約 548 件
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/956.html
唐書巻一百二十六 列伝第五十一 魏知古 盧懐慎 奐 李元紘 杜暹 鴻漸 張九齢 拯 仲方 韓休 洪 滉 皋 洄 魏知古は、深州陸沢県の人である。人品は端正かつ正直で才能があり、進士に及第した。著作郎となって修国史に任じられ、累進して衛尉少卿、検校相王府司馬に遷った。神龍年間(707-710)初頭、吏部侍郎となったが、母の喪のため辞職した。服喪があけると、晋州刺史となった。睿宗が即位すると、もとの属していた官によって黄門侍郎を拝命し、修国史を兼任した。 当時、金仙観・玉真観を造営しており、盛夏にもかかわらず、工程は厳しく督促されていた。魏知古は諌めて次のように述べた。「臣は次のように聞いています。「古の人の上にたつ君主は、常に人の働くところを視ているが、人は懸命に働いても建造が出来るのは稀である。人が蓄財に勤めれば貢賦は少なくなり、人が食に勤めれば百事は廃せられるのである」(穀梁伝 荘公二十九年)。そのため、「役に立たないことをして役に立つことをおしつぶす」(尚書 周書旅獒)といい、また「百姓たちの心に逆らってまでも、御自分の意思を押し通されてはなりません」(尚書 虞書 大禹謨)とあります。『礼』に「季夏の月(六月)、樹木が盛んに茂る。みだりに木を伐らぬよう取り締まりをさせる。また土木工事はいけない」(礼記 月令)とあり、これはすべて人民への教化を興して治世をたて、政治を行って人を養う根本なのです。今、公主のために道観を造営するのは、土木工事によって福を祈っていますが、しかしながらこれらの土地は百姓の家とするところであって、突然事態が差し迫って、彼らを移転・転居させ、老人を抱えて幼児を携えて、椽を変えて瓦を変えて、道路上で阿鼻叫喚するのです。人の事にそむくことは、天の時に違うことであり、無用の造作をおこし、不急の務めを崇めることは、群臣の心を揺れ動かし、多くの口からあれこれと言いはやすことになるのです。陛下は人の父母となられ、どういった手段によって安んじようとなされるのでしょうか。また国には簡冊があり、君主が何か行えば必ず記録されることになり、言動のきざしは慎まなければなりません。願わくば明詔をお下しになられ、人の願いにしたがって土木の徭役を除かれ、この事業を晩年に行われても、その失策は遠いことではないのです」 受け入れられなかった。再び諌めて次のように述べた。「陛下が反逆者を平定して取り除き、国家を保ち定まれてからは、天下は荘重となり、朝廷に新政があると思われます。今、教化は次第に廃れていくことは日々ますます甚だしいものであり、府蔵は空しいものとなり、人力は疲弊し、造営は果てなく、官吏の人員は次第に増え、諸司の試補・員外・検校官はすでに二千人あまり、太符の帛はつきて、太倉の米は支給できなくなっています。臣は以前に金仙観・玉真観の造営をやめられるよう願いましたが、それらが終わってもまだ停止されていません。今、水害と旱魃が前後でおき、稲・黍・稷・麦・豆の五穀は育たず、この状態になっては春になると、必ず大飢饉となります。陛下はどこに賑給なされるというのでしょうか。また突厥は中国の憂いとなることは長いことになっており、その人となりは礼義や誠信によって約束すべきではありません。使者を派遣して婚姻を願っているとはいえ、恐るべきは豺狼の心をもち、自身が弱ければ伏せ従い、強ければ驕慢となって逆き、月日がたてば騎乗する馬は肥え太り、中国の飢饉に乗じてきます。講和や和親の際にも、辺境の砦を攻撃せんと狙っていますが、またどうやって防ぐというのでしょうか。」帝はその実直さをよろこび、左散騎常侍によって同中書門下三品(宰相)とした。玄宗は春宮であったとき、また左庶子を兼任した。 先天元年(712)、侍中となった。渭川の遊猟に従い、詩を献上して風刺し、手ずから制によってお褒めをいただき、あわせて賜物五十段をいただいた。翌年、梁国公に封ぜられた。竇懐貞らが謀をめぐらせて国を乱すと、魏知古は密かにその奸計を暴いたから、竇懐貞は誅殺され、封二百戸、物五百段を賜った。玄宗は以前の褒賞が手薄かったのを残念に思い、手ずから勅してさらに百戸を加え、その名節を明らかにした。この冬、詔して東都(洛陽)で吏部の選事を司り、適正な要件によって称えられ、お褒めの詔によって衣一副を賜った。これより帝の恩意は最もあつく、黄門監によって紫微令に改められた。姚元崇とあわず、工部尚書に任命されたが、宰相を罷免された。開元三年(715)卒した。年六十九歳。宋璟はこれを聞いて「叔向は古に実直さをのこし、子産は古に愛をのこした。これを兼ねた者は魏公だ」と嘆いた。幽州都督を追贈され、諡を忠という。 推薦した洹水令の呂太一、蒲州司功参軍の斉澣、右内率騎曹参軍の柳沢、密県の尉の宋遥、左補闕の袁暉、右補闕の封希顔、伊闕県の尉の陳希烈は、後に全員が当時に有名となった。 文宗の大和二年(828)、その曾孫の魏処訥を探して、湘陽県の尉を授け、魏徴・裴冕の後裔も抜擢して任命した。 盧懐慎は、滑州の人で、思うに范陽の有名な盧姓なのであろう。祖父の盧悊は、仕えて霊昌県の令となり、遂に県の人となった。盧懐慎は幼い頃からすでに非凡な人物で、父は友人で監察御史の韓思彦に「この子の器は図り難い」と嘆いた。成長すると、進士に及第し、監察御史に任じられた。神龍年間(707-710)、侍御史に遷った。中宗は武后を上陽宮に謁し、武后は帝に十日に一朝するよう詔した。盧懐慎は諌めて、「昔、漢の高帝(高祖)が天命を受けると、五日に一朝、太公と櫟陽宮にて謁し、民間から決起して皇帝位に登り、子に天下があったから、尊を父に帰し、だからこのようになったのです。今、陛下は先王以来の法と帝王の位を継承されましたが、どこの法を採用されたのでしょうか。ましてや応天門は提象門からはわずか二里の所にあり、警備の騎馬は列をつくることができず、随行車は平行することができず、ここにたびたび出入りしたとしても、愚人が万が一随行車の塵を犯すような襲撃があったところで、これを罪としたところでどういたしましょうか。臣は愚かに申し上げるところは、内朝に従って穏やかかつ清らかであるようにお過ごしになられ、出入りして煩わせるようなことがあってはならないということです。」採用されなかった。 右御史台中丞に遷った。上疏して時政を述べた。 「臣は以下のように聞いています。「善人の政治も百年つづけば、暴力をおさえ死刑もなくせる」(論語 子路第十三)。孔子は「使ってくれる人があったら、一年だけでもいいんだ。三年だと、完全だが。」(論語 子路第十三)と言っており、そのため『書』に、「三年に一度、その役目にあって成果をあげたかどうかを調べられ、三度検査されたあと、輝かしい仕事をしたものは位を上げ、みずほらしくてだめなものはその役から退けられた。」(尚書 虞書舜典)とあります。昔、子産は鄭の宰相となり、法令を改め、刑書を施行し、一年間は人に怨まれ、殺されると思うほどでしたが、三年にして人は徳としてこれを歌い継がれるようになりました。子産は賢者であったから、政治を行ってなお年を重ねてから功績がなったのに、ましてや普通程度の人材ではどうでしょうか。この頃州牧、上佐、両畿の県令はあるいは一・二年、あるいは三・五か月で転任となり、かつて考課を論ずるのに政務統治の成績が良好かどうかで判断せず、まだ戻って来ない者に対しては耳を傾けて聞くことはなく、つま先立ちして望んでいても、無闇に行動して廉潔の聞こえがなく、またどうして陛下のために風を教化して人を憐れむ余裕がありましょうか。礼義を興すことができず、戸口はますます流出し、倉庫はいよいよ乏しくなり、百姓は日に日に疲弊するのは、職はこれが原因となるだけなのです。人は吏の任期が長くないのを知っているので、その教化にしたがわず、吏は転任するまで長くないのを知っているので、その力をつくさないのです。かりそめに爵位に身を置き、これによって経歴や声望を養ったとしても、明主が天下に勤労しようとする志があったとしても、天子の寵遇を得る道を開くことになり、上も下も互いに互いに騙し合い、どうして公正をつくすことができましょうか。これは国の病なのです。賈誼がいうところの誤りというのは、小の小なる者のみなのです。これを改めなければ、平和的に緩慢であっても、なすすべもないのです。漢の宣帝を総合的に考えてみると、治世は勃興して教化がなされ、黄霸はすぐれた郡守であり、秩を加えて金を賜り、その能力をあらわしたが、終に遷任をよしとしませんでした。そのため古で吏となった場合、長きは子孫までに到ったのです。臣が願うところは、都督・刺史・上佐・両畿の県令に任じて四度の考課を得ていない場合は、転任することができないこととすることです。もし統治に最も優れたものがあれば、あるいは加えて車や衣服、秩禄を賜い、使者をくだして臨問させ、璽書によって慰撫して励まし、公卿に欠員があれば、そこで抜擢して能力がある者を励ますのです。職に適さずあるいは貪欲かつ暴虐であった場合、罷免して田舎に帰らせ、信賞必罰の信を明らかにするのです。 昔、唐・虞は古えの道にならって百の官位をたてました。夏・商では官は二倍になりましたが、やはりまたうまく治まりました。これは官を少なくしたからです。そのため「この官は必ずしも員数を揃えなくともよい、ただふさわしい人でなければならぬ」、「もろもろの官に、適当な人をつけないでいて、その官位をむなしくされてはなりません。なぜなら官職というものは、もともと天に属するものであって、天のなさる事を人間が代わってやっているからなのです。」(尚書 周書 周官)というのは、人を選ぶからなのです。今、京の諸司の員外官は数十倍となり、近年いままでなかったことです。必ずしも備わっていないというのに、余剰人員がいるということは、その代わりの仕事を求めて、多くはわずかな仕事もせず、俸給の費えは毎年巨額なものとなり、いたずらに府蔵をつきさせることになり、どうして統治なぞありましょうか。今、民力は疲弊の極みで、河州・渭州は広く運漕していますが、京師に給付されず、公も私も損耗し、辺境はいまだ静寂ではありません。ちょうど今、旱魃や水損で災いとなり、租税は減収しており、辺境で急を知らせれば、賑給する暇とてなく、どうやってこれを救えましょうか。「人事を軽々しく考えてはなりません。つらい困難なものだと知って、慎重に扱ってやって下さい。天子の位に安んじてしまってはなりません。ひたすらに恐れつつその位を保ってゆかねばならないのです」(尚書 商書 太甲下)とあるのは、謹んで慎重に取り扱わなければならないことなのです。員外の官をたずねてみると、全員が当時の重任に値する賢臣であり、選ぶ際に才能を用いながらもその用途を伝えることなく、名を尊んでいるのにその力量を任じませんでした。昔より人を用いるのに、どうしてそのようにしていたのでしょうか。臣が願うところは、才能が太守や上佐にたえる者を官職に昇らせ、力量を全国に知らしめ、考課の責めは治状で行うことです。老いや病、もしくは職にたえられない者は、すべて廃して除き、賢人や不才を確率して一貫性をもたせるのは急務なのです。 私寵や賄賂をおかし、寡婦を侮る者がいるのは、為政者を蝕むものです。ひそかに思いますに、内外の官に賄賂を贈って狼藉し、鼻削ぎして人を蒸し殺し、罪にふれて流黜したとしても、しばらくして戻ってきて、再び牧宰となり、任じるのに江淮・嶺表・磧に、だいたい懲罰的左遷を示しても、心の中では自暴自棄を懐き、貨に従って財貨を集め、終わっても改悛の心なぞありません。明主の万物においては、平分にして恩を施すのに均等ではないことはなく、吏を罪として遠方の太守とするのは、これを奸人に恵みして遠きに残すという。遠州の辺境の村々は、どうやって聖化を負って、ただその悪政を受けるのでしょうか。辺境の官吏がいる地は、異民族・漢族が雑居し、険阻や遠方であることをたのんで騒動をおこしやすく、平定も困難なのです。官はその才能でなければ、民衆は流亡し、蹶起して盗賊となるのです。これに基づいていうのなら、凡才は用いるべきではなく、ましてや狡猾な官吏はどうでしょうか。臣が願うところは、収賄によって解任を詮議された者は、除籍されてから数十年もしないうちは、再任用を賜ってはなりません。『書』に「民のよいものと悪いものをみきわめて」(尚書 周書畢命)とありますが、それは適切なことなのです。」 上疏したが、答えはなかった。 黄門侍郎、漁陽県伯に遷った。魏知古とともに東都で進士の試験を実施する責任者となった。開元元年(713)、同紫微黄門平章事(宰相)に昇進した。開元三年(715)、黄門監に改められた。薛王の叔父の王仙童は百姓に暴虐を働き、御史は捜査してその罪を検挙し、事実を列挙したから、詔が紫微・黄門に下されて審理させた。盧懐慎は姚崇とともに執奏して、「王仙童の罪状は明白で、もし御史を疑うようなことがあれば、他の人は何を信じたらよいのでしょうか」と申し上げ、これによって獄決した。盧懐慎は自ら才能は姚崇に及ばないとみなしていたから、そのため事案はすべて推して専断せず、当時の人は譏って「伴食宰相」と呼んだ。また吏部尚書を兼任し、病のため骸骨(辞職)を乞い、許された。卒すると、荊州大都督を追贈され、諡を文成という。遺言して宋璟・李傑・李朝隠・盧従願を推薦し、帝は哀悼して嘆いた。 盧懐慎は清廉で経営を行わず、服飾・器物に金玉や模様の飾がなく、身分は貴かったが妻子は寒さや飢えに瀕し、俸禄を得ると、故人や親戚に惜しむことなく、散財し尽くした。東都の貢挙を担当するため派遣されると、身に携えたものは、一つの布袋にとどまった。病となったから、宋璟・盧従願が見舞いすると、筵を覆って寝床とし、門には箔を施していなかった。風雨がくると、すべての席が妨げとなった。日が遅くなってから食事とし、豆を蒸して二つの器に盛り、菜と数杯の酒があるだけであった。別れの時がくると、二人の手をとって、「お上は治世を求めること熱心であらせられるが、しかし国を長いことみると、しばらくしてお勤めに飽きられて、奸人が間に乗じて進んでくることがあるだろう。官邸で記録しておきなさい」と言った。葬式になっても、家に貯蓄はなかった。帝は当時東都に行幸しようとすると、四門博士の張星が上言して、「盧懐慎は忠節かつ清廉で、真っ直ぐな道のまま終えられましたが、お褒めのご下賜を加えられておらず、善を勧めることができません」と言ったから、そこで制を下してその家に物百段、米粟二百斛を賜った。帝が京師に帰還すると、追い込み猟で、杜との間を行き来し、盧懐慎の家が遠望でき、小さな垣根があり、家人が何かしているようであったから、使者を走らせて尋ねてみると、戻って盧懐慎大祥(三回忌法要)をしていたと報じたから、帝はそこで縑帛を賜い、そのため狩猟をやめた。その墓に立ち寄ると、碑表がなかった。行列を止めて眺めていると、涙がはらはらと流れて泣き、官吏に詔して碑を建てさせ、中書侍郎の蘇頲に文をつくらせ、帝自ら書した。 子に盧奐・盧弈がいる。 盧奐は、若い頃から容貌に優れ、吏になると清廉であると称えられた。御史中丞を経て、京師から出されて陜州刺史となった。開元二十四年(736)、帝が西に帰還すると、陜州に立ち寄り、その優れた政治をお褒めになられ、賛を役所に次のように書いた。「太守の任は重要であるが、陝州の政治は優れている。またすでに人々を救い、忠誠の心がある。これは国の宝となり、家風をおとさない人物である。」ついで京師に召喚されて兵部侍郎となった。天宝年間(742-756)初頭、南海太守となった。南海は水陸の集積地であって、物産は怪異で、前太守の劉巨鱗・彭杲は収賄で失脚し、そのため盧奐と交替した。汚職にまみれた吏は手を縮め、宦官で市舶に携わる者もまたあえて法を違反せず、遠方の習俗は安じた。当時開元から四十年たち、治世が優れて清廉な者は、宋璟・李朝隠・盧奐の三人だけであった。尚書右丞で終わった。盧弈は「忠義伝」を見よ。 李元紘は、字は大綱で、その先祖は滑州の人であり、後世に京兆万年県に住んだ。本姓は丙氏である。曽祖父の李粲は、隋に仕えて屯衛大将軍となり、煬帝は京師の西二十四郡の盗賊を取り締まらせ、安んじ宥めて、よく兵士の心をつかんだ。高祖は李粲を厚遇し、兵が関内に入ると、多くを帰順させたから、宗正卿、応国公を授け、姓は李氏を賜った。後に左監門大将軍となり、老いたから、乗馬のまま宮中に入ることを許した。年八十歳あまりで卒し、諡を明という。祖父の李寛は、高宗の時に太常卿、隴西公となった。父の李道広は、武后の時に汴州刺史となり、善政をしいた。突厥・契丹が河北に侵攻すると、議して河南の兵で迎撃したが、百姓は震撼しており、李道広はことごとく慰めたから、人々で離散する者はいなかった。殿中監、同鳳閣鸞台平章事に遷り、金城侯に封ぜられた。卒すると、秦州都督に追贈され、諡を成という。 李元紘は、若い頃から身を謹んで礼法を守り、仕官して雍州司戸参軍となった。当時、太平公主は天下に勢力を振るい、百官はその勢力に従おうとし、かつて民と公主が水車石臼の使用で争った際に、李元紘は民に帰結させた。長史の竇懐貞は非常に驚き、駆けつけて改めようとしたが、李元紘は署判の後ろに「南山に移すべし。判決は変更してはならない」としていた。好畤県の令となり、潤州司馬に遷ったが、優れた統治によって名声を得た。開元年間(713-741)初頭、万年県の令となり、賦役は公平であると称えられ、京兆少尹に抜擢された。詔によって京師付近の渠を裁決することになった。当時、諸王・公主・権勢の家はすべて渠の傍らに水車石臼を建て、溜池を堰き止めて水利権を争い、李元紘は吏に命じてすべて破却し、灌漑用の運河から分水して田に下し、民はその恩を頼った。三たび吏部侍郎に遷った。当時、戸部の楊瑒・白知慎は徴税の失敗を罪とされ、刺史に貶され、帝は代わりとなるべき者を求め、公卿の多くは李元紘を推薦した。帝は戸部尚書に抜擢しようとしたが、宰相は素質が薄いとしたから、そこで戸部侍郎となった。箇条書きにして利害および政治の得失を述べたから、帝は才能があるとし、帝王の助けとすべき者であるといい、衣一揃、絹二百匹を賜った。翌年、遂に中書侍郎、同中書門下平章事(宰相)に任命され、清水県男に封ぜられた。 李元紘は宰相となると、仕事ぶりは厳しく抑圧し、突っ走る者を抑え、出し抜こうとする者は憚った。五月五日、武成殿で宴し、群臣に重ね着を賜い、特に紫服、金魚錫は李元紘と蕭嵩のみで、群臣に比較できる者はいなかった。当時、京司の職田を廃止し、議する者は屯田を置こうとした。李元紘は「軍と国は同一ではなく、内と外も制度は異なっており、もし人が手隙で戦争がなく、耕作放棄地があれば、手隙の人に耕作放棄地を耕させると、運漕の労を省き、軍糧の実となるので、そうなれば屯田することは、ますます有益なことなのです。今百官が職田を廃止することは一県だけではないので、迎合すべきではありません。百姓の私田はすべて力して自ら耕したものであるので、奪ってはなりません。もし屯田を設置すれば、公と私がそれぞれ置き換わることになり、丁夫を徴発することになります。徴発すれば業は家を廃し、庸を免除すれば賦税は国から欠乏します。内地に屯田を置くことは、古よりいまだなかったことです。恐れるところは損失を補うことができず、いたずらに費用を費やすことです。」と述べたから、遂に議は止んだ。それより以前、左庶子の呉兢が史官となり、『唐書』および『春秋』を撰述したが、完成せず、喪があけてから、後に上書してその仕事を終わらせるよう願った。詔して集賢院にて成書することを許した。張説が致仕すると、詔して自邸で史書を編纂させた。李元紘はそのため「国史は、人君の善悪や王政の損益を記録し、毀誉褒貶がつながることは、前聖が最も重んじたことです。現在、国の大典は、分散して一つではありません。また太宗が史館を禁中に別置したのは、秘密を厳重にしたからなのです。願うところは、張説に対して書によって史館につかせ、撰録に参与させることです」と述べた。詔して裁可された。 後に杜暹と合わず、しばしば帝の御前で弁論したから、帝は不快に思い、全員を罷免し、李元紘を曹州刺史とし、蒲州に遷したが、病と称して辞職した。後に戸部尚書で致仕し、再び太子詹事に起用された。卒すると、太子少傅を追贈され、諡を文忠という。 李元紘が宰相となると、清廉で節度があり、宰相となって年を重ねたが、いまだかつて邸宅を改築したことはなく、子馬は貧弱で、封物を得ても親族に散財した。宋璟はかつて「李公は宋遥の美点を引き継ぎ、劉晃の貪欲さを退け、国の宰相となっては、家に蓄えを留めることなく、季文子の徳であっても、どうしてこれに加えることができようか」と嘆いた。 杜暹は、濮州濮陽県の人である。父の杜承志は、武后の時に監察御史となった。懐州刺史の李文暕が人に告発され、杜承志に詔があって審理させたところ、無実とした。李文暕は、宗室の近族であり、ついに罪を得て、杜承志も貶されて方義県の令となり、天官員外郎に遷った。羅織の獄がおこり、病と称して辞職し、家で卒した。 高祖の時代から杜暹の時代までは、五世代が同じところに居住した。杜暹は最も慎み深く、継母につかえて孝行であった。明経化に推薦されて及第し、婺州参軍に補任され、任期満了で帰還し、吏は紙を一万枚贈ったが、杜暹は百枚のみ受け取った。皆が「昔、清吏であっても大銭を受け取ったが、なんと珍しいことだろうか」と感嘆した。鄭県の尉となり、また清廉かつ節度によって名が有名となった。華州司馬の楊孚は、公明で正直な人であり、たびたび杜暹を重んじて意見を聞いた。たまたま楊孚が大理正に遷任することになったが、杜暹もたまたま罪に連座し、楊孚は「もし人を罪にさせたら、皆にどうやって善を勧められようか」と言い、宰相に進言し、これによって大理評事に抜擢された。 開元四年(716)、監察御史となって磧(ゴビ砂漠)西に滞在した。安西副都護の郭虔瓘と西突厥可汗の阿史那献、鎮守使の劉遐慶が相互に訴え、杜暹に詔して審議させた。突騎施(テュルギシュ)の帳に入ると、証拠を探した。虜は金を杜暹に贈り、杜暹が固辞すると、左右の者が「公は絶域に使者となって来たのですから、彼ら戎の心を失ってはなりません」と言ったため、受けたが、密かに幕下に埋めた。境界から出ると、文書で命じて受け取った物を取り出させた。突厥は大いに驚き、磧を渡って追跡したが、間に合わず去った。給事中に遷ったが、母の喪に遭って辞職した。安西都護の張孝嵩が太原尹に遷ることになり、ある者が杜暹を安西に行かせると、虜はその清廉さに心服し、今なお思い慕っていると申し上げたから、そこで奪服(服喪を終える前に官に呼び戻されること)されて黄門侍郎兼安西副大都護となった。翌年、于闐(ホータン)王の尉遲朓が突厥諸国と約束して叛こうとしたが、杜暹はその謀を暴き、兵を発して討伐して斬り、支党をことごとく誅殺し、さらに君長を立てて、于闐を安んじた。功によって光禄大夫を加えられた。辺境を守備すること四年、戎を撫育して兵士を訓練し、よく自ら勤め励ましたから、戎も漢人もとも心服した。 開元十四年(726)、召喚されて同中書門下平章事(宰相)となり、中使を派遣して迎えに行かせた。謁見すると、絹二百、馬一匹、邸宅一区画を賜った。李元紘とあれこれ反りが合わず、罷免されて荊州都督長史となり、魏州刺史、太原尹を歴任した。帝が北都(太原)に行幸すると、戸部尚書に昇進し、行幸の随行を許されて帰還したが、再び東に行幸すると、杜暹は京師留守となった。杜暹は当番の衛士を率いて三宮城を修繕し、池を浚ったが、監督は少しもなまけなかった。帝は聞いてお褒めのお言葉をいたただき、しばしば書を賜って労った。礼部尚書に昇進し、魏県侯に封ぜられた。 開元二十八年(740)卒し、尚書右丞相を追贈され、使者を派遣して葬列を護送させ、禁中から絹三百匹を出して賜い、太常は諡を貞粛とした。右司員外郎の劉同昇らは杜暹が忠孝を行い、諡はまだつくされていないとし、博士の裴総は杜暹が黒い喪服を着て安西への赴任の命を受け、国に勤労したとはいえ、孝を尽くすことができなかったと言った。その子は訴え、帝はさらに役人に勅して考定させ、ついに諡を貞孝とした。 杜暹は友愛のある人物で、異母弟の杜昱を非常に可愛がった。その人となりは学問が希薄で、そのため朝廷で議論すると、時々浅薄を露呈した。しかしよく公に清廉で自己保全に勤め、倦まず休まず努め励んだ。若い頃より誓って親友からの贈り物を受け取らず、こうして身を終えた。卒すると、尚書省および吏が贈り物をしたが、その子の杜孝友は一つも受け取らず、杜暹の普段の志を行ったのだという。 杜暹の族子に杜鴻漸がいる。 杜鴻漸は、字は之巽である。父の杜鵬挙は、盧蔵用とともに白鹿山に隠遁し、母の病のため、崔沔とともに同じく医術を蘭陵県の蕭亮に授けられ、遂にその術を窮めた。右拾遺に任命された。玄宗が東は河に行くと、そこで狩猟したから、賦を奉って風刺した。安州刺史で終わった。 杜鴻漸は進士に及第し、延王府参軍に任じられ、安思順は上表して朔方節度判官とした。安禄山が叛乱をおこすと、皇太子は軍を率いて平涼に行ったが、駐留に適当な場所がわからなかったから、議して蕭関道を出て豊安に赴いた。杜鴻漸は六城水運使の魏少游、節度判官の崔漪、支度判官の盧簡金、関内塩池判官の李涵と謀って、「夷どもが秩序を破壊し、長安・洛陽の二京は占領されてしまった。太子が兵を平涼で収められたが、土地が分散していて根拠地とするのは難しい。今朔方が勝利を制しようとするなら、太子を奉迎し、西は河・隴に詔し、北は回紇と手を結び、回紇は最初から国家とともに、協力な騎馬を収め、兵力を合同し、南方を鼓舞すれば社稷の恥を雪ぐのは、また簡単なことではないであろうか」と述べ、そこで兵馬召集の軍を詳細に上奏し、また軍の資材、攻城用器械、兵糧を記録し、李涵を平涼に派遣して太子に引見させると、太子は大いに喜んだ。たまたま裴冕が河西よりやって来て、また朔方に行くことを勧めた。杜鴻漸は崔漪とともに白草にやってきて迎え謁し、「朔方軍は天下の強兵で、霊州は本領発揮の地です。今、回紇は和平を願い、吐蕃は付き従っており、天下は城を並べて堅守し、王命を待っています。たとえ賊に占領されていても、日夜官軍を待ち望み、回復しようとはかっています。殿下が兵を手に入れ長駆すれば、逆胡どもを滅すことは簡単なことです」と説き、太子は喜んで「霊武は私にとっての関中だ。卿は私にとって蕭何だ」と言った。 霊武に到着すると、杜鴻漸は裴冕らとともに皇帝の位に即位することを勧め、内外の望みであるとした。六度要請し、聴された。杜鴻漸は朝廷の作法に明るく、故事通りに采配し、壇を城の南に設け、一日前にその儀式の次第を詳細にして草案を上奏した。太子は「聖皇は遠くにあらせられ、逆賊どもは結束しようとしている。壇場をやめて、他は奏上の通りとせよ」と言い、太子は即位した。これが粛宗である。杜鴻漸に兵部郎中を授け、中書舎人とした。俄に武部侍郎となり、河西節度使に遷った。長安・洛陽の両京が平定されると、また荊南節度使となった。乾元二年(759)、襄州の大将の康楚元らが叛き、刺史の王政は脱出して逃走し、康楚元は偽って南楚霸王と称し、そこで荊州を襲撃した。杜鴻漸は城をすてて逃走し、人々は皆南へ逃れ、舟を争って溺死する者が非常に多かった。澧・朗・復・郢などの州は杜鴻漸が逃れたのを聞いて、皆山谷に隠れた。にわかに商州刺史の韋倫がその叛乱を平定した。 しばらくして、杜鴻漸を召喚して尚書右丞、太常卿とし、礼儀使にあてた。泰陵・建陵の二陵の制度はすべて杜鴻漸が統括したもので、優れた成績によって、衛国公に封ぜられた。また、「『周官』に「災害時には礼を省く」(周礼 掌客)とあり、今大乱をうけ、人民は殺されたり重症を負っています。婚礼・葬送の行列は、国に大功がある者や二等の以上の場合でなければすべて許されませんように」と建言し、詔して裁可された。 代宗の広徳二年(764)、兵部侍郎同中書門下平章事(宰相)に任じられた。ついで中書侍郎に昇進した。崔旰が郭英乂を殺して成都を占領し、邛州牙将の柏貞節、滬州牙将の楊子琳、剣州牙将の李昌巙が兵で崔旰を討伐し、蜀の地は大乱となった。杜鴻漸に命じて宰相の地位のまま成都尹、山南西道剣南東川副元帥、剣南西川節度副大使を兼任して鎮圧・撫育に向かわせた。杜鴻漸の性格は臆病で、他に遠大な計略はなく、晩年は仏教におぼれて殺戮を恐れた。剣門を過ぎるにあたって、張献誠が敗北したのを教訓とし、また崔旰の武勇を恐れ、先に許したから死ななかった。面会すると、礼をもって待遇し、あえて譴責せず、かえって成都の政務を委ね、毎日従事の杜亜・楊炎と宴会泥酔し、そこで崔旰を推薦して成都尹とし、柏貞節に邛州刺史、楊子琳に滬州刺史を授け、それぞれ戦闘を停止した。そこで入朝を願い出て、聴された。帝に謁見すると、盛んに崔旰の武威・知略が任じるにたえうるものであり、留後とすべきであるとした。宝器五床、羅錦(刺繍入りの錦)十五床、麝臍(ジャコウジカのへそ近くの麝香嚢から製する香料)五石を献上した。また宰相に復帰した。議論する者は乱を長引かせたことを憎んだ。門下侍郎に昇進した。大暦三年(778)、東都留守、河南淮西山南東道副元帥を兼任したが、疾と称して赴任しなかった。また山南、剣南副元帥の地位を譲り、聴された。大暦四年(779)、病が重くなり、宰相を辞任し、辞めて三日して卒した。年六十一歳。太尉を追贈され、諡を文憲という。 杜鴻漸が蜀より帰還すると、千僧供養を行い、報いがあると思ったから、貴紳たちはこれに倣った。病が重くなると、僧に頭を剃らせ、仏葬(火葬)するよう遺命し、土を盛って木を植えるような墓地をつくらなかった。 張九齢は、字を子寿といい、韶州曲江の人である。七歳で文章をつづることをおぼえた。十三歳のとき、広州の刺史であった王方慶に書簡を送った。王方慶は感心していった、「こいつはきっと出世するぞ」。ちょうど張説が嶺南地方に左遷されてきたが、一見すると彼を厚遇した。父親の喪にあって、哀しみにやつれて、その結果役所にある樹木の枝が連なりあうという瑞祥が現れるほどだった。進士に選抜され、最初校書郎に任命されたが、道侔伊呂科の試験でよい成績をあげたため、左拾遺となった。当時玄宗は即位したところで、まだ郊見をしていなかったので、張九齢は建白書を奉った。 「天は、百神の君主であって、王者は天より受命によるところです。古より帝統を継いだ主は、必ず郊祀で始祖を配祭しますが、思うに天命を敬い、受命したところに報いるからなのでしょう。恩恵がいまだに行き渡らず、一年の稔りもまだ実っていなければ、その礼を欠くのです。昔、周公旦は后稷を郊祀して天に配えたのは、成王が幼かったから自ら行ったのだといい、周公は摂政となってその礼を用いたので、廃さないことを明らかにしたのです。漢の丞相の匡衡は「帝王の事で郊祀より重いものはない」と言い、董仲舒はまた「郊祀せずに山川を祭るのは、祭祀の序列を失うことになり、礼にそむく。『春秋』はこれを謗っている」と言っています。臣は匡衡・董仲舒は古の礼を知っているというべきで、皆郊祀を先に行うべきだとしています。陛下は先聖の美業をお継ぎになって、今にいたるまで五年になりますが、まだ天を大いに報祀しておらず、これを経によって考えてみるに、義は通じていません。今、百穀はめでたく実り、鳥獣にも帝王の教化が行われ、夷狄は朝廷に帰順し、武器は使うことをやめていますが、だから天につかえることを怠るのは、後世への教訓とすべきではないと恐れています。願わくば長日(冬至)を迎えて紫壇にのぼり、美しい席をならべ、天位を定めれば、聖典の教えをあますことはないでしょう。」 また申し上げた。「失政の気は発して水害や旱魃となります。天道は遠いとはいえ、こたえることは非常に近いのです。昔、東海で孝婦が無実の罪で殺されると、天はしばらく旱となりました。一官吏の愚かさのため匹婦が非業の死を遂げたとしても、ただちに天はその無実を明らかにします。ましてや全世界の人民の多くは、県では県令に命じられ、家では刺史に生かされ、陛下はこれと共に統治するところで、もっとも人に親しい者においてはどうでしょうか。もしその任にあたいしなければ、水害や旱魃になる道は、どうしてただ一婦だけがたどるのみになるのでしょうか。今刺史や京近の雄望の郡は、まだ多少は人材が選ばれているようですが、江・淮・隴・蜀・三河の大府の外は、そのような人材ではない者もいるのです。京官より出た者は、ある者は昇進した者ですが、またある者は政務に功績がないのに州郡の長官の任に用いられた者で、これは外地の長官が追放・左遷の地となったからです。ある者は追従によって高官となり、勢力が衰えるとこれを京職とは称さないといい、出て州の刺史となったのです。武官や流外官は財産を積んでこの職を得たのであって、才能によったのではありません。刺史がそうなのですから、県令に到っては言うまでもありません。民百姓は国家の根本で、物事の根本の事柄に努力すべきつとめで、よく進上する者は軽んじられ、疲弊した民は、不才の人に遭うと騒擾となり、聖化はこれによって消沈して晴れ晴れとせず、親近の人を選ばないからこのような弊害がおこるのです。古の時代、刺史は入っては三公となり、郎官は出ては百里もの地をつかさどりました。今朝廷の士は一度入ってしまえば外地に赴任することはなく、計略を私用ではかって、かなり得意になってうぬぼれているのです。京師の衣冠を集めると、身名出るような身分の者は、京師に落ち着いて外に赴任しない理由を無理にこじつけ、外地への勤めずに出世しますが、これは大きな利益が京師の内にあるからであって、外にはないからなのです。智能の士で利を欲する心がある者は、どうして再度出て刺史・県令になることを承諾しましょか。国家は智能の士に頼って統治していますが、常に親しい人がいない者は、陛下が法を理由に改めないからなのです。臣は思いますに、治めようとするの本義は、刺史を重んじるのに他はなく、刺史が既に重きを置かれているのなら、すなわち優れた者を任命すべきです。試験してその資質を見定めるのがよいでしょう。概ね都督・刺史を歴なければ、高位の子弟であっても、侍郎・列卿に任じさせるべきではありません。県令を歴なければ、善政したとしても、台郎・給事・舎人に任じるべきではありません。都督や刺史は遠地であっても十年以上外地に任じることをさせてはなりません。このことを行わずにその失を救うようなことがあれば、恐らくは天下はまだ治まっていないようなものです。」 また申し上げた。「古の時代の士を選ぶには、思うによくその任にあたる者を採用し、これによって士は素行を修養するから、思いがけない幸せとはならず、悪巧みは自然と止み、官位はおかしなことにならないのです。今天下は必ずしも上古のように治まらず、一日の事務量は以前の倍に達しており、本当にその根本を正しくなければ、末節が虚偽を行うことになります。所謂末節というのは、吏部条章は千百人にも及んでいます。役人は文墨に溺れ、文筆に優れた悪賢い者共は、悪者によって奮うのです。臣は思うに、当初、出納簿をつくることとは備忘に備えるのみでしたが、今はかえって精密さを案牘(調査文書)に求めており、それなのに人材を求めるのに性急になっていますが、これは所謂剣を流れの中に残して、契丹で記すようなものです。おしなべて吏部で優れた者は、すなわち尉と主簿より、主簿と丞より、ここに文をとって官次を知るもので、それが賢者であろうが不肖な者であろうが論じることはないのは、どうして誤ちではないというのでしょうか。吏部尚書や侍郎というのは、賢者に授けるものですが、どうして賢者を知ることができないというのでしょうか。賢者を知ることが難しいようでしたら、十人を抜擢してうち五人を得られれば、これでよいのです。今かたく格条を用い、資質によって職を配し、官のために人を選んでも、当初からこの意がなければ、そのため時の人は品評調配の誹りを受け、役所は賢人の実を得ることができなくなります。」 「臣が申し上げます。選部(吏部)の法はおとえても変わることはありません。今、刺史・県令のようにその人を詳細に調べ上げ、そこで管内で毎年選にあたる者は、才行を選考して、流品に入るべきであれば、その後に御史台に送り、また選に加えられるのであり、多少でも用いるところは州県の役人の功過についてその上功下功を評定し、そこで州県は慎んで推挙された者で、官吏となるべき才能が多ければ、吏部はその作成された推挙文によるので、凡人がやたらめったらいるということがなくなります。今毎年選ばれるのは一万人を数え、京師の米や物が消耗していますが、どうして士が多いというのでしょうか。思うにみだりにこれがそれにあたるとしているだけなのでしょう。まさに一詩一判をもってすれば、その是非が定まり、たまたま賢人をのがし漏らしたとしても、これは当代の失政なのです。天下は広く、朝廷に人は多いとはいえ、必ず悪口と賞賛があい乱れ、聞く者も受ける者もわからなくなると、事は終わってしまうのです。もしその賢能を知り、それぞれ品第があり、官吏に一人欠員が出るごとに、次にこれを用いることをしなければ、どうしてできないというのでしょうか。もし諸司要官が、下等の者をみだりに昇進させれば、この議に高貴も卑賎もなく、ただ得るのとそうではないのがあるだけになります。そのため公正な議論はおこらず、名節はおさまらず、善士は節を守って時を失い、中人は追求して操つりやすくなるのです。朝廷はよく令名によって人を推挙し、士もまた名を修養して利を得ており、利が出ると、多くはそれに走るのです。そうでなければ小者はいやしくも求めることを得て、一変して私事におもんねることになり、大者は名分を守るのに従うことを許しながら、二変して朋党をなすのです。そのため人を用いるのには身分の高い低いで落第にすべきではなく、身分の高い低いに序列があるからといって、簡単に閑職に追いやるべきではなく、天下の士は必ず心の中で己の品徳を修養するよう刻んでいるから、政務や刑罰はおのずから清廉となり、これは興衰の大事な部分なのです。」 急に左補闕に昇任した。張九齢は人才を見抜く能力をもっていた。吏部が抜萃と被推挙者を試験する場合、いつも右拾遺の趙冬曦と席次を考査し、ゆきとどいて公平だと評判された。司勲員外郎に転任した。当時張説が宰相であったが、彼をいつくしみ大事にし、同じ張姓というので同族扱いをした。常に「わが家の若者は、文学者仲間の第一人者だ」といっていた。中書舎人内供奉に昇任し、曲江の男爵に封じられた。中書舎人に進んだ。そのころ、玄宗は泰山で封禅を行った。張説は門下省の録事と中書省の主書それに身近な部下を泰山に連れて行くために数多く抜擢した。特進して五品の位に登るものがいた。張九齢は詔勅を起草するときに、張説に向かっていった。「官位爵位というのは天下の公器で、徳義と人望を第一とし、功労と旧識を二の次とするものです。現在、泰山に登って封禅を行い天に成功を報告しようとしており、千年に一度の大典です。それなのに高潔な人々は格別の御恩から遠ざけられており、小役人の方が高官のしるしである章韍をつけるでたらめさです。詔が発布されると、四方の人々の期待を裏切ることが心配です。今、草稿をさし出すときなので、まだ変更が可能です。公はよろしく熟慮して下さい」。張説はいった。「事柄は決定ずみだ。いいかげんな議論は、気にかける必要はない」。その結果、果たして非難を受けた。御史中丞の宇文融は田法に専念していたところで、それに関連して上奏したことがあった。張説は事あるごとにそれに異議をとなえた。宇文融は彼に対しふんまんが積み重なった。張九齢はそのことについて注意したが、張説はききいれなかった。突然、宇文融に手ひどくとがめだてられ、危うく処刑されるところだった。張九齢も太常少に配置がえされ、冀州刺史として出されたが、母親が故郷を離れることを承知しないので、上表して洪州都督に変えてもらい、桂州都督に移り、嶺南按察選補使を兼任した。 以前、張説は集賢院の長だったときに、張九齢を帝の顧問となる資格があると推薦したことがあった。張説がなくなってから、天子はその言葉を思い出し、召し帰して秘書少監・集賢院学士知院事に任命した。ちょうどそのとき、渤海国王に詔勅が下されることになったが、その文書を作れるほどのものがいなかった。そこで張九齢を召してそれを作らせたが、詔を受けると直ぐに作りあげた。工部侍郎・知制誥に昇任した。度々郷里に帰って孝養をつくしたいと願い出たが、勅許されず、彼の弟の張九皋と張九章を嶺南刺史に任命し、節季ごとに馬を支給して家を見舞うことをゆるした。中書郎に昇任したが、母親の喪ため職を離れた。悲しみにたえずやつれはてた。紫芝が居間の側に生え、白鳩と白雀が庭の木に巣をかけた。その年、服喪期間をきりあげさせられ、中書侍郎同中書門下平章事(宰相)に任命された。固辞したが、許されなかった。翌年、中書令に昇進した。初めて河南に水を開くことを建議し河南稲田使を兼任させられた。年功序列の廃止とふたたび十道採訪使を設置することをした。 李林甫は学問がなかったので、張九齢が文章によって帝の知遇を受けているのを見て、心中を嫌った。たまたま范陽節度使の張守珪が可突干を斬る功績を立てたので、帝は彼を侍中にとりたてたいと思った。張九齢はいった。「宰相とは天に代わって万物を治めるものです。しかるべき人がいて、始めて任命するもので、功績のほうびとして与えるべきではありません。国家の失敗は、官吏のまちがった任命から起こります」。帝はいった。「宰相の名をかすのだが、どうかね」。答えて「名義と器物はかすべきではありません。東北の二蛮族(奚と契丹)を平定するようなことがありましたなら、陛下は侍中の上に何をつけ加えられますか」。かくて中止になった。また、涼州都督の牛仙客を尚書にとりたてようとした。張九齢はあくまでも反対した。「いけません。尚書は昔の納言です。唐朝では元大臣を起用する場合が多いのです。そうでないとしても、内外の高官を歴任しすぐれた徳義人望を有するものを、それにとりたてます。牛仙客は黄河・湟河流域の一地方官に過ぎません。大臣の一員となれば、天下はいったい何ととりざたしましょうか」。さらに実際の領地を賜与しようとした。張九齢はいった。「漢の法律では、功績があるのでなければ、領地を与えませんでした。唐が漢の法律を活用することは、太宗の定められた規則です。国境地帯の将軍が穀物絹帛を貯え、兵器具に手入れすることは、職務からいって当然のことに過ぎません。陛下がどうしても彼にほうびを授けるおつもりなら、金と帛を下賜されればよろしいことです。土地をさいて領土を与えることは、絶対によろしくありません」。帝は腹を立てていった。「牛仙客の出身が賎しいから、彼を毛嫌いするのではないか。卿は実際もとから名門だとでもいうのかね」。張九齢は頭を地につけて辞儀をしていった。「臣はさいはての地より参った孤独の身です。陛下にはうっかり文学者として臣の採用をゆるしになりました。牛仙客は小役人から抜擢されまして、書物を読んだこともございません。韓信は淮陰の一壮士でありましたが、周勃・灌嬰らと同列になったことを恥としました。陛下がどうあっても牛仙客を起用されるならば、臣は実際それを恥と考えます」。帝は不気嫌だった。翌日、李林甫が参内して申しあげた。「牛仙客は宰相の器です。それを尚書になることが無理だというのでしょうか。張九齢は文官で、古くさい道理にこだわって、本筋を見失っているのです」。帝はこの発言によって牛仙客起用を決定してためらわなかった。張九齢は帝の気持ちに逆らってからは、全く心中に危惧し、かくては李林甫に陥し入れられる結果となるのを心配した。帝が白羽扇を賜与された機会に、賦を献上して扇に託して心境を述べた。その末句に「いやしくも効用の所を得れば、身を殺すといえども何をか忌まん」とあり、また「たとい秋の気の移奪するも、ついに恩を篋の中に感ず」とあった。帝はねんごろなお言葉で答えられたが、けっきょくは尚書右丞相の資格のままで政権から退け、牛仙客を起用した。それ以後、朝廷の官僚たちは俸禄を大事にして天子の恩寵をそこなわないようにした。以前、張九齢は長安尉であった周子諒を推薦して監察御史としたことがある。周子諒は牛仙客を弾劾したが、その上奏文の中に讖緯の書を引用した部分があった。帝は怒り、政事堂において周子諒を杖で打たせたうえ、瀼州に流したが、彼は道中で死んだ。張九齢は不適当な者を推挙したかどで、荊州長史に降等された。まともな行為によって左遷されたにもかかわらず、怨みの念にとりつかれて悲しむこともなく、ただ文学歴史を楽しみとして過ごした。朝廷ではその名声を認めて、しばらくしてから始興県伯にとりたてた。彼は郷里に帰って墓守りをすることを願い出たが、病気でなくなった。六十八歳であった。荊州大都督を追贈された。諡は文献という。 張九齢はひよわな体質で、おくゆかしい人であった。慣例によると、高級官僚はみな笏を帯にはさんでから馬に乗ったが、張九齢だけはいつも人にそれを持たせていた。そのため笏袋を設けたが、それは張九齢から始まる。以後、帝が人を起用するとき、必ず「ものごし態度は張九齢みたいになれるかね」と訊ねるのが例であった。以前千秋節のとき、公・王がたはいずれも宝の鑑を献上したが、張九齢は「千秋金鑑録」と名づける事がらの鑑となるべき十章の書を献上して諷諭の意を述べた。厳挺之・袁仁敬・梁昇卿・盧怡と仲がよく、彼らが終始変わらぬ交友関係を保ったことを、世間では称賛した。宰相となると、ずけずけと発言して大臣の節義があった。その当時、帝は在位も長く、次第に政治をおろそかにしだした。従って張九齢の議論は必ず善悪を遠慮なく指摘し、推挙する人物はすべてまともな人々だった。武恵妃が皇太子李瑛を陥し入れようとたくらんだとき、張九齢はあくまでも反対した。武恵妃はひそかに宦奴の牛貴児を彼のもとにやっていわせた。「廃されるものがおれば必ず起用されるものがおります。公が加勢して下されば、宰相の位に長くおれましょう」。張九齢はどなりつけた。「奥向きのものが、どうして外に口をはさむのです」。急遽そのことを奏聞した。帝はそのため表情を変えた。おかげで張九齢が宰相である間は、皇太子に災厄は起こらなかった。安禄山が初めて范陽偏校下級士官として参内して上奏したとき、おごりたかぶった気色だった。張九齢は裴光庭に向かっていった。「幽州を乱す者は、このえびすのひよっこだ」。安禄山が奚・契丹を討伐して敗れた時、張守珪は逮捕して都に行った。張九齢はその間の事情を書き記して述べた。「司馬穰苴は出陣するとき、遅刻した荘賈を処刑しました。孫武は模擬戦のときですら、兵士として使った宮女を死刑にしました。張守珪が軍法とおり厳正に執行するならば、安禄山は死を免れるべきではありません」。帝はききいれず、安禄山をゆるした。張九齢はいった。「安禄山は狼の子で荒々しい心のままで、反逆の相があります。事件を利用して彼を処刑して、将来の禍根を絶つべきだと存じます」。帝はいった。「卿は王衍が石勒の下ごころを知っていたためしにならおうとして、忠良の人を害してはならんぞ」。けっきょく採用されなかった。帝はのちに蜀にいるとき、彼の忠義を思いかえし、彼のため涙を流した。その上、使者を韶州に派遣してお祭りをし、手厚い贈り物を送って彼の家族を慰問した。開元(713-749)以後、天下の人は曲江公と称号でよび、名まえをいわなかったという。建中元年(780)、徳宗は彼の風格を評価して、更に司徒を追贈した。 子の張拯は、父の喪にあって節行があり、後に伊闕令となった。安禄山が河州・洛州を陥落させたが、終に偽官を受けなかった。賊が平定されると太子賛善大夫に抜擢された。張九齢の弟張九皋もまた名を知られ、嶺南節度使でおわった。その曾孫に張仲方がいる。 張仲方は、生まれたときから優れており、父の友の高郢は面会して、普通の人ではないと思い、「この子は必ず国の器となるだろう。私が高官になれたら、必ず引き立てよう」と言った。貞元年間(785-805)、進士・博学宏辞科に推薦され、集賢校理となったが、母の喪に遭って辞職した。当時、高郢が御史大夫を拝命し、上表して御史となった。累進して倉部員外郎となった。 当時、呂温らが宰相の李吉甫を弾劾したが証拠はなく、罪とされて排斥され、張仲方は呂温の与党であったから、金州刺史に補任された。宦官が民間の田を奪い、張仲方は三度上疏して明らかにし、ついに民間有利の裁決となった。京師に入って度支郎中となった。李吉甫が卒すると、太常は諡を恭懿とし、博士の尉遅汾清は諡を敬憲とし、張仲方は以前の恨みをかかえてまだやむことがなかったから、そこで議を奉って「古の諡は、大節を考え、細かい行いを略し、善悪が一言で足るようになっています。李吉甫を考えてみますに、多芸多才でしたが、君側に媚び、別人に取り入って自分の安全をはかり、重ねて高官となり、信は少なく謀は安直で、事は成功しませんでした。また兵は凶器であり、こちら側から開戦すべきではありません。罪を討伐するには、迎撃して必ず功績をなすのです。内に輔臣を害する賊がおり、外に害毒を懐く災いがあるのです。兵士は野に暴れ、敵の馬は郊外で生息しています。皇帝は職務多忙のため夜食と夜着で過ごすことになり、公卿・大夫もまた恥じ入り、農民は田畝におらず、糸紡ぎ婦には桑が得られないのです」と述べた。また又言、「李吉甫は平易かつ柔和で、名は配行でありません。願うところは、蔡が平定されるのを待って、その後に議論することです」と申し上げたが、憲宗は兵を用いようとしており、発言に悪意があるのを憎んで、貶して遂州司馬とした。しばらくして河南少尹、鄭州刺史に昇進した。 敬宗が即位すると、李程が宰相となり、引き立てられて諌議大夫となった。帝は当時、王播に詔して競舟三十艘を造船させたが、半年分の運費を用いた。張仲方は延英殿で謁見し、厳しく論じたてたから、帝はそのため三分の二に減らした。また詔して華清宮に行幸することとなったが、張仲方は「万乗の君が行かれる際には、必ず儀仗の兵を備えなければなりません。簡易にすれば威重を失います」と述べた。意見に従わなかったが、慰労された。鄠県の令の崔発は宦官を辱めて獄に繋がれ、大赦となっても許されなかった。張仲方は「恩は天下にこうむると、昆虫にも流れるものですが、御前の場合は行われないのでしょうか」と言ったから、崔発はこのため死なずにすんだ。大和年間(827-835)初頭、京師から出されて福建観察使となった。召還されて、左散騎常侍に昇進した。李徳裕が宰相になると、太子賓客の地位で東都分司となった。李徳裕が罷免されると、再び常侍を拝命した。 李訓の変で、大臣はある者は誅殺され、ある者は拘禁された。翌日、群臣が宣政殿で謁見しようとしたが、宮殿は開かなかった。群臣はバラバラに朝堂に立ち、衛兵の門が開いていなかったため、しばらくすると半扉が開いたが、使者が張召仲に伝えて「詔があった。京兆尹となるべし」と言い、その後門が開き、天子がお出でになる合図があった。その説き、宰相や将軍が皆殺しとなり、頭や脚があちこちに転がっており、張仲方は密かにその死体が誰であるのか識別するために使者を派遣した。にわかに埋葬が許可されると、そのため遺体に混乱が生じなかった。すでに禁軍は横行し、多くが政治に干渉し、張仲方はこれを嫌ったが、弾劾することができなかった。宰相の鄭覃は京兆尹を薛元賞と交替させ、京師から出されて華州刺史となった。召還されて京師に入り、秘書監を授けられた。人々は鄭覃が李徳裕を助けて、張仲方を追い出して用いなかったと言った。鄭覃はそこで丞・郎に任命しようと上奏した。文宗は、「侍郎は、朝廷の花形である。彼の刺史はとくに功績もないから、任命すべきではない」と言ったが、ただ曲江県伯に封じた。卒し、七十二歳であった。礼部尚書を追贈され、諡を成という。張仲方は実直で風骨節操があったが、すでに李吉甫の諡を論駁しており、世間はその発言を修正しなかったから、ついに名声が現れなかったのだと言い、没すると、人々の多くは悲しんだ。 それより以前、高祖が隋に仕えていた時、太宗は幼くして病となったから、そのため玉像を熒陽の寺院に刻んで、毎年祈祷していたが、しばらくして削れてわからなくなってしまい、張仲方が鄭州にいたとき、吏に命じて守らせ、石を刻んで上奏し、当時広く伝わった。 韓休は、京兆長安県の人である。父の韓大智は、洛州司功参軍で、その兄の韓大敏は、武后に仕えて鳳閣舎人となった。梁州都督の李行褒は居民に謀反を告発され、詔して韓大敏に審理させた。ある人が「李行褒は李氏の一族で、武后は除きたいとの思いがあるのだろう。その冤罪をつくることなければ、恐らくはあなたに累が及ぶであろう」と言ったが、韓大敏は、「どうしてこの身を顧みて人の罪に捻じ曲げて殺すことがあろうか」と言い、そのため証拠事実のまま判決を出した。武后は怒り、御史を派遣して再審し、ついに李行褒を殺して、韓大敏は家で死を賜った。 韓休は文章を巧みにし、賢良方正科に推挙された。玄宗がまだ東宮であった時、国政の対策を箇条書きにさせ、校書郎の趙冬曦とともに成績は乙科にあたり、左補闕、判主爵員外郎に抜擢された。昇進して礼部侍郎、知制誥となった。京師から出されて虢州刺史となった。虢州は洛陽・長安の近州であり、乗輿が来る場所で、常に厩の秣が税となったから、韓休は賦を他の郡と同じくするよう願った。中書令の張説は「虢州が免除されて他州に与えられるのなら、これは刺史となった臣が私に恩恵を与えるだけになる」と言ったが、韓休は再び議論をとりあげたから、吏は宰相の意にさからうことを恐れると言った。韓休は、「刺史は幸運にも民の弊害を知ったのに救わなかったなら、どうして政務ができようか。罪を得たとしても、甘んじて罰を受けよう」と言ったが、ついに韓休の要請の通りとなった。母の喪があけ、服喪がとけると、工部侍郎、知制誥となった。尚書右丞に遷った。侍中の裴光庭が卒すると、帝は蕭嵩に勅して代わりとなる者を推薦させ、蕭嵩は韓休の志や行いを称え、遂に黄門侍郎、同中書門下平章事(宰相)を拝命した。 韓休は公正で行動につとめず、宰相となると、天下は一致してよしとした。万年県の尉の李美玉に罪があり、帝は嶺南に放逐しようとした。韓休は「尉は微官で、犯した罪は大悪ではありません。今、朝廷に大奸がいて、先にこちらを治めてください。金吾大将軍の程伯献は天子の恩寵をたのんで貪欲で、自宅に輿や馬があって法度をおかしていますので、臣は先に程伯献を、後で李美玉を裁くことを願うのです」と言ったが帝は許さず、韓休は強く争って「罪が小さいのに容赦しないのに、巨悪であったなら差し置いて問わない、陛下が程伯献を追放しないのでしたら、臣もあえて詔を奉りません」と言い、帝は韓休の考えを換えさせることができなかった。大体お堅く正直な様子はこのようであった。それより以前、蕭嵩は韓休が物腰柔らかく平易な人物であったから、推薦した。韓休は事に臨んではある時は蕭嵩を糾弾したから、蕭嵩とは不和となった。宋璟はこれを聞いて「意とせず韓休がこのようであったなら、仁者の勇だな」と言い、蕭嵩は寛容で多くを受け入れたが、韓休は厳正剛直で、時政の得失は、これを言うのに徹底しなかったことはなかった。帝はかつて苑中で狩猟し、ある時は大いに楽を演奏し、しばらく贅沢をしていると、必ず左右に向かって、「このことを韓休は知っているか」と尋ね、すでに韓休の上疏がたちまち到着していた。帝はかつて鏡の前で、黙って楽しまなかった。左右の物が「韓休が朝廷に来てから、陛下は一日も喜びがなく、どうして御自ら憂い悲しまれて、韓休を追放しないのですか」と尋ねると、帝は「私は痩せていっても、天下は肥えていく。また蕭嵩は何か言うごとに、必ず私の意見に従うが、我は退いて天下のことを思うと、不安で寝られない。韓休が政治の道を述べると、多くを議論し、私は退いて天下のことを思うと、安心して眠れるのだ。私が韓休を用いるのは、社稷の計のためなのだ」と言った。後に工部尚書で罷免された。太子少師に遷り、宜陽県子に封ぜられた。卒し、年六十八歳であった。揚州大都督を追贈され、諡を文忠という。宝応元年(762)、太子太師を追贈された。 子の韓浩・韓洽・韓洪・韓汯・韓滉・韓渾・韓洄は、全員学問があって尊ばれた。 韓浩は、万年県主簿となったが、王鉷の家が財貨を隠したのに連座したから、京兆尹の鮮于仲通に弾劾され、循州に流された。韓洪は司庫員外郎となったが、韓汯も一緒に全員連座して貶された。韓洪は後に華州長史となった。韓渾は、大理司直となった。安禄山の反乱軍が京師に侵攻すると、皆賊に捕らえられ、賊は官につくよう迫ったが、韓浩は韓洪・韓汯・韓滉・韓渾とともに出奔し、行在まで逃走しようとしたが、韓浩・韓洪・韓渾および韓洪の四子は再び賊に捕らえられて殺された。韓洪は人と交わるのをよくし、節義があり、当時最も評判が高く、見る者は涙を流した。粛宗は大臣の子で難事に死んだ者をよしとし、詔して韓浩に吏部郎中を、韓洪に太常卿、韓渾に太常少卿を追贈した。韓汯は上元年間に諌議大夫で終わった。韓洽は、殿中侍御史で終わった。 韓滉は、字は太沖で、蔭位によって左威衛騎曹参軍に補任された。至徳年間(756-758)初頭、山南に避難し、采訪使の李承昭が上表して通川郡長史とし、彭王府諮議参軍に改められた。それより以前、韓汯が知制誥となり、王璵への詔の草稿をつくるにあたって、古典よりの借言がなかったため、恨まれた。王璵が宰相となると、韓滉の兄弟は全員冗官に退けられた。王璵が罷免されると、そこで殿中侍御史に抜擢され、三遷して吏部員外郎となった。性格は強直で、吏の事務に精通し、南曹にいること五年、帳簿に最も詳しい人物となった。給事中に遷り、兵部の選抜試験の責任者となった。当時、富平県令の韋当が盗賊に殺され、賊は北軍に所属しており、魚朝恩はその凶徒に通じ、奏上して死罪を許したが、韓滉は執拗に追いかけ、ついに罪に伏した。右丞に遷った。吏部の選抜の責任者となり、戸部侍郎判度支となった。 至徳年間(756-758)より戦争が勃発してから、賦税に制限がなくなり、財務の官吏は輸送にあたって財物を横領した。韓滉は下級官吏および全国の運送を調査し、罪を犯した者は法にてらして追放とした。この数年しばしば豊作となり、軍事はやや収まり、そのため穀物や帛が山谷のように積み上がり、しばらくの間充実した。しかし公文書を再審理し、法律を厳格に適用して捜索して取り立てたから、人々はまた恨みの声をあげた。大暦十二年(777)秋、大雨により収穫への影響は十のうち八にいたり、京兆尹の黎幹が言上したが、韓滉は租税が免除されてしまうのではないかと恐れ、頑なに事実ではないと上表した。代宗は御史に命じて視察させてみると、実際には損田は三万頃あまりにのぼった。それより以前、渭南県令の劉藻が韓滉にしたがい、領内の田に損害がないと報告し、御史の趙計も査察したが、劉藻の報告の通りにし、帝がまた御史の朱敖に事実を調査させると、田の損害は三千頃であった。帝は怒って、「県令は民を養うのが職務であって、田の損害を不問としたら、どうして百姓の辛苦を心配できようか」と言い、劉藻を南浦員外尉とし、趙計もまた豊州司戸員外参軍に左遷された。まさにこの時、長雨で黄河が結界して塩池に注ぎ込んだが、韓滉は池が瑞塩を産んだと上奏した。帝は疑い、諌議大夫の蒋鎮を派遣して事由を調査させたが、蒋鎮は韓滉を恐れ、戻ってそこで帝に祝賀して、また祠を設置することを願い、詔して宝応霊慶池と名付けた。 徳宗が即位すると、韓滉が民の財物を搾り取るのを嫌って、太常卿に遷した。議論する者は満足しなかったから、そこで京師から出して晋州刺史とした。しばらくもしないうちに、浙江東西監察使に遷り、ついで検校礼部尚書として鎮海軍節度使となった。百姓を慰撫し、租・調を公平に実施すると、一年もしないうちに、領内での統治が称えられた。帝が奉天にあって、淮・汴が騒動となると、韓滉は兵卒を訓練し、兵を分けて河南を守った。帝が梁州に行くと、また縑十万匹を献上し、鎮兵三万を以て賊の討伐の助けとするよう願い出ると、お褒めの詔があり、検校尚書右僕射に昇進し、南陽郡公に封ぜられた。李希烈が汴州を陥落させると、韓滉は部将の王栖曜・李長栄・柏良器に精兵一万人を率いさせて討伐に進撃させ、睢陽に至ると、賊はすでに寧陵を攻撃しており、王栖曜らは打ち破って賊を敗走させ、運送路は塞がることなく、東南の安全を全うできたのは、韓滉の功績が大きかった。 当時、里長が有罪となると、たちまち殺されてしまい、許されることはなかった。人々はこれを怪訝に思った。韓滉は「袁晁はもともと一鞭を持った小役人にすぎなかったが、賊を捕らえては衆望をあつめ、その類を集めて叛乱をおこし、これらの輩はすべて郷県の凶徒であって、殺すにこしたことはない。年少の者を用いれば、身を惜しんで家を保つから悪事をしない」と言った。また賊は牛酒がなければ集まって盗となることができないから、牛を屠ることを禁止し、その謀を絶やした。婺州の属県で法令を犯す者がいて、誅殺は隣伍(隣組)二及び、連座で死んだのは数十数百人に及んだ。また役人を派遣して境内を分けて査察させ、罪は嫌疑がかかれば必ず誅殺し、一度の裁判でたちまち数十人にもなったから、下々の者は皆恐怖した。 京師がまだ平定されていないことを聞いて、関所と橋梁を閉鎖し、牛馬が境から出ることを禁止し、石頭の五城を築城することは京口から玉山までであった。上元県の道観・仏寺四十箇所を破壊し、壊れた城壁を修築し、建業から京峴まで城墻から望見できるようにした。朝廷に晋の永嘉南遷のような事がおこると思い、館邸数十を石頭城に設置し、井戸を掘削することすべて百尺に及んだ。部将の丘涔に命じて徭役を監督させ、毎日数千人、丘涔はその衆を虐待し、朝で命令して夕には完成し、先代の墳墓はすべて暴かれた。楼艦を建造すること三千柁、舟師(水軍)を海門で大閲兵し、申浦から帰還した。李長栄らを追って帰還し、側近の盧復を宣州刺史とし、堡塁を増設し、演習して兵器に熟達し、鐘を壊して軍器を鋳造した。陳少游は揚州にあって、兵士三千で江に臨んで大規模な閲兵を行い、韓滉もまた兵士を総指揮して金山に臨み、陳少游と会同し、金や絹を互いに贈りあった。しかし韓滉は精兵を掌握していたが、出発を延長して国難に赴かず、兵糧を徴発し朝廷を救う者と結びつきを強め、当時の人はこれを頼った。李晟は渭北に駐屯しており、韓滉は米を運送して贈り、船に十弩を設置して警備したから、賊は脅かすことができなかった。それより以前、船を操船して江に臨み、韓滉は属官に向かって、「天子が宮中を出て流浪することになったのは、臣下の恥である」と言い、そこで自ら一袋を背負い、将校も争って背負った。 貞元元年(785)、検校左僕射を、同中書門下平章事(宰相)、江淮転運使を加えられ、鄭国公に封ぜられた。石頭城を修造し、人々はかなり謀略をめぐらせていると言っており、帝であってもまたその言に惑わされた。当時、李泌が難儀しながらも弁解の訴えをしたから、帝の誤解は解けた。貞元二年(786)、晋国公に改封された。この年入朝した。韓滉は既に熟達の宿老であって、非常に志が大きくて人に高ぶり、新入りに接して用いても、その意を満足させることができず、衆はこれを恨んだ。羨銭五百万緡あまりを献上し、詔して度支諸道転運、塩鉄等使を加えられた。 右丞の元琇が判度支となると、関内の旱を調査し、江南の租米を運んで西は京師に供給するよう願った。帝は韓滉に委ねて監督を一任したが、元琇は韓滉の剛直が一緒に仕事するのが難しいことを恐れ、長江より揚子江まで、韓滉が担当し、揚子江から北は、元琇自身が担当することを願った。韓滉はこれによって元琇を愚かな人間であるとした。たまたま元琇が京師では銭重貨軽(銭納の税納者よりも物納の税納者の方が負担が大きいこと)であって、江東塩監院を出発した銭四十万緡が関中に入った。韓滉は欺いて「銭を運送して京師まで持ってくれば、費用は一万あたり千にも及ぶので、従ってはなりません」と奏上したから、帝は元琇に叱責した。元琇は「千銭はその重量は米一斗と同じで、費用は三百ほどでしょう」と言ったから、帝は韓滉を諭したが、韓滉はあくまでも反対した。ここにいたって、元劾は米を淄青の李納、河中の李懐光に贈ったと誣告された。帝は怒り、再審を行わず、元琇を降格して雷州司戸参軍とした。左丞の董晋が宰相の劉滋と斉映に向かって、「昨年、関中では軍事を援助しました。当時、蝗害や旱魃となりましたが、元琇は一賦も増税せず、戦時体制をすべて支援しました。これを労臣というべきでしょう。今罪名なく流刑とされ、刑罰はしきりで人心を恐れさせています。たとえ権臣の思い通りのままになっても、公はどうして三司の審問を要請しないのですか」と言ったが、劉滋と斉映は採用することができなかった。給事中の袁高が皇帝に直言して申し上げたが、韓滉は党派による訴えであると誣告したから、次第に用いられなくなった。 劉玄佐が入朝せず、帝は密に韓滉に詔して入朝を勧めさせた。汴州を通過すると、劉玄佐は最初から韓滉を憚り、属吏に礼で出向かえさせた。韓滉はそれには当たらないと辞退し、そこで兄弟の契を結び、劉玄佐の母親に拝礼し、酒席を設けて女楽を演奏させた。がすすむと、韓滉は、「速やかに天子に謁見すべきだ。夫人の白首と新婦や子孫を宮掖の奴とさせてはならない」と言うと、劉玄佐は泣いて悟った。韓滉は銭二十万緡を劉玄佐のための旅の準備金としてやり、また綾(あやぎぬ)二十万で軍を労った。劉玄佐が入朝すると、韓滉は辺境の軍事に任用すべきであると推薦した。当時、両河地域では兵乱がやみ、韓滉は上言して、「吐藩は河湟を長らく根拠としていましたが、近年次第に弱くなり、しかし西には大食が、北は回鶻を防ぎ、東は南詔に抗い、軍を分けて外戦し、兵は河隴にあっては五・六万を数えるに過ぎず、もし朝廷が将に命じて、十万の軍で城州・涼州・鄯州・洮州・渭州にそれぞれ兵二万を置いて防御すれば、臣が願うところは、本道の財物で軍に送り、三年の費えを給付し、その後田を営んで収穫された粟を積み上げ、耕しては戦うことです。そうすればつま先立てて待ち望んだ河隴の地の回復ができるのです」と述べ、帝はその上申をよしとし、そこで劉玄佐を訪れ、劉玄佐の行くことを願った。たまたま韓滉が重病となり、張延賞は州県の冗官を減員して、俸禄を収公し、戦士を募って西へ討伐するよう奏上した。劉玄佐は張延賞が、備蓄が減るのを物惜しみしており、また犬戎がまだ弱体化しておらず、軽々しく進撃すべきではないからと辞退し、そのため病と称した。帝は宦官を派遣して慰問し、劉玄佐は臥して命を受けた。張延賞はこのことを知って劉玄佐を用いるべきではないとしたから、沙汰止みとなった。韓滉はついで卒し、年六十五歳であった。太傅を追贈され、忠粛と諡された。 韓滉は宰相の子であったが、性格は節倹で、衣服や毛布は十年に一度変える程度であった。非常に暑くても扇をとらず、住むところは粗末で、庇で風雨を防ぐ程度であった。門には戟を並べ、父の時の邸門であったから毀すのに忍びず、そのため修復を願わなかった。堂の先とは庇で接続されておらず、の弟の韓洄がようやく増設すると、韓滉は見て即座に撤去させ、「先君が受け入れられたものは、我らが奉らなければならず、常に失墜するのではと恐れている。もし倒壊したら、修理すればすむのであるから、どうしてあえて改作して倹徳を傷つけるのか」と言った。朝廷の重職にあって、潔癖で悪を憎み、家族のために資産をなさなかった。仕官の始めから将相に至るまで、五匹の馬に乗るだけで、飼い葉桶のもとに繋ぐだけであった。鼓や琴を好み、書は張旭の筆法を得て、画は宗族の人の韓幹と双璧をなした。かつて自ら「定筆することができなければ、書画を論じるべきではない」と言い、急務ではないから、自らひた隠しにし、人に伝えなかった。よく『易』・『春秋』を修学し、『通例』および『天文事序議』各一篇を著した。はじめて判度支となると、李晟は裨將に軍事のことを上申させると、韓滉はこれに答申した。李晟は礼を加え、その子に拝礼させ、器物や鞍・馬を贈った。後に李晟は終に大功を立てた。韓滉は幼い頃からすでに名声があり、交友するところはすべて天下の豪俊であった。晚年はますます苛烈かつ残酷となり、そのため論ずる者は自身の本意が行いによって悪く言われているのは、目的のための手段ではなかったかと疑っていた。すでに志を得て、そこで独断専行するようになったのは、思うに自然とその性格の現れであったのだろう。子に韓群・韓皋がいる。 韓群は国子司業で終わった。韓皋の字は仲聞で、人格は重厚で、大臣の器があった。雲陽県の尉から賢良方正異等科に及第して、右拾遺を拝命した。累進して考功員外郎に遷った。父を喪うと、徳宗は使者を派遣して弔問し、父韓滉の行状の事を論述させ、号泣して命を承諾し、数千言の草稿を書いて進上し、帝はお褒めの言葉を賜った。喪があけると、宰相は考功郎中に任命しようとしたが、帝はさらに加えて知制誥とした。中書舎人、御史中丞、兵部侍郎に遷り、仕事ぶりを称えられた。にわかに京兆尹を拝命した。奏上して鄭鋒を倉曹参軍に任命した。鄭鋒は苛斂誅求な役人で、そこで韓皋に、徹底的に府中の雑銭を探し求め、これで強制的に粟麦三十万石を買い上げて帝に献上することを説き、韓皋は喜び、奏上して興平県令とした。貞元十四年(798)、大旱魃となり、民は租賦税の免除を願い出たが、韓皋は京兆府の金庫がすでに空っぽであったから、心の中で心配かつ恐れ、奏上してあえて事実を言わなかった。たまたま宦官が出くわした際に、百姓が道を遮って訴えたから、事案が上聞され、撫州員外司馬に貶された。しばらくもしないうちに、杭州刺史に改められ、京師に入って尚書右丞を拝命した。王叔文が政権を掌握すると、韓皋はこれを嫌い、ある人に向かって、「私は新入りで偉くなった奴なんかに仕えることはできない」と言い、それを従兄弟の韓曄が王叔文に告げたから、王叔文は怒り、京師から出されて鄂嶽蘄沔観察使となった。王叔文が失脚すると、節度使を拝命し、鎮海節度使に遷り、京師に入って戸部尚書となり、東都留守、忠武軍節度使を歴任した。大抵、簡素かつ倹約で仕事をし、至るところで実績があった。召還されて吏部尚書を拝命し、太子少傅を兼任した。荘憲太后が崩ずると、大明宮留守となった。穆宗はもと太子少傅であった恩から、検校尚書右僕射を加えられた。また左僕射に昇進した。長慶四年(824)、再び東都留守となったが、赴任の道中に卒した。年七十九歳で、太子太保を追贈され、諡を貞という。 韓皋の容貌は父に似ていたが、父を失うと、見て鑑とするものはなかった。生来音律を知り、常に、「長年、後々まで音楽を聴きたいとは願わなかった。なぜなら門内の事は多く逆にこれを知ったからだ」と言っていた。鼓・琴を聞いて、「止息」まで至ると、嘆いて、「なんと素晴らしいのだろうか。嵆康がこの曲をつくったのは、当時晋の時代になろうとしていて、魏の終焉期であったのだ。その音域は商を主調としていて、商は音が秋と一緒であり、秋は天がまさに寒々として草木が枯れ落ちていくところで、その年が終わろうとするのだ。晋は金運に乗じ、商もまた金声であり、これは魏が末期で晋がまさに代わろうとしているからなのである。その商弦を緩めると、宮音と同音になり、臣が君権を奪うという意味になり、司馬氏が簒奪しようとしているのを知るのだ。王陵・毌丘倹・文欽・諸葛誕が相次いで揚州都督となり、全員が魏を復興させようとの謀があったが、全員司馬懿父子に殺された。嵆康は揚州がもと広陵の地であり、王陵らは全員魏の大臣で、だからその曲を名付けて「広陵散」とし、魏が滅亡するのは広陵から始まるのだと言うのだ。「止息」は、晋が突然勃興しても、終にはここに止息するのを言うのだ。その哀憤、焦りと苦しみ、哀悼、逼迫の音は、ここに尽きるのだ。永嘉の乱はその兆しなのか。嵆康が晋・魏の禍いを避け、自身の身を鬼神に託したのは、後世が音を知るのを待ったからだろうか」と述べた。 韓洄は、字は幼深で、蔭位によって弘文生となり、任期が満了で、吏部侍郎に任じられ、達奚珣が家柄と声望があるから抑圧した。章懐太子陵令に任じられたが、怒りの顔色を見せなかった。安禄山が叛乱をおこすと、韓家の七人は殺害され、韓洄は難を江南に逃れ、菜食して音楽を聴かなかった。乾元年間(758-760)、睦州別駕に任命され、劉晏は上表して屯田員外郎とし、知揚子留後となった。召還されて諌議大夫を拝命し、補闕の李翰とともにしばしば奏上して得失を申し上げ、知制誥に抜擢された。元載と親しかったのに連座し、邵州司戸参軍に貶された。徳宗が即位すると、起用されて淮南黜陟使となり、再度諌議大夫となった。 劉晏が罪に伏し、天下の銭穀といった財政のことは尚書省に帰属することになったが、省司は廃止されてから久しく、綱紀はなく、その任を統括する者がいなかった。そこで韓洄を抜擢して戸部侍郎、判度支とした。韓洄は上言して、「江淮七監は、毎年銭四万五千緡を鋳造して京師に運んでおり、巧みに運送しても、運送費用は緡ごとに二千にもなり、これは元本に対して利子が二倍になるのです。今、商州の紅崖冶で銅を算出していますが、洛源監が長らく廃止されています。願うところは山を掘って銅を採取し、そこで洛源監を復活させ、十炉を設置して鋳造を行えば、毎年銭七万二千緡が得られ、費用は緡ごとに九百で、そうすれば元本を浮かすことができるでしょう。江淮七監は、願わくばすべて廃止されますように」と述べた。また上言して、「天下銅鉄の鋳造、山沢の利は、まさに王者に帰属すべきものであり、願わくばことごとく塩鉄使の所属とされますように」と述べ、これに従った。また胥史の余剰人員二千人を罷免し、米を長安県・万年県の二県にそれぞれ数十万石を積み、毎年の豊作・不作を見て出納させたから、そのため人々は食に苦しむことはなかった。 韓洄は楊炎と親しく、楊炎が罪を得ると、不安となったがどうすることもできず、韓皋が上疏して楊炎の罪をおさめたが、帝は韓洄にこれを教えたのだと思い、蜀州刺史に貶した。興元元年(784)、京師に入って兵部侍郎となり、京兆尹に転任した。貞元十年(794)、国子祭酒で終わり、戸部尚書を追贈された。 賛にいわく、人が事を立てるや、最初は巧みに行って、始めは鋭く、その半ばに至ると次第に怠り、ついには放縦となって振るわなくなるのだ。玄宗の開元年間(713-741)の治世を見ると、精力的に励んで治世を求め、元老は前時代の大物たちで、ややもすれば皇帝も憚るところであり、そのため姚元崇・宋璟の時は人の言うことに耳を傾け、全力で諌めても難なく功績がなったのである。太平の世が長引くと、左右の大臣は皆帝自ら選んだのを知っていたから、慣れて与しやすしとした。玄宗の野心と意欲が満たされて、自己満足で独りよがりとなったのである。しかし張九齢は論争しては切羽詰まったもので、申し上げてもますます聴かれなかったのである。野心と意欲が満たされると、たちまち謀略が行われるところとなり、自己満足で独りよがりとなると、柔和で円熟であるのを楽しみ、厳しい諌めを憎んだから、全力で諌めたことが多いといっても、聞き入れられることは姚崇・宋璟の時から遠く及ばないのである。ついに胡の小人どもに中華を乱され、身をもって辺境に逃れたのは、天運であるというのは違っており、また人事が要因であるというのが正解なのである。もし魏知古らが皆宰相に選ばれたのが、天宝年間(742-756)の時に当たっていたのなら、どうしてよく救うことができただろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百二十五 列伝第五十 『新唐書』巻一百二十六 列伝第五十一 巻一百二十七 列伝第五十二
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/39293.html
登録日:2018/04/18 Wed 12 33 22 更新日:2024/08/23 Fri 08 45 44 所要時間:約 25 分で読めます ▽タグ一覧 SDガンダムワールド_ヒーローズ TEAM NACS ザ・ドリフターズ ドラゴンボール ドンドラゴクウ フジテレビ モンキーパーマ 三蔵法師 中国文学 中華風ファンタジー 仏教 伝奇小説 何故かなかなか立たなかった項目 冒険 古典 唐 四大奇書 堺正章 天竺 太古のライトノベル 妖怪 孫悟空 日本テレビ 最遊記 西遊ジャーニー 西遊記 道教 香取慎吾 『西遊記』とは、中国で生まれた伝奇小説にして、日本にも多大なる影響を与えた古典作品である。 中国では『水滸伝』・『三国志演義』・『金瓶梅』と合わせ「四大奇書」、『金瓶梅』を『紅楼夢』に差し替え「四大名書」とも称され、 中国・日本の両国で京劇・ドラマ等各種メディア化が無数になされている。 本項目では本作の概要と、各種派生作品の一覧について説明する。 ▽目次 ●概要 ●あらすじ ●主な登場人物○天界の神仙 ○著名な妖怪 ●四遊記と続編 ●主な二次創作・派生作品(日本)実写ドラマ 人形劇 漫画 アニメ 舞台 小説 ゲーム ●概要 史実で唐代(7世紀)僧侶玄奘が行った天竺(インド)への仏教修行の旅、及びその冒険の軌跡を記した『大唐西域記』を基に、 各地の伝承を講談化した『大唐三蔵取経詩話(新雕(ちょう)大唐三蔵法師取経記)』を経て 「巨岩から生まれた岩猿孫悟空」・「天竺へと赴く僧侶三蔵法師(玄奘)」・「元天界の将で煩悩に弱い豚妖怪猪八戒」・「元天界の役人で流砂河に居ついていた妖怪沙悟浄」・「馬化して旅に付き従う龍王の息子玉龍」の冒険譚が描かれる。 まあ一応史実が基だが、実質的主人公が仙術を使う猿なので活劇系ファンタジー作品でもあり、 作中の「天界」も道教の「仙人」と仏教の「仏」が混在するという、ちょっとカオスでいかにも中国的な世界観である。 また仙人繋がりで『封神演義』の一部キャラが、唐代繋がりで『隋唐演義』の一部エピソードが登場している。 一応作者は「丘処機」(12世紀元代初期の人物)(*1)または「呉承恩」(16世紀明代の人物)とされているが、日本を中心に異論が多数ありよくわかっていない。 作者がよく分からないのは時代によって内容の深化や編集等が異なるせいで、 現在日本で入手しやすい完訳本は明末の『李卓吾先生批評西遊記』ベースの岩波文庫版(中野美代子訳)だが、 「李卓吾~」前のバージョンである『世徳堂本』版や各種書物からの編集本『西遊真詮』では『李卓吾~』で大幅に省略された「三蔵法師の過去」が書かれており、 そっちをベースにした岩波少年文庫版や平凡社版で確認できる。 ●あらすじ 昔々、世界は東西南北4つに区分されており、その中でも「東勝神州」は「傲来国」にある花果山の頂上に、穴ぼこだらけの不思議な石が世界の仙気を吸いながら鎮座していた。 ある日その石がぱっくり割れて小さな石の卵を産み落とし、中から生まれたるは何とお猿! その石猿は花果山に根城を構え、山の滝つぼに眠っていた洞窟「水簾洞」を見つけ山の猿王になる。 だがある日「俺だっていつかは死ぬよね…」と鬱になり(*2)、部下猿の薦めで「不老不死の仙人」になるべく仙人を探す旅に出、ついに出会った仙人に「孫悟空」と名付けられ、仙術修行に明けくれ多彩な術と仙人の秘法を身に着けた。 最後は調子に乗って叩きだされたものの、留守の間に水簾洞を奪った魔王を倒して再び王となり、牛魔王ら他の妖怪達とも義兄弟になる猛者として君臨。 龍王から如意棒と揃いの豪華衣装をカツアゲし、あの世から迎えに来た閻魔の使いは撲殺、ついでに自分はおろか猿たちの寿命もない事にする等の蛮行に及ぶも、 これらを通報された事で天界に目をつけられ、懐柔案により一度は天界に。 だが結局「天界スカウト→逃げ出して地上に戻る→バトル→天界再スカウト→悪戯しまくってバトル」と大騒動の元になり、最終的にお釈迦様に戦いを挑んで五行山に封印された。 それから五百年後、お釈迦様の「乱れる地上に正しい仏教をもたらしたい」との願いから、 観音様が各地でくすぶっていた悟空ら過去にポカやらかした連中に「これからくる法師様に心入れ替えて仕えれば赦すよ!」と諭していく。 そして中国の皇帝太宗はひょんなことから経験した冥府巡りと啓示から「徳のある僧侶を天竺へ行かせよう」と決め、 僧侶玄奘(三蔵法師)に命を与え、彼を天竺に旅立たせる。 三蔵法師は行く先々で妙な連中に会い彼らを弟子にしていくが、その旅路は三蔵をつけ狙う妖怪と、天界の齎す試練によって過酷なものになるのだった…。 ●主な登場人物 孫悟空 主人公で石猿。 天界でトラブルを起こして出て行ったあと、その件を知った子分の妖王が提案した「斉天大聖」なるカッコいい称号をいたく気に入り、以降は自称するようになる。 三蔵法師の弟子になってからはそのお寺の小間使いのような容姿から「孫行者」とも呼ばれるようになった。 道中しばしば「雷公様」と呼ばれるが、これは顔つきが怖いからではなく、猿の口が飛び出した顔つきが中国の伝統的な雷公の図像によく似ているため。 八戒・悟浄とは弟子仲間として義兄弟関係にあり、「兄貴(哥哥)」と呼ばれることも。 元猿の王なためかなりプライドが高く、一回目の天界暮らしの時は自分の役職「弼馬慍」(天馬(*3)の世話係)が かなり低い身分だとばらされた所為でキレ(それで大聖と名乗るように)、以来「弼馬温」は彼にとって最悪の悪口となった。 須菩提祖師(*4)に仙術を習い、少女から巨人まで多彩な姿と化す「七十二の変化術」・毛を材料に自在に分身する「身外身の術」・かつては中国各地の河の深さを測る物差しで、天の河の底をも突き固めたという長短巨小自在の「如意金箍棒」・ 十万八千里を自在に駆ける「筋斗雲」(*5)とどれをとっても凄い能力を持っている。 捕縛の際の大暴れを見るに哪吒とは互角かやや有利、二郎神君にはやや不利といったところ。 なぜか「小さくなって体内から攻撃」という手をやけに好むため、三蔵から突っ込まれたことがある。 また最初の目的だった「不老不死」に関しても、仙人修行・閻魔帳塗りつぶしの他仙桃盗み食いや 仙丹炉蒸し焼きの刑(*6)による強化で予想以上に叶い、ちょっとやそっとじゃダメージを受けない鋼の体を手に入れた。 ルーツはインド神話の風の神ハヌマーンとも、インドの善無畏三蔵が経典を手に入れたとき番をしていた猿とも、 玄奘の次の世代に天竺からの取経を成し遂げた「悟空」という僧侶とも。 なお、中国に生息する猿のキンシコウがモデルというのは、 日本モンキーパーク園長がキンシコウの毛並みを評価した際に言った言葉が過大解釈されたものとみられ、 その言葉も指摘を受けた際に訂正しているため、根拠のない俗説となる。 所謂『西遊記』として認知されているテキストである『李卓吾先生〜』では「小さな身体」「長い尻尾」「赤い尻」「仲間が猿回しに使われる」などの描写があるため、ニホンザルとごく近縁なアカゲザルをイメージの下敷きにしているものと思われる。 三蔵法師(玄奘) 史実では過酷な旅をこなした偉人だったのだが(*7)、本作では悟空というチート主人公がいるためヒロインポジとなった人(*8)。 僧になる前の俗名は「陳江流」で、三蔵の意味は「(仏教で大切な書物)経蔵・律蔵・論蔵をマスターしたもの」。つまり、彼以外にも三蔵法師は何人もいる(*9)。 太宗経由で観音様から授かった袈裟と錫杖(*10)をいつも纏っている。 また無茶な悟空を止めるストッパーとして、観音様から金輪「緊錮児」と呪文を授かり、悟空に付けた金輪を呪文で締め付けることが出来るようになった。 実は前世不信心でお釈迦様の元を叩きだされた弟子「金蝉子」だったという設定がある。 そんな仏弟子は実在しないが、「金蝉」とは肉体を捨て仙人になるように脱皮する蝉を表す道教由来の語で、本作のカオスな世界観を象徴するような名である。 その特殊な出生や「精を放出したことがない」という道教的には凄いエネルギーを秘めている点から、金角・銀角ら天界と縁がある妖怪たちのターゲットとなる(*11)。 一応弟子たちの他に見えない護衛として天界から来た「六丁六甲」・「五方掲諦」・「四値功曹」・「護教伽藍」が付き従っているが、あまり役に立っていない。 バージョンによっては両親が賊に襲われた際に母が川に流して逃がし、寺に拾われたという生い立ちが語られることもあり、前述の悟空のルーツがハヌマーンという説と合わせてラーマーヤナのシーター姫がルーツと言われることも。 なお、ラストに語られる八十一難のうち、金蝉が人間に貶められる第一の難に続く三つの難が、この三蔵誕生のストーリーのものである。 猪八戒 前世は天界の武将「天蓬元帥」だったが、蟠桃会にて酔った勢いで嫦娥(月の模様の由来の一つで、不老不死の薬を飲んだ美女)にセクハラしたせいで地上に堕とされ、豚に転生した豚妖怪。 殺生を重ねていたが観音様に諭され三蔵の弟子になる 食生活を精進料理オンリーにすることを決意した。 悟空に比べるとバリエーションは少ないが、太上老君が鍛えた九歯の鈀(日本では熊手、まぐわともされる)、名付けて上宝沁金鈀を振る怪力や三十六の変化術を持つ。一行では荷物持ち担当。 どうも欲に弱く、三蔵が来る前人間に化けてある家の婿養子になるまで奮闘するも、 次第に本当の姿がばれ嫁を監禁した事で三蔵や悟空に退治依頼が来たことで初対面というアレな事になった。 物語のラストが近づいてもなお月の仙女に言い寄るシーンがあるほどの好色ではあるが、師匠のためなら絶世の美女に面と向かって啖呵を切る憎めない奴。 なお観音様から「悟能」という法名を貰ったのだが、三蔵から「仏教の食生活での8つの戒めをちゃんと守っている」と命名された「八戒」と普段は呼ばれている(*12)。 テキストとして成立する以前の『西遊記』の姿を残していると言われる『雑劇西遊記(楊東来先生批評西遊記)』では「摩利支天の御車将軍、黒風洞の黒風大王」を名乗って悪さをするが、二郎真君に取り押さえられる。 沙悟浄 かつては天界の近衛兵「捲簾大将」だったが、蟠桃会でうっかり天帝の宝物である玻璃の容器を割ってしまった(*13)せいで地上に堕とされ妖怪となり、 流沙河で取経僧を次々と喰らっていたが観音様に諭され改心し、(一回悟空らとバトルした後)三蔵様の弟子となった。三蔵からは「沙和尚」と呼ばれる。 上2人が元々戦士なためあまり目立たないが、月の桂の木から伝説の大工が削り出した武器「降妖真宝杖」を振るい、悟空には疎い水中探索(*14)では元水軍の八戒と共に活躍している。 一行では馬の手綱を引いたり悟空・八戒の仲裁役を務めたりしている。 なお容姿は「藍色の肌」で「三蔵に弟子いりする時赤い髪をそって坊主にした」とあり、 元河住まいとはいえ決して河童とか半魚人ではないのだが、なぜか日本では殆ど河童扱いされている。 この河童扱いは明治の講談にまで起源が遡ることが出来、皿が三枚ある河童の化物として描写されたのが文章における最初のものであるらしい。 しかし、この三枚皿の河童が描写されたのとほぼ同時期にただの髭面のおっさんの挿絵を挿入した講談もあり、イメージが完全に膾炙しきってはいなかった模様。 ヨウスコウカワイルカやヨウスコウアリゲーターがモデルとされることもある。 『大唐西域記』では砂漠で水が底をついて絶望しかけた玄奘を励ました現地の神「深沙大将」で、流沙河も元は水の流れる河川ではなく河のように流れる流砂を指していた。 つまり本来は水属性ではなく砂属性なはずだが、『西遊記』の時点で既に流沙河=水の河と誤解されており、水の妖怪と解釈されてしまっている。 能の演目『大般若』では竜神「真蛇大王」の姿で玄奘に大般若経を授ける。 なお、彼が首に下げている九つの髑髏は、全て三蔵法師の前世とされることもあるが、『李卓吾先生〜』『西遊真詮』の沙悟浄にこの設定は見られない。 確かに『大唐三蔵取経詩話』で現れた深沙大将は三蔵の前世を食ってその髑髏を持ち歩いているし、『雑劇西遊記』では「九度の生涯全てで西天を目指したとある僧侶を、九度ともここで食ってしまった」と述べる沙悟浄が登場しているものの、その設定はどうやら『西遊記』として編纂・成立する過程で抜け落ちた模様(*15)。 玉龍 西海龍王敖閏の三男だったが、うっかり火事騒ぎを起こして父の宝を焼いてしまい、逆さ吊りののち斬首の刑を受けていた所で観音様と出会い取りなされる。 解放後は三蔵法師の乗る馬を食べてしまい、悟空に懲らしめられ白馬に変じて旅の伴となる。いわゆる龍馬というやつである。 基本「馬」として行動しているが、一回だけ一行の危機に人化して行動したことがある。もう一度だけ一行の助けになったことがあるが……山の奥の薬屋さん 西遊記成立前のレリーフに「猿と東海火龍太子(人間体で如意棒が得物)を従えた玄奘三蔵」という像があり、 実は初期から関連が深いようだ。 『雑劇西遊記』では南海龍王の第三太子、火龍太子として登場する。 ○天界の神仙 釈迦如来 我らがお釈迦様。玉帝(*16)に次ぐ天界のNo.2で仏教のトップにあらせられるお方。 大昔に酔った勢いでケガをして、その時垂らした血が岩に降り注いだことで悟空が生まれたという説もあり、これだと実質悟空の父親である。 天界で暴れる悟空に「私の手から逃げのびてみろ」と命じ、あっさりと彼を捕まえ五行山に封印した。 故郷である天竺にある三蔵経を玄奘一向に持ち帰らせようとする。 観世音菩薩 悟空達を三蔵の元へと誘い、その後もちょいちょい彼らを助ける仏様。 一応「仏」なので性別とか超越している存在なのだが、西遊記では女性の姿として描写される。 悟空からは「行かず後家」だの陰口をたたかれていたせいか、日本語訳文では女性的言葉で話しているように解釈される時もある。 恵岸行者・木叉 観世音菩薩の一番弟子で、ちょくちょく三蔵一行を助ける。 実は李天王の次男であり、仏道に帰依する前の名前は「木吒」。 托塔李天王 天界を守護する将軍。その正体は毘沙門天(多聞天)であり、沙悟浄の前身となった深沙神は彼が化身したものという説も。 投げることで相手を封じ込め、焼き尽くす「玲瓏塔」を抱えていることからこの異名が付いた。 が、西遊記での塔は如来の姿を見せて息子の怒りを鎮めるための道具にすぎない。 封神演義におけるダメ親父李靖に該当する。 哪吒太子 封神演義でおなじみの蓮華サイボーグショタ。ナタクじゃないよナタだよ。李天王の三男で木叉の弟。 悟空とは天界戦争の折から似た者同士という事もあってケンカ友達であり、悟空が天界に助けを求めると一緒に悪乗りしたりする憎めない奴。 封神演義とは使う武器の内訳が異なる。 顕聖二郎真君 玉帝の甥(父親は人間)で天界最強の戦士。額に三つ目がある。 七十二変化を使いこなし、愛犬・哮天犬は悟空をもとらえるほどの強さ。猿だけに犬には弱いのか。 封神演義における楊センに該当。 四海竜王 世界の海を管理する竜王の4兄弟。よく悟空が炎系の敵を相手にした時に力貸さんかいと呼びつけるパシリ。 悟空の持つ如意棒は長兄の東海竜王・敖廣が重いので海の宝蔵にほったらかしていたものを、 悟空が寄越せとジャイアニズム的なKOUSHOUを行った結果手に入れた物。 三男西海竜王・敖閏は玉龍のパパ。 一応竜の王様のため、そこいらの河の神では門前払いを食らうぐらいには偉い。このせいで起きたひと悶着を悟空が解決するパートもある。 太上老君 道教三清の一角で、道教の開祖である老子その人。 太古の昔に如意金箍棒を鍛え上げて禹王に与え、九歯のまぐわを自ら金槌を取って鍛造したという肉体派のお爺さんで、 八卦炉から飛び出して大暴れする悟空を真っ先に捕まえようとしたのは彼であった。 腕輪にしている金剛琢は二回も悟空を苦しめている、 しょっちゅう弟子や眷属が宝貝を盗んで堕天してくるので悟空からは「また爺様か!」と呆れられている。 『西遊記』での居場所は兜率宮とされるが、この兜率天というのは弥勒菩薩がおわす仏教界の地名である。 ○著名な妖怪 勿論全部書いていてはキリがないので、創作などで取り上げられる機会が多いメジャーなものを紹介する。 混世魔王 名前はめっちゃ強そうだが最初に登場するかませ犬。ゲームで言う所のチュートリアル要因。 仙人修行のために悟空が抜け出した花果山をジャックしたため、悟空の仙術の最初の試し切り要因にされる。 なぜか某ゲームではラスボス。 2006ドラマでは原作のかませ犬キャラがなくなり、300人力の強さを発揮するというチートぶりを発揮…あれ?井之頭五郎さん? 黒熊怪(黒風大王) 悟空が三蔵に弟子入りして最初に戦った、黒風洞に住まう黒熊の妖怪。全身真っ黒。 寺の悪徳坊主と結託しており、坊主の放火に乗じて三蔵の袈裟を盗んだ文字通りの火事場泥棒。 友人の蛇男、狼男と共に三蔵を食べようとしたが、蛇男は悟空に瞬殺され、狼男も殺されて成り代わられた挙句、 観世音菩薩と結託して金丹に変身した悟空を誤飲してしまい、腹の中で散々痛めつけられ、観世音菩薩の下で修業を積むこととなる。 その後、改心して悟空の友人になっている。 在野の妖怪でありながら天界の事情に詳しく、また悟空と互角の腕前という謎多き妖怪。『雑劇西遊記』にその理由の一端が垣間見えるか。 白骨夫人(白骨の精) 霊峰深山の一部である「白虎嶺」という場所を根城にしていた、美女の姿をした妖怪。 「解屍法」と言う死体を操る術を得意とし、三蔵法師の天竺行きツアー御一行の前に三度に渡って立ちはだかったガッツの持ち主でもある。 まず一度目は18歳程の果物売りの娘に化けて休憩中だった三蔵法師に近付くも たまたま野ションから戻ってきた悟空にすぐに正体を見破られてボコボコにされかけた為、 得意の解屍法を使って身代わりの死体を残し一度目の撤退。 これを八戒が人殺しをしたと激しく咎めるがじゃあこれは何だと悟空が見せた、白骨夫人が残した籠の中には無数の蛇や毒虫がウジャウジャと蠢いていた。 次に白骨夫人は「まさか三蔵って枯れ専…?」と思ったかは定かではないが真逆の80代程の老婆に化けて、人を尋ねるフリをして近付こうとした。 これに対して八戒がどういう見方をすればそう判断するのかきっとあの婆さんはさっきの娘の母親だと断じるが 即座に悟空からは「80のババアに18の娘が産める訳無いだろ!いい加減にしろ!」とツッコまれ、またもやボコボコにされかけたので今回も解屍法でクールに去った。 そして迎えた第三ラウンド、早くもネタが尽きたのか今度は老爺に化けて近付こうとしてまた悟空に即刻見破られ、三度解屍法でクールに…といこうとしたが、 「もうエエわ!」とばかりに悟空が事前に呼んで見張りを頼んでおいた深山の土地神と山神に逃げ道を封じられてしまった。 そのお陰で、とうとう悟空に引導を渡されることとなった。ゆ、許されなかった… 正体は深山の霊力によって永らえていた不死の存在。つまりは一種のキョンシーであったが、その出自故に深山一帯に縛られていたので、 予てから聞いていた三蔵の血肉を喰らう事でそれから解放され、完全なる不死の存在へとなる事を望んだというのが一行を襲った理由だった。 そして滅せられた際には自分の真の姿であった背骨に己の名を刻んだ白骨死体へと戻ったという。 しかしこれを悟空が一日に三回も殺生を行ったと目の前で顛末を見ていたにも関わらず誤解した三蔵は彼を破門にしてしまい、 渋々悟空は古巣こと花果山に帰って暫くはヒキニートと化してしまうが、 下記の黄袍怪との戦いの際に助太刀に来た事を機に許され再びツアーメンバーに加わる事になる。ゆ、許された… 「夫人」と名に付き、卑劣な戦略で初の破門イベントを起こしたことからか中国では昔からキャラが盛られがち。 黄袍怪(黄袍郎) 上記悟空家出の際に三蔵を食べようとした妖怪。 美男子のふりをしているが実は醜悪な人食い妖怪であり、宝象国の姫を攫って妻にし、子供まで産ませていた卑劣漢。 三蔵を虎に変え、「姫を襲おうとして叩きのめした」と言って宝象国の王の信任を得ようとしたが、舞い戻ってきた悟空に叩きのめされる。 正体は二十八星宿の一人・奎木狼。 この騒ぎにより、死罪こそ免れたものの下っ端暮らしを余儀なくされる……はずだったのだが、数日(天界の一日は地上の一年)で復帰して二十八宿として参上している。 金角大王/銀角大王 平頂山蓮華洞のボスで、天界の五つの秘宝を盗んだ妖怪兄弟。 九尾の狐(例の妲己や玉藻のアレとは違い、弱い)を母、その弟の狐阿七大王を叔父と呼んでいるが血縁は無い。 「今までやってたような面倒な丹薬作りや修行をしなくても不老長寿になれる」という至極真っ当な理由で三蔵の肉を狙う。 秘宝の中でも名前を呼んで返事をした相手を吸い込んでしまう「紫金紅葫蘆」「羊脂玉浄瓶」を用いた戦いは有名。後の三つはちょい役とも言うが。 正体は太上老君の弟子、金炉童子と銀炉童子であった。 名前が画数が少ないわかりやすいので非常に人気が高い妖怪であり、後世の創作ではよく牛魔王の前座として出てくる。 紅孩児 枯松澗火雲洞のボス。後述する牛魔王と羅刹女の子供。 子供(300歳以上だが)ゆえに残虐かつ傲慢な性格で、水の中でも燃え続ける「三昧真火」を操る難敵。キャラが哪吒太子と被っている気がしないでもない 悟空の罠にはまって針地獄に落とされてしまい、観世音菩薩の下で弟子となって「善財童子」となった。 『雑劇西遊記』では鬼子母の息子として登場しており、元々牛の息子というわけではなかったらしい。 三大仙 車遅国を干害から救って恩を売り、仏教を弾圧していた「虎力大仙」「鹿力大仙」「羊力大仙」というインチキ道人トリオ。 猿豚河童の3名により小便を飲まされる屈辱を受け三蔵に法力勝負を挑むも悟空の裏工作もあり失敗。 再戦と称し悟空と無茶な我慢比べ対決を行うも、悟空の裏工作により首なし虎、鹿の三枚おろし、羊の油揚げ(*17)という無惨すぎる屍に成り果てた。 牛魔王 「平天大聖」を自称する巨大な牛の怪物。 数ある西遊記妖怪の中でも絵本や演劇、映画での採用率は間違いなくトップで西遊記で最も有名な敵キャラの1人であるが、実はラスボスでも何でもなく中盤の敵である。 ガンダムで言う所のランバ・ラル、北斗の拳で言う所のサウザーくらいのポジション。なるほど人気が出るわけだ 元は悟空の義兄だったが、悟空が五行山に封印されてからは袂を分かち、火焔山を根城に悪行を繰り返していた。 あと勘違いされだが三蔵を食おうとしたのは後世の二次創作であり原作では一切そんな描写は無い。 山よりも巨大な白牛に変化し、悟空と闘うも、加勢に現れた二郎真君により調伏される。 羅刹女(鉄扇公主) 牛魔王の正室であり、悟空の義姉に当たるお方。…実は牛魔王には愛人もいるんだなこれが。よくカットされるけど。 どっかの猿が天界から落としてきた火焔山の炎が凡間の水では消えないことをいいことに、地元の人間から財物をせしめていた悪女。 紅孩児を仏門に帰依させた悟空を憎悪している。 二郎真君に痛めつけられる夫を見かねて命乞いし、降参して改心した。 経典に名を遺す善財童子と羅刹女の由来はここにあったのでございます、と〆て火焔山編は終了する。 なお、彼女の芭蕉扇と太上老君の芭蕉扇で、都合芭蕉扇はふたつある。羅刹女のそれは陰の気を帯びた宝で、冷気と水を生じて火を消す力があるとされる。 太上老君のそれは五行のうちから直接火を取り出し、また消し止める力をも持つ。真逆に近い性質を持つ両者であるが、特にその由来については触れられることはない。 このほかにも様々な妖怪が登場するが、ザコはともかく強敵はだいたい土着の妖怪ではなく天界から逃げ出してきた神獣やら下級神やらばかりである。 (例) 黄風大王:お釈迦様の修業した霊山の油を舐めたイタチ。 偽烏鶏国王:文殊菩薩の乗る青獅子(去勢済み)。 霊感大王:観世音菩薩が飼育していた金魚。 独角兕大王:太上老君の乗る神牛。 賽太歳:観世音菩薩の乗り物である「コウ」という霊獣。 三大魔王:また逃げ出した文殊の青獅子、普賢菩薩の白象、阿弥陀如来とややこしい親縁関係にある大鵬金翅鳥。 池湧夫人:李天王の養女(正体はネズミ)。 偽天竺王女:月のウサギ。 まあ中には土着でも、例外的に強い妖怪もいる。 六耳獼猴:耳が六個ある情報通の化け猿。恒例の「偽ヒーロー」枠で、悟空に寸分たがわず変身し全ての術・能力をコピーしたすげえ奴。最期は情けなかったが。 百眼魔君:全身から強烈な光を放ち悟空を一度完敗させた大百足の怪物。妹は美女妖怪(正体は蜘蛛女)×7というエロゲ主人公みたいな出自の奴。 辟寒、辟暑、辟塵大王:在野で珍しく強いサイの三大王。 ●四遊記と続編 明代以降には人気にあやかって『東遊記』『南遊記』『北遊記』というパチモン派生作品も書かれている。「四遊記」とも称される。 『東遊記(別名:『上洞八仙伝』や『八仙出処東遊記』) 道教の仙人代表選手 八仙 が八人揃うまでの話と、東へ観光に出かけて東海龍王と争いが起こるが、龍王の訴えで関帝や趙公明ら四方の神が、八仙サイドには悟空が加わってきて…… 『南遊記』(別名:『五顕霊官大帝華光天王伝』) 殺生を犯した文殊菩薩妙吉祥童子が人間に転生して罪を償い、やがて天界に仕える五顕霊官大帝・華光天王となるが その過程で仙桃を盗み出すために悟空に化けてしまい悟空と戦うことに…… 『北遊記』(別名:『北方真武祖師玄天上帝出身志伝』) 地上の花に心を奪われて玉皇大帝が地上に降りた間に、部下の三十六天将が脱走して地上を騒がせ、 分裂して人間に生まれ変わっていた玉皇大帝の北方真武大将軍が征伐する。 また後の世代を描いた『後西遊記』という作品も。 『後西遊記』 取経の旅から二百年が経過した後のこと。花果山から再び生まれた石猿は、孫悟空の伝説を知り、自ら斉天小聖の孫履真と名乗る。 一方、唐の国に伝えられた玄奘の経典は難解で、誤った解釈がなされるようになってしまった。 自らの取経の旅が無為になることを悲しんだ玄奘はお釈迦様に相談し、真経の解説文の真解を取りに来させることを決定する。 玄奘に選び出された和尚、大顛は先ほどの孫履真、八戒の息子の猪一戒、沙悟浄の弟子の沙弥を道中で仲間とし、東海龍王から龍の子供たちの代わりに履真がカツアゲした龍馬に跨って、遥か天竺へ三蔵の真経ならぬ真解を取りに行く旅に出るのであった。 訳本は二冊(1948年発行と1994年発行)があるが、いずれも一部エピソードが削除されている。これが「天地を補った神器VS如意金箍棒」という、一見問題なさそうなエピソードなのだが…… 『西遊補』 続編というよりサイドストーリー。火炎山の戦いと九頭駙馬との戦いの合間の物語。眠りこけた一行を後に置いてさまよう内に、鏡の世界に封じ込められた悟空。別の鏡から出られないか試してみるが青銅鏡をくぐった先は秦の始皇帝の時代で……。 邦題では『鏡の国の孫悟空(東洋文庫,2002)』とされる事も。こちらは完訳で、訳者による増補改訂版がネットに存在している。 『続西遊記』 『西遊記』の第九十八回から分岐したifストーリー。ようやく西天に辿り着き、旅も終わりに近づいた三蔵一行。しかし『西遊記』とは違い、数多の経典を持ち帰るのは雲に乗ってではなく、三蔵たちが素手の徒歩で行ってこそ、というのが如来の思し召しであった。 如来は「害を生み妖怪を生む元となった」という理由で悟空たちから自慢の武器を没収。そして変化自慢の在家人の霊虚子、知恵役の僧侶の到彼に、三蔵たちを密かに守護するように命ずるのであった。一行の道中にはやはり妖怪がうようよ…… 上記二作と異なり抄訳すら存在しないため、内容がかなり謎に包まれている。割と江戸・明治の学者からの評価は辛辣な模様。 ●主な二次創作・派生作品(日本) 主役陣が男4人+オス1頭という大変華のない面子なため、2次創作では悟空達のルックスやキャラの性別等に大きく補正がかかることがある。 また役割分担が分かりやすいためか、既存キャラと西遊記設定をクロスオーバーさせた作品も複数見受けられる。 玉龍がただの白馬にされたりそもそも存在すらしてない作品も多い。 実写ドラマ 日本テレビ系連続ドラマシリーズ『西遊記(1978年版)』・『西遊記2』(1979年) 孫悟空役は堺正章、三蔵法師役は夏目雅子、沙悟浄役は岸部シロー、猪八戒役は西田敏行(西遊記)と左とん平(西遊記2)、玉竜役は藤村俊二。 男性である三蔵法師を夏目雅子が演じており、日本の創作物に登場する三蔵法師が女性だったり女優が男性設定で演じている(パロディなら女性キャラや中性的な男性キャラが割り当てられる)事が多いのはこのドラマの影響だろう(*18)。 後述の『飛べ!孫悟空』と同時期なせいか、こっちの八戒役の二人があっちにゲスト出演し、 他にも両方のゲストになった研ナオコがいたり、あっちに堺の元バンド仲間や岸部の元先輩が出てたりした。 ゴダイゴが担当したOP『Monkey Magic』、ED『ガンダーラ』も有名。 日本テレビ系SPドラマ『西遊記』(1993年) 孫悟空役は本木雅弘、三蔵法師役は宮沢りえ、猪八戒役は河原さぶ、沙悟浄役は嶋田久作。 三蔵は男性設定であるが、女性のような美貌の持ち主で悟空の初恋相手の女性に似ている。…今でいう男の娘? B zの『愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない』が本作の主題歌と聞いて驚く人は多いだろう。 日本テレビ系連続ドラマ『西遊記』(1994年) 孫悟空役は唐沢寿明、三蔵法師役は牧瀬里穂、沙悟浄役は柄本明、猪八戒役は小倉久寛、白竜役は柳沢慎吾。 フジテレビ系連続ドラマ『西遊記』(2006年) 孫悟空役は香取慎吾、三蔵法師役は深津絵里、沙悟浄役は内村光良、猪八戒役は伊藤淳史。 「月9」枠で放送され、2007年に映画化もされた。なまか~! 『仮面ライダーゴースト』(2015年) 玄奘三蔵法師をモチーフとした「サンゾウゴースト眼魂」が登場。 劇中では主に仮面ライダーネクロムがフォームチェンジに使用する。 『仮面ライダーセイバー』(2020年) 『西遊記』をモチーフとした「西遊ジャーニーワンダーライドブック」が登場。 当初は仮面ライダーカリバーが必殺技発動時に使用していたが、仮面ライダーセイバーが入手して以降は西遊ドラゴン・クリムゾンドラゴン・仮面ライダークリムゾンセイバーへのフォームチェンジに使用された。 また、映画『セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記』では『西遊記』の世界が同作の舞台の一つとして登場。 新堂倫太郎と『機界戦隊ゼンカイジャー』の五色田介人、セッちゃんがここに迷い込んだ他、 『仮面ライダー電王』からモモタロス・ウラタロス・キンタロス・リュウタロスがそれぞれ悟空・悟浄・八戒・三蔵の役割を与えられ、更に『仮面ライダージオウ』から常磐ソウゴとオーマジオウまでもが登場した。 『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』(2022年) 孫悟空がモチーフであるドンドラゴクウが追加戦士として登場。 実は『ドンブラザーズ』の初期段階は『西遊記』を元にしようとしたが、紆余曲折あり『桃太郎』モチーフに変更された経緯を持つ。 人形劇 『飛べ!孫悟空』(1977~1979) TBS系。ザ・ドリフターズ主演で、悟空役は志村けん、三蔵役はいかりや長介、悟浄役は仲本工事、八戒役は高木ブー、馬役はドリフの付き人すわしんじ。 進行役兼主題歌担当に当時の人気アイドルだったピンク・レディーが出演していたが非常に影が薄い。 お馴染いかりや三蔵様一行になぜか加藤茶演じるカトちゃんが付いてくるため、八戒の影が薄い珍しい作品。 同時期に放送されていた人気番組「8時だョ!全員集合」の人形劇版と言ったほうが分かりやすい。 中の人の顔と人形の顔を似せるようにしており(もしくは著名人顔の人形にプロ声優や声帯模写師を割り振る)、当時を代表する歌手が多くゲスト参加した。 挿入歌の「ゴー・ウエスト」が有名。 『西遊記外伝 モンキーパーマ』(2013、2014、2015) TEAM NACS主演で、悟空役は大泉洋、三蔵役は森崎博之、悟浄役は戸次重幸、八戒役は音尾琢真、玉龍役は安田顕。 こちらはちゃんとメンバー5人を4人と1頭に割り振っている。2015年版には人気声優の戸松遥が登場した。 漫画 手塚治虫『ぼくの孫悟空(ぼくのそんごくう)』 日本サブカル界隈最初期の作品という事もあってか、珍しい「河童じゃない沙悟浄」が登場する漫画(*19)。あと玉龍が女の子。 後に『悟空の大冒険』の題でアニメ化されたが…。 赤塚不二夫・藤子不二雄・つのだじろう『ギャハハ三銃士』 週刊少年サンデーに連載されていた『おそ松くん』(赤塚)・『オバケのQ太郎』(藤子)・『ブラック団』(つのだ)のトキワ荘組によるクロスオーバー作品で、 「頭がパー」な王様の頭を良くする薬をイヤミから奪うため、三蔵デカパンとお供の悟空チビ太・八戒オバQ・悟浄タロー(ブラック団)が冒険の旅に出る。 藤子・F・不二雄『パーマン』「パーマン西遊記」 西遊記の絵本にハマりすぎたチンパンジーのブービー(パーマン2号)が、八戒パーマン1号と悟浄パー子を連れて西へ…(パーやんは大阪担当なため不在)。 日テレ版西遊記前の作品のせいか、2号が三蔵役として坊さんを浚おうとしていた。 藤子・F・不二雄『T・Pぼん』「白竜の吠える谷」 凡&リームコンビが、不慮の事故で死んでしまう玄奘三蔵の弟子を救いに行く。 寒かったので二人は猿と豚の着ぐるみを着て吹雪を凌いだのだが…? 鳥山明『ドラゴンボール』 主人公が如意棒と筋斗雲を持つ猿尻尾な孫悟空な他、初期登場する仲間の編成が西遊記な漫画。 初期案ではもろに西遊記だったが、マシリトからストップがかかって今の設定になる。 他にも牛魔王やアニオリキャラの金角銀角(79話登場)も登場し、チチは牛魔王の息子である紅孩児がモデル。 なお、映画の敵キャラであるターレスは仙桃を盗み食いした孫悟空、ブロリーは天界で暴れていた頃の孫悟空が元ネタである。 峰倉かずや『最遊記』シリーズ キャラ名等を除いてほぼオリジナル設定の漫画。特に豚、お前だお前(*20)。 掲載誌移動や著者の闘病生活などの要因も重なり、掲載期間が史実上の玄奘の旅を越す事に。 諸星大二郎『西遊妖猿伝』シリーズ 「もしリアルな唐代の時代設定で(妖等はいるが)人間として悟空達がいたら?」という構想による漫画。 度重なる連載中断と雑誌移籍により、史実玄奘の旅期間を超えた先でやっと天竺への旅が始まり、何と悟浄の本格的参戦が2010年代に。 魔夜峰央『パタリロ西遊記』 「もしパタリロが孫悟空だったら」設定のパラレルストーリー。三蔵はマライヒ、八戒・悟浄はオリキャラ。バンコランとヒューイットは十六羅漢の一人として登場。 単独でアニメ・舞台化された。 白井三二朗『Dear Monkey西遊記』 主人公が三蔵法師の妹で、悟空本人では無くその分身が同行するという、異色の熱血大河漫画。 山口貴由『悟空道』 『覚悟のススメ』完結後に描かれた連載漫画。 タイトルに恥じぬ一行の「仏契(ぶっちぎり)」ぶりが見所。 小西紀行『西遊記ヒーローGo! 空伝』『ゴゴゴ西遊記 -新悟空伝-』 上記の香取慎吾版に勝手に便乗して始まったギャグマンガ。第2部は堺西遊記要素も取り入れられた。 忍『西悠々記』 元々は作者が自身のサイトで掲載していた漫画作品が商業媒体となったもの。 増田こうすけ『増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和』「西遊記 ~旅の終わり~」 「オレ 八戒って言いまーす! 特技はー 食材でーす! なーんちゃってー! ブー!!」 漫☆画太郎『珍遊記~太郎とゆかいな仲間達~』 項目参照。 三谷幸広・宮崎まさる『ザ☆ドラえもんズ スペシャル』 単行本第9巻収録のエピソード「ペットがほしい」において、ひみつ道具「ペットたまご」によって生まれた孫悟空が敵役として登場。 シュガー佐藤・平山亨『時空英雄 仮面ライダー』 連載第5回のエピソードで、大昔の中国にタイムスリップしたスカイライダーが玄奘一行と出会う展開が描かれる。 石川賢『禍-MAGA-』 打ち切りのせいで沙悟浄は登場すらしなかった。 古賀亮一『電撃テンジカーズ』 モロ河童とメス豚と眼鏡っ子三蔵ちゃんによるギャグマンガ。悟空は現実世界から飛ばされてきたショタ。 小池一夫(原作)小島剛夕(作画)『孫悟空』 「アクションシルクロード孫悟空」とも。全員がガラの悪い広島弁でまくし立てるヤクザ映画的西遊記。 さいとう・たかを『CHO 八戒』 西遊記モチーフのサイバーパンク系漫画作品でタイトル通り八戒が主人公。 宮下あきら・尾松知和『魁!!男塾外伝 伊達臣人』 第2部が西遊記パロディになっている。 因みに『魁』と『暁』の中間が舞台の『天より高く』でも西遊記をパロディした話があったりするが、関係は全く無い。 雑破業・ぽ~じゅ『SECRET JOURNEY』 18禁漫画。この手の作品では珍しく猿豚河童が女で三蔵がショタ。何を血迷ったかOVA化もされたが猪八戒編で終わってしまった。 クリスタルな洋介『煩悩☆西遊記』 悟空(豹柄)・八戒(巨乳)・悟浄(尻)をはじめ妖怪たちが軒並み美女・美少女揃いであり、三蔵を日々煩悩に悩ませるラブコメ作品。 意外にも原典の要素も丁寧に拾っている。 ゆでたまご『ゆうれい小僧がやってきた!』 西遊記をモチーフにした妖怪、三面地獄が登場。リーダー格の猿面・パワーに優れた豚面、スピードに優れた河童面の三つの頭を持ち、戦況に応じて頭を交代させることで、身体の主導権と能力も交代できる。 なお沖縄妖怪である。 アニメ 『西遊記』(東映) 1960年に放送されたアニメ映画。『ぼくの孫悟空』が原作だがほぼ原典西遊記をそのままアニメ化したような内容で全く漫画版と関係ない。 牛魔王がラスボスのアニメは本作が初であり、『スーパーマリオブラザーズ』のクッパのモデルとしても知られる。 手塚治虫が「ヒロイン(猿)殺せば盛り上がるじゃん」と言い出して当時製作スタッフだった宮崎駿が「こいつにはもうついていけん」と離心したことで有名。 (結局東映が大反対してヒロインが生き残っている) 『SF西遊記スタージンガー』 後述のSF西遊記原案、キャラデザはあの松本零士が担当。 『イタダキマン』 項目参照。 『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』 玉龍役がいないため、ドラえもんだけ余っていたりする。 『おそ松くん』(カラー版)64話「ちびざるチビ太の大冒険!」・65話「トト子のわがままオシャカ様」 『バカボン・おそ松のカレーを訪ねて三千里』 カラー版『おそ松くん』・『平成天才バカボン』のクロスオーバー作品で、バカボンのパパが三蔵様になってカレーを買いに天竺まで行く話。 なお両作品の仕様から、チビ太が悟空役・イヤミが沙悟浄役と目立つ一方、題になっているおそ松ら六つ子はただの悪役扱い(*21)になるなど影が薄くなっている(バカボンは八戒役)。 『マシュランボー』 項目参照。 『アソボット戦記五九』 『MONKEY MAGIC』 OP主題歌をヴィジュアル系バンドのRaphaelが担当した。 『SDガンダムワールド ヒーローズ』 『SDガンダムワールド』シリーズ第二作。 孫悟空とインパルスガンダムをモチーフとした「悟空インパルスガンダム」を主人公とする作品であり、 悟空を巡る物語や悟空の様々な姿が『西遊記』及びキングコングとドラゴンボールをモチーフとしている。 『映画 スマイルプリキュア! 絵本の中はみんなチグハグ!』 作中に登場する絵本の中に、西遊記が登場。 牛魔王が悪役として登場するが、「魔王」に洗脳されて悟空を始めとする物語のヒーローたちが悪堕ちしてしまったため、一時的にプリキュアに力を化した。 その為「顔のイケメンは桃太郎(因みに声もイケメン)、性格のイケメンは牛魔王」とか言われたりする映画。 …あ、金角銀角は普通に悪役でした。 『アリス探偵局』 狼→家賃を取り立てる強欲な大家、桃太郎一行→探検隊など昔話をアレンジしたキャラクターが登場する本作では珍しく、天竺からお経を授かった法師一行という原典に近い役回り。 主人とお供の関係は桃太郎一行とは正反対。 舞台 サクラ大戦スーパー歌謡ショウ 新西遊記(2004年) 劇中劇として花組が西遊記を上演し、桐島カンナが孫悟空役に。 ちなみにカンナの中の人は元チビ太でかつドラゴンボールな悟空の仲間なので、これで2次元・3次元双方で悟空になったことになる。 西遊記(2024年) 1978年ドラマ版・SPドラマ版・『新・西遊記』を製作した日本テレビによる、開局70周年記念舞台。 メインキャストは片岡愛之助(孫悟空)・小池徹平(三蔵法師)・戸次重幸(猪八戒)・加藤和樹(沙悟浄)・村井良大(玉龍)。 小説 中島敦『悟浄出世』『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』 俗に「わが西遊記」と呼称される、中島敦の短編小説シリーズ。 タイトル通り、沙悟浄の視点から人生哲学を追い求める趣旨の外伝的な内容。 万城目学『悟浄出立』 上記の「わが西遊記」に影響を受けた作品。 田中英光『我が西遊記』 やはり上記の「わが西遊記」に影響を受けた作品。江戸時代の訳本を基とした翻案で、内容はわりと原典に近い。 石川英輔『SF西遊記』 西遊記を大胆にアレンジしたSF作品。超サイヤ人ゴッドより強いんじゃないかというくらい強い悟空が登場するが、やっぱり他力本願。 村山庄三『こども版西遊記』(あすなろ書房刊) 80年代に出版されたハードカバー版の絵本で全10巻。 非常に可愛らしい絵柄でとっつきやすい作風だが、アレンジが非常に多く、原作のキャラクターが全く違う扱いを受けていることもザラ。 どう見ても老人の哪吒太子や霊感大王の前座として雑に死亡する独角ジなど、これしか読まずに西遊記を知ったかぶったら大恥をかくこと請け合いである。 登場人物(主に悟空)の言葉遣いが子供向けとは思えないほど悪いが、そもそも原作からしてそんな感じなので…。 吉本直志郎『東遊記』(とんでる悟空シリーズ) ポプラ社から発売の児童文学。同社から発刊された『西遊記』現代語訳版で絵師を務めた原ゆたか(かいけつゾロリの人)と再びタッグを組んだギャグ小説。 ただ、沙悟浄が完全に河童と断言されていたり、三蔵法師の顔立ちが違っていたりとポプラ社版『西遊記』とは繋がりが無い設定。 内容は天竺から唐を目指す三蔵一行のお話(勿論原作やポプラ社版ではすぐさま直帰しているのでそんな冒険は無い)。 三蔵が持ち帰った経典は「妖魔消滅」「不老長生」「超力開眼」の三つ。 中村うさぎ『ゴクドーくん漫遊記』(4~6巻 チンゲンツァイ編) 本作においては悟空・八戒・悟浄はもともと平凡に暮らしていた妖怪だったが 人類すべてに仏族の掟を守らせようと勝手に思い立った三蔵に洗脳されていたという設定。 後に仏族は弥勒菩薩により全員解脱(=地球を去り新天地を目指す)のだが、三蔵は怨霊となり主人公たちの前に再び立ちはだかる。 SOW『大長編べるぜバブ ベルベル西遊記~魔王、孫悟空になる~』 魔界の絵本のせいで男鹿一行が西遊記の世界に飛ばされちゃったよどうしようというギャグ漫画によくあるネタ。 三蔵一行や牛魔王一味(*22)はもちろん、太白金星(夏目)や托塔李天王(城山)まで登場、「沙悟浄は河童じゃない」「金角銀角は本来は神」といった小ネタも丁寧に拾っている。 アニメ化もされたが、こっちは終始ギャグである。 筒井康隆『魚籃観音記』 著名なSF作家であると同時に、どぎついエログロ短編も手がける筆者という時点で察せられる内容の短編。 通天河にて強大なる妖魔を取り押さえた観音菩薩。ところが着物の前がはだけて美しい肢体があらわになってしまう。 禁欲が旨の暮らしを送ってきた孫悟空はこれを見て…… 宇能鴻一郎『秘本西遊記』 官能小説家の手になる、平凡社版の完訳をベースとしたパスティーシュ。当然お下劣なエロ描写まみれ。 お馴染みのお堅いお坊様の三蔵、童貞卒業済みだが純真な悟空、原典に輪をかけて好色大食らいの八戒、ネコもタチもいける男色家だが自制もきく沙悟浄が、アハンうふんな冒険を経て天竺を目指す珍道中。 ゲーム 『元祖西遊記スーパーモンキー大冒険』 FCで発売されたアクションRPG。出来はお察し。 『ふぁみこん昔話 遊遊記』 FCディスクシステムで発売されたアドベンチャーゲーム。 『西遊記』 PSから発売されたコーエーのSRPG。同社から発売された封神演義の姉妹編。 主人公は三蔵でゲーム開始時に性別を選べる。 実は小説版が出ており、こちらの三蔵は一人称僕の女三蔵。 『Fate/Grand Order』 玄奘三蔵(もちろん女性!)が登場する「星の三蔵ちゃん天竺に行く」というシナリオがある。 『にゃんこ大戦争』 電脳学園ギャラクシーギャルズのキャラクターに西遊記モチーフの「猿帝のクウ」「召し豚のカイ」「宝杖のカッパーマイン」がいる。 三蔵法師ポジは「ねこ法師」がいる。 『悟空伝説~MAGIC BEAST WARRIORS~』 1995年にアルュメから発売された格闘ゲームで、登場キャラクターは実写(!)取り込み。 『ウルトラマン英雄伝』 中国で展開されているカードゲームの一つ。 西遊記の世界のヒーローとして三蔵法師をコスモス、残りをウルティメイトフォースゼロの4名が担当。 特に悟空になったゼロは中国で最も人気が高いウルトラ戦士ということもあり、特別に着ぐるみも制作された。 キャラクター的にも「ヤンチャのし過ぎで封じ込められた」という点でそっくりである。 『デジタルモンスター』シリーズ 三蔵法師・孫悟空・猪八戒・沙悟浄・お釈迦様・金角・銀角をモチーフにしたデジモンが登場しているが、なぜか沙悟浄だけ二種類いる。 『スーパーロボット大戦OGサーガ 魔装機神 THE LORD OF ELEMENTAL』 スーファミで発売されたシミュレーションゲームのDSリメイク版。 ミオ・サスガのファミリア(使い魔)がゴクー、ゴジョー、ハッカイというカモノハシの三人組。 厳密には上記した堺正章版『西遊記』と人形劇『飛べ!孫悟空』のパロディで、主人であるミオが三蔵法師のポジションらしい。 ……問題は「リメイク前の露骨すぎたパロディキャラ(*23)の差し替えでまた露骨なパロディキャラを出す」という彼ら三匹の登場経緯なのだが。 『黒神話:悟空』 Game Scienceから発売されたゲームで西遊記のその後の物語が描かれている。 プレイヤーは悟空ではなく彼に酷似した青年の石猿「天命人」で、悟空の霊宝を6つ探す為に旅に出ることとなった。 追記・修正は天竺に辿り着いてからお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] ?「筋斗雲に乗った孫悟空が三蔵法師を持ち上げて天竺までいけばよくね?」 -- 名無しさん (2018-04-18 14 14 08) 実際の玄奘は皇帝からの命令ではなく、密出国で天竺に向かった。 -- 名無しさん (2018-04-18 14 39 48) 沙悟浄は日本だと水に住む妖怪=河童と解釈したとか -- 名無しさん (2018-04-18 16 46 39) パタリロ西遊記は? -- 名無しさん (2018-04-18 18 08 42) 自分としては、西遊記といえばドリフだなぁ。ニンニキニキニキ♪ -- 名無しさん (2018-04-18 20 06 47) 西遊妖猿伝最新刊まーだ時間かかりますかね〜? -- 名無しさん (2018-04-18 20 56 11) マシュランボーとか覚えてる人いるんだろうか? -- 名無しさん (2018-04-18 21 40 24) 「悟空の大冒険」は面白かったよ。 -- 名無しさん (2018-04-18 21 50 53) 西遊記元にした作品って、なぜか元ネタをぜんぜん隠さない作品になるのが不思議。 -- 名無しさん (2018-04-18 21 56 34) ↑例外は宇宙戦艦ヤマトくらいだろうか。 -- 名無しさん (2018-04-18 22 15 53) 日本だとほとんどのボス戦がカットされて金角銀角と牛魔王位になってる扱いが多い。 -- 名無しさん (2018-04-18 22 22 49) ↑ラスボスが混世魔王って作品もありましたね( -- 名無しさん (2018-04-18 22 26 46) ↑11パワーの問題じゃなく仙人じゃない人は飛べる仕様になってないらしい ↑3 セイテン大戦フリーダーバグは、名前は斉天大聖っぽいけど西遊記ものなんだろうか -- 名無しさん (2018-04-18 22 28 50) 悟空がチートすぎるから八戒の影が薄くて特にどんな活躍したのか知らないわ・・・悟浄はまだ水中という強みがあるけど -- 名無しさん (2018-04-18 22 35 39) 原典三蔵はよく言えばお人好し悪く言えば妄信しやすくて、悟空が正論述べても妖怪に騙されて悟空を破門→ピンチになって悟空に助けられるといいう流れが何度かあった -- 名無しさん (2018-04-18 23 49 59) GO!WEST! -- 名無しさん (2018-04-19 10 12 16) ↑3 実は原典では八戒の方が水に強いよ -- 名無しさん (2018-04-19 10 27 38) ↑ほんとだ悟浄のあたり追記されてる -- 名無しさん (2018-04-19 11 43 43) 金角銀角と牛魔王戦ばかり取り上げられるけど、その部分が一番面白いの? -- 名無しさん (2018-04-19 14 03 07) PSのゲームで三蔵以外のメンバーが変身できるやつあったな。悟空がゴリラみたいなごついサル、八戒がイノシシ、悟浄が巨大半魚人というの。 -- 名無しさん (2018-04-19 16 01 57) 昔岩波少年文庫で呼んだが、初登場以降沙悟浄が何したのか全く思い出せん。猪八戒はちょこちょこギャグやってた覚えがあるけども。 -- 名無しさん (2018-04-19 16 40 11) 悟空一強チームだよね -- 名無しさん (2018-04-20 00 34 29) なか゛いたひ゛か゛はし゛まる -- 名無しさん (2018-04-20 04 00 39) 確かあずまんが大王で「沙悟浄のモデルはカワイルカ」と聞いた榊さんが可愛いイメージに浸っていたら「三蔵法師の前世を喰った」と聞いてドン引きするネタがあったな -- 名無しさん (2018-04-20 06 49 26) Dear Monkey西遊記って漫画だと+十二支で主人公が悟空のけから生まれたコピー(イレギュラー)でラスボスが悟空本体だった -- 名無しさん (2018-04-20 14 24 52) 「西遊記関係ないけど孫悟空だけ登場する」って作品もたまにあるよね。女神シリーズとか、ナルトとか。 -- 名無しさん (2018-04-20 21 49 54) 前に寺に観光に行ったとき、三人の弟子が仏教の三毒を象徴するって説も聞いたことがある -- 名無しさん (2018-04-20 22 46 36) 栃木テレビの「とちぎ民話語り」では日光の神橋は「天竺で三蔵法師に橋をかけた」存在が基礎を作ったことになっていた(基礎は二匹の大蛇が重なったもので滑り止めに草が背中に生えている) -- 名無しさん (2018-04-24 09 59 56) 人形劇に「西遊記外伝モンキーパーマ」はいれるべきじゃないのかい?シーズン3には戸松遥も出てくるんだぞ。 -- 名無しさん (2018-04-24 10 01 20) ドリフの西遊記、ドリフの残り四人が生きてるうちに、またやってほしいなぁ。玄奘役は、いかりやさんがお亡くなりになられているから代役で。 -- 名無しさん (2018-05-13 09 53 55) 西遊記2で研ナオコ様がサラスヴァティというお言葉をお使いになったときにはサードインパクト級の衝撃があった。西遊記では「危うし三蔵」という話であの声優の池田さんがある女性の兄の役で出てきている。 -- 名無しさん (2018-05-15 09 42 47) 西遊記2のオヒョイさんの玉龍は私の中で屈指の萌えキャラ。 -- 名無しさん (2018-05-15 09 44 40) 昔ジャンプで「三獣士」ってあったな。三蔵がやけにエロいやつ -- 名無しさん (2018-05-17 22 13 04) フジテレビ版の最終回でどえらい方が出てくるが親戚の「これが本当のシャカイマチャアキだな」という言葉に死にはぐった・・・。 -- 名無しさん (2018-05-22 09 34 05) 三蔵の性別を変えずにビジュアルをどうにかするには、と考えてたら急に「経典を美少女擬人化」という罰当たり必至な案が浮かんだ。疲れてるのかな……>主役陣が男4人+オス1頭という大変華のない面子 -- 名無しさん (2018-07-01 17 54 11) 仮面ライダーゴーストで三蔵は実在してたって知ってびっくりしたな。ずっと西遊記の登場人物で実在しないと思ってた -- 名無しさん (2018-10-28 08 38 07) 『天にひとしい』っていう漫画が地味に面白かった。旅を終えた後の悟空の性格が、落ち着いた青年という珍しいテイストで、ラストがちょっと切ない印象だった。 -- 名無しさん (2019-03-17 23 06 06) 映画「エノケンの孫悟空」(1940)も忘れないでくれ~!! -- 名無しさん (2020-05-20 23 16 37) 「アクタージュ」の作者さんがやらかした直後、本屋から撤去される前に購入したのが『西遊記』を劇中劇にした巻。それを繰り返し読むたびに作者さんの才能が確かにずば抜けていることを痛感されられたと同時に「何であんなことしちまったんだよこのボケがァァァァァ!」という思いも募るのだった。 -- 名無しさん (2020-09-25 20 04 07) 呉承恩という人には確かに「西遊記」という著作があったんだが、この「西遊記」の三文字は「西への旅行記」という意味の結構普遍的な単語だったらしく、ジンギスカンに招聘された或る道士の著作も「西遊記」なので、現時点では三蔵一行の冒険譚としての「西遊記」なのか、それとも呉が単に西へ旅行(もしくは職務上の出張)際の記録なのかが確定できない以上、彼が作者とは断定できない理屈になる。 -- 名無しさん (2021-02-17 15 00 54) 孫悟空と観世音菩薩がヤるというブッ飛びすぎた小説がある(筒井康隆『魚藍観音記』) -- 名無しさん (2021-08-21 15 56 01) ↑18 「大阪万博」に載ってたやつだっけ -- 名無しさん (2021-08-27 01 18 34) 西遊記における強敵討伐テンプレ(相手の上司、育て親、師匠など権威が上の人間を連れてくる)はまさに中国の厳しい上下関係文化を表してる気がする -- 名無しさん (2021-12-31 13 47 47) ↑25 牛魔王が一番ラスボス感あるのは事実。悪落ちしてた頃の主人公の義兄弟で、(牛魔王側から見たら)息子の仇。あと、原点だと仏勢優遇というか観音様に泣きついて解決が割と多いので、天界勢総出かつ悟空も活躍という戦闘シーンがこの辺しかない。火焔山ってステージも見栄えするし。 -- 名無しさん (2022-01-04 06 42 11) 道中の強敵の大部分に「天界からの脱走者」とかの背景設定が出て来るにつれ、旅の最初の頃に悟空と勝負が付かず観音様に悟空と同じ輪をはめられて連れ去られた「出来心で三蔵の袈裟を盗んだ、野生の熊妖怪」を思い出すたびに「あいつ何者だったんだ…」となる。なかったことになったわけでもなく後半に観音様の所に行くとちゃんといるし -- 名無しさん (2022-01-04 08 00 23) 英語だとこっちの孫悟空は中国語の英訳になってドラゴンボールはそのまま孫悟空になるから一応かぶりにはなってない。 -- 名無しさん (2022-01-05 14 23 39) そういえば『ゲッターロボ牌』の作画のか他が昔西遊記モチーフのR-18漫画描かれたなあ(三蔵は褐色鬼畜ショタ、それ以外は巨乳ふたなり美女な鬼畜気味ショタおね)。誤解から怒った悟空と八戒がそれぞれ真ゲッター1とゲッター3みたいなデフォルメキャラの姿になってるシーンがあったけどほんとゲッター好きなんだなあの方……W -- 名無しさん (2022-01-05 23 00 46) 斉天大聖はワイのスーパーヒーロー。 -- 名無しさん (2022-07-18 18 33 39) オリキャラ+オリ設定で西遊記の復路を展開する続西遊記はイマイチだったけど後西遊記は中々見どころがあって面白い -- 名無しさん (2022-08-11 03 51 27) ↑5 書物として西遊記が成立する過程のテキストの一つに「真っ黒な顔の猪八戒」が黒風洞の黒風大王を名乗ってるけど二郎真君に退治されるってのがある。エピソードとキャラを独立させられたって見方が一般的らしい -- 名無しさん (2022-09-30 00 20 38) 後西遊記、読んだことないけど2世物の王道みたいな話だな -- 名無しさん (2023-11-18 02 42 39) 二次創作で天竺(相当のもの)に到達できた作品がどれだけあるやら。全体でどれだけあるか、もだけど -- 名無しさん (2024-06-23 10 40 22) 三蔵法師を男性設定のまま女性が演じるというのは大発明だと思う。 女性のオリキャラを作ることなく絵面の華やかさを成立させられるし、設定上は男なので色恋を匂わせることがない。そもそも妖怪たちに狙われるポジションが姫ヒロインぽいし。 -- 名無しさん (2024-06-23 11 41 36) ↑19 「時折三蔵一行の前に姿を現し導く謎の女性の正体が経典の意思」と浮かんだけれど「それ仏様の役割じゃねーか」だよなあ…… -- 名無しさん (2024-06-27 14 29 46) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/370.html
唐書巻二百一十七上 列伝第一百四十二上 回鶻上 回紇。その先祖は匈奴である。その風習として、高輪の車に乗るものが多い。かれらは元魏の時代には高車部とも号し、あるいは敕勒ともいい、訛って鉄勒ともいった。その部落を袁紇・薛延陀・契苾羽・都播・骨利幹・多覧葛・僕骨・抜野古・同羅・渾・思結・斛薛・奚結・阿跌・白霫といい、およそ十五種があって、みな砂漠の北方に散居している。というのは、また烏護・烏彩ともいい、隋の時代になると韋紇と呼ばれた。その人々は強くて勇ましい。かれらには最初は酋長がおらず、水草を追って転々として移動し、騎射が上手で、掠奪を好んだ。 鉄勒は突厥に臣属したが、突厥はかれらの財力を利用して、北方の荒野において強大となった。大業年間(605-616)に、突厥の処羅可汗は鉄部を攻め脅やかし、かれらの財物を奪い集めた。そのうちに処羅可汗はまた、かれら鉄勒部の怨みを恐れ、鉄勒部の数百人の頭目を集めて、これをことごとく穴に埋めて殺した。そこで韋紇の首長は僕骨、同羅、抜野古を併合して離叛し、みずから俟斤となり、部族名を回紇と称した。回紇の姓は薬羅葛氏という。回紇は薛延陀部族の北、娑陵水のほとりに居住した。この地は京師から七千里距てたところであって、人口は十万人を算し、兵力はその半ばを数えた。土地は砂漠性の荒地であって、家畜は大足羊(短足の大羊の意)が多い。回紇に時健俟斤という者がいて、大衆ははじめてかれを推挙して君長となした。その子を菩薩といった。菩薩は勇敢な人物で、謀りごとにすぐれ、狩猟と騎射を好み、戦いがあると必ずみずから先頭に立ち、向かうところの敵をみな打ち砕いて破った。それゆえ、部下はみな畏れて菩薩に服従したので、これを嫉んだ父の時健俟斤に逐われてしまった。時健が死ぬと、部人は菩薩が賢いと見てとって、主君として立てた。菩薩の母を烏羅渾といい、その性格は厳格公明であって、よく部内の事件をとり戴いた。回紇はこれよりようやく盛んとなり、薛延陀とともに突厥の北辺を攻めた。突厥の頡利可汗は欲谷設を派遣し、十万の騎兵をもって、これを討たせた。菩薩はみずから五千騎を率いてこれ(欲谷設)を馬鬣山で破り、逃げるのを追うて天山にいたり、大いにその部人をとりことした。その評判は北方を震わした。これより回紇は薛延陀に付き従い、お互いに親密な間柄となった。菩薩は活頡利発という称号をとり、本営を独楽水のほとりに設けた。 貞観三年(629)に回紇はじめて唐に来朝して貢ぎ物を献上した。突厥はもうすでに滅んでいたので、回紇と薛延陀だけがもっとも強力となった。菩薩が死んだのち、回紇の酋長の胡禄俟利発吐迷度は、諸部族とともに薛延陀を攻めてこれを滅ぼし、その領地を併合し、ついに南の方、賀蘭山を越えて、黄河に臨んだ。吐迷度は使者を派遣し、唐に帰順したいという誠意を申しいれた。太宗はそのために霊州に行幸し、涇腸にいたって、その功をうけた。ここにおいて鉄勒の十一部はみな来朝して、「薛延陀は大国に仕えず、みずから滅びました。その支配下にあったノロはおどろき、鳥は散じて、どこへ行けばよいかわかりません。いま、われわれはそれぞれ分地を持っておりますが、願わくば天子に帰順し、唐の官吏をわれわれの地方に置いてくださるよう請いたてまつります」と言った。そこで太宗は詔をくだし、盛大な酒宴を開き、おもな酋長たちを引見して、これらの者に唐の官職を授けたが、その数はすべて数千人にのぼった。 明くる年(647)に、回紇および鉄勒諸部がふたたび入朝した。そこで回紇部を瀚海となし、多覧葛部を燕然となし、僕骨部を金微となし、抜野古部を幽陵となし、同羅部を亀林となし、思結部を盧山となし、それぞれを都督府ととなえさせた。また渾を皋蘭となし、斛薛を高闕州となし、阿跌を雞田州となし、契苾羽を楡渓州となし、奚結を雞鹿州となし、思結別部を蹛林州となし、白霫を窴顔州となし、その西北の結骨部を堅昆府となし、北の骨利幹を玄闕州となし、東北の倶羅勃を燭龍州、それぞれの酋長をもって都督・刺史・長史・司馬となし、もとの単于台の場所(帰化城の南)に燕然都護府を置いて、これらすべてを統治させた。六都督と七州はみな、熊然都護府に隷属し、李素立をもって燕然都護となし、その都督・刺史には玄金の魚符を下付し、黄金で文字を銘した。 天子は遠方の人を招いていつくしむに際し、絳黄色の瑞錦の文袍、宝刀、珍器を作って、かれらに賜わった。帝は奥深い宮殿のなかに坐し、十部楽を陳ね、御殿の前に高い坫(土製の高台)を設け、朱色の提瓶をその上に置いた。また潜泉に満たされた酒は左の閤(小門)より坫のあしもとに通じていて、この酒を瓶に注ぎ、これから転じて百斛を銀の盎(はち)に受けるのである。数千人の回紇は飲みおわってなお、半分も平らげることができなかった。また帝は文武の五品官以上の者に詔して、尚書省のなかで送別の酒宴をおこなわせた。大頭目たちはこぞって帝に申しあげて、「われわれは荒涼たる汚ない土地に生まれましたが、いま身は聖化に帰しました。天の至尊はわれわれに官爵を賜わりました。われわれはともに百姓となり、唐を父母のように頼っております。そこで回紇、突厥部に大きな道路を造り、天至尊への参道と号し、世々われわれは唐の臣となるよう御願いします」と言った。そこで帝は詔して南の鷿鵜泉の南に六十八ヵ所の駅亭を置き、多くの馬と乳、肉を備えて、使者を待った。また回紇らは毎年、貂の皮を納めて貢賦とした。そこで唐は吐迷度を拝して懐化大将軍・瀚海都督にしたが、しかし吐迷度はひそかにみずから可汗と号し、自国の官吏を任命したことは、まったく、突厥の場合と似ていた。すなわち吐迷度の官吏として外宰相が六人、内宰相が三人おり、また都督・将軍・司馬の称号もあった。帝はさらに詔し、時健俟斤の別部を祁連州となし、霊州都督に隷属させ、白霫の別部を居延州となした。 吐迷度の兄の子である烏紇は、吐迷度の妻と私通し、ついに俱陸莫賀達干の倶羅勃とともに反乱を謀って、車鼻可汗のもとへ走って従属した。この二人はともに車鼻可汗の婿であった。そこで烏紇は、騎兵を従え、夜中に吐迷度を襲撃して、これを殺した。燕然副都護の元礼臣は烏紇へ使者を派遣して、「烏紇が都督になりたいと奏上することを許す」とあざむいて言った。烏紇はこれを疑わず、そこでさっそく出むいていって御礼を言上した。そこで元礼臣は烏紇を斬って、見せしめにした。帝は諸部が離反することを心配し、兵部尚書の崔敦礼に命じて、節を持ってその地方に赴かせ、なだめすかした。唐は吐迷度に左衛大将軍の官号を贈り、その弔祭はひじょうにていねいで手厚かった。唐はその子の婆閏を左驍衛大将軍に抜擢し、父の所領を継承させた。倶羅勃もすでに入したが、帝はかれを捕えたまま、送り帰さなかった。阿史那賀魯が北庭に侵入するや、婆閏は五万騎を率いて、契苾何力らを助けて、阿史那賀魯を破り、北廷を占領し、また伊麗道行軍総管任雅相らに従って、ふたたび阿史那賀魯を金山において破った。婆閏右衛大将軍の地位にうつり、唐の高麗征伐に従って功績をたてた。 婆閏が死んで、その子の比栗が嗣いだ。竜朔の年間(661-663)に、唐は燕然都督府をもって回紇を統治し、さらに瀚海都護府と号し、砂漠をもって境界となし、砂漠の北にいる諸族はことごとくこれ(瀚海都護府)に隷属した。比栗(比粟毒)が死んで、その子の独解支が嗣いだ。武后(690-705)の時代に、突厥の黙啜はまさに強力となり、鉄勒のもといた地方を取ったので、回紇は契苾・思結・渾の三部とともに砂漠を渡って甘州と涼州との間に移動した。しかし、唐はつねにその回紇の強い騎兵を徴発して、赤水軍を助けさせたという。独解支が死んで、その子の伏帝匐が立った。明くる年に、伏帝匐は唐を助けて黙啜を攻め殺した。ここにおいて別部の移植頡利発は、同羅・霫などとともにみな来降したので、帝は詔してその部を大武軍の北に置いた。伏帝匐が死んで、その子の承宗が立った。涼州都督の王君㚟は無実のことを皇帝に奏上して承宗の罪をあばき、承宗を瀼州に流して死なせた。この時期に際して回紇はいくらか従わなくなった。承宗の一族の子で瀚海府司馬であった護輸は、部衆の怨みに乗じて、ともに王君㚟を殺し、安西諸国が唐に朝貢する道路を絶ちふさいだが、それから久しくたって、護輸は突厥に逃走して死んだ。 子の骨力裴羅が立った。たまたま突厥が乱れたが、天宝(742-755)の初めに、骨力裴羅は葛邏禄とともにみずから左右葉護と称し、抜悉蜜を助けて突厥の烏蘇可汗を襲って逃走せしめた。三年ののち骨力裴羅は抜悉蜜を襲って破り、頡跌伊施可汗を斬り、使者を唐に遣し、書をたてまつり、みずから骨咄禄毘伽闕可汗と称した。天子はかれを奉義王となした。骨力裴羅は南の方、突厥のもといた地方にいたが、ついで本営を烏徳韃山と昆河との間に移した。ここは南の方、西城から千七百里はなれたところであって、西城とは漢代の高闕塞で、北の磧口の三百里のはてにある。骨力裴羅は九姓の地をことごとく支配するにいたった。九姓回紇とは薬羅葛・胡咄葛咄葛・啒羅勿・貊歌息訖・阿忽嘀・葛薩・斛嗢素・薬勿葛・奚邪勿をいう。薬羅葛は回紇可汗家の姓である。僕骨・渾・抜野古・同羅・思結・契苾の六種族は回紇と同輩の蕃族であって、これらは九姓回紇のなかには数えられない。のちに回紇は抜悉蜜・葛邏禄を破ってこれを併合し、ぜんぶで十一姓となり、みなそれぞれに都督を置いて十一部落と称した。こののち戦争の場合には回紇はつねに抜悉蜜・葛邏禄の二隷属部族をもって先鋒にあてた。さて帝は詔をくだし、骨力裴羅を拝して骨咄禄毘伽闕懐仁可汗となし、殿の前に儀仗兵を整列させ、中書令が先導役となり、使者に冊を授けた。ついで、使者は門を出て輅(天子の車)に乗り、皇城の門のところへ来て降り、そこで馬に乗ったが、幡節(のぼり)が一行を導いた。およそ唐が可汗を冊する際には、だいたいこの儀式をおこなった。明くる年(745)、骨力裴羅はまた、突厥の白眉可汗を攻めて殺し、頓啜羅達干を派遣してきて、功名を奏上した。そこで唐は骨力裴羅を拝して左驍衛員外大将軍とした。骨力裴羅は領土をますます広く開拓し、東は室韋、西は金山(アルタイ)に達し、南は大砂漠を控え、このようにして古代の匈奴の領地をことごとく獲た。骨力裴羅が死んで、その子の磨延啜が立ち、葛勒可汗と号した。かれはすばしこく、あらあらしい人物で、兵を用いることが巧みであった。かれは毎年使者を派遣して入朝した。 粛宗が即位すると、回紇の使者が来て、唐を援助して安禄山を討ちたいと請うた。帝は燉煌郡王李承寀に詔して、ともに約束させ、僕固懐恩をして王を回紇へ派遣させ、そのようにして回紇の軍隊を招くことにした。可汗は喜んで、可敦の妹を王女として、李承寀の妻とし、ついで頭目を派遣してきて、和親を請うた。帝はその回紇の心を固めようと欲し、虜(回紇)の王女を封じ毘伽公主となした。ここにおいて可汗はみずから将となり、朔方節度使郭子儀と合流して、叛軍の同羅などの諸蕃を討ち、これを黄河のほとりに破り、郭子儀と呼延谷において会見した。可汗は自分が強力であることをたのみ、武器を陳ねて、郭子儀を面前へ呼びつけ、狼の飾を頭につけた纛(旗の意)を拝礼させてから会見した。帝は彭原に駐屯したが、回紇の使者の葛羅支は、帝に謁見した際に末席に列なったのを恥じた。帝は使者が不平な様子であるのを放置できず、殿に升らせ慰めて送り帰した。にわかに回紇の大将軍多攬らが入朝し、また回紇太子の葉護がみずから四千騎を率いてきて、帝の命ずるところに従ったので、帝はよって毘伽公主を冊して燉煌王妃となし、承寀を宗正卿に抜擢した。そこで可汗もまた承寀を封じて葉護となし、四つの節を給し、かれを葉護太子とともに将軍とした。帝は広平王(後の代宗)に命じて葉護に会わせ、約して兄弟とさせた。葉護は大いに喜び、首領の達干らをして、まず扶風に赴いて郭子儀に会わせた。郭子儀はねぎらいの酒宴を三日間開こうとしたが、葉護はこれを辞退して、「国家に危難が多いというので、私は逆賊の討伐をお助けするのです。どうして宴を開いておれましょうか」と言った。郭子儀は固く命じて「葉護をひきとめた。そのうちに葉護は出発したが、唐は毎日、半四十角、羊八百蹄、米四十を葉護に賜わった。 香積寺の戦いにおいて、唐軍は灃上のほとりに陣どった。賊軍は策略をめぐらし、王師の左方に伏兵を配置して、まさにわが軍を襲撃しようとしたので、僕固懐恩は回紇軍をさしまねき、伏兵に対して馳せ向かわせ、これをことごとく倒した。そこで唐軍は賊の背後に出て、鎮西北廷節度使李嗣業とともに、夾み撃ちして、これを包囲した。賊は大敗したので、唐軍は進んで長安を占領した。懐恩は回紇・南蛮・大食の部隊を率いて都をとりまき、南して滻水の東に砦を築き、さらに進んで陝州の西にいたり新店で戦った。最初、回紇は山西の曲沃にいたり、葉護は将軍の鼻施吐撥裴羅をして南山に沿うて東に出て、賊が谷の中に伏しているのを探してこれを全滅させて、山の北側に駐営した。郭子儀らは賊と戦い、全軍を挙げて敵軍の逃げるのを逐うたが、しかし乱戦となって退却した。回紇はこれを望見して、西嶺を越えて旗をなびかせ、賊軍の方へ進みより、その背後に出た。賊軍はその背後を攻められて、ついに大敗を喫した。回紇軍は数十里も追撃したが、賊軍の人馬はあいかさなり、ふみにじりあい、そのため死者の数は覚えきれなかった。回紇軍の獲得した武器は、小山のように積みあげられた。厳荘は安慶緒を小脇に抱えるようにして逃げ、東京(洛陽)を棄てて、北の方、黄河を渡った。回紇は三日間、東都(洛陽)を大いに掠奪した。姦悪な人々が回紇を府庫(宮廷の財物庫)に案内したので、府庫の財物は尽きて、空になった。広平王(後の代宗)がこれを制止しようとしたが効果がなかったので、長老たちが繒錦万匹を賄賂として回紇に贈った。そこで回紇はやめて、掠奪しなかった。葉護は京師に還った。帝はもろもろの臣下を派遣してかれを長楽駅でねぎらった。帝は前殿に坐し、葉護を召して階を升らせ、他の頭目たちを階下にすわらせ、宴を開いてねぎらった。また帝は一同の者に錦繍繒器を賜わった。葉護は頭をさげぬかずいて、「兵を沙苑に留め、臣は霊夏に帰って馬を数え、そのうえで范陽を占領し、残盗を除きはらいます」と奏上した。帝は、「朕のために義勇をつくし、大事を成就したのは、自らの力である」と言った。ついで帝は詔して、「葉護を司空に進め、忠義王の位を授け、さらに毎年、絹二万匹を給することとし、朔方軍へ来て賜わり物を受けとらせることとした。 乾元元年(758)に、回紇の使者の多彦阿波は黒衣大食の使者である閣之らとともに入朝し、参内の先頭順位を争ったが、役人はべつべつの門から並んで進ませた。また使者は唐と回紇との婚姻を請うたので、帝はこれを許し、幼女の寧国公主を降嫁させることにした。すなわち帝は、磨延啜を冊して英武威遠毘伽可汗となし、詔をくだして漢中郡王李瑀に御史大夫を兼ねさせて冊命使にあて、宗子の右司郎中巽を御史中丞に兼ねて礼会使にあて、あわせて瑀の副使とした。尚書右射裴冕は、これを国境まで見送ることになった。帝は公主の別れを送るため、咸陽に行幸し、いくどもかさねて公主を慰め励ました。公主は泣いて「国家はまさに多事です。死んでも恨ません」と言った。さて瑀は虜(回紇)のところへ到着した。可汗は胡帽と赭色のを身につけ、帳幕のなかに坐し、その儀礼や護衛のありさまはおごそかであった。可汗はを引きつれて来て、帳幕の外に立たせて、問うて「王は天可汗のどういう親戚か」と言った。瑀は「従兄弟であります」と言った。そのときに、中人の雷霊俊は瑀の上手に立っていた。そこで可汗は「王の上手に立っている者は誰か」と、また問うたので瑀は「中人であります」と答えた。可汗は「中人は召使いである。なんじは逆に主人の上手に立つのか」と言った。雷霊俊は下手に引きさがった。ここにおいて可汗は瑀を引いて帳内へはいらせたが、瑀は可汗に拝礼しなかった。可汗は「国の主君にみえるのに、礼儀として拝礼しないということはあるまい」と言った。瑀はこれに対して、「唐の天子は、可汗が功績を樹てたことを顧みて、愛女を降させて誼みを結ぶのです。このごろ中国は夷狄と通婚しますが、降嫁するのはみな、宗室の女であります。しかるに、いま寧国公主はすなわち帝の生んだ女でありまして、徳と容貌を備えており、万里の遠い地方へ来て降嫁するのです。可汗は天子の婿にあたるのであるから、まさに礼儀をもっておめにかかるべきであります。どうして腰をおろしたまま詔を受けてよいでしょうか」と言った。可汗は恥じて、そこで立ちあがって詔を受け、冊を拝受した。可汗は翌日、公主を尊んで可敦となした。瑀がもたらした賜わり物を可汗はことごとく宮廷内の頭目たちに与えた。瑀が帰国するに際して可汗は馬五百匹、貂の裘、白い毛氈などを唐に献上した。そこで回紇の可汗は王子の骨啜特勒、宰相の帝徳らをして三千の騎兵を率いて賊を討つのを助けさせた。帝はよって僕固懐恩に命じ、この軍隊を指揮させた。また回紇は大首領の蓋将軍と三人婦人を派遣し、降嫁の御礼を言上し、ならびに回紇が堅昆を破った手柄を報告した。 明くる年、骨啜特勒は九人の節度使とともに、相川の城下で戦ったが、王師は戦いに敗れて潰え、帝徳らは京師に逃げこんだので、帝は厚く賜わり物をしてその心を慰めた。そこでかれらは帰った。にわかに可汗が死んだ。回紇国人は寧国公主を殉死させようと欲した。公主は、「中国では婿が死ぬと、妻は朝晩、喪に服し、三年を期間として服をつとめて終えるのです。回紇が万里もはなれている遠国唐と婚姻関係を結ぶのは、もとより、中国を慕うからです。わたしは殉死すべきではありません」と言った。そこで公主は殉死することはやめたが、しかし、その習俗に従って顔に切傷をつけて泣いたという。その後、公主は子がなかったという理由で、唐に帰ることができた。 ところで、葉護太子は、以前に罪があって殺されていたので、前可汗の次子の移地健が即位して牟羽可汗と号した。その妻は僕固懐恩の娘であった。はじめ、前可汗は少子(移地健)のために、唐に対して婚姻を請うたので、帝は僕固懐思の娘をこれに妻せたのであったが、こうなってきて、彼女は可敦となったのである。明くる年に牟羽可汗は大臣の倶録莫賀達干らをして入朝させ、ならびに寧国公主の御機嫌伺いをした。使者たちは、延英殿において謁見した。 代宗が即位したが、史朝義がまだ滅んでいなかったので、代宗は中人の劉清潭を回紇へ派遣して、好みを結び、かつ、その兵を出動するよう、ふたたび頼んだ。その使者が回紇へ到達するころ、回紇はすでに史朝義から、「唐にはしきりに大喪があり、国には主君がなく、かつ乱れているから、回紇が侵入して府庫を掠奪するようお勧めする。その富は莫大である」と言われて、誘惑されていたので、可汗はすなわち兵を率いて南方へ出発していたのである。これは宝応元年(762)八月のことであった。さて劉清潭はこのことを知らないで、詔をもたらして、その回紇可汗の帳営に到着した。可汗は「人々は唐がすでに滅んだと言っている。どうして天子の使者などがありえようか」と言った。劉清潭はこれに対して、「先帝(粛宗)は天下を棄てたけれども、広平王(代宗)はすでに天子の位に即きました。その仁聖英式な人柄は先帝に似ております。ゆえに広平王は葉護とともに二京(長安と洛陽)を奪回し安慶緒を破ったのです。このように広平王は可汗とは平素より、親密な間柄です。また、他方では、毎年、回紇に繒絹を給しています。どうしてこのことを忘れているのですか」と言った。しかしこの時には、回紇の軍隊はすでに三城を越えており、唐の州県が荒れてて、烽障に守備兵がいないのを見て、唐を軽視する様子があった。そこで回紇は使者を派遣して、北の方の単于府兵の倉庫を占領し、またしばしば劉清潭を侮辱する言葉を吐いた。劉清潭は内密に帝に「回紇の十万の兵が塞に向かって進軍しております」と奏上した。朝廷はふるえ驚き、殿中監の薬子昂を派遣して、回紇の兵を出迎えて、ねぎらわせ、一方ではその軍を視察させた。薬子昂は太原で回紇の軍と遭遇したが、かれはその兵が四千人、非戦闘員が一万人余、馬が四万匹と見つもることができ、また回紇の可汗が可敦とともに来ていることをひそかに知った。帝は僕固懐思に命令して、回紇と会わせた。回紇はよって使者を派遣し、書を奉り、天子を助けて賊を討ちたいと請うた。回紇は関にはいって沙苑を経由して東へ進軍しようと欲した。これに対して薬子昂は説いて、逆賊が叛乱してから、州県は荒廃して空虚となり、物資を供給する見込みがない。一方では賊は東京を占拠している。もしわが軍が井陘に入って邢・洺・衛・懐の諸州を占取し、賊の財物を奪取し、そこで大いに奮起して南へ進むのがよい方策である」と言ったが、回紇は聴きいれなかった。そこで薬子昂は「それなら、懐、太行道におもむき、南の方、河陽を占領して賊の要地を抑えよう」と言ったが、回紇はまた聴きいれなかった。薬子昂は、「太原倉の穀物を食糧とし、右へ進んで陝州に駐屯し、沢・潞・河南・懐・鄭の兵と合流しよう」と言った。回紇はこの言に従った。 そこで帝は詔して、雍王(後の徳宗)を天下兵馬元帥となし、薬子昂を昇進させて御史中丞を兼ねさせ、右羽林衛将軍魏琚とともに、左右廂兵馬使となし、中書舎人の韋少華を元帥判官となし、御史中丞の李進を行軍司馬となし、東方へ赴いて回紇と会わせることにした。帝は元帥雍王に勅して諸軍の先鋒となし、節度使と陝州で会合させた。そのころ可汗は陝州の北に砦を築いていたので、雍王はそこへ赴いて、これに会見した。可汗は雍王が蹈舞の礼(足をふんで喜び舞う礼)をしないことを責めた。薬子昂は弁解して、「王は嫡皇孫であり、二帝の遺骸は殯殿に祭られていますから、蹈舞するわけにはいりません」と言った。回紇はこれをなじって「可汗は唐の天子の弟にあたり、王にとっては叔父の関係となる。蹈舞の礼をしないのを容認できようか」と言った。薬子昂は固く拒んで「元帥は唐の太子です。まさに中国の君主となろうとする人が、蹈舞の礼をして可汗に会うことができようか」と言った。回紇の君主と臣下たちは、これを屈服させることができないと推察し、薬子昂を引きつれてきて、韋少華・魏琚を前に出して、百回棒で打ったところ、韋少華と魏琚は一晩たって死んだ。雍王は軍営に還ったが、官軍は雍王が辱しめられたため、まさに合して回紇を誅討しようとした。しかし雍王は賊がまだ滅んでいないからと言って、これをひきとめた。 ここにおいて、僕固懐恩は、すなわち回紇の左殺とともに先鋒となった。史朝義は間諜を使ったが、左殺はこれを捕えて献上し、諸将とともに賊を攻撃し、横水において戦って、これを逃走させ、さらに進軍して東都を占領した。可汗は抜賀那をして天子に慶賀の言葉を言上させ、史朝義の旗や財物を献上した。雍王は霊宝に還り、可汗は河陽に駐屯し、三ヵ月間在留した。駐屯地の近傍の人は、掠奪や凌辱に遭って苦しんだ。僕固瑒は回紇兵を率いて史朝義と格闘して戦い、二千里も血を踏み歩き、その首を斬って梟し、このようにして河北はことごとく平定した。僕固懐恩は、相州の西山の崞口に道をとり、還って駐屯し、可汗は沢州・潞州より出て、僕固懐恩と会い、太原へ道を取って去った。 これより以前の事件であるが、回紇が東京に来た時に、回紇は兵を放って盗みや掠奪をおこない、人々はみな逃げて、聖善寺と白馬寺にたてこもってこれを避けた。回紇は怒って仏寺に火をつけ、一万余人をほふり殺した。現在になって回紇はますます横暴となり、官吏をののしり、いためつけ、そのあげくは夜中に兵をもって、皇城の含光門を切り崩して、鴻臚寺に侵入した。この時にあたって、陝州節度使郭英乂は東都を留守していたが、魚朝恩および朔方軍とともに、おごりたかぶり、かって気ままにふるまった。そのため回紇は横暴となり、またも汝州・鄭州の間を掠奪し、郷村には完全な家屋はなく、人々はみな紙をからだに蔽って衣服とするありさまであった。実にこのように人々は賊にしいたげられたのである。 代宗は、韋少華らの死を悼み、韋少華に左散騎常侍の官を、魏琚には揚州大都督の官をそれぞれ追贈し、その一子に六品の官を賜わった。ここにおいて帝は、牟羽可汗を冊して、頡咄登里骨啜蜜施合倶録英義建功毘伽可汗と称した。また可敦を娑墨光親麗華毘伽可敦と称した。帝は左散騎常侍の王翊を派遣し、回紇可汗の本営に赴いて冊命を行なわせ、可汗より宰相にいたるまでみな、実封二万戸を賜わった。また唐は左殺を雄朔王となし、右殺を寧朔王となし、胡禄都督を金河王となし、抜覧将軍を静漠王となし、都督をみな、国公となした。 永泰のはじめ(765)に、僕固懐恩が叛き、回紇と吐蕃を誘って侵入してきたが、にわかに僕固懐恩が死に、二つの虜(回紇と吐蕃)は指導権を争った。回紇の首領はひそかに涇陽を訪れて、郭子儀に会見し、あやまちを改めたいと請うた。郭子儀は、麾下の兵士を率いて回紇の幕営を訪れた。回紇は「願わくば令公に会いたい」と言ったので、郭子儀は旗をかかげた門を出た。回紇は「甲(よろい)をはずしていただきたい」と言ったので、郭子儀は服をとりかえた。頭目らはたがいに目をくぼらせて「これはほんとうに令公である」と言った。その時、李光進と路嗣恭は馬に軍装してかたわらにいたが、郭子儀は頭目たちに示して、「これは渭北節度使の某であり、これは朔方軍糧使の某である」と紹介した。頭目たちは馬からおりて拝礼し、郭子儀もまた馬からおりると、頭目たちとまみえた。数百人の虜(回紇)は、これをとりまいて見守った。郭子儀の麾下もまたちかづいてきた。郭子儀は、左右の者をなびかせて退かせ、他方で酒の用意を命じ、回紇とともに飲み、纒頭の綵(いろぎぬ)を三千疋贈った。郭子儀は可汗の弟の合胡禄らを召し、その手を握り、そこで責めて、「帝は回紇の功績を強く念頭に思い、なんじにはまことに厚く報いているのに、どうして背いてきたのか。いま、こうなっては、なんじと一戦交えるしかない。どうしてすぐ、なんじに降伏するものか。わたしはただひとりでなんじの陣営に突入しよう。なんじがわたしを殺しても、わが将士は必ずやなんじを討つことができるのだ」と言った。頭目たちはおそれいって、「僕固懐恩がわれわれをだまして「唐の天子は南方に逃げ、令公も罷免された」と言ったので、われわれはやってきたのである。いま、天可汗は帝位についており、令公もつつがないことがわかった。われわれは、願わくば、吐蕃を攻撃して、もって唐の厚い恩に報いたい。しかし、僕固懐恩の子は可敦の弟であるから、願わくば死を赦免していただきたい」と言った。ここにおいて、郭子儀は酒杯を持ち、合胡禄は誓盟することを請うて酒を飲んだ。郭子儀は、「唐の天子は万歳、回紇可汗もまた万歳、両国の将軍と宰相も然りである。もし、われわれが誓盟に背くことがあれば、その人の身は戦場で死し、その家族はほふり殺されるであろう」と言った。この時にあたり、回紇の宰相の磨咄、莫賀達干頓らは、その言を聞いて、みな肝を奪われた。酒杯がかれらのところに廻ってくると、すぐ「公の誓約に背くことはしません」と言った。これより以前のことであるが、虜(回紇)に二人の巫術師がいて、「こんどの出征では、回紇はかならず戦わないであろう。まさに大人に会って還るであろう」と予言したが、いま、こうなって見ると、回紇はたがいに顧みて笑って「あの巫術師はわれわれをだまさなかったのだ」と言った。 朔方先鋒兵馬使の白元光は、回紇の兵と霊において合流したが、折しも雪と雰がきびしく降り、暗くなった。そこで吐蕃は、幕営を閉じ、備えを撤したので、唐軍は思うままにこれを攻撃して、首五万級を斬り、一万人を生けどりにし、馬、駱駝、牛、羊を捕獲し、唐戸五千を捕虜とし、また、僕固名臣は降服した。ついで合胡禄都督ら二百人はみな来朝したが、唐が与えた賜わり物は数えきれぬほどであった郭子儀は僕固名臣を帝にまみえさせた。僕固名臣は、僕固懐恩の兄の子であって、武勇の将であった。 大暦三年(768)に、光親可敦が死んだので、帝は右散騎常侍蕭昕を派遣し、節を持って祠を弔わせた。明くる年、帝は僕固懐恩の幼女を崇徽公主となし、英義建功可汗の後妻とした。兵部侍郎李涵は節を持ち、可敦を冊拝し、繒綵二万疋を賜わった。この時唐の財政が窮乏し、公卿の馬や駱駝に税を課して降嫁の費用をまかなった。宰相は渭水の中溝橋まで出かけていって餞した。 京師に留まっていた回紇は、徒党を組んで、市内で女子を掠め、馬に乗って皇城の含光門を侵犯したので、皇城の諸門はみな閉じられた。帝は劉清潭に詔し、これらの回紇をなだめてやめさせたが、回紇はふたたび、市場の物品を掠奪し、長安令の邵説の馬を奪う行動に出たが、役人は敢えてなにも詰問しなかった。乾元(758)の後より、回紇はますます功名をたのみ、馬一匹を唐に納入するごとにその代価として四十疋の絹を受けとり、その結果毎年、数万匹の馬で絹を買うことを求め、使者はあいついで来て、鴻臚寺に宿泊して滞在した。回紇の劣悪で弱い馬は使用に堪えなかったが、帝は手厚い賜わり物をして、このことを恥じいらせようとした。しかし、回紇はこのことを理解せず、またも一万匹の馬をもたらしてきたが、帝はかさねて民を煩わすに忍びず、賞として六千疋を与えた。大暦十年(775)に在京の回紇は人を殺して横暴を働いた。京兆尹の黎幹はこの回紇を逮捕したが、帝は詔して「見逃して、これを難詰するな」と言った。回紇はまた、東市で人を刺したので、役人はこれを縛って万年獄に送ったが、回紇の首領は囚人を奪い返し、獄をいたみつけて去った。このように都の人は、回紇のために苦しみ悩まされたのであった。 大暦十三年(778)に、回紇は振武軍を襲い、東陘を攻め、太原に入寇し、河東節度使の鮑防と陽曲において戦ったが、鮑防は敗戦し、その部下の一万人が殺された。代州都督の張光晟はまた、羊虎谷において戦い、これを破ったので、そこで虜(回紇)は去った。 徳宗が即位すると、中人をして先帝の喪を回紇可汗に告げさせ、一方で好みを修めようとした。そのとき、九姓胡は可汗に、唐への侵入を勧めた。可汗は、軍隊を総動員して塞に進軍しようと欲したので、唐の使節と会見しても礼儀をつくさなかった。宰相の頓莫賀達干は、「唐は大国であり、わが国に背くことはなかった。以前にわれわれは太原に侵入して数万の羊馬を奪った。本国へ引きあげるころになって、損傷と疲弊がはなはだしかったのであります。いまわれわれが国をあげて遠征して、もし勝たなければ、どんな結果になりましょうか」と言った。しかし可汗はこれを聴きいれなかったので、頓莫賀達干は怒って、そこで可汗を撃って殺し、同時にその徒党および九姓胡を二千人ばかり、ほふり殺した。そこで頓莫賀達干は、みずから即位して、合骨咄禄毘伽可汗となり、頭目の建達干に命じて、唐の使者に随行して入朝させた。建中元年(780)に、帝は京兆少尹の源休に詔して、節を持って、頓真賀を押して武義成功可汗となした。 これより以前から、回紇が中国に来たときには、かれらは、つねに九姓胡を一行のなかにまじえ、これまで京師に留まる者は千人に達し、商売を営み、財貨を積んで、莫大な資産をふやしていた。たまたま酋長の突董翳蜜施、大小の梅録らが自国に帰るに際して袋をしつらえて、莫大な輜重をもって出発し、振武軍に三ヵ月間、滞留した。その食事は、皇帝の御馳走になぞらい、費用ははかり知れなかった。振武軍使の張光晟がひそかにその様子を窺うと、かれらはみな、袋に女子をいれていたので、張光晟は駅吏をして長い錐でこれを刺させ、しかるのちにこの事実を曝露した。そのうちに九姓胡は、頓莫賀が新たに即位して、多くの九姓胡人を殺したことを聞き、これを恐れて、あえて帰国しようとせず、しばしば逃亡した。突董はこれをひじょうに厳しく監視した。多くの胡人は張光晟に計略をたてまつり、回紇をことごとく斬ることを請うた。張光晟はこれを許し、そこで上奏して、「回紇は、がんらい強いのではありません。これを助ける者は九姓胡のみです。いまその国は乱れたがいに戦争しあおうとしています。しかして(回紇)は、利があれば往き、財があれば集合します。財と利とが無ければ、かれらはひとたび乱れると振いません。この時をもってこれに乗じなければ、かれらの手中に落ちた人と財幣をとり返すことができるでしょうか。これは兵の力を借りて糧を盗むことに役立たせることを意味します」と言った。そこで張光晟は、裨校(副将)をして、わざと無礼なことをさせた。突董は、はたして怒ってこれに鞭打った。張光晟はそこで兵を整え、回紇と多くの胡人をことごとく殺し、数千頭の駱駝と馬、十万疋の絹と錦を没収し、一方で告げて「回紇は大将に鞭打ち、かつ振武軍を取ることを謀った。謹んで、まずこれを誅したのである」と言い、女子を長安に送り還した。帝は張光晟を召還し、彭令芳をもってこれに代え、中人を派遣し、回紇の使者の聿達干とともに回紇へ行かせて、事のしだいを告げた。そこで帝は虜(回紇)と絶交しようと欲し、源休に勅して、太原において命令を待たせた。明くる年、源休は出発し、突董らの四つの枢を送り届けた。突董は可汗の諸父(おじ)であった。源休が来ると、可汗は大臣に命令して車馬を用意して出迎えさせた。その大相である頡干迦斯は、腰をかけたままで、源休らが突董を殺したことを責めた。源休は「かれ自身が張光晟と格闘して死んだのであって、天子の命令で殺したのではありません」と言った。可汗はまた「使者はみな死罪を負うているのに唐朝がみずからの手でこれを殺さず、どうしてわれわれに手を借りるのか」と言って、ひじょうに長い間、責めたのち、やめて立ち去った。源休らはほとんど死にそうになった。源休は五十日間も留められたが、ついに可汗に謁見できなかった。可汗は源休に伝言して、「わが国人はみな、なんじの死を欲しているが、わたしだけはそうでない。突董らはすでに死んだが、いままた、なんじを殺すことは、血で血を洗うようなもので、いたずらに自分を汚すだけのこととなる。水をもって血を洗うのもまた、よいことではないか。わたしに代って、唐の役人にこう言え。「負債たる馬の値段として、百八十万疋の絹を、速やかにわれわれに償うべし」と」と言った。可汗は散支将軍康赤心らを派遣し、源休に随行して来させた。帝は隠忍自重して、黄金と繒を賜わった。 その三年後(787)に、回紇は使者を派遣して方物を献上し、和親を請うた。帝(さきの雍王)は、以前の怒りを心に残していて、心中平らかではなく、宰相の李泌に、「和親のことは、子孫の時代を待って計れ。朕はできないのだ」と言った。李泌は、「陛下は、どうして陜州の事件のことを遺憾に思っておられるのですか」と言った。帝は、「然り。朕は天下の多難に際し、いまだ報いることができない。しばらく和睦を議するなかれ」と言った。李泌は言うに、「韋少華らを辱しめたのは、牟羽可汗であります。牟羽可汗は、陛下が即位すると、陛下が必ず怨みを晴らすであろうことを知り、そこでまず、辺境を苦しめようと謀ったのでありましたが、しかし、かれは兵を出さぬうちに現在の可汗に殺されたのであります。いま可汗ははじめて即位して、使者を派遣し、「髪を垂れて切らず、天子の命を待ちます」と告げました。しかして張光晟は、突董らを殺しました。可汗は使者を捕えましたが、しかし使者はついに無事で、帰国すると無罪となりました」と。帝は「卿の言葉はもっともである。朕は、顧るに、韋少華らに背くことはできぬ。どうしたらよいか」と言った。李泌は言うに、「臣は、陛下が韋少華には背いていませんが、韋少章が陛下に背いた、と申し上げます。一方では、北虜の君長は自分自身で戦争に赴いたのですが、陛下は藩邸に住んでいる身分で、年がなおまだ壮年でないのに、軽々しく黄河を渡って、その回紇営にはいられました。これはいわゆる虎のいる危険な場所にふみいることを意味します。韋少華らが計略をたてるには、まさにまず会見の礼を定むべきでありました。臣はそれでもなお、このことを危ぶんでおりましたのに、陛下はどうして独りぼっちで赴かれたのですか。臣はむかし先帝(代宗)の行軍司馬でありました。葉護が援兵として来た際に、先帝は府において宴会を開かせただけであって、征討のことを議するにあたっては、会見しなかったのであります。葉護は臣を迎えて、その営に来させようとしましたが、先帝は許さず、「主は客をいたわるべきであるのに、客がかえって主をいたわることはありますまい」とていねいに返答させました。唐軍が東の方京師を奪還して、そこで回紇と約束して、「土地と人衆はわが唐のものであり、玉帛子女は回紇に与える」と言いました。戦いに勝った葉護は、大いに掠奪しようと欲しました。代宗は馬をおりてこれ(葉護)に拝礼したので、回紇は東の方、洛陽にむかいました。臣は代宗皇帝が元帥の身をもって葉護を馬前で拝したことをなお恨みと思い、これを左右ののあやまちと考えました。しかし先帝は、雍王は仁孝であって、朕の事を弁理するに十分である」と言い、詔をくだして、慰め励ましました。葉護はすなわち牟羽可汗の諸父であります。牟羽可汗が来たとき、陛下は天子の嫡子であるという理由でもって、帳のほとりで拝礼しませんでした。しかも牟羽可汗はあえて陛下に少しの過失があるとは考えなかったのです。すなわち陛下はいまだかつて屈服したのではなかったのです。先帝は葉護に拝礼して京城を保全しましたが、陛下は拝礼しておりません。可汗はがんらい、舅(回紇)のあいだにおいて威光を示しております。どうして恨むことがありましょうか。しかし、香積と陝州のことを計りますに、おのれを屈するのをもって是としますか、それとも、威を伸ばすのをもって是としますか。もし韋少華らをして陛下を可汗に会見させたとしますと、五日間、塁壁を閉ざして陛下と宴飲したでありましょう。天下の人々が、どうして心配しないことがありましょうか。しかして天の神は、豺狼(回紇)をして馴服させました。牟羽可汗の母は、陛下に貂の皮ごろもを捧呈しましたが、左右の者を叱り促して騎兵に命じ、身みずから送って営を出させました。これは韋少華らが陛下に背いたことになります。たとい牟羽可汗に罪ありとしましても、すなわち、いまの可汗はすでにこれを殺しました。即位した者はすなわち牟羽可汗の従父兄であります。これは功があるといえます。どうしてこれを忘れることができましょうか。また一方では、回紇可汗は石に銘し、国の門のところに石碑を立てて、「唐の使者が来れば、まさにわが前後の功を知らしむべし云々」と言っております。いま回紇は和平を請うていますが、かれらは部をあげて南方に期待の念をかけていると思います。陛下がこれに答えなければ、その怨みは必ず深いと存じます。願わくば婚姻を許可して、開元時代の先例を用いるように約束してください。突厥の可汗のごときは、臣を称しましたが、その使者の来た数は二百人にすぎず、交易した馬は千匹にすぎませんでした。唐の人をして塞より出させねば、不可ということはないと存じます。」帝は「よし」と言い、そこで公主を降嫁させることを許した。回紇もまた約のごとくすることを請うたので、咸安公主に詔して降嫁させ、また、使者の合闕達干に詔して麟徳殿で公主に謁見させた。帝はまた、中謁者をして公主の画図をもたらせしめ、可汗に賜わった。 明年(788)、可汗は宰相の𨁂跌都督ら千余人の部衆を派遣し、ならびにその妹の骨咄禄毘伽公主を派遣し、大頭目の妻五十人を率いて、公主を迎えさせ、かつ結納を贈った。𨁂跌は振武軍にいたったが、室韋族に襲われて戦死した。帝は詔してその部下の七百人にみな、入朝を許し、鴻臚寺に宿泊させた。帝は延喜門に出御して使者に謁見した。この時の可汗の奉った国書はひじょうに丁重であって、「唐と回紇との間柄はむかしは兄弟であったが、いまは婿すなわち半子である。もし、陛下が西戎に悩まされているなら、子のわたしは兵をもってこれを除くことを申し出たい」と述べてあった。また、可汗は回紇という字を変えて回鶻としたいと請うたが、この字義は鶻(はやぶさ)のようなすばやい猛禽という意である。帝は回鶻の公主のために宴を催そうとしたので、帝は李泌に礼法を問うた。李泌は答えて、「粛宗は燉煌王李承寀にとって従祖兄でありました。回鶻は女をこれに妻せました。この女は彭原において帝にまみえましたが、ひとりで廷下で拝礼しました。帝は彼女を婦と呼び、嫂(あによめ)とは呼びませんでした。国家の艱難な時期に際して、粛宗は回鶻の力を借りねばならず、あたかも臣としてこれに仕えるような態度をとりました。ましてやこんにちにおいては、われわれは当然、そのように振舞うべきであります」と言った。ここにおいて李泌は回鶻の公主を案内して銀台門にはいった。長公主三人が内部でこれに侍った。訳史(つうやく)が公主を導き、拝礼を受ければ必ずこれに答礼し、ともに進んだ。帝は奥深い宮殿に出御し、長公主がまず入侍し、回鶻の公主はなかにはいって帝に拝謁した。すでに内司が案内して長公主のところへ行かせた。また訳史は伝問し、ともにはいって宴席へいたった。女官は階をおりて、回鶻の公主が賢妃を拝礼するのを待って答礼した。公主はまた拝礼して、召された。すでに西の階より昇り、そこで腰をおろし、賜わり物があれば、階を降りて拝礼した。帝の賜わり物でなければ、席を避けて、妃を拝した。公主はみな答拝して、おわってから帰った。そして、ふたたび宴が催された。帝はまた咸安公主の官属をことごとく設け、これを王府に準ずるものとし、嗣滕王李湛然を昏礼使となし、右僕射の関播が一行を護送し、一方では冊書を持って行かせ、可汗を拝して汨咄禄長寿天親毘伽可汗となし、公主を智恵端正長寿孝順可敦とした。 貞元五年(789)に汨咄禄長寿天親毘伽可汗が死んで、子の多邏斯が即位したが、回鶻国人はこれを泮官特勒と呼んだ。唐朝は鴻臚卿の郭鋒に命令して節を持って派遣し、多邏斯を愛登里邏汨没蜜施倶録毘伽忠貞可汗として冊拝した。 これより先、安西と北廷は、天宝(742-756)の末年に関隴が失陥してより、唐への朝貢の通路が隔てられ、伊西北廷節度使の李元忠、四鎮節度留後の郭昕はしばしば唐朝へ使者を派遣して表を奉ったが、みな唐朝へ到達することができなかった。しかし、貞元二年(786)に、李元忠の派遣した使者は道を回鶻の領域に借りたので、そこで長安に到達することができた。帝は李元忠を昇進させて北廷大都護となし、郭昕を安西大都護となした。こののち、道路は通じたけれども、回鶻は徴発を要求して限りがなかった。沙陀別部の六千帳は、北廷とたがいに依存し、また、虜(回鶻)の苛酷な搾取を嫌った。平素から回鶻に臣属していた三葛邏禄、白眼突厥はもっとも怨み苦しみ、みなひそかに吐蕃に附従した。ゆえに吐蕃は沙陀に頼って、ともに北廷に侵入し、頡于迦斯はこれと戦ったが勝てず、北廷は陥落した。ここにおいて北廷都護の楊襲古は、兵を引いて西州に逃走した。回鶻は壮卒数万をもって楊襲古を召還し、まさに北廷を取りかえそうとしたが、吐蕃に攻撃されて大敗し、その士卒の大半は死んだ。頡于迦斯はあわてて逃げ帰った。楊襲古は残余の衆を率いて、まさに西州に入城しようとした。頡于迦斯はあざむいて、「ただ、わたしといっしょに帰ってくださったら、あなたを唐へ御帰してします」と言った。楊襲古がかれの帳舎に赴いて来ると、頡于迦斯はこれを殺した。また、浮図川を占領したので、回鶻は大いに恐れ、その部落を南へ移動させて、これを避けた。 この年(790)、忠貞可汗は少可敦の葉公主によって毒殺された。少可敦もまた、僕固懐恩の孫であって、僕固懐恩の子は回鶻の葉護であったから、彼女は葉公主と号したといわれる。前の可汗の弟がそこでみずから即位した。この時に頡于迦斯はまさに吐蕃を攻めていたが、その大臣は、国人を率いて、ともに簒奪者を殺し、前の可汗の幼子の阿啜を後嗣となした。頡于迦斯が出征から帰還すると、可汗たちは出迎えて頡于伽斯をいたわり、みな眼を伏せて可汗廃立の実状を述べ、「ただ大相(頡于伽斯)がわれわれの生死を御きめください」と言い、郭鋒が賜わったところの器幣をことごとくさし出して、頡于迦斯に贈った。可汗は拝礼し、泣いて「いま幸いに、絶えた位を継ぐことができました。食を父から仰ぎたいと存じます」と言った。頡于迦斯は、かれが謙譲であるのを見て、そこで抱きあって泣き、ついにこれ(可汗)に臣として仕えることになり、器幣をことごとく将士に与え、まったく私物としなかった。このようにしてその国はついに安らかとなった。回鶻可汗は達北特勒、梅録将軍を派遣し、唐へ来て可汗の即位を報告し、一方では命令に従った。唐は鴻臚少卿の庾鋋に詔して、阿啜をして奉誠可汗となした。にわかに回鶻は律支達干をして来させ、少寧国公主の喪を報告した。この公主は栄王の娘である。これよりさき、寧国公主が降嫁したとき、唐朝はこれに侍女を付き添わせた。寧国公主はのちに唐に帰ったので、その侍女は回鶻のなかに留まって可敦となり、少寧国公主と号し、英武・英義の両可汗にあい継いで配偶者となった。天親可汗の時代になって、少寧国公主ははじめて宮廷の外に住み、彼女が英義可汗の配偶者として生んだ二子は、ともに天親可汗に殺された。この年(790)、回鶻は吐蕃・葛邏禄を北廷に攻撃して、これに勝ち、一方で俘虜を唐に献上した。明くる(791)に、回鶻は薬羅葛炅を来朝させた。薬羅葛炅は、がんらい唐の人で呂氏といい、可汗の養子となり、ついに可汗の姓、薬羅葛を名のったのである。帝は、かれが事に役立つと考えて、賜わり物をとくに厚くしてもてなし、検校尚書右僕射に拝した。 貞元十一年(795)に奉誠可汗は死んだが、子がいなかったので、国人は、その相の骨咄禄を立てて可汗となし、使者を唐へ派遣した。唐朝は秘書監の張薦に詔して、節を持って行かせ、骨咄禄を愛縢里邏羽録没蜜施合胡禄毘伽懐信可汗に冊拝した。骨咄禄はがんらい𨁂跌氏の出身であって、かれは幼時に親に死別し、大首領の手もとで養育された。かれは弁舌に巧みで、さとく、武勇な人材であった。天親可汗の時代に、しばしば軍隊を指揮したので、もろもろの頭目たちはかれを尊敬したのであった。このようにして、可汗となった骨咄禄は薬羅葛氏が代々の功績があったことにかんがみて、あえて自分自身の姓を名のらず、薬羅葛氏を名のり、そして天親可汗以前の子孫をことごとく召し取って、これらを唐の朝廷に奉納した。 永貞元年(805)に、懐信可汗は死んだので、唐朝は鴻臚少卿の孫杲に詔して回鶻の宮廷に臨んで、後嗣を冊拝させ、滕里野合倶録毘伽可汗となした。 元和のはじめ(806)に、回鶻はふたたび入朝して貢ぎ物を献じた。回鶻は最初摩尼を派遣した。その戒律として、摩尼は晩になると食事し、水を飲み、臭味のある菜をゆで、湩酪をしりぞける。摩尼は可汗がつねにこれと協力して国を維持した人々である。摩尼は京師に来て、毎年往来しており、西市の商人はかれらとともに、ひそかに姦悪・不正をおこなっている。元和三年(808)に、回鶻の使者が来て、咸安公主の喪を報告した。咸安公主は、四代の可汗にあいついで配偶者となり、およそ二十一年の間、回鶻のなかにいたのである。まもなくして可汗もまもなく死んだ。憲宗は宗正少卿の李孝誠をして後嗣の愛登里羅汩没蜜施合毘伽保義可汗を冊拝させた。三年を経て、回鶻の使者がふたたび入朝し、伊難珠を派遣して、ふたたび唐朝との婚姻を請うた。唐朝がまだ返事をしないうちに、可汗は三千騎を率いて鷿鵜泉に到着した。 ここにおいて振武軍は兵を黒山に駐屯させ、天徳城を根拠地として虜に備えた。礼部尚書の李絳が奏してつぎのように言った。「回鶻は盛んで強力です。わが北辺の守りは空っぽであり、ひとたび風塵がおきますと、弱卒は敵に対抗できるますらおではなく、孤城は守りえない地であります。もし、陛下がこのことを念頭におかれて、武装兵を増し城塁を警備されれば、中国にとって良い方策であり、生きている人々にとって大きな幸福であります。臣はこんにちの処置を観察しますのに、その処置はまだ要を得ておりません。辺境の不安な点が五つありますので、これを一つずつ述べさせていただきたく存じます。北狄は貪慾でありまして、利のみを見ます。しかし北狄が馬をもたらして来て、その代価を手にいれれば、一歳に二度とはやってまいりません。こういうわけですからどうして繒帛を用いるという利点をいとうことがありましょうか。そうしないと、風高く馬肥える時になって、北狄はほしいままに侵入しようとするにちがいありません。ゆえに外敵を撃退し、国内に備えることは、必ず朝廷を煩わすことになります。第一に憂うべきことは、兵力がまだ完全でなく、斥候がまだ明らかではなく、兵器がまだ備わらず、城がまだ堅固でないことであります。唐が天徳城の守備を固めれば、虜は必ず疑い、西城を空にすれば、砂漠の道路は頼るものがありません。第二に憂うべきことは、城は要害を保ち、攻守の険易はまさに辺将に謀るべきであるのに、唐朝はいまはすなわち河塞の外のことを計るにあたって、朝廷のなかで裁いております。虜がにわかに塞に侵入しましても、唐朝はその応接に便宜を失しています。第三に憂うべきことは、唐朝と回鶻とが好みを修めてより以来、虜は唐朝の山川の形勝、兵備の厚薄をことごとくくわしく知っております。賊が侵略しますと、諸州からの兵員微発は、十日間を必要とします。辺塞の外は人畜がつながっていて、かれらは一日にして侵入できます。王師が到着したころには、虜はすでに引きあげています。侵寇が能く久しければ、民が役に留まることもまた転じて広いのです。第四に憂うべきことは、北狄と西戎とは平素より攻めあっており、ゆえに辺境に不安はないのですが、回鶻が唐に馬を売れなくなって、そこで吐蕃と手を結んで和解することになりますと、唐将と臣はとりでにとじこもり、戦うことをはばかり、したがって辺境の人々は手をこまねいたまま、禍いをうけることになるということです。第五に憂うべきことは、また淮西の呉少陽は死にかけておりますが、その変に乗じて諸道で反乱がおきると、ほとんど十倍になるかもしれません。臣はよろしく回鶻との婚姻をゆるし、族の礼を守らせるべきであると申し上げます。これにはいわゆる三つの利点があります。和親すれば、のろし台はもはや侵入に驚くことはなくなります。またわれわれは城堞を治めることができ、兵を盛んにし、これによって力を蓄え、粟を積み、もって軍を堅固にできることが第一の利点であります。このようにして北方を警戒するという憂いがなくなりますから、われわれは南方の右地方の処理にあたり、ほとんど滅びようとしている寇敵に命令を伸ばすことができます。これが第二の利点であります。北虜(回鶻)は唐と親戚であることを頼みにしますから、西戎の怨みはいよいよ深くなり、内では自分の国家を安んずることができません。そこで唐は坐して安心でき、侵略は永久にやむのであります。これが第三の利点であります。いま、三つの利点を捨てて五つの憂いを取ることは、甚だまずい方法であります。公主を降嫁させる費用は多いと言う者もあるでしょう。しかし臣はそのようには思いません。わたしは、天下の賦を三分し、一をもって辺境にあてます。いま東南の大県の賦は毎年二十万緡であります。一県の賦をもって婚資にあてることは、損少なく利益は大ではありませんか。いまわれわれが婚資を惜しんで与えず、かりにもし王師が北征すれば、その兵は三万、騎兵は五千ではすみますまい。しかもこの兵力をもってしても敵を防ぎ、また逃走させることもできません。また、かりにわれわれが十全の勝利を保つことができても、一年にしてその兵糧はなくなります。いわんや、食糧と給与は一県の賦の額にとどまるでしょうか。」 しかし、帝はこの言を聴きいれなかった。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十六下 列伝第一百四十一下 『新唐書』巻二百一十七上 列伝第一百四十二上 巻二百一十七下 列伝第一百四十二下
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/171.html
唐書巻八十二 列伝第七 十一宗諸子 奉天皇帝琮 太子瑛 棣王琰 鄂王瑤 靖恭太子琬 光王琚 潁王璬 永王璘 寿王瑁 延王玢 盛王琦 豊王珙 汴王璥 越王係 承天皇帝倓 彭王僅 襄王僙 嗣王熅 恭懿太子佋 昭靖太子邈 睦王述 舒王誼 通王諶 虔王諒 肅王詳 文敬太子謜 郯王経 恵昭太子寧 澧王惲 絳王悟 建王恪 懐懿太子湊 安王溶 悼懐太子普 陳王成美 荘恪太子永 通王滋 吉王保 徳王裕 玄宗に三十子があった。劉華妃は李琮・第六子の李琬・第十二子の李璲を生み、趙麗妃は李瑛を生み、元献皇后は肅宗皇帝を生み、銭妃は李琰を生み、皇甫徳儀は李瑤を生み、劉才人は李琚を生み、武恵妃は李一・第十五子の李敏・第十八子の李瑁・第二十一子の李琦を生み、高婕妤は李を生み、郭順儀は李璘を生み、柳婕妤は李玢を生み、鍾美人は李環を生み、盧美人は李を生み、閻才人は李玼を生み、王美人は李珪を生み、陳才人は李珙を生み、鄭才人は李瑱を生み、武賢儀は李璿・第三十子の李璥を生んだ。のこりの七子は夭逝し、母の氏について伝を失っている。 奉天皇帝李琮は、景雲元年(710)、許昌郡王となり、真定郡王とともに同じく封ぜられた。先天元年、郯王に進み、郢王とともに同じく封ぜられた。開元四年(716)、安西大都護・安撫河東関内隴右諸蕃大使を領した。十三年(725)、慶王に徙され、忠・棣・栄・光・儀・潁・永・寿・延・盛・済の十一王とともに同じく封ぜられた。十五年(727)、與十王並領節度、不出閤。李琮は涼州都督として河西諸軍節度大使を兼ねた。天宝元年(742)、改節河東。十載(751)に薨去し、太子を贈られ、謚を靖徳といった。 肅宗が立つと、詔曰:「靖徳太子琮、親則朕兄、睿悊聰明、朕昔踐儲極、顧誠非次、君父有命、不敢違、永言懇讓、不克如素。宜進謚奉天皇帝、妃竇為恭応皇后。」詔尚書右僕射裴冕持節改葬、群臣素服臨送達礼門、帝御門哭以過喪、墓は斉陵を号した。子がなかったので、太子李瑛の子の李俅に王を嗣がせた。 李琮は始めの名を嗣直といい、太子は嗣謙といい、棣王は嗣真といい、鄂王は嗣初といい、靖恭太子は嗣玄といった。開元十三年(725)、名をあらためて潭といい、鴻といい、洽といい、涓といい、滉といった。のち十年して今の名に改めた。 太子李瑛は、始め真定郡王となり、郢王に進んだ。開元三年(715)、立てられて皇太子となった。七年、詔太子・諸王入国学行齒冑礼、太常擇日謁孔子、太子献。詔右散騎常侍褚量執経、群臣・学官・諸生以差賜帛。明年、瑛加元服、見太廟。十六年、詔九品官息女可配太子者、有司採閲待進止、以太常少卿薛縚女為妃。帝種麥苑中、瑛・諸王侍登、帝曰:「是将薦宗廟、故親之、亦欲若等知稼穡之難。」因分賜侍臣、曰「春秋書『無麥禾』、古所甚重。比詔使者閲田畝、所對不以実、故朕自蒔以観其成」云。 初、瑛母以倡進、善歌舞、帝在潞得幸。及即位、擢妃父元礼・兄常奴皆至大官。鄂・光二王母亦帝為臨淄王時以色選。及武恵妃寵幸傾後宮、生寿王、愛與諸子絶等。而太子・二王以母失職、頗怏怏。恵妃女咸宜公主婿楊洄揣妃旨、伺太子短、譁為醜語、恵妃訴于帝、且泣、帝大怒、召宰相議廃之。中書令張九齢諫曰:「太子・諸王日受聖訓、天下共慶。陛下享国久、子孫蕃衍、奈何一日棄三子?昔晋献公惑嬖姬之讒、申生憂死、国乃大乱。漢武帝信江充巫蠱、禍及太子、京師蹀血。晋恵帝有賢子、賈后譖之、乃至喪亡。隋文帝聽后言、廃太子勇、遂失天下。今太子無過、二王賢。父子之道、天性也、雖有失、尚當掩之。惟陛下裁赦。」帝默然、太子得不廃。俄而九齢罷、李林甫專国、数稱寿王美以揠妃意、妃果徳之。 二十五年、洄復搆瑛・瑤・琚與妃之兄薛鏽異謀。恵妃使人詭召太子・二王、曰:「宮中有賊、請介以入。」太子従之。妃白帝曰:「太子・二王謀反、甲而來。」帝使中人視之、如言、遽召宰相林甫議、答曰:「陛下家事、非臣所宜豫。」帝意決、乃詔:「太子瑛・鄂王瑤・光王琚同惡均罪、並廃為庶人。鏽賜死。」瑛・瑤・琚尋遇害、天下冤之、号「三庶人」。歳中、恵妃数見庶人為祟、因大病。夜召巫祈之、請改葬、且射行刑者瘞之、訖不解。妃死、祟亡。宝応元年、詔贈瑛皇太子、瑤等復王。 李瑛に子が五人あった。李儼・李伸・李倩・李俅・李備。瑛之廃、帝使慶王畜儼等為子。儼封新平郡王、伸平原郡王、俅嗣慶王、備太僕卿、倩失伝。 棣王李琰は、開元二年に始め鄫王となり、鄂・鄄の二王とともに同じく封ぜられた。のちに棣王にうつされ、太原牧・太原以北諸軍節度大使を領した。天宝初年、武威郡都督となり、経略節度河西・隴右。会妃韋以過置別室、而二孺人爭寵不平、求巫者密置符琰履中以求媚。仇人告琰厭魅上、帝伺其朝、使人取履視之、信。帝怒責琰、琰頓首謝曰:「臣罪宜死、然臣與婦不相見二年、有二孺人爭長、臣恐此三人為之。」及推、果驗。然帝猶疑琰、怒未置、太子以下皆為請、乃囚於鷹狗坊、以憂薨去した。妃、縚之女、無子、還本宗。 李琰に合わせて五十五子があり、得王者四人、僎王汝南郡、僑宜都、俊済南、侒順化。僚太僕卿、俠国子祭酒、仁殿中監、僾秘書監。宝応元年、詔復琰王爵。 鄂王李瑤は、既封、幽州都督・河北節度大使を遙領した。開元二十三年、與栄・光・儀・潁・永・寿・延・盛・済・信・義十一王並授開府儀同三司、実封二千戸。詔詣東宮・尚書省、上日百官集送、有司供張設楽。この日、悉拜王府官属、然未有府也、而選任冒濫、時不以為栄。 靖恭太子李琬は、始め鄄王となり、栄王にうつされた。京兆牧となり、隴右節度大使を領した。また詔によって自ら隴右を巡察し、関内・河東の飛騎五万を選んで盛秋に防いだ。累進して単于・安北大都護を兼任した。安禄山が叛くと、李琬に詔して征討元帥とし、河・隴の兵を募集して陝州に駐屯し、高仙芝を副官としたが、たまたま薨去した。李琬の風格は秀でて整い、もとより人望があり、中外の士はこれに頼った。薨去すると、国で怨み嘆かないものはいなかった。詔して諡を贈られた。 李琬の男女は五十八人で、王となった者は三人、李俯は済陰郡王となり、李偕は北平王、李倩は陳留王となった。李傆は衛尉卿、李僓は秘書監、李佩は鴻臚卿となった。 光王李琚は、開元十三年(725)に始めて王となり、與儀・潁・永・寿・延・盛・済七王同じく封ぜられた。俄領広州都督。勇力善騎射、帝愛之。與鄂王同居、友睦甚、皆篤学。既廃、後嗣がなかった。初、琚名涺、儀王濰、潁王澐、永王沢、寿王清、延王洄、盛王沐、済王溢、信王沔、義王漼、陳王沚、豊王澄、恆王潓、涼王漎、汴王滔、至二十三年、詔悉改今名。 夏悼王李一は、生韶秀、以母寵、故鍾愛、命之曰一。未免懐薨去し、追爵及謚。時帝在東都、故葬龍門東岑、欲宮中望見云。 儀王李璲は、既封、授河南牧。薨去し、太傅を贈られた。子の李侁は鍾陵郡王となり、李僆は広陵郡王となった。 潁王李璬は、読書を喜び、文辞を好んだ。開元十五年(727)、安東都護を遙領した。安禄山反、詔領剣南節度大使、以楊国忠為之副。帝西出、令御史大夫魏方進為置頓使、移書剣南属郡、託之藩、大設儲偫。先即鎮、更以蜀郡長史崔圓為副。済江、舟中以綵席藉歩、命徹之、曰:「此可寢、奈何踐之?」之出遽、不及受節、司馬史賁請建大槊、蒙油囊、先驅以威道路。笑曰:「既為真王矣、安用假節為?」将至成都、崔圓迎拜馬前、不為礼、圓銜之。視事再踰月、人便其寛、圓奏罷居内宅。乃詔宣慰肅宗於彭原、従還京師。建中四年(783)に薨去し、年六十六であった。 子の李伸は滎陽王となり、李僝は高邑王となり、李俔は楚国公となり、李僔は夔国公となった。 懐思王李敏は、貌豊秀若圖畫、帝愛之。甫晬薨去し、追爵及謚、祔葬敬陵。 永王李璘は、少失母、肅宗自養視之。長聰敏好学。貌陋甚、不能正視。既封、領荊州大都督。安禄山反、帝至扶風、詔璘即日赴鎮。俄又領山南・江西・嶺南・黔中四道節度使、以少府監竇昭為副。璘至江陵、募士得数万、補署郎官・御史。 時江淮租賦鉅億万、在所山委。璘生宮中、於事不通曉、見富且強、遂有闚江左意、以薛鏐・李臺卿・韋子春・劉巨鱗・蔡駉為謀主。肅宗聞之、詔璘還覲上皇于蜀、璘不従。其子襄城王、剛鷙乏謀、亦楽乱、勸璘取金陵。即引舟師東下、甲士五千趨広陵、以渾惟明・季広琛・高仙琦為将、然未敢顕言取江左也。 会呉郡採訪使李希言平牒璘、璘因發怒曰:「寡人上皇子、皇帝弟、地尊礼絶。今希言乃平牒抗威、落筆署字、何邪?」乃使惟明襲希言、而令広琛趨広陵、攻採訪使李成式。璘至當塗、希言已屯丹楊、遣将元景曜等拒戰、不勝、降於璘、江淮震動。 明年、肅宗遣宦者啖廷瑤等與成式謀招喩之。時河北招討判官李銑在広陵、有兵千餘、廷瑤邀銑屯揚子、成式又遣裴茙以広陵卒三千戍伊婁埭、張旗幟、大閲士。璘與登陴望之、有懼色。広琛知事不集、謂諸将曰:「與公等従王、豈欲反邪?上皇播遷、道路不通、而諸子無賢於王者。如総江淮銳兵、長驅雍・洛、大功可成。今乃不然、使吾等名絓叛逆、如後世何?」衆許諾、遂割臂盟。於是惟明奔江寧、馮季康奔白沙、広琛以兵六千奔広陵。璘使騎追躡之、広琛曰:「我徳王、故不忍決戰、逃命帰国耳。若逼我、且決死。」追者止、乃免。 この夜、銑陣江北、夜然束葦、人執二炬、景乱水中、覘者以倍告、璘軍亦挙火応之。璘疑王師已済、攜兒女及麾下遁去。遲明覺其紿、復入城、具舟、使驅衆趨晋陵。諜者告曰:「王走矣!」成式以兵進、先鋒至新豊、璘使・仙琦逆撃之。銑合勢、張左右翼、射中肩、軍遂敗。仙琦與璘奔鄱陽、司馬閉城拒、璘怒、焚城門入之、收庫兵、掠餘干、将南走嶺外。皇甫侁兵追及之、戰大庾嶺、璘中矢被執、侁殺之。為乱兵所害、仙琦逃去。 璘未敗時、上皇下誥:「降為庶人、徙置房陵。」及死、侁送妻子至蜀、上皇傷悼久之。肅宗以少所自鞠、不宣其罪。謂左右曰:「皇甫侁執吾弟、不送之蜀而擅殺之、何邪?」由是不復用。薛鏐らはみな処刑された。 子の李儹は餘姚王となり、李偵は莒国公となり、李儇は郕国公となり、李伶・李儀はそろって国子祭酒となった。 寿王李瑁は、母の武恵妃が頻不育、及瑁生、寧王請養邸中、元妃自乳之、名為己子、故封比諸王最後。開元十五年、益州大都督を遙領した。初、帝以永王等尚幼、詔不入謁。瑁七歳、請與諸兄衆謝、拜舞有儀矩、帝異之。寧王が薨去し、請制服以報私恩、詔可。大暦十年()に薨去し、太傅を贈られた。 子の王たる者は三人、李僾は徳陽郡王となり、李伓は済陽郡王となり、李偡は広陽郡王となり、李伉は薛国公となり、李傑は国子祭酒となった。 延王李玢は、母が尚書右丞の柳範の孫であり、帝重其名家、而玢亦仁愛有学。既封、安西大都護を遙領した。帝入蜀、玢凡三十六子、不忍棄、故徐進、数日、見行在所、帝怒、漢中王瑀申救得解、聽帰霊武。興元元年(784)に薨去した。 子の李倬は彭城郡王となり、李侹は平陽郡王となり、李倞は魯国公となり、李偃は荊国公となり、李优は太僕卿となった。 盛宣王李琦は、王に封ぜられると、揚州大都督を領した。安禄山が叛いたため帝が西に向かうと、詔して広陵大都督・淮南江東河南節度大使とし、劉彙を副使とし、李成式を副大使としたが、李琦は行かなかった。広徳二年(762)に薨去し、太傅を贈られた。 子の李償は真定王に、李佩は武都王に、李俗は徐国公に、李係は許国公に封ぜられた。 済王李環は、その薨去した年が失われた。子の李傃は永嘉郡王となり、李俛は平楽郡王となった。 信王李は、開元二十一年(733)に始めて王となり、義・陳・豊・恆・涼・汴の六王とともに同じく封ぜられた。子の李佟は新安郡王に、李倜は晋陵郡王に封ぜられた。 義王李玼は、信王とならんで薨去した年が失われている。子の李儀は舞陽郡王となり、李僇は高密郡王となった。 陳王李珪は、二十一子があり、王たる者三人をえた。李倫は安南郡王となり、李佗は臨淮郡王となり、李佼は安陽郡王となった。 豊王李珙は、已封、左衛大将軍となった。帝至普安、授珙武威都督・河西隴右安西北庭節度大使、以隴西太守鄧景山為副、珙不行。 広徳初、吐蕃入京師、代宗幸陝、将軍王懐忠閉苑門、以五百騎劫諸王西迎虜、遇郭子儀、懐忠曰:「上東遷、宗社無主、今僕奉諸王西奔、以係天下望。公為元帥、惟所廃置。」子儀未對。珙輒曰:「公何如?」司馬王延昌質責珙曰:「上雖蒙塵、未有失徳、王為藩翰、安得狂悖之言?」子儀亦讓之、即護送行在所、帝赦不責。珙語不遜、群臣恐其乱、請除之、乃賜死。 子の李佻は斉安王となった。 恆王李瑱は、好方士、常服道士服。従帝幸蜀、還、代宗時薨去した。 涼王李璿は、母高平王重規之女、宮中号小武妃者。璿薨代宗時。子仂為瀘陽郡王。 汴哀王李璥は、於諸子為最少、初封纔数歳、容貌秀澈、有成人風、帝愛之。開元二十三年()、右千牛衛大将軍に任ぜられた。明年、薨去した。 唐制:親王封戸八百、增至千。公主三百、長公主止六百。高宗時、沛英豫三王・太平公主武后所生、戸始踰制。垂拱中、太平至千二百戸。聖暦初、相王・太平皆三千、寿春等五王各三百。神龍初、相王・太平至五千、衛王三千、温王二千、寿春等王皆七百、嗣雍・衡陽・臨淄・巴陵・中山王五百、安楽公主二千、長寧千五百、宣城・宜城・宣安各千、相王女為県主、各三百。相王增至七千、安楽三千、長寧二千五百、宜城以下二千。相王・太平・長寧・安楽以七丁為限、雖水旱不蠲、以国租・庸滿之。中宗遺詔、雍・寿春王進為親王、戸千。開元後、天子敦睦兄弟、故寧王戸至五千五百、岐・薛五千、申王以外家微、戸四千、邠王千八百、帝妹戸千、中宗諸女如之、通以三丁為限。及皇子封王、戸二千、公主五百。咸宜公主以母恵妃故、封至千、自是、諸公主例千戸止。 かつて、文徳皇后が崩ずると、晋王は最も幼く、太宗はこれを憐れみ、不使出閤。豫王亦以武后少子不出閤、嗣聖初、即帝位、及降封相王、乃出閤。中宗時、譙王失愛、遷外藩、温王年十七、猶居宮中、遂立為帝。開元後、皇子幼、多居禁内、既長、詔附苑城為大宮、分院而処、「十王宅」、所謂慶・忠・棣・鄂・栄・光・儀・潁・永・延・盛・済等王、以十、挙全数也。中人押之、就夾城参天子起居。家令日進膳。引詞学士入授書、謂之侍讀。寿・信・義・陳・豊・恆・涼七王就封、亦居十宅。鄂・光廃死、忠王立為太子、慶・棣継薨去し、唯栄・儀十四王居院、而府幕列於外坊、歳時通名起居。既又諸孫多、則於宅外更置「百孫院」。天子歳幸華清宮、又置十王・百孫院于宮側。宮人毎院四百餘、百孫院亦三四十人。禁中置維城庫、以給諸王月奉。諸孫納妃・嫁女、就十王宅。太子不居東宮、処乘輿所幸別院。太子・親王・公主婚嫁並供帳於崇仁之礼院。此承平制云。 肅宗に十四子があった。章敬皇后は代宗皇帝を生み、宮人孫氏は李係を生み、張氏は李倓を生み、王氏は李佖を生み、陳婕妤は李僅を生み、韋妃は李僩を生み、張美人は李侹を生み、後宮は李栄を生み、裴昭儀は李を生み、段婕妤は李倕を生み、崔妃は李偲を生み、張皇后は李・李侗を生み、後宮は李僖を生んだ。 越王李係は、生開元時。玄宗末年、悉王太子子、故係王南陽郡。帝即位、至徳二載十二月、進王趙、與彭・兗・涇・鄆・襄・・召・興・定九王同じく封ぜられた。 乾元二年、九節度兵潰河北、朝廷震駭、乃以李光弼代郭子儀総兵関東、而光弼請賢王為帥、於是詔係充天下兵馬元帥、而光弼以司空兼侍中・薊国公副、知節度行營事、係留京師。史思明陷洛陽、係請行、不聽。明年、徙王越。 帝寢疾、皇太子監国、張皇后與中人李輔国有隙、因召太子入、謂曰。「輔国典禁軍、用事久、四方詔令皆出其口、矯天子制、逼徙聖皇、天下側目。今上疾彌留、輔国常怏怏、忌吾與汝。又程元振陰結黄門、圖不軌。若釋不誅、禍不移頃。」太子泣曰:「此二人者、陛下勳舊、而上體不豫、重以此事、得無震驚乎?願出外徐計之。」后曰:「是難與共事者!」乃召係曰:「汝能行此乎?」係許諾。即遣内謁者監段恆俊選材勇宦者二百人、授甲長生殿、以帝命召太子。元振以告輔国、乃相與勒兵凌霄門、迎太子、以難告。太子曰:「上疾亟、吾可懼死不赴乎?」元振曰:「赴則及禍。」乃以兵護太子止飛龍廄、勒兵夜入三殿、收係及恆俊等百餘人繋之、幽后別殿。后及係皆為輔国所害。係三子があった。建王武威郡、逌興道、逾斉国公。 承天皇帝李倓は、始め建寧郡王となった。英毅有才略、善騎射。禄山乱、典親兵、扈車駕。度渭、百姓遮道留太子、太子使喩曰:「至尊播遷、吾可以違左右乎?」倓進説曰:「逆胡乱常、四海崩分、不因人情圖興復、雖欲従上入蜀、而散関以東非国家有。夫大孝莫若安社、殿下當募豪桀、趣河西、收牧馬。今防邊屯士不下十万、而光弼・子儀全軍在河朔、與謀興復、策之上者。」広平王亦賛之、於是議定。太子北過渭、兵仗盬惡、士氣崩沮、日数十戰。倓以驍騎数百従、毎接戰、常身先、血殷袂、不告也。太子或過時未食、倓輒涕泗不自勝、三軍皆属目。 至霊武、太子即帝位、議以倓為天下兵馬元帥、左右固請広平王。帝曰:「広平既嗣、安用元帥?」答曰:「太子従曰撫軍、守曰監国。元帥、撫軍也、莫宜於広平王。」帝従之、更詔倓典親軍、以李輔国為府司馬。時張良娣有寵、與輔国交搆、欲以動皇嗣者。倓忠謇、数為帝言之、由是為良娣・輔国所譖、妄曰:「倓恨不総兵、鬱鬱有異志。」帝惑偏語、賜倓死、俄悔悟。 明年、広平王收二京、使李泌献捷。泌與帝雅素、従容語倓事、帝改容曰:「倓於艱難時実自有力、為細人間、欲害其兄、我計社稷、割愛而為之所。」泌曰:「爾時臣在河西、知其詳。広平於兄弟篤睦、至今言建寧、則嗚咽不自已。陛下此言得之讒口耳。」帝泣下曰:「事已爾、末耐何!」泌曰:「陛下嘗聞黄臺瓜乎?高宗有八子、天后所生者四人、自為行、而睿宗最幼。長曰弘、為太子、仁明孝友、后方圖臨朝、鴆殺之、而立次子賢。賢日憂惕、毎侍上、不敢有言、乃作楽章、使工歌之、欲以感悟上及后。其言曰:『種瓜黄臺下、瓜熟子離離。一摘使瓜好、再摘令瓜稀。三摘尚云可、四摘抱蔓帰。』而賢終為后所斥、死黔中。陛下今一摘矣、慎無再!」帝愕然曰:「公安得是言?」是時、広平有大功、亦為后所構、故泌因對及之、広平遂安。及即位、追贈倓斉王。大暦三年、有詔以倓當艱難時、首定大謀、排衆議、於中興有功、乃進謚承天皇帝、以興信公主季女張為恭順皇后、冥配焉、葬順陵、祔主奉天皇帝廟、同殿異室云。 初、李泌請加贈倓、代宗曰:「倓性忠孝、而困於讒、追帝之、若何?」答曰:「開元中、上皇兄弟皆贈太子。」帝曰:「是特祖宗友愛耳、豈若倓有功乎?」於是追帝号。遣使迎喪彭原、既至城門、喪輴不動。帝謂泌曰:「豈有恨邪?卿往祭之、以白朕意。且卿及知倓艱難定策者。」泌為挽詞二解、追述倓志、命挽士唱、泌因進酹、輴乃行、観者皆為垂泣。 衛王李泌は、始め西平郡王となった。早く薨去した。宝応元年五月、鄆王とともに同じく追封された。 彭王李僅は、始め新城郡王となり、進封彭。史思明陷河・洛、人心震騷、群臣請以諸王臨統方鎮兵、遙相維壓。於是詔僅充河西節度、兗王北庭、涇王隴右、王陝西、興王鳳翔、並為大使。是歳僅薨去した。子鎮為常山郡王。 兗王李僩は、始め潁川郡王となり、兗王に進んだ。宝応元年()に薨去した。 涇王李侹は、始め東陽郡王となり、涇王に進んだ。興元元年()に薨去した。 鄆王李栄は、始め霊昌郡王となった。早く薨去し、追封された。 襄王李は、至徳二載(757)に始めて王となり、・召・興・定の四王とともに同じく封ぜられた。貞元七年(791)に薨去した。子の李宣が伊吾郡王となり、李寀が楽安王となった。宣裔孫熅。 李熅は、性謹柔、材無過人者。光啓二年、田令孜逼僖宗幸興元、邠寧節度使朱玫以五千騎追乘輿不及。熅以疾不能従、玫劫之、駐鳳翔、得臺省官百餘、乃脅宰相蕭遘等率群臣盟石鼻驛、奉熅為嗣襄王、監軍国事、因還京師、即封拜官属。初、遘執不可、於是罷遘、而玫自為侍中、号令己出。以裴澈為門下侍郎、鄭昌圖中書侍郎、皆平章事。遣柳陟等十餘人分諭天下嗣襄王所以監国意、皆得進官。玫又脅太子太師裴璩等奉牋勸進、熅五讓乃即位、改元建貞、尊僖宗為太上元皇聖帝。河中節度使王重栄率諸藩貢奉、帰者十八九、而蔡州秦宗權自僭号、惟太原李克用不従。時帝遣使喩重栄・克用、故二人聽命。樞密使楊復恭等伝檄三輔、募能斬玫者、以邠寧節度畀之。其偽将王行瑜自鳳州入京師殺玫、而熅與澈・昌圖官属奔東渭橋。重栄紿使迎之、熅與官属別、且泣曰:「朕見重栄、當令備所服迓公等。」至蒲、執殺之、因械澈等于獄、誅殺偽官、函熅首至行在所。熅即偽位凡九月敗。始、熅首至、群臣白帝御興元南門受之、百官稱賀。太常博士殷盈孫奏言:「礼、公族有罪、有司曰:『某之罪在大辟。』君曰:『赦之。』如是者三、走出、致刑焉、君為素服不挙者三日。今熅皇族、以不能固節、迫脅至此、宜廃為庶人、絶属籍、葬以庶人礼。大捷之慶、須朱玫首至乃賀。」詔可。 王李倕は、貞元十四年(798)に薨去した。 召王李偲は、元和元年(806)に薨去した。 恭懿太子李は、始め興王に封ぜられた。上元元年(760)に薨去した。生、后方專愛、帝最憐之。后数撼儲嫡、欲以嗣、会薨去し、計塞。是夕、帝及后夢辭決流涕去、帝鯁悵、故冊贈皇太子。 定王李侗は、宝応初年に薨去した。 代宗に二十子があった。睿真皇后は徳宗皇帝を生み、崔妃は李邈を生み、貞懿皇后は李迥を生んだ。十七王は、その母の氏と位について記録が失われている。 昭靖太子李邈は、好学、以賢聞。上元二年(761)始王益昌。帝即位、宝応元年進王鄭、韓王とともに同じく封ぜられた。淄青牙将李懐玉逐其帥侯希逸、詔邈為平盧淄青節度大使、以懐玉知留後。大暦初年、代皇太子為天下兵馬元帥。八年(773)に薨去し、遂罷元帥府。 均王李遐は、早く薨去した。貞元八年(792)に追封された。 睦王李述。大暦十年、田承嗣不臣、而昭靖夭、無彊王、帝乃悉王諸子、領諸鎮軍、威天下。於是以述為睦王、領嶺南節度、逾郴王・渭北鄜坊節度、迥韓王・汴宋節度、造忻王・昭義節度、皆為大使。連為恩王、遘鄜王、暹韶王、遇端王、遹循王、通恭王、逵原王、逸雅王、並開府儀同三司、然不出閤。 徳宗建中初、周天下訪太后所在、述於諸王最長、故拜奉迎太后使、以工部尚書喬琳副之。貞元七年()に薨去した。 丹王李逾は、始め郴に王となり、建中四年(783)、簡王とともに同時に徙封された。元和十五年(820)に薨去した。 恩王李連は、元和十二年(817)に薨去した。 韓王李迥は、始め延慶郡に王となり、以母寵、故與鄭王先徙封。貞元十二年()に薨去した。 簡王李遘は、始め鄜に王となり、簡に徙封された。元和四年(809)に薨去した。 益王李迺は、大暦十四年(779)に始めて王となった。薨去した年が失われている。 隋王李迅は、興元元年(784)に薨去した。 荊王李選は、早く薨去し、建中二年(781)に追って王となった。 蜀王李は、もとの名は遂、大暦十四年(819)に始めて王となり、建中二年(781)に今の名に改めた。 忻王李造は、元和六年(811)に薨去した。 韶王李暹は、貞元十二年(796)に薨去した。 嘉王李運は、貞元十七年(801)に薨去した。 端王李遇は、貞元七年(791)に薨去した。 循王李遹は、薨去した年が失われている。 恭王李通は、薨去した年が失われている。 原王李逵は、大和六年(832)に薨去した。 雅王李逸は、貞元十五年(799)に薨去した。 →巻八十二 列伝第七つづき
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/41.html
501 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 15 41 02 ID dl3IeqrE0 とりあえず後漢~後漢末のまとめ 劉秀 耿弇 馮異 岑彭 呉漢 賈復または馬援 廉范 班超 張奐 虞詡 で、名将の定義から外れる賈復をはずして馬援を入れるかそれとも祭遵かはたまた皇甫崇か、ってトコか。 まぁ10人にこだわらないなら現時点で12名、あとで削るということで、次は三国~東西両晋に本腰入れよう。 502 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 15 51 23 ID FEMw5NZl0 三国から両晋だと曹丕による魏建国から桓温による楚建国まで? 北も含まれるんだよな? 503 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 15 54 41 ID FEMw5NZl0 すまん、桓玄と桓温間違いだ それとも劉裕が宋を立てるまでのが妥当かな? 504 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 00 53 ID 4rQjalG+0 502 曹丕からなら曹操は後漢末に入れる必要があると思うが。 505 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 16 04 46 ID dl3IeqrE0 三国の定義間違えた。俺が言いたい三国は黄巾の乱以降、劉裕の登極まで。だから曹操以後の人物もこっちでやろうということ。 北はもちろん積極的に採用するべきだと思う。劉淵とか石勒とか符堅とか有名人がいっぱいいるし。その部下はなぜかスポットライト浴びてないが。 506 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 05 13 ID biOxFEel0 個人的な三国~東西両晋の名将 賈[言羽] 呂蒙 陸遜 鄧艾 杜預 王導 祖逖 陶侃 桓温 謝安 諸葛亮や曹操といった超メジャーなのは除外しました。 こうして見ると東晋に偏って蜀漢からは一人も出ていないのもアレだが 507 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 16 13 32 ID dl3IeqrE0 賈詡と謝安は直接実戦指揮したことないんでは? まぁ祖逖入ってるのは嬉しいが。 508 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 26 56 ID biOxFEel0 賈[言羽] は曹操を負かした事と計略・処世術の巧みさで入れました。 謝安は東晋を語るのに不可欠の人名なので。 蜀漢から出さなかったのは関羽・張飛・趙雲はイマイチ 軍団長としての功績が少ないのと 演義での過大評価に反発しての事です。 509 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 37 59 ID FEMw5NZl0 506 とりあえず 賈ク・呂蒙・陸遜・王導・杜預・謝安はいらんと思う で、見事に華北の諸政権が抜けているんだが・・・ 505の時代区分に従うと 曹操 鄧艾 陶侃 祖逖 劉淵or劉聡 石勒 王猛 謝艾 慕容恪 慕容垂 なんてどうかな? 桓温は個人的には入れたかったが・・・ 俗に言う五胡の人物が多いのは当時の軍事バランス的にこうなってしまった 叩き台にでもしてください 510 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 16 41 45 ID dl3IeqrE0 とりあえず10人挙げるとしたら・・・ 曹操 鄧艾 王濬 陳騫 陶侃 祖逖 謝玄 符堅 王猛 姚萇 って感じか。最初の一回で10人ピタリ、とはなかなかいかんな。あと5人ぐらい枠が欲しい。 511 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 17 03 03 ID biOxFEel0 509 三国~東西両晋なので五胡は除外してました。 やはり五胡だと石勒・王猛・符堅は外せませんな。 (王猛は漢人なので五胡に入るのかという疑問もあるだろうが) 512 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 17 17 44 ID FEMw5NZl0 王猛の功績をどこまで符堅に還元するかで・・・ 513 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 17 37 07 ID WAbQww+dO 後漢時代の選定作業はもう終了? 514 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 13 39 ID biOxFEel0 次は隋唐時代かな。 とは言え唐初の李世民とその配下だけで終わりそうな予感。 515 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 19 43 ID y4u+z/tU0 周瑜は赤壁だけでなく江東の平定や対曹仁戦の 自勢力の圧倒的不利さを覆して勝利してる点と作戦立案能力の高さを考えるに 入れてもいいような気がするが 石虎と冉閔は画竜点睛を欠いてるから駄目なのかな? あと慕容恪と慕容垂の兄弟は? 516 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 22 48 ID y4u+z/tU0 あと劉曜も・・・とかキリが無くなっちゃうんだけどな>魏晋南北朝 国が多すぎるし、メチャクチャ戦争多いし 517 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 49 30 ID ecjL7l990 なんかごちゃごちゃしてきたな 518 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 19 14 44 ID conRNdMT0 なんか皆勝手に話し始めたな 519 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 21 37 21 ID ecjL7l990 まずは、この近辺の時代区分をはっきりさせておかない? 520 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 21 49 23 ID slDBWaKb0 510 陳騫ってどんな功績があるの? 西晋から入れるなら、馬隆を入れたほうが良いと思う。 五胡の武将たちには及ばないと思うが。 521 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 22 23 50 ID wk2tD9hP0 冒頓単于 522 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 22 54 50 ID am/47zc60 陳騫は西晋初期の将軍。鄧艾と一緒でもとは内政で評価されてたんだけど、蜀漢軍の侵攻への対処、 諸葛瞻らの叛乱(彼等にとっては義起)平定に将軍代行として功績を立て、その後も各地の都督を歴任した。 で、曹魏を廃して司馬炎を擁立、佐命の勲により大司馬に任命された・・・けど西晋成立後は確かにあんまり活躍してないね。外して劉淵入れたほうがいいかも。 あと時代区分だけど、この次は南朝、北朝で別々に十選するのがいいと思う。北朝なんて随の成立まで続くわけだし。 で、その後は隋、隋末唐初、盛唐、晩唐、でいいんじゃないかな? 523 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 08 41 ID slDBWaKb0 東晋初期に江南平定で活躍した周訪は? 「中興名将」と謳われたほどの武勲を立てているんだが。 あと、劉宋の檀道済。智勇兼備の名将。 北伐で三十連勝という凄まじい勝ちっぷり。 524 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 15 05 ID p7UzE4K40 西晋と五胡を混ぜるのは反対。 五胡十六国時代は中国史で異質なくらい国が分裂して、戦争に明け暮れた時代であるし 永嘉の乱によって、一度漢族主体の歴史が途絶えてる。 極端な言い方をすれば、それ以降は文明が違う。(異民族もだんだんに漢族化しては行くが・・・) 同一で語るべきでは無いと思う。 525 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 19 16 ID /yzWTkFN0 西晋を古代の、つまり漢民族主体の国家の時代、の終わりと見るか。 魏から、呉による江南の開発を含めて、新たなる混乱の時代の始まりと見るか。 526 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 22 29 ID WAbQww+dO 時代区分で言うと三国時代からが中世だよね? 527 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 42 46 ID rrmLpBOP0 523 魏晋南北朝期の江南の名将は、陸遜、祖逖、桓温、劉裕で決まりじゃない? 檀道済や陳慶之には悪いが(檀道済には本当に悪いとは思うが)、さすがにこの4名は 武勲戦功、各種エピソードで他の追随を許さないと思う。 陸抗や陶侃、謝玄も惜しいんだけどね・・・・。 524 魏晋南北朝ひとまとめでいいよ、別に。 あの閉塞感やごった煮感がいいんじゃないか。 528 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 44 27 ID y4u+z/tU0 陸遜はどうかな? 魏の領土を切り取ったとかがあったら陸遜を推すんだけど 529 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 46 44 ID slDBWaKb0 陸遜は対魏戦線では今ひとつだったので、 加えなくてもいいように思う。 530 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 00 14 45 ID moC68kyeO 陸遜が入って陳慶之入らんってネタかよw 531 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 00 58 11 ID DVmHNlgl0 530 陸遜の功績って思いっきり時代の分水嶺を決していないか? 三国鼎立の趨勢を決した人物が、北魏皇族の露払い如きと比べられるか? と言うのは冗談だが、 陸遜のときの魏と、陳慶之のときの北魏じゃ国内問題に雲泥の差が 陳慶之と同じ条件だったら、一体どれほどの武将が北伐を成功させられたか…… 派手な戦功の割りに領土を保持し切れなかったのは大きな減点対象だよ。 劉裕>檀道済>陳慶之って感じかな。 532 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 01 00 42 ID c3npL07W0 531 もともと領土を保持するだけの兵力持ってなかったし。 533 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/08(金) 01 26 15 ID iFfrKRC9O 劉裕もすぐに赫連勃勃に華北の領土を奪われてるけどね。 534 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/08(金) 22 36 28 ID jAIpQJnD0 陳慶之って本当に名将かな? 田中芳樹ですら、名将百選の時知らなかった人物なのに 535 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 22 54 51 ID C9QZrGM80 534 その時代の梁では屈指の名将。 大敗もしているが、それを補って余りあるほどの武勲を立てている。 田中芳樹の中国史の知識は偏ってるので、 あまり気にしないほうがいい。 536 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 23 22 12 ID x0jhMPbL0 531 五胡襲来のときに、そういうチャンスはあったろうけど、北伐して功績あげたのって数えるほどでしょ。 陳慶之は戦術上での無謀な戦いを制しているので、その点での名将。 能動的に戦略条件を決定できる劉裕とでは、比べるのは酷じゃないか? 537 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 12 41 39 ID CRZmokf7O 桓温は劉裕と比べると一歩劣る感じがするんだよね。 やっぱり慕容垂に大敗したのが痛い所。 538 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 19 39 27 ID UBuf8yZo0 先日曹操の台頭から劉裕の登極までを一時代と区切ったものだがその時代区分での十選。 曹操 周瑜 鄧艾 王濬 祖逖 謝玄 石勒 符堅 王猛 劉曜 あたりで確定していいんじゃない? 陶侃は対外戦してないので泣く泣く外して周瑜に代えた。 あと符堅の用兵は半分方王猛の功績って感じするから外してもいいかも。 そろそろ確定して南北朝に入ろうや。すでに檀道済とか陳慶之とか名前がて出来てることだし。 539 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 20 00 50 ID B0SeOPZF0 新・後漢は名将0人ってこと? 540 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 20 02 28 ID UBuf8yZo0 新・後漢は暫定で10人出したよ? 耿弇やら呉漢やら。 541 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 15 22 ID 1LqH3oVt0 慕容垂は? 542 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 21 50 ID /VGOq0ss0 538 周瑜は戦績不足、符堅の用兵は王猛の功績が半分はあると思う。 戦績の多さで陶侃を入れた方がいいんじゃないだろうか。 543 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 24 37 ID Z9l2ZeQa0 538 苻堅は君主的側面が強いから、あえて外しても構わないと思う。 代わりに慕容垂をランクインさせた方が良くない? 544 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 27 08 ID tRmOzWCH0 542 戦績不足といっても10年くらいはあるし、三国鼎立がなった一番の立役者。 三国時代から引っ張るなら曹操と周瑜は確定でいいと思う。 545 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 27 29 ID /VGOq0ss0 あと、西晋からは馬隆を入れてはどうだろうか。 546 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 21 49 13 ID TMdkxF+G0 符堅を慕容垂に代えるのはOKとして、馬隆入れるとしたら誰かな? 一発屋感の強い謝玄か? でも6万で100万に勝っちゃってるしなぁ。状況に助けられたとはいえ。 547 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 05 19 ID 1LqH3oVt0 でもさ、慕容恪も入ってもいいよね・・・ 548 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 07 30 ID Z9l2ZeQa0 馬隆あたりが入るんなら、もっと他にふさわしい武将がいるけど 陶侃(江南平定戦における戦歴は文句なし、対後趙戦に参加できなかったのが残念) 慕容恪(寡兵で大軍を破る名将、段遼、麻秋、桓温等常に劣勢の戦をひっくり返した) 謝艾(東晋十六国時代最高の逆境武将、中原を制していた後趙を幾度と無く撃退した) しかし、このあたりの武将も10傑選ぶとなると間違いなく選外だからなあ 劉曜を落として、桓温入れないか? 謝玄よか実績、実力とも確実に上のはずなんだが 549 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 22 33 24 ID TMdkxF+G0 当時の慕容氏は名将揃いだから全部入れるわけにもいかんしな、 慕容氏代表・慕容垂に絞っていいと思う。 あと桓温で劉曜落とせるかなぁ。劉曜は当時最強クラスの用兵家だと思うんだが。 慕容氏と同じで劉淵、劉聡から続く劉氏代表だし。 ・・・符堅を慕容垂に、謝玄を桓温に代えるってのはどうか? 550 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 43 50 ID 1LqH3oVt0 桓温って慕容垂に負けてなかったか? 551 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 22 51 20 ID l/nppOi20 この時代は無理に10人に絞らなくても良いんじゃないか? 552 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 22 54 25 ID TMdkxF+G0 それ言うと謝玄が慕容垂に勝てたかってことでまた議論に・・・。 553 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 56 37 ID KEDMqu3x0 このスレは伸びるなあ。 554 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 02 56 ID CRZmokf7O 今の日本でもよく使われる「断腸」と「竹馬の友」のエピソードは桓温に関するものなんだよね。 555 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 16 18 ID TMdkxF+G0 確かに桓温は魅力的なエピソードが多いんだよな。「芳を百世に流すことあたわずば、また臭を万年に遺すべし」とか。 王猛には鼻も引っ掛けられなかったが、偏屈者の謝安が腰を上げたぐらいだからそれなりに人間的魅力もあったんだと思う。 とりあえず前述のリストから謝玄→桓温、符堅→慕容垂に代えて、あとは陶侃、謝艾あたりを候補に残す、でどうかな? 556 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 24 25 ID Z9l2ZeQa0 550 枋頭の戦いは、前秦、前燕、北府軍、桓温等各勢力の思惑が複雑に絡み合った戦だからなあ 慕容垂の軍事手腕が一枚上だったってことだろう 日の出の勢いの北魏拓跋珪ですら、老齢の慕容垂には戦意喪失していたし (前年、参合陂で壊滅した後燕軍で北魏の平城を抜いている) 桓温の名言と言ったら、「臭を万年に遺すべし」 十分芳名遺してるけどね 557 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 29 28 ID TMdkxF+G0 と、言うわけでこの書き込みから10分間意見が出なかったら有無も言わさず南北朝に移行。諸兄OK? 558 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 36 59 ID /VGOq0ss0 曹操 鄧艾 祖逖 謝玄 陶侃 石勒 謝艾 王猛 劉曜 慕容垂 こんな感じでどうだろうか? 559 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 40 34 ID CRZmokf7O 558 自分もそこらへんが妥当な人選だと思う。 560 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 42 30 ID l/nppOi20 石虎 冉閔 も入れたいなあ。 最強にDQNだけど、軍事功績はある。 燕には弱いけど・・・ 561 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 44 36 ID TMdkxF+G0 周瑜が落ちるか。まぁ短命だから仕方ない。 では、いよいよ南北朝といこうか。 とりあえず劉裕、檀道済、陳慶之あたりは確実と思うので、個人的に南斉の周盤龍、梁の蘭欽を推す。 562 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 49 43 ID Z9l2ZeQa0 陶侃、謝艾、謝玄あたりは保留しといた方がいいかも 周瑜落とすのは反対、魏の天下統一を挫いて三国時代の可能性を開いた 功績は、間違いなく100傑に載るよ 孫策時代に小部隊の指揮官も経験しているし、万対万の大規模会戦の司令官も やってのけてるし、軍事的才能は文句なしじゃないか? 563 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 52 18 ID TMdkxF+G0 まだ議論が続くか。南北朝突入は控えたほうがいいかな。 564 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 58 42 ID 1LqH3oVt0 俺も周瑜賛成 南朝軍事ルートの走りだと思うし 565 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 58 42 ID zQF517ay0 意外に後漢・三国は淡白だったな。 そこで… よければ陶侃、謝艾がどういう人物か教えてくれまいか? 566 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 00 11 23 ID 8O4+hPsk0 韋叡も入れたらいいんじゃないか? 合肥攻略と鍾離の戦いでの功績は大きい。 ところで王僧弁と陳覇先はどっちが上なんだろうか。 567 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 00 12 02 ID 8O4+hPsk0 あ、まだ終わってなかったのか。失敬。 568 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 00 12 15 ID skKZj6Kv0 最後に勝った分、陳覇先? 569 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 00 18 45 ID nF6R36+K0 565 謝艾は前涼の主簿であったが、大抜擢を受けて中塁将軍にのぼり 後趙の涼州侵攻を幾度と無く撃退した名将 書生風の格好で戦場指揮を取っていたため、敵将から過分に罵られることもあった (田中芳樹が好みそうな人物だが、どうやら眼中に入らなかったらしい) 345年 対麻秋(後趙?:謝艾5000)で快勝、5000の首級を挙げる活躍を見せる 346年 対麻秋(後趙80000+20000:謝艾30000)、奇策を用いて撃破、捕虜13000を収める 346年 対石寧(後趙120000:謝艾20000)、戦線膠着 346年 対麻秋(後趙120000+20000:謝艾20000)、後趙軍を壊走させる 石虎を「中原の総力を注いで、謝艾のいる一城を落とせないとはッ!」と歎息させた 570 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 00 20 46 ID 0wcqgl3O0 王僧辦も陳覇先も100傑には届かんだろ。 凡将が運よく宇宙大将軍を倒して、チョーシこいて梁を簒奪、ついでにライバルを殺した、程度。 陳の名将っつったら呉明徹と魯広達ぐらいしか思い浮かばんが、この二人とも当世ベスト10には入らんわな。 571 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 01 40 57 ID x0XvmRVNO 陳覇先は有力な候補だと思うんだけど… 572 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 02 10 02 ID J3AyhBvq0 これまでの時代も、確定と候補で10人越えていたから、そのあたりもノミネートに 入れておいていいと思うけどね。 573 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 02 56 08 ID zoAucpa8O 572 まあ、各時代で10人選んでくっつけて終わりというのはそれはそれで手抜きですので…… ある程度は自由度がないと困ります(まあ確定枠もある程度ないと困るが) 574 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 12 18 18 ID 2q8ivaO30 南北朝時代に入ってもそろそろ好いでしょ? 【東魏(北斉)】 高歓 慕容紹宗 宇宙大将軍 斛律光 【西魏(北周)】 宇文泰 趙貴 侯莫陳崇 宇文ヨウ うーん、南朝勢を入れるとすると、もっと絞られそうだな まあ、高歓と宇文泰と宇宙大将軍は確定だろう 575 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 12 20 17 ID KoP8pIyD0 祖逖を破った石虎は入れてもいいんじゃないか?あと桓温。 候補にはしてもいいと思う 576 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 12 29 18 ID skKZj6Kv0 574 異論なし 個人的には慕容紹宗・斛律光も確定選手 575 だが石虎は劉曜に敗れてる。いや、最終的に劉曜を破ったのも石虎だが 慕容恪にも負けてるんだよねー。この時代、勝って負けてを繰り返しすぎ 577 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 14 02 01 ID zvymb6hp0 間羽は入らないの? 578 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 14 07 08 ID ROzl+g7W0 574 もうちょっと魏晋十六国煮詰めようぜ さすがにセッカチすぎるだろ 後、宇宙大将軍は入らないだろう 579 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 14 09 01 ID x0XvmRVNO 宇宙大将軍は百選に入るかなぁ… 梟雄百選とかだったら入りそうだけど。 580 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 15 18 07 ID vxB1Eo470 宇宙大将軍のテーマ 空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ 聞こえるか聞こえるだろおお あの声が 進め 進め 朱忌を倒せ(「ブラインド ラァーイズ!」) 戦え 戦え 目指すは建康(「インペリアル ニルヴァーナ!」) ああ どこへ行くのか 大将軍 侯景 宇宙大将軍 侯万景 581 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 15 30 02 ID skKZj6Kv0 宇宙大将軍は戦績は悪くないぞ 582 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 15 51 12 ID EDwqZGqS0 魏晋~五胡十六国 【確定組】 曹操 鄧艾 石勒 祖逖 王猛 【内定組】 周瑜 劉曜 慕容垂 【論争中】 陶侃 (内乱鎮圧戦がメインで、対外戦の戦歴が少ない) 石虎 (天王に就いてからの戦歴が振るわない) 謝艾 (純粋に知名度が低い) 慕容恪(弟慕容垂と票の喰い合いを演じている、活躍期間が短い) 桓温 (論争中組の中では、内定組昇格が一番近いんじゃなかろうか?) 謝玄 (一発屋感が強すぎる、実際は北府軍の司令官としては優秀な戦績を収めている) 14名、とりあえず論争中ってことで保留にした方が良くないか? しかし、三国志の時代にもかかわらず、3名しかノミネートしないとは 結構、両晋~五胡十六国好きって多いんだな 583 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 16 56 53 ID BrtLRGfA0 569 さ~んくす! カコイイねぇ謝艾。 戦乱群雄割拠期には、そういうヤツラが増殖するからおもしろい。 現実にその時代に行けと言われたら躊躇するけど… でもこのスレは張遼あたりも削る競争率の高さだから、選抜がかなり難しいね。 戦乱初期~中期って、得てしてドングリの乱立となるから、甲乙つけがたくなるし。 584 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 19 09 54 ID m7tQMEuP0 ところで、赫連勃勃はこの時代区分? それとも南北朝? 585 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 19 12 44 ID x0XvmRVNO 南北朝時代は北魏による華北統一からだと思うから、 赫連勃勃は五胡の人物になるんじゃないかな? 586 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 21 28 58 ID EDwqZGqS0 584 赫連勃勃は各種エピソードが豊富な匈奴系君主だが、名将とは絶対違うと思うぞ 1 劉義真が居座る長安を奇襲し、東晋から関中奪取 2 長安に遷都すれば、匈奴の精悍さが失われる上、北魏への対応が遅れることから統万城に都を置く 3 統万城建設時の残酷かつ余りにも軍事独裁的エピソード 4 匈奴としての民族的アイデンテティを保持するために、漢人風の劉姓を捨て、赫連姓を名乗る ……うーん、有能な暴君とも言うべき人物だな 587 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 21 48 09 ID Eu0OEe370 石虎は石勒とセットでいいでしょ。あと冉閔も。 588 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 22 50 33 ID skKZj6Kv0 エー…… 589 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 02 57 11 ID GHO+KWdG0 謝玄て淝水の活躍以外知らない・・・。他に功績あったら教えてくれ 590 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 06 14 43 ID JzubPJv/0 589 その後北伐を行ったが中央政界との連携がうまくいかず全然成果あげれないんじゃなかったかな 581 確かに有能な将軍ではあるけど慕容紹宗に惨敗してるし最後もあまりよくないな 百選には入らないだろう おれには 574は宇宙大将軍と書きたかっただけじゃないのかと疑ってしまうんだが穿ちすぎかな? 後、慕容垂を慕容氏代表として慕容恪を外すって意見出てたがそりゃないだろ 苻堅の功績の半ばは王猛によるってことで苻堅外すのは納得いくが 慕容垂と慕容恪では活躍した時期も別なんだから別々に評価すべきじゃないか? 純粋に軍事能力重視のこのスレではむしろ両雄ランクインに値すると思うが 591 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 10 49 16 ID GHO+KWdG0 590 やはり謝玄は他に功績はないのか・・・。まあ淝水だけでも十分たいしたものでは あるんだが。 同じように中央の支援を得られない状況で石勒を破るなど ある程度北伐を成功させた祖逖と同格にしてはまずいか? 慕容恪はおれも入れたい。 王猛や桓温すら憚ったというから、相当なもんだと思う 592 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 12 53 54 ID ooB6+IbLO 宇宙大将軍は迷将として不動の2ch枠を確保してる 593 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/11(月) 13 02 36 ID XL7bbA22O 三国志・楚漢以外で宇宙大将軍ほど人気のある人物も珍しい 594 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 14 07 15 ID LYoVT4/r0 591 赤壁だけの功績で周瑜が入るんなら、 謝玄が入ってもいいような。 前秦の天下討伐を防ぎ、その勢力を瓦解させ、 国難を救った功績は極めて大きい。 595 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 14 28 21 ID JzubPJv/0 594 俺としてはどちらも外していいと思うよ やっぱ戦歴を重視すべきじゃないか? それに前秦の南征は内部にかなりの問題を内包していた 功の全てを謝玄に還元するのはどうもなぁ 後、天下討伐はおかしいと思う・・・揚げ足取りスマソ 596 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 16 41 08 ID 6+SyKkMX0 謝玄って北府軍の都督でしたっけ? その偉名だけでも十分名将なんだけど、ここでは入れてもらえませんか。 597 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 01 01 ID JzubPJv/0 596 謝玄が名将ではないとは言わないがここは「百選」するスレ 功績が候補の十人に満たなければ外れる で北府軍の都督の偉名で名将? 当時の政界の実力者は誰だかわかってるか? 別に才覚だけでその地位を得たものではないよ 598 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 03 48 ID 6+SyKkMX0 ああ、そうか謝安の親戚だっけか。 それにしても選抜が難しいなぁ。 今のうちに候補絞っとくかね… 599 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 12 25 ID XL7bbA22O 596 それだと殷浩も名将だということに… 600 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 12 41 ID JzubPJv/0 598 甥だね まあ、北府の兵ってのは中原からの流れもので編成された軍で扱いにくい軍隊だった その統括者はやはり優れた人物を当てたって背景はあるから優秀であったのは疑いない でも候補が多すぎるから外すのも止むを得ないかなってのが俺の意見 601 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 20 13 ID 4L0h5FLQ0 淝水の戦いは前秦軍が自滅したようなものだから、 謝玄の果たした役割はそれほど大きくなかったと思われ。 ちなみに経過 謝玄が符堅に使者を送って、 「渡河してから決戦したいので後退してくれ」と要請した。 ↓ 符堅は渡河の途中に攻撃しようと考え、謝玄の要求を受諾。 ↓ 前秦軍後退 ↓ 後方にいた秦将朱序が裏切って、 「秦軍の負けだ!退却だ!」と叫んで、 浮き足立った前秦軍総崩れ。 ↓ 符堅、事態を収拾できず敗北。 602 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 26 19 ID 6+SyKkMX0 いろいろ気持ちよくこの時代の選抜を眺めていたけど 自分は、東晋って謝玄と桓温くらいしか軍事功績のある人って知らなかったもんだから… 教えてくれてありがとう。 ああ、それと 601さん、符堅ではなく、苻堅。 頭でわかっていても変換で間違えることはよくあること。 603 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/11(月) 22 11 29 ID W9j958WR0 忘れてた人物が何人か。 姚萇(後秦の太祖。知略に富み用兵に優れ、為政者としても優れていた) 李雄(成都を取って独立、成漢を建てる。名将というよりは政治家か?) 皇甫真(石勒の将麻秋を破り、のち苻堅に仕えて王猛にその才覚を認められた) ・・・皇甫真は謝艾にかぶるかな。あと俺、苻堅のことずっと符堅だと思ってた。602さんありがとう。 604 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/12(火) 01 00 47 ID 0zMD3Oil0 あんまりレスがなくてヒマなんで、 時代すっ飛ばして南北朝10選(趣味的偏りあり)をやってみる。 劉宋 劉裕 檀道済 南斉 周盤龍 梁 韋叡 陳慶之 北魏 拓跋珪 元英 東魏→北斉 高歓 西魏→北周 宇文泰 10人目は微妙。他の時代なら楽々10選入りする名将がごろごろいるから。 劉宋の柳元景、梁の蘭欽、北魏の奚斤に楊大眼、 北斉の斛律光に慕容紹宗、北周の宇文護、韋叔裕、李弼あたりが有力候補か。 しかし田中氏はどうして蕭摩訶なんぞ入れたのだろう? 武芸だけなら確かにすごいが、 所詮は一介の匹夫だぞ。まぁこいつと喧嘩しろって言われたら速攻逃げるが。 605 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 06 18 40 ID vFglOZY90 603 姚萇は優秀な一族・配下に支えられた感が強いんだがどうだろう? 西燕討伐も失敗して逃げてるし、特に苻登には相当押されてる もし後秦から一人ならむしろ尹緯のほうがこのスレには相応しく思う とりあえずレスも停滞気味だし 582のまとめてくれたのに 603を足して候補としておいて次いくか? 604が叩き台出してくれてるしな 604 意義ありなのは北魏の元英かな ちょっと敗戦が多いのが気になる 慕容紹宗はぜひランクインさせたいが最後がやや問題か? 斛律光・韋叔裕はランクイン確定じゃないかと思う 浅学にて南斉の周盤龍とはどういう人物か知らなかった よければ教えて頂けない? 俺もこの時代の候補者候補を少々 段韶 (斛律光とともに北斉の軍事を支えた名将) 高長恭 (名将てか猛将・勇将の類か?) 爾朱栄 (六鎮の乱を平定した立役者。宇文泰・高歓らを配下に持った) 王勇 (気は衆軍を覆い、当たるところ必ず破ったと称えられた名将) とりあえずこんなとこで 感想として北周はほんと名将・豪傑ぞろいだなw 606 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 06 27 44 ID rX0WVB7w0 蘭陵王は名前先行のような気がするなぁ 北斉からは斛律光で充分じゃないかな? 607 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 06 29 02 ID rX0WVB7w0 あと宇文ヨウは? 608 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/12(火) 08 58 40 ID PyiTXq1P0 周盤龍(415-483) 名将というより猛将タイプだが、一応。 内乱平定にはじまり常に劉宋軍の先鋒をつとめる。 袁粲の乱、沈攸之の乱を平定。 蕭道成が即位すると右将軍に任命された。 建元二年、北魏の軍が寿春を犯すと豫州刺史垣崇之を助け、 淝水を決壊させて魏軍を水攻め、勢いに乗って自ら数万人を殲滅した。 翌年魏軍が今度は淮陽の角城を侵すと水軍を率いて鐘離に急行、 守将成賈とともに奮戦して首級を挙げること無数。 建元~永明間にまた北魏の軍と戦い、息子奉叔とともに数百の兵を率いて 北魏の陣を陥とし、数万の魏軍を壊走させた。 で、いろいろと官職を歴任し大司馬にまでなって没。安北将軍・兗州刺史を追贈された。 ・・・この人の一番の幸運は東昏侯の時代になる前に死んだことだと思う。 609 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 09 00 26 ID egH895fJ0 北魏の太武帝 華北を統一し、北では柔然を大破して南では宋軍を破って 建康の対岸まで達した ところで、謝玄は結局外すのか? 610 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 12 06 42 ID hcVR21sn0 一応候補に残しておいてもいいんじゃない? 後日選定するときに、周瑜が外れるなら謝玄も外してもいい。 611 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 19 43 15 ID oWh11wKW0 関羽 612 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 14 19 45 ID 86gaI/hsO 劉宋の沈慶之とかどうかな? よく陳慶之と間違えそうになるけど… 613 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 17 33 21 ID 32jItVt50 マイナーな時代に差し掛かるとやはりレスが止まってくるな 614 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 19 08 53 ID Y6cnPBap0 無理やりメジャー級を外してマイナー級の香具師をランク入りさせる流れもあるしね。 615 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 20 35 47 ID LhA0cvse0 田中叔父貴のを叩き台にすればいいんじゃない 616 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 20 40 06 ID dMv/OWJiO 流れ止まってないとおもうが? 617 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 20 59 14 ID t0ZKyM3l0 613 喧嘩売ってんのか? 618 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 21 07 30 ID zWYaredh0 617 買うほどの懐もないのと違う? 619 L sage 2006/12/13(水) 21 48 38 ID tPaF27TZ0 彭德懷 620 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 22 20 10 ID LhA0cvse0 [皇帝]康熙帝 [丞相]文天昇 [大将軍]関羽 [武将]郭去病 樂木 劉其 陳慶子 岳飛 趙普 戚継光 李靖 将蚊 郭子儀 621 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 22 29 03 ID zWYaredh0 さぁ誤爆と言え 622 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 22 42 37 ID FeAJWbz70 田中氏のヤツだと南北朝からは 檀道済 韋叡 楊大眼 斛律光 蘭陵王 蕭摩訶 の6人。君主・皇帝を含まないからかなり余りが出来るけど、このスレではそうもいかんでしょ。 623 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 23 38 39 ID lWzXBBiD0 芳樹は「沈光とか入れたいんですけど彼はドッチかっていうと豪傑ですから」と言いつつ 楊大眼や蕭摩訶みたいな明らかな豪傑型を(殆ど無意識のうちに)入れる辺り そういうタイプが好きで好きでしょうがないんだろう 後は極度にエピソード重視のきらいがあって、名将っぽい面白エピソードがあるとランクインしやすい 624 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 23 42 25 ID 86gaI/hsO このスレでは一言も触れられなかったトウ禹を、何故かランクインさせたぐらいだからね 625 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 23 47 15 ID HcPmIKUo0 楊大眼はまぁわかる。10万人単位の指揮統率をこなしてるから。 でも蕭摩訶はなぁ。どっちかっつーとPRIDEとかK―1とかに出た方がよさそうな。 まぁ猛将タイプの周盤龍をランクインさせた俺が言うのもなんだが。 626 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 00 10 51 ID vl/vrafc0 沈光は兵を統率したことがないから外したと書いてる。 鄧禹は、絶対ミーハー根性でランキングさせている。 20代で大司徒だっけ? それと二十八将の筆頭だからに違いない。 627 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 00 30 33 ID aF5NXM0W0 周盤龍に代えて陳顕達にしてもいいかも知れん。 しばしば北伐して元英相手に連戦連勝。威名は北魏の将兵の間に轟いた。 ただ、無名の匹夫に殺されて死んだってのがマイナスか。 628 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 00 35 03 ID aF5NXM0W0 訂正 殺されて死んだ→殺された。 629 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 20 13 46 ID pFIeQLXuO もう十人出てないか?>南北朝 630 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 20 27 49 ID hmZQXnui0 いい加減、南北朝終えて隋唐時代に話題変えないか? 631 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 21 29 26 ID csIEmg5a0 じゃあ隋唐 隋初 韓擒虎 賀若弼 達奚長儒 隋末 張須陀 李密 竇建徳 唐初 劉文静 李孝恭 李靖 李勣 とりあえずこんなもんで。 後漢からずっとおれが叩き台だしてるわけだが、たまには誰か代わってくれ 632 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 21 35 45 ID csIEmg5a0 李世民入れるの忘れた。劉文静と入れ替えってことで。 633 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 21 49 01 ID csIEmg5a0 南北朝については 劉宋 劉裕 檀道済 南斉 周盤龍or陳顕達 梁 韋叡 陳慶之 北魏 拓跋珪 で、元英を削って 北斉 高歓 斛律光 北周 宇文泰 韋叔裕 で確定OK? 634 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 22 53 15 ID BH8sXoL40 うーむ、南北朝時代はもうちょっと吟味した方がいいと思う 何しろ、陳慶之の北伐は、東晋時代の祖逖、桓温、劉裕の北伐と比較すれば 祖逖:河南の諸郡県を東晋側に寝返らせる、乞活集団を自軍団に取り込み強大化 桓温:姚襄を破り洛陽奪回、およそ10年間にわたって河南を東晋の領土として維持した 劉裕:山東半島、河南、関中を攻略、六朝最大の版図を築いた やはり、北伐としての質が一段下がると思うけどね 寡兵の北伐では祖逖に劣るし(何より祖逖は東晋政権中枢からの掩護がほとんどなかった) 戦果では桓温、劉裕には及ばないわけだから 南朝の武将を削ってでも、北斉、北周の武将は拡充させるべきだと思うけどなあ 慕容紹宗(北斉)と于謹(北周)は是非ランクインさせたい 特に于謹の江陵攻略がその後の南北朝情勢に与えた影響は計り知れないぞ 635 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 23 16 29 ID vl/vrafc0 631 いつも乙です。 唐中期 郭子儀 李光弼 顔真卿 張巡 あと、異例ながら 安録山 史思明 憲宗・李純 636 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 23 36 58 ID csIEmg5a0 南朝の武将を削るとしたらやっぱ、真っ先に周盤龍か? 個人的に大好きなんだけどな、周盤龍。 でものちの隋唐帝国の基礎を築いた名将とは比較できんか。 周盤龍削って于謹入れるとして、慕容紹宗と陳慶之はどうだろう? 陳のほうが武勲多いと思うが。 宇宙大将軍を南に追い立てて南朝を潰滅させたっていうのも 慕容の計算どおりだったら空恐ろしいけどな。 637 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 23 49 01 ID 6X7OckRB0 まとめ 神話~春秋戦国 347 秦・前漢 418 新~後漢 501 魏晋~五胡十六国 582(候補者に+ 603) (ここまでは決定or保留) 南北朝(議論終盤) 隋唐(叩き台は 631) 五代十国宋遼金 元 明 清(後金含む) 尚、考慮する武将は、 中国式の王朝名・元号を用いて、所謂中国本土に存在した政権に所属する武将とする。 638 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 00 09 52 ID ElXf7rNg0 周亞夫イラネと思うが、取り敢えず一巡してからにしよう 慕容紹宗と陳慶之は取り敢えず両方入れておいたら? 639 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 02 29 03 ID HBapRhcR0 __ /;;;;;;;;;;;;;\ /;; \ ∈=━/,,;; .;ヽ━=∋ L ;;,__ .. ゝ //;;;; .. ̄ ̄ ̄ ̄.. ;;;ヽ / ;;;;;;;; ;;;;;;;;;;;;; ;;;;; ヽ /j/三三三三三三三三三三ヾ l || |l / ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| r┤ ト \___/ || / \_/ ヽ . \/ ,ノ | _( ̄ l―---oo-―― "ヽ__ | _)_ノヽ\ ハ // / ヽ ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ 朕の活躍した時代から以下の十名を推薦する。 諸君ら、よく議論をするように。 元朝 脱脱 元朝 拡廓帖木児 大宋 毛貴 大明 徐達 大明 常遇春 偽漢 趙普勝 偽漢 張定辺 偽呉 張士徳 偽呉 呂珍 偽夏 戴寿 640 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 02 50 44 ID 2AsaXJ4u0 元末明初か。 だったら朱元璋自身も入るんじゃないかな? ついでに唐の太宗以降~五代初期を出してみる。 薛仁貴 劉仁軌 裴行倹 高仙芝 郭子儀 李光弼 顔真卿 張巡 王式 黄巣 朱温 李克用 あと候補として李晟、安録山とか。薛仁貴の息子の薛訥なんかも結構活躍してる。 安録山は結構用兵上手いんだよね、意外にもって感じだが。 黄巣は朝廷にとっては死神だったが民衆からは結構支持されてるから入れた。竇建徳と並ぶ中国二大義賊って感じか。 641 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 02 57 03 ID /cSZNafN0 史思明もいれてくれ。 河朔三鎮の割拠を決定的にした、安陽の大勝利をもたらしたから。 唐軍は郭子儀が率いていたにも関わらず大敗し、権威の失墜と軍団の瓦解とで、息の根止められる寸前だった。 史思明が安録山と同じ末路を辿らなければ、憲宗の中興も本来ありえなかったわけで。 さらに唐末なら、高駢、諸葛爽も候補としよう。 華麗な戦術はないけど、兵士に慕われた楊復光もいけると思う。 642 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 03 07 38 ID kvazzbFB0 47戦全勝、32城を落とし、洛陽を陥落させる 普通にすげーと思うけどな…陳慶之 宇宙大将軍も撃破してるし 643 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 03 10 36 ID 2AsaXJ4u0 じゃあ朱温と李克用を五代にまわして、余った二枠に入る候補をそれぞれ挙げてみるか? でも五代って結構名将多いんだよなぁ。最後の最後で郭威とか柴栄とか出てくるし。 ところで王彦章は名将だろうか? なんか個人的には猛将然としたイメージが強いんだが。 644 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 03 53 01 ID 2AsaXJ4u0 連投。 隋末唐初ってまさか俺の叩き台で確定? みんなもっと議論しようぜ。そのためのスレなんだから。 645 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 04 05 23 ID LmEchPU60 南北朝で太武帝は入らないかのか?華北を統一した実績では曹操や王猛に 匹敵すると思うが。 646 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 05 12 44 ID 2AsaXJ4u0 道武帝は建国者だから別格扱いだろ。 確かに太武帝は北魏の黄金時代を築いたが、おじいちゃんがいなけりゃまず国そのものがまだ出来てないだろうし。 まぁ、慕容紹宗と一緒に候補として入れとくってことでまぁ我慢してくれ。 647 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 07 35 36 ID vkeQVhwr0 アンカーってどうやってつけんの? ここまできといていまさら聞くのもなんだが。 646 とかやればいいのか? 648 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 07 39 40 ID vkeQVhwr0 自己解決。 なんだ簡単なことだったんだな。 649 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 10 16 48 ID /cSZNafN0 643 朱温、李克用はこの際五代まわしがいいと思う。実際五朝期最初の好敵手なわけだから。 はっきりいって、十人枠で足らないのは五胡も南北朝も五代も一緒ですよ。 どう叩くかが問題ですな。 王彦章は後でも言及するけど、随一の猛将にして戦術にも長けた名将と言えると思う。 呂布が冷静さと遠謀をもった感じ。 644 自分は概ねそれでいいと思う。 隋唐初は認知度高い時期だから、議論がないのはそれでいいってことでは。 ま、李世民を破った薛仁杲とかもいいかなと思うけど、どうも人望がなかったようだし。 ああ、李密を滅ぼした王世充がないけど……いらんか(w 650 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 13 17 10 ID LmEchPU60 李密や竇建徳って百人のなかに入るほどとは思えんが・・・ この二人が入るなら三国の劉備や孫策あたりもってことにならんか? 651 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 14 40 28 ID PbUFYvYc0 いつの間には時代が進んでいるな 652 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 18 05 10 ID njmxgfsr0 650 同意 項羽が「猛将」というくくりで、「名将」に選ばれない基準って、いったいどんな評価基準だよ? 個人武勇ばかりに目が行ってて、肝心の戦歴、勢力の強大さ等、見落としすぎじゃないか まあ、あとでじっくり煮詰めればいいだけだろうけど 653 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 19 49 23 ID r0Tdw8/l0 631 隋初に楊素がいないのは納得できん。 あと、李密と竇建徳は外していいのでは? 654 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 19 58 57 ID 1gq8m8gw0 650 じゃあ竇建徳に代えて代理人の楊義臣を入れるってのはどう? 李密に代える人材は今んトコわからん。保留。 655 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 20 29 42 ID r0Tdw8/l0 654 劉黒闥はどうだろう?唐軍をさんざん苦戦させた闘将。 656 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 20 53 15 ID 1gq8m8gw0 655 「兄貴を殺しやがって」の義憤に燃えて唐の天下統一を三年遅らせたど根性将軍ですな。 しかし兄貴分の竇建徳外すのに劉黒闥はどうだろ? とりあえずこれまでの流れをまとめると、 隋初 韓擒虎 賀若弼 達奚長儒→楊素(ほぼ確定) 隋末 張須陀 竇建徳→楊義臣(?) 李密→劉黒闥(?) 唐初 劉文静 李孝恭 李靖 李勣 こうか。さすがに唐初は不動かな。 657 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 20 58 52 ID 1gq8m8gw0 656 また間違えた。 劉文静→李世民で 658 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 21 58 29 ID /cSZNafN0 李密を下げる必要はないと思うけどな。 自身は八柱国の貴族階級でも、それを背景にせず、無数にある群盗勢力のひとつに身を置き、それこそ曹操を凌ぐ才覚でもって隋朝の動脈を得る位置に割拠し得たわけだから。 当時最強だった張須陀に勝ったという点でもかなり高いレベルの将だったと言えると考える。 ただ、マイナス面があるとすれば、王世充に敗れたこと。 ここは、自身の力量を野心・矜持が上回っていたことが根本にありそうで、ナンバー2として一歩下がっていれば大成もしたかもしれない。 659 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 23 44 39 ID r0Tdw8/l0 656 純軍事的には竇建徳より、 劉黒闥の方が有能なんじゃないか? 竇建徳は用兵より、政策で衆望を集めたイメージがある。 660 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 23 47 51 ID kvazzbFB0 658 李密は武将というより軍師という気が 配下に徐世勣(李勣)とかいたからその分は差し引いてもいいのでは 戦術では張須陀を討ち取ったりしたけど 戦略では長安取り損ねたり、興洛倉にこだわり過ぎたりして失敗している もし楊玄感が李密の策を採っていれば別の歴史があったかも 661 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 00 00 11 ID /cSZNafN0 660 もし楊玄感が李密の策を 一流になり損ねた陳宮みたいなもんか。 それで終わらなかったからすごいわけだけど。 たしかに軍師。 というか、官僚として軍事権を掌握する最高位にいる、という図式がすごく似合う。 李世民のように先陣に身を置くのではなく、帷幄(本陣)にいる感じか… それにしても、自分はあまり李勣を評価してないので(重要なときに負けている。李密敗退のときも逃げ出したっけ) その分、李密をヨイショするのかもしれん。 662 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 00 04 26 ID LNtR5yVA0 660 李密は策が多いわりに陣頭指揮を好む武将だったので、 配下に徐世勣が居た分は差し引かなくても良いかと。 徐世勣とは途中から別行動をとっているし。 663 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 11 00 05 ID kz89ZwRj0 李密は混乱期に良く出る梟雄タイプの人間で、名将って感じでは無いような・・・。 664 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 11 15 48 ID dy0wg8hL0 すまん、高句麗(満州地方)は隋唐時代に入るんかね? 入るとしたら、淵蓋蘇文もノミニーしたいなあ 李世民に屈辱を味わわせた数少ないひとりだと思うんだが 665 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 12 03 25 ID lrR0tlsm0 663 たしかに梟雄だね。 そいつがいたから、次に統一できるヤツが出る。 というのがセオリーというかデフォというかだもんね。 唐時代を前後に分割するのであれば入るだろうし、分割しないのであれば残念だけど外すか。 666 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 15 25 35 ID dy0wg8hL0 隋末~中唐までの枠は15人くらいに広げないと納まらんかもね 世界帝国突厥との覇権争い、高句麗征伐とかなり戦争地域が拡大しているし まあ、100選だから最終選考で振るえば良いだけのような気もするけど 賀若弼(隋) 楊素(隋) 楊義臣(隋) 李世民(初唐) 李孝恭(初唐) 李靖(隋~初唐) 李勣(魏~初唐) 薛仁貴(初唐) 郭子儀(盛唐) 10傑漏れ? 韓擒虎(隋)→匹夫の勇? 戦略面での才覚が不明 張須陀(隋)→敗死がやはりマイナスか 叛乱軍相手には無敵だったが、正規軍相手には? 李密(魏) →器用貧乏 隋末最大勢力を築くも崩壊が早すぎた 竇建徳(夏)→名将と言うよりも、仁政家? 劉黒闥(夏)→突厥と結び山東勢力を結集して、徒手空拳の身で唐への対抗勢力を築いたのには驚嘆に値する 安禄山(盛唐)→弱体化していた平時の唐軍相手の快進撃だから、若干マイナス評価 史思明(盛唐)→同上 ただし、軍事的手腕ではやや上か 李光弼(盛唐)→郭子儀入れると、落とさざるを得んな 他にも、劉仁軌、裴行倹、蘇定方、高仙芝、顔真卿、顔杲卿・・・・こりゃあまとめるの無理じゃないか? 667 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 16 27 22 ID lrR0tlsm0 こう並べられると目が覚める思いがするな。 郭子儀の対抗馬という意味合いでも、安録山は入れるとして(こやつは突厥や新興の契丹、高句麗系渤海の前身などなどとさんざん戦いまくっている歴戦の勇者。隋・唐初の府兵兵士ならいざ知らず、単なる募兵によって集った、にわか混成部隊の唐軍など足元にも及ばなかった) どうしても削るなら史思明の方を… 賀若弼と韓擒虎はセット的な気もするな。 両方はずしで…w 張須陀は隋末期の群盗隆盛乱舞状態を、ある程度篩いにかけた意味合いが大きいので、入れて欲しいところ。 顔真卿もいろいろ見ていると、たしかに硬骨漢でいいんだけど、彼の幕下に無名ながら清河から来た官吏で、李萼というのがいて軍師的な役割を果し、顔真卿の平原と清河のラインで強硬な防衛戦が展開できたそうな。 その後の身の振り方、平原の政策も李萼によるところが大きく、しかも顔真卿が李萼を見出したわけでなく、李萼が顔真卿に目をつけた感じ。 かっこいいコンビだけど、人数制限なら外すしかないかも。 ちなみに、中華政権が対外戦争したとき、それを撃退した外国の武将は入れたほうがよいかと。 さらに、李克用を五代に入れろとかぬかした張本人ですが、よくよく見ると五代期突入して1年目で死んでるんですよね… 唐末に入れてあげてください。 668 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 16 33 14 ID lrR0tlsm0 667 すまん。 外国の武将は入れたほうがよいかと やっぱり訂正。 横文字入られるとNGもいいところと気づいた。 もう少し慎重にならなければ… 669 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 16 45 19 ID JKDF8Iag0 張須陀は、国が破綻寸前で戦略面の制約があって、 戦功の割に、物資・人員面での援助が少なかったこと から考えれば名将に入れても良いのでは? 670 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 20 38 48 ID 8MR3EGxR0 669 敗死と大局を動かせなかったことが減点材料だな。 確定とまではいかない、候補止まりだと思うが。 671 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 20 52 13 ID 0e4QL0l50 張須陀は、厳しいことを言うと、その軍事活動によって歴史にほとんど影響を与えていないことだな。 672 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 20 59 04 ID YE4PqiX80 薛仁貴(唐初)までで一区切りしたほうがよくない? 隋から一気に郭子儀の時代までカバーすると、人数的に相当無理せにゃならんと思うが。 673 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 21 36 57 ID lrR0tlsm0 671 え~? それでいくなら、謝玄を外す理由が… 674 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 21 37 33 ID bD3yaGQI0 張須陀は、秦末の章邯みたいな感じだよな 李密が入らないなら、張須陀も入れるべきではないと思う 賀若弼と韓擒虎は確かにセットで外したほうが良いかも 平陳の軍事的功績を考慮すると、楊素が代表選手で問題ないだろう ここら辺は、西晋の平呉の役の功績争いと似ているな (一番の栄誉は、現場の将軍ではなくて、作戦の企画立案者に与えられるべきだろうしね) 一瞬、このまま行くと李世民が落ちるんじゃないかとビクビクしてた プロテクトかけるべき武将を確定しといた方がいいな 675 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 21 56 51 ID 7zGSTAs70 賀若弼は戦略的センスもあるし、 平陳の役の最大の功労者。外すには惜しい。 その軍事行動が歴史にほとんど影響を与えていない点においては、 楊義臣も該当するのでは? 673 謝玄の場合、その最も華々しい勝利を敵軍の自滅で得たようなものなので、 名将百選に加えるのは苦しいと思う。 676 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 21 58 32 ID rvZQ9bm9O ここらへんの時代はあんまり詳しくないけど、 後漢時代の選定が光武帝絡みの人物が多くなるのと一緒で 凌煙閣の二十四功臣とかの太宗関係の人物でほとんど埋まっちゃうんじゃないの? 677 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 22 01 38 ID 7zGSTAs70 突厥を破り、林邑を攻略した劉方も候補として挙げてもよいのでは。 678 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 22 02 02 ID YE4PqiX80 盛唐~晩唐 640 から 裴行倹 高仙芝 郭子儀 李光弼 顔真卿 張巡 王式 黄巣 朱温 李克用 をひっぱってきて、朱温は五代に入っても李存勗相手に暴れてるからそっちに。 郭子儀とかぶる所が多い李光弼も候補に下げて、交代で安録山を入れる、と。都合9名。 10人目の候補として李晟(息子のほうがいいか?)、薛訥。五代に入る前に処刑されてる李存孝も候補でいけるか。 641の挙げた高駢、諸葛爽、楊復光も候補に控えてもらおう。 個人的には張須陀、李密は二人とも入って欲しいな。張須陀の戦功は隋の名将たちに劣らんと思うし、李密は三日天下とはいえ一度は天下に手をかけたわけだから 679 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 22 37 36 ID lrR0tlsm0 678 顔真卿を落として李存孝を一押し。 多少身の振りに問題はあろうが、後梁に対しての脅威ぶりは圧巻だし。 歴史を動かしたと言うほどではないが、潞州、邢州といった要地の確保に絡んでいるし、その死後(刑死後)李克用勢がいきなり落ち目になったのは有名だから。 王式ってどんな人だっけ? 李晟や李愬か… 対節度使戦線だと、憲宗の指導力を一押ししたいのだけどな。 ふたりとも捨てがたすぎる。 で、候補として高駢とかにくらべイマイチな諸葛爽は切り捨て、代わって鄭畋をいれようか。 忘れていたけど、この人の呼びかけで反黄巣包囲を敷いて長安を一回回復している。 いろいろ軋轢があり、最後は宦官に憎まれ殺された。前時代の英雄という感じか。 そのあと、唐は沙陀の李克用を招いた。つまり自力ではどうしようもなかったということ。 680 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 22 44 25 ID 7zGSTAs70 676 顔真卿と張巡は外してもいいんじゃないかなあ? 二人とも戦歴不足で一発屋感がある。 代わりに史思明と李観を入れたらどうだろう。 李観は吐蕃や藩鎮との戦いで功績のあった名将。 681 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 23 04 01 ID YE4PqiX80 679 王式は裘甫の乱平定の立役者。 860年1月、裘甫は困窮にあえぐ農民や賊徒を集め、剡州に割拠して旗揚げ、翌月には浙東地方の官軍を粉砕して現地を占領、群盗や亡命の徒を取り込んで3万の大兵力を擁するに到る。 山東地方全域を版図に納めて唐朝との対決を明らかにした裘甫撃破のために起用されたのが当時安南都護経略使だった王式。 王式は速戦即決を上奏して裁可を得、官軍の精兵と江淮に住んでいた吐蕃・ウイグル族を用いて騎兵隊を編成、速攻で現地民衆のために官戸を開き、反乱軍中枢と飢餓のためやむなく決起した民衆を隔絶、 (このときは反乱軍の策士・劉暀が唐朝の財源地を押さえる寸前で、王式が出征してなかったら唐朝の命脈はヤバかった) 追い詰められた裘甫は女軍までも繰り出して抵抗したが王式は3日間で83戦して83勝、この叛乱を平定した。 ・・・以上はおもにアジア歴史事典「裘甫」の項からの転用。《旧唐書》、《新唐書》に書かれてる王式の項はごくごく短く、裘甫・銀盗の乱を平定した、としか書かれてない。 682 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 01 39 55 ID 760Ds2l6O 劉文静の軍暦教えてください。 小説十八史略での謀臣としての活躍しかイメージがないもので 683 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 02 35 41 ID Yd96qdjE0 劉文静 権門の出身。容貌魁偉で卓越した知略と遠謀を備える。 李淵の太原起義から一貫して唐の臣。大将軍府が置かれると軍司馬に任命される。 屈突通討伐に出征、丸半日をかけて数千人を討ち取る。屈突通が数万の兵力を擁して東都に撤退すると諸将に命じてこれを追撃、 自らは新安から以西の版図を切り取り、平定。功績により大丞相府司馬、魯国公。 薛挙が涇州を犯すと李淵直々の命でこれを討伐。副将殷開山の策を容れて速戦即決に出るが失敗、大敗して逃げ帰る。 官爵を削られるもまもなく李世民の副将として再び薛挙討伐に出陣、討伐に成功し官爵を復す。 同輩の裴寂にねたまれ讒言により死刑となる。死後詔書左僕射を追贈された。 他にもいろいろ活躍してるし建策もしてるんだけど、目に止まる功績っていうと屈突通討伐と薛挙討伐の二つ。 巴蜀の三十余州を降しさらに岒南49州を招撫、輔公柘を討伐して揚州大都督に任命された李孝恭に比べると劣るか。 ・・・まぁ、謀臣としては申し分のない人物ではある。他にもこんな功績あるよーって人、補完よろしく。 684 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 02 44 13 ID Yd96qdjE0 683 変換ミス。詔書左僕射→尚書左僕射です。すんません 685 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 04 57 37 ID a7+dVwEY0 安禄山が入っているのは北方での活躍によってなのか? 686 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 09 31 19 ID 2yc7CQf6O http //look2.jp/1995/ 687 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 11 11 15 ID Aw3FNLBr0 名将百選は、マイナー武将を推挙する場所ではござらん 隋から、楊素、賀若弼、張須陀 唐初から、李世民、李孝恭、李靖、徐勣 以降から、薛礼、裴行倹、郭子儀 候補で 隋から、劉方、韓擒虎、張須陀、楊義臣 群雄から、李密、竇建徳、劉黒闥 初唐以降で、蘇烈、劉仁軌、高仙芝、李光弼、顔真卿、張巡、安禄山、史思明、李愬、王式 唐末で、黄巣、李克用、李存孝 マイナー削っても、ここまで残るとは (でも王式レベルで候補に上げられると、晋の劉弘も候補に挙がってしまうような) 688 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 11 39 33 ID 8te71jpe0 687 名将にマイナーもメジャーも関係ないだろ。馬鹿? 689 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 11 56 38 ID ToAqQ+mL0 周亜夫を外せとか李密入れろとか言われると何か勘違いしてるなとは思うw 690 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 12 07 07 ID nAZZOTwH0 内乱を鎮圧した将と、混乱期に割拠した将を同列に見るのもおかしいと思うが。 それにマイナーって何を指してマイナーと? 691 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 18 09 17 ID hzfcjqZe0 知名度が高くない香具師ってそれなりの理由があるんだよね 自分の得意な時代で候補を大量に挙げてから名将10人に絞り込んでいってみ? 理由がわかるだろう。 692 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 19 54 08 ID BuX8wVVS0 経冪は? 693 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 00 22 56 ID fucBJHAw0 691 誰、それ? 人名を挙げる時は、戦績を教えてくれるとありがたいな。 694 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 00 39 07 ID o4R9z5VP0 戦績と歴史的意義(戦略に果した役割とか)、勢力における重要度とか、そういったことは、出揃ってからでもいいような気がする。 今はマイナー(これがよくわからんが)でも戦功のあるヤツなどを挙げていけばいいんじゃないか? 695 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 01 01 47 ID Ua43b9FXO 691 後漢魏晋南北朝まで広げても知名度で選ぶと三国志演義補正で10人埋まりかねんがそれもあり? 696 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 01 32 00 ID CULbPcSC0 日本での知名度=戦績・功績だという前提に無理があるだろ。 697 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 02 55 17 ID GsR7y1RC0 講談補正を除けばだいたい功績と知名度は相関関係にあるんじゃね? 698 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 07 24 21 ID CULbPcSC0 例えば、李牧なんかは、田中某氏が取り上げたのが知名度が上がる 契機になってるけど、それ以前と功績に違いでも出たのか? 699 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/18(月) 12 49 24 ID xkzEVeN40 695 ただ単に知名度で選ぶなんて、誰も言ってないだろ? 一番大切なのは名将かどうかって事 700 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 12 59 23 ID so9J8RcB0 関羽だけはいれてくれ 701 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 14 09 07 ID o4R9z5VP0 695 伝があればマイナーではないよね? 一応、確認しておくが。 702 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 18 43 24 ID KuN+hWBI0 マイナーな奴を外していくと、 認知度の低い時代の武将がいなくなってしまう。 武勲が大きければ、どんどんノミネートしてもいいと思うんだが。 703 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 19 21 24 ID DZYXAlq60 どうして初唐に尉遅恭がいないんだろう? 単なる猛将扱いなんだろうか…。 704 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 19 44 57 ID CULbPcSC0 703 個人的な武勇も、騎兵を指揮する将としても、歴代最高クラスだと思うよ。 705 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 20 31 43 ID KuN+hWBI0 703 単独で軍を指揮したことが無い将を入れると、 「じゃああいつも入れろ、こいつも入れろ」と 収拾がつかなくなるからじゃないかなあ。 706 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 20 45 55 ID o4R9z5VP0 705 尉遅恭は一隊の指揮官じゃなかったっけ? でも、その功績は李世民であらわすこととしているのだと、自己完結していた。 数が多いからね。 それにしても、軍制度の転換期である中唐~末期になると、ほうぼうに軍功のある「武将」が登場しまくるけど 魏晋南北朝のような、一方面を確実に安定的に任せられた将が極めて少ない。 よって、軍功の蓄積という面で劣り、実に選抜しにくく、また数が多くなってくるのはどうしたもんか。 制度的に、局地戦で有能な将が、継続して辣腕を発揮できなくなっているのだ。 一発屋と上でも言っているが、制度がそうさせている。 707 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/18(月) 21 12 54 ID j7QksZf7O 指揮官としてはやっぱり尉遅敬徳よりかは李靖や李セキの方が上だと思うけど 708 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 21 45 59 ID fGsA1XjR0 個人的武勇より方面軍司令官としての功績で言えば 707の言うとおりだな。 李靖は突厥の騎馬民族相手に勝っているし 李勣は高宗期に高句麗を占領している。 後、処世術で言えば太宗の左遷命令の意味を逸早く察知して難を逃れて 武則天立后に消極的賛成して天寿を全うできた李勣が一番だと思う。 尤も、孫の代で水の泡と化したが。 709 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 01 58 17 ID etSAw/KpO 683 遅くなりましたがありがとうございます 710 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 02 00 05 ID s6AxRV8Q0 702 認知度が低い時代でも、この時代ならこいつって奴がいる だけど頭おかしい人はわざわざそういう奴を外して武勲の伴わない奴を入れたがる。 711 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 08 46 37 ID LH1xMiZn0 710 確かに。知名度低い時代でも「こいつは間違いない」って人物は何処に行ってもいる。 でも 702の言う 武勲があればどんどんノミネートしてもいいと思う、ってスタンスも間違ってないと思う。 「100傑入りは無理だろうけど存在を無視するのは惜しい」って人物はそれこそ腐るようにいるし。 それに、隠れた名将を見つけたらそれは自分の胸のうちに仕舞って置くよりみんなに公表して宣伝したほうがいいと思うんだ。 つーわけで。26史に伝がなくてもいいよね。 今俺は『十国春秋』って26史外の資料漁ってるわけだが、ここで名将を見つけたらどんどん紹介していきたいのでよろしく。 709 どういたしまして。 712 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 09 54 13 ID nWXLFNsB0 711 先輩とよばせていただきます。 十国は呉~南唐にしか、今んとこ興味なく、あんまり読んでない(読めない)から 米志誠や周本以外のかっこいいの期待してます。 713 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 19 34 17 ID oXMArno70 どうでもいいけど、韓擒虎ってどう考えても本名じゃないだろ。 この時代はよう知らんけど、こいつの名って明らかにされてんの? 714 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 20 19 17 ID q6fRrMUJ0 713 隋書韓擒虎伝には「名は擒。字は子通」とあるが、 注では「本名は韓擒虎」だが、 唐の人は諱を避け、『虎』の字を省いた」とある。 715 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 20 24 16 ID ir9idvLR0 712 先輩は面映いので同輩で。 俺も漢文自在に読めるわけじゃなし、読書スピードそんなに速くない。正確な訳とも無縁だし。 しかし周本の名が先に出るとは。一応隠し玉にとっとくつもりだったんだが。 716 713 sage 2006/12/19(火) 21 33 48 ID oXMArno70 714 すげぇ名前・・・ てっきり虎を捕えた逸話から そんな異名がついたのかと思った。 生まれる直前に父親が虎を捕まえたとか、 生まれる直前に嬰児が虎を捕える夢を母親が見たとか、 そんな裏話が命名の裏にはありそうな気がする。 717 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 21 36 51 ID 6cX9+mS4O 凄い名前といえば、王猛の孫に王鎮悪という劉宋に仕えた名将がいますな 王猛が鎮悪っていう名前つけたらしいけど 718 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 22 13 25 ID ir9idvLR0 スレの流れが変わってきてる? 今はとりあえず隋唐ですよ、みなさん。 叩き台係としては隋唐の議論が終わるまでに十国からそれぞれ1人、2人は目星をつけときたいところ。 まぁ、 【後梁】 朱温 王彦章 【晋→後唐】 李存勗 周徳威 郭崇韜 【後晋】 該当者なし 【後漢】 郭威 【後周】 柴栄 趙匡胤 あたりは不動だと思う(民衆の反感を買いまくった李存勗は外してもいいかも)。残り二枠に誰を入れるか、だな。 現時点での有力候補 呉の周本・・・10万の楚軍を七千の精兵で大破した。のち閩・呉越・楚の三国連合二万を数百人で撃破。無学だったが儒者を尊敬し、士卒や民衆を愛し、人々からも愛された。 後蜀の趙廷隠・・・後梁から唐に降り、さらに翻って後蜀につく。蜀土平定戦で活躍した上、契丹をバックボーンに持つ石敬瑭を撃破した。 他にもいろいろいるんだが・・・まず先に隋唐を煮詰めるってコトで。 719 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 22 23 08 ID htMtA+Ae0 718 実績等で判断した場合、後周の将軍として、 趙匡胤入れるのはありだね。 720 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 23 14 32 ID nWXLFNsB0 715 同輩ですか。 よろしく頼みます。 周本の説明に、「周瑜の子孫」を入れると、さらに箔がつくかと(関係ないか) 隋唐は、まず前半のを削って、後半のを入れるようにしないと。 隋初 韓擒虎 →候補へ 賀若弼 →候補へ 楊素 隋末 張須陀 竇建徳→楊義臣(?) 李密→劉黒闥(?) 唐初 李世民 李孝恭 李靖 李勣 盛唐 裴行倹 高仙芝→この際外すか…? 郭子儀 李光弼→郭子儀と合体(候補) 顔真卿→候補へ 張巡→候補へ 唐末 王式→? かわりに李存孝あるいは高駢。 黄巣 李克用 結果、隋唐期で 楊素、張須陀、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、黄巣、李克用、(李存孝or高駢) 687とはちょっと違うけどこんな感じ? 721 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 23 29 27 ID k53fwgLn0 黄巣は名将に入れるにはかなり抵抗が 722 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 23 34 18 ID ir9idvLR0 720 薛仁貴が、俺的名将ベスト10に入る薛仁貴がいませんよ!? ここは裴行倹か黄巣に譲ってもらわにゃ。 723 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 23 36 09 ID 6cX9+mS4O 劉方はやっぱ無理かな… 724 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 23 41 44 ID f9E/gEPy0 687がマイナー論議の発端になってるけど 荒れるような人選ではないよな 687から張須陀外して、李克用だな 725 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 00 17 08 ID OKqabo840 李存孝もこの際、功績は李克用に帰すとして、高駢は個人的には欲しいところ。 晩年はアレだけど、華南での文鎮っぷりは無視できないし。 で、黄巣削って薛仁貴(忘れてた… なんで無いかな) 現在 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、薛仁貴、裴行倹、郭子儀、李克用、高駢 …10人枠だと、こざっぱりするね… 726 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 01 26 00 ID aNCmPep50 五代十国・参考までにこんな人物も。 十国春秋【後蜀編】 趙李良・・・孟知祥の軍師。蜀土統一のために西川節度使董璋を徹底的にこき使い、ポイ捨て。キレて牙をむいた董璋を鮮やかに討伐した。 王環・・・世宗(柴栄)の派遣した後周軍を撃退、本腰を入れて親政してきた世宗の軍を百日に渡って拒むがついに落城、直々に誘降されて後周の臣に。 こんなもんで。まだ後から南漢ぐらいまでしか訳せてないんです、すんません。ちなみに閩と北漢には名将不在。 727 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 01 28 00 ID aNCmPep50 726 後って何処の国だ、俺。呉の変換ミスです。なにとぞ寛大な心でね、テキトーに笑ってやってください。 728 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 01 58 39 ID nxL6uTJp0 北漢には名将不在。 つ楊業 729 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 02 04 33 ID aNCmPep50 728 楊業は北宋の名将扱いらしいよ。 十国春秋には楊業の名前は欠片も載ってなかったし、楊業の本格的な軍事活動は北漢降伏後でしょ。 契丹に後援されてた立場と契丹相手に奮戦する立場ではまったく逆だし。楊業は北漢朝廷に飽き飽きしてたっぽいし。 宋の名将にはまちがいなく絶対入れるから許して。 730 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 07 48 29 ID L0wB2fLV0 高仙芝は百人に入るほどの名将ではないかもしれんが、 自分としては欄外か番外で入れておきたいところだな (多分)一番遠くで戦った将軍でもあることだし 731 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 08 34 01 ID rtTkMZGj0 720 安禄山,史思明は? 732 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 08 37 10 ID rtTkMZGj0 随唐で一つにまとめるの? 随末唐初と、中唐以降は分けてもいいと思うんだが。 733 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 10 02 46 ID PWEFyPx10 732 賛成。実際唐初までと盛唐で2つ叩き台出したし。 隋から唐末までを一括りにするとランキング漏れの武将が多すぎる。 特に隋末動乱期からのエントリーがないのはどうしたものかと思うし。 どうせあとで100選するときに篩い分ければいいんだし、現時点では2期に分割、でいいんじゃない? あ、仕事遅刻するわ。そんじゃまた夜に。 734 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 10 40 32 ID k61fKPRFO 730 流石に郭侃の方が遠くに行ってるだろ 735 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 11 14 56 ID SYrbq0Ds0 「分割しようぜ・後で絞れば良いんだから」は大抵は言いっぱなしで絞れずにグダグダになる。 100選なんだから選考基準や枠は厳しくて当たり前。 736 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 12 17 59 ID zo5VhKRZO このスレで結論出すなら厳しくしないといけないけど この後次スレとか立てるんなら選考基準や枠はなるべく緩くしといて なるべく沢山の候補を挙げることが出来るようにしといた方がいいと思うけど。 737 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 12 31 55 ID OKqabo840 736に賛成。 その方が、知的好奇心が満たされやすい。 735が、そのグダグダにならないよう、最後に締め上げればいいのと違う? と、いうわけで古代(あるいは中世)最大の王朝、隋唐から以下をランキング。 隋初 韓擒虎 賀若弼 楊素 隋末 張須陀 竇建徳→楊義臣(?) 李密→劉黒闥(?) 唐初 李世民 李孝恭 李靖 李勣 薛仁貴 盛唐 裴行倹 高仙芝 郭子儀 顔真卿 張巡 唐末 王式 高駢 黄巣 李克用 李存孝 723 劉方ってどんな人だっけな? 黄巣を外していれてもいいよ。 で、安録山もいれたいのだけど… さぁ昼飯。 後は夜に… 738 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 14 48 07 ID jnMNE7dE0 1スレで暫定的にでも決めておくつもりじゃないと、いつまでもまとまらなそうだ。 大量に挙げるのはいいが、きっちりまとめておいてくれ。 739 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 14 55 22 ID L0wB2fLV0 734 いや、郭侃はモンゴル帝国の武将だと思ったから・・・ 「中華王朝の武将の中で」が抜けてた 740 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 15 14 09 ID 5yLXNnrV0 737 どうして盛唐の候補に劉仁軌と李光弼と安禄山と史思明が入ってないんだ? 741 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 19 57 15 ID b3Reonmp0 関羽は? 742 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 20 00 46 ID OKqabo840 726 ふと気づいたけど、後蜀のその人「趙季良」ですよね? 王環は、粘り腰のある将ですよね~。 李廷珪なんかもその点… どうなんだろうか(よく知らんし) でも、秦・鳳の奪回戦は、柴栄の意(般若のイメージw)を受けた趙匡胤にはっぱをかけられて、涙目で相手の糧道を断って勝利した、王景のほうをこそ誉めるべきなんでしょうね。 738 隋唐を二分割するんでしょ? だったら20人ほどの一応のランキングだし、まとまってないこともないと思うけど。 もっとうまくまとめられるのなら、お任せしますよ。 740 入れたいのはやまやまだけど、そこは人数の壁というものがあって… 743 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 20 04 13 ID +L+CkykA0 いきなり100人は多すぎ。 名将とは言い難い良将程度のやつらがランクインしている。 744 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 20 43 23 ID iZt1LpJM0 特定の時代に偏らせるなって1に書いてるから隋唐で20人枠は反対。 最初に決めたことは守ろうや。 745 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 21 31 33 ID xQdnTEt70 自分の好きな時代は、あいつもこいつもいれたくなる。 五胡と南北朝だって、めちゃめちゃ良い武将いっぱいいるのに 泣く泣く削ったんだ。 10人枠は守ってくれ。 746 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 22 25 33 ID OKqabo840 おいおい、二分割する言ったから 737にしたんじゃないか。 10人枠というなら、 725でよかったんじゃないのか? どっちもおれが書いたんだけど。 どっちにするのか決めてくれ。 747 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 23 17 30 ID vd7Yla4B0 746 安禄山、史思明が入らないのに高駢を入れる理由が解らん 楊素、張須陀、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、薛仁貴、裴行倹、郭子儀、李克用 唐朝開闢の名将4人が固定状態だから、その下の連中で荒れるんだよな 上の4人は、百選で順位つけても上位に来そうだから、思いっきり割を食ってるな、この時代 748 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 23 40 04 ID /MzsbUtC0 742 そのとおり、趙「季」良です。指摘されても10秒ぐらいwhy?状態だった。誤字多いな、最近。ボケてんのか、俺。 749 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/21(木) 00 28 23 ID RwOENkKG0 今はまだ10人に削らなくてもいいんじゃないの?これ以上候補者が出ないのだったら、 次の時代に移ろうか? 750 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/21(木) 00 35 43 ID PHuxV8+X0 懲りずに十国春秋から【南漢編】 蘇章・・・兵法に通暁した南漢随一の名将。楚軍に戦艦100艘で囲まれたとき、強弩隊を率いて敵中突破、囲みを解いて悠々と撤退した。 潘崇徹・・・兵書を好む知略の人。宋の南侵に対し大将の潘美を破って救国の英雄と称えられるも、南漢に見切りをつけて宋朝に降った。 あとこの国は二代目の高祖・劉龑がかなりすごい。自ら江東の塞70余を破って版図を拡大した、ってぐらいだからかなりの猛者。
https://w.atwiki.jp/muscle-brain/pages/296.html
セイバー ランサー アーチャー ライダー キャスター アサシン バーサーカー 夢のセイバー 夢のランサー 夢のアーチャー 夢のライダー 夢のキャスター 夢のアサシン 夢のバーサーカー セイバー ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:セイバー┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:荊軻 【レベル】:55 【アライメント】:秩序/善┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:30 【耐】:30 【敏】:60 【魔】:30 【運】:15 【宝】:40┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:荊荊荊 【貯蔵魔力】110/110 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ //| ハ //| | , -―- 、/∧| // , .' / ゛ ヽ、 // / ヽ、 - '// // /ヽ、 ヽ // / i / V | i i^i ソ /-‐-| /, ‐-、| | /゛i | , - ' |イf ガi / i f カ}.| | ./ ノ/ ,、 '  ̄ ̄ |/ イ ∧| ゛‐' ! ' ゛‐'ノ| /ヽヽ、 / //i / i / / .| /ヽ i | /! / //./ ./ ./ ./ ! .|/ | , -―-、 i |./ / //./ / ./ イ , ヽ、_./ 、 ./∨! / // ゛ ./ |, | i ,、 | ヽ、 / / ../ y / i / i | ヽ - ' / | / .i. , -‐, ノ /.ヽ! / / , ' , -―-、 i゛ ―-、 , / - ‐, _ , ' , - ',.-‐- 、 i i゛ ―--――' ̄/ / / ヾ/ . 、 , -‐./ ../ / 、 /i ,/ / i | / | / ̄ヽ、 / / / / ヽ ./ / / / ヽ / ./ / /ヽ、. / / ヽ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○心眼(偽):C 敵から受ける勝率ペナルティか能力ペナルティを、合計で10点まで無効化する。 また、このキャラクターは「+10%」の勝率補正を有する。直感・第六感による危険回避。 虫の知らせとも言われる、天性の才能による危険予知。視覚妨害による補正への耐性も併せ持つ。○戦闘続行:C このキャラクターはシナリオ中1回まで、ランダムステータスを振り直せる。 仕切り直しとは別種の生き汚さ。或いは戦闘遂行能力。 セイバーは生前、ターゲットである始皇帝を暗殺するため、動けなくなるまで戦った。○気配遮断:D 戦闘時、相手が初見のキャラクターのみの場合、勝率を+15%。 本来であればアサシンのクラススキルであるが、このキャラクターはアサシンクラスに高い適正を持つため、 セイバークラスでも一定程度この能力を扱える。○対魔力:A 「種別:魔術」のスキルによる敵陣の勝率補正を、1つのスキルにつき最大20%まで軽減する。 また、令呪による命令に対し、令呪1画による命令にならばギリギリ抵抗出来る可能性がある。 セイバーのクラスと歴史の古さによる、最大級の対魔力である。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還 ランク:B 種別:対人宝具 消費魔力:100 後の秦の始皇帝を暗殺しようとし、成功の半歩手前までこぎつけたセイバーの毒匕首。 ただし本来の適正クラスであるアサシンとしての顕現ではない為、毒の殺傷性は若干落ちている。 また、使用にも条件が必要であり、英雄として自分よりも格が高い相手に対してでなければ使用できない。 具体的には自分よりレベルの高い相手にのみ発動可能。 この宝具は戦闘開始前のみ発動可能であり、即座に敵のレベルと全ステータスを-10し、令呪を1画減少させる。 相手が令呪を消費しない場合、この減少幅は20となる。 ただし、本質が暗器であるために2度目以降の発動では相手は令呪を消費すれば影響を全消し可能となる。 この効果は発動ターンを含め2ターンの間継続し、治療は不可能である。 また、気配遮断が乗る状態でこの宝具を使用した場合、気配遮断による不意打ちの殺傷能力増大と相まって、 気配遮断による勝率ペナルティを倍化する。 極めて発動条件が厳しいが、それだけに一撃に限ればこの聖杯戦争最強格の暗殺宝具である。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ランサー ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:ランサー┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:小森半佐衛門 【レベル】:50 【アライメント】:秩序/悪┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:40 【耐】:30 【敏】:60 【魔】:10 【運】:10 【宝】:30┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:猫猫猫 【貯蔵魔力】180/180 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ ,. ,イ ハ / l ,.イ. /.// / .∧ ./ /. /.// / ./ // / /.// / ./ //./-‐/ / // / / / ' ,./ / // '" ,., / _,/ ", ./'/.//./ ,. '",. /7 .//./.// .,ィ ,.-''", '" / /./././'"/'゙ ,イ/.,ィ ,ィ. '"-‐'" / .// / /./,イ//( / // / ././/.// ./ __ / // / ./ィ/.ィ/ ./ ,イ////>、 / // / /' / ,.'. ,ト、//////ハ //./ / ./.,.' {ィ、\二_ヾ/l /`ヽ /' /,.' ././ ,iV \. 眼 , ! ,.' ‐ 、へ 、 /' /'" ,.イ / 、i `ー‐ T´ /- 、 .,イ. ヽ i\ / /. _ -‐ ! l ヽ 、_‐r' ̄ - _ / '/ \. ' . l \ r '" ! i l .l , ' i` ィ .! ヽ / ヽ/ ヽ‐-., j. i l .l .l ! l ` ´.l l l ! l ./. ,' ./ ,.ィ ,. ヽ ' .,l .l .! l .| ーi - .! l l l ト、 ,´ `ヽ  ̄ 〈 く、{;;;!. ヽ. ' ハ .! . | l .l ! .,' , .l l l V ' ヽ ` ! ヽ ' , l l | l .l ; _/ ., / ! .! l } `ヽ.! 〉―-l ヽ≦', / !. ' .l ! ',´ / ./ / l / l j .! / ! Vハ , ', ヽ j .! / ./ ./ .j / / .{ー- {、 ___./ .|. Vハ. i/ , ヽ .j ',/ /イ { ,.イ_ .! l ヽ. j Vハ / '" >,、トー-' _./_ー-_、! /、 {__ l ヽ .l Vハ ,.ゝ ̄ ̄ヽ / .jニニ>‐ァ 、ー<ニニr' .ヽ .l l , '´ ̄ ; ,>‐ぅヽヽ. ', //、ニ>‐ゝ-'-‐<ニ/\ 、 .! ', _/ , (. '" ノ、.} .', l '.l .l ̄、 ̄ ̄ ̄ ̄ /| l`ー、 ヽ ゝ-―.!''"  ̄ ', ,. ゝ './.}/l l , | l \ / .! .l、 ! ', ! ヽ__ /. ヽ._,.イ'; l j/ ! l _ - ! .| \{ `ー'、 _,.', ,.' ./. / Vハ ノ ./ ,. .! l l | ヽ. ヽ 、 / / / ∨' i / !l l | l ‐- i 、. 〉、 ' / / .j l ! ! .! .l ヽ \. \'. ヽ,.' ,.' / , ' l. ! .l .! .l \ ヽ._/┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○戦闘続行:C 使用パラメーターの確定後、ステータスのランダム選択を振り直すことができる。 この効果は1戦闘に1回まで、かつシナリオ通して1回までしか使用できない。 瀕死の傷でも戦闘を可能とし、決定的な致命傷を受けない限り生き延びる。○直感:C 戦闘時、自身にとって最適な展開を“感じ取る”能力。 このキャラクターは常に+10%の勝率補正を持つ。 また、初見相手のみに効果を発揮するスキルは、このスキルのランク以下の場合無効化される。○対魔力:C 「魔術」のスキルによる敵陣の勝率補正を、1つのスキルにつき最大10%まで軽減する。 クラス補正による魔術に対する耐性。ランサーの場合、その数字は平均的。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○無銘・妖殺槍 ランク:C 種別:対人宝具 消費魔力:30 ランサーが生前、主家を脅かした化け猫退治に用いた鉄槍。 その逸話から化外殺しの属性が付いており、怪物属性の敵との戦闘で使用すると、勝率に+20%。 更に相手の怪物属性スキルの効果を20点/20%まで無効化する。 さて、ランサーが退治した鍋島の化け猫。これは善妖であったとも、悪妖であったとも言われている。 であればそれを退治した彼は、善妖退治の悪人か、悪妖退治の忠義の士か。 それとも或いは―――単に立場が違っただけで、双方ともに善悪は無かったのか。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ アーチャー ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:アーチャー┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:趙思温 【レベル】:50 【アライメント】:秩序/中庸┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:30 【耐】:30 【敏】:40 【魔】:30 【運】:0 【宝】:0┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:薬薬薬 【貯蔵魔力】190/190 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ . __ 。` }ミ洲i{ . /{三ニ=- .,_ 。` }ミ洲i{ . /―「[ ___ 。` }ミ洲i{ . / ‐r '_ -┘ 。` ヽ、 }ミ洲i{ . /――‐}_| ___o__ 。`@ \ }ミ洲i{ . /――o___, {⌒\ \ ,ノ\ }ミ洲i{ . /―‐ッ'゙゛,/\j\ 、\ \___/ 〉 }ミ洲i{ 、 ヽ// /⌒ } }\\ ヾ\__/ } [] 人 )\_ / { / / ,ィ}⌒}ヽ] ′ \ }/ )\  ̄ ― _ { 人{-ー `ー匕厶f==ァ}| } |i ヽ / /-=ニ ― ____ \} 斗ャfK ''´{ ツ丿从/)ハ , / -=ニ ̄_ _―⌒′ _,. _ __{ i{ ハ じ ) `¨¨¨ / ノ} / / -_#⇒㌃) _ -__ _,. -‐ァ'゛ / { Χ八 〈 / / ノ);/ -_#⇒㌃ ,. '゛ { ⌒ _ - / / 人 Χ ノ\) ⌒ '/ ̄ ̄ ̄ ̄} -_#⇒㌃ ,{ / __,ノ } / _ -_人 __,.ノ⌒ ー〈 Χ \) 〕ト ⌒ く ̄ ̄{ -_#⇒㌃ ┌[ ̄\ . -‐‥'゙ } / / __}⌒¨¨)-⌒ヾ \__ __∠..., \ く. ` -_#⇒㌃, , - ノ___ , ´ ′ {_/ , '゛ {ー‐‥…ァ'" _-_┐)-_#⇒㌃ \_,ノ / / / / ̄ / _ (_/ _,. ノ 。 / .,___ ヾ{/ r‐{___/ /} { {__ /\__(_, ィ{ ̄}‐' / ー 、\) \j-‐…’ _人_ _) __ _,. ' ∥⌒} ___,. ⌒! }+\) jxく / \ \{(_r┐-‐… / {i同リ /r[ ̄ヽレそ゚+ァ'゛ ⊂ニニニ⊃ ゙, ヾ { .,_ _ _ ! {ミ洲i} __) 〕k ____/ .゚+ / } 、 \_,ノ]_,ノ {ミ洲i} / レ'゛ ゙⌒] { ゚+ -‐ :\_____ / ̄ {ミ洲i} , 〔_{ ⊂ニニ゚+ニ⊃ ;⌒`ァ'゛ {ミ洲i} ,. -= 八 {\ ゚+ . / {ミ洲i}_,. '゛ \][__,ノ`トミ } \゚+ .,__ _ '/ / {ミ洲i} } } ゚+. ′ ,′ {ミ洲i}┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○心眼(偽):C 敵から受ける勝率ペナルティか能力ペナルティを、合計で10点まで無効化する。 また、このキャラクターは「+10%」の勝率補正を有する。直感・第六感による危険回避。 虫の知らせとも言われる、天性の才能による危険予知。視覚妨害による補正への耐性も併せ持つ。○単独行動:C このキャラクターの貯蔵魔力限界を「+50」する。(計算済) また「魔力の供給不足」によるペナルティを不足分「-30」ごとに「-10」に変更する。 また、単独での戦闘時に勝率に+15%のボーナス。○仕切り直し:C- アーチャーは身体に無数の傷を負っても主君を逃した武人である。 主君はその武勲を讃え、自ら調合した薬を下賜したと言われるが―――さておき。 このキャラクターは“味方の”戦闘敗北時にこのスキルを使用することで、自身の消滅と引き換えに味方を 撤退させることが可能。 自身が参加している戦闘でも使用可能だが、その場合は自身は撤退できない。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○遼太宗、賜薬 ランク:B 種別:対人宝具 消費魔力:0 遼の太宗が負傷したアーチャーのために調合した薬。その効果は凄まじく、特に英雄の属性を持つ英霊にとっては 重症をも治癒する霊薬となり得る。 この宝具はサーヴァントに対して使用することで、魔力60点を回復可能。 この効果はシナリオ4回まで使用可能だが、使用するごとにアーチャーの【宝】[[ステータス]]が10ずつ減少していく。 宝具としてこの霊薬が選ばれたため、アーチャーは比較的戦闘を得意としない英霊になっている――――が。 彼女としては意外とこの薬と、それにまつわる逸話や知識を好んでいる様子である。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ライダー ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:ライダー┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:フランツ・フォン・デア・トレンク 【レベル】:50 【アライメント】:混沌/悪┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:30 【耐】:40 【敏】:30 【魔】:10 【運】:20 【宝】:60┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:騎騎騎 【貯蔵魔力】150/150 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ , / />'´}ハ}>..、 , く / ' />'´\、 , ' . / . ′ 、、 , ' . / . / ヘヘ / / . . 、 , ∧∨. / / . l. / ∧∨. ,/ /{_ . ∨ / _ ∧∨ ,>'´/ / ̄`ヽ、_ ∨ / , '´ ̄ , } } / / /1`<、 ̄>=‐- _〉 } / / ./ .| ′. , .' /. 八ヽ。_`ヽ_ ノ_ {_____ _ { / l , ∨ l . >=`- }-= ヽ_ノ 7ー ―――ヾ.、 { / , / . ∨. l . _.>'´7 く_ .ケ'´ヽ、\ `\ ./ ∧ ∨ /lヘ{ .  ̄ l /. }>、 o `ヽ、_ / / .\ | l l / .| . , / / 1`寸x` -=イ'´ / / .∧∨ |../ . l \l . / { ./ />'ヽ \ `ヽ ̄´. , .゜. , /l }|. // .|ヘ l\_>- ../ /`ヽ、. ′ } { ヽ / / . // .l .∨∧. // .∧{ | i! .{_ `>-=-ュ_ ヽ`ヽ _ >'´ , ' // .l ∨∧| // `ヽ l } / { `ヽ _./ 、 } \ _.,x令 /. l ∨∧ .| // | { /_}/_/  ̄ `,-< }ヘ{ >- / ∧ ∨∧ / `<> 、. | l ./_7 >-′_/__,ヘ.i`ヽ、-<´ / / . ∨∧ / `<l>、 l ./_7 .} } `< _ _ >'´ / // l`<>、. l .人人 ./ /' _> >'´ /. // , .`<>、. l 、 ヽヽ、、 /, ' / . . ` >. ,>. '´. /∧ / `寸 `<>、...l ヽ ヽ{ ̄{ ̄{ _/ . . /}/}/>' //. / | ヘ ヘ..l ./. `><'´ /. . . <´ <>´ , <'´ ∨ 〈 | _ ヘ ヘ { <´. <>´ , <'´ ∨ ∨. __ _ ___」 -―<´_ > _> 人 <´ <./ / ∨ ∨ ∧∨.____ -―<´. > _l l `>,、_ <´-―<ニ./ /. ∨ ∨ ∧∨ | lニニ|ニニニニニニ./. , / ∨ ∨ ∨ ∧∨ | lニニ|ニニニニニ/ //. ∨ ∨ ∨┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○精神汚染:B+ このキャラクターは重度の精神汚染状態にあり、同ランクの精神汚染持ちとでないと会話が成立しない。 この能力はマスターからパスを通じて付与されたものであり、ライダーは常にマスターと同調し電波を受け取っている。 また、このキャラクターは戦闘時、好きなステータス1つを+5。○軍略:D このキャラクターは対軍宝具で召喚した指揮下の兵に勝率+5%の補正を与える。 また、敵陣のキャラクターが対軍宝具を使用した場合、自陣の勝率に+10%。 ――――???┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○トレイク・パンドゥール ランク:B 種別:対軍宝具 消費魔力:100 戦闘開始前に使用可能。3グループのトループ、“トレイク・パンドゥール”を召喚。 ライダーが生前率いた、悪名高い猟兵部隊。 略奪・暴行を繰り返した猟兵の悪辣さは、聖杯戦争においても健在である。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛┏━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┓ 【名前】:トレイク・パンドゥール 【レベル】:25 【アライメント】:混沌/悪┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳┻━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:25 【耐】:25 【敏】:25 【魔】:10 【運】:5 【宝】:-┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ ...... )) ..... ..... ヽ/_,ヽ, ヽ、 |/ ヽ、 ゝ へ /'''ー―' 、 j `l /,....,,_\ ヽ ,、___, ゝノ ,- ,,,_ (' .( ;ヽ く、 ,' ( `'ヽ、 ,'‐-,,,,,_"''' ‐- ,,,,,__ ヽヽ' ,⌒ヽゝ ヽ C ヽ、,ノ、 ~""''' ‐-,,,,,_‐-,,,,,_ ヽ||/ | ヽ、 ,、 く ゝ `ー‐ー- ~""''' ‐-,,,,,_ c,,-‐''ヽ、 /ヽ ヽ、. /__\ヽノ /\ くゝ ,,-‐'' ヽ ,.-ヽ、 '、( ヽ く '、(ヽ く ,r゛ ,、 `' "'ヽ,.-‐''"彡彡ヽ, ヽ' ,⌒ヽ ヽ' ,ヽ ,r' /__\'''''''''ー-/彡彡ヽ,.-'7゛c,,-‐''ヽ ノヽ"'''c,,‐'' ノヽ,r゛ '、( ヽ く /,.-‐''/ / くゝ-ー'''' ヽ 7' ,.r' ヽ' ,⌒ヽヽ、 ヽ/.., /ヽ /彡ヽ彡ヽ ,、‐''゙''''''''''ー―─ ー―─--,,-c ,,-‐'' ノヽヽ/ ,'...,;`/、 ヽ、 / / ヽ,‐' ゙ くゝ-ー'''''' ヽヽ ,' ,' ノ ヽ、 \ l_,.-‐''" /\ ヽ,.-‐''"ヽ..ノ、,'/ `_,.-‐''" '、(ヽ く /彡/ヽ(ミヽ、Yl ,.-‐''" ヽ' ,ヽ / / ヽヽ、__`ノ‐- ,,,,,_─ー―─---c,,‐'' ノ ヽ、( _,.-‐''" ""'''――─---------ー'''"゙`┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫【スキル】○トループ このキャラクターは複数名で1体扱いのキャラクターである。 敵陣が対軍宝具を使用した場合、敵陣に+10%の勝率補正がかかってしまう。○蛮勇:D 後先を顧みない、向こう見ずな傾向。 戦闘時、【筋】と【耐】に+5。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ キャスター ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:キャスター┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:劇辛 【レベル】:60 【アライメント】:秩序/悪┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:40 【耐】:40 【敏】:30 【魔】:40 【運】:10 【宝】:50┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:将将将 【貯蔵魔力】200/200 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ / / / . . .. |..j/.. .. | j/. {/ , } .ハ {/ | . . .. |..{... . . | /. j/. ;ハ /, { . , ' | . . .. .|..{. . /.. | /. j厶 '゙ ∨ /, { .! ;. !| 、 . .. ..|..{//.... kえ厶ご'~ミV /. 从{ / ; ⅰ } | | jハ . .. ..∨ハ.... {`'く_ tぅ'㍉ヽ ∨. ;厶小y'/ /. ⅱ /;| ..| |... j人..........〈八 . { .`¨¨゛. /;; ィ(=⇒y゙/ /. jハ ノ'´| Mィ゙{ (\......{ \{ '´ |ゞ忍.У/. ,小{ |jiハ乂`ーt \{_ l 、 Z/. /}ノ \ ′ }. j介;rヘ, l 〉 /. //丿 }人从 〉,__l ' /. , // _,,...-‐=ニ二三 ̄ ̄]王王] ___ 厶イ/ | . . ]王王] ー ̄` , | . . .. ]王王]、 / | . . .. .. ]王王]l/> ,_ / ̄ ̄ ̄]陌] | . . . . . ]王王ヨト-rnぶーく . . . .. . . . ]王ヨ] | . . . . ]王王ヨIi 川 灰^h . . . . . . .]王ヨI] ,√三ニ=-(. . . . . . ]王王ヨヨj/ / √三}} . . . .. .]王ハヨ] _∠二Ξ三三ニ=- __. . . .]王ハ王ヨし' ,こ三]] . . . . .. ]王】 狂]三三ニ=‐'^⌒"'ー=ニΞ三ニ=竺ヨ モヨl ∧ニ三]] . . . . . ]王l】 狂]  ̄-=ニ王ヨ モヨl/ 'こ三]ト、 . . ]王I】 狂]┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○魔術(中国武術):B 戦闘時、【筋】【耐】【魔】のうち1つのステータスを+10。更にそのステータスで勝利した場合勝率+5%。 魔術というより武術、特に勁力を攻防に使う気術の属性を持つ技術。つまり単なる中国武術。 この手のスキルは習得難易度が高く、Bは確かに一流の域であるが、更なる上位者が同時代に何人も確認されている。 型月世界における中国や日本の武術の頭おかしさは健在である。○陣地作成:C- このキャラクターは優れた将軍として、自らの拠点を陣地化し、戦争用の城塞を作ることが出来る。 行動ターンにスキルを使用した場合、その場での戦闘の勝率+10%。 2回重ねて使用した場合、合計で勝率+20%となる。ただし、魔術師の工房ではないため、魔力回復に利点はない。○軍略:C このキャラクターは軍将としての属性が強く、軍団規模での戦闘における指揮能力に長けている。 戦闘時、味方・敵陣営のトループ数×5%の勝率補正を持つ。 また、戦闘において対軍宝具が使用された場合、その数×10%の追加勝率補正を得る。○練兵 このキャラクターは情報収集パートか行動パートにこのスキルを使用することで、宝具の性能を向上させる事ができる。 最大で3回まで累積可能。 キャスターは兵の質・量、そして補給を整える事こそが最も重要と考えている将であり、練兵を行うことで配下の能力を 向上させることが出来る。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○我也大将軍 ランク:A 種別:対軍宝具 消費:魔力80→100→120→150 古代中国、春秋戦国時代において戦国七雄の一角である燕国において、大将軍を務めたキャスターの権能。 自己の鍛え上げた兵士を召喚し、3グループの兵を指揮下として戦闘に出すことが可能。 ただし、当人の性質上、自己が戦闘に参加しないということはあり得ない。―――あるいはその性質が、生前の死因か。 練兵スキルによりターン行動時か情報収集ターン時にターン1度まで強化が可能であり、最大で3回までの強化が 上積みされていく。 3段階まで強化された精兵達は、もはや弱めのサーヴァントと真っ向打ち合えるだけの戦力を持っている。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛┏━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┓ 【名前】:燕国精鋭兵 【レベル】:50 【アライメント】:秩序/中庸┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳┻━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:40 【耐】:40 【敏】:40 【魔】:10 【運】:10 【宝】:-┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ ! .l l l / ` l .l l l ' ヽ l .l l l ,. - / l l ⌒\ l l (. ( ;' ri ,, _ l l / ヽ .! l l` 、` 、 k. il|. || .ll.l| / \ .l l __/ 、_ ! l {l ヽ ', k. ll. || ll.リ. / \ .! .l , '". ;' ' .. ! l __-ニl、 _!_l_ ゙! l! l! "_,.l ,. - ./ ヽ! .l ,l、 ' ;l. _ ri r, i l. l _-=ニニニ二{ ,.、  ̄ ̄,.-、 .l ( ( / l l {.! ` 、.ヽ. k、k、|| ll!リ.l ! l-ニニニニニニニヽー' ト、 ー' .l ,l \\ ,,, iii, ii, .! .l j i .i. k, k! || リi! l l .lニ=' `"<ニニ二二\ ヽ ` ー- ' l {| ` 、\. k lli lll! .ll! l l ,.- 、__ -=ニ\ _l__!_ ヾ.'' .''.゙.゙__Ll .lニ' \ニニニニ` 、 ` ー_,.l. ,.ィl ヽ ! 'k ll! .ll! ll! .! .l-/ \ニニニ二二{ ,.、  ̄ ̄,-、 ,. ! lニ, \ニニニニニ=-=ニ二__,.ィ二ム __} l k, ll |! l! .l .!/ \ニニニ二、 ー' .ト、 ー ノ/l /',_lニ, ヽニ二二二二二/ /ニニ二ム {  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ .l l ヽニ二二\ \ 二 イ,.l ̄ , !―‐- 、ニニ二二二/ 'ニ二二二\_!. O ト 、 O l. l 、ニニニ>__ ,.-'"_,,... -‐__ ヽ´ 、ニニニニl .l \ニニニニヽ \ ` ー.l .l 、ニニニニニニニニ/ { .{ ) ', 、ニ二二{ 、l. ヾニニニニ>_ ` ー.l .l ニニ二二二二/ .!' ̄ i'" }-' ニニ二二ー ヾニニニニ二二====.l ハ ! ,ニニニニニニ/! .l〉 .,_,' '.i ,二二二二 ヾニニニニニニニニ!ー´ `ー! ニニニニニ{. ', l、 },. イ ,.イ',ニ二二二 'ニニ二二二-‐== _ └- _ ,ニニ二二>-、_ 、 ̄ },.イ', ,.イ/ =二二二 'ニニニニニ/ 7`"‐---'T丁´ ニニニニニニニl  ̄!二ニ, _ __,. -‐" '" ,二二二 'ニニニニ' .〉 _!_,,. -〈. l ,.ィ{ニニニニニ二二l ー!ニニニ,  ̄ ̄ ̄´ ,ニニニ. 'ニニニ! .l、 { ,ノ_」 ,.イ/ ,ニニニニニニ/ ̄ }ニニニ, ニニニ. 'ニニ二l { ` - 〉‐" .)- __,.. -‐ "'" .ニニニニニニ乂_,.ノニニニ, ,ニニニ /二二ヽ. { ‐- .{._,.. )  ̄ ̄´ 'ニニ二二二二二二二二, ,ニニ二 , '/ 'ニニニ=‐- __{_,.イl ニ二二二二二二二二二, ハ. }ニニニ. // 'ニニニニ! lニニl 'ニニニニニニニニニニニ, l. V!二二. // .'ニニニ二l lニニ', iニニニニニニニニ二二二, {ヽ ', .}|二二┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○騎乗:C このキャラクターは戦闘時、初手の選択ステータス合計値を+10する。 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、野獣ランクの獣は乗りこなせない。○トループ このキャラクターは集団で1体のキャラクターとして扱われる。 対軍宝具による被害が倍増する。○精鋭兵 キャスターがスキルによる錬兵を3度終えた状態で召喚される兵。 この状態の兵たちは極めて高い練度を誇り、戦闘時に1部隊につき15%の勝率補正を持つ。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ アサシン ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:アサシン┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:カトリーヌ・ド・メディシス 【レベル】:35 【アライメント】:秩序/悪┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:10 【耐】:10 【敏】:10 【魔】:30 【運】:00 【宝】:70┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:殺殺殺 【貯蔵魔力】140/140 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ / / / \ , ' / { ヽ / { ./ 八 ./// l/ i |\ . ', イ / ′| | {\ミ=一 } ′. r 、八 }、 ハ ヽ . } | | i弋ゥ ヽ / -‐‐} i 、 r.i n | | { }/弋ぅュ 、 } | i\ 、 | | }/ニニニ廴_ .八 个ー .. `冖´ リ ハ | \ |,斗ニニニニニニニニ=‐‐- ____ { i八 ト 、 ー=彡 } ノ \ /ニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニ|‐‐---‐‐ | l _\ ヾ > ィ ノ/ \ r─、ニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニL _ __| |/ } ー‐ ァ< / \ ´ \ ヽ  ̄`ヽニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニニ<ニニ| \ l /.//___> ..、 \ ハ ハ ` ̄ ̄ ¨⌒ ‐-=ニニニニニニニニニニニ/i八 >‐--‐<-‐…-、\ \ | { i  ̄ ̄\∠ニニニニ>‐-=ニ ___ >-‐‐ \ ヽ \ / | , ´  ̄ ̄´ー一=ノ | iニ/ }ニニ-‐㍉ ∨/ ノ | ‐- . . / .o/ | |ニ{ /ニ>´ \} }.′ / | _ >=…=‐-{ _ / | |ニニ>二ム , ;‐…-\ .ノ / ノ} / _二_ ‐- ` 、 ‐- ′ ‐- . .  ̄i\ニ /; ; ; ; ; ; ;./ / / ! 〃 _/ニニニ> 、 ‐-\ . . ‐-<; ; ; ; _彡 ' / / | { ´_/ニ=-‐‐ヘニニ> 、 >‐- . イ ノ _/ ∨ニニニニ≧=‐- _ . . / | / r‐‐──一 ´_ ∨ニニニニニニニニニニ==‐- . . _ _ 彡 | ( ̄ ̄ ̄ ̄⌒ ´ __ノニニニニニニニニニニニニニニニニニニ==‐‐------‐‐‐=≦ニニニ|¨⌒ `¨¨¨¨¨¨¨¨ア ., -‐ ¨´ __(ニニニニ/ ̄ //  ̄ ̄ ̄ ̄了 ̄ ¨ -=ニニニニニニニニニニニニニ} / / /-‐=ニニニ\ニ/ニニニニニ//ニニニニニニニ/ ¨ ‐-=ニニニニニニニフ / / / `¨⌒ヽニニ)/ニニニニニ//ニニニニニニニ/  ̄ ̄ ̄´ ー-‐< ` ¨´ | | ̄´ニニニ二//ニニニニニニニニ{┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○気配遮断:E このキャラクターはアサシンとしての適性を持っているが、その本質は毒殺と虐殺に帰結するため、 気配遮断のクラススキルは効果を発揮していない。○自己保存:C このキャラクターは基本的には戦闘を得意とするキャラクターではない。 戦闘時、宝具使用後にシナリオ1度だけ、令呪を消費せずに撤退が可能。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】 マサカー・デ・ラ・サン・バルテルミー○今日は残酷こそ慈悲深きことなり ランク:A++ 種別:対軍宝具 消費魔力:100 生前のアサシンの命令の意図を超え、発生してしまったプロテスタントの虐殺事件。 この宝具を使用した際、無数の武装市民の亡霊がその場の全てのキャラクターに襲いかかる。 各キャラクターに対し【90-レベル】%の判定を行い、アサシンに成功されたキャラクターは撤退系スキル、或いは令呪1画を 自身か友好的なキャラクターが消費してくれない限り死亡する。 大規模虐殺の宝具であり、アサシンの人生の負の側面の凝縮。反英雄として呼ばれたアサシンの切り札にして汚点である。 なお、当然ながらアサシンとマスターは対象にならない。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ バーサーカー ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:バーサーカー┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:鉄腕ゲッツの盗賊騎士団 【レベル】:40+15 【アライメント】:秩序/狂┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:40+15 【耐】:40+15 【敏】:20+10 【魔】:10+10 【運】:00 【宝】:30┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:独独独 【貯蔵魔力】180/180 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ ___ _ .イ ! | | }ハ r ヽ_ { | |<`ヽ 八 '.ー' / ! l.イ ̄|\\/-‐ヽヽ, 、/ | __ | |.n | ヽ{ /jrくニ ノ / _.|/.LjT 〈 `ヽT人ノノヽrへ. -‐ヘ 〈_/ .L._.| /L≧x 〉イY .八 〉 〈__./.| .|)/ ̄二ニ=ァ{ .{Y∧ /〉 rく { ,! r 、| / ゝ/}人__ゝ ´ / __ ≧x.!/.! | || __ __ / //{/ /, 、 // Ⅵ ヘ`! ! | || ∨ ∨、 〈/ 人 ゝイ人_ ∨/,| ||ノ.! ハ 〉 ´ .X´/ / 〈// ハ | |ヽ二 ヘ \ /./ / V/{ l} | | / ヽ.// //ハ rv l .! .|_ ィ^ヽ、/ ヽ/rく) }/へ // 、 .| ! }/__} 、 / ヽ{ーヘ ヽ | {二i 〈/ / ! .| ム{_///ノ Y } 、_ノ | ノ | |} / / l/i⌒i `¨¨ ゝへ |∨ r ´ヽ、 | | /⌒ヽ /` | | `ヽ!_∨ハ_ノ 〉 | L./、 // / .| | rヘ∧ ノ 、 r 7〈 />.、 | | ヽ_Y `¨Y≧xノヽ ーゝ/ヽ、 イ ! ! {__ヽ__〉 / // ハノー' | ! .イ 〈// } .| | ヽ〃_/ 人_人 | | | | |.__.| ー‐一┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】 ――――???┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○鉄の腕の盗賊騎士団 ランク:C 種別:対軍宝具 消費魔力:0/80 このキャラクターの本質は群体であり、その特性として暗殺等の効果を無効化する。ただしその分、地力は低い。 ドイツ農民戦争において、農民側で参加した盗賊騎士、ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン部下の傭兵たち。 果たして盗賊騎士とまで呼ばれた欲深い鉄腕の騎士が、農民側について負け戦に身を投じた理由は何だったのか。 そしてそれに付き従った彼らは、何のためにその背を追ったのか。 ―――追加効果として、このキャラクターは魔力80点の消費ごとに暗殺等の戦闘以外の効果で死亡するキャラクターの死亡を 1名分だけ回避することが可能。 ただし、この効果で魔力が-100を超えた場合、このキャラクターはその場で消滅する。 或いは、それが本願とでも言うように。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 夢のセイバー ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:夢のセイバー┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:ダルタニアン 【レベル】:50 【アライメント】:秩序/夢┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:40 【耐】:35 【敏】:35 【魔】:35 【運】:00 【宝】:35┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:三 【貯蔵魔力】100/100 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ r‐-ュ、_ ,ィ _ 、 _ /l { / ,イ/ //  ̄.ヽヽムゝィミ }_ 〈/ ./ニl ト、_, イゝ/ ムー/ ̄ス \ ./ |rムヽry///ー/-/ ヽ〉 ___ r<´ ̄ ̄ ヽ〉/⌒ 〈/寸〈_,/ |ミヽノ / / \. ________________l―――<l〈〕ト、 / | | Λ―<r<{r / ̄ ̄ ̄\, / 〉 <´ー―――― 、______/ ̄ ̄ヽ__l三l二l__/l_マ | |∠二7ニ〉 r'| / / / _/ ` ー――――――――――――――‐r| |―<>― ヽ} V〈__ノ三ヽノ/ \/ / ̄´ / / | \三三二二ニ〈ト、ヽイ/l l_l_「 / / / ̄〉 / l | r―‐|__∨_|-}―l |―/ / / / / ̄l | | rl_,ィェlヽr―f rェュ>/ 〈 \/ / // / ,ィム  ̄´| | |ニ=-/ / / ̄ / / // `,ー 、 |_ | | r‐| . / / _/ / / ///`ー|__l_l-〈 | ̄´ / / / 〈/\ `ー´// ヽ| / / / /ヽ/ / // | / /___/ /\/ヽ ∠/ ̄ | / /\,_ / / /ー7 | / /ヽ ヽヽ ヽ /_/_/´ | / /、. \ \〉 / ヽミ/ 〉 | / / ヽ ヽ ヽ /ヽ/>―〈 \/ `ー<ニ≦ヽ\ /ヽ// r―'´ \ ヽ Λ |ヽ< ̄>´ 〈\ノ_Λ ` ̄ ̄ \|<ヽ/ \ ヽ  ̄ \ \ \_/ ヽ \ 〉 `ー―'┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○銃剣士:C このキャラクターは戦闘時、筋、耐、敏のうち好きなステータスを+10する。 戯画的に描かれた英雄としての属性。非常に高い対応力を誇るが、やや馬力に欠ける。○対魔力:B 「魔術」のスキルによる敵陣の勝率補正を、1つのスキルにつき最大15%まで軽減する。 クラス補正による魔術に対する耐性。○主人公補正(偽):D 三銃士という英雄譚において、主人公的な扱いをされたがゆえの属性。 仲間の人数×5%の勝率補正を持つ。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○我ら、銃士隊!! ランク:B 種別:対人宝具 消費魔力:60 このキャラクターは戦闘時、仲間に三銃士―――アトス、ポルトス、アラミスが居る場合に、全ステータスと勝率を 1体につき+15する。 しかしメアリー・スゥ・ブラッドサッカー・クリスティの創作として呼ばれたのは彼のみであり、他の三銃士はこの聖杯戦争に 存在していない。 ちなみにこの世界線においては三銃士は創作であり、アラミスに近い属性を持つ銃士だった少女が受肉していたりする。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 夢のランサー ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:夢のランサー┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:孫悟空 【レベル】:50 【アライメント】:混沌/夢┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:40 【耐】:40 【敏】:50 【魔】:30 【運】:00 【宝】:50┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:猿 【貯蔵魔力】100/100 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ rjメ rjメ rjメ rjメ rfメ rfメ rfメ xャセ才 / /⌒7 / . / / rf´ . xイ⌒¨ア __ ____ rf尤カ'゚f斤于ァ'// )x / // rェェェェェェェァヒi朮朮ア / //廴// / `ー‐zrz廴L斗匕㌘メj //沙'′. / ,rtffア └-x螽x〉f[ ̄〕〕 . / fハ ,rtfffア 【{i帶i}】[i ψjル包/ ___ jt〕 f乞f乞f乞f’ ゚ャ蠢ォ゚ [i /三三〕 / rfれj〕 rヒア fヒ'′ 脊(__[[/jア~¨¨〔/ Vア⌒';, rヒア )仇 †_」[辷〔_㌻7I升 /〈/ /∧ rヒア r匕ア .. -=ニ¨¨戎以Iト{ |i i i| / 〈/ / ゚。 rヒア rヒア '′. 戎廴」圦 |i i i| / \ ゚ f'ア rヒア xf’. x仇|i 「∨〕|i i i|/ V//, f'ア f'ア f⌒ヽ , rf⌒丈ア′ |i 「¨Ⅵ|i i i| ttri㌻カ fア f'ア' rzt仗__少'" └─‐'’ |i,ノ } |i i i| f〉 ,圦_ fア f'ア } |i i i| ^V¨¨マ′ fア fア _]ニ[_,} {j ヽ ,fア fア ,ィf{_j{_j{_j廴 V竺竺! ;ア fア 〈/^j」^j」^j」^i〉 ,fア ;ア┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○仕切り直し:C このキャラクターは戦闘敗北時、1度だけ撤退に令呪を使わずに離脱できる。 ただし、この能力の有効範囲は自陣営のみであり、共同撤退には使えない。○怪力:A 一時的に筋力を増幅させる。魔物、魔獣のみが持つ攻撃特性。 このキャラクターは怪物としての属性を帯びており、それらに対して特効を発揮する効果を受ける。 天界相手に大暴れしていたころの、悪猿としての孫悟空。そのため、属性としては神仙ではなく怪物としての側面が強い。 しかし孫悟空という存在は、およそ今次の聖杯戦争で考えうる最大レベルの怪物である。 戦闘時、【筋】ステータスに+20。更に【筋】ステータスで比較が発生し勝利した場合、勝率に+20%。○対魔力:C 「魔術」のスキルによる敵陣の勝率補正を、1つのスキルにつき最大10%まで軽減する。 クラス補正による魔術に対する耐性。ランサーの場合、その数字は平均的。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○分身の術 ランク:A 種別:対人宝具 消費:100 このキャラクターは自らの体毛を用い、自らの分身を作成することが可能。 このスキルは1ターンに1回しか使えず、分身と別行動することは不可能。(同じ場所で別戦場に参加する事は可能) 分身体はこのキャラクターとほぼ同じステータスを持つが、宝ステータスは0であり、スキル等は使用できない。 また、レベルは50にまで劣化する。○如意棒 ランク:B 種別:対人宝具 消費:30 伸縮自在の鉄の棒。色々な逸話が省略された童話からの引用なので、神秘としての度合いは高くはない。 ―――が、それだけに燃費がよくなってしまっているという、メアリー・スゥの歪んだ認識がプラスに働いた例。 戦闘時、【筋】【耐】【敏】のうち好きなステータス1つを+10。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 夢のアーチャー ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:夢のアーチャー┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:ウィリアム・テル 【レベル】:50 【アライメント】:秩序/夢┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:35 【耐】:35 【敏】:45 【魔】:25 【運】:00 【宝】:30┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:果 【貯蔵魔力】150/150 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ ィュ、 .ムi三≧ ,,ィア''マ三ミ}≧ュ、.l三ミ ノ三リ三三lュ、{三ムェ>彡三三リ三≧ュ、 _ `マll三≧寺三ア三三三≧ュ、 ミアiュ、 ヽr i_ ./ マ三三>イマ三三三三三三≧マ三≧、 /`''-i .lミ.Xヽ _ `´ ` マ三ム寺三三≧ュマ三>L_ム .{ヤ テd } / l l ` マ三三三三三三ミヽ マ i. `^イヽ/ }, - }- 、 ` マ三三三三ム >、lェ三ヽ--ヽェェ/_ム {ィツ ` マ三三j ` iミi イ ̄}、ヽィェュ i {{{{ヽ > iミトィィィァャ、 ィ、.i `ニヽ>´ ̄ ̄ T 」ミア{.{.{.{ム/ フ彡' ママ,, ――t―' }―‐}`''ヽ― ´ } /彡>´ .j i .l ヽャェェァ」}}ミュ、 /-、 L l / マ--' `'''''' ./ ̄マミ/ /≧ 、 }イ .l ノ\ ,,/ / j´}__/マ 三>\ `´ ム // / //} \_ {ミュ、ィ 、 l l i/У ノ ,≦≧ュ、ノヽ }l i/ ̄i / / 〈 {´ ̄ヽ}_ i | /l ./ / マi l У´ /  ̄ ./ 〈 } { >´ヽ /< / { ` ´ ,ノ / ヽ,-〈 / ヽ_,, ィ ´ \ У\ / '' L 《__ヽ_二二二≧ / / } 、 /.ム┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○弓術士:C このキャラクターは戦闘時、敵陣ステータスの合計値1つを-10する。 神業的な弓の腕前を誇る―――はずであるが。弓術の心得のないメアリーによって具現化されたため、 一流ではあるが神業とまでは言い難いレベルに収まっている。○直感:C 戦闘時、自身にとって最適な展開を“感じ取る”能力。 このキャラクターは常に+10%の勝率補正を持つ。 また、初見相手のみに効果を発揮するスキルは、このスキルのランク以下の場合無効化される。○単独行動:C このキャラクターの貯蔵魔力限界を「+50」する。(計算済) また「魔力の供給不足」によるペナルティを不足分「-30」ごとに「-10」に変更する。 また、単独での戦闘時に勝率に+15%のボーナス。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○Shot The Apple ランク:C 種別:対人宝具 消費魔力:3×対象のLv このキャラクターは戦闘時、“非マスター”かつ“非サーヴァント”であるキャラクターを戦場から除外できる。 その際に必要な魔力は表記の通り。また、排除されたキャラクターはフレーバーの範囲で負傷するが、今後も問題なく行動可能。 物語的に重要性が低いと判断したものに対する排除能力である。―――貴様の価値は、リンゴ程度だ。 特に重要度が低いトループ相手には、消費魔力は半分で計算される。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 夢のライダー ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:夢のライダー┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:金太郎 【レベル】:60 【アライメント】:秩序/夢┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:60 【耐】:60 【敏】:30 【魔】:00 【運】:00 【宝】:60┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:金 【貯蔵魔力】100/100 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ マ、 // マ、 , -――‐-、_ .// マ、 i/ェェェェェェュ } // /二ヽ、 マl| / マiY/ , -― '''''}ヽ- '三ュ.、 ,,イヽマ / ヽ }// i_ / i { ̄ ̄ヾ\ } ./--| マ{ .{o .o}、 }/ ノ―ヽ_ / .ヽ l f - } } l |_マュ 、 lf ̄} { ヽュ` ''ィ / }/.r―、.| ≧ - _ __ / / ヽi i i i l | .} `マュ、 {{、O } ヽ>、,.<アノ l O ノj(≧ェェ,,,,,,,,,,、― ヽム / ./ } .l l .i l..| l `マ.、 `ヽ{i´ヽ .ニ }' `} .ア< _  ̄ ̄ ̄ `ヽ {.}.| / ,、_/ .i .l l .i l .| l .`ヽ_マヽil i'.`i il .i .}ノ __ ̄'''''''''''ヽ .l | j l / マ l .{ .| } .l | l> 、 l アマiヽ`{ }´{ ノ/<  ̄`ヽ マ マ i/ i i } |  ̄ j l l / ̄ `ヽ≧ 、 }、<イム--、 , <> ヽ.i  ̄ ..i / < ̄ ̄>マ` ――― ´l/ |.| > 、 マヽ `</ , -、 l| / / __ `ヽ ムi i/、 / i ̄ ̄≧ ― Y ´ ヽ_____i| / /. / / < = - 、 ヽ / `i .|-、 }>、 ,イ i l ̄≧― 、- l> ´ // ./ /三三三三、 .マ/ ,ュ L ヽ i { .i / ̄≧―.ャャ マ /ィ'''''''''' 、 { ./i .i i三三三三三ミ l { l / ヽ .|.l イ i 二≧―ャ 、ヽマ .l l / /マi .マ三三三三三 i >― ´ l |/ / .》― _ ̄マヽヽ.マ \ // ノ.ママ .寺三三三ア / ´ l l |.lマ´ />― ヤ― -、 .マヽヽ\ ヽ>´// > 、 ヽ\  ̄二二 ' // l .l ヽ \ / マ l マ マヽヽ < / / >、 `< ̄ ̄ /ミフ /i .{ } /ヽ ヽ i マ マ.ヽ ヽ ≧}// / / ` ''.}}''''''''/ {-' } j` マ ヽ ./彡二二≧ } \≧― // < /./ }} / / i j ヽ ヽ'/ ヽ  ̄フ/ ` < ././ マ、 / i l ノ j \ / , ≦ ェ -、 > ´ マヽ―、 ヽY // / / , ィ十-レ  ̄ ̄マ ヽ ヽ>― 、、 ヽ ヽ / // マイ' / ./ / .j i _マ ̄ ≧ -.} ヽヽ / .//― 、>´ / /__ j j ./ .i `マ___l / _ // ̄` ― ´ /イ }./ / .i .i />―< >、 / /イ // / .i┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○騎乗:C+ このキャラクターは戦闘時、初手の選択ステータス合計値を+10する。 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、野獣ランクの獣は乗りこなせない。 また、宝具発動時にはこのスキルの効果は倍化する。○対魔力:C 「魔術」のスキルによる敵陣の勝率補正を、1つのスキルにつき最大10%まで軽減する。 クラス補正による魔術に対する耐性。○剛力無双:C いわゆる怪物系の『怪力』スキルとは違う、人間や正英霊の持つ豪腕によるスキル。 戦闘時、【筋】が選択された場合、そのステータスを+10。 怪力スキルほど強力ではない反面、使用者に怪物としての属性が必要ないため、扱いやすい。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○鉞担ぎ、熊に乗り ランク:B 種別:対軍宝具 消費魔力:80 このキャラクターは戦闘時、この宝具を使用することで【筋】【宝】ステータスを+30し、勝率を敵数×5%できる。 この際、敵にトループが居た場合、数を“2”として扱う。 金時童子―――この聖杯戦争で本来呼べるはずのない格の存在の英霊の持つ、大熊と巨大な鉞という宝具。 ただしこのサーヴァントは正確には英霊ではなく、メアリー・スゥ・ブラッドサッカー・クリスティの創作であるため、 その英霊たる性能を存分に発揮できるものではない。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 夢のキャスター ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:夢のキャスター┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:シンデレラ 【レベル】:40 【アライメント】:中立/夢┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:20 【耐】:20 【敏】:20 【魔】:60 【運】:00 【宝】:40┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:硝 【貯蔵魔力】100/100 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ \ ヘ ヘ / '/ / | i 、 // '/' | | ∨ ,/ ノ' |. /'| |' . | く / i| / | | ', |i \ / _ , ∧ \|i辷i|/ ∧__ ヽ 乂 /i ヘヽ∧ ,i 〔 i_i 〕 i、 // r 、 { \ノ _ __ -={ゝイ ゝイ/ i '/__i_〕I Y I〔_{__Y { ゝイ ≧y-v-=---- 、__ / Y { 辷{ 从  ̄_ {___Y |___|≧≦|_| Y乂 _ ̄r、从 辷} {乂 { Y ヽ_ _r≦ヽ彡-- ⌒ -  ̄`¨´ 乂__彡' ̄li | { || } | i| 乂__彡' ⌒ ̄`¨¨¨¨´ --=彡 ≧=s 、 -=彡イ} / /ー\__/ー '/, }ハ}⌒ / / 〕乂乂〔 '/, / /i ⌒V,、 ⌒ rv⌒ヽ/, / イ_ | 八ゝ=彡 ノ ハ ヽ, / ノi;| __Y i ∨ i 〔__ {| . {∧ /' | / Ⅵi |i | ハ i \ 、 |i Ⅵ |i | , i | \ j |≧≦ = ≧≦li l | |、_____/| |i  ̄ li ∪ Ⅵ ̄ |∧___彡| Ⅵ |i  ̄ , |i / i |i , | i i |i i ハ.i j |i r | |i 乂ノ|i | | | 乂__彡i i j rァ |乂乂/ 乂,彡'┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○魔術:C 戦闘時、【魔】ステータスが選択された場合、敵陣営の勝率を-10%。 “おまじない”が何故か呪殺になってしまう、悪意ある解釈をされシンデレラが持つ能力。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○シンデレラ・タイム ランク:B 種別:対人宝具 消費:60 このキャラクターは戦闘前にこの宝具を使用することで、“王子様”と見定めた敵1体と1対1の戦場を 構築することが可能である。ただし、この宝具の対象は非サーヴァント、かつ単身でなければならない。 この宝具の厄介なところは、選択される相手がランダムであるが、マスターという本来非力な存在が サーヴァントとの強制的なタイマンに持ち込まれるということ。 ただし、時間制限があるため戦闘に敗北しても、令呪1画で重症(聖杯戦争中、全ステータスが0、 戦闘参加不能)というギリギリで撤退することが可能。通常の撤退も可能。 また、男性は選ばれる確率が2倍となる。 ―――悪意ある解釈をされたシンデレラ。つまるところが、ヤンデレラ。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 夢のアサシン ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:夢のアサシン┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:アリババ 【レベル】:40 【アライメント】:混沌/夢┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:20 【耐】:20 【敏】:40 【魔】:20 【運】:00 【宝】:40┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:盗 【貯蔵魔力】100/100 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ ,--、 iヘ,ヘ. ,イ ,_ /∧i!i__ .i!-ヘ ヘ / // .___/〈',禁i ヘ i! ヘ ヘ ,ィ| | |. /、 ヘ二i ヘ i! `∧. / //i ., / ',, ───、 .i!______i! ', ', .∧ / //.//,'i! _ ./ /. . . . . . ´. .', .i! = = = = = =ヘ i`ヽ、.∧. / //.//, i!_, - ‐≦ ヘ /. . . . . . . . . . . ',.i!_./`ヽヽ,-、_||, -、ヘ.∧ / i,' .i,' .i!_, = = = =. ヘ /,. . . . . . . . .__./´//ヽ Yl´ヽ-i⌒ヽヘ ∧ .' .i!_, = = _ ,ィヽ、--二ヽマ,、. . _;;l___l,// _ , //イ. . . |. | ヘヘ} }、 .∧ .' i!、, - ´ , ゝ.'/ヽ、 _ヽ、_マム´l´`lヽ,ィ,ィ´/イ/\ ノ ノi iヘ 〉イヽ .∧ /ヾ, i i!、_ヽ/ヘ 〉 i, '. ヽ、i i-iヘ_、}_}ィ'ィ´l.ヘ/ _,ィ'' , |-イi | |イ〈'ヽ i !i l i! l lヘ ヘ´\i '. ',i i iヽゝ_イイノ、 ヘ/、 ムィ、l ヽ| | |、',_ ./. ゞソ /´/ l l ヘ_ヘ`´/、 ', __, i i; ヘゞ-'ィィゝ 〉〈ヘ ヘ / 彡ヘ | | ,,/ ヘ. / / ,!;ィ, へ ヘ i 〉ヘイ_, ィ´、_ゝ 〉、ヽ. . . マ. .ヘ`ヽヘ; ;/;|,ィ/ 〈. . / / ;ィ;_;ィ ,ィ_ゝ′ }ヽヘ. . . !、≦ _. . マ. . .i. ノ ゝィ、 _ ´',| |、 ヘ. / ∧ヘ_!i_} _,ィ´ i!i`ゝノ、〉ヽト、__ゝ____ヘ_マ_ノ / /´ _イ ',| |、 ∧. . / /i! ヘ ヘi´ i!i ヘ_>'、ム-〈// 〈 | ノ、 .,,ィ'´ィ´ 〉', i!ヘ ∧ / / i!, .ヘ ヘ i!、、 ミ;;; >,_ヘ--ゝ,_,-==ヽ.,,ィ''´ィ''´`ヽ .i! ´ ヘ ヘ 、 / i! \ \ .i! ヘ.ゝ_-= ,___ム-l_/,l .,ィ'´,ィ´ヘ ._ノ ノ i! ヘ ヘ. /i! i! .,' . .>,_.`ヘ;. i!i! ,ィ;、 /===ヽl l ,ィ'´,ィ'´ 〉ヽ 、_,イ i!_ ヘ. i! ;ィ' .八 . . .,_ >〉;i!_ ゝ' /´ィ⌒',,ィ'´ィ'´ ヘ/_∧ ヘ ヘ ヘ i! i! ゝ、_ ''_,ィ' 7-=_マ.i iゝk}、'ヘ _ ,.ヘ .| .∨', _ ,<´. ! i!  ̄ __,//_,ィ´ ,{=} }-〉-i ', ./ / ∨', _ , <´ / i!, _ , <-イ 圭イ ゝ-ィ | | / ̄|/ / _,ィ´ ̄ ̄ _,イ i! _ , <圭圭圭_,,< |ヽー-イ ,'l`--|',./,ィ´ .x '" ヘ ;ィ' _ , <圭圭圭圭_,< ヘl ̄''l// | _ _,イ .x '" ヽ; <圭圭圭圭圭,< _,,|_ -‐ ''' .x '" 圭圭圭圭,< _,,, -‐ '' _,,,-‐'' 圭圭圭i!__ __ , < _,,,-‐'' 圭i! _,,, -‐ '' 圭i!___ _ _,,, -‐ '' 〉|__ノ、 圭iトー――‐= '  ̄ i!i ヘ 〈ヘ /i ヘi!`-i | ヘ__,i | |__|/┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○気配遮断:C 戦闘時、相手が初見のキャラクターのみの場合、勝率に+20%の補正を得る。 アサシンとしてのクラススキル。気配を遮断し、不意打ちを可能とする。 一度見せた相手には効果が無くなるが、初撃の奇襲としての効果は高い。○戦闘続行:C 使用パラメーターの確定後、ステータスのランダム選択を振り直すことができる。 この効果は1戦闘に1回まで、かつシナリオ通して1回までしか使用できない。 瀕死の傷でも戦闘を可能とし、決定的な致命傷を受けない限り生き延びる。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】○アリババと盗賊 ランク:B 種別:対人宝具 消費魔力:令呪1画(+100点) このキャラクターは戦闘前、或いは自分が居ない場所での戦闘終了後にこの宝具を使用することで暗殺が可能。 ただし、自分が居ない場所に介入する場合は+100点の魔力消費が必要となる。 アリババは強欲な兄であるカシムの死を切っ掛けに長者として栄えたが、悪意のある見方をすればアリババが カシムを謀殺したと見ることも出来る。 このアサシンはその穿った見方の結果生まれた、謀殺と暗殺のアリババである。 暗殺成功率は{20+(自分のレベル-相手のレベル)}%。最低値は20%。最大値は40%。 また、サーヴァントを対象とする事は出来ない。 この宝具での暗殺は、令呪1画か撤退・介入スキルの消費により無効化出来る。┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 夢のバーサーカー ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓ ≪クラス≫:夢のバーサーカー┣━━━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━┓ 【真名】:オオカミ 【レベル】:40+10 【アライメント】:混沌/夢┣━━━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┳━┻━━━━━┳━━━━━━━╋━━━━━━━┓ 【筋】:40+10 【耐】:40+10 【敏】:50+5 【魔】:10 【運】:00 【宝】:00┣━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┻━━━━━━━┫ 【令呪残数】:狼 【貯蔵魔力】100/100 【魔力供給の不足】:なし┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ __ __ ___/ []_/_[]_ ^\ / ̄ ̄ ニニニ / /_(_(_(_(_(_(二二二二二(C)二(C) __ く\ \ _ 〈_ ニニニニニ {__{__===={_}=={_}. {__\ \\/\_\ \(__)ノ ̄\__/_/. \ \\___ ∨ 〈/\_\ \___// // \ `¨¨¨¨¨¨¨´ \ 〈\_\ { (__))<{_}. ` . //「 ̄ \ ∨/\}∠二二二二]__ ___  ̄ /〉| ト、\/Y⌒Y }\ _____ \ __\ _〈/ |= =| } /八___ノノ /∠二二二}// ̄ ̄}| _ _. /l_{/〉 |__|_ノ {_{ 〈 ,/ // ̄ ̄ ̄/ ^v──┴‐- ._//ニl / |. /_/〈/ }}二二}} [_] L/ // /\ \ ̄ ̄\____,//,ニ|ニ>|. 〈_〈_{_} / (/)三) (_)(/)) //__ _/ `<|_____,/ //二ニ| \\. V/ /二二/  ̄/ ̄`¨´ // ̄  ̄/\ ,//// \ 〈/ニニ,/\  ̄/ ̄/ニ7. {}三)\/二二/ ,/{_|_|_l__{_{______,/]二| _}| | | \ ̄ ̄\ 二二_/ニ/ [__] [_} ̄ ̄ _{___}/冂}八 x==ミ、/ /\/ / // }___/}ハハハ∨ハV | | | | // |_,| | | | \ {{ } }/=,/ \\\___/ \ \ァ く、 | | | l┐ {_{__| | 「 ̄\ {__, ==彡{=={ /  ̄ ̄[ ///|ニニ/ \ }vvv}. {}三厂〈二〉\ \[| | {二二}  ̄ ̄ ̄ ̄└──''"´ ̄ ̄ `マ \ `ー─ {ニ{二{二}二} (/)三}{二二}ニ) `\\// [_]__. V ∨ ∨ ∨ /| ̄〈二〉\ (/)ニ) // \_ | ̄| ̄| ̄| ̄|  ̄ └〈__[二{ \ |∧|∧|∧|∧|  ̄ ̄ V V V V┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【スキル】○怪力:C 一時的に筋力を増幅させる。魔物、魔獣のみが持つ攻撃特性。 このキャラクターは怪物としての属性を帯びており、それらに対して特効を発揮する効果を受ける。 戦闘時、【筋】ステータスに+10。更に【筋】ステータスで比較が発生し勝利した場合、勝率に+10%。┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫ 【宝具】 ―――???┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
https://w.atwiki.jp/go-syuin/pages/38.html
千葉県 市川市:14寺拝受済/14寺拝受可能 寺院名称 所在地 拝受日 備考 清岸寺 伊勢宿4-8 平成30年2月9日 光林寺 押切12-20 平成30年2月9日 大徳寺 下新宿5-13 平成30年2月9日 正源寺 河原3-6 平成30年2月9日 源心寺 香取1-16-26 平成30年2月9日 了極寺 高谷2-16-4 平成30年2月9日 回向院別院 国府台5-26-12 平成30年2月16日 西棲院 国府台5-26-60 平成30年2月26日 淨閑寺 本行徳23-34 平成30年2月9日 教信寺 本行徳38-18 平成30年2月9日 徳願寺 本行徳5-22 平成30年1月29日 法泉寺 本行徳7-22 平成30年2月9日 *無人の為、清岸寺で拝受 善照寺 湊18-20 平成30年2月9日 法伝寺 湊7-1 平成30年2月9日 船橋市:4寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 最勝院 本町3-35-5 平成30年2月28日 東明寺 東中山1-1-8 平成30年2月15日 専修院 本町3-35-3 平成30年3月9日 御朱印帳を寺院に預ける形で対応。 藤原観音堂 藤原町3-2-16 平成30年2月19日 御朱印は植草せんべい店で拝受 大念寺 馬込町1120 拝受不可 釈迦殿 馬込町1200 拝受不可 浄勝寺 本町3-36-32 拝受不可 松戸市:2寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 松竜寺 松戸1505-1 平成30年3月2日 東漸寺 小金359-1 平成30年11月15日 善光寺 五香1-3-2 拝受不可 來迎寺 松戸2175 拝受不可 般舟寺 二ツ木128 拝受不可 浦安市:1寺拝受済/1寺拝受可能 寺院名称 所在地 拝受日 備考 大蓮寺 堀江4-14-2 平成30年2月9日 東京都 江戸川区:10寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 安楽寺 北葛西1-25-16 平成30年3月13日 法蓮寺 北葛西4-5-18 平成30年3月13日 清光寺 東葛西3-3-16 平成30年3月13日 泉福寺 東瑞江2-36 平成30年3月14日 安養寺 東瑞江2-50-2 平成30年3月14日 大雲寺 西瑞江2-38-7 平成30年3月14日 金蔵寺 江戸川3-23-4 平成30年3月14日 誠心寺 江戸川3-50 平成30年3月14日 法龍寺 船堀6-9-30 平成30年3月16日 法然寺 船堀2-10-10 平成30年3月27日 源法寺 東小松川2-16-19 拝受不可 智光院 東葛西3-14-3 拝受不可 明福寺 江戸川3-8-1 拝受不可 浄興寺 江戸川3-22-5 拝受不可 西光寺 江戸川4-24-8 拝受不可 長谷院 松本2-15-1 拝受不可 葛飾区:1寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 大秀寺 高砂7-13-4 平成30年5月28日 大光明寺 高砂2-11-4 拝受不可 廃寺の極楽寺を継承。 源照寺 高砂7-13-34 拝受不可 江東区:2寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 重願寺 猿江1-11-15 平成30年4月2日 玄信寺 深川2-15-20 平成30年11月22日 品川区:1寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 行慶寺 戸越2-6-31 平成30年6月27日 墨田区:2寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 回向院 両国2-8-10 平成30年7月2日 霊山寺 横川1-3-22 平成31年2月5日 台東区:1寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 榧寺 蔵前3-22-9 平成30年11月29日 文京区:1寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 源覚寺 小石川2-23-14 平成31年1月24日 北区:1寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 正光寺 岩淵町32-11 平成31年1月18日 港区:4寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 梅窓院 南青山2-26-38 平成30年9月27日 天徳寺 虎ノ門3-13-6 平成30年7月27日 浄土宗江戸四ヶ寺 栄閑院 虎ノ門3-10-10 平成30年7月27日 浄土寺 赤坂4-3-5 平成30年7月27日 新宿区:1寺拝受済 寺院名称 所在地 拝受日 備考 太宗寺 新宿2-9-2 平成30年5月1日 御朱印拝受時間は17時まで。3種類のご朱印全てを拝受するためには3回訪問するようにとのこと。 静岡県 (1寺拝受済) 寺院名称 所在地 拝受日 備考 誓欣院 熱海市上宿町6-3 平成30年4月12日
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/1966.html
御朱印日誌14 平成23年1月から3月までにいただいた御朱印です。★印の神社仏閣では御朱印帳を頂きました。 H23.03.30 誕生寺、地蔵院、中山神社、出雲大社美作分院、徳守神社、愛染寺 H23.03.26 宝厳寺、都久夫須麻神社、観音正寺、桑実寺 H23.03.21 露天神社、太融寺 H23.03.20 闘鶏神社、法輪寺、海蔵寺、本正寺、道成寺★、藤白神社、禅林寺、蓮花寺 H23.03.06 足立山妙見宮★、小倉八坂神社、篠崎八幡宮 H23.03.05 住吉神社、亀山八幡宮★、赤間神宮 H23.02.27 坐摩神社、難波神社、させん堂不動寺、四天王寺、四天王寺庚申堂、一心寺、阿倍王子神社、大依羅神社、あびこ観音寺、荘厳浄土寺、住吉大社 H23.02.26 護王神社、白雲神社、宗像神社、平安神宮、知恩院★ H23.02.20 等覚院、等々力不動尊、満願寺、浄真寺、金蔵寺、真福寺、平間寺、平間寺不動堂、平間寺薬師殿 H23.02.19 小網神社、松島神社、末廣神社、椙森神社、大安楽寺、身延別院、薬研堀不動院、市谷亀岡八幡宮、鳩森八幡神社、森厳寺、北澤八幡宮★、世田谷八幡宮、松陰神社、教学院、世田谷観音、西澄寺、五百羅漢寺、瀧泉寺、成就院 H23.02.18 牛天神北野神社、伝通院、水天宮★、神田神社、湯島天満宮、心城院、妻恋神社 H23.02.17 穴八幡宮、放生寺、宝泉寺、水稲荷神社、早稲田観音寺、高田氷川神社、南蔵院、金乗院、永代寺、深川不動堂、富岡八幡宮、法乗院、霊巌寺、正覚院 H23.02.13 少彦名神社、寝屋川八坂神社、四條畷神社、野崎観音、枚岡神社、関西浅草観音、教興寺、大通寺、元善光寺、岩戸神社、梅岩寺、来恩寺、恩智神社、感応院 H23.02.12 正雲寺、飛騨護国神社、宗猷寺、善応寺、素玄寺、大雄寺、雲龍寺 H23.02.11 高山別院、桜山八幡宮、飛騨総社、飛騨国分寺、水無神社、飛騨天満宮、高山善光寺 H23.02.06 率川神社、高林寺、奈良県護国神社、手向山八幡宮、東大寺二月堂、東大寺不動堂、宝山寺 H23.01.29 わら天神、鹿苑寺、上品蓮台寺、建勲神社、玄武神社、大徳寺、大徳寺大仙院★、大徳寺総見院、大徳寺高桐院、大徳寺玉林院、大徳寺龍源院、今宮神社、常照寺、源光庵、岩戸妙見宮、光悦寺、神光院、上賀茂神社、上善寺、上御霊神社、晴明神社、神泉苑 H23.01.16 文子天満宮、市比売神社、方広寺、豊国神社、三十三間堂、新日吉神宮、香雪院、三嶋神社、隆彦院、若宮八幡宮、日體寺、両足院、正伝永源院、安井金比羅宮、青蓮院植髪堂、青蓮院★、八坂神社 H23.01.09 徳寿寺、宝寿院、厳島神社、大願寺 H23.01.08 熊野神社、聖護院、金戒光明寺、岡崎神社、広隆寺、妙心寺麟祥院、東寺★ H23.01.07 善通寺御影堂★、善通寺観智院、讃岐宮、中野天満宮、東福寺 H23.01.06 子嶋寺、大村神社、宝蔵寺、弥勒寺、津島神社 H23.01.05 宝仙寺、多田神社、太宗寺、西向天神社、法善寺、厳嶋神社、永福寺、稲荷鬼王神社、経王寺、南蔵院、安養寺、善国寺 H23.01.04 常光寺、東覚寺、香取神社、普門院、亀戸天神社、龍眼寺、天祖神社、柳島妙見法性寺、水天宮社務所 H23.01.02 生国魂神社、四天王寺 H23.01.01 氣比神宮 -
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/368.html
唐書巻二百一十六上 列伝第一百四十一上 吐蕃上 吐蕃はもと西羌の系統であり、およそ百五十種あって、黄河・湟水・長江・岷江の間に散らばって住んでいた。その種族には発羌・唐旄などがあるけれど、まだ中国とは交通しておらず、折支水の西にいた。先祖は鶻提勃悉野(オデプゥギェル)といい、強力で智慧があり、だんだん諸羌族を併合してその地に拠った。蕃と発とは音が近いので、その子孫は吐蕃というのである。そして姓は勃率野(プゥギェル)である。ある人はつぎのように言う。「南涼の禿髪利鹿孤の系統に二人の子があり、樊尼と傉檀といった。傉檀が後をついだが、西秦の乞仏熾盤のために滅ぼされた。樊尼は残党をひきつれて、北涼の沮渠蒙遜に臣となり、臨松(甘粛省張掖県の東南)の太守となった。蒙遜が滅んで、樊尼は兵をひきつれて西の方黄河を渡り、積石山を越えてついに多くの羌族を手なずけ支配するようになった」と。 その民族の習慣では、勢力のあるものを賛といい、男を普というので、君長を賛普(ツェンポ)といい、賛普の妻は末蒙という。その官吏には大相があり、論茝(ロンツェ)いい、副将は論茝扈莽(ロンツェゴマン)といって、おのおの一人である。また大論・小論とも号する。都護は一人で悉遍掣逋(チェンチェポ)という。また内大相があり、曩論掣逋(ナンロンチェポ)といい、また論莽熱ともいう。その副相を曩論掣逋(ナンロンチェポ)といい、その小相を曩論覓零逋(ナンロンリンポ)、その小相を曩論充(ナンロンチュン)といい、おのおの一人である。また整事大相があり、喩寒波掣逋(ユルゲンパチェポ)といい、副整事は喩寒覓零逋(ユルゲンリンポ)、小整事は喩寒波充(ユルゲンパチュン)という。これらはみな国事を担当し、総称して尚論掣逋突瞿(シャンロンチェポグウ)という。 その土地は京師(長安)の西八千里にあたり、鄯善からは五百里である。強力な兵士は数十万で、国には雷電、風まじりの雹、積雪が多く、盛夏でも中国の春のようである。山谷はいつも地が凍結し、寒さは厳しく、その気に当てられるとたちまち息切れがして苦しいが、身体を害というほどではない。その賛普は跋布川のほとりにいるが、その川はまた邏娑(ラサ)川ともいう。城郭や住宅はあるが、これにはあえて住まず、毛織のテントを並べてそれに居住する。これを大払廬(プル)と称するが、数百人を容れることができ、そのまもりは厳重で、本陣はひじょうにせまい。部の人たちは小さな払廬に住まう。長生きするものが多く、百余歳になるものがいる。衣服はだいたい毛皮である。赤土を顔に塗ったのを綺麗だとする。婦人は弁髪してまといつけている。その器は木をまげてに皮を張り、あるいは毛織物をもって大皿を作る。麦粉を蒸し固めて腕を作り、羹や酪を満たして、器もろともこれを食う。また手で酒などを受けて飲む。その官吏の章は瑟瑟(宝珠)が最上で、金がこれにつぐ。金塗銀がそのつぎで、銀がこれにつぎ、最下は銅までいって終わる。大小の差があり、臂の前に付けて貴賤の区別をつける。家屋は屋根がみな平らで、高さが数丈にいたるものがある。その穀物には小麦・裸麦・蕎麦・治豆があり、獣類にはヤク・優秀な馬・犬・羊・豚がある。天鼠の皮は裘(かわごろも)とすることができる。独峯駝があるが、これは日に千里を走るという。その宝物は金・銀・錫・銅である。人が死んで葬うときには塚を作り、これを塗りこめる。 その行政には文字を用いず、縄を結び、木に刻みをいれて約束をする。その刑罰は、たとい小罪であってもかならず目を抉り、あるいは足きり・鼻そぎを行なう。また皮で鞭を作って笞うつ。感情のままに喜び怒り、定まった考えというものをもたない。その牢獄は、地を掘って深さ数丈あり、中に二、三年囚えてはじめて出す。その重要な客を迎えてするときには、かならずヤクを駆りたてて客にみずからこれを射させてのち、これを食料として贈る。その風俗としては、死者の魂をおもんじ、巫をすぐれたものとしている。山羊や羊に仕えて大神とし、仏教を喜び、呪詛に習熟している。国の政事はかならず僧侶が相談にあずかり、参加を待って決定する。多くの人々は弓刀を身につけて飲酒するが、乱れることは許されない。婦人は政治に関係することはない。元気のよいのを尊び、弱々しいのを賎しむ。母は子に礼し、子は父に対して傲慢である。出入りするには若いものを前にし、老人は後につづく。戦死することをおもんじ、代々戦死した家をもってすぐれた家柄とする。戦闘に敗けただらしのないものは、狐の尾を首にかけその恥を示し、かれは人中に並ぶことができなくなる。礼をするのには、かならず手を地面につけて犬の鳴くまねをし、二度身をまげて終わる。父母の喪に服するときは、髪を断り、顔をくろずみで塗り、黒い衣を着る。そして埋葬がすめば忌み明けとなる。 その兵を挙げるときは、七寸の金の箭をもってしるしとする。百里ごとに一駅あり、急に兵を動員するときは、駅の人は胸に銀鶻を付加し、それがはなはだ急なときには鶻の数を多くする。敵の侵入を知らせるには狼烽をあげる。その牧畜のやり方は、水や草を逐うてゆき、定まった場所には居つかない。その鎧は精で、これを着て身をつつみ、両眼のところだけ穴があけてある。したがって強力な弓や鋭い刃でも深傷を負わせることはできない。その兵法は厳格で、軍隊には輸送の食糧はなく、ぶんどり品を資材に使う。戦闘には、かならず前隊がぜんぶ死んでから後隊が進撃する。その四季は麦の熟する時をもって年のはじめとする。その遊びごとは棊・六博で、その音楽は螺貝を吹いたり、鼓をたたいたりすることである。その君は、臣下五、六人と友人になり、共命と称し、君が死ねばみな自殺して殉う。身につけたもの、玩弄物・乗馬はみないっしょに埋める。大きな冢を作り、冢の上に多くの木を植えて祭の場所とする。賛普は、その臣下と年に一回小盟をし、羊・犬猿を犠牲に献げる。三年に一回大盟をし、夜、いろいろの壇に供物をおき、人・馬・牛・驢を犠牲に献げる。だいたい犠牲はかならず足を折り腸を裂いて前に並べ、巫をして神に告げさせて、「盟にそむくものあればこの犠牲のようになるであろう」と言う。 さて、そののち君長が出て瘕悉董摩(ギェルトンマ)といい、佗土度(ラトド)を生んだ。佗土生は掲利失若(チニヤ)を生み、掲利生は勃弄若(ロニエン)を生み、勃弄生は詎素若(タグウニヤ)を生み、詎素生は論賛索(ロンツェン)を生み、論賛生は棄宗弄賛(チソンツェン)を生んだが、またの名を棄蘇農(チソン)、とも、また弗夜氏(プゥギェル)とも号した。その人がらは、意気盛んで才能あり、雄健で、つねに野馬や牛を駆り、走ってこれを刺殺するのを楽しみにしていた。西域の諸国はともにこれに臣として仕えた。 貞観八年(635)、吐蕃ははじめて使者を遣わして来朝した。天子は行人の馮徳遐をやって書を与え、いたわった。弄讃は、突厥・吐谷渾がともに唐の公主と婚姻していることを聞き、そこで使いをよこし、物をもたらして婚を求めたのである。しかし帝は許可を与えなかった。使者は、還って賛普にでたらめを言った。「天子は私を厚く待遇し、ほとんど公主を戴きかけたのですが、ちょうど吐谷渾王が入朝したところで、ついに不許可になりました。おそらく反間の策動を行なったからでありましょう」と。弄讃は怒り、羊同をひきつれてともに吐谷渾を攻撃した。吐谷渾は抵抗することができず、青海の北側の方に逃れ、吐蕃はその財産、家畜をぜんぶ取った。また党項・白蘭羌を攻めてこれを破り、兵二十万を統率して松州(四川省松藩県)に入寇した。そして使者に命じて金の鎧を献上させ、かつ公主を迎えたいと言った。また側近に言った。「公主が来なければ、わしは、よりいっそう深く侵入しよう」。都督の韓威は軽装して出城し敵をうかがったが、かえって破られてしまった。唐に服属している羌族は大いに乱れ、みな背いて敵側に応じた。そこで吏部尚書の侯君集を行軍大認管とし、達弥道に出動させ、右領軍大将軍の執失思力を白蘭道に、右武衛大将軍の牛進達を闊水道(四川省松藩県付近)に、右領軍将軍の劉蘭を洮河道に出動させ、ともに行軍管として歩兵騎兵五万をひきつれて討伐に赴かせた。牛進達は、松州からでて夜その屯営をみなごろしにし、首千級を斬った。 吐蕃でははじめ東方に侵入したときは、年々戦がつづいてその動員を解除できなかった。その大臣は帰国することを願ったが聴きいれられず、自殺するものが八人も出た。そこで弄讃ははじめて前途に不安をいだいて退却した。そして使者をよこして謝罪し、熱心に婚姻を願った。天子はようやくこれを許した。弄讃は大論の薛禄東賛(ガルトンツェン)をよこし、黄金五千両を献上し、他にもこれに適当する贈り物をつけ結納とした。 貞観十五年(641)、天子は弄讃に一族の女文成公主を妻した。江夏王李道宗に詔を下し、節を持して護送させ、館を河源王の国に建てさせた。弄讃は兵をひきいて栢海に屯して親迎の礼を行なった。そして李道宗に会い、ひじょうにうやうやしく婿としての礼をとった。また中国の服飾の美しいのを見て、小さくなって恥じいっていた。帰国して、その先祖にいまだ皇帝の女と結婚したものがないのを思い、公主のために一城を築いて後世に誇示しようと考えた。そして宮殿を建ててこれに公主を住まわせた。公主は国人が顔に赤土を塗るのをいやがったので、弄讃は命令を下して国中にこのことをするのを禁止した。またみずから毛織の衣服を脱いで白絹・薄絹を着、中国風にした。そして諸豪族の子弟をよこして国学に入学させ、『詩経』『書経』を習わせた。また、儒者で往復文書を司るものを派遣されんことを願った。 帝が遼東を征伐して帰ったとき、弄識は禄東賛を使いによこし、書を上った。「陛下は四方を平定され、日月の照らすところはみな臣としてこれを治めておられます。高麗は遠方にあるのを恃んで礼に従わず、天子はみずから司令官となって遼河を渡り敵の城を降し、陣を陥れられ、前に定めた期日に凱旋されました。鷹が空を飛ぶのが早いといっても、この速さには及びません。いったいは鵝のようなものであります。臣は謹んで黄金を練って鵝を作りこれを献上いたします」と。その金鵝の高さは七尺で、中に酒三斛を満たしうるものであった。貞観二十二年(648)、右衛率府長史の王玄策は西域に使となってゆき、中天竺のものに掠奪された。弄讃は精兵を出して王玄策に従わせ、これを打ち破り、捕虜を献上してきた。 高宗が即位し弄識を駙馬都尉西海郡王に抜擢した。弄識は書を長孫无忌に送って言った。「天子があらたに即位せられましたが、臣下に不忠なものがあれば、兵を指揮して唐国に赴き、ともにこれを討伐いたしましょう」と。それといっしょに金・琲を十五種献上し、それを昭陵にお供えした。それで賓王に進封せられ、厚く贈り物を賜わった。また蚕種や酒造りの人、碾磑などを作る工人を送られんことを願ったが、詔を下して許可された。 永徽の初め(650)に弄讃は死んだので、使者をやって弔わせた。あとは子がなく、その孫が立ったが、幼年で政治はとれなかったから禄東賛が宰相となった。 顕慶三年(658)に金の盆と金頗羅などを献上し、また婚姻を願った。まもなく吐谷渾が唐に内付したので、禄東賛は怨み怒り、精鋭の軍をひきつれてこれを攻撃した。そして吐谷渾の大臣素和貴は吐蕃に逃走し、その長所短所を教えたので、その国を破ることができた。慕容諾曷鉢は弘化公主と残った部落をひきつれて涼州(甘粛省武城県)に走った。天子は涼州都督の鄭仁泰に詔を下し、青海道行軍大招管とし将軍の独孤卿雲らをひきつれて涼州・鄯州(西寧)の地方に屯させた。また左武候大将軍の蘇定方を安集大使とし、諸将の指揮をさせて、その乱をしずめさせた。そこへ吐蕃の使者論仲琮(ロンチュンサン)が入朝して、吐谷渾の罪を書いて奏上した。帝は使者を吐蕃にやりその行為を責めた。そこで吐蕃から使者が来て吐谷渾と仲なおりをすることを願い、赤水の地で馬を牧することを求めた。しかし朝廷ではこれを許さなかった。 ちょうどそのころ禄東賛が死んだ。東賛は、文字のことはしらなかったが、天性毅く、軍隊を把握してよく統率し、吐蕃はこれに信頼してついに強国となったのである。はじめ入朝したとき応待がりっぱであったので、太宗は抜擢して右衛大将軍に任じ、琅邪公主の外孫を妻せようとした。禄東賛はみずから言った。「臣はすでに妻を娶っておりますので、あえて詔に従うことはいたしません。かつ賛普はまだ公主にお目にかかっていないのですから、陪臣の私は、はっきりご辞退申し上げます」と。天子はその言をすぐれたものだと考えたが、恩をもって懐柔しようとし、その辞退を許さなかった。禄東賛には子があり、欽陵(チンリン)・賛婆(ツェンワ)・悉多于(タダウ)・勃論(ロン)といった。禄東賛が死んでこの兄弟たちはみな国政を担当した。これより年々辺境に侵入し、諸羌族ならびに羈縻の十二州をみな破り支配した。 総章年間(668-669)、朝廷では会議の結果、吐谷渾を涼州の旁の南山に徙すことにした。帝は吐蕃の入寇を鎮めようとし、宰相の姜恪・閻立本、将軍の契苾何力たちと議して、まず吐蕃を討とうとした。閻立本は言った。「民は飢えていますから、まだ軍隊を動かすことはできません」と。契苾何力は言った。「吐蕃は西の果てに小さく存在しております。臣が恐れるのは、軍隊が引きますと獣のようにかくれひそみ、山に伏しかくれ、捕え討っても、なにも得るところがないことです。春になればまた吐谷渾を侵すでありましょうが、臣はこのさい救援しないことをお願いいたします。わが方の力が弱っているのを疑わせ、これを驕りたかぶらせて、いっきょに滅ぼすべきであります」と。姜恪が言った。「そうではありません。吐谷渾はただいま衰弱しており、吐蕃は勝利に気負うております。衰弱した精神で強力な軍隊を拒ぐのです。戦えば、ぜったい対抗できるはずがありません。いま救わなければ吐谷渾は滅びるでしょう。臣は、天子の軍隊が速やかにこれを助けて、吐谷渾をうまく存続させ、あとでおもむろに処置を考えるのがよいと思います」と。論議は決せず、また吐谷渾を徙すこともできなかった。 咸亨元年(670)は入寇して羈縻の十八州に損害を与えた。于闐(コータン)を従え、亀茲撥換(クチャバルカン)城を占領し、ここに安西四鎮はみな存在を失った。そこで右威衛大将軍の薛仁貴を羅裟道行軍大総管とし、左衛員外大将軍の阿史那道真と左衛将軍の郭待封とを副にし、吐蕃の討伐に向かわせ、同時に吐谷渾が国へ帰るのを守護させた。軍隊はおよそ十余万で、大非川にいたったが、吐蕃の欽陵がこれを防ぎ、天子の軍隊は敗戦した。ついに吐蕃は吐谷渾を滅ぼしてその土地をぜんぶ保有した。そこで朝廷では司戎太常伯・同東西台三品の姜恪を涼州道行軍大総管とし討伐に向かわせた。ところがちょうどそのとき姜恪が死んだので、軍隊を還した。 吐蕃は大臣の仲琮を入朝させた。仲琮は若いときに大学に遊学して、よく文字を知っていた。帝は召し出して問うた。「賛普とその先祖は、どちらが賢明であるか」と。答えて言った。「勇敢で果断、すみやかに事を処置するのは、いまの賛普は、ご先祖には及びません。しかし、ねっしんに国政をとり、けっして人民を欺くようなことをされないのが現賛普でいられます。かつ吐蕃は寒冷な曝された野に住み、生産物はわずかで、鳥海の北では真夏でも雪が積もり、暑いときはそまつな毛織を、冬には裘を着て、水や草を求めて遊牧しております。寒冷のころは城郭に住み、テントを張ります。道具は中国の万分の一にも当たりません。ただ上下力を一にし、事を論議するときは、下から意見をのべ、多くの人が利益とするところに従って実行します。これが長い間を経てなお勢い盛んなわけでありましょう」と。帝は言った。「吐谷渾は、吐蕃ともとは舅甥の間がらの国である。素和貴はその君主に背き、吐蕃はこれを用いて吐谷渾の地を奪いとった。薛仁貴たちは出動して吐谷渾王慕容氏を安定させようとしたが、また吐蕃はこれをまちかまえて攻撃し、そしてわが涼州へ入寇したのは、いかなるわけであるか」と。仲琮は頭を下げて言った。「臣は命を奉じて朝貢にまいりましたが、他にはなにも聞いておりません」と。帝はその答をよしとしたが、しかし仲琮は政治に直接あたる臣ではないというので、その礼遇を薄くした。 上元二年(675)、吐蕃は大臣の論吐渾弥をよこして和平を願わせ、かつ吐谷渾と好しみを修めることを求めた。しかし帝は許さなかった。翌年(673)、鄯(青海省西寧市)・廓(青海省貴徳県東)・河(甘粛省臨夏県)・芳(甘粛省臨県南)四州を攻撃し、官吏および馬牛を万をもって数えるほど殺し、あるいは略奪した。そこで周王顕(後の中宗)に詔を下して洮州道行軍元帥とし、工部尚書の劉審礼ら十二の総管をひきつれさせ、相王輪(後の睿宗)を涼州道行軍元帥とし、左衛大将軍の契苾何力、鴻臚卿の蕭嗣業らの軍をひきつれさせ、これを討伐させた。ところが二王は行くことができないでいるうちに、吐蕃は進んで畳州(甘粛省臨潭県南)を攻め、密恭・丹嶺の二県を破った。また扶州(甘粛省文県西北百六十里)を攻撃して守将の乃高選を破った。いっぽう尚書左僕射の劉仁軌は洮河鎮守使となったが、長い間これと戦って戦功はなかった。 そこへ吐蕃が西突厥と連合して安西を攻撃した。そこでまた中書令の李敬玄に命じて洮河道行軍大総管・西河鎮撫大使・鄯州都督として劉仁軌に代らせた。詔を下して勇士を募集し、籍役痕負のものにも制限をつけず採用し、帝はみずから軍の出発に臨席激励した。また益州長史の李孝逸・巂州都督(西康西昌)の拓王奉に勅を下し、剣南・山南の兵を増発して、まず竜支(青海省西寧県東南八十里)に戦い、吐蕃は敗戦した。いっぽう、李敬玄は劉審礼をひきいて吐蕃を青海のほとりに攻撃したが、劉審礼は戦死した。李敬玄は承風嶺に兵をしたが、険しくて思うように行動できず、吐蕃は天子の軍を圧迫した。都左領軍将軍の黒歯常之は、五百人の決死隊をつれて、夜その陣営に斬りこんだ。蛮族は驚いてみずから互いに踏みにじりあい、死ぬものがひじょうに多かった。そして退却し、李敬玄はやっと脱れることができた。 帝はもともと温和で、遠い将来の策などをもたなかったので、諸将がしばしば敗れるのを見、ひろく近臣にはかって、防禦の方法を求めた。帝は言った。「朕はいまだ鎧を着たり、行軍したりしたことはない。さきに高麗・百済を滅ぼすとき、毎年軍隊を動かし、中国は騒然となった。朕は、今にいたるまでこのことを恨んでいる。いま吐蕃は国内に侵入してきている。どのようにわれわれの謀をなすべきであろうか」と。中書舎人の劉禕之たちは、詳しく答えた。「まず、おのおのの家が潤い、人手がたりるようになるのを待ってから討伐すべきであります」。ある人は言った。「敵はわるがしこいですから、講和するべきではありません。ある人は言った。「屯田をして厳重に守るのが、つごうよいと思います」と。ただ中書侍郎の薛元超は言った。「敵を自由にして問題を起こさせ、作戦を充分にしてこれを討伐するにしくはありません」と。帝は、黄門侍郎の来恒をかえりみて言った。「李勣が死んでからは、りっぱな将軍はいなくなってしまった」。来恒はただちに言った。「さきに洮河の軍隊は、敵を制圧するに充分な力あるものでありました。ただ諸将が命令を聞かないので勝利することがなかったのです」と。帝はぜんぜん悟らず、そこで論議するのをやめてしまった。 儀鳳四年(679)、賛普は死に、子の器弩悉弄(チドウソン)が立ち、欽陵はまた国政を思いのままにした。吐蕃では大臣をよこして不幸を唐に告げたので、帝は使いをやって会葬させた。 翌年、賛婆と素和貴は兵三万をひきいて河源を攻め、良非川に屯した。李敬玄は湟川に戦って敗戦した。左武衛将軍の黒歯常之は、精鋭の騎兵三千をもって、夜その陣営を攻撃し、賛婆は懼れて退却した。ついに黒歯常之を抜擢して河源(西寧市西百二十里)経略大使とし、烽火台と巡邏を厳重にし、屯田を開いた。それで蛮族の作戦はすこし停頓した。 はじめ剣南の茂州(四川省茂県)の西を経営しようとし、安戎城を築き、その辺境に迫った。突如として生羌に導かれて蛮族はこれを取ってみずから守り、それによって西江河の諸蛮族を併合し、羊同・党項の諸羌をみな臣下とした。その土地は東は松・茂・巂の諸州と接し、南は婆羅門(インド)にいたり、西は安西四鎮を取り、北は突厥まで及んで、その広さは万里に余るものであり、漢魏いらい西戎諸族の比べもののないところであった。 永隆元年(680)、文成公主が死んだので、使者をやって弔わせた。またわが方の陳行焉の遺骸を帰してよこした。さきに陳行焉は吐蕃に使いにゆき、そのとき論欽陵は自分を拝させようとし、武器をもってせまった。しかしかれは屈しなかったので、十年間吐蕃に止められたままであった。ここに遺骸が帰ったのでかれに陛州刺史が贈られた。賛婆はまた良非川に入寇したか、黒歯常之は攻撃してこれを退けた。武后の時には、吐蕃は他の蛮族たちと同様に入朝し、賀詞をのべた。永昌元年(689)、文昌石相の韋待価に詔を下して安息道大総管とし、安西大都護の閻温古をこれに副として吐蕃を討たせた。軍は止まって動かないので責任を問い、将軍たちを死刑や流刑に処した。翌年(690)、また文昌右相の岑長倩に詔を下して、武威道行軍大総管として吐蕃を討った。途のなかばまで行軍して中止した。 また翌年(691)、吐蕃の大首領の曷蘇は貴川部と党項の種族三十万をひきつれて降服した。武后は右玉鈴衛将軍の張玄遇を安撫使とし、兵二万をひきいてこれを迎え、大度水に屯した。吐蕃は曷蘇をとらえて去った。他の首領の昝插がまた羌蛮八千をつれてみずからやって来て降服した。張玄遇はただちにその部をもって葉州を置き、昝插を刺史にした。そして石碑を大度山に建て、その戦功をきざみこんだ。 この年、また右鷹揚将軍の王孝傑に詔を下して武威道行軍総管とし、西州(高昌)都督の唐休璟と左武衛大将軍の阿史那忠節をひきいて吐蕃を討たせた。そして大いにその衆を破り、ふたたび安西四鎮を奪取した。さらに安西都護府を亀茲に置き、軍隊をもってこれを鎮守した。あるものが論議して、四鎮を廃止して保有しないことをねがった。右史の崔融は献議して言った。「夷狄が中国の悩みとなってから久しいものがあります。これは三皇五帝も臣下としなかったものであります。漢は百万の衆をもって攻めて、かえって平城に苦しめられました。その後武帝はひじょうな憤りをかれらに向け、四夷に復讐して心中満足いたしました。張騫がはじめて西城に交通を開いてから河西四郡を並べ両関(玉門関・陽関)を置いて匈奴の右腕を断ち切りました。それより漸次、黄河・湟水を渡り、令居(西寧市東北)に城を築いて南の羌族と匈奴の連絡を絶ったのであります。ここに、鄣・候・亭・燧は長城より数千里も出たところに設けられ、そのためには朝廷の財政を傾け、兵馬をみな動員し、行人や使者は年々月々絶えることなく、財政は窮迫してついに皮の貨幣を用いるまでになりました。緡法を算したり、舟や車に税をかけたり、酒造りを専売にしたりするのも、どうして長期計画を考えないで、そのようにするものでしょうか。匈奴はここに孤立して、とくに遠くまで逃走し、漢はついに西城に道を開いて、使者もおいて監督するようになりました。後漢の光武帝が漢室を中興してから、みなふたたび内属しましたが、延光時代(122-125)になるまでに、交わりは三たび絶たれ三たび通じるというぐあいになりました。わが太宗文皇帝が漢の旧領土を支配されるようになり、南山にそうてパミールにいたり、府や鎮をずたずたにし、戦火は互いに見え、それゆえ吐蕃もあえて侮ることはありませんでした。高宗のとき、官吏たちは成績悪く、安西四鎮を棄てて、これを保有することができず、吐蕃はついに焉耆(カラシャール)の西に勢力を張り、兵鼓を盛んに打って東方で作戦し、西城を駆けめぐり、高昌(トルファン)を越え、車師(ヤルホト)を経て、常楽州を掠奪し、莫賀延磧の交通を絶って燉煌に臨むようになりました。いま王孝傑はいっきょに四鎮を取り、先帝のもとの領土にかえしました。もしまたこれを棄てるならば、それはみずから成功したものを打ちこわし、完遂された方略を破るものであります。いったい、四鎮が守備がなければ、蛮族の軍はかならず西域に臨み、西域が動揺すれば、南方の羌族を動かし、南方の羌族が東西に連合すれば、河西はかならず危険になります。かつ莫賀延磧はひろびろとして二千里にわたり、水や草はなく、もし南辺が蛮族(吐蕃)に直接すれば、唐兵はこれを渡ることができません。そしてかれらがさらに北方に向かえば、伊西北廷、安西方面の諸蛮族はみな亡びます」と。この論議は中止された。 さて吐蕃の首領の勃論賛(ロンツェン)は、突厥の偽可汗の阿史那俀子と南の方に侵略し、王孝傑と冷泉に戦って敗走し、砕葉鎮守使の韓思忠は泥熟没斯城を破った。 証聖元年(695)、論欽陵と賛婆は臨を攻撃した。王孝傑は粛辺道大総管として素羅江山に戦った。蛮族は敗れて退却したが、また涼州を攻め都督を殺した。そして使者をよこし、講和を願い、安西四鎮の守備をやめることを約束し、西突厥十姓の土地を分割することを求めた。武后は通泉尉の郭元振に詔して使者にゆかせたが、かれは途中で飲陵に出会った。郭元振は言った。「昔、禄東賛は朝廷に仕え、親交を誓ってきわまりなく誠実であったのに、いまはかってにみずから親交を絶って、年々辺境を乱している。父は朝廷に通じ、その子は朝廷と絶つのは、親に孝と言えようか。父は朝廷に仕え、子は朝廷に背くのは、国に忠と言えようか」と。欽陵は言った。「まことに、そのとおりである。天子が和平を許され、二国の防備をやめることができ、西突厥四鎮におのおの君長を立てさせ、その国にみずから守るようにさせたらどうであろう」と。郭元振は言った。「唐が、西突厥と四鎮をもって西方の土地をいたわっているのは、列国への大道となっているからであって、他意はないのである。かつこれらの諸部は吐蕃とちがって、かなり昔から唐の領域に編入せられている」と。欽陵は言った。「使者は、わが方が諸部を犯して唐の辺境に不安を起こすと考えていられるのか。わが方がもし土地や財賦を貪ろうとするならば、かの青海や湟川の地方が近くに存在するのである。いま、それを捨てて争わないのは、何故か。突厥の諸部は、砂漠がひろびろと存在し、中国からはひじょうに遠い。どうして土地を万里のかなたに争うことをしよう。かつ唐は四方の蛮族をみな併せて、これを臣下としている。海の外の地のはてといえども滅ぼされないものはない。吐蕃だけがたまたま残っているのは、ただ兄弟の関係によって心をこまかにくばって、互いに存在を認めあっているからである。西突厥の五咄陸は、安西都護府に近く、吐蕃からは遠い。俟斤はわが方と砂漠一つを隔てるだけである。騎兵がひと走りすれば十日を越えないでここに到達するので、これを憂えるのである。烏海や黄河の地帯は、源が閉ざされ、奥は阻まれており、病毒がひどい。唐はけっして入りこむことはできない。入りこめば、この自然条件があるから劣悪な兵士やよわよわしい将軍でも吐蕃の患をなしやすい。それゆえ、わが方はこれを獲得することを欲しているので、それによって諸部をうかがおうとしているのではない。甘州・涼州は積石道から二千里も隔たり、その広いところで数百里にならず、狭いところはわずか百里である。わが方がもし張掖(甘粛省張掖県)・玉門関(甘粛省敦煌県西方)に出たならば、貴国に春は耕作させず、秋は収穫させず、五、六年たたずにその西方領域を斬り落とすことができよう。それをいま棄てて為さないのであるから、わが方を恐れることは何もない。青海の戦闘には、黄仁素が和平を約束したため、辺境の守備隊は警戒していなかった。崔知弁は俟斤方面を経て、わが方の牛・羊を万をもって数えるほど掠奪した。このゆえにこの要求をなすのである」と。それから使者をよこして、ねっしんにねがった。郭元振は固く許可すべきでないことを言い、武后はこれに従った。 欽陵は国政を思いのままにし、長い間いつも中央にいて、政事を支配していた。その弟たちはみな方面軍を管轄しており、賛婆は東部国境にほとんど三十年の間かかりきりであり、辺境の患をなした。兄弟はみな才略があり、沈雄で、衆人はこれを恐れていた。賛普の器弩悉弄(チドゥソン)はすでに成人し、みずから国政をとろうとして、漸次不満に堪えきれなくなった。そこで大臣の論巌たちと、欽陵たちを退けることを図った。欽陵はちょうど兵をひきいて外にでており、賛普は猟をするといって、兵を指揮して、その親しいものたち二千余人を捕え、これを殺した。そして使者を出し、欽陵と賛婆を召還した。欽陵は命令をきかないので、賛普はみずからこれを討伐したが、まだ戦わないうちに欽陵の軍は崩壊した。そこでかれは自殺し、側近の殉死するものは百余人あった。賛婆は部下と兄の子莽布支(マンポジェ)たちをつれてに塞に来、好しみを通じた。朝廷では羽林飛騎をやって歓迎し、賛婆を抜擢して特進・軸国大将軍・帰徳郡王にし、莽布支は左羽林大将軍・安国公にし、みな鉄券を賜い、はなはだ厚く礼遇し慰労した。賛婆は部下の兵を領有し、河源の地方を守り、死んだときには安西大都護を贈られた。 また左粛政台・御史大夫の魏元忠をやって隴右諸軍大総管とし、隴右諸軍大使の唐休璟をひきつれて討伐に出した。ちょうどそのとき、蛮族は涼州を攻撃したので、唐休璟はこれを討って、首二千級を斬った。そこで論弥薩が来朝し講和を請うた。いっぽう音はみずから万騎をひきいて悉州(四川省松県西南)を攻めたが、都督の陳大慈は四たび戦って、みな勝利を収めた。明くる年(703)、そこで吐蕃は馬や黄金を献上して婚姻を求めてきた。ところが蛮族の南方の諸部族がこのころみな叛いたので、賛普はみずから討伐に赴き、軍中で死んだ。 そして諸子が争い立ったが、国人は棄隷蹜賛(チデツクツェン)を立てて賛普とした。年は七歳であった。使者が来て喪を告げ、かつ会盟することを求めた。また大臣の悉董熱(トンシェル)をよこしてねっしんに婚姻を結ぶことを求めたが、まだ返事は与えなかった。ちょうどそのとき、監察御史の李知古は、姚州蛮を討伐してこの蛮が吐蕃の道案内するのを牽制することを建議した。そこで詔を下して剣南の徴募兵を出してこれを攻撃した。蛮の首領は吐蕃に通じ、李知古を殺し、その屍体をもって天を祭り、蜀漢に進攻した。朝廷では遊武監軍・右台御史の唐九徴に詔を下して姚巂道討撃使とし、兵をひきいてこれを撃たせた。吐蕃は鉄の縄橋を漾水・濞水にかけ、西洱蛮に通じ城を築いてこれを守った。唐九徴は鉄の縄橋を破壊し、城中を誅滅し、鉄柱を滇池に立てて、その功業を刻みこんだ。 中宗の景竜二年(708)、その求婚の使者を還した。あるものが言った。「かれは公主を迎えに来、かつ中国の言葉をよく習い覚えました。帰すべきではないと思います」と。帝は、中国は誠意をもって夷狄と結ぶべきであるとして、その願いは許さなかった。翌年(709)、吐蕃はさらに使いをよこして貢ぎ物を納めた。祖母の可敦はまた宗俄をよこして婚姻をねがった。帝は雍王李守礼の女を金城公主として、これに妻すことにした。吐蕃は、尚賛吐(シャンツェント)・名悉臘(ニェレブ)たちを、公主を迎えるためによこした。帝は公主が幼いのを思い、錦や細をおのおの数万賜い、諸種の芸能人、もろもろの工人たちをみなつけてやり、亀茲楽の楽団を与えた。そして左衛大将軍の楊矩に詔を下し、節を持して送らせた。帝はそのために始平に行幸し、幕を張って宴を開いた。群臣と吐蕃の使者をよんで会場で宴し、帝は悲しみすすり泣いた。そして始平県に大赦を行ない、死罪に決せられたものをみな許し、人民の賦役は一年間免除した。県名を改めて金城とし、郷は鳳池とし、里は愴別とした。 公主は、吐蕃にいたって、みずから城を築いて居住した。朝廷では、楊矩を鄯州都督に任じた。吐蕃は表面はおだやかであったが、内心は怒りを蔵していたので、厚く楊矩に賄賂を贈って、河西九曲の地を金城公主の化粧料として与えられるよう願った。楊矩は表文を奉って許可を得、その地を吐蕃に与えた。九曲は水草ともに良質で、牧畜に適当したところであり、唐にも近接している。これより吐蕃はますます発展して中国に入寇しやすくなったのである。 玄宗の開元二年(714)に吐蕃の大臣坌達延(ポンタギェル)は宰相に書を上って、盟約の文を作り、国境を河源に定めることをねがい、左散騎常侍の解琬が盟約に出席することを乞うた。帝は宰相の姚崇たちに返事を出させ、解琬に命じて神竜の時の誓約書を持ってゆかせた。吐蕃もまた尚欽蔵(シャンチサン)と御史の名悉臘(ニェレブ)をよこして盟約の文を献上させたが、いまだ決定するまでにはいたらなかった。そのとき坌達延の将兵十万は、臨洮(甘粛省臨洮県西南)に入寇し、蘭州・渭州(甘粛省隴西県東南五里)に攻め入って監牧の馬を掠奪した。楊矩は疑獄が起こるのを恐れて自殺した。詔が下されて、薛訥は隴右防禦使となり、王晙らと力を井せて敵を迎え撃った。帝は吐蕃の背信行為を怒って、みずから軍を率いてこれを討とうとした。ちょうど王晙たちは、武階で戦って、一万七千の首を斬り、馬・羊は二十万の大量を鹵獲した。また長子で豊安軍使の王海賓と戦ったが、王海賓は戦死した。しかしこの勢いに乗じ王晙の軍は進撃したので、蛮族は大敗し、その衆は互いに衝突しあって逃げ去ることができず、ともに枕を並べて討ち死にした。洮水はこのために流れがとまったほどである。帝はそこで親征を取り止め、紫微舎人の倪若水に詔を下して軍の実情や戦闘の功績を直接調査させ、同時に戦死した将士たちを弔わせた。また州県に勅を下して、吐蕃の抛棄した死体を埋葬させた。 このとき宰相が建言した。「吐蕃はもとは黄河をもって国境としておりました。金城公主の関係で黄河に橋をかけ、城を築いて独山・九曲の二軍を置きましたが、そこは積石からは二百里の距離であります。いますでに盟約に背いたのでありますから、橋はとりこわし、また、まえまえからの盟約どおり、黄河の線を守ることにするのをお願いします」と。詔が下って許可された。左驍衛郎将の尉遅瓌は、吐蕃に使者となってゆき、金城公主を慰めた。しかし吐蕃が少々国境を犯すのは、毎年のことであった。ことに郭知運と王君㚟は、つぎつぎと隴右・河西の節度使となり、専心敵を防ぐことになった。吐蕃は、宗俄因子を洮水にやって、戦死した将士を弔い、また講和をねがった。しかしみずからの強勢なのをよいことにして、天子と対等であることを求め、その述べるところは傲慢であった。使者は臨洮まで来たが、天子は詔を下して国内に入れなかった。金城公主は書を奉って、和親するのを許されるよう願い、かつ賛普の方では、君臣ともに天子と盟約に署名することを欲していることを述べてきた。吐蕃はまた使者を出して書を上って言った。「孝和皇帝(中宗)は、かつて盟約を許されました。そのとき唐の宰相の盧欽望・魏元忠・李嶠・紀処訥らおよそ二十二人と吐蕃の君臣は、ともに誓約いたしました。孝和皇帝がなくなられ、太上皇が位を嗣がれても、親善はもとのようにつづけられました。しかし唐の宰相で誓約に署名したものは、みな亡くなりました。したがっていまの宰相は前の誓約には関係ないのですから、ここにふたたび盟約していただきたいと思います。ちかごろ論乞力(ロンチリグ)たちと前後して七人ほど使いに出しましたが、まだ許可を与えられておりません。それに張玄表・李知古の将兵は甥(わたし)の国を侵掠しました。ゆえにわたしの方でも盟約にそむいて戦ったのであります。いま舅上(ちちうえ)は、従来のよくない関係を棄てて平和な状態に復帰することを許されました。甥はすでに堅く決心しております。しかし盟をかさねて行なわないため、まだ信をおくことができないでおります。あたらしい盟約の締結を待ち望むしだいであります。甥は、みずから国の政事を統べ、下のものには牽制されないで、人民たちを長く安穏にしようと思っております。舅上は和平のことを考えておられても、気持がそれに集中されていないならば、たとい言葉のうえでそれを言っても、なんの利益がありましょう」と。 またつぎのように述べた。「上は乞力徐(チカウ)が軍を集結したことを責められましたが、これはちょうど新旧の軍隊を交替させたのでありまして、集結したのではありません。昔は、国境は白水より向こうはみな放置された土地でありました。ところがちかごろ、郭知運将軍は兵をして城塞を築いております。それで甥の方でもまた城塞を築いたのであります。それでたとい二国が講和して使者を送り迎えするようになっても、もしそれが通じない時には、国境を守備するのにとどめましょう。また突厥の骨咄禄と親しいのを疑っておられますが、吐蕃と唐とは旧く親善の使者を交換し、互いに舅・甥と呼びあっておりました。それでその関係が初めのとおりになれば、突厥とはともに交わらないでありましょう」と。よって、貴重な瓶と杯を献上した。帝は、「昔、すでに和親して、盟約の成文が存在している。さきの盟約を調べるがよい」と言って、ふたたび盟約するのを許可しなかった。そしてその使者を待遇して送りかえし、かつ賛普にたくさん贈り物を賜わった。吐蕃はこれより年々朝貢して来、国境を犯すことがなくなった。 開元十年(722)に吐蕃は小勃律国を攻撃した。その国の王没謹忙は手紙を北廷節度使の張孝嵩に送って言った。「勃律は唐の西の門であります。これが失われれば、西方の諸国はみな吐蕃の手に落ちます。都護はよく考えて処置していただきたい」と。張孝暠は願いを許して、疏勒副使の張思礼に歩騎四千の兵を率いさせ、昼夜通しで走って没謹忙の兵と吐蕃を挟撃した。吐蕃の死者は数万にのぼり、味方は鎧・武器・馬・羊をたくさん鹵獲し、九城のもとの土地を回復した。さきに勃律の王は、来朝したときは帝に父として事え、帰国しては綏遠軍をおいて吐蕃を拒いでいた。それに、不断に吐蕃と戦っていたが、吐蕃はいつも言った。「わが方は、なんじの国を占領するのを利益としているのではない。わが方は、ただなんじの国に道を借りて、安西四鎮を攻めようとするだけである」と。このころ吐蕃との関係で出兵するということは、数年の間なかった。 そこで隴右節度使の王君㚟は、敵地に深く入って損害を償うことを願い、開元十二年(724)に吐蕃を破ってその捕虜を献上した。のち二年して(726)、悉諾邏(タグラ)の兵が大斗抜谷に入り、ついに甘州(甘粛省張掖県)の火郷聚を攻撃した。王君㚟は軍を整備し、その鋭鋒を避けて出戦しなかった。ちょうど大雪が降り、吐蕃の軍は凍傷にかかり死ぬものが続出したので、かれらは積石軍を越えてその西道によって退却した。王君㚟はあらかじめ間諜をやって、国境を出、原野を焼きはらわせたので、草はみななくなってしまった。それで悉諾邏は大非川に屯したが、馬を牧するところがなく、その大半が死んだ。王君㚟は秦州(甘粛省天水県)都督の張景順をひきい、装備をかんたんにし、苦しい道を通って青海の西方に出た。ちょうど湖面は氷結したので、軍隊はこれによって渡った。そのとき蛮族はすでに大非山を越え、輜重と落伍者を湖岸に留めていた。王君㚟は兵をやってこれらをとりこにして帰ってきた。そのころ、中書令の張説は、吐蕃が国境に出入することはすでに数十年で、勝敗はだいたい同じであり、甘・涼(甘粛省武威県)・河(甘粛省臨夏県)・鄯の諸州の人民は徴発を負担してはなはだ苦しんでいるから、講和を許されるよう願った。しかし帝は王君㚟を寵愛していたから、張説の言は聴かなかった。 まもなく悉諾邏恭禄(タグラコンロェ)と燭竜莽布支(ツォグロマンポジェ)は侵入して瓜州(甘粛省敦煌県の東二百八十里)を陥れ、その城を破壊し、刺史の田元献と王君㚟の父を執えた。そしてついに玉門軍(甘粛省酒泉県の西二百里)を攻撃し、常楽(甘粛省安西県の西)を囲んだが、これは抜くことができず、退いて安西(クチャ)に入寇した。副都護の趙頤貞はこれを撃って退けたが、ちょうどそのとき王君㚟は回紇に殺されて作戦は不成功に終わった。帝はそこで蕭嵩を河西節度使とし、左金吾将軍の張守珪を瓜州刺史とし、城塞を再建した。蕭嵩は反間の工作者をやって悉諾邏恭禄を殺させた。明くる年(728)、吐蕃の大将の悉末朗(ラン)は瓜州を攻撃したが、張守珪はこれを撃退した。鄯州都督の張志亮はまた青海の西に戦い、大莫門城を破り、橐它橋を焼き払った。隴右節度使の杜賓客は、強力な四千で賊を射て、これを祁連城下(甘粛省張掖県西北百九十里)に破り、副将一人を斬り、五千の首を挙げ、敵は敗戦して哭きながら山に逃げかえった。またあくる(729)、張守珪は、伊(ハミ)・沙(甘粛省敦煌県)などの州の兵をひきつれて蛮族の大同軍(甘粛省敦煌県西南)を破った。また信安王李禕は隴西に出撃して石堡城を抜き、ここに振武軍を置いて、捕虜を太廟に献上した。帝は書を将軍の裴旻に賜わって言った。「わざと戦功を隠して賞を与えないことがあった場合には、兵士みずからそのことを述べよ。そのようなことをした将校官吏はみな斬れ。戦いの際に猶予して動かないものは、隊ぜんたいを軍律のとおりに処断せよ。敵の王を捕えたものには、大将軍を授けるであろう」と。ここに将士の気勢は、ますますあがった。 吐蕃の令の曩骨が書を国境の関所に出して言った。「論莽熱(ロンマルシェル)と論泣熱(ロンチシェル)は、みな万人に将たるものであります。賛普の命によって都督・刺史に挨拶をいたします。二国にはもと舅・甥の親交がありました。さきごろ、弥不弄羌・党項が抗争をはじめ、そのため二国は親しみを失い、こちら方からも通ぜず、唐の方もまた通じなくなりました。都督は、なにとぞ腹心の役人を曩骨とともにこちらへよこして、盟約のことを商議させていただきたい」と。曩骨というのは、中国の千牛官(宮中宿衛官)のようなものである。そこで忠王(後の粛宗)の諸王友の皇甫惟明は、「和平を約束するのがつごうがよい」と上奏した。帝は言った。「さきに書を上ったが、内容は傲慢無礼であった。朕はかならずこれを滅ぼすつもりであるから、和平を議することはしないでもらいたい」と。皇甫惟明は言った。「そのころは、賛普は幼かったのですから、これはかならず、辺境の軍人で功績を立てたいと思うものがその書を作って陛下を激怒させたのです。それに、二国が憎しみあうと、かならず戦争が起こり、戦争が起これば、裏では財物を盗んだり、功績の程度を詐ったりして、陛下の過分な賞を望み、もって満足しております。いま河西・隴右の地方は、蓄えがなくなり、力も尽きてております。陛下が、幸いにして、金城公主に詔を下し、賛普からの盟約を許し国境の悩みを緩めてくだされば、それは民を安らかにするすぐれた方策でございます」と。帝はその上言を採用し、皇甫惟明と中人の張元方に勅を下して挨拶に往かせ、書を公主に賜わった。皇甫惟明は賛普に会い、天子の考えを述べたところ、賛普はひじょうに喜んで、貞観いらいの手紙や詔勅をみな出してきて皇甫惟明に見せ、たくさんの献上品を贈って来た。 また使者の名悉臘(ニェレブ)を唐の使者に同伴して入朝させ、表を奉って言った。「甥(わたくし)は先帝舅上の有力な親戚であります。さきに張玄表・李知古のために闘いを交え、ついに大きな戦争となりました。しかし甥は文成・金城公主の関係からして、どうして礼を失することがありましょう。あのときはとくに幼少であったため辺境の軍人の讒言にまどわされたのであります。もし明確な理解をいただけるのでしたら、死しても満足いたします。このたびは千年万年あえてさきに盟約に背くようなことはいたしません」と。かつこれとともにめずらしい宝物を献上した。使者が到着すると、帝は前殿に出御し、羽林杖を列べて使者を内に引き入れた。名悉臘はだいたい中国の語文がわかるので、宴会になると帝はともに談話し、かれをひじょうに厚く礼遇して、紫服・金帯・魚袋を賜わった。悉臘は、服は受け取ったが、魚袋は辞退して言った。「わが国が正しくなかったのですから、このようなものをいただくわけにはまいりません」と。帝は御史大夫の崔琳をやって、吐蕃に返礼させた。 吐蕃はまた馬を赤嶺で交換し、甘松嶺(四川省松潘県西北三百里)で互市することを願った。宰相の裴光庭は言った。「甘松嶺は中国内の険要の地である。赤嶺を許した方がよい」と。そこで赤嶺を境界とすることを許し、大きな碑を立ててそれを表わし、その面に盟約を書くことにした。また五経を賜わることを願ってきたので、秘書に勅を下して写させて与えた。それとともに工部尚書の李暠をやって挨拶させ、万をもって数えるほどの賜わり物を与えた。吐蕃は使いをよこして感謝し、かつ言った。「唐・吐蕃はみな大国であります。いま和平を約束して長い将来の計をなすわけでありますが、辺境の官吏でいかがわしい考えのものが出るのを恐れます。そこで使いの者をよこして互いによく勅令を暁らせ、明瞭にくわしくわからせるようお願いします」と。帝はそこでまた金吾将軍の李佺に赤嶺で碑を立てるのを監督させ、詔を下して張守珪と将軍の李行禕、吐蕃の使者の莽布支(マンポジェ)とに、剣南・河西の州県に分かれて行って諭させた。「こんにちより、二国は和親して、互いに侵略してはならない」と。そこで悉諾勃海を使者として貢ぎ物を納めさせ、それとともに絹と器物をあまねく政治の衝にあたるものに贈った。明くる(730)、吐蕃は宝器数百個を献上した。その意匠や作り方が変わっていたので、詔を下して提象門に置いて多くの臣下に展示した。 そのご吐蕃は西方勃律国を攻撃し、勃律は唐に急を告げてきた。帝は諭して戦争をやめさせようとしたが、吐蕃は聴かず、ついにその国を破った。そのとき、崔希逸は河西節度使となり涼州に鎮した。さきには、国境方面はみな壁を立てて守捉がおかれていたが、崔希逸は蛮族の守備の将軍を乞力徐(チスゥ)に言った。「両国は和親を約束したが、守備をやめないのはいかがなものであろうか。みな守備をやめて、人民に便利なようにすることに願いたい」と。乞力徐は言った。「あなたは誠実な人であるから、ぐあい悪いということはない。しかしおそらく朝廷は、まったく信用するということはないであろう。もしこちらの守備のないところを襲撃すれば、われわれは後悔するであろう」と。崔希逸は固く願ったので、すなわち承認し、いっしょに白犬を犠牲に用いて盟約をした。そのご防備の障壁をぜんぶ取り払ったので、蛮族の家畜は原野一面に拡がるようになった。 明くる年(731)、崔希逸の書記の孫誨が政事を奏上したが、かってに、「蛮族は備えをしておりませんから、取るべきでありましょう」と述べた。帝はこの言を採用して、詔を下してかれを内豎の趙恵琮といっしょにやって状勢を調べさせた。この小人たちは、天子の寵愛を得ようと思い、涼州に行ってから、いっしょに詔勅をかってに曲げ、崔希逸にその詔を与え軍を出して吐蕃を青海のほとりに撃破させた。斬首・鹵獲などはひじょうに多く、乞力徐は逃れ、吐蕃は怒って入朝しなくなった。 開元二十六年(738)、吐蕃は河西に大規模に侵入した。崔希逸はこれを拒いで破り、鄯州都督の杜希望は新城を抜いて威戎軍と名を改めた。崔希逸は、信頼をなくしたのを反省し、遺憾に思って心が晴れない状態であった。召し返されて河南尹に任ぜられたが、まもなく、趙恵琮といっしょに犬が祟りをするのをみて、不安になって死んだ。孫誨もまた他の罪で誅殺せられた。 それより蕭炅を河西節度使とし、留後の杜希望は隴右節度使、留後の王昱は剣南節度使として、方面を分けて経略させた。赤嶺の碑はこのとき砕かれた。杜希望は鄯州の兵を出して、蛮族のかけた黄河の橋を奪取し、河岸に塩泉城を築いて鎮西軍と名づけ、吐蕃の兵三万を破った。王昱は剣南の軍をつれて安戎城(四川省茂県西南の塞外)に攻め入り、二つの小さな要塞を築いた。そしてその左右の兵は蓬婆嶺に駐して、剣南の食糧を運んで軍に送った。吐蕃は精鋭を挙げて救援に来、王昱は大敗して、小要塞はみな敵方の手に陥ち、数万の兵士が死んだ。王昱は、貪欲で将軍の器ではないので、敗戦したのである。かれはのち高要(広東省高要県)に左遷されて死んだ。明くる年(739)、吐蕃は白草・安人などの軍を攻撃した。そこで臨洮朔方の軍に詔を下して方面を分けて救援せしめた。蛮族は臨洮道を絶ったが、白水軍使の高柬于は防戦し、蛮族は退却した。王昱は将をやって追跡させたが、雲が軍隊の上に出、白兎が舞うという瑞祥があり、大いに吐蕃を破った。王昱の敗戦したのちは、張宥を代りとして剣南に節度させ、章仇兼瓊を益州(四川省成都市)司馬とした。張宥は文官で軍事のことは知らなかったので、その方面のことは章仇兼瓊に任せた。章仇兼瓊はそこで宮廷に入って自分の計画を奏上することができた。天子はその議を真実であるとして、章仇兼瓊を抜擢し、張宥に代って剣南を節度させた。章仇兼瓊は間諜をやって吐蕃の安戎城の頭目を誘い、内応させて官軍をひき入れ、ことごとく蛮族の守備兵を殺した。そして監察御史の許遠にこの城を守備させた。吐蕃は安戎城を囲み、水道を絶ったが、ちょうど石が裂け、泉が湧き出したので、驚愕して退却した。またかれらは維州(四川省理蕃県東南の故威州の北三十里)を攻撃したが、目的を達成しなかった。帝は詔を下して安戎城を改めて平戎城となしたといわれている。 この年(739)、金城公主がなくなった。明くる年(740)、そのために喪を発した。吐蕃の使者が来朝し、和平を願ったが帝は許さなかった。そこで蛮族は四十万の衆をみな出して承風堡を攻撃し、河源軍(青海省西寧市西南)にいたり、西方長寧橋・安仁軍の渾崖烽に侵入した。騎兵の将の臧希液は精鋭の士五千を率いてこれを破った。吐蕃はまた廓州を襲撃し、ある県を破って官吏や人民を殺した。また振武軍の石堡城を攻撃したが、守備の将の蓋嘉運はこれを守ることができなかった。 天宝元年(742)、隴右節度使の皇甫惟明は蛮族を大嶺軍に破り、青海のほとりに戦って莽布支を破って、三万の首を斬った。明くる年(743)、敵の洪済城(青海省西寧市西南)を破り、石堡に戦ったが勝たず、副将の諸葛謝はこの戦闘で戦死した。また明くる年(744)、皇甫惟明は夷狄を破って、捕虜を首都に献上した。帝は哥舒翰を隴右に節度させた。哥舒翰は石堡を攻陥し、これを神武軍と名を改め、またその大臣の兀論様郭を捕虜とした。 天宝十載(751)、安西節度使の高仙芝は大酋長を捕虜にして献上した。このとき吐蕃は、蛮(南詔)の閣羅鳳と軍を連合して瀘南を攻撃した。剣南節度使の楊国忠は、そのころ悪がしこいことではこのうえない人物であった。みずから「蛮の衆六万を雲南に破り、洪州など三城を抜いた」と言い、捕虜を献上した。哥舒翰は洪済・大莫門などの諸城を破り、九曲の故の地を回復し、郡県なみの内容のあるものにした。天宝十二載(753)、そこで神策軍を臨洮の西に置き、澆河郡を積石の西に置き、宛秀軍を置いて河曲の地を充実させた。 のち二年(755)、蘇毘(ソチ)の子悉諾邏(タグラ)が降服してきたので、懐義王に封じ、姓を李と賜わった。蘇毘は強力な部族である。この年、賛普の乞黎蘇籠臘賛(チソンデツェン)が死に、子の挲悉籠臘賛(サソンデツェン)がつぎ、使者をよこして親好を求めて来た。そこで、詔を下して京兆少尹の崔光遠に、節を持し、冊文をもって弔いに行かせた。かれが帰って来たときには、安禄山が乱を起こし、哥舒翰は河西・隴右の兵をみな動員して、東の方潼関を守っていた。そして諸将はおのおの鎮守するところの兵をひきいて国難の平定に赴いた。これをはじめて行営と称したのである。しかしこのため辺境の防備は空になったので、吐蕃はその隙に乗じて掠奪暴行ができるようになった。 至徳のはじめ(756)、吐蕃は巂州(四川省西昌県)・威武(四川省茂県西北)などの諸城を取り、侵入して石堡城に駐屯した。その翌年(757)、使者をよこして賊(安禄山など)を討伐し、かつ親交を修めることを願った。粛宗は給事中の南巨川をやって返礼にゆかせた。ところがその年のうちに廓・覇(四川省松潘県西南二百五十里)・岷(甘粛省岷県)などの諸州と河源・莫門などの軍を占領した。そして使者はしばしば来て和平を願った。帝はその偽りなのをよく知っていたが、しばらくの間、できるだけ災いをゆるくしようと思い、宰相の郭子儀・蕭華・裴遵慶らに詔を下して吐蕃と盟約させた。 宝応元年(762)、吐蕃は臨洮を陥れ、秦・成(甘粛省成県)・渭などの州を取った。明くる年(763)、散輪常侍の李之芳と太子左庶子の崔倫を挨拶に行かせた。吐蕃はこれを押えて送らず、いっぽう西山の合水城を破った。明くる年(764)には、吐蕃は大震関(甘粛省清水県東五十里)に侵入し、蘭・河・鄯・洮などの州を取った。ここにおいて、隴右の地はぜんぶ失われた。それから進んで涇州(甘粛省涇川県)を囲んでこれに入城し、刺史の高暉を降服させた。また邠州(陝西省が県)を破り、奉天(陝西省乾県西)に侵入した。副元帥の郭子儀はこれを防いだが、吐蕃は吐谷渾・党項の兵二十万をひきいて、東の方武功(陝西省武功県)を占領した。渭北行営の将の呂日将は、盩厔(陝西省盩厔県)の西に戦って、これを破った。また終南に戦ったが、呂日将は敗走した。代宗は陝州(河南省陝県)に行幸し、郭子儀は商州(陝西省商県)に退却した。高暉は蛮族を長安に導き入れ、広武王李承宏を立てて皇帝とし、改元し、かってに大赦を行ない、官吏を任命した。都の上層階級の人々は、みな南の荊・襄の地方に逃れ去り、あるいは山谷に逃げ込んだ。そこで乱兵は互いに戦闘をしたり、掠奪したりして、交通は途絶してしまった。光禄卿の殷仲卿は、千人を率いて藍田(陝西省藍田県)に防壁を作り、二百騎を選んで滻水を渡河させた。ある人が夷狄を欺いて、「郭子儀公の軍隊が、いま来ようとしている」と言ったので、吐蕃は大いに動揺した。ちょうど、少将の王甫は無頼の少年たちと太鼓を打って御苑のなかで喊声を挙げたので、夷狄は驚いて、夜退却し、郭子儀は長安に入った。高暉は東方に逃げて潼関にいたったが、そこの守備の将の李日越はこれを殺した。吐蕃は首都に留まること十五日で逃げ、天子は都に還ったのである。 吐蕃は退却して鳳翔(陝西省鳳翔県)を囲んだが、節度使の孫志直はこれを防ぎ守った。そこへ鎮西節度使の馬璘は千騎をひきいて戦い、これを退けた。吐蕃は原(甘粛省鎮原県西二里)・会(甘粛省靖遠県)・成・渭などの州の間に屯し、腰を落ち着けて動かなかった。この年、吐蕃は南の方では松・維(四川省理番県東南の故威州北三十里)・保などの州と雲山の新城に侵入した。明くる年(765)、吐蕃は使者の李之芳たちを帰してよこした。剣南の厳武は吐蕃南鄙の兵七万を破り、当狗城(故の威州の西)を抜いた。ちょうどそのころ僕固懐恩が反乱を起こし、霊武(寧夏省寧夏県南)からその将范志誠・任敷をやって、吐蕃・吐谷渾の兵と連合して邠州(甘粛省寧夏県南)を攻撃した。白孝徳・郭晞は城塞を守りとおしたため、敵の軍は奉天の西へ侵入した。郭子儀は奉天に入ったが、軍を抑えて戦闘しなかった。郭晞は精鋭の兵に夜その軍営を攻撃させ、首数千を斬り、五百を奪い、四人の将軍を捕虜にした。そこでは退却した。このとき厳武は塩州を抜き、また西山に戦ってその衆八万を捕虜にした。蛮族は涼州を囲み、河西節度使の楊志烈は守備することができず、逃れて甘州を保持し、涼州は失われてしまった。 永泰元年(765)、吐蕃は和平を願って来た。宰相の元載・杜鴻漸に詔を下して、蛮族の使者と盟約をさせた。僕固懐恩は、思うようにゆかないので、蛮族を導き、回紇・党項・羌渾・奴刺と辺境を犯した。吐蕃の大酋長の尚結息賛摩(シャンギェルシグツェンマ)・尚悉東賛(シャントンツェン)らの衆二十万は、醴泉(陝西省醴泉県)・奉天・邠州にいたった。将の白孝徳は抵抗することができず、任敷は兵をひきいて鳳翔・盩厔をとった。そこで首都は戒厳令下におかれ、朔方兵馬使の渾日進・孫守亮は奉天に屯した。詔を下して、郭子儀に河中(蒲州)の軍をひいて涇陽陽 (陝西省涇陽県)に駐屯させ、李忠臣を東渭橋に、李光進を雲陽(陝西省涇陽県北)に、馬璘・郝廷玉を便橋に、駱奉先・李日越を盩厔に、李抱玉を鳳翔に、周智光を同州(陝西省大茘県)に、杜冕を坊州(陝西省黄陵県)に屯せしめた。そして天子はみずから六軍をひきいて御苑に屯した。吐蕃は奉天に迫ってきた。渾日進は、ひとりでこれに馳せ向かい、兵士二百がこれについて進み、 左右の敵を槍で刺し、弓で射、弓は弦を引くたびにみな当たって斃れた。蛮族は大いに驚愕して退避した。渾日進は蛮族の一将校を捉えて飛び出し、全軍これを見て声をあげた。味方の兵士は引き上げたが、身に一矢も当たっているものはなかった。翌日、蛮族は城にせまった。渾日進は機械仕掛けの大石や強力な弩を発したために、敵兵は多く死んだ。およそ三日して、蛮族は軍を収めて防壁に入った。渾日進は蛮族の実情を詳しく知って、その夜敵の軍営に斬り込み、千余の首を斬り、五百人を捕虜にした。また馬嵬(陝西省興平県の南)で、およそ七日間戦って一万の賊を破り、首五千を斬り、馬・駱駝・幟・武器などひじょうに多くを鹵獲した。帝はみずから軍をひきいて賊を討伐しようと思い、詔を下して盛んに馬を捜させた。またはじめて首都に義勇兵を置いたので、都の人々はひじょうに動揺して、城壁に穴をあけて、十人のうち八人までは逃亡してしまった。中人に詔を下して首都の城門を閉じさせたが、なお止めることはできなかった。吐蕃の遊撃兵四百は武功(陝西省武功県)を占領し、鎮西節度使の馬璘は強力な兵士五十人にこれを攻撃させた。そして敵を殲滅したので、唐側の士気はますますあがった。蛮族は軍営を九ソウ山の北に移し、醴泉を掠奪した。醴泉の住民の数万のものが家屋を焼きはらわれ、田畑はみな赤肌にされてしまった。周智光は蛮族と澄城(陝西省澄城県)に戦ってこれを破り、吐蕃は邠北にいたり、また回紇と連合して還ってきて奉天を攻撃し、馬嵬にやって来た。任敷は兵五千で白水を掠奪し、同州に打撃を与え、それから中渭橋と鄠(陝西省鄂県)に城塞を築いて軍を駐屯した。 ちょうどそのとき僕固懐恩が死んで、蛮族には作戦するのに中心人物がいなくなった。ついに回紇と指導権を争い、回紇は怒って郭子儀のところにゆき、吐蕃を討ってみずから忠誠をいたすことを願った。郭子儀はこれを許し、白元光とともに軍を合わせて吐蕃を霊台(陝西省長安県西四十里)の西に攻撃し、大いにこれを破り、僕固名臣を降服させた。そこで帝は軍をひき上げた。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十五下 列伝第一百四十下 『新唐書』巻二百一十六上 列伝第一百四十一上 巻二百一十六下 列伝第一百四十一下
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/359.html
唐書巻五十七 志第四十七 芸文一 自六経焚於秦而復出於漢、其師伝之道中絶、而簡編脱乱訛缺、学者莫得其本真、於是諸儒章句之学興焉。其後伝注・箋解・義疏之流、転相講述、而聖道粗明、然其為説固已不勝其繁矣。至於上古三皇五帝以來世次、国家興滅終始、僭竊偽乱、史官備矣。而伝記・小説、外曁方言・地理・職官・氏族、皆出於史官之流也。自孔子在時、方修明聖経以絀繆異、而老子著書論道徳。接乎周衰、戦国遊談放蕩之士、田駢・慎到・列・荘之徒、各極其辯。而孟軻・荀卿始專修孔氏、以折異端。然諸子之論、各成一家、自前世皆存而不絶也。夫王迹熄而詩亡、離騒作而文辞之士興。歴代盛衰、文章與時高下。然其変態百出、不可窮極、何其多也。自漢以來、史官列其名氏篇第、以為六芸・九種・七略。至唐始分為四類、曰経・史・子・集。而蔵書之盛、莫盛於開元、其著録者、五万三千九百一十五巻、而唐之学者自為之書者、又二万八千四百六十九巻。ああ、なんと盛んなことであろうか! 六経之道、簡厳易直而天人備、故其愈久而益明。其余作者衆矣、質之聖人、或離或合。然其精深閎博、各盡其術、而怪奇偉麗、往往震發於其間、此所以使好奇博愛者不能忘也。然凋零磨滅、亦不可勝数、豈其華文少実、不足以行遠歟?而俚言俗説、猥有存者、亦其有幸不幸者歟?今著于篇、有其名而亡其書者、十蓋五六也、可不惜哉。 初、隋嘉則殿書三十七万巻、至武徳初、有書八万巻、重複相糅。王世充平、得隋旧書八千余巻、太府卿宋遵貴監運東都、浮舟泝河、西致京師、経砥柱舟覆、盡亡其書。貞観中、魏徴・虞世南・顔師古継為秘書監、請購天下書、選五品以上子孫工書者為書手、繕写蔵于内庫、以宮人掌之。玄宗命左散騎常侍・昭文館学士馬懐素為修図書使、與右散騎常侍・崇文館学士褚量整比。会幸東都、乃就乾元殿東序検校。量建議:御書以宰相宋璟・蘇頲同署、如貞観故事。又借民間異本伝録。及還京師、遷書東宮麗正殿、置修書院於著作院。其後大明宮光順門外・東都明福門外、皆創集賢書院、学士通籍出入。既而太府月給蜀郡麻紙五千番、季給上谷墨三百三十六丸、歳給河間・景城・清河・博平四郡兔千五百皮為筆材。両都各聚書四部、以甲・乙・丙・丁為次、列経・史・子・集四庫。其本有正有副、軸帯帙籤皆異色以別之。 安禄山之乱、尺簡不蔵。元載為相、奏以千錢購書一巻、又命拾遺苗發等使江淮括訪。至文宗時、鄭覃侍講、進言経籍未備、因詔秘閣搜採、於是四庫之書復完、分蔵于十二庫。黄巣之乱、存者蓋。昭宗播遷、京城制置使孫惟晟斂書本軍、寓教坊於秘閣、有詔還其書、命監察御史韋昌範等諸道求購、及徙洛陽、蕩然無遺矣。 甲部経録、其類十一:一曰易類、二曰書類、三曰詩類、四曰礼類、五曰楽類、六曰春秋類、七曰孝経類、八曰論語類、九曰讖緯類、十曰経解類、十一曰小学類。凡著録四百四十家、五百九十七部、六千一百四十五巻。不著録一百一十七家、三千三百六十巻。 『連山』十巻 司馬膺注『帰蔵』十三巻 『周易卜商伝』二巻 孟喜『章句』十巻 京房『章句』十巻 費直『章句』四巻 馬融『章句』十巻 荀爽『章句』十巻 鄭玄注『周易』十巻 劉表『注』五巻 董遇『注』十巻 宋忠『注』十巻 王肅『注』十巻 王弼『注』七巻 又『大衍論』三巻 虞『注』九巻 陸績『注』十三巻 姚信『注』十巻 荀煇『注』十巻 蜀才『注』十巻 王廙『注』十巻 干宝『注』十巻 又『爻義』一巻 黄穎『注』十巻 崔浩『注』十巻 崔覲『注』十三巻 何胤『注』十巻 盧氏『注』十巻 傅氏『注』十四巻 王又玄『注』十巻 王凱沖『注』十巻 荀氏『九家集解』十巻 馬・鄭・二王『集解』十巻 王弼・韓康伯『注』十巻 二王『集解』十巻 張璠『集解』十巻 又『略論』一巻 謝万注『繋辞』二巻 桓玄注『繋辞』二巻 荀諺注『繋辞』二巻 荀柔之注『繋辞』二巻 宋褰注『繋辞』二巻 宋明帝注『義疏』二十巻 張該等『群臣講易疏』二十巻 梁武帝『大義』二十巻 又『大義疑問』二十巻 蕭偉『発義』一巻 又『幾義』一巻 蕭子政『義疏』十四巻 又『繋辞義』二巻 張譏『講疏』三十巻 何妥『講疏』十三巻 褚仲都『講疏』十六巻 梁蕃『文句義疏』二十巻 又『開題論序疏』十巻 『釈序義』三巻 劉瓛『繋辞義疏』二巻 又『乾坤義疏』一巻 鍾会『周易論』四巻 范氏『周易論』四巻 應吉甫『明易論』一巻 鄒湛『統略論』三巻 阮長成・阮仲容『難答論』二巻 宋処宗『通易論』一巻 宣聘『通易象論』一巻 欒肇『通易象論』一巻 袁宏『略譜』一巻 楊乂『卦序論』一巻 沈熊『周易譜』一巻 『雑音』三巻 任希古注『周易』十巻 『周易正義』十六巻国子祭酒孔穎達・顔師古・司馬才章・王恭、太学博士馬嘉運、太学助教趙乾叶・王談・于志寧等奉詔撰、四門博士蘇徳融趙弘智覆審。 陸徳明『周易文句義疏』二十四巻 『文外大義』二巻 陰弘道『周易新伝疏』十巻顥子、臨渙令。 薛仁貴『周易新注本義』十四巻 王勃『周易発揮』五巻 玄宗『周易大衍論』三巻 李鼎祚『集注周易』十七巻 東郷助『周易物象釈疑』一巻 僧一行『周易論』巻亡。 又『大衍玄図』一巻 『義決』一巻 『大衍論』二十巻 崔良佐『易忘象』巻亡。 元載『集注周易』一百巻 李吉甫注『一行易』巻亡。 衛元嵩『元包』十巻蘇源明伝、李江注。 高定『周易外伝』二十二巻郢子、京兆府参軍。 裴通『易書』一百五十巻字又玄、士淹子、文宗訪以易義、令進所撰書。 盧行超『易義五巻』字孟起、大中六合丞。 陸希声『周易伝』二巻 右易類七十六家、八十八部、六百六十五巻。失姓名一家、李鼎祚以下不著録十一家、三百二十九巻。 『古文尚書孔安国伝』十三巻 謝沈『注』十三巻 王肅『注』十巻 又『釈駁』五巻 范甯『注』十巻 李顒『集注』十巻 又『新釈』二巻 『要略』二巻 姜道盛『集注』十巻 徐邈注『逸篇』三巻 伏勝注『大伝』三巻 又『暢訓』一巻 劉向『洪範五行伝論』十一巻 馬融『伝』十巻 王肅『孔安国問答』三巻 鄭玄注『古文尚書』九巻 又『注釈問』四巻王粲問、田瓊・韓益正。 呂文優『義注』三巻 伊説『釈義』四巻 顧歡『百問』一巻 巣猗『百釈』三巻 又『義疏』十巻 費甝『義疏』十巻 任孝恭『古文大義』二十巻 蔡大宝『義疏』三十巻 劉焯『義疏』三十巻 顧彪『古文音義』五巻 又『文外義』一巻 劉炫『述義』二十巻 王倹『音義』四巻 王玄度注『尚書』十三巻 『今文尚書』十三巻開元十四年、玄宗以洪範「無偏無頗」声不協、詔改為「無偏無陂」。天宝三載、又詔集賢学士衛包改古文従今文。 『尚書正義』二十巻国子祭酒孔穎達・太学博士王徳韶・四門助教李子雲等奉詔撰。四門博士朱長才蘇徳融・太学助教隋徳素・四門助教王士雄趙弘智覆審。太尉揚州都督長孫无忌・司空李勣・左僕射于志寧・右僕射張行成・吏部尚書侍中高季輔・吏部尚書褚遂良・中書令柳奭・弘文館学士谷那律劉伯荘・太学博士賈公彦范義頵斉威・太常博士柳士宣孔志約・四門博士趙君賛・右内率府長史弘文館直学士薛伯珍・国子助教史士弘・太学助教鄭祖玄周玄達・四門助教李玄植王真儒與王徳韶・隋徳素等刊定。 王元感『尚書糾繆』十巻 穆元休『洪範外伝』十巻 陳正卿『続尚書』纂漢至唐十二代詔策・章疏・歌頌・符檄・論議成書、開元末上之。巻亡。 崔良佐『尚書演範』巻亡。 右書類二十五家、三十三部、三百六巻。王元感以下不著録四家、二十巻。 『韓詩卜商序韓嬰注』二十二巻 又『外伝』十巻 卜商『集序』二巻 又『翼要』十巻 毛萇『伝』十巻 鄭玄箋『毛詩詁訓』二十巻 又『譜』三巻 王肅『注』二十巻 又『雑義駁』八巻 『問難』二巻 葉遵『注』二十巻號葉詩。 崔霊恩『集注』二十四巻 『義注』五巻 劉楨『義問』十巻 王基『毛詩駁』五巻 『毛詩雜答問』五巻 『雑義難』十巻 孫毓『異同評』十巻 楊乂『毛詩辨』三巻 陳統『難孫氏詩評』四巻 又『表隠』二巻 元延明『誼府』三巻 張氏『義疏』五巻 陸璣『草木鳥獣魚蟲疏』二巻 謝沈『釈義』十巻 劉氏『序義』一巻 劉炫『述義』三十巻 魯世達『音義』二巻 鄭玄等『諸家音』十五巻 王玄度注『毛詩』二十巻 『毛詩正義』四十巻孔穎達・王徳韶・斉威等奉詔撰、趙乾叶・四門助教賈普曜趙弘智等覆正。 許叔牙『毛詩纂義』十巻 成伯璵『毛詩指説』一巻 又『断章』二巻 『毛詩草木蟲魚図』二十巻開成中、文宗命集賢院修撰繪物象、大学士楊嗣復・学士張次宗上之。 右詩類二十五家、三十一部、三百二十二巻。失姓名三家、許叔牙以下不著録三家、三十三巻。 『大戴徳礼記』十三巻 又『喪服変除』一巻 鄭玄注『小戴聖礼記』二十巻 又『礼議』二十巻 『礼記音』三巻曹耽解。 『三礼目録』一巻 注『周官』十三巻 『音』三巻 注『儀礼』十七巻 『喪服変除』一巻 注『喪服紀』一巻 盧植注『小戴礼記』二十巻 馬融『周官伝』十二巻 又注『喪服記』一巻 王肅注『小戴礼記』三十巻 又注『周官』十二巻 注『儀礼』十七巻 『音』二巻 『喪服要記』一巻 注『喪服紀』一巻 鄭小同『礼記義記』四巻 袁準注『儀礼』一巻 孔倫『注』一巻 陳銓『注』一巻 蔡超宗『注』二巻 田僧紹『注』二巻 傅玄『周官論評』十二巻陳邵駁。 杜預『喪服要集議』三巻 賀循『喪服譜』一巻 又『喪服要記』五巻謝微注。 干宝注『周官』十二巻 又『答周官駁難』五巻孫略問。 李軌『小戴礼記音』二巻 尹毅『音』二巻 徐邈『音』三巻 徐爰『音』二巻 司馬『周官寧朔新書』八巻 又『礼記寧朔新書』二十巻並王懋約注。 戴顒『月令章句』十二巻 又『中庸伝』二巻 『緱氏要鈔』六巻 王逡之注『喪服五代行要記』十巻 徐広『礼論問答』九巻 范甯『礼問』九巻 又『礼論答問』九巻 射慈『小戴礼記音』二巻 又『喪服天子諸侯図』一巻 崔游『喪服図』一巻 蔡謨『喪服譜』一巻 『喪服要難』一巻趙成問、袁祈答。 伊説注『周官』十巻 孫炎注『礼記』三十巻 葉遵『注』十二巻 董勛『問礼俗』十巻 劉『礼記評』十巻 呉商『雑礼義』十一巻 何承天『礼論』三百七巻 顔延之『礼逆降議』三巻 任預『礼論條牒』十巻 又『礼論帖』三巻 『礼論鈔』六十六巻 庾蔚之『礼記略解』十巻 又注『喪服要記』五巻 『礼論鈔』二十巻 王倹『礼儀答問』十巻 又『礼雜答問』十巻 『喪服古今集記』三巻 荀万秋『礼雑鈔略』二巻 傅隆『礼議』一巻 梁武帝『礼大義』十巻 周捨『礼疑義』五十巻 何佟之『礼記義』十巻 又『礼答問』十巻 戚寿『雑礼義問答』四巻 賀瑒『礼論要鈔』一百巻 賀述『礼統』十二巻 崔霊恩『周官集注』二十巻 又『三礼義宗』三十巻 元延明『三礼宗略』二十巻 皇侃『礼記講疏』一百巻 又『義疏』五十巻 『喪服文句義』十巻 沈重『周礼義疏』四十巻 又『礼記義疏』四十巻 熊安生『義疏』四十巻 劉芳『義証』十巻 沈文阿『喪服経伝義疏』四巻 又『喪服發題』二巻 夏侯伏朗『三礼図』十二巻 『礼記隠』二十六巻 『礼類聚』十巻 『礼儀雜記故事』十一巻 『礼統郊祀』六巻 『礼論要鈔』十三巻 『区分』十巻 『礼論鈔略』十三巻 『礼記正義』七十巻孔穎達・国子司業朱子奢・国子助教李善信賈公彦柳士宣范義頵・魏王参軍事張権等奉詔撰、與周玄達・趙君賛・王士雄・趙弘智覆審。 賈公彦『礼記正義』八十巻 又『周礼疏』五十巻 『儀礼疏』五十巻 魏徴『次礼記』二十巻亦曰類礼。 王玄度『周礼義決』三巻 又注『礼記』二十巻 元行沖『類礼義疏』五十巻 『御刊定礼記月令』一巻集賢院学士李林甫陳希烈徐安貞・直学士劉光謙斉光乂陸善経・修撰官史玄晏待制官梁令瓚等注解。自第五易為第一。 成伯璵『礼記外伝』四巻 王元感『礼記繩愆』三十巻 王方慶『礼経正義』十巻 『礼雑問答』十巻 李敬玄『礼論』六十巻 張鎰『三礼図』九巻 陸質『類礼』二十巻 韋彤『五礼精義』十巻 丁公著『礼志』十巻 『礼記字例異同』一巻元和十三年詔定。 丘敬伯『五礼異同』十巻 孫玉汝『五礼名義』十巻 杜肅『礼略』十巻 張頻『礼粋』二十巻 右礼類六十九家、九十六部、一千八百二十七巻。失姓名七家、元行沖以下不著録十六家、二百九十五巻。 桓譚『楽元起』二巻 又『琴操』二巻 孔衍『琴操』二巻 荀勗『太楽雑歌辞』三巻 又『太楽歌辞』二巻 『楽府歌詩』十巻 謝霊運『新録楽府集』十一巻 信都芳刪注『楽書』九巻 留進『管絃記』十二巻 凌秀『管絃志』十巻 公孫崇『鍾磬志』二巻 梁武帝『楽社大義』十巻 又『楽論』三巻 沈重『鍾律』五巻 釈智匠『古今楽録』十三巻 鄭訳『楽府歌辞』八巻 又『楽府声調』六巻 蘇夔『楽府志』十巻 李玄楚『楽経』三十巻 元慇『楽略』四巻 又『声律指帰』一巻 翟子『楽府歌詩』十巻 又『三調相和歌辞』五巻 劉氏・周氏『琴譜』四巻 陳懐『琴譜』二十一巻 『漢魏呉晋鼓吹曲』四巻 『琴集歴頭拍簿』一巻 『外国伎曲』三巻 又一巻 『論楽事』二巻 『歴代曲名』一巻 『推七音』一巻 『十二律譜義』一巻 『鼓吹楽章』一巻 李守真『古今楽記』八巻 蕭吉『楽譜集解』二十巻 武后『楽書要録』十巻 趙邪利『琴敍譜』九巻 張文收『新楽書』十二巻 劉貺『太楽令壁記』三巻 徐景安『歴代楽儀』三十巻 崔令欽『教坊記』一巻 呉兢『楽府古題要解』一巻 郗昂『楽府古今題解』三巻一作王昌齢。 段安節『楽府雑録』一巻文昌孫。 竇璡『正声楽調』一巻 玄宗『金風楽』一巻 蕭祜『無射商九調譜』一巻 趙惟暕『琴書』三巻 陳拙『大唐正声新址琴譜』十巻 呂渭『広陵止息譜』一巻 李良輔『広陵止息譜』一巻 李約『東杓引譜』一巻勉子、兵部員外郎。 斉嵩『琴雅略』一巻 王大力『琴声律図』一巻 陳康士『琴譜』十三巻字安道、僖宗時人。 又『琴調』四巻 『琴譜』一巻 『離騒譜』一巻 趙邪利『琴手勢譜』一巻 南卓『羯鼓録』一巻 右楽類三十一家、三十八部、二百五十七巻。失姓名九家、張文收以下不著録二十家、九十三巻。 左丘明『春秋外伝国語』二十巻 董仲舒『春秋繁露』十七巻 『春秋穀梁伝』十五巻尹更始注。 『春秋公羊伝』五巻厳彭祖述。 賈逵『春秋左氏長経章句』二十巻 又『解詁』三十巻 『春秋三家訓詁』十二巻 董遇『左氏経伝章句』三十巻 王肅『注』三十巻 又『国語章句』二十二巻 王朗注『左氏』十巻 士燮注『春秋経』十一巻 杜預『左氏経伝集解』三十巻 又『釈例』十五巻 『音』三巻 鄭衆『牒例章句』九巻 潁容『釈例』七巻 劉寔『条例』十巻 方範『経例』六巻 何休『左氏膏肓』十巻鄭玄箴。 又『公羊解詁』十三巻 『春秋漢議』十巻麋信注、鄭玄駁。 『公羊条伝』一巻 『墨守』一巻鄭玄發。 『穀梁廃疾』三巻鄭玄釈、張靖箋。 服虔『左氏解誼』三十巻 又『膏肓釈痾』五巻 『春秋成長説』七巻 『塞難』三巻 『音隠』一巻 『駁何氏春秋漢議』十一巻 王玢『達長義』一巻 孫毓『左氏伝義注』三十巻 又『賈服異同略』五巻 梁簡文帝『左氏伝例苑』十八巻 干宝『春秋義函伝』十六巻 『序論』一巻 殷興『左氏釈滞』十巻 何始真『春秋左氏区別』十二巻 張沖『春秋左氏義略』三十巻 厳彭祖『春秋図』七巻 呉略『春秋経伝詭例疑隠』一巻 京相璠『春秋土地名』三巻 王延之『旨通』十巻 顧啓期『大夫譜』十一巻 李謐『叢林』十二巻 崔霊恩『立義』十巻 『申先儒伝例』十巻 沈宏『経伝解』六巻 又『文苑』六巻 『嘉語』六巻 沈文阿『義略』二十七巻 劉炫『攻昧』十二巻 又『規過』三巻 『述議』三十七巻 高貴郷公『左氏音』三巻 曹耽・荀訥『音』四巻 李軌『音』三巻 孫邈『音』三巻 王元規『音』三巻 孔氏『公羊集解』十四巻 王愆期注『公羊』十二巻 又『難答論』一巻庾翼難。 高襲『伝記』十二巻 荀爽・徐欽『答問』五巻 劉寔『左氏牒例』二十巻 又『公羊違義』三巻劉晏注。 王倹『音』二巻 『春秋穀梁伝段肅注』十三巻 唐固注『穀梁』十二巻 又注『国語』二十一巻 麋信注『穀梁』十二巻 又『左氏伝説要』十巻 張靖『集解』十一巻 程闡『経伝集注』十六巻 孔衍『訓注』十三巻 范甯『集注』十二巻 徐乾『注』十三巻 徐邈『注』十二巻 又『伝義』十巻 『音』一巻 沈仲義『集解』十巻 蕭邕『問伝義』三巻 劉兆『三家集解』十一巻 韓益『三伝論』十巻 胡訥集撰『三伝経解』十一巻 又『三伝評』十巻 潘叔度『春秋成集』十巻 又『合三伝通論』十巻 江熙『公羊穀梁二伝評』三巻 李鉉『春秋二伝異同』十二巻 虞注『国語』二十一巻 韋昭『注』二十一巻 孔『解』二十一巻 『春秋弁証明経論』六巻 『左氏音』十二巻 『左氏鈔』十巻 『春秋辞苑』五巻 『雑義難』五巻 『左氏杜預評』二巻 『春秋正義』三十六巻孔穎達・楊士勛・朱長才奉詔撰。馬嘉運・王徳韶・蘇徳融與隋徳素覆審。 『楊士勛穀梁疏』十二巻 王玄度注『春秋左氏伝』巻亡。 盧蔵用『春秋後語』十巻 高重『春秋纂要』四十巻字文明、士廉五代孫、文宗時翰林侍講学士。帝好左氏春秋、命重分諸国各為書、別名経伝要略。歴国子祭酒。 許康佐等集『左氏伝』三十巻一作文宗御集。 徐文遠『左伝義疏』六十巻 又『左伝音』三巻 陰弘道『春秋左氏伝序』一巻 李氏『三伝異同例』十三巻開元中、右威衛録事参軍、失名。 馮伉『三伝異同』三巻 劉軻『三伝指要』十五巻 韋表微『春秋三伝総例』二十巻 王元感『春秋振滞』二十巻 韓滉『春秋通』一巻 陸質『集注春秋』二十巻 又集伝『春秋纂例』十巻 『春秋微旨』二巻 『春秋辨疑』七巻 樊宗師『春秋集伝』十五巻 『春秋加減』一巻元和十三年、国子監修定。 李瑾『春秋指掌』十五巻 張傑『春秋図』五巻 又『春秋指元』十巻 裴安時『左氏釈疑』七巻字適之、大中江陵少尹。 第五泰『左伝事類』二十巻字伯通、青州益都人、咸通鄂州文学。 成玄『公穀総例』十巻字又玄、咸通山陽令。 陸希声『春秋通例』三巻 陳岳『折衷春秋』三十巻唐末鍾伝江西従事。 郭翔『春秋義鑑』三十巻 柳宗元『非国語』二巻 右春秋類六十六家、一百部、一千一百六十三巻。失姓名五家、王玄度以下不著録二十二家、四百三巻。 『古文孝経孔安国伝』一巻 劉邵『注』一巻 『孝経王肅注』一巻 鄭玄『注』一巻 韋昭『注』一巻 孫熙『注』一巻 蘇林『注』一巻 謝万『注』一巻 虞盤佐『注』一巻 孔光『注』一巻 殷仲文『注』一巻 殷叔道『注』一巻 徐整默『注』二巻 車胤『講孝経義』四巻 荀勗『講孝経集解』一巻 皇侃『義疏』三巻 何約之『大明中皇太子講義疏』一巻 梁武帝『疏』十八巻 太史叔明『発題』四巻 劉炫『述義』五巻 張士儒『演孝経』十二巻 『応瑞図』一巻 賈公彦『孝経疏』五巻 魏克己注『孝経』一巻 任希古『越王孝経新義』十巻 『今上孝経制旨』一巻玄宗。 元行沖『御注孝経疏』二巻 尹知章注『孝経』一巻 孔穎達『孝経義疏』巻亡。 王元感注『孝経』一巻 李嗣真『孝経指要』一巻 平貞『孝経議』巻亡。 徐浩『広孝経』十巻浩稱四明山人、乾元二年上、授校書郎。 右孝経類二十七家、三十六部、八十二巻。失姓名一家、尹知章以下不著録六家、一十三巻。 『論語鄭玄注』十巻 又注『論語釈義』一巻 『論語篇目弟子』一巻 王弼『釈疑』二巻 王肅注『論語』十巻 又注『孔子家語』十巻 李充注『論語』十巻 梁覬『注』十巻 孟釐『注』九巻 袁喬『注』十巻 尹毅『注』十巻 張氏『注』十巻 何晏『集解』十巻 孫綽『集解』十巻 盈氏『集義』十巻 江熙『集解』十巻 徐氏『古論語義注譜』一巻 虞喜『賛鄭玄論語注』十巻 暢恵明『義注』十巻 宋明帝補『衛瓘論語注』十巻 欒肇『論語釈』十巻 又『駁』二巻 崔豹『大義解』十巻 繆播『旨序』二巻 郭象『体略』二巻 戴詵『述議』二十巻 劉炫『章句』二十巻 皇侃『疏』十巻 褚仲都『講疏』十巻 『義注隠』三巻 『雑義』十三巻 『剔義』十巻 徐邈『音』二巻 『孔叢』七巻 王勃『次論語』十巻 賈公彦『論語疏』十五巻 韓愈注『論語』十巻 張籍『論語注辨』二巻 右論語類三十家、三十七部、三百二十七巻。失姓名三家、韓愈以下不著録二家、十二巻。 宋均注『易緯』九巻 注『詩緯』十巻 注『礼緯』三巻 注『楽緯』三巻 注『春秋緯』三十八巻 注『論語緯』十巻 注『孝経緯』五巻 鄭玄注『書緯』三巻 注『詩緯』三巻 右讖緯類二家、九部、八十四巻。 劉向『五経雑義』七巻 又『五経通義』九巻 『五経要義』五巻 許慎『五経異義』十巻鄭玄駁。 譙周『五経然否論』五巻 楊方『五経鉤沉』十巻 楊思『五経咨疑』八巻 元延明『五経宗略』四十巻 劉炫『五経正名』十二巻 沈文阿『経典玄儒大義序録』十巻 班固等『白虎通義』六巻 鄭玄『六芸論』一巻 『鄭志』九巻 『鄭記』六巻 王肅『聖証論』十一巻 梁武帝『孔子正言』二十巻 簡文帝『長春義記』一百巻 樊文深『七経義綱略論』三十巻 又『質疑』五巻 張譏『游玄桂林』二十巻 『謚法』三巻荀顗演、劉熙注。 沈約『謚例』十巻 賀琛『謚法』三巻 『集天名称』三巻 陸徳明『経典釈文』三十巻 顔師古『匡謬正俗』八巻 趙英『五経對訣』四巻英、龍朔中汲令。 劉迅『六説』五巻 劉貺『六経外伝』三十七巻 張鎰『五経微旨』十四巻 韋表微『九経師授譜』一巻 裴僑卿『微言注集』二巻開元中鄭県尉。 高重『経伝要略』十巻 王彦威『続古今謚法』十四巻 慕容宗本『五経類語』十巻字泰初、幽州人、大中時。 劉氏『経典集音』三十巻鎔、字正範、絳州正平人、咸通晋州長史。 右経解類十九家、二十六部、三百八十一巻。失姓名一家、趙英以下不著録十家、一百二十七巻。 『爾雅李巡注』三巻 樊光『注』六巻 孫炎『注』六巻 沈琁『集注』十巻 郭璞『注』一巻 又『図』一巻 『音義』一巻 江灌『図賛』一巻 又『音』六巻 李軌解『小爾雅』一巻 楊雄『別国方言』十三巻 劉熙『釈名』八巻 韋昭『辨釈名』一巻 李斯等『三蒼』三巻郭璞解。 杜林『蒼頡訓詁』二巻 張揖『広雅』四巻 又『埤蒼』三巻 『三蒼訓詁』三巻 『雑字』一巻 『古文字訓』二巻 樊恭『広蒼』一巻 史游『急就章』一巻曹寿解。 顔之推『注』一巻 司馬相如『凡将篇』一巻 班固『在昔篇』一巻 『太甲篇』一巻 蔡邕『聖草章』一巻 又『勧学篇』一巻 『今字石経論語』二巻 崔瑗『飛龍篇篆草勢合』三巻 許慎『説文解字』十五巻 呂忱『字林』七巻 楊承慶『字統』二十巻 馮幹『括字苑』十三巻 賈魴『字属篇』一巻 葛洪『要用字苑』一巻 戴規『辨字』一巻 僧宝誌『文字釈訓』三十巻 周成『解文字』七巻 王延『雜文字音』七巻 王氏『文字要説』一巻 阮孝緒『文字集略』一巻 彭立『文字辨嫌』一巻 王愔『文字志』三巻 顧野王『玉篇』三十巻 李登『声類』十巻 呂静『韻集』五巻 陽休之『韻略』一巻 又『辨嫌音』二巻 夏侯詠『四声韻略』十三巻 張諒『四声部』三十巻 趙氏『韻篇』十二巻 陸慈『切韻』五巻 郭訓『字旨篇』一巻 『古文奇字』二巻 衛宏『詔定古文字書』一巻 虞龢『法書目録』六巻 衛恒『四体書勢』一巻 蕭子雲『五十二体書』一巻 庾肩吾『書品』一巻 顔之推『筆墨法』一巻 僧正度『雑字書』八巻 何承天『纂文』三巻 顔延之『纂要』六巻 又『詰幼文』三巻 張推『証俗音』三巻 顔愍楚『証俗音略』一巻 李虔『続通俗文』二巻 李少通『俗語難字』一巻 諸葛潁『桂苑珠叢』一百巻 朱嗣卿『幼学篇』一巻 項峻『始学篇』十二巻 王羲之『小学篇』一巻 楊方『少学集』十巻 顧凱之『啓疑』三巻 蕭子範『千字文』一巻 周興嗣『次韻千字文』一巻 『演千字文』五巻 『黄初篇』一巻 『呉章篇』一巻 『音隠』四巻 『難要字』三巻 『覧字知源』三巻 『字書』十巻 『敍同音』三巻 『桂苑珠叢略要』二十巻 『古今八体六文書法』一巻 『古来篆隸詁訓名録』一巻 『筆墨法』一巻 『鹿紙筆墨疏』一巻 『篆書千字文』一巻 『今字石経易篆』三巻 『今字石経尚書本』五巻 『今字石経鄭玄尚書』八巻 『三字石経尚書古篆』三巻 『今字石経毛詩』三巻 『今字石経儀礼』四巻 『三字石経左伝古篆書』十二巻 『今字石経左伝経』十巻 『今字石経公羊伝』九巻 蔡邕『今字石経論語』二巻 曹憲『爾雅音義』二巻 又『博雅』十巻 『文字指帰』四巻 劉伯荘『続爾雅』一巻 顔師古注『急就章』一巻 武后『字海』一百巻凡武后所著書、皆元万頃・范履冰・苗神客・周思茂・胡楚賓・衛業等撰。 李嗣真『書後品』一巻 徐浩『書譜』一巻 『古跡記』一巻 張懐瓘『書断』三巻開元中翰林院供奉。 又『評書薬石論』一巻 張敬玄『書則』一巻貞元中処士。 褚長文『書指論』一巻 張彦遠『法書要録』十巻弘靖孫、乾符初大理卿。 裴行倹『草字雑体』巻亡。 荊浩『筆法記』一巻浩稱洪谷子。 二王・張芝・張昶等書一千五百一十巻太宗出御府金帛購天下古本、命魏徴・虞世南・褚遂良定真偽、凡得羲之真行二百九十紙、為八十巻、又得獻之・張芝等書、以「貞観」字為印。草跡命遂良楷書小字以影之。其古本多梁・隋官書。梁則満騫・徐僧権・沈熾文・朱、隋則江総・姚察署記。帝令魏・褚巻尾各署名。開元五年、敕陸玄悌・魏哲・劉懐信検校、分益巻秩。玄宗自書「開元」字為印。 王方慶『宝章集』十巻 又『王氏八体書範』四巻 『王氏工書状』十五巻 玄宗『開元文字音義』三十巻 張参『五経文字』三巻 唐玄度『九経字樣』一巻文宗時待詔。 顔元孫『干禄字書』一巻 歐陽融『経典分毫正字』一巻 李騰『説文字源』一巻陽冰従子。 僧慧力『像文玉篇』三十巻 蕭鈞『韻音』二十巻 孫愐『唐韻』五巻 武元之『韻銓』十五巻 玄宗『韻英』五巻天宝十四載撰、詔集賢院写付諸道採訪使、伝布天下。 顔真卿『韻海鏡源』三百六十巻 李舟『切韻』十巻 僧猷智『辨体補修加字切韻』五巻 右小学類六十九家、一百三部、七百二十一巻。失姓名二十三家、徐浩以下不著録二十三家、二千四十五巻。