約 2,611 件
https://w.atwiki.jp/chekhov/pages/112.html
【書籍】Скафтымов А.П. Собрание сочинений в 3 т. C.317-344. 2000年にサラトフでの論文集にて初めて公開。いつごろ書かれたものなのかは不明。 (ヴァルハートゥイの論文が引用されているため1927年以降ということは明らか) 『イワーノフ』についてで始まり、『かもめ』『ワーニャ叔父さん』『三人姉妹』が チェーホフの戯曲のテーマが幸せであるという視点から論じられている。 【本文】 (C.317) チェーホフの戯曲はペシミズムと19世紀末のロシアインテリゲンチャが感じていた社会の沈滞に形作られ、満ちている。 彼の最初の長編戯曲『イワーノフ』はまさにその例である。そして、チェーホフ自身もこうした社会の中にいた一人である。 彼の作品はこうした背景の中で2つのものに分けることが出来る。 1.チェーホフが、悲しみや悩みを分割して出しながら、自らの人生を評価しているもの。(例 『ステップ』) 2.憂鬱・沈滞における何らかのタイプや性格の特徴を評価し、それぞれの悲観的な状況を眺めつつ それらを社会的、倫理的な規定によって結論づけているもの、この2種類である。(例 『六号室』『決闘』) (C.318) 『イワーノフ』は第2のタイプの作品である。作品の焦点は、病んだ時代の中でペシミズムに打ちひしがれた人間とどのように関わるべきかという問題である。 (C.324) 『イワーノフ』と違い『かもめ』は全く違った独自性を持っている。 この作品では幸せな人々と不幸せな人々について語られている。 『イワーノフ』と同じく舞台は地主屋敷だが、チェーホフは自身の主体的な気持ちで彼らに焦点を当ててはいない。 作者はそれぞれが過ごしている人生の中の内面的な感情の活力を描写している。 登場人物たちを見守りながら、それぞれの人生を自身で自分のことのように感じながら、人生に満ち足りているのか?幸せなのか?なぜ不幸な人は幸せになれないのか?とまるで問いかけているようである。 (C.325) 4人の中心的人物が芸術に関係している。トレープレフとトリゴーリンが作家、ニーナとアルカージナは女優。 この職業という問題が、重要な意味を持っているが、その意味であったり、客観的な社会的な役割としての価値などではなく、 それは単に彼らの個人的な気持ちの問題として存在している。 個人的な幸せ、喜び。これらは外側から見えるものであって、実際に体験すると薄れてしまう。 トレープレフとニーナは、それを手にするまではそこに幸せをみているが、実際に夢が叶い、経験した後は その幸せや喜びはどこかにいってしまうのである。 (C.326) 『かもめ』の悲劇性は、社会的で日常的であり、様々な大衆に生じるよくあるものである。 それゆえ、演劇性は登場人物の間に配分されている。 自らの独自性を失う苦しみ、普通の人生の中でどうやって特別になるのか。 それゆえ、ここには個人的で私的な苦しみに対する眼差しがあり、彼ら一人一人の印象・感動に人物達は固定される。 彼らの目的は個人的であり、決してそれ以上ではない。 こうした中、皆が孤独である。 社会に対する関心はなく、それぞれが自らのために生きている。 ここではチェーホフが戯曲の中で一般的な人々の人生の出口を示す方法を探していたのかもしれないが 登場人物達の関心がチェーホフにとって言わんとしていることではない。 普通の長々と続く平坦な日々の流れの中での悲劇性を明らかにしなければならない。 (C.327) 戯曲はいくつかのプラン、特に登場人物独自の状況で進んでいく。 交わることのない恋愛。これらの関係は決して一つにならない。もっとも分かりやすいのがトレープレフとニーナである。 トレープレフと関係するのはニーナと、彼女を通したトリゴーリンのみである。(この部分は突っ込める) マーシャの愛はトレープレフの状況を少しも複雑にしない。彼女はトレープレフに協力するわけでもないし、彼の運命を変えるわけでもない。 ここでは互いの連結はなく、接触があるだけである。 (C.328) アルカージナも結局トリゴーリンとニーナの関係を変えることは出来ない。 アルカージナの存在は彼女自身のテーマにある。 競争や敵対といった衝突は人々の間に生じることはない。 (C.329) 戯曲はほとんど外面的に複雑な部分には目を向けず、変化は語られるだけである。 そして、願いは実現したとしても、それは彼らに何ももたらさない。 それゆえ、戯曲は主に日常を描き出すことに占められ、既に固まった状態で静的な時間に満ちている。 登場人物達の意見は不完全な日常の中で具現化される。 それぞれの独自の悲劇性は日常をきっかけとする困難な問題を生じさせる。 (C.330) 戯曲全体を通して、絶え間ない、避けられないマーシャの憂鬱、過ぎ去ってしまったソーリンの人生に対する悲しみが編み込まれている。 第一幕は主に状況設定であり、マーシャ、メドヴェジェンコ、ソーリン、ポリーナの求める先には出口がないこと ニーナとトレープレフの夢と約束が衝突し、未来を複雑にする。 既にこの時点でトレープレフにはドールンの助言が与えられている。 第二幕は、テーマのほとんどが展開され、第一幕のモチーフも繰り返される。 (C.331) ニーナとトリゴーリンの会話に芸術家の使命が表現され、トリゴーリンの日常的な灰色の感情などにより 芸術家に対する謝った認識への警告もなされる。 ニーナは物思いにふけるが、まだ彼女には分からない。 第三幕は緊張が張り巡らされている。 登場人物の変化はそのどれもが幸せには向かわない。 最終的に戯曲の総合的な主題(思想)はニーナとトレープレフの運命によって明らかにされる。 彼らは同じような運命を辿っているが、ニーナは生き残り、トレープレフは自殺する。 (C.332) ニーナにあった確信がトレープレフには無かったのだ。 個々で気がつくのは個人の才能についての言葉が、アルカージナの原則に拡大できることである。 彼女は幸せで満ち足りて安心している。なぜなら彼女は自らの才能を信じているから。 周りの人物と違い、彼女は戯曲の中で唯一人生に満ち足りた存在である。 この人生の充実や善良さは、恐らくニーナにも通じる部分であろう。 それがチェーホフがアルカージナを「模範的な」だとは考えていることでも ニーナの未来に明るさをもたらすことではないとしても。 チェーホフ作品における自らの行動に対する高き価値への内面的確信という概念は、常に狭い個人的な充足として定義される。 しかし、ここでは個人的な幸せについて語っているわけではない。 (C.333) 『ワーニャ叔父さん』ではアルカージナのようなタイプは、セレブリャコフとして登場する。 『ワーニャ叔父さん』では『かもめ』と同じように平凡な日常の中で、人生に満足できない苦しみが描かれている。 しかし、『ワーニャ叔父さん』は例外的に戯曲全体が静的である。 (C.334) 登場人物達の状況は何一つ変わらない。誰との争いもない。 ワーニャの葛藤は疑いようもなく、過ぎ去った時間にもたらされたもである。 (C.335) ワーニャは誰かと戦うことすら不可能である。彼の悲劇はセレブリャコフによってもたらされたものでも アーストロフによってもたらされたものでもない。 セレブリャコフを撃つのは、個人的なわびしさ、絶望感による忌ま忌ましさからである。(この部分が疑問) (C.336) ワーニャはアーストロフの存在によって際だっている。アーストロフも同じく自らの不必要さ、空虚さ、うんざりする人生を経験している。 しかし、彼はワーニャと違って冷静さを失ってはいない。 彼はエレーナに目をくらませることはない。彼は彼女が現在の空虚さを埋めてくれるわけでも 幸せにしてくれるわけでもないことに気がついているからだ。 彼は既に自らの人生の治療法を探してはいないのである。 そして、『ワーニャ叔父さん』でも『かもめ』のように忍耐について語られて幕を閉じる。 アーストロフにおいて、個人的な社会活動が、彼が自らの人生に耐えうることを可能にしている。 この点が、全ての情熱を人生で失ったワーニャとアーストロフの差である。 (C.337) 戯曲の中で幸せな存在は、感受性の鈍い、無神経なセレブリャコフとワーニャの母親だけである。 『かもめ』においても『ワーニャ叔父さん』においても、 (C.338-344) 三人姉妹の幕ごとの解説
https://w.atwiki.jp/chekhov/pages/56.html
チェーホフ作品の翻訳 〈全集〉 【翻訳】『チェーホフ選集』米川正夫(1949) 【翻訳】『チェホフ戯曲集』タカクラ・テル(1953) 【翻訳】『チェーホフ名作集』杉山誠(1956) 【翻訳】『チェーホフ戯曲集』神西清(1957) 【翻訳】世界文学全集28チェーホフ(1961) 【翻訳】決定版ロシア文学全集15チェーホフ(1970) 【翻訳】『チェーホフ全集』神西清・池田健太郎・原卓也(1976) 【翻訳】『チェーホフ短編集』原卓也(1988) 〈戯曲〉 【翻訳】『三人姉妹』湯浅芳子(1950) 【翻訳】『桜の園』湯浅芳子(1951) 【翻訳】『伯父ワーニャ』湯浅芳子(1951) 【翻訳】『かもめ』湯浅芳子(1952) 【翻訳】『桜の園』瀬沼夏葉(1913) 【翻訳】『桜の園・三人姉妹』神西清(1967) 【翻訳】『桜の園』小野理子(1998) 【翻訳】『ワーニャおじさん』小野理子(2001) 【翻訳】『かもめ』堀江新二(2002) 英語 フランス語 ドイツ語
https://w.atwiki.jp/ocg-o-card/pages/2699.html
part15-133 惨劇の戯曲 《惨劇の戯曲》 永続罠 自分が罠カードを発動する度、相手は500のダメージを受ける。 part15-133 物凄く悪さができそうな気がするカード。複数枚数発動は当たり前として、バーンデッキでは鬼のような強さを発揮しそうだ。 -- 鑑定人 (2007-08-17 00 36 43) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/oper/pages/1756.html
対訳(ラテン翻字版) ActⅠ 対訳(キリル文字版) ActⅠ rakuten_design= slide ;rakuten_affiliateId= 04a91095.52a5fed9.099b93b6.2566fa26 ;rakuten_items= ctsmatch ;rakuten_genreId= 0 ;rakuten_size= 200x600 ;rakuten_target= _blank ;rakuten_theme= gray ;rakuten_border= off ;rakuten_auto_mode= off ;rakuten_genre_title= off ;rakuten_recommend= on ;rakuten_ts= 1647918418817 ; 訳者より ピーター・シェーファーの戯曲で映画にもなった「アマデウス」(1979)の影響で、昔から噂されていた宮廷楽長サリエリによるモーツァルトの毒殺説、実はこれを遡ることおよそ150年、ロシアの文豪プーシキンが1830年にこれを題材とした戯曲を書いているのです。サリエリが亡くなってわずか5年後のことでした。 プーシキンの戯曲は言葉が詩的に綴られているからでしょうか、そのまま手を加えられずにオペラ化されるものがいくつもありますが、この台本も1898年、リムスキー=コルサコフによってそのままの台本でオペラ化されております。登場人物がサリエリ(バリトン)とモーツァルト(テノール)の二人だけで地味な心理劇となっていますので、華やかで幻想的な魅力のリムスキーのオペラにあってはあんまり人気のない作品ではありますが(皮肉にもシェーファーの「アマデウス」がうけた1980年代にちょっとだけリバイバルがあったようです)、「レクイエム」をはじめとしたモーツァルトのメロディの断片が織り込まれ、けっこう面白い作品になっています。 ロシアオペラは私の語学能力不足から手を出さない方針ではあったのですが、プーシキンのこの戯曲、お手本になる邦訳もいくつかありましたしそれほど長くなかったので、今年の対訳プロジェクト「モーツァルト祭り」をお祝いするため取り上げてみることにしました。この時代からモーツァルトの天才がこのように見られていたというのはとても興味深いことだと思いましたし。 この日本語テキストは、 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス の下でライセンスされています。@ 藤井宏行 Blogs on モーツァルトとサリエリ リムスキー=コルサコフ 《モーツァルトとサリエリ》 対訳完成
https://w.atwiki.jp/animesongs/pages/2663.html
モスラ 再現戯曲CDシリーズ1 モスラ 61 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 再現戯曲CDシリーズ1 モスラ 61(Amazon) 発売元・販売元 コロムビア 発売日 1996.12.21 価格 円(税抜き) 内容 プロローグ メイン・タイトル インファント島の謎 インファント島探検 小美人は日本に モスラの歌 モスラ目覚める モスラ日本へ インファントの娘 モスラ,日本に出現 モスラ進撃す! モスラの羽化 ロリシカ国へ エピローグ 備考
https://w.atwiki.jp/6war/pages/1378.html
概要 アルファ1525年、シーザルス国の作家バロックスの手によって発表された小説。後世になって戯曲などの作品となった。 蜉蝣時代では他の強国と比較して(比較的)取り上げられることが少ないロー・レアルス国の成立と滅亡を扱った叙事詩的作品である。戯曲版は小説版を48章に再編したものであり、後の作品ではこの48章構成が基礎となっている。 解説 蜉蝣戦記執筆当時は比較的資料が少なかったロー・レアルス国の内情が埋もれていた資料によって明らかになった後に作成された作品である。当時としては最新の歴史学的知見を取り入れた部分が大きいが、資料の一部は推測・創作によって補わざるを得なくなっており、このことに対して批判が寄せられることもある。だが、本作品を皮切りに対してロー・レアルス国の文献調査など歴史研究が進んだ面も存在する。 以下の4人が作品全体の主人公・準主人公として考えられている。後世の作品では、準主人公2人の片方(または両方)が語り部・ナレーターを兼ねることが一般的である。 登場人物 リヴァドル・ケイン 主人公その1。 本作品ではルディック城出身・655年生まれ。若い頃のロルズメナやケルスティンとは自宅や実家の職種が近かったため面識があったとされる。物語はこの3人にメファイザスを加えた4人を中心に展開していことになる。2回連続となる国主殺しに関わることとなった彼の行動原理については、「郷土愛(小説)」「立身出世欲(戯曲)」という2通りの説明があり、どちらの立場を取るかが作品によって分かれている。どちらの場合でも、最終的にはメファイザスと相互に信頼しあう関係となる。戯曲版ではルディックの陣を取り上げる第48回の前半で退場。 メファイザス・クルイア 主人公その2。 前歴など基本的な部分は正史と同じだが、本作品では謀略だけでなくその治世も取り上げられている。彼とリヴァドルをはじめとする諸将らとの会話が、物語の中では大きな役割を果たしている。また、正史と比較して一層慎重に行動しており、その慎重さが劇的な逆転勝利と自らの破滅の両方をもたらしたかのような描写が存在する。戯曲版では第46回で退場。 ロルズメナ・ガイア 準主人公その1。 本作品ではルディック城の商人出身。後に立身出世に目覚めてロー・レアルス国に仕官するが、ロードレア→ロー・レアルス→ベルザフィリスと所属国を転々とする辺りは正史と同じ。高齢になってからの仕官であったことを考慮し、最前線で戦う将軍ではなく、駐在武官のような「文官の仕事をこなす武官」として描かれている。ロー・レアルス国外の情勢を説明する際には、彼の視点が用いられている。 ケルスティン・ベルツェーリウス 準主人公その2。 リヴァドルを年上の相談相手として慕う官僚(実際にリヴァドルとここまで親しかったのかどうかは不明)。親バルディゴス派に属し、混乱したルディック国の改革と立て直しに意欲を燃やす。カルディスが国主だった時代には国内南部に「追放」されたとされている。そのような経緯があり、同僚であるメファイザスからカルディスに対するクーデターを持ち掛けられた際には、水面下でクーデターを支援していたように描写されている。 補足 レーション・ケルゲリアによる新しい人物評価が公開されてから後に作成された作品であるため、かつては人物像が明確ではなかったバルシオン・キルスやフェリシア・ファータも主要人物として登場している。 軍師同士の対決をメファイザス視点で描くことが多く、逆に武将同士の戦闘を描くことが比較的少ない。同時代を扱った小説・戯曲と比較して静的・知的で複雑な印象を受けることが多いと言われている。 小説版では、カルディス・メネグレアはレザベリアスで戦死している。だが、後世の戯曲などの作品では、レザベリアスの戦いを生き延びた後、重度の火傷を隠す為に仮面を被ったままルーディア・グラインの庇護を受けており、ルディックの陣の後も生き延びるなど「第3の準主人公」として扱われている。なお、最初にカルディス生存説を提起した脚本家は「ロルズメナだけでは同時期のベルザフィリス国の内情を説明できないため、ベルザフィリスの案内役を確保する為にカルディス生存説を用いる必要があった」と説明している。 関連項目 リヴァドル メファイザス ロルズメナ ケルスティン 蜉蝣戦記
https://w.atwiki.jp/oper/pages/462.html
対訳【楠山正雄 訳】 ActⅠPage1 Page2 アリアへジャンプ! エレクトラのモノローグ エレクトラとオレストの再会 フィナーレ 全曲(動画対訳) → ショルティ指揮(全曲)はこちら オレストとの再会(動画対訳) 資料 戯曲版とオペラ版の間(関根裕子) 管理人より 対訳はベーム盤のカット箇所をグレーの文字色で表示しています アリアへジャンプ!はライナー盤の抜粋箇所へ飛びます 楠山正雄訳について 楠山正雄の著作権保護期間は2000年12月31日で終了しています。 底本はこちら所収のホフマンスタール「エレクトラ」を使用しました。「近代劇大系第7巻」(近代劇大系刊行会:大正14年9月)「世界戯曲全集第20巻」(近代社:昭和3年2月) 「エレクトラ」オペラ化にあたってホフマンスタールは(おそらくリヒャルト・シュトラウスの求めに応じて)、オリジナルの「エレクトラ」戯曲版に対して、章句の削除や前後の入れ替えを行っています。楠山訳に同様の変更を加えました。 また、ホフマンスタールは「エレクトラ」終盤にかなりの加筆をしています。底本はオリジナルの「エレクトラ」戯曲版を翻訳したものなので、リブレット対訳を制作するためには楠山訳には欠落している部分を埋める必要がありました。欠落部分はオレンジ色で表記し拙訳をあてました。翻訳エンジンで英訳したものを日本語に重訳しています。そのためたくさんの誤訳が残っている可能性があります。オレンジ色部分についてドイツ語に通じている方の修正を期待しています。いたずら防止のため「メンバーのみ編集可」の状態になっています。 メンバー登録 (自動承認)のあと修正をお願いします。楠山訳部分も含め訳し直したいという場合、こちらのテンプレートをご利用ください。 旧仮名遣いの多くは現代仮名遣いに改めました。現代とは異なる用法の送りがなの多くは、現代人にも読解可能と思われる限り、原文のままとしました。当用漢字表にない漢字も同様に、読解可能と思われる限り、原文のままとしました。 いくつかの文言を改編しました。 Blogs on エレクトラ シュトラウス《エレクトラ》全曲 ベーム指揮 YouTube動画公開 YouTube 収益化作戦(10)《エレクトラ》他 動画対訳十周年「エレクトラとオレストの再会」YouTube動画公開 R. シュトラウス 《エレクトラ》抜粋 ショルティ指揮 YouTube動画公開 追悼インゲ・ボルク《エレクトラ》抜粋 YouTube動画再公開 R. シュトラウス 《エレクトラ》 全曲 ショルティ指揮 YouTube動画公開 シュトラウス 《エレクトラ》(楠山正雄訳)対訳改訂完了 → ブログをもっと読む
https://w.atwiki.jp/kuizu/pages/2370.html
いのうえ- 自作 書き下ろし戯曲が公演に間に合わないことも多かったため自ら「遅筆堂」を名乗っていた、 代表作には第67回直木賞を受賞した『手鎖心中』などがある 2010年4月9日に肺癌によりこの世を去った作家・戯曲家は誰でしょう? (2011年1月6日 瓦礫 ) タグ:2010年故人 学問・その他 Quizwiki 索引 あ~こ
https://w.atwiki.jp/asato/pages/366.html
端的にいえば、社会に必要な「コミュニティー形成力」を演劇は持っている。それが演劇の持つ力だと思います。 人間は本来価値観がバラバラで、同じ言葉でも、実際に受けるイメージは一人ひとり異なっています。同じ物を見ても、全く違うイメージを感じ取っているわけです。そういう、本来バラバラな人間が集まって、短期間に何かを作り出すということに関して、演劇はある種の知恵やノウハウを蓄積してきたのです。 言い換えれば、演劇はコンテクスト、つまり文脈を摺り合わせるための知恵、ノウハウを提供することができるのです。 人間はそれぞれ、多様な出自や価値観があって、同じ言葉を使っていても同じ意味で使っているとは限らない。合意を形成するためには、インプット(感じ方)はバラバラでもいいのだけど、アウトプット(表現)は統一しなければいけない。そこに何かのノウハウがあるんですね。 コミュニケーション力を引き出す?, p.19 演劇の観客は、実は、「イメージの共有のしにくいもの」が観たいのです。縄跳びのように、誰もが経験しているもの、ありきたりの動きでは、観客はすぐに飽きてしまいます。観客は、普段見ることのできない、経験したことのない、ゆえにイメージの共有のしにくいものを欲します。 私は、観客が一番観たいもの、そして一番イメージの共有のしにくいものは、人間の心の中だろうと考えています。 私たちは、普段、他人の心の中を見ることはできません。家族や恋人でさえも、本当の気持ちというのはよく分からない時が多くあります。 しかし、優れた演劇や映画に出会うと、主人公の気持ちが痛いほど分かるということを私たちは経験しています。「あぁこの人、本当に悲しいんだろうな」とか「たしかに人間は、嬉しい時にこうなるな」といった気持ちになることも多いでしょう。こうして登場人物の気持ち、心の中が、直接的なイメージとして観る側に伝わった時に、演劇的な感動が起こります。私たち演劇人は、多くの場合、この感動を目指して作品を創ります。 演技と演出?, pp.37-38 本文中でも繰り返し触れてきたように、「演出する」ということは、自己を把握し、自己を操作して、自己を演出すること(=演技)と、他者とのイメージを共有すること、あるいは、他人同士のイメージの共有を手助けすることの二つに分かれます。 この二つの事柄は、まったく異なった方向を向いていながら、不可分のものです。(後略) 演技と演出?, p.219 喜劇、演劇的な笑いは、人間的なものが、社会的なものに浸食してきた時に起こります。先ほどの例で言うと、机の周りで真面目な話をしているところに、久保君の恋愛話が持ち込まれるので、面白くなるのです。これが、内部でも恋愛の話をしていたのでは、効果が出ません。 私たちはよく、「タキシードを着た紳士がバナナの皮で滑ると面白い」と言います。タキシードを着た紳士は、社会的な存在の象徴です。しかし、どんなに威張っている人でも、社会的な地位の高い人でも、バナナの皮の上にのれば、物理的に滑って転ぶのです。ここに私たちは、人間存在の滑稽さを見いだします。 演技と演出?, p.167 実は、悲劇も同じような構造を持っています。シェイクスピアの『リア王』は、王様という社会的な存在の頂点に立つものが、家族というもっとも人間的な要素の一つに足元をすくわれる話です。ですから、この社会的なものに、人間的なものが浸食してくる構図というのは、すぐれた演劇全体に共通する構造と言ってもいいかもしれません。 演技と演出?, p.169 演劇は、ある人間が、他の人間と出会ったり、運命と直面したりして、人間的に成長したりダメになったり、その変化を描く時間芸術です。ですから、この変化のための適切な刺激を見つけられれば、演劇は成功します。すぐれた演出家は、みなこのさじ加減を会得しているのです。 演技と演出?, p.165 しかし、劇場はしょせん劇場で、演劇は、「虚構=フィクション」でしかありません。童話『裸の王様』と同じで、私たちがいくらしゃかりきになって素晴らしい舞台を創り上げても、子どもがトコトコとやってきて、 「なんだか、おじさんたちは一生懸命やっているけど、ここは劇場じゃないか」 と一言言ってしまえば、それで積み上げてきた虚構も夢も崩れていくはかない仕事です。 けれども、それでも私たちは、たまさか優れた演劇作品に出会うと、そこが本物の砂漠以上の砂漠に見えたり、見たこともないくせに、「あぁ、大宇宙とは、きっとこのようなものだなぁ」と納得してしまったりします。 それが芸術の力というものでしょう。 演技と演出?, pp.32-33 ただし、演劇では、そのようなリアルの感覚をもたらすためには、まず舞台上で「イメージの共有」が行われていなければなりません。演劇は集団で行う芸術なので、そこが難しいところです。 演技と演出?, p.32 こう書くと、「でも、それは、演出ではなくて、『演技』でしょう」と考える人が多いと思います。たしかに、俳優は自分自身を演出し演技をします。ですから、俳優にとっては、この二つの境界線は曖昧です。では、自己を演出することと、他者を演出することには、はっきりとした違いがあるのでしょうか? 演技と演出?, p.9 私があえて、この本はハウ・ツー本だと言いきるのは、演劇を技術として語る習慣が少ない日本の演劇界の現状に対して、多少なりとも異を唱えたいという気持ちがあるからだ。だから、ここで言うハウ・ツー本とは、すなわち隠されてきた技術の蓄積の言語化という意味だ。 演劇入門, p. 4 おそらく、私のこの戯曲創作作法も、「ダメな戯曲」の理由を検証するのには、適した方法なのだろうと思う。こうして、ダメな戯曲を書かないための基本的な概念を系統立てて学ぶことによって、「いい戯曲」を書ける確率を高めていこうというのが、私の講座の基本的な考え方だ。戯曲の書き方を教えるというのは、本質的にこのような方向でしか考えられないものなのではないだろうか。いい戯曲の書き方は教えられないかもしれないが、悪い戯曲を書かない方法は教えられるはずだ。 演劇入門, p. 81 だが本書の目的は、あくまで、多くの観客(それが仮想のものであっても)が、「リアル」と感じるものは何かを探り当てる点にある。 「リアル」は人それぞれだと漠然と言い放つのは、たやすい。だが、それでもより普遍に近い「リアル」はあるのだ。少なくとも、多くの人がAよりBをリアルと感じる、その差異は明確にできるはずなのだ。私がいま見極めたいと思うのは、その差異の根拠である。 演劇入門, p. 24 プロットを作る時には、まず最初に誰がその場にいれば面白いかを考える。次に誰が入ってくれば楽しいか、あるいは、誰がその場にいると都合が悪いか。それらの点だけを考えて、人の出入りの順番を決めていく。 演劇入門, p. 90 演劇作品を創るという作業は、化学や物理学の実験に似ている。この喩えに従えば、私にとって演劇における戯曲の役割は、実験を行うための作業仮説にあたる。 戯曲には、劇作家の見ている世界の見取り図が描かれている。「おそらく私はこのように世界を見ているのだろう」「おそらく私は、このように人間というものを捉えているのだろう」という、劇作家にとっての概念図のようなものだと言ってもいい。 Aという人間がいる。そこにBという人間が入ってくる。Bが入ってきたことによって、Aはどのように変化するか。BはAと出会ってどのような反応を示すか。その変化や反応の過程についての仮説を書き記していくのが劇作家の仕事である。私がここまで記した戯曲創作の過程も、そのような筋道をたどってきたのではないかと思う。 演劇入門, p. 170
https://w.atwiki.jp/chekhov/pages/132.html
『チェーホフと現代』ラドガ出版社、1983年。 論文集、ソヴィエトの研究者や演劇関係者達の論文が収められている。 執筆者の面々を見ると蒼々たるメンバーである。 特にビャールイの論文が日本語で読めるのは嬉しい。 〔目次〕 日本の読者に パペールヌイ チェーホフの創造遺産と現代世界 ベールドニコフ 第1部 本物のチェーホフと贋のチェーホフ チュコフスキイ チェーホフを読み返して エレンブルグ チェーホフについて一言 リージン チェーホフの長編小説 ボンダレフ 『三人姉妹』1965年 ゾーリン 第2部 戯曲『三人姉妹』の稽古 トフストノーゴフ 遺産の運命 エフレーモフ 第3部 芸術家の独自性 フラプチェンコ チェーホフの芸術的方法について ビャールイ 生活のドラマ(戯曲『桜の園』について) セマーノワ 才能とは何か エルミーロフ トルストイ・チェーホフ・モスクワ芸術座 ロムノーフ 未来の目次 パペールヌイ 散文とドラマトゥルギーにおける出来事の発展 ポロツカヤ 詩学の特徴(チェーホフとツルゲーネフ) シャターロフ 「彼の音楽がとても好きだ」 バラバノヴィチ 読者の目で サーハロワ トルストイのお気に入りの短編小説 ラクシン 『桜の園』の誕生 トゥルコフ ディテールの役割 ゲイデコ チェーホフの短編小説における風景 フォルトゥナートフ チェーホフとモスクワ芸術座 ストローエワ ロシアのハムレット(『イワーノフ』とその時代)シャフ=アジーゾワ 『三人姉妹』1940年 トゥロフスカヤ 戯曲の生命 マリューギン 大文字で始まる現実 ソロヴィヨワ