約 548 件
https://w.atwiki.jp/shuin/pages/28.html
東京23区 足立区 ●綾瀬稲荷神社(1) ●江北氷川神社(1) ●勝専寺(2) ●千住神社(2) ●総持寺(西新井大師)(1) ●花畑大鷲神社(1) 荒川区 ●小塚原回向院(1) ●浄閑寺(1) ●素盞雄神社(2) ●本行寺(日暮里)(1) 板橋区 ●松月院(1) ●乗蓮寺(東京大仏)(1) ●常盤台天祖神社(1) 江戸川区 ●最勝寺(1) 大田区 ●穴守稲荷神社(3) ●池上本門寺(2) ●磐井神社(3) ●大森鷲神社(1) ●蒲田八幡神社(1) ●鴎稲荷神社(1) ●重幸稲荷神社(1) ●白魚稲荷神社(1) ●高山稲荷神社(1) ●多摩川浅間神社(1) ●玉川弁財天(1) ●東官守稲荷神社(1) ●新田神社(1) ●羽田神社(1) ●稗田神社(1) ●本行寺(池上)(1) ●妙法稲荷神社(1) ●矢口氷川神社(1) ●六郷神社(1) 葛飾区 ●亀有香取神社(2) ●真勝院(1) ●題経寺(1) ●良観寺(1) 北区 ●赤羽八幡神社(1) ●王子神社(1) ●王子稲荷神社(1) ●滝野川八幡神社(1) ●七社神社(1) 江東区 ●永代寺(1) ●亀戸香取神社(1) ●亀戸天神社(1) ●浄心寺(深川)(1) ●洲崎神社(1) ●富岡八幡宮(1) ●深川神明宮(1) ●深川不動堂(2) ●法乗院(2) ●霊巌寺(2) 品川区 ●一心寺(3) ●居木神社(1) ●荏原神社(2) ●海雲寺(1) ●上神明天祖神社(4) ●品川神社(2) ●天祖・諏訪神社(2) ●戸越八幡神社(3) ●品川寺(3) ●養願寺(2) 渋谷区 ●金王八幡宮(1) ●渋谷氷川神社(1) ●東郷神社(1) ●鳩森八幡神社(1) ●明治神宮(1) ●代々木八幡宮(1) 新宿区 ●赤城神社(東京)(1) ●穴八幡宮(1) ●安養寺(東京都)(1) ●市谷亀岡八幡宮(1) ●稲荷鬼王神社(1) ●於岩稲荷陽運寺(1) ●皆中稲荷神社(1) ●経王寺(2) ●西念寺(1) ●十二社熊野神社(1) ●真成院(1) ●善国寺(1) ●太宗寺(2) ●茶ノ木稲荷神社(1) ●筑土八幡神社(1) ●天龍寺(1) ●成子天神社(1) ●花園神社(2) ●平田神社(2) ●放生寺(1) ●宝泉寺(1) ●法輪寺(1) ●鎧神社(1) 杉並区 ●阿佐谷神明宮(1) ●天沼八幡神社(1) ●井草八幡宮(1) ●馬橋稲荷神社(1) ●永福稲荷神社(1) ●大宮八幡宮(1) ●荻窪白山神社(1) ●荻窪八幡神社(1) ●観泉寺(1) ●高円寺天祖神社(1) ●杉並猿田彦神社(2) ●東圓寺(1) ●氷川神社・気象神社(2) ●妙法寺(1) ●理性寺(1) 墨田区 ●牛嶋神社(1) ●回向院(2) ●江島杉山神社(1) ●押上天祖神社(1) ●弘福寺(1) ●白鬚神社(1) ●隅田川神社(1) ●高木神社(2) ●長命寺(墨田区)(1) ●飛木稲荷神社(1) ●三囲神社(1) 世田谷区 ●奥澤神社(1) ●教学院(1) ●豪徳寺(1) ●桜神宮(1) ●松陰神社(1) ●浄眞寺(九品仏)(1) ●世田谷観音寺(1) ●瀬田玉川神社(1) ●太子堂八幡神社(2) ●玉川神社(1) ●等々力不動尊(1) ●満願寺(1) 台東区 ●秋葉神社(東京都)(1) ●浅草神社(2) ●浅草富士浅間神社(2) ●銀杏岡八幡神社(1) ●今戸神社(1) ●上野東照宮(1) ●鷲神社(3) ●寛永寺(1) ●五條天神社(1) ●不忍池弁天堂(1) ●清水観音堂(2) ●下谷神社(3) ●正宝院(2) ●瑞輪寺(1) ●浅草寺(5) ●千束稲荷神社(1) ●第六天榊神社(1) ●長國寺(1) ●天王寺(1) ●東禅寺(1) ●徳大寺(1) ●鳥越神社(2) ●花園稲荷神社(1) ●東本願寺(1) ●被官稲荷神社(1) ●本龍院・待乳山聖天(1) ●吉原神社(1) ●輪王寺(1) 中央区 ●笠間稲荷神社(日本橋)(2) ●兜神社(1) ●小網神社(1) ●三光稲荷神社(日本橋)(1) ●水天宮(1) ●住吉神社(佃)(1) ●大安楽寺(1) ●大観音寺(1) ●佃天台地蔵尊(1) ●波除稲荷神社(1) ●日本橋日枝神社(1) ●松島神社(3) 千代田区 ●神田明神(3) ●築土神社(1) ●東京大神宮(1) ●日枝神社(6) ●三崎稲荷神社(1) ●靖国神社(2) 豊島区 ●池袋御嶽神社(1) ●鬼子母神堂(1) ●金乗院(1) ●高岩寺(1) ●眞性寺(1) ●雑司ヶ谷大鳥神社(1) ●高田氷川神社(1) ●南蔵院(1) ●本妙寺(1) 中野区 ●北野神社(1) ●鷺宮八幡神社(1) ●梅照院(新井薬師)(1) ●宝仙寺(2) ●宝福寺(1) ●沼袋氷川神社(1) 練馬区 ●江古田浅間神社(1) ●観蔵院(1) ●三賓寺(1) ●石神井氷川神社(1) ●長命寺(練馬区)(1) ●道場寺(1) ●武蔵野稲荷神社(1) 文京区 ●栄松院(1) ●円乗寺(1) ●牛天神北野神社(2) ●太田神社(1) ●源覚寺(1) ●小石川善光寺(1) ●小石川大神宮(1) ●護国寺(東京都)(1) ●金刀比羅宮 東京分社(1) ●駒込吉祥寺(1) ●浄心寺(駒込)(1) ●定泉寺(1) ●心城院(2) ●清林寺(1) ●大円寺(1) ●高木神社(牛天神北野神社摂社)(1) ●伝通院(2) ●南谷寺(1) ●根津神社(1) ●白山神社(東京都)(1) ●湯島聖堂(1) ●湯島天満宮(1) ●林泉寺(1) 港区 ●赤坂豊川稲荷(1) ●赤坂氷川神社(1) ●愛宕神社(1) ●出雲大社東京分祠(1) ●威徳寺(赤坂不動尊)(1) ●永平寺別院・長谷寺(1) ●覚林寺(1) ●烏森神社(7) ●魚籃寺(1) ●高野山東京別院(1) ●金地院(1) ●櫻田神社(4) ●芝大神宮(1) ●十番稲荷神社(2) ●泉岳寺(1) ●善福寺(1) ●増上寺(4) ●高輪神社(1) ●天現寺(1) ●天徳寺(1) ●虎ノ門金刀比羅宮(1) ●乃木神社(1) ●梅窓院(1) ●日比谷神社(1) 目黒区 ●大鳥神社(目黒区)(1) ●五百羅漢寺(1) ●上目黒氷川神社(2) ●自由ヶ丘熊野神社(1) ●成就院(蛸薬師)(1) ●大圓寺(2) ●蟠龍寺(1) ●目黒富士浅間神社(1) ●祐天寺(1) ●瀧泉寺(2) 青梅市 ●青梅住吉神社(1) ●塩船観音寺(3) ●武蔵御獄神社(1) 国立市 ●谷保天満宮(1) 国分寺市 ●武蔵国分寺(1) 狛江市 ●伊豆美神社(1) 立川市 ●諏訪神社(立川)(1) 調布市 ●青渭神社(1) ●常性寺(2) ●深大寺(2) ●布多天神社(1) 西東京市 ●総持寺(田無)(1) ●田無神社(1) ●東伏見稲荷神社(1) 八王子市 ●金剛院(2) ●信松院(2) ●善龍寺(2) ●八幡八雲神社(1) ●本立寺(2) ●武蔵陵墓地(2) ●薬王院(1) ●了法寺(2) 日野市 ●安養寺(日野市)(1) ●金剛寺(高幡不動)(2) ●石田寺(1) 府中市 ●大國魂神社(1) 三鷹市 ●井口院(1) ●禅林寺(1) ●八幡大神社(1) 武蔵野市 ●杵築大社(1) ●武蔵野八幡宮(1)
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/147.html
資治通鑑巻第二百二十四 唐紀四十二十九 代宗睿文孝武皇帝中之上 永泰元年(乙巳、七六五年) 閏十月,乙巳,郭子儀入朝。子儀以靈武初復,百姓雕弊,戎落未安,請以朔方軍糧使三原路嗣恭鎮之;河西節度使楊志烈既死,請遣使巡撫河西及置涼、甘、肅、瓜、沙等州長史。上皆從之。 丁未,百官請納職田充軍糧;許之。 戊申,以戸部侍郎路嗣恭為朔方節度使。嗣公披荊棘,立軍府,威令大行。 己酉,郭子儀還河中。 初,劍南節度使嚴武奏將軍崔旰為利州刺史;時蜀中新亂,山賊塞路,旰討平之。及武再鎮劍南,賂山南西道節度使張獻誠以求旰,獻誠使旰移疾自解,詣武。武以為漢州刺史,使將兵撃吐蕃於西山,連拔其數城,攘地數百里,武作七寶輿迎旰入成都以寵之。 武薨,行軍司馬杜濟知軍府事。都知兵馬使郭英幹,英乂之弟也,與都虞候郭嘉琳共請英乂為節度使;旰時為西山都知兵馬使,與所部共請大將王崇俊為節度使,會朝廷已除英乂,英乂由是銜之,至成都數日,即誣崇俊以罪而誅之。召旰還成都,旰辭以備吐蕃,未可歸,英乂愈怒,絕其饋餉以困之。旰轉徙入深山,英乂自將兵攻之,聲言助旰拒守。會大雪,山谷深數尺,士馬凍死者甚衆,旰出兵撃之,英乂大敗,收餘兵,才及千人而還。 英乂為政,嚴暴驕奢,不恤士卒,衆心離怨。玄宗之離蜀也,以所居行宮為道士觀,仍鑄金為真容。英乂愛其竹樹茂美,奏為軍營,因徙去真容,自居之。旰宣言英乂反,不然,何以徙真容自居其處!於是帥所部五千餘人襲成都。辛亥,戰於城西,英乂大敗。旰遂入成都,屠英乂家。英乂單騎奔簡州。普州刺史韓澄殺英乂,送首於旰。邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔各舉兵討旰,蜀中大亂。旰,衛州人也。 華原令顧繇上言,元載子伯和等招權受賄,十二月,戊戌,繇坐流錦州。 自安、史之亂,國子監室堂頹壞,軍士多借居之。祭酒蕭昕上言:「學校不可遂廢。」 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦元年(丙午,公元七六六年) 春,正月,乙酉,敕復補國子學生。 丙戌,以戸部尚書劉晏為都畿、河南、淮南、江南、湖南、荊南、山南東道轉運、常平、鑄錢、鹽鐵等使,侍郎第五琦為京畿、關內、河東、劍南、山南西道轉運等使,分理天下財賦。 周智光至華州,益驕橫,召之,不至,上命杜冕從張獻誠於山南以避之;智光遣兵於商山邀之,不獲。智光自知罪重,乃聚亡命、無賴子弟,衆至數萬,縱其剽掠以悅其心,擅留關中所漕米二萬斛,籓鎮貢獻,往往殺其使者而奪之。 二月,丁亥朔,釋奠於國子監。命宰相帥常參官、魚朝恩帥六軍諸將往聽講,子弟皆服朱紫為諸生。朝恩既貴顯,乃學講經為文,僅能執筆辨章句,遽自謂才兼文武,人莫敢與之抗。 辛卯,命有司修國子監。 元載專權,恐奏事者攻訐其私,乃請:「百官凡論事,皆先白長官,長官白宰相,然後奏聞。」仍以上旨諭百官曰:「比日諸司奏事煩多,所言多讒毀,故委長官、宰相先定其可否。」 刑部尚書顏真卿上疏,以為:「郎官、御史,陛下之耳目。今使論事者先白宰相,是自掩其耳目也。陛下患群臣之為讒,何不察其言之虚實!若所言果虚宜誅之,果實宜賞之。不務為此,而使天下謂陛下厭聽覽之煩,托此為辭以塞諫爭之路,臣竊為陛下惜之。太宗著《門司式》云:『其無門籍人,有急奏者,皆令門司與仗家引奏,無得關礙。』所以防壅蔽也。天寶以後,李林甫為相,深疾言者,道路以目。上意不下逮,下情不上達,蒙蔽喑嗚,卒成幸蜀之禍。陵夷至於今日,其所從來者漸矣。夫人主大開不諱之路,群臣猶莫敢盡言,況令宰相大臣裁而抑之,則陛下所聞見者不過三數人耳。天下之士從此鉗口結舌,陛下見無復言者,以為天下無事可論,是林甫復起於今日也!昔林甫雖擅權,群臣有不咨宰相輒奏事者,則托以它事陰中傷之,猶不敢明令百司奏事皆先白宰相也。陛下倘不早寤,漸成孤立,後雖悔之,亦無及矣!」載聞而恨之,奏真卿誹謗;乙未,貶峽州別駕。 己亥,命大理少卿楊濟修好於吐蕃。 壬子,以杜鴻漸為山南西道‧劍南東‧西川副元帥、劍南西川節度使,以平蜀亂。 以四鎮、北庭行營節度使馬璘兼邠寧節度使。璘以段秀實為三使都虞候。卒有能引弓重二百四十斤者,犯盜當死,璘欲生之,秀實曰:「將有愛憎而法不一,雖韓、彭不能為理。」璘善其議,竟殺之。璘處事或不中理,秀實力爭之。璘有時怒甚,左右戰慄,秀實曰:「秀實罪若可殺,何以怒為!無罪殺人,恐涉非道。」璘拂衣起,秀實徐歩而出;良久,璘置酒召秀實謝之。自是軍州事皆咨秀實而後行。璘由是在邠寧,聲稱殊美。 癸丑,以山南西道節度使張獻誠兼劍南東川節度使,邛州刺史柏茂琳為邛南防禦使;以崔旰為茂州刺史,充西山防禦使。三月,癸未,獻誠與旰戰於梓州,獻誠軍敗,僅以身免,旌節皆為旰所奪。 夏,五月,河西節度使楊休明徙鎮沙州。 秋,八月,國子監成;丁亥,釋奠。魚朝恩執《易》升高座,講「鼎覆餗」以譏宰相。王縉怒,元載怡然。朝恩謂人曰:「怒者常情,笑者不可測也。」 杜鴻漸至蜀境,聞張獻誠敗而懼,使人先達意於崔旰,許以萬全。旰卑辭重賂以迎之,鴻漸喜;進至成都,見旰,但接以温恭,無一言責其干紀,日與將佐高會,州府事悉以委旰。又數薦之於朝,因請以節度讓旰,以柏茂琳、楊子琳、李昌夔各為本州刺史。上不得已從之。壬寅,以旰為成都尹、西川節度行軍司馬。 甲辰,以魚朝恩行內侍監、判國子監事。中書舍人京兆常袞上言:「成均之任,當用名儒,不宜以宦者領之。」丁未,命宰相以下送朝恩上。京兆尹黎幹自南山引澗水穿漕渠入長安,功竟不成。 冬,十月,乙未,上生日,諸道節度使獻金帛、器服、珍玩、駿馬為壽,共值緡錢二十四萬。常袞上言,以為:「節度使非能男耕女織,必取之於人。斂怨求媚,不可長也。請卻之。」上不聽。 京兆尹第五琦什一稅法,民苦其重,多流亡。十一月,甲子,日南至,赦,改元,悉停什一稅法。 十二月,癸卯,周智光殺陝州監軍張志斌。智光素與陝州刺史皇甫温不協,志斌入奏事,智光館之,志斌責其部下不肅,智光怒曰:「僕固懷恩不反,正由汝輩激之。我亦不反,今日為汝反矣!」叱下斬之,臠食其肉。朝士舉選人,畏智光之暴,多自同州竊過,智光遣將將兵邀之於路,死者甚衆。戊申,詔加智光檢校左僕射,遣中使余元仙持告身授之。智光慢罵曰:「智光有大功於天下國家,不與平章事而與僕射!且同、華地狹,不足展材,若益以陝、虢、商、鄜、坊五州,庶猶可耳。」因歴數大臣過失,且曰:「此去長安百八十里,智光夜眠不敢舒足,恐踏破長安城,至於挾天子令諸侯,惟周智光能之。」元仙股慄。郭子儀屢請討智光,上不許。 郭子儀以河中軍食常乏,乃自耕百畝,將校以是為差,於是士卒皆不勸而耕。是歳,河中野無曠土,軍有餘糧。 以隴右行軍司馬陳少游為桂管觀察使。少游,博州人也,為吏強敏而好賄,善結權貴,以是得進。既得桂州,惡其道遠多瘴癘;宦官董秀掌樞密,少游請歳獻五萬緡,又納賄於元載子仲武。內外引薦,數日,改宣歙觀察使。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦二年(丁未,公元七六七年) 春,正月,丁巳,密詔郭子儀討周智光。子儀命大將渾瑊、李懷光軍於渭上;智光麾下聞之,皆有離心。己未,智光大將李漢惠自同州帥所部降於子儀。壬戌,貶智光澧州刺史。甲子,華州牙將姚懷、李延俊殺智光,以其首來獻。淮西節度使李忠臣入朝,以收華州為名,帥所部兵大掠,自潼關至赤水二百里間,財畜殆盡,官吏有衣紙或數日不食者。己巳,置潼關鎮兵二千人。 壬申,分劍南置東川觀察使,鎮遂州。 二月,丙戌,郭子儀入朝。上命元載、王縉、魚朝恩等互置酒於其第,一會之費至十萬緡。上禮重子儀。常謂之大臣而不名。 郭曖嘗與昇平公主爭言,曖曰:「汝倚乃父為天子邪?我父薄天子不為!」公主恚,奔車奏之。上曰:「此非汝所知。彼誠如是,使彼欲為天子,天下豈汝家所有邪?」慰諭令歸。子儀聞之,囚曖,入待罪。上曰:「鄙諺有之:『不癡不聾,不作家翁。』兒女子閨房之言,何足聽也!」子儀歸,杖曖數十。 夏,四月,庚子,命宰相、魚朝恩與吐蕃盟於興唐寺。 杜鴻漸請入朝奏事,以崔旰知西川留後。六月,甲戌,鴻漸來自成都,廣為貢獻,因盛陳利害,薦旰才堪寄任;上亦務姑息,乃留鴻漸復知政事。秋,七月,丙寅,以旰為西川節度使,杜濟為東川節度使。旰復斂以賂權貴,元載擢旰弟寬至御史中丞,寬兄審至給事中。 丁卯,魚朝恩奏以先所賜莊為章敬寺,以資章敬太后冥福,於是窮壯極麗,盡都市之材不足用,奏毀曲江及華清宮館以給之,費逾萬億。衛州進士高郢上書,略曰:「先太后聖德,不必以一寺增輝;國家永圖,元寧以百姓為本。舍人就寺,何福之為!」又曰:「無寺猶可,無人其可乎!」又曰:「陛下當卑宮室,以夏禹為法。而崇塔廟,踵梁武之風乎?」又上書,略曰:「古之明王積善以致福,不費財以求福;修德以消禍,不勞人以禳禍。今興造急促,晝夜不息,力不逮者隨以榜笞,愁痛之聲盈於道路,以此望福,臣恐不然。」又曰:「陛下回正道於內心,求微助於外物,徇左右之過計,傷皇王之大猷,臣竊為陛下惜之!」皆寢不報。 始,上好祠祀,未甚重佛。元載、王縉、杜鴻漸為相,三人皆好佛;縉尤甚,不食葷血,與鴻漸造寺無窮。上嘗問以:「佛言報應,果為有無?」載等奏以:「國家運祚靈長,非宿植福業,何以致之!福業已定,雖時有小災,終不能為害,所以安、史悖逆方熾而皆有子禍;僕固懷恩稱兵內侮,出門病死;回紇、吐蕃大舉深入,不戰而退:此皆非人力所及,豈得言無報應也!」上由是深信之,常於禁中飯僧百餘人;有寇至則令僧講《仁王經》以禳之,寇去則厚加賞賜。胡僧不空,官至卿監,爵為國公,出入禁闥,勢移權貴,京畿良田美利多歸僧寺。敕天下無得棰曳僧尼。造金閣寺於五台山,鑄銅塗金為瓦,所費巨億,縉給中書符牒,令五台僧數十人散之四方,求利以營之。載等毎侍上從容,多談佛事,由是中外臣民承流相化,皆廢人事而奉佛,政刑日紊矣。 八月,庚辰,鳳翔等道節度使、左僕射、平章事李抱玉入朝,固讓僕射,言情確至,上許之;癸丑,又讓鳳翔節度使,不許。 丁酉,杜鴻漸飯千僧,以使蜀無恙故也。 九月,吐蕃衆數萬圍靈州,游騎至潘原、宜祿;郭子儀自河中帥甲士三萬鎮涇陽,京師戒嚴。甲子,子儀移鎮奉天。 山獠陷桂州,逐剌史李良。冬,十月,戊寅,朔方節度使路嗣恭破吐蕃於靈州城下,斬首二千餘級;吐蕃引去。 十二月,庚辰,盜發郭子儀父塚,捕之,不獲。人以為魚朝恩素惡子儀,疑其使之。子儀自奉天入朝,朝廷憂其為變;子儀見上,上語及之,子儀流涕曰:「臣久將兵,不能禁暴,軍士多發人塚,今日及此,乃天譴,非人事也。」朝廷乃安。 是歳,復以鎮西為安西。 新羅王憲英卒,子乾運立。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦三年(戊申,公元七六八年) 春,正月,乙丑,上幸章敬寺,度僧尼千人。 贈建寧王倓為齊王。 二月,癸巳,商州兵馬使劉洽殺防禦使殷仲卿,尋討平之。 甲午,郭子儀禁無故軍中走馬。南陽夫人乳母之子犯禁,都虞候杖殺之。諸子泣訴子儀,且言都虞候之橫,子儀叱遣之。明日,以事語僚佐而歎息曰:「子儀諸子,皆奴材也。不賞父之都虞候而惜母之乳母子,非奴材而何!」 庚子,以後宮獨孤氏為貴妃。 三月,乙巳朔,日有食之。 夏,四月,戊寅,山南西道節度使張獻誠,以疾舉從父弟右羽林將軍獻恭自代,上許之。 壬寅,西川節度使崔旰入朝。 初,上遣中使征李泌於衡山,既至,復賜金紫,為之作書院於蓬萊殿側,上時衣汗衫、躡屨過之,自給、捨以上及方鎮除拜、軍國大事,皆與之議。又使魚朝恩於白花屯為泌作外院,使與親舊相見。 上欲以泌為門下侍郎、同平章事,泌固辭。上曰:「機務之煩,不得晨夕相見,誠不若且居密近,何必署敕然後為宰相邪!」後因端午,王、公、妃、主各獻服玩,上謂泌曰:「先生何獨無所獻?」對曰:「臣居禁中,自巾至履皆陛下所賜,所餘獨一身耳,何以為獻!」上曰:「朕所求正在此耳。」泌曰:「臣身非陛下有,誰則有之?」上曰:「先帝欲以宰相屈卿而不能得,自今既獻其身,當惟朕所為,不為卿有矣。」泌曰:「陛下欲使臣何為?」上曰:「朕欲卿食酒肉,有室家,受祿位,為俗人。」泌泣曰:「臣絕粒二十餘年,陛下何必使臣隳其志乎!」上曰:「泣復何益!卿在九重之中,欲何之?」乃命中使為泌葬二親,又為泌娶盧氏女為妻,資費皆出縣官。賜第於光福坊,令泌數日宿第中,數日宿蓬萊院。 上與泌語及齊王倓,欲厚加褒贈,泌請用岐、薛故事贈太子,上泣曰:「吾弟首建靈武之議,成中興之業,岐、薛豈有此功乎!竭誠忠孝,乃為讒人所害。向使尚存,朕必以為太弟。今當崇以帝號,成吾夙志。」乙卯制,追謚倓曰承天皇帝;庚申,葬順陵。 崔旰之入朝也,以弟寬為留後,瀘州刺史楊子琳帥精騎數千乘虚突入成都;朝廷聞之,加旰檢校工商尚書,賜名寧,遣還鎮。 11.六月,壬辰,幽州兵馬使朱希彩、經略副使昌平朱泚、泚弟滔共殺節度使李懷仙,希彩自稱留後。閏月,成德軍節度使李寶臣遣將將兵討希彩,為希彩所敗,朝廷不得已宥之。庚申,以王縉領盧龍節度使;丁卯,以希彩知幽州留後。 11.六月壬辰、幽州兵馬使の朱希彩、経略副使昌平の朱泚、朱泚の弟の朱滔が共同で節度使の李懐仙を殺し、朱希彩は自らを留後と称した。閏月、成徳軍節度使の李宝臣が将軍を派遣し兵隊を率いて朱希彩を討伐し、朱希彩は敗北し、朝廷はやむを得ずこれを許した。庚申、王縉に盧龍節度使を領させた。丁卯、朱希彩を幽州留後を司らせた。 12.崔寬與楊子琳戰,數不利,秋,七月,崔寧妾任氏出家財數十萬,募兵得數千人,帥以撃子琳,破之;子琳走。 12.崔寬は楊子琳と戦い、しばしば不利であった。秋七月、崔寧の妾の任氏が家財を数十万出して、兵を募って数千人を得て、率いて楊子琳を討ち、これを破り、楊子琳は敗走した。 13.乙亥,王縉如幽州,朱希彩盛兵嚴備以逆之。縉晏然而行,希彩迎謁甚恭。縉度終不可制,勞軍,旬餘日而還。 13.乙亥、王縉は幽州に行き、朱希彩は兵力を結集して備えを厳重にしこれに背いた。王縉はゆったりと行ったから、朱希彩は出迎えて拝謁し非常に恭しかった。王縉ははかって終に制しがたいものであるとし、軍を労い、十日あまりして帰還した。 回紇可敦卒,庚辰,以右散騎常侍蕭昕為弔祭使。回紇庭詰昕曰:「我於唐有大功,唐奈何失信,市我馬,不時歸其直?」昕曰:「回紇之功,唐已報之矣。僕固懷恩之叛,回紇助之,與吐蕃連兵入寇,逼我郊畿。及懷恩死,吐蕃走,然後回紇懼而請和,我唐不忘前功,加惠而縱之。不然,匹馬不歸矣。乃回紇負約,豈唐失信邪!」回紇慚,厚禮而歸之。 丙戌,內出盂蘭盆賜章敬寺。設七廟神座,書尊號於幡上,百官迎謁於光順門。自是歳以為常。 八月,壬戌,吐蕃十萬衆寇靈武。丁卯,吐蕃尚贊摩二萬衆寇邠州,京師戒嚴;邠寧節度使馬璘撃破之。 庚午,河東節度使、同平章事辛雲京薨,以王縉領河東節度使,餘如故。 九月,壬申,命郭子儀將兵五萬屯奉天以備吐蕃。 丁丑,濟王環薨。 壬午,朔方騎將白元光撃吐蕃,破之。壬辰,元光又破吐蕃二萬衆於靈武。鳳翔節度使李抱玉使右軍都將臨洮李晟將兵五千撃吐蕃,晟曰:「以力則五千不足用;以謀則太多。」乃將千人兼行出大震關;至臨洮,屠吐蕃定秦堡,焚其積聚,虜堡帥慕容谷種而還。吐蕃聞之,釋靈州之圍而去。戊戌,京師解嚴。 穎州刺史李岵以事忤滑亳節度使令狐彰,彰使節度判官姚奭按行穎州,因代岵領州事,且曰:「岵不受代,即殺之。」岵知之,因激怒將士,使殺奭,與奭同死者百餘人。岵走依河南節度使田神功於汴州。冬,十月,乙巳,彰表言其状,岵亦上表自理。上命給事中賀若察往按之。 丁卯,郭子儀自奉天入朝。 28.十一月,丁亥,以幽州留後朱希彩為節度使。 28.十一月丁亥、幽州留後の朱希彩を節度使とした。 郭子儀還河中。元載以吐蕃連歳入寇,馬璘以四鎮兵屯邠寧,力不能拒,而郭子儀以朔方重兵鎮河中,深居腹中無事之地,乃與子儀及諸將議,徙璘鎮涇州,而使子儀以朔方兵鎮邠州,曰:「若以邊土荒殘,軍事不給,則以內地租稅及運金帛以助之。」諸將皆以為然。十二月,己酉,徙馬璘為涇原節度使,以邠、寧、慶三州隸朔方。璘先往城涇州,以都虞候段秀實知邠州留後。 初,四鎮、北庭兵遠赴中原之難,久羈旅,數遷徙,四鎮歴汴、虢、鳳翔,北庭歴懷、絳、鄜然後至邠,頗積勞弊。及徙涇州,衆皆怨誹。刀斧兵馬使王童之謀作亂,期以辛酉旦警嚴而發。前夕,有告之者;秀實陽召掌漏者,怒之,以其失節,令毎更來白,輒延之數刻,遂四更而曙,童之不果發。秀實欲討之而亂跡未露,恐軍中疑其冤。告者又雲,「今夕欲焚馬坊草,因救火謀作亂。中夕,火果發起,秀實命軍中行者皆止,坐者勿起,各整部伍,嚴守要害。童之白請救火,不許。及旦,捕童之及其黨八人,皆斬之。下令曰:「後徙者族,流言者刑!」遂徙於涇。 癸亥,西川破吐蕃萬餘衆。 平盧行軍司馬許杲將卒三千人駐濠州不去,有窺淮南意,淮南節度使崔圓令副使元城張萬福攝濠州刺史;杲聞,即提卒去,止當塗。是歳,上召萬福,以為和州刺史、行營防禦使,討杲。萬福至州,杲懼,移軍上元,又北至楚州大掠,淮南節度使韋元甫命萬福追討之;未至淮陰,杲為其將康自勸所逐。自勸擁兵繼掠,循淮而東,萬福倍道追而殺之,免者什二三。元甫將厚賞將士,萬福曰:「官健常虚費衣糧,無所事。今方立小功,不足過賞,請用三分之一。」 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦四年(己酉,公元七六九年) 春,正月,丙子,郭子儀入朝,魚朝恩邀之遊章敬寺。元載恐其相結,密使子儀軍吏告子儀曰:「朝恩謀不利於公。」子儀不聽。吏亦告諸將,將士請衷甲以從者三百人。子儀曰:「我,國之大臣,彼無天子之命,安敢害我!若受命而來,汝曹欲何為!」乃從家僮數人而往。朝恩迎之,驚其從者之約。子儀以所聞告,且曰:「恐煩公經營耳。」朝恩撫膺捧手流涕曰:「非公長者,能無疑乎!」壬午,流李岵於夷州。 乙酉,郭子儀還河中。 辛卯,賜李岵死。 二月,壬寅,以京兆之好畤、鳳翔之麟游、普潤隸神策軍,從魚朝恩之請也。 楊子琳既敗還瀘州,招聚亡命,得數千人,沿江東下,聲言入朝;涪州守捉使王守仙伏兵黄草峽,子琳悉擒之,撃守仙於忠州,守仙僅以身免。子琳遂殺夔州別駕張忠,據其城。荊南節度使衛伯玉欲結以為援,以夔州許之,為之請於朝。陽曲人劉昌裔說子琳遣使詣闕請罪,子琳從之。乙巳,以子琳為峽州團練使。 初,僕固懷恩死,上憐其有功,置其女宮中,養以為女。回紇請以為可敦,夏,五月,辛卯,冊為崇徽公主,嫁回紇可汗。壬辰,遣兵部侍郎李涵送之,涵奏祠部郎中虞鄉董晉為判官。六月,丁酉,公主辭行,至回紇牙帳。回紇來言曰:「唐約我為市,馬既入,而歸我賄不足,我於使人乎取之。」涵懼,不敢對,視晉,晉曰:「吾非無馬而與爾為市,為爾賜不既多乎!爾之馬歳至,吾數皮而歸資。邊吏請致詰也,天子念爾有勞,故下詔禁侵犯。諸戎畏我大國之爾與也,莫敢校焉。爾之父子寧而畜馬蕃者,非我誰使之!」於是其衆皆環晉拜。既又相帥南面序拜,皆舉兩手曰:「不敢有意大國。」 戊申,王縉表讓副元帥、都統、行營使,許之。 辛酉,郭子儀自河中遷於邠州,其精兵皆自隨,餘兵使裨將將之,分守河中、靈州。軍士久家河中,頗不樂徙,往往自邠逃歸;行軍司馬嚴郢領留府,悉捕得,誅其渠帥,衆心乃定。 秋,九月,吐蕃寇靈州;丁丑,朔方留後常謙光撃破之。 河東兵馬使王無縱、張奉璋等恃功驕蹇,以王縉書生,易之,多違約束。縉受詔發兵詣鹽州防秋,遣無縱、奉璋將歩騎三千赴之。奉璋逗留不進,無縱托他事擅入太原城;縉悉擒斬之,並其黨七人,諸將悍戻者殆盡,軍府始安。 冬,十月,常謙光奏吐蕃寇鳴沙,首尾四十里。郭子儀遣兵馬使渾瑊將銳兵五千救靈州,子儀自將進至慶州,聞吐蕃退,乃還。 黄門侍郎、同平章事杜鴻漸以疾辭位,壬申,許之;乙亥,薨。鴻漸病甚,令僧削髮,遺令為塔以葬。 丙子,以左僕射裴冕同平章事。初,元載為新平尉,冕嘗薦之,故載舉以為相,亦利其老病易制。受命之際,蹈舞仆地,載趨而扶之,代為謝詞。十二月,戊戌,冕薨。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦五年(庚戌,公元七七零年) 春,正月,己巳,羌奠白對蓬等各帥部落內屬。 觀軍容宣慰處置使、左監門衛大將軍兼神策軍使、內侍監魚朝恩,專典禁兵,寵任無比,上常與議軍國事,勢傾朝野。朝恩好於廣座恣談時政,陵侮宰相,元載雖強辯,亦拱默不敢應。 神策都虞候劉希暹,都知兵馬使王駕鶴,皆有寵於朝恩;希暹說朝恩於北軍置獄,使坊市惡少年羅告富室,誣以罪惡,捕系地牢,訊掠取服,籍沒其家資入軍,並分賞告捕者;地在禁密,人莫敢言。朝恩毎奏事,以必允為期;朝廷政事有不豫者,輒怒曰:「天下事有不由我者邪!」上聞之,由是不懌。 朝恩養子令徽尚幼,為內給使,衣綠,與同列忿爭,歸告朝恩。朝恩明日見上曰:「臣子官卑,為儕輩所陵,乞賜之紫衣。」上未應,有司已執紫衣於前,令徽服之,拜謝。上強笑曰:「兒服紫,大宜稱。」心愈不平。 元載測知上指,乘間奏朝恩專恣不軌,請除之。上亦知天下共怨怒,遂令載為方略。朝恩毎入殿,常使射生將周皓將百人自衛,又使其黨陝州節度使皇甫温握兵於外以為援;載皆以重賂結之,故朝恩陰謀密語,上一一聞之,而朝恩不之覺也。 辛卯,載為上謀,徙李抱玉為山南西道節度使,以温為鳳翔節度使,外重其權,實內温以自助也。載又請割郿、虢、寶雞、鄠、盩厔隸抱玉,興平、武功、天興、扶風隸神策軍,朝恩喜於得地,殊不以載為虞,驕橫如故。 壬辰,加河南尹張延賞為東京留守;罷河南等道副元帥,以其兵屬留守。延賞,嘉貞之子也。 二月,戊戌,李抱玉徙鎮盩厔,軍士憤怒,大掠鳳翔坊市,數日乃定。 劉希暹頗覺上意異,以告魚朝恩,朝恩始疑懼。然上毎見之,恩禮益隆,朝恩亦以此自安。皇甫温至京師,元載留之未遣,因與温及周皓密謀誅朝恩。既定計,載白上。上曰:「善圖之,勿反受禍!」 三月,癸酉,寒食,上置酒宴貴近於禁中,載守中書省。宴罷,朝恩將還營,上留之議事,因責其異圖。朝恩自辯,語頗悖慢,皓與左右擒而縊殺之,外無知者。上下詔,罷朝恩觀軍容等使,內侍監如故。詐云「朝恩受詔乃自縊」,以屍還其家,賜錢六百萬以葬。 丁丑,加劉希暹、王駕鶴御史中丞,以慰安北軍之心。丙戌,赦京畿系囚,命盡釋朝恩黨與,且曰:「北軍將士,皆聯爪牙,並宜仍舊。朕今親御禁旅,勿有憂懼。」 己丑,罷度支使及關內等道轉運、常平、鹽鐵使,其度支事委宰相領之。敕皇甫温還鎮於陝。 元載既誅魚朝恩,上寵任益厚,載遂志氣驕溢;毎衆中大言,自謂有文武才略,古今莫及,弄權舞智,政以賄成,僭侈無度。吏部侍郎楊綰,典選平允,性介直,不附載。嶺南節度使徐浩,貪而佞,傾南方珍貨以賂載。辛卯,載以綰為國子祭酒,引浩代之。浩,越州人也。載有丈人自宣州來,從載求官,載度其人不足任事,但贈河北一書而遣之。丈人不悅,行至幽州,私發書視之,書無一言,惟署名而已。丈人大怒,不得已試謁院僚,判官聞有載書,大驚,立白節度使,遣大校以箱受書,館之上捨,留宴數日,辭去,贈絹千匹。其威權動人如此。 夏,四月,庚子,湖南兵馬使臧玠殺觀察使崔灌;澧州刺史楊子琳起兵討之,取賂而還。 涇原節度使馬璘屢訴本鎮荒殘,無以贍軍,上諷李抱玉以鄭、穎二州讓之;乙巳,以璘兼鄭穎節度使。 庚申,王縉自太原入朝。 癸未,以左羽林大將軍辛京杲為湖南觀察使。 荊南節度使衛伯玉遭母喪,六月,戊戌,以殿中監王昂代之。伯玉諷大將楊鉥等拒昂留己;甲寅,詔起復伯玉鎮荊南如故。 秋,七月,京畿饑,米斗千錢。 劉希暹內常自疑,有不遜語,王駕鶴以聞。九月,辛未,賜希暹死。 吐蕃寇永壽。 冬,十一月,郭子儀入朝。 上悉知元載所為,以其任政日久,欲全始終,因獨見,深戒之;載猶不悛,上由是稍惡之。 載以李泌有寵於上,忌之,言:「泌常與親故宴於北軍,與魚朝恩親善,宜知其謀。」上曰:「北軍,泌之故吏也,故朕使之就見親故。朝恩之誅,泌亦預謀,卿勿以為疑。」載與其黨攻之不已;會江西觀察使魏少游求參佐,上謂泌曰:「元載不容卿,朕今匿卿於魏少游所,俟朕決意除載,當有信報卿,可束裝來。」乃以泌為江西判官,且屬少游使善待之。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦六年(辛亥,公元七七一年) 春,二月,壬寅,河西、隴右、山南西道副元帥兼澤潞、山南西道節度使李抱玉上言:「凡所掌之兵,當自訓練。今自河、隴達於扶、文,綿亙二千餘里,撫御至難。若吐蕃兩道俱下,臣保固汧、隴則不救梁岷,進兵扶、文則寇逼關輔,首尾不贍,進退無從。願更擇能臣,委以山南,使臣得專備隴坻。」詔許之。 郭子儀還邠州。 嶺南蠻酋梁崇牽自稱平南十道大都統,據容州,與西原蠻張侯、夏永等連兵攻陷城邑,前容管經略使元結等皆寄治籐梧。經略使王翃至籐州,以私財募兵,不數月,斬賊帥歐陽珪,馳詣廣州,見節度使李勉,請兵以復容州,勉以為難,翃曰:「大夫如未暇出兵,但乞移牒諸州,揚言出千兵為援,冀藉聲勢,亦可成功。」勉從之。翃乃與義州刺史陳仁璀、籐州刺史李曉庭等結盟討賊。翃募得三千餘人,破賊數萬衆;攻容州,拔之,擒梁崇牽,前後大小百餘戰,盡復容州故地。分命諸將襲西原蠻,復鬱林等諸州。 先是,番禺賊帥馮崇道,桂州叛將朱濟時,皆據險為亂,陷十餘州,官軍討之,連年不克;李勉遣其將李觀與翃並力攻討,悉斬之,三月,五嶺皆平。 河北旱,米斗千錢。 夏,四月,己未,澧州刺史楊子琳入朝,上優接之,賜名猷。 庚申,以典內董秀為內常侍。 吐蕃請和;庚辰,遣兼御史大夫吳損使於吐蕃。 成都司録李少良上書言元載奸贓陰事,上置少良於客省。少良以上語告友人韋頌,殿中侍御史陸珽以告載,載奏之。上怒,下少良、頌、珽御史台獄。御史奏少良、頌、珽凶險比周,離間君臣,五月,戊申,赦付京兆,皆杖死。 秋,七月,丙午,元載奏,凡別敕除文、武六品以下官,乞令吏部、兵部無得檢勘,從之。時載所奏擬多不遵法度,恐為有司所駁故也。 八月,丁卯,淮西節度使李忠臣將兵二千屯奉天防秋。 上益厭元載所為,思得士大夫之不阿附者為腹心,漸收載權。丙子,內出制書,以沂西觀察使李棲筠為御史大夫,宰相不知,載由是稍絀。 九月,吐蕃下青石嶺,軍於那城;郭子儀使人諭之,明日,引退。 是歳,以尚書右丞韓滉為戸部侍郎、判度支。自兵興以來,所在賦斂無度,倉庫出入無法,國用虚耗。滉為人廉勤,精於簿領,作賦斂出入之法,御下嚴急,吏不敢欺;亦值連歳豐穰,邊境無寇,自是倉庫蓄積始充。滉,休之子也。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦七年(壬子、七七二年) 1.春,正月,甲辰,回紇使者擅出鴻臚寺,掠人子女;所司禁之,毆撃所司,以三百騎犯金光、朱雀門。是早,宮門皆閉,上遣中使劉清潭諭之,乃止。 1.春正月甲辰、回紇の使者は勝手に鴻臚寺を出て人の子女を拐い、所司がこれを禁ずると、所司を殴打し、三百騎で金光門・朱雀門に侵入した。この火早朝、宮門はすべて閉ざし、お上は中使の劉清潭を派遣して説諭させた。そこでこのことは止んだ。 三月,郭子儀入朝;丙午,還邠州。 2.三月、郭子儀が入朝した。丙午、邠州に帰った。 3.夏,四月,吐蕃五千騎至靈州,尋退。 3.夏四月、吐蕃の五千騎が霊州に到ったが、ついで退却した。 4.五月,乙未,赦天下。 4.五月乙未、天下に大赦した。 5.秋,七月,癸巳,回紇又擅出鴻臚寺,逐長安令邵説至含光門街,奪其馬、説乘他馬而去,弗敢爭。 5.秋七月癸巳、回紇がまた勝手に鴻臚寺から出て、長安令の邵説を追って、含光門街に到り、その馬を奪った。邵説は他の馬に乗って去り、敢えて争わなかった。 6.盧龍節度使朱希彩既得位,悖慢朝廷,殘虐將卒;孔目官李懷瑗因衆怒,伺間殺之。衆未知所從;經略副使朱泚營於城北,其弟滔將牙內兵,潛使百餘人於衆中大言曰:「節度使非朱副使不可;」衆皆從之。泚遂權知留後,遣使言状。冬,十月,辛未,以泚為檢校左常侍、幽州、盧龍節度使。 6.盧龍節度使の朱希彩はすでに節度使の位を得て,朝廷に背きもとり、将卒に対して残虐であった。孔目官の李懐瑗は軍が怒っているため、隙を伺って殺した。軍は誰に従っていいのかわからず、経略副使の朱泚は城北に入営し、その弟の朱滔は牙軍内の兵を率いて、密かに百人あまりに軍内で、「節度使は朱副使でないとだめだ」と大言させて、軍は皆これに従った。朱泚は遂に仮に留後を司り、使者を派遣して言上した。冬十月辛未、朱泚を検校左常侍をし、幽州盧龍節度使とした。 7.十二月,辛未,置永平軍於滑州。 7.十二月辛未、永平軍に滑州を設置した。 代宗睿文孝武皇帝中之上大暦八年(癸丑、七七三年) 春,正月,昭義節度使、相州刺史薛嵩薨。子平,年十二,將士脅以為帥,平偽許之;既而讓其叔父崿,夜奉父喪,逃歸鄉里。壬午,制以崿知留後。 二月,壬申,永平節度使令狐彰薨。彰承滑、亳離亂之後,治軍勸農,府廩充實。時籓鎮率皆跋扈,獨彰貢賦未嘗闕;歳遣兵三千詣京西防秋,自繼糧食,道路供饋皆不受,所過秋毫不犯。疾亟,召掌書記高陽齊映,與謀後事,映勸彰請代人,遣子歸私第;彰從之,遺表稱:「昔魚朝恩破史朝義,欲掠滑州,臣不聽,由是有隙。及朝恩誅,值臣寢疾,以是未得入朝,生死愧負。臣今必不起,倉庫畜牧,先已封籍,軍中將士,州縣官吏,按堵待命。伏見吏部尚書劉晏、工部尚書李勉可委大事,願速以代臣。臣男建等,今勒歸東都私第。」彰薨,將士欲立建,建誓死不從,舉家西歸。三月,丙子,以李勉為永平節度使。 吏部侍郎徐浩、薛邕,皆元載、王縉之黨;浩妾弟侯莫陳怤為美原尉,浩屬京兆尹杜濟虚以知驛奏優,又屬邕擬長安尉。怤參台,御史大夫李棲筠劾奏其状,敕禮部侍郎萬年於邵等按之。邵奏邕罪在敕前,應原除,上怒。夏,五月,乙酉,貶浩明州別駕,邕歙州刺史;丙戌,貶濟杭州刺史,邵桂州長史,朝廷稍肅。 辛卯,鄭王邈薨,贈昭靖太子。 回紇自乾元以來,歳求和市,毎一馬易四十縑,動至數萬匹,馬皆駑瘠無用;朝廷苦之,所市多不能盡其數,回紇待遣、繼至者常不絕於鴻臚。至是,上欲悅其意,命盡市之。秋,七月,辛丑,回紇辭歸,載賜遣及馬價,共用車千餘乘。 6.八月,己未,吐蕃六萬騎寇靈武,踐秋稼而去。 6.八月己未、吐蕃の六万騎が霊武に侵入し、秋の実りを踏んで去った。 7.辛未,幽州節度使朱泚遣弟滔將五千精騎詣涇州防秋。自安祿山反,幽州兵未嘗為用,滔至,上大喜,勞賜甚厚。 7.辛未、幽州節度使の朱泚が弟の朱滔を派遣し、五千の精鋭騎兵を率いて涇州に到って防備した。安禄山が叛いて以来、幽州の兵いまだかつて用いたことがなく、朱滔が来るとお上は大いに喜び、労い賜物が非常に厚かった。 8.壬申,回紇復遣使者赤心以馬萬匹來求互市。 8.壬申、回紇がまた使者赤心を派遣し馬一万匹で来て互市を求めた。 9.九月,壬午,循州刺史哥舒晃殺嶺南節度史呂崇賁,據嶺南反。 9.九月壬午、循州刺史の哥舒晃が嶺南節度史の呂崇賁を殺し、嶺南によって叛いた。 癸未,晉州男子郇模,以麻辮發,持竹筐葦席,哭於東市。人問其故,對曰:「願獻三十字,一字為一事;若言無所取,請以席裹屍,貯筐中,棄於野。」京兆以聞。上召見,賜新衣,館於客省。其言「團」者,請罷諸州團練使也;「監」者,請罷諸道監軍使也。 魏博節度使田承嗣為安、史父子立祠堂,謂之四聖,且求為相;上令內侍孫知古因奉使諷令毀之。冬,十月,甲辰,加承嗣同平章事以褒之。 靈州破吐蕃萬餘衆。吐蕃衆十萬寇涇、邠,郭子儀遣朔方兵馬使渾瑊將歩騎五千拒之。庚申,戰於宜祿。瑊登黄萯原望虜,命據險布拒馬以備其馳突。宿將史抗、温儒雅等意輕瑊,不用其命;瑊召使撃虜,則已醉矣;見拒馬,曰:「野戰,烏用此為!」命撤之。叱騎兵沖虜陣,不能入而返;虜躡而乘之,官軍大敗,士卒死者什七八,居民為吐蕃所掠千餘人。 甲子,馬璘與吐蕃戰於鹽倉,又敗。璘為虜所隔,逮暮未還,涇原兵馬使焦令諶等與敗卒爭門而入。或勸行軍司馬段秀實乘城拒守,秀實曰:「大帥未知所在,當前撃虜,豈得苟自全乎!」召令諶等讓之曰:「軍法,失大將,麾下皆死。諸君忘其死邪!」令諶等惶懼拜請命。秀實乃發城中兵未戰者悉出,陳於東原,且收散兵,為將力戰状。吐蕃畏之,稍卻。既夜,璘乃得還。 郭子儀召諸將謀曰:「敗軍之罪在我,不在諸將。然朔方兵精聞天下,今為虜敗,何策可以雪恥?」莫對。渾瑊曰:「敗軍之將,不當復預議。然願一言今日之事,惟理瑊罪,不則再見任。」子儀赦其罪,使將兵趣朝那。虜既破官軍,欲掠汧、隴。鹽州刺史李國臣曰:「虜乘勝必犯郊畿,我掎其後,虜必返顧。」乃引兵趣秦原,鳴鼓而西。虜聞之,至百城,返,渾瑊邀之於隘,盡復得其所掠。馬璘亦出精兵襲虜輜重於潘原,殺數千人,虜遂遁去。 己丑,以江西觀察使路嗣恭兼嶺南節度使,討哥舒晃。 初,元載嘗為西州刺史,知河西、隴右山川形勢。是時,吐蕃數為寇,載言於上曰:「四鎮、北庭既至涇州,無險要可守。隴山高峻,南連泰嶺,北抵大河。今國家西境盡潘原,而吐蕃戍摧沙堡,原州居其中間,當隴山之口,其西皆監牧故地,草肥水美,平涼在其東,獨耕一縣,可給軍食,故壘尚存,吐蕃棄而不居。毎歳盛夏,吐蕃畜牧青海,去塞甚遠,若乘間築之,二旬可畢。移京西軍戍原州,移郭子儀軍戍涇州,為之根本,分兵守石門、木峽,漸開隴右,進達安西,據吐蕃腹心,則朝廷可高枕矣。」併圖地形獻之,密遣人出隴山商度功用。會汴宋節度使田神功入朝,上問之,對曰:「行軍料敵,宿將所難,陛下奈何用一書生語,欲舉國從之乎!」載尋得罪,事遂寢。 有司以回紇赤心馬多,請市千匹。郭子儀以為如此,逆其意太甚,自請輸一歳俸為國市之。上不許。十一月,戊子,命市六千匹。
https://w.atwiki.jp/ankoss/pages/621.html
1.幼年期 あおむけの姿勢のままで落下する、一個のゆっくりの姿があった。 「まりしゃは おしょら とんでりゅ みたいなんだじぇ~~~~~」 全身を突きぬける浮揚感とそれゆえの多幸感は、しかし唐突に終わった。 「…………ゆぴぇぇっ!」 着地とともに、赤ゆのまりさは悲鳴した。 それは常日頃からおこなっている遊びのひとつだった。石の上から草むらへと跳びはねて、 ほんの一瞬の無重力状態をたのしむという、すこぶる単純な遊びにすぎなかった。 まりさが跳躍台とした石の高さは、成体ゆっくりの平均的な体長よりも低い。さらに地面には 雑草という緩衝材が用意されている。怪我はありえないはずだった。 ところが、ふたつの理由が赤ゆのまりさに不幸をもたらした。 ひとつは、いつもの遊びに変化をつけようと思い、あおむけの体勢で飛行を試みたこと。 もうひとつは、おそらくは風に吹かれてやってきたのだろう、落下地点にうずくまって いた小石が、剣を逆さに突き立てたように鋭利な切っ先を空にむけていたことである。 そのうえに後頭部から落下すれば、怪我を負わないほうがふしぎだった。 まりさは全身をしたたかに打ちすえたばかりか、後頭部が掻き切られ、その傷口から 餡子脳の一部がじゅくじゅくと流出した。我慢を知らない赤ゆのまりさは、身を焦がすような 激痛に泣きじゃくり、腹を切りさかれた芋虫のようにもんどりうった。 ところが、突然にまりさは動きを止めた。 涙は堰きとめられ、笑顔が表出する。 跳ね起きて、青空に宣言した。 「いたく なくなったんだじぇっ。なおったんだじぇっ」 と、言ったものの傷口は依然として開いているし、金髪は餡子に汚れている。 だが、傷穴は後頭部にうがたれていたうえに、痛みまで消えたとあっては 餡子脳が完治したと錯覚するのも無理はない。激痛を覚えたことさえ忘れ果て、 その足で家族の待っているほら穴に帰宅した。 帰還したまりさの姿を見て、両親姉妹は仰天した。 頭から黒い脳漿の一部がはみでているのだ。 驚かないほうがどうかしている。 すぐさま、赤ゆのまりさは拘束された。 「へーきなんだじぇー! いたくないんだじぇー! はなちぇー! はなちぇー!」 と、姉妹に体を抑えつけられながらも、まりさは必死で抵抗した。抵抗するだけ脳がこぼれた。 当人は平気を訴えていたが、それに耳を貸すゆっくりは一匹もいなかった。 治療がはじまった。 ゆっくりの治療法は主としてふたつある。 ひとつは「ぺーろぺーろ」と呼称されている行為で、要するに怪我人を舐めるだけである。 効果のほどは疑わしいが、ゆっくりはこれに全幅の信頼をおいている。雑貨や家具にまで 効果があると信じており、治療修復の効果があらわれないときは患者にやつあたりしてしまうほどである。 もうひとつは、甘いものを食べさせることだ。 こちらは抜群の効果を生む。量さえあれば、瀕死でさえもまたたくまに治ってしまう。 ただ、甘さこそ味覚の王と信じて疑わないゆっくりの社会においては、 甘味はただちに費消しつくされる運命にある。ゆえに貯蓄や速やかな調達はのぞめない。 だが、不幸のなかにも幸運あり、このときの巣穴には「あまあま」があった。 山葡萄の実だ。 夕餉のためにと親が昼のうちに獲ってきたものだった。 たった三粒しかなかったが、すべてまりさに与えられた。 まりさはそれを食すると、 「おいちー。ちあわちぇー……」 と、恍惚とした。 妙薬の威力はたちまち顕現した。後頭部の傷口はみるみるふさがった。 危地を脱して、家族は胸をなでおろした。 ゆっくりの生涯にも分水嶺というものがあるのなら、間違いなくこの日がそれといえた。 赤ゆは餡子脳とともに痛覚もこぼしていた。 ゆっくりの体内物質は――餡子やクリームといったふざけた物質である――筋肉と神経をかねていて、 どこの部分がどの機能を担当するという区分はない。 だが、その総量が一定の閾値にまで下がると、なんらかの影響がでてしまう。その症状としては、 記憶の喪失、運動能力の恒久的減衰、生殖機能の毀損、なんでもありだ。 まりさにとっては痛みの喪失となったらしい。 こうして無痛症のまりさが完成した。 やがて赤ゆの体に時がふり、まりさは長じて独立し、家族のもとを去って別天地をもとめた。 2.異形のゆっくり 金色の靄のたちこめる草むらで、まりさとありすが対峙していた。 まりさは口の端をつり上げており、その双眸に宿る侮蔑は否定しがたい。 一方のありすは親の仇を見るかのごとくに殺意をたぎらせている。 「ありす。なんなんだぜ。まりさはいそがしーんだぜ、さっさというんだぜ!」 まりさが口火を切った。 「あなた……ぱちゅりーと『すっきりぃー』したでしょう!」 「ふんっ。どういのうえで、なんだぜ」 まりさの瞳に灯される侮蔑の炎はいよいよ盛んになった。 ありすは、なかば呆然としながら問い返す。 「……なんですって」 「どーいのうえで、なんだぜ! ぱちゅりーが『すっきりぃーしましょー』っていってきたんだぜ! だから しょーがなく『すっきりぃー』してやったんだぜ。まちがいないんだぜ」 「でたらめよ。ばかいわないで」 「でたらめ? かくにん したんだぜ?」 「そんなの……できるはず ないでしょうっ。だって、ぱちゅりーは、ぱちゅは……」 「ゆっくりしちゃったんだぜ? えいえんに ゆっくり しちゃったんだぜ? ゆひひっ、よわいくせに『すっきりぃー』なんて するから なんだぜ」 「……」 ありすは押しだまる。 まりさの言分の是非は、永遠に、換言すれば物理的に確認できない状態となっていた。 草むらに一陣の風が駆けぬける。両者の金髪がふわりと持ちあがり、すぐに沈んだ。 「よかったんだぜ!」 「……ゆ?」 「だってぱちゅりー、よろこんでたんだぜ! よがってたんだぜ! ひーひーいってたんだぜ! すっきりぃー なんてさけんでたんだぜ! こんなことも いってたんだぜ! すーぱー! ねとられ! たいむぅっ! すっきりぃぃぃぃーっ!」 まりさは腹をかかえて笑いだす。 ありすの表情は対照的に、鋼のような冷たさをたたえていた。 「……ぱちゅりーが しんだことは かわりないわ」 「ふん。だったら、なんなんだぜ?」 「しんでね!」 眼光をぎらつかせ、ありすは眼前の黒帽子に突撃した。 まりさはほくそ笑んでいる。動こうとさえしない。 「ゆんっ!」 力の限り、ぶん殴った。 ありすの体当たりは、まりさの腹部を直撃する。仇敵をふっとばした。 「しねっ、しねっ、ゆっくりしね!」 転がったところに追撃をかけた。 殴り、蹴り、踏みしだく。 ありすの口が大きく開かれた。どてっぱらを食いちぎろうとする。 だが、食いつこうとする刹那、まりさは横転してそれを回避した。寄せ手の口が、かちりと鳴った。 まりさはすっと起きあがる。 ありすの顔面に、まりさの殴打が襲いかかる。 粘り気のある白い血が青みの残る夕空に舞った。 顔の造作がつぶれていた。 「……ゆ゛ごっ!? ゆぐっ、っべぇっ、ゆぇぇ゛っ!」 ありすは七転八倒して苦しんだ。あんよをばたつかせ、意味をなさない嗚咽を吐き、 夕焼けを舐める舌はうねうねと動いていた。無防備な性器と肛門から甘い匂いのする水がこぼれた。 まりさは、激痛に苦しむありすの姿をしばし観賞した。 ありすの動きが小さくなった。息は荒々しいものの、激痛はひきつつあるようだ。 肛門から吐き出されている尿の量も少なくなった。 その様子を見てとり、まりさは帽子のなかから樹の枝を取りだした。 樹の枝は、丈はみじかかったが、太さがあった。 その枝を、ありすのまむまむに挿入する。 「……!」 まりさの顔面に拡張されたまむまむが接近した。 そして、まむまむとの接点を支点にし、中身をぐりぐりと攪拌した。 内部から間断なく襲いくる、津波のような激痛に、ありすは悲鳴さえあげられなかった。 穴という穴から汁を噴出される。やがてありすは痛みのあまりに失神した。 「ゆんっ!」 勢いよく棒を引き抜いた。 まむまむが、切れた。気絶しながらも「ゆ゛っ」と言ってありすの体が跳ねあがる。 狼藉のかぎりをつくされたまむまむは、二度とその本懐を遂げることはないだろう。 まりさは、クリームまみれの木の棒をその場に放り捨てた。 「ゆっくりしていってね!!!」 そう吐き捨てて、勝利者は踵をかえした。 まりさは、強かった。 とにかく強かった。 本来、ゆっくりは脆弱だ。 言語はあるが文明はなく、知識も知恵も貧困きわまる。 運動量において犬に負け、勇気において鳥に及ばず、力において人間とは比較にならない。 極端なまでに水に弱く、苦みや辛みはひとしく毒となり、暑さにも寒さにもすこぶる弱い。 性格もおしなべて低劣といってよく、 強きにおもねり弱きをくじいて恥じることを知らず、根拠があるわけでもなく傲慢で、 その自信は過剰どころの騒ぎではなく、ばかばかしいほど不衛生で、 貪欲ではあるが向上心にとぼしく、幸福を望んでいるが努力など歯牙にもかけず、 ゆっくりしていってねとよく叫ぶくせに、他者がゆっくりしていると爛々と嫉妬を燃やす。 肉体的にも精神的にも、弱すぎる。 しかしながら、ゆっくりの脆弱たる真因は、 「痛がり」 という一点に尽きた。 ほんの少しの打撃を受けただけで、蚊の刺した痛みをおぼえただけで、 家畜のような悲鳴をあげ、失禁し脱糞し落涙し嘔吐し、抵抗の心は根こそぎ剥奪される。 しかるべき攻撃をくらえば、もはや戦うことを忘れてしまう。 だからこそ、彼らは弱い。 一撃でひれ伏す生物が、どうして強者として君臨することができようか。 ところが、ここに痛みを覚えないゆっくりがいる。 まりさだ。 まりさの強さの淵源は、痛覚過敏というゆっくりの特質の裏返しであった。 幼いころの事故により餡子脳もろとも痛みを喪失したまりさは、攻撃をうけても痛みを感じることなどない。 だから継続的に戦闘することができ、ゆっくりならざる強さを発揮する。 そのために、まりさは家族のもとを離れて新しい群れに参入してから、一年を経ずして、 新参者にもかかわらず群れに専制を布くことができた。たとえば、他人のツガイを奪いとって 犯した挙句に死にいたらしめて、報復に燃えるゆっくりありすを虐め抜いてみせるほどに。 草むらをかき分けて、まりさは巣に帰還した。 夕暮れはいよいよその濃度を増し、夜の足音が聞こえる時間となっていた。 まりさの家は立派なものだ。ダンボールの上に青いビニールシートをかぶせ 天井に石を置いて補強したもので、ゆっくりの家としては上等の部類に属する。 家の資材は人間の里からくすねた。 そのおりに、資材獲得を命じたゆっくりの何匹かが犠牲になったが、 その事実にまりさはいささかの痛痒も感じていなかった。 ビニールの切れこみからまりさが我が家に入りこむ。 「……おかりなさい」 ツガイのれいむが出迎えてくれる。 うやうやしく頭を垂れて、主人の帰還をことほいだ。 床にべったりと額を押しつけて、まりさに無防備な頭を呈示する。 「ゆう……」 れいむが苦悶の吐息をもらす。 まりさが差し出された頭の上に乗ったからだ。 無表情を保ったまま、れいむの上で跳びはねはじめる。 「ゆぐっ、ゆべっ、ゆぎっ……」 なんどもなんども押しつぶす。 マウントポジションを解放し、れいむの尻を蹴りとばした。 「ゆごっ……」 最後に、帽子から棍棒を取りだしてつがいを七回打った。 かくして、つがいの顔は腫れあがる。 「ごはんさん、だすんだぜ。はやくするんだぜ」 「ぁ、あい……」 咳き込みつつ返答する。れいむがダンボールの一隅に移動した。 そこに積まれていた茸と草の山を、まりさに差し出した。 まりさは何も言わずに食べはじめる。その光景をれいむは一心に見つめている。 すぐに食餌が終わった。献上した食餌は草一本も残らず食いつくされた。 「……」 まりさが家の外に移動する。その背中をれいむが追う。 外では虫がむせびないていた。 まりさの腹から糞が落とされた。排泄が終わると無言とともに家に戻った。 その背中を見届けてから、れいむは餡子糞と向きあった。 夕方の冷気を吸いこみ、あらん限りの力を腹にこめて、叫んだ。 「れいむのぉぉぉぉぉ! すーぱぁぁぁぁぁぁ! むーしゃむーしゃぁ! たーいむぅぅぅぅぅ!」 そう叫ぶやいなや、つがいの残した餡子糞に食らいついた。 虫の音に祝福されて、れいむはついに排泄物を食い終えた。 家に戻る。 まりさは相変わらずの無表情だ。喜怒哀楽が消えている。 「れいむ。いつものだぜ。いつものあれ、はじめるんだぜ」 「はい……」 れいむはまりさに従順だ。 隷従しているといってもよい。 黒帽子の中から取り出されたものは、特大型の画鋲だった。 傘の部分は透明なプラスチックで出来ていて、その滑らかな曲線が美しくも艶めかしい。 家の資材を取ってこさせたおりに獲得した余剰品であった。 ここから、儀式がはじまる。 まりさは腹を突きだした。 れいむは画鋲を口に持つ。 そして、画鋲の先端をまりさの腹、まむまむに向けた。 するり。 と、画鋲がまりさの腹に突き刺さる。 一気に根もとまで潜りこんだ。 通常ならば、痛みにのたうつ。 だが。 「ゆふっ」 まりさは嬌声に近い吐息を漏らした。 その体が微震を始める。目を薄くあけながら桜色に頬を染めている。 しっとりと汗を滲ませて恍惚にひたった。 れいむはつがいの陶酔を冷たい瞳で見すえている。 針を体内に差しこまれておいて快感を覚えられるなど、通常のゆっくりには化け物にしか見えない。 ひとしきり快楽を堪能すると、まりさは口を開いた。 「もう……いいんだぜ」 れいむはプラスチックの取っ手を持ち、するりと抜いた。 「ゆふぅ……」 差し入れたときに比べて、余韻にいろどられた穏やかな吐息が発せられた。 魔剣はまりさの帽子に格納され、二匹は眠りについた。 これらは夕暮れから夜にかけて必ず行われる。 呼吸のような家庭内暴力も、食糞を強要する行為も、 そしてみずからの性器に金属を刺しこませる行為も、すべては平時の光景だった。 前者ふたつについては、まりさの性格に起因する。虐めることが目的だ。 最後の自虐についてだが、まりさの肉体的特質に理由がもとめられる。 まりさは痛みをうしなっている。 痛みを喪うとは、すべての感覚を喪失するにひとしい。暑さも寒さも感じることがなく、 まるで幽霊と化したような茫洋たる感覚にいだかれる。その存在の耐えがたい軽さを、 あえて不快を催すことで慰めようとしていた。 いかに痛覚を忘却しているとはいえ、体内深くに針を刺されれば いくばくかの不快を覚えざるをえない。ほのかな痛みは、まりさに生きているという感動を蘇らせる。 なお、そんなことをして問題がないのかという疑問はおのずから浮かんでくる。 結論から言えば問題ない。 ゆっくりにあっては、運動をつかさどる筋肉と神経、知能と意識を担う脳細胞といったように、 組織の分化がさして進んでいない。ほとんどの活動は体内餡子が一手に引き受けてくれる。 針を刺して引き抜いたところで、それは水に手をつっこんで掻きまわすようなもので、 抜いてしまえば一切の影響を与えない。 問題は餡子の総量であって、その均衡や分布ではない。水分子の場所が違えども、 泉の風景には一切の反響を呼び起さない。また、針により空いた穴はきわめて小さく、 体内餡子の流出もほとんどない。 精神的ストレスがゆっくりの体に影響を及ぼすことはありうるが、 そもそも痛みを感じないまりさにはその心配もない。 とはいえ、それはまりさの論理であり、ほかのゆっくりには通じない。 毎晩にわたりこの異様な儀式を執りおこなっているれいむにしてもそれは同じだ。 針を突き刺しても快感しか覚えないゆっくりなど、れいむの目には怪物にしか映らない。 しかし、れいむは怪物にかしずいている。 その理由は、ダンボールの隅に積まれている帽子やカチューシャが説明してくれる。 大小さまざまなそれらのシンボルは、れいむにゆかりのあるゆっくりの所持品だ。 れいむの夫、友人、そして子供。 それらのお飾りが独立して存在しているということは、もちぬしたるゆっくりが 死に絶えているということに他ならない。 全員、まりさに殺された。 れいむは三度夫を変えた。まりさは四人目のつがいとなる。その前の三人は すべてまりさの手にかかって死んだ。まりさは一度たりとも自分のつがいになれとは言わなかった。 ただ、れいむが新しいつがいを得るたびにこれを殺した。最終的に、れいむは自ら結婚を申し出るにいたった。 それまでの間に、れいむは十二人の仔を得ていた。 まりさ種が三匹、れいむ種が三匹、ありす種が五匹、ぱちゅりー種が一匹だ。 結婚の翌日、子供はすべて死んだ。 間引いたのはまりさだ。理由は明かされなかったし、どうせ聞いても 理解できないのだろうとれいむは思った。これらの暴虐を経て、れいむはすべてを諦めて まりさの奴隷となる生涯を選択した。 結婚生活において、まりさを理解しようとは一度も思ったことがなかった。 嵐に似ている。 嵐に遭遇した生きものは、たとえ知能を有していようとも、嵐を理解しようとは思わない。 ただひたすら耐え凌ごうと努力する。 まりさという化け物じみた暴君の庇護下にあって、これを理解せよと強要するのは、 嵐に打たれながら嵐を解せよと命令するにひとしく、れいむには忍耐を越えて理解に走る根気も理由もなく、 ゆえに忍従ばかりの生涯を送っている。 3.再生と喪失 日中、まりさはほとんど家にいない。 では外で何をしているのかと言えば、略奪と暴虐がその太宗だ。 その間、つがいのれいむはまったく放置される。 この状況が常態となると、れいむは一念発起して人間との接触をこころみた。 群れから少し離れたところに、白亜の壁に囲まれた、人間のゆっくりプレイスがある。 と、れいむは認識していたが、それはゆっくりの加工所であった。 わざわざ山のなかに築かれているのは豊富で新鮮な水を求めてのことと、 れいむの属する群れが、おもいのほか人間の里から離れていないという単純な事実による。 それはともかく、れいむはこの工場におもむいて、とある人間との交信に成功した。 年齢は三十代半ばといったところか。 細面で色白の男はとても工場勤めとは思ええない。 それもそもはず、かれは工員ではなく研究員だった。工場はゆっくり研究所も兼ねていた。 れいむはこの人間に、ひとつの悩み事を打ち明けていた。 「……まりさが いたがらないの! にんげんさんの ちからで なんとかしてね!」 というものだ。 言葉遣いはいささか乱暴だが、その瞳は真摯だった。 毎晩の儀式は、まりさが痛みを覚えたがっている、という認識をれいむに植えていた。 人間はその頼みを聞くと、いささか驚き、やがてしきりにうなずき、森の中で待っていろと言い、 一度建物のなかに引っこんだ。 戻ってきたとき、その手には瓶が持たれていた。 人間は便のなかからカプセルを数個取り出して、れいむに授けた。 「これをまりさに食べさせてあげるんだ。これで痛みは戻るよ」 さらに人間は言葉を添えた。 「できれば、草とかに混ぜてあげるんだ。まりさを驚かせよう」 れいむは顔を輝かせた。 「ありがとうね! にんげんさん! にんげんさんはゆっくりできるよ!」 なんども頭を垂れて、れいむはカプセルとともに工場を後にした。 人間の渡した薬は、確かにゆっくりの無痛症を治すものだった。 が、このカプセルが精製された目的は治療用ではなかった。 とある趣味の人々のニーズを満足させるために造られたのだ。 この薬を摂取すると、ゆっくりの体内餡子に異変が起こり、痛覚が何倍にも増幅される。 そして仮に痛覚がなくとも、あらたに植えることができる。 れいむは自分でも驚くくらいに、よく働いた。 すべてはまりさのためだった。 まず、柔らかい草を集めた。とくに新芽はまりさの好物なので選りすぐった。 ついで、人間から与えられたカプセルを割り、それを草のなかに放りこんで、ていねいにすりつぶした。 こうして草と薬の練りあわせが完成した。 日が傾き、黄昏が過ぎる時間となり、まりさが帰還した。 いつもどおりに鞭打たれ、いつもどおりに食事を献上した。 まりさはご馳走に舌鼓を打った。 つがいの食事をれいむは固唾をのんで見守った。 まりさは動きを止めた。 しばし固まった。 そして突然、 「ゆ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛っっっ!!!!!!??????」 まりさは驚愕にうちふるえ、瞠目した。 全身に電流が走った。 皮膚が震える。 餡子が流動する。 まりさは痛覚を獲得した。 ただ、痛みを覚えるだけの刺激は皆無であったので、まりさは全身をつきぬけるほのかな重みに陶酔した。 感覚が戻った。 あんよがむずむずする。 流れる大気が心地よい。 髪の一筋にまで神経が宿り、世界の息吹を感じている。 総じて体が重かった。 だが、その重みは生命の重み、自分は生きているという実感にほかならない。 不愉快ではない。 むしろ名状しがたい幸福感が体の奥底から湧出してきた。 ということは、はためにはわからない。 れいむは、微震をつづけるつがいを、心配そうな目で見つめていた。 「れ……れいむっ!」 「は、はい!」 まりさはれいむに振り返った。 なにやら殺気だった目だ。 れいむは本能的に危険を感じて、ぷしっと失禁した。 そんな反応などまるで気にも留めず、まりさは帽子の中から例のプラスチックの画鋲を取りだした。 「これを……やるんだぜ!」 有無を言わせぬ力強さがあった。 まりさは感覚の回復に躍りあがっていた。 浮かれていたとも言えた。 思考回路はただちに一個の回答を導き出していた。 すなわち、何をしていない状態でも、まむまむに針を刺しいれたよりも数倍の快感を獲得しているのだ。 この状態でまむまむに針を入れれば? 卒倒するような極楽を味わえるのではないか。 という、経験論的な直観だ。 そんなことなど分からないれいむは、とにかく従うしかない。 「いいか、れいむ! よくきくんだぜ!」 「は、はいっ!」 「ためらうんじゃ ないんだぜ! いっきに やるんだぜ! ずっぷりと ねもとまで やるんだぜ! そのあとで、ぐりぐりやるんだぜ! ぐーりぐーりするんだぜ! なにが あっても やりとげるんだぜ! なにが あっても なんだぜ! ぜったいに なんだぜ! わかったんだぜ!?」 「はい! やるね!」 殺気立つまりさに怯えつつ、れいむはこくこくと何度もうなずいた。 そして、プラスチックの取っ手を持ち、切っ先をまりさのまむまむに向けた。 「わーくわーくっ! わーくわーくっ!」 まりさは心躍らせている。 れいむはきゅっと目を閉じて、 「ゆんっ!」 命令通り、一息に画鋲を傘の根もとまで差しこんだ。 まりさは、刮目した。 人間が与えたカプセルは、ゆっくりに痛覚を与えるドラッグだ。 その一粒でも凄まじい効果をもたらす。 ましてや、れいむがまりさに呑ませたカプセルの数は、七個である。 まりさの痛覚は、通常ゆっくりとは比較にならないほど鋭くなっていた。 ――――――――――――――――――!? 画鋲が刺さる。 体内餡子と饅頭皮が、ただちに異物を認識した。 警報がはっせられる。 異物をのぞけ、危険であると、爆音のような警報がうち鳴らされる。 その警報とは痛みにほかならない。 おまけに、警報発信器はひどく敏感になっている。 通常ならば一本の矢文で済むようなところを、五月雨のような矢が降りそそがれる。 通常ならば小声で済むような警報は、耳をつんざく轟音となった。 痛覚が濁流となってまりさの総身を駆け抜けた。 それは、まかりまちがっても快感ではなかった。 まりさの予想していた快楽とは似ても似つかない、いびつな感覚でしかなかった。 痛み。 忘れていた感覚が、まりさを抱いた。 「ゆ゛ピィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛ッッッッ!!!!!!??????」 魂を削り取るような悲鳴だった。 過度の感覚、すなわち痛覚が、まりさの理性を焼き切っていた。 全身が熱されているように熱い。 すでに耐える耐えられないといった水準を凌駕していた。 もんどりうって苦しみ抜いた。 のたうちまわった。暴れまわった。 体内に震源をもつ大地震に悶えさいなまれて、「ゆぴぃ」と叫びをあげて仰け反った。 立ちながらにして脳天が地面と接し、すなわち「く」の字を横に寝かせたような体勢となった。 舌はぴんと伸ばされて中空を指す。 その先端は痙攣をくりかえしている。 眼球はいまにも発射されそうなほどに浮き出ている。 脂汗が滝のように流れでている。 落涙と失禁と発汗と垂涎によって、まりさは汚物にまみれた。 浮足立っていたまりさは、いまや痛みという名の暴君にその首根っこをひっつかまれ、 奈落の底に叩きつけられただけでなく、抑えこまれて圧せられている。 「ぁ……あ……ま、まりさ?」 あまりの豹変ぶりに、れいむは画鋲を離してしまっていた。 まりさは死にものぐるいで言葉をつむいだ。 「ゅ゛っ……ゅ゛……ゅ゛っ……あ……で……でぃ……ぶぅ……でぃ……ぶぅ゛……」 抜いてくれ。 と、頼もうとしたのだが声にならなかった。 れいむは、はっとして、任務を思い出した。 任務とは言うまでもなく、 「ずっぷりと ねもとまで やるんだぜ! そのあとで、ぐりぐりやるんだぜ! なにが あっても やりとげるんだぜ!」 という、つがいの言葉の後ろ半分の実践であった。 れいむは暴君の命令を実行すべくまりさの耳もとに飛んでゆき、宣告した。 「まりさ! れいむ がんばるね!」 頑張らなくていい。 抜くだけでいいんだ。 というまりさの願いは届かなかった。 れいむはまりさのまむまむから生えるプラスチックの取っ手を持った。 暴れた甲斐もなく、依然として画鋲は根もとまで刺さったままだった。 「ぐーりぐーりするね!」 「……ぇ゛?」 れいむはその画鋲を、上へと思い切り持ちあげた。 取っ手が上に持ちあげられたから、針の部分は下がる。 体内餡子が切りさかれた。 先ほどとは比べものにならない、嵐のような痛みが、まりさの中で狂乱した。 「ゆ゛み゛ょ゛ぉぉ゛ぉぉぉ゛ぉぉぉ゛ぉぉぉ゛ぉぉぉ゛ぉぉぉ゛ぉぉぉ゛ぉぉぉ゛ぉぉぉ゛ぉぉぉ゛ぉぉぉ゛ぉぉぉ゛ぉっっっ!!!!!!」 れいむに迷いは無かった。 悲鳴など気にするなと、そんなことを申し伝えられていたのだ。 次に、レバーを切り替えるように、ひといきに取っ手を下におろした。 「ゆんっ!」 まむまむを支点にして、針の部分が上へとあがる。 体内餡子がダイナミックに流動した。 「ゆ゛がぁ゛ぁ゛ぁぁァァ゛ァぁァ゛ぁ゛ぁぁァァ゛ァぁぁ゛ァ゛ぁぁァぁ゛ァぁぁ゛ぁ゛ぁぁぁ゛ァ゛ァ゛ぁっっっ!!!!!!」 れいむは徹底的にやるつもりだった。 ぐりぐりやりはじめた。 「ゆんっ! ゆんっ! ゆんっ! ゆんっ! ゆんっ! ゆんっ! ゆんっ! ゆんっ! ゆんっ! ゆんっ! ゆんっ! ゆんっ! ゆんっ!」 正確な拍子が刻まれる。 上、右、左。 右、下、上。 左上、右下、右上、左下、右、左、下。 いつの間にか、まりさは痙攣をはじめていた。 「ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ、ゆ゛っ………………」 れいむは夢中になりすぎていた。 ひとしきり攪拌作業を終えたころには、まりさの様子は尋常ではなくなっていた。 突きだされた眼球は、黒目の部分の上半分が、うわまぶたに隠されてしまっている。まばたきは、ない。 大開きにされた口からは舌が垂れ出されていた。舌根まで見える。 その垂れた舌の先端から、唾液がしたたりおちて床を汚している。 あにゃるは呼吸をするかのように、しきりに開閉を繰りかえしている。 眼窩、喉、あにゃる、まむまむ、毛穴、穴という穴はさかんに汁を吐いていた。 さすがのれいむも心配になった。 「まりさ……まりさ? ゆぅ……」 声をかけてみるが、「ゆ゛っ、ゆ゛っ」と嗚咽をひり出すばかりで下命はなかった。 それでも、なんとなく拙い状況に陥っているとは理解できた。 「ぺーろぺーろしてあげるね!」 れいむは主のかたわらに足を進めて、桃色の舌を突きだした。 「ぺーろぺーろ……」 「ゆ゛ッ!」 舌先がまりさの頬に触れると、まりさの体はびくりと跳ねた。 カプセルの効果はいよいよその本領を発揮していた。 まりさの肌は、あたかも生皮が剥がされて体内餡子が表出しているように過敏になっていた。 当然、舌が触れても焼けるような痛みをおぼえる。 が、れいむには分からない。 「すーりすーり……」 「ぺーろぺーろ……」 「すーりすーり……」 頬ずり。なめなめ。また頬ずり。 一般的に見れば、それは愛情表現であり、医療行為である。 だが、まりさにとっては神経を撫でるような行為だ。 拷問である。 舐められるたびに、あるいは頬ずりされるたびに、 まりさは「ゆ゛っ、ゆ゛っ」と苦悶の声を吐いた。 れいむは、一向に回復の様子を見せないので不審がり、沈思した。 そのあいだに、まりさはなんとか意識を取りもどした。 必死で呼吸を整えて、叫んだ。 「で、でいぶ、ぬ゛げっ、ぬ゛げっ、ぬ゛い゛でぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっ!」 「は、はいぃぃ!」 れいむは跳ねあがるほど驚いた。 プラスチックの柄を握り、 「ゆんっ!」 一気に、かつ乱暴に引き抜いた。 おおむね、刃物は刺すときよりも引くときに痛みを覚える。 それがゆっくりにも通用するかどうかは、分からない。 ただまりさは、 「ゆ゛ぷ゛っ!」 と、餡子まじりの胃液を吐いて、気絶してしまった。 この日、独裁の終わりが始まった。 4.凋落 まりさの権力は、もとを辿れば特異体質にゆきつく。 その体質は失われた。 どころか、過去を取りもどすように痛覚過敏になってしまった。 水源が枯渇すれば大河もやがて乾くように、まりさの権威と権力は、ほどなく終焉を迎えた。 なにしろ、風が吹いても痛むのだ。 戦闘など望むべくもないし、強制力や抑止力など、霧散してしまっていた。 従順な下僕だったれいむがさっさと殺されてしまったことは、雄弁にまりさの失墜をものがたる。 あるとき、ありすがやってきた。 つがいのぱちゅりーをまりさに殺された、あのありすである。 その口には草舟が引いていた。 草の葉を編んでつくった、ゆっくりの運搬機だ。 ありすは声もかけずに家に闖入し、独り身と化したまりさに向かって言った。 「まりさ。また きたわ」 「ゆゆぅぅぅっっ!」 まりさは慄然として、いきなり床に頭をこすりつけた。 「ゆっ、あ、ありずざまっ、な、なんで、ござい、まず、で、じょうがっ」 「まりさと、なかなおり しようと おもったの!」 ありすは笑っている。 「ながなおり……ゆぴっっ!」 顔を上げた。泣き顔は紙を丸めたように皺くちゃだ。 「や、やべでっ、やべでぐだざいっ、ごべんなざい、あやまりまず、ごべんなざいっ、 いだいごど やべでっ、いだいの、やだっ、いだいの、やだっ、ごべんなざい……」 「ねえ、まりさ」 ありすは暗い笑みをたたえ、にじり寄った。 そのまむまむは無残に切りさかれている。 子宝を授かるべきむろは、永遠に機能することはない。 「いだいごど、やべでね、いだいの、やだ、いだいの……」 「あのね……。わたしやぱちゅりーは……。もっと、もっといたかったのよっ!」 ありすは草舟をひっくり返した。 中に入っていたのは、大量のオナモミの実であった。 このキク科植物の果実には、大量のトゲがついている。 動物の毛皮にくっつくことで広範囲に種をばらまこうとする知恵だった。 オナモミの実は、まりさの皮膚に突き刺さり、髪にまとわりついた。 刺さらなかった実は床にぶちまけられて地雷原と化した。 「ゆ゛きょ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛っっっっっっ!!!」 まりさは絶叫し、のたうちまわった。 棘の塊がばらまかれている床の上で転がりまわればどうなるかは、火を見るよりも明らかだ。 ただでさえ感覚の鋭くなっているところに、つぎからつぎへと棘が刺さる。 ありすはまりさの苦悶をうっとりとしながら観察すると、 「じゃあね! またくるわ!」 悪魔の一言を土産に残して、ダンボールハウスを立ち去った。 つがいを失ったまりさは、自分で食料を調達しなければならない。 そのため、外に出て草を食むという苦行に挑むことになった。 普通のゆっくりならば、じつにゆっくりできる作業だ。 が、まりさにとってはゆっくりできない。 今のまりさには、草は刃、風は熱だ。 草むらに出て草をむさぼるのは、刃物の森で刃物を噛みしめる荒行だった。 それでも、生きるためには外出しなければならない。 「ゆ゛っ……ゅ゛っ……」 苦悶の吐息とともに、まりさは草むらに踊り出る。 その歩みはなめくじよりも遅かった。 「ゅ゛ぅ゛……む゛ーぢゃ……む゛ーぢゃ……」 口内で暴れる草もまた、まりさの神経をしたたかに打ちすえる。 風が吹き抜けた。 まりさは目を剥いた。口から緑の涎が垂れる。 「ん゛ぐっ……ぶはっ! ……はぁ……はぁっ」 ひとくちの草を食べただけで、まりさは蒼ざめていた。 そのときだった。 「ゆゆ~~! まりしゃ はっきぇ~~んっ!」 「ゆひぃっ!」 赤ゆの声が聞こえてきた。 たちまち赤ゆに包囲された。その数は二十頭以上。 「ゆゆー! まりしゃ! まりしゃと あしょぶんだじぇ!」 「ときゃいひゃな あしょびを しましょう!」 「ゆっきゅり あしょぶよ!」 「まりしゃ あしょんでにぇ~~っ」 無邪気な笑顔が向けられる。輝かしい瞳にはいささかの邪気も屈託もない。 だからこそ恐怖をあたえてやまない。 「ゆ……、ま、まりさは、いそが、いそがしいから……」 赤ゆたちはまったく聞いていなかった。 まりさに天使のような笑顔を向けつつ、蒼穹を壊せとばかりに咆哮した。 『しゅーぴゃー! ぺーりょぺーりょ! ちゃいみゅ!』 『しゅーぴゃー! しゅーりしゅーり! ちゃいみゅ!』 『しゅーぴゃー! ぶーりゃぶーりゃ! ちゃいみゅ!』 『しゅーぴゃー! ぴょんっぴょんっ! ちゃいみゅ!』 「ゆひっ……!」 そこから先は地獄絵図だった。 二十頭を越える赤ゆが、いっせに群がった。 「ぺーりょぺーりょして あげりゅよ! まりしゃに ぺーりょぺーりょ しゅりゅよ!」 あにゃるの近くを舐めまわす、れいむ種がいた。 「ゆんやー♪ ゆんやー♪」 お下げにぶらさがってブランコ運動をくりかえす、ありす種がいた。 「むきゅぅ。むきゅきゅきゅ~」 きらめくような笑顔で舌を蠕動させる、ぱちゅりー種がいた。 「ゆゆ~。まりしゃの おにゃきゃは ゆっきゅり できりゅんだじぇ~」 運動量豊富なまりさ種は、まりさの上に乗りかかってその腹の上で遊んでいる。 一匹一匹の動きが、傷口に塩を塗りこむような熾烈な痛みを与えていた。 巨象に群がる無数の猟犬。 腐肉にとりつく蠅の群れ。 スズメバチを包囲するミツバチの大群。 そんな比喩が妥当する光景だった。 「ゅ゛っ……ゅ゛っ……ゅ゛っ……ゅ゛っ……ゅ゛っ……」 赤ゆたちが去ったあとには、痙攣するまりさが残されていた。 まりさは食事に出張っている。 最近では日光でさえ痛むようになってきた。 「むうぢゃ……、むぅじゃぁぁ……」 死体のような顔をしていた。 その背後に忍び寄るゆっくりの影があった。ゆっくりありすだ。 まりさは食事に全霊をかたむけており、その気配には気付かない。 「ゆんっ!」 だから、じつにあっけなく帽子を奪いとられた。 「ゆゆー!」 これにはさすがのまりさも後先考えずに奪還に走った。 だが、ありすの体当たりにて反撃され、草むらに転がった。 それはカミソリの刃のうえを転がるような行為だ。 絶叫が草むらに響く。 だが、耳をつんざく悲鳴は、布を切りさく微音によって遮られた。 びりっ。 という、音がしたのだ。 まりさは決死のおもいで立ちあがった。 そしてようやく、群れのすべてのゆっくりに包囲されていることを知った。 だれもかれも、にやにやしながらまりさを見つめている。 「な……なに、じでるんだぜ……」 だが、もっともまりさを戦慄せしめたのは、眼前に立つ二頭のゆっくりだった。 まりさ種とれいむ種のゆっくりが、綱引きのように黒帽子の両端をくわえていた。 「ゆふふ~」 ありすの声がした。 「あ、ありず……」 「まりさ。えらびなさい」 「な、なにを、なんだぜ……」 「ひとつ。ぜーいんから『ぺーろぺーろ』」 まりさは凍りついた。 あたりには数十頭のゆっくりが群れている。 これだけのゆっくりから一斉になめられたら、痛みのあまり死んでしまうかもしれない。 「ゆ゛っ……。そ、ぞれだげば……、ご、ごじょう、なんだぜ……」 「もうひとつ。おぼーしびりびり」 まりさは目の色を変えた。 「だめなんだぜぇぇっ、やべで、やべでねっ! おぼーしさんはやべでね! ゆっぎゅりでぎないんだぜぇ!」 悲痛な叫びもむなしく、ありすは冷酷に言い放った。 「どっちか、えらびなさい」 「ゆ゛……」 返答に詰まった。逡巡する。 ありすが帽子をもつ二頭のゆっくりに目くばせした。 びり。 帽子の裂け目が深くなった。 まりさは恐怖と混乱のあまりに、思考能力をうしなった。 「ご……ごべんなざいっ、ごべんなざいっ、ごべんなざいっ!」 ただひたすらに、謝りつづける。 しかし陳謝は用をなさない。 びりり。 まりさは反射的に答えた。 「ぺ……ぺーろぺーろ……べーろ゛べーろ゛っ! べーろ゛べーろ゛でおねがいじばずっ!」 かつての暴君の哀訴に、ありすはほくそ笑んだ。 予想どおり、とでも言わんばかりに。 静かに口を開いた。 「やって」 小声だが、はっきりとした口調だった。 びりびりびり。 約束とともに帽子はふたつにひきさかれた。 「ゆ゛ぎゃぇぇぇぇぇぇえええぇぇぇっっっ!!!??? ゆ゛え゛っ、げぶっ、ゆべぇえええぇっっっ!!!??? お゛っ、おぼーじっ、ばりざの、おぼーじっ!!! おぼうじぃぃぃ!? おぼうじばぁぁあっっ!? おぼ、おぼ、おぼおぼっ、おぼうじぃぃぃ!? どぼっ、どぼじでっ、どぼ、どど、どぼじっ、ゆ゛っ、ゆ゛ゆ゛ぅぅぅぅっっっ!!!???」 吼え散らかしながら左を見て、右にふり向き、背後に叫び、また前をむいた。 緑のしたたる草の上に、引き裂かれた帽子が捨てられている。 「ぺ、べーろ゛べーろ゛ずるねっ!」 帽子を重ねて、舐め回す。 唾液が布にこびりつく。 宿主を失った帽子は生命力もまた失っていた。 「ぺーろォッ! ぺーろォッッ!! …………どぼじでなおらないのぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!? ゆっぐりじでないで なおっでねぇぇぇぇぇぇぇっっっ!? ぶえろぉォォッッ!!! ぶうぇるォォォッッッ!!!」 やがて帽子は原型をとどめない歪な球体へと変じてしまった。 そのとき、風が吹いた。 帽子は春風にさらわれて、空へと舞った。 まりさの瞳が帽子を追った。空へ空へ、青空へと吸い込まれる。 最後に、天空にうがたれた白い大穴へと落ちこみ、そのあとは知れなかった。 まりさは、涙した。 「ゅ゛……ゅ゛……ゅ゛……。 ぁ……ぁ……ば、ばりざのっ、お、おぼーぢ……。 あ……。 ぁああ……。 あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっっっっっっ!!!」 「――!」 突然、哄笑した。 思いもよらない反応だった。 包囲網を形成していたゆっくりたちは、いっせいにまりさから距離をとる。 笑いまくっていた赤ゆなどはすっかり怯えてしまっていた。 「ゆひょひょひょひょひょひょひょひょっ! おぼーちしゃんは おしょらを とんでいりゅのでしたぁぁぁっ!」 一匹また一匹とゆっくりたちが帰路につく。 ほどなく草むらには狂気のまりさだけが取り残された。 だが、夕暮れが過ぎ、夜の帳がおり、東の方に銀月が昇っても、哄笑はやまなかった。 それでも草木も眠るとされる頃合いになると、その笑い声もやんだ。 5.復讐 夜。 幽霊が出た。 ゆっくりプレイスを徘徊する亡霊の姿があった。 なぜ亡霊か? シンボルを失っているがゆえに、ほかのゆっくりには同胞と認識されないからである。 その亡霊は、住人の寝静まる巣から巣へと移動する。 しかし中には立ち寄らない。 ただ巣穴の前で、 「ゆ゛べぇぇ……」 と、濁った音を吐く。 それとともに、べちゃりと腐った音がする。 そして次なる巣へと向かう。 「ゆ゛べぇぇ……」 黎明の光を拝めるころには、すべての巣を巡り終えていた。 夜明けの光を迎えるころ、群れの各所で驚きの歓声が上がった。 「ゆゆーーーっっ!? あみゃあみゃしゃんだぁぁぁーーーーーっっ!」 「あみゃあみゃーーーっっ! むーちゃむーちゃ しゅりゅ~~~♪」 そんな声だ。 声のぬしはそのほとんどが赤ゆだった。 赤ゆはおおむね早起きだ。 朝一番に目を覚まし、巣穴の外におどりでた赤ゆたちは、 お家の入り口付近にこんもりと詰まった黒々とした餡子を発見、驚喜した。 降ってわいたような餡子を訝しがる知能など、赤ゆにはない。 危険性など、草木をぬらす朝露ほどにも思わなかった。 「まりしゃは とっちぇも ゆっきゅり しちぇいりゅんだじぇ~~~」 「むーちゃ……、むーちゃ……おいちぃぃぃーーーーっ!」 「ちあわちぇぇぇぇっっ!」 赤ゆたちは思い思いに餡子をすすった。 すぐさま、天の恵みは成体たちも発見する。 群れは極楽を味わった。 「ゆゆ! とかいはっ! とかいはな あおじっ!」 「むきゅ~。ゆっくりしすぎてこまるわ~~」 「むーしゃむーしゃ……れいむは ゆっくりしているよ!」 「ゆっくちー、ゆっくちーっ」 「しあわせぇぇぇ……」 餡子はたちまち平らげられた。 失意のまりさの不在が知れ渡ったのは午後になってからである。 しかし、だれも気にしなかった。 というよりも、気にする余裕がなかった。 春風が吹き荒れたからである。 そして、ドラッグ漬けになったまりさの餡子を食したがために、群れのゆっくりの体に異変が発生したためだった。 春風の唸りは、ゆっくりの悲鳴を載せている。 「ゆ゛ぴぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ! い゛ぢゃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ! みゃみゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ! だじゅげでにぇ゛ぇぇぇ゛ぇぇぇぇぇ゛ぇぇぇぇぇ゛ぇぇっっっ!」 ある巣穴の中では、赤ゆのれいむが血を吐くような慟哭をまきちらしていた。 母親に助けを求めるものの、それはかなわない。 母親のみならず家族一同が、痛みにのたうちまわっていたからだ。 別のお家では、ゆっくりありすが白目をむいて震えていた。 「ゆぎょぉぉぉぉぉぉぉ………。 ゆぎぃぃぃぃぃぃ………。 いだい゛……。いだい゛よぉぉぉ……。 どぼじで……。いだい゛っ、いだっ……」 体内で何百本もの針が躍り狂っているような熾烈な痛みに、ゆっくりが抗えるはずがない。 彼らは、どう思うだろうか。 自分を苛む痛みとやらが、かつて暴君のまりさを苛んでいたそれよりも、はるかに生ぬるいことを知ったのなら。 春風は容赦なく巣穴に侵入してくる。 大気の流れはゆっくりの敏感極まる肌をなめ、こらえがたい痛みを誘う。 「……ゆ゛ぎぎぎぎぎぎぎ……。ゆぎぎ……。ゆぅぅぅぅ……。 いぢゃぃ゛ぃ……。どぼ、じでぇ……。でいびゅぅ……だにも……わるいごど……じでな゛い……」 疑問を発しても答える者はいない。 吹きすさぶ春風のまえに、ゆっくりはひれ伏すしかない。 「ゆ゛っぐり゛………でぎな゛い゛……。がぜざん……ゆ゛っぐり゛……ざぜ……で……ね゛……」 「ゆぐっ……。ゆ゛ぇ゛ぇ゛……。 いだい……。いだい゛……。おぎゃぁぁじゃぁぁん……」 「いだい゛……。おどぉぉぉじゃぁぁぁん……」 「でいびゅを゛……だずげで……。いぢゃぃ゛……いぢゃいよぉ゛……」 「いぢゃぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛っっっ!!!」 もはや世界を満たすものは温かみのある木漏れ日でもなければ、 ましてや繭にくるめるように野山をつつむ穏やかな大気ではない。 槍の雨のような灼熱の陽光であり、濃硫酸の海を泳ぐかのごとき激痛の跳梁する大気だった。 葉の下で。 木の根もとで。 森の暗がりで。 ゆっくりたちが叫んでいた。 痛い。 いたい。 イタイ。 (終わり)
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/441.html
唐書巻一百二十二 列伝第四十七 魏元忠 韋安石 陟 斌 叔夏 縚 抗 郭元振 魏元忠、宋州宋城人。為太学生、跌蕩少検、久不調。盩厔人江融曉兵術、元忠從之游、盡伝所学。儀鳳中、吐蕃数盜邊、元忠上封事洛陽宮、言命将用兵之要曰: 天下之柄有二、文武而已、至制勝御人、其道一也。今言武者先騎射、不稽之権略。言文者首篇章、不取之經綸。臣観魏、晉、齊、梁才固不乏、然何益治亂哉!養由基射能穿札、不止鄢陵之奔、陸機識能辨亡、無救河橋之敗、斷可見已。 夫才生於世、世實須才。何世而不生才?何才而不資世?故物有不求、未有無物之歳。士有不用、未有無士之時也。志士在富貴與賤貧、皆思立功名以伝于後、然知己難而所遇罕。士之懐琬琰就煨塵、抱棟幹困溝壑者、悠悠之人直此士之貧賤、安知其方略哉!故漢拜韓信、舉軍驚笑。蜀用魏延、群臣觖望。此富貴者易為善、貧賤者難為功也。昔漢文帝不知魏尚賢而囚之、知李広才而不用、乃歎其生不逢時。夫以広之才、天下無雙、時方歳事匈奴、而卒不任。故近不知尚、広之賢、而遠想廉頗、李牧、馮唐是以知其有而不能用也。此身為時主所知、不得盡其才也。晉羊祜謀舉呉、賈充、荀勗沮之、祜歎曰:「天下事不如意十常七八。」以二人不同、終不大舉。此據立功之地、而不獲展其志也。布衣之人、懐奇抱策、而望朝奏夕召、豈易得哉?臣願歴訪文武五品以上、得無有智如羊祜、武如李広而不得騁其才者乎?使各言其志、毋令久失職。 又言: 人無常俗、政有治亂。軍無常勝、将有能否。兵為王者大事、存亡繋焉、将非其任、則殄人敗国。齊段孝玄有言:「持大兵如擎盤水、一致蹉跌、求止可得哉?」周亞夫堅壁以挫呉、楚、司馬懿閉營而困諸葛亮、此皆全軍制勝、不戰而卻敵。是知大将臨戎、以智為本。今之用人、類将家子、或死事孤兒、進非幹略、雖竭力盡誠、不免於傾敗、若之何用之?且建功者、言其所濟、不言所來。言其所能、不言所藉。若陳湯、呂蒙、馬隆、孟観悉出貧賤、而勳伐甚高、不聞其家世将帥也。故陰陽不和、揠士為相。蠻貊不廷、擢校為将。今以四海之広、億兆之衆、豈無卓越之士?臣恐未之思乎! 又賞者礼之基、罰者刑之本。礼崇則謀夫竭其能、賞厚則義士輕其死、刑正故君子勗其心、罰重則小人懲其過。賞罰者軍国之綱紀、政教之藥石。吐蕃本非彊敵、而薛仁貴、郭待封至棄甲喪師、脱身以免。国家寬政、罪止削除、網漏吞舟、何以過此。雖陛下顧收後効、然朝廷所少、豈此一二人乎?夫賞不勸、謂之止善。罰不懲、謂之縱惡。臣誠疏賤、干非其事、豈欲間陛下君臣生薄厚哉?正以刑賞一虧、百年不復。故国無賞罰、雖堯、舜不能為。今罰既不行、賞復難信、故議者皆謂比日征行、虚立賞格、而無其實。蓋忘大體之臣、恐賚勳庸、竭府庫、留意錐刀、以為益国、所謂惜毫釐失千里者也。且黔首雖微、不可以欺、安有寓不信之令、設虚賞之格乎?自蘇定方平遼東、李勣破平壤、賞既不行、勳亦淹廢、歳月紛淆、真偽相錯。臣以吏不奉法、慢自京師、偽勳所由、主司過也、其則不遠、近在尚書省中。然未聞斬一臺郎、戮一令史、使天下知之。陛下何照遠而不照近哉?神州化首、文昌政本、治亂攸在、臣故冒死而言。夫明鑑所以照形、往事所以知今、臣請借近以為諭:貞観中、万年尉司馬玄景舞文飾智、以邀乾沒、太宗棄之都市。後征高麗、総管張君乂不進撃賊、斬之旗下。臣以為偽勳之罪、多於玄景。仁貴等敗、重於君乂。使早誅之、則諸将豈復有負哉?慈父多敗子、嚴家無格虜。且人主病不広大、人臣病不節儉、臣恐陛下病之於不広大、過在於慈父、斯日月一蝕也。 又今将吏貪暴、所務口馬、財利、臣恐戎狄之平、未可旦夕望也。凡人識不經遠、皆言吐蕃戰、前隊盡、後隊方進、甲堅騎多、而山有氛瘴、官軍遠入、前無所獲、不積穀数百万、無大舉之資。臣以為吐蕃之望中国、猶孤星之對太陽、有自然之大小、不疑之明暗、夷狄雖禽獸、亦知愛其性命、豈肯前盡死而後進哉?由殘迫其人、非下所願也。必其戰不顧死、則兵法許敵能、當以智算取之、何憂不克哉!向使将能殺敵、橫尸蔽野、斂其頭顱以為京観、則此虜聞官軍鍾鼓、望塵卻走、何暇前隊皆死哉!自仁貴等覆師喪氣、故虜得跳梁山谷。 又師行必藉馬力、不数十万、不足與虜爭。臣請天下自王公及齊人挂籍之口、人税百銭。又弛天下馬禁、使民得乘大馬、不為数限、官籍其凡、勿使得隠。不三年、人間畜馬可五十万、即詔州県以所税口銭市之、若王師大舉、一朝可用。且虜以騎為彊、若一切使人乘之、則市取其良、以益中国、使得漸耗虜兵之盛、国家之利也。 高宗善之、授祕書省正字、直中書省、仗内供奉。 遷監察御史。帝嘗從容曰:「外以朕為何如主?」對曰:「周成、康、漢文、景也。」「然則有遺恨乎?」曰:「有之。王義方一世豪英、而死草萊。議者謂陛下不能用賢。」帝曰:「我適用之、聞其死、顧已無及。」元忠曰:「劉蔵器行副於才、陛下所知、今七十為尚書郎。徒歎彼而又棄此。」帝默然慚。 遷殿中侍御史。徐敬業舉兵、詔元忠監李孝逸軍。至臨淮、而偏将雷仁智為賊敗、孝逸懼其鋒、按兵未敢前。元忠曰:「公以宗室将、天下安危繋焉。海内承平久、聞狂狡竊發、皆傾耳翹心以待其誅。今軍不進、使遠近解情、万有一朝廷以他将代公、且何辭?」孝逸然之、乃部分進討。時敬業保下阿谿、弟敬猷屯淮陰、咸請「先撃下阿、下阿敗、淮陰自破。今淮陰急、敬業必救、是敵在腹背也」。元忠曰:「不然。賊勁兵盡守下阿、利在一決、苟有負、則大事去矣。敬猷博徒不知戰、且其兵寡易搖、大軍臨之、勢宜克。敬業畏直擣江都、必将邀我中路、吾今乘勝進、又以逸撃勞、破之必矣。譬之逐獸、弱者先禽。今捨必禽之弱、而趨難敵之彊、非計也。」孝逸乃引兵撃淮陰、敬猷脱身遁、遂進撃敬業、平之。還、授司刑正。 遷洛陽令。陷周興獄當死、以平揚、楚功、得流。歳餘、為御史中丞、復為來俊臣所構。将就刑、神色不動、前死者宗室子三十餘、尸相枕藉於前、元忠顧曰:「大丈夫行居此矣。」俄敕鳳閣舎人王隠客馳騎免死、伝聲及于市、諸囚歡叫、元忠獨堅坐、左右命起、元忠曰:「未知實否。」既而隠客至、宣詔已、乃徐謝、亦不改容。流費州。復為中丞。歳餘、陷侯思止獄、仍放嶺南。酷吏誅、人多訟元忠者、乃召復舊官。因侍宴、武后曰:「卿累負謗鑠、何邪?」對曰:「臣猶鹿也、羅織之吏如獵者、苟須臣肉為之羹耳、彼将殺臣以求進、臣顧何辜?」 聖暦二年、為鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺平章事、俄検校并州長史、天兵軍大総管、以備突厥。遷左肅政臺御史大夫、兼検校洛州長史、治號威明。張易之家奴暴百姓、橫甚、元忠笞殺之、権豪憚服。俄為隴右諸軍大使、以討吐蕃。又為霊武道行軍大総管禦突厥。元忠馭軍持重、雖無赫然功、而亦未嘗敗。 中宗在東宮、為検校左庶子。時二張勢傾朝廷、元忠嘗奏曰:「臣承先帝之顧、且受陛下厚恩、不能徇忠、使小人在君側、臣之罪也。」易之等恨怒、因武后不豫、即共譖元忠與司礼丞高戩謀挾太子為耐久朋、遂下制獄。詔皇太子、相王及宰相引元忠等辨於廷、不能決。昌宗乃引張説為證、説初偽許之、至是迫使言状、不應、后又促之、説曰:「臣不聞也。」易之等遽曰:「説與同逆。説曩嘗謂元忠為伊、周。夫伊尹放太甲、周公攝王位。此反状明甚。」説曰:「易之、昌宗安知伊、周、臣乃能知之。伊尹、周公、歴古以為忠臣、陛下不遣学伊、周、将何效焉?」説又曰:「臣知附易之朝夕可宰相、從元忠則族滅。今不敢面欺、懼元忠之冤。」后寤其讒、然重違易之、故貶元忠高要尉。 中宗復位、召為衛尉卿、同中書門下三品。不閲旬、遷兵部尚書、進侍中。武后崩、帝居喪、軍国事委元忠裁可、拜中書令、封齊国公。神龍二年、為尚書右僕射、知兵部尚書、當朝用事、群臣莫敢望。謁告上、詔宰相諸司長官祖道上東門、賜錦袍、給千騎四人侍、賜銀千兩。元忠到家、於親戚無所賑施。及還、帝為幸白馬寺迎勞之。 安樂公主私請廢太子、求為皇太女、帝以問元忠、元忠曰:「公主而為皇太女、駙馬都尉當何名?」主恚曰:「山東木彊安知礼?阿母子尚為天子、我何嫌?」宮中謂武后為阿母子、故主稱之。元忠固稱不可、自是語塞。 武三思用事、京兆韋月将、渤海高軫上書言其惡、帝榜殺之、後莫敢言。王同皎謀誅三思、不克、反被族。元忠居其間、依違無所建明。初、元忠相武后、有清正名、至是輔政、天下傾望、冀幹正王室、而稍憚権倖、不能賞善罰惡、譽望大減。陳郡男子袁楚客者以書規之曰: 今皇帝新服厥徳、任官惟賢才、左右惟其人、因以布大化、充古誼、以正天下。君侯安得事循默哉?苟利社稷、專之可也。夫安天下者先正其本、本正則天下固、国之興亡繋焉。太子天下本、譬之大樹、無本則枝葉零悴、国無太子、朝野不安。儲君有次及之勢、故師保教以君人之道、用蘊崇其徳、所以重天下也。今皇子既長、未定嫡嗣、是天下無本。天下無本、猶樹而亡根、枝葉何以存乎?願君侯以清宴之閒言於上、擇賢而立之、此安天下之道。曠而不置、朝廷一失也。 女有内則、男有外傅、豈相濫哉?幕府者、丈夫之職。今公主並開府置吏、以女處男職、所謂長陰抑陽也、而望陰陽不愆、風雨時若、得乎?此朝廷二失也。 今度人既多、緇衣半道、不本行業、專以重宝附権門、皆有定直。昔之賣官、銭入公府、今之賣度、銭入私家。以茲入道、徒為游食。此朝廷三失也。 唯名與器、不可以假人。故曰:「天工、人其代之。」夫代天、非材不可也。代非其人、必失天意。失天意而無患禍、未之有也。今倡優之輩、因耳目之好、遂授以官、非輕朝廷、亂正法邪?人君無私、私怒害物、私賞費財、況私人以官乎?此朝廷四失也。 賢者邦家之光、任之致治、棄之生亂。近詔博求多士、雖有好賢之名、無得賢之實。蓋有司選士、非賄即勢、上失天心、下違人望、非為官擇吏、乃為人擇官。葛洪有言:「舉秀才、不知書。察孝廉、濁如泥。高第賢良吝如。」此朝廷五失也。 閹豎者、給宮掖掃除事、古以奴隸畜之。中古以來、大道乖喪、疏賢哲、親近習、乃委之以事、授之以権。故豎刁亂齊、伊戻敗宋。君側之人、衆所畏懼、所謂鷹頭之蠅、廟垣之鼠者也。後漢時用事尤甚、晩節卒亂天下。今大君中興、獨有閹豎坐升班秩、既無正闕、率授員外、乃盈千人、綰青紫、耗府蔵。前事之驗、後事之師。此朝廷六失也。 古者茅茨棌椽、以儉約遺子孫、所以愛力也。今公主所賞傾庫府、所造皆官供、其疏築臺沼、崇峙観廡、山無本石、木無近産、造之終歳、功用不絶。夫為君所以養人、非以害人、今外戚不助養而反害之、是使人主受謗天下。此朝廷七失也。 官以安人、非以害于人也。先王欲人治必選材、欲人安必省事、此誠同天下憂也。人有樂、君共之、君有樂、人慶之、可謂同樂矣。如此、則上下無間、而均一體也。今天下因窮、州牧、県宰、非以選進、割剥自私、人不聊生、是下有憂而上不卹也。而更員外置官、非助桀歟?夫人情自以員外吏、恐下不己畏也、必峻法懼之。恐財不己奉也、必枉道奪之。欲不亂、可得哉?古語有之、十羊九牧、羊既不得食、人亦不得息。書曰:「官不必備、惟其人。」此言正員猶難其備、況員之外乎!此朝廷八失也。 政出多門、大亂之漸。近封数夫人、皆先帝宮嬪。以為備内職、則不當知外。不備内職、則自可處外。而令出入禁掖、使内言必出、外言必入、固将弄君之法、縱而不禁、非所以重宗廟、固国家。孔子曰:「彼婦之口、可以出走。彼婦之謁、可以死敗。」此朝廷九失也。 不以道事其君者、所以危天下也、危天下之臣不可不逐、安天下之臣不可不任。今有引鬼神、執左道以惑主者、託鬼神為難知、故致其詐、而據非才之地、食非徳之禄、此国盜也。伝曰:「国将興、聽於民、将亡、聽於神。」今幾聽於神乎?此朝廷十失也。 君侯不正、誰與正之? 元忠得書益慚。以三思專権、思有以誅之。會節愍太子起兵、與聞其謀。太子已誅三思、引兵走闕下、元忠子太僕少卿昇遇於永安門、太子脅使從戰、已而被殺。議者未辨逆順、元忠誦言曰:「既誅賊謝天下、雖死鼎鑊所甘心。惟皇太子沒為恨耳。」帝以其嘗有功、且為高宗、武后素所礼、置不問。宗楚客、紀處訥大怒、固請夷其族、不聽。元忠不自安、上政事及国封、詔以特進、齊国公致仕、朝朔望。楚客等引右衛郎将姚廷筠為御史中丞、暴奏反状、繇是貶渠州司馬。楊再思、李嶠皆希順楚客、傅致元忠罪、唯蕭至忠議當申宥之。楚客復遣再思與冉祖雍奏元忠縁逆不宜處内地、監察御史袁守一固請行誅、遂貶務川尉。守一又劾:「天后嘗不豫、狄仁傑請陛下監国、元忠止之、此其逆久萌。」帝謂楊再思曰:「守一非是。事君者一其心、豈有上少疾遽異論哉?朕未見元忠過也。」 元忠至涪陵、卒、年七十餘。景龍四年、贈尚書左僕射、齊国公、本州刺史。睿宗詔陪葬定陵、以實封一百五十戸賜其子晃。開元六年、謚曰貞。 元忠始名真宰、以諸生見高宗、高宗慰遣、不知謝即出、儀舉自安、帝目送謂薛元超曰:「是子未習朝廷儀、然名不虚謂、真宰相也。」避武后母諱、改今名。 韋安石、京兆万年人。曾祖孝寬、為周大司空、鄖国公。祖津、隋大業末為民部侍郎、與元文都等留守洛、拒李密、戰上東門、為密禽。後王世充殺文都而津獨免、密敗、復歸洛。世充平、高祖素與津善、授諫議大夫、検校黄門侍郎、陵州刺史、卒。父琬、仕為成州刺史。 安石舉明經、調乾封尉、雍州長史蘇良嗣器之。永昌元年、遷雍州司兵参軍。良嗣當国、謂安石曰:「大才當大用、徒勞州県可乎?」薦于武后、擢膳部員外郎、遷并州司馬、有善政、后手制勞問、陟拜徳、鄭二州刺史。安石性方重、不苟言笑、其政尚清嚴、吏民尊畏。 久視中、遷文昌右丞、以鸞臺侍郎同鳳閣鸞臺平章事、兼太子左庶子、仍侍讀、尋知納言事。時二張及武三思寵橫、安石数折辱之。會侍宴殿中、易之引蜀商宋霸子等博塞后前、安石跪奏:「商等賤類、不當戲殿上。」顧左右引出、坐皆失色、后以安石辭正、改容慰勉。鳳閣侍郎陸元方自以為不及、退告人曰:「韋公真宰相。」后嘗幸興泰宮、議趨疾道、安石曰:「此道板築所成、非自然之固。千金子且誡垂堂、況万乘可輕乘危哉?」后為回輦。長安二年、同鳳閣鸞臺三品、俄又知納言、検校揚州大都督府長史。神龍元年、罷政事、俄復同三品、遷中書令、兼相王府長史、封鄖国公、賜封三百戸、加特進、為侍中。中宗與韋后以正月望夜幸其第、賚賜不貲。帝嘗幸安樂公主池、主請御船、安石曰:「御輕舟、乘不測、非帝王事。」乃止。 睿宗立、授太子少保、改封郇国、復為侍中、中書令、進開府儀同三司。太平公主有異謀、欲引安石、数因其壻唐晙邀之、拒不往。帝一日召安石曰:「朝廷傾心東宮、卿胡不察?」對曰:「太子仁孝、天下所稱、且有大功。陛下今安得亡国語?此必太平公主計也。」帝矍然曰:「卿勿言、朕知之。」主竊聞、乃構飛變、欲訊之、賴郭元振保護、免。遷尚書右僕射兼太子賓客、同三品、俄罷政事、留守東都。 會妻薛怨婿婢、笞殺之、為御史中丞楊茂謙所劾、下遷蒲州刺史、徙青州。安石在蒲、太常卿姜晈有所請、拒之。晈弟晦為中丞、以安石昔相中宗、受遺制、而宗楚客、韋温擅削相王輔政語、安石無所建正、諷侍御史洪子輿劾舉、子輿以更赦不從。監察御史郭震奏之、有詔與韋嗣立、趙彦昭等皆貶、安石為沔州別駕。晈又奏安石護作定陵、有所盜沒、詔籍其贓。安石歎曰:「祗須我死乃已。」發憤卒、年六十四。開元十七年、贈蒲州刺史。天宝初、加贈左僕射、郇国公、謚文貞。二子:陟、斌。 陟字殷卿、與弟斌倶秀敏異常童。安石晩有子、愛之。神龍二年、安石為中書令、陟甫十歳、授温王府東閣祭酒、朝散大夫。風格方整、善文辭、書有楷法、一時知名士皆與游。開元中居喪、以父不得志歿、乃與斌杜門不出八年。親友更往敦曉、乃彊調為洛陽令。宋璟見陟歎曰:「盛徳遺範、盡在是矣。」累除吏部郎中、中書令張九齢引為舎人、與孫逖、梁渉並司書命、時號得才。 遷礼部侍郎。陟於鑒裁尤長。故事、取人以一日試為高下。陟許自通所工、先就其能試之、已乃程考、由是無遺材。遷吏部侍郎、選人多偽集、與正調相冒、陟有風采、擿辨無不伏者、黜正数百員、銓綜號為公平。然任威嚴、或至詈詰、議者訾其峻。又自以門品可坐階三公、居常簡貴、視僚黨謷然。其以道誼合、雖後進布衣與均礼。 李林甫惡其名高、恐逼己、出為襄陽太守、徙河南採訪使、以判官員錫善訊覆、支使韋元甫工書奏、時號「員推韋状」、陟皆倚任之。俄襲郇国公、坐事貶守鍾離、義陽、後為河東太守。以失職、内怏怏、乃毀廉隅、頗餉謝権倖欲自結。天宝十二載、入考華清宮、楊国忠忌其才、謂拾遺呉豸之曰:「子能發陟罪乎?吾以御史相處。」豸之乃劾陟饋遺事、国忠又使甥壻韋元志左驗、陟惶悸、賂吉温求救、由是倶得罪、陟貶桂嶺尉、坐不行、徙平樂。會安禄山陷洛陽、弟斌沒賊、国忠欲構陟與賊通、密諭守吏、令脅陟使憂死、州豪傑共説曰:「昔張説被竄、匿陳氏以免。今若詔書下、誰敢庇公?願公乘扁舟遁去、事寧乃出、不亦美乎?」陟慨然曰:「命當爾、其敢逃刑?」因謝遣、堅臥不出。 歳餘、肅宗即位、起為呉郡太守、使者趣追、未至、會永王兵起、委陟招諭、乃授御史大夫、江東節度使。與高適、來瑱會安州、陟曰:「今中原未平、江淮騷離、若不齋盟質信、以示四方、知吾等協心戮力、則無以成功。」乃推瑱為地主、為載書、登壇曰:「淮西節度使瑱、江東節度使陟、淮南節度使適、銜国威命、糾合三垂、翦除兇慝、好惡同之、毋有異志。有渝此盟、墜命亡族、罔克生育、皇天后土、祖宗明神、實鑒斯言。」辭旨慷慨、士皆隕泣。 永王敗、帝趣陟赴鳳翔。初、季広琛從永王亂、非其本謀、陟表広琛為歴陽太守、尉安之。至是、恐広琛有後變、乃馳往諭詔恩釋其疑、而後趣召。帝雅聞陟名、欲倚以相、及是遷延、疑有顧望意、止除御史大夫。會杜甫論房琯、詞意迂慢、帝令陟與崔光遠、顏真卿按之、陟奏:「甫言雖狂、不失諫臣體。」帝繇是疏之。富平人将軍王去榮殺其県令、帝将宥之、陟曰:「昔漢高帝約法、殺人者死。今陛下殺人者生、恐非所宜。」時朝廷尚新、群臣班殿中、有相弔哭者、帝以陟不任職、用顏真卿代之、更拜吏部尚書。久之、宗人伐墓柏、坐不相教、貶絳州刺史。還授太常卿。呂諲入輔、薦為礼部尚書、東京留守。史思明逼伊、洛、李光弼議守河陽、陟率東京官屬入関避之、詔授吏部尚書、令就保永樂、以圖收復。卒、年六十五、贈荊州大都督。 陟早有名、而為林甫、国忠擯廢。及肅宗擇相、自謂必得、以後至不用。任事者皆新進、望風憚之、多言其驕倨。及入関、又不許至京師。鬱鬱不得志、成疾、且卒、歎曰:「吾道窮於此乎!」性侈縱、喜飾服馬、侍兒閹童列左右常数十、侔於王宮主第。窮治饌羞、擇膏腴地蓺穀麥、以鳥羽擇米、毎食視庖中所棄、其直猶不減万銭、宴公侯家、雖極水陸、曾不下。常以五采牋為書記、使侍妾主之、其裁答受意而已、皆有楷法、陟唯署名、自謂所書「陟」字若五朵雲、時人慕之、號「郇公五雲體」。然家法脩整、敕子允就学、夜分視之、見其勤、旦日問安、色必怡。稍怠則立堂下不與語。雖家僮数十、然應門賓客、必允主之。 永泰元年、贈尚書左僕射。太常博士程皓議謚「忠孝」、顏真卿以為許国養親不兩立、不當合二行為謚、主客員外郎歸崇敬亦駁正之。右僕射郭英乂無学術、卒用太常議云。 斌、父為相時授太子通事舎人。少脩整、好文蓺、容止嚴峭、有大臣體、與陟齊名。開元中、薛王業以女妻之、遷祕書丞。天宝中、為中書舎人、兼集賢院学士、改太常少卿。李林甫構韋堅獄、斌以宗累、貶巴陵太守、移臨汝。久之、拜銀青光禄大夫、列五品。時陟守河東、而從兄由為右金吾衛将軍、縚為太子少師、四第同時列戟、衣冠罕比者。禄山陷洛陽、斌為賊得、署以黄門侍郎、憂憤卒。乾元元年、贈祕書監。 斌天性質厚、毎朝會、不敢離立笑言。嘗大雪、在廷者皆振裾更立、斌不徙足、雪甚、幾至、亦不失恭。 子況、少隠王屋山、孔述睿稱之、及述睿以諫議大夫召、薦況為右拾遺、不拜。未幾、以起居郎召、半歳、輒棄官去、徙家龍門。除司封員外郎、稱疾固辭。元和初、授諫議大夫、勉諭到職、数月、乞骸骨、以太子左庶子致仕、卒。況雖世貴、而志沖遠、不為聲利所遷、當時重其風操。 叔夏、安石兄。通礼家学。叔父太子詹事琨嘗曰:「而能繼漢丞相業矣。」擢明經第、歴太常博士。高宗崩、卹礼亡缺、叔夏與中書舎人賈大隠、博士裴守真譔定其制、擢春官員外郎。武后拜洛、享明堂、凡所沿改、皆叔夏、祝欽明、郭山惲等所裁討。毎立一議、衆咨服之。累遷成均司業。后又詔:「五礼儀物、司礼博士有所脩革、須叔夏、欽明等評處、然後以聞。」進位春官侍郎。中宗復位、轉太常少卿、為建立廟社使、進銀青光禄大夫、累封沛郡公、国子祭酒。卒、贈兗州都督、脩文館学士、謚曰文。子縚。 縚、開元時歴集賢脩撰、光禄卿、遷太常。 唐興、礼文雖具、然制度時時繆缺不倫。至顯慶中、許敬宗建言:「籩豆以多為貴、宗廟乃踰于天、請大祀十二、中祀十、小祀八。大祀、中祀、簠、簋、、俎皆一、小祀無。」詔可。二十三年、赦令以籩豆之薦、未能備物、宜詔礼官学士共議以聞。縚請「宗廟籩豆皆加十二」。又言「郊奠、爵容止一合、容小則陋、宜增大之」。 兵部侍郎張均、職方郎中韋述議曰:「礼:『天之所生、地之所長、苟可薦者、莫不咸在。』聖人知孝子之情深、而物類無限、故為之節、使物有品、器有数、貴賤差降、不得相越。周制:王、食用六穀、膳用六牲、飲用六清、羞用百有二十品、珍用八物、醬用百有二十罋、而以四籩、四豆供祭祀。此祀與賓客豊省不得同、舊矣。且嗜好燕私之饌、與時而遷、故聖人一約以礼。雖平生所嗜、非礼則不薦。所惡、是礼則不去。屈建命去祥祭之芰曰:『祭典有之、不羞珍異、不陳庶侈。』此則礼外之食、前古不薦。今欲以甘旨肥濃皆充於祭、苟踰舊制、其何極焉。雖籩豆有加、不能備也。若曰以今之珍、生所嗜愛、求神無方、是簠、簋可去、而盤、盂、杯、案當御矣。韶、護可抵、而箜篌、笙、笛應奏矣。且自漢以來、陵有寢宮、歳時朔望、薦以常饌、固可盡孝子之心。至宗廟法享、不可變古從俗。有司所承、一升爵、五升散。礼、凡宗廟、貴者以爵、賤者以散、此貴小賤大、以示節儉。請如故。」 太子賓客崔沔曰:「古者、有所飲食、必先嚴献、未火化、則有毛血之薦、未麴、則有玄酒之奠。至後王、作酒醴、用犧牲、故有三牲、八簋、五齊、九献。然神尚玄、可存而不可測也。祭主敬、可備而不可廢也。蓋薦貴新、味不尚褻、雖曰備物、猶有節制存焉。鉶、俎、籩、豆、簠、簋、尊、罍、周人時饌也、其用通於燕享賓客、周公乃與毛血玄酒共薦。晉中郎盧諶家祭、皆晉日食、則當時之食、不可闕於祀已。唐家清廟時享、礼饌備進、周法也。園寢上食、時膳具陳、漢法也。職貢助祭、致遠物也。有新必薦、順時令也。苑囿躬稼所入、蒐田親發所中、皆因宜以薦、薦而後食。則濃腴鮮美盡在矣。又敕有司著于令、不必加籩豆之数也。大凡祭器、視物所宜。故大羹、古饌也、盛以、、古器也。和羹、時饌也、盛以鉶、鉶、時器也。有古饌而用時器者、則毛血于盤、玄酒于尊。未有進時饌用古器者、古質而今文、有所不稱也。雖加籩豆十二、未足盡天下之美、而措諸廟、徒以近侈而見訾抵。臣聞墨家者流、出於清廟、是廟貴儉不尚奢也。」 礼部員外郎楊仲昌、戸部郎中陽伯成、左衛兵曹参軍劉秩等、請如舊礼便。宰相白奏、玄宗曰:「朕承祖宗休徳、享祀粢盛、實貴豊絜。有如不應於法、亦不敢用。」乃詔太常、擇品味可增者稍加焉。縚又請「室加籩、豆各六、毎四時以新果珍饔實之」。制「可」。又詔:「献爵視藥升所容、以合古。」 二十三年、詔書服紀所未通者、令礼官学士詳議。縚上言:「礼喪服:舅、緦麻三月。從母、小功五月、伝曰:『何以小功、以名加也。』而堂姨、舅母、恩所不及焉。外祖父母、小功五月、伝曰:『何以小功、以尊加也。』舅、緦麻三月、皆情親而屬疏也。外祖正尊、服同從母。姨、舅一等、而有輕重。堂姨、舅親未疏、不相為服。親舅母不如同爨。其亦古意有所未暢。且外祖小功、此為正尊、請進至大功。姨、舅儕親、服宜等、請進舅至小功。堂姨舅以疏降親舅從母一等。親舅母古未有服、請從袒免。」 於是韋述議曰:「自高祖至玄孫并身謂之九族。由近及遠、差其輕重、遂為五服。伝曰:『外親服皆緦。』鄭玄曰:『外親之服異姓、正服不過緦。』外祖父母小功、以尊加。從母小功、以名加。舅、甥、外孫、中外昆弟、皆緦。以匹言之、外祖則祖也、舅則伯叔也、父母之恩不殊、而獨殺於外者有以也。禽獸知母而不知父、野人則父母等、都邑之士則知尊禰、大夫則知尊祖、諸侯及太祖、天子及始祖。聖人究天道、厚祖禰、繋姓族、親子孫、則母黨之於本族、不同明甚。家無二尊、喪無二斬、人之所奉、不可貳也。為人後、降其父母喪。女子嫁、殺其家之喪。所存者遠、抑者私也。若外祖及舅加一等、而堂舅及姨著服、則中外其別幾何?且五服有上殺之義、伯叔父母服大功、從父昆弟亦大功、以其出於祖、服不得過於祖也。從祖祖父母、從祖父母、從祖昆弟皆小功、以其出於曾祖、服不得過曾祖也。族祖祖父母、族祖父母、族昆弟皆緦、以其出於高祖、服不得過高祖也。堂姨、舅出外曾祖、若為之服、則外曾祖父母、外伯叔祖父母亦可制服矣。外祖至大功、則外曾祖小功、外高祖緦。推而広之、與本族無異。棄親録疏、不可謂順。且服皆有報、則堂甥、外曾孫、姪女之子皆當服。聖人豈薄其骨肉恩愛哉?蓋本於公者末於私、義有所斷、不得不然。苟可加也、則可減也、如是、礼可隳矣。請如古便。」楊仲昌又言:「舅服小功、魏徴嘗進之矣。今之所請、正同徴論。堂舅、堂姨、舅母、皆升袒免、則外祖父母進至大功、不加報於外孫乎?外孫而報以大功、則本宗之庶孫用何等邪?」 帝手敕曰:「朕謂親姨、舅服小功、則舅母於舅有三年之喪、不得全降於舅、宜服緦。堂姨、舅古未有服、朕思睦厚九族、宜袒免。古有同爨緦、若比堂姨、舅於同爨、不已厚乎?伝曰:『外親服皆緦。』是亦不隔堂姨、舅也。若謂所服不得過本、而復為外曾祖父母、外伯叔父母制服、亦何傷?皆親親敦本意也。」 侍中裴耀卿、中書令張九齢、礼部尚書李林甫奏言:「外服無降、甥為舅母服、舅母亦報之。夫之甥既報、則夫之姨、舅又當服、恐所引益疏。臣等愚、皆所不及。」詔曰:「從服六、此其一也。降殺於礼無文、皆自身率親為之数。姨、舅屬近、以親言之、亦姑伯之匹、可曰所引疏耶?婦人從夫者也、夫於姨舅既服矣、從夫而服、是謂睦親。卿等宜熟計。」耀卿等奏言:「舅母緦、堂姨舅袒免。請準制旨、自我為古、罷諸儒議。」制曰:「可。」 初、帝詔歳率公卿迎氣東郊、至三時、常以孟月讀時令於正寢。二十六年、詔縚月奏令一篇、朔日於宣政側設榻、東向置案、縚坐讀之、諸司官長悉升殿坐聽。歳餘、罷。 高宗上元三年、将祫享。議者以礼緯三年祫、五年禘。公羊家五年再殷祭。二家舛互、諸儒莫能決。太学博士史玄璨曰:「春秋:僖公三十三年十二月薨。文公之二年八月丁卯、大享。公羊曰:『祫也。』則三年喪畢、新君之二年當祫、明年當禘群廟。又宣公八年、禘僖公。宣公八年皆有禘、則後禘距前禘五年。此則新君之二年祫、三年禘爾。後五年再殷祭、則六年當祫、八年禘。昭公十年、齊歸薨。十三年、喪畢當祫、為平丘之會。冬、公如晉、至十四年祫、十五年禘。伝曰『有事於武宮』是也。至十八年祫、二十年禘。二十三年祫、二十五年禘。昭公二十五年『有事於襄宮』是也。則禘後三年而祫、又二年而禘、合於礼。」議遂定。後睿宗喪畢、祫於廟。至開元二十七年、禘祭五、祫祭七。是歳、縚奏:「四月嘗已禘、孟冬又祫、祀礼叢数、請以夏禘為大祭之源。」自是相循、五年再祭矣。 縚終太子少師。 抗者、安石從父兄子。弱冠舉明經、累官吏部郎中。景雲初、為永昌令、輦轂繁要、抗不事威刑而治、前令無及者。遷右御史臺中丞、邑民詣闕留、不聽、乃立碑著其惠。開元三年、自太子左庶子為益州大都督府長史、授黄門侍郎。河曲胡康待賓叛、詔持節慰撫。抗於武略非所長、稱疾逗留、不及賊而返。俄代王晙為御史大夫、兼按察京畿。弟拯方為万年令、兄弟領本部、時以為榮。坐薦御史非其人、授安州都督、改蒲州刺史。入為大理卿、進刑部尚書、分掌吏部選、卒。抗歴職以清儉、不治産、及終無以葬、玄宗聞之、特給槥車。贈太子少傅、謚曰貞。 所表奉天尉梁昇卿、新豊尉王倕、華原尉王燾、皆為僚屬、後皆為顯人。昇卿渉学工書、於八分尤工、歴広州都督、書東封朝覲碑、為時絶筆。倕累遷河西節度使、天宝中、功聞于邊。它所辟舉、如王維、王縉、崔殷等、皆一時選云。 郭震字元振、魏州貴郷人、以字顯。長七尺、美須髯、少有大志。十六、與薛稷、趙彦昭同為太学生、家嘗送資銭四十万、會有縗服者叩門、自言「五世未葬、願假以治喪」。元振舉與之、無少吝、一不質名氏。稷等嘆駭。 十八舉進士、為通泉尉。任俠使氣、撥去小節、嘗盜鑄及掠賣部中口千餘、以餉遺賓客、百姓厭苦。武后知所為、召欲詰、既與語、奇之、索所為文章、上宝劍篇、后覽嘉歎、詔示学士李嶠等、即授右武衛鎧曹参軍、進奉宸監丞。 會吐蕃乞和、其大将論欽陵請罷四鎮兵、披十姓之地、乃以元振充使、因覘虜情。還、上疏曰: 利或生害、害亦生利。国家所患、唯吐蕃與默啜耳、今皆和附、是将大利於中国也。若圖之不審、害且隨之。欽陵欲裂十姓地、解四鎮兵、此動靜之機、不可輕也。若直遏其意、恐邊患必甚於前、宜以策緩之、使其和望勿絶、而惡不得萌、固當取捨審也。夫患在外者、十姓、四鎮是也。患在内者、甘、涼、瓜、肅是也。関隴屯戍、向三十年、力用困竭、脱甘、涼有一日警、豈堪広調發耶? 善為国者、先料内以敵外、不貪外以害内、然後安平可保。欽陵以四鎮近己、畏我侵掠、此吐蕃之要。然青海、吐渾密邇蘭、鄯、易為我患、亦国家之要。今宜報欽陵曰:「四鎮本扼諸蕃走集、以分其力、使不得併兵東侵。今委之、則蕃力益彊、易以擾動。保後無東意、當以吐渾諸部、青海故地歸於我、則俟斤部落還吐蕃矣。」此足杜欽陵口、而和議未絶。且四鎮久附、其倚国之心、豈與吐蕃等?今未知利害情實而分裂之、恐傷諸国意、非制御之算。 后從之。 又言:「吐蕃倦徭戍久矣、咸願解和。以欽陵欲裂四鎮、專制其国、故未歸款。陛下誠能歳發和親使、而欽陵常不從、則其下必怨、設欲大舉、固不能、斯離間之漸也。」后然其計。後数年、吐蕃君臣相猜攜、卒誅欽陵、而其弟賛婆等來降、因詔元振與河源軍大使夫蒙令卿率騎往迎。授主客郎中。 久之、突厥、吐蕃聯兵寇涼州、后方御洛城門宴、邊遽至、因輟樂、拜元振為涼州都督、即遣之。初、州境輪広纔四百里、虜來必傅城下。元振始於南硤口置和戎城、北磧置白亭軍、制束要路、遂拓境千五百里、自是州無虜憂。又遣甘州刺史李漢通闢屯田、盡水陸之利、稻收豊衍。舊涼州粟斛售数千、至是歳数登、至匹縑易数十斛、支廥十年、牛羊被野。治涼五歳、善撫御、夷夏畏慕、令行禁止、道不舉遺。河西諸郡置生祠、揭碑頌徳。 神龍中、遷左驍衛将軍、安西大都護。西突厥酋烏質勒部落盛彊、款塞願和、元振即牙帳與計事。會大雨雪、元振立不動、至夕凍冽。烏質勒已老、数拜伏、不勝寒、會罷即死。其子娑葛以元振計殺其父、謀勒兵襲撃、副使解琬知之、勸元振夜遁、元振不聽、堅臥營為不疑者。明日、素服往弔、道逢娑葛兵、虜不意元振來、遂不敢逼、揚言迎衛。進至其帳、脩弔贈礼、哭甚哀、為留数十日助喪事、娑葛感義、更遣使献馬五千、駝二百、牛羊十餘万。制詔元振為金山道行軍大総管。 烏質勒之将闕啜忠節與娑葛交怨、屢相侵、而闕啜兵弱不支。元振奏請追闕啜入宿衛、徙部落置瓜、沙間。詔許之。闕啜遂行。至播仙城、遇經略使周以悌、以悌説之曰:「国家厚秩待君、以部落有兵故也。今獨行入朝、一羇旅胡人耳、何以自全?」乃教以重宝賂宰相、無入朝。請發安西兵導吐蕃以撃娑葛。求阿史那献為可汗以招十姓。請郭虔瓘使拔汗那蒐其鎧馬以助軍、既得復讎、部落更存。闕啜然之、即勒兵撃于闐坎城、下之。因所獲、遣人間道齎黄金分遺宗楚客、紀處訥、使就其謀。元振知之、上疏曰: 国家往不與吐蕃十姓、四鎮而不擾邊者、蓋其諸豪泥婆羅等屬国自有攜貳、故賛普南征、身殞寇庭、国中大亂、嫡庶競立、将相爭権、自相翦屠、士畜疲癘、財力困窮、顧人事、天時兩不諧契、所以屈志於漢、非實忘十姓、四鎮也。如其有力、後且必爭。今忠節忽国家大計、欲為吐蕃郷導主人、四鎮危機恐從此啓。吐蕃得志、忠節亦當在賊掌股、若為復得事我哉?往吐蕃於国無有恩力、猶欲爭十姓、四鎮。今若効力樹恩、則請分于闐、疏勒者、欲何理抑之?且其国諸蠻及婆羅門方自嫌阻、藉令求我助討者、亦何以拒之?是以古之賢人、不願夷狄妄惠、非不欲其力、懼後求無厭、益生中国事也。臣愚以為用吐蕃之力、不見其便。 又請阿史那献者、豈非以可汗子孫能招綏十姓乎?且斛瑟羅及懐道與献父元慶、叔僕羅、兄俀子、倶可汗子孫也。往四鎮以他匐十姓之亂、請元慶為可汗、卒亦不能招來、而元慶沒賊、四鎮淪陷。忠節亦嘗請以斛瑟羅及懐道為可汗矣、十姓未附而碎葉幾危。又吐蕃亦嘗以俀子、僕羅并拔布為可汗矣、亦不能得十姓而皆自亡滅、此非它、其子孫無惠下之才、恩義素絶故也。豈止不能招懐、且復為四鎮患、則冊可汗子孫其效固試矣。献又遠於其父兄、人心何繇即附、若兵力足取十姓、不必要須可汗子孫也。 又請以郭虔瓘蒐兵税馬於拔汗那。往虔瓘已嘗與忠節擅入其国、臣時在疏勒、不聞得一甲一馬、而拔汗那挾忿侵擾、南導吐蕃、将俀子、以擾四鎮。且虔瓘住至拔汗那国、四面無助、若履虚邑、猶引俀子為敝。況今北有娑葛、知虔瓘之西、必引以相援、拔汗那倚堅城而抗于内、突厥邀伺于外、虔瓘等豈能復如往年得安易之幸哉? 疏奏不省。 楚客等因建遣攝御史中丞馮嘉賓持節安撫闕啜、以御史呂守素處置四鎮、以牛師為安西副都護、代元振領甘、涼兵、召吐蕃併力撃娑葛。娑葛之使娑臘知楚客謀、馳報之。娑葛怒、即發兵出安西、撥換、焉耆、疏勒各五千騎。於是闕啜在計舒河與嘉賓會、娑葛兵奄至、禽闕啜、殺嘉賓、又殺呂守素於僻城、牛師於火燒城、遂陷安西、四鎮路絶。元振屯疏勒水上、未敢動。楚客復表周以悌代元振、且以阿史那献為十姓可汗、置軍焉耆以取娑葛。娑葛遺元振書、且言:「無仇于唐、而楚客等受闕啜金、欲加兵撃滅我、故懼死而。且請斬楚客。」元振奏其状。楚客大怒、誣元振有異圖、召将罪之。元振使子鴻間道奏乞留定西土、不敢歸京師。以悌乃得罪、流白州、而赦娑葛。 睿宗立、召為太僕卿。将行、安西酋長有剺面哭送者、旌節下玉門関、去涼州猶八百里、城中爭具壺漿歡迎、都督嗟歎以聞。景雲二年、進同中書門下三品、遷吏部尚書、封館陶県男。先天元年、為朔方軍大総管、築豊安、定遠城、兵得保頓。明年、以兵部尚書復同中書門下三品。 玄宗誅太平公主也、睿宗御承天門、諸宰相走伏外省、獨元振総兵扈帝、事定、宿中書者十四昔乃休。進封代国公、實封四百戸、賜一子官、物千段。俄又兼御史大夫、復為朔方大総管、以備突厥。未行、會玄宗講武驪山、既三令、帝親鼓之、元振遽奏礼止、帝怒軍容不整、引坐纛下、将斬之。劉幽求、張説扣馬諫曰:「元振有大功、雖得罪、當宥。」乃赦死、流新州。開元元年、帝思舊功、起為饒州司馬、怏怏不得志、道病卒、年五十八。十年、贈太子少保。 元振雖少雄邁、及貴、居處乃儉約、手不置書、人莫見其喜慍。建宅宣陽里、未嘗一至諸院厩。自朝還、對親欣欣、退就室、儼如也。距国初仕至宰相而親具者、唯元振云。 賛曰:魏、韋皆感概而奮、似矣。及在昏上側臣間、臨機會、不一引手揕姦邪之謀、誠可鄙哉。至后豔主以烝譖撼宗社、亦不肯從也。古所謂具臣者、諒乎!元振功顯節完、一跌未復、世恨其蚤歿云。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/18.html
唐書巻八 本紀第八 穆宗 敬宗 文宗 武宗 宣宗 穆宗睿聖文恵孝皇帝は、諱を恒といい、憲宗の第三子である。母は懿安皇太后郭氏といった。始め建安郡王に封ぜられ、遂王に進封され、彰義軍節度使を遙領した。元和七年(812)、恵昭太子が薨去すると、左神策軍中尉の吐突承璀が澧王李惲を立てようとしたが、李惲の母が卑賎だったため立てることができず、遂王を立てて皇太子とした。 十五年(820)正月庚子、憲宗が崩ずると、陳弘志が吐突承璀と澧王を殺した。辛丑、皇太子に柩の前で皇帝の位につくよう詔を遺し、司空兼中書令の韓弘が葬儀を取り仕切った。 閏月丙午、皇太子が太極殿で皇帝位についた。丁未、皇甫鎛が左遷されて崖州司戸参軍となった。戊申、聴政を始めた。辛亥、御史中丞の蕭俛・中書舎人で翰林学士の段文昌を中書侍郎・同中書門下平章事とした。乙卯、母を尊んで皇太后とした。戊辰、京師で地震があった。 二月丁丑、大赦をおこなった。文武の官に階・爵を、老人に粟帛を賜い、二王三恪(北魏・北周・隋の後裔)・文宣公(孔子)・嗣王・公主・県主・建国の功臣および第一等の功臣の家の一子に官位を与えた。掖庭に没籍された者を解放した。丹鳳門に幸して俳優を観賞した。丁亥、左神策軍に幸して角觝・倡戲を観賞した。乙未、吐蕃が霊州を寇した。丙申、丹王李逾が薨去した。 三月乙巳、杜叔良が吐蕃と戦い、これを破った。戊辰、大風にして雹が降った。辛未、楊清が処刑された。 五月庚申、聖神章武孝皇帝を景陵に葬った。 六月丁丑、韓弘が宰相を退いた。 七月丁卯、令狐楚が宰相を退いた。 八月乙酉、容管経略留後の厳公素が黄洞蛮と神歩で戦い、これを破った。戊戌、御史中丞の崔植が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 九月辛丑、魚藻宮で競渡・角觝を観賞し、音楽を用いた。 十月庚辰、王承宗が亡くなった。辛巳、成徳軍観察支使の王承元が鎮・趙・深・冀の四州をもって官吏に帰順した。癸未、吐蕃が涇州を寇し、右神策軍中尉の梁守謙が左右神策・京西・京北行営都監となってこれを禦いだ。丙戌、吐蕃が遁走した。 十一月癸卯、鎮・趙・深・冀の四州の死罪以下を赦し、成徳軍の将士に銭を賜った。 十二月庚辰、城南で狩猟した。壬午、右神策軍で撃鞠し、ついで城西で狩猟した。甲申、苑北で狩猟した。 長慶元年(821)正月己亥、太清宮で朝献した。庚子、太廟で朝享した。辛丑、南郊を有事摂事(にて祀った)。大赦し、改元し、文武の官に階・勲・爵を賜った。己未、翼に星孛が入った。壬戌、蕭俛が宰相を退いた。丁卯、太微が星孛に入った。 二月乙亥、麟徳殿にて楽を観賞した。丙子、神策諸軍の雑伎を観賞した。己卯、劉総が盧龍軍八州をもって官吏に帰順した。壬午、段文昌が宰相を退いた。翰林学士・戸部侍郎の杜元穎が同中書門下平章事となった。辛卯、麟徳殿で撃鞠した。 三月庚戌、太白(金星)が昼に見えた。丁巳、幽・涿・檀・順・瀛・莫・営・平の八州の死罪以下を赦し、一年間扶持した。盧龍の軍士に銭を賜った。戊午、弟の李憬を封じて鄜王とし、李悦を瓊王とし、李恂を沔王とし、李懌を婺王とし、李愔を茂王とし、李怡を光王とし、李を淄王とし、李憺を衢王とし、李を澶王とした。子の李湛を鄂王とし、李涵を江王とし、李湊を漳王とし、李溶を安王とし、李瀍を潁王とした。この月、李湛を徙封して景王とした。 五月丙辰、建王李審が薨去した。 六月、彗星が昴に出現した。辛未、吐蕃が青塞烽を寇し、塩州刺史の李文悦がこれを破った。 七月甲辰、幽州盧龍軍都知兵馬使の朱克融がその節度使の張弘靖を捕らえてそむいた。壬子、群臣が尊号をたてまつって文武孝徳皇帝といった。大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜った。壬戌、成徳軍大将の王廷湊がその節度使の田弘正を殺してそむいた。 八月壬申、朱克融が莫州を陥落させた。癸酉、王廷湊が冀州を陥落させ、刺史の王進岌がここに死んだ。丙子、瀛州軍が乱を起こし、その観察使の盧士玫を捕らえ、叛いて朱克融についた。王廷湊が深州を寇した。丁丑、魏博・橫海・昭義・河東・義武の兵が王廷湊を討った。己丑、裴度が幽・鎮招撫使となった。 九月乙巳、相州軍が乱を起こし、その刺史の邢濋を殺した。 十月丙寅、諸道塩鉄転運使・刑部尚書の王播が中書侍郎・同中書門下平章事となった。裴度が鎮州西面行営都招討使となった。左領軍衛大将軍の杜叔良が深州諸道行営節度使となった。戊寅、王廷湊が貝州を陥落させた。己卯、易州刺史の柳公済が朱克融と白石で戦い、これを破った。庚辰、橫海軍節度使の烏重胤が王廷湊と饒陽で戦い、これを破った。辛卯、霊武節度使の李進誠が吐蕃と大石山で戦い、これを破った。 十一月甲午、裴度が王廷湊と会星で戦い、これを破った。丙申、朱克融が定州を寇すると、義武軍節度使の陳楚がこれを破った。 十二月庚午、杜叔良が王廷湊と博野で戦い、敗れた。丁丑、陳楚が朱克融と望都で戦い、これを破った。乙酉、朱克融を赦した。己丑、陳楚が朱克融と清源で戦い、これを破った。 二年(822)正月庚子、魏博軍が南宮で潰滅した。癸卯、魏博節度使の田布が自殺し、兵馬使の史憲誠が留後を自称した。海州の海が凍った。 二月甲子、王廷湊を赦した。辛巳、崔植が宰相を退いた。工部侍郎の元稹が同中書門下平章事となった。戊子、昭義軍節度使の劉悟がその監軍使の劉承偕を捕らえた。 三月乙巳、武寧軍節度副使の王智興がその節度使の崔群を追放した。戊午、守司徒・淮南節度使の裴度が同中書門下平章事となった。王播が宰相を退いた。 四月辛酉朔、日食があった。壬戌、成徳軍節度使の牛元翼が京師に逃れ、王廷湊が深州を陥落させた。 五月壬寅、邕州刺史の李元宗が叛き、黄洞蛮に亡命した。 六月癸亥、宣武軍宿直の将の李臣則がその節度使の李愿を追放し、衙門都将の李㝏がそむいた。甲子、裴度・元稹が宰相を退いた。兵部尚書の李逢吉が門下侍郎・同中書門下平章事となった。乙丑、大風が太廟の鴟尾を落とした。癸酉、吐蕃が霊州を寇し、塩州刺史の趙旰がこれを破った。 七月丙申、宋王李結が薨去した。戊申、李㝏が宋州を陥落させた。丙辰、兗鄆節度使の曹華が李㝏と宋州で戦い、これを破った。丁巳、忠武軍節度使の李光顔がまた尉氏で李㝏を破った。 八月壬申、宣武軍節度使の韓充がまた郭橋で李㝏を破った。丙子、李㝏が処刑された。癸未、詔して汴・宋・鄭の三州の戦没者を埋葬し、その家は三年間扶持した。 九月戊子、鎮海軍の将の王国清が反乱を計画し、処刑された。丙申、徳州軍が乱を起こし、その刺史の王稷を殺した。 十月己卯、咸陽で狩猟した。 十一月庚午、皇太后が華清宮に幸した。癸酉、皇太后を迎え、驪山で狩猟した。丙子、集王李緗が薨去した。 十二月丁亥、不豫、五坊の鷹・隼および狩猟の狐・兎を放った。癸巳、景王李湛を立てて皇太子とした。癸丑、死罪以下を降し、文武常参及び州府の長官の子が父の跡を継いだ者に両転を勲し、宗子・諸親に一転を賜った。 この冬、凍結することがなく、草木が萌えいでた。 三年(823)三月壬戌、御史中丞の牛僧孺が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。癸亥、淮南・浙東西・江南・宣歙で旱害があり、宣撫の使を派遣し、獄囚を再審し、官吏を査察した。 四月甲午、陸州の獠がそむいた。 五月壬申、京師に雨雹が降った。 七月丙寅、黄洞蛮が欽州を陥落させた。 九月壬子朔、日食があった。 十月己丑、杜元穎が宰相を退いた。辛卯、黄洞蛮が安南を寇した。 四年(824)正月辛亥、死罪以下を降し、流人に一年服役を減じた。文武の官および宗子・賀正使に階・勲・爵を賜った。詔百官言事。辛未、皇太子を権勾当軍国政事とした。壬申、皇帝が清思殿で崩じ、年は三十であった。 敬宗睿武昭愍孝皇帝は、諱を湛といい、穆宗の長子である。母は恭僖皇太后王氏といった。始め鄂王に封ぜられ、景王に徙封された。 長慶二年(822)十二月、穆宗が撃毬のためににわかに病み、群臣を謁見しないこと三日。左僕射の裴度が三たび上疏して、皇太子を立てるよう請願して、翰林学士・両省官も相次いで皆請願した。数日をへて、穆宗の病がやや癒えた時、宰相の李逢吉が景王を立てて皇太子とするよう請願した。 四年(824)正月、穆宗が崩じた。癸酉、門下侍郎・平章事の李逢吉が葬儀を取り仕切った。丙子、皇太子が太極殿で皇帝位についた。 二月辛巳、聴政を始めた。癸未、母を尊んで皇太后とし、皇太后を太皇太后とした。辛卯、掖庭・内園に入れられた者を解放した。丁未、中和殿で撃鞠した。戊申、飛龍院で撃鞠した。黄洞蛮が降った。己酉、撃鞠し、楽を用いた。 三月壬子、大赦をおこなった。京畿・河南の青苗税を免じ、宮中の経費・乗輿・服膳を減らし、鷹犬の貢納をやめさせた。元和以来、両河の藩鎮で帰順した者の一子に官を与えた。庚午、太白が天を通過した。 四月丙申、清思殿で撃鞠した。染坊匠の張韶(染坊匠)がそむき、左神策軍に幸し、張韶が処刑された。丁酉、宮殿に帰還した。 五月乙卯、吏部侍郎の李程と戸部侍郎・判度支の竇易直が同中書門下平章事となった。 六月庚辰、大風で延喜門と景風門が壊れた。 この夏、漢水が氾濫した。 八月丁亥、太白(金星)が昼に見えた。丁酉、中官の季文徳が反乱を計画し、処刑された。黄洞蛮が安南を寇した。 十一月戊午、環王と黄洞蛮が陸州を陥落させ、刺史の葛維がここに死んだ。庚申、睿聖文恵孝皇帝を光陵に葬った。 宝暦元年(825)正月己酉、太清宮で朝献した。庚戌、太廟で朝享した。辛亥、南郊を有事摂事(にて祀った)。大赦をおこない、改元した。乙卯、牛僧孺が宰相を退いた。 四月癸巳、群臣が尊号をたてまつって文武大聖広孝皇帝といった。大赦をおこなった。文武の官に階・爵を賜った。 五月庚戌、魚藻宮で競渡を観賞した。 九月壬午、昭義軍節度使の劉悟が亡くなり、その子の劉従諌が留後を自称した。 十一月丙申、子の李普を封じて晋王とした。 二年(826)正月甲戌、神策六軍を発して禁中で池を掘らせた。 二月丁未、山南西道節度使の裴度が司空を代行し、同中書門下平章事となった。 三月戊寅、魚藻宮で競渡を観賞した。 四月戊戌、横海軍節度使の李全略が亡くなり、その子の李同捷がそむいた。 五月戊寅、魚藻宮で競渡を観賞した。庚辰、幽州盧龍軍が乱を起こし、その節度使の朱克融を殺し、その子の朱延嗣が節度使を自称した。 六月辛酉、臨碧池で漁を観賞した。甲子、驢鞠・角觝を三殿で観賞した。 七月癸未、衡王李絢が薨去した。渼陂を尚食局に下属させ、民間の漁業を禁じた。 八月丙午、競渡を新池で観賞した。 九月甲戌、百戯を宣和殿で観賞し、三日してやめた。戊寅、幽州盧龍軍兵馬使の李載義が朱延嗣を殺して、留後を自称した。壬午、李程が宰相を退いた。 十一月甲申、李逢吉が宰相を退いた。己丑、朝官・方鎮が私的に宦官を置くことを禁じた。 十二月、中官の劉克明がそむいた。辛丑、皇帝が崩じ、年は十八であった。 文宗元聖昭献孝皇帝は、諱を昂といい、穆宗の第二子である。母は貞献皇太后蕭氏といった。始め江王に封ぜられた。 宝暦二年(826)十二月、敬宗が崩ずると、劉克明らが詔をいつわり、絳王李悟句を軍国事に当たらせた。壬寅、内枢密使の王守澄と楊承和、神策護軍中尉の魏従簡と梁守謙が江王を奉じてこれを立て、神策六軍と飛龍兵を率いて劉克明を誅し、絳王を殺した。乙巳、江王(文宗)が宣政殿で皇帝の位についた。戊申、聴政を始めた。母を尊んで皇太后とした。庚戌、兵部侍郎・翰林学士の韋処厚が中書侍郎・同中書門下平章事となった。庚申、宮人三千を追放し、教坊・楽工・翰林の伎術の冗員千二百七十人を省き、五坊の鷹・犬を放ち、纂組・雕鏤・金筐・宝飾・牀榻の貢納を罷めさせた。 大和元年(827)二月乙巳、大赦をおこない、改元した。京兆ではこの年の夏税を半分免除した。九廟に陪位の者の子孫に二階を、立功の将士に階・爵を賜い、始めて諸王の後を封じて一子を官に就かしめた。 五月戊辰、宰臣奏事の監搜を罷む。丙子、横海軍節度使の烏重胤が李同捷を討った。 六月癸巳、淮南節度副大使の王播が尚書左僕射・同中書門下平章事となった。乙卯、旱のため京畿の死罪以下を降す。 七月癸酉、睿武昭愍孝皇帝を荘陵に葬った。 十一月庚辰、横海軍節度使の李寰が李同捷を討った。 十二月庚戌、王智興が滄州行営招撫使となった。 二年(828)正月壬申、地震があった。 六月乙卯、晋王李普が薨去した。己巳、大風で木が抜けた。乙亥、峰州刺史の王昇朝がそむき、処刑された。 この夏、黄河が氾濫し、棣州城を破壊した。越州で津波があった。 七月辛丑、魏博節度使の史憲誠が同捷と平原で戦い、これを破った。甲辰、彗星が右摂提に出現した。 八月己巳、王廷湊がそむいた。壬申、義武軍節度使の柳公済が王廷湊と新楽で戦い、これを破った。己卯、劉従諌がまた臨城でこれを破った。辛巳、史憲誠が李同捷と平原で戦い、これを破った。癸未、劉従諌が王廷湊と昭慶で戦い、これを破った。 九月癸卯、柳公済がまた王廷湊を博野で破った。丁未、岳王李緄が薨去した。庚戌、安南軍が乱を起こし、その都護の韓約を追放した。 十月庚申、史憲誠が李同捷と平原で戦い、これを破った。丁卯、洋王李忻が薨去した。癸酉、竇易直が宰相を退いた。戊寅、史憲誠が李同捷と平原で戦い、これを破った。壬午、幽州盧龍軍節度使の李載義がまた李同捷を長蘆で破った。 十一月壬辰、棣州に一年間給付し、戦士で傷痍の者に終身扶持した。甲辰、昭徳寺で火事があった。 十二月乙丑、魏博行営兵馬使の丌志沼がそむいた。壬申、韋処厚が薨去した。戊寅、兵部侍郎・翰林学士の路隋が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 三年(829)正月丁亥、宣武・河陽の兵が丌志沼を討った。庚子、丌志沼は鎮州に逃れた。 三月乙酉、教坊日直楽工を罷めた。乙巳、太原兵馬使の傅毅を義武軍節度使としたが、義武軍は命を受けず、都知兵馬使の張璠が節度使を自称した。戊申、張璠を義武軍節度使とした。 四月戊辰、滄景節度使の李祐が徳州を落とし、李同捷が降った。乙亥、滄徳宣慰使の柏耆が李同捷をもって京師に帰順し、将陵でこれを殺した。 五月辛卯、滄・景・徳・棣の四州に一年間給付した。 六月甲戌、魏博軍に乱があり、その節度使の史憲誠を殺し、都知兵馬使の何進滔が留後を自称した。 八月辛亥、相・衛・澶の三州を相衛節度使に隷属させたが、何進滔は命を受けなかった。辛酉、旱害のため京畿の九県のこの年の租を免除した。壬申、王廷湊を赦した。甲戌、吏部侍郎の李宗閔が同中書門下平章事となった。 十月癸丑、仗内で火災が発生した。 十一月壬辰、太清宮で朝献した。癸巳、太廟で朝享した。甲午、南郊を有事摂事(にて祀った)。大赦をおこなった。詔して製造困難な非常の物の献上を廃し、糸布・撩綾・機杼を焼いた。この月、雲南蛮が巂・邛の二州を陥落させた。 十二月丁未、鄂岳・襄鄧・忠武軍が雲南蛮を討伐した。庚戌、雲南蛮が成都を寇し、右領軍衛大将軍の董重質が左右神策及諸道行営西川都知兵馬使となってこれを討伐した。己未、雲南蛮が梓州を寇した。壬戌、蜀州を寇した。 四年(830)正月戊子、子の李永を封じて魯王とした。辛卯、武昌軍節度使の牛僧孺が兵部尚書・同中書門下平章事となった。甲午、王播が薨去した。 二月乙卯、興元軍に乱があり、その節度使の李絳を殺した。 三月癸卯、京畿の狩猟を禁じた。 四月丁未、奚が辺境を寇し、李載義がこれを破った。 六月丁未、裴度平章軍国重事。 この夏、舒州江が氾濫した。 七月癸未、尚書右丞の宋申錫が同中書門下平章事となった。 九月壬午、裴度が宰相を退いた。 五年(831)正月庚申、幽州盧龍軍が乱を起こし、その節度使の李載義を追放し、莫州刺史の張慶初を殺し、兵馬使の楊志誠が留後を自称した。 三月庚子、宋申錫を左遷して太子右庶子とした。癸卯、漳王李湊を降封して巣県公とした。 六月甲午、梓州の玄武江が氾濫した。 六年(832)正月壬子、死罪以下を降した。 二月、蘇州で地震があり、生白毛。 五月庚申、民間にあって疫病で死んだ者に棺を、十歳以下で自活できない者に二ヶ月間糧食を給付した。 七月戊申、原王李逵が薨去した。 十一月甲子、魯王李永を立てて皇太子とした。 十二月乙丑、牛僧孺が宰相を退いた。己巳、珍王李諴が薨去した。 七年(833)正月壬辰、呉・蜀の冬の貢茶をやめさせた。 二月丙戌、兵部尚書の李徳裕が同中書門下平章事となった。 三月辛卯、幽州盧龍軍節度使楊志誠が春衣使奉鸞・送奚契丹使尹士恭を捕らえた。辛丑、和王李綺が薨去した。 六月甲戌、地震があった。乙亥、李宗閔が宰相を退いた。 七月壬寅、尚書右僕射・諸道塩鉄転運使の王涯が同中書門下平章事となった。 閏月乙卯、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめ、宮女千人を出し、五坊の鷹・犬を放った。 八月庚寅、死罪以下を降し、文武および州府の長官の子で父の跡を継いだ者に二階級を賜う。 十二月庚子、不豫。 八年(834)二月壬午朔、日食があった。庚寅、病が癒えたため、死罪以下一等を降した。 四月丙戌、詔して笞罪に鞭の背を禁じた。 五月己巳、飛龍・神駒の中の厩で火事があった。 六月丙戌、莒王李紓が薨去した。 七月辛酉、定陵の寝宮が震動した。癸亥、郯王李経が薨去した。 九月辛亥、彗星が太微に出現した。 十月辛巳、幽州盧龍軍の大将の史元忠がその節度使の楊志誠を追放し、権勾当節度兵馬を自称した。庚寅、山南西道節度使の李宗閔が中書侍郎・同中書門下平章事となった。甲午、李徳裕が宰相を退いた。 十一月癸丑、成徳軍節度使王廷湊が亡くなり、その子の王元逵が権句当節度事を自称した。丙子、莫州軍が乱を起こし、その刺史の張惟汎を追放した。 十二月己卯、京畿の死罪以下を降した。 九年(835)正月癸亥、巣県公李湊が薨去した。 二月辛亥、冀王李絿が薨去した。乙卯、京師で地震があった。 四月丙申、路隋が宰相を退いた。戊戌、浙江東道観察使の賈餗が中書侍郎・同中書門下平章事となった。辛丑、大風で木が抜け、含元殿の鴟尾が落ちて、門観を壊した。 五月辛未、王涯が司空となった。 六月壬寅、李宗閔を左遷して明州刺史とした。 七月辛亥、御史大夫の李固言が門下侍郎・同中書門下平章事となった。 九月癸亥、陳弘志を殺した。丁卯、李固言が宰相を退いた。己巳、御史中丞の舒元輿が刑部侍郎となり、翰林学士・兵部郎中の李訓が礼部侍郎・同中書門下平章事となった。 十月辛巳、観軍容使の王守澄を殺した。 十一月乙巳、武寧軍監軍使の王守涓を殺した。壬戌、李訓および河東節度使王璠・邠寧節度使郭行餘・御史中丞李孝本・京兆少尹羅立言が宦官の誅殺を計画したが、失敗して、李訓は鳳翔に逃れた。甲子、尚書右僕射の鄭覃が同中書門下平章事となった。乙丑、権知戸部侍郎の李石が同中書門下平章事となった。左神策軍中尉の仇士良が王涯・賈餗・舒元輿・李孝本・羅立言・王璠・郭行餘・鳳翔少尹魏逢を殺した。戊辰、晝晦。鳳翔監軍使の張仲清がその節度使の鄭注を殺した。己巳、仇士良が右金吾衛大将軍の韓約を殺した。 十二月壬申、左金吾衛将軍の李貞素と翰林学士の顧師邕を殺した。丁亥、京師死罪以下の罪一等を減じた。 開成元年(836)正月辛丑朔、日食があった。大赦をおこない、改元した。大和五年以前の逋負と京畿のこの年の税を免除し、文武の官に階・爵を賜った。 二月乙亥、猛禽・猟犬の献上を停止させた。 三月、京師で地震があった。 四月辛卯、淄王李が薨去した。甲午、山南西道節度使の李固言が門下侍郎・同中書門下平章事となった。 七月、滹沱が氾濫した。乙亥、土が雨で降った。 十二月己未、漵王李縦が薨去した。 二年(837)二月丙午、彗星が東方に出現した。己未、均王李緯が薨去した。 三月丙寅、彗星を見て膳を減らした。壬申、素服で正殿を避け、音楽をやめた。死罪を降し、流以下を復した。五坊の鷹・隼を放ち、京畿での採捕を禁じた。 四月戊戌、工部侍郎の陳夷行が同中書門下平章事となった。乙卯、旱害のために正殿を避けた。 六月丙午、河陽軍が乱を起こし、その節度使の李泳を追放した。己未、綿州の獠がそむいた。 七月癸亥、党項羌が振武を寇した。 八月庚戌、兄の子の李休復を封じて梁王とし、李執中を襄王とし、李言揚を𣏌王とし、李成美を陳王とした。癸丑、子の李宗倹を封じて蒋王とした。 十月戊申、李固言が宰相を退いた。 十一月乙丑、京師で地震があった。丁丑、隕石が興元に落ちた。 三年(838)正月甲子、賊が李石を傷つけた。戊申、大風で木が抜けた。諸道塩鉄転運使・戸部尚書の楊嗣復と戸部侍郎の李珏が同中書門下平章事となった。丙子、李石が宰相を退いた。 夏、漢水が氾濫した。 八月己亥、嘉王李運が薨去した。 十月乙酉、義武軍節度使の張璠が亡くなり、その子の張元益が留後を自称した。庚子、皇太子が薨去した。乙巳、彗星が軫に出現した。 十一月壬戌、死罪以下の罪を降した。 四年(839)正月癸酉、彗星が羽林に出現した。閏月丙午、巻舌に出現した。 五月丙申、鄭覃・陳夷行が宰相を退いた。 七月甲辰、太常卿の崔鄲が同中書門下平章事となった。 八月辛亥、鄜王李憬が薨去した。 十月丙寅、陳王李成美を立てて皇太子とした。甲戌、地震があった。 十一月己亥、京畿の死罪以下を一等降した。 十二月乙卯、乾陵の寝宮で火事があった。 五年(840)正月戊寅、不豫。己卯、左右神策軍護軍中尉の魚弘志・仇士良が潁王李瀍を立てて皇太弟とし、権句當軍国事、皇太子李成美を廃して陳王とした。庚辰、仇士良が仙韶院副使の尉遅璋を殺した。辛巳、皇帝が太和殿で崩じ、年は三十三であった。 武宗至道昭粛孝皇帝は、諱を炎といい、穆宗の第五子である。母は宣懿皇太后韋氏といった。始め潁王に封ぜられ、かさねて開府儀同三司・検校吏部尚書を加えられた。 開成五年(840)正月、文宗が重病となると、神策軍護軍中尉の仇士良と魚弘志は、詔をいつわって皇太子李成美を廃して再び陳王とし、潁王を立てて皇太弟とした。辛巳、柩の前で皇帝の位についた。辛卯、陳王李成美および安王李溶・賢妃楊氏を殺した。甲午、聴政を始めた。母を追尊して皇太后とした。 二月乙卯、大赦をおこなった。庚申、彗星が室・壁に出現した。 四月甲子、大風で木が抜けた。 五月己卯、楊嗣復が宰相を退いた。諸道塩鉄転運使・刑部尚書の崔珙が同中書門下平章事となった。壬寅、大風で木が抜けた。 六月丙寅、旱害のため正殿を避け、囚人を再審し、河北・河南・淮南・浙東・福建が蝗疫のため、州は徭を免除した。 七月戊寅、大風で木が抜けた。 八月甲寅、雨。壬戌、元聖昭献孝皇帝を章陵に葬った。内枢密使の劉弘逸・薛季稜が兵をもって仇士良を殺そうとしたが、勝てず、処刑された。庚午、李珏が宰相を退いた。 九月丁丑、淮南節度副大使の李徳裕が門下侍郎・同中書門下平章事となった。 十月癸卯、回鶻が天徳軍を寇した。 十一月戊寅、彗星が東方に出現した。魏博節度使の何進滔が亡くなり、その子の何重霸が留後を自称した。 十二月、子の李峻を封じて𣏌王とした。 会昌元年(841)正月己卯、太清宮で朝献した。庚辰、太廟で朝享した。辛巳、南郊を有事摂事にて祀った。大赦し、改元した。 三月、御史大夫の陳夷行が門下侍郎・同中書門下平章事となった。 七月、彗星が羽林に出現した。壬辰、漢水が氾濫した。 九月癸巳、幽州盧龍軍の将の陳行泰がその節度使の史元忠を殺し、知留務を自称した。 閏月、幽州盧龍軍の将の張絳が陳行泰を殺し、主軍務を自称した。 十月、幽州盧龍軍が張絳を追放し、雄武軍使の張仲武が幽州に入った。 十一月壬寅、彗星が営室に出現した。辛亥、正殿を避け、膳を減らし、囚人を再審し、土木事業を廃止した。癸亥、崔鄲が宰相を退いた。 二年(842)正月、宋・亳の二州で地震があった。己亥、李徳裕が司空となった。回鶻が横水柵を寇し、天徳・振武軍を攻略した。 二月丁丑、淮南節度副大使の李紳が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 三月、回鶻が雲州・朔州を寇した。 四月丁亥、群臣が尊号をたてまつって仁聖文武至神大孝皇帝といった。大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜った。 五月丙申、回鶻の嗢沒斯が降った。 六月、陳夷行が宰相を退いた。河東節度使の劉沔が回鶻と雲州で戦い、敗れた。 七月、左神策に行幸し軍を閲兵した。尚書右丞兼御史中丞の李譲夷が中書侍郎・同中書門下平章事となった。嵐州の民の田満川がそむき、処刑された。回鶻可汗が大同川を寇した。 九月、劉沔が回鶻南面招撫使となり、幽州盧龍軍節度使の張仲武が東面招撫使となり、左金吾衛大将軍の李思忠が河西党項都将西南面招討使となった。 十月丁卯、子の李峴を封じて益王とし、李岐を兗王とした。 十一月、白鹿原で狩猟した。 十二月、子の李嶧を封じて徳王とし、李嵯を昌王とした。癸未、京師で地震があった。 三年(843)正月庚子、天徳軍行営副使の石雄が回鶻と殺胡山で戦い、これを破った。 二月庚申朔、日食があった。辛未、崔珙が宰相を退いた。 この春、大雨と大雪があった。 四月乙丑、昭義軍節度使の劉従諌が亡くなり、その子の劉稹が留後を自称した。 五月甲午、震、東都の広運桜が火災となった。辛丑、成徳軍節度使の王元逵が北面招討沢潞使となり、魏博節度使の何弘敬が東面招討沢潞使となり、河中節度使の陳夷行・河陽節度使の王茂元・劉沔とともに劉稹を討った。戊申、翰林学士承旨・中書舎人の崔鉉が中書侍郎・同中書門下平章事となった。武寧軍節度使の李彦佐が晋絳行営諸軍節度招討使となった。 六月、西内神龍寺で火事があった。辛酉、李徳裕が司徒となった。 この夏、望仙観を禁中に作った。 七月庚子、河東のこの年の秋税を免除した。 九月辛卯、忠武軍節度使の王宰が河陽行営攻討使を兼ねた。丁未、長雨のため、囚人を再審し、京兆府の秋税を免除した。 十月己巳、晋絳行営節度使の石雄が劉稹と烏嶺で戦い、これを破った。壬午、日中に月が太白(金星)を隠した。この月、党項羌が塩州を寇した。 十一月、党項羌が邠・寧を寇した。兗王李岐が霊夏六道元帥・安撫党項大使となり、御史中丞の李回を副使とした。安南軍が乱を起こし、その経略使の武渾を追放した。 十二月丁巳、王宰が天井関で勝利した。 四年(844)正月乙酉、河東の将の楊弁がその節度使の李石を追放した。 二月甲寅朔、日食があった。辛酉、楊弁が処刑された。 三月、石雄が冀氏行営攻討使を兼ね、晋州刺史の李丕がその副使となった。 六月己未、中書・門下・御史台の再審した。 閏七月壬戌、李紳が宰相を退いた。淮南節度副大使の杜悰が尚書右僕射となり、中書侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。丙子、昭義軍の将の裴問が邢州刺史の崔嘏に城をもって降った。この月、洺州刺史の王釗と磁州刺史の安玉が城をもって降った。 八月乙未、昭義軍の将の郭誼が劉稹を殺して降った。戊戌、沢・潞・邢・洺・磁の五州に一年間給付し、太原・河陽および懐・陝・晋・絳の四州で秋税を免除した。戊申、李徳裕が太尉となった。 十月、鄠県で狩猟した。 十二月、雲陽で狩猟した。 五年(845)正月己酉、群臣が尊号をたてまつって仁聖文武章天成功神徳明道大孝皇帝といった。この日、太清宮に朝献した。庚戌、太廟に朝享した。辛亥、南郊を有事摂事にて祀った。大赦をおこない、文武の官に階・勲・爵を賜り、文宣公・二王三恪(北魏・北周・隋の後裔)の一子に告身を与えた。仙台を南郊に作った。庚申、皇太后が崩じた。 三月、日照りがあった。 五月壬子、恭僖皇太后を光陵に葬った。壬戌、杜悰・崔鉉が宰相を退いた。乙丑、戸部侍郎の李回が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 六月甲申、神策軍に望仙楼を作った。 七月丙午朔、日食があった。この月、山南東道節度使の鄭粛が検校尚書右僕射、同中書門下平章事となった。 八月壬午、大いに仏寺を毀し、僧尼を還俗させて民とした。 十月、虎牢関に昭武廟を作った。 六年(846)二月癸酉、旱のため死罪以下を降し、この年の夏税を免除した。庚辰、夏綏銀節度使の米曁が東北道招討党項使となった。 三月壬戌、不豫。左神策軍護軍中尉の馬元贄が光王李怡を立てて皇太叔、権勾当軍国政事とした。甲子、皇帝が大明宮で崩じ、年は三十三であった。 宣宗元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝は、諱を忱といい、憲宗の第十三子である。母は孝明皇太后鄭氏といった。始め光王に封ぜられた。性格は厳重かつ寡黙で、宮中であるいは愚かだと思われていた。 会昌六年(846)、武宗の病が次第に重くなり、左神策軍護軍中尉馬元贄が光王を立てて皇太叔とした。 三月甲子、柩の前で皇帝位についた。 四月乙亥、聴政を始めた。母を尊んで皇太后とした。丙子、李徳裕が宰相を退いた。辛卯、李譲夷が司空となった。 五月乙巳、大赦をおこなった。翰林学士承旨・兵部侍郎の白敏中が同中書門下平章事となった。辛酉、子の李温を封じて鄆王とし、李渼を雍王とし、李涇を雅王とし、李滋を夔王とし、李沂を慶王とした。 七月、李譲夷が宰相を退いた。 八月辛未、大行宮で火事があった。壬申、至道昭粛孝皇帝を端陵に葬った。 九月、鄭粛が宰相を退いた。兵部侍郎・判度支の盧商が中書侍郎・同中書門下平章事となった。雲南蛮が安南を寇し、経略使の裴元裕がこれを破った。 十二月戊辰朔、日食があった。 大中元年(847)正月壬子、太清宮に朝献した。癸丑、太廟に朝享した。甲寅、南郊を有事摂事(にて祀った)。大赦をおこない、改元した。左遷された死者の官爵を復し、文武の官に階・勲を、父老に帛を賜い、文宣王後及び二王後・三恪の一子に官を与えた。 二月癸未、旱のため正殿を避け、膳を減らし、京師の囚人を再審し、太常教坊の習楽をやめ、百官の食を減らし、宮女五百人を召し放ち、五坊の鷹犬を放ち、飛龍馬の粟を廃止した。 三月、盧商が宰相を退いた。刑部尚書・判度支の崔元式が門下侍郎となり、翰林学士承旨・戸部侍郎の韋琮が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。 閏月、大いに仏寺を復した。 四月己酉、皇太后が崩じた。 五月、張仲武が奚の北部落と戦い、これを破った。吐蕃・回鶻が河西を寇し、河東節度使の王宰がこれを討伐した。 八月丙申、李回が宰相を退いた。庚子、貞献皇太后を光陵に葬った。 十二月戊午、太子少保の李徳裕を左遷して潮州司馬とした。 二年(848)正月甲子、群臣が尊号をたてまつって聖敬文思和武光孝皇帝といった。大赦をおこなった。宗子房未仕者予一人出身、文武の官に階・勲・爵を賜った。 三月、子の李沢を封じて濮王とした。 五月己未朔、日食があった。崔元式が宰相を退いた。兵部侍郎・判度支の周墀と、刑部侍郎・諸道塩鉄転運使の馬植が、同中書門下平章事となった。己卯、太皇太后が崩じた。 七月己巳、功臣を凌煙閣に描いた。 十一月壬午、懿安太皇太后を景陵に葬った。韋琮を左遷して太子賓客とし、東都を分司させた。 三年(849)二月、吐蕃が秦・原・安楽の三州と石門・駅蔵・木峽・制勝・六盤・石峽・蕭の七関をもって官吏に帰順した。 三月、詔して待制官と刑法官・諌官に次對。馬植が宰相を退いた。 この春、霜が降って桑を枯らせた。 四月乙酉、周墀が宰相を退いた。御史大夫の崔鉉が中書侍郎となり、兵部侍郎・判戸部事の魏扶が同中書門下平章事となった。癸巳、幽州盧龍軍節度使の張仲武が亡くなり、その子の張直方が留後を自称した。 五月、武寧軍が乱を起こし、その節度使の李廓を追放した。 十月辛巳、京師で地震があった。この月、振武軍と天徳軍、霊武・塩夏の二州で地震があった。吐蕃が維州をもって官吏に帰順した。 十一月己卯、弟の李惕を封じて彭王とした。 十二月、吐蕃が扶州をもって官吏に帰順した。 四年(850)正月庚辰、大赦をおこなった。 四月壬申、長雨のため、京師に詔して・関輔の囚人を再審し、度支・塩鉄・戸部の未納の税をとりやめた。 六月戊申、魏扶が薨去した。戸部尚書・判度支の崔亀従が同中書門下平章事となった。 八月、幽州盧龍軍が乱を起こし、その節度使の張直方を追放し、衙将の張允伸が留後を自称した。 十月辛未、翰林学士承旨・兵部侍郎の令狐綯が同中書門下平章事となった。 十一月、党項羌が邠州・寧州を寇した。 十二月、鳳翔節度使の李安業と河東節度使の李拭が招討党項使となった。 五年(851)三月、白敏中が司空となり、南山・平夏の党項を招討し、行営兵馬都統をつとめた。 四月、平夏の党項羌を赦した。辛未、霊塩夏三州・邠寧・鄜坊等の道の三年免税とした。 六月、子の李潤を封じて鄂王とした。 八月乙巳、南山の党項羌を赦した。 十月、沙州の人の張義潮が瓜・沙・伊・粛・鄯・甘・河・西・蘭・岷・廓の十一州をもって官吏に帰順した。白敏中が宰相を退いた。戊辰、戸部侍郎・判戸部の魏謩が同中書門下平章事となった。 十一月、崔亀従が宰相を退いた。 十二月、景陵の門戟が盗賊に折られた。 この年、湖南で飢饉があった。 六年(852)三月、彗星が觜・参に出現した。 七月、雍王李渼が薨去した。 八月、礼部尚書・諸道塩鉄転運使の裴休が同中書門下平章事となった。 九月、獠が昌・資の二州を寇した。 十一月、弟の李惴を封じて棣王とした。 この年、淮南で飢饉があった。 七年(853)正月丙午、太清宮で朝献した。丁未、太廟で朝享した。戊申、南郊を有事摂事にて祀った。大赦をおこなった。 八年(854)正月丙戌朔、日食があった。 三月、旱のため獄囚を再審した。 九月、子の李洽を封じて懐王とし、李汭を昭王とし、李汶を康王とした。 九年(855)正月甲申、成徳軍節度使の王元逵が亡くなり、その子の李紹鼎が留後を自称した。 閏四月辛丑、嶺外の民の男女の献上を禁じた。 七月、旱害のために使者を派遣して淮南を巡撫させ、お上に供される兵糧運送を減らし、未納の租をとりのぞき、粟を出して民に施した。丙辰、崔鉉が宰相を退いた。庚申、淮南・宣歙・浙西の冬至・元日の常貢を止め、下戸の租税に代えた。この月、浙江東道軍で乱が起こり、その観察使の李訥を追放した。 十年(856)正月丁巳、御史大夫の鄭朗が工部尚書・同中書門下平章事となった。 九月、子の李灌を封じて衛王とした。 十月戊子、裴休が宰相を退いた。 十二月壬辰、戸部侍郎・判戸部の崔慎由が工部尚書・同中書門下平章事となった。 十一年(857)二月辛巳、魏謩が宰相を退いた。 五月、容管軍が乱を起こし、その経略使の王球を追放した。 七月庚子、兵部侍郎・判度支の蕭鄴が同中書門下平章事となった。成徳軍節度副大使の王紹鼎が亡くなり、その弟の王紹懿が留後を自称した。 八月、子の李澭を封じて広王とした。 九月乙未、彗星が房に出現した。 十月壬申、鄭朗が宰相を退いた。 十二年(858)正月戊戌、戸部侍郎・判度支の劉瑑が同中書門下平章事となった。 二月、穆宗の忌日を廃止し、光陵で朝拝および守陵宮人とした。壬申、崔慎由が宰相を退いた。 閏月、十月から雨が降らず、この月になって雨が降った。 三月、塩州監軍使の楊玄价がその刺史の劉皋を殺した。 四月庚子、嶺南軍が乱を起こし、その節度使の楊発を追放した。戊申、兵部侍郎・諸道塩鉄転運使の夏侯孜が同中書門下平章事となった。 五月丙寅、劉瑑が薨去した。庚辰、湖南軍が乱を起こし、その観察使の韓琮を追放した。 六月丙申、江西都将の毛鶴がその観察使の鄭憲を追放した。辛亥、南蛮が辺境を寇した。 七月、容州の将の来正がそむき、処刑された。 八月、宣歙の将の康全泰がその観察使の鄭薰を追放し、淮南節度使の崔鉉が宣歙池観察処置使を兼ねてこれを討った。丁巳、太原で地震があった。 十月、康全泰が処刑された。 十二月、毛鶴が処刑された。甲寅、兵部侍郎・判戸部の蒋伸が同中書門下平章事となった。 十三年(859)正月戊午、大赦し、度支・戸部の未納の税をとりのぞき、宮人を放った。 八月壬辰、左神策軍護軍中尉の王宗実が鄆王李温を立てて皇太子、権句當軍国政事とした。癸巳、皇帝が咸寧殿で崩じ、年は五十であった。謚を聖武献文孝皇帝といった。咸通十三年(872)、元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝と加諡した。 賛にいう、春秋の法は、君主が弑殺されて賊が討伐されなければ、すなわち深くその国を責める。それは臣子が無いとみなすからである。憲宗が弑逆されたが、三世を経てもなお逆賊は生存していた。文宗の代になってからも、陳弘志らの罪悪は明らかにならなかった。国の典刑を正して、わずかに殺すにいたったのみである。これは嘆くべきことである。穆宗・敬宗は幼童で徳を失い、在位が長くなかったから、天下は敗乱に到る前に、敬宗がその身を終えたのである。これでどうやって討賊の志を実行できたというのであろうか!文宗はうやうやしく道理に優れ、天性の才があった。かつて太宗の貞観政要を読み、慨然としてこれを慕った。即位するにおよんで、意を鋭して治世にはげみ、延英殿にて宰臣とまみえるごとに、漏下十一刻を率いた。唐制では、天子が二日に一度朝政を見、すなわち輟朝・放朝を命じてみな双日とした。おしなべて官吏の任免に際して必ず召見訪問し、親しくその良悪を見た。そのため大和年間の初頭、政事は修飾して清明と号した。しかしながらその仁政は果断さに欠け、父兄の代からの弊害を受け、宦官は専横し、制しようとしてもその方法すらなく、ために終りの苦しみははそれが原因となった。甘露の変で、禍は忠良に及び、冤憤にたえず、恨みを飲むだけであった。そのためこれを申して陳弘志を殺害できたのは、またその志を酌むに足るものであったからである。 昔、武丁はただ傅説を得て商の高宗となった。武宗はただ李徳裕を得て、ついにその功烈をなした。しかしその奮然ぶりは浮図の法(仏教)を除去するのにはなはだしく鋭かったのであって、自身は道家の符録を受け、服薬に長寿を求めた。この部分を見て聡明で迷いのない者ではないとするのは、特に良し悪しの意見が分かれるところである。宣宗は政務に精励し明察であり、仁恩の意に復することがなかった。嗚呼、これより以後、唐は衰えるのだ! 前巻 『新唐書』 次巻 巻七 本紀第七 『新唐書』巻八 本紀第八 巻九 本紀第九
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/39366.html
登録日:2018/04/28 Sat 07 35 17 更新日:2024/06/05 Wed 23 12 18 所要時間:約 15 分で読めます ▽タグ一覧 BLEACH Death あの世 アンデッド グリム グリムリーパー タロット タロットカード デス デスノート リューク リーパー 中間管理職 人外 医者 収穫 役人 探偵 死 死神 神 神格 落語 軍人 鎌 骸骨 黒執事 「わしは何千何万という人を、まるで動かぬ手を引っ張るようにあの世に運んでおる」「人々は泣き叫び、あるいは嘆き、悲しむ」「それは人間にとってあまりにも分からない世界だからな」 水木しげる作『怪奇死人帳』より 死神とは、「死」という概念を擬人化・神格化した存在である。 いわゆる「冥府の神」とは共通する部分もありつつ、「死神」というと微妙にニュアンスが異なる。 概要 人間にとって最も抗いがたい概念である「死」を神格化した神。 その役割は、死が近づいた人間の前に現れ、その魂を冥府あるいは死後の世界に連れていくこと。 必然的に、「悪神」「邪神」の類とも言えるが、決して人類に悪意を持っているわけではなく、 単に「人類の運命を管理しているだけ」という存在と解釈されることも多い。 「神に反逆した悪魔」ではなく、「そもそもこういう存在」であるため、位階の高い神として扱われることもある。 タロットカードにおける「死神」は、正位置では死や終わりを表すマイナスのカード、逆位置では再生や誕生を表すプラスのカードになる。 ちなみに、逆位置がプラスの意味合いになるのは「死神」の他は「悪魔」と「月」だけ。 (なお「死神」・「悪魔」とともにタロットで三凶カード扱いされる塔のカードは正位置も逆位置もマイナスの意味合いである。) 「死神」と「死の神」 日本語で「死神」というと、多くの場合「死の執行者」を指すことが多い。 ハデスやオーディン・閻魔なども死にかかわる神として有名だが、彼らは「冥府の神」つまりは「死後の世界の管理者」としての性格が強い。 彼らは直接死を与える存在ではなく死んだ後の人々を統括する神であり、そんな彼らは「死神」とはあまり呼ばれない。 「死神」とは現世の人間たちに直接死を与える存在、つまりは死という現象を神格化した存在だと言える。 ギリシャ神話でいえば、「冥府の神」ハデスと「死の神」タナトスは別の神である。 なので、彼らの業は実際の死と同じように酷薄で無慈悲に、無作為に唐突に降りかかる。 そして本来の死がそうであるように、あわれな魂を光一筋とて差さぬ奈落の底また底にまで連れ去っていくのである。 そのためか同じ死を与える存在であっても、選ばれた英雄の魂のみを栄光ある神の世界に連れていくヴァルキュリアが死神と呼ばれることはまず無い。(*1) 容姿 西洋の死神は、ボロボロのローブを着て鎌を持つ骸骨という不気味な外見で描かれることが多い。 骸骨は古来より当然のように死を象徴する存在だった。 中世欧州ではしばしば「死の舞踏(ダンス・マカブル)」と呼ばれる、踊り狂う骸骨たちが疫病などのイメージとして用いられてきた。 ではなぜ鎌なのか、ということには諸説あるが、 「単に『魂を刈り取る』というイメージ」 「元々は鎌を持った農耕神だったが、『農業=季節と密接な関わりがある=時間=死』と変遷した」 などと言われている。 例えばギリシャ神話のクロノスは父親であるウラノスを討ち取った鎌剣(ハルペー)を手にしている。 そしてクロノスと同一視されるようになった、ローマの主神で農耕神であるサトゥルヌスもまた鎌(こちらは農耕用の大鎌だが)を持っていた。 またこのクロノスをモデルにしたという説もあるヨーロッパの死を告げる時の妖精「時の翁」(fathertime)もまた大鎌を持つ姿で描写される。 これらが死神のヴィジュアルに何らかの影響をもたらしたと見る向きもある。 ちなみに現在のアメリカ英語では、「reaper(リーパー、刈り入れるひと)」「harvester(ハーベスター、収穫するひと)」はそのまま「死神」の意味で通じる。 日本では元々閻魔大王などが死の象徴として扱われていたが、直接「命を刈りに来る」死神という存在はなかったようだ。 例えば、悪人の死体を奪い取りに来る妖怪である「火車」などがいるが、これはあくまで「死体を奪う」だけで、死を告げに来るわけではない(そもそも、「死体を」奪いに来るのだから既にその対象は死んでいる)。 江戸期にはそのものずばり「死神」という憑物もあって、「死者の出た場所に遺された念が、近づいた人を同じ死に誘う」「人に憑りついて心中に誘う」とされていた。 西洋の伝説などが伝わって来る内に、次第に「死の象徴としての死神」も認知されるようになったようだ。 特に幕末から明治にかけての落語『死神』からは、典型的な西洋の死神像が日本にも伝わっていることが窺える。 中国では、冥府に所属する役人のような死神がおり、寿命が尽きた人間から魂を抜いていく。 しかし道教の世界観における彼らは、別に絶対的な死の執行者ではなく、陽の気が強すぎる人間に接近できなかったり、道術を磨いた仙人・道士に撃退されたりするほか、たまに霊魂に逃げられたり、別人を捕まえたりすることもある。やりようによって対処はできる、ということだ。 『隋唐演義』では猛将・秦叔宝と尉遅恭が、その陽の気で太宗李世民への死神の接近を阻んだり(*2)、『西遊記』では仙術を学んだ孫悟空が、寿命が尽きたと召し取りに来た死神を撲殺して返り討ちにし、逆に閻魔大王を制圧して閻魔帳から一族の名前を消してしまったりという話がある。 その他バンシーやデュラハンのように様々な容姿の「死を告げる存在」もいる。 フィクションでの死神 なぜか上からの指示には逆らえない小役人的ポジションで出てくることが多い。 あと、『週刊少年ジャンプ』では妙に死神をテーマにした作品が多い……気がする。 連れて行く対象が生者か死者か(もしくは健康な人か死にゆく人か)、対象を選ぶ自由があるか否かでポジションや印象が変わることが多い。 対象が健康な人かつ自由に選ぶケースは敵キャラかダークヒーローに多い。 敵キャラとして出てきた場合は、大抵は強敵。アンデッド属性が付いているかは作品による。 『死神』(落語) 他者の寿命を知る方法を死神から教わった男が主人公。 「命のロウソク」という典型的な造形はこの辺りから広まったものと思われる。 ……もっとも、「この話の素案はグリム童話『死神の名付け親』では?」と言われており、『命のロウソク』の初出は確実にグリム童話の方である。 『サラリーマン死神』 水木しげるの連作短編。魂回収のノルマを果たせない死神が魂を獲るために悪戦苦闘する。 ここに出てくる「骸骨顔の死神」は水木作品の常連で、『河童の三平』では主役の命を貰うためしつこく付きまとうなど活躍(暗躍?)している。 『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズ 頻繁に登場。 原作ではねずみ男の兄と偽って彼を味方に引き込み、また魔女を鬼太郎の母親に化けさせて鬼太郎親子に接近、策を巡らせ彼らをあの世送りにして妖怪世界を支配しようとしたが、返り討ちに遭った。 アニメ第2作では『サラリーマン死神』をストーリーに取り込み、ノルマ未達のために死神世界を追放された「42号」が様々な妖怪と結託して鬼太郎ファミリーと対立。ちなみに「青子」という名前の妻と「骨太」という名前の息子がいる。 アニメ第3作と第4作では、原作に近くなったが差異もあり、前者ではねずみ男の兄ではなく父を騙った。後者では結託する相手がヒ一族の巫女となり、ねずみ男を通じて目玉おやじ、砂かけばばあ、子泣きじじいを騙して魂を奪おうとしたが、鬼太郎によって倒される。 アニメ第5作では「99号」という死神が登場。妖怪横丁で妻の青子と息子の骨太と共に暮らしている。大往生の老婆の家族に情が移ってしまう、事故で死ぬはずの親子を助けてしまうなど死神にあるまじきお人(?)好しだが、それが災いしてか勤務成績は悪く、上司にしょっちゅう叱責されている。 また、同シリーズではハワイからやってきたマヒマヒ(*3)という悪徳死神も登場。人間を騙して魂を回収し、そのまま逃げようとする。 アニメ第6作では、隠れ里に送られた子供達の魂を収穫しようとした。隠れ里を庇護していた人面樹をも斬りつけるが、鬼太郎に敗北。 他にもしばしば登場しており、水木作品の常連的なキャラクターとなっている。 ただし、水木しげる作品に登場する死神すべてがこのしゃれこうべ型とは限らず、毛むくじゃらの獣のような死神や、厳めしい長面の老人の者もいる。 項目冒頭のセリフを発したのは後者の厳めしい顔つきの老人で、死後の世界を説く彼のセリフは一つ一つが重い。 『はじめ人間ギャートルズ』 骨の馬に乗り長槍を持ったガイコツ男。水木しげる作品のようにノルマを課されたサラリーマンで、ゴンのとうちゃんを連れて行こうとするも毎度のように阻止される。彼の登場時には専用のテーマソングが流れる。 『死神くん』 『ジャンプ』の死神の歴史の元祖。 「死神=役人」みたいなイメージを広めたのはこの作品かもしれない。 『DEATH NOTE』 死神の落としたノートを巡る話……だが、ぶっちゃけ本作における死神はリュークをはじめ脇役。 「死神のルール」のため、あまり現世に干渉できないのもあるが。 「デスノート」を用いて人間を寿命より先に死なせることで、その差分が自身の寿命にプラスされるという性質を持っている。 だが、別段死神としての仕事や使命などをより上位の存在から与えられているわけではなく、飲食などの行動も生命維持には不要(*4)。 そのため、本作における死神は自ら積極的に動くことは稀で、ただ「死にたくない」故に漫然と人間から寿命をもらって日がな一日博打などで暇を潰すという、怠惰な種族である。 むしろ下手に人間を殺して寿命を稼ごうとすると「何必死になってんの?」と馬鹿にされるらしい。 とはいえその性格は様々で、所有者を命懸けで守ろうとする慈悲深い者も、ひたすら人間の運命を弄び快楽に浸る残忍な者もいる。 『地獄先生ぬ~べ~』 239話『死神の巻』に登場。 黒ローブを着て鎌を持ったメガネっ娘の姿をしているが、ぬ~べ~に死期を知らせただけでフェードアウトしてしまったやや残念な死神。 『BLEACH』 人間界で死んだ魂が辿り着く、作中における所謂「あの世」である「尸魂界」(ソウルソサエティ)の住人が就く職業の一つ。 詳しくは個別項目へ。 『黒執事』 「死神派遣協会」なる組織から派遣される、神と人の中立の存在。 協会は「回収課」「管理課」などの課に分かれており、現実の公務員のような組織体形となっている模様。 上層部から配布される「魂の回収リスト」に基づき、死亡予定者を審査してその魂を刈り取るのが仕事。 審査の際は対象の記憶を読み取る「走馬灯劇場(シネマティックレコード)」という能力を用い、対象がどんな人生を送ったかを確認する。大半の人間はこの時死期を迎えるが、ごくまれにその審査対象がこの世にとってまだ有効で生かしておくべきだと判断されれば魂を取らないこともある。 所有する死神の鎌(デスサイズ)は許可さえ下りればカスタマイズが許されており、鎌と言いながらもチェーンソーや高枝切りバサミ、果ては芝刈り機型まで存在する。 その正体は、自殺した人間。また全員が近視で眼鏡をかけており、目が黄緑色に光るという共通点がある。 『しにがみのバラッド。』 ラノベ版『死神くん』。 死神(『悪魔城ドラキュラ』) さまざまなタイトルで中ボスとして出てくる死神。シリーズ通して強敵。 ファンの間では「様」付けで呼ばれることがあるほど。 『満月をさがして』 基本コンビで活動している。コンビの名前がどれも変?それは上司の趣味だ! 姿は人間に近いが、背中には飛行用の白い羽があり(ただし半人前は生えていないためレプリカを着ける)、変身能力や短時間の実体化能力を持つ。 主要キャラの所属する小児科の死神は比較的明るい者が多く、子供を相手にするために動物の耳としっぽが生えており、動物のマスコットに変身することができる。 実はこの世界の死神も『黒執事』同様自殺者の成れの果てで、半人前の死神が生前の記憶を取り戻すと幽霊になりこの世を彷徨うことになる。 そして、ヒロインの前に現れた死神の正体は……。 死神(『女神転生』シリーズ) 『真・女神転生デビルサマナー~悪魔召喚士~』から種族の一つとして登場。 DARK-NEWTRAL属性に位置し、同傾向の悪魔たちの中でも格が高い。 神話において「死」の事象にまつわる神々が属しており、 自殺者の魂の導き手「イシュタム」 非常に賢明とされるヴードゥー教の死神「ゲーデ」 巨大な姿で現れるローマの死の神「オルクス」 カナンの死と乾季の神「モト」 など、命を奪うものだけでなく、導き手・仲介者・季節事象の擬人化をルーツに持つものなど、バリエーションは決して一辺倒ではない。 『デビルサマナーシリーズ』ではDARK悪魔ではあるが、全員が悪魔合体の結果か、隠しダンジョンという極めて限られた場所でしか出現しないなど、LIGHT悪魔に近い扱いを受けていた。 他には死神の姿で現れるペストの擬人化・悪霊「マカーブル」や、万人に等しく凶事と死を撒き散らすものだが、死神とは違う立ち位置の「魔人」に属する黙示録の四騎士たちもバリエーションに加えられるかもしれない。 しにがみ(『ドラゴンクエスト』) 単なるゆうれいの上位種。ぶっちゃけ雑魚で、名前負けしている。 それでも『ドラゴンクエストビルダーズ2』では、夜遅くまで探索に手間取るビルダーを狩ったり、家畜の命を狩りに来てしまったりするペナルティキャラとして登場する。 意図して倒す気が無いなら、夜になったら大人しく寝よう。クリア後であれば、出現そのものを抑制することもできる。 デス(ロマサガ&ミンサガ) 破壊女神サイヴァの遺体の骨から生まれた三柱神の長兄。 SFCではテンプレ的死神、ミンサガでは武装した骸骨系のケンタウロスといった感じ。 性格は外見に反して穏健で、無益な殺生は好まずアンデッドが地上で幅を利かせないように見張る側。 大昔ではマルディアスの光の神々と戦っていたこともあったが、のちに無益な戦いに辟易し和解した。 自分の虚栄心や憎悪のままに動く弟のサルーインのことは快く思っておらず、サルーインが過去にソウルドレインで地上の魂を乱獲するという愚挙に出たときはそれに怒って人間たちに封印方法を教えている。 それ以降は冥府の管理や生命の循環を切り盛りする仕事を実直に遂行するなど、光の神にして自分の兄弟ともいえるエロールと友好関係を築いている。そのため、収穫祭の感謝対象など市井一般の人にも信仰される神となっている。 死神(『風来のシレン』) 壁抜け+倍速+二連撃で数多くの風来人を屠って来たトラウマメーカー。 こちら側が変身すれば上記の能力をすべて使えるので、緊急回避形態としての顔もある。 死神(『チョコボの不思議なダンジョン2』) ショップの番人をしている「店の番人」、宝箱から突然出現する「宝の番人」、 そして一フロアで規定数ターンを経過するか泥棒行為をすると出現する「命の番人」の3種が登場。 いずれもプレイヤーにとってのトラウマメーカーだが、熟練したチョコボなら吸血属性のツメや「いのちの実」などで絶好のカモにしてしまえる。 死神(『シャドウゲイト』) フィクション界一多忙な死神として有名。プレイヤーからは過労死しないか心配されている。 ざんねん!! わたしの ぼうけんは これで おわってしまった!! ジョーカー(『モンスターファーム』) 独自のシステムで人気を博し、2020年に最新ゲーム機にまさかの移植を果たしたモンスター育成ゲームに登場する。 『モンスターファーム2』から初登場し、ピエロのような仮面、凶悪な素顔、実態のあいまいなマント状のいでたち、不気味な笑い声、そして巨大な鎌……と、いかにもな符号が盛り込まれている。 成長適性通りに育てるととても伸びやすい「命中」「かしこさ」に対し、「回避」「丈夫さ」が低くなりがちなので、「KOされる前にKOする」戦いを得意とするモンスターに育ちやすい。 潜在能力は高いが、ブリーダーに対して素直には従いにくい・寿命が短く育成期間が取りづらいといったハンデも強いため、本当に強くするなら経験や資産の貯えが不可欠。 また、デビュー作では上位グレードのライバル選手としても登場し、トップクラスの命中と優れた技性能で、回避型で横着をしてきたブリーダーのモンスターを数多く葬ってきたことでも有名。 防御面は弱いので適当に技を振ったらうまく当たって倒せることも多いが、わかっていても開幕先制攻撃をされるので……詳しくはこの項目も参照。 PS2版以降では、ピエロ風のメイクは薄れて背中に大きなコウモリの翼を生やし、「悪魔」の面を強めたデザインになっている。 死神様(『ソウルイーター』) 黒い不定形の身体に髑髏の仮面をつけた姿で、デスサイズを武器とする。 死神武器職人専門学校の創始者でもあり、校長を務めている。 鬼神を封印し抑えつけるために身体と魂をデスシティーに固定しており、外に出ることができない。 昔は恐ろしい仮面をつけており言動も物騒だったが、子供に泣かれたために今の軽いノリになった。 その実力は本物で、絶対的な神のように扱われることも多いが、本人は「そんなことはない」と否定している。 小野塚 小町(『東方Project』) 閻魔の四季映姫・ヤマザナドゥの部下にあたる。 三途の川の渡し守として死者の魂を冥界へ連れていくのが役割だが、非常にマイペースでサボり魔。 彼女への渡し賃の額によって三途の川の距離が決まり、支払えなかったりけちったりした者は船から放り出されてしまう。 ちなみに伝承では「冥府の川とその渡し守」というのは割とよく出てくるが、小町本人は渡し守専任で死者を迎えに行くことはせず、寿命を超えて生きようとする仙人の命を奪う役目も別の死神が行っている。 『ギャグマンガ日和』 『死んだ私は…』シリーズに登場。 外見は黒装束を纏った骸骨で、東京では特別区ごとに担当死神が居るという。 この作品の他のエピソードに出てくる人外キャラ同様、怖さや強さといったものは感じられず、亡者に振り回されまくっている始末。それでいいのか。 ちなみに死神業を引退して別の職に就いても構わないらしい。 『境界のRINNE』 「あの世」に存在する職業および種族。 「霊を輪廻の輪に乗せ転生を促す、地縛霊は成仏させたうえで促す」実動タイプの死神と「あの世で人間の寿命や死神の仕事の管理といったお役所仕事を行う」という「記死神(しるしがみ)」が存在する。 他に「生きている人間を輪廻の輪に乗せてノルマを稼ぐ」存在である「堕魔死神(だましがみ)」という悪徳死神もいる。 仕事は黒猫の獣人、半獣人風の種族・黒猫族のサポートを受け、鎌だけではなく時には「死神道具」なる便利グッズも用いる。 徐隗と徐泰 五胡十六国時代の志怪小説集『捜神記』の一節。 徐隗に死期を告げる二人組が登場し、甥の徐泰に免じて同名の別人を連れて行った。 なお、『捜神記』には他に鬼(この場合は「霊魂」の意味か)が迎えに来て容姿が似た人を身代わりにする話も収録されている。いずれも容姿は人間と変わらない様子。 余談だが平安時代の『日本霊異記』にも閻魔の使者が別人を連れて行く話があり、『水木しげるの日本霊異記』では上記のサラリーマン死神がキャスティングされている。 『全力回避フラグちゃん!』 本作では死神は死亡フラグを司る設定になっている。容姿は人間と変わらず。 死神No.269は優しすぎるせいで魂を回収するどころか助けてしまうので、死亡フラグを回収できるように作られたプログラム、モブ男を相手に練習の日々に明け暮れている。 『モモちゃんとアカネちゃんの本』 擬人化されたクマが登場するばかりか、無生物さえもごく当たり前に人語を話すなどファンタジー要素もありつつ、親の離婚やその死など、児童文学としてはかなり重い内容も描いている本シリーズにも登場。 表記は「死に神」で、何にでも変身できる能力を持つ。 後に、その力でピーナッツになった状態のままパパ(主人公であるママの元夫)に食べられるが、彼の体内に入ってからはその心臓に何度も「シニガミ」というサインを記し、ついには死に追いやった。 死神(『光神話 パルテナの鏡』) 主人公ピットに立ちふさがる冥府軍に所属する敵である。普段は死者の魂を回収し冥府に送り届けている。 ゆっくりと徘徊しているが、ピットを見つけると特徴的な声で騒ぎながら子死神を呼び出し攻撃してくる他、作品によっては鎌による攻撃も行う。 『新・光神話パルテナの鏡』においては、巨大化し視線がビームの如き威力を持つ「ビッグ死神」がボスとして登場。魂をつまみ食いして強くなった死神達の長老的存在らしい。 グレッグ(『Conker's Bad Fur Day』) 死を与えたり寿命を管理するのではなく、本作の世界観では生と死の境を管理する役割になっている。 普通、生物は死ぬと冥界に送られるのだが、一部の生物は何度か生き返ることができる特例があるという。 主人公のコンカーもその1人であり、それすなわちアクションゲームにおける1UPシステムを世界観に取り込むために必要なキャラクターである。 姿かたちは西洋の伝承に準拠しているが、やけに可愛らしい声かつ、伝承のそれとはかけ離れたコンカーと同等の低等身であるため、 威厳もへったくれもないことからコンカーからも本当に死神なのか疑ってかかられていたが、 「あんた死神という生き物をその目で実際に見た事があるのか? 知りもしないのに理想像をオレにぶつけるんじゃない」といった内容の鋭い指摘で返すなど、死神という存在がもしも実在していたらを仮定したかのようなユーモアを交えた会話が特徴的。 ちなみに雇われらしく、安月給でこき使われているため愚痴をこぼすなど時折妙に俗っぽく、死神という仕事を除けば本当にただの鎌とローブを装備しただけのスケルトン。 何度も生き返るコンカーのような特例に関しては、仕事が面倒だからという理由で特に当たりが強く、ましてや生死がハッキリしないアンデッドは大嫌い。 死神という存在から超常的要素を取り払ったらどうなるかを表現した一例と言えるだろう。 死神(『ドカポン』シリーズ) 作中における恐怖の連れ去り人。 初期の頃からエネミーとして登場したり、あるいはシリーズ通してカウントダウン後に即死するステータス異常を表現するシンボルとしても出てきているが、最大の出番は『ドカポン!怒りの鉄剣』以降の、死亡時のお迎えだろう。 本シリーズでは原則的に、敵を倒せば金品をもらえて、それはプレイヤー相手でも同じであるため奪い合いが勃発しやすく、逆に言うと負ければ金品を奪われるということである。 この時、天使がお迎えとして来た場合はペナルティもそこまで重すぎることは少ないのだが、 死神がお迎えに来ると所持金や所持品をまとめて没収されたり、貴重な装備やその他資産をゴッソリ奪われたりと重大なペナルティになることが多い。 RPG+ボードゲームというジャンルであることから、移動がうまくいくかどうかは戦術を左右するため場合によってはペナルティ覚悟でわざと死んで拠点に戻るいわゆるデスルーラも一つの手ではあったのだが、そこに死神という特大のリスクがついて回るようになったことで安易に死ぬわけにはいかなくなったのである。 通り名としての「死神」 死神の「死をもたらす者」「死について回る者」という印象から、フィクション・ノンフィクション問わず人の死に深く関わる者の通称として用いられる事がある。 性質上、歴戦の軍人・闇の深い医者といった人物に多い通称である。 現実でもこの人とかこの艦あたりが有名だろう。 余程ファンタジーに振っているのでなければ日常もので死神の通称を持つ者は皆無である。 その手の作品で一キャラが呼ばれる場合も「死神」より「疫病神」などの別の言い方の方が多い。 軍人の場合は概ね「恐ろしく強い者」か「戦場から一人だけで生還する者」の2パターンに大別される。 いずれにせよ、大抵は畏怖もしくは忌避の意味で呼ばれるため、素直な賞賛として死神と呼ばれる者は少ない。 推理小説など必然的に死人が多数登場する作品では、殺人事件に頻繁に出くわすため主人公が作品内外問わず死神呼ばわりされることが多々ある。 警察が主役の作品と違い、推理小説の場合は事件に巻き込まれる展開がほとんどのためである。 また現実でも、臓器移植目的で事故死した人の遺体を回収に現れる医師も死神と呼ばれる事があるという。 ユカ・マイラス(『機動戦士Vガンダム』) 途中からリガ・ミリティアに合流したシュラク隊の追加メンバー。 リガ・ミリティアに参加したのは元々所属していた連邦軍のバグレ隊が全滅したためで、それ以前に所属していた部隊も全て全滅しているために「死神」と呼ばれていた。 デュオ・マックスウェル(『新機動戦記ガンダムW』) 主役である5機のガンダムの一つ、ガンダムデスサイズのパイロット。 戦争孤児で、「奇跡は見た事が無いが、死体は沢山見てきたから」という理由で神はいなくとも死神はいると考えており、自身を保護してくれていたマックスウェル教会が連合とゲリラの戦闘に巻き込まれて焼き払われた事件などから、自ら「死神」を名乗り始めた。 搭乗するガンダムデスサイズも、黒を基調としたカラーリングやビームサイズ(鎌)、ハイパージャマーによる闇討ちを基本とした戦法などから、敵対するOZの兵士たちからはまさしく通り名の如く恐れられ、「ガンダムを見た者は生きて帰ってこない」というジンクスまで生まれた。 なお、乗機であるガンダムデスサイズのネーミングは「death」(死)と「scythe」(鎌)から来ており、元々死神由来で名付けられたという。 テリー・サンダースJr(『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』) モビルスーツのパイロット。 所属部隊が全滅し彼一人だけが生き残るというジンクスを持ち、それ故に「死神」と呼ばれ周囲から疎まれている。 本人も非常に気にしているが、後に主人公らの活躍により克服する。 メビウス1(『エースコンバット04』) ISAFの圧倒的不利を覆した恐るべきパイロット。 当初はISAF空軍のパイロットの一人に過ぎなかったが、次第に敵のエース部隊である「黄色中隊」の隊員さえ撃墜する程の腕を身に付け、いつしか敵国から「死神」とまで称されるようになった。 なお、メビウス1は部隊章に因む「リボン付き」というもう一つの通称も持っているが、劇中で「リボン付きの死神」と呼ばれたことは一度も無く、これはあくまでプレイヤーからの通称である。 リーパー(『エースコンバット インフィニティ』) 多分にメビウス1のオマージュを含むキャンペーンモードの主人公。 ボロボロの外套を纏い、手に大鎌を持った骸骨というオーソドックスなタイプの死神のパーソナルマークと「リーパー(死神)」のタックネームを持つ。 数々の作戦で多大な戦果を挙げていく内に敵軍から恐れられ、友軍の地上部隊からは「死神の足元は安全地帯だ」と多大な信頼を寄せられるようになる。 後に所属部隊の隊長に就任すると共に、同僚のパイロットによってパーソナルマークに「エースパイロットの証」となる無限大のマークが描き加えられ、赤い∞マークを頭に付けた死神、即ち「リボン付きの死神」となった。 敵からではなく、友軍から信頼の意味を込めて「死神」と呼ばれる珍しい人物である。 ドクター・キリコ(『ブラック・ジャック』) ブラック・ジャックとは基本対立しているが、時には協力する事もある医者。 かつて軍医を勤めていた時の経験から安楽死を是とする信念を抱くに至り、こっそりと安楽死を請け負う事から「死神の化身」の異名を持つ。 「何としてでも患者を救おうとするブラック・ジャックに対して、患者を安楽死させる医者」という点ばかり強調されがちだが、 やたらめったら患者を死なせて回っている訳ではない。 キリコにとって安楽死とは最終手段であって、「患者に生きたいという意思が無い」「もはや手の施しようが無い」のでなければ、医者として患者の命を救うために手を尽くすこともまた信条としているのだ。 黒城凶死郎(『デュエル・マスターズ』) 「黒い死神」の異名を持ち、自らも「孤独と絶望の神」を自称する決闘者(デュエリスト)で、切札勝舞のライバル。 闇文明、特にデーモン・コマンド中心のデッキ使用する。 他人を寄せ付けない雰囲気を放っており、冷酷非情な決闘(デュエル)により相手の心をへし折ってしまう。 ただし、言動こそ物騒なものの無闇な殺生を好むような悪人ではなく、時には勝舞の助太刀に入ることすらある。 幼い頃から孤独に生きてきた彼は1人の男と仲間たちと出会い、デュエルの楽しさを知る。 だが、ある日突然その男はザキラに仲間を売り渡し、黒城を除いて全滅。 信じていた存在に裏切られた黒城は深い絶望と憎悪を抱き、死神として孤独に生きることを選んだ。 その男はデュエルによって殺害しているが、悲劇の黒幕であるザキラへの復讐も誓っている。 江戸川コナン、毛利小五郎(『名探偵コナン』) 推理ものの性質上仕方ないが、 偶然に殺人事件に高確率で居合わせる ことから読者から死神呼ばわりされている。 当初は小五郎をそう呼んでいたが、後に小五郎が居なくても(しかも明らかに彼以上の頻度で)事件現場にいることが多いコナンに対して、「死神は君の方だった様だな」などと、遂には目暮警部にまでそう思われるようになってしまった。 見た目は子供なのにそんなことを思われるほどの印象とは……。 コナン達の他にも、登場回数は少ないが毎回勤め先で事件が発生する家政婦もいる。 また「死神」繋がりでは『死神陣内殺人事件』というアニメオリジナルエピソードもある。 フジキド・ケンジ(『ニンジャスレイヤー』) マルノウチ・スゴイタカイビルにおけるニンジャ同士の抗争に家族ともども巻き込まれ一度死に瀕するも、ナラク・ニンジャのニンジャソウルが憑依する事によってニンジャスレイヤーとなって復活した、ネオサイタマの死神。 復活後は妻子を殺めた悪しきニンジャに復讐すべく、地獄の戦士となって数多のニンジャ達にイクサを挑んでいく。 作中でカラテモンスターだの冥府魔道カラテ戦士だのと度々物騒な二つ名で呼ばれるが、それは伊達ではなく、実際強い。鬼のように強い。ニンジャだけど。 「アイエエエエ!?ニンジャ!?ニンジャナンデ!?」のフレーズでお馴染みのニンジャ・リアリティ・ショックを、フジキドに遭遇したニンジャの方が引き起こすと考えるとその凄まじさが分かるだろう。 また、個性豊かな登場の仕方を披露しており、蕎麦屋から蕎麦をすすりながら現れたり、敵ニンジャが乗り込んだタクシーの運転手をしていたり、川上からどんぶらこと流れてきたりとバリエーションは豊富。あと、やきうもめちゃくちゃ強い。 死神(『新必殺仕置人』) 江戸の一大殺し屋組織「寅の会」の監視役を務める男。 外道仕置や「寅の会」を通さない仕置など、組織の掟を破った仕置人に対する粛清や警告をするのが役目。 仕置の際は顔を遮光器で覆い、紐付きの銛で始末する。 その強さや掟に忠実な厳しさ、人間らしさのない無表情で訥々とした語り口はその名の通り「死神」。 ブギーポップ 同名のシリーズに登場する主人公。 自身を「死神」であると語り、「世界の危機」に対応して現れ、その元凶となる「世界の敵」を殺すために行動するという。 自動的な存在であり、殺す理由はひとえに「世界の存続に必要だから」で、それ以上の理由は存在しない。 ただし、冷徹な性格かというとそうではなく、達観した面こそ多々見受けられるが、時には感情的になったり、イタズラじみた所作を行うことも多かったりする。 武器は極細、および超硬質のワイヤーで、これを自在に操ることで敵対する存在をバラバラに寸断する。 死神(暗殺教室) 作中において世界最高と称される殺し屋。 誰も顔を知らず、誰も名前を知らず、しかしその腕前だけは誰もが世界一と認める謎多き存在。 世界中の腕っこきが集まっても殺せない殺せんせーを暗殺すべく、密かに行動を開始するが……? 駆逐艦 雪風 太平洋戦争で活躍した、大日本帝国海軍陽炎級駆逐艦8番艦。 大戦を通して複数の大きな作戦に参加しては戦果を挙げつつ終戦まで生き残り、大きな損傷を受けたり乗員に死者が出ることもほとんど無かったりしたことから「奇跡の駆逐艦」の異名を持つ。 海軍内では同じ幸運艦の時雨と共に「呉の雪風、佐世保の時雨」と人気だった武勲艦で、「運だけでなく日頃の訓練の賜物」と同僚たちに称えられたほど艦長や乗組員たちの実力も高かった。 しかも戦闘や護衛や輸送任務で100回以上出撃し、9割近くは雪風だけでなく同行した仲間も無傷。 忙しく大海原を駆け回る中で偶然遭難船や遭難者を見つけて救助したことが何回もある、正しく幸運の女神………だったが、さすがに小さな駆逐艦一隻で日本全体を守り抜くことはできず、戦争に負けると日本海軍の船が悉く沈んだ中で雪風は無傷だったことから、 「結局雪風だけ幸運だった」から始まって「周りの運を吸い取った」との偏見に晒された挙句、「死神」のあだ名で呼ばれるようになってしまった。 遂には「雪風が無傷な反面、雪風以外の艦が損傷したり轟沈したりする事態が多発したため、友軍から死神と呼ばれ嫌われていた」という、実際の雪風とは正反対の作り話までされる始末に。 この「一人だけ生き残るので仲間に嫌われた」と言う類の話は、普段アニメやゲームの本を書いている作家たちが2000年頃になって書いたものなので、十中八九これやこれが元ネタだろう。 本人(艦)は死神と無縁な功績やエピソードばかりなのに、敗戦や後年の創作によって死神とみなされるようになってしまった稀有な例。 ちなみに敗戦後、復員輸送に従事していた雪風は、引揚者に「とても綺麗な船ですね。日本が負けたのに、この船は一体どこで戦っていたのですか?」と責められたことがあった。 雪風はその幸運故に「一緒に戦った仲間」云々どころか「戦ってすらいない」と誤解されたのだ。作り話の遥か上をいく悲惨な実話である……。 シモ・ヘイヘ 冬戦争で活躍したフィンランド陸軍の「歴史上最も多くの人間を射殺した」記録を持つ凄腕スナイパー。 300m以内なら確実にヘッドショットを決められる 等といった超人的腕前により、旧ソ連軍から「白い死神」と呼ばれ恐れられていた。 スナイパーとしての腕前が有名だがサブマシンガンでもかなりの使い手でもあり、公式記録で200人以上、一説には542人(=狙撃で射殺した人数)以上倒したとも言われる。 詳細は個別記事を参照。 ブラックヘイホー(マリオストーリー) 文字通りただの黒いヘイホー。だが、その異名は「しにがみのヘイホー」。 その理由は項目を参照。 カラースプラッシュやオリガミキングでもちょっとだけ出演している。 追記・修正は死神に死を告げられる前にお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 死期の近い人の元へお迎えにやって来るより殺しに来る印象が強い -- 名無しさん (2018-04-28 08 14 41) 『絵本百物語』だと「人を死に誘う憑物」と書かれていた -- 名無しさん (2018-04-28 08 41 15) 殺し屋とかの異名としても使われるイメージもある。 -- 名無しさん (2018-04-28 08 53 25) コナンと金田一 -- 名無しさん (2018-04-28 09 18 41) ↑戦場でただ一人生き残る兵士の異名でもあるね -- 名無しさん (2018-04-28 10 23 09) 鎌とガイコツといえば、ペイルライダーが有名所か -- 名無しさん (2018-04-28 10 39 54) 雪風 -- 名無しさん (2018-04-28 11 01 13) 一般的に連想されるタイプは農夫のように丁重に刈り取るので比較的良い部類……みたいな話を聞いたことがあったがさてアレはどこで聞いたんだったか。実際爪やキバで荒々しくえぐり取られるよりはいい仕事してそう -- 名無しさん (2018-04-28 11 41 51) 幽遊白書のぼたんなんかも一応死神だったっけ?(うろ覚え) -- 名無しさん (2018-04-28 12 47 55) 金田一はじめとか工藤新一は死神に含まれますか? -- 名無しさん (2018-04-28 16 49 04) やっぱりガンダムデスサイズでしょ -- 名無しさん (2018-04-28 17 25 02) 2↑その2人はどちらかと言うと「疫病神」じゃないかな? -- 名無しさん (2018-04-28 17 42 27) 仇名としての死神は「本人の意思に関わらず死を引き付ける(ホラーやミステリーの主人公、一人だけ生還する兵士等)」か「凄腕の殺し屋」あたりかな -- 名無しさん (2018-04-28 17 55 51) 月も逆位置がプラスじゃなかったけ -- 名無しさん (2018-04-28 18 16 03) あだ名としての死神といえば「新・必殺仕置人」の死神は欲しいな -- 名無しさん (2018-04-28 20 29 27) ↑2 そう、正位置で不安・動揺、 逆位置で回復とか危険からの脱出 -- 名無しさん (2018-04-28 21 41 40) 殺せんせー が思い浮かんだ -- 名無しさん (2018-04-28 22 21 45) 死者の魂が迷わぬように導く慈悲深い神、という説もありますね -- 名無しさん (2018-04-29 03 46 42) 『パルテナの鑑』の死神は独特なBGMで印象に残る -- 名無しさん (2018-04-29 13 25 18) RINNEを忘れちゃいかん -- 名無しさん (2018-04-29 13 59 33) バーローは死神呼ばわりされるけど、キンダニは死神呼ばわりされない -- 名無しさん (2018-04-29 19 42 09) ロマサガのデス様は邪神でもあり魂の管理者としての威厳ある面と両方を持ってたな。てかあの世界じゃ一番まともな神様だと思う -- 名無しさん (2018-04-29 19 48 37) 2↑飛騨からくり屋敷で村人に「呪われた者」呼ばわりされたことはある。 -- 名無しさん (2018-04-29 19 52 03) 鎌を持っているイメージ元に「埋葬の際、『起き上がって来ないように』首に刃物(農夫であれば鎌が多くなる)を当てる風習」があり、[地表に露出した死体]が[白骨死体+鎌]がセットになった説も。『ヴァンパイアと屍体―死と埋葬のフォークロア』だったかな -- 名無しさん (2018-04-29 21 38 35) ↑梅津かずおの漫画にも棺桶の上に鎌を置く風習の村の話あったな -- 名無しさん (2018-04-30 07 47 47) アッハイやきゅうもうまいです(マグロ目) -- 名無しさん (2018-04-30 08 14 04) ↑5 冥府の管理人が一番マトモで苦労人ってのはギリシャ神話時代からのお約束ですしw -- 名無しさん (2018-04-30 14 52 25) 死神といえばラグナ=ザ=ブラッドエッジ -- 名無しさん (2018-05-01 13 11 54) 日本で円満にあの世に送り届ける存在には『お迎え』って表現があるね。具体的な姿はイメージできないけど。 -- 名無しさん (2018-05-13 15 18 08) 日本では貧乏神とタッグを組んでいて相手が貧乏神のせいで弱ってくると狙ってやってくるというたちの悪さがある。 -- 名無しさん (2018-05-15 10 02 12) 境界のりんねが入っていないな・・・。 -- 名無しさん (2018-05-15 10 05 43) 「お前はまだ寿命じゃないから現世に帰れ」ってやるタイプもたまにいるよね 具体目は出てこないけど -- 名無しさん (2018-05-15 10 37 43) ゴミ処理係の執事 -- 名無しさん (2018-05-25 18 48 25) 日本じゃ三途の渡し守や脱依婆が近いのか?生者を連れて行くというより死者を逃がさないって意味合いが強いが。 -- 名無しさん (2018-06-28 09 57 58) ガンダムシリーズの死神でなんでサンダースjrだけ載ってんだ。せめてデュオやデスサイズガンダムの記述あっても… -- 名無しさん (2018-07-04 01 15 13) 自ら死神の格好して死神と名乗っているのは「通り名としての「死神」」とは何か違うんじゃないかと…どっちかというと死神クロノスとか死神キルバーンの同類に近いというか -- 名無しさん (2018-09-30 10 35 08) リストに載っている死亡日より早く死なれたら困る作品もある -- 名無しさん (2018-09-30 10 47 11) ちなみに英語で「reaper」「harvester」(収穫する人)という単語はそのまま死神の意味として通じる。豆。 -- 名無しさん (2018-10-17 02 02 14) 「死神(暗殺教室)」を追記してくれた人が間違ってシモ・ヘイヘの記述の途中(「~倒したとも言われる。」と「詳細は個別記事を~」の行の間。)に書き込んじゃったみたいなので修正しました。。 -- 名無しさん (2018-11-21 16 53 19) 日本の神様だとお稲荷様が近いかな。宇迦之御魂神ではなく、荼枳尼天の方。あとは、『奪魂鬼』『奪精鬼』『縛魄鬼』辺りが近い。 -- 名無しさん (2018-11-22 22 12 18) 死神が殺すのではなく、死者の魂を導く案内人という設定もたまに見る。 -- 名無しさん (2020-01-27 02 25 51) チェイスは? -- 名無しさん (2020-01-27 09 04 31) 四八(仮)の水木作品を意識した死神はかなり再現度高い -- 名無しさん (2020-07-11 16 08 38) 「私の名前知ってます?紫の死神っていうんですけど……ねぇ聞こえてる?はははッ……貴方に死を運んできたんですけど」 -- 名無しさん (2021-03-13 21 44 59) ゴルゴ13が入っていないのが意外と -- 名無しさん (2021-03-13 21 51 50) ↑続き ある意味で人の形をなした死神ともいえるキャラなのに -- 名無しさん (2021-03-13 21 54 34) ↑1 あるキャラは冥王よりもヤバイというという意味合いのセリフを言っていたからな。 -- 名無しさん (2021-08-21 15 09 41) 最近?だと英語で死神とは『Grim Reaper (冷酷な刈り人)』って呼ばれてることが多い気がする。 あと死神と呼ばれているキャラとしてバイオのハンクがいるな。 -- 名無しさん (2021-10-30 00 23 21) 1が糞スレを立てた時に死神AAが貼られてた時代が懐かしい -- 名無しさん (2021-10-30 01 48 25) 神話がガッツリ絡むと理不尽さや脅威ではなく「いつかやってくる」という見方をされてることが多いな… -- 名無しさん (2021-10-30 06 22 42) アジャラカモクレン、テケレッツのパ -- 名無しさん (2023-07-05 21 31 33) 『3番目死神風紀委員長中学2年生エスパーBHプラ板縦ロールヘリコプターボーリングトビウオとその妹ロボ絶滅ナルト学び舎パワードスーツラミカスパイの大作戦友情ウニマタ○ゴ裏設定青大将放射ダクトヤニタコプレ三つあみメガネ文庫悪魔の坊クラゲ無頼カマボコ板夏のお嬢さんスレイヴ大○魔竜ブルマ宇宙怪獣大きなお友達消しゴムケーキ解説羊の顔建前盗撮鈍く光ったマグナム弾天プラ魔改造亜光速801リンゴの皮トロロしっぽマスクトサカ草輪廻転生迫撃少女風紀団担英タネコウモリダコタコイカたまみ両親ストーカーおた2ブレイクサルSD力さすらいの保険医体温計ネコ天使腕ズ歩くサンマー担Xペン蔵ころねシャチョー天使博士ヒルメイドオクタイケモンゴッドシニガミ14号サイシュウカイ番長鼻行類チョコ零式CCPG電撃ももえサイズ』のももえがいなくて残念。 -- 名無しさん (2024-01-01 02 09 19) ノルマや成績の為に必死で働く(たまに不正や失敗もする)サラリーマンタイプと公平かつ無慈悲に魂を回収していく(逃げることは不可能)なシステムタイプの二つに分けられる気がする -- 名無しさん (2024-05-23 22 13 26) 『銀魂』の月詠について書きたいけど、何書こう?月詠の二つ名は「死神大夫」。 -- 名無しさん (2024-05-23 23 12 03) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/427.html
唐書巻二百九 列伝第一百三十四 酷吏 索元礼 来俊臣 来子珣 周興 丘神勣 侯思止 王弘義 郭弘霸 姚紹之 周利貞 王旭 吉温 羅希奭 崔器 毛若虚 敬羽 太宗が天下を定めると、心を政治における判断に留意し、州県が死刑の執行を議論する際には三度覆奏させ、京師では五度覆奏させた。獄で死刑が決定すれば、尚食は膳を下げて音楽を止めた。晩年に到っても、天下の刑罰はしばらく据え置かれた。この時、州県に良吏はいたが、酷吏はいなかった。 武后は高宗・中宗が柔弱であることにつけ込んで、天子の権を盗み、部下で自身に異を唱える者を恐れて、群臣を脅かし掣肘しようとし、宗族を取り除き、そこで気まま勝手にお上に緊急事態であるとして大獄をおこした。当時、天下で変事を上奏する者は、全員公用の車に乗り、所在地から護送されて京師に到り、客館に滞在し、身分が高い者は封爵を受け、低い者は賜物をいただいた。それによって天下に変事の上奏を勧めたのである。ここに索元礼・来俊臣の徒は、武后の密かな心内をおしはかって、入り乱れては勃興し、残酷な表情で、縉紳にかみつくことは犬豚のようであり、叛徒の肉の悪臭は道路にまで達し、無実の者の血は刀や鋸から離れて流れ、忠義の臣や貴族権臣は、朝廷で身を保つことができなかった。武后はそのため自分のほしいままにし、閨を出ずに天命はやがて遷り、なお臣下に配慮して罰しようと思わなくても、六道使が罰するためすでに出発してしまっているのである。 載初年間(690)になると、右台御史の周矩が武后を諌めて「このごろ姦佞なやからが人の秘密をあばき、それが日常茶飯事として行なわれている。犯罪を吟味する役人は、極めて残忍な取り調べをもって功となし、ありもしない罪をさぐり出してはその才能をきそい、苛酷であることをもって自慢しあっている。囚人の耳を泥でふさぎ頭を覆い包み、肋骨をくじき竹の串を手足の爪に刺し、頭髪で身体をつり下げて火で耳をいぶし、大小便の中に寝起きさせ、四肢や身体を傷つけそこない、獄中に放置してただれ腐らせ、これを「獄持」とよんでいる。飲食をあたえず、昼も夜も眠られないようにして、これを「宿囚」とよんでいる。このように、残虐をほしいままにし暴威を逞しくして、これを見て楽しみとしている。無実の罪をきせられた者が、もし死刑になることを求めさえすれば、いつでも死刑になることができる。およそ国を治める者は、仁徳をもって根本とし、刑罰をもって補助とする。周は仁徳をもって栄え、秦は刑罰をもって亡んでいる。陛下が調査くださりますように」と述べたから、武后は悟るものがあり、獄は次第にやみ、酷吏も次第に罪を得て去っていった。 天宝年間(742-756)の後、粛宗・代宗の間、政治的案件は山積みとなり、邪な臣下は威を振るい、彼らねじ曲がった大悪人は、非常に酷薄・残酷さをもってしたが、それでも武后の時のようにあえて猛然と殺戮するようなことはできなかった。 ああ!吏はあえて酷吏となろうとしなかったのに、当時はこれを誘って酷吏としたのだ。来俊臣のような輩は、利を惑わして命をすて、心内は勢いが盛んであったから、張湯・郅都の残り滓であったのだろう。 索元礼は、胡人であり、生まれつき残忍であった。はじめ徐敬業が叛乱の兵をおこし、武后は心配し、大臣をして常に緊張状態にあり、大獄によって自身と異にする者を除外しようとした。索元礼は武后の思いをおしはかって、そこで上書してそのような急変になることを告げたから、召し出されて遊撃将軍に抜擢され、推使となった。そこで洛州牧院に制獄をつくり、鉄籠をつくって囚人の首を繋ぎ、それだけではなく楔を加え、脳が裂けて死に至った。また横木を拘禁した手足にかけて転がし、「曬翅」と名付けた。あるいは囚人を梁の上から吊るし、石を頭に括った。一人の囚人を訊問するのに、根底を窮い、連帯する者は数百に到り、それでも終わることがなかったから、衣冠の者たちは恐れた。武后はしばしば索元礼を引見して称賛して賜物したから、権勢が張り、そのため死罪を議される者が非常に多かった。当時、来俊臣・周興が同じように職務に邁進し、天下はこれを「来索」と言った。薛懐義が貴くなると、索元礼は養って仮子とし、そのため武后に信認された。後に索元礼は苛猛のため、また賄賂を受け取ったため、そして武后は索元礼が衆の信望を得ているのを不服に思い、吏に下げ渡した。服役する前に、獄吏が「あなたの鉄籠をとってまいりました」と言ったから、索元礼は罪を自白し、獄中で死んだ。 来俊臣は、京兆万年県の人である。父の来操は、博徒であり、里人の蔡本と親しかった。蔡本は賭博で数十万もの負債があって支払うことができず、来操はそこで肩代わりしてその妻を自分のものとしたが、すでに妊娠しており、来俊臣を産み、その姓をおかしたのである。 生まれてつき性格は残忍で、反抗を喜び、生業に就かなかった。和州で居候して盗賊となり、捕えられて獄に送られた。獄中で変事を上言したが、刺史の東平王李続が検討してみると事実ではなかったとして、杖百の刑を受けた。天授年間(690-692)、李続が罪科によって誅殺されると、来俊臣は上書によって召されて謁見され、自ら以前に琅邪王李沖が叛いたとの上言を行ったが李続に抑え込まれたと述べた。武后はよしとし、侍御史に抜擢し、詔獄をつかさどり、しばしばお褒めのお言葉を頂戴した。武后は密かにその残忍さをほしいままにし、群臣を製紐して脅かし、前後千もの一族を殺した。生活上の些細な罪でも、皆獄に入って死んだ。左台御史中丞を拝命し、それによって群臣らはさらに息を潜め、目配せで会話するようになった。 来俊臣は侯思止・王弘義・郭弘霸・李仁敬・康暐・衛遂忠らを引き立て、密かに不逞の輩百人を集め、流言飛語させて公卿を無実の罪に陥れ、急変を上奏した。大捕物があるたびに、千里であっても同時に急ぎ出発し、報告に違いがなく、その当時は法の網にかけられたといい、牒の署名に「請うらくは来俊臣、或いは侯思止に付さん。推実必ず得ん」とあり、武后はこれを信じた。詔して麗景門に別に獄を設置し、来俊臣らに専ら審議させてしまえば、百のうち一度も許されることはなかった。王弘義は麗景門を戯れて「例竟」と呼び、入ってしまえば例として全員竟(おわ)ってしまうからである。来俊臣はその部下の朱南山・万国俊とともに『告密羅織経』一篇をつくり、詳細に一網打尽にし、首謀者も末端も全員、取調べさせることにあった。来俊臣は囚人を訊問するのに、罪状の軽重を問わず全員鼻から酢を注ぎ込み、地中の牢に閉じ込め、または寝ると溝で溺れ、または食べ物を与えなかったから、囚人は衣の綿を囓って食べ、大抵は死ななければ出られなかった。赦令が下されるたびに、必ず先に重罪の囚人を殺してから減免の詔を示した。また大枷をつくり、それぞれ名称があった。一を「定百脈(全身の血の巡りを止める)」、二を「喘不得(息もたえだえになる)」、三を「突地吼(地面に身体を打ち付けて大声で喚き散らす)」、四を「著即臣(直ちに罪状を認める)」、五を「失魂胆(胆を失い、気が転倒する)」、六を「実同反(反逆に加担したことを認める)」、七を「反是実(反逆を事実として認める)」、八を「死猪愁(断末魔の豚の苦しみ)」、九を「求即死(ひとおもいに殺してくれと求める)」、十を「求破家(家族とともに皆殺しにしてくれと求める)」と呼んだ。後に鉄を頭にかぶせ、枷をつけた者を地面に転がし、しばらくすると絶命した。だいたい囚人がやってくると、先に械をつけた前の囚人を新しい囚人に見せ、恐れ慄かない者はおらず、全員が自ら誣告であっても自白した。 如意年間初頭(692)、大臣の狄仁傑・任令暉・李遊道・袁智弘・崔神基・盧献らを誣告して獄に下した。来俊臣は専ら大臣を誅殺して功としてきたが、そこで奏上して囚人に制を下すことを願い、一回の訊問で自白した場合は、法で死を減ずべきであるとした。狄仁傑らはすでに死罪が論ぜられ、執行の日を待つだけになり、しばらく繋がれていたが、狄仁傑は子を遣わして帛書を持って法がまげられていると主張した。武后はこの書を見て愕然とし、来俊臣を責め立てた。来俊臣は「この囚人からは巾服を奪っておらず、どうして罪に服するのをよしとしましょうか」と答え、武后は通事舎人の周綝に査察させることとしたから、突如、仮に狄仁傑に衣冠を着せて西廂に立たせた。周綝は来俊臣を恐れ、東廂を視察するだけで立ち去り、あえて報告しなかった。これより以前、宰相の楽思晦は来俊臣のためにその家を皆殺しにされ、ただ九歳の子が司農寺に隷属していたが、緊急事態であるとして武后に召見された。「来俊臣は凶暴かつ残忍で、君主を欺き不道です。もし陛下が叛いたとの報告があって付されれば、大小となくすすべて詔の通りになります。臣の父は死に、一族は皆殺しとなってしまい、私とて生を求めているわけではありません。ただ惜しむところは陛下の法が来俊臣のために弄ばれていることだけです」と言い、武后は心に悟るものがあり、これによって狄仁傑の六族は全員放免された。また大将軍の張虔勗・内侍の范雲仙が取り調べを受け、張虔勗は法を枉げられているのに堪えられず、大理寺の徐有功に訴えたが、来俊臣は衛士をして斧で張虔勗を滅多打ちにし、范雲仙はこの事を先帝睿宗に陳述したが、来俊臣は命じて范雲仙の舌を切り、皆即死した。人々は恐れて息を潜めた。 しばらくして、来俊臣は商人の金を納めたから、御史の紀履忠に弾劾され、獄に下され、罪状は死刑相当であった。武后は来俊臣が緊急事態にあたってきたのを忠義であるとし、誅殺させないこととし、死刑を免じて民とした。長寿年間(692-694)復帰して殿中丞を授けられたが、賄賂を罪とされ同州参軍事に貶され、貶地で気まま勝手に過ごし、同僚の妻を奪い、またその母を辱めた。にわかに召されて合宮県の尉となり、洛陽県の県令に抜擢され、司僕少卿に昇進し、司農寺の奴婢十人を賜った。官戸には男妾はいなかったが、吐蕃(西突厥の誤り)の酋の阿史那斛瑟羅に婢があって歌舞をよくしたから、その党をして謀反を告発させて、その婢を求めたが、諸蕃の長数十人が、耳を割いて顔を切り裂いて冤罪を訴えたから、かろうじて疑いが解かれた。綦連耀らが謀反をはかり、吉頊が来俊臣に告発し、数十族を殺した。奸計を暴いた功績を独占しようとし、そこで吉頊も法にてらして処罰しようとしたから、吉頊は大いに懼れたが、武后に謁見を求めて自ら自白したから、免れた。来俊臣は司刑史の樊戩を誣告し、謀反の罪によって誅殺したが、その子が宮中に訴えたが、役人はあえて取り上げる者はいなかったから、そこで子は自ら割腹した。秋官侍郎の劉如璿はそれを見て涙を流すと、来俊臣は奏上して同罪であるとしたから、劉如璿は自ら年老いたから涙が流れたのだと弁明し、吏は論じて死罪の絞にあたるとしたが、武后は死をゆるして漢州に流した。万歳通天年間(696-697)の上巳の日、その与党とともに龍門に集い、搢紳の名を石に題したが、拒んで死ぬべき者は先に告げ、李昭徳を拒んで搢紳の中に入れなかった。ある者がそのことを李昭徳に告げ、李昭徳は来俊臣ら悪者をお縄にしようと謀ったが、未だに発覚しなかった。衛遂忠は龍門に行かなかったとはいえ、非常に巧妙な言辞があり、普段から来俊臣と親しかった。それより以前、王慶詵の娘は段簡と結婚していたが美しく、来俊臣は詔を偽って無理やり娶った。ある日、妻の一族と一同に会し、酒宴となったが、衛遂忠もやって来たのに門番が通さなかったから、衛遂忠は直接入ってきて来俊臣を漫罵し、来俊臣は妻が見られて辱しめられるのを恥じ、殴るよう命じて庭に縛り上げた。衛遂忠がいなくなると縄をといたが、これより仲が悪くなった。妻もまた恥じ入り、自殺した。段簡には妾がいてやはり美しかったが、来俊臣は人を遣わしてほのめかしたから、段簡は恐れ、妾を来俊臣に帰属させた。 来俊臣は群臣があえて自分を排斥しないのを知っており、そこで謀反の意図があり、常に自らを石勒に匹敵するとしており、皇嗣(睿宗)および廬陵王(中宗)が南北の衙とともに謀反しようとしていると告発しようとし、そこで志をほしいままに操ろうとした。衛遂忠はその謀を暴いた。それより以前、来俊臣はしばしば武氏一族・太平公主・張昌宗らの過失を指摘していたが、武后は暴かなかった。ここに到って武氏一族は怨み、共にその罪を証明した。詔があって西市で斬られた。年四十七歳。人々は皆互いに喜び合い、「今から背中をつけて寝床で寝られるぞ」と言い、争って目を抉り、肝を摘出し、その肉を塩辛にし、一瞬で尽きてしまい、馬でその骨を踏ませて、一つとて残る物はなかった。家財は没収された。 来俊臣が用いられるようになると、天官に託して選者二百人あまりを得たが、失脚すると、役人に自首した。武后がこれを責めると、「臣は陛下の法を乱しました。身は誅戮を受けなければなりません。来俊臣をたのみ、臣の家を覆ったのです」と答えたから、武后はその罪を赦した。 当時、来子珣・周興なる者がおり、皆万年県の人であった。永昌年間初頭(689)、来子珣は上書して、左台監察御史に抜擢されたが、学がなく、言葉は野卑かつ下品であったが、武后は獄の管理を任せ、多く武后の意思に従ったから、そのため武姓を賜わり、字を家臣とした。雅州刺史の劉行実兄弟の謀反を誣告して、誅殺されると、今度は殺した者の父の墓を掘り出した。遊撃将軍に遷った。常に半袖の錦を着ていたが自身は平然としていた。にわかに愛州に流されて死んだ。 周興は、若い頃は法律を習い、尚書史積から秋官侍郎に遷り、しばしば獄のことを決し、文は深く険しく、みだりに数千人を殺した。武后が政治の実権を握ると、尚書左丞を拝命し、上疏して唐の宗正寺の属籍を撤去するよう願った。この時、左史の江融に美名があり、周興は江融を名指しして徐敬業とともに同じく謀反を企んでいるとし、市で斬った。刑に臨んで、武后に召見されたいと願ったが、周興は許さなかった。江融は叱って「私が死んで形がなくなっても、お前を許さない」と言い、遂に斬られたが、死体は震えて歩き、刑を執行する者が蹴り飛ばしても、三度倒れて三度行った。天授年間(690-692)、ある人が来子珣・周興と丘神勣が謀反を企んでいるとし、来俊臣に詔して事実かどうか訊問させた。それより以前、周興がまだ誣告されているとは知らない時に、まさに来俊臣と向かい合って食事をしていた。来俊臣が、「囚人の多くが自白しませんが、どうすればいいでしょうか」と言うと、周興は「簡単じゃないか。大甕の中に入れて、炭で周りを炙れば、どうして自白しないことがあろうか」と答えたから、来俊臣は「いいですね」と言うや、命じて甕を取り出して火で炙り、おもむろに周興に「詔によってあなたを取り調べることになりました。これを試してください」と言ったから、周興は冷や汗をかいて、叩頭して罪を自白した。詔によって丘神勣を誅殺し、周興を赦して嶺表に配流としたが、道往く途中で恨みに思う人によって殺された。 丘神勣は、丘行恭の子であり、左金吾衛将軍となった。高宗が崩ずると、武后は章懐太子李賢を巴州で殺害させ、罪を丘神勣に帰させ、畳州刺史に左遷した。にわかにもとの官に復官し、来俊臣らを助けて酷獄を行ない、遂に重用された。博州刺史の琅邪王李沖が挙兵すると、丘神勣は清平道大総管を拝命してこれを討伐した。州の人が琅邪王を殺すと、素服で出迎えたが、丘神勣は全員を殺害し、千族あまりにも及び、そこで大将軍を拝命した。 侯思止は、雍州醴泉の人である。貧しかったのに、怠けて生業に就かず、渤海の高元礼の奴婢となり、性格は奇怪で無頼であった。恒州刺史の裴貞が吏を笞打ち、吏は怨みをつのらせた。侯思止に教えて舒王李元名と裴貞が謀反しようとしていると告発させ、周興を担当として訊問させ、全員が一族皆殺しとなり、侯思止は遊撃将軍を拝命した。高元礼が恐れ、引き入れて同座し、密かに「お上は人を用いるのに通例によらない。もし君が字を識らないのではと問われれば、「獬豸(狛犬)は学がありませんがよくお触れになられておられる。陛下は人を用いるのにどうして字を識ることがありましょうか」と答えなさい」と教え、しばらくもしないうちに、武后はやはり尋ねてきたから、侯思止はそのように答えると、武后は大いに喜んだ。天授年間(690-692)、左台侍御史に遷り、高元礼はまた「お上は君に家がないから、必ず謀反人から没収した邸宅を賜るだろう。そのときに「臣は逆臣を憎んでおり、その地に住むことを願いません」と辞退しなさい」と教え、そしてそのように内示があったから、教えられた通りに答えると、武后はますます喜び、恩賞は非常に厚かった。 侯思止はもと人の奴婢であり、言葉は地方の訛があり、かつて魏元忠を取り調べた時、「しばらく白司馬を受けるか、そうでなければ孟青を受けるか」と言ったが、洛陽に白司馬坂があり、将軍に孟青棒がおり、琅邪王李沖を殺した者であった。魏元忠は罪を認めず、侯思止は引っ立てた。魏元忠はおもむろに起き上がって、「私は驢馬に乗って落馬し、足を鐙に引っ掛けたまま引きずられるように、引っ立てられるのか」と言うと、侯思止は怒り、また引っ立てて「制使を拒むというのか」と言い、死から逃れようとしているのかと思っていた。魏元忠が罵って「侯思止よ、私の頭が欲しいのか。それなら鋸で斬るんだな。そもそも叛いたなんて認めることはないからな。お前は御史の地位にあるが、今朝廷の礼儀で「白司馬」・「孟青」なんて言ってどうなるかわかっているのか。私でなければ誰がお前に教えるというのか」と言うと、侯思止は驚いて冷や汗が流れ、起き上がって謝って「あなたの教えを受けられれば幸いです」と言ったから、そこで連れて行って寝床に上がらせた。魏元忠はおもむろに座って、顔色は変わらず、獄からしばらくして出た。侯思止は田舎の訛で話したから、人々は真似して笑っており、侍御史の霍献可はしばしば嘲って侯思止を馬鹿にしていた。侯思止は怒って上奏し、武后は霍献可を「私が用いている人間を、どうして謗るのか」と責めたが、霍献可は詳しく侯思止の田舎言葉を奏上したから、武后もまた大笑いしてしまった。 来俊臣はもとの妻を捨て、せまって太原の王慶詵の娘を娶り、侯思止もまた趙郡の李自挹の娘を娶ろうと願い出て、事は宰相に下げ渡されると、李昭徳はあくまでも反対し、「来俊臣が王慶詵の娘を奪っているのが、すでに国家を辱めているというのに、あの野郎もまたそうしようとしているのか」と言い、搒(むちうち)して侯思止を殺した。 王弘義は、冀州衡水の人であり、緊急の告発の奏上によって遊撃将軍に抜擢され、再び左台侍御史に遷り、来俊臣とともに残酷さを競った。暑い月に囚人を拘禁すると、別に狭い部屋をつくり、よもぎを積んでその上に毛氈を施すと、にわかに死んだ。自ら偽って、舎佗獄とした。州県に触文がわたるごとに、触文が来たところは震撼した。王弘義はそこで「我が触文は狼毒や野葛のようだな」と自慢した。それより以前、まだ賎しい身分であった時、傍らの捨てられた瓜を求めたが与えられなかったから、そこで文章を掲げて園に白兎がいると述べ、県はそのために衆を集めて追い回し、瓜の実や畑の畦は無惨なことになった。内史の李昭徳は、「昔は蒼鷹(郅都)という獄吏がいたと聞いているが、今は白兎御史がいる」と言った。 延載年間初頭(694)、来俊臣が貶されると、王弘義もまた瓊州に流された。詔を偽って帰還したが、事件が発覚し、たまたま侍御史の胡元礼が嶺南に派遣され、襄州に行った時に、王弘義を取り調べた。王弘義は言葉に窮して「公と私は気質が同類ではないか。私に対するのにどうして厳しくするのか」と言うと胡元礼は怒って「私が洛陽県の尉であったとき、あなたは御史だった。私は今御史で、あなたは囚人だ。どこが気質が同類だというのか」と言い、杖殺した。 郭弘霸は、舒州同安の人で、仕えて寧陵県の丞となり、天授年間(690-692)に武周革命となると、召見されることができ、自ら「徐敬業を征討したとき、臣はその筋を抜き取り、その肉を食べ、その血を飲み、その髓を絶ちました」と言うと、武后は大いに喜び、左台監察御史を授け、当時は「四其御史」と号した。再び右台侍御史に遷ったが、大夫の魏元忠が病となり、属僚が見舞いに訪れたが、郭弘霸は一人後から入り、心配そうに顔色を見て、大小便を観察し、そこで指を舐め、病の軽重を確かめ、「甘ければ病は治りませんが、今味は苦かったので、癒えるでしょう」と言い、非常に喜んだ。魏元忠はその媚びたさまを憎み、朝廷で語って暴露した。 かつて芳州刺史の李思徴を取り調べ、拷問に堪えられず死んだ。後にしばしば李思徴が幽霊となって見え、家人に命じてお祓いをした。しばらくして李思徴が数十騎を従ってやって来たのが見え、「お前は法を枉(ま)げて私を陥れた。今お前の命をとりにきた」と言い、郭弘霸は恐れ、刀をひっさげて自ら腹を刳って死に、しばらくして蛆が湧いて腐った。当時、大旱魃となり、郭弘霸が死ぬと雨が降った。また洛陽橋が長い間壊れていたのが、ここに到って完成した。都人は喜んだ。武后は群臣に「外でめでたい事でもあったのか」と尋ねると、司勲郎中の張元一が「この頃三つの慶事がありました。旱魃でしたが雨が降りました。洛橋が完成しました。郭弘霸が死にました」と答えた。 姚紹之は、湖州武康県の人である。はじめ鸞台典儀から累進して監察御史に遷った。中宗の時、武三思が勢いをたのんで謀反を謀ったとして、王同皎・張仲之・祖延慶らが謀殺しようとしたが、発覚して、捕えて新たに設けられた詔獄に送られ、姚紹之と左台大夫の李承嘉に詔して取り調べさせた。当初はその心情を尽くして許そうとしたが、たまたま宰相の李嶠らに勅して同じく訊問させることとしたが、宰相は禍を恐れ、ほぼ何もせず訊問しなかった。囚人は怒鳴って「宰相は武三思と繋がっている」と言い、李嶠らはしばしば李承嘉にひそひそ声で耳打ちしたから、姚紹之は心変わりして事情を顧みないこととし、そこで力士十人あまりを引き連れて囚人を引っ張って来て、その口を布で塞いで獄中に送った。張仲之に向かって「うまくいかないぞ」と言ったが、張仲之はそれでも頑なに武三思が謀反をおこすと述べていたから、姚紹之は怒り、撃ってその臂を折り、囚人が天に向かって「私が死んだとしても、お前を天に訴えてやる」と叫び、そこで肌着を裂いて束にし、ついに誣告して謀反とし、皆一族を死刑に処した。 囚人たちが誅殺されると、姚紹之は意気軒昂で、朝野の注目を集め、左台侍御史に抜擢された。江左(長江南岸)に使いとして派遣され、汴州を通過したとき、録事参軍の魏伝弓を侮辱した。しばらくして、魏伝弓が監察御史となり、姚紹之が収賄の罪で、魏伝弓に詔して取り調べさせることとなった。姚紹之は揚州長史の盧万石に「私は最近魏伝弓を侮辱した。今取り調べに来ているが、私は死ぬだろう」と言い、獄で自白して、五百万を受託収賄しており、法では死罪に相当したが、韋皇后の妹の願いにより、死を減じられ、瓊山県の尉に貶された。にわかに逃げて京師に戻り、万年県の尉に追撃され、その足を折られた。さらに南陵県の県令を授けられ、員外に置かれた。開元年間(713-741)、括州長史同正となったが、州の政務に携わることができず、死んだ。 周利貞は、その系譜は失われてわからない。武后の時に銭塘県の尉に任命され、当時、魚を捕ることを禁止されており、州の刺史は野菜を食べていた。周利貞はたちまちに良い魚を送ったが、刺史は受けとらなかった。周利貞は「これは捕った魚ではなく闌魚(養殖魚)です。公は何を疑っておられる」と言ったから、その理由を尋ねると、「たまたま漁をしている者を見ました。禽獣は獲られず、魚があるだけでした。闌(さえぎ)ってこれを得たのです」と答えたから、刺史は大笑いした。 神龍年間(707-710)初頭、侍御史に抜擢され、権力者に迎合し、五王(崔玄暐・張柬之・敬暉・桓彦範・袁恕己)らはこれを憎み、京師から出されて嘉州司馬となった。武三思が禁中を乱すと、五王は謀って武三思を誅殺しようとしたが、密かに崔湜に語り、崔湜は裏切ってその計画を武三思に密告した。五王は貶され、崔湜は速かに彼らを殺すよう勧めたが、人望がなかったから、誰を使者とすべきか尋ねられた時、周利貞がよいと答えた。周利貞は崔湜の母方の従兄弟である。上表して摂右台侍御史となり嶺南に急派され、偽って敬暉・桓彦範・袁恕己を殺して帰還し、左台御史中丞を拝命した。しばしば仇として報復を狙われたが、しばらくして免れた。 先天年間(712-713)初頭、広州都督となった。崔湜は劉幽求を貶めて嶺南に流し、周利貞を唆して殺そうとしたが、桂州都督の王晙を頼って護られたから免がれた。周利貞は専横・搾取し、夷獠はその残虐さに苦しみ、皆蜂起して寇となったため、監察御史の李全交に詔して訊問させ、収賄の事実が発覚したから、涪州刺史に貶された。 開元年間(713-741)初頭、詔して「周利貞および滑州刺史の裴談、饒州刺史の裴栖貞・大理評事の張思敬・王承本、華原令の康暐、侍御史の封詢行、判官の張勝之・劉暉・楊允・衛遂忠・公孫琰、廉州司馬の鍾思廉は全員酷吏である。終身用いてはならない」とされ、ついで復帰して珍州司馬を授けられた。翌年、夷州刺史となったが、黄門侍郎の張廷珪が執奏して、「陛下は英断かつ聖明で、四海が心服しております。所謂英断というのは、凶逆を倒して朝廷を正しくするのがそうです。所謂聖明というのは、忠邪を弁じて、賞罰を信じることです。周利貞は、宗・武氏の旧党で、桓彦範・敬暉を獄死させ、陛下が尊い御位に登られて新政を敷かれてから、その重臣を奪い、荒れ地同様にしてしまい、天下の望みを許すのをもって、義士はなお罰を軽くするのを望みとするのです。今賜るのに官服を、委ねるのに藩国を以てすれば、悪党を退けるのは必ず行われないでしょう」と述べた。上疏されると沙汰止みとなった。しばらくもしないうちに、再び黔州都督を授けられ、朝散大夫を加えられた。張廷珪はまた上表して制書に返答し、「周利貞は険呑酷薄な小人で、武三思に付き従い、朝廷を傾け危うくし、功臣を殺害し、人も神も憤慢し、毒を飲むかのように心身をいためることは今に到っているのです。東都はその家を捜索し、金銀錦繍を、得て、法制をおかしているならば、重ねて貶しめるべきです。また長い間朝廷によって、応対に敏捷な悪者は、忠義を君に見せ、なお仇敵のようになるのです。使これを朝廷に入れさせれば、国を乱すことになり、俗人を慰撫しようとしてかえって人を傷つけることになるのです。今法令を守ろうと六品から三品に遷すのは、どうして過日に罰したのに今日賞すのでしょうか」と述べ、玄宗はそこで止めることとした。 張廷珪が罷免されると、起用されて辰州長史となると、朝臣は抗議のため京師に集まり、魏州長史の敬譲とともに皆が起用について奏上した。敬譲は敬暉の子で、父の冤罪について序列を越えて奏上した。「周利貞は姦臣の意に迎合して、法を枉(ま)げて臣の亡父敬暉を殺しました。陛下が罰を正しくして天下に謝すべきです」 左台侍御史の翟璋は敬譲が監督引導を待たずに法を行うよう請願したことについて弾劾した。玄宗は「父が法を枉(ま)げられて刑死したことについて訴えたことは憐れまざるべきではないが、朝廷の儀は粛然とせざるべきではない」と言い、敬譲の俸給三か月分を奪い、また周利貞を邕州長史に貶した。しばらくもしないうちに梧州で死を賜った。 開元年間(713-741)、また洛陽県の尉の王鈞、河南県の丞の厳安之がおり、人を捶(むちうち)して死ななかった場合を恐れ、腫れ物が潰れたのが見えても、さらに笞打ちし、血が流れるようになると喜んだ。 王旭は、貞観年間(623-649)の侍中の王珪の孫(曽孫)である。神龍年間(707-710)初頭、兗州兵曹参軍となる。当時、張易之が誅殺され、兄の張昌儀も乾封県の尉に貶されていたが、王旭はたちまちその首を斬って東都に送り、并州録事参軍に遷った。長史の周仁軌は韋皇后の与党であり、玄宗が混乱を平定すると、詔があって誅殺されることになったが、王旭は覆奏を待たず、首を斬って京師に送り届けたから、累進して左台侍御史となった。 崔湜が失脚すると、その妻の父の盧崇道は嶺南より東都に逃れ帰り、恨みに思う者に密告され、王旭に詔して取り調べさせた。王旭は広く親族・郎党を捕らえ、追求は苦痛をともない、死刑に相当し、盧崇道とその三子は全員死に、門生・友人、および海内の名士まで、皆連座して流罪となり、天下はその冤罪を歎いた。王旭と御史大夫の李傑は仲が悪く、互いに無意味に暴露しあい、李傑は罪とされて衢州刺史に斥けられ、そのため王旭はますます横暴となり、残忍さを思いのままとした。官はしばしば遷ったが、常に御史を兼任した。 その人となりは苛烈急激で、若い頃から約束を勝手に違えたから、人はあえてたのむことはなかった。収獄があるごとに、囚人は全員自白を拒むと、獄械をつくり、械の周囲に「驢駒抜橛」・「犢子県」等と名が書かれ、恐怖をあおり、また髪の毛に石を括って、拘禁された朝臣を脅かした。当時、監察御史の李嵩・李全交は厳格かつ残酷で、王旭の名とあわせて、京師では「三豹」と呼び、李嵩は赤豹、李全交は白豹、王旭は黒豹といった。田舎では約束をするときに「もし約束を違えば、三豹に遭うぞ」と言ったという。 宋王李憲の配下の紀希虬の兄が剣南県令であったが、収賄の罪で、王旭が派遣されて取り調べることとなったが、その妻が美しいのを見て、迫って関係を結び、そして夫を殺し、密かに数百万を秘匿した。紀希虬は奴婢を遣わして御史台の雇い人として王旭に仕えさせたが、王旭は知らず、非常に信認し、奴婢はすべて王旭が請求した賄賂を箇条書きにし、数千を積み上げて紀希虬に示し、紀希虬は泣いて宋王に訴え、宋王は上聞し、詔して罪を審査すると、数え切れないほどの隠し財産を得たから、龍川県の尉に貶し、怒りの余り死んだ。 吉温は、故宰相の吉頊の従子である。性格は陰険で人を欺き仕えた。地位の高い官僚に諂い仕え、子が親戚の父兄に仕えるようであった。天宝年間(742-756)初頭、新豊県の丞となった。当時、太子文学の薛嶷の知遇を得て、吉温を引き入れて入見したが、玄宗は目通りして「こいつはただの不良にすぎない。私は用いない」と言ったから、止められた。 蕭炅が河南尹であったとき、御史が吉温を派遣して河南府に向かわせて取り調べを行ったが、そこで蕭炅も取り調べ、手心を加えなかった。右相の李林甫は蕭炅と親しく、そのため免れた。蕭炅は京師に入って京兆尹に任じられ、吉温は万年県の尉に任じられたが挨拶せず、人々は恐れおののいた。高力士が閑暇時に邸宅に帰るとき、蕭炅は多く私的に拝謁していたが、吉温はそこで先回りして高力士と会話し、手をとって非常に喜んでいた。退出しようとすると蕭炅が拝謁のため通過し、吉温は表向きは恐惧して走り去ろうとしたが、高力士は制止し、蕭炅に向かって「私の友人だ」と語ったから、蕭炅は恭しく立ち去った。他日、蕭炅の京兆府に赴き、「あの時は国家の法をあえて失堕させることができませんでした。今後は心を入れ替えて公にお仕えします。いかがでしょうか」と挨拶すると、蕭炅は歓待した。 李林甫は李適之・張垍と仲が悪かった。李適之は兵部を領しており、張垍の兄の張均は兵部侍郎であり、李林甫は密かに吏を派遣して兵部が史を偽って選んだ六十人あまりを摘発し、玄宗は京兆府と御史台に命じて取り調べさせたが、連日にもかかわらず詳細がわからなかった。蕭炅は吉温に取り調べの補佐をさせ、吉温は囚人を左右にわけて、中を二重にして閉じ込め、別の囚人を後方の役舎で尋問し、笞打ちや械で拷問をし、皆うめき声を我慢できず、「公が幸いにも死から留めていただけましたら、調書に署名します」と言い、そして出された。諸史はその残酷さを恐れて、引き出されると訊問せずとも全員が自白した。一日の内に罪状が定まったから、李林甫は優れた人物だと思った。吉温はかつて「もし知遇を得られれば、南山の白額虎だって縛り上げられる」と言った。 李林甫は長らく政権の座にあり、権力は天下を燻したが、心内に大獄を構えようとし、自身につかない者を排除しようとした。まず吉温を配下におらせ、銭塘の羅希奭とともに奔走して、詔獄で罪状を引き出した。羅希奭は残虐で、その舅の鴻臚少卿の張博済は李林甫の壻であり、婚姻での結びつきにより、御史台主簿から再び殿中侍御史に遷った。それより以前、吉温は武敬の一娘を盛王妃としたことにより、京兆士曹参軍に抜擢された。 李林甫は東宮の地位を揺り動かそうと、左驍衛参軍の柳勣は杜良娣の家の陰謀を暴くのに呼応した。吉温が取り調べを行ない、柳勣を誣告して誅殺し、そこで柳勣と王曾・王修己・盧寧・徐徴が親しいために引っ立て、ことごとく逮捕して死罪とし、死体を大理寺の垣下に積み、家族や部下は離散した。それより以前、中書舎人の梁渉は道に吉温と遭遇し、帽を低くして顔を隠した。吉温は怒り、そこで柳勣を誘導尋問して梁渉および嗣虢王李巨を引っ立て、全員を追放した。 李林甫は楊慎矜・王鉷が書に図讖の事を述べるのを憎み、吉温に獄を委ねた。それより以前、楊慎矜の客の史敬忠と吉温の父は親しく、吉温が乳幼児の時に会っていた。吉温は急派して東都に到り、楊氏の親族・賓客を逮捕し、史敬忠を汝州で取調べし、首に鉄鎖をつけ、布で顔を覆い、正視できなかった。密かに吏を派遣して「楊慎矜の罪状は明らかで、あなたは弁明すべきです。あなたが自白すれば罪は許されるでしょう。自白しなければ死は免れません」と脅し、史敬忠はそこで筆を求めて自白に署名しようとしたが、吉温は表立って与えず、再三願ったから与えた。その答えは吉温に勅された様子と同じであった。吉温は「あなたはもう恐れることはありません」と言い、そこで拝礼して去った。楊慎矜の罪状は証拠が揃っており、自白させようとしたが、図讖の証拠は得られなかった。御史の盧鉉は楊慎矜の家を捜索し、讖をあらかじめ持ち込んで証拠としたから、楊慎矜兄弟は全員死を賜わり、連座すること数十族におよんだ。この時、吉温と羅希奭は互いに残虐さを切磋琢磨し、「羅鉗吉網」と称された。公卿で見る者は、あえて私語を交わす者はいなかった。吉温は事件の審問が完了する前に、まず賄賂を数えてから奏上し、そこで囚人を引っ立てて訊問し、熾烈さに震えおののき、訊問のままにたちまち自白し、あえて違う者はおらず、笞が壁に収納される前に、証拠は出揃った。李林甫は実績から才能を認め、戸部郎中兼侍御史に抜擢した。 楊国忠・安禄山が玄宗に寵愛され、高力士が宮中にあって玄宗に仕えており、吉温は全員に媚びて付き従った。安禄山を兄のように仕え、かつて密かに「李右相(李林甫)はあなたを厚く待遇しているとはいえ、引き入れて一緒に政務にあたることをよしとはしておりません。私も長らく厚遇されていますが、また官位は低いままです。あなたがもし私を推薦して宰相にしていただけましたら、私はあなたを要職につけ、そうすれば右相を押しのけることができます」と告げると、安禄山は大いに喜び、しばしば吉温の才能を讃え、天子も自分が以前に言ったことを忘れていた。ここに安禄山は河東節度使となり、上表して吉温を副使とし、知節度営田・管内採訪、総留事を兼任し、鴈門太守、知安辺鋳銭事を拝命した。母の喪のため辞職すると、安禄山は上表して魏郡太守となった。楊国忠が宰相となって政権を握ると、引きたてて御史中丞、兼京畿関内採訪処置使に任じられた。安禄山は吏に命じて白紬で帳(テント)を駅路につくって近侍させ、安慶緒は自ら行って餞としたから、吉温はその徳をふくみ、そのため朝廷の動静をただちに安禄山に報告し、夜を隔たぬうちに知ることができた。天宝十三載(754)、安禄山が入朝すると閑厩使となり、吉温を推薦して武部侍郎とし、閑厩使副使とした。 楊国忠と安禄山は玄宗の寵を争っていたが、吉温は安禄山と非常に昵懇であったから、楊国忠とは不仲となった。河東太守の韋陟が失職を恨んで、吉温が安禄山と交わっていたから、権力者に近い筋に贈り物をし、楊国忠は人を派遣してその事実を暴き、吉温を澧陽長史に斥け、その部下員錫と韋陟は連座して貶された。翌年、吉温は収賄と民間の馬を奪ったことを罪とされ、端渓県の尉に貶された。 それより以前、李林甫が死ぬと、羅希奭は京師より出されて始安県の太守となり、張博済・韋陟・韋誡奢・李従一・員錫もみな始安県に逗留し、吉温も流謫されると、また羅希奭をたよって住んだ。楊国忠は奏上して蒋沇を派遣して取り調べを行わせ、羅希奭は勝手気ままに罪人をかばったから、海康県の員外尉に貶し、にわかに使者を派遣して吉温ら五人を殺した。吉温が排斥されると、帝は華清宮にあって、臣下に詔して「吉温はもともと酷吏の子であり、朕はこれを用いすぎた。だからしばしば大獄を構えられ、賞罰の権限を勝手にされたのだ。今排斥されたから、公序良俗は安心するだろう」と述べた。 吉温が死んで五か月して安禄山は叛き、帝位を僭称すると、吉温の子を探し求め、十歳であったが、河南参軍を授けて吉温に報いた。 崔器は、深州安平県の人である。曾祖父の崔恭礼は、真定公主を娶り、駙馬都尉となり、容貌は偉丈夫で、酒を一斗飲んでも乱れなかった。 崔器は官吏としての事務的才能があったが、性格は陰険酷薄で禍いを楽しんだ。天宝年間(742-756)、明経科に推挙され、万年県の尉となった。翌月、監察御史に抜擢され、中丞の宋渾が東畿採訪使となると、引き立てられて判官となった。宋渾が収賄で失脚すると、崔器もまた失脚したが、後に奉先県令となった。 安禄山が叛乱して京師を陥落させると、崔器は賊の官位任命を受け、奉先を守った。しばらくして、同羅(トンラ)が賊に背き、賊将の安守忠・張通儒が死んでしまい、渭水上の義兵はおよそ数万で、崔器は大いに恐れ、ことごとく賊が任命した官符や勅を破棄し、衆を募って官軍に応じた。渭水の戦いで軍は敗北し、遂に霊武に逃走した。普段から呂諲と親しく、御史中丞・戸部侍郎となった。粛宗が鳳翔に到着すると、礼儀使を兼任した。長安・洛陽の二京が平定されると、三司使となった。崔器は謝罪の儀式を定めて、王官で賊の手に陥った者は、すべて含元殿の廷中に入らせ、冠を脱いで首をあらわにして裸足にさせ、哀嘆して頓首、請罪させ、刀仗の役人に取り囲ませ、付き従う群臣に示した。崔器はすでに残忍さで粛宗の意向に迎合し、刑罰を重くしたいと思い、そこで陳希烈・達奚珣ら数百人が全員死罪にあたると建議した。李峴が宰相となり、そこで六等級に分けて罪を定め、多く罪を赦した。後に蕭華が賊中からやって来て、そこで「王官たちは安慶緒に脅され、相州に到った時、広平王(後の代宗)が詔して陳希烈らを赦したと聞いて、皆自分を顧みて後悔したものだった。崔器が刑を重くするよう建議したことを聞き及んで、皆が帰順しなくてよかったと心が再び揺れ動いたのだ」と語ったから、帝は「朕はほとんど崔器のために誤られてしまった」と言い、後に吏部侍郎・御史大夫となった。上元元年(760)病が重くなり、叩頭して謝罪したような状況になり、家人がどうしたのかと尋ねると、「処刑した河南尹の達奚珣が私を訴えているのだ」と言い、三日にして卒した。 毛若虚は、絳州太平の人である。眉が長く目を覆い、性格は残忍で乱暴であった。天宝年間(742-756)末に武功県の丞となったが、すでに年六十すぎであった。粛宗が京師に戻ると、監察御史に抜擢され、国庫が枯渇していたため、しばしば天下の財をかき集めようとし、巧みに法を並べ、毎日毎月献上し、しばらく賞と再利用させた。概ね囚人を審議するのに、まず家財を収公して賠償を定め、望みに満たなければ、郷里・縁戚まで捜索したから、人々はその威を恐れ、約束通りにするしかなかった。 乾元年間(758-760)、鳳翔府七馬坊の押官がしばしば州県の間を脅かして殺人し、県尉の謝夷甫は怒りにたえられず、笞打ちして殺してしまった。押官の妻は李輔国に訴え、李輔国は御史の孫鎣に取調べさせたが、長い間獄に入れたものの証拠が揃わず、中丞の崔伯陽に詔して三司使とともに取り調べさせたが、結審しなかった。そこで毛若虚に取り調べさせると、すぐに罪は謝夷甫に帰した。崔伯陽が論争したが、毛若虚は傲慢にも拒み、崔伯陽は怒って、毛若虚はそこで帝のもとに逃げて申し上げた。詔して一時的に京師から出すこととしたが、毛若虚は踏ん切りがつかずに訴えて「臣がもし京師から出されれば死にます」と言い、そこで毛若虚を殿中に匿って、崔伯陽を召還した。崔伯陽がやってくると、詳細に毛若虚がお上を騙していると弾劾したが、帝は先の毛若虚の言葉を優先して、崔伯陽を叱って退出させ、あわせて官属のことごとくを嶺外に左遷した。李峴は孫鎣らを左右に置いていたから、宰相を罷免された。ここに毛若虚の権力は朝廷を震撼させ、群臣は伸びやかに休むことがなかった。ついで御史中丞に抜擢された。上元元年(760)、罪によって賓化県の尉に貶され、死んだ。 敬羽は、河中宝鼎の人である。容貌は風采が上がらないこと甚だしく、性格はねじまがっており、人の意にとりいることをよくした。匡城県の尉に補任され、朔方節度使の安思順が上表して節度府の官属とした。粛宗が即位した当初、監察御史に抜擢され、功利の事を好んだ。京師が平定されると、職務によって次第に有名となり、凶悪さは忍ぶことができず、そこで巨大な枷をつくって、「㔡尾楡」と号し、囚人の多くが死んだ。また囚人を地に倒し、門戸でその腹を押しつぶした。地を掘って杭を立て、席をつくってその上を覆い、穴に落ちるよう迫って囚人を取り調べし、自白しなければ穴に陥れ、人々の多くは死んでいった。累進して御史中丞に遷った。 宗正卿で鄭国公の李遵が収賄に連座して詔獄に下され、敬羽が取り調べを行った。李遵は肥えていて敬羽は痩せており、そこで李遵を引っ立てて小牀(ベット)に膝立ちさせ、痺れて倒れ、李遵は足を伸ばしたいと述べたが、敬羽は、「公は囚人だから、私は足を伸ばして公は座っているのだ。どうして侮るべきだろうか」と言い、李遵はさらに三・四度倒れ、おもむろに敬羽の言う通りとし、保釈金数百万を得た。嗣岐王李珍が謀反し、敬羽に詔して取り調べが行われ、そこでことごとく支党を呼び寄せて、拷問具を並べ立てると、囚人は恐れおののき、一夜にして自白し、李珍は死を賜わり、左衛将軍の竇如玢ら九人は全員斬刑に処され、太子洗馬の趙非熊ら六・七人も杖刑で死に、聞く者は鳥肌が立った。 これより先、胡人の康謙が商売で富裕となり、楊国忠が宰相になると、その金を納めたから、安南都護、領山南東路駅事に任命されたが、吏はこれを憎み、史朝義と通じていると誣告した。敬羽は取り調べをし、康謙の髭の長さは三尺あったが、翌日すべて脱落していた。膝やくるぶしはすべて砕け、人がこれを見ると鬼だと思ったから、殺した。 敬羽と毛若虚・裴昇・畢曜は同時に御史となり、全員暴虐かつ惨忍で、当時の人は「毛敬裴畢」と称した。しばらくもしないうちに裴昇・畢曜は黔中に流された。宝応年間(762-763)初頭、敬羽は道州刺史に斥けられ、詔して殺された。敬羽は自分を殺す使者がやって来たと聞くと、礼服を来て逃がれようとしたが、吏が拘束した。死刑に臨んで、袖中から数枚の証拠書類が出てきたから、そこで吏が告発して暴こうとすると、叱って「尋問するには及ばない。もう死ぬのだからな。州を治める者は怠けてはならんぞ」と言った。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百八 列伝第一百三十三 『新唐書』巻二百九 列伝第一百三十四 巻二百一十 列伝第一百三十五
https://w.atwiki.jp/byakumu2/pages/2475.html
孫姫の対メッセージ 容量超過により分離しています。 攻撃(対アンドレアス=サンダルフォン) 孫姫(集中), 泣いて馬謖を斬る、ともいかんか。貴様にそのような感情があるかも怪しい 攻撃(対アンドレアス=サンダルフォン) 孫姫(集中), 狡兎死して走狗烹らる……か。私も見限られたものだ 攻撃(対アンドレアス=サンダルフォン) 孫姫(睨み), 貴様の蛮行、鼎の軽重を問うことにもなりかねんぞ? 攻撃(対アンドレアス=サンダルフォン) 孫姫(睨み), やはりこうなるか。強引にでも武で伏せるより他にないようだな 攻撃(対ラグナ=ムンディ) 孫姫(睨み), 私も魔物の類とするか。蝸牛角上の争いなど演じるつもりはないのだがな 攻撃(対ラグナ=ムンディ) 孫姫(睨み), 遠水は近火を救わず。貴様がいかに秩序なく討伐を繰り返しても、何度でも過ちは繰り返されるぞ? 攻撃(対ラグナ=ムンディ(能力開放)) 孫姫(睨み), 泣いて馬謖を斬ることになるか。貴様の武は評価していたのだがな 攻撃(対ラグナ=ムンディ(能力開放)) 孫姫(睨み), 貴様には言葉も通じんようだ。せめて、一撃で逝かせてやろう 攻撃(対カエサル) 孫姫(睨み), 貴様のような者を斬ることに、如何ほどの躊躇いがあろうか 攻撃(対カエサル) 孫姫(睨み), 泣いて馬謖を斬るとさえ思わぬな。天網恢恢疎にして漏らさず。貴様は確実に葬る 攻撃(対バルトロメイ=アクラシエル) 孫姫(集中), 捲土重来の勇と思っていたのだがな 孫姫(睨み), ただの匹夫の勇か。実に失望させてくれるな 攻撃(対バルトロメイ=アクラシエル) 孫姫(睨み), 討つのは貴様が不忠を働くからだ。貴様を敵対組織の人間だとは思っていない 攻撃(対バルトロメイ=アクラシエル) 孫姫(集中), 貴様にはおこがましく写るか…… 孫姫(睨み), 私は武にしか生きられぬ不器用な人間なだけだ。貴様が思うような人間ではない 攻撃(対バルトロメイ=アクラシエル) 孫姫(睨み), 貴様の我が君主への忠義は評価できる。だが、今貴様が私に刃を向けることは、君主の命に背くのではないのか? 攻撃(対アウグスト=ベルルスコーニ) 孫姫(睨み), 遠水は近火を救わず。すべてを滅ぼして問題が解決したことなど、ただの一度もありはしない 攻撃(対アウグスト=ベルルスコーニ) 孫姫(集中), 私を敵と見るか…… 孫姫(睨み), 不忠を働くつもりならば、貴様を逆賊として討つだけだ 攻撃(対アウグスト=ベルルスコーニ) 孫姫(集中), 二桃三士を殺すには急ぎすぎたな 孫姫(睨み), 貴様は策を誤った。そんなことで、私の寝首をかけると思うな 攻撃(対アーロン=ケイフォード) 孫姫(睨み), 正常な判断能力すらない貴様に慈悲など無用。不忠者として斬るだけだ 攻撃(対アーロン=ケイフォード) 孫姫(集中), なるほど、貴様は鶏肋にすらならんようだ…… 孫姫(睨み), 貴様はただいたずらに乱世を呼ぶだけの存在だ。ここで斬らねばならんな 攻撃(対アーロン=ケイフォード) 孫姫(集中), 敵であるものすべてを斬れば乱世が終わると思っているのか? 孫姫(睨み), 貴様が敵とするものすべてを斬ったところで、根本が変わらん限りは何も変わらんぞ 攻撃(対アーロン=ケイフォード) 孫姫(集中), ここまで君主の義を理解できない者がここにいるとは正直驚きだ…… 孫姫(睨み), 君主は無用な殺戮を望んではいない。貴様がこれ以上殺戮を繰り返すならば、君主に代わり私が貴様を討つ 攻撃(対グレゴール=バーンシュタイン) 孫姫(集中), 人一度にして之を能くすれば、己之を百度す…… 孫姫(睨み), だが、貴様は努力すらしていない。そのような付け焼き刃で、私に勝てると思うな 攻撃(対グレゴール=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), いつの世も貴様のような義なき者が乱世を呼んできた。君主の義を理解せず、義もない貴様は討つ以外にない 攻撃(対グレゴール=バーンシュタイン) 孫姫(集中), 人の義は常に乱世を終わらせてきた。義なき者を義によって討つことでな 孫姫(睨み), その義を理解せぬ貴様こそが紙切れに劣る。斬られる覚悟はできているな? 攻撃(対グレゴール=バーンシュタイン) 孫姫(集中), かつて貴様のように我欲に溺れ、その末に乱世を呼んだ男が私の祖国にいた…… 孫姫(睨み), その男の末路はひどいものだった。味方に裏切られ、墓標すら作られずに殺された。貴様もそうなりたいか? 攻撃(対ロドニー=ヘッダ) 孫姫(睨み), 私にそのような言葉は通じん。獅子身中の虫など、放置してはおけんのでな 攻撃(対ロドニー=ヘッダ) 孫姫(睨み), 隴を得て蜀を望むが如く義もなく利のみで動く俗物め、恥を知れ 攻撃(対ロドニー=ヘッダ) 孫姫(集中), 曲学阿世ここに極まれり、というところか? 孫姫(睨み), そうはさせんぞ。君主を謀り、君主の義を理解せず乱世を呼ばんとする貴様を生かしておく道理はない 攻撃(対天草一穂) 孫姫(睨み), 本来貴様を斬ることを本意とは思わん。だが、泣いて馬謖を斬らねばならぬこともあるのだ 攻撃(対天草一穂) 孫姫(睨み), 覚悟は決まっているか。まかりなりとも君主の命に背く逆賊を討つのだ。覚悟が決まっていなければ斬れぬ 攻撃(対テラ=バグガンズ) 孫姫(睨み), 燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。我が君主の志を理解せぬとは、救い難い 攻撃(対テラ=バグガンズ) 孫姫(睨み), 貴様を殺す道理はないのだが、やらねばアンドレアスがうるさいのでな 攻撃(対B=T=オムズ) 孫姫(睨み), 燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。我が君主の志を理解せぬとは、救い難い 攻撃(対B=T=オムズ) 孫姫(睨み), 貴様を殺す道理はないのだが、やらねばアンドレアスがうるさいのでな 攻撃(対ジェーン=ジャス) 孫姫(睨み), 燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。我が君主の志を理解せぬとは、救い難い 攻撃(対ジェーン=ジャス) 孫姫(睨み), 貴様を殺す道理はないのだが、やらねばアンドレアスがうるさいのでな 攻撃(対澱姫) 孫姫(睨み), 貴様など、不倶戴天の仇でしかない。斬る以外の選択肢などない 攻撃(対澱姫) 孫姫(睨み), 隴を得て蜀を望む蛮人め。渇望を自重せず貪ることしか知らぬ貴様を許すことはせん 攻撃(対澱姫) 孫姫(睨み), 貴様の計にかかるほど私は愚かではない。その計、私の武でねじ伏せる 攻撃(対御舟統児) 孫姫(睨み), 貴様など、不倶戴天の仇でしかない。斬る以外の選択肢などない 攻撃(対御舟統児) 孫姫(睨み), 貴様の蛮行、画餅に帰さしめてくれる 攻撃(対御舟統児) 孫姫(睨み), 遠水は近火を救わず。力のみを盲目的に求め、それで成せる事など蛮行のみだ 攻撃(対霧崎夜) 孫姫(睨み), 蝸牛角上の争いを安易に持ち込むな。貴様は一敗、地に塗るべきだ 攻撃(対霧崎夜) 孫姫(睨み), 遼東の豕め。貴様の蛮行が幾多もの者に不幸を与えることを自覚しておらんのか? 攻撃(対霧崎夜) 孫姫(睨み), 貴様の夜郎自大な妄想にこれ以上付き合う暇などない。賊として斬るだけだ 攻撃(対王真) 孫姫(集中), 久しぶりだな。元気そうで何よりだ 孫姫(睨み), 愚父から何を頼まれたのかは知らんが、いかに貴様でも私を止めることはできんぞ? 攻撃(対王真) 孫姫(睨み), 我由于?不能中止。如果不想死返回 攻撃(対王真) 孫姫(睨み), 郷里に帰ったら父にはこう伝えろ。『我が君主の命を果たすまで、帰るつもりはない』とな 攻撃(対王真) 孫姫(集中), さて、久しぶりに遊んでやるとするか 孫姫(睨み), あの時からどれだけ実力を上げたか見せてみろ 攻撃(対王真) 孫姫(睨み), 父め、王真を差し向けるとはやってくれるな 孫姫(集中), 王真を一敗、地に塗らせ、郷里に突き返すだけだ 攻撃(対マリアベル=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 逆に聞くぞ。貴様は自分がまともだと胸を張って言えるのか? 孫姫(集中), 正直私は言えん。こうして武力に任せていることを、まともとは思っていない 攻撃(対マリアベル=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 鉄心石腸の持ち主か。その性格だけはあやかりたいものだ 攻撃(対マリアベル=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 慈悲など結構。戦は非情だ。互いに武で語るしかないなら、全力で武を示せ 攻撃(対ヘルムート=バーンシュタイン) 孫姫(集中), 義を見て為ざるは勇無きなり。私が言えるのはこれだけだ 攻撃(対リチャード=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 暗愚でも忠義は忠義。不忠を働くよりは余程に利口だ 攻撃(対リチャード=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 太山に登りて天下を小とす。我々の一面しか見ずして、何を理解したという? 攻撃(対リチャード=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 誰しも自分と、自分が属するものが正しいからそこにいる。間違いのままそこに属する愚か者など、そうそういるものか 攻撃(対アルフレート=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 備わらんことを一人に求むることなかれ。私が一人でそこまでするとでも思っていたのか? 攻撃(対アルフレート=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 言葉で理解できたらどれほどに楽なことか。そう思っていたが、残念だ 攻撃(対アルフレート=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 人は一人では生きられん。何も成せん。だから、こうして志を同じくする仲間を見つけるのだ 攻撃(対テオドール=バーンシュタイン) 孫姫(集中), 恨み骨髄に徹す、ということか 孫姫(睨み), 私は貴様に恨みなどない。だが、私にも通すべき忠義がある。残念だが、負けてはやれんな 攻撃(対テオドール=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 見解の相違などよくあることだ。だが、貴様が私に敵意を向けることは筋違いだということは確実に言い切れる 攻撃(対テオドール=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 残念だが、私に良識はある。すべての能力者を滅ぼすなどという愚は間違っても犯さん 攻撃(対テオドール=バーンシュタイン) 孫姫(集中), 鼠壁を忘る、壁鼠を忘れず。しかし、私は貴様の壁を齧った鼠ではない 攻撃(対ヴェルナー=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 遠水は近火を救わず。貴様のような人間が乱世を築いてきた事実を、私は知っている 攻撃(対ヴェルナー=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 敵であるものすべてを滅ぼすことが乱世を終わらせる理と、貴様は本気で思っているのか? 攻撃(対ヴェルナー=バーンシュタイン) 孫姫(睨み), 秩序のない力がどれほどに危険か、貴様は知らんと見える 攻撃(対加茂川瀬里奈) 孫姫(集中), かの呂奉先であれ同じだろう。悲しい人生であっただろうな 攻撃(対加茂川瀬里奈) 孫姫(集中), 不忠の連続か。中国にもそのような男がかつていたな 攻撃(対高見沢秀一) 孫姫(集中), 九仞の功を一簣にかくようなことはしない。蟷螂の斧であれ、油断などできんからな 攻撃(対無道王倫介) 孫姫(集中), 暴虐の魔王の再来というものか 攻撃(対無道王倫介) 孫姫(睨み), 貴様があの賊達の君主か。いかにもという感じだな 攻撃(対無道王倫介) 孫姫(睨み), 天網恢恢疎にして漏らさず。貴様を討たぬ道理はない 攻撃(対須堂竜次) 孫姫(睨み), 呉下の阿蒙もいいところだな。はじめから教養どころか一般常識すら積んでいなかったと見える 攻撃(対須堂竜次) 孫姫(睨み), 貴様を見逃すわけにはいかんな。奴らに手を貸されると厄介なことにもなりかねん 攻撃(対須堂竜次) 孫姫(集中), 私は中国語で貴様と会話しているのではないのだがな…… 攻撃(対マグネシア=アンバー) 孫姫(集中), 『子牛は虎を恐れず』か。知っているぞ、勇敢に立ち向かうことも必要だということだな 孫姫(睨み), だが、貴様の勇は蛮勇だ。孫呉の孫伯符と同様の結末をたどるやもしれんぞ? 攻撃(対マグネシア=アンバー) 孫姫(集中), ならば、貴様にも中国に伝わる故事成語を授けておこう 孫姫(睨み), 『呉下の阿蒙』だ。貴様を見ていると、その言葉しか出ないぞ 攻撃(対マグネシア=アンバー) 孫姫(集中), まったく、私はアンドレアスのような真似をする性分ではないのだぞ? 孫姫(睨み), 貴様の遼東の豕さにはもう付き合ってはおれん。すぐに失せろ。でなければ斬るぞ 攻撃(対雪木姫) 孫姫(集中), 言葉で語りたいか。私もそうしたいが、この状況ではそうもいかんようだ 攻撃(対雪木姫) 孫姫(睨み), 障害とはならんが試練とはなってやる。私に勝たねば、道理は通せんぞ? 攻撃(対雪木姫) 孫姫(集中), 和して同ぜず、だな。貴様の考えは素晴らしいと思う 孫姫(睨み), だが、私は貴様と違う考えを持った害悪を滅する使命がある。害悪を滅することだけは理解してくれるな? 攻撃(対鏡清明) 孫姫(集中), やってみねばわからんぞ? 私を理解させるだけの言葉か力をぶつけてみろ 攻撃(対鏡清明) 孫姫(集中), 士は己を知る者の為に死す。その忠義、間違えるなよ? 攻撃(対鏡清明) 孫姫(睨み), この乱世では力なくして意は通せず。私に勝ち、その意を通してみせろ 攻撃(対鏡清明) 孫姫(集中), 安心しろ、貴様がモンスターであろうとすぐさま滅することはせん 孫姫(睨み), ただ、貴様が何らかの敵意を向けるのであれば、その火の粉は払わせてもらうがな 攻撃(対芦屋灯真) 孫姫(睨み), 二桃三士を殺すことはせぬということか 孫姫(集中), 貴様よりも私のほうが化かす者だな。そのような計を持ち合わせているからな 攻撃(対芦屋灯真) 孫姫(集中), 魔だからどうだというのか? 孫姫(睨み), そんな小さなことに囚われているようでは、貴様の志などどうあっても貫けんぞ? 攻撃(対芦屋灯真) 孫姫(集中), 貴様の心情も理解できなくはない。私も、異質な存在として育てられていた時があったからな 攻撃(対天土禍音) 孫姫(集中), 貴様には私が匹夫の勇と映るのかもしれんな 孫姫(睨み), しかし、私も私の信ずるもののために命を燃やしている。簡単に負けてやることは残念ながらできんな 攻撃(対天土禍音) 孫姫(集中), 賢人であれば勝てぬ戦はしないものだろうな 孫姫(睨み), だが、生憎と私は武人でな。勝てぬ戦をすることもあるのだ 攻撃(対天土禍音) 孫姫(集中), 自らを禍いと嘲るか…… 孫姫(睨み), だが、それは貴様自身の可能性を自ら否定しているだけだ。貴様がそう望んでいるかのようにな 攻撃(対志野令) 孫姫(集中), 士別れて三日なれば刮目して相待すべし……か 孫姫(睨み), なるほど。呉下の阿蒙に非ずと言いたいわけだな? 攻撃(対志野令) 孫姫(睨み), 百里を行くものは九十を持って半ばとす。貴様が何であれ、戦う以上は最後まで油断などせん 攻撃(対志野令) 孫姫(集中), 昔の奴を思い出すな…… 孫姫(睨み), ならば、貴様にも私の本気というものを存分に見せてやろう 攻撃(対天土忠龍) 孫姫(集中), 武で語るか……望むところだ 孫姫(睨み), そのほうが己の主義を通すに分かりやすいからな。本気で来い 攻撃(対天土忠龍) 孫姫(集中), 我が名は孫姫…… 孫姫(睨み), 我が君主、法王の義に仕える女だ。貴様との勝負、受けてたとう 攻撃(対天土忠龍) 孫姫(集中), 一将功成って万骨枯る。貴様も幾多の命を吸ってきたことだろう 孫姫(睨み), だが、それは私も同じこと。相対するまでに吸った命の重みもぶつけてくれよう 攻撃(対天土忠輝) 孫姫(集中), 一将功成って万骨枯る。ここに至るまでにどれほどの命を吸ってきたか、私には推し量ることはできない 孫姫(睨み), だが、私は吸ってきたその命の重みを軽んじることはできない。貴様とて同じはずだ 攻撃(対天土忠輝) 孫姫(集中), 貴様は何を勘違いしているのだ? 孫姫(睨み), 私は三族皆殺しなどは好かん。貴様とは、今は武を語る以上のことは考えていない 攻撃(対天土忠輝) 孫姫(集中), 武で語るか……望むところだ 孫姫(睨み), そのほうが己の主義を通すに分かりやすいからな。本気で来い 攻撃(対ゼノン) 孫姫(集中), まぁ、言葉だけで語れたら楽だろうな 孫姫(睨み), しかし、そうもいかない。貴様の真意を、その武で見極めない限りは私も言葉は使わん 攻撃(対ゼノン) 孫姫(集中), 私も殲滅主義ではないから、貴様を即座に葬りはしない 孫姫(睨み), だが放置もできん。貴様が危険かどうか、じっくり確かめてやる 攻撃(対ゼノン) 孫姫(集中), 生憎と私は不器用でな。おまけに口下手だ 孫姫(睨み), 蝸牛角上の争いを演じるつもりはないが、貴様の真意が分からんうちはこうするより他にない 攻撃(対仲之条聡子) 孫姫(集中), 我を非として当う者は吾が師なり 孫姫(睨み), 貴様には周囲にそのような者がいなかったと見える 攻撃(対仲之条聡子) 孫姫(集中), そうか。そこまで貴様は自分では動かんというのか 孫姫(睨み), 自らの鍛錬もせず、ただいたずらに己の営みを守ることしかせぬ貴様に、何が成せるものか 攻撃(対仲之条聡子) 孫姫(睨み), 呉下の阿蒙もいいところだな。勉学すら放棄するようでは、到底進歩など望めまい 攻撃(対仲之条聡子) 孫姫(集中), いつまでも無関心でいられると思っているのか? 孫姫(睨み), 個人的に貴様は許せん。その腐った性根、私の武で叩き直す 攻撃(対仲之条聡子) 孫姫(集中), 労働を負けと捉えるか…… 孫姫(睨み), 違うな。真なる負けは己への敗北だ。己にすら打ち勝てぬ者が、何に勝てようか 攻撃(対セリアス=ライゼール) 孫姫(集中), 己に負け逃げた臆病者か…… 孫姫(睨み), 貴様で私の相手が務まるのか? 攻撃(対セリアス=ライゼール) 孫姫(集中), 逃げても一向に構わんぞ? 孫姫(睨み), ただし、途中で戦いを放棄するような逃げを取れば、私は貴様を容赦なく斬るぞ 攻撃(対セリアス=ライゼール) 孫姫(集中), 蟷螂の斧などと思ってくれるな 孫姫(睨み), 貴様が私に挑むことの意味、その意を通す以外にもいろいろとあるのだぞ? 攻撃(対フェネク=フィーニクス) 孫姫(集中), 私も普通ではないよ。見てのとおり不器用な女だ 攻撃(対フェネク=フィーニクス) 孫姫(集中), まぁ、私には偏見はないぞ? 孫姫(睨み), 相手が何であれ、武で語ることはできる。貴様とも、まずは武で語るとしようか 攻撃(対フェネク=フィーニクス) 孫姫(集中), 和して同ぜず。貴様達の考えは理解するが、私にも成すべきがある 孫姫(睨み), よもや貴様たちが乱世を呼ぶとは思えんが、それを確かめさせてもらうぞ 攻撃(対ジヴァス=ジハード) 孫姫(集中), 武で語るか……望むところだ 孫姫(睨み), そのほうが己の主義を通すに分かりやすいからな。本気で来い 攻撃(対ジヴァス=ジハード) 孫姫(集中), 小細工なしの直球勝負か…… 孫姫(睨み), 面白い。貴様が正面から来るならば、私も正面から受けるのみだ 攻撃(対ジヴァス=ジハード) 孫姫(集中), 始めは処女の如く、後には脱兎の如し…… 孫姫(睨み), しかし、貴様相手にはそれも通じそうにないか 攻撃(対黒騎士ガルヴァドス) 孫姫(睨み), 貴様、人間を侮るなよ。千丈の堤も蟻の一穴より、貴様の慢心が、貴様を滅ぼすこともあるからな 攻撃(対黒騎士ガルヴァドス) 孫姫(集中), 貴様にも義を果たすべき君主はいるようだな 孫姫(睨み), それは私も同じことだ。君主の義のために、人の世に乱世を呼ぶ貴様を討つ 攻撃(対黒騎士ガルヴァドス) 孫姫(集中), なんなら素手で挑んでも一向に構わんぞ? 孫姫(睨み), だが、私は素手でも戦えるよう鍛錬している。貴様が考えているとおりにはならんぞ 攻撃(対アレシア=グランス=ブラヴァツキー) 孫姫(集中), 士は己を知る者の為に死す……か。それは理解できる 孫姫(睨み), だが、私も我が君主の義の為に戦っている。貴様を斬らぬわけにはいかんな 攻撃(対アレシア=グランス=ブラヴァツキー) 孫姫(睨み), 貴様の義と私の義、どちらが正しいかは戦って決めるのみだ 攻撃(対アレシア=グランス=ブラヴァツキー) 孫姫(集中), さて、貴様が信じるものの強さはどのようなものか…… 孫姫(睨み), 忠義のために戦っているのならば、それ相応の覚悟を見せろ 攻撃(対ルージュ=マグノリア) 孫姫(集中), 私を女として気遣ったことは嬉しく思うぞ 孫姫(睨み), だが、今の状況はそれとは別だ。貴様を斬るべく、私はこの武を振るう 攻撃(対ルージュ=マグノリア) 孫姫(集中), 貴様の君主がいかような暗君でも忠義は忠義だ 孫姫(睨み), ならばその忠義、私を打ち倒して証明してみせろ 攻撃(対ルージュ=マグノリア) 孫姫(集中), 士は己を知る者の為に死す 孫姫(睨み), 貴様の君主を信じてやれ。貴様が忠義を誓うのならば、なおさらのことだ 攻撃(対フリエル=アルシュタイン) 孫姫(集中), 彼も人なり予も人なり。男として育てられていた私ができることを、貴様ができぬとは思えんよ 攻撃(対フリエル=アルシュタイン) 孫姫(集中), 貴様も武人、私も武人ということだ 孫姫(睨み), ならばこの先は武で語るのみ。貴様の思い、私に武で示せ 攻撃(対フリエル=アルシュタイン) 孫姫(集中), いいだろう。貴様の望むとおりにしてやる 孫姫(睨み), 来い。貴様の覚悟がどれほどのものか、見定めてやる 攻撃(対ザビーネ=アルシュタイン) 孫姫(睨み), 遠水は近火を救わず。貴様のその考えですべてが解決するなどとは、片腹痛い 攻撃(対ザビーネ=アルシュタイン) 孫姫(集中), 乱世を終わらせる理というものを、貴様は知らんらしいな 孫姫(睨み), 戦だけで終わると思うな。政治体系も整えずして戦のみを行うは、賊と変わらんぞ 攻撃(対ザビーネ=アルシュタイン) 孫姫(睨み), 貴様の蛮勇は見過ごせん。いずれすべてを滅ぼしかねんぞ 攻撃(対シャルロッテ=アルシュタイン) 孫姫(集中), 私は分別は弁えているつもりだぞ? 攻撃(対シャルロッテ=アルシュタイン) 孫姫(集中), 正しいと思っているからやっている。それ以上は語らん 孫姫(睨み), その先を語らせたくば、貴様の武を示せ 攻撃(対シャルロッテ=アルシュタイン) 孫姫(集中), どうやら貴様の姉達とは違うらしいな 孫姫(睨み), 貴様にそこまでの無理強いはせんが、無用な敵対はしてくれるなよ? 攻撃(対エッダ=アルシュタイン) 孫姫(集中), 人生意気に感ず。あの男が、貴様にとってそのような存在であると願うよ 攻撃(対エッダ=アルシュタイン) 孫姫(集中), 身は小さかれ、されども心は大きかれ…… 孫姫(睨み), 貴様の武を示せ。それに、私も全力で応えよう 攻撃(対エッダ=アルシュタイン) 孫姫(睨み), 奴と同じか。ならば、手合わせとて油断することはできんな 攻撃(対クリステル=アルシュタイン) 孫姫(集中), 益者三友を見つけよ。それがいずれ、貴様を大きく成長させるだろう 攻撃(対クリステル=アルシュタイン) 孫姫(集中), さて、今日は何を教わりたい? 料理か? 勉強か? それとも武術か? 孫姫(睨み), 武術であれば心してかかれ。手合わせとて、私は手加減しないぞ 攻撃(対ジグルド=アルシュタイン) 孫姫(集中), なるほど。奴に似た目をしている…… 孫姫(睨み), 奴との違いを試してやるとするか。全力で武を示せ 攻撃(対ジグルド=アルシュタイン) 孫姫(集中), 本物の力か。貴様も少しは分かるようだな 孫姫(睨み), 力は心と身体が一体化してはじめて真の力となる。貴様がその境地に至るか、試してやろう 攻撃(対ジグルド=アルシュタイン) 孫姫(睨み), フリエルの前に私の相手をしてもらおう。奴が相手をするに相応しき者か、私が見定める 攻撃(対カーライル=アルシュタイン) 孫姫(集中), 己の始末は己の手でつける。それが真理だ 攻撃(対カーライル=アルシュタイン) 孫姫(集中), 無用な犠牲を増やしたくないことには同意するぞ 孫姫(睨み), だが、貴様はその犠牲をなくすことに心血を注ぐべきだ。我々が危険と感じたら、すぐに手を切るべきだ 攻撃(対カーライル=アルシュタイン) 孫姫(集中), 私にも人並みの良識はある 孫姫(睨み), さて、貴様は私を言葉か武、どちらで伏せるつもりかな? 攻撃(対フーベルトゥス=アルシュタイン) 孫姫(睨み), 遠水は近火を救わず。貴様の理は、乱世を呼ぶものだ 攻撃(対フーベルトゥス=アルシュタイン) 孫姫(睨み), 悪の小なるを以って之を為すことなかれ。無用な殺戮を肯定すれば、それが己の身に跳ね返るぞ 攻撃(対フーベルトゥス=アルシュタイン) 孫姫(集中), 残念だが、我々すべてが撃滅を肯定するわけではない 孫姫(睨み), 私は反対だな。我が武は乱世を終わらせるためにある。乱世を呼ぶためにはない 攻撃(対イェールク=アルシュタイン) 孫姫(集中), 断金の交わりか。孫伯符と周公瑾の絆はさぞ素晴らしいものだったらしいな 孫姫(睨み), だが貴様が抱いているものはそれとは違うものだな。むしろ日本の戦国時代のほうが貴様が好むのではないのか? 攻撃(対イェールク=アルシュタイン) 孫姫(集中), 哀帝か。己の歪んだ愛のために国を崩しかけた暗君だな 孫姫(睨み), 過剰な愛情は人を腐らす。与える者も受ける者もな 攻撃(対イェールク=アルシュタイン) 孫姫(集中), 最近は日本の文化も学んでいてな。貴様に興味があれば武田信玄と高坂弾正忠昌信の関係を調べるといい 攻撃(対カルラ=アルシュタイン) 孫姫(集中), あいつに似ているというのが何を指すかはこの際置いておこう 孫姫(睨み), では、貴様がフリエルと何が違うかを確かめさせてもらうぞ。我が武でな 攻撃(対カルラ=アルシュタイン) 孫姫(集中), フリエルはよくやってくれているぞ? 私は奴を心底気に入っているよ 攻撃(対カルラ=アルシュタイン) 孫姫(集中), 貴様も槍術を使うか 孫姫(睨み), 面白い。貴様の槍と我が画竜点睛、どちらに分があるか試してみよう 攻撃(対祭城京輔) 孫姫(集中), 曲学阿世を語る小者が何を言うか 孫姫(睨み), 天網恢恢疎にして漏らさず。ここで私が見逃したとしても、貴様は長くはその行動を続けられん 攻撃(対祭城京輔) 孫姫(集中), 良識を失った組織などただの賊だ。貴様のような考えは、確実に乱世を呼ぶ 孫姫(睨み), 義も何もない賊に情けなど不要だ。貴様は斬る 攻撃(対祭城京輔) 孫姫(集中), 隴を得て蜀を望むが如く身に合わぬ野望を抱くか…… 孫姫(睨み), 貴様を放置するわけにはいかんな。乱世を呼ぶ存在は、確実に討つ 攻撃(対夢仙人) 孫姫(集中), 生憎と私はそこまで器用ではありません。駆け抜けていなければ、落ち着かぬ性分ゆえに…… 攻撃(対夢仙人) 孫姫(集中), 巧遅は拙速に如かず。私は己の信じるままに最短を駆け抜けるのみです 攻撃(対夢仙人) 孫姫(集中), 忠告と受け取っておきますよ。しかし、今は我が道を突き進まなければなりません 攻撃(対アルトゥール=デアフリンガー) 孫姫(集中), 人がその場にいる理由など、その当人にしか分からんものだ 孫姫(睨み), だが、私は私の義のためにここにいる。貴様がどう罵ろうが、私の義は曲がらん 攻撃(対アルトゥール=デアフリンガー) 孫姫(集中), それは我々が一枚岩でないということだ 孫姫(睨み), ごく一部をさして悪と断じるほど器量の低い者とは思えんが、向かってくる以上は私の敵だ 攻撃(対天宗巳躯) 孫姫(睨み), 天網恢恢疎にして漏らさず。奸計を使い人をたばかる貴様を許す道理はない 攻撃(対天宗巳躯) 孫姫(睨み), 己の手に痛み残さずして戦とは言わん。それが分からん貴様に、私を糾弾する資格はない 攻撃(対天宗巳躯) 孫姫(睨み), 遼東の豕め。貴様がどれほどに卑しい者かが分からんらしいな 攻撃(対禍求夜) 孫姫(睨み), この身が腐ろうとも、我が義は腐らん。貴様は一敗、地に塗るがいい 攻撃(対禍求夜) 孫姫(睨み), 確かにいずれ我が武も腐るだろう。だが、この身が朽ち果てるまでは、私は戦うことを止めはしないぞ 攻撃(対禍求夜) 孫姫(睨み), 腐っているのは貴様の心だ。即刻消えろ。消えなければ斬るまでだ 攻撃(対シェリル=ヴァイカー) 孫姫(集中), エルフか。珍しい相手だな 孫姫(睨み), だが、相手が誰であろうと油断も手加減もしない。貴様の武、存分に示せ 攻撃(対シェリル=ヴァイカー) 孫姫(集中), 面白い。このようなエルフがいるとはな 孫姫(睨み), いいだろう。全力で我が武を示そう 攻撃(対シェリル=ヴァイカー) 孫姫(集中), 武器を捨ててかかって来いか…… 孫姫(睨み), 私は武器がなくとも武芸には通じているぞ。それだけで優位に立てると思うなよ? 攻撃(対ミラルヴァ=ニーベルング) 孫姫(集中), 私が貴様に挑むを蟷螂の斧と見るか…… 孫姫(睨み), だが、千丈の堤も蟻の一穴よりともある。私を蟻と侮れば、貴様に一穴貫き、突き崩す 攻撃(対ミラルヴァ=ニーベルング) 孫姫(集中), 蟻を侮り敗れた象がどれほどいるか、貴様は知らんのだな 攻撃(対ミラルヴァ=ニーベルング) 孫姫(睨み), 夜郎自大も甚だしい。この世に打ち負かせぬものなどあるものか 攻撃(対ジン=トニック) 孫姫(集中), 分かっているならば、これ以上言葉で語る必要はないな…… 孫姫(睨み), この先で語るものは武。貴様の武、存分に見せてもらうぞ 攻撃(対ジン=トニック) 孫姫(集中), 貴様にも信念はあるだろう。私にもある 孫姫(睨み), だから、ここでそれを簡単に曲げることは許されん。私は、義を果たすだけだ 攻撃(対ジン=トニック) 孫姫(集中), 士は己を知る者の為に死す。私は、君主の義のためにそうする 孫姫(睨み), 貴様にとってはどうだ? それを見せてみろ、貴様の武でな 攻撃(対劉小花) 孫姫(集中), そうか。貴様も同胞か…… 孫姫(睨み), ならば、加減は必要なさそうだ。全力で挑ませてもらおう 攻撃(対劉小花) 孫姫(集中), 備わらんことを一人に求むることなかれ。貴様は貴様の得意を伸ばせばよかろう 攻撃(対劉小花) 孫姫(集中), 強くなりたいと願い私に挑んだというのか。面白い 孫姫(睨み), ならば望みどおりに手合わせをしてやろう。全力で貴様の武を示せ 攻撃(対土岐沢絵美梨) 孫姫(集中), 我が祖国にもそういう境遇の人間は多くいる。明日も知れぬほどに困窮している人間も少なくない 孫姫(睨み), 貴様は私を知らずにそういうことが分からんとはよくも言ってくれるな。私は、そういう人間を救うべく義を果たさんとしているのだぞ 攻撃(対土岐沢絵美梨) 孫姫(睨み), 鼎の軽重を問うことに終始するあまり、貴様は重大なものを見失っているようだな 攻撃(対土岐沢絵美梨) 孫姫(睨み), 貴様が早合点で余計なことをすればするほど、乱世が終わるのが遠のいていくことに気付け 攻撃(対西宮路顕子) 孫姫(睨み), 燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。貴様程度の賊では、私と我が君主の義など分かりはすまい 攻撃(対西宮路顕子) 孫姫(集中), 物の本質すら見えずに早合点か…… 孫姫(睨み), 貴様は大層愚かな人間だな。そして、その程度の武で私に挑むとは、蛮勇もいいところだ 攻撃(対西宮路顕子) 孫姫(睨み), 貴様の考えは乱世を呼ぶ。貴様はかつて後漢の時代にて魔王と呼ばれた男と同じ末路を辿るぞ 攻撃(対西宮路顕子) 孫姫(集中), 匹夫の勇にて私に挑み、自ら討たれに出るか…… 孫姫(睨み), 烏合の衆すら率いることもできん賊ごときが調子に乗るな。貴様は賊として斬る 攻撃(対マリン=ネッフェル) 孫姫(集中), 私は不器用でな。言葉よりも武で語ることをどうしても選んでしまうのだ 攻撃(対マリン=ネッフェル) 孫姫(集中), 互いに信念は曲がらんか。まぁいいだろう 孫姫(睨み), 無論加減は無用だ。手を抜かれては語ることもできないからな 攻撃(対マリン=ネッフェル) 孫姫(集中), 和して同ぜず。貴様は貴様の道を突き進めばいい 孫姫(睨み), 私は私の道を進む。いかに貴様でも、私の義を阻むことはできないと知れ 攻撃(対バスチアン=レオパール) 孫姫(集中), 正直私は関雲長や呂奉先のような偉大な武などないよ。ただ不器用なだけだ 攻撃(対バスチアン=レオパール) 孫姫(集中), いつまでも乱世は続かんさ。それにも終わりは来よう 孫姫(睨み), だが、いつまでも治世も続かん。乱世を呼ぶ者の存在には気をつけることだな 攻撃(対バスチアン=レオパール) 孫姫(集中), 残念だが言葉だけでは思いが届かんことはよくあることだ。現実は優しくはない 孫姫(睨み), 武を振るうことを正当化する気はないが、武でもってあたらねばならんことがあると理解してくれるな? 攻撃(対イヴ=エインズワース) 孫姫(集中), 下らん小細工は無用ということは同意するぞ 孫姫(睨み), さて、小細工なしの武で語ろうではないか。そのほうが分かりやすいだろう 攻撃(対イヴ=エインズワース) 孫姫(集中), 正直神の御心のままになどという人間ではないからな、私は 孫姫(睨み), だが、乱世を呼ぶ者と不忠者は容赦なく討つ。貴様がそうであるかどうか、一戦交え確かめさせてもらう 攻撃(対イヴ=エインズワース) 孫姫(睨み), 貴様の武が匹夫の勇か否か、試させてもらうぞ 攻撃(対瀬名貞仁) 孫姫(集中), 貴様は自分を過大評価しているようだな 孫姫(睨み), 貴様の行動は屋下に屋を架すのと同義。ただいたずらに乱世を呼ぶだけだ 攻撃(対瀬名貞仁) 孫姫(睨み), 我が武は乱世を終わらせるためにある。貴様のように、乱世を呼ぶためには使わん 攻撃(対瀬名貞仁) 孫姫(集中), 確かに、新たな世を目指すことは必要だろうな 孫姫(睨み), だが、貴様が目指そうとしているものは乱世だ。そのようなものを、私は絶対に認めん 攻撃(対瀬名貞仁) 孫姫(睨み), 選ばれたという傲慢で何度も乱世が我が祖国では起きている。貴様のその傲慢を許すことは絶対にできんな 攻撃(対陳暁芳) 孫姫(集中), ここで同胞に会うとは何かの縁かもしれんな 孫姫(睨み), 臆することはない。全力でかかって来い 攻撃(対陳暁芳) 孫姫(集中), 貴様は気を使うか。私は武術の心得はあっても、気を練るのは不得意だからな 孫姫(睨み), だが、武術勝負で負けるつもりはない。私の武、存分に受けろ 攻撃(対陳暁芳) 孫姫(集中), 実は私も中華は人並みに作れる。今度互いの中華を振舞い合うのはどうだ? 攻撃(対陳暁芳) 孫姫(睨み), 来い。気の使い手相手に加減する必要はないのでな。私も本気でやらせてもらうぞ 攻撃(対グラヴィカ=ミラルヴァ) 孫姫(集中), さて、私に挑むというのならば全力で相手をしよう 孫姫(睨み), 匹夫の勇でないことを願うばかりだ。それだけの大口を叩いておいて、あっさりやられてくれるのではつまらんからな 攻撃(対グラヴィカ=ミラルヴァ) 孫姫(睨み), ただ力のみに傾倒するか。貴様の考えは乱世を呼ぶ。ここで討っておくぞ 攻撃(対グラヴィカ=ミラルヴァ) 孫姫(集中), 人の血肉を喰らい自らの糧とするか…… 孫姫(睨み), 私は食われてはやらん。貴様が吸ってきた命の重み、貴様の身で味あわせてやるぞ 攻撃(対鈴井英理子) 孫姫(集中), 士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし。学はあったほうがよいぞ? 攻撃(対鈴井英理子) 孫姫(集中), かっこいい、か…… 孫姫(睨み), (子供の無邪気な一言であっても、私には重いな……) 攻撃(対金澄狭源) 孫姫(睨み), 燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。所詮は賊、乱世以外を築けぬ者にいかほどの価値もない 攻撃(対金澄狭源) 孫姫(睨み), 世の理も知らぬ猪武者が何を語ろうと無駄だ。貴様は斬るしかない 攻撃(対金澄狭源) 孫姫(集中), 鶏鳴狗盗が私に通じると思うか? 孫姫(睨み), 貴様程度の浅慮で私は崩せん。潔く斬られるがいい 攻撃(対金澄狭源(後期)) 孫姫(睨み), 燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。所詮は賊、乱世以外を築けぬ者にいかほどの価値もない 攻撃(対金澄狭源(後期)) 孫姫(集中), 乱世であれば、首を取ることも一つの功績と認められただろう 孫姫(睨み), だが、今は貴様が望む乱世ではない。その乱世も呼ばせん 攻撃(対金澄狭源(後期)) 孫姫(集中), 少しはマシになったと思ったのだが、この程度か…… 孫姫(睨み), 匹夫の勇は変わらず。貴様程度の蛮勇で、私の首を取ることなどあり得ぬと知れ 攻撃(対鈴邑春日) 孫姫(睨み), 曲学阿世を語り乱世を呼ばんとする者よ、貴様は確実に斬る 攻撃(対鈴邑春日) 孫姫(集中), 確かに、恒久なる治世が実現したことはない 孫姫(睨み), だが、永遠に乱世が続いたこともない。貴様の企みが成ると思うな 攻撃(対鈴邑春日) 孫姫(集中), 絶対的な正義となる人間がいないことは同意する 孫姫(睨み), だが、それでも人は自らの義に従い動く。それが分からん貴様は、それを弄ぶことしかできんだろうがな 攻撃(対鈴邑春日) 孫姫(睨み), 貴様のようなものが乱世の元凶となる。討たぬ道理はない 攻撃(対ゼイガス=グラウベルン) 孫姫(集中), 魔界人というのは奥深いな。実に心が躍る 攻撃(対ゼイガス=グラウベルン) 孫姫(集中), どのような計を使おうとも関係はない…… 孫姫(睨み), 貴様がいかような計を使おうが、正面から斬るだけだ 攻撃(対ゼイガス=グラウベルン) 孫姫(睨み), 始めは処女の如く、後には脱兎の如し。我が攻め、耐えられるか? 攻撃(対シャザヌス=グラウベルン) 孫姫(集中), 私は武人というには足りん。そこまでの武には達していないのでな 攻撃(対シャザヌス=グラウベルン) 孫姫(睨み), 臆せず来い。貴様のすべて、私が受けて立とう 攻撃(対シャザヌス=グラウベルン) 孫姫(集中), 和して同ぜず。貴様の考えも理解はするが、現実はそうもいかん 孫姫(睨み), だからこそ、こうして武で語ることも必要だ。貴様の武を示し、私を伏せてみせろ 攻撃(対虎崎大) 孫姫(睨み), 貴様の考えは看過できんな。ここで討たねば、確実に乱世を呼ぶ存在となる 攻撃(対虎崎大) 孫姫(集中), 千丈の堤も蟻の一穴より。貴様は油断に過ぎる 孫姫(睨み), 私の視界に入る貴様の粉はすべて我が能力で破壊する。通ると思うな 攻撃(対虎崎大) 孫姫(睨み), 暴力など乱世しか生み出さん。義なき物が乱世を生み出した事実を顧みろ、愚か者め 攻撃(対板垣剛四郎) 孫姫(集中), 兵法『三十六計』に『走為上』とある。勝てないならば全力で逃げることと記されているのだ 孫姫(睨み), 戦略的撤退を理解できない者はただの愚か者でしかない。勝てない戦はしないのが兵法の基本だ 攻撃(対板垣剛四郎) 孫姫(睨み), 貴様がしようとしていることはただの犬死にだ。討ち死になど今の貴様にはできんぞ 攻撃(対板垣剛四郎) 孫姫(睨み), 軍人こそ退き時を見極めるべきなのだ。それができぬ者は雑兵にも劣るぞ 攻撃(対ヴァルター=ベルンシュタイン) 孫姫(集中), 私では蟷螂の斧かもしれんな…… 孫姫(睨み), だが、ここで貴様を放置する道理もない。挑ませてもらうぞ 攻撃(対ヴァルター=ベルンシュタイン) 孫姫(睨み), 貴様の子など宿すつもりはない。生憎と、そこまで安い女ではないのでな 攻撃(対三重島早友里) 孫姫(睨み), 私も引き下がるつもりはない。私にも、通すべき義があるのでな 攻撃(対三重島早友里) 孫姫(集中), 四面楚歌か。貴様も異界の地で随分と肝を嘗めたようだな 孫姫(睨み), ならば、貴様がその逆境を越えた強さも本物のはずだ。その力、見定めてくれよう 攻撃(対三重島早友里) 孫姫(睨み), ここから先は武でのみ語る。貴様の真意、そして義を私に示せ 攻撃(対北路鉄三) 孫姫(睨み), 天網恢恢疎にして漏らさず。貴様が私から逃げ遂せたところで、貴様の命運は変わらん 攻撃(対北路鉄三) 孫姫(集中), これほどに分かりやすい蟷螂の斧はないな 孫姫(睨み), 自らの力量も推し量らず、私に蛮勇のみで挑むか。斬られなければ分からないか? 攻撃(対北路鉄三) 孫姫(睨み), 貴様のような賊を逃すことはしない。我が義に従い、斬る 攻撃(対マキシム=ホワイトヘロン) 孫姫(集中), 貴様も武でしか物を語れぬ類の者か 孫姫(睨み), ならばそれで語るのみだ。貴様の武、存分に示せ 攻撃(対マキシム=ホワイトヘロン) 孫姫(睨み), 私を女と侮るなよ? 侮れば、斬られるのは貴様だ 攻撃(対マキシム=ホワイトヘロン) 孫姫(集中), 士は己を知る者の為に死す。貴様の忠義は見事だ 孫姫(睨み), だが、私にも通さねばならない義がある。負けることはできんな 攻撃(対絶望勇者エスペライザー) 孫姫(睨み), 中途半端な希望は人を堕落させる。貴様はその在り方を改める必要があるな 攻撃(対絶望勇者エスペライザー) 孫姫(集中), そうして何度も犬死にを繰り返してきたか…… 孫姫(睨み), 貴様は希望にも絶望にもなりえない。その程度の中途半端なものではな 攻撃(対絶望勇者エスペライザー) 孫姫(睨み), 去れ。中途半端な存在は、それだけで悲劇を招く 攻撃(対天田悠羅) 孫姫(集中), 妄執は人の目を曇らせる。貴様は、今まで何を見ていた? 孫姫(睨み), このようなやり方で治世など訪れないと、貴様自身分かっているのではないのか? 攻撃(対天田悠羅) 孫姫(集中), 貴様は時代をただ一人の人間で切り開けると思っているのか? 孫姫(睨み), 残念だが、一人の人間の行動はきっかけにしかならん。数多の人の思いが時代を創ることを、貴様は知るべきだ 攻撃(対天田悠羅) 孫姫(睨み), 真の治世者ならば犠牲なく時代を変革させる。貴様はどれだけの犠牲を強いてきた? 攻撃(対殺戮之道相模) 孫姫(睨み), 貴様はいたずらに乱世を呼ぶだけの老害のようだな。貴様はここで討っておかねばなるまい 攻撃(対殺戮之道相模) 孫姫(集中), 闇に紛れ人を襲う者には必ずその兆候が見えるものだ 孫姫(睨み), どう襲うかを必ず見る。それに対応できれば、闇討ちなど見切れる 攻撃(対殺戮之道相模) 孫姫(睨み), 乱世を終わらさんとする者を狙い、討ち続ける貴様こそが乱世を呼ぶものだ。許してはおかんぞ 攻撃(対胆尾田一也) 孫姫, 今が乱世なのは否定できない。私にどこまでできるかは分からないがな 攻撃(対胆尾田一也) 孫姫(集中), ほぉ、貴様は曹魏を好むか。私は何でも好むがな 攻撃(対胆尾田一也) 孫姫(集中), 貴様とは言葉で語りたくもあるが、武でも語ってみないか? 攻撃(対本条鈴) 孫姫(集中), 無闇に討つべきではない。その考えは維持してもらいたいと思うぞ? 孫姫(睨み), だが、乱世を呼ぶ存在は討たねばならない。例えそれが、誰であろうとな 攻撃(対本条鈴) 孫姫(集中), 我を非として当う者は吾が師なり。貴様にとって、奴はそういう存在なのだろうな 攻撃(対本条鈴) 孫姫(睨み), 己の義で変えんとするのが真の義だ。貴様がどうしたいか、それを貴様の武と義によって示せ。そうすれば、自ずとすべてが変わる 攻撃(対ライカ=ヴァイカー) 孫姫(集中), まずは対話からという姿勢は評価する 孫姫(睨み), だが、まずは貴様とは言葉では語らん。武で語ってからだ 攻撃(対ライカ=ヴァイカー) 孫姫(集中), 苦労もあるだろう。だが、少しは楽に構えたらどうか? 攻撃(対ライカ=ヴァイカー) 孫姫(集中), 貴様が止めんとする理由は分かる 孫姫(睨み), だが、それを無理に止めれば反発するものだ。方法は考えるのだな 攻撃(対ゾレイコ皇帝) 孫姫(集中), 異星人よ、私を侮らずに相対したことは嬉しく思うぞ? 孫姫(睨み), ならばこちらも全力で相対させてもらう。簡単に事が運ぶと思うなよ? 攻撃(対ゾレイコ皇帝) 孫姫(睨み), 民の望みを隠れ蓑に隴を得て蜀を望むが如き貴様の侵略行為、認めるわけにはいかんな 攻撃(対ゾレイコ皇帝) 孫姫(睨み), 首を取らせてもらうぞ、異星の帝よ。我が君主の義、貴様に阻ませることはできんのでな 攻撃(対ジアイナ姫) 孫姫(集中), いい名をつけたものだな。名君太宗を支えた魏玄成に倣うか 孫姫(睨み), ならば、その名君に恥じぬ貴様の志を見せろ。そうでなければ、その刀が泣くぞ? 攻撃(対ジアイナ姫) 孫姫(集中), 太山に登りて天下を小とす。貴様の研鑽がすべてを見通すことになるだろう 孫姫(睨み), その先に何が見えようとも、貴様は歩みを止めない覚悟はあるな? 攻撃(対ジアイナ姫) 孫姫(睨み), いやしくも私も姫と名乗る者、遅れは取らんぞ 攻撃(対ヴァルザイル) 孫姫(集中), 確執抜きか。貴様も面白いことを言うな 攻撃(対ヴァルザイル) 孫姫(集中), 和して同ぜず。貴様が戦いのみを求めるならば、私もそれに付き合おう 孫姫(睨み), だが、私にも戦う理由がある。それは曲げられんぞ 攻撃(対ヴァルザイル) 孫姫(睨み), 御託不要ならばすべきは1つ。貴様の挑戦を受けるだけだ
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/378.html
唐書巻二百一十八 列伝第一百四十三 沙陀 沙陀は西突厥の別部であって処月の系統に属する。はじめ、突厥は東・西部に分かれていたが、烏孫の故地をすべおさめた結果、処月・処蜜と雑居していた。貞観七年(633)、太宗は鼓(軍中に用いるつづみ)と纛(将軍の営に立てる大旗)とをもたらして奚利邲咄陸可汗を擁立したところが、その一族の中の歩真が怨んで、その弟の弥射とともに、べつに独立しようと謀った。しかし弥射はおそれて処月などを率いて唐に帰付し、歩真も勢力が衰えたために唐に降った。なお残留するものにたいしては、咄陸は、射匱特勒(特勤)劫越の子の阿史那賀魯をもってその統治にあたらせた。 西突厥の勢力はいよいよ強化したが、内戦がつづき、その大酋長の乙毘咄陸可汗は、牙帳を鏃曷山の西にたてて北廷と号した。そして処月などもまた、これに隷属した。処月は、金娑山の南、蒲類海の東にいたが、沙陀と名づけられた大砂漠があったので、これによって沙陀突厥と称したといわれる。 咄陸が伊州に入寇し、二部(処月・処蜜)の兵を率いて天山を囲んだので、安西都護の郭孝恪は、撃ってこれを奔らせ、処月の俟斤の城をおとしいれた。のちに乙毘咄陸可汗が敗れて吐火羅に奔り、阿史那賀魯は来たり降ったので、詔をもって瑤池都督に拝せられ、その部衆は廷州の莫賀城にされた。処月の朱邪闕俟斤阿厥もまた、内属を請うた。 永徽のはじめ(651)、阿史那賀魯が抜いた。朱邪孤注もまた、招慰使を殺し、賀魯と結び、兵をひきいて牢山に拠った。これがために射脾俟斤渉陀那速も唐に従わなくなったので、高宗は、阿史那賀魯の領土をかれに与えた。翌年(652)、弓月道総管の梁建方、契苾何力は、兵をひきいて朱邪孤注を斬り、九千人を俘虜とした。また翌年(653)、瑤池都督府を廃したが、これはすなわち処月の故地であった。ここに金満・沙陀の二州をおき、いずれも都督の支配下においた。阿史那賀魯がなくなって、安撫大使の阿史那弥射は、伊麗水に駐屯したが、処月が帰付したので、崑陵都護府をおいて咄陸可汗の部族を統べさせ、弥射を都護に任じた。 竜湖のはじめ(661)、処月の酋長の沙陀金山が、武衛将軍の薛仁貴に従って鉄勒を討ったので、墨離軍討撃使に任ぜられた。さらに長安二年(702)には金満州都督に昇進せられ、累進して張郡公に封ぜられた。金山が死んで、その子の輔国が後をついだが、先天のはじめ(712)、吐蕃の圧力を避けて部族を北廷に従し、その部衆をひきいて入朝した。開元二年(714)、かれもまた金満州都督に任ぜられ、その母の鼠尼施は鄯国夫人に封ぜられた。輔国は累進して永寿郡王となってのちに死に、子の骨咄支があとをついだ。 天宝のはじめ(742)、回紇が内付して、骨咄支は回紇副都護を兼ねさせられたが、粛宗に従って安禄山の乱を平定し、特進驍衛上将軍に拝せられた。かれが死んで、その子の尽忠が後をつぎ、累進して金吾衛大将軍・酒泉県公となった。至徳・宝応年間(756-763)に入ると、中国にはいろいろと事件が多かったために、北廷・西州からのルートがふさがってしまい、奏上のための使節はすべて回鶻の中を通過することになったが、回鶻人がさかんに誅求したために、もっともこれに苦しんだ。沙陀の中で北廷の近くにいたものといえども、なおその掠奪に苦しんだ。 貞元年間(785-805)に、沙陀部族七千帳が吐蕃につき、ともに北廷を攻めてこれをおとしいれた。吐蕃はこの部族を甘州に徙し、尽忠を軍の大論に任じた。吐蕃が中国の辺境に入寇するときには、つねに沙陀を先鋒とした。 しばらくのち、回鶻が涼州を占領したために、吐蕃では尽忠が二心を抱いているのではないかと疑い、沙陀を黄河の西にうつすように画策するにいたり、沙陀の部衆一同としては、憂えおそれるのみであった。尽忠が朱邪執宜にたいして謀を求めたところ、「われらは代々唐朝に仕えてきたのに、いまや不幸にも賊(吐蕃)の中におちいってしまった。いまもし蕭関に赴いて唐に帰付することができるならば、座して種族の滅亡を招くよりはましではないか」とこたえ、尽忠はこれに賛成した。元和三年(808)、部衆全員三万落をあげて、鳥徳鞬山に沿うて東へと向かった。吐蕃はこれを追撃し、沙陀族は行進しながら戦闘をつづけ、洮水に沿うて石門にすすみ、転戦してやまず、部衆はほぼ尽き、尽忠も戦死した。執宜は傷ついた戦士たちを収拾し、二千人・騎士七百と雑畜・駱駝千頭ばかりとをひきつれて霊州に辿りついた。節度使の范希朝より事の次第を奏上したところ、詔をもって塩州に居住せしめられることとなり、陰山府が設置されて、執宜の兵馬使に任ぜられた。沙陀はもともと勇敢であったから、希朝はこれを使って外民族の侵入を防がせようとして、沙陀のために牛・羊を買い入れ、大いに畜牧をさせて民力を休養せしめた。沙陀の老幼の人々で鳳翔・興元・太原のルートを経て帰付したものは、みなほんらいの所属部に帰属せしめられた。尽忠の弟の葛勒阿波は、残った部衆七百人をひきいて振武軍にいたって降付し、左武衛大将軍に任ぜられ、陰山府都督をかねさせられた。 執宜は、長安に召されて、金幣・袍・馬万頭ばかりを賜わり、特進金吾衛将軍に任ぜられた。しかるに沙陀のことを問題にするものがいて、「霊武は吐蕃に接近しているから、沙陀がのちに吐蕃について離叛し事件をおこすおそれがあり、また、辺境の人口が増すと食糧の価格が騰貴する」と言った。しばらくして范希朝が太原に駐屯したので、これをきっかけに、詔して沙陀全軍をかれに従属せしめた。范希朝は、その中から精鋭千二百騎をぬき出して、沙陀軍と号して目付け役をおき、その余衆は定襄川においた。執宜は神武川の黄花堆にとどまって、さらに陰山北沙陀と号した。このとき、憲宗は鎮州を伐ち、執宜は軍士七百人をひきいて先鋒となったが、王承宗の兵数万が木刀溝において待ち伏せし、執宜の軍と激突し、矢の飛ぶさまは、まるで雨のふるようであった。執宜は、兵をひっさげ、敵陣を突破してこれを殲滅した。李光顔らはこれに乗じて首級一万をあげ、兵をひきいてすすんだ。蘭州刺史の王鍔は、太原の節度使に任ぜられ、献策して、「朱邪氏の部族はふえてさかんになり、北川に散居しているが、野心を抱くおそれがあるので、願わくはその部族を分かって諸州に隷属せしめられたい。さすれば、その勢力は分散して弱体化するであろう」と言った。そこでついに十府を設けて、沙陀を分散せしめた。元和八年(813)、回鶻が磧(ゴビ砂漠)をこえて南下し、西城・柳谷を占領したため、執宜に詔して、天徳軍にとどまらせた。翌年(814)、呉元済討伐にあたって、また執宜に詔して李光顔の部下に編入したが、かれは元済の軍を時曲に破って凌雲柵をおとしいれた。元済の乱が平らぐと、検校刑部尚書を授けられたが、いぜんとして李光顔の軍に所属した。長慶のはじめ(821-)、鎮州討伐にあたって、執宜は沙陀の兵を総動員し、易州・定州の軍とともに敵にあたり、深州において敵を破った。執宜は参内して宿衛として留められ、金吾衛将軍に拝せられた。太和年間(827-835)に柳公綽が河東節度使に任ぜられたさい、かれは奏上して、「陘北沙陀はもともと九姓回鶻ならびに六胡州にとって恐怖のまとであるから、請いねがわくば、執宜に委任して雲州・朔州の塞下の廃府十一ヵ所を修理させ、部下三千人をえらんで北辺防備にあたらせ、代北行営と名づけられんことを」と言った。かくして執宜は陰山府都督・代北行営招撫使に任ぜられて、河東節度使に所属せしめられた。 執宜が死んで、子の赤心が後をついだ。開成四年(839)、回鶻が磧(ゴビ砂漠)の入口を突破して楡林の塞に迫った。回鶻の宰相の掘羅勿は、良馬三百匹を赤心におくって、ともに彰信可汗を攻めることを約した。かくして可汗は死んだ。節度使の劉沔は、沙陀の兵を動員して、殺胡山で回鶻を撃たせた。しばらくのちに潞州を伐って劉稹を誅したが、そのさい、赤心は、詔をうけて、代北の騎兵隊三千をひきい、石雄のもとでその先鋒となって、石会関を破り、王宰を助けて天井をこえ、太原の軍に合流して楡社にいたり、監軍使の呂義忠とともに楊弁をとらえた。かくして潞州は平定された。赤心は朔州刺史となり、さらに代北軍使となった。 大中年間(847-860)のはじめ、吐蕃、党項(タングート)および回鶻の残衆と合流して河西に入寇した。太原の王宰は代北の諸軍をひきいて進み討ったが、沙陀は、つねに深く進撃すること諸軍のなかにあって最たるものがあった。赤心の向かうところ、敵兵はやぶれ去ったが、かれらは、「自分は、あの赤馬にうちまたがった将軍(朱邪赤心)の頭上に火の発したのを見た」と言って恐れた。はじめ沙陀は、吐蕃に隷属していて、老人をいやしみ壮年をたっとび、男女間の倫理の乱れることほぼ吐蕃と同じであったが、しかも馳射の技や勇敢なることは吐蕃よりもまさっていて、吐蕃はつねに沙陀の兵を前面におしたてて唐の辺境を劫掠した。沙陀が唐に帰服するにおよんで、吐蕃はために衰えた。宣宗はすでに三州(秦・原・安楽)および七関(石門・駅蔵・木峡・制勝・六盤・石峡・蕭の七関)を吐蕃より恢復したので、西方征伐の軍はことごとく撤収された。そこで赤心は、蔚州刺史・雲州守捉使に転ぜしめられた。 龐勛の乱に際して、義成節度使の康承訓が行営招討使に任ぜられたが、赤心は、精鋭な騎兵三千をひきいて承訓の軍に従った。水をわたり、伏兵の中におちいって包囲され、ほとんどのものが戦歿したが、赤心は騎兵五百をひき出すのにようやく成功した。龐勛は、すみやかに勝敗を決しようとして、部下八万人をかりたて、刀剣をふるって攻めたてた。赤心は、強力な騎兵をひきいて突進し、官軍とともに夾撃して敵をうち破った。かれの弟の赤衷は、千騎をひきいて敵を亳州の東まで追撃した。龐勛の乱が平定されて、赤心は大同軍節度使に進められ、李氏の姓と国昌なる名とを賜わり、鄭王の籍をあたえられ、親仁坊にりっぱな邸を賜わった。回鶻が楡林にいたり、霊州・塩州をさわがせたので、唐は国昌に詔して鄜延節度使に任じた。回鶻がまた天徳軍に入寇したので、振武軍節度使に転ぜられ、検校司徒に昇任せしめられた。王仙芝が荊州・襄州をおとしいれると、朝廷は諸州の兵を動員して討伐にあたらせたが、国昌は、劉遷をつかわし、雲中の精鋭な騎兵をもって賊をおいはらい、しばしば功をたてた。 乾符三年(876)、段文楚が代北水陸発運・雲州防禦使となったが、この年は凶年であったのに、段文楚がその対策に要する費用を減らしたために、しもじものものはみなかれを怨んでいた。辺将の程懐信・王行審・蓋寓・李存璋・薛鉄山・康君立らのともがらは、相談した結果、「世はいまや多難であり、大丈夫たるものは、まさに身を谷に投ずるような危険をおかしてでも功をたてるべきである。段文楚は儒者であり、ともに大事を計りがたい。沙陀は勇猛で、振武の李国昌・李克用父子は勇武絶倫であり、われわれがかれらを上に推戴するならば、応じて立たぬものとてはなく、代北の地は手に唾して定めることができよう。富貴を手中にとり収めるのはどうであろうか」という結論にたっし、全員がこれに賛成した。そこで夜、李国昌の子で雲中守捉使たる李克用に謁して、「今年は暮らしに困っており、官より給与される扶持米も削られてしまった。しかし、われわれは餓死するにしのびない。われわれの主家たる李氏の威徳は天下にあらわれきこえているが、あの情け容赦のない長官(段文楚)を誅して、みなのものを安んぜられんことをお願いする」と申し立てた。李克用はこの願いをうけいれ、戦士一万人を募って雲州におもむき、闘鶏台の城中にいたり、段文楚をとらえて惨殺した。将士らは、雲州にたてこもって事の次第を奏上し、李国昌もともどもに、李克用を大同防禦留後に任ぜられんことを請うた。この事件に関して諸道の兵を発して進捕することの許されなかったのは、諸道そのものがきわめて非協力的であったからである。そして、黄巣がまさに長江を渡って進撃せんとするにあたって、朝廷では李氏父子をとうてい抑えきれぬのをとって、これを赦しを大同軍防禦使に任じた。李国昌がこの命令を受諾しなかったために、河東節度使の崔彦昭と幽州節度使の張公素とに詔して、ともにかれを撃たしめたが、成果はあがらなかった。 李国昌が党項と戦っていまだ勝敗の決しない際に、大同川にいた吐谷渾の赫連鐸が、振武をおそって、その財貨・武器をことごとく奪ったために、窮地におちいった李国昌は、五百騎をひきいて雲州に帰還したが、城内に入ることができず、雲州は逆に、赫連鐸に奪取せられた。李克用は蔚州・朔州の間を去来してわずかに兵士三千人をあつめて新城に陣し、赫連鐸は一万人の軍勢をひきいて包囲し、攻めること三日におよんだが、抜くことができなかったばかりか、赫連鐸の兵士の死傷はおびただしいものがあった。李国昌が蔚州より来攻するにおよんで、赫連鐸は退き去った。僖宗は赫連鐸を大同節度使に任じて李国昌を討たせた。乾符六年(879)、昭義節度使の李鈞に詔して北面招討使に任じ、潞州・太原の兵をひきいて代州にとどまらせた。幽州節度使の李可挙は、赫連鐸に合流して蔚州を攻めたが、李国昌は一部隊をもってこれに対抗させた。李克用は、兵を分かち、遮虞城にいたって李鈞の軍を防がせたが、大雪がふり、兵士は狂ったようになって倒れ、李鈞の部下は潰えて代州に還り、軍はついに混乱し、李鈞は戦死した。広明元年(880)、李琢は蔚朔招討都統に任ぜられ、兵数万をひきいて代州にとどまった。李克用は傅文達をして蔚州・朔州の兵を徴集せしめたが、朔州刺史の高文集は、傅文達を縛りあげて李琢のもとに送りつけた。李琢は進んで蔚州を攻め、李国昌は敗れて李克用とともに一族をひきつれて達靼(タタール)のもとへ奔った。赫連鐸はひそかに、達靼の酋長をしてから李国昌父子をなきものにせしめようと計った。李克用はその計略をさとったので、達靼の勇士たちが大ぜい集まった際に、百歩もはなれた針や木の葉を射てかならず命中させた。達靼の人々は、それを見て大いにおどろいた。そこで李克用は、かれらに向かって、「いまや黄巣は、北方の地を乱して、中原の思いとなっている。ひとたび天子が自分を赦されたならば、願わくばあなた方とともに南方へ進撃して天下を平定したい。どうしてこの砂漠の中に老い朽ちられようか」と言ったので、達靼の人々は、かれがいつまでも留まるつもりではないのを知って、かれにたいする陰謀を中止した。 黄巣が潼関より攻めこんで長安へ進入したので、河東監軍の陳景思に詔して、代北の軍を動員させた。ときに沙陀都督の李友金は、興唐軍にとどまり、薩葛首領の米海万ならび安慶都督の史敬存は、感義軍にとどまっていた。李克用が塞下に寄留していたために、数千の部衆は直属先をもたなかった。陳景思は、天子が西に向かわれたのを聞いて、友金とともに騎兵五千をひきつれて絳州に入ったが、兵士らがほしいままに金ぐらをおそって着服したので、代州に帰り、兵士三万人を増募して崞県の西にとどまった。兵士らは、かまびすしく、かって気ままで、李友金はこれを制しえなかった。そこで謀ったあげくに、「いま多くの人々を集めながら、声威を張ることもできないし、老功の大将ですら、さっぱりてがらを立てられぬ始末である。わが兄国昌の父子は、有能でありまた勇敢でもあって、人々の畏敬するところとなっている。さきごろ、朝廷にたいして罪をおかしたために、北辺に仮ずまいしながら守りについているが、あえて引き揚げようともしない。いまもしかれを召しだして兵をひきいさせたならば、代北の豪傑たちはたちどころに集めることができ、軍列をととのえ、鼓をうちならして南進すれば、賊軍の平定も易々たるものであろう」と述べ、陳景思はこれに賛成した。そこで、李国昌を赦し、賊を討って自身の罪をあがなわしめられんことを請うた。かくして詔によって、李克用は代州刺史・忻代兵馬留後に拝せられ、その軍には賊軍討伐が督促せられることになった。李克用は、達靼一万人を募って代州におもむき、南方へ進軍しようとしたが、太原節度使の鄭従讜が石嶺関をふさいだために進むことができなかった。李克用は、ぬけみちをして太原にいたり、城下に陣をはること五日におよび、兵糧をもとめたが、鄭従讜が応じなかったために、大いに掠めて引きあげ、代州にとどまった。 中和二年(882)、蔚州刺史の蘇祐は、赫連鐸の兵をあわせて、まさに代州を攻めようとした。李克用は、騎兵五百をひきいて、まず蔚州をおそってこれを下した。蘇祐は美女谷に陣し、赫連鐸は幽州の李可挙の部下七万人とともに蔚州を攻め、物見のやぐらや柵が相つらねられた。李克用は、まっすぐに敵陣をつき破って州に入り、役所の庫を焼きすてて立ち去り、鴈門に陣をとった。李国昌は、達靼より兵をひきいて代州に帰り、汾州ならびに楼煩をさわがせ、鎧をとくひまもないありさまであった。帝は、李克用にたいして、軍を朔州に還すようにと詔した。 ここで義武節度使の王処存ならびに河中節度使の王重栄は、詔を李克用につたえて、ともどもに黄巣討伐にあたるようにと求めた。李克用は、よろこんで、ただちに鴈門において大いに兵をあつめ、忻州・代州・蔚州・朔州および達靼の兵をあわせて三万人・騎兵五千をえて南下し、ここにおいて李国昌は、代州を守ることとなった。鄭従讜が道をかさなかったので、李克用の軍は太原にいたって陣をはり、おくりものの馬匹を鄭従讜にとどけ、李克用みずからは数騎を従えたのみでかれに呼びかけて、「自分はまさに西に向かおうとしているが、願わくは貴君に一言申し上げたい」と言ったので、鄭従讜は城のひめ垣の上にのぼり、なぐさめはげまして貨幣・饔(殺した牲)・餼(生きている牲)をおくった。李克用は陰地関より晋州におもむき、河中府にいたった。帝はそのことを聞いて、李克用を鴈門節度・神策天寧軍鎮遏・忻代観察使に抜擢した。翌年(883)、宰相の王鐸は、君命をうけて、李克用を東北面行営都統に、河東監軍の陳景思を監軍使に、それぞれ任した。李克用は、弟の李克修に弓をもった騎兵五百を授けて黄河をわたらせ、李克用には夏陽より黄河をわたり、薛阿檀をとどめて橋頭堡をおさえさせた。ついで同州に進み、乾阬にとりでをつくって、賊軍と梁田坡に戦ってこれを破り、進んで渭橋にとりでをつくり、ついに長安を恢復した。その功は最たるもので、同中書門下平章事・隴西郡公に進められ、李国昌は代北軍節度使となった。まもなく李克用は河東節度使に任ぜられた。 黄巣は、秦宗権と連合して河南に入寇した。中和四年(884)、李克用は河東代北の兵をひきいて、沢州・潞州より天井関に進もうとしたが、河陽節度使の諸葛爽は、井戸をうずめ水を得られぬようにして、行く手をふさいだ。そこで李克用は、河中より黄河をわたって許州におもむき、徐州・汴州の兵をあわせて、尚譲を太康に破り、ついで西華に戦ってまた撃破した。賊軍は敗走して、河南の地は平定された。 李克用は敗走する敵を追うて曹州の北にいたり、引きあげて汴を通ったところ、朱全忠に迎えられた。李克用は、兵士を城外にとどめ、上源駅の館にとまった。夜に入って、送別の宴が催されて、朱全忠みずから料理をすすめ、宝ものを進呈し、握手して労をねぎらった。しかしながら、このとき、朱全忠は李克用がすぐれ秀でていて制しがたいのを嫌って、車を外まわりにつらね、兵士を道の左右につらねておいて、李克用の酔ったのをみすまし、上源の館を攻めたてた。防戦がおこなわれ、親近の部将である郭景銖は、燈火を消し、李克用を抜けささえながら、おもむろに事の次第を告げた。李克用はなお酒気をおびていたが、敵を射た。たまたま、煙や人声があつまりかさなったうえに、大雷が鳴った。李克用は、薛志勤らとともに、とりしまりの隙をうかがって南門にのぼり、城壁にすがりついて脱出し、陣営に走りかえった。部下の死者は数百人にたっし、さきに鹵獲した賊軍の軍馬の類はことごとく失われた。李克用は、部下をととのえて太原に帰り、いちだんと兵士の訓練にはげんで、もって仇を報ぜんとし、弟の李克勤に一万を授けて河中に陣をはらせ、朱全忠を撃つための請願の使節が八回も出されるありさまで、内外の人々はふるえおののくばかりであった。皇帝は、内謁者(宮中の雑事をつかさどる役人)をつかわして、李克用をなだめさとさせ、ついで位を検校太傅・隴西郡王に進められた。 光啓元年(885)、幽州の李可拳と鎮州の王景崇とは、「易州・定州はもとの燕・趙の土地だから、取って分けようではないか」と言い立てて、李可挙は易州を攻め下した。王景崇は無極を攻めたので、易定節度使の王処存は、李克用に救いをもとめた。李克用は、みずから兵をひきいて無極の救援に向かい、王景崇の軍を破り、馬頭鎮を攻め、新城を固めたので、王景崇の兵は敗走した。王処存はまた易州を恢復した。鳳翔の李昌符と邠寧の朱玫とは、朱全忠と和をむすんだ。観軍容使の田令孜は、李克用をにくみ、王重栄と結託して、「李克用は国都の近くにおくべきではない。請いねがわくば、王処存を河中節度使に任じ、王重栄を易定節度使に徙されんことを。さすれば、克用は孤立するであろう」と献言し、帝はこれに従った。王重栄は事の次第を李克用に告げたので、李克用は怒って、「自分はまさに貴君に従い、軍鼓を打ちならしつつ、汜水関を出で立ち、朱全忠を誅して穴中の鼠を殲滅するのみである」と言ったが、王重栄は一計を案じて、「貴君の軍が朝に汜水関を出るならば、邠寧の朱玫・岐州の李昌符の兵士らは、その夕にはわれわれの城壁のひめ垣のもとにかしずくことになるのだから、願わくばまず邠・岐二州を安んぜられよ」と言った。そこで李克用は上奏して、「朱孜と李昌符とは、朱全忠と連合して乱をおこしているから、願わくば兵十五万人をひきいて黄河をわたり、あの朱玫と李昌符の二豎どもを梟首したのち、朱全忠を平らげてさきにうけた大恥辱を雪ぎたい。陛下におかれては、なにとぞ用心をかさねられて、賊のために動揺されることのないように」と言った。帝は、そのような行動に出ることを思い止まらすべく、盛んに使者をつかわしたが、李克用は応じなかった。朱玫もまた、邠寧・鳳翔の兵をひきいて沙苑に陣した。李克用は肉薄攻撃をおこない、これに敗れた朱玫は、夜に入って逃亡したので、李克用は河中にひきあげた。 天子は鳳翔に出でおもむき、道みち、兵のまさにいたらんとする旨をつたえつつ、ただちに宝鶏におもむいた。李克用は王重栄とともに上奏文をつらねて、宮殿に還御されんことを請い、「兵士を留めて京師をまもらせるゆえ、ただちに皇居に還られるように」と願った。帝はこの申し出を危ぶみうたがって、大散関に走り、興元府にとどまったので、李克用はひきあげた。そこへ、襄王李熅の偽詔が太原にとどいたが、克用はこれを焼きすて、その使者をとらえ、間道伝いに興元にいる皇帝にあてて上奏文を奉呈した。はじめ朝廷では、朱玫が李克用と結託して行幸中の天子をくるしめるのではないかと疑っていたが、この上奏がなされるにおよんで、群臣に示され、よって山南道の諸鎮にもその内容がつたえられ明らかにされたので、行在所においても、すこしく安堵のいろがみうけられた。王行瑜は朱玫を斬り、李克用は千騎をしたがえて京畿を経略した。光啓三年(887)、李国昌は死んだ。ほどなく昭宗が即位し、李克用は検校太師兼侍中に進められた。 大順のはじめ(890)、李克用はみずから赫連鐸を雲州に攻めて、東の外城をおとしいれた。幽州の李匡威は、三万人の兵をひきいて赫連鐸を救援し、李克用の部将の安金俊を殺した。李克用は敗走した。赫連鐸は、李匡威とともに献言して、「山南道が乱れるのは、李克用がその中心となっているからであり、いまこそかれの敗戦につけいって伐ちとるべきである」と言い、朱全忠もまた河北三鎮(盧竜節度使の李匡威、成徳節度使の王鎔、魏博節度使の羅弘信)とともに、かれを討たんことを請うた。宰相の張濬は、この計略をただしいものとして賛成した。制が下されて、李克用の官爵属籍は奪されたが、張濬は兵馬招討制置宣慰使に、京兆尹の孫揆はその副に、枢密使の駱全瓘は行営都監に、それぞれ任ぜられ、華州節度使の韓建は行営馬歩都虞候となり、供軍糧料使を兼ねた。王鎔は河東の東面の、朱全忠は南面の、李匡威は北面の、それぞれの行営招討使に任ぜられた。 赫連鐸は、李匡威をたすけ他にさきがけてせまり戦ったが、李克用はこれを追いはらった。しかし潞州の兵は戦いに出るのを承知せず、力をあわせて守将の李克恭を殺して汴の朱全忠に款を通じ、李克恭の首を朝廷に献じた。さらに孫揆は詔をうけて昭義節度使に任ぜられたが、李克用の将の李存孝は、孫揆の長子をむかえうって殺した。李匡威と赫連鐸とは、吐蕃・黠憂斯(キルギス)の兵十万人をあわせて、遮虜軍を攻めて、その地の守将の劉胡子を殺した。そこで李克用は、渾河川のほとりに陣をかまえた。李存孝は赫連鐸と楽安鎮において戦い、赫連鐸は敗走した。張濬は、陰地関に進入して汾州・隰州の線に陣とったが、薛鉄山・李承嗣は、洪洞に陣してむかえ戦った。李存孝は趙城に陣したが、韓建は、夜陰に乗じて、壮士三百名をつかわしてその本陣を襲撃させた。李存孝が伏兵をおいて待ちぶせしたため、韓建の兵は大いに敗れて逃げはしった。李存孝が絳州を攻めてまだおとしいれぬときに、晋州の刺史の張行恭が城をすてて逃げ去ったので、韓建は張濬とともににげかえった。翌年、李克用は上奏して申しひらきをしたので、また検校太師守中書令隴西郡王に拝せられた。 李克用は、全兵力をあげて赫連鐸を雲州に攻め、騎兵隊長の薛阿檀を先鋒として黄河のほとりに伏兵をおいた。赫連鐸は、騎兵隊をはなって薛阿檀を追撃させたが、伏兵にあって逃げはしった。赫連鐸は、のがれて吐谷渾族の中に逃げこんだ。李克用は、雲州を占領して、部将の石善友を刺史・大同軍防禦使に任じた。 景福(891-)のはじめ、鎮州の王鎔が堯山を攻めたので、李克用は李嗣勲に命じてこれを撃たせ、斬首三万の戦果をあげた。李克用はついに天長鎮を抜き、常山をとり、滹沱河をわたり、城郭を焼きはらい、あまねく説き降しつつ、趙州にいたり、鼓城・藁城をとった。赫連鐸の部下八万人が天成軍を攻めたので、克用は檄をとばして太原より軍を進発せしめたが、李匡威はすでに雲州の北郊にとりでを築いていた。李克用は、神堆より軍をひきいてすすみ、夜に入って雲州に進入し、死闘ののち、李匡威を敗走させた。乾寧元年(894)、李克用は新城に陣をはった。赫連鐸は、膝行してその軍門に降り、李克用はかれを鞭うったのち追いやった。李克用は進んで武州を下し、新州を攻めた。李匡籌は歩騎合計七万人をひきいて救援におもむいたが、李克用が迎うって斬首万級をあげ、捕虜は少なかった。李克用は三百人に手分けして城下をあまねく説かせ、かくして新州は降った。ついで媯州を攻めとった。李匡籌は、幽州をすてて敗走した。翌年(895)、幽州は降り、李克用は劉仁恭を留後に任じてひきあげた。 王行瑜・韓建・李茂貞は、皇城の南に兵をつらねて李谿を殺した。李克用は、北部の兵すなわち代北の諸蕃落の兵をことごとく徴発して、黄河をわたって絳州に出で、刺史王瑤を斬って河中にとどまった。王珂は路上において李克用に謁し、同州の王行約は長安にはしり、李克用は韓建を華州に包囲した。長安の人々は震えおののくばかりであった。そのため、帝は石門県・茨城鎮に行幸し、内謁者の郗廷昱をつかわして李克用を慰労させ、また李茂貞は盩厔に、王行瑜は興平に、それぞれ陣とった旨を伝えさせた。そこで李克用は、進んで渭橋に陣をしいた。帝は、延王李戒丕・丹王李允をして詔を李克用にもたらさしめ、邠州・鳳州を撃たしめた。李克用は、詔を奉じて渭水の北に陣し、史儼に勇猛な騎兵三千をさずけて石門をまもらせ、また王珂に河中の粟を行在所に送らせて備えさせた。帝は詔をもって嘉し、李克用を諸道兵馬都招討使に進め、二人の王には李克用を兄として事えるように命じ、王行瑜を討つようにと李克用を促した。李克用は帝に長安に還されるように請願し、二千騎をもって皇帝をまもらせた。ときに宮室は焼け損なわれ、帝は尚書省の建物に滞在し、百官たちは乗馬を失っていた。李克用は帝に乗輿と金具でよそおった四頭だての馬車二組を献上し、また百輛の兵車を進呈して、供の役人たちに供給し、太師・兼中書令・邠寧四面行営都統に進められた。 王行瑜は、梨園にとりでをかため、李茂貞は、みずから三万人の兵をひきいて咸陽に接近して陣をしいた。李克用は帝にたいして、李茂貞を責めて戦闘を停止させ、なおその官爵を削るようにと請願し、河中節度使の王珂とともにかれを討たしめられんことを願った。帝は李克用に詔して、王行瑜に弟として事えさせ、また李茂貞を許して、よしみを結ばせようとし、詔をもって魏国夫人陳氏を李克用に賜わった。陳氏は、襄陽の人で、書をよくし、帝の寵愛するところであったが、いそいで賊を平らげんと欲したがために賜わったのであった。李茂貞は兵を派して竜泉鎮を救援させたが、李克用が、李罕之・李存審をして夜陰に乗じ、兵をひきいてその兵糧を奪わしめたので、李茂貞の援兵はにげ去り、王行瑜の軍も潰走し、李克用は追撃して敵を殺すこと一万人ばかりにおよんだ。王行瑜は邠州に入り、李克用に投降を請うたので、李克用は史儼に命じて邠州を占領させた。邠州城をすてて逃げた行瑜は、慶州で部下のために殺され、その首級は長安に伝えられた。帝は官署の役人および諸子の功績をことごとくはかって、領地を与え、官爵を授けたが、李克用は忠貞平難功臣という名号を賜わり、晋王に進封された。 李克用は、雲陽城に陣をしき、李習吉をつかわして入朝させ、王珂とともに力をつくして李茂貞を討たしめられんことを請願したが、帝は許さなかった。李克用は使者に耳うちして、「叛乱の根本が除かれないかぎり、憂患はたえない」と言った。帝は度支銭三十万緡を出させて李克用の軍をねぎらった。ときに、郷州の朱宣兄弟が、朱全忠にくるしめられて、使者を李克用のもとにおくり、魏州を経由して救援におもむかれるようにと請願した。かくして、さきにいったん戦いが止んだのに、ここにまた戦いがはじまり、李克用みずから軍をひきいて進発し、李存信に兵三万人をさずけて史儼らとともに莘県にいたらせたが、魏博節度使の羅弘信の軍に破られた。李克用は怒って、大いに相州・魏州を掠奪してたち去った。 はじめ李茂貞は、李克用がいまにも攻めよせそうなことをおそれて、朝廷への貢献を行なうこと、まるで藩鎮のようであったが、李克用がひきあげると、貢献をたち、韓建とともに兵をひきいて入朝しようと謀った。帝はこれをおそれて、李克用に詔して、長安に進駐させて守りにつかせ、さらに黄河をわたって太原に行幸しようと謀って、延王を李克用の軍営につかわし、皇帝自身を迎えるように督促させた。やがて帝が渭水の北にいたったとき、韓建は、華州に行幸するようにつよく請願した。李克用は延王李戒丕にたいして、「思いのもとは、優柔不断なやりかたにある。おもうに、皇帝自身、事にあたって断行せられよ」と言った。李存信は魏州を攻めたが、葛従周が部下三万人をひきいて来援し、洹水のほとりで戦った。朱全忠の軍は、夜陰に乗じて、いたるところに穴を掘ったうえで、ときの声を合わせた。李克用の子の李落落の馬は、その声におどろいて穴におちこんでたおれ、李克用はこれを救おうとしてまたたおれた。追いせまった敵兵が近づいてこれを射たが、やっと免れた。李存信はすでに魏州の城にせまっており、李克用はこれに力をあわせた。羅弘信は、捕虜を前面におし立てて迎え戦ったが、李克用に撃破され、李克用は追うて外城にいたり、城門の扉を叩くまでに肉迫したのち、ひきあげた。ここにおいて、陝州の王珙は河中を攻め、李嗣昭は王珂をたすけて二度戦ってともに勝ち、王珙の包囲はとかれた。 帝は延王李戒丕に符信をさずけて太原にいたらせ、李克用に伝えて、「汝の計略を用いなかったために、このようなありさまとなってしまい、なんとも言いようもない。いま自分は華州に身をよせているが、多くの役人たちは身をよせるところがない。汝でなければ、ともに憂いをわかつものがあろうか。そうするのでなければ、自分としてはふたたび宗廟にまみえることはないであろう」と言わせた。延王が太原にいたると、李克用はかれを引きとどめること数ヵ月におよんだ。しばしば盛大な酒宴をはったが、そのたび延王は、かならず舞にかこつけて李克用に国事をのべ、落涙数行におよび、かれの心をゆり動かそうとした。ときに劉仁恭は、幽州に拠って李克用にそむき、しばしば兵を徴集しても応じなかった。李克用が書面をもって責めたところ、劉仁恭は、手にした書面を地になげうって、ついに李克用との古い交わりを絶つことを明らかにした。李克用は内心、幽州の劉仁恭を憂うるのあまり、延王には好辞をもってこたえたけれども、ふたたび西方をうかがう意志はなかったのであるが、にわかにして、李克用はみずから兵をひきいて蔚州に陣とった。たまたま夜明けに大いに霧がかかって天地が暗くなったときに劉仁恭が来襲したために、李克用は大敗して太原に逃げかえり、その部将らの多くは死んだ。朱全忠は、邢州・磁州・洺州を奪取した。 李茂貞は、李克用が戦いに敗れて弱くなり、軍を出しえないものと推測した。そこで韓建とともに言葉たくみに李克用に手紙をよこして、「帝は宮殿の外に出られて風雨にさらされること何年にもおよんでいる。ともどもに宮殿を修理して帝をお迎えしようではないか」と言ってよこした。はじめ、長安では、帝が石門に行幸されてより、宮殿は焼けこわされ、岐人(李茂貞)がふたたび叛いてより、町々は火にかかって焼けはててしまい、皇城の中は夜になると狐狸が鳴き、人の行き来もなかった。帝は、華州の西の谷に行幸して、長安を望んではかならずさめざめと涙をながし、左右の臣下たちも悲しみふさいで話すこともできなかった。王建が両川(東川と西川)を盗みとるにあたって、李茂貞は、かれがみだりに私した事件の数々をあばこうとした。南方にいた軍隊は東へ向かういとまはなかったし、また朱全忠は洛陽の補修に忙殺されていたので、李茂貞は李克用にたいして、労苦をともにすることを約束しようとしたのであった。李克用は李茂貞のさきの書面にたいして返答に窮した結果、財貨を出して援助を行なった。 光化のはじめ(898)、帝は長安に還り、李克用に詔して、朱全忠との仇敵関係を解消するようにさとした。宰相の徐彦若・崔胤もみなそのように勧めた。李克用は、その勢力こそすでに衰えていたけれども、しかもなお功労は朱全忠よりも高いことをおもって、さきに頭を下げるのを恥辱と考えていた。ときに王鎔がちょうど汴(朱全忠)と親しかったので、李克用は書面を王鎔におくって工作させた結果、朱全忠はただちに李克用に使者をつかわして、書状と幣物とを奉呈することはなはだうやうやしく、李克用もまたこれにこたえた。しかしながら、朱全忠は日ごとにますます闘いぬかんとする姿勢をしめし、それを改めようとはしなかった。王珙は、朱全忠の兵をもとめて河中を攻めたが、李克用が李嗣昭・張漢瑜に救援させたので、朱全忠の兵は敗走した、葛従周は承天軍を攻めとり、氏叔琮は遼州・楽平郡をとり、すすんで楡次にとりでを築いたが、李克用は周徳威をして駆逐せしめた。李嗣昭は、歩騎三万人をひきいて太行山を下り、河内郡をとり、懐州を抜き、すすんで河陽県を攻めた。朱全忠の部下の閻宝がその救援におもむいたので、李嗣昭は退いて懐州に拠った。天復元年(901)、朱全忠は晋州・絳州をとり、河中にせまった。王珂は事態の急を李克用に告げ、その使者があいついだ。しかし朱全忠の軍は孔を穿って通じた道をおさえたために、李克用の軍は前進できず、ついに王珂は朱全忠の軍に捕えられた。王珂の妻は李克用の娘であったが、救うことができなかった。朱全忠がついに河中を占領したために、李克用の朝貢の道もまたふさがれてしまった。朱全忠は、李克用が萎縮してふるわぬのを知って、大挙して太原を攻め、勇将の氏叔琮らをつかわし、魏博節度使・兗州・鄆州・邢州・洺州・義武軍節度使・晋州・絳州の兵を投入して包囲しつつ進入した。李克用側の城邑の多くが投降した。しかし、たまたま大雨が降って朱全忠軍の兵糧が欠乏し、兵士の間に瘧癘(おこり)がはやったため、ついに包囲をといた。 李克用は、内心ではいきどおりうれいていたけれども、朱全忠が強盛で対抗しがたいのをはばかって、丁重に幣物と馬匹とを贈り、詫びをいれてまたよしみを修めんことを請うた。朱全忠はついに同州・華州をとって、渭水のほとりに陣をはった。帝は鳳翔に行幸し、李茂貞・韓全誨は、李克用を召して入朝させ守りにつかせるようにと誘うた。李克用は、間道より使者をおくって急ぎ帝の安否をたずね、また一方、朱全忠に書面をおくって汴にひきあげるように勧告したが、朱全忠の答えはなかった。 李克用は、兵をひきいて平陽郡におもむいて吉上堡を攻め、朱全忠の軍を晋州に破った。李嗣昭・周徳威は、慈州・隰州を攻め下し、進んで河中に陣した。朱全忠の部将の朱友寧は、兵十万人をひきいてその南にとりでを築き、朱全忠みずからは、晋州に陣した。李克用側では、朱全忠みずからがやってきたと聞いて、みな色を失った。ときに虹がかかって周徳威の陣営をつらぬき、氏叔琮はとりでに肉迫して息もつかせぬほどに戦ったので、李克用軍は大敗し、兵器やたくわえた軍需品はことごとく失われた。朱友寧は、長駆して汾州・慈州・隰州などの諸州を攻め下し、ついに太原を包囲してその西門を攻めた。周徳威や李嗣昭は、山にそって残兵をともない、ようやくにしてひきあげた。李克用は、大いに朱全忠をおそれて、みずから城壁を築くのに用いる道具をかつぎ、兵士をひきいて防ぎまもりながら、しかもひそかに李嗣昭・周徳威とともに雲州に逃げはしろうと謀った。李存信は、「北族を頼るにしくはない」と言った。ところが、李国昌の妻の劉氏は、克用にたいして、「聞くところでは、あなたはこの城をすてて蕃族の中に身を投じようとしているというが、この計略が、いったいだれの手になるかをつまびらかにしているのか」と言ったので、李克用が、「李存信らのねりあげた計略です」とこたえたところ、劉氏はさらに、「あの羊飼い奴などに、どうして遠大な計略が立てられようか。あなたはいつも、あの王行瑜が城を失って逃げはしり、ついに死んだ一件を一笑に付していたのに、どうしてそれに倣えようか。また、あなたはさきに達靼の中にいて、そこからのがれられぬのではないかと危ぶんだのではなかったか。いったいこの城を出たならば、禍いはたちどころにやって来よう。どうして北族のところに行きつくことができようか」と言った。李克用はその意味をとって、脱出するのは中止した。ここにとどまること数日にして、散り散りになった兵士たちもまた集まってきた。李嗣昭が夜に乗じて朱友寧の陣営をおそったので、朱全忠軍はおどろいて退去したが、周徳威は追撃して白壁関にいたり、また慈州・隰州・汾州の三州を手中に収めた。 天復三年(903)、李克用は雲州を攻めたが、帝が鳳翔より長安に還ったと聞いて立ち去った。雲州の都将の王敬暉は、刺史の劉再立を殺して、その地を劉仁恭に与えた。李嗣昭がこれを討ったが、劉仁恭は王敬暉をたすけた。李嗣昭は楽安鎮にとりでを築いて戦おうとしたが、劉仁恭は王敬暉をともない、城をすてて去った。 帝は東遷して、詔は太原にもたらされた。李克用は泣いてその部下に、「帝はこんごふたたび長安にかえることはないであろう」と言った。そして使者をつかわして急ぎ行在所に安否をたずねさせたので、にわかに協盟同力功臣という号を追加された。李茂貞と王建は、邠州の楊崇本とともに使者をつかわし来たって義挙を約したけれども、李克用は、「諸藩鎮はみな朱全忠にくみしているから、ともに功業をたてるべきではないが、ただひとり契丹の耶律阿保機のみはなお役に立つ」と考えて、辞を卑うして阿保機を呼びよせた。阿保機は、自身で雲中に来て李克用に会い、兄弟となることを約し、とどまること十日にして去った。そして馬千匹、牛・羊一万匹ばかりをおくり、冬には大挙して黄河をわたって進撃する旨を約束したが、たまたま昭宗が弑されたために中止された。 天復四年(904)、王建と李茂貞は、李克用に大挙を約し、王建の部将の康晏は、歩騎二万人をひきいて李克用の監軍の張承業とともに鳳翔に集結したが、このとき、朱全忠の部将の王重師は長安を劉知俊は同州をそれぞれ守っており、長安の西で戦闘がはじまったが、王建の兵は敗れてついにふるわず、唐朝は亡んだ。王建は淮南の楊渥とともに、李克用にたいし、みずから一方面の王となり賊の平らぐのをまって唐朝の宗室をたずねもとめて擁立されんことを請い、また王建は、四川の職人をことごとく集めて天子の乗輿と御物を製作されんことを請うたが、李克用はこれに答えて、「みずから王となるのは、本来の志ではない」と言った。王建はまた李茂貞にたいし、岐州の地で王となるように勧めたが、李茂貞はおろかなうえに度量がせまく、またあえて王になろうとはしなかった。ただ、みだりに役所を飾りたてて天子の宮殿になぞらえただけであった。王建と楊渥とは、みずから王となった。この年、李克用は病にかかり、城門がひとりでにこわれるという事件があった。翌年(905)にかれはなくなった。 賛にいう、沙陀は、はじめて唐に帰付してより、辺境で生計をいとなみ、唐のために代々血を流して征討をたすけ、辺境の兵士たちの中にあってつねに最強であった。李克用にいたって、王室の騒乱にあい、ついに太原を手中に収めた。かれは、性質が重厚で、もとよりめったに二心を抱くことはなかったが、みずからの能力を自負して天下を経営しようとして、しかもなしえなかった。兵士たちはすぐれていたが、しかもしばしば戦いに敗れ、土地を手に入れたが、しかもまたこれを失った。このような次第なので、皇帝がむりに都の外に遷されるのを目前にしても、くびをちぢめ、はずかしく思って汗をかき、日をなおざりにしてそのたおれるのを待つありさまであった。そのやりくちはまた、なんといやしいではないか。沙陀の人々が勇敢なるによって、また勢いをふるうようになった。このとき、兵をひきいて君主に心をよせて努力したのは、五家の人々であったが、しかも朱氏(朱全忠)のために唐は亡んでしまった。唐のために恥辱をすすいだのは、沙陀であった。李克用がすこしく古今の事柄を知っていたならば、斉の桓公や晋の文公のように行動しえたであろうし、それなれば、唐もにわかに亡びることはなかったであろう。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十七下 列伝第一百四十二下 『新唐書』巻二百一十八 列伝第一百四十三 巻二百一十九 列伝第一百四十四
https://w.atwiki.jp/nuconuco/pages/135.html
このページは、新箱庭観光通信シリーズ第2シーズンである「[[扶中戦争]]」の前哨戦である。 20XX年4月21日から5月12日の間に中華人民共和国(以下、中国)と中華連邦共和国(以下、台湾)との間で発生した戦争。 衝突した勢力 人民解放軍陸軍 中華連邦共和国陸軍 人民解放軍海軍 中華連邦共和国海軍 人民解放軍空軍 中華連邦共和国空軍 人民解放軍第二砲兵部隊 自由東南アジア解放同盟軍 オーシア海軍特殊部隊 Navy SEALs Team9 オーシア海兵隊第31遠征部隊 指揮官 楊菲菲海軍中将 黎星刻海軍中将 王志強海軍少将 周香凛海軍少将 安同北海軍上級大将 洪古海軍少将 概要 軍事的背景 中国政府が人革連を設立してから急激な成長を遂げていた。これに危機感を抱いた台湾は、オーシアから急遽イージス艦や最新鋭のF-35を大量に導入するなど中国の軍拡に対抗するよう身の丈に合わない軍事増強を図っていた。また、人革連の圧政から逃れた中国人や旧政権の関係者、また東南アジアの王族や軍人を受け入れ亡命政権の樹立を許可してしまった。 一連の流れが中国政府の琴線に触れ、台湾にこれまで以上に強い圧力をかけることになるとともに、台湾侵攻の口実を探していた。 そんな中、南シナ海やインド洋で中国籍の商船だけを狙った反政府ゲリラ組織「自由国民アジア戦線」が、台湾に樹立された「自由東南アジア解放同盟」の支援を受けているというリーク情報を得た。当初このあからさますぎる情報は眉唾物と思っていたものの、今後の外交の材料になると思った情報部が精査した結果、本当に裏で繋がっていたことが判明した。 この事実に対し中国政府は台湾と自由東南アジア解放同盟に強い非難の声明を発表する。これと同時に、 自由東南アジア解放同盟の解散及び首脳部や政府関係者の身柄の拘束 海賊行為を幇助した台湾に対し賠償金2000億元の支払い(*1) 金門島や金馬地区、澎湖諸島、東沙諸島、南沙諸島の領有権を放棄し領有権を中国に委任する という無茶難題をふっかけ、これを半年以内に履行しなければ軍事制裁を実施するという声明を出した。台湾マジでいい迷惑 しかし中国が半年も悠長に待ってくれるわけがなく、声明発表からわずか2週間後に「台湾政府には我が政府の正統にして温情のある要請を履行する意思が見られず、愚かにも武力によってこれらの要請を反故しようとしている」と突如声明する。そして中国はこれを自国に対する武力行為の前触れと捉え、先制的自衛権を口実に台湾斬首作戦を発動する。 中国政府の思惑 中国と台湾は第二次世界大戦終結後の国共内戦から因縁のある関係であった。 長年、台湾併合を狙っている中国にとって最も恐れていることはオーシアとの全面戦争に突入することである。しかし逆に扶桑やオーシアの介入前に台湾併合を既成事実化してしまえば国連の常任理事国であり大国である中国相手に、オーシアも1つの中国を認めている手前、無理をして反撃をしてこないと考えていた。つまり中国が目的を達成するためには、扶桑やオーシアに介入する暇を与えず電撃的に台湾を手中に収めて台湾が中国の一部を世界に認めさせることが必要であった。 中国は経済成長を背景に空海軍力を急速に増強していたが、正面から大規模な侵攻作戦を行なおうとすれば忽ち扶桑やオーシア、台湾に探知され、迎撃作戦を展開するであろう。オーシアとの戦争状態に突入することは間違いない。そこで中国は1つの作戦を考案した。 斬首戦略。それはソ連のアフガニスタン侵攻作戦を手本に考案した特殊部隊による電撃作戦である。 最終的には完全な成功とは言いがたい不完全燃焼に終わったと評価されることが多いソ連のアフガニスタン侵攻作戦であるが、アフガニスタン首脳部を排除して親ソ派傀儡政権を打ち立てるまでは極めて順調にことが運んだのである。このときに決定的な役割を果たしたのがKGBや軍情報部GRUのスペツナズ部隊である。スペツナズ部隊が大統領官邸を襲撃し大統領を連行・処刑し首脳部を失ったアフガニスタン政府が瓦解。かくしてソ連軍はアフガニスタンを制圧したのである。 中国がやろうとしているのは同じ事で、特殊部隊により台北へ電撃的な襲撃を行い、台湾首脳部を排除する。そして傀儡政府を打ち立て台湾の中華人民共和国への帰属を全世界に発表する。扶桑やオーシアに介入の暇を与えず既成事実化できれば、もはや阻止出来る者はいない。指揮系統を寸断された台湾軍は効果的な迎撃は行なえず、人民解放軍正規軍が上陸して台湾全土を制圧すればそれで終わりである。 台湾を制圧すれば、叛乱分子討伐という成果によって国内のインフレに対する不満を逸らし共産党の威光を高めることができる上に、対外的には台湾周辺を通るシーレーン、特に南シナ海と太平洋を繋ぐ大動脈であるバシー海峡を手中に収めることができる。 上記のような思惑から中国は急遽海軍直轄部隊を中心とした北海艦隊、東海艦隊の連合艦隊を編成し過去最大規模の侵攻作戦を実行する。 開戦 台北空爆 第一撃を担ったのは東風15型短距離弾道ミサイルである。射程600kmのこのミサイルは数十発が短時間のうちに発射され、台北周辺の防空施設を集中的に攻撃した。 その混乱の最中、福建省各地の飛行場から十機ほどの輸送機が飛び立った。旧ソ連が開発したAn-24型輸送機を中国が国産化した運輸7型機で、50名ほどの兵士を運ぶことができた。さらに海上を多数の擬装漁船や商船が台湾海峡を渡っていた。どの機体、船にも完全武装の兵士を乗せていた。彼らは海兵隊と空挺部隊の精兵、さらに市街地戦能力に長ける武装警察特殊部隊から成っていた。 台湾西部の各空軍基地・航空戦力の壊滅 台北爆撃の報よりも少し前、レーダーサイトのレーダー画面の一部が真っ白になると同時に大規模な通信障害が発生する。 その後、台北陸軍衛戍地から攻撃を受けているとのを報告していると思われる不鮮明な通信の後、レーダーは元に戻ったもののレーダー画面に第1攻撃隊は映っていなかった。 混乱の中、各基地の空軍司令長官は空襲を受ける可能性に気づいたが、直援機の発進を命じた直後、今度はレーダー画面全体が真っ白になる。 事態を察知した司令長官は即座に全機出撃を命じるが、事態は最悪な局面に向かっていた。 迎撃機と対空レーダーとへの探知を避けるために超低空飛行で侵入したJH-7Bステルス戦闘攻撃機16機がレーザー誘導爆弾を用いた精密爆撃により、滑走路、待機中の戦闘機、対空砲陣地を軒並み破壊し、反撃手段を奪って安全を確保した後に、レーダーなど重要施設を破壊していく。 結果、1時間も経たない内に各航空隊基地は半壊することとなる。 爆撃終了後、ようやく救護と消火、被害確認を始めようとしたところに、今度はそれぞれの基地にJ-11/16制空戦闘機156機が飛来する。 戦闘機も対空砲も使えない状態だったが、移動式対空機関砲での反撃を試みるも、逆に報復の銃爆撃を受けた。結果、主要施設は無事なものはなく、火薬庫や格納庫は跡形も吹き飛び、周囲の道路まで破壊される有様だった。 総統府占拠 最初に台北の地に展開したのは台湾海峡を渡った第244自動車化師団の陸戦部隊であった。偽装船舶に乗って台湾各地に潜伏していた工作員とともに空挺部隊の降下に適する台北周辺の地点を確保していた。そしてそこへ空挺部隊が次々と降下していたのである。そして彼らは分かれて台北の要所制圧に向かった。 台湾政府に対応する暇はほとんど無かった。突然の弾道ミサイル攻撃に混乱している間に要所を制圧され、指揮系統は寸断された。総統府も特殊部隊に襲われ、総統と一緒にいた側近は中国武装警察によって逮捕され、何処かへと連行された。難を逃れた台湾首脳部の者もいたが、軍やその外の治安部門と連絡をとることができずにいた。 台湾の首脳部はまさに斬首された。精鋭台湾軍も指揮系統を寸断され、命令も情報も届かない状態になって機能不全に陥った。各所で指揮系統回復の動きがすぐに始まったが、その成果が実るには暫しの時間が必要であった。しかし、既に傀儡政府を打ち立てるべく行政官を乗せた特別機が台北に向かって出発していた。 人民解放軍連合艦隊の動向 海軍は陸軍特殊部隊の斬首作戦と並行して太平洋方面から大規模な攻勢を仕掛けた。この時太平洋側から侵攻を開始した中華連合艦隊の正体は、先日扶桑近海で大演習を実施していた直轄艦隊と、これとは別にアリューシャン方面で航海演習をしていた北海艦隊である。中国大陸側からは台湾侵攻の主戦力となる東海艦隊が拠点攻撃を開始し、台湾海軍は対応に追われることになった。当初は中国艦隊の怪しい動向にm警戒していたが、昨年12月から今年の8月に至るまで146回もの同規模の海上演習が行われており、油断しきっていたことによって対応が少し遅れてしまったことが命取りとなってしまった。 中華連合艦隊は主に早期警戒機やレーダーサイトの無力化、電波施設の攻撃、また沿岸部の航空基地の徹底した空爆をおよそ1,000機近い作戦機を導入して実施した。制空権を一時的に確保した中華連合艦隊は、初期の混乱で動けなかった各鎮守府の艦艇を攻撃する。態勢の整わない台湾海軍西部艦隊は澎湖諸島に逃れるも一連の流れで海軍艦艇の8割を失う痛手を負った。 各艦隊の要所攻撃場所 東太平洋海戦 直轄艦隊+北海艦隊 台北 基隆 宜蘭 花蓮 台東 太平洋側方面の中華連合艦隊は、台湾空軍の航空迎撃隊250機の猛攻をいなしつつYJ-16艦対艦ミサイルを発射。中央艦隊・東方艦隊の空母3隻と駆逐艦11隻、フリゲート16隻を撃沈ないし大破させる。 続けて250機の台湾空軍戦闘機を迎撃機と艦対空ミサイルによって112機を撃墜。さらに残存機・残存艦も一時間足らずで撃沈された。 窮地に立たされた台湾海軍総司令部は反撃を試み一旦戦闘海域を離れ態勢を整えようとするも追撃にあい巡洋艦4隻、駆逐艦20隻、フリゲート8隻が沈没ないし航行不能となり撤退した。この戦闘で生き残ったのは逃亡した空母・駆逐艦・フリゲートの9隻のみ。台湾海軍主力はこの時をもって、事実上全滅した。 戦闘の最中、台北攻略中の052D型駆逐艦「浦東」が総司令部のある国防部海軍司令部に向けYJ-18巡航ミサイルを発射。海軍司令部は爆砕され、海軍総司令官である海軍元帥、海軍の頭脳とすら言われた作戦参謀を含むほぼ全員が戦死した。これにより、海軍全体の指揮能力も失われる。 中央・東方艦隊を一掃した中華連合艦隊の攻撃により、各海軍基地港はすべての軍事施設を破壊され、軍港としての機能を失った。 台湾海峡海戦 東海艦隊+南海艦隊 台中 新竹 高雄 澎湖列島 同刻、最初に攻撃を受けたのは哨戒にあたっていたE-2T早期警戒機2機であった。J-20のステルス対空ミサイルにより、2機は報告を送る暇も無く撃墜された。続いて、同じく哨戒にあたっていたフリゲート5隻も、瞬時に轟沈した。 軍港に停泊していた主要戦闘艦艇も機雷封鎖と広範囲ジャミングによりろくに身動きが取れず、中華連合艦隊の対艦ミサイルと航空波状攻撃によりすべて爆発炎上。台湾海軍は極めて不利な状況の中でも善戦するが40分足らずで海上戦力はすべて失われていた。 陸上戦力も嘉興秀洲空港基地から発進したJH-7Bの爆撃により壊滅。戦闘開始から二時間という記録的短時間で台湾軍は全滅する。 およそ一時間後、空母「丹南」(*2)所属の艦上戦闘機部隊が駆けつけるも、彼らが見つけたのは軍艦の残骸と焼け野原になった陸上基地だけであった。 なお、この時に残存艦隊は東海・南海両艦隊と対峙するがもう一回本格的な海戦するだけの弾薬が残されておらず、小競り合い程度の戦闘が発生した程度で住んでいる。(第二次台湾海峡海戦) 傀儡政権の樹立 戦闘開始してから二時間経過した午前5時頃、総統府を制圧して台北を手中に収めつつある中、突如TVからある声明が発表された。 「現在、台北は極めて混乱した状況にあります。私はこの問題を大陸と協同で解決しなければならないと考え、本土に緊急の部隊派遣を要請しました」 テレビで緊急事態への対処と中国との連帯を訴える人物こそ中国の傀儡政府の指導者であった。傀儡政府は中国に支援を要請して、中国はそれを口実に正規軍を台湾に上陸させる。中国の台湾侵攻作戦は最終段階に突入しつつあった。 宮古島沖扶桑護衛艦誤射事件 これは中華連合艦隊と扶桑海護総隊第10管区所属の護衛艦との間で起きた悲劇である。 中華連合艦隊が台湾侵攻のため南下していたところ扶桑海軍の護衛艦と接触。 領海侵犯した中華艦隊に抗議をしたところ、突如中華連合艦隊直属の大型巡洋艦「鎮西」が放った砲弾が護衛艦に直撃し沈没させられた。 人革連政府はこの後の扶桑政府からの講義に対して一連の流れに否定的もしくは黙秘を貫いていたが、扶桑側が情報を開示したことから言い逃れはできないと悟ったのか謝罪と追悼の声明を発表した。 その後の人革連側の査問委員会の調査によると鎮西艦長の独断による攻撃であることが判明、人革連政府は今回の事件の関係者を全員処罰することを発表した。艦長及び副長はすぐさま軍事刑務所に軟禁し2日後銃殺刑に処し、将校も全員更迭、乗組員は全員内地に飛ばされるという異常に厳しい処分が下った。 なお、今回の事件を受けて安同北上級大将の幕僚補佐を務めた人物が突如として憤死したことやその後幹部将校が全員一ヶ月以内に不審な死を遂げているなどの不穏な情報が出回っている。 オーシアの暗躍 中国の一連の暴挙に対し、オーシアもただ手をこまねいているわけではなかった。 核兵器を自国やユークの次に多く保有する中国と全面戦争を避けつつ中国の台湾領有の既成事実化を阻止し、逆にオーシアの台湾への介入を既成事実化するよう以下の地上部隊の派遣を決行した。 海兵隊第31遠征部隊:1,250名 Navy SEALs Team 5:150名 合計2,000名にも満たない戦力ではあるが、彼らに課せられた任務は台湾軍の建て直しに協力することであり、中国の特殊部隊に対処する抑えとしての役割もある。さらに地上部隊の派遣は、オーシアの不退転の意思を中国に示すとともに、中国軍には作戦の更なる進行を躊躇させることが期待されていた。 地上部隊がそこにいれば、中国が台湾を制圧しようとすれば海兵隊と戦わなくてはならず、オーシアはその事実を以って台湾への介入を既成事実化できる。また地上部隊の衝突とあっっては中国自身もオーシアとの全面戦争を覚悟しなくてはならない。 検討案の中には海軍や空軍の投入もあったが、機動力の高さ故に簡単に投入も撤退もできる両軍不退転意思表示としては些か弱かったため棄却された。 こうしてフィリピンのクラーク海兵隊基地「キャンプ・クラーク」から25機のCH-53Eが離陸し辛うじて生き残った台湾軍衛戍地へ向かった。 行政院長の保護 1,250名を乗せた海兵隊ヘリ大隊は中華連合艦隊の索敵網に引っかからないよう屏東県方面から北上し苗栗陸軍衛戍地に着陸した。 今回海兵隊に課せられた任務は遊撃戦闘と情報収集、台湾政府首脳部の要人の安全を確保することである。 まず海兵隊は上陸した中国軍の兵力を図るため、分散した偵察隊に威力偵察の実行を指示し、作戦に沿って裏路地を通って博愛特区を中心に警護している中国軍武装警察隊に感知されることなく一撃離脱戦法を繰り出した。 中国軍は突如にして見えない敵からの攻撃に混乱し現場の士気が下がり始めていた。 また、海兵隊は市街地での交戦の中で蒋麗華 行政院長(*3)を保護し一旦台湾軍基地に護送したとの情報が入った。これにより、海兵隊は第二フェイズである行政中枢である博愛特区の奪還と台湾政府及び軍の回復に移行しようとしていた。 一方、交錯した情報の中で中国政府はオーシアの関与を疑ったが、何よりも面子を重んじる中国政府が「現場の混乱による不確定な情報」と断定し強引に本格的な上陸作戦を決行する。 博愛特区の制圧 武装警察隊だけでは埒があかないとして中国陸軍に支援を要請。 遠征部隊指揮官アーマド・シュワルツコフ中佐は一部の通信部隊とその護衛を残して海兵遠征隊のほぼ全力を博愛特区にぶつけた。中国側も増援部隊を派遣していたので、どちらが先に着くか時間との競争であった。そして勝ったのは海兵隊であった。 最初に博愛特区に到着した小隊は中隊本隊と合流し、引き続き一撃離脱攻撃を繰り返した。それまでの攻撃は威力偵察を目的にしたものであったが、それからは海兵隊主力の行動を欺瞞するための牽制攻撃であった。つまり海兵隊の攻撃方向を悟らせずに、主力を以って弱点を一気に突破するのである。 牽制中隊の攻撃で中国の守備兵たちが博愛特区の南に集まったところに海兵隊主力が北側から突入した。完全に虚を突かれた中国軍守備隊はほぼ同数の海兵隊に完全に圧倒された。 中国軍は虚を突かれたこともあり、崩壊しつつあった。中国軍部隊指揮官は海兵隊が一撃離脱戦法を繰り返したこともあって相手の規模を掴めず、主力が突入してきた時点で自分達が自らの部隊よりも遥かに強大な敵を相手にしているように思い込んでしまったのである。指揮官は戦意喪失し、博愛特区の中国軍は完全に主導権を奪われた。末端の兵士にはまだまだ戦意のある者が幾らでもいたが、軍隊とは組織となって初めて威力を発揮するもので、指揮中枢が崩壊した時点でもはや結果は確定してしまっていた。 海兵隊が戦場を支配し、中国兵はちりじりになって散った。中国軍部隊は完全に崩壊し、一部の兵士が戦いを続けていたが、海兵隊の前にすぐに沈黙させられた。 こうして博愛特区における戦闘はオーシア海兵隊の勝利に終わり、政府復活の声明発表の下地が整った。 台湾政府の復活 行政院長は苗栗衛戍地で衛星通信を経てオーシアのハーリング大統領と会談をしていた。オーシアは台湾を見捨てるつもりはないと発表し、中国の本格的な上陸を何としても阻止すると表明した。 同時期にオーシア空軍第5空軍に所属しているEC-130E電子支援戦機と護衛のF-15Cは台湾を目指して北上していた。 EC-130Eコマンド・ソロIIはオーシア空軍の誇る空飛ぶ放送局である。その任務は敵国の放送網をジャックし、プロパガンダ放送を流して相手国民の戦意を挫く事にある。勿論、今回のように占領下の友好国民を励ますような目的でも使われる。 EC-130Eは台北沖上空で旋回していた。護衛のF-15飛行隊が周囲を守っているが、不思議と中国軍が攻撃を仕掛けてくる気配はなかった。この時、台湾上空を警備していた第40航空旅団はオーシア空軍機の迎撃許可の要請をかけたが、オーシアとの全面戦争を恐れた国防部が要請を却下したことが戦後明らかになった。 EC-130Eは台湾のテレビ放送を妨害し電子支援戦闘を開始すると同時に、世界各国に行政院長の声明が発表された。 戦争の終結 行政院長の声明が世界に発信されると同時にオーシア海兵隊と中国陸軍・武装警察特殊部隊の戦闘も同時に放映された。これらの放送は中国政府上層部にも伝えられており、台湾から撤退するか決断を迫られていた。このまま正規軍同士の戦闘をやめさせるか、台湾侵攻強行してオーシアと全面戦争に突入するか。しかし悲願の台湾統一が目前まできているということもあり、決断が下せないでいた。 当の現場の中国軍部隊も自分たちが戦っているのは台湾軍ではなくオーシアの正規部隊であることが知れ渡り、士気に少なからず悪影響を及ぼしていた。市街戦は中国陸軍正規部隊の増援により熾烈を極め、オーシア海兵隊側にも少なからず死傷者が増え始めていた。 人海戦術で包囲殲滅を図ろうとした中、奇襲から立て直した台湾陸軍機械化部隊が戦闘に介入した。台湾陸軍はM1AT2エイブラムスと新型国産戦車G1「猛虎」を投入し先に上陸していた15式軽戦車や05式水陸両用戦車を駆逐した。まだまとまった数が上陸できていない99式主力戦車や96G式主力戦車を各個撃破された。 中国の台北上陸部隊は現場の混乱と指揮の乱れから台湾軍機械化部隊にまともに抵抗できずに各個撃破され、包囲されつつあった。 オーシア政府の武力介入 オーシアはフィリピン・インドネシア方面から第5・第7空軍を、ハワイ・グアム・オーストラリアから第7・第8艦隊とインド洋から第5艦隊を中心とする大規模な連合艦隊を差し向けた。 本格的な戦闘になることを恐れた中国政府は各艦隊と第二次上陸部隊を引き上げた。 戦争の終焉 この後、事態は迅速に終息に向かった。 指揮系統が回復して、その能力を万全に発揮できるようになった台湾軍は海兵隊に代わって中国軍コマンド部隊掃討を進めて台北の治安を回復し、傀儡政府の面々は姿を消した。 翌日には最初の空母群である ジョージ・ワシントン 空母打撃群が台湾海峡に入り、中国海軍の動きを完全に封じ込めた。さらにオーシア空軍の攻撃部隊も到来して、中国がさらなる作戦を進めるならば、その中枢部に迅速な打撃を与えられる態勢を整えた。事前集積船が台湾に入港してオーシア陸軍部隊が台湾の地を踏むことになれば、もはや中国の侵攻作戦が成功することはありえないことであろう。 中国も台湾制圧を諦めて沈静化を図った。特殊部隊の台湾への侵攻を一部過激分子の独断行動であると発表し、さらに中国海軍の異常な行動は警戒のための行動であると説明した。中国政府は責任者を処罰することを世界に宣言し、指導部は総辞職することになった。 中国が世界経済に対して大きな影響力を持つ国連常任理事国の大国であることもあって厳しい制裁は行なわれなかったが、各国の激しい批判に晒されることになった。 台湾側の被害 陸軍・空軍は最初の奇襲攻撃で全体の1~2割ほどの戦力を喪失。特に被害が甚大だったのが沿岸部付近の部隊で9割近くが全滅している。 海軍は最初の奇襲に加えて楊菲菲提督率いる中国北海艦隊との戦闘で中央艦隊・東方艦隊が壊滅的被害を被り西方艦隊も9割近くの戦闘艦艇を失い再起不能なほどの痛手を負った。 自由東南アジア解放同盟の解散 戦争の発端となった自由東南アジア解放同盟はその後台湾政府によって人民解放軍に引き渡され、首脳部及び軍人関係者はウイグル強制収容所に連行され、避難民は元にいた国に強制帰国させられた。また、一連の流れにより「自由国民アジア戦線」の位置情報が芋づる式に洗い出され、東南アジア方面や台湾で一斉に掃討作戦実行された。 オーシアやユークは当初この強引な対応に強く抗議したが、中国の「あんたらだってイラクやチェチェンで似たようなことやっていただろ(超訳)」と反論したため以降は有耶無耶になっている。 また、台湾も「これ以上攻撃されたくなかったらいうことに従え(意訳)」と脅迫し自由国民アジア戦線の掃討作戦に協力させられた(*4) 扶桑皇国との関係 戦力 海軍戦力比(中台戦争時の参加兵力) 人民解放軍海軍 中華連邦共和国海軍 戦艦14隻 戦艦4隻 大型空母13隻 中型空母6隻 装甲巡洋艦9隻 大型巡洋艦8隻 巡洋艦9隻 巡洋艦6隻 防空駆逐艦78隻 ミサイル駆逐艦48隻 水雷駆逐艦20隻 汎用駆逐艦28隻 護衛駆逐艦80隻 フリゲート48隻 護衛艦29隻 水雷艦/対潜艦/通報艦48隻 強襲揚陸艦12隻 揚陸艦16隻 中型揚陸艦21隻 原子力潜水艦30隻 原子力潜水艦6隻 通常潜水艦80隻 通常潜水艦24隻 空軍戦力比 人民解放軍空軍 中華連邦共和国空軍 J-10A/B 240機 ミラージュ2000-5Di/Ei 160機 J-10C/D 370機 ミラージュ4000 40機 J-11A/B 340機 F-14D 160機 J-11C/D 150機 F-15C/D 120機 J-16A/B 180機 F-15E 120機 J-16C/D 170機 F-16E/F 280機 J-20 300機 RF-16 40機 J-31 220機 F-35A 340機 人民解放軍海軍 海軍直轄艦隊 空母3隻 装甲巡洋艦6隻 防空駆逐艦10隻 護衛駆逐艦12隻 003中原型原子力航空母艦 中原 天朝 唐土 029型大型巡洋艦 鎮東 鎮西 鎮南 鎮北 鎮中 鎮辺 052F型ミサイル駆逐艦 盛京 大都 臨安 鎬京 大興 新京 高陽 唐山 平陽 天京 054B江凱型護衛駆逐艦 順天 邵陽 安西 天水 北海 武威 順天 楽山 瀘州 宣賓 閬中 温州 北海艦隊 戦艦8隻 空母4隻 装甲巡洋艦3隻 巡洋艦5隻 防空駆逐艦35隻 水雷駆逐艦10隻 護衛駆逐艦35隻 護衛艦14隻 強襲揚陸艦5隻 揚陸艦7隻 中型揚陸艦9隻 戦艦 河北型戦艦 河北 河西 吉林 青海 陝西型戦艦 陝西 四川 雲南 浙江 空母 002北京型原子力航空母艦 北京 上海 重慶 001遼寧型航空母艦 遼寧 巡洋艦 開封型装甲巡洋艦 開封 雄安 大連 哈爾浜型巡洋艦 哈爾浜 深圳型巡洋艦 智安 奉天 梅雪 天宝 駆逐艦 055南晶型駆逐艦 常徳 紹興 建康 無錫 淮陰 鎮江 052E瀋陽型駆逐艦 瀋陽 恵州 浦東 浜海 長安 大台 旅順 西康 伊春 広西 清華 成慶 神鶴 高雄 052D昆明型駆逐艦 昆明 長沙 合肥 銀川 貴陽 憑祥 衡陽 西昌 052B広州型駆逐艦 広州 武漢 鞍山 撫順 051C藩陽型駆逐艦 藩陽 石家荘 956E杭州型駆逐艦 杭州 福州 泰州 寧波 黄石 蕪湖 濟陽 鳳陽 汾陽 蘭陽 護衛駆逐艦 053江滬型フリゲート 葫芦島 懐化 襄樊 綿陽 洛陽 伏波 安瀾 054A江凱型フリゲート 徐州 十堰 浜州 慶州 黄山 衡陽 運城 玉林 日照 咸寧 南通 徳陽 和竜 北安 穆棱 河津 054B江凱型護衛駆逐艦 哈密 楼蘭 呉忠 焦作 豊城 臨海 安慶 蓬萊 東山 衡南 武進 射陽 護衛艦 056型コルベット 大同 営口 威海 撫順 信陽 黄石 秦皇島 張掖 烏海 京兆 湖州 維陽 毘陵 京口 揚陸艦 079鳳凰山型多目的輸送艦 太白山 075天台山型強襲揚陸艦 九華山 梧桐山 会稽山 玉龍山 072玉亭Ⅲ型戦車揚陸艦 天柱山 大青山 072玉亭Ⅱ型戦車揚陸艦 雁蕩山 黄崗山 071崑崙山型揚陸艦 林慮山 日月山 沂蒙山 中型揚陸艦 玉海型揚陸艦5隻 玉北型揚陸艦2隻 東海艦隊 戦艦6隻 空母6隻 巡洋艦4隻 防空駆逐艦33隻 水雷駆逐艦10隻 護衛駆逐艦33隻 護衛艦15隻 強襲揚陸艦7隻 揚陸艦9隻 中型揚陸艦12隻 戦艦 安徽型戦艦 安徽 湖南 湖北 江西 福建 貴州 航空母艦 001B広東型航空母艦 天津 澳門 001A山東型航空母艦 山東 山西 四川 001遼寧型航空母艦 海南 巡洋艦 哈爾浜型巡洋艦 青島 深圳型巡洋艦 桂林 蘭祥 達芝 偉葉 海天型巡洋艦 海天 海圻 海容 海籌 海琛 駆逐艦 055南晶型駆逐艦 南晶 丹陽 厦門 九江 南平 吉安 長治 茂名 宜賓 台州 052E瀋陽型駆逐艦 昌江 永順 平津 盧溝橋 錦江 廊坊 翁源 広安 菖香 有津 巌城 明泉 052D昆明型駆逐艦 南京 成都 鏡清 寰泰 東川 下関 052B広州型駆逐艦 南寧 西寧 自貢 北海 956E杭州型駆逐艦 舟山 滄州 迪化 武昌 承德 康定 海陽 淮陽 寧陽 宜陽 護衛駆逐艦 053江滬型フリゲート 淮北 銅陵 嘉興 連雲港 蒲田 三明 宜昌 054A江凱型フリゲート 益陽 常州 煙台 塩城 衡水 柳州 臨沂 岳陽 崇左 通遼 蘭谿 崑玉 韓城 原平 海城 涿州 054B江凱型護衛駆逐艦 安西 天水 北海 武威 温州 渡口 大梁 漳州 沐陽 東豊 武寧 護衛艦 056型コルベット 蚌埠 安吉 泉州 三門峡 株州 宿州 銅仁 淮安 寧徳 保定 荷沢 鄂州 烏義 宣城 宜春 揚陸艦 079鳳凰山型多目的輸送艦 大黒山 青城山 紫金山 三清山 075天台山型強襲揚陸艦 天台山 雲台山 関門山 072玉亭Ⅲ型揚陸艦 八仙山 072玉亭Ⅰ型揚陸艦 五峰山 霊岩山 洞庭山 賀蘭山 六盤山 071崑崙山型揚陸艦 龍虎山 五指山 羊台山 普陀山 運輸型揚陸艦 嵊山 魯山 泥山 福山 中型揚陸艦 玉海型揚陸艦2隻 玉北型揚陸艦4隻 中華連邦共和国陸軍 九州より少し小さい程度の国土に「密です」と言わんばかりにギチギチに敷き詰められた軍隊。しかし一個師団の隊員の定数は6,000から10,000人と、最小規模の師団はユーク基準だと旅団レベルしかない。常設軍と予備役である郷土防衛義勇隊から構成されている。 中華連邦共和国陸軍編成 首都防衛指揮部(台中衛戍地) 第1禁衛師団 第2禁衛師団 第3禁衛師団 第4禁衛師団 第5禁衛師団 首都防衛砲兵旅団 首都防衛工兵旅団 首都防衛通信旅団 首都防衛後方継戦旅団 桃園方面指揮部(桃園衛戍地) 第1機甲師団 第6歩兵師団 第10歩兵師団 第13歩兵師団 第24歩兵師団 第26機甲師団 第33砲兵師団 第40重戦車旅団 第52航空旅団 桃園方面砲兵旅団 桃園方面工兵旅団 桃園方面通信旅団 桃園方面後方継戦旅団 桃園補給統制本部 台中方面指揮部(台中衛戍地) 第4機甲師団 第7歩兵師団 第9歩兵師団 第31砲兵師団 第45重戦車旅団 第53航空旅団 台中方面砲兵旅団 台中方面工兵旅団 台中方面通信旅団 台中方面後方継戦旅団 台中補給統制本部 高雄方面指揮部(高雄衛戍地) 第3機甲師団 第8歩兵師団 第23機甲師団 第42重戦車旅団 第55航空旅団, 高雄方面砲兵旅団 高雄方面工兵旅団 高雄方面通信旅団 高雄方面後方継戦旅団 高雄補給統制本部 花蓮方面指揮部(花蓮衛戍地) 第2機甲師団 第14歩兵師団 第15歩兵師団 第18歩兵師団 第32砲兵師団 第56航空旅団 花蓮方面砲兵旅団 花蓮方面工兵旅団 花蓮方面通信旅団 花蓮方面後方継戦旅団 花蓮補給統制本部 台南方面指揮部(台南衛戍地) 第12歩兵師団 第16歩兵師団 第20歩兵師団 第21機甲師団 第22歩兵師団 第25機甲師団 第28歩兵師団 第29歩兵師団 第34砲兵師団 第57航空旅団 台南砲兵旅団 台南工兵旅団 台南通信旅団 台南後方継戦旅団 澎湖方面指揮部(澎湖衛戍地) 第11山岳師団 第5砲兵・機関銃師団 第51航空旅団 澎湖方面砲兵旅団 澎湖方面工兵旅団 澎湖方面通信旅団 澎湖方面後方継戦旅団 澎湖補給統制本部 金門方面指揮部 第19歩兵師団 金門方面後勤旅団 馬祖方面指揮部 第17歩兵師団 馬祖方面後勤旅団 東引方面指揮部 第35砲兵・機関銃師団 東引方面後勤旅団 教育研究総監部(台北衛戍地) 第401教導評価旅団 第991技術開発旅団 陸軍高等士官学校 各種陸軍兵科士官学校 各種陸軍兵科学校 郷土防衛義勇隊 第1郷土防衛師団 第2郷土防衛師団 第3郷土防衛師団 第4郷土防衛師団 第5郷土防衛師団 第6郷土防衛師団 第7郷土防衛師団 第8郷土防衛師団 第9郷土防衛師団 第10郷土防衛師団 第11郷土防衛師団 第12郷土防衛師団 第13郷土防衛師団 第14郷土防衛師団 第15郷土防衛師団 郷土防衛砲兵師団 郷土防衛工兵師団 郷土防衛通信師団 郷土防衛後方継戦師団 中華連邦共和国海軍 海軍航空隊 一個あたり航空船団の艦載内容 F-35C 20機(2個飛行隊) F/A-18E/F 30機(3個飛行隊) EA-18G 5機(1個飛行隊) E-2D 4機(1個飛行隊) CH-60Bヘリコプター 6機 C-2A輸送機 2機 東方艦隊(蘇澳鎮守府) 空母2隻 巡洋艦2隻 駆逐艦16隻 フリゲート16隻 第3航空戦団 台北級航空母艦 深州 彰化級ミサイル巡洋艦 屏東 第9駆逐戦団 成功級ミサイル駆逐艦 成功 鄭和 繼光 岳飛 第4航空戦団 台北級航空母艦 漢東 彰化級ミサイル巡洋艦 彰化 第10駆逐戦団 成功級ミサイル駆逐艦 英雄 子儀 班超 張騫 第4駆逐戦団 康定級ミサイル駆逐艦 康定 西寧 昆明 迪化 第16駆逐戦団 濟陽級ミサイル駆逐艦 雲陽 正陽 資陽 丹陽 第14護衛戦団 第101護衛戦隊 守月級護衛駆逐艦 守月 夕月 名月 観月 第102護衛戦隊 錦江級護衛駆逐艦 錦江 淡江 新江 鳳江 第17護衛戦団 第107護衛戦隊 海寧級護衛駆逐艦 海寧 江寧 撫寧 綏寧 第100護衛戦隊 広庚級護衛駆逐艦 広庚 広貞 楚泰級護衛駆逐艦 楚泰 楚同 西方艦隊(左営鎮守府) 戦艦4隻 空母2隻 大型巡洋艦8隻 巡洋艦2隻 駆逐艦12隻 水雷駆逐艦16隻 フリゲート16隻 第1航空戦団 台北級航空母艦 丹南 彰化級ミサイル巡洋艦 唐州 第7駆逐戦団 康定級ミサイル駆逐艦 建安 逸仙 大同 自強 第5航空戦団 台北級航空母艦 明京 彰化級ミサイル巡洋艦 凛龍 第8駆逐戦団 康定級ミサイル駆逐艦 武昌 承德 新北 桃園 第1打撃戦団 台湾級戦艦 台湾 太原 中華 天子 第2打撃戦団 基隆級大型巡洋艦 基隆 紀徳 蘇澳 明徳 第3打撃戦団 基隆級大型巡洋艦 左營 同徳 馬公 武徳 第14駆逐戦団 濟陽級ミサイル駆逐艦 洛陽 漢陽 咸陽 南陽 第1駆逐戦団 明陽級汎用駆逐艦 明陽 遼陽 進陽 麗陽 第2駆逐戦団 明陽級汎用駆逐艦 済陽 開陽 併陽 燐陽 第17駆逐戦団 早陽級汎用駆逐艦 襄陽 衡陽 華陽 岳陽 第19駆逐戦団 早陽級汎用駆逐艦 萊陽 瀋陽 德陽 綏陽 第15護衛戦団 第103護衛戦隊 守月級護衛駆逐艦 凛月 雅月 遼月 佳月 第104護衛戦隊 錦江級護衛駆逐艦 曾江 高江 金江 湘江 第18護衛戦団 第108護衛戦隊 海寧級護衛駆逐艦 威寧 崇寧 粛寧 義寧 第123護衛戦隊 広庚級護衛駆逐艦 広利 広亨 楚泰級護衛駆逐艦 楚予 楚謙 中央艦隊(基隆鎮守府) 空母2隻 巡洋艦2隻 駆逐艦16隻 水雷駆逐艦8隻 フリゲート16隻 第2航空戦団 台北級航空母艦 台北 彰化級ミサイル巡洋艦 黄浦 第12駆逐戦団 濟陽級ミサイル駆逐艦 濟陽 鳳陽 汾陽 蘭陽 第6航空戦団 台北級航空母艦 高雄 彰化級ミサイル巡洋艦 華鳳 第13駆逐戦団 濟陽級ミサイル駆逐艦 海陽 淮陽 寧陽 宜陽 第11駆逐戦団 成功級ミサイル駆逐艦 銘傳 逢甲 台中 台南 第15駆逐戦団 濟陽級ミサイル駆逐艦 安陽 昆陽 貴陽 慶陽 第3駆逐戦団 明陽級汎用駆逐艦 早陽 凛陽 黄陽 重陽 第5駆逐戦団 明陽級汎用駆逐艦 高陽 建陽 景陽 陰陽 第18駆逐戦団 早陽級汎用駆逐艦 恵陽 鄱陽 富陽 朝陽 第16護衛戦団 第105護衛戦隊 守月級護衛駆逐艦 秀月 楊月 寧月 光月 第106護衛戦隊 錦江級護衛駆逐艦 資江 溌江 昌江 珠江 第19護衛戦団 第109護衛戦隊 海寧級護衛駆逐艦 正寧 長寧 懐寧 会寧 第112護衛戦隊 広庚級護衛駆逐艦 広元 広玉 楚泰級護衛駆逐艦 楚有 楚観 潜水艦隊(蘭嶼鎮守府) 第1潜水団 第4潜水戦隊 海龍型潜水艦 海龍 海華 海犀 海青 第6潜水戦隊 海龍型潜水艦 海天 海圻 海容 海籌 第8潜水戦隊 海龍型潜水艦 海琛 海元 海福 海遊 第2潜水戦団 第5潜水戦隊 江犀型潜水艦 江犀 江鯤 江元 江亨 第7潜水戦隊 江犀型潜水艦 江利 江貞 江坤 江泰 第9潜水戦隊 江犀型潜水艦 江口 江解 江有 江福 第3潜水戦団 第1潜水戦隊 永綏型原子力攻撃潜水艦 永綏 永建 第2潜水戦隊 永綏型原子力攻撃潜水艦 永積 永翔 第3潜水戦隊 永綏型原子力攻撃潜水艦 永豊 永楽 島嶼艦隊(馬公鎮守府) 水雷艦24隻 対潜艦12隻 通報艦12隻 第20警備戦団 第113警備戦隊 安豊級護衛艦6隻 第115警備戦隊 聯鯨級通報艦6隻 第21警備戦団 第114警備戦隊 安豊級護衛艦6隻 第116警備戦隊 聯鯨級通報艦6隻 第22警備戦団 第117警備戦隊 安豊級護衛艦6隻 第118警備戦隊 聯鯨級通報艦6隻 第23邀撃戦団 第119雷撃戦隊 沱江級護衛艦6隻 第120雷撃戦隊 沱江級護衛艦6隻 第24邀撃戦団 第121雷撃戦隊 沱江級護衛艦6隻 第122雷撃戦隊 沱江級護衛艦6隻 中華連邦共和国空軍航空隊 桃園飛行場 - 滑走路3,350m。海軍第1航空隊 第51海軍飛行中隊 F-14C/D Block40/42 20機 第52海軍飛行中隊 F-14C/D Block40/42 20機 第53海軍飛行中隊 F-14C/D Block40/42 20機 第58海軍飛行中隊 F-14C/D Block40/42 20機 海軍第2航空隊 第50海軍飛行中隊 F-14C/D Block40/42 20機 第54海軍飛行中隊 F-14C/D Block40/42 20機 第55海軍飛行中隊 F-14C/D Block40/42 20機 第56海軍飛行中隊 F-14C/D Block40/42 20機 新竹南寮飛行場 - 滑走路3,600m。第2戦術戦闘航空団 第37飛行中隊 - ミラージュ2000 20機 第38飛行中隊 - ミラージュ2000 20機 第42飛行中隊 - ミラージュ2000 20機 第48飛行中隊 - ミラージュ4000 20機 第59飛行中隊 - ミラージュ2000 20機 第8戦術戦闘航空団 第10飛行中隊 - ミラージュ4000 20機 第41飛行中隊 - ミラージュ2000 20機 第43飛行中隊 - ミラージュ2000 20機 第47飛行中隊 - ミラージュ2000 20機 第49飛行中隊 - ミラージュ2000 20機 嘉義(水上)飛行場 - 滑走路3,335m。第4戦術戦闘航空団 第21飛行中隊 - F-16E/F block70/72 20機 第22飛行中隊 - F-16E/F block70/72 20機 第23飛行中隊 - F-16E/F block70/72 20機 第30飛行中隊 - F-16E/F block70/72 20機 救難中隊 - S-70C 第10戦術戦闘航空団 第24飛行中隊 - F-16E/F block70/72 20機 第25飛行中隊 - F-16E/F block70/72 20機 第28飛行中隊 - F-16E/F block70/72 20機 第39飛行中隊 - F-16E/F block70/72 20機 台中清泉崗基地 - 滑走路3,600m。第3戦術戦闘航空団 第7飛行中隊 - F-35A 20機 第21飛行中隊 - F-35A 20機 第22飛行中隊 - F-35A 20機 第26飛行中隊 - F-35A 20機 測試基評価中隊 - F-35A 20機 第11戦術戦闘航空団 第20飛行中隊 - F-35A 20機 第23飛行中隊 - F-35A 20機 第24飛行中隊 - F-35A 20機 第29飛行中隊 - F-35A 20機 第40飛行中隊 - F-35A 20機 岡山基地 - 滑走路2,350m。 主として空軍軍官学校が使用。 基礎教練大隊 - T-34C 戦闘教練大隊 - AT-3 空運教練大隊 - B-1900C 台南基地 - 滑走路3,356m。第1戦術戦闘航空団 第1飛行中隊 - F-35A 20機 第3飛行中隊 - F-35A 20機 第9飛行中隊 - F-35A 20機 第9戦術戦闘航空団 第2飛行中隊 - F-35A 20機 第4飛行中隊 - F-35A 20機 第5飛行中隊 - F-35A 20機 第15飛行中隊 - F-35A 20機 第14戦術戦闘航空団 第6飛行中隊 - F-15C/D 20機 第7飛行中隊 - F-15C/D 20機 第8飛行中隊 - F-15C/D 20機 第13飛行中隊 - F-15C/D 20機 屏東飛行場 - 滑走路2,400m。第6運輸対潜航空団 第10輸送飛行群 第101飛行中隊 - C-130H 第102飛行中隊 - C-130H 第7運輸対潜航空団 第11輸送飛行群 第103飛行中隊 - C-130H 第104飛行中隊 - C-130H 第20電戦飛行群 第2早期警戒中隊 - E-2T 第6電戦中隊 - C-130HE 第22電戦飛行群 第1早期警戒中隊 - E-2T 第9電戦中隊 - C-130HE 第1対潜飛行群 第33飛行中隊 - P-3C、S-2T 第34飛行中隊 - P-3C、S-2T 第61飛行中隊 - P-3C、S-2T 第2対潜飛行群 第35飛行中隊 - P-3C、S-2T 第36飛行中隊 - P-3C、S-2T 第62飛行中隊 - P-3C、S-2T 台東(志航)基地第7戦闘訓練航空団 第44飛行中隊 - F-15E 20機 第45飛行中隊 - F-15E 20機 第46飛行中隊 - F-15E(アグレッサー部隊) 20機 第60飛行中隊 - F-15C/D 20機 第12戦闘訓練航空団 第14飛行中隊 - F-15C/D 20機 第19飛行中隊 - F-15E 20機 第31飛行中隊 - F-15E 20機 第32飛行中隊 - F-15E20機 花蓮(佳山)飛行場 - 滑走路2,700m。第5戦術戦闘航空団 第26中隊 - F-16 E/F block70/72 20機 第27中隊 - F-16 E/F block70/72 20機 第63中隊 - F-16 E/F block70/72 20機 第12偵察中隊 - RF-16 20機 第13戦術戦闘航空団 第16中隊 - F-16 E/F block70/72 20機 第17中隊 - F-16 E/F block70/72 20機 第18中隊 - F-16 E/F block70/72 20機 第11偵察中隊 - RF-16 20機 中華連邦共和国海軍 能力的にはアメリカ海軍+若干の海自要素が含まれた海軍。数で勝る中国海軍に対抗するため一隻一隻の能力が極めて高く設計されており、常に国防部と財務省の予算を圧迫している。 しかし中国海軍も黙ってはおらず、近年中国海軍は質量ともに大幅に向上しているため「プチ冷戦」と呼ばれる艦艇建造競争が繰り広げられており、更なる軍拡が必要とされている財務省涙目。 基本的な戦術コンセプトとしては「絶対防衛」であり、扶桑皇国の片割れらしい異次元的な防空戦闘能力を誇る。ミサイル駆逐艦の大半をイージス艦で占めており、フリゲートもミニイージスやあきづき型に匹敵する個艦防空能力を持つなど、敵の攻撃を一切寄せ付けない極めて濃い防空戦闘を発揮する。反面、大規模な艦隊に対する打撃能力はやや低い。 空母 台北級航空母艦 同型艦 6隻 台北 高雄 漢東 丹南 明京 深州 性能諸元 満載排水量 89,000t 全長 345.5m 船体幅 39.5m 発着甲板幅 79.0m 最大速度 30.0kt 武装 ゴールキーパー 30mm高性能CIWS 4基 SeaRAM 21連装近SAM発射機 4基 HHQ-18 SAM 18連装発射機 6基 搭載機 F-35C/F-14D 20機 F/A-18E/F戦闘攻撃機 30機 EA-18G電子戦機 5機 E-2D早期警戒機 4機 CH-60B対潜ヘリコプター 6機 C-2A輸送機 2機 合計 67機 中華連邦共和国海軍の主力空母。オーシア海軍のエセックス級中型空母の払い下げ。 戦艦 台湾級戦艦 同型艦 4隻 台湾 中華 天子 太原 性能諸元 基準排水量 79,210t 全長 314.10m 全幅 37.30m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.119 47口径380mm 3連装速射砲 4基 Mk.45 127mm 62口径単装速射砲 4基 ゴールキーパー 30mm高性能CIWS 6基 SeaRAM 21連装近SAM発射機 4基 Mk.41VLS 32+64セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 8基 660mm 3連装長魚雷発射管 4基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 中華連邦共和国海軍が強大化する人民解放軍海軍の戦艦に対抗するために、オーシアに8万トン級の戦艦の船体を発注した初の大型戦艦。 巨大な船体の割に38cm 3連装砲4基12門と貧相な火力であるが、貫通力が高い長砲身を採用しており遠距離戦闘においては中国海軍の戦艦に引けを取らない。また、口径の小型化によって弾薬の搭載量や砲弾の投射能力は極めて高く、圧倒的な砲火力によって敵主力戦艦を無力化することが可能。ちなみに主砲の設計にはベルカ人技師が携わっており、ビスマルク級戦艦の技術がフィードバックされているとか。 船体のダメージコントロールはオーシアの最新鋭技術が惜しみなく費やされており、乗組員のダメコン技術も相俟って扶桑戦艦並みの堅牢さを誇る。装甲も主砲を小型化したため極めて厚く、バイタルパートに51cm砲の直撃弾を受けても原型をとどめていると言われている。 これらの性質から、本級のことを戦艦ではなくて基隆級大型巡洋艦にあやかって「超装甲巡洋艦」と呼ぶものもいる。 巡洋艦 基隆級大型巡洋艦 同型艦 8隻 基隆 紀徳 蘇澳 明徳 左營 同徳 馬公 武徳 性能諸元 基準排水量 32,810t 全長 254.10m 全幅 29.20m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.117 45口径330mm連装速射砲 4基 Mk.45 127mm 62口径単装速射砲 2基 ゴールキーパー 30mm高性能CIWS 4基 SeaRAM 21連装近SAM発射機 2基 Mk.41VLS 32+64セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 6基 630mm 3連装長魚雷発射管 4基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 中華連邦共和国海軍が対中国海軍用に建造した打撃巡洋艦。 台湾海峡など狭い海域での戦闘を想定しており、中距離戦闘において質量共に劣る台湾海軍を優位にたって戦闘ができるように設計された。 主砲は長砲身45口径330mm連装砲を4基8門搭載しており、貫通力の高い砲弾を発射する。また、砲弾はオーシアよりライセンスされたSHS弾を使用しており、砲撃戦においては中型戦艦に勝るとも劣らない破壊力を有している。 台湾の冶金技術の影響で主砲は3連装ではないが、小型化されたおかげで1分間における砲弾の投射量は極めて軽快であり、総トン数だけで見れば中華戦艦よりも高い数値を示している。 個艦防空においてもオーシアの技術が用いられており、僚艦のイージス艦とデータを共有することで、世界有数の防空巡洋艦に早変わりする。 反面、装甲は巡洋艦であるためまともに戦艦と砲撃戦を繰り広げられるだけのものは持っておらず、通商破壊用の艦艇として認識されている。 彰化級ミサイル巡洋艦 同型艦 6隻 彰化 屏東 唐州 凛龍 黄浦 華鳳 性能諸元 基準排水量 21,270t 全長 220.10m 全幅 24.45m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.108 48口径203mm連装速射砲単装速射砲 2基 ゴールキーパー 30mm高性能CIWS 1基 SeaRAM 21連装近SAM発射機 1基 Mk.41VLS 32+64セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 中国やユークの原子力巡洋艦群に対抗すべく建造された大型の巡洋艦。 建造当時は高いヘリコプター運用能力と強力な砲火力、艦隊防空能力、戦術情報処理装置の搭載など汎用性が売りだったが、陳腐化が進み近年大規模な近代化改修が施された。 駆逐艦 成功級ミサイル駆逐艦 同型艦 12隻 成功 鄭和 繼光 岳飛 英雄 子儀 班超 張騫 銘傳 逢甲 台中 台南 性能諸元 基準排水量 8,670t 全長 171.70m 全幅 21.76m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 62口径127mm単装速射砲単装速射砲 2基 ファランクス 20mm高性能CIWS 2基 Mk.41VLS 32+64セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 1機 中華連邦共和国初の純正イージス艦。オーシア軍以外では貴重なフルスペックイージス搭載艦でもある。 船体下部は基隆級(キッド級)をベースに再設計されているため大型で余裕があり、タイコンデロガ級巡洋艦並みに潤沢な武装と装備が施されている。 艦隊防空の要であるとともに、弾道ミサイル防衛(BMD)の要でもある。 基がスプルーアンス級の派生艦であるためある意味ではタイコンデロガ級の姉妹艦ともいえる。タイコンデロガ級より後発の艦であるため艦橋はアーレイ・バーク級に似たスタイリッシュな印象を受ける。 康定級ミサイル駆逐艦 同型艦 12隻 康定 西寧 昆明 迪化 武昌 承德 新北 桃園 建安 逸仙 大同 自強 性能諸元 基準排水量 9.190t 全長 175.30m 全幅 22.20m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.75 127mm 54口径単装速射砲 2基 SeaRAM 21連装近SAM発射機× 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 Mk.41VLS 32+64セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 1機 俗に言う成功級ミサイル駆逐艦フライトⅡ。戦闘時に巡洋艦などの大型艦の代わりを務めることが可能な群旗艦としての能力が要求されたこともあって、上部構造物は大型化し、排水量も成功級と比して大きく増大している。また、主砲はMk.75(OTO メラーラ) 127mm単装速射砲に変更されており、Mk.75用の射撃指揮装置も搭載された。しかし、この目論見は予算を圧迫するだけであまり意味はなかった模様。 イージスシステムにBMD(弾道ミサイル防衛)システムが追加されたときに、「BMD小艦隊の旗艦となり、BMDの指揮統率を取れるのでは」という意見が出たため、この型から優先的にBMD対応改修が行われた。 濟陽級ミサイル駆逐艦 同型艦 8隻 濟陽 鳳陽 汾陽 蘭陽 海陽 淮陽 寧陽 宜陽 性能諸元 基準排水量 8.710t 全長 173.01m 全幅 21.97m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 62口径127mm単装速射砲 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 Mk.41VLS 64+32セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 俗に言う成功級フライトⅢ。成功級との大きな違いは、キッド級の船体を元に新規に設計され直されたためステルス性を意識した現代的な艦影になっており艦体や上部構造物側面の傾斜が最適化されている。主砲塔やマストも平面を多用したステルス形状になり、煙突の角の丸みが廃されている他、ヘリコプター格納庫も複雑な形態になっている。 武装面では、フライトⅡで搭載したMk.75が主に財務省とオーシアの圧力によりMk.45に搭載砲が戻り、新型のmod5(54口径)が搭載された。またヘリ格納庫のスペース確保のため、前が大・後ろが小に前後のセル配分を入れ替えた。 要求仕様の変化や予算削減のため、後部甲板のMk.45が一基減らされた。 洛陽級ミサイル駆逐艦 同型艦 12隻 洛陽 漢陽 咸陽 南陽 安陽 昆陽 貴陽 慶陽 雲陽 正陽 資陽 丹陽 性能諸元 基準排水量 9.800t 全長 176.10m 全幅 22.50m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 62口径127mm単装速射砲 2基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 Mk.41VLS 64+32セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 俗に言う成功級フライトⅢAもしくは濟陽級改。 基準排水量は9,800トンとより大型化され当初よりベースライン9システムを搭載。またガスタービンと発電機を併用した複合電気推進を採用、水中雑音低減と低速航行時の燃費改善を図っている。更には低空警戒用に従来の国産対水上レーダーではなくオーシア海軍が多用しているSPQ-9Bレーダ(F-16C戦闘機のレーダを背中合わせにしたもの)に置き換え、低空警戒からシースキマー対策まで大幅な能力向上を図っている。 明陽級汎用駆逐艦 同型艦 8隻 明陽 遼陽 進陽 麗陽 済陽 開陽 併陽 燐陽 性能諸元 基準排水量 9.800t 全長 175.60m 全幅 21.80m 最大速度 30.0kt 武装 AGS 62口径155mm単装砲 2基 Mk.110 ボフォース CIGS 57mm単装速射砲 2基 Mk.41VLS 64+32セル Mk.57 PVLS 48セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 4基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 中華連邦がズムウォルト級を基に、対艦攻撃能力や沿岸攻撃能力を大幅に付与した多目的駆逐艦。しかし外見はあの特徴的なタンブルホール型船体やピラミッド型艦橋ではなく保守的な水雷駆逐艦然としている。 中華連邦共和国側の区分は「艦隊型水雷戦闘駆逐艦」。 成功級の数ある準同型艦の中でもかなり濟陽級に近い。その性質は高度な対空能力を欠いたズムウォルト級ミサイル駆逐艦であり、破格の対艦/対地攻撃能力を有する。 対空能力は成功級と比較すると低いが海上自衛隊のあきづき型護衛艦とほぼ同等の対空能力を持ち個艦防空と僚艦防空は不満がない程度にはこなせれる。 早陽級汎用駆逐艦 同型艦 20隻 早陽 凛陽 黄陽 重陽 高陽 建陽 景陽 陰陽 襄陽 衡陽 華陽 岳陽 恵陽 鄱陽 富陽 朝陽 萊陽 瀋陽 德陽 綏陽 性能諸元 基準排水量 9.800t 全長 180.05m 全幅 24.30m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 62口径127mm単装速射砲 2基 ファランクス 20mm高性能CIWS 2基 Mk.41VLS 64+32セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 4基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 明陽級の廉価版でAGSやCIGSといった先進的な装備を既存のMk.45やファランクスに置き換えられコスト削減に努めたタイプ。こちらは対地攻撃よりも艦隊決戦に重きを置いているため、「21世紀最大の水雷駆逐艦」と呼ぶものもいる。 また、VLSは32セル減らした代わりに機関の増強と船体のダメージコントロールに割り当てており明陽級よりも保守的であるが堅実な設計となっている。 フリゲート 守月級護衛駆逐艦 同型艦 12隻 守月 夕月 名月 観月 凛月 雅月 遼月 佳月 秀月 楊月 寧月 光月 性能諸元 基準排水量 4.920t 全長 145.0m 全幅 17.5m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 62口径127mm単装速射砲 1基 SeaRAM 21連装近SAM発射機 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 Mk.41VLS 48セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 中華連邦共和国海軍が有するフリゲート。主力の防空駆逐艦隊がBMDに専念している時に、敵対艦ミサイルからの攻撃に対して某空艦の負担が減るように僚艦防空戦闘能力を高めた直衛防空戦闘艦として建造された。 船体や武装等ははサピンのアルバロ・デ・バサン級やオーレリアのホバート級を参考に設計されている。 台湾海軍の全艦艇エリアディフェンス構想によりいわゆるミニイージスであり、Mk.99イルミネーターは2基しか搭載されていないが、有事の際は艦隊防衛の補佐をできる程度の能力を有しており、特に問題ないとされている。 錦江級護衛駆逐艦 同型艦 12隻 錦江 淡江 新江 鳳江 曾江 高江 金江 湘江 資江 溌江 昌江 珠江 性能諸元 基準排水量 5.320t 全長 147.0m 全幅 18.2m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 62口径127mm単装速射砲 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 Mk.41VLS 32セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 守月級の改良型として建造されたイージスフリゲート。 対空戦闘重視な守月級の能力を引き継ぎつつも、ソナーをAN/SQS-61からAN/SQS-64にアップグレードするなど対潜性能を重視した設計となっているほか、護衛駆逐艦としては初のCOGLAGと呼ばれる推進方式を採用している。 COGLAGは低速・巡航時はガスタービン発電機を用いた電気推進、高速時には更にガスタービンエンジンによる直接機械駆動も併用して推力を得る方式であり、燃費に優れることからライフサイクルコストの低減が期待されている。 海寧級護衛駆逐艦 同型艦 12隻 海寧 江寧 撫寧 綏寧 威寧 崇寧 粛寧 義寧 正寧 長寧 懐寧 会寧 性能諸元 基準排水量 5.570t 全長 144.0m 全幅 17.1m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 62口径127mm単装速射砲 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 Mk.41VLS 32セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 本級はサピンのアルバロ・デ・バサン級フリゲートをタイプシップとしており、船型も同じ中央船楼型とされている。レーダー反射断面積(RCS)の低減のため、主船体・上部構造物には傾斜が付されており、艦首から船楼後端にかけてナックルが続いている。 本級の中核的な装備となるのがイージス武器システム(AWS)である。本級の搭載システムは、アルバロ・デ・バサン級のDANCS(Distribute Advanced Naval Combat System)の系譜に属しており、イージスIWS(Integrated Weapons System)と称される。汎用フリゲートとして、要求仕様に艦隊防空能力が盛り込まれなかった一方、対水上・対潜戦への対応が重視されており、ノルデンナヴィクのコングスベルグ社によるMSI-2005F対水上・対潜戦システムを統合して開発された。 その主センサーとなるのがAN/SPY-1Fである。4面のアンテナは、艦橋構造に連続してその後部に設けられた八面体の塔状構造物の周囲に固定配置されている。全体的な印象としてはベルカのザクセン級フリゲートやウスティオのデ・ゼーヴェン・プロヴィンシェン級フリゲートの装備構造に近い。 広庚級護衛駆逐艦 同型艦 6隻 広庚 広貞 広利 広亨 広元 広玉 性能諸元 基準排水量 4.690t 全長 144.7m 全幅 17.3m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 62口径127mm単装速射砲 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 Mk.41VLS 32セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 楚泰級護衛駆逐艦 同型艦 6隻 楚泰 楚同 楚予 楚謙 楚有 楚観 性能諸元 基準排水量 4.740t 全長 144.0m 全幅 17.3m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 62口径127mm単装速射砲 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 Mk.41VLS 32セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 コルベット 沱江級護衛艦 性能諸元 基準排水量 567t 全長 60.4m 全幅 14.0m 最大速度 44.0kt 武装 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 SeaRAM 短SAM発射機 1基 雄風Ⅱ SSM 4連装発射機 2基 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 安豊級護衛艦 性能諸元 基準排水量 2,270t 全長 113.4m 全幅 15.0m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 62口径127mm単装速射砲 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 SeaRAM 短SAM発射機 1基 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 主に中国からの嫌がらせ低強度紛争などにおいて、海岸巡防署(*5)では対処できない場合に出動することを想定して建造された。 聯鯨級護衛艦 性能諸元 基準排水量 1,170t 全長 103.5m 全幅 14.7m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 62口径127mm単装速射砲 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 Mk.112 アスロック8連装対潜ミサイル発射機 1基 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 潜水艦 212T海龍型潜水艦 同型艦 12隻 海龍 海華 海犀 海青 海天 海圻 海容 海籌 海琛 海元 海福 海遊 性能諸元 基準排水量 1,450t 水中排水量 1,830t 全長 57m 全幅 7m 最大速度 水上18kt/水中22ノット 武装 533mm長魚雷発射管 8門 ベルカ海軍の主力潜水艦であるU-212A型潜水艦を輸入したもの。最新型のAIP搭載型通常動力潜水艦で、全長57m、排水量1450t、乗員27名で、魚雷発射管6門を装備し、魚雷12本または機雷24発を搭載することができる。扶桑の伊号215型やユークのキロ型/ラーダ型と比べると些か小ぶりであるが潜水艦の本場であるベルカ製らしく非常に優秀な艦であり、中国の潜水艦程度であれば遅れを取ることはない。 I-212T型は、U-212A型同様にこのAIPにPEM燃料電池(個体高分子形燃料電池)を搭載して数週間にわたる長期での潜航が可能となっている。 214T江犀型潜水艦 同型艦 12隻 江犀 江鯤 江元 江亨 江利 江貞 江坤 江泰 江口 江解 江有 江福 性能諸元 基準排水量 1,700t 水中排水量 2,020t 全長 65m 全幅 6.35m 最大速度 水上18kt/水中22ノット 武装 533mm長魚雷発射管 8門 ベルカ最新鋭の潜水艦U-214型の中華連邦共和国版。 永綏型原子力攻撃潜水艦 同型艦 6隻 永綏 永建 永積 永翔 永豊 永楽 性能諸元 基準排水量 6,5600t 水中排水量 7,800t 全長 114.8m 全幅 10.4m 最大速度 水上18kt/水中22ノット 武装 533mm長魚雷発射管 4門 雄風ⅡE型SLCM用VLS 12基 高麗連邦海軍 北に高句麗人民軍海軍、南に人民解放軍海軍といった大規模な艦隊を有する国家に挟まれた可哀想な国の海軍。 中華連邦共和国と同じく海軍の増強が余儀なくされており、陸軍と予算を巡って争っている。 立ち位置的には中華連邦共和国と同じだが、こちらの海軍の基本戦術は「徹底殲滅」であり、元扶桑皇国の片割れらしく水雷戦闘に力を入れている。国産VLSに青鮫633mm巡航型対艦魚雷なるキチガイ兵器をほぼ全ての艦に搭載している。 また、ユーク海軍から連綿と受け継いできた「潜水艦を絶対に殺す」対潜戦闘システムも充実しており、中国海軍の潜水艦程度なら難なく捕捉できるほどの実力を有する。しかし近年の中国原潜の粛音声の向上には手を焼いているようである。 海軍戦力比 人民解放軍海軍 中華連邦共和国海軍 高麗連邦海軍 戦艦21隻 戦艦4隻 大型空母21隻 中型空母6隻 中型空母6隻 装甲巡洋艦18隻 大型巡洋艦8隻 巡洋艦34隻 巡洋艦6隻 巡洋艦6隻 防空駆逐艦162隻 ミサイル駆逐艦48隻 ミサイル駆逐艦29隻 水雷駆逐艦20隻 汎用駆逐艦28隻 汎用駆逐艦30隻 護衛駆逐艦148隻 フリゲート48隻 フリゲート54隻 護衛艦50隻 水雷艦/対潜艦/通報艦48隻 強襲揚陸艦22隻 強襲揚陸艦8隻 揚陸艦31隻 戦車揚陸艦12隻 中型揚陸艦31隻 原子力潜水艦60隻 原子力潜水艦6隻 通常潜水艦135隻 通常潜水艦24隻 通常動力潜水艦44隻 第1艦隊(釜山広域市南区) ミサイル駆逐艦5隻 汎用駆逐艦8隻 フリゲート8隻 ミサイル艇10隻 第11駆逐艦戦隊 世宗大王型イージス駆逐艦 世宗大王 栗谷李珥 仁川型ミサイル駆逐艦 仁川 京畿 第12駆逐艦戦隊 太祖高皇帝型イージス駆逐艦 朴正煕 李舜臣型防空駆逐艦 忠武公李舜臣 文武大王 大邱型ミサイル駆逐艦 大邱 鍾路 龍山 第13駆逐艦戦隊 蔚山型ミサイル駆逐艦 蔚山 漢城 忠南 第14哨戒艦戦隊 浦項型フリゲート 浦項 群山 慶州 木浦 第15哨戒艦戦隊 浦項型フリゲート 金泉 忠州 晋州 麗水 第16高速艇戦隊 大鷲型ミサイル艇5隻 第17高速艇戦隊 大鷲型ミサイル艇5隻 第18飛行戦隊 P-3C×16 SA 316 アルエットⅢ×16 第2艦隊(京畿道平沢市) ミサイル駆逐艦4隻 汎用駆逐艦9隻 フリゲート8隻 ミサイル艇10隻 第21駆逐艦戦隊 太祖高皇帝型イージス駆逐艦 太祖高皇帝 丁若鏞 広開土大王型防空駆逐艦 広開土大王 乙支文徳 仁川型ミサイル駆逐艦 全北 江原 第22駆逐艦戦隊 蔚山型ミサイル駆逐艦 馬山 慶北 全南 第23駆逐艦戦隊 大邱型ミサイル駆逐艦 大邱 鍾路 龍山 城東 第24哨戒艦戦隊 浦項型フリゲート 鎮海 順天 裡里 原州 第25哨戒艦戦隊 浦項型フリゲート 安東 天安 城南 富川 第26高速艇戦隊 大鷲型ミサイル艇5隻 第27高速艇戦隊 大鷲型ミサイル艇5隻 第28飛行戦隊 P-3C×16 SA 316 アルエットⅢ×16 第3艦隊(全羅道木浦市) ミサイル駆逐艦4隻 汎用駆逐艦9隻 フリゲート8隻 ミサイル艇10隻 第31駆逐艦戦隊 太祖高皇帝型イージス駆逐艦 李承晩 恭愍王 広開土大王型防空駆逐艦 楊万春 李舜臣型防空駆逐艦 崔瑩 仁川型ミサイル駆逐艦 忠北 光州 第32駆逐艦戦隊 大邱型ミサイル駆逐艦 東大門 銅雀 瑞草 永登 第33駆逐艦戦隊 蔚山型ミサイル駆逐艦 済州 釜山 清州 第34哨戒艦戦隊 浦項型フリゲート 堤川 大川 束草 栄州 第35哨戒艦戦隊 浦項型フリゲート 南原 光明 新城 公州 第36高速艇戦隊 大鷲型ミサイル艇5隻 第37高速艇戦隊 大鷲型ミサイル艇5隻 第38飛行戦隊 P-3C×16 SA 316 アルエットⅢ×16 第4機動団(慶尚南道昌原市鎮海区) 空母2隻 ミサイル巡洋艦2隻 ミサイル駆逐艦6隻 汎用駆逐艦8隻 第41戦隊 独島型軽航空母艦 独島 馬羅島 第42駆逐艦戦隊 洪思翊型巡洋艦 洪思翊 成宗大王型イージス駆逐艦 成宗大王 英祖大王 階伯 第43駆逐艦戦隊 洪思翊型巡洋艦 洪範図 成宗大王型イージス駆逐艦 泉蓋金 階伯 李舜臣型防空駆逐艦 姜邯賛 第44駆逐艦戦隊 大邱型ミサイル駆逐艦 大田 東海 水原 韓相国型ミサイル駆逐艦 金斗漢 第45駆逐艦戦隊 韓相国型ミサイル駆逐艦 金弘壹 申翼煕 徐載弼 李東輝 第46飛行戦隊 P-3C×16 SA 316 アルエットⅢ×16 第5艦隊 強襲揚陸艦8隻 戦車揚陸艦12隻 第51揚陸戦隊 高峻峰型強襲揚陸艦 高峻峰 毘盧峰 香炉峰 聖人峰 第52揚陸戦隊 天王峰型強襲揚陸艦 天王峰 天子峰 日出峰 露積峰 第53揚陸戦隊 第54揚陸戦隊 第55揚陸支援戦隊 浦項型フリゲート 瑞山 安城 鶏龍 太白 金堤 第56揚陸支援戦隊 浦項型フリゲート 東豆川 唐津 羅州 泗川 栄州 第6航空艦隊(慶尚北道浦項市) 第61飛行戦隊 P-3C/P-3CK オライオン対潜哨戒機×12機 第62飛行戦隊 P-3C/P-3CK オライオン対潜哨戒機×12機 第63上陸機動ヘリコプター戦隊 UH-60輸送ヘリ×20機 UH-1多目的ヘリ×20機 第64戦闘飛行戦隊 F-15K戦闘機×20 KF-16戦闘機×20 第65戦闘飛行戦隊 F-15K戦闘機×20 KF-16戦闘機×20 第66戦闘飛行戦隊 F-35A制空戦闘機×30 第67攻撃飛行戦隊 F-14D戦闘機×20機 F-18E/F攻撃戦闘機×30 第68攻撃飛行戦隊 F-14D戦闘機×20機 F-18E/F攻撃戦闘機×30 第609教育訓練戦隊 第6基地戦隊 第6軍需戦隊 第7機動団(釜山広域市) 空母2隻 ミサイル巡洋艦2隻 ミサイル駆逐艦6隻 汎用駆逐艦9隻 第71航空戦隊 済州島型航空母艦 済州島 鬱陵島 第72巡洋艦戦隊 洪思翊型巡洋艦 梁七星 白善燁 韓相国型ミサイル駆逐艦 孫秉煕 第73駆逐艦戦隊 成宗大王型イージス駆逐艦 安龍福 正祖大王 李舜臣型防空駆逐艦 大祚栄 第74駆逐艦戦隊 成宗大王型イージス駆逐艦 太宗武烈王 壇君 広開土大王型防空駆逐艦 光宗大王 第75駆逐艦戦隊 韓相国型ミサイル駆逐艦 朴泳孝 李完用 金学奎 池青天 第76駆逐艦戦隊 韓相国型ミサイル駆逐艦 金九 梁起鐸 尹東柱 李剛 第8機動団(慶尚北道浦項市) 空母2隻 ミサイル巡洋艦2隻 ミサイル駆逐艦4隻 汎用駆逐艦8隻 第81航空戦隊 独島型軽航空母艦 白翎島 江華島 第82巡洋艦戦隊 洪思翊型巡洋艦 卓庚鉉 金尚弼 第83駆逐艦戦隊 世宗大王型イージス駆逐艦 西崖柳成龍 権慄 李舜臣型防空駆逐艦 王建 広開土大王型防空駆逐艦 光海君 第84駆逐艦戦隊 韓相国型ミサイル駆逐艦 方定煥 全琫準 朴始昌 金玉均 第85駆逐艦戦隊 大邱型ミサイル駆逐艦 江陵 平城 第86駆逐艦戦隊 大邱型ミサイル駆逐艦 安養 平壌 第9潜水艦隊(昌原市鎮海区) 第91潜水艦戦隊 214K型通常動力潜水艦 孫元一 鄭地 安重根 金佐鎮 尹奉吉 第92潜水艦戦隊 214K型通常動力潜水艦 柳寬順 洪範図 李範奭 申乭石 趙天衡 第93潜水艦戦隊 212K型通常動力潜水艦 黄道顯 徐厚源 朴東赫 玄時学 第94潜水艦戦隊 212K型通常動力潜水艦 鄭兢謨 池徳七 林炳来 洪時旭 第95潜水艦戦隊 212K型通常動力潜水艦 洪大善 韓文植 金昌学 朴東鎭 第96潜水艦戦隊 212K型通常動力潜水艦 金寿鉉 李秉哲 全炳翼 蔡秉徳 第97潜水艦戦隊 209K型通常動力潜水艦 張保皐 李阡 崔茂宣 朴葳 李従茂 第98潜水艦戦隊 209K型通常動力潜水艦 鄭運 李純信 羅大用 李億祺 韓相国 第99潜水艦戦隊 216K型通常動力潜水艦 島山安昌浩 安武 李東寧 李奉昌 第909教育訓練戦隊 第10海軍戦闘支援艦隊 第101戦闘支援戦隊 浦項型フリゲート 果川 三陟 烏山 九里 第102戦闘支援戦隊 浦項型フリゲート 聞慶 南原 河南 抱川 第103戦闘支援戦隊 浦項型フリゲート 永川 保寧 尚州 密陽 第104戦闘支援戦隊 浦項型フリゲート 論山 統営 西帰浦 光陽 第105戦闘支援戦隊 浦項型フリゲート 唐津 義王 楊州 利川 空母 済州島型航空母艦 同型艦 2隻 済州島 鬱陵島 性能諸元 満載排水量 107,000t 全長 334.5m 船体幅 54.5m 発着甲板幅 79.0m 最大速度 30.0kt 武装 ゴールキーパー 30mm高性能CIWS 4基 GMLS シースパロー短SAM 8連装発射機 2基 SeaRAM 21連装近SAM発射機 4基 搭載機 F-35KC制空戦闘機 48機 F/A-18E/F戦闘攻撃機 24機 EA-18G電子戦機 12機 E-2D早期警戒機 6機 SH-60F対潜ヘリコプター 6機 HH-60H救難ヘリコプター 6機 C-2A輸送機 2機 合計 98機 元ユーク海軍製のアドミラル・クズネツォフ級航空母艦。 コレーエツ海軍時代の強力な対艦・対空兵装は全て取っ払い航空機運用に力を入れており、より空母らしい能力を得ている。戦闘機は予算の関係でF-35/F-18混合で載せており、F-35を制空戦闘機、F-18を戦闘攻撃機と役割を分担して運用している。 領海が小さいながらも空母を6隻も有しているのは、24隻もの空母を有する強大な中国機動部隊と高句麗との有事に備えるためという一応の名目があるが、高麗海軍の真の狙いは「アジアにおける影響力の拡大」であり、いずれは扶桑海のみならず東南アジアやベーリング海、オホーツク海にまで作戦行動範囲を広げようと考えているらしい。だって高句麗有事に必要と言ったら陸空軍から空母なんていらないんじゃね?と言われるのは目に見えているし… 尚、本級の改造が決定された際の運用を巡っての予算審議の質疑応答の際に野党から「狭い扶桑海で正規空母を運用するのはあまりにも馬鹿げているのではないか」と至極真っ当な質問を投げかけられた際に「ロマンがあっていいじゃないか将来高麗が地域大国として君臨するためにも正規空母の導入は必然でありその質問をすることは有意義だとはいえない」と頓珍漢なことを言って空母導入をごり押した弁論は有名。 独島島型航空母艦 同型艦 4隻 独島 馬羅島 白翎島 江華島 性能諸元 満載排水量 73,000t 全長 330.5m 船体幅 41.8m 発着甲板幅 73.0m 最大速度 30.0kt 武装 ファランクス20mm高性能CIWS 4基 GMLS シースパロー短SAM 8連装発射機 2基 SeaRAM 21連装近SAM発射機 2基 搭載機 F-35C制空戦闘機 24機 F/A-18E/F戦闘攻撃機 24機 EA-18G電子戦機 6機 E-2D早期警戒機 6機 SH-60F対潜ヘリコプター 8機 HH-60H救難ヘリコプター 4機 C-2A輸送機 2機 合計 74機 元バレンツ級軽航空母艦。 軽空母となっているが、その規模は他国の中型空母に匹敵する巨体であり一隻だけでも小規模な空軍と対等に渡り合うことができるだけの航空戦力を保有する。 オーシア海軍の監修の元、自衛武装は最低限にまで減らされ航空機の運用能力と搭載能力が格段に向上している。 これはオーシア軍とユーク軍では空母の運用ドクトリンが異なるからで、ユークのように空母を一つの防空戦闘艦としてとらえるのではなく動く海上航空基地として可能な限り航空機を多く搭載したいという運用思想のためである。 なお、現実だと国際問題に発展しかねない名前の艦が一隻存在しているが、現世界線の「独島」は鬱陵島付近にある高麗最南端の架空の島であり決して竹島のことではない。この情報を執筆した編集者はシベリアの僻地でマンゴーをもむなどの研修を受けたため本件の内容にいっさいのせいじ的イデオロギーや欺瞞がありません。ごあんしんです。 強襲揚陸艦 高峻峰型強襲揚陸艦 同型艦 4隻 高峻峰 毘盧峰 香炉峰 聖人峰 性能諸元 満載排水量 54,600t 全長 324.5m 船体幅 37.8m 最大速度 30.0kt 武装 ファランクス20mm高性能CIWS 4基 GMLS シースパロー短SAM 8連装発射機 2基 SeaRAM 21連装近SAM発射機 2基 Mk.41 VLS 16セル 搭載機 F-35B制空戦闘機 32機 CH-46輸送ヘリコプター 56機 輸送能力機能 LCAC 3隻 LCM(6) 12隻 搭乗兵員数 一個海兵旅団(3,000人) 高麗海軍が保有する大型の強襲揚陸艦。高麗の揚陸艦としては最大サイズであるが、これは強襲揚陸艦としての機能の他に軽空母としての役割も期待されているからである。制空戦闘状態ならF-35を46機搭載できるが載せる戦闘機を調達できていない。 一説には高句麗相手には過剰すぎる装備であり一部では中国や扶桑に対抗して造られたと噂されている。 オーシア連邦海軍監修の元カサブランカ級軽航空母艦を基に建造されており、オーシアが構想する「海域制圧艦」の実験モデルとして設計されている。 そのため本級はワスプ級やオーシア級といった従来の揚陸艦というよりは、エメリアのカヴール級のような空母に強襲揚陸艦としての機能を持ち合わせた艦といった見方が正しい。 そのため空母としては装備が必要以上に充実しており、駆逐艦並みの戦術曳航ソナー(TACTAS)を有したりVLSをはじめとした対空装備を持つことによって単艦でも100海里内の制空権を確保できるなど空母というよりは多目的支援艦と表現したほうがしっくりくるほどの重武装っぷりである。 このような「全部盛り」の軍艦は合理性を追求するオーシア艦らしからぬ発想であるが、これは高麗がかのユークトバニアから分離してできた国家であるため一艦に求められる性能が増えたことや、オーシア自身も「別に運用するのは俺らじゃないし性能盛っちゃえ」といった感じで造ったと言われている。 天王峰型強襲揚陸艦 同型艦 4隻 天王峰 天子峰 日出峰 露積峰 性能諸元 満載排水量 57,200t 全長 332.0m 船体幅 38.0m 最大速度 30.0kt 武装 ファランクス20mm高性能CIWS 4基 GMLS シースパロー短SAM 8連装発射機 2基 SeaRAM 21連装近SAM発射機 2基 搭載機 F-35B制空戦闘機 40機 CH-46輸送ヘリコプター 56機 輸送能力機能 LCAC 3隻 LCM(6) 12隻 搭乗兵員数 一個海兵旅団(3,000人) ドック型揚陸艦 天安型ドック型揚陸艦 同型艦 12隻 天安 鉄甕 天輔 龍飛 雲峰 徳峰 飛鳳 開峰 長寿 威峰 水営 北漢 性能諸元 満載排水量 54,600t 全長 324.5m 船体幅 37.8m 最大速度 30.0kt 武装 ファランクス20mm高性能CIWS 4基 GMLS シースパロー短SAM 8連装発射機 2基 SeaRAM 21連装近SAM発射機 2基 ドック型輸送揚陸艦 大草型ドック型輸送揚陸艦 同型艦 15隻 大草 華山 麗島 加徳 巨文 飛雁 豊島 月尾 麒麟 綾羅 身弥 鬱陵 慶南 牙山 熊浦 性能諸元 満載排水量 54,600t 全長 324.5m 船体幅 37.8m 最大速度 30.0kt 武装 ファランクス20mm高性能CIWS 4基 GMLS シースパロー短SAM 8連装発射機 2基 SeaRAM 21連装近SAM発射機 2基 ミサイル巡洋艦 洪思翊型巡洋艦 同型艦 5隻 洪思翊 梁七星 白善燁 卓庚鉉 洪範図 金尚弼 性能諸元 基準排水量 18,230t 全長 180.8m 全幅 25.3m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 127mm 62口径単装速射砲 1基 ゴールキーパー30mm高性能CIWS 2基 SeaRAM21連装短SAM発射機 1基 Mk.41VLS 32セル Mk.62PVLS 64セル 海星SSM 4連装発射機 4基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 Mk.99スーパーリンクスLAMPSヘリ 2機 オーシア連邦と高麗が共同開発した次世代型戦域中枢護衛戦闘艦として建造したミサイル巡洋艦。 設計段階からステルス性能が強く考慮されており、非常にラジカルな外観となっている。 ミサイル駆逐艦 広開土大王型ミサイル駆逐艦 同型艦 5隻 広開土大王 乙支文徳 楊万春 光海君 光宗大王 性能諸元 基準排水量 8,230t 全長 165.5m 全幅 19.8m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.75 127mm 54口径単装速射砲 1基 ゴールキーパー30mm高性能CIWS 2基 Mk.41VLS 64セル 巡航ミサイル用VLS 16セル ハープーン 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 Mk.99スーパーリンクス LAMPSヘリ 2機 高麗連邦海軍が元ユーク海軍のソヴレメンヌイ級防空駆逐艦を改装したもの。 防空任務を主軸に対艦戦闘・対潜戦闘・船団護送・揚陸作戦支援等様々な局面に対応できる主力艦として改装された。 これまでの高麗海軍には旧宗主国であったユーク製のフリゲートや駆逐艦が十数隻しか存在せず、世宗大王級の建造までの場繋ぎの防空戦闘艦として設計されている。 ソヴレメンヌイ級時代の面影は船体とカリブルVLS、カリブル運用のためのイルミネーターのみとなっており、レーダー等のソフトウェアは西側のものに換装されている。 主な改装はベルカが担当しており、MR-750フレガートM2EM多機能レーダーはARPAに変更され、ガルプンG長距離レーダーもSMART-Lに取り替えられた。ベルカのザクセン級とほぼ同等の対空戦闘能力を有していると言われており、急造品とはいえ防空駆逐艦としては破格の能力を有する艦として完成し世宗大王級が完成したのちも主力艦として第一線を張っている。 李舜臣型ミサイル駆逐艦 同型艦 6隻 忠武公李舜臣 文武大王 大祚栄 王建 姜邯賛 崔瑩 性能諸元 基準排水量 7,970t 全長 163.5m 全幅 19.8m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.75 127mm 54口径単装速射砲 1基 ゴールキーパー30mm高性能CIWS 1基 SeaRAM21連装短SAM発射機 1基 Mk.41VLS 64セル 巡航ミサイル用VLS 32セル 海星SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 Mk.99スーパーリンクス LAMPSヘリ 2機 コレーエツ自治共和国海軍時代に運用していたソヴレメンヌイ級の発展型。例に漏れずこちらも西側兵装に換装されている。 本級の艦体はベルカIABG社の協力を得て設計され、基本的な艦型や兵装などの配置は広開土大王級駆逐艦を踏襲しているが、武装の拡張に合わせて船体も大型化している。 艦橋から煙突格納庫までを一体化した構造とし、艦橋を1甲板分増やすなど艦内スペースの拡大が図られている。 広開土大王級駆逐艦と比較し、ステルス性向上に対する配慮が各所に見られる。 レーダーに対するステルス対策として、船体及び船体上の構造物は側面に傾斜を持たせ、艦橋や格納庫は両舷一杯までとし船体と一体となったデザインとしている。 マストも広開土大王級駆逐艦のトラス構造のマストから平面構成の塔型マストへ変更され、船体外板にはレーダー波吸収塗料(RAM)が使用されていると見られる。 各種対策の結果本級のレーダー反射断面積(RCS)は、排水量1200tの犬鷲級ミサイル艇よりも小さい値を示したと言われている。 武装に関してはK-VLSを16セル新たに増加し、ASROCとトマホークの代わりに国産の巡航ミサイル「天龍」と対潜ミサイル「赤鮫」を追加装備できる。 「天龍」は射程約500kmの対地精密誘導巡航ミサイル。「赤鮫」はK745「青鮫」短魚雷にロケット・ブースターを装着したもので、投射距離は約10km。 広開土大王級はハープーン対艦ミサイルを使用しているが、李舜臣級からは国産のSSM-700K「海星」が搭載される。短魚雷も国産のK745「青鮫」になるものと思われる。 世宗大王型イージス駆逐艦 同型艦 4隻 世宗大王 栗谷李珥 西崖柳成龍 権慄 性能諸元 基準排水量 11,330t 全長 171.2m 全幅 21.5m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 127mm 62口径単装速射砲 1基 ゴールキーパー30mm高性能CIWS 1基 SeaRAM21連装短SAM発射機 1基 Mk.41VLS 96セル 巡航ミサイル用VLS 48セル 海星SSM 4連装発射機 4基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 Mk.99スーパーリンクス LAMPSヘリ 2機 高麗海軍初のイージス駆逐艦。 本艦の設計は、オーシア軍のアーレイ・バーク級駆逐艦フライトⅡAをタイプシップとしているため、よく似た外形をしながらも、ユーク産VLSの追加搭載などによる設計変更が行われている。 船体はアーレイ・バーク級より一回り長く大型で、トップヘヴィ化を防ぐために冗長性を持たせている。 世宗大王が搭載するイージスシステムは最新のベースライン7だが、建国までの経緯があれのためイージスシステムに付属する幾つかの装備がオミットされている。 海上自衛隊のこんごう型もかなりオミットされたが世宗大王はこんごう型以上にオミットされている。 以下オミットされたもの 対潜ソナー及び対潜戦闘システム 電子戦システム デコイシステム 慣性航法装置 推測航法システムetc そして高麗はこれらの部分をベルカ製やエルジア製の機器で代替したが、イージスシステムは対艦、対潜、対空総てを担う統合戦闘システムであるため、正規品でない代替品ではシステム上なんらかの不都合や齟齬が生じる可能性がある。 これらの問題は次級の成宗大王型で解消されたのだが、初の国産兵器搭載艦として国威掲揚用に未改修のまま運用されている。 成宗大王型イージス駆逐艦 同型艦 9隻 成宗大王 英祖大王 太宗武烈王 壇君 尹永夏 正祖大王 階伯 金庾信 泉蓋金 性能諸元 基準排水量 10,150t 全長 172.0m 全幅 21.5m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.75 127mm 54口径単装速射砲 1基 ゴールキーパー30mm高性能CIWS 1基 SeaRAM21連装短SAM発射機 1基 Mk.41VLS 96セル 海星SSM 4連装発射機 4基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 Mk.99スーパーリンクス LAMPSヘリ 2機 各国のシステムを導入しすぎてごちゃ混ぜ状態となった世宗大王型の改良型として建造された。 対応するベースラインは当時最新鋭の9Cを採用、SM-3の搭載によって高句麗や中国からの弾道ミサイルの迎撃にも対応でき、同時に巡航ミサイルや航空機を対処し交戦できるようになっている。さらにCEC共同交戦能力を有する本型は、SM-6を装備することで高麗空軍のE-737AEW Cを介して超水平線での目標をリモート交戦し迎撃することが可能となっている。 推進機関としては統合全電気推進方式を採用しており、水中騒音の抑制のほかに抗湛性が高まり、ダメージコントロールが容易になっている。 太祖高皇帝型イージス駆逐艦 同型艦 5隻 太祖高皇帝 丁若鏞 李承晩 恭愍王 朴正煕 性能諸元 基準排水量 8,800t 全長 169.8m 全幅 21.2m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.75 127mm 54口径単装速射砲 1基 ゴールキーパー30mm高性能CIWS 1基 SeaRAM21連装短SAM発射機 1基 Mk.41VLS 96セル 海星SSM 4連装発射機 4基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 Mk.99スーパーリンクス LAMPSヘリ 2機 高麗連邦における新世代型イージス駆逐艦(正宗大王型イージス艦)の発展型として、そして艦隊の規模拡張のため中期防衛力整備計画に基づき5隻が建造された。 大邱型ミサイル駆逐艦がローコンセプト、世宗大王型イージス駆逐艦正宗大王級イージス駆逐艦がミッドコンセプトであるとすれば、本級ハイコンセプトにあたる。そして本級は主力艦隊の第1~第3艦隊にそれぞれ1~2隻が配備される。 本級の特徴は世宗大王型や正宗大王型のようにSPY-1レーダーを艦橋下に設置するのではなくなく、設置位置を高くするためにオーレリアのホバート級のように艦橋上の4方に装備されている。 本型は特にステルス性を重視しており、統合全電気推進方式の採用や搭載艇を格納するなどRCSや赤外線輻射、水中放射雑音などの各種シグネチャーの低減策が講じられている。 汎用駆逐艦 蔚山型ミサイル駆逐艦 同型艦 8隻 蔚山 漢城 忠南 馬山 慶北 全南 済州 釜山 清州 性能諸元 基準排水量 7,620t 全長 155.6m 全幅 17.2m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 127mm 62口径単装速射砲 2基 ファランクス 20mm高性能CIWS 2基 Mk.41VLS 64セル 海星Ⅱ SSM 4連装発射機 4基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 Mk.99スーパーリンクス LAMPSヘリ 2機 高麗海軍が対高句麗艦艇用に建造した艦隊打撃型駆逐艦。 国産の対艦ミサイル「海星長距離対艦ミサイル」を4基16発も搭載し、以降高麗海軍の汎用駆逐艦の標準的な装備となるヒトデミサイルと書くと途端に弱く見えるから不思議。 海星ⅡSSM発射機は従来のSSM-700の他にSSM-760KM超音速対艦ミサイルとSUM-800M射程延長魚雷の2種類が新たに搭載できる。SSM-760KMはユーク海軍や中国海軍の強力な防空網を突破し空母や戦艦等の大型目標を撃沈すべく開発された極超音速ミサイルである。 ロケットモーターで初期加速後、スクラムジェットエンジンに点火し極超音速まで加速する。 中間誘導はGPS+慣性誘導、終末誘導はパッシヴ・アクティブレーダー及び画像認識の複合方式。弾頭は400kg徹甲弾を用い、戦艦に対し強力な破壊力を持つ。反面、装甲が薄い目標に対しては突き抜けて損害が軽微になることが判明したため、後期型だとSSM-700Kが標準搭載されている。 SUM-800Mは大型対艦魚雷を用いた長射程兵器として開発されたミサイルで、慣性・GPSで敵艦付近まで進出して魚雷を分離する。 搭載魚雷はシクヴァルKMもといK-ASROC Ⅱカスロックと読んではいけない。 K-ASROC Ⅱは酸素・水素タービンを用いた長射程の音響誘導魚雷で、音響画像センサーや高性能磁気信管を用いた正確な攻撃が可能。 K-ASROC Ⅱは空洞現象を利用したスーパーキャビテーション魚雷で、ロケット推進により水中を300kt以上の高速で推進できる。 仁川型ミサイル駆逐艦 同型艦 6隻 仁川 京畿 全北 江原 忠北 光州 性能諸元 基準排水量 7.320t 全長 154.5m 全幅 17.2m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 127mm 62口径単装速射砲 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 2基 Mk.41VLS 48セル 巡航ミサイル用VLS 16セル 海星Ⅱ SSM 4連装発射機 4基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 Mk.99スーパーリンクス LAMPSヘリ 2機 大邱型ミサイル駆逐艦 同型艦 14隻 大邱 鍾路 龍山 城東 東大門 銅雀 瑞草 永登 大田 東海 水原 江陵 平城 安養 性能諸元 基準排水量 8.270t 全長 157.0m 全幅 18.0m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 127mm 62口径単装速射砲 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 2基 Mk.41VLS 64セル 巡航ミサイル用VLS 32セル 海星Ⅱ SSM 4連装発射機 4基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 Mk.99スーパーリンクス LAMPSヘリ 2機 フリゲート 浦項型フリゲート 同型艦(前期型) 24隻 浦項 群山 慶州 木浦 金泉 忠州 晋州 麗水 鎮海 順天 裡里 原州 安東 天安 城南 富川 堤川 大川 束草 栄州 南原 光明 新城 公州 性能諸元 基準排水量 4,580t 全長 145.2m 全幅 16.5m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 127mm 62口径単装速射砲 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 Mk.41VLS 32セル 巡航ミサイル用VLS 8セル 海星SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 Mk.99スーパーリンクス LAMPSヘリ 2機 同型艦(後期型) 30隻 瑞山 安城 鶏龍 太白 金堤 東豆川 唐津 羅州 泗川 栄州 果川 三陟 烏山 九里 聞慶 南原 河南 抱川 永川 保寧 尚州 密陽 論山 統営 西帰浦 光陽 唐津 義王 楊州 利川 性能諸元(後期型) 基準排水量 5,680t 全長 148.2m 全幅 17.5m 最大速度 30.0kt 武装 Mk.45 127mm 62口径単装速射砲 1基 ファランクス 20mm高性能CIWS 1基 Mk.41VLS 32セル 巡航ミサイル用VLS 8セル 海星SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 Mk.99スーパーリンクス LAMPSヘリ 1機 人民解放軍との主力艦建造競走において国力上埋めることができない高麗海軍が戦力の底上げを目的として建造された多目的フリゲート。 前期型と後期型に分かれており、前期型は対潜・対艦・対空と様々な任務に対応した汎用フリゲートとして、後期型は前期型をベースに艦隊型駆逐艦に匹敵する対艦火力を有する重武装型として建造された。 前期型はフリゲートとしてやや大型な船体にユーク製の高性能ソナーを搭載し極東アジアでも屈指の対潜伝統能力を持つ「潜水艦絶対殺すマン」となっている。 後期型は対潜性能をそのままに船体を大型化し、新たに巡航ミサイル搭載能力を保有するようになった。国産VLSのK-VLSを搭載することで火力の増強を図っており、フリゲートながらも汎用駆逐艦に匹敵する火力を有している。 潜水艦 209K張保皐型通常動力潜水艦 同型艦 10隻 張保皐 李阡 崔茂宣 朴葳 李従茂 鄭運 李純信 羅大用 李億祺 韓相国 性能諸元 基準排水量 1,450t 水中排水量 1,810t 全長 64.4m 全幅 6.5m 最大速度 水上18kt/水中22ノット 武装 533mm長魚雷発射管 8門 ベルカ海軍の輸出用潜水艦であるUボート209型をライセンスしてもらった潜水艦。 ただし高麗が運用しているタイプば現実世界でいう209/1200型ではなく、209型の最上級グレードである209/1500型。 212K黄道顯型通常動力潜水艦 同型艦 16隻 黄道顯 徐厚源 朴東赫 玄時学 鄭兢謨 池徳七 林炳来 洪時旭 洪大善 韓文植 金昌学 朴東鎭 金寿鉉 李秉哲 全炳翼 蔡秉徳 性能諸元 基準排水量 1,450t 水中排水量 1,830t 全長 57m 全幅 7m 最大速度 水上18kt/水中22ノット 武装 533mm長魚雷発射管 8門 AIP動力で動くベルカ海軍の主力潜水艦の高麗仕様。 本級の特徴はAIPにPEM燃料電池を採用することによって数週間の潜水が可能である点と、舵がX型であることで、水中での高度な機動性を誇る。 214K孫元一型通常動力潜水艦 同型艦 10隻 孫元一 鄭地 安重根 金佐鎮 尹奉吉 柳寬順 洪範図 李範奭 申乭石 趙天衡 性能諸元 基準排水量 1,700t 水中排水量 2,020t 全長 65m 全幅 6.35m 最大速度 水上18kt/水中22ノット 武装 533mm長魚雷発射管 8門 ベルカ本国向けの212型の準同型艦だが、排水量がより大きく、耐航性を強化している。燃料電池方式の非大気依存推進機関を搭載する。流線型のセイルやX字潜舵を採用した独特なスタイルの212型とは異なり、流線型のセイルこそ採用したが他はベストセラー輸出潜水艦である209型に近い保守的な外観である。 216K島山安昌浩型通常動力潜水艦 4隻 島山安昌浩 安武 李東寧 李奉昌 性能諸元 基準排水量 1,700t 水中排水量 2,020t 全長 65m 全幅 6.35m 最大速度 水上18kt/水中22ノット 武装 533mm長魚雷発射管 8門 高句麗人民軍海軍 海軍戦力比 人民解放軍海軍 中華連邦共和国海軍 高麗連邦海軍 高句麗人民軍海軍 戦艦21隻 戦艦4隻 大型空母21隻 中型空母6隻 中型空母6隻 装甲巡洋艦18隻 大型巡洋艦8隻 装甲巡洋艦3隻 巡洋艦34隻 巡洋艦6隻 巡洋艦6隻 防空駆逐艦162隻 ミサイル駆逐艦48隻 ミサイル駆逐艦29隻 防空駆逐艦12隻 水雷駆逐艦20隻 汎用駆逐艦28隻 汎用駆逐艦30隻 汎用駆逐艦24隻 護衛駆逐艦148隻 フリゲート48隻 フリゲート54隻 護衛駆逐艦30隻 護衛艦50隻 水雷艦/対潜艦/通報艦48隻 護衛艦56隻 強襲揚陸艦22隻 強襲揚陸艦8隻 揚陸艦31隻 戦車揚陸艦12隻 中型揚陸艦31隻 原子力潜水艦60隻 原子力潜水艦6隻 通常潜水艦135隻 通常潜水艦24隻 通常動力潜水艦44隻 通常潜水艦76隻 東部方面艦隊 第1水上装甲軍(楽園邑鎮守府) 第1水上艦艇師団 羅津型大型巡洋艦 羅津 楽園 琵琶串 第3水上衛戍軍(楽園邑鎮守府) 第2水上艦艇旅団 東明聖王型防空駆逐艦 瑠璃明王 東明聖王 第4水上艦艇師団 白頭山型防空駆逐艦 白頭山 金剛山 妙香山 九月山 第4水上対潜艦軍(馬養島鎮守府) 第5対潜艦師団 長白型汎用駆逐艦 長白 元山 咸興 平壌 順川 新義州 第7対潜艦師団 端川型汎用駆逐艦 海州 満浦 文川 羅先 第7水上警備艦軍(文川警備府) 第13水域警備旅団 鴨緑型護衛駆逐艦 西頭水 漢灘江 昭陽江 洪川江 漢江 第14水域警備旅団 鴨緑型護衛駆逐艦 南漢江 錦江 万頃江 東津江 栄山江 第15水域警備旅団 鴨緑型護衛駆逐艦 蟾津江 洛東江 琴湖江 黄江 南江 第8領海警備軍(元山警備府) 第100船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第101船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第102船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第105船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第10領海警備軍(楽園邑鎮守府) 第108船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第109船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第111船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第112船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 西部方面艦隊 第2水上衛戍軍(砂串鎮守府) 第3水上艦艇旅団 東明聖王型防空駆逐艦 大武神王 好太王 第6戦隊 白頭山型防空駆逐艦 妙香山 雪岳山 智異山 太白山 第5水上対潜艦軍(椒島鎮守府) 第8対潜艦師団 長白型汎用駆逐艦 新浦 松林 徳川 熙川 第9対潜艦師団 端川型汎用駆逐艦 端川 定州 会寧 恵山 第6水域警備軍(月沙里琵琶串警備府) 第10水域警備旅団 鴨緑型護衛駆逐艦 沙里院 開城 安州 金策 亀城 价川 第11水域警備旅団 鴨緑型護衛駆逐艦 臨津江 長津江 赴戦江 禿魯江 南大川 第12水域警備旅団 鴨緑型護衛駆逐艦 北大川 銀波川 普通江 成川江 礼成江 第16水域警備旅団 鴨緑型護衛駆逐艦 鴨緑江 豆満江 大同江 清川江 北漢江 第9領海警備軍(多獅島警備府) 第102船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第104船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第106船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第11領海警備軍(砂串鎮守府) 第107船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第110船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第113船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 第114船舶護衛連隊 南浦型護衛艦4隻 コピペ 同型艦 性能諸元 基準排水量 t 全長 m 全幅 m 最大速度 30.0kt 武装 単装速射砲 2基 ファランクス 20mm高性能CIWS 基 Mk.41VLS 32+64セル 雄風Ⅲ SSM 4連装発射機 2基 324mm 3連装短魚雷発射管 2基 搭載機 SH-60B/MH-60R LAMPSヘリ 2機 おまけ 宮古島海峡事件の真相 劉同志、前方に扶桑国海軍の護衛艦が我々に対し警告をしています ギリギリEEZ内に侵入しているからな、警戒するのも無理はない。所属と目的を説明し侵犯の意思はないことだけは伝えよう --こちらは中華人民共和国人民解放軍海軍第1連合艦隊旗艦の 中原 である、驚かせてすまない。どうやら台湾人の政治家が乗った潜水艦が貴国の領海付近に潜伏したようで現在捜索中である。願わくば当海域内での作戦行動の許可をいただきたい --こちらは扶桑皇国海軍海上護衛隊第10管区所属の07号護衛艦だ。貴軍の目的は理解したが、残念ながら当海域は我が国のEEZ内であり軍事行動は一切認められない。また、台湾軍の潜水艦については我が軍が捜索し然る後に公正な処置を取る。人民解放軍は直ちに引き返されよ (ですよねー)艦隊司令長官、これ以上ここでの捜索は厳しそうです。ここは一旦引きましょう それは許可できない。艦長、あなたは今回の任務の重要性は重々承知しているはずだと考えていたのだがな…。本隊が追っている潜水艦には台湾人の総統が乗っているのだよ。ここで扶桑に捕らえられたら軍の面子、我が国の信用が失墜してしまうではないか はぁ、しかし… もし奴らが引かないというのであれば、目の前の軍艦を撃沈せよ ……は?申し訳ありませんが仰る意味が全く理解できないのですが… 言葉の通りだよ。これ以上捜索の邪魔をされて奴が他国の手にでも渡ったら我が国は完全に終わりだ。そうなる前に奴を我々が先に引っ捕らえて我が国の司法で裁く。他国に口出しする機会を与えずにな きょ、恐縮ながら国際問題に発展しかねない事態に繋がるかと…! 私も艦長に同感です。幾らなんでも強引すぎるのでは? バックストーリーはしっかり考えてある。「軍事行動中の我が海軍が不幸にも扶桑の軍艦と接触し誤射で撃沈した」とな。あとは政治家共が扶桑と話をつける。幸い俺は全人代のお偉さんにも顔が効く 政治家はそれでいいでしょうが扶桑の一般人と軍人を逆撫ですることになります、ただでさえ台湾島の逆賊討伐で忙しいのに、ここで扶桑国の相手もしだしたらいくら我が国でも、勝てる戦も勝てません! 黙れ、この俺に口答えする気か?艦長はこの任務の重要性がまったく理解できていないとみえる。これ以上口答えするのであれば抗命罪と見做し貴官に厳罰な処罰を下す 承知しかねます同志!あなたは国の面子というちっぽけなもののために国を破滅させるつもりですか!いくら上司と言えども今回の作戦は理解できない。本艦はこれより180°旋回し当該海域を離脱する 黙れ!!誰に口答えしていると思っている!!?俺は上級大将だぞ!!!いいからあの船を潰せ!!!! フザケるな!こんな馬鹿げたことできるか!!!いくらあなたと言えども……ぐはっ BLAMBLAM 貴様も存外つまらない人間だったな。もう少し賢いと思っていたのだが…。艦長は死んだ、副艦長に艦長代理を任命する。…お前ら、俺に逆らう奴は一族郎党命がないものと思え (い…いかれてやがる)た、対水上戦用意!戦闘航行術開始!砲撃準備ッ! (逆らったら何されるかわかったもんじゃない…)1番砲塔、2番砲塔照準よし。戦闘配置完了、いつでも撃てます! 砲撃開始! 応戦してきたぞ!駆逐艦「臨安」被弾! (…クソ、埒があかない。扶桑の護衛艦には申し訳ないがここで沈んでもらう) 「鎮西」が扶桑国護衛艦撃沈! ーーーーー 楊同志、中央艦隊より入電、扶桑国艦に発砲したとの報告が …これでこの国は終わりだナ。こんな馬鹿げた作戦で扶桑と戦争する可能性が一気に高まるのに上は何を考えているのヤラ