約 548 件
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/2538.html
趙王李福 りふく 634-670 初唐の宗室。太宗の第十三皇子。母は楊妃。貞観十三年(639)趙王に封ぜられ、李建成の祭祀を継いだ。梁州都督に遷り、実封八百戸となった。咸亨元年(670)薨。『旧唐書』『新唐書』に短い伝がある。 列伝 『新唐書』巻八十 列伝第五 太宗諸子 趙王福 『旧唐書』巻七十六 列伝第二十六 太宗諸子 趙王福 外部リンク フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』李福 (唐)
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/1895.html
広漢郡王李袨 りけん ?-? 盛唐の宗室。李瑋の子。呉王李恪の孫。太宗の曾孫。本名は李䄖。神龍年間(707-710)初頭、蜀王李愔を継承して嗣蜀王に封ぜられた。景龍四年(710)銀青光禄大夫、秘書少監となる。開元十二年(724)広漢郡王に改封された。娘に南和県主がいる。『旧唐書』『新唐書』に非常に短い伝がある。 列伝 『新唐書』巻八十 列伝第五 太宗諸子 鬱林王恪 成王千里 『旧唐書』巻七十六 列伝第二十六 太宗諸子 蜀王愔
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/180.html
江王李囂 りごう ?-632 初唐の宗室。太宗の第十一皇子。母は燕妃。貞観五年(631)江王に封ぜられたが、翌年薨じた。諡は殤。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。 列伝 『新唐書』巻八十 列伝第五 太宗諸子 江王囂 『旧唐書』巻七十六 列伝第二十六 太宗諸子 江王囂 外部リンク フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』李囂 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9B%82
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/2565.html
李瑋 りい 647-682 初唐の宗室。呉王李恪の次子。太宗の孫。李千里の弟。李琨・李璄の兄。父が誅殺されると兄弟全員嶺南に流された。配地の広州南海県で若死にし、朗陵王に追封された。子に広漢郡王李袨がいる。 列伝 『新唐書』巻八十 列伝第五 太宗諸子 鬱林王恪 『旧唐書』巻七十六 列伝第二十六 太宗諸子 呉王恪 子成王千里 外部リンク 維基百科 李瑋 (唐朝)(中文)
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/94.html
江夏王李道宗 りどうそう 603-656 初唐の宗室・武将。字は承範。李韶の子。李道興・李道立の兄。父李韶は高祖の従兄弟にあたり、李道宗は太宗の又従兄弟にあたる。高祖が即位すると左千牛備身・略陽郡公となり、秦王時代の太宗に従って軍功をあげた。霊州総管となると、梁洛仁が突厥の兵数万を率いていたのを急襲して撃破し、任城王に封ぜられた。太宗が即位すると鴻臚卿・大理卿となり、さらに再度霊州都督となった。貞観三年(629)大同道行軍総管となり、李靖を助けて突厥を打ち破り、頡利可汗を捕虜とした。吐谷渾との戦いでも李靖の配下として行動し、急襲を主張して実行、敵を打ち破った。江夏郡王に移封され、鄂州刺史を授けられた。収賄の罪により罷免されて自邸に帰ったが、しばらくして復帰し茂州都督、晋州刺史、礼部尚書となった。貞観十五年(641)吐蕃に文成公主を嫁がせることとなり、護送した。貞観19年(645)太宗が高句麗征伐を行うとそれに参加し、安市城攻略を行ったが、李道宗が担当した部所が原因で攻城が失敗することになり、太宗に罪を請うたが許され、帰還すると職を辞して閑職となった。長孫无忌・褚遂良に陥れられて房遺愛の変に連座し、象州に流される途上病死した。子に李景恒がおり、文成公主は娘ともいわれる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。 列伝 『新唐書』巻七十八 列伝第三 宗室 太祖諸子 江夏王道宗 『旧唐書』巻六十 列伝第十 宗室 太祖諸子 代祖諸子 江夏王道宗 外部リンク フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』李道宗 https //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%81%93%E5%AE%97
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/2029.html
弁機 べんき 619-? 初唐の僧侶。会昌寺の僧。十五歳の時に道岳のもとで大総持寺で出家した。玄奘が西域より帰還して訳経業が開始されると、慈恩寺での任につき靖邁・玄応らとともに綴文を担当した。合浦公主からの流出物を入手し、それを契機として太宗に誅殺されたと『新唐書』にあるが、太宗崩御後の永徽元年(650)にも『本事経』の翻訳事業に携わっているから、事実ではない。 列伝・史料 『新唐書』巻八十三 列伝第八 諸帝公主 太宗二十一女 合浦公主 『宋高僧伝』巻四 義解篇之 唐簡州福聚寺靖邁伝
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/183.html
曹王李明 りめい ?-682 初唐の宗室。太宗の第十四皇子。母は楊氏。貞観二十一年(647)曹王に封ぜられ、累進して都督・刺史となった。高宗は詔によって巣王の祭祀を継ぐことを命じられた。永隆年間(680-681)、太子李賢の事件に連座して、零陵郡王に降封され、黔州に移された。都督の謝祐に殺害された。子に李俊・李傑・李備がいる。『旧唐書』『新唐書』に短い伝がある。 列伝 『新唐書』巻八十 列伝第五 太宗諸子 曹王明 『旧唐書』巻七十六 列伝第二十六 太宗諸子 曹王明 外部リンク フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』李明 (唐)
https://w.atwiki.jp/22shisakki/pages/274.html
454.一母生數帝 前代有一母生數帝者,陔餘叢考所載尚未備,今更詳録於此。晉庾后生成帝、康帝。章太妃生哀帝、廢帝,陳后生安帝、恭帝。北齊婁后生文襄、文宣、孝昭、武成,一追諡之帝,三及身爲帝。唐武后生中宗、睿宗。宋杜太后生太祖、太宗。遼史,太祖后述律氏生長子倍,封東丹國,爲人皇王,後追諡義宗。次子德光,即皇帝位,是爲太宗。幼子李胡,後亦追諡章肅皇帝。是一母生三帝,一及身爲帝,二追尊之帝也。金史,景祖后唐括氏生劾里鉢,是爲世祖;頗剌淑,是爲肅宗;盈歌,是爲穆宗,此猶是追尊之帝。而世祖后拏懶氏生烏雅束,是爲康宗;阿骨打,是爲太祖;呉乞買,是爲太宗。烏雅束猶是追尊之帝,太祖、太宗則創業之君,及身有天下,是一母生三帝,一追尊之帝,二創業之帝也。又檢元史,此事尤多。太祖第四子拖雷之妃唆魯帖尼(後追諡莊聖皇后)生二子,長蒙哥,是爲憲宗;次忽必烈,是爲世祖。又世祖太子真金(後追諡裕宗)之第二子達剌麻八剌,其妃荅吉(後追諡元聖皇后)生二子,長曰海山,是爲武宗;次愛育黎拔力八達,是爲仁宗。是皆一母生二帝也。他如太祖光獻后生窩闊台,是爲太宗;又生拖雷,雖未爲帝,後以子莽蒙哥登極,追尊曰睿宗,是亦一母生二帝。又真金之妃弘吉剌氏生鐵木兒,是爲成宗。而其長子甘麻剌雖未爲帝,後以子也孫鐵木兒入繼大統,是泰定帝,追尊甘麻剌爲顯宗。又次子達剌麻八剌亦未爲帝,後以子武宗、仁宗登極,亦追尊達剌麻八剌爲順宗。是弘吉剌氏生三子,及身爲帝者一,死後諡帝者二,且一母生三帝矣。至如明宗、文宗雖皆武宗子,而明宗母亦乞烈氏,文宗母唐兀氏,實不同母。寧宗、順帝雖皆明宗子,而寧宗母八不沙,順帝母邁來的,亦不同母。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/2575.html
嗣呉王李巘 りけん ?-799 中唐の宗室・官人。嗣呉王李祗の子。李琨の孫。呉王李恪の曾孫。太宗の玄孫。李岵の弟。宗正卿、検校刑部尚書となり、貞元十五年(799)薨去すると太子少保を追贈された。清廉な官であった。子に李寅がいて、嗣呉王を継承し、孫に嗣呉王李復がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。 列伝 『新唐書』巻八十 列伝第五 太宗諸子 鬱林王恪 嗣呉王巘 『旧唐書』巻七十六 列伝第二十六 太宗諸子 呉王恪 孫信安郡王褘 峘 外部リンク 維基百科 李巘(中文) https //zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%9D%8E%E5%B7%98
https://w.atwiki.jp/bokuserve/pages/3270.html
【元ネタ】大越史記全書 【CLASS】セイバー 【マスター】 【真名】黎奉暁 【性別】男性 【身長・体重】210cm・120kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力B 耐久C 敏捷B 魔力E 幸運B 宝具C 【クラス別スキル】 対魔力:C 第二節以下の詠唱による魔術を無効化する。 大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。 騎乗:C 騎乗の才能。大抵の乗り物、動物なら人並み以上に乗りこなせるが、 野獣ランクの獣は乗りこなせない。 【固有スキル】 忠士の相:B マスターに忠誠を誓い、同時にマスターからも信頼を寄せられる。 自らの主君に忠義を尽くし、主君からも信を置かれた英雄に与えられるスキル。 主従関係の構築に優れ、良好な関係ならば高いパフォーマンスを発揮する。 【宝具】 『拔劍直至敵』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:1~2 最大捕捉:1人 王の叛逆者を斬った剣。 銅鼓山神の加護によって王は叛逆を察知し、 そして反乱鎮圧を実行したのはセイバーである。 主と認めた者の敵対者の敵意や気配を察知して指し示し、 神の加護とセイバーの忠義心を斬撃力として具現する。 叛逆者、暗殺者としての逸話を持つ者に対しての特攻効果を有する。 【解説】 『大越史記全書本紀』に記される宮廷内の武臣。 1028年、李朝ベトナムの太祖が崩御し、皇太子の仏瑪が太宗として即位した。 しかし李太宗の即位直後に、太宗の三兄弟が起こした「三王の乱」の鎮圧に功があった。 弟たちが城内に伏兵し、攻撃をしかけてきたことを察知した太宗は奉暁に抗戦を命じた。 奉暁は剣を抜いて進み、叛逆者たちに怒鳴りつけると、三人の内の1人の武徳を斬り捨て、 他の二人は退散し、叛逆兵たちも遁走した。こうして大功あった奉暁は太宗から褒美を授かった。 また後のチャンパ遠征にも参加し、功績は甚だしかったという。 ただし、『大越史略』ではその名は見えず、内侍の李仁義が鎮圧の実行者ということになっている。 【コメント】 日本語資料が殆どないので情報不足。 因みに三兄弟の内の1人の翊聖王は20万の雲南からの侵攻軍を撃破したことがあるらしい。 絶対に盛ってるけど。適正クラスはセイバーのみ。