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Template 基礎情報 天皇? 明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、第122代天皇(在位 慶応3年(1867年) - 明治45年(1912年))。諱は睦仁(むつひと)。幼少時の御称号は祐宮(さちのみや)。印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝(Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。 略歴 出生 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、京都・中山忠能邸で生まれ、父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名した。 万延元年(1860年)5月、儲君(皇太子)となる。9月28日、孝明天皇から親王宣下を受け、「睦仁」の名を賜る(=睦仁親王となる)。 慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が俄かに崩御。慶応3年1月9日、満14歳で践祚した。 幕末の動乱 この頃、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。慶応3年10月15日(1867年11月10日)に、明治天皇は、将軍・徳川慶喜からの大政奉還の上表を勅許し、政権を朝廷に戻した。さらに慶応3年12月9日(1868年1月3日)には討幕派の主導において王政復古の大号令を発し、「新政府樹立」を宣言。東征を命じ、旧幕府軍と 明治元年(1868年)から明治2年(1869年)にかけて戦い勝利した(戊辰戦争)。 新時代・明治 この間、明治元年3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書が発せられたのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。しかし改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用されるとした)。 明治2年(1869年)、東京に遷って東京城(旧・江戸城)を皇居と改称し、6月17日(7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が大きくなっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。 他方、明治3年正月3日(1870年2月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布の詔)を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。 ※注:1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めた(明治5年太政官布告第337号)。 征韓論 明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨をもって西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から明治8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。 近代国家の確立 明治15年(1882年)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、大元帥として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。 明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、津々浦々に至る官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行なった。 明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、近代天皇制国家確立の基礎となった。翌・明治23年(1890年)には教育勅語を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、天皇は宥和に努めた。 列強への道 thumb|275px|栃木県那須村演習統監。明治42年11月。 日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本を植民帝国へと膨張させる政策を採用した。 明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であった各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。 崩御 明治45年(1912年)7月30日、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して崩御した。Template 享年? 。 なお、実際の崩御は「7月29日午後10時43分頃」と言われているが、宮内省告諭に拠る崩御日時は「7月30日午前0時43分」となっている。これは建前上、皇太子嘉仁親王が践祚して新帝となる一連の宮中儀式を崩御当日に執り行なったということにせねばならなかったからだと思われる。 同年(大正元年)9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)に於いて大喪の礼が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車に乗せられ、東海道本線経由で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。なお、明治天皇大喪の為にしつらえた葬場殿の跡地には『聖徳記念絵画館』が建てられた。 人柄と影響 thumb|200px|最も有名な御真影、[[エドアルド・キヨッソーネ|キヨッソーネ作による肖像版画]] 明治天皇は、近代の天皇制が確立した時期の天皇である。若年で即位して以来、大政奉還、王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争など、激動の幕末から明治時代を経験し、明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。また、乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。しかし、普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。 若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。特に教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問である御用掛に任命される事を知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。こうした事態を憂慮した伊藤は初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わされて天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇自らが親政の可能性を放棄したのである。 写真嫌いは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。ただ、最晩年の明治44年(1911年)に軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。 「明治天皇は明治国家そのものであり、明治天皇の死は明治国家の終焉」と認識されていた。大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が殉死した。明治天皇を中軸として作り上げられた明治国家は、この後、変容していくこととなる。 非西欧諸国の中で近代化に成功した日本の君主ということで、海外での評価は日本国内以上に高く、エチオピアのハイレ・セラシエ1世やパラグアイのアルフレド・ストロエスネル、イラクのサダム・フセインなど、明治天皇を尊敬する人は多い。Template 要出典? 著名な御製 明治天皇は和歌を好み、多くの御製(天皇の自作和歌)を遺している。その数は、約93,000首を超えると言われる。 よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ 系譜 父は孝明天皇、母は中山慶子。父・孝明帝の正妃・九条夙子(英照皇太后)を「実母」と公称した。 乳母は当初「伏屋みの」だったが「乳の質が良くない」として1年余りで「木村らい」に変わり乳児期を過ごす。 系図 Template 皇室江戸後期? Template 皇室明治以降? 皇子女 皇后は一条美子(昭憲皇太后)だが、子女はいない。側室との間の子女は以下の通り。 権典侍:葉室光子 稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこ、1873)*死産 典侍:橋本夏子 稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと、1873)*死産 権典侍:柳原愛子 梅宮薫子内親王(うめのみや しげこ、1875-1876) 建宮敬仁親王(たけのみや ゆきひと、1877-1878) 明宮嘉仁親王(はるのみや よしひと、1879-1926) - 第123代・大正天皇 典侍:園祥子 久宮静子内親王(ひさのみや しずこ、1886-1887) 昭宮猷仁親王(あきのみや みちひと、1887-1888) 常宮昌子内親王(つねのみや まさこ、1888-1940) - 竹田宮恒久王妃 周宮房子内親王(かねのみや ふさこ、1890-1974)- 北白川宮成久王妃 富美宮允子内親王(ふみのみや のぶこ、1891-1933) - 朝香宮鳩彦王妃 満宮輝仁親王(みつのみや てるひと、1893-1894) 泰宮聡子内親王(やすのみや としこ、1896-1978) - 東久邇宮稔彦王妃 貞宮多喜子内親王(さのみや たきこ、1897-1899) 権典侍:千種任子 滋宮韶子内親王(しげのみや あきこ、1881-1883) 増宮章子内親王(ますのみや ふみこ、1883) Template familytree/start? Template familytree? {{familytree|border=0|boxstyle=text-align left|}|-|-|-|照彦|照彦=稚瑞照彦尊(1873・死産)}} Template familytree? {{familytree|border=0|boxstyle=text-align left| |}|-|-|依姫|依姫=稚高依姫尊(1873・死産)}} Template familytree? Template familytree? {{familytree|border=0|boxstyle=text-align left| | |}|(|敬仁|敬仁=建宮敬仁親王(1877-1878・夭折)}} Template familytree? Template familytree? {{familytree|border=0|boxstyle=text-align left| |}|v|-|韶子|韶子=滋宮韶子内親王(1881-1883・夭折)}} Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? {{familytree|border=0|boxstyle=text-align left|}|+|-|-|允子|允子=富美宮允子内親王(1891-1933)}} Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree? Template familytree/end? 元号・追号 在位中の元号は、慶応と明治である。在位期間の元号からとって、明治天皇と追号された。明治天皇の代から、一人の天皇在位中に元号を変えず、またその元号を追号とする一世一元の制を採用したので、以後、諡(おくりな)を持つ天皇はいない。(追号も諡号の一種とする説もあるが、厳密には異なる) 霊廟・陵墓 京都府京都市伏見区桃山町にある上円下方墳の伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)に葬られた。京都(畿内)に葬られた、最後の天皇である。 大正9年(1920年)、明治神宮に祀られる。その後、関東神宮(在関東州・廃社)、また朝鮮神宮(在ソウル・廃社)などの海外神社に多く祀られた。戦後、北海道神宮(在札幌)にも合祀されている。全ての歴代天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 参考文献 宮内省臨時帝室編修局 編修『明治天皇紀』全13冊(吉川弘文館、1968年~1977年) 第1冊 嘉永5年から明治元年まで ISBN 4642035214 第2冊 明治2年から明治5年まで ISBN 4642035222 第3冊 明治6年から明治9年まで ISBN 4642035230 第4冊 明治10年から明治12年まで ISBN 4642035249 第5冊 明治13年から明治15年まで ISBN 4642035257 第6冊 明治16年から明治20年まで ISBN 4642035265 第7冊 明治21年から明治24年まで ISBN 4642035273 第8冊 明治25年から明治28年まで ISBN 4642035281 第9冊 明治29年から明治33年まで ISBN 464203529X 第10冊 明治34年から明治37年まで ISBN 4642035303 第11冊 明治38年から明治40年まで ISBN 4642035311 第12冊 明治41年から明治45年まで ISBN 464203532X 索引 ISBN 4642035338 『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』全9巻(ゆまに書房、2003年) ISBN 484330901X ドナルド・キーン 著\角地幸男 訳『明治天皇』上、下(新潮社、2001年) 上 ISBN 4103317043、下 ISBN 4103317051 飛鳥井雅道『明治大帝』(講談社学術文庫、2002年) ISBN 4061595709 笠原英彦『明治天皇 苦悩する「理想的君主」』(中公新書、2006年) ISBN 4121018494 伊藤之雄『明治天皇 むら雲を吹く秋風にはれそめて』(ミネルヴァ書房日本評伝選、2006年) ISBN 4623047199 米窪明美『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』(新潮新書、2006年) ISBN 410610170X 関連作品 映画 『明治天皇と日露大戦争』(新東宝、1957年) 『天皇・皇后と日清戦争』(新東宝、1958年) 『明治大帝と乃木将軍』(新東宝、1959年) 『明治大帝御一代記』(大蔵映画、1964年) 小説 『天皇の世紀』(大佛次郎) 関連項目 明治神宮 天皇機関説 外部リンク Template wikisourceN? Template Commons? Template Wikiquote? 国柄探訪:変革の指導者・明治天皇 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月26日 (水) 14 48。
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天皇機関説(てんのうきかんせつ、天皇機關說)とは、大日本帝国憲法下で確立された、天皇に関する憲法学説である。統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いた。ドイツの公法学者イェリネックに代表される国家法人説に基づく。 概要 天皇機関説は、明治時代の終わりからTemplate 和暦?頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である衆議院憲法調査会事務局「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料(明治憲法の制定過程について)」、Template 和暦?。。憲法学者の宮沢俊義によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる宮沢俊義『天皇機関説事件(上)』有斐閣、Template 和暦?。。 国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見る。国家が法人だとすると、君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機関だということになる。この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上はひとつの法人であり、その結果として、天皇は、法人たる日本国家の機関だということになる。 これがいわゆる天皇機関説または単に機関説である。(※太字は、原文傍点。) 大日本帝國憲法 Template 和暦?に公布された大日本帝国憲法では、天皇の位置付けに関して、次のように定められた。 第1条:大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス(天皇主権) 第4条:天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ(統治大権) これらの条文や憲法全体の解釈運用にあたっては、大きく分けて2つ学派があった。 天皇機関説(国家主権説、国家法人説とも)派 - 立憲学派 美濃部達吉や佐々木惣一らの立憲学派は、議会制を中心とした立憲主義に重きを置いて学説を構成した。具体的には、天皇主権より統治大権を重視し君主であっても『憲法ノ條規(議会)』に行動が制限される解釈と云える。 天皇主権説派 - 君権学派 「君権」に重きを置いて学説を構成した穂積八束や上杉慎吉ら君権学派(神権学派とも)。具体的には、天皇主権に重きをおき原則的に天皇には『憲法ノ條規』があってもあらゆる制限は無いという解釈と云える(天皇機関説ではしばしば専制を含む意味で主張された) これら両派は、Template 和暦?には、上杉と美濃部の間で天皇機関説論争として対立し、その後大正デモクラシーの時期を通じて立憲学派の立場が優勢となり、通説的立場を占めた。しかし、Template 和暦?に生じた天皇機関説事件で、美濃部の一部著書が出版法の発売禁止処分を受け、政府が国体明徴声明で学説の事実上の公定を行った。 補足 次節でみるように、天皇機関説においても、国家意思終局的決定権の意味での主権は天皇にあると考えられており、天皇の権限は否定されていない。天皇機関説はあくまで「立憲君主」のあるべき姿を論じた点に注意されたい。現代では通常憲法に条規を定めておき議会(立法府)により君主の行動を制限するのが立憲君主であり、また反対に憲法を定めず法令によらずして被支配者層を介せず統治するのが前近代的な専制君主である。憲法発布当初その1年後に帝国議会が開会し、大正デモクラシー以後の政党政治の確立によって、日本は名実共に立憲君主国となった。 しかしながら、こういった立憲君主との考えをば大衆をして浸透しなかったようで(それは美濃部の弁明を新聞で読んだ大衆の反応と、貴族院での反応の温度差に明らかであり)、一連の騷動以後は天皇主権説が台頭したため、それらの論者は往々にしてこの立憲君主の考えを「西洋由来の学説の無批判の受け入れである(『國體の本義』より要約)」と断じた。 日本国民の政治感覚のなさが、世論(大衆の意見)が輿論(公的な意見)となり増大され、やがて政府が動かざるをえなくなり(国体明徴声明)、従来主流であった立憲学派および天皇機関説の命脈は絶たれた。 学説の内容と変遷 さまざまな主権説 right|350px|thumb| 国家制度比較できるよう色分けされた b 世界地図 /b br / 凡例 Template legend? Template legend? Template legend? Template legend? Template legend? Template legend? Template legend? Template legend? Template legend? Template legend?]] Template 出典の明記? 「主権」という語は多義的にさまざまな意味に解釈することができるため注意が必要である。 不可侵な国家統治の権力としての主権 「統治権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、国家と答えるのが「国家主権説」である。この意味での主権に関しては、現代でも国家主権説が通説である。 たとえば、日本国憲法を国民は想起したがその条規は守らねばならず、その行動は制限される。それを犯せば君主であれ国民であれ主権を侵すことになり、ここに立憲制は瓦解する(この場合の主権は、例えば領海侵犯や国民が他国へ拉致された場合などにおいて「我が国の主権侵害」などと言われるが、まさにこの内外に(法律面で)侵されざるべき国家の權利を主権という)。 国家政治の決定権としての主権 一方で、「国家の最高決定権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、「君主である」と答えるのが「君主主権説」、「国民である」と答えるのが「国民主権説」である。この意味での主権は、国家主権説でいうところの主権とは意味が全く異なっている点に注意されたい。 たとえば、現在の日本は日本国憲法に「主権者」は前文に「主権は国民に在する」と、「天皇」は第1条に「国民統合の象徴」とあるが、実情は「立憲君主」とみなされている(日本国参照)。これらは解釈が難しい所であるが、大日本帝國憲法においては明確に「統治權ヲ總攬(第4条)」とあるので主権は君主が有する(第4条での統治権は「總攬」が政治の掌握の意であり、すなはち国家の最高決定権を指す)。 国家主権説は君主主権説とも国民主権説ともにおいて両立する。国家主権説では、いかなる国家であっても、統治権の意味での主権は国家にある。 美濃部達吉の天皇機関説は、統治権の意味では国家主権、国家最高決定権の意味では君主主権(天皇主権)を唱えるものである。すなはち立憲君主制国家を論じたものである。当時日本ではすでに議院内閣制が施行されていたが、現代ではほとんどの国家で憲法が施行されている(右図の紫などを除く)。 天皇機関説の発展 大日本帝国憲法の解釈は、当初、東京帝国大学教授・穂積八束らによる天皇主権説が支配的で、藩閥官僚による専制的な支配構造(いわゆる超然内閣)を理論の面から支えた。天皇主権説とは統治権の意味での主権を天皇が有すると説く学説である。また、この天皇主権は究極のところ天皇の祖先である「皇祖皇宗」に主権があることを意味する「神勅主権」説とも捉えられた大日本帝国憲法の公布にあたって、明治天皇が神前で奏した告文(こうもん)には、「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示」し、「皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スル」とある。。 これに対し、東京帝大教授の一木喜徳郎は、統治権は法人たる国家に帰属するとした国家法人説に基づき、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるものと規定する天皇機関説を唱え、天皇の神格的超越性を否定した。もっとも、国家の最高機関である天皇の権限を尊重するものであり、日清戦争後、政党勢力との妥協を図りつつあった官僚勢力から重用された。 日露戦争後、天皇機関説は一木の弟子である東京帝大教授の美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。すなわち、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。 美濃部の天皇機関説はおおよそ次のような理論構成をとる。 国家は、一つの団体で法律上の人格を持つ。 統治権は、法人たる国家に属する権利である。 国家は機関によって行動し、日本の場合、その最高機関は天皇である。 統治権を行う最高決定権たる主権は、天皇に属する。 最高機関の組織の異同によって政体の区別が生れる。 (衆議院憲法調査会・事務局作成資料「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」) 大正時代の初めには、穂積の弟子である東京帝大の上杉慎吉と美濃部との間で論争が起こる。共に天皇の王道的統治を説くものの、上杉は天皇と国家を混同し、「天皇は、天皇自身のために統治する」「国務大臣の輔弼なしで、統治権を勝手に行使できる」とし、美濃部は「天皇は国家人民のために統治するのであって、天皇自身のためするのではない」と説いた。 この論争の後、京都帝国大学教授の佐々木惣一もほぼ同様の説を唱え、美濃部の天皇機関説は学界の通説となった。民本主義と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、また、美濃部の著書が高等文官試験受験者の必読書ともなり、大正時代半ばから昭和時代の初期にかけては、天皇機関説が国家公認の憲法学説となった。この時期に摂政であり天皇であった昭和天皇は、天皇機関説を当然のものとして受け入れていた。 天皇機関説事件 Template main? 憲法学の通説となった天皇機関説は、議会の役割を重視し、政党政治と憲政の常道を支えた。しかし、政党政治の不全が顕著になり、議会の統制を受けない軍部が台頭すると、軍国主義が主張され、天皇を絶対視する思想が広まった。1932年(昭和7年)に起きた五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、憲政の常道が崩壊すると、この傾向も強まっていった。1935年(昭和10年)には、政党間の政争を絡めて、貴族院において天皇機関説が公然と排撃され、主唱者であり貴族院の勅選議員となっていた美濃部が弁明に立った。結局、美濃部は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった。当時の岡田内閣は、同年8月3日には「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。」とし、同年10月15日にはより進んで「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする国体明徴声明を発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じられた。 昭和天皇の見解 昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていた(『本庄繁日記』)。また鈴木貫太郎侍従長には「主權が君主にあるか國家にあるかといふことを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれども、ただ機關說がよいとか惡いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。君主主權說は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠な者でないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ」と話している(『西園寺公と政局』)。 戦後の天皇機関説 第二次世界大戦後、憲法改正の気運が高まる中、美濃部は憲法改正に断固反対した。政府、自由党、社会党の憲法草案は、すべて天皇機関説に基づいて構成されたものであった。しかし、天皇を最高機関とせず国民主権原理に基づく日本国憲法が成立するに至り、天皇機関説は解釈学説としての使命を終えた。 参考文献 宮沢俊義『天皇機関説事件 史料は語る』上、下(有斐閣、1970年、2003年OD版) 上 ISBN 4-641-90285-2、下 ISBN 4-641-90286-0 利根川裕『私論・天皇機関説』(学芸書林、1977年) 宮本盛太郎『天皇機関説の周辺 増補版 三つの天皇機関説と昭和史の証言』(有斐閣選書、1980年) ISBN 4-641-08248-0 小山常実『天皇機関説と国民教育』(アカデミア出版会、1989年) 竹内洋・佐藤卓己 編『日本主義的教養の時代 大学批判の古層』(柏書房パルマケイア叢書、2006年) ISBN 4-7601-2863-8 植村和秀『天皇機関説批判の「論理」 「官僚」批判者蓑田胸喜』 p51~p89 菅谷幸浩「天皇機関説事件展開過程の再検討 ―岡田内閣・宮中の対応を中心に― 」 吉川弘文館『日本歴史』2007年2月号 No.705 ISSN 0386-9164 p52~p69 関連項目 天皇機関説事件 国家有機体説 国防の本義と其強化の提唱 脚注 Template 脚注ヘルプ? Template reflist? 外部リンク 美濃部達吉の「一身上の弁明」全文 明治憲法の制定過程について - 衆議院憲法調査会・事務局作成資料「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」- PDFファイル、524KB 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月17日 (火) 16 08。
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天皇一族みたいだな 稲村純一が嫌っていると思われるもの。
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代 名称 性別 幼名 名 諱 実父 実母 備考 第1代 神武天皇 男 第2代 綏靖天皇 男 神武天皇 第3代 安寧天皇 男 綏靖天皇 第4代 懿徳天皇 男 安寧天皇 第5代 孝昭天皇 男 懿徳天皇 第6代 考案天皇 男 孝昭天皇 第7代 孝霊天皇 男 考案天皇 第10代 崇神天皇 男 開化天皇 第11代 垂仁天皇 男 崇神天皇 第15代 応神天皇 男 仲哀天皇 神功皇后(気長足姫尊) 第16代 仁徳天皇 男 応神天皇 第26代 継体天皇 男 彦主人王 第29代 欽明天皇 男 継体天皇 第35代 皇極天皇 女 茅渟王 吉備姫王 第37代 斉明天皇 女 茅渟王 第40代 天武天皇 男 舒明天皇 皇極天皇(斉明天皇) 第41代 持統天皇 女 ?野讃良 天智天皇 遠智娘 第46代 孝謙天皇 女 聖武天皇 光明皇后 第49代 光仁天皇 男 施基皇子 第52代 嵯峨天皇 男 桓武天皇 第53代 淳和天皇 男 桓武天皇 第54代 仁明天皇 男 嵯峨天皇 第55代 文徳天皇 男 仁明天皇 第62代 村上天皇 男 醍醐天皇 第63代 冷泉天皇 男 村上天皇 第64代 円融天皇 男 村上天皇 第65代 花山天皇 男 冷泉天皇 第67代 三条天皇 男 居貞 冷泉天皇 藤原兼家の娘、超子 第68代 後一条天皇 男 敦成 一条天皇 第69代 後朱雀天皇 男 敦良 一条天皇 第73代 堀河天皇 男 善仁 白河天皇 第74代 鳥羽天皇 男 宗仁 堀河天皇 第76代 近衛天皇 男 体仁 鳥羽天皇 藤原長実の娘、得子(美福門院) 第79代 六条天皇 男 順仁 二条天皇 伊岐致遠の娘 第84代 順徳天皇 男 後鳥羽天皇 第87代 四条天皇 男 後堀河天皇 藤原尊子(藻璧門院) 第100代 後小松天皇 男 幹仁 後円融天皇 三条公忠の娘、厳子(通陽門院) 譲位により即位 第103代 後土御門天皇 男 成仁 後花園天皇 藤原孝長の娘、信子(嘉楽門院) 在位中に応仁の乱発生 第110代 後光明天皇 男 第111代 後西天皇 男 第121代 孝明天皇 男 仁考天皇 正親町実光の娘、雅子(新待賢門院)
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天皇制(てんのうせい)とは、天皇を中心とする国家体制。特に天皇を元首または象徴とする近代以降の国家体制(近代天皇制)を指すこともある。大日本帝国憲法(明治憲法)では天皇を元首とし、また日本国憲法では天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置づけている。 「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語のMonarchieの和訳とされ、本来はマルクス主義者が使用した造語であった。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記し、天皇制と封建階級(寄生地主)・ブルジョワジー(独占資本)との結合が日本の権力機構の本質であると規定した。第二次世界大戦が終結するまで「天皇制」は共産党の用語であり、一般には認知されていなかったが、現代では共産党と関係なくマスメディア等一般にも使用されている。ただし、保守主義者等や敬意を払う場合は天皇制という語の由来からこれを忌避して皇室制度と呼ぶ傾向にある。また、歴史学者の間では天皇が国家統治機構の前面に登場する近代以前の国家体制に適用する事に対して批判もある。但し、「天皇制」と「皇室制度」、又は「皇室」とは、必ずしも同義で使われないことがある。 以下、古代以来の天皇と政治体制との関わりを中心に解説する。 古代 歴史学上、天皇家は古墳時代に見られたヤマト王権の「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一政権の成立を示唆しており、このときに成立した大王家が天皇家の祖先だと考えられている。大王家の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を大王家の祖先とする説、大王家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。当初の大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられる。 8世紀になると中国の政治体制に倣った律令制が整備され、天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代天皇制)。このとき歴代天皇に漢風諡号が一括撰進された。律令制が確立した当初において、政治意思決定に天皇が占める位置は絶対的なものとされていたが、9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏(藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。11世紀末になると天皇家の家督者たる上皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まり、藤原氏(摂関家)の相対的な地位は低下した。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であった。 中世 鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めたが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。 室町幕府が成立すると南朝・北朝に分裂し、その後続いた長い戦乱の中、天皇の権威は衰えながらも主に文化・伝統の継承者として存続していった。 Template 節stub 近世 織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めていった。江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。 幕府が学問に儒学の朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊王論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。 尊皇攘夷論 江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。尊王攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。しかし尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する道具だと認識していた。 明治維新 江戸幕府が倒れ、明治の新政府は王政復古で太政官制を復活させた。ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、中央集権体制が創られた。明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主国であった。 なお、真の統治者が将軍ではなく天皇である事を知らしめるため、当時、九州鎮撫総監が“将軍はいろいろ変わったが、天子様は変わらず血統も絶えずに存在する”という趣旨の文書を民衆に配布している。京都府もやはり天皇支配を周知すべく告諭を行なっている。更に新政府は行幸をたびたび行なった。Template fact 大日本帝国憲法下の天皇制 大日本帝国憲法の制定により、日本は立憲君主国になった。大日本帝国憲法を起草した伊藤博文も、天皇に絶対君主の役割を期待するようなことはなかった。伊藤博文は、ヨーロッパでは政治体制(議会制度も含む)を支える国民統合の基礎に宗教(キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として皇室に期待した。 実際に政治を運営するのは元老や内閣(藩閥政府)の各大臣である。大日本帝国憲法では、内閣の大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格)と規定されたが、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点は曖昧にされていた。対外的には天皇は大日本帝国皇帝であるが実際の為政者は内閣としていた。 昭和期になるとこの体制の弱点が利用されるようになった。野党や軍によって統帥権は天皇にあるため軍は天皇以外の命令には従う義務がないと主張され、軍部が天皇直隷を盾に独走・政府無視を続けて、もはや統制できない状況になるケースもあった。二・二六事件の際は天皇自身が激怒し、「自ら鎮圧に行く」とまで主張したため、反乱軍は鎮圧された。また終戦の際、ポツダム宣言の受諾・降伏を決定することは総理大臣にも出来ず、天皇の「聖断」を仰ぐ他なかった。しかし、天皇は立憲君主としての立場を自覚していたため、上御一人(最高権力者)であってもこの2例を除いて政治決定を下すことはなかった。こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。 なお、明治以降から終戦までの天皇制は従来の天皇制と異なるとして、絶対主義的天皇制、近代天皇制という用語が一部で用いられることもある。 日本国憲法下の天皇制 連合国軍最高司令官総司令部は占領政策上、天皇制が有用と考え、日本国憲法に象徴としての天皇制(象徴天皇制)を存続させた。天皇制は昭和天皇の各地への行幸や皇太子(今上天皇)結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至っている。大衆の支持を基盤にした戦後の天皇制を大衆天皇制と呼ぶこともある。 憲法学会の学説では、日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとするのが通説であるが、実質的に元首であるという見解を示す説もある。しかし諸外国は、日本を天皇を元首とした立憲君主国とみなしており、日本政府も事実上天皇を元首として取り扱っている。 政府見解としては次のようなものである。 1973年(昭和48年)6月28日参議院内閣委員会、吉國一郎内閣法制局長官答弁…(日本を)立憲君主制と言っても差し支えないであろう(趣旨) 1988年10月11日参議院内閣委員会、大出峻郎内閣法制局第一部長答弁…(天皇を)元首と言って差し支えないと考える(趣旨) 前後の発言を含め、正確な引用はこちらを参照pdfファイル 戦後の論評 第二次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(前記の丸山眞男ら)の立場などから天皇制批判が数多く提議された。1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制の廃止を訴える意見もあった。昭和天皇崩御の際、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』で天皇制の是非について取り上げられたが、これ以降この問題を積極的に取り上げるマスメディアは殆どない。 日本共産党は2004年に綱領を改正し、元首化・統治者化を認めないという条件の下、天皇制の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきである、という趣旨に改めた。[1] 各種の世論調査では、象徴天皇制の現状維持を主張する意見が多数であり、現在のところ象徴天皇制は日本国民に支持されている制度であると言える。これについては、国民の天皇への関心が薄らいだことや、マスメディアが各方面からの圧力を恐れて天皇制の廃止につながる話題、批判をタブー視していること(菊タブー)が原因であるとする見解もある。 「天皇制は日本人の心性に深く根ざしたもので、変える事は出来ないのではないか」と考えられることもある。例えば、戦後、天皇制廃止を叫んでいた日本共産党も、組織の内実は家父長的な指導体制を取っており、徳田球一委員長は「徳田天皇」と揶揄された(思想家、竹内好はこうした事態を「一木一草天皇制」と呼んだ)。しかし、天皇制も日本の歴史の中で様々に位置づけを変えてきている。その中でも天皇制が権力者にとって都合のよいように様々に利用されてきたことは注意すべき点であろう。 皇室擁護派の意見 皇室批判派の意見 「身分の平等」をうたいながら、皇族を維持して「~さま」と奉ることは、違憲ではないのか? 日本経済が困窮しつつある今、都内の広大な一等地を占有し、年間数十億円を投じて維持している天皇制が、はたして意義のあるものなのか? 皇族の数を減らし、そのぶん女系天皇を認めるような規則改正により、大幅に支出を減らせるのではないか? 国民の多くは天皇制・皇族を支持している訳ではなく、政治と同様に「興味・関心がない」だけではないか? 関連項目 天皇制廃止論 天皇機関説 天皇制ファシズム 天皇制絶対主義
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皇位の継承 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。 天皇の国事行為と内閣の責任 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。 天皇の機能の限界、天皇の国事行為の委任 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。 2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。 摂政 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。 天皇の任命権 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。 2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。 天皇の国事行為 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。 1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。 2.国会を召集すること。 3.衆議院を解散すること。 4.国会議員の総選挙の施行を公示すること。 5.国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。 6.大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。 7.栄典を授与すること。 8.批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。 9.外国の大使及び公使を接受すること。 10.儀式を行ふこと。 皇室の財産授受の制限 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。 皇室財産・皇室費用 すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。 この項目についての意見 名前 コメント
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天皇主権(てんのうしゅけん)とは、大日本帝国憲法において、天皇が保持するとされた主権。西欧における君主主権を日本に適用したもので、天皇主権を君権ともいう。天皇主権を中心として構成された憲法学説を天皇主権説という。 歴史 Template 和暦?に公布され、翌Template 和暦?に施行された大日本帝国憲法は4条で「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ」と定めた。この条文の解釈や憲法全体の解釈運用にあたっては天皇主権(君権)を重んじる穂積八束や上杉慎吉ら君権学派(神権学派とも言う)と議会制を中心とした立憲主義を重んじる美濃部達吉や佐々木惣一ら立憲学派の二大学派に分かれて論じ合われた。 憲法施行当初は超然主義を唱えた藩閥政治家や官僚らにより天皇主権を中心とした君権学派の解釈が重用された。明治時代の終わりには上杉と美濃部の天皇機関説論争が行われ、大正デモクラシーの時期には立憲学派が優勢となった。しかし、Template 和暦?の天皇機関説事件で美濃部ら立憲学派が排撃され、同年に政府が発表した国体明徴声明では天皇主権を中心とした解釈が公定された。 その後、Template 和暦?に公布され、翌Template 和暦?に施行された日本国憲法では前文及び1条で国民主権が定められ、天皇主権は排された(同98条1項)。 関連項目 天皇制 天皇制ファシズム 国民主権 君主主権 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月7日 (日) 03 06。
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神武天皇(じんむてんのう) 世界大百科事典、関晃の記述 初代天皇と伝えられる天皇(在位660~585B.C.)『古事記』や『日本書紀』にカンヤマトイワレヒコノミコトとあり、神武という中国風の諡号は、8世紀(奈良朝)後半になってから送られたものである。記・紀によると、神武天皇は高天原から南九州にくだったニニギノミコトの曾孫でウガヤフキアエズノミコトの子。日向から舟軍をひきいて瀬戸内海を東進し、いったん難波に上陸したが、生駒のナガスネヒコにさえぎられて、さらに海上を南に迂回し、熊野から吉野の山険を越えて大和に入り、付近の諸勢力をしだいに従えてゆき、最後にナガスネヒコを倒して大和地方をだいたい平定したのち、紀元前660年の1月1日に橿原宮で初代の天皇の位につき、前585年に127歳で死んだ、ということになっている。記・紀はこの物語を人代の最初にすえて、神代との橋渡しとしているが、その内容にはむしろ神話伝承的な色彩が濃く、事実の記録という性格はかなり弱い。しかし、天皇がつねに建国ということと結びつけて考えられる以上、その史実性のほうがより多く問題になるわけであるが、これらの物語をそのまま事実と考えることはきわめて困難である。紀元前7世紀といえば、まだ縄文式文化の時代で、国家の成立などということはとうてい考えられないし、この年代が中国の讖緯思想にもとづいて、後世7世紀ころの史家の手で机上で作られたものであることはだいたいまちがいない。また年代の点を別としても、こういうかたちで建国がおこなわれたとは考えにくい。おそらく3~4世紀ころに、大和を中心とする政治勢力がしだいに全国を統一していったものであって、ある1時点に建国というような事実を求めることは不可能であろう。したがってこの物語は、全体として後世になって造作されたものとする見方が支配的であり、その一例として、実際の統一者は崇神天皇であって、その事跡を過去に投影して、神武天皇の物語が作られたと見る説がある。そうなれば、神武天皇はまったく実在の人物ではないことになるが、ただ、崇神以前の天皇はまだ統一日本の君主ではないけれども、皇室の祖先であることには違いなく、その簡単な系譜が、なんらかの方法で伝えられたと考えられることは不可能ではない、という意見がでてきている。 大日本百科事典、小野信二・川出清彦の記述 第一代の天皇とされている人物。名はカムヤマトイワレヒコノミコトという。神武という名は奈良時代につけた諡号。『日本書紀』『古事記』によれば、ニニギノミコトの曾孫で、ウガヤフキアエズノミコトの子である。そして事績はほとんど東征と大和平定の物語につきている。すなわち日向国(九州南東部)を出発して瀬戸内海を通り、いったん難波(大阪)に上陸してナガスネヒコと戦ったが、これに妨げられてイツセノミコトを失い、海上を南に迂回して熊野から吉野をへて大和国(奈良県)に攻め入り、諸土豪を征服してついにナガスネヒコをも倒し、大和一帯を平定、前660年の正月朔日に、橿原に都して即位したという。そして同じく前585年127歳で没したと伝えている。記紀の紀年法は誤謬の多いもので、もちろんこれは史実ではなく、前7世紀にこのような天皇の出現や行動があったとは考えられない。当時は縄文文化の時代で、まだ国家というようなものはなかった。大和の一土豪の話として伝えられてきたものを、このように描き出したものと思われ、時代もずっと下るものだろうといわれている。東征説話も大和朝廷発展期にその淵源を遠くに置き、九州と中央とのつながりの必然性を示そうとしたものであろう。崇神天皇の投影とみる、すなわち崇神天皇こそ第一代で、神武天皇はその理想像として架空に構想されたとする考えもある。陸墓は奈良県橿原市畝傍山東北陵。 「神武天皇祭」4月3日神武天皇の崩御相当日に宮中の皇霊殿でおこなわれる御追孝の祭典。天皇陛下御親祭の大祭であり、東遊が前庭で奉奏される。皇后陛下、皇太子・同妃両殿下の拝礼、参列の皇族・宮内庁職員の参拝もある。同日山陵(畝傍山東北陵)へ勅使参向、奉幣の儀をおこなわしめる。 グランド現代百科事典、佐伯有清の記述 古代の伝承上の天皇。第一代の天皇とされる。父はヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト。母はタマヨリビメ。名はサヌミコト。カムヤマトイワレヒコミコト、ヒコホホデミという。九州日向を出発し、大和地方を平定した東征伝説で名高い。日向を出た天皇は筑紫国、安芸国、吉備国をへて難波に居たり、河内国から大和にはいろうとしたが、ナガスネヒコにはばまれて苦戦し、茅渟(和泉の海)に出て紀国の熊野を迂回して大和にはいり磯城地方の豪族を制圧した後、ついにナガスネヒコを殺し、大和一帯を平定。辛酉の年に橿原宮で即位し、この年を神武天皇の元年とした。陸墓は奈良県橿原市の畝傍山東北陵。神武天皇の即位の年を西暦紀元前660年に当たる辛酉としたのは、この年に革命があるとする中国の讖緯説によるものであり、その結果『日本書紀』の紀年は実際より著しく年代が延長され、実在しない天皇が幾人か天皇系譜の中に組み入れることになった。 世界文化大百科事典、高崎徳次の記述 「記紀」に伝えられる初代の天皇。神武は奈良時代の諡。名はカムヤマトイワレヒコノミコト、ニニギノミコトの曾孫。「記紀」によると、天皇は日向(宮崎県)を出発して東征し、瀬戸内海から難波に上陸しようとしたが、土着勢力のナガスネヒコのため果たせず、熊野から吉野を経由、大和の諸豪族を平定した。BC660年元旦橿原に都して即位し、BC585年127歳で没したとある。これらの伝承は史実とは認めがたく、崇神天皇の事績が理想化されて、神武天皇となったとする見解もある。陸墓は奈良県橿原市畝傍山東北陵。 歴代天皇事典、高森明勅監修 御名・異名…神日本磐余彦尊、生没年…不詳、在位…76年?、父…ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト(彦火火出見尊の子)、母…玉依姫(海神の娘)、皇后…媛蹈鞴五十鈴媛命(事代主命の娘)。 戦前の歴史教育を受けた人たちのなかには、「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク…」と歴代天皇の名をいまでもそらんじることができる人がいる。その歴代天皇125人の最初のジンムが神武天皇である。この神武天皇から第9代の開化天皇までの9人の天皇は、一般に伝承上の天皇と見なされている。そこで、『古事記』や『日本書紀』に記されている有名な「神武東征」の話をはじめ天皇の事績についても、史実というよりは伝説、あるいは文学として読まれることが多い。なかでも神武天皇は、高天原の神々をはじめ八百万の神々が織り成すロマン溢れる日本神話と、実在の天皇が登場する日本の歴史の間に立つ重要な存在として『古事記』や『日本書紀』に記されている。たとえば、神武天皇の祖父・彦火火出見尊は「海幸・山幸」神話の山幸彦といわれ、その父は「天孫降臨」神話の主役ニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)とされている。ニニギノミコトは、「天岩屋」神話で知られる皇祖神アマテラスオオミカミ(天照大神、天照大御神)の孫にあたる。神武天皇は九州の日向に生まれ、3人の兄とともに育った。生まれながらにして賢く、気性もしっかりとしていて、15歳で皇太子になったという。そして45歳のときに、天下に君臨するのにふさわしい東方の「美き地(よきくに)」である大和に都をかまえるために、大軍を率いて日向を発った。これが神武東征の始まりである。皇軍は速吸之門(豊予海峡)で会った椎根津彦を水先案内人にして、海路、宇佐や安芸、吉備などに立ち寄り滞在したあと、難波に到着。そこから生駒山を越えて大和に入ろうとしたが、土豪の長脛彦の抵抗にあい、大和入りを果すことはできなかった。また、この戦いで兄の五瀬命が重傷を負った。そこで皇軍は再び海に出て、紀伊半島を南へ迂回し、ようやく熊野から上陸した。しかし、その間に傷ついた五瀬命をあhじめ人の兄が相次いで亡くなった。上陸を果たした一行も、土地の神の毒気に当たり全軍が倒れてしまった。この天皇の危難を救ったのが霊剣「フツノミタマ」と「ヤタガラス」である。フツノミタマは地元の高倉下という人物が霊夢でアマテラスオオミカミから授けられた剣であり、高倉下がそれを神武天皇に奉じた。すると、倒れていた全軍は目を覚まし起き上がった。ところが、大和を目指そうにも険しい山のなかには道もなく、一行は進むことも退くこともできず迷ってしまう。すると、その夜、今度は天皇が霊夢を見て、アマテラスオオミカミから道案内のための八咫烏を与えられた。皇軍は、八咫烏の導きで無事大和の宇陀に出ることができ、その後、大和の土豪を平定し、最後に強敵の長脛彦と激戦を交わした。皇軍が苦戦していると、その一羽の金色のトビが飛来し、天皇の弓の先に止まった。トビは光り輝き、その威力によって皇軍は長脛彦の軍勢を打ち破ることができたという。こうして天皇は、いくつもの危難を乗り越えてついに大和を平定した。そして畝傍山の麓の橿原に宮殿(橿原宮)を建て、ここで初代天皇として即位した。『日本書紀』によると、天皇が即位したのは辛酉の年の1月1日。紀元前660年とされる。中国には「讖緯説」というものがあって、辛酉の年には大きな改革が起こるといわれた。辛酉の年は60年に一度ずつ巡ってくるが、天皇が東征の偉業を果した辛酉の年から1260年後の辛酉の年は、601年(推古9)であり、この時代には聖徳太子が現れている。そして、この年から逆算して天皇の即位の年が定められたといわれている。天皇は正妃の媛蹈鞴五十鈴媛命との間に神八井耳命とカンヌナカワミミノミコト(次の綏靖天皇)の二人の皇子をもうけた。天皇は『古事記』によると137歳(『日本書紀』では127歳)で崩御した。畝傍山東北陵に葬る。神武天皇の実在をめぐって、戦後は否定論がさかんであるが、物語の核となった史実を肯定する学者の意見もある。目下のところ、「これを確認することも困難であるが、また、これを否定することも、それに劣らず困難である」(黛弘道氏)と見ておくのが最も無難だろう。
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Template 基礎情報 天皇? 大正天皇(たいしょうてんのう、1879年8月31日 - 1926年12月25日)は、第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。印は壽(じゅ)。在位中の元号から採って、大正天皇と追号された。明治以降の近代天皇制で初の一夫一妻制をとった天皇である。 生涯 誕生 大正天皇は明治12年(1879年)8月31日午前8時20分、明治天皇の第三皇子として東京の青山御所で誕生した。生母は典侍 柳原愛子である。明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重い病気に悩まされた。侍医(主治医)の浅田宗伯(漢方医)は「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」(後に消失)とのちに記録している。 このような状態ではあったが、父:明治天皇と皇后:昭憲皇太后(一条美子)との間には皇子女がおらず、また、側室出生の親王・内親王ら5人も、第三皇子である大正天皇の出生以前に相次いで死去していたため、皇太子となった。 嘉仁親王は幼少期に、自分は昭憲皇太后の子であると聞かされていたため、生母が柳原愛子と知った時にはショックを受けたとされる。 少年時代 誕生の翌年、皇室の風習により中山忠敬の屋敷に里子に出された。この間、明治天皇は養育にほとんど口出しをしなかった。明治18年(1885年)3月、嘉仁親王は青山御所に戻ったが、弟宮は全員、妹宮はほとんど逝去しており、年の近い親族が少なかった。そのため、あまり家族と接することがなかったとされる。 明治20年(1887年)8月31日、8歳の誕生日の時に皇后・美子(昭憲皇太后)の養子となる(儲君)。同年9月には学習院に入学した。学習院時代には侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校し、これがランドセルの原型となるなど微笑ましい出来事が語られている。しかし、健康に優れず学業に集中できなかったこと、学習院の厳しい規則に馴染めなかったことなどから、留年することもあった。明治22年(1889年)からは熱海への保養が毎年の恒例になった。 明治22年(1889年)、立太子礼を挙げる。他方学習院での学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があった一方で、抽象的な思考を要する理数系の教科を苦手とした。1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難であるとして、学習院を中退。その後は赤坂離宮で数人の教師によるマンツーマンの授業を受けた。この時重視された教科は、フランス語、国学、漢文であり、特に漢文を教えた川田甕江からは大きな影響を受け、漢文を趣味としたという。しかし、これらの教育も嘉仁親王にとっては非常に厳しく、しばしば明治天皇に愚痴を漏らしていたという。 明治天皇は伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の役人に任せきりであった嘉仁親王の管理を教育から健康まで総合的に行うため、新たに東宮輔導の職を設け、有栖川宮威仁親王をこれに任命した。これ以降、嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないまま危篤に陥った時には、第3皇子である宣仁親王に高松宮の称号を与えることで、有栖川宮の祭祀を継承させている。 結婚・巡啓の日々 180px|thumb|明治40年([[1907年)、漢城(現ソウル)にて、有栖川宮、皇太子・李垠とともに。左端が嘉仁親王]] 明治33年(1900年)5月10日、嘉仁親王は九條節子(後の貞明皇后)と結婚した。このとき節子は15歳であった。「病弱の皇太子に早めの結婚を」と願った周囲の声に後押しされてのものといわれている。ただ、寂しい幼少時代を過ごした親王にとっては非常にうれしい出来事だったらしく、幼少期以来優れなかった健康がこの後回復していった。結婚後は明治天皇とは対照的に一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという。大正天皇が事実上では初の一夫一妻制の天皇である(のちに昭和天皇が一夫一妻制を明文化)。 健康が回復してからの嘉仁親王は日本各地を回った。その範囲は沖縄県を除く全土であった。嘉仁親王は、巡行中、興に乗れば漢詩を創作している。父の明治天皇や子の昭和天皇が和歌を好んで読んだのとは対照的である。 明治40年(1907年)、嘉仁親王は大韓帝国を訪れ、皇帝純宗や皇太子 李垠と会っている。このときの大韓帝国は、保護国とはいえまだ併合前の「外国」であったため、史上初めての皇太子の外遊という事になった。このとき、嘉仁親王は李垠をたいそう気に入り、その後朝鮮語を学び始めたという。 即位 1912年7月30日、明治天皇の崩御にともない即位。「大正」と改元した。3年後の大正4年(1915年)に京都御所で即位の礼を行なうが、その性格と病状の悪化から「頼りない」「頭が弱い」などという認識が、山縣ら政界の一部での公然とした認識となった。天皇自身、即位後の急激な環境の変化と、山縣らの冷淡な態度に過度のストレスを持つようになる。 そんな中で御用邸の休暇には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていく。だが、第一次世界大戦による国際情勢とその中における日本の立場の大きな変化は、僅かばかり残された天皇の自由を奪っていく事になる。 崩御 大正6年(1917年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、大正8年(1919年)には食事をとることも勅語を読むこともできなくなるほど病状は悪化していた。大正10年(1921年)11月25日、当時20歳だった皇太子・裕仁親王が摂政に就任することで天皇は事実上の引退となり、宮内省発表による『天皇陛下御容体書』によって病状は公にされる運びとなった。このため、後々にも「病弱な天皇」として一般に認識されることになった。 その一方で、皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」天皇像を『原敬日記』に記している ref name =hara/ 。 その後は日光・沼津・葉山と転地療養を続けていたが、大正15年(1926年)11月に病状が極度に悪化し、同年12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を握ったまま、心臓麻痺で崩御。宝算(享年)47。臨終の床に生母を呼んだのは皇后・節子の配慮によるものであったという。 「大正天皇」と追号され、翌年2月8日、神武以来、天皇として史上はじめて関東の地、多摩陵に葬られた。 皇子 180px|thumb|明治37年(1904年)、迪宮と淳宮を可愛がる嘉仁親王。左端は[[侍従]] 貞明皇后との間には4男をもうけた。 迪宮裕仁親王(みちのみや ひろひと:1901年-1989年) - 第124代・昭和天皇 淳宮雍仁親王(あつのみや やすひと:1902年-1953年) - 秩父宮 光宮宣仁親王(てるのみや のぶひと:1905年-1987年) - 高松宮 澄宮崇仁親王(すみのみや たかひと:1915年-) - 三笠宮 系譜 祖父:孝明天皇 祖母:中山慶子 父:明治天皇 母:柳原愛子 また、柳原白蓮の従兄にあたる。 Template 皇室明治以降? 陵墓・霊廟 大正天皇より御陵が東京に移され、多摩陵(たまのみささぎ)に葬られた。大正天皇を祀る神社はないが、全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 逸話 人物に関するもの 創作した漢詩の数は実に1367首もあり、歴代天皇のなかでも飛びぬけている(第2位が嵯峨天皇の97首)。開放的な性格上、和歌が31文字で限られた表現しかなしえないので、多様な表現が可能な漢詩に心を寄せたものと思われる。 富山県訪問時に詠んだ「登呉羽山」の詩は現在、呉羽山山頂に碑文となっており、おそらくは大正天皇唯一の詩碑とされる。 ref name =hara 原武史『大正天皇』。 皇太子時代に全国を巡啓し、京都帝国大学(後の京都大学)付属病院を訪れた時には患者に声をかけ患者が涙にむせんだという逸話も残っており、福岡県知事との会話の間に持っていたタバコを気軽に差し出したという記録も残っている。このような思ったことをすぐに言動に出す性格は幼少期からのものであるが、嘉仁親王の性格を好ましく思わなかった明治天皇や元老山縣有朋らに幾度となくたしなめられていたようである。 巡啓中には、有栖川宮の黙認もあって、非常に気さくに、身分に構わず気軽に声をかけた。移動も特別編成のお召列車でなく一般乗客と同じ普通列車に乗り込み、兵庫県の陸軍大演習ではいきなり旧友宅を訪問、新潟では早朝に宿舎を抜け出して散策をし、ある時は蕎麦屋に入るなど自由奔放にふるまった。これは当時、明治天皇が一般人の目の見えないところに「神」として君臨していたのとは好対照である。 病状に関するもの 宮内庁は平成20年(2008年)6月4日、「大正天皇実録」の一部(複製本)を公開した。それによると、大正10年(1921年)の皇太子裕仁親王の摂政就任時には「大正三年頃ヨリ軽度ノ御発語御障害アリ、其ノ後ニ至リ御姿勢前方ヘ屈セラルル御傾向アリ」「殊ニ御記憶力ハ御衰退アリ」などと病状について記されている。 その他 大正天皇の結婚の時、日本各地で記念として桜が大量に植樹された。日本=桜という概念が生まれたのもこの時期であるといわれる。 現在広く行われている神前結婚式は、大正天皇と貞明皇后の婚儀を東京大神宮が一般向けにアレンジしたものである。 いわゆる「遠眼鏡事件」 「遠眼鏡事件」とは、「大正天皇が進行した脳病により帝国議会の開院式で詔勅を読んだ後、大正天皇はその勅書をくるくると丸め、遠めがねにして議員席を見渡した」とされる「事件」であり、それにまつわるさまざまな風説「遠めがねにして覗いたあと、丸めた勅書を持って近くにいた人の頭をポコッと叩いた」という話が付くこともあるが、これは東京裁判における大川周明の行動との錯綜であるとの見方がある。が流布されており、「大正天皇は暗愚であった」と誤って評価される要因のひとつであるとされる。 この種の風説に関して書かれた記事は数種存在するが、記事相互の内容(天皇の行動、「事件」が起こったとされる時期など)はかなり異なっており、信憑性は定かではない。また、語り出されたこと自体が大東亜戦争後、すなわち、言論の自由化とともに「反天皇制」である左翼思想、共産主義思想が力を持ちつつあった昭和30年代にほぼ集中しているただし政治学者の丸山眞男は、大正時代からこの手の風説はあったとしている。丸山眞男は著作「昭和天皇を廻るきれぎれの回想」において、以下のように記している。 私は四谷第一小学校の二年生であった。大正天皇が脳を患っていることはそれ以前に民間に漠然と伝わっていた。それも甚だ週刊誌的噂話を伴っていて、天皇が詔書を読むときに丸めてのぞきめがねにして見た、というような真偽定かでないエピソードは小学生の間でも話題になっていたのであるという ref name =hara/ 。 この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられている 朝日新聞平成13年3月14日付の記事によると、大正天皇から直接聞いた話として以下の証言をしている。 ある時、議会で勅語が天地逆さまに巻きつけてあったので、ひっくり返して読み上げ、随分恥ずかしい思いをした。このようなことがないよう、詔書を筒のように持って中を覗いて間違っていないことを確かめて読み上げようとしたものだ。。この証言は「勅書をくるくると丸め、遠めがねに」したことを否定してはいるが、どのような経緯で、お付きの女官が大正天皇本人から聞くことになったかは述べられてない。また、その「事件」がいつの出来事であるかも明確ではない。そのため、そういった「事件」が実際に起こったのか、その経緯についての大正天皇の説明が真実であるかということを判断することはできない。 また、大正天皇は脳膜炎を患って以来手先が不自由であり、上手く巻けたかどうかを調べていたのが、議員からは遠めがねのように使っていたように見えたという説当時の侍従・黒田長敬の証言による。「文藝春秋」1959年2月号 「悲劇の帝王 大正天皇」よりもある。そもそも、勅書は丸めるものであるので丸めること自体におかしな点はない。 大正天皇は、最終的に政治的な立場から排除された天皇であり、「大正天皇が病弱で暗愚である」という根拠に欠けるエピソードの流布自体への政治的な思惑を指摘する意見がある。実際、皇太子時代から近かった原敬首相存命時に極力伏せられてきた天皇の病状は、原の暗殺直後に一般に流布されるようになったとされる。 それに対して、「戦前は不敬罪があり、皇室の噂は封印されていたものこの指摘は丸山の証言(注3参照)と大きく異なるものである。であり、(風説の報道が反天皇制思想が広まりつつあった昭和30年代に集中しているからといって)虚構との説明には説得力がないという」意見もある。いずれにしても、この「事件」の噂が代表するように、大正天皇についての情報は肉親や、利害関係者の証言や、また聞きレベルの噂など客観性が乏しいものが多い。 参考文献 原武史 『大正天皇』、朝日選書・朝日新聞社、2000年 古川隆久 『大正天皇』 人物叢書・吉川弘文館 2007年 木下彪 『大正天皇御製詩集』 明徳出版社、2000年 古田島洋介 『大正天皇御製詩の基礎的研究』 明徳出版社 2005年 西川泰彦 『天地十分春風吹き満つ 大正天皇御製詩拝読』 錦正社 2006年 岡野弘彦解題と解説 『大正天皇御集 おほみやびうた』 邑心文庫、のち明徳出版社、2002年 脚注 Template 脚注ヘルプ? Template reflist? 関連項目 Template wikisourceN? 外部リンク 大正天皇関係文献目録 大正天皇 系図でみる近現代 第40回 西本願寺・大谷家 九条家 大正天皇 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月16日 (日) 11 49。