約 2,611 件
https://w.atwiki.jp/toho_yandere/pages/1495.html
し永遠に生きられるようになったら自分ならどうする?ってことで書いてみた タイトルは同名の不条理SF短編から リスの檻 薬を飲んで、僕はあてがわれた部屋で布団にくるまる。 僕が永遠亭に囚われてどれくらい経ったかわからない。 「胡蝶夢丸」 飲むことで、好きな夢を楽しむことができる薬。 僕はこれを毎夜服用しその夢を戯曲に書き、生き延びていた。 ある時だ。 紅い目をした薬売り兎が外来人長屋にやってきた。 兎が言うには、自分の主が僕の戯曲のファンで食事に招待したいとのことだ。 正直、ここの生活水準は低い。 僕は承諾した。 食事は贅を尽くしたものだった。 海のない幻想郷では食べられない海産物も多くあり、僕は勧められるまま酒を飲み食べた。 やがて気がつくと、自分が窓一つない場所に囚われていることを知った。 永遠亭の主である蓬莱山 輝夜は言う。 あなたは永遠に私の為に戯曲を書くのよ、そのために必要な「処置」はしてあるわ、と。 僕は何度も逃げようとした。 だが、人里の方へ逃げ出そうとしてもその場所には人里はなかった。 非力な人間である僕は彼女の元へ戻るより他ない。 人里への道は間違っていない ではなぜ、人里はなかったんだ? 高々三日しかたっていないはずだ もしかしたら、僕が知らないだけで何千年も過ぎているんじゃ? 幾ら考えを巡らせても答えはない。 あの女に尋ねる?嫌だ。 もし本当だったら? きっと僕は壊れてしまうだろう。 籠の中の鳥である僕には夢の中にしか、自由はない。 「と、いう作品なのですが・・・」 「却下。自分語りは萎える。エロが足りない!バイオレンスが足りない!何よりも速さが足りない!!!」 「とはいいましても・・・・」 「何?私が身体を張って貴方の取材に協力してあげているのにまだ足りないっていうの?永琳例のヤクを・・・」 「媚薬か?!」 「性転換薬よ!ヤるよりヤられる方が濃厚な描写ができるでしょ?」 「そんな・・・・嘘だろ・・・・」 そして・・・ 「アッーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」
https://w.atwiki.jp/oper/pages/1234.html
目次 アルバン・ベルクのオペラ 「ヴォツェック」を訳し終えて このオペラの素材 ゲオルグ・ビューヒナーと戯曲のモデル、ヴォイチェク 戯曲ヴォィチェクに用いられた言葉 ベルクの台本つくり オペラ・ヴォツェックの音楽の特徴 言葉に音を付ける作業 ドイツ語から日本語へ ― 訳注に代えて まとめ アルバン・ベルクのオペラ 「ヴォツェック」を訳し終えて 「ヴォツェック?あの、暗らーいオペラ?」 というのが、アルバン・ベルク作曲のこのオペラに対する、一般的なリアクションである。確かに、このオペラのストーリーは救われようのないほど暗い。登場人物の衣装には汗の匂いが染み付いていそうだし、おまけに音楽は不協和音だらけで、メロディーを捉えることのできるだけの長さを持つアリアもない....。にもかかわらず、なぜこのオペラが、いわゆる現代音楽作品の中の傑作として、(実際には、現代どころか、もうそろそろ100年近い昔に書かれた音楽になってしまったのだが、)現在もまだ、ヨーロッパ、特に、ドイツ語圏のオペラハウスで、かなりの頻度で上演されるのだろうか? ― ということは、このオペラを見たい観客がいるということなのだ...。なぜ?この答えを見出すために、テキストに関してだけではなく、このオペラ全体について、しばらくの間考えてみたい。 このオペラの素材 単純に言えば、裏切った恋人を刺し殺してしまうというパターンのオペラ、たとえば、カルメン(1875初演)、オテロ(1887初演)、レオンカヴァッロのパリアッチョ(1892初演)、プッチーニの外套(1918初演)など、一連の作品の流れを追って出てきたのが、このオペラである。(ヴォツェック:1925初演)。オテロ以外は、いわゆる下層階級に属する人々の間で起こった出来事であり、オテロも含めてすべて三面記事的な事件である。作曲家達の興味を引いたのは、偏に、人間の激しい情動の表現であったと思われる。だが、ベルクの場合には、事はそこで終わっていない。 ベルクがこのオペラを書く決心をしたのは、早逝のドイツ作家、Georg Büchner(ゲオルグ・ビューヒナー:1813-1837)の戯曲 「Woyzeck」(ヴォイチェク)のヴィーン公演(1914年)を観てのことであった。ビューヒナーが、彼の死の前年(1836年)に手をつけ、未完のまま残した27章の断片からなるヴォイチェクは,その後1879年オーストリアの作家Karl E.Franzosの手によって編集され、修正が加えられ、主人公の名も、Wozzeckと変えられて出版された。アルバン・ベルクが用いたヴァージョンは、その後さらに1909年、Paul Landauによって場面構成が変更されたものである。演劇「ヴォイチェク」は1913年ミュンヘンで初演され、爾来、ドイツ語圏の各地で成功を収め、その後、映画化もなされた。演劇「ヴォイチェク」は、現在もなお、ドイツではしばしば上演され、原作の戯曲は、学校の教材としても用いられているほどである。これほど有名な作品なので、ベルクのオペラの台本に関する本題に入る前に、ビューヒナーと「ヴォイチェク」についてもう少し詳しく述べてみたい。 ゲオルグ・ビューヒナーと戯曲のモデル、ヴォイチェク 後世、詩人、戯曲家として、世に知られるようになるゲオルグ・ビューヒナーは、1813年ドイツ、ヘッセン地方、ダルムシュタットの近郊ゴッデラウの医者の家に生まれ、ギーセン大学で医学の勉強を始めた。彼はまた、歴史にも大いに興味をもち、隣国フランスに起こった七月革命(1830年)の推移をつぶさに調べるうちに、これを背景にした戯曲 「ダントンの死」(1832年脱稿)を物した。(この戯曲は、Gottfried von Einem によってオペラ化され、1947年初演された)。ビューヒナーの学問的興味はその後哲学と自然科学に移り、医学の勉強は止めてしまうが、バルブス(鯉の一種)の神経系統に関する研究で、チューリッヒ大学の博士号を得る。だがそれに先立つ1836年、当時のドイツの若者達の間に起こった、自由革命の気運を扇動するビラに執筆したかどで、官憲に追われる身となり、フランスを経由、スイスに逃れ、チューリッヒ大学で脳神経に関する講義をすることとなった。だが、チフスに罹り、1837年、わずか23歳の若さで没した。 ビューヒナーの最後の作品となった「ヴォイチェク」の題材となったのは、1780年、ライプチッヒ生まれの男、Woyzeckが起こした殺人事件であった。この男は、北ドイツのハンブルクへ行ったり、一時は州兵として雇われたりもしたが、定職のない、いわゆる流れ者で、酒飲みであったが、1821年、自分よりも五歳年長の愛人を刺殺してしまう。殺人の直接の動機は、彼が落ちぶれて行く一方であることに嫌気がさした愛人が、他の男性に気を移した為といわれている。殺人罪で裁判にかけられた彼は、心神耗弱の疑いで精神鑑定なども受けた。しかし結局のところ有罪と認められ、1824年、ライプチッヒの町中で、大勢の見物人の見守る中、断頭の刑に処された。 ビューヒナーはこの事件を骨子とし、その後、彼の居住地に近いダルムシュタットの町などで起きた他の、二、三の殺人現場の記述などを素材として、戯曲を書き始めたのだった。彼は、ヴォィチェク事件を、単なる嫉妬による殺人事件としては取り扱わず、妻子を養うための金を得るための生体実験や、嫉妬の苦悩、周囲の嘲りのために不安定になってしまった犯人の精神状態や、当時の、底辺社会の人々には突き破ることが不可能だった、階級社会の差別の壁の存在をドラマの鏡に映し出し、その悲惨さを、社会の良心に訴えようとしたのだった。 戯曲ヴォィチェクに用いられた言葉 上に述べたような目論見から、ビューヒナーは、登場人物の属する階級が、その会話に用いられる言葉によっても明白になるよう、ヴォィチェクや、マリー、アンドレス、マルグレート等には、彼の時代(19世紀前半)の下層階級の人々の話し言葉の特徴 - 主語や動詞の省略が行われ、センテンスが短いこと - や、ヘッセン地方の訛りなどを取り入れ、 医者と大尉には、文法的に、まともな言葉を喋らせた。医者の場合は、その上に医学用語を使わせることで、彼の優越感を強調している。(因みに、ヴォィチェクに出てくる博士には、ギーセン大学のある教授がモデルにされたと言われている)。実際の学問などないくせに、あるように見せかけたい人物というわけで、大尉には、「モラルとは、道徳的なことだ」 などと、言わせている。また、半ば狂いかけているヴォィチェクの言葉には、いくつかの、聖書からの引用があり、日没時の野外で、アンドレスと共にひこばえを切り取っている彼を襲う幻想は、最後の審判の情景が下敷きとなっている。その他、兵舎で祈る場面等においても、下層階級に属してはいても、ヴォィチェクが神をおそれ、聖書の言葉を常に心の中で反芻している、敬虔な人間であることが強調されている。酔っ払った職人の徒弟の演説の言葉にも、切れ切れではあるが、聖書からの引用が含まれており、大尉のしきりに使う、「善い人間」という言葉も、聖書の中で、キリストを評する人々の言葉として用いられているのである。これら聖書から借用されたフレーズは、とりもなおさず、登場人物たちが生きていた、まだ多分に宗教色の濃かった時代を反映しているのである。 ベルクの台本つくり ベルクは、1915年にオペラ・ヴォツェックの創作に取り掛かった。今日、戯曲の上演の際、一般に用いられている「ヴォィチェク」の台本は、Werner R. Lehmannの編集によるものであるが、これには27のシーンがあり、28人の台詞のある人物と、その他大勢が登場する。しかし、ベルクは、これらを15の場面と、11人の台詞のある人物と群集に集約した。たとえば、第一幕のマリーの隣人のマルグレートは第三幕の酒場の場面にも登場するが、戯曲では、後者は、ケーテという別の女である。ケーテと言う名前は、オペラでは最終場面の子供の一人に用いられている。ヴォツェックが溺れ死ぬ場面で、池の傍を通りかかるのは、戯曲では単に、通行人1、通行人2、となっているが、ベルクは、医者と大尉を、ここで再登場さすことで、ストーリーの完結度を高めている。彼らが溺れる人間を無視することで、ベルクは、彼らの個性の卑劣さを強調すると同時に、彼らの属する上層社会の冷淡さをもあからさまにしているのである。また、ベルクが、ドラマを15場面に制約したときに省かれたシーンには、ヴォィチェクとマリーが見世物小屋に入るしーン、ヴォィチェクがユダヤ人の店でナイフを買うシーン、うつけがヴォツェックの子供をあやすシーン、医者が学生たちに講義を行い、ヴォィチェクを実験動物のように扱うシーン、マリーの殺害を決心したヴォィチェクが、自分の僅かな身の回り品を整理するシーン等がある。また、マリーが子供に聞かす、親の無い子の話は、戯曲では、ヴォィチェクの母親である、子供の祖母によって、メルヘンとして語られるのであるが、ベルクはこの母親の存在を除去した。これらの取捨選択により、ベルクはドラマの緊張感をより一層高めることに成功している。会話の妙を楽しむわけにはいかないオペラにおいては、ドラマの進行するテンポ=緊張感が、(特に、現代にあっては)オペラの成功に大いに関係するのである。 さらに、ベルクは、戯曲で用いられている言葉のうち、20世紀初頭にはすでに廃れて、観客には理解しがたいと思われる表現を、別の言葉に置き換えた。(例えば、第二幕第二場、医者が大尉のことを、 からかって言う、「Exerzizengel」(教練の天使)は、戯曲では、「Exerzierzagel」(教練の尻尾)であった。「尻尾」というのは、18/19世紀の軍人達が、髪の毛を編んで、後ろにたらしていたからである。)また彼は、あまりにも口汚いののしり言葉などは切り捨てている。彼の師、シェーンベルクがユダヤ人だったことにもよるのだろうが、民族差別的な台詞も取り除き、なおかつ、当時、演劇では許されていても、オペラの舞台にはふさわしくないと考えられた、表現をも避けている。この典型的な例としては、第一幕第四場で、医者が、ヴォツェックに「お前また、咳をしたな!」と言うくだりである。これは、戯曲では、「お前また、立小便したな!」 となっている。(これは、近年の演出、例えば、Patrice Chereau の演出では、またもとの、「立小便」 に戻,されている。)したがって、腎臓という名称は、横隔膜に取り替えられた。(20世紀初期のドイツ語圏のオペラの舞台で、排泄に関する言葉はタブーに近かったらしく、例えば、マダム・バタフライのオペラに登場する、ピンカートンという名前は、ドイツ語の「排尿する」という動詞を連想させるため、ドイツでの上演では、リンカートンと変更された。) また、第二幕第二場、医者と大尉の会話の中で、ヴォツェックが、かみそりの刃のようだと形容され、「大学中の髯面を剃らねばならないように急いでいる」と揶揄されるところでは、戯曲では、ヴォィチェクが 「一連隊の去勢男の髯を剃らねばならぬかのように」となっている。だが、去勢された男に髯の生えるわけは無いので、ヴォィチェクは、こんな風に馬鹿にされ、からかわれているのである。ベルクは、そこまでヴォツェックを貶めるにしのびなかったのであろう。このような意味での、テキストの変更は他にもあるが、これ以上は省略する。 その他、第一幕第三場で、マリーが楽隊に合わせて調子をとるときに言う、Tshin、 Bum, Thin,Bum は、戯曲では、「さ、ら、ら、ら」と、なっていて、、ベルクのチン、ブン、チン、ブン、の方が遥かに、楽隊に適当な音である。これらの変更はたとえ些細なことであっても、ベルクの言葉に対する敏感さを示している。一般には、ベルクがビューヒナーの戯曲をオペラの台本にする際、それほど大きな変更は行わなかったと言われているが、これらの細部における変更や省略まで視野にいれると、彼がこのオペラの台本を作成するのに、二年もの長い年月を費やしたのは至当と思われる。もっとも、その間(1915-1918)彼は軍務に服してもいたのだが。ベルクがこのオペラの作曲に要したのは四年で、1921年にヴォツェックは完成された。 オペラ・ヴォツェックの音楽の特徴 ベルクは、1908年頃より調性を破棄したシェーンベルクの弟子として、ヴォツェックを、第三幕の終場面の前の間奏曲を除いては、(ここでは調性をも一つの形式として取り上げている)いわゆる無調音楽として書いた。一部(例えば、第一幕第四場)には、やがて、シェーンベルクの「十二音技法」として知られるようになる、十二音からなるテーマさえ用いられている。しかし時として、ベルクは、彼の多分にローマン派的な感性が、調性的な和音の響きとなって露出してしまうのを抑えきれない。(これは、訳者にとっては、むしろ「喜ばしい」 ことなのだが。) ベルクがこのオペラの場面のそれぞれに、いくつもの異なった音楽形式を用いたことは、彼の作曲技法を分析する上では非常に興味があるのだが、ここでは深入りしない。ただ、ベルクが、これまでのオペラの歴史によって聴衆にすでに馴染みである、ドラマの状況、シーンの雰囲気や人物の心理とその推移を、調性とその展開によって描写する方法を放棄したため、また、オペラ全体の調性による統合をも放棄したため、その代替物を手に入れる必要に迫られたことは、記憶にとどめておきたい。代替物として彼が目をつけたのは、伝統的な音楽の要素の一つ、形式であった。ベルクは15のシーンのそれぞれに、一個以上の、多くは、非常に短縮された形での音楽形式を選択したのであったが、その際、舞台で進行するドラマの内容に最もふさわしいものを選ぶことに腐心した。例えば、大尉が、(彼の感覚によると)鼠のように駆け回る風を話題にするときには、ジーグが選ばれ、ヴォツェックの「固定観念」が、出てくる医者とのシーンには、オスティナートのテーマを持つパッサカリアが用いられる、といった具合である。マリー殺害のシーンは、「一つの形式」として扱われたH音に乗って繰り広げられる。このH音には、ハ長調の音階の最後の音として、死を象徴するという伝統がある。このように、ベルクは調性は放棄したものの、別の方法で音楽作品の伝統を生かす手段を講じたのであった。 これらの、形式によって一定のフレームを与えられた各場面を、場面の転換音楽として、間奏曲や後奏曲でつなげてゆくことで、ベルクは、オペラ全体に構造的な安定性を与えようとした。(私見ではあるが、このように、それぞれ異なる形式が次々投入されることで、原作が、「断片」 であることまでもが、音楽的に表現されていると、解釈することもできるのではないだろうか?) ただし、ベルクは、自分自身でこのオペラの複雑きわまる形式の解説(Die musikalische Formen in meiner Oper Wozzeck” in der “Die Musik” XVI/Mai 1924) を発表しながらも、「このオペラを観るときには、こんなことは全部忘れて楽しんでください」と、言っている。 言葉に音を付ける作業 ローマン派以降のオペラの作曲家にとっては、「言葉と音楽をいかにマッチさせるか」ということは、非常に重要な問題であった。それがどんなに作曲家を消耗させる仕事であるかは、作曲家と、いわゆるリブレティストの間の果てしない書簡交換、協議、時にはこの二者の喧嘩別れにまで至る経過が、作曲家達の伝記の中に語られているのに出くわすことでも判る。筋書きも歌詞も、全部自分で書いた方が良い、と考えたWagnerの気持も理解できるというものだ。 ビューヒナー原作の「ヴォィチェク」は、リアリズム派の演劇と呼ばれているが、ベルクのオペラ「ヴォツェック」は、通常会話やモノローグのリアリズムと、歌唱メロディーやリズムとの融合において、また、器楽音楽による登場人物の解剖的な心理的描写において、リアリズムの範囲を遥かに超えており、彼の師シェーンベルクのPierrot Lunaire (月に憑かれたピエロ :1912年)がすでに示しているように、いわゆる表現主義の域に入っている。会話以外の部分には、民謡(マリーの子守唄、アンドレスの狩人の歌、マルグレートのシュヴァーヴェン地方の民謡、ヴォツェックの酒場の場面での歌、輪舞のわらべ歌など)も引用されているが、これらはいずれも、表現主義的にデフォルメされている。また、このオペラには、ほぼ同時代に作曲された、イタリアのヴェリズモオペラには、れっきと存在している、アリアに相当する部分がない。ヴォツェックの「自分等貧乏人は」は印象的ではあるが、アリアに発展することなく終わってしまう。、第二幕第一場のマリーの子守唄を含む比較的長い歌唱部は、アリアに近いといえよう。しかし、器楽音楽の形式であるソナタ形式の中に、がっちりと嵌め込まれている以上、これを正式のアリアとは呼ぶわけにはいくまい。人声が心地よげに歌い、それを器楽が伴奏するという、従来のアリアから、彼は、なんと遠くへ来てしまったのであろう! ドイツ語から日本語へ ― 訳注に代えて 第一幕、第一場、ヴォツェックの答えに対する、大尉の、Wenn ich sage ”Er”,So mein ich “Ihn”,“Ihn”を、訳者は、「俺が、彼というときには、神のこと(を指しているん)だ」と訳した。Er は十八世紀には、目下の者に向かった蔑称として用いられたが、それよりさらに遡った時代には目上の者に対する敬称であった。大尉はヴォツェックとの会話において、お前の蔑称としてこれを用いているが、訳者は、昔の日本の軍隊で常用されていた「貴様」という言葉をこれに当てた。ところが、大尉がヴォツェックの返事を咎めるところで、突然、Erに、引用符がつけられる。(オリジナル戯曲のテキストでは括られていない) ベルクがつけたのであろうと、訳者は推測した。なぜ?Er (彼) が、古い聖書の中では神を指すために用いられていることを思い合わせると、ベルクがこの ”Er“ を神と読ませ、神の言わんとすることは、「私を混乱させる」と、この、えせモラリストの大尉に言わせたかったのだと、訳者は推測したのだ。なぜなら、大尉のこのフレーズに先立つヴォツェックのフレーズで、彼が「大尉殿、神様は...」と歌いだすとき、Gott(神)の語は、二部音符のC(ハ)音(十六世紀より、ヨーロッパ音楽の音システムの中心音として認められてきた音)に乗せられており、次に大尉が、俺の言う“Er” は ”Ihn“、”Ihn”(彼、彼を)指すんだ」と、ヒステリックに叫ぶとき、二度目“Ihn”は、アクセント記号で強調された二オクターヴ上のC音上で響くからである。言葉通り、「おれが”貴様”といったら、”手前”、手前”のことだ」と訳しても差し支えは無いのだが、オペラにおける楽音と言葉の関連性を私は尊重したい。 上の大尉の言葉に続いて始まる、有名な台詞「自分等は貧乏人...」では、金が無いために教会の祝福を受けることなしに、即ち正式に結婚できずに、マリーと同棲している現状をヴォツェックが訴えるのであるが、実際、1825年当時ヘッセン大公の軍規によれば、だだの兵隊が結婚を希望するときには、600グルデンの財産があることを証明しなければならなかったとのことである。(この項、Wolfgang Buehnemann、Woyzeck、2011、P.73) 第一幕、第二場、原っぱでヴォツェックとアンドレスが切り採っている、Stöcke はここでは、細長い鞭状の小枝を指すと考えられる。柳などの「ひこばえ」は1m-1,5mぐらいになると切り取られて籠を編む素材となり、また、籠状に編んだ物の中に土砂を詰めて塹壕や堡塁、堤防などの補強をするのにも用いられた。マリーの「大尉殿の為に」という言葉は、これらの良く撓る「ひこばえ」が鞭としても用いられたことを思い起こさせる。 また、「三日三晩あとには、そいつが鉋屑に乗かっていた」 というのは、昔は、死人を棺に入れるとき、頭の下に鉋屑を敷いたからである。 第一幕、第三場、マルグレートがマリーに悪態をつくときに、Sie guckt sieben Paar lederne Hosen durch! という。これは、直訳すると、「あんたは、七枚の皮のズボン(民族衣装として、現在でもババリア地方に残っている)を透して見るんだから!」となる。このフレーズは、元は単に鋭い目を喩えたものであったが、何時の頃からか、やたらに物見高い者のことを指すようになったと、戯曲ヴォィチェクのテキストの註釈の一つに記されているが、皮ズボンという対象物の持つ、性的な象徴性を考えれば、直訳のままにしておいたほうが適当だと思われる。ベルクによってカットされた見世物小屋のシーンでは、一人の下士官が、マリーに目を留めて、(すげー女だ、七枚の皮ズボンを透して見る女だ)と独りごちし、彼女を最前列に押し出してやる。この下士官も、彼女の情人の一人となることを暗示しているシーンである。第二幕第二場で、大尉がヴォツェックに、「下士官か、鼓笛隊長か」と、マリーの不実を仄めかして痛めつけるのは、ここから来ている。 第二幕、第二場の、医者と大尉の会話のはじめの方で、「四週間のうちに死ぬ女がいる。子宮癌だ。」 と医者が言い、その後で、「おもしろい標本になるんで」、と訳した箇所があるが、このテキストには、主語が無い。ところが、戯曲にはちゃんと主語があって、それは、Sie (彼女) なのである。また戯曲では、「女は妊娠七ヶ月」 で、 「四週間中に死ぬ」 と、医者が言う。それで、「彼女はおもしろい標本(Preparat)を提供する」 というわけである。 第二幕、第四場で出てくるNarr は、一口に言えば、あほうのことだが、このオペラに出てくるNarrは、からきしの馬鹿でもなさそうなので、うつけ者とした。(阿呆、馬鹿、白痴、精薄、今日の日本ではすべて禁句だそうだが、では、ドストエフスキーの「白痴」は、なんと訳せばいいのだろう?) 第三幕、第二場、ヴォツェックが、マリーを殺害するつもりで池の端にさそい、「もう引き返せないところまで来たしまった」と訳したが、これは直訳すると、「お前も遠いところまで行ってしまった」、となる。遠いところまで行ってしまうとは、ドイツ語では、モラルなどの基準を乗り越えてしまうことを指す。ヴォツェックは、二人が町外れまで歩いてきた事実に、このことをダブラせているのだが、マリーはその真意に気が付かない。 第三幕、第五場(最終場面)、子供達が歌いながら手をつなぎ、輪を描いて遊んでいる場面である。日本の「かごめかごめ、籠の中の鳥は。。。」と同じような遊びである。単純なわらべ歌のメロディーは、ここでも、ベルクによって、大いにデフォルメーションされている。この遊びに用いられる歌詞は、時代により地方により、何百では利かないぐらいのヴァリエーションが存在したのだが、今日ではドイツでもすっかり廃れてしまって、戸外で歌いながら輪を描いて遊んでいる子供など、訳者はついぞ見かけた事がない。ビューヒナーの用いた輪舞の唄の真ん中のフレーズは、Rosenkranz (薔薇の輪)である。訳者は最初、それを単純に子供の遊び=薔薇の花輪と解釈したのだが(実際、花の名前を数え上げている輪舞の歌詞もある)、動画作成の為の見直しをするに至って気になりだした。というのは、ローゼンクランツと言えば、カトリック教徒にとってはクルスの付いた数珠、ロザリオ、または、この数珠をつま繰りながら唱えるロザリオの祈りを指す。ベルクのテキストでは、数珠を意味しているものかどうかが、もうひとつはっきりしない。それで、今一度、ビューヒナーのテキストに当たってみた。そこで発見したのは、Rosenkranz の後に続く言葉が、König Herodes(ヘロデ王) となっていたことである。これでローゼンクランツの意味は完全に明らかになった。キリストが人間界に生を受けたのはヘロデ王の統治下であった。アヴェ・マリアと主の祈りを繰り返す時に、繰り返しの回数を間違えぬように順繰り、爪繰って廻されるのがローゼンクランツである。であるから、子供達が歌っているのは、「数珠になって廻れ!」なのである。国家権力の下、貧困に虐げられ、その生をさえ踏みにじられる庶民、彼等の子供達はしかし、将来の運命を知らず無邪気に遊ぶ。その子供達の歌う唄の言葉は、アヴェ・マリアの祈りを暗示して居るのである。マリーの子供の去って行ってしまった舞台空間は不思議に明るい。 まとめ 今から180年近く前の階級社会の不条理と、下層階級の貧困、また、そのような状況下で、階層の上下を問わず、人間が、どのような動物になりうるかということを観客に訴えようとした、原作者ビューヒナーの意図は、ベルクによって、全く正当に解釈された。この救いのないオペラ「ヴォツェック」の、登場人物たちは、その誇張されたデフォルメーションにもかかわらず、音楽による心理的な裏打ちによって、人間の本質的な姿をさらけ出している。現実の厳しさが楽音の甘美さに包み込まれ、観る者の悟性がごまかされるようなところは一箇所も無い。にもかかわらず、抵抗の手段を持たない一兵卒に襲いかかり、彼を飲み込み、破滅に追いやった人為的な暴力を目の当たりにして、呆然としている観客の前に提供される、最終場面に先立つ間奏曲の叙情性は、どのように受け止められるべきなのだろう?(この間奏曲は調性音楽、ニ短調―ホ長調―ニ短調、で書かれている。)この間奏曲を聴くとき、訳者は、ベルクの音楽の中に、理性という暴力によって封じ込められたとでも形容したい、十九世紀的なロマンチシズムが、なおも、脈々として息づいているのを感じる。そして、それこそは、叙情的組曲、ヴァイオリン協奏曲へと繋がる、彼の感性の核をなすものであると考えるのである。この、20世紀を越えて21世紀に生き残った、数少ない現代音楽の労作の一つである「ヴォツェック」が、今日なお、観客を動員する力を持っているのは、以上にあげたような理由からではないだろうか?このオペラを聴くとき、歌手達の歌う音の高さが正しいかどうか、楽譜と首っ引きで確かめながら聴く、なんていうのは、およそナンセンスというものだ。人間性を失わない芸術は、テクニクの限界を越えたところにも存在すると、訳者は思う。 All rights reserved © Kimiyo Berg,Alban/Wozzeck
https://w.atwiki.jp/nisiogikubo2010/pages/34.html
A i073 8 磯田 光一 邪悪なる精神 冬樹社 文批 1973.10.01 1刷 1,200 A i073 9 磯田 光一 邪悪なる精神 冬樹社 文批 1973.10.01 1刷 1,200 函付 A i073 10 磯田 光一 戦後史の空間 新潮選書 文批 1983.03.20 初 900 A i073 11 磯田 光一 戦後史の空間 新潮選書 文批 1983.03.20 初 900 A i073 12 磯田 光一 鹿鳴館の系譜 文藝春秋 文批 1983.10.10 1刷 1,200 A i073 13 磯田 光一 昭和作家論集成 新潮社 文批 1985.06.25 初 1,800 A i073 14 磯田 光一 左翼がサヨクになるとき 集英社 文批 1986.11.10 1刷 800 A i074 1 井澤 義雄 石川 淳 弥生書房 文批 1961.06.30 初 1,500 A i075 1 岩田 宏 なりななむ 草思社 1987.07.10 1刷 1,000 A i076 1 石原 巌徹 紅楼夢 春陽堂 1958.02.25 1刷 1,200 A i077 1 今井 達夫 水上瀧太郎 フジ出版社 1968.12.25 初 1,200 A i077 1 今井 達夫 水上瀧太郎 フジ出版社 1968.12.25 初 1,200 A i078 1 石川 桂郎 句集 竹取 牧羊社 俳句 1969.02.28 初 900 印あり A i078 2 石川 桂郎 含羞 風土刊行会 俳句 1972.06.10 初 900 印あり A i078 3 石川 桂郎 俳人 風狂列伝 角川書店 俳句 1973.10.25 再 1,000 A i078 4 石川 桂郎 残照 角川書店 俳句 1976.10.30 初 1,200 帯有 A i079 1 生島 遼一 フランス小説の「探求」 人文書院 1972.09.25 初 1,800 中身:美品 A i079 2 生島 遼一 蜃気楼 筑摩書房 1976.10.26 1刷 1,200 A i079 3 生島 遼一 春夏秋冬 冬樹社 1979.05.10 1刷 1,200 A i079 4 生島 遼一 春夏秋冬 冬樹社 1979.05.10 1刷 1,200 A i079 5 生島 遼一 鴨涯日日 岩波書店 1981.10.15 1刷 1,200 美本 A i079 6 生島 遼一 鴨涯雑記 筑摩書房 1987.09.25 1刷 1,400 美本 A i080 1 石田 英一郎 文化人類学ノート 新泉社 1967.02.10 11刷 800 A i081 1 岩井寛・松岡正剛 生と死の境界線 講談社 1988.06.10 1刷 1,200 A i082 1 石垣 りん 夜の太鼓 筑摩書房 詩 1989.05.25 1刷 1,000 A i083 2 石垣 りん ユーモアの鎖国 講談社 詩 1981.05.20 1刷 1,000 A i084 1 泉 鏡太郎 鏡花 小説・戯曲選 第二巻 岩波書店 1981.10.26 1刷 1,500 A i084 2 泉 鏡太郎 鏡花 小説・戯曲選 第三巻 岩波書店 1982.02.25 1刷 1,200 A i084 3 泉 鏡太郎 鏡花 小説・戯曲選 第四巻 岩波書店 1刷 1,000 A i084 4 泉 鏡太郎 鏡花 小説・戯曲選 第五巻 岩波書店 1981.06.25 2刷 1,000 A i084 5 泉 鏡太郎 鏡花 小説・戯曲選 第六巻 岩波書店 1982.07.24 2刷 1,000 A i084 6 泉 鏡太郎 鏡花 小説・戯曲選 第七巻 岩波書店 1981.08.25 1刷 1,200 A i085 1 井上 靖 燭台 講談社 1965.09.10 初 900 A i086 1 井口 正夫 石仏幻想 木耳社 1974.09.20 初 800 A i086 2 井口 正夫 石仏幻想 木耳社 1974.09.20 初 800 函付 美本 A i087 1 今江 祥智 優しさごっこ 理論社 絵本 1998.06.01 26刷 600 1977初版 A i088 1 伊藤 信吉 高村光太郎 その詩と生涯 新潮社 詩 1958.03.20 初 800 A i088 2 伊藤 信吉 観賞智恵子抄 角川書店 詩 1968.12.30 初 1,500 函付 ヤケ A i088 3 伊藤 信吉 ユートピア紀行 講談社 詩 1973.08.08 1刷 1,200 A i088 4 伊藤 信吉 萩原朔太郎 Ⅱ虚無的に 北洋社 詩 1976.08.30 1刷 1,000 函付 A i088 5 伊藤 信吉 天下末年 新日本出版社 詩 1977.04.30 初 1,200 書店シールあり A i088 6 伊藤 信吉 天下末年 新日本出版社 詩 1977.04.30 初 1,200 帯有 A i088 7 伊藤 信吉 日本の廃墟 講談社 詩 1977.07.25 1刷 900 A i088 8 伊藤 信吉 監修 群馬文学全集13 群馬の俳人 群馬県立土屋文明記念文学館 詩 2002.01.25 初 2,500 A i089 1 入江 亮太郎 詩集 風の姿 思潮社 詩 1991.01.26 初 1,200 A i090 1 石毛 直道 食いしん坊の民族学 平凡社 1979.11.20 1刷 700 A i091 1 飯田 龍太 現代俳句の面白さ 新潮選書 俳句 1990.06.20 2刷 700 A i091 2 飯田 龍太 遠い日のこと 角川書店 俳句 1997.06.20 初 900 A i091 3 飯田 龍太 紺の記憶 角川書店 俳句 1984.07.20 初 900 シール剥し後あり A i092 1 稲垣 足穂 少年愛の美学 徳間書店 1968.05.10 4刷 1,200 美本 A i092 2 稲垣 足穂 稲垣足穂大全 Ⅰ 現代思潮社 1969.06.30 初 2,000 函付
https://w.atwiki.jp/re_incarnation/pages/81.html
■戯曲 RE-INCARNATION RE-INCARNATION RE-BIRTH RE-INCARNATION RE-VIVAL RE-INCARNATION RE-SOLVE RE-INCARNATION RE-COLLECT Office ENDLESS主催の公演、及び下記の公演グッズ取扱いサイトで購入できます (一般の大型書店でも取扱いがあるかもしれません) ■公演グッズ Goods Station 過去公演グッズ、サントラCD、戯曲などの取扱い officeendlessshop サントラCD、過去公演パンフレット、過去公演DVDなどの取扱い ■楽曲ダウンロード officeendlessshop 「RE-INCARNATION RE-VIVAL」のテーマ曲のダウンロード販売 ■動画 REINCARNATION Trailer RE-INCARNATION RE-BIRTH PV リンカネ:リバイバル告知 「リインカーネーション リバイバル」東京公演ダイジェストムービー 「リインカーネーション リザルブ」ダイジェストムービー RE-INCARNATION2018 ■togetterまとめ記事 RE-INCARNATION ―RE-VIVAL― 関連記事 RE-INCARNATION ―RE-SOLVE― 関連記事 RE-INCARNATION ―RE-COLEECT― 関連記事 RE-INCARNATION RE-CITAL 関連記事
https://w.atwiki.jp/occultfantasy/pages/103.html
北欧神話 ニーベルングの指環(Der Ring des Nibelungen) あらすじ 北欧神話との関係 経緯 ニーベルングの指環(Der Ring des Nibelungen) リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)作の歌劇。 1876年8月バイロイト祝祭劇場で初上演された。 四部作で前夜を含め四日かかるという大作。 中世ドイツの英雄叙事詩「ニーベルンゲンの歌」に影響を受けているが、「ニーベルンゲンの歌」のルーツたる古代ゲルマン神話の世界観を「ニーベルングの指環」は継承している。特に「ヴェルズンガサガ」を中心に北欧神話に散在するシグルズ伝説やブリュンヒルド伝説の影響が強い。 第一日「ヴァルキューレ」第三幕第一場の冒頭で演奏される「ヴァルキューレ(ワルキューレ)の騎行」は、フランシス・F・コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」(1979年)で使用されて以来有名。 劇中では空中騎兵(第9騎兵隊第1大隊)が心理作戦と称して強襲ヘリの機内から大音量でこの曲を掛けていた。 あらすじ あらすじや配役はWikipedia:ニーベルングの指環を参照。 北欧神話との関係 「指環」 北欧神話 ジークフリート? シグルズ/ジグルト ブリュンヒルデ?/ブリュンヒルト ブリュンヒルド ジークムント? シグムンド? ヴォータン? オーディン/オージン ドンナー? トール フロー? フレイ フリッカ? フリッグ フライア? フレイヤ ローゲ? ロキ グンター? グンナル? グートルーネ? グズルーン? ハーゲン? ヘグニ? 経緯 1200年ごろ 現在のオーストリア地方の詩人によって「ニーベルンゲンの歌」が書かれる 18世紀後半 「ニーベルンゲンの歌」が再発見される 1808年 ド・ラ・モット・フケーの戯曲「大蛇殺しのジグルド」が発表される 1810年 フケーの戯曲「大蛇殺しのジグルト」「ジグルトの復讐」「アスラウガ」をまとめた三部作「北方の英雄」が発表される 1819年 フランツ・ルードルフ・ヘルマンの戯曲「ニーベルンゲン」三部作が発表される 1828年 エルンスト・ラウパッハの戯曲「ニーベルンゲンの財宝」が初演される 1840年代 美学家テーオドール・フィッシャーが「ニーベルンゲンの歌」のオペラ化を提唱 1848年10月 散文草稿「ニーベルンゲン神話」を書き上げる台本「ジークフリートの死」の散文原稿・韻文原稿が完成する 1849年 ワーグナー、ドレスデンの反乱に参加し失敗。宮廷楽長の任を解かれ、スイスに亡命する 1850年 「ジークフリートの死」についての音楽「ヴァルキューレの歌」「ノルンの情景」「ブリュンヒルデとジークフリートの別れ」がスケッチされる 1851年6月 「若きジークフリート」散文・韻文草稿が完成する 1852年3~11月 「ラインの黄金」散文草稿が完成する「ヴァルキューレ」散文草稿が完成する「ヴァルキューレ」韻文草稿が完成する「ラインの黄金」韻文草稿が完成する 1852年10月 全四部作の舞台祝祭劇「ニーベルングの指環」と題名が決定する 1852年12月 「若きジークフリート」「ジークフリートの死」に手直しが加えられる 1853年1月 「ラインの黄金」「ヴァルキューレ」の決定稿が成立する 1853年9月 イタリア旅行中「ラインの黄金」の冒頭部分の着想を得る(?) 1853年11月 「ラインの黄金」全体草稿に着手 1854年1月 「ラインの黄金」全体草稿完成 1854年5月 「ラインの黄金」浄譜草稿が完成 1854年6月 「ヴァルキューレ」全体草稿に着手 1856年3月 「ヴァルキューレ」浄譜草稿が完成 1856年 「若きジークフリート」「ジークフリートの死」に再び手直しが加えられる 1856年9月 「若きジークフリート」の全体草稿に着手 1857年8月 「若きジークフリート」第二幕第二全体草稿が完成いったん「ニーベルングの指環」に関連する創作活動が中止される(この間「トリスタンとイゾルデ」(1859年)「ニュルンベルグのマイスタージンガー」(1867年)の台本執筆及び作曲がなされる) 1861年 フリードリヒ・ヘッベルの戯曲「不死身のジークフリート」「ジークフリートの死」「クリームヒルトの復讐」からなる三部作「ニーベルンゲン」初演 1863年 「ニーベルングの指環」の台本が公刊される。この際「若きジークフリート」は「ジークフリート」、「ジークフリートの死」は「神々の黄昏」と改題される 1864年12月 「ジークフリート」再開 1866年1月~1867年10月 再び「ジークフリート」作曲が中断される(この間「ニュルンベルグのマイスタージンガーの作曲及び仕上げが行われる) 1869年3月 「ジークフリート」作曲が本格的に再開される 1869年10月 「神々の黄昏」第一幕第一全体草稿に着手 1871年2月 「ジークフリート」第三幕浄書が完了、「ジークフリート」が完成する 1873年5月 「神々の黄昏」第一幕総譜浄書に着手 1873年11月 「神々の黄昏」第三幕総譜浄書が終了する。「ニーベルングの指環」四部作が完成する 1876年8月 完成したバイロイト祝祭劇場で「ニーベルングの指環」四部作が初めて上演される (参考文献:オペラ対訳ライブラリー「ニーベルングの指環」(高辻知義訳)・音楽之友社刊「ニーベルンゲンの歌」を読む(石川栄作著)・講談社学術文庫)
https://w.atwiki.jp/geography/pages/58.html
英米文学 学生便覧にて指定されている科目のみ掲載 英米文学 英米文学コース開講 ○英文学批評講義 ○イギリス文学史講義A イギリス文学史講義B ○アメリカ文学講義 アメリカ文学史講義 イギリス小説文学演習A イギリス小説文学演習B アメリカ近代文学演習 英語圏文学講義 英語圏文学演習 エスニック文学講義 エスニック文学演習 イギリス戯曲文学講義 イギリス戯曲文学演習 アメリカ詩文学演習A アメリカ詩文学演習B アメリカ現代文学演習 イギリス詩文学演習A イギリス詩文学演習B ※以上の中から最低1科目を履修する必要があります。 ※○は必修科目で、この中から最低1科目を選ぶ必要があります。 ただし、卒業と同時に免許状を取得(学習支援室にて発行)するのではなく、 卒業後に各自で広島県教育委員会を訪問し、免許状を発行してもらう場合は、 ○には囚われませんし、以下の科目を履修しても構いません。 英米文学 教育学部 英文学概説 米文学概説 英文学・時代と人間 米文学・時代と人間 英語教育教材研究Ⅰ(英文学領域) 英語教育教材研究Ⅱ(米文学領域)
https://w.atwiki.jp/hyakkaziten/pages/40.html
新潮 世界文学小辞典、p555~556、岩淵達治 ドイツの劇作家。ラインヘッセンのナッケンハイムに葡萄酒商の子として生まれ、第一次世界大戦に従軍、帰還後ハイデルベルクで自然科学を学んだが、表現主義の影響下に戯曲『十字路』(1920)を発表してから演劇活動に入り、ラインハルトのドイツ劇場にも在籍した。1926年から作家としてザルツブルクに住み、ナチスのオーストリア侵入と共にアメリカに亡命(1939)、戦後は帰国して、スイスのサース・クェーに住んでいる。 表現主義との決別といわれる出世作『楽しい葡萄山』(1925)は、ラインの自然を背景に、粗野なユーモアであふれるような生命感を歌った新即物主義的な喜劇として注目され、伝説的な義賊を扱う『シンダーハネス』(1927)、老軽業師を主人公にした感傷的な『カタリナ・クニー』(1928)、伝説に基づく『ベルゲンの悪戯者』(1933)などは民衆劇を志向した。傑作といわれる『ケーペニックの大尉』(1930)は、前科者の靴屋が、就職に必要なパスを入手するために大尉の制服を着て市庁を襲撃した実話に基づき、プロイセンの形式主義、官僚主義を痛烈に風刺している。 亡命から帰って発表した『悪魔の将軍』(1946)はナチスと軍部の対立を背景に、空軍大将ハラスの悲劇を描き、戦後最大の舞台的成功を収めた。歴史劇『バルバラ・ブロムベルク』(1948)以後、彼は好んで時局的なテーマを取り上げ、舞台効果を心得た作劇と、人物や環境の描写を駆使しながら、超時代的な意味を象徴化し、人間性への信仰を獲得しようと努力している。たとえばフランスのレジスタンス運動を描いた『殉難の歌』(1949)、良心から原子力の秘密を漏らす科学者を主人公としたルポルタージュ風の『冷たい光』(1955)、ユダヤ人問題、外人部族、非行少年、経済復興の軌跡などアクチュアルな問題をすべてたくみに織り込んだ永遠の女性の贖罪劇『時計は一時を打つ』(1961)などがそれである。 しかし、映画的な手法の強い最後の作品の反響は、現代演劇の場での彼の作風の行き詰まりを示している。小説家としては特に心理描写に優れ、『ある恋の物語』、『司祭物語』、映画化された『生死を支配するもの』などがあり、他に詩集、評論、自伝的エッセイなどがある。 万有百科大事典 1 文学、p391、小宮曠三 ドイツの劇作家。中部ライン地方の葡萄酒商の子に生まれた。第一次世界大戦から復員後、表現主義の影響の下に作家として出発したが、生きる喜びを歌い上げた『楽しき葡萄山』(1925)は新即物主義的な戯曲として注目され、これによってクライスト賞を受けた。また『ケーペニックの大尉』(1930)においては、軽快な筋の運びによって、プロイセンの官僚、軍人の形式主義を戯曲化することに成功し、揺るぎない地位を築いた。1938年、ナチスドイツがオーストリアを「合併」するや亡命(行き詰まるようなその経緯は『私の戯曲のごとく』に詳しい)、アメリカに落ち着き、そこで完成した『悪魔の将軍』(1946)は、ナチス政府、軍隊内にうごめく人間像を描き出し、戦後のドイツで空前の成功を収めた。この作品で国内抵抗運動を取り上げた彼は、歴史劇を経て、『殉難の歌』(1950)ではフランスのレジスタンス、『冷たい光』(1955)では原子力スパイ事件、『時計は一時を打つ』(1961)では、ユダヤ人問題に絡ませ、外人部隊、非行少年というふうに、時の話題を次々と取り上げ、永遠の人間性を浮かび上がらせようとしている。が、正統的な作劇術も災いして芳しくなく、ここ数年来沈黙を守っている。ほかに物語、詩などがある。1952年ゲーテ賞を受賞。 万有百科大事典 3 音楽・演劇、p337、宮下啓三 ドイツの劇作家。12月27日ライン河畔のナッケンハイムに生まれる。表現主義の影響を受けた2つの作品のあと、喜劇『楽しい葡萄山』(1925)で名を上げた。ライン地方の方言を活かし、田園の屈託ない生活を肯定したこの喜劇は、表現主義演劇の抽象化された人間像のあきた観客の心をとらえ、新しいリアリズム演劇の門出と評された。新即物主義の作家として、彼は『ケーペニックの大尉』(1931)で再び高い評価を得た。前科者であるばかりに冷たい仕打ちを受ける失業者が、一旦近衛隊士官の服装を着用すると、人々の態度が一変する。官僚主義を皮肉ったこの作品でリアリズムと風刺精神が見事に調和している。亡命してナチズムの難を逃れる間に書かれた『悪魔の将軍』(1946)は、ヒトラーの第三帝国でナチスに抵抗する空軍の将軍を主人公とし、命令と道義の板挟みになる軍人の苦悩を描き、戦争の悲惨を体験した人々に大きな感銘を与えた。 世界大百科事典 21 ツーテン、p62、小宮曠三 ドイツの劇作家。ライン・ヘッセン州の葡萄酒商の家庭に生まれ、少年時代から文学に興味を寄せた。ギムナジウム在学中第一次世界大戦がおこり、志願兵として西部戦線の野砲隊に務め、4年後に予備役の中尉で復員した。フランクフルト・アム・マイン及びハイデルベルクの大学で生物学と精神科学を学ぶ傍ら、詩、短編小説、戯曲を試み、24歳の時ベルリンにうつり、以後かろうじて自活しながら、演出助手、俳優、文芸部員などの資格で、キール、ミュンヘンをめぐり、26歳の時、ブレヒトと友mに、ラインハルトのもとで働いたこともある。 新婚の喜びのうちに書かれた『楽しき葡萄山』(1925)上演の成功によりクライスト賞を受け、翌年ザルツブルクの近くに定住し、『無法者ハネス』(1927)、『カタリーナ・クニー』(1928)と劇作を続ける一方、「ウーファー」の委託でトーキー研究のため、パリ、ロンドンに行き、『嘆きの天使』その他のシナリオも執筆した。1929年にハイデルベルク祝典賞、ゲオルク・ビューヒナー賞を受け、1930年に完成された『ケーペニックの大尉』は大成功を収めたが、『ベルゲンの悪戯者』(1932~33)を最後に、1938年にはスイス、翌年はアメリカに亡命した(母方がユダヤ系のため)。農場経営、創作、講演に従事して1946年に帰国。『悪魔の将軍』(1945)によって再び人気作家となった。 のち『バルバラ・ブロンベルク』(1948)、『つめたい光』(1955)、『時計は1時を打つ』(1961)などを発表し、1952年にはフランクフルト市からゲーテ賞を授与されたほか、多くの賞を受けている。以上のほか、詩集、物堅い、講演、自伝的評論などがある。作風は、庶民的リアリズムに貫かれ、生きる喜びや素朴なものへの愛情が、感覚に訴えるような筆致で描かれている。ナチの台頭と共に、その作品には未来に対する責任というモティーフがあらわれ、帰国後の作品においては、憎しみを越える新しい愛のあり方を必死に追求している。 大日本百科事典 12 ちおーてんの、p431、丸山武夫 ドイツの劇作家。ライン地方の葡萄酒商の子として生まれ、第一次世界大戦に志願兵として従軍後、ハイデルベルク大学で自然科学を学んだ。『楽しい葡萄畑』(1925)によって劇壇にデビュー。1938年ナチスに追われてスイスに亡命、翌年アメリカに移住、農場労働や作家活動を歴て、第二次世界大戦後の1946年帰国し、1958年以降スイスに定住した。 彼の戯曲は、構想無尽、旺盛な感覚と直感力に富み、立体的・力動的な人物を操って完璧な舞台効果をあげる。生の喜びに溢れ、赤裸々な官能の満足に浸る人物を好んで描き、あらっぽいユーモアと露骨な洒落を愛した。表現主義に出発したが、まもなく文学的桎梏を脱し、俗語を多用したあけすけで陽気な写実的大衆劇に変わった。『楽しい葡萄畑』によって新即物主義の創始者となり、『吸血鬼ハンネス』(1927)、『ケペニックの大尉』(1930)では官僚の独善や軍国主義に対する風刺作家となったが、世界的名声を博した『悪魔の将軍』(1946)以降の作品では人間相互の信頼感の喪失とか信仰生活の混乱などを取り上げた現代劇に転じた。それには象徴的・寓意的なシュルレアリスムの要素が含まれ、超現実的な傾向が見られる。『ある恋の物語』などの小説や『カリガリ博士』、『嘆きの天使』などのシナリオも執筆している。 グランド現代百科事典 20 チュウクーテルニ、p233、岩淵達治 ドイツの劇作家。巧みな作劇術を駆使しつつ、時の問題に象徴性を与えてヒューマンな立場を示す、正統的なドイツ劇の伝統の継承者。ライhネッセン地方の葡萄酒商の家に生まれ、第一次世界大戦に従軍、復員後劇作を志した。表現主義の影響を脱し、故郷を部隊にリアルな生命感をうたった戯曲『楽しい葡萄山』(1925)で注目され、やや感傷的ともいえる大衆的な戯曲で成功を収めたが、実話に基づき、プロイセンの官僚主義を風刺した『ケーペニックの大尉』(1930)は彼の代表作である。アメリカに亡命し、市民権を得たが、戦後、ナチスに抵抗した将軍の悲劇『悪魔の将軍』(1946)を引っさげて帰国し、新作の乏しかったドイツ劇界で大成功を収めた。以後歴史劇や時事的な問題劇に永遠性を含める試みがなされているが、原子力スパイ問題を扱った『冷たい光』(1955)以後の劇作は、現代演劇の風潮からはずれているためか、あまり成功を収めていない。小説、詩、自伝的な著作もあり、1966年には生涯の回想録を著している。 世界文化大百科事典 7 センターテハレ、p469、作者不明 ドイツの劇作家。表現主義の影響下に演劇活動に入り、反ファシズムの立場から一時アメリカに亡命、帰国後は主としてスイスに住み文筆活動を続けている。代表作『ケペニック大尉』は軍国主義・官僚制を風刺した戯曲で好評を博した。ほかに喜劇『楽しいぶどう山』など多くの劇作があr,小説にも堅実な才能を示している。
https://w.atwiki.jp/karanemi/pages/927.html
ファースト・フォリオ 作品名:Fate/Apocrypha、Fate/Grand Order 使用者:シェイクスピア 奈須きのこ作品のFateシリーズに登場する道具。 宝具の一つ。形状は演劇。 対象のトラウマを弾劾し、精神をへし折り、放心状態へ落とす対心宝具。 +発動時の前口上 さあ、我が宝具の幕開けだ! 席に座れ! 煙草はやめろ! 写真撮影お断り! 野卑な罵声は真っ平御免! 世界は我が手、我が舞台! 『人間の一生は彷徨い歩く影法師(Life s but a walking shadow)、哀れな役者にすぎぬ(a poor player)』 即ち───『開演の刻は来たれり(ファースト)、(・)此処に万雷の喝采を(フォリオ)』 能力についての詳細来歴 基本性能 トラウマの弾劾 バッドステータス「放心」付与 元ネタ 関連項目 関連タグ リンク 能力についての詳細 来歴 シェイクスピアの戯曲がまとめられた最初の書籍シェイクスピアの死後に著作されたため自身は関わっていない。 本来の意味合いはシェイクスピアの死後、その戯曲 をまとめて出版した「最初の」書籍。従ってシェイクス ピアが直接関与している訳ではない。 基本性能 宝具のランク B 種別 対人宝具、対心宝具、演劇宝具 レンジ 1~30 最大捕捉 1人 宝具による効果 心を折る トラウマの弾劾 対象のトラウマを引きずり出して弾劾する肉体が強い者ほど精神的に折りやすい。己の人生に一片の悔いがない者なら効果は薄い。 全く肉体的に害を為すことのない宝具であるが、一 部の英霊にとっては最高に性質の悪い代物である。脛 に傷を持たない英雄などほとんどいない。誰もが内側 に抱えているトラウマを、シェイクスピアは暴き、嘲 り、あるいは弾劾することで徹底的に心を折ってくる。 バッドステータス「放心」付与 心が折れた場合は無防備になるただし自動迎撃系の宝具は発動する 心が折れた場合、バッドステータスとして【放心】 がつく。この間は一切の無防備で、悪意に自動迎撃す る宝具でもない限り、あらゆる対処ができない。 元ネタ ファースト・フォリオ(英:First Folio) シェイクスピアの死後に彼の戯曲を纏めた台本集。 シェイクスピアが書いた36曲が納められている。 シェイクスピアと他の作家の合作は含まれておらず、ファースト・フォリオに含まれているものを正典(カノン、Canon)、合作を外典(アポクリファ、Apocrypha)と呼ばれる。 関連項目 宝具 開演の刻は来たれり、此処に万雷の喝采をの道具分類。 関連タグ 道具 Fate 劇場 奈須きのこ作品 書物 精神攻撃 リンク
https://w.atwiki.jp/hiromusan/pages/9.html
●●自治新党・歴代党首●● 学徒挙兵と巨星コテの時代 ■初代 学徒出陣 (自治新党初代党首であり終身名誉顧問、三戦天皇 その圧倒的な求心力をもって自治新党を設立し治安の維持、富国強兵を図る 言わずと知れた名君であり、戯曲に禅譲後も金宰陽が登場するまで実権を握り続けた) #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 若き日の学徒出陣 ■二代 なっちの戯曲 (学徒と戯曲の二代で新党の組織は固まったと言われる。ただし末期には暴走し七月政変の最大の要因となる) ■臨時党首 ムコーニン (七月政変で戯曲討伐に最大の功績をあげた智将。その名声は学徒と同等かそれ以上といわれる。まあcらを党首に祭り上げ学徒ら巨星コテらと共に新党を運営した) 傀儡党首時代 ■三代 まあc (単なる荒らしコテであったが党首に祭り上げられる) ■四代 中常侍うんこ (ムコーニンの意向のみで党首となったコテ) ■五代 変質社 (大喬の太ももにざるそば乗せて食べたい発言で3日で政権崩壊。) 新党の変質 ■六代 金宰陽 (蛮族出身の党首。毒をもって毒を制す。蛮族をあえて新党に取り込む奇策を用いる。実はかなりの実力者であり党首の権威を取り戻す) ■七代 佐倉広夢 (自称三戦の美少年、変質社に次ぐ基地外との説もあるホモ。) #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 神君(・ω●)と賢帝達 ■八代 惇の時代(・ω●) (自治新党で初めて党員たちの正当な選挙によって選ばれた党首。新党の権威を高め神君と呼ばれる。これ以降、新党では普通選挙が定着した) ■九代 小魔玉 (この時代、超ビックネームで新党の極栄時代の到来を目指した。) ■十代 八戸のぶなが (当時は単なる暴君、まだ将軍とのロマンスも無い) ■十一代 ひょーりみ (新党の愛玩ショタ その魅力で数多の男たちを魅了する 党員から可愛がられたが統率力は微妙であった) ■十二代 張春華 (信じがたいカリスマ性を発揮したらしい。ただし本質は糞コテ) ■十三代 アダルト日出夫 (蛮族出身の党首。毒を以て毒を制す政策再び。大変な迷君として知られる。) ■十四代 魔法剣士 (・・・・・・・・??) パクス・ジチシントーナ(新党の平和) ■十五代 クマッタ (久しぶりの英雄型党首。新党は大いに栄えレスも伸びる) ■十六代 魔神( ● ┏┓ ● )へー (新党最盛期の始まり。パクス・突破スレの時代) ロコ家専権と新たなる秩序 ■十七代 ロコ三郎 (ロコ家独裁の始まり) ■十八代 ロコふるーちぇ (ロコ家独裁体制絶頂期。ロコふる文学や氷雪文学が流行る) ■十九代 ロコドール (太陽の沈まないロコ家と言われた) ■二十代 ロコ常陸四郎 (この人選で新党の栄光は急速に終わった。) 三戦四板に分裂し国威落とす ■二十一代 中野区民憲章 (党員は古参の彼に託すが、常陸四郎によるダメージはあまりにも大きかった。) ■二十二代 槇原政吉 (ヤクザ政権・オワタ。ちなみに彼の反クマッタ発言が新党に打撃を与える。) ■二十三代 Wなんとか (ロコふるがいないと何もしない。) ■二十四代 クマッタ (新党再建を託されるがかつての聡明さはなくアダルトと並び称されるほど堕ちてしまう。) そして現在 ■二十五代 可児くりいむ (長い空位時代をへて生まれた新党首。これからは可児家の時代と豪語する。彼の手腕に期待したい。)
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/30794.html
えほんのあくま【登録タグ え 夜烏P 曲 鏡音リン】 作詞:夜烏P 作曲:夜烏P 編曲:夜烏P 唄:鏡音リン 曲紹介 ひとりぼっちのあなたへ。 動画を 黎氏 が手掛ける。 歌詞 あなたはひとりぼっちで 薄暗い図書館の奥 悪夢の中に溺れて もがき続けていたんだね 僕は人の気持ちなんて 考えたこともないけれど そんなもの大事に抱えてたって 誰もあなたを褒めちゃくれないよ 人は意地悪された分だけ 意地悪になってしまうものさ さあ、今夜見る夢に怯えているのならば 眠らぬ間に悪の戯曲を奏でましょう 本当に欲しいものなんて ここにはないでしょう? その震える指を 僕にあずけてみてごらん あなたは迷い続けて 2つの鍵を落としてしまった それすら気づかぬままで 鍵穴を探していたの 僕は人の望みなんて 蚊ほどにも興味はないけれど 大層な冠りや土地よりも 大切なものと言うのなら 鍵を1つくれてあげよう 最初で最後の奇跡で 奪い取ることでしか 何一つ満たせない あなたの不器用な手にも 温もりがあるの それを無垢に待ち焦がれた幼い想いを 今度こそはギュッと強く抱きしめてあげて さあ、今夜見る夢に怯えているのならば 眠らぬままに悪の戯曲を奏でましょう 止むことなきその憂いに魔法をかけて ミルクチョコレートの雨にでもかえてあげる コメント 追加おつ! -- 名無しさん (2014-11-16 10 02 35) 名前 コメント