約 22,520 件
https://w.atwiki.jp/dunpoo/pages/1030.html
●天皇制11-14 から 最新の記事は●天皇制へ 150409 天皇の慰霊 歴史見つめる機会に(社説) [朝日] 150408 巡視船宿泊、ペリリュー島で慰霊 両陛下が強く願い実現 [朝日] 150408 「美しい島々で悲しい歴史」パラオ訪問の陛下お言葉全文 [朝日] 150409 天皇の慰霊 歴史見つめる機会に(社説) [朝日] あの戦争は何だったのか。身近に考える機会にしたい。 戦前、日本が統治し、太平洋戦争で激戦地となったパラオ共和国を、天皇、皇后両陛下が訪ねている。戦後70年に合わせた「慰霊の旅」である。 多くの戦死者が出たペリリュー島にきょう渡り、日米それぞれの犠牲者の碑に赴く。 「太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」。天皇陛下は出発にあたり、こう述べた。 天皇の慰霊の旅が印象づけられたのは、戦後50年の95年の夏に、長崎、広島、沖縄、東京都慰霊堂を訪ねたときだ。 戦後60年には、海外での初の慰霊の旅として米自治領サイパンを訪ねた。日本人が海に身を投げ集団自決した「バンザイクリフ」などに赴き、元日本兵が話す当時の様子に耳を傾けた。 その年の誕生日に際した会見で、「61年前の厳しい戦争のことを思い、心の重い旅でした」と語っている。 パラオ訪問は当時も検討されたが、交通状況などで断念した。今回は海上保安庁の巡視船をホテル代わりにする異例の措置で実現した。ペリリュー島へは巡視船からヘリで向かうといい、80歳を超える両陛下にとって、たやすい道行きではない。 風化しがちな戦争の歴史と向き合わねばならないという、強い思いが込められている。 天皇陛下は今年の年頭の感想で「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくこと」の大切さに触れている。 当時の語り部や、その伝承に取り組む人びとの声に耳を傾け、歴史と謙虚に向き合い、戦禍を二度と繰り返さない。それは、国民一人ひとりが続けねばならない営みだと感じさせる。 今ではダイビングで知られるパラオを約30年間日本が統治し、日米双方が多くの命を失ったことはあまり語られない。 戦後、94年まで国連の米信託統治領だった。ほかの太平洋諸島より独立が遅れたのは、画期的な非核憲法を81年、住民の手でつくったからだった。 米国は、その憲法を長く疎んじ、最終的に非核条項を凍結することで独立を認めた。パラオは防衛権を米国にゆだね、代わりに経済援助を受け続けるという苦しい選択をしたのだ。 終戦後もなお、安全保障などをめぐり大国との関係に翻弄(ほんろう)されてきた、その歴史から考えさせられることもまた多い。 150408 巡視船宿泊、ペリリュー島で慰霊 両陛下が強く願い実現 [朝日] 太平洋戦争の激戦地・パラオ共和国に向かった天皇、皇后両陛下。現地での宿泊先に選ばれたのが、海上保安庁の巡視船「あきつしま」だ。通常は領海警備などにあたる船で、船内の設備は宿泊には適していない。異例の措置がとられた背景に、両陛下の戦没者慰霊への強い思いがあった。 両陛下、パラオに出発 「美しい島々で悲しい歴史」陛下お言葉全文 「あきつしま」は全長150メートル、総トン数6500トンで世界最大級の巡視船だ。2013年11月に就役。沖縄・尖閣諸島の警備や東南アジアでの海賊対策や中国漁船によるサンゴ密漁の取り締まりといった重要任務を担っている。 実は、両陛下のパラオ訪問は10年ほど前に検討されながら、断念した経緯がある。日本政府が建立した「西太平洋戦没者の碑」があるペリリュー島はパラオ中心部から南に約50キロ離れた小島。両陛下と随行員、警備関係者ら一行を乗せた旅客機が離着陸できる空港がなく、船で行き来するにも片道1時間以上かかる。両陛下への負担や安全面の問題が立ちはだかった。 そこで浮上したのが海保巡視船に搭載されているヘリコプターだ。「あきつしま」には最大21人乗りのヘリ「スーパーピューマ225型」が2機搭載されている。両陛下が「あきつしま」に宿泊し、船から直接ヘリでペリリュー島に向かう計画によって、今回の慰霊の旅が実現することになった。 だが、旅行用の客船ではないため、高齢の両陛下が宿泊するには不安もある。船内には段差や仕切りが多く、転倒する危険性が拭えない。貴賓室などはなく、両陛下は船長室に宿泊するが、そこに向かうには急な階段を上がらなければならない。お世話をする職員や侍医が待機する部屋も離れた場所だ。 今回、両陛下用に船内に手すりをつけたり、通常は1人用の船長室内のレイアウトを変えたりするなどの対策が講じられた。決して快適とは言えない状況だが、両陛下は納得の上で計画を受け入れたという。宮内庁幹部は「戦没者慰霊を実現させたいという両陛下のお気持ちの表れでしょう」とみる。 前侍従長の渡辺允さん(78)によると、天皇陛下は折々に「南太平洋に慰霊に行くことはできないか」との意向を述べていた。南太平洋とはパラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦。今は観光地となっているが、陛下は「美しい海でどれだけ多くの犠牲者が出たか思い出して欲しい」とも話したという。 今回、慰霊碑にはこの3カ国の大統領夫妻も同行し、ともに拝礼する。 巡視船の運用をめぐっては、尖閣諸島周辺での領海警備の必要性が高まり、やり繰りが厳しい状態が続いている。宮内庁の風岡典之長官は会見で「(業務に)支障が無いということで利用させていただくことになった」と説明し、「戦後70年の特別な陛下のご訪問。大きな目的のために使うのは許されるのではないか」との見解を示した。別の宮内庁幹部も「巡視船からヘリで移動するのが一番円滑に日程をこなせる。ヘリがなければ今回の訪問は実現しなかった」と話している。(中田絢子、工藤隆治) 150408 「美しい島々で悲しい歴史」パラオ訪問の陛下お言葉全文 [朝日] 天皇陛下は8日午前、パラオへの出発に先立ち、おことばを述べた。全文は次の通り。 ◇ 本年は戦後70年に当たります。先の戦争では、太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ、数知れぬ人命が失われました。祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲(しの)ばれます。 私どもはこの節目の年に当たり、戦陣に倒れた幾多の人々の上を思いつつ、パラオ共和国を訪問いたします。 パラオ共和国は、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国と共に、第一次世界大戦まではドイツの植民地でしたが、戦後、ヴェルサイユ条約及び国際連盟の決定により、我が国の委任統治の下に置かれました。そしてパラオには南洋庁が置かれ、我が国から多くの人々が移住し、昭和10年頃には、島民の数より多い5万人を超える人々が、これらの島々に住むようになりました。 終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで、この戦いにおいて日本軍は約1万人、米軍は約1700人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。 この度のパラオ共和国訪問が、両国間にこれまで築かれてきた友好協力関係の、更なる発展に寄与することを念願しています。私どもは、この機会に、この地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに、パラオの国の人々が、厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に、慰霊碑や墓地の清掃、遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し、大統領閣下始めパラオ国民に、心から謝意を表したいと思っております。 この訪問に際し、ミクロネシア連邦及びマーシャル諸島共和国の大統領御夫妻が私どものパラオ国訪問に合わせて御来島になり、パラオ国大統領御夫妻と共に、ペリリュー島にも同行してくださることを深く感謝しております。 終わりに、この訪問の実現に向け、関係者の尽力を得たことに対し、深く感謝の意を表します。
https://w.atwiki.jp/aryamatakoryamata/pages/476.html
後醍醐天皇 ごだいごてんのう 題名 荒俣宏 amazon 1989.05.30 存在光 書籍 阿含宗総本山出版局 『近代化する呪い』 P452・P458
https://w.atwiki.jp/mahjlocal/pages/4076.html
読み てんのうたんじょうび 正式名称 別名 和了り飜 役満 牌例 解説 123の順子、1筒・東のどちらかが頭と刻子、白中の刻子を含んだ和了。 133を12月23日、1筒・東を日出づる国、白中を国旗に見立てている。 成分分析 天皇誕生日の59%は嘘で出来ています。天皇誕生日の25%は純金で出来ています。天皇誕生日の16%は不思議で出来ています。 下位役 上位役 複合の制限 採用状況
https://w.atwiki.jp/imperialfamily/pages/19.html
じとうてんのう。女性。第41代の天皇。名は鸕野讃良(うののさらら)。父は天智天皇。母は遠智娘。
https://w.atwiki.jp/bokuserve/pages/993.html
【元ネタ】記紀神話+地方伝承+中世神話 【CLASS】セイバー 【マスター】 【真名】孝霊天皇 【性別】男性 【身長・体重】197cm・82kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力B 耐久D 敏捷A+ 魔力A 幸運B 宝具B 【クラス別スキル】 対魔力:A A以下の魔術は全てキャンセル。 事実上、現代の魔術師ではセイバーに傷をつけられない。 騎乗:C 騎乗の才能。大抵の乗り物、動物なら人並み以上に乗りこなせるが、 野獣ランクの獣は乗りこなせない。 【固有スキル】 神性:A 神霊適性を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 天照大御神の直系にあたる。 心眼(偽):C 第六感による危険回避。 魔力放出:C+ 帯電させた魔力の瞬間的噴出による能力の向上。 魔力によるジェット噴射に特化した9枚の鱗を胸部に備えており、 短時間ながら直線上での超高速移動を可能にする。 神託:C 神のお告げにより、その状況での適切な判断ができるようになる。 ランクCの場合、重要な局面といえるような状況でしか、効果を発揮しない。 【宝具】 『楽楽福神風(ささふくかむかぜ)』 ランク:B 種別:対軍宝具 レンジ:1~80 最大捕捉:300人 鬼住山に吹いた一陣の風。 神々の加護を受けた無数の笹の葉を風に内包しており、 “妨害”の意図で以て四方から敵に纏わりつき対象の行動を阻害する。 『笹苞神炎(さすとしんえん)』 ランク:B+ 種別:対軍宝具 レンジ:1 最大捕捉:300人 敵の纏う笹の葉を転化させた鬼殺しの火。 『楽楽福神風』による笹の葉を燃料にして業火を発生させる。 葉が対象にへばり付いた状態からの転化であるため、 前段階で笹の葉を振りほどいていない限りは回避不可能と言える。 鬼住山征伐のために天津神から与えられた宝具であり、 鬼種の防御を易々と焼き滅ぼすほどの、火力と破魔の力を秘める。 【Weapon】 『無銘・剣』 数多くの鬼を討伐した孝霊天皇の剣。 鬼属性を持つ英雄には追加ダメージを与える。 【解説】 第7代天皇。大日本根子彦太瓊尊。大倭根子日子賦斗邇命。 四道将軍・吉備津彦命や稚武彦命、倭迹迹日百襲媛命の父に当たる。 いわゆる欠史八代に数えられる天皇で、記紀において事績は何も載せられていない。 岡山県、吉備国周辺の伝承では息子の武勇のように鬼退治の逸話が残り、 鬼住山など皇子・鶯王による逸話の一方で、天皇自身による鬼退治の逸話がある。 鬼に苦戦する天皇に天神の夢告があり、笹の葉を山にして置いておくと 風が笹を運んで鬼を妨害し、葉が燃えて鬼を見事降すことができたというものや、 歯黒王子と挟撃を行った逸話、鬼林山の鬼や石蟹魁師荒仁の退治、福姫伝説などが伝わり、 これらの伝説は、鬼退治の逸話としては舞台設定が最も古く、日本最古の鬼退治と呼べる。 先代旧事本紀大成経に曰く、龍に似た、しかし醜くはない顔をして、 胸にある9枚の鱗から気を吐き、また俊敏でどんな遠いところにも行ったという。
https://w.atwiki.jp/kuizu/pages/310.html
じとうてんのう 自作 小倉百人一首。男性の読み手で最初に登場する歌人は天智天皇ですが、 女性の読み手で最初に登場する歌人は誰でしょう? (2008年3月27日「 某所で出題した問題のメモ 」) 2首目「春すぎて夏來にけらし白妙の衣ほすてふ天のかぐ山」 タグ:天皇 学問・その他 歌人 Quizwiki 索引 さ~と
https://w.atwiki.jp/rinseidou/
日本の歴史のまとめサイトです。 現在、Wikipediaから参考となる文書を収集中。よって、必ずしも正統的解釈とは評価し難い記述も含まれていることをお断りしておきます。 皇国史 日本の歴史。 皇国史観 日本は万世一系の天皇が天壌無窮の御神勅に基づいて統治する国という原理による歴史観。 以下出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 皇国史観(こうこくしかん)は、日本国と日本人は歴代天皇を中心とした国造りが行われ、現代までに到る伝承と歴史が紡がれ継承されて来たとする歴史観。 第二次世界大戦以前 南北朝時代に南朝の北畠親房が南朝の正統性を示すために著した『神皇正統記』が先駆的なものであり、江戸時代に展開した水戸学や国学でその基礎が作られた。幕末の尊王攘夷運動の過程で強化され、明治維新後には政治体制によって正統な歴史観として確立した。 しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと機を一つにする。 その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、昭和10年(1935年)、美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも拘らず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には早稲田大学教授津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。 19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を皇国史観によって記述していた。(国定教科書) 南北朝正閏論 1911年(明治44年)、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡以後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題とされた(南北朝正閏論)。文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述するようになった。 現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた。しかし、足利尊氏を逆臣とする水戸学では南朝を正統と唱えていた。また幕末の尊王論に影響を与えた儒学者頼山陽は、後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇であり、南朝正統論と現皇室の間に矛盾はないと論じた。南北朝正閏論以降、宮内省も南朝が正統であるという見解を取った。 第二次世界大戦後 戦後、思想、信条の自由が保障されると、戦前は取り締まりの対象であったマルクス主義の唯物史観が興隆する。これにより、皇国史観下ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れの中で、従来の価値観である皇国史観も衰退することとなった。 引用ここまで ゆとり教育政策を停止して義務教育で教えるべき天皇・皇室の基礎知識 日本という大家族の家長的存在として、神話の時代から万世一系を貫いていること 特別な敬称や尊敬語を用いることが一般的であること 古代から続く宮中祭祀で国家国民の平安を祈られていること 祝祭日と宮中行事の関係について 国事行為と御公務の内容について 天皇に政治的な権力はないが、時の権力者へ権力を与える権威を持つこと 天皇によって人民民主主義が抑えられ、国民民主主義が成熟すること 諸外国の元首との違いについて 文化の発展の原動力であること 特定の個人や団体から利益を得ず、僅かな予算で維持されていること @wikiへようこそ ウィキはみんなで気軽にホームページ編集できるツールです。 このページは自由に編集することができます。 メールで送られてきたパスワードを用いてログインすることで、各種変更(サイト名、トップページ、メンバー管理、サイドページ、デザイン、ページ管理、等)することができます まずはこちらをご覧ください。 @wikiの基本操作 用途別のオススメ機能紹介 @wikiの設定/管理 分からないことは? @wiki ご利用ガイド よくある質問 無料で会員登録できるSNS内の@wiki助け合いコミュニティ @wiki更新情報 @wikiへのお問合せフォーム 等をご活用ください @wiki助け合いコミュニティの掲示板スレッド一覧 #atfb_bbs_list その他お勧めサービスについて 大容量1G、PHP/CGI、MySQL、FTPが使える無料ホームページは@PAGES 無料ブログ作成は@WORDをご利用ください 2ch型の無料掲示板は@chsをご利用ください フォーラム型の無料掲示板は@bbをご利用ください お絵かき掲示板は@paintをご利用ください その他の無料掲示板は@bbsをご利用ください 無料ソーシャルプロフィールサービス @flabo(アットフラボ) おすすめ機能 気になるニュースをチェック 関連するブログ一覧を表示 その他にもいろいろな機能満載!! @wikiプラグイン @wiki便利ツール @wiki構文 @wikiプラグイン一覧 バグ・不具合を見つけたら? 要望がある場合は? お手数ですが、メールでお問い合わせください。
https://w.atwiki.jp/trivia-mike/pages/3277.html
日本にある祝日だ。2018年(平成30年)までは毎年12月23日でしたが、平成から令和へ改元した2019年(令和元年5月1日から)は、天皇が交代したことや上皇と天皇の二重権威を避けるため消滅ました。 そして2020年(令和2年)2月23日に新設。 ようは12月23日から1月23日に移動した形となったのでした。
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/655.html
諱(いみな)は方仁(みちひと) 1517年(永正十四年)生まれ。1557年(弘治三年)践祚。 即位礼は毛利元就の献金による。 (『信長と天皇』今谷明) 信長と天皇 中世的権威に挑む覇王 (講談社学術文庫)
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/796.html
国体(こくたい)は、天皇が、すべしろしめす日本の国柄を指す。 概要 国体とは、「神の御子孫たる皇孫が、天地が果てることの無きが如く、統べ治め給う。」皇典編纂局編『熊沢天皇箴言集』第2巻、247頁 1942年、皇典編纂局。 というわが国固有の御神勅に基づく国のあり方を中心的観念とする。『国体の本義』には以下のようにある。「天照大神が皇孫瓊瓊杵ノ尊を降し給ふに先立つて、御弟素戔嗚ノ尊の御子孫であらせられる大国主ノ神を中心とする出雲の神々が、大命を畏んで恭順せられ、こゝに皇孫は豊葦原の瑞穂の国に降臨遊ばされることになつた。而して皇孫降臨の際に授け給うた天壌無窮の神勅には、豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国は、是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)宝祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮りなかるべし。と仰せられてある。即ちこゝに儼然たる君臣の大義が昭示せられて、我が国体は確立し、すべしろしめす大神たる天照大神の御子孫が、この瑞穂の国に君臨し給ひ、その御位の隆えまさんこと天壌と共に窮りないのである。而してこの肇国の大義は、皇孫の降臨によつて万古不易に豊葦原の瑞穂の国に実現されるのである。」 これを法哲学・公法学・憲法の観点から述べると以下のようになる。国体は、建国以来不文憲法の根拠として存在してきた。明治になって制定された大日本帝国憲法は、この不文憲法の根拠である国体を根底にし、主に伊藤博文が海外視察によって影響を受けたドイツ諸邦の憲法を参照して構成されたものである。「国制」即ち、国を治める形、国家意思決定過程の定めを意味するverfassungの語を、当初「国憲」と訳してたことからも明らかなように、自然国家としての連続性を意味する国体の表出が、不文成文の憲法であるという相関関係にあるともいえる。憲法思想的には、日本のコモン・ローをベースにしており、英国憲法とその法位相を同じくするものである。 国体の内容は論者によって大きく異なるが、皇統の連続性を強調し、我が国の歴史においては易姓革命を否定する点は共通している。論者の大部分は天皇による国家統治を主張する。 このほか「国体思想」の要素として、 神国思想:日本の国家と皇統は神々に由来し、日本は神々に守護されているという信仰。特に昭和戦前期は天皇を現人神と仰いだ(『国体の本義』・修身の教科書など)。神国思想は、太平洋戦争で敗北した為崩壊したとする論者もある。 皇国史観:天皇を中心とする日本の国の歴史を称揚する歴史観。 国民道徳論:忠君報国や親孝行などを日本の古来からの道徳として称揚する(教育勅語など)。 家族国家論:日本の国家を一大家族に擬制し、皇室を国民の宗家とし、天皇を家長にたとえる。 君主国体説:諸国家を「主権」の所在により君主国体と民主国体に分類し、日本を君主国体とする憲法学説(穂積八束・上杉慎吉)。 立憲主義・民本主義:天皇による統治は国民のために行われるべきと主張する(美濃部達吉・吉野作造など)。 などが挙げられる。 国体思想前史 国体は正字体で「國體」と書き、古くから漢籍に見える。「国体」の文字は『管子』君子篇では「国を組織する骨子」の意味で、『春秋穀梁伝』では「国を支える器」の意味で用いられている。古代日本でも『出雲国造神賀詞』に「国体」と書いて「クニカタ」と読む言葉があり「国の様子」を意味している。 国家観の意味で「国体」の語が用いられるようになったのは江戸後期以降であるが、それ以前にも国体の萌芽となる思想はあらわれていた。そのひとつは、日本を神々の国であるとする神国思想、もうひとつは皇位の血統性を強調する皇国思想である。 記紀 『古事記』・『日本書紀』は、日本の国家と天皇の由来を語りおこしており、それ自体が神国思想といえる。一方、皇位の血統的連続性を直接明言する記述は意外に少なく『日本書紀』の一書(別伝)に天壌無窮の神勅がみられる程度である。これは、天皇の先祖が高天原から降下したという天孫降臨において、天降りする孫に天照大神が与えたとされる言葉である。皇位の栄えは天地とともに無限であろう、と言祝(ことほ)ぐ。昭和戦前期に強調された言葉ではあるが、『日本書紀』の本文では採用されておらず、編纂時に強調されていなかったようである。ただし、『古事記』・『日本書紀』はその全体が、皇統の系譜を叙述の規範としており、皇位の血統的連続性いわゆる万世一系を前提とした史書である。 古代 一説には、雄略天皇は、中華皇帝から倭王に封じられた最後の天皇であり、これ以降、日本天皇は中華皇帝に臣下の礼をとらなくなる。雄略天皇はまた国内では「治天下大王」を名乗り、自己より上位の権威を認めない姿勢を示した。 武烈天皇の死去に伴って、大和の有力豪族たちは自ら即位せずに、敢えて皇族を遠く北陸からむかえ皇位に推戴した。これが継体天皇である。こうした有力豪族たちの行動は、皇位には何よりも血統性が重要であるという一種の信仰を背景としたものであり、日本独自の国体観の始まりといえる。 十七条憲法(注、官民に対する教諭書的性格が強く、現在の「憲法」の概念とは異なる。) 「日の出づる処の天子」(607年、推古天皇15年、聖徳太子が隋の皇帝に送ったとされる親書の一節。)頼山陽は『日本楽府』の冒頭の詩「日出処」で、「日の出ずる処、日の没する処」を易姓革命による中華王朝の存亡流転に対比して、万世一系の皇統を護る日本の国体の永久不変を常昇する東海の一輪の太陽に例えた。翌年の608年、推古天皇15年、遣隋使小野妹子の携えた国書に、「東の天皇、敬みて西の皇帝に曰す。」とある。『日本書紀』 大化改新 和気清麻呂の物語。769年、宇佐神宮より天皇の位を道鏡に譲れとの神託がくだったが、和気清麻呂が勅使として参向し、以前の神託を否定し、即位計画は破綻して皇位につくことはなかった。天皇の皇位継承についての男系子孫継承の原則を破壊しようとした道鏡は、和気清麻呂によってその野望を打ち砕かれた。 王土王民思想(律令制参照。) 中世 中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの権門勢家が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本の国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に、元寇など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された。 朱子学が鎌倉後期に日本に伝来すると、その正統主義、尊王斥覇の思想が日本の国体観に加わった。 後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒し天皇親政を試みた。 鎌倉幕府の倒壊から南北朝時代を物語る『太平記』は、楠木正成などの南朝方武将を好意的に描き、後の歴史観に大きな影響を残した。また南朝方の有力公家北畠親房は南朝の正統性を主張するために歴史書『神皇正統記』を著し、皇国史観の元祖となった。 近世・幕末 近世初頭には、豊臣秀吉や徳川家康の外国宛て書簡で神国思想が表明された。江戸時代に入ると学者による論説が登場した。これには儒学者の流れと国学者の流れがある。 儒学者流では、山崎闇斎とその学統が有名である。山崎闇斎は神儒一致(神道と儒教との一体化)の垂加神道を唱え、その弟子浅見絅斎は『靖献遺言』を著し尊皇思想の源流となった。闇斎は、皇統はそれ自体が道の存在を示しており、さらには天皇こそが儒教的な人倫の道の体現者であるとした。一説には、孫弟子の栗山潜峰(1671‐1706)は、国体の語を日本独自の国家観の意味で初めて用いたといわれている。 水戸藩作成の史書『大日本史』には、孫弟子の三宅観瀾や栗山潜峰らが編纂に携わった。『大日本史』は、朱子学の正統主義の立場から、南朝正統論を強調した。水戸学では日本とは一つの道徳的実残の運動体(国体)であると考えられており、山崎闇斎の思想とともに幕末の尊皇攘夷運動の思想的契機の一つとなった。 一方、国学者流では本居宣長が影響も大きい。ほとんど読めなくなっていた『古事記』の解読にほぼ成功して、神国思想を強調した。 国体の語を用いた国家論が本格的に始まるのは江戸後期の水戸学からである。 会沢正志斎は著書『新論』(1825年)の冒頭で国体と題した章を設けて尊皇攘夷を論じた。また、藤田東湖が起草し同藩主徳川斉昭が撰文した『弘道館記』(1837年)は「国体以之尊厳」と刻み、日本の道徳が皇統に由来することを説いた。これら水戸学者の著作は幕末の志士たちの間で広く読まれたことから、「国体」の語が一般に通用するとともに、水戸学流の国体観念が明治維新の原動力となる。 吉田松蔭は『講孟余話』を著して日本固有の国体を強調した。長州藩の老儒山県太崋がこれを批判し、両者の間で論争になった。後、吉田松蔭門下から明治政府の高官となった者が多く、吉田松蔭の国体観が明治国家に与えた影響は大きい。 水戸学の国体論とは別に大きな影響力を持ったものとして頼山陽『日本外史』がある。これは「国体」の語を用いていないが、尊皇思想を背景に南朝方武将の楠木氏や新田氏を忠臣として描写しており、幕末の志士の間で多くの愛読者を獲得した。 国学者平田篤胤は神国思想に基づく国体を論じた。篤胤は禁書であったキリスト教関係の書を参照して、「アメノミナカヌシノカミ」(天御中主神)を創造神に位置づけ、世界を「幽冥界」と「顕明界」とに分け、前者は「オオクニヌシノミコト」(大国主命)が、後者は「天皇」が統治する世界であると考えた。そして天皇を全世界(人類・生物・物質)の統治者として位置づけた(平田篤胤『霊能御柱』)。こうした平田国学は豪商豪農層に広い支持を獲得し、一部の武士階級にも尊皇・攘夷の思想を育んだ。この解釈は1880年に始まる神道事務局祭神論争での出雲派の敗北によって表面上は衰退したが、現在でも神道系の新興宗教の多くはこの解釈を奉じている。 なお、この頃の「国体」の語の用法にはブレがあり、例えば、国が鎖国から開国に転じることを「国体変革」と呼んでいる事例や、幕藩体制を「国体」と称している例がある。島崎藤村の『夜明け前』(第一部下12章5節)には松平容堂は薩長の態度を飽き足りないとして、「一新更始の道を慶喜に建白した(中略)。天下万民と共に公明正大の道理に帰り、皇国数百年の「国体」を一変して、王政復古の業を建つべき一大機会に到達したと力説した。」とある。これは「国体」の語を広く国家体制の意味で用いていることによる。 明治国家と帝国憲法 加藤弘之は『国体新論』を著して「人民を以て独り天皇の私有臣僕となすが如き」「従来称する国体」は「野鄙陋劣」であると批判し、「欧州の開明論」による「国家君民の権利義務」の理が「公明正大なる国体」であると主張した。これは明治政府の一部から強い批判を受けたため、加藤弘之は著書を自ら絶版するとともに、思想を転向し、社会進化論に基づき明治国家を擁護するようになる。 1876年、元老院に憲法起草を命じる勅語は「我が建国の体に基き広く海外各国の成法を斟酌して以て国憲を定めんとす」としており、「建国の体」即ち国体に基づいた憲法が要求された。これを受けて元老院が作成した憲法案は、伊藤博文に「各国の憲法を取り集めて焼き直ししただけであり、我が国体人情等に少しも注意したものとは察せられない」と反対され、廃案になった。 1881年(明治14年)10月12日に、次のような国会開設の勅諭が発された。 「朕、祖宗二千五百有余年の鴻緒を嗣ぎ、中古紐を解くの乾綱を振張し、大政の統一を総覧し、又、つとに立憲の政体を建て、後世子孫継ぐべきの業をなさんこと期す。さきに明治八年に元老院を設け、十一年に府県会を開かしむ。これ皆、漸次、基を創め、序に循て歩を進むるの道によるにあらざるはなし。なんじ有衆また朕が心を諒とせん。 顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。今、在廷臣僚に命じ、仮すに時日をもってし、経画の責に当らしむ。その組織権限に至っては、朕、親ら衷を裁し、時に及んで公布する所あらんとす。 朕おもうに、人心進むに偏して、時会速なるを競う。浮言相動かし、ついに大計を遺る。これ宜しく今に及んで謨訓を明徴し、もって朝野臣民に公示すべし。もしなお故さらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害する者あらば、所するに国典をもってすべし。特にここに言明し、なんじ有衆に諭す。 奉勅 太政大臣 三条実美」 この勅諭においては「立国の体」即ち国体のそれぞれの国における固有性と、当時の国家一大事業として「立憲の政体を建て」る事の弁別が既に明確となっている。 憲法起草を命じられた伊藤博文は欧州で憲法調査を終えて帰国した後、1884年、閣議の席上で「憲法政治を施行すれば]、おのずから国体が変換する」と演説した。伊藤の部下であった金子堅太郎は伊藤を批判して「上に万世一系の天子が君臨するというこの国体にはなんらの変換もありませぬ。閣下は国体と政体との意味を取り違えておられる」と主張。伊藤は「国会を開いて政体を変えればこれも国体変換ではないか」と反駁したものの、これ以降国体変換を口にすることはなくなった。帝国憲法制定後、伊藤の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』では「我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なること」を謳った。 福澤諭吉『帝室論』 井上毅のシラス論 教育勅語における国体ノ精華 君主国体説 上杉慎吉は「天皇ノ主権者タルコトハ我ガ日本ノ国体ニシテ、人民ガ主権タルハアメリカ合衆国ノ国体ナリ」 上杉慎吉『帝国憲法』(1924年)大正13年度東京帝国大学講義 謄写版と述べている。 東京帝国大学で憲法学を教授していた筧克彦法学博士は、貞明皇后に「古神道及び国体学」に関し皇后宮にて進講。御進講録「神ながらの道」は皇后宮職より公刊。また昭和10年文部省開催の、憲法講習会の講演録「大日本帝國憲法の根本義」を文部省憲法教育資料中の1冊として上梓。同書には以下のようにある。 「皇国神ながらの御主人様。御親様の御威力と皇国大生命の力とは不二たることを貴き性質とする。」 「天皇様と国家とはもと二元的に相対立せる存在ではなく、神代ながらに不二である。 皇国は、天孫(皇孫)天降りによりて開かれ。開かれし当初より一生命、一徳、一統治権。」「引用は『大日本帝國憲法の根本義』皇学会、1936年。による。」 天孫降臨より皇国神ながらの御主人様つまり国家主体として、天皇がある事をあきらかにした同講演が文部省主催であったことで、国家公認の国体学の権威としての地位をかため、皇太后宮より著作が公刊されたことにもともない、帝国政府部内の国体説としては敗戦まで批判を許さなかった。 筧克彦参照。 家族国家論の流行 日清戦争の勝利や治外法権の撤廃などを背景に、欧米の論理に囚われない日本独自の国体論が新たな形で登場する。すなわち、日本の国民を先祖を同じくする一大家族に喩え、皇室を国民の本家に位置付ける家族国家論が流行しはじめる。憲法学者穂積八束は「我が日本固有の国体と国民道徳との基礎は祖先教に淵源す。祖先教とは先祖崇拝の大義を謂う。」「天祖は国民の始祖にして天皇は国民の宗家たり」(『国民教育 愛国心』1897年)と述べ、また、高山樗牛も「皇室は宗家にして国民は末族なり」(「我国体と新版図」『太陽』1897年)とした。井上哲次郎も「我国は其総合家族制度の究極のものにして、其家長が天皇なり。」(「我国体と家族制度」1911年)としている。 南北朝正閏問題南北朝正閏論参照。 大正デモクラシーと国体 美濃部上杉論争天皇機関説参照。 民本主義 民本主義の主唱者吉野作造は「君民同治を理想とする所の民本主義の政治は、…寧ろ国体観念を鞏固にするものである。」(「民主主義と国体問題」『大学評論』1917年)と述べ、憲法学者美濃部達吉は「政治上の意義に於ての民主主義は…毫も我が国体に抵触するものではなく、却って益々国体の尊貴を発揮する所以である。」(「近代政治の民主的傾向」『太陽』1918年)と主張した。明治期にはキリスト教を排撃していた井上哲次郎も、「日本の国体は万世一系の皇統を中心として来れるもの、日本は君主国にして民本主義を取れり、君主主義と民主主義との調和を保てるものにして其所に我国体の安全は存す」(『我国体と世界の趨勢』)と、民主主義に寄る姿勢を示した。 1921年、内務省神社局は『国体論史』を出版し、国体論の歴史を概観するとともに、「神話はその国民の理想、精神として最も尊重すべし。それは尊重すべきのみ、これを根拠として我が国体の尊厳を説かんと欲するは危し。先入主として、これらの『国造り説』と相容れざる進化学上の知識を注入せられおる国民はあるいはこれを信ずる事をえざるが故なり」とした。内務省神社局がこのような見解を示していたことは注目される。 内務省神社局局長であった水野錬太郎(内務大臣・文部大臣・神職会会長等も歴任。「天皇の政治利用」だと非難されて文部大臣辞任に追い込まれた。水野文相優諚問題参照。)は「日本の仏教は早くから国体精神と同一化し、儒教も、もとより国体精神と同一化してをり、そのほか外国の新文明新思想も国体精神と一致しつつあるもので、外来の思想を論難したり議論すべきでない」 『水野博士古稀記念 論策と随筆』水野博士古稀祝賀会事務所刊、1937年。と述べている。 昭和戦前期の国体を巡る言説 治安維持法 1922年、共産主義インターナショナルコミンテルンは日本の君主制廃止をテーゼに掲げた(日本共産党においてはこの22テーゼは草案段階に終わるが)。このような国体変革を狙った外国勢力主導の動きに対して、1925年公布の治安維持法は「国体の変革」を目的とした結社を禁止し、さらに1928年の法改正で最高刑が死刑に引き上げられた。治安維持法でいうところの「国体」は大審院判決によれば「我帝国は万世一系の天皇君臨し統治権を総覧し給ふことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如くすへきものとす」(大判昭和4年5月31日刑集八巻317頁)とされた。治安維持法により共産主義が厳しく弾圧されるとともに、この頃から国体変革が言語タブーと化すようになる。 国体の名を借る政争 1927年、新たに結成された民政党が政綱に「議会中心的主義」と掲げたのに対し、翌年、その対立政党である政友会の鈴木喜三郎(当時内相)は「議会中心主義などという思想は、民主主義の潮流に棹さした英米流のものであって、わが国体とは相容れない」(大阪朝日新聞昭和3年2月20日)と批判。逆に、政友会内閣が締結したパリ不戦条約に「人民の名において」という文言があったのをとらえて、野党民政党はこれを国体に反するものとして論難した。大正デモクラシー的国体論とは逆の方向へと議会人自ら歩みだしたのである。 国体明徴運動 『原理日本』 天皇機関説排撃事件 国体明徴声明 文部省の思想問題対策 文部省は国民精神文化研究所を「我が国体、国民精神の原理を闡明にし、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くる」ために設置(学生思想問題調査委員会答申、1932年5月)。 文部省『国体の本義』『臣民の道』 国体護持と国体変革 大東亜戦争終結ノ詔書終戦詔書「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」1945年8月14日 憲法改正審議における政府答弁「御誓文の精神、それが日本国の国体であります。」「日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。」「日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行われたことはないのであります。民の心を心とせられることが日本の国体であります。故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあつた事柄を単に再び違った文字で表わしたに過ぎないものであります。」(以上吉田茂)「日本の国体というものは先にも申しましたように、いわば憧れの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合をしておるという所に根底があると考えます。その点におきまして毫末も国体は変らないのであります。」「稍々近き過去の日本の学術界の議論等におきましては、その時その時の情勢において現われておる或る原理を、直ちに国体の根本原理として論議しておった嫌いがあるのであります。私はその所に重きを置かないのであります。いわばそういうものは政体的な原理であると考えて居ります。根本におきまして我々の持っておる国体は毫も変らないのであって、例えば水は流れても川は流れないのである。」(以上金森徳次郎国務大臣、昭和21年6月25日衆議院本会議答弁) 尾高・宮沢論争 共産主義運動による天皇制反対の名による皇室制度・政体・国体への批判 共産主義インターナショナルコミンテルン1932年テーゼはドイツ語のMonarchieで我が国の政体を規定。君主制の転覆を指令した。日本共産党はこれを天皇制と翻訳。天皇制反対の主張を抱くも、戦前は、一般には天皇制反対の主張及び天皇制の語は普及しなかった。終戦と米軍を主力とする連合軍による占領により、日本共産党指導部は釈放された。それにともない、共産主義思想の影響下に、学術研究、言論、社会運動場裏における天皇制の語は一般化し。「天皇を中心とする国家体制」を否定的にとらえる論者の間では広く用いられる。 日本共産党及び同党の周辺知識人の主張によると、国体には「ほとんど同義」 『社会科学総合辞典』新日本出版社、1992年、189頁、「国体」の項。の語に天皇制がある。日本共産党、新日本出版社、参照。 2004年日本共産党は綱領を改定「現行、2009年現在」天皇制について、綱領では、「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではない。」「国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」という方針をうちだしている。「尚、wikipediaの天皇制の項目は政体のカテゴリーに分類されており、本項目、国体には、直接の関係をもたないが参考まで。」日本の場合は主に共産主義勢力から「天皇制ファシズム」と称されることがある 日本反帝同盟の研究-共産主義運動と平和運動『1930年代日本共産党史論』の第2章 田中真人『社会学小辞典』(有斐閣・1982年・増補版)の「天皇制ファシズム」の項には〈日本の場合、イタリアやドイツなどのような「下から」の運動による国家権力の掌握ではなく、天皇制国家権力自体が「上から」なし崩し的にファシズム化していったので、天皇制ファシズムと呼ばれる。〉とある。(天皇制ファシズム参照)。 平成の国体 国体の言語タブー化。本来の大和言葉、国柄(くにがら)への言換え。 国旗国歌法案の国会審議において、国歌の君が代の意味を質された政府は「国歌君が代の『君』は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である」(平成11年6月29日衆議院本会議小渕総理)と答弁。 「天皇を中心とした神の国」発言。内閣総理大臣森喜朗は、2000年5月15日東京都内神道政治連盟国会議員懇談会の結成30周年記念祝賀会で「今、私は政府側におるわけでございますが、若干及び腰になる事をしっかりと前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞ、ということを国民の皆さんにしっかりと承知をして載く、その思いでですね、私達が活動して30年になったわけでございます。比較的私達の同期というのはしぶとくて、結構国会に残っておりますのは、神様を大事にしているから、ちゃんと当選させてもらえるんだなあと思っているわけでございます。」と発言した。 注 参考文献 概要、『国体の本義』文部省編纂内閣印刷局印刷発行、1937年5月31日。 概要、筧克彦述『神ながらの道』皇后宮職 、1925年6月 。(尚 書誌ID 000002065114 「国立国会図書館」所蔵を用いた 概要、中西旭主筆『世界観の確立』『尊皇の大義』台湾総督府国民精神研修所、1941年3月。 概要、verfassungの邦訳の解説として(国を治める)過程の語義が含まれるかについて、Template Cite book?1928,Auflage. 筧克彦述『大日本帝国憲法の根本義』文部省、1936年、( 憲法教育資料 )資料 ID 1120977508 「東京都立中央図書館」所蔵 関係項目 Template Wiktionary? 国体論争 皇国史観 神国思想 皇室 万世一系 筧克彦 筧泰彦 今泉定助 平泉澄 清水澄 里見岸雄 葦津珍彦 大石義雄 中川八洋 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月20日 (土) 11 17。