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名前 コメント 意識ってなんだと思いますか? 生命ってなんだと思いますか? 例えば、タンパク質などを使って完璧な人の構造を模した物体を人工的に作り上げたとします。 その物体は意識を、生命を宿すのですか? -- 名無しさん (2013-04-02 21 41 44) 【解答】 2013-04-03 まず幸福の物理では「自分の意識」と「他人の意識」を分けて考えています。「自分の意識」の理解は幸福の物理のゴール(悟り)でもあるため、明言は避けることにし、「他人の意識」について説明致します。 「他人の意識」とは、「自分」によって間接的に知覚されるもので、「自分の意識」に該当するものが「他人」にも同様に存在すると推測されたものです。「自分」が直接観測できるのは「他人」の行動や発言であり、「他人の意識」を直接知覚することはありません。幸福の物理では「観測できないもの」は「存在しない」と考えます。そのため、「他人の意識」は「存在する」のカテゴリから外れることになります。「他人の意識」自体は「存在」しません。存在するのは「他人の脳」であり、「他人の脳」の機能として「他人の意識」が実現されているのです。 つまり「他人の意識」とは「脳」によって実現されている「入力に対する出力を決定するシステム」と言えます。この定義においては猫もアリも自動販売機も「他人の意識」を持つといえるでしょう。もちろん「人工的に作ったタンパク質の塊」も「他人の意識」は持ちます。 では「タンパク質の塊君」は「自意識」を持つのでしょうか?その答えは「タンパク質の塊君」自身にしかわかりません。「タンパク質の塊君」自身が「オレは自意識がある」と言うなら、そういう事にしといてあげればいいのです。他人の「自意識の存在」を確認する方法など、そもそも無いのですから。 次に「生命」についてですが、これは「定義次第」とお答えするのが妥当かと存じます。名無しさんは「意識」と「生命」をだいぶ近い概念で捉えているようですが、もしそうであれば「生命とは何か?」に対する回答は、上述の「意識とは何か?」と同様になります。 私は「生命」を「生理化学的な作用によるホメオスタシス」と定義しており、「意識」とは大きく異なった、化学的な概念で捉えています。「タンパク質の塊君」は生命活動を行うことが予想されますので、「生命活動の発現」を「生命が宿る」と呼ぶのであれば、「タンパク質の塊君」は「生命が宿る」と言えます。 「自分の意識」については、一つ公案を与える事にします。考えてみて下さい。 "自分が意識を持っていることを他人に証明するには、何をしたらよいか?" 教祖はこの宗教実践してるんですか? ほんとにやってるなら信者になってやらんこともない -- 無神論者 (2012-02-09 21 52 43) 【解答】 お気持ちありがたいのですが、幸福の物理には「信者」という概念が存在しません。 一方で、私を疑うことは非常に良い心がけだと思います。 「私を疑うこと」こそ、「幸福の物理」の入り口なのです。 バイトの子が忙しい時に急遽ヘルプで入ってくれたんだけど、時間的に正規の給料が払えないことになってしまいました。 私としては正規の額を払いたいのですが、社長には「だったらやめていいよ」と言われてしまいました・・・ その子は経験が長く、いなくなると店としては困ってしまいます。 どうしたら良いでしょうか? -- 名ばかり店長 (2012-01-31 23 52 37) 【解答】 残念ながら、「社長」と「バイト」の意見の相違は絶対に埋まりません。 問題なのは、「店長」がその相違を吸収している点です。 「社長」には「バイト」の意見を伝え、「バイト」には「社長」の意見を伝え、「店長」は意見を言わなければいいのです。 絶対に埋まらない溝を埋めようとすることが、貴方の苦しみの原因です。 幸福の物理では,葬式は存在するんですか? -- 名無しさん (2011-10-13 15 08 25) 【解答】 幸福の物理では、特に葬式を行いませんが、禁止はしません。 ただし、あまりお金をかけ過ぎなようにしましょう。 人が死ぬと、ハイエナのように病院お抱えの葬儀屋が集まってきます。 葬式の準備は生前にしておきましょう。 葬式は死んだ人ではなく、生き残った人のためにするものです。 死者には、喜びも悲しみもありません。 死者に戒名は必要ありません。 豪華な墓石を立てるくらいなら、そのお金で高価なニットでも買ってください。 安い葬式をすると死者を軽んじているように見られる、と言う人がいます。 お金をかけないと気持ちが表現できない、という人がいます。 それは葬儀屋の罠です。 気持ちがなくても、お金はかけられるのですから。 →オススメの葬式 戒律に「法律を守る」とあるけど、もしこの宗教で必要なことが違法行為だったらどうするんですか。正しい方の確信犯ということ。 -- 名無しさん (2011-09-28 14 48 48) 【解答】 幸福の物理に違法行為は存在しません。そのように作られています。 仮にあったとしても、強要はしていません。 戒律に書いてあることは文明社会人が最低限守るべきマナーのようなものです。 どれもこれも日本人の常識からすると違和感があるものばかりで、実践は難しいと存じます。 逆に「法律を守る」と書いていない宗教について、どう思いますか? 確かに、名無しさん (2011-09-28 14 48 48)の仰る通り、当該戒律(「法令を順守せよ」)における「法令」の定義次第では、かかる矛盾が生じる恐れが十分にあるように思います(例えば、「幸福の物理の戒律を守ってはならない」という法律が制定された場合)。 私が考える解決方法としては次の2通りがあります。 まず、名無しさん (2011-09-28 14 48 48)も触れられている言葉ですが、幸福の物理で必要な行為は正当であると考え犯罪行為に及んだ、即ち確信犯と構成し、次に当該構成要件該当行為について、責任阻却(∵違法性の意識不存在)することにより、犯罪不成立とする方法が考えられます。 しかし、犯罪として不成立であれば「法令を順守」したことになるかは疑問を差し挟む余地があり、そもそも、幸福の物理で必要な行為に「法令を順守」することが含まれている以上、結果的に上の矛盾を回避していることにはならないと言わざるを得ないでしょう。 -- 名無しさん (2011-10-08 11 29 29) そこで、私は以下のような解決方法が妥当であると考えます。 即ち、法律も憲法という上位規範による授権によって制定されたものである以上、憲法に反する内容で存在することは出来ません(これは、憲法98条1項を見ても明らかなことですが)。 つまり、先の例のような法律は、憲法に反するものとして実体法上存在しない、ないし無効のものとして扱えば良い、ということになります。 従って、戒律10条を「実体法上有効な法令を順守」と明確に書きなおすことで、指摘された矛盾は回避できることになりましょう。 ただ、この解決方法は幸福の物理が憲法に反した場合に、再び同様の矛盾を生むことになります。 即ち、改正手続(同96条)さえ履践してしまえば「幸福の物理は認めない」という条文を追加することは可能ですから、結局「憲法には勝てない」という結論を取らざるを得ないことになりましょう。 -- 名無しさん (2011-10-08 11 29 52) ここからは少々技巧的ではありますが、憲法(改正)に打ち勝つ方法として、私は以下のように考えます。 先にお話ししたとおり、下位規範は上位規範に逆らって存在することは出来ません。 そこで、ケルゼンの法段階説の言うように、憲法にとっての上位規範として根本規範というものを想定することにします。 もちろん、根本規範が明文のものとして存在するわけではありませんが、「自然権は奪えない」というような内容を含んだものとここでは理解します。 このように考えれば、結局改正された憲法も根本規範に反する範囲においては無効となりますから、憲法改正によっても幸福の物理は否定されないことになります。 -- 名無しさん (2011-10-08 11 30 10) したがって、戒律10条の「法令」を、むしろ「根本規範」とすることで、同矛盾を克服出来るものと考えます。 (もちろん、そうしたからといって、法令を順守しないで良い、ということにはなりません。∵根本規範による授権によって制定された憲法、それの授権によって制定された法律、条例、命令…これらの否定は「授権の範囲内で制定されたものである限りにおいて」根本規範の否定=戒律違反となる。) 尊氏がどのように考えているのかはわかりませんが、このような解決策はいかがでしょうか。 -- 名無しさん (2011-10-08 11 30 18) 【解答】 考察と提案、ありがとうございます。(読みやすいように並び替えました) そもそも「幸福の物理の戒律を守ってはならない」という立法は現行憲法上想定されません。 憲法改正により幸福の物理が禁止される可能性は否定できませんが、そのときは安田講堂に立てこもります。 →戒律と法律について ニュートリノが光速より速いってことは相対論は間違っている。 よってこの宗教も間違っている。 -- 名無しさん (2011-09-27 08 40 49) 【解答】 「ニュートリノが光速より速いという、相対論矛盾した実験結果が得られた。」だけです。 仮にそうだとしても、相対性理論自体は修正を受けないでしょう。 光速度不変の仮定が修正を受けるのみです。 →ニュートリノが光速より速い 時間はお金で買えますか? -- 名無しさん (2011-09-26 01 03 41) 【解答】 時間はお金で買えません。時間は誰の持ち物でも無いので、売買契約が結べません。 →時間はお金で買えるのか バナナはおやつに入りますか? -- 名無しさん (2011-09-22 11 01 37) 【解答】 おやつの定義次第です。 →バナナはおやつに入るか Q 宗教って、必要なの? A 無宗教の人間は存在しません。あなたが人間である以上、何らかの宗教に属しているはずです。なお、すべての日本人は日本教という宗教に属しています。 全ての人間社会には必ず宗教があります。宗教は社会の安定装置として必要だったのでしょう。だから宗教はミームによって進化、発展してきました。 Q 幸福の物理は、ほかの宗教と何が違うの? A 幸福の物理は、「この神だけが正しくて、他の神はすべて間違い」という考えではなく、「そもそも神など存在しない」という考えを持っています。この意味で、「他の宗教に完全に喧嘩を売っている」ということが、特徴として挙げられます。 また、幸福の物理が他の宗教と決定的に違うのは、「信仰」「崇拝」「勧誘」を禁止しているところです。これらの行為自体は問題ないのですが、行為によって幸福の物理の理解が遠のく可能性があるため、あえて禁止しています。 Q なぜ、人はこの世に生まれてくるの? A 両親がSEXしたから。正確に言うと卵子と精子が受精したから。それ以上でもそれ以下でもない。「なぜ両親が愛しあったか?」そんなことは親に聞け。 Q 人は死んだらどうなるの? A あなたの体は死体になります。あなたの主観は消滅します。あなたの周りの人間は喜んだり悲しんだりするかもしれません。そんなもんです。 Q 自殺したら楽になれるって、ホント? A たしかに、すべての苦しみ、悲しみから解放されます。しかしながら、「楽」にもなりません。あなたの主観が消滅するため、あなたの感情はすべて定義できなくなります。もちろん「楽」の定義にもよりますが。 Q 「生まれ変わり」って、あるの? A 「生まれ変わり」はありません。少なくともあなたが考えるような形では存在しません。 Q 「守護霊」って、いるの? A 「守護霊」は存在しません。霊自体が存在しません。 Q 「あの世」って、あるの? A 「あの世」は存在しません。 Q 「天国」はどんなところ? A 「天国」は存在しません。 Q 「地獄」はどんなところ? A 「地獄」は存在しません。 Q 「悪霊」って、ホントにいるの? A 「悪霊」は存在しません。霊自体が存在しません。 Q 人は、なぜ睡眠中に夢を見るの? A ワーキングメモリの情報整理中に視覚情報として認識される部分があるから。 Q 幸福の物理の信仰って、どんなもの? A 幸福の物理は信仰と崇拝を禁止しています。何も信じてはいけません。 Q 幸福の物理では、何を大切にしているの? A 懐疑心。 Q なぜ、信仰は不必要なの? A 「信仰」とは「盲信」です。疑わしいものを疑わないで信じる行為です。信じても構いませんが、疑わしいものに振り回されることになります。 Q なぜ、「霊」や「あの世」は目に見えないの? A 可視光線を放射、反射しないから。そもそも「霊」や「あの世」はその他の一切の観測にかからないので、存在しないんだけどね。 Q 信仰すると奇跡は起きる? A 信仰すると壺を買わされます。信仰すると騙されます。信仰すると搾取されます。信仰すると人生を棒に振ります。でも信仰しているので本人は無自覚です。 Q 仏や神を信じることができません A それでいいのです。信じる必要などありません。 Q 信仰すると、心の自由がなくなる? A その通りです。心の自由は疑うことによって獲得できます。ただし、数学だけは疑わないでください。何事見も議論、推論の前提条件は必要です。 Q、神様はいますか? A、幸福の物理では、キリスト教や神道で定義されているような神は、存在しないことになります。観測可能であることが、存在の必要条件だからです。 もちろん、あなたの心の中に「いる」こと自体は否定しません。 Q、天国に行けますか? A、幸福の物理ではそもそも死後の世界が存在しません。死後は天国にも地獄にも行きません。霊にもなりません。あなたという主観が消滅するだけです。気絶や睡眠と同じです。 Q、本当に悟れるのでしょうか? A、「悟り」とは悟りの境地への過程である、と幸福の物理では考えます。悟りの境地へ向かい始めたのであれば、そこが「悟り」のスタート地点です。 Q、信仰心は必要ですか? A、幸福の物理では、信仰を戒律により禁止しています。
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幸福の物理を実践する上で必要となるいくつかの仮定があります。 斉一性原理 この世に起こることは、今までずっとそうだったら、明日もそうなる可能性が高い。 だから、「法則」に意味がある。 確証の原理 「法則」は、その事象が観測されるたび正しさが向上する。 数学 幸福の物理においては数学は言葉であり、道具であります。 正確な言葉、正確な道具によってのみ、正確な情報伝達や演繹が可能です。 そのため幸福の物理においては数学は公理系に含めます。
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目次 1.欲望と欲望を超えるもの 2.幸福の基礎 3.幸福の段階論 4.幸福と悟り 5.生死を超える道 4.幸福と悟り さて、ここまで幸福の段階論を説いてきたら、やはり悟りのことも何か言っていいんじゃないのってね。ちょっと言うべきじゃありませんでしょうか。これが問題なんです、ね。これが聞きたいんです。幸福感なんてあなた、世の中ゴロゴロしています。悟りとの関係があるんじゃございませんでしょうかね。 あるいは日蓮聖人さんも言っているじゃないですか。「悟りこそ最大の幸福の瞬間。これが人生最大の幸福の瞬間だ」って、『日蓮の霊言』か何かの中で言っているじゃないですか。「この辺を言わないと高橋信次さん、片手落ちですよ」ね。「日蓮さんに悟りで負けてるように思われちゃいけない。ひとつ頑張りなさい。生前、あれだけ南無妙法蓮華経を批判したあなたであるならば、南無妙法蓮華経以上のことを言わなきゃいけない。そうでなきゃ本当じゃありません」こういう方もいらっしゃるでしょう。だからまあ、幸福と悟りについても、ちょっと言っておきましょう。 「悟りが最大の幸福である」。まあ格好いいけど、私はそこまで言い切る自信はありませんが、それは何でかっていうと、悟りという言葉自体にね、非常に抽象的で、あいまいな意味があります。「悟る」「悟った」ということが何を意味しているかね。これがやはり問題があると思いますね。悟りにもいろんな段階もあるし、形もあるし、方向性もありますね。だからこれを一概にどうこうは言えない。 たとえば、「悟った!」ってね、禅のお坊さんが「んっ!」、竹藪(たけやぶ)に瓦(かわら)の切れ端が当たって「力ーン」と鳴って、「あっ、悟ったー、悟ったー、幸福だ、私は」たって、「さあ、本当に悟ったかねえ、あなた」なんてね。こういうことありますね。そういうところでちょっとまあ誤解、六階、七階があるわけでございましてね。いきなり、「すなわち、その通り」とは言えないね。 あるいは昔、中国に偉いお坊さんがおって、ね、「猫に仏性ありや、またなしや」なーんて聞かれたことがあるでしょう。猫に生まれて、あるいは豚でもいいし、犬でもいいんですが、ニワトリでも結構ですけど、まあ、猫なら猫にしておこうか。弟子達が「猫に仏性があるかどうか」「猫もまた仏の命かどうか」って議論しておった。 そこへ和尚さん帰って来て、その猫を一刀のもとに斬ってしまった。そして何を教えたかっていうと、「形に執(とら)われてはならん。この本性を見なさい。仏性の本質を見なさい。この、猫だ、人間だという形に執われてはならん」って示したと、まあ、悟りを示したと言われているね。 しかし、まあそれも考えてみれば、「そうか和尚さん、形に執われていかんのか。猫を一刀のもとに斬ってしまえば、そうか、猫という形はなくなって、それで仏の本質が現われてくるんか。そうか和尚さん、あんたの首も斬ってやろうか」って、パサーッと斬られたらどうするんだ、ね。そういうことあるわな。だからまあこの辺なんか、悟りとは言い難いとこあるねえ。 あるいは達磨(だるま)大師に、どれだけの修行、精神修行があったか。それは後代の私があれこれ言えるもんじゃございませんが、ただ面壁(めんぺき)九年やったからどうこうと言うんじゃおかしいねえ。 あるいは達磨大師のお弟子さんですかね、お弟子さんが雪の中で、自分の肘(ひじ)を斬ってね、「これだけの決意で私は来ておるんです」。そして肘を斬って差し出して、達磨に教えを乞う。そして、「和尚さん、私は心が苦しくてしようがありません。心が迷ってしようがありません。この心を何とかしてなだめたい。何とかして平安を得たい。どうしたらいいのでしょうか。私はこれだけ命がけです。自分の肘を斬って差し出すまで命がけです。何とかお答えを」。面壁をしておった達磨は、ギョロッとその目を剥(む)いて右側を向く。そして、「よし、お前の心を治してやろう。だからその心をここへ持ってきなさい。出してみなさい」。そしたらお弟子さんがね、「いや先生、それちょっと難しいです。出せないです。出せないです」「なに、出せない。だってお前、『心が乱れておる。苦しい』って言ったじゃないか。苦しいなら実体があるはずだ。その実体を出してみよ」「いや先生、この辺です。心臓、心臓ね」「お、心臓か、じゃあナイフで刳(えぐ)ったろうか」「いや、そりゃあ困ります、達磨先生、それは許してください。いやこの辺にあるんですが、それが出せないんです」「そうか、んじゃあ無いのと一緒じゃないか」「言われてみりゃ無いのと一緒ですね」「じゃあ、無いもののために、お前は苦しんどるのか。その心なんか無いじゃないか。あったら出せ。無いならどうしようもないじゃないか」「和尚さん、わかりました。心は無いと知りました」「そうか、わしはもうお前を治したぞ。悟りを与えた」なあーんて、こんな話もありますね。 これはちょっと言葉の遊戯がありますね。この辺が禅宗が形式に流れたっちゅうか、観念遊戯(ゆうぎ)に流れたところですね。まあ、こんなのは窮地に追い込まれてね、「和尚さん心を治してくれ」って言われて「心、出してみい」って、「そんなのありません」「じゃあ治す必要もねえじゃねえか。心無いなら、心治すこともない」こんなことですね。だからまあ、これもある程度だけど、それ以上じゃないね、どうしたってね。そういうことが言えるだろう。 あるいは釈迦の時代にもありましたね。そういう修行者はインドにいっぱいおってね、とにかく非想(ひそう)、非非想(ひひそう)といってね、想いを否定する。その否定した想いをも否定する。そしてその想いをも否定する。否定の否定の否定の否定。とにかく想いを消してしまうことが悟りだ。非想、非非想ってね。こんな人いたんだよ。 とにかく人が来るだろう、前に座る。「お前、何か想っとるな」「ハイ、想っています」「その想いを否定せよ」「ハイ、否定しました」「じゃ、その否定した想いをまた否定せよ」「ハイ、否定しました」「その否定した想いをも否定せよ」「ハイ、否定しました」「それをも否定するのだ」「ハイ、否定しました」ってね。こういう人ですね。こういう、まあ、これも遊戯ですね。こんなのに入っていきますね。 あるいは、サンジャヤっていうウナギ法師とかね、ウナギ論師と言われる和尚さんがいて、この人は「何でも疑え」と、とにかく懐疑論者でね。ああ言えば、こう言う。こう言えば、ああ言う、ね。 「先生、宇宙は無ですな」と言われたら、「いや、無とは限らない」「じゃあ、宇宙は有ですな」「いや、有とも限らない」 「先生、これは朝ご飯ですな」「いや、朝ご飯とは限らない。なぜなら、朝昼兼用ということもあるからだ」「そうですか、先生、これは晩ご飯ですな」「いや、晩ご飯とは言えない。朝ご飯かもしれない。なぜなら、朝、昼断食すれば、これが朝ご飯となるからである」 「先生、私は悟ったでしょうか」「悟ったかもしれない。悟ってないかもしれません」 「先生、宇宙で一番偉い神様は、高橋信次という人でしょうか」「高橋信次であるとは限らない。ないとも限らない。わからない」 「先生、神と仏とは一緒でしょうか」「一緒かもしれない。一緒でないかもしれない。もし神と仏が一緒ならば、トイレットペーパーとなにの手とが一緒になるであろう。そうとも言えない。そうでないとも言えない」、ね、いろいろ言う。 「先生、大地は動いているのでしょうか」「動いているようにも思える。動いてないようにも思える。すべてのことを疑ってかかりなさい」ま、こういうふうに言うね。 「先生、そうすると先生のお言葉も疑ってかかっていいんでしょうか」「いや、先生の言葉を疑おうとする、お前の心をも疑いなさい」「あ、そうですか」こんなことをやっている先生がおりましたね。えー、こういう人がいたんですよ。 こういうふうにね、悟りというものもね、冗談めかしていろいろ話したけれども、いろいろありましてね。必ずしも悟りを得たいということを、幸福ということを、そのままね、言葉だけで捉えてはいけないね。だから悟りとは一体何なのかということを、もうちょっと掘り下げてみる必要は僕はあると思うんですね。それでこそ、「悟りが最大の幸福である」という言葉の意味が生きてくると思うんですね。 じゃあ幸福の基礎となるような、あるいは幸福の本質となるような悟りって一体何でしょうか、ね、みなさん。どういう悟りを開いたら人間は幸福になれるんでしょうかね。 ゴータマ・ブッダという人も結局、悟ろうとして努力したね。何で悟ろうとしたかと言うと、悟ったら幸福になれると思ったんだね、違うか。そうだねー。悟ったら幸福になれる。 じゃなぜ悟ったら幸福になって、悟らないと幸福になれないか。悟ってない者って何かといえば衆生(しゅじょう)ですね。この地上で生きている人間、これが悟っていない。 「見よ、人びとは戦争で明け暮れている。そしてある者は病で死に、ある者は金欠病で苦しみ、ある者は愛人をつくって苦しむ。このように世の中は苦しみで満ちておる。見よ、あそこの老人を、やがて死んでいくであろう。自分の死しか思っていない。見よ、あの身重(みおも)の女を、戦乱の地から逃げたいと思っても、お腹が大きいんで逃げられないでいるではないか。そのお腹が大きい理由も、あれだけ憧(あこが)れ、憧れて想った男と結婚して、その場はいいと思ったが、しばらくすると身重になって、あんなに苦しんでおるではないか。このように世の中はすべて苦の種である。苦の種だ。苦の種だ。苦しみが満ち満ちておるではないか。なぜ人間は生まれてくるのか。生まれたくもないのに、生まれてくるではないか。生まれてきて、生きていかねばならんのではないか。生きていくということは、なんてこんな苦しいんだろうか」ね。 「また、人間は年取っていくではないか」「年なんか取りたくない。二十五は過ぎたくない」『天国と地獄』で、二十五でクリスマスケーキだと言ったら、二十六、七の女の子は悲しんだ。二十八はもっと悲しんだ。三十過ぎた女(ひと)は開き直った。ま、いろいろあるけれども、人間はなぜ年を取らねばいかんのか。こうした苦しみ、特に女性にとっては、永遠の若さというのが魅力である。もし二十五歳で年を取らないようになる秘法が、秘薬が出たならば、もう何十億、何百億積んでもいい、そう思うでしょう。女性はね、そう思うかもしれない。 男性にしてもそうですね。年取って、頭つるつる禿(は)げちやってね。いや、若いのも最近いるけどね。まあ、若いのもいるけども、アートネイチャーのお世話にならねばいけない。アートネイチャーでも、高いのは百万、二百万する。しかし、安いのは二十万ぐらい、あるいは十万ぐらいで売っている。で、安いアートネイチャーだと洗濯機の中に入れて回しちゃう。高いやつだと、もっと手入れをしなければいかん。まあ、いろいろあるけれども、えー、何の話がしたいかというと、結局、年を取るっていう苦しみがある。頭が禿げる。「なんで禿げるんだろうか。ふさふさしていてもいいじゃないか。頭禿げたライオンなんか、あんまりおらんじゃないか。なんで私は禿げるんだろうか」 あるいは、足が短いということで苦しみを持つ。「足さえ長ければ。キリンはあんなに足が長いじゃないか。なのに私は、なんでこんなに足が短い。両親の短足を恨(うら)む」まあ、こんな人もいますね。これは「生」でしょうね。生きる苦しみのうちでしょうが、「生老」が終わって「病」ですね、病の苦しみありますね。今は、もう病気の百貨店ですね。大学病院では毎日研究、病院ではもう病を探すことに明け暮れています。昔みたいにコロッと死んどりゃあよかったものを、病いっぱいつくっちゃって、薬いっぱいつくっちゃってね、もう大変ですね。 エイズなんていう病気までつくっちゃいましたねえ、エイズ。アメリカのホモさんがだいたい多いようですが、勝手にね、性の解放して、勝手に男女の乱れた生活つくって、男性が女性にもう魅力感じなくなって、もう女性なんかもう自由に手に入る。金さえ払えば手に入る。もう手に入らないものやりたいちゅうんで、もう同性誘っちゃってね、男の人とどうやってするか一緒に考えて、とどのつまりがあなたね、エイズでございます。ねえ、こういうふうになって苦しみつくりますね。こんな新種の病気つくっちゃいます、自分でね。こういうことがあります。 あるいはこれ以外にもいっぱい病気はあるんですね。癌(がん)なんてずいぶん多いですね、まあ癌。昔はそんなに癌なんかなかったんですがねえ、癌ができる。ひと昔前は、結核がものすごかったですね。結核が治せるようになったから、人類は幸福になったかちゅうたら、もっと他の病気いっぱいつくっちゃったね。どんどん、どんどん病気ができちゃった。そして贅沢(ぜいたく)病なんかいっぱいできちゃって、カロリーの取り過ぎで死ぬ。こういうこともいっぱいありますね。あるいは、僕みたいに豚肉の食べ過ぎで死ぬような人もいる、ね。まあ、こんな人もいるでしょう。 あるいは、勝手に何というか、人間は満員のね、ラッシュの中で通勤しなきゃいかんと決め込んじゃって、そして苦しんでいる人もいる。それで病気になる人もいるね、過労になる。こういうふうに病というものから、逃れられない。 あるいは、「病」のあとは「死」ですね、死ぬ苦しみ。これは救えないのか、ね。「高橋信次なんか、生前あれだけ多くの人を救ったじゃないか。救った人も結局、みんな死んだじゃないか。救ったと思ったあなたも死んだじゃないか」。ところが死んだと思っても生きているんだけどね。まあ一応、死んだことになってる。 この世的な死は悲しいね、葬式でみな泣くね。子供生まれたら、みんな喜ぶ。けれども葬式は泣くね。ところが、あの世から見りゃあ、子供が生まれるときは向こうの葬式だから、向こうは泣いている。この世で死ぬと、向こうでお迎えしているのね。「あー、やったやった」ってね。天上界は天上界で、「よー戻ってきた」ってやってるし、地獄界は地獄界で、「あー、これでまた一人増えたわー」とかね。「ちょうど地獄の釜(かま)の鍋(なべ)が煮えたぎっとったとこで、ここで一人堕(お)ちてきたら、これでわしらも餌(えさ)にありつける」ちゅうて、「どれどれ」って、待っておる人もいる、ね。やっぱり向こうでは喜んでくれている。こういうこともあるけれども、死という関門ね。死んでいくっちゅうのは悲しいね、なんで悲しいのかわかんないけど悲しい。たぶんその悲しさの原因は、もう逢えないちゅうことだな。今日までねえ、一緒に話していた人と、明日からもう話ができない。語ることもできない。悲しいですね。 しかし、旅とは違うんだね。異国に行って、旅立ってね、駐在でもしているか、そういうことで逢えないと思えば悲しくもないのに、死んだと思うと悲しいね。もう二度と逢えない。可能性がないと思うからね。旅行して逢えなくとも、可能性があると思うから悲しくない。ところが、死んだら可能性がないと思って悲しいね。 ところが、私みたいに復活すると、また可能性が戻ってきて、悲しくなくなったりしてね。嫌がられたりして、今度はね。「あー、還(かえ)るよ」って、うるせえのが還って来て、「ああ、大変なことになった」ってね。死んでくれてすっきりしてたのにね、還って来よった、ね。「高橋信次の復活なんてあって、もう大変なことになっちゃった。せっかくの商売があがったりだー」なんてねえ。「あいつがいたおかけで、もう大変商売被害があったので、死んでくれてホッとしたのに、また還って来た。どうしてくれるんだ」こういう人、いっぱいいるでしょうね。 あるいは、私の復活を認めたら商売あがったりの人なんて、この本が出たら、これ七冊目かね、よく知らないけど八冊目かね、八冊目だなあ、八冊目の本ですが、「八冊も出しよって」ちゅうてね、「これで日本の本がどれだけ伐採(ばっさい)されたと思ってるんだ」なーんて怒る人もいるかもわかんない。「おかけで私の商売があがったり」、ね、こういう人もいると思います。まあ、いろいろあるけど死は悲しい。こういう生老病死、これがあるね。 これに合わせた、四苦八苦の八苦もありますね。もっと嫌な奴と会う苦しみとかね、好きな人と別れる苦しみなんて、もうお釈迦様ってよっぽど被害妄想か、やっぱり何でしょうかねえ、ペシミストだったんでしょうかね。苦しみいっぱい見せていますね。 嫌な女に愛される苦しみね。好きな女に逃げられる苦しみ。みんな思い当たりますね。どうですかあ、心に、胸に手を当ててください。思い当たりますね。僕も思い当たりますよ。思い当たるぐらいです。 それから、儲(もう)かる商売を逃すやつね。儲かる商売、もうちょっとのところで逃す。魚だと釣り逃すね。大きな魚、逃げた魚は大きい、ね、釣れた魚は小さい。こんなのいくらでもありますね。 隣りの芝生はよく見える。隣りのテレビは赤い、ね。「ソニーのテレビかしら」、ね、こういうのがあります。まあ、こういうふうにいろいろありますが、何が言いたいかというと、結局はですね、そういう生老病死という苦しみから解脱(げだつ)することが幸せである。 お釈迦様は聞きました。「私はカピラ城に留まってもいい。もし私に次の問いに答えてくれる人がいたら、カピラ城に留(とど)まって、私は出家を思い止(とど)まる。人間はなぜ生まれてこなきゃいかんのか。生きなきゃいけないの。なぜ老いなきゃいけないの。なぜ病気にならにゃいかん。なぜ死ななきゃいかん。これ、答えてくれ。答えてくれる人いたら、納得したら、僕は王位を継(つ)ぐだろう。王を継ぐだろう。だけど、答えてくれる人がいなければ僕は出家して、その答えを求める」。そして、難行苦行に入っていきますね。そういうことがありました。 結局ね、お釈迦さんが考えていたのは幸福論ですよ、ね。幸福論なんですよ。仏教なんて古めかしく言うけど、現代で言やあ、あなた、幸福を求めるための方法論を探究しとったんですよ、どうやったら幸福になれるかね。悟りを求めるちゅうことは悟りだけの悟りじゃない。悟りを求めるちゅうことは結局、解脱(げだつ)すること。この世の苦しみからどうやって逃れられるのか、これを知りたかった。このために一生懸命、修行したんですね。 針を体に通したらね、悟れるか。火あぶりになったら悟れるかね。動物につつかれたら、食べられたら悟れるかね。茨(いばら)の中で瞑想したら、座禅したら悟れるかね。こんなこといろいろやってみたけど悟れない。水の中で呼吸止めたら悟れるか、悟れない。ね、いろんなことをしました。火の中をくぐってもね、悟れない。いろいろやって、結局ね、肉体と戦っているうちは悟れないんですね。 ところが釈迦も、その肉体と戦う、霊肉の戦いちゅうのを忘れてね、肉体舟の意味、肉体の意味を考えたときに、「ははあ、これは大きな知恵だなあ、肉体が与えられているってことは、大きな知恵だなあ。そして肉体があるからこそ魂というものも、さらに勉強ができるんだなあ。肉体があるということは幸福の源泉(げんせん)なんだな。この肉体に宿っているという自分を別の角度から知ることができるんだな。そして、それを前提としながら、永遠の魂の修行というものを考えたときに、そこに人類への福音があるな。そうか、わかったぞ、肉体を持ったままで生きてゆく中で、その肉体ならぬもの、心の正体というものを明らかにして、その心をコントロールすることこそが悟りへの道なんだ。解脱することなんだ。肉体を滅却(めっきゃく)することじゃない。肉体を粗末にすることじゃない。肉体の中に宿っているその心を、自由の天地に解放させてやって、宇宙大に広げて、そして伸び伸びと生かしてやること、これが本当の幸福なんだ」、釈迦がこうやって、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で膝頭(ひざがしら)をパタッと叩いてね、「やった、がってんだ」と、こう思ったわけですね。そして世に広げんとしたわけですね。ま、こういうことがあります。 だから結局ね、悟りというのはそういうことでね、この世の苦しみの原因を探究し、その原因を取り除くこと、これに彼は求めたわけですね。幸福になるためには、苦しみの種を播(ま)かぬこと。あるいは苦しみの種を発見し、その種を除くこと。何か自分の心に苦しみをつくっとるのか、これを見つめること。そして、その苦しみの原因となっているものを取り除くこと。原因と結果というのは連鎖している。因果応報(いんがおうほう)、原因・結果の法則です。作用があれば反作用です。そういうふうに連鎖しています。 愛人関係で苦しむのは、その前に苦しみの原因つくったからです。違いましょうか、子沢山(だくさん)で苦しむには、それだけ夫婦の営みがあったはずです。ね、そうでしょ。だから子沢山を恨んじゃいけない。ね、そうでしょ。お腹がすくのは、亭主の稼(かせ)ぎが少ないからです。ね、そうでしょう。いい会社に勤められなかったのは、学生時代に勉強しなかったからです。違いますかね。病気をしたのは、体を大切にしなかったからです。ね、そうでしょう。異性にもてなかったのは、親の顔が悪かったんです。あ、そう言っちゃいけないね、そうじゃない。親の顔は悪かったかもしれないけれども、しかしその後、自分が趣味を洗練しなかった。あるいは、心根が悪かった。ま、いろいろあるね、いろいろあります。 こういうふうに、世の中の苦しみには原因が必ずあります。必ず原因に突き当たるということですね。釈尊が教えたのは、とにかく疑問追究、原因探究です。 「なぜあなたは苦しいか。なぜそなたは苦しいのか。それを徹底的に追究せよ。そして追究してその種に打ち当たったら、どうしたらそれを取り除けるか。もしその種を取り除くことができないならば、それに対する心がけを変えることによって、その不幸感覚を、幸福感覚に変えることができるのではないか。まず、その原因、苦悩の原因を探究して、取り除くものは取り除く。取り除けない場合には、これに対する心のあり方を変える」こういうことですね。 「人びとが戦乱で苦しんでいる理由は、一体何なのだろうか。それは人生の本質、また魂の本質、永遠の転生輪廻、こういうことを知らないからだ。だから本来ならば、人びとの心に平和な思いを取り戻すことが大事である。しかし、その原因を今、取り除けないのならどうするのか。そうすると、私たちは、私たちのできることをやっていくしかない。 そうしたらどうなるのか。戦乱を嫌だと思う者たちは、悟りの学びに入るべきだ。サロモンとなって修行していくべきだ。そして人びとに法を伝えるべきだ。そうすることによって、戦乱のマイナスを少しでも緩和(かんわ)できるのではないか」そういうことを考えるわけですね。 こうして結局ね、悟リとは幸福そのものなんですね。あるいは、幸福を求めるものと一緒だった。そこが釈迦の出発点だったんですね。そういうふうにね、みなさんね、結局ここに当たるんですよ。お釈迦様が言った通りね、苦悩の原因をまず発見すること。そして、その原因を取り去ること。取り去ることができなければ、それに対する心のあリ方を変えること。そしてこの両者ができたなら、今後はそうした苦悩の原因を、種を、心の中に播(ま)かないこと。心の中に植えないことです、苦悩の原因をね。そういうこと。 現在、あるいは過去を、そういうふうに探究して、未来をも制する。そして、そのための方法論が何かっていうと、これが八正道(はっしょうどう)だというんだね。正見ね、正しく見る。正しく語る。正しく思う。正しく仕事をする。正しく生活をする。正しく精進する。正しく念じる。正しく定に入(い)る。こういう八正道だね、これでもってその心の間違い、あるいは原因ね、悪しき種の原因をこれで発見する。この八正道で発見するんだ。自分の心の中を探究するんだ。こういうことですね。苦悩には必ず原因があります。そのために、この八正道でそれを発見します。これが大事なんだと教えておるわけです。 こういうふうにいろいろ言ったけど、結局ね、悟りと幸福、これを解く鍵は、この八正道にあるかもしれないね。そういうふうに私は思います。 5.生死を超える道 これで本章も最後になるけれども、今、八正道の話しましたね。八正道の話をしました。 結局ね、こういうことなんですよ。生死を超える道と言ってもね、ここにやっぱり行き当たるんだな。結局そういうことだ。悟りと幸福とは表裏(ひょうり)一体、あるいは同一のものである。そしてそれに至るためにはどうするかというと、苦悩の原因、人生の悩みの原因を発見すること。究明(きゅうめい)すること。そしてそれが取り除けるなら、取り除く。取り除けないなら、それに対する心のあり方を変える。そして未来への予防としては、苦悩の種を心の中に播かないようにする。こういうことが釈迦のひとつの悟りでしたね。そしてこれを日々、そういうふうにしていくためには、八正道というモノサシを使った。そういう自己観照(かんしょう)のモノサシを使った。 こうして生きていくっていうことは何を意味するかというとね、これが結局ね、生死を超える道だったんですよ。釈迦が教えていた教えは、結局、この世とあの世を貫(つらぬ)く幸福なんだな。この世でも幸福、あの世でも幸福、という生き方なんだな。普通はこの世とあの世に落差があってね、段差があって、この世で幸福で、あの世で不幸。この世で不幸であの世で幸福っていうのいっぱいあるんだな。 イエス様の系統なんか、この世で不幸で、あの世で幸福っていうのをいっぱい求めているね、みんな。「この世じゃ不幸さ、俺たちはみんな磔(はりつけ)さ、火あぶりさ、逆さまさ、もう槍(やり)で突かれるのさ。でもあの世で幸福さ」ったら、あの世でも槍で突かれたりしてね。まあ、わかんない。意外にわかんないんだけども、そういうこともあるでしょうね。 ただまあ、お釈迦様はやっぱりこの世でね、人間的にも向上し、発展し、完成していく中に、あの世での発展のよすが、契機(けいき)を見出(みいだ)さねばいかん。そういう人生でなきゃあいかん。ま、こういうことを常々教えてましたね。 「この世だけが不幸で、あの世で幸福であることもない。この世が幸福で、あの世が不幸であることもないであろう。真の幸福というものは、輪廻(りんね)していくものだ。この世で人のために尽くした人は、あの世で尽くされるだろう。愛を与えた者には、愛が与えられるであろう。憎しみを与えた者には、憎しみが返ってくるであろう。生死を超え、生死を貫いた人生を生きるためには、悪の種を今世で播(ま)かんことだ。他人に対してまず、優しくしなさい。他人をいたわりなさい。他人を害さないためには、常に心を中道におきなさい。真ん中のまっすぐな道の中に心を置きなさい。片寄らない中道の中にこそ、自分の発展の道があり、他人を害さない道がある。それが自分を幸福にし、他人を幸福にする道である。大勢の人間の、たいていの人間の不幸の種は、結局、自分を幸せにせんとして他人の幸福を、幸せを踏みにじっているところではないのか。自分さえよければという思いで他人を苦しめていることではないのか。自分勝手に理想を抱いて、その理想が実現されないからといって苦しみをつくる。ところがその理想が実現されると、本来は他の人が成就(じょうじゅ)すべき希望、理想を奪うことになったのではないのか」。こういうことですね。 結局人間は、自分自分ということで、自分中心に生きていきます。そうであってはいけない。まず他を害さず、自分をも害さない。自分も幸せで、他人も幸せ。これを利自即利他(りじそくりた)と言いますね。自分を利することが、同時に他人を利していく生き方です。これは釈迦の考え方の根本ですね。これが、やはり中道をいくための基本条件です。 これが片方だけになってしまうと間違いですね。利自、自利と言ってもいいですけれども、自分を利することばかり考えていると、我利我利亡者(がりがりもうじゃ)のエゴイストになって、世の中おかしくなっていきます。ところが、自分を利するという考えを忘れて、他利ばっかりやると、この世がこの世じゃなくなってきますね。非常にあの世的なこの世になってしまって、非常に不思議な世界になっちゃいます。みんなお布施(ふせ)ばっかりしている世界になっちゃって、おかしいですね。御進物きたら、たらい廻ししてね、もう廻しばっかりして、「貰(もら)い物ですが、貰い物ですが」なんて、世の中ぐるぐる回ったりして。そうなるかもしれない。 やはりそうであってはいけないんでね。決して、利自、自分を利するということをね、エゴイストのように思っちゃいけないんです。それは、自分は心を与えられています。神様から自由自在にせよということで、心を与えられています。それは、自分は心を、自分の責任でもって治めていきなさい、という意味ですね。神様の代理として、自分で自分の心を治めていきなさい。そのためにあなたに鍵(かぎ)を与えるんだよ。その鍵を使って生きていきなさい。まあ、こういうことですね。これを言うわけです。 だから結局ね、この利自の部分ね、自分を利するという部分を簡単に捨象(しゃしょう)してしまうと、神様の本来の目的使命と外れるんですね。神様はすべての人間に幸せになってほしいと思う。それも一律な幸せじゃなくて、それぞれ自分の個性に基づいた幸せを享受(きょうじゅ)してほしいと思ってるんですね。それならば、個性に応じた幸せを追求することはいいことなんですね。そうしなきゃいけない。けれども、個性に応じた幸せを追求する中で、他人をも害さない道、そういう大調和の道を行きなさい。こういうふうに教えておるわけです。この辺にね、幸福の本質のあり方がみえるんだな。 結局ね、自分を利することが他人を利する。自分をつくっていくことが世界を救う。こういう考え方が根本にあるんだね。今の末期の宗教、世紀末の宗教は、これほとんどないよ。完全に自分だけよきゃあいいっていう、他力信仰ですね。他力本願。 「とにかくなんかくれー、なんかくれやー」ってね、「欲しいやー、なんかくれやー」ちゅう他力本願の教えもあります。あるいは利他、あんまり少ないけどね、最近少ないけど、まあとにかく自己犠牲(ぎぜい)を要求する教えもあるかもしれない。献身(けんしん)奉仕ばっかり要求する教えね、と言って結局、お金まき上げているだけだったりしてね。そういうこともあるし、あるいは、そうだね、インドのやっぱりヨガの肉体行なんかもね、その釈迦の時代の肉体行、苦行、これなんかも結局、自己犠牲かもね。自己犠牲がちょっと進み過ぎて、「とにかく自分を捨てることが悟りなんだ」ということでね。ちょっと行き過ぎたかもしれないねえ。あるいは、ヨーロッパといいますか、ユダヤの方だと、生(い)け贄(にえ)の子羊だね。自分が犠牲になって、生け贄の子羊になったら世の中よくなるなんて、そういう考えもある。ま、その考えの中には高尚(こうしょう)な考えもあるんだよ。あることはあるけども、必ずしもトータルじゃないね。 お釈迦様の昔話の中にね、そらあ、自分の身を投げ捨ててね、人を救った動物の話とか、いっぱいありますね。あるいは、虎の、飢(う)えた虎の子のために自分を投げ捨てた、何だか布施太子(ふせたいし)かな、なんかの話ってあるね。布施太子っていう人。釈迦の過去世の名前の人でね、それが修行しておって山道を歩いとると、崖(がけ)の下から虎の声が聞こえる。見たら獲物(えもの)がなくて、飢えとるんだな。虎の子たちが。可哀相になって布施太子はね、自分の体を投げる。身を投げて、投じて死ぬわけね。それで虎の子はそれを腹いっぱい食べたっちゅう話さ。それほど慈悲深いちゅう話。 ま、ただこれはたとえ話であってね、自我我欲のままに生きておる人が多い時代だったから、そういうたとえ話をしたけども、まあ、実際はそうしていいわけじゃないんだな。それぞれの人間が、自分の体投げ出しトンカツになって食われていいわけじゃない。これは人食い人種の世界ですよ、ね。人食い人種やれっちゅうわけにはいかない、現代でね。やはりそれぞれの個性、あるいは何と言いますかね、自覚、あるいはプライド、こういうものを許しながらね、やはり相互が調和して、発展していくこと。これが大人の知恵ですね。そうでしょう、ね。こういうことです。 だから結局、幸福の本質は、生死を超える道と一緒ですね。この世でも、あの世でも幸福な道、ここにあるわけです。これは結局、他人を害さず、自分をも利していく。自分を利しながら他人をも利していく。こういう生き方ですね。そして常々、八正道を中心に中道に入(い)るということ。そして中道から発展していくんでしょう。違うんかな、そういうことだね。それからあと、まあいろいろ、六波羅蜜(ろくはらみつ)だとか、いっぱいあるけれども、めんどうなことはやめて、結局あとはどうすりゃいいかっていうと、法灯でしょ、法をともすわけでしょ、ね。自灯明、法灯明ですね。自分の中に灯明をともし、他人にまた法をともしていく。神理というものに基づいて生きることだね。 結局ね、だから、幸福の基礎は結局、神理です。神理に基づいて生きる。神理の中に生きる。神理に応じて生きる。従って生きる、ね。これが結局、生死を超える道であり、幸福の本質でもある。そういうことだな。これが今日の結論ですよ。結局ね、幸福は神理にあり。神理の中に幸福があるんだ。まず、神理の探究なくして、神理の学習なくして、幸福はありえない、そう思え、ね。 こういうことで第1章がめでたく終わりました。じゃ、また明日。
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フライデー事件 フライデー事件(Wikipediaの内容を元に編集、教団側の一方的なPR部分を削除) フライデー事件とは、講談社による幸福の科学に関する報道に関して、幸福の科学が講談社に対して1991年9月に行った一連の過剰な抗議行動。幸福の科学および同教団会員らは一連の争議を「講談社フライデー事件」と呼んでいた。また、幸福の科学側では「講談社事件」、「希望の革命」とも呼んでいる。 宗教法人幸福の科学・幸福の科学出版・幸福の科学会員と、講談社・日刊現代社・記事の執筆者の間で多くの訴訟が行われた。最終的には執筆者側は複数の記事の一部に違法性が認められたのみである。一方、幸福の科学の抗議行動については大川隆法および幸福の科学の指示による業務妨害行為であるとして違法性があると認定された。 推移 1991年5月、講談社は雑誌『フライデー』『週刊現代』をはじめ系列のメディアで、宗教法人幸福の科学に対する批判的な記事の出版を開始し、『フライデー』8月23・30日合併号(8月9日発売)の「急膨張するバブル教団『幸福の科学』/大川隆法の野望」をはじめ、批判的な記事の連載を同年11月まで行った。 幸福の科学および代表(当時「主宰」)大川隆法はこうした一連の記事のうち、『フライデー』8月23・30日合併号に掲載された、旧姓中川を名乗る若い大川隆法が東京・墨田区で人生相談をしている者にノイローゼの相談に来たとの内容が虚偽であるとして、名誉棄損で講談社と『フライデー』編集長、および記事の執筆者を告訴するとともに提訴し、その他の『フライデー』の記事や『週刊現代』の記事について同様の訴訟を行った。 また、訴訟の開始前の9月2日から6日までの5日間に、幸福の科学会員は講談社の本社に直接抗議を行なうとともに、社屋近隣での数百名を動員したデモや、同社および株式会社日刊現代に対する多量の手紙・電話・ファクス送信による抗議行動を行い、これに対して日刊現代および講談社は幸福の科学による組織的な業務妨害であるとして同教団を相手に告訴・提訴を行った。その後、9月7日から同教団の全国の会員は、当時の有名人会員景山民夫と小川知子を会長・副会長として「講談社フライデー全国被害者の会」を結成し、全国7つの裁判所で「悪意に満ちた記事で信仰心を傷つけられた」として講談社などに損害賠償を請求する提訴を行った。幸福の科学側はこれを「精神的公害訴訟」と呼んだ。 その他、幸福の科学やその関連会社と、講談社やその関係者間に複数の訴訟が提起され、最終的に、2002年に至るまで係争が続くこととなった。 抗議行動の違法性が認定された裁判 訴訟において幸福の科学は、一連の抗議行動が幸福の科学の指示による組織的動員であることを否認したが、東京地裁(1996年12月20日)は一連の抗議行動の違法性を認定した上で、幸福の科学が大川の意向を受けて抗議活動の展開を決定、会員を招集・扇動、抗議の各作戦を立案し、各支部・各地区に詳細な指示を与えていた事実を認定し、抗議行動は幸福の科学の統一的指揮指令に基づくものであると認められるとした。その上で、言論機関に対する抗議行動を宗教活動と位置づけた大川の講演(9月15日)などから、各抗議行動そのものが幸福の科学の指示若しくは教義に基づく実践行為であり、幸福の科学は民法七一五条に定める使用者責任を負うものとした。講談社の損害額については一審(東京地裁)で1000万円としたが、控訴審(東京高裁)において120万円へ変更、上告審(最高裁第二小法定)は幸福の科学の上告を棄却して判決が確定した。 これは一連の抗議行動が大川隆法および幸福の科学の指示による業務妨害行為であると認めたものであった。 記事の一部に違法性が認定された裁判 一連の事件のきっかけとされる『フライデー』8月23・30日合併号の記事は違法性を認定されなかった。 記事の一部に名誉棄損が認容されたのは、1998年11月の東京高裁判決の『フライデー』10月4日号(9月20日発売)、2001年6月の最高裁判決の『週刊現代』7月6日号(6月24日発売)、9月28日号(9月16日発売)など数件のみで他の多くの記事に対する違法性認定はされなかった。 幸福の科学会員が全国7か所の地方裁判所に起こした訴訟のうち、景山民夫・小川知子2名が名誉毀損を加えて提訴した訴訟においてのみ、東京高裁(1995年10月30日)は、『フライデー』9月27日号(9月12日発売)、同11月8日号(10月25日発売)、『週刊現代』1992年6月6日号(5月25日発売)の3つの記事について違法性が認定され、これが1999年3月の最高裁判決で確定した。 名前 コメント フレフレ宏洋さん!フレフレ宏洋さん! …こっちの方がまだポジティブでいいぜ -- COPROT (2019-10-26 03 10 52) 大川隆法 犯罪者 詐欺 ぼったくり 金返せ -- 名無しさん (2017-05-01 22 49 54) このページを編集
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【検索用 それはこうふくのかわりて 登録タグ CeVIO そ 星界 曲 曲さ 道端の石】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:道端の石 作曲:道端の石 編曲:道端の石 唄:星界 曲紹介 「言葉をあげる」 曲名:『それは幸福のかわりで』(それはこうふくのかわりで) 道端の石氏の32作目。 歌詞 (YouTube概要欄より転載) 夜に浮かぶ冷めた月灯りがただ ひどく奇麗で怖かった儘の 君が何処かで寂しくて泣かないように 言葉をあげる 嗚呼 今も屹度、空は動いていて 遥か遠く彼の日が濁って征く 少しずつ言葉を覚えてさ そんな風に世界とさよならしよう 君の熱がまだ残っていた いつか触れた消えそうな光彩と 美しく笑えはしないけど こんな今日が続いたら良いな 嗚呼 聲がずっと、彼の日に響いた儘 奇麗だった世界が去って征く 悲しみが両の手に満ちて 君に触れることも叶わないのだ 揺れた光をただ辿っていた 暮れ泥んだ約束が待っていた 思い出すは痛み許りでも こんな世界を愛していたんだよ 聲に出せず消え征く言葉達は屹度 奇麗な筈だった いつか過去に埋もれて 傷だらけの言葉で歌ってしまうわ 愛も何も無かった物語は今も 何処かで続いていた 君の見た私はどんな色だろうか? 応えてよ 朝に沈む欠けた月灯りがまだ ひどく愛おしくて泣いた儘の 私をいつか君が思い出せるように 言葉をあげる コメント 名前 コメント
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「幸福の物理は間違いだらけですよ」と言ってるわけではありません。 しかし、「幸福の物理は正しい」と言ってるわけでもありません。 そう言う意味はないですからね。 →「私は正直者です」 質問、ご意見はこちらからどうぞ → Q&A 以下広告
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キャラシート【としあきの聖杯戦争TRPG】 【クラス】セイバー 【真名】幸福の王子[衛宮士郎] 【容姿】サファイアの如き青い瞳を持つ少年 【その他】秩序/善 人属性 【英雄点】40点(ステ26点・スキル14点):令呪2画消費 【HP】20/20 【筋力】A :5 【耐久】B :4 【敏捷】C :3 【魔力】A+:6 【幸運】A+:6 【スキル1】対魔力 D 5点:作成時、英雄点5を得る。 魔術防御時、補正値5を得る。 【スキル2】ルビーの剣 B+ 4点:魔術攻撃と物理防御時、補正値3を得る。 【スキル3】滅私奉公 A++ 5点:奇襲防御時、補正値5を得る。相手の攻撃時、対象を自分に変更できる。 【宝具1】無限の献身(アンリミテッド・ハッピープリンス) 1/1 【ランク・種別】対不幸宝具 EX 【効果】補正値10を得て、敵単体に魔術攻撃を行う。 対象は基準を【幸運】に変更して魔術防御判定を行う。 【宝具2】雪花咲く鉛の心臓(ロー・アイアス) 1/1 【ランク・種別】結界宝具 A+ 【効果】作成時、令呪一画消費する。 物理防御か魔術防御時、HPを5D6回復し、補正値5を得る。 泥 +セリフ集 セリフ集(カルデア召喚時) 召喚 「セイバー、召喚に応じて推参した。"幸福な王子"……呼びにくかったら、好きに呼んでくれ」 レベルアップ 「別に、そこまでしてくれなくても良いんだぞ?」 霊基再臨 「元々俺はただの像だからな。人間と違い、変化といえば風化だけだよ」 「見た目や装飾だけが全てじゃないさ」 「『眼に光が灯った』って……」「オイ、それじゃまるで、さっきまで俺が死んでいたみたいじゃないか」 「剣の、ルビー……そうか、心優しい人が返してくれたのかな」「……そうだな。確かに嬉しいよ、マスター」 戦闘セリフ 戦闘開始 「少し下がっていてくれ、すぐに終わらせる!」 「やってやろうじゃないか」 スキル 「燕は、今は居ないけどな」 「トレース……オン!」 カード 「分かった」 「ああ」 「行くぞ」 宝具カード 「体は、"剣"で出来ている」 アタック 「一撃!」(バスター) 「ふっ!」(アーツ) 「はっ!」(クイック) EXアタック 「重いぞ、かわせるか?」 宝具 「ただ一度の報いなく、然しただ一度の後悔もない」「――この心(からだ)は、無二の"剣"で出来ていた」 ダメージ 「くそっ!」 「ぐあぁっ……!!」 戦闘不能 「俺の、敗北だ……」 「マスター、逃げてくれ……」 勝利 「俺の勝ちだ」 「何とかなった、か……けど、アンタが無事でよかった」 マイルーム会話 「なんでさ」 「俺はアンタのサーヴァントだ。そうでなくても、求められればいつでも手を貸すけどな」 「疲れてるのか?厨房を借りて料理を作ってきた、良ければ食べてくれ」 「……!」「い、いや、悪い。何だか、嬉しくなってきてな……」(アルトリア・ペンドラゴン所属時) 「アイツは……そうか、この少年の」「ああいうのも、平行に交わらない一つの分かれ道か。恐らくは、俺も……」(エミヤ、エミヤ[オルタ]所属時) 「何だろう……この体の少年が、頭を抱えているのが見える」(パールヴァティー、イシュタル所属時) 「なあ、マスター……あれは一体どういう事だ?」「聖杯……いや、もっと違う何かに見える……」(???所属時) 好きなこと 「料理や機械弄りは、多分体の方が覚えているんだろう。今から、何か作ってみるか?」 嫌いなこと 「特にないけど……あの礼装。黒鍵、だったか?」「少し、胸騒ぎがする」 聖杯について 「いや、俺はいいよ。 マスターの願いを叶えるんだろう?」 絆Lv.1 「ん、どうしたんだ? 腹減ったなら、何か作るぞ」 Lv.2 「正義の、味方……」「ん、いや、少し頭の中をよぎったんだ。多分そういうのは、"俺"には向いていない気がする」 Lv.3 「起きたことは戻せない。たとえ間違っていたとしても……生き方は変えられないし、変えるつもりもないさ」 Lv.4 「……アンタは揺るがないんだな、本当に」「分かった、妥協する。自分の今の幸福が何なのか、少し考えてみることにするよ」 Lv.5 「答えが出たかって? そんなに早く出るわけないだろ……」「出るわけないから、それまでは……今まで通りアンタを守る。だから、これからも宜しくな、マスター」 イベント 「トラブルか?……よし、行くか、マスター」 誕生日 「誕生日おめでとう」「厨房借りて色々作ってみたんだ。みんな食堂にいるから、行こうぜ」 【キャラクター詳細】 彼を引き寄せたのは、一つの願いであった。 そして剣で出来た少年は、想いを受けた鉛の心の王子を、その身体に受け入れた。 異質ながら正統、歪んでいるが真っ直ぐな擬似サーヴァントは、誰かの願望を叶えるべく在る。 【パラメーター】 筋力 ■■■■■A 耐久 ■■■■■B 敏捷 ■■■■■C 魔力 ■■■■■A+ 幸運 ■■■■■A+ 宝具 ■■■■■EX 【絆Lv1】 身長/体重:167cm・58kg 出典:『幸福な王子』 地域:アイルランド 属性:秩序・善 性別:男 その魂は、或る街に於いて最も尊く輝いていた。 【絆Lv2】 アイルランド出身の作家、オスカー・ワイルド著の児童文学『幸福の王子』の登場人物。 短命だが幸福に生きた某国の王子を象り、サファイアの瞳、ルビーの柄の剣を持つ金箔飾りの像。 本来ならば人間の肉体を持たないが、精神性の近いとある少年の体を借り、セイバーのサーヴァントとして現界した。 【絆Lv3】 マスターに献身的に尽くし、その願いを成就させるために戦う。 悪事を企てるような主であっても、その心の奥に善性があることを疑わない。 それでも、主の心が根底から悪であると断じた場合、セイバーはその心を救おうとするだろう。 【絆Lv4】 ○滅私奉公:A++ 他人のために力を尽くし、その幸せを願う精神性の具現。 依り代の少年と霊気、両方に共通する性質のため、そのランクは極めて高い。 【絆Lv5】 『無限の献身』 ランク:EX 種別:対不幸宝具 レンジ:10~40 最大補足:300人 アンリミテッド・ハッピープリンス。 『無限の剣身』とも。 死後、その精神を神に認められ召された世界――誰しもの思い描く幸福の黄金郷を一本の剣に投影した宝具。 彼の奉仕の精神の原点である、剣の柄のルビーの色は、何物にも劣らぬ尊き魂の輝きを放つ。 【「傷つくのが運命だとしても」をクリアすると開放】 彼らの精神性は、真っ当な人間としては破綻している。 自らへの見返りもなく、ただ他人のために黙々と尽くす姿勢は、ある種の狂気にも映るかもしれない。 それでも彼らはその道が正しいと信じ、或いは間違ったものと知りながら進み続けた。 「だって、誰かのためになりたいっていう思いが、間違えの筈がないんだからな」 ――その心は、一本の曇りなき剣の如く在った。
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前衛 回復 消費TP 対象範囲/効果 使用回数 属性 20 [前衛生存者 全増加] 1 光 味方前衛生存者全体の全パラメーターが中アップする。レベルが上がると効果が増加する このスキルを所持しているカード 南の善い魔女グリンダ 権天使プリンシパリティ アルカナスター☆ミスラ ミチル
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