さらに「コンパス」紙は、日本大使館情報文化担当畠書記官の談として、インドネシアの従軍慰安婦に関する4つの資料が発見されたと述べている。その4点とは、(1)南スラウェシの民政部(インドネシアの海軍支配地域を統括した日本軍の行政機関)第2復員班長から第2軍高級副官あてに提出された「南部セレベス淫売施設調査」(1946年5月30日)、(2)台湾軍がカリマンタンより慰安婦50人の派遣を要請した手紙、および台湾軍参謀長陸軍大臣の副官あてに、南方総軍から要請をうけて「ボルネオ行き」「慰安土人」50名を派遣するに際して台湾在住の日本人(慰安所)経営者3名の渡航許可を求める電報、(3)同じく慰安婦20名を追加派遣したい旨了承を求める電報、(4)ジャワ島スマランにおける慰安所運営に関する報告(「終連報甲1588号」1947年1月9日付け)である。 この頃連日、社説も含めて各紙が、日本が慰安婦問題で軍の関与を認めたという報道で賑わった。しばらくすると、インドネシア人もまた慰安婦問題の犠牲者になっていたのだとして、インドネシア社会から名乗り出る人々の証言が報道されるようになった。 7月12日に「コンパス」紙が、「インドネシアにもあった従軍慰安婦問題」として、2人の男性の証言を載せた。1人はジャワ島ソロ市在住のウィナルソ(Winarso。退役軍人で証言当時は州議会議員)氏で、彼は「ソロで起こった悲劇の証人になる用意がある」と名乗り出て、彼が商業学校に通っていた頃(1944-45年)、その隣り合わせの敷地にあったフジ旅館(オランダ時代のHotelRusche Gladag、実は軍慰安所として使われていた)で見聞きしたことを語った。彼はかねてからそこに住む女性たちに興味があったが、ある夜、学校の火の見櫓に登って、ホテルの風呂場の窓越しに、1人の女性と話す機会があった。それによれば彼女は「学校へ入れてやる」といって騙されてここへ連れて来られ、日本兵の相手をさせられているということだった。ちなみにウィナルソ氏はのちに、「朝日新聞」、日本電波ニュースの取材を受け、日本のテレビでも8月15日にそのインタビューが放映された。 もう1人は、西カリマンタン州議会議長のアリフ氏で、彼は16歳の頃、スマトラ島リオーのタンジュンン・パウの日本軍の宿舎で働いていた時、鉄道建設に携わっていた渡辺少尉指揮下の日本軍部隊のもとに慰安所があったと証言した。 その数日後、1992年7月17日に、「元慰安婦だったと認めた女性」と題して、4段抜きの大きな記事が「コンパス」紙に載った。前述のウィナルソ氏の証言をもとに、「コンパス」の記者が、当時ソロ市のフジ旅館で働かされていた女性を探し出したのである。カランアニャル県在住のトゥミナさんという女性で、彼女は料理人として働かないかと誘われてソロの町に出たところ、フジ旅館に閉じ込められて、他の女性といっしょに日本軍将兵の相手をさせられたと証言したのである(トゥミナさんとのインタビュー記録もあるので参照されたい)。これ以後さらに何名かの女性が、マスコミの取材に応じて自分たちの体験を語った。 ちょうどこの頃、1944年にスマランの収容所から連れだされて慰安婦にされたオランダ女性がいたことを記した記録を「朝日新聞」の記者がオランダで発見し報道したが、これを7月22日付けの「ビジネス・インドネシア(Bisnis Indonesia)」紙が報道している。ほぼ同じ頃インドネシアの雑誌『テンポ(Tempo)』のオランダ特派員もこの資料をオランダで見つけて、1992年7月25日号で9頁にわたる特集記事を組んで大きく報じた。 さらに『テンポ』は、同年8月8日号でも、12ページにわたる慰安婦問題の特集を組み、ジャカルタ、トラジャ、ウジュンパンダン、スマラン、バンカ島で慰安婦にさせられた女性たちの体験を紹介した(後藤乾一「インドネシアにおける「従軍慰安婦」問題の政治学」『近代日本と東南アジア』岩波書店、1995年、237-240頁に詳細な証言が紹介されている)。またこの中で日本の海軍特警隊の禾(ノギ)晴道氏が書いた『海軍特別警察隊』という書物を紹介し、その中で著者がアンボン島で見聞した慰安所に関する記述を紹介している。 これらの一連の報道の中では、これらの女性を意味するものとして、「ジュウグン・イアンフ」、あるいはインドネシア語で「ワニタ・プンヒブル"Wanita Penghibur"」という新しい言葉が使われ、インドネシア社会に定着するようになった。従軍慰安婦自身、自分たちがこのような名称で定義されるものだということは、当時は知らず、報道によって初めて知ったのだった。 3 日弁連弁護士のインドネシア訪問 そのように、「従軍慰安婦」問題がインドネシアのマスコミに登場するようになると、人権問題でさまざまな闘争を展開していた法律援護協会(LBH)がこれに関心を示すようになってきた。そのような中で、1993年4月に村山アキラ氏を団長とする日弁連の弁護士5名(村山氏の他にイシダ・アキヨシ、ヨシ・マサアキ、ノガミ・カヨコ、岩城和代)が、「朝日新聞」の大村哲夫氏(個人の資格で)の案内で労務者ならびに慰安婦の調査に訪れた。彼らは訪問に先立って、法律援護協会と連絡をとり、調査の協力を依頼した。 この調査はあくまで、その年の10月に東京で開催予定であった戦後補償に関するセミナーのための事実関係調査を目的としたものであり、弁護士個人の資格で行われたものであった。しかしインドネシアのマスコミの中には、日本政府がいよいよ慰安婦の補償問題に乗り出してきたというニュアンスで報じるものや、あるいは日本の弁護士がインドネシアの元慰安婦の訴訟を援護するために来たという書き方をするものもあった。これに関しては、当事者から確認をとらず、法律援護協会関係者からの情報だけに基づいて書くというインドネシアの新聞記者の取材方法に大きな問題があったのであるが、いずれにせよ、この報道はいよいよ補償がもらえるのかという誤解を与え、その後何百人という元従軍慰安婦が相次いで名乗り出る契機となったのである。 こうして、日弁連の弁護士訪問時には、元労務者とならんで元従軍慰安婦と称する女性たちが法律援護協会に押しかけた。特にジャカルタと並んで一行の訪問先になっていたジョクジャカルタの支部ではそうであった。のちに慰安婦の補償獲得闘争の先頭に立つようになったマルディエム(日本名ももえ)さんも、この時(1993年4月26日)に名乗り出た1人である。一部の人には、日弁連の弁護士が直接面談したが、総数があまりに多く、全員に面会することができなかった。そこで法律援護協会ジョクジャカルタ支部は、名乗り出てきた人達にとりあえず名前、住所、日本時代の体験等を簡単に書いてもらっていったん引取りを願った。これが、法律援護協会によるいわゆる「登録」作業の始まりである。 ところが、この頃法律援護協会の本部は、日弁連の5人の弁護士の訪問中、彼らと直接話して、その調査目的が必ずしも訴訟の準備のためでなく、主として同年10月に行われる戦後補償のセミナーのための情報収集であったことを知り、警戒心を強めた。ブユン・ナスティオン氏は、4月23日、ソロで「日本人弁護士のグループは真剣に元慰安婦たちが日本政府に補償を要求するのを援助しようとしているのか、それとも自分たちの団体の利益だけを追求しているのか疑問である」として注意を喚起する発言をしている(「リプブリカ(Repbulika)」紙ならびに「ジャヤカルタ(Jayakarta)」紙、1993年4月23日付け)。 以下にみるようにこれ以後も登録を受け付けたのは法律援護協会のジョクジャカルタ支部だけであり、本部が関心をもたなかった背景にはこのような不信感もあったのかもしれない。 4 法律援護協会への登録 さて、ジョクジャカルタ支部では、その後も登録にくる女性が出現し、彼女たちへのマスコミの取材合戦が始まり、1993年度を通じて新聞紙上で女性たちの体験紹介が相次いだ。法律援護協会ジョクジャカルタ支部は1993年8月末で、とりあえず登録受付をいったん打ち切ったが、この時点で登録者は317人(ジョクジャカルタ特別州84名、中ジャワ州99名、東ジャワ州16名他)になっていた。それまでにこの事業に1150万ルピアの費用を費やしたという(「リプブリカ」紙、1994年2月28日付け)。ただしこの女性たちの登録は自己申告のみに基づくものであり、法律援護協会の側では特に認定作業や事実関係の調査を行ってはいない。しかも慰安所で働かされた厳密な意味での従軍慰安婦だけでなく、日本人の現地妻や日本軍将兵に強姦された被害者なども入っている。 法律援護協会ジョクジャカルタ支部のブディ・ハルトノ弁護士は、1993年9月に大統領、官房長官、外務大臣ならびに社会大臣あてに、労務者ならびに慰安婦の補償問題について政府の支持と助言を求める書簡を送った。 このように日弁連の弁護士のインドネシア訪問を契機に、慰安婦問題はいっそうマスコミの脚光を浴び報道が加熱したのであるが、このためにのちに、「それまでインドネシアでほとんど問題にされていなかった慰安婦問題が、日弁連の弁護士の訪イによってインドネシアにも持ち込まれた」という誤解が生じたほどであった。たとえば、すでにその前年7月に何度か慰安婦問題の報道をしていた「コンパス」紙までが、1996年11月16日の記事の中では、そのような認識を示しており、それに対して、ソロで最初に証言をしたウィナルソ氏が投書欄で反論する(「コンパス」紙、1996年11月28日付け)というようなこともあったほどである。また日本側でも現在一部にはそのような認識があり、慰安婦問題はインドネシア側から出てきたのでなく、日本側から「火をつけた」という誤解が強く残っている。 なお、この間(1993年8月)日本政府は慰安婦募集に際して「強制性」があったことを公式に認め、インドネシアの各紙もこれを報じた。 5 兵補協会による慰安婦の登録 法律援護協会ジョクジャカルタ支部による登録が、主としてジョクジャカルタや中ジャワ在住者を対象にして1993年から行われたのに対し、ジャカルタを含む西ジャワ方面における登録は、1995年になってから兵補協会によって行われた。兵補協会というのは、日本軍の補助兵として採用されたインドネシア兵(兵補)たちが、勤務期間中、軍事預金として強制的に給料の一部(おおむね給料の3分の1)を天引き貯金させられていたものを払い戻して欲しいという要求運動を展開するために1990年に結成された組織である。正式名を「元兵補連絡中央協議会」といい、最近までジャカルタ郊外のブカシ県ポンドック・グデ(PondokGede)にあるタスリップ・ラハルジョ会長の自宅を事務所にしていた。 兵補協会の説明によると、彼らが従軍慰安婦の登録をするようになったのは、かねてからこの問題に理解を示していた高木健一弁護士が、この協会の本部を訪れた時、「慰安婦の実態調査をしてみたらどうですか」と持ちかけたのがきっかけだという。そして、兵補協会の全国支部のネットワークを利用して1995年8月に登録受付が開始された。個人的データを書き込む特定の様式のフォームを協会側が用意し、そこに名前、生年月日、出生地、住所、日本時代の呼び名、1942-45年までの居住地の他、覚えている日本人の名を2名、日本人知人の名を1名記入させている。 ここでも厳密な意味の慰安婦だけでなく、日本軍将兵に強姦されたもの、特定の日本軍将校の現地妻にされたものなども含み、Wanita Selir(ジャワ語で妾の意)という広い定義のもとに登録を受け付けている。その結果現在、全国で19,573名が登録している(その地域別一覧は付録を参照)。同協会は1996年11月にこの全登録者名簿を2巻本に製本し、高木弁護士、インドネシアの内務大臣、政治・治安調整大臣(Men polkam)らへ送った。 兵補協会では、その中から一部の人々を抜き出し、日本軍政時代の体験に関する25項目の質問を記載した調査票を使ってより詳細な調査を行っている。これらの質問に対しては、aからdの4つの選択肢が用意されており、その中から選ぶという形式になっている。この調査は、バンドゥン支部のヘリ支部長が中心になって行われたため、データは西ジャワ地区のものがもっとも整っている。 6 アジア女性基金の償い金に関する情報 1995年7月にアジア女性基金が作られた当初、インドネシアのマスコミではこのことが大きくとりあげられることはなかった。また法律援護協会、兵補協会ともに、この基金の設立経緯や活動内容について正確な情報はほとんど入手していないようであった。1995年8月に筆者が法律援護協会の本部を訪れて、ブユン・ナスティオン理事長と会談した時、同氏は、要求項目としてa日本政府への謝罪要求、s日本の文部省に歴史の教科書の改定を要求、d慰安婦の記念碑建設、f本人ならびに遺族に対する補償の支払い要求の4点を出していた。しかし女性基金に関する言及はまったくなかった。 ジョクジャカルタ支部も同様であった。ブディ氏が女性基金のことを最初に知ったのは、1996年2月12日に彼の事務所を訪れたアジア・プレス・インターナショナルの虎松彩乃さんという日本女性の口からであったという(「コンパス」紙、1996年2月14日付け)。たまたま筆者は1996年2月から7月までジョクジャカルタに滞在しており、この間しばしば法律援護協会支部に足を運ぶ機会があったが、同協会の情報は、このようにここを訪れる日本の支援団体関係者の口から間接的に入るものに限られているという印象を受けた。 因みに同協会は、組織が一体となって慰安婦問題を扱っているのではなく、ジャカルタとジョクジャカルタとの間のコミュニケーションも限定されているようであったし、さらにジョクジャカルタ支部内でもスタッフの1人である弁護士のブディ・ハルトノ氏が、なかば個人的に元慰安婦の法的代理人となって活動をすすめていた。つまり法律援護協会は必ずしも一枚岩ではなく、ブディ氏が浮き上がっている様な傾向があり、ジャカルタの本部に届いている情報がかならずしもブディ氏に共有されていないというような状況がみられたのである。 ところで女性基金に関してブディ氏は当初「その資金は日本の市民によって、自発的ではない形で集められたものであるから、法律援護協会は政治的には拒否する。しかし人道的見地からみれば、すでに年老いている元慰安婦の人たちの状況に鑑み、受け取るだろう」と述べ、アジア女性基金の償い金を受け取るとも受け取らないとも態度を表明しなかった(「コンパス」紙 1996年2月14日付け)。 ところがブディ氏は、その後有光健氏らの招待でアジア太平洋の戦争犠牲者の集いに出席するため、1996年7月12日から22日にかけてマルディエムさんと共に日本を訪れた際、女性基金は政府が責任逃れをするために作った「まやかし」の組織であるという認識を持つに至り、これ以後償い金の受け取りを拒否する方針を明確にした。また、この時ブディ氏は、中国、韓国、台湾、フィリピンの従軍慰安婦たちとアジア女性基金の償い金は受け取らないと約束しあったという(「コンパス」紙、1996年11月16日付け)。 一方、兵補協会の態度は、これまでも法律援護協会に比べて、報道される機会が少なく、その主張は明確ではない。アジア女性基金の成立時期は、ちょうどこの協会が元慰安婦の登録を大規模に開始した時期とほぼ重なっているが、この頃女性基金についての情報をどの程度正確に関知していたかは不明である。彼らは現在なお補償金支払いを強く求めており、女性基金からの償い金も歓迎するという立場をとっている。しかしそれを公に発表する機会もあまりないうちに、後述のようにインドネシア政府が償い金の個人的受け取りを拒否するという方針に出たため、政府に逆らって何もできないというのが現状のようである。 7 インドネシア政府の態度 インドネシア政府は慰安婦問題に関し、日本国政府から何らかの公式発表があった時に、それに対する型通りのコメントをすることはあっても、それ以外には態度を明確に表明することも日本政府に要望を出すこともなかった。当初からインドネシア政府の態度が極めて"ソフト"であったことは後藤乾一も指摘している(前掲書、229-232頁)。1993年4月の日弁連の弁護士訪問時には、記者のインタビューを受けてインテン・スウェノ社会大臣は、「日本政府が補償をするなら、それは上手に実施しなければならない。不公平やお互いに損したというような形で行われてはならない」と答えている。しかも、その時大臣は、「元従軍慰安婦を探し出さねばならない」と語り、犠牲者たちが名乗り出ることを暗に奨励するような発言を行ったことがある。しかしそれ以外にはほとんど意見の表明はなく、そのことは結果的に、政府が積極的に慰安婦の補償獲得問題に対して、支持をしていないかのような印象を与えてきた。 たとえば、法律援護協会ジョクジャカルタ支部のブディ・ハルトノ氏は、この問題でしばしば大統領や社会大臣に書簡を送っているが、特に内容のある回答を受け取ったことはないという。また、慰安婦の代表としてジョクジャカルタのマルディエムさんら数人の女性が社会大臣に会見を求めてジャカルタへ行ったが、社会省ではBiro Hukum(法律問題)担当の職員に会えただけであった。これは政府が先頭にたって日本政府に要求をつきつけてきた韓国の態度とは対照的である。このような基本姿勢は、労務者問題、兵補の軍事貯金返済問題においても同様にみられる。 ひとつには、日イの友好関係に鑑みて政府がこの問題に正面から取り組むよりは、民間団体に任せた方が良いという考えがあったというが、しかし背後から法律援護協会や兵補協会の活動を支援するという姿勢さえもみられなかった。 筆者が1995年8月にブユン・ナスティオン氏から聞いたところによれば、この頃ジョクジャカルタで、インドネシア政府の社会省が代わって戦争の被害者に補償をせよという要求を出し、これに対して社会省は、(1)被害者たちの家を改装する、(2)被害者に年金を出す、という2点を約束したという。しかしこれらは今日に至るまで実施されていない。 そのような中で、1996年後半からアジア女性基金からの償い金の受け取りをめぐって、インドネシア政府は明確な方針を打ち出してきた。つまりインテン・スウェノ社会大臣が1996年11月に、「従軍慰安婦問題に関するインドネシア政府と日本政府の合意の結果として、3億8000万円(当時のレートで約90億ルピア)が10年間に支払われることになった。第1回目の支払いとして7億7500万ルピアが、ウンガラン(Ungaran、中ジャワ)、マゲタン(Magetan、中ジャワ)、ビンジャイ(Binjai、北スマトラ)、パレ・パレ(Pare-pare、スラウェシ)、クンダリ(Kendari、南スラウェシ)の6ケ所で、養老院など社会福祉施設の充実のために支出される」と発表したのである(「コンパス」紙、1996年11月15日付け)。 社会大臣によれば、インドネシア政府は当初から、補償金の支払いは要求しておらず、ただ日本政府が良い解決法を見つけてくれるよう求めていた。その背後にはインドネシア民族、とりわけ犠牲者たちの harkat(品質)とmartabat(尊厳、威信)を守るという意味があった、という。 この、個人に対する償い金は受け取らず、女性基金のお金は養老院建設のために使うという見解は、この段階ではまだ日本側の了解を得ておらず、社会大臣が一方的に発表した形だったので日本側を驚愕させた。しかしやがて、1996年12月22-25日にアジア女性基金は3人の代表をジャカルタに派遣し、社会省の担当者と話し合いを行なった結果、ほぼインドネシアの希望通りのかたちで両国間で決着をみることになった。そして、アジア女性基金の原文兵衛理事長は、1997年1月10日の記者会見で、インドネシアでは、個人に対する償い金は支払われず、養老院建設のために支払うという旨の発表を行った。 そして1997年3月26日に、橋本龍太郎首相が大統領にあてた謝罪の手紙が日本大使館を通じて届けられ、それを受けてアジア女性基金の山口達男と社会省のアスモロ次官の間でMOUが調印された。このMOUに基づいて、日本政府はアジア女性基金を通じて3億8000万円(約90億ルピア)を10年間にわたり拠出することになったのである。 インドネシアにおける慰安婦調査報告index
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(※mono....中略) / まあ、インドネシアの現地の市長がこんな文句を言っているらしい。 中国メディアの一点資訊は3日、中国の高速鉄道が難題に直面しているとする記事を掲載した。インドネシアの市長から「建設が遅すぎる」と責められているのだという。 でも、だから工事が早くなるなんて事は、あり得ない。 寧ろ、工事が途中で頓挫して永久に鉄道が完成しない可能性すらある。 実は、フィリピンでは、支那が南北通勤鉄道計画に手を挙げたにもかかわらず、工事が進まなかったという過去がある。 (※mono....以下略、詳細はサイト記事で) ■ インドネシアには独立国としての誇りはないのか? シナとの関係を清算せよ! 「いろこのはとば(2017.5.2)」より / スシ海洋水産相、日本に中古海洋レーダー6基の無償支援を要請…違法漁船の監視、取り締まりを強化!↓ http //blog.livedoor.jp/corez18c24-mili777/archives/49918471.html シナと対峙すると見せかけて、シナのためかもしれない。 これをシナとの交渉カードに利用してさらにシナとの関係を強めるかもしれない。 日本政府はトランプ政権のディールを少し学ぶべきである。 かつてチャンドラ・ボースは東条英機からの戦闘機の無償供与を断った。 なぜか? インド陸空軍との連携は既に始まっている両国海軍の連携に繋がりアジアの平和と安定に寄与する戦略だ。シナの覇権主義抑止だけでなく72年前の敗戦で消えた世界をリードする日印関係というテーマの再生になる。世界秩序が変化する今だからこそ重要だ http //www.sankei.com/world/news/170423/wor1704230009-n1.html↓ https //twitter.com/kohyu1952/status/856398173664714753 ■ 野党の器が小さすぎる 「パチンコ屋の倒産を応援するブログ(2016.1.9)」より / インドネシアの高速鉄道事業で早くも遅延が発生しているそうです。 中国共産党は競合相手が絶対にかなわないようなメチャクチャな条件を出して落札するのですが、 いざ本契約の交渉となった段階で話を条件をひっくり返すのが恒例となっているようです。 インドネシアに対しては 「インドネシア政府の債務保証を伴わない約6000億円の融資」 を中共側が用意し、 中共が全ての初期投資を負担し、 かつ次の大統領選挙前に完成させる。 という条件で落札しましたが、 すでにこの話は撤回されていて条件交渉をやっているとのことです。 さすが西朝鮮と言ったところでしょうか。 フィリピンでは鉄道建設を落札していた支那側が 工事の遅延や停止を繰り返し続けたため、 昨年11月に結局日本が受託し直すという事がありました。 国家単位で「嘘ついてでも落札すればいい」ということをやるのが西朝鮮です。 この点は南北朝鮮と全く同レベルであることが情けないですが、事実なので仕方有りません。 (※mono.--以下の民主党関連記事、北朝鮮関連記事、ドイツ関連記事はここでは略。) ★ インドネシアの高速鉄道は中国案で大丈夫なのか 宮崎正弘氏「悲惨な結果が…」 「47news(2015.9.30)」より / インドネシア・ジャワ島の高速鉄道計画で、日本の新幹線を押しのけて中国高速鉄道方式が導入される見通しとなった。破格の融資条件、国ぐるみの猛烈な売り込みで、中国は当初リードしていた日本を逆転した。だが、中国の海外プロジェクトには問題も多く、計画の実現性に疑問符が付きそうだ。 中国案が採用される方針が決まったのは、インドネシアの首都ジャカルタと東に約140キロ離れたバンドンを結ぶ高速鉄道計画。ユドヨノ前政権時代には日本案が先行していたが、昨年10月にジョコ政権が発足してから情勢は一転、中国が巻き返していた。 日中の受注レースが白熱化するなか、中国は「事業費の全額融資」「政府の債務保証は求めない」などと大盤振る舞いを連発した。日本は新幹線の安全性や好条件の融資を武器にしたが、中国の採算を度外視した売り込みに敗れた。 中国事情に詳しい評論家の宮崎正弘氏は「前途多難で、悲惨な結果が予想される。内心、インドネシアの人々がかわいそうだ」といい、続けた。 「ジャカルタ-バンドン間は高い山や崖、川が多く、難工事は避けられない。加えて、中国の破格の融資も疑問だ。一方的に利息を上げたり、全額返済を求めたり、政治的に利用しかねない。ミャンマーやカンボジアでもモメている。インドネシアに莫大な借金だけが残るのではないか」 【日尼関係】 ■ インドネシア、高速鉄道計画を撤回。垣間見える親中派ジョコ・ウィドド大統領の葛藤 「スロウ忍ブログ(2015.9.4)」より / インドネシア・ジャワ島での高速鉄道建設を計画しているインドネシア。インドネシア高速鉄道の受注をめぐり、日本と中国が受注競争を繰り広げる中、親中派ジョコウィドド大統領(ジョコウィ)は中国案を採用するだろうと昨夜報じられていたわけだが、夜が明けた先ほど、なんとインドネシアは高速鉄道計画自体を撤回することを明らかにしたとのことである。 http //www.47news.jp/FN/201509/FN2015090301001773.html (※mono.--中略) / インドネシアは地政学的に見ても未だ日本にとって重要な国である。言うまでもなく、日本のシーレーンはインドネシアの周辺を通るからだ。中東からのエネルギー依存を止めることができればインドネシアは然程重要でもなくなるのだが、そんなものは遠い未来の話になるだろう。 インドネシアは日本にとって地政学的に重要な地域だからこそ、何としても赤化だけは防がねばならない。そういう意味でも、インドネシアの唯一の救いは“インドネシア海軍”と言えるだろう。来たるべきジョコウィ大統領の“暴走”を最後の最後で食い止めることができるのは、今のところインドネシア海軍だけである。 (※mono.--中略) / ジョコウィが政界で曖昧な態度を採り続ける以上、日本は無理してインドネシアを経済的に救ってやる必要はない。勿論、日本の高速鉄道を下手に安売りしてやる必要もないだろう。インドネシアが韓国ポスコ製鉄工場爆発で犯した自らの過ちに未だに気付いていないのだとしたら、インドネシアはもう逝くところまで逝かないと駄目かも知れないからだ。その来たるべき危機に備えて、日本はインドネシア海軍と連携を密にしておく必要があるだろう。 (※mono.--後略) / 【オーストラリア】 / 【豪尼関係】 ★ 駐インドネシア大使が「前例なき」帰国 豪、自国民死刑執行で事実上召還 「産経ニュース(2015.5.4)」より / インドネシアから麻薬を密輸しようとした罪でオーストラリア人2人が4月末に死刑を執行されたことを受け、極刑回避を要請していたオーストラリアは4日、今後の対応を協議するため、駐インドネシア大使を帰国させた。事実上の召還とみられる。 アボット首相は、大使帰国は「前例のない」措置だとして抗議の意思を示す一方、2国間関係を悪化させない考えも強調。大使不在は比較的、短期になるとの見方が出ている。 一方、オーストラリアの首都キャンベラにあるインドネシア大使館に4日、不審な小包が届き、警察の爆発物処理班が出動する騒ぎがあった。(共同) 【韓国】 ■ ポスコの製鉄所が大爆発!インドネシア・12月に稼働2日で事故→全面停止→2月22日大爆発炎上 「正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現(2014.3.5)」より / 2月22日、韓国の最大手鉄鋼メーカーの「ポスコ」は、インドネシアに建設したばかりの製鉄所で大爆発事故を発生させた。 この製鉄所では、2013年12月23日に火入れ式が行われたが、稼動2日で高炉から溶解液が漏れ出す事故が発生し、同月25日からずっと全面操業停止となっていた! インドネシアと韓国の両国が、国家的命運をかけた事業だったと伝えられており、稼働わずか3日後からずっと全面停止していただけでも、インドネシアと韓国にとっては大ダメージだった。 ところが、その製鉄所が今年の2月22日になって大爆発して炎上したのだから、インドネシアと韓国のダメージは計り知れない! 日本のマスコミは緘口令を敷いているようだが、先週末頃からネットで徐々に情報が拡散されている。 (※ 以下略、詳細はブログ記事で) ーーーーーーーーーー ■ 韓国を直撃か? ポスコ、インドネシアで大爆発事故 「赤峰和の「日本が、日本であるために」(2014.3.1)」より / なぜか、あまり報道されていないことなのですが、韓国最大の製鉄会社ポスコがインドネシアとの合弁事業で建設したばかりの製鉄所で大規模な爆発事故を起こした模様です。おそらく、この事故は、韓国という国家そのものの危機に直結するものになるようです。 (※ 以下略、詳細はブログ記事で) ーーーーーーーーーー ■ インドネシアポスコ製鉄所先週大爆発 「minaQのつぶやき 네토미나(2014.2.28)」より (※ 前半略、詳細はブログ記事で)/ よくわかりませんが固まった高炉の鉄を溶かすために再点火したところ夜中の1時と3時に2回に分けて大爆発が起こったというみたいですね しかも今回の爆発は大規模で鎮火したのが32時間後のようですから工場は全焼かもしれません。 昨年12月23日に火入れ式をおこなったクラカタウポスコ製鉄所は操業初日に高炉の耐熱レンガが決壊し韓国人技術者ら専門チーム40人が現地で復旧作業を行なっていました。 http //www.kmj.co.kr/news/articleView.html?idxno=321612 http //www.kmj.co.kr/news/articleView.html?idxno=321098 そしてお馴染みの韓国型弁明はこんなかんじ .......................................... クラカタウポスコの法務·コーポレート·セクレタリーは、確認されたようにクリスティは爆発事故や損傷したツールの存在ではなかったと主張した。合弁会社Indonesiai韓国における製造工程の一部であった大爆発による。これは、日曜日(23/2)昨日のショートメッセージ(SMS)を介してバンテンPOSにクリスティを確認した。 atensinyaしていただきありがとうございます。我々はすべての事件だけでは死傷者や被害を聞かせて存在しないと言うことができます。製造工程の一部であった大きな爆発音を聞いた。また、明らかにいくつかのメディア、クリスティへの私たちの明確化されています。 彼は、PT KPは、国内の鉄鋼需要を満たすために、生産の過程にあり、追加された。生産工程では、同社はまた、2013年12月にKubangsari Kubangsari、最後の小区域のCiwandanに出席した地域社会の人々に社会化されています。 社会では製造工程が偏っ実行されることを説明し、ほこりが大爆発の煙のような生産地から高まで上昇し、大きな音や振動を聞いた。 床が湿気としてそこに閉じ込められた水を送信送信床に保持された液体鉄の小さな部分から来ているので、音は非常に騒々しいです大声。爆風は水が高温の油と混合したときと同じだった、と彼は説明した。 精錬溶銑のプロセスであり、任意の火災やガス漏れを引き起こさないシリコンと酸素ガスとの間にある製鋼工程での反応を、停止するので、大きな音の他の原因は、彼によると、ある。 さらにクリスティがアサート、同社は、常に工場と工場運営を取り巻く地域社会の安全·安心の原則に付着している。クラカタウポスコ工場が正常に動作しているので、彼は、それについてあまりにも心配していない人々に訴えた。 すべて正常に動作して。我々は彼が言った、心配しない人々を強くお勧めします。(IGO) .................................................. あれまぁ .