約 12,004 件
https://w.atwiki.jp/sousakurobo/pages/391.html
第一章 B-SIDE ダウンシューター完成披露会 小泉茜が初めてソレを見たのは、四年前の夏の終わり――冷たい雨の降る日だった。 悠然と立ち尽くすソレの姿は異質で、威圧的で、恐ろしく、それ故にソレが味方と判った時は頼もしかった。 人型兵器<マシン>――。 白を基調とした躍動感あるボディ。所々に走る紅のライン。額から前方に突き出す二本の角。引き締まったボディに比べてアンバランスに大きな掌。ソコから生える、猛禽を思わせる鋭い爪。 テレビや本で見た人型兵器の様な、銃器による武装はしていなかったが、その姿はまさしく戦う者の姿をしていた。 ――鬼。 白と紅の二色で組み上げられた、鬼。 なるほど、『鬼』か。 ふと思い浮かんだワードに、彼女は納得した。 ソレは地獄に居ても何ら不思議ではない造型をしていた。しかしその上で、地獄には似合わない美しさまでも備えていた。 まるで死に化粧を施している様ではないか。 白粉を塗り、血で紅を塗った鬼。 嫁入り前とでも言うのか、純白の鬼。 はたしてソレは鬼と呼べるのか。 しかし、彼女の眼には、ソレは鬼以外の何物にも映らなかった。 呆然とソレを見上げる少女の前で、パイロットである男性は、全てを終えた。彼はコクピットを降り、紅白の鬼の前に立って手を合わせる。まるで墓参りをしているかのような光景だ。小泉はそう思った。 彼の目の前には何も無い。墓石も、ソレに見立てたモノも。そもそも、何も無いのだ。全てが無くなった焼け野原。目に映る物は、それだけだ。 「全てが終わった……」 その時からだろう。 小泉茜の人生が大きく変わったのは。 その日の午前中、大学へ向う道中で、小泉茜は駅前のマンモステレビに映されていたニュースの内容に気を取られて足を止めた。 若い女性のニュースキャスターが、今日開かれる人型兵器展覧会でブルーバレット社が自社ブースで最新型の人型兵器<マシン>の完成披露会を催すと言っていた。展覧会の開場は午前十時――あと一時間ほど先で、完成披露会が行われるのは午後三時との事だ。人型兵器展覧会の会場である多目的ドームは、開場前の今から早くも長蛇の列が出来ているらしい。 一般人にはあまり馴染みの無い人型兵器のイベントに、今回コレ程までに注目が集まっているのはいくつかの理由があった。 まず一つが、『あの』九条憐がゲストとして招待されていると言う事。 四年前、若干十三歳にしてS級パイロットの資格を有した天才美少女は、『大災害以後最大の殺人鬼』という二つ名が付いて尚、世界的アイドルの様に高い人気を有している。今回、異常なまでにこのイベントが盛り上がりを見せているのは、彼女が主な原因であろう。 そしてもう一つが、今回の初披露となる新型機にはエレメチアル合金という、まだ生み出されて間もない世界最高の強度を持つ金属を用いて造られていると言う事。 コレにより、従来の人型兵器には不可能な設計を可能としているらしく、他社や人型兵器ファンだけでなく、様々な分野の科学者、軍事力に人型兵器を用いている諸外国の面々もこの開場に集っているらしい。 他にも、その新型機には次世代型AIが用いられるらしく、注目を集める要因となっているらしいのだが、基本的に機械音痴である小泉には記憶しておく事すら難しい話であった。 ニュースの話題が切り替わり、ソレにつられて我に変える形で小泉は再び歩き出した。 多くの通勤者で溢れている改札を通り、電車に乗り込む。この日は幸いにも、あまり込み合っておらずシートに座る事も出来た。 小泉は肩から提げていた鞄から片手に収まるサイズの携帯端末を取り出し、日課のメールを作成する。 『おはようございます。 もう起きていますか? 多分起きていないと思いますので、このメールで起きてくれると嬉しいです。 今日の天気は清々しい晴れ。こんな日は、室内に篭ってないで日光浴をお勧めします。 ハニーハウス(例の女装マスターの喫茶店ですよ)でなら、私宛にツケで食事も出来ますのでご遠慮なく。 今日も授業が終わり次第窺います』 「はい、送信……っと」 携帯端末は言ってしまえばノートパソコンをさらに小型化したカードパソコンというべき物である。 その性能は高く、日常生活における大抵の事をこの端末で処理する事が出来るのだが、機械音痴の小泉には精々が電話機能の通信とメール機能位しか使いこなせない。だというのに、彼女が使っている携帯端末は数百万円はする最新型の物であった。たった今、彼女がメールを送った相手である姉小路真澄からも「宝の持ち腐れの典型的な例」と言われた事がある。 恐らく、今日もメールの返信が届くのは昼過ぎであろう。 小泉が携帯端末を鞄に戻そうとした所で、携帯端末がメールの着信を知らせた。 メールの発信者名には「姉小路真澄」と表示されている。 普段は昼過ぎまで寝ているというのに、珍しい事だ。そう思いながらも、思いがけず早く戻ってきた返信に、小泉は思わず頬を緩めてしまう。 『今日は暇か?』 内容は、姉小路らしい簡潔で明快なものだった。 『今日の講義は午前中だけの予定です』 今度のメールはさっくりと短めに。 姉小路からのメールはすぐに返って来た。 『ならば、午後二時に喫茶店で』 「……どういうことだろう?」 返信の一文を睨みながら小泉は唸った。 姉小路との付き合いはかれこれ四年になろうとしている。当然と言うべきか、このメールの言わんとする事も理解できる。 だが問題は、このメールの送り主が小泉にその様なメールを送るであろうかという一点であった。 この四年間、押しても引いても自分に何の興味も見せなかった彼が、今更唐突に、自分を誘ってくれるものであろうか? 「わからないなぁ……」 本当に解らない。 だというのに、彼女の口元は甘いケーキを食べているかのようにニヤけてしまうのだった。 「やっぱり、デートのお誘いじゃなかったんですね」 どうせこんな事だろうと思っていたけど……と小泉は落胆した様子で呟いた。 そう、分かっていた筈。だというのに、今感じているこの脱力感と倦怠感はなんだろうか。 彼女の隣のシートに座っている、鳥の巣のようなボサボサ頭をした黒尽くめのスーツの男はそんな小泉の呟きに気付かない様子で大きな欠伸をしていた。 二人は電車に乗っていた。 目的地は、今朝小泉がニュースで見た多目的ドーム。つまり、人型兵器展覧会である。待ち合わせの時間からして、恐らく彼――姉小路の目的はブルーバレット社の新型機であろう。 小泉は小さく溜息を吐き、しかし気を取り直して顔を上げた。 デートと呼ぶには落ち着けない人ごみであろうが、今日は初めて姉小路の方から誘ってくれた外出である。午前中に色々と想像してしまい、出来上がったモノがとても楽しい内容になってしまっていただけに現実とのギャップに少々打ちのめされてはいるが、それでも姉小路とこうして街を出歩くという事は小泉にとってこの上ない幸福でもある。 目的の駅で電車を降りると、途端に人口密度が増加した。 多種多様の人種や年齢層、性別が存在するが、ココに存在する人間の殆どの目的が同じだというのだから面白い。 多目的ドームへ近付くにつれて人の数が増えてくる為に、小泉は思い切って姉小路の腕に身を絡ませた。腕を組むというよりも、抱きつく形に近い。姉小路は一度だけ小泉に視線を向けたが、特に何も言わないまま再び視線を前に向けた。幸いにも、特に不快には思われなかったらしい。もしかすると、はぐれるよりはマシだと思ったのかもしれない。 「真澄さんも、例の新型機がお目当てですか?」 「まぁ、そんな所だ」 淡々と、視線を前に向けたまま姉小路は答える。その表情は、相変わらず無気力である。 「まさかとは思いますけど、九条憐が目的じゃないですよね?」 「出来ればアイツとは遭いたくないな」 「そうなんですか? あんなに人気なのに?」 「お前はアイツのファンか何かか?」 姉小路の言葉に、小泉は苦笑しながら首を振った。「いえ、私は彼女の魅力という物がいまいち理解できなくて」 「そうか……」姉小路は若干意外そうに呟く。「少しだけ、見直した」 「え? あ、その、ありがとう……ございます」 小泉は顔を赤くして俯いた。 見直したという言葉の意味はよく解らなかったが、その言葉がマイナスで無い事だけは確かな様子である。 姉小路もまた自分と同様に、九条憐の持つ『魅力』という物を理解できない人間なのだろうか? 口調からして、そうらしいのだが……。 小泉の知る九条憐とは、常にゴシック調の黒いドレスを纏い、艶のある黒髪をツーテールに結っている少女だ。絵画から抜け出して来たかの様な異次元的な美貌を持ち、とろける様な愛らしく甘い笑みを浮かべるのが特徴である。その極上の笑顔と可憐な少女が人型兵器に乗り戦っているというギャップが、世の老若男女を魅了しているらしい。 「まぁ、何にせよ、もしアイツと会ってしまったら、お前はすぐに他人のふりをした方がいい」 「……?」 その後も小泉が話題を持ちかけては姉小路がソレに短く答えるという形で会話を続けていると、五分ほどで多目的ドームへと到着した。 入場料は大人千五百円。無難な料金であったと言える。 二人分の料金を払い、鞄に財布をしまいながら、小泉はふと思いついたばかりの提案を出してみた。 「そうだ。このイベントが終了したら、一緒にお食事に行きましょう」 「どこへ?」 「この側に、美味しい事で有名なレストランがあるんです」 「ここいらで言うと……ああ、あのホテルレストランか」 「そうです」 「食事は構わないが……」姉小路は至極真面目な顔で小泉を見た。「泊まらないぞ?」 「……え?」小泉は目を丸くし、姉小路の言葉の意味を理解するなり、顔を真っ赤に染める。「もう、馬鹿! そんなつもりで言ったんじゃありません!」 「冗談だ」 「冗談だったんですか? もっと酷い!」 人ごみを掻き分けながら二人はブルーバレット社のブースへと辿り着いた。時間は完成披露会の開始予定時刻の十分前。 広めに用意されたスペースは既に満員となり、それでも尚、人が集まり続けている。 「コレじゃあ、よく見えませんね」 「離れるなよ。コレから特等席に向かう」 「へ?」 姉小路は人ごみから逃れるように移動しつつ、スタッフジャンパを羽織っている男性の許へと向っていく。 「ちょっといいですか」 「はい、なんでしょうか?」 無線を片手に忙しそうにしていた男性は、素早く笑みを浮かべながら姉小路に向き直った。 胸に付いた名札には杉田と書かれている。歳は四十ほどであろうか。少なくとも、姉小路よりはずっと年上である。日に焼けた肌の、逞しい体付きの男性である。 姉小路は杉田にそっと顔を近づけて、小声で囁くように言葉を続ける。 「エムレイン開発主任と会わせて下さい」 「……は?」 突然の申し出に杉田は目を丸くした。 何を言っているんだ、そう言いたげな視線が姉小路を、少し遅れて小泉にも向けられる。 「あれ、何も聞かされていないですか? 今日、エムレイン開発主任の知人が尋ねてくるって――」 「……少々お待ちください。確認します」 杉田は無線機を通して姉小路の言葉を繰り返した。 程無くして、杉田は改まった様子で頭を下げた。 「確認が取れました。案内します」 少し遅れてやってきた、杉田の代理らしいスタッフにその場を任せ、杉田を先頭に三人は舞台裏へと足を踏み入れる。 スタッフ通路は様々な機材に圧迫されていたが、それでも、人込みの中を歩く事に比べれば天国と思えるほどスッキリして歩きやすい。 杉田はパーティションに囲まれたスペースの前で一旦姉小路たちを待たせ、一人で中に入っていった。そして一分も経たない間に戻ってきた。 「どうぞお入りください。それでは、私はコレで」 「どうも。お手数かけました」 「ありがとうございました」 立ち去る杉田に姉小路と小泉は礼を言い、杉田が出入りしていたパーティションの隙間から中に入った。 中はそれなりのスーペースを確保しているようであった。長机が二つ寄せて並べてあり、その上にはコーヒーメーカーやお菓子等が並べられている。長机を囲むように置かれているパイプ椅子の一つに、白衣を纏った三十代の女性が腰掛けていた。 「真澄! 本当に来てくれたのね!」 白衣の女性は姉小路を見るなり、嬉しそうに立ち上がった。 「よう」 姉小路は小さく手を上げ、彼女に応える。 小泉はとりあえず、無言のまま小さく頭を下げる事にした。 「コチラの方は?」 珍しそうに小泉の方へ視線を向けながら、白衣の女性が姉小路に訊ねる。 どうやら小泉の存在が珍しいのではなく、姉小路が一人出なかった事が珍しかったらしい。小泉に向けられるその視線は、何処か嬉しそうな優しい色をしていた。 「小泉茜といいます。真澄さんとは、えっと、その……」 「過去の顧客だ」 「そ、そうです。私が高校生の頃、真澄さんに助けて頂いて……」 「そのまま真澄の事が……?」白衣の女性が悪戯っぽく言う。 「あ、う、その、えっと――」 小泉は狼狽し、あうあうと言葉に迷う。 姉小路にこの様な美人の知り合いが居て、親しげに言葉を交わしているだけでもショックだというのに、突然心の内を読まれているかのような言葉を向けられ、頭が一気に真っ白になってしまったのだ。 「エムレイン」 いい加減にしろといったニュアンスで姉小路が彼女を呼ぶ。 「あら、ごめんなさいね。真澄が女の子を連れて歩いているなんて考えられなかったから、つい……。それも、こんなに可愛い子だなんて」 「お前が言ったんだろうが。次に会う時は、親しい人の一人や二人連れて来いって」 「そうだったわね。それじゃあ、彼女が今の貴方の一番親しい人?」 「少なくともお前よりは一緒に居る時間が長いな」 「なるほど、二十年来の友人といっても、実際に顔を合わせていた時間は二十年前の一年間くらいだものね」 エムレインと呼ばれた女性は小泉に向き直り、恭しく頭を下げた。 「私はエムレイン・ブルー。真澄とは大災害の時に知り合ったの。よろしくね、小泉さん」 「は、はい……」 小泉は頭から湯気を出しながらエムレインを見た。 髪は薄い茶でサラリと肩に垂れており、何処か日本人離れした――西洋人形を思わせる風貌をしている。名前からも解るように純粋な日本人ではないようであるが、その言葉は流暢で違和感が無い。 「エムレインさん、お願いします」 やってきたスタッフに呼ばれ、エムレインは慌てて腕時計を見た。 「いけない、もう時間だ」 「悪いな、忙しいのに」 「いいのよ。きっとお祝いの言葉でも言いに来てくれたんでしょ?」 「ああ。お前がリーダーの人型兵器と聞いてな」 「そう……。うん、ありがとう。また後で話しましょうね。ソコのモニタで舞台を全部見渡せるようにしてるから、コーヒーでも飲みながら見てて」 「そうさせてもらう」 「じゃあ、後でね」 スタッフを追ってエムレインは行ってしまった。 その場に残された小泉達は、エムレインに言われた通り、モニタの前に腰を落ち着ける事にする。 「コーヒー注ぎましょうか?」 「ん、ああ」 小泉は紙コップに二人分コーヒーを注ぎ、姉小路の隣に腰を下ろした。 モニタではエムレインが舞台に上がり、慣習に向って挨拶をしている所であった。 「真澄さん」 「うん?」受け取ったコーヒーを一口飲み、姉小路が小泉を向く。 「エムレインさんも、大災害を生き残った一人なんですよね」 「ああ、そうだな」 「大災害って……どんなものだったんですか?」 その問いに、姉小路は即答しなかった。 彼は暫くの間空を睨み、疲れたように鼻を鳴らした。 「……多分、一生知らない方が良い。知ってしまえば、自分の価値観が崩壊する。今見えているものが、別の物に見えるようになる。そしてそれは、幸せな事ではない」 「そう、ですか」 小泉からコレ以上の質問がない事を確認して、姉小路は再びモニタへと視線を移した。 同時に、開場から物凄い歓声が巻き起こった。モニタの中では、コンテナの中から青い機体の人型兵器がその姿を現したところだった。 ↓ 感想をどうぞ(クリックすると開きます) +... 名前
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/347.html
糸魚川の戦い 糸魚川の戦い(いといがわのたたかい)とは永禄11年から永禄12年の冬にかけて姉小路家と上杉家の間の起きた戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路家 (永禄11年11月10日) 富山城兵 第一弾幕隊:鉄砲隊12500 柴田勝家、小島職鎮、鈴木重兼 第二弾幕隊:鉄砲隊15500 伊吹萃香、黒田孝高、鵜殿長持 先陣本隊:騎馬隊13377 朝倉宗滴、朝倉景紀、朝倉義景 火力本隊:鉄砲隊9500 鈴木重秀、アリス・マーガトロイド、真柄直隆 第三弾幕隊:鉄砲隊9000 磯野員昌、レティ・ホワイトロック、鈴木重泰 第四弾幕隊:鉄砲隊4453 本願寺顕如、鈴木重意、原長頼 (11月15日) 築城隊:6500 海北綱親 (永禄12年1月15日) 援軍弾幕隊:鉄砲隊8500:佐々成政、百々安信、天野景貫 (1月20日) 後詰本隊:騎馬隊6000:浅井長政、八雲藍、紅美鈴 後詰弾幕隊:鉄砲隊9500 十六夜咲夜、レミリア・スカーレット、朝倉景鏡 最終投入兵力88327 上杉家 春日山城兵 留守居厄:最上義光(計略担当) 迎撃隊(12月10日) 上杉景勝、四季映姫・ヤマザナドゥ、富田氏実:騎馬隊14500 柿崎景家、斎藤朝信:騎馬隊9500 村上義清:騎馬隊9500 本庄繁長:騎馬隊8000 水原親憲、中条藤資:騎馬隊8000 (1月20日) 延沢満延:騎馬隊6500 2月10日 上杉景勝:騎馬隊6500 新発田重家、四季映姫・ヤマザナドゥ:騎馬隊6500 最終投入兵力69000 姉小路家として初めての対上杉攻勢作戦である。第三次越中防衛戦の勝利により上杉方の兵力を損耗せしめた姉小路にとって待ちに待った好機の到来と言えよう。北陸の主立った将達が一同に会し、士気旺盛である。 越中富山城・越後春日山城の距離が長いため、野戦となることは必至。上杉の騎馬隊は武田騎馬軍と並び称されるほどの精兵揃いである。 数度に渡る防衛戦はなんなくこなしたものの、攻勢作戦は困難となることが予想される。 合戦までの経緯 富山城を巡る合戦は、上杉家の一方的な敗北に終わった。 しかし、大被害ではあったものの素早い撤退により致命的打撃を免れ、春日山城にはそれなり以上の兵力を備えていた。 これまで越中の姉小路は越後の地に侵入してくることなかった為、上杉は東北を制圧した後に、完全編成で再び越中を狙えばいいと考えており、受けた傷を癒す時間は十分にあると考えていた。 一方の姉小路は中国地方の制定をほぼ終え、その戦略的指針を東方へと向ける余裕が出来た。 上杉が未だ東北を制圧していない状況、春日山城の戦力低下と合わせて、攻勢に出る機と判断し、出撃を決定した。 概要 春日山城は上杉にとって本拠であると同時に、何よりも重要な経済拠点であった。 頸城平野に広がる春日山の城下町は、元関東管領、上杉憲政が暮らす府中の町と合わせ戸数一万軒、人口七万を有しており、日本海側屈指の大都市であり、 隣接する直江津湊からは京へ名産の麻を送るなどし、貿易の拠点でもあり、佐渡島で産出される金の集積地点でもあった。 最も経済的に豊かであったのは春日山の東方、魚沼郡あたりであったが、西方からの侵略者に対して、春日山の重要性に変わりはなかった。 度重なる越中への進撃で、上杉軍はその戦力を大きくそぎ取られていたが、一連の越中戦に比べて、優位な点が数多く存在していた。 まず、春日山の地が上杉にとって本拠であったということ。そして多くの将が春日山の重要点を何よりも理解していたということだ。 その結果、上杉景勝という上杉家次代跡継ぎを中心とした、固い結束が生まれた。 揚北衆、本庄繁長も、春日山を失えば、自らの本拠である阿賀野川周辺の本拠が危機に陥ることを何よりも理解しており、反旗を翻すそぶりすらみせなかった。 特筆すべきは村上義清だろう。 経緯は省略するが、信玄によって奪われた国土の奪還を彼は何よりも重視していた。元本拠、北信濃の葛尾城への道は春日山と直結しており、春日山を失うことは彼にとって何よりも避けたいことであった。このことから村上の今回の戦にかける意気込みは凄まじいものであったという。 姉小路軍にも不利な材料はあった。豪雪の中を急行軍で進撃しており、寒波による総合的な戦闘力の低下が考えられた。 豪雪と悪路の影響は、補給部隊にも多大な影響をもたらした。山口館の戦いで得た教訓も、わずか半年の準備期間では解決は不可能であった。 このように、姉小路側も大きな不安要素を抱えての戦であった。 姉小路軍は不足が懸念される糧食に関して、越後国境に新規の城を築く一方、上杉家の砦や城塞の食料の回収に努めた。 越中攻防戦の際、上杉家は春日山西方の城、砦に食料をかなり備蓄しており、それらは残されたままであった。 この事実は上杉が、戦力の回復後、再び越中を狙っていたことを如実に物語っている。 これを油断と言ってしまえばその通りではあるが、裏を返せばそれだけ越後の冬が厳しく、その時期の侵略は常軌を逸しているのだといえるだろう。(皮肉にも謙信の父、長尾為信は1521年の12月に越中侵略を行っているが…)。 回収された物資は姉小路側の兵站事情を大いに助けることとなった。 しかし冬そのものの脅威が去ったわけではなく、多くの者は寒さに震える中での行軍となった。 上杉景勝以下の強力な騎馬部隊が出撃したのは12月10日。この時期には珍しい晴れの日の出撃となった。 姉小路軍はそれを確認すると、かねてからの作戦通り、引きつけて撃滅する為、一時西への撤退を開始。上杉もこれを追撃する様子を見せた。 しかし積雪の為か、朝倉宗滴隊への敵発見の報告が大きく遅れ、取り残される形になってしまった。 報告が遅れただけでなく、鉄砲隊の指揮官が撤退時の手間をなくそうと総大将宗滴に(撤退するという)伝令を送ると同時に後退を始めたことも原因の1つである。部隊を預かる将が優秀だったという証明だが、今回はそれが裏目に出てしまった。 結果、宗滴隊は孤立、上杉軍主力の矛は当然ながらこの隊に向いた。 宗滴は後退は困難、後続部隊の救援を頼りに耐え忍ぶよりほかないと判断し、防御戦を開始した。 一方、後退していた弾幕隊は宗滴隊が後退した様子がないことをここにきて認識し、救援の為、各部隊長の判断ごとに動き出した。 柴田勝家や鈴木重秀、黒田孝高、本願寺顕如といった将達の判断力が優れていたことをここでも証明した。 しかし、姉小路鉄砲隊の中核をなしていた鈴木重秀隊は突如反転し、魚津へと向かった。後続部隊との合流を図った説。最上義光など上杉方の謀略説など様々な説があるが、いずれも現実的にありえないとされ未だ明らかにはなっていない。 鈴木重家隊が後退した結果、宗滴の救援に駆けつけられるのは柴田、黒田、そして顕如隊の三隊となった。しかしこれらはいずれも鉄砲を主体とした部隊であり、騎馬隊相手に正面から殴り合うには策が必要であった。 特に気候が氷点下に至る極寒状況では流石の明智筒も安定性が低下し、騎馬隊への打撃力が低下していた。 まず、本願寺隊が上杉の暴風のような攻撃によって崩壊。顕如が捕らえられるほどの大敗北を喫した。 救援を急ぐあまり、乱戦に向かない銃兵で騎兵中心の編成に立ち向かったのがその敗因であった。 同様の攻撃に曝された柴田隊も瞬く間にその戦力をすり減らし、壊滅の危機に瀕したが、この部隊は奇跡的に後退に成功する。 機動力に劣る鉄砲隊、それも多数の負傷者を抱えた状況にも関わらず撤退が成功したのには、柴田勝家と参謀、小島職鎮の巧みな戦術判断によるところが大きかった。 しかし、その代償は大きかった。左翼を占めていた柴田隊の後退は隣で陣を敷いていた黒田隊が丸々孤立することを意味するからだ。 もちろん撤退することを柴田は黒田に連絡したが、乱戦の最中、伝令が届くことはなかった。 左翼の空白に突撃したのは柿崎景家であった。間髪入れず姉小路の前線部隊と後方支援部隊の狭間に滑り込み、前線部隊を背後から襲撃した。 黒田隊にとり、これは非常に驚異となった。ただでさえ柴田隊が後退したことによって前面の担当すべき防御範囲が広がっており、火力の集中が不可能になっていたのに加え、本来安全なはずの背後からも攻撃を受けることになったのだ。 黒田も独自に柴田隊の後退を察知していたが、対策を打つには時間と兵があまりに不足していた。 これを機と見計らったのか、斉藤隊、村上隊などの上杉の将が一気に黒田隊を押しつぶそうと果敢に攻め寄せた。 黒田はこれを雪壕による仮設陣と限定的な火力集中、そして伊吹萃香を中心とした一部の精鋭隊によって逆襲を駆使、退路が確保されるまでの時間稼ぎを図った。 しかし、上杉方がその時間稼ぎに感づき、損害を顧みず黒田隊への攻撃の手を緩めなかったのが災いした。 後方の磯野隊、そして再配置をすませた柴田隊は懸命に柿崎隊の排除を試みたが、その排除を待たずして、黒田隊は崩壊。 黒田は負傷した伊吹萃香と共にわずかな護衛を引き連れ富山へと退いた。 「もし和泉守(柿崎景家)に分別さえあれば、越後七郡に敵無し」と謙信にいわれた柿崎であったが、今回はその分別のなさが黒田隊を壊滅させたのだから、皮肉としかいいようがないだろう。 それとほぼ同時に柿崎隊も壊滅。これによって柿崎隊がそのまま朝倉隊の背面を襲撃し、前線が完全崩壊することだけは免れた。 これは黒田と伊吹と鵜殿の戦線離脱を大いに助けた。何よりも黒田隊を崩壊させた斉藤、柿崎、村上隊が宗滴隊に殺到したのが3人の命を救った。 姉小路の後詰め部隊は既に戦場に加入したのはこの前後になる。上杉景勝も一時城へ退き戦力を立て直した後再度出撃。負傷しながらも四季映姫も新発田隊の与力として戦場へと舞い戻った。 宗滴隊はこのとき、上杉景勝隊、中条藤資隊と連戦し、さらに側面から水原隊からの攻撃を受けつつも粘り強く抗戦を続けており、上杉方に損害を与え続けていた。 それどころか逆に宗滴は策を弄し、上杉部隊を攪乱し水原隊を崩壊させるほどの打撃を与えた。 村上、本庄もまた黒田隊を壊滅させる際に受けた損害が大きく、撤退。 再度出撃した新発田、景勝隊も疲弊しきった馬では状況を打破することができず、撤退した。 戦闘は姉小路の勝利だったが、受けた損害はあまりに大きく、春日山城の制圧は困難と判断し、新規に築かれた魚津へと撤退した。 多数の負傷兵を抱えた状況下の撤退は困難を極めたが、勝ち戦と各将の鼓舞も手伝い、最小限の被害での撤退に成功した。 部隊が帰還したとき、魚津城では海北綱親の指揮のもとに作られた、温かい味噌汁と白米が待っていたという。 この戦いの影響 姉小路の目的が春日山城の制圧であったのならば、戦術的辛勝、戦略的敗北といえる戦であったといえる。 しかし、春日山城の戦力をすり減らすという目的ならば姉小路側の勝利といえるだろう。 上杉家は越中再侵攻はおろか、春日山の防御にも不安が残る程の損害を被った。再度姉小路が越後に侵入した際は城を盾に戦う策をとるしかなく、作戦の自由度を大きく失うことになった。 逸話 この合戦は姉小路良頼にすら事後報告しか行われていない。現場の判断で行われた合戦である。 北方軍の軍団長にはそれだけ大きな権限が与えられていた。 これは、姉小路家の領地が広大であることもさることながら、 冬季の越中の交通の便が悪いことからの配慮である。 そのような電撃戦であるにも関わらず、各地から越中への物資の補給は円滑であった。 これは姉小路家の奉行衆が量的質的共に優秀である事の証左であろう。 姉小路家が各地で電撃作戦を行う事ができたのは、 前線基地への円滑な物資の補給があってこそである。 この合戦は現場の独断ではあるが、一部の将には予想の範囲内であったようだ。 第三次越中防衛戦が終了した折、姉小路領内の御用商人や諸将から越中に戦勝祝いの品が届けられた。 多くは宗滴が文化人であることから、茶器などの美術品や名刀古刀であった。 姉小路良頼からは褒賞の石見銀や生野銀、飛騨金などが送られたようである。 そんな中、竹中重治は2000着もの木綿の陣羽織を送った。これは越後侵攻が近いことを察した 竹中重治が寒さの厳しい遠征になることを予想して防寒具を送ったのだと言われている。 明智家からは500帖もの油紙が贈られている。これは、河川や海の付近を移動する際、 水に弱い鉄砲弾薬を保護するための必需品である。この合戦の行われた糸魚川では雪が多く、 移動の際も海や川が多かったので重宝したといわれている。 その他、羽柴秀吉の提案で材美濃の諸将からは寒冷地で暖をとるための良質の飛騨木炭、 それとは別に美濃衆を代表して斉藤義龍から防寒対策の美濃和紙が贈られた。 魚津城築城は後世の魚津の発展の要因の一つである。 この戦いまでは魚津城周辺は名目上姉小路領であったといえ、 実質は上杉氏と姉小路氏の両方に属していた。 魚津は上杉家の侵攻に度々晒されていたが姉小路氏はこの地域の防衛をするのが困難と判断。 また、上杉氏も魚津が陸の孤島であり、富山城を落とさない限り維持が困難であると判断していた。 このために両家領の緩衝地帯となっていたのである。 しかし、今回の合戦に勝利して魚津城が築城されたため、名実ともに完全な姉小路領となった。 これまで姉小路家にとって危険な土地であったため、姉小路領の松倉金山から産出される金は、 魚津港を避けて移送されるなど、長年交通の要所で恵まれた地形のわりに不遇であった魚津も、 城下町としていよいよ発展していくこととなる。 この合戦では携行食糧についてさまざまな試みがなされた。 中でも、たったの四粒で一日に必要な栄養をほぼ摂取できる兵糧丸は既存の糒(ほしいい)などと比べて 携行性や栄養価が上回っていたために、兵糧事情改善に大いに期待されていた。 実際にも大きな効果があったのだが、蜂蜜や鰹節など一部材料が高価であること、満腹感に欠けること、 味が良くないことなど将兵の不満が高まり、その後は既存の兵糧との併用という形で収まった。 この後の合戦では、間食、非常時の栄養補給用として利用されていたようである。 兵糧丸はその後も改良を加えられた。生産初期に比べて安価になり、 特に味については飛躍的な進歩がみられた。 なぜ味の改善が重点的に行われたかと言うと、 姉小路の兵糧丸がまずいことで有名になってしまったからである。 よほど印象深かったのであろうか、この合戦の参加者の苦労話には強敵上杉、越後の冬の寒さに続いて 大抵この兵糧丸が登場していた。この話が各地に伝播したようである。 兵糧がまずいというのは不名誉であることのみならず、募兵や士気にも差し障る恐れがあった。 そこですぐに味の改善が図られたという次第である。 幸いなことに募兵や士気には影響は見られなかった。 ただし、その努力に関わらず、この後も兵糧についての冗談話のオチとして扱われる事となったのである。 他には味付き糒といって糒自体に味噌を染み込ませて味噌を携帯する手間を省く物があったが、 この合戦の後の採用は見送られた。表向きは保存性にやや問題があるという理由であった。 しかし本当のところは、当時の兵士は配給された糒の一部を酒に加工するということをしていたのだが、 味付きだと酒にも味がついてしまって不味くなるからであったという。 なお、戦後にこの味付きの糒は味噌味や甘みをつけて御菓子として売られるようになった。 後の雷おこしの原型である。
https://w.atwiki.jp/sengokuhime3/pages/27.html
弱小勢力でクリアを目指す勇者たちのページ 難易度「普通」でクリアできた人は適当に攻略メモをよろしく(切腹なしモードはOKとしましょう) 小田家(常陸)難易度★★★★ 1ターン目から攻めてくる鬼真壁の恐怖に震える小田氏治たん!持ってるのはダメスキル。弓隊?なにそれ?これ勝てるの!? 1ターン 小田氏治、ひぇぇぇ!挙兵なんかするんですかぁぁぁ?? 2ターン 佐竹義重率いる5800の軍勢が土浦に侵攻。小田氏治は3400の兵で迎え撃つ。 天候は晴れ。自信満々に突っ込んだ佐竹義重。 そのとき鬼真壁は新しく購入した鉄砲100丁を撃って遊んでいた。 小田・菅谷・別働隊の集中砲火を浴びた義重は壊滅、退却を余儀なくされた。 3ターン 佐竹義重率いる4100の軍勢が土浦に侵攻。小田氏治は3400の兵で迎え撃つ。 天候は晴れ。奇跡が二度起こり、小田の完勝であった。 4ターン 小田氏が水戸城(大)に侵攻、大将の真壁氏幹を破り、占領した。無銘の刀を入手。 5ターン 小田氏が太田城(大)に侵攻、占領した。佐竹義重は降伏し、小田の配下となった。 常人の書物を入手。 5ターン 空き城の真壁城を包囲攻めで奪った。 5ターン 小田氏は小大名と称されるようになった。 6ターン 佐竹を継いだ真壁氏幹を大館城(中)で撃破し、配下にした。佐竹一族は滅亡。 6ターン 下館城(中)で水谷正村を撃破し、配下にした。並みの馬を入手。常陸国を統一。 姉小路家(飛騨)難易度★★★★★ 0万石からのスタート。なけなしの軍資金100も、秋には赤字でごっそり持って行かれちゃう。 しかも武田の騎馬隊の蹄の音が聴こえてくるぜ・・・ 1ターン:高山城を姉小路で大将撃破で制圧。 2ターン:高原城を姉小路で大将撃破で制圧。政治+3のアイテムゲット。 飛騨を統一し小大名になる。 3~4ターン:姉小路に政治アイテム装備して臨時徴収。 5ターン:越中へ進軍。城生城を姉小路兵1000、雑魚武将兵100×2で大将撃破で制圧。 統率+3のアイテムゲット。 6ターン:姉小路に統率アイテム装備。松倉城を姉小路兵1000で大将撃破で制圧。 上杉軍が越中に進攻開始。 7ターン:蓮沼城を姉小路1300、雑魚武将兵100×2で大将撃破で制圧。 守山城を三木直頼兵1000、三木頼綱兵1000で大将撃破で制圧。 8ターン:上杉軍富山城を制圧。 その間、魚津城が空き城になったので姉小路で攻城戦、制圧。 上杉軍主力、退路を絶たれる。上杉第二部隊は武田と抗戦中。 9ターン:軍資金25。雑魚武将に政治+3アイテムを装備し、越中で臨時徴収。 三木直頼兵1200、雑魚武将兵100で大将撃破で春日山制圧。 上杉軍、守山城に攻める来るが落とせず。 10ターン:北条城を姉小路兵2600で大将撃破で制圧。 上杉主力は雑魚武将突撃で足止めする。 斉藤軍が飛騨へ攻めてくる。 11ターン:越中で臨時徴収⇒軍資金337。与板城を姉小路兵3300で大将撃破で制圧。 板戸城を三木頼綱1300で大将撃破で制圧。 上杉主力は雑魚武将突撃で足止め。 12ターン:富山城を姉小路兵3800、雑魚武将兵100×2で上杉主力を大将撃破で撃破。 上杉謙信、小島弥太郎、宇佐美定満降伏。 新発田城を三木直頼兵1200、雑魚武将兵100で大将撃破で制圧。 栃尾城を三木頼綱兵1300、雑魚武将兵100で大将撃破で制圧。 13ターン:越後守護の官位を受ける⇒軍資金167。 鳥坂城をを三木直頼兵1200、上杉謙信兵100で大将撃破で制圧。 14ターン:本圧城を上杉謙信兵1300で大将撃破で制圧。越後統一。 斉藤軍に落とされていた飛騨・桜洞城を姉小路兵3800、宇佐美定満兵100で制圧。 15ターン:美濃へ進軍。兼山城を姉小路兵3800、宇佐美定満兵100で大将撃破で制圧。 16ターン:濃守護の官位を受ける⇒軍資金369。稲葉山城を宇佐美定満兵600で大将撃破で制圧。 岩村城を上杉謙信兵2000、雑魚武将兵100で大将撃破で制圧。 17ターン:北方城を上杉謙信兵2000で大将撃破で制圧。墨俣城を宇佐美定満兵600、 雑魚武将兵100で大将撃破で制圧。能登へ進軍。 七尾城を雑魚武将兵500、雑魚武将兵100で大将撃破で制圧。 総石高が100を越え、戦国大名となる。 富樫家(加賀)難易度★★★★★ 能力はALL1だ!一向一揆が凶暴すぎて生きるのがつらい。こんな国もうイヤや・・・ 山名家(但馬)難易度★★★★ 大名1人でスタート、山名四天王は独立勢力で全員敵、統一したはずの因幡山名も・・・ 伊東家(日向)難易度★★★ 僕、伊東義祐、部下は居ない。ひとりぼっち。こんな僕でも天下取れますよね?優秀な子供が授かるよう、仏様にお祈りだ。 1ターン 伊東義祐、挙兵。 2ターン 松尾城の豪族・土持親成は、伊東義祐の二倍の軍勢に果敢に野戦で立ち向かったが敗れ、降伏した。 3~5ターン 伊東義祐は空き城の飫肥に計略を仕掛けた。土持親成は徴兵を行った。 6ターン 伊東の将・土持親成は北原氏を破り、加久藤城(小)を奪った。 7ターン 伊東、土持の軍が都城城(大)を奪った。匠の剛弓を入手した。敗れた北郷忠親と肝付兼演は飫肥城へ逃走。 8ターン 伊東氏は小大名と称された。飫肥城(中)を奪い、日向国を統一した。 9ターン 伊東氏は肥後国への進出を狙った。島津氏、龍造寺氏、大友氏も順調に勢力を伸ばしていた。 9ターン 伊東氏は阿蘇氏に大勝し、岩尾城(小)を奪った。阿蘇惟豊は伊東氏に降り、伊東氏にとって貴重な弓部隊となった。 10ターン 伊東義祐軍が熊本城(大)を奪い、同時に土持軍が高森城(小)を奪った。名将・甲斐宗運が伊東氏に降った。 11ターン 相良家の古麓城に良将・赤池長任が仕官した。 11ターン 相良家と独立勢力が反撃に出、伊東氏の空き城を攻めた。だが伊東氏は熊本から菊池城(小)を奪い、匠の名槍を入手。 12ターン 大津山城(大)を伊東義祐軍が、古麓城(小)を土持軍と阿蘇惟豊軍が奪った。敗れた独立勢力は北へ逃亡。 13ターン 伊東氏が人吉城(中)を奪い、肥後国を統一。相良家が滅亡。無銘の弓を入手。赤池長任と上村頼興を配下に。 14ターン 伊東氏は、肥前を統一したばかりの[[龍造寺家]]に侵攻。日之江城を包囲攻めで奪った。無銘の刀を入手。 15ターン 伊東氏が龍造寺四天王の成松信勝・信常江里軍を破り、大村城(中)を奪った。 16ターン 熊本城で犬童頼安が伊東氏に仕官した。 16ターン 伊東軍と龍造寺主力が武雄(小)の合戦。龍造寺隆信、鍋島直茂ほか4800の軍を、わずか兵200の損害で破った犬童頼安の大手柄。 16ターン なお伊東の別働隊として平戸城(大)を攻めた赤池長任は、ここを守る神代勝利軍に苦しみつつも辛うじて勝利し、陥落させた。 17ターン 伊東氏はさらに岸岳(小)で龍造寺軍を破り、殿を務めた四天王の成松・信常は行方不明となった。 17ターン 本拠地、佐嘉へ落ち延びようとする龍造寺を、犬童頼安が追撃し、さらに敗走せしめた。 18ターン 甲斐宗運軍が勢福寺(小)で龍造寺の残党を殲滅、龍造寺隆信・鍋島直茂・百武賢兼・木下昌直・円城寺胤が降伏した。 18ターン 大隅国を統一した島津軍が、勢いに乗って伊東氏の都城城を攻撃した。 少弐家(肥前)難易度★★★★★ 1ターンもてば上出来さ! 姉小路とか小田でクリアできた人いる? -- 名無しさん (2011-06-25 07 12 01) とりあえず両方石高600以上行けたよ……優しいで始めたけど。 -- 名無しさん (2011-06-26 01 16 41) それよか、九州地方 日向、伊藤家のクリアを頼む -- 名無しさん (2011-06-26 01 17 44) 難易度「優しい」はダメですw とくに姉小路は貧乏なのが売り(?)なので。 -- 名無しさん (2011-06-26 02 39 50) 小田はまだ城も二つあるし兵もいないことはないから良い。少弐とかもっと泣けるぞ。竜造寺の動向と乱数次第で最初のターンで滅びることもある -- 名無しさん (2011-06-26 18 11 30) とがちゃんは? -- 名無しさん (2011-06-27 11 00 59) 姉小路クリアできるかもしれない!できたらまた報告来ます!! -- 姉小路挑戦中 (2011-06-28 13 14 07) 姉小路家クリアはしてないけど支配国10越え、上杉に続き織田、武田と滅ぼしたので序盤だけメモ残します。鍵は①大将撃破②早期の統率UPアイテム③徴収④上杉の対処だと思います。 -- 姉小路挑戦中 (2011-06-29 00 00 31) ぶっちゃけ序盤さえ越せばあとは余裕だと思うので最後まで書く必要もないよね -- 名無しさん (2011-06-29 00 41 19) 少弐はともかくとして、小田は初期武将4人なのに攻めるべき水戸城が戦場(大)、統率の高い真壁の槍部隊に対して、こっちの初期武将は三人が騎馬という部分が地味に痛い。義重は比較的相手しやすいけど真壁の相手が大変。独立勢力の水谷正村が統率9なので、先にとって頭数揃えたほうが安定するのかもしれんとも思う。 -- 名無しさん (2011-06-30 23 24 30) ↑一武将出撃で即退却による足止めありでの話。 -- 名無しさん (2011-06-30 23 25 06) 少弐家、普通で17ターンでとりあえず肥前統一完了。 -- 名無しさん (2011-07-02 01 40 55) 結城家が超強化された関係で古河足利家も結構厳しい。まず攻めることになる千葉家も城の野戦場が大で兵力でも負けているし、しかも高確率で徴兵できない状況(できたところで届かないが)のためまさしく板挟み -- 名無しさん (2011-07-05 22 19 57) 姉小路のレポ書いてくれた人、1ターン目は何もできないはずだけど1ターンズレてない? -- 名無しさん (2011-07-07 00 18 36) 700前後ターン行ったけど、姉小路難易度「普通」でクリアできたぜ・・・疲れた -- 名無しさん (2011-07-08 18 20 34) 富樫は最悪の場合、1ターン目(表示は2ターン)で臣従が来るまで最初からやり続けて、武将を出来るだけ引き抜いてから始めるという裏技がある。普通に越前を目標に定めていった時とどっちが早いかは知らないが… -- 名無しさん (2011-07-10 21 54 59) 広告に隠れて見づらかった部分を改行 -- 名無しさん (2011-11-06 12 00 41) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/dethnotegame/pages/64.html
第4919戦 これさ 初心者に世の中の厳しさ教えるべきじゃね? 第4601戦 L陣営が奇襲、メルがLを合わせ先に指定するもメルが初日20Pキルを喰らう、次のターン、キラが公開キラからのL合わせを叫ぶと高田がLに全力投票、これによりキラ陣営勝利。 第4399戦 Lが調査で7回キラ断定を出すも、まさかの投票負けでキラ勝利 第4338戦 姉小路必殺技② クリア・デス・ジ・エンド・オブ・トゥルース 開幕早々公開警察する事で両陣営を威圧する。姉小路は死ぬ 第4222戦 my manko will absorbed tinko everything in my worlds. 第3886戦 ルルサス、暁の水平線に敗北を刻む 第2993戦 姉小路必殺技① マスター・オブ・チェック・ジ・デス・トゥルース 長年の経験と第六感により自身の死期を悟る。姉小路は死ぬ
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/308.html
山口館の戦い 山口館の戦い(よしだやかたのたたかい)は永禄11年に毛利家と姉小路家との間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・浜田城兵 旗本隊:足軽隊18500:姉小路頼綱、山中幸盛、ルーミア 博麗隊:鉄砲隊5000 :博麗霊夢、江馬輝盛、江馬時盛 霧雨隊:鉄砲隊5000 :霧雨魔理沙、原長頼、鈴仙・U・イナバ 近江隊:騎馬隊9000 :磯野員昌、海北綱親、紅美鈴 西国隊:鉄砲隊5000 :明石全登、稲富祐秀、遊佐続光 明智隊:鉄砲隊5000 :斎藤利三、明智秀満、遠藤直経 後詰隊:騎馬隊8247 :三木顕綱、磯野員昌、紅美鈴 毛利・山口館守備兵31226 守将:小早川隆景 第一迎撃隊:足軽隊7500:島清興 第二迎撃隊:弓隊7500:因幡てゐ 第三迎撃隊:弓隊8000:長船貞親 第一奇襲部隊:足軽隊3000:毛利元就(6月20日) 第二奇襲部隊:足軽隊3000:吉川元春(6月25日) 第三奇襲部隊:足軽隊3000:陶晴賢 当初、兵力数は2 1で姉小路側で優勢であったがルナサ・プリズムリバーが9000を輸送している。 毛利側としては本州最後の城であり、これを死守すべく毛利元就を始め主力武将がそろっている。 概要 姉小路軍は毛利軍を本州より排除すべく、いまや本州毛利領最後の防御施設である 山口館を攻めとるために対三好防衛隊を除く西国攻略隊全軍を浜田城に集結させた。 対する毛利方は四国防衛の兵を最小限にし、その他の全軍を山口館に集結させた。その陣容は毛利主力軍といってよい。 しかしながらその兵数の差は懸絶しており、山口館が平地に建っている分吉田郡山城などと比べて 格段に防衛施設として劣っていることから、毛利方の苦戦は避けられないものと見られた。 五月五日、姉小路軍は周防山口館に向けて出陣した。 しかし周防長門国境付近で兵糧、物資不足に陥る危険が生じた。 姉小路軍は通常、前もって侵攻地の豪族や惣村などの有力者を調略し、 兵糧を供出させたり、運搬させるなど、兵站の大部分を担わせていた。 しかし、毛利方が姉小路方に通じた豪族や惣村を焼き払うなどの見せしめを行った事で、調略の甲斐なく協力が得られなくなった。 これまではこのようなことがあっても、後方領から物資を運搬させることで対応ができた。 だが、今回の場合は浜田城と山口館との距離と難路の多さ、下関港が毛利方であるため制海権を持たないことから物資の運搬は困難であった。 隘路で長蛇の列を作っている姉小路方の荷駄隊に幾度となく毛利方の小隊が襲い掛かった。 如何に姉小路方が荷駄の護衛に人数を割いても地の利を得た毛利方を短時間で撃退することは難しく、幾度となく兵糧物資が焼き払われることとなった。 これは、今回の合戦の最初から最後まで影響を及ぼす事となる。 明石隊や終盤の後詰隊は兵糧が尽きて一時撤退したし、明智隊も弾薬不足で二度までも戦線離脱を余儀なくされた。 六月五日、交戦開始。明石隊と合戦直前に突如行方不明となった霧雨隊が不在であったが、それでも姉小路方の兵数は圧倒的であった。 毛利方は島清興の第一迎撃隊が近江騎馬隊を押さえ、第二、第三迎撃隊が旗本隊、近江隊に矢風を浴びせたが、旗本隊はそれらの攻撃をすり抜けて城壁にたどり着いた。 旗本隊はその勢いのまま館を攻撃、城壁を越えることに成功した。 しかし、歓声が上がったまさにその時、元就の遊撃隊による奇襲が行われた。 隊が城内と城外に二分されて連絡がとりづらかったことも手伝って山口館内に侵入した兵は 痛手を負って完全に撃退され、城外の隊も混乱して寡勢の元就隊に押し込まれた。 ただ、やはり寡兵で長期間大部隊である旗本隊を押し続けることはできず、 近江隊が一時援護し、各鉄砲隊が元就隊を攻撃したことで余裕が生まれ、旗本隊は立ち直った。 この後に吉川元春と陶晴賢の奇襲も行われたが、旗本隊は動揺することなく逆に敵を押し返した。 しかし、これすらも元就にとっては布石に過ぎなかったと言える。 元就は旗本隊から発せられる数多くの伝令達を密かに討ち取ったり生け捕りにすることに成功した。 旗本隊内部に送り込んでいた間者によって伝令の動きをつぶさに知る事ができたし、旗本隊は陶隊、元春隊、元就隊によって三方を囲まれており、 伝令がどの道を通って各部隊へ指示を届けるかは地理に詳しい毛利方にとってわかりやすいものとなっていたからである。 毛利方は生け捕った伝令を買収したり、代わりの偽伝令を数多く放つ事で各隊に次々と疑心暗鬼を植えつけていった。 七月五日朝、毛利方は狼煙を合図に行動を開始した。 元就は偽伝令の数を一気に増やし、各隊に偽報が一気にあふれた。これによって各隊の指揮系統は脆くも崩れ去った。 さらに、各隊に潜んでいた間者達は厩や陣、物資に火をかけ、或いは公然と鉄砲で他の隊を銃撃した。 これらの異変を味方部隊からの攻撃と判断した隊もおり、実際に同士討ちとなったケースも存在した。 その上で元就隊は姉小路方を急襲したので被害は拡大し、姉小路軍はこのまま崩壊していくかに見えた。 姉小路軍を全軍の崩壊から救ったのは姉小路頼綱の機転と山中鹿介の勇気であった。 頼綱は自部隊の上空にルーミアを飛ばせ、点滅させたのだ。 これによって各隊は旗本隊の位置と頼綱の無事を知る事ができた。 また、一度全将兵が空を見上げる事で一種の気分転換となり冷静さを取り戻す一助になったと言われている。 鹿介は各隊を攻撃し終わって、引き際の元就隊に単騎で飛び込んだ。 誰が敵か味方か分からない混乱状態の自軍の兵を率いるのは危険と判断したから単騎で突撃したと言われるが、真実は分からない。 しかし、この蛮勇というべき突撃は思わぬ効果を生み出した。頼綱は鹿介が出撃したとしるや、すぐさま自身の馬廻を差し向けた。 引き際の元就隊は思わぬ足止めを食った形となった。 そこへ、遅れて戦場に到着した霧雨隊が駆けつけた。 この隊は元就の情報操作を殆ど受けておらず、全軍の統制を保ったままの部隊であり、他の部隊に目もくれず真っ直ぐに元就隊に襲い掛かったのである。 寡兵で戦い続けて疲労が溜まっていたところに、山中鹿介及び頼綱の馬廻の一撃を立て続けにもらい 大損害を被った所に霧雨隊の銃撃を受けた為、流石の元就隊も壊滅した。 情報操作を行っていた大本が崩れた後、各隊が再び統制を取り戻すのに殆ど時間は必要ではなかった。 混乱が収まった後も姉小路方にとっては有利な状況ではなかった。既に姉小路方と毛利方の兵数の差は逆転していた。 合戦の最初から最前線で戦場の一角を支配し続けていた近江隊は損耗率90%を越え、撤退を余儀なくされた。 旗本隊も死傷者が多く、撤退は時間の問題であり、このままでは全軍撤退は避けられないと思われた。 姉小路方が再逆転を果たすきっかけは霧雨隊が作った。彼女らの銃撃(砲撃?)はこれまでの損害の蓄積もあって一撃で城壁を打ち崩した。 城壁はすぐさま臨時修復されたものの、城兵は大いに動揺した。 その動揺した城兵の十数人を今度は博麗隊が調略、館に火をかけさせた。 おりしも日照り続きで空気は乾燥しており、火は短時間で派手に燃え広がった。 下手人たちは逮捕されたものの、混乱は収まらずにむしろ全軍に広がっていった。 混乱が収まる頃には、毛利方は迎撃隊、遊撃隊が長船隊を残して全て壊滅していた。 一方、姉小路方も最大兵力であった旗本隊が撤退するなど、櫛の歯が欠けるように数を減らしていった。 ただこの時点で戦場での兵数は五分であるとはいえ、姉小路方は8000以上の後詰騎馬隊が出陣しており、ほぼ勝負は決まったと言ってよい。 長船迎撃隊が壊滅して後、守将小早川隆景が山口館にて孤軍奮闘していたが、 元々大した防備ではない上に城壁が破られ、次々に鉄砲隊によって撃ち減らされていった。 九月一日、粘りに粘った末に落城。戦いは集結した。 当初5万を大きく上回っていた姉小路方が1万8千を割り込んでしまう、非常な激戦であった。 合戦の影響 毛利方は本州のほぼ全てを失い、西国一の大大名から四国の一大名に転落した。 姉小路方の西国攻略軍の受けた損害も大きいもので九州攻略にはすぐに取り掛かれないが、対三好の部隊が健在であるから本州制圧には影響はなかった。 しかしながら毛利・三好同盟は瀬戸内海を押さえる拠点を維持しており、 対三好として拘置していある播磨軍も備州攻略において発生するであろう問題からしてその兵力の全てを維持しきれるとは断定できない。 本州制圧以後の四国・九州征伐の遅延は免れないと思われる。 また、今回の戦で顕在化した兵站問題についても改善が図られることとなった。 戦となれば数万単位の兵を常時運用するうになった現在、現地調達ではまかないきれぬ程の糧秣が必要な事は以前よりはっきりしていたが、 今回の経験を機に、より近代的な対処が取られることとなった。 これまでの戦では、姉小路家の前線兵士と後方支援兵士の割合はおおむね10:1の割合であったが、 以後は大幅に改められ、状況によっては10 4程度にまで引き上げられることとなった。 兵站の要となる馬も、狭隘な地や険しい山間部でも十分な行動が可能な御崎馬や対馬馬といった品種の馬が使われるようになった。 これらの馬は山岳部の急斜面で育った種で、生まれながらに山坂の登りが巧みであり、山間部での輸送に大きな効果を発揮した。 護衛にも余剰の砲筒を渡すことで自衛能力を増加させたほか、専門の護衛部隊が新設されることとなった。 この当時は、『輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち』と呼ばれる程に各大名の兵站、輜重、補給全体に対する関心は低かった。 特に半農半兵の兵士にとっては、首級を上げる機会に恵まれぬ後方支援任務は敬遠される場合が多く、姉小路家もそれの例外ではなかった。 だが、いざ実際に部隊が物資不足に見舞われたことで、その偏見は払拭されていくこととなる。 改善されたのはは部隊だけに止まらず、街道にもその影響が及んだ。 食料はまだしも、銃、弾薬の策源地が遙か東となった現在、迅速な輸送手段の確立は姉小路家にとって不可欠であることから、 長期使用計画に基づいたな街道の整備までもが行われることとなった。 結果、姉小路家の兵站状況は著しく改善され、栄養不足による疫病の蔓延を押さえた他、略奪などの問題が大幅に減少する副次的な効果までもたらした。 弾薬の使用量の増加も、堺、紀州、琵琶湖沿岸の産地の優秀な人材を丸ごと抱え上げ、生産量を引き上げることで補えるよう、対処が施された。 この時代、気づいたものはほとんど皆無だったが、既に時代は短期戦を主眼とした旧来の戦争から脱皮し、 前線の兵士はもとより、後方支援、引いては糧秣を生み出す農民、火薬や弾丸を生成する職人までもを含めた大規模な消耗戦、あるいは総力戦への移行の気配を見せつつあった。 なお、兵站問題の顕在化の理由としては西国における電撃的な侵攻によるものである。 山城制圧後の西国征伐はこの周防・長門にいたるまでわずか4年足らずであり、東国・北国のような後方整備が為されぬまま突き進んでいる。 兵力も投降兵・現地での志願兵であり、今回の辛勝はこの電撃戦の限界点であったと言えよう。 逸話 山口館は元々大内氏の居館であった。毛利氏が防長経略によって手に入れた後は毛利元就の居館となった。 西国の京と謳われる山口の美しい街に相応しく白壁に金の瓦が映える壮麗な作りであった。 武士の居館らしく土塁なども備えており防御力もあった。 山口の街は毛利氏が大内氏と違って博多の権益を持っていないこと、 家風が質実であることもあって、往時ほどの賑わいはなかったが、それでも西の京といわれるだけ繁栄していた。 この戦いで館のかなりの部分が焼けてしまったが、主な建物は修復可能な程度の損害であり、高名な枯山水庭園は無事であった。 街にも損害はでたが、あくまで館周辺の一部であった。 西の京山口はこれほどの戦火にも関わらず奇跡的に後世のために保存された。 この戦いでは毛利方の部隊は全て壊滅したが、姉小路方の損害は勝利者であるのにも関わらず多大なものであった。 特に損害が大きかったのは博麗隊である。 この隊は常に戦場にあって旗本隊が健在のときは副将、退却の後は主将となって一貫して指揮を行っていた。 特に旗本隊が退いた後は指揮権を委譲するべき後詰隊が遅れたり、 兵糧不足に陥るなどの理由から壊滅寸前になっても引き上げる事ができなかった。 幸い、部隊が壊滅する前に戦闘を終結させることができたが、 当初5000人いた隊が、傷兵除いてたったの89人にまで討ち減らされたという悲惨な状況であったという。 頼綱は後に、生涯で最も危うかった一戦にこの戦いをあげている。 同士討ちによる混乱が長引けば、毛利勢に各個撃破されて全滅の可能性すらあったからだ。 それを回避した頼綱の機転は大したものだが、敗れたとはいえそこまで追い込んだ元就は流石である。 戦の中で元就は「姉小路に将多かれど、真に強き戦の出来うるものは竹中重治・朝倉教景の両名のみ」と語ったとされる。 BGM
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/193.html
洛南会戦 洛南会戦(らくなんかいせん)とは永禄七年に足利将軍家と姉小路家との間で起こった戦いである。 戦闘が左京から南にかけて非常に広範囲で行われたので、「鳥羽伏見の戦い」「二条合戦」「東洛の大会戦」「京洛決戦」とも呼ばれる。 一戦に天下の命運をかけたこの戦いは壇ノ浦の合戦とも東勝寺合戦とも違い、強いていうならば殷周革命の牧野の戦いに例えられる。 合戦以前の情勢 連年の乱や先代の将軍達の失政によって将軍家の影響力は年々失われつつあった。 足利義輝はそのような状況を苦慮し、主だった大名に自分の名である『輝』の字を与えたり、 大名同士の抗争の調停を行うなど積極的に政治活動を行って将軍家の威光を示し、 また将軍家から失われた軍事力、経済力を取り戻すために山城国を纏め上げ、緩やかながらではあったが将軍家としての実力を取り戻しつつあった。 対する姉小路家は飛騨国の一国人に始まり、飛騨、越中および美濃を制圧し、この頃には近畿の大部分を含む13カ国を領していた。 当主、姉小路良頼は主だった家臣との協議の末、倒幕の意思を固めるに至った。 一方、主に鉱業・米生産に収入を頼り切っていた姉小路家にとって、京は一大消費地として重要であった。 また、前年(永禄六年(1563年))に堺を奪取した姉小路家にとって、堺に集まる物資の消費地としての京の重要性はますます上がっていた。 この当時京は、姉小路家の収入源となっている、ともいえる。 よって、足利将軍家によって京を抑えられた状態は、姉小路家にとってはその喉首に匕首を突き付けられているも同然であり、これ以上の勢力拡大には京を奪取し、生産と消費の双方を握る必要があった。 その点において、姉小路家がこの時期に倒幕に動くのは当然であった、と言える。 合戦までの経過の概要 この情勢のもと永禄8年4月、姉小路良頼は足利攻略の足がかりとすべく、松永久秀に命じて勝竜寺に出城を築かせた。 築城1ヶ月後の永禄8年5月に姉小路家は4万もの兵を集めて近衛前久をはじめとする主だった公家を招待して、大々的に大馬揃えを行った。 朝廷や将軍家への示威行為が目的であったという。 しかし、将軍家は屈せずに軍を召集、将軍家の危機に多くの御家人達が集まり、最終的には6万もの大軍をなした。 ただし、これは八雲紫が招集した毛玉衆が多く含まれていたとされているが、彼らはこの合戦後姿を消している。 また、極秘裏に八意永琳の指導の下で数々の弓と足軽に関する技術革新が行われた。 しかしながら、この当時の将軍家の資金力ではこのように大軍を集めたり技術革新を行うことができるとは到底考えにくいことから、 上杉家、武田家をはじめとする親将軍家勢力からの資金を含めた援助があったのではないかと考えられている。 事ここに至っては将軍家と姉小路家との決戦は避けられないものとなった。 同年6月、姉小路良頼は源氏に縁があり武神と崇拝されている石清水八幡宮に軍を集結させて戦勝祈願を行った。 その際、全軍に改めて足利将軍家を討つことを宣言した。同日に将軍家の二条城に開戦の意思を伝える使者を送り、翌々日、その旨を了承した将軍家からの使者が送られてきた。 永禄8年6月5日、姉小路頼綱率いる全軍は戦場となる下鳥羽に出陣した。 対する足利家も迎撃部隊を発し、日本中から注目されている戦はついに火ぶたを切ったのである。 松永弾正の一夜城 勝竜寺城は松永久秀が一夜で築城したので、別名松永一夜城と呼ばれる。 あらかじめ宇治川上流において木材を組んでおき、いかだにして宇治川を下って勝竜寺付近で陸揚げして組み立てたという。 ただ、柵などはともかく矢倉などの精密な設計が必要な建築物に関してはいかだにして運ぶといった雑な扱いはできず、また急ごしらえでは耐久性にも不安があった。 そこで琵琶湖湖畔の観音寺城の支城を解体して船で宇治川を下り、改めて組み立てるといった方法がとられた。 あらかじめ完璧に手はずを整え、万を超える職人、おなじく万を超える兵士が徹夜で築城させたという。 初期の構造としては、小高い丘に最低限の兵舎を建て、丘の回りに空堀を掘り、掘った土と木材を利用して柵をめぐらし、矢倉を7つほど立てていたと言われるが、 実際は一夜で作れた部分は最低限の防衛施設だけで、殆どの矢倉は外見はともかく建造中であり、柵も一番外側の柵をしっかりと作っただけで、曲輪などは未完成であったという。 ただ、内部はともかく外見は相当な堅城に見えたらしく、その点、朝廷内においても話題になっていたことが近衛前久の日記に記されている。 足利将軍家としては築城の妨害のために出陣の準備を進めて物見を放っていたが、物見の報告を聞き、断念せざるを得なかったという。 翌日までには京に住む者たちにも知れ渡り、多くの見物人が現れた。 ちなみに、初期のこの城は将兵に非常に評判の悪い城であったといわれている。 なにせ兵舎も粗末なつくりで狭苦しく、風雨をしのぐのがやっとであったし、雨漏りも酷かった。 木材が足りずに生木を使った部分も多く、時間とともに変形してひび割れたり隙間が開いたりなどいろいろな問題がでてきた。 松永久秀としては予想済みの問題であったようで、徐々に生木であった部分を張り替えたり、一部の兵舎を増築するなど逐次対応を行っている。 なお、屋根に関しては修築時に耐火性に問題のある藁葺きにしている。 これは、この城が大きな戦火に巻き込まれることはないであろうと予想してのことであると言われている。 あくまで仮の城として扱い、本格的な修築は行っていない。 大馬揃え 明智光秀を責任者とし、公家衆への饗応役を朝倉宗滴が務めた。 武芸披露においては剣術、中条流富田景政、新陰流柳生宗厳、弓術では日置流吉田重政、六角義治がその妙技を披露している。 この大馬揃えの陣容や饗応に出された品目は光秀・宗滴の日記にその詳細が残されており、現在においても再現が可能である。 余談ではあるが、この大馬揃えを見物したルイス・フロイスの手記にはその偉容に圧倒された様子が記されている。 ちなみに馬揃えが終わった後、霧雨魔理沙が勝手に空から星を蒔いたのを見て卒倒せんばかりの衝撃を受けている。後にこの話を聞いたカブラルなどは「日本は悪魔の国だ!」と叫んだと言われている。 石清水八幡での戦勝祈願 姉小路良頼は6月始めに石清水八幡宮に軍を集め戦勝祈願を行った。 神前に主だった将を集め、坂上田村麻呂以来の征夷大将軍の任を全うできていない不忠な足利将軍家を討つ、という内容の願文を読み上げた。 多くの場合、神前にて願文を大声で読み上げたことで全軍への宣言とするところであるが、 神前で読み上げたのでは全軍に声が届かないこと、異能の者や農民出身の者が古語の多い難解な願文を理解できない恐れがあったこと、 これらを考慮して改めて口語で全軍に宣言をすることとした。このときの姉小路軍の意気は天を衝くようであったという。 そして御祓いの後、姉小路良頼自身が奉納の舞を行い、後に宮司による戦勝祈願の舞が行われた。最後に全軍で掛け声をかけて儀式は終了した。 なお、姉小路良頼は願文と同時に太刀と軍旗を奉納している。 諸将もそれにならって太刀や鏑矢、あるいは弾丸などを奉納した。神前にはこれらの物が山と積まれたという。 ちなみに、姉小路良頼は願文及び宣言の中で足利家を朝敵と呼んでいるが、朝廷から正式に勅が下ったわけではない。 もちろんこれは幕府が京を押さえていたからであるが、朝廷に幕府よりの高官も多くいたからでもある。 幕府よりの公家と近衛前久ら姉小路家よりの公家は互いに朝敵討伐の勅を下すよう活動したが、結局朝廷は中立を保つこととなる。 参加兵力及び戦力評価 姉小路軍:勝竜寺城41000 第一前衛部隊:足軽隊14000:竹中重治、博麗霊夢、ルーミア 第二前衛部隊:騎馬隊14500:朝倉宗滴、前田利益、紅美鈴(8月20日4887で再出撃) 第一後衛部隊:鉄砲隊3000 :鈴木重秀(雑賀孫一)、霧雨魔理沙、鈴仙・U・イナバ 第二後衛部隊:鉄砲隊3000 :斎藤義龍、浅井長政、アリス・マーガトロイド 第三後衛部隊:鉄砲隊3500 :明智光秀、明智秀満、リグル・ナイトバグ 本隊 :鉄砲隊3000 :姉小路良頼、松永久秀、十六夜咲夜 大和、近江から招集された兵力で姉小路軍のほぼ5分の1の兵力に相当する。 注目すべきはやはり鉄砲隊である。この合戦に参加した鉄砲隊は2月完成した元込銃が装備されており、 かつ鈴木重秀直率の雑賀衆と明智光秀が練兵を続けてきた精鋭中の精鋭であり、間違いなく日本最強の鉄砲隊と言えよう。 一方足軽・騎馬隊は強兵とは呼べぬ状態であり、戦力としては統率する将に左右される。 最大の問題は強化された足利足軽隊を防ぎきれるかどうかである。 また、参加武将も飛弾・美濃・越前以来の主力を始め、近江衆、旧織田家臣で固められており、この合戦への意気込みが感じられる。 足利軍:室町御所64435 第一部隊:足軽隊27000:足利義輝、八雲紫、大館義実 第二部隊:足軽隊8500 :八雲藍、橙、宮部継潤 第三部隊:足軽隊8500 :北畠具教、河田長親、百地三太夫 第四部隊:弓隊8500 :細川藤孝、蜷川親長、レティ・ホワイトロック 第五部隊:弓隊5000 :足利義秋(足利義昭)、蓬莱山輝夜 前述の通り、足軽・弓隊は極めて有力である。ただし、対鉄砲防御については完全とは言えず弱点となりかねない。 両軍が示し合わせた会戦という状況であることを考えれば、兵力の上回る足利側が優勢であり、鉄砲隊が接近戦に弱いことを考えれば敵前衛を滅ぼせばほぼ勝利したと言えよう。 概要 この戦いでは、八意永琳や竹中重治によって両軍に偽報や流言がひっきりなしにばら撒かれた。 各部隊が受け取る伝令による状況報告も10に9つは偽の情報であり、偽情報を流した意図から事実を推測するといった、心理戦ともいえる状況が続いていた。 このことで両軍ともに現状把握をすることが精一杯の状況に陥り、竹中重治や松永久秀が得意とする調略が封じられ、八意永琳も対応に追われて軍を率いる余裕を失うなどといった結果に繋がっている。 また、そのような状況にも関わらず大体の場合には両軍の各部隊長は副将と良く協議して状況を正確につかんでいたという。両軍の将の質の良さがうかがえる。 緒戦、前衛同士がぶつかり合い八雲藍は奮戦したが竹中、朝倉両隊の攻撃に加えて鉄砲隊の集中攻撃を受けて1300をきるまでに討ち減らされて撤退した。 しかし同時に明智光秀も将軍家側の弓の集中攻撃を受け1300まで討ち減らされて撤退した。 姉小路側は将軍家の弓の改良による射程の変化を予想しておらず、そのために隊の位置取りを誤ったためであると言われている。 八雲藍隊が抜けた隙はすぐさま義輝隊によって埋められ、姉小路軍の残った2隊の鉄砲隊もすぐさま位置を変更し、依然激しい戦いが続けられた。 戦況がやや膠着し始めた頃、朝倉隊の前田利益は突如北畠隊の側背に回り込んで突撃、その予想外の速さに不意を突かれた形となった北畠隊は壊滅した。 前田利益は休むことなく今度は義輝隊に突撃、これにも多くの損害を与えたと言う。 また、この戦い時の雑賀孫市の部隊の働きもすさまじく、間断ない5連続斉射という前代未聞の戦法によって一気に義輝隊へ4千を超える損害を与えたという。 こういった経緯もあって戦況は徐々に姉小路側に有利になっていった。 しかし、実はこのとき蓬莱山輝夜立案で足利義秋隊が火牛計が実行しようとしていた。 この作戦は足利家の切り札として極秘裏にすすめられ、義秋隊の出陣が遅れたのもこの作戦の準備のためであった。 足利義秋によって念入りに準備されたこの作戦は機を見て実行された。 突然尾に火をつけて突撃してくる数千もの牛が姉小路軍の目の前に現れ、姉小路軍の将士のほとんどが絶体絶命と感じたという。 しかし、竹中重治は冷静であった。彼は前々から義秋隊に注目しその動きに疑念を感じており、念のために前線に油を大量に運んでいた。 彼は急ぎ部隊に命じて油を自陣の前に撒かせ、火を放った。 牛は炎の壁に遮られて姉小路軍に突撃せず、その場で狂乱して四方へ逃げ散ってしまった。 その後は姉小路家有利に戦況はすすんだが、常に前線にあって2万7000もの義輝隊と激戦をつづけた朝倉隊も残り少なに討ち減らされていた。 その際、孫市隊の援護で前線から撤退しているが、義輝隊はこの孫市隊の援護射撃によって壊滅した。残った細川隊義秋隊も壊滅したことで勝敗はほぼ決した。 将軍家側の残った将士たちは二条城に篭城したが、ろくな防備もない二条城では長く抵抗することができず、7月半ばに落城してこの戦いは終結。 足利義輝が朝廷に将軍位を返上し、隠居することで室町幕府は滅亡した。 この戦いの影響 この戦いで室町幕府は滅亡し、姉小路良頼がもっとも天下人に近い存在となった。この報は瞬く間に天下に知れ渡り、諸大名に衝撃を与えた。まさに歴史が動いた戦いであった。 同時に、山城を手に入れたことで、美濃~近江~山城という米生産~消費ルート、また堺~京という商業ルートを姉小路家は手中におさめることができ、 また当時日本の中でずば抜けた人口を抱える商業都市・京をも手中にした。 その結果、姉小路家の収入は、これまでの農業・鉱業基盤に加え、商業からの収入をも得ることとなり、安定した財政基盤を確保した。 しかし、一方でこれにより、商業収入基盤の近江衆・大和衆と、農業・鉱業収入基盤の美濃衆・越前衆という、家中の対立の要因ともなってしまった。 火牛計について この戦いは瞬く間に天下に知れ渡り、特に火牛計は有名となった。 火牛計とは牛の尾に松明をつけて敵陣に突進させて敵陣を撹乱する戦法のことである。 これは木曽義仲と田単の二人によって史上2度行われ、どちらも寡兵で大軍を破ることに成功している。 (ただし、木曽義仲の火牛計は一般に後世の創作であると言われている。また、彼は牛の角に松明をつけたと言われているが、牛の角に松明をつけても真っ直ぐには走らないと思われる。) 史記や平家物語で知られていたこの戦法も具体的な実行方法については誰も知らない状況であり、尾に松明をつけた牛を放てば一応はまっすぐに進むと思われるが、実際に行うのには牛の配置や牛の進路の誘導、タイミングなど数々の困難がある。 よってこの作戦の立案及び実行者である蓬莱山輝夜と足利義秋の非凡さは天下に知れ渡った。 それだけに歴史上一度も破られたことがない火牛計を防いだ竹中重治の知略はより一層有名となる。 ただ火牛計を防ぐ際に用いた、油を燃やして炎の壁を作るという方法について、普通の油が急に燃え広がって牛が避けるほどの火力を得るということは考えにくいはと多くの者が首を傾げたという。 このことについては詳しいことは分かっていない。 ただ、姉小路家は鉄砲を扱っていることから火薬に詳しい者が多く、当時にも焙烙玉が存在していたことから、 輜重などで使っていた荷車やその辺りの家から剥がして来た木材に油を撒いてそこに火薬を使った焙烙玉のような物を使用して、短時間で広範囲の強い火力を得たのではないか、と推測されている。 逸話 この戦いの前に八雲紫は侍所所司となっている。また、この戦いにおいても異能の者が軍を指揮している。 異能の者であり、しかも女性である彼女にこのような地位を与えることは、幕府内でも強い反発があったと言う。 更に、義輝が狐にたぶらかされたと陰口を叩く者もいたほどであった。 しかし、この当時幕府内での義輝の発言は絶対に近かったので足利義輝はこの人事を押し通すことができた。 足利義秋も反対派の一人であったが、いざ戦が始まると蓬莱山輝夜を副将にしてその意見を聞き入れている。 義輝の命令でもあったのだろうが、良い意見については耳を塞がない度量を持っていたとも、戦の途中で内部分裂を起こす危険を弁えていたからであろうとも言われている。 前田利益はこの戦いでの活躍で天下一の豪の者と称えられるようになった。 日本中の各地で彼にあやかって傾く者が現れたという。 この戦いは雑賀衆が姉小路家の下で戦った初の合戦である。 雑賀衆の鉄砲の扱いの上手さに明智筒と呼ばれる姉小路家の鉄砲の威力が加わり、その実力が存分に発揮された。 剣豪将軍の異名を持つ足利義輝と、異能の者の一人である紅美鈴による一騎打ちが乱戦の最中に起こり激闘が繰り広げられたが、二人の勝負は遂に着く事はなかった。 ただし、今回のような大規模な合戦で一騎打ちが発生したこと自体が極めて稀な事例であることを考慮に入れる必要がある。 なお、室町幕府滅亡後、義輝は自分の隠居先である慈照寺(銀閣寺)に美鈴を招き、一介の剣客として存分に力を奮い闘えた事への感謝の意を述べた。 そして彼女の武勇を誉め讃え、その健闘を賞し、彼の愛刀である童子切安綱を贈ったとされている。 この戦いの決戦の地となった左京一帯と鳥羽伏見一帯は焼け野原となった。 住民達は戦の前に避難していたが、戦が終わって我が家に帰ろうとしたとき、家があった一帯が焼け野原になっていて途方にくれる者や涙を流す者は少なくなかったという。 ただ、姉小路家による復興も非常に速かった。以下のような説話が残っている。 とある下級貴族がこの戦いを避けて堺の知り合いの所へ3ヶ月ばかり避難していたが、三好家が堺に攻めてくると聞いて自身の家のあった伏見に帰った。 ところが元あった家々は無くなって農家が立ち並び、また新たに農家が建てられたり見渡す限りの田畑が開墾されつつあった。 そのあまりの元の風景との違いに狐につままれたように思ったという。 働いている者に話を聞くと、細川藤孝と松永久秀と八意永琳の指揮の下たった20日足らずで農村が出来てしまったということだった。 その貴族は驚くばかりだったが、しばらくして自身の家が無くなったことを思い出して途方にくれていた。 そこへ責任者の三名が通りかかり、奇異に思った細川藤孝がその貴族に話しかけた。 事情を聞いて哀れんだ藤孝は2人に相談した後、余った資材でついでに家を建ててやるから翌日まで待つようにと貴族に話した。 翌日その貴族が現場に来てみると前に住んでいたよりも立派な家が建っていたという。 この説話の下級貴族が本当に実在したのかは定かではないが、かれら3人の下知で20日足らずで農村が作られたのは実話である。 戦争直後には荒廃していた都も姉小路家の庇護の下、さらに栄えるようになったという。 なお、足利将軍家が倒れたことにより、特に西国大名は次は己の番、と言う深刻な危機感を抱かせることとなった。 これが毛利・三好同盟のきっかけとも言われている。また、足利家の同盟であった上杉謙信(長尾景虎)は姉小路家を見誤ったと非常に悔やんだと言われている。 BGM Overture Sequel, Retrospective 『Symphonic Caprice "Evening Primrose"-奇想交響詩 月見草-』より
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/264.html
尾張撤退戦 尾張撤退戦(おわりてったいせん)とは永禄9年に姉小路家と武田家の間で起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・清洲城兵52154 足止めとして9154 守将:武田信虎 残物資 馬:18237 鉄砲:30500 撤退部隊(11月25日) 鉄砲隊9500:下間頼廉、中川清秀、斎藤龍興 騎馬隊9000:博麗霊夢、霧雨魔理沙、八意永琳 鉄砲隊9500:松永久秀、鈴仙・U・イナバ、六角義治 鉄砲隊5000:赤井直正、八雲藍、橙 鉄砲隊5000:蓬莱山輝夜、小野寺輝道、前田利益 鉄砲隊5000:籾井教業、淡河定範、松倉重信 (12月10日) 騎馬隊5000:武田信虎 稲葉山城兵(増援)(11月10日) 騎馬隊9500:羽柴秀吉、滝川益重、荒木氏綱 騎馬隊8500:丹羽長秀、羽柴秀長、宮部継潤 武田・岡崎城兵163500 武田信玄 :騎馬隊22000 武田勝頼 :騎馬隊20000 武田義信 :騎馬隊14000 高坂正信 :破城槌隊14500 武田信繁 :破城槌隊14000 太田資正 :破城槌隊9500 原虎胤 :破城槌隊9500 初鹿野昌次:騎馬隊9500 成田長泰 :破城槌隊9000 秋山信友 :騎馬隊8500 木曾義康 :騎馬隊7000 長野業盛 :足軽8500 内藤昌豊 :弓隊9000 大久保忠世:弓隊8500 清洲城を中心とする尾張の防備大勢は不十分であり、武田軍の戦力は圧倒的である。撤退を決断したのも無理はないだろう。 合戦概要 8月初旬に陥落した尾張清洲城の守りが手薄と見た武田軍は、尾張奪還の好機と捉え三河岡崎城から総勢16万を越す大軍を持って攻め込んだ。 これに対し姉小路軍は稲葉山城から後詰めを要請したものの、軍監である八意永琳により撤退を決断。 武田先鋒隊が尾張領内に進入した11月25日に撤退を開始した。殿には武田信虎と兵9000がこれを務めた。 12月10日、十分に時間を稼いだと判断した信虎が騎馬隊5000と共に撤退を開始しようとした矢先、武田軍は木曽川の堤防を決壊させ清洲城を水攻め。 その様子は城が湖の上に浮かんでいるようであった。 武田軍の重囲の中、霧雨魔理沙は堤防の一部を破壊することに成功。 水が引いたことで信虎は残る僅かな動ける兵を率いて辛うじて武田軍の包囲を突破した。 清洲城に残っていたのは元々北条方の傷兵達であったため、12月20日に降伏。 清洲城に二度武田の旗が翻った。 この戦いの影響 姉小路包囲網は各地で敗戦を繰り返していたが、この戦いの勝利で武田家は盟主としての面目を保つとともに、各国の士気をあげることに成功した。 また、富裕な尾張国は武田軍を経済面で大きく支えた。 逸話 この戦いについて、太田牛一は『騨侯記』の中で「まつながじぶ、謀りごと用いて武田と通ず、と京童噂しけり」との記事を残している。 謀の存在は、先の伊勢侵攻ともども明らかではないが、まつながじぶ、則ち松永治部大丞久秀が何らかの行動を行った可能性は決して低くないと、歴史家は一致見解を見せる。 当時畿内は一大商業・農業圏として、著しい発展を遂げ、姉小路領のみならず、日本全国から見ても圧倒的な生産量を見せていた。 そして畿内を抑えることは、姉小路家の財政を支え、姉小路強大化の元でもあった。 故に、姉小路の金庫ともいえる畿内を抑える大和衆は、極めて大きな権限を持つはずであった。 しかし実際は、要所を姉小路家直轄地や、姉小路主力・美濃衆に抑えられていた。 また美濃衆がより古参であることもあって、大和衆はそれほど大きな権力を持つことができなかった。 これは、大和衆が美濃衆に反感を持つ要因となる。 さらに、永禄九年(1566年)4月の稲葉山防衛成功・6月の尾張攻略は、美濃衆がより権力を得る結果をもたらしている。 特に、肥沃な尾張を美濃衆が得ることは大和衆が最も危惧すべきことであった。 畿内にも多数の所領を持つ美濃衆は、大和衆の急所を握っている同然であり、尾張の生産力を手に入れることで大和衆を滅ぼすことも容易となったからである。 その状況を鑑みれば、大和衆がその権力を維持するため、武田による尾張侵攻を誘発し、 美濃衆をあわよくば壊滅させようとすることも、決して不思議ではないのである。 結果的に美濃衆壊滅とはならなかったものの、尾張喪失による生産力の低下、敗戦による損害によって、美濃衆の影響力は戦の前から比べると低下している。 なお、ほぼ同時期に北条家家臣某が、松田憲秀に内通の嫌疑ありとの書状を残している。 この嫌疑については一度沙汰止みとなっているが、この時期の北条家内に対し謀をしかけるような人物は松永久秀しかおらず、内通相手が松永であることはほぼ間違いない (松永・松田間の書状は現存していないが、松永ほどの謀略家が己の謀が露見するような物を残すはずがない)。 おそらくは伊勢・尾張を切り取り大和とともに姉小路家からの独立をもくろみ、 かつそれを維持するため武田家の同盟を画策していたとの推測がなされている(ただし、この説の蓋然性は低い)。 結局それは尾張侵攻とこの撤退戦により不発に終わっているが、 実際に独立するならば武田との同盟が、かつての徳川・織田同盟のように必要であるは想像に難くない。 また、伊勢・大和を武田に差し出す形での独立・同盟を目論んでいる可能性もある。 清洲城はわずか3年ほどの間に織田→武田→北条→姉小路→武田と持ち主を変えた。 持ち主を変える度に大きな戦いが行われたため、織田家が領有していた当時は繁栄を誇っていた城下町も、 姉小路家が領有する頃には軍事施設を除けば城兵のための臨時の市が月に数度立つ程度で、荒廃しきっていた。 住民の多くは津島、桑名等の伊勢方面や、交通の要衝で門前町もある熱田へ移住したという。 武田信玄が清洲水攻めを決断した背景に、元々荒廃している清洲を水攻めしても経済的にさして悪影響がないことがあったと考えられる。 清洲城は平城で標高が低く、水量の多い木曽川も近いため水攻めをする条件は揃っていた。数万の足軽に多額の金子を与え、突貫工事でまたたく間に堤防を完成させたという。 時、折りしも冬であったため、水量はさほど多くは無かったが、それでも城内の大部分を浸すには十分であった。 むしろ、冷水によって多くの兵が凍え、士気の低下が深刻となった。 姉小路軍は懸命に排水作業を行ったが、効果はあまり無く、むしろ作業をする者を凍えさせるのみであった。 この戦いでの死者には多くの凍死者が含まれていたという。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/269.html
明智兵部暗殺未遂事件 明智兵部暗殺未遂事件(あけちひょうぶあんさつみすいじけん)は永禄十年一月に起こった明智光秀が因幡国鳥取城の地で重傷を負った事件のこと。 文献によれば宇喜多直家配下長船貞親が放った刺客による犯行と言われる。なお、この事件は一般的な名称が無いので本項では便宜上、上記の名称で表記する。 概要 姉小路家の西進に危機感を覚えた毛利家は姉小路軍の重鎮である明智光秀を暗殺しようと画策し、これに刺客を放った。 当時、明智光秀は山名家の降伏の後、鳥取城に入城して戦後処理にあたっていた。毛利家の刺客は明智家の下男として潜り込み、明智家家臣の一人を買収。 これを利用して明智秀満を土倉に誘い込み、土倉内に一時的に押し込めることに成功した。その間に明智秀満に成りすまし、明智光秀に近づいて殺害を試みたのである。 結果として、光秀は重傷を負うも一命をとりとめた。 刺客はとどめを刺そうとしたが周囲の者に取り押さえられ、服毒による自決をはかるもこれもまた周囲の者に阻まれた。日夜繰り返された尋問と拷問の末、事件の全貌が明らかとなった。 この事件の影響 この事件による姉小路軍将兵の動揺は大きく、特に明智家を中心とする鉄砲隊においては顕著であった。 また、領国の慰撫等で西国勢の中心となる諸将が一挙に一時戦線を離脱し抜けたことでこれ以上の西進は危ぶまれた。 しかし姉小路頼綱が陣頭指揮を執ることで一応の事態の収拾を見、西進は続行されることとなった。 明智光秀が狙われた理由について この当時の姉小路軍の西部戦線の最重要人物は斉藤義龍、浅井長政、姉小路頼綱、そして明智光秀の四人である。 その中で明智光秀は元々美濃斉藤家の一家臣であり、それがわずか十年もの間に河内守護にまで出世したため、急激に家臣団を膨張させる事になった。 よって、家臣各々の身元調査を徹底することは困難であり、隙が大きかったと言える。 対して義龍、長政、頼綱は先代からの大名家であり、身の回りも古参の者によって固められており、その隙を突くのは難しかった。 この差が光秀を狙わせたのではないか、という説が有力である。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/348.html
第二次美濃防衛戦 第二次美濃防衛戦(だいにじみのぼうえいせん)とは永禄11年冬から12年春に姉小路家と武田家の間にかけて起きた戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路家 稲葉山城兵72154 守将:竹中重治 第一部隊:鉄砲隊3000:霧雨魔理沙、山崎片家、仙石秀久 第二部隊:鉄砲隊8000:博麗霊夢、関一政、ルーミア 第三部隊:鉄砲隊3000:明智光秀、六角義治、斎藤龍興 第四部隊:鉄砲隊3000:八雲紫、松本氏輔、橙 弾幕隊:鉄砲隊各1000:斎藤利三 山中幸盛、中川清秀 丹羽長秀、日根野弘就 宮部継潤 滝川益重 淡河定範 明智秀満、鵜殿長照 弓隊1000:赤井直正、吉田重政 武田家 岩村城兵 武田信玄:弓隊22000 高坂昌信:騎馬隊14500 榊原康政、大関高増、大田原資清:騎馬隊14500 太田資正:足軽隊9500 沼田祐光、保科正俊:足軽隊8000 藤原妹紅:9000 内藤昌豊:9000 長野業正、小幡信貞:破城槌隊16000 武田信繁:破城槌隊13000 諏訪勝頼、山本晴幸:破城槌隊20500 武田義信:破城槌隊14000 姉小路家は尾張攻略戦の勝利により東海道方面の武田軍を撃破したが、そちらに兵を多く回したため美濃の守りが薄くなっている。加えて、弾幕要塞を捨てているため防御力は落ちている。 武田家は尾張陥落により東海道方面の兵力は減少したものの、中山道方面は多数の兵を擁しており、未だ武田の驚異は衰えを見せていない。 背景 尾張攻略戦後の時点で対武田方面の姉小路家の兵糧は必ずしも余裕があるわけではなかった。 事実、同時進行で行われている対上杉家への侵攻作戦に必要な物資を考えれば 尾張かその次の三河が侵攻の限界点であった。 しかし、第二次稲葉山会戦によって武田の圧力が減殺したため、 姉小路家は弾幕要塞を破棄して美濃国の農業を振興していた。 この試みが成功すれば姉小路家の兵糧事情は大幅に改善されることは確実であった。 武田家にとってこれは姉小路家の侵攻の圧力が強まることを意味する。 武田家の侵攻は対武田最大の補給基地として生まれ変わりつつあった稲葉山城を叩いて、 美濃復興を妨げ、あわよくば奪取することを目的としていたと考えられる。 概要 一月二十日、武田軍の先陣、高坂昌信隊が南門付近に着陣。 以下、南門に武田信玄隊、西門に榊原康政隊、藤原妹紅隊、 北門に内藤昌豊隊、太田資正隊、沼田祐光隊など続々と配置に付いた。 ただし、武田一門衆、長野業正率いる破城槌部隊は行軍にやや手間取ってこの時点では着陣していない。 当時、武田家は馬不足に悩まされていた。清洲城での戦いで多くの軍馬を失っていたからである。 そのために騎馬部隊は榊原、高坂両隊のみであり、その他の部隊は足軽が主力となっていた。 信玄自身の部隊はあまり熟練していない農兵中心の弓兵であった。 これに対して姉小路家は敵の一隊に火力を集中させる方針をとる。 まず最初に交戦状態となった高坂隊に照準を定めた。 数万丁に及ぶ鉄砲の銃撃を受けた高坂隊はまたたく間に兵を損耗した。 彼は窮余の一策として早朝の濃霧に紛れて稲葉山城へ攻めかかり、放火を試みたが突然の雨で失敗。 逆に城方に気づかれて銃撃を受け、その上、撤退時に雨で濡れた岩肌で滑落する兵が続出。 隊は壊滅して高坂昌信は岩村城への撤退を余儀なくされた。 次いで北門内藤昌豊隊が標的となるも、霧雨魔理沙隊の強襲で兵の過半を失った上に陣屋を焼き払われ、 敗走するところを明智光秀隊に補足され全滅。 その次に標的となった沼田祐光隊は滝川益重によって主将が狙撃され討死。 副将の保科正俊が指揮を引き継ぐも八雲紫隊の銃撃の前に長くは持たなかった。 続いて内藤昌豊隊、藤原妹紅隊と各個に退けていった。 ここまで戦果を挙げられたのは戦えたのは稲葉山城を守る竹中重治が敵の攻撃を引き付け得たからである。 これによって弾幕隊を集中運用することが可能になった。 武田勢は完全に攻めあぐねたといって良い。 しかし、ここでようやく破城槌隊が到着、城門への攻撃を開始した。 4部隊、6万5千近い後続には流石に稲葉山城の城門が耐え切れず2月10日、 武田義信は城門の破壊に成功した。 榊原康政隊、太田資正がこれに続き、稲葉山城内で激しい戦いが行われた。 しかし、榊原康政隊は既に集中砲火を受けて副将が負傷しており戦力は長く戦うに耐えなかった。 八雲紫隊の攻撃で半壊。霧雨隊によって完全に壊滅した。 直後に太田資正隊も明智光秀隊の猛攻の前に壊滅。 この時点で戦場に残る武田軍は信玄弓隊と破城槌隊のみとなった。 城内に突入していた武田義信隊は引き返す間もなく崩壊。 不利となった武田軍は起死回生の一手として武田信繁、長野業正の稲葉山城へ調略を試みた。 しかし、内応するはずだった間者は捕らえられて失敗。 逆に反間計を仕掛けられて武田信繁隊は混乱に陥り、他の隊へも少なからぬ影響をだした。 長野業正隊は混乱こそしなかったものの、光秀隊の激しい銃撃によって6000もの兵力を失い、 その後も代わる代わる弾幕部隊に襲われ、吉田隊の弓の一斉射撃によって壊滅した。 ほぼ同時に混乱から立ち直ることができなかった武田信繁隊も総崩れとなった。 既に合戦は掃討戦となっており、信玄率いる弓隊は霧雨隊によって大きな損害を受けて駆逐され、 最後に殿軍の諏訪勝頼隊が隊伍をそろえて撤退にした時点でこの戦役は終結した。 この戦いの影響 この戦いは結果として一方的な姉小路方の大勝となった。武田家は多くの兵力を失い、姉小路家の侵攻に 耐える事は難しい状況であった。しかし、一方の姉小路家も侵攻するための兵糧が不足していた。 これは上杉家との戦闘が続く北陸に備蓄の大半を輸送していたからである。 よって武田領への逆撃はできなかった。 その後は姉小路方では武田の侵攻で中断した新田開墾を再開し、美濃や尾張の復興急ピッチで行った。 つまりは武田の美濃復興の妨害という目的は成功しなかったのである。 武田家では兵馬を補充し、姉小路家へ捕虜の返還を求めて交渉するなど戦力の回復に努めた。 逸話 この合戦が行われる直前に一部軍団長クラスの所属の変更が行われており、 これまで稲葉山城防衛に当たってきた蜂須賀正勝は清洲城代に着任、 武田信虎の軍団も清洲城に所属している。 そのため、姉小路頼綱は竹中重治、明智光秀、異能衆を初めとした諸将を美濃へと派遣した。 陣割では重治が守備を固め、博麗霊夢が東門守備を担当した。 これは基本的に、正勝、八雲紫の役割をそのまま交代させたものである。 東門守備がこれまでの八雲紫ではなく博麗霊夢なのは、長く同僚として勤めている 明智軍団及び竹中重治とのチームワークを優先したからであろう。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/197.html
美濃防衛戦 美濃防衛戦(みのぼうえいせん)は永禄9年に美濃稲葉山城で起こった武田家と姉小路家間の戦いである。 武田軍が日本史上で屈指の大敗を喫したことで知られる。ここでは美濃防衛戦の直後に行われた小牧山の戦いも解説する。 俗に第二次稲葉山城決戦とも呼ばれる。 経緯 姉小路家は西へ勢力を広げつつも、武田家への備えとして美濃国そのものを鉄砲櫓によって要塞化して堅く守っていた。 対する武田家は近畿への足がかりとすべく小牧山に出城を築いて姉小路家の隙をうかがっていた。 そのような情勢下、姉小路家の客将にして武田家当主武田信玄の父である武田信虎は寡兵5000で小牧山城に攻め寄せ、武田軍を挑発した。 この事態を放置すれば武田家の家名に関わる、と事態を重く見た小牧山城城主で西方方面一切を任されていた武田勝頼は信玄の信頼厚い参謀の高坂昌信と内藤昌豊に諮った。 内藤昌豊は信玄の判断で動くべきと意見したが勝頼は信玄の北上を妨げるわけにはいかないと退けた。 高坂昌信は信濃深志城にいる武田義信と連携をとって稲葉山城を攻めれば或いは落せるかもしれないと意見し、勝頼はこの博打的ともいえる策を採用した。 小牧山城と深志城の軍を合わせて武田家の保有する兵力の三分の一以上をつぎこむ大規模な出兵となった。対する姉小路家は62300が城に詰め武田軍に備えていた。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・稲葉山城兵総勢62300 迎撃部隊:足軽隊9500:武田信虎、蜂須賀正勝、羽柴秀長(6月20日-7月5日) 弾幕部隊:鉄砲隊5000:霧雨魔理沙、斎藤龍興 鉄砲隊1000x2 滝川益重・小野寺輝道、中川清秀 弓隊3000x2:河尻秀隆、六角義治・関盛信、吉田重政(6月30日) 計略部隊:足軽隊5000:博麗霊夢、山崎片家、後藤高治(7月5日) 弾幕追加:鉄砲隊5000x2:羽柴秀吉、鵜殿氏長 ・武田信虎、羽柴秀長(7月25日) 姉小路家の騎馬隊や足軽隊は旧態依然とした装備であり、正面から戦えば勝負にならない。 ただし姉小路家は質量ともに日本一の鉄砲隊を組織しており、対武田のため整備が続けられてきた稲葉山城城塞もそれを最大限に利用できるよう作られた要塞である。 武田・尾張小牧山城兵総勢85156 武田勝頼:騎馬隊14000 高坂昌信:騎馬隊14500 内藤昌豊:弓隊9000 原虎胤 :足軽隊9000 秋山信友:破城槌隊8500 上泉信綱:足軽隊8000 真田信綱:破城槌隊7000 榊原康政:破城槌隊7000 信濃深志城兵 武田義信 騎馬隊14000 真田昌幸 破城槌隊12500 木曽義在 破城槌隊6000 佐竹義重 破城槌隊6500 当然だが部隊編成の主力は武田の大騎馬軍団。装備が充実しており非常に装甲も厚く、馬ですら鎧を装備している。 また、多数の破城槌を備えており城壁を紙の如く打ち破ることも可能である。 決戦 稲葉山城にたどり着く遥か前から武田軍は苦戦を強いられた。 城下町へ至る街道沿いに鉄砲櫓が立ち並び、街道を通るだけで兵が削られた。 本来であれば一つ一つ鉄砲櫓を破壊していくべきであったが、鉄砲櫓と鉄砲櫓が各々連携するように作られており、一つを破壊するだけで相当な被害が予想された。 そこでやむなく鉄砲櫓を無視して城まで一気に駆け抜ける策に出たが、稲葉山城下にたどり着くまでに万を超える兵が脱落した。 城下も鉄砲櫓が乱立しており、その上武田信虎率いる足軽隊が足止めをした。 足止めを受けている間も鉄砲櫓による銃撃を受け、また城内から多くの鉄砲隊や弓隊が出撃して信虎隊を援護したので、ここでも数万もの兵を失っている。 武田信虎の隊の被害がやや大きくなったので、信虎は一度稲葉山城に引き上げ篭城戦に移行した。 姉小路軍は少数の鉄砲隊弓隊を多数展開し、鉄砲櫓や城からの攻撃によって怯んだり足を止めた部隊を狙い撃ちすることで大きな戦果をあげた。 この頃に武田義信の軍も稲葉山城に駆けつけていたが、武田軍は既に兵の半数以上を失っていた。 武田義信隊所属で参謀である真田幸隆は劣勢を打破すべく奇策にうってでた。 彼は鉱山で働く金山衆に命じて稲葉山城内に通じる穴を掘らせた。 彼らは夜を徹して掘り進め、わずか10日で城内に通じる穴を掘りきったという。 その穴から侵入した武田軍は城内に火をかけ、城壁を壊すなど破壊工作を行った。 7月20日、城を守っていた蜂須賀正勝は混乱を鎮めて即座に穴を爆破するなど迅速に対応したが城が受けた傷は深く、もはや城とはいえないほどの惨状であった。 しかし、正勝は粘り強く守りを固め、出撃している弓、鉄砲隊や鉄砲櫓との連携で次々に武田軍の部隊を撃破していった。 この戦いでの弓、鉄砲隊の活躍は素晴らしかった。 特に、大きく武田軍の部隊を削った霧雨魔理沙や滝川益重、そして剣聖上泉信綱を狙撃し重傷を負わせて後退させた中川清秀の功績は大きい。 結局、足の遅い破城槌隊が城に到着する前に武田勝頼率いる小牧山からの全軍と武田義信隊が全滅、8月5日に勝敗は決した。 小牧山の戦い 破城槌隊は戦場に向かっていたが破城槌隊以外の全軍が全滅した報を受け急遽小牧山城に退却することとなった。 しかし、姉小路軍27000がこれを捕捉して全滅させてしまった。 8月25日、その余勢をかって小牧山城を攻撃した。 小牧山城には7858の兵しか残っておらず、これを武田勝頼が指揮をしたが多勢に無勢かつ先の敗戦で士気も低く、1ヶ月ももたずに落城した。 姉小路・逆襲部隊28000 鉄砲隊9500:羽柴秀吉、霧雨魔理沙、斎藤龍興 鉄砲隊9000:博麗霊夢、羽柴秀長、中川清秀 鉄砲隊9500:武田信虎、小野寺輝道、滝川益重 この戦いの結果 武田軍はこの歴史的大敗より全軍の三分の一、十万以上の兵力を失うなど非常に大きな損害を受け、歴史的敗北を喫した。 武田信玄率いる本軍は健在とはいえ、西方が手薄になり、北条家による尾張失陥を招くこととなった。 対する姉小路家は武田の脅威を退け、今後東方戦線に割いていた兵の多くを西国攻略にまわすことができるようになった。また、武田家を破ったことで姉小路家の武名は天下に轟く所となった。 だが、この勝利は結果として姉小路包囲網形成の原因となった。 この包囲網の形成は武田軍の美濃へのさらなる大規模な侵略である稲葉山会戦を誘発することとなった。 逸話 この戦いで鉄砲隊や弓隊を率いていたのはいずれも姉小路家家中で腕に覚えのある上手ばかりであった。 よって互いの部隊をライバル視しており、競争が生まれ、さらによい結果に結びついたと言われる。 ちなみに彼らは一番功績をあげた者には全員から金一封という賭けを行ったらしいが、各々が自分の功を譲らずに勝負なしになったという。 敗戦の責を負って武田勝頼は武田姓を名乗ることを禁止され、諏訪勝頼と名乗ることとなり勘当同然の扱いとなった。 しかし、その後に勝頼に会った者は勝頼が以前よりも快活になって武技も軍の指揮もいっそう上達したことに驚いたという。 いろいろなしがらみに囚われていたのだろうと考える者も多かったらしい。