約 1,820 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2325.html
防衛研究所資料<沖台 沖縄> 慶良間諸島・久米島・伊江島住民の沖縄戦記<沖台 沖縄235> 防衛庁 戦時資料 配架場所 B03防衛庁 整理番号: B03-4-02 収蔵文書名: 簿冊名: 慶良間諸島・久米島・伊江島住民の沖縄戦記 原本所蔵機関: 防衛研究所 請求番号: 沖台 沖縄235 http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0304002 全72葉で内容は 1、慶良間列島 座間味村及び渡嘉敷村戦況報告書 (1)座間味戦記 (2)渡嘉敷島における戦争の様相 2、元逓信員沖縄戦記 久米島郵便局支部 3、伊江島の戦記(一部分) なお、1の「慶良間列島 座間味村及び渡嘉敷村戦況報告書」は琉球大学の図書館に保存されている「ガリ版刷り」が原本です。その(2)の「渡嘉敷島における戦争の様相」については、「、」「。」誤字まで考察した、伊敷清太郎さんによる写本の方が正確だとおもわれます。伊敷論文については、http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1420.html そこから、曽野綾子が問題にした2つの文書「様相」と「概要」の内容(電子Text)にもリンクしています。「鉄の暴風」を踏襲した文章はそのごく一部分で、その他の記述は実に貴重なものです。「ある神話の背景」はそうした部分を覆い隠すのに成功しています。 ※座間味戦記の電子Textは、宮里芳和さんのサイトにあります。 防衛研究所資料<沖台 沖縄>
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1490.html
http //ryukyushimpo.jp/news/storyid-137689-storytopic-1.html 【琉球新報】「「小さな声届いた」 座間味村で仏前に喜びの報告 2008年11月1日 <大江・岩波控訴審判決>当時の助役、故・宮里盛秀さんの仏前に集まり、喜びを分かち合った遺族ら=座間味村座間味 判決を受け座間味村では31日、当時の助役の故宮里盛秀さんの仏壇がある義妹の宮村文子さん(82)宅に遺族や関係者が集まり、涙を浮かべ仏前に喜びの報告をした。また村内で体験者の聞き取り調査を続けている平和ガイドの宮里芳和さん(60)が、判決内容やこれまでの聞き取り調査の報告会を開いた。宮村さん宅には、盛秀さんの妹の宮平春子さんや宮里正太郎座間味村遺族会長らが集まった。盛秀さんの次女の山城美枝子さん(67)=宜野湾市=にも電話で報告した。 裁判では原告の梅澤裕氏が故宮村幸延さんから「隊長命令はなかった」との「証言」を得て念書をもらったと主張していたが、幸延さんの妻の文子さんは「当日、夫は酒に酔って訳が分からない状態だった」と陳述していた。今回の判決で大阪高裁は、梅澤氏が幸延さんの「証言」と題する親書の作成経緯を意識的に隠していると断じた。文子さんは「夫は病気になってからもずっと、このことを気にしていた」と話し「夫が言っていたのが本当のこと。(裁判で証明されて)うれしい」と喜んだ。 控訴審で被告側から証拠提出された「新証言」を語った垣花武一さん(78)=糸満市=は「(裁判に)負けるのではないかという危機感から証言した。われわれの真実が認められた。小さな声がヤマト(本土)に届き、反映された結果だ」と喜んだ。 一方、「集団自決」の体験者の吉川嘉勝さん(70)=渡嘉敷村=は「一審の判決が支持されたことはうれしい」と話した。その上で「教科書検定意見はまだ撤回されていないので、課題が大きい。文科省が高裁の判決を受け検定意見をどうするか注目している」と語った。 沖縄戦ニュース
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1474.html
http //www.jiyuu-shikan.org/pdf/miyahira8-7.pdf 宮平秀幸陳述書(1) 陳述書 2008年8月7日 大阪高等裁判所第4 民事部御中 沖縄県座間味村字座間味 xxx 宮平 秀幸 7月25日付けで提出された宮城晴美の陳述書について、以下のとおり陳述いたします。なお、私が今年の1月から3月にかけて行った証言については、すでに裁判所に提出されている各種の記事の通りなので、繰り返しません。 晴美は私の姪ですが、小さい頃からそそっかしい子どもでした。そのことは、晴美の陳述書の6 に中村尚弘氏が、「秀幸は伝令ではなかった」と「明言している」と書いているところにもあらわれています。 8月6日、中村氏に面会して事情を確かめたところ、ある人の告別式で挨拶をかわした際、晴美から「秀幸叔父さんも尚弘さんと一緒に軍の伝令をしていましたか」と尋ねられたので、「いいえ、一緒ではなかったよ」と答えたとのことです。たったこれだけの会話をもとに、晴美は私が軍の伝令でなかったという、すぐに嘘であることがバレる話をつくり上げて、裁判所に文書で提出することをやってしまったのです。 当時中学生だった中村尚弘氏は、宮平敏勝、中村清信、知念繁夫の各氏とともに、4人でチ―ムをつくり、村役場に詰めていて、軍と役場間の伝令をしていました。中村さんが晴美に、「一緒ではなかったよ」と答えたのは、そのチ―ムに私(秀幸)は入っていなかったと言ったに過ぎないのです。それを晴美は私が軍の伝令ではなかったという話にスリ替えて、私の証言の信用性をなくそうとしているのです。これについては、中村氏の陳述書を読んでいただきたいと思います。 私は、昭和20年の1月中旬から、雑役と伝令の任務を軍から与えられました。伝令は多い時は1日2回ほど、本部と整備中隊などの間の指令文書を届ける役目をしました。文書は茶封筒に入れられて封をされていますので、中味は分かりませんが、「第二中隊長殿」などと宛名が表書きされていました。私は軍から半月単位で手当も受け取っていました。但し受領印は祖父が押していましたので、金額はわかりませんが、少額であったと思います。 陳述書の2 で晴美は、私の母・宮平貞子の証言と私の証言は食い違っているといっていますが、母の村史の証言は、ほかならぬ晴美と村史の編集委員であった宮里芳和氏が母に言わせたもので、母はテ―プに証言を吹き込む取材を受けた時、「そこは、ストップ」、「はい、戻って」などとくり返され、終わって帰ってきてから「ああ、疲れ果てた」とこぼしていました。 母の証言で、私の家族が忠魂碑前に行かなかったことにしたのは、村長の解散命令の事実をかくすために晴美と宮里芳和氏が仕組んだものです。母のテ―プに芳和氏の声が入ったものを私は所持しています。 晴美はさも忠実な記録をしたようによそおっていますが、村史編纂の当時から、晴美は村当局による真相の隠ぺい工作に加担していたのです。母の記憶力のよさを持ち上げても、何の裏付けにもなりません。母の証言が間違っていることは、すでに上記文書にまとめられているので、ここではくり返しません。 晴美は、鴨野守氏の文章について、「進退極まった住民の心理描写をこんなにも軽々しく表現できるものではありません」などと批判していますが、その時の住民の心理については、戦後生まれの晴美よりも現場にいた私の方がよく知っていることで、偉そうな口をきくものではありません。 6 で、「村の幹部以外の住民の固有名詞が出てこない」ことを疑問だと言っていますが、何のことか分かりません。私はたくさんの住民の固有名詞を新聞記者やジャーナリストの方々に話しましたが、それらの方々が文章にする時に固有名詞を書かなかっただけのことです。 「自決」という言葉は、会津の白虎隊にも使われ、当時も使われていた普通の日本語です。「玉砕」という言葉の方が新しく、アッツ島での日本軍の全滅の時から使われ始めたものです。 晴美は私が「マスコミ好き」だったとか、いろいろ中傷していますが、事実に反し、何の意味もない人の悪口にすぎません。こういうそそっかしい文書を出して真実を覆い隠すことに加担している晴美こそ「身内の恥」です。 最後に、私が出演したビデオ「戦争を教えて下さい・沖縄編」(1992年、記録社)が証拠として被告側から提出されていますので、このビデオが製作された事情を説明します。 このビデオ撮影の話は村役場を通して私のところに来たもので、「捕虜第1号が語る」を売り物にしていますが、私は「捕虜第1号」ではありません。 この撮影の前に、村民に集団自決の真相を語るなと厳重な口止めをしていた田中登村長の奥さん・美恵さんがわざわざ私の家の台所のところに来て、母・貞子に、「秀幸さんに集団自決のことを喋らせてはいけない」とクギをさしました。それで、母は「壁に耳ありだから、おおごとになる」と言って、家中の電気を消し、私が台所のゴザの上に座ってカメラのスポットライトをあびて撮影しました。そばには、母・貞子と妻・照子が立会い、私の発言をチェックしました。私の家を人が訪ねてくるたびに中断しましたので、撮影に3日もかかってしまいました。私も田中村長に呼び出された時、「集団自決の本当のことを話したら村に居られないようにしてやる」と脅かされていましたので、うっかりしたことを口にしてしまわないかと大変緊張し、苦しい思いをしました。 ビデオを見ると、私は「3月23日の晩から壕に入って、24日、25日も過ごして」と、サラッと流していますが(乙108 号証の2、6 ぺ―ジ)、本部壕で梅澤隊長が「死んではいけない」と自決を止め、それを受けて村長が忠魂碑前に集まった村民を解散させた現場を私は見ていたのに、それをビデオの取材では話すことができなかったため、誤魔化したのです。 このように、真実を話せない、まるで監視下のような状況での撮影であったため、いたるところで、事実と違う内容になっています。 一例をあげれば、上記「反訳」の7 ペ―ジに、私の家族が3月25日の深夜、忠魂碑の前から整備中隊へ行き、二中隊の壕を経て自分の壕にたどりついた時には夜が白々と明けていたと話していますが、足の悪い祖父と祖母を連れて、一家7人が何のために何キロもある部落の中を徘徊したかさっぱり分からなくなってしまいます。それは、整備中隊でも第二中隊でも兵隊さんから「死んではいけない。出来る限り生き延びなさい」といって、食料を与えられ、励まされたことをビデオでは話すことが出来なかったため、こういう訳のわからない話になったのです。 この一事を見ても、ビデオの証言が村当局による箝口令の圧力のもとでつくられた嘘の内容にならざるを得なかったことが分かると思います。私が村の外部の方に本当のことを話そうと決意したのは、昨年の9月29日、宜野湾で開かれた教科書問題の県民大会のあとです。ああいう騒ぎを起こして、事実と違う曲がったことが教科書に書かれるようになってはならないと思います。村では今、私に対して様々な圧力が加えられておりますが、私はもう高齢で体調も悪く、老い先も短いので、死ぬ前に真実を語っておきたいと思った次第です。 沖縄集団自決訴訟第2審
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/796.html
「集団自決」を体験した座間味村・宮平春子さん(82)のスピーチ (宮里芳和さん代読・6分27秒) http //202.90.10.24/janeye/shiminkisha/0709303201/01/0709303201_yomitan_a.html 宮平春子さんと宮村トキ子さん姉妹の証言(座間味) 沖縄タイムス 2007年7月6日(金) 朝刊 1面 http //www.okinawatimes.co.jp/day/200707061300_01.html 「軍命受けた」助役明言/妹2人が初めて証言 座間味「集団自決」45年3月25日夜 沖縄戦時下、座間味村で起きた「集団自決(強制集団死)」で、当時の助役が「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」と話していたことが、助役の妹二人の証言で六日までに分かった。当事者が初めて証言した。「集団自決」の軍関与が教科書検定で削除され、軍命の有無をめぐる裁判が進む中、日本軍の軍命を示す新証言として注目される。(編集委員・謝花直美) 証言したのは「集団自決」で亡くなった当時の座間味村助役の宮里盛秀さんの妹・宮平春子さん(80)=座間味村=と宮村トキ子さん(75)=沖縄市。 座間味島への米軍上陸が目前となった一九四五年三月二十五日夜。春子さんら家族と親族計三十人が避難する座間味集落内の家族壕に、盛秀さんが来た。父・盛永さんに対し「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するよう言われている。間違いなく上陸になる。国の命令だから、潔く一緒に自決しましょう」というのを春子さんが聞いた。午後十一時半に忠魂碑前に集合することになったことも伝えた。 集合時間が近づき、壕から出る際、トキ子さんの目前で、盛永さんは盛秀さんを引き留めようとした。盛秀さんは「お父さん、軍から命令が来ているんです。もう、いよいよですよ」と答えた。 その後、盛秀さんは産業組合壕へ移動。同壕の「集団自決」で盛秀さんら家族を含め六十七人が亡くなった。 当時、盛秀さんは防衛隊長も兼ね、軍の命令が村や住民に出されるときには、盛秀さんを通した。 春子さんもトキ子さんも、沖縄県史や座間味村史の編集作業が行われた七〇―八〇年代に同島におらず、証言の機会がなかった。 座間味島の「集団自決」の軍命を巡り、岩波書店と大江健三郎さんが名誉棄損で訴えられた「集団自決」訴訟では、元戦隊長が、助役が軍命を出したと主張。さらに訴訟資料を参考に文科省の教科書検定で、「集団自決」記述に修正意見がつき、日本軍関与が削除されている。 →産業組合の壕 「集団自決」生涯忘れず 宮平春子さん証言(琉球新報) http //ryukyushimpo.jp/news/storyid-25258-storytopic-1.html 「集団自決」のあった座間味島を視察で訪れた県議会文教厚生委員会の委員らに対し、座間味村阿佐の宮平春子さん(80)は6日、当時助役を務めていた兄の宮里盛秀さんが米軍の上陸が目前に迫った時、父の盛永さんに「軍から玉砕するように言われている」と伝えていたことを証言した。宮平さんは教科書からの「集団自決」の日本軍関与削除について「あの悲しみ、苦しみは私にとって一生涯忘れることができない。それを(教科書から)なくすのはおかしいのではないか。戦があったら悲しいし、苦しい。平和である教育をしてほしい」と訴えた。 米軍の激しい艦砲射撃があった1945年3月25日。春子さんは盛永さんや親類ら約30人と壕に避難していた。夜になって盛秀さんが壕に来た。盛秀さんは、父の盛永さんに「軍から米軍が上陸するのは間違いないので敵の手に取られないように玉砕するよう命令があった。だから潔く死のう」と話したという。 びっくりする盛永さんに、盛秀さんは「いろいろ生きている間は親孝行できなかったけどあの世に行って孝行する」と伝えた。 春子さんは「兄が4歳から7歳までのわが子3人を抱きしめ、涙を流しながら『こんなに大きく育てて、軍の命令でなくすというのは生まないほうがよかったのか。お父さんが一緒にいるからね』と語り掛けていた。今でもあの姿を思い出すと涙が出る」と述べ、兄の無念さを思い出し、言葉を詰まらせた。 盛永さんは、盛秀さんに最後の別れとして水杯を勧め交わしたという。 集合時間の午後11時半に合わせ、春子さんらは盛秀さんに続いて集合場所の忠魂碑に向かった。しかしそこに照明弾が落ちたことを知らされ「集団自決」で多くの犠牲者が出た産業組合壕に移動した。 組合壕にはすでに多くの住民がおり、中に入ることができなかった春子さんらは生き延びたが、壕の中にいた盛秀さん家族はそこで「集団自決」で亡くなった。 教科書検定問題については「みんな苦しんで犠牲になった。(記述を)なくしてはならない」と訴えた。 (7/7 10 15) 沖縄戦体験証言
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1010.html
中日新聞WordBox 大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判 http //www.nishinippon.co.jp/news/wordbox/display/5428/ 大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判 集団自決の軍命あったか 「大江健三郎・沖縄戦裁判」3月判決 歴史教科書は「軍関与」復活●真実見えず、火種消えず ■隊長は「生きろ」と ■兄はうそつきでない ■曽野氏著書で問題化 ■今もすべては話さず 住民に自決を強いたと書かれ名誉を傷つけられたとして、沖縄県の渡嘉敷島で日本軍の特攻舟艇の戦隊を指揮していた故赤松嘉次氏の遺族と、座間味島の戦隊長だった梅沢裕氏が2005年、「沖縄ノート」の著者大江健三郎氏と岩波書店に出版差し止めなどを求めて大阪地裁に提訴した。口頭弁論で大江氏は「集団自決は戦争下の国、日本軍、現地の軍までを貫くタテの構造の力で島民に強制された。命令書があるかないかというレベルのものではない」との考えを示した。判決は3月28日。 × × ●沖縄ノート 大江健三郎著 1970年に岩波書店から出て53刷を重ねる。政治や民俗、基地問題などを考察した沖縄論で、日本人論でもある。集団自決の記述は計10ページほどで、出典を明記。関係者への取材をしていないことも記した上で「集団自決は(中略)『部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』という命令に発するとされている」などと記述。座間味島の戦隊長に関する記述はない。 × × ●「集団自決」の真実 曽野 綾子著 作家で、日本財団会長も務めた曽野綾子氏が1992年に「ある神話の風景」(PHP文庫)として出し、2006年に改名してワックから出版。沖縄戦での集団自決に軍命があったとする資料の多くが「鉄の暴風」(沖縄タイムス社、1950年初刊)を孫引きしたもので、さらに同書は現場にいなかった人物のまた聞き情報で書かれていると指摘。渡嘉敷島民などへの取材で「軍命はなかった」と結論づけた。 集団自決の軍命あったか 「大江健三郎・沖縄戦裁判」3月判決 歴史教科書は「軍関与」復活 (2008年1月17日掲載) ●真実見えず、火種消えず 2008年、沖縄県は穏やかな新年を迎えた。07年は、戦時中の住民の集団自決をめぐる「日本軍の命令・強制」が歴史教科書から削除されたことが問題化し、県民大会で怒りが爆発した。この問題は、「軍の関与」を示す記述で決着する運びとなったが、3月には自決命令の有無を争点とする「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」の判決が予定されており、火種は消えていない。 (社会部・都留正伸) ■隊長は「生きろ」と 女性が畑仕事をしていた。那覇市の西約30キロに浮かぶ座間味島(座間味村)。1月でも気温は20度を超え、山は青々としている。一休みした女性に声を掛けた。「また玉砕の話? 生きてる者の務めと言うけど…」。90歳という女性は幾度も同じ話をしてきたのだろう。歓迎する表情ではなかった。 座間味は米軍から爆撃や艦砲射撃を受け、上陸前に住民234人が自決した。女性は仲間4人と軍の逃走の案内や弾薬運びをし、手投げ弾をもらった。「4人で囲み、友人がピンを抜いて岩にたたきつけた。でも爆発しなかった」。なぜか、その時、死にたくないと思った。山にはツツジが咲いていた。 自決命令について尋ねると、「隊長の梅沢裕さんは『生きるだけ生きなさいよ』と言ってくれた」という答えが返ってきた。ただ「集団自決のテレビを見ると何も言えなくなる」と口を閉ざした。 証言は、時系列や人間関係などで理解できない面もあったが、重要な内容を含むことは間違いない。正直、困惑した。 ■兄はうそつきでない 別の体験者は全く異なる証言をした。当時、兄が村の助役だった宮平春子さん(82)さんもその1人。壕(ごう)に兄がきて「米軍が上陸する。玉砕するよう軍から命令があった」と告げた。兄は3人の幼児を抱き「こんなに大きく育てたのに」と涙したという。その直後、別の壕に移された宮平さんは助かったが、兄と子どもたちは果てた。 「梅沢隊長は『命令は出していない』と、兄がうそをついているようなことを言う。隊を離れた人が銃殺されたとき、兵士が『これは隊長命令だ』と言っていた。米軍は怖いと教えられたけど、優しかった。うそつきはどちらかね」 宮平さんは自宅前の海を見ながら、今でも鮮やかに当時を思い出すという。「グラマンはガガガガガってくるけど、日本の飛行機はウーと悲しげな音で軍艦に突っ込んで行った。泣きながら手を合わせました」 潤んだ目が、これが真相だと訴えていた。 ■曽野氏著書で問題化 集団自決が政治問題化した背景に、曽野綾子氏の「『集団自決』の真実」の存在がある。沖縄では渡嘉敷島(渡嘉敷村)や沖縄本島のチビチリガマ(自然窟(くつ))などでも集団自決が起きた。軍が渡した手投げ弾を爆発させ、死にきれないと、男が親や妻、子どもを切り付け、撲殺した。 教科書には「日本軍によって集団自決を強要された住民や虐殺された住民も含まれ」などと記述され、軍命は事実として扱われてきた。だが、曽野氏は渡嘉敷島の取材で「住民集団自決の軍命はなかった」と結論づけ、軍命を前提に日本軍を断罪した大江氏の「沖縄ノート」を批判。梅沢氏らの提訴につながった。 ■今もすべては話さず だが、沖縄戦は、そう単純なものではなかった。証言集の刊行を続ける元高校教師宮城恒彦さん(74)は「人々はいまだに口をつぐんでいる。座間味出身で自決の生き残りの私にも、すべてを話そうとしない。数日、聞き取りをしただけでは何も分からない」と、曽野氏に疑問を投げかける。 同じく20年以上、証言集めをしている宮里芳和さん(60)は、冒頭の女性の証言に触れ「軍に協力する防衛隊があるのに、なぜ女性に弾薬運びを依頼したのか」と梅沢氏の行動をいぶかる。 生きろと言いながら手投げ弾を渡したことも疑問だ。沖縄大の屋嘉比(やかび)収准教授(日本近現代思想史)は、集団自決は「生きて虜囚(りよしゆう)の辱(はずかし)めを受けず」との空気を生む軍の存在があった所だけで起きたとした上で、「武器を手放すことは軍紀違反で、命令なしにできない」と指摘。手投げ弾の譲渡は軍命そのものと見る。 沖縄で見聞きした集団自決の証言や資料は、思想信条によって解釈が180度異なっていた。そうした中、大阪地裁で初の司法判断が示されるが、多数を納得させるのは困難な情勢だ。「沖縄戦の調査はまだ途上にある」。複数の研究者は、そう考えている。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1344.html
http //www.jiyuu-shikan.org/rekishi152.html 座間味島集団自決の証言者宮平秀幸さんとの出会い 藤岡信勝(自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授) 座間味島集団自決の証言者宮平秀幸さんとの出会い◆偶然の運命的な出逢い ◆住民と日本軍との関係は「最高」 ◆梅澤隊長は「解散」命令を出していた ◆宮平証言3つのポイント ◆宮平さんはなぜ証言を決意したか ◆偶然の運命的な出逢い その人、宮平秀幸さんとの運命的な出逢いは、偶然の形をとってやってきた。何の打ち合わせもなしに、地球上の一点で二人の人物が出会う確率は限りなく小さい。あらゆる出来事は偶然と必然の織りなす網の目の中から紡ぎ出されてくる。だから、この邂逅にも必然の要素はあるが、それは事実の分析を介して後に明らかになることだ。 1月25日午後4時、私は沖縄集団自決の地・座間味島の土を踏んだ。日本エアービジョンという東京の旅行会社が企画した38人参加のツアーの一員だった。翌日26日の朝から、一行はホテルのミニバスで島内の集団自決に関わりのある施設や壕の跡地を回り、午前11時半頃、二本松と呼ばれるところを訪れた。ここは日本軍守備隊が米軍陣地に対し決死の切り込みを敢行して玉砕した記念碑「昭和白鯱隊之碑」のあるところだ。「鯱」は「しゃち」のことだが音読みは「コ」だから「びゃっこたい」と読むことが出来、幕末会津の白虎隊に掛けたのである。浄水場の施設のそばでバスを留め、急な坂道を徒歩で百メートルほど下りて左手に入ったところに碑はあった。その碑の隣の田村少尉の墓を掃除していた宮平夫妻に一行は出逢ったのだ。 今回の座間味島訪問は、私にとっては二度目であった。一度目は3年前の2005年5月で、集団自決のあった座間味島と渡嘉敷島を、自由主義史観研究会のメンバー10人が2泊3日でフィールドワークする駆け足の旅行だった。私はその旅行で、渡嘉敷島の集団自決に関する決定的な証言者・照屋昇雄氏に巡り会った。それが一因となり、昨年3月、文科省が高校日本史教科書の検定で、隊長命令説を前提とした「強制」を意味する言葉を削除するよう行政指導した。これに反発した沖縄を中心とする左翼勢力は昨年一大騒動を演出し、検定申請時よりももっとひどい「日本軍悪玉説」を教科書に書き込むことに成功した。 ◆住民と日本軍との関係は「最高」 そんな騒ぎのあとだったから、私は集団自決の真実を改めて調べる必要があると考えていた。ツアーに参加したのは、その調査のためのよい機会だったからだ。本当は村人からインタビューをしたかったし、その対象者リストの中には宮平さんの名前もあった。だが、ツアーの一員である以上、勝手な行動はとれない。私は今回は村人とのインタビューを諦めていた。 一行に参加していたチャンネル桜の井上和彦キャスターが現地でいち早く作業服姿の宮平さんを認め、声をかけた。集団自決をよく知っている村人であることがわかり、林の中で即席のテレビ現地インタビューが始まった。このツアーにチャンネル桜はカメラマンを派遣していた。私はテープレコーダーを回した。話は30分あまりに及んだ。 座間味が特攻の秘密基地になったこと、10・10空襲で那覇がやられて武器弾薬の補給も途絶えたこと、3月23日に空襲が始まり激しい攻撃を受けたこと、などの話が続いた後、井上キャスターが尋ねた。 井上:今日、いろいろな所を見て参りましたが、住民の方とここに駐留しておりました日本軍の兵隊さんとの関係は非常に良かったと… 宮平:ああ、もう最高ですよ。年寄りが古座間味という山を越したところにイモやイモの葉っぱを担いで運んでいるとき、隊長と兵隊さんがそれを見まして、(梅澤隊長が)「手伝ってあげないとかわいそうだよ。あんなに働いているのも、みんな国のためだよ。私たちと同じだよ。担いであげなさい」と言いました。それで兵隊さんが鉄砲を同僚に預けて重い物を担いでやったんです。それからまた、兵隊さんは全部民宿ですから、朝晩の食事一緒なんです。おいしい物があればあげて、まずいものでも一緒に食べて、家族同様の生活をしていました 。 ◆梅澤隊長は「解散」命令を出していた さて、衝撃の新証言はこのさきである。 井上:最近、日本の兵隊が何か鬼のようだったみたいな書き方をしているものもあるのですが… 宮平:ああ、とんでもない。みなさん、耳をよくほじくって聞いてください。人は誰が何と言おうが、3月25日の晩に、村長、助役、収入役の村の3役、それと校長が本部の壕まで来まして、戦隊長、いわゆる部隊長の梅澤さんが対応されたのです。「もう、明日はいよいよ米軍が上陸だと思いますので、私たち住民はこのまま生き残ってしまうと鬼畜米英に獣のように扱われて、女も男も殺される。同じ死ぬぐらいなら、日本軍の手によって死んだ方がいい。それでお願いに来ました」と言って来たんですよ。そうしたら、隊長は、「何をおっしゃいますか。戦う武器弾薬もないのに、あなた方に自決させるようなものはありません。絶対ありません」と・・・ 井上:ということは、軍命令があったとかなかったとかいろいろ言われていますが、それは全くなかったと… 宮平:ないです。それで逆に部隊長が目を皿にして、軍刀を持って立って出した命令が、「俺の言うことが聞こえないのか。よく聞けよ。私たちは国土を守り、国民の生命・財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるために来たんじゃない。だから、あなた方が武器弾薬毒薬を下さいと来ても、絶対渡すことは出来ません」と… 井上:これ、梅沢隊長がおっしゃった? 宮平:隊長がですよ。直の話です。僕、証人です。 参加者:その場におられたんですか。 宮平:はい。隊長とは2メートルぐらいしか離れていません。村長、助役、収入役、学校の校長とおられるんですがね。敬語は使わないです。「俺の命令が聞こえないのか。われわれ軍隊は国土を守り、皆さん方の生命財産を守るためにいるんだ。あなた方が自決させて下さいとお願いに来ても、自決の命令なんか出せるか。あなた方は畏れおおくも天皇陛下の赤子である。そんな命令は絶対出来ないから、全部解散させろ」と命令されたんです。 なんと、宮平さんは梅澤隊長の2メートルの距離にいて、直接、その話を聞いていたのである。 話の途中で、宮平さんは「藤岡さん居ますか?」と尋ねた。あとでわかったことだが、宮平さんは西宮在住の梅澤裕・元守備隊長から電話で私が座間味島を訪問することを聞いており、私からの連絡を心待ちにしていたのだ。 ◆宮平証言3つのポイント 宮平証言はあまりにも重大な内容を含んでいた。私は、一行に加わっていた秦郁彦、中村粲らの諸氏と打ち合わせて、ツアーの本隊とは別行動を取り、急遽ホテルで更に詳しい証言を聞くことにした。その日は午後1時にチャーター便で渡嘉敷島に渡る予定が組まれていた。そこで、宮平証言を聞く残留部隊12名と予定通り渡嘉敷に行く本隊とに分かれることになった。ホテルでのインタビューは1時間半に及んだ。 記念碑のある林の中での宮平証言には、3つの重要なポイントがある。 第一のポイントは、梅澤隊長が武器弾薬の提供を断ったばかりでなく、住民の自決を明瞭に阻止しようとして言葉を尽くしていたことである。住民は夕刻から忠魂碑前に集められていた。そこへ、軍の所持する弾薬を運んで爆発させ集団自決するという心算であった。それを、梅澤隊長は「解散させろ」と命じたというのである。 第二のポイントは、本部壕の前に要請に来た村の幹部の中に、村長が入っていることである。梅澤手記でも宮城初枝の手記でも、本部壕にやってきたのは、助役・宮里盛秀、収入役・宮平正次郎、校長・玉城盛助(ただし、梅澤手記では「政助」となっている)、吏員・宮平恵達、女子青年団長・宮平初枝(のち宮城姓)で一致し、これが定説となっていた。ところが、宮平秀幸さんによれば、野村正次郎村長が本部壕を訪れた村の幹部の中に入っていたのである。 第三のポイントは、梅澤隊長の「解散」命令を受けて、野村村長が忠魂碑前に集まった村人を「解散」させていたということである。 宮平さんから指名された形の私は、引っ込みがつかなくなった。とことん調べる他はない。私は宮平証言と突き合わせるため、2月6日、兵庫県西宮市のホテルで梅澤さんから3時間にわたるインタビューを行った。さらに、2月10日から三日間、座間味島にて宮平さんに追加のインタビューを行い、資料提供を受けた。同時に、3日間の間に、島民10人からの聞き取り調査を行った。 これらの追加調査で、3つのポイントがどのように解決したか、詳細に書く紙幅がない。これについては、雑誌『正論』4月号(3月1日発売)に書いたので参照していただきたい。 ◆宮平さんはなぜ証言を決意したか 宮平秀幸さんは昭和五年1月10日、座間味島で父・宮平秀松と母・貞子の間に生まれた。梅澤隊長は軍命令を出していなかったことを後に証言した宮城初枝は腹違いの姉、秀幸さんは初枝の弟にあたる。秀幸さんのきょうだいは姉の初枝と、母を同じくする6人の兄弟姉妹からなる。ただし、初枝は母に連れられて実家に帰っていたから、秀幸さんと初枝は同じ家に住んで育ったわけではない。ただ、秀幸さんの家と初枝の家は隣同士だった。初枝の手記に登場する美恵子は、初枝とは父が異なる同腹の姉妹である。このあたり初枝の家庭事情は複雑だが、本筋に関係ないからこれ以上立ち入らない。 秀幸さんの父・秀松は秀幸さんの生後10ヶ月の時、南洋のトラック島に鰹漁に出かけた。秀幸さんが物心ついたころ、母も父のもとに行くことになったので、秀幸さんは主に祖父母に育てられたといってもよかった。祖父母の愛情を受け、たいそうかわいがられた。秀幸さんは間違ったことを嫌うまっすぐな性格に育った。 秀幸さんが14歳の昭和20年1月1日、座間味で郷土防衛隊が組織され、秀幸さんもその一員となった。同月10日には15歳になる。彼はいつしか梅澤隊長の本部付きの伝令員をつとめるようになった。といっても、防衛隊は法的根拠のないもので正規の日本軍の一部ではないから、伝令員としての正式の辞令が出たわけではない。ただ、機敏で現地の地理に詳しい少年が重宝がられたことは確かであろう。 こういう立場の伝令員の少年は秀幸さんの他にも数名いた。同年配の村の少年たちにとって日本軍はあこがれの存在であり、軍の壕に出入りし、軍から与えられた任務を張り切って果たすべく村中をはだしで飛び回っていた。梅澤隊長は秀幸さんを「あんちゃん」と呼んでいた。戦後30数年ぶりに二人は再会したが、当時那覇泊港と座間味島を結ぶ連絡船の機関長をしていた秀幸さんをすぐに認めて、梅澤さんは「あんちゃん」と呼びかけたという。 初枝の証言をもとに晴美が書いた著書には、秀幸さんの証言と矛盾する箇所がたくさんある。秀幸さんは初枝に、「姉さん、本当のことを言わなければ駄目だよ」と繰り返し意見していた。 宮平さんは、大阪の名誉毀損訴訟の証人になることを2年前には固辞していた。なぜ、心境が変わったのか。それは昨年の教科書騒動で、嘘が歴史になることに耐えられなかったからだという。 25日、ツアーの一行が高速艇で座間味港に着いた時、二人の島民が私に抗議文めいたものを突きつけた。それを同じ高速艇に乗り込んでいた沖縄タイムスの吉田啓記者が横から写真に撮った。島民の一人は宮里芳和という人で、夜、彼の経営するパブに行って真意を聞いた。私達の到着時刻は沖縄タイムスの編集委員・謝花直美からの連絡で知った。彼は昭和23年生まれで、隊長命令のことはわからないと弁解した。ところが、翌日の沖縄タイムスの記事には、座間味島民が藤岡に抗議文を突きつけ、隊長命令があったと彼が語ったことになっていた。地元紙による歴史偽造の現場に立ち会った私は、彼等が最も恐れていた人物にめぐりあったことになる。 宮平秀幸証言とは
https://w.atwiki.jp/jyumawiki/pages/976.html
声優-か行検索 名前:一馬 芳和 よみ:かずま よしかず 性別:男性 誕生日:8月1日 出身地:神奈川県 血液型:- 所属:ぷろだくしょんバオバブ 出演作品 関連商品 声優-か行検索
https://w.atwiki.jp/wrtb/pages/6783.html
一馬芳和 出演作品 TV スティッチ!*(魚屋さん) TV映画 カーズトゥーン メーターの世界つくり話メーター ザ・スタントカー 闘牛士 メーター メーターの東京レース TV:実写 ウェイバリー通りのウィザードたち TV映画:実写 ピート・ザ・チキン 僕は超人気セレブ!* 実写 トゥモローランド(国語の教師) ステップ・アップ2:ザ・ストリート*(タック) 臨死*
https://w.atwiki.jp/mousouyomi/pages/3110.html
【妄想属性】思いつき 【作品名】思いつきシリーズ? 【名前】宮里i 【属性】宮里藍の虚数同位体 【大きさ】【攻撃力】【防御力】【素早さ】【その他】 宮里藍を1とした場合、宮里iは1iの特性を持つ 【長所】ゴルフが上手い 【短所】ゴルフが上手くてもここじゃ役に立たない 787 名前:格無しさん 投稿日:2007/01/09(火) 16 55 19 リロードしたら新キャラが居た…… 785 思いつきシリーズ?における宮里藍のテンプレが分からんから 追加情報待ち 788 名前:格無しさん 投稿日:2007/01/09(火) 16 59 48 現実に存在するプロゴルフプレイヤー「宮里藍」のこと よく分からなければ多少鍛えた成人女性並でいいんだけどね 791 名前:格無しさん 投稿日:2007/01/09(火) 19 02 24 785 虚数だからどうなるか分からんから考察不能。 792 名前:格無しさん 投稿日:2007/01/09(火) 19 25 24 虚数と実数じゃ比べられん品 793 名前:格無しさん 投稿日:2007/01/09(火) 20 18 07 やっぱそうなるか
https://w.atwiki.jp/bakeyashiki/pages/46.html
(画像:全身) 名前 宮里(みやり) 種族 首かじり (純粋) 年齢 150歳くらい 身長 161㎝ 一人称: あたし 二人称:さん付け 能力: 今まで散々人間の首を貪ってきたため、血管の位置を完全に把握。急所を完全に熟知している。 本当に細かい血管の作りまで知ってるので、一発で殺すことも出来れば、治療にも向く。 性格:大人しめ。落ち着いているが、首を見るとどうしても興奮してしまうため、普段は下を向いている。 性別:女性 制作者: こめこ こくばんリンク: http //kokuban.in/skeb/view/1359284770 設定: 首を見て興奮してしまうのは、昔の名残。もし見てしまった場合には、興奮を抑えるためにその場から早急に立ち去るか、抑えきれずに首にかじりつこうとする。全力で引きはがしてください。 過去【昔は夜な夜な人間の死体の首を貪っていたが、そんな生活に飽き、森を彷徨うように歩いていたら、屋敷にたどり着いた。屋敷に入りたての新人。人見知りなため、友だち作りが苦手。だけど友だちが欲しい。ファイトだ( ՞ਊ ՞)】 交流関係: 人間時の姿: (画像)