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ナムヘ(南海) 韓国神話の神格化された新羅の王。 新羅を建国したヒョコセ(赫居世)の嫡子。 関連: ヒョコセ (赫居世、父) アリョン (閼英、母) ジュリニシキン (儒理尼師今、息子) アヒョ (阿孝、娘) 別名: ナンカイジジユウ (南解次次雄) ナメチャチャウン (南解次次雄)
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古代朝鮮 キシ朝鮮(伝説上の王国)→エイシ朝鮮…エイマンが建国、漢の武帝により滅亡(笑) 高句麗(~668) 朝鮮半島北部に建国。4C初めに楽浪郡を滅ぼして半島北部を支配。 唐と新羅の連合軍により滅亡() 三韓時代 半島南部にバカン・シンカン・ベンカンの3国が成立。 三国時代(4C~7C) バカンを統一した百済、シンカンを統一した新羅、そして高句麗の3国が並び立っていた。 新羅(4C半ば~935) 唐との連合軍で高句麗と百済を滅ぼし朝鮮半島を統一。 高麗(918~1392) 王権が新羅に変わって建国、半島を統一した。 13Cにモンゴルうからの侵入を受け、元の属国とされる。14Cでは倭寇に苦しむ。 李氏朝鮮(1392~1910) 倭寇を破ったリセイケイが高麗を倒して建国。政治にはヤンバンと呼ばれる特権身分の官僚が掌握し逃走を繰り返した。 16C末には豊臣秀吉に侵犯を受けたが李瞬臣の水軍棟により切り抜ける。 17C前半には新の攻撃を受け服属。 一方、銅活字の鋳造と印刷の普及、またクンミンセイオン(ハングル)のリョウフにより文化が発展。 日清戦争後の1897年には国号を大韓帝国に改め、実質的独立を計ったが、度重なるロシアと日本の干渉によって内部にも政争が起こり、動揺が続いた。 韓国併合(1910~1945) 3次にわたる日刊協約により日本の干渉を受け、反日義兵闘争が展開されたが武力弾圧され、1910年に日本に併合された。1919年、大規模な反日独立運動が起こる。 北チョンと南チョン 第二次大戦後、米ソ両軍によって38度線を境に分割占領されていたが、 48年に南からリショウバンを大統領とする大韓民国が、北からキムイルソンを主席とする朝鮮が成立。南北が分立した。
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唐書巻二百二十 列伝第一百四十五 東夷 高麗 百済 新羅 日本 流鬼 高麗は、本来、扶餘の別種である。その地は、東は海をまたいで新羅に至り、南も海をまたいで百済に至る。西北は遼水を渡って営州と接し、北は靺鞨と接す。 その君主は平壌城に居住している。長安城ともいい、漢代の楽浪郡で、京師から五千里余り離れている。山にそって城壁をめぐらし、南は洪水(大同江)に面している。王はその左に宮室を築いている。また国内城・漢城があり、「別都」という。 川には大遼 (遼河)小遼(渾河か)があり、大遼は弱の西南の山から出て南流し、安市城をすぎる。小遼は遼山の西から出て、やはり南流する。水(太子河か)があり、外を出て西流し合流する。馬訾水(鴨緑江)があり、靺鞨の白山から出る。色が鴨頭のようで、鴨淥水という。国内城をすぎ西流して、塩難水と合し、また西南流し、安市に至って海に入る。平壌は鴨淥の東南にあり、大きな舟で人を渡し、頼って堀としている。 官はあわせて十二級あり、大対盧、あるいは吐捽という。鬱折は、図簿を掌る者である。太大使者、帛衣頭大兄、いわゆる帛衣とは先人のことで、国政を執り、三年ごとに交替するが、適職者はその限りでない。およそ交替の日には敬服せず攻めあう。王は宮門を閉ざして自守するのみで、勝者が 就任することを許す。大使者・大兄・上位使者・諸兄・小使者・過節・先人・古鄒大加である。その州・県は六十で、大城には傉薩を一人置く。唐の都督にあたる。他の城には処閭近支を置く。また道使ともいい、刺史にあたる。補佐の幹部がおり、大模達・末客があり、(大模達は)衛将軍にあたり、(末客は) 中郎将にあたる。 五部に分かれ、内部、つまり漢代の桂婁部で、黄部ともいう。北部、つまり絶奴部で、後部ともいう。東部、つまり順奴部で左部ともいう。南部、つまり灌奴部で、前部ともいう。西部、つまり消奴部である。 王は五条(青・黄・赤・白・黒)を着、白い羅で冠をつくる。 革帯にはみな金の剣をつける。大臣は青(紫か)羅の冠で、その下位の者は真赤な羅(を用いる。冠には)二本の鳥の羽を掴み、金・銀をまじえた釦がつく。上着は筒状の袖のあるもの、俺は大口、白いなめしがわの帯、黄色い革の履をそれぞれ用いる。庶人は粗衣を着て、頭には弁をつける。女子は首に巾(くびかざり)をつける。人々は囲碁・投壺(投げ矢)・蹴鞠を好む。食器は、籩豆(竹と木のたかつき)・簠簋(黍穫などを盛る祭器)・罍洗(大きい樽)を用いる。 居所は山や谷で草で屋根をふく。ただ王宮・富裕・仏寺では瓦を用いている。貧しい民は、真冬には長坑を作り、火をたいて暖をとる。 政は法を厳しくして、人々を支配する。 だから犯す者や謀反する者が少ない。犯罪者がおれば あつまって松明で身体を焼灼し、その後斬殺し、その家人は戸籍からはずす。降伏したり、敗れたり、強盗をした者は斬殺する。盗人は十倍を弁償させる。牛を殺した者は落として奴婢とする。だから物が落ちていても拾わない。結婚する場合、財物の受けこたえはしない。受けとる者があれば、それを恥ずべきこととする。 父母が死んだら、その喪には三年間服し、兄弟のは次の月で除かれる。淫祠が多く、霊星および日・箕子・可汗等の神を祀る。国の東に大穴があり、神隧という。いつも十月に王がみずから祭る。 人々は学問を好み、貧寒で賎役に就く家に至るまで、またつつしみ勉め、どの路傍にも立派な小屋を構え、それを局堂という。未婚の子弟の居室で、経を誦じ、射術を習得する。 隋末に王の高元が死に、異母弟の建武が嗣いだ。武徳年間(618-626)の初め、再度使者を遣わして入朝してきた。高祖は書を下して修好し、高麗人で中国にいる者を護送することを約束し、中国人で高麗にいる者を送還するようにした。そこで建武はことごとく亡命者を捜させた。役人 に帰順する者は一万人に及んだ。のち三年して、使者をおくって拝して上柱国・遼東郡王・高麗王とした。道士に命じ、像・法を伴い行って、『老子』を講じさせた。建武は大いに喜び、国人をひきつれ、共にそれを聴き、日ごとに数千人もいた。帝は侍臣に次のように言った。「名実との間は、みな合致すべきものだが、高麗は隋に臣従していたにもかかわ らず、結局、煬帝を拒絶した。どうして臣たる者の態度といえ ようか。朕は人々を安んずることに務めているだけで、必ずしも臣従することを求めなくともよいだろう」と。裴矩・温彦博は諌めて言った。「遼東は本来、箕子の国であり、魏晋代までは封土内でありました。だから、臣としないわけにはいきません。中国と夷狄とは、太陽と列星とのようなもので、落とすべきではありません」と。そのため沙汰止みとした。新羅と百済が上書して言った。「建武は道路を閉ざして、入朝できないようにしています。また、しばしば侵入して参ります」と。詔して、散騎侍郎の朱子奢に、節を持して諭して和解させた。建武は謝罪し、二国と和平することを請うた。 太宗は、突厥の頡利可汗を捕えた。建武は使者を遣わして賀し、あわせて「封域図」を献上した。帝は詔し、広州司馬の長孫師に、隋代兵士の骸骨を埋めさせ、高麗が立てた京観(屍を積み、その 上に封土したもの)を破壊させた。建武はおそれて千里の長城を築いた。東北は扶餘に始まり、西南は海岸までつづいた。 その後久しくして太子の桓権を遣わして入し、土産物を献上した。帝は厚く回賜した。詔して使者陳大徳に節を持して労らわせ 隙を見させた。大徳はその国に入り、地方官を厚くもてなし、ことごとく詳細を見ることができた。中国人の流民に会い、彼らのためにその親戚の存否を話した。人々は涙を流し、やってくる男女は道観を狭くした。建武は盛んに軍隊に演習させ、使者のに見せた。大徳は還って奏上した。帝は喜んだ。大徳はまた言った。「高昌が滅んだことを聞き、大対盧が三たび館にやってまいりまして、もてなしを厚くしました」と。帝が言った。「高麗の地は四郡にとどまる。我が士卒数万を派遣し、遼東を攻めれば、諸城は必ず我を救いに来るだろう。軍船で、東菜から海をこえて平壌に向かえば、もとより容易である。しかし天下ははじめて平和となっている。人々を労わせたくないだけである」と。 蓋蘇文というものがおり、或いは蓋金といい、姓は泉氏である。みずから水中で生まれたと言って衆を惑わせている。性格は残忍で狂暴である。父は東部大人で、大対盧となった。父が死んで、蓋蘇文が継ごうとしたが、国人が憎んだので、継ぐことができなかった。頓首して人々に謝し、その職に就くことを請い、もし誤ちを犯せば、廃されても悔いはないと言った。人々はそれを哀れんで、とうとう位を嗣がせた。残虐非道で、諸大臣は建武と彼を誅することを計った。それを知り、諸部兵をことごとく召集していて言った。あざむいて言った。「盛大に閲兵をし、ご馳走を並べる。大臣はやってきて視察してほしい」と。賓客がやってくると それをみな殺しにし、その数は百余人であった。また王宮に馳せ入り建武を殺し、その屍をばらばらにして溝に投げこんだ。さらに建武の弟の子蔵を立てて王とし、みずからは莫離支となって、国を専掌した。唐における兵部尚書と中書令の職を兼ねあわせたもののようであるという。蓋蘇文は容貌がすぐれ、鬚・髯が美しく、冠服はみな金で飾っており、五本の刀を佩び、左右によく仰ぎ視るものがなかった。貴人を地に伏せさせ、それを踏んで馬に乗った。出入するときは、兵を並べ、長く呼ばわって横切ることを禁じた。道行く 人々は畏れて逃げ、坑や谷にとびこんだ。 帝は、建武が下臣に殺されたことを聞き、哀悼し、使者を遣わし、節を持して弔祭させた。ある者が帝に討伐するよう勧めたが、帝は喪中に乗じて断罪することを欲しなかった。そして蔵を拝して遼東郡王高麗王とした。帝は言った。「蓋蘇文は君主を殺し、国を奪った。朕がこれを捕えることは容易だが、人を労わせることは望まない。どうしたらよいか」。司空の房玄齢が言った。 陛下の士卒は、勇敢で力に余裕があります。温存して用いないのは、いわゆる戈を止めるは武なり、そのものです」と。司徒の長孫無忌が言った。「高麗は一度も国難を告げてきません。よろしく書を賜わって安慰し、患いを取り除いて安撫すれば、彼は当然、命をきくはずです」と。帝は「よろしい」と言った。 たまたま新羅が使者をおくり、上書して言った。「高麗と百済とが和を結び、討伐してきそうです。謹んで、天子の命に服します」と。帝は、どうすれば免がれるのかを問うた。使者は言った。「計は窮まりました。ただ陛下の哀れみばかりです」と。帝は言った。「我が辺兵を若干、契丹・靺鞨を従えて遼東に入れば、汝の国は一年は命をつなぐことができよう。第一策である。我が、(唐の)赤い上衣と幟を数千、汝の国に与えよう。敵が来たら立てて陣を張れ。二国は見て、我が軍がやってきたと言って必ず逃げ去ろう。第二策である。百済は海を 頼って兵器を整備していない。我が水軍数万で襲撃しよう。汝の国は女王であるから隣国に侮られるのだ。我が宗室の者を 汝の国に統率させよう。平安となるのを待ち、自守するのに任せよう。第三策である。使者はどうするかを考えよ」と。新羅の使者は答えられなかった。そこで司農丞の相里玄奨を遣わし、璽書をもたらして高麗を責め、攻めることのないようにさせた。使者が至る前に、蓋蘇文は既に新羅の二城を取っていた。玄奨は帝の旨をもって論した。それに答えて言った。「かつて高麗は隋に侵略されましたが、新羅は隙に乗じて我が地五百里を 奪いました。今地をことごとく返還しないならば、戦をやめるわけにはいきません」と。玄奨が言った。「既に過ぎ去ってしまったことは、どうして論ずるに足りましょうか。遼はもと中国の郡県ですが、天子は取っていません。高麗がどうして詔を違えることができましょう」と。従わなかった。玄奨は帰還して奏上し、帝は言った。「莫離支(蓋蘇文)は君主を殺し、その人々を生き埋めにするも同然に虐げ、怨痛は道にあふれた。我が兵を出すのに名分がないであろうか」。諫議大夫の褚遂良が言った。「陛下の兵が遼を渡って勝つことは、もとよりよろしい。万に一つ速く勝つことができなくても再度軍を用いればよい。ただし再度軍を用いれば唐の安否は計り知れません」と。兵部尚書の李勣が言った。「そうではありません。先に薛延陀が辺境を盗し、陛下が追撃しようとされましたが、魏徴が苦心して諌め、おやめになりました。もし追撃していれば、一馬たりとも生きて返さなかったでしょう。後にまた叛きみだれ、今に悔を残しています」と。帝は言った。「誠にその通りだ。一度の失敗でそれを非難すれば、後に誰が、我のために計ろうか」と。 新羅がしばしば救援を請うた。そこで呉船四百艘を与えて兵糧を輸送させ、営州都督張食らに詔し、幽州・営州の兵および契丹・奚・靺鞨を発して討伐させた。丁度、遼水があふれていたので、軍は還った。莫離支は恐れ、使者を遣わして白金を献上した。帝は受納しなかった。使者はまた言った。「莫離支は、官人五十人を派遣して宿衛させようとしています」。帝は怒り、使者を責めて言った。「汝らは高武(建武)に仕え、節義を死守することなく、逆に謀反をなした。許すことができない」と。ことごとく獄に下した。 かくして帝は、みずから将となって討伐しようと欲し、長安の老人を召して、労って言った。「遼東はもと中国の地であり、莫離支はその主君に反逆して殺した。朕はみずから行って それを経略しようと思う。だから父老と約束しよう。子あるいは孫で、我に従って行く者は、よく慰安するから、憂えないでほしい」と。そして布や穀物を厚く賜わった。群臣はみな帝に行かないよう勧めた。帝は言った。「朕は知っている。本を去って末に就く、高きを捨てて下を取る、近きをすてて遠きにゆ三者は不祥である。高麗を伐つのはこれである。しかし蓋蘇文は主君を試し、また大臣を殺戮して満足している。一国の人は首を長くして救いを待っている」と。群臣が議論したが、明確に出なかった。ここに北方では穀物を営州に輸送し、東では穀物を古大人城に蓄えさせ、帝は洛陽に行幸した。そして張亮を平壌道行軍大総管とし、常何・左難当にそれを補佐させ、冉仁徳・劉英行・張文幹・龐孝泰・程名振を総管として、呉・江・京洛の募兵およそ四万、呉船五百を率い、海を渡って平壌に向かわせた。李勣を遼東道行軍大総管とし、江夏王道宗にそれを補佐させ、張士貴・張儉・執失思力・契苾何力・阿史那彌射・姜徳本・麴智盛・呉黒闥を行軍総管として、それに従わせ、騎士六万を率いて遼東に向かわせた。詔して言った。「朕が通過する屯営には、常に食を慎ませ、労費するなかれ。川で渡ることができるものには、橋梁を作ることなかれ。行在所では、近くの州県からでなければ、学生・老人に迎えて謁見させることを認めない。朕は昔、武器をとって乱を治めた。ひと月の蓄えにも充たなかったが、それでも向かうところは風も靡いたものだ。今は幸いに家ごとに人足を給し、ただ兵糧を転送するのに苦労するのではないかと恐れる。だから牛・羊にむちうって軍に食糧を給せ。また朕が必ず勝つとする根拠は五つある。我が大軍で彼の小軍を撃つからであり、順正が彼の悪虐を討つ。平安が彼の乱に乗ずるからであり、勢いに乗じた唐が、疲労を討つからである。喜び勇んでいる唐が、怨痛にあたるからである。どうして勝てないと憂える必要があろうか。また契丹・新羅・百済の諸君長の兵を徴発し、ことごとく合軍させよ」と。 十九年(645)二月、帝は洛陽から定州に陣し、従臣 に言った。「今、天下はすっかり安定している。ただ遼東が服従していない。後嗣は士馬が強盛なのをいいことに、臣下と謀議したから征討を招き、争乱はまさに始まろうとしている。だから朕みずからこれを取って、後世に憂いを残さないようにする」と。帝は城門に坐って通過する兵をひとりひとり慰撫し、疾病者はみずからそれを視て州県の役人に勅して治療させた。兵士はとても喜んだ。長孫無忌は奏言した。「天下は心を一にしてことごとく従っていますが、宮官は十人にとどまります。天下は帝位を軽んじます」と。帝は言った。「兵士で遼 水を渡った者が十万、みな家屋を離れて一人で来た。朕は十人を従えて来たが、なお多いと恥じている。公、言うのをやめなさい」と。帝は身に袋を負い、鞍に二つの箙を結んだ。四月、李勣は遼水を渡り、高麗はみな城を固く守った。帝は大いに兵士を饗し、幽州の南に陣を張った。長孫無忌に詔し、将士を集めて戒告させ、兵を率いて東進した。 李勣は蓋牟城を攻めて陥落させ、二万戸・糧十万石を獲得し、その地を蓋州とした。程名振は沙卑城を攻め、夜にその西側の城から入って破壊し、八千人を捕虜とし、兵を鴨水のほとりに屯させた。李勣は遂に遼東城を囲み、帝は遼水の沢地に陣し、詔して、隋の戦士の原野に露された骸骨を埋めさせた。高麗は新城・国内城の騎兵四万を徴発し、遼東を救援させた。道宗は張君乂を率いて逆撃したが、張君乂は退却した。道宗が騎馬でかけつけると、敵兵は驚き退いた。道宗はその橋を奪い、散っていた兵卒を集め、高所に登って望見した。高麗の陣中は騒がしくなったから急撃し、これを破り、千余級を斬首し、張君乂を誅殺してそれを全軍に布告した。帝は遼水を渡り、橋を撤去して、士卒の背水の決意を固めさせた。馬首山を本陣とし、帝みずから城下に至り、士卒が土塊で塹壕をうめているのを見、負担の重い者から分けて、馬上で土塊を持った。群臣はおそれ、争って土塊をはさんで進んだ。城中には朱蒙祠があり、祠には鎖甲・銛矛があった。前燕の時、天が降らせてきたものだと妄言している。包囲が切迫すると、美女を飾って婦神とした。巫は「朱蒙が喜んでいるから城は必ず保たれる」と言った。李勣は車を並べ、大石を飛ばし、三百歩以上飛んで当たった所はたちまち潰れた。敵は木を積んで楼をつくり網状に結んだが防げなかったばかりか、衝車で壁・屋を突かれて砕かれた。その頃、百済は金漆の鎧を献上した。また玄金を五綵で染めて山五文鎧をつくった。士官は着用して従軍した。帝が李勣と合流したとき、甲が日光に輝いた。するとにわかに南風が吹き、火を放って城の西南を焼き、城中にも燃え拡がり、建物はみな燃え尽き、焼死者は万余人あった。士卒は城壁に登り、敵は盾で覆って防いだ。士卒は長矛を挙げてそれを突いた。投石を雨のように降らせたので、城は遂に落城した。精兵一万余人を捕獲し、四万戸を捕え、糧五十万石を得た。その地を遼州とした。 はじめ帝は、太子の所属する行在所(定州)から三十里ごとに烽兵を一人置き、遼東城を降したら烽をあげることを約束した。 この日、合図の烽は塞に入った。 白崖城に進攻した。城は山と川に囲まれ、非常に堅固であった。帝は城壁の西北方に陣した。敵の首長の孫伐音はひそかに降伏を乞うた。しかし城中は一つにまとまっていなかった。帝は幟を賜わって言った。「もし降伏するなら垣にたてて信用させよ」と。すぐに幟をあげ、城民はみな唐兵が登ったと思って降伏した。最初孫伐音は途中で降伏することを後悔した。帝はそれを怒って諸将に高句麗を取ったら、その民を賜与することを約束していた。ここに及んで李勣は言った。「士卒が奮励して先陣を争うのは、虜獲を貪ろうとするからです。今、城はもう落ちようとしています。降伏を許して、士卒の心に叛くべきではありません。帝が言った。「将軍の言は正しい。しかし出兵して殺戮し、人の妻子を略奪することに朕は忍びない。将軍の部下で功績ある者は、朕が国庫の財物で賞与しよう。だから願わくば将軍、一城を朕に売り渡してくれないか」と。男女約一万、兵士二千を獲得し、その地を厳州とし、孫伐音を拝して刺史とした。莫離支(蓋蘇文)は加尸の七百人に蓋牟を守らせた。李勣はそれを捕虜とし、まごころを尽くさんことを請うた。帝はその人たちに言った。「汝らの家は加尸にある。だからわが戦力とならば、蓋蘇文は汝らの妻子を皆殺しにするだろう。一家族を殺してまで一人の力を求めることを受け入れられない」と。そして彼らを放還した。 安市に陣した。ここで高麗の北部傉薩の高延寿、南部傉薩の高恵真は兵士およびの衆十五万を率いて来援した。帝は言った。「彼らがもし兵を整えて安市を連合し、高山を頼んで城中の穀物を取って食べ、靺鞨に我が牛馬を略奪させてしまえば、攻めたところで陥落しないだろう。これは敵には上策である。城をひきつれて夜逃げだすのは、中策である。我と争うのは下策であり、捕えることができよう」と。援軍の中に大対盧がいて高延寿のために計って言った。「私の聞くところによりますと、中国の乱では豪雄が並びたちましたが、秦王神武は向かうところ強敵もなく、遂に天下を平定し、南面して帝となりました。北狄・西戎には臣とならないものがないそうです。今、国をあげてやってきて、謀臣・重将はみなここに集まっております。その鋭鋒は比べものになりません。今は、兵を駐屯し、日を引きのばし、ひそかに奇兵をおくってその糧道を断てば、 十日たらずで軍糧が尽きるでしょう。戦おうと思ってもできず、帰ろうと思っても路はありません。その時に破るべきです」と。高延寿は従わず、軍を率いて安市から四十里に駐屯した。それで帝は言った。「敵はわが策中に陥った」と。左衛大将軍の阿史那社尓に命じ、突厥の千騎を率いて誘いださせた。敵は常に靺鞨の鋭兵を前衛としていた。阿史那社尓の兵は接敵して逃げた。高延寿は言った。「唐はくみしやすい」と。三十里ほど進軍し、山麓に依って陣した。帝は高延寿に詔して言った。「我は汝の国に強臣がいて、その主君を賊殺したから、やってきて罪を問うのである。だから交戦することは我が意ではない」と。高延寿はそうだと思い、兵をとどめて待った。帝は夜、諸将を召集し、李勣に歩騎一万五千人を率いて西嶺に陣して賊にあたらせた。長孫無忌と牛進達の精兵一万人で、敵の背後の狭谷へ出させた。帝は騎兵四千を率いて、幟を伏せての北側の山上に向かい、諸軍に令して言った。「鼓の音を聞いたら進軍せよ」と。幕を朝堂に張らせて、「明日の日中、ここで、降伏してきた敵を納めよ」と言った。その夜、流星が高延寿の軍営に堕ちた。翌日、敵は李勣軍が少ないのを見て、すぐに戦おうとした。帝は長孫無忌の軍の粉塵が上がるのをながめ、鼓・角をならし、兵幟を四合させた。敵は恐れ惑い、兵士を分けて防ごうとしたが、衆はすでに騒然としていた。李勣は歩兵の長矛でそれを撃ち破った。長孫無忌は背後から迫り、帝は山から下にかけおりた。敵はは非常に乱れ、二万人が斬首された。高延寿は残りの衆を集め、山に入って自守した。長孫無忌と李勣は合流してそれを囲み、川の橋を撤去して帰路を断った。帝は轡をおさえて、敵陣を視察して言った。「高麗は国を挙げてやってきている。ひとたび指図しただけで破ったのは、天が我を助けたからである」と。馬をおりて再拝し、戦況を天に感謝した。高延寿らは勢力が窮まったと考え、衆を挙げて降伏し、軍門に入り、膝行し手をあわせて命を請うた。帝は言った。「今後、敢えて天子と戦おうとしないか」と。恐れいって汗をかき、答えられなかった。帝は首長二千五百人に地位に応じてことごとく官位を授け、内地に移ることを許した。残りの人々三万人は放還した。靺鞨の三千余人を誅殺し、馬・牛十万頭、明光鎧一万領を獲得した。高麗はふるえおののき、后黄・銀二城は自然に陥落し、数百里は人家もなくなった。そこで太子に伝えさせ、あわせて諸臣に書を賜わって言った。「朕がみずから将となり遠征したからこのような結果になったのだ。何も言うことがなかろう」と。そこで行幸した山を駐蹕山とし、破陣の状況を画かせ、石に刻んで功績を記録させた。高延寿には鴻臚卿を、高恵真には司農卿を拝授した。巡視兵が間諜を捕えた。帝はその縛を解いた。みずから、三日間何も食べていないことを言ったから命じて食事を与えさせ、靴を賜わり、送還しようとして言った。帰って莫離支(蓋蘇文)に言え、もし軍中の様子が知りたいなら、人を堂々陣所に送ったらよい。帝は常に塹塁を作らなかった。ただ斥候を排除するだけであった。それで士卒が兵糧を運ぶときに、単騎であっても、敵は敢えて略奪しなかった。 李勣と、攻撃するところを論議した。帝は言った。「我の聞くところによれば、安市の地は堅固で、その衆は勇敢であり、莫離が攻撃したが、下すことができなかったという。だから、これと戦うには、建安が険なのをいいことにして、穀物は多いが士卒は少ないから、もし不意に攻めれば救援できない。したがって建安を得れば、安市はわが腹中にあることになる」と。李勣が言った。「そうではありません。兵糧は遼東に蓄えてあります。それなのに先に西進して建安を撃てば、敵は我が帰路をふさいでしまうでしょう。 安市を先に攻めるにこしたことはありません」と。帝は、「よし」と言って遂に安市城を攻めた。まだ下すことができずにいたが、高延寿・高恵真が謀って言った。「烏骨城の傉薩はもう老いており、朝に攻めれば夕にはもう下すことができましょう。 烏骨を陥落させれば、平壌も陥ちましょう」と。群臣もまた思った。「張亮の軍が沙卑にあり、それを召集すれば一夜でやってくる。もし烏骨を取って鴨水を渡れば、中心部に迫れる。善い計略だ」と。長孫無忌が言った。「天子の行軍というものは、楽を求めないものだ。安市の衆は十万で、我が後ろにいる。これを先に破るにこしたことはない。それから長屋、南進するのが万全の体勢であろう」と。それで烏骨城の攻撃はやめになった。安城中の人は、帝の旗幟を見て、壁に登って騒いだ。帝は怒り、李勣は、男子を皆殺しするように請うた。敵はそれを聞いて、死にものぐるいで戦った。江夏王道宗は距闉(城中を偵察・攻撃するため城壁につけて築いた土山)を築いて 安市城の東南を攻めたが、壁の高さを増して守った。李勣は西を攻めた。撞車で壊した所は、守兵によって楼がつくられた。帝は城中に鶏や豚の鳴き声がするのを聞いて言った。城を囲んでから久しいが、煙突に黒煙がない。今、鶏や豚が鳴いた。きっと殺して士卒に饗するのだ。今夜にも出兵してこよう。詔して兵を厳重にした。丙夜(十二時頃)、敵の数百人が城壁から網を下げおろして降りてきたから、ことごとく捕えた。道宗は樹の幹を土をおおって、これを積んで距闉をつくり、城壁に迫ること数丈たらずとなった。果都尉の傅伏愛にそれを守らせた。次第に高くなり、その城壁を押せば、今にも崩れようとした。しかし傅伏愛はかってに部所を離れた。敵兵はそのすきにみずから城壁を崩して出撃し、唐の距闉にそって塹壕として通路を断ち、火をたき盾をめぐらして固守した。帝は怒って傅伏愛を斬り、諸将に勅して攻撃させたが、三日しても勝つことができなかった。 詔して退却させ、遼・蓋二州の人をひきつれて帰った。兵が安市城下を過ぎた時に、城中の人は息をひそめ、旗をたおし、城主は城壁に登り再拝した。帝はその守を賞し、絹百匹を賜わった。遼州の穀物はなお十万斛あり、士卒が取っても尽きることはない。帝は渤錯水 (遼寧省海城県の西北)に至ったが、八十里ものぬかるみに阻まれ、車騎が通じなかった。長孫無忌・楊師道らは一万人を率いて、木を斬って道をつくり、車を連ねて橋をつくった。帝も馬上で木を負って仕事を助けた。十月になって、兵は渡り終えたが、雪がひどかった。詔して、かがり火をたきつづけさせ、渡るのを待った。最初行った兵士は十万、馬は一万匹で、帰るに及んで物故した物はわずか千余人であった。馬は十匹中八匹は死んだ。水軍は七万で、物故した者はやはり数百人であった。帝は詔して、戦没した者の骸骨を集め、柳城(朝陽)に葬らせ、牲を祭った。帝は哭哀し、従臣もみな流した。 帝は早馬を従えて臨渝関 (河北省撫寧の東) に入り、皇太子は道の左側に迎えた。はじめ帝は太子と別れる時に褐(けごろも)・袍(わたいれ)を召して言った。「おまえに会ったら、その時には袍を着覚えよう。そのために、夏・秋とふた時が過ぎるのに、帝は易えず、穴があいてぼろぼろになった。群臣は更衣するよう請うたが、帝は言った。「士卒がみなやぶれた衣であるのに、どうして自分だけが服を新しくできようか」と。この時になって、太子が清潔な衣を進め、ようやく召した。遼東での降伏者一万四千人は、当然落として奴婢とし、まず幽州に集め、軍士に分賞されるはずであったが、帝は父子・夫婦を離れさせることを哀れみ、役人に詔して、布帛を贈わせ、奴婢身分から庶民になることを許した。みな感謝し、歓呼して舞い踊り、三日間やまなかった。高延寿はすでに降伏していたが憂死しており、高恵真だけが長安へやってきた。 翌年春、高麗王の蔵は使者を遣わして土産物を献上し、かつ謝罪し、二人の美女を献じた。帝はしてそれを返し、使者に言った。「美人は人が貴重がるものであるが、親戚から離れ、その心を痛めることをあわれむ。私の取るところではない」と。はじめ、軍が還ると、帝は弓・服を蓋蘇文に賜わったが、それを受けとりながら、使者を遣わして感謝することをしなかった。そこで詔を下して朝貢を受けつけなかった。 また翌年三月、詔し、左武衛大将軍の牛進達を青丘道行軍大総管とし、右武衛将軍の李海岸にそれを補佐させ、軍は菜州から海を渡った。李勣を遼東道行軍大総管とし、右武衛将軍の孫弐朗、右屯衛大将軍の鄭仁泰にそれを補佐させ、営州の兵士を率いさせた。軍は新城道を経由して進軍し、南蘇・木底に陣した。敵兵は戦っても勝たず、李勣の軍はその城郭を焚いた。七月、牛進達らは石城 を取り、積利城へ進攻し、数千人を斬首し、それからひき返した。蔵は子の莫離支高任武を遣わし、来朝して謝罪させた。 貞観二十二年(648)、詔し、右武衛大将軍の薛万徹を青丘道行軍大総管とし、右衛将軍の裴行方にそれを補佐させた。薛万徹の軍は海路を行って高麗に入り、部将の古神感は敵と曷山(不詳)で戦い、敵は潰滅した。敵は暗闇にまぎれて我が舟を襲ったが、伏兵でそれを破った。薛万徹は鴨淥水を渡っ て泊灼城から四十里離れた地に陣した。高句麗は恐れ、みな邑や家をすてて逃げた。大酋の首所夫孫は拒戦したが、薛万徹はそれを斬り、遂に城を囲みその援兵三万を破って引き返した。帝は長孫無忌と計って言った。「高麗はわが軍の侵入に困苦し、戸口は減り、耕地も消耗し、歳収はない。蓋蘇文が築城・増柵したので、下民は飢え、溝壑に臥死し、疲弊に耐えない。来年三十万の衆をもって、公を大総管として、一挙に攻撃すれば、滅ぶはずだ」と。そこで詔し、剣南(四川省)でさかんに船を造らせた。蜀人は貨財を江南に送ることを願った。その額を計算して舟を作ったが、一艘につき縑(かとりぎぬ)千二百匹かかった。 巴蜀は騒然とし、邛・眉・雅の三州はみな反乱した。隴西(甘粛省隴西)・峡内(湖北省)の兵二万を発してそれを撃破し、平定した。帝は敵を攻撃することを決めると、そのために陝州刺史の孫伏伽、莢州刺史の李道裕に詔し、兵糧・武器を三山浦・鳥湖島に蓄えさせた。越州都督は巨船・偶舫(もやいぶね)を造って待機していた。しかしたまたま帝が崩じたので遠征はやめになった。高麗王の蔵は使者を遣わして奉慰した。 永徽五年(654)、蔵は靺鞨の兵を従えて契丹を攻めた。新城で戦ったが、大風で矢がみな返ってきた。風が激しくなって、契丹に乗せられ大敗した。契丹は野に火をつけ、再戦し、高麗人は死に混乱し、その屍を積んで冢とした。契丹は使者を唐に遣わして勝利を報告した。高宗は朝廷で露布を作り、その告奏を記した。 六年(655)、新羅は高麗・靺鞨が三十六城を奪ったことを訴え、天子の救援を願った。詔して営州都督の程名振、左衛中郎将の蘇定方に兵士を率いて討たせた。新城まで行って高麗兵を敗り、外郭および村落を焼き、引き返した。 顕慶三年(658)、また程名振を遣わし、薛仁貴らを率いて攻めさせたが勝つことはできなかった。その後二年して、天子はすでに百済を平定し、それで左驍衛大将軍の契苾何力、右武衛大将軍の蘇定方、左驍衛将軍の劉伯英に、諸将を率いて、浿江・遼東・平壌道を出て討たせた。竜朔元年(661)、さかんに兵士を募集し、諸将を配置した。天子はみずから行こうと欲したが、蔚州刺史の李君球が建言した。「高麗は小醜にすぎません。どうして中国が傾けて行く必要がありましょう。もし高麗が滅亡すれば必ず兵を派遣して守らなければなりません。少なく派遣すれば威はふるわず、多ければ人が安堵しません。それで天下は守備兵の派遣に疲れることになりましょう。臣が思いますに、遠征するよりは遠征しない方がよく、討滅するよりは討滅しない方がよいのです」と。また、武后の反対もあり、帝はやめた。八月、蘇定方は敵虜兵を浿江に破り、馬邑山を奪い、遂に平壌を囲んだ。翌年、龐孝泰は嶺南の兵を従え、蛇水に面した。蓋蘇文はそれを攻め、唐軍は全滅した。蘇定方は包囲を解いて引き返した。 乾封元年(666)、蔵は子の男福を唐に遣わした。天子に従って泰山に封禅し帰った。蓋蘇文が死に、子の男生が代って莫離支となった。男建・男産と怨みあい、男生は国内城にたてこもり、子の献誠を唐に入朝させ、救いを求めさせた。蓋蘇文の弟の浄土もまた自分の領土を分割して降伏を請うてきた。そこで詔し、契苾何方を遼東道安撫大使に、左金吾衛将軍の龐同善・営州都督の高偘を行軍総管とし、左武衛将軍の薛仁貴・左監門将軍の李謹行を殿(しんがり)とした。九月、龐同善は高麗兵を破った。男生は軍を率いてやってきて合流した。詔して、龐同善を拝して、特進・遼東大都督兼平壌道安撫大使とし、玄菟郡公に封じた。また李勣を遼東道行軍大総管兼安撫大使とし、契苾何方・龐同善と力をあわせさせた。詔して独孤卿雲を鴨淥道の、郭待封を積利道の、劉仁願を畢列道の、金待問を海谷道のみな行軍総管とし、李勣の指揮を受けさせ、燕・趙の食糧を転送し、遼東に蔵させた。 翌年正月、李勣は先導して新城に陣し、諸将と会って謀って言った。「新城は、賊の西の辺境で、先に下さなければ、他の城は容易には下すことができないであろう」と。新城の西南の山に登って、城に臨んだ。城の人は城主を縛って出降してきた。李勣は進撃し、十六城を陥落させた。郭待封は水軍を率いて海を渡って平壌に向かった。 乾封三年(668)二月、李勣は薛仁貴を率いて扶餘城および他の三十城を陥落させ、みな誼を通じた。龐同善・高偘には新城を守らせた。男建は兵を派遣してそれを襲撃させた。薛仁貴は高偘を救援して、金山で戦ったが勝たなかった。高麗は鼓をならして進撃し、鋭鋒は甚しかった。しかし薛仁貴は横から攻撃しそれを大破し、五万人を斬首し、南蘇・木底・蒼巌の三城を陥落させ、兵を率いて地を攻略し、李勣と合流した。 侍御史の賈言忠が計して還った。帝は「軍中はどうか」と問うた。答えて言った。「必ず勝ちます。昔、先帝(太宗)が問罪しましたが、志を得なかった理由は、敵にまだ隙がなかったからです。諺にもいいます。「軍に謀者なければ、中道にてかえれ」と。いま男生兄弟は怨み争いあっており、男生は我が先導となり、敵の情偽もことごとくわかります。また唐の将は忠士・力臣ぞろいです。だから必ず勝つと言っております。また『高麗秘記』に記しています。「九百年に及ばずして、当に八十の大将ありて、これを滅ぼすべし」と。高氏は、漢代から国を保って今まで九百年になります。[[李勣]は年八十です。敵は、飢饉がつづき、人々は互いにかどわかして転売しています。地は地震で裂け、狼・狐が城に入り、モグラは門に穴をあけ、人心はおどろき危んでいます。このような行軍は二度としなくてよいでしょう」と。 男建は兵士五万を率いて扶餘を襲撃した。李勣はそれを薩賀水のほとりで破り、五千人を斬首し、三万人を捕虜とした。兵器・牛馬も、これに匹敵するくらいあった。李勣は進軍して大行城を陥落させた。劉仁願は李勣と会したが、期日に遅れたので、召還されて、誅殺に当たるところを許され、姚州に配流された。契苾何力は李勣軍と鴨淥水で合流し、辱夷城を陥落させた。軍はことごとく平壌を囲んだ。 九月、蔵は男産を遣わし、首領百人を率いて、白旗を立てて降伏させ、かつ入朝を請わせた。李勣は儀礼どおり会見した。しかし男建はまだなお固守し、しばしば出て戦っては逃げた。大将で僧の信誠は、間諜をおくって内応を約束した。五日たって門が開き、軍は鼓譟して入城し、その門を焼いた。炎は四方にひろがり、男建は窮地にたち、みずから刺したが死ねなかった。 蔵・男建らを捕え、五部・百七十六城・六十九万戸を収めた。李勣に詔し、便道を通って、昭陵(太宗の陵)に献上させ、凱旋帰還した。十二月、帝は含元殿に坐し、李勣らを引見し、朝廷を捕虜を数えた。蔵を、もともと蓋蘇文に脅されたから、許して司平太常伯とした。男産を司宰少卿とした。男建を繋州に配流した。同時に百済王扶餘隆を嶺南に配流した。献誠を司農卿に、信誠を銀青光禄大夫に、男生を右衛大将軍とした。契苾何力を行左衛大将軍とし、李勣に太子太師を兼ねさせ、薛仁貴を威衛大将軍とした。地を分割して、九都督府・四十二州・百県を置いた。また安東都護府を置き、首長で功のあったものを選び出して、都督・刺史・令を授け、中国人官吏とともに支配させた。薛仁貴を都護とし、兵を総括して鎮撫させた。この年の郊祭には、高麗平定を報告し、天に成功を謝感した。 総章二年(669)、高麗の民三万を江・淮、山南に移住させた。大長の鉗牟岑が衆を率いて反乱をおこし、蔵の外孫の安舜を立てて王とした。詔して、高偘を東州道の、李謹行を燕山道の行軍総管とし、それを討たせた。司平太常伯の楊昉綏を遣わして、残余を納めさせた。安舜は鉗牟岑を殺して新羅に逃亡した。高偘は都護府の治所を遼東州に移した。反乱兵を安市で破り、また泉山でも破り、新羅の援兵二千を捕えた。李謹行は発盧河に破り、再戦して、捕虜としたり斬首した者が一万をかぞえた。ここに 及んで、平壌は傷つき敗れ、戦うことができず、群をなして新羅に逃亡した。およそ四年にしてようやく平定した。はじめ李謹行は妻の劉を留めて伐奴城を守らせた。敵はそれを攻め、劉は甲をつけ兵を整えて守ったから賊は退却した。帝はそれを嘉し、劉を燕郡夫人に封じた。 儀鳳二年(677)、蔵に遼東郡督を授け、朝鮮郡王に封じ、遼東に帰って残存する民を安撫させた。先に内地の州に寓していた人を集め、みな帰ることを許した。安東都護府を新城に移した。 蔵は靺鞨とはかって反乱しようとしたが、まだ実行に移さないうち召還されて邛州に放たれた。その部下を分離して河南・隴右、貧弱な者はは安東に留らせた。蔵は永淳年間(682-683)の初めに死に、衛尉卿が贈られ、突厥の頡利可汗の墓の左に葬られ、その墓道に碑をたてさせた。 高句麗の旧城はしだいに新羅に編入された。また人を突厥・靺鞨に逃亡させた。この結果、高氏の君長は絶えてしまった。垂拱年間(685-688)、蔵の孫の宝元を朝鮮郡王とし、聖暦年間(698-700)の初めに左鷹衛大将軍に進号し、あらためて忠誠国王に封じた。安東の旧部を統摂させようとしたが、行なわれなかった。翌年、蔵の子の徳武を安東都督とした。のちしだいに国となっていった。元和年間(806-820)の末になって、使者を遣わして楽工を献上したという。 百済は扶餘の種族である。京師の東六千里のところにあり、海岸の日当りのよいところをしめている。西は越州、南は倭、北は高麗で、みな海を越えて至るのである。東は新羅である。王は東西二城にある。 官には内臣佐平というものがあり、直納・号令のことをつかさどる。内頭佐平は帑聚のことをつかさどる。内法佐平は礼をつかさどる。衛士佐平は衛兵をつかさどる。朝廷佐平は獄をつかさどる。兵官佐平は兵をつかさどる。兵は六万ある。方は十郡を統轄している。大瓶(有力な氏族)が八つあり、沙氏・燕氏・劦氏・解氏・貞氏・国氏・木氏・百氏である。法は、反逆者は誅し、その家をとりあげる。殺人を犯した者は奴婢三人を輸す(納める)ことで罪を贖うことができる。官吏で賄賂を受けたり物を盗んだりした場合は、三倍で償い、終身禁錮となる。った。習俗は高麗と同じである。三つの島がある。黄色の漆がとれ、六月にきずをつけて取る。色は黄金のようである。 王は、大袖紫袍を着て、青の錦の袴をはき、素(白色)の皮帯をしめ、烏(黒色)の革をはき、烏(黒色)の羅冠を金蘤(黄金製)の花飾したのをかぶる。群臣は絳衣(深紅色の)衣を着て、冠を銀蘤(銀製)の花で飾る。民衆が絳衣(深紅)を着ること禁じている。書物がある。時(四季と十二ヵ月)の記し方は中国人と同じである。 武徳四年(621)、王の扶餘璋が始めて使者を派遣して、果下馬を献じてきて、しばしば朝貢するようになった。高祖は冊封して帯方郡王百済王となした。五年後、明光の鎧を献上して、高麗が朝貢の路をふさいでいると答えた。太宗は貞観年間(627-649)の初め、唐にきていた高句麗や百済の使者に詔して怨みを解き和睦するように命じた。また、新羅と年来の仇敵関係にあり、しばしば互いに侵略し合っていた。太宗は百済王に親勅を賜わって、「新羅は朕の藩臣であり、王の隣国である。聞くところによると、たがいに侵害しあっているとのことである。朕は、すでに高麗と新羅に詔して、くりかえし和睦するよう命じた。王は、ぜひとも前を忘れ、朕の心からの望みを知るべきである」と言った。璋は、上表文を奉って謝したが、戦いはなお止めなかった。扶餘璋は再び使者を入させ、鉄甲・斧を献上した。帝は、これを手厚くもてなし、三千段の帛を賜わった。 十五年(641)、扶餘璋が死んだ。使者は素服(白い喪服)を着て、上表文を奉り、「君の外臣百済王の扶餘璋が卒しました」と言った。帝は玄武門で挙哀(死を悲しみ哭泣する礼)し、扶餘璋に]光禄大夫を贈り、また喪主への贈物も大変多かった。祠部郎中の鄭文表に命じて、扶餘璋の子の義慈を冊命して柱国となし、王位を継がせた。義慈は親孝行で兄弟仲がよかった。当時、海東の曽子と称された。 明くる年、高麗と和を結び連合して新羅を攻め、四十余城を取り、兵を送って守らせた。また義慈は、棠項城を取って新羅の唐への朝貢路を絶とうと謀った。新羅は急を告げた。帝は、司農丞の相里玄奨を派遣して詔書を携えさせ、諭して和解させた。義慈は帝が新たに高麗を討伐すると聞くと、すきをうかがって新羅の七城を攻め取った。しばらくして、また十数城を奪った。そのため唐をはばかり朝貢しなかった。高宗が立つと、使者を送ってきた。そこで高宗は義慈に詔して、「海東の三国は開基が古い。その地は、もとから犬の牙ように入り交っている。近頃、仲違いをして侵犯をくりかえし、平和な年がない。新羅の高城・重鎮は、みな王に併合された。新羅王は困窮の身を朕に寄せ、王が奪った新羅の地を返還してと願っている。昔、斉の桓公は一諸侯の身でありながら、なお滅びようとする国を助け存立させた。まして、朕は万民の主である。その危をあわれれずにはおれない。王が兼併した城は、必ず新羅に還せ。新羅の捕えた百済の捕虜は、王に還させよう。詔命を受けない場合は、望みに任せて、王と決戦しよう。朕は、契丹諸国に命じ遼河を渡り深く侵入させるつもりである。王はよく考え、後悔しないようにせよ」と言った。 永徽六年(655)、新羅は、百済と高麗・靺鞨が新羅の北境の三十城を攻め取ったと訴えた。 顕慶五年(660)、そこで左衛大将軍の蘇定方に詔して神丘道行軍大総管に任じ、左衛将軍の劉伯英、右武衛将軍の馮士貴、左驍衛将軍の龐孝泰を率いさせ、新羅兵を発して百済を討たせた。蘇定方は城山から海を済った。百済は、熊津を守ったが、蘇定方は兵士に思いのまま攻撃させた。敵は大敗し、官軍は潮に乗り帆を張って進み、真都城(御城)にあと一舎(一日の行程)のところまでいって止まった。敵は全軍をあげて阻んだが、また打ち破った。斬首は万余級におよび、ついにその城を攻め落とした。義慈は太子の隆を連れて北部に逃走した。蘇定方はこれを囲んだ。義慈の次子の泰は王と太子が王都を棄てて逃走したので、自立して王となり、衆を率いて固守した。義慈の孫の文思は、「王も太子も、もとより健在であるにも拘らず叔父は、みずから王となった。もし唐兵が囲みを解き、去ったならば、我ら父子はどうなることか」と言って、側近の者と縄をおろして城から抜け出した。民衆は、みな文思に従い、泰は止めることができなかった。蘇定方は、兵士に城壁の姫垣を越して唐軍の幟を立てさせた。泰は城門を開いて降った。蘇定方は、義慈や隆、それに小王孝や演、酋長五十八人を執えて京師(長安)に送り、百済国を平定した。五部、三十七郡、二百城、戸七十六万からなっていた百済の地を分 けて、熊津・馬韓・東明金漣・徳安の五都督府を置き、有力者を抜擢して統治させた。郎将の劉仁願に命じて百済城 (泗城)を守らせ、左衛郎将の王文度を熊津都督に任じた。九月、高宗は、蘇定方が捕えて献上した俘虜を見て、詔して釈放し、誅殺しなかった。義慈が病死すると、衛尉卿を贈り、旧臣が葬儀に参列するのを許した。詔して、孫皓や陳叔宝の墓の左側に埋葬させ、隆に司稼卿を授けた。王文度が海を渡って死ぬと、仁軌をこれに代えた。 扶餘璋の従子の福信は百済滅亡以前に軍を率いていた。福信は浮屠(僧)の道琛とともに、周留城を根拠にして唐に叛いた。旧王子の扶餘豊を倭から迎え、立てて王とした。西部はみな呼応した。福信らは軍兵を引き寄せて江城の劉仁願を囲んだ。 竜朔元年(661)、劉仁軌は新羅の兵を発して劉仁願の救援に向かった。道は熊津江に二壁を立てた。仁軌は新羅兵と、これを挟み撃ちにした。百済の軍衆は走って壁内に入ろうとし、橋を渡るのを争い、水に落ちて溺死する者が万にもおよんだ。新羅兵は本国に還った。道琛は任孝城を守り、領軍将軍と自称し、福信は霜岑将軍と称した。道琛らは、劉仁軌に告げて、「聞くところによると、唐は新羅と百済を打ち破り老幼を問わず皆殺しにして国を新羅に与える、と約束したとのことである。死を受けるよりは、戦った方がよい」と言った。そこで劉仁軌は、使者を送って書状を携えさせ、道琛らの言に説明した。道琛は傲慢なこと甚だしく、使者を城外の館におき、侮り報えて、「使者の官が低い。われは一国の大将である。礼として引見するに当たらない」と言って、そのまま追い返した。劉仁軌は、軍が少なかったので、軍を休ませ養わせた。高宗に新羅と兵力を合わせて百済軍を滅ぼしたいと願った。福信は、にわかに道琛を殺し、その兵を合併した。扶餘豊は、福信を制御することができなかった。 竜朔二年(662)七月、劉仁願らは、福信らを熊津で破り、支羅城を攻め落とした。夜に乗じて真幌城に迫り、夜明け頃に侵入し、百済兵の首八百を斬った。ここに新羅の餉道(運糧の路)が開通した。劉仁願は高宗に軍の増援を願い、右威衛将軍の孫仁師に詔して熊津道行軍総管に任じ、斉州の兵七千人を発して赴かせた。福信は国権をほしいままにし、扶餘豊の殺害を謀った。扶餘豊は親兵を率いて福信を斬り、高麗や倭と連合した。劉仁願は、斉兵の増援を得て、士気が高まった。そこで新羅王の金法敏とともに歩兵と騎兵を率い、また劉仁軌には舟師(水軍)を率いさせ、熊津江からともに進んで、周留城に向かった。扶餘豊の軍衆は白江の河口にむらがっていた。水軍は、敵の水軍と四度、遭遇し、みな勝ち、四百艘に火を放った。扶餘豊は逃走して所在がわからなくなった。偽(百済の旧)王子の扶餘忠勝と忠志は、百済の敗残兵と倭人を率いて降参した。諸城もみな、ふたたび唐に従った。劉仁願は軍をととのえて帰還した。高宗は、劉仁軌を留めて代えて守らせた。 帝(高宗)は扶餘隆を熊津都督に任じて国に帰らせ、新羅の旧怨をやわらげて仲直りさせ、また、散らばった百済の遺民を招還させようとした。麟徳二年(665)、扶餘隆は新羅王と熊津城で会盟し、白馬を刑して誓盟した。劉仁軌が盟辞を作り、それは、「さきに、百済の先王は、順逆の道を顧みることなく、鄰交を深めず、親族とも睦もうとしなかった。高麗や倭と一緒に新羅を襲って領土を割き取り、邑をこわし、城を攻めほろぼした。天子は、百姓が罪なくして苦しむのを憐れみ、使者に命じて和睦させようとした。ところが先王は険しい地勢を頼みとし、その地が遠方であることをよいことに、詔をあなどり、つつしまなかった。天子の怒りは爆発し、ここに伐ち、平定した。だが、亡んだ国を興し、絶えた家系を継がせるのは、王者の通則である。そこで、前太子の扶餘隆を立てて熊津都督に任じ、その祭祀を守らせる。新羅を頼り、長く同盟国として、好みを結び、怨みを捨てよ。天子の詔をつつしみ、永く藩服となるようにせよ。右威衛将軍・魯城県公の劉仁願は、その盟誓の場に親しく臨め。その徳にそむき、戦いをはじめ、軍衆を動かすことがあれば、神々が御覧になり、もろもろの災いが降りかかり、子孫は育たず、社稷(国家)は守りを失うであろう。世々決して犯してはならない」というものであった。そこで、金書鉄契を作り、新羅の宗廟の中に収蔵した。 劉仁願らが還ると、扶餘隆は百済の遺衆が離散するのを畏れ、また京師(長安)に帰ってきた。儀鳳年間(676-673)に、扶餘隆を帯方郡王に進め、国に帰らせようとした。当時、新羅は強盛で、扶餘隆は旧本国に入ろうとはせず、高麗に身を寄せて政治をとり、ここで死んだ。また、扶餘隆の孫の敬に帯方郡王を継がせた。だが、百済の地は、すでに新羅や渤海や靺鞨に分割されており、こうして百済は、ついに絶えた。 新羅は弁韓の後裔である。漢の楽浪の地に住んでいる。国土は横(東西)に千里、縦(南北)に三千里ある。東は長人国からへだたり、東南には日本、西には百済、南は海に臨み、北は高麗に接している。そして王は金城に居住している。金城は周囲が八里で、衛兵が三千人もいる。新羅語で王城のことを侵牟羅という。邑落で王畿内にあるものを喙評といい、王畿外のもの邑勒という。喙評は六、邑勒は五十二ある。礼服は白色が貴ばれ、さかんに山神を祀っている。八月十五日に大いに宴をはり、官吏の弓術を競わせた。 新羅では官を設けるのに、王の一族を上位におく。王族には、第一骨と第二骨となづけられたものがあり、彼らはその両者のいずれかに所属している。彼らは兄弟の娘・叔母・姉妹・姉妹などはみな妻として迎えることができる。王族は第一骨で、その妻もまたその族(第一骨)である。第一骨の夫と妻の間に生まれた子は、すべて第一骨になる。第一骨の男は第二骨の女を娶らない。たとえ娶ったといっても、たんに侍女とみなした。官職には、宰相・中・司農卿・太府令などがあり、すべてで十七等級で、第二骨の者も、その官職につくことができる。国政上重要なことがらでは、必ず多くの人と議論する。これを和白といい、一人でも異論があれば、そのことは中止する。宰相の家は、あまり禄をもらっていないのに、召使が三千人もおり、これに相当する甲冑・兵器・牛・馬・猪を保持している。 島で牛馬を飼い、食べたいと思えばこれらの牛馬を射る。利子をとって穀物を人に貸し、その返済が約束どおりでないと、貸主は借り手を奴婢にする。王族の姓は金で、貴族の姓は朴であり、庶民には氏はなく、名だけである。食器には柳の杯や銅製や瓦製のものを用いる。正月元旦には互いに慶賀する。この日に、日神や月神を拝む。男子は粗末な袴を、婦人は長い下着を着る。人に会えば、必ず跪拝をする。その拝礼では、手を地につけて敬恭の意をあらわす。新羅の婦人は白粉や黛をつけず、美しい髪を首にめぐらし、その髪を珠玉や綵で飾る。男子は髪を切る。黒布の帽子を売っている。市では婦人たちだけで品物を交換して商いをしている。冬になると竈を家の中に作り、夏には食物を氷の上におく。羊はおらず、驢・兎は少なく、馬が多い。馬は背が高く大きいけれども、あまり遠くへゆけない。 長人国の人は身の丈がほぼ三丈もあり、鋸のような牙と鉤のような爪があり、黒い毛が全身をおおっている。生物しか食べず、鳥や獣物を食べ、ときには人を捕えて食べることもある。また婦人を捕えて衣服をととのえさせる。何十里も山が連なり、その間にある峡谷は、鉄の扉で固めている。これを関門といい、新羅はつねに数千人の弩を射る兵士を常駐させて、守らせた。 昔、百済が高麗を討伐した。百済の使者が新羅にきて、救援を求めた。全軍を出動させ、高麗・百済両軍を撃破した。この事件以後、新羅と百済とは互いに攻防をくりかえして止めなかった。その後、百済王を捕えて殺したから、ますます怨むようになった。武徳四年(622)新羅王金真平が使者を派遣し入朝した。高祖は、通直散騎待郎の庾文素に詔して、節を持して答礼の賜物を贈らせた。その後三年(624)して、唐の高祖は金真平に、柱国・楽浪郡王・新羅王の官爵を与えた。 貞観五年(631)二人の女楽師を献上した。太宗は次のように言った。さきごろ林邑(南ベトナム)が、鸚鵡を献上したが、故郷を思う言葉を言ったので国へ帰した。まして人間において、当然帰さないわけにいかないだろう」と、使者とともに帰国させた。この歳真平王が死去し、嗣子がなかったので、その娘の善徳をたてて王とした。大臣の乙祭が国政を握った。詔を下し、真平王に左光禄大夫と賻物(喪を助けるための物)二百段を賜わった。貞観九年(635)使者を派遣し、善徳王を立して、父王の封爵を踏襲させた。新羅は善徳王に聖祖皇姑という称号を奉った。貞観十七年(643)新羅は高麗・百済に攻められ、使者が来て、援軍を求めた。ちょうど太宗皇帝みずから高麗を討伐しようとしていたので、「出兵して高麗の勢力を分散させよ」と詔した。善徳王は五万の兵を派遣し、高麗の南部に侵入し、水口城を降して報告した。二十一年(647)に善徳王が死去した。善徳王に光禄大夫の称号を贈り、妹の真徳に王位を踏襲させた。翌年真徳王は、王子の金文王と王弟伊賛干金春秋を派遣し、来朝させた。金文王に左武衛将軍、金春秋に特進の称号を授けた。そこで金春秋は新羅の礼服を、中国の制度にしたがって改めたいと申し出た。宮中から珍服をだして、これを賜わった。また国学に行き、釈奠の儀礼と経典の論義を見たいと願い出た。太宗は親撰の『晋書』を賜わった。辞去して帰国しようとすると、三品以上の官吏に勅して、都のはずれまで見送らせた。 高宗の永徽元年(650)百済を攻め、これを破った。金春秋の子金法敏を派遣し入朝させた。真徳王は、錦に頌を織りこみ献上した。「巨大な唐が大業をひらき 偉大なる天子の計りごとはますますさかんである 兵戈も止み天下統一を成しとげた 文運を興し百王にまでつづけようとするなら 天をすべ雨の恵みをたっとび 物事をおさめ うちにを蔵す 深い仁愛は日月にもひとしい 時運をとらえ善政につとめ 帝旗はすでに威名をかがやかせ 鉦や太鼓の音がなんとさわやかに響くことか 外夷で従わない者は 天罰をうけて亡ぼさん 淳朴な風俗は陰にも陽にも凝集し 遠近ともに競って瑞兆をあらわし 四季の気候も調和し 日月星辰の恵みが万民にゆきわたり 維神の恵みで優れた宰相を得 維皇帝は国政を忠良な家臣にまかせ 三皇五帝をあわせたごとく あきらかなりわが唐家の光」と。帝は気持を喜び、金法敏を太府卿に抜擢した。 五年(654)真徳女王が死去した。帝は哀悼の礼を行ない、開府儀同三司の官爵を贈り、綵三百段を下賜した。太常丞の張文収に命じて、節を持って霊を弔わせ、金春秋に王位を継がせた。明くる年、百済・高麗・靺鞨が共同して攻撃し、新羅の三十城をとった。そこで使者が来て救援を求めた。帝は蘇定方に命じて討たせ、金春秋を嵎夷道行軍総管とし、ついに百済を討ちたいらげた。竜朔元年(661)新羅王金春秋が死去したので、金法敏に王を襲がせた。また新羅国を、鶏林州大都督府とし、金法敏に都督の官職を授けた。 咸亨五年(674)新羅は高麗の唐に反逆した人々をひきいれ、旧百済の地を奪いとった。帝は怒って、詔を下し官爵を削り、彼の弟の右驍衛員外大将軍・臨海郡公の金仁問を新羅王とし、唐の都から国に帰らせた。詔を下して劉仁軌を鶏林道大総管とし、衛尉卿の李弼と右領軍大将軍の李謹行とをそえて兵を発し、新羅を咎め討った。上元二年(674)二月、劉仁軌は新羅軍を七重城(京畿道積城郡)で撃破し、靺鞨軍に海上を南下させ南部を攻略させた。その間、唐軍が斬り殺した者や捕虜にした者ははなはだ多かった。高宗は詔を下し、李謹行を安東鎮撫大使とし、買肖城(京畿道楊州)に陣をはった。三たび戦って、敵(新羅軍)はみな敗北した。金法敏は使者を派遣し、入朝・謝罪し、貢物があいついだ。金仁問は唐の都に帰り、新羅王を辞退した。詔を下し、金法敏の官爵を復活させた。しかし新羅は旧百済の地を多くとり、ついには高麗の南部にまで領土を拡めた。そして尚州・良州・康州・熊州・全州・武州・漢州・朔州・溟州の九州を置き、州には都督がおり、十ないしは二十の郡を統轄している。郡の長官には大守がおり、県には小守がいる。 開耀元年(681)金法敏が死去し、その子金政明が位をついだ。使者を派遣し入朝した。『唐禮』および他の有名な文辞を集めた文集を下賜されんことを請うた。武后は、『吉凶禮』および『文館詞林』のうち五十篇を集めて新羅の使者に賜わった。金政明が死去し、その子の金理洪が王位をついだ。 金理洪が死去し、その弟金興光が王位をついだ。玄宗の開元年間(713-741)しばしば入朝し、果下馬・朝霞紬・魚牙紬・海豹皮などを献上し、さらに二人の女を献上した。玄宗皇帝は言った。「この二人の女は、みな王のおばである。昔から俗を異にし、親しむところも異なっている。朕はこの二人の女をとどめるにしのびない」と。多くの下賜品をもらい帰国した。また子弟を派遣し、太学に入学させ、経術を学ばせた。玄宗はしばしば興光に瑞文錦・五色羅・紫繍紋袍・金銀の精巧な器などを下賜した。金興光もまたしばしば異狗・馬・黄金・美しい髢などの物を献上した。はじめて渤海靺鞨が登州(山東省台市)を略したとき、金興光は渤海を討って敗走させた。皇帝は、金興光を寧海郡大使の職に昇進させ、靺鞨を攻撃させた。二十五年(737)金興光が死去した。帝はこれをたいへん悼み、太子太保を追贈した。また邢璹を鴻臚少卿とし弔い祭らせた。子の金承慶が王位をついだ。帝は邢璹に「新羅は君子の国と称しており、詩や文章に通じている。卿は儒学に通じているので、節を持して行ってもらう。どうか経書の意義を述べ、唐で儒学のさかんなことを知らせてほしい」といい、また新羅人は囲碁が上手であるから、率府の兵曹参軍の楊季鷹を副とするよう詔した。その結果、新羅国の囲碁の名手は、みなこの門下から出ている。かくして新羅人はさかんに唐使に金・銀・宝物を贈った。突然唐の玄宗は新羅王の妻朴氏を冊立して妃とした。金承慶が死去した。詔して使者にその葬儀に参列させ、彼の弟金憲英に王をつがせた。帝が蜀にいたとき、使節を派遣し、長江をさかのぼり、成都まで行き、正月の儀式に朝貢した。 大暦年間(766-773)のはじめに、金憲英が死去した。その子金乾運が立ったが幼少であったので、金隠居を入朝させ、冊命を待った。詔して倉部郎中の帰崇敬を行かせ金憲英の霊を弔わせた。監察御史の陸珽・顧愔を副とした。冊命するとともに、王母金氏を太妃とした。たまたま新羅の宰相たちが権力を争奪し、互いに攻撃をくりかえし、たいへん乱れていたが、三年たってようやく治まった。そこで、この年入朝貢献した。建中四年(783)金乾運が死去し、子がなかったから、新羅は宰相の金良相をみなで立てて嗣がせた。貞元元年(785)唐は戸部郎中の蓋塤を派遣し、節を持して冊命した。この年に死去し、金良相の年下の従兄弟金敬信を立てて王位をがせた。貞元十四年(798)金敬信が死去し、子がなかった。そこで金敬信の嫡孫金俊邕を立てて王位につけた。翌年(799)司封郎中の韋丹を派遣し封冊を持たせたが、まだ着かないうちに、金俊邕が死去したので、韋丹は還った。金俊邕の子金重興が王位についた。永貞元年(805)兵部郎中の元季方に詔して金重興を新羅王に冊命させた。その後三年たって金力奇が唐に来て、さきの冊命を感謝するとともに、「先年、故主を冊立して王とし、王母申氏を太妃とし、王妻淑氏を妃とした。しかるに金俊邕が不幸になった。そのために冊命書はいま中書省内にとどめられています。どうぞその冊命書を授かってそれをもって帰国したい。また新羅の宰相の金彦昇・金仲恭、王弟蘇金添明に門戟を賜わらんことを」と言った。詔してすべて許した。その後およそ二度の朝貢があった。 元和七年(812)金重興が死去し、金彦昇が即位した。国王の喪を告げる使者が来た。そこで職方員外郎の崔廷に命じて、金重興の霊を弔い、かつ新王を冊命させ、また王妻貞氏を妃とした。長慶年間(821-824)・宝暦年間)(825-826)に、再度、新羅の使者が来朝し、宿衛をとどめた。また金彦昇が死去し、子の金景徴が王位についた。太和五年(831)太子左論徳の源寂に、弔いと冊命を儀式どおりにさせた。開成年間(836-840)のはじめ、新羅は王子の義琮を遣わし、挨拶させた。また衛を願い出て許された。翌年金義琮を帰国させた。開成五年(840)、鴻臚寺が人質および学生の満期になったもの百五人の名前を書きしるして、みな帰国させた。 張保皐と鄭年という者は、いずれも戦闘にたけ、槍術に秀れていた。鄭年はまた海にもぐることが上手であった。また五十里を歩いても咽せもしなかった。勇健さでは保皐がおよばないが、鄭年は張保皐を兄と呼んでいる。それは張保皐が年長のためである。鄭年は武芸で張保皐にゆずることはなかった。ともに新羅国から来て唐の武寧軍小将となった。のち張保皐が新羅に帰り、新羅王に拝謁して「広く中国では、新羅人を捕えて奴婢にしています。願わくば、清海(全羅南道莞島)に鎮営をおいて、海賊たちが新羅人を掠奪し、西方へ連れ去られないようにしたい」と言った。清海は海上交通の要衝である。そこで王は張保皐に一万人の軍隊を与え、清海を守らせた。そのため大和年間(827-835)以後、海上で新羅人を 売買する者がいなくなった。張保皐は、すでに新羅国で貴ばれていた。鄭年は困窮しており、 漣水県(江蘇省淮陰県の東北) で人の世話になっていた。ある日鄭年は守備隊長の馮元規に「私は東の新羅に帰って、張保皐に食べさせてもらおうと思う」と言った。馮元規は「張保皐と一緒に事をなすのはどうであろうか。或いは死を招くことになりはせぬか」と言った。鄭年は「困窮して死ぬことより、戦争で死ぬことの方が、まだましだ。まして、故郷で死ぬのだ」と言い、鄭年は去った。張保皐に拝謁すると、大変よろこんで酒を酌みかわした。この宴がまだ終わらないうちに、新羅では大臣が王を殺し、国乱れて国王なき状態だと聞いた。そこでさっそく張保皐は、兵五千人を鄭年に与え、涙をながし、鄭年の手をとって、「あなたでなければ、この国難を平定することができません」と言った。鄭年は新羅の国に行き、叛する者を誅滅し報いた。王は張保皐を召して宰相とし、鄭年を代わりに清海鎮を守らせた。 会昌年間(841-849)以後、新羅からの朝貢は二度と来なかった。 賛していう。杜牧が称揚している話に次のようなものがある。安思順が朔方節度使であったとき、郭汾陽・李臨淮は、ともに牙門都将であった。この二人はたがいに仲好くすることができず、同じ皿で飲食をともにしても、つねに横目で相手を眺めて、一言も話をしない。郭汾陽が安思順に代って節度使になると、李臨淮は去ろうと思ったが、決心がつかぬまま、十日ほど過ぎた。詔が下り、李臨雅は郭汾陽の兵を半分わけてもらって東方の趙・魏に出兵せよとのことであった。李臨淮は節度使の軍営に入り郭汾陽に請うて、「私が死罪になることは当然甘んじて受けます。妻子の罰だけは免除してください」と言った。これを聞いて郭汾陽は、走って庭に下り、李臨淮の手をとって建物の上にあげて、「今は国が乱れ、天子でさえ都を捨てて蜀に遷っています。あなたでなければ、東方を伐ち従えることはできません。どうして私を根にもっていてよい時でしょうか」と言った。李臨淮の出兵で二人が別れるときには、互いに手をとって涙を流し、互いにつとめて忠義をしようと励ましあった。ついに強敵を平定したのは、実にこの二人の力による。 相手の気持がわかれば離れ離れになることはないが、相手の気持を知ることはたいへん難しい。念をもって相手をみれば、必ず短所ばかりが目につき、相手の良さを知ることがますます困難になる。この張保皐の行ないは、郭汾陽の賢行と等しい。鄭年が張保皐の陣営に来るときは、きっと鄭年は「彼は貴く、我は卑しい。私が彼のもとに降れば、まさか昔の怨みで私を殺すようなことはあるまい」と考えた。張保皐は、はたして鄭年が考えたように殺さなかった。これは人間としての普通の感情である。李臨淮が郭汾陽に死罪を請うたのも、また人間の通常の感情である。張保皐が鄭年に任せたことは、自身の考えによる。鄭年は困窮しており、容易に感動した。郭汾陽と李臨淮とは平常から張り合っており、李臨淮への命令は天子からだされている。張保皐と比べれば、郭汾陽の方が秀れている。この場合は、聖賢でさえぐずぐずして決められない成否のきわどいところである。 世間では周公旦と召公を賞賛して百代の師といっている。しかし周公旦が幼子を擁立した時には召公がこれを疑った。周公旦の聖徳と召公奭の賢智とをもって、若いときには文王に仕え、年をとってからは武王を助けてよく天下を平定したのであるが、このように永年一緒に働いてきたにも拘わらず周公旦の気持を、召公奭すら充分にはわかっていなかった。かりそめにも仁義の心があるなら、教えられなくても明らかであるといっても、召公奭でさえこのようであった。ましてそれ以下の者においてはいうまでもない。 相手を怨むことに気をとられないで、難事に際会しては互いに憎みあわず、国家の憂いを先に考える者に、晋では祁奚がおり、唐では郭汾陽や張保皐がいる。どうして東夷に人物がいないといえようか。 日本は古の倭奴である。京師(長安)からは一万四千里、ちょうど新羅の東南に位置している。海のなかに島があって、そこで生活している。境域は東西が五月、南北が三ヵ月の行程である。国には城郭はなく、木を連ねて柵をつくり、草で屋根を葺いている。周囲には小さな島が五十余あって、みなみずから国と称し臣従している。もと率一人を置いて諸部を検察させていた。風俗では、女性が多く男性が少ない。文字はあり、浮屠の法(仏教)を尚んでいる。その官位には十二の等級がある。 王の姓は阿毎氏であって、初主を天御中主といい、彦瀲に至るまで全てで三十二世だと伝えている。みな「尊」を号として、筑紫の城に居していた。彦瀲の子である神武が立って、そうして「天皇」を号とし、移って大和州を治めた。 次いで綏靖・安寧・懿徳・孝昭・天安(孝安)・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀となった。仲哀が死んで、開化の曽孫の女の神功が主となった。 次いで応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明となった。欽明の十一年は、梁の承聖元年(552)にあたる。 次いで敏達・用明で、本名を目多利思比孤といい、隋の開皇の末にあたり、初めて中国に通じた。次いで崇峻、崇峻が死んで、欽明の孫の女の推古が立った。次いで舒明・皇極となった。 風俗では椎髻で、冠も帯もなく、裸足で歩行し、幅のある布で後を覆っている。貴人は錦を冒っている。婦人は一色の裳裾と、長めの腰襦をつけている。髪は後で結っている。煬帝が、民に錦の筋入りの冠を下賜するに及んで、金玉で飾り、文様の布で衣をつくり、左右に長さ八寸の銀の花をつけ、その多少で貴賤を明らかにした。 太宗の貞観五年(631)、使者を遣わして入朝してきた。帝は遠いのを哀れにおもい、所轄官庁に詔して、年毎の朝貢に拘らないように命じた。新州刺史の高仁表を遣わし、往って諭させたが、王と礼を争って穏やかではなく、天子の命を伝えることを承知せず、帰国した。しばらくして、あらためて新羅の使者に上表文を附した。 高宗の永徽年間(650-655)の初めに王の孝徳が即位し、改元して白雉とした。大きさが斗(ひさご)ほどもある虎魄(琥珀)と五升器のような瑪瑙を献上した。その頃、新羅が高麗と百済に攻められたので、高宗は璽書を下し、兵を出して新羅を救援させた。しかし幾許もなく孝徳は死に、子の天豊財が立った。死に、子の天智が立った。明くる年、使者は蝦蛦人とともに入朝した。蝦蛦も同じく海のなかにある島に居り、使者の鬚は長さ四尺ほどもあった。箭を首にはさみ、人をして瓢を載せさせ、数十歩離れて射たが、当たらないということはなかった。 天智が死んで、子の天武が立った。死に、子の総持が立った。咸亨元年(670)使を遣わして高麗平定を奉慶した。その後、少しく夏音(中国の言葉)を習い、「倭」という名を嫌い、更めて「日本」と号した。これについて使者は「国が日に近いので名としたのです」と、みずから説明をした。或いは「日本は小国であって、倭に併合されたが、その号を借りたのである」ともいう。使者は実情を述べなかったので、疑わしくおもっている。また国都は数千里四方であると、誇大に偽っている。南と西は海に達し、東と北は大きな山が境になっており、その外側には毛人であるといっている。 長安元年(701)王の文武が立って、大宝と改元した。朝臣真人粟田を遣わして土地の産物を献上した。朝臣真人は、唐の尚書にあたり、進徳冠をかぶっており、その頂には華を四方にわけてつけている。紫色の袍を着て、帛の帯をしている。真人は学問を好み、文章をつくるのに精通し、立居振舞には威儀がある。麟徳殿に招宴し、司膳卿を授け、還した。文武が死に、子の阿用が立った。死に、子の聖武が立った。白亀と改元した。開元年間(713-741)の初めに、粟田は再び朝貢し、諸儒について儒学の教えを受けたいと要請した。詔して、四門の助教趙玄黙を鴻臚寺において師として儒学を教えさせた。幅の大きな布を献じて弟子入りの手土産とした。賜物をことごとくを書籍に換えて帰国した。 従ってきた朝臣仲満は中華の風を慕って離れることを承知しなかった。姓名をかえて朝衡と名のり、左補闕や儀王友の官職を歴任し、博学多識であった。久しくいたが、帰国した。聖武が死に、女の孝明(孝謙)が立って、天平勝宝と改元した。天宝十二年(753)、朝衡は再び入朝した。上元年間(760-761)に左散騎常侍・安南都護に抜擢した。新羅が海路を塞いだので、明州(浙江省郵県東)・越州(浙江省紹興県)を経て朝貢したのである。 孝明が死に、大炊が立った。死んだので、聖武の女の高野姫を王とした。死に、白壁が立った。建中元年(780)、使者の真人興能が土地の産物を献上した。真人は、恐らくは官によって氏としたものであろう。興能は書が巧みであり、その紙は繭に似ていて艶がある。誰もそれを識る者はいなかった。 貞元年間(785-804)の末年に、桓武という王が使者を遣わして朝貢してきた。学生橘免勢、浮屠(僧)空海は、滞留して業を修めることを願い、二十余年の歳月がたった。使者高階真人がやってきて、免勢らと倶に帰国することを奏請した。詔してこれを許した。 次いで諾楽・嵯峨・浮和(淳和)・仁明が立った。仁明は開成四年(839)に入貢した。次いで文徳・清和・陽成・光孝が立って天皇となった。光啓元年(885)である。 東の海のの中に、また邪古(屋久島)・波邪(不詳)・多尼(種子島)の三小国の王がいる。北は新羅に取り、西北は百済に、西南は直ちに越州にいたる。絲絮(糸とわた)や怪珍なものがあるという。 流鬼は京師を去ること一万五千里、黒水靺鞨な東北、少海の北にあたり、三方はすべて海に阻まれている。その北は果てるところを知ることができない。人は島によって散居し、谷に阻まれている。塩・塩がとれ、地は早くから寒くなり多く霜や雪がふる。木の広さ六寸、長さ七尺をもってその上にわたし(て橇とし)、氷を踏み、逃げる獣を遂う。土地には狗(いぬ)が多く、皮をもって裘(かわごろも)とする。その風俗は髪を被り、栗は苦(エノコログサ)に似て小さく、野菜や穀物がない。精兵が一万人、南は莫曳靺鞨と隣接し、東南に航海すること十五日にして到る。貞観十四年(640)その王は子の可也余を遣わして貂皮を貢献した。再三通訳を変えて来朝し、騎都を授け。これを遣した。 竜朔年間(661-663)の初めに、儋羅があった。その王の李都羅が、使節を派遣し入朝してきた。国は新羅の武州南方の島(済州島)にある。習俗は素朴でかざり気がない。その国の人たちは、犬や豚の皮を着、夏は革の屋根の家に、冬は地下に住んでいる。五穀を生産しており、耕すのに牛を使うことを知らない。鉄歯でもって土をならしている。はじめ百済国についていたが、麟徳年中(664-665)に、その酋長が来朝し、高宗に従って、太山に行った。その後、新羅についた。 開元十一年(723)に、また達末婁・達姤の二部の首領が朝貢して来た。達末婁が言うには、北扶餘の後裔で、その国は高麗に滅ぼされた。その遺民たちが那河を渡って住んでいると。ある人の話では、他漏河が東北へ流れ、黒水(黒竜江)に合流している。 達姤は室韋の一種族である。那河の北方で、凍末河の東方に居住し、西方では黄頭室韋と接し、東北方には達末婁がいる。
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筑紫から新羅に漂流したものが帰国 735年(H0735a) 天平7(735)年、筑紫から新羅に漂流したものが日本に帰国する。 このとき日本に天然痘ウィルスがもたらされたとされる。 参考文献 吉村昭,1988. 雪の花. 新潮社
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@Cnnra_fake 岸谷新羅:@Cnnra_fake 備考:一般向け、全年齢 自己紹介: 闇医者の岸谷新羅だよ。 所謂『手動botもどき』・『なりきり』って奴で、『中の人』ってのが居るからね。 其処の所はヨロシク。じゃあまぁ、仲良くやろう。
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アニメイト特典イラストシート 2010年1月に開催された「デュラララ!!アニメ化フェア」において、『デュラララ!!』文庫1冊につき1枚、成田良悟先生書き下ろし短編小説を掲載したイラストシートが貰えた。 2010年5月1日からは復刻フェアで「デュラララ!!アニメ2クール目突入記念成田良悟キャンペーン」として、成田良悟全作品を対象に文庫1冊につき1枚貰えた。 もともとは1つだけの予定だったのだが、イラストが4種類だということで4編書き下ろしとなった。 新羅&セルティ編 あらすじ:新羅のマンションで、今日のセルティの仕事について語り合うふたり。 登場人物:岸谷新羅、セルティ・ストゥルルソン 臨也&静雄編 あらすじ:相変わらずの喧嘩をするふたりと、それを眺めるワゴン組。 登場人物:折原臨也、平和島静雄、門田京平、狩沢絵理華、遊馬崎ウォーカー 杏里&正臣編 あらすじ:アニメイトで買い物する杏里と正臣と、ふたりに声をかける狩沢。 登場人物:園原杏里、紀田正臣、狩沢絵理華、平和島静雄 帝人&杏里編 あらすじ:アニメイトで買い物する帝人と杏里と、ふたりに声をかける遊馬崎。 登場人物:竜ヶ峰帝人、園原杏里、遊馬崎ウォーカー、セルティ・ストゥルルソン - 名前 コメント
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覚一本『平家物語』巻第七「願書」の段に、記紀には見えない奇瑞の記事が載る。 曰く、神功皇后新羅攻めの際、皇后が祈誓すると霊鳩三羽が飛び来て、盾の面にあらわれ、 その加護により新羅に勝利したという。 参考文献 『平家物語(七)』 平家物語(七) (講談社学術文庫)
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男性声優・ハ行 所属:アクセルワン 2003年 ヤミと帽子と本の旅人(アーヤ、ナレーション) 2006年 コードギアス 反逆のルルーシュ(ルルーシュ) 2008年 ヴァンパイア騎士(藍堂英) コードギアス 反逆のルルーシュR2(ルルーシュ) ヴァンパイア騎士 Guilty(藍堂英) 黒執事(グレル) 2009年 アキカン!(大地カケル) 咲-Saki-(須賀京太郎) シャングリ・ラ(今木紫音) 花咲ける青少年(カール) 2010年 デュラララ!!(岸谷新羅) WORKING!!(小鳥遊宗太) 黒執事Ⅱ(グレル) 2011年 WORKING !!(小鳥遊宗太) 2012年 アルカナ・ファミリア -La storia della Arcana Famiglia-(リベルタ) 人類は衰退しました(助手さん) 夏雪ランデブー(島尾篤) イクシオン サーガ DT(マリアンデール) K(八田美咲) 2013年 まおゆう魔王勇者(勇者) 2015年 デュラララ!!×2 承(岸谷新羅) デュラララ!!×2 転(岸谷新羅) WORKING!!!(小鳥遊宗太) K RETURN OF KINGS(八田美咲) 2015年 おそ松さん(松野一松) 2016年 おそ松さん おうまでこばなし(松野一松) ジョーカー・ゲーム(実井) 坂本ですが?(チョン・チョリソー) ユーリ!!! on ICE(西郡豪)
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デュラララ!! vol.10 限定版特典 デュラララ!! みんなはなかよし 11月 DVD vol.9 ・ DVD vol.10 ・ DVD vol.11 デュラララ!! vol.10 第十八話・第十九話を収録。 発売日:2010年11月24日 完全生産限定版 ANZB-9539~40/税込価格:6,300円 通常版 ANSB-9539/税込価格:5,040円 発売:アニプレックス 限定版特典 キャスト&スタッフによるオーディオコメンタリー<中村悠一×福圓美里×高木 渉×原作者:成田良悟> 成田良悟書き下ろし外伝小説vol.10 カバーソングコレクションCD「DIAMONDS」<岸谷新羅> キャラクタープロフィールカード<狩沢絵理華> カラーブックレット:杏里のアパート、新羅のマンション デュラララ!! みんなはなかよし 11月 27ページ 表紙絵:張間美香 あらすじ:来良学園の文化祭を楽しむ帝人たち。アイドル・夢乃坂アヤメのライブを観に行くが、静雄に追われた男が乱入してきて・・・。 登場人物:紀田正臣、竜ヶ峰帝人、矢霧誠二、張間美香、夢乃坂アヤメ、岸谷新羅、セルティ・ストゥルルソン、平和島静雄、田中トム、北駒正二郎、黒沼青葉、(弓河先輩、黄根先輩、獅子崎一) - 名前 コメント
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出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 稲飯命(いなひのみこと) 稲氷命 彦稲氷命は日本神話に登場する日本の皇族。 『日本書紀』では稻飯命。『古事記』では、稻氷命、彦稲氷命。 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)と海神の娘である玉依姫の二番目の子(第三子とも)。兄に五瀬命、弟に御毛沼命、若御毛沼命(磐余彦尊)がいる。磐余彦尊が後に神武天皇になる。 『古事記』では、稲氷命は妣國である海原へ入坐とし、『日本書紀』では稲飯命は神武東征に従うが、熊野に進んで行くときに暴風に遭い、我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか(「嗟乎 吾祖則天神 母則海神 如何厄我於陸 復厄我於海乎」)と行って、剣を抜いて海に入り、鋤持(サヒモチ)の神になったとする。鋤持とは鰐(ワニ)、鯱(シャチ)のことと言う。『古事記』にある山幸彦と海幸彦の神話に、海神宮から葦原中国に帰る火遠理命(ホオリ 山佐知毘古(山幸彦))を送った一尋和邇(一尋鰐)が、その御礼に、火遠理命が身に付けていた紐小刀を鰐魚の首につけてもらったので、この一尋和邇を、今謂う佐比持神(さひもちのかみ)とある。つまり、鰐となって母の国海神の国へ行ったということであろう。玉依姫の姉、伯母のトヨタマビメの正体は、八尋和邇であった。『古事記』と『日本書紀』の話は対応している。 また『新撰姓氏録』右京皇別下新良貴条は、「是出於新良国 即為国主 稲飯命出於新羅国王者組合」とあり稲飯命は新羅王の祖であるとする異説を載せている(朝鮮の歴史書『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀では、「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」とあり新羅の4代目の王にして昔氏王統の初代である脱解尼師今は倭国の東北千里にある本多婆那國の出であるとされており、関連性が見られる)。