約 5,557 件
https://w.atwiki.jp/o-rod/pages/39.html
転向 ─中野重治の『村の家』 Seibun Satow 31.Oct,1992 「しばしば勇気の試練は死ぬことではなく、生きることだ」。 ヴィトリオ・アルフィエリ『オレスト』 1 吉本隆明の転向論 カール・マルクスの『経済学・哲学草稿』が発見され、日本では五・一五事件が起こり、ドイツではナチス政権が誕生する前年でもある一九三二年(昭和七年)、日本の警察は一九二七年にコミンテルンが天皇制打倒を第一目標として要求したマルクス主義者たちへの取り締まりをこれまでにないほど強化し始める。この取り締まりは、実は、もともとマルクス主義運動そのものの撲滅を目的としたものではなく、一九三一年に始まった満州事変とそれに続いて一九三七年に必然的に引き起こされることとなる日中戦争のための国内安定を目的とした後方支援の色彩が強い。その年の三月から四月にかけて、主要な関係者たちは一斉に検挙・逮捕される。日本が国際連盟から脱退した翌年の一九三三年、小林多喜二が、警察の取り調べ中、拷問によって虐殺され、同年、獄中にあった日本共産党幹部佐野学・鍋山貞観の二人が『共同被告同志に告ぐる書』と題された共産主義運動から転向するという声明を発表する。それをきっかけとして、佐野や鍋山に続き、数多くのマルクス主義政治活動家、文学者たちが転向を公表し始める。 この転向は、日本近代文学史において、重要な主題の一つであると言っていいだろう。転向をめぐってすでに多くの論考がなされているが、その中で最も代表的かつ規範的な考察の一つとして、吉本隆明の『転向論』(一九五八)があげられる。 吉本隆明は、『転向論』において、日本における転向を次のように定義している。 わたしの欲求からは、転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考転換をさしている。したがって、日本の社会の劣悪な条件に対する思想的な妥協、屈服、屈折のほかに、優性遺伝の総体である伝統に対する思想的無関心と屈服は、もちろん転向問題のたいせつな核心の一つとなってくる。 習慣的な意味で、転向というとき、共産主義者が、共産主義をすてて、主義に無関心となることや、すすんで他の主義に転ずることをさしており、もっと狭義には、共産党員が組織から離脱して、組織無関心になることを意味している。このような転向の定義は、昭和八年、佐野学、鍋山貞親が「共同被告同志に告ぐる書」を公表して、政治思想上の転換を声明したとき使用され、それにつづくマルクス主義政治運動家、文学者の錯綜した屈服と屈折に対して慣用されてきた。しかし、これらの転向は、けっして別種のものではなく、転向のなかの特殊な一つのケースにすぎない。ただ、日本の社会構造をつかまえることが必須の課題である革命的な自己意識のあいだにおこり、しかも、長期間の投獄か、死か、という権力からの強制によって自己意識の変換を迫られたため、日本的転向の特長が、このケースにもっとも鋭い形で、象徴的に集中せざるをえなかったのである。転向論が、ここを中心に展開されたのは当然だが、転向のカテゴリーをここに限定することは、それほど意味があるとは、おもわれない。わたしのかんがえでは、「非転向」的な転向も、「無関心」的な転向もありうるのだ。 (略)わたしは弾圧と転向とは区別しなければならないとおもうし、内発的な意志がなければ、どのような見解をもつくりあげることはできない、とかんがえるから、佐野、鍋山の声明書発表の外的条件と、そこにもりこまれた見解とは、区別しうるものだ、という見地をとりたい。また、日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである。生きて生虜の恥ずかしめをうけず、という思想が徹底してたたきこまれた軍国主義下では、名もない庶民もまた、敵虜となるよりも死を択ぶという行動を原則としえたのは、(あるいは捕虜を恥辱としたのは)、連帯認識があるとき人間がいかに強くなりえ、孤立感にさらされたとき、いかにつまずきやすいかを証しているのだ。 吉本は、転向と「権力の強制、圧迫」による弾圧を区別し、転向の日本における特徴を「大衆からの孤立(感)」の視点から明らかにしようとしている。吉本の考察はその前年に発表された本多秋五の『転向文学論』を踏まえている。本多秋五は、従来、共産党からの離反を転向と定義してきたのに対して、転向を、吉本の説明によれば、「輸入思想の日本国土化の過程に生じる軋り」であると見なす。一方、吉本の『転向論』のモチーフは、転向を本多のような倫理的基準からではなく、社会的構造とその認識の側から扱うことにある。人間は意志的に善も悪もなし得ないのであって、善や悪とされているのは「関係の絶対性」(吉本隆明『マチウ書試論』)によって規定された相対的なものにすぎず、意志的な行為と考えているものはまったく責任と呼べるものではない以上、道徳的基準によって転向を論ずることは意義深いものではない。吉本は、そうした認識から、転向を「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考転換」と定義する。吉本はこれまでの素朴な転向=非転向という二項対立によって解釈されてきたこの問題に新たな視点を提示する。吉本は、今までの転向をめぐる論議は氷山の一角を見ていたにすぎないとして、現実認識に関する自己批判としてとらえ、「『非転向』的な転向も、『無関心』的な転向もありうる」、と告げる。世界的にも、アルベール・カミュのように、マルクス主義から他の政治思想への転向もあれば、逆に、ジャン=ポール・サルトルように、他の政治思想からマルクス主義への転向もあり、両者共に弾圧されていたわけではない以上、転向と弾圧は明確にわけられている。ただし、「マインド・コントロール」が一般的に知られることになった現在では、あのような状況下では転向声明は同情すべきことだったと推測しなければならない。従って、弾圧は転向のきっかけとなったかもしれないが、転向は弾圧とは明確に区別されなければならない。 日本の転向を論ずる場合に、ある前提を考慮しなければなるまい。日本の転向の特徴を語る際に忘れてはならないことは、理論的な指導者たちから亡命者をほとんど出さなかった点である。亡命を視野に入れず、鶴見俊輔のように、転向をただ「権力の強制、圧迫」の問題としてしまうのは不十分である。と言うのも、日本の転向は、実は、マルクス主義を放棄するか否かが必ずしも問われることではなく、非合法組織(共産党)を通じた政治活動から身を引くことを意味しているにすぎない。例えば、蔵原惟人は、政治活動から身をひき、合法的な範囲で著述活動をするが、マルクス主義は放棄しないとして下獄している──彼は政治活動を続けるか否かに基準にすればそれは転向であり、マルクス主義を放棄するか否かを基準にすればそれは非転向であるわけで、蔵原は転向でも非転向であり得る(マルクス主義者であることと共産党などの非合法組織に属していることが同じ意味として一部で考えられていたことが、転向と弾圧が混乱されてしまった理由の一つであろう)。日本の地理的事情や日本語の置かれている世界的な位置も考慮しなければならないだろうが、アメリカ・メキシコ・カナダの共産党結成に協力した片山潜らもいたにもかかわらず、日本の理論的マルクス主義者からは、モスクワ詣ではかなり行われていたし、知的影響をまったく残さなかった野坂参三らはアメリカに亡命しているものの、亡命といった行動は実行されず、主張すらされない。 しかし、マルクス主義にとって、亡命することは必ずしも致命的な問題ではない。例えば、カール・マルクスも亡命者であり、ウラジーミル・レーニンやレオン・トロツキーも西欧諸国に亡命している。彼ら自身は転向するよりも、むしろ、亡命を選ぶ。彼らは亡命をして、それぞれ自己批判をし、理論をさらに展開している。マルクスの『資本論』や『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』といった著作は亡命下において書かれたものである。マルクスが初期から後期へと転回するには、当時資本主義が最も発達していたイギリスへの亡命が不可欠である。その亡命が彼の転回を強いている。初期マルクスは後期マルクスによって、その後期マルクスも大英博物館で執筆された『資本論』によって発見されたものだ。マルクスは、実は、イギリスどころか、経済的に許されれば、アメリカへの亡命すら考えている。ところが、日本においては、知的に優れた理論的マルクス主義者からはほとんど亡命者を出すことなく、転向者を大量に出している。 このような事態を引き起こした理由の一つとして、当時の日本のマルクス主義者の組織が一様に弱体であった点があげられる。日本のマルクス主義組織は亡命して新たに組織の立て直しをできるほどの強度を持ち合わせていない。実際、警察の取り締まりは(認定されてしまえばいかなる弁解も聞き入られることがなく、火炙りにされてしまう)魔女狩りと言うよりも、むしろ、(それを放棄すると宣言すれば許されてしまう)ガリレオ・ガリレイの宗教裁判に近い──ピーター・ゲイが『自由の科学』で明かにしているように、直観だけで宇宙の無限説を唱えそれに殉死したジョルダーノ・ブルーノの場合、自説を支えるものがほぼ自らの信念だけであったためそれを撤回するか否かは根源的な問題であったのに対して、天文学的データによって裏打ちして地動説を主張したガリレオ・ガリレイの場合、彼が自説を撤回するか否かはまったく問題ではないのであって、あの裁判は「それでも、それ(=地球)は動く」という伝説を残すためだけにあるようなものである。マルクス主義が宗教的だと言われる所以はここにもあり、こうしたことのために、マルクス主義は、帰納法や演繹法、背理法などの思考・認識パターンが必ず前提にしている「反証可能性」を与えていないから、科学ではないとカール・ポパーに言われてしまう。組織が弱かったために、別に撲滅を目的としていなかったにもかかわらず、国家権力による取り締まりによって、日本のマルクス主義政治団体は崩壊してしまう。 日本のマルクス主義者たちにおいて、ドイツのマルクス主義者たち──フランクフルト学派のマックス・ホルクハイマーや手オドール・W・アドルノら──が亡命してナチズムを批判したように、軍国主義政府を批判したケースはまったくない。当時、最も日本の全体主義を根本的に批判していたのは、マルクス主義者ではなく、共産党嫌いの坂口安吾の『日本文化私観』(一九四二)であり、武田泰淳の『司馬遷-史記の世界』(一九四三)などである。前者は日本の精神状態を病として真っ向から批判することであり、後者は「ほめ殺し」の戦略である──元マルクス主義者であったが、この時点ではすでに転向していたにもかかわらず、ガリレオのような態度をした武田泰淳はマルクス主義を真に理解していたと言えるかもしれない。この両者とも、当時のマルクス主義者の批判以上にラディカルであったけれども、検閲をまったく受けていない。特に、坂口安吾の批判は日本近代文学史上最もラディカルなものの一つであるが、戦前・戦中・戦後を通じて一貫しており、転向とは一切無縁である。安吾は、共産党が「専制、ファッショの徒」であり(『戦争論』)、共産党の根本にあるのは「通風孔」のない「神がかり」(『戦後合格者』)にすぎず、「資源豊かならざる小さな国土と多すぎる人口、この日本の現実を見るならば、日本の経済を安定せしめる方法は、ハッキリしている筈である。つまり、貿易である。搾取階級がなくなろうと、なくなるまいと、貿易に依存せずに、日本がどうなるものでもない。外貨を獲得することだ。貧弱な物資でヤリクリを上手に、合理化してもタカが知れており、共産主義だの経営の合理化だのとチャチなお題目や空念仏を唱えるよりも、ホテルをつくり、道路を良くし、外国から旅行客をつれこむ方が、どれくらい実質的であるか分らない。その方が、はるかに日本の生活水準を高くする方法なのである」(『インテリの感傷』)と共産党のスローガンを批判している。安吾は、戦後になって合法化されたにもかかわらず、組織としてほとんど何のヴィジョンも提示できずにいる日本の共産党の政治団体としての問題点を追及している。転向は、あくまでも組織に関わる問題である弾圧とは区別しなければならない。 吉本隆明は、『転向論』において、「佐野、鍋山的な転向」は「日本的な封建制の優位に屈したもの」であり、「小林、宮本の『非転向』的転向」は「日本的モデルニスムスの指標として、いわば、日本の封建的劣性との対決を回避したもの」であると見なした上で、佐野・鍋山、小林・宮本らを超えるものとして、武田泰淳の「ほめ殺し」を見抜いていた中野重治(一九〇二─一九七九)の転向を次のように評価している。 わたしは、中野の転向(思考的変換)を、佐野、鍋山の転向や小林(多)、宮本、蔵原の「非転向」よりも、はるかに優位におきたいとかんがえる。中野が、その転向によってかい間見せた思考転換の方法は、それ以前に近代日本のインテリゲンチャが、決してみせることのなかった新たな方法に外ならなかった。わたしは、ここに、日本のインテリゲンチャの思考方法の第三の典型を見さだめたい。中野に象徴されるこの第三の典型の優位性が崩壊にたちいたったのは、昭和十年代の後期太平洋戦争下においてであった。ここから日本的転向の問題は、また、別個の課題にさらされるのである。また、それかわたしたちまったく別個の思想的典型を創造すべき課題を負わせている理由でもある。 吉本によれば、「大衆からの孤立(感)」による「大衆の動向」が転向の最大の条件である。共産党への忠誠度によってではなく、日本の大衆が生きている封建的優性との対決によって自らの真理は証明される。視野に亡命を入れることなく、吉本は転向を日本的封建制に対する態度から、日本的封建制の優勢に屈する佐野・鍋山型、日本の封建的劣性との対決を回避する小林・宮本型、敗北を通してそれと対決する中野型の三つに抽出している。これら三つの転向のうち、中野の転向だけが日本的封建制と対決し、「それ以前に近代日本のインテリゲンチャが、決してみせることのなかった新たな方法」である。 その中野重治の転向に至る経緯は次の通りである。『春さきの風』などを発表しすでに文学者としての名声をつかんでいた中野は、一九三〇年に共産党への活動資金提供の治安維持法違反容疑によって逮捕・起訴され、予審終結後、保釈される。保釈中の一九三一年に中野は共産党に入党する。その後、一九三二年、日本プロレタリア文化連盟(コップ)に参加していた中野は保釈を取り消され、治安維持法違反から約二年間拘置される。一九三四年に共産党員であることを認め、共産主義運動から身を引くことを約束し、懲役二年執行猶予五年の判決を受け、出所する。中野は、出所後、再び筆をとり、一九三五年自分の転向に関する小説群──四月に、『鈴木・都山・八十島』、五月に『村の家』──を発表する。 吉本は中野の転向を日本的封建制との対決として評価しているが、それが正当な指摘とは言い難いことは、転向後の一九三六年に発表した『閠二月二十九日』において、反合理主義や反論理主義を擁護する小林秀雄や横光利一に対する次のような彼の批判が告げている。 あらゆる問題は論理の立ち得る「危険な箇所」に立っているのだ。反論理主義者はそれを避けたいとあせっている。論理そのもの、小林のいわゆる「解析」する論理を怖れているのだ。「日本人は曖昧で通じる特別な感覚を、たしかに外人よりは多く持っていると見える。」という横光は、彼自身の論理の喪失と反論理主義へのずれこみとを、日本人のカンのよさで大目に見てくれと持ちかけることで、実は彼の仕事の本質の論理追跡を避けようと努力しているに過ぎない。 こういうでたらめな、反合理主義的な(横光利一の言葉にすると「心理の勝った」)傾向にたいして私は戦ってゆきたいと想う。彼らは手妻使いのように言葉を混乱さして、のらくらものの文学青年だけでなく一人前の作家たちまでが部分的にしろ手妻にひっかかって、わけのわからぬ心得顔をしようと稽古しているありさまを見ると、わけのわかるもの、論理的に辿れるもの、論証されるもの、「常識的」なものをさえ私はかかげたい。独断と逆説とによる卑俗さをロココ的なものかのように振りまわす伊達者たちは、外国の作家、特にフランスの作家たちを引き合いに出したがっているが、フランス近代文学の伝統はそういうものの克服の上に立っている。アンシクロペジストたちや幾何学におけるデカルトはこの伊達者連中に穢されるにはあまりに叡智に充ちている。日本文学は自分が伸びるためには、これらの伊達者のビラビラを草鞋でとりのけねばなるまい。 中野は、彼らの源流であるフランスで流行している反合理主義や反論理主義はあくまでもルネ・デカルトや百科全集派という合理主義や論理主義の伝統の上に立脚し、それに対する批判として機能しているのであって、日本のようにそうした合理主義や論理主義の伝統のないところでそれを唱えることは不徹底だと主張しているのではない。そもそも反合理主義や反論理主義は中途半端なものであり、フランスの「この伊達者連中」は反合理主義・反論理主義の克服を試みたデカルトや百科全集派の掌を世界の果てだと思いこんで飛びまわる孫悟空にすぎない。日本にはまだデカルトや百科全集派がいないため、日本人は必ずしも曖昧ではないにもかかわらず、小林秀雄や横光は日本人を曖昧なものに戦略的にしている。「国民生活という規模で合理主義を『心得』ることのできなかったわが国民の一部、なまけものの文学青年と一部の文学者たちとがそれを崇め奉って拝んでいる」。文学者は合理性・論理性をつきつめなければならない。文学は論理的・合理的な認識に基づいている必要がある。それは、言うまでもなく、作品が論理的・合理的でなければならないということではない。小林秀雄や横光利一はそれらを混同してしまっている。中野には、彼の小説には「心理」的説明が欠けているように、それが反合理主義・反論理主義であるために是認することはできない。中野自身があまり合理的・論理的に見えないとしても、彼はあくまでも合理性・論理性の認識に立脚している。しばしば中野を志賀直哉と同一視する傾向にあるが、中野自身「『暗夜行路』雑談」において志賀を厳しく批判しているように、志賀にはこうした認識に欠けている。中野は合理的・論理的たらんとするが、自分自身の存在そのものがはらんでいる反合理・反論理を、もう自分の力ではどうにもならないギリギリの地点で、合理化・論理化できないがゆえにそのまま肯定し提示する。中野は日本的封建制の問題以上に、このような普遍的な問題意識を抱えている。中野は、吉本の言う日本的封建制は必ずしも反論理主義・反合理主義を意味しているわけではない以上、吉本の主張するような、日本的封建制との対決を必ずしも意図していない。中野が決意しているのは反合理主義や反論理主義との闘いである。日本的封建制との対決を試みるならば、むしろ、『大日本主義の幻想』を書いた石橋湛山のように、商業資本主義をとことん追及したほうがよい。 2 柄谷行人の転向論 吉本と同様に中野重治を評価している柄谷行人は、『近代日本の批評──昭和前期Ⅰ』において、吉本とは別の観点から「転向」を次のように述べている。 私はとりあえず「昭和的なもの」を一つの転向として見ようと思う。昭和初期十年間は、ふつうプロレタリア文学とその崩壊・転向として語られている。その意味での転向の問題や抵抗の問題が本格的に見られるのは、むしろ昭和十年代である。昭和初期において重要な「転向」は、いわば「大正的なもの」からの転向である。それがマルクス主義を中心として生じたからといって、マルクス主義に限定されはしない。たとえば、それは小林秀雄にも谷崎潤一郎にも生じた。したがって、この問題はマルクス主義の哲学や文学理論のなかだけで考察することはできない。この「転向」は、いわば「大正的なもの」からの切断であるがゆえに、その意味は、さまざまな角度から考察されるべきである。 第一に、昭和初期には、マルクス主義への転換が「転向」と呼ばれたことに注意すべきだ。これは福本の理論とともにもちこまれたものである。福本とともに、マルクス主義に主体の問題が導入された。マルクス主義はたんなる世界観や歴史観ではなく、主体にとっての自己変革、したがって「転向」としてとらえられたのである。藤田省三が指摘するように(『転向』上所收)、マルクス主義の放棄がのちに転向と呼ばれたのも、佐野・鍋山の声明にみられるように、それが「自己変革」としてなされたからであって、そのこと自体、最初の「転向」に存した問題にもとづくのである。 もともとは宗教的な概念である「転向」が、マルクス主義者になること、さらにそれを放棄することにかんしていわれたのには、正当な理由がある。それは、たんにマルクス主義の運動がユダヤ=キリスト教的な宗教的な運動に似ているというようなことではない。むしろ日本おいて、ユダヤ=キリスト教的な宗教が、マルクス主義がもたらしたような「転向」の深刻さ、社会的な意味を与えなかったことにこそ、注意すべきであろう。 共産党幹部佐野・鍋山の転向声明(一九三三年)は、マルクス主義の放棄ではなく、コミンテルンの日本情勢分析の誤りを正し、天皇のもとでの共産主義を実現しようというものであった。つまり、転向は主体的な自覚あるいは発展としてなされたのであり、第一次の「転向」と形式的には同じであった。(略) 二度目の「転向」は、ある意味で、最初の「転向」あるいは「転回」がいかなるものであるか、いかなる深度によってなされたかによって決まっている。一度目の天候が単に「観念的意向」でしかないならば、二度目のそれは、たんに観念と現実のギャップによるものでしかないだろう。しかし、「転向」は、倫理的問題でないとしても、吉本隆明のいうような認識的問題でもない。それは、「大正的なもの」の切断がいかになされたかに依存するというべきである。事実、昭和十年代における数少ない抵抗者は、このような「切断」を反復することによってのみありえたのである。(略) 中野重治やその他の数少ない例外をのぞいて、転向は、いわば「大正的な」主体の問題をぶりかえすことになった。 吉本が「転向」を「プロレタリア文学とその崩壊・転向として」、すなわちあくまでもマルクス主義からの転向に限定して考えているのに対して、柄谷は「転向」を「大正的なもの」、すなわち「適度に内面的で、教養主義的、人格主義的な傾向」との「切断」にまで拡大・比較して考察している。転向を「主体にとっての自己変革」とする柄谷は、それを「認識的問題」とする吉本と違って、非転向的な転向や無関心的な転向を必ずしも強調しない。彼は、その代わり、小林秀雄や谷崎潤一郎も転向のカテゴリーに入れている。日本的な自己充足的な状態から世界との緊張の状態への転換を第一次の転向、その逆が第二次の転向である。その一種として、マルクス主義への転換が「第一次転向」であり、マルクス主義からの転換が「第二次転向」であるが、この二つは同じ構造をしている。「第二次転向」を規定するのは「第一次転向」である。それゆえ、佐野や鍋山は転向によって元に戻っただけにすぎない。柄谷によれば、佐野・鍋山の転向声明は、吉本とは逆に、労働者や大衆の心情を汲み入れた結果である。実際、マルクス主義政治思想が天皇制の下で可能だともともと考えていた彼らにとって、コミンテルンが要求した天皇制打倒など最初から不可思議なスローガンである。しかし、中野重治の転向は、後に述べるように、それらと同じ構造をしていない。 日本のマルクス主義の歴史で、転向が本格的に問題となるのは、自己批判を強いられることになったジェルジ・ルカーチの理論が、フランクフルトで研究していた経歴を持つ福本和夫を通じて、一九二七年(昭和二年)から影響を及ぼしてからである。ルカーチはマルクス主義運動に初期マルクスを導入したが、レーニンやグレゴリー・ジノヴィエフ、コミンテルンらから批判され続け、理解されることは長い間なく、その生涯において、政治的転換をかなり重ねている。「史的唯物論の通俗的公式においては、主体的な側面(すなわち意識)は客観的な経済発展の諸法則の受動的な関数であるとされている。若きルカーチの問題は、ある意味では彼がこの見解を受け入れていたということにあった。しかし、彼はまた歴史のなかに意識的実践の創造性の余地を発見しようと試みもした。彼は繰り返して客観的過程を考察し、主体的な実践、すなわち自由が、その過程に入り込むことができ、歴史的な力となりうる分岐点を探し出そうとした」(アンドリュー・アラトー『若きルカーチと西欧マルクス主義の起源』)。ルカーチはマルクス主義を社会科学的理論ではなく哲学として扱い、階級闘争や階級意識を通じた主体の変革を中心的課題とする。マルクスとフリードリヒ・エンゲルスを分離し、後者を批判したルカーチの『歴史と階級意識』は、弁証法的方法の自然への適用の可否、マルクス主義における方法の重視、理論と実践の統一性という三点をめぐって、極左派=修正主義として、発表直後からさまざまな論者から批判される──その中には、この本はおびただしい専門用語の羅列によって書かれており、予備知識のない読者には全然理解できない、それは、プロレタリアートへの接近を目指すことを当然の責務としている共産主義にとっては、ブルジョア的であるという眩暈をもよおすような馬鹿げたものもある(「プロレタリアート」とは、本来、古代ローマの無産階級、すなわち没落中小農民の最下層の貧民である「パンと見世物を要求する浮浪者」を意味している。ユリウス・カエサル登場はるか以前の紀元前二一八─二〇一年の第二回ポエニ戦争、いわゆるハンニバル戦争によって、中小農民は、自腹をきっての出兵、戦場化したための耕地の荒廃、さらに戦後の属州からの安価の穀物の流入、奴隷制による大土地所有の発展の前に、没落し、ローマなどの都市部に流れこんでいる。彼らは選挙権を所有しており、略奪をともなう戦争を望み、野心家の私兵化となってしまう。プロレタリアートという言葉にはもともとは否定的な意味がある)。また、『歴史と階級意識』において、実践的な政治的党派を通して階級意識は表面化してくるが、労働と闘争という契機を欠落させたため、そのヴィジョンは組織論において破綻を示し、さらなる弁証法の運動を希求しており、弁証法的契機としては、到達点とはなりえず、そこから、逆に、マルクス主義の教条化を決定的に顕在させることになる。こうした内容のため、彼は一九二四年にコミンテルンから自己批判を迫られる。ルカーチは、自己批判をして二八年から二九年にかけていわゆる「ブルーム・テーゼ」の作成に加わるが、これもコミンテルンから拒否される。彼は、結局、二九年にモスクワへの亡命を余儀なくされ、七一年に亡くなるまで、この間に、『若きヘーゲル』や『理性の破壊』などを執筆しながら、そこにとどまることになってしまう。ルカーチの理論は五十年代になってスターリニズム批判として復活するが、六十年代後半になると、『ドイツ・イデオロギー』以後のマルクスの作品に向かったルイ・アルチュセール──『資本論を読む』・『マルクスのために』──によって、厳しく批判されることになる。実際、マルクス自身は、その初期の青年ヘーゲル派的な思想を自己批判しているわけだから、当然と言えば当然であろう。ルカーチに基づいた福本和夫の理論は、多くの共産主義者を震撼させ、自然発生的に現われた労農主義的な思想などからの転向を引き起こす。この福本主義を通じて、日本では、初めて革命運動の前衛組織が思想的・政治的に確立している。Tessek parancsolni! 福本和夫の強い影響下にあった中野は一九二八年に『春さきの風』を発表する。この年から一九三一年までがプロレタリア文学の全盛期である。しかし、ハンガリー本国でさえも拒まれたルカーチの理論が一国の共産党の中心的思想になるなどというのは画期的なことであるが、共産主義政治をめぐる激しい思想闘争によって組織的な分離・結合が進行し、ルカーチと同様、まもなく福本主義は批判されるようになる。『歴史と階級意識』は、モーリス・メルロ=ポンティの『弁証法の冒険』によると、「一時は西欧マルクス主義の聖典であった」。ルカーチが依拠したのは亡命実行以前の初期マルクスであり、当然、ルカーチは転向を繰り返していたことからも、(発達した資本主義国への)亡命といった可能性は最初から否定されているわけで、日本のマルクス主義がそのルカーチに負っているかぎり、マルクス主義者たちから亡命が主張されることはない。 そのプロレタリア文学を読んでみると、柄谷の言うこの第一次転向が明らかとなる。大正末期から昭和初期にかけて、空前の円本ブームなどによって大衆文化が確立していたが、第一次世界大戦後の経済恐慌、関東大震災、世界恐慌による経済混乱と農村恐慌によって社会不安が増大する。プロレタリア文学はこうした歴史的・社会的な背景から生まれている。一九二一年(大正十年)に、『種蒔く人』が創刊されたのを出発点として、一九二四年には『文芸戦線』の発刊、一九二五年に、日本プロレタリア文芸連盟の結成と急速に勢いを増す。当初、プロレタリア文学は、『セメント樽の中の手紙』(一九二六)の葉山嘉樹に代表されるように、労働者による自然発生的な運動であったが、青野李吉らの主張によって社会改革の政治的な色彩が強くなっている。 プロレタリア文学が登場する前に文学界に君臨していたのは「反自然主義のチャンピオン」と呼ばれた芥川龍之介であり、第一次転向は芥川に対する批判の形態をとっている。例えば、プロレタリア文学の作家たちは、宮本顕治の『敗北の文学』を代表に、芥川は労働者階級から遊離したプチ・ブルジョア階級の作家であったから自殺してしまったのだという意見を発表している。彼らの政治的意見は、芥川の自殺に対する強迫観念を利用して、文学的には主張されている。こうした経過を経て、プロレタリア文学はマルクス主義的な政治的目的への奉仕を強いられることになる。この強制力が、彼らにとって、耐え難いものだったことは否定できない。もともとプロレタリア文学はマルクス主義とは直接的な関係を持っていなかったのだから、転向は、柄谷の指摘する通り、この時期に用意されていたと言っていいだろう。芥川に対する批判を「第一次転向」とするならば、プロレタリア文学の作家たちだけでなく、当然、芥川に対する代表的な文学的批判者である谷崎も小林秀雄も転向のカテゴリーに入らざるを得ない。 坂口安吾は、『新らしき文学』(一九三三)において、そのプロレタリア文学をめぐって次のように批判している。 現在プロレタリア文学は、その反逆的な闘争的な点に於て一つの意義と役割をもつが、人間を安易に仮定し、文学の唯一の領域たる個体を、血と肉に縁のない概念の中へ拉し去り曖昧化し、科学への御用的役割を務めるのは凡そ意味ない。文学本来の面目に反している。 現在ソヴィエト・ロシヤに於て文学に課せられた一つの課題は社会的な感情を探り出し書きあらわすことであるというが、文学の反逆的な役割を巧に瞞着した為政者の手腕もさる事ながら、漠然として社会感情を探しあぐねるロシヤ作家のだらしなさは滑稽である。文学は永遠に政治に対する反逆である。個人のために血と肉の人間悲劇を語らなければならない。 日本のプロレタリア文学は一つの宣伝文として或いは有効である。なぜなら科学と協力し妥協することによって、一つの昂奮をもたらすことができるから。しかしそれは文学本来の昂奮でなく、感銘でない。むしろ完全に非文学的なものである。やがて政治の御用文学となるそれである。それはもはや文学でない。 文学が扱うのは、「個体」であって、「科学」の扱う一般性ではない。しかし、プロレタリア文学は個人についてではなく、階級をめぐって書かれており、労働者や農民といったプロレタリアートとブルジョアジーとの関係をという一般的な問題系にある。プロレタリア文学はそれが基づいている「科学」によって読まれているのであって、作品そのものの持つ魅力はほとんどない。プロレタリア文学は「科学」に基づいた政治に奉仕しているが、そもそも文学は「永遠に政治に対する反逆」であって、政治に従うべきものではない。プロレタリア文学は「科学」という虎の威を借る狐にすぎない。 プロレタリア文学はマルクス主義の外皮を被ってはいるが、それを文学として存立するために利用したにすぎず、マルクス主義など不必要である。本来、文学としてとても扱うことができないものでも、マルクス主義という衣装をまとうとき、馬子にも衣装の諺のように、とりあえず文学として論議される対象となる。しかし、目を奪われているのはマルクス主義という衣装であって、その作品ではない。 いかに同時代的に影響を与えていたと言っても、すでに当時から批判されていたことだが、小林多喜二や宮本百合子らプロレタリア文学の作品は、主題も非常に素朴であり、表現も稚拙であり、読むに耐えるものではない。例えば、『蟹工船』が文学史に上るのは、警察の拷問によって惨殺された小林多喜二の作品だからであって、その逆ではない。そうした前知識のない読み手によって『蟹工船』が高い文学的評価を受けるかどうかははなはだ疑問である。それらは文学と言うよりも、むしろ、ルポルタージュを部分的にとり入れたプロパガンダ的な作文と言っていいだろう。ルカーチも、『ヴィリ・ブレーデルの長編小説』(一九三一)において、プロレタリア文学におけるルポルタージュ的な要素を弁証法の欠如であると厳しく批判している。このルカーチのエッセーをきっかけとして「ルポルタージュ=形象化論争」がヨーロッパでは起こっている。こうしたプロレタリア文学のほとんどの作品にはマルクス主義にとって肝心の弁証法が体現されてはいない。福本和夫によって階級意識や階級闘争、主体性が日本のマルクス主義運動に導入されたにもかかわらず、そこにはマルクス主義の根本にある弁証法が表われていない。例えば、プロレタリア文学は資本家や警察は圧迫者であり、労働者や農民は被迫害者であるという素朴な図式によって成立している。被害者意識やルサンチマンに満ちあふれた作品が始まってから終わるまで、この図式は決してゆるがない。労働者や農民は作品が終わっても、必ずしも、勝利者になることはなく、資本家や警察によって迫害されたままで、この二項対立は弁証法によって合一されることはない。プロレタリア文学は知的なものを排除し、そこにあるのは「都会の文化や伝統的な文化を直ちにブルジョア文化と片づけ、職工達の小学校だけの教養や農村の貧しい教養をプロレタリヤ的だと云って謳歌した反動性」(安吾『地方文化の確立について』)にすぎない。 転向以前に発表された中野重治の『春さきの風』も、やはり、この図式に基づいている。 「おまえは村田の女房か?」 「そうです。」 「名前は?」 「村田ふく。」 「村田なに?」 「ふ、く。」 高等は形相を変えた。 「ふ、く。何だ、それは? そんなことだから検束されたり、監獄へぶち込まれたりするんだ、馬鹿。」そして吐き棄てるようにいった、「それでよく人の女房が勤まるな。」 母親が答えた。言葉が口から出るのにつれて顔が蒼くなっていった。 「わたしらは労働者ですから、金持ちのお嬢さんのような教育は受けておりません。これで十分女房の役が勤まります。」 高等は持っていた鉛筆を放し、椅子から腰を上げ、非常に大きな平手打ちを母親の左頬にくれた。 大きな手形が顎から瞼、眉の上へかけて赤黒く浮き上った。 「はいれ!」 風の音の中で母親は死んだ赤ん坊のことを考えた。 それはケシ粒のように小さく見えた。 母親は最後の行を書いた。 「わたしらは侮辱の中に生きています。」 それから母親は眠った。 この時期の中野の作品は、他のプロレタリア文学の作品と同様、弁証法が内的論理として、体現されていない。それは私小説と言ってよい。プロレタリア文学の作品は「不快」に始まって「調和的気分」に終わるという気分の移行によって形成されている志賀直哉の私小説と同じ構造を所有している。転向後プロレタリア文学の作家たちは私小説を書き始めたが、もともと彼らはプロレタリア文学の作品を私小説のヴァリエーションとして、志賀直哉の私小説の中にもルポルタージュ的な作品が少なくないように、書いている。例えば、小林多喜二や宮本百合子は、中野とは違って、公然と志賀を評価している。私小説は気分を作用する主体とし、それ以外を客体とする散文形式であり、そこでは、中心的人物に主体性はない。一方、プロレタリア文学の作品において、中心的人物には、厳密な意味においては、主体性がなく、共産主義のテーゼに従うだけである。作用する主体である気分は、プロレタリア文学において、共産主義や共産党、党の方針という主題の形をとっている。プロレタリア文学において、共産主義は到達されるべき理想である。 しかし、マルクスは、『ドイツ・イデオロギー』において、共産主義について次のように書いている。 共産主義とは、われわれにとって成就さるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成されるべきなんらかの理想ではない。われわれは現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、今現にある前提から生じる。 ところが、私小説は静的であり、マルクス主義のような動的側面に乏しく、プロレタリア文学は、その形式において、「現状を止揚する現実の運動」を秘めておらず、革命的ではない。志賀直哉の私小説は内村鑑三の告白、すなわち内村の唯一神教的なキリスト教に対するンチ・テーゼとして出発したわけだが、転向の図式はこの私小説と主体性に基づいた告白、すなわち志賀直哉と内村鑑三との関係に負っている。キリスト教の場合、その入信にしても棄教にしても、志賀がそうであるように、内村に対する個人的な崇拝・離反から生まれているけれども、内村という個人が党などに変わっただけで、マルクス主義の場合も、これとまったく同じ構造を所有している。福本和夫や小林秀雄はマルクスの名によってプロレタリア文学を批判している。しかし、マルクスを用いてプロレタリア文学を批判することは、マルクスにとって「政治と文学」といった問題はありえなかったし、もともとマルクス主義とプロレタリア文学は無関係だったわけだから、さほど困難ではない。むしろ、プロレタリア文学はマルクス主義に従属していたのではなく、マルクス主義を従属させようとしている。このようなプロレタリア文学の作家たちによって、主体性を導入しようとした福本主義が否定されることになるのは、当然のことであろう。 ところが、この時点で私小説を書きながらも、中野重治は、他のプロレタリア文学者とはすでに異なっている。と言うのも、『むらぎも』が明らかにしているように、むしろ、プロレタリア文学の作家たちが批判していた芥川を評価しているからである。芥川の作品は古典に題材をとった前期と「『話』のない小説」の後期とに大きく二つにわけられるが、彼は後期の作品によって前期の作品を自己批判している。後期の作品は前期の作品が追及していた主体性批判であったけれども、それでは、安吾が『文学のふるさと』で紹介している彼の遺稿が示しているように、不十分なことは承知していつ。芥川の遺稿は、プロレタリア文学者などの彼に対する批判以上に、すぐれた批判になっている。 安吾は、『文学のふるさと』において、プロレタリア文学からの批判とは逆に、芥川には生活があったと次のように指摘している。 とにかく一つの話があって、芥川の想像できないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。 つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。 プロレタリア文学者は芥川を「突き放し」ていたかもしれないが、「芥川のすぐれた生活」は「突き放されたという事柄のうちに」ある。彼らには、芥川と違って、「突き放された」ような認識はない。中野だけが芥川の認識に気づいている。中野の転向は、その根本において、ほかのプロレタリア文学者たちとは異なり、独特なものであると言っていいだろう。 3 転向と沈黙 中野の転向の独自性の一端を自らの転向体験をモチーフにした『村の家』の次の箇所が告げている。 彼は再び保釈願いを書き、政治活動をせぬという上申書を書き、(しかし彼は、彼の属していた団体が非政治的組織であり、彼が非合法組織に加わっていなかったという彼自身の主張はどんな意味ででもふれなかった。)一方病室にはいれるよう要求し、看守長に会って、下獄する場合東京もしくは東京近県で服役できるかどうかを検べた。 彼は病室に入れられた。隠されている病名は肺浸潤であることを知り、目方が四四・五キロにへったことを知った。 ある日彼は細い手でお菜を摘まみ上げ、心で三、四の友達、妻、父、妹の名を呼びながら顎をふるわせて泣き出した。 「失わなかったぞ、失わなかったぞ!」と咽喉声でいってお菜をむしゃむしゃと喰った。彼は自分の心を焼き鳥の切れみたいな手でさわられるものを感じた。一時間ほど前に浮かんだ、それまで物理的に不可能に思われていた「転向しようか? しよう………?」という考えがいま消えたのだった。ひょいとそう思った途端に彼は口が乾上がるのを感じた。昼飯がきて受け取ったが、病気は食い気からと思って今朝までどしどし食っていたのがひと口も食えなかった。全く食欲がなく、食欲の存在を考えるだけで吐きそうになった。両頬が冷たくなって床の上に起き上がり、きょろきょろ見廻した。どうしてそれが消えたか彼は知らなかった。突然唾が出てきて、ぽたぽた泪を落としながらがつがつ噛んだ。「命のまたけむひとは──うずにさせその子」──おれもヘラスの鶯として死ねる--彼はうれし泪が出てきた。 主人公勉次は病気とそれがもたらすかもしれない狂気への恐怖によって「政治活動をせぬという上申諸」を書くが、彼は非合法組織、すなわち共産党に所属していたということは自白しない。これは、蔵原惟人らと比較すると、転向の基準としてはいささか特異である。勉次がこだわっているのは、政治活動を続けるか否かでもマルクス主義を放棄するか否かでもなく、党員であるかを認めるか否かにあるけれども、これは、他の党員たちが彼が党員であることを認めていることからも、警察にとってもさほど問題にならない。弁護士も彼に「無駄」だと提言している。柄谷行人は、『中野重治と転向』において、中野のこうした態度は転向=非転向の単純な論理の図式に回収されるのを拒むためだと言っている。対立は差異性ではなく、構造的な同一性によって生じるのであり、確かに、中野は「政治と文学」や「転向と非転向」といった二項対立を退けている。と言うのも、彼にとって、それらが二者択一といった選択の問題ではないからである。政治的に意味があっても、芸術的・文学的にはとるにたらない作品が書かれていることの是非を問題にするような論争は、中野には、本質的に意味をなさない。中野にとって、『むらぎも』で述べているように、文学は「才能」の問題ではなく「道徳」の問題である。「才能」のせいにして文学を放棄するか否かということを問題にするのは、いわゆる責任転換しているのであって、「道徳的」ではない。自分の「道徳的」な姿勢によって書くか否かが決定される。書くということはその人間の持つ道徳的な姿勢による。存在と認識の乖離が不可避的である以上、書くことはひとを傷つけまた自分を傷つけざるを得ないが、それにもかかわらず、書くという行為に自らの人間性を賭けざるを得ないことによって書くことは始まる。書くことはそういう自らを裏切らざるを得ないというおそれとおののきの経験とともにあり、つねに「道徳的」なものだ。書くことはその不可能性において始まる。書くことは才能によるのではなく、この不可能性に賭けられるか否かにかかっている。中野にとってそのような「道徳」の問題である文学に政治的な価値があるかどうかという選択は根本的にあり得ない。 さらに、柄谷は中野の作品に見られる「わかりにくさ」を彼が「差異への感受性」として表明する「感じ」に帰着させている。しかし、中野の「感じ」は、むしろ、同一への感受性、すなわち直観である。中野は差異にこだわっていたが、それは構造的同一性を見出す直観力が引き起こしている。自分自身に対してもその直観力は例外なく働くけれども、彼ら自身は党派によってしか生きられない。でも、中野にとっては一人の人間として生きることが先にあるということから、その同一性からこぼれてしまう自分自身がある。中野は健康である。病気は定義を前提にするが、健康を定義することはできない。健康は健全ではなく、「道徳的」に丈夫だということを意味している。「政治と文学」や「転向と非転向」といった二項対立は、「道徳的」に、病的である。健康なる者は自分を絶対化せずつねに自分を相対化すること、すなわちこの程度の苦痛や苦悩はたいしたことではないと自らに言い聞かせることを忘れない。中野にとって、「道徳的に外れてしまうこと」はそれを忘却した自己欺瞞・自己倒錯にほかならない。 中野は、「『文学者に就て』について」において、道徳について次のように述べている。 僕は君が僕の考え方に賛成するだろうと思う。しかしそれならば僕は、まだ肝腎なものがぬけているといわなければならない。君の支払勘定にあらゆるものはのっているが、最大のもの──「転向の事実」はのっていない。君の言葉によれば、これは、転向作家たちから第一義的なものを奪ったし、将来にわたって奪っているものである。そのため君に「むしろ死ぬべきであった」という非難にさえ頭を垂れさしたものである。それがのっていない。君のは大福帳が間違っているのだ。「文学のために命がけの政治的経験」を目たたきとともに葬り去った最大の政治的経験は君の支払勘定にははいらないのか。「敗れはしたが命をかけた経験」ではない、「命をかけた(?)のに自ら敗れたという経験」──これこそがすべての作家もかつてなめなかった第一義的な敗北、深い恥にみちた最大の支払なのである。そしてそのことによってそれが、もしわれわれがそうするために努力しとおすならば、第一義的な文芸実践の最も強い土台の一つとなれるのだ。 中野の「道徳」はこのような認識に基づいている。転向を「敗れはしたが命をかけた経験」とすることは自己倒錯・自己欺瞞にすぎない。むしろ、「命をかけた(?)のに自ら敗れたという経験」こそが転向にはあり、これはかつてなかった経験であって、そうすることによってのみ、生を肯定できる。転向は、本多の主張とは違う意味で、倫理的である。 確かに、中野の作品には心理的な説明がないため、その「道徳」は認めがたい。肝心の転向に関しては、『村の家』の中で、「明くる日朝早く弁護士が来た。勉次は問題の点を認めることにすると答えた」と書いているだけである。中野の作品にはこうした詩的とも言える省略が少なくない。彼の文体はどこか寡黙である。作品を内省的に書いてはいるが、転向を内面の問題としても、外面の問題としても、描いてはいない。その主人公はつねに事後的に振り返って内省し始める。福田恆存は、『中野重治』において、中野に対して「近代人の自意識」がなく、彼が『斎藤茂吉ノオト』を書いたのは「茂吉の近代性を押し立てることによつて自己の古さをカヴァーしようとしている」からだと指摘している。中野が自意識を持っていないことに関して、柄谷も彼を自意識の他なるものとして理解している。けれども、それだけで不十分である。しばしば志賀直哉も自意識を持たないとされているからである。中野は、「『暗夜行路』雑談」において、志賀直哉を「甘え」た「気随息子」がそのまま老けた「老人」であると糾弾している。さらに、『小僧の神様』に関して、「最初は真実に立っていた。ただ最後へきて──主人公が移動してしまうが──柄にもないことを止めれば、小僧に鮨が食えなくなることについての自己の(正邪にかかわらぬ)断定を避けたところに隙ができてしまった」と批判する。中野は志賀の作品に見られるアイロニーを嫌う。と言うのも、アイロニーは自己欺瞞と自己倒錯、自己嫌悪と自己憐憫に基づいているからである。そのようなアイロニーに満ちた志賀の私小説は生の否定といった病的な精神が生み出したものだ。中野の認識をもたらしたのは絶対的な他者性への意識などではなく、それは生きることそのものへの意識である。 中野の作品は転向によって変わり、真に輝き始める。それは突然変化したということではない。それにより自分自身の問題意識が明確に顕在化し、自覚したとことを意味する。転向以前に書かれたエッセーを読むならば、その点がはっきりする。転向前の作品にも、確かに、中野らしさが出てはいるものの、先の引用が明らかにしているように、他のプロレタリア文学の作品とあまり違いはない。中野について語られる際に言及されたり、引用されたりするのは、ほぼ転向後に書かれた作品であり、一種のルポルタージュである『春さきの風』に至っては、ほとんど語られることがない。なるほど『むらぎも』は転向前の中野を知る資料として重要ではあるが、あくまで転向後に書かれた作品である。 転向後に書かれた『村の家』は、『春さきの風』とは違って、私小説ではない。『村の家』は弁証法的なスタイルで求心的に話が進んでいく。中野は、転向後、初めて弁証法を内的論理に据えた作品を書き始め、それを主に対話として現われる。『村の家』において登場人物はそれぞれに対して同意することはない。勉次、父親の孫蔵、母親のクマ、妻のタミノ、弁護士などそれぞれが対話を通じて関係しつつ、統合されることなく一つの全体性を形成している。それはヘーゲル的な弁証法ではない。そこではおのおのがそれぞれ違ったものとして生きている。 『村の家』の弁証法の特徴は、政治活動をしないという上申書を獄中で書いて出獄し、その後、郷里に戻ってきた主人公と父親の孫蔵との次のような会話が示している。 「それじゃさかい、転向と聞いた時にゃ、おっ母さんでも尻餅ついて仰天したんじゃ。すべて遊びじゃがいして。遊戯じゃ。屁をひったも同然じゃないかいして。竹下らアいいことした。殺されたなア悪るても、よかったじゃろがいして。今まで何を書いてよが帳消しじゃろがいして。(略)あかんがいして。何をしてよがあかん。いいことしたって、してれやしてるほど悪るなるんじゃ。あるべきこっちゃない。お前、考えてみてもそうじゃろがいして。人の先に立ってああのこうのいうて。(略)本だけ読んだり書いたりしたって、修養ができにゃ泡じゃが。お前がつかまったと聞いた時にゃ、お父つぁんらは、死んでくるものとしていっさい処理してきた。小塚原で骨になって変えるものと思て万事やってきたんじゃ……」 孫蔵は咳払いをして飲んだ。勉次も機械的になめた。 「いったいどうしるつもりか?」孫蔵はしばらくして続けた、「つまりじゃ、これから何をしるんか?」 「…………」 「お父つぁんは、そういう文筆なんぞは捨てべきじゃと思うんじゃ。」 「…………」 「お父つぁんらア何も読んでやいんが、輪島なんかこのごろ書くもな、どれもこれも転向の言いわけじゃっじゃないかいや、そんなもの書いて何しるんか。何しるったところでそんなら何書くんか? 今まで書いたものを生かしたけれや筆ア捨ててしまえ。それや何を書いたって駄目なんじゃ。今まで書いたものを殺すだけなんじゃ。それや病気ア直さんならん。しかし百姓せえ。三十すぎて百姓習うた人アいくらもないこたない。タミノじゃって田んぼへ行くのがなんじゃい。そんなこってどうする? さきもいうた通りじゃ。借金は五千円じゃ。そっても食うだけや何とかして食える。食えんところが何じゃいして。食えねえや乞食しれやいいがいして。それが妻の教育じゃ。また家長たるべきもの、一家の相続人たるべきものの踏むべき道なんじゃ。」 「…………」 孫蔵はまた飲んだ。 「よう考えない。我が身を生かそうと思うたら筆を捨てるこっちゃ。……里見なんかちゅう男は土方に行ってるっちゅじゃないかいして。あれは別じゃろが、いちばん堅いやり方じゃ。またまっとうな人の道なんじゃ。土方でも何でもやって、その中から書くものが出てきたら、その時にゃ書くもよかろう。それまでお父つぁんも止めたアも言やせん。しかし我が身を生かそうと思うたら、とにかく五年も八年とア筆を断て。これやお父つぁんの考えじゃ。お父つぁんら学識アないが、これやお父つぁんだけじゃない、誰しも反対はあろまいと思う。七十年の経験から割り出いていうんじゃ。」 ある考えを信じ、それを実現しようとして個人でのみ行動しようとしたが、結局やめてしまったことには転向は無縁である。それは変化にすぎない。転向は他者との契約関係において生じる。発話行為は、他者とのコミュニケーションの中では、契約として機能する。中野の作品の対話は沈黙が重要な効果を果たしている。主人公勉次は父親の言葉を一方的に聞いているだけで、その解答は沈黙によってなされ、転向の言い訳はまったく口にしていない。言い訳や誓いは負い目といった心の弱さの現れであり、自己絶対化であるからなどという素朴な理由で、また自分の世界を保持するためという幼稚な理由で、他者とのコミュニケーションを拒んでいるわけではない。私には私なりの考えがあるから、黙るのではない。彼が沈黙してしまうのは、告げなければならないがゆえに伝えられない何ものか、すなわち告げてはならぬ何ものかに囚われているからである。彼の沈黙の理由は沈黙そのものによって見出されるべきものだ。そこからすべてが生まれてくる。この沈黙は実存の条件であると同時に倫理の条件である。勉次はなぜではなく、いかにして語ろうとするがゆえに、沈黙する。沈黙の中に不可避的な自分自身の存在の根源性がある。 こうした沈黙によって表わされた中野の転向に関する記述は、近代文学以前を感じさせる。しかし、それは柄谷の指摘するような福音書的なものではない。転向を語る際に、確かに、福音書に言及することは欠かせない。転向はもともと宗教的概念であり、転向に際して一つのモデルとなるのは、イエスに対するペテロの裏切りだからである。 転向には自己批判や懺悔がつきものであるが、宗教の転向は政治のそれと違う。どちらも未来に向けたあるいは未来から見られた時間帯の中で思考していることは変わらないけれども、政治においては、転向者はあくまで此岸のことだけを考えればよいが、宗教の場合、彼岸での禍いを覚悟しなければならない、すなわち死んでからも苦しむことになるという決まり文句によって彼らをしめつける。この世が終わってもあの世が待っているというわけだ。政治では、その理想の達成は、自分の死後、その人から離れて次に続くものに期待することしかできない。しかし、キリスト教において転向が問題となるのは、福音書にはペテロの死後に関する記述がないように、それが現世を強く意識しているからである。けれども、中野の転向はペテロの転向と、根本的に、異なっている。 吉本は、『沈黙の有意味性について』において、『マタイによる福音書』でペテロが三度裏切る話について、次のように書いている。 ペテロが前日、師イエスにむかって、わたしはあなたを裏切るようなことはありませんと告げたとき、ペテロはたんにイエスにたいする信仰を告白したにすぎず、ペテロの言葉をとりまいている情況は〈無〉にひとしいものであった。しかし人間が喋言ったこととちがうことを実現してしまうためには現実の方からある必然の契機が加担しなければならない。そしてある意味からは、人間はかならず語った言葉とは別のことを実現してしまうような存在本質である。 福音書において、転向は内面的・心理的な問題とてして扱われておらず、発話と沈黙のレヴェルにおいて把握されている。ペテロは自ら立てた誓いに対して裏切ってしまう。転向は誓いに対する裏切りである。転向は認識と行為の乖離に、「現実の方からある必然の契機」が加担することによって、生ずる。それは言っていることとやっていることが一致しないという事態にほかならないが、人間の生の不可避的な条件である。沈黙はそうした倫理的なものから発生しているのであって、人間の弱さなどではない。 「ある意味からは、人間はかならず語った言葉とは別のことを実現してしまうような存在本質である」のは「関係の絶対性」によって規定されているからだけではなく、言葉の持つ不可避的な条件によるからである。人間は自分とまったく他のものと生きていかざるを得ない。そのため、沈黙したとしてもそれもまた他のものによって解釈される。沈黙もまた言葉の一つである。「関係の絶対性」に強いられながら人間はおのれに対して自分自身を相対化することは十分に可能だ。「関係の絶対性」に規定されているにもかかわらず、人間は自らを突き放し、それを笑い飛ばすという自由がある。福音書において転向が描かれているのは、福音書に笑いが登場していないからである。ペテロはイエスを三度否認し、泣く。しかし、もしここでペテロが笑ったとしたら、転向は存在しないだろう。ペテロが転向するのは、イエスを三度否認することではなく、その後に泣くことによってである。それ以前に、ペテロが「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度知らないと言うだろう」と離したイエスに「そうかもしれません」とか、「いえ、三度ではなく、四度知らないと言うしょう」とユーモアをこめて答えたなら、転向はありえない。中世の教会権力からとことん憎まれたエラスムスは「真理も笑いながら語るべきである」と言ったが、笑いを登場させると、転向は成立しなくなる。フリードリヒ・ニーチェは、福音書を批判するために、笑いながら生まれた宗祖の語りの『ツァラトゥストゥラはかく語りき』に笑い、「哄笑」を導入する。 沈黙し続ける主人公は、父親の筆を折れという強い勧めに対して、次のように反応している。 勉次はいろんなことがわかったように思った。家族関係のさまざまな糸、家と家とのつながりへの生き方のいろんな反映、自分たちの眼の狭さ、父が上京して開いたという会議でのタミノの言葉の父による誤解──しかしすべてを彼の裏切りが与えていた。父の誤解をいくら解いても誤解を生ましたものにふれることはできない。父のいう通りである。タミノやトミや何十人かのその仕事仲間にたいしては責任を感じていたが、父親にたいしてそれと同質のものを感じていなかった自分の姿は見るにたえなかった。 「どうしるかい?」 勉次は決められなかった。ただ彼は、いま筆を捨てたら本当に最後だと思った。彼はその考えを論理的に説明されうると思ったが、自分で父にたいしてすることはできないと感じた。彼は一方である罠のようなものを感じた。彼はそれを感じることを恥じた。それは自分に恥を感じていない証拠のような気がした。しかし彼は、何か感じた場合、それをそのものとして解かずに他のもので押し流すことは決してしまいと思った。これは彼らの組織の破壊を通して、自分の経験でこの二年半の間に考え積ったことである。自分は肚からの恥知らずかも知れない。しかし罠を罠と感じることを自分は拒むまい。もしこれを破ったらそれこそしまいだ。彼は、自分が気質的に、他人に説明してもわけもわからぬような破廉恥漢なのだろうかという、漠然とした、うつけとした淋しさを感じたが、やはり答えた、「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います。」 「そうかい……」 孫蔵は言葉に詰ったと見えるほどの侮蔑の調子でいった。彼らはしばらく黙っていた。勉次は自分の考えは正しいと思った。しかしそれはそれきりの正しさで、正しくなるかならぬかはそれから先のことだと感じた。彼は何の自信もなかった。彼は多少の酔いを感じ、ふぬけのように労れた。 勉次は行ってきたことや考えてきたことが、自分にとってですらも絶対的に正しかったとも絶対的に過ちであったとも思っていない。勉次は説明できると感じながらも沈黙してしまう。それは、勉次の転向は人間の関係において、自己をつらぬくことが誰かを犠牲にするほかないという認識から生じているのではない。自己完結的な孫蔵によって、勉次は相対化されている。孫蔵は決して具体的な生活から離れた意見を述べることはなく、勉次に論理的に自分の考えを主張し、一歩も譲らない。それに対して、勉次は沈黙によって耐えている。孫蔵と勉次の二人の会話が弁証法的であるのは、二人の会話が交差するとそれぞれの思わぬ本質を露呈するからである。会話は、主人公にとって、最終的結論を出すことはない。孤独に突き放すだけである。彼を沈黙させるのはこの孤独であり、それは、人間が一個の「個体」として生きようとするときに、生じてくるものである。 4 自己超克としての転向 中野にとって、転向は突然降って沸いたように現われてきたものではない。じわじわと中野に浸透してきている。しかし、それは内面のドラマではない。自分自身がそれまでかたく信じてきたものの上に、新たな考えが、自らの意図に逆らうかのように、覆い被さってくる。中野にとって、その事態は必ずしも好ましくははい。 中野は、「『文学者に就て』について」において、小林多喜二を思い出しながら、次のように述べている。 弱きを出したが最後僕らは、死に別れた小林の生きかえってくることを恐れはじめねばならなくなり、そのことで彼を殺したものを作家として支えねばならなくなるのである。僕が革命の糖を裏切りそれにたいする人民の信頼を裏切ったという事実は未来にわたって消えないのである。それだから僕は、あるいは僕らは、作家としての新生の道を第一義的生活と制作とより以外のところにはおけないのである。もし僕らが、みずから呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的綜合の中へ肉づけすることで、文学作品として打ちだした自己批判をとおして日本の革命運動の伝統の革命的批判に加われだならば、僕らは、そのときも過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮べたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。 何のこだわりもなく、転向していくことは、すなわち転向することを自明の条件とすることは中野にはできない。と同時に、彼は過剰な罪の意識を持つことは転向を覆い隠すための身振りにすぎないとも感じている。中野は何が起ころうとも信じていくことを決意していたにもかかわらず、転向してしまう。彼は信じていようとするがゆえに転向する。中野はそれに負い目を持つことなく、文学作品を通して自己批判を行おうとする。中野にとって、転向が重要ではない。新たな考えが入って自分を占めてしまうことが大きい。 だが、父親の孫蔵はそういう勉次には不満を感じている。孫蔵には、息子が決意したものを翻したこと、すなわち信じていたものに殉死しなかったことや負い目一つ感じず恥知らずにもまた書こうとしていることが許しがたい。この孫蔵に対する解釈は多岐にわたっている。吉本隆明は、『転向論』において、彼を「日本封建制」の権化としてとらえているし、柄谷行人は、『死語をめぐって』において、彼を「知識人に対して職人の名において語るもの」としてとらえている。あるいは、父と子、すなわち世代間の対立としてとらえているものもいる。おそらく、それらの解釈は、部分的には、間違っていない。 しかし、孫蔵に関する次のような説明がそれては不十分なことを明らかにしている。 孫蔵は正直者で通っている。それも百姓風な頑固ものではない。永くあちこち小役人生活をして、地位も金も出来なかった代わりには二人の息子を大学へ入れた。先代の太兵衛はわけもわかる代り名うての頑固ものだったが、孫蔵の方は十七、八貫もあるからだて口喧嘩一つしたことがない。喧嘩話を持ち込む近所合壁の嫁姑は、太兵衛には頭ごなし叱りつけられたものだったが、孫蔵になってからは世間話をしているうちに自分から取り下げるような具合である。長男の耕太が、大学を出て一年たたずに死んだ時も孫蔵は愚痴一つこぼさなかった。どこかに火事でもあれば、一里半や二里のところは真夜中でも草鞋ばきで見舞いに出かける。代々酒のみの家で、孫蔵も酒量ではひけを取らなかったが、声が大きくなるくらいで乱れたことはない。(略)それやこれやで彼は、家族からも親類うちからも、村のものからも尊敬されている。 孫蔵は人望もあり、寛大で、子供に対して理解力ある親である。彼は、妻のクマと違って、「息子が刑務所に入っていることに何のひけ目も感じなかった」。と言うのも、「うちの教育方針は決して悪るない。いい悪いは知らんがまちごうてはいぬつもりじゃ」からである。孫蔵は共産主義活動に必ずしも否定的ではないが、そんなことをしている間は地に足が着いていない証拠だと感じ、肯定的でもない。それは若いときのはねあがりのすること、若気のいたりである。孫蔵は、それだけでは、なかなか図式的には扱いにくい存在であるが、彼の本質は息子との対話によって顕在化する。 孫蔵は勉次をたんなるロマン主義者と見なしている。しかし、孫蔵もまたもう一つのロマン主義者である。転向する前の勉次と孫蔵は、それぞれニーチェが『反時代的考察』の中で提唱した人間像、すなわち「ルソーの人間」と「ゲーテの人間」、沈黙する勉次は「ショーペンハウアーの人間」に対応させることができよう。ニーチェは、『この人を見よ』において、『反時代的考察』がアルトゥール・ショーペンハウアーの理解に役立つとは考えてはおらず、自分自身だけを語っていることを否認しないと明かしている。ニーチェは、この著作において、ルソーやゲーテ、ショーペンハウアーを、『悲劇の誕生』におけるリヒャルト・ワーグナーと同様に、比喩として取り扱っている。 まず、「ルソーの人間」は、「最大の火」を持ち、「最も通俗的な影響を及ぼす」。彼は「自然だけが善だ、自然人だけが人間だ」と叫ぶ。だが、そうしたことはただたんに現にある自分自身を否定しているにすぎない。「ルソーの人間」は熱狂的な革命への行動的な希求を持つと同時に、強い現実否認と本来性への憧憬をも持っている。あるいは、それは青年期的な急進的で素朴なロマン主義的精神と言ってもいいだろう。 次に、「ゲーテの人間」は、「ルソーの人間」が浸った熱狂的な状態への「鎮静剤」である。「ゲーテの人間」はファウストによって象徴的に描かれている。ファウストは、一見したところでは、ルソー的なロマン主義的精神を体現しているようであるが、実は、決定的な行動を避けており、「ルソーの人間」とは異なっている。「ゲーテの人間」は「諦念」に基づいた「高次の様式における静観的人間」であり、「保守的調和的な力」を持っている。しかし、同時に彼にはたんなる俗物に成り下がってしまう危険性がある。あるいは、それは「ルソーの人間」によって体現されるロマン主義的精神が世俗的な現実社会によって挫折し、世俗的な現実社会との通俗的内面化による調停した結果の姿と言ってさしつかえないだろう。 最後に、「ショーペンハウアーの人間」は、「ゲーテの人間」に欠けているメフィストフェレース的な「悪」を保持している。そのため、「ショーペンハウアー的人間像がわれわれを鼓舞してくれる」。「ショーペンハウアー人間」は「ゲーテの人間」の「単に観想すること」に、さらに、人間の自己自身に対する「誠実」の能力を加えて持っている。「自己自身を認識された真理にいつでもその第一の犠牲として捧げ、どういう苦悩が自己の誠実から湧き出て来ざるをえないか」を見据え、それに従うことに生きる本質的な意味を認める人間が「ショーペンハウアーの人間」である。しかし、この「ショーペンハウアーの人間」は、人間の諸矛盾を顕在化させてしまうために、悪意ある皮肉屋として疎んじられてしまうことも少なくない。だが、彼の態度はたんなる弱者の悪意ではない。「ショーペンハウアーの人間」の持つ「否定や破壊」、さらにそこから派生してくる「苦悩」を自らわが身にひきうけることを忘れない。それにより、「ショーペンハウアーの人間」は、言葉や思想をたんなる観想や調和の視座に貶めることなく、真に現実的かつ活動的なものにする。「ルソーの人間」から「ゲーテの人間」への移行は成熟ではなく、通俗化、すなわち、はねっかえりが、たんに年をとるとともにすっかり落ち着いて、足を洗うという通俗化なのであり、「ショーペンハウアーの人間」への移行だけが成熟である。勉次の感じた孫蔵の主張の「罠」はこの通俗化にほかならない。「ショーペンハウアーの人間」への移行はたんに「ルソーの人間」が表わしているロマン主義への回帰ではなく、「ゲーテの人間」がもたらす鎮静化という「罠」に陥ることなく、その先にあるその精神の成熟する可能性の希求である。「ショーペンハウアーの人間」は「ルソーの人間」が抱く理想と憧れをそれが現実の中で容易には生き延びられないことを十分踏まえた上で、にもかかわらず、生の目標を「個々の生存をいかに肯定するか」に定めることによって、生き延びさせる可能性を求めている。 だが、そう解釈したとしても、主人公が「いま筆を捨てたら本当に最後だと思った」ということには謎が残る。父親はとにかく一度筆を捨てて働いてみて、その後で落ち着いた上で、それでも書く意欲が起こったら、また始めたらいいと言っている。父親が指摘するように、作家活動を一度休業して働いて、その後に、書くこともできるにもかかわらず、続けなければ、自分は終わりだと感じている。それは、意地や自尊心、虚栄心ではないし、書くことが好きだからでもない。一度筆を置いて他の仕事をメインにすると、何かが失われてしまう。筆を捨ててしまうと、本物の自分自身と偽者の自分自身をロマン主義的につくりあげ、内面に逃げこむという通俗的なことをするからである。また、共産党員であることを認めるか否かもこの次元にある。政治活動をするかしないかは行為であって、内面の問題ではない。他方、共産党に属しているか否かは行為ではなく、認知の問題であり、内面化の「罠」が潜んでいる。それに同意するとき、内面化が始まる恐れがある。主人公が結局その点を認めるのは、誰かに責任転嫁する可能性がなくなり、自己欺瞞・自己倒錯による内面化する危険性が失われたからである。日本の歴史上、柄谷行人の『近代日本の批評 昭和前期[Ⅰ]』によれば、初めて自己批判が問題になったのはマルクス主義においてである。中野の転向はこの自己批判である。一方、彼以外の転向者は自己憐憫・自己嫌悪を意味している。「近代人の自意識」を持つものたちにとって、内面の存在など自明の条件であり、内面化に対する抵抗など意味をなさない。しかし、中野にとっては、内面はニヒリズムの一種である。中野は、他のものとその違いに触れたとき、「錯乱」せざるを得ない。 中野が真に転向するのは転向声明を出したときではなく、父親との対話の弁証法によってである。中野は父親と対話をする前は「ショーペンハウアーの人間」ではなく、まだ「ルソーの人間」に近い。ここで「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」と言うとき、転向は主体の問題ではなく、意志の問題になる。転向者の中で転向を意志の問題としてとらえていたのは中野重治だけである。「恥知らず」なのかもしれないと思いながらも、「罠」を感じるがゆえに、書くことを意志する。そのとき、中野は、転向において、負い目を生み出すことなく、肯定的な生きることの価値を創造しようという意欲が明確に生じている。意志は自意識以前のものであり、その領域の問題として転向を把握するならば、そこに心理的・内面的説明は入りこむことができない。それにより、中野は転向において新たな価値を創造する。転向の価値基準はその意欲にある。意欲に価値基準を置くならば、転向のことで言い訳することなど不必要だろう。中野重治は意志の人間である。 実は、転向の問題が起こるはるか以前に、転向の問題に悩み、それが、最終的には、意志の問題と理解していた書き手がいる。夏目漱石である。 漱石は、一九〇五─〇六年の断片において、次のように書いている。 二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。上品も下品も入らぬ図々敷方が勝つのぢや。賢も不肖も入らぬ。人を馬鹿にする方が勝つのぢや。礼も無礼も入らぬ。鉄面皮なのが勝つのぢや。人情も冷酷もない動かぬのが勝つのぢや。文明の道具は皆己れを調節する機械ぢや。自らを抑へる道具ぢや、我を縮める工夫ぢや。人を傷けぬ為め自己の体に油を塗りつける(の)ぢや。凡て消極的ぢや。此文明的な消極な道によつては人は勝てる訳はない。──夫だから善人は必ず負ける。君子は必ず負ける。徳義心のあるものは必ず負ける。清廉の士は必ず負ける。醜を忌み悪を避ける者は必ず負ける。礼儀作法、人倫王常を重んずるものは必ず負ける。勝つと勝たぬとは善悪、邪正、当否の問題ではない──power デある。──willである。 マゾヒストの谷崎潤一郎であれば、女の前に進んではいつくばり、踏んでくれることを乞い、恍惚の表情をして、「二個の者がsame spaceヲoccupyスル」ことは可能であると呟くところであり、彼には転向など問題にはならない。漱石のこの言葉が転向の問題を要約している。転向は「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」という状態から生まれてくる。「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には」行くのであれば、転向の苦悩は無意味になる。谷崎の弁証法は、中野とは逆に、下向きである。「二個の者」のいずれかを意識的に選びとれるものではない。転向は主体性、すなわち自意識による選択の問題ではない。どちらか「強い方か勝つ」という転向は強い=弱いという次元にあり、それは「善悪、邪正、当否の問題」てはない。それは健康=病気という衛生学基準である。「礼儀作法、人倫王常」などの既存のものに頼るものは、佐野や鍋山などのように、勝つことができない。そのため、転向は意志(will)や力(power)、すなわち「力への意志(will to power)」の問題にほかならない。 ニーチェは、『ツァラトゥストゥラはかく語りき』において、力への意志を次のように語っている。 わたしが生あるものを見いだしたかぎり、そこにはかならず力への意志があった。そして服従して仕えるものの意志のなかにさえ、支配者となろうとする意志があった。 弱者が強者に仕えるのは、より弱い者に対して支配者になろうとする弱者の意志が、かれを説き伏せるのだ。このよろこびだけは、かれは捨てようとは思わない。 そして、小さなものが、自分よりもっと小さなものに対して支配のよろこびと力を味わうために、自分より大きなものにみを捧げるのと同じように、最も大いなる者も、さらに身をささげるのであり、それは力のよろこびを味わうために──生を賭けるということになる。 すべての和解よりさらに高いものを、意志は意志しなければならない。意志は力への意志なのだ。──だが、どうして意志がそうするようになれるだろう? 誰一人意志にむかって、逆もどりして意志することを教えたものはいなかった。 力への意志が生の根源であるのは、生が「つねに自分で自分を克服しなければならないもの」であるからである。意識による解釈、自意識による選択は生を否定する。意識による価値基準を排して、意識によっては解釈されない根源的衝動性である力への意志を価値の根本の据える必要がある。「力への意志は解釈する(──機関の形成にさいして問題なのは解釈である)。すなわち、この意志は、度合いを、力の差異性を、限定し規定する。たんなる力の差異性はいまだ差異性としておのれを感じえないかもしれない。そこには生長しようと欲する何ものかが現存していて、このものが他のあらゆる生長しようと欲する何ものかをおのれの価値にもとづいて解釈するのでなければならない」(ニーチェ『力への意志』)。生が自己超克を企てるとき、意志は意志する。それこそが力への意志である。それよって生きている中野の行動が意識化されていないのは当然だ。 中野にとって、転向は自己超克である。彼以外の転向の場合、自己の同一性・一貫性・連続性の確保や保持のために転向が行われており、マルクス主義に固執するかそれ以前に回帰するか、すなわちどちらを真の自己とするかの違いだけで、自己超克からはほど遠い。転向は現にある人間の意識を意志を価値基準に置いて、超克することである。真の転向は、それによって、自己超克により自らの生を肯定することにほかならない。 さらに、ニーチェは、『ツァラトゥストゥラはかく語りき』において、そうした生の態度について次のように語っている。 苦痛はまたよろこびであり、呪いはまた祝福であり、夜はまた太陽なのだ、──去る者は去るがいい! そうでないものは学ぶがいい、賢者はまた愚者だということを。 あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての痛みに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛しあっているのだ。── あなたがたがかつて、ある一度のことを二度あれと欲したことがあるなら、「これは気にいった。幸福よ! 束の間よ! 瞬間よ!」と一度だけ言ったことがあるなら、あなたがたは一切が帰って来ることを欲したのだ! ──一切を、新たに、そして永遠に、万物を鎖でつながった、意図で貫かれた、深い愛情に結ばれたものとして、おお、そのようなものとして、あなた方はこの世を愛したのだ! ──あなたがた、永遠のものたちよ、世界を愛せよ! 永遠に、また不断に。そして、痛みに向かっても「去れ、しかし帰って来い」と言うがいい。すべてのよろこびは──永遠を欲するからだ。 自分の持っている力を出しつくした上で、その結果として表われてきたものをあるがままに認め、肯定する。どんな生でもたった一回であっても、生が肯定される瞬間があったなら、「よろこび」によって、生や世界に対して「去れ、しかし帰って来い」と言い、それを「然り」と言い得るものにする。転向は、中野にとって、「命をかけた(?)のに自ら敗れたという経験」である。しかし、それは「もしわれわれかそうするために努力しとおすならば、第一義的な文芸実践の最も強い土台の一つ」となる。転向に対して何の自己倒錯・自己欺瞞を抱かず、あるがままに認め、それを自らに引き受けるとき、転向経験に「然り」と告げられる。転向はそうした倫理的規範と実存的側面の両面において、反復ではなく、反芻することによって、生の条件になる。 中野の転向は「旅」などではなく、「政治的移動」である(中野重治『わが杜甫のすべて』)。佐野や鍋山にとって、転向は故郷から出かけてまた戻ってきて、故郷を再発見するための「旅」にすぎなお。一方、小林多喜二や宮本百合子は故郷からかたくなに「旅」にでかけようともせず、異郷を知りもしない。彼らに対して、中野にとって、転向は故郷から異郷へ向かっての二度と戻ることのない「政治的移動」である。それは、むしろ、政治亡命と言ってもいいだろう。日本の知的なマルクス主義者の中で、実質的に、亡命したのは、転向を意志の問題として認識していた中野重治だけだ。彼は、ノスタルジーを拒絶して、時間的差異の中に自らの言葉を確立しようとする。自己とそれに対する否定的自己意識から防御する弁証法によって、時間が経つにつれ、流動的に彼の言葉は形成されていく。そのように形成された言語であるため、中野は原稿の初出時の間違い──単純な記憶違いでさえも──を訂正しない。一度書いてしまえば、時間的状況のため埋めることのできぬ隔りが確かにあり、その時点にはもう二度と戻ることはができない。中野にとって、転向はこうしたものだ。 確かに、理論とその思想家を必ずしも同一視することはできない。しかし、思想家の生き方は、知らず知らずのうちに、理論となってしまうものであり、理論は、思わぬ形で、思想家を束縛するものである。しかも、それはその思想家にとって認めたくないものであることのほうが多い。公に彼らが表明している立場を言語がその正反対の主張をも導き出し、その言語は思想家を逆に従わせてしまう。そうした事態をまったく顧みなかったり、それから自由であると考えていたりしていたら、これほどおめでたい話もそうめったにない。その思想家にできるのは、自由のない自分自身を笑い飛ばす自由があるだけである。 中野は決して「わかりにくい」わけではない。中野は自意識の人間でないだけだ。自意識の人間には彼は「わかりにくい」であろう。しかし、中野の魅力とその「わかりにくさ」は意志で生きているところにある。 中野は、『身分、階級と自我』において、自意識について次のように述べている。 しかもわれわれが自我という場合、われ・個の実在ということよりも、そのことの意識・自意識ということに重みを置いて問題はとらえられていものと私は思う。そうして、われわれにおいて重要なのは、意識でなくて実在であり、そういって言いすぎならば、実体とその活動とにいっそうの重要性があり、実体とその活動が弱い場合、またはそれが拘束された場合、自我とその意識とはそのものとして強まる傾向があるということを事実として言いたい。やや極端にいえば、自意識としての自我=自我意識の旺盛には、おそらく必ず、あるいはややもすれば、実体としての個の相対的衰弱と頽廃とがあるのではなかろうか。近代的自我と自我意識とは、少なくとも現実には、多弁なデカダンスに陥る危険を持っている。 中野にとって、「近代的自我と自我意識とは、少なくとも現実には、多弁なデカダンスに陥る危険」を持つ病的なるものである。彼は「近代的自我と自我意識」以上に、「実体とその活動」を重視する。それは「われ・個の実在」としての「活動」、すなわち意志である。中野は意志によって生きることを肯定する。自意識に対してはそこに自己欺瞞と自己倒錯を認め、「罠」を感じる。その転向の独自性を認めた吉本や柄谷は自意識の人間には到達できない何ものかを彼に見出している。中野は意志の人間だ。「わかりにくい」と見なす多くの文学者たちは病的であり、自意識の病にかかっている。自意識で生きていない人間にとって、すべては自分とは他なるものであり、自意識の持つ錯誤、すなわち他なるものの忘却に陥らない。そのため、中野は自意識の持つ生の否定という病を感ずることがない。 中野重治は、確かに、転向している。しかし、他のプロレタリア作家と比較するなら、それは、むしろ、亡命と考えるべきである。他の転向から中野を見るのではなく、転向を中野の作品を通して認識するとき、転向の本質が顕在化してくる。彼以外のものにとって、転向は主体の問題であり、それは彼らに何の変化ももたらしていない。ただ一人、転向を力と意志の問題として理解していた中野においてのみ、転向は自己超克となっている。それは生を肯定する。真の転向はそのような力への意志による。中野重治の『村の家』は転向を意志による生の肯定として語る作品にほかならない。 〈了〉 参考文献 中野重治、『本とつきあう法』、ちくま文庫、一九八七年 『中野重治全集』全28巻、筑摩書房、一九五九~八〇年 『現代文学大系36』、筑摩書房、一九六六年 『日本文学全集35 』、新潮社、一九六七年 『日本文学全集42』、集英社、 一九六九年 『日本現代文学全集70』、講談社、一九六九年 『日本の文学41』、中央公論社、一九七九年 柄谷行人、『終焉をめぐって』、講談社学術文庫、一九九五年 柄谷行人編、『近代日本の批評〈1〉昭和篇上』、講談社文芸文庫、一九九七年 坂口安吾、『坂口安吾全集』14~16、ちくま文庫、一九九一年 中野重治研究会編、『中野重治と私たち』、武蔵野書房、一九八九年 夏目漱石、『漱石文明論集』、岩波文庫、一九八六年 夏目漱石、『僧籍日記』、岩波文庫、一九九〇年 平野謙、『中野重治研究』、筑摩書房、 一九六〇年 福田恆存、『福田恆存評論集』3、新潮社、一九六六年 吉本隆明、『マチウ書試論・転向論』、講談社文芸文庫、一九九〇年 K・マルクス=F・エンゲルス、『ドイツ・イデオロギー』、真下信一訳、国民文庫、一九六五年 K・E・クレア=D・ハワード編、『レーニン以後のヨーロッパ・マルクス主義』、現代の理論社、一九七三年 ピーター・ゲイ、『自由の科学 ヨーロッパ啓蒙思想の科学』1・2、中川久定他訳、ミネルヴァ書房、一九八六年 ジェルジ・ルカーチ、『歴史と階級意識』、城塚登他訳、白水社、一九九一年 F・ニーチェ、『ニーチェ全集』4、9~10、12~13、15、ちくま学芸文庫、一九九三~九四年 Andrew Arato. The Young Lukaacs and the Origins of Western Marxism. Seabury Pr. 1979 『現代思想臨時増刊総特集 現代思想の109人』、青土社、一九七八年
https://w.atwiki.jp/spas/pages/974.html
宝塚温泉をお気に入りに追加 くちこみリンク #blogsearch2 報道 福知山線の小さな駅・生瀬で、なぜ「駅弁」が成立したのか? ~神戸駅弁・淡路屋(ニッポン放送) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 但馬空港、大阪/伊丹発但馬線欠航時のチャータータクシーを試験運行 - TRAICY(トライシー) 産地から学ぶ但馬牛 中山五月台小でオンライン授業 - 神戸新聞 宝塚市の就職氷河期世代向けオンライン就労支援「ヅカキャリ」がアンケートキャンペーンを開始:時事ドットコム - 時事通信 【ウマ娘】最後に奇跡を起こしたオグリキャップ。その強さの源泉は豪華なライバルや温泉だった!? 現役時代の逸話やゲームの元ネタを紹介 - ファミ通.com 12月7日グランフロント大阪南館7Fに、あの人類みな麺類グループの「担担麺専門店」が復活! - Newsweekjapan お風呂自慢のゴルフ場で旅行気分♪【関西編】 - Regina(レジーナ) アクティブでおしゃれな女性ゴルファーへの発信源 ナチュールスパ 宝塚温泉施設に譲渡案 - 読売新聞 高松の温泉街走った幻のガソリン鉄道 14日に実寸大模型展示 - 毎日新聞 - 毎日新聞 関西の日帰り温泉宿人気ランキングTOP15【楽天トラベル2021年版】 - オーヴォ クラファンでシカ撃退の電気柵調達 ソバ栽培の新温泉・春来地区 出資者が収穫体験、交流も - 神戸新聞NEXT 嬉野温泉駅前に宿泊特化ホテル 道の駅周辺に展開 - 佐賀新聞LiVE 兵庫・城崎温泉がますます文学の街に、「個性派書店」オープン(Lmaga.jp) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 城崎温泉に「かに王国」誕生! ズワイガニで温泉街も大繁盛! - 神戸新聞NEXT 宝塚 丸ごと芸術…中心市街地の広場や古いアパートなどギャラリーに - 読売新聞 劇団わらび座の民事再生「寝耳に水」 事業継続方針には安どの声 - 河北新報オンライン 小野寺技師長が金の亡者に!?温泉旅行に浮足立つ唯織たちを待ち受ける事件とは? - フジテレビュー!! 宝塚のお店を巡る「TRADスタンプラリー」 - KissPRESS 阪急宝塚線 演奏つなぐ 大学、財団7ホールで - 読売新聞 有馬温泉名産・炭酸煎餅でコンビニスイーツ ローソン「ザクッとチョコのスフレサンド」 - 神戸新聞NEXT KAT-TUN3人で金沢温泉旅へ!上田竜也「最高の旅の予感してない?」『何するカトゥーン?』 - フジテレビュー!! 元宝塚歌劇団・月組娘役トップスター【愛希れいか】のハマりもの!(VOCE) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 宝塚最高峰の「歌うま」真彩希帆、退団後に明かした役作り「自分の心の声信じてる」 - 読売新聞 “多重人格”追求中の彩吹真央、宝塚退団後に感じた苦悩と本音(島田薫) - 個人 - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 来場者が3000万人突破…宝塚大劇場 - 読売新聞 <『脳ベルSHOW』クイズ>1906年に創業、36年連続日本一に選ばれた老舗温泉旅館の名前は? - フジテレビュー!! 少女歌劇、阪急、温泉… 宝塚の成り立ち、本に 地域史研究家・倉橋さん出版 /兵庫 - 毎日新聞 「満仲の矢」スカッと採用 - 読売新聞 「宝塚市」地名の由来になった「宝の塚」、本物はどこに? 各地に残る伝承や遺跡 - 神戸新聞NEXT バカリズム、旅の達人・風間トオルからの差し入れに「まさか温泉まんじゅうからのやりとりになるとは(笑)」(TV LIFE web) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース “平たい顔族”が入っていた温泉のロケ地は?映画「テルマエ・ロマエⅡ」裏話の楽しみ方 - フジテレビュー!! 宝塚の男役一筋36年 轟悠が退団 達筆でファンに感謝(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 窪田正孝 母親と2人で温泉旅行へ!親孝行エピソード明かす「今まで見たことのない満面の笑みで…」 - フジテレビュー!! 六甲山登山へ新たな提案「太閤の湯ハイカー・ステーション」プラン~お得にパーク&ラウンドハイク(往復登山)そして温泉~2021年10月1日(金)より販売開始 - アットプレス(プレスリリース) 轟悠の5作品メモリアルBlu-ray BOX「YU TODOROKI」発売、初ディスク化の専科公演も(ステージナタリー) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース クスノキ 次の宿どこに - 読売新聞 ホテルで滞在、リハビリを 宝塚・ポラリスがリーガロイヤルでプラン提供 - 神戸新聞 元宝塚・叶羽さんが一日署長 秋の全国交通安全運動で(両丹日日新聞) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 【速報】兵庫で267人感染 宝塚市の事業所で職員12人感染のクラスター 病床使用率は40パーセント(ラジトピ ラジオ関西トピックス) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 宝塚OGに活躍の場を、阪急が新会社…23日から初公演「将来は夢組を」 - 読売新聞 廃線敷、武田尾 [吉武英行 五感の旅] - 大阪日日新聞 - 大阪日日新聞 松岡修造がマス料理のおいしさに「プレミアム修造です!」と迷言連発!? - フジテレビュー!! 柚香光「初めて一から作る作品となる」星風まどかと意気込む 宝塚花組公演11月スタート(中日スポーツ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 【花外楼人・歳時記 長月】苦境を支えた宝塚のご贔屓、小林一三 - 産経ニュース 黒部と宝塚 つなぐ舞台 きょう公演 出演の4人抱負 - 中日新聞 ナチュールスパ宝塚、コロナで休館…経営厳しく 温浴事業の断念も視野 - 神戸新聞 宝塚にある「小浜おはぎ研究所」に行ってきました - KissPRESS 「宝塚学検定セミナー」開催へ エフエム宝塚と宝塚文化創造館の活動振り返る - 西宮経済新聞 高級食パン専門店「KONA TKZ」実食レポ 宝塚市 - KissPRESS 高級食パン専門店「KONA TKZ」あん食パン「星」発売 宝塚市 - KissPRESS 障害者施設等の従事者に対する新型コロナウイルス感染症病原体検査の実施について - hyogo.lg.jp 大人のタカラジェンヌの爽やかな引き際 轟悠さん退団公演 - 読売新聞 <6>政界復帰はないわよ - 読売新聞 『じゃらん』旅館で出迎えてほしい芸能人ランキング - PR TIMES 鳳蘭、蜷川幸雄も認めた“宝塚男役感”溢れる所作とは? - ananweb 元宝塚【明日海りおさん】インタビュー「30代のこと」他を一気にお見せします|CLASSY.(magacol) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 中国道 吹田JCT~宝塚ICで終日通行止め/車線規制。迂回アプリでポイント付与 - トラベル Watch <華 宝塚> 鳳月杏(月組) - 中日新聞 <五輪>宝塚の宙から表彰台へ - 読売新聞 元宝塚トップ、移住して女将に転身…武器は「笑顔と根性」 - 読売新聞 <華宝塚>シンプルな気持ちで 鳳月杏(ほうづき・あん)(月組) - 東京新聞 コロナワクチン接種 優先対象者7月末から 新温泉町 - 神戸新聞 『夏休み!!ガラスびん×地サイダー&地ラムネ in 銭湯 2021』今年の夏も銭湯に入って、ガラスびん入りご当地飲料を楽しもう!開催期間:7/17(土)~9/5(日) - PR TIMES 松岡修造「地獄蒸し」の濃厚な旨味に「びっくらこいたわ」と大満足 - フジテレビュー!! <4>断られても猛アタック - 読売新聞 宝塚で「おじさん役」を究めた天真みちるの第2の人生(FRIDAY) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 有馬で元気!有馬が元気!有馬温泉×関西初、屋外型 テントサウナ(R)イベントを開催 - アットプレス(プレスリリース) 佐賀市神園の鉄工所跡地に日帰り温泉施設計画 2022年春開業予定 - 佐賀新聞 <華宝塚>陽のエネルギー届ける 飛龍(ひりゅう)つかさ(花組) - 東京新聞 純烈の白川裕二郎が惜別「もう一度行かせて」大江戸温泉物語9・5閉館 - ニッカンスポーツ 宝塚歌劇、オフィシャルショップでディズニーコラボグッズ発売。第1弾は7月2日から - トラベル Watch 高齢者のワクチン接種予約、郵送申し込み可能に 宝塚市 - 神戸新聞 モダン宝塚の100年の歩みたどる企画展 - 朝日新聞デジタル 城崎温泉でワクチンの「職種接種」 800人程度対象 - 神戸新聞 ひょうご経済+|【NEXT】経済|不動産仲介のウィル 家具ショールーム開設 住宅購入客向けに提案 - 神戸新聞 【中止】宝塚市立長谷牡丹園 シーズンオープン - KissPRESS 宝塚、二つ目の市花にダリア選定 「華麗」「優雅」歌劇のイメージ - 神戸新聞 元宝塚トップスター壮一帆が熊野古道を巡る “入浴できる世界遺産”も<旅サラダ> - ザテレビジョン 春の温泉街にきらめく花火 城崎温泉街『城崎温泉まつり』豊岡市 - KissPRESS 宝塚で活躍 舞咲りんさん(宮崎市) 宮崎学園短大に入学 - 宮崎日日新聞 【IR福岡誘致開発特別連載 31】「かしいかえん」も「アイスアリーナ」も救世主はIR福岡誘致|NetIB-News - NET-IB NEWS 志賀直哉、吉田兼好、島崎藤村… 城崎温泉に20以上、文豪ゆかりの碑がある理由 - 神戸新聞 <華宝塚>恋してもらえる存在に 朝美絢(雪組) - 東京新聞 「阪急お膝元」宝塚に阪神バス 幻の線路、車道に転用 - 日本経済新聞 阪急は全線で終電繰り上げ 3月13日ダイヤ改正 | 鉄道ニュース - 鉄道チャンネル 橋爪紳也・仙海義之さん「宝塚文化」を語る 100年続いた喜びの聖地 - 毎日新聞 宝塚の歴史、文化学ぶ勉強会 温泉などの変遷紹介 - 神戸新聞 ひょうご経済+|【NEXT】経済|城崎温泉、GoTo停止で解約6万人 損失推計18億円 - 神戸新聞 ひょうご経済+|【NEXT】経済|音響機器メーカーTOA 宝塚の再開発研究拠点が完成 - 神戸新聞 「術中にはまるところだった」宝塚市長あわや詐欺被害…電話に防戦30分 - 読売新聞 宝塚市内での宿泊で「宝塚ならでは」の商品をプレゼント 新型コロナ支援で - 西宮経済新聞 【宝塚】タカラジェンヌ御用達!?武田尾温泉 別邸あざれにGO TO トラベルでいってきました - DailyMORE (株式会社集英社) 【検定百景#25】宝塚学検定:歌劇だけじゃない、世代を超えた共通言語|好書好日 - 好書好日 少女らの夢の舞台、今は足湯に 消滅した「四国の宝塚」 - 朝日新聞デジタル 新型コロナ 温泉水をテークアウト ホテル若水が無料提供 宝塚 /兵庫 - 毎日新聞 観光地からのメッセージ:宝塚市立文化芸術センター - トラベル Watch 自ら生まれ変わる文化の街 | 宝塚市 [兵庫県] - 週刊東洋経済プラス 「三ツ矢」「ウィルキンソン」…炭酸水の聖地は関西にあり - 産経ニュース 宝塚市、温泉施設の売却視野に 33施設の方向性検討 公共296施設、保有可否公表 /兵庫 - 毎日新聞 J COM 宝塚・川西×宝塚市国際観光協会 宝塚市のPR推進キャンペーン『夢をさがしに、宝塚』を開催 - PR TIMES 成分解析 宝塚温泉の77%は毒電波で出来ています。宝塚温泉の14%は見栄で出来ています。宝塚温泉の5%は利益で出来ています。宝塚温泉の2%は回路で出来ています。宝塚温泉の1%は着色料で出来ています。宝塚温泉の1%は優雅さで出来ています。 ウィキペディア 宝塚温泉 掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る ページ先頭へ 兵庫県/宝塚温泉 このページについて このページは宝塚温泉のインターネット上の情報を集めたリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される宝塚温泉に関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。
https://w.atwiki.jp/usodakedo/pages/56.html
●P.20 L.7 もーちゃんは太った男の子だ。 →児童文学「ズッコケ三人組」の登場人物が元ネタ。 ●P.26 L.3 仙豆もないというのに。 →「ドラゴンボール」に登場する万能回復アイテム。瀕死の重症も一粒で治るという豆である。年に数粒しか獲れない。 ●P.26 L.14 右腕だけ一本残すとか、洒落の利いた演出を施してほしい。 →同じく「ドラゴンボール」から。ピッコロ大魔王との闘いにおいて、悟空は左腕と両足を砕かれたが、ピッコロがとどめを刺そうとしてきた瞬間、一本だけ残された右腕でかめはめ波を放ち、ピッコロを撃破することに成功した。 ●P.26 L.15 毒は胃に収めたことがあるから、資質はバッチリだ。 →またまた「ドラゴンボール」から。悟空はピッコロ大魔王と闘う前、眠っている力を引き起こすことができるが猛毒に等しい超神水を飲み、一晩続いた苦痛を乗り越えた末に、ピッコロ大魔王を打ち倒す力を手に入れた。 ●P.26 L.16 牛乳配達や畑仕事による修行を欠いているのでどうしようもないが。 →やっぱり「ドラゴンボール」から。悟空とクリリンは亀仙人の下で重りである亀の甲羅を背負って修行をさせられた。それにしてもこのページだけでどんだけドラゴンボールネタなんだ。 ●P.27 L.13 山川じゃないにせよ『こうぞう』の『やしき』の地下室な癖に、 →ファミコン版「ポートピア連続殺人事件」に登場する、山川耕造の屋敷。地下が迷宮になっている。犯人はヤス。 ●P.41 L.8 では今の賢さどーぴんぐ中のまーちゃんと、○○の○○○○○○をれっつでゅえっと →アニメ「創聖のアクエリオン」OPが元ネタ。一万年と二千年前から××してる~ ●P.43 L.14 みーくん代理補佐心得 →野中英次のコミック「課長バカ一代(講談社)」に出てくる主人公・八神和彦の肩書きである「課長補佐代理心得」から。このよくわからん肩書きを持つ彼は、のちに「心得」が取れて課長 補佐代理に昇進する。やっぱりわけわからん。 ●P.44 L.17 所謂、左足は添えるだけ。 →井上雄彦のバスケ漫画「スラムダンク」の主人公、桜木花道の名言「左手は添えるだけ」が元ネタ。 ●P.46 L.5 扉の外には、ツァラトゥストラへの階段が続いていた。 →土橋真二郎著、電撃文庫刊行の「扉の外」「ツァラトゥストラへの階段」が元ネタ。 ●P.48 L.3 何ともトラップ大佐である。 →ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の登場人物。 ●P.49 L.3,4 「季節が冬じゃなくて良かった」 スキーのストックで伏見に刺殺されずに済んだからな。カメラマンもいないし、実に平和だ。 →チュンソフトより発売のゲームソフト「かまいたちの夜」が元ネタ。スキー場と雪山のペンションを舞台に起こる殺人事件の謎を解いてゆくミステリー系ゲーム。 ●P54 それと午前零時のサイレンなども鼓膜を揺らさず →プレイステーション2用のホラーゲーム「SIREN」が元ネタ。 ●P.55 L.2 最後の一人を誰が殺害したか検討するのが僕の役目だ。 →西澤保彦のミステリ小説「殺意の集う夜」が元ネタ。 ●P.55 L.3 「そして誰もいなくなったのか、かまいたちが夜に訪れているのか……」 →アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」と、前述の通りチュンソフトのゲームソフト「かまいたちの夜」が元ネタ。 ●P55 広間に目を凝らしても、暗夜行路だった。 →志賀直哉の小説「暗夜行路」から。 ●P61 桃花の幽体が僕の下に取り憑き、口溶けの良い皮肉を滑らかに送る。 →PEACH-PITの漫画「ZOMBIE-LOAN」から。作品内で宵町 暦(ヨイマチ コヨミ)という少女が、「死者の舌」と呼ばれる特殊な舌に死者の霊魂を宿らせる場面がある。 ●P.68 L.14 「……誰だったかしら、大須観音ちゃん?」 →×知県名古屋市にある北野山真福寺宝生院の通称「大須観音」より。 ●P.69 L.8 「貴方を地下室に封印再度することで、屋敷での危険性は薄まるであろう、と」 →森博嗣のミステリ小説「封印再度」が元ネタ。S Mシリーズの第5作目。 ●P.84 L.8 骨折して『やあ! ぼく、腕折れマン!』と構えられる奴 →やなせたかし作アンパンマンの有名な台詞「やあ! ぼく、アンパンマン!」が元ネタと思われる。 ●P.88 L.10 根性も必中も魂も閃きも熱血もないけれど、 →バンプレストのゲーム「スーパーロボット対戦」シリーズより。パイロットはSP(精神ポイント)を使って攻撃や機体に特殊効果を上乗せする。根性は機体の耐久値を20%回復、必中は攻撃の命中率が100%に、魂は一度だけ攻撃力が2.5倍に、閃きは相手の攻撃の命中率が0%に、熱血は攻撃力が2倍になる。 ●P.88 L.11 「せーいしんしゅーちゅー」 →スクエア・エニックスのゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズより。この技を使った次のターンに2回攻撃することができる。 ●P.89 L.11,12 「もーくーげーきー、」 ドキュンよりは笑ってるセールスマン寄りで、間違ってもズキュゥゥゥンではなかった。 →ヒューマンバラエティー番組「目撃!ドキュン」と、藤子不二雄A原作のブラックユーモア漫画「笑ゥせぇるすまん」と、荒木飛呂彦の漫画「ジョジョの奇妙な冒険」に出てくるキス時に出てきた効果音らの複合パロネタ。 ●P105 何だかこう、いちぶぶんだけでかいうでがあらわれた! →スクエア・エニックスから発売のゲームソフト「ドラゴンクエスト」シリーズにて、プレイヤーがモンスターとエンカウントした際に出てくるフレーズから。 ●P105 伏見の両眼球は、何処ぞの鎧のように彷徨って落ち着かない。 →前述のゲームソフト「ドラゴンクエスト」シリーズにでてくるモンスター、さまようよろいから。 ●P108 今更だ、ガンガンいこうぜ。 今は冷え切った態度でいる菜種さんには、命を大事にする姿勢で会釈しておいた。 →更に続けて、スクエア・エニックスから発売のゲームソフト「ドラゴンクエスト」シリーズが元ネタ。プレイヤーがAIに出せる指示コマンド「ガンガンいこうぜ」「いのちをだいじに」から。 ●P113 隣の伏見さん(漫画のタイトル的な意味で) →いしいひさいちの4コマ漫画「となりのやまだ君」から。現在は「ののちゃん」と名称を変えて掲載中。 ●P115 U.N.オーエンでもホストでもヤスでも、何でも来い。 →いずれも、推理物における真犯人を示す名前。前から順に、アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」、辻村深月の「冷たい校舎の時は止まる」、エニックスから発売されたアドベンチャーゲーム「ポートピア連続殺人事件」から。 ●P118 友情・努力・勝利といった少年の基本とは無縁の、応用と悪用の問題ばかり直面して成長してきたからな。 →少年向け漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」にて提示されている三大原則「友情、努力、勝利」から。最近の連載漫画ではあまり重要視されていないという意見もある。 ●P127 「僕の三次元ポケット……ないか」 →藤子・F・不二雄によるギャグSF(すこしふしぎ)漫画「ドラえもん」に出てくる道具四次元ポケットから。 ●P127 英国紳士の如き口調で、事件の物証を白日に晒す為の手続きを依頼する。まあ、イギリス人が日本語で説明するわけねぇけどな。 →レべルファイブから発売されたナゾトキファンタジーアドベンチャー「レイトン教授」シリーズから。 ●P158 「ワタクシ来期のシーズンは地獄落ち確定ですわ、すわすわ」 →スタジオディーンによって2期まで制作されたミステリーホラーテレビアニメ「地獄少女」シリーズから。みーまー5巻発売時には3期の制作が決定していた。 ●章タイトル 『ある閉ざされた春の屋敷で』 →東野圭吾原作の『ある閉ざされた雪の山荘で』 元ネタ。 ●P177 「世界じゃなくて不思議じゃなくて、でも発見」 →世界を中心とするトークショーとクイズ番組を兼ねた教養番組「日立 世界・ふしぎ発見!」から。 ●P181 その後、パン屋を営んでいないので再襲撃されることはなかったけれど →村上春樹の短編小説「パン屋再襲撃」から。タイトルに「再」とある通り、「パン屋襲撃」という短編小説も存在する。(現在は「パン」というタイトルに変更されている) ●P185 こうして、絶望系に閉じられた屋敷の人数が一つ減る。 →谷川流によるライトノベル「絶望系 閉じられた世界」から。みーまーが問題作と宣伝されているように、こちらは問題の実験作と評されている。 ●P194 「……うぅむ、お母さまはただの屍ではないのに、返事がないようね」 →前述のゲームソフト「ドラゴンクエスト」シリーズにおいて、死体に対して話しかけた際に表示されるメッセージ「*へんじがない ただのしかばねのようだ」から。特別な屍ならば返事をしてもよいのだろうか。 ●P203 いつ「かゆ、うま」とかに陥っても不思議じゃないわけだ。 →カプコン製作のホラーアクションアドベンチャーゲーム「バイオハザード1」に出てくる「研究員の日記」中の最後の言葉「かゆ うま」から。「かゆい うま」バージョンもある。 ●P218 トンチ小僧に難癖をつけられない為に、対策として。 →臨済宗の禅僧一休宗純を題材とした説話の1つ、「このはし渡るべからず」から。ポクポクポク……チーン! ●P218 「あらこんなところに人肉が」 ……。玉葱が床に転がっていないから、気も逸らせそうにない。 →昔々(1980年代後半ごろ)、ハ●ス食品「ハッシュドビーフ」のCMにおいて流れていた歌が元ネタ。あらこんなところに牛肉が♪ たまねぎたまねぎあったわね♪ ●P231 『駄目、絶対』 →財団法人麻薬・覚せい剤乱用防止センターによる薬物乱用防止標語。 ●P237 最高にハイであることを鼻歌交じりに宣言しようとしたが、旅行疲れに邪魔された。 →荒木飛呂彦の漫画「ジョジョの奇妙な冒険」に出てくる台詞「最高に『ハイ!』ってやつだァァァァ」から。 ●P238 屍ではまだないので、越えてはゆかない程度に速度を調節してほしい。 →アルファ・システムから発売のゲームソフト「俺の屍を越えてゆけ」から。 ●P238 寝転んだら、足の維持に回す分の体力が還元されてきたので、一度だけ青年の主張が出来そうだった。 →NHKで毎年成人の日に開催・放送されていた若者の論文コンテスト「NHK青年の主張コンクール(NHK青春メッセージ)」の略称、通称。 ●P244 印刷ミス、マユの視力の減退、時を駆ける少年。 →筒井康隆の小説「時をかける少女」から。ドラマ化、映画化、漫画化、アニメ化など、様々な形でメディアミックスされている。 ●P.251 L.3,4 「今後ともよろしく!」 心中では片仮名に変換して、病室の暖色な壁に音を反響させた。 →アトラスより発売のRPGソフト「真・女神転生」シリーズの有名フレーズ「コンゴトモヨロシク」が元ネタ。悪魔が交渉や合体で仲魔になったときにプレイヤーに対して言うセリフ。 ● ××の家族の名前 天野南、天野美沙、天野司馬、天野×音 →ファミコン用ソフト『星をみるひと』の主人公と仲間キャラクター。各キャラには固有の能力があり、みなみは特定のブロックを壊す「ぶれいく」、しばは瞬間移動が出来る「じゃんぷ」、みさはダメージ床を無傷で渡れる「しーるど」、××ねはNPCの心の声を聞く「てれぱし」。
https://w.atwiki.jp/pokecharaneta/pages/247.html
バラエティ番組総合 ANN(テレビ朝日など) FNN・FNS(フジテレビなど) JNN(TBS・毎日放送など) NHK NNN・NNS(日本テレビなど) TXN(テレビ東京など) その他 海外 ラジオ番組総合 NHKラジオ FMヨコハマ MBSラジオ お笑い・タレント(事務所別) 声優 スポーツ 武道・武術 職業別 作家・文化人 歴史上の人物 バラエティ番組 総合 テレビ局 ANN(テレビ朝日など) All-nippon News Network 雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク! 雨上がり決死隊べしゃりブリンッ! いきなり!黄金伝説。 ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー Oh!どや顔サミット おにぎりあたためますか お願い!ランキング オリジナルコンサート 痛快!ビッグダディ 関ジャニの仕分け∞ 頑張る人応援バラエティ 体育の時間 クイズ雑学王 クイズタイムショック クイズプレゼンバラエティー Qさま!! くりぃむクイズ ミラクル9 ゲームカタログ2 GO!オスカル!X21 コサキンDEワァオ! 最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学 JUNK シルシルミシル 白黒ジャッジバラエティ 中居正広の怪しい噂の集まる図書館 新婚さんいらっしゃい! 水曜どうでしょう 銭形金太郎 タモリ倶楽部 超次元タイムボンバー 徹子の部屋 ナニコレ珍百景 人気者でいこう! パオパオチャンネル パネルクイズアタック25 100万円クイズハンター 『ぷっ』すま マツコ&有吉の怒り新党 ミュージックステーション もしものシミュレーションバラエティー お試しかっ! やじうまワイド 料理バンザイ! 霊感ヤマカン第六感 ロンドンハーツ ワールドプロレスリング FNN・FNS(フジテレビなど) あっぱれさんま大先生 イカさま☆タコさま ウゴウゴルーガ ウチくる!? う!ウマいんです。 運命GAME カスペ! 奇跡体験!アンビリバボー くいしん坊!万才 クイズ!家族ドレミファ大賞 クイズ30〜団結せよ!〜 クイズ!脳ベルSHOW クイズ!早くイッてよ クイズ!ヘキサゴン クイズ$ミリオネア ゲームセンターCX コンちゃんテンちゃん サタ☆スマシリーズ ザ・ベストハウス123 さんまのまんま ジェネレーション天国 志村けんのだいじょうぶだぁ 志村けんのバカ殿様 JAPANロッケフェスティバル 週刊スタミナ天国 新堂本兄弟 世界行ってみたらホントはこんなトコだった!? 世界で誰も見たことがない対決ショー ほこ×たて 全国一斉!日本人テスト そう快!ヒデタミン ダウンタウンのごっつええ感じ 超逆境クイズバトル!! 99人の壁 超潜入!リアルスコープハイパー 痛快TVスカッとジャパン とくダネ! トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 ドリフ大爆笑 とんねるずのみなさんのおかげでした なるほど!ザ・ワールド にじいろジーン 日本語探Qバラエティ クイズ!それマジ!?ニッポン ネオコラ!東京環境会議 ネプリーグ 脳内エステ IQサプリ 海筋肉王 〜バイキング〜 バイキング 爆笑問題の楽しい地球 爆笑レッドカーペット はねるのトびら ピカルの定理 人志松本のすべらない話/○○な話 VS嵐 ぶらぶらサタデー 平成教育委員会 ペケ×ポン ボキャブラ天国 ポンキッキシリーズ ホンマでっか!?TV めざましテレビ めちゃ2イケてるッ! メトロポリタンジャーニー メントレG もしもツアーズ 〜the tour makes your Sunday Happy〜 森田一義アワー 笑っていいとも! 夕やけニャンニャン 夢で逢えたら (テレビ番組) ライオンのごきげんよう run for money 逃走中 料理の鉄人 笑う犬 ワンナイR&R JNN(TBS・毎日放送など) 「それってどんなヒト?」捜査バラエティ Gメン99 あらびき団 板野パイセンっ!!〜今ドキ女子バックアップバラエティ ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア オールスター感謝祭 王様のブランチ お天気のお知らせ ガキバラ帝国2000! 学校へ行こう! 加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ キャプテン☆ドみの 筋肉番付シリーズ KUNOICHI 恋のバカヤロー! 最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦 SASUKE さんまのからくりTV じゃんけんキッズ ズバリ言うわよ! 世界ウルルン滞在記 世界の日本人妻は見た! 世界のみんなに聞いてみた てんてこ漫遊記 東京フレンドパーク 東大王 どうぶつ奇想天外! トコトン掘り下げ隊!生き物にサンキュー!! ニンゲン観察バラエティ モニタリング 爆笑問題のドッキリ パニックフェイス王 8時だョ!全員集合 ハッピーエンド (テレビ番組) バリキン7 賢者の戦略 日立 世界・ふしぎ発見! フューチャービーンズ〜みらい豆 ブリンぶりん家 ベルトクイズQ&Q 炎の体育会TV みのもんたの朝ズバッ! ロケみつ〜ロケ×ロケ×ロケ〜 私の何がイケないの? NHK 100分de名著 Rの法則 あいうえお (テレビ番組) アイドルオンステージ あいのて あつまれじゃんけんぽん あにまるワンだ~ いってみよう やってみよう Eテレcafe Eテレ0655&2355 いないいないばあっ! うたっておどろんぱ 英語であそぼ えいごリアン NHK紅白歌合戦 N響アワー NHKジュニアスペシャル NHKのど自慢 おーい!はに丸 おかあさんといっしょ おとうさんといっしょ オトッペ オハ! よ〜いどん 音楽ファンタジーゆめ かきこみTV からだであそぼ きょうの健康 きょうの料理 銀河銭湯パンタくん クイズモンスター クインテット クッキンアイドル アイ!マイ!まいん! グルグルパックン グレーテルのかまど ごきげん歌謡笑劇団 コレナンデ商会 サラリーマンNEO ざわざわ森のがんこちゃん さわやか3組 さんすうすいすい さんぷんまる しぜんとあそぼ シャキーン! 趣味の園芸 趣味の園芸 やさいの時間 すイエんサー スクールライブショー すくすく子育て すすめ!キッチン戦隊クックルン ストレッチマン ダーウィンが来た! ダーウィンの動物大図鑑 はろ〜!あにまる たっくんのオモチャ箱 探検ロマン世界遺産 地球大進化 着信御礼!ケータイ大喜利 チャンスだピンチだ つくってあそぼ できるかな デザインあ デジタル・スタジアム てれび絵本 天才てれびくん 天才ビットくん/ビットワールド トゥトゥアンサンブル 時々迷々 ともだちいっぱい なんでもQ にほんごであそぼ ニャンちゅうワールド放送局 ニュースウオッチ9 ノージーのひらめき工房 爆笑オンエアバトル バケルノ小学校 ヒュードロ組 ハッチポッチステーション ピコピコポン びじゅチューン! ひとりでできるもん! ヒミツのちからんど ひょっこりひょうたん島 フックブックロー プレキソ英語 ピタゴラスイッチ ぼうけん!メカラッパ号 MAG・ネット まちかどド・レ・ミ ○○の国の王子様 みいつけた! みんなのうた みんなの体操 ムジカ・ピッコリーノ モリゾー・キッコロ 森へいこうよ! ユメディア号こども塾 LIFE!〜人生に捧げるコント〜 リモコンWARS~今夜日本の大事なもの取られます~ 連続クイズ ホールドオン! わいわいドンブリ わたしのきもち NNN・NNS(日本テレビなど) 嗚呼!花の料理人 明日があるさ (音楽バラエティ番組) 嵐にしやがれ 有吉ゼミ いただきマッスル! 1×8いこうよ! 伊東家の食卓 11PM ウッチャンナンチャンのウリナリ!! ウルトラショップ エンタの神様 -the God of Entertainment- 面白いじわるクイズ おもいッきり カートゥンKAT-TUN 快傑!コウジ園 快脳!マジかるハテナ ガチガセ 行列のできる法律相談所 欽ちゃんの仮装大賞 金曜ロードショー クイズ世界はSHOW by ショーバイ!! くりぃむしちゅーのどっきり大作戦 ぐるぐるナインティナイン Hi-Tension TV 月曜から夜ふかし 恋のから騒ぎ 5MEN旅 ザ!情報ツウ ザ!鉄腕!DASH!! ザ・トップテン THE MUSIC DAY 音楽のちから サルヂエ さんま&SMAP!美女と野獣のクリスマススペシャル 幸せ!ボンビーガール ZIP! シャボン玉こんにちは 笑点 スーパーJOCKEY スーパーチャンプル ズームイン!!SUPER スター㊙訪問!! スッキリ!! 世界一受けたい授業 世界の果てまでイッテQ! 世界まる見え!テレビ特捜部 絶対やれるギリシャ神話 DAISUKI! ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 宝探しアドベンチャー 謎解きバトルTORE! 超!真実決定トーナメント 天才!志村どうぶつ園 電波少年シリーズ 突撃!隣の晩ごはん トリックハンター DON! 24時間テレビ 「愛は地球を救う」 日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行 はじめてのおつかい (テレビ番組) ハッチャキ!!マチャアキ 秘密のケンミンSHOW ヒルナンデス! マジカル頭脳パワー!! 満天☆青空レストラン メレンゲの気持ち メンB 野生の王国 ルックルックこんにちは ロンブー龍 笑神様は突然に… 笑って許して!! TXN(テレビ東京など) ありえへん∞世界 お茶の間の真実〜もしかして私だけ!?〜 おはスタ 面白アニメランド 元祖!でぶや 仰天パニックシアター ぐリンちょリンぱリン 激走!GT ココリコミリオン家族 出没!アド街ック天国 スーパーマリオクラブ 声優バラエティー SAY!YOU!SAY!ME! 空から日本を見てみよう ダンジョンV TVチャンピオン 東京エンカウント のりスタ! のりもの王国ブーブーカンカン 日曜ビッグスペシャル 腹ペコ!なでしこグルメ旅 ピラメキーノ ファイテンション☆デパート ペット大集合!ポチたま ポケモン☆サンデー/ポケモンスマッシュ! MUSIX! ヤンヤンJUMP やりすぎコージー YOUは何しに日本へ? 料理の怪人 ロンブーの怪傑!トリックスター その他 iCarly アキバン!バン!バン! 遊びなDJ イチオシ! うるまでが〜まる AKB48コント「何もそこまで..…」 NXT お天気のお知らせ (毎日放送) WWE・スーパースターズ Top Gear 雷イチゴ キリンものしりシリーズ くさデカ けんたろうとミクのワイワイキッズ 恋ピューター 5時に夢中! 空飛ぶモンティ・パイソン 題名のない音楽会 遠くへ行きたい (テレビ番組) ドラバラ鈴井の巣 ネポスこどもCLUB 発掘!あるある大事典 パチマガMEGAWARS ハッピー! クラッピー 花の新婚!カンピューター作戦 ブギウギ専務 モンすたージオ YO GABBA GABBA! 海外 エル・チャボ・デル・オチョ Da Ali G Show Hollywood Squares Hugo ラジオ番組 総合 ラジオ局 NHKラジオ 基礎英語 FMヨコハマ 裏FUTURE SCAPE THE BREEZE DANCING GROOVE!〜HOT JAM〜 Driver s Meeting MIDNIGHT SHELTER MBSラジオ オレたちやってま〜す お笑い・タレント(事務所別) 悪役商会 アミューズ(芸能事務所) 石井光三オフィス W★INGプロモーション うるまでるび エッチ・ケー・エス NWA (プロレス) ALL TOGETHER (プロレス興行) オスカー(芸能事務所) お笑いタレント 太田プロダクション ケイダッシュ サンミュージック 松竹芸能 東宝芸能(芸能事務所) 日本コロムビア 新日本プロレス 全日本プロレス スマックダウン センダイガールズプロレスリング タイタン (芸能プロダクション) たけし軍団 WWE WWE・ロウ DDTプロレスリング 東京セレソンデラックス DRAGON GATE 9ff NBA 日本プロレス ノースプロダクション ハッスル (プロレス) BEMANIシリーズ プロダクション人力舎 プロレスリング・ノア プロレスリングZERO-ONE 北都プロレス ホリプロ MINE s マセキ芸能社 みちのくプロレス 明和電機 吉本興業 レプロ(芸能事務所) 渡辺プロダクション/ワタナベエンターテインメント WAHAHA本舗 声優 Aice5 飯塚雅弓 石田彰 伊藤かな恵 今井麻美 上坂すみれ KAORI. 梶裕貴 加藤英美里 門脇舞以 金田朋子 喜多村英梨 KENN 剛力彩芽 桜川めぐ 佐藤利奈 椎名へきる 白石涼子 新谷良子 鈴木みのり(声優) スフィア (声優ユニット) 田村ゆかり 茅原実里 Two-Mix 寺島拓篤 豊崎愛生 中島愛 (声優) 中原麻衣 鳴海杏子 長谷優里奈 花澤香菜 林原めぐみ 原由実 久川綾 平野綾 堀江由衣 水樹奈々 三森すずこ 宮野真守 山寺宏一 スポーツ アメリカンフットボール カーリング 競泳 競馬 競輪 ゴルフ Jリーグ SUPER GT スキージャンプ スケート 世界ラリー選手権 全日本GT選手権/SUPER GT 全日本プロドリフト選手権 総合格闘技 体操 卓球 テニス NASCAR バスケットボール バトミントン バレーボールワールドカップ FIFAワールドカップ フィギュアスケート フォーミュラ1 プロ野球 ボウリング ル・マン24時間レース 武道・武術 合気道 空手道 弓道 剣道 柔道 少林寺拳法 相撲 大道塾空道 テコンドー フェンシング ボクシング 総合格闘技 キックボクシング レスリング 職業別 アナウンサー アニメ・特撮脚本家 イラストレーター オペラ 海賊 歌手 歌舞伎 作曲家 将棋棋士 女優 声優 政治家 動画配信者 バレエ 俳優 舞台 漫画家 作家・文化人 秋元きつね 芥川龍之介 石川啄木 ウィリアム・シェイクスピア カール・ブッセ 金子みすゞ 川端康成 菊田まりこ 小泉八雲 小林一茶 島崎藤村 ジュール・ヴェルヌ 志賀直哉 太宰治 中原中也 夏目漱石 新美南吉 樋口一葉 フランツ・カフカ 松尾芭蕉 宮沢賢治 森脇真琴 与謝野晶子 与謝蕪村 歴史上の人物 赤穂浪士 一休さん 三国時代 (中国) 飛鳥時代 室町時代 戦国武将 幕末
https://w.atwiki.jp/shiga_keiichi/pages/28.html
Ubuntu Linux Teamの「あわしろいくや氏」という方は、志賀慶一氏に恨まれて以来、現在に至るまで足掛け5年にも渡って、志賀慶一氏本人や、徹底的に志賀慶一氏の擁護をする「匿名の人物達」によって、イヤガラセを受け続けている。 志賀慶一氏は、「頼まれてもいないのに自分から対象に関わってくるくせに、正当な理由があって関わりを拒絶しても、一方的に恨みを抱き、何故か志賀慶一氏を擁護する「匿名の人々」が湧いてきて対象にいつまでも執拗にイヤガラセし続ける」という性質を持っている。しかも、何かと騒動を起こす。 その「匿名の人々」である、下記の「改行」や「鍋田コピペ」を、志賀慶一氏と同一視する向きもあるが、別人だとしても、志賀慶一氏の評判を落とすことにしかならないそれらのイヤガラセ行為を志賀慶一氏が制止せず黙認していることは、志賀慶一氏の了見を疑わざるを得ない。また、改行の異常な危険性については、https //w.atwiki.jp/kaigyokeiichishiga/?page=%E6%94%B9%E8%A1%8C%E3%81%8C%E8%A1%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%8C%E9%9B%86%E5%9B%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%80%8Dでも触れられているのでぜひ読まれたい。 また、志賀慶一氏がUbuntu Linuxへの機械翻訳混入騒動を起こした当時、志賀慶一氏が下記のようなツイートをしたことがあった。 (魚拓) 「でもねぇ……自分が違反ライセンスの Web 翻訳を使ってたとしたら、自分は翻訳無理だから外れるじゃないですか。自分かなり Launchpad に項目があるのでこれを翻訳者のみなさんでなおすって話でしょ? 相当大変だと思うんですよ!」 (魚拓) 「そんな自らの首を締める事をあえて言ってるという事は自分がそうではない事と言ってほしかったんだな~というのも感じました。うん。知ってましたし、やってました。それもみなさんの元記事のおかげで。」 要は、「自分の機械翻訳を英語に戻す作業は大変だろうから、自分の要求(機械翻訳をOKにすること)を通せ」と脅しているのである。自分がやらかした失態をまるで他人事のように朗らかに語り、他人に後始末を押し付けること前提で語り、しかもそれをネタに被害者であるUbuntu Japanese Teamを脅すという始末。 この志賀氏の発言に対する5ちゃんねるでの主な反応はこうである。 http //mevius.5ch.net/test/read.cgi/hosting/1414908422/355 関わると病気になるやつだコレ 野次馬の立場なのにコイツの言い分見てるだけでだんだん胃が痛く なってきた http //mevius.5ch.net/test/read.cgi/hosting/1414908422/361 コイツの対応に追われてるUbuntuの人は サイコパスとかボーダーへの対処法を予め頭に入れた上で対処した ほうがいい こういう輩に精神的な防衛策無しに関わってしまうと 精神を病んでしまうぞ 「志賀慶一氏と関わると精神を病んでしまう」と複数の人々が感じているのである。 志賀慶一氏と関わる、ということは、このような危険がつきまとう。志賀慶一氏とは最初から関わるべきではない。「ふうせん・fu-sen」などというほのぼのとしたハンドルネームをネット上で名乗ってはいるが、本人の実像はそんなほのぼのとした印象からは程遠いのだ。不幸にも関わってしまった場合は、いずれにしろ後々イヤガラセを受けることは避けられないと思われるが、志賀慶一氏が騒動を起こす片鱗を見せたら、被害が少なく収まるうちに、少々冷酷と感じられても早めに断固たる態度を取るべきである。 あわしろいくや氏が現在に至るまで受けている、イヤガラセの概要 (Fcitxという、Linux用日本語変換エンジン(IME)のフォーラム等にて) 2014年11月ごろ、志賀慶一氏が、Fcitxの翻訳に参加するためにメンバー申請したが、 Fcitxコーディネーターである「あわしろいくや」氏が申請を却下する。 ↓ 志賀慶一氏がFcitxのフォーラムで「どうして申請が却下されたのか」を質問する。 (BALLOON a.k.a. Fu-sen.氏の"The cases which~"から始まる投稿) https //groups.google.com/forum/#!msg/fcitx-dev/U4X3GjO41xo/btOtQdXiElYJ ↓ あわしろいくや氏がそれに返答 (AWASHIRO Ikuya氏の"HI,~Yes, I rejected you."という投稿) https //groups.google.com/forum/#!msg/fcitx-dev/U4X3GjO41xo/a83Ct8YlQGQJ 「ええ、私が却下しました。率直に言って、あなたの翻訳は余り良いものではありません。 何か言いたいことある?」 また、あわしろいくや氏が、「志賀慶一氏の良くない翻訳の例」として、自身のブログの URLを示したので(下記)、そのURLの「良くない翻訳」が志賀慶一氏によるものであることが判明。 https //blog.goo.ne.jp/ikunya/e/ffb3eb76c8d7d72dfdd113ae5a29e93f 志賀慶一氏の英語力の実態は志賀慶一氏の英語力を参照) ↓ 志賀慶一氏、自身のFacebookにて、何度読んでも意味が分からない文章で怒りをぶちまける。 (志賀慶一氏のFacebookは既に削除されているのでウェブアーカイブから引用) https //web.archive.org/web/20170227170736/https //www.facebook.com/keiichishiga/posts/818105718232371 【1度目のあわしろいくや氏への志賀慶一氏による攻撃】 あるフリーソフトなアプリの日本語訳について 参加申請をしていたのだけど、 それを有名な日本人が拒否をしていた事が分かった。 「翻訳の質が悪い」だと。 「それはあなた一人が決めるものではない」と返した。 FLOSS(フリーソフト)であれば、 多くの人が参加し、支援する事ができる。 参加もフリー(自由)だ。 個人差があるから作業量に差はあれど、 個々に考えは違うから、自分が気がつかない事を 他の参加者がしてくれたりする。 一人でできる事には限界がある。 多くの参加者がいるに越したことはない。 もし特定の作業で独占的に行っている状況で、 他の参加者を受け付けていない状況が発生していたとすれば それが FLOSS としてどうだろうと考えた。 そういうものではないはずだ。 「これは俺がやってる」という実績を残すとかじゃない。 より多くの人が使うものであれば、 もっと充実する支援をしてあげる必要があるから、 自分が可能な事をしようとしてるんだ。 ↓ https //www65.atwiki.jp/shiga_keiichi/pages/22.html の、 「2017-02-24 13 09 42 F氏 I氏を罵倒」より 志賀慶一氏、Web翻訳ライセンス違反騒動で、ubuntu-translators ML(メーリングリスト)で議論になっている最中、 あわしろいくや氏を(前述Fcitxの翻訳者申請を却下された件で)罵倒する。 https //lists.ubuntu.com/archives/ubuntu-translators/2017-February/007331.html 【2度目のあわしろいくや氏への志賀慶一氏による攻撃】 下記がその罵倒文: "Hey, AWASHIRO Ikuya! You are the Fcitx project who refused by just looking at my name I do not want to see your character anymore!" BALLOON a.k.a. Fu-sen. (Keiichi SHIGA) 翻訳:「おい、あわしろいくや!お前はFcitxプロジェクトで俺の名前を見ただけで俺を 拒絶した奴だ。 お前の人格?文字?なんか二度と見たくもない!!」 また、あわしろいくや氏のブログ(下記)によると、 https //blog.goo.ne.jp/ikunya/e/82517fcba5520bbcda0b017ef2059198 志賀慶一氏はその罵倒文を公の場であるメーリングリストで投稿しただけでなく、 あわしろいくや氏本人に直接メールでも送信したらしく(あわしろ氏は特定の人物を名指しはしていない、が、内容に罵倒文と 同じ英文が転載されているので志賀慶一氏のものと窺える)、あわしろいくや氏は、 「ひどい内容のメールが届いてショックを受け、しばらく頭が真っ白になりましたが」と 所感を述べている。 ↓ 【事実上、3度目のあわしろいくや氏への志賀慶一氏による攻撃】 (【志賀慶一氏の人物像その3】より)2017年3月、志賀慶一氏、Ubuntu Linuxへの機械翻訳混入騒動の膨大な量の後始末を他の人に押し付けて逃亡する旨を宣言。あわしろいくや氏はもちろんのこと、その他のUbuntu Japanese Teamの方々までその後始末(Revert作業)にかかりきることになる。 Ubuntu Japanese Teamの方は志賀慶一氏について「Ubuntu翻訳つらい事案に関しては当該contributorの逃亡により大変めんどくさい事案になっており、件の人物については今後ペルソナノングラータとしての扱いとなることは不可避となっております。」と述べたり、あわしろいくや氏が「今回ばかりは本当にもうダメかと思った。」と述べたり、とにかくUbuntu Japanese Teamの多数の方々が志賀慶一氏が起こした騒動に巻き込まれ、大変な負荷を強いられることになった。 ※ペルソナノングラータ=外交用語で「厭わしい人物」「好ましからざる人物」の意。 ↓ 【4度目のあわしろいくや氏への「匿名での」攻撃】 5ちゃんねる「Web翻訳家 志賀慶一氏を語るスレ」に「改行」と呼ばれる荒らし紛いの匿名の人物が現れ、志賀慶一氏を徹頭徹尾擁護するとともに、あわしろいくや氏を始め、他Ubuntu Japanese Teamの数名を激しく誹謗中傷し続けるようになる。2017年3月〜2019年4月まで、延々と続く。(改行とは何者か(詳しく)を参照。) ↓ 【5度目のあわしろいくや氏への「匿名での」攻撃】 2017/04/22ごろ、突然ツイッター上に、あわしろいくや氏を中傷するツイッターアカウントが現れる。実行者は不明。Ubuntu Japanese Teamの方が、ツイッター上で「あらゆるイヤガラセについて、断固とした法的措置を採る準備がごさいます。」」と威嚇したところ、約20分で鍵アカウントになり、アクセスできなくなる。 https //megalodon.jp/2017-0422-2222-17/https //twitter.com 443/active_crystal/with_replies ↓ 【6度目のあわしろいくや氏への「匿名での」攻撃】 2018年12月頃、改行がUbuntu Japaneseチームに、「イベントに乱入したる」という主旨の脅迫メールを送りつけていたことが、Ubuntu Japaneseチームのツイートによって 判明する。イベント当日に私服警官を動員する騒ぎにまでなる。(詳細は改行とは何者か(詳しく)を参照。) ↓ 【7度目のあわしろいくや氏への「匿名での」攻撃、2019/10/23現在も進行中】 2019年7月、上記の「改行」が姿を消した直後、今度は「鍋田コピペ」と呼ばれる、やはり荒らし紛いの志賀擁護が現れるようになった。最初は5ちゃんねるのLinux Mintスレを荒らし、(初出2019/7/9:http //mao.5ch.net/test/read.cgi/linux/1558944586/512)、その後は専らWeb翻訳家 志賀慶一氏を語るスレで暴れている。現在も進行中。以前に志賀慶一氏を自身のブログで擁護した鍋田氏(鍋田氏とは、志賀慶一氏と鍋田氏の関係を参照のこと)の記事を「あわしろいくや氏による志賀慶一氏へのイジメ」と称して貼り付けて、暴れまくっている。これに対して、あわしろいくや氏は法的措置をちらつかせたが、逆に挑発するかのように、ますます行動をエスカレートさせている。 「鍋田コピペ」の書き込み内容は、主に下記のようなもの http //mao.5ch.net/test/read.cgi/linux/1569221215/578 イジメに関して詳しく知りたい人は下のブログに。 2017-05-26 Linux界の中傷事件。あわしろいくや氏、@_hito_たちによる私人S氏へのしつこ過ぎるイジメ、中傷事件について https //b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/njisho/20170526/1495772555 https //njisho.hatenadiary.org/entry/20170526/1495772555 https //megalodon.jp/2017-0530-0007-22/d.hatena.ne.jp/njisho/20170526/1495772555
https://w.atwiki.jp/shiga_keiichi/pages/25.html
仮に志賀慶一氏本人に英語力がなくても、Google翻訳を使ってでも日本語になってるほうが良いと思う方もいるだろう。では志賀氏がそれを実行した結果、どうなっただろう。下記の志賀氏の英文集/日本語訳集をご覧になって、考えていただきたい。 【和文英訳】 https //lists.ubuntu.com/archives/ubuntu-translators/2017-February/007331.html 【志賀慶一氏の英文】 BALLOON a.k.a. Fu-sen. Fri Feb 24 13 09 42 UTC 2017 Hey, AWASHIRO Ikuya! You are the Fcitx project who refused by just looking at my name I do not want to see your character anymore! 【コメント】この文だとYou=Fcitx projectになってしまう。あわしろいくや氏は Fcitx projectという物質ではない。また、志賀を拒絶したのは「あわしろいくや氏」 なのだから、Fcitx projectがwhoの先行詞になるのは文法的におかしい。 つまり、志賀慶一氏は関係代名詞を全く理解していない。 また、「Hey+フルネーム」は、とても乱暴で無礼な挑発的呼びかけになる。 https //lists.ubuntu.com/archives/ubuntu-jp/2017-March/005712.html 【志賀慶一氏の英文】 2. I will wake up again in sentences based on that. 【コメント】「私はそれに基づいて文章に再び起こすでしょう」をgoogle翻訳使って 英訳したのだろうか?ここで「寝ているところから起きる」という意の「wake up」が 出てくるのはおかしい。志賀慶一氏の英語力はこれがおかしいと自覚できないレベルなのか? 【志賀慶一氏の英文】 However, I needed to teach you more important things. 【コメント】これも酷い。teachとは何様だろうか。通常、このような場面では「tell」を使うのが普通。文法的にもおかしい。 【英文和訳】 http //hg.slitaz.org/website/rev/12bf990a118b 【志賀慶一の日本語訳】 msgid "Receipt" msgstr "レシピ" 【コメント】OSの翻訳であって料理サイトではないのだから、「レシピ」というカタカナが出てくる幕はない。 【志賀慶一氏の日本語訳】 msgid "Architecture" msgstr "アーキネクチャー" 【コメント】正しくは「アーキテクチャー」。仮にも仕事なのだから、このような凡ミスは許されない。 http //hg.slitaz.org/slitaz-tools/rev/9d7f6d95d901 tazbox/tazbox 135 【志賀慶一氏の日本語訳】 msgid "SliTaz Logout - Please choose an action " msgstr "SliTaz トグイン - 動作を選択して下さい " 【コメント】正しくは「ログアウト」。仮にも仕事なのだから、このような不注意は許されない。 https //github.com/fu-sen/BaCon-Japanese Reserved variable containing name of the program and the arguments to the program. These are all separated by spaces. 【志賀慶一氏の日本語訳】 プログラムの名前とプログラムに対する引数を阻止している予約の変数です。 【コメント】「contain」に「阻止する」という意味もあるから「阻止」という言葉が 出てきたのだろうが、この英文の文脈で阻止という言葉が出てくる余地はない。機械 翻訳に依存してロクにチェックもせず放ったらかしの弊害。志賀慶一氏に元の英文を 自力で解釈する英語力がないのが見て取れる。 「パネルレイアウトの有効」とツールチップの説明が合ってなくて なんじゃこりゃと思ったら原文は「Save Panel Layout」で 訳したのは件の人であった(transifexでは修正済)。(ノ`Д´)ノ彡┻━┻ https //twitter.com/ikunya/status/8413014377117122 【コメント】何をどうしたら「save」が「有効」になるのだろうか? https //twitter.com/night1ynx/status/844892066396045313 夜猫 @night1ynx @_hito_ ”Change mouse motion” を “マウスポジションの変更” に訳す人物をどう擁護しろって言うんですか! - 2017年3月23日 http //sparkylinux.org/files/locales/wm-logout/ja それと志賀さん Hybrid_Suspendが何故Hibernate_Suspendになるのか教えて http //sparkylinux.org/files/locales/teamspeak-installer/ja The application has been installed successfully! 【志賀慶一氏の日本語訳】 アプリケーションはインストールしました! 【コメント】志賀慶一氏は中学校で習う「受動態」を分からないのだろうか? http //sparkylinux.org/files/locales/sparky-firstrun/ja If you would like to install a low-latency Linux kernel from Liquorix, install Sparky on a hard drive then install the kernel as you wish. 【志賀慶一氏の日本語訳】 Liquorix から low-latency Linux カーネルをインストールしたい場合は、カーネルをインストールするハードドライブ上の Sparky をインストールします。 【コメント】日訳が、もはや日本語として意味をなしていない。これも機械翻訳に依存して放ったらかしの弊害。 志賀慶一氏は、元の英文を解釈する能力もないし、翻訳後の日本語をチェックする能力もないのか? http //sparkylinux.org/files/locales/sparky-chrooter/ja LOCAL27="It works as it works so make sure that I, the author, do not give any guarantee that the application will work without problems. Using Sparky Chrooter can damage your operating system." 【志賀慶一氏の日本語訳】 LOCAL27 Sparky Chrooter の使用によってお使いのオペーティングシステムに損傷を 与える事ができます。それはので、製作者はアプリケーションが問題なく動作する保証を 行っていない事を確認して下さい。 【コメント】これも日訳が、もはや日本語として意味をなしていない。機械翻訳が翻訳した日本語をそのままコピペしたようなぎこちなく、かつ破綻している日本語。
https://w.atwiki.jp/10th/pages/22.html
第20問A:ひんたぼ語 宮城県仙台市 遠見塚古墳 文章はファミコンソフト「たけしの挑戦状」で使われていた「ひんたぼ語」 http //www4.airnet.ne.jp/isobe/game/kouryaku/hintabo.html 日本語に変換すると せんだいへいや こくどうよんごうせん せんだいばいぱすぞい ぜんぽうこうえんふん となり、該当するのは 宮城県仙台市 遠見塚古墳 現地ヒント→ひんたぼ語変換を2回せよの意 「いしかんばんのうしろ」になる 捜索の末「仙台板」発見。本煎とは違うルートだったようだ 20問目:こねくり 北海道夕張郡長沼町 長沼東町簡易郵便局 1日くすぶった後 デフラグした00112222233333333333344444455555555 5555555556666677788888889ABBBBDDEEEEEFF を公式サイトに突っ込んで遊んでた人がヒント発見 ヒントは 「↑↓」 問題文の数字の部分を順番に↑↓させる。 1行目 4B4F4343484948414E4F495A55505547594141 これを16進のコードに当てはめると・・・ KOCCHIHANOIZUPUGYAA ⇒こっちはノイズ m9(^Д^)プギャー 2行目 4E474E4D4847534D43484B4E59424E4B594B これを16進のコードに当てはめると・・・ NGNMHGSMCHKNYBNKYK 長沼東町簡易郵便局 ※ KOCCHIHANOIZUPUGYAA NGNMHGSMCHKNYBNKYK をアルファベット順にした AAACCGHHIIKNOOPUUYZ(.html) BCGGHHKKKMMNNNNSYY(.html) をそれぞれ公式サイトトップのアドレス末尾に付けると GMのメッセージページが現れる 後者は AAAカップ=母音(ボイン)なし というヒントになっている 第21問:ちゅうしん 神奈川県横浜市 センター北内の交番 さまざまな情報が飛び交うなか 中心の最後の点がない→アルファベットに直した時の最後の文字がない →chushinのnが無い→北(north)が無い→ センター(中心)北内(北無い) KKK犬→国家犬→警官 (kokkaか) 現地ヒントの周りを囲む白いもの→白い植木が周りに配置 植え込みの下の所に張ってあった。危ない危ない 第22問 正直者 沖縄県国頭郡 今帰仁村古宇利島 アルファベットを左右対称とそうでないものにアルファベット順で並び替える (=並びなおしー!) AHIMOTUVWXY BCDEFGJKLNPQRSZ これを番号順に読む。 (19ならK、5ならOという風に) 正直者=左右対称(裏にしても表にしても同じ。裏表がない) 正直者じゃない子=左右非対称 そうるすと… KOURIJIMA KOURIOOHASHITO BEACHGA CROSSSURU POINT 「古宇利島古宇利大橋とビーチがクロスするポイント」 となる 第23問 数字おにぎり 栃木県小山市 須賀神社 普通のキーボードの配列で xまでの距離が√5、yまでの距離が5、 1までの距離が1であるとき、次の問題の解を求めよ xキーまで縦2横1(あるいは縦1横2)分離れたキー yキーまで5つ分離れたキー 1キーまで1つ分はなれたキー これを全て満たすのは「Q 」キー。よってQが原点。 そこから問1の座標に当てはめると (1,-1)=S + (6,0)=U + (4,-1)=G + (0,-1)=A ―――――― SUGAという文字が現れる ∵=国道の標識を現している おにぎり→おむすび→結ぶ 4×50=国道4号線と国道50号線が交わるところの近く ということで栃木県小山市の須賀神社付近の陸橋裏 第24問 英字ぐるぐる 長崎県諌早市 熊野神社 英字輪っかに出てきたアルファベットの数を調べる A*9 B*19 C*1 D*8 E*1 F*25 G*1 H*23 I*1 J*18 K*9 L*7 M*15 N*9 O*11 P*21 Q*13 R*1 S*14 T*15 U*10 V*9 W*14 X*14 Y*10 Z*1 AからZまで出てきた数字を順番に1~26のアルファベットに当てはめる 1=a 2=b 23=w 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 9 19 1 8 1 25 1 23 1 18 9 7 15 9 11 21 13 1 14 15 10 9 14 14 10 1 i s a h a y a w a r i g o i k u m a n o j i n n j a isahayawarigoikumanojinnja いさはやわりごいくまのじんじゃ →長崎県諫早市 破籠井 熊野神社となる 第25問 ハイリア文字 香川県三木町 太古の森&三木町総合公園 (ハイリア文字) http //www.gebsite.org/ (http //www.gebsite.org/font/sample/sample_hylia2.gif) を参考に問題文を解読 この地に三本の大樹あり 東にはむろの木 西には柊の木 そして南には山椒の木 以てこの地の名とせり この地と同じ名をもつ賢者あり そのもの古代に滅びし木を発見せり ココはそれを記念せし場所なり 【三木】町誕生の由来に、【山椒・柊・むろの木】が出てくる。 【三木】茂という人が絶滅したメタセコイアを植樹したらしい。 太古の森&三木町総合公園 ttp //www2u.biglobe.ne.jp/~marusan/kankopage/kanko3.htm この公園内に三匹の恐竜の遊具がある。 噛み付かない・小さいのは【トリケラトプスの遊具】 ということで、香川県三木町 太古の森&三木町総合公園 26問目 入試倍率 阪大文学部 豊中キャンパス 追加ヒント 俺……、この戦争がおわったら、告白するんだ。 *出題者は文系です 重要な単語は「文系」「戦争」だと思って それで思いつくのが「受験戦争」だと思っただけ。 ↓ 受験戦争だとするとあの数字は入試の倍率ってことか ありなんじゃないか 阪大の18年度 17年度の 前期日程 後期日程 の競争率 を当てはめてみると ある ない 文学部 医学部 法学部 医学部(保健) 経済学部 歯学部 理学部 薬学部 基礎工学部 工学部 ある:豊中キャンパス ない:吹田キャンパス ということで豊中キャンパスの敷地内にあることがわかる 宇宙は目の前=「宙」という食堂の近く 色彩を…「イロタビ」という演目を宣伝する看板の裏 http //p.pita.st/?umb4x8sg この手紙が貼り付けられていた 手紙 26問目が解き終わりパスを探しにいくと パスと共に手紙が →http //p.pita.st/?umb4x8sg 問題:奈良公園 現地ヒント:シカさん・・・もとい案内看板 奈良公園を隅々まで凸したがみつからず。 問題が奈良公園なのでもっとひねった場所にあるのかと思いきや あんがいひねり無く貼ってある可能性もでてきた →http //ninth.ty.land.to/up/img/628.jpg 奈良郵社 ◆oQc9QxPDWwが発見・・・しかし↑と違うガムテ http //p.pita.st/?m=gsb3n1ov 27問目 終わりも始まりもない 田端 東覚寺 http //www16.atwiki.jp/10th?cmd=upload act=open pageid=22 file=608.jpg 追加現地ヒント 鉄階段 直前のものはすべて誕生石に置き換えられる。 柘榴石(ガーネット)=1月 珊瑚=3月 翠玉(エメラルド)または翡翠(ジェイド)=5月 紅玉髄(カーネリアン)=7月 青玉(サファイア)=9月 風信子(ジルコン)=12月 上部の該当部分に対応する数字を入れる↓ 3/11,12/3,1/3,12/8,9/10,3/18,1/10 ,3/30,7/15,5/2,1/13,5/30,1/24 5/12,7/3,5/4,9/12,12/31,7/5 また「9317125」は 9月 3月 1月 7月 12月 5月 表していると分かる 時計を十時に合わせよから 9月3月1月7月12月5月 を9月が十時に来るように時計回りで配置 9月 3月 1月 7月 12月 5月 八月二十二日二 二〇〇時宣戦布 告有リトノ通達 翌二十三日一二 〇〇時戦闘開始 スルモ瞬殺ノ嵐 終戦ノ短期化ガ 懸念サレシオリ 北国ト南国カラ 敵対者イワクG M空気嫁板ガ出 発セリトノ報告 沖縄ハ以前大キ ナ動キハ無サソ ウダガ大移動ガ 北海道デアツタ 模様ダガ機密情 報ノ断片回収ハ 開始以降マダア マリ捗ツテモイ ナイ様子デアル 尚コノ文章ハ十 煎GM以外閲覧 禁止文章ニツキ 他者ヘノ譲渡ニ ヨル裏切リ行為 ガ発覚セシ時ハ 即刻終身処分ニ 処スルコトヲ肝 ニ命ジラレタシ アンタガタ十煎 双竜零六隊隊長 ココニ記ス以上 先ほど変換した日付wp を2006年のカレンダーに当てはめて順に読んで行くと 始マリモ終リモ 無キ道ノ終リ ダイアノ双子 始マリモ終リモ無キ道ノ終リ→山手線の終着駅 田端 ダイアノ双子→ダイア=金剛石 双子=二体 金剛石の2体の像があり、田端にあるお寺→東覚寺 28問目 KANON 熊本県球磨村大字神瀬 岩戸鍾乳洞 パッヘルベルのカノンの楽譜であるが何箇所か間違っている GMによる問題訂正もあった チェロの二小節目ソーレーソーファーは ソーレーソーレーの誤りです この正確な音と間違った音との音度をとると 22333 04088 64692 85532 となる たて読みで文字コードとして変換すると 岩戸鍾乳洞になる 29問目 ジブリ 岐阜県美濃加茂市 みのかも健康の森 アラビア語=サハラ を意味する 「とすそりーえよぬえ」をかな入力→SRCL-5915 これは椎名へきるの「熱風」という曲を表す 熱風→ ジブリの綴りは「GHIBLI」:サハラ砂漠に吹く熱風を意味するイタリア語です。 下の数字 左はジブリ映画の公開年-右の数字のn文字目を拾うと 95-1 「み」みをすませば 04-4 はうる「の」うごくしろ 01-8 せんとちひろの「か」みかくし 97-1 「も」ののけひめ 99-4 ほーほ「け」きょとなりのやまだくん 86-2 て「ん」くうのしろらぴゅた 02-2 ね「こ」のおんがえし 04-2 は「う」るのうごくしろ 92-5 くれない「の」ぶた 97-1 「も」ののけひめ 99-9 ほーほけきょとな「り」のやまだくん みのかもけんこうのもり http //doya.sytes.net/inapano/taka/taka.html 現地 777段登った展望台 30問目 後光 富山県高岡市 高岡大仏 私は圧倒された→巨大な物体を示唆 「助かるにしろ…随いていくのだ」→志賀直哉の暗夜行路 →つぶやいた=執筆したのは奈良 死霊、深い河、哲学の危機、野火、共同幻想論、旅の思索者、文学は可能、正法眼蔵読解 →澁澤龍彦のサド裁判の弁護人たちの作品→ その澁澤の眠る土地=墓は鎌倉 暗い絵→野間宏の作→生まれたのは神戸 これら3つは否定(通り過ぎる、通り抜ける、すきじゃない) 日本三大仏は諸説あるが奈良、鎌倉、兵庫、高岡など 大きな丸→高岡大仏→http //www1.tcnet.ne.jp/shima/daibutu.htm 31問目 浦安市舞浜 http //image02.pita.st/tmp/12/13/1czskqvw_2.jpg 数字の液晶の上と左上が壊れていると仮定すると (この場合1と7、3と9が区別できないが 「応援団はいない」=「三三七拍子はない」=37なしと解釈して) 4 119 10 5 64 64 6 16 16 16 68 10 これを例えば十煎4スレ目119レス目10文字目と解釈すると 躍動の門→浦安市舞浜 浦安市運動公園の躍動の門 32問目 徳島市眉山町茂助ケ原 顔文字共通 眉 往復1000円 ロープウェイが往復1000 テラモエスがモラエスを示唆 螺旋階段のある建物がモラエス館 モラエスの亡き奥さんの写真がある 33問目 東京都中野区 神明氷川神社 誰かまとめて 34問目 常盤ハワイアンセンター ドラクエ2 の復活の呪文で おこけにあ うけくさね ひきそばぱ いがみぶし と入れると「はわい」が出てくる レベルが40 →常盤ハワイアンセンターは40周年 所持金が2800G→大人の入場料が2800円
https://w.atwiki.jp/anirowakojinn/pages/1122.html
20話 死刑執行5秒前♪ 若松里美と志賀直は放送を聞いた後 とにかくどこかに行こうと歩き出した すると バン! 「何!?なんだ!?」 「誰かが撃ってきてるようね…」 バン! 「グワ!」 「大丈夫!?」 出血が大量だ… 「は…はは…やべぇ…死にたくねェ…助けてくれ…」 「しっかりして!志賀さん!」 「………」 「志賀…さ…?」 「きゃああああああああああああああ ああああああああああ!!!!!」 逃げなきゃ!逃げなきゃ!逃げなきゃ! 走り出す若松、しかし ガッ 誰かに押し倒された 「ひ…誰?」 「…………」 無言だった、でも一つわかることがある その目が狂気に満ちていることだ 「……ね」 「え?」 「死刑執行5秒前♪」 ―――――――――――――――――――――――――――――― 「ふ…まだまだ殺し足りないわ…」 「私を苦しめたやつらに報復しないと…」 「ふふふふふふふふふ………………」 【一日目/朝/D-3コンビニ】 【藤本京子@オリキャラ】 [状態]精神不安定 [装備]シグザウエル(1/7)予備弾21発 [所持品]基本支給品 ヘッケラー&コッポMP5(30/30)予備弾90発 [思考・行動] 基本:皆殺し 1:どんどん殺してやる… 2:まだまだ殺し足りないわ… 【志賀直@オリキャラ 死亡】 【若松里美@オリキャラ 死亡】 太子よ、勇気を見せろ! 時系列順 作戦を実行する! 太子よ、勇気を見せろ! 投下順 作戦を実行する! また会える日まで 若松里美 死亡 また会える日まで 志賀直 死亡 人類最強と狂人 藤本京子 愛VS狂人
https://w.atwiki.jp/kotozora/pages/36.html
私は、文章に實用的と藝術的との區別はないと思ひます。文章の要は何かと云へば、自分の心の中にあること、自分の云ひたいと思ふことを、出來るだけその通りに、且明瞭に傳へることにあるのでありまして、手紙を書くにも小説を書くにも、別段それ以外の書きやうはありません、昔は「華を去り實に就く」のが文章の本旨だとされたことがありますが、それはどう云ふことかと云へば、餘計な飾り氣を除いて實際に必要な言葉だけで書く、と云ふことであります。さうしてみれば、最も實用的なものが、最もすぐれた文章であります。 明治時代には、實用に遠い美文體と云ふ一種の文體がありまして、競つてむつかしい漢語を連ね、語調のよい、綺麗な文字を使つて、景を叙したり情を述べたりすることが流行りました。茲にこんな文章がありますが、これを一つ讀んで御覽なさい。 南朝の年號延元三年八月九日より、吉野の主上御不豫の御事ありけるが、次第に重らせ給ふ。醫王善逝の誓 約も、祈るに其驗なく、耆婆扁鵲《きばへんじやく》が靈藥も、施すに其驗おはしまさず。(中略)左の御手に法華經の五の卷を持せ給ひ、右の御手には御劍《ぎよけん》を按じて、八月十六日の丑の尅に、遂に崩御なりにけり。悲い哉、北辰位高くして、百官星の如くに列ると雖、九泉の族の路には供奉《ぐぶ》仕る臣一人もなし。奈何せん、南山の地僻にして、萬卒雲の如くに集ると雖、無常の敵の來るをば禦止《ふせぎとゞ》むる兵更になし 唯中流に船を覆して、一壺の浪に漂ひ、暗夜に燈消えて五更の雨に向ふが如し、(中略)土墳數尺の草、一径涙盡きて愁未盡きず。舊臣后妃泣く泣く鼎湖《ていこ》の雲を澹望して、恨を天邊の月にそへ、覇陵《はりやう》の風に夙夜《しゆくや》して、別を夢裏の花に慕ふ。哀なりし御事なり。) これは太平記の後醍醐天皇崩御のくだりの一節でありまして、これを書いた南北糊時代に於いては一種の名文だつたでありませうし、此の中にあるいろ/\なむつかしい漢語にも、定めし實感が籠つてゐたことでありませう。まして帝王の崩御を叙するのでありますから、莊嚴な文字を連ねることも、斯かる場合は儀禮にかなふ譯であります。私は子供の時分に、太平記の此のくだりを非常な名文であると教へられ、「土墳|數尺《すうせき》の草、一徑|涙《なんだ》盡きて愁未盡きず。舊臣后妃泣く泣く鼎湖の雲を瞻望して」と云ふあたりは、今も暗記してゐるくらゐに愛誦したのでありますが、明治時代の美文と云ふものはかう云ふ文體から脈を引き、その云ひ廻しを學んだものでありました。その時分は小學校の作文でも、かう云ふ漢語を苦心して捜し出したり寄せ集めたりする稽古をしたもので、天長節の祝辭だとか、卒業式の答辭だとか、觀櫻の記だとか云ふ文章は、皆此の文體で綴つたのでありますが、昔は知らず、現代の人間には、これでは餘り装飾が勝ち過ぎて自分の思想や感情を表現するのに不便であります。ですからその後此の文體は次第に滅んでしまひましたが、實用的でない文章と云へば、先つかう云ふ風なものより外に考へることが出來ません。 こゝで一寸お斷りしておきますが、文章と云ふものを二つに分けて、韻文と散文とに區別することがあります。韻文とは何かと云へば、詩や歌のことでありまして、これは人間が心の中にあることを他に傳達するのみでなく、自《みづか》ら詠嘆の情を籠めて謠《うた》ふやうに作つたもの、從つて謠ひ易いやうに宇の數や音の數を定め、その規則に當て篏めて綴るのでありますから、成る程文章の一種ではありますけれども、普通の文章とは多少目的が違ふだけに、それはそれとして特別な發達を遂げてをります。で、實用的でなくて而も藝術的な文章と云ふものがあるとすれば、この韻文が正しくそれに當りますけれども、私が此の本の中で説かうとするものは、韻文でない文章、即ち散文のことでありますから、それは豫め御承知を願つておきます。 そこで、韻文でない文章だけについて云へば、實用的と藝術的との區別はありません。藝術的な目的で作られる文章も、實用的に書いた方が効果があります。昔は口でしやべることをそのまゝに書かず、文章の時は口語と達つた云ひ方をしまして、言葉遣ひなども、民間の俗語を用ひては禮に缺けてゐると思ひ、わざと實際に遠くするやうに修飾を加へた時代がありますので、あの美文のやうなものが役に立つたこともありますけれども、今日はさう云ふ時代でない。現代の人は、どんなに綺麗な、音調のうるはしい文字を並べられても、實際の理解が伴はなければ美しいと感じない。禮儀と云ふことも、全然重んじないのではないが、高尚優美な文句を聞かされたからと云つて、それを禮儀とは受け取らない。第一われ/\の心の働きでも、生活の状態でも、外界の事物でも、侍に比べればずつと變化が多くなり、内容が豐富に、精密になつてをりますから、字引を漁《あさ》つて昔の人が使ひふるした言葉を引つ張つて來たところで、現代の思想や感情や社會の出來事には當て篏まらない。それで、實際のことが理解されるやうに書かうとすれば、なるべく口語に近い文體を用ひるやうにし、俗語でも、新語でも、或る場含には外國語でも、何でも使ふやうにしなければならない。つまり韻文や美文では、分らせると云ふこと以外に、眼で見て美しいことと耳で聞いて快いこととが同樣に必要な條件でありましたが、現代のロ語文では、專ら「分らせる」「理解させる」と云ふことに重きを置く。他の二つの條件も備はつてゐればゐるに越したことはありませんけれども、それにこだはつてゐては間に合はない。實に現代の世相はそれほど複雜になつてゐるのでありまして、分らせるやうに書くと云ふ一事で、文章の役目は手一杯なのであります。 文章を以て現はす藝術は小説でありますが、しかし藝術と云ふものは生活を離れて存在するものではなく、或る意味では何よりも生活と密接な關係があるのでありますから、小説に使ふ文章こそ最も實際に即したものでなければなりません。もし皆さんが小説には何か特別な云ひ方や書き方があるとお思ひになるのでしたら、試みに現代の小説を孰《ど》れでもよいから讀んで御覽なさい。小説に使ふ文章で、他の所謂實用に役立たない文章はなく、實用に使ふ文章で、小説に役立たないものはないと云ふことが、直きお分りになるのであります。次に小説の文章の例として志賀直哉氏の「城の崎にて」の一節を引用してみませう。 自分の部屋は二階で隣のない割に靜かな座敷だつた──讀み書きに疲れるとよく縁の椅子に出た。脇が玄關の屋根で、それが家へ接續する所が羽目になつてゐる。其勿目の中に蜂の集があるらしい、虎斑の大きな肥つた蜂が天氣さへよければ朝から暮近くまで毎口忙しさうに働いてゐた。蜂は羽目のあはひから摩拔けて出ると一ト先づ玄關の屋根に下りた。其處で羽根や觸角を前足や後足で丁寧に調べると少し歩きまはる奴もあるが、直ぐ細長い羽根を兩方ヘシツカリと張つてぷーんと飛び立つ。飛び立つと急に早くなつて飛んで行く。植込みの八つ手の花が丁度滿開で蜂はそれに群つてゐた。自分は退屈するとよく欄干から蜂の出入りを眺めてゐた。 或朝の事、自分は一疋の蜂が玄關の屋根で死んで居るのを見つけた。足は腹の下にちゞこまつて、觸角はダラシなく顔へたれ下がつて了つた。他の蜂は一向冷淡だつた。巣の出入りに忙しくその脇を這ひまはるが歪く拘泥する樣子はなかつた。忙しく立働いてゐる蜂は如何にも生きてゐる物といふ感じを與へた。その脇に一疋、朝も書も夕も見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに轉がつてゐるのを見ると、それが又如何にも死んだものといふ感じを輿へるのだ。それは三日程その儘になつてゐた。それは見てゐて如何にも靜かな感じを與へた。淋しかつた。他の蜂が皆、巣に入つて仕舞つた目暮、冷たい瓦の上に一つ殘つた死骸を見る事は淋しかつた、然しそれは如何にも錚かだつた。 故芥川龍之介氏は此の「城の崎にて」を志賀氏の作品中の最もすぐれたものゝ一つに數へてゐましたが、かう云ふ文章は實用的でないと云ふことが出來ませうか。此處には温泉へ湯治に來てゐる人間が、宿の二階から蜂の死骸を見てゐる氣持と、その死骸の樣子とが描かれてゐるのですが、それが簡單な言葉で、はつきりと現はされてゐます。ところで、かう云ふ風に簡單な言葉で明瞭に物を描き出す技倆が、實用の文章に於いても同樣に大切なのであります。此の文章の中には、何もむつかしい言葉や云ひ廻しは使つてない。普通にわれわれが日記を附けたり、手紙を書いたりする時と同じ文句、同じ云ひ方である。それでゐて此の作者は、まことに細かいところまで寫し取つてゐる。私が點を打つた部分を讀むと、一匹の蜂の動作を仔細に觀察して、ほんたうに見た通りを書いてゐることが分る。さうしてその書いてあることが、と云ふのは、此の場合には蜂の動作でありますが、それがはつきりと讀者に傳はるのは、出來るだけ無駄を切り捨てゝ、不必要な言葉を省いてあるから嶋、あります。たとへば終りの方の「それは見てゐて如何にも靜かな感じを與へた。」の次に、いきなり「淋しかつた。」と入れてありますが、「自分は」と云ふやうな主格を置かずにたゞ「淋しかつた。」とあるのが、よく利いてゐます。又その次の「他の蜂が皆榮に入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ殘つた死骸を見る事は云々」のところも、普通なら「日が暮れると、他の蜂は皆巣に入つてしまつて、その死骸だけが冷たい瓦の上に一つ殘ってゐたが、それを見ると、」と云ふ風に書きさうなところですが、こんな風に短く引き締め、而も引き締めたゝめに一層印象がはつきりするやうに書けてゐる。「華を去り實に就く」とはかう云ふ書き方のことであつて、簡にして要を得てゐるのですから、此のくらゐ實用的な文章はありません。されば、最も實用的に書くと云ふことが、即ち藝術的の手腕を要するところなので、これが中々容易に出來る業ではないのであります。 但し、今の志賀氏の文章を見ると、「淋しかつた」と云ふ言葉が二度、「靜かな」と云ふ形容詞が二度、繰り返し使つてありますが、此の繰り返しは靜かさや淋しさを出すために有効な手段でありまして、決して無駄ではないのであります。その理由は直ぐ次の段に述べることゝしまして、かう云ふ技巧こそ藝術的と云へますけれども、しかしそれとても、やはり實用の目的に背馳するものではありません。實用文に於いても、かう云ふ技巧があればあつた方がよいのであります。 實用々々と云ひますけれども、今日の實用文は、廣告、宣傳、通信、報道、その他種々なるパンフレツト等に應用の範圍が廣く、それらは多少とも藝術的であることを必要とするのでありまして、用途の上から云ひましても、だん/\藝術と實用との區別が分らなくなつて來つゝあります。現に裁到所の調書などは、最も藝術に縁の遠かるべき記録でありますが、犯罪の状況や時所について隨分精密な筆を費し、被告や原告の心理状態にまで立ち入つて述べてをりまして、時には小説以上の感を催さしめることがあります。されば文章の才を備へることは、今後如何なる職業に於いても要求される譯でありまして、旁 心得のためにこれだけのことを辨へて置いて頂く方がよいと思ひます。 http //www62.atwiki.jp/kotozora/pages/37.html
https://w.atwiki.jp/akb44/pages/124.html
安藤さくらをお気に入りに追加 安藤さくらとは 安藤さくらの99%は成功の鍵で出来ています。安藤さくらの1%は夢で出来ています。 安藤さくら@ウィキペディア 安藤さくら 安藤さくらの報道 今っぽくてかわいい「二音ネーム」が人気!2021年名前よみランキング|eltha(エルザ) - ORICON NEWS 小中学生14人の創作物語を冊子に 由布市教委がまとめる - 大分のニュースなら 大分合同新聞プレミアムオンライン Gate - 大分合同新聞 地元の旬な情報「ジモコレ!」“開運!さいき食の七福神めぐり” 大分・佐伯市(フジテレビ系(FNN)) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース [プレミアリーグWEST]広島ユースがFW棚田遼の決勝弾で5度目のWEST制覇!京都U-18の降格も決定 第18節 | ゲキサカ - ゲキサカ 安藤政信インタヴュー“花と死とエロスに満ちた写真愛” | ARTICLES - IMA ONLINE NHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ」岡山の雉真家にもどった上白石萌音と娘!第5週ネタバレと6週予告動画 - navicon [ナビコン] 「今際の国のアリス」シーズン2も!今後のネトフリ日本ドラマに注目(シネマトゥデイ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 山田孝之、短編映画は「次のステップを教えてくれる」 佐藤浩市、松本まりかも参加(オリコン) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 安藤サクラら、NHK特集ドラマ『旅屋おかえり』内子町での撮影は「最高に楽しい時間」 - RBB TODAY 安藤サクラの旦那とのなれ初めに「ロマンチック・・・」 子供はいる? - grape 本木雅弘、安藤サクラ、仲野太賀ら出演のドラマ「流行感冒」地上波放送(映画ナタリー) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 安藤サクラ、義父・柄本明とほのぼの2ショット「いいねぇ」「柄本さぁーん」 - ORICON NEWS フジ『SUPER RICH』主演は、安藤サクラだった!? 舞台と“スケジュール被り”の江口のりこに業界内から心配の声 - サイゾーウーマン 江口のりこ 主演ドラマの女社長役は、人気女優が相次ぎ拒否した難役 - NEWSポストセブン 柄本佑、安藤サクラとの結婚の決め手告白「声聞いて…」 - テレビドガッチ 柄本佑、妻・安藤サクラと初対面で「たぶんこの人と結婚するな…」 - マイナビニュース 妻夫木聡×安藤サクラ×窪田正孝共演 平野啓一郎のベストセラー『ある男』を映画化 - クランクイン! 柄本佑「不倫を健康的に描くファミリームービー」妻安藤サクラと見られる? - ニッカンスポーツ <安藤サクラ>ブラウンセットアップの大人コーデ イヤーカフ&チョーカーでこなれ感(毎日キレイ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 安藤サクラ、姉・桃子と2ショット「似てきたねぇ」「美人姉妹」 母・和津氏に「そっくり」の声も - ORICON NEWS 江口のりこと“激似”の安藤サクラを繋いだ「柄本明親子」の存在 - NEWSポストセブン 安藤サクラ、母の若い頃の写真を公開し衝撃の事実明かす「お美しい」「似てますね」 - スポーツ報知 森山直太朗、安藤サクラと共に秋田県・田沢湖で弾き語る 『最悪な春 feat. 安藤サクラ / にっぽん百歌』公開 コメント到着 - http //spice.eplus.jp/ 森山直太朗、安藤サクラによる朗読から始まる「最悪な春」のMV公開 - http //spice.eplus.jp/ 安藤サクラ「旅屋おかえり」ドラマ化で主演!2022年放送へ - シネマトゥデイ 安藤サクラ、お目目ぱっちりメイク?に反響 「お母様にそっくり」の声も - クランクイン! カンニング竹山 普通ではいられなかった収録現場 奥田瑛二&安藤サクラ父娘に「役者魂を見た」 - スポニチアネックス Sponichi Annex 森山直太朗「最悪な春」を安藤サクラが朗読 - ナタリー 安藤サクラ 愛娘撮影のバースデーショットがセンス抜群!「今日から私アラホーです」 - スポニチアネックス Sponichi Annex 「待ってた夫婦共演!」「仲良いのが伝わってくる」 安藤サクラ&柄本佑、TikTokで見せた“夫婦ダンス動画”に反響(1/2 ページ) - - ねとらぼ 安藤サクラのインスタに夫・柄本佑が登場 2人の顔が「似ている」と話題 - クランクイン! 安藤サクラが姑獲鳥、大島優子が雪女! 特殊メイクで『妖怪大戦争』 - マイナビニュース 柄本佑、妻・安藤サクラとの出会いを回顧「声を聞いて結婚すると思った」 - テレビドガッチ 本木雅弘主演で志賀直哉原作『流行感冒』ドラマ化 安藤サクラ、仲野太賀、古川琴音ら共演 - リアルサウンド 柄本佑 妻・安藤サクラに「やっぱり、かなわないなあ」と思う時とは - スポニチアネックス Sponichi Annex 安藤サクラの夫・柄本佑「夫婦は似てくるらしい」 レアな夫婦2ショット公開 - クランクイン! 安藤サクラ・古川雄大、Eテレ「おはなしのくにスペシャル」で“幸せ”問うおはなし(コメントあり) - ナタリー 安藤サクラ、落差の激しい私服を披露「同一人物に見えない」「旦那さんかと思った」 - スポーツ報知 安藤サクラ、野生イルカの棲む海へ 番組P「予測不能な動物みたい」 - マイナビニュース 安藤サクラさんの透明感の理由。日常は自分らしく、人生の変化には柔軟に - MYLOHAS 安藤サクラさん、両親のほっこり写真を投稿。奥田瑛二さんと安藤和津さんが猫とじゃれ合う - ハフポスト日本版 安藤サクラ、奥田瑛二&安藤和津の2ショット公開「素敵なご夫婦」「お二人ともお洒落でお若いな」 |最新ニュース|eltha(エルザ) - ORICON NEWS 「ナチュラルな色気が美しい!」「まさにミューズ」安藤サクラ、ドレス姿に変身するオフ動画に反響 | 話題 | ABEMA TIMES - AbemaTIMES 資生堂「ベネフィーク」の新ミューズに安藤サクラを起用 - WWD JAPAN.com 「一段とお美しい……!」「素敵です」安藤サクラ、着物に身を包み微笑む姿に称賛の声 | 話題 - AbemaTIMES 【江口のりこ】江口のりこ&安藤サクラ“激似の2人”は人間相関図も丸かぶり|日刊ゲンダイDIGITAL - 日刊ゲンダイDIGITAL 安藤サクラ、「一重まぶたがパッチリ二重に変化」報告に囁かれる“裏事情” (2020年7月27日) - エキサイトニュース ご飯ほおばる安藤サクラ 三姉妹に隠された象印“弱点克服”の鍵 - 日経クロストレンド 安藤サクラ、“おやすみ前”に夫・柄本佑を“Matt化”した姿公開 「夢に出そう」「笑えて寝れない」 - - ねとらぼ 安藤サクラ “二重まぶた”の変化を報告「大幅に変化してぱっちり系」 - クランクイン! 安藤サクラ、“もじゃもじゃヘア”で愛猫とたわむれる姿がかわいい - クランクイン! 安藤サクラ、大河ドラマ『いだてん』で演じたバレー選手が本人に激似すぎる - しらべぇ 安藤サクラ、マスクつけた「ガラの悪い写真」公開も…ほほ笑ましい内幕を告白 - クランクイン! 安藤サクラ、奈緒、箭内夢菜が三姉妹に?新たな“ほっこり家族”が「象印」CMから誕生! - ORICON NEWS 安藤サクラさん姉妹に「カッコいい」と反響!「しびれます!」「飾らない人間性を感じる」 - ニコニコニュース 柄本佑、日本アカデミー賞司会・安藤サクラに汗だく! イチャつき暴露も - マイナビニュース 安藤サクラ、17年ぶりに新調したダウン姿の自撮りアップも「鼻水ではありません」と釈明 - クランクイン! 安藤サクラ:透け感プリーツが広がり…ブラックドレスで美脚見せ 大人のミニマムな装い - 毎日キレイ 柄本佑の“ブリッコ顔”ショット 妻・安藤サクラの投稿に反響「素敵」「かわいい」 - クランクイン! 「東出の不貞」に「柄本佑と安藤サクラは添い遂げますように」の声が出るワケ! (2020年2月3日) - エキサイトニュース 『いだてん』“東洋の魔女”の主将・安藤サクラが語る 「大河ドラマならではのぜいたくな経験」 - リアルサウンド 安藤サクラ、義父・柄本明で“インスタ映え”狙う? 「素敵」「かわいい」の声 - クランクイン! 安藤サクラは犬養毅のひ孫。「いだてん」登場キャラの子孫は有名人がいっぱい? | 女子SPA! - 女子SPA! 6人目の代打アシスタンに安藤サクラ!!「モヤモヤさまぁ~ず2」 - テレビ東京 安藤サクラ まんぷく出演オファーに「120%できない」 背中を押した義母・角替和枝さんの言葉とは - スポーツニッポン 安藤サクラ&柄本佑夫妻のヘアカット動画が素敵! 娘さんの髪を切る姿もあって家族の仲のよさが伝わってきます - Pouch[ポーチ] 『まんぷく』安藤サクラ、“朝ドラの難題”クリアし国民的女優へ 表現者としての類い稀な存在感 - リアルサウンド 安藤サクラ、柄本佑、奥田瑛二、柄本明……日本映画・ドラマ界を牽引する華麗なる一族 - リアルサウンド 安藤サクラ「NHKの伝統さえ破る」底知れぬ実力 - 東洋経済オンライン 安藤サクラの子育て「逆に東京に不安」 » Lmaga.jp - Lmaga.jp(京阪神エルマガジン社) 長谷川博己、安藤サクラの娘に“ぺい”と呼ばれる…共演者が語るほのぼのエピソード「あさイチ」 - シネマカフェ 朝ドラ『まんぷく』で「萬平さん」連呼の安藤サクラにモヤモヤする - 文春オンライン 安藤サクラ、夫・柄本佑とのW受賞に号泣!松坂桃李もポロリ「夫婦っていいな!」 - シネマカフェ 奥田瑛二:「まんぷく」に出演 安藤サクラと親子出演に「ビックリ! 疲れた、笑った」 - MANTANWEB(まんたんウェブ) 松岡茉優が「絶望した」安藤サクラの演技力 - シネマ - 日刊スポーツ 安藤サクラ、夫・柄本佑と“朝ドラ2ショット” ファン「夢のコラボ」 - クランクイン! 満島ひかり、安藤サクラとの不仲説に言及 - モデルプレス マツコ「安藤サクラはブスを武器にしている」に異論「すごい失礼」「私、安藤さんをブスだと思ったことないんだけど」 - キャリコネ 安藤サクラ主演女優賞「泣き」世界が絶賛/映画大賞 - シネマ - 日刊スポーツ 安藤サクラ 義母・角替さんの闘病を朝ドラ現場では知らせず - NEWSポストセブン 父・奥田瑛二が女優・安藤サクラを鍛えた「『夕鶴』特訓」 - 女性自身 家族が語る、安藤サクラ「異次元の能力」開化教育 - 女性自身 安藤サクラ「撮影の時間が愛おしすぎる」 » Lmaga.jp - Lmaga.jp(京阪神エルマガジン社) 安藤サクラ、朝ドラヒロインは「自分の家族じゃなかったらできなかった」 - クランクイン! NHK朝ドラ『まんぷく』放送間近。安藤サクラが母としてヒロイン初挑戦 - CINRA.NET(シンラドットネット) 安藤サクラの姉・安藤桃子監督、修行僧の夫と離婚していた - NEWSポストセブン ボクサーから風俗嬢まで…安藤サクラの凄まじさを堪能できる名作映画5選 - シネマカフェ 安藤サクラの起用理由は?プロデューサーが明かす<まんぷく> - モデルプレス 安藤サクラ - 映画ナタリー - ステージナタリー 歴史の中に入る怖さ 映画「追憶」 安藤サクラさんインタビュー:時事ドットコム - 時事通信 安藤サクラが第1子出産 柄本佑がパパに 性別は「内緒で」 - ORICON NEWS 自由奔放な安藤サクラに魅了!曽祖父は犬養毅元首相 - 芸能 - 日刊スポーツ 安藤サクラ、30歳をむかえて 健やか がテーマ - 日本アカデミー賞受賞後初公開映画で取り戻した「自然な呼吸」 (1) - マイナビニュース 安藤サクラ、「百円の恋」から「次の一歩を踏み出せた」 新藤風監督「島々清しゃ」で好演 - エイガドットコム 安藤サクラ、新藤風監督作「島々清しゃ」は「体が愛おしさを感じる作品」 - エイガドットコム 安藤サクラ×太賀、『ゆとり』上司と部下コンビ再会にファン歓喜「懐かしい!」 (2016年10月27日) - エキサイトニュース 安藤サクラ、連ドラ初ヒロインに! 宮藤官九郎脚本「ゆとりですがなにか」 - cinemacafe.net 安藤サクラ、井浦新との再共演を堪能「爆弾でキャッチボールしてるみたい」 - エイガドットコム 奥田瑛二、娘・安藤サクラを「第一級の女優に成長した」と絶賛! - cinemacafe.net 柄本佑と安藤サクラが結婚!交際3年!芸能一家同士のビッグカップル! - シネマトゥデイ 安藤さくらをキャッシュ サイト名 URL 安藤さくらの掲示板 名前(HN) カキコミ すべてのコメントを見る 安藤さくらのリンク #blogsearch2 ページ先頭へ 安藤さくら このページについて このページは安藤さくらのインターネット上の情報を時系列に網羅したリンク集のようなものです。ブックマークしておけば、日々更新される安藤さくらに関連する最新情報にアクセスすることができます。 情報収集はプログラムで行っているため、名前が同じであるが異なるカテゴリーの情報が掲載される場合があります。ご了承ください。 リンク先の内容を保証するものではありません。ご自身の責任でクリックしてください。