約 12,160 件
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/264.html
尾張撤退戦 尾張撤退戦(おわりてったいせん)とは永禄9年に姉小路家と武田家の間で起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・清洲城兵52154 足止めとして9154 守将:武田信虎 残物資 馬:18237 鉄砲:30500 撤退部隊(11月25日) 鉄砲隊9500:下間頼廉、中川清秀、斎藤龍興 騎馬隊9000:博麗霊夢、霧雨魔理沙、八意永琳 鉄砲隊9500:松永久秀、鈴仙・U・イナバ、六角義治 鉄砲隊5000:赤井直正、八雲藍、橙 鉄砲隊5000:蓬莱山輝夜、小野寺輝道、前田利益 鉄砲隊5000:籾井教業、淡河定範、松倉重信 (12月10日) 騎馬隊5000:武田信虎 稲葉山城兵(増援)(11月10日) 騎馬隊9500:羽柴秀吉、滝川益重、荒木氏綱 騎馬隊8500:丹羽長秀、羽柴秀長、宮部継潤 武田・岡崎城兵163500 武田信玄 :騎馬隊22000 武田勝頼 :騎馬隊20000 武田義信 :騎馬隊14000 高坂正信 :破城槌隊14500 武田信繁 :破城槌隊14000 太田資正 :破城槌隊9500 原虎胤 :破城槌隊9500 初鹿野昌次:騎馬隊9500 成田長泰 :破城槌隊9000 秋山信友 :騎馬隊8500 木曾義康 :騎馬隊7000 長野業盛 :足軽8500 内藤昌豊 :弓隊9000 大久保忠世:弓隊8500 清洲城を中心とする尾張の防備大勢は不十分であり、武田軍の戦力は圧倒的である。撤退を決断したのも無理はないだろう。 合戦概要 8月初旬に陥落した尾張清洲城の守りが手薄と見た武田軍は、尾張奪還の好機と捉え三河岡崎城から総勢16万を越す大軍を持って攻め込んだ。 これに対し姉小路軍は稲葉山城から後詰めを要請したものの、軍監である八意永琳により撤退を決断。 武田先鋒隊が尾張領内に進入した11月25日に撤退を開始した。殿には武田信虎と兵9000がこれを務めた。 12月10日、十分に時間を稼いだと判断した信虎が騎馬隊5000と共に撤退を開始しようとした矢先、武田軍は木曽川の堤防を決壊させ清洲城を水攻め。 その様子は城が湖の上に浮かんでいるようであった。 武田軍の重囲の中、霧雨魔理沙は堤防の一部を破壊することに成功。 水が引いたことで信虎は残る僅かな動ける兵を率いて辛うじて武田軍の包囲を突破した。 清洲城に残っていたのは元々北条方の傷兵達であったため、12月20日に降伏。 清洲城に二度武田の旗が翻った。 この戦いの影響 姉小路包囲網は各地で敗戦を繰り返していたが、この戦いの勝利で武田家は盟主としての面目を保つとともに、各国の士気をあげることに成功した。 また、富裕な尾張国は武田軍を経済面で大きく支えた。 逸話 この戦いについて、太田牛一は『騨侯記』の中で「まつながじぶ、謀りごと用いて武田と通ず、と京童噂しけり」との記事を残している。 謀の存在は、先の伊勢侵攻ともども明らかではないが、まつながじぶ、則ち松永治部大丞久秀が何らかの行動を行った可能性は決して低くないと、歴史家は一致見解を見せる。 当時畿内は一大商業・農業圏として、著しい発展を遂げ、姉小路領のみならず、日本全国から見ても圧倒的な生産量を見せていた。 そして畿内を抑えることは、姉小路家の財政を支え、姉小路強大化の元でもあった。 故に、姉小路の金庫ともいえる畿内を抑える大和衆は、極めて大きな権限を持つはずであった。 しかし実際は、要所を姉小路家直轄地や、姉小路主力・美濃衆に抑えられていた。 また美濃衆がより古参であることもあって、大和衆はそれほど大きな権力を持つことができなかった。 これは、大和衆が美濃衆に反感を持つ要因となる。 さらに、永禄九年(1566年)4月の稲葉山防衛成功・6月の尾張攻略は、美濃衆がより権力を得る結果をもたらしている。 特に、肥沃な尾張を美濃衆が得ることは大和衆が最も危惧すべきことであった。 畿内にも多数の所領を持つ美濃衆は、大和衆の急所を握っている同然であり、尾張の生産力を手に入れることで大和衆を滅ぼすことも容易となったからである。 その状況を鑑みれば、大和衆がその権力を維持するため、武田による尾張侵攻を誘発し、 美濃衆をあわよくば壊滅させようとすることも、決して不思議ではないのである。 結果的に美濃衆壊滅とはならなかったものの、尾張喪失による生産力の低下、敗戦による損害によって、美濃衆の影響力は戦の前から比べると低下している。 なお、ほぼ同時期に北条家家臣某が、松田憲秀に内通の嫌疑ありとの書状を残している。 この嫌疑については一度沙汰止みとなっているが、この時期の北条家内に対し謀をしかけるような人物は松永久秀しかおらず、内通相手が松永であることはほぼ間違いない (松永・松田間の書状は現存していないが、松永ほどの謀略家が己の謀が露見するような物を残すはずがない)。 おそらくは伊勢・尾張を切り取り大和とともに姉小路家からの独立をもくろみ、 かつそれを維持するため武田家の同盟を画策していたとの推測がなされている(ただし、この説の蓋然性は低い)。 結局それは尾張侵攻とこの撤退戦により不発に終わっているが、 実際に独立するならば武田との同盟が、かつての徳川・織田同盟のように必要であるは想像に難くない。 また、伊勢・大和を武田に差し出す形での独立・同盟を目論んでいる可能性もある。 清洲城はわずか3年ほどの間に織田→武田→北条→姉小路→武田と持ち主を変えた。 持ち主を変える度に大きな戦いが行われたため、織田家が領有していた当時は繁栄を誇っていた城下町も、 姉小路家が領有する頃には軍事施設を除けば城兵のための臨時の市が月に数度立つ程度で、荒廃しきっていた。 住民の多くは津島、桑名等の伊勢方面や、交通の要衝で門前町もある熱田へ移住したという。 武田信玄が清洲水攻めを決断した背景に、元々荒廃している清洲を水攻めしても経済的にさして悪影響がないことがあったと考えられる。 清洲城は平城で標高が低く、水量の多い木曽川も近いため水攻めをする条件は揃っていた。数万の足軽に多額の金子を与え、突貫工事でまたたく間に堤防を完成させたという。 時、折りしも冬であったため、水量はさほど多くは無かったが、それでも城内の大部分を浸すには十分であった。 むしろ、冷水によって多くの兵が凍え、士気の低下が深刻となった。 姉小路軍は懸命に排水作業を行ったが、効果はあまり無く、むしろ作業をする者を凍えさせるのみであった。 この戦いでの死者には多くの凍死者が含まれていたという。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/329.html
第三次越中防衛戦 第三次越中防衛戦(だいさんじえっちゅうぼうえいせん)とは永禄11年に姉小路家と上杉家の間に起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・富山城兵57622 守将:朝倉宗滴 迎撃部隊:足軽隊12500:柴田勝家、富田景政、小島職鎮 第一弾幕隊:鉄砲隊1000:伊吹萃香、黒田孝高、鵜殿長持 第二弾幕隊:鉄砲隊1000:本願寺顕如、天野景貫、氏家行広 第三弾幕隊:鉄砲隊1000:鈴木重秀、長続連、神保長職 第四弾幕隊:鉄砲隊1000:アリス・マーガトロイド、朝倉義景、鈴木重兼 第五弾幕隊:鉄砲隊1000:佐々成政、赤尾清綱 第六弾幕隊:鉄砲隊1000:レティ・ホワイトロック、真柄直隆 第七弾幕隊:鉄砲隊1000:磯野員昌、鈴木重泰 第八弾幕隊:鉄砲隊1000:鈴木重意、朝倉景健 第九弾幕隊:鉄砲隊1000:海北綱親 第十弾幕隊:鉄砲隊1000:朝倉景鏡 第十一弾幕隊:鉄砲隊1000:原長頼、朝倉景紀 上杉・春日山城兵60000 第一部隊:騎馬隊14500:上杉景勝 第二部隊:騎馬隊10000:四季映姫・ヤマザナドゥ 第三部隊:騎馬隊9500:村上義清 第四部隊:騎馬隊9000:斎藤朝信 第五部隊:騎馬隊8500:中条藤資 第六部隊:騎馬隊8000:氏家守棟 柏崎港兵5500 第一部隊:騎馬隊5500:本庄繁長 前回の第二次越中防衛戦では姉小路66000、上杉84500と防御側の優勢を加味すればほぼ同等の戦力であったが、今回上杉側は兵力が二万減少、姉小路側は朝倉宗滴、柴田勝家、雑賀衆に西国から黒田孝高、伊吹萃香、本願寺顕如、近江衆が加わっており、もはや一地方の防衛としては異常なまでに将が揃っている。姉小路側の優勢は間違いないだろう。 概要 上杉家は、足利義昭の要請により、第二次姉小路包囲網に参加。上杉景勝を主将とし、春日山城より65500を富山城に向かわせた。対する姉小路家は西国から転戦してきた黒田孝高、伊吹萃香、本願寺顕如、近江衆らが加わり、万全の態勢を整えていた。 10月5日、上杉軍は富山城への包囲攻撃を開始。これに対し姉小路軍は柴田勝家率いる12500を南門の守備にあて、11000の鉄砲隊を出撃。主将は朝倉宗滴がこれを務める。 途中、斎藤朝信隊が騎馬突撃をかけたものの、宗滴が守る城の守備は固く、10月20日、景勝は撤退を指示。自身と中条藤資隊(撤退時壊滅)を殿とし、撤退した。姉小路軍は前回同様足の速い騎馬隊は追わず富山城へ戻った。 この戦いの影響 この戦いにより、上杉家は半数近い兵を損耗。春日山城に残る兵も1万を割っており、姉小路家に越後を窺わせる機会を与えてしまった。 逸話 都合五度目となった対上杉防衛戦であったが、輪島港は双方が水軍技術に精通してないためいくらか割り引いて見る必要があるかもしれないが、今までの中で最も情けない戦いであったと言える。いくら姉小路側に優れた将が集まっていたとは言え、わずか半月で追い返されたというのは不名誉以外の何ものでもない。 この敗戦で主将であった上杉景勝が切腹しようとしたのも無理はない。(ただし、四季映姫を始めとする将達によって止められている) なお、五度にわたる侵攻戦(第一次越中防衛戦は例外としても)で一度も上杉謙信が参戦していないという点は、姉小路家では様々な憶測を呼ぶこととなった(今回については北征で不在だっただけ)。 曰く、上杉家は参戦のポーズだけで包囲網には本気ではない。あくまで義将との評判を失わぬためだけに足利義昭に組みしているだけだ。本音では姉小路家と和し、東国の支配権を得ようとしているのではないか。 曰く、謙信は実は腰抜けで姉小路の鉄砲におそれを成しているのだ。 曰く、謙信は実は女で毎度月の物で出陣できないからだ などなど。 上杉家の現状から見る、今回の戦 上杉家の今回の出兵理由の考察で、いくつかの説を上げてみよう。 前述にもあるように、上杉軍の主力(謙信や直江)は現在東北の地で南部(正確には南部からの独立を狙う大浦一派)との激しい戦闘を繰り広げている。 大浦為信の知略、そして彼と結びついた異能の者、フランドール=スカーレットの二人の複合力は極めて高い水準にあったが、多方面からの侵攻を弾き返す程の力は持たず、上杉家にとっては致命的問題とはならなかった。南部、大浦、或いはその先に続く蠣崎を含めた東北制圧の目処は既に立っており、戦力の転換は視野に入っていた。 ここで上杉にとって問題となったのは、兵の練度にあった。 北の極寒の地で戦い続けた部隊は姉小路の最精鋭に十分に渡り合える程の力を持っているとされているのに対し、春日山、或いは柏崎に置かれた兵力は、上杉家が本格的に東北平定に乗り出した後に徴収された部隊であり、その練度に一抹の不安があった。 鎮定を終えた主力とそのまま合流させてしまえば、部隊全体の練度を低下させかねないという懸念があり、そのため兵に実戦経験をさせるための出兵だったという説だ。 とはいえ、ほとんどの部隊がまともな戦闘をする間もなく、大きな損害を被ることは想定していたであろうから、この説はいささか突飛ではないかという疑問も多い。 第二の説としては、将の不満を逸らす為という説だ。 上杉は姉小路に対しての包囲網に加わっていたが、武田や三好に比べればその敵対意識は強くなかった。 第二次越中防衛戦以後、姉小路の富山城塞群を突破できる見込みが全く立たなった事、さらには武田が稲葉山の戦いで大きく戦力を衰えさせたのを理由として、むしろ武田を攻めるべきだという意見が広まり始めた。 謙信不在の春日山では、武田に領地を奪われた村上義清などを急先鋒とした信濃、上野への侵攻、つまりは武田攻撃派が力を増大させ続けていたのだ。(中には包囲網の元となった足利義昭を暗殺し、包囲網を瓦解させた後、姉小路と手を結び武田を攻めるべきだという意見さえあった。) 留守を預かる上杉景勝はこれを押さえようと躍起になっていが、年若い彼ではその趨勢を覆す事はできなかった。 それどころか武田を攻撃しないことに業を煮やした本庄繁長などの独立精神旺盛な将に至っては武田はおろか上杉に牙を剥く兆候すら見せ始めていた。 景勝はこれらの問題を一気に解決する(あるいは謙信が帰還するまでの時間稼ぎの)為に、姉小路への攻撃を決定したということだ。 戦略的には愚策であったとしても、あくまで上杉は姉小路を主敵とするという意志を内外に知らしめし、また村上、本庄等の反骨的な将を多忙で覆い尽くす事で上杉内部の軋轢を緩和する狙いがあったと見られている。 もしこれが事実だとすれば、村上や本庄といった将の手持ち兵力をすり減らし、反乱を防止する狙いもあったと考えるべきだろう。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/287.html
第二次輪島港防衛戦 第二次輪島港防衛戦(だいにじわじまこうぼうえいせん)は永禄10年10月に能登輪島で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・輪島港守備兵総勢30307 守将:高城胤辰 弾幕部隊:鉄砲隊1000×7:鈴木重秀(雑賀孫一)・鈴木重泰・黒田孝高、鈴木重兼・伊吹萃香、小島職鎮・鈴木重意・レティ・ホワイトロック・佐々成政 上杉・柏崎港守備兵(先発) 第一部隊:小早船隊8500:北条景広、チルノ、中野宗時 第二部隊:小早船隊8500:延沢満延 第三部隊:小早船隊8000:新発田景家 第四部隊:小早船隊7500:水原親憲 春日山城兵(後詰) 第一部隊:小早船隊6500:直江景綱 第二部隊:小早船隊6000:斎藤朝信 姉小路側は前回より兵数、将の質が向上しており万が一にも負けることはない。 概要 9月5日、上杉軍は姉小路領輪島港へ侵攻を開始した。 柏崎港より北条景広8500を先鋒するとする3万4千5百、春日山城より直江景綱6千5百、斉藤朝信6千が後詰めとして出陣した。 姉小路軍は主だった将を輪島港へ派遣、沿岸からの銃撃をもって対応した。 波状的な強襲で上陸を試みる上杉軍であったが、姉小路軍の銃撃の前に沿岸にたどり着く事もできず、 また、小早の薄い装甲では防ぐ事もかなわず前衛の新発田、北条、延沢、水原隊は早々に撃沈。 結局は柏崎港を発した上杉軍は全滅ということになり、生き残った兵もことごとく姉小路軍に投降した。 後詰めの直江、斎藤隊は姉小路軍と接触することなく撤退した。 姉小路軍の追撃を防ぐために後詰が待機していたが、姉小路軍は戦線の拡大を望まなかったので追撃を行われなかった。 この戦いの実質的な戦闘は十日に満たなかったと思われる。 合戦の影響 上杉軍の損失は3万を超えている。上杉軍と言えど、度重なる敗戦は後方領、他戦線への負担を大きいものとした。 また、その損害は兵だけではなく、伊達、奥州斯波家に勝利して大いに高揚していた士気も下げる結果となった。 出兵の理由 上杉軍は先の輪島港防衛戦での敗戦で小早を使って輪島港を奪取することは困難であることは分かっており、 また、特に姉小路家に対して内部工作やその他の調略を行った形跡は見られない。 その上出兵規模も前回の輪島港防衛戦を下回っている。 つまり、上杉方にはこの作戦で輪島港を陥落させる意図があったとは考えにくい。 ではいかなる目的をもっての侵攻かについては以下の説がある。 ①義理出兵 永禄九年十一月に武田は姉小路領となっていた尾張へ出兵して奪還しており、姉小路軍に対して戦果をあげている。 上杉方は永禄九年四月に越中で敗戦して以来姉小路への出兵は無く、このまま永禄十年に一度も出兵がないとなると包囲網の盟主の一人としての面目に関わる。 また上杉軍が伊達家、奥州斯波家を次々に攻略していることは 姉小路家攻略より奥州制圧を第一としていると国外(特に侵攻に晒されている西国諸国)から白眼視されており、 このままでは包囲網全体へ悪影響を及ぼすこととなる。 この説の根拠として上杉家に向けた包囲網参加諸国及び足利義昭からの催促の書状が数多く存在している。 ②牽制 上杉家の立場としては姉小路包囲網に同調しない陸奥出羽諸国を背後にして姉小路家攻略を本格化させることは得策ではないと思われる。 そこで柏崎や春日山に大軍を詰めて守りを固め、上杉謙信自身は陸奥出羽諸国制圧に乗り出したと考えられている。 柏崎、春日山勢としては上杉謙信が東北諸国制圧を終えるまで時間稼ぎをすればよいのであるが、 敵が戦力を越中富山城に集中させることは後の謙信の騎馬隊での侵攻の妨げになるために避けなければならない。 そこで、定期的に輪島港へ攻撃を加えて目を向けさせ、越中富山城に戦力を集中させることを防ぐ意図があったのではないか?といわれている。 逸話
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/186.html
大聖寺城の戦い 大聖寺城の戦いは永禄5年に姉小路家と朝倉家との間で行われた戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・御山御坊兵 先鋒隊:足軽隊10000 竹中重治、博麗霊夢、小島職鎮 旗本隊:足軽隊13253:姉小路頼綱 、蜂須賀正勝、霧雨魔理沙 (7月20日)援軍揺さぶりのため、小谷城から敦賀港へ遠藤直経が小谷城兵7000を率い出撃。 朝倉・大聖寺城兵総勢8810 守将:朝倉宗滴 援軍13500:朝倉景鏡、アリス・マーガトロイド 迎撃部隊:足軽隊8000:朝倉景鏡 第二部隊:足軽隊7500:アリス・マーガトロイド(9月5日) 姉小路側は御山御坊の城兵の全力を出撃させており、計略を担当する乱波も多く参加させている。 当然、攻城に失敗すれば加賀における兵力の一切を失うことになる。逆にこれを落とせば対朝倉の状況を決定づける、まさに決戦となる。 朝倉側は先の御山御坊の戦いのため兵力を損耗しているものの、大聖寺城は支城であるため城壁はそう固くはないが、守将である朝倉宗滴の指揮により極めて強固なものになっている。 加えて鉄砲隊をも配備しており、落城せしめることは困難であろう。 ただ一人の将によって難攻不落と成す。戦の妙、これに尽きる。 概要 姉小路家は御山御坊の戦いで朝倉家に大きな損害を与えたが、朝倉宗滴を中心に堅い守りであった大聖寺城を攻めることは難しかった。 そこで1年間もの間加賀に兵を集め、浅井家を滅ぼすことと平行して朝倉家に内部工作をしかけた。 竹中重治、蜂須賀正勝によって朝倉家領内のすみずみに至るまで流言、調略が行われ、朝倉家当主朝倉義景の名望の無さも手伝って兵士達の士気は削がれ、 領内各勢力も朝倉家に援軍を出すことは絶対にないとすら思えるほどであったという。 朝倉宗滴は苦慮して兵士の士気を高め、豪族達を説得しようとしていたが上手くいかずもはや大勢は動かない状況であった。 そのような姉小路側としては必勝とすら思える状況を作り、7月5日姉小路頼綱を総大将とした竹中重治及び蜂須賀正勝率いる大軍が大聖寺城を攻撃した。 大聖寺城を守るのは朝倉宗滴率いる兵であった。戦況不利とみた多くの兵が姉小路勢に投降したがそれでもなお宗滴を信じて戦う将兵もおり、竹中蜂須賀両隊の損害も小さいものではなかった。 全体としては姉小路側が圧倒的有利であったが宗滴が辛うじて兵を統率して膠着状態を作っているという状況であった。 姉小路家が攻めてきたという報が入った時から義景は各豪族に使者を送って兵を集め、朝倉家の重鎮であった朝倉景鏡をなんとか説得して援軍を組織してアリス・マーガトロイド、朝倉景鏡に救援に向かわせた。 援軍入城後も朝倉方の士気は上がらず投降するものは後を絶たなかったが、それでもなおアリスと景鏡に兵を預け城下にうって出させた。 しかし、竹中重治は城の守備兵の一部を内応させ景鏡を攻撃させるという奇策を行う。 この奇策により朝倉軍全体が大混乱に陥り、景鏡隊は混乱を鎮めるために城内に後退せざるを得なくなった。 この時点でもはや軍の形を成していることすらが不思議な状況であったという。しばらくしてアリス隊も奮戦むなしく城内に後退している。 その後も抗戦を続けるも兵力は倍以上の圧倒的な差がついており士気も低く、結局10月10日に落城した。主だった武将達は落城寸前に脱出している。 この戦いの影響 この戦いの結果朝倉家は動員できる兵力のほぼ全てを失い、滅亡がほぼ確定となった。 姉小路家は一乗谷を攻略する上で重要な軍事拠点である大聖寺城を手に入れたため、越前攻略、朝倉家併合の流れができた。 朝倉家の援軍について 援軍が13000も集まったことに対して、越前、若狭の多くの勢力が姉小路家に通じているような状況で朝倉義景がいかにして豪族や一門を説得できたのかは分かっていない。 一説にはアリスが義景に頼み込んで自身を使者に任じてもらい各豪族に兵を出させるように説得したと言われている。 朝倉景鏡を説得したことで朝倉一門からも兵を出すこととなり、13000もの兵を集めることが出来たといわれている。 客の身分であり、朝倉家に対してさほど恩を感じる立場にない彼女が多くの豪族や一門に見捨てていた朝倉家の為に熱心に動いたのかは分からないが、その後に一将として軍を率いていることからこの説はそれなりの信憑性を持っている。 逸話 この戦いの後、竹中重治は運に助けられた部分も大きかったと述懐している。 内応させて同士討ちの形をさせた計略は成功する見込みが高いと思って行ったことではなく、あの計略が失敗していれば勝敗の行方はわからなかっただろうと言ったといわれている。 後に家中に入る朝倉宗滴を慮ってのことでもあるだろうが、これは本心でもあるだろう。蜂須賀正勝、姉小路頼綱も似たような述懐をしている。 援軍の大将の朝倉景鏡は朝倉家の重鎮であり、たびたび義景の代理として儀式を行ったり、軍を率いたりなど朝倉家一門として宗滴に次ぐ地位にあった。 ただ、いかに重鎮である景鏡に率いさせたとはいえ、朝倉家存亡のかかった戦いに義景自身が援軍に赴かなかったことは内外から批判が多かった。 この戦いの最中、城に押し寄せた姉小路軍の足軽達がアリスの人形に襲われた。 このことは蜂須賀正勝をはじめ多くの者たちに目撃しており、足軽達を震え上がらせたという。 この様子は後に諸国でも怪談として伝わるようになった。 「小さく美しい人形どもが談笑しながら泣き叫ぶ足軽を引き裂いた。」やら「人間を鍋にして食べていた。」などと過激に誇張して語られるようになり、多くの老若男女を恐れさせたという。 後に怪談話の定番として諸国百物語に収録された。 この戦いに敗れた朝倉方では落城と共に自決をしようとする者もいたが、朝倉宗滴はそれらの者を止めて朝倉家の滅亡を見届けてからでも遅くないといったという。 遠からぬ朝倉家の滅亡を予測していた言葉であると共に、朝倉家と運命を共にしようという者が居たということが伝わるエピソードである。 脱出後、敗走中に朝倉宗滴は配下の将達と多くの言葉を交わしたと伝えられている。 遺言のように取れる言葉もあったという。アリスには今までの非礼を詫びると共にまがりなりにも戦いができる状況を整えてくれたことへの感謝の言葉が述べられたという。 宗滴は一乗谷城に着いた後、軍の指揮をしていない。理由については、一門の内から敗戦の責を問われたという説や怪我をしていたという説などいろいろあるが分かっていない。 ただ、宗滴は当主の代理として指揮をしていたので当主がいる城は当主が指揮するのは当然であるとも思われる。 BGM 人形裁判 ~ 人の形弄びし少女 『幻葬旋律曲 Necromanza』より
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/202.html
☆このページでは、霧雨の野望における明石全登について詳細に解説しています。 史実での明石全登について詳しく知りたい方はwikipediaなどの明石全登を調べてください 明石全登(あかしてるずみ)天文20年-(1551-) 姉小路家家臣。 宇喜多家が滅んだことよりに姉小路家に流れてきた明石景親の子である。 元服してすぐに鉄砲について非凡な才を見せており、これからの活躍が楽しみである。 ☆出生・家族構成 父に明石景親 ☆官位・役職 ☆参加合戦 姫路城の戦い、播磨防衛戦、生野の戦い、月山富田城の戦い 革新能力 統率82 武勇75 知略58 政治62 義理91 足軽B 騎馬D 弓C 鉄砲A 計略D 兵器A 水軍C 築城D 内政C 戦法:槍衾、斉射、早撃ち、二段撃(Act61現在) うp主解説 宇喜多家臣。関ヶ原後は姿を眩ますも大阪の陣が起こると突如として再起。 キリスト像を掲げた派手な部隊で豊臣方に加勢、奮闘し名を残した。 統率と鉄砲熟練が高い弾幕男。政治も60台なので技術も任せられる。 大阪の陣で名を残した猛将の中では武勇がやや低めな点のみが惜しい。 緑の人解説 大阪城落城後、死亡したと思われるが徳川家康は彼の武勇を恐れて、 「明石狩り」を行ったと言われている。 キリシタンとしても有名で洗礼名はジョバンニ・ジュスト。 KOEIの某ゲームでは『異国の踊り』で強烈なインパクトを残した。 東方風武将解説 「天下人を恐れさせる程度の武将」
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/182.html
筒井城の戦い 筒井城の戦い(つついじょうのたたかい)は永禄7年に織田家と姉小路家の間で行われた戦いである。 戦いの規模自体は小さかったが後の日本全体の情勢に大きな影響を与えた。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・観音寺城兵 攻城部隊:足軽隊10000:竹中重治、富田景政、ルーミア 火力部隊:鉄砲隊9500 :浅井長政、霧雨魔理沙、蜂須賀正勝 野戦部隊:騎馬隊9500 :朝倉宗滴、アリス・マーガトロイド、紅美鈴 織田・筒井城兵総勢18168+傷兵(交戦開始時3582) 守将:織田信長 (12月10日時点で、羽柴秀吉10500、毛利新助5000が鈴木家迎撃、両隊帰還時5252) 織田家は良将が多くいるものの、武田・北条・鈴木・姉小路から一斉攻撃を受けており(この戦いの時点で尾張・伊勢志摩失陥)本来の実力が発揮できる状況ではない。 概要 この戦いの前に尾張を武田5万、伊勢を北条3万の兵で同時に攻められた織田家は敗走し、残った2万の敗残兵と将が筒井城に逃げ込んだ。 さらにタイミングで雑賀衆が筒井城を襲撃し、織田家は辛うじて撃退したものの多くの負傷兵を抱えさらに物資兵糧は尽きかけていた。 この状況に乗じた姉小路家の竹中重治、浅井長政、朝倉宗滴が率いる2万9000の兵が筒井城を急襲、 対して織田信長は良く将兵を統率し、矢弾が尽きてもつぶてを投げつけるなど激しく抵抗した。 しかしながら、結局は兵糧が尽きて抵抗することができなくなり、開城することとなった。 この戦いは雑賀衆が和泉岸和田城と大和筒井城の連絡を遮断することにより兵糧攻めの形となった。 城そのものに大きな損害を与えず、こちらの損害も小さくて済み、多くの投降兵を手にすることが出来る兵糧攻めの有効性が再確認された戦いでもある。 姉小路側の戦略 この戦いにあたって竹中重治は急場にもかかわらず幾重にも策をめぐらしている。 例えば、雑賀衆に岸和田城と筒井城の連絡を絶たせて物資の運搬を阻害していること、 完全に城を包囲せず、筒井城に各地からの敗残兵がよりいっそう集まるように仕向け、兵糧をより一層枯渇させ尚且つ多くの将兵を投降させようとしていることである。 結局はこの策があたって織田家はさらに多くの将兵を失い、再起不能な状況にまで追い込まれたこととなる。 また、城を無傷に近い形で落すことにより武田北条連合軍の西進を防ぐことを狙ったとも言われている。 兵糧攻めでなく力攻めで城を大きく傷つけしまったら、姉小路軍が筒井城を落城させた直後に北条氏康が攻めてきて、城を盾に戦えず、支えきれずに城を失うことを恐れがあったためだといわれている。 織田軍の団結に関する逸話 織田側の記録によれば、織田勢は既に尾張、伊勢で大敗しており、姉小路勢と戦った兵士の多くは辛うじて武器を持てるだけで弓すらも満足に引けないような怪我を負っている者も多かったらしい。 さらに一度に多くの兵がなだれ込んできたため、筒井城に常備していた兵糧物資もすぐに底を尽き、和泉からの物資の搬入も出来ない状況であった。 このような状況下でも配下の部将達は勇敢に立ち向かった。自身の愛馬を割いて兵の糧とした将も多かったという。 また兵士も少しでも戦える兵士は勇敢に戦い、戦えない者達も城内の草の根を掘り木の皮を剥いで戦える者たちに食料を供給したという。 しかしながら最終的には戦える者がいなくなり、開城せざるをえない状況に追い込まれた。この時に入城した者の報告によると、すでに衰弱して足腰が立つ兵は稀であり諸将も辛うじて槍を杖にして立っているような状況であったという。 しかし、軍全体がこれほど衰弱していたのにも関わらず、戦意は旺盛であった。戦後処理で捕虜になった武将達は仕官の勧誘を受けたが一切応じず、岸和田城が落城して織田家が滅亡したときに初めて登用に応じた。 ちなみに筒井城が開城する寸前に織田信長は僅かな護衛と将を引き連れて城を脱出したが、雑賀衆の関を突破する際にも護衛兵が犠牲となり、結局は岸和田城にたどり着けたのは僅か数人であった。 もちろん、全ての織田軍兵士が勇敢に戦ったわけではなく脱走兵も少なくなかった。筒井城の戦いが終わった後、ほとんどの兵士は姉小路軍に降伏し編入された。 しかし他の軍より遥かに強い忠誠心を持っており、固く団結していたことは確かであろう。なぜこれほどの忠誠心を得ていたかは分かっていないが、本人の資質によるところが大きいと思われる。 この戦いの影響 この戦いに敗れた織田家は多くの領土と兵を失い大半の武将が捕虜になってしまったため大いに弱体化された。 織田家は岸和田城に篭って抵抗を続けるも、結局は姉小路家によって滅亡させられることとなる。 対して、姉小路家は主だった織田家家臣の大部分を捕虜にし、多くの兵を手に入れた。 また、大和一国を確保することに成功した。 しかし、なによりも大きかったのは筒井城をほぼ無傷で手に入れたことにより、武田北条連合軍の西進を食い止めたことであろう。 北条氏康はこの戦い以前に霧山御所を落し、伊勢国も制圧しつつあった。制圧後は西進して筒井城を確保する予定であったが、姉小路軍がほぼ無傷で筒井城を落してしまったため、断念せざるを得なくなった。 もし北条家が筒井城を落していれば、武田軍が北条家に道を借りて京に上洛していたことは十分に考えられる。 また、北条家の近畿における勢力もより安定しただろうことを考えると、この筒井城の戦いは規模こそ小さかったものの、天下の趨勢に大きな影響を与えたことになる。
https://w.atwiki.jp/aoari/pages/6521.html
姉小路良綱 土岐屋敷 レベル 45-7 構成 名前 職業 レベル 初期付与 使用技 姉小路良綱 弓神 45 結界 姉小路一党 陰 43 ▲ 姉小路護衛兵 侍(グラは陰) 43 四連撃、五連撃 飛騨神主 神 42 反射結界 僧兵くずれ 僧 42 ▲ 雇われ占い師 陰 41 姉小路一党 陰 41 魅了 ドロップアイテム 小さな手水鉢【家具】 姉小路の直垂 備考 信長の野望シリーズでいう姉小路良頼のことである。 その他情報 1の生命が約3500であとは3000前後です。 -- 烈風? 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/263.html
このページは数あるニコニコ歴史戦略ゲー動画の登場人物について、各動画内での列伝をまとめていくものとして用意しました。 主役級の活躍を見せた人物はもとより、名脇役、好敵手からネタ☆キャラまで幅広く紹介されるページになることを願います。 ここでは信長の野望・太閤立志伝の人物について扱います。 参考用リンク先(需要のありそうなものがあれば随時追加推奨) Category 戦国時代(日本) - Wikipedia :史実についての参考リンク 【非公式】霧雨の野望wiki 登場武将紹介 :霧雨の野望についての参考リンク 武将別解説 - 戦国編 :iM@S架空戦記シリーズ補完wikiでの戦国武将解説 『戦国時代の人物の一覧』 :ニコニコ大百科での戦国人物項目一覧 武将別伝(戦国) ア行 アア2 イ ウ エ オ ハ行 ハ ヒ フ ヘ ホ カ行 カ キ ク ケ コ マ行 サ行 サ シ ス セ ソ ヤ行 タ行 タ チ ツ テ ト ラ行 ナ行 ワ行 史実姫 江馬輝盛(えま てるもり) 江馬時盛(えま ときもり) 江里口信常(えりぐち のぶつね) 円城寺信胤(えんじょうじ のぶたね) 遠藤直経/喜右衛門(えんどう なおつね/きえもん) コメント欄 江馬輝盛 (えま てるもり) [部分編集] (1533~1582)飛騨の豪族。江馬時盛の子(異説あり)。時盛を殺害し家督に就く。本能寺の変後の混乱の中で姉小路頼綱と飛騨の覇権を争い、討死した。 「信長の野望」シリーズでは姉小路(三木)家の家臣扱い。父殺しゆえか不義理。動画においては局地的に知名度が高い武将であり、「ギリヨン」の名で親しまれている。 初登場は「嵐世記」、「蒼天録」からギリヨンになった。 革新 統率 56 武勇 55 知略 69 政治 60 義理 4 関連タグ: 【ギリヨン】 ニコニコ大百科: 『江馬輝盛』 霧雨の野望 【革新無印】 +姉小路家(プレイヤー勢力)初期家臣。ギリヨン。 姉小路家(プレイヤー勢力)初期家臣。 義理が4しかなく、開始5分27秒で裏切る。以降ギリヨンとして視聴者に親しまれる。 美濃を滅ぼした時、再度仲間になるが、出世の道は閉ざされた模様。 何かと名を上げようと画策するが、その度に器の小ささが露呈する ダメ君主の野望 【革新PK】 +一条家(プレイヤー勢力)に途中参加。 一条家(プレイヤー勢力)家臣。第四話(sm2954414)からの参加。 飛騨から斎藤家に寝返っていたが、今川氏真が竹中半兵衛と掛け合い、ボロカスに言われた挙句一条家に移籍。一条家の軍事の要として八面六臂の活躍を見せる。関西弁キャラを作ろうとしたり「霧雨の野望」での扱いを根に持ったりはするが、変態だらけの本動画では常識人の部類。有馬に「エマたん」呼ばわりされたときには気持ち悪がっていた。 梟雄の野望 【革新PK】 +遊佐家(プレイヤー勢力)初期家臣。 遊佐家(プレイヤー勢力)初期家臣。 プレイ動画で低義理といえばこの人。さすがに大名級の錚々たる梟雄の中では能力的にもネタ的にも見劣りする。ギリヨンが一番の常識人に見えるのが本動画の恐ろしいところ。 上へ 江馬時盛 (えま ときもり) [部分編集] (1504~1578)飛騨の豪族。三木(姉小路)氏と争い、武田氏に近づいた。後に息子の輝盛に殺害された。 「革新」では姉小路(三木)家臣。顔グラは桑野信義(くわまん)似との評もある。 革新 統率 35 武勇 37 知略 42 政治 53 義理 37 ニコニコ大百科: 『江馬時盛』 霧雨の野望 【革新無印】 +姉小路家(プレイヤー勢力)初期家臣。不細工殿、牛丼特盛。 姉小路家(プレイヤー勢力)初期家臣。 うp主からは 予告編 の段階で「顔も不細工だが能力も不細工」と紹介された。うp主の「ブサイク親父」「牛丼特盛」呼ばわりやぞんざいな扱い、息子の裏切りなどのさまざまな苦難を乗り越えるけなげな不細工殿の姿は、視聴者の人気を得た。 上へ 江里口信常 (えりぐち のぶつね) [部分編集] (?~1584) 龍造寺四天王 の一人。沖田畷の戦いにおいて他の四天王と共に敵陣に突撃し討死した。 革新 統率 80 武勇 87 知略 39 政治 6 義理 93 騎馬A,騎馬B ニコニコ大百科: 『江里口信常』 上へ 円城寺信胤 (えんじょうじ のぶたね) [部分編集] (?~1584) 龍造寺四天王 の一人とされる。沖田畷の戦いでは主君の身代わりとなるべく敵陣に討ち入り戦死した。 革新 統率 76 武勇 80 知略 41 政治 11 義理 79 騎馬A,兵器B 太閤5 統率 62 武力 38 智謀 60 政務 56 魅力 49,野心 41 ニコニコ大百科: 『円城寺信胤』 選ばれし男で普通に海賊プレイ 【太閤5】 +主人公。土佐水軍。紙芝居なし。 主人公。土佐水軍。1582年開始シナリオの純プレイ動画。 珍しい海賊プレイ。ランダムに選ばれて主人公になり、これまたランダムに選ばれた土佐水軍入り。 出世を目指す戦いは、迫る寿命との戦いでもある。 うp主が円城寺さんを気に入ってしまい、本編完結の後、彼がなぜ出奔したかが語られる「円城寺さんで沖田畷の戦い」( 動画 )や、 「鉄甲船で小田原攻め+おまけ」( 動画 )などの単発動画が作られて活躍している。 上へ 遠藤直経/喜右衛門 (えんどう なおつね/きえもん) [部分編集] (1531?~1570)浅井家臣。知勇兼備の猛将として知られる。浅井長政の相談役として、信頼は厚かったという。 信長の才能を見抜いた上で危険視し、信長暗殺を企てたとも言われている。姉川の戦いにて戦死。 革新 統率 68 武勇 87 知略 66 政治 8 義理 93 足軽B,騎馬B 天道 統率 58 武勇 83 知略 78 政治 8 義理 93 騎馬B,弓B ニコニコ大百科: 『遠藤直経』 上へ コメント欄 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/172.html
七尾城下の合戦 七尾城下の合戦(ななおじょうかのかっせん)は永禄2年に行われた姉小路家と能登畠山氏の間で起きた合戦。 姉小路家において本格的に鉄砲隊が運用された最初の戦いであり、謀略戦としても知られている。なお、ここでは永禄3年にこの合戦に続いて起こった輪島港の戦いも解説する。 参加兵力及び戦力評価(七尾城下の合戦) 姉小路富山城兵 第一部隊:騎馬隊5000:竹中重治、リグル・ナイトバグ、小島職鎮 第二部隊:鉄砲隊5000:明智光秀、霧雨魔理沙、明智秀満 畠山七尾城兵総勢20615 迎撃部隊:弓隊8500:畠山義綱 足軽隊8000:金森長近 兵力では姉小路が劣るものの、将の質は明らかに優越している。野戦での状況が勝敗の鍵であろう。 畠山義総死後から七尾城下の合戦直前までの能登の情勢 畠山義総死後、能登畠山政権の動揺を利用して、加賀に亡命していた畠山氏一族の畠山駿河守が地元一向一揆勢力の支援を受けて能登に侵攻した。 義総の後を継いだ畠山義続は全軍で迎え撃つと共に、本願寺に一向一揆衆への合力禁止を求めた。 本願寺証如はもとより本意ではなかったため、一向衆の畠山駿河への合力停止を求めたが、 本願寺の直接的影響力の小さい地域であったため駿河守が約束した褒美につられて従わない者が多かった。 (当時の本願寺は本拠山科を追われて本拠を石山に移した約20年後で再建期を終えた直後であった。 本願寺が地方への確固たる影響力を持つのは顕如以降である。後の顕如の加賀下向はこの戦いが関係しているとされる。) そして、これを機に義総時代からの統治の不満が噴出。畠山一族からも多数の離反者を出した。 これにより義続軍は機能不全に陥って軍を起こす事もできなくなった。 結局、温井総貞がほぼ独力で乱を鎮めたために事なきを得たが、義続は軍事的、外交的になんら有効な手を打つことができず、大名権力の衰えを露呈した。 ここにいたって、義総の代には危ういながら保たれていた能登国内のパワーバランスは崩れ去り、温井総貞の専横が始まったのである。 温井総貞は畠山重臣遊佐続光との土地争いを原因として合戦を起こした。 温井氏有利にすすんでいたが義続はこれ以上の温井総貞の勢力拡大を憂慮し、突如調停と称して温井総貞の居る館を軍をもって囲んだ。 この武力による脅迫に屈した温井総貞は領地の大半を取り上げられて能登国内の中堅勢力に転落することとなる。 義続は温井氏の領地の大半を手に入れたが、その領地には遊佐氏との係争地も含まれており、遊佐氏の反発をよんだ。 義続は遊佐氏を筆頭とする畠山七人衆を政治に参画させることで不満を抑えようとするも、義続が大名権力強化を目指す政策を近臣達だけで行ったことでさらなる不満を募らせていった。 結局、遊佐氏は長氏と語らってクーデターを起こして義続を出家させた挙句に加賀に追放し、義綱を擁立した。 これを永禄の政変という。 しかし義続は加賀より逃亡。姉小路家へ亡命を果たした。 七尾城下の合戦の概要 姉小路良頼(三木嗣頼)が能登国制圧を目的として竹中重治に騎馬隊、明智光秀に鉄砲隊をあずけて侵攻させた。 対して畠山義綱は金森長近と共に大軍で羽咋郡にて迎え討った。 しかし義綱隊は明智の鉄砲隊の最初の一斉射を受けた時点で陣を乱し、2度目の一斉射で前線は大混乱。 竹中の騎兵隊の攻撃を受けた時点であっけなく七尾城へ潰走してしまった。 戦になれた金森隊はさすがに落ち着いていて陣を乱さなかったが、 慣れない銃撃と友軍の撤退に兵の動揺は避けられず、竹中騎馬隊の猛攻の前に脱走者もでる有様で、 戦線を支えきれなくなってさほど時間をおかずに壊滅した。 竹中及び明智両隊は七尾城まで追撃し、そのまま攻城戦に突入。 すでに兵士たちの士気は衰えて脱走者が後を絶たなかったとは言え、七尾城は戦国屈指の堅城だけあって守りは堅かった。 特に慣れない鉄砲を扱っていた明智隊の損耗は激しく、弾の装填に手間取っている間に敵の礫で負傷する者が後を絶たなかった。 城攻めにかかる前は5000を数えた明智隊も最終的に動ける者は1000を大きく割り込み、 竹中隊にしても敵からの投降兵を戦陣に加えてやっと戦線を維持しているという状況であった。 ただ、当然ではあるが七尾城側の疲労も極に達しており、戦線離脱する者、投降する者はますます増えていった。 結局、七尾城を守れるだけの兵士を失って畠山の主だった将は再起を期して輪島港に脱出、 姉小路軍はこの攻城戦特有の我慢比べとも言うべき状況を制した。 参加兵力及び戦力評価(輪島港の戦い) 輪島港攻略先鋒:足軽隊4000:小島職鎮、原長頼 輪島港攻略本隊:足軽隊4000 稲葉良通 畠山・輪島港守備兵2050:守将 畠山義続 先の戦いでほぼ全領土と全軍を失い、残党といっても良い。独力での輪島港の防衛など論外である。 輪島港の戦いの概要 先の戦いでの勝利で輪島港を落とすこと自体はすでにたやすかった。ただ、時間をおけば畠山家が上杉家に降伏する可能性がでてくる。 もしそうなれば、上杉家との全面対決が予想される。それだけは避けなければならないので速やかに輪島港を落とすことが求められた。 そこで、七尾城下の合戦の翌年永禄3年5月初日、御山御坊の戦いと平行して輪島港攻略部隊を送ることとなった。 本隊率いる稲葉良通は経験豊富で、副将としても一軍の将としても優れていた人物であった。 先鋒の原長頼は若いが美濃衆の中では勇に優れた見所のある人物で知られていたが、経験不足が心配されたので畠山氏の情勢に詳しく計略に熟練した越中衆小島職鎮が副将につくこととなった。 戦いが始まっても畠山軍はすでに野戦をするだけの戦力もなく港に篭っていたが、輪島港の防備は薄く大軍の強襲に耐えられるものではなく、特に良通の槍隊による被害は大きかった。 結局同年7月5日に輪島港陥落。予定をはるかに上回る早さであった。 影響 姉小路軍はこの戦いで能登国全土を手に入れた。能登国は海を隔てて上杉領と繋がっており、防衛の上で重要な拠点のひとつであった。 また、美濃、越中は要塞化が予定されており、兵糧増産と技術開発を行うための機能を能登国に移転させることとなった。 七尾城下の合戦における調略、外交面についての説 この戦いにおいて畠山側から戦いの最中にもかかわらず多くの兵士が竹中隊に降伏した。 畠山軍は鉄砲による大規模な合戦を経験しておらず、明智隊の激しい銃撃に少なからぬ動揺がみられた。 そこを竹中重治が偽情報によってさらに動揺をさそい、多くの兵を篭絡したとされる。 ちなみに当時の鉄砲隊は鉄砲を撃つ個々人が狙いを定めて自分のタイミングで撃つのが基本であり、鉄砲隊での斉射という概念はなかった。 一般的にこの戦いで光秀が心理的効果を狙って行ったのが最初といわれている。 また、畠山側も越後の上杉謙信(長尾景虎)に働きかけて姉小路領の越中国を攻めさせ、 一方で姉小路家に停戦交渉の使者を送るなど、外交戦を繰り広げたといわれている。 このことは事実であるかどうかは分からないが、上杉軍が侵攻してきた報が届いた まさにその時に遊佐続光が金40000をもって停戦交渉の使者として訪れるなど あまりにも都合のよいタイミングであるため、そのように考えるのは自然であろう。 結果的には落城寸前であったこともあり姉小路家はこの停戦の申し出を受けなかった。 上杉軍も本気で越中を攻め取る気はなかったようである。 しかし、遊佐続光は登用後、他の畠山家出身者と違って内政だけでなく前線でも起用されていること、 また、長続連が外交官として長宗我部元親との同盟を結ぶ重要な場面で起用されていることから考えて、 この外交を立案、実行したのは遊佐続光と長続連であり二人の能力を姉小路良頼が高く評価したのではないかといわれている。 鉄砲隊について 七尾城下の合戦では姉小路家が本格的に鉄砲隊を運用したとされているが、実のところこの時点では精強と呼ぶにはほど遠い、狙うことすらままならない状態であったと考えられる。 鉄砲を入手するには主生産地である和泉の堺、近江の日野・国友、紀伊の根来などとは距離があり、 自前の生産が可能になる永禄2年7月末まで銃そのものは手に入っても十分な訓練が行えるだけの実包を揃えられていたとは考えにくい。 鉄砲隊の訓練には、鉄砲の名人であり家中にも上手が多くいたと言われていた明智光秀が行っていたが徴兵されたばかりの兵に一から教えることになるため、大規模に運用できるまでには時間がかかるとみれていた。 この戦いでの活躍は難しいと思われていたが、鉄砲になれていない畠山軍に与えた心理的衝撃はすさまじく、敵軍を壊乱させるには十分な効果が認められた。 永禄8年夏までには、肥沃な美濃・近江、貿易拠点となる敦賀の獲得による安定した火薬の確保が可能になり、 かつ元込銃を始めとする技術革新、鉄砲運用に詳しい織田・鈴木家家臣を取り込んだことにより質、量ともに日本一と謳われた鉄砲部隊が完成したと考えられる。 姉小路家が鉄砲隊し重点的に運用することとなったきっかけは「弾幕はパワー」とことあるごとに口にしていた霧雨魔理沙が思いつきで言ったことを、 同じ家中で人一倍の情熱と生真面目さを持つ姉小路頼綱と日本有数の鉄砲名人の光秀が真に受けたためであった。 この一見馬鹿馬鹿しいとすら思えるきっかけで始まった計画が、後に歴史を変えることになるとは誰が思っただろうか? 七尾城について 七尾城は先代畠山義総によって増築整備され、俗に五大山城と呼ばれるほどの名城であった。 城下町は「千門万戸」が立ち並び、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称されたという。 ただ、この戦いでは野戦に敗れて多くの兵を失った畠山軍ではこのような巨大な城を守るのは難しく、その性能が最大限生かされることはなかった。 この戦いは、いかなる堅城でも優れた将と勇敢な兵士の両方がいなければ守りきることはできない、という風に「城を守るのは結局のところ人である」ことを教える好例として語られることなった。 戦後、良頼は能登国を農地や各種技術開発研究の拠点として発展させるためか、しばらく七尾城を居城にしている。 逸話 七尾城下の合戦は美濃衆と竹中重治の姉小路家家臣として始めての戦いである。 鉄砲隊の明智光秀などは美濃斉藤家時代にも副将として軍を率いた経験があり、明智秀満も光秀の配下として戦場に立った事があった。 ただ、騎馬隊の竹中重治は戦場経験はあったが主将として采配を振るうのは初めてであり、リグル・ナイトバグなどは初陣でいきなり副将に任ぜられるなど経験不足が心配された。 しかし、結果としては二人は経験不足を補って余りある将才によって大活躍をした。 七尾城下の合戦の最中、明智光秀隊と竹中重治隊との間では密に連絡をとりあっている。 騎馬隊と鉄砲隊では足が違うため、連携するために高度に情報交換を行わなければならない。その点光秀と重治は情報を扱う事に長けていた。 二人が今回の戦いの主将に選ばれたのはこのためであったと言われている。そのときのやり取りの頻度や内容が記録され、マニュアル化された。 後に騎馬隊+鉄砲隊が姉小路軍の基本ユニットとなったとき、マニュアルは大いに活用された。 この情報交換のための伝令のやり取りを利用してリグルと光秀も頻繁に手紙のやり取りを行っていたようである。 特に問題となるようなことはなかったが、後にリグルと光秀を常に同じ部署に配置することとなったのは、手紙の頻繁なやり取りに気づいた良頼が気を利かせたのではないかと言われている。 手紙の内容については一切分かっていない。光秀とリグルは公的にも私的にも信頼関係にあり、光秀はリグルを信頼して仕事を任せる事が多かった事を考えると初陣のリグルが光秀に何らかの相談をしていたのではないか、と考える者もいたが根拠はない。 ただただ、結果としてリグルが騎兵の突破力を生かして突進して多くの戦果をあげたこと、この戦いの後二人は常に一緒に行動したということが分かっているだけである。
https://w.atwiki.jp/kirisamenoyabou/pages/33.html
☆このページでは、霧雨の野望における江馬輝盛について詳細に解説しています。 史実での江馬輝盛について詳しく知りたい方はwikipediaなどの江馬輝盛を調べてください 江馬輝盛(えまてるもり)(天文2年(1533年)- ) 異能の者達が姉小路家(三木家)に現れてから一年も経たないうちに隣国、美濃の斎藤家に寝返る。 その義理の低さゆえギリ4などと呼ばれ人気を集めた。 斎藤家が姉小路家に滅ぼされた後はお情けでもう一度仕えることを許された。その後は閑職ばかりだったと思われる。 Act37で一時期牢屋番を勤めたが、捕虜となっていた第六天魔王「織田信長」を脱走させてしまうなど…失態が目立つ。 Act76での小物っぷりは必見。もしPKだったら間違いなく奉行所へ大出世する。 抵抗もできなく12発もやられた安藤伊賀守に謝れ、今すぐ謝れ。 Act92では虚報で裏切ったとの報告を聞いた魔理沙に「いつものこと」と言われる始末。 義理と能力の低さゆえに、なんだかんだで愛されるキャラである。 武将紹介登場:予告編 ☆出生・家族構成 1533年に江馬時盛の嫡男として生まれる。 ☆官位・役職 ☆参加合戦 生野の戦い、月山富田城の戦い 革新能力 統率56 武勇55 知略69 政治60 義理4 足軽D 騎馬D 弓C 鉄砲D 計略C 兵器D 水軍D 築城D 内政D 戦法:斉射、鼓舞 うp主解説 時盛の息子。上杉家と仲が良かったため、武田家と手を組もうとした父を暗殺した親不孝者。顔も能力も親父よりかは幾分マシ。弱小三木家では貴重な知略要員だ。義理4は見なかった事にしよう。 緑の人解説 実は金森長近の子と娘が婚姻関係。父を倒し江馬氏を継ぎ、姉小路氏配下へ。本能寺の変後に戦死。波乱の一生とはいえまさか四百年後にギリヨンと呼ばれようとは思うまい。