約 53,420 件
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/168.html
MT*2_34-人形の話/偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫 2010.3.13 第二巻 第三四号 特集 ひなまつり 人形の話 折口信夫 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫 一 祝言(しゅうげん)の演劇化 二 八幡神(やわたのかみ)の伴神 三 才(さい)の男(を)・細男・青農 四 クグツと人形との関係 五 淡路・西の宮と人形との関係 六 虫送り人形 七 草人形(くさひとがた)の信仰 八 ひなまつりと淡島(あわしま)伝説 九 少女のものいみ 一〇 神送りと祓除(みそぎはらい)との結合 一一 箱の中の人形 一二 念仏聖(ねんぶつひじり)と人形舞わしと 一三 オヒラ様と熊野神明の巫女(ミコ) 一四 オヒラ様と大宮(おおみや)の∮祭(めまつ)りと 十五 オヒラ様の正体 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第二巻 第三四号】 (http //www.dl-market.com/product_info.php?products_id=58545) ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (800KB) ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて公開中です。翻訳・朗読・転載は仕組まれた自由です。 (c) Copyright is public domain. 定価:200円(税込) p.198 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(105項目)p.436 ※ 傍点や傍線の見えにくい場合は、T-Time の文字品質(アンチエイリアス)を「標準」にしてご覧ください。 飛び出せ! 週刊ミミクリアワー* オリジナル版 ミミクリアワー*現代表記版 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫 折口信夫 淡島様で有名なのは、加太の外に、伯耆の粟島・九州平戸の粟島などがある。凡そ祭神は、すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]の命と言ふ事になつてゐる。特に伯耆の伝説では、此神が粟幹に弾かれて常世国《トコヨノクニ》から渡つて来られた事になつてゐる。国学者の中にも、粟島即、すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]説を離さぬ人があるが、恐らく、此二者の混合は、すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]が医薬の神であり、又、粟に弾かれて来た粟と言ふ関聯がある為であつたらう。すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]の外に、淡島神のあることは、記・紀を覗けば、容易に訣る。住吉明神の后同様、やはり海にながされてゐる。 淡島(あわしま)様で有名なのは、加太のほかに、伯耆(ほうき)の粟島(あわしま)・九州平戸の粟島などがある。およそ祭神は、スクナヒコナの命ということになっている。特に伯耆の伝説では、この神が粟幹(あわがら)にはじかれて常世国(とこよのくに)から渡ってこられたことになっている。国学者の中にも、粟島すなわち、スクナヒコナ説を離さぬ人があるが、おそらく、この二者の混合は、スクナヒコナが医薬の神であり、また、粟にはじかれて来た粟という関連があるためであったろう。スクナヒコナのほかに、淡島神のあることは、『記』『紀』を覗(のぞ)けば、容易にわかる。住吉明神の后(きさき)同様、やはり海にながされている。 つまり、日本の信仰には、流される神が幾らもある。其が漂著して、祀られる。更に遠い処から訪れて来る、小さな神がある。此は、少女の手で育てられ、後に其少女と、夫婦になる。うがやふきあへず[#「うがやふきあへず」に傍線]の命が、御姨玉依比売《オンヲバタマヨリヒメ》に育てられて、後夫婦になられたのも、其一例である。 つまり、日本の信仰には、流される神がいくらもある。それが漂着して、まつられる。さらに遠いところから訪れてくる、小さな神がある。これは、少女の手で育てられ、後にその少女と、夫婦になる。ウガヤフキアエズの命が、御姨(おんおば)玉依比売(たまよりひめ)に育てられて、のち夫婦になられたのも、その一例である。 淡島伝説は、此の一転化である。此には、上巳の祓除《ミソギハラヒ》の遺風が、底に流れて居る、と見られさうだ。上巳の節供《セツク》は、日本古来の行事と言ふよりも、寧、支那の信仰上で意味のある日であつた。古く、三月初めの巳の日に、水辺に出て祓除をなし、宴飲をした。其が形式化して、曲水《ゴクスヰ》の宴ともなつた。通常伝へる処では、魏《ギ》の後、上巳を止めて、三日を用ゐる様になつたが、名前は依然、上巳で通つたのだと言ふ。 淡島伝説は、この一転化である。これには、上巳(じょうし)の祓除(みそぎはらい)の遺風が、底に流れている、と見られそうだ。上巳の節供は、日本古来の行事というよりも、むしろ、支那の信仰上で意味のある日であった。古く、三月はじめの巳(み)の日に、水辺に出て祓除をなし、宴飲(えんいん)をした。それが形式化して、曲水(ごくすい)の宴ともなった。通常伝えるところでは、魏の後、上巳をやめて、三日をもちいるようになったが、名前は依然、上巳で通ったのだという。 2_34.rm (朗読:RealMedia 形式 368KB、2'59'') 上巳 じょうし 五節句の一つ。陰暦3月初めの巳(み)の日、後に3月3日。主に女児の祝う節句で、雛祭をする。宮中では、この日、曲水の宴を張った。桃の節句。雛の節句。三月節句。重三(ちょうさん)。じょうみ。 宴飲・讌飲 えんいん さかもり。宴会。 曲水の宴 きょくすいのえん (ゴクスイノエンとも)古代に朝廷で行われた年中行事の一つ。3月上巳(じょうし)、後に3日(桃の節句)に、参会者が曲水に臨んで、上流から流される杯が自分の前を過ぎないうちに詩歌を作り杯をとりあげ酒を飲み、次へ流す。おわって別堂で宴を設けて披講(ひこう)した。もと中国で行われたものという。曲水。めぐりみずのとよのあかり。 折口信夫 おりくち しのぶ 1887-1953(明治20.2.11-昭和28.9.3) 大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。民俗学、国文学、国学の研究者。釈迢空と号して詩歌もよくした。1913年12月、「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。 ◇参照:Wikipedia 折口信夫、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 底本 人形の話 折口信夫 底本:「日本の名随筆 別巻81 人形」作品社 1997(平成9)年11月25日第1刷発行 底本の親本:「折口信夫全集 ノート編 第五巻」中央公論社 1971(昭和46)年6月発行 NDC 分類:380(風俗習慣.民俗学.民族学) http //yozora.kazumi386.org/3/8/ndc380.html 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫 底本:「折口信夫全集 3」中央公論社 1995(平成7)年4月10日初版発行 初出:「民俗芸術 第二巻第四号」 1929(昭和4)年4月 NDC 分類:380(風俗習慣.民俗学.民族学) http //yozora.kazumi386.org/3/8/ndc380.html 疑問点 完全た → 完全な 【な、か?】 以上、1件。 難字、求めよ。 諾冊二尊 だくさつにそん、か。 西の宮対西摂地方 西摂 せいせつ、か。 穢禍 スリーパーズ日記 一一日(木)、積雪10cm。前日「核密約」確認、鎌倉八幡大イチョウ倒木。 一昨年、堀田善衞『方丈記私記』(筑摩書房、1971.7)を読んだとき、鴨長明にもまして実朝が頻繁に登場するのが印象に残った。斉藤茂吉に『源実朝』があって、岡島さんの「うわづらをblogで」に pdf 版が収録されている。彼岸を境に大川周明『清河八郎』の連載スタートを計画していたのだけれども、急遽、太宰治「右大臣実朝」に切りかえる。 折口の作品中には「ノ」の小書きが頻出する。ところが、小書きの処理に t-move タグを使うと、どういうわけか使用ページの最終行が表示できなくなる。さらに、ページの最終行に t-move タグがくると決まってその後の部分が表示できなくなる。T-Time そのものが原因なのか。それとも、ファイルの作り方が問題なのか。表示幅を変更してもうまくいかない。「ノ」の小書きの t-move タグを停止する。問題は返り点のばあい。 環境庁が昭和63年度調査し、平成元年度集計整理した資料に『巨樹・巨木林調査報告書』がある。その「山形県の部」で幹周300cm以上のイチョウの巨樹をひろいあげると、県内には91本ある。山寺立石寺の大イチョウが720cm、山形専称寺(駒姫の菩提寺)の大イチョウが650cm。三位が南陽市宮内の熊野神社の大イチョウ(750cm)、二位が朝日村(現、鶴岡市)砂川の乳銀杏(798cm)、そして一位が河北町谷地、三社宮の大イチョウ(875cm)。 『朝日新聞』等によれば、今回倒木した鎌倉八幡の大イチョウは幹周6.8m。 2010.3.15:公開 2010.3.18:更新 おどる阿波に、みる安房。身から出たあわ。 毎度おなじみ、るろうのソープ番組。/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は仕組まれた自由です。 カウンタ: - 文中に「先年三浦半島を旅行したとき、葉山から三崎(みさき)のほうへ行く途中、深谷(ふかや)というところに淡島堂があって……」とある。『神奈川県の地名』(日本歴史地名大系、平凡社)で「深谷」をさがすと、戸塚区(横浜市)と綾瀬市の二か所にあるが、いずれも“葉山から三崎のほうへ行く途中”にはあたらない。地図を見ると「深谷」のかわりに、葉山から南へ約4kmに「秋谷(あきや)」がある。折口の誤認か。 -- しだ (2010-03-18 01 33 59) 『青空文庫 全』収録の折口作品で「阿波」をさがすと、「水の女」に3行、「稲むらの蔭にて」に4行などがある。ところが「安房」は皆無。ひなまつり、淡、粟、阿波、安房……という言語メタファーが働いているのかと想像していたのだが、手がかりが切れる。単に未収録なのか。「『古語拾遺』によれば(略)神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国に上陸し、そこを開拓した後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率いて房総半島南端布良に上陸し、その周辺を安房郡と名附けて、天太玉命を祀る社を創建」(Wikipedia「安房神社」より)。 -- しだ (2010-03-18 01 34 32) 『光をかかぐる人々』の「6522」というバブリーな数字よりも、週に「48」カウントのほうが現実味があって安心できる(苦)。双方に感謝。 -- しだ (2010-03-18 01 38 07) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/1205.html
折口信夫は『古代研究』所収「水の女」で、中臣氏~藤原氏の女性が 天皇の沐浴の際に物忌みの布を脱がせる役を負っていたと見、 また飛鳥の岡の藤原という地名が元「藤井が原」を改めたものと見て、 「藤原」の「ふじ」を「ふち(淵)」であると見て、神聖な泉に関わる氏族名だったと見ている。 参考文献 『古代研究 I 』折口信夫 古代研究〈1〉祭りの発生 (中公クラシックス)
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/221.html
M-Tea*3_10-最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫 2010.10.2 第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 一 万葉びと——琉球人 二 君主——巫女 三 女軍(めいくさ) 四 結婚——女の名 五 女の家 稲むらの陰にて imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第三巻 第一〇号】 (http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/92843) ※ クリックするとダウンロードサイトにジャンプします。 (608KB) 定価:200円 p.138 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(57項目)p.425 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 飛び出せ! 週刊ミルクティー* 最古日本の女性生活の根底 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。 (略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略) 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。 3_10.rm (朗読:RealMedia 形式 476KB、3'52'') 折口信夫 おりくち しのぶ 1887-1953(明治20.2.11-昭和28.9.3) 大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。民俗学、国文学、国学の研究者。釈迢空と号して詩歌もよくした。1913年12月「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。 ◇参照:Wikipedia 折口信夫、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 底本 最古日本の女性生活の根底 底本:「古代研究 I —祭りの発生」中央公論新社 2002(平成14)年8月10日発行 初出:「女性改造 第三巻第九号」 1924(大正13年)年9月 http //www.aozora.gr.jp/cards/000933/card16032.html NDC 分類:380(風俗習慣.民俗学.民族学) http //yozora.kazumi386.org/3/8/ndc380.html 稲むらの陰にて 底本:「折口信夫全集 3」中央公論社 1995(平成7)年4月10日初版発行 底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店 1930(昭和5)年6月20日 初出:「郷土研究 第四巻第三号」 1916(大正5)年6月 http //www.aozora.gr.jp/cards/000933/card46324.html NDC 分類:384(風俗習慣.民俗学.民族学/社会・家庭生活の習俗) http //yozora.kazumi386.org/3/8/ndc384.html NDC 分類:812(日本語/語源.意味) http //yozora.kazumi386.org/8/1/ndc812.html 難字、求めよ 万葉人 まんねふびと 倖寵 こうちょう 喜田博士 喜田貞吉か。 泳ノ宮ノ弟媛 くくりのみやのおとひめ 八坂入媛 やさかいりひめ 泳ノ宮ノ弟媛の姉。 印南都麻 いなみつま 島名。加古川の川口。 内間まか うちま まか 梵天塚 丹生 にふ 丹生神 伊原生 僚窓の下 スリーパーズ日記 むせかえるようなキンモクセイの甘い香り。夕刻、図書館を出ると、それにまじって、ハシブトガラスの生臭い香りがただよう。 樋口清之『卑弥呼と邪馬台国の謎』(大和書房、1985.7)、千田稔『図説 地図とあらすじでわかる! 邪馬台国』(青春新書、青春出版社、2010.4)、読了。 当時の気候を推測するに、樋口は「ハンチントンの気候周期説」を紹介。そこから独自の「寒期六〇〇年周期説」を提示。「倭人伝のころは、寒期が終わって向暖期に入ったとき」であろうとする。 一方、千田は三ページを使って、(1) 山本武夫(気象学)の『三国史記』をもとに、当時は現代より寒冷。小氷河期に相当。(2) 気候変動と大規模な事件は相関関係にある(山本)。(3) 安田喜憲(環境考古学)は、当時の倭は降水量が多く耕地が水没。大型集落を放棄・縮小する不安定な時代。……と、それぞれの説を紹介。 中国では黄巾党の乱(184)、朝鮮は三国分立、倭国は内乱(147〜189)。いっぽう目を西に向けると、ローマではペストの流行(166〜167)、ゴート族の南下(150ごろ)、ゲルマン人のガリア侵入(220ごろ)が見える。インドではカニシカ王が仏教を保護。大乗仏教がこの頃おこる。 山本一清『星と空の話』の連載中に、雑誌『Newton』の星の特集版を併読していたところ、(1) 月は年に3cmずつ地球から遠ざかっている=地球の自転はしだいに遅くなる=地球の潮汐力はしだいに弱くなる。(2) 現在の北極星が“北極星”となったのは二〇〇〇年ほど前。地球は公転面から二三.五度傾いて自転。地軸は二万五八〇〇年周期で回転移動。……の二つの事実をはじめて知る。 (1) から推するに、時代をさかのぼるほど、地球の「一日」の絶対時間は短く、潮の干満差は大きく、偏西風の速度は速く、生物は現在より大きな月を見て、体にかかる大きな潮汐力を感じていた……ことになる。 2010.10.7:公開 鼻垂《ミミタリ》鼻垂《ハナタリ》カップリング。PoorBook G3'99 転載・移植・印刷は自由です。 カウンタ: - よくよく声を聞きなおすと濁っているので、ハシブトではなくハシボソの団体のような。 -- しだ (2010-10-09 03 33 35) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/myhair/pages/49.html
女子が成人する迄に左右の鬢に結び着ける赤い飾り。
https://w.atwiki.jp/kotozora/pages/87.html
『日本芸能史六講』 昭和十三年二月「短歌研究」第七卷第二號 「雪」を題とした聯想のゆくまゝの文を綴つて見ようとしたものゝ一部である。別に考證態度を採らうとするのではない。ほんの輕いざつくな書き棄てと見て頂きたい。私などは江戸文學を生活體驗から見ようとするやうな形は唾棄してかゝつてゐるので、さうしないことには訣らないと言ふやうな人なら、文學そのものゝ目的が、初めから訣つて居ないのだと思ふ。文學はある生活を實生活と同じ程度に、知識へ持ち來す爲のものなのだから。 だがこんな物を出す氣になつて讀み返して見ると、明治時代の歌謠をあまりに文學扱ひにし過ぎた時代──唄自身の小さな歴史と無關係によがつて居た頃の歌謠論に似てゐるのが恥しい。此は私らの癖で新しい感覺的な文章を綴るに馴れないところから多く來てゐるのである。佐々醒雪先生は、學校でも教へて頂いたし、その著作も相當讀んでゐる。 殊に歌謡に關するものでは、俗曲評釋などは、かう言ふ方面の草わけとも見るぺきものだから、よく讀んでおいた。今になつて、こんなものを書く氣が起つたのも、高野斑山翁や、元氣な藤田徳太郎さんにお目にかゝらぬ前々からの絲が引かれてゐるのだと氣がついた。我流の何の見だてもないものだが、少し地唄本を、めくり返して見ようと思ふ。 上方地唄から江戸に移された唄は隨分多いが、地唄も亦屡江戸唄を調べ直したものである。名高い「黒髮」なども、其一つだといふことは、吾々が知つたかぶりをするまでもない。 近年若くて死んだ成駒屋福助の脂ののりかけに踊つた「黒髮」は見たさうで、其時同行した者が確かに保證するのだが、私には人の噂の様にしか殘つて居ない。まことにたわいもないことだ。 何でも、一人でお姫樣姿て踊つたものゝやうである。だが黒髪自身の文句から見れば、やはり傾城事《ケイセイゴト》として踊るのが、ほんたうらしく思はれる。意味はぼんやりした處を多く局部に含みながら、 全體としてさうした女性の氣持ちらしいものを、よくかたちづくつてゐると言へる。書くのも恥しいほど、ありふれてゐるが、咄には順序がある。 黒髪の結《ムス》ぼほれたる思ひをば、融けて寝た夜の枕こそ、獨り寢る夜はあだ枕(合)。 袖は片敷《カタシ》く(にかざして)つまぢやと言うて(合)愚痴なをなごの心と(又、は)知らず、しんと更けたる鐘の聲(合)ゆふべの夢の今朝さめて、ゆかし懐し。やるせなや。積ると知らで積る白雪。 獨りゐる夜に女が悶えて居るのである。鬱結した思ひを解き放つて心融けあつた夜の枕は、やはり此枕だ。其を今見ると却て怨しい。あの時自分を喜ばして、男は言つた。此袖は此とほり片敷いて寢る。その袖──衣──片敷く衣の褄即おまへを添ひ臥しの妻と思ふと言つて置き乍ら、ああ其語を思ひ起して愚痴な囘想に耽つてゐる女心を考へ知らず。──音もなく、今宥も更け靜る夜半の鐘。 此處の合の手からは、氣分が一轉して寂しい朗らかさが出て來る。其に又、積ると知らで以下に藝謡らしいよさを十分出して居るが、其間の詞章は、しんみりした味ひを逃してしまつて居る。文句を割つて合の手を入れることの外に、合の手から意義の附け足しをすることが往々ある。此もさうした飛躍點を作つた訣で、變化の上からおもしろからうが、折角の短篇が文學的には内容が無駄になつて了ふ。 今朝さめてとある以上、近代の用法では、夜中や、一番鶏の鳴く頃ではない。實はさうとると、夜中の鐘で目がさめると曉で、雪がしと〳〵降り積ることになるのだが。 やつと寢たと思ふと、すぐ夜明けで、其僅かの眠りの中に見たのは、來ぬ人に逢うた夢であつた。其を反芻するやうに、心の持つて行き所のない樣な戀しさが募つて來る。外では積るとも音もしないで降り積んだ雪が、愈ふり嵩《カサ》んでゐる樣子と言ふのだ。 此なども、芝居唄らしい事は考へられるのだから、「江戸長唄」式の説明すれば、朧ろな點がもつとはつきりする。合の手の間が、舞臺での獨白があつたものと見ると、續きの廻りくどい所も、なる程と思はれる。併しさう考へるのは無理かも知れない。 雪の夜にしんと更けた鐘の音。此と共通した境遇は、地唄に多く見えてゐる。前の黒髪の作者と推定せられた江戸の湖出《コイデ》市十郎とほゞ同時代の、流石菴羽積の作つた「雪」である。此は唄の性質上、芝居唄ではない。 花も雪も、拂へば淨《キヨ》き袂かな。ほんに、昔のむかしのことよ。吾が待つ人も、吾を待ちけむ(合)鴛鴦《ヲシ》の雄鳥に(のイ)もの思ひ羽の、氷る衾《フスマ》に鳴く看もさぞな。さなきだに心も遠き夜半の鐘合聞くも寂しき獨り寢の枕に響く霰の晋も、若しやといつそ堰きかねて。落つる涙のつらゝより、つらき命は惜しからねども、戀しき人に罪《ツミ》深く、思はぬ(むイ)ことの悲しさに、すてたうき、捨てたうき世の山かづら 此は今も彈《ヒ》く唄である。此は「黒髪」よりも境遇がはつきり戲曲的に構へられてゐる。にもかゝはらず、出來はさうでない。捨てたうき世の山かづらと言ふから見れば、遁世したことは訣る。 山かづらは歌の文學語としては何でもないが、連歌俳諧の方へ這入つてむつかしいものになつてしまつた。山の朝雲だとするのと、山への段々だと言ふのとがある。だから山蘰とまじめに説くのは却てわるい。世を捨てた身は山かづらを踏む──或は眺める──朝夕を暮して居る。さう言ふ身になつて昔の事を思うてゐるのだ。煩惱を拂ひ棄てゝ淨らかな生活に入つてゐる。其心から思へば、まるで昔の更に昔の樣な氣がする。別れた人は自分を何時又見ることが出來ようと待ち續けて居たらう。今もさうだらうか。思へば外の池水に鳴く鴛鴦の──番ひ離れた──雄鳥のその思ひ羽ではないが、もの思ひをして、寢つかれぬ凍りの蒲團の中で、泣く聲はさぞと、鴛鴦の聲を聞くにも察せられる。 をりもをり、氣も遠くなる樣な遠寺の鐘が、さらぬだに寂しい夜半を告げてゐる。其を聞く自分も亦、寂しい獨り寢に思ひ出すことのみ多い。此枕上の戸にあたる霰の音も、昔の習慣で、若しや人が來て叩くのではないかと思ふが、其は空頼みだ。非常に胸まで涙のせき上げて來るのを堰ききれない程で、其落ちる涙は寒夜に直に冰つて堪へられない。其つらゝのつらさに絶える命は惜しまぬが、思はれるは、彼の人である。戀しい彼の人は深い咎めを蒙つて、想ひもかけぬ憂き目を見てゐる。其を思へば死ぬるにも死なれぬ。あゝその爲に、此世の憂き生活を棄てた山住ひではないか。 佐々醒雪先生は『辛い命はさて惜しくもないが、變らじと契つた人が今更我を思はぬのは、深い罪業ぞと、それのみが氣にかゝつて、捨て果てた浮世に、なほ繋念が絶えぬ』と譯されたのは名譯である。殊に「罪深く」を世間風にくだいて讀まれて居るのは感服するが、どうもかうとつて、初めてよく通る樣に思ふ。棄てられたから遁世したのでなく、女にのぼせ過ぎて罪を犯した男を思うて、女が罪亡しに尼法師になつたと見るが、正しいであらう。霰が降《サガ》り物としてとりこまれてゐるが、冬の凍る夜、雪の心持ちで見るぺきであらう。題の「雪」は「花も雪も」からとつたのは勿論だ。此外にも雪に關した題をつけ、又雪を正面から詠み入れたものも相當にあるが、情趣は似たものもさうでないものもある。 此二つは雪といふよりは、「こほり」と謂った趣きが適切に出てゐるので、待つ夜、逢はぬ夜、骨に沁むやうな世間の掟・男のつらさに對する女心が出てゐる。さうして、其が詞章の形としてよりも、味が完全に人に受けとられるのは、作者の努力と言ふより、かうした情趣をせりあげて來た小唄の世界に漂ふ氣分──具體化せられることを待ち焦れた──に考へなければならぬものがあるのだ。 よるべのない魂魄が寓《ヤド》るむくろを求めて居る、と昔びとは信じてゐた。ちようど其である。小唄の魂が、詞章をきつかけに、融けこんで來るのである。作者が詞を驅使して行くのである。 宇都谷峠の文彌殺しは、小團次が初演だと聞いてゐるが、其を文彌の靈の憑くお菊になつて見てゐた五代目菊五郎が本役とするやうになつてから、大分變つて來たことも察せられる。何時の興行から插んだのか。十兵衞に連れられての山道の出に「花も雪も」をうたふことにした。此も、大阪の齋入・今の菊五郎で見たに繋らず、はつきり覺えて居ない。何でも、座頭の花道の出に謡ふと言ふ考へから、慶政殺しにも、又「壺阪」にも、妥當性が感じられる。記憶ほど、自由過ぎて厄介なものもない。 此唄の事は、羽積自身作の「歌系圖」にはなくて、却て唄本「歌曲|時習考《サラヘカウ》」の方に、羽積作と言ふことになつて居る。つまり歌系圖以後に出來たものなのであらう。其上、「南妓ソセキの事をつくる」と添へ書きがある。 南妓の用例は歌系圖にもある。「南妓明石調」と註した類である。妓と言ふのは、今の人が考へるよりは、昔は廣く感じられて居るのだが、安永頃になると、江戸の洒落本に先だつ大阪の「月華餘情」・「色八卦」の類が績出したらしく、此類の遊び本では、妓の字にもう特殊な使ひ方をもしてゐる。げいこに當る使用が多い。 「島《シマ》」と言ふ語が、江戸の岡場所を意味するやうになつた語原と思はれるのは、島の内の遊所であつた。こゝが盛んになつて西廓《セイクワク》と稱した新町には及ぼぬが、北州と言つた曾根崎に對して、南州などゝも稱へられるやうになつた。こゝには歌妓の優れた者が多く出た。道頓堀の茶屋町を川向うに控へ、西照庵、惠日庵等の宴席、福屋・浮懶《ウカムセ》の料亭の參會に招かれるのは多くこゝからであつた。「月花餘情」は、此島の事を書いた古酒落本と謂ふべきものである。 其には、しめのと言ふ妓が出て、唄を謠ひ、頻りに又、唄の事を語る。色八卦にも、「この中、西照庵で、歌を仕たら、砂原の五さいじやうさんが襃めてゞあつた」など言ふのも、島の内の歌妓のかたぎを書いて居るのである。 ソセキと言ふ名は、隨分むつかしい名である。島の内界隈の女の名とも思はれぬ。醒雪先生は、リセキと讀んで居られるが、一暦見識ばつた名に見える。粹がつた人たちの間で通つた稱へか、でなければ、尼になつた後の法號などであらうか。 自分等と顏を合はすことの多く、又自ら端唄類を謠ひ又、作りもした女の爲に、流石菴が唄を作つてうたひはやらした訣であらう。 唄の題材になつて居る歌妓の生活自體は、咄にもならぬものであつたらうが、かうして纒められて見ると、作者の豫期しないあはれが出て來てゐるのである。 廓者の生活は、私どもにはどうも訣らない。夕霧・高尾の心意氣など謂はれるものにも、さして興味を感じることの出來ぬ吾々が、こんな書き物すること自身、無意味なことだけれど、唄に出て來る發想法の問題は、やはり考へて見ねばやはり日本の「ものゝ考へ方」に一點の曇りが出來る訣だ。 歌系圖で見ると、山岡元隣作といふ曲が數種ある。その中、朝妻檢校調とある「戀づくし」も一つである。 猿丸太夫奥山に、もみぢ踏みわけイヨ鳴麁の、妻をたづねてわけ行く戀路(合)かの傾城の遠山が、松の位も四郎二郎ゆゑに、今はやりてと身をなす戀路 短篇だが此で完結してゐるものとも見られるし、も少しあつたものゝ斷篇化したものとも考へられる。元隣は江戸文學では先輩の一人で、此人の爲事などは、まだ隱れて掘り出されないものが隨分あるだらうと想像せられる。ともかく、西鶴も近松も、此人の影響を受けたらうといふことは、單なる想像ではないのだ。 吾々が知つてゐる限りでは、近松の「傾城反魂香」にはじめて、遠山が登場して來るといふ風にしか思はれて居ない。だが近松にしても、あまり遠山太夫の描寫がづぬけてある成熟味を持つてゐる點に疑ひを插んでもよい。 土佐將監の娘おみつが、親の爲越前敦賀に遊女となつて、遠山と言はれてゐる。名所の松を寫しに行つた狩野四郎二郎元信と夫妨約束をして別れ、其に情を立てた爲に、方々に賣り替へられ、元信と再會した島原では、やりてのみやとして大福帳を手に、數々の鍵を腰にさげて、忙しい身に落ちてゐる。此だけ見ても此唄はわかる。だからと言つて、反魂香以後に出來た唄ときめるのは、少しふくらみのない考へ方ではあるまいか。元より元隣作とも斷言は出來ない。だが近松作の反魂香に遠山がある位は知つて居たらうと思はれるのに、尚元隣の作物とした所に、何かゞあるのではないか。だが此とて、人には錯覺もあり、忘却もある。反魂香の遠山を忘れて註をせぬ限りはない。まづ此唄の譯文を綴る。猿丸大夫奥山に……と小倉百人一首に言ふ如く、その奥山に紅葉を踏みわけ鳴き入る鹿の戀もある。妻をたづねて別け行く山路が、即戀路である。其から亦、例の傾城遠山が、高いはりを持つて保つて居た松の位帥太夫職も、今は遣り手にまで身を落すに到つた、其も亦戀路である。此も誰ゆゑ四郎二郎──狩野元信──故である。 私は元隣に、熊野靈驗を読いた遠山・四郎二郎の物語があつたと見たいのは山々だが、歌系圖から、其だけの結果は引き出されない。だが元隣以外にも必、遠山太夫の物語を綴つたものがあるに違ひない。西鶴には多量に、──近松には少分ではあるが、傾城だけは實在人で、其に配した男は自由な室想から出てゐることが多い。四郎二郎も其ではないか。元隣前後に、さうしたものが既にあつたと思はれる。 假りに遠山・四郎二郎の件を近松の純創作と見ても、問題に殘るのは、「反魂香」に出て來る不破伴左衞門・名古屋山三である。此は決して近松の獨創でないことは、江戸狂言の所演年表を見ても訣る。此は江戸の芝居からとり入れられたものと見られてゐる。だが此とて、初代團十郎等が、不破に關するすべての狂言の創始者だとはきめられない。更に其先があるやうなのである。此通り先へ〳〵と、水上は溯られる。一方遠山の事ばかりが、反魂香を最初とするといふ風には考へられるものではない。此處に其推斷は書かないことにする。三味線唄に關係が無さ過ぎるからである。 此唄、反馨を下に持つて居ると見るよりは、其前の形を踏まへて出來てゐると見る方が、讀誦して見てもうぶな感じが充ちて覺える。 http //dl.ndl.go.jp/info ndljp/pid/1125421/64
https://w.atwiki.jp/gentlemen/pages/29.html
斎部成昭(いんべ なりあきら) 1890年生(大正元年時点で21歳)。 上代の昔、中臣氏、猿女氏と共に宮廷祭祀を司っていた氏族の末裔だが、傍流の子孫なので現在は細々と神主をしているだけの家系に生まれる。 しかも成昭自身五男坊ゆえ(儀式の方法は知るものの)実家の祭祀には殆ど関われず、今は神田神保町で古本屋を営む女主人の元にて書生生活を満喫している。いるのだがその女主人と言うのがまた傍若無人で傲岸不遜な曲者であって、しょっちゅう無理難題を仰せつかっては東奔西走しているという。 その内容は主に荒魂の調伏であり、古本屋の敷地内にある祠には続々と新しい神が合祀されていっているとか。 祭祀には関わらぬもののそういった実働面から興味を持たざる得なかった為国学の勉強を良くしいて、それ関係のつながりでかの折口信夫とも知り合いらしい。 学帽に袴とトンビと言う典型的な書生ルックをしている。顔立ちは垂れ眼の童顔。 性格はのほほんとした楽観主義者。
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/1260.html
多くは地形生成の起源説話に登場する。 折口信夫は、八幡神の祭礼行列に、大きな人形を前立として参加させる事例が 多数ある事を述べ(日向岩川八幡の大人(おおびと)弥五郎など)、 全国の巨人伝説の形勢にはこうした人形のイメージも加わっているはずだと主張している。 参考文献 『古代研究 II』折口信夫 古代研究 (2) (中公クラシックス J 13)
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/1204.html
火の神カグツチを生んだ際、ホトを焼かれて死んだイザナミの尿から生まれた神。 折口信夫は「水の女」の中で、「みつは」「みぬは」「みぬま」等の音の類似した言葉の検討分析から、 ミツハという言葉の意味について「酒の水すなわち食料としての水の神」としての一面があったと記している。 参考文献 『古代研究 I 』折口信夫 古代研究〈1〉祭りの発生 (中公クラシックス)
https://w.atwiki.jp/roudoku_bookshelf/pages/22.html
タイトルのリンクをクリックすると外部サイト(YouTube)が開きます。 【30~60分】 作者 タイトル 時間 備考 芥川龍之介 「影」 41 17 小説 芥川龍之介 「西方の人」 56 58 小説 芥川龍之介 「奉教人の死」 33 46 小説 岡本綺堂 「蜘蛛の夢」1 14 54 小説 全4回55 52 岡本綺堂 「蜘蛛の夢」2 12 26 小説 全4回55 52 岡本綺堂 「蜘蛛の夢」3 19 05 小説 全4回55 52 岡本綺堂 「蜘蛛の夢」4 09 27 小説 全4回55 52 岡本綺堂 「月の夜語り」 31 33 怪奇小説 岡本綺堂 「雪女」 34 59 小説 折口信夫 「古代生活に見えた恋愛」 33 41 民俗学 折口信夫 「最古日本の女性生活の根底」 35 06 民俗学 折口信夫 「霊魂の話」 37 06 民俗学 菊池寛 「蘭学事始」 57 34 原作:杉田玄白 坂口安吾 「不良少年とキリスト」 48 12 随筆 佐々木直次郎(※翻訳) 「早すぎる埋葬」 48 01 怪奇小説(※ポー原作) 鈴木三重吉 「古事記物語」11.白い鳥 31 45 神話 児童文学 谷崎潤一郎 「陰翳礼讃」 1 47 45 随筆 寺田寅彦 「アインシュタイン」 42 22 随筆 原民喜 「夏の花」 51 36 随筆 宮沢賢治 「雁の童子」 32 34 児童文学・童話 柳田國男 「山の人生」自序1~5 34 58 随筆 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」 37 03 随筆 口語訳旧約聖書「創世記」1~10章 52 14 1955年版 ▼原作者名から ※翻訳者名からのリンクと同一のものです 作者 タイトル 時間 備考 ポー《米》 「早すぎる埋葬」 48 01 怪奇小説(佐々木直次郎 訳)
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/1251.html
江戸時代中期までの色町で、「よび茶屋の女房」や「おき屋の廻しの女」「やり手」を指して 「かしゃ」と呼ぶことがあったという。 一般には「花車」をあてているが、折口信夫は「火車」の意味であろうと論じている。 人を捉えて引き込む様からついた名であろうと云々。 参考文献 『古代研究 II』折口信夫 古代研究 (2) (中公クラシックス J 13)