約 301,357 件
https://w.atwiki.jp/bokuserve/pages/1505.html
【元ネタ】日本・史実 【CLASS】キャスター 【マスター】 【真名】楠木長左衛門尉正虎 【性別】男 【身長・体重】cm・kg 【属性】秩序・悪 【ステータス】筋力D 耐久E 敏捷D 魔力C 幸運B 宝具C 【クラス別スキル】 陣地作成:E 魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。 小規模な”結界”の形成が可能。 道具作成:D キャスターが書いた文字に命が生じ、霊験を発揮する。 平安時代なら威力を発揮した分野だが、中世最末期の人物につきこのランクとなる。 【固有スキル】 単独行動:D マスターからの魔力供給を断ってもしばらくは自立できる能力。 ランクDならば、マスターを失っても半日間は現界可能。 仕切り直し:D 戦闘から離脱する能力。主が次々斃れる中、最後まで生き残った。 芸術審美:E 芸術作品、美術品への執着心。 芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、低い確率で真名を看破することができる。 特に書や和楽器の鑑定に秀でている。 【宝具】 『楠木氏系図(くすのきしけいず)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:1~10 最大捕捉:1人 キャスターが楠木正成の子孫を称し、それが認められたことに由来する宝具。 味方も含め、真名を知っている英霊がいた場合に発動が可能となり、 目の前に出現した系図に相手と自分の真名を記すことで、自身を相手の先祖か子孫ということにして、 スキルや宝具を部分的に使用出来るようになる。 『朝敵御赦免状(ちょうてきごしゃめんじょう)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:1~10 最大捕捉:1人 「朝敵」とされた先祖の楠木正成の赦免を訴え、叶えられたことに因む宝具。 目の前に出現した「赦免」の文書を読み上げることで発動し、罪や隠匿に関する宝具を封印する。 例として、本家の第四次聖杯戦争の場合。 「己が栄光のためでなく」→正体を隠して行動していたので封印。 「無毀なる湖光」→同輩の弟の騎士を切り、魔剣の性質を得たために封印。 【Weapon】 『無銘・打刀』 『無銘・筆』 【解説】 戦国期の武士・書家・歌人(1520~1596)。鼓の名手でもあった。 初めは足利義輝に仕え、義輝が討たれた後は松永久秀に仕え、更にその後は織田信長、 羽柴秀吉と主を変えながら、事務官僚として活躍。 節操がなかったとも言えるが、有能であったのは間違いない。 晩年、朝鮮出兵の際には、石田三成の父である正継と机を並べている。
https://w.atwiki.jp/espresso25/pages/25.html
オトギリソウ オトギリソウ(弟切草、学名:Hypericum erectum)は、オトギリソウ科オトギリソウ属 の多年生植物。 日本全土から朝鮮半島、中国大陸の草地や山野に自生する。高さ20cm~60cmにまで生育し、夏に2cm程の黄色い花を咲かせる。 葉の表面に褐色の油点が見られるが、これはヒペリシンという光作用性物質で、これを摂取した後に日光に当たると皮膚炎や浮腫を生じる。 またオトギリソウにはタンニンが多く含まれており、全草を乾燥させたものを小連翹(しょうれんぎょう)と称して生薬として用いる。 この草を原料にした秘薬の秘密を漏らした弟を兄が切り殺したという平安時代の伝説によるものである。この不吉な伝説のため、付けられた花言葉も「怨み」「秘密」と縁起が悪い。 一方、基本的には薬草であり、タカノキズグスリ(鷹の傷薬)、チドメグサ(血止め草)などの悪いイメージのない異名も持つ(同様に民間療法で傷薬として使うチドメグサは別種に存在する)。 オトメユリ オトメユリ(乙女百合、学名:Lilium rubellum)はユリ科ユリ属の植物のひとつ。別名、ヒメサユリ(姫小百合)。自生している地域では、「オトメユリ」よりも「ヒメサユリ」で知られている場合が多い。 日本特産のユリで、宮城県南部、及び新潟県、福島県、山形県が県境を接する飯豊連峰、吾妻山、守門岳周辺にしか群生していない貴重な植物。野生種は環境省のレッドリストでは準絶滅危惧(NT)、及び国際自然保護連合(IUCN)の「レッドリスト」ではEndangered (EN)に指定されている絶滅危惧種でもある。 高さは30~50cm程度。鱗茎は卵形で、葉は広披針形をしている。開花時期は6月~8月で、花は筒形で横向きに開く。花径は5~6cm程、長さは8cm程度。花は薄いピンク色で斑点がないのが特徴。ヤマユリほどではないが、花の香りは甘くとても濃厚である。尚、良く似たユリにササユリがあるが、オトメユリはおしべの先が黄色くなっているところで区別される。 参照 wikipedia オトギリソウ http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%88%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%82%A6 参照 wikipedia オトメユリ http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%88%E3%83%A1%E3%83%A6%E3%83%AA 花 販売 花ギフト プリザーブドフラワーギフト ファンシーギフト
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/9125.html
井草八幡宮 いぐさはちまんぐう 東京都杉並区にある神社(八幡神社)。 所在地 東京都杉並区善福寺1-33-1 URL https //www.igusahachimangu.jp/ 平安時代末期に、神社としての形態を整えたといわれる。 当初は春日神を祀っていた。 源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願した。 文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻めるに当たり、戦勝祈願をしたと伝えられている。 江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進している。以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があった。 明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修や増築が繰り返され、同時に植林も行われた。 2022-08-06 関連項目 2022-08-06 東京サイクリング この項目のタグ 2022年 2022年8月 八幡神社 杉並区 東京都 歴史 社寺林 神社 タグ「東京都」「神社」がついた項目 赤城神社(新宿区) / 赤坂氷川神社 / 阿伎留神社 / 浅草神社 / 愛宕神社(港区) / 穴八幡宮 / 穴守稲荷神社 / 井草八幡宮 / 出雲大社東京分祠 / 市谷亀岡八幡宮 / 稲荷鬼王神社 / 王子神社 / 大鳥神社(目黒区) / 大宮八幡宮 / 荻窪八幡神社 / 奥氷川神社 / 春日神社(日の出町) / 蒲田八幡神社 / 亀戸水神社 / 亀戸天神社 / 神田明神 / 熊野神社(新宿区) / 金刀比羅宮東京分社 / 駒込富士神社 / 鷺宮八幡神社 / 幸神神社 / 品川神社 / 芝大神宮 / 芝東照宮 / 下高井戸八幡神社 / 下山八幡神社 / 新町御嶽神社 / 神明氷川神社 / 水神社 / 水天宮 / 巣鴨庚申塚 / 諏訪神社(新宿区) / 世田谷八幡宮 / 千住神社 / 多摩川浅間神社 / 筑土八幡神社 / 東京大神宮 / 富岡八幡宮 / 中目黒八幡神社 / 波除稲荷神社 / 西向天神社 / 抜弁天 / 沼袋氷川神社 / 根津神社 / 白山神社(文京区) / 幡ヶ谷氷川神社 / 日枝神社 / 東伏見稲荷神社 / 宝禄稲荷神社 / 三崎稲荷神社 / 三宿神社 / 御田八幡神社 / 武蔵御嶽神社 / 明治神宮 / 箭弓稲荷神社(台東区) / 靖国神社 / 湯島天神 / 吉原神社 / 代々木八幡宮 タグ「杉並区」がついた項目 2013-05-25 / 2013-05-26 / 2013-08-29 / 2016-01-11 / 2017-02-05 / 2018-04-07 / 2018-10-27 / 井草八幡宮 / 大宮八幡宮 / 荻窪八幡神社 / クラフトビアマーケット高円寺店 / 高円寺 / 高円寺麦酒工房 / 国道20号 / 小杉湯 / 蚕糸の森公園 / 下高井戸八幡神社 / 善福寺川 / 善福寺公園 / 大将三号店 / マカロンエショコラ / 妙正寺 / 妙正寺川 / 妙正寺公園 / 和田堀公園
https://w.atwiki.jp/kyoto-database/pages/64.html
賀茂御祖神社(下鴨神社) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区下鴨泉川町にある神社。下鴨神社は別称。祭神は玉依媛命(たまよりひめのみこと、玉依比売命とも)と賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)。賀茂別雷神社(上賀茂神社)と並び、京都で最も古い神社のひとつで、平安遷都後は王城鎮護の社として信仰された。ご利益は厄除け、方除け、学業成就、交通安全など。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 山城国『風土記』などに、玉依媛命が禊をしているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を拾い床に置いたところ、矢は美しい男神になり、結婚して子を生んだとの神話が伝えられている。賀茂建角身命は、古代の京都を拓いた神として、京都の守護神として祀られている。平安京?が造営される際に、成功のご祈願が行われて以来、国家の平安を祈願する神社と定められた。創建年代は不明だが、社殿が造営されたのは白鳳6年(678)とされる。境内は糺の森(ただすのもり)を含め約3万7600坪。糺の森は約40種4700本の樹木が茂る原生林で、創建当時は約150万坪の広さを誇った神域。糺とは、賀茂川?と高野川?のふたつの川が合流する「只州」、もしくは祭神の多多須玉依媛命の名に由来するといわれる。森の一番北側に平安時代の建築様式を伝える御殿が並び建つ。長元9年(1036)に、すべての社殿を21年ごとに同じ様式で建て替える制度(式年遷宮)が定められたため、往古の様式が連綿と受け継がれている。寛永5年(1628)には橋殿や細殿、楼門、舞殿など大半の社殿が再建された。文久3年(1863)には攘夷祈願のため孝明天皇の行幸がなされた。四季折々に古式ゆかしい祭礼が執り行われ、その模様は『源氏物語』や『枕草子』、『徒然草』などの文学作品にも度々描かれている。5月に行われる賀茂祭?(葵祭?)は京都三大祭のひとつ。 建築物 東本殿・西本殿 共に文久3年(1863)に造替。三間社流造、檜皮葺。東本殿は祭神の玉依媛命が祀られている御殿。西本殿は賀茂建角身命を祀る。 大炊殿 神饌(神に供える料理)を調理していた建物。水は隣に建つ井戸屋形の御井と呼ばれる井戸から汲み上げられた。現在は調理器具や神饌のレプリカなどを公開する展示室として使われている。 中門 檜皮葺の四脚門。門の左右に設けられた楽屋は、行事の際に雅楽を演奏する場として使われた。 言社 干支の守護神を祀る7棟の建物。三間社流造。商売繁盛や長寿祈願の社としても有名。 幣殿 玉依媛命、賀茂建角身命に供物を捧げる場所で、奥にあるふたつの本殿と渡り廊下で結ばれている。 叉蔵・印璽社 高床式の叉蔵は、天皇からの供物を保管する建物。叉蔵の隣にある小さな社が印璽社で、印鑑や契約守護の神を祀る。 舞殿 寛永5年(1628)に造替。賀茂祭?(葵祭?)では、ここで勅使が祭文を奏上し、その後日本最古の歌舞である「東遊」の舞が奉納される。 楼門 高さ約13m。左右に回廊を備える。 御手洗社 祭神である瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)は様々な災難除けの神。井戸の上に建つため井上社とも呼ばれる。社の前にある御手洗池では、斎王代の禊や夏越神事、御手洗祭(足つけ神事)が行われる。池の水は御手洗川となって境内を流れる。また御手洗池に湧く水の泡を象って「みたらし団子」が作られたといい、団子発祥の地とも伝わる。 三井社 本殿西側にある摂社で、一説には本殿よりも古い社とされる。祭神は玉依媛命、賀茂建角身命、伊賀古夜比売命(いかこやひめのみこと)。 相生社と連理の賢木 相生社の祭神は神皇産霊神(かむむすびのかみ)。結納の守護神として、また縁結びの神としても篤く信仰されている。授与所では『源氏物語』にちなんだ縁結びおみくじが人気。連理の賢木は相生社の傍らにある神木で、二本の木が途中で一本に結ばれているという不思議なもの。この木が枯れても、糺の森の中に跡継ぎができているという言い伝えがあり、現在の神木は四代目。 河合神社 玉依姫命を祀る摂社。本殿に祀られる玉依媛命とは同じ読みながら別の神で神武天皇の母神にあたる。『方丈記』を記した鴨長明が河合神社の神官の家の生まれということで、境内には長明が晩年を過ごした庵を復元した「方丈の草庵」が建つ。また神社の御料屋には鴨長明の資料が展示されている。 文化財 国宝 東本殿 西本殿 重要文化財(建造物) 祝詞舎 幣殿 東西廊 東西御料屋 叉蔵 中門 東西楽屋 中門東西廻廊 預り屋 西唐門 舞殿 神服殿 橋殿 細殿 供御所 大炊殿 楼門 三井神社ほか多数(合計53棟) 重要文化財(美術工芸品) なし 史跡 賀茂御祖神社(下鴨神社)境内 拝観情報 住所 京都市左京区下鴨泉川町60 電話番号 075-781-0010 拝観時間 境内自由、社殿10:00~16:00 拝観料 境内自由、社殿500円 アクセス 市バス「下鴨神社前」下車すぐ 駐車場 駐車場あり(30分150円) 主な祭事 1月4日 蹴鞠始め 1月9日 初えと祭 1月成人の日 成人式 1月15日 御粥祭 2月節分 節分祭 3月3日 流し雛 5月3日 流鏑馬神事 5月4日 古武道奉納 5月4日頃 斎王代禊之儀(上賀茂神社と隔年) 5月5日 歩射神事 5月12日 御蔭祭 5月15日 葵祭? 6月初旬 蛍火の茶会 7月土用丑の日 御手洗祭(足つけ神事) 8月立秋前夜 夏越神事(矢取り神事) 8月11日~16日 納涼古本まつり 9月中秋の名月の日 名月管弦祭 10月9日 大国祭 10月17日 神嘗祭 11月3日 明治祭 11月23日 新嘗祭 12月13日 御薬酒神事 12月23日 天長祭 その他 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定3級出題 「下鴨神社の社叢で、古くから禊を行うところで知られている森はどれか。 (ア)聖護院の森 (イ)紫野の森 (ウ)北野の森 (エ)糺の森」 平成17年(2005)第2回京都検定3級出題 「下鴨神社の神饌菓子で、水の泡を表しているとも、人の体を表しているともいわれる菓子はどれか。 (ア)おせき餅 (イ)どら焼き (ウ)みたらし団子 (エ)やき餅」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「下鴨神社は平安時代から伊勢神宮と同様に、一定年限で本殿を造替する式年遷宮が行われてきたが、現在の本殿はいつの造替のものか。」 「足つけの神事として、下鴨神社では( )が行われる。」 平成17年(2005)第2回京都検定1級出題 「下鴨神社では土用の丑の日に、無病息災を祈願する別名「足つけ神事」とも呼ばれる( )祭が行われる。」 リンク 賀茂御祖神社(下鴨神社)オフィシャル http //www.shimogamo-jinja.or.jp/ 世界文化遺産 下鴨神社と糺の森
https://w.atwiki.jp/asparagusbisque/pages/40.html
日本刀(にほんとう)は、日本固有の製造法によって作られた刀剣類の総称。刀剣類は、日本では古墳時代から作られていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった湾曲した刀のことを指す。寸法により刀(太刀・打刀)、脇差(脇指)、短刀に分類される。広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれる。 著名な刀で、日本国国宝「大包平」、妖刀「村正」、「雷切」、豊臣秀吉の愛刀「一期一振」、佐々木小次郎の愛刀「備前長船長光」、「天下五剣」と称される5つの名刀(国宝「童子切」、「三日月宗近」、「大典太」、重要文化財「数珠丸」、御物「鬼丸国綱」)などがある。詳しくは日本刀一覧を参照されたい。 目次 [非表示] * 1 概説 * 2 「日本刀」という呼称 * 3 歴史 o 3.1 上古から湾刀の出現まで o 3.2 平安時代 o 3.3 鎌倉時代 o 3.4 南北朝時代 o 3.5 室町以降 o 3.6 江戸以降 o 3.7 幕末動乱期 o 3.8 明治から第二次世界大戦 o 3.9 第二次世界大戦後 * 4 日本刀の製法 o 4.1 質の高い鋼の作成 o 4.2 鋼の組合せ o 4.3 温度管理 o 4.4 仕上げ * 5 日本刀の研磨 * 6 各部名称 o 6.1 刀身 o 6.2 鞘 o 6.3 柄 o 6.4 鍔(鐔) * 7 日本刀の種類 o 7.1 時代による分類 o 7.2 形状による分類 o 7.3 造り込みの分類 o 7.4 反りの種類 o 7.5 鑢目の種類 o 7.6 鋩子の種類 o 7.7 切先の種類 o 7.8 地肌による種類 o 7.9 地刃の働きの種類 * 8 日本刀の多様な側面 o 8.1 日本刀の性能と力学的性質 + 8.1.1 テレビ番組による実験 + 8.1.2 日本刀の性能に言及されている史料 o 8.2 戦史上の日本刀 + 8.2.1 近代以前の戦史における日本刀の役割についての論争 + 8.2.2 合戦に刀が使用された理由 + 8.2.3 戦場外での日本刀 o 8.3 日本刀の文化・宗教的側面 * 9 日本刀の新聞 * 10 日本刀の雑誌 * 11 参考資料 * 12 注記 * 13 出典 * 14 関連項目 * 15 外部リンク 概説 [編集] 古来から武器としての役割と同時に美しい姿が象徴的な意味を持ち、美術品としても評価の高い物が多い。古くから続く血統では権威の証として尊ばれていた。また、武家政権を背景に「武士の魂」として精神文化の支柱として機能した。 その特徴は、"折り返し鍛錬法"で鍛え上げられた鋼を素材とする点と、刀身となかご(茎、中心)が一体となった構造である。茎には刀身を目釘で柄に固定する目的の孔(目釘孔)が設けられている(稀に奉納用の刀などで目釘孔がないものもある)。また、日本刀は諸外国の刀剣類と異なり、外装(拵え)とは別に刀身自体が美術的価値を発揮していることを以って最大の特徴である、と言える。 「日本刀」という呼称 [編集] 「日本刀」は元来、海外からみた場合の呼称[1]である。古来の日本では「刀(かたな)」、もしくは「剣(つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称を使っていない。 「日本刀」という呼称は、北宋の詩人である欧陽修(おうようしゅう)の「日本刀歌」に見られる。この詩の中で、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行くことやその外装や容貌などの美術的観点が歌われている。「日本刀歌」の本題は日本刀ではなく、中国では既に散逸してしまった書物が日本には存在しているということを嘆いた詩ではあるが、日本刀の美しさが、平安時代後期 - 鎌倉時代初期に既に海外の好事家などにも認められており、輸出品の1つとされていたことを示している。 「日本刀」という名称は外国の刀剣とは異なる日本固有の刀剣の総称であり、日本人にとっての一般的名称として広まったのは幕末以降のことである。それ以前は「打刀(うちがたな)」や「太刀」など小分類で呼ぶのが普通であった 歴史 [編集] 日本刀は、政治・経済・文化・風俗・習慣など、その時々の歴史的要因とあいまって変貌を繰り返してきた。 上古から湾刀の出現まで [編集] 大刀(たち)を佩用する聖徳太子。黒漆塗の鞘に山形金物と長金具が付いた大刀を帯取と佩緒で下げている。 古墳時代にはすでに鉄製の刀剣が作られていた。例えば、埼玉県の稲荷山古墳や島根県安来市の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳からは鉄剣、大刀が出土している。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。この時代の刀剣の多くは朽損しているが、島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名である。 7 - 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」や「七星剣(しちせいけん)」、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)」などが知られている(湾刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)。推古天皇が「馬ならば日向の駒、太刀ならば呉のまさび」と詠んでいるように、この時代、呉(中国南東部の総称)の刀が最良とされていた。が、日本の鍛冶職人の水準も上昇してきた。正倉院では唐太刀と呼ばれる海外からの渡来品と共に、唐様太刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、平造り・切刃造りの直刀、蕨手刀(わらびてのかたな)といった国産の剣も現存している。 平安時代初期の刀剣の遺品は乏しく、作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、学問的に十分解明されていないが、承平天慶の乱などが発生した平安時代中期以降(10世紀頃)従来の直刀に代わって騎乗時に扱い易い刀身に反りのある蕨手刀(彎曲刀)が使用されるようになった。これは長らく苦しめられた東北との紛争で俘囚が騎乗しながら使用していた蕨手刀が影響しているとみられる。また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工・天国(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。 平安時代 [編集] 稲荷山 小鍛冶。刀匠・宗近が稲荷の使いに相づちを打たせ、小狐丸という名刀を作り上げた。 平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国・大和国などに刀工の各流派が現れてきた。このころの日本刀は馬上決戦を中心に考えられた太刀が主体である。源頼光が大江山の酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国の安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めとするが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっている。安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、古備前友成などが、現存在銘作のある最古の刀工とみなされる。 平安時代の太刀の特徴を以下に列記する。造り込みは鎬造り、庵棟(いおりむね)で、身幅(みはば)は総じて狭く、鋒(きっさき)が詰まって小切先となる。姿は腰から棟側にあたかも倒れるような姿をしており、反り高く、物打(ものうち)は反りが伏せごころ。踏ん張りのある(元幅に比べて先幅が狭くなっていく形)優美な姿をしている。刃文(はもん)は直刃(すぐは)または小丁子(こちょうじ)・小乱(こみだれ)が入っており、沸(にえ)出来である。焼幅はあまり広くなく、刃区(はまち)から少し先の方から刃文が始まっているものが多い。これは研ぎ減りの関係でもあるが、「焼き落とし」とも呼び、豊後国行平など、九州鍛治には後世でも見られる。茎(なかご)は反りがあり、雉股(きじもも)形が主流である。稀に元先の身幅(みはば)に差があまりない豪快な太刀も存在し、古備前派の包平の大包平(おおかねひら 東京国立博物館蔵)、真恒(さねつね 久能山東照宮蔵)、友成(ともなり 厳島神社蔵)、九州の三池光世(みいけみつよ)の大典太(おおでんた 前田育徳会蔵)が著名でいずれも国宝に指定されている。 鎌倉時代 [編集] 伝源頼朝像。毛抜形太刀を佩刀している。 鎌倉時代初期の日本刀は平安時代末期とあまりかわらない姿をしているが、鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、刀剣界が活発になっていく。後鳥羽上皇は御番鍛冶を設置し、月ごとに刀工を召して鍛刀させ、上皇自らも焼刃を施したといわれ、積極的に作刀を奨励した。中でも備前の刀工則宗が有名である。この時期には山城国の粟田口派、備前国の一文字派が新たに興った。 鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついてくる。鋒は幅が広く長さが詰まって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がよくでている。この頃から短刀の制作が活発になり、作例がしばしば見うけられる。この時期の短刀の特徴としては、反りがないか(刺刀:さすが)、わずかに内反り(棟が研ぎ減ったと考えられているかあるいは元から筍反:たけのこぞりと呼ばれる筍造:たけのこづくり)になっており、茎は反りのないものと振袖形(ふりそでがた)がある。この時期の有名な刀工として、山城の粟田口派の国友、則国、国吉、吉光、国安、同国来派(らいは)の国行、来国俊、二字国俊(銘字を「来国俊」でなく単に「国俊」と切る)、大和国の当麻派「国行」、手掻派「包永」、保昌派、千住院派、備前国の福岡一文字派、少し遅れて吉岡一文字派、長船派の光忠、その子長光、備中国の青江貞次一派が存在する。 また、鎌倉幕府では、作刀研究推進のため、各地から名工を招聘した。主な刀工は、山城国から粟田口藤六左近国綱、備前国から福岡一文字派の助真、国宗派の国宗、京伝、大和伝の流れを汲む新藤五国光などと言われている。特に新藤五国光は、従来の山城伝伝統の精緻な地鉄の上に、大和伝に見られる沸働きの強い作風を確立し、事実上「相州伝」の祖と言われている。その弟子には行光、国広がおり、行光の弟子に越中則重、岡崎五郎入道正宗が知られている。備前伝が「匂出来」で知られる一方、相州伝は「沸出来」である。 山城・大和・備前・美濃・相模の5か国の作刀方式を「五箇伝」という。これら5か国の作刀には、それぞれ地鉄、鍛え、刃文などに独自の特色があり、それを「山城伝」、「相州伝」などと称する。なお、相模国については「相模伝」とは言わず「相州伝」という習慣がある。五箇伝は桃山 - 江戸時代にかけて刀剣研磨・鑑定を生業とした本阿弥一族が整理した区分であり、大正 - 昭和初期にかけて本阿弥光遜が体系的に整理した。 鎌倉時代末期、2度の元寇や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づく。この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をより豪快にしたものに変わっていく。身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒が延びたものが増えてくる。短刀やその他の刀剣にも太刀と同じように長寸の作がでてくる。ただし、全般に重ねが薄い点が他の時代との大きな差異である。 古今で最も著名な刀工、相州の岡崎五郎入道正宗は、ちょうど鎌倉中期から末期にかけて活躍したと推測されている。彼は、新藤五国光が確立した「相州伝」をさらに強化した作風で知られる。硬軟の鋼を巧みに組み合わせた地鉄を鍛えることによって、砂流(すながし)・金筋(きんすじ)・沸裂(にえさけ)・地景(ちけい)・湯走り(ゆばしり)・沸映り(にえうつり)と称される地刃中の「沸の働き」を従来の刀工以上に表現した。殊に刃中の細かい沸の輝きは、後世の沸荒く飛び焼き顕著な「相州伝」と一線を引き、同時代の「相州伝」刀工の作を「相州上工の作」と区別し褒め称えられている。また、地鉄の「働き」が豪華絢爛であるのと同様、「湾れ(のたれ)」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えた、従来にはなかった大乱れの華やかな刃文を確立した。正宗の作風は鎌倉末期から南北朝期の各地の刀工に絶大な影響をあたえた。世に「正宗十哲」とよばれる刀工がいる。彼らの大部分は、後世の仮託であり、正宗とは実際の師弟関係がないにもかかわらず、正宗の相州伝が各地に影響を及ぼしたことがよくわかる。 南北朝時代 [編集] 政治的時代区分では室町時代に包含されることの多い南北朝時代は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的である。この時代の刀剣は他の時代と違い大太刀・野太刀といった大振りなものが多く造られている。すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしている。刃文は「のたれ」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えたものが良く見受けられ、古来より一大勢力であった備前国においても、当時長船派の棟梁格であった兼光一派の作にも、伝統の丁子乱れ(ちょうじみだれ)ではなく、互の目乱れが見られ、後の長船一派の刀工へ影響を及ぼしている。この時代の太刀は、元来長寸の大太刀であったものを後世に磨上げ(すりあげ)・大磨上げ(おおすりあげ)されて長さを調整され、打刀に造り直されているものが多い。天正年間に織田信長などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させていることから、室町末期の磨上を「天正磨上」と呼び非常な名刀が多い。また、この時代には小太刀もいくらか現存しており、後の打刀を連想させるものと思われる。 室町以降 [編集] 室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍した。主な刀工は長船政光、秀光、師光などである。続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出した。これらは応永年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれている。応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、嘉吉の乱で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要なポイントである。太刀から打刀、脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期である。応永備前の打刀(2尺3寸前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く、江戸時代に大名が美しい拵えを作るために珍重された。この頃、たたら製鉄技術が一段進歩したと言われ、大規模な製鉄場跡が見られるようになる。 (室町中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く太刀から、刃を上向きにして腰に差す打刀(うちがたな)に代わってくる。なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の表で、その面に刀工銘を切るのが普通である。したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いが、裏銘に切る刀工もいる。) 太刀:備前長船祐定(青貝螺鈿拵)。室町時代の太刀。 平和な時代が始まったため刀剣の国内需要は低下したが、明への重要な貿易品としての生産も行われるようにもなった。そして、応仁の乱によって再び戦乱の世が始まると、膨大な需要に応えるため、足軽など農民兵用に「お貸し刀」(貸与される刀)などの粗悪な「数打物」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになった。戦国時代に入ると刀剣生産が各地で行われ、特に祐定を名乗る刀工だけでも60名強揃った備前国と、兼「某」を名乗る刀工が活躍した美濃国が生産拠点の双璧である。他には、豊後、三原、大和、加賀、越中、駿州が知られている。寛正年間から火縄銃が普及する天正頃まで、片手打ちの刀(2尺前後)が多い。また、合戦に明け暮れる武将は、己が命運を託する刀剣を特注することもあった。これら「注文打ち」には名刀が揃っている。重要文化財に指定されている「長船與三左衛門祐定」の永正年期作は、注文主の栗山某の美意識を反映してか、元から中ほどまで中直刃で、中から先まで互の目乱れを焼き、従来にはない感覚の異色の名刀である。同時代の著名な刀工としては、'備前の則光'、在光、賀光、祐光、勝光、宗光、清光、春光、治光、幸光など、美濃の兼定、兼元、兼常、兼房、兼先、兼道、兼則、兼若、氏貞などが挙げられる。他の地方では、相州綱広、千子村正、高天神兼明、豊後平鎮教、平安城長吉、手掻包真、加州行光、宇多国宗、波平某などがある。その他無名の刀工を含めると、第二次世界大戦時より刀工の数が多かったものと思われる。 南蛮貿易による鉄砲の伝来によって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていった。まず、鉄砲に対抗するため甲冑が強化された。また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、身幅広く、重ね厚く、大切先の刀剣が現われ始めた。この姿が豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、豪壮な「慶長新刀」体配を生み出す土壌となった。 江戸以降 [編集] 刀剣史上注記すべき点としては、長らく続いた備前長船一派が度重なる吉井川の氾濫で天正末期に壊滅したことがある。これによって備前鍛治の伝統は一時休眠状態となった。そのため、各地の大名は量産体制のある美濃の鍛治をこぞってお抱え刀工に採用した。この点は「新刀」を語る上で非常に重要なポイントとなる。 刀剣史では、慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」と区別がされている。違いは地鉄にある。従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われた。しかし、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったため、基本的に新刀の地鉄は綺麗である。 新刀の祖は梅忠明寿と言われており、その弟子に肥前国忠吉がいる。 備前鍛治が壊滅状態に陥ったこともあり、京都に近い美濃国から京都、近江、越前、尾張、大坂へと刀工が移住していった。中でも京都に入った兼道一族は、全国を転々とし京都堀川に居住した国広一派と技術交換含め、新刀期の技術的基礎を築いた。諸国の刀鍛治は両派のいずれかに入門し、身につけた技術を全国へ伝播していった。即ち、新刀の特色としては、美濃伝の特徴である「鎬地に柾目が流れる」ものとなる。徳川家康が越前下坂康継をお抱え工としているが、康継も美濃伝を受け継いでおり、一部地域を除いて、文字通り美濃伝が主流となった。これが新刀初期の実態である。 江戸時代に入り、朱子学の発想に基づく風紀取締りを目的として、武家の大小差し(打刀、脇差)の差し料の寸法、町人などの差し料の寸法が制定された。特に武家の大小差しの新規需要が多く、寛永から寛文、延宝にかけて各地の刀鍛治は繁栄し、技術水準も向上した。一方で幕末までの間、普段差しを中心に用いられる短刀の作刀は急激に減る。江戸初期に活躍した各地の著名刀工は以下の通り。北から 仙台・国包、会津・政長、兼定、江戸・越前康継(初、2代)・江戸石堂是一(初代)、相州・綱広、尾張・伯耆守信高(初代)・政常・氏房、加州・兼若、越前・下坂一派(忠国・重高・包則)、京・堀川派(国路・国安・国儔)・三品派(金道・吉道・正俊)、大坂・親国貞、紀州・重国・紀州石堂正俊、筑前信国派、福岡石堂一派(守次、是次)、肥前・忠吉一派(初代・忠廣)、薩摩・波平一派などである。寛文頃から江戸での鍛刀も盛んになるが、元和、寛永時期においては、京都、越前、美濃が中心地であった。 武家文化の中心である江戸においては、幕府お抱え刀工である越前下坂康継一派が大いに活躍し、また、石堂(いしどう)と呼ばれる備前鍛治の末裔を名乗る刀工、室町期の法城寺(ほうじょうじ)派の末裔を名乗る刀工、武州土着の下原鍛治も出現し、お互い技量を高めた。また、天草の乱以降平和な時代が続き、寛文頃になると、剣術が竹刀による稽古中心となった影響で、竹刀に近い、反り浅く伏せごころで小切先詰まる刀が求められた。この姿を寛文新刀と呼び、江戸時代の刀剣の姿の代表である。寛文新刀の中心地は江戸であり、その武骨な姿が武芸者に好まれた。主な刀工としては、江戸越前康継(3代)・石堂是一(初、二代)・和泉守兼重、上総守兼重・大和守安定・法城寺正弘・八幡平高平・そして特に著名な長曾祢虎徹、奥里、奥正がいる。少し後れて、石堂派から日置光平、対馬守常光がいる。 商業の中心地の大坂には、近郊から刀工が次第に集まってきた。同時代の著名な刀工としては、三品派(親国貞・国貞(二代)・吉道・河内守国助)、紀州から移住した大坂石堂派(康広、多々良長幸)、地元の助廣(初代、二代)、粟田口一派(忠綱、国綱)がいる。これらの刀工集団の作を大坂新刀と呼び、新刀の中でも特に区別される。その特徴は地鉄にあり、地鉄の美しさは新刀内でも群を抜く。背景には大坂の商業力と、古来より鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨を近辺に控えていることもあるだろう。そして、美しい地鉄の上に華やかな刃文を創始した。特に有名なのは、大坂正宗と賞される国貞(二代)井上真改の匂い沸深い直刃と、助廣(二代)津田助廣が創始した涛瀾乱れ。中には「富士見西行」「菊水刃」と呼ばれる絵画的で華美な刃文も登場したが、保守的な武士からは退廃的だと忌避されるものもあった。 また、元禄以降太平の世になると新たな刀の需要はなくなり、刀を作る者も殆どいなくなった。中には武芸者が特注打ちで流派に即した刀を鍛えさせているがごく少数である。その中でも粟田口忠綱二代の一竿子忠綱は刀身の出来、彫りともに優れている。 刀剣の需要が衰退する一方で、鐔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)などの刀装具の装飾が発達し、これらの装剣金工の分野にも林又七・志水甚吾を代表とする肥後鐔工、京透かし鐔工、山吉兵などの尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工・伊藤鐔工、全国に散った京正阿弥一派と言った鉄地を細工する鐔工だけでなく、町彫りの祖と呼ばれる横谷宗珉を始め土屋安親、奈良利壽、濱野政随など、従来の後藤一派の伝統から離れた金工職人に殊に独創的な名工が生まれた。刀剣は消耗しないものの、刀装具は各々時代の流行に合わせて変化し(一方で登城差しなど掟に縛られた拵えもある)、刀装具の反映に反比例するが如く、鍛刀界は衰退していく。 幕末動乱期 [編集] 江戸期の脇差(東京国立博物館所蔵) 黒船来航前夜の安永前期。黒船来航を待たずして度重なる飢饉、貨幣社会の台頭による商人の肥大化などにより、武家の衰退が顕著となり、社会の変革の風を人々が意識・無意識に感じ始めた。そんな時代に出羽国から江戸へ上り、鍛刀技術を磨くものが現れた。安永3年に正秀と銘を改めた川部儀八郎藤原正秀、即ち新々刀の祖と呼ばれる水心子正秀(すいしんしまさひで)の登場である。これより明治維新までの時代を「新々刀」と区分する。特徴としては、製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったため、地鉄が無地に見えることがある。後期には洋鉄精錬技術も取り入れられ、さらに無地風の地鉄が作られた。地鉄の変化と焼入れ技術の低下からか、総じて匂い口が漫然とするものが多い。また逆行するが如く、色鉄を用いたり、無理に肌を出した刀や、古作の写しものが出現する。姿は各国でまちまちであるが、総じて身幅広く、切先伸び、反りのつくものとなる。 新々刀初期に、鎌田魚妙という侍が「新刀弁疑」という著書で、名刀の条件に、沸匂深い作を主張し、大阪新刀の井上真改、津田助廣を褒め称えた。そのため新々刀初期には江戸時代前期の津田助廣が創始した華麗な涛瀾乱れを焼くのが流行した。しかし、本科と比べると、地鉄は無地調で弱く、刃は鎬にかかるほど高く焼き、そして、茫々とした締まりのない匂い出来で、斑沸つく作が多い。実用刀とはほど遠いと感じた正秀は、鎌田魚妙の説に疑問を抱き、実用刀剣の復古、即ち鎌倉時代・南北朝時代の刀剣への復古を唱えた。この復古運動は、後の勤皇思想が盛んになりつつある社会情勢と響きあい、各地の鍛治と交流し(相州伝、備前伝の秘儀を学ぶべく弟子入りした)、同時に大勢の門弟を育てた。卸し鉄など様々な工夫を凝らし目標とする鎌倉・南北朝期の地鉄作製を試みるも、たどり着くことはなかった。これは今日でも同様である。 正秀の弟子は全国各地へ散り、文字通り新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどである。著名な弟子に大慶直胤、細川正義、加藤綱俊がおり、各々正秀と同様、多くの門人を育てた。 正秀一派が活躍する一方で、信州に鬼才が生まれる。はじめは大阪新刀の流れを汲む尾崎一門の河村寿隆に作刀を学び、侍になるべく江戸へ出、幕臣であり軍学者であった窪田清音に才能を見出され、各家伝来の古名刀の写しを作る。彼こそ、江戸期を代表する刀工となった源清麿である。私生活に問題があり、長州に隠遁したり、鍛刀せずに大酒を飲み、当時の著名刀工固山宗次と飲み比べ合戦を行ったエピソードは有名である。源清麿は初銘を「秀寿」と切り・「環」・「正行」・「清麿」と推移する。四谷に住んだため「四谷正宗」の異名を持つ。古作の現物を見て写しを造り腕を磨いたため、正秀一門の写し物とは姿、出来が大いに異なる。特に左文字写し、志津兼氏写しを得意とした。地鉄も他の新々工とは一線を引き、鍛え肌美しく力強い。また、焼き刃は古作の如く、盛んに金筋を交える。しかし、多額の借金(鍛刀の前受け金)を残し42歳で自殺した。弟子に栗原信秀、藤原清人、鈴木正雄がいる。藤原清人と栗原信秀は、師匠が自殺した後、残された約定の鍛刀を引き受け、借金を返したという逸話を残している。 水戸勤皇派による天狗党事件、井伊直弼が暗殺された桜田門外の変などがあり、諸国でも佐幕派と勤皇派が入り乱れて闘争が行われるようになる。時代環境に合わせて、江戸初期以降、作刀数の少ない短刀の需要、長大な刀を好む武士も増え、作刀が再び繁栄を始めたところで明治維新を迎える。明治6年(1873年)に仇討ちが禁止され、明治9年(1876年)3月28日に警察官・軍人以外は帯刀を禁止する廃刀令が出されたことにより、日本刀は急速に衰退してしまった。 明治から第二次世界大戦 [編集] 明治6年、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品。国際社会に日本人の技術と精神を示すものであった。しかし廃刀令以後は新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失った。また、多くの名刀が海外に流出した。それでも政府は帝室技芸員として、月山貞一、宮本包則の2名を任命。伝統的な作刀技術の保存に努めた。 帝国陸軍の軍旗のもと、将校は軍刀で、下士官兵は銃剣を着剣した小銃で戦う模様を描いた錦絵(日清戦争・平壌の戦い) 軍旗と歩兵連隊長を筆頭に、連隊長(将校)は日本刀を仕込んだ両手握りサーベル拵えの明治19年制式刀で、左後方の帯刀本分者たる本部附下士官は刀身外装ともに日本刀拵えの九五式軍刀で、他の一般下士官兵は着剣した三八式歩兵銃で軍旗の敬礼を行う姿(日中戦争) 一方、新生大日本帝国の国軍として創建された日本軍(陸海軍)は1875年(明治8年)の太政官布告にて将校准士官の軍装品として「軍刀」を採用した(なお、同布告では野戦や常勤時に使用するこの軍刀とは別に、正装時に用いる「正剣」も採用されている(のち廃止)。様式はサーベルではなくエペ)。陸軍・海軍ともに欧米列強に範をとったため、当初は拵え・刀身ともにサーベルであったが、西南戦争における抜刀隊の活躍や日本刀に対する日本人の想い入れから、次第にサーベル様式の拵えに日本刀を仕込むのが普通となり、さらには日露戦争における白兵戦で近代戦の武器としての刀剣類の有効性が再評価され、それら軍刀需要で日本刀は復権をとげた。さらに昭和時代には国粋主義的気運が高まったことと満州事変や第一次上海事変における戦訓もあり、陸海軍ともにサーベル様式に代わり鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、日本刀を納めるのにより適した将校軍刀拵えが登場した。また、同時期には将校准士官用と異なり長きに渡り拵え・刀身ともに純サーベル様式(三十二年式軍刀)であった下士官兵用の官給軍刀でも太刀拵え・日本刀々身(九五式軍刀)が採用された。しかし同時に、軍刀として出陣した古今の数多くの刀が戦地で失われることにもなった。 日本軍において下士官兵(騎兵・輜重兵・憲兵など帯刀本分者)の軍刀は基本的に官給品であり扱いは「兵器」であるが、将校准士官の軍刀は上述の健軍まもない1875年の太政官布告以降、第二次世界大戦敗戦による日本軍解体に至るまでほぼ一貫して服制令上の制式であり、そのため扱いは「兵器」ではなくあくまで軍服などと同じ「軍装品」であった(軍刀を含む将校准士官が使用する大半の軍装品は自弁調達であるため、官製のものを購入していても「私物」であった)。 詳細は「軍刀」、「軍服 (大日本帝国陸軍)」、「軍服 (大日本帝国海軍)」をそれぞれ参照 九五式軍刀(官給軍刀)。鞘を除く拵え自体は日本古来の太刀をイメージしながらも実戦に特化した全金属製となる。刀身も実戦に特化した陸軍造兵廠製の日本刀 満州事変以後、陸海軍の造兵廠(工廠)、帝国大学など各機関の研究者は拵えだけでなく刀身においても実戦装備としての可能性を追求した。例として、官給軍刀の刀身をベースにした陸軍造兵廠の「造兵刀」、満州産出の鋼を用いた南満州鉄道の「興亜一心刀(満鉄刀)」、北支・北満や北方方面の厳寒に対応した「振武刀」、海軍が主に使用した塩害に強いステンレス鋼使用の「不錆刀」など、各種の刀身が研究開発された。日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで様々な刀身が試作・量産され、「昭和刀」「昭和新刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称された。官給軍刀を含むこれら特殊軍刀々身は、近代科学技術の力をもって開発されたものであるため、物によってはとして従来の日本刀よりも(俗に名刀と呼ばれる刀であっても)武器としての資質において勝るものも数多くあった。軍刀(工業刀)は総じて粗悪品だったという俗説も未だ根強いが、そういったものは悪徳業者の販売した粗悪刀などで、一部を除き(初期や末期には粗悪品が見られる)妥当な評価ではなく、また近代戦における戦場という劣悪な環境に置かされる事情も考慮に入れる必要がある。鋳造説、官給軍刀・造兵刀は粗悪品説に至っては論外である。これらは陸海軍の将校には安価で惜しげなく使える刀身として重宝され、下士官兵には官給軍刀の刀身として支給・実戦投入され、第二次大戦敗戦まで大量に使用された。 将校准士官の軍刀は軍装品であり私物であるため、これら特殊軍刀以外にも先祖伝来のものや内地で特に入手したような旧来の日本刀(古刀から新作現代刀まで)も大量に軍刀として使用された。広義に「軍刀」とは軍隊で使用される刀剣を総称(通称)する単語であり、場合により語弊が生じることにも注意を要する。 詳細は「軍刀#刀身」を参照 本来の「戦いの武器としての日本刀(戦う日本刀)」「実戦刀」という観点では、各特殊軍刀々身は完成された日本刀となり、肝心の実用性に於いては究められたものの、刃紋を有しないなど見た目の美的要素は二の次な物が多く(なお、関の古式半鍛錬刀の様に双方を兼ね備えた刀身も開発されている)、今日では製造方法の上からも、狭義の意味での日本刀の範疇には含まれないことにはなっている。しかし、近年では刀剣界では今まで見向きもされなかったこれらの軍刀にも人気が出てきており、同時に研究家や収集家の新たな発見や偏った俗説の否定など、再評価の声が高くなっている。 第二次世界大戦後 [編集] 居合道 太平洋戦争(大東亜戦争)降伏後、日本刀を武器であると見なした連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により刀狩が行われ、蛍丸を始めとした数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあった(熊本県のように、石油をかけて焼かれた後海中投棄された例もある)。また、「刀があるとGHQが金属探知機で探しに来る」との流言も飛び交い、土中に隠匿して、その結果刀を朽ちさせ駄目にしたり、回収基準の長さ以下になるように折って小刀としたり、日常生活に使えるよう鍛冶屋に持ち込み鉈や鎌、その他日常用の刃物に改造したりと日本刀の価値を貶めた例は枚挙に遑がない。GHQに没収された刀の多くは赤羽にあった米軍の倉庫に保管され、占領の解除と共に日本政府に返還された。しかし、元の所有者が殆ど不明のため、所有権は政府に移り、刀剣愛好家の間でこれらの刀剣は「赤羽刀」と呼ばれている。 一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれたが、日本側の必死の努力により、登録制による所有が可能となった。日本刀自体には登録が義務付けられており、登録がなされていない刀は、警察に届け出た後審査を受ける必要がある。所持に関しては銃刀法による制限を受けるが、所有については許可などは必要なく、誰でも可能である(条例により18歳以下への販売を規制している所はある)。なお、購入などの際には、登録証記載の各都道府県教育委員会への名義変更届が必要である。 今日では日本刀は武器ではなく、居合・抜刀といった武道用の道具、絵画や陶器と同格の立派な美術品であり、その目的でのみ製作・所有が認められている。現在では、本来の武器としでは無く、美術品としての価値が高いものである。世界の刀剣の中でも日本刀は、美術品としての価値が高く、国宝、重要文化財、重要美術品に指定されている。日本刀独自の鍛錬により、さまざまな、刀姿、刃文、帽子、茎形、銘を鑑賞する、いわば鉄の芸術品である。その美術品としての価値は、その特色をよく理解しなくてならない。日本刀の鑑賞の歴史は古く、千年以上の歴史がある。事実、名刀と言われる日本刀は、実際に武器として、使われたものはあまりなく、日本刀の名品といわれるものは、千年以上の時を経ても健全な形で残っている。現代刀に関しては、刀匠1人当たり年に生産してよい本数の割り当てを決め、粗製濫造による作品の質の低下を防いでいる。しかしその一方で、作刀需要が少ないため、一部の刀匠を除き多くの刀匠は本業(刀鍛冶)だけでは生活が難しく、かと言って上述の本数制限もあり無銘刀は作刀できず、武道家向けに数を多く安く作りその分稼ぐこともできないため、他の伝統工芸の職人と同じく数々の問題を抱えている。そのような状況の中でも現代の刀匠も、美術品としての日本刀の作刀を、さまざまな形で現代に伝えている。 参照:ウィキペディア「日本刀」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80 榎本劍修堂 / 劒人倶楽部 埼玉県さいたま市見沼区大谷399 剣道具 通販 / 竹刀 通販 次回、「日本刀の製法」より。
https://w.atwiki.jp/eiketsu-taisen/pages/1461.html
武将名 あかぞめえもん 神懸の歌仙 赤染衛門 統一名称:赤染衛門 生没年:不明「あなたの歌詠み代行します。 ご用命は赤染衛門へ……なんて」平安時代の女流作家、歌人。藤原道長の妻や、一条天皇の皇后となった娘の彰子に仕え、貴族から度々代作を依頼された和歌の名手。また住吉明神に和歌を奉納し我が子の病を平癒に導くなど、夫や子を慈しむ良妻賢母としても知られる。 勢力 紫 時代 平安 レアリティ SR コスト 1.0 兵種 槍兵 武力 2 知力 5 特技 技巧 計略 奉幣の詠歌(ほうへいのえいか) 武力と知力が上がり、槍が長くなる。さらにこの計略の効果中に紫の味方が計略を発動するたびに、戦場にいる紫の味方の兵力が回復する 必要士気 4 効果時間 知力時間 Illust. とき間 声優 伊達朱里紗 計略内容 カテゴリ 士気 武力 知力 速度 兵力 効果時間 備考 詠歌 4 +3 +3 - - 35.8c(知力依存0.4c) 槍長さ+0.8部隊分 紫の味方武将が計略を使用時 - - - +20% 一瞬 対象は紫の味方武将のみ効果範囲は戦場全体短計の使用は対象外 (最新Ver.2.0.0F) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 所感 紫の1コスト槍兵。 武力2知力5と平均的な数値に特技技巧を備える。 計略「奉幣の詠歌」は詠歌カテゴリに属する長時間強化。 自身強化は武力上昇に加えて槍が長くなる効果。 さらに効果中に紫の味方が計略を使用すると、戦場にいる紫の味方全員の兵力が回復するようになる。 計略中は1.5コスト相応の戦力になれるうえ、味方全体への兵力回復は汎用性の高い便利な効果。 そのままでも充分強力だが、真価を発揮するのは各種長時間計略と組み合わせた場合。 こまめに低士気計略を打つことにより、鎧戦器や回復計略に頼らずとも十分な継戦能力を手に入れることができる。 審配とのコンビネーションは特に強力。 高コスト武将を敵城に貼り付け、兵力が減ってきたらその都度、審配の計略を打つだけでも非常に対処の難しい攻めとなる。 詠歌計略の例に漏れず効果時間は長めだが、先打ちしすぎると肝心なところで切れるためしっかり士気を貯めてから使いたい。 また元が1コストということもあり本人の耐久力はさほどでもないため、長槍を活かしたサポート役に徹し前線に出すぎないよう意識したい。 解説 「第32回大戦スタンプキャンペーン」(2024/1/31~2024/2/13)のスタンプ60個報酬。 紫式部が「家柄は良くないが、歌は素晴らしい」と評した人。 呼び名は、父「赤染時用(あかぞめのときもち)」の官職「右衛門尉(うえもんのじょう)」からつけられた。 百人一首に触れたことがある人なら知っていると思われるが、男性のような名前ではあるものの女性である。 ちなみに赤染衛門の後に紫式部が宮仕えを始めたので、先輩後輩で言うと紫は後輩にあたる。 計略セリフは、赤染衛門の詠んだ、 「代はらむと 祈る命は 惜しからで さても別れむ ことぞ悲しき」 を基にしていると思われる。 カードイラストにある花:「山桜(ヤマザクラ)」・「葛(クズ)」 大戦シリーズにおいて 平安時代の、ましてや歌人なので大戦シリーズには初登場。 各種台詞は歴代大戦シリーズに登場した武将から取られたものが多く、該当する台詞は口調もそれぞれ変化する。 絆台詞や贈り物・寵臣台詞より、これらは彼らの魂を代行したためであることがうかがえる。 開幕:戦国大戦UC正木時茂(他057・槍大膳)の落城台詞 清少納言か紫式部と出陣:三国志大戦(旧3)UC楽就(群雄052・多勢の攻め)の一騎討ち開始台詞 撤退:三国志大戦(旧2)UC曹仁(魏027・神速戦法)の撤退台詞 伏兵:三国志大戦(旧3)R賈詡(魏003・離間の計)の伏兵台詞の一部 攻城:戦国大戦UC中条藤資(上032・突貫の構え)の攻城台詞 台詞 \ 台詞 開幕 「主家を守るは天下無双の!」……えっ、私は……何を? └自軍に紫052_和泉式部 or 紫060_清少納言 or 紫065_紫式部 喧嘩はめっ!ですよ? 仲良くしない子は…「我が槍を味わうか?」 計略 かはらむと いのるこころは おしからで └絆武将 誰の言葉でもない、私自身の力で! 兵種アクション 平気です! 撤退 「なんだこいつは!」……あれ? 復活 怖くない怖くない怖くな…ほわぁぁ 伏兵 「奇襲成功…」ですよね? 攻城 「渾身の一撃ぃ!」……ですっ! 落城 ……はふっ、ここは……やだ、また深入りしてしまいました…… 贈り物① いつもどなたかの言霊、力を借りている自覚はあります。いけないと、分かってはいるのですが…… 贈り物② 代筆した和歌は本人が乗り移ったかのようだと、よくお褒めいただいて。恐れ多いです。 贈り物(お正月) - 贈り物(バレンタインデー) 貴様……テメエ、いえあなた、でしたか?最近恋文の代筆でてんてこ舞いで、少し頭が…… 贈り物(ホワイトデー) あなた! 先日は本当にごめんなさい。改めて、はい。わたしの真心、受け取ってくださいね。 贈り物(ハロウィン) - 友好度上昇 怖くない怖くない怖くな…ほわぁぁ 寵臣 あなたの歌詠み代行します、ご用命は赤染衛門へ なーんて♪ └特殊 - 贈り物の特殊演出 ① 対象武将: 会話武将 台詞 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前 「まずは奇襲成功…」が強すぎて全然ピンと来ない - 名無しさん (2024-01-31 19 42 11) いまだに聞こえるプレイヤーは相当おっさんなんだよなあ(おっさん) - 名無しさん (2024-02-01 09 18 23) 伏兵ボイスは「奇襲成功(ねっとり)」だったんだけど元ネタが出てこない。「まずは」が付いてればカクなんだけど - 名無しさん (2024-01-31 19 41 17) 代行だからってイタコみたいキャラ付けなのか - 名無しさん (2024-01-31 14 38 40) 紡績!アンナ!赤染衛門!ジェットストリームアタックをかけるぞ! - 名無しさん (2024-01-31 14 48 32) 戦国大戦「主家を守るは天下無双のこの槍ぞ!」正木時茂 落城、「渾身の一撃ぃ!」中条藤資 攻城、三国志大戦「我が槍を味わうか?」楽就 一騎討ち、「なんだこいつは!?」曹仁 撤退 なぜこんなマニアックな奴らばかり - 名無しさん (2024-01-31 13 59 54) 「なんだこいつは!?」は当時携帯電話の着信ボイスとして配信される程度には人気あったんですけどねぇ - 名無しさん (2024-02-04 07 11 15) 覚明が挑発セリフいろいろ持ってるみたいに、いろんな猛将のセリフ引っ張ってきてるのか。 - 名無しさん (2024-01-31 13 40 00)
https://w.atwiki.jp/eiketsu-taisen/pages/709.html
武将名 たいらのきよもり 平氏棟梁 平清盛 統一名称:平清盛 生没年:1118~1181「清盛……この日ノ本を 自由にする男の名だ!」平忠盛の嫡男。一説に白河上皇の落胤で、祇園女御の妹が懐妊した後に忠盛に下賜され、誕生したのが清盛ともいう。忠盛の死後、武家の棟梁としての地位を継承、保元の乱では後白河天皇側に与して勝利を収め、信西と組んで勢力を伸ばした。 勢力 緋 時代 平安 レアリティ ER コスト 2.5 兵種 槍兵 武力 8 知力 8 特技 昂揚 計略 栄耀栄華(えいようえいが) 平安の味方の武力と移動速度が上がり、全ての士気を消費する。この効果は士気が多いほど大きい 必要士気 7 効果時間 知力時間 Illust. ニシカワエイト 声優 岡本信彦 計略内容 カテゴリ 士気 発動時士気 武力 速度 効果時間 備考 栄華号令 必要士気に関わらず全消費必要士気を下げる計略が受けなければ7以上 10未満 現在の士気-3 +40% 8.8c(知力依存0.2c) 士気の端数は切捨平安時代限定 10~13未満 現在の士気-2 +50% 13~15未満 +60% 15 +15 必要士気が変動した場合は消費した士気に応じて効果が決定される (最新Ver.2.1.0D) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 Ver.1.5.0E 効果時間 8.3c → 8.8c速度上昇値士気7~9時 +30% → +40%士気10~12時 +40% → +50%士気13~15時 +50% → +60% ↑ Ver.1.5.0G 武力上昇値士気10~14時 現在の士気-3 → 現在の士気-2士気15時 現在の士気-2 → +14 ↑ Ver.2.1.0D 武力上昇値士気15時 +14 → +15 ↑ - 所感 平家棟梁は2.5コスト槍で参戦。 バランスのいい数値に昂揚持ちと、号令持ちとしては可もなく不可もないスペック。 計略「栄耀栄華」は栄華号令。 平安の味方 の武力と移動速度が発動時の士気に応じて上がり、全ての士気を消費する。 高い武力上昇値と速度上昇を併せ持ち、士気10以上での破壊力は全計略中トップクラス。 仮に複数の号令を重ねても、正面からのぶつかり合いで負ける事はそうそうない。 最大効果を発揮するためにも、出来れば流派:士気を選択したい。 勢力ではなく時代を参照するが、流派:士気前提になる事が多いので複数勢力でデッキを組みやすい。 決まった時の破壊力は抜群だが、一方で癖も非常に強く扱いにくいのが難点。 特に、最大の特徴でもある発動時の全士気消費が曲者。 良く言えば常にその時点の最大火力を出せるが、常に余力を残せないという意味でもある。 例えば武力+10程度で押し勝てる相手に対しても常に全ての士気を消費してしまうため、その後の防衛で士気が足りなくなったりする。 そもそも計略の使用タイミングによって消費士気が変わるため、試合全体でのプランを立てにくい。 どうしてもワンチャンスに賭ける戦い方になりやすく、相手にしてみれば対策も立てやすい。 また速度上昇のおかげでぶつかり合いには強いが、妨害やダメージ計略といった搦め手への耐性を持たない。 仮に士気15の最大火力で打ったとしても相手が守りに徹した場合、押し込むことはできても士気全消費に見合った城ダメージを奪えないこともある。 他にも相手に計略を小出しにされ、ライン上げ前に消耗する事も考えられる。 加えて、 この計略だけでは小回りが全く効かないので防衛で使うサブ計略は必須 最大効果を発揮するには流派:士気が必須。他の流派を選べるように単色で組むと平安時代限定でパーツが固定されがち と、デッキ構築や流派選択の時点で制約が非常に多い。 総じて取り扱いは難しいが、決まった時の破壊力は圧巻なので確固たる戦略のもとで使いたい。 解説 武士で初めて太政大臣に就いた人物。 その全盛期は平氏から多くの殿上人を輩出しており、清盛の義弟にあたる平時忠が 「平氏にあらずんば人にあらず」と言うほどの栄華を極めていた。 後世、清和源氏が武家の棟梁として江戸時代まで君臨していたからか『平家物語』などで悪辣な人物として描かれる事が多いものの、実際は温和で人情深い人物だったとされる。 更に言えば、甘すぎて後述の通り頼朝を生かしてしまい平氏政権滅亡の遠因を作ってしまったりもしている。 しかし後白河法皇との関係悪化、寺社や源氏からの反発を受けて勢力は衰退する中で熱病にかかり死去。 その症状は熱を冷ますために水風呂に入るとすぐにお湯になってしまったと言われるほど凄まじいものであった。 ちなみに平治の乱では池禅尼の嘆願で本来処刑するところだった頼朝を流刑にしたが、その頼朝に平氏政権は潰されている。 このため、これ以降は同じ轍を踏まぬようにと敵対勢力を滅ぼしたときは子供でも処刑するのが通例となってしまった。 よく挙がる例として、源平合戦の本を愛読していた徳川家康は関ケ原の勝利で天下を握った後さらに大坂の陣を起こし、豊臣の血筋を完全に滅ぼしている。 台詞 \ 台詞 開幕 どこにいようと、俺達は武士だ!戦いのやり方ならわかってる └敵軍に玄068_源義朝 義朝!お前の冷たい野心を、ここでぶっ壊してやるよ! 計略 俺達武士が、このでっかい天下を持ち上げてやるんだ! └範囲内に玄068_源義朝 清盛「義朝、俺達武士の底力を見せてやろう!」義朝「ああ…構わん!」 └絆武将 人と天下が紡いだ絆、俺が守り抜いてみせる!! 兵種アクション この野郎! 撤退 心は折らねえ! 復活 みんな!生きてるか? 伏兵 一気に戦いを終わらせる! 攻城 こうなることを覚悟してたさ、今さら止めはしない! 落城 死者を弔い、戦い抜いた者を労ってくれ。この後は俺がやるさ…… 贈り物① 太陽の光のように人々を包み込む。それが平氏の目指す道だ。 贈り物② 本当にお前は面白い人だ!明日も来てくれ! 贈り物(お正月) やっぱり太陽が昇るのは良いな!力が湧いてくる!! 贈り物(バレンタインデー) 宋の船から持って来たやつか? どれ一口……あー! なんでそんなに怒ってるんだ? 贈り物(ホワイトデー) この剣をやる。遠慮はするな。お前には天下に一つだけのものをあげたくてな! 贈り物(ハロウィン) 海賊の恰好をしてみたんだがあまり変わらんと笑われてしまったぞ…… 友好度上昇 みんな!生きてるか? 寵臣 どうにもならない世の中だからって…あきらめるわけにはいかないだろ? 贈り物の特殊演出 ① 対象武将:緋082平忠正 会話武将 台詞 ② 対象武将:緋065平時子 会話武将 台詞 緋063平清盛 時子、無茶はしてないか? 一緒に駆け回れるのはうれしいけど、怪我はしないでほしいんだ。 緋065平時子 大丈夫です! 小さい頃は石や熊手を握って兄妹たちと駆け回っていましたから! 緋065平時子 あと、先ほどのは私の台詞というものです。すぐに新しい傷をこしらえてこられて! 緋063平清盛 いやあ、返す言葉もない……けど、時子が楽しいと思ってくれてたらうれしいぜ。 緋065平時子 ふふ、清盛様と一緒ならたとえ火の中、水の中です! 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前 特殊会話は緋082_平忠正と - 名無しさん (2023-11-26 13 44 58) 武力上昇値は消費士気の−3です。消費が13以上だと士気-2になるみたいです。 - 名無しさん (2022-12-29 09 04 52)
https://w.atwiki.jp/asagaolabo/pages/2007.html
ケマリ / 蹴鞠 【ケマリ】 3003年 ケマリンカップアジア予選開催中!? 絶対に蹴れない鞠が、そこにある。 ケマリ / 蹴鞠 収録作品 関連リンク ポップンミュージック16 PARTY♪で登場した楽曲。担当キャラクターはケリマロ。 個人解禁イベント「あつまれ!ポップンパーティー」で登場したイベント隠し曲。 Kicky Kemari Kicker / ROUTE No.1 KIZOKU UNIT BPM 136 5b-【16】11 ⇒ 【19】18 N-【16】22 ⇒ 【20】23 H-【16】30 ⇒ 【17】33 EX-39 新難易度 5Buttons NORMAL HYPER EXTRA × 29 39 45 今は当たり前のように定着しているスポーツであるサッカー。その中で日本のサッカーのルーツと言われているのが、平安時代に貴族の中での遊びとして広まった蹴鞠である。今でも、京都の下鴨神社の行事などが有名だ。そんなわけでポップンいろはを彷彿させるようなこの曲は久々のROUTE NO.1~UNIT(国道1号)名義での曲である。優雅さと軽快さに加え、そしてこれまでのサイモンマン曲に使われた効果音ネタがいろいろ使われているところが、やはり彼ならではと思わせるところがある。 ノーマル譜面ですらかなりの難易度を誇り、序盤の交互押しはともかく以降に現れる変則螺旋や階段はLv22にしては詐称気味。ハイパーになるとさらに顕著となり、同Lvの琴フュージョンHよりも早い、片手で捌かなければならない左右振り気味の変則螺旋階段が頻発する。しかも全体的に難しく、後半でおまけが加わってさらに難しくなるので詐称といわざるを得ない(下手すると初見ではLv35くらいの腕でも落ちる)。EXにおいても同様で、折り返しを含めた階段全般の捌きが問われる難譜面。左右振りもあり一部二重押しも混じる上、ノート数が1025であるためオブジェの取りこぼしが多いとなかなかゲージが増えずに終わってしまうことも。 国道一号と書いてサイモン#?なだけに曲中にパーカッシヴと同じ効果音が入っている。H譜面が明らかに33~34相当の詐称曲であり、解禁後に時空の塔あたりで猛威を振るいそうな曲。 また、この曲にダンスオジャマをつけると余計に危険。身を縮めたケリマロと鈴が縦横無尽に画面内を弾みまくるというもので、キャラが高速で動き回るためチラつくので非常に見辛く、また目にも悪い。最後までつけていると普通にプレイする以上にシンどくなるだろう。 収録作品 AC版 ポップンミュージック16 PARTY♪からの全作品 CS版 ポップンミュージック ポータブル2 関連リンク simon#? 楽曲一覧/ポップンミュージック16 PARTY♪
https://w.atwiki.jp/amaya_st/pages/181.html
コミュニティ名:統括組織 コミュニティの作者:グリム 出展作品:--- 1 コミュニティの名称 統括組織 2 施設の概要(喫茶店、蕎麦屋、等) 退魔組織 関東一の規模を持つ大型組織 『元老院』 3 国籍 住所 天夜市市内 4 コミュニティの店主、店員他。 <本部常駐> 隠居 :『元老院』6名 (本部最奥) 総統括 :安倍 桜花 (長官室) 司書 :メガネの女 (資料館受付) <不規則> 裁定者 :桶屋(天夜市内全般) 5 コミュニティの売り。 遥か昔から土地に根付く歴史と権威 多数の術式・異形に対する戦術を記した書物の収められた資料館 日本古来の退魔家系・外国諸組織とのパイプ 傘下に下った組織への依頼の斡旋、研究資金の提供 6 詳しい説明 倭王権時代に発足され、詳しい年号は不明。起源は王権の元についた占星師集団(とは名ばかりの呪術師集団に近いもの)だったとされる。市民に奉仕するということはあまりなかったが、平安時代に入る頃、異形の最盛期には料金を受け取ることで退魔士としての活動を開始。元老院に実権を握られながらも、他の退魔組織を吸収して現在へと至る。他の日本古来からの退魔組織から見れば、その組織を吸収していく活動は、『俗』と捉えられ、その多くからは毛嫌いされている。しかし、異形・術具の研究・開発のために提携を結ぶ退魔組織も少なくない。 統括組織は傘下の組織に依頼を斡旋し、その依頼を完遂させた場合に報酬を与える。信用がなければ当然、退魔士に依頼は入ってこない。古くから存続する統括組織を権威、後ろ盾として、力の弱い退魔組織が傘下に下るパタンが多い。 資料館にある研究資料は、研究・技術職の退魔士にとっては宝の山である。日本の土着信仰調査から、海外の魔術書の写本など資料のジャンルは様々。媒体は書物だけである。とある事件以降資料にあったセキュリティが解除され、本棚に普通に納められている。置かれている書物は持ち出し不可、閲覧のみである。 統括組織のもつ研究施設は天夜市内に点在している。研究施設を利用する場合は統括に使用届を出す必要があり、また、研究内容に危険性がないことを示さなければ使用できない。度合いにもよるが危険性があったとしても、統括から派遣された人間の監視下での研究が許可されることもある。 統括組織における最強の12(13)人、戦闘におけるエキスパート、万夫不等のエースオブエース。それが裁定者と冠される存在である。全員、非常に高い戦闘力、または特異な能力を保持している。統括との関係は『元老院』を参照。 7 その店で得られる情報他 資料館(本部内) 研究施設(市内各所) 一覧に戻る
https://w.atwiki.jp/junretsuwago/pages/626.html
広辞苑 辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 助詞 〘間投助〙[一] 感動をこめて聞き手に働きかけ、また念を押すのに用いられる。① 文中の用語を受ける。 ※古事記(712)上・歌謡「吾(あ)はも与(ヨ) 女(め)にしあれば 汝(な)を置(き)て 男(を)は無し 汝を置て 夫(つま)はなし」※徒然草(1331頃)一〇六「四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り」 ② 終止した文・体言止めの文を受ける。 ※古事記(712)中・歌謡「我(わ)が着(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立たなむ余(ヨ)」※万葉(8C後)八・一四六一「昼は咲き夜は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見代(よ)」※今昔(1120頃か)二五「馬を取て来よと許云懸て」※蓼喰ふ虫(1928‐29)〈谷崎潤一郎〉四「小父さん、犬を見て来ましたよ」 [二] 体言を受けて、呼び掛けを表わす。 ※古事記(712)下・歌謡「大魚(おふを)よし 鮪(しび)突く海人余(ヨ)」※源氏(1001‐14頃)若紫「少納言よ。直衣着たりつらんは、いづら。宮のおはするかとて」 [語誌](1)上代から現代まで盛んに用いられたが、時代による用法の変化の幅は小さい。(イ) 平安時代末期から係助詞「こそ」の結びに使われる例が出現する。(ロ) 室町時代から変化形「い」が出現する。(ハ) 格助詞「と」についた「とよ」の形は、本来「…と思うよ」「…と言うよ」のような意であったが、次第に「とよ」だけで同様の意味に用いられるようになる。→「とよ」。(2)②の万葉例、今昔例にみられる「見よ」「来よ」などについては、古典文法ではカ変・サ変・上一段・上二段・下二段の命令形の一部とするが、この「よ」はもともと本項の間投助詞である。奈良時代には「吉野よく見与(みよ) 良き人四来三(よくみ)」〔万葉‐二七〕(上一段の例)「都止米(つとめ)もろもろ 須々売(すすめ)もろもろ」〔仏足石歌〕(下二段の例)と「よ」を添えない形で命令する、本来の形が少なくない。後にも「とくこと言ひやりたるに」〔枕‐二五〕(カ変の例)がある。→「ろ」の補注 大言海 天爾遠波 動詞ニ添ヒテ、命令形ヲ爲ス語。 神代紀、上 廿五 「汝以 二 汝所持八坂瓊之曲玉 一 、 可 (ク) 二 以 (レ ) 授 (ヨ) 一レ 予矣」「落チよ」受ケよ」見よ」爲よ」 広辞苑は同じ見出し語の扱い。「よ(助詞イ)」を参照。 検索用附箋:助詞 附箋:助詞