約 22,514 件
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/1670.html
1178年(治承二年)旧暦十一月十二日に生まれる。 諱は言仁親王。 父は高倉天皇、母は平徳子(建礼門院)。 『平家物語』巻第三「公卿揃」の段に、安徳天皇が生まれた際、男児であれば南側に甑を落とすところ、 誤って北側に落とし、のちに慌てて南側に落とし直したという記述があり。 こうした記述から、安徳天皇女性説などが出て来たのではないかと云々。 『平家物語』巻十一、覚一本「剣」の段に、 ある博士(陰陽博士)の話として、安徳天皇はヤマタノオロチの生まれ変わりで、 スサノオノミコトに奪われた霊剣(天叢雲剣)を惜しんで、 人王八十代の後、八歳の帝となって剣と共に海に還ったのだ、とする憶説を載せる。 一方『愚管抄』では、安徳天皇が、平清盛が厳島明神に祈りださせた子であり、 厳島が竜王の娘神である事から、安徳天皇も海に還ったのだ、と論評しているとか。 参考文献 『平家物語(三)』 『平家物語(十一)』 平家物語(三) (講談社学術文庫) 平家物語(十一) (講談社学術文庫)
https://w.atwiki.jp/bokuserve/pages/636.html
【元ネタ】史実 【CLASS】セイバー 【マスター】 【真名】安徳天皇 【性別】? 【身長・体重】126cm・25kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷E 魔力A+ 幸運E 宝具A++ 【クラス別スキル】 対魔力:A+ A+以下の魔術は全てキャンセル。 事実上、魔術ではセイバーに傷をつけられない。 騎乗:E 騎乗の才能。大抵の乗り物なら何とか乗りこなせる。 【固有スキル】 神性:A 神霊適性を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 天照大神の直系であり、竜神の娘の化身ともされ、相応の信仰を集める。 魔力放出:A 膨大な魔力はセイバーが意識せずとも、濃霧となって体を覆う。 魔力の余波によって各種耐性が格段に向上している。 透化:D 純真無垢。精神面への干渉を無効化する精神防御。 【宝具】 『天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)』 ランク:A++ 種別:対城宝具 レンジ:10~99 最大捕捉:1000人 三種の神器における武の象徴、八岐大蛇の尾より出でし神剣。 安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んだ竜王の剣にして、八岐大蛇の分霊である。 水の魔力を常に溢れさせており、刀身に纏うことで不可視となっている。 この魔力によって中空に雲状の門を設置、開放することで八条の濁流を召喚し、 八岐大蛇の神威である莫大な水量を操作することで、あらゆるものを洗い流す。 また、この大蛇の力を安徳天皇自身が身に纏うことで、下記の宝具を発動させられる。 『幼帝変化八岐大蛇(ようていへんげやまたのおろち)』 ランク:EX 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人 八岐大蛇の化身とされる、安徳天皇の内部に秘められた魔力を解き放った状態。 『天叢雲剣』 によって召喚させた、大蛇の神威たる濁流を疑似的に受肉させ、 鱗を持った八条の大河にそれぞれ龍頭を冠すことで、八岐大蛇は降臨する。 安徳天皇を魔力炉・霊核として取り込んだ大蛇は破壊本能のままに活動し、 日本神話最大の怪物として神霊にすら準ずるレベルの猛威を振るうが、 やがて仮初の肉体が耐え切れずに自壊し、安徳天皇を生贄として喰らい無に消える。 【解説】 第81代天皇。わずか8歳という最年少で崩御した少年天皇である。 1180年、2歳で即位するが、政治の実権は平清盛が握ったままであった。 壇ノ浦の戦いで平家一門滅亡の際、祖母・二位の尼に抱きかかえられ、神璽・宝剣と共に海中へ没した。 その悲劇性から数々の伝説を有し、各地に漂流伝説と安徳陵が残る。現在は水の神としてまつられている。 「義経千本桜」では清盛によって男装を強いられた幼女帝という設定で登場し、 八島の戦で滅びた平家、知盛に匿われ、知盛が義経に挑み敗北した後は、小原に送られ親子で暮らした。 出雲で素戔嗚尊に奪われた剣を、もともとの持ち主である龍王の娘が、安徳帝に化身して奪い返した。 その御霊は八岐大蛇の化身であり、鎮魂を怠れば災厄をもたらす。 という伝説もある。
https://w.atwiki.jp/bokuserve/pages/572.html
【元ネタ】史実 【CLASS】キャスター 【マスター】 【真名】天武天皇 【性別】男性 【身長・体重】162cm・71kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力E 耐久D 敏捷E 魔力A 幸運B 宝具C 【クラス別スキル】 陣地作成:B 魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。 “工房”を形成する事が可能。 道具作成:C 魔力を帯びた器具を作成できる。 自身の魔術行使を補助する道具を作り上げられる。 【固有スキル】 カリスマ:C 大軍団を指揮する天性の才能。 カリスマは稀有な才能で、小国の王としてはCランクで十分といえる。 皇帝特権:C 本来持ち得ないスキルも、本人が主張する事で短期間だけ獲得できる。 該当するスキルは騎乗、剣術、芸術、カリスマ、軍略、等。 神性:D 神霊適正を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 かなり薄まってはいるものの天照大神の血を引いており、存命中に神格化もされた。 占術:A+ 中国から伝わり、日本においても発展した東アジア圏独自の魔術体系。 吉兆や天候を占い、怪異や災厄を祓う他、式神と呼ばれる使い魔の使役を得意とする。 このランクならば、占うのみならず、術者自ら自然干渉を行う事が可能。 【宝具】 『天文遁甲盤(てんもうとんこうばん)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:1 最大捕捉:1人 天武天皇が愛用した式占盤。 使用者の魔術行使を強化・補助し、消費魔力・詠唱時間を削減する。 この宝具を用いる事により、天武天皇は「世界に訴えかける」魔術の個人での運用を可能とする。 【解説】 第40代日本国天皇。日本古代最大の反乱とされる壬申の乱に勝利して即位した。 即位後は庶民の官僚への登用と貴族や豪族の弱体化政策を進め、皇族の政治的権力を高め、中央集権的統治制度を確立させた。 また、自身も得意とした占術の他に陰陽術や、神道、仏教も振興し、天皇の宗教的権威を高める事にも成功。 日本最古の貨幣の発行を行い、また、「天皇」という称号を使い始めた最初の天皇であるともいわれる。
https://w.atwiki.jp/rinseidou/pages/154.html
出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 神武天皇(じんむてんのう、紀元前711年2月13日~紀元前585年4月9日)は、日本の初代天皇。日本の神話上の初代天皇。日向国(宮崎県)出身。在位は神武天皇元年1月1日(紀元前660年2月11日)~神武天皇76年3月11日。 天皇が即位した旧暦1月1日は、現在の暦では2月11日にあたり、日本国が建国した日として、第二次世界大戦に敗戦する前は紀元節、戦後は建国記念の日という祝日である。 『古事記』には神倭伊波礼琵古命とあり、『日本書紀』には神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)・始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)・若御毛沼命(わかみけぬのみこと)・狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)とも。 生涯 以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事跡である。内容が神話的であり、神武天皇の実在も含めて現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられていない。『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、詳細は神武東征の項目も参照のこと。 皇子の時代 神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命の四男(または三男)である。 生まれながらにして明達にして、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。 『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。 東征の開始 10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て、速吸之門に来た時、国津神の椎根津彦を道案内とした。筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。 筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年滞在して船と兵糧を蓄えた。 長髄彦との戦い 戊午の歳の2月、船団を出して浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。 八咫烏の道案内 5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。 名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。 東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。 怒濤の進撃 8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。 9月、磐余彦は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祗を祀り、勝利を祈願した。 10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。 12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。 翌巳未の歳の2月、磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。 これに因んで、この地を葛城と称した。これによって、磐余彦は中州を平定した。3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。庚申の歳、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。 即位 辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月、磐余彦は橿原宮で践祚され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。52歳であった。 神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。 神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。 神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。 神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。 崩御 神武天皇76年、127歳にして崩御した。 系譜 父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。 『古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では、四男。第三の一書のみ、三男と作す。なお生年月日の記述は記紀にはない。兄に五瀬命、稲飯命、御毛沼命がいる。 妃:吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売。阿多小椅君の妹) 手研耳命(たぎしみみのみこと) 岐須美美命(きすみみのみこと、研耳命。古事記のみ) 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと。大物主の女) 日子八井命(ひこやいのみこと、彦八井耳命) 神八井耳命(かむやいみみのみこと) 多朝臣・阿蘇国造・科野国造・火国造などの祖 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命・綏靖天皇) 神武天皇の非実在説 神武天皇が即位したという辛酉の歳(紀元前660年)は弥生時代にあたる。明治時代に入り、近代歴史学が導入されると、歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだという原則が広く承認されるようになった。しかしこの原則を古代史に当てはめると、皇室の歴史を直接疑うことにつながる故に、長らく本格的な史料批判は行われないままであった。それでも早くから、初期の天皇が非常に長命であることや、紀年が古すぎることに疑問を持つ者はいた。たとえば明治の歴史学者那珂通世は日本書紀の記述を批判して、記紀の紀年は「辛酉革命説」に基づく編者の創作であろうと論考した。 日本古代史に真の意味での史料批判が展開されるのは大正期の津田左右吉を待たなければならない。津田は記紀の成立過程に関して初めて本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室が日本を支配するいわれを説明するために述作された日本神話の一部として理解すべきであると断じた。戦前彼の著書は不敬であるとして発禁処分とされたが、戦後になって天皇制のタブーが解かれると、神武東征説話の骨子が高句麗の開国説話と類似しているという神話学者三品彰英の指摘もあって、多くの歴史学者によっておおむね妥当な推論であるとして支持されるようになった。 こうした経緯から現代の歴史学界では神武天皇の存在は全く前提とされていない。したがって神武天皇に関する説話は何らかの形で創作されたものであるとする意見が強く、崇神天皇、応神天皇、継体天皇、または記紀編纂時期の天武天皇を基に創作したとする「モデル論」も盛んである。また、神武東征物語は邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルであるとする説もある。現代のアカデミズムに属する学者による標準的な日本古代の歴史叙述では、この時代は主として考古学を証拠として記述されている。 即位年月日 神武天皇の即位年月日は、日本書紀の記述に基づいて、明治以来、法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。 紀元前660年とされた経緯 『日本書紀』は年月日は全て干支で記しており、即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。 グレゴリオ暦が明治6年(1873年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立って、紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日をグレゴリオ暦の遡り暦に換算して、紀元節を特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。 具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。 干支は、60の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。 神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと、グレゴリオ暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。 なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日は天文上の朔に当たる。 諡号・追号・異名 「神武天皇」は、762年(天平宝字6年)~764年に淡海三船により選定され追贈された漢風諡号である。 和風諡号は次のとおり。 『日本書紀』の神武紀には「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰す」とある。 また、神代紀第十一段の第一の一書に「次に狭野尊(さののみこと)。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有(しろしめ)す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す」とあるが、第二の一書に「次磐余彦尊、亦號神日本磐余彦火火出見尊」、第三の一書に「次神日本磐余彦火火出見尊」、第四の一書に「次磐余彦火火出見尊」と似た名を挙げている。 一方『古事記』には、「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」「豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)」「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)」の名が見える。 「神日本」は美称で、聖徳を称えた表現。「磐余」は大和の地名。奈良県磯城郡桜井村・阿部村・香具山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井市谷には磐余山がある。5世紀から6世紀にかけ、磐余はたびたび皇居の地に選ばれた。 皇居・橿原神宮 都は橿原宮(かしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)。 『古事記』に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」、『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」。 「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、1888年(明治21年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋公に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。 翌年に明治天皇の御勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(1890年に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。 1911年から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が1917年(大正6年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。 なお、1938年(昭和13年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、縄文時代後期~晩期の集落跡を検出したが(橿原遺跡)、記紀の橿原宮に直接結び付くような痕跡は確認されていない。 またこの時期、第二次拡張事業(1938~40)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵)) なお、この事業は国費及び紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。 陵墓・霊廟 『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したと言う記事がある。 『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。中世にはその所在が分からなくなっていた。 江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっていた。一方、水戸光圀が『大日本史』の編纂をはじめた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。 元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。その時神武天皇陵に指定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第二代綏靖陵に治定されている。)。 しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので別な説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。 その後また、丸山という説も出てきた。これが最有力説であったが、神武陵は、1863年(文久3)にミサンザイに決まった。幕府が15000両を出して修復した。このとき神武陵だけでなく、百いくつの天皇陵全体の修復を行った。神武陵は転々としてきた歴史がある。 陵墓は、奈良県橿原市大久保町の山本ミサンザイ古墳が、畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)だと宮内庁により定められている。 現在、橿原市大久保町洞にあり、大正時代には、高市郡白檮(かし)村大字山本であったが、同じ場所である。大久保(大窪)または山本である。畝傍山から約東北に300m離れていおり、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。 毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。 また、神武天皇から昭和天皇に至るまで、歴代天皇は皆、皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 基礎データ 代数 初代 御名 神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと) 父 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと) 母 玉依姫命(たまよりひめのみこと) 皇居 畝傍山橿原宮(うねびやまかしはらのみや) 皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) 在位 崩御 陵 畝傍山東北陵(うねびやまうしとらのみささぎ)
https://w.atwiki.jp/m-jinbutu/pages/66.html
亀山天皇 建長1.5.27(1249)~嘉元3.9.15(1305) 鎌倉中期の天皇。名は恒仁/つねひと。父は後嵯峨天皇、母は西園寺実氏の娘の大宮院(藤原/きつし)。先代後深草天皇は同母兄。父母は病弱な兄よりも恒仁を愛し,彼に皇位を伝えたいと考えていた。ために正嘉2(1258)年,兄後深草の東宮に立ち,翌年に即位した。ただし当時の実権は父の後嵯峨上皇が一手に掌握していたため,政治的にはみるべきものがない。文永5(1268)年,皇子世仁/よひと親王を東宮とする。同9年に後嵯峨が没すると,兄をさしおいて「治天の君」となり天皇親政を開始,2年後東宮(後宇多天皇)に譲位して院政を行った。この時点では,皇統は完全に亀山の子孫(大覚寺統)に受け継がれるかにみえた。しかし後深草上皇は皇位回復をあきらめず,くり返し鎌倉幕府に働きかけてその後援をとりつけた。建治1(1275)年,幕府の提言により後深草上皇の皇子煕仁/ひろひと親王が皇太子に立った。これは近い将来,皇位が後深草の側(持明院統)に移ることを意味する。持明院統,大覚寺統の両統の迭立は,厳密にはこのときに始まる。またこのころ,摂政鷹司兼平が大きな政治力を持ち,亀山の地位を脅かすまでになった。煕仁親王立太子の一件で,幕府は間接的にせよ亀山を支持しなかった。このことと兼平の台頭とは一定の関係があると想像できる。 やがて亀山は朝政を積極的に主導することによって劣勢を挽回しようとし,やつぎ早に改革を行っていく。腹臣の伝奏/てんそう,評定衆の発言権を強化することによって兼平から実権を奪い,有能な下級官人を文殿衆/ふどのしゆうとして編成して彼らにも実務を担当させた。また『弘安礼節』を制定して廷臣や大社寺の間に秩序を確立し,弘安8(1285)年には朝廷初の本格的な訴訟の法20カ条を制定した。こうした動きは「徳政/とくせいの興行」と呼ばれ歓迎されたが,結局同10年,幕府の意向で伏見天皇が即位し,皇位も実権も持明院統に移る。失意の上皇は2年後に出家し,なおも大覚寺統への皇位の回復に尽力した。離宮亀山殿に没した。陵は京都の亀山陵。(本郷和人) 『日本歴史人物事典』(朝日新聞社)より
https://w.atwiki.jp/bokuserve/pages/1118.html
【元ネタ】日本神話 【CLASS】バーサーカー 【マスター】 【真名】安閑天皇 【性別】男性 【身長・体重】186cm・104kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力B 耐久A 敏捷D 魔力B 幸運C 宝具A 【クラス別スキル】 狂化:E 通常時は狂化の恩恵を受けない。その代わり、正常な思考力を保つ。 ダメージを負うごとに幸運判定を行い、失敗すると魔力と幸運を除くステータスが上昇し、暴走する。 この際、全身が青黒く染まる。 【固有スキル】 神性:B 神霊適性を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 天照大御神の直系にあたり、蔵王権現として神格化された。 勇猛:A 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉を無効化する能力。 また、格闘ダメージを向上させる効果もある。 破魔神としての属性を習得したために、ランクが向上している。 ただし、クラス能力により狂化している間は発揮できない。 黄金律:A- 金山彦神との同一視による金銭との相性の良さ。金ピカぶりは大富豪にも匹敵する。 しかし、蓄えた財の使用に関しては重大な制限がかかる。 【宝具】 『金剛蔵王権現』 ランク:B+ 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人 蔵王菩薩。安閑天皇の神(権現)としての名。 悪や魔の属性を持つ敵の能力値が自身を上回っていた場合、 それに対する自己の能力を“対象に勝利しうる値”にまで向上させる。 強大な力と聖性により悪の調伏を成す神威であり、 神として受けた信仰を用いるため、この宝具は比較的燃費が良い。 なお、クラス能力により暴走した場合は対象の属性を問わず強制発動する。 『金峰山大浄界(きんぷせんだいじょうかい)』 ランク:A 種別:結界(対軍)宝具 レンジ:10~50 最大捕捉:600人 蔵王権現の守護地である聖域を再現する宝具。 空間を浄域が塗りつぶし、進入不可の概念と“重圧”による不可侵領域を敷く。 浄界の繊細さ故に、敵を展開に巻き込んだ場合は不発となるが、 その場合は、不発の魔力を用いて、かつて女仙へ下したような天変地異を行使できる。 【Weapon】 『無銘・金剛杵』 蔵王権現の持物である三鈷杵。 降魔の武器であると同時に、通力向上の礼装でもある。 【解説】 第27代天皇。勾大兄皇子。広国押建金日命。広国押武金日天皇。 日本書紀の評によれば、武人然として猛々しく、寛大であったという。 68歳で父・継体天皇から譲位され即位し、70歳で崩御。わずか2年の統治であった。 御子はおらず、弟が即位し、宣化天皇、そして欽明天皇と続いた。 また、この天皇は修験道の神格・蔵王権現と同一視されており、 金峯山寺に顕現した権現は「吾は広国押建金日命である」と名乗ったという。 金剛蔵王権現とは、役行者がより強力な神を求めて金峯山で感得した修験道の大尊格であり、 その本地は釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三体で、憤怒相を特徴とする。
https://w.atwiki.jp/kuizu/pages/685.html
てんじてんのう 自作 和歌史における皇室の貢献に藤原定家が敬意を払い、小倉百人一首の巻頭に 「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」 が選録された、第38代天皇の名前は誰でしょう? タグ:学問・その他 Quizwiki 索引 さ~と 持統天皇 文武天皇
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/576.html
光孝天皇の第七皇子。一時、源氏を賜姓され臣籍降下し源定省(さだみ)と称したが、 関白藤原基経の推挙により、光孝天皇崩御の日仁和三年(887年)八月二十六日に 立太子、ついで践祚、即位した。 毎朝の神拝、一代一度の大神宝使の発遣、賀茂臨時祭、伊勢公卿勅使の発遣などの 新しい神道祭祀制を創始したとされる。 889年(寛平元年)より大学博士善淵愛成を師として 『周易』を学ばれ、同三年(891年)六月に業を了えられたという。 京都東山御文庫には天皇宸筆の『周易抄』(『周易』の経注より必要な字句を抽出したメモ)が残る。 897年(寛平九年)譲位。 譲位後に住んだ屋敷の名から、亭子院と呼ばれた。また、寛平法皇と呼称される場合もある。 また、『大和物語』巻上に、宇多天皇が譲位の際、歌人の伊勢と歌の贈答があったという記事が載る。 『古事談』第一、『江談抄』第三、『今昔物語集』巻二十七、『宇治拾遺物語』巻十二、『古本説話集』巻上などに、 譲位後の宇多天皇が河原院にて源融の霊と遭遇した話が記されている。 899年(昌泰二年)出家。法名は空理。後に金剛覚と改めた。 参考文献 『日本神道史』岡田壮司 『日本陰陽道史総説』村山修一 『日本伝奇伝説大事典』 日本神道史 日本陰陽道史総説
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/3344.html
天皇寺 香川県坂出市、四国八十八箇所霊場第79番札所、天皇寺の御朱印「大悲殿」です。 四国霊場開創1200年記念の御朱印です。 令和4年から令和6年にかけて授与された弘法大師御誕生1250年記念の御朱印です。「為道求道」です。 大師納経「阿字彌勒」です。 奥の院・摩尼珠院の御朱印「不動尊」です。 ★住所 香川県坂出市西庄町1713-2 - 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/minasava/pages/888.html
【元ネタ】史実、『平家物語』、『義経千本桜』 【CLASS】バーサーカー 【マスター】 【真名】安徳天皇 【性別】女性 【身長・体重】133cm・32kg 【属性】中立・中庸 【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷E 魔力A+ 幸運E 宝具A++ 【クラス別スキル】 狂化:- 通常時、狂化は機能していない。 その代わり、正常な思考力を保つ。 【固有スキル】 神性:A 神霊適正を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 天照大神の直系にあたり、本人も相応の信仰を集めている上、 神代の蛇神、八岐大蛇の転生体とされる安徳天皇の神霊適正は最高ランクと言える。 【宝具】 『水天宮草薙剣(すいてんぐうくさなぎのつるぎ)』 ランク:A 種別:対人宝具 レンジ:1~5 最大捕捉:10人 日本国三種の神器の一つ。 八岐大蛇の怨念を鎮めるため、その骨を削り出し神剣として祀り上げたもの。 剣その物の能力は高いものの、未熟な安徳天皇には高度な使用は難しく、 刀身から溢れる魔力を使って水を操り、攻撃や防御に転用するのが限界である。 『斐伊遠呂智天叢雲(ひいおろちあまのむらくも)』 ランク:A++ 種別:対城宝具 レンジ:- 最大捕捉:1000人 草薙剣の内部に秘められた神代の大蛇の魔力を解き放ち、 召喚された八筋の濁流を安徳天皇を核に纏う事で八岐大蛇の肉体を構築する。 荒れ狂う魔力の渦に安徳天皇の自我は徐々に削られ、 ターンとともに狂化のランクが上昇し、八岐大蛇としての側面が表面化。 破壊力の上昇も相まって、最終的には制御不能の大災害と化す。 【解説】 数え年8歳(満6歳4ヶ月)という最年少で崩御した、第81代天皇。 摂政政治をもくろんだ平清盛に、数え年3歳(満1歳4ヶ月)で即位させられた後、 源氏を中心とした勢力が起こした反乱により、平家一門に連れられ三種の神器と共に都落ちする。 壇ノ浦の戦いで平家一門が滅亡したことで、すべての退路を断たれた後、 せめて源氏の手には落ちるまいとした祖母に抱きかかえられ、神璽・宝剣と共に海中へ没した。 現在は水を司る神・水天宮として奉られているほか、実は八岐大蛇の化身であった、という伝説もある。 ――男性で語られる事の多い人物だが、いくつかの物語では女性としての記述もされている。 表舞台には殆ど姿を表さず、政治の道具として扱われた境遇への同情からか生存説も存在する。 【出演SS】 幼帝と空の魔王 終わり、そして始まる物語 兵共が理想(ユメ)の跡