約 21,955 件
https://w.atwiki.jp/souku/pages/2116.html
《公開済》SEV001219 シナリオガイド 公式掲示板 シャンバラ復興のためのチャリティー音楽祭。奮ってご参加を! 担当マスター 樹 和寿 主たる舞台 ツァンダ ジャンル ロボット 募集スケジュール 参加者募集開始日 参加者募集締切日 アクション締切日 2011-06-01 2011-06-03 2011-06-07 リアクション公開予定日 募集時公開予定日 アクション締切後 リアクション公開日 2011-06-17 2011-06-21 2011-06-10 サンプルアクション (シナリオ参加者の方にお願い、サンプルアクションの具体的な内容を補完していただけないでしょうか)(サンプルアクション名の下の四角をクリックするとでてくる「部分編集」をクリックすると登録できます)(もしくはサンプルアクション登録用掲示板へお願いします。) イコンで出撃するぜ + ... [部分編集] ▼プレイヤーの意図 ▼キャラクターの目的 ▼キャラクターの動機 ▼キャラクターの手段 生身で出撃するぜ + ... [部分編集] ▼プレイヤーの意図 ▼キャラクターの目的 ▼キャラクターの動機 ▼キャラクターの手段 音楽祭にプレイヤー、または観客として参加する + ... [部分編集] ▼プレイヤーの意図 ▼キャラクターの目的 ▼キャラクターの動機 ▼キャラクターの手段 作詞をする + ... [部分編集] ▼プレイヤーの意図 ▼キャラクターの目的 ▼キャラクターの動機 ▼キャラクターの手段 その他補足等 [部分編集] 【タグ:SEV ツァンダ ロボット 樹 和寿 正常公開済】
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/423.html
目次 1.現代の職業倫理 2.キリスト教の流れにある繁栄の法則 3.正法のなかの繁栄・発展 4.仏陀の反省、ヘルメスの繁栄 ―― これを両輪として 5.ジャパニーズ・ドリームは神理の世界から 6.魂の進化に資する「正業」 7.職業はユートピアの原点 8.仕事(ワーク)と労働(レイバー) 9.仕事としての母親業 10.仕事のなかにおける常勝思考 11.環境に感謝する姿勢 1.現代の職業倫理 「正業」ということは、現代においてひじょうに難しい課題として我々に提示されている問題であります。というのも、現代の社会の複雑化、また産業の進展というものを目の当たりにして、私たちは今、「正しい仕事とは何か」という基準がわからなくなってきているからであります。 ひと時代前であるならば、もっと簡単な基準があったであろうと思われるし、それなりの職業倫理が確立されていたと思えるのですが、現代においてはこの正しい仕事とは何かということが、きわめて難しい問題となってきております。 またもうひとつ、どうしても考えておかねばならないことは、なにゆえにこの正しき仕事ということが要請されるのか、この正しい仕事という課題、霊的に見てどういう意味合いがあるのか、これを知らねばならないわけであります。 ともすれば私たちは瞑想的生活に入っていきやすい、そういう魂の傾向を持っておりますし、宗教的魂の方であるならば、どうしてもその生活がなつかしいものであって、その世界に入っていきたい、という憧れを持っていることも否めません。 そうすると、私たちが魂のなかで感じるこの郷愁、魂の郷愁ともいうべき瞑想的生活と、現代において私たちがおかれている、この仕事環境、職場環境の問題をどう考え、解決していかねばならないのか。これはまさしく、私たちが知恵をしぼるべき場であるわけです。ここで知恵をしぼらなければ、現代に出て宗教家である資格はないのであります。 かつては瞑想的生活のなかに、正しき心の探究を説けばよかった、それはひじょうに簡単な面があったと思います。しかし、この現実社会をどう見るべきでしょうか。まったく無視し去るべきでしょうか。虚業であると突き放すことができるものなのでしょうか。空しい仕事であって何らの霊的意味合いもないと切って捨てられるものなのでしょうか。あるいは現代に魂を宿して生きている以上、このなかにも何らかの意味合いがあると考えるべきなのでしょうか。この時代背景を霊的進化の法則に照らして見たときに、どのように考えるべきなのでしょうか。これは避けて通ってはならない課題であると、私は思うのです。 そして、この現代的仕事についてどう考えるかということは、まだ明確な結論が出ていないと思えるのです。宗数的には、出世、肩書き、金銭、こうしたものはともすれば罪悪的に言われていることのほうが多く、そうしてみるとビジネス社会のなかにおいて、宗教論理のはたらく余地はなくなるわけであります。しかし、それでよいのかどうか、ということです。 2.キリスト教の流れにある繁栄の法則 そして天上界の計画をながめてみるとどうであるかといえば、あきらかにこの部分について修正が入ってきていると考えざるをえないのです。 たとえばイエスの時代の職業倫理はどうであったか。職業というものにそれほどの重きが置かれていなかったことは、聖書を読めばよくわかります。イエスの時代にしてイエスが、千数百年のちにくる産業社会の到来、ここまで考えて教えを説いていたとは思えないのです。そうした社会が出現しておればそれなりの教えをたぶん説いたであろう、と推定されるのですが、当時の社会環境からいえば、そうしたことを念頭において法を説くという考えはなかったのだと思われます。 それゆえに、宗教改革の流れのなかで、とくにルター、カルビン以来の宗教改革の流れのなかで、宗数的神理と現実生活の問題が課題とされ、そして改革されてきたのではないかと思うのです。とくにこの宗教改革の流れのなかにおけるプロテスタンティズム、これと資本主義精神とのかかわり、これは大いに影響しあったと思われるのであります。 たとえばイギリスからメイ・フラワー号に乗ってアメリカに清教徒たちが渡っていき、そしてその後アメリカが奇跡の発展を遂げていくわけですが、ここに何か、国の繁栄というものと、宗数的神理とを一致させんとする神の願いがあると考えられます。 また、その後、十九世紀、二十世紀のキリスト教の流れを見たときに、どうなっているかというと、ひとつの繁栄の法則を科学的に説明するという側面を持ったキリスト教が台頭し、そして発展してきております。いわゆるニューソート系統のキリスト教です。これがひじょうに力を持っています。ノーマン・ビンセント・ピールにしても、またロバート・シュラーにしても、いまだに現役でがんばっておりますが、彼らの説いた教えは、従来のキリスト教会から見れば当初は異端に思えていたのであります。 N・V・ピールの『積極的考え方の力』という本を、お読みになった方も多いでしょう。全世界で一千万部突破した本でありますが、あのピールにしてもこれが発表された当時は非難囂々(ごうごう)であったのであります。四面楚歌(しめんそか)という状況であって、キリストの教えを、こんなふうに現代的に、仕事の役にたち、ビジネスに使えるようなものにしたということ自体が、ひとつの法をねじ曲げた行為であるということで、多くの牧師たちからの攻撃の声は鳴り止まなかったのであります。 しかしそのなかで着実にその本が全世界に広がっていった、この背景はどこにあったかと考えてみると、このビジネス社会のなかに宗教的な考え方を取り入れてゆかねば、人びとの需要、ニーズに応えていくことができない、過去の聖書を読んだだけでは人びとの心を満たしえないということだったのです。やはりそれも、天上界からひとつの計画があって行なわれてきたことであります。 3.正法のなかの繁栄・発展 日本は今、アメリカという国に、追いつき、そして追い越そうとしておりますが、現象的にはアメリカに起こったことを五年から十年たってから追いかけていることになっております。そういう現状でありますが、やがて二千年を境にして、これは明らかに逆転していくことになります。しかし、現時点では、あちらに先に起きたことが、数年後に日本に起きてくる、という流れであります。 そうすると今後の日本のビジネス界、宗教界を取り巻く環境としてどういう環境が出てくるかと考えてみると、この両者をリンク(連結)させる理論は必ず出てこなければならないのであり、また当然出てくるはずなのであります。 それゆえに、今私たちも幸福の原理のなかのひとつとして「発展」という概念を明らかに打ち出しました。これを入れておかねば、今後の社会の要請に応えることができないのであります。 釈迦仏教のなかには、この発展の概念はどちらかといえば欠けていたでありましょう。それは内的世界の発展ということに留まっていたかもしれません。しかしながら環境自体がこれだけのダイナミクスを含んでいる現今において、内的世界の発展だけでは止まらない部分があるということであります。 それは私たちがよく、「この世とあの世を貫く幸福」という言葉でもいっておりますが、かつて実在界のみに存在した世界を、この現実世界にも同時に連動的に現わすという、そういう時期が来ているということであります。 特に日本神道系にあっても、この点については、そうとう努力をされてきたという感じがあるのであります。戦後の日本の復興というものを見たときに、これは日本神道系の高級神霊たちのそうとうの力があったと思われるのです。という以上に、むしろ精神世界のなかにおいては、この日本神道系の力が一部、ヨーロッパやアメリカのなかにも入っていったというのが霊的世界の真相であります。そのようなことが現実にあったのであります。 ただ、これを単に日本神道系の考えとのみするのではなくて、もっと本質的な部分、根源的な部分から、この職業と神理という問題を前面に打ち出す時期がきたのではないかと思われるのであります。 私は今、『愛は風の如く』という物語は、ヘルメスの生涯の物語であります。この物語を読み続けていけば、実はこうした神理もあるのだなということがわかってゆくと思います。みなさんが今まで神理と思っていた、あの瞑想的生活だけではないという部分が明らかに出てきます。神理のなかにはこの世の発展・繁栄の原理となるべきものが、明確に含まれているのであります。 私はこの物語のなかにおいて、四千数百年前、ギリシャのヘルメスがやってきたことを克明にたどっていきますが、それは現在の、十七、十八、十九世紀、二十世紀、この近現代の世界で起きてきたことを、四千年前にすでに先取りしているのです。そうした原理が明らかに出ております。『愛は風の如く』をお読みになるならば、それがよくわかることでしょう。貨幣経済も、これをつくったのはヘルメスであります。また現在の為替に近いものまで、すでに発明しています。三国間貿易、こういうものも始めていましたし、E・Cのような経済連合体に近いものまで当時すでにつくっていたのです。 そういう発想が出ていて、軍事的に、ギリシャおよび地中海世界を支配するというのではなく、経済的な問題としてそういう関係をつくり、そして平和を生み出すという努力をしていたのであります。 ヘルメスは国連の原型にあたるようなものも考え出しています。そういうものの原型が、四千年以上昔にすでにあったのです。こういうことを、やがてみなさんは知っていかれます。そして神理の根底には、そうとうしっかりした軸が埋まっているということを知るに至るでありましょう。 こういう事実を知ったときに、現実のこの社会、あるいはビジネスの世界というものを無視できないと感じるように、たぶんなるでありましょう。それは、そうした社会を規律する法則、これを神理のほうに向けていくことによって、より大きな力で世の中を変革していける、そういう場面が出てくるからであります。単なる逃避だけでは済まない部分があるのです。 4.仏陀の反省、ヘルメスの繁栄 ―― これを両輪として そこで、現時点でのこの射程、あるいは方向がいったいどこにあるのか、一昨年(一九八七年)の第一回講演会でも述べましたが、これをもう一度記しておきたいのです。現時点でめざしており、進んでいる方向は、仏陀の反省的・瞑想的生活と、ヘルメスの繁栄・発展の法則、これを両輪に据えて走っているのだということを、まずしっかりつかんでおいていただきたいのです。片面だけではなく、この両面をしっかりと据えつけ、そして融合させていこうとしているのであります。 この基本認識を忘れないでいただきたいのです。片方だけでは現代という時代を変えていくには不十分なのです。仏陀の法とヘルメスの法、この両方がどうしても必要で、この両者の統合をせねばなりません。この両者を統合したうえで、さらにその上なる概念、上位概念というものがやがて出てくるのであります。 仏陀の法もヘルメスの法もやがてかすんでいく時代がくるでありましょう。それはさほど先のことではないでしょう。一年目、二年目で、たとえば反省法についていえば、仏陀の八十年の生涯というものが総決算されつつあるわけです。また、ヘルメスの生涯も総決算が始まりつつあるのです。このあとにくるものがいったい何であるのか、これをみなさんは考えねばならないのであります。 私たちは今、過去の遺産というものを学び、そして統合し、さらにそれを超えて進んでいこうとしているのであります。したがって、私たちの行く手には、未来が見えるのであります。 5.ジャパニーズ・ドリームは神理の世界から また、この日本でのひとつの神理の運動は、これは新たな意味でのジャパニーズ・ドリームになるであろう、そう予言しておきたいと思います。アメリカにはアメリカン・ドリームというのがありました。そして二十世紀は、そのアメリカン・ドリームのもとにいろいろな人が夢を求めて、アメリカという国の舞台でさまざまなロマンを描いてきました。そのアメリカが翳(かげ)りを見せてきております。次に来るものは何であるか。これがいわゆるジャパニーズ・ドリームの世界なのです。 このジャパニーズ・ドリームは神理の世界から始まるのです。神理の世界を起点として、始まり、やがてこれが浸透していくのです。いったん経済のほうから始まったように見えたものが、神理のほうからの、この発祥によって、すべての世界の色合いが変わってゆくのです。 今みなさんは、その源流にいるのであります。その流れはまだ小さいかもしれません。しかし、やがてこれは大きな流れとなって、そしてどうやら未来社会のほうへも流れていく大河であることがわかってくるようになると思います。一年半前に出した『太陽の法』のなかで説いている、この大きさが、まだ世の中の人びとにはわかっていませんが、やがてそれをはっきりと知る時代が来るのであります。 したがって私たちは、この「正業」のなかに、現代社会を見、未来社会を見ていくことも可能なのであります。それは、いったい何のためにこの仕事というものがあるのかということを、もう一度とらえ直す機会なのです。 6.魂の進化に資する「正業」 そこで、私なりの結論を記すとするならば、この職業における訓練・鍛練・努力というものが、はたして魂に影響があるのかといえば、これは「大いにある」と言わざるをえないのです。 高級霊界の人たちを見ていても、魂的に進化している人ほど、この仕事ということに関しては幅広い活動が可能であります。実際は、ひじょうに広範な仕事をやっているのです。それはなぜかというと、魂修行に九次元まで行っても残るものとして「指導力」という面があるからです。魂の修行の目標として指導力という面が残っています。六次元以降はだんだんと指導者になっていく歴史で、指導力という魂修行の課題が残っています。この指導力を増していくためには、どうしても仕事というものができなければだめなのです。 高次元霊であっても、この意味において、指導力をつけるためには、やはり時おり地上に生まれて地上経験を身につけなければ指導力が低下していくのであります。それは、高次元の霊界にいると、地上の環境についての理解、社会についての理解が欠け始めること、また霊的世界の感覚と地上の感覚とに差があること、また、地上経験をした多数の霊人たちが実在界に還ってくるにあたって、彼らを指導するさいに困難を感じるからであります。 したがって高次元霊であっても、単に救世のためだけに生まれ変わっているかといえばそうではなく、仕事能力をつける意味でも出ていることがあるのです。仕事能力をつけることによって、実在界に還ってもさらに大きな仕事ができるのです。これは魂にとって、ひじょうに貴重な体験であると言ってよいでしょう。 この正業という考え方は、『太陽の法』のなかにも、「生かす愛」という役階にも分類できるであろうと述べてあります。正業のなかにも一番上の魂領域まで貫くものがあるということです。神におかれても仕事ということに関しては、そうとうな実力者であり、そうとうの仕事をされているということだけは間違いがないのです。 今、九次元の法というものを統合するという使命を担って、私はやっておりますが、この九次元の法の統合概念として、その上にある方、上にある意識の指導を受けています。この大日意識ともいわれる方の指導を受け始めております。これは人格なき意識であるというように言っておりますが、大日意識のなかには九次元霊、この十体の意識を統合するために人格的に現われる部分もあるのです。 そして、九次元の十人の意見を統合しております。私たちが父と呼んできたほんとうの存在です。その方の前では私も子供の一人です。そういう意識があって、その意識が今年から仕事を始めました。次の段階に入ってきつつあるということなのです。 それはもっと大いなる業(わざ)、仕事というのが始まっていくということであり、私たちの救世の仕事も、これは大きな枠から見たならば、一種の仕事能力で計られる面もあるということなのです。 7.職業はユートピアの原点 私は以前から、会社であれ、他の事業であれ、いろいろなところで仕事をしていて、そこでユートピアを築けない方、そこで仕事ができない方が神理の世界へ来たら幸福が得られるかと思ったら、そうではない、ということを明らかに言っています。神理の世界というところは桃源郷ではないのです。やはり他のところで役に立てるような人がこの会のなかで活動することによって、さらなる力が出てくるという、そういうものです。この点はどうか勘違いしないでいただきたいと思います。 この世的にはどこでも成功しない、幸福も享受できない、ユートピアはできたことがないが、神理の世界だけではできると思ったら、それはたいへんな誤解です。『現代成功哲学』のなかにあるように、成功者の町に入るためには、それだけの下準備がいるのであります。 したがって、神理の運動に値打ちがあると思われる方なら、ただそのなかだけに生きていてよいわけではありません。それ以外のところで足腰をしっかりと鍛えておく必要があるということです。 これは女性においてもそうであります。女性のなかには職業婦人も多かろうと思いますが、主婦として家庭を守っておられる方は、主婦業も正業であるという観点を忘れてはなりません。主婦業を満足にできないで、神理の世界では活躍できると思ったら甘いのです。そのようなものではありません。主婦業を満足にできないということは、家庭のなかでユートピアを築けないということであり、夫に尽くすことができない、あるいは子供の教育も十分にできないということであります。 少なくとも、ユートピア創りの原点は、他の人の役に立ちたいという願いです。この願いによって、身近なところでユートピア創りのスタートがきれない場合に、これを一挙に飛び越して理想の実現する世界が出てくるとは考えられないのです。まず足元を見直していただきたいのです。主婦は主婦、またサラリーマンはサラリーマンとして、OLはOLとして、現在の自分の立場をもう一度ふり返ってみてください。 このなかにおいて、たしかに環境的要因というものはあるでしょう。環境的要因によって自己実現ができないことはあるでしょう。しかしながら、そのなかで最善を尽くしているという、その現実があってはじめて他のところでも生きてくるのです。これは真理であります。今の立場、今自分が置かれている立場、この世界のなかにおいて学ぶということを放棄して、それ以外のところだけでは自分は水を得た魚のように活動できると思ったら、これは甘いのであります。そういう甘い幻想はやがて消えていくしかないのであるという、このことをよくよく考えていただきたいと思います。 私自身、今こういう仕事をしていて痛切に感じます。この仕事に入る前にいろいろなことをやっておりました。また、霊道を開いてもう八年たちましたでしょうか。準備期間をそうとうおいたつもりでありますが、活動を開始して感じることは、今までやってきたことの、どれひとつとして無駄がなかったということであります。それ以前の段階において、私がもし手を抜いた生き方をしておれば、やはり現在の仕事のなかにおいてもそうとうのマイナスが出たであろうと推定されるのです。 その感はますます、一年一年、あるいは一か月一か月、一日一日深くなってきています。むしろ、もっと密度の濃い魂修行ができなかったかと反省されるところであります。たんに霊とか神とかいうものを追いかけるのではなくて、それ以前の人間的修行において、まだまだ学ぶべきことが多かったのではないか。学び尽くしていなかったのではないか。もしタイム・マシーンに乗って引き返すことができるならば、もっと徹底的にやっておきたかった、学んでおきたかったという気持ちはひじょうに強くあります。 無駄なものはないのであります。無駄なものが出るのは、それを活かし切らないからであります。活かす心がないから、活かそうと考えないからであります。この世において与えられる仕事のなかに無駄なものは一つとしてないのです。それはすべて魂の糧となり、いや、魂の糧となるだけではなくて、ユートピア創りのための積極的道具となるはずなのであります。このことを深く知らねばなりません。 8.仕事(ワーク)と労働(レイバー) そこで、この正業の反省に入るならば、まずその前提として考えねばならないことは、自分に今、与えられている仕事です。仕事とは何かということをまず考えてみることです。自分にはどういう仕事が与えられているのだろうか。仕事とは役割の代名詞と考えてもよいでしょう。自分に与えられている仕事、すなわち役割、これはいったい何であろうか。これを考えたときに、自分の役割というものを一枚の紙のなかにおそらく書けるでしょう。書ききれないほどの仕事をしておられる方もいるかもしれませんが、たぶん一枚の紙のなかに自分の役割とは何なのかということが書けるでありましょう。そしてそのなかにいくつかの役割のどの部分をどういうふうに実践しているか、これについて考えをめぐらすことができるはずです。 たとえば、会社で社長をやっておられる方もいるでしょう。その方の仕事はもちろんいくつかに分類されるでしょう。それ以外にも仕事としてやっている立場はあるはずです。家庭のなかでも父親という一つの仕事をやっています。父親業というものもやはりあるわけです。それ以外にも他のいろいろなところで人間関係をもっているはずであり、そのなかにそれなりの役割はあるはずです。何らかの社会に、何らかのかたちで参画しているのが私たちなのです。 そうしてみると、これを一つひとつ取り出して、自分はそこで十分な役割を果たしているかどうか、考えていただきたいのです。そしてこのときに、さらに考え方を深めてゆくとするならば、二段に分けてもよいかもしれません。この役割の概念を、より高次な意味での仕事と、労働というものの二つに分解して考えてもよいでしょう。 労働という概念は、これは単純再生産のために必要とされる仕事です。みなさんが人間として生きていくために、どうしても必要とされる仕事です。毎日毎日しなければならない、生きていくための仕事、これが労働でしょう。この上位概念として仕事というものを、もし取り出すとするならば、この仕事のなかに含まれるべきものは何かというと、これは生産的なものという考え方になります。自分のその働きによって、どれだけプラスアルファを生み出せたかということです。 こういう考え方でやってみると、あらゆる役割において、この二段階が出てくることになります。主婦であっても朝食をつくり、昼食をつくり、夕食をつくるということ、この仕事のなかにも大きく分ければ「労働」的に考えられる部分と、労働の上の概念としての「仕事」に分けられる部分とがあります。英語で言うとwork(ワーク)とlabor(レイバー)の違いです。 9.仕事としての母親業 それは料理をつくるさいにも、たとえば「心をこめて」という言葉もありますが、子供たちやご主人の健康のことを十分に考えて、そして今の健康状態、それから仕事の内容から考えた栄養バランス、そういうものを意図してつくる料理は、これはワーク、仕事にあたるわけです。もし、何の気なく材料を集めてただつくっているだけであれば、これはレイバー、労働にあたるわけです。 こうした心の価値の含み方によって、外見的には同じことであっても二つに分かれます。また母親であるならば、子供の教育というのは、これは天職にも近いものでありましょう。この子供の教育においても、ただ単に子供を叱っているだけ、自分のいろいろな不満、不平、それから愚痴、こうしたもののはけ口として「とにかくあなたはああしなさい、こうしなさい。」と言うだけで母親としての役割を果たしているつもりならば、この役割は生産性をもっていないと考えられます。これは仕事ではない、労働にすぎないというふうにも考えられるわけです。 母親としては当然、子供のいろいろなことを見て小言をいうでしょうが、それが生産性に結びつかないときには労働です。しかし、その子供への注意がその子を伸ばし、将来優位な人材としていくために不可欠のものがあるならば、これは仕事といってよいわけです。 今、この家庭における仕事、母親の仕事がなおざりにされているがために、社会問題が数多く起きているわけです。職場に出て仕事のできる、できないということがいろいろあるわけですが、この原点は家庭にあることがひじょうに多いのです。家庭における教育の足りていない人は、この家庭教育を職場に持ち込むことになり、これが職場でのいろいろな問題を起こすようになってきます。本来家庭で終わっているべき教育が職場で行なわれることになればどうなるか。その人はマイナスからのスタートということになるわけです。 社会に出て、マイナスからのスタートにならなくてよいような状態までもってくるのが家庭教育の仕事です。それが人間関係を教えることであるし、人間としての生き方を教えることでありましょう。この根本部分が、終わっていないとひじょうに実社会に出ての試行錯誤が増えてきます。いろいろなところで上司に叱られたり、あるいは仕事のなかでの不調和を起こすことになってきます。家庭教育という根本の部分が終わっていないからです。原点をたどれば、母親が十分な仕事をしていないのです。 今、職場環境のなかでは仕事に関して、どこでも勤務評定をやっています。給料あるいはボーナス、こうしたものに点数化した勤務評定を、たいていのところではやっております。ただ、これを主婦業、あるいは母親業にもってきたらどうでしょうか。ここにも実力の差は必ずあるはずです。職場にだけあって家庭にないと思ったら、これは大間違いです。母親業としての実力の違いは必ずあるはずです。平均を超えている人、はるかに優れた人、平均以下の人と、いろいろあるのです。そうして、母親として平均以下の仕事でもって育てられた子供たちはどうなるか、スタート点においてかなり遅れをとることになります。 この仕事の評価は結局、長い意味での自分の将来の幸・不幸というかたちで返ってくることになります。また、これ以外でも、主婦として、家庭の管理能力という問題があります。これは単に職場で、あるいはスーパー・マーケットヘ行って伝票をきっているだけの仕事と比べて値打ちが落ちるかといったら、けっして落ちはしないのです。むしろひじょうに大切な仕事の一つです。家庭のなかにおいて、どれだけ優れた環境を創り出すか、創意工夫によって創り出すかということは、ひじょうに貴重なことなのです。 みなさんはお金になればそれがいいと思うかもしれないけれども、お金になったとしても、それが単なる労働、レイバーになることもあれば、お金にはならなくとも生産性をもった仕事、ワークになっていることもあるのです。家庭のなかにおいてもワークになることがあるのです。これを放棄しているということは、神理社会のなかにおいても自己実現はおぼつかないということなのです。 男性においては、この職業上の問題点は多岐にわたります。それはみなさんも自覚しておられるとおりです。そうとうの幅広い職業があります。また、そのなかで要請される職務態度、これもきわめて多様です。 ただいえることは、少なくとも正業をやっているといえるためには、その仕事のなかにおいて自己発揮がまずできなければなりません。自己発揮というのは、あなたがこの世に生命(いのち)を持ったという意味をその仕事のなかに見出す必要があるということです。あなたがこの世に生を受けたということの意味が発揮されねばならないということです。自分の魂を仕事のなかに生かそうとする努力が必要です。そうでなく漫然と終わるのであれば、これはたいへん残念なことです。後の「正命」にも関わることですが、これはたいへん残念なことであります。真の意味において自己発揮ができるということ、これが正業のための重要なことの一つです。 10.仕事のなかにおける常勝思考 もう一つは、この仕事の場において無限に学ぶという立場、これを忘れてはならないということです。仕事の場で思いのままにならないことはいくらでもあるでしょう。それはみなさんにとって不本意なことであるかもしれません。自分としてはベストの仕事をしているつもりであるのに評価を受けられない、あるいは邪魔が入る、こういうことはあるでしょう。 ただ、ここが一つの考えどころであると思うのです。つねに、いろいろな挫折や妨害や、失意の環境が現われたときに、そこで自分は何を学ぶかということを考えねばなりません。そこには必ず学ぶべきことがあります。これは見落としてはならない重要な点なのです。この世に無駄なものはひとつもないと思って、そうしたうまくいかないときにおいても、必ず「これは何かを自分に教えようとしているのだ。」という観点から見たときに納得するものが必ずあるはずです。そして、そこから得られたものは、次なるチャンスに必ず生かされることになっていくのです。このことをけっして忘れてはなりません。 さらにもう一つ、正業で気をつけねばならないことは、仕事において成功の段階にあるとき、発展の段階にあるときの考え方です。これについても、私はすでに何度も語っておりますが、むしろ失意のとき、挫折のときよりも、成功のときのほうが難しいということです。これについては何度も何度もくり返して言っております。それは、人間はどうしても自分がかわいいがために、安易なところで満足をしてしまいがちだからです。安易に出来上がってしまうというところがあるのです。 したがって、上向きだと思うときに、もう一度足場を固めていく。人からほめられればほめられるほど、謙虚な姿勢を強めていく。こういう考え方がだいじです。そして、成功したと思ったら、その瞬間から次なる努力の場面が始まるのだ、これからが新しいスタートなのだという考え方を、けっして忘れないことです。 こういう考え方が「常勝思考」といわれる考え方なのです。失意、挫折のときに必ず教訓を学ぶ、そして得意のときにはさらに努力を積んでいく、これは絶対に誤らない生き方です。自分が神のご加護を得、守護・指導霊たちの力を得てこれほど成功していると思うなら、この期待に応えて、よりいっそうがんばってみようと思うべきであります。逆に、「これは自分の力なのだ、当然のこと。」と思い始めたら、そこであなたの魂の向上は止まると思ってください。 チャンスが与えられれば与えられるほどに、次なるステップをめざしてがんばらなければいけないのです。そこが踏んばりどころです。このときに踏んばらなければ、小成にすぎません。小人物で終わりです。次のステップへ必ず行かねばならないのです。そうした有利な環境が出てきたら、「よし、これに応えなければいけない。これに応えてもう一段大きな仕事をしてみよう。みんなの役に立ってみよう。」と決意すべきです。こういう気持ちを持つことなく、そこで出来上がってしまったら、もうそれまでです。 一年間をふり返ってみても、仕事の面において自分の不遇な部分、不幸な部分、挫折部分というのはおそらくあったでしょう。そのときにあなたはどう思ったでしょうか。教訓を学び得て、次なる準備ができたでしょうか。また得意のとき、あなたはどうだったでしょうか。得意のときに「まだまだ、こんなものであってはいけない。これはほんとうの自分の力ではない。多くの人の光によって、力によって、現在の自分があるのだ。もっともっとお返ししていかねばならない。」と考えられたでしょうか。それとも、そうした立場が与えられたことを当然だと思ったでしょうか。 11.環境に感謝する姿勢 私たちは、ともすれば誤解をすることがあるのです。自分自身が光っているわけではないのに、他の光を当てられることによって、その反射光で光っているにすぎないのに、すなわち月のような存在であるのにもかかわらず、自らを太陽だと勘違いしてしまうことがよくあるのです。それはみなさん一人ひとりにいえることです。月のように、実際は反射光で光っていることが多いのに、太陽だと思ってしまう、自分で光っていると思うようになってくる、こういう瞬間があります。これがいちばん危険なときです。 大企業に勤めている方は、特にそういう危険があると思います。すべて自分の力だと思ってしまいやすいのです。仕事が進む、対外的に交渉する、そしてうまくいくと、自分の力だと思ってしまう、自分の器量だと思ってしまうのです。会社の看板がそこに効いていることが多いのです。官庁に勤めておられる方もそうです。その官庁のバックがあってはじめて仕事ができるのであって、これを取られたときにどうなるかと考えたら、けっこう無力な自分を見出すのです。自分の個人的信用でできた仕事ではなかったのです。その組織の背景なり、看板なりによって仕事ができていたのを自分個人の信用だと思ったり、実力だと思ったら、この次の段階で苦しみが始まります。 役所などで昇りつめた方などに、天下りということがよくあります。天下りでも成功する方はいます。それ相応の実力がある人は成功を修めていますが、逆もまた多いのです。私もずいぶん見てきましたが、役所である程度以上の立場にあった人が転職して天下っても、なかなか成功できないのです。天下って、給料だけをもらう立場に甘んじている人はいくらでもいます。便利屋的に使われているだけなのです。それは、自分の実力と、バックあっての実力とを誤解して生きてきた方たちの姿です。ほんとうに仕事ができたわけではなく、机がものをいい、椅子がものをいったということが多いのです。 これは普通の会社の部長や、あるいは役員でも同じです。自分がいなければこの会社はもたないと思っていても、その方が退職しても会社は動いていきます。そういうものなのです。「自分がいなければこの部はまわらない。」と思っていても、新しい人に変わってもすぐ動いていきます。ここにやはり、大きな考え違いがあることが多いのです。 八割ぐらいはその組織の力、あるいは法人の力、みんなの力であって、残りの二割ぐらいが自分の個性によって味付けをしている部分であることが多いのです。それを勘違いしてはいけないのです。よくよく考えねばならないところです。現在成功している方も、どうかそれを自分一人の力だと思わずに、その成功を支えている要因に対してじっくりと分析をし、そして自分を支えてくれた方に対しての感謝の思いをもつことがだいじなのです。 『現代成功哲学』にも書いてありますが、少なくとも他の人の引きなくして成功する人はいないのです。そういうチャンスはゼロと思ってください。それは人間社会というものは、そういうふうに成り立っているからです。自分ひとりだけで生きているロビンソン・クルーソーのような世界もあるかもしれない。彼の場合でもフライデーという召し使いが出てきて発展したわけですが、自分一人ではなかなか発展というのはないのです。 それともうひとつは、宗教的人格のなかには考え違いをする人が多いのですが、強きをくじく性格の方、みなさんのなかにもそうとうおられると思います。神理を学んでいるような人のなかには、どうしてもこの世的権力、あるいは成功者へ背を向ける部分があるのです。どうしてもそうしたものに背を向けて、自分はそういう世界の人間ではなくて、別の世界の人間なのだと考えやすいのです。そして上司を批判したり、あるいは自分を本来引き立ててくれている立場の人を批判するようになることが出てきます。 これは、やはり成功の原理を知らぬ行為といわねばなりません。いくら下の者をかわいがっても出世できないのです。それは、そういう力学があるからなのです。いちばん出世するタイプは、上にかわいがられ、下に愛される人です。ですから転職するさいにも、やはりどれだけ多くの人に自分が愛されていたかどうかは、よくわかるはずです。自分が去っていってもだれもまったく困らず、だれも残念だとも言ってくれないというのは、さびしい限りであります。時おりこうした人間になっていることもあります。 ですから、私たちは、成功していると思うときによくよく自分のまわりを見なければなりません。ある人たちの力によって現在の自分があるのではないか、それに対する感謝ができたか、報恩ができたか、また、その報恩はさらなる自己改革と自助努力というステップを踏み出しているかどうか、こうしたことを考えねばなりません。 太陽と月の比喩を、ここで思い出していただきたいのです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/175.html
目次 1.運命の引き潮(しお) 2.我が愛、我が哀(かな)しみ 3.忍び寄る魔 4.ハデスの妻、メドゥーサ 5.悲劇の終焉(しゅうえん) 6.英雄の最期 (一九八九年八月二十一日の霊示) 1.運命の引き潮(しお) 全智全能の主ゼウスである。さて、私の話も続いてきた。語れば、まだまだ長く長く続く物語となることであろう。 しかし、時間はすでに決められたものであり、この枠を超えることはできぬかもしれぬ。許された残りの時間のなかに、我が智慧(ちえ)と力と勇気の限りを尽くして、おまえたちへの教えを遺(のこ)したいと思うのだ。 さて、本章では「大いなる光の最期」という題を選んでみた。まだ私は活躍中の身であったが、はやくも最期を語らねばならぬようになったということは、残念なことであるがやむをえまい。人の一生とは、生きているさなかにおいては、じつに長く感じるものであるが、過ぎ去ってみれば夢幻(ゆめまぼろし)、一瞬のごときものであることは、これまた否定することもできぬであろう。 さて、全智全能の悟りを開き、そしてギリシャ全土の士気を高め、国としての国威を誇りに誇った私であったが、運命というものは気がつかぬうちに、ヒタヒタと背後から押し寄せて来るものらしい。潮(しお)が気づかぬうちに満ちても来るように、我が運命はいつのまにか満ち、そして気がついたときに引き始めていた。 満々と水をたたえた海が、気がつけばいつのまにかその浅瀬にかすかな水たまりのみを残して引き去っていくように、我が人生もまた終わらんとするときがあった。それは、四十代を過ぎてからのことであったろう。まだ我も男盛りではあったし、よもや大ギリシャ帝国に問題があろうとも思わなかった。このころには陸はもちろんのこと、海、地の果てのアフリカヘも我が支配権は及んでいた。そして、ギリシャをとりまく各国から次つぎと貢物も持って来られるような状態であった。 さて、しかし、この四十歳を過ぎたあたりから、我が心の内にも変化が起きた。我はオフェアリスの神と一体となり、またあるときはヘルメス神(がみ)と一体となって、国の拡張を行ない、政治を行ない、さまざまな文化の復興にこれ努めてきたが、齢(よわい)四十を過ぎるにいたって内面に変化が現われてきたのである。 それは何であるかというと、人間の生死というものは、あまりにもはかないということに気づいていたということなのだ。我は数多くの戦いをし、つねに勝ち続けてはきたが、しかしながら、そのために流された血のおびただしきことよ。そのためにつくられた屍(しかばね)の山よ。我は正しきことはあくまでも正しきものとして地に満ちねばならんとは思うが、それにしても吹き荒(すさ)ぶこの無情の風よ、風よ。我が残りの人生のあいだに、いくたび今後戦(いくさ)をくり返し、多くの流血を見ることかと思うときに、心は深く傷んだのである。 むしろ許されるならば、もはや一戦も交えることなく、すべての諸国を平定し、そうして大いなる帝国を続けてゆきたいものだと深く願ったのであった。 父のこのような性格を汲(く)んでか、アポロンも次第しだいに心が内向的になってきた。十代になってからというもの、父の軍事的優位、またその軍勢の指揮というものを尻目にして、つねに竪琴(たてごと)とともにあり、つねに笛とともにあるアポロンがあった。アポロンは、こよなく芸術を愛する少年となっていた。姉のアテナが、あれほどまでに勝ち気で男勝(まさ)りであったのと対比されるべく、弟であるアポロンは内気で、やさしく、どこか美少女の面影(おもかげ)をもたたえたような少年になっていった。 2.我が愛、我が哀(かな)しみ このころ、私のまわりを取り巻く重臣たちも、このギリシャの国の将来を憂(うれ)えた。今、各国はゼウスの軍勢のもとに一丸となってまとまっており、平定されてはいるが、そのなかにおいてもひそかに爪を研(と)ぎ、矛を磨いている者たちもいるという噂(うわさ)があった。もし、万一(まんいつ)のことあるならば、これはまた大きな混乱も起きてくるやもしれぬと思われた。 とはいうものの、戦によって平定された場合には、平定されてもし善政が布かれたとしても、またかならずやその殺された者たちの肉親、縁者たちがなんらかの機会というものをうかがうものである。これが宗教家と政治家のいちばんの違いであり、政治家は政敵を葬(ほうむ)り去ったときに、その恨みの念および葬り去られた者の縁者の恨みの念から、なかなか逃れることはできない。 ひとつの天国をつくり出すために、戦場という名の地獄をつくり出したということは、これは消しがたい事実であった。まして、四十代の私の心に忍び寄ってきたものは、たとえ神のための戦であり、正義のための戦であったとはいえ、実の弟であるところのポセイドンを討ち、ハデスを討たねばならなかったということは、深く深く心の傷として残ったのであった。 ポセイドンは、もちろん海の軍勢を中心とし、私が海戦に優れていなかったということを十分に知って、私を助けていたものであったが、いざ自分だけのそのような専門的なる政治というものがあったときに、その権限が野心に変わる。これはいつの時代もそうであって、特定の人にすべてを委(ゆだ)ねた場合には、このようなことが起きる。指導者たる者は、たとえ苦手なものがあるとしても、それを明らかにしてはならない。すべてがやれるようにしておくか、あるいはそのように装(よそお)わねばならぬものである。 また、私をもっとも悲しませたのが、あのハデスの最期であった。私としては、血を分けた兄弟、しかもはるかに若い弟であった。その弟は、霊的な資質にも優(すぐ)れて、もし我に万一のことがあるならば、我が跡を継ぎて、この国を支えてくれるものだと期待をしていた。ところが、我が弟の心の扉が開き、霊的な道ができたということが、これほどまで悲惨な最期になるとは、よもや思わなかった。 私は弟をかわいがってきたつもりであった。愛してきたつもりであった。学問を教え、芸術を教え、武芸を教えてきた。手塩にかけて育ててきたつもりであった。そして、あの難儀なアフリカヘの遠征に関しても、長旅においては人心が離れることがあり、謀反(むほん)を起こすこともよくあるから、肉親のおまえに任すということで、この大いなる行動が、戦ができたものであった。 3.忍び寄る魔 ああ、しかし、天はいたずらに運命を変えてしまうこともあるのか――。もっとも優れた資質を持ったと思われたあのハデスの心に、いつのまにあのような魔が忍び寄ったのであろうか。おそらくは、かのエジプトの地に赴(おもむ)いたときに、さまざまなよからぬ占い師、呪術師(じゅじゅつし)たちと交わったことが、その発端であったのではあるまいかと思える。古来より、ギリシャはひとつの大いなる聖地ではあったが、そのギリシャと対抗すべくエジプトの地にも大きな聖地があった。連綿とし、エジプトの地には大きな聖地があった。 とくに、ハデスがエジプトに赴くほんの二、三百年前のこと、エジプトの地にはクラリオという魂が生まれ、そうして大いなる業績をあげていた。この魂は、ある意味での理想的な政治をめざそうとし、そうして多くの人びとに生きるすべを説いたが、その最期においては、悲惨な最期をとげた。偉大なる霊能者であり、人びとに愛の教えを説いた者であったが、その最期は悲惨なものであった。とくに信者たちに囲まれて、ナイル渓谷のほとりを逃げつたって死んでいったその哀(あわ)れな物語は、遠くギリシャの地にまで響いていた。 しかし、そのクラリオを信奉する生き残りの者たちが、新たな教えの根を張り、つねに反体制的な思想を養っていたのであった。すなわち、もちろんクラリオという偉大な神は、けっして政治そのものを悪しきものとはしなかったであろうが、最期、エジプトの旧体制によって追い詰められ、死んでいったという事実から、それを信奉する者たちは、次第に反権力的様相を示し始めていた。 すなわち、どういうことかというと、すべて人びとを支配せんとする力は、これは悪であると、人びとを抑圧し、支配し、そして君臨する者は悪であると、そういう考え方を持っていた。現代で言うならば、ある意味での左翼的な運動がこれに近いかもしれぬが、権力ある者を、上に立つ者をすべて悪と見る思想が、その裾野(すその)から広がっていた。 ハデスは、この思想の虜(とりこ)となった。クラリオの教えと我が教えは、根本的にそうちがうものではなかった。しかしながら、我は全智全能の神を名乗り、そのような活動を続けたのであったが、クラリオは全智全能のまさに逆のごとき死に方をしたのであった。彼は何も欲しなかった。ただ、民(たみ)の自由を得んとして戦い敗れていった。その愛の教えは、強力な伝染力を持っていたと言ってよい。 我が教えが主として統治というかたちをとり、聖なる支配という考えをとっていたのに対して、このクラリオの流れをくむ一派たちは、愛の平等主義というものをとった。これは、悪くすれば無政府主義、いわゆるアナーキーともいうべき状態になっていくものであった。人の上に人が立つことを許さないという思想であった。これにハデスは影響された。 しかも、このクラリオの教えを正当に継いでいる者からの教えを乞うたならば、かならずしもそうではなかったといえようが、クラリオ死してすでに二、三百年の歳月が流れ、その教えをひく者たちの心に、次第しだいに魔が入り始めていた。こうした者たちに入った魔は、すべて進歩的なるもの、また発展的なるもの、繁栄的なるものを悪と決めつけた。そうして金持ちの家に入っては、その金銀財宝を奪い去り、あるいは身分ある者のところに夜襲をかけては、その妻を凌辱(りょうじょく)するというような暴挙さえまかり通るようなことも起きてきた。 しかし、このクラリオ派の一派たちは、こうしたことはすべて正義だと語っていた。なぜならば、上なる者はかならず悪を犯すものであり、下なる者はつねに正しいから、下なる者の要求は正しい。下なる者はつねに飢え、上なる者はつねに満たされている。したがって、下なる者の渇(かわ)きを満たすということはつねに正義である、という考えがあった。 この考えの悪しきところが、伝染病のごとく蔓延(まんえん)し、身分の低き者、収入の少なき者、あるいは病気の者、その他さまざまな虐(しいた)げられた階級といわれる者たちは、何をしても自分たちは天国に入れるのだ、神のそば近くに還ることができるのだという思想を持つにいたったことであった。 そうして、こうした宗派の教祖のなかに霊的能力を持っていた者もいた。そして、彼らはその霊能力を用いて、さまざまなことを予言した。当てることができたのである。 ハデスは、これに大きな影響を受けた。自分も霊能力を持っていたが、ギリシャの神々だけが神ではないということに気づき、このエジプトの神々の力をも得ようとしたのである。この心がけそのものは、かならずしも悪とは言えぬものがあったが、しかしながらそこに野心が生じたときに、悪の忍び込む余地がある。エジプトの神々の教えを取り入れることによって、我がゼウス軍、ゼウスの政治以上のことができるのかもしれないと思い始めたのだ。しかも、このハデスに取り入った一味は、ハデスをほめあげ、ほめあげ、ほめあげ、あくまでも自分たちの宗派を広げるための後ろ楯(だて)に使おうとしたのであった。 かくして、ハデスはエジプトの地において、彼ら一党を繁栄させるための協力を行ない、さまざまな神殿を建築したりするようになった。 それに対して、我は海路より使者を幾度(いくたび)も送り、そうして「ハデスよ、そのような異郷の神々を信仰してはならない。先祖代々ギリシャに伝わる神々はけっしてそのようなおまえを許しはしないであろう。おまえはいち早く、心を改めてギリシャの神々の仰(おお)せに耳を傾けよ。わが主なるオフェアリス、わが主なるヘルメスは、けっしておまえのことをよくは言っていないようだ。」そのように私は使者を送った、それも数度(たび)。 しかし、ハデスはこれを見て、逆にとっていった。そうしてクラリオ派の長老たちと相談した結果、彼らが言うには、「このゼウスというあなたの兄は、悪魔に支配されている。それが証拠にこの心の狭量(きょうりょう)を見よ。弟が新たな教えに触れ、それを学ぼうとしているのに、それに嫉妬し邪魔をしようとしているではないか。自分は全ギリシャを支配し、そして妻を欲しいままにし、また金銀財宝を欲しいままにし、名誉と地位と金銭を、一挙に手に入れておりながら、弟の自由なこのような行動をも嫉妬するとは、神々の上(かみ)にもおけぬ方。これは、きっとその驕(おご)る心が魔を呼び込んだにちがいない。ハデス殿、もはやギリシャは神聖のギリシャではない。あなたこそ、ギリシャを統一される方だ。兵を挙げなさい。兵を挙げて、この悪魔の手先となった兄を討たねばならない。そうしてギリシャの地にも偉大なるクラリオ様のお教えを広めるべきです。」このように進言した者が数多くいた。 4.ハデスの妻、メドゥーサ ハデスは、しかし、多少のためらいもあった。けれども、ハデスを最後に窮地(きゅうち)に陥れたのは、このエジプトの地において娶(めと)った妻であった。すなわちエジプト人の妻であった。この妻は、じつはメドゥーサという名前で呼ばれている。おまえたちはメドゥーサといえば頭に蛇が幾重にも巻きついている魔女のように思っているであろう。そして、そのメドゥーサの顔を見たならば、すべてのものが石になる、化石になるという恐ろしい伝説だ。そのメドゥーサ退治もおまえたちは耳にしていることであろう。このメドゥーサは、実はハデスの妻であったのだ。 しかし、現実にそのような化け物がいたわけではない。エジプトのそれは身分ある者の娘であったが、このメドゥーサの特徴は嫉妬心が強かったということ。そして、伝説にあるとおり、毒蛇をこよなく愛し、いつも身のまわりに飼ってはいた。飼い慣らした毒蛇を数匹特っていて、体にいつも巻きつけていた。頭の上に、肩の上に、腕の上に毒蛇がいて、いつも自分のまわりに巻きつけて、これによって人を威嚇(いかく)したりしていた。まあ、いねば蛇使いの女であったと思っていいこれがメドゥーサ伝説の起源だ。 このメドゥーサは、嫉妬心の強い女性であるということは、ささほど語ったとおりであるが、また野心の強い女でもあった。女性のなかでもとくに名誉心の強い者、嫉妬心の強い者はままいるか、このメドゥーサは、こともあろうに我が妻ヘラに戦いを挑んだのであった。ギリシャにある、あの名にし負(お)うヘラに対抗せんとしたのであった。 ヘラには霊能力があるらしい。いわば一種の女教祖であるらしいが、この私が面と向かったならば、彼女の霊能力など風の前の蝋燭(ろうそく)の灯(ともしび)にしかすぎないと、つねづね豪語していた。 「ハデス様、ぜひそのヘラとかいう女の鼻をへし折り、わが前にひざまずかせとうございます。そうして、この私の愛する蛇の一匹で噛(か)ませとうございます、その高い鼻を。」と常づね言っていたのであった。こうした妻を娶(めと)ったが最後である。 我もまた、「そうした妻をもらうな。」とまでは言えなかった。遠隔の地において、身分ある者の娘をもらうというのであるから、これは許可せぬわけにはいかなかったが、これがまちがいの始まりであった。歴史の裏側には、歴史の転回する裏側にはつねに女がおり、この女は、よき女がいることもごくまれにはあるが九十数パーセントは、悪女によって歴史は手玉にとられてきたと言ってもよい。そのようなところに魔が忍び込み、そうして偉大なる者を狂わせて、歴史を転回させることはよくあった。 ハデスはこの妻の意見には従順であった。なぜならば、その悪しき心に反して、そのメドゥーサの体は、じつに女性らしく優雅で、ギリシャの女性にはないような官能を秘めていた。それは、西洋人が今日(こんにち)でも東洋人に対する神秘的な感覚を持っているように、ギリシャの人間から見れば、そのエジプト的なる深い深い雰囲気は、一度心が虜(とりこ)になると、もはやそこから抜けがたいものとなるのであった。ハデスはこの官能の魅力にとらわれて抜け出すことができなくなった。 5.悲劇の終焉(しゅうえん) こうして、彼は兵を起こすこととなったのだ。ハデス軍は兵をあげることとしたが、そして中立を保っていた弟、中の弟であるポセイドンもやがてたきつけるにいたった。そうして、ハデス、ポセイドンの両軍が、ハデスは陸地を中心としてトルコ側から、アラビアの側からギリシャヘと攻め上ってき、ポセイドンは海から海軍を率いて我を攻めんというありさまであった。このとき、ポセイドンには、まえにも語ったように、海神、竜神というような、まあ言ってみれば正規の神ではないものが援護していたのである。 こうしたハデス軍、ポセイドン軍との戦いは、実はそう短期間に終わったのではなく、我が三千代の後半から四年、五年、六年という長きにわたって続いていったのである。そうして、我がハデスを滅ぼしたのが、ちょうど四十歳のころであったと思われる。そしてポセイドンの軍を破ったのが、四十二歳のころであったと思う。 ハデスは陸戦において最後、敗るることとなった。ハデス軍につきたる霊能者たちの、さまざまな予言があり、彼らは融通無碍(ゆうずうむげ)な神出鬼没(しんしゅつきぼつ)の戦術でもって、我が軍を攻めてきたが、これに対してオリンポスの神々は深く悲しみ、怒りたもうた。そうして、ヘルメス、オフェアリスの両神の力を中心として、この魔界の者たちを、一挙に追い落とすことに成功した。それは彼らが考えていなかった戦略によって彼らを滅ぼしたのである。この滅ぼし方は、実は意外なかたちであった。 それは、戦いにおいて敗れたのではない。遠いエジプトから遠征してきた彼らは、食糧に不足し、また異国の風土になじみかねて、次第に弱ってきた。そのときに、不思議なことが起きた。まあ、一種の食あたりといってもよいが、ギリシャの酸味の強い、油の多い食物を食べるにあたって、彼らは次つぎと胃腸を害するようになった。そして、暑い夏の陽を浴びて、熱射病にかかって倒れる者も出た。 ところが不思議なことに、それらの病は個人個人のものであるが、それがまさしく流行病(はやりやまい)のごとく、次から次へと伝染するのであった。パタパタパタパタと体の不調を訴えて倒れる者が相次いできたのである。その数、数百。そうしてハデス軍はひじょうに弱り、退却を開始しようとし始めたときに、ゼウス正規軍が背後から襲って、彼らを降服せしめるにいたったのである。 ポセイドン軍の敗れ方は、またこれは芸術的なる、また華麗なる、美しき最期であった。 彼らは海戦を得意としていたが、しかし彼らはつねに風向きがどのような風向きになるかということを計算していたのであるが、我が海軍を追いつめて、そうしてまさにギリシャに乗り込もうとしていたころに、不思議なことに季節風の向きが変わった。そうして、帆船でもって攻め込もうとした彼らのところに強力な逆風が吹きつけ始めた。そうして船は、次つぎと右旋回し、左旋回し、たがいにぶつかり合うというようなことが生じた。 このときに、我は命じた。 「小さな船でよい、小さな船を出し、火矢を射かけよ。」そのように命じた。 私の命ずるごとく夜陰に乗じて小さな船がいくつか出され、そうしてたがいにぶつかり合わんばかりになっているポセイドン軍の、この帆船の帆に向けて火矢を放ったのである。メラメラと一隻(せき)の帆船が燃え上がるや、その炎は海を染めた。夜の海を染め、次から次へと他の帆船をも燃やし始めた。こうして、思わぬ奇襲攻撃とまた季節風がその向きを変えるというアクシデントによって、このポセイドン軍はたいへんな損害を被(こうむ)った。 これではならじということで、とりあえずは現在のスペインの側に逃れんとして彼らは行ったのであるが、我がゼウス軍は、これを海路と陸路の両方より攻め追い続けた。このポセイドン軍は、いったんその勢力をまとめて、スペインにあたる半島に上り、そこで兵を休めんとしたが、そこの国の領主たちが彼らを歓迎するかに見せて、実は心はギリシャの神への深い信仰心に染まっていた。それゆえに、このポセイドン軍たちは、味方と思った者の裏切りによって、その陸からもまた追い放たれることになる。 こうして、やがてその間に我が海軍と陸軍が追いつき、その海辺においてポセイドン軍を壊滅させるにいたった。あわれ我が弟ポセイドンは、その首を取られ、マストの上に突き刺されるというあわれな最期を迎えることになった。 6.英雄の最期 このようにして、いちおう我がギリシャ軍は全世界を支配したことになったのであったが、この間、我が心のなかに忍び寄りたる憂愁は、その影を消すことができなかった。ゆえに、四十二歳を越えてよりのち、我は鬱々(うつうつ)たる生涯を送るようになった。まるで、我が心を象徴するように、あのアポロンが時に竪琴を弾き、夜中に我が心を悲しまさせた。その竪琴の音(ね)は、まるでポセイドンの涙を、ハデスの涙を語っているようであった。 そうして、我は、こうした戦に疲れたので、「今後戦(いくさ)はせぬ。」ということを宣言したのであった。今後すくなくとも十年間は、けっして戦は起こすまい。すくなくとも我が側からは起こすまい。人びとよ、平和を愛せ。神を愛せ。そうして我が教えのなかにも、単に正義のみならず、愛というものを取りいれることとした。他の者をも愛せ、親切を施せ、よきものを人に与えよという教えを説いた。 しかし、平和というものは、実に恐ろしいものをともなっているものだ。平和の代償は大きい。すべて善意に解釈するならば、軍備なくとも平和は維持することができると思うであろうが、その軍備を弱くしたということが、もうひとつのサタンをめざめさせることになった。それは、それは恐ろしいことであった。 我は、その当時、妻であるヘラが重い病にかかって、そうして動けなくなっていたので、その看病をも兼ねて見舞っていたのであったが、そのときマケドニアの方向から内乱が起きたという知らせがあった。時、我が四十七歳になりなんとするころであったと思う。すでに五年近い歳月が流れた。五年間、血を流すことなく、この全ギリシャを統一してきた私であった。さあ、兵を起こすべきかどうであるか、迷いに迷った。 我は、ヘルメス神(がみ)に祈った。ヘラもこのように死の床についている。そして、けっしてもはや戦火を見まいと誓った我に向けて、兵を進める者がある。ヘルメス神よ、この戦、我が最期となるのか。しかし、我が最期となった場合に、残されたこの国は、だれがどのように継いでいくのか。 アポロンはまだ十代の後半であり、二十にもならぬうら若い美少年であり、アテナも二十代前半の女性である。アテナが猛将の異名をもらっているとしても、しょせん女性は女性。いつまでも戦に勝ち続けることはできぬであろう。さあ、ヘルメス神よどうしたものかと、我は祈った。 ヘルメス神がそのときに、我が前に立ち現われて述べた言葉は、「ゼウスよ、最期の時は近づいてきた。おまえの人生はすばらしい偉業に満ちたものであった。そのおまえの最期はおそらく英雄にふさわしい最期となるであろう。後のことは思いわずらってはならない。後のことは、後の人びとが後の時代を思いわずらえばよいのだ。おまえは、おまえの時代を生き切り、駆け抜け、そして燃え尽きればよいのだ。ゼウスよ、もはやおまえの命はそう長くはない。我はこれ以上のことは言わぬ。」 「しかし、おまえも武人であるならば、潔く最期の時を迎えよ。単に攻められるのではなく、おまえもその戦のなかにおいて、この天寿をまっとうせよ。それが全智全能であったおまえの、地上における最期の姿ではないのか。」 そう、ヘルメスは語った。 我は、自分の最期が近いことを知った。マケドニアの軍は思いのほか強かった。しかし、軍力そのものをもってすれば、我がギリシャ正規軍に勝てるはずはなかったが、けれども五年間、平和を愛好した民たち、平和を好んだ兵士たちは、その動きは鈍く、また戦闘意欲は弱くなっていた。我はふたたび彼らに戦闘意欲をかきたてる気力も十分になかったともいえよう。 こうして、マケドニア軍の挑みに対して、我がほうは単に防戦一方という立場になった。そうして、ああこれがヘルメス神の予言であったのだろうか。勢力において圧倒的に勝(まさ)っていたわがほうであったのに、なんとしたことであろう。我が不注意のうちに、野営をしていたときに流れてきた敵の矢が、その流れ矢が、我が脇腹を貫いた。これが因(もと)で、我は深い痛手を負った。そうして、いったん退くこととなった。宮殿に退いた。 そして、治療をしていたのだが、いかんせん我が病(やまい)一向によくならず、やがて戦線は次第に泥沼化していったが、その最後を見ることなく、我は地上を去らねばならぬこととなった。 もちろん、この顛末(てんまつ)を語っておかねばならぬが、我が倒れしのちは、我が長女アテナが獅子奮迅(ししふんじん)の働きをしたことは言うまでもない。 アテナが、現代でもギリシャの守り神と言われているが、わずか二十三、四であったアテナは、このとき全軍の司令官となって、そしてギリシャ全軍をまとめて「父をこのような目にあわせた、このマケドニア軍は相許すわけにはいかん。最後の一兵まで打ち砕け。」と、怒号をとばし、そうして蹴散らした、潰走(かいそう)させた。そうして、ギリシャの国を守ったのであった。 しかし、そうしたアテナの奮戦も空しく、やがて我は病の床につき、そうして死を迎えるにいたった。 ゼウス、享年(きょうねん)四十七歳であった。
https://w.atwiki.jp/xenoblade/pages/175.html
商業Lv1 商業Lv2 商業Lv3 商業Lv3、住宅Lv3 商業Lv4 商業Lv4、住宅Lv4、ジェリコン移住 商業Lv5 ショップ1 ショップ2 商業Lv5、住宅Lv5 商業Lv1 イグーナ族の皮製品:2 アンブリゴタートル:2 お金:10000 ※ホムス6am ~ 6pm(昼) 種別 対象 名前 効果 価格 備考 武器 ライン デュエルガ-ダー - 5800 - カルナ カームショット - 6500 - クロムスナイプ - 7200 - 防具 頭 中 クォークギア - 2950 - レガードギア - 3150 - 胴 中 クォークアーマー - 5800 - レガードアーマー - 5850 - 腕 中 クォークガード - 2350 - レガードガード - 2500 - 腰 中 クォークレギンス - 4700 - レガードレギンス - 4800 - 脚 中 クォークブーツ - 3500 - レガードブーツ - 3620 - アーツ書 シュルク スリットエッジ - 3200 - バックスラッシュ - 4000 - ライトヒール - 4800 - ライン ボーンアッパー - 2400 - ハンマービート - 3200 - ワイルドダウン - 3600 - レイジ - 4800 - ガードシフト - 6400 - シールドバッシュ - 11800 - 商業Lv2 フーディの平面木材:3 レディコイル:2 お金:22000 ※ホムス6am ~ 6pm(昼) 種別 対象 名前 効果 価格 備考 武器 ライン ルテナンパイク - 7300 - カルナ サーチスナイプ - 7600 - ダンバン 下弦の護刀 - 8200 - 防具 頭 中 グラントギア - 3280 - スウェップギア - 3400 - 重 ウォーリアヘルム - 9000 - 胴 中 グラントアーマー - 6250 - スウェップアーマー - 6750 - 重 ウォーリアプレート - 12500 - 腕 中 グラントガード - 2650 - スウェップガード - 2700 - 重 ウォーリアアーム - 7500 - 腰 中 グラントレギンス - 5000 - スウェップレギンス - 5400 - 重 ウォーリアクィス - 10000 - 脚 中 グラントブーツ - 3780 - スウェップブーツ - 4000 - 重 ウォーリアグリーヴ - 8500 - アーツ書 カルナ ヒールカウンター - 12900 - ダンバン 疾風刃 - 5400 - 雷刃砲脚 - 5700 - 天下無双 - 6400 - 天地剣 - 7200 - 戦眼 - 8200 - 鉄功弾 - 9000 - 神威息吹 - 10000 - 桜花絢爛 - 10400 - 明鏡止水 - 11500 - 風刃旋脚 - 11800 - 商業Lv3 スピカル族の鍛え皮:3 スピカル族の鍛え石;2 ミズテントウ:2 お金:55000 ※ノポン6pm ~ 6am(夜) 種別 対象 名前 効果 価格 備考 武器 ライン ノザンパイク - 10000 - マーブルバンカー - 11500 - カルナ ウインドショット - 12000 - フォレストスナイプ s1 16200 - ダンバン 花冷えの太刀 - 12500 - メリア レイニースタッフ - 9000 - ファイブスターロッド - 9800 - リキ 闘士のカムカム - 8700 - 蛇骨のカムカム - 11000 - 防具 頭 軽 クールジェル 炎熱防御10% 9000 - 中 ノポルギア - 6400 - 重 ガーディスヘルム - 11200 - 胴 軽 クールオイル 炎熱防御10% 19500 - 中 ノポルアーマー - 11500 - 重 ガーディスブレスト - 21000 - 腕 軽 クールクリーム 炎熱防御10% 8130 - 中 ノポルガード - 5100 - 重 ガーディスアーム - 8250 - 腰 軽 クールパンツ 炎熱防御10% 16280 - 中 ノポルレギンス - 9350 - 重 ガーディスクィス - 16500 - 脚 軽 クールサンダル 炎熱防御10% 12300 - 中 ノポルブーツ - 7650 - 重 ガーディスグリーヴ - 12500 - アーツ書 ライン アンカーチェイン - 14700 - ダンバン 天雷 - 12400 - メリア ヒールギフト - 12200 - マインドブラスト - 15600 - リキ グルグルだも - 12200 - ヤッチャウも - 13300 - 商業Lv3、住宅Lv3 ※ホムス6am ~ 6pm(昼) 種別 対象 名前 効果 価格 備考 武器 ライン セイクレドバンカー s1 12600 - カルナ エトワールスナイプ s1 13920 - ダンバン 朧月の護刀 s1 13200 - メリア アシッドスタッフ s1 13800 - リキ 爆発のバクバク s1 14040 - 防具 頭 軽 クールジェル 炎熱防御10% 9000 - 中 ノポルギア - 6400 - 重 ガーディスヘルム - 11200 - グラディヘルム - 13800 - 胴 軽 クールオイル 炎熱防御10% 19500 - 中 ノポルアーマー - 11500 - 重 ガーディスブレスト - 21000 - グラディブレスト - 25600 - 腕 軽 クールクリーム 炎熱防御10% 8130 - 中 ノポルガード - 5100 - 重 ガーディスアーム - 8250 - グラディアーム - 11200 - 腰 軽 クールパンツ 炎熱防御10% 16280 - 中 ノポルレギンス - 9350 - 重 ガーディスクィス - 16500 - グラディクィス - 21200 - 脚 軽 クールサンダル 炎熱防御10% 12300 - 中 ノポルブーツ - 7650 - 重 ガーディスグリーヴ - 12500 - グラディグリーヴ - 16000 - アーツ書 ライン アンカーチェイン - 14700 - ラリアット - 15400 - ダンバン 天雷 - 12400 - 千刃天翔 - 13700 - メリア ヒールギフト - 12200 - リフレクション - 13700 - マインドブラスト - 15600 - リキ グルグルだも - 12200 - ヤッチャウも - 13300 - 商業Lv4 サモンの高級魚粉:5 アントルの白銀糸:8 シブコールラビ:3 モスプレート:2 お金:100000 ※ハイエンター6am ~ 6pm(昼) 種別 対象 名前 効果 価格 備考 武器 ライン ブラッディバンカー s1 19440 - カルナ ストームショット - 14500 - スピリットライフル s1 19200 - ダンバン 十六夜の護刀 - 14800 - 闇夜の鎌 s2 19880 - メリア クラウドスタッフ - 13400 - スカイロッド s1 18240 - リキ 篭城のツクツク - 14300 - 一撃のカムカム s2 19600 - 防具 頭 中 ミスリルギア - 8800 - リーグギア - 10000 - 重 強化型ギア - 17500 - 胴 軽 ジェイルトップス s1 15300 - 中 ミスリルアーマー - 17500 - 重 強化型アーマー - 34800 - 腕 中 ミスリルガード - 7000 - リーグガード - 8950 - 重 強化型ガード - 14000 - 腰 軽 ジェイルボトムズ s1 12300 - 中 ミスリルレギンス - 14000 - 重 強化型レギンス - 27800 - 脚 中 ミスリルブーツ - 9700 - リーグブーツ - 13500 - 重 強化型ブーツ - 21000 - アーツ書 カルナ ヘッドスナイプ - 14700 - キュアラウンド - 15600 - ダンバン 九死一殺 - 14700 - メリア サモン・アース - 15000 - リキ モエモエだも - 13700 - オコッタも - 14700 - 商業Lv4、住宅Lv4、ジェリコン移住 ※ハイエンター6pm ~ 6am(夜) 種別 対象 名前 効果 価格 備考 武器 ライン 光盾剣エルフィダ 転倒時間プラス20% 27000 - カルナ デザスタキャノン s1 21120 - ロックワインダー ヒートシンク20%エーテルアップ15 42700 - ダンバン 山塊の槍 s2 21420 - エンディミオン 気絶時間プラス20% 27600 - メリア 獄吏の杖 技ヘイト低下15% 21600 - 木漏れ日の杖 s2 24500 - リキ クリスロック 毒強化25% 24600 - 防具 頭 軽 ブレイブキャップ s1 12000 - 中 ミスリルギア - 8800 - リーグギア - 10000 - アメシストギア - 12000 - 重 強化型ギア - 17500 - 胴 中 ミスリルアーマー - 17500 - アメシストアーマー - 24000 - ステラアーマー - 25700 - 重 強化型アーマー - 34800 - 腕 軽 ブレイブグローブ s1 9240 - 中 ミスリルガード - 7000 - リーグガード - 8950 - アメシストガード - 9600 - 重 強化型ガード - 14000 - 腰 中 ミスリルレギンス - 14000 - アメシストレギンス - 19200 - ステラレギンス - 21000 - 重 強化型レギンス - 27800 - 脚 軽 ブレイブシューズ s1 13920 - 中 ミスリルブーツ - 9700 - リーグブーツ - 13500 - アメシストブーツ - 14400 - 重 強化型ブーツ - 21000 - アーツ書 カルナ ドライブブースト - 16800 - ダンバン 背水影技 - 14800 - 鬼斬刃 - 17300 - メリア スピアブレイク - 9000 - サモン・アイス - 15100 - パワーエフェクト - 16000 - リキ クイアラタメも - 15400 - ココだも - 15600 - 商業Lv5 海王の長寿蒲焼:1 サーディの三世紀トロ:4 アートコアコイル:2 幸福の羽:1 ゼッペキホタル:4 お金:250000 ショップ1 ※マシーナ6am ~ 6pm(昼) 種別 対象 名前 効果 価格 備考 武器 ライン ナックルバンカー s2 28000 - カルナ デルタライフル s2 26460 - ハリケーンショット s1 26760 - ダンバン 雪隠れの太刀 s1 25200 - 白雲刀 s2 27300 - メリア ワイズロッド s1 23640 - 快晴の杖 s2 26460 - リキ 覇道のバクバク s2 24780 - フィオルン カルマブレード s1 33600 - 防具 頭 軽 ブレイブキャップ s1 12000 - 中 ジェミニギア - 19500 - 回収七号ギア - 22500 - 機界 Hエーテルゴーグル s1 18480 - Hスピードゴーグル s1 23640 - Hアタックゴーグル s1 34680 - 胴 中 ステラアーマー - 25700 - ジェミニアーマー - 38000 - 回収七号アーマー - 42800 - 機界 Hエーテルフレーム s1 33240 - Hスピードフレーム s1 38400 - Hアタックフレーム s1 49440 - 腕 軽 ブレイブグローブ s1 9240 - 中 ジェミニガード - 15000 - 回収七号ガード - 18200 - 機界 Hエーテルギミック s1 11040 - Hスピードギミック s1 16200 - Hアタックギミック s1 27360 - 腰 中 ステラレギンス - 21000 - ジェミニレギンス - 31200 - 回収七号レギンス - 37300 - 機界 Hエーテルブースタ s1 25800 - Hスピードブースタ s1 30960 - Hアタックブースタ s1 42120 - 脚 軽 ブレイブシューズ s1 13920 - 中 ジェミニブーツ - 23500 - 回収七号ブーツ - 27700 - 機界 サクラフラップ ガンフラップⅡ 28300 - 千機剣フラップ ソードフラップⅡ 28300 - アスタルテフラップ キャノンフラップⅡ 28900 - アーツ書 フィオルン ダブルブレード - 14000 - スピアブレード - 14400 - エーテルドレイン - 14700 - グラビティーゼロ - 15100 - ヒールバリア - 15300 - クロスインパクト - 15600 - セカンドギア - 17000 - バグストーム - 18200 - ロックオン - 18400 - ショップ2 ※マシーナ3am ~ 6am(夜) 種別 対象 名前 効果 価格 備考 武器 ライン ギガントガーダー s1 47280 - カルナ イグニスライフル s2 52500 - ダンバン 銀世界の太刀 s2 53200 - メリア コメットロッド s2 47600 - リキ 不落城のツクツク s2 51100 - フィオルン 準双剣 s2 53200 - 防具 頭 中 ランスロットギア - 33000 - 重 レックスヘルム - 35200 - レディオスヘルム - 92500 - 機界 Zアタックゴーグル s1 34560 - Zスピードゴーグル s1 44280 - Zパワーゴーグル s1 56160 - 胴 中 ランスロットアーマー - 58800 - 重 レックスブレスト - 70000 - 機界 Zアタックフレーム s1 56160 - Zスピードフレーム s1 65880 - Zパワーフレーム s1 73440 - 腕 中 ランスロットガード - 26000 - 重 レックスアーム - 28300 - レディオスアーム - 77000 - 機界 Zアタックギミック s1 23760 - Zスピードギミック s1 33480 - Zパワーギミック s1 45360 - 腰 中 ランスロットレギンス - 47000 - 重 レックスクィス - 56400 - 機界 Zアタックブースタ s1 45360 - Zスピードブースタ s1 55080 - Zパワーブースタ s1 66960 - 脚 中 ランスロットブーツ - 39900 - 重 レックスグリーヴ - 42000 - レディオスグリーヴ - 115000 - 機界 セグメントフラップ ソードフラップⅡ 45000 - ローディフラップ キャノンフラップⅡ 54900 - アーツ書 フィオルン ファイナルクロス - 24000 - 商業Lv5、住宅Lv5 ※ノポン6am ~ 6pm(昼) 種別 対象 名前 効果 価格 備考 武器 ライン マキシマムバンカー s2 51520 - カルナ カタストロスナイプ s2 51100 - ダンバン 花鳥風月の護刀 s2 47320 - メリア ダスクスタッフ s2 43680 - リキ 大爆発のバクバク s3 54720 - フィオルン グレイスブレード s2 45500 - オルカダガー s2 54600 - 防具 頭 軽 ブレイブキャップ s1 12000 - ロンディネキャップ s1 19500 - 中 ジェミニギア - 19500 - 回収七号ギア - 22500 - 機界 スピードⅣゴーグル ヘイトダウン22% 41280 - エーテルⅣゴーグル 全デバフ抵抗75% 42480 - アタックⅣゴーグル アーツヒール75 44760 - パワーⅣゴーグル ヘイトアップ25% 50640 - 胴 軽 ロンディネトップス s1 42600 - 中 ステラアーマー - 25700 - ジェミニアーマー - 38000 - 回収七号アーマー - 42800 - 機界 スピードⅣフレーム ヘイスト45% 64800 - エーテルⅣフレーム 攻撃力強化44% 66000 - アタックⅣフレーム 攻撃力安定44% 68400 - パワーⅣフレーム ダメージヒール30%-150 69600 - 腕 軽 ブレイブグローブ s1 9240 - ロンディネグローヴ s1 15600 - 中 ジェミニガード - 15000 - 回収七号ガード - 18200 - 機界 スピードⅣギミック 素早さアップ40 53040 - エーテルⅣギミック エーテルアップ75 54240 - アタックⅣギミック 筋力アップ75 56640 - パワーⅣギミック 吹き飛び抵抗75% 62520 - 腰 軽 ロンディネボトムズ s1 33600 - 中 ステラレギンス - 21000 - ジェミニレギンス - 31200 - 回収七号レギンス - 37300 - 機界 スピードⅣブースタ 素早さアップ40 25500 - エーテルⅣブースタ エーテルアップ75 27000 - アタックⅣブースタ 筋力アップ75 28800 - パワーⅣブースタ 転倒抵抗75% 29700 - 脚 軽 ブレイブシューズ s1 13920 - ロンディネシューズ s1 23400 - 中 ジェミニブーツ - 23500 - 回収七号ブーツ - 27700 - 機界 アルディフラップ シールドフラップⅡ 60900 - ミスラフラップ シールドフラップⅠ 62900 - オーディフラップ ガンフラップⅡ 65800 - アーツ書 フィオルン エアファング - 15000 - ダブルウィンド - 16200 - シャットダウン - 19000 - スピードシフト - 19200 - ガードシフト - 19600 - パワードレイン - 20700 -
https://w.atwiki.jp/souku/pages/2761.html
《遅延》《公開済》SSP001581 シナリオガイド 公式掲示板 美しい都・アガデをよみがえらせよう! ついでにドジっ子も助けようか! 担当マスター 寺岡 志乃 主たる舞台 カナン ジャンル 冒険 募集スケジュール 参加者募集開始日 参加者募集締切日 アクション締切日 2012-01-20 2012-01-22 2012-01-26 リアクション公開予定日 募集時公開予定日 アクション締切後 リアクション公開日 2012-02-07 2012-02-13 2012-02-18 サンプルアクション (シナリオ参加者の方にお願い、サンプルアクションの具体的な内容を補完していただけないでしょうか)(サンプルアクション名の下の四角をクリックするとでてくる「部分編集」をクリックすると登録できます)(もしくはサンプルアクション登録用掲示板へお願いします。) 復興の手伝いをする + ... [部分編集] ▼プレイヤーの意図 ▼キャラクターの目的 ▼キャラクターの動機 ▼キャラクターの手段 人々のケアをする + ... [部分編集] ▼プレイヤーの意図 ▼キャラクターの目的 ▼キャラクターの動機 ▼キャラクターの手段 ミフラグの補助をする + ... [部分編集] ▼プレイヤーの意図 ▼キャラクターの目的 ▼キャラクターの動機 ▼キャラクターの手段 バァルと話す + ... [部分編集] ▼プレイヤーの意図 ▼キャラクターの目的 ▼キャラクターの動機 ▼キャラクターの手段 その他補足等 [部分編集] 【タグ:SSP カナン 冒険 寺岡 志乃 遅延公開済】
https://w.atwiki.jp/koboh/pages/85.html
カトリが生まれて間もない頃から始まったサリア内乱。国王への一方的な恨みから始まった、この戦いは無力の民を巻き込 み、戦争の様相を見せてきている。クラニオン暴走からまだ立ち直っていない国土は荒れ始め、心有るものは義勇兵を募り、魔物に備えるが、それもごく一部で あった。今、サリアは危機にある。だがまだ天はサリアを見捨てた訳ではなかった。1人の青年がこの血みどろの争いに決着を付けるべく立ち上がった。その名 はホームズ。
https://w.atwiki.jp/tosiyatosiya/pages/323.html
3.11大震災で自粛モードに覆われるなか、少しでも世界経済を動かそうと台湾旅行を敢行。果たしてどれほど世界経済を回したのやら? [台湾旅行記|台北/蘇澳(スーアオ)|平溪(ピンシー)|十分(スーフェン)|九份(チョウフェン)] 台 湾 に つ い て 調 べ て み る。 台 湾 台 湾 に つ い て 調 べ て み る。 【世界経済を回せ!―復興祈念? 台湾の旅】 =目次= ||台湾|台北|蘇澳|平溪|十分|九份|の旅行記|| 3.11大震災で自粛モードに覆われるなか、少しでも世界経済を動かそうと台湾旅行を敢行。果たしてどれほど世界経済を回したのやら? 第1話)旅のミッション に進む(台湾・台北) 第2話)代客料理ってナンだ? に進む(台湾・蘇澳(スーアオ) / 南方澳(ナンファンアオ)) 第3話)冷たい温泉 に進む(台湾・蘇澳(スーアオ)) 第4話)鉱夫になろう に進む(台湾・瑞芳(ルイファン) / 十分(スーフェン)) 第5話)空飛ぶランタンを眺めつつ に進む(台湾・瑞芳(ルイファン) / 十分(スーフェン) / 菁桐(チントン)) 第6話)演歌の流れる博物館 に進む(台湾・金瓜石(チンクワスー) / 九份(チョウフェン)) 第7話)B級グルメパラダイス に進む(台湾・台北、他) ルートマップ 台北 十分(スーフェン) 瑞芳(ルイファン) 九份(チョウフェン) 蘇澳(スーアオ) 大きな地図で見る 旅行時期:2011年4-5月 html2 plugin Error このプラグインで利用できない命令または文字列が入っています。 なんちゃって世界旅行-海外旅行記 なんちゃって世界旅行ブログ-新着情報&雑談
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/135.html
目次 1.天上界から地上の皆様へのごあいさつ 2.近代日本に新たな精神原理というものを打ち立てるべく、私は出た 3.私の過去世は預言者エレミヤ 4.エホバの神の実体は、複数の高級諸霊であった 5.私は、二つの「J」のために一生を捧げた 6.明治の日本に必要だった精神原理は、愛の教えであった 7.明治以降の日本は、平等と公平の二つの価値概念を中心に発達してきた 8.イエスの生涯は、旧約聖書のなかに預言されたとおりであった 9.真の救世主が出るときは、それ以前から大きな胎動が起きている 10.現代のこの一大救世運動は、釈迦によって預言されていた 11.イエスの生涯は、神の伝道の芸術であった 12.イエスのわずか三年間の伝道のなかに、人びとは、二千年普遍の神理を見た 13.私の人生も、キリストと同じく、「我はそれなり」であった (一九八六年十二月八日の雲示) 1.天上界から地上の皆様へのごあいさつ 内村鑑三です。今、現代の日本で、大川隆法を通じて、さまざまな聖霊たちが、地上の人びとヘメッセージを送り続けているということを知りました。私も、この日本の地で、キリスト教の復興のために一生を捧げた身でありますから、こうした機会を通じて、現代の日本の皆様に、そしてまた、現代のキリスト教徒たちに、心の教えを語ることができる機会を与えられましたことを心から感謝したいと思います。 私の感謝は、現在生きていらっしゃる皆様に対してだけではなく、私にこのような機会をくださった天にまします我が主イエス・キリストに対する感謝でもあります。そこで、キリストの御光のなかにおいて、これから私は、地上の皆様に、私に可能な範囲で、私が体験したこと、私が考えたこと、またクリスチャンたちにとくに訴えたいことなどを、今日から八日間にわたってお話をしていきたいと思います。 あの世の私たちが考えていることを、このような形で地上の皆様に公表できるという機会は、おそらく二千年に一回あるかないかでしょう。こうした機会に際会(さいかい)できたことは、私にとっても嬉しいことであり、このような形で、肉体なき私が皆様に言葉を伝えられるということは、これにまさる感激はありません。また、地上の皆様も、これから現前に繰り広げられてゆくこの奇蹟に対して、おおいなる敬意を払うべきであろうと思います。 私たちのように宗教家は、この地上を去っても、まだいろいろと悔いることがとくに多いと言えます。ああしたら、人びとを教え導くことができたのではないか。こういうふうにしたら、もっと多くの人たちを救うことができたのではないか。こういう思いというものが、いつになっても絶えません。それは、近代に出た私だけではなく、数百年前、あるいは数千年前に地上を去った方がたにとっても、同じことが言えます。つまり宗教家にとっては、できるだけ多くの病める魂たちを救うということが使命ですので、ここまでやればよいという限界がないからです。 そういう意味において、私が地上においてやリ残したこと、また、私の教えにおいて修正されるべきこと、こうした点について、皆様の前にそれを開示し、今、ご説明できるという機会を持てたことをほんとうに嬉しく思っております。 2.近代日本に新たな精神原理というものを打ち立てるべく、私は出た 今日は第一日目ですが、第1章として、「キリスト教と日本」という大きな題を選んでみました。このことに関して、四十五分ほどお話をしていきたいと思います。その間(かん)、退屈される方もいらっしゃるかもしれませんが、ご寛容にお聞き下さるようお願いいたします。 さて、私は、明治という時代に日本に生を受けて、明治、大正、そして、昭和のはじめという三つの時代にわたり活動する機会を与えられたわけであります。 明治という時代は、非常な動乱期でありました。徳川幕府という三百年近く続いてきた体制が崩れて、新たな時代がはじまる移り変わりのときであったわけです。古い価値観が崩れ、新しい価値の体系が出てくる。そういう時代のなかで、人びとは、大きな期待を抱いておりました。イエス・キリスト誕生のときのようなメシヤ降臨の期待とはもちろん別個のものでありますが、新たな時代がこれから開けてくるという期待、自分たちの力によって、新たな時代をつくっていくことができるという期待、そうしたもろもろの期待が、人びとの間に渦巻いておったのであります。 私は、そうした時代を選んで、この日本に生まれました。そして、私の一生のほとんどは、皆様ご存知のように、クリスチャンとして、生きたわけであります。これについては、また後ほど、詳しくお話する予定です。 明治の頃の日本というのを見てみると、維新の志士が活躍して、新たなる政治体制の確立ということに重点が置かれた。また、自由主義経済の萌芽のようなものが現われてきた。わが国に憲法が発布され、内閣制度がスタート。そして、天皇陛下の名のもとに、新たな国づくりというものが生まれてきた。そうした時代だったと言えます。 天皇陛下というものを象徴として担(かつ)ぎ、旧幕府体制、これに代わるものとして置いたのは、それはそれでよいでしょう。しかし、日本人というのは、何かと精神的な支柱というものをほしがるものだということを、私はつくづくと感じました。この点について、もう少し詳しく説明しましょう。 日本人は、昔の忠君愛国の精神で生きてきたわけです。つまり、封建時代の滅私奉公にはじまり、お家大事(だいじ)、藩に仕え、藩主は、徳川幕府、徳川将軍家に仕えるという形での忠君愛国ですが、これはまあ儒教でしょうね、とにかく、儒教の影響を非常に受けたと言えます。しかし、時代が変わり明治となった。ところがまた、今までのものに代わる新たなる精神的支柱というものを欲(ほっ)したわけです。 とはいえ、その精神的支柱というものが何だかわからない。そこで、まず、天皇主義というのを持ってきた。単なる象徴天皇制ではない実権のある天皇制ということですね。そして、天皇というものを現人神(あらひとがみ)ではありませんが、生ける神様のように奉(たてまつ)った。明治とは、こういう時代だったのです。 ただ、そうした時代において、天皇の復古主義というものは、まあ、昔からある主義でもあるし、こうしたものを新たな日本に取り入れる必要があるのか。むしろ、新たな精神原理というものを近代日本に打ち立てるべきではないか。そう考えて、私は、この地上に生まれて来たわけであります。 3.私の過去世は預言者エレミヤ 内村鑑三の過去世は、預言者でありました。今から二千五、六百年前ですから、ちょうど釈尊(しゃくそん)がインドにおいて活躍していた時代と同じ頃に、古代イスラエルの地に生まれました。私が預言者として生きていたときの名は、エレミヤと申します。旧約聖書のなかに、「エレミヤ書」というのがありますが、これは、私が預言者として、当時、神と呼ばれていた唯一の主から受けた啓示をまとめて、世に伝えていたものです。 現代において、今、大川隆法が受けているような啓示と同じようなものだと言えます。当時、私は、こうしたものを、明瞭な形ではなかったとはいえ、霊聴というものでもって、主の言葉を聞くことができました。そこで、それらを書きとめては、当時の人びとに、「主の言葉は、これなり」と説教して回っていたわけです。 当時は、バビロニアが攻めてくるというような国の危難の時代でありましたから、人びとは邪宗を、邪教を信じておったわけであります。そこで、私は、人びとに伝えたのです。そういう邪宗を信じておったならば、必ずや国難が生じて、人びとは苦しみを受ける、と。まず、外国の軍隊が攻めてくるであろう。軍隊とは、すなわち、バビロンの勢力である。ネブカドネザル王の軍勢が攻めてくるであろう、と。それのみならず、飢饉(ききん)、あるいは、蝗(いなご)などの害虫による被害も起きるであろう。もろもろの天変地異に見舞われるはずである。こうしたことのすべては、人びとの心がまちかっており、正しい教えに帰依(きえ)していないがための心の不調和から起きる結果である、と。 こういうことを、私は、伝え、語ったわけです。 現在では、怒りの神とか、神罰を与え給う神などという表現は流行(はや)りません。しかし、二千数百年前という大昔のことですから、そうした形で訴えないと、人びとはわからなかったわけであります。日本でも、昔は、仏罰があたるとか、神罰があたるとかよく言いました。では、具体的に仏罰、神罰というものがあるかと言えば、そういう形があるわけではありません。ところが、そうした方便をも使わねば、人びとは理解できない時代だったのです。 「エレミヤ書」のなかにおいて、私は、その万能の主、万軍のエホバが人びとに罰を与え給うということをずいぶん言いました。現代の人びとから見れば、時代錯誤的(さくごてき)であって、そうした怒り狂う神というものは、とうてい承服しがたいものでありましょうけれども、時代が時代であれば、そうした警告も必要だったということです。 諄々(じゅんじゅん)と法を説いてわかるような段階にある人間というものは、よほど悟っている人であるはずです。あるいは、教えが広がって心に余裕ができている時代でなければ、そういう人間は現われないでしょう。激しい国難が襲ってくるような末世の時代においては、そうした法でもって、人びとに教えを説くことは、なかなかできません。とはいえ、まちがった教え、災難イコール危難だとする原始的な方法というのをそのままにしておいたのでは、何よりも人びとのためになりません。そこで、私は、ほんとうの神の存在を信じていなかった人びとのために、主として預言という形で、教えを説いたわけであります。私の教えのなかに、それほどの心の教えがあったかどうかは知りません。しかし、唯一の神、エホバの神があったということ、あるということを人びとに信じさせ、正しい信仰に目覚めさせるという、この一事のために、私は、数十年の人生を送ったのです。 4.エホバの神の実体は、複数の高級諸霊であった このエホバの神の実体は、一体何者であるかということを、人びとは不思議に思うでしょう。しかしまあ、主としてエホバの神と言われていた実体があったのでありますが、はっきりした明瞭なものでなくて、ほんとうは複数の指導霊たちが天上界にいたわけであります。アラーとかエホバとか言われていた特殊な個性を特った高級霊もおりましたけれども、それ以外にも、イエス・キリストの、要するに誕生前の生命、こうしたものも指導しておりました。あるいは、仏陀の生命体というものも、インドで活躍しておったけれども、時代が同時代であったから、そうした生命体の一部は、またイスラエルの地でも指導というものはやっていたのです。 すなわち、こうした形での高級諸霊のことを、まあ、エホバと呼んでおったのであります。そして、そのなかでも特定な人はもちろんいたわけですけれどもね。ですから、そうしたエホバにあたる高級諸霊もいたわけですけれども、必ずしも彼だけの言葉だけではありません。もろもろの指導霊たちの言葉です。 当時の人たちには、そうした高級諸霊がたくさんいて、そうした方がたがいろいろなことを語るという教えというのが不可能であったがために、エホバの名を通じて、語っておったわけです。現代のように時代が進んでくると、日蓮の言葉であるとか、空海の言葉であるとか、あるいは、キリストの言葉であるとか、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の言葉であるとか、こういうことを言っても人びとがわかる段階に来ておるけれども、当時はわからなかったわけです。まあ、そういうことで、当時の人としては、今流に言うならば、親神様が来て、語ったというようなことであったのかもしれません。 5.私は、二つの「J」のために一生を捧げた 私が預言者エレミヤとして存在した時代から二千数百年たって、日本の地に生まれ、内村鑑三として肉を持ちました。しかし、生命体としては、やはり主としてキリスト教系の光を身に呈しておるがために、私はキリスト教というものを広めたわけであります。 日本の地にも、鉄砲伝来の頃から、原始キリスト教の形で入って来てはおりました。西暦千四、五百年頃のことですね。ですから、皆さんも、天草四郎などと言ってね、バテレン、島原の乱、こういうのがあったということを知っておるであろうし、あるいは、細川ガラシアとか、そうしたバテレン信者たちがいたということも、知っておるでしょう。あるいはまた、高山右近ですか、こういうクリスチャンもおりました。もちろん、当時の彼らが知っていたクリスチャニズム、キリスト教というのは、ある程度、歪(ゆが)められたものではあったわけですが、ともあれ、そういう伝統が、すでに日本の国にもあったということです。 しかし、それだけでは、ちょっともの足りないということで、本格的なキリスト教を明治の日本に持ち込むべく出たのが内村鑑三であったわけであります。もちろん、同時代に出たのは、私ひとりだけではありません。ほかにも有名なクリスチャンたちが、数多く出ました。そして、日本のなかでは、内村鑑三、その弟子の流れで矢内原忠雄とか、塚本虎二、こうした無教会派の流れというものがあったわけです。 さて、今日の本題である「キリスト教と日本」ということに関して、もう少し話を進めていきたいと思います。私の著書のなかにも述べておりますが、私は、二つの「J」、このために一生を送りたいと願ったわけであります。二つの「J」とは何か。ひとつはジャパン、すなわち、日本であります。もうひとつの「J」とはジーザス・クライスト、すなわち、イエス様です。つまり、日本とイエス・キリスト、この二つの「J」のために、私は一生を捧げる決意をしたわけであります。 先ほども申し上げましたが、当時の日本を考えたときに、天皇という生ける神というものをつくってしまって、その前に、人びとがひれ伏すという考え、これに対しては、私は、何とも承服しがたいものがあったわけであります。生きている人間が高級神霊のエネルギーを呈して地上に出る、神の代理人として出るということは、もちろんあり得ることであります。しかし、神の代理人であるならば、神の代理人としての、やはりそれだけの使命と霊格を備えておらねばならんのではないかと、こう思ったわけです。 新生日本において、ほんとうの神のもとに人びとが集(つど)うならともかく、たまたま血族で天皇家というところに生まれたがために、その人が神となるのは、これは原始の時代の宗教にすぎません。ですから、近代における宗教としては、どうしても納得しがたいものがあったわけであります。 私が考えるには、人びとが、その前において、ひざまずき、ひれ伏するに足る人、それは、やはりイエス様をおいて他にはないと思いました。ですから、このイエスの愛の教え、こうしたものこそがほんとうの教えであるし、また、日本人にはない教えであろうと思います。 6.明治の日本に必要だった精神原理は、愛の教えであった 今まで、伝統的な日本の国を律してきたものは、孔子の儒教、すなわち上下の秩序を保つという教えでありました。あるいはまた、日本神道系における秩序の概念であったと言えるでしょう。 しかし、明治は、四民平等の時代であります。つまり、すべての人が、神の子として、自由自在に活躍できる時代でありました。そこで、そういう時代に必要な精神原理とは一体何であるかと考えるに、それは、やはり愛の教えであろうと私は思ったのです。 愛とは、何か。愛の本質というのは、まさに、人間平等の思想なのです。人間に上下があり、忠君愛国ではありませんが、主(あるじ)と臣下とがあるという考えでいったならば、そこにあるのは、一方的な愛の押し売り、上から下に与えるだけの愛、これでしかないと思うのです。 しかし人間は、すべて神の子なのです。とすれば、神の子であるということにおいて、やはり平等であるべきだ、と私は思うのです。平等であるとは、人間としての能力が平等であるとか、生まれ持っての性格が平等であるとか、経済力が平等であるとか、こういうことでは、もちろんありません。こうしたことは、あくまでも地上に現われたるさまざまな顕現態様(たいよう)の差異であって、神の子、人間の本質とは、また別のものなのです。ですから、人間は、神の子であるということ、まず、これを認める。神の子であるという前提のもとに、平等であるということを認める。かくしてはじめて、愛ということが納得できるのです。そうではないでしょうか。 では、愛とは、何ですか。愛とは、一体何でしょう。もともと人間は、今言ったように、神から分かれてきた生命です。であるならば、他人と見えるものでも、これは他人ではなくて、ほんとうは兄弟なのです。同じ生命、同じ親から生まれて来た兄弟なのです。そして、兄弟であるからこそ、人びとは仲良くしなければいけないのです。この原理が、明治の日本には必要だと思いました。すなわちそれは、上下観ではなくて、平等観であり、横のつながりなのです。 7.明治以降の日本は、平等と公平の二つの価値概念を中心に発達してきた では、平等であればいいのか。まあ、こういう考えもあるでしょう。それだけでは、もちろん、足りないことがあります。そのために、明治以降の政府は、しきりに学問というものを奨励しました。福沢諭吉さんという人を出して、「学問のすすめ」、こういうものを、神様は書かせました。そして、人間というものは、天のもとに平等で、その努力によって報われる社会、そういったことを説かしたわけです。彼は宗教家ではありませんでしたが、そうした原理を説きました。福沢さんは、今、私がいるところと同じようなところにいて、よく話をしております。 個人の努力、あるいは、その努力の差によって、さまざまな社会における役割を変えていく。これは、機会が平等に与えられるということにおいて、ほんとうの公平さだと思います。ですから、近代の政治、あるいは、社会の原理というのは、平等と公平、この二つの原理から成り立っていると思います。 平等の原理とは、愛の原理です。人間は、すべて神の子で、愛しあわねばならないという愛の原理。公平の原理とは、等しい機会が与えられた以上、その努力と努力の結果によって差異がつくられていく。これが公平の原理です。ですから、一生懸命勉強した人が報われず、何も勉強しなくても、大金持ちの家に生まれただけで、幸せになるというような社会だとしたならば、どこかがおかしいと言えるのです。ともあれ、明治以降の社会というものは、この平等と公平の二つの価値概念を中心に発達してきたと思います。 とはいえ、一方では、伝統的な秩序観、上下観というものが、何度も何度も繰り返して出てきた。この平等観、すなわち、人間はすべて平等ではあるのですけれども、平等観のなかにも、ある程度の差がある。その部分ですね。では、その差として、生きている人間が認めていいものは何か。それは、はっきりと神の子として地上に出て、人びとを救っていった救世主イエス・キリストだと言えます。何人も、イエス・キリストの前には、平等だと私は思う。しかし、天皇陛下のもとに平等かと言えば、問題がある。つまりそれは、血筋で決められた地位だからです。人間がつくった偶像だからです。 しかし、イエス・キリストが、神の教えをほんとうに地上に持っていらした人であり、その人格において、過去、最大の人格者であったということは、だれもが否(いな)めない事実でありましよう。ですから、手近に、その人の前にかしずき、その人の前にひざを折るというのであるならば、イエスに対する信仰を抜きにして、それは語れないと私は思います。 8.イエスの生涯は、旧約聖書のなかに預言されたとおりであった ここで、イエス・キリストの信仰について、少し話をしておきたいと思います。イエス・キリストは、今から約二千年前、ナザレという地において、貧しい家庭、大工の子供として生まれました。 しかし、幼少時から、さまざまな霊的能力というものを発揮し、教会などで説法することもままありました。天使たちの声を聞き、姿を見るというような奇蹟的な現象は、小さい頃から現われていたとはいえ、彼自身は、非常に努力の人であり、また、ずいぶん勉強した人でもありました。正規の学問は受けておりませんでしたが、当時の旧約聖書などを大変に勉強しておりました。ですから、イエスは、旧約聖書のさまぎまなところを暗誦(あんしょう)するまで読んでおられた。そのことは、その教えの端々(はしばし)に出てきておるのであります。 さて、イエスについて、すべてを語ることはできませんが、大切なことは、救世主としての自覚と、その預言についてだと思います。イエスの生涯、三十三年の生涯というものを振り返ってみると、まさしく旧約聖書のなかに預言されたとおりの生涯であったといえます。 9.真の救世主が出るときは、それ以前から大きな胎動が起きている 旧約聖書のなかには、イスラエルの民のなかから救世主が出て来るということがすでに謳(うた)われておりました。今から三千二百年も前に、モーゼが奴隷であったヘブライの民、すなわち、後のイスラエルの民を解放したように、イスラエル、このユダヤの地に、やがて救世主が現われるということは、イエス・キリストが生まれる千年、あるいは、それ以上も前から予言されていました。私は、イエスの出る約五、六百年ほど前に肉を持ちましたけれども、すでに、その予言を知っておりました。旧約の預言者がつぎつぎと出ましたが、メシヤ降臨ということで、いろんな方が予言していきました。 ですから、イエスの三十三年の生涯というものは、千年ぐらいも前から計画されていたことなのです。たくさんの預言者が、さまざまな預言を残していって、ぎりぎりいっぱいまでですね、いろんな予言というものをしておったわけです。そして、とくにイエスが誕生する百年ほど前から、そうしたメシヤ降臨の思想というものがかなり濃厚になってきました。 これをとくに信奉していたのは、エッセネ派というひとつの宗派であったわけです。このエッセネ派というのは、今で言うならば、まあ、ある意味での新興宗教のようなものだったと言えます。そして、昔のモーゼの法を奉ずる律法者たちというのは、今で言えば、仏教学者か、そうした者であったと思います。 今でも、そうでしょう。たとえば、仏教を例にとっても、禅宗、念仏宗、こうしたものをいろいろと現代にも伝えている者がおる。しかし、それとは別に、昭和期においても、さまぎまな新しい宗教というものが、雨後の竹の子のように出て来ており、そうした新しい宗教の信者たちは、自分たちの教祖こそがメシヤであるというようなことを言っておる。当時にしても、いろいろなメシヤが出るということが予言されていたために、我こそはと名のって出た人がたくさんおりました。名前こそ残っていませんが、我こそは、我こそは、といろいろに言っていたのです。 ちょうどイエスの時代に、神は、バプテスマのヨハネと後に言われていた洗礼者・預言者を送りました。このヨハネがイエスに先立って、さまざまな奇蹟を起こしておったわけです。ヨハネが、ヨルダン川の辺(ほとり)で、水によって洗礼を与えていた。これは史実にもあり、有名な話です。では、バプテスマのヨハネの力とは、何か。 洗礼ということがありますが、結局、浄霊ですね、現在で言えば、浄霊をやっておったわけです。その儀式として、水によって洗礼をする。こういうことをしておったのです。要するに、ヨハネは、悪霊に憑(つ)かれた人たちから、悪霊を追い出したり、そういうことをしておったわけです。 また、彼自身にも、さまざまな啓示が下ったので、それについて発表したりもしていた。そして、彼は、いずれ偉大な救世主が生まれるということを人びとに告げ知らせたのです。すなわち、「やがて、その方が来るであろう。私は、その方の靴の紐(ひも)を解く値打ちすらない。それほど偉大な方が来るであろう」ということを言っておりました。 また、ヨハネ以外にも、イエス・キリストが生まれる前における予言というのが、いくつか残っています。これが、聖書に出てくる東方(オリエント)の学者たちです。つまり、オリエント世界の学者たちが、星の動きを見て、ベツレヘムのほうに、どうやら救世主が生まれたらしい、偉大な星が現われた、と。こういう予言をずいぶんしておりました。このように、イエス降臨の前から、預言者たちは、さまざまなことをやっておったのです。すなわち、ほんとうの救世主が出るというのは、それ以前から、大きな胎動が起きるものです。ですから、それが、必ず予言として伝えられたのだと言えます。 10.現代のこの一大救世運動は、釈迦によって預言されていた 現代の日本にも、こうした預言はあるはずです。そして現在、日本を中心に一大救世の動きが起こってきつつあるわけでありますけれども、この日本において、一大救世運動が起きるということは、すでにインドの時代において、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)によって預言されておったことです。釈迦牟尼仏は、今から二千五百年前の当時、東方の国にまた甦(よみがえ)って人を救うということを預言したことがありました。また、末法の世には、弥勒菩薩(みろくぼさつ)というものが下生(げしょう)して、弥勒下生ということがあって、人びとを救うであろうと、こういうことも言われています。まあ、これは仏教のほうですから、私は深入りはしませんけれども、そうしたなかで、東の国、あるいは、時代的な末法の時代というのは、どこにあたるかというと、まさしく現代です。現代の日本にあてはまるのです。 ですから、これから、ひとつの大きな救世運動が起きていくと思います。そして、後になって、人びとは、そういえば、以前に予言されていたことなどは、こうしたことであったのかと気がついていくようになるはずです。 11.イエスの生涯は、神の伝道の芸術であった 話をまた、イエスの時代に戻しましょう。イエスの時代には、イエス出現の予言があり、さまざまな予兆があり、そして、バプテスマのヨハネが出て、イエス・キリストの誕生を告げたわけです。 イエス・キリストの霊的自覚自体は、幼年時七歳頃からありました。十代になると、いろいろな地、インドのほうなどへも行ったことがあったようです。あるいは、ペルシヤのほうで修行したこともあったようです。あるいはまた、エジプトのほうで、魂の永遠について学んだこともあったようです。ともあれ、そうした霊的修行を十代、二十代のはじめにかけてしておったのです。そうしたことについては、いずれイエス・キリスト自身からお聞きになるとよろしいでしょう。 二十代におけるイエス自身は、まだ自分の心を磨くための修行をずいぶんやっておったようです。父親の仕事を手伝いながら、休みの日には、洞窟のなかに篭(こも)ったり、山のなかに行って、ひとり静かに瞑想しておったようです。そして、心のなかで、高級霊たちと会話をしておったようです。エレミヤとして、イエスよりも先に生まれた私は、当時、イエスに啓示を与えたことがあります。ですから、彼にしても、霊的修行はずいぶん積んでおったわけです。そして、イエスが三十歳になったとき、天命が下った。 「イエスよ、今、お前は、ヨルダン川のほうへ歩いて行きなさい。そこで、バプテスマのヨハネに会うであろう。そこから新しいはじまりが起きる。ヨハネは、お前が何者であるかを、人びとに語るであろう。そして、ヨハネの前にいる人たちが、まず、お前の最初の弟子になるであろう。そうした弟子たちを携(たずさ)えて、お前は伝道に入っていきなさい。お前は、これから十二弟子に会っていくであろう」 こういう聖霊の預言が彼の身に臨みました。そこで、彼は、その預言のとおりのことを実行していったのです。その後、三十三歳の十字架までの物語は、あまりにも有名であります。 救い主が十字架にかかって死ぬということは、旧約聖書で、すでに預言されておりました。すなわち、千年以上も前からイエス・キリストの、そのような人生が予定されていたのです。個人として見れば、不幸な人生であったかもしれません。しかし、それもまた、神の御業(みわざ)、神の人生の芸術、神の伝道の芸術、これが現われんがための、奇蹟であり、そうしたドラマであったのだと思います。 12.イエスのわずか三年間の伝道のなかに、人びとは、二千年普遍の神理を見た わずか三年間のキリストの伝道ではありましたが、人びとは、この伝道のなかに、人生の神理を知り、二千年語り継がれる普遍の神理というものを見たわけです。このように、ほんとうの教えとは、教えの期間が長ければ、それでよいというものではないのです。ほんとうのものであれば、短くてもよい。ですから、そういう意味で、今、あなた方も、新たな教えを説いているわけですけれども、ただ長々と説けばいいものではなくて、そのなかに真実のものを説いていっていただきたいと思います。それが、ほんとうの教えなのです。 イエス・キリストにしても、三年の間にさまざまなことを語ったために、同時代の人に理解されなかったといううらみがあります。また、私から見ても、ずいぶんほんとうのことを言いすぎていると思うことも多いと言えます。しかし、彼は、自分の時間がないために、すべてを語ったわけです。彼にして時間があれば、もっといろんなことを言ったでありましょうけれども、なかったがために、彼はあまりにもはっきりと言いすぎている。「我はそれなり」ということをずいぶん言っています。「我はそれなり」とは何か。すなわち、「あなたは来たるべきメシヤであるか」と、こう問われて、「我はそれなり」と答えているわけです。今の日本では、「我はそれなり」と答えられる人というものは、なかなかそう簡単にいるものではありません。しかし、イエスは、それだけの自覚をはっきりと持っていました。実際、それは真理でありました。しかし、その真理がゆえに、彼は十字架にかけられたのです。「救世主なリ」と語ったがために、結局のところ、十字架にかかったのです。 ですから、もし、イエスが、「そうではない、私は神のお弟子のひとりであって、ひとつの教えを説こうとしているだけである」と、こういう姿勢で言ったならば、おそらく十字架にはかからなかったでしょう。 「我はそれなり。我は救世主なり」と彼は、はっきりと明言した。それゆえに生命を縮めたのです。しかし、それもまた、彼の預言されたストーリーであったからです。私は、このイエス・キリストの勇気に対して、敬意を払いたいと思うのです。 13.私の人生も、キリストと同じく、「我はそれなり」であった 内村鑑三の人生も、やはり同じでした。すなわち、「我はそれなり」でありました。「我はクリスチャンなり」「我はキリスト者なり」ということで、天皇陛下に対する不敬事件を起こしたこともあります。しかし、「我はそれなり」、これは、私の信念であったからです。「我はキリストの僕(しもべ)なり。キリストの僕として、日本に生まれるなり。そのために一生を送るなり。天皇陛下のためにあらず」と、私は、はっきりと言いました。そのために、イエスに及んだと同じ災厄(さいやく)が、私にも及びました。ただし、私は今だに、それを後悔しておりません。後の世の人びとのためには、私が妥協しない人生を歩んだことはよかったと思います。 私は、これからいろんなことを話していきますけれども、まず今日、あなた方に言っておきたいことは、「我はそれなり」という自覚、これが大事だということです。段階的に法を説いていく方便も、もちろん、大事ですけれども、「我はそれなり」との自覚が大事だということを知っていただきたいのです。そして、そのために、たとえどのような迫害を受けようとも、「我はそれなり」という、この気持ち、この気概、これだけは忘れないでいただきたい。 これをもって、今日の第一回目の話を終わりといたします。ありがとうございました。
https://w.atwiki.jp/misabox/pages/107.html
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/371.html
目次 1.出口王仁三郎の霊力指導霊は、「役小角(えんのおづの)」 2.仙人の特徴は、霊力の技競べ 3.如来・菩薩は「話せばわかる」の心の指導 4.仙人・天狗は目にもの見せる技の指導 5.最近出ている仙人の有名人はユリ・ゲラーとサイババ 6.あの世とは、引き合うもの同士が集まる波長の世界 7. 法力 は便利、悪霊を跳ね返す 8.恋愛成功率も 念 の強さで決まる 9.法力は、転生輪廻の過程で得た個人別の霊力 10.新興宗教百あるなかで、九十六までは悪魔に憑かれている 11.天狗と仙人との違い、天狗は威張りたいだけ 12.光の天使、仙人、天狗、地獄霊と入れ替わるので用心、要心 13.僧の道鏡、天海、義経らは大天狗 14.最近の天狗は政治家、証券屋に出ている 15.天狗は、人さらいやいたずらするのが大好き 16.出口神社は如来格の荒神様 (1987年2月20日の霊示) 1.出口王仁三郎の霊力指導霊は、「役小角(えんのおづの)」 あー、いよいよ第6章ですなあ。天狗と仙人、という話までこぎつけてきた。まあ、今さら天狗と仙人でもなかろうがと言う人も多かろう。天狗と聞いて、現代人でピンとくる人はおるまいて。ひと昔前なら、天狗と言えば、それこそ、何じゃのう、ひとつ歯の高い下駄(げた)履いて、団扇(うちわ)であおぎながら、長い鼻をして、羽根を伸ばしつけて空を飛んどるような、そういうイメージを持った人も多かろうが、まあ、最近は、そんなことも思わんじゃろうのう。 まあ、子供の頃に、絵本で天狗さんを見る程度かのう。あとは、もの心ついて以降、天狗さんとは、全然縁がないようじゃ。縁日のお面でもあれば、まあ、天狗も見るが、最近は天狗ショーとかいって、変わったのもやっとるようじゃのう。普通は、天狗というのは、忘れ去られとる。 まあ、仙人というのも同じじゃのう。芥川龍之介とかいうのは、仙人の話が好きで、ようしておったようじゃけれども。現代人で、仙人のことを知っとる人も少なかろう。仙人というとやはり、どうじゃろうかのう、中国か、インドか、ヒマラヤかは知らんけれども、どっかそんな外国の山奥に住んどる感じじゃの。仙人と言われてもピンとはこんじゃろう。まあ、宗教に多少なりとも関心を持っとる人たちちゅうのはのう、何ちゅうかのう、今でも修験道(しゅげんどう)ちゅうのがあって、山伏(やまぶし)じゃのう。山岳信仰というのがある。彼らが仙人だということは、知っとるだろう。まあ、日本流で言えば、ああいうのが仙人じゃのう。仙人になるわけじゃ。 古くは、役小角(えんのおづの)というのがおったのう。知っとるかのう、役(やく)の小角(しょうかく)と書くのじゃ。役行者(えんのぎょうじゃ)というては、有名なお人じゃのう。今から千何百年前じゃろうかのう。千数百年前になろうか、大変な法力を持っとった人でのう。これが有名じゃ。 この役小角というのが、他ならぬ、この出口王仁三郎の指導霊をやっとったのじゃ。指導霊をのう。わしもずいぶん霊力を持っとったけれども、まあ、霊力の側面では、わしを助けてくれた人でもあるんじゃ。 また、わしは、幽体離脱というて、肉体から抜け出して、あの世でよく散歩しとったわけじゃけれども、そのときにも、わしによう教育してくれたのも、この役行者(えんのぎょうじゃ)じゃ。偉い人かどうかは、まあ、皆さんのご判断に委(ゆだ)ねるけれども、まあ、霊力とは何か、ちゅうことはよく知っとる人じゃのう。霊能力、超能力、神通力じゃの、とは何かということは、よく知っとる人であろう。まあ、そういうことで、仙人界というのがあって、まあこれも、それぞれの国ごとに仙人界というのも、分かれておるんじゃ。 中国には、もちろん大きな仙人界がある。インドにもある。西洋に仙人界があるかちゅうと、まあ、ないわけでもないのう。まあ、あちらは、仙人というよりは、どうも妖術使いの方が多いようじゃけれどものう、妖術使いが多いようじゃ。まあ、日本の仙人というのは、こうした山岳信仰というのかのう、そういうものを経験した仙人が多いようじゃ。 2.仙人の特徴は、霊力の技競べ なかには、山岳信仰をやらずとも、他の職業についておって、仙人というのもおらんわけではないけれども、まあ、仙人の特徴というのは、人を驚かすというようなことをよくやるっちゅうことじゃのう。これは特徴じゃ。このときに、たいてい霊能力というか、まあ、そういうものを駆使したり、また、誇示したりしたくなるっていうのが、仙人の本領じゃのう。 まあ、あとは、そうじゃのう、まあ、仙人の話をもうちょっと現代的に話するとのう、現代にも仙人はいっぱい出ておるぞー。 たとえば、まあ、他の人の話をしてもあれじゃけれども、今、地上でものう、超能力とか、超念力とかやっておる者がおるじゃろうが。うーん、最後の超念力じゃとか何じゃとか言うて、やっとるのー、まあ、ありゃ仙人じゃ。間違いない。仙人じゃのう。八次元パワーだとか言うとるけれども、まあ、正真正銘の八次元パワーじゃないんじゃ。正真正銘の如来のパワーじゃないんじゃ。ああいうのはのう、ありゃ仙人パワーじゃ。まあ、あの世の仙人がついて指導しとるわけじゃのう。 まあ、霊能力があるわけだから、そこそこの現象も起こすし、まあ、病気も治したりすることもできるし、多少いろんなことを起こす。たとえば、そのパワーを入れれば、草木がよう育(そだ)つとか、のう、果物(くだもの)が大きゅうなるじゃとか、まあ、そんなことがないわけではない。それはあるんじゃ。まあ、わしもそっちに関係しとらんわけでもないから、あんまり偉そうなことは言えんのじゃが。 3.如来・菩薩は「話せばわかる」の心の指導 お前さん方の仕事ということも考えて言うとするならばのう、まあ、仙人系統とそうでない人の系統というのを分けるとするならば、奇蹟というのは両方起きる場合があるけれども、仙人以外の何と言うかのう、表の世界、如来、菩薩の世界というのは、極力、心の教えで人を導いていこうとしておるのじゃのう。まあ、諭(さと)して、話を聞かして、まあ、話せばわかるわけじゃ。話を聞かして導いていこうとするのが、だいたい、如来、菩薩の普通の系統じゃ。 4.仙人・天狗は目にもの見せる技の指導 仙人系統ちゅうのは、どっちかと言うと、まあ、話せばわかるじゃない、見ればわかるじゃ。見ればわかるじゃろうと、目にものを見せてやろうと、まあ、だいたいこの系統じゃのう。ただまあ、これも公平に見てやらにゃあいかんのじゃ。仙人だからいかんとか、そういうものは、まあ、考え違いであってのう。仙人も、まあ、役には立っているのじゃ。 つまり、話ばかりを聞いてもわからん人は、世の中にいっぱいおるんじゃ。話聞いてもわからんのがのう、いっぱいおるんじゃ。ただ、目にものを見せる、要するに、信じられないような奇蹟を目の前で見せると、信じる人は多い。これからあとは、いかんのは、いかんのだけれどものう。その奇蹟だけありがたがって、あとへいかんのは、いかんのだけれども、まあ、そういう役割もないではない。これは、昔からあるでのう。天狗小僧というような話とか、まあ、そんなもんがないわけでもない。 まあ、仙人系統じゃけれども、他にも言えば、そうじゃのう、仙人系統で、他にいるとするならば、あと、たとえば明治の時代にもおったのう、仙人が。何て言ったかのう、「オサナミトシエ」と言うたかのう。長南年恵(おさなみとしえ)と言うたかのう。「オサナミ」という、新潟のほうじゃったかのう、新潟のほうに、霊能少女が出てのう。明治時代大騒ぎになったことがあるんじゃ。 このオサナミさんという人が、四十ぐらいになっても、二十ぐらいで、全然年が変わらん。もう若いままじゃ。もう、全然。それで、あるときから、飯ももう全然食わんのじゃ。飯も食わず、生きとるのじゃ。もう十何年も、二十年もトイレヘ行ったのも見たことがない、という、まあ、そんな人じゃのう。でもって、肌はいつも湯上りのようにつやつやして、それでまた、とっても怪力じゃ。怪力で、大人五人、十人かかって綱引きしても、片手で引いて、大人が皆んな倒れてしまうぐらいの怪力じゃ。 こういうことでのう、それで、御神水とかいうのがあって、まあ、一升瓶か何かを並べておいて、病人の人が来ると、まあ、神様に祈るとのう、一升瓶のなかに水が入る。空中から水が出てのう、御神水というのが出て、それに色がついておる。赤じゃの、黄色じゃの、青じゃの、いっぱい色がついておる、のう、こういう御神水が下(くだ)って、病気に効(き)くあれが出たと、まあ、こういうことが起きたようじゃ。 そうして、まあ、裁判所にものう、一回、世を惑わすということで、何じゃったかのう、朝日新聞じゃったかのう、何かでずいぶん叩かれて、そして、デタラメじゃ、淫祠邪教(いんしじゃきょう)じゃということで叩かれてのう、新聞記者に。それで裁判所で、お前がほんとうにそんな能力を持っとるならばやってみい、と言われて、裁判所の公開の席で、その一升瓶のなかに御神水を下(くだ)らしたんじゃ。 それで、裁判官もおったまげてのう、こりゃあ困った。そして、ついには不問となった。確かのう、不問となったはずで、ただそれが認められたちゅうわけではないけれども、釈放されたのは事実じゃ。そういうことでのう、お前さん方からいきゃあ、もう遠い昔の話じゃろうけれども、そういうものもある。 5.最近出ている仙人の有名人はユリ・ゲラーとサイババ あとは、そうじゃのう、まあ、そんなもんじゃろうかのう、記憶に残っとるのでは。記憶に残っとらんのではまだ他にもたくさんおるんじゃけれどものう。そうじゃのう、おった、おった。最近のでおったぞー、ユリ・ゲラーというのがおったじゃろう。これは有名じゃのう、日本でも。まあ、スプーン曲げる奴じゃ。スプーン曲げたり、何じゃ、カード当てるのか、時計の針を回したり、あるいは、缶(かん)のなかに入れたものを当てたりするんじゃろう。 これは、仙人じゃ。間違いない、間違いない。仙人界から出とるから、よー知っとる。これは最近じゃからのう。えー、仙人です。で、これをインチキじゃ何じゃと言うとるのがおるけれども、まあ、インチキもないとは言えんが、まあ、能力を持っとるのは、確かじゃ。持っとるんです。まあ、これじゃのう、だから、仙人も、最近、けっこう頑張っとるんじゃ。 そして、ユリ・ゲラーが日本に来て、超能カブームがずいぶん盛んにもなったわのう。うーん、だからまあ、こういうこともあったわけじゃ。まあ、彼らも、使命がないかちゅうたらないわけではのうてのう。そういう世界があるということを気づかす意味では、やはり、使命があるわけじゃ。そりゃあ、心の教えは何も言うとらんじゃろう。それから、それについていく者を惑わすこともあるじゃろう。 じゃが、現在の何と言うかのう、この唯物論、ものしかないというような、偶然に人間ができて、偶然に人間が生きているという人が多いなかでは、そういう鬼面(きめん)で人を驚かすというようなことも、まあ、意味があるわけじゃ。如来、菩薩がそういうことをしたんでは、疑われるからのう。じゃから、そういう仙人にやってもろうて、そして、如来、菩薩の段取りをやっとるのじゃ。そして如来、菩薩が心の教えを説いとる。これでええわけじゃのう。今、イエス・キリストみたいな人が出て、やたら奇蹟ばかりを起こすと、まあ、疑われるのは間違いなしじゃ。病人ばかり治しとってものう、まあ医事法違反か何かで摘発されることじゃ。 ああそれから、インドにも聖者がおって、サイババとか言うのがのう、こういうのがおって、何ちゅうのか、ビブティちゅうのか、薬か何かを、天から降らして飲めば、病気が治るとやっておるけれども、こんなの日本でやったら、一発で捕まっちゃうだろう。 ダイヤモンドとかを降らしとるそうじゃが、そんなのは盗んできたとか、まあ、手品師だとか言われて、捕まるのがおちじゃ。間違いないじゃろう。じゃから、こういう人を、まあ、あれじゃのう、日本で、如来、菩薩として、出すわけにはいかんのじゃ。じゃから、ユリ・ゲラーもそうじゃし、まあ、そういう超能力者たちも、だいたいそうじゃのう。 そうじゃのう、せっかく話が出たから、サイババのことを言うとこうか。お前たちは、あれを偉いというとるが、どの程度偉いか知っとるかのう。さあ、わかっとるかどうかじゃのう。結論を言えばのう、あれはインドの仙人なんじゃ。まあ、救世主じゃとか言うて、言われておることもあるじゃろうが、救世主があれでは、務まらんのじゃ。インドの仙人でのう、インドはしかし、哲学がはやっとるから、哲学とか、まあ、教典じゃのう、そういうものがはやっとるから、教えがむずかしゅうなっとるけれども、あれも仙人じゃ。インドの。仙人の親玉が出とるのじゃ。あれものう。 まあ、そういうことで、彼の格を下げることもなし、わしの格を上げるわけでもないが、あれは、インドの出口王仁三郎じゃ、早い話が。まあ、そういう人間じゃと思えばいい。わしだって、そりゃ正真正銘の如来でありたいんじゃけれども、いかんせん、もうちょっと、裏側のほうへ来とるんじゃけど、もう半周ぐらいせんと、表へ帰れんだけのことであって。 じゃから、サイババ先生もじゃな、わしらの世界の住人じゃ。だから、住んどるところが違うから、直接会うこともなかろうが、まあ、そうじゃのう、位置から言えば、インドで出た出口王仁三郎ぐらいじゃ。まあ、その程度の位置づけじゃのう。したがって、出口王仁三郎が救世主なら、サイババも救世主じゃ。サイババが救世主じゃなければ、わしも救世主じゃないわ。まあ、似たようなもんじゃ。 じゃがまあ、わしはのう、単なる仙人とは違うことは、わかってくれると思うんじゃ。そりゃ、時代時代で、ときどき行ったり来たりしておるんじゃ、わしの場合はのう。前に古事記、日本書紀をわしがつくったと言うたことがある。稗田阿礼(ひえだのあれ)という名前で出てのう。このときに、じゃあ、仙人かと言うたら、このときは、仙人というよりは、まあ、お前たちが今、霊示集をつくっているようなもんじゃから、言わばのう、これは、「正法神理」の本家本元みたいなものじゃのう。 だから、ちょっと微妙なところなんじゃ。ほんの微妙なところなんじゃのう。今世はどうかと言うと、今世は、ちょっと指導神が悪かったんじゃな、これがいかんかったんじゃ。指導神さえ間違(まち)ごうていなかったら、わしはちゃんと如来界に還っておるんじゃけれども、ちょっと指導神が丑寅の金神じゃからのう。まあ、ちょっと指導神のほうが、どうも崇(たた)り神が指導神であったから、こっちのほうへ来てしもうたけれども、まあ、こんなのが普通ではないと、やむを得んだろうから、こういうことも、試練としてあるからのう。 まあ、谷口雅春などは、表のええとこなどへ行きよって、まあ、おもしろくないんじゃけれども、本来ならば、どっちが偉いのか、わかっとるのかと、言いたいんじゃけれども、まあまあ、しかたがあるまい。現在は、やつのほうが、うまいこと、文章中心に法を説いて、表へ帰ったんじゃから、わしはしょうがない。今ちょっと薄暗いけど、やむを得んじゃろう。焦(こ)げ臭い、壁臭いところじゃけれども、まあ、やむを得ん。 そういうことで、まあ、サイババちゅうのがおるけれども、まあ、あれをモーゼじゃとか、何じゃとか言うてる人がおるんじゃろう、奇蹟を起こすから。モーゼの生まれ変わりとか言うとるが、まあ、あれは大仙人じゃ。仙人中の仙人じゃのう。じゃから、役行者(えんのぎょうじゃ)、出口王仁三郎、サイババ、この辺はまあ、だいたい同格ぐらいじゃ。偉いんじゃ。力は持っとるぞ。ちょっと勉強しとるんじゃのう、どっちへ行くかじゃのう。まあ、どっちへ行くか、還って来るのが楽しみじゃけど、じゃがまあ、多分仙人のほうへ還って来ると思うぞ、わしは。多分、そっちへ還るであろうと思うわ。 まあ、ヨガというのは、もともとはのう、インドの仙人界なんじゃ、系統としてはのう。したがって、日本神道系では仙人界と言うけれども、インドの法では、ヨーガ界と言うてのう、ヨガのだいたい流れがあって、まあ、ヨガのなかにも、もちろん心の教えを説いた一派があって、そういうのは表のほうじゃけれども、ヨガ仙人界というのがあってのう。修行を中心にやった人、あるいは、超能力を中心にやったヨガ仙人界というのは、どっちかと言うと、まあ、これは裏側へ行っているのう。そういうことがあってのう、まあ、参考までに聴いておきなさい。がっかりする必要はない。ヨガにも両方あるんじゃから、そう思えばよい。 6.あの世とは、引き合うもの同士が集まる波長の世界 まあ、そういうふうに、あの世の世界というのは、地上でたまたま何をやったかでずいぶん左右されるんじゃ。行く先がいろいろあるんじゃ。それこそ今世で、神社の復興でもやってのう、心清くありなさいなんてやっとったら、それこそ竜宮城へ行けるのは間違いなしじゃ。竜宮界へ行けるじゃろう。まあ、そういうふうに波長じゃのう、あの世というのは。引き合うもの同士が、だいたい行くんじゃのう。 まあ、わしもじゃから、法を説いたつもりでおったんじゃけれども、けっこう愛の教えが若干足りんかったようじゃのう。もうちょっと、愛を言わねばいかんかった。残念じゃのう。いろんなことを言うたり、奇蹟も見せたんじゃけれども、ちょっとまあ、愛の教えが足りんかったのう。 如来、菩薩の資格条件というのは、どうやら、愛らしいわ。わしも、ちょっと勉強しとるんじゃが、愛と慈悲らしいのう。愛と慈悲を説かずして、如来、菩薩にはなれんそうじゃ。生きていたときに、愛と慈悲をわしはあまり言わんかったんじゃのう。わしはのう。そういうことで、若干、如来の条件に外れるということで、裏側で今ちょっと修行させられとるんじゃ。 言うとくが、地獄ではないぞー、決して地獄ではないぞー。まあ、そういう世界もあるということじゃな。じゃから、もう一回地上に出たときに、今度は表の世界へ還るつもりでおるんじゃ。もう一回わしが地上に出たとき、今度は弟子のTは裏側へ回るじゃろう。わしはそう思うとる。そういう世界じゃ。まあ、あなたがたの勉強材料として聞きなさい。そういうふうに、仙人界というのが、まあ、どっちかと言うたら、この世で救いたいという気持ちがあるのは確かなんじゃけれども、いかんせん超能力信仰のほうに傾いた人が行くところじゃのう。 7."法力" は便利、悪霊を跳ね返す まあでも、これはありがたいことはありがたくてのう、いわゆる法力じゃから、便利なんじゃな。あの世の霊人でも、思ったとおりのことができるというけれども、そりゃ程度の差がある。通常の霊人であるならば、たとえば、あの世に還ってかなりの時間が経つと、地上の人とどうやって話をしたらええかも忘れておる人が、いっぱいおるんじゃ。あるいは、地上があるということも、忘れておる人もおる。あるいは、自分の世界以外のところへ、どうやって行ったらいいのかわからん人も、いっぱいおる。 たとえば、わしらは、地獄なんか行こうと思えば簡単に行けるんじゃの。地獄へ行って、どうじゃ、鬼の二、三匹、頭殴って来ようかと言うてのう、行って、鬼の何じゃ、バットというのか、鉄棒か、鬼の鉄の棒を取り上げて、赤鬼と青鬼の頭を殴ってね、たんこぶの二つ三つつくってから、ああ気持ちいいって帰って来るぐらい、簡単なんじゃけれども、そういうことができんちゅうのもいっぱいおる。住んでおるところ以外、要するに、動けんのじゃのう。 えー、そういう人もおるし、あの世でも、空を飛べる、ほんとうは皆んな空を飛べるんじゃけれども、空を飛べん人もいっぱいおるんじゃ。飛べんと思うとるんじゃ。空を飛ぶと、要するに、地面に落ちたら痛いと思うとるから、飛べんのじゃのう、そういう世界もある。じゃから、結局、その人の、まあ、開発した能力の範囲じゃのう、それによって、違うわけじゃ。 じゃから、まあ、地上に出て、今、お前たちも、正法神理というのか、よう知らんが、まあ、仏法を説いとるようじゃけれども、ずいぶん悪霊にもやられるじゃろう。悪霊の影響もあるじゃろう。これを跳ね返すのが法力じゃ。じゃから、この法力はやはり、何と言うかのう、そういう超能力の強さで左右されるんじゃ、多少は。そういう能力が強いと、やはり、そういう法力もついてくるから、悪霊をねじ伏せるのはわけないんじゃ。じゃから、そういう意味では、ある程度法力もつけにゃあ、いかん。 法力というのは何かと言うと、結局、念の力じゃのう、念の強さと、まあ、それを実現する力じゃ。念ちゅうてもわからんかのう、思いの力じゃ。思いの力でのう、あと、思いの力があっても、それが実際に、具体的に、何ちゅうかのう、実現するということを知っとらん人は、できんのじゃ。 8.恋愛成功率も "念" の強さで決まる まあ、地上のお前さん方もそうじゃろう。願いごとは叶(かな)うじゃろ。何じゃのと言うとるけれども、願いごとが叶うちゅうて、まあ、神社の前で手を合わしているのはええけれども、合わしただけだと、もう忘れとるわのう。恰好だけじゃの。そうじゃなくて、願いごとが叶うには、叶うということを、要するに、まあ、知っとらにゃいかんのじゃ。ほんとうの意味で、ほんとうの意味で知っとるものは、それを実現できるんじゃのう。それが、ほんとうの意味でそれを知らんと、願いごとした人はやりっ放しということじゃの、これはダメなんじゃ。やっぱりそれを受け取るだけの、願いごとが実現したときに、受け取るだけの心境というのがやはり大事じゃのう。それを信じることができるかどうかじゃ。 したがって、たとえば、頭で、わしらの世界で空を飛べると思うておっても、これは皆んな知っていたとしても、やっぱり、空を飛ぶのは怖いと思う人は飛べんし、飛んだところで何のもんじゃと思う人は飛べるんじゃ。そういう違いがあるのう。まあ、そういうことじゃ。 じゃから、この世でもあろうに、女子(おなご)の子と言うのかのう、女の子を見て、きれいじゃと思うて、いい寄って行くのう。それで、結婚してほしいと思うて、まあ、プロポーズするんじゃけれども、向こうが戸惑(とまど)うと、すぐもう腰砕(くだ)けになってのう。男でも、プロポーズはするんじゃけれども、ちょっと女のほうがちゅうちょすると、もうそれだけで腰砕けになる。いやあどうもすみませんでした、なかったことにして下さいと、すごすごと帰って来る、まあ、こういうのを腰砕けと言うんじゃが、まあ、この類(たぐい)というのはのう、法力を持っとらんわけじゃ。 したがって、そういう願いがあるんじゃけれども、願いの実現を、要するに、受け取るだけの器(うつわ)がまだできとらんのじゃ。こういうの、よーあるんじゃ。 女の子に迫ってはのう、ダメじゃ、たとえば、田舎から出て来てのー、都会の若き、美しきレディを何とかしてものにせんとして頑張るんじゃのう。そして、やっとデートに誘い出したと、おっ、やったやったと思うんじゃが、二人きりになったら、やたらそわそわしてのう、今度は自信がのうなってきて、誘い出したまではよかったけれども、気まずーなってしもうて、話す言葉がなくなってしまう。で、ちょっと僕は、帰って用があります、と。帰ってズボンにアイロンかけにゃあいかんから、早く帰るなんて言って、公園から逃げ出したりする男もある。まあ、こういうのも、要するに、思いが実現しかかって、後がダメなんじゃのう、腰砕けじゃ。 まあ、女の子でもあるんじゃのう。逆に、何とかさんと結婚したいしたいと思うて、何とかプロポーズしてくれんじゃろうかと思うて、ずーと待っておるんじゃ。いざプロポーズされると、そんなことはあり得ない、信じられない、こんなのきっと騙(だま)されているんじゃないかしら、あるいは、他にも好きな人がいるんだけれども、私を、何と言うか翻弄(ほんろう)して遊ぼうとしておるんじゃないかしら、私は、惨(みじ)めに捨てられるんじゃないかしらなどと、妄想を巡らして、待ちに待ったプロポーズを断わる女がある。 そして、だいたいこれは、皆んな後悔するんじゃ。まあ、後悔しておる女の多いことよのー、見てると。まあ、だいたい行きそびれている女性というのは、皆んな後悔している。ああ、あのとき、受けておけばよかったというのばっかりじゃ。まあ、だいたい九分九厘そうじゃ。だいたい、一回ぐらい、皆んなあるんじゃ。それらしきことはのう。 これはじゃけど、まだ出て来るわとかのう、もっとええのが出て来ると思うて、まあ、いったん蹴るんしゃ。あるいは、もっと強く言ってきたら受けてやろうなんて思って、蹴っていると、もう二度と出て来ん。そうして、まあ、一、二年で出て来ると思っとって、待っとったら、だれも出て来んかった。気がついてみたら、二十年も過ぎておったとか。まあ、こういうのが、ようあるんじゃのう、こういうのが。 まあ、そういう、何と言うのかのう、法力が足りんのじゃ、法力がのう、法力が足りんのじゃ。こういうときに、いいのが出て来ると言うとらんと、まあまあ、とりあえず結婚してみて、ダメだったら、その男を捨てりゃあいいんじゃ。捨てて、もうひとつ、次のを見つけりやええんじゃけれどものー。それだけ、割り切る気持ちもない。まあ、そういうこっちゃのう、まあ、これも法力のひとつじゃ。 9.法力は、転生輪廻の過程で得た個人別の霊力 まあ、こういうふうに、法力と言うけれども、まあ、これはある意味では、ひとつには器(うつわ)じゃのう、器なんじゃ。そういうことが叶っても、これを受け入れられる器じゃのう。まあ、たとえば、霊能力がついて、諸霊たちと話ができるようになっても、まあ、それは器というのがあってのう、どこまで引き出せるかどうか、王仁三郎と聞いただけで逃げ出すような人であれば、わしの話はできんのじゃ。王仁三郎様と言えば、「キャー、ステキ」と、まあ、これは救世主じゃないかと思うような人であれば、これは、法力がそれだけあると言えよう。 まあ、そうしたもんじゃのう。したがって、法力というのは、念の強さであって、それを実現できるというような、遂行(すいこう)能力じゃのう。これを法力と言う。これは、善いことでも、悪いことでも、意外に使えるんじゃ。そして、法力そのものが転生輪廻の過程で、けっこうついてくるんじゃのう、まあ、ひとつの力じゃ。才能みたいなものと言ってもよい。いったん獲得したものは、なかなかなくならん。 10.新興宗教百あるなかで、九十六までは悪魔に憑かれている そういうことで、地獄霊のなかでも、法力を持っとるものがいっぱいおるんじゃ。これは、過去一生懸命やっとるのじゃのう。法力をつけるのに一番いいのは何かと言うと、まあ、要するに、念の集中する作業をすれば、法力がついてくるわけじゃ。まあ、密教の一派だな。こういうのもそうじゃし、あるいは、行をやる人たちじゃな。山岳で行をやっとる、滝行をやったり、いろんな行をやっとる者がおる。それから、誤解されんように言えば、まあ、ヨガの一派じゃのう。ヨガだって、そりゃあ、正しいヨガもあるけれども、そうじゃないヨガもあろう。そういうのもあるし、まあ、他にもいろいろある。そういうのをやると、だいたい念力が強うなるのじゃ。 それで、そういうふうにいったんつけた念力というのは、まあ、そう簡単にはなくならん。これをなくすには、やはり同じだけの努力がいる。同じだけの時間と労力がいれば、だんだんに衰(おとろ)えていくっていうことがあるけれども、いったん獲得したら、なかなかなくならん。そういうことで、まあ、地獄の魔王たちもそうじゃのう、だいたい、そういう法力を持っとって、地獄へ行って見ていると、おもしろいんじゃのう。 普通の地獄霊というのは、まあ、たいしたことは、できんわけじゃ。そして、のどかに、と言っては何だけれども、そこそこ平凡に生きとるわけじゃ。ところが、魔王じゃとか、悪魔じゃとか言われる人たちは、法力を持っとってのう、たとえば、そこらの、地獄霊が五、六匹おったら、それをまとめてすっ飛ばすぐらいできるわけじゃのう。 ところが、そうした普通の地獄霊から見れば、これは信じられんことじゃから、恐れおののいて、平伏(ひれふ)すわけじゃ。何せ、五人、六人をまとめてふっ飛ばすわけじゃのう。ポーンと、そういうことができる。念の力じゃのう、これを開発している。まあ、そういうことがあるわけじゃ。 じゃから、こういう悪霊と言うか、まあ、サタンと言うか、これが地上の、正法行者たちにとっついてくると、これが大変なことになるわけじゃのう。まあ、彼らも、要するに、念の力が弱いと負けてしまうという弱い心の持ち主だと、大変じゃ。じゃから、正法行者と言うても、心を強く持たにゃあいかんわけじゃ。 まあ、今までも、見とったらやられているところが、いくつもあるぞー。言うてもええが、まあ、読者が滅るといかんから、止めておこうかのう。いっぱいあるぞー、言ってやろうかな、止めようかな。まあ、止めておこうか、そういう大悪魔に引かれておるような集団がいっぱいおるぞー。 まあ、宗教が、新興宗教百個あれば、そうじゃのう、そういう悪魔、大悪魔、中悪魔、小悪魔、いっぱいおるけれども、何かにやられておるというのは、百個あれば、まあ、九十六ぐらい、やられておるのう。まあ、ほとんどそういうこっちゃ。だから、現在にはまともなところがないっちゅうのは、あたっとるわけじゃ。百あれば九十六ぐらいはやられとる。間違いない。それで、普通であっても、ときどきやられておるところもいっぱいある。ときどきやられておるときに、まあ虫歯と一緒じゃのう、 ちょっと痛みかけたときに治しとかんと、歯を抜かにゃあいかんことになるわけじゃ。ボコッとのう、歯を丸ごとやられてしもうて、抜かにゃあいかん。こういうふうに、普通のところであっても、チョコチョコと、そんなふうにやられているうちに、そのうち、ザクッとやられてしまうことがある。そういうこっちゃのう。 とくに、そういう能力を誇った、病人治しをしとる人は、そのうち、やられてしまうことが多い。病気治しか何かでのう、自分の能力で治ったと思って、喜んで、いつまでもやっているうちに、だんだん、治せんような大きなのがかかってきて、それにバカッと入られてしまうと、もう取りようがない。こういうのがいっぱいあるんじゃ。これは気をつけにゃあいかん。まあ、そういうのが、主に仙人の働きじゃのう。 11.天狗と仙人との違い、天狗は威張りたいだけ さて、もうひとつの天狗さんのほうをちょっと言うとこうか。まあ、天狗さんと言うてものう、それこそ、今活躍しとるのは、そうじゃのう、上野辺じゃのう、上野辺じゃ、天狗さんが活躍しているようじゃのう。あるいは、銀座、上野、渋谷、新宿。読者よ、ご推察あれ、天狗さんが活躍しておるのは、そんなところじゃ。まあ、そういうことで、現代人というのは、天狗さんの信仰というのが薄れとる。まあ、天狗さんの出番がないんじゃ全然のう。出番がのうて困っとる。 今の仙人と天狗の違いというのは何かと言うと、まあ、仙人は多少なりとも、人を何と言うかのう、救おうという気持ちはあるのじゃ。人を救おうという気持ちがあって、ただまあ、若干、心の教えのほうはあまりやらんというぐらいのことじゃのう。これが仙人の系統じゃけれども、天狗の系統は、人を救うっていう気持ちは全然ない、さらさらないんじゃ。これがのう、天狗さんはさらさらなくて、まあ、いねば、威張っとるんじゃ。 まあ、地上にも、これは多いぞ。そういう意味ではのう。今言ったような、繁華街だけではないぞ。それは、会社のなかにもいっぱいおるぞ。あるいは、ワンマン経営者のようなのも、いっぱいおるぞ。まあ、だいたい天狗の特徴は、ひとことで言うと、威張りたいんじゃ。要するに、威張れたら、それで幸せ。じゃあ、威張るような人は地獄じゃないかと言うが、まあ、そうとも言い切れんのがあるのじゃのう。 たとえば、たたき上げの何と言うか、商売人、わしは商売がうまい、とふんぞり返っておるのがおるわのう。まあ、これらでも、ほんとうにいい商売をしておるような場合もある。そしてまあ、それほど人を傷つけたわけでもなく、いい商売をして、ただわしは日本一じゃと、銀座一じゃと言うとるのがおるわのう。まあ、これらが地獄へ行くわけでもない。ただ、まっとうなところへ行くという人とは、あんまり合わんから、そういう天狗さんの世界へ行くわけじゃ。 じゃから、天狗さんと言うても、前も言うたけれども、プロレスラーや相撲取りだけでもないわけじゃ。わしは銀座一の寿司職人じゃとかのう、あるいは、浅草一の何とかづくり職人じゃとか、おるけれども、このなかにも、天狗さんはいっぱいおるんじゃ。あるいは、手相見、人相見、仙人かと思うたら、天狗も多い。わしのが百発百中当たらんことがあるものかちゅう、こんな天狗さんが多い。 あるいは、どこかの出版社にもおるぞー。天狗さんなんちゅうのは。わしのところの出版物は天下一品じゃ。売れんのは人が悪い、著者が言おうが、だれが言おうが、わしが嫌(いや)なものは嫌なんじゃちゅうて、まあ、要するに、著者が頭を下げてくるのしか認めんちゅうような出版社もおるぞー。要するに、へいつくばってきたら、出したる。売れたら、出版社の力じゃ。お前らの力じゃないちゅうてのう。著者より絶対偉いとふんぞり返っておるのがおる。 まあ、こんなの、天狗じゃのう。天狗の一派じゃ。まあ、霊が好きじゃろう、こういうのは。だから、天狗さんも地上に出ておるけれども、霊が好きなのも確かじゃ。皆さん、だいたい霊が好きじゃのう。まあ、心霊治療なんかも、まっとうなちゅうたらあれじゃけれども、光の天使の系統もあるけれども、まあ、天狗さんもけっこう入っておるのも確かじゃ。じゃから、同じ教団のなかでも、光の天使と天狗さんと両方やっておるのがいる。そういう超能力だけが好きでやっておるのも多いし、また、人を救いたい気持ちがあるのも多いしのう。 12.光の天使、仙人、天狗、地獄霊と入れ替わるので用心、要心 心霊治療の系統を見ると、そうじゃのう、まあ、天狗、仙人、光の天使が入り乱れておるちゅうことじゃのう。どこもここも、入り乱れておるのう。まあ、いろいろと、あっちこっち、いっぱい入っとるわ。腕の見せどころなんじゃのう、心霊治療なんてのは。ああ、じゃが、光の天使なんか、最初いろいろ治療したりしてやっとるうちに、治療者なんか、だんだんいい気になってのう、わしの能力は天下一品じゃと、わしが治せん病人はおらんなんてやっとるうちに、だんだん光の天使が来んようになってしまい、次第に仙人さんが出て来てくれる。 まあ、仙人さんのうちはまだいいんじゃけれども、仙人さんが、天狗に変わってくると、これはちょっと狂ってくるんじゃ。仙人さんから天狗のほうへ変わってくると、今度はだいたいなあ、女遊びを始めてみたり、それから、株に手を出したり、博打(ばくち)やり始めるのは、これは、だいたい天狗さんがやり始めとるんじゃ。もともとは違うんじゃけれども、まあ、仙人は、そこまではいかんのじゃ。 天狗までいくと、だいたいそうじゃのう。天狗は、わりに色と欲とが強いんじゃ。色欲がのう。色欲もあれば、酒も大好きじゃ。だから、天狗さんが入って来ると、酒も好きになってくるぞー。今まで酒が飲めんかったのに、急に大酒飲みになってきて、いやあ、酒は健康にいい、霊力がますます増してくる、酒飲んだらますます治療がうまくいく、なんて、こんなのかおる。酒飲んだら治療がうまくいったり、タバコのんだら非常にうまくいったりのう、だいたいおるんじゃ。 麻薬(まやく)のんだり、で、ずいぶん能力を発揮できたというような人がおるんじゃー。だいたいこういうのは、天狗さんじゃ。こういうふうに、まあ、この三者も三つ巴(ども)でな、いろいろあるんじゃ。それで、だんだん入れ替ってくることが多い。そして、天狗さんがやっているうちに、だんだん、天狗さんが飽きてのう、今度は下のほうの天狗さんが入ってくる場合がある。魔界の天狗さんが、だんだん入ってくるようになってきてのう。だから、最初やっておる人が、そういう治療家が、心がそう悪くないうちは、だいたいそういうところにおるんじゃが、真っ黒けになってくるとのう、だんだん、下のほうへ行くんじゃ。それじゃから、天狗さんから、次に、地獄天狗のほうへ回っていき、地獄天狗からもっと大きいのに変わっていくのがわりに多いのう。 天狗さんも、よう天国におるもんじゃと思うけれども、まあ、これは、神様が創ったからしようがないんじゃ。恐竜とか、蛇とか、何であんなの創ったかと思うじゃろうが、まああれも、景色のために創ったんじゃ。天狗なんちゅうのもいらんじゃろうと思うけれども、これも一種の精霊(せいれい)でな、精霊というか、自然霊なんじゃ。そういうのもいると思って創ったんじゃ。だからまあ、いわゆる山の神とか、よくあるなあ、海の神、山の神、水の神とかあるけれども、まあ、天狗さん系統が多いのは確かじゃ。