約 78,676 件
https://w.atwiki.jp/nicotetsu/pages/1326.html
背景 20世紀末期まで、初音村(当時)一帯は主要な道路網・鉄道網のいずれからも遠く離れており、数十戸程度の集落が点在する寒村地帯であった。2000年に開業した「ニコニコ鉄道」も、初音と矢部野の2駅間を運行するローカル鉄道でしかなく、おまけに線路こそ複線だったものの、実際には貨物用と旅客用の単線運行が行われていたに過ぎなかった。 ニコ鉄社内では「いつかは環状線」と、初音線の将来構想が語られることもなくはなかったが、当時は具体的な事業計画が策定されていたわけでもなかったという。いわば『夢物語の環状線』が語られるのみであった。 都市化の進行 転機が訪れたのは、2003年の「ちゅるや百貨店」の開業だった。開業以来の主力商材であった『ちゅるや百貨店 スモークチーズ』が大ヒット。「スモチ特需」に沸いた初音−矢部野間の乗客数は、土休日に都心の通勤ラッシュアワー並みの混雑を記録し、一時は乗り切れない乗客が出るに至った。矢部野駅周辺の都市化は急速に進み、わずか4年で初音エリアの商業中心地となるに至った。 開業以来乗客数が伸び悩み、経営難に陥っていたニコ鉄はこれで息を吹き返す。 経営が安定し、ようやく路線の拡大に目処が付いたニコ鉄は、初音線を遮那駅(現在の遮那寺駅)、柊山駅(現在のひいらぎ台駅)へと延伸する。遮那駅にはマンション群「フレイムハイツ」、柊山駅にはオフィスビル群「ヒイラギ・センチュリアタワーズ」も同時に建設され、これが初音市街全体の都市化に大きく寄与する。 二つの「環状線構想」 初音の発展ぶりを追うように、「環状線」構想もむしろ必然の計画として語られるようになってゆく。2009年には、主要各紙が一斉に非公開の行政文書の存在を報じる事件も起きた。これは『メビウス・プロジェクト』と題された文書であり、メビウス状に組まれた環状鉄道網を初音市街全体に敷設し、2040年には、その鉄道網で「8の字」のダブルループでの鉄道運行を実施するという、大規模な開発構想を記したものであった。 この文書の正体は、初音町役場(当時)が都市計画を策定する上でシミュレートしたシナリオの一部が漏洩したものであって、ニコ鉄の経営計画と全く摺り合わせていないものであったが、急速に進行する都市化と、その歪みによる各種事件の表面化と重なり、大きな議論に発展した。 2010年にはニコ鉄本社が「メビウス・プロジェクトは存在しないプロジェクトである」と公式に否定し、同時に『初音環状線化構想』を提示したことで、議論は一旦沈静化した。 環状化の達成 ひいらぎ台から先は「五飛」「孔明」までを一気に開通させ、「孔明」と「矢部野」が結ばれることで、初音線はついにレールが環状となり、環状運転を開始。この際、矢部野駅の西側は既に市街地化していたため、矢部野駅西口の地下化・連続立体交差事業も同時に行われた。
https://w.atwiki.jp/tatsuya1913/
ようこそ、京東鉄道総合サイトへ。 ここでは京東鉄道グループ(京東全国鉄道網)の路線紹介などをするサイトです。
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/677.html
<目次> ■分かり易い台湾史 ■東アジアで民主法治国家は日本と台湾だけ ■誇り高き台湾の人々 台湾の飛虎将軍廟 台湾の日本統治(第日本帝国・台湾総督府)による善政 中国人(国民党=中華民国の外省人)による台湾人大虐殺 ■台湾関連サイト ■書籍 http //www.nicovideo.jp/watch/sm1331591 日本人以上に日本を大切にしている台湾の人たち (コメントを消す場合は画面にカーソルを当て右端のマークをクリック) ■分かり易い台湾史 http //www.nicovideo.jp/watch/sm7620849 新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論(2000年11月発行)より1 (コメントを消す場合は画面にカーソルを当て右端のマークをクリック) http //www.nicovideo.jp/watch/sm7620954 新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論(2000年11月発行)より2 (コメントを消す場合は画面にカーソルを当て右端のマークをクリック) http //www.nicovideo.jp/watch/sm7621040 新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論(2000年11月発行)より③ (コメントを消す場合は画面にカーソルを当て右端のマークをクリック) http //www.nicovideo.jp/watch/sm7621165 新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論(2000年11月発行)より④ (コメントを消す場合は画面にカーソルを当て右端のマークをクリック) http //www.nicovideo.jp/watch/sm7553139 新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論(2000年11月発行)より⑤ (コメントを消す場合は画面にカーソルを当て右端のマークをクリック) ■東アジアで民主法治国家は日本と台湾だけ 尖閣諸島で海上保安庁の巡視船と支那漁船との接触事故(詳細)後に日本へ来ていた支那人観光客のバスを街宣右翼が包囲したというニュースが報じられた。 これに対し、台湾人の反応は「街宣右翼 = 朝鮮人」(※ )というような書きこみも多かった。 支那共産党や北朝鮮は論外だが、韓国でもネットの匿名性が低く 、著しい反日教育とナショナリズムがある為、韓国政府や韓国人に都合の悪い情報は排除される。 台湾や日本にはそういった規制は今のところなく、言論の自由は保障されている。 また、韓国は法治国家といわれているが、人治(韓国人に都合よく法律を解釈でき、民意で罪が決まる)国家。 例:法の不遡及無視の財産没収、対馬は韓国領などの法律、韓国人と外国人の裁判だと韓国人の勝訴が多い(特に日本人だと100%) これらは当サイトの韓国関連のページや厳選!韓国情報 ・こりあうぉっちんぐ などの韓国の情報サイト参照すれば理解できる。 ■誇り高き台湾の人々 日本と台湾~東アジアの2つの民主国家 李登輝(元総統)日本外国特派員協会での記者会見一部(平成19年6月) 李登輝(元総統)靖国参拝後の講演での質疑応答 李登輝氏:講演原稿『日本の教育と私』 金美齢氏:公式ホームページ 台湾の飛虎将軍廟 台湾南部の台南市。日本軍人が神として祀られ、「君が代」が毎日流れています。 台湾の飛虎将軍廟 台湾の日本統治(第日本帝国・台湾総督府)による善政 未開原住民(首狩り族)の懐柔・開化、寛容な法令の施行・導入、阿片常用者の治療(漸禁策)、学校制度の導入、鉄道網・道路の構築、銀行・通貨制度、農地改革、医療制度による瘴癘(伝染病)の根絶、民間学者による動植物の調査、中国大陸からの匪賊討伐など 毒水と呼ばれた水を飲料に適した水に変えた八田與一による烏山頭ダムの建設、より現地に適した方法を考えた後藤新平の統治などが有名 中国人(国民党=中華民国の外省人)による台湾人大虐殺 2・28事件、白色テロ(白色恐怖) 1947年2月28日に台北市をきっかけに起こった蒋介石・蒋経国父子率いる国民党政権や兵士による大虐殺・弾圧・粛清、以後1987年までの約40年間戒厳令の名のもと続く。この時、台湾でも中国のような反日教育・政策が行われた。映画「非情都市」に描かれる。白色の由来は共産党の赤(共産・社会主義)に対する白とされる。 【関連】 NHKの正体 世界から見た日本 教育勅語とその精神 ■台湾関連サイト (↓自動検索による外部リンクリストです。) #bf #bf ■書籍 ■新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論 (単行本(ソフトカバー)) <出版社 / 著者からの内容紹介> 李登輝前総統、陳小扁総統との会見他、台湾を徹底的に取材すると、なんと日本が見えた! 日本人とは何か? 国家とは何か? この問題を解く鍵が日本の遺産を守り継ぐ隣国にあった!ナショナリズム、アイデンティティを、小林よしのりが今世紀最後に問う衝撃作! <内容(「BOOK」データベースより)> 「日本人」とは何か! 「国家」とは何か! この問題を解く鍵が、日本の遺産を守り継ぐ隣国にあった。李登輝前総統、陳水扁総統と、とことん話して見えてきたのは日本の危機だった。なぜ凄絶な“国産み”を続ける台湾を描いたのか。衝撃のラストこそ日本人への激烈なメッセージだ。 ■セットで読む中国の民族問題解説ページ■ 東トルキスタン侵略の正体 チベット侵略の正体 南モンゴル侵略の正体 台湾の真実 中国の歴史・中国文明 辛亥革命~中国近代化運動の実際 台湾の真実についての情報、ご意見 試験的にコメント欄を付けました。活用して下さいね。 -- 名無しさん (2009-07-07 21 20 58) 台湾は支那に唆されて反日に転じた事実はスルーですか? -- 名無しさん (2009-08-13 20 11 12) 中華人民共和国(支那)台湾省は親日を装っているだけです。騙されてはいけませんよ。 -- 名無しさん (2009-08-19 22 54 26) 親日国を増やすことですね。これからの中間目標は。 -- 名無しさん (2009-10-20 18 31 47) それも多分嘘。反日を掲げる国民党の支持率は急落中、とのこと。 -- 名無しさん (2010-01-09 17 54 37) 台湾は独立すべき -- 名無しさん (2010-02-01 18 32 51) 今日台北のスターバックスで台湾人に日本語教えてたらとなりの30代ぐらいの女性から、日本語しゃべるな、むかつく!といわれました。全体的には親日とは思いますが、中には日本が嫌いな台湾人もそこそこ居るようですね。 -- 無關藍綠,沒有政治立場) (2011-03-11 19 41 26) 台湾は外省人(支那人)がいても親日・友好国だと思います。 -- 名無しさん (2011-08-10 03 54 54) 「作ってほしいページ」にも書きましたが、「台湾の問題点」の作成もお願いできますか?(恐らく媚中派の国民党が原因かと・・・) -- 名無しさん (2011-08-12 10 56 25) 高金素梅の反日行為はスルーですか? -- 名無しさん (2011-08-13 22 00 36) ↑一応「反日有名人リスト」に載ってます。 -- 名無しさん (2011-08-14 00 31 24) 馬英九の正体 -- 名無しさん (2012-01-15 12 53 01) 親日国を増やすって「利用する」ってことでしょ?なぜ、インド・台湾・トルコを利用したいの?親日国といって。ならば、アメリカやベトナムのほうが心からの友だと思うけど。 -- mizuno (2013-06-28 18 53 31) ↑無知をさらしてごめんなさい↑ -- mizuno (2013-06-28 18 58 18) 台湾っていつから中華人民共和国になったの? 政治体制は中華民国だけど国名台湾だったような。 -- 名無しさん (2013-12-25 20 52 06) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/621.html
相馬事件(そうまじけん)とは、明治年間に起こった御家騒動の一つ。精神病患者への処遇や、新興新聞によるセンセーショナルな報道の是非を巡り、世間へ大きな影響を与えた。 経緯 旧中村藩主、相馬誠胤(そうまともたね)の統合失調症(推定)の症状が悪化。 1879年に家族が宮内省に自宅監禁を申し入れ、以後自宅で監禁、後に癲狂院(現在の精神病院に相当)へ入院。 1883年、旧藩士の錦織剛清(にしごりたけきよ)が主君の病状に疑いを持ち、家族による不当監禁であるとして家令・志賀直道(志賀直哉の祖父)ら関係者を告発したことから事件が表面化した。 告発を行った錦織に対し、世間からは忠義者として同情が集まった。 当時は精神病の診断も未熟であり、高名な大学教授等による精神病の診断がまちまちの結果となった。正常との判断を下す医師もおり、混乱の度合いが増すこととなった。 1887年、錦織が相馬誠胤が入院していた東京府癲狂院に侵入。相馬誠胤の身柄の奪取に一旦は成功するものの一週間で逮捕。錦織は、家宅侵入罪に問われ禁固処分を受けるとともに、偏執的な行動が批判を受ける。 1892年、相馬誠胤が病死。錦織はこれを毒殺によるものとし、1893年、再び相馬家の関係者を告訴、遺体を発掘して毒殺説を裏付けようとした。しかし最終的に、死因が毒殺とは判定できなかった。 1895年、錦織が相馬家側より誣告罪で訴えられ、後に有罪が確定。事件は収まりを見せた。 法制度への影響 相馬事件がきっかけとなり、精神病者の監護(監禁および保護)の手続きについて問題意識が高まり、1900年に精神病者監護法が制定された。これは精神病者の人権保護や治療を目的とするものではなく、精神病院(精神病室)および私宅(神社仏閣における参籠所や公私立の精神病者収容施設なども「私宅」のカテゴリーに含まれる場合もあった)における監置を法によって規定するといった隔離を主眼にするものであった。 関連項目 座敷牢 萬朝報(相馬事件を大きく取り上げた新聞) エルヴィン・フォン・ベルツ(相馬誠胤を精神病患者として診断した医師の一人) 後藤新平(錦織剛清の支援者の一人。この事件に関係して一時逮捕される) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月23日 (日) 13 29。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1991.html
「果たし状」に対するNHKの回答 http //www.emaga.com/bn/bn.cgi?3407 より転載 日本李登輝友の会 会長 小田村四郎様 貴日本李登輝友の会から日本放送協会会長宛に送られた「公開討論会の開催と登壇の要請」について、会長に代わって当該番組の責任者として小職が回答させていただきます。 まず、先日14日付けで貴日本李登輝友の会にお送りした回答について、「自己弁護に汲々とした不誠実な内容」とされていることをきわめて残念に思います。「日本が一方的に台湾人を弾圧したとするような史観」で番組を制作していないということを、あらためて申し上げます。 番組では、日本が植民地時代に、台湾において鉄道や港湾などの社会的基盤を整えたこと、樟脳産業が活性化したことなどを取り上げています。後藤新平につきましても、台湾統治の成果をあげたことを事実を積み上げて紹介しています。 柯徳三さんについては、その人生に日本統治の二面性が反映されていることを描いています。ひとつは、同化政策によって、日本人と同じ小学校に通い、中学校に進学することが可能になったことです。またその後、台北帝国大学医学部に進学したことも伝えています。一方で、同化政策の後も、台湾人子弟の入学者が制限され、社会的差別があったという面も、事実にそって伝えています。 柯さんをはじめ台湾の方々を取材したインタビューは長時間におよびますが、「台湾人の証言を都合よく操作」していることはなく、番組はそれぞれの方への取材内容を正確に反映していると考えます。 番組の反響の中には、台湾の方々の証言に感銘を受け、日本と台湾との絆を考える契機になったというものも少なくありません。前回4月9日付けの抗議声明の中に「差別もあった。この差別について、特に台湾の日本語世代は日本人の前ではあまり語りたがらない一面がある」とありましたが、こうした面を率直に語ってもらうことが、歴史の事実を共有し、日本と台湾の絆をさらに深めるきっかけの一つになるのではないでしょうか。もちろん、台湾が親日的であるという事実は多くの日本人が認識していることであり、この番組でも伝えています。 また、番組全体にわたる事実関係や使用している用語については、国内や海外で数多くの研究者を取材し、確認を重ねています。「事実を歪曲した」とは考えていません。 今回の文書には、「当該番組を検証する公開討論会の開催を要請する」とありますが、私たちは番組内容が偏向していたり、事実関係に間違いがあるとは考えていません。そのため「番組を検証する」必要はないと判断しており、「公開討論会」の要請には応じかねます。 なお、事実関係などについてご質問があれば、今後も誠意をもって回答する所存です。 以上、なにとぞご理解よろしくお願いいたします。 平成21年4月28日 日本放送協会 ジャパンプロジェクト エグゼクティブ・プロデューサー 河野伸洋 【資料】NHK JAPANデビュー第1回『アジアの“一等国”』をめぐって
https://w.atwiki.jp/yoneden/pages/110.html
東京 | 新橋 | 品川 | 川崎 | 神奈川信号所 | 横浜 | 戸塚 | 大船 | 藤沢 ■北急鎌倉線(北藤沢接続) | 国府津 | 小田原 | 熱海 | 三島 | 沼津 | 富士 | 静岡 | 浜松 | 豊橋 | 名古屋 | 関ヶ原 | 大阪
https://w.atwiki.jp/yoneden/pages/45.html
本線 江ノ島線
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/55.html
南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、略称 満鉄、英称 South Manchuria Railways Co.)は、日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで中国東北部(旧満州)に存在した日本の特殊会社である。鉄道事業を中心にするが、きわめて広範囲にわたる事業を展開し、満洲経営の中核となった。初め大連市、のちに新京特別市に本社が置かれ、東京市麻布区麻布狸穴町に東京支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。 設立経緯 thumb|right|満鉄が営業した大連ヤマトホテル。現在も[[大連中山広場近代建築群#旧 大連ヤマトホテル|大連賓館として当時の建物で営業されている。]] 南満州鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄道提理部を母体に、日本政府が1906年に設立した半官半民の特殊会社である。 日露戦争(1904年-1905年)の勝利により、ポーツマス条約の結果ロシア帝国から譲渡された東清鉄道の南満州支線・長春 - 大連間の鉄道施設・付属地と、日露戦争中に物資輸送のため建設された軽便鉄道の安奉線(安東(現・丹東) - 奉天(現・瀋陽)間)とその付属地の経営が当初の設置目的であった。 初代総裁には台湾総督府民政長官として植民地行政に実績を挙げていた後藤新平が就任した。後藤は満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉により満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することを時の首相、西園寺公望に飲ませている。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することも認めさせた。 活動概要 午前八時主義 後藤は「午前八時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代の腹心で40歳そこそこの中村是公を副総裁に抜擢し、中村とともに30代、40代の若い優秀な人材を理事はじめ要職にスカウトした。三井物産の門司支店長から抜擢された犬塚信太郎に至ってはまだ32歳であったが人物・識見を買われ理事となった。 多様な事業展開 満鉄は単なる鉄道会社ではない。日露戦争中に兒玉源太郎が後藤新平の影響を受けて献策した「満州経営梗概」には「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ。」とあり、それを具現したのが満鉄なのである。 満洲を中心とした鉄道経営のみに留まらず、炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、農林牧畜、ホテル(ヤマトホテル)などの多様な事業を行なった。後藤の発案で設けられた満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクとして知られた。 後藤は「満鉄十年計画」を策定し、ロンドンでの社債の発行によって2億円を調達し、これらの事業を進めた。 鉄道付属地行政 また、ロシア帝国から引き継いだ鉄道付属地での独占的行政権を与えられており、地方部のもとで大規模な近代的都市計画(大連、奉天、長春のちの新京など。)を進めた。上下水道や電力、ガスの供給、さらには港湾、学校、病院、図書館などのインフラストラクチャーの整備を進め、満洲経営の中心となった。 標準軌への改軌 レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1067mm)の狭軌に改築していた。これを、政府の命令書により中国や朝鮮などに合わせて4フィート8.5インチ(1435mm)の国際標準軌間に改築しなければならなかった。1908年には大連 - 長春の本線の改築が終わった。不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることになり、周水子駅で異例の機関車の送別会が行なわれた。また、日露戦争中に軽便鉄道として敷設された安奉線も標準軌に改築された。 政党の介入と社員の抵抗 1912年12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭される。立憲政友会出身の内務大臣・原敬の差し金であった。総裁に政友会系鉄道官僚・野村龍太郎、そして副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が送り込まれた。これ以来、満鉄幹部のポストは政党の利権の対象となり、社員と激しく対立することもしばしば生じた。伊藤大八はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、創立以来の理事であった犬塚信太郎が強硬に抵抗した。その結果、犬塚と野村、伊藤はいずれも株主総会で更迭された。 1918年原敬内閣が成立すると、原は1919年4月、理事長・国沢新兵衛を更迭し、社長に再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚・中西清一を抜擢した。 中西は塔連炭坑と内田汽船を異常に高い値段で買収した。塔連炭坑は政友会の幹部・森恪が経営していた。内田汽船も政友会系の人物が経営していた。炭坑や汽船を満鉄に売りつけた代金は政友会の選挙資金に充てられた(満鉄疑獄事件)。野党・憲政会はこの問題を帝国議会で追及し、中西を背任罪で告訴した。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがいた。興業部庶務課長であった山田潤二は野村社長と中西副社長に直言し、容れられないと職を辞し、検事に決定的証拠を提出した。中西は逮捕・起訴されるが、控訴審で無罪となる。 こうした度重なる政党の介入に対し、社員は団結し、1927年、社員会を結成する。 張作霖爆殺事件と満洲事変 Template See? 昭和に入ると、満鉄は相次いで関東軍の陰謀の舞台となる。 1928年6月4日、満鉄の車両が奉天付近で爆破され、乗っていた奉天派軍閥の領袖、張作霖が死亡した。これが張作霖爆殺事件であり、中国人の犯行に見せかけた関東軍の陰謀であった。結果は失敗に終わり、首謀者・河本大作陸軍大佐は予備役に編入される。(後に河本は満鉄の理事になる。) 1931年9月、満鉄の柳条湖付近の線路の爆破事件(柳条湖事件)は、満州事変の発端となった。関東軍高級参謀・板垣征四郎、同参謀・石原莞爾らの陰謀であったが、当時満洲を支配していた張学良と戦闘状態に入り、圧倒的な軍事的勝利により、満洲全土を関東軍の支配下に置くことに成功した。 当時、総裁内田康哉以下の満鉄首脳は事変の不拡大を望んでいたが、理事の中でただ一人事変拡大派であった十河信二の周旋で内田が関東軍司令官・本庄繁と面談すると、急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することになる。この満洲事変、および満州国の成立によって満鉄の性格は大きく変わることを余儀なくされる。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の満洲国駐箚特命全権大使となったが、この職は関東軍司令官が兼任していた。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入ることとなった。 北満鉄道買収と営業キロ数の伸び 鉄道は満鉄本来の路線(社線)つまり新京(現・長春) - 大連・旅順間の満鉄本線と安奉線のほかに、満洲国が1935年にソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・東清鉄道)をはじめとする満州国有鉄道(国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は1936年、奉天に鉄道総局を設置、さらに1942年に本社を大連から満洲国の首都新京に移転している。 特急「あじあ」 1934年(昭和9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特急「あじあ」が設定された。最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8km/hをはるかに上回った。流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシTemplate Smaller?型」がこれを牽引した。1935年(昭和10年)には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。 鉄道付属地の返還 しかし、満洲全土が日本の勢力下に入ると、鉄道付属地は必要なくなり、1937年(昭和12年)に満洲国に返還された。これに伴い、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から満州国へ移籍した。 満鉄改組 満洲事変以来、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移る。また満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった。こうした勢力は、満州国の経済における満鉄の独占的地位をよしとしなかった。1938年3月、満鉄は鞍山製鉄所をはじめとする重工業部門を満州重工業開発(満業)に譲渡し、鉄道と炭鉱部門および調査部門に特化することになった。 こうしたなか、総裁松岡洋右は大調査部構想を掲げ、調査部門を強化するが、1942年、1943年の二度に亙る「満鉄調査部事件」(満鉄調査部の研究者が左翼的であるとして大量に検挙された)により、調査部門も活力を失った。 子会社の東亜勧業は満蒙開拓団の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なった。代替地を用意せず、只同然の補償金で先住中国人を強制的に立ち退かせた。 消滅とその後 Template Main2? 満洲近代化においての満鉄の影響は大きかったが、1945年(昭和20年)の日本の敗戦の直前に満洲に侵攻したソビエト連邦軍に接収され、その施設は同年8月27日に発表された中ソ友好同盟条約により、中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管される。一方、GHQによりポツダム宣言受諾にともなう閉鎖機関令が公布され、満鉄は同年9月30日に遡って閉鎖されたものとされた。ただし満鉄東京支社の財産などが残っていたので、清算は1957年(昭和32年)までかかった。 満鉄は消滅したものの、現地の鉄道輸送の人員や技術者は不足しており、旧満鉄社員の多くは中華民国政府の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事させられた。これを留用という。留用は1948年まで続いた。彼らの留用による成果として、宝鷄 - 蘭州間の天蘭線開通が挙げられる。 満鉄が満洲に残した各種インフラは日本撤退後も、1949年以降、中華民国に代わってこの地域を支配することになった中華人民共和国が東北部を経営する際にも大きく役立っており、1980年代に改革・開放政策が始まるまで、付近で発見された大慶油田と共に、国内が不安定であった中華人民共和国の経済を支え続けた。長春(旧・新京)や大連、瀋陽(旧称・奉天)といった主要都市では現在でも日本統治時代の建築物を多数目にすることが出来る。満鉄関連の建物も現在でも多くが修復されながら現在も使われており、たとえば満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しており、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も大連賓館や遼寧賓館などに名前を変えて営業を続けている。 なお、元満鉄に関係のある者を中心とし、満洲に関係のある帰還者、未帰還者およびその家族等の援護厚生を図ることを目的として、財団法人満鉄会が1954年(昭和29年)11月25日に設立された。旧満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生などを行っている。 満鉄各線で活躍した車両の一部は、ジハ1型など現在も稼働しているが、老朽化などの理由で、徐々に廃車・静態保存などが進んでいる。 資本金 設立時 - 2億円。うち1億円は政府の現物(鉄道施設とその付属物)出資。 1920年 - 4億4千万円(第1次増資) 1933年 - 8億円(第2次増資) 1940年 - 14億円(第3次増資) 関連企業・団体 満鉄調査部 満洲映画協会 満州日日新聞 満州航空 華北交通 華中鉄道 日満倉庫(現在の東洋埠頭) 経営路線 1945年8月時点の満鉄経営路線(委託経営を含む)満鉄会編 『南満洲鉄道株式会社第四次十年史』(満鉄全線全駅一覧) 凡例 : [貨] 貨物線、× 廃止線 社線 路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考 連京線 大連 - 新京 701.4 本線(満洲本線)、連長線 大連埠頭 - 沙河口 [貨] 6.9 (埠頭線) 大連 - 吾妻 [貨] 2.9 (吾妻線) 安奉線 安東 - 蘇家屯 260.2 入船線 [貨] 沙河口 - 入船埠頭 5.8 旅順線 周水子 - 旅順 50.8 柳樹屯線 大房身 - 柳樹屯 5.8 (休止線) 甘井子線 [貨] 南関嶺 - 大連甘井子埠頭 11.9 金城線 金州 - 城子瞳 102.1 営口線 大石橋 - 営口 22.4 霊山線 [貨] × 首山 - 霊山操車場 4.1 (1941年6月1日廃止) 煙台炭礦線 煙台 - 煙台炭礦 15.6 (非営業線) 撫順線 蘇家屯 - 撫順市 52.9 渾楡連絡線 [貨] 渾河 - 楡樹台 4.1 西寛城子線 × 孟家屯 - 寛城子 ― (1909年2月3日廃止) 北鮮線 路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考 北鮮西部線 上三峰 - 南陽 36.0 図們線(朝鮮総督府鉄道) 北鮮東部線 図們 - 雄基 147.3 図們線(朝鮮総督府鉄道) 雄羅線 雄基 - 羅津埠頭 18.2 南羅津線 [貨] 羅津 - 南羅津 3.0 国線 満州国国有鉄道委託経営線(1933年3月1日~) 路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考 奉山線 奉天 - 山海関 419.6 奉山鉄路 奉裕連絡線 [貨] 奉天 - 裕国 17.5 于洪連絡線 [貨] 于洪信号所 - 大成信号所 4.6 皇姑屯連絡線 [貨] 皇姑屯 - 北奉天 2.8 高新線 高台山 - 新立屯 60.6 大鄭線 大虎山 - 鄭家屯 366.2 zh|洮}}鉄路(通遼-鄭家屯) 新義線 新立屯 - 義県 131.5 河北線 zh|帮}}子 - 河北 91.1 奉山鉄路 錦古線 錦県 - 古北口 542.3 奉山鉄路(錦県-口北営子) 北票線 金嶺寺 - 北票 17.9 奉山鉄路 葉峰線 葉柏寿 - 赤峰 146.9 壺蘆島線 錦西 - 壺蘆島埠頭 12.1 奉山鉄路 奉吉線 奉天 - 吉林 447.4 瀋海鉄路(奉天-朝陽鎮)吉海鉄路(朝陽鎮-吉林) 瀋陽連絡線 [貨] 奉天 - 瀋陽 10.7 将軍堡連絡線 [貨] 撫順 - 将軍堡信号所 3.6 撫順城連絡線 [貨] 撫順 - 撫順城 4.5 梅輯線 梅河口 - 満浦 255.5 新通化線 通化 - 新通化 4.2 大栗子線 鴨園 - 大栗子 112.3 平梅線 四平 - 蓮河 149.2 瀋海鉄路(西安-蓮河) 京図線 新京 - 図們 528.0 吉長吉敦鉄路(新京-敦化)敦図鉄路(敦化-哈爾巴嶺) 龍豊線 龍潭山 - 大豊満 22.4 金珠線 江北 - 金珠 18.8 吉林鉄道(新吉林-金珠) 小新連絡線 [貨] 小姑家 - 新站 9.1 zh|奶}}子山線 [貨] zh|奶}}子山 10.0 吉長吉敦鉄路1936年9月1日廃止 朝開線 朝陽川 - 上三峰 60.6 × 朝陽川 - 開山屯(天図線)80.0 天図軽便鉄路1934年4月1日廃止 × 老頭溝 - 朝陽川(天図線)21.2 天図軽便鉄路1933年5月15日廃止 × 延吉 - 朝陽川(天図線) 10.0 和龍線 龍井 - 和龍 61.1 合水連絡線 [貨] 萱穂信号所 - 合水信号所 ― 図佳線 図們 - 佳木斯 580.2 × 佳木斯 - 佳木斯碼頭 [貨] 3.0 1937年7月1日廃止 佳木斯埠頭線 [貨] 佳木斯 - 佳木斯埠頭 3.6 興寧線 新興 - 城子溝 216.1 汪清連絡線 [貨] 汪清 - 小汪清 9.0 虎林線 林口 - 虎頭 335.7 恒山線 zh|雞}}寧 - 恒山 12.4 拉浜線 zh|棵}}樹 - 拉法 265.5 煤窰線 舒蘭 - 煤窰 30.4 吉林鉄道 京浜線 新京 - 哈爾浜 242.0 北満鉄路 浜洲線 哈爾浜 - 満洲里 934.8 北満鉄路 浜綏線 哈爾浜 - 綏芬河 546.4 北満鉄路 開道廻線 亜布洛尼 - 横道河子 59.2 香坊連絡線 [貨] 香坊 - 東門信号所 5.1 東門連絡線 東門信号所 - 新香坊 6.2 zh|雞}}線 zh|雞}}家 103.4 穆稜鉄路(下城子-梨樹鎮) 綏寧線 河西 - 東寧 91.1 × 綏陽 - 河東 12.7 1939年12月1日廃止 浜江線 zh|棵}}樹 8.8 北満鉄路(哈爾浜-浜江) 三Template lang?樹埠頭線 [貨] zh|棵}}樹 4.0 zh|棵}}樹 - 三Template lang?樹埠頭 3.5 1941年9月30日廃止 哈爾浜埠頭線 哈爾浜 - 哈爾浜埠頭 2.9 北満鉄路(哈爾浜-八区) × 八区 - 八区埠頭 0.7 北満鉄路1939年4月1日廃止 道裡線 [貨] × 哈爾浜 - 道裡 3.8 北満鉄路1941年12月1日廃止 江南連絡線 [貨] 太平橋 - 江南信号所 2.2 浜北線 zh|棵}}樹 - 北安 326.1 呼海鉄路(新松浦-海倫)海克鉄路(海倫-北安) 松浦線 × 新松浦 - 松浦 4.2 呼海鉄路1938年6月1日廃止 馬船口線 × 松浦 - 馬船口 7.4 呼海鉄路1936年7月1日廃止 綏佳線 綏化 - 佳木斯 381.8 鶴岡線 蓮江口 - 鶴岡 54.3 蓮江口埠頭線 [貨] 蓮江口 - 蓮江口埠頭 3.5 北黒線 北安 - 黒河 302.9 黒河埠頭線 [貨] 黒河 - 黒河埠頭4.2 斉北線 斉斉哈爾 - 北安 231.5 斉克鉄路(斉斉哈爾-泰安)泰克鉄路(泰安-克山)海克鉄路(克山-北安) 寧霍線 寧年 - 霍龍門 284.0 斉克鉄路(寧年-拉哈) 平斉線 四平 - 斉斉哈爾 571.4 zh|洮}}鉄路(四平-Template lang?南)Template lang?昮鉄路(Template lang?南-三間房)斉克鉄路(三間房-斉斉哈爾) 京白線 新京 - 白城子 332.6 白杜線 白城子 - 杜魯爾 376.5 zh|洮}}索鉄路(白城子-Template lang?家仮站) zh|寗}}家仮站 - 懐遠鎮 84.3 zh|洮}}索鉄路1934年12月15日廃止 楡樹線 楡樹屯 - 昮昮渓 6.4 斉克鉄路 渓Template lang?線 宮原 - 田師付 86.0 × 太子河 - 牛心台 9.3 渓Template lang?軽便鉄路1938年9月1日廃止 × 牛心台 - 王官溝 [貨] 2.7 × 牛心台 - 紅瞼溝 [貨] 2.6 × 牛心台 - 小南溝 [貨] 2.3 新線 安南線 - 渾三線 - 遼宮線 - 鳳灌線 - 霍黒線 - 双源線 - 東当線(1944年4月1日廃止) 社内専用線 湯旺森林線 満鉄を走った主な列車 特急「あじあ」 大連 - 新京 - 哈爾濱 急行「はと」 大連 - 新京 急行「ひかり」 釜山 - 新京 急行「のぞみ」 釜山 - 新京 急行「大陸」 釜山 - 奉天 - 北京 急行「興亜」 釜山 - 奉天 - 北京 急行「あさひ」 羅津 - 新京 満鉄の車両 Template See? 歴代総裁 代 名前 在職期間 (職名) 出身母体 後藤新平 1906年11月13日-1908年7月14日(総裁)医師・官僚 中村是公 1908年12月19日-1913年12月18日(総裁)官僚 野村龍太郎 1913年12月19日-1914年7月15日(総裁)技術者・官僚 中村雄次郎 1914年7月15日-1917年7月31日(総裁)軍人 国沢新兵衛 1917年7月31日-1919年4月12日(理事長)技術者・官僚 野村龍太郎 1919年4月12日-1921年5月31日(社長)技術者・官僚 早川千吉郎 1921年5月31日-1922年10月14日(社長)実業家 川村竹治 1922年10月24日-1924年6月22日(社長)官僚 安広伴一郎 1924年6月22日-1927年7月19日(社長)官僚 山本条太郎 1927年7月19日-1929年8月14日(社長、1929年6月21日-総裁)実業家・政治家 仙石貢 1929年8月14日-1931年6月13日(総裁)技術者・官僚 内田康哉 1931年6月13日-1932年7月6日(総裁)外交官・政治家 林博太郎 1932年7月26日-1935年8月2日(総裁)学者 松岡洋右 1935年8月2日-1939年3月24日(総裁)外交官・政治家 大村卓一 1939年3月24日-1943年7月14日(総裁)技術者・官僚 小日山直登 1943年7月14日-1945年4月11日(総裁)満鉄生え抜き 山崎元幹 1945年5月5日-1945年9月30日(総裁)満鉄生え抜き 主な出身者 足立篤郎(元農林大臣、科学技術庁長官) 稲嶺一郎(元自由民主党参議院議員、琉球石油(現・りゅうせき)設立者) 岩永裕吉(元同盟通信社社長) 宇田耕一(元経済企画庁長官、科学技術庁長官) 岸一郎(元大阪タイガース監督) 具島兼三郎(国際政治学者、元長崎大学学長) 佐々木義武(元科学技術庁長官、通商産業大臣) 東海林太郎(歌手) 田中龍夫(元文部大臣、通商産業大臣) 永末英一(元民社党委員長) 中西功(元日本共産党参議院議員) 浜崎真二(元阪急ブレーブス・国鉄スワローズ監督) 毛利松平(元環境庁長官) 安井武雄(建築家。満鉄で大連税関長官舎を1911年に設計) 安井謙(元参議院議長) 和田耕作(元民社党衆議院議員) 布村一男(民族学者、元熊本女子大学教授) 義永秀親(元鹿児島県大島郡瀬戸内町町長) 満鉄社員の子息としては、桂米朝(落語家)・宝田明(映画俳優)等がいる。 関連項目 Template ウィキポータルリンク? Template Commonscat? 満州事変 満州善後条約 日本の改軌論争 満鉄調査部事件 尾崎秀実(嘱託職員) 松岡満寿男(満鉄会理事長) 文装的武備論 日本国有鉄道 弾丸列車 新幹線 シベリア鉄道 大東亜縦貫鉄道 南洋興発株式会社 東洋拓殖株式会社 脚注 参考文献 原田勝正 『満鉄』 岩波書店 草柳大蔵 『実録満鉄調査部』 朝日新聞社 加藤聖文 『満鉄全史』 講談社 西澤泰彦 『図説・満鉄』 河出書房新社 菊池寛 『満鉄外史』 原書房 『南満洲鉄道株式会社十年史』 『南満洲鉄道株式会社第二次十年史』 『南満洲鉄道株式会社第三次十年史』 満鉄会編 『南満洲鉄道株式会社第四次十年史』 龍渓書舎 歴史群像シリーズ編 『満洲帝国』 学研 外部リンク 満鉄会 鉄道附属地 南満洲鉄道株式会社 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月5日 (日) 02 32。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/614.html
{{日本の内閣記事|だい3じ かつら ないかく|15|桂太郎|Template 和暦?|12月21日|Template 和暦?|2月20日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/15.html|元老・内大臣兼侍従長}}在任期間は62日間で、東久邇宮内閣(54日間)に次いで史上第2位の短命内閣である。 概要 これまで「桂園時代」と呼ばれて桂太郎と西園寺公望が交替して政権を担当しており、順番からすれば桂が推挙される筈であったが、この頃、桂と山縣有朋の確執が深刻化し、4ヶ月前の大正天皇践祚を機に内大臣兼侍従長に祭り上げられていた。そのため、元老の中から松方正義が推されたが78歳であることを理由に辞退し、山本権兵衛・平田東助も組閣の自信がないとして辞退した。このため、山縣もやむなく桂を再度推挙することとした。桂は山縣には依存せず、自前の官僚勢力による組閣を行い、斎藤実海軍大臣を優詔をもって留任させた。だが、桂が構想した反立憲政友会各党の合同による「桂新党」構想を山縣は認める気は無く、一方政局の暗部を知らない国民は桂が前の在任の時のように政権復帰の野心があり、西園寺前内閣の崩壊も彼の策動とみなした。 かくして「憲政擁護・門閥打破」を掲げた憲政擁護運動が始まり、これに対抗して桂は山縣の反対を無視して新党構想を掲げて伊藤博文の立憲政友会結成の例に倣おうとした。だが、尾崎行雄の内閣不信任案趣旨説明演説を機に桂が帝国議会の停会を命じたことから議事堂は群衆に囲まれる。大正天皇の詔書を立憲政友会に下して内閣に協力させようとしたが、総裁の西園寺の説得にも関わらず党議によって拒絶される。結局桂は停会の延長を命じたところ、議事堂を囲む群集は激昂して東京市内は大混乱に陥った。衆議院議長大岡育造の説得を受けた桂は内閣総辞職を決断した(大正政変)。 直後に桂は病に倒れて死去、新党立憲同志会の船出を見ることも無かった。一方、一連の混乱の発端であった山縣の地位は揺らぐことが無かった。 国務大臣 内閣総理大臣 桂太郎 外務大臣 桂太郎(兼任、1912年(大正元年)12月21日 - 1913年(大正2年)1月29日) 加藤高明(1913年(大正2年)1月29日 - 同年2月20日) 内務大臣 大浦兼武 大蔵大臣 若槻禮次郎 陸軍大臣 木越安綱 海軍大臣 斎藤実 司法大臣 松室致 文部大臣 柴田家門 農商務大臣 仲小路廉 逓信大臣 後藤新平 内閣書記官長 江木翼 法制局長官 一木喜徳郎 外部リンク 首相官邸 - 第3次桂内閣 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14 25。
https://w.atwiki.jp/onemorebabel/pages/35.html
バベル開拓鉄道 まず開拓とは、バベルの外側、主に"土台"を広げるために地形舗装や地質の把握をするための調査を中心とした、人間の横の活動範囲を広げる活動の総称である。人の性と言うべきか、バベル建設開始当初から隕石のせいで体積が遥かに大きくなったこの地球で、まだ見ぬゴールドラッシュや新たな冒険や発見を夢見て塔の遥か向こうへと行きたがる人は多い。そんな彼らの足となって支えるのがバベル開拓鉄道。 基本的にはバベル遠征局や交通、土木局や運送、鉄道会社、開拓会社の共同体「バベル外郭開拓協会」が建前上主立って運営している(実際の運行はアンゼルゼ開拓交通鉄道網の派遣を握っている)。 が、出処不明の私鉄や、公共線路を走る個人所有列車なども横行し、外部の鉄道事情は混沌としている。