約 1,388 件
https://w.atwiki.jp/nomu_novelibrary/pages/52.html
「では問おう。どういう死に方を望む?」 「もう勘弁してくだs ガハッ!!!」 廃工場で二人の男の会話。一人のロングコートを着た男は、もう一人のチンピラ風の男の胸ぐらを掴み上げている。 見た目的には20代であろうか。細身で長身と言われれば長身。しかし、胸ぐらを掴んで人を持ち上げるという一般的な考えでは珍しいような事から、細身とは思えない力を持ってるようである もう数十回は殴られているようで、チンピラ風の男の顔はアザだらけであった。 周りは無残にもチンピラ男の仲間と思われる者達が転がっているのみだった。死んだようにピクリとも動かない 「刺殺 銃殺 斬殺 撲殺 圧殺 焼殺 毒殺 惨殺 完殺…数ある素晴らしき死の中から殺され方を選ぶ権利を与えよう。」 「ほんと…許して…」 「ははっ」 彼は結局、近くに転がってたパイプで殴打してチンピラを気絶させた もしかしたら死んでいるかもしれなかったのだが、彼ーー北条新羅(ホウジョウ ニイラ)にとってはそんな事どうでもよかった 「相変わらず痛い事やってんな」 「ああ‥頼まれた依頼はちゃんとこなしときましたよ、蝶さん」 蝶さんと呼ばれる男は頭を掻きながら言葉をさらに続ける 「死が素晴らしいだとか、そのくせ人間は面白いだとか、なんだとか、お前の美学には少々、変なのを感じるぜ、シンラ。痛々しい」 「新羅(にいら)です。良い加減ちゃんと呼んで下さい」 「別に良いじゃねぇかwww新羅をにいらって呼ぶなんて普通は変だと思うぜ?w」 「殺しますよ」 新羅は、仕込んであるナイフをわざとらしく見せびらかしながら呟く。 「ま、とにかく今日の仕事はこれで終わりだ。帰るぞ」 「へいへい」 新羅と蝶さんと呼ばれる男は、車に乗り込み、夜の街へと去って行った
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/111.html
トップページ>韓国>韓国史研究 『韓国史研究』40、1983.3 論文 崔在錫「新羅王室の婚姻姓」 田寿炳「朝鮮太宗代の貨幣政策楮貨流通を中心に」 崔孝軾「御営庁研究」 金淑子「旧韓末(1896-1910)民権運動についての一考察」 『韓国史研究』39、1982.12 論文 辛鍾遠「慈蔵の仏教思想についての再検討:新羅仏教初期の戒律の意義」 金東洙「新羅憲徳・興徳王代の改革政治:特に興徳王九年に頒布された諸規定の政治的背景について」 尹煕勉「新羅下代の城主・将軍:真宝城主洪術と載岩城将軍善弼を中心に」 李載浩「「乙支文徳」と「木綿」の異論に関する一考察」 金正起「朝鮮政府のドイツ借款導入(1883-1894)」 孫禎睦「開港期の都市人口規模」 『韓国史研究』38、1982.9 論文 金相鉉「『三国遺事』の刊行と流通」 高翊晋「『三国遺事』撰述攷」 조동일「『三国遺事』説話研究史とその問題点」 南豊鉉「『三国遺事』の国語学的研究の回顧と展望」 金都鍊「『三国遺事』国訳上の諸問題:諸事例を中心に」 盧泰敦「三韓についての認識の変遷」 書評 徐大錫「金烈圭、申東旭 篇『三國遺事와 문예적 가치해명』새문사、1982年」 河炫綱「申瀅植『三国史記研究』一潮閣、1981年」 『韓国史研究』37、1982.6 論文 朴龍雲「高麗時代蔭敍制の実際とその機能(下)」 金泰永「科田法の成立とその性格」 李均永「新幹会の創立について」 評説 金世潤「新羅下代の渡唐留学生について」 『韓国史研究』36、1982.3 論文 朴龍雲「高麗時代蔭敍制の実際とその機能(上)」 蔡尚植「浄土寺址法鏡大師碑陰記の分析:高麗初地方社会と禅門の構造と関連して」 朴宗基「14-15世紀越境地についての再検討」 柳承宙「朝鮮後期金銀銅鉱業の物主制研究」 書評 鄭求福「韓永愚『韓国前期史学史研究』ソウル大出版部、1981年」 『韓国史研究』35、1981.12 論文 崔夢龍「全南地方支石墓社会と階級の発生」 許興植「高麗中期華厳宗派の継承:元景王師を中心に」 崔在錫「高麗朝における土地の子女均分相続」 金泰永「科田法体制下の土地生産力と量田」 崔惠珠「滄江金澤栄研究」 評説 이융조「韓国旧石器文化の理解についての諸問題」 『韓国史研究』34、1981.9 論文 金相鉉「萬波息笛説話の形成と意義」 崔完基「高麗朝の税穀運送」 張叔卿「高麗武人政権下文士の動態と性格」 張東翼「惠諶の大禅師告身についての検討:高麗僧政体系の理解を中心に」 丁原鈺「在満正義府の抗日独立運動」 『韓国史研究』33、1981.6 論文 盧明鎬「高麗の五服親と親族関係の法制」 朴宗基「13世紀初の村落と部曲」 홍성찬「韓末・日帝下の地主制研究 :江華洪氏家の秋収記と長冊分析を中心に」 調査報告 宋基豪「渤海史関係論著目録」 書評 최무장「이융조『한국선사문화의 연구』평민사、1980年」 金杜珍「李基東『新羅 骨品制社會와 花郞徒』韓国研究院、1980年」 『韓国史研究』32、1981.3 論文 崔秉鉉「古新羅積石木木槨墳研究(下):墓型とその性格を中心に」 韓忠煕「朝鮮初期議政府研究(下)」 林炳勲「朝鮮後期鉱業経営の発展:金・銀鉱業を中心に」 『韓国史研究』31、1980.12 論文 崔秉鉉「古新羅積石木木槨墳研究(上):墓型とその性格を中心に」 李惠玉「高麗時代貢賦制の一研究」 韓忠煕「朝鮮初期議政府研究(上)」 『韓国史研究』30、1980.9 論文 兼若逸之「新羅『均田成冊』から推定される平均寿命」 金光洙「高麗時代の権務職」 崔炳憲「高麗時代華厳学の変遷:均如派と義天派の対立を中心に」 金淑子「独立協会の教育思想:独立新聞の教育論説分析」 裵英淳「韓末司宮庄土における導掌の存在形態」 朴賢洙「日帝の侵略のための社会・文化調査活動」 李載龒「李成茂『朝鮮初期両班研究』一潮閣、1980年」 李龍範「全海宗『東夷傳의 文獻的 硏究』一潮閣、1980年」 『韓国史研究』29、1980.6 論文 閔徳植「鎮川大母山城の分析的研究」 尹龍爀「蒙古の二次侵寇と処仁城勝捿:特に広州民と処仁部曲民の抗戦に注目して」 李栄薫「朝鮮後期八結作夫制についての研究」 『韓国史研究』28、1980.3 論文 이융조「大清ダム水没地域の旧石器遺物:「製作」と使用の復元解釈を中心に」 姜仁求「達城辰泉洞の支石墓:複式石棺と屈身葬の新例」 李景植「朝鮮前期職田制の運営とその変動」 孫禎睦「開港期の漢城内外国人居留経緯」 書評 李景植「趙東杰『日帝下韓国農民運動史』한길사、1979年」 金敬泰「朴永錫『万宝山事件研究』亜細亜文化社、1978年」 『韓国史研究』27、1979.12 論文 朴性鳳「広開土好太王期高句麗南進の性格」 兼若逸之「新羅『均田成冊』における烟人動態復元の試み」 許興植「高麗の科挙と門蔭制度との比較」 柳承宙「朝鮮前期の金銀鉱業研究」 『韓国史研究』26、1979.10 論文 金貞培「三韓社会の「国」の解釈問題」 임세권「溟州郡下詩洞周辺遺蹟の性格」 蔡尚植「普覚国尊一然についての研究:迦智山門の登場と関連して」 李秉烋「朝鮮初期嶺南・畿湖士林の接触とその推移:士林派の性分と関連して」 崔鍾庫「韓末『京郷新聞』の法律啓蒙運動」 『韓国史研究』25、1979.8 論文 李鍾旭「斯盧国の成長と辰韓」 李泰鎮「新羅統一期の村落支配と孔烟」 裵英淳「韓末駅屯土調査における所有権紛争:光武査検期の紛争事例についての分析を中心に」 金度亨「毅菴柳麟錫の政治思想研究」 『韓国史研究』24、1979.5 論文 金英夏「磨製石剣の祖型に関して」 千寬宇「目支国考」 李景植「16世紀屯田経営の変動」 金正起「兵船章程の強行(1888.2)について」 朴永錫「日帝下在満韓国流移民村落の形成に関する研究:蔚珍慶州李氏一家の移住事例」 『韓国史研究』23、1979.2 論文 朱甫暾「新羅中古の地方統治組織について」 金毅圭「新羅母系制社会説についての検討:新羅親族研究(其一)」 兼若逸之「新羅『均田成冊』の研究:いわゆる民政(村落)文書の分析を中心に」 金光洙「羅末麗初の豪族と官班」 『韓国史研究』21・22、1978.9 論文 盧泰敦「羅代の門客」 朴龍雲「高麗前期文班と武班の身分問題:高麗貴族家門研究(3)」 李景植「朝鮮初期屯田の設置と経営」 鄭求福「『東国通鑑』についての史学史的考察」 金龍徳「郷庁沿革考」 李鎬徹「日帝侵略下の農業経済を形成した歴史的背景に関する研究(下):農民の社会的存在形態を中心に」 1-20 21-40 41-60 61-80 81-100 101-120 121-140 141-160 161-180
https://w.atwiki.jp/kyogokurowa/pages/91.html
「戻ったか。」 一足先にロビーへと戻っていたブチャラティと九郎は、戻って来たアリアと新羅を一瞥してそう言った。 「まったく…………疲れたわ。」 「?」 探索中、新羅が愛している首なしライダーのセルティの話を延々と聞かされ続けていたアリアのゲッソリした表情に九郎は首をかしげる。 「ああ。見つけられたのはこれと…………これだ。」 新羅が机に置いたのは、【北宇治高等学校職員室の鍵】と書かれたタグが付いた鍵と、【サーバーアクセスキー】と書かれたテープの張られたカードキーだ。 「…………鍵しかないのかここは…………。」 「という事は、貴方達も【鍵】を見つけたの?」 ブチャラティの呟きにアリアが反応する。 「ああ。これをな。」 【スパリゾート高千穂男性ロッカー№53の鍵】を見せる。 「…………本当に鍵しかないんだね。」 これには新羅も苦笑いだ。 「探索すれば他にもいろいろありそうだが、行けない場所も多いな。今日の探索はここまでか。」 「そうそうブチャラティ…………。」 「どうした?アリア。」 ため息を付いたブチャラティに、アリアが声をかけた。 「肝心の工具なんだけど…………ごめんなさい。みつからなかったわ。」 「…………そうか。だが、お前の責任じゃないさ。それに、こんなものも手に入ったしな。」 そう言い、【サーバーアクセスキー】を見せる。 「それって。」 「地図にあった早乙女研究所。そこのサーバーへのアクセスキーが使えれば、首輪を解析できるかもしれない。」 「確かに!!これを使えば首輪が…………と、そう簡単に行くわけないよね…………。」 ポン!!と手を叩いて顔を明るくする新羅だったが、自分で言っているうちに気が付いて萎む。 「…………考えてみれば。これ、主催者側が用意したアイテムよね…………。」 「そもそも、何のサーバーへのアクセスキーか(・・・・・・・・・・・・・・・)書かれてないですね。研究所のアクセスキーじゃないのかもしれません。」 思案するアリアに、九郎も口を挟む。 「…………確かにな。ただ、そうへこむのもよくないぞ。気をしっかり持つことだ。」 段々と悪い方の考えしか浮かばなくなってくる彼らを、励まそうとするブチャラティ。 ちょうどその時、第一回目の放送がブチャラティ達の耳に届いた。 「(よかった。ジョルノはまだやられていないな。リストに居た気になるメンバーも顕在か。それに、ジオルド・スティアート…………だったか?奴も。考えることは多いな。…………・待てよ?今呼ばれた名前は…………)」 そう思案して警戒を強めるブチャラティ。 「(私の知り合いに犠牲者は無し。その事にひとまずは喜ぶべきなんだろうけれど…………もう13人も犠牲者が…………一刻も早く黒幕を捕まえないと。ん?待って、さっきの名前…………)」 覚悟をたぎらせるアリア。 「(ふぅ。セルティは無事みたいだ。ついでに静雄と折原君も)」 セルティ以外眼中にない安定と信頼の新羅。しかし、九郎の顔色のみ、芳しくなかった。いつも冷静だった彼の顔が驚愕の色に染まっているのだ。 「?どうしたの?九郎。…………さっきの名前、やっぱり!!」 アリアも、一つの仮説に辿り着く。 「…………今、名前のあった…………【弓原紗季】さん…………僕の、元交際相手です。」 「「「!!」」」 その言葉が三人を驚愕で包んだ。 「…………そう…………だったか。」 「ごめんなさい。なんて言ったらいいのか…………。」 「…………。」 三人が三人、それぞれの反応をする。 「いや、いいんです。こういう場所だから…………。」 「…………そうだな。」 彼のセリフに賛同したのは、ブチャラティだ。 「だが、俺達は生きている。」 「…………え?」 ブチャラティの言葉に、彼は顔を上げる。 「俺達は生き残った。だったら、失った物ばかりに目を向けていても仕方がない。死んで行った者達の為にも。俺達は進まなければ。」 「…………そう…………ですよね。」 溜まった物を吐き出すように息を付いて、九郎は立ち上がる。 「さて、九郎君が立ち直ったところで、今後の方針を立てないかい?」 と、新羅が提案する。 「そうだな。いつまでもここにいる訳にはいかない。首輪の解析も難しそうだしな。」 「まぁ、それもそうね。」 「僕も異論はありません。」 三人が賛成することによって、会議が始まった。 「どこか候補はあるか?」 机に地図を広げ、ブチャラティがそう切り出す。 「そうだね。僕としては、【池袋駅】に向かいたいところだ。そこにセルティがいるはずなんだ。」 「首なしライダーのセルティ、ね。まぁ、戦力は一人でも多いほうがいいわ。」 「岸谷先生の話が事実なら、戦力としては信頼できますよね。」 新羅の意見に、アリアと九郎が賛同する。 「そうだな。だが問題は、」 「電車で行っても、行けるのは【スパリゾート高千穂】までしか行けないことね。そこからは徒歩。まぁ、直行すれば、今日中にはたどり着けそうね。」 「ああ。よりたい場所もあるが、それより先に、仲間との合流を急ぐべきだろうな。」 「…………よし方針決定ですね。」 九郎の一言を皮切りに、方針が決定した。 「よし。午前十時までは、休養を取ろう。休めるときに休んでおかないと体力が持たないし、列車内で襲われない保証は何処にもない。」 そう言うブチャラティの脳裏には、かつて列車内で激闘を繰り広げた暗殺者(ヒットマン)チームのメンバー、プロシュートとペッシのコンビを思い出す。どちらも彼が殺したが、実に手ごわい相手だった。 「そうね。休みましょう。適当に一室選んで休ませてもらうわ。なんか疲れちゃって。」 「僕もそうするよ。九郎君はどうだい?」 「…………ん?ああ。そうですね。僕もゆっくりさせてもらいます。」 そう言う彼の脳裏には、紗季の姿が浮かんでいた。 「(紗季さん…………。)」 桜川九郎は歩きだす。思いを彼女に手向けるように。 【F-3/ホテルロビー/朝/一日目】 【神崎・H・アリア@緋弾のアリアAA】 [状態]:疲労(中) [服装]:武偵高の制服 [装備]:竜馬の武器だらけマント@新ゲッターロボ [道具]:不明支給品0~2、キースの支給品(不明支給品0~2)、カタリナの布団@乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった… 北宇治高等学校職員室の鍵 [思考] 基本:武偵としてこの事件を解決する。 0:午前10時まで、休養 1:休養を終えた後、池袋駅を目指してセルティと合流する。 2:あかり、高千穂、志乃、ジョルノ、カナメ、シュカ、レイン、キースの知り合いを探す。 3:佐々木志乃が気がかり……何やってんのよ……。 [備考] ※ 参戦時期は少なくとも高千穂リゾート経験後です。 ※ 九郎、新羅と知り合いの情報を交換しました。 ※ 画面越しの志乃のあかりちゃん行為を確認しました。 ※ 新羅から罪歌についての概要を知りました。 【岸谷新羅@デュラララ!!】 [状態]:健康 [服装]:白衣 [装備]:まほうのたて@ドラゴンクエストビルダーズ2 [道具]:基本支給品一色、マスターキー@うたわれるもの 二人の白皇、不明支給品0~1 [思考] 基本:セルティと一緒に帰る 0:電車が来るまで、休養 1:その後、電車と徒歩で池袋駅を目指しセルティを探す 2:桜川君の人体に興味。ちょっと検査してみたい 3:ジオルドを警戒。セルティに害を与えるかもしれないので、野放しにはしたくない [備考] ※ 九郎、ジオルドと知り合いの情報を交換しました。 ※ アリア、ブチャラティと知り合いの情報を交換しました。 ※ 画面越しの志乃のあかりちゃん行為を確認しました。 【ブローノ・ブチャラティ@ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風】 [状態]:疲労(中) [服装]:普段の服装 [装備]: [道具]:不明支給品1~3、キース・クラエスの首輪、スパリゾート高千穂の男性ロッカーNo.53の鍵) サーバーアクセスキー [思考] 基本:殺し合いを止めて主催を倒す。 0:電車が来るまで、休養 1:首輪の解析は後回しにして、新羅の知り合い、セルティとの合流を目指すために池袋駅を目指す。 2:あかり、高千穂、志乃、ジョルノ、カナメ、シュカ、レイン、キースの知り合いを探す。 3:カタリナ・クラエスがどのような人間なのか、興味 [備考] ※ 参戦時期はフーゴと別れた直後。身体は生身に戻っています。 ※ 九郎、新羅と知り合いの情報を交換しました。 ※ 画面越しの志乃のあかりちゃん行為を確認しました。 ※ 新羅から罪歌についての概要を知りました。 【桜川九郎@虚構推理】 [状態]:健康 静かに燃える決意 [服装]:ホテルの部屋着 [装備]: [道具]:基本支給品一色、不明支給品0~3 [思考] 基本:殺し合いからの脱出 1: 一先ずはブチャラティ達と池袋駅を目指す 2: 岩永を探す 3: ジオルドを始めとする人外、異能の参加者を警戒 [備考] ※ 鋼人七瀬編解決後からの参戦となります ※ 新羅、ジオルドと知り合いの情報を交換しました。 ※ アリア、ブチャラティと知り合いの情報を交換しました。 ※ 画面越しの志乃のあかりちゃん行為を確認しました。 ※ 新羅から罪歌についての概要を知りました アイテム解説 【北宇治高等学校職員室の鍵@響け!ユーフォニアム!】 黄前久美子たちが通う北宇治高等学校職員室の鍵。 【サーバーアクセスキー】 何処かのサーバーにアクセスするためのキーどのサーバーにアクセスするための物なのか、そもそも本物なのか、謎が多いカードキー。 前話 次話 人生は選択肢の連続だ 投下順 愛のバクダン 前話 キャラクター 次話 物情騒然 桜川九郎 フレンダちゃんのドキドキ⭐︎生存戦略! 物情騒然 ブローノ・ブチャラティ フレンダちゃんのドキドキ⭐︎生存戦略! 物情騒然 神崎・H・アリア フレンダちゃんのドキドキ⭐︎生存戦略! 物情騒然 岸谷新羅 フレンダちゃんのドキドキ⭐︎生存戦略!
https://w.atwiki.jp/bokuserve/pages/3215.html
【元ネタ】三国史記 【CLASS】ランサー 【マスター】 【真名】階伯 【性別】男性 【身長・体重】179cm・90kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力C 耐久A 敏捷B 魔力D 幸運D 宝具B+ 【クラス別スキル】 対魔力:C 第二節以下の詠唱による魔術を無効化する。 大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。 【固有スキル】 戦闘続行:A 往生際が悪い。 瀕死の傷でも戦闘を可能とし、致命的な傷を受けない限り生き延びる。 殿の矜持:A 撤退戦、防衛戦などで有用な効果を発揮する。 宝具との組み合わせで、対軍宝具すら防ぎきる。 【宝具】 『決死五千・英勇戰死』 ランク:B+ 種別:対軍宝具 レンジ:1~99 最大捕捉:1000 新羅軍を4度に渡って退けた5000の手勢を召喚する。 兵たちは、ただ喚ぶだけでは史に名を残さなかった幻霊の集まりに過ぎず、 英霊の写し身たるサーヴァントの前には容易く蹴散らされてしまう。 しかし、ランサーが「最も大事なもの」と定めたものを破棄することで、 兵たちの霊基が再臨され、一時的に個々がサーヴァント並みの力を得る。 「大事なもの」が特にない場合は、ランサーが戦闘終了後に自害することを 自己強制契約(セルフギアス)することによって霊基再臨が成立される。 【解説】 百済末期の将軍。613年生誕。660年没。 660年、新羅最強の大将軍の金庾信が率いる5万の軍と 唐の猛将の蘇定方が率いる13万の軍が百済に攻め入り、階白は新羅軍を迎え撃った。 しかし階白軍は5千しかおらず、敗北は必至であった。 階白は母国百済が滅ぶことを覚悟し、自分の妻子が奴婢となるよりは ここで死した方がマシと思って自ら妻子を殺した。 そうしてから新羅軍に立ち向かい、手勢の決死隊と共に一騎当千の戦いぶりで 新羅軍を四度に渡り退けたが、最期には力尽き、戦死した。 戦いの中、新羅の若武者の官昌を捕らえた時はその勇敢さを惜しんで 一度は敵軍に送り返すという英雄らしい行いを見せている。 また妻子殺しの件はやむなき判断であり、国に尽くして壮烈に戦った忠義の英雄として讃えられている。 【コメント】 朝鮮版レオニダス。まあレオニダスの方がずっと凄いけど。 宝具は殆ど特攻宝具みたいなもんなので割と高めのランク。 原典では何の武器を使ったとかわからないので適正クラスは特にないのだが、 レオニダスにならってランサーにした。あと、中公新書では槍使いと言うことになっていたし。 まあ武将なんだから剣・槍・騎の適性くらいあるだろう。
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/109.html
トップページ>韓国>韓国史研究 『韓国史研究』60、1988.3 論文 洪潤植「『高麗史』世家篇仏教記事の歴史的意味」 姜世求「姜希顔の『養花小録』に関する一考察」 李銀順「李景奭の政治的生涯と三田渡碑文是非」 李勛相「『安東郷孫事蹟通録』の刊行と朝鮮後期の安東郷吏:朝鮮後期郷吏集団の地域と家系による重層的構造の形成とその意義」 裵亢燮「壬戌民乱前後明火賊の活動とその性格」 『韓国史研究』59、1987.12 論文 辛鍾遠「「道人」使用例を通じて見た南朝仏教と韓日関係:新羅法興王・真興王代仏教を中心に」 韓忠煕「朝鮮初期承政院研究:実際機能と統治機構との関係を中心に」 河元鎬「朝鮮後期度量衡「紊乱」の原因研究」 박환「在満韓国独立党についての一考察」 『韓国史研究』58、1987.10 論文 李根花「高麗成宗代の西京経営と統治組織」 李鍾日「18・19世紀の庶蘖疏通運動について」 韓相禱「金九の韓人軍官学校(1934-35)運営とその入校生:中国内韓国独立運動の系列化過程と関連して」 孫禎睦「朝鮮総督府の神社普及・神社参拝強要政策研究」 『韓国史研究』57、1987.6 論文 金福順「崔致遠の「法蔵和尚伝」検討」 邊太燮「高麗初期の地方制度」 李景植「16世紀場市の成立とその基盤」 崔完基「朝鮮後期地土船の税穀賃運」 『韓国史研究』56、1987.3 論文 李賢惠「韓半島青銅器文化の経済的背景:細形銅剣文化期を中心に」 金俊亨「朝鮮後期蔚山地域の郷吏層変動」 尹慶老「105人事件に連累した商工業者の活動:起訴者中商工業者の業種と活動を中心に」 『韓国史研究』55、1986.12 論文 金光洙「高句麗初期の王位継承問題」 金武鎮「朝鮮中期士族層の動向と郷約の性格」 金東哲「18・19世紀外都庫貢契の成立とその組織」 韓詩俊「趙素昻の歴史意識」 『韓国史研究』54、1986.9 論文 李仁哲「新羅統一期の村落支配と計烟:正倉院所蔵村落文書分析を中心に」 金龍徳「郷規研究」 金淑子「『独立新聞』に現れた女性開化の意志」 金度亨「韓末啓蒙運動の政治論研究」 『韓国史研究』53、1986.6 論文 崔在錫「新羅社会の始祖の概念」 金昌鎬「文武王陵碑に見える新羅人の祖上認識:太祖星漠の添補」 朴翼煥「咸興郷憲・郷規考」 이윤갑「18・19世紀慶北地方の農業変動」 姜萬吉「日帝時代の都市貧民性格:土幕民を中心に」 『韓国史研究』52、1986.3 論文 李晶淑「新羅真平王代の政治的性格:いわゆる専制王権の成立と関連して」 許興植「惠居国師の生涯と行績」 金基徳「高麗朝の王族封爵制」 許東賢「1881年朝鮮朝士日本視察団に関する一研究:「見聞事件類」と『随聞録』を中心に」 盧栄澤「日帝下天道教の農民運動研究(1)」 박환「「韓族総連合会」の結成とその活動」 『韓国史研究』50・51、1985.12 論文 李道学「漢城末熊津時代百済王位継承と王権の性格」 金英美「統一新羅時代阿弥陀信仰の歴史的性格」 権悳永「新羅外位制の成立とその機能」 崔貞煥「高麗中書門下省の禄俸規定:『高麗史』食貨志禄俸条の検討」 河元鎬「開港後防穀令実施の原因に関する研究(下)」 金敬泰「甲申・甲午期の商権回復問題」 慎鏞廈「甲午農民戦争の主権勢力と社会身分」 崔元奎「韓末・日帝下の農業経営に関する研究:海南尹氏家の事例」 李愛淑「日帝下水利組合の設立と運営」 『韓国史研究』49、1985.6 論文 崔源植「新羅下代の海印寺と華厳宗」 黄秉晟「金甫当乱の一性格」 金武鎮「磻渓柳馨遠の郡県制論」 河元鎬「開港後防穀令実施の原因に関する研究(上)」 鄭昌烈「古阜民乱の研究(下)」 孫禎睦「日帝強占期(1911-20年)の都市人口数:相反するふたつの都市人口趨勢とソウルの人口減少」 書評 朴宗基「金龍徳『韓国制度史研究』一潮閣、1983年」 『韓国史研究』48、1985.3 論文 鄭敬淑「新羅時代の「将軍」の成立と変遷」 金甲童「高麗建国期の清州勢力と王建」 姜順吉「忠宣王の塩法改革と塩戸」 李銀順「懷尼是非の論点と名分論」 鄭昌烈「古阜民乱の研究(上)」 朴永錫「日帝下在満韓国人キリスト教徒の抗日民族独立運動:1910年代の西間島地域を中心に」 金喜坤「同済社の結成と活動」 『韓国史研究』47、1984.12 論文 韓圭哲「高麗来投・来住契丹人:渤海遺民と関連して」 李存煕「朝鮮王朝の留守府経営」 崔孝軾「草廬李惟泰の軍事改革思想」 金正起「甲午更張期日本の対朝鮮経済政策:日本の借款政策を中心に」 盧景彩「日帝下独立運動政党の性格:民族革命党と韓国国民党を中心に」 劉準基「真菴李炳憲の儒教改革論」 『韓国史研究』46、1984.9 論文 박희현「韓国の支石墓文化についての一考察:その上限年代を中心に」 金秉柱「羅済同盟に関する研究」 邊太燮「『高麗史』『高麗史節要』の纂修凡例」 鄭容淑「『高麗史』刑法志奴婢項の検討:撰者の対奴婢観と関連して」 金東冕「翰西南宮檍の歴史観」 池秀傑「1932-35年間の朝鮮農村振興運動:植民地「体制維持政策」としての機能に関して」 書評 金貞培「申瀅植『韓國古代史의 新硏究』一潮閣、1984年」 『韓国史研究』45、1984.6 論文 李道学「漢城末熊津時代百済王系の検討」 秦星圭「林椿の生涯と現実認識」 羅愛子「李容翊の貨幣改革論と日本第一銀行券」 孫禎睦「会社令研究」 姜薫徳「日帝下国内小作争議と海外移住農民:日本・満州地域を中心に」 評説 高明士「台湾所蔵の高句麗好太王碑拓本」(中) 書評 趙恒来「金玉姫『韓国天主教女性史』韓国人文科学院、1983年」 『韓国史研究』44、1984.3 論文 崔在錫「高麗時代父母田の子女均分相続再論」 朴恩卿「高麗後期地方品官勢力に関する研究」 卓奉心「『東明王篇』に現れた李奎報の歴史認識」 鄭在貞「京釜鉄道の敷設に現れた日本の韓国侵略政策の性格」 李喜桓「尹致昊の開化思想:彼のキリスト教信仰と関連して」 『韓国史研究』43、1983.12 論文 申瀅植「三国時代戦争の政治的意味:『三国史記』戦争記録の総合的検討」 姜声媛「新羅時代叛逆の歴史的性格:『三国史記』を中心に」 崔光植「新羅の神宮設置についての新考察」 李泳鎬「新羅中代王室寺院の官寺的機能」 金昌鎬「永川菁堤碑貞元十四年銘の再検討」 韓圭哲「新羅と渤海の政治的交渉過程:南北国の使臣派遣を中心に」 金福順「崔致遠の仏教関係著述についての検討」 『韓国史研究』42、1983.9 論文 이융조「昌原周峯(두루봉)第2洞窟旧石器社会復元に関する一研究:動物像の化石数を中心に」 朴賛洙「高麗時代の郷校」 趙湲来「興徳南塘倡義と蔡氏一門の義兵運動」 趙東杰「大韓光復会研究」 盧栄澤「日帝下農民の契と組合運動研究」 『韓国史研究』41、1983.6 論文 尹乃鉉「箕子新考」 金周成「新羅下代の地方官司と村主」 李羲権「高麗の財産相続形態に関する一考察」 金度亨「大韓帝国の改革事業と農民層の動向」 書評 趙恒来「李炫煕『大韓民国臨時政府史』集文堂、1982年」 1-20 21-40 41-60 61-80 81-100 101-120 121-140 141-160 161-180
https://w.atwiki.jp/ethnographic/pages/24.html
未分類 新撰姓氏録によると、諸蕃のうち、大半が百済で、高句麗・任那、漢呉と続き新羅は1%程度 最後の古代年号(九州年号)の大長9(712=続日本紀の和銅5)年に、九州王朝滅亡と考えられる。 翌年4月、日向国を分け大隅国を置く。7月、隼賊討つ将軍士卒たち1280余人を授勲。(続日本紀※) ↓ このときは、元明女帝。 68 九州王朝畿内出張所は、九州王朝系の天武に滅ぼされました。 ※この授勲に対応すべき戦闘記事がない(←例によって九州王朝かくし)。前年で九州年号終了が傍証と考える。 古賀達也さんが 古代に真実を求めて第11集(2008)に書いている。(←好き嫌い関係なく読むべし) なお、こののちの熊襲の反乱は、後九州王朝の抵抗と見る。 例えば、大伴旅人の活躍(日本書紀成立720前後) ~ジョーダンないし軽蔑のつもりかも知れぬが、真実に近そうだ 大阪・百済寺跡 百済王氏の邸宅か 大型建物跡が初の出土 http //osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is60411a.htm 壊した後に建立 125 のんびりひまじん [nagoya19nn@yahoo.co,jp] 2008/11/03(月) 13 30 09 ID Be 118 121 122 で(奇妙な仮説として)言うところは; ○百済王=日本天皇 ↑ ↓ 124 の資料の言うところは; ○百済王=日本の高級官僚 唐年号(を新羅が使った時期の)竜朔3(663)年8月、白村江勝利直後部分の新羅側記録。 (新羅の)大王[文武王]は、倭人に語って、 「考えてみると、われわれとお前の国とは、海をへだてて境界を分かち、いまだかつて交戦した ことがなかった。ただ、交誼を結び、和を講じて、訪問し交通してきた。それにもかかわらず、 どうして今、百済と悪事をともにして、わが国を欺こうとするのか。今、お前の兵士は、わが掌中に ある。これを殺すのに忍びない。お前は、国に帰ってお前の王に報告せよ。」と、言った。(そして) その思うままにさせた。(王は)軍隊を分けて(残る百済の)諸城を攻撃し、降伏させた。 ~三国史記 列伝 金ユ信 (岩波文庫 佐伯有清編訳 〔88〕P123) 日本列島と新羅の関係は上記のごとくであった(その後以上の双方の関係はこの基本路線・・・重要!)。 118 128 ←なんぞの妄想しているのでないかい? 注)わざわざ、ここまで引用したのは、ここに掲げる文武王のことばとして示される、 新羅の重臣:金ユ信の偉大な構想(=日本と朝鮮との相互不可侵)を伝えたかったから。 金ユ信こそは、(近代日本の伊藤博文と山県有朋を兼ね備えたほどの)古代極東の偉大な英雄! その後の1300年以上、現代に至る 日本列島と朝鮮半島との政治上の関係が、この 白村江の戦後処理で決まった。←金ユ信の構想 朝鮮式古代山城一覧 http //www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/yamziro.html 講談社学術文庫 古代朝鮮(井上秀雄)くらい読みなさい。三国史記のダイジェスト説明だ。 その当時の朝鮮半島事情を理解するためには、中央の貴族集団ばかり見ていてはダメと書いている。 660年、百済滅亡といっても、首都の王族を含む貴族(の私兵)たちが負けただけ。 地方の在地豪族たち(=遺臣)が、百済から新羅に乗り換えて、唐に対抗した。 663年、白村江で百済遺臣援助(さらに高句麗にも野心)の倭軍(と言っても貴族の私兵)大敗 668年、高句麗滅亡といっても、首都の王族を含む貴族(の私兵)たちが負けただけ。 地方の在地豪族たち(=遺臣)が、高句麗から新羅に乗り換えて、唐に対抗した。 百済や高句麗の在地豪族たちの、抵抗拠点となったのが、現在でも半島に百以上残る、山城。 倭国の場合、この建設が遅れたようだ。←608年使者が来た隋の記録は「城郭なし」(隋書 イ妥国伝) あわてて建設始めたらしいのが、斉明2(656)年の記事、狂心の溝、多武の峰 (日本書紀) 670年以降、唐 VS 新羅 戦争。 109 112 も参考。 668(天智7)年9月、新羅からの使者に金ユ信あてに船一艘(分のプレゼント)を 中臣鎌足が委託とある。 金ユ信と鎌足は、 129 の相互不可侵の精神で一致したと考える。※ ※三国史記 新羅本紀では、このとき、高句麗ピョンヤン落城寸前なのだが、若い文武王が指揮、 老人の金ユ信は新羅の首都(慶州)で留守を守った(なんと日本書紀と対応)。日本列島へ状況を伝えて、 (高句麗戦後の新羅は、唐と対立見込みにつき)協力 ないし せめて中立を依頼しておかしくない。 このために5年前、恩を売った(=日本列島の兵を捕虜としなかった。) (まとめ) 日本列島に残っている朝鮮式山城は白村江以前に建設された。 文献の筑紫都督府なるものは機能しなかった。唐と新羅は戦争する。日本列島に手出しどころでない。 新羅と日本列島の政府はその後も相互交通を続けた。唐は結局677年朝鮮半島から撤退。 670年代、唐VS新羅 の戦争は、派手なことはない。新羅の中央貴族の私兵は何度も負ける。 それでいながら全体として新羅は勝ってゆく。 歴史は、中央貴族たちが書くので、記録されることのない地方の在地豪族の活躍であろうと井上秀雄さんは書く。 なお、古田武彦さんは白村江のとき、近畿の天智は、母・斉明の死を口実に九州王朝を裏切って 動員した兵を朝鮮へ送らなかったと書く。そうだとしたら、日本列島には残存兵力があったので、 占領されるなどは考えられないはずなのだが、今度は占領されたなどと言い出す。 (マッカーサー世代の人らしい恐外国軍病から抜け出せない。) (この異常さを見なされ!) 531年、安蔵王死。<梁書に526年死とあるのは誤りである。>(三国史記 高句麗本紀) ↑ 531(辛亥)年、高麗その王安を殺す、また 日本天皇太子皇子ともに死。(日本書紀に引用の百済本紀) ↓ こういう外国の記録があるので、(おそらく日本国内の)別の書物では、534年とあるが、531年に継体は死んだことにする。(日本書紀⑰ 継体紀) ↑ (有名な3年のズレ:2年の空位) ↓ 534年、継体天皇が死んで、即日、安閑天皇が即位。(日本書紀⑱ 安閑紀) 日本書紀の記事の異常のはなはだしさを、高句麗の記録ぶりと比較認識すべし。 140 日本書紀の記事の異常さを認識できますか? 成立年は 梁書 629年 日本書紀 720年 三国史記1145年 (異常さ認識のため、もう一例) 545年、安原王死。<梁書に548年死とあるのは誤りである。>(三国史記 高句麗本紀) ↑ 545(欽明6)年、高麗大乱、国香岡上の王死。546(欽明7)年、高麗大乱、およそ戦いて死ぬる者二千余。(日本書紀 欽明紀) 外国(高句麗)の対外極秘事項を知っていることを暴露している。 現代のきむじょんいる戦国時代の武田信玄など生死安否の情報が極秘となることがある。 他国の極秘事項を知っていることまでもが極秘のはず。(上記で中国側に誤伝したことも極秘を示す) その一方で 自分の国の天皇の死を変てこな年代記事にしている。 140 6世紀時代の自国の一番基本のこと(天皇の生死年)ですら、 かくし事をしていることミエミエの日本書紀。 このような異常な書物・日本書紀には、五王の倭、卑弥呼壱與の邪馬台国、金印の倭奴国もすべて 真実を隠したと読めないのかい? 日本書紀:不思議な隠し方です。 おんな であることは おんな じですが 卑弥呼(独身)・壱與(独・婦不詳)の二人 と 神功(亭主持ち)一人 が同じ年代と言うだけ。 ↓ 別国の別人と読めなかったらどうかしてる。→本居宣長のクマソ女酋説も(差別語を抜けば)説得性あり。 (稲荷山鉄剣という金石文) 杖刀・・・・三国志 蜀志 張飛伝 に 張飛杖刀して立つ とあるそうです。 佐治・・・・魏志倭人伝にあり。 ↓ 辛亥(471)の年、関東にまで 陳寿の三国志 が知られていたこと明白。(古代人を見くびるなかれ) ↓ さては 90 裏切り集団共謀のウソ歴史書・日本書紀。有名な卑弥呼壱與の邪馬台国は神功同時代と示しつつ、 真相知ったうえで、とぼけて隠したに相違ない。(一方で 高句麗機密に暴露能力 140 141 ) ~日本書紀の中途半端な隠し事ぶりと執筆者たちの能力をテーマしたいところ・・・ 隅田八幡鏡銘文の作者が明確に書かず、日十大王(=武烈天皇)と など、他で聞いたこともないような大王名になってるのは、天皇が 人間虐待をやってると直接書けば作者が殺されてしまう。そういう 利害があって分からないように真相を書いているわけ。 148 ローガン [] 2008/11/06(木) 16 42 14 ID Be 145 > (稲荷山鉄剣という金石文) > ・杖刀・・・・三国志 蜀志 張飛伝 に 張飛杖刀して立つ とあるそうです。 > ・佐治・・・・魏志倭人伝にあり。 > ↓ > 辛亥(471)の年、関東にまで 陳寿の三国志 が知られていたこと明白。(古代人を見くびるなかれ) 「杖刀立直」蜀志馬超伝裴松之注引用山陽公載記ですね? 裴松之没が451年かな? えらい速く日本の関東迄来たものですな。 こういう年号はどうなんだ?? 賢接とか鏡當とか勝照、瑞政、従貴、煩転とか、こいうのはどこの国 (妻をいも妹と読ぶことを不思議だという不思議) 雄略天皇が皇后(中帯姫の皇女)に 「吾妹(わぎも)・・・」と語りかける。(雄略紀即位前期)ここに、 「妻を称えて妹とするはけだし古の俗か」という注釈が付いている。 (中学生以下という不思議) 親しい男性を背(せ) 親しい女性を妹(いも) って高校一年くらい、古文常識の最初に教わる。 この注釈については、森博達さんが、ここの箇所の分担執筆者が中国人一世で日本語常識を 持たないために書かれたものと解明なさった。(日本書紀の謎を解く) その解明にもかかわらず、不思議に思う。 日本書紀には、 トビトビに 建元(はじめて年号を立てる表現)でなく、改元(既存年号を改める表現)で、改元理由も乏しく 大化 白雉 朱鳥 の三年号が出現する。何も説明なしに廃止される。←これを異常と感じない鈍感ならハンシになりません 続日本紀には、 大宝 年号が建元 として出現(理由も付記・対馬で金)。その後は、改元 表現。(以後 平成に続く) ここで変なことに、聖武天皇は、白鳳 朱雀 の二年号の存在を勅語中に出現。 百済には、武寧王墓の金石文があった。 7世紀に大寺院が林立していた都 ↑ なぜ、7世紀という 遅さ なのか説明する仮説を進呈する。 618(九州年号の倭京元)年、首都・倭京を大宰府に建設 649(九州年号の常色3)年、副都・難波の建設開始※(九州王朝が半分東遷)・・・>のち九州王朝関西派 652(九州年号の白雉元)年、副都完成(記念に改元) 661 に改元:九州年号の白鳳元年(この年・辛酉) ↑ このころ、副都を中心に、九州から続々寺院が移転<・・・これが7世紀の関西に寺院が林立した理由。また、 白鳳年号は23年も続き、白鳳年間の寺院創建伝承は多すぎて消しがたく白鳳文化というコトバだけ残った。 ※この副都建設の詔は、日本書紀 天武12(683・九州年号の白鳳23)年に変形記載されたと考える。 まず金印の漢倭奴国王名がある。これは畿内の国王ではない。これ は57年当時九州に国王がいたということだな。まだ王朝までには 至っていないが、その50年後の帥升もそのへんか将軍クラスか だろう。これも九州だ。帥升当時、畿内には孝昭天皇が統治して るし、九州だな。ついで卑弥呼の女王国。これも推古の世まで畿内 に女王国はない。男王たる天皇ばかりだ。天皇を差し置いて記紀にも 独立して載って卑弥呼のことがか書かれてはいない。つまりこれも 九州だ。そして倭の五王、これも天皇ではないし、九州の将軍級 だということだ。さらに倭人伝にも多数の小国があった記述が あるし、それを掌握したのが女王卑弥呼だということだ。このように 九州には王クラス、準王クラスが当時うんといたわけだ。 なると戦国大名の中から徳川政権が出て270年ばかり朝廷と幕府の 2極での日本の歴史があるように、卑弥呼の時代からも九州に王朝の 始めたる女王国があってその後身が数百年、畿内の朝廷とともに 2極の状態だったということだ。これが正解だぜ。 さらにこれは確定というわけにはまだまだだが、神武以前に九州には ウガヤ朝数十代の記述が古史古伝にもある。これもまた九州だ。 「白鳳以来、朱雀以前」とは聖武天皇のことば(続日本紀 神亀元(724)年10月) 日本書紀 と違って、続日本紀 には天皇のことばにウソや間違いは見当たらぬ。(と先回りして断っておく。) つい4年前 :養老4(720)年に成立した 日本書紀 に、 白鳳 朱雀 という二つの年号がない! 日本書紀の異常さ、不調和乱雑 と何度も繰り返してきたことはこうゆう矛盾をいうのじゃ。 奈良時代の当時の官人たちの歴史書への関心は、自分の氏族の先祖偽装にあった。 下書きとして古事記が作られ、(ひょっとすると回覧して)内容を利害関係者へ 確認して、内容補正した(正式の)日本書紀完成後廃棄するはずだったものが 執筆者:太安万イ呂が持ち帰っておって後に世に出てしまったと思います。 少しの時期差で、先行した古事記が、残ったので日本書紀のウソの解明に役立つ。 古事記・日本書紀ともに、ウソだらけ。(古事記のウソのほうが困った性質) ↓ つくり話(造作)なので、辛酉年に革命的事件があったということにした。 初代神武は辛酉年に即位(ハツクニシラスA)。それから10運600年後は 第10代崇神38年に相当したのでハツクニシラスBらしくなる話を作った。 A=創業;武力で関西(~全国)を制圧 B=守成:文治で全国を教化 ここで、A,Bともに天武が持っている(と造作した)人物像を二人にコピーしたのです。 次の10運600年後は、欽明2年でこの治世中、準革命的事件=任那喪失が欽明23(562)年(これは事実)。 辛酉革命説:辛酉の年に革命が起きるという思想(革命が起きたか検証などしない時代) ↓ 辛酉の年に革命が起きると考えて、それに対応する思想、よって 対応①辛酉の年(を治世した天皇の御世)に革命的事件を造作した。←歴史造作が可能だった 対応②辛酉の年には、改元。 (例題) 欽明13(552)年:仏教伝来受容の対立 ↑ (13年つながりで、①天皇②蘇我③物部:①~③それぞれ親子、難波堀江、百済仏像・・・という共通) ↓ 敏達13~14(584~585)年:仏教伝来受容の対立 崇神10~12(BC88~86)・・・崇神紀に珍しく記事が多い(混んでる) ↑ ↑共通する説話:四人の臣下を各地へ派遣、戸口調査・公平課税、外国使が祝福、百姓平穏・・・ ↑ 天武10~12(681~683) ※上記を見つめての推察:天武紀↑↑↑崇神紀というコピー変形ペーストであろう。よって ハツクニシラスBとは、天武(に造作された)人物像からの変形なのだから、間接的に 天武を指している。 262壬午(神功62)年、任那=加羅王の妹 http //academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1207340005/191- ↑ ↑この間5運=300年(関連記事。変形がある:例えば大伴狭手彦→葛城ソツヒコ) ↑ 562壬午(欽明23)年、新羅が任那の官家を滅ぼす(これは重要事実。が周辺記述少ない) 563癸未(欽明24)年、まったく記事がない(ここで反撃して新羅を降伏させ復旧したい・・・執筆者の空想) ↓ ↓この間、1運=60年・・・よく読むとわかるのだが、空想願望が記事になってゆく ↓ 623癸未(推古31)年、記述したかった60年前の願望が記事に変形。 (兄弟の相続争い・譲り合い) BC50辛未(崇神48)年、兄と弟の相続の説話・・・・前後に記事ない。(何故この年か説明しよう) ↑ ↑この間12運=720年(下の有名な場面に取材した造作) ↑ 671辛未(天智10)年、天智病気、弟の大海皇子に位を譲ろうとする・・・有名な説話 672壬申(天武元)年、有名な壬申の乱 ↓ ↓6運=360年(こちらにも有名場面をヒントにした) ↓ 312壬申(応神41)年、ここでは兄と弟が相続譲り合い説話 ※上記を見つめての推察:天武紀↑↑↑崇神紀というコピー変形ペーストであろう。よって ハツクニシラスBとは、天武(に造作された)人物像からの変形なのだから、間接的に 天武を指しているという論拠の二番目。 (朝鮮半島へ出兵直前に挫折中止) 600庚申(推古8)~603癸亥(推古11)朝鮮半島(任那回復目的)出兵。(新羅降伏までは 241そっくり。) ↑ (再度の遠征のため)兵25000、指揮官来目皇子死。後任当麻皇子の妻死。挫折→遠征中止。 ↑ ↑この間1運=60年(変形 転写 を疑いましょう) ↑ 660庚申(斉明6)~663癸亥(天智2)朝鮮半島(百済回復目的)出兵。←有名な白村江の敗戦(その裏面) 遠征軍27000。伊勢の王死。中大兄の母(斉明)死。→これを口実に遠征取りやめ(備中風土記※) ※日本書紀には記述がないが、遠征中止で助かった人びとの記録。 同一干支60年を隔てて、経過がそっくりの事件があったと記述。 朝鮮半島への出兵(任那 VS百済) 皇子の死 (来目皇子 VS伊勢の王) 皇子親族女性の死(当間皇子妻VS中大兄母) どちらも遠征中止 241 と合わせて、6世紀はじめ推古朝の「任那復興企図」はマボロシとしか見えません。 日本書紀に たった二回だけの記録が ①欽明13年(親の天皇の13年) と ②敏達13年(子の天皇の13年) という13年つながりの同じ年紀に ①では(崇仏)蘇我 VS (廃仏)物部・中臣(双方親) ②でも(崇仏)蘇我 VS (廃仏)物部・中臣(双方子) ①②どちらも百済からの仏像が来て ①②どちらも天皇の命で蘇我が仏教を受容しようとして ①②どちらも諸国に疫病が流行して ①②どちらも物部が仏像を難波の堀江に投げ捨てた。 いくら将棋の記録が似るといっても たった二回だけの記録が、基本的にほとんど同じ棋譜で 246 欽明13年、立会い:欽明天皇、対局者:先手蘇我親VS物部親 →物部親が投げた 248 敏達13年、立会い:敏達天皇、対局者:先手蘇我子VS物部子 →物部子が投げた 454 「法興」は、 兄王の年号 「倭京」系列は、弟王の年号 と九州王朝説者の多くが理解し始めている。 のんびりひまじんさんは、いつも的を得たことを書いているのに、 これは逆だよ。 兄王は夜の王、すなわち伝統的宗教の最高地位にいるものである。 弟王は昼の王、仏法を以て統治する実務政治の最高地位にいるものである。 「法興」は「法を興す」で、弟王にピッタリの年号だ。 法興を兄王の年号とすると、兄王は伝統的宗教と仏法のダブル統治をすることになる。 これは兄弟王の2王政治がなかったことを意味する。 ところが、隋書俀國伝には、夜の兄王(天王)と昼の弟王(日王)の2王が役割分担をしているとあり、隋皇帝は「此太無義理」あると書かれている。 多利思北孤は隋と外交をしているので昼の弟王(日王)である。 私年号でしょう。養老律令第十八儀制令公文条に「皆用年号」と見えますね。 (養老令は大宝律令を継承したものだとして)それ以前のものは使っても使わなくても構わない…つまり私年号というくくりで良いと思います。 延喜式(907年~)については、今のところ読む気もないのだが、ただ一点村上節太郎という人が、 延喜式の諸国貢進果実のうち柑橘類の献上を調べたところ、 相模、駿河、遠江、加賀、若狭、近江、伊勢、山城、大和、摂津、河内、因幡、讃岐、阿波 という14カ国があっただけという。(中島洋 埋もれた古代史 1978 圭文社 P139) 岡山県愛媛県山口県とか九州がまったく出てこないそうだ。 中国・朝鮮から見て倭人伝を編纂するとして、絶対に無視できない場所だろ。 しかも日本でおそらく一番古代の中国系移民が多い。俺は宮崎か大分南部が 怪しいと思ってるんで、阿蘇は邪馬台国ではないと思うけど。このへんが モヤモヤしてわかんねw 701 日本@名無史さん [] 2009/02/14(土) 01 57 34 ID Be >些末な違いはあるとはいえ これが問題なんだな。例えば隋書の「二百余騎」と「飾馬七十五匹」。出迎えの 騎数など普通は記録に残すことではない。隋書が書いているのが珍しければ、同 じく日本書紀が書いているのも珍しい話だ。となれば、これは日本書紀が隋書の 「二百余騎」を見てわざと「七十五匹」と書いたということだな。一見、同じこ とを書いているように見えるが、数を違えることで「実はちがうんだ」と明示し ている。そこを読み取らんとアホだな。 新羅についての記述は次のようになっています。 新羅國,本弁韓之苗裔也。其國在漢時樂浪之地,東及南方倶限大海,西接百濟, 北鄰高麗。東西千里,南北二千里。 南が海というのですから、朝鮮半島の南端まで新羅国であったことはまちがいあ りません。そして、北は高麗、西には百済です。当然のことながら、新羅は縦長 の国です。あなたの読み方では、朝鮮半島の形と合致しないと思いますが? 712 老眼 [] 2009/02/15(日) 23 51 36 ID Be 711 『新羅國,本弁韓之苗裔也。其國在漢時樂浪之地,東及南方倶限大海, 西接百濟,北鄰高麗。東西千里,南北二千里。 』 上記は、隋書からの引用ではありませんね。 上記は、何の文献ら引用されたものでしょうか? 上記は7世紀初頭の半島情勢ではありません。 6世紀までの、強力化期新羅以前、弱小化百濟以前の半島情勢の様に読めます。 532年(新羅金官伽耶占領)以降6世紀中頃までの半島南部情勢を表現しています。 当然のことながら、新羅は縦長の国です。 あなたの勘違いです。 新羅が縦長の国になったのは、新羅が551年ソウルを支配下に入れてからです。 713 532年百濟新羅連合軍がソウルの高句麗を北に押し返し、 新羅がソウル近辺を一時的に支配地としたが、 その後、ソウル近辺は又高句麗の占領地に戻っています。(高句麗対新羅・百濟の紛争地化) この時から百濟東方の半島中央部の山地の東側は新羅の占領地です。 百濟の北が旧百濟領の高句麗占領地(紛争地)、百濟の東の山地の東は新羅領、百濟の南は新羅領。 以上が6世紀初頭の半島南部情勢です。 旧唐書『北鄰高麗 東西千里 南北二千里』は、 紛争地を考慮し、「北接高麗」としないで「北鄰高麗」としていますね。 隋も唐も高句麗と紛争中でしたから、両国はこのソウル近辺の紛争地を楽浪郡とし、 新羅王を楽浪郡公としています。 又、旧唐書東夷伝は、隋書東夷伝の短里表示に対して、長里表示に変っています。 隋代の新羅は、北は漢江流域上流中流部から南は半島西南部まで領土としていたので、 南部を西に張り出した、縦長の領域です。 漢江下流部は、高句麗と新羅の紛争地域になります。 辞書を編纂した先人の学者先生方はそれに気がつかなかったのでしょう。 もしくは、それを指摘すると学者生命上都合が悪かったのでしょうね。 7世紀まで(唐代初期まで)の漢籍では、東西の境線の長さを示し、 8世紀頃以降(唐代後期)の漢籍では、東西の境間の長さを示しています。 唐代に中国語が変わったようです。 済州島は中央に火山がある。南北といったところで、直線に歩けるわけではない。 大きく迂回することになるんだ。出発点とコース、終点の取り方では南北の方が長く 感じたとしても不自然ではないんだよ。 百濟から海行三月の距離を船で済州島に行っていますから、 船で済州島を一周すれば、南北に短く東西に長い楕円の島であると認識できます。 7世紀の初めの史書らしいのですが百済について「東西四百五十里南北九百餘里…」とあると聞いています。 聞くところによると、これが書かれた史書の責任者は、どうも隋書と同じらしいのです。とすれば上記の百済についての記述は貴説に従うと、隋書と同様に… 「国の東と西にある国境線の長さが450里。南と北にある国境線の長さが900余里」と読まなければならない訳ですね。 現実の地形とそぐわないような気がするのですが。単なる気のせいでしょうか…? www 734 日本@名無史さん [] 2009/02/19(木) 11 11 59 ID Be 733 そうです。 百濟は横長で900里×450里(70km×35km)の国です。 隋代には錦江中下流域だけの小国に縮小しています。 魏書東夷伝風に表現すれば方可六百餘里というところでしょうか。 ∵∵∵∵┏━┓∵∵遼東∵┌───┬┬∵∵ ∵∵∵┏┛~┗┓∵∵∵┌┘∵∵∵│↑∵∵ 『 随書の半島世界 』 ∵∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘∵∵∵∵││∵∵∵∵∵┏━┛~~~~~~~~ ∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘○好太王碑││∵∵∵┏━┛~~~~~~~~~~ ┏┛~~┏┛∵∵┏┻┓∵∵∵∵∵││∵∵┏┛~~~~~~~~~~~~ ~~~┏┛∵┏━┛~┗┓高麗∵∵│2000里┛~~~~~~~~~~~~~ ~~~┗━━┛~~~~┃∵∵∵∵││∵┃~~其國東西二千里南北千餘里 ~~~~~~~~~~┏┛∵◎平壌││∵┗┓~都於平壌城~~~~~~~ ~~~~~~~~~~┃∵∵∵∵∵││∵∵┃~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~┣┓∵∵∵∵│↓∵∵┗┓~~~~~~~~~~~~ 『 随書の半島世界 』 ~│┗━┳──┴┴┐∵∵┃~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~├←1000里→┤∵│∵∵┗┓~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~┃楽浪郡∵│∵∵∵┃楽浪郡=高麗新羅紛争地 ~~~~~~~~~~~~┏┛∵∵∵∵│∵∵∵┗┓~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~┃∵旧百濟領│∵∵∵∵┃~~~~~~~~~~ ~~~~~~┬─────┠────┐∵│∵∵∵┃~其國東西四百五十里 ~~~~ 450里~~~百濟┃∵◎居抜│∵│∵∵∵┃~南北九百餘里~~~ ~~~~~~┼─────┠────┼─┘新羅國┃~南接新羅北拒高麗~ 其南海行三月↑~~~~┏╋─900里 ┤∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~ 有[身冉]牟 ~│~~~┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~~ 羅國~~~~│~~┏┛∵∵∵新羅國∵∵┏━┛~~~~~~~~~~~~ ~~~~三月行~~┗┓∵∵∵∵┏━━━┛~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~│~竹島○┓∴┏━┛~~~~~┏┓~~~~~~~~~~~ ~~~~~~│~~~~┗━┛~~~~~~~┃┃都斯麻國~~~~~~~ ~~~~~~↓~~├1000里┤~~~~~~~┗┛~~~~~~~~~~~ ~~~~~~┼──┏━━━┓~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~数百里~┃∵∵∵┃[身冉]牟羅國~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~┴──┗━━━┛~[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里~~~ 735の地図の楽浪郡が、其の文献では高句麗領となっています。 上記地図の百濟領北東部に熊津城(公州)があります。 (居抜城の位置については議論があります) その文献は、百濟の南は海となっていますから、 新羅高句麗戦の時に百濟が新羅に南攻(616年)し南に百濟領を拡大後のことになり、 唐成立直後の頃から百濟滅亡までの半島情勢を述べたものと推測できます。 「東西四百五十里南北九百餘里」の数字は隋書からの引用で、文法は唐代で記述か? 周書です。 その文献は、百濟の南は海となっていますから、 新羅高句麗戦の時に百濟が新羅に南攻(616年)し南に百濟領を拡大後のことになり、 唐成立直後の頃から百濟滅亡までの半島情勢を述べたものと推測できます。 え~と出来たのは、貞観2年(628)だったと記憶してます。(違ったらごめんなさい)百済滅亡は確か餘豊2年…唐高宗の龍朔3年(663) 「東西四百五十里南北九百餘里」の数字は隋書からの引用で、文法は唐代で記述か? 隋書成立の8年前、隋書と同じ総監房玄齢。 その縦長の地形をさして「東西四百五十里南北九百餘里」と隋書とほぼ同時期の史書に書いてあるという事です。 よって隋書倭国伝の「東西五月行南北三月行」も東西距離の行程が五ヶ月で南北は三ヶ月…と普通に読めばいいのです。簡単な事ですね。 743 九州王朝大好き [] 2009/02/20(金) 20 05 57 ID Be 742 結論を急がないで。 「北周書」についてもっと検討しなければなりません。 隋書百濟國伝の「其南海行三月有tam[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里」もありますから。 同一史書の読法に従えば「其境東西五月行南北三月行」も東西距離の行程が三ヶ月で南北は五ヶ月…と普通に読めますよ。簡単な事ですよ。 同一史書間の方が信頼性が高いと思いますが。 ∵∵∵∵┏━┓∵∵遼東∵┌───┬┬∵∵ 『 随書の半島世界 』 ∵∵∵┏┛~┗┓∵∵∵┌┘∵∵∵│↑∵∵ ∵∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘∵∵∵∵││∵∵∵∵∵┏━┛~~~~~~~~ ∵┏┛~~┏┛∵∵┌┘○好太王碑││∵∵∵┏━┛~~~~~~~~~~ ┏┛~~┏┛∵∵┏┻┓∵∵∵∵∵││∵∵┏┛~~~~~~~~~~~~ ~~~┏┛∵┏━┛~┗┓高麗∵∵│2000里┛~~~~~~~~~~~~~ ~~~┗━━┛~~~~┃∵∵∵∵││∵┃~~其國東西二千里南北千餘里 ~~~~~~~~~~┏┛∵◎平壌││∵┗┓~都於平壌城~~~~~~~ ~~~~~~~~~┏┛←1000里→┤↓∵∵┃~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~┠──────┴─┐∵┗┓~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~┗━━┓∵∵∵∵∵│∵∵┃~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~┗┓∵∵∵∵│∵∵┗┓~~~~~~~~~~~ 786 九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y [] 2009/03/20(金) 15 58 12 ID Be 『 随書の半島世界 』 ~~~~┃楽浪郡∵│∵∵∵┃楽浪郡=高麗新羅紛争地 ~~~~~~~~~~~~┏┛∵∵∵∵│∵∵∵┗┓~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~┃(旧百濟領) │∵∵∵∵┃~~~~~~~~~~ ~~~~~~┬─────┠────┐∵│∵∵∵┃~其國東西四百五十里 ~~~~ 450里~~~百濟┃∵◎居抜│∵│∵∵∵┃~南北九百餘里~~~ ~~~~~~┼─────┠────┼─┘新羅國┃~南接新羅北拒高麗~ 其南海行三月↑~~~~┏╋─900里 ┤∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~ 有[身冉]牟 ~│~~~┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏┛~~~~~~~~~~~ 羅國~~~~│~~~┃∵∵∵新羅國∵∵┏━┛~~~~~~~~~~~~ ~~~~~三月行~~┃∵∵∵∵┏━━━┛~~~~~~~~~~~~~~ ~~貊國●~│~竹島┃∴∴┏━┛~~~~~┏┓~~~~~~~~~~~ ~~~●~~│~~●┗━━┛~~~~~~~┃┃都斯麻國~~~~~~~ 貊國●~~~↓~~├1000里┤~~~~~~~┗┛~~~~~~~~~~~ ~~~~~~┼──┏━━━┓~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~数百里~┃∵∵∵┃[身冉]牟羅國=耽牟羅國(発音同一)~~~~ ~~~~~~┴──┗━━━┛~[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里~~~ 日本古代の研究を一番阻害しているのは「日本書紀」ではないでしょうか。私は九州王朝説を信じる者ですが、では近畿の状勢はと言えば九州を上回っていたことは考古学からも歴然としている。 そんな中、九州王朝が東遷できる状況があったとは思えません。日本書紀の信用性が全くなければ頼るのは外国の史書になります。 もう一つ、朝鮮半島の南部に倭国があったこと、邪馬台国は朝鮮半島何から九州北部の海峡国家であったと思われる。諸先生方、自説を通そうと色々のこじつけを卒業して、白紙に帰り議論しましょう。 補足 東夷の7ヶ国の冒頭記事 1.「夫余伝」 省略 2.「高句麗伝」 省略 3.「沃沮(よくそ)伝」 省略 4.「挹婁(ゆうろう)伝」 省略 5.「濊貊(わいはく)伝」 省略 6.「韓伝」 韓は、帯方の南に在り。東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す。 三種有り。 ①馬韓 ②辰韓 ③弁韓 其の瀆廬(とくろ)國、倭と境を接す。 ※茫曄(はんよう)撰の『後漢書』(「韓伝」)には次のように記されている。 韓には、三種有り。1を馬韓と曰い、2を辰韓と曰い、3を弁韓と曰う。 馬韓は、西に在り。54国有り。其の北は楽浪と、南は、倭と接す。 辰韓は、東に在り。十有二国(十二国)有り。その北は、濊貊と接す。 弁韓は、辰韓の南に在り。亦、十有二国。其の南は、亦、倭と接す。 ※なお辰韓の項に 「國、鉄を出す。韓・ 濊・倭、皆従いて之を執る。」 定説では「したがいて」と約されていたが、どうしても意味の通じる文章になっておらず、 疑問視されていた。 漢和辞典を読めば ①したがう ②ほしいまま。きまま。 ③はなつ。ほしいままにさせる。 ④まかせる。ゆるす。 ⑤たて(縦)と同意語 「國、鉄を出す。韓・ 濊・倭、皆ほしいままに之を執る」倭は狗邪韓国にて製鉄していたと思われる。 「國出鐵 韓濊倭皆從取之」 国では鉄を出す。韓濊倭の皆が鉄を取ることに従事している。 倭人も製鉄の技術を持っていたのだよ。 なおこの鉄原料はリモナイト(褐鉄鉱・沼鉄鉱・ベンガラ原料)です。 赤鉄鉱や磁鉄鉱(砂鉄)が製鉄の原料ではありません。 対馬海峡の南北に居住する女王國連合倭は弁辰に鉄を求め、 卑彌呼に敵対する九州中部の狗奴國連合倭は阿蘇に鉄を求めた。 周書の記載内容には信頼性に欠けるところがあります。 周書は唐・宋の時期及び北宋代に散逸し、後世に北史などによって補っています。 周書のこの部分は、 『故其地界東極新羅 北接高句麗 西南倶限大海 東西四百五十里 南北九百餘里』又、 北史のこの部分は、 『其國東極新羅 北接高句麗 西南倶限大海 處小海南 東西四百五十里 南北九百餘里』 とあります。 上記はこの部分も周書の散逸部分で、周書は北史をほぼコピーしたもの、と見られます。 周代においては百濟南側の内陸部は既に新羅領となっているのに、 上記では百濟の南は大海となっているからです。 磐井の乱で倭が弱体化し、新羅は倭人の地を占領するだけでなく、 新羅が百濟南部の内陸部に進出していたのです。 百濟の旧百濟領の新羅への反攻もありましたが、一時的なものです。 よって周書は隋書と異なる新しい文法(表現方法のルール)で書かれたものとなります。 周書:「東西四百五十里」は東西方向の距離が450里。「南北九百餘里」は南北方向の距離が900餘里。 隋書:「東西四百五十里」は南北方向の距離が450里。「南北九百餘里」は東西方向の距離が900餘里。 となります。 上記「表現方法のルール」は 周書:長里 隋書:短里 そのような500年以上にわたる文物を全て証拠隠滅する事が果たして可能なのか?っちゅう話や ↑ 708(慶雲5→和銅元)年正月11日、改元大赦の詔中、「禁書」というコトバがある。(続日本紀) その禁止文書が何であった推測できる記事もある。 769(神護景運3)年10月10日、大宰府が「五経あるが三史ない。列代歴史を欲しい」と言上。 →詔(=称徳天皇の許可)により、「史記、漢書、後漢書、三国志、晋書」各一部を賜う。 ☆このような基礎的な歴史書まで禁止しておいて、 日本書紀という公式歴史書が創作されたに違いない。 九州王朝は、7世紀なかば、副都:難波宮を建設し東遷を始めたという最新仮説に 有力な展開があったようです。 http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html 「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月) 「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、 北部九州から運ばれたとする。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」 九州王朝たって、畿内に覇をとなえていたニギハヤヒの王朝にくらべれば どうみても弱小王朝だよね。なぜかどっちの王朝もアマツカミの子孫である 証拠をもっていたというんで、九州王朝も畿内王朝も正当性においては甲乙 つけがたい、ということになってしまうのだが、記の記述からすると。 新撰姓氏録の研究報告では http //www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou29/kaihou29.html 仁徳(第16代)~武列(第25代)の10名の天皇の子孫という氏族がありません。 架空の天皇と知っている有力氏族たちが先祖と主張する対象外とすると納得ですが、 相当に深刻な指摘でして、 のんびりと、倭の五王と比定などしている場合ではなさそうです。 これら10名の天皇全員が架空なのではありませんか? それとも、武列が横暴だったので皆殺されたとでも言うのでしょうか? そもそも、九州王朝説は、古事記日本書紀のほとんど全部を架空とする 前提をしています。 たまたま、当該10代は余りにもひどい内情を、近畿王朝内でも共有 していた ことが判明しただけでしょう。 動機については、 九州王朝を抹殺し、これに負けない伝統があったことに捏造した 近畿王朝の歴史書全体の動機に帰属しましょう。 太国氏の言ってる年号は奇妙な年号だ。慶事・祝い事という感じがしない。 遊牧民の五胡の年号ではないか。特に前燕、後燕、西燕、南燕、北燕が怪しい。
https://w.atwiki.jp/drrr/pages/139.html
デュラララ!! 3Way standoff 罪歌ルート 街の人たちから都市伝説についてきいていく。 10/12(火) 南池袋交差点 ▽杏里に話しかける 声をかけてみる(好感度アップ)/黙って見守る PDA:首なしライダー目撃(罪歌20%) 10/13(水) 南池袋交差点 ▽杏里に話しかける PDA:園原杏里と黒いライダースーツ(罪歌40%) 10/14(木) 東口駅前 ▽街の人に話をきく PDA:斬り裂き魔の噂(罪歌60%) 60階通り・高速側 ▽サイモン PDA:静雄の行方(罪歌80%) 10/15(金) 東口歓楽街 ▽チェケラ大西に話しかける PDA:首なしライダーについて(罪歌100%) 10/17(日) 五十嵐千晶と会う PDA:千晶の依頼を継続 10/18(月) 60階通り・高速側 ▽サイモン 露西亜寿司でトムさんと話す PDA:静雄の行方その2(罪歌25%) 10/19(火) 60階通り・駅側 ▽静雄 PDA:首なしライダーの出現場所(罪歌50%) 10/20(水) 南池袋交差点 ▽杏里 PDA:園原杏里と黒いライダースーツ再び(罪歌75%) 改札口 折原臨也と会う 10/21(木) 南池袋交差点 ▽杏里 PDA:園原杏里と黒バイクの関係(罪歌100%) 10/23(土) 五十嵐千晶と会う ○何が困った?/そうだね PDA:千晶について 10/24(日) 折原臨也からメール 首なしライダーが人を襲っている 10/25(月) PDA:首なしライダーが池袋制覇!? 来良学園 ▽杏里 ○自分も見間違いだと思いたい/黒バイクが犯人だと思う PDA:杏里の思い(罪歌20%) 10/26(火) 南池袋交差点 ▽杏里 PDA:杏里の行動(罪歌40%) 10/28(木) 南池袋交差点 ▽セルティと黄巾賊 ○止めに入る/そっと立ち去る わかりました/首がない? セルティ&新羅と知り合いになる PDA:セルティと岸谷新羅(罪歌60%) 10/29(金) 3人と会話 来良学園 ▽杏里 PDA:杏里からの誘い(罪歌80%) 南池袋交差点 ▽杏里 ◎斬り裂き魔のこと?/しらばっくれる PDA:斬り裂き魔の正体(罪歌100%) 10/30(土) 折原臨也から電話 許せない/興味ない/○別に不思議じゃない PDA:陰謀の匂い 10/31(日) 新羅のマンション セルティと杏里 PDA:黄巾賊襲撃の噂 PDA:斬り裂き魔の特性 PDA:岸谷新羅のマンション 11/1(月) 池袋西口公園 ▽杏里と比賀 PDA:罪歌の「子供」(罪歌25%) 11/2(火) 南池袋交差点 ▽罪歌の「子供」 PDA:捨てられたバンダナ(罪歌50%) 11/3(水) 五十嵐千晶から電話 露西亜寿司 四木さんと臨也 11/4(木) PDA:選挙演説 60階通り・高速側 ▽罪歌の「子供」 PDA:二台の黒バイクを目撃(罪歌75%) 11/5(金) 60階通り・高速側 ▽騒動を見る PDA:二台の黒バイク(罪歌100%) 11/6(土) 臨也の呼び出し PDA:池袋クリーン化計画 11/7(日) 新羅のマンション セルティ・新羅・杏里 11/8(月) 乙女ロード ▽街の人に話をきく PDA:消えた黄巾賊(罪歌%) 60階通り・駅側 ▽ PDA:千晶の地上げを目撃(罪歌33%) 11/9(火) 新羅のマンション ▽セルティと杏里 PDA:ニセライダーの特徴(罪歌50%) 南池袋交差点 ▽セルティと静雄 PDA:静雄怒る(罪歌66%) 11/10(水) 黄巾賊とニセ首なしライダーが争っているのを目撃 11/11(木) 東口駅前 ▽街の人に話をきく PDA:再開発の看板(罪歌83%) 60階通り・高速側 ▽騒ぎを見る PDA:静雄の動向(罪歌100%) 11/13(土) チャット、千晶からメール 11/14(日) 千晶と会う PDA:千晶からの警告 11/15(月) 新羅のマンション ▽セルティ・新羅・杏里 PDA:ニセライダーの宣戦布告(罪歌12%) 60階通り・高速側 ▽サイモン PDA:警察の見回り(罪歌23%) 60階通り・駅側 ▽街の人に話をきく PDA:見なくなったニセライダー(罪歌34%) 11/16(火) 60階通り・駅側 ▽街の人に話をきく PDA:選挙最前線(罪歌45%) 60階通り・高速側 ▽街の人に話をきく PDA:ダラーズの動向(罪歌56%) 池袋西口公園 ▽街の人に話をきく PDA:緊張感ある街並み(罪歌67%) 11/17(水) 来良学園 杏里と会話 PDA:抗争前日 南池袋交差点 ▽街の人に話をきく PDA:廃工場付近で映画の撮影(罪歌78%) 東口歓楽街 ▽街の人に話をきく PDA:粟楠会の動向(罪歌89%) 乙女ロード ▽街の人に話をきく PDA:再開発反対の声(罪歌100%) 11/18(木) 新羅のマンション セルティ・新羅・杏里 廃工場 11/19(金) 来良学園 3人と会話 臨也のマンション 臨也と四木が電話 臨也と波江 喫茶店 千晶と会う 臨也と静雄 11/20(土) 四木さん 11/21(日) 選挙 11/22(月) 来良学園 転校 フレンドシップランクがMAXにあがるイベント自動的に - 10月14日、町の人に聞いても黄巾賊の情報しかもらえません><っっなぜですか?? -- サノツキ (2010-12-25 21 22 21) 10月14日60階通り駅側、東口駅前の間違いかと -- 名無しさん (2011-04-16 16 43 40) 10月29日、のところで話は全部聞いたのにゲームオーバーになってしまいます。10月30日に移動できないのはなぜですか・・・ -- rio (2012-03-21 21 14 25) 11月8日60階通り高速側ではなくて駅側の間違いだと思います。 -- 名無しさん (2014-01-11 21 30 55) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/drrr/pages/28.html
デュラララ!! vol.1 限定版特典 アニメイトオリジナル特典 デュラララ!! みんなはなかよし 2月 DVD vol.1 ・ DVD vol.2 デュラララ!! vol.1 第一話・第二話、特典映像:イベント「デュラララ!! アニメ化 de デュララランデブー in 幕張」を収録。 発売日:2010年2月24日 完全生産限定版 ANZB-9521~2/税込価格:6,300円 通常版 ANSB-9521/税込価格:5,040円 発売:アニプレックス 限定版特典 オーディオコメンタリー:豊永利行×宮野真守×神谷浩史×監督:大森貴弘 成田良悟×ヤスダスズヒト 書き下ろし外伝小説vol.01 カバーソングコレクションCD:「リンダリンダ」<紀田正臣> キャラクタープロフィールカード:竜ヶ峰帝人 カラーブックレット:竜ヶ峰帝人、紀田正臣、園原杏里 購入者限定! イベント参加応募ハガキ アニメイトオリジナル特典 第1巻購入特典:描き下ろしブックカバー(臨也&静雄) 1~6巻連動購入特典:小説収納ファイル 全巻購入特典:CD デュラララ!! みんなはなかよし 2月 20ページ 表紙絵:岸谷新羅 あらすじ:セルティからチョコレートをもらいたがる新羅だが、つれない態度のセルティ。新羅は、静雄と臨也に愚痴を言いに行く。臨也の言葉に自らチョコをあげようと思うが、話題のチョコは即日売り切れだった。 登場人物:九十九屋真一、岸谷新羅、セルティ・ストゥルルソン、平和島静雄、サイモン・ブレジネフ、デニス、折原臨也、狩沢絵理華、遊馬崎ウォーカー、門田京平 - テスト -- 管理人 (2010-04-18 22 14 10) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/drrr/pages/193.html
←デュラララ!!×11 ・ デュラララ!!×13→ デュラララ!!×12 著者:成田良悟、イラスト:ヤスダスズヒト 発売日:2013年6月7日 ISBN:4048917463 定価:590円 328ページ あらすじ 新羅を奪われ怪物と化すセルティ。泉井の手によりケガを負う正臣。沙樹は杏里に接触し、 門田は病室から消える。混乱する池袋で、帝人が手に入れた力とは──。 『やあ、シズちゃん。あれで死なないなんてね。君は本当に、大した大した化け物だよ。そんな君が、人間を庇うなんて滑稽以外の何ものでもなかったけどね──』 壊れ始めた街、東京・池袋。 罪歌で刺され自我を失っていく新羅。 そして新羅を奪われたセルティは怪物と化していく。 正臣は泉井の手によりケガを負い、杏里の家を訪れた沙樹は彼女を問いつめていく。 門田は病室から消え、セルティの首は人の手を彷徨う中、帝人が手に入れた力とは──!? そして戒めを解かれた静雄が臨也へとたどり着き──。 登場人物 メイン 折原臨也 平和島静雄 セルティ・ストゥルルソン 岸谷新羅 竜ヶ峰帝人 黒沼青葉 紀田正臣 六条千景 園原杏里 三ヶ島沙樹 遊馬崎ウォーカー 狩沢絵理華 渡草三郎 門田京平 ヴァローナ 写楽美影 鯨木かさね その他 贄川春奈 泉井蘭 サイモン・ブレジネフ 田中トム 九十九屋真一 小ネタ - お、12巻発売されるんだ!楽しみです^^ -- 名無しさん (2013-05-05 17 42 45) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/deckaed54/pages/11.html
Hwarang - Wikipedia, the free encyclopedia http //en.wikipedia.org/wiki/Hwarang 花郎(ファラン) 花郎は、新羅の真興王(在位540 - 576)の時代に確立した青年貴族たちの教育制度とされています。一般的に、花郎は新羅の美男子エリート戦士集団だったと広く信じられ、上級貴族の15~16歳の美少年の中から団長として選ばれた性行の正しい男子のもとに多くの青年が郎徒として集まって「貴族の美少年結社」を作り、集団で生活したといわれています。また、化粧し、着飾って(あるいは女装して)、歌楽や名山勝地での遊楽を通じて精神的・肉体的修養に励み、戦時には戦士団として戦いの先頭に立って戦ったとされ、この花郎の花郎に選ばれた者は、新羅滅亡まで200余人を数え、各花郎に属した花郎徒はそれぞれ数百人から1000人に及んだと伝えられています。高句麗、百済、新羅の三国を統一に向けて推進した武烈王(金春秋、在位654 - 661)やその将軍金庚信(キム・ユシン)は、いずれも花郎出身でした。韓国では、護国の花であり、最高の青年文化だと賞賛を受けています。 しかし、建国大のシン・ボンニョン教授によれば、新羅時代の花郎がそのような肯定的な評価を受けはじめたのは、ほんの50年ほど前のことです。 朝鮮戦争のとき、李承晩大統領が青年の愛国心が必要であると考え、当時の陸軍本部の政訓監で、のちに精神文化研究院長となった歴史学者 イ・ソングンに、韓国史から青年文化の遺産を発掘するように指示し、これに従って彼が「花郎徒研究」(1954)を出版し、それから花郎は一夜にして韓国史で最も偉大な青年文化の遺産として注目されるようになったというのです。 花郎を取り上げ評価したのは、1930年代の日本の歴史学者、池内宏、三品彰英、鮎貝房之進の三氏でした。 池内宏は、花郎は武士道であったことを前提にして解釈を行いました。池内宏は、美貌の男子を選んで化粧させたり着飾るような非常識なことが行われるはずがないとして、記事を創作と見なして否定しました。三品彰英は、花郎の源流を原始時代韓族の男子集会に求め、花郎の特徴は原始宗教と解釈しました。 また、鮎貝房之進は、同性愛など性的なものと解釈していました。しかし、まだ当時は、そんなに注目された存在ではありませんでした。 花郎に関する記録は、「三国史記」と「三国遺事」に記載されているものがほとんどすべてです。 「三国史記」は高麗の儒臣金富軾(キム・ブシク)が1145年に編纂した史書で、朝鮮における現存最古の歴史書です。当時、高麗は宗主国の宗に服従しており、中国崇拝主義者の金富軾は、「三国史記」を漢文式で書き、さらに、書き終わったあと、参考にした韓国の古い記録を全部処分させたといいます。当然のことながら、自分の書いた「三国史記」が最古の歴史書となる訳です。 自国の文化を、中国から侮られないように、美化していることは十分に考えられますし、どこまで信頼できる史書であるかは、自ずと疑われるべきものです。 それに、李氏朝鮮王朝時代(1392年~)には、花郎は男芸者を意味する言葉に変っているのです。 また、「三国遺事」は、高麗の僧一然が1280年代に著したもので、935年に新羅が滅亡してから、三百年以上後の書物です。 「三国史記」、新羅本紀真興王三十七年の花郎の記事には、 「三十七年 春 始奉源花。初君臣病無以知人、欲使類聚群遊、以觀其行義、然後擧而用之。遂簡美女二人、一曰南毛、一曰俊貞。聚徒三百餘人、二女爭娟相妬。俊貞引南毛於私第、_勸酒至醉、曳而投河水以殺之。俊貞伏誅、徒人失和罷散。 其後、_取美貌男子、粧飾之、名花_以奉之。徒衆雲集、或相磨以道義、或相_以歌樂、遊_山水、無遠不至。因此知其人邪正、擇其善者、薦之於朝。」 とあります。 37年 [576] 春 はじめて源花を奉じました。はじめ、君臣たちは人材を見わけることができないのを憂い、おおぜいの人たちを集めて遊ばせて、その行儀を観察してからこれを登用しようとしました。ついに美女ふたりを選別しました。ひとりは南毛といい、他は俊貞といいました。仲間が三百余名集まると、このふたりの女はその美貌を争って相いに嫉妬しました。俊貞は南毛を自分の家に誘ってむりに酒を勧めて酔わせ、彼女をひきずって行って河水の中に投じて殺してしまいました。そのため俊貞は死刑にされ、彼女の仲間たちは和を失って散り散りになりました。 その後 ふたたび美貌の男子を選び、化粧させ着飾らせて花郎と名づけて優遇すると、おおぜいの若者たちが雲のように集まってきました。あるいはたがいに道義を練磨し、あるいはたがいに歌楽をもって楽しみました。景色のよい山や川を訪ねて遊び楽しんで遠くとも行かない所はありませんでした。これによってそのひととなりの正邪を知って、そのうちからよい者を選んで朝廷に推挙しました。 花郎は最初、源花(ウォンファ)と呼ばれ、当初女性でした。 初めての源花として、南毛と俊貞という二人の女性の名が出てきますが、普通、女性の名を親族以外に明かすことはなく、まして、女性の名が書物に書かれることはきわめて異例なことです。この二人が、極めて高い地位を持っていたことが窺われます。 新羅には、母系社会の風習が色濃く残っていました。政治と宗教が明確に区分されなかった母系中心の新羅では、源花は、集団長であると同時に祭主(巫堂(ムーダン;巫女))であり医女であったのです。 「三国遺事」の原本には、花郎が「花郎」ではなく「花娘」と書かれています。 花郎は、もともと「花のような女性」という言葉だったのです。たぶん、源花が花郎に変わっても、最初の頃、花郎は女性だったのでしょう。 新羅後期になると花郎は、「国仙」と呼ばれ、最初の人物はソル・ウォルランでした。このころには、花郎は、女性から男性に変わっていたようです。 金大門の「花郎世紀」には「賢い補佐の臣と忠臣がここから育ち、良将と勇卒がここから生まれた」と記されています。「三国史記」には、高句麗、百済、新羅の三国時代に終止符を打った新羅の金庚信(キム・ユシン)将軍など幾人かの有名な花郎の伝記が伝えられています。 たぶんこのことから、花郎徒を戦士団として考えたのだと思われますが、史書に多数登場する花郎の中で、軍事的伝記を持つのはたった5人だけです。つまり、花郎自体は軍事的なものではなく、花郎の中から選ばれたり、生まれたと記されているだけなのです。しかも、高麗朝では国仙は兵役を免除されていたのです。もともと花郎に武人的な意味合いはなかったのではないでしょうか。 「三国史記 」真興王37年条では、花郎の選抜基準は、「顔が美しい男性」とされています。 唐の令狐澄の「新羅国記」にも「貴人の子弟で美しい者を選びだして白粉をつけ飾りたてて名づけて花郎といい、この国の人たちはみな尊敬している」と記されています。女性の場合は、化粧することも着飾ることも当然のことですから敢えてこのような記述があるのは、選ばれたのが男性だからです。 化粧し着飾るのは、世界各地に見られる女装神官や女装の覡(かんなぎ)と同様に、女性の花郎のもっていた神秘的な力や女性の生命を生み出す力を取り込むことを象徴しているものでしょう。 野や山に遊ぶというのも、先祖崇拝や風水の思想的背景を連想させます。国家の重要事項である戦争の前に、吉凶を占うというのも古代の戦争では常識です。このための国家的役職があっても不思議はありません。男性の花郎が化粧したり着飾たりしながらも、人々の尊敬を集めているのも巫堂としてなら納得がいきます。「三国史記」には、花郎が女装したとまでは記されていませんが、宗主国である中国の男尊女卑の文化に追従しながら、中国に受け入れられるように、女装神官である花郎の存在を美化した表現にも受け取れます。 花郎は、新羅での母系社会の崩壊と聖職者の女性から男性への地位の転換を象徴しているものではないでしょうか。 参考文献 三品彰英「新羅花郎の研究」 http //www.palette532.com/~inui/folklore/whis01.html