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えんゆうてんのう。男性。第64代天皇 父 円融天皇 兄 冷泉天皇
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Template 半保護S?Template 基礎情報 天皇? 昭和天皇(しょうわてんのう、1901年(明治34年)4月29日 - 1989年(昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇。名は裕仁(ひろひと)。印は若竹(わかたけ)。歴代天皇の中で(神話上を除き)在位期間は最も長く、最も長寿であった。 (現在の)今上天皇の実父にあたる。 略歴 thumb|200px|[[香淳皇后とともに。]] thumb|200px|[[1922年、イギリス皇太子エドワード・デイヴィッド(右)訪日時、貞明皇后(中)とともに。]] thumb|200px|[[1928年、即位の礼。]] thumb|200px|[[1946年11月3日、日本国憲法に署名。]] 昭和天皇は、1901年(明治34年)4月29日(22時10分)、大正天皇と皇后・九条節子(貞明皇后)の第一皇子として、東京府東京市赤坂区青山(現、東京都港区元赤坂)の東宮御所で生まれた。名は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)。生後70日で枢密顧問官の伯爵・川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育された。1908年(明治40年)、学習院初等科に入学し、学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受けた。初等科在学中の1912年(大正元年)、皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第一連隊および第一艦隊附となった。1914年(大正3年)3月、学習院初等科を卒業。 1916年(大正5年)年、立太子礼を経て皇太子となった。1918年(大正7年)、久邇宮良子女王が皇太子妃に内定。1919年(大正8年)、満18歳となり、成年式が執り行なわれた。大正天皇の病状悪化の中で、1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日まで、イギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪。同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮と称された。同年12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)に、久邇宮良子女王と結婚した。 1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御を受け践祚して第124代天皇となり、昭和に改元(昭和とは)別の元号が予定されていたが、正式発表前に外部に漏れ、東京日日新聞に発表されてしまったため昭和に変更されたと伝わる(光文事件)。。1928年(昭和3年)11月、京都御所で即位の大礼を行なった。以後、終戦まで国策決定に深く関与し、特に軍事・外交政策にはしばしば独自の判断を示した。1933年(昭和8年)12月23日、皇太子・継宮明仁親王が降誕(誕生)。1945年(昭和20年)8月、ポツダム宣言受諾を決定し、同15日、戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)により、歴代天皇で初めて国民に天皇の声を聞かせた。1946年(昭和21年)1月1日の詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。 1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法において 天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされ、「国政に関する権能を有しない」とされたが、占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見などにより、独自の政治的影響力を保持した。1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立を回復し、報告のため伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、靖国神社をそれぞれ参拝した。 戦後は、天皇としての公務の傍ら、生物学研究者としての業績をあげた。1971年(昭和46年)、皇后と共にイギリス、オランダなどを歴訪。1975年(昭和50年)には、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。1981年(昭和56年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には在位60年記念式典が挙行され、(神代を除き)歴代天皇で最長の在位期間を記録した。 1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。1988年(昭和63年)8月15日、全国戦没者追悼式に出席。これが公の場への、最後の出席となった。1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍により崩御(死去)。87歳と、歴代の天皇で(神代を除き)最も長寿であった。在位中の元号である昭和より、昭和天皇と追号された。 同年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行なわれ、武蔵野陵に埋葬された。 年表 1901年(明治34年)4月29日(22時10分)、大正天皇と皇后・九条節子(貞明皇后)の第一皇子として青山の東宮御所で生まれる。称号は迪宮(みちのみや)。生後70日で枢密顧問官の伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。 1908年(明治40年)学習院初等科に入学。学習院院長・乃木希典(陸軍大将)から厳格な教育を受ける。 1912年(大正元年)陸海軍少尉 近衛歩兵第一連隊・第一艦隊附となる。 1914年(大正3年)3月、学習院初等科を卒業。4月、陸海軍中尉任官。 1916年(大正5年)陸海軍大尉昇任。立太子礼を経て皇太子となる。 1918年(大正7年)久邇宮良子女王が妃に内定する。 1919年(大正8年)成年式。 1919年(大正8年)陸海軍少佐に昇任。 1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日までイギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪する。ロンドンにおいて、ロバート・ベーデン・パウエル卿と謁見し、英国ボーイスカウトの最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈される。 1921年11月25日、20歳で摂政に就任する(摂政宮と称される)。 1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で無政府主義者の難波大助に狙撃されるが、命中を免れ命を取り留める。(虎ノ門事件) 1924年(大正13年)に久邇宮良子女王と結婚。 1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。 1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御により践祚し、昭和と改元。葉山の御用邸内において剣璽渡御の儀を行なう。 1926年(昭和元年)第124代天皇、陸海軍大元帥となる。 1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大礼を行なう。12月、御大典記念観兵式。 1929年(昭和4年)神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに関する進講を受ける。 1933年(昭和8年)12月23日、皇太子継宮明仁親王降誕(皇族の誕生を示す用語)。 1940年(昭和15年)皇居前広場において皇紀2600年奉祝式典に出席。 1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。 1945年(昭和20年)8月15日正午、国民に対してラジオ放送を通じて「戦争終結」を告げた(玉音放送)。歴代天皇で初めて、一般国民に天皇の肉声を聞かせる。9月2日、東京湾内・アメリカ軍艦・ミズーリ号上にて日本政府および軍代表が降伏文書に署名する。 1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に関する詔書を煥発する。 1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。講和報告のため伊勢神宮と畝傍山陵・桃山陵、靖国神社をそれぞれ参拝。 1959年(昭和34年)、皇太子明仁親王と正田美智子の成婚に出席(朝見の儀において)。 1962年(昭和37年)南紀白浜にて30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を詠んだ。 1971年(昭和46年)9月27日より香淳皇后とともにイギリス、オランダなどを歴訪する。オランダでは生卵を投げつけられるという事件があった。 1975年(昭和50年)9月30日から同年10月14日まで皇后とともにアメリカを訪問する。 1981年(昭和56年)新年一般参賀で初めて参集した国民に向かい「お言葉」を述べる。 1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。 1988年(昭和63年)8月15日、全国戦没者追悼式に御出席、これが公の場への最後の御出席となる。 1989年(昭和64年)1月7日・午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍により崩御(死去)、87歳。 1989年(平成元年)2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬される(日本国憲法と(現行の)皇室典範を経て葬られた最初の天皇)。 系譜 昭和天皇の父は大正天皇、母は皇后・九条節子(くじょう・さだこ)(貞明皇后)。父方の祖父は明治天皇、祖母は典侍・柳原愛子。母方の祖父は九条道孝、祖母は野間幾子。 系図 Template 皇室明治以降? 皇子女 香淳皇后との間に7人の皇子女を儲ける。以下誕生順。 照宮成子内親王(てるのみや しげこ、1925年-1961年) - 東久邇宮盛厚王妃 久宮祐子内親王(ひさのみや さちこ、1927年-1928年) 孝宮和子内親王(たかのみや かずこ、1929年-1989年) - 鷹司平通夫人 順宮厚子内親王(よりのみや あつこ、1931年-) - 池田隆政夫人 継宮明仁親王(つぐのみや あきひと、1933年-) - 第125代天皇・今上天皇 義宮正仁親王(よしのみや まさひと、1935年- ) - 常陸宮 清宮貴子内親王(すがのみや たかこ、1939年- ) - 島津久永夫人 主な出来事 宮中某重大事件 Template Main? 1919年(大正8年)11月に元老・山縣有朋が、「皇太子裕仁親王妃に内定」と発表されていた良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言した事件。「良子でなければならぬのだ」との裕仁親王本人の意志が尊重されて、「婚約に変更なし」と発表された。 山縣は皇室を思って進言したのだが長閥の巨頭として非難された。山縣は責任を感じて大正10年3月、枢密院議長・元老など全ての辞表を提出したが 5月、優詔にて却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。 婚礼の儀の延期と関東大震災 1923年(大正12年)の関東大震災により、同年秋季予定されていた皇太子裕仁親王(当時摂政であった)の婚礼の儀は延期されることとなった。本来なら関東という一地方で起きた地震であるので、国事である皇族の婚礼を延長することはせず遷都するのが通例であったが、東京の惨状を視察した裕仁親王の意向により延期となった。 この関東大震災で裕仁親王は、後に「加藤のおかげで命拾いをした」と語っている。背景には、霞関離宮が修理中であったため箱根(大きな震災を被った)に行く予定であったが、加藤友三郎内閣総理大臣が死去し、政変が起きていたため東京の宮城(皇居)に留まったことがある(1973年の記者会見より。会見記録は高橋紘「陛下、お尋ね申し上げまする」に詳しい)。 また後年、昭和天皇は次のように述懐している。「その 惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」(1981年の記者会見より) 田中義一首相を叱責 満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその直後に死去)。 田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる牧野伸顕内大臣の指導の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。 この事件で、天皇はその後の政治的関与について臆病になったという。 なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らしあわせるとそこまで踏み込んだ発言はなかった可能性が高い。 天皇機関説事件 1935年(昭和10年)、天皇機関説が排撃された天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言った。 昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわらず、直接・間接には何ら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述懐を、昭和天皇のリベラルな性格の証左としながら、同時に美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述は、しばしば見られるが、現実にはそれほど単純でない。 機関説は、国家法人説と呼ばれるドイツの学説に由来するが、この学説は国家の本質を「法人」とする点において主権および主権者の存在をあいまいにする意図をもった学説であり、当時すでに、後発資本主義国であり、外見的立憲主義の典型とされていたドイツにおいてさえ「時代遅れ」とされていた。しかし、戦前期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するという点において、社会科学的思考と結びつく側面をもつと同時に、吉野作造の「民本主義」と並んで護憲運動や大正デモクラシーの理論的バックボーンを演じていたことは、日本資本主義がドイツよりもさらに後発であることと立憲主義がさらに外見的であったことを反映していた。しかし、昭和天皇がそこまでの理解を持っていたかは疑問である。昭和天皇の理解していた機関説は、「一機関」としての性質を強調する一木-美濃部ラインのものではなく、有機体の「頭部」であることを強調する、清水澄の学説に近かったとする説もある。 二・二六事件 1936年(昭和11年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将の「彼らも国を憂えて起こした行動で必ずしも咎めるものではないかと存じます」との進言に、昭和天皇は怒りも露に「朕が頼みとする股肱の老臣を殺害する、かくの如き凶暴の将校の精神に何ら許すべきものがあると言うのか。老臣たちを悉く倒すは朕が首を真綿で締めるに等しき行為ではないか」、さらに「お前達がやらぬなら朕自ら近衛師団を率いてこれを鎮圧に当たらん」と発言したとされる。この事は「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面し初めて自らの意思を述べたとも言える。これによって決起軍は反乱軍と認定され、事件は速やかに解決に向かったのである。この時の発言を、太平洋戦争終結のいわゆる“ご聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」とか「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。なお、1975年(昭和50年)にエリザベス女王が来日した際、影の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子を昭和天皇は自分の通訳に選んでいる。 真珠湾攻撃・開戦詔勅 1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で、対英米戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の 「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」 (四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう) という短歌を詠み上げた。 昭和天皇自身は開戦には消極的であったと言われている。しかし、戦争が始まった後の1941年12月25日には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。 戦争指導 thumb|250px|[[1943年6月24日、戦艦武蔵に行幸した昭和天皇(中央)]] 戦争末期のころは文字通り世界中で日本軍が戦火をあげていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際に幾つか指示等もしている。また、この様なやりとりのなかで答えてしまったがために、後にはひけずにニュージーランドなどオセアニア付近へ戦局を広げねばならなくなってしまった経緯が存在する。 和平に向けて 1945年(昭和20年)1月6日、アメリカ軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。この時、木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧めている『木戸幸一日記』一月六日(土) 下巻 一一六四頁。 一月三十日(火) 下巻 一一六七頁 近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁 「解題」岡義武による序文 木戸と宮内大臣の松平恒雄とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった『侍従長の回想』「天皇の終戦秘密工作」P.43-P.54 木戸が参内を制限していたため近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、藤田はこれを信じていない。。 そのなかで特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛文麿の上奏がある。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している。昭和天皇は近衛の言うとおりの人事が出来ないことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった「時局ニ関スル重臣奉答録」『木戸幸一関係文書』 四九五頁-四九八頁『侍従長の回想』「陽の目を見た近衛上奏文」P.55-P.67。Template main? 東京大空襲の戦渦を視察し、関東大震災につづく帝都の破壊に直面した昭和天皇は、これをもって終戦を決意したと後に述懐しているTemplate 要出典?。8月9日にポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかっため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった議論は午前10時半からの最高戦争指導会議から二回の閣議、御前会議を経て全て終了したのが翌10日午前2時20分であった。会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では受諾賛成が鈴木(首相)、東郷(外相)、米内(海相)、受諾反対が阿南(陸相)、梅津(参謀総長)、豊田(軍司令部総長)であった。御前会議ではこれに平沼(枢密院議長)が加わる。鈴木が六閣僚に意見を聞くと、平沼が軍代表に質問した後に賛成に回り3対3となった。このとき平沼も天皇に御聖断を求めている。二時間にわたる会議の末に鈴木が行動を起した。。 昭和天皇は受諾の意思を表明し、8月15日、玉音放送。終戦となった。後に昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と臥薪嘗胆した鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている『大日本帝国の興亡』5巻 平和への道「七部 耐え難きを耐え 1 ポツダム宣言受諾」P.203-P.213(章題 ページ番号はハヤカワ文庫版)『侍従長の回想』会議の経過については「聖断下る」P.118-P.136。昭和天皇の発言は「異例、天皇の心境吐露」P.207-P.208からの引用。。 人間宣言 thumb|250px|right|昭和天皇(右)と[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサーの会見で(1945年)]] 1946年(昭和21年)1月1日、人間宣言を渙発。この詔書はGHQの指導下にあったマスコミにより天皇の神格否定として喧伝され、国民に大きな衝撃を与えた。 これと前後して、天皇がGHQ本部を表敬訪問した際に撮影された、GHQ総司令官でアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥と一緒に並んだ全身写真が公開(情報局により「不敬」を理由に発禁処分)されている。天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、マッカーサーがラフな服装で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は改めて敗戦の重みを思い知らされた。天皇はマッカーサーに比べて身長が低かったことも衝撃を与えている。 thumb|250px|[[アメリカ合衆国大統領ジェラルド・R・フォード夫妻と昭和天皇、香淳皇后。1975年10月2日、アメリカ合衆国にて]] thumb|250px|[[アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン夫妻と昭和天皇(右)。1983年11月9日、東京都にて]] 外遊 皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から同年9月3日までの間、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧皇太子の外遊の初例は、1907年(明治40年)の嘉仁親王(後の大正天皇)による大韓帝国訪問である。この当時の大韓帝国は日韓協約により事実上大日本帝国の保護国であったが、正式にはまだ併合前の「外国」であった。であり、国内には反対意見も根強かったが、山県有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には巡洋艦香取が用いられた。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世やロイド・ジョージ首相らと会見した。ジョージ5世はバッキンガム宮殿での最初の夜、慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いたという。イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見した他、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べている。 1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカのアンカレッジに立ち寄っており、実質的にアメリカも訪問している。当初の訪問地であるデンマークやベルギー、フランスなどでは暖かく歓迎された。フランスでは旧知であるエドワード8世と再会、しばし歓談している。しかし当時両国が植民地支配していたビルマやインドネシア戦線で旧日本軍の捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは、彼らの抗議活動に遭遇することになった。特にインドネシアの宗主国であったオランダにおいては生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。 また、1975年(昭和50年)にはフォード大統領の招待によって9月30日から10月14日まで14日間にわたって、アメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の訪米は史上初の出来事である。これに先立つこと10余年前、皇太子明仁親王夫妻が訪米しており、この訪米は皇太子夫妻のつけた道筋をたどってのものといえる。なお、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。訪米前にはアメリカ人は天皇の訪米にあまり関心がないという報道がなされ、侍従長・入江相政によると天皇に対する激しい憎しみを露わにしたアメリカ人もいたといい、関係者を悩ませた。天皇はウィリアムズバーグに到着して後、2週間にわたってアメリカに滞在し、訪米前の予想を覆してワシントンD.C.やロサンゼルスなど、訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日フォード大統領との公式会見、10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々的に報道し、新聞紙面のトップは天皇の写真で埋まった。ニューヨーク訪問時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成されるパールハーバー生存者協会が天皇歓迎決議を行っている。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソードが多かった。ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾った。同地ではミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。昭和天皇の外遊はこの訪米が最後のものであった。2007年現在13回の海外訪問を行なっている今上天皇と比較しても回数はごくわずかである。しかし、二度の外遊はいずれも第二次世界大戦の痛手からの回復、国際社会への復帰を印象付けるに十分以上の成果を挙げたといえる。帰国の当日には二種類の記念切手が発行されており、この訪米が一大事業であったことを物語っている。 行幸 thumb|250px|right|[[昭和22年(1947年)石川県で開催の第二回国民体育大会の折り、山中温泉で栢野大杉を見上げる昭和天皇。あまりの大きさに暫し言葉もなく見上げたと伝ふ。]] 戦後は1946年(昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。三池炭鉱の地下1000メートルもの地底深くや満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2キロの道のりを徒歩で村まで赴いた。1947年(昭和22年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建ったね」と復興に安堵する言葉を口にした。その他、行幸先でのエピソード、御製も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。全国46都道府県を巡幸するも、沖縄巡幸だけは沖縄が米軍の占領下にあったためついに果たすことができず、死の床にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行なえないことを悔やんでいた。 また、1964年(昭和39年)の東京オリンピック、1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック、バブル経済前夜の1985年(昭和60年)のつくば博の開会式にも出席している。これらイベントの成功にどれほど寄与したか正確に計ることはできないが、特に敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には大きな影響を与えたと見られている。病臥した1987年(昭和62年)秋にも、沖縄海邦国体への出席が予定されていた。病臥し自ら訪沖することが不可能と判明した後は皇太子明仁親王を名代として派遣しお言葉を伝えた。これに関して、「思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した皇太子明仁親王(今上天皇)は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりしてまいりました」と手にしたお言葉をおしいただき、真摯にこれを代読した。 スポーツ観戦 Template Main? 皇太子時代から大変な好角家であり、戦前戦後合わせて51回も国技館に天覧相撲に赴いている。特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間、富士桜、霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取り組みには身を乗り出して観戦したと言われ、同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取り組みはしばしば天覧相撲の日に組まれた。 1959年(昭和34年)には天覧試合として、プロ野球の巨人-阪神戦いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては当時の大映の永田雅一社長がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲、野球の振興に与えた影響は計り知れないと言える。この後プロ野球において天覧試合は行われなかったが、プロ以外では1966年(昭和41年)11月8日の日米野球ドジャース戦が天覧に付されている。 「崩御」前後 1988年(昭和63年)の暮れに入って病臥すると、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にものぼり、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。 1988年9月19日に吐血してから1989年(昭和64年)1月7日に崩御するまでの期間は、テレビなどでバラエティの派手な演出などが不謹慎であるという理由で自粛になった。なおこの「自粛」は、同年の流行語となった。このほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることがあった。 1988年の中日ドラゴンズのリーグ優勝ビールかけおよびパレードの自粛 1988年の明治神宮野球大会中止 井上陽水出演のCM(日産自動車 セフィーロ)で「みなさんお元気ですか?」の音声カット 五木ひろしの結婚披露宴の中止(更には一般市民でも自粛・延期する人が続出した) 全日本プロレス出場プロレスラー流血自粛(新日本プロレスは流血続行) 1988年の「日本歌謡大賞」が中止 笑っていいとも!のオープニングテーマの自粛・差し替え ロート製薬のオープニングキャッチ自粛 伝統行事の中止・縮小 このほか、多数のCMが所謂自粛バージョンになっている。 昭和天皇が病気で倒れた後は暫くの間、公式行事や儀式、歌舞音曲を伴う行事が自粛された。 大相撲初場所の開催を1日延期して1月9日から行う 崩御後2日間に渡って、TVはCMなしでニュースおよび追悼特番のみの放送(ただしNHK教育テレビではほぼ通常放送であった。) 各放送局とも「Xデー」と呼んで、密かに特番体制を準備していた。事前の噂では、5日間追悼番組が放映されることになっていたが、レンタルビデオ店に客が殺到するなど、特番自体の視聴率が振るわなかったことや、経営上の判断から2日間で特番体制は解除されたと言われている。 1989年の全国高校ラグビー決勝中止(大阪府・大阪工業大学高等学校と茨城県・茗溪学園高等学校の両校優勝) 1989年の全国高校サッカー選手権大会が2日間順延 1989年の爆風スランプ武道館ライブ順延 1989年1月8日のラジオ体操の中止 1989年1月8日の公演を宝塚歌劇団が中止 学校や塾では始業式を遅らせたり授業を中止するところも多数あった。 このほか、地下鉄通路の広告の照明までが落とされたり、パチンコ屋ですら店内で音楽を流さなかったなどの出来事も起こっている。 1989年(昭和64年)1月7日午前6時35分に危篤報道があり(実際は午前6時33分に崩御)、NHKをはじめとする各放送局は一斉に特別報道体制に入った。この時NHKでは青地に黄色の丸ゴシック体で「臨時ニュース」というテロップと共にチャイムを鳴らした。7時56分、藤森昭一宮内庁長官(当時)が「天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分吹上御所において崩御あらせられました」と発表。直後NHKでは黒地に白の楷書体の手書き筆字で「天皇陛下崩御」というテロップに切り替わり、チャイムが鳴らされた。このときのチャイムは「a 8 e 8 cis 8 a 8 e 8 a 8 e 8 cis 8 a 8 e 8 cis 8 e 8 a 8 a 8 e 8 cis 8 e 8 a 2」というものであった(これは臨時ニュースにおいてNHKが用いる通常のチャイム「a 8 e 8 cis 8 a 8 e 8 e 8 cis 4 a 8 e 8 cis 8 e 8 a 2」と微妙に違い、長い)。同日14時36分に新元号発表の記者会見が始まる冒頭には、記者会見場に入場する小渕恵三内閣官房長官(当時)の映像をバックにスーパーインポーズで「新元号決まる」というテロップが表示され、再び同じチャイムが鳴らされた。小渕が着席し、「ただいま終了しました閣議で「元号を改める政令」が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。新しい元号は、平成であります」と言って額に入った「平成」の文字のしたためられた色紙を掲げた。このエピソードから小渕は「平成おじさん」と称されることになった。この新元号は毎日新聞が最も早く報じ、「リベンジを果たした」と光文事件と結びつけた報道がなされた。 危篤発表直後および崩御発表から翌1月8日終日まではNHK(総合)および民放各局が特別報道体制に入り、CMの自粛、昭和天皇の業績を偲ぶ番組、崩御報道を受けてのニュースなどが放送された。7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。特別報道体制内の番組(前年末からの危篤報道を受けてあらかじめ製作していたもの)にて昭和史が回顧され「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。日付の切り替わる前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を取る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。 翌1月8日から新聞活字には「平成元年」の文字が初めて現れることになった。 昭和64年は7日間しかなかったため、「昭和64年」が刻印された硬貨は希少であると認識されがちだが、これは正しくない。実際には「平成元年」の金型が手配される平成元年3月頃までは「昭和64年」の硬貨は発行され続けており、他の年と比較してその数が際立って少ないということはない。 1989年(平成元年)2月24日に大喪の礼が執り行われ、武蔵野陵に埋葬された。 昭和天皇崩御の日、1989年1月7日のNHK朝の「ワイドニュース」(6時36分から3時間24分間)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日のNHK「ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日」(8時30分から4時間40分間)の平均視聴率は44.5%を記録した(視聴率はビデオリサーチ・関東地区調べによる)。 崩御後、1988年まで天皇誕生日であった4月29日はみどりの日という国民の祝日となった。2007年からは、昭和の日に祝日名称が変更された。 各地の記帳所、記帳所の設置された場所 皇居前記帳所 千葉県民記帳所 葉山御用邸通用門記帳所 名古屋熱田神宮境内記帳所 京都御所前記帳所 福岡市庁舎内記帳所 東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所 ※同町は伊豆大島に存在し、前年には三原山噴火という天災に見舞われたばかりであった。 関連項目 CMが放送されなかった日 後半は、昭和天皇-2、昭和天皇-3参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月5日 (月) 16 14。
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【元ネタ】日本神話+史実 【CLASS】バーサーカー 【マスター】 【真名】雄略天皇 【性別】男性 【身長・体重】178cm・86kg 【属性】混沌・狂 【ステータス】筋力A 耐久B 敏捷B 魔力B 幸運B 宝具A+ 【クラス別スキル】 狂化:B 全パラメーターを1ランクアップさせるが、理性の大半を奪われる。 【固有スキル】 神性:C 神霊適性を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 天照大御神の直系にあたる。 勇猛:B 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉を無効化する能力。 また、格闘ダメージを向上させる効果もある。 ただし、現在はクラス能力により狂化している為、能力を発揮できない。 神々の加護:A 天照大神による加護。 神託に従い豊受大神を遷宮させたことに対する褒美である。 あらゆる危機的状況において優先的に幸運を引き寄せる。 【宝具】 『蜻蛉の如く名に負はむ』 ランク:D 種別:対人宝具 レンジ:1~20 最大補足:1人 雄略天皇の周囲に侍る蜻蛉の群。無論虻を喰う。 朝廷による蜻蛉島(日本)支配が、雄略天皇の歌をもとに宝具化したもの。 征服したとされる東の55国、西の66国、北の95国を象徴した216頭の軍勢は、 偵察、行動妨害、攻撃以外にも、不退転の勝ち虫として仲間の士気を高めることもできる。 現在は狂化の影響により、蜻蛉たちが行うのは無差別特攻のみである。 『葛城山一言主神諸譚』 ランク:A 種別:対軍宝具 レンジ:1~99 最大補足:1000人 葛城一言主神社の祭神との名状しがたき縁。 この宝具の本質は、一言主の力を借り受けるに至った天孫の霊威である。 一言主の初出である軍勢模倣の能力により、Bランクまでの対軍宝具ならば その規模と能力を完全に模し、同等の攻撃によって対象の宝具を無効化できる。 さらに一言主の託宣神としての力を総動員することにより、 雄略天皇は各判断において神託を得て確実な決断を下すことができる。 現在は狂化の影響により一言主の随意により発動。マスターに神託が降る可能性もある。 【Weapon】 『獲加多支鹵大王剣』 稲荷山古墳から出土した鉄剣。 ワカタケルとは雄略天皇の幼名であり、雄略天皇を倭王武とする説の根拠の一つ。 元来この金錯銘鉄剣は大王の臣下が記念に鋳造したものだったが、 教科書にも載る知名度に後押しされ、なぜか雄略天皇が所持するに至った。 【解説】 第21代天皇。允恭天皇の第5皇子。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)。 『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定され、 学説によっては考古学的に実在が実証される最古の天皇である。 安康天皇暗殺に乗じて兄皇子を殺し、政敵を皆殺しにして即位する。 暴虐を奮った逸話が多く、大悪天皇と誹謗され、武烈天皇と同一視される。 吉備氏の乱をはじめとする地方豪族の力をそぐ政策から、諸方の恨みを買ったのが理由とも。 また、夢枕に立った天照大神の神託により、伊勢神宮外宮を建立した。 葛城山の一言主神とは、神威に屈したり、共に狩りを楽しんだり、獲物を争って土佐に放逐したりの逸話がある。
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【元ネタ】日本・史実 【CLASS】キャスター 【マスター】 【真名】飯豊天皇 【性別】女 【身長・体重】cm・kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷D 魔力B++ 幸運C 宝具B 【クラス別スキル】 陣地作成:A 魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。 “工房”を上回る“神殿”を形成することが可能。 道具作成:E 魔術的な道具を作成する技能。主に祭祀に必要な道具を作成する。 【固有スキル】 魔術:B+ 神代に近い、上代日本の魔術。 専門家ではないが、当時の皇女は神に仕える巫女の役目を負うことが多かった。 これが後代の斎王・斎宮へと繋がっていく。 神託:C 神の託宣により、その状況での適切な判断ができるようになる。 後継者を託宣により決定したという説がある。 無貌:C 捉えどころの無さ。記紀ではほとんど事績や感情表現がなされていない。 真名解析も含めてキャスターという人物の鑑定を困難にする。 【宝具】 『一知女道(ひとはしおみなのみちをしりぬ)』 ランク:B 種別:対人宝具 レンジ:1 最大捕捉:1人 生涯にただ一度交接し、以後は経験しなかったというキャスターの感想。 相手の男は不明であり、女帝が夫と子孫を儲けることを否定した逸話ともとれる。 古来、嫁がぬ女や実の成らぬ柿の木には子を儲ける代わりに中に力を溜め込むという観念が存在しており、 キャスターは子孫と引き換えに力を手にした。 召喚後、一度マスターと交接すれば以後は魔力の供給なしでの活動が可能。 魔力を大量に消費した場合でも、速やかに回復する。 【Weapon】 無し 【解説】 履中天皇の娘(440~484)。一説に市辺押磐皇子の娘。 実在が確認されている最初の天皇である雄略天皇と同時代人。 雄略天皇の粛清により目ぼしい皇族がいなくなり、後継者であった清寧天皇の没後、 次なる天皇となるべき男子が見つかるまでの間、一時的に政治を見た。 記紀では飯豊女王、飯豊王などと呼ばれているが、中世になると『扶桑略記』や『愚管抄』などの文献で 神功皇后と共に歴代天皇の一人に数えられており、天皇扱いすると歴史時代最初の女帝であったということになる。 現代でも、宮内庁では即位していないが尊号は「飯豊天皇」という扱いをしている。
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【関連】 皇室の基礎知識 天皇陛下について 万世一系 日章旗と君が代 秋篠宮ご一家 目録 目録 基礎知識小林よしのり 『天皇論』 松崎敏弥 『天皇家の常識』 専門知識里見岸雄 『天皇とは何か』 小室直樹 『「天皇」の原理』 宮中祭祀・行事入江相政 『宮中歳時記』 歴代の天皇笠原英彦 『歴代天皇総覧』 小林 よしのり ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論 皇室廃止論への批判谷沢永一 『皇室伝統』 谷沢永一 『「天皇制」という呼称(ことば)を使うべきでない理由』 女系・女性天皇論への批判中川八洋 『皇統断絶』 中川八洋 『女性天皇は皇室廃絶』 中川八洋 『悠仁天皇と皇室典範』 基礎知識 小林よしのり 『天皇論』 ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論小林よしのり 著 小学館 刊 天皇に関する基礎知識から、現人神・宮中祭祀・「天皇制」という言葉・政教分離などのあらゆる知識が網羅してある。天皇の入門書として最も適した一冊である。ただし、作者本人が[[女系天皇論者 万世一系]]になってしまったため、内容の盲信は禁物。 松崎敏弥 『天皇家の常識』 新人物文庫天皇家の常識松崎敏弥 著 新人物往来社 刊 小林よしのり 氏の『天皇論』には載っていない基礎知識は、本書で補うべし。 専門知識 里見岸雄 『天皇とは何か』 単行本天皇とは何か里見岸雄 著 展転社 刊 国体学者の里見岸雄 博士による、最も濃密な天皇論。 Amazon.co.jphttp //www.amazon.co.jp/dp/4886560482/ 小室直樹 『「天皇」の原理』 単行本「天皇」の原理小室直樹 著 文藝春秋 刊 天皇を、モーセ・キリスト・釈迦・マホメットと対比して、説き明かした、天皇の原理。 Amazon.co.jphttp //www.amazon.co.jp/dp/4163477101/ 宮中祭祀・行事 入江相政 『宮中歳時記』 小学館文庫宮中歳時記伝統と新風 皇室のいま入江相政 編集 小学館 刊 Amazon.co.jphttp //www.amazon.co.jp/dp/4094041621/ 歴代の天皇 笠原英彦 『歴代天皇総覧』 中公新書歴代天皇総覧皇位はどう継承されたか笠原英彦 著 中央公論新社 刊 Amazon.co.jphttp //www.amazon.co.jp/dp/4121016173/ 小林 よしのり ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論 単行本ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論小林 よしのり 著 幻冬舎 刊 Amazon.co.jphttp //www.amazon.co.jp/dp/4344017951/ 皇室廃止論への批判 谷沢永一 『皇室伝統』 単行本皇室伝統谷沢永一 著 PHP研究所 刊 Amazon.co.jphttp //www.amazon.co.jp/dp/4569224407/ 谷沢永一 『「天皇制」という呼称(ことば)を使うべきでない理由』 単行本「天皇制」という呼称(ことば)を使うべきでない理由谷沢永一 著 PHP研究所 刊 Amazon.co.jphttp //www.amazon.co.jp/dp/4569615724/ 女系・女性天皇論への批判 中川八洋 『皇統断絶』 単行本皇統断絶女性天皇は、皇室の終焉中川八洋 著 ビジネス社 刊 筑波大学の中川八洋 名誉教授が放つ、女系・女性天皇論者の毒舌批判と「皇位継承学概論」。三部作の初級編。 Amazon.co.jphttp //www.amazon.co.jp/dp/4828411909/ 中川八洋 『女性天皇は皇室廃絶』 単行本女性天皇は皇室廃絶男系男子天皇を、奉戴せよ中川八洋 著 徳間書店 刊 筑波大学の中川八洋 名誉教授が放つ、女系・女性天皇論者の毒舌批判と「皇位継承学概論」。三部作の中級編。 Amazon.co.jphttp //www.amazon.co.jp/dp/4198621330/ 中川八洋 『悠仁天皇と皇室典範』 単行本悠仁天皇と皇室典範中川八洋 著 清流出版 刊 筑波大学の中川八洋 名誉教授が放つ、女系・女性天皇論者の毒舌批判と「皇位継承学概論」。三部作の上級編。 Amazon.co.jphttp //www.amazon.co.jp/dp/4860291905/
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鳩山は確信的に政治利用鳩山「体調に問題がないのなら、要人に会えるだけ会っていただきたい。(ルールは知っていたが)」 経緯11月 12月 12月14日 12月15日 12月16日~25日 日程の情報源と関連ニュース 12月14日小沢発言 12月15日前原国交相問題発言 メディア報道状況と確認メール先政府などの連絡先 文章例12月23日天皇誕生日に『天皇論』を買うイベント 抗議声明 鳩山首相「私は天皇陛下ご自身も(韓国訪韓)その思いを強く持っておられると理解している」 「よく考えてもらいたい」「よく考えてもらいたい」天皇陛下のお言葉に岡田外相が意見(*1) 「歓迎されるなら結構なこと」小沢氏、天皇陛下の韓国訪問「歓迎されるなら結構なこと」 桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫だから日韓は友好関係を」小沢氏「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫だから日韓は友好関係を」日本の植民地支配について謝罪 平野官房長官「天皇陛下の影響力はやはり大きい」→記者会見後に「表現は妥当ではない」として修正「陛下の影響力大」=その後、発言を修正-平野官房長官(2009/12/14-19 13) 鳩山『「外宮・内宮」を「げぐう・ないぐう」』と発音。 鳩山首相、伊勢神宮を伊勢神社と認識 このページに関する情報、ぜひお寄せください ハトミミ 鳩山は確信的に政治利用 鳩山「国賓の接遇や外国訪問は、憲法の国事行為に記されておりません。私は出来れば、憲法改正の議論の中でこのようなことも国事行為と謳われるべきではないかと申し上げたい」2008年6月5日@20091220サンデープロジェクト 鳩山「体調に問題がないのなら、要人に会えるだけ会っていただきたい。(ルールは知っていたが)」 「2度とあってほしくない」宮内庁長官「ルールは、国の大小にかかわらず実施してきて、政治的重要性で変わるべきものではない」 鳩山「政治利用ではない」 ↑↑羽毛田宮内庁長官「憲法上も大きく狂う」「これは政治利用にあたる」 http //sankei.jp.msn.com/politics/policy/091211/plc0912112222019-n1.htm 官房長官「1か月ルールはよく知らないが、政治的に日中関係は非常に重要、ぜひお願いできないかと申し上げた」 http //www.nhk.or.jp/news/k10014349041000.html 実際は・・羽毛田長官は1カ月前ルールの趣旨を説明し、理解を求めたが、「官房長官は『日中関係は重要だから』の一点張り http //sankei.jp.msn.com/culture/imperial/091212/imp0912122004004-n1.htm 民主党議員『昭和天皇の和歌引用は政治利用』と過去に追求 +クリックで開きます 首相が施政方針演説の中で昭和天皇の詠んだ和歌を引用したことについて江田議員は「まだ影響力の強く残っている天皇の和歌を、あなたのメッセージの説得力を補強するために使うのは、天皇の政治利用であり、慎むべき」と首相を批判した。首相は、「この歌を読むたびに感動している。私は天皇の政治利用にはあたらないと考える」と説得力を欠く答弁を行った。 2002年http //www.dpj.or.jp/news/?num=1205 天皇陛下は超激務 閣議、前政権までは朝。鳩山政権下では閣議を夕方に開くケースが増える ↓ 陛下の書類に目を通し、署名するなどして決裁される夜間執務が増える 12月には夜間のお務めの常態化を懸念する声 ↓ 2月2日午後5時半からの閣議を受け、執務終了は午後9時すぎ 2月2日天皇陛下、体調崩される 週末まで静養 ↓ 4日負担になっているとの記者の指摘を受けて 平野「天皇陛下の公務の時間がずれているということもあると思う」と認める しかし、軽減策には言及せず「ご理解をいただかなければいけない部分もある」と http //sankei.jp.msn.com/culture/imperial/100202/imp1002021815002-n1.htm 経緯 ※各新聞の報道に微妙な時間差があります。最終参考:読売新聞 11月 ここまでの経過 11月11日 彭麗媛氏(習近平・副国家主席夫人)が来日、皇太子殿下の前で公演(大手マスコミは、ほぼ沈黙) 習氏の妻で人民解放軍の人気歌手、彭麗媛さんが11月に東京・学習院大で公演した際にも、皇太子さまが私的に会場を訪れて鑑賞し、言葉を交わされたという。中国にとって、天皇陛下との外交は「政治」そのものであり、中国は今回、様々な手を打って準備した。(*2) 佐々淳行氏「皇太子殿下が観劇したオペラの歌手は習副主席の妻。勘ぐってしまう」「鳩山政権"朝貢の図"、正視に耐えぬ」(*3) 11月中旬 中国「日本が「1カ月ルール」を厳格適用しないと楽観」日本政府を試す狙い? 香港紙・リンゴ日報後継者問題の対立が原因か=副主席の「天皇会見」申請遅れ(*4) 11月20日 楊潔?中国外相が小沢一郎民主党幹事長に国会議事堂内で習国家副主席の訪日成功のための協力を求める。楊潔外相と鳩山由紀夫首相が首相官邸で会談@wikipedia 11月25日 東宮御所にて、陛下御即位20年及び両陛下御成婚50年祝賀の内宴。「梓室内管弦楽団」演奏有り。 降参を意味するようなジェスチャー 鳩山由紀夫首相の万歳三唱 居眠り 菅直人副総理兼財務相と松野頼久官房副長官(*5) 11月26日 外務省を通じて宮内庁に要請(1ヶ月前までに連絡をするというルール無視)tvasahi朝日23日受付24日要請 その後中国大使館の依頼を受けた、山岡国対委員長が鳩山首相や平野官房長官、岡田外相、羽毛田宮内庁長官に電話。「小沢の意向だ」と圧力をかけたが、鳩山首相は1ヶ月ルールを理由に拒否。(*6) 11月27日 宮内庁拒否「ルールに照らして応じかねる」「陛下の体調(が優れない)」 11/29 習、来日を発表 外務省、宮内庁に書面で会談を申請→お断り 11月30日 外務省正式に中国側に「会見は無理」と通告 首相と官房長官、いったんは見送り了承 12月 12月3日 王光亜外務次官が、宮本駐中国大使を中国外務省に呼びつけて、「訪日の成功は天皇との会見にかかっている」と迫る。宮本氏は外務省に「官邸を説得しろ」と伝えるが、岡田外相の「1ヶ月ルールは守るべき」の一言で工作は不発に。(*7) 12月4日 鳩山と小沢が会談 後に、鳩山「小沢と会談した→幻だったことにしましょう→お会いしました」 12月7日 崔天凱・駐日中国大使が中曽根元首相の元を訪れ、会見の実現を依頼。(*8) 中曽根『ここまで頼んでるんだから協力してやれ』と電話 平野官房長官に(*9) 首相官邸の指示を受けて中曽根氏と面会ルールの説明で中曽根氏「了解した」会見を強要せず(*10) 後に、中曽根氏「(会見は慣行に)従ってやるのが正しい」(*11) 鳩山が平野に「何とかできないか。非常に重要なんだけど」 平野「日中関係の重要性にかんがみ、ぜひお願いする」電話で2度にわたり長官に特例扱いを要請 宮内庁「政府内で重視されてきたルールであり、尊重してほしい」 12月8日 小沢から鳩山に「何をやっとるのか」「ゴチャゴチャやっとらんで早くせい」「オレの面子を潰す気か!」(8日頃 産経)(*12) 12月9日 午前 一度断る「陛下のご健康がすぐれず、会見に応じるのは難しい」日本政府から中国政府へ 小沢氏に「もし天皇との会見をセッティングしてくれたら、胡錦濤国家主席が大訪中団の民主党議員全員と握手・写真撮影をする」「反日感情の強い中国で、日本の議員にここまでサービスしたことがわかれば、胡錦濤に批判が出るのは確実だった。事実、胡錦濤が訪中団を迎えた映像は中国内で報じられなかった」(*13) 民主・小沢氏「努力します」と中国大使に発言していた事が判明-天皇陛下特例会見 小沢、平野に電話で「なんとかしろ」と指示 中国側、天皇会見いったん見送り容認「健康配慮なら」(9日頃)(*14) 小沢"完全オフレコ"の場で怒りを爆発「俺は1ヶ月ルールがあるから、前からちゃんとやっておくように言ってたんだ。なのに平野は、なんの調整もしてなかった。それも俺の責任になるのか!」(*15) 12月10日 140人の民主党国会議員全員が胡錦濤中国国家主席、握手 写真撮影中国側が難色→小沢氏「そんなに時間はかからないはずだ」小沢一郎幹事長が「だったら行かない」民主党国際局長の藤田幸久参院議員「<時間がかかり過ぎる>ことを理由に(中国側)一度断る」「小沢氏は普段から『長い演説をするよりも、握手と写真の方が重要だ』と考えており、それを中国側にも求めたということではないか」(*16) 震え上がった鳩山首相の指示を受けた平野官房長官が電話(*17) 夕方、再度平野から宮内庁に電話で「君の言うのもわかるけど、日中関係は重要だから政府官邸としてのお願いだ」と強い口調で要求 平野官房長官、最後は「総理の指示だ」と強引に説き伏せる@週刊新潮の記事から推測 12月11日 習近平副国家主席と天皇陛下の会談が決定(ルール無視の特例で決定。異例の決定)宮内庁長官が異例の経緯説明 中国外務省「日程調整に感謝する」と談話発表 12月12日 記者「(特例で陛下と会見の)習副主席について…」→鳩山首相「すみません。時間がないので」 12月13日 民主党の国会対策副委員長石関貴志氏「日本が中国との友好をどれだけ重視しているかの表れだ」 12月14日 習近平副国家主席が来日 習近平について(外部) 中国の次期国家主席の最有力候補と言われる習近平国家副主席は、 75ウルムチ事件における虐殺の張本人であると言える。 ドタキャン小沢の会見中止「習副主席との会見、正式決定じゃないから中止にしました」→民主党幹部「マスコミが批判するからだ」小沢会談中止について 鳩山「しゃくし定規に考えるよりも、本当に大事な方であれば、お会いになっていただく」 小沢「宮内庁長官、内閣方針にどうこう言うなら辞表出して言え。→宮内庁長官「辞めるつもりはありません」 小沢氏の批判に反論 体調悪いなら、副主席面会以外の行事休めばいい」 小沢「天皇陛下の行為は、国民が選んだ内閣の助言で行うべき」 「批判するのは、憲法や民主主義を理解できぬ人間」 小沢幹事長「天皇陛下に聞いたら『手違いで遅れたかもしれないが(中国副主席に)会いましょう』と必ずおっしゃる」 民主・小沢氏「30日ルール、誰が作ったんだ?」…1995年当時、政権与党代表幹事は「鳩山由紀夫氏」 問題を受け、警視庁が小沢一郎民主党幹事長の警護を強化 14日 来日した中国副主席「周到な手配に感謝」 天皇陛下との会見について→鳩山「次代のリーダーとして来ていただき、日中関係の将来に素晴らしいことだ」と歓迎←かなりの問題発言 鳩山「もしも会えなければ中国の皆さんの感情は非常に傷つけられた」 鳩山「ふっ、あの方はあまり困らない方ですから」 □□□ 鳩山内閣総辞職と天皇陛下と習氏の会見中止を求める決議文まとめる 神道政治連盟国会議員懇談会など3団体 福山外務副大臣「日中関係を考えると、ことさら騒ぐよりも、 友好に向け前を向いた方がいい」 山岡「官房長官とのやりとりを発表すること自体異常だ」とあしき慣習批判「中国にしてみれば手続きが悪かったから会わせないというのは納得できない」と評価 政府筋「前政権のルールは知らないし、報道に違和感を持っている」 鈴木宗男「尊皇精神に欠けている。陛下は(会見を)受けられたのだから、決まった後に言うのは陛下にとんでもなく失礼だ」宮内庁長官に対し(*18) □□□ 世耕議員「各所街灯に中国国旗が掲揚されている。国家元首の来日の時にしかやらないことのはずなのに」(外国要人来日の際の国旗掲揚は原則、来日が閣議案件で決定・了解される国賓や公賓の場合のみ、今回の2国は国賓や公賓ではないため該当せず、先方から国旗掲揚の要請もなかった(*19))14日、霞が関一丁目交差点から霞が関二丁目の様子lightboxプラグインエラー ご指定のファイルがありません。アップロード済みのファイル名を指定してください。※ウルグアイ元首も来日してるのに国旗掲揚無しhttp //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1260759795/ □□□ ジャーナリスト・内田誠「本当に、酷いことやってくれたなと思いますね。」 ※有志による動画キャプチャ:http //www.youtube.com/watch?v=HwLP1J0VqPA 山岡「これは小沢幹事長の意向だ」@ktvアンカー 翌日、山本アナは身内に不幸で休み(15日)17日アンカーには出演し圧力等を自ら否定 12月15日 大原康男国学院大教授「(お出ましになった)天皇陛下がお心を安らかに保たれなければならない日だった」宮中で「賢所御神楽(かしこどころみかぐら)の儀」の祭祀が行われた日(*20) 参考:引用元スピリチュアルin鎌倉 わたしは誰ですか、私の歩く道はありますか この日は朝早くから天皇皇后、皇太子皇太子妃など神事参加のともどもはすべて潔斎(きよめ)を行います。 ですからこの日に国事行為はもとより異国人との公的な引見、会見、接見、拝謁などの行事は一切入りません。 なのに、ごり押し不敬政治介入で・・・・。 「賢所御神楽」は例年12月15日です。「「賢所御神楽」とは天照大神(アマテラスオオミカミ)の ご神霊を慰め、さらなるご加護を願って祈り捧げる皇室重要神事です。10時間にも及びますが、 完全非公開で行われます。どんな神事なのか、bokuごときが知るわけにもいきませんので 法学博士・所功(ところいさお)教授の著書『天皇のまつりごと-象徴としての祭祀と公務』(2009年5月刊・NHK出版)から一部を丸写しさせていただきます。 ダイアナ妃,オバマ米大統領,タイ王族ソムサワリー殿下,中国共産党の習近平副主席 宮内庁に意見1千件超、羽毛田長官支持が多数 お茶の水女子大名誉教授「小沢には敬意が感じられない」 「天皇陛下、お気の毒」「陛下が疲れてる?いいんじゃない?今回」…特例会見、街では69人が宮内庁・31人が小沢氏支持 自宅の警護に当たる警察官を増員した。また、習副主席が宿泊するホテルでも、通常よりも多くの機動隊員を配置 2012年、日中国交正常化40周年に合わせて「皇太子訪中」への支障懸念も 陛下会見への抗議活動でウイグル人逮捕 東京・経団連会館前 中国外務省「日本の手配は周到である」と評価-天皇陛下特例会見 鳩山「宮内庁長官発言、習副主席が来日中なのに…残念」「中国の指導者になるであろう方。日本国民全体で歓迎すべき」 小沢「私の信念は間違っていない」「一官僚が記者会見するな」改めて宮内庁長官を批判 長妻大臣「適切な判断だ。政治利用には当たらない 亀井大臣「政治的かどうかは役人が判断する立場にない」 中井洽拉致問題担当相は「どこが政治利用なのか分からない。将来の中国の指導者にお会いいただくことは日中友好に大変大事なことだ」 福島ずほ大臣「決まったことを尊重したい」 鳩山「和やかに会談されたことは(日中)両国関係にとって良かった。それが一つの結果だ 鳩山「事実だけを受け止めて、そのことによってよしとしたい」異例の事態などに対して 亀井「(宮内庁長官)いい男だから辞めることはない」 岡田「(実現は)難しい話と認識していた」ルールが守られなかったことで 菅直人副総理・国家戦略担当相「他の行政庁と違う」 羽毛田氏に一定の理解を示す 小沢「おれはまったく正しいことを言っているのに、なんで新聞に書き立てられるんだ。テレビも批判してるが、誤解されている!」 志位共産党委員長「外国賓客と天皇との会見は国事行為ではない。小沢さんこそ憲法をよく読むべきだ」 ところが、平野「それでもどうしても陛下のですね、あれがあれば、再度お断りになるんじゃないんでしょうか」陛下の健康問題があるならば、宮内庁側が再度断ってきたはずだと強調、決定したのは、あくまで宮内庁サイドだという認識を示す@TBS 12月16日~25日 鳩山「今、お答えできない」宮内庁の羽毛田信吾長官を処分について 民主・田中真紀子氏 「他の皇族が対応する方法もあった。内閣と宮内庁が協議すればよかった」「両陛下に負担掛かりすぎ」 http //headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091216-00000080-jij-pol 首相、天皇陛下と習近平氏の会見を評価「結果はよかった」 http //sankei.jp.msn.com/politics/policy/091216/plc0912161757019-n1.htm 小沢氏の宮内庁長官辞任要求発言で民主党本部に苦情電話殺到 http //sankei.jp.msn.com/politics/situation/091216/stt0912161917011-n1.htm 12月17日 小沢「(羽毛田信吾宮内庁長官)あいつこそどうかしている。天皇の権威をカサにきている」と批判(*21) 福島「きっちり反省材料にして今後はルールを守り、尊重していくべきだ」(*22) 12月18日 自民党、「天皇陛下を政治利用した責任重大」と鳩山内閣の即時総辞職求めることで一致(*23) 国際問題評論家山岡清二氏「天皇はもともと政治的な存在であり、何をしようとも、政治的な意味をもっているのです。変に神聖化したり、隠してしまうよりは、日本の政府のために働いてもらうことは正しい。それなのに、一公務員の宮内庁長官が自分の判断で潰そうとする。意図的に問題をズラして、次元の違う議論に持っていこうとする。これはやってはいけないことです。(*24) 鳩山「成功だ」→温首相「成功は鳩山首相の尽力のおかげだ」と評価(*25) 12月19日 読売新聞の渡邉会長「1か月ルール」は「官僚的でバカバカしい」(*26) 12月20日 細野副幹事長「学説が分かれます 国事行為の中にこういうものも含まれるという説もある(石破:それは非常に少数ですよね)いや、必ずしもそうではない・・・大事なポイントは、これだけは言わせてください、大事なポイントは、これが国事行為にあたるかどうか問題でないんです・・略(書き起こし)」「(長官が)中でいろいろ言うのはいいが、外向きに出すのはどうなのか」(*27) 安倍元首相「天皇陛下にかかわることでも日本のルールは破ることができる、と中国に思わせてしまった。民主党は選挙に勝てば何でもできると考えている。このごう慢さは許せない」収録は金曜日(*28) 12月21日 小沢一郎「憲法で規定している国事行為にはそのものはありません」と述べて撤回 12月22日 宮内庁の金沢一郎・皇室医務主管は22日、皇后さまの祭祀(さいし)への出席について「年初の祭祀についてはお控えいただき、来年3月の春季皇霊祭への出席を目標にリハビリを続けていただく」と発表(*29) 12月23日 天皇誕生日に過去最高の一般参賀者2万4000人 76歳の誕生日祝い一般参賀 「皆さん健やかに新年を」(*30) 12月24日 天皇陛下「ごくろうさまね」→鳩山首相「まだ試行錯誤の中で…」 陛下「今度はまた国会も割合に早く始まるんですか」→「まだ決めてませんが、そういうことになるんじゃないかと思います」閣僚らとご昼食(*31) 亀井「権力の象徴である江戸城(跡地)にお住まいになるのは立場上ふさわしくないのではないか。京都か広島にお住まいになってはどうか」一方的に→陛下「京都は好きです」(*32) 12月27日 亀井氏は記者団に「明治期に幕府の権力の象徴の跡にこの後、入られたことが、その後の歴史で政治利用みたいな形になってしまった」(*33)2003/09/17亀井「首相になったら(天皇には)茨城でも京都にでもお移りいただく」「天皇は文化的存在で文化の一部そのものだ。そういう方に権力の象徴である江戸城に入っていただいたことは間違いだ」(*34) 12月28日 石破「『天皇陛下がこのように述べた』と軽々に口にするのは政治家と しての規律を欠いている」(*35) 大島「今一度、天皇は国民統合の象徴、とする憲法を読んでほしい。あまりにも陛下に対する言葉が粗雑すぎるし、政治的利用をしているのではないか。強く憤りを感じると同時に、やってはならぬことだ」(*36) 12月31日 小沢氏の「陛下のお考えはこうだ」と勝手に決めつけた発言、戦前の青年将校や軍部の思考回路みたいだ-中日新聞(*37) □□□ □□□ □□□ 日程の情報源と関連ニュース 情報源-容量オーバーにつき移動 @wikipedia→wikipediaの利用規約に基づき表示-継承-3.0 ライセンスが適用されます。出典は記事の脚注等を参照ください 12月14日小沢発言 重要なポイント 天皇陛下が行っていいのは「国事のみ」です。憲法で定められています。 助言は内閣によって行われますが、「小沢は内閣の一員ではありません」。 天皇陛下が接受するのは「大使と公使」。習近平国家副主席は大使でも公使でもありません。 よって、今回の謁見は国事ではありませんし、小沢が絡んでいるなら越権行為です。 さらに、今回の行為は明確な憲法違反です。 2009年12月14日 小沢幹事長 天皇の政治的利用について http //www.youtube.com/watch?v=XMOTNaTMTsU http //www.nicovideo.jp/watch/sm9092305 ノーカット 宮内庁「公的行為なので内閣の助言と承認は必要ない」(*38) 小沢の発言(一部書き起こし部分掲載) 小沢「だからなんて憲法になんて書いてある?……国事行為は内閣の助言と承認で行われるんだよ。 ……そうでしょ?天皇陛下の行為は国民が選んだ内閣の助言と承認で行われるんです全て。 それが日本国憲法の理念であり本心なんだ。だから何とかという(羽毛田宮内庁長官を指す)宮内庁の役人が どうだこうだどうだこうだ言ったそうだけど、全く日本国憲法を民主主義というものを理解してない 人間の発言としか思えない。ちょっともう私には信じられない。 しかも内閣の一部局じゃないですか。一部局の一役人が内閣の方針、内閣の決定したことに 君ら(記者全体をさして)と同じ人らに会見して方針をどうだこうだというのは続き 憲法 この会見に対して 原口「決してそういうことがあるはずもないし、そして陛下がそういうことを思われるわけもないと思います」 +クリックで開きます 小沢幹事長の記者会見について 答:その隣国の大変重要な方が陛下にお会いになるということを政治利用と言うからには、その根拠があるはずでございまして、事実関係を聞いてみたいと思います。陛下を政治利用するなんていうことを考える人は内閣の中に一人も居ないわけで、そのような発言が、政府を構成する一役所をつかさどるる者からもし出たということが事実であれば、重大な関心を持って調べてみたいと思います。決してそういうことがあるはずもないし、そして陛下がそういうことを思われるわけもないと思います http //www.soumu.go.jp/menu_news/kaiken/02koho01_000075.html 平野博文官房長官「コメントする立場にない」。 藤井裕久財務相は「特に申し上げることはない」とだけ述べた。 長妻昭厚生労働相「具体的背景や、発言の前提になる情報を承知していない」 http //www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2009121602000076.html 共産党の志位和夫委員長 『(↑14日小沢発言)国事行為そのものをよく把握しないまま「マスコミの理解がおかしい」と決めつけた発言だ。志位共産党委員長「外国賓客と天皇との会見は国事行為ではない。小沢さんこそ憲法をよく読むべきだ」』 共産党志位委員長 小沢氏への反論 岡田克也外相18日「国事行為は憲法に規定されたものなので、国事行為ではない。公的行為というのが普通の解釈だ」(*39) 民主党の渡部「政治主導は天皇陛下の問題では全く関係ない。これは日本の国体に関する問題で、慎まなければならない」「太平洋戦争の歴史を考えれば、政治家はどんなことがあっても天皇陛下を自分たちの都合のいいことに利用するなんてことは考えてはいけない」とも強調(*40)参考 小沢訪中団留守時の料亭メンバー(渡部恒三元衆院副議長,岡田克也外相 前原誠司国土交通相 仙谷由人行政刷新担当相 野田佳彦財務副大臣 枝野幸男元政調会 玄葉光一郎衆院財務金融委員長 樽床伸二衆院環境委員長 12月21日 小沢幹事長、習中国副主席特例会見で「国事行為」論は撤回 民主党の小沢一郎「憲法で規定している国事行為にはそのものはありません」と述べて撤回。「憲法との理念と考え方は、天皇陛下の行動は内閣の助言と承認によって、行われなければならない」「天皇陛下にお伺いすれば、(特例会見を)喜んでやってくださるものと私は思っております」「天皇陛下には全くのプライベートはないに等しい」(*41) 小沢「羽毛田なにがしという宮内庁長官が、政府がこういう判断だと言っているのに、一部局の役人が、会見まで開いて悪態をつく。とんでもない話だ。頭にきた、僕は」「丁寧に答えたつもりだが、あまりにも(マスコミが)無知でびっくりした」とマスコミを批判 21日、テレビ東京の番組収録(*42) メモ62 ハトミミページ上部へ 12月15日前原国交相問題発言 前原国交相「天皇特例会見、自民党の元首相から要請あった」 →岡田外相「事実かとうか不明」谷垣氏「何のための発言?」 鳩山由紀夫首相「どなたかからということに関して、申し上げることはしない」夕 平野博文官房長官も記者会見で「コメントは差し控えたい」夕 【事実の場合】 →「民主党政権の官邸なのに、中曽根元総理の言いなりで動いて会見ねじ込み。大問題。」 【虚偽の場合】 →「民主党が批難された事を"自民党のせい"と嘘をついて、誤魔化そうとした。大問題。」 7日ごろ、首相官邸の指示を受けて中曽根氏と面会し、1カ月ルールの内容を説明した。 これに対し、同氏は「了解した」と答え、会見を強要するようなことはなかったという。(*43) 中曽根氏「(会見は慣行に)従ってやるのが正しい」(*44) 上杉隆 文化放送1134なう。天皇陛下との会見要請は「中曽根元首相」と言及。ソースは前原国土交通大臣です。へへへ。 約1時間前 webで http //twitter.com/uesugitakashi 片山さつき (中曽根元総理の関与についての報道) この軽さって、何なんでしょう、偽メール、ちょっと思いだしますね。 でも、この軽さが、事態を2対1で止めてる、と感じます。軽さに勝つ方法は? http //twitter.com/katayama_s 世耕弘成 つらつら考えるに、もし「自民党筋からの働きかけ」だったら、 習問題が発覚した初期段階から民主党政権は大騒ぎしていたのではないでしょうか? SekoHiroshige いろいろ当たっていますが、自民党筋の元総理とは誰か? まったく判明しません。 うわさレベルはいろいろ流れていますが。 前原さんが 「自民党筋の働きかけで1ヶ月ルールを破ることになった」 言うんだったら、ご自身が説明、立証する必要ありです。 http //twitter.com/SekoHiroshige ソース http //mainichi.jp/select/seiji/news/20091216k0000m010046000c.html 前原「政権交代が行われたので1ヶ月ルールもう一度議論した方がいい」(*45) 天皇陛下と習副主席の会見について 新党さきがけ副院内幹事(1994年07月~1995年01月) 新党さきがけ政調副会長(1994年07月~1996年09月) 新党さきがけ外務部会長(1994年07月~1996年09月) 新党さきがけ防衛部会長(1994年07月~1996年09月) http //www.asahi.com/topics/%E5%89%8D%E5%8E%9F%E8%AA%A0%E5%8F%B8.php 「前原国交相の『天皇特例会見、自民の元首相が…』発言、永田メール事件と同じことに」…永田町関係者(*46) □□□ サンデープロジェクト12月13日 俵「一ヶ月ルールを破ったことについてどう思いますか?」 町村「やめるべき」 公明・高木「やめるべき」 みん党・浅尾「やめるべき」 共産・小池「やめるべき」 国新・亀井「やめるべき」 社民・阿部「やめるべき」 俵「あれっ?連立相手のお二人も反対ですか。民主党の渡辺(周)さんは?」 渡辺総務副大臣「やるべきではなかったと思う。今回だけの例外とすべき」 俵「いや、だからその例外を作るのが良くないんだって!なんで例外にするのよ」 渡辺総務副大臣「もうくり返してはいけない」 町村「小沢さんが決めたから反対できないんですよ。小沢内閣なんです。」 総務副大臣が首相批判=天皇特例会見「やめた方がいい」 http //www.jiji.com/jc/c?g=pol_30 k=2009121300041 ハトミミページ上部へ メディア報道状況と確認メール先 ページのサイズが大きくなりすぎた為、移動 メディア報道状況と確認メール先 政府などの連絡先 通常の業務を妨げないように、 可能な限りメール、FAX、郵便で意見しましょう。また、外務省の中の人から「できればFAXか郵便(書簡)で抗議がほしい」と要望があったそうです(*47) 文章例 【抗議文001】無記名抗議文001.pdf 【抗議文002】総理・議員宛て抗議文002.pdf ※ネットプリントでも印刷できます。http //www.printing.ne.jp/ 無記名【抗議文001】 54341232 総理・議員宛て【抗議文002】 51602180 未来のみちしるべのブログより拡散 「特例会見問題」について厳重抗議します(テキスト) 民主党 TEL:03-3595-9988 FAX:03-3595-9961 メール:https //form.dpj.or.jp/contact/ 民主党本部 〒100-8914 東京都千代田区永田町1丁目11-1 小沢一郎 TEL:03-3508-7175 FAX:03-3503-0096 (議員会館) TEL:0197-24-3851 (岩手県 小沢後援会事務所) 鳩山由紀夫 TEL:03-3508-7334 FAX:03-3502-5295 (議員会館) TEL:0143-43-8108 FAX:0143-43-8577 (北海道 室蘭 事務所) メール:yuai@hatoyama.gr.jp 平野博文 TEL:03-3508-7080 FAX:03-3502-5025 (議員会館) TEL:072-841-2501 FAX:072-844-6502 (大阪府 枚方事務所) メール:http //www.hhirano.jp/opinion.html 各府省への意見・要望を一括メール(匿名で全省庁にまとめて送れます) メール:https //www.e-gov.go.jp/policy/servlet/Propose 首相官邸 TEL:03-3581-0101 FAX:03-3581-3883 メール:http //www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html 首相官邸 〒100-0014 東京都千代田区永田町2丁目3-1 内閣官房 TEL:03-5253-2111 メール:http //www.cas.go.jp/goiken.html 内閣府 メール:http //www.cao.go.jp/goiken.html 内閣府 〒100-8914 東京都千代田区永田町1丁目6-1 外務省 TEL:03-3580-3311 メール:https //www3.mofa.go.jp/mofaj/mail/qa.html 宮内庁 TEL:03-3213-1111 メール:information@kunaicho.go.jp 国民新党 メール:http //www.kokumin.or.jp/opinion/ 社民党 メール:http //www5.sdp.or.jp/central/inq/inq.htm 1日2通 無料のFAX(管理人未確認) MyFAX Free http //www.myfax.com/free/ (参考情報)Webブラウザから無料でFAX送信!41カ国に送信可能な「MyFax Free」 http //internet.watch.impress.co.jp/docs/column/biz_tool/20090617_294353.html 有効な方法としては、電話やEメールよりFAXのようです。 実物があるほうが見た目で効果あります。 夜中でも送信できますし、翌朝に山のようにFAXが届いていると脅威です。 【電凸】天皇陛下と中国国家副主席謁見に抗議 http //gimpo.2ch.net/test/read.cgi/event/1260520738/ 12月23日天皇誕生日に『天皇論』を買うイベント 終了 抗議声明 自民党として正式な抗議声明1 谷垣禎一総裁談話(2009.12.14) http //www.jimin.jp/jimin/hatsugen/hatsugen-232.html 正式な抗議声明2 谷垣禎一総裁記者会見(2009.12.15) http //www.youtube.com/watch?v=xrvoeFHtpzM http //www.jimin.jp/jimin/kaiken/2112/211215.html 安倍晋三メルマガ 09年12月14日~ http //www.s-abe.or.jp/mailmagazine/1258 http //sankei.jp.msn.com/politics/situation/091216/stt0912161300007-n1.htm 西田昌司・稲田朋美ほかの発言録 天皇陛下の「政治利用」に関する自民党の検証会・初会合 http //abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1371841/ 非公式見解動画 政調副会長 下村博文+ネットメディア局長 新藤義孝 「天皇陛下の『政治利用』に断固抗議する!」 http //www.youtube.com/watch?v=DK-hOrxd6lY 外交部会長 小野寺五典「天皇陛下を政治利用するなんて!」怒りの訴え http //www.youtube.com/watch?v=CZ_W0UgE79c ブログ系サイトにて 石破茂「習近平・中華人民共和国副主席の天皇陛下との会見について」 http //ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f538.html 高市早苗「民主党の対中土下座外交と天皇陛下の政治利用に抗議します」 http //rep.sanae.gr.jp/index_tusin3.html 西村康稔 http //www.yasutoshi.jp/cgi-bin/blog/index.cgi 佐藤正久(ヒゲ隊長) http //east.tegelog.jp/?blogid=24 塚田一郎 http //blog.livedoor.jp/t_ichiro01/ 溝手顕正 http //mizote.exblog.jp/ 政府と民主を糾弾! 特例会見問題で日本会議 http //sankei.jp.msn.com/politics/situation/091221/stt0912211831010-n1.htm 鳩山首相「私は天皇陛下ご自身も(韓国訪韓)その思いを強く持っておられると理解している」 10月9日 日韓首脳会談 http //sankei.jp.msn.com/culture/imperial/091223/imp0912230248001-n1.htm 「よく考えてもらいたい」 10月23日 「よく考えてもらいたい」天皇陛下のお言葉に岡田外相が意見(*48) 同日夕の記者会見 岡田「本来工夫されるべきではないか」「もう少し自由度があっていい」(*49) □ 民主党の西岡武夫参院議院運営委員長が批判「天皇陛下の政治的中立を考えれば、お言葉のスタイルについて軽々に言うべきではない。極めて不適切だ」(*50) ↓反論 岡田「天皇陛下の国会開会式にあたってのごあいさつというのは、国事行為ではないが、それに準ずる行為。一定の制約があるのは事実だが、制約があるということと、同じ言葉を繰り返すことは違う」(*51) 岡田「具体的にこういうことを言うべきだと言ったわけではない。陛下のご意思として従来と同じように続けるというのなら、それは陛下の判断だ」(*52) □ 岡田事務所(国会事務所443号室、男性担当者)「あの発言は陛下に向けてしたものではない。『宮内庁』に対して発言したものです!」「開会式のお言葉は、陛下ご自身が作成されてるのではなく、実は『宮内庁』の役人が作っている」(*53) ↓ 宮内庁広報課、女性担当者「国会の開会式での御言葉は、宮内庁では作成しておりません。『内閣』が作成しています」(*54) 宮内庁の羽毛田信吾長官「陛下の憲法上のお立場をふまえれば、毎回違うお言葉になるような性格のものではない」「陛下の国会開会式でのお言葉は国事行為に準じた位置付けであり、閣議で決定される」(*55) 別の宮内庁幹部「憲法では、天皇は『国政に関する権能を有しない』と規定しており、政治そのものを扱う国会でのお言葉は慎重にも慎重であるべきと思う。中身が同じであっても陛下は毎回気持ちを込めて読んでおられる」(*56) ↓ 内閣府、内閣官房総務官室、女性担当者「宮内庁の回答で正しいです。開会式のお言葉の原案は、総務官室で作成しています」(*57) □ 福島瑞穂消費者・少子化担当相「天皇陛下のお言葉は慎重に考えられるべきだ。政治利用が起きたらまずい」(*58) 憲法の学説では、開会式での天皇のおことばは公的行為と位置づけられていて、国会関係者の一人は、「内閣の助言と承認は天皇の政治利用を防ぐことが目的。そもそも、公的行為で天皇の思いを伝える必要はない」と指摘している ↓ 10月24日 「 陛下のお言葉にまで触れるとは何事か。うぬぼれ以外の何ものでもない」 自民の大島幹事長が批判 朝日新聞 10月26日 今回は従来と同じ内容(*59) 10月27日 岡田「毎回と言わずとも、内閣官房で(お言葉の)案を作る時に違う表現が検討されてもいいのでないか」「私が陛下のお言葉に異を唱えたように受け取られたことで、首相にもご迷惑を掛けた」、「首相のコメントは閣僚として真摯に受け止めなければならない」(*60) 岡田外務相が「2ちゃんねる」に削除要請したのは、「天皇陛下を中傷したという捏造?書き込み」についてだった(*61) ↑の件に関連して全鯖「超」大型規制発動 ハトミミページ上部へ 「歓迎されるなら結構なこと」 小沢氏、天皇陛下の韓国訪問「歓迎されるなら結構なこと」 http //headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091212-00000065-jij-pol ハトミミページ上部へ 桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫だから日韓は友好関係を」 小沢氏「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫だから日韓は友好関係を」日本の植民地支配について謝罪 http //www.nishinippon.co.jp/nnp/item/140345 小沢一郎12月12日 韓国にて 「天皇を訪韓させることもできる」 「天皇陛下の行動は、日本政府が自由に決めることが出来ると憲法に規定されている。 」 韓国人が日本に移り住み、初代天皇になった。 仁徳天皇陵を発掘したらはっきりするはずである。と著名な先生が唱えている。 これ以上言うと日本に帰れなくなるが歴史的事実であろう。 天皇陛下も「桓武天皇の生母は百済の王女だった」と認めている。 日本人は自立心が足りない国民だ 1/5 5 08 韓国文化が日本では何の抵抗も偏見もなく受け入れられている 2/5 1 48 韓国の権力者が海を渡って九州→奈良へ行き、政権を樹立した、それが初代天皇の神武天皇 4 00 古墳は宮内庁管轄であって発掘が許されてない 発掘させれば歴史の謎が明らかになるだろう 4 44 韓国人が初代天皇説を私があまり唱えると国に帰れなくなるが、多分歴史的な事実であろうと思っております 7 48 「『平安京を作った桓武天皇の聖母は百済の王女』と天皇陛下自身認めている」と発言 3/5 3 55 日本人は島国で平和な暮らしをしてきたから自立心に欠ける 自分で勉強し、自分で判断し、自分で責任を負うという自立心が最も足りない国民 4/5 0 52 アメリカ人は単純 5/5 5 21 子どもの週休2日制廃止を主張 http //www.youtube.com/watch?v=xOhxYH9Uyuc (1/5) http //www.youtube.com/watch?v=YPLj86CyUkQ (2/5) http //www.youtube.com/watch?v=mDBXwgOTLGg (3/5) http //www.youtube.com/watch?v=i5wiTy7OsE8 (4/5) http //www.youtube.com/watch?v=R8T_eSSKPi8 (5/5) (管理人未確認) ハトミミページ上部へ 平野官房長官「天皇陛下の影響力はやはり大きい」→記者会見後に「表現は妥当ではない」として修正 「陛下の影響力大」=その後、発言を修正-平野官房長官(2009/12/14-19 13) http //www.jiji.com/jc/c?g=pol_30 k=2009121400791 ハトミミページ上部へ 鳩山『「外宮・内宮」を「げぐう・ないぐう」』と発音。 正しくは「ないくう」「げくう」 http //ja.wikipedia.org/wiki/伊勢神宮 http //www8.ocn.ne.jp/~torasima/local/lo-2.html ソース http //www.news24.jp/feature/feature70.html 鳩山首相、伊勢神宮を伊勢神社と認識 http //www.asahi.com/seikenkotai2009/TKY201001040200.html このページに関する情報、ぜひお寄せください URLなどの情報源をできるだけ添えください。よろしくお願いします 匿名可 情報 すべてのコメントを見る
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1178年(治承二年)旧暦十一月十二日に生まれる。 諱は言仁親王。 父は高倉天皇、母は平徳子(建礼門院)。 『平家物語』巻第三「公卿揃」の段に、安徳天皇が生まれた際、男児であれば南側に甑を落とすところ、 誤って北側に落とし、のちに慌てて南側に落とし直したという記述があり。 こうした記述から、安徳天皇女性説などが出て来たのではないかと云々。 『平家物語』巻十一、覚一本「剣」の段に、 ある博士(陰陽博士)の話として、安徳天皇はヤマタノオロチの生まれ変わりで、 スサノオノミコトに奪われた霊剣(天叢雲剣)を惜しんで、 人王八十代の後、八歳の帝となって剣と共に海に還ったのだ、とする憶説を載せる。 一方『愚管抄』では、安徳天皇が、平清盛が厳島明神に祈りださせた子であり、 厳島が竜王の娘神である事から、安徳天皇も海に還ったのだ、と論評しているとか。 参考文献 『平家物語(三)』 『平家物語(十一)』 平家物語(三) (講談社学術文庫) 平家物語(十一) (講談社学術文庫)
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てんじてんのう 自作 和歌史における皇室の貢献に藤原定家が敬意を払い、小倉百人一首の巻頭に 「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」 が選録された、第38代天皇の名前は誰でしょう? タグ:学問・その他 Quizwiki 索引 さ~と 持統天皇 文武天皇
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光孝天皇の第七皇子。一時、源氏を賜姓され臣籍降下し源定省(さだみ)と称したが、 関白藤原基経の推挙により、光孝天皇崩御の日仁和三年(887年)八月二十六日に 立太子、ついで践祚、即位した。 毎朝の神拝、一代一度の大神宝使の発遣、賀茂臨時祭、伊勢公卿勅使の発遣などの 新しい神道祭祀制を創始したとされる。 889年(寛平元年)より大学博士善淵愛成を師として 『周易』を学ばれ、同三年(891年)六月に業を了えられたという。 京都東山御文庫には天皇宸筆の『周易抄』(『周易』の経注より必要な字句を抽出したメモ)が残る。 897年(寛平九年)譲位。 譲位後に住んだ屋敷の名から、亭子院と呼ばれた。また、寛平法皇と呼称される場合もある。 また、『大和物語』巻上に、宇多天皇が譲位の際、歌人の伊勢と歌の贈答があったという記事が載る。 『古事談』第一、『江談抄』第三、『今昔物語集』巻二十七、『宇治拾遺物語』巻十二、『古本説話集』巻上などに、 譲位後の宇多天皇が河原院にて源融の霊と遭遇した話が記されている。 899年(昌泰二年)出家。法名は空理。後に金剛覚と改めた。 参考文献 『日本神道史』岡田壮司 『日本陰陽道史総説』村山修一 『日本伝奇伝説大事典』 日本神道史 日本陰陽道史総説
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781年即位。 天智天皇系。父は光仁天皇。母は高野新笠。 天武天皇の血統を全く持たない。